Comments
Description
Transcript
くずし字に見る 近代日本の夜明け
TDB Historical Museum 2012.4 18 VOL. 帝国データバンク史 料 館だより [ミューズ ] 巻頭特集 テーマ展示新企画 読む、書く、伝える くずし字に見る 近代日本の夜明け 学芸員ファイル FILE No.007 地域に根ざした支所経営が生んだ 事業所の出版活動 一 枚の写真から 実に総勢 600 余名もの春の清遊会 ─ 全国の支所長たちも、東京本社の社員旅行に合流 ─ 日︵ 火 ︶か ら 6 月 日︵ 金 ︶ま で 、常 設 帝 国 デ ー タ バ ン ク 史 料 館 で は 、20 1 2 年 4月 29 今 号の巻 頭 特 集 で は、今 回 の 展 示 で 取 り 上 げ る 史 料の中 か ら一部 を 紹 介 す る。 面 を 展 示 す る。 を 取 り 上 げ 、夜 明 け を 迎 え た 近 代 日 本 の一側 看 板 、錦 絵 な ど 近 世 か ら 近 代 に か け て の 史 料 料 の 中 か ら、本 展 で は、古 記 録 や 書 類、書 簡、店 て い る 。こ の よ う な﹁ く ず し 字 ﹂で 書 か れ た 史 る 。そ し て そ の 多 く は﹁ く ず し 字 ﹂で 記 録 さ れ 急 速 に 近 代 化 を 進 め た 日 本 の 姿 が 描 か れ てい 近 世 か ら 近 代にか け て残 さ れた 史 料には、 座﹂は 高い人 気 だ という。 や 通 信 講 座 で 開 か れ て い る﹁ く ず し 字 解 読 講 物 館 を は じ め 、市 民 大 学 な ど の 生 涯 学 習 講 座 という 要 望 が 多 く 、全 国 の 図 書 館 や 文 書 館、博 と が あ る。ま た 、今 そ の﹁く ず し 字﹂を 読 み たい ﹁く ず し 字﹂で 書 か れ ている 文 字 を 目 にす る こ 中 で も﹁ お て も と ﹂や﹁ 生 そ ば ﹂、 ﹁ う な ぎ ﹂な ど 書 か れ て い る も の が 浮 か ぶ が 、現 代 の 生 活 の ﹁ く ず し 字 ﹂ と い う と 、古 文 書 や 錦 絵 な ど に 日 本 の夜 明 け﹂を 開 催 す る。 画﹁ 読 む 、書 く 、伝 え る く ず し 字に見 る 近 代 展 示 室 内﹁ テ ーマ展 示 ﹂コー ナ ーに お いて 新 企 24 [ 巻 頭 特 集 ]テーマ展 示 新 企 画 読 む、 書く、 伝 える に見る 近代日本の夜明け くずし字で書かれた江戸時代の引札 上/現金おろし小う里・大阪屋味岡与兵衛(木版・福助絵) 下/禁裏御典薬寮長官小森殿秘法 そめいさん(カッパ摺) 2点とも公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団 アド・ミュージアム 東京 所蔵 Muse Vol.18 2 巻頭特集 テーマ展示新企画[くずし字に見る近代日本の夜明け] ハルリス氏 、本 国 に 帰 り た く 願 ひ 殿 下の許 に 差 置 け るトウンセント 、 な して 数 年の間 合 衆 国ミニストル、 レシテントの職と 大良友 日 本 大 君 殿 下に呈 す アブラハム・リンコルン 亜墨利加合衆国大統領 米国大統領リンカーンの国書訳文 ペリ ー 来 航 の 翌 年 、 1854︵ 安 政 元 ︶年 、日 米 和 親 条 約 が 締 結 され 、日 本 の200年 以 上 続いた 鎖 国 の時 代 は 終 わった 。 年 、 ア スの帰 国 願いを し た ためた カ 大 統 領 リンカーンが 、 ハリ した 。この文 書は時のアメリ 年に体 調 不 良 を 理 由に帰 国 し か し その後 、 ︵ 文 久 元 ︶ 好 通 商 条 約 調 印に成 功した。 は江 戸へ上 り 、 年 、日 米 修 とが 第一目 的で あったハリス た 。通 商 条 約 を 締 結 す るこ で 初 めての総 領 事 館 を 置い ハリスは下田に着 任 し、 日本 メリカの総領事タウンゼント・ 56 国 書 を 翻 訳 したものである。 出 しによ り て 余 者 願の如 く 許 容 して 殿 下 と別 離 をなす 事 を 命せり 日 本 政 府 と 最 懇 切 なる 交 を 大 切 にな し 遂 る を 在 留 中の 1861年 個 人 蔵︵德 川 宗 家 文 書︶ 職 分 を せるハルリス氏 に 江 戸 を 退 去 す る 時 方 今 両 国の間 に 幸 ひに 結 ひ たる 懇 親の交 を 堅 固 にし 及 ひ 広 大 にせんとの 我 等 か 正 直 なる 志 願 を 殿 下に証 し 且 此 交 よ り 生 し 来 る 恩 沢の永 続 す る 事 を 両 国の人 民 に 証 す る 事 を 命 せ り ○ 右ハルリス氏 以 前 よ りの 職 分 を 精 勤 せ しによ りて 余 望 む ら く は 同 人 此 度の 命を 殿 下の悦 ひ 給 ふ様 に 務 むへし 耶 蘇 降 世 後 千 八 百 六 十一年 第 十一月 十 四日 華 盛 頓 に 於て 書 す 殿 下の良 友 たる アブラハム・リンコルン手 記 大 統 領の命 にて 外 国 事 務ミニストル ウイ リヤム・エッチ・シウァル調 印 3 Muse Vol.18 58 61 重宝無尽灯用法記 1 8 3 7︵ 天 保 8 ︶年 頃 、 東 芝の創 業 者のひと りで あ る田 中 久 重 は、蝋 燭 を 使 わ ず 菜 種 油による 灯 器﹁ 無 尽 灯 ﹂を 製 作した 。これはその ﹁ 無 尽 灯 ﹂の取 扱 説 明 書・解 説 書である。 燃 え 尽 きる度に交 換しな け れ ば な ら な かった 蝋 燭 と は 異 な り 、自 ら が 考 案 し た 風 砲︵ 空 気 銃 ︶の 原 理 を 利 用 して 、自 動 的 に 給 油 さ れ る 仕 組 み を 作 り 出 し た 。こ の解 説 書の冒 頭 には 、長 年 にわたる研 究の結 果 生み出 さ れ た もので あ ることが 記 さ れている 。長 時 間 の 連 続 点 灯 と 蝋 燭の 倍 もの明る け るこ と に な る 。 ︵ 明 治 導 入により さらに磨 き をか た 技 術 はやがて西 洋 技 術の さは 好 評 を 博 し た 。こう し 10 73 なる。 東 芝の歴 史 が 始 まることに 械 製 造 所 ﹂を 開 く 。ここから 場 兼 店 舗の﹁ 電 気 機 及 諸 器 ら 上 京 し 、翌々年 銀 座 に工 6 ︶年 、 歳の久 重は九州か 75 よ かつ 江戸時代後期 東芝科学館所蔵 むじんとう ばんかじゅうほうしみんゆう えき 無 尽 燈の儀 は 予 嘗て 万 家 重 宝 四 民 有 益の器 を いにしえ 製 造 な さんと 志 願 を 発 し 、若 年のころよ り 歳々年々 もちきた きぞ く ふうほう なつ おらん 工 夫 に く ふう を 加 え 製 す る 処 な り 。その根 元 は 往 昔 阿 蘭 だ せめこ かほう 陀 人 持 来 り しリクトパルレンという 器 俗 に 風 炮 と 号 く 其の器 は ただ ふう き よ こうふ すなわち 火 薬 を 用いず 只 風 気 を 責 込 みこれ を 発 す るに 火 炮 に 異 な ら ぶんせいのころ きこう かんちゅう ず と き き し が 文 政 年 間 予 江 府 にいた りて 始て 其 器 を 見て 即 其 かつ なおいた 器 を 製 造 し 、且 其の桟 巧 に 基 き 無 尽 燈の管 中 に 風 気 を あぐ しょじ かって 油 を せめ 上 る 理 を 発 明 す れ ど 猶 至 ら ざる 事の多 か り し ようや よ り 三 十 年 来 丹 誠 をこら して工 夫 な し 漸 く 諸 事 に足 ら その きこう そのう え そのひかり ざること 無 き よ う 成 就 な し たる 其 奇 巧 をいはんには 油の循 環 とどこおり 停 滞 な く して、かつ油の減 り もことに 少 な く 其 上 其 光 は 蝋 燭 Muse Vol.18 4 巻頭特集 テーマ展示新企画[くずし字に見る近代日本の夜明け] 田中久重 (179 9∼18 81) 東芝科学館所蔵 久留米生まれ。幼少の頃より発明の才能を発揮し、からく り人形師としてからくり興行で全国を回る。36歳で上方に 移住し、万年時計などを発明。1853( 嘉永6)年佐賀藩精 煉 方に入り、蒸 気 機 関や大 砲の製 作に携わる。6 4( 元 治 元 )年 久 留 米 藩 からの招 聘を受け、その後 7 5 歳で上 京 。 75( 明治8)年銀座に店を構え、東芝の歴史が始まる。 油 あ ぶれ ざるよ う 心 得の事 図の通 り 中 ほどにへだて あ り 。 此へだてよ り 上 に油 壱 ぱいに 入 せめ 入 れ ば 上の油 を 下のか たへみな お さ ま るゆ え に、上の方 は あ ぶら な く なる 也 。これにま た 油 を 入 れいだ せば 油の戻 りて 油 お さ ま る 処 な きによって 器の外に も れ 出 あ ぶるるな り 器 はいつにて も 上 段に 油 あ れ ば 下 段 に 油 な く 下 段に 油 あ れば 上 だんにな き よ ういた し 置 事 。常々心 得 あ るべし 。 火 口に燈 頭 たつは 心のさ き みだるるがゆ え な り しんを 切 には、しん き り ばさみ を 用 意 な ど 置 きて き るべし 此 はさみよろし 。又 火 ばしにて 切て も みだ れ 毛のた だ 5 Muse Vol.18 ざるよ うに 心 を はさみ き るべし 。 江戸時代後期 田中久重作 東芝科学館所蔵 但 心 はたびたび 切べか ら ず 下 時 に一度 ぐ らい き るべし 銘田中久重無尽灯 上から時計回りに 『秋田県名鑑』、 『富山県名鑑』、 『京都商工大鑑』、 『長崎の業界と人物大観』 ︶年より 事 業 し、人 材・営 業 基 盤 を 獲 得 することに成 功 した 。 こうして大 阪 支 所は再 建の道 をたどり、事 業 規 帝 国 興 信 所は1906︵ 明 治 所の開 設 に 着 手 し た 。横 浜 、大 阪 を 皮 切 り に では創 業 期 から 出 版 活 動に力 を 入 れていたが、 事 業 所 と しては 特 に1920 年 ∼1930年 代にかけて出 版 活 動が目 立った。 横 浜・大 阪 を 皮 切 りに全 国 に大 阪、 と相 次いで帝 国 興 信 所は事 業 所を開 設 営業基盤を整備した上で行う必要があった。 には、地 元の有 力 者 を 支 所 長に据 えて顧 客など などしていた。無 名の興 信 所が地 域 展 開 を 行 う に任 命 するため、商 業 会 議 所に紹 介を依 頼 する る際には、大 阪のように現 地の有 力 者 を 支 所 長 明 治から大 正 初 期にかけて事 業 所 を 開 設 す 草 創 期の事 業 所 経 営 13 武夫はその手法について次のように語っている。 ︶年8月3日に横浜、 8月 日 10 した。既に 年、横浜に出張所が存在していたこ 39 した。 模も拡大し、 ︵大正2︶年には大阪本部と改称 べ ヵ所に 上った 。これ ら 事 業 所の活 動の特 徴 全 国 展 開 を 進め、その数 は 戦 前 までの間に、 の 39 と して 、出 版 活 動 が あ げ ら れる 。帝 国 興 信 所 88 1906 ︵明治 事業所の出版活動 地域に根ざした支所経営が生んだ は、 勤務時間中にもかかはらず午睡の夢を貪って したのであるが、︵ 略 ︶支 所 長 始め支 所 員の全 部 告 もなく 、大 阪に往って支 所 經 営の實 際 を 視 察 た。現 状は﹁ 翌 年五月 初 旬 午 後二時 頃 何 等の豫 審に思った創 業 者 後 藤 武 夫は自ら大 阪に出 向い 所 長に任 命したが、営 業 成 績は不 振が続 き 、不 元和歌山商業会議所の書記長であった人物を支 大 阪 支 所は大 阪 商 業 会 議 所の書 記 長の推 薦で、 した關 係から、支 所 設 置に先つて、其の地 方に於 き 人 材 を 養 成 するまでには至らなかった 。さ う 員 を 有して居たが、未だ以て支 所 經 營に任 ずべ 意を拂つた。当 時 東 京 本 所には相 当 多 數の從 業 に從 業 員たる支 所 員の任 命に就いては特 別の注 置 することゝし、其の直 接 經 營 者 たる支 所 長 竝 である。 ︵ 略 ︶尚ほ別に樞 要の都 市には支 所 を 設 査 網を完 成 するの絶 對 必 要を認むるに至つたの 依 頼は非 常に増 加 した 。隨つて全 國に亘って調 武 夫は支 所 経 営 改 善のため、本 社 幹 部 社 員で 薦によつて、支 所 長 竝に従 業 員 を 決 定 したので き 機 關を通じて人 物の銓 衡 方を依 頼し、其の推 ける商業會議所の如き、直接商工業者に關係深 あった横 井 釼 吉 を 支 所 長 として赴 任させ、自ら 当 時の事 業 所 運 営の方 法としては、独 立 採 算 ある。﹂ 信所として実績をあげていた明治興信所を買収 も移 住し陣 頭 指 揮を執った。また当 時 大 阪で興 魂社︶ という状況であった。 いたのである。﹂ ︵﹃ 後藤武夫伝 ﹄ 1928年、 日本 とがわかっているが、 支所としては第1号となった。 ﹁ 東 京 本 所に於 ける會 員 激 增の結 果 、調 査の 02 F I L E NO .007 学 芸 員ファイル Muse Vo l.18 6 学芸員ファイル FILE No.007:事業所の出版活動 社内報に掲載された 『秋田県名鑑』刊行のお知らせ 『脱俗』 第172号(1926年12月)に、秋田支 所 が『秋 田 県 名 鑑』を発 行する旨が 掲 載さ れた。 『秋 田 県 名 鑑』が 先 駆けとなり、以後 『名鑑』 『大鑑』の刊行が増えた 『秋田県名鑑』 『京都商工大鑑』の収支報告 社 内 報『 脱 俗 』で は、事 業 所 の 出 版 物 につ いて、収 支 報 告 が 掲 載されていた。上 段 は 『京都商工大鑑』 (『 脱 俗 』第 2 0 3 号 、1 9 2 9 年7月)、下段は「秋田支所の快挙」 と題され た『 秋 田 県 名 鑑 』 (『 脱 俗 』第 1 7 8 号 、1 9 2 7 年6月)の収支報告 制 を 採っていた 。 ︵ 昭 和3︶年に出 された 通 達 文書に﹁元来帝国興信所は本支所総て独立の経 営を為すべき方針の下に経費の支出は当然経常 日 ︶と記 載 されていることからもわかる。 収入を持って支弁し来り﹂︵﹃ 告示簿 ﹄ 1928年 月 支 所 長の裁 量 権は広 く 認められていたが、営 業 不 振で業 績が上がらずに赤 字になるようなこと があれば、 支所長が補填することとなっていた。 事 業 所の出 版 活 動 信 用 調 査 業においては、出 版 物の発 行は主 要 な 事 業のひとつであった 。当 社 も 例 外ではな く 、 ﹃ 帝国銀行会社要録 ﹄ や ﹃ 帝国信用録 ﹄といった興 信 録 を 発 行していた 。各 地に展 開していた事 業 所では、企 業 情 報 をはじめとした地 元 経 済や名 士の情報を網羅した独自の出版活動が多くみら 1927︵ 昭 和2︶年4月 、秋 田 支 所が支 所 開 設 ﹃ 秋田県名鑑 ﹄ 周 年 を 記 念して刊 行した 。市 町 村 別の高 額 納 税 者の 情 報から始まり、銀 行、会 社、組 合の概 要、巻 末には経 営 者や団 体、官 公 署、学 校の職 員 録が掲 載されている。 ﹁ 緒 言 ﹂に﹁されば本 書一巻 を 繙 けば座ながらにして秋 田縣 其の物が眼 前に展 開されるのであ りま す 。﹂と書 かれているとおり、企 業の情 報から人 物 情 報 まで網 羅 され、 その充実した内容は1500部完売の大ヒットに つながった。この成 功 を 受 けて、各 地でこうした名 鑑の 発行が相次ぐようになる。 ﹃ 京都商工大鑑 ﹄ 月 、昭 和 天 皇の即 位 を 記 念 して京 都 支 所が刊 行した。京 都 府の人口や土地、交 通 1928︵ 昭 和3︶年 物・呉 服・製 茶 などの主 要 産 業 をはじめとした 企 業や などの府 勢 、京 都の主 要 な 産 業の概 況 、府 勢 統 計 、織 商工業 者のデータ、紳 士 録のほか、滋 賀 県 下の各 種 産 業の概 要 も 掲 載されている。写 真 もみられる企 業 人の プロフィールは1300人に上る。 月 、﹃ 京 都 商工大 鑑 ﹄と同 様に昭 和天 皇の即 位 を 記 念し、また支 所 開 設 1928年 ﹃ 富山県名鑑 ﹄ 各 県 下の産 業の概 要、銀 行・会 社の概 要、経 営 者 富 山 支 所が刊 行 した 。県 下の産 業について、地 域 別に 周 年 を 記 念して や高 額 納 税 者 等のデータである。また広 告 も 多 数掲載されている。 ﹃ 長崎の業界と人物大観 ﹄ 日 、長 崎 支 所 が 刊 行 録として官公署団体職員録が掲載されている。 他に銀 行・会 社・産 業 組 合のデータと、個 人 納 税 者 、付 主 要 産 業の件 数 と生 産 額など詳 細に記 載されている。 15 太 郎が寄せている。政 財 界の140人について述べたも 時の大 阪 商 業 会 議 所 会 頭で稲 畑 産 業 創 業 者、稲 畑 勝 した ものを 大 阪 本 部 が 刊 行 した 。巻 頭の序 文には当 あった。 載されている。また他の事 業 所 とは異なり、非 売 品で 銀 行 会 社であれば建 物 、個 人であれば肖 像 写 真が掲 会 社、個 人のデータが掲 載されている。そのほとんどは し た 。地 域ごとの主 要 産 業 な どの概 況のほか 、銀 行 、 1931︵ 昭 和 6 ︶年 4 月 30 ﹃ 関西業 界 人 物 大 観 ﹄ ︶年1月から約 ヵ月 間、経 済 情 報 10 紙﹃ 帝 国 興 信日 報 ﹄大 阪 版に連 載 した 記 事 を 再 編 集 1926 ︵大正 15 10 28 れた 。それぞれに共 通 して掲 載 されているのは、 11 27 ので、全2巻 合 計850頁の大 作である。 7 Muse Vo l.18 12 11 学芸員ファイル FILE No.007:事業所の出版活動 『秋田県名鑑』 『京都商工大鑑』の広告 尾道支所 鹿児島支所 1930.9.10 長崎の業界と人物大観 長崎支所 1931.4.30 日向商工大観 宮崎支所 1932.10.25 尾道大観 尾道支所 1933.9.15 職業人山形県納税名鑑 山形支所 1935.12.25 樺太商工人事興信録 樺太支所 1941.3.15 青森県実業要覧 青森支所 1941.12.25 道南会社組合要録 函館支所 1942.3.12 時 代 とともに 移 り 変 わる 地 域 経 済 1933 ︵ 昭 和 8︶年9月に刊行された﹃ 尾 道 大 鑑 ﹄は、尾 道 市の沿 革、産 業・交 通・貿 易の検 証、 教 育、市 政、社 寺 仏 閣、犯 罪、花 街など豊 富な統 計データが 掲 載 されている 。ま た口絵には尾 道 の風 景 、銀 行のページには各 銀 行の建 物 と 支 店 長の写 真 も 掲 載されている。発 行は尾 道 支 所 内 に置かれた編 纂 部で、代 表は当 時の尾 道 支 所 長 である八幡 義 朗が務めた。八幡 も 地 元の名 士で、 郷 軍 連 合 会 長 、株 式 会 社 尾 道 芸 子 斡 旋 所 役 員 、 治 安 協 力 会 副 会 長、尾 道 商工会 議 所 議 員、尾 道 商工業 協 同 組 合 副 理 事 長などの役 職 を 引 き 受 け 、当 時 ま だ 理 解 されないことも あった 信 用 調 査というものを、地域に認知させていった。 設され、尾 道 支 所は 年に閉 鎖となった。 66 となった 。斯 して所 運は隆々乎 として発 展 向 上 事 項と雖 も、旬日を 出でずして報 告し得ること な く なっても 、地 域の産 業 構 造が変わっても 、そ 的 な 移 り 変 わ り を 示 す 。事 業 所 としての形 は 事 業 所 展 開の跡 は、日 本の経 済 活 動の地 域 されている。 を 續 けて居るのである。﹂ ︵﹃ 後 藤 武 夫 伝 ﹄︶と述 進んでいることがわかる。 の証は事 業 所の活 動 として、出 版 物に確かに残 ︵ 略 ︶如 何なる至 難の調 査、遠 隔の地に在る調 査 しかし 尾 道 支 所 は 経 済 情 勢の変 化やインフ 三州業界人物大観 1928.12.28 富山支所 富山県名鑑 こう した 事 業 所 展 開や 運 営 方 法 、地 道 な 調 1928.11.1 ラの整 備によ り 、その役 目 を 終 えること となっ 京都支所 査・出 版 活 動により、調査 網は全 国へと広がりを 1927.4.5 京都商工大鑑 た 。尾 道は広 島 県 東 部の交 通の要 所であ り、同 秋田支所 見せた 。武 夫は自 伝の中で﹁︵ 略 ︶六大 都 市にお 1926.12.1 秋田県名鑑 時に中 四 国の物 資 集 散 地でも あったため、商 港 大阪本部 ける支 所は何れも 模 範 的となり、其の地 方にお 1916.4.3 関西業界人物大観 としての地 位 を 築いてき たが、福 山に陸 運 局が 1912.12.22 静岡支所 ける銀 行 會 社 及び商 工 業 家よりは充 分の信 任 米子支所 静岡地主名鑑 できてからは商 圏が移 り、 年に福 山 支 店が新 山陰事業名鑑 西伯郡之部 を 得 、調 査 網 は 全 國 を 通 じて 隈 な く 張 ら れ 、 ■事業所独自の出版物一覧(1945年まで) べており、当 初は難 航した事 業 所 展 開が円 滑に 74 刊 行 にあたって『 帝 国 興 信日報 』に掲 載され た 広 告 。上 段 が『 京 都 商 工 大 鑑 』の 広 告 (1928年11月18日)、下段が『秋田県名鑑』の 広告(1927年5月5日) 尾 道 支 所 の 玄 関 前 に立 つ 八 幡 義 朗 。当 時 は 事務所兼八幡の自宅であった。八幡は28歳の 時 支 所 長 代 理 から支 所 長 に就 任 。以 来 3 4 年 間務めあげた Muse Vo l.18 8 これではならぬと思ふものの、 さ り とてはまた局 面の打 開 も 容 易 なことではなかつた。 由 來 歎 息 と煩 悶 とは、 やゝも すれば人 を 失 意の境に導 く ものであるが、私はさ う したドン底に陥つても、 自 奮 自 勵 、心 窃に局 面の轉 回に圖つて、 決 して悲 觀の局に陥るや う なことはなかつた。 如 何にしたら、我が帝 國 興 信 所 をより 善 く 盛 大 ならし むべきかについて 夙 夜 大に畫 策 し、縦 横に奔 走 したのであつた。 年は285件と激 減 したのである 。このように基 幹 事 業 498件から 金 銭 を 使い込んだという 容 疑である。 の信 用 調 査 は 不 振 。収 入 は 経 済 情 商 業 興 信 社 在 職 中に約 100円の ﹃ 後 藤 武 夫 伝 ﹄後 藤 武 夫︵1928年、 日本 魂 社 ︶ ︶年の創 業から2 年 が 経 過 しても 、 ﹁︵ 略 ︶私 た ちには、 日 後に無 実 が 判 明 して 釈 放 され 1900 ︵明治 ま だ一陽 來 復の春は到 來 しなかつた 。 02 顧 客を増やし、事 業も軌 道に乗りか 地 道 な 営 業 活 動で僅 かながら も 苦しい経 営を迫られていた。 と 記 されているように、後 藤 武 夫は は逝 き 年は來た。﹂ ︵﹃ 後 藤 武 夫 伝 ﹄︶ 唯 其日々々の遣 り 繰 りに追はれて年 事 は 志 と 違 うて 事 業 は 振 はないし 、 とは各 紙で報 じられ、結 果2度の収 釈 放され、免 訴 となるものの、 このこ 引 されたのである 。武 夫は3日 後に 件 ﹂に関 連 する恐 喝の疑いで再び拘 間 を 騒 が せていた﹁ 馬 蹄 銀 横 領 事 書 を 配 布 した 。しかし 復に努めるため、早々に事 件の顛 末 たが、武 夫はいち 早 く 会 社の信 用 回 式 会 社への改 組 を 目 指 すが、出 資 金 この後、会 社 再 建に向 け 武 夫は株 れている。 起するという 武夫の不 屈の精神が表 せず 前 向 きに会 社のことを 考 え、奮 時 期 を 回 顧したものであるが、悲 観 らざるを得なかった。 報 誌﹃ 帝 国 経 済 雑 誌 ﹄ の広 告 料に頼 02 めた顧 客も離れ、調 査 件 数も 01 冒 頭の言 葉はまさにこのどん底の かった 矢 先 、思 わぬ事 件 が 立て続 け 監 事 件は帝 国 興 信 社の信 用に大 打 集めは難 航し、事 務 所の家 賃の支 払 12 年 、当 時 世 に2件 発 生 した 。それは武 夫の2度 撃 を 与 えることとなった 。必 死に集 月、前 職の帝 国 の収 監 事 件であった。 15 いも滞るなど、苦 境の時 代は続いた。 年 9 Muse Vo l.18 33 年の 1 度 目は 00 後 藤 武 夫 が 残 し た 魂 を こめ た 言 葉 の 数 々。 帝 国 デ ー タ バ ンク の 創 業 者、 そ こ に は 信 用 調 査 業 と い う事 業 へ の 挑 戦 と 苦 労 の 様 子 が 垣 間 見える。 一話 入魂 一枚 の 写 真 か ら 1937︵ 昭 和 ︶年 5 月 9 日 、 行 動で、あるコースは社 内 報﹃ 脱 俗 ﹄ │全国の支所長たちも、 東京本社の社員旅行に合流 │ 実に総 勢600余名もの 春の清 遊 会 日 ︶による から行われていた、社 員や家 族 同 士 が箱 根で開かれた。1910年 代 頃 大 涌 谷 を 經 て 湖 尻 に 至 る 。湖 尻 よ 山に上 り 、早 雲 山 驛 前 よりバスにて と、 ﹁ 強 羅よりケーブルカーにて早 雲 年5月 の交 流 を 目 的 とし た 社 員 旅 行﹁ 清 りモーターボートにて蘆ノ湖 を 横 斷 第 297号︵ 遊 会 ﹂は、東 京や 大 阪 、その他 事 業 し、元 箱 根に着 き 、再び遊 覽 自 動 車 帝国興信所東京本社春季清遊会 所 が 置 かれた 地 域ごとに行 われて 長 余 名が合 流し、約 600名 とい 平 壌 、台 南 、台 北 を 含む全 国の支 所 の小田 急 線ホームに集 合し、午 前 8 根・熱 海でリフレッシュしたのもつかの 東 京 本 社の社 員 旅 行に加わって箱 拶があつて宴に入る。︵ 略 ︶ 一同 十二分 時 半 、貸 切 電 車で 小 田 原へ。そこか 間、支 所 長たちは翌日 東 京の本 社に 箱 根 地 方 は 前 夜 雷 雨やひょうに ら 登 山 電 車 に 乗 り 換 え 、強 羅 に 降 て午 前 8 時 半 から 支 所 長 会 議 最 終 に觀 を 盡 くして散 會、随 意 歸 京の途 り 立 ち 、強 羅 公 園にて 記 念 撮 影 を 日の予 定 をこなした 。前日 熱 海で宴 見 舞 われる悪 天 候であったが、当日 行った 。写 真 はその時のもので あ る 。 会が開 催されたとは思 えない強 行ス に就いた 。﹂ 撮 影 後はホテルで昼 食 をとり、午 後 ケジュールであったことがわかる。 1 時 解 散 と なった 。解 散 後 は 自 由 は一転 して晴れ渡った 。 一行は新 宿 駅 間にて晩 餐 會 が 開 かれ、所 長のご挨 午 後 六 時 よ り 海に面 し た三 階 大 廣 に 到 着 、温 泉 に 浸 り 疲 れ を 癒 や し 、 前日から開 催 されていたため、樺 太 、 ︵ 略 ︶午 後 五 時 熱 海 温 泉 旅 館つるや にて 十 國 峠 を 越へ熱 海 に 向 かつた 。 20 いたが、 この年は全 国 支 所 長 会 議が 27 12 う 稀にみる大 所 帯となった。 50 Muse Vo l.18 10 史料館 TOPICS 第四部◎アーカイブズと経営 「企業のDNA ─ 成功への重要なカギ」 アレクサンダー・L・ビエリ (ロシュ社、スイス) ほか − 第三部◎アーカイブズを武器に変化に立ち向かう 「誇りある遺産 ─ 買収・統合後の歴史物語の重要性」 ベッキー・ハグランド・タウジー(クラフト・フーズ社、アメリカ) 「アーカイブズに根を下ろして ─ IBMブランド形成に寄与する、過去の経験という遺産」 ポール・C・ラーサウィッツ(IBM社、アメリカ) ほか − たもので、当 館は翻 訳に協 力 した 。世 界のビ 報 告・論 稿 を 加 え 、翻 訳 して 1 冊 に ま とめ での発 表 を 中 心に、近 年 発 表 された 優 れた ズの価 値 │企 業 史 料 活 用の新 た な 潮 流 │﹂ 会 共 催のシンポジウム﹁ビジネス・アーカイブ アーカイブズ部 会︵ SBL︶ ・企 業 史 料 協 議 国 際アーカイブズ評 議 会︵ ICA︶企 業 労 働 ス・アーカイブズに 関 す る 国 家 的・全 国 的 いる 様 子 が 伝 え られている 。さらに、ビジネ ズが、商 品 開 発やブランディングに貢 献 して り 上 げ ら れてお り 、長 寿 企 業のアーカイブ 業にお ける事 例 として、株 式 会 社 虎 屋 が 取 ているかが 描 かれているほか、日 本の伝 統 産 で、企 業 資 料 が どのよ うに経 営に活 用 され サンゴバン社 をはじめと す るグローバル企 業 ている 。 う に 活 か せ る かのヒント が 数 多 く 含 ま れ 業 や 自 治 体 組 織 にとって 、公 文 書 を どのよ 条 例 の 制 定 が 予 想 さ れ る 。この 本 に は 企 今 後 、各 地 方 自 治 体 に おいて 公 文 書 管 理 2011年 に 公 文 書 管 理 法 が 施 行 さ れ 、 も 収 録されている。 記 録 資 料 を どう 管 理 しているかの調 査 報 告 リ スの 例 、グローバル企 業で各 国にまたがる な 枠 組 みがつ く ら れ て い る 中 国 や イ ギ 第二部◎ビジネス・アーカイブズと全国的戦略 「資産概念の導入と中国における企業の記録管理へのその効果」 王 嵐(中華人民共和国国家档案局、中国) ほか する書 籍 としては日 本 初 となる。 【目 次】 第一部◎歴史マーケティングの力 「フランスのビジネス・アーカイブズ、 経営に役立つツールとして ─ サンゴバン社の事例」 ディディエ・ボンデュー(サンゴバン社、フランス) 「日本における伝統産業とアーカイブズ ─ 虎屋を中心に」 青木 直己(株式会社虎屋、日本) ほか ﹃世界のビジネス・アーカイブズ 企 業 価 値の源泉 ﹄ が刊 行 日に 開 催 さ れ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団実業史研究情報センター 編 日外アソシエーツ 発行 定価 3,600円+税 2012年 3月刊行 た 、公 益 財 団 法 人 渋 沢 栄一記 念 財 団 主 催 、 この本には、IBM社 、 クラフト・フーズ社 、 本 書 は 2011年 5 月 『世界のビジネス・アーカイブズ −企 業 価 値の源 泉−』 ジネス・アーカイブズの活 動 を 本 格 的に紹 介 11 Muse Vo l.18 11 Muse VOL.18 2012.4 ご利用案内 [入館料]無 料 [開館時間]10:00∼16:30(入館は16:00まで) [休館日]土・日・月曜日および祝日、年末年始(その他展示替えなどのため、臨時に休館することがあります。) 交通のご案内 [JRご利用]中央線・総武線 市ケ谷駅から徒歩8分/中央線 四ツ谷駅四ツ谷口から徒歩9分 [地下鉄ご利用]南北線・有楽町線 市ケ谷駅 7番出口から徒歩6分/ 都営新宿線 曙橋駅 A4番出口から徒歩9分/丸ノ内線・南北線 四ツ谷駅 2番出口から徒歩9分 ご来館の際には館内のご案内、ご質問など、お気軽にお申し越しください。 なお、当館ホームページで展示内容や最新ニュースなどをご紹介しています。 http://www.tdb-muse.jp/ 〒160-0003 東京都新宿区本塩町22-8 TEL.03-5919-9600 ( 直通) 帝国データバンク史料館だより《Muse Vol.18》 2012年 4月発行 © 帝国データバンク史料館 ご来館の際は、1F受付にお越し下さい。