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辰巳屋商店
特集◎スローな文化を探して 商店 探訪 ① 辰巳屋商店 (鳥取県境港市) 大 塚 茂 「妖怪のまち」にひっそりと 妖怪のブロンズ像が立ち並ぶ境港市 の水木しげるロード。この妖怪通りの 中程に古くて目立たない一軒の菓子店 がある。店の名は辰巳屋商店。この店 の非凡さに気づく人はまれで、ほとん どの人は店内に足を踏み入れることな く通り過ぎていく。 私 た ち は そ の 日( 八 月 十 日 )、 取 材 のため二時間近く店の中に座ってい た。ときどき観光客らしき人々が店の 前で立ち止まる。店内にちらっと視線 を向ける人もいるが、たいていの人は まるで店の存在自体にさえ気づかない ようだ。どのみち、店内に入ってきた 客は皆無だった。どうも店先にスタン プラリーのスタンプが置い てあり、子どもたちがスタ ンプを押している間、大人 「 森 永 ミ ル ク チ ョ コ レ ー ト 」「 森 永 ド たちは立ち止まってあたり を何気なく眺めているだけ らは首をぐいと曲げて上を向かないと ロップ」と書かれている。ただ、これ 何か面白いものはないか 目に入らない。普通、そんな不自然な のようだ。 と、ちょっとした好奇心を 動作はしないので、普通はまずこの看 次に、この店の数々の「収蔵品」の 修理中の駄菓子ケース 板が視野に入ることはない。 持って視線を動かせば、こ の店が並の店でないことは すぐにわかる仕掛けになっ ているのだが……。まずは の「 辰 巳 屋 商 店 」、 そ れ に 中でも特に価値があると思われる駄菓 軒下にある古い看板。店名 時代を感じさせる字体で ■懐かしの駄菓子ケー ス(修理後に撮影) んだん割れてきたので」「ガ もが手をついてガラスがだ そ こ に は な か っ た。「 子 ど 枚)が修理に出されていて、 蓋の半分(六セット・十二 ションケーキ用に使っていた大きな木 このほか、かつて生菓子やデコレー 片付けて見えるようにしてくれた。 れていたのを、わざわざ周りのものを 年 代 物 の 秤 も あ っ た。 棚 の 片 隅 に 隠 だ。「 も ち ろ ん ……」 と い う 感 じ で、 思わず叫びたくなるような珍しい代物 も包装されたお菓子はその て も ……」「 今 は ど の 店 で わざ金をかけて修理しなく 「こんな古いケースをわざ の で 」 と い う 説 明 だ っ た。 は中に入っているのは包装された菓子 ずれも現役なのである(ただし、今で 保存されている。しかも、これらがい がガラス)など、古いケースが大事に ムなどを入れていた小さな木箱(上面 のショーケース、桜餅やシュークリー はかり グラグラするし、埃もする ラスが入っていないと枠が まま棚に置いているし、ガ だが)。 子のショーケース。店の中央、出入り スが全部で十二個(つまり二十四の収 方が支えの役割を果たす。こんなケー いて、一枚を開けるとき、もう一枚の いようだ。 しなくてはという気持ちは理屈ではな と多くの人は思うだろう。だが、修理 た菓子をこのケースに移し、量り売り う話だった。昔は一斗缶などで入荷し が、たぶん戦後の早い時期だろうとい いつ購入したのかははっきりしない ある。製造元は「正氣屋製菓株式會社」 子」と書かれた何やら正体不明の缶も り付けたものもある。「白奴糖」「油菓 缶。中身が見えるよう、前面に窓を取 る。例えば、駄菓子が入っていた一斗 辰巳屋の主は栢木あささんという かやぎ 栢木あささんのこと ラス蓋がなくてもどうって 口付近をどーんと占領している。浅い 納 箱 )、 木 製 の 台 の 上 に 並 べ ら れ て い こ と な い は ず な の に ……」 ブリキの箱が縦に二つくっついた形の ふた ケースで、上にはガラスの蓋が載って 「収蔵品」の数々 る。台は平らではない。前方から全体 ちょうつがい いる。蓋は二枚が 蝶 番 でつながって がよく見えるよう、後方がやや高くな したものだ。今はもちろんバラの駄菓 という会社のようだ。「お座敷あられ」 ほかにも大事な収蔵品はたくさんあ 子の量り売りなどない。代わりに袋詰 という時代を感じさせる商品名の缶も るように傾斜がつけられている。 め し た 菓 子 が 入 っ て い る。「 ゼ リ ー ビ あった。 ん ぼ ろ 」 が 普 通 の 呼 び 名 )、「 金 平 糖 」 量り売り用の紙袋もどこからか出し ンズ」や「あんきり」 (当地方では「あ 」と て き て 見 せ て く れ た。「 ど う し て こ ん なものが大事にとってあるんだ のんびり雲|創刊準備号| 2006 19 など、懐かしの駄菓子が並ぶ。 私たちが取材に訪れたとき、ガラス !? んとともに菓子の製造・販売に携わっ る。あささんは長年、ご主人の繁治さ 可証もあささんの名で発行されてい 九十歳を超えたおばあさんだ。営業許 店番を行う。 とそれもなくなり、君江さんとともに をこなしてきたが、最近になってやっ 十年ばかり、あれこれと頼まれた仕事 は小学校の教員をしてきた。定年後も 煎餅から出発 てきた。二十五年ほど前に繁治さんが 亡くなってからは、一人で店を切り盛 りしてきた。そのあささんも今は店に い な い。 近 年、 具 合 が 思 わ し く な く、 昨年の秋に取材に訪れたときはまだ店 に帰ってきた。最初に手掛けたのは煎 会社に勤めていたが、大正年間に境港 と う と う 施 設 に 入 所 し た と の こ と だ。 あささんの両親は大阪に住み、製紙 に座っていて、私たちと言葉を交わし 餅の製造・販売である。その後、饅頭 や「あんぼろ」も加え、町のお菓子屋 たりもしたのだが。 あささんの具合が悪くなってから の 一 種 )、 デ コ レ ー シ ョ ン ケ ー キ、 と さんとしての道を歩んでいく。 だが、道は平坦ではなかった。やが は、あささんの弟・栢木茂貞さんの妻・ 君江さんが店番をしている。住まいは 製品の種類を増やしていく。製品の開 第十六回(昭和四十年) 金賞・チョコレート饅頭 第十八回(昭和四十八年) て日本は戦争に突入し、繁治さんは出 クリスマスの季節ともなるとクリス 金賞・カステラ 店と別で、通いで店番をしている。茂 マスケーキの注文を取り、当日は製造 金賞・クッキー 第十七回(昭和四十三年) 店を失うことになる。この日、火薬を や ら 配 達 で 大 忙 し だ っ た。 ま た、「 サ 発は繁治さんが担った。講習を受けた 積んでいた船で爆発が起こり、一帯は ン タ ク ロ ー ス の 靴 」 を 仕 入 れ て き て、 繁治さんが亡くなってからは、それ りして研究を重ねた。 大火事となり、辰巳屋も全焼した。 中にいろいろな菓子を詰めて売った。 までどおりの菓子製造は困難となっ に、一九四五年四月二十三日、火事で その後、戦争から帰ってきた繁治さ このように、和洋さまざまな菓子を た。しばらくの間は、最中やシューク 征、原材料不足にも悩まされた。さら んが十五坪ほどの店を建てて営業を再 手掛けてきたが、店の名物は桜餅だっ リームなど、いくつかの菓子にしぼっ を継いだのは長女のあささんで、自ら 開する。煎餅は大きな竈が必要なので たようだ。ただ、日持ちがせず季節も て作っていた。が、十五年ほど前にそ 貞さんは長男だが、親の代からの家業 作るのをやめ、まずは饅頭から製造を のである桜餅は全国菓子大博覧会の出 れもやめた。現在は仕入れた菓子とた 茂貞さんは取材中ずっとそこに座って いてあり、そこに座椅子が置いてある。 たばこ売場の中は半畳ほどの畳が敷 たばこ売場の窓から 再開した。建物の方はその後、継ぎ足 品には向かなかったようで、店内に掲 ばこ、それに宝くじを売るだけだ。 かま し継ぎ足しして現在の形になる。 げ ら れ た 賞 状 の 中 に 桜 餅 は な か っ た。 特等賞・春雨 第十五回(昭和三十六年) りである。 全国菓子大博覧会の受賞歴は次のとお 菓子製造が繁盛した頃 戦 後 四、五 年 経 っ た こ ろ か ら、 ク ッ キーやらカステラの製造を始めた。さ らに、チョコレート饅頭、春雨(落雁 20 冬の寒いときにはこれが重宝な窓だっ が付いている。暖房が十分でない時代、 入れできるほどのさらに小さな引き戸 さな引き戸の中には、手がやっと出し 質問に答えてくれた。たばこ売場の小 うだ。 になって、店のどこかから出てきたそ 政府第壹回宝くじ」の券だった。最近 ページの最初に貼ってある券は「日本 で、雑誌に糊付けしたものだ。最初の されている。店頭のガラス戸には「大 屋は宝くじのよく当たる店として紹介 は、水木ロードマップなどでは、辰巳 この窓からは宝くじも売られた。実 今度おじゃましたときは、ぜひお願い こ に 座 っ て み る こ と は で き な か っ た。 るのだろうか。残念ながら、今回はそ な窓からは外の世界がどんな風に見え 通りを眺めたことなどない。この小さ 私はもちろん、たばこ売場の中から 当タリの数々」なる貼り紙がある。何 したいものだ。 たのだろう。 と、その中には「第383回全国自治 集録』という珍しいものも見せても ら 発 売 さ れ ま し た 」 と あ る。『 宝 く じ 代 が そ の ま ま 保 存 さ れ た よ う な 空 間。 「 収 蔵 品 」 の 数 々。 昭 和 二 十 ~ 三 十 年 戦後六十年の歴史を刻んだ店舗と 宝くじ 一等 一億五千万円 当店か らった。これまでの宝くじ券の収集帳 せ た と し て も、 そ の 途 端 に そ れ ま で 味)品々が博物館に収蔵されることは な(昔はどこにでもあった、という意 だろうか。間違っても、これらの平凡 資料」は、これからどうなっていくの これらの貴重な「生業・暮らしの文化 (おおつか・しげる/食料経済学) だ。 を守り続けてくれることを祈るのみ である。店の主がいつまでも元気で店 なものだ。現役だからこそ魅力的なの う。生業・暮らしの文化資料とはそん 放っていた光彩を失ってしまうであろ ■たばこ売場の小さな引き戸。 ないだろうし、仮に博物館入りが果た のんびり雲|創刊準備号| 2006 21 ■(写真上)年代物の秤。(写真下)宝くじ券の収集帳。 非常に頭を悩ます課題がでた。この けてくるいう いて「文化を感じさせるもの」を見つ 何か」を考え、模索し、実際に街を歩 という授業で、各自が「地域文化とは するまで分からない。それよりも「いっ う 」。 ど ち ら が 正 し い か は、 街 を 探 索 下町だから文化なんていっぱいありそ な」であった。しかし、友達の意見は「城 うめったに見つからないんじゃないか は除くという るようなもの 路地も探索した。すると、家の外側に りだけではなく、普段歩くことのない 松江の街を実際に歩いてみる。大通 顔の大きさくらいの石が置いてあった あったり、道路に面した家の角に人の すそうだ。 んだもので、一足作るのに一日を費や が展示してあった。靴はとても手の込 そ の 靴 は 近 頃 の 靴 に 比 べ る と 重 く、 りと、不思議なものがいろいろと見つ かる。課題をこなすためによく目を凝 に靴を履いていたそうだ。しかし、今 とても頑丈であった。昔の人は丈夫な 狭い路地を通行する車が家に接触しな では靴も低価格になり、手ごろに買う 靴を履き、壊れたら修理に出し、大事 いようにしているためではないだろう こ と が で き る。 靴 を 修 理 に 出 す 人 は が つ い た と 思 う。 こ れ ら は お そ ら く、 か。初めて目にした光景だが、暮らし めっきり減った。現在、靴を修理でき らしていたから、そのようなものに気 の中で生まれた知恵を実感した。 る職人は松江に二~三人しかいないら このお店は一九三七年の創業で、古く す ぐ そ ば の 水 野 靴 店 に お じ ゃ ま し た。 次に商店街を歩いた。白潟天満宮の の修理の依頼がくるほどお客さんの信 する何かがあるはずだ。遠方からも靴 おられたが、きっと靴には店主を魅了 がないから靴屋をやめない」と言って 水 野 靴 店 の 店 主 は、「 他 に す る こ と しい。 からこの街にある。靴を販売するだけ 頼を得ている靴屋である。こういった 靴の修理できます! 作ってもいたそうで、店先にはその靴 ではなく、修理もしてくれる。以前は 22 特集◎スローな文化を探して な文化」を探しなさいとのこと。 この課題が出された時、ふと頭に浮 かんだのは「松江って県庁所在地じゃ 発展しているから文化なんて、そ も の で あ る。 たい文化って何?」というのがもっと ん しかも、評価 光ガイドブッ 条 件 付 き で、 フェンスのようなものが立てかけて クに載ってい もっと「小さ あの石、なーに? 難題だった。 課 題 が 出 さ れ た の は「 地 域 文 化 研 究 」 山 野 愛 美 三原真由美 が定着し、観 !! 小さな文化? 街の おもしろ 文化観察学 入門 からも残っていってほしいと思う。 靴屋は少なくなってきているが、これ も少ない。その一軒が山陰にあるとい も少なくなっており、専門店は全国で うことに驚きを感じる。 店内のガラスケースには万年筆が整 然と並べられていた。この中屋万年筆 万年筆を修理する? 次に見つけたのは中屋万年筆店とい は四十年前に来たそうだ。 店は一九一八年に創業され、天神町に この店では、販売だけでなく修理も うお店だ。店の前の広場で鳩が仲良く からもわかるように万年筆を専門とし やっている。現在、全国で万年筆の修 憩うのんびりとした街角にある。名前 ているお店だ。現在は万年筆を使う人 理をしているのはたった五人で、当店 の ご 主 人 は そ の う ち の 一 人 だ そ う だ。 全国から万年筆の修理の依頼が絶えな いという。直した万年筆の持ち主から 中屋万年筆店はこれまでに多くの雑 だ っ た。 廊 下 に 出 る と 丸 い も の が ボ が書かれたという明治時代の医学書 の前にこのような出会いがあったこと 変わることが決まった。残念だが、そ この医院も取り壊して新しく生まれ の礼状がたくさん届いていた。 誌で紹介されている。さらに、顧客に コッと三つ並んで出ていた。ちょうど をうれしく思う。 今 ま で、「 文 化 と は 何 だ ろ う か 」 な とっては実に不思議な扉だった。 よ っ て 応 援 サ イ ト も 運 営 さ れ て い る。 る。中心に黒い突起がついていた。話 手の平ぐらいの大きさで円形をしてい を聞いてみると電灯のスイッチらしい このようにお客さんから愛されるの 万年筆を修理し続けた確かな技術力の のだ。黒い突起を上下に動かして、つ も、ご主人の穏やかな人柄と六十年間、 賜物ではないだろうか。 院長自ら案内してくださった。 き た い 旨 を 伝 え る と、 快 く き き い れ、 さな窓があり、中を見学させていただ の胸ぐらいの高さがあるその台には小 入ると右手に木の受付台がある。大人 次は福間医院という古い医院。中に みると、それが右に動き、扉を押し開 う色をしている。その横木をいじって が、よく見ると横木の一部がほかと違 本かの横木に板を打ちつけたものだ いてみても開かなかった。この扉は何 板としか見えない。引き戸のように引 といっても取っ手もなく、茶色い木の い?」と悪戯っぽくおっしゃった。扉 院 長 先 生 が「 こ の 扉 を 開 け れ る か 国文二年生) ( や ま の・ ま な み / み は ら・ ま ゆ み / を、あなたもぜひどうぞ。 ことができる。こんなスローな楽しみ な 文 化 」「 お も し ろ 文 化 」 を 見 つ け る と。街を歩くと様々なところに「小さ 文化のかたまりではないか」というこ た。 そ こ で 思 っ た こ と は、「 街 全 体 が についてあれこれ考えることができ が、 松 江 の 街 を 探 索 し な が ら「 文 化 」 どということは考えたこともなかった い親しみのある空気を感じた。書斎に 靴を脱いで中に入ると、町医者らし け る こ と が で き た。 昔 は ど こ に で も けたり消したりしていたらしい。 入ると、院長先生はある医学書をみせ あ っ た 扉 ら し い が、 私 た ち の 世 代 に 古い医院の中を探検 てくださった。それは院長のお祖父様 のんびり雲|創刊準備号| 2006 23 晴耕雨読 み、子どもの遊びが制約されることに もなりました。道路などの土木工事や 川の改修工事が川の様子を変え、人間 に川離れを促すことにもなりました。 るようになりました。進学率の上昇は 後年、私は、県内各地を訪ね、隠岐 いる大人がどれだけいるでしょうか。 が夢だなぁ それらと接触を持たないまま大人にな 子 ど も が 海 や 山 や 川 離 れ を 起 こ し、 るという現象が見られるようになりま した。海や山や川が、どんなに面白い 所か、どんなに人間を豊かにしてくれ るものかについて、知らない人が多く 小さい川にさえ、アユやウグイ、ウ 教室での勉強のみを重視する風潮を生 有 馬 毅一郎 なりました。 今、子どもが智恵をつけ、立派に成 長していく上で、自然との関わりの少 私は、子どもの頃、すごい山奥で育 ナギが居て、ほとんどの家は牛を飼い、 なさが大きな障害になることを知って ちました。出雲市を流れている神戸川 数々が、私の子ども時代を豊かなもの 住みつかない時代が来ました。そして、 その後急激に、川には魚がほとんど あって、飽きることがありませんでし しくて、魚との智恵比べで、スリルも のめり込んでいました。毎日の川は楽 れ る と、 学 校 は 川 で の 遊 び を 制 限 す も起きました。学校にプールが完備さ る農薬が川の生き物を犯すということ 活を一変させました。農作物に使用す ■子どもの頃作った手づくりの魚取りの道具(例) そうです。 うのも時代の特色と言え いうあせりを持ったとい いと時代に乗り遅れると 親も、ゲームを与えな た。 らえることができまし に変わっていく状況をと 遊びに時間をかけるよう テレビゲームなどの室内 内 に 自 然 離 れ を 起 こ し、 た子どもたちが、数年の でも、海や山で遊び育っ たことがあります。隠岐 えば遊び)の変化を調べ 子どもたちの育ち方(例 の 島 に も 何 度 も 渡 っ て、 どもも、どっぷりと自然に囲まれて暮 らしていた時代があったのです。恐ら 農業にいそしんでいました。大人も子 の谷川沿いに六百メートル入った所に く何百年何千年と続いてきた自然優位 の三十キロメートル上流に高津屋川と 私の実家はあります。周囲は峡谷で山 の生活環境がそこで暮らす人間のDN にしてくれていました。家の前の高津 川で遊ぶ子どもの姿も全く見られない Aを型づくっていたのです。 屋川や少し下流の神戸川は、魚取りや 時代に入りました。 た。 夏休みは一日も欠かさず、日暮れまで、 経済の高度成長は、日本の風景や生 魚釣り、泳ぎを楽しむ最高の遊び場で、 わずかな田畑、変化に富んだ山の幸の 今 か ら み る と 貧 し か っ た の で す が、 で、今は廃屋同然です。 ばかり、隣家は見えないという一軒家 いう小さな無名の支流があります。そ やっぱり 特集◎スローな文化を探して 4本ヤス 3本ヤス チョンかけ 鉄砲ヤス 24 るように思います。 か、そろそろ結論を出す時期に来てい を過ごすことが賢明なことなのかどう のですが、それと決別して子ども時代 日本は海の国であり、山と川の国な たり、私の実家で自炊したりします。 でやって来るのです。友人の家に泊っ ために、年二回ぐらい、数日間の予定 になります。退職してゆとりができた 業発展の一翼を担った人間ということ 出て、経済の高度成長と共に日本の工 と言っているのです。 は、この田舎の山や川だ」 「自分を育ててくれたの は、教えられます。彼は 確かめようとする姿に や「少年時代の自分」を 京阪神に移り住み、やがて東芝電気の 彼は小学校を終える頃、家族と共に した。 学校の同期の友人が田舎にやって来ま この夏も上野 遥 さんという私の小 今 年 は 救 命 胴 衣 ま で 用 意 し て、 川 に 遊 び、 魚 取 り を し た 場 所 に 行 き ま す。 桑の実を食べた頃を確かめます。川で 時 山 芋 を 掘 り、 栗 を 拾 い、 柿 を 取 り、 して、味わっています。山に入り、当 回って、半世紀前の我が郷里を思い出 てるかがテーマでした。 の世代の人たちをどう育 で言うと、教室の中で次 事にしてきました。一口 をめざす仕事を一生の仕 私は、学校教育の充実 彼はやって来ると実に活動的に動き 技術者となり、先年定年退職しました。 入って、かつての感触を味わったと言 はるか 少し大げさに言えば、田舎から都会に は、やっぱり自分は、晴耕雨読が夢だ ところが、教室という そこで、計算や文字だけでなく「人間」 なぁ、ということです。つまり、晴れ います。谷川の中を友人と 学校の通学路も実際に歩 まるごと立派に育てることは、とても た日は外に出て、自然のおつき合いを ところは、元来、本物の いてみています。主な友人 難題なのです。しかも、教室に来るま し、雨の日は家の中でゆったりと読書 一緒に歩き、数百メートル の通学路もです。通学路は、 で の 幼 児・ 児 童・ 生 徒・ 学 生 さ ん が、 などを楽しむという生活、自適の生活 自然も実社会もない空箱 昔とはずい分違ってきてい 時代とともに自然(実社会)離れを進 です。 の間の岩や石の様子を確認 ますが、毎年歩いてみてい 展させてきていますから、教育は益々 の よ う な 世 界 で す か ら、 ると、思い出すことが次ぎ 困難性を高めてきています。 が、少年時代にどんな役割 を育んでくれた郷里の自然 彼は、歩きながら、自分 る シ カ ケ を 構 想 し て い る と こ ろ で す。 す。川畔に立って、川に接近したくな 若い人たちに伝えたいということで は「 川 が 呼 ん で い る 」 と い う こ と を、 が騒いでいるのを感じています。一つ 私は今、自分のからだの中のDNA ( あ り ま・ き い ち ろ う / 学 長・ 社 会 科 います。 め、自分も実行、実現したいと思って く似合います。若い世代の人にもすす います。ゆったりには、自然の中がよ だからこそ、ゆったりがいいなぁと思 に 失 っ た も の、 気 ぜ わ し か っ た 生 活。 これまで私たちがくぐって来た時代 次ぎ出て来るし、新たな発 を果たしてくれたのかを検 手づくりですが、水に親しむコーナー 教育学) 見と味わいがあると言いま 証しているのだと思いま づくりなどを試みています。もう一つ す。 す。 彼 が、「 自 分 の 生 涯 」 のんびり雲|創刊準備号| 2006 25 し、思い出していました。 ■川との触れ合いを促すコーナーづくり(部分・未完成)