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13-01 思い出すことなど

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13-01 思い出すことなど
Essay
2013 年 1 月 16 日(2013-1)
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思い出す
思い出すことなど
年始は忙しいものだが,今年の初めは,私に
とってとくに忙しく,あっという間に1月も半
ばを過ぎてしまった.忙しかった原因のひとつ
は,2台使っているパソコンの両方に問題があ
り,それをどうにかしようとして,協力してく
れた埼玉大学の院生と一緒に長時間パソコンに
張り付いていたからだ.それはそれとして,年
始にはいろいろと考えさせられることも多い.
ではない.友人というには年が違い過ぎる中村
さんと親しくなったのは,ひとえに中村さんが
穏やかで親しみやすい性格の方だったからだ.
中村さんは,私が昭和 40 年(1965 年)に初
めてアメリカの地を踏んだときの記憶と結びつ
いている方でもある.というのは,私と家内が
1965 年8月 26 日にサンフランシスコ空港に着
いたとき,出迎えてくださったのが中村さんと
奥さんだったのだ.まだ幼かったお嬢さんも一
緒だった.これは,私が中村さんに頼みこんだ
わけではなく,中村さんの方から出迎えてあげ
るという連絡をいただいていたのだ.当時,海
外との連絡はもちろん航空便によっていた.私
は,研究上の関係で知り合っていた Bob
Snyder 氏(当時,Berkeley に近い Emeryville に
あった Shell Development Company の研究員だ
った)からも出迎えるという手紙をもらったが,
それよりも前に中村さんからお手紙をもらって
いたので,Snyder 氏には断り状を送った記憶が
ある(Snyder 氏は 2006 年に亡くなった).
年賀状とともに,知人の訃報が届くことがあ
る.年末に亡くなられた場合,そうなってしま
うことは止むを得ないのだが,普通よりも重く
感じられる.30 年ほど前までいろいろお世話
になった中村清さんが,昨年 12 月 26 日に 88
歳で安らかに亡くなられたことを,真理子夫人
とご次男の望氏が連名で送ってこられたお葉書
で知った.
私よりも一回り以上年上の中村さんは,太平
洋戦争が終わって1年か2年後に,九州大学理
学部化学科(当時はまだ九州帝国大学)を卒業
され,大日本製薬株式会社(現在は大日本住友
製薬株式会社)に入社された.昭和 30 年ごろ,
会社から派遣されて,私の出身研究室である東
大・水島(三一郎)研究室に国内留学をされた.
つまり,中村さんは,私にとっては普通の意味
での大学の先輩ではなく,研究室の先輩なのだ.
このとき,中村さんは,会社から派遣されて,
大学の研究室で研究されていたはずだが,不覚
にも私はその研究室がどこにあったかを憶えて
いない.多分カリフォルニア大学サンフランシ
スコ校だったのではないかと思う.ここは医
学・薬学が中心の大学だ.
私は,中村さんと同じ時期に研究室にいたこ
とはないが,水島研究室を引き継いだ形の島内
(武彦)研究室にもときどきお見えになっていた
ので,自然に知り合うことになった.しかし,
研究について何らかの関係があったというわけ
私たちが,SFO 空港に着いたときは夕方で,
その日はサンフランシスコ市の中心部にある
Sheraton Palace Hotel に連れて行っていただい
た.このホテルは良いホテルだった.今から
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10 年ほど前に一度行ってみたが,当時と余り
変わっていなかった.翌日の午後,また中村さ
んの車で,スタンフォード大学に行った.El
Camino Real という名前の道路で行ったが,こ
れはスペイン語で国道という意味だ.かつてカ
リフォルニアはメキシコ領だったから,今でも
スペイン語の地名が多い.私には,これも目新
しいことだった.
にサンフランシスコ湾が内陸に入り込んでいる
部分を見渡すことができた.
その後,私は何度かスタンフォード大学を訪
問したが,最後に行ったのは 2008 年 1 月だ.
この時は,埼玉大学の国際交流関係の業務のた
めに,埼玉大学の職員2名と同行した.この訪
問が成果を挙げたとは言えないが,スタンフォ
ード大学の広々として美しいキャンパスに改め
て感銘を受けた.
スタンフォード大学のキャンパスは広大なも
ので,とても美しかった.まず東大で 1 年先輩
の安部明廣さんに会いに行った.安部さんは,
学部を卒業して,昭和電工(株)に入社したが,
当時は Paul Flory 教授の研究室に留学中だった
ので,この研究室を見学させてもらった.当時
の東大の研究室とは比べものにならないぐらい,
私が,中村さんに最後に会ったのは,もう
30 年以上前のことだ.大日本製薬が新しい研
究所を地下鉄御堂筋線江坂駅(吹田市)の近く
に建てた直後に,私はこの研究所を訪問した.
中村さんは当時この研究所の幹部だったはずだ
が,普通の研究員と同じように仕事をしておら
れた.少々驚くと同時に,研究熱心だった中村
整頓されていて,きれいな研究室だった.
この日,私は Flory 教授には会わなかったと
思う.Flory 教授は高分子物理化学のリーダー
で,この時より9年後の 1974 年にノーベル化
学賞を受賞された.その後,Flory 教授が来日
されたとき,私は彼と食事をしながら話したこ
とがある.安部さんも一緒だった.安部さんは,
帰国後数年を経てから,東工大工学部教授にな
られた.最近もときどき会うことがある.
さんらしいと感心した.
中村さんとのペアのような形で,私がよく思
い出すのは松井芳樹さんだ.松井さんは,塩野
義製薬(株)の研究所に永く勤務されたので,中
村さんとはコンペティターだったわけだが,こ
のお2人の間に特別な関係があったとは聞いた
ことはない.
松井さんは,中村さんより数年年下で,太平
洋戦争が終わったとき.海軍兵学校に在学中だ
った.戦後,大阪大学理学部化学科を卒業され
て,塩野義製薬(株)に入社され,定年まで勤め
られた.その後,残念なことに比較的若くて亡
くなられた.
当時,スタンフォード大学には,Flory 以外
にも,John Baldeschwieler (物理化学), Carl
Djerassi (生物有機化学), Harden McConnell (生
物物理化学), Henry Taube (無機化学,1983 年
ノーベル化学賞受賞者)らの有名教授がきら星
のごとく居た.これらの研究室に来ていた日本
人研究者も多く,清水博氏(のちに東大薬学部
教授),大西俊一氏(のちに京大理学部教授)
らにも会った.安部さんの車で,広いキャンパ
スを案内してもらい,彼のお宅も訪問し,正子
夫人からアイスクリームやアイスティーをいた
だいた.スタンフォード大学のある Palo Alto
の辺りは,夏の間とくに乾燥しているので,と
ても美味しかった.
私が,松井さんと親しくなったのは,私と同
じ時期にミシガン大学に滞在されていたからだ.
松井さんは,化学科の R. C. Taylor 教授の研究
室で研究されていた.私は物理学科の Sam
Krimm 教授の研究室にいたので,距離的には少
し離れていたが,よく会っていた.松井さんは
多分2年間滞在されたので,1年間滞在した私
よりも早くから来て,遅くまでおられた.
中村さんの車で,夕方サンフランシスコに戻
ったが,このときは,太平洋に沿った低い山並
みの上の道を走ったので,西側に太平洋,東側
松井さんは,はじめ単身で来ておられたが,
後になって敬子夫人も来られた.松井さんは運
転免許を持っておられなかったので,夫人が来
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られるまでに,運転の練習をされた.ミシガン
大学のある Ann Arbor には,運転教習のための
特別な施設はなく,はじめから路上で練習する.
30 歳代半ばになっておられた松井さんは一生
懸命に練習して,免許証を取られた.私は,東
京で国際免許証を取得してから行っており,ミ
シガン州では 1 年間程度なら国際免許証で運転
できたので,ミシガン州の免許証は取らなかっ
た.
ずっとあとになってから,私は豊中市の松井
さんのご自宅に一晩泊めていただいたことがあ
る.松井さんは,本当に学問好きな方で,自宅
でも勉強に打ち込んでおられたようだ.敬子夫
人によれば,「趣味は学問」と言われていたそ
うだ.そのとおりで,松井さんは,亡くなられ
る直前まで研究論文を出しておられた.
中村さんと松井さんは,どちらも会社勤務の
方だったが,学問好きで研究熱心な点は共通し
ていた.また,性格的には控え目で,社内での
昇進にこだわることもなかったように見受けら
れた.こういうタイプの人たちが,かつてはど
の会社にも居て,それがその会社の底力になっ
ていたと思う.逆に言うと,会社にそれだけの
余裕があったのかもしれない.考えさせられる
ことである.(おわり)
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