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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
日本国家に道義ありや ― ある台湾人・元軍属の苦悩 ―
Author(s)
竹田, 詳平
Citation
架橋, 4, pp.297-341; 2003
Issue Date
2003-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/25994
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
日本国家に道義ありや
l問題の提起i
詳
平
ーある台湾人・元軍属の苦悩│
297
はじめに
一.台湾人元軍属の苦悩
二.﹁誰がための戦犯だったのでしょうか。﹂
1. 台湾に生まれて
2
. ﹁合法人軍属﹂としての悲しき戦争
3
. 戦犯に囚われて
4
. 帰化申請
三恩給申請│果てしなき闘いへ│
おわりにかえて
田
竹
はじめにー肉題の提起i
飛行機のタラップをゆっくりと降りてくる五人の男女の表情を見て、日本人の誰もが心の中のどこかになにかしら
の﹁違和感﹂を覚えたに違いない。二OO二霊感丁四)年十月十五只小泉純一郎内閣総理大臣と金正日総書記に
れた日本人五名が帰国の途についた。現
よる日塑自墜豪の後北朝鮮(朝鮮民主羊義人民共和国)によって挫零c
在、控致﹁被害者﹂全員の早期帰国を訴える日本に対し、北朝鮮は自らが日本の侵略行為による﹁被害者﹂であるこ
とを主張して頑なにその要求を拒んでいる。改めて日本が北朝鮮町および大韓民国という朝鮮半島の国に対して行っ
た過ちを振り返り、悔いることとなったのだ。思ホ主国と旧一植民地のその+套'﹄消えることのない戦争の傷既そして
日本の﹁戦争責任﹂が浮き彫りにされた瞬間であった。鈎
このような国際情勢の動きもあってか、私たちは戦争責任と聞くと、どうしても中国への侵略行為や、韓国・北朝
鮮への植民地政策を考える。また、日本が戦争末期において、﹁大東亜共栄圏﹂の創設を掲げ、東南アジア諸国やミク
ロネシアの島々をも占領し、やがてそこは地獄の如き戦場と化し、﹁玉砕﹂や﹁餓容により多くの命が散っていった
ことも有名な史実である。しかし、意外なことに日本が最も長く植民地として支配していた﹁国﹂はど乙であるかと
いう事実は、あまり日本人の意識の中に浸透していない。その国は﹁中華民国﹂、いわゆる﹁ A
詰﹂である。
台湾は中国太陸・福建省の東南海上にある。東は太平洋を臨み、東北は琉球列島と近擦する。南西はパシ!海峡を
a
u
隔てて、フィリピン群島とはるかに接し、西はアモイおよび福建省と約百五十キロメートル幅の台湾海峡を隔てて相
対する。会者の面積は約三万六千草方キロメートルである。台湾の政治・行政面について言弓命中国国民党を与党と
する中華民国政府は一九四五年以降町一毛沢東率いる中国共産党と中国の主導権をめぐり戦った。その後、国民党は大
一八九五(明喧石)年、日清戦争に勝利した日本は下関条約により案内、渉糊諸島及び遼東半島を獲得した(ロ
シアがイニシアチブをとった三国干渉により、遼東半島は返還。台湾・務湖諸島は、日本が一九四五(昭型干)年
に敗撃乞迎え、ポツダム富一一一ロを受け入れるまでの半世紀もの問植民地として支配下に置かれることになる。植民地
とは、宗主国の資本主義の発展に寄与することを大前提とする。日本政府は植民地下ム詩人による資本棋棋は歓迎し
9
たが、台湾人のみが経営するム一程の創設と経営塞宣した。また下級労働者と農民の質の向上が叫ばれ、長教育却
は普衣レていった。その一方で、日本の支配を脅かすと甲いわれる大学教授や高度撃型司熱誠工の養成などは意図的
に制限された。まさに日本に受口のよいように産業や教育の場においてアメと鞭の政策が展開された。台湾人を日本
人と同じく、天皇の﹁赤子﹂であるとし、この事構造の中に組み込もうとしたのである。統治初期に発生した武装
ゲリラ活動も鎮圧が進み、植民地開発が軌道に乗り始めたときに太陸では、三民主義を唱えた孫文により辛亥革命(一
九二年十月)が起こった。この影響の波は台湾にも抑ν寄せ、新しい抗日パルチザン活動が生まれたが、これを日
本は大量虐殺という形でもって大弾圧を加えたのであった。一方で、第一次世界大戦後の国際協調姿勢やロシア革命
の影饗そして大正デモクラシーの風潮もあり、ム品開総
1督府における支配を文治統治に改めた(武官総督から文官総
督を任用するようにした)。しかし、日本の太陸侵略に対応するために一九一三年九月に勃発した満州事変や、翌年一
月の上海事変により再ひ武官総督制に改められた。最後の台湾総督であるま勝利士一号陸軍大将であった。武官舗の復
活は本格的な皇民化運動のきっかけとなった。一九三七年四月、台湾人の母国語使用か制限され、日本語の強制使用
が命じられた。新聞の漢文喜宣され、伝統的演劇や音楽、武術までもその議泉禁比された。天照大神への奉和と
日杢金名への改姓名運動(一九四O年二月十一日)が終壁直前まで続けられた。そして、太平洋戦争の勃発後、台
湾人青年たちは一転ご視同仁﹂の名の下に、日本人と同胞扱いとなり日本の南万への戦争に動員されていった。戦
p
争末期に軍人、もしくは軍属として戦時体制rでつけた軍国ギ塞薮育によって中国人意識を摩滅させ、無意識のうち
に日本の積極的手先に仕立て上げたのだった。 (
1
)
︿
1)宣誓召さ参照岩蓄底
第二次世界大戦終結後敗戦国の戦争指導者に対する裁判が連窓口固によって行われ、極東国際軍事裁判︿東京裁判)
で日本の軍部・政府の指導者五名が処刑された。いわゆるA級戦犯である。同時に、その末端に組織され、主に現地
での指導を行ったものや侵略行為を行ったものもB C級戦犯として処罰された。しかし、その中には自分の意に反し
て、天皇の命のもとに徴兵された植民地の青年たちがいた。彼らは戦争犯罪者として日本の戦争責任の﹁尻拭い﹂を
やらされたのである。その数は台湾人百七十三人(死刑囚二十六人)、朝鮮 八
I 百四十八人(死刑囚二十三人)にも上る。
300
﹁一視同仁﹂の名の元に、﹁栄えある皇民﹂に偽りの手鎖﹂によって組み込まれていった人たちは、戦争が終結して
もなお、あまりにも悲惨な仕打ちをうけ続けたのである。
δo一(平成十二)年二月二三口円宮崎地万裁到所に一人の﹁一忍台湾人里径の姿があった。林水木(はやしみ
一
き)さん。太平洋戦争開戦の翌年、一九四二(昭和十七)年に、日本による占領下にあったインドネシアのボルネオ
島の仔喜撞貨として従軍した。一九四五(昭和二十)年に敗戦を迎えると、林さんは戦時中、仔虜であった豪州兵
に暴行を加え国際法に違反したという容疑で裁判にかけられ、戦犯として連窓口国から非人道的な精神的扱いと肉体労
働における耐え難い苦署管味わった。しかし、刑期を終え、日本の巣鴨刑務所を出所した後-政府は周到に林さんの
国警官台湾 L戻していたことがわかった。日本国籍を持たない﹁台湾ろである林さんにとってあまりにも無音荏な鈎
政府の対応が待っていたのである。旧軍人の浪蟻・死亡に伴い年金が辱癒することができる制度を軍人恩給制度とい
ぅ。軍人思給受給資格は、届算年﹂を含め、兵・下士宮士一年以上、準仕官以上は十三年以上である。加算年とは、
恩給額が従軍期間の長さによって決められ、末期に懲具されて死ぬ目にあった人などに不公平が生じるため考えられ
た改善策である。台湾で徴兵令が出されたのは敗戦間際であり、林さんの軍人としての職年は八ヶ月であった。しか
し、林さんはそれ以上に戦犯として日本の敗戦の責任を取り続けていた。愛子にして十年七ヶ月。その内七年七ヶ月
は海外での拘禁であり,それは説量二倍の補償額を受け取ることになり、日本の巣鴨刑透所にいた期間と合わせて十
八年二ヶ月が上乗せされる詐量となる。しかし日本政府の返答は、あまりに現実として信じがたいものであった。
﹁八ヶ月の軍歴を、加算年を加えて二年と認める。﹂
﹁椀禁 H十年七ヶ月は旧軍人存競中の職務に関連しないので、加えることはできない J
刑期確定に際し、日本政府は復貝条例を殖炉レた。大将も兵隊も軍属もすべてご私人﹂となった。これで身分が
解除されたため、服符期間の長さによる思給の支払いが認められて当然なのである。元軍人も元停虜監萄員も、皆同
じ戦犯として長く隼獄生活を耐えぬいた。林さんは自分も軍人思給をもらえて当窓んと思っていえなぜならば彼は
9
“
戦地で軍人と何ら変わらない苦しみを味わい、 B C級戦犯として軍人同様服役したからだ。それにもかかわ=与 9、 日 初
本政府は不条理にも彼が戦犯として起訴されたのは豪州の浮揚に対して虐待レたためであり、その時の身分は仔厚監
1
) には値しないとしたのである。この瞬間から、
視員、﹁軍属﹂であるから、後の服符期間は旧﹁軍人﹂普書籍 (
林さんの果てしない戦いが強志った。どこともわからない異国の島で戦犯として服管レ、敗戦国日本の音荏を取り続
一フ材始鍾寧大将が諭した﹁日本は決してお前たちを見捨てたりはしない。﹂という言葉を頼りに、
けた。海外服役中に A
長い服役生活を耐えてきた。しかし、法治国日本の対応は多くの矛盾を苧み、あまりにも残酷で、無責任なものだっ
2
)
た
。 (
本稿では、宮崎県佐土原町において林水木さん本人にインタビューを行い、彼の体験を著した著書﹃戦犯に囚われ
た植民地兵の叫ひ﹄と照らし合わせながら、林水木さんの﹁個人史﹂を通して日本の植民地支配の実態と、植民地の
人たちへの不合理な齢諺精償問題について考察していきたい。およそ台湾への植民地支配という現代の日本人におい
て意識つけが薄い存在である国を理解するのは困難である。しかし林さんの体験に去っくことによって、元植民買
に対して日本政府のとった対応の異常性を導き出すことができ、人権砕寺るべき法律の脆さと日本の犯した過ち、そ
して消えることのない戦争の深い傷跡を我々若い世代が明らかにできると考える。
(
1
) 旧軍人が一定の年数以上軍役に服して退職した時に支給される因籍。
(
2
) 梧水美知子﹃心果つるまで 1日本の戦犯にされた四人の台湾のお・友だちi﹄
一.台湾人元軍属の個人史
ここでは、台湾人元軍属(俸撞監習再のち陸軍二警共として軍人になる。)の林水木さんに行ったインタビューに
2 5最されであった住所をも
義ついて個人史を構盛 9る。林さんはご自身の著書﹃戦犯に囚われた植民壇共の叫
とに手紙を送ったところ、快く了解していただいた。
303
また、侠が﹁よき理解者﹂﹁本当の大和撫子﹂と評した作家、福永美知子さんの著書﹃心果つるまで ー日本の戦犯
にされた四人の台湾のお友だちi﹄を郵送していただいた。
まずとして、彼を取り巻く環境について若干の補充をしておく。戦時中における林さんの職業は﹁律撞佳塘鐸貝﹂と
呼ほれるものであった。これは、自国がい白領した地域において交戦国の兵士を捕まえ監禁した受円彼ら倦虜(捕虜
を同撃を監視する役目についた人たちのことである。その多くは林さんと同じ台湾や、朝鮮から連れてこられち包植
民地の青年たちであった。また﹁軍属﹂とは伴膚監視員室百め、軍人ではなくて軍隊に属して任務につく人のことを
言う。軍人は戦闘員で、軍属は非戦闘員でなれど、むしろ非戦闘員の軍属が南万のニュlギニヤ方面作戦では弾丸よ
け的な存在であったという。林さんが従軍したボルネオとは、インドネシア・ブルネイ・マレーシアの三国が共有す
る赤道直下の島で、現在はカリマンタン島と呼ぶことが多い。石油の産出が多いことでも知られるこの島は、 ABC
D包囲網により資源調達が困難になった日本にとってどうしても押さえておかなければならなかった。当時はイギリ
スとオランダが領有していた。産油国であるブルネイ・ダルサラ!ム国がイギリスから独立したことがごく最近の1
984年であることから考えても、オイル・マネーに固執する大国の忠或祭絡み合った鳥だったと考えられる。
鈎
4
二、﹁誰がための戦犯だったのでしょうか﹂
1
. 台湾に生まれて
林水木(はやしみき・台湾名リム・ツイッボッツ﹀さんは一九二五(大正十四)年、台湾高雄州岡山郡潮内庄囲
子内で父、林風(リンフウ)、母、林陣氏金(リンチンシキン)との聞に長男として生まれた。台南や高雄と
いった斐耳ではなく、田巡回生まれの回全口事りだったため幼少の頃は非常にのんびりとした性格であった。上に二人の
ロベ二人の姉がいたのだが、彼が生まれるまでに全員が病死している。そのため、彼の両親がこれ以上わが子の死に
5
目を見ることのないよう﹁神様﹂に頼んで﹁水木﹂という名前をつけてもらった。﹁神様﹂とは林家の氏神を掃す。そ却
の後生まれた弟、一妹にも﹁水﹂という漢字が入っている。家業はアヒル(事飼いシ麗業を営んでいた。しかし、林
さんはあまりそのようなことを親から強要されたことはない。彼は親から﹁勉強さえしとけばよい。﹂というしつけを
受けていた。そのため、挙業は極めて優秀だった。大人は銃を持って敵と戦うが、幼い子供は鉛筆をにぎりしめて、
定す勉強に励むべきだと教わった。六年生の時には﹁優等生﹂になり、出席・学業ともに﹁舞台(営業・品行・出席
率)では曇両の評価を受けた。成績優秀者には褒美があり、六年生の時に算費高等科では国語辞書をもらった。親
は勉強さえしとけば安心といった様子で、通信簿が悪いと林さんは不貞寝してハ益禁帰つできたら勉強をするという
ことで事はすんだ。当時の通信簿は甲・乙・丙・丁といった四段階で評価され、文盲であった両親は﹁申﹂は電信柱
のようにすっと伸びていてよいものだ。﹁乙﹂はアヒルのようだ。﹁丙﹂はぐちゃぐちゃに曲がっている。﹁丁﹂はすっ
きりした電信件だなといったような戒免で評価をしていた。しかし両親は、学商を強制することはなく、林さんは自分
の気持ち一つで勉強した。林さんはこれを﹁懇言の教育﹂と表現した。文盲だった親は子どもには学問をして立派に
なってほしいという気持ちを林さんは知っていた。そのせいもあってか、親との会話はほとんどなかったという。現
在の子どものように年長者に対して横着な言動をすることは許されなかった。特に警察に対しては﹁泣く子もだまる﹂
という士費そのままであった。土着民の皐帝という意味で﹁土皐帝﹂と呼ばれ、日本人が守祭った窓口湾人の警察
でも関係なく恐れられていた。
両親は台湾語を話し、林さんももちろんそうだつたのだが、日本の皇民化政策により公学校に行って初めて日本語
を習った。教科書に描いてある花を指して先生が﹁はな﹂と発立Pレてそれを聞いた子どもたちは、これは﹁はな﹂と
いうのだというような方法で理解していった。最初は台湾人教師で、五年生からは﹁内地﹂(日本)の生粋の陸軍軍人
によって墾宵された。わき見をしていただけで呼ほれて長さ一メートルのものさしで叩かれ、それが二、三本に折れ
ても叩き続けたという。鹿児島出身の師範苧校を出て伍長になった人で若松克己という人だった。林さんは若松先生
にずいぶんしごかれたにもかかわ争ヘ懐かしい思いがしてやまないという。戦後の彼の消息は不明で、鹿児島に問
い合わせたが当時と地名が変わっておりわからずじまいであった。学生時代の楽しみといえば、少年団︿現在のボー
イ・スカウト)で習った手旗信号が上手になり、あちらこちらに引っ張りだこにされてそれが一つの励みになった。
毎日放課後に練習をして、戦争ごっこや魚釣りなど、当時盛んな遊びはしなかった。遠足や修学産代運動会や堂冨
p
o
ω
会といった学跡片付事は楽しみであった。遠足は毎年海軍記念日(五月一干七日)︿1) で、朝に学校を出発して暴﹂ろ
に到着し、海岸を散歩して帰るというものだった。修学廃行は台南の博物館巡りだった。学校は現代のようにいじめ
っ子といったような子どもはいなかった。たが注‘ヤング・エイジにいくつかの仲良しグループは存在していた。その
内の一人の友人宅に林さんは勉強をしに行っていた。家に帰っても教えてくれる人はいなかったためで、学校が終わ
ると一旦家に帰って友達の家に行った。そして夕飯時になったら帰ってくる。その友人には、営識のあるお兄さんがお
り勉強を見てもらっていた。その人は齢戸倹警察になって現在も手紙を通して交流がある。林さんの送った手紙の日
本語の間違いを訂正するといったこともしてくれる。当時は儒教的な考え方があったためかしこまっていたが、現在
は友人のように接して、林さんの戦いを優しく見守ってくれているという。林さんは自分の同窓生より、その兄弟と
の付き合いの方が多い。同窓生の兄が一言つには﹁弟は怠け者﹂だというが、時には励ましあって勉強して成績が上が
ったときは本当にうれしかったという。
林さんが入学した一九三二(昭和七﹀年の要・に柳条塑事件が発生し、満州事変が起こった。五年生になった一九
三七(昭和十二﹀年には慮湾軍事件を発端に日中戦争が治広っている。学校の壁には中国の地図が描かれ、日本軍が
占領したところに日の丸が書かれていった。そのような背景もあってか官憲の監視の目はますます厳しくなり、林さ
んにも﹁植民地の人間も一生懸命しなければいけない。﹂という意識が生まれてきた。
公学校の高等科を卒業した林さんは工業高校の受験を失敗したため蒸気機関車の運転手を目指し高雄機関庫に入
庫した。同じ村に機関庫に勤めていた人を世話した運転機関士にも大変かわいがってもらった。林さんが弊後台湾
307
に帰ったときに会いにいって大変喜んでくれたという。当時蒸気機関車の運転手は人気職種であった。遮断機がない
ため機関車が来ると旗を振る係がかっこ良く、また機関車が煙をト庁て走る姿か気持ちがよい、そういった理由でこ
の職業に憧れた。しかし、機関庫には軍隊と変わらぬような厳しい規律があり、林さんは大変なしごきを受けること
になる。各蔀署・各署での勢力争いがあって、かなり厳しい団体生活であったという。最初は機関清場宇でそれから
機関練習生に上がる (2﹀。とにかく試験に通らないと上がれないため、林さんは必死になって勉強した。機関庫の同
期生は二、三十人ほどで、日勤・昼夜勤・明け方の勤務と三交代制であった。機関庫で行われる﹁勉強﹂は申書と机
で教程を教えるものであった。日給は六十銭︿3) とかなり安く、給料は全額親に渡し、その代わり三日に一回は実
家に戻り親から五十銭ほど小遣いを貰っていた。機関士には日本人もおり口うるさかったが日中戦争(支那事奪を
境に少なくなっていった。
(1)1905(昭和三十八)年の日本海海戦における勝利を記念して制定された。
(
2
) それから上は機関助士、機関士である。その上に上級幹部がいた。(﹃戦犯に囚われ九衛官民地兵の叫ぴ﹄ P19
参岳山)
(3﹀当時の物価は十銭でバナナが二局買えるくらいであった。それを三人くらいで分立回って食べるのが林さんの
楽しみだった。
308
2
. ﹁台湾人軍属﹂としての悲しき戦争
一九四一年(昭和十六)年士一月八日早朝林さんは機関庫の構内で太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を知った。
林さんはこの時﹁思わず身震いがし、筋肉が引き締まった。﹂という。﹁一億総動員﹂のスローガンは日本だけではな
く、植民地であった台湾の人々の心をも揺さぶったのである。当時台湾では﹁赤紙﹂ではなくご銭五厘﹂の葉書
によって徴兵の勧告を受けていた。最初に林さんは人手不足となった機関庫に残っていたのだが、植民地の車星・に官
憲の目は鋭く、どこで見張られているかわからなかった。五体満足の青年が台湾にいると﹁非国民﹂扱いを受けたの
である。﹁けつから燃やされて痩が出てきた感じで、いぶしだされるような感じ。それが嫌で、結局外に行っちゃたん
だ J と林さんは言つ。﹁陸軍軍属(傭人)外地勤務二ヶ年で満期﹂という条件で停震塘買に志願した。一九四一一(昭
和十七)年七月十二日、台湾中部の白川訓猿所で二週間の強化訓練に参加した。ここでの訓練は機関庫のそれとは比
べ物にはならなかった。起床ラッパで起こされ、消灯ラッパで床につく。﹁朝から敬礼また敬礼で、ヘマをするとビン
タが飛んでくる。気遣い病院にいるようなしごきしか頭に残っていない。﹂と林さんは言う。暴力による指導は日常の
ものであり、儒教を重んじた台湾にいたころにはなかった非人道的な言動は林さんの人格に大きな影響を与えたと考
QU
ω
えられる。もちろん上官に命令され、強制されたという理由もある。一方でそれが後の倖虜への暴行とい芝行動の伽
為
を外していったのではないだろうか。林さんは著書において訓猿所での時期を﹁﹃尽忠報国﹄﹃滅私奉仏 ﹄
A のスローガ
ン通りの、正にそれにふさわしい、日本国民の若者の一員として、みがかれ、鍛えられていった﹂と記されている。
σ
日本は、植民捜暑に対して非合理的な雲宵を行い、無意味で残酷な戦争に彼らを動員するため﹁洗脳﹂とい乏
におよんだのである。
一九四二(昭和十七)年八月四月林さんは高雄港から台湾を立った。普週戦地へ赴くとなると盛大に見送るも
のと考えるが、林さんたちは肉親以外の親族や友人たちにも知らせてはならなかったため静かな旅立ちだった。林さ
んの乗る三池丸ばもう一隻の船と船団を組んだ。その一方の船はメコン川、河口において敵の潜水艦に撃沈されている。
ハU
西貢(サイゴン﹀に入って二十四日後、天域丸に乗り換えボルネオに向けて出航し、上陸後はジャングルと壁の木目
をトラックで抜け目的地の久鎮収容所に到着した。天城丸に乗り込んだ内の半分はほとんどの仔虜が死んで敗戦後有
名になった﹁死の行進。ァス・マiチ)﹂のサンダカンに配属された。英会所は国別に収容者を分けており、林さんは
久鎮第一分遣所勤務を命じられた (1﹀。この時林さんは台轡共と悟られないためにと上官からの亨痔で﹁岡林武満(お
かばやしたけみっとと改姓名した。ここでは日課として再び戦斗教練が行われた。教練の場所は現地の住民が放し
飼いにしている牛を追い出して行うのだが当然牛糞か散在し、一時間ほど設けられた昼床みを利用して服に付いた牛
乾いてしまうという灼熱の地での訓練は地獄と呼ぶにふさわしいものだっ
糞存決い流した。洗った服が一時間以内 yh
たに違いない。ここで警備に当たっていたのは久鎮地区警備撃九った三浦部隊であり、交代に向けて林さんたちに勤
務見習いの訓練が始まった。収容所に来てからの厳しい訓練に比べると、鐙導した方の親切な教え振りを早く身に付
けようシ勤務に専念した。しかし、合袴から来た刑事や巡査のもとでの教練はあいかわ Aず日課として行われ、その
日の彼らの機嫌次第で教練の時間が長くなったり短くなったりした。仔現が逃げ出した時のために射撃の訓練もした。
外出は月一面警れるが、何か不祥-雪起こせば(居眠り等)吹くに禁止された。日券董ねるごとに暑さと疲労に慣
らされ、緊張していたこともあ笠一孝間の信露飽繁期間は痘丸にかからなかったという。それだけ倦虜収餐所勤
務の過酷さは周知であり、町に出た際に少し羽目を外しても、審共たちは余程脱線しない限りは大目に見てくれてい
た。倦事九ちが仕事を怠けていたり、林さんたちを﹁青二才!﹂という態度でなめでかかってくると、上官から﹁諸
君の厳Lさが足りないのだ。﹂という風に叱責をかう。日本にとって停虜は﹁穀物つぶし﹂だという考え方があった。
上官は仔贋が労働をさぼっているところを見つけると、林さんたちを倦虜の面前でもビンタした。これ、か自然に上か
E
ら下に流れていった。軍馬・軍用犬宅 だと扱われていた林さんたちは﹁白い歯を見せるな﹂﹁給料に対して訟 9かし
くない働きをしろ﹂と言われ、厳しい態度で臨まれた。﹁一銭五厘の葉書を出せば代わりはいくらでも来る。だからお
前 bは高価な軍馬や軍用犬より下なのだ。﹂と言われ続けた。林さんは態度が目に余る倦虜に対して懲罰としてのビン
タを行った。決して自らの悪意に基づいて、この倦要九ちが憎くてビンタしているわけではない。むしろサボタージ
ュの事桑を上官に墾口すると、彼らはビンタ以上の身体型古痛を味わう重罰を科されてしまう。そのようなことを配
慮して、ピンタで事を済ませていたのだ。しかし、こうしなければ自分が上官からやられてしまうのも事実であった。
林さんの内面に構成された回避i回避型葛藤の輩木は補うことのできない莫大な人生の損失となってしまった。﹁思い
3
1
1
がけない十字架﹂を背負わされたと林さんは語っている。一九四四(昭和十九)年の五月か六月頃に台湾から交代要
員が派警れてきた。しかし彼らは教育された後は現地の警察官に廻され、林さんたちはそのまま停車塘貫として
R 台
残された。このことが林さんの人生を大きく変えたといっても過言ではない。一九四五︿昭和二十)年六月十
湾出身者に徴兵令が適用されることになった。林さんを含め収容所勤務者の六名が甲斐最し現地入隊した。その前
日に友人たちが壮行会を開いてくれたのだが、夜明け前に現地人に食料一庫が襲撃されるという事件が起こった。林さ
んも目が覚めたのだが酒がまわっていてそのまま蚊帳にしがみついたまま、また眠ってしまった。非常呼集終了鯵薮
m解散して戻ってみるとそんな状態だったため苦笑いしてしまったとい
えてみると一人足りないため騒動になり、協R
う逸話もある。幸い当日に入隊控えていたため径められなかったときっ。そして林さんはその日、現役陸軍二筈共に
任命された。林さんはすでに二週閑の強化訓練と
での訓練はなんなくこなすことができた。﹁出来がよかった﹂ため同じような初筈共として現地に送られてきた譲律漁
業の漁師たちより上官から目をかけてもらった。兵隊に行っているほうが楽ということは、いかに倖虜収容所勤務が
厳しいものであるかわかる。﹁天国と地獄だったよ。﹂と林さんは言った。初年兵の教事想問か終わるころには助教の
計らいで教官に黙って街の飲食外での自由仔動も許してくれた。パオを後にした林さんたちはスラパという南ボルネ
オ国境に近い部落へ多勤した。竹で造られた兵舎が二健三棟と建てられた-ジャングルの中の駐屯地だった。そこ
でも初年兵の頃と同じような訓練の繰り返しであったが日間芯地はよかったという。そんな折のことだった。あるR
林さんがクロコンという村落へ食料の受領に行ったとき、予相録九にしなかった報が届いたのだった。
3
1
2
﹁日本隆扶せり﹂
(
1
)林さんたちは到着後久鎮本所勤務、久鎮本所第一分遣附勤務とサンダカン分遣附勤務の二ヶ所に分けられた。
3
. 戦犯に囚われて
F
降伏から二日後の一九四五(昭和二十﹀年八月十七日、スラパにも敗戦の詔が確認された。兵士たちはいつ日本に
帰れるかわからない不安を抱 えた。台湾では本国人は裏びをかみしめ、日本人は同じく不安な日々を送ることになる。
中華民国の国旗が翻り、中国国民党の管族、孫文の遺影や三民主義の教本などを持った若者たちが町を閥歩するよう
になった。ボルネオの兵士たちは自室 9るために野草を摘み、ジャングルを開墾し野菜畑を作った。林さんたちはリ
ス
泊
。
ラパを去り、初年兵、教育隊時代に渦さしたパオで一泊した。その日、林さんたちが後にした壁出地近くに駐在して
いた日本人商社員が現地民のダイヤ族に襲撃されている。武器を持たない敗戦国の人間に対して、原住民は首狩りの
本能を存分に苧催押したのだ。陛下の敗欝肇聞か奉読されたときは、自分たちのやってきたことが水の泡になってしま
ったことを改めて確認したと思われる。この上、日本国に﹁裏切られる﹂とは考えもしなかっただろう。林さんはこ
の時の心境を﹁目標を失ったヤジロベ!のようだつた﹂と記している。ブサウに来て六日目、パトキタンに向かう船
に荷を積み込んでいた時林さんは身体の内部から抑え難い寒さがこみ上げ、全古河が震えはじめた。伝染病マラリア
にかかったのである。分隊の季布をすべて掛けてもらい、その上から古参兵に乗ってもらっても寒さからくる震えは
止まらなかった。震えが治まると、次は高勤務襲ってきた。タオルをまめにとりかえてくれた古共たちに林さんは感
謝の涙を流した。パトキタンに到着すると、その連籍船の上空を敵機か低空飛行で旋回していた。しかし林さんは高
熱で身動きできず、我に返って古共の待つ兵舎に行くまでは生きた心地がしなかったという。
一九四五(昭和二十)年十月五日、新しい家へ引っ越す大作戦の準備していた日の昼食の時たった。元仔虜収餐所
勤務だった初笹具の林さんたちは中隊長室に呼び出された。まさにこの時、林さんがこれから長く突き落とされた﹁地
獄﹂への第一歩だったのである。鎮痛な面持ちで林さんたちを迎えた中隊長と元教貴分隊長らから思いがけない言
葉を聞く。倦虜服持金所に収容されていたマッカlサ!少佐とサンドランド中尉が林さんたちの取り調べを行うという
のだ。その晩は中隊長の計らいで酒宴を開いて下さった。しかし、林さんはここである異変に祭付く。その酒宴の
d告
席で、今まで身分が上であった古参兵たちがまるで客人をもてなすかのように林さんたちを大事に扱ってくれたのだ。幻
これは、林さんたちに仔麿虐待の責任を抑レ付けた身勝手な日本人たちの、せめてもの償いであったと考えられる。
1
) でパトキタンを発ち、久鎮に到着レた。トラックに乗
翌日、林さんたちは連窓口国の武装兵を乗せが添ンポン船 (
せられた林さんたちに対して現地人から暴昔円一投石などの仕打ちがあった。収餐所に着くと持ち物検査を受け、マッ
カ!サl少佐とサンドランド中尉から尋問が行われた。自の前の現状がまったく逆になってしまったのである。今ま
では﹁豪助﹂と呼ばれ収容されていたオーストラリア兵たちは、だらしない格好で腰に拳銃存差し、林さんたちは丸
腰で収容されていく。戦争とはこれほどまでに人の運命を変えてしまうものなのだ。元の第三収餐所に入れられると、
そこには昔の律境収容所時代の職員や仲間たちがおり、暖かく迎え入れてくれた。幾日か過ぎて例の二人のさしがね
で一干五人からなる﹁黒帯隊﹂というものが編成され林さんもその一員に指名された。人目につきゃすいように国審
を腰に巻かれ、暴力や他のものよりも重労働に酷使され、夜はいやがらせの駆け庭ーまたは早がけを強いられた。ま
た-林さんは﹁地獄の三丁目﹂と呼ばれた材木運びの仕事にも指受 dれる。下手に怠けようとするな急時鞭やロー
プの切れ端ーゴムホlス等により身体を打たれた。作業開始から二時間後﹁全員隼査がかけられ、この時林さんは
れることを悟ったという。黒帯隊のひどさを考えるとこれから先の生命の保証はされ
直感的にどこか違う場所に警c
ないと感じざるをえなかったのだろう。
一九四五(昭和二十)年十月二十八日。上陸用舟艇母船ラブワン号に乗せられ、戦犯容疑者収餐所のあるラブワン
取られた。めぼしいものを手に入らな
島に向かった。乗船する時に所持品を兵隊たちにギャングに会ったように塾 c
FO
かった兵隊はその腹いせにと不意に殴ってきたという。全員が船内に入ると兵隊たちもなだれ込み、陸軍帯革、ゴム幻
ホlス、ロープの切れ端、ボクシング用グローブ、審呆隊用長靴を手にして、手当たりしだいに殴りかかってきたの
である。まさに倦虜として扱われた今までの﹁恨み﹂を晴らすかのように血相を変えた兵隊たちの姿があった。その
残酷さは林さんも﹁筆百には尽し難いものでした。﹂と書いている。林さんはその名の通り﹁ブラックリスト﹂であっ
た黒帯隊の一員に属していたので、彼らの第一の標的となった。血祭りとなり気絶しても殴り続けられたという。
一九四五(昭和二十)年十一月一口同船ぎラワン島に到着 ν
てトラックに乗り込み、戦梨会霊夜容所へ到着し
た時は真夜中であった。ビスケット一包と二人に一缶の人参が亨寧 dれた。心身に極度の疲労を覚えていたため、そ
のような少量の粗食でも格別の味だったという。日をおうごとに痛めつけられた身体が回復していくと、 CCS病院
の年末へ駆り出された。監視の兵隊はジャワ島で収容されていた元停虞だったといい、その報復と言わんばかりの残
忍な作業に従事させられた。荷合の高い軍用トラックへ砂の上げ下ろしを六時間もの間断続的に続け、鉄砲以外に重
いものを持ったことのない林さんたちにとって途事わない重労働で、少しでも腰を俺;そうとすれば鞭やホlスの洗
礼を受けた。林さんは現在厩を患っており、自転車を杖がわりにして外出をする。この時の労働が原因たと思われる
が六十年近く経った今、それを証明することは不可能であり、今も目に見える戦争の傷跡は痛々しく残る。
この島で敗戦国の元軍人たちを裁く国際軍事哉判が始まる。林さんはこの裁判を﹁美名震レき﹂国際軍事裁判と表
現した。アジアを食い物にして戦争を続けた日本を裁くという美しい名目だが、その中身は近代司法の原理が根本か
ら獣挙 dれたものであった。しかし、林さんはこの時まで何について自分が告訴されるのか、その罪状がまったく見
6
当もつかなかった。林さんたちは作業を故意に怠けた仔虜に対して本来ならば罰則として営倉での重労働を科すとこ幻
ろ、本人たちのことを思い東洋民族思漫憶から﹁ビンタ﹂で済ましていた。その方が本人たちのためになるし、何よ
り上司からも同様の援翌袋を受けていたからだ。林さんが戦犯として告訴された理由はここにあった。修虜に暴力
をふるったとして国際法(﹃俸墳の待遇に関する条約ど・一九二九年七月二七日ジュネーブ条約)に違反したのであ
る。この法葎は林さんたちにはまったく間かされてお広ず、法廷で聞かされたときは衝撃のあまり全房の力が抜けて
しまい、かたただ呆然とする以外なかったという。会事荏者の俸境堅金助助長はその時にはすでに自殺レており、他
F
の上官たちは虐待の事実について知らぬ夜ぜぬを貫いた。﹁監理貝台湾人・朝鮮人の資質即ち後進性・野奮径の問題﹂
として卑劣な虚偽的策略を用いたのだ。末端にいて実際の体罰におよんた林さんたちの顔が最も俸虜たちに覚 えられ
ていたためにこのような悲劇が起こった。便宜的に日本人#議士はついたものの、問答無用で有罪判決である。この
裁判は﹁神業的裁判﹂と称され、開廷から判決にいたるまでわずか一週間。慎重性も何もない近代社会において考え
られないスピードで林さんの処分は決められてしまった。 C級戦犯林水木。懲役十五年の判決であった。
一九四六(昭和二一)年二月二十八日にラブワン島を発って三月三日にモロタイ島に到着した。ここでの労働も虐
待を停つ壮絶なものであった。﹁まさに生き地獄でした。﹂と林さんが言う通り、十名ほどの人数で力を振り絞ってよ
うやく動かせるような榔子の根っこを動かしている最中に、後から面白半分に鞭を振り下ろす兵隊たちの姿があった。
作業終了後既決収餐附に入る林さんたちを持参乙てきた道具で殴りつけ、それに馳せ参じる輩もその数が日に日に
増していったという。恩口に置かれたドラム缶は戦犯の排池物を入れるもので、その付近で寝るものは一晩中警暴
t
円
いて寝ることができず、アンモニアの異臭と雑音に耐える日々を送った。また、モロタイ島ではボルネオ停虜収餐所出
関係の幹部四名が銃殺刑になっている。
一九四六(昭和二一)年四月二十四日にモロタイ島を出航した林さんたち戦犯は、五月二日にラパウル島に到着し
た。ここでは戦犯収容所の警備と昨覆にカナカ族という現地人(黒人)を採用しており、そのギョロっとした目玉に
度肝を抜かれたという。しかし、それ以上に恐怖だったのはその手に握られた自動小銃がいつ火を吹くかということ
だった。ここで行われた翠両八十メト!ルの山を崩すという作業は、最も過酷な作業であった。オーストラリア兵が
運転する土ならしのためのブルトlザiを暴走させ、林さんたちを面白半分追い回した。現場共も同様に執劫に﹁カ
ムオン!カムオン!﹂とわめきちらしながら追い回した。意識を失い倒れる者には黒人兵が水をぶつかけて、豪州人
がそれを見て笑うという卑劣きわまりない状況であった。結局、ブルトiザlに巻き込まれた二人の戦犯が命宇落と
した。死刑に送られる戦友たちの姿が林さんの心に深く焼き付いている。﹁あの世ゆきの急行列車の発車ベルが鳴り出
したので、行ってまいります。﹂とユーモアとも思える言葉を残していく者。﹁海ゆかば・:﹂と、残る者たちに淡々と
うたいのこしていく者彼らの後姿を思窓る林さんは、もう涙がこらえきれなかったという。どうして私たちがこの
ような自に会わなければならないのだろうか。現世における最悪の地獄の中で、林さんたちにはそれすら考える余裕
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さえなかった。戦犯としての食事は三食出ていたが食えたものではなかったという。生まれてか 与 9っと米食たった
林さんにとって、三食に一回出されるパンは口も付けられなかった。三人に一缶支給されるという缶詰のコンビーフ
というと聞こえはよいのだが、長年の熱帯地万における強制労働と、死臭の漂う戦場ではそれを匂っただけで晦吐し
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てしまう。塩が少なかったため海水を調味料に使い、長豆や茄子、南瓜など宇暑定ものが副食であった。最も苦労し幻
たのは飲料水で、軍からはコップ一杯レか事葱されなかったので雨水を溜めて飲んだという。死刑になる戦犯には林
さんたちが米を瓶に入れザ阜でついて、﹁死ぬ前には腹いっぱい銀米を食べたい。﹂という願望を満たそうとした。﹁大
名協同付なら文句はないんだけどね、粗末な食事で重労働して帰ってきても報われない。こんなに悲しいことはない。﹂
と林さんは語った。オーストラリアは日本の侵略行為を非難するために、タイからシンガポールに抜ける泰麺録坦の
枕木一本が豪州の兵隊の死傷者一人に相当するという事実を宴伝に使った。そうして反日成也事煽ったのだという。
一九四九(昭和二四)年一月一八日。ラパウル島から二十七時間の海路で翌九日にマヌス島に到着した.マヌス
J
島では戦犯を収容する囚舎が塞震のため自件等を堅守 る室梓りに戦犯たち自身が造らなければならぬという皮
肉な事実もあった。マヌス島の酷暑はまたも林さんたちを苦しめた。犀孫み後の日中で一番暑い時の整列では熱中症
で倒れるものが後を絶たなかった。昭和二十五年三月一日、林さんたちの管理は陸軍から海軍へ移管された。長年の
南方での強制労働と、食事のバランスの悪さにあえきながら生きていた。その時に、翠瓦の戒めや慰めがあったから
こそ生きる墨奈出てきたのだろうと林さんは言つ。月日は流れ、刑期を終えた整会ちが次々と帰国してゆく姿を、
残る者は指をくわえながら見ているのは本当に寂しくて辛かったという。しかし、そんな折に思いがけないニュース
が飛び込んできた。フィリピンに服役している死刑囚五←名全員を鉦鋪懲役に減刑し、戦犯全員を日本の巣鴨プリズ
ンに移管させるというものであった。このニュースから三1四日経って昭和一干八年七月七日の爽それに焦りを感
9
じた豪州もマヌス島に服役中の戦犯の務管について通知を出し公式発表した。ラジオのニュースによると﹁豪州政府幻
が、日本を二土百に山濯する白竜丸が一一干日に入港し、そして翌三十一日に戦犯全員を乗せてマヌス島を出航する
こと存許可した。﹂というものであった。林さんはたが虐しくて、その夜は一睡もすることはできなかったという。七
月一干九日作業閉鎖の命令が下り、七月二干一日の朝の乗替わ確約された。この時、林さんには否議にも心が空ろ
になったという。あれほどまでに待ち遠しかっF議繭労働からの解放だったはずなのだ。その原因は戦犯生活のなか
にも人と人との触れ合いがあり心準まることは多く存存在ことから来たものだと思われる。現地人に大きな長貝
の蒸し焼きを食べさせてもらったこと。マラリアに域築したときに看病してくれた親友たちへの成論の念。長年の夢
であった負をりが許され、缶舗で引き上げた魚を鶏ほった時。豪州人の撃った鰐をビフテキにして天下一品の美味を
味わった時。戦犯として生きる自分に出会った心ある人々、そのすべてが林さんの心を支え、長い戦犯生活の励みと
なっていったのである。
一九五三(昭型干八)年七旦干一月日本への楚暴実現した。乗盤則に日本の関係者から﹁長い思﹂苦労さ
までした。﹂﹁お疲れ様でしたJ P﹂うもありがとう。﹂とねきらいの言葉を受け、それに答えようにも喉元がつまり、
目頭が熱となりき暴が出てこなかったという。白竜羽刊か丁一時に出航し、十一時十五分から一一干八分までマヌスに眠
る英霊に対し、船の上から獣祷を捧げマヌス島を後にした。林さんの自信である﹃戦犯に囚われか匂植民地兵の叫ひ﹄
にはその航海の様子や食事の内餐その地点の経度・緯度までが克明に記されている。その中にはこの航海と林さん0
たちの移管を支えてくれた日本の人々への感謝の言葉が幾多にも渡り書かれである。戦犯として責任を負わされ、八お
年間もの問強制労働を課せられていたにもかかわ Aず、林さんは日本へ感謝の気持ちを表したのである。現弐そ
んな日本人よりも日本人らしい奥ゆかしさと心の俵レさを持つ林さんの思いが日本に届くことが出来ないのは如何な
る理由からであろうか。﹁神も仏もない﹂とはこのような状況を言っているのではないか。
一九五三(昭和二十八)年八月八日十八時三十分、横浜港到着。林さんはついに日本の地を踏むことになる。大勢
の人が駆けつけ、盛大な出迎えを受けた。巣鴨ブリズンに入る際も治坦に内地出身の戦犯の肉親を初めとした人たち
が林さんたちを歓迎してくれた。入所式を終えると内地出身の戦裂九ちは肉親や知人、友人が大勢駆けつけ、お互い
にこれまで空白たった時間を埋めるように語之口っていた。林さんたち台湾出身の戦犯には千葉県市川市日本赤T字
奉仕団が駆けつけ、敗戦後﹁異国人﹂となった彼らの寂しさを埋めてくれた。この時、林さんは台湾にいる弟に手紙
を送っている。財産は放棄するから、親の面倒だけは見てやってくれというものだった。現在でも弟からは﹁兄さん、
日本が大変なら帰ってこいよ。﹂と言ってくれる。しかし林さんはき早つ。
﹁いまさら帰れないから。それが僕の人生ですよ。﹂
戦時中、日本に加担した悪党として祖国台湾にも帰れず、日本政府にも恩給申請の際見捨てられた。林さんは豪臥
を起こすことによって、二つの国に拒まれた自分の真の居場所を模索Lているのかもしれない。
巣鴨プリズンに移管されてから、内地出身の戦犯たちは農作業令や、塞事一整整理という名目で旅費.食費を貰つて実家へ
年
二
,3
帰してもらうことは出来なかつた。一九五一年に調印されたサンフランシスコ講和条約により日本は国際社会に復帰認
することになるが、同時に林さんのような植民地出身の戦犯は自動的に国管去最に戻されることになり、結局﹁異
国﹂での囚われの身となったのだ。日本政府に移管されての巣鴨ブリズンでの日々は、﹁あっという聞に﹂準己ていっ
た。そして減刑釈放も決定し、仮出所する日が来た。林さんたち﹁十五年組(懲役十五年の刑を受けた戦犯どは巣鴨
プリズンが閉められる際も最後まで残った績だった。最後の無閣議総佼の戦犯は、林さんたちの七ヶ月後に出所してい
る。林さんは﹁茨の道﹂を歩んできた自分を今まで支えてくれた人たちへの感謝
2 誇ちが心に溢れていた。しかし、
戦俸九おいて広くて自由になった日本埜定放り出された彼は、この時改めて心のどこかに臓に落ちないものの存在
に気が付いた。南方で真っ黒に日焼けした顔にはしわも見られるようになった。﹁お、じいちゃん﹂と呼ほれた時には本
再び始まることになる苦悩の日々をまだ知らないまま、元B C級戦犯林水木は巣鴨ブリズンを後にし
当にがっくりしたという。人生で最も貴重な時間を囚われの身という形で失ってしまった。一九五六(昭和三十一)
R
年八月十八
た
。
(
1
) 庶民的な蒸気船のこと。
4
. 帰化申請
出所後の林さんの人生をたどってみる。彼がまず考えたことは祖国台湾に帰るか、このまま日本に残るかというこ
血
。
とだった。実際に生活するとしても台湾語と日本語しかしゃべれない林さんにとって、日本語に変わり新ν
く﹁中国認
語﹂となった北京証事こから習得することは不可能なことであった。それならばと、未知の土地日本で生きていこう
と決意したのである。彼は、日給一一吉円の肉体労働から出発した。戦時中からの貯金ではYシャツ一抹レか買えなか
った。最初はベニヤ板を作る仕事だったが、指に怪我をして退職する。次に衣達から溶接の仕事を勧められ始めたが、
仕事柄真夏でも四枚も作業着房着て、しかも高温の職種だったために体を害し、十二指腸潰楊にかかっていることが
わかった。この時から林さんは酒と輝官事やめた。そんな厳しい生活状況の中において、墓尽で知り合った奥さんと
の間に子どもが生まれた時には身が引き締まる思いだったという。給料が出ると真っ先に赤ん坊の粉ミルクを買い求
めた。墓尽で中華料理屋﹁幸来軒﹂を始めたのが一九六二昭和三十六)年のことで、友人が千葉で経戸レている中
華料理屋に単身赴任で見習いに行って持衡を身につけた。その底も経営難により七i八回は整恥レた。万博開差別の
年が林さんご家族の﹁黄金の年﹂だった。林さんの長男が、作文で万博主催の﹁五千年後に送る﹂小挙生作文の部で
最優蚕員、日本銀行が﹁貯蓄﹂に関する作文の第一回募集で日本銀行総裁賞を獲り、日銀と万博の係が長男の在校し
ていた小学校まで表彰しに来てくれた。賞品としてテレビをもらったが﹁持っていてもしょうがない﹂と学校に寄付
をした。長男は掌級委員移動め他人の親も羨むほど成績優秀であった。それは林さんの苦悩の人生の中において数少
ない楽しい思い出で、貧しいながらも楽しい家庭が築かれていったのである。
一九六七(昭和四十二)年五月。林さんは子どもの将来のことも考えて、日本への帰化を申請するために法務局に
ある中国籍を離脱しない限りは申請書を受理できかねるというものだった。
行った。しかし返ってきた返事は、台湾 L
3
台湾には四十五歳までの兵盆義務 (
1
) が存在し、容易に国籍を離脱しようとするのを険く仕組みになっていた。蒋沼
介石から日本政府へ制限の要請がされていたという。巣鴨プリズンを出附してすぐのころは仲間も容易に帰化申請が
降りていたのだが、十一年のブランクは長かったと林さんは言う。しかし、半ば日本に強制的に連れてこられた林さ
んにとって、それは全く関係のないことである。しかし政府は池田酷にも、二年後に行った再申請をも却下したのであ
る。林さんは五年近くの問法務局・警察署公安係を行ったり来たりとたらい回しにされ、いい加減なあしらわれ方
子どもたちの国籍消失の正式許可証を受け取り、早速宇替差して日本籍へと切り替えた。今でも林さんは田中
をされた。だが、一九七二年の日中国交正常化を機に一気に問題は解状レた。一九七二(昭和四十七)年十月二十四
R
真紀子元衆議院議員に﹁あなたのお父さんのおかげで国籍がとれた。ありがとう。﹂と手紙を送っている。また、この
時か-与町立つ気を紛らわせるために献血を始めた。献血を五十本するのが早いか、帰化の認定が下りるのが早いかと
自分の中で競争させていた。替用六十五歳で打ちとめになるまで百十三本行い、日本赤土子から銀杯を貰えるほどの
回数に至った。また一九八二年(昭和五十七)年には長男の勧めもあって宮崎に転居し、中華料理屋を始めたが二年
で失敗して底を閉めた。後に守目崎県立図書館や宮崎市内の百貨底で馨備員房勤めている。今の訴訟は宮崎だからこそ
ν か国
できた、東京だったらこうも盛大に出来なかったと林さんは言つ。褒賞も動門主早も貰えなかった。仮釈放の証主F
家から渡されたものはない。
(
1
) 台湾の兵役法では﹁男子は十八歳に達した年の翌年の一月一日に兵役に就く義務が生じ、四十五歳に達した年
泊官
の十三月三十一日以降は兵役のため徴兵されることはない。﹂とある。最低二ヵ月間の基礎訓練を受けてから二位
一五月の部隊任務に就く。
三 恩 給 申 請 ー果てしなき戦いへー
日本の敗戦により引退したいわゆる旧軍人への思給はサンフランシスコ講和条約によって復活した。しかし、戦犯
として服役していた日数は兵役を負担レていないと見られ、国籍に関原なく補償されることはなかった。しかし一九
五五(昭和手)年になって、日本人にのみ理事の年月の思給を亨癒するという植民地出身の林さんたちにとって
理不尽な法改正がなされたのである。これには林さんも怒りを通り越して呆れるしかなかった。異国の人間でありな
戦場に行って、同じ戦犯として服役して、ここにきて何ゆえ国籍によって差別されなければなら
がら、日本人と円 ν
ないのか。身分が因総和公務員として当てはまらない﹁軍属債きであったことも持ち出された。現在でも日本政府は、
あの手この手を使って﹁法葎の睦亡を築き上げ、林さんが思管官手に入れようと必死で登ろうとしても、掴みかけよ
うとする手を無碍にも蹴り落とし続けている。巣鴨ブリズンを出た後も﹁戦犯者同士志会﹂という会を編成して日本政
府と交渉を試みるが、法曹界や政治家相手に委細をしても勝てる同窓みなどなかった。
宮崎に転居した翌年の一九八三(昭和五十八)年、帰化申請を九年前に終えた林さんは回覧板に軍人思給の案内が
書かれてあるのを見つけた。早速応対の係官に見せると﹁立派に等絡できるじゃないか。早く申請しなさい。﹂という
5
返事を得る。終戦の際に陸軍一筈共に昇進している事実も知った。しかし、国からの返事は﹁旧軍人並星留籍制度棄認
却﹂という冷酷なものであった。一九八五(昭和六十)年十月八日の総務庁思給局回答によると、林さんの昭和二一
空ゴ月一日から昭和一一干一年八月十八日の十年七ヶ月にも及ぶ戦犯としての翠粛聞は倦厚塘賃という﹁軍一層に
過ぎず、補償の対象となる﹁軍人﹂ではないのだという。よって林さんには実際軍人であった期間(わずか八ヶ月)
とそれに加算年(一年四ヶ月)を加えた分のみ補償されたのだ。これに対して林さんは一九八六年(昭和六十一)年
九月二十二日、畢議申し立てをした。これに対しての恩給局の判断は、﹁外地で有罪判決を受げた戦犯に対しては、そ
の刑が確定した日をもって復員(解珍すると規定されており、具体的に除隊全一明があったかどうかで復員の日が決
まるものではない。戦犯に指名された理由が軍人存議中にいるものであれば、昭和二十八年法律第百五十五号附則第
一一四条の三の規定により寝顔聞を旧軍人存蟻年に加えることもできるが、この受口は陸軍軍属(傭入)のため適用
することはできない。﹂というものだった。﹁国籍﹂﹁身分﹂﹁罪に関われた時の身分﹂という三つの歴十から突き落とさ
れた林さんは血が逆流するほどの激情を覚えた。
﹁言うことがその場限りなんですよ。一貫性がない J 林さんは唇を噛みながら私たちの前で言い放った。
一週間かけて作るという陳述書は台湾にも送った。李登輝総統の時に国際赤T字を通して返事がきたが、その問題に
は関わることができないというものだった。帰化した元台湾人戦犯に力を貸してくれと言っても立法委員も国会も拒
否する。だが返事が総統府から返ってくるだけよく、日本からは送った手紙の直本すら返ってこない。著書﹃戦犯に
囚われた植民場兵の叫ひ﹄は林さんが毎口円宮崎市内の旧図書館警備員勤務時代にまとめたものである。費用は三、
四十万円ほどかかり、内閣総理大臣や聾埠府墜斗図書館をはじめ各方面に配布した。当時は五十五年体制が崩壊し、
政権が不安定たったため総理大臣が変わるたびに本を送って訴え続けていた。
上買が林さんたちの存在を喋らなければこのような非同劇は生まれなかったのかもしれない。しかし憤命が債レい
がために擦り付け込口ったのだ。良心の阿責であろうか、上官は未だに林さんの顔をまともに見ることができない。仕
返しを恐れているという面もある。
﹁大使館駆け込み事件とか、北朝鮮の投致被害者とかを人道山戸、人権だと言って助けろって言うけど、何か人道だ!
人権だ!て私は言いたいね。被害者に対しては悪いけど、それを力説する公僕を僕は許すことは出来ない。それが誠
ならば、足元にいる犠牲者の事をもっと考えてほしい。﹂
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林さんは孤独な戦いを続けている。自分のことを﹁一匹狼﹂と評した。しかし、私には一人きりで真実を求めて生
きる林さんの姿が、誇り高き﹁虎﹂のように見えた。投丞事件は被害者の肉親という﹁仲間}が力を合わせ、政府に
その声を届かせた。しかし、林さんの日本人戦犯の仲間たちは恩給をすでにもらって、悠々自適の生活を送っている
ためか団結することはありえない。ただ、何もしないのは心苦しいという手紙も届く、少なか Aず共鳴した人はいる。
現在政府からの援助は厚生年金と国民年金があるが、税金を引いて二ヶ月分約十一、二万ほどである。日本人戦犯仲
間の友人に聞くと、当時で三、四十万は貰っているという。﹁虎﹂は狼のように群れを好まず、密林で自分の真意のま
まに生きていくことを求める。林さんに似ているような気がする。
一九九八年(平域工年五月七日。林さんは宮崎型4鶴坦所に国家補償二千五百万円の請求を訴えた。それまでの
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経緯を説明すると、申子宮崎の#護士会に相談に行くと﹁国が相手ではねえ。スケールが大きすぎる。﹂とさじをなげ沼
られた。法務局も行政にも拒否されたため、検察に行くと﹁訴える場所が違う﹂ということで結局法務局に戻された。
しかし裁判では敵になるということで、法務局側から弁護士会の扶助協会に行くことを勧められる。そこで現在林さ
んの訴訟を担当している真早流踏雄・松田幸子両弁護士に出会うことになる。この時テレビ宮崎の取材で林さんの
問題を扱ったドキュメンタリー﹃陽炎 iある台湾極民壇共の叫ひ l﹄が作成されている。これは後に民間放送連盟賞
で九州・沖縄地区で最優変異全国区で優蚕員を号貧した。二OO一(平感 l
三)年二月二士一百。守属地方裁到所
は﹁補償を可態とする具体的立法が存事レない﹂として林さんの訴えを退けた。しかし﹁適切益斗法措置を養レるべ
きで、国政関係者に尽力を期待する﹂と林さんを擁護する対応も見られた。一審では驚くほどに傍聴人が多く、特に
マスコミ関係が多かった。イギリスやアメリカからの取材もあった。傍聴人が多いほうが#護士も気持ちがよく、裁
判官も下手な審理か出来ないので気合いが入るので良いという。台湾でも新聞に出ていたということで、祖国の知人
から夜中に電話がかかってきた。
b
一
δO二年五月一干一目、控訴棄却 あまりにもあっけなく、﹁聞く耳持たない﹂という裁判所の態度に林さんは怒
りがおさまらなかった。上告審が現在も行われている。林さんは一緩の望みを心に秘め国という巨大すぎる相手にひ
るまず戦いを挑みつ守つけている。
林さんは戦時中からよく歌を詠んだ。今も理装聞などに一伺載せられており、控訴審のときは次のような句を呼んで
いる。
﹁準己し青春戦犯とされ君のため徒刑の補償もう用がない﹂
この短歌は息霊の繋 E
にも送っている(その時のテlマはきであった)。当然、その受口せで詠まれることはな
かった。君とは天皇陛rのことを掃すと忠われる。戦犯として日本の責任をとってくれれば後はもう用はないという
ことか。そんな林さんの心の叫ぴが詰まっている句である。
林さんの座右の銘は﹁惑を生きること﹂である。その銘の通り、林さんは裏切られ、騎され、欺かれ続けてもそ
の誠実で漂白な心を捨てることはなかった。林さんが話してくれたあるエピソードが、彼の﹁誠実-というパーソナ
リティ形成に深い影響を与えているように思えてならない。小挙ムハ年生の時隣に座っていた友達と﹁お互いに整京
に出たときは刑薮附のやっかいにだけはならんようにしよう。﹂と話したという。そして林さんは世界で最も美しく、
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最も不条理に敗者を裁く﹁国際軍事裁判﹂の法廷に立ち、懲役十五年の刑に科されることになる。しかし、林さんは
常に誠実さを求めて生きている。その友人はすでに亡くなっているが、きっとあの日の普いは﹁惑を生きる﹂とい
う真意の下に守られ続けたと確信していたはずだ。私は取材を終えた今、歪められた事実によって懲役に科せられた
林さんの真実を求め続ける心は何よりも尊いものであると感じた。
林さんは現在も佐土原町から隣接する宮崎市にある裁到附まで直也阜で通う。皆が林さんの顔を見て﹁お元気そう
ですね。﹂と舌早つのは、巨蔭陸離を直筆でこいで顔が紅潮して血負かいいように見えるからで、帰つできたら体はくた
くたに疲れ果てている。夜は・痕筆を起してぐっすり眠れない。還暦を迎えたときに腰を整形外科で診てもらったら、
腰あたりの間接が摩滅しずず'れるため、神経を圧迫しているという。今では、少し歩くと下単身がしびれて前に例れ
てしまう。もう林さんの身体は長年の戦いとその疲労でぼろぼろなのだ。
t残された課題1
﹁問題が片付くまで、生きていられるかな。﹂林さんは私たちの前で初めて不安を覗かせた。
おわりに
当然の権利の侵害を補償することが出来ない国、日本。﹁世界一美しい﹂と誼われた憲法を曇同法規とする法治国
も、委ん旧植民地の国々に多くの問題を残している。林水木さんの戦いはドン・キホ!テのごとく巨大なものへの宣
J
戦から始まり、陽炎のごとく旦明か霞んで見えない不確かな場所へと向かっているものと言える。誇り高き台湾生ま
329
れの虎は、今年で七十八歳になる。今日も額の汗を拭いながら、自転車に乗って裁到附へと走り続けている。私は林
さんの純粋で、真っ直ぐすぎる性格を直接この目で見てきている。きっといつか彼の人生が報われるように願う。そ
うならなければ、間違いなく﹁法の下の平生さを掲げる日本が滅び行くのも時間の問題たろう。彼の営んだ中華料理
屋の名は﹁幸来軒﹂である。林さんはこれからの人生に幸せが来ることを願い、この名前を付けたのかもしれない。
﹁右翼も文句の言いようがないですね。恩積佐渡せと言うしかないですよ J私に同行した安部俊二教官の言葉である。
自らの良心に基ついて判決を下すのが裁判官ではないか。誰もが一目で気づくその異常な日本国の法整備の現状を、
なぜ法のスペシャリストたちが切って捨ててしまうのか。墨両裁での焦点の一つとなるであろう違憲判決を、私はた
だただ願うばかりである。
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来年の卒業論文においては、戦必補償に関する法律の知識も必要となってくるだろう。林さんの国家補償請求へのお
訴訟における法曹界側の立場についての去柔を求められるだろう。しかし、すべての問題提起は彼の墨両裁の判決が
出てから始まるものである。その意味でこの論文はあくまで﹁序章﹂に遵 c
ない。
現在の世界情勢を見ると、﹁平和﹂という言葉の真意が獄綾されている。﹁平和﹂という化けの皮を被り、自国の利
益のために、自国の平和維持のために他国へ侵略していく様子は、第一次世界大戦に唱えられた﹁民族自決﹂の考え
とどこか共通している感じがする。その結果起こったのが史上最悪の死者五千二百万人を出した戦争、林水木さんも
従軍した第二次世界大戦である。歴史は繰り返されるというが、本当に向き合っていかなければならないものから目
を逸らせてはならないのだ。日本の戦犯として犠牲となった植民境共の皆さんが心安らかにお眠りして頂くこと、そ
して世界の恒天の平和を心から願う。そして林水木さんのように、悲しみの十字架を背負い生きていく人たちを二度
と生み出してはならないと心に刻みたい。
︹
付
記
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本稿作成にあたって、お忙しい中、二日間に亘るインタビューに快く応じて下さった林水木さん、誠にありがとうご
ざいました。また、私たちが帰る際においしい中華風味付けの油飯のお弁当を持たせていただき、ありがとユ﹂ざい
R 誠にありがとうございまし
ました。また、宮崎県まで取材に同行し、論文執筆においてご指導頂いた安部俊二一一墾
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一九八二(昭和五十七)
年十二月二十四日
一九八三(昭和五十八)
年十二月二十一日
宮崎県へ転居。
宮崎県障害援護課恩給係より受給困
難の事務通達。
請求﹂が棄却される。
一九八五(昭和六十)年 総務庁恩給室長より﹁旧軍人並量審
十月十日
一九七八 ︿昭和五十三)年
蒋経国総統へ
一九七九(昭和五十四)年
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中華人民共和国全人代常務
委員会﹁台湾同胞に止円くる
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