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近世店屋考
池本喜巳写真集 二〇〇六年六月 合同印刷株式会社 録することによって、人情や、職人業 近代化によって失われ行くものを記 伊藤英一 私が子供の頃は、街のあちこちに駄 の貴重さに思いを至らせる力が、この 定価三八〇〇円 菓子屋があり、金属を削る旋盤の音が 写真集にはあると思う。 それは、写真家としての池本さんの 響き、たばこ屋の店先には、いつもお 散髪屋は溜まり場になっていて笑い カメラアイを支える技術の確かさによ 大型カメラの緻密な描写力を活用 声や、話し声が絶え間なく聞こえてい そ ん な 記 憶 と 重 な っ て、 ペ ー ジ を し、画面の隅々まで神経を配った構成 るものだ。 繰っているうちに、ふと、現実に返っ 心の交流を感じ取ることが出来る。 からは、職人気質の頑固さとか、温い また、店のたたずまいや人物の表情 ており、匠の業が浮かんでくる。 仕事場としての効率的な配置が写され そこには、職種による独特な工具や には感嘆するばかりである。 かという疑念が湧いてくるのだ。 心はかえって貧しくなったのではない 国際的写真家として知られる植田正 いた絵画を超える利点でもある。 き い が、 地 域 の 連 帯 感 は 希 薄 に な り、 写真は記録であり、かつて模倣して 利便性の追求によって得たものは大 り近代的な街並みに変貌している。 ビニなどが生活の場になって、すっか 大型スーパーや、自動販売機、コン どこにもない。 身近かにあった懐かしい情景はもう て唖然とした。 た。 ばあさんや娘さんが店番をしていた。 評 近世店屋考 本の紹介 治先生は私が手ほどきを受けた師であ り、著者、池本喜巳さんにはそういう 意味でも親しみを感じている。 かつて、俳人松尾芭蕉が「奥の細道」 を旅した時、弟子、曽良が同行したよ うに、アルルへの旅行を共にされたの であろうか。 「近世店屋考」は貴重な資料として、 今後活用されると思うし、著者、池本 喜巳さんの表現の業に敬意を表する。 ( い と う・ え い い ち / 総 合 文 化 学 科 非 常勤講師「写真表現法」担当 (予定) ) 池本喜巳プロフィール 略歴:1944 年鳥取市生まれ。故植田正治氏のア シスタントを長く勤める。鳥取市で池本喜巳写真 事務所を経営。ライフワークは鳥取を中心とした 山陰の消えゆく風景・人物を記録すること。 著書(写真集):『鳥取県の道』日本海新聞社、 『池本喜巳作品集 鳥取百景』(鳥取銀行創立 50 1990 年、 『そでふれあうも』G.I.P.Tokyo、1993 年、 周年記念事業)1999 年、『池本喜巳写真集 三徳 山三仏寺』新日本海新聞社、2002 年、など。 ■林原桶店 1987 (51頁) 50 評 定価(本体 700 円+税) スローライフ ――緩急自在のすすめ―― が、この本に限っては立て続けに三回 年に数冊程度しか読まない。そんな私 私 は 本 を 読 む こ と が ど う も 苦 手 で、 る。 「緩急自在のすすめ」が基になってい 年一月号から十五回にわたり連載した 書 誌『 図 書 』( 岩 波 書 店 ) に 二 〇 〇 五 日にJ R西日本が尼崎市で起こした大 の」のなかで、二〇〇五年四月二十五 ま た、 第 8 章「 急 ぐ こ と で 失 う も らゆる領域でスピードや効率を求める 猛烈な速さで進み、暮らしと仕事のあ グローバル化だの、IT革命だのが 人」の筑紫哲也氏である。 しい人生を送ってきた自称「時間貧乏 ニュースキャスターでお馴染み、気忙 フ ─ ─ 緩 急 自 在 の す す め 』 の 著 者 は、 こ こ で 私 が 紹 介 す る『 ス ロ ー ラ イ 溢れているが、実践している人は本当 いう言葉を耳にし、この言葉は世間に はそう思った。最近よく「スロー」と もいるかもしれない。事実、私も初め るのだ、とんでもない論だ、と思う人 が )、 さ ら に ペ ー ス を 落 と し て ど う す 景気のよい話が飛び交っているようだ 続きの経済状況のなか(都会の方では め」という言葉を聞いて、不況・停滞 「 ス ロ ー ラ イ フ 」、「 緩 急 自 在 の す す う。 だ が、「 定 刻 」 を 優 先 し、「 安 全 」 で、日本人のよいところでもあると思 時間を守ることはとても大切なこと 執着を象徴する出来事になった。 行」の慣習、日本人の定時・定刻への は日本の交通機関のきびしい「定時運 まった、という事故である。この事故 ぎてカーブが曲がりきれず脱線してし の遅れを取り戻すために速度を上げす ている。ご存知の通り、わずか九十秒 惨事、脱線事故のことが取り上げられ とを筆者は述べている。 も読んでしまったのだから、何ともす 勢 い が 加 速 し、 年、 月、 日、 時、 分、 に一握りで、言葉ばかりが一人歩きし ごい。 秒という時間の単位のなかで、その最 ま た、 筆 者 は こ の 事 故 に つ い て、「 ロ を 壊 し て し ま っ て は 何 の 意 味 も な い。 ボット化した人間像」という表現を用 ていると感じていたからである。 し か し、「 ス ロ ー か フ ァ ス ト か 」 の いている。上からの指示と規律に縛ら 短の単位「秒」に支配されて暮らして いる私たちの異常な日常への疑問。効 二 者 択 一 の 話 を し て い る の で は な く、 れ、自己判断に乏しい、つまり「自在」、 ますます「ファスト」になりそうな世 の中で「スロー」の効用がかえってあ 「自れが在る」とは到底言い難いとい けて、地球の自然環境は保つのかとい う疑問。──本書はこうした疑問から るのではないか、というのが筆者の考 うことである。 率、利潤を追求してスピードを上げ続 出発している。 えである。 ロー」に生きること 題意識に立って、「ス ならではの痛切な問 「ファスト」で行くのはよいとしても、 一弱」であるようだ。この労働時間を と、労働時間は人生のわずか「十分の 実は、人生を八十年として計算する 日本列島各地での見聞と体験、番組取 内容は、著者が週末のたびに出かける ながら進めていくところである。その 筆者が本題から少し脱線した話も入れ こ の 本 の 面 白 い と こ ろ の ひ と つ は、 「秒」に追われるニュースキャスター の意味と可能性を全 人生の圧倒的な時間を占める道徳や学 読むことが苦手な人でも読みやすい本 国各地の食生活・教 だと思う。一読をおすすめしたい。 材 な ど、〝 現 場 〟 で 起 き て い る こ と を のはどうかということである。つまり、 習など、その他の「十分の九」までも いちばんのカギは「緩急自在」の「自 (しみず・ようこ/生活科学二年生) 育・旅などの実例か たかに」というス ゆ っ た り、( 心 ) ゆ 在」の部分にあり、自分が緩急のペー 中心に書かれている。私のように本を ローのすすめを書い スを選び取ることが重要だ、というこ ら考え、「ゆっくり、 「 フ ァ ス ト 」 の ペ ー ス に 引 き 込 ま れ る た本である。月間読 のんびり雲|創刊準備号| 2006 51 清水洋子 岩波新書 本の紹介 筑紫哲也著 2006 年 4 月 てまず何を思い浮かべますか? 弾け 皆さんは「オーストラリア」と聞い や、オーストラリアの現実を皆様にお た面白い出来事、びっくり異文化体験 を持っていました。中でも一番素敵な ん。私のホストファミリーも、それら イ ベ ー ト プ ー ル は 最 高 で す。 そ ん な のはプール。真っ青な空の下でのプラ くてユニークなカンガルーやコアラと 伝えできたら、と思います。 これはオージーの挨拶で「やぁ、こ 私のホストファミリーは、自分の家 プールで起こった珍事件を報告しま オージーは、国土が広いこともあっ のプールを近所の親子に開放していま パパのトイレは……? とは、オーストラリア人を指す愛称で 性と、美味しいフルーツの山! す。 ど う し て、「 オ ー ス ト ラ リ ア ン 」 何 て 開 放 的 で 素 敵 な 国 な ん で し ょ て、自宅に大きな庭やガレージやプー す。 う。私はそんなオーストラリアが大好 ファーザー、それに近所の三歳の娘が ある日、私とホストマザー、ホスト ミリーです。 使えるようにしています。豪快なファ 留守の時でもいつでも彼らがプールを ではなく「オージー」なのでしょうか。 I don't した。プールに入る鍵も渡して、家が …… umm ルを持っている人も少なくありませ しい回答なのでした。 キニシナイ。──これぞ、オージーら (さぁ、知らないよ!)という know! ことでした。細かいことはキニシナイ、 尋 ね て み た と こ ろ、 きです。私がオーストラリアで体験し いった動物たち、フレンドリーな国民 るような太陽に青い空や広い海、可愛 白岩朋子 私の長年の疑問をオージーご本人に んにちは!」という意味です。オージー G'day Mates! マイ オージー 体験記 52 とです。しばらく遊んでいたら、その さばきで、私たちを家まで安全に送り 十六歳のブラザーは見事なハンドル システムになっているのです。 娘がトイレに行きたい、という仕草を 届けてくれたのでした。これぞ、まさ いっしょにプールで遊んでいた時のこ しました。すかさずその娘をプールか に異文化ですね。 と は 美 味 し い、 Yucky とは Yummy 不味(まず)いという意味を表す言葉 食文化! Yummy!? Yucky!? ら上げて、トイレへ連れて行こうとし た瞬間です。なんと彼女は脇目もふら ずにプール横の植木鉢めがけて走り出 その場にいたみんなは絶句してしま です。オージーは食事中、これらの表 したのです!そして立ちションのポー いました。三歳の女の子が、植木鉢め 現を多用します。ここでは、オージー ズ。 がけて本気で立ちションをするわけが の食文化を紹介していきます。 彼女のパパがいつも植木鉢に立ちショ で、家に帰ろうとしたときです。なに 一週間分の食料をたっぷり買い込ん リ ソ ー ス 炒 め( チ リ マ ッ ス ル ズ )、 イ 面して漁港もあるので、ムール貝のチ の州都、パースの名物料理です。海に まず、私が訪れた西オーストラリア ありません。そう、彼女は、いつもの 自分のパパの愚行を無邪気に真似した だ け な の で し た。 ま っ、 …… ま さ か、 ンしていたとは……。彼女の無邪気な やらマザーとブラザーが会話していま ジービーフやオージーラムもありま 行動によってそれがバレてしまい、そ 「あなた、運転してみたらどう?」 す。どの料理もお皿一杯に盛られ、豪 セエビなどが有名です。もちろん、オー 「うん、そうするよ、鍵を貸して」 快にガツガツ食べるのがオージー流な す。 純粋で嘘をつかないのは万国共通です 私は絶句してしまいました。だって、 のです。ビールも欠かせませんよ。 の場は凍り付いたのでした。子どもが ね。 ブラザーは十六歳。しかも、運転免許 さて、オージーの食文化を語るのに まっ、まさか!無免許で運転? を持っていません。なななななな、何 りとしていましたが。しかし、確かに 歳くらいに見えるくらい体格がしっか た。十六歳といっても、私には二十五 いたプレートを貼れば、まだ免許を持 座って指導し、車の後部に「L」と書 ア で は、 運 転 歴 が 長 い 人 が 助 手 席 に 答えは簡単でした。西オーストラリ はチョコレートスプレッド。柔らかい 人の誇るべき発明だそうです。見た目 ザーの話では、これはオーストラリア 染みのない名前ですね。ホストファー 「ベジマイト」。なんだか日本人には馴 欠 か せ な い も の が あ り ま す。 そ れ は、 十 六 歳 で し た。 そ ん な 十 六 歳 の ブ ラ たない人でも公道で運転の練習ができ チョコレートです。そして、パンに塗 故……? 何故に ザーが見せてくれたびっくり異文化を ります。見た目はチョコレートトース ト! るのです。オーストラリアの国土は広 あ る 日 の 夕 方、 マ ザ ー の 車 に ブ ラ そのため、若いうちからこのように練 大なため、車無しでは生活できません。 ザーと私が乗って買い物に出かけたと が、ここでかぶりついてはいけませ 習して試験をパスすれば免許が取れる 紹介します。 !? き の 事 で す。 行 き は マ ザ ー が 運 転 し、 のんびり雲|創刊準備号| 2006 53 私のホストブラザーは十六歳でし ■オーストラリアでは何だってビッグサイズ。 ■写真下:こんな恐ろしいものも観光客を呼び込む道具になっています。 ん。チョコレートの味を想像してかぶ りつくと、あまりの落差に、しばらく 脳が思考停止してしまいます。 そう、ベジマイトとは、その名から 想 像 で き る 通 り、「 野 菜 を 発 酵 さ せ た 野菜塩味ペースト」なのです。オージー はこの味が大好き。毎日トーストに塗 り、かぶりついています。 私 は と い い ま す と、 ホ ス ト フ ァ ミ リーに「これはチョコレートだ」と騙 され、豪快にかぶりついてしまい、ノッ クダウンしてしまいました。それ以来 トラウマになってしまい、未だに克服 できません。うぅ。皆さん、誰か、挑 戦してみてください!どこのスーパー マーケットにも、安価で売られていま す。 アボリジニの現実 さて、次の話題は、私がオーストラ リアで見たアボリジニの現実です。皆 さんは、アボリジニと聞いて何を思い 浮かべますか? ブーメラン、ユニー クな管楽器、ドット絵が素敵なアボリ ジニ・アート、などが浮かぶ人もいる と思います。 ア ボ リ ジ ニ と は、 何 万 年 も 前 か ら 民を指す言葉です。十八世紀には五百 オーストラリア大陸に住んでいる先住 ほどの部族が存在し、使用されている 言語は二百五十を超えていたとされて います。しかし、一七八八年のイギリ 54 アボリジニの人々に遭遇しました。一 私もシティに出かけたときに何度も なく、その大部分が都市部に住んでい み、純粋なアボリジニと言える人は少 現在、白人やアジア系との混血が進 アボリジニの苦難は続きます。 の 後 も、 い ろ い ろ 曲 折 を 経 な が ら も、 アボリジニの人口は激減しました。そ や白人が持ち込んだ病気などが原因で ス人の植民開始以降、白人による迫害 た く さ ん い ま す。 し か し、 そ の 一 方、 仕事について社会に貢献している人も 伝統音楽を披露している人や、立派な 人たちばかりではなく、誇りを持って もちろん、アボリジニはこのような 目が突き刺さっていることでしょう。 まだまだアボリジニには強烈な差別の まっているのか、考えさせられました。 ニの人々をこのような状態にさせてし たのかも知れませんが、何がアボリジ ういう人たちの集まりやすい場所だっ ジニの人々でした。私の行動範囲がそ ださい。 間違いなしです。ぜひ、訪れてみてく て、と、密度の濃い体験ができること、 楽しんで、泣いて、考えて、また笑っ 迎 え て く れ る こ と で し ょ う。 笑 っ て、 です。でも、きっとオージーが温かく ストラリアは、一歩入れば異文化の嵐 アのことが伝わったでしょうか。オー がでしたか? 少しでもオーストラリ オーストラリア異文化体験記、いか 験でした。 を目の当たりにして考えさせられた体 いた。いまだにロバが輸送手段となっている迷宮の街 フェズ。サハラ砂漠の入り口の町ザゴラ。昼はフレッ シュオレンジジュースの、夜はケバブの屋台が並ぶマ ラケシュ。23 日にはモロッコ北端の町タンジェへ行 き、ジブラルタル海峡をフェリーで渡ってスペインに 入るつもりだった。 その日、マラケシュを離れて電車でタンジェへ向か うことにした私は、北アフリカ最大のスーク(市場街) の見納めにと街にでた。が、なんだか様子がおかしい。 いつもより多い新聞売り。ポールの中途半端な位置で はためく国旗。宿に帰るとアラビア語の新聞を手に片 言の英語で話しかけてくるフロントのおじさん。「し 当にチェックアウトするの? 40 年前のときは 1 ヶ 月、いや 2 ヶ月は動かなかった。」 国王の崩御……?と思いつつもとりあえず駅へ向か うが、やはり電車は来ない。 ひとまずもう一泊して翌朝街に出ると、スークに何 百軒もある店という店がすべて閉まっている。唯一観 光客向けだろうか、開いているカフェに入ったとたん に大勢の人々が国王の死を悼み、国旗を掲げて大声で 歌を歌いつつ行進してきた。カフェのおじさんは客を 店の中に押し込み、あわてて店を閉じる。喪に服して いないふとどきな店など、なだれ込んで壊しても構わ ないという勢いだった。 3 日目、さすがに帰りの飛行機に間に合うかどうか 心配になってきた。民営バスなら動いているかも、と いうフロントのおじさんの言葉だけを頼りに、バスを 3台、27 時間かけて乗り継いでようやくタンジェへ たどり着き、やっと胸をなでおろしたのだった。 フェリー乗り場のカフェでヨーロッパ大陸を目の前 にして飲んだ、砂糖がたっぷり入ったフレッシュミン トティーの味が今でも忘れられない。 (おぐら・かよこ/総合文化学科非常勤講師「コン ピュータ・リテラシー」「DTP演習」担当(予定)) 55 のんびり雲|創刊準備号| 2006 (しらいわ・ともこ/英文二年生) ばらくはバスも飛行機も電車も動かないと思うよ。本 ます。 番 多 か っ た の は、 昼 間 か ら 酒 を 飲 み、 社会に受け入れてもらえずに苦しい思 画も立てずに 2 週間、ザック一つでモロッコを旅して ベンチに寝そべったり無心をしている 日マドリッド発の帰りの航空券だけを持ち、ろくに計 いをしているアボリジニもたくさんい 1999 年 7 月、サハラ砂漠で夜空を見ていた。31 人々でした。白人の警察官から強く尋 小倉佳代子 るのです。オーストラリアの負の現実 ──国王の死に遭遇して── 問されているのも、たいていがアボリ モロッコにて 氷の 文化誌 かき氷の謎を追って 小山由起子 を紹介しよう。 けづ ひ しろがさね あまづら かざみ あてなるもの。薄色に 白 襲 の汗衫。 かなまり かりのこ。削り氷に甘葛入れて、新 しき 鋺 に入れたる。…… (増田繁夫校注『枕草子』和泉書院、 一九八七年) 冷蔵庫のない時代、夏に氷を手に入 れるのは大変なことである。夏の氷は 宮廷の一部の者のみが得られる大変貴 重なものであった。では、その貴重な 氷を平安時代の貴族たちはどのように す る し か な い。 そ の 保 存 倉 庫 を「 氷 人 間 と 深 い 関 わ り を 持 ち 続 け て き た、 冬場に自然にできた氷を夏まで保存 して手に入れていたのであろうか。 ──かき氷っていつごろ生まれたのだ とてもとても大事な物。それはどのよ 室」という。例えば、日の当たらない ていると、ふっと疑問が浮かんでくる。 氷。 ─ ─ 決 し て 目 立 ち は し な い が、 き氷」を思い浮かべる人も多いのでは ろうか? かき氷を最初に食べたのは うな歴史を刻んできたのだろうか。 「 氷 」 と 聞 い た と き、 真 っ 先 に「 か ないだろうか。かき氷を口に入れた時 いつ、どこで誕生したのだろうか? 誰なのだろうか? 最初のかき氷屋は を厚く敷き詰めて氷を置く。さらにそ 日本の文学史においては、夏の風物 いる。氷室は平安時代からのち何百年 の上を草で覆って断熱したといわれて 平安貴族とかき氷 山腹に穴を掘り、地面には茅やすすき に広がる清涼感、そしてすっと溶けて あの氷を削るかき氷機っていつごろで いくあの快感。夏の暑さを一気に吹き 飛ばしてくれるかき氷は、今も子ども きたのだろうか?──かき氷にまつわ る謎は尽きない。 から大人まで広く愛されている。 そんなかき氷についてあれこれ考え にもわたって、人々に氷を供給するた 平安朝には氷を担当する部署が設置 詩として、暑い季節の暮らしを描くと 少納言の「枕草子」や紫式部の「源氏 され、専門職が置かれていた。その名 めに使われたらしい。 物語」にも氷が出てくる。しかも、単 を 主 水 司 と い う。 主 水 司 は 氷 室 の 管 き、よく氷が登場する。かの有名な清 な る 氷 だ け で は な く、 何 と「 か き 氷 」 理や氷の運搬などの仕事にあたったと では、「削り氷」(かき氷)をつくる 小刀で氷を削った? されている。 もんどのつかさ が登場する。 「氷ってそんなに昔から使われてい た の か 」「 か き 氷 っ て そ ん な に 昔 か ら 食べられていたのか」──驚きととも 子」の第四十二段「あてなるもの」 (優 のに、どうやって氷を削ったのか。か に、 あ る 種 の 感 動 さ え 覚 え る。「 枕 草 雅なもの)より、かき氷に関する部分 56 に氷を持ちながら、かく争ふをすこ 白き薄物の御衣着たまへる人の、手 薄い着物をまとい、濡れた氷を手にも 女と決まっていたらしい。肌の透ける 夏場に氷で涼をとるのは、もっぱら はるばる運ばれてきたのだから。嘉兵 はアメリカ東海岸のボストンから遠路 ようだ。それもそのはず、これらの氷 くびっくりするほど高価なものだった ぞ き氷機なんてものはもちろんない。現 し笑みたまへる御顔、言はむ方なく つ女君の姿態は、なかなか艶めかしい。 うすもの 在使われているような 鉋 (台鉋)も うつくしげなり。……(中略)…… ゑ も いものかと、さまざまな試みを行った。 はごくわずか、反対に残った借金は大 さま 氷の普及について語るとき必ず登場す 変な額にのぼった。 まず、富士山のふもとに氷池をつくり、 るのが中川嘉兵衛という男である。嘉 その後も失敗が続いたが、嘉兵衛は こころづよ あらそ まだなかった。おそらく主水司に専門 心 強 く 割 り て 手 ご と に 持 た り。 頭 ひ の 職 人 が い て、 小 刀 の よ う な 刃 物 で にうち置き、胸にさし当てなど、様 氷を何かの蓋に置いて割るというの 兵衛は文化十四(一八一七)年、三河 へ こ た れ な か っ た。 そ し て、 明 治 二 かんな 削っていたのではないか。削り具合が あ し う す る 人 も あ る べ し。 こ と 人 ここから切り出した天然氷を横浜に運 で大騒ぎする人々で、女房が三人ほ 国伊賀村に生まれた。日本の氷事業は、 ( 一 八 六 九 ) 年、 函 館 で 調 達 し た 五 百 おまへ かほ どんなものであったのかはわからない 庶民もかき氷が食べられるまでに氷 んだ。だが、折からの猛暑のため輸送 衛はもっと安い値段で氷を供給できな が、 氷 を 上 手 に( 薄 く )、 そ し て 早 く は、紙に包みて御前かくて参らせた が普及するのはずっとのちのこと、明 中にほとんど溶けてしまう。残った氷 かしら 削るのは大変難しい作業だったに違い れど、いとうつくしき御手をさしや 治 時 代 に な っ て か ら で あ る。 そ し て、 そして、その氷を鋺(金属製のお椀) どと女童がいる。唐衣も汗衫も着ず、 この嘉兵衛によって大きく発展するこ トンの天然氷を京浜地区に輸送し販売 氷に情熱を注いだ男 ない。もしかしたら冬の間に、ふんだ りたまひて、拭はせたまふ。 に盛りつけていた。最後に、甘葛を煮 みなくつろいだ様子でいるので、女 とになる。 することに成功する。それまでの氷に のご んにある氷を使って一生懸命削り方の 詰めた汁をかけていたようだ。甘葛と 一の宮の御前であろうとはお思いな 当時、氷は外国人医師たちが治療用 比べればはるかに安価な函館氷は、庶 衛は氷の普及史にその名を残すことに (現代語訳) は、つる草の一種で今のアマチャヅル さらないのだが、白い薄物のお召し に使っていたということだが、とにか 練習をしたのかも知れない。つい、そ のことではないかといわれている。ど を持ちながら、女房たちの争い騒ぐ 物を着ていらっしゃる人の、手に氷 んな姿を想像してしまった。 んな味だったのかはわからないが、見 様子を見てほほえんでいらっしゃる なった。 民の間に氷ブームを引き起こし、嘉兵 た目は「みぞれ」に近いものだったと 思われる。 お顔が、言いようもなく美しく見え る。 ……( 中 略 ) …… 女 房 た ち は るのだろう。別の女房は紙に包んで どして、みっともない様子の人もい る。頭にのせたり、胸に当てたりな る者が氷水屋を開業したという記録が ( 一 八 六 九 ) 年、 横 浜 市 で 町 田 房 造 な こ に 登 場 し た の だ ろ う か。 明 治 二 では、日本初のかき氷屋はいつ、ど 「源氏物語」の氷遊び 平安貴族は氷をかき氷にして食べた 女一の宮にも同じようにお勧め申し あり、どうもこれがかき氷屋の一号店 かき氷屋一号店 だ け で は な い。「 源 氏 物 語 」 に は 夏 の 上げるのだが、宮はたいそう愛らし の よ う だ( 強情に氷を割って手に手に持ってい 盛り、氷を肌に当てて遊ぶ姿が描かれ いお手を差しのべなさって、女房に かき氷がブームとなったこの時代、か ひ ふた かげろう ている。蜻蛉の巻には次のような叙述 ぬぐわせなさる。 がある。 ( 鈴 木 一 雄 監 修・ 伊 藤 鉄 也 編 集『 源 おとな 町田は日本人として初めてアイスクリー ムの製造販売を行った人物とされている )。 氷を物の蓋に置きて割るとてもて騒 き氷屋は当たり年になると一年を三カ からぎぬ わらは ぐ 人 々、 大 人 三 人 ば か り、 童 と 居 氏 物 語 の 鑑 賞 と 基 礎 知 識 』 至 文 堂、 月で暮らす、つまり夏の間、三カ月間 かざみ たり。唐衣も汗衫も着ず、みなうち 二〇〇三年) おまへ (薫は) 解けたれば、御前とは見たまはぬに、 のんびり雲|創刊準備号| 2006 57 で一年分の生活費を稼いだといわれて いる。しかし、この商売が天候に左右 されることはいうまでもない。冷夏に 見舞われでもしたら、たちまち生活に 窮することになる。 一年を三カ月で暮らすといったうま い話が誰にでも、いつまでも続くはず はなく、実際には夏以外の季節には別 の 商 売 を や っ て い た よ う だ。 最 も 多 かったのは炭屋だったようで、そのほ か牛肉屋というのも少なくなかったと されている。 機械製氷の時代へ さて、中川嘉兵衛が天然氷の輸送販 い た。 高 熱 で 苦 し ん で い た 福 沢 機械で氷を製造する試みも進んで 売に奮闘していたころ、一方では が仕入先の市場製氷という会社を紹介 製氷会社はないようだ。ある問屋さん で製造はしていない。どうも松江には 軒か電話してみたが、どこも卸売だけ しても氷の姿はない。どこにあるのか い ぶ ん 涼 し か っ た が )、 あ た り を 見 回 夏の暑い日に訪問したので外よりはず らった。製氷室は常温で(といっても 氷は、金属製の缶に水を入れ、これ 諭吉のもとに弟子たちが氷を運 市場製氷で話をうかがってわかった をブラインという冷たい溶液のプール と思ったら、床に敷き詰められた板の れ た も の だ っ た。 こ れ が 明 治 三 ことだが、現在では製氷会社は山陰地 に浸してつくる。缶は縦二十六センチ、 下にあった。 ( 一 八 七 〇 ) 年 の こ と で あ る。 明 方にはわずか三社しかなく、その三社 横五十六センチ、高さ一メートルの大 は米子に向かうことにした。 治十六(一八八三)年には日本人 はいずれも鳥取県にある。ひとつが米 きさで、できた氷の重さは百三十五キ してくれた。所在地は米子市。私たち による最初の製氷会社がつくられ 子の市場製氷で、他の二つは境港市と ロ も あ る。 こ れ を 原 氷( げ ん ぴ ょ う ) んだというエピソードが残って た。やがて天然氷は安価な機械氷 関金町(現倉吉市)にあるとのことだっ という。製氷室はこんな大きな氷が一 い る が、 そ の 氷 は 機 械 で つ く ら (人造氷とも呼ばれた)に押され、 た。 氷をよく見ると中心に白い芯があっ があった。 度に五百個ぐらいつくれるだけの広さ 市場から消えていく。 どについて話をうかがった後、実際に 市場製氷では会社の歴史や取引先な 上 氷( 飲 食 用 お よ び 食 品 冷 却 用 ) 氷を製造している場所を見学させても 松江市では七軒ほどが載っていた。何 を 見 る と「 氷 商 」 と い う 分 類 が あ り、 場はあるのだろうか? 職業別電話帳 たくなった。さて、この近くに製氷工 に、実際に氷をつくっている現場が見 氷についてあれこれ調べていくうち 製氷工場見学 減少に向かった。 て消え去り、それとともに氷の需要も 庫は、電気冷蔵庫の急速な普及によっ している。この氷を使って冷やす冷蔵 ボックス)のピークだったことと関係 こ の 頃 が 家 庭 用 木 製 冷 蔵 庫( ア イ ス クを迎えたのは一九六一年で、それは けられる。日本の氷生産量がピー と水産氷(鮮魚等の冷却用)に分 氷はその用途によって大きく陸 ■氷を使って冷やす冷蔵庫(アイスボックス)。2003 年に学生たちが 松江市内のあるお宅で撮影させていただいたもの。 58 て、新しい水を注ぎ込む。だから白い 部の不純物の集まった水を一度抜い 合、周囲がだいぶ凍った段階で、中心 エ ア レ ー シ ョ ン と い う )。 陸 上 用 の 場 で攪拌しながら凍らせていく(これを た、不純物を除去するため、水を空気 もの時をかけてゆっくり凍らせる。ま を「純氷」という。純氷は四十八時間 かかっている。きれいで溶けにくい氷 上用で、もちろん陸上用の方が手間が る。芯が太いのが水産用、細いのが陸 て、 そ の 芯 が 太 い の と 細 い の と が あ うだ。 も歴史が古く、明治時代に始まったそ そのタイミングが難しいそうだ。花氷 く、 入 れ る タ イ ミ ン グ が あ る ら し い。 などは最初から入れておくのではな ものをつくったこともあるという。花 祝いとしてドンぺリを氷の中に入れた 氷のディスプレイである。バーの開店 水の中に花や魚などを入れて凍らせた る こ と は で き な か っ た が、 花 氷 と は、 を作るための容器だという。実際に見 も の が あ っ た。 聞 け ば そ れ は「 花 氷 」 の一角に先のとがった六角柱のような 何個も保存されていた。大きい氷を生 マイナス五~十度の木製の部屋に氷が かったので、とても不思議な感覚だっ でたくさん見ることなんて今までな 間、氷はすーっと溶けた。こんなやわ らスプーンを手にする。口に入れた瞬 る と も の す ご い 冷 気 を 体 中 に あ び た。 製氷室の次に保管室を見学した。入 芯がほとんど残らない。 サッカーボール型の氷も 製氷室の窓越しに機械室があり、そ らかいかき氷は今まで食べたことがな ルとバスケットボールの形をした丸氷 る機械である。帰り際にサッカーボー などに加工したり、袋詰めにしたりす 機械がたくさんあった。氷をかち割り は木の良い匂いがする場所で、大きな た。 き氷も実に奥が深いことに驚かされ ふわのかき氷ができるという。氷もか 結晶の成長方向に平行に削ると、ふわ はなく、削る向きも大事らしい。氷の あるらしい。鋭い刃で薄く削るだけで かった。どうも、氷の削り方に秘密が た。 を も ら っ た。 こ れ ら の 丸 氷 は オ ン ザ (こやま・ゆきこ/国文二年生) 史』日本冷凍協会、一九七五年。 □日本冷凍史編集委員会編『日本冷凍 聞社、一九九四年。 □田口哲也『氷の文化史』冷凍食品新 ──参考文献── ロックなどに使うそうだが、まるでガ ラス細工のような美しい氷だった。 おいしいかき氷の秘密 見学を終えて、かき氷のおもてなし を受けた。製氷会社のかき氷はどんな ものかと、期待に胸をふくらませなが のんびり雲|創刊準備号| 2006 ■(写真右上)製氷室内全景。板の下には氷缶がずらっと並んでいる。 (写真右下)板をめくって氷缶を上から見たところ。縦 26cm、横 56cm で、深さは 1 mある。これは水産用で芯が太い。(写真上)芯 の細い陸上用。(いずれも株式会社市場製氷にて) 59 次に加工工程の場所に行った。そこ ■保管倉庫内の氷。上は「原氷」、下はかき氷用に切れ目を入れ たもの。(株式会社市場製氷にて)