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第 回在南米被爆者健診報告 - 一般社団法人広島県医師会

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第 回在南米被爆者健診報告 - 一般社団法人広島県医師会
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
第 回在南米被爆者健診報告
(その
)
絆を求めて -“平和”という名のついた市、ラ・パス-
広島県医師会常任理事 有 田 健 一
年前に渡ったパラナ河にかかる国境の橋は、
やはり混雑していた。車の後ろに残るアルゼン
チン側の街ポサダスには高層ビルが立ち並ぶが、
前に近づくパラグアイ側の町エンカルナシオン
に高いビルはない(図 )。約 娃に及ぶ橋の真
ん中あたりから、国境を越える多くの二輪車・
四輪車が数珠つなぎに並んでいる。ガソリンが
切れたのか、あるいは無駄使いを避けるためな
のか、エンジンの止まった車を何人かで押して
進む者も少なくない。そんな連中の中に、今日
の空のような青い色のTシャツを着た若者が、
年配の男と並んで普通車を押す姿が目に止まっ
た。Tシャツの背中に白字で“レトロな味わい”
と日本語の文字が染め抜かれ、しかも押してい
る車の後ろに“高圧ガス”と書いた日本語の黄
色いステッカーが貼ってあったからである。初
夏のジリジリとした日差しである。
「日本では高
圧ガスの運搬用に使われていた車なのでしょう。
日本の中古車がそのままの形で着いた後、チリ
でハンドルを左に付け替えて入って来ますから」
ガイドの高橋さんが笑いながら言う。高橋さん
とは 年ぶりの再会をポサダス空港で果たした
ばかりである。“レトロな味わい”に苦笑し、
「と言うよりもレトロな車だ」と心の中で呟いて
いる間に僕たちの車は国境の橋を渡り終え、窓
際にパラグアイの入国管理官が近寄ってきた。
運転手は知り合いなのだろう、笑顔で言葉を交
わしながら指示に従って車を止め、みんなのパ
スポートを集めた高橋さんは車を離れて事務所
風の建物に姿を消した。しばらくして戻ってき
図 車窓から見たパラナ河の右岸に広がる
ポサダス市(アルゼンチン共和国)の風景
た高橋さんから渡されたパスポートには、国名
以外はつぶれて読めない入国許可の印が押され、
そのそばには穴埋めするように今日の日付けが
ボールペンで書き添えられていた。こうして緊
張の中にも無事国境を通過し、僕たち第 班健
診団は再び“赤い土の国、パラグアイ”に帰っ
てきたのである。
「一昨日大統領令が出て、サマータイムが始ま
りました。ですから時間は 時間進んでアルゼ
ンチンとの時差はなくなりました」、「この国で
はサマータイムをいつ始めるか、いつ終わるか
は大統領の思いつきのようなものです」国情を
皮肉る高橋さんの言葉を聞きながら、僕たちは
それぞれ時計の針に目を落とした。車が走るエ
ンカルナシオンは坂の町である。市の中心部に
向かう舗装道路にはしばしばバンプ(盛り土)
が作られ、そのたびにスピードを落とす車の中
で、乗客の僕たちは足を踏ん張って身体を支え
るのだった。露店が点々と立ち並ぶ坂道を少し
登って、道なりに右にカーブを切ったところに
僕たちのホテルは建っていた。赤・白・青のパ
ラグアイ国旗が風に揺れて、裏のプールからは
子供たちの歓声が漏れてくる。 泊する部屋は
階の奥で、空色の壁紙と同じ色のベッドカ
バーで統一され、シャワーのみでバスタブはな
かった。ベッドに横になると急に時差ボケが眠
気を運び、テレビから流れるスペイン語は子守
歌のようだった。睡魔を払い落すつもりでチャ
ンネルを回していた僕は、サッカー番組の谷間
でNHKBS放送の日本語に行き着いた。地球
の裏側でも日本のニュースはリアルタイムで
あった。
午後 時、同行の 人と夕食を食べに町に出
た。
「バイキング式のレストランですからスペイ
ン語がわからなくても大丈夫ですよ」と高橋さ
んが教えてくれたレストランはすぐ見つかった
が、僕たち以外に客の姿はない。座ろうとする
と店主がすまなさそうに何か語りかけてくる。
スペイン語はまったく分からない僕たちである。
“わからなくてもバイキング式なら大丈夫だ”と
思ってみても、客のいない、そして言葉が通じ
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
ないレストランの席に着くのは身も心も不安定
そのもので、つい周囲を見回すのだった。後か
ら得た情報では、平日であってもこの国の夕食
は午後 時半くらいから始まるのが普通で、
~ 時間かけてゆっくり食事を楽しむらしい。
どうも店主は食事の準備がまだ十分できていな
いということを言いたかったようだ。実際、こ
のレストランに他の客が入り始めたのは午後
時すぎからで、ほとんどが家族づれであった。
徐々に用意が整ったバイキング料理にはパスタ、
焼き飯、焼き肉、煮込み肉、温野菜、サラダ、
デザートなどが豊富に並んだ。現地のビールで
乾杯を叫んで、その自分たちの声でやっと落ち
着きを取り戻した僕たちだった。店員が脚立に
上がってテレビのスイッチを入れると、ピッチ
を走るサッカー選手の裏から興奮したアナウン
サーの怒涛のようなスペイン語があふれ出て、
レストラン内は急ににぎやかになった。明日か
らの健診のことやパラグアイ料理のことを話題
に、ゆっくり食べようと試みた 人だったが、
時間でみんな満腹になってしまった。支払い
は成田空港で僕たちの拠出金の管理を押しつけ
られた広島市職員の飯冨さんの出番である。
人合わせて 万グアラニーほどの勘定を米国ド
ルに直して(通貨グアラニーは 米国ドルが
, グアラニー相当)渡すと、店主の顔からは
お愛想笑いが漏れ、そして大きなお礼の言葉が
飛び出した。僕たち“スペイン語を理解できな
い 人組”はビールの勢いを借りながら、口々
に抑揚をつけて「Gr
ac
i
as
(グラシアス)
」と答
え、僕はさらにオペラ風に「おいしかったー」
と日本語で続けたのだった
翌朝は午前 時に高橋さんの迎えを受け、健
診会場である日本人入植地“ラ・パス”移住地
に向けて車で出発した。被爆者は 名と少ない
ものの、ここまで 日以上を要して到着した僕
たち第 班健診団にとっては、最初の健診会場
が用意されているはずである。車中は言葉少な
く、団員はそれぞれ気を張った緊張の中にいた。
ラ・パスまでの道沿いはちょうど小麦の収穫時
期でコンバインが動き、収穫の後の農地には間
をおくことなく大豆の種まきが行われていた。
大地に土埃をのこしながら直線道路を疾走した
僕たちは、二股分岐点に立つ“ラ・パス”の立
て看板を見つけて車を止めるように運転手に頼
んだ。土の感触を確かめ、大きく息をしながら
この大地に広がる空気に触れる新鮮さを味わう
僕たちを写したのが図 である。 年ぶりの
ラ・パスは相変わらずきれいに整った町並みで
号)
年(平成
年) 月
日( )
図 ラ・パス移住地への入り口に立つ看板の前で
右から筆者、山脇氏、飯冨氏、糸永医師
あった。なつかしく見覚えのある農協や市役所
を車窓に見て、高台にあるラ・パス診療所に到
着したのは 時半を過ぎていた(図 )。診療所
の裏の洗濯物が翻る職員住宅風景は、周囲に山
がない点を除けばかつて研修医を終えてすぐ赴
任した島根県の国立病院官舎を思い出す雰囲気
で、僕にとっては 年の時間を遡るような光景
だった。 図 ラパス診療所前で
右から糸永医師、筆者、羽田医師ご夫妻
年前にお世話になった佐藤先生はすでに職
を離れ、新たに羽田先生ご夫妻が赴任されてい
た。ご主人の羽田医師はこの地で生まれた 歳
代前半の産婦人科医で、北海道からの転勤で
あった。
「子供の教育が必要になるまではここで
暮らすつもりです。家内には迷惑をかけていま
す」とそばの奥様と目を合わせ、そして頭をか
くのだった。笑顔で答える奥様は小児科医で、
人の子供の世話をしながら診療も行っている。
ご夫妻のこの地での医療活動には「政治家と外
交官の手を煩わした」と苦笑いする羽田医師で
あったが、彼がこの地で生まれたという経歴が、
日本の医師免許のまま働くことが許された最大
のキーポイントだったようだ。「この地にとっ
ては先生は願ってもない存在だったということ
ですね」初対面にもかかわらず素直に感想を述
べる僕たちだった。
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
この 年間に診療所にはリハビリ施設が新設
され、デイケアも始まっていた(図 )。
図
診療所に併設された“ラパス機能回復センター”
臨床検査もCEAを含めて臨床上困らないほ
どに充実したものであった。薬局には必要と思
われる薬はほとんど揃えてあった。しかも病院
の受付には事務員と看護師が合わせて 人待機
していたし、臨床検査技師、デイケア担当の
ソーシャルワーカー、薬局の薬剤師など病院関
連職員も充実していた(図 )。
号)
昭和
年
月
日 第
僕たちの来院に備えて用意された診察室は、
羽田医師が平素使用する院長室だった。机を挟
んで待機していた僕たちの前に、帽子を取りな
がら入ってきたのは以前に広島県人会の会長も
務めたことのある 年ぶりのUさんだった。話
好きのUさんは移住直前の広島の様子、毎日
ジャングルと格闘した仲間たちのこと、病気に
なってもただ祈るだけだったかつての不安な
日々、被爆から今日までの道程を語り続けるの
だった。熱い広島弁であった。生活が少しずつ
落ち着いてからは、飛躍を求めて養蚕に手を伸
ばしたものの軌道に乗らなかったという。しか
し彼のそばにいた女神は“遺伝子組み換えの大
豆”を与えることで彼の苦労に報いたらしい。
「あれは当たりました」日焼けした顔が自慢げに
揺れた。話を聞き、身体に触れ、原爆手当など
行政相談にあたる中で、僕たちはUさんの健診
結果に徐々に安堵感を覚えていた(図 、図
)。その空気のゆるみを感じたのだろう。「農
業で競争しなければならないのに、今の若い者
は協同してやることについてこない」とUさん
の話も日頃の思いに広がって一層なめらかにな
り、最後には「首都のアスンションにある大統
領府で娘が働いている」とメガネの奥の目を細
くするのだった。前回の来訪時にも彼が一番強
調した話題であったが、彼が長くこの地で働い
てきた最大の願いが、子供たちの成長と社会で
の彼らの成功だったことが明らかだった。
図 診療所内の受付前で
右から糸永医師、羽田医師ご夫妻、筆者
手術室の前では「今週の終りにここで初めて
卵巣腫瘍の手術を計画しています」と語る羽田
医師に「経営的にはどうですか」と僕は疑問を
口にした。振り返った羽田医師は、
「ほとんどの
ものはJICAの支援でそろえることができて
いますが、JICAも開拓地支援事業からは撤
退を決めて、アフリカを中心とした現地支援に
切り替えてきていますので、なかなかやりくり
がつかなくなりつつあります」と深刻ぶること
なく答えたのだが、この 年間の目玉事業でも
あるデイケアに話が及んだ時には、
「ソーシャル
ワーカーの人件費が今年で切られるので、来年
からはデイケア担当者がいないのです」と人の
やりくりの必要性を語り、
「僕のやっている診療
所長職も子供が大きくなれば帰国するつもりで
すから、後続の医師が見つかるかどうか…」と
言葉を飲み込むのだった。
種郵便物承認
図
健診風景
図
健診風景 原爆認定について話す
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
しばらくして次にうつむき加減に入ってきた被
爆者のGさんは、軽く会釈して丸椅子に座り、
遠来の僕たちにまずいたわりの言葉をかけてくれ
た。
年に入植し、ジャングルを切り開く夫
とともに子供の成長を楽しみに頑張ってきたとい
う。半年前にその主人を亡くして未亡人となっ
たものの、
「今から何がしたいの」と問うとすか
さず「旅行がしたい」と笑いながら言う。
「私に
とっては家族が心の支えなんよ」長崎から参加
した糸永医師とともにGさんの思いを傾聴する。
付き添う息子さんは現地の女性と結婚して、ここ
ラ・パスで農業に従事していた。「血圧が高い
よ」と指摘する僕に、息子さんと顔を見合わせる
Gさん。口数は少ないが、今日までの風雪を乗り
越えてきた経験は、彼女の生きざまに自信を与え
ているように見えた。広島県から派遣の山脇さん
はカルテと検査所見のコピーに走り、飯冨さん
は健康管理手当の確認を行い、診察を終えた僕
は徐々に周りの空気が和らぐのを感じていた。
「ご苦労さまです。マテ茶を持ってきましたか
ら一緒に飲みませんか。」Gさんの息子が声をか
けてくれたのは健診団の動きが一段落した時
だった。皮で包んだ金属製の容器には黄緑色の
マテ茶が入れてあり、持参のポットからお湯を
注いで僕に差し出してくれたのだ。お茶の中に
は金属の管が差し込んであり、吸い口側は少し
S字型に曲がっている。これを吸ってお茶を飲
むのだが、お茶に浸る側はアヒルのくちばしの
ように平たい半円板状で、ここに小さな穴がた
くさん開いている。お茶だけが飲めるように葉
を除く工夫とみえた。勝手がわからず恐る恐る
試飲したにもかかわらず、吸う力が強すぎて口
に広がるお茶のあまりの熱さに、僕は素っ頓狂
な声を出してしまった(図 )。周りから笑いが
起こった。僕もつられて口を尖らせて笑った。
図
みんなでマテ茶
を回し飲みする
マ
穏やかでゆっく
テ
茶
りとした時間で
を
楽
あった。
し
む
昼食は広島県
筆
者
人会による手作
りの日本料理が
用意された。会
長の河野さんの
音頭で 年ぶり
の再会を喜び合
いながらビール
に口をつけた。
号)
年(平成
年) 月
日( )
「懐かしいですな。よう、来てくれました」 年
前に自宅を訪問させてもらった藤井さんも笑顔
で席についていた。平和市長会議への参加を呼
び掛ける秋葉広島市長からラ・パス市長に宛て
たメッセージが飯冨さんによって前市長の宮里
さんに手渡された。宮里さんは 期連続市長に
はなれないという規則のために今はその職にな
いが、現職のラ・パス市長にこのメッセージを
渡してくれることと、周囲の市の長にもこの手
紙の趣旨を呼び掛けると約束してくれた。
午後からは農協の組合長である後藤さんや宮
里さんの案内でラ・パス移住地内の施設を回っ
た(図 )。
図
赤い土のラパス移住地。遠方に製粉工場が見える
「検診に来ていただいてみんな感謝しています
よ」と言いながら収穫した小麦の製粉工場を歩
く後藤さん。 年前に当時の組合長の河野さん
が案内してくれたあの工場である。
「Gさんのご
主人が亡くなってこの地の被爆者は 人になっ
てしまいました。みんな高齢化していますから
そのうち被爆者はいなくなり、この健診団も来
なくなるでしょう。僕にしても広島の親戚はい
とこだけになってしまいました。お互いいとこ
世代の関係になると縁が遠くなるものです。で
すから健診団が来なくなれば県人会組織でもな
いと広島とのつながりはなくなってしまうんで
すよ」と説明しながら「県人会にも若い人に
入ってもらうメリットが必要ということで、希
望があれば広島へ勉強に行かせるコースを用意
しているのですが、子供たちには積極的にぶつ
かっていって自分の能力を磨こうとする姿勢が
徐々に薄らいでいましてね」と残念がる。
「私ら
の世代がここまでしたのですから、これをどの
ようにしていくかは今後の若い者の考え方とそ
の努力にかかっています」突き放すような話し
方は後藤さんの特徴で、しかしその言葉の中に
彼の苦悩と希望が見え隠れするのだった。
そんなこともあって、宮里さんの勧めで高校
生の授業を参観することになった(図 )。
( )
図
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
熱気溢れる高校生の教室
図
「こんにちは、日本から来ました」日本語で言
うと子供たちからは歓声が上がり、みんなには
やされた日系人の子供がオズオズと立って僕の
あいさつをスペイン語に訳してくれるのだった。
生徒の中には乳飲み子を抱えた現地人の子供も
見える。 ヵ月前に生んだと言う。教室は湧き
かえり、「広島は、日本は、どんなところか」
「何しに来たのか」など日系人の子供を通訳に、
目を輝かせていろいろ聞いてくる。
“外国に行っ
て自国を振り返り、異なる考え方に触れること
は若い時ほど大切だ”と後藤さんと話し合った
直後だったこともあって、「志を立てて日本に
来て下さい」と言って教室を辞したのだが、背
後では大きな拍手と歓声が再び起こった。羽田
先生によれば“ストばかりやる教師の国”なの
だそうだが、子供たちの目はキラキラ輝いてい
た。
エンカルナシオンにある夜間大学に通う 人
の女性を同乗させて、僕たちの車は午後 時に
ラ・パス移住地を後にした。赤い土埃があがっ
た。長い一日であった。現地の人も訪問した僕
たちも、それぞれが自分の気持ちを“故郷”に
結び付けた一日だった。多くの同胞が大変な努
力で今日のラ・パス移住地を作り上げ(図 )、
子供たちに後を託そうとしていた。もちろんそ
こには今後に続く国作りや人作りの中で世代間
の距離や人種間の距離など折り合いをつけなけ
ればならない課題や、JICAが手を引いた後
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
ラパス入植記念碑
の医療レベルの維持など難題も多い。僕は心か
ら彼らの希望に満ちた幸せと安息な日々を祈っ
た。地平線には大きな太陽が沈み、黄金色に輝
く光が天に伸び、赤紫の空に溶け込んでいた。
車の揺れの中で僕の夢に出てきたのは、勤勉さ
を押し立てて前に進もうとするラ・パス移住地
の人たちの笑顔だった。
平成 年度在南米被爆者健康相談等事業派遣
団第 班は、平成 年 月 日から 月 日ま
で、南米 ヵ国(アルゼンチン共和国、パラグ
アイ共和国、ブラジル連邦共和国、ペルー共和
国)を訪問した。パラグアイ共和国へは同年
月 日~ 月 日まで滞在した。検診団の構成
は次の通りである。
有田健一:広島赤十字・原爆病院呼吸器科部
長、広島県医師会常任理事
糸永英弘:長崎大学大学院医歯薬総合研究科医師
山脇 明:広島県健康福祉局総務管理部被爆者
対策課主任主査
飯冨真治:広島市健康福祉局原爆被害対策部援
護課認定担当課長
平成 年 月 日、宮里氏に手渡されたメッ
セージに呼応してラ・パス市を含む 市から平
和市長会議加盟申請書が届いた。これに対して
同年 月 日、広島赤十字・原爆病院の患者慰
問に来訪された秋葉広島市長からお礼の言葉を
いただいた。
税務相談室・融資相談室のご案内
本会の福祉活動の一環として、
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『税務相談室』
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と き 平成 年 月 日昭、 日昭、 日昭
午後 時~午後 時( 人 時間程度)
ところ 広島医師会館内 階会議室
担当者 中国税理士会 広島県支部派遣税理士
米今 喜作 清水 弘司
記
『融資相談室』
※新規開業、事業拡張、事業承継などについて
と き 平成 年 月 日昭
午後 時~午後 時( 人 時間程度)
ところ 広島医師会館内 階会議室
担当者 金融機関 金融サービス(医療専門チーム)担当者
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広島市西区観音本町 ‐ ‐ 広島県医師会経理課 TEL ‐ ‐
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