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戦後、米国や欧州への1 ネス英語研究会の部長を務
∼3年の農業研修生派遣が め、商社マンを志した。海
始まって58年。〝あの青い 外志望をかなえるため、㈲
農業研修生派米協会︵当時︶
空の下に夢見て〃海を渡っ
た日本人は1万4千人余に の募集に応募。2年間、米
上る。帰国後、それぞれの
国アリゾナ州ユマのスペン
道を歩んだ彼らは今、存亡 サー農場で果樹農業を学ん
の淵に立つ農業・農村に身
だ。
を置き、何を考え、どう生
社長のS・クレアランス
きようとしているのか。シ 氏はカリフォルニア州立大
学卒のエリートで、900
リーズで伝える。
緋∵研修が間違いなく支え﹂
﹁離農跡地5筋を滑り、′ 農の良さに着目、草地改良
乳牛1頭からのスタ十ト。 を重ねた。苦境から脱した
電気も水道もなく、血から 今では、乳牛193頭、生
水を運んで午にやる毎日だ 乳生産量840㌦、飼料自
った。でも楽しくて仕方な 給率70%を達成している。
かった﹂と相和さん
派米研修の同期に清畠郁
後、現在の奥行地区
夫熊本県知事︵63︶がいる。
構、経営規模を徐々
清畠さんはアイダホ州の農
ていった。だが、それは借
場で研修した後、ハーバー
金との戦いでもあり1同時 ド大学で政治学博士号を取
期に入植した地区の仲間8 り、筑波大学、東京大学で
人で酪農の勉強会 教えた異色の経歴を持つ。
を始めた。−
酪農仲間に米国での研修を
﹁乳量が士がら 話すことはないが、研修仲
ないまま倍食を膨 間と会うと当時の話にとこ
らませた1人が、 とん浸る。
さらに火事で家ま
﹁クレアランスには農業
1968年に帰国する でなくし、どん底に
た。 の魅力と誇りを学んだ。私
と、派米協会勤務の傍ら全 それが仲間の励ま
専門 はこの地で仲間と農業に生
国各地の研修生OBを回
家の指導を得て、
とい きた。誰かに頼るのではな
く、自分たちの力で問題を
解決してきた。間違いなく
1万4000人が欧米に情熱燃やす
北海道・別海町相和 宏さん
波頭のようにうねる牧草畑
を渡る風はまだ冷たい。青 慨け
いツナギ服に身を包んだ相 成。フロン
北海道別海町奥行地区。
﹁ ■
牛舎の前に立つ相和さん
り、どんな農業を始めるか う武器を手に立ち
を考えた。72年、30歳の時です﹂と相和さん
に別海町上風蓮地区に入 同じく多額の負債
植、ゼロから酪農を始めた。 いた相和さんたちも放牧酪
米国での実習が支えだっ
た﹂と相和さんはいう。
て ○ん
えすた
和宏さん︵67︶がパワーシ
ョベルを堆肥会にぶつける
ように停め、話し始めた。
奈良県の茶農家の次男に ティア︵開拓者︶を地でい 塙への夢を熱く語る同氏に
生まれた相和さんは、地元 くような人だった。相和さ 強く惹かれた。帰国後はこ
の農業高校を卒業すると中 んは、毎日ナッパ服姿で園 の体験を生かし、農業を始
内を走り回り、オレンジ栽 めることを夢見た。
央大学商学部に進学。ビジ
広再そ
げ人の
4.3川†トつ
き
に「に∵㊤
鞍責苦宇
をは ̄直放し
につ
よ園
り をか
造澤だん
全国農業コンクールで農水
大臣賞の栄冠に輝き、今年
春の黄綬褒卓を望早した。
40鈴の草地を駆使し、ほぼ
オーダーメードで各種動物
用のエサを生産・販売する
異色の経営には随所に米国
での経験が生きる。
西窪さんは酪農家の4男
に生まれた。高校を卒業と
先は乳牛1200頭、80
0筋の大規模酪農だった。
状況に追い込まれた。そこ
へ﹁動物園用の飼料を作ら
ないか﹂との話が舞い込ん
だが、それを実現し、経営
として成り立たせるまでに
は幾重もの曲折があった。
﹁ないものは自ら作ろう
の精神で歩んできたが、妻
の協力があってこそだ。家
族・家庭を大切にする米国
流の考え方が私た
ちを支え、力の源
になってくれた﹂
4人の子どもた
ちはそれぞれ小学L
生の時にホームス
テイに出し、海外体験を積
ませた。受け入れ家族との
家族を大切にする考えが力の源
い意志を持って経営に臨め
ば﹁すべてが可能になると
西窪さんは、とりわけ弟
帰国した西窪さんを待っ 点﹂と思わせる。30歳にな
の経営に惹かれた。毎年12 ていたのが円高による輸入 る息子には﹁家業を継ぐの
∼1月を乾乳期と決め、そ 飼料の急増だった。酪農用
ではなく、私から︵農場の︶
れを制御できない2割の午
にした。
1971年2月から1年 兄弟2人による共同経営と
余、米国カリフォルニア州 いうその農場で、出産、エ
オークレーで実習した西窪 サの配合、治寮を担当し、
武さん︵60︶は現在、京都 家畜人工授精師の資格を取
府南山城村で動物園用飼料 った。﹁各3か月が10年に
は売却してでも休暇に充て
るという姿勢に﹁彼らは強
の飼料づくりを志したのに 権利を買え﹂と伝えてある。
エサの価格が急落、子ども 西窪さんにとっての米国は
のミルク代もままならない 人生そのものだ。
専門の㈲クローバーリーフ 当たるくらいの経廟をし
を経営する。2007年に た﹂と西窪さん。その後、
いう気概を持っている。何 交流は今も続く。交流を通
日本でも同じ資格を取り、 かに流されない生き方は、 じて得る情報は常に西窪さ
動物園との仕事をスムーズ 僕らは農業者だという誇り んを駆り立たせ、﹁あの1
にあふれていた﹂と話す。
年間の実習こそが自分の原
京都南山城村西窪 武さん
流協会を通じ
て渡米。実習
随所に生きる米国経験
同時に酪農に
従事したが、
22歳の時に㈱
国際農業者交
動物園用のイタリアンライ
グラスの畑に立つ西窪さん
ら2年間、米国西部の4州
でリンゴ、カンキッ、苗木
生産を学んだ。現在はその
経験を生かし、約5筋の有
機果樹園を経営する。
早藤家は父の代から温州
ミカン、ユズ、ネーブル、
ハッサクなど数多くのカン
キッを栽培する。義則さん
は千葉大学園芸学部在学中
から海外留学を夢見た。だ
が、親の世話にはなりたく
ないと思い、当時、﹁働き
屋となった米国人吉年と毎
晩、将来を語り合った。早
藤さんは湯河原町特産の温
泉熱を利用した農業や有機
帰国半年で、米国では広
栽培、メキシコ料理の店を
を区画単位で
管理します。
ぐ知られていたブルーベリ
晩カン類の一
種﹁セミノー
ル﹂の出来を
見る早藤さん
収穫は外国人
とブルーベリーを主に、キ
ている。
の外国人研修生も受け入れ
20人以上に及ぶ長期・短期
帰国後の30年間に、10か国、
しをしたい﹂と早藤さんは、
は尽きない。また、﹁恩返
たい﹂と語る早藤さんの夢
び付けた総合的な産業にし
り、林業など地元資源と結
産のミカン畑の景観と香
将来について﹁農業を特
す。
26年間絶やさず朝市に出
定も受け、地元の人たちと
どを栽培。全品目で有機認
ウイフルーツ、茶、野菜な
は約20品種に及ぶカンキッ
は加工品も手掛けた。現在
先駆けとなり、5年後から
ーを導入。日本での栽培の
開きたいと熱く語った。
労働者を使
い、勇定など
はせず、施肥
は養分を溶か
した潅漑水で
ブルーベリト栽培の先駆け
海外研修生受け入れは恩返し
やり、防寒も畑全体に水を
神奈川・湯河原町早藤義則さん
張るだけといった徹底ぶり
大型連休明けのこの時
でした﹂と早藤さん。オレ
期、神奈川県湯河原町の海 ながら大学で学べる﹂ ﹁自 レゴンの各州で、ほぼ半年 ゴン州の苗木の生産販売会
岸段丘にはミカンの花の香 賄いの精神﹂壷掲げて募集 ずつ農家と大学に交互に身 社では﹁生物化学が専門﹂
りが辺り一面漂う。﹁この していた農業研修生派米制 を置きながら実技と学科を と告げると、﹁じゃあ、農
香りで毎年、米国で研修し 度に応募、夢がかなった。
身に着ける形で行われた。 薬散布をやってくれトとハ
た当時のことを思い出すん 24歳の時だった。
アリゾナのカンキッ園で ウスの分を全部任されもし
です﹂。こう話す早藤義則
研修はワシントン、アリ は合理化の進んだ栽培法を た。
目の当たりにした。﹁40診
帰国前の半年間は、相部
さん︵56︶は1978年か ゾナ、カリフォルニア、オ
京阪神のベッドタウン、
兵庫県三田市。トマト農家
の西浦道雄さん︵74︶は米
国研修から帰国後、﹁農業
は天職﹂の言葉を胸に、都
市近郊で農業を続けてき
た。トマトなど施設野菜1
雪と水稲60雪を経営する。
5
農家の長男で、戦火で家
も米も焼けた苦労から﹁食
べ物は自分で作りたい﹂と
高校卒業と同時に就農。地
域の4Hクラブで活動する
うち、国際農村青年交換計
画の米国特使ワンダ・ガン
ブレヒトさん︵生活改良普
分で農業を選ん
だが、天に与え
られた天職でも
ある。やめては
都市近郊で野菜
を生産してお
り、トマトの味
は格別。﹁今後、
日本の青年も野
菜を食べる。君
が食べたいもの
を作れ。君は自
る。栽培技術の向上、都市
荷だけでなく直売も手掛け
完熟トマトを目指し、多い
体での生産に努め、市場出
と水稲4筋を経営。地域全
時にはトマトやイチゴ7
て、日本人の口に合う甘い
帰国後、早速ハウスを建
にならなくては﹂と患った。
が日常的で﹁心豊かな百姓
盛ん。非農家も農業の話題
やフェアなど地域の交流も
団結﹂も感じた。パーティ
いけない﹂とい
0雪
農業のあり
方、地産地消
の進め方な
ど、リーダー
を務め、地域
全体で考えな
が組織化されており、同じ 農場にも研修後2度訪ね、
目的に向かって活動する
国と国を農業で結ぼうと今
﹁地域︵コミュニティ︶の も交流を続けている。
当時から米国では地産地 原点。国際交流のスタート
鞘が進んでおり、大規模農 でもあった﹂と西浦さん。
家も市場出荷だけでなく農 これまでアメリカ、台湾な
産物をファーマーズマーケ ど各国から約50人の研修生
ットで販売していた。農業 を受け入れた。マジョーロ
うエミリオさんの言葉に、 がら取り組んできた。
トマトの生産を決意した。
﹁米国研修は今の農業の
米国研修が経営の原点
﹁農業は天職﹂の言葉を胸に⋮
及員︶を自宅で受け入れる
ことになった。ワンダさん
は温かく、気さくな人柄で、
戦時中に抱いていた米国人
のイメージを一新した。
当時栽培し
ていたのは父
から引き継い
だ米と麦だっ
たが、新しい
画日本代表に志願して、選
最初の受け入れ先はカリ
ばれ渡米。6か月間、カリ フォルニア州サンタクルー
フォルニア州とミシガン州 ズのエミリオ・マジョーロ
の4軒の農家で﹁家族の一 農場。イタリア系移民で、
と考え、米国への夢を膨ら 員﹂として過ごし、野菜や
ませた。1958年、21歳 酪農を手伝いながら学ん
の時、国際農村青年交換計 だ。
兵庫三田市西浦道雄さん
農業をしよう
トマトを作り50年になる西浦さん
《
》
5
山梨県北杜市。南アルプ の複合経営農家ハンス・フ
スを望む畑のカラフルな野 エルバーさんの家で1年間
菜を見回りながら、﹁野菜 の研修を受けて、﹁農業の
がかわいい﹂と笑う井波希 良さ﹂を知ったという。
野さん︵30︶。
クラドルフにあるフェル
バー家は酪農、養鶏、果樹、
リカなど約60種類の野菜や
った。失敗しては怒られ、
野菜の家族経営。パン焼き
から農作業まで仕事は多か
1・5鈴の細でレタス、
ケール、ジャガイモ、パプ
小麦を有機・無農薬で作っ
﹁楽しくおしゃれに農業 名は﹁Kin.O Cafe
を﹂とオーガニック農場・
︵キノカフェ︶﹂。野菜作
キノカフェの井波さん
りは近くの農家に指導を仰
いだ。病虫害などの苦労も
適に農業だというのがかっ スイスで養った﹁根性﹂で
乗り越えてきた。野菜パッ
クの定期宅配が主な販路
こいい!﹂と患い、儲農を
決意した。
研修中から計画を酪り、 で、レストランや道の駅に
就農先は水もきれいで空い も出荷。味も見た目も楽し
た畑も多い北杜市に決め
める少量多品目野菜で経営
た。実家のペンションで食 を展開する。
材に使える野菜を、スイス
各地の就農希望者をボラ
ンティアや研修生などとし
では普藩だっ
た有機・無農 て受け入れたり、地元の若
薬で作ると決 者を集めたイベントで、田
め、西洋野菜 舎のおしゃれな暮らしと農
の種を研修中 業をPRしている。﹁日本
でも農業がかっこいいと患
に集めた。
に農家生活の豊かさを感じ から帰ると作業を手伝って 03年3月に研修を終え、 える﹃普通﹄の仕事になっ
た。少ない空き時間にも仕 おり、﹁趣味は農業。将来
2か月後には近くの畑を耕 て欲しい。女性1人でも農
事を割り振る効率の良さな は農業を継ぐ﹂と言うのを し、04年3月には60雪を借 業で食べていけるというモ
ど、学ぶことは多かった。
聞いて、﹁農業って楽しい りて就農した。﹁おしゃれ デルを作りたい﹂と夢に向
子どもたちも、毎日学校 んだ。誇りを持ってて、普 な農業﹂をしたいと、農場 け邁進中だ。
研修で良さ知り、強い精神力養う
﹁普通に農業がかっこいい﹂
山撃北杜市井波希野さん
ている。
月2回は1万
短大の園芸生活学科を出 5千羽の平飼
たころは﹁きっい、儲から
い養鶏場で午
ない﹂というイメージが強 前2時から食
く、農業に抵抗があった。
鶏を箱詰めす
北杜市でペンションを経営 る﹁悪夢の出
していた両親の影響もあ
荷日﹂もあり、精神的に鍛
り、グリーン・ツーリズム えられて強くなった。
を学ぼうと、㈱国際農業者
忙しかったが、夕方には
交流協会の海外農業研修に お茶の時間に一息つく余裕
参加。2002年にスイス や、農場周囲の美しい野山
クラメン栽培を続けるつも
りだったが、帰国すると、
地元で古来の米や野菜に着
目。それらを有機栽培する
現在の経営に転換していっ
た。また、フォークグルー
プ﹁影法師﹂のボーカルと
して、全国各地で公演する
という異色の存在だ。
﹁同じ施設園芸でも日本
え
山形米﹁さわのはな﹂の種
もみを運ぶ横澤さん.
ンした。この他、大豆の在
来種﹁馬のかみしめ﹂や行
者ニンニクとlニフを交配し
た﹁行者粟﹂の栽培も始め
るなど、地域に根ざした農
業の追求に余念がない。
﹁オランダでの研修をは
も、歌手の高石
ともやさんがい
ークを始めたの
20歳の時にフォ
じめ、私を方向付けたのは
人との出会い。
を追求
たから﹂と横澤
影法師は結成して35年に
活、05年にはスロ﹂フードきた。最新曲﹁ヤマザキ米
国際本部から日本初の﹁味 粉のパンを焼け!﹂では、
の箱丹﹂の認定を受け、08 米粉の更なる活用による日
年には漬物加工所もオープ 本農業再生を訴える。
なる。身の周りで起きたこ
培にも取り組んだ。■
いったんは挫折もた花作 とや、その時々に考えたこ
大根も03年から栽培を復 とを100曲余にまとめて
よる無農薬・無化学肥料栽
0年からはアイガを除草に なった。
﹁さわのはな倶楽部﹂を桔 さん。特に農家以外の様々
成して直売を始め、■す00.な人たちとの交流が支えに
地域に根ざした農
人との出会いが
とは規模が違う。それに日
本海側のこの土
地で、地中海原
産のシクラメン
を苦労して作っ
ても仕方ないと
患いましてね﹂
を導入。9 5年には仲間と
の伝説の米﹁さわのはな﹂
替わって横澤さんは山形
助がなくなると頓挫した。
た。だが、5年後に市の補
漬物の加工・販売も手掛け
作り始め、市の応援も得て
からあった﹁花作大根﹂を
山形・長井市横澤芳一さん
と横澤さん。研修先でも休
ャ、モロッコ︵アフリカ︶
山形県長井市で水田2彷 みになると、各地へ出かけ、
・畑30雪を経営する横澤芳 修了後もスペイン、ギリシ
一さん︵57︶は、国際農友
を旅し、見聞を広めた。
会︵当時︶を通じ1978
帰国後、稲作をベースに
年から1年間、オランダの
花き生産会社で研修した。 気候に逆らわない農業に取
初めは家で担当していたシ り組んだ。父親は地元に茜
日本からは早川さんを含め
4人が同農場での研修に参
加、﹁その時の楽しさは今
も忘れない﹂と言う。
早川さんは地元の農林高
校に進むと、卒業論文で
﹁アメリカに行きたい﹂
﹁組織的な農業経営がした
規模の日米格差何のその
農事組合法人・若竹の事務
所内で話す早川さん”■
それぞれが農地を集めると
いう取り決めをした。若竹
の場合、担当分の50%が集
立ったのだ。
ま
っ
ている﹂と早川さん。
帰国するとす
豊田市には自動車関連企
ら5人の若手グ
︵後 業が数多く立地し、農地流
の若竹︶と先行していたも 動化の条件がそろっている
う1つの組織︵後の申甲︶
という背景もあるが、これ
による農作業請負が姶まっ だけの経営規模を実現でき
たのは、早川さんが渡米以
た。早川さんは仲間と整備
後の田起こしなどに凝り阻 降、地域に支えられながら
んだ。すると﹁農地を預け
水田農業の組織化に心血を
たい﹂という農家が現れ出 注いだ成果でもある。
し、74年には農事組合法人 早川さんは米国での1年
を結成。77年には農業生産 について今も﹁素晴らしか
法人となって借地による規 った。もう2∼3回経験し
模拡大が始まった。99年に たい。国籍や顔つきは違っ
は利用権設定面積が針00 ても同じ人間なんだと思っ
い﹂と書いた。それを読ん だ。手続きは、その市議が 農業経営を組織化する構想
だ地元の市会議員が早川さ すべてしてくれた。実は早 が持ち上がっていた。その
筋を超え、現在に至る。
たし、その中で研修をやり
んを訪ね、﹁ぜひ米国で研 川さんの地域で近く土地改 中心となる農業者の1人と ﹁中甲が地区の農地の6 、遂げたことは大きな自信に
修してきて欲しい﹂と頼ん 良事業が始まり、整備後は して早川さんに白羽の矢が 割、若竹が4割を担当し、
なった﹂と振り返る。
地域に支えられ組織化を推進
フ昼杜にこン・i=
愛知・豊田市早川 茂さん
2800筋と260彷
1愛知県豊田市高岡地区
の農事組合法人・若竹の一
員である早川茂さん︵59︶
が研修した米国の農場と現
在の経営規模との対比で、
約11倍の開きがある。だが、
その地域の信頼に裏打ちさ
れた稲作経営は40年たった
今も揺るぎない。
早川さんが国際農友会を
通じて渡米したのは197
1年4月。2 0歳の時で、研
修先はカリフォルニア州コ
ルサ郡の大規模穀作農場。
そこで1年間、米、麦、ト
ウモロコシ、マイロ、油糧
種子などの生産を学んだ。
ルく、
1早
熊本幸城市宮川将人さん
洋ランと言えば1鉢数万 て生まれ育ったが、﹁父と
円もする高嶺の花。そう思 は違う視点で花仕事に取り
われがちだが、最近は1千 組みたい﹂と東京農業大学
∼3千円の小型のラン︵テ を卒業後、㈱国際農業者交
州サリナスのマツイナーセ
し、普及させたことでも知
られるパイオニア的存在。
12年前に始めた洋ラン栽培
では面積30訪、年間売り上
げ30億円にもなる世界一の
花生産企業となっている。
家の自己満足で終わっては
ならない。販売まで責任を
一番人気の新品種﹁花すみ 来は﹁店長を務める妻の旧
れ﹂を手にする宮川ぎん
姓を残したかったから﹂だ
という。少し時間もかかっ
持ち、経営体として利益を たが、若い女性を中心にミ
10%出し続けるこ卓と語 ニランが口コミで広がり、
った。その言葉から、強い
今年の母の日ギフトは5千
経営理念を肌で感芯た。
件を受注。今年度のネット
帰国後さっそくユンパク 販売額は、会社売り上げの
トをフンの栽培と販売に挑 25%にあたる6千万円を見
込んでいる。
営川さんは﹁生産者の時
んだ。しかし、待っていた
のは贈答用・大型が主流の
市場の壁。宮川さんの作る 代が来たと思っている。生
ランは﹁かわいい﹂とは言 産者のこだわりと想いが全
われても、思うような値は 国の消費者にお届けできる
開設した。店舗の名前の由
おわり
つかない。それでも可能性 ようになったのだから﹂と、
を信じ、企画営業の担当と 今日を、変化に対応できる
﹁ボスは自ら学ぼうと動 して店舗直送や大手のカタ 者のみが生き残れる時代と
けば、大きな心で応えてく ログ通販などに注力した。 見る。﹁自分らしい花作り
れる人でした﹂と宮川さん。 2007年秋、結婚を機 で笑顔のお手伝いがした
松井さんは﹁花づくりが農 にインターネットショップ い﹂。米国での経験がよう
﹁森水木のラン屋さん﹂訂 やく花開いてきた。
今、花開く米国での経験
やってきた生産者の時代
ーブルラン︶を愛好する人 流協会主催の研修事業に応
が増えている。2002年 募し管
から2年間、米国で研修し
研修先はカリフォルニア
た熊本県宇城市の宮川将人
さん︵31︶は、そうした庶
民に愛される洋ランの日本
での普及に情熱を燃やす。
市内旧三角町の戸馳島
は、温暖な気候に恵まれ、
花栽培が盛ん。なかでも洋
ランは生産農家23戸が19リー。経営主は奈良県出身
84年に﹁五蘭塾﹂を結成、 のアンディ松井︵本名・松
産地を形成してきた。宮川 井紀潔︶さん︵74︶で、戦
さんは、そのリーダー的存 後、米国のポインセチアや
在の㈲宮川洋蘭の長男とし ポットマムを日本に紹介
Fly UP