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その1 - 関東電化工業

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その1 - 関東電化工業
第9章
鉄系事業の展開
1. 鉄系事業の
始と展開
酸化チタン、酸化鉄の研究
今日、鉄系製品、フッ素系製品に代表されるファイン部門の売上げは40%を超
え、収益の源泉となっている。当社が久しく低迷を続けた経営不振を脱して平成
8年(1996)3月期で20年ぶりに復配に漕ぎ着けたのも、
このファイン部門の成長に
よるところが大である。戦後最悪の平成不況が続くなかで、ファイン部門に寄せ
られる期待はますます大きくなっているが、同部門が支柱になるまでに成長を遂
げたのは平成に入ってからであり、試行錯誤と苦闘の歴史のほうが長い。第9章
と第10章は鉄系とフッ素系それぞれの事業の
始から今日に至る流れをまとめて
記述することにする。
そもそも関東電化における鉄系製品の研究は、昭和39年(1964)に新技術開発事業
団から塩素法超微粒子高純度酸化鉄製造の開発研究を受託し、渋川工場の技術開
発チームで取り組んだことに始まっている。研究自体は43年初頭に一応の完成を
み、続いて生産設備の建設計画が立案されたが、当時はフェライト用高純度酸化
鉄の市場がいまだ小さく、企業化は見送ることになった。
他方、三菱化成との提携にともなって、昭和42年9月に中央研究所所長に同社
から山村利夫を迎えたが、その山村が三菱化成時代以来温めていたのが酸化チタ
ンの研究で、所長に就任するとまもなく、渋川工場で副生する塩酸を利用してそ
の事業化をはかるべく、研究陣から主要メンバー1
0人を募ってプロジェクトチー
ムを発足させ、基礎調査がスタート。43年4月から本格的な研究が開始された。
酸化チタンの原料は、鉄とチタンをほぼ等量に含んでいるイルメナイト鉱で、
当時はそれを硫酸で溶かして鉄を硫酸第二鉄にして除去し、酸化チタンをつくる
硫酸法が全盛だったが、副生する硫酸第二鉄が公害問題を惹起していた。これに
1
71
対し、当社では塩酸法をめざした。イルメナイト鉱を塩酸で溶かすと塩化鉄と塩
化チタンが出てくるが、塩化チタンを精製するのに当時としては画期的な溶媒抽
出法を開発する。
これは山村が三菱化成時代に分析技術として進めていた研究を発展させたもの
であるが、44
年4月にはサンプルによる品質評価を依頼するところまで研究が進
んだ。酸化チタンの主用途は塗料原料のチタンホワイトであり、塗料メーカーを
通じてカリフォルニアで耐候試験まで行った。
次いで、中間試験の実施案の策定に入ったが、設備資金が膨大にのぼること、
市場では供給過剰気味という予測から、44年1
1月の常務会で企業化は当面、見送
ることが決定したのである。
ただ、酸化チタンの一方で研究を続けてきた塩化鉄の処理による酸化鉄(および
還元鉄)については、中間試験設備を設置して研究を続けることになった。
森下弁柄工業と提携、日本酸化鉄工業の設立
当社で開発された酸化鉄の製法は、塩化第二鉄液で
鉄を溶解して塩化第一鉄
の溶液とし、これに空気または酸素を吹き込みオキシ水酸化鉄を得る。オキシ水
酸化鉄は取り出したのちに焼成処理して製品となり、残った塩化第二鉄液は再び
鉄と反応して塩化第一鉄となる
というように循環使用され、公害のもととな
る塩化物や塩素が外部に排出されることがない。
当時の一般的な顔料用やフェライト用酸化鉄の製法は、鉄鋼製品の硫酸洗浄の
廃液から硫酸鉄を取り出し、これを焙焼するので、硫黄分が亜硫酸ガスとなって
大気中に飛散するため、廃棄ガス処理などの公害対策が必要となる。当社の製法
はこの点、硫酸鉄を焙焼しない、いわゆる湿式法で、塩酸が循環使用される無公
害の製法だった。
しかも同製法による酸化鉄の純度は99
.9%以上にも達し、それだけの高純度酸
化鉄の用途はコストの問題もあってなかなか見つからなかったが、
昭和4
5年(1970)
4月、たまたま当社研究陣の一人、表 雄一が、顔料酸化鉄の中堅メーカーである
森下弁柄の社長と友人関係にあったことから同社を通じ、日本フェライト(現日立
金属)
にサンプル評価を依頼したところ、高い評価を得ることになった。
こうした経緯で森下弁柄との合弁事業の話が具体化する。同社は大正7年(1918)
1
72
第9章
業の酸化鉄顔料 ベンガラ
鉄系事業の展開 ■
の老舗だったが、酸化チタンの製法が近い将来硫
酸法から塩素法に置き換わり、主原料の硫酸鉄の入手が困難になるのではないか
という不安を抱える一方で、硫酸鉄の公害対策にも苦慮し、当社の無公害湿式法
に期待を寄せていた。他方、当社の高純度酸化鉄の本来の目標は付加価値の高い
高性能フェライト原料にあったが、
当時の需要は月間5
0∼60
トンにすぎなかった。
しかし、コスト競争力の点で月間1
00トンの規模が必要と
えられ、出発当初は
フェライト用6
0トン、顔料用4
0トンの1
00トン設備を森下弁柄の伊賀上野本社工場
内に建設することで基本合意が成立し、4
6年8月、両社の合弁会社として日本酸
化鉄工業(資本金1,000万円、当社800万円、森下弁柄200万円)が設立された。同年1
0月
に工場建設に着手、翌年5月から商業生産を開始した。
だが、フェライト業界の高純度酸化鉄に対する需要は期待したほどに伸びなか
った。AV機器やパソコンなどの電源に、高性能フェライトを使用する高周波トラ
ンスが使われるようになるのは昭和50
年代に入ってからである。技術的には一世
を風靡した高純度酸化鉄ではあったが、結果的に少し早く生まれたキライがあり、
日本酸化鉄の生産は半分以上が販売価格の低い顔料用という状態から3年経って
も抜け出すことができず、赤字が重なり、49
年9月、日本酸化鉄を森下弁柄の子
会社である森下弁柄販売とともに森下弁柄に吸収合併することで合意が成立した
(
昭和50
年1月合併実施)。こうして酸化鉄の事業は生産だけでなく販売、研究開発
を含めて当社の経営指導のもと、森下弁柄に一元化され再スタートすることにな
湿式法高純度酸化鉄製造設備(
日本酸化鉄工業)
1
73
ったのである。
合金粉、γ-酸化鉄の系譜
しかし、その後も研究所では塩化鉄から酸化鉄へ、そしてその酸化鉄の応用に
ついて研究を続けており、そのなかから後述する磁性合金粉(MAP)や複写機用キ
ャリヤー(安定化鉄粉)が生まれ、やがて支柱製品に成長するわけだが、それ以前に
事業化を試みた製品に合金粉とγ酸化鉄がある。
前者は、酸化鉄の用途の一つとして高純度酸化鉄を還元して純鉄をつくる研究
からスタートし、それが種々の金属酸化物の混合やそれらを酸化鉄とともに還元
した合金鉄粉へと発展していったものである。粉末冶金の大手、三菱金属鉱業(現
三菱マテリアル)
の協力を得て研究を進め、昭和48年(1973)6月、同社と共同開発契
約を結び、本格的な開発に着手した。渋川工場に商業規模のプラントが完成した
のが53
年と手間取ったのは、製造方法より用途開発に苦労したためである。
この事業のねらいは、成型加工の難しい超硬製の機械部品や切削工具を、加工
の容易な粉末冶金製に置き換えるところにあったが、すぐれた特質を有するもの
の、コストが高いという欠点があった。が、三菱金属鉱業が自動車用のエンジン
部品(ロッカーアーム)に取りあげてくれることになり、同社向けに合金粉を納める
ことになった。
その後、合金粉には新しい動きがいくつか生まれる。一つは古河グループに復
帰したことから古河電工の目にとまり、工具関係に進出しようという計画がもち
あがった。古河電工と超硬メーカーの冨士ダイスとの共同開発契約を結び、昭和
5
8年7月、合金成型の製造を目的とする100
%子会社のエフ・ケー・ディー・セラ
フライス盤で使用されるKF2
合金製エンドミル
KF2
合金でつくられた工具類
1
74
第9章
鉄系事業の展開 ■
ミックスを渋川工場内に設立、切削工具の製造を始める。そして、その関連で翌
59
年9月には神戸製鋼所とエンドミルの製造で提携し、思い切った展開をはかっ
たが、エンドミル自体コスト競争力の面で問題があることからこの事業は失敗に
終わり、62
年に業務を縮小し、最終的にはエフ・ケー・ディー・セラミックスは
解散する(平成7年10月)。
MAPの尖兵となったγ-酸化鉄
他方、γ-酸化鉄は、酸化鉄の研究の一分野として研究を進めてきたものである。
すでに市場には戸田工業以下先発数社があったが、鉄系事業全体の拡大のために
新規用途の開発が必要として、昭和46年(1971)に開発に着手し、スタート2年後の
48
年には、一部に欠点を指摘されたものの、電磁変換特性は他社以上というテー
プメーカーの評価を得た。次いで、翌年にはその欠点も克服し、一部日立マクセ
ルへの納入も決まった。
ところが、このころになるとテープ用の磁気記録材料は、オーディオ用の高級
γ-酸化鉄はもとより、さらに磁性が強く磁気能力の大きい二酸化クロムや、高級
γ-酸化鉄結晶にコバルトを被着した製品が出まわり、ビデオ用についてもレベル
がはるかに向上していた。テープメーカーの技術的関心は酸化鉄系の磁性材の限
界を飛躍的に超える次世代製品に移っており、酸化鉄系で量的拡大を期すには価
格政策しかなくなっていたのである。
とはいえ、遅ればせながらもγ-酸化鉄に挑戦したことによって、世界で最高水
準にある日本のテープメーカー各社との技術交流が生まれたのであり、世界で初
めてMAP(メタル粉)の商業生産を開く快挙につながったのである。
メタルテープ用磁性粉の量産に先鞭
磁気テープ材料の研究自体は昭和43
年(1968)から44
年ごろから始まっていたが、
そのMAPが研究テーマとして正式に取りあげられたのは49
年2月と記録されてい
る。同年10月には実験室規模で製造試験を開始し、保磁力(Hc)1,
00
0
エルステッド、
)
飽和磁束密度(σs
8
0emu/g程度の第1目標に近づき、5
0年2月には Hc
500
から
1,
20
0エルステッド、σs12
0emu/g程度の試作品をつくり、テープメーカーの評価
を受ける段階までレベルを上げた。
1
75
当時はいまだHc7
00
エルステッド以上の
テープに記録できるだけのハード(テープ
デッキ)が開発されていなかったが、次世
代のテープということでテープメーカー
は関心を示し、積極的にテストを引き受
けてくれた。なかでも日本コロムビアと
日立マクセルの2社からは共同研究の申
し入れを受ける。
磁性合金粉 MAP の結晶
ところで、塗布型磁気テープの特性は、磁性粉の性質によるところが大である。
メタル粉は電気的特性に大きく影響する磁気特性(保磁力、飽和磁束密度)が酸化物
系の磁性粉に比べてきわめて大きい。保磁力(抗磁力ともいう)は、磁性体を磁化す
るときどのくらいの強さの磁力を受け入れられるか、また飽和状態まで磁化され
た場合、それを消去するのにどのくらいの磁力を必要とするのかを示し、単位は
エルステッド(Oe)で表す。飽和磁束密度は最大に磁化された場合の磁束密度で、
単位はemu/gで表す。今日の一般的な磁性体であるγ酸化鉄(オーディオ用)、Coγ
酸化鉄(ビデオ・オーディオ用)、MAP(オーディオ・8ミリビデオ・業務用ビデオ、
データ用テープ、フロッピーディスク用)を比較すると下記のようになる。
磁性体
保磁力(Oe)
飽和磁束密度(emu/g)
γ-酸化鉄
2
00∼45
0
∼75
Coγ-酸化鉄
4
00∼80
0
7
0∼75
MAP
7
00∼2,
500
12
0∼16
0
これらの数値を比較すると、MAPの磁気能力がいかに高いかがわかる。当社は
昭和50
年の時点でオーディオ用のメタル粉を開発していた。これを利用したオー
ディオ用磁気テープの磁気能力は酸化鉄を利用したテープの4倍以上に達してい
たが、当時のテープデッキのヘッドはフェライトもしくは純鉄製であり、それだ
けの高い性能をもつ磁性体に対しては磁力が弱すぎた。新たなヘッド材料として
センダストなどが
えられていたが、非常に脆い金属のため加工上の問題が解決
されていなかった。
そうした情勢から、高性能なテープが使えるハードの開発にはまだ当分かかる
だろうというのが一般的な見方だった。当時の当社経営は、第1次製法転換の中
1
76
第9章
鉄系事業の展開 ■
途で三菱化成との提携が解消され、
古河系列に復帰する一方、カナダ
ドライ・ユニの失敗の後始末が重
なって
迫していた。それだけに、
事業化に見通しのつかない研究開
発がこれ以上、存続できるかどう
かおぼつかない状況に置かれてい
たわけで、研究陣はそうした経営
MAP工場火入れ式(砂川社長)
上の圧力に怯えながらハードの完成を待つ、いわば時間との戦いを続けていた。
ところが、一般の予想より早く、昭和5
3年6月、米3M社から試作品のオーデ
ィオ用メタルテープが発表され、同時に、日本ビクターがセンダストコアヘッド
を使用したメタルポジション対応デッキを発表、オーディオショーに展示し、世
界のオーディオ業界の関心を一身に集めることになったのである。ほどなくして
テープメーカーから当社へ引き合いが殺到する。
当社にとって幸運だったのは、3M社がメタル粉量産の準備をしていなかった
ことである。当社の製品は量産化を
えて開発を進めていたので、直ちにテープ
メーカーの要望に応えることができ、同年9月には月産0
.5
トンの開発設備を設置、
10
月には月産7トンに増設したのであった。
かくしてメタルテープ用磁性合金粉の実質的な量産は、当社渋川工場が世界に
先鞭をつけたのである。
キャリヤーの企業化
時を同じくして、世界で初めてMAPの商業生産に踏み出した昭和53年(1978)は、
鉄系のもう一つの柱に成長するキャリヤーが本格生産を始めた年でもある。
キャリヤーのそもそもの出発点は、三菱化成との提携に始まっている。昭和40
年代後半、三菱化成は新規事業分野をさまざまに探っていて、その一つがトナー
やPS板 などの情報機材であったが、当社が上述のように、酸化鉄を水素還元した
鉄粉などをもっていたことから、キャリヤーの開発を勧められ、48年4月、三菱
化成のトナー事業との連携により2年間の共同開発契約を結び、研究がスタート
した。
1
77
手がけたのは2成分系乾式複写機の内部に装塡され、トナーを帯電作用により
感光体の上に運び、静電画像を実像にするための現像材料の一つである。開発当
初は鉄粉を静電気を保持するように加工していたので、社内では
安定化鉄粉
と呼んでいたが、開発が進むにつれて鉄以外の素材も使用するようになったので、
トナーを運ぶ機能面から業界で一般に使われていた
キャリヤー
という呼称に
改めたのであった。
年にゼロックスの特許が切れたのを契機に各社が
PPC(乾式普通紙コピー)は、46
いっせいに乗り出したが、U-Bi
xの小西六写真工業(現コニカ)に三菱化成がトナー
を納入していた関係で小西六にキャリヤーを売り込むことになり、研究を開始し
てほどない48
年5月には早くも同社にサンプルを提出するという迅速果断な立ち
あがりをみせたのであった。月末には5,
000
枚の耐久テストに合格している。
しかし、その後次々とテストが繰り返され、1万枚以上のテストもクリアする
ところまではきわめて順調に推移したが、4
9年11
月の最終テストでは他社製品に
敗れ、最初の挑戦は苦い結果に終わったのである。そうこうするうちに三菱化成
との提携解消という事態を迎え、5
0年3月、いったんは開発中止となる。
そこで、しばらくは独自の市場開発を進めることにし、50年6月にキヤノンに
サンプルを提出する機会をつかみ、直ちに研究を再開したが、三菱化成との提携
解消は研究所の体制にも少なからず影響をもたらした。すなわち、同社との提携
以来、鉄系製品に偏っていたのを是正する方向に働き、そのあおりを受けてキャ
リヤーの陣容も削減され、非常に厳しい状態に置かれることになったのである。
チャンスをつかんだキヤノンへのサンプル提出は、実験室規模より一歩進んだと
ころまで漕ぎ着けたが、採用にまで至らなかった。
ところで、キャリヤーはトナーとの組み合わせで総合的に評価を受ける商品の
ため、当然のことではあるがトナーメーカーは各社のキャリヤーとの組み合わせ
を行っている。同様に、当社にしても三菱化成以外のトナーメーカーとの組み合
わせを行わなければ、厳しい開発競争に生き残ることは難しい。そこで独自のサ
ンプルワークができるよう三菱化成に申し入れ、共同開発契約が更新された51年
4月以降はフリーの開発ができるようになったのである。
とはいうものの、開発陣を取りまく環境はますます厳しくなった。人員が削減
されただけでなく、撤収を促す声も聞かれるようになったからである。しかし、
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