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(IPPNW)世界大会 被爆医師の証言
昭和 年 月 日 第 第 種郵便物承認 広島県医師会速報(第 号) 年(平成 年) 月 日( ) 回核戦争防止国際医師会議(I PPNW)世界大会 被爆医師の証言 第 回核戦争防止国際医師会議(I PPNW)世界大会が「ヒロシマから未来の世代へ」の テーマのもと、平成 年 月 日晶~ 日掌の 日間、広島国際会議場で開催された。初日は 開会式、基調講演に引き続き、小田徹也医師と木村進匡医師による「被爆医師の証言」が行 われ、小田医師は、軍医としての原爆投下直後の救護活動、木村医師は、広島に育ち、広島 で開業した医師としての被爆時と被爆後の経験を語った。 座長:柳田 実郎 (I PPNW国際副評議員、 広島県医師会常任理事) 本日は、皆さまお疲れの中、た くさんの方にお集まりいただき、 ありがとうございます。 「被爆医師 の証言」のセッションを始めさせていただきます。 皆さまの中にも被爆者がいらっしゃるかも知 れません。私の両親も祖父母も被爆者でしたが、 すでに 人とも亡くなっています。被爆者の方も どんどん亡くなられて、被爆の証言ができる方 もだんだん少なくなっています。特に医師であ り被爆者であるという方は本当に少なくなって います。I PPNW世界大会のメイン会場で、この ような証言を聞くのはこれで最後かもしれない という気もしております。 本日は 名の医師に講演をお願いしています。 まず、お一人目は小田徹也先生です。小田先生 はあと 日で 歳になられます。小田先生は広 島への原爆投下当時、広島近郊の呉市で若手の 外科医をされていました。被爆直後の広島へ医 師として赴き、被爆者を救護されたという経験 をお持ちです。先生はその後大阪に帰られ、 I PPNW大阪府支部の立ち上げ当時からリーダー として今日まで活躍してこられました。 原爆被爆者救援体験から I PPNW大阪府支部名誉支部長 小田 徹也 ご紹介ありがとうございます。 I PPNW大阪府支部の小田徹也で ございます。今日は大変素晴ら しい会で被爆救援体験をお話しさせていただき 光栄に存じます。 お話をする前に、今回の東日本大震災および 福島の原発事故で被害を受けられた皆さまの早 期の回復を心から祈っております。ここにい らっしゃる皆さまも同じ気持ちだと思います。 私の軍医歴 私は、昭和 年に大学を仮卒業し、同年 月 日に横須賀の戸塚海軍軍医学校に入校しました。 月 日に九州から上京した時に新宿大空襲があ り、その時は松原にいましたが、非常に震えあ がって防空壕に入っておりました。その後、海 軍軍医学校に入り、 月 日から 月末までの ヵ 月間、海軍軍医としての躾教育を受け、日々、 負傷者の治療に努めておりました。 月 日に呉 海軍病院に着任しましたが、来る日も来る日も 艦載機の襲撃を受けており、朝 時半くらいにな ると空襲警報が出て、それに対応して自分の持 ち場に行っておりました。 ある時、呉海軍病院の山手にあった機銃の銃 座で士官が負傷したので救護に行って来いとい うことで、私も恐る恐るそこに出かけて行きま した。そこで、操縦士の顔が分かるくらいにま で急降下をした艦載機の機銃掃射を受け、本当 に怖くて震えあがりました。 その後、呉海軍病院で一生懸命勉強しながら、 空襲で負傷した方の治療に専念しておりました。 朝 時ごろまでは空襲のため外に出られません が、その後は多くの負傷者が呉海軍病院に大挙 して押し寄せました。治療前に、今日手術が必 要な者は病院に残す、後は分院の方に送るとい うように、負傷者の選別をしていました。午後 ( ) 年(平成 年) 月 日 広島県医師会速報(第 から手術に入り、夜半まで続くこともあり、手 術を済ませてやっと宿舎に帰り、睡眠をとると いう毎日でした。 月 日から 日まではほとんど空襲がありませ んでした。艦載機の空襲がぱっと途絶えたので、 のんびりと治療に専念しておりました。呉の海 軍病院は空襲のため、病室を隧道に移しており ましたが、月 日の 時 分、そこに向かう軍医 官 、人が外に出た瞬間、原爆の爆発というか、 閃光を感じたのです。今思い出すと、閃光は白 く強烈な光の中にやや黄色が入っていたと記憶 しています。異常な爆風だったため、外に出た 軍医官全員がすくみあがり、これは何ごとだと 思っていた途端に、すごい爆風を食らったわけ です。爆心から kmあったので、窓ガラスは割 れる心配はありませんでしたが、とにかくすご い爆風を肌で感じました。 月 日の 時 分の原爆投下時、私も隧道に行 き、一般外科患者の治療に当たりました。そし て、 時半ごろ外に出た時、あの有名なキノコ雲 を空に見て、すくみあがってびっくりしたわけ です。しばらくすると、病院長名で「広島に原 子爆弾が投下された。救援隊募集」とアナウン スが流れたので、私は真っ先に「参加させて下 さい」と原爆の恐ろしさをまったく知らずに申 し込んだら、すぐに許可がおりました。 広島原爆被災救援活動 日の朝、 時ごろから多くの衛生材料やテン トを積み込み、その荷物の上に乗って広島に向 かいました。広島に向かう途中、非常に黒っぽ い衣服を着た数人の塊が三三五五、呉の方に向 かっているのが見えましたが、それは後で考え ると、被爆者の集団でした。非常に天気の良い 日で、これが平和だったらなあとトラックの上 で考えながら進みましたが、海田市まで来ると、 家の塀や家屋がみんな同じ方向に吹き倒れてお り、これはすごいことだとすくみあがりました。 広島に着いても道がバラバラになっておりまし たので、市内にはもちろん入れず、やむを得ず 今の広島駅の裏側にあった陸軍の練兵場の近く に救護所を開設しました。 救護所を開設してしばらくすると、軍人、一 般市民で歩ける方々が、まるで砂糖にたかる蟻 のようにぞろぞろと救護所へ向かって列をなし てきました。救護所に来た負傷者には住所、氏 名を聞いた後、火傷の治療をしました。火傷の 多くは体の片側で、前面または後面、右または 左でした。どうしても帰れない負傷者は、戸板 号) 昭和 年 月 日 第 種郵便物承認 の上に毛布をひいて寝かせました。しかし、今 考えてみると全身治療はまったくできず、火傷 の治療ということで寝かせるだけでした。 ご存知のように、火傷は脱水が非常に激しく、 今でも「軍医さん水!」という声が耳に残って います。私たちは自分用の水筒を肩から掛けて 走り回って仕事をしていましたが、自分用の水 を飲ませても、そのまま亡くなっていたという こともありました。失明した挺身隊の若い女性 が友だちと一緒に救護所に来て火傷の治療をし ました。翌日、彼女のお母さんが訪ねて来て、 親子は面会ができましたが、女性にはお母さん の顔が見えません。私たち、 、歳の若い軍医ら は非常につらい思いでした。翌日、その女性も 亡くなってしまいました。 広島にいつまで滞在したかは記憶にないので すが、小倉から来た衛生部隊に救護所を譲り、 呉に帰ったのがおそらく 月 日ごろだったと思 います。呉に帰って、救援活動を省みるに、根 本治療は全然できていませんでした。チンク油 を塗り、ガーゼを当てるだけという火傷の治療 しかできなかったのが、いまだに非常に残念に 思います。 呉海軍病院から大竹潜水艦衛生研究所へ 月 日か 日に呉に帰り、すぐ救護に出務 した方の白血球を測定しましたが、全員、白血 球が減少していたのがいまだに印象に残ってい ます。非常に忙しい毎日でしたが、 月 日ごろ には大竹の潜水艦衛生研究所に赴任になり、月 日の詔勅の発表は大竹の海兵団の庭で聞きま した。 その後、 月 日まで毎日、大竹、宮島、己 斐の国民学校の講堂に収容されていた被爆者の 救援に回りました。何の傷もない一見元気なお 嬢さんがいた場所が、翌日には空いていること がありました。「どうした」と聞いたら、「昨夜 亡くなりました」ということでした。このよう な被爆者に対するいろいろな体験が被爆者医療 の参考となり、いろいろなことを考え、そして 応用してきました。 長崎被爆者の血漿分析 月 日に大竹から九州の大学に帰り、月の初 めから長崎の被爆者の血漿蛋白の分析をしまし た。当時、物資のない時、窒素分析から蛋白を 計算してキエルダール法でAG比を算出しまし た。 月の学内学会でAG比の大きな変化につい て発表しましたが、データはすべてGHQに持っ 昭和 年 月 日 第 種郵便物承認 広島県医師会速報(第 て行かれてしまいました。まったく手元にデー タが残らず、非常に精神的なダメージを受け、 それ以来、原爆のことについては一言も語りま せんでした。 号) 年(平成 年) 月 日( ) 経験は、私の一生の中で大変名誉なことだと感 謝いたします。今回お話をさせていただき、貴 重なお耳を拝借し、どうもありがとうございま した。 被爆によるケロイド治療チームに参加 昭和 年から大阪の厚生年金病院に勤務しま した。整形外科が主体の病院で、昭和 年ごろ、 広島の製菓工場の女工さんたち 名くらいがケ ロイドの治療に来阪しました。大変なケロイド で、私も治療チームに入りいろいろ調べました が、血液分析まで思いが至らず、今から考える と非常に貴重な機会を逸したと残念に思います。 そのくらい、GHQにデータを全部持って行かれ たことがこたえていました。 ! (スライド ) (スライド ) (スライド ) I PPNWについて I PPNWの誕生については、よくご存知のよう に、 年(昭和 年)にバーナード・ラウン 博士(米国)とエフゲニー・チャゾフ博士(ソ 連)がスイスの循環器外科学会で出会い、核兵 器 と い う の は 大 変 な も の だ と い う こ と で、 I PPNWの設立が計画されたわけです。核の冬と いうことで、原爆が爆発したら地球が破滅する 状況になるという映像がNHKでも盛んに放映さ れました。そして 年にI PPNWがノーベル平 和賞を受賞したのです。 私も、被爆者救援を経て、その後はI PPNWの 活動に全面的に協力しました。特に、ノーベル 平和賞を受けた時は、私は手術に入っておりま したが、その手術の手をおろして新聞社のイン タビューに応じ、また手を洗って手術場に入っ たのを思い出します。その後は大阪で大阪府支 部長として長年I PPNW活動に力を注いできまし た。 さて、I PPNWの会議は世界大会と地域会議の 本立てとなっています。地域会議に関しては、 私は、ソウルで開催された第 回アジア太平洋地 域会議から参加しています。私が参加した会議 は米印(※)を付けていますが、 年 月の広 島での第 回南北アジア合同地域会議まで参加さ せていただきました。 世界大会は昭和 年に第 回が開催されました が、私はモントリオールで行われた第 回大会か ら出席し、 年の広島の第 回大会でも救援の 活動について簡単にお話しました。第 回のイ ンド・ニューデリー大会まで出席しており、今 回、 年の第 回大会で、生で被爆者の治療 をしたという救援体験をお話するという貴重な 柳田実郎:小田先生は広島での救援活動当時は 歳で医師になりたてでしたが、その方が現在 歳という現実でございます。小田先生は最近 体調を崩されましたが、今日の会のためにしっ かりと体調を整えてご講演下さいました。 引き続き、人目の講師を紹介させていただき ます。次のスピーカーは木村進匡先生でござい ます。木村先生は現在 歳におなりです。 歳の 時に爆心地から mという非常に至近距離で被 爆され、大部分の方は即死という距離ではあり ましたが、九死に一生を得てなんとか生き延び ( ) 年(平成 年) 月 日 広島県医師会速報(第 られました。しかし、急性放射線障害の症状を 多く経験され、それもなんとか乗り越えられ、 後に精神科医として活躍されています。I PPNW の立ち上げ以降、日本支部そして広島県支部の リーダーとしてわれわれを叱咤激励してこられ ました。 被爆医師の証言:ヒロシマのこころ、 私の経験 I PPNW日本支部理事 木村 進匡 本日、このような貴重な発言 時間を与えてくださいました本 大会会長平松恵一先生、また座 長をしていただく柳田実郎先生 にも感謝します。 私たち日本人が広島・長崎で 年に経験し た、核兵器による被爆経験を語ることは、大変 語りにくいことです。「語りたくない、語れな い。されど語らねばならない」心境であること がお分かりになるでしょうか。心の奥深くに心 的外傷の傷跡を残し、いまや身体的には癌をは じめとする後障害に罹患するのではないかと、 毎日不安を持って生活しているのです。私は、 年に広島で生まれて、広島で 歳の時に原子 爆弾に被爆し、広島で医師として働いてきまし た。 年前に十二指腸乳頭部癌になりましたが、 歳の現在もあちこちの体の不調を訴えながら も診療を続けています。被爆を経験して見聞き した私には、こころの傷として今も、記憶に鮮 明に残り、無意識の中で、私のその後の行動の 原動力となっています。 私が経験し、私の目から見た多くの研究結果 についてお話するのが、核戦争の危険性を理解 していただくには最も分かりやすいと考え、気 が進まないのですが、敢えてお話します。 広島・長崎の原子爆弾は、現在では極めて小 さな核兵器ですが、熱線による熱傷、爆風によ る外傷、放射線による急性症状は悲惨なもので す。核兵器は、熱傷、外傷、初期放射線障害と ともに、遺伝子に影響を与え、その後は人体と ともに、自然界に多大な影響を起こします。と りわけ放射線は、被曝後長期にわたって人体に 影響を与え続け、種々の臓器に腫瘍や機能異常 をもたらしています。化学兵器や生物兵器とと もに核兵器は大量破壊兵器とくくられています が、長期にわたり人体をはじめ、自然界に多大 の障害を来たす核兵器の特異性にはぜひ注目し 号) 昭和 年 月 日 第 種郵便物承認 ていただきたいと思います。 また一人の殺人事件でも、そのショックは社 会面をにぎわしていますが、一時に何万人を殺 す戦争や、テロリストによるこれから起こるか もしれないテロの怖さに気付いていただきたい と思います。 年 月に日本の広島と長崎に原子爆弾が投 下されました。広島はウラニウム爆弾、長崎は プルトニウム爆弾で、爆発による熱線、爆風お よび放射線は、数ヵ月以内に広島で約 万 千 人、長崎で約 万の人々に死亡をもたらしまし た。 Hiroshima Area .8.6 burned down damaged houses (スライド 1 ) これは被爆当時の広島ですが、広島は太田川 流域に広がるデルタ地帯で、河口に向かって つ の河が流れていました。その中心にT字型の相 生橋があり、投下目標には適していました。広 島は、海に面していますが、周りは山に囲まれ、 投下した爆弾の影響が円形に広がることが分か ります。被爆当時、私は爆心地から mのとこ ろに住んでいました。当時の広島では、壮年の 男性はほとんど戦争に駆り出されていて、老人 と女性子どもが空襲警報の鳴る間に日常の営み をしていました。医療関係者は、危険性の高い 都市部から郊外に疎開することを疎開禁止令で 禁じられ、老人の医師、女医、看護師、その助 手などが仕事をしていました。そのため被爆後 の医療活動は、他の地区から派遣された軍隊の 医療関係者、まもなく第 次世界大戦が終わり、 復員してきた壮年の医師によってなされました。 広 島 原 爆 の エ ネ ル ギ ー は 爆 風 %、熱 線 %、放射線 %といわれています。爆風は、 数 万気圧という超高圧が作られ、周りの空気 が大膨張して爆風となりました。爆心地のあた りで風速 m/ 秒で、 .km地点でも m/ 秒で あったとされています。爆風の先端は衝撃波と して進行して、風が吹き止む瞬間があった後、 昭和 年 月 日 第 種郵便物承認 広島県医師会速報(第 今度は外から内に風が吹き込み、遠方から見る と有名な「きのこ雲」の形成に関与しました。 この爆風は、木造が主体の建造物を破壊しまし た。そのためたくさんの人々が外傷を受けまし た。 爆発と同時に空中に発生した火球は、爆発の 瞬間に温度が最高で摂氏数 万度に達し、 . 秒後には、火球表面温度が摂氏約 , 度、地 上爆心地域で約 c a l / 酌、衣服をまとわぬ人体 皮膚の熱線熱傷は .kmまで及んだといわれて います。火球による火災が発生し、終日燃え続 き、広島は「原爆砂漠」といわれました。 放射線には、初期放射線と残留放射線に分け られます。残留放射線は 種類に区分されます。 ひとつは核分裂生成物および分裂しなかったウ ラニウム が空中に飛散し、爆発 分以後のガ ンマー線、ベータ線、アルファー線の放射線源 となったいわゆる「死の灰」で、もうひとつは 地上に降り注いだ初期放射線(中性子)が土地 や建築物資材に衝突して原子核反応を起こし、 それによって放射能を誘導する誘導放射能に分 けられています。 その日、私は 歳でした。爆心地から mの 木造 階建ての 階の屋内で朝食を摂っていまし た。ピカリと黄色の閃光が光ったのを覚えてい ますが、その後は意識を失っていたのでしょう。 木造の家はつぶれて家族は下敷きになりました。 しばらくして祖父が引き出してくれました。屋 根を突き破って出てみるとそれは屋根の上でし た。屋根を下りるとすぐ道路で、母と私は、破 壊された街を砂塵の中を郊外に逃げました。近 所の市場につながれていた馬車の馬が暴れてい たのを思い出します。ぞろぞろと服は破れ、や けどをした人々が山側に向かっていました。木 造の橋は骨格だけになっていて、川面には人々 があふれていました。母と私は先に逃げた妹を 必死に探していましたが見つかりません。 畑のある場所で休んでいると、全身やけどで 皮膚は手の爪でのみ体について、めくれた皮膚 をぶら下げた人を見ました。けがをした人々が、 水をほしがっていましたが、水を飲むと息が途 絶える人々を見ていました。このような中、よ うやく居所が分かった妹を母が連れに行った時、 ものすごい雨が降りました。黒い雨と言われて いるものでしょう。空襲の避難用に山裾に作っ ていた山小屋に向かいました。町内の人々がた むろしていました。そしてその壊れた家でしば らくの間、過ごすことになります。助けてくれ た町内会長の祖父、 「手が痺れるよー」と声を出 号) 年(平成 年) 月 日( ) していたという祖母は数日後に焼け跡に行くと、 逃げ切れず半焼けで死んでいました。道路には あちこちに黒焼けの死体が積まれており、その 時見た様子は、被爆後 年近く経った現在でも 鮮明に覚えています。 郊外の山の中に潜んでいた 週間までの急性症 状は、一般的には熱傷や外傷によるもののほか、 放射線によっては全身の不快な脱力感、嘔気、 嘔吐などの症状が現れ、 、 日から数日の間に 発熱、下痢、あちこちからの出血を起こし、全 身が衰弱して被曝して 日前後で死亡しました。 私も発熱が続き、だるさが続き体中にトビヒが でき、寝付いていました。 ~ 週間の亜急性症状は、脱毛、脱力感、倦 怠感、あちこちからの出血、発熱、咽頭痛など でした。病理学的には放射線による骨髄、リン パ節、脾臓などの組織の破壊で、感染に対する 抵抗力の減退および出血症状が見られました。 死因の多くは敗血症だったといわれています。 敗戦を知った私たち家族は、この爆弾は新型 爆弾で、 年草木も生えなく、毒ガスが体に周 り死んでいくと聞き、空気の良い山に囲まれて 中国山地の親戚を頼っていくことにしました。 逃げて行く途中広島の近郊で、全員床に伏し、 高熱が続き、上記諸症状に悩まされながらなん とか生きながらえていましたが、姪は死亡しま した。髪の毛が抜けて貧血で色白の私は「白子」 といわれていました。 ヵ月くらいで外傷、熱傷、また放射線による 血液や内臓諸臓器の機能障害も回復傾向を示し、 一見健康を回復したように見られました。父が 戦争から復員してきて、焼け跡での掘っ立て小 屋での生活が始まりました。毎日けだるい体調 不良が数年間続いていました。 日本全体が敗戦後の混乱から回復せず、食糧 難で、国民全体の健康状態も大変悪い状態が続 きました。しかしその後被爆者に特有の健康不 調が認められました。社会的には慢性疲労症候 群のような症状を「原爆ぶらぶら病」といわれ ていました。 毎日被爆者の健康不調を観察していた医師た ちの間から、いったん健康を回復しながら、被 爆者に特有の健康不調があることが気付かれて きました。熱傷後のケロイドや血液疾患が多い との観察から、被爆者の健康管理をする原爆医 療法が政治力を集めて苦心の末に制定し、系統 的な管理をするようになりました。 年以降に発生した放射線に起因すると考 えられる人体影響は「原爆後障害」といわれ、 ( ) 年(平成 年) 月 日 広島県医師会速報(第 放射線に特異的な症状を持っているわけではな く、一般に見られる疾病とまったく同様の症状 を持っているが、被曝集団中に発生する疾病の 頻度が統計的に有意に高く、被曝線量と線量反 応関係が存在する場合は、原爆後障害と考えら れます。 母が妊娠中に被爆した人々に小頭症が認めら れました。遺伝的にも注目され、調査が進めら れてきました。幸いにして現在では小頭症以外 の、遺伝的影響は認められていません。しかし 可能性はあり、被爆者の被爆二世に対しての健 康調査が今も続けられています。遺伝的影響を 恐れて、適齢期の若者に結婚差別が起こり、被 爆したことを隠す傾向にありました。 年に被爆者の中に白血病、再生不良性貧 血などの血液疾患が多発していることが分かり、 白血病を造血臓器の悪性腫瘍と考えると、造血 器以外の臓器組織からも悪性腫瘍が多発するか もしれないという予想のもとに、広島県にすべ ての腫瘍登録を行うようになり、このデータを ハワイの日系人や米国のコネチカットでのデー タと比較して、広島市の罹患率が高いことが分 かりました。その後原子爆弾被爆者の健康状態 を長期にわたって研究すべく、 年から原子 爆弾後障害研究会が広島市で開かれ、現在まで 長崎市と交互で開催されて被曝が人体にどのよ うな影響があるのか、詳しく報告されています。 広島では被曝後どの時期にどのような人体変化 があるのかが分かり、「広島のものさし」とし て、その後の原発事故でも参考になっています。 広島・長崎は精密に線量と疾病発生率との関 係を観察してきました。核保有国である各国は、 たくさんの核兵器の実験を行っています。その 時被曝した人々が、数十万人から数百万人いる といわれています。この人々の健康障害はどの ように調査されているのでしょうか。 放射線の直接的障害である白内障、胎内被曝 者の精神遅滞(小頭症)などとともに後障害の 中で最も重要なのは悪性腫瘍の発生です。白血 病は被曝後 ~ 年にピークを認めています。被 曝時年齢が若いほど発生率が高いことが分かっ ています。 歳 ヵ月の時、爆心地より , mで被曝し、 年後に亜急性骨髄性白血病になった佐々木禎 子さんが , 羽折ったら治ることを信じて毎日 毎日薬包紙で鶴を折って死亡したとのエピソー ドが感動的であり、白血病が後障害の代表とし て言われました。市民が募金をして「原爆の子 の像」を作って、後障害が注目されてきました。 号) 昭和 年 月 日 第 種郵便物承認 甲状腺癌は被曝後 年で増え始めて、 年ま で発生増加が認められました。私と一緒に被曝 した母は甲状腺腫を摘出してのち、心筋梗塞で 死亡しました。 乳癌、肺癌は被曝後 年より増加し始め、 年には有意に増加が認められます。私の妹は被 曝時に 歳でしたが、結婚して 子を設けた後 歳で乳癌になり、摘出手術を受けました。その 後 歳で甲状腺がんとなり、手術を受けたのち、 肺、骨に転移して今も毎日苦しみながら生きて います。 胃癌は、被曝後 年より増え始め、被曝時年 齢が 歳以下に有意に高く認められます。 年後 より結腸癌、骨髄腫などが認められています。 私は 歳で被曝し、医師となり毎日働いていま したが、被曝後 年して 歳時に十二指腸乳頭 部癌になりました。幸いに早期に発見すること ができて摘出することができました。しかしそ の後は老化とともにあちこちの不調が続きなが ら、医師として診療を続けています。しかし妹 と同じように重複がんへの罹患の可能性が高く、 その後も健康診断を継続的に受けています。 原爆被爆者固形癌の特徴は、①被曝線量が高 いほどリスクが高い ②被曝時年齢が若いほど、 癌発生リスクが高い ③癌の発生は、白血病と異 なり、被爆者が癌の好発年齢に達した時に起こ るといわれています。 被曝後 年の健常な被爆者の染色体異常につ いては鎌田先生らが報告しています。①被曝線 量とよく相関する ②安定型異常として長期間持 続していること ③被曝した全組織で観察される こと ④骨髄、腸、乳腺など幹細胞レベルでも異 常を保持している。これが後障害発生の手がか りと考えています。後障害はそれぞれの臓器に よって、それぞれの潜伏期間があって発生して います。放射線の影響として、直接臓器に影響 するとは思えません。骨髄の中にある造血の起 源を伴っている幹細胞にも染色体異常が証明さ れているので、精緻な人体の免疫機能の異常が、 なんらかの機能異常をきたし、加齢とともに免 疫機能が衰え、悪性腫瘍などが発生するものと 想像します。 現在、老年期に入った被曝者の最大の不安 は、悪性腫瘍への不安です。 放射線が遺伝子に影響を与えるということは、 自然界のリズムを変えて、突然変異を起こし、 自然界を変える危険性があります。多くの基礎 的な事実はそれらを実証しています。核兵器を 使うことは、自然界を変えることになるのです。 昭和 年 月 日 第 種郵便物承認 広島県医師会速報(第 昨年 年 月 日に東日本大震災が起こり、 福島県で原子力発電所の事故が起こり、多量の 放射線物質が放散されました。広島・長崎と 違った新たな放射線障害を起こしています。こ れは核兵器と異なる、平和利用中の事故による ものです。原子力の平和利用でも怖いものだと 知らされました。放射線被害に苦しんでいる私 たち広島としては、このような被害がこれから 出なくなることを心から希望しています。エネ ルギー問題など複雑な問題があることは承知し ていますが、放射能について新たな思考が必要 になっています。 現在世界では宗教に基づく紛争が起こってい ます。それら行為の底には、 「報復の原理」が働 号) 年(平成 年) 月 日( いています。人類史上数千年にわたって同じよ うなことを繰り返しています。広島や長崎の 人々は、これまでひたすらに核兵器の悲惨さを 述べてきました。一度も核兵器を使った国や 人々に復讐を誓ったことはありません。被爆者 は生きとし生けるものすべて生きる「共生の原 理」を望んでいます。被爆を、人類全体の愚か なこととして、世界の人々が深い反省をして、 これからの世界を築こうではないかと訴えてい るのです。それは広島原爆慰霊碑に刻まれてい る言葉が、象徴しています。 「安らかに眠って下 さい。過ちは繰返しませぬから」 これが「ヒロシマのこころ」です。ご清聴を 感謝します。 税務相談室・融資相談室のご案内 本会の福祉活動の一環として、「税務相談室」および、「融資相談室」を開設して おります。無料ですのでご遠慮なくご利用ください。 記 『税務相談室』 ※医業税務、一人医療法人などについて と き 平成2 4 年 月 日昭 午後 時~午後 時( 人 時間程度) ところ 広島医師会館内 階会議室 担当者 中国税理士会 広島県支部派遣税理士 米今 喜作 清水 弘司 『融資相談室』 ※新規開業、事業拡張、事業承継などについて と き 平成2 4 年 月 ) 日昭 午後 時~午後 時( 人 時間程度) ところ 広島医師会館内 階会議室 担当者 金融機関 金融サービス(医療専門チーム)担当者 予約申込先 〒 ‐ 広島市西区観音本町 ‐‐ 広島県医師会経理課 TEL: ‐ ‐