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4p~10p - Unhcr

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4p~10p - Unhcr
特 集
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COVER STORY
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なつかしの故郷へ
1990年代前半のモザンビーク難民170万人の帰還は、近年の難民問題でも
最大の成功をおさめた。しかしモザンビークの国内情勢は、いまも不安定き
わまりない
レイ・ウィルキンソン
残虐な内戦は、まずマリア・レカルタデの兄の命をうばっ
た。その後、親戚が何人か殺され、とうとう夫も拷問されて
殺された。今度は自分の番では――と恐れたマリアは、4人
の子どもたちと林のなかで夜を過ごし、1984年、とうとう隣
国ジンバブエに逃げ出した。
「どうしようもなかったのです」
とマリア。
「モザンビークにとどまっていたら、私たちは皆
殺しにされていたでしょう。
」
(6ページにつづく)
© S . SALGADO
故郷までの長い道のり:
テテ州の故郷まで歩く帰還民たち(1994年)
。
5
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COVER STORY
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モザンビークのいま:(左から)戦争の遺物、
ゴザを
織る子ども、青空学級、UNHCRの資金援助で建てら
れた診療所。
南部アフリカの西岸にある、細長い
ラパラとはじまった帰還は、UNHCRな
や種子が配られました。でも、それだけ
山脈と低木の草原と美しい浜辺の国モ
どの支援を受けて大規模になり、徒歩
です。家もなければ学校も井戸も穀物
ザンビークは、30年にわたる紛争に翻弄
で、またはフェリーやバス、車、列車、
もありませんでした。
」
されてきた。最初は宗主国ポルトガル
飛行機で帰還した人の数は2年半で170
こうした帰郷の風景は国じゅうでみ
に対する植民地解放戦争、次はモザン
万人。推定400万人の国内避難民も故郷
られる。しかし最初こそ不調にみえたモ
ビーク解放戦線(FRELIMO)政権と反政
にもどりはじめた。
「難民キャンプは安
ザンビーク難民の帰還は、第二次大戦
府ゲリラ組織のモザンビーク民族抵抗
運動
(RENAMO)との間の残虐な内戦で
ある。民家、学校、診療所は完全に破壊
され、拷問や処刑は日常茶飯事。人口
この2年半に170万人が徒歩や乗り
物を利用して帰還した。
の『奇跡』は、モザンビーク人自身によ
るところが大きい」と言うのは、ある西
側職員だ。
「国際機関や拠出国も手を貸
1700万人の3分の1以上が家を捨て、近
しましたが、これほどの成功を収めた秘
くの山林や隣接する6か国に避難した。
訣は何なのか、私たちは今も探っていま
長い戦闘の末に、停戦合意と和平協定
全でしたし、子どもたちの食べ物もあ
す。特許をとって、他の地域での危機に
が結ばれた(1993年)
が、明るい未来がく
りました」とマリアは言う。
「けれども
も応用したいくらいです。
」
るようにはみえなかった。当時のモザ
私の故郷はモザンビークです。たしか
ンビークはメチャクチャだったのだ。
に恐かったけれど、難民バスや援助職
戦争で家族同士までいがみあい、道路
員がいるから大丈夫だと思いました。
」
や鉄道などのインフラも徹底的に破壊
されていた。
マリアは現在、同国北西部の中心地
幸運がつづいて
たしかに幸運だったせいもあるが、
モザンビーク特有の要因も大きかった。
テテ近郊で、泥のレンガと木の枝でで
難民危機が、こんなふうに良い方向に
しかし一部の援助関係者が後に「モ
きた小屋に住んでいる。再婚した夫と
発展することは滅多にない。人々は何
ザンビークの奇跡」と呼んだ現象は、
いっしょだが、財産はほとんどない。
年も殺しあってきたのに、キャンプや
難民の帰還開始後すぐに始まった。パ
6
以来もっとも大きな成功を収めた。
「こ
「バスから降ろされ、食糧やゴザ、農具
難民
1998年 第5号
山林から出てくると、政治的・軍事的
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COVER STORY
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P H OTO S : U N H C R / R . W I L K I N S O N
対立をやめた。
「私たちの関心は作物を
の「お気に入り」になった。UNHCRは難
育てることで、戦争裁判をはじめるつ
民の帰還だけでなく、帰還後の再定着
もりはありません」と、ある地元職員
を助けるために、前例のない野心的な
は言う。再定着を成功させるには、ま
プロジェクトを実施。約1億ドルを投じ
ず犯罪者の処罰が必要不可欠、という
て、食糧を配給し、種子、農具、住宅資材
人道機関の従来の認識とは大きく(しか
を供給し、道路、学校、保健センター、
し興味深く)異なっていた。
井戸を再建した。こうした「即効プロジ
家族がバラバラにならなかったため、
大部分の難民は周辺諸国から
帰還した。
タンザニア
マラウイ
ェクト」
(QIPs)の大部分は、一件あたり
また再会が早く実現したため、孤児は
の予算が4万ドル以下で、推定1500件が
ほとんどいなかった。政治的・軍事的
実施された。
「モザンビークの任務は、ものすごく
通常の大規模帰還で用意する広範な保
きつかった」と言うのは、当時プロジェ
護ネットワークもほとんど必要なかっ
クトの多くをしたベルナルド・ケルブラ
た。十分な広さの土地もあり、不動産を
ットだ。
「週に85時間は働きました。で
めぐる大きな混乱がおきて(ルワンダや
も、モザンビーク人の頑張りをみられ
カンボジアのように)帰還が台無しにさ
たのは、素晴らしい経験でした。家は
れることもなかった。自然も味方してく
破壊され、道路には地雷が埋まり、片
れて、豊かな雨期が二度訪れた。
足でやっと家にたどり着く人もいた。
かつて強硬派の社会主義者が実権を
でも彼らは幸せそうでした」
。とくに初
握っていた政府も、いまや帰還奨励策
めの頃は、大忙しのうえに、みな感情
と貿易・金融・政治・社会の大規模な
的だった。政府の国家難民支援局
(NAR)
自由化措置をとり、西側諸国や拠出国
のフェルナンド・ファゼンダ担当官に
リロングウェ
ザンビア
ナンムラ
テテ
ルサカ
非難の応酬がなかったから、UNHCRが
カボ・
デルガド
ニアッサ
ザンベジア
モザンビーク
ハラレ
北
ソファラ
シンバブエ
マニカ
インド洋
ガザ
南アフリカ
プレトリア
ムババネ
イ
ン
ハ
ン
バ
ネ
マプト
マプト
0
200
400
km
凡例
首都
国境
スワジランド
州境
© U N H C R E N V I RO N M E N TA L DATA B A S E
難民
1998年 第5号
7
(左から)収穫作業。
サッカーに熱中する帰
還民の少年たち。皮肉
にもモザンビークに避
難してきたアフリカ中
部からの難民たち。戦
争中に埋設された無数
UNHCR/R . WILKINSON
の地雷が残した傷痕。
UNHCR/R . WILKINSON
よると、政府とUNHCR職員は、
どうすれ
活動からの撤退が詳しく検討されてい
ばこの危機を乗り越えられるか夜遅く
た点だ。計画的な建設活動と、焦点を
プロジェクトなどなくても、たくまし
まで白熱した
(ときには怒りに満ちた)
しぼった計画をタイミングよく実施し
いモザンビーク農民なら帰還して生活
議論を交わした。
「議論があまりに白熱
た後は、スケジュールに沿って段階的
再建にとりかかっていただろう、という
すると、席をはずして、頭を冷やさなく
に撤退する見通しが示されたのである。
声もある。しかし政府職員や村人たちの
反応は相変わらず好意的だ。
「援助がな
てはなりませんでした。そうしてやっ
と、大部分の問題で友好的な妥協点を見
いだすことができたのです。
」
8
えたのか ――。
評価は賛否両論
かったら私たちはみな死んでいました
UNHCRは、1996年にQIPsの運営を政
よ」と、エメスト・ラファエル(テテに
他の機関は、UNHCRの再建への取り
府などの援助実施パートナーに譲った
近いチャンガラ地方の公務員)は、大き
組みを不信と懐疑の目で見ていた。
「開
が、これを機におきた議論は現在も続い
な笑みを浮かべて言った。
発プロジェクトの責任者はわれわれな
ている。難民の緊急援助活動はいつ終
プロジェクトの長期的な影響は、一
のに、突然UNHCRが割りこんできたの
了され、開発はいつ始められるべきな
段とわかりにくい。マララ地方では、
です」と言うのは、ある西側援助職員
のか。UNHCRも開発プロジェクトにた
良い結果も悪い結果もあった。UNHCR
だ。
「多くのプロジェクトは、きちんと
ずさわるべきなのか。たずさわるとした
は、ある寄宿学校に生徒用の寮とシャ
した調査をまったくしないで開始され
ら、どの程度なのか。モザンビークで実
ワー、調理場を建設するプロジェクト
た。学校は建設されても、教師がいな
施した一連の計画は、緊急ニーズと長期
を支援した。しかしUNHCRが撤退し、
いこともあった。ただ、帰還の呼び水
的持続性のバランスを崩してしまった
その仕事を引き継いだ他の国際機関も
にはなったと思います。
」
のか。モザンビークの教訓は、今後の危
いなくなると、工事は未完成のまま放
UNHCRのモザンビーク支援活動の概
機でも生かせるのか。難民たちにとっ
置されたという。現在、作りかけのシ
要は、
「再建戦略」という斬新な計画書
て、これらのプロジェクトがおおむね
ャワーは悪臭たちこめる便所となり、
にまとめられた。とくに重要なのは、
最適だったといえるのか。費用を負担
設計のまずい調理場は一度も使われず、
緊急事態でもっとも難しい段階である
した拠出国は、支出にみあった利益を
200人の少年たちはコンクリートの床で
難民
1998年 第5号
COVER STORY
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UNHCR/R. SEMENIUK
U N H C R / L . TAY L O R
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の1が、閉鎖されたか十分に利用されて
べきだった(戦争終結から2年ちかく経
一方、
200メートルほど先には、
UNHCR
いない。継続可能なプロジェクトは
ち、難民の75%が帰還した後にやっと
とノルウェーの実施パートナーが完成
50%程度で、計画の失敗が政治に与え
終了した計画もあった)
。また、庇護国と
させた別の学校がある。新設されたい
る影響も懸念されている。
帰還国にいるUNHCR職員どうし、
さら
眠っている。
に開発機関がもっと連携すべきであっ
くつかの教室は、現在も手入れがゆき
届いており、14人の教師(月給30∼50
ドルは政府の負担 )
が600人の生徒を教
えている。
「援助がなければ、教室はな
かったでしょうし、おそらく生徒もい
なかったでしょう」とアデリーノ・ム
アチャカレ校長は言う。
「ただ、援助期
モザンビークがこれほどの成功
を収めた秘訣は何でしょう。特
許をとって、他の地域にも応用
したいくらいです。
たし、UNHCRの資源は人的にも技術的
にも強化されるべきだった。
モザンビークでの教訓は、どうすれば
他の難民危機に生かせるだろうか。こ
こでの活動を経験した職員の一部は、
すでに多くの価値ある情報がムダにさ
間は短すぎました。もうひとつ教室が
れてきたと懸念する。ある職員は、
「危
ほしかった。
」
機が起きると、いつも初歩の初歩から
スタートする。これまでの経験は全然い
この地方では、給水ポンプや学校、
保健所がいまも利用されている。NARの
貴重な貢献
かされていない」と語る。
UNHCRは「戦争で荒廃した社会の再
モザンビークの教訓を、他の危機にそ
「QIPsの大部分は、今後も継続可能です。
建」と題した報告書で、再建計画を全
のまま持ち込もうとすれば、アンゴラの
QIPsは私たちの発展の基盤となりまし
面的に検討した。そしてこれらの計画
二の舞になってしまうだろう。モザンビ
た」と語る。
は、おおむね戦後の再建と和解に「貴
ークとアンゴラは、ともに旧ポルトガル
重な貢献」をしたが、改善の余地はあ
領で、道路や鉄道、橋、発電所、診療所、
1992∼96年に建設された400の農村部保
ったと結論づけている。まず、再建に
学校などの公共施設が破壊し尽くされ
健施設(一部はQIPsで作られた)の4分
向けた活動は、もっと早期に開始される
る激しい内戦を経験し、国内外に膨大な
フェルナンド・ファゼンダ担当官は
しかし最近の保健省の調査によると、
難民
1998年 第5号
9
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数の避難民を出した。
|
COVER STORY
だった。地方には無数の地雷が埋めら
っている。自耕自給農業のほかに仕事の
しかし似ているのはそこまでだ。92年
れている。そしてもっとも恐れられてい
口はほとんどないうえに、とくに首都マ
の包括和平協定の後、モザンビークでは
るのが、どんな田舎の農民でも知ってい
プトなど都市部では貧富の差が激しい。
政治的和解と再定着がすばやくすすみ、
る「エルニーニョ現象」と、それが天候
その費用は国際社会が負担した。しかし
と作物に与える影響だ。
日一食テーブルで食事ができるってこ
とだ」とある労働者は言う。
「でも本当
アンゴラでは、こ
うした盛り上が
りもなければ、
迅速な転換もな
「マプトで金持ちになるってことは、一
にリッチな連中は、ベンツを乗り回し
UNHCRは帰還後の再定着を支援するために、これま
ている。ベンツを1台買う金があれば、
でになく野心的なプロジェクトをスタートさせた。
25人に25年分の給料を払える。
」
かった。拠出国が
多くの難民たちは、帰還に際して、
アンゴラの将来
「神は戦争を起こしたわれわれに怒り、
に懐疑的な目を向けつづけたため、
UNHCRは資金不足で十分な職員を派遣
することができず、難民の帰還にも支
障がでた。現在も大きな政治問題に苦し
洪水で作物に大きな被害が出たテテ
地方では、98年に入って世界食糧計画
罰を下されたのだ」と言った。しかし
最近は、地方部が困難に見舞われても、
(WFP)
が5万6000人分の食糧を支援した。 「神はまだ見放しておられない」と希望
別の地域では、干ばつが大きな問題とな
をもちつづけている。
み、
(おそらくもっとも重要なことに)内
戦も完全には終わっていない。最近も難
民数万人が隣国コンゴに逃げ出してい
るし、政府軍とアンゴラ全面独立民族同
盟(UNITA)の戦闘再燃で、UNHCR職員
は複数のフィールド事務所から撤退を
余儀なくされた。
モザンビーク早わかり
位置:
アフリカ南東部の真ん中あたりに位置す
る。面積は77万9380平方キロ。サバナ
(熱帯草原)地帯、山、自然のままの海岸
に囲まれた国だ。
それでも95∼97年にはアンゴラ難民14
万人が帰還し、UNHCRは一年間、種子、
農具、食糧を供給した。地方農村部全
体の基本的インフラの復旧など、モザ
ンビークで発展した多くの活動はアン
ゴラでも改良されて続けられた。
サクセス・ストーリー
アンゴラが内政問題と格闘する一方
で、モザンビークは目をみはる成功を収
めている。約600万人が再定着をはたし、
歴史:
ポルトガルの植民地だったが、悲惨な解
放闘争を経て1975年に独立。土地は肥沃
だが、いまだに世界最貧国のひとつに数
えられる。
独立直後は社会主義政権だったが、現在
は複数政党制。初の総選挙は1994年に実
施された。
難民:
独立戦争後、大規模な内戦が起きて200
万人ちかくが近隣諸国に流出。国内避難
民も推定400万人うまれた。
人口1650万人。主としてポルトガル語と 帰還:
13種類のアフリカ語(マクア、チュアボ、 19 9 2 年 にモ ザ ン ビ ー ク 解 放 戦 線
ヌヤンジャ、セナ、ロンガ・シャンガナな (FRELIMO)政権とゲリラ組織モザンビ
ーク民族抵抗運動(RENAMO)が和平協
ど)を話す。人口の40%がアフリカの伝
定を締結。以後2年半で170万人が近隣6
か国から帰還。
UNHCRは、40万人ちかい難民 の帰還を
直接支援。モザンビーク国内でも、帰還
民の生活再スタートを助けるために、非
常に野心的な再建計画を実施。推定1億
ドルを投入して食糧、農具、種子を供給
し、道路、学校、井戸、診療所を再建す
る即効プロジェクト(QIPs)をスタート
させた。
百人の難民まで受け入れている。97年の
経済成長率は8%とアフリカ屈指の水準
に達し、さまざまな食糧の自給自足を復
活させた。
しかしこの「奇跡」は、非常に危うい
バランスの上にたっている。目覚まし
UNHCR/R. WILKINSON
い成長を遂げているとはいえ、モザンビ
ークはいまも世界最貧国のひとつだ。
政府は教育を最優先課題に掲げている
が、資金はとぼしく、ある地方では小学
10
政治体制:
国民:
外国(主にアフリカ中部諸国)から年間数
校33校の97年の予算が、わずか300ドル
統宗教を信じ、30%がイスラム教、20%
がカトリック、5%がプロテスタント。
故郷での収穫。
難民
1998年 第5号
モザンビークは現在、世界最貧国のひと
つだが、頼みの綱である農業生産は急速
に上向いており、人口の3分の1以上にの
ぼる戦災避難民の再建計画は、他のどこ
よりも大きな成功を収めている。
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