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Title 再論:タシロ三世 ベヒァー著「誓約と支配」に関連して

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Title 再論:タシロ三世 ベヒァー著「誓約と支配」に関連して
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再論:タシロ三世 ベヒァー著「誓約と支配」に関連して : 歴史的地域研究試論
森田, 茂(Morita, Shigeru)
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
慶應義塾大学日吉紀要. ドイツ語学・文学 No.32 (2001. 3) ,p.1- 71
Departmental Bulletin Paper
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032372-20010331
-0001
1
再 論
ベ ヒ ァ ー著
:タ シ ロ 三 世
「誓 約 と支 配 」 に 関 連 して
一 一 歴史 的地域研究試論 一 一一
森
は
Matthias
Becher著
じ
め
「誓 約 と支 配1)」 は
田
茂
に
「カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 エ トス の 研
究 」 を 副 題 と し て い る こ と か ら分 る よ う に , フ ラ ン ク 王 国 国 王 カ ー ル 大 帝 の
言 動 を 探 る 中 で , バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世
追 放 問 題 及 び そ れ に密 着 す る
カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と し て の エ トス を 論 じ て い る。 そ の 詳 細 に つ い て は 本 稿
2.で 扱 う と し て , 最 初 に 本 稿1.で
フ ラ ン ク王 国 の
「伝 声 管 」 と 目 さ れ る
「フ ラ ン ク王 国 年 代 記 」 等 に 従 い つ つ , カ ー ル 大 帝 と タ シ ロ3世
を 整 理 す る 。 最 後 に 本 稿3.で
のか か わ り
フ ラ ン ク 王 国 に 呑 み こ ま れ て 行 くバ イ エ ル ン
太 公 国 の 姿 を 纏 δ6, こ れ を 「慶 應 義 塾 大 学 日 吉 紀 要 : ドイ ッ 語 学 ・文 学 」 第
28号
所 載 の 筆 者 に よ る論 攷
「タ シ ロ 三 世 と カ ー ル 大 帝 」(S .1-55)へ
の補 筆
とす る。
1.タ
シ ロ3世
と カ ール 大 帝 の っ なが り
血 縁 関 係 か ら 言 う と , バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世Tassilo
1)
Matthias
Karls
des
Arbeitskreis
Thorbecke
Becher,
Gro゚en,
Eid
und
Herrschaft.
in:Vortr臠e
f
mittelalterliche
Verlag,
Sigmaringen(以
Untersuchungen
III,(*741?,
und
Forschungen,
Geschichte,
下
zum
hg.
在位
Herrscherethos
von
Sonderband
「誓 約 と 支 配 」 と 省 略) .
Konstanzer
39,1993,
Jan
2
748-788, †794以 後)の
母 ヒ ル トル ー ドChiltrudは
大 帝Karl
いはCarolus
der GroBe或
Magnus
, フ ラ ン ク王 国 国 王 カ ー ル
Rex(*747?,
在 位768一 皇 帝800一 †814)
の 父 で メ ー ロ ヴ ィ ン グ家 宮 宰 か ら フ ラ ン ク王 国 王 位 を 簒 奪 し た ピ ピ ー ン
Pippin
der J
}†768)と
gere或
いはPippin
III.(*714/716?,741宮
宰 一751/52フ ラ ン ク王 国 国
兄 妹 の 関 係 に あ る。 従 っ て タ シ ロ と カ ー ル は 従 兄 弟 同 士 で , 一 時
期 ,770-772年
の 間 , 両 人 は, そ の 妻 が 姉 妹 で あ っ た た め , 義 兄 弟 で も あ っ
た 。 彼 ら両 人 の 祖 父 が メ ー ロ ヴ ィ ン グ家 宮 宰 カ ー ル ・マ ル テ ルKarl
(*689?, 宮 宰714?一 †741)で
Martell
あ る。 し か し そ の 後 , 両 人 の 間 に 宿 命 的 な 激 しい
骨 肉 の 争 い が 生 ま れ , 結 局 カ ー ル が タ シ ロ を 文 字 通 り排 除 す る。 そ こ に 至 る
過 程 を 主 と して フ ラ ン ク王 国 の 公 式 記 録 文 書
「ア ィ ンハ ル ドの と言 わ れ る 年 代 記3)」 及 び
「フ ラ ン ク 王 国 年 代 記2)」,
「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 続 編4)」 等
に 基 づ き年 号 順 に 概 述 して 置 こ う。
2)
Annales
regni
Germaniae
Francorum,
Historica(以
(以 下SSと
省 略),1895,
Ausgew臧lte
Quellen
vom
Stein-Ged臘htnisausgabe,
hg.
Reinhold
stadt.(以
の
Hannover.羅
deutschen
zur
下
Georg
karolingischen
Rau,1955,
Heinrich
Pertz, in:Monumenta
省 略), Scriptores
zur
Bd.5, Quellen
von
ed. von
下MGHと
rerum
独 対 訳 書 :Die
Geschichte
von
Rudolf
des
Wissenschaftliche
Mittelalters.
Buchner(以
Reichsgeschichte,1.
「フ ラ ン ク 王 国 年 代 記 」 を
Germanicarum
Reichsannalen,
in:
Freiherr
下FvSと
省 略),
Teil, neubearbeitet
Buchgesellschaft
E. V.
「王 国 年 代 記 」 と 省 略)。
Darm-
こ の 書 に は 註3
「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 の 一 部 が 付 加 さ れ て い る が タ シ ロ3世
に関 す る部
分 は 付 加 され て い な い 。
3)Annales
MGH
qui
dicuntur
SS,1895,
Einhardi,
Hannoverに
ed.
「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 と 省 略)。
Friedrich
Kurzeは
von
Georg
Heinrich
Pertz, 註2の
併 載 , 「ア ィ ン ハ ル ドの と言 わ れ る年 代 記 」(以
こ の 年 代 記 に つ い て 註2の
下
書 の 校閲 者
, ア ィ ンハ ル ドの 手 に 成 る も の で は な い , と し, 現 在 で は そ 』
の 説 が 大 方 の 研 究 者 の 支 持 を 得 て い る。 この 年 代 記 の 記 者 は未 だ 特 定 され て い な
い0
4)
Chronicarum
tionibus,
unter
der
sellschaft
quae
dicuntur
in:FvS, Bd.4a, Quellen
Leitung
von
Darmstadt.「
編 年 誌 」 に は 第2,
の は そ の 続 編(以
第3,
下
Herwig
Fredegar
zur
cholastici
Geschichte
Wolfram,1982,
libri IV
des
7. und
cum
continua-
B. Jahrhunderts,
Wissenschaftliche
Buchge-
フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 と そ の 続 編 四 書 」。 「フ レ ー デ ガ ル
第4編
年誌 と続 編 が あ る。 本 稿 で 主 と して 引 用 され る
「編 年 誌 続 編 」 と 省 略)。
再論 :タシロ三世
〈748年 〉
ピ ピ ー ン は 彼 の 温 情 に 基 づ きper
suum
beneficium5)タ
3
シ ロを バ イ
エ ル ン太 公 に 任 ず る(「 王 国 年 代 記 」)。
〈755年 〉
タ シ ロ は フ ラ ン ク 王 国 の 五 月 総 会 に 参 加 す る(Ann.
〈756年 〉
タ シ ロ は ピ ピー ンの ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 に 従 軍 す る(「 編 年 誌 続編 」)。
〈757年>
16歳 に な っ た タ シ ロ は コ ン ピ エ ー ニ ュ で ピ ピ ー ン及 び そ の 二 人 の
子 息 カ ー ル(後
Mosl.6))。
の 大 帝), カ ー ル マ ン に 託 身7)を 伴 う 誠 実 誓 約Treueid,
り 家 臣 誓 約Vasalleneidを
っ ま
行 な う 。 タ シ ロ の 家 臣 も彼 ら に 同 様 の 誓 約 を 行 な
う(「 王国 年 代 記 」)。
〈763年 〉
タ シ ロ は , ピ ピ ー ン の 率 い る 第4次
ア キ タ ニ ア戦 役 に参 加 す べ く
ピ ピ ー ンの 本 陣 に 赴 く も の の , 邪 悪 な 考 え を 抱 い て バ イ エ ル ン に 帰 っ て し ま
う。 タ シ ロ は , ピ ピ ー ン と は 二 度 と顔 を 合 わ せ た く な い , と 言 う(「 王 国 年 代
記 」)。彼 は 病 気 を 口 実 に し た(「 所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」)。
〈778年 〉
バ イ エ ル ン軍 が カ ー ル 大 帝 の ス ペ イ ン戦 役 に 参 加 す る(「 王 国 年 代
記 」)。
〈781年 〉
タ シ ロは ヴ ォル ム スに い る カ ール 大 帝 の 許 に 出 頭 , 諸 種 誓 約 を更
新 し,選 りす ぐりの 人 質12人
を差 し出 す。 「王 国 年 代 記 」 に は この 記 述 の 直
後 に 「しか し前 述 の タ シ ロ太 公 は行 な った 誓 約 を 長 くは守 らな か った 」 との
言 葉 が 見 え る(「王 国年代 記」)。こ の 折 , タ シ ロ に 二 つ の 王 宮 イ ン ゴル シ ュ
5)beneficiumの
訳 語 と して は
情 」 を 当 て て お く。 本 稿9ペ
6)Annales
Mosellani,
ed.
「封 土 」 「温 情 」 が 考 え ら れ る が
, こ こで は
「温
ー ジ参 照 。
von
Georg
Heinrich
Pertz ,in:MGH
SS
Tom.1,
1826,Hannover.
7)「
世 界 大 百 科 事 典 」 日 立 デ ジ タ ル 平 凡 社 ,CD-ROM版
社 百 科 」 と省 略)の
「
託 身 」 の項(執
筆 :世 良 晃 志 郎)に
,1998年(以
下
「平 凡
よれば 「
一般 的に は自
己 の一 身 を相 手 方 の保 護 と支 配 と に託 し, 相 手 方 との 間 に支 配=服 従 の関 係 を設
定 す る行 為 」 を言 い 「封 主=封 臣関 係 の設 定 は, 封 臣 た る べ き者 が 封 主 た るべ き
者 の も と に赴 き, 封 主 に対 して 『誠 実 の 宣 誓fidelitas』 を行 な うと共 に, 自分
の 両 手 を 合 わ せ て 差 し出 し, 封 主 が こ の封 臣 の 手 を 自分 の 両 手 で 外 側 か ら包 む ,
とい う行 為 に よ って 行 な わ れ た 。 『託 身 』 の 語 は, この 臣 従 行 為 の う ちで , 誠 実
の宣 誓 を含 ま ず, 手 の授 受 に よ る服 従 儀 礼 の み を 指 す 」
4
タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン が 与 え ら れ た 模 様8)。
〈787年 〉
タ シ ロの二 人 の使 者 が ロー マ で教 皇 に会 い, 教 皇 に カ ー ル大 帝 と
タ シ ロ3世
と の 間 の 「和 平 約 定 」 の 執 り成 し を 依 頼 す る。 教 皇 は ロ ー マ 滞 在
中 の カ ー ル に タ シ ロ 側 の 要 請 を 伝 え る 。 カ ー ル は , 直 ち に 約 定 を 成 立 さ せ る,
と教 皇 に 返 答 , 教 皇 が そ れ を タ シ ロ の 使 者 に 伝 え る。 彼 ら が , 自分 た ち に は
この場 で約 定 に調 印 す る権 限 まで は与 え られ て い な い, と回 答 す る。 タ シ ロ
に 誠 意 が な い と 判 断 した 教 皇 は , 使 者 らに , タ シ ロ が 既 に カ ー ル に 対 して 行
な っ た 誓 約 を 完 全 遵 守 す る よ う 要 求 , 守 ら な い 場 合 に は , タ シ ロ 破 門 ・領 地
へ の 干 渉 ・流 血 の 惨 事 も 起 こ り か ね な い , と 脅 す 。 会 談 決 裂 後 カ ー ル は タ シ
ロ を ヴ ォ ル ム ス に 召 還 す る が タ シ ロ は 出 頭 を 拒 否 す る。 そ こ で カ ー ル は軍 を
三 っ に 編 成 し, 三 方 か ら バ イ エ ル ン攻 撃 に 出 る 。 バ イ エ ル ン で は 既 に 貴 族
(=豪 族)層
が カ ー ル大 帝 に 加 担 , タ シ ロ か ら離 れ て い た た あ, タ シ ロ は,
カ ー ル に 降 伏 , レ ヒ河 畔 の カ ー ル の 本 陣 に赴 き カ ー ル に 託 身 を 行 な い , ピ
ピ ー ン か ら 受 領 し た 領 土 を 返 還 , 宣 誓 を 更 新 , 人 質 と して 選 り す ぐ り の12
名 の 他 , 子 息 テ ー オ ドTheodoを
8)
Divisio
Regnorum,806
省 略)Secto
カ ー ル に 差 し出 す(「 王 国年 代 記 」)。 そ の 後
Febr.6.,
II,Capitularia
Regum
tius,1883, Hannover.5.127....
duabus
villis quarum
quondam
Tassiloni
Northgowe,
Legum(Legumは
Francorum
Tom.1,
et Baiovariam,
nomina
sunt
beneficiavimus
et....こ の
in:MGH
sicut
Ingoldestat
et
et
pertinent
「王 国 分 割 令 」(806年)は
, 以 下LLと
ed.
von
Tassilo
Alfred
Lutrahahof,
ad
Bore-
tenuit, excepto
pagum
quas
qui
nos
dicitur
実 現 さ れ ず に 終 る。 こ こ に は
カ ー ル の 子 息 た ち へ の 贈 与 分 が 規 定 さ れ て い る 。Pippin(;Karlmann)分
て , イ タ リ ア , ア レマ ニ ア の 一 部 等 , と 列 挙 す る 中 で
とし
「タ シ ロ が 所 有 し て い た
バ イ エ ル ン 」 に も 言 及 さ れ , 「ノ ル トガ ゥ の 一 部 を 成 し, 我 々 が 嘗 て タ シ ロ に 温
情 に よ り与 え た イ ン ゴ ル シ ュ タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン」 と の 言 が あ る 。 こ こ で 言
われ る
[註12参
「嘗 てquondam」
は781年
以 外 に は想定 不能 , と い う のが
「王 令 覚 書 集
照]」 , 「王 国 年 代 記 」, 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 等 か ら す る 解 釈 。 し
か しL.Kolmerは
年 或 い は787年
, 何 年 に カ ー ル が タ シ ロ に 与 え た と 言 う 確 証 が な い 以 上 ,757
も 考 え ら れ る , と す る(註102の
書 のS.306参
照)。
再 論 :タ シ ロ三 世
で タ シ ロは バ イ エ ル ンを所 謂
「封 土Lehen9)」
5
と して 再 度 受 領 した の で あ ろ
う が , そ の 記 述 は 「王 国 年 代 記 」 に は 見 え な い 。
〈788年 〉
カ ー ル大 帝 の 指 示 に従 い タ シ ロは 家 臣 と共 に イ ンゲ ル ハ イ ムの 宮
廷 会 議 に 参 加 す る。 タ シ ロ は そ の 場 で バ イ エ ル ン 人 か ら, タ シ ロ は 誓 約 を
守 っ て い な い , と様 々 な 例 を 挙 げ て 訴 え ら れ る。 タ シ ロ は最 後 に ア キ タ ニ ア
戦役 での
「戦 列 離 脱harislizlo)」 の 罪 を 問 わ れ , そ の 場 で 死 刑 を 宣 告 さ れ る 。
カ ー ル 大 帝 は タ シ ロ の 罪 一 等 を 減 じ, タ シ ロ の 希 望 に 沿 っ て 彼 に 出 家 を 言 い
渡 す 。 タ シ ロ の 子 息 テ ー オ ド も僧 院 送 り と な り, タ シ ロ に 忠 実 な 家 臣 は 追 放
さ れ る(「 王 国 年 代 記 」)。 タ シ ロ の 妻 リ ゥ ト ビ ル クLiutbircに
つ いて は
「王 国
年 代 記 」 に は 一 言 の 記 載 も な い が , 彼 女 も僧 院 で 死 を 迎 え る 。
〈794年 〉
この年
「王 国 年 代 記 」 に タ シ ロ に っ い て の 記 事 は 一 切 無 いll), し
か し, タ シ ロ は僧 院 か ら フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 に 召 還 さ れ , そ こ で 悔 い
改 め の 告 解 を し, 孫 子 の 代 に お い て も バ イ エ ル ン の 統 治 権 を 放 棄 す る , と
カ ー ル 大 帝 に 誓 い , 罪 を 赦 さ れ , 僧 院 で 僧 と して 暮 ら す 。 以 後 タ シ ロ の 消 息
は 途 絶 え る 。794年
以 後 何 年 か の12月11日
2-1.ベ
Becherは
Eidと
ヒ ァー著
に タ シ ロは世 を去 った ら しい。
「誓 約 と 支 配 」 に つ い て
序 文 で , 誓 約 を , 裁 判 で 証 拠 作 用 を 持 つ 保 証 誓 約assertorischer
誓 約 者 の 爾 後 の 行 動 を 規 制 す る 約 束 誓 約promissorischer
9)H。C.
FauBnerの
土),Allod(完
言 う 「貸 借 地Leihegut」
全 私 有 地)と
紀 以 後 に な って現 れ る もの故 , そ
れ 以 前 の 時 代 に つ い て 述 べ る 場 合 に はLehenは
10)E.Rosenstock(註73の
od.
はHeer「
書 のS.347f.参
書 のS.64f.
herislizはHeerschliB,
Anm.49)に
「zerrei゚en引
い はslizは
去 る」 の意 。
び53参
照。
表 現 す る方
照)。
よ れ ば , 現 代 語 な らharisliz
, 前 半 部hari或
い はheri
古 代 高 地 ド イ ツ 語 のslizzanに
き 裂 く, zerst6ren破
る 」 の 意 で , 中 世 低 地 ドイ ッ 語 の 再 帰 動 詞sich
11)註52及
避 け てLeihegutと
herislizはHeerschleiBで
軍 隊 」 の 意 , 後 半 部sliz或
当 た り,slizzanは
二 種 に
に 同 じ で , FauBnerはLehen(封
い う概 念 は12世
が 実 態 を 反 映 す る , と言 う(註92の
Eidの
壊 す る , trennen分
slitenは
離す
「身 を 引 き 離 す , 立 ち
6
分 け , 誠 実 誓 約Treueidは
Kapitularien12)」
に は789年
約 束 誓 約 の 一 つ , と す る。 「王 令 覚
と802年
の 全 般 的 誠 実 誓 約allgemeiner
書 集
Treueid
の誓 約 範例 とそ の 実施 規 定 が 記 載 され て い る。 メ ー ロ ヴ ィ ング朝 時 代 に も誠
実 誓 約 は存 在 した が , そ の 文 言 , 意 義 , 国 王 の 指 示 等 は 伝 え られ て い な い 。
従 っ て カ ー ル に よ る こ れ らの 全 般 的 誠 実 誓 約 は , 文 献 上 , 最 古 の 誓 約 例 と言
え る。 メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 か ら カ ー ロ リ ン グ 朝 へ の 誓 約 の 連 続 性 を 調 査 す る こ
と は 困 難 で あ る, と い う の も7世
紀 後 半 に 入 る と誠 実 誓 約 の 記 述 が 途 絶 え て
し ま う か ら で , 途 絶 え た 理 由 は色 々 と あ ろ う が , 力 を つ け て き た 豪 族 が , 国
王 が 全 王 国 民 か ら誓 約 を 取 る こ と を 阻 ん だ か ら, と も言 わ れ る。 し か し カ ー
ロ リ ン グ朝 の カ ー ル 大 帝 は , 誠 実 誓 約 を 利 用 し て む し ろ 豪 族 を 抑 え た , と言
え よ う, とBecherは
言 う。802年
約 者 と の 間 の 誠 実 は 「主 人dominus」
とBecherは
ロ3世
の 全 般 的 誠 実 誓 約 に お い て , 支 配 者 と誓
と 「臣 下homo」
の 間 の 誠 実 と され る,
言 い , こ の 「主 人 」 と 「臣 下 」 の 対 応 は , バ イ エ ル ン太 公 タ シ
が757年
に ピ ピ ー ン に 対 し て 行 な っ た と さ れ る 「家 臣 誓 約Vasal・
leneid」 に も殆 ど 同 じ形 で 現 れ る , と 指 摘 す る 。 そ して ピ ピ ー ン に 対 す る タ
シ ロ の 誓 約 は , 伝 え られ る 最 古 の 家 臣 誓 約 , と さ れ る 。 国 制 史 研 究 は , こ の
12)FranCois
B
Louis
Ganshof, Was
hlaus Nachf./Weimar.
waren
die Kapitularien? ,1961,Hermann
S.35-49に よれ ば
「Capitularien王 令 覚 書 集 」 は国
王 の サ イ ンな ど の入 った書 面 で はな く, 王 室 会議 参加 者 や 書 記 等 が 王 民 へ の 告 知
の た め に と った メ モ の集 合体 で あ る。 当 時 は王民 へ の行 政機 関 か らの 伝達 は 口頭
で な され た。 そ の た め伝 達 の任 に 当 た る 者 に と って メ モ は 不 可 欠 だ っ た。 従 っ
て, メ モ を と る人 間 に よ って 内容 も大 き く異 な った, とさ れ る。 日付 の入 って い
な い文 書 も数 多 くあ り, 「
王 令 覚 書 集 」 の編 纂 は17世 紀 か ら行 な わ れ て い る が,
そ の在 りよ うに批 判 の声 も上 が って い る, との こと。 会 議 に先 立 って 厂
議題」 と
い うよ うな形 で 王 令 内容 が提 示 さ れ る こと も無 か った。 そ の理 由 は簡 単 で, 多 く
の参 加 者 が ラ テ ン語 を読 め なか っ た こ と, 現 代 と違 って大 量 コ ピー手 段 が 無 か っ
た こ とか らで あ る。 従 って 我 々 日本 人 は,Capitularienと
言 えば,天皇 の詔勅
を 連 想 す るだ ろ うが , 御 名 御 璽 等 ま っ た く記 載 され て い な い文 書 を纏 め た単 な る
メ モ集 に過 ぎな い一
一
尤 も この メ モを 統 治 者 も活 用 した よ うで あ る。Becherも
言 う よ う に, 近 年 , フ ラ ン ク王 国 国 制 史 の研 究 が 深 ま る にっ れ 「王 令 覚 書 集 」 の
「法 的 」 性 格 が疑 問 視 され , 「指 針 的 」 性 格 が 強 調 され る よ う にな って い る。
再論 :タシロ三世
タ シ ロの家 臣誓 約 を802年
の全 般 的 誠 実 誓 約 と比 較 ・検 討 す る と,802年
7
の
誓 約 に は決 定 的 な変 革 が 見 られ る, とす る。 我 々 は, 史 資 料 の面 か ら様 々 に
制 約 さ れ て い る が, カ ー ル大 帝 の支 配 者 と して の エ トス を探 る た め に, 先 ず
バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ が行 な っ た と さ れ る諸 種 誓 約 を 取 り上 げ, そ の 後 で
789年 及 び802年 の 全 般 的 誠 実 誓 約 の 誓 約 範 例 と実 施 規 定 の 検 討 に入 る, と
Becherは
言 う。
2-2.太
Becherは
先 ず
公 タ シ ロ3世
の 誓約
「王 国 年 代 記 」 の 性 格 に っ い て 分 析 す る 。 「王 国 年 代 記 」 の
成 立 過 程 に つ い て は , そ の 最 古 部 分 , 即 ち741年
記 者 に よ り787年
か ら793年
に まで 遡 る部 分 , は同 一 の
入 る , と す る 先 学 の 論13)に
まで に一 気 に書 き下 ろ され , 以 後 は逐 年 記 述 に
同調 す る。 そ の記 者 に つ い て は
「僧 院 の 一 学 僧 が
これ 程 まで 詳 細 に事 柄 を 記 述 す る こ と は不 可 能 で あ る。 彼 は諸 種 の 交 渉 事 に
っ い て あ る 程 度 確 か な 情 報 ま で 得 て い る 。 ベ ネ ヴ ェ ン トBeneventや
ル ンBayern対
側近
策 につ い て これ 程 充 分 な情 報 を 得 て い る者 は, カ ー ル大 帝 の
くに 仕 え て い た 者 以 外 に 考 え ら れ な い 」
す る。
バ イェ
こ れ ら の こ と か らBecherは
,
と 述 べ る ラ ン ケ の 所 説14)を
「王 国 年 代 記 」
是 認
か ら は客観 的 叙 述 は期
待 し難 く, カ ー ル 大 帝 の 国 内 外 の 敵 手 の 視 点 は 一 切 欠 落 の ま ま フ ラ ン ク 王 国
の 視 点 か ら 記 述 が さ れ る , と 判 断 す る 。 更 に , 「王 国 年 代 記 」 の 執 筆 動 機 は ,
バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世
い か,
の太 公位 剥 奪 を 合 理化 す る こ とに あ った の で はな
と推 測 す る 学 者 も い る ,
とBecherは
述 べ,
「王 国 年 代 記 」
は タ シ ロ
記 述 に お い て纏 ま りを見 せ は す る もの の, タ シ ロは極 あ て 否定 的 に描 か れ て
13)
Die
Karolinger
Gro゚en,
bearb.
vom
von
Geschichtsquellen
Anfang
des
Heinrich
im
L
B. Jahrhunderts
bis zum
we, in:Wattenbach-Levison,
Mittelalter.
Vorzeit
und
Tode
Karls
des
Deutschlands
Karolinger,
II. Heft,1953,
Weimar.5.250.
14)
Leopold
Ranke,
in:Abhandlungen
Zur
der
Berlin,1855, Berlin.5.434.
Kritik
K
fr舅kisch-deutscher
niglichen
Akademie
Reichsannalisten,1854,
der
Wissenschaften
zu
8
い る, と す る。Becherは
「Peter Classenに
家 臣 誓 約 は し て い な い が ,787年
る 。 ク ラ セ ン は ,757年
よれば
,757年
に タ シ ロ3世
は
に家 臣 誓 約 を行 な っ た こ と は確 実 , と さ れ
に タ シ ロが 行 な っ た と され る家 臣 誓 約 は実 際 は誠 実
誓 約 で あ っ た が , こ の 誠 実 誓 約 を ,787年
の 家 臣誓 約 を手 本 に家 臣 誓 約 へ と
解 釈 変 更 し た の で は な い か , と し て い る が , こ の 説 に 最 近 で はLothar
Kolmer,
Kurt
Reindel
,Karl
Brunner,
も 同 調 し て い る。 従 っ て ,757年
Herwig
Wolfram,
Joachim
の コ ン ピ エ ー ニ ュCompiegneの
Jahn15)
誓 約 問題 に
つ い て の 『王 国 年 代 記 」 の 発 言 は 多 数 の 研 究 者 に よ っ て 疑 問 視 さ れ た 」 と述
べ る(S.2216))。
そ の 上 でBecherは
,757年
の 誓 約 の 解 釈 変 更 に追 い込 まれ
た 背 景 に は恐 ら く当 時 の 政 治情 勢 が あ った の で あ り, カー ル は従 兄 弟 タ シ ロ
に 対 して 行 な っ た 処 断 の 事 後 正 当 化 の 必 要 に 迫 ら れ た の で あ ろ う
, と す る。
Becherは
個 別 的検 証 に入 る前 に検 証 方 法 にっ いて
「あ る 事 象 が
『王 国 年
代 記 」 を 底 本 と し な い 若 干 の 自 立 的 文 献 か ら傍 証 を 得 られ て 初 め て , 我 々 は
確 か な 基 盤 に立 っ 。 我 々 の 検 証 対 象 は 『王 国 年 代 記 』 で あ り
,検証基準 と し
て 二 種 類 の 文 献 を 選 ぶ 。 第 一 グ ル ー プ は , 「王 国 年 代 記 』 を 底 本 と す る 依 拠
的 文 献 , 即 ち 『所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 』 と 『メ ス 年 代 記 古 本17)』
, で あ り,
第 ニ グ ル ー プ は , 自 立 的 文 献 , 即 ち 『編 年 誌 続 編 』 及 び 所 謂 小 規 模 年 代 記 ,
で あ る 。 注 目 す べ き は , 二 種 類 目 の 文 献 は 『王 国 年 代 記 』 記 述 の 際 に 資 料 と
して 利 用 さ れ て い る こ と で あ る 。 そ れ 故 , 『王 国 年 代 記 』 が 二 種 類 目 の 文 献
15)Joachim
Jahn,
Agilolfinger,
Ducatus
Monographien
Bosl, Bd.35,1991,
Baiuvariorum
zur
. Das
Geschichte
StuttgartのS.339に
des
bairische
Herzogtum
Mittelalters,
hg.
von
der
Karl
「コ ン ピ エ ー ニ ュ の 出 来 事 は 後 の 陰 惨 な
事 件 を 背 景 に 置 い て 見 て は な ら な い 。 む し ろ フ ラ ン ク 国 王 と成 人 に 達 し た バ イ エ
ル ン太 公 が 聖 遺 物 に か け て 同 盟 を 結 ん だ の で あ っ て , こ の 聖 化 さ れ た 合 法 的 な 条
約 は両 者 の将 来 の関 係 を確 固 た る友 好 的基 盤 の上 に築 く こと を意 図 した もの で あ
る」 と の一 文 が あ る。
16)
()内
にS.と
数 字 の み が 示 さ れ た 場 合 , 註1のBecherの
著 作 の ペ ー ジ を示
す 。
17)
Annales
Mettenses
Priores.
ed.
von
B . de
Simson,
in:MGH
SS
.1905.
再 論 :タ シ ロ三 世
9
と異 な る点 は我 々 に と って特 に示 唆 す る と ころ多 い。 以 下 の考 察 は, タ シ ロ
に 関 す る 『王 国 年 代 記 」 の 記 述 の う ち , 他 の 自 立 的 文 献 の 記 述 と 一一致 し な い
部分 を
『篩 に か け るherausfiltern』
こ と を 目 的 と す る」(S.23f.)と
前 置 きす
るQ
2-3.タ
「王 国 年 代 記 」748年
シ ロ太 公 政 権 の 発 足
の 記 述18)に つ い て のBecherの
検 証 内 容 は以 下 の よ う
に な る。 ピ ピ ー ン と グ リ ー フ ォ 間 の 兄 弟 確 執 は , 若 干 ニ ュ ア ン ス を 異 に す る
も の の , 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 に も
て い る が ,per
suum
beneficiumと
「メ ス 年 代 記 古 本 」 に も記 録 さ れ
い う表 現 は, 両 年 代 記 共 に
「王 国 年 代
記 」 を 底 本 に し て い る に も拘 らず , 両 年 代 記 に 記 載 さ れ て い な い 。 従 っ て
「王 国 年 代 記 」 中 の
「ピ ピ ー ン は 温 情 に よ り タ シ ロ を バ イ エ ル ン太 公 に 任 じ
た 」 と の 記 述 自 体 に 信 頼 が 置 け な い 。 しか し 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 はper
suum
beneficiumと
い う表 現 を 封 建 制 度 下 の 術 語
可 能 性 も あ る , とBecherは
「封 土 」 の 意 味 で 使 っ た
言 う 。 だ と す れ ば そ の 狙 い は , ピ ピ ー ンへ の タ
シ ロ の 従 属 性 を 強 調 す る こ と に あ り, そ の 背 景 は 「王 国 年 代 記 」 が 書 か れ た
時 代 , つ ま り787年
754年
以 後 の 時 代 ,790年
頃 , に求 あ られ る, とす る。
タ シ ロ の 母 ヒ ル トル ー ドが 没 し た 後 に ピ ピ ー ンが タ シ ロ の 後 見 役 に
就 い た , と の 通 説 に 対 し て , そ の 事 実 は な か っ た だ ろ う, とBecherは
18)「
王 国 年 代 記 」FvS
Baioariam
Tassilone
exercitu
adduxit,
conlocavit
usque
Bd.5
pervenit,
conquisivit....
suo,
supra
suum
Grifo
ipsum
Haec
Saxonia
ducatum
similiter,
beneficium;
ル ン に 入 り , こ の 太 公 国 を 奪 い ヒ ル
聞 い て
de
audiens
nominatos
Lantfridum
per
S.12.
totos
iter
sibi
subiugavit,
Pippinus
sibi
Tassilonem
Peragens
fiter
in
ducatu
in
cum
arripiens
Grifonem
「グ リ ー フ ォ は ザ ク セ ン か
トル ー
fugiendo
Hiltrudem
illuc
subiugavit,
反論
cum
secum
Baioariorum
ら逃 亡 し て バ イ エ
ドと タ シ ロ を 服 属 さ せ た 。 一
一こ れ を
ピ ピ ー ン は 軍 を 引 き 連 れ バ イ エ ル ン に 向 か い 上 記 の 者 た ち を 屈 服 さ せ , グ
リ ー フ ォ と ラ ン トフ リ ー
ル ン太 公 に 任
じ た 」
ドを 連 れ 帰
っ た 。
ピ ピ ー ン は 温 情 に よ り タ シ ロ を バ
イ エ
10
す る 。 ピ ピ ー ン後 見 に つ い て 「編 年 誌 続 編 」 も 「王 国 年 代 記 」 も一 言 も言 及
して い な い か ら で あ る と し, 更 に , タ シ ロ は こ の 年 に は 既 に13歳
ル ン部 族 法 典 」 は成 人 年 齢 を12歳
, 「バ イ エ
と して お り , タ シ ロ は 生 母 ヒ ル トル ー ド
の没 後 に は太 公 の地 位 に即 いて い た, とす る。
755年
に タ シ ロが フ ラ ン ク王 国 の五 月総 会 に参 加 した こ とは, 小 規 模 年 代
記 に も 伝 え ら れ て い る こ と か ら , 事 実 で あ ろ う し, ま た 当 時 大 き な 意 味 を
持 っ た の で あ ろ う 。 翌756年
タ シ ロ は ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 に 従 軍 す る。 と こ ろ
が , こ の 従 軍 は 「編 年 誌 続 編 」 に は 記 録 さ れ て い る19)が, こ れ を 参 照 し て い
る 「王 国 年 代 記 」 に は755年
756年
の 総 会 出 席 も こ の 従 軍 も一 切 記 載 さ れ て い な い 。
に ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 に タ シ ロ が ピ ピ ー ン の 家 臣 と し て 従 軍 して い た と
す る と, 翌757年
の ピ ピ ー ン 等 と の 「誓 約 」 は ど う い う 意 味 を 持 っ の か?
恐 ら く こ の 辺 の 事 情 が 「王 国 年 代 言己」 記 者 に756年
し控 え さ せ た の で あ ろ う, とBecherは
てBecherは
,1.家
の タ シ ロ従 軍 の 記 載 を 差
推 測 す る 。 タ シ ロ従 軍 の 根 拠 に つ い
族 的 連 帯 か ら の 伯 父 ピ ピ ー ン へ の 協 力 ,2.「
バ イエ ル
ン部 族 法 典 」 中 の 国 王 が 太 公 に 対 して 持 つ 召 集 権 へ の 服 従20)
,3.ロ
ー マ教
皇 擁 護 を 図 る ピ ピ ー ンの ラ ン ゴ バ ル ド征 討 と, 教 皇 と の 友 好 関 係 維 持 を 図 る
バ イエ ル ン側 の 利益 との一 致
, の 三 点 を 挙 げ る。
2-4.757年
757年
の
の タ シ ロ3世
の カ ー ロ リ ン グ 陣 営 に 対 す る タ シ ロ3世
「
戦 列 離 脱 」 と 並 ん で ,Becher論
19)「 編 年 誌続 編 」FvS
20)「
の誓 約
の 誓 約 は ,763年
攷 の重 要 な柱 を なす
の タシロ
。や や 詳 細 に 述 べ る 。
Bd.4a,39,S.306.
バ イエ ル ン部 族 法 典Lex
Baiuvariorum」(世
良晃志郎訳
, 創 文 社 ,1977年
〈
以 下 「バ イエ ル ン部 族 法 典 」 と省 略 〉)に は太 公 に対 す る国 王 の召 集 権 そ の もの
を 規 定 した条 項 は無 いが , そ の第II章 第4項(190ペ
ー ジ)「 も し誰 か が , 國 王
ま た はそ の 太 公 領 の 太 公 が 命 じた る出 陣 中 , 自己 の 軍 隊 内 で 争 いを 誘 發 し… 」 及
び 第8項(193ペ
ー ジ)「 も し誰 か が, 國 王 の命 令 に よ り, ま た そ の太 公 領 を 權
力 中 に 有 す る 自己 の太 公 の 命令 に よ り, 人 を殺 害 した る と き は …」 及 び第III章
第1項
の規 定(註54参
照)か
ら, 太 公 へ の召 集 権 の存 在 を推 定 し得 る。
再 論 :タ シ ロ三 世
「王 国 年 代 記 」 に よ れ ば ,757年
11
太 公 タ シ ロ は コ ン ピエ ー ニ ュの 王 国 会 議
に 現 れ , 国 王 ピ ピ ー ン と そ の 子 息 た ち に 家 臣 と し て 託 身 と誠 実 誓 約 を 行 な っ
た 。Becherは
, 過 去 の 研 究 の 大 部 分 は757年
の こ の 記 述21)に 信 頼 を 置 く,
と, 過 去 の 研 究 状 況 を 批 判 的 に 指 摘 し た 後 に , ク ラ ヴ ィ ン ケ ル の 言 を 引 用 す
る
「彼(=タ
シ ロ3世)が
諸 種 の 誓 約 を 行 な っ た こ と は 信 じ られ る が , フ ラ
ン ク人 の 友 , 血 縁 関 係 並 び に 嘗 て の 後 見 関 係 で 結 ば れ た ピ ピ ー ンの 友 た ら ん
と し て , そ れ 以 上 の 誓 約 を 行 な っ た と い う の は 信 じ難 い22)」。 こ の 引 用 に よ
りBecherは
自 ら の 論 述 の 方 向 を 明 ら か に し, 個 々 の 問 題 点 に 言 及 す る。
厂王 国 年 代 記 」「の 記 述 を 注 意 深 く読 む と色 々 気 付 く点 が あ る , と言 う。 先
ず , タ シ ロ の カ ー ロ リ ン グ家 へ の 服 属 の 描 写 が 非 常 に詳 細 な こ と で あ る。 だ
21)「
王 国 年 代 記 」FvS
Compendio
co
se
cum
per
sanctorum
supradictis
mente
et
deberet.
Rustici
Sic
omnibus
sic
et
dictum
eius,
rex
Pippinus
Tassilo
venit,
diebus
sacramenta
vitae
homines
supradictus
eius
sic
superius
sicut
sancti
natu,
qui
エ ル ン太 公 タ シ ロ が 来 た 。 タ シ ロ は ,
erant
regi
corpus
in
eo,
Pippino
recta
suos
sancti
sancti
aliis
vasati-
vassus
dominos
sacramentis
cum
et
in
esse
Dionis
Martini,
C
ut
promiserat;
firmaverunt,
multis.「
と共 に 王 国 会 議 を 開 催
in
innumerabilia,
sicut
seu
sicut
quam
ピ ピ ー ン は コ ン ピ エ ー ニ ュ で フ ラ ン ク人
et
promisit
vassus
supra
suum
Baioariorum,
multa
Germani
conservaret,
nominatis
placitum
Carlomanno,
Tassilo
et
dux
fidelitatem
et
iustitiam,
maiores
locis
et
Carolo
ecnon
tenuit
iuravit
inponens,
per
confirmavit
est, in
Et
domno
devotione
Eleuther
eius
manus,
manus
fil
firma
et
S.16,
Francis;ibique
commendans
reliquias
et
Bd.5,
sicut
そ し て 国 王
し た 。 そ こ に バ イ
ピ ピ ー ン に 両 手 を 差 出 し て 託 身 を 行 な っ て
家 臣 に な り , 諸 聖 人 の 聖 遺 物 に 両 手 を 置 き , 数 限 り な く 多 く の 誓 約 を 行 な い , 国
王 ピ ピ ー ン と 前 述 の そ の 子 息 カ ー ル と カ ー ル マ ン に , 臣 下
る 主 人 に , 臣 下 と して 正 義 に 則
り誠 心 誠 意 を 尽
し て ,
と し て 恩 義 を 受 け て い
と, 誠 実 を 誓
タ シ ロ は , 聖 デ ィ ォ ニ ー ジ ゥ ス , ル ス テ ィ ク ス と エ レ ゥ テ ー
ヌ ス と 聖 マ ル テ ィ ー ヌ ス の 聖 遺 物 に 手 を 置 き な が ら,
守 す る , と 誓 い を 固 め た 。 彼 に 随 伴
っ た 。 既 述 の
リ ク ス, 聖 ゲ ル マ ー
こ の 誓 約 を 生 涯 に 亙
っ て 遵
し て き た 既 述 の 豪 族 た ち も 前 述 の 場 所 及 び 多
くの 他 の 場 所 で 誓 い を 固 め た 」
22)
Hermann
Krawinkel,
in:Forschungen
B
hlaus
zum
Nachf./Weimar.5.51.
Untersuchungen
deutschen
zum
Recht,
Bd.
fr舅kischen
II,1936,
Benefizialrecht,
Verlag
Hermann
12
が755年
の 項 に 見 え る ア キ タ ニ ア 太 公 ヴ ァ ィ フ ァ ルWaifar(†76823))の
ピ
ピ ー ンへ の 服 属 経 過 は 「ヴ ァ ィ フ ァ ル が , 聖 ペ トル ス の 権 利 を 擁 護 す る , と
誓 っ た の で , ピ ピ ー ン は40名
の人 質 を 差 出 させ て この誓 約 を固 め た後 , フ
ラ ンキ ア に 帰 還 す る 」 と 記 さ れ て い る だ け , ま た758年
の ザ ク セ ン人 の 服 属
に 至 っ て は 「ピ ピ ー ン の 望 み を す べ て 叶 え る, と ザ ク セ ン人 は 表 明 し
,贈 り
物 と し て 毎 年300頭
Becherは
の 馬 を 王 国 会 議 に 差 出 す , と約 束 し た 」 と あ る だ け , と
述 べ る 。 更 にBecherは
, フ ラ ン ク王 国 に と って 非 常 に 大 きな 意
義 を 持 っ ピ ピ ー ン の 国 王 即 位 式(751年)及
世Stephanus
IL(在
も僅 か な 記 載 一
か らBecherは
757年
位752-757)に
び ロ ー マ 教 皇 ス テ フ ァ ー ヌ ス2
よ る ピ ピ ー ンの 塗 油 式(754年)に
夫 々二 行 半 程 度 一
つ いて
し か な い , と言 う。 こ れ ら の 記 述 状 況
, こ れ は 過 去 に 遡 及 し て ウ ェ イ ト付 け が な さ れ た 結 果 で あ り
,
の コ ン ピエ ー ニ ュの 詳 細 な 記 述 は
「王 国 年 代 記 」 記 者 の 意 図 に 基 づ く
,
と す る 。 ま た 記 述 の 特 異 性 が 指 摘 さ れ る 。 即 ち 「家 臣 と して 」 が 重 複 ・強 調
さ れ て い る こ と, ま た 託 身 の 描 写 は 簡 単 だ が , タ シ ロ 個 人 が した 誓 約 一
の 内容 に具 体 性 が欠 け るに しろ
そ
が 多 岐 に亙 る こ とが 暗示 さ れ て い る こ と
,
同時 に誓 約 相 手 が ピ ピー ンだ け で な くそ の二 人 の子 息 に ま で拡 大 さ れ て い る
こ と, 更 に誓 約 の有 効 期 限 が 「生 涯 に亙 って」 と 明記 さ れ て い る こ と, 云 々。
こ れ ら諸 点 に っ い てBecherは , 「家 臣 と して 」 の 重 複 は読 者 の 脳 裏 に タ
シ ロが カ ール に服 属 した こ とを 印 象 付 け る た あ, と し, タ シ ロの託 身 描 写 は,
「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 に もあ るに は あ るが, そ もそ も託 身 が記 述 され
23)Lexikon
des
gart-Weimar(以
宰 た ち は7世
Mittelalters,
下LMAと
Studienausg
.,1999, Verlag
省 略), Bd.VIII, Sp.1931に
J.B. Metzler,
Stutt-
よれ ば, フ ラ ン ク王 国 宮
紀 末 頃 か ら著 し く 自 立 性 を 強 め て き た ア キ タ ニ ア 太 公 国 を 再 び 王 国
に 服 属 さ せ よ う と す る 。745年
ピ ピ ー ン は ア キ タ ニ ア 太 公 フ ノ ァ ル ドHunoald
を 征 圧 , そ の 子 息 ヴ ァ ィ フ ァル を後 継 太 公 に 任 ず る。 教 会 財 産 を巡 って ヴ ァ ィ
フ ァ ル は ピ ピ ー ン と 対 立 , ピ ピ ー ン は760-768年
る。768年
に 亙 っ て ア キ タ ニ ア に軍 を 送
ヴ ァ ィ フ ァル は 自分 の 部 下 に捕 え られ 殺 され る。 これ は ピ ピー ンの 差
し金 , と 噂 さ れ た 。 以 後 ア キ タ ニ ア 太 公 国 は 消 滅 , ア キ タ ニ ア は フ ラ ン ク王 国 に
帰 属 す る。
再 論 :タ シ ロ三 世
る こ と 自体 , 「王 国 年 代 記 」 及 び
「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 に お い て も,
他 に は 無 い , と 言 う 。 更 にBecherは
788年
13
,757年
の記 述 が異 様 に詳細 なの は
の タ シ ロ裁 判 の 合 法 性 を 根 拠 付 け る 必 要 に 迫 られ て い た か ら で あ ろ う ,
と し, 記 者 は カ ー ル 大 帝 の 利 益 擁 護 を 第 一 義 的 に 考 え た , と す る。 し か し,
形 式 と 内 容 の デ ィ ス マ ッ チ , 即 ち 年 代 記 と い う, 客 観 性 の 期 待 さ れ る形 式 と
大 げ さな表 現 に満 ち た主 観 的 内容 の ア ンバ ラ ン スは
価 値 を 疑 わ せ る に 充 分 」 とBecherは
二 っ の依 拠 的年 代 記
「『王 国 年 代 記 」 の 資 料
判 定 す る。
「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 と 「メ ス年 代 記 古 本 」 で
は こ の 件 は ど う描 か れ る か 。 前 者 で は 底 本 と若 干 の 相 違 が 見 ら れ る が 基 本 的
に 底 本 に 追 随 す る , と彼 は 考 え る 。 し か し後 者 に 関 し て 彼 は 著 し い 違 い を 指
摘 す る。 即 ち , 「メ ス 年 代 記 古 本 」 で は タ シ ロ の 託 身 は ま っ た く触 れ ら れ ず
誠 実 誓 約 の み が 記 述 さ れ る , と し, 「『メ ス 年 代 記 古 本 』 の 記 者 は バ イ エ ル ン
に 特 別 な 関 心 を 持 っ て い た た め , 彼 に は 『王 国 年 代 記 』 の 記 述 は 真 実 と思 え
な か っ た か らで あ ろ う」 とBecherは
推 測 す る。
自 立 的 文 献 で は ど うで あ ろ うか 。 小 規 模 年 代 記 , 例 え ば 「聖 ア マ ン ド ゥ ス
年 代 記Annales
menses」
も
sancti
Amandi」
も
「ム ル バ ハ 年 代 記Annales
「ロ ル シ ュ年 代 記Annales
Nazariani24)」
も,
Lauresha-
こ れ ら年 代 記 は
カ ー ロ リ ン グ派 で あ る に も拘 らず , コ ン ピ エ ー ニ ュ に つ い て の 報 告 は 皆 無 。
「編 年 誌 続 編 」 も コ ン ピ エ ー ニ ュ の 出 来 事 に は ノ ー タ ッ チ
タ シ ロ服 属 は
ピ ピ ー ン の 政 治 的 勝 利 で あ る の で これ を 黙 殺 す る こ と は こ の 年 代 記 を 利 す る
こ と に は な ら な い で あ ろ う に , とBecherは
時 の 記 者 は ニ ー ベ ル ン グ 伯Graf
ラ ン ド伯Graf
24)
Childebrand(†751年
付 言 す る 。 「編 年 誌 続 編 」 の 当
Nibelung(†768年
以 後)25)は736年
こ の 年 代 記 は ロ ル シ ュ 僧 院 の 聖 人Nazariusに
付 け られ て い る が , ム ル バ ハMurbachで
25)Childebrandは
ンは従 兄 弟 同 士 。
以 後)で
, 彼 の父 ヒル デ ブ
か ら751年
因 ん でAnnales
ま で この続 編
Nazarianiと
名
書 か れ た 年 代 記 , と想 定 さ れ て い る。
カ ー ル ・マ ル テ ル と 異 母 兄 弟 。 従 っ て ニ ー ベ ル ン グ と ピ ピ ー
14
に 関 わ り, そ の 後 を 受 け た の が ニ ー ベ ル ン グ で753年
か ら768年
ま で を担 当
した。 ニ ー ベ ル ング は ピ ピー ンに対 す る他 の 人 々 の誠 実 誓 約 や 服 属 行 為 は そ
れ な り に 伝 え た し, 大 して 重 要 と も 思 わ れ な い ピ ピ ー ンの ラ ン ゴ バ ル ド作 戦
へ の タ シ ロ の 参 加 も 伝 え た の に , とBecherは
言 う 。757年
の項 で
「王 国 年
代 記 」 と 「編 年 誌 続 編 」 と が 記 述 を 共 に し て い る の は ビ ザ ン ツ帝 国 に 関 し て
で あ る が , そ の 記 述 の 力 点 の 置 き方 は 双 方 に お い て 全 く異 な る
。 前 者 は, ビ
ザ ンッ帝 国 使 節 団 が 来 訪 し ピ ピー ンに立 派 な パ イプ オ ル ガ ンを贈 呈 した
, と
のみ 記 す が , 後 者 は, こ の年 の記 述 対 象 を フ ラ ンク王 国 と ビザ ンッ帝 国 の関
係 に 絞 り, ピ ピ ー ンが 派 遣 した 使 節 団 へ の 答 礼 と して の ビ ザ ン ッ 帝 国 使 節 団
の 来 訪 , と述 べ る。Becherは
, 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は , ビザ ン ツ 帝 国 が 恰
も フ ラ ン ク王 国 に 朝 貢 に 来 た か の 如 き 印 象 を 与 え る, と し, こ の 記 述 を , フ
ラ ン ク 王 国 の 優 越 を 明 示 せ ん とす る 一 方 的 記 述 , と断 ず る。
と もか くBecherは
, ニ ー ベ ル ン グが何 故
「編 年 誌 続 編 」 で タ シ ロ の 託 身
や 誠 実 誓 約 を 語 らな か っ た の か , そ の 理 由 が 見 出 せ な い , と 述 べ , 次 の 疑 問
を 提 起 す る : 「タ シ ロ は757年
約 や 誠 実 誓 約 を し た の か?」
に 本 当 に ピ ピ ー ン に 託 身 を した の か , 家 臣 誓
「『王 国 年 代 記 』 の 記 者 は ビザ ン ッ 帝 国 皇 帝 と の
友 好 関 係 記 述 の 場 合 に 既 に 不 正 確 な 記 述 を し て お り非 難 さ る べ き で あ る が ,
タ シロ の場 合 に もカ ー ル大 帝 の意 向 に添 って歴 史 的正 確 さを犠 牲 に した の で
は な い か?」(S.42)。
こ の 疑 問 を 解 く鍵 は 当 時 の タ シ ロ の 旅 程 の 再 現 と コ ン
ピ エ ー ニ ュ の 王 国 会 議 の 開 催 日 程 に あ る , とBecherは
言 い , 「王 国 会 議 は
恐 ら く五 月 総 会26)と 重 な っ て 開 か れ た で あ ろ う 。 タ シ ロ は757年5月9日
に
未 だ フ ラ イ ジ ン グ に 居 た こ と が 研 究 に よ り確 認 さ れ て い る。 当 時 の 旅 行 は 毎
日25キ
ロ か ら60キ
26)Herwig
Wolfram,
Mitteilungen
jahr
der
1968, Salzburg.
ロ 進 む , と さ れ る 。 彼 は 早 け れ ば5月10日
Das
F
Gesellschaft
stentum
S.160に
f
よれ ば
Tassilos
Salzburger
llL ,Herzogs
der
Landeskunde,108.
に コ ンビ
Bayern,
in:
Vereins-
「古 い 三 月 総 会 は , 丁 度 こ の 頃 , 五 月 に 移
さ れ た ら し い 。 と 言 う の も , フ ラ ン ク 歩 兵 軍 が 騎 兵 軍 に 改 変 さ れ , 五 月 な ら多 数
の 馬 へ の 餌 の 供 給 が 容 易 にな る点 が 考 慮 され たか らで あ る」
亘 論」 タシi]三世
15
エー ニ ュに 向 けて 出 発 で き るが , タ シ ロ は果 た して 王 国 会議 に参 加 した の で
あ ろ うか?」
コ ン ピエ ー ニ ュー フ ラ イ ジ ン グ間 は直線 距 離 で凡 そ700キ
ロ,
実 際 の旅 路 は この2倍 近 く に な ろ う。 とす れ ば6月 に ず れ 込 ん で の コ ン ピ
エ ー ニ ュ 到 着 が や っ と の こ と, と言 え そ うで あ る。 以 上 の 論 点 に 基 づ き
Becherは
次 ぎ の よ う な結 論 を 出 す :タ シ ロ服 属 の描 写 が詳 細 を 極 め る だ け
に, 他 の 自立 的 年 代 記 が この件 に ま った く触 れ て い な い こと に違 和 感 を覚 え
る。748年 に 関 して は 「編 年 誌 続 編 」 も小 規 模 年 代 記 も少 な くと もバ イエ ル
ンへ の ピ ピー ン出 兵 の記 述 は して い た。 しか し757年 に関 して は記 述 す る年
代 記 は 「王 国 年 代 記 」 と それ に追 随 す る 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 の み 。
そ して ,757年 以 後 フ ラ ン ク王 国 の バ イ エル ン太 公 国 へ の影 響 力 が, 僧 院 建
立 を含 あ て, 増 大 した か とい う と, そ れ も記 録 され て い な い。790年 当 時 ,
つ ま り 「王 国年 代 記 」 作 成 当 時, カ ー ル大 帝 及 び そ の周 辺 は バ イエ ル ン太 公
タ シ ロ3世 の フ ラ ン ク王 国 へ の服 属 を可 能 な 限 り古 い年 代 に遡 らせ た か った。
そ の よ うな王 宮 側 の要 望 に応 え て757年
然 で あ ろ う, と し,Becherは
の項 が執 筆 さ れ た, と考 え られ て 当
言 う :「総 合 的 に判 断 す る と, タ シロ は コ ン
ピエ ー ニ ュ の王 国 会 議 に 出席 しな か った の で は な いか , と の疑 念 が 強 ま る。
タ シ ロ は757年
に託 身 も誓 約 も して い な い が 故 に, 『王 国 年 代 記 」757年 の
叙 述 は8世 紀 の 政 治 史 を 論 ず る際 に 殆 ど そ の 前 提 た り得 な い, と言 え る」
(S.45)a
2-5.763年
「王 国 年 代 記 」763年
27)「
の 項 の バ
王 国 年 代 記 」FvS
Nivernis
et
malum
se
eius
subtrahendo
ei
Baioariam
voluit.
Rex
イ エ ル
S.20.
iter
postposuit
ingenium
avunculus
widere
Bd.5
quartum
Baioariorum
の タ シ ロの
ン 太 公
Pippinus
faciens
fecit,
pet
Pippinus
et
omnia
post
posuit;
nusquam
fiter
の 報 告27)は
habuit
peragendo
omnia,
Ibique
quae
quae
ingenia
amplius
per
詳
faciem
Aquitaniam
し く
suum
Tassilo
promiserat,
benefacta,
per
,
placitum
Aquitaniam.
seduxit,
et
「脱 走 」
rex
in
sacramanta
inde
「戦 列 離 脱 」
dux
et
Pippinus
fraudulenta
supradicti
usque
in
per
rex
se
regis
ad
16
Cadurciam
pervenit
Franciam
Aquitaniam
reversus
est. Et
ル で 王 国 会 議 を 開 き4回
vastando
facta
et revertendo
est hiems
valida.「
per
Lemovicas
in
国 王 ピ ピー ン は ニ ヴ ェー
目の ア キ タニ ア戦 役 に赴 い た。 そ の 時 バ イエ ル ン太 公 タ
シ ロ は そ れ ま で に 彼 が し て い た 誓 約 や 約 束 を す べ て 反 故 に し, 悪 心 を 起 こ し て 戦
列 を 離 れ た 。 母 方 の 伯 父 で 国 王 ピ ピ ー ン が 彼 に 与 え た す べ て の 温 情 を 反 古 に し,
邪 念 を 抱 い て 彼 は バ イ エ ル ン に 急 遽 退 却 , 二 度 と既 述 の 国 王 の 顔 を 見 た く な い ,
と言 っ た 。 国 王 ピ ピ ー ン は ア キ タ ニ ア を 劫 掠 しっ つ 通 っ て カ オ ー ル に ま で 至 り ,
リモ ー ジ ュを経 て フ ラ ンキ ア に帰 った。 厳 しい冬 が来 た」
Herwig
Wolframは
ariorum
, 近 著Salzburg
et Carantanorum
Verlag
Wien
M
節Malignus
chenの
homo
Becherの
Bayern
und
die
第5章Zur
Tassilo,
Osterreich,
Quellen
ihrer
Die
fr舅kisch-bayerischen
propinquus
noster,
Conversio
Bago-
Zeit,1995, R. Oldenbourg
Geschichte,
S.338-344で
第2
, 水 準 を上 回 る
こ の 学 位 論 文 に 総 論 的 に 賛 意 を 表 す る 。 が , 各 論 に 及 ぶ と様 変 わ り,
例 え ば757年
タ シ ロ3世
の 誓 に 関 し て は ,Becherが
の 承 認 が5月9日
, フ ラ イジ ング僧 院へ の寄 進 文 書 へ の
付 け で行 わ れて い る ので 彼 は そ の 日に フ ラ イ ジ ング
に 居 た , と判 断 で き る , と主 張 す る と,Wolframは
可 能 性 も あ る 」 と反 論 す る。Wolframは
「そ の 承 認 は 後 刻 行 わ れ た
, そ の 著F
stentumのS.166で
, ザ
ル ッ ブ ル ク 大 聖 堂 へ の タ シ ロ の 寄 進 は 公 母 ヒ ル ト ル ー ド, と り わ け ピ ピ ー ン の 関
与 を 得 て 行 わ れ た も の で しか な い , と 述 べ て い る が , そ れ が ,Becherに
よ っ て,
タ シ ロ は 全 統 治 期 間 を 通 じて ザ ル ッ ブ ル ク と 密 接 な 関 係 を 持 っ て い た 故 そ う い う
こ と は 無 い , と 否 定 さ れ る と ,Wolframは
「ち ょ っ と し た ジ ャ ブVorgepl舅kel
を 打 ち 返 し て お く 必 要 が あ る 」 と 前 置 き し て , ザ ル ッ ブ ル ク 文 書(Notitia
Arnonis及
びBreves
Notitiae)に
れ る に 過 ぎ ず ,Becherの
っ い ての 彼 お 得 意 の緻 密 な分 析 が述 べ 立 て ら
論 理 構 造 に食 い込 む もの に は な って い な い。 そ の後 に
強 烈 な ア ッパ ー カ ッ トが 打 ち 出 さ れ る の を 期 待 して 読 み 進 む 。 が , 出 て 来 る も の
は763年
の
「戦 列 離 脱 」 に っ い て の 論 評 : 「Becherは
と す る が , や は り763年
『戦 列 離 脱 』 は 無 か っ た
に ピピ ー ン に不 快 感 を 催 させ る何 か が , どん な こ とか 分
ら な い に し て も , 起 こ っ た に 違 い な い 。 で な け れ ば タ シ ロ が 教 皇 パ ゥ ル ス1世
(在 位757-767)に
ピ ピ ー ン へ の 執 り成 し を 依 頼 す る 筈 が な い」 に 過 ぎ ず ,
WolframはBecherの
Jahnに
掌 の 中 で 動 く だ け 。 Wolframの
捧 げ ら れ て い る(Jahnに
もJahnに
刑 さ れ て 僧 院 送 り)と
の 関 連 で757年
及 び763年
う と す る 姿 勢 に 乏 し い 。 そ れ に 反 し てBecherは
ロ3世
照)。 Wolframに
して
して も 実 証 的 な 綿 密 な 基 礎 的 文 献 研 究 に よ り 優 れ た 業 績 を 挙 げ た 斯 界
の 第 一 人 者 で あ る が , こ と タ シ ロ に 関 す る 限 り,788年
う に ,789年
こ の 近 著 はJoachim
つ い て は 本 稿 の 註15参
及 び802年
の タ シ ロ の 死 刑 判 決(減
及 び781年
を 総 合 的 に把 握 しよ
, 本 稿2-11.以
下 に示 され る よ
の 全 般 的誠 実誓 約 及 び そ の 実施 規 定 等 を 見 通 しつ つ タ シ
事 件 を 扱 い カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と し て の エ トス を も そ こ か ら 抉 り 出 そ う と
す る 。 こ の よ う なBecherの
ダ イ ナ ミズ ム は 彼 ら に は 見 ら れ な い 。
再 論 :タ シ ロ三 世
17
検 討 も さ れ ず に 大 方 の 研 究 者 に よ り, 確 定 的 事 実 , と受 け 止 あ ら れ て い る ,
とBecherは
述 べ, 具 体 的検 討 に 入 る。
「王 国 年 代 記 」 で は 「悪 心 を 起 こ し て 」 「邪 念 を 抱 い て 」 が 強 調 さ れ る が ,
「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 は , 病 気 を 理 由 にper
して い る こ と をBecherは
dolum戦
列 を 離 れ た, と
指 摘 す る。 ピ ピ ー ン は , タ シ ロ の
「戦 列 離 脱 」 で
戦 力 が 弱 体 化 し た に も拘 ら ず , ア キ タ ニ ア を 劫 掠 した こ と が
「王 国 年 代 記 」
の 記 述 か ら分 る 。 「王 国 年 代 記 」 は フ ラ ン ク 王 国 の 栄 華 の 記 録 が 目 的 で あ る
以 上 , 戦 果 の 誇 大 報 告 は あ っ て も, 敗 北 の 報 告 は 殆 ど 無 い。 ニ ヴ ェ ー ル
Niversで
の タ シ ロの
「戦 列 離 脱 」 は ピ ピ ー ン に と っ て 屈 辱 的 事 件 で あ っ た 。
国 王 に 対 す る 侮 辱 を 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 が 記 録 し た の に は , そ れ な り の 思
惑 が あ っ た か ら, 即 ち , タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 は ピ ピ ー ン の 子 息 カ ー ル 大 帝
の 立 場 を 有 利 に す る か ら , とBecherは
想 定 す る。
ピ ピ ー ン は, ヴ ァ ィ フ ァ ル 及 び タ シ ロ と の 両 面 戦 争 を 避 け た か らか , タ シ
ロ に 対 し て 制 裁 を 加 え て い な い 。Becherは
公 ラ ー ド ゥ ル フRadulfの
ト3世Sigibert
, テ ィ ー リ ン ゲ ンTh
ingen太
叛 乱 に 対 処 した メ ー ロ ヴ ィ ング朝 国 王 ジ ー ギ ベ ル
III.(在 位632一 †656)の 例28)を 引 き , 「ジ ー ギ ベ ル トの ラ ー ド ゥ
ル フ征 討 は 成 果 な し に 終 わ る も の の ピ ピ ー ン と は対 照 的 な 反 応 を した 」 と し
,
ピ ピ ー ンが 制 裁 を 加 え な か っ た こ と は 説 明 困 難 , と す る。 成 程763年
に は厳
冬 が 訪 れ , 翌 年 は大 飢 饉 に襲 わ れ た よ うで はあ るが, ピ ピー ン はそ の後 もア
キ タ ニ ア 征 討 は 続 け て い る 。Becherに
言 わ せ れ ば 「757年 の タ シ ロ 服 属 に
っ い て の 『王 国 年 代 記 』 の 描 写 を 信 ず る な ら, ま た , そ の6年
28)
テ ィ ー リ ン ゲ ン 太 公 ラ ー ド ゥ ル フ は , ヴ ェ ン ド人Wenden(フ
接 触 し た ス ラ ヴ人 の 総 称)を
ギ ゼ ルAdalgisel及
征 服 し た 後 , ア ゥ ス ト リアAustrien総
び 若 い ジ ー ギ ベ ル ト3世
後 の タ シ ロの
ラ ン ク人 等 と
督 アーダル
に 叛 旗 を 翻 す 。 ジ ー ギ ベ ル ト は641
年 この叛 徒 の征 討 を企 て, ラー ドゥル フ と結 託 した アギ ロル フ ィ ン グ家 の フ ァ ラ
Faraを
敗 死 さ せ る 。 しか し ラ ー ド ゥ ル フ は , フ ラ ン ク 王 国 の 一 部 貴 族(=豪
族)
と密 か に結 託 , フ ラ ンク王 国 の包 囲 を逃 れ て フ ラ ン ク王 国軍 を打 ち破 り, テ ィー
リ ン ゲ ン王 を 名 乗 る 。 以 後 フ ラ ン ク 王 国 の ラ イ ン 河 右 岸 に お け る 影 響 力 は 低 下 し
て 行 く(LMA,
Bd.VII, Sp.391に
よ る)。
18
『戦 列 離 脱 』 の 記 述 を 信 ず る な ら ば , 従 来 か ら事 実 上 独 立 的 統 治 を し て い た
太 公 タ シ ロ を 服 属 さ せ る方 が , ヴ ァ ィ フ ァ ル 征 討 よ り も, ピ ピ ー ン に と っ て
遙 か に 重 要 だ っ た 筈 で あ る 」。 も し タ シ ロ の
「戦 列 離 脱 」 が 事 実 だ と す れ ば ,
タ シ ロ は 自 らの行 為 が惹 起 す る結 果 に っ い て 明確 に意 識 したで あ ろ う。 とす
れ ば , とBecherは
論 を 進 め る : 「タ シ ロ に と っ て の 関 心 事 は ピ ピ ー ン の 仕
掛 け る 戦 争 へ の 対 策 で あ る 。 タ シ ロ の 『戦 列 離 脱 』 か ら直 接 に 利 益 を 受 け た
の は ヴ ァ ィ フ ァ ル で あ る 以 上 , タ シ ロ は ヴ ァ ィ フ ァル と 簡 単 に 同 盟 で き る 。
そ の 同 盟 に 更 に ラ ン ゴ バ ル ド国 王 一 …タ シ ロ の(未 来 の)舅 一 一 を も 引 き込
あ ば , タ シ ロ は ピ ピ ー一ンの 制 裁 に 曝 さ れ ず に 済 む こ と に な る。 だ が , 我 々 は
タ シ ロ に つ い て そ の よ う な 行 動 は ま っ た く聞 い て い な い 」。
更 にBecherは
,763年
の 「王 国 年 代 記 」 等 の 描 写 に は 決 定 的 な 謎 が あ る ,
とす る 。 「何 故 タ シ ロ は , ピ ピ ー ン に 屈 辱 を 味 わ わ せ る た め に , 直 線 距 離 に
し て1000キ
ロ もあ るニ ヴ ェ ー ル に 臣 下 と共 に赴 き直 ぐま た故 国 に 帰 っ た の
か 。 タ シ ロ は使 者 を通 して ピ ピー ンに不 参 加 と家 臣 誓 約 の 解 消 を 伝 え る こ と
もで き た 。 こ の 方 が ピ ピ ー ン の 勢 力 下 の 土 地 に 赴 く よ り遙 か に タ シ ロ に と っ
て 安 全 だ っ た ろ う」 と 述 べ , 「王 国 年 代 記 」 及 び 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」
763年
の 項 は殆 ど 有 り得 な い タ シ ロ の 行 動 を 記 述 し て い る, と言 う。(S.48)
依 拠 的 年 代 記 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 と 「メ ス年 代 記 古 本 」 の ど ち ら
も タ シ ロ が 「病 気 を 理 由 に 戦 列 を 離 れ た 」 と して い る が , 全 体 的 に は 「王 国
年 代 記 」 と大 き く違 わ な い 。 た だ 「メ ス年 代 記 古 本 」 の 場 合 は タ シ ロ に 対 す
る 告 発 的 表 現 が 和 ら い で い る, とBecherは
言 う。
自 立 的 年 代 記 の 場 合 は ど う か 。 も し 自 立 的 年 代 記 が763年
の 「タ シ ロ 脱
走 」 を 記 録 し て い る な ら, 今 ま で 提 起 し た 疑 問 点 は す べ て 雲 散 霧 消 す る が ,
小 規 模 年 代 記 は ど れ も, そ して
「編 年 誌 続 編 」 も, ニ ヴ ェ ー ル で の タ シ ロ
「戦 列 離 脱 」 事 件 に は一 言 も 触 れ て い な い , とBecherは
763年
報 告 す る。
以 後 の フ ラ ン ク 王 国 と バ イ エ ル ン太 公 国 の 関 係 は ど う か 。768年
,
ピ ピ ー ン が 死 去 す る 。 「王 国 年 代 記 」 の 叙 述 を 真 に 受 け る な ら, バ イ エ ル ン
は 公 式 に は757年
以 後 は フ ラ ンク王 国 の一 部 にな って い る。 しか し, ピ ピ ー
再 論 :タ シ ロ三 世
19
ンが 死 期 を 悟 っ て カ ー ル と カ ー ル マ ン へ の 領 土 分 割 を 決 定 し た と き, バ イ エ
ル ン に は ま っ た く触 れ ら れ て い な い 。 従 っ て
, バ イ エ ル ン太 公 国 は フ ラ ン ク
王 国 の 支 配 下 に は 入 って い な い , と ピ ピ ー ン は 考 え て い た の だ ろ う。
一 方 , こ の 時 期 , ラ ン ゴ バ ル ド王 国 を 巡 っ て 事 態 は 大 き く揺 れ 動 く。 タ シ
ロ は765年
頃 ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ スDesiderius(在
王 女 リ ゥ ト ビル ク と 結 婚 す る。770年
位757-774)の
頃 , 国 王 カ ー ル も, 和 平 へ と 努 力 す る
王 母 ベ ル ト ラ ー ダ の 奔 走 に よ り, デ ジ デ ー リ ゥ ス の 娘(名
前 不 詳)を
妻 に迎
え る。 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 に よ る な ら, 従 兄 弟 関 係 に あ っ た 国 王 カ ー ル と
家 臣 タ シ ロ は 更 に 義 兄 弟 の 関 係 に 入 る こ と に な る一
・
一こ の よ う な 関 係 は, こ
れ ま で の 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 が 真 実 で あ る と す れ ば , 理 解 し に く く,
Becherは
「カ ー ル は フ ラ ン ク人 か ら非 難 を 浴 び た だ ろ う に 」 と 表 現 す る
。
しか し他 方 こ れ ま で の 「王 国 年 代 記 」 の 報 告 に は 何 ら現 実 的 根 拠 が 無 か っ た
と 前 提 す れ ば , っ ま り, タ シ ロ太 公 は ニ ヴ ェ ー ル に は 姿 を 現 さ な か っ た が 故
に 太 公 が 国 王 ピ ピ ー ン の 戦 列 を 離 れ る こ と な ど有 り得 な か っ た , と 前 提 す れ
ば , タ シ ロ と カ ー ル の 接 近 は 容 易 に 説 明 が つ く, とBecherは
主 張 す る。 当
時 フ ラ ン ク 王 国 は カ ー ル と カ ー ル マ ン に 分 割 さ れ , ピ ピ ー ン在 世 時 の 纏 ま り
は な く, カ ー ル マ ン は 粗 野 で 強 引 な カ ー ル に 悩 ま さ れ て い た 。 そ れ は 兎 も角 ,
ラ ン ゴ バ ル ド王 女 と の カ ー ル の 結 婚 に よ り フ ラ ン ク 王 国 ・バ イ エ ル ン 太 公
国 ・ラ ン ゴ バ ル ド王 国 の 間 に 大 連 合 が 生 ま れ る 。 一一方 ,772年
3世 の 長 男 テ ー オ ドTheodoは
位772-795)か
子 息(王
子)に
, 太公 タ シロ
ロ ー マ で ハ ド リア ー ヌ ス1世Hadrianus
I.(在
ら洗 礼 を 受 け塗 油 さ れ る一 一
一教 皇 に よ る 洗 礼 ・塗 油 は 国 王 の
限 られ 太 公 の 子 息(公
子)が
そ の 対 象 に な っ た こ と は嘗 て 無
か っ た 。 バ イ エ ル ン太 公 国 と ロ ー マ 教 皇 庁 の 伝 統 的 な 絆 は 一 層 強 ま る が
,結
果 論 か ら言 え ば , タ シ ロ は カ ー ル と ハ ド リ ア ー ヌ ス と の 関 係 に 強 く縛 ら れ て
し ま う。 こ の よ う な 情 勢 の 中 で ,773年
, 国 王 カ ー ル は ラ ン ゴ バ ル ド王 国 征
服 の 挙 に 出 る。 タ シ ロ は 舅 の ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ ス に 一 切 手 を 貸
さ な か っ た , い や , 手 を 貸 せ な か っ た , と言 う の が 適 切 か も しれ な い
。 タシ
ロ は こ れ に よ り フ ラ ン ク 王 国 と 対 抗 し て 行 く上 で の 大 切 な 味 方 を 失 な う
。
20
以 上 か ら明 らか な よ う に , フ ラ ン ク王 国 と バ イ エ ル ン太 公 国 の 関 係 は763
年 以 後 も大 き な 変 動 無 く経 過 し た 。 従 っ て
763年
「王 国 年 代 記 」763年
の 状 況 に 忠 実 に, と 言 う よ り,790年
の記 録 は,
当 時 の フ ラ ンク王 国 の要 請 に忠
実 に, 記 さ れ た の で は な い か, と の 疑 念 が ま た ま た 強 ま っ て く る, と
Becherは
言 う。
2-6.タ
Becherは
言 う : 「781年
H.Krawinkelだ
シ ロ の781年
の 誓 約
に 誠 実 誓 約 が 繰 り返 さ れ た こ と に 疑 念 を 挟 む の は
け で , K.
Reindel29)もH.
Wolfram30)も
し , こ の 更 新 の 際 に イ ン ゴ ル シ ュ タ トIngolstadtと
hofenの
両 王 宮 が タ シ ロに授 け られ た,
誓 約 更 新 を事 実 と
ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ンLauter-
と す る 。 P. Classen31)は
,
タ シロ の
誓 約 は誠 実 誓 約 だ った, と しな が ら も, 王 宮 返還 に よ り タ シ ロに 物 的 拘 束 が
29)
Kurt
Reindel,
zum
Ausgang
der
Geschichte,
Beck.
hg.
S.174に
し,725年
Politische
von
よれば
Geschichte
vom
Agilolfingerzeit,
Max
Spindler,
Ende
des
in:Handbuch
Bd.1,2.,
der
erarb.
更 新 ,12名
bis
bayerischen
Aufl.,1981,
「タ シ ロ は 封 土 誓 約Lehenseidを
或 い は728年
6. Jahrhunderts
M
chen
の人 質 を提 供
に バ イ エ ル ン か ら分 離 さ れ た ノ ル トガ ゥ に あ る 王 宮 イ ン
ゴ ル シ ュ タ トと ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン を 取 り戻 し た 。 し か し こ の こ と は , 更 新 さ れ た
友 好 関 係 の 証 と して の 贈 り物 で は な く, タ シ ロ が そ の 家 臣 誓 約 と託 身 に よ っ て 従
来 か ら 受 け て い た 人 的 拘 束 に 今 や 物 的 拘 束 が 加 わ っ た こ と を 意 味 す る 」 註8参
照。
30)Wolfram,
F
stentum,
承 , ヴ ォ ル ム スWormsに
S.168に
よれば
「タ シ ロ は 提 案 さ れ た 人 質 交 換 を 了
来 て 誓 約 を 更 新 す る。 豪 華 な贈 り物 が 渡 され , 同時 に
タ シ ロ は 古 くか ら の バ イ エ ル ン の 領 地 で あ る 王 宮 イ ン ゴ ル シ ュ タ トと ラ ゥ タ ホ ー
フ ェ ンを 取 り戻 す 」
31)P。Classen(註88の
ロ は781年
書 のS.238)に
よれ ば
「教 皇 と 国 王 の 使 者 に 招 か れ て タ シ
秋 ヴ ォ ル ム ス の カ ー ル の 王 宮 に 現 れ る 。18年
前 ピ ピ ー ンの軍 列 を離
れ て か ら初 め て フ ラ ン ク国 王 の 要 請 , 軍 事 的 要 請 で は な いが , に応 じた。 ピ ピー
ン へ の 古 い 誓 約 が 更 新 さ れ る・
しか し788年
の 裁 判 を 根 底 に お い て 執 筆 して い
る 『王 国 年 代 記 』 の 記 者 で す ら 『家 臣 誓 約 』 と は 言 っ て い な い 。 こ の 時 イ ン ゴ ル
シ ュ タ トと ラ ゥ タホ ー フ ェ ンが
能 性 は あ る」
『封 土beneficia』
と して タ シ ロ に 与 え られ た 可
再 論 :タ シ ロ 三 世
か か っ た 可 能 性 は 否 定 し な い 。L.
Kolmer32)は
ル の 家 臣 に な っ て い た な ら ,781年
に カ ー
の儀 式 は大 部 分 不 要 な筈 で は な い か,
指 摘 す る 」。 こ の よ う に 述 べ た 後
「王 国 年 代 記 」781年
, も し タ シ ロ が757年
21
「王 国 年 代 記 」781年
の 項33)の
と
検 討 に入 る。
の 項 を 読 む と, 全 て が カ ー ル の 思 い 通 り に 運 ん だ よ
う に 見 え る が , 実 際 は そ う で は な か っ た ら し い 。Becherに
よれ ば, カ ー ル
は 当 初 使 節 団 に こ の 誓 約 問 題 を 任 せ る っ も り だ っ た ら し い 。 し か し タ シ ロ は,
32)註102の
33)「.王
書 のS.305参
supradicto,
una
Bd.5
hi sunt
cum
missis
Eborhardum
nisi
sicut
regis
et
domni
iureiurando
Tassilo
dux
ad
veniret
omnia
in causa
diu
praefatus
dux
「そ し て そ れ か ら 二 人 の 使 者 ,
皇[=ハ
promiserat
vel
dux
ド リ ア ー ヌ ス1世]に
in
quicquid
domni
ad
rege
rex
in Carisiacum
consensit
Carolo
non
simi
et dans
duodecim
Pippino
regi
vel
villa de
promissiones,
p
fidelium
manu
quas
Pippini
tunc
a domno
regis
et
aliter faceret,
domni
Et
praefatus
domno
ducem
diaconem
partem
praesentiam
Caroli
apostolico
et contestandum,
et ut non
sacramenta
Tassilo
ab
Tassilonem
Francorum.
obsides
ibi renovans
sunt
missi
commonendum
et domnus
supradicti
duo
suorum
ut sumptos
conservaret,
recepti
ad
regis
supradictus
promiserat
sunt
episcopi, ad
his nominibus:Riculfum
dudum
magni
praesentiam;quod
electos, ut
et ipsi obsides
Caroli
iam
civitatem,
missi
sacramentorum
Caroli
se
Wormatiam
non
regis
Baioariorum,
coniungens
Et tunc
et Damasus
pincernarum,
priscorum
domni
eius
S.40ff.
Formonsus
magister
ut reminisceret
Sed
照。
国 年 代 記 」FvS
et tunc
rennuit.
Et
regis
ad
obsides
iureiurando
suorum;qui
Sinberti
episcopi.
fecerat, conservavit.
フ ォル モ ンス ス と ダマ スス の両 司教 , が既 述 の教
よ り, 国 王 カ ー ル の 使 者 , 助 祭 リ ク ル フ ス と 献 酌
頭 エ ボ ル ハ ル ド ゥ ス, と共 に タ シ ロ太 公 の 許 に 派 遣 さ れ た 。 彼 ら は タ シ ロ に , 古
い 誓 約 を 思 い 出 す よ う , 久 し く以 前 に 国 王 ピ ピ ー ン と カ ー ル 大 帝 及 び フ ラ ン ク人
に 対 し て 誓 約 し た こ と に 背 く行 動 を と ら ぬ よ う, 警 告 し諭 し た 。 す る と バ イ エ ル
ン太 公 タ シ ロ は 国 王 カ ー ル か ら提 供 さ れ た 人 質 を 受 け 入 れ た 後 に 御 前 に 出 頭 す る
こ と に 同意 した。 これ を既 述 の王 は拒 否 しな か った。 既 述 の太 公 は ヴ ォル ム ス の
町 に来 て い と敬 虔 な る 国王 の御 前 に現 れ , そ こで彼 は, 国 王 ピ ピー ンに誓 約 で約
束 し た こ とす べ て を 国 王 カ ー ル 及 び 国 王 の 家 臣 に 対 し て 遵 守 す る 保 証 と し て , 諸
誓 約 を 更 新 し, 高 貴'な 人 質12名
Quierzyの
を 差 し 出 し た。 こ れ ら の 人 質 は キ ェ ル ジ
御 料 地 で 司 教 シ ンベ ル トゥ スの 手 か ら渡 され た。 だが , 既 述 の太 公 タ
シ ロ は 自 ら誓 っ た 諸 誓 約 を 長 く は 守 ら な か っ た 」
22
カ ー ル との 直 談 判 を 要 求 , 更 に, 道 中 及 び 王 宮 滞 在 中 の 身 辺 保 証 の た め に
カ ー ル に 人 質 を 出 す よ う要 請 し た ら し い 。 こ れ らす べ て を 承 知 の 上 で781年
の 項 の 記 述 が 生 ま れ た の で あ り , こ の こ と か ら, 当 時 の カ ー ル の 立 場 は 決 し
て 強 固 な も の で は な か っ た , とBecherは
項 の 叙 述 で757年
推 測 す る。 興 味 深 い こ と は , こ の
に タ シ ロ が した と さ れ る 家 臣 誓 約 に つ い て 一 切 言 及 さ れ て
い な い こ と , 及 び ,757年
で あ っ た が ,781年
の 誓 約 対 象 者 は ピ ピ ー ン, カ ー ル 及 び カ ー ル マ ン
の 項 で は カ ー ル マ ンに は 触 れ ず に34)「 家 臣fideles」 が 加
え ら れ て い る こ と , 及 び 「タ シ ロ は 自 ら 誓 っ た 諸 誓 約 を 長 く は 守 ら な か っ
た 」 と い う文 言 が こ の 項 の 事 後 的 記 載 を 証 明 し て い る こ と, 等 で あ ろ う。
依 拠 的 年 代 記 で あ る 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 の 記 述 は 大 筋 に お い て
「王 国 年 代 記 」 を 踏 襲 し て い る 。 こ の 年 代 記 も
「タ シ ロ は 自 ら誓 っ た 諸 誓 約
を 長 く は 守 ら な か っ た 」 と い う言 葉 で 記 述 を 終 え て い る , とBecherは
言 う。
「メ ス年 代 記 古 本 」 も 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 と大 体 同 じ で , 異 な る 点 は , タ
シ ロが 要 求 した フ ラ ンク人 の 人 質 は ヴ ォル ム スで の 交 渉 終 了 後 に返 還 され た
と の 記 述 が 加 わ っ て い る こ と と, 「王 国 年 代 記 」 や
記 」 と 異 な り, カ ー ル は タ シ ロ を 敬 意 を も っ てcum
,
「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代
honore故
国 に帰 した,
と い う言 葉 で こ の 項 が 終 っ て い る こ と, で あ る, と彼 は言 う。
自立 的年 代 記 で は ど うか?
残 念 な が ら 「編 年 誌 続 編 」 は768年 の カ ール
と カ ー ル マ ン の 夫 々 の 即 位 で 記 述 が 終 わ っ て し ま う。 小 規 模 年 代 記 の み が 今
や 検 査 役 を 務 め る こ と に な る。 先 ず
「ア ヴ ェ ン テ ィ ー ヌ ス 編 年 誌Chronik
des
この編 年 誌 の情 報 源 は タ シ ロの宰 相 ク
Aventinus」
ラ ン ツCrantz35)で
34)771年
の 情 報 か ら見 よ う。
あ る。 ク ラ ン ツ に よ れ ば, 教 皇 ハ ド リア ー ヌ スが タ シ ロ
カ ー ル マ ンが死 去 す る と,カ ール(大 帝)は カ ー ル マ ンの 妻 子 を 相 続 か ら
排 除 , そ の 領 地 を 奪 う。 カ ー ル の この 行 為 に は法 的 正 当 性 が 無 い。 この こ とへ の
35)
配 慮 か ら年 代 記 の781年 の項 に カ ー ル マ ンの名 が記 載 され て いな いの で あ ろ う。
ク ラ ンッCrantzは ア ヴェ ンテ ィ ー ヌ ス に よ って発 見 され た 古 文 書 の著 者 と さ
れ ,ク ラ ンッ とい う名 前 自体 ,ア ヴ ェ ンテ ィー ヌ ス に よ って 与 え られ た。この 古 文
書 の 内容 か ら判 断 して, 著 者 は タ シ ロ3世 側 近 の名 士 とい う こ とで, ク ラ ン ッ は
宰 相 に擬 せ られ て い る。 一 方 , ア ヴェ ンテ ィー ヌスAventinusは(本
名Johannes
再論 :タシロ三世
23
太 公 を譲 歩 に導 き, カ ー ル大 帝 に バ イエ ル ン攻 撃 を控 え させ た, との こ とで,
この編 年 誌 は カ ー ル と タ シ ロの ヴ ォル ム ス で の談 合 を伝 え て は い るが36),タ
シ ロの 誓 約 に つ い て は一 言 も描 写 して い な い。 こ の報 告 が正 しい とす れ ば
「王 国 年 代 記 」 記 者 の 事 実 報 告 の 恣 意 性 を 証 す る 更 な る 例 と な ろ う, と
Becherは
言 う。 但 し, この 編 年 誌 の 場 合 , 描 か れ る事 件 と記 述 の時 点 が 余
りに も隔 た って い る た め確 実 な想 定 は不 可 能 , と彼 は付 言 す る。 他 の 自立 的
年 代 記 を 見 る と, 若 干 の年 代 記 の場 合 ,781年
と い う項 目す らな い こ とが 目
に付 く。 これ ら 自立 的 年 代 記 は言 葉 数 が 少 な く, 通 例 , 非 常 に重 要 な 出 来事
Turmair[*1477一
†1534])1517年
バ イ エ ル ン 王 国 の 王 室 歴 史 編 纂 者 に な る。 主
著 は 「バ イ エ ル ン歴 代 太 公 年 代 記Annales
ducum
Boiariae」 , こ れ を 完 成 さ せ て
か ら, そ の ドイ ッ 語 版 「バ イ エ ル ン編 年 誌Baierische
Chronik」
を1522-33年
に書
く。 しか し こ の 書 は 反 教 皇 的 傾 向 の た め 彼 の 死 後 に 刊 行 さ れ た 。 ア ヴ ェ ン テ ィ ー
ヌ ス は ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 時 代 の 歴 史 を 書 く に 当 た っ て タ シ ロ3世
の宰 相 ク ラ ン
ツ が 書 い た 史 書 を 参 考 に し, こ の 編 年 誌 に は こ の 時 代 を 記 述 し た 他 の 年 代 記 ・編
年 誌 に は 見 出 せ な い 出 来 事 の 記 述 ・時 代 の 捉 え 方 が あ る 。 ク ラ ン ツ が 書 い た と さ
れ る 史 書 は そ の 後 散 逸 し, 現 代 に 伝 え られ て い な い 。 ク ラ ン ッ と ア ヴ ェ ン テ ィ ー
ヌ ス に つ い て はSigmund
36)
des
achten
der
Wissenschaften,
Riezler, Ein
Jahrhunderts,
Bayerische
Werke
Rom
und
k
schenket
und
Sie
derzwischen,
in Baiern
ig.
zu
entpfieng
stiessen
gros
und
von
der
Kaiser
M
die
gar
erlich
K
niglichen
frid miteinander
Aventinus,
Akademie
Da
schicket
legt
zw@n
veter, k
erpot
an.「
ig
im
im
dem
k
grosse
pabst
von
herzog
Karl, gen
der
der
sich
bischof
frid zwischen
schenket
und
Akademie
詳 しい。
, genannt
machten
zu seinem
Geschichtswerk
nigl. bayer.
chen.5.109.
undertediger,
kam
k
S.247-291に
Turmairs
gelt;herwider
Thessel
ewigen
hg.
Thessel,
Thessel
guet
herzog
ainen
ward
herzog
Herzog
im
V,
Christian
bairisches
der
Classe,1881,
in:Johannes
Bd.
Wissenschaften,1886,
Hadrianus
in:Sitzungsberichte
Historische
Chronik,
S舂mtliche
verlorenes
Wormbs,
ig
zuckt
noch
und
mir
er.
す る と教 皇 ハ ドリア ー ヌ ス
が 間 に 割 っ て 入 っ て 調 停 役 を 務 め , 二 人 の 司 教 を ロ ー マ か らバ イ エ ル ン の 太 公 タ
シ ロの許 に 送 り, 彼 ら は太 公 と国 王 の 間 に和 平 を 成 立 させ た。 太 公 タ シ ロ は彼 の
従 兄 弟 , 国 王 カ ー ル を 訪 ね て ヴ ォ ル ム スへ 出 向 き, カ ー ル に 多 くの金 品 を 贈 っ
た。 これ に応 え て 国 王 は タ シ ロに そ れ を 上 回 る贈 り物 を な し太 公 タ シ ロを鄭 重 に
も て な し, 彼 に 充 分 な る 敬 意 を 表 し た 。 彼 ら は 互 い に 恒 久 的 和 平 を 契 っ た 」
24
の み を 記 述 す る 。 しか し, とBecherは
疑 問 を 提 起 す る : 「タ シ ロ の 再 度 に
及 ぶ カ ー ル へ の 服 属 行 為 が 記 者 た ち に完 全 に 無 視 さ れ る ほ ど重 要 度 に 欠 け た
の か?」
そ の 他 の 小 規 模 年 代 記 は, カ ー ル の ロ ー マ か ら の 帰 還 , ヴ ォ ル ム ス
の 五 月 総 会 に つ い て 記 し て い る が , タ シ ロ に つ い て の 言 及 は 無 い 。 「ロ ル
シ ュ年 代 記 」 や
「モ ゼ ラ ー ヌ ス 年 代 記Annales
Mosellani」
記 し て い る が , 「ペ タ ヴ ィ ア ー ヌ ス 年 代 記Annales
は タ シ ロの名 を
Petaviani」
の 記 述37)の 枠
を 出 る も の は 無 い 。 従 っ て , こ れ ら三 っ の 年 代 記 は い ず れ も ヴ ォ ル ム ス で の
タ シ ロ 宣 誓 を 伝 え て い な い , とBecherは
い てper
suum
comigatum」
纏 め る 。 「国 王 か ら の 賜 暇 に 基 づ
と い う表 現 か ら, カ ー ル に 対 す る タ シ ロ の 誠 実
誓 約 の 存 在 は 推 論 で き な い, とBecherは
記 」781年
37)
「モ ゼ ラ ー ヌ ス 年 代
の 項 の 表 現38)を 見 る と , カ ー ル に 対 す る タ シ ロ の 誓 約 の 存 在 を 匂
MGH
SS
hic annus,
ibi
言 う。 一 方
fuit
Tom.1,
nisi
tantum
Taxilo,
regi, et per
ed. von
Pertz,1826
Vurmacia
dux
suum
G.H.
de
civitate
Bawaria,
comigatum
,Hannover.5.16.
venerunt
magnaque
rediit
ad
Sine
Franci
munera
patriam.「
ad
hoste
fuit
placitum;et
praesentavit
domno
この年 は 出兵 は無 か った が
多 く の フ ラ ン ク人 が ヴ ォ ル ム ス の 町 の 王 国 会 議 に や っ て 来 た 。 そ れ に バ イ エ ル ン
太 公 タ シ ロ が 参 加 し た 。 彼 は 国 王 に あ ま た の 贈 り物 を し, 国 王 の 賜 暇 に 基 づ い て
故 国 へ 帰 っ た 」781年
の 記 述 にお け る
「モ ゼ ラ ー ヌ ス 年 代 記 」 と 「ロ ル シ3年
代
記 」 の違 い は 固有 名 詞 の標 記 に あ る だ け, と言 って 良 い。
38)
MGH
rex
SS
Karlus
Tom.
XVI,
Romam
et
Karlomannus;quern
unxit
in
imperatore.
Et
Et
super
ibi
disponsata
est rex
Francorum
habuit
civitatem.「
Pertz,1963
conventum
est
papa
Italiam
reversus
magnum
G.H.
baptizatus
Adrianus
regem
Aequitaniam.
ed. von
ibi
mutato
et
est
,Hannover.5.497.
filius
nomine
fratrem
Rottrhud,
in Francia
eius, qui
vocavit
eius
filia
et colloquium
id est Magis
campum
perrexit
vocabatur
Pippinum
Ludowigum
et
super
regis, Constantino
cum
apud
Dasilone,
et
Wormosiam
国 王 カ ー ル は ロ ー マ に 至 り, そ こ で 彼 の 子 息 カ ー ル マ ン は
洗 礼 を 受 け る。 教 皇 ハ ド リア ー ヌ ス は カ ー ル マ ン の 名 を 改 め て ピ ピ ー ン と し て イ
タ リ ア 国 王 に 塗 油 し, そ の 弟 ル ー ドヴ ィ ヒ を ア キ タ ニ ア 国 王 に 塗 油 す る 。 国 王 の
息 女 ロ ー トル ー ドは ビ ザ ン ッ 帝 国 皇 帝 コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス と 婚 約 す る 。 そ し て 国
王 は フ ラ ン キ ア に 戻 り, タ シ ロ と の 会 談 に 臨 み , ヴ ォ ル ム ス の 町 の 近 く で 開 か れ
る フ ラ ンク人 の大 集 会 で あ る五 月 総 会 に参 加 す る」
再 論 :タ シ ロ三 世
25
わ せ る表 現 は無 い 。
こ れ ら の こ と か らBecherは
タ シ ロへ の 物 的 拘 束 た る
「カ ー ル か ら タ シ ロ
へ の両 王 宮 イ ン ゴル シ ュ タ トと ラ ゥ タ ホー フ ェ ンの返 還 」 につ いて , これ は
781年
に 行 な わ れ た の で は な く, タ シ ロ が カ ー ル の 家 臣 に な っ た787年
能 性 が 非 常 に 高 い , と言 う 。781年
の可
に カ ー ル が タ シ ロ と 会 談 を して い る こ と
は, 諸 種 の 年 代 記 の 報 告 か ら, 事 実 と認 定 で き る が , そ の 際 の 主 題 は 「イ ン
ゴ ル シ ュ タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン」 で は な く, ラ ン ゴ バ ル ド ・バ イ エ ル ン国
境 の 紛 争 問 題 だ っ た , とBecherは
推 測 す る 。 国 境 紛 争 は ,774年
フ ラ ンク
王 国 が ラ ン ゴ バ ル ドを 征 服 し て 以 来 , 既 に 多 発 して い た か らで あ る 。784年
に は ブ レ ン ナ ーBrenner峠
で フ ラ ン ク 人 と バ イ エ ル ン人 の 大 規 模 な 紛 争 が 発
生 す る。 こ れ を き っ か け に フ ラ ン ク 国 王 と バ イ エ ル ン太 公 の 対 立 は 収 拾 し難
い も の に な っ た の で あ ろ う, とBecherは
2-7.787年
タ シ ロ が787年
推 断 す る。(S.58)
タ シ ロ, カ ー ル の家 臣 に
に カ ー ル の 家 臣 に な っ た こ と は , 研 究 史 上 , 一 致 して い る 。
し か し, タ シ ロ の 服 属 が757年
の コ ン ピ エ ー ニ ュ の 行 為 の 反 復 と して 捉 え て
い る か 否 か , こ の 点 が 大 い に 問 題 に な る 点 , とBecherは
「王 国 年 代 記 」 は787年
burgと
言 う。
タ シ ロ が , ザ ル ッ ブ ル ク 司 教 ア ル ンArn
モ ー ン ツ ェ ー 僧 院 長 フ ン リ ヒHunrich
von
Mondseeを
von
Salz-
主 体 とす る使
節 団 を ロー マ に派 遣 した, と伝 え る。 そ の 目的 は, ロ ー マ教 皇 ハ ドリア ー ヌ
ス1世
に カ ー ル と タ シ ロ の 間 の 和 平 の 執 り 成 しを 依 頼 す る こ と に あ っ た 。 教
皇 は使 節 団 の 依 頼 に 応 じ, 当 時 ロ ー マ に 滞 在 して い た カ ー ル に 調 停 案 一 一 そ
の 内 容 の 記 述 は無 い 一 一を 提 示 す る 。 カ ー ル は , 教 皇 の 調 停 案 を 自 ら の 願 望
と一 致 す る も の と受 け止 あ , 直 ち に 和 平 締 結 を 提 案 す る 。 しか し タ シ ロ の 使
節 団 は, カ ー ル の 和 平 案 に 署 名 す る 全 権 は 与 え られ て い な か っ た の で , そ れ
へ の 署 名 を 拒 否 す る。 こ れ を 教 皇 は , タ シ ロ 側 の 不 誠 実 の 証 , と 捉 え る 。 こ
の 時 既 に カ ー ル は べ ネ ヴ ェ ン トを 征 圧 して お り , こ れ は , 教 皇 に と っ て は ,
教 皇 領 の 安 定 を 図 る上 で 歓 迎 す べ き こ と で あ っ た が 故 に , 教 皇 は 恐 ら く カ ー
26
ル の べ ネ ヴ ェ ン ト征 圧 時 点 で , 従 来 の バ イ エ ル ン と の 友 好 関 係 保 持 政 策 か ら
カ ー ル 側 へ と方 向 転 換 を した の で あ ろ う, とBecherは
指 摘 す る。 教 皇 は ,
タシ ロ が ピ ピー ン とカ ー ル に対 して行 な った誓 約 を遵 守 しな い な ら
, タシ ロ
及 び そ の 一 派 を 破 門 す る , タ シ ロ は カ ー ル 及 び そ の 子 息 と フ ラ ン ク 人gens
Francorumに
服 従 せ よ , と 言 う。 太 公 タ シ ロ が こ れ を 拒 否 す る な ら
, バ イエ
ル ン は フ ラ ン ク王 国 の攻 撃 を 受 け る こ と に な るが
あ る, と す る。Becherは
, そ の責 はす べ て タ シ ロ に
, 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は詳 細 で あ る に も拘 ら ず
,
こ の 交 渉 へ の タ シ ロ の 基 本 的 姿 勢 及 び カ ー ル の 和 平 案 に つ い て 何 も述 べ て い
な い , と し, 記 者 は 単 に757年
を根 底 に置 い て タ シ ロに服 属 を迫 る教 皇 を描
くだ け , 更 に 奇 妙 な こ と に , こ の 項 の 記 述 は757年
781年
の 誓 約 に は 触 れ る もの の
の そ れ に っ い て は一切 言 及 し て い な い , とBecherは
でBecherは
「カ ー ロ リ ン グ 側 の 宣 伝 が757年
し て い る の は ,757年
,
指 摘 す る。 そ こ
の 託 身 と誠 実 誓 約 だ け に 集 中
の 託 身 と誠 実 誓 約 が788年
の タ シ ロ廃 位 の 正 当 化 の 重
要 な根 拠 を成 す か らで あ る」 と推 論 す る。
カ ール は フ ラ ンキ ア に帰 還 後 タ シ ロ に出 頭 を要 請 す る。 タ シ ロ は これ を 拒
否 , そ こ で カ ー ル は 軍 を 三 軍 に 分 け バ イ エ ル ン征 討 に 赴 く。 カ ー ル 自 身 , 軍
を 率 い て レ ヒ フ ェ ル トLechfeldに
向 か う 。 他 の 一 軍 は, 東 フ ラ ン ク 人 ,
テ ィ ー リ ン ゲ ン人 と ザ ク セ ン人 か ら 成 り, ドナ ウ 河 畔 の ペ リ ン グPf6rring
に 集 結 , も う一一
軍 を イ タ リ ア 国 王 ピ ピ ー ン が 率 い , ト リエ ン トTrientに
出 , 兵 を ボ ー ツ ェ ンBozenに
ま で 派 遣 す る。 こ の よ う な 兵 力 展 開 は , カ ー
ル が 入 念 に バ イ エ ル ン征 圧 作 戦 を 練 っ て 来 た こ と を 示 す
る。 バ イ エ ル ン貴 族(一
進
豪 族)の
, とBecherは
述べ
支 持 を 失 っ た タ シ ロ は, 戦 わ ず して カ ー ル
の 軍 門 に 降 り, カ ー ル に 託 身 と誓 約 を 行 な う39)
。
39)「
王 国年 代 記 」FvS
semetipsum,
vassaticum
tradens
Bd.5
se
et reddens
recredidit se in omnibus
sacramenta
Theodonem.「
S.54. undique
manibus
ducatum
manibus
sibi commissum
peccasse
et dedit obsides
in
constrictus
et male
Tassilo
domni
regis
a domno
egisse. Tunc
electos XII et tertium
venit
Caroli
Pippino
denuo
decimum
per
in
rege,et
renovans
filium suum
タ シ ロ は, あ らゆ る面 か ら締 め 付 け られ , 自 らや って 来 て 国 王
再 論.:タ シ ロ三世
依 拠 的資 料
27
「メ ス 年 代 記 古 本 」 は 「王 国 年 代 記 」 と殆 ど 変 わ る と こ ろ は 無
く, た だ , カ ー ル の 側 に 「正 義iusutitia」
在 り, とい うよ うな記 述 は して い
な い 。 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 も 同 様 で 殆 ど変 わ り は無 い が , タ シ ロ に
対 す る 教 皇 の 脅 しが 詳 細 に は 描 か れ て い な い 点 が 違 い だ ろ う か 。 「所 謂 ア ィ
ンハ ル ド年 代 記 」 が 書 か れ た814年
に は最 早 そ の よ うな 詳 細 にっ いて の 関 心
が 無 くな っ て い た の で あ ろ う 。 「フ ラ ン ク人 」 の 強 調 が 見 られ な い 代 り に ,
記 者 の 叙 述 の 力 点 は 国 王 カ ー ル の 寛 大 さ に 移 っ て い る, とBecherは
787年
言 う。
の タ シ ロ服 属 は 同 時 代 人 か ら重 要 な 出 来 事 と 考 え ら れ , 自 立 的 諸 年
代 記 も こ の 事 件 を 報 告 し て い る , とBecherは
の 記 者 は785年
述 べ る 。 「ロ ル シ ュ年 代 記 」
以 後 は ロ ル シ ュ 僧 院 長 リ ヒ ボ ドRichbod
は ア ル ク ィ ンAlcuin40)と
von
Lorschで
, 彼
接 触 が あ っ た の で こ の年 代 記 は王 宮 の影 響 を 受 け
て い た 可 能 性 も あ る 。 しか し リ ヒ ボ ドは 「王 国 年 代 記 」 が 沈 黙 し て い る ハ ル
ドラ ドHardradの
蜂 起41)や , カ ー ル の 長 子 で あ る 屈 背 の ピ ピ ー ンPippin
der
カ ー ル に 両 の手 を さ しの べ カー ル の 家 臣 とな り, 国 王 ピ ピー ンか ら彼 に渡 され た
太 公 国 を返 還 , 彼 は す べ て に 亙 って誤 った悪 し き行為 に及 ん だ こ とを 認 め た 。 更
に 彼 は改 め て諸 誓 約 を行 な い ,12名 の選 りす ぐり の人 質 及 び彼 の 子 息 テ ー オ ド
を人 質 に加 え て差 し出 した」
40)
Alcuin, Alkuin, Alchwine(*730?一
†804)は , LMA
,Bd.1, Sp.417f.に よ れ ば ,
ア ン グ ロ サ ク ソ ン系 の学 者 で,781年 カ ー ル 大 帝 は 彼 を フ ラ ン ク王 国 に 招 聘 す
る。 彼 は, 特 に教 会 問 題 で カ ー ル の補 佐 役 を務 め る と 同時 に, カ ー ル の精 神 的 ・
宗 教 的 ・政 治 的 側 面 に大 き な影 響 を与 え, カ ー ル の宮 廷 学 校 で も指 導 的立 場 に立
つ 。 当 時33・4歳
の カ ー ル は武 力 だ けで は帝 国 は建 設 で き な い こ と に気 付 きっ っ
あ り, フ ラ ンク王 国 を 内 部 か ら改 革 しよ う と して い た。
41)
Hardrad(*?一 †786)は テ ィ ー リ ン ゲ ンTh ingenの
豪 族 の 一 人 と 考 え られ
る。LMA,
-Die
Bd. VIII,Sp.749f.及 びJohannes
Urspr
ge
Deutschlands
702に よ れ ば, テ ィー リンゲ ン王 国 は,531年
1世Theuderich
伯 制 度(伯
Fried, Der Weg
bis 1024,1994,Propyl臚n
I.と ク ロー タ ル1世Chlothar
in die Geschichte
Verlag
Berlin. S.
メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 国 王 テ ゥデ リヒ
I.に征 圧 さ れ 王 朝 は 消 滅 す る。
に よ る統 治)が 導 入 さ れ る が,641年 テ ィ ー リ ンゲ ンは 太 公 国 と な
り, フ ラ ン ク人 と想 定 され る初 代 テ ィー リ ンゲ ン太 公 に ラ ー ドゥル フRadulfが
任 命 さ れ る が, 彼 は フ ラ ンク王 国 に叛 旗 を翻 して独 立 す る。 こ の独 立 王 国 は ヘ デ
ンHeden
od. Hetan太
公 時 代 に再 び メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 に吸 収 さ れ, こ の 地 域 の
28
Buckligeの
謀 反42)な ど に つ い て も報 告 して い る 。 リ ヒ ボ ド は787年
について
「タ シ ロ は 国 王 の 要 請 を 平 和 的 に 受 け 入 れ 国 王 に 子 息 テ ー オ ドを 人 質 と し て
差 し出 し た 」 と の み 述 べ , タ シ ロ服 属 の 性 格 に つ い て は 何 も触 れ て い な い 。
リ ヒ ボ ドの 心 を 深 く捉 え た の は , 教 皇 か ら洗 礼 も塗 油 も受 け , 僧 院 ク レ ム ス
ミ ュ ン ス タ ーKremsm
sterの
建 立 に も助 力 し た タ シ ロ の 長 男 テ ー オ ドが 人
質 に さ れ た こ と だ っ た の だ ろ う, とBecherは
「ケ ス ニ ゥ ス年 代 記 断 章Fragmentum
推 測 す る。
Annalium'Chesnii」
は
シ ロ は カ ー ル の 許 に 赴 き , バ イ エ ル ン人 の 部 族 太 公 国regnumを
「10月5日
タ
返還, 自ら
と王 国 を 国 王 の 手 に 引 渡 す 」 と 述 べ る 。
「ム ル バ ハ 年 代 記 」 は787年
786年
か ら788年
の 出 来 事 を 詳 し く記 述 す る 。 こ の 年 代 記 は
ま で の 事 件 を 詳 細 に 記 録 し て い る 。786年
の ハ ル ドラ ドの
叛 乱 に つ い て も 触 れ , カ ー ル 大 帝 に 対 し明 確 に 距 離 を 置 い て い る 。 そ れ だ け
フ ラ ンク化 が 政 治 ・教 会 制 度 の両 面 で進 む。 カ ー ロ リ ン グ朝 に な って カ ー ル大 帝
は征 服 した諸 部 族 の豪 族 を融 合 さ せ る た め, 部 族 横 断 的結 婚 政 策 を採 る(こ の政
策 か ら後 に帝 国 貴 族Reichsadelが
生 まれ る)。 この 政 策 に 則 りハ ル ド ラ ドは フ
ラ ンク人 と婚 約 させ られ た息 女 を渡 す よ う王 命 に よ り迫 られ る が, 彼 が これ を拒
否 した こ とか ら混 乱 が 生 じ大 規 模 な謀 反 に な っ た, と考 え られ て い る。 この謀 反
は, テ ィ ー リ ンゲ ンに残 っ て い た強 固 な氏 族 的 伝 統 か ら来 る フ ラ ンク王 国 化 に対
す る政 治 的 反 感 の根 強 さ を強 く示 して い る, と言 え よ う。
42)Fried,
Weg
in die Geschichte, S.258f.に よれ ば , Pippin
der Bucklige(*770
一†811)は カ ー ル大 帝 とそ の 最 初 の 妻 ヒ ミル トル ー ドHimiltrudの
長 子 。792年
間 に 生 まれ た
ピ ピー ンは父 王 に対 して 叛 乱 を 起 こす 。 息 子 が 父 に叛 旗 を翻 す事 態
は長 い カ ー ロ リ ング家 の歴 史 の 中 で も嘗 て 無 か っ た。 カ ー ル は こ の長 男 を嫡 子 と
して 大 事 に育 て た よ うだ が ,781年
と787年 の 遺 産 分 割 案 で カ ー ル は長 男 ピ ピー
ンを 無 視 し3人 目 の 妻 ヒ ル デ ガ ル ドHildegardと
J
gere, Pippin(<Karlmann),
Ludwigの
の 間 に 出 来 た 三 子Karl
der
み を対 象 に した相 続 案 を作 る。 当 時
カ ール は, タ シ ロ問 題 の 処 理 に 追 わ れ レーゲ ンス ブル ク に滞 在 中 で , タ シ ロ裁 判
は味 方 も作 った が 敵 も作 った , と彼 は意 識 して いた 。 そ の 彼 の と こ ろ に フ ラ ンク
の豪 族 を 巻 き込 ん で の 謀 反 の 報 せ , カ ール を 殺 害 し ピ ピ ー ンを 王 座 に即 け る, と
の報 告 が入 った 。 直 ち に カ ー ル は手 を 打 っ。 共謀 者 は残 酷 な 罰 を 受 け縛 り首 に さ
れ た 者 も い た 。22歳 の ピ ピー ン は剃 髪 さ れ て 僧 院 ザ ン ク ト ・ガ レ ンに送 られ ,
そ の 後 プ リムPr
の
僧 院 で死 ぬ 。
再 論 :タシ ロ三 世
に こ の 年 代 記 の787年
の 記 述 は 注 目 さ れ て 良 い , とBecherは
29
言 う。 「ム ル
バ ハ 年 代 記 」 で は 以 下 の 如 く描 写 さ れ る : 「フ ラ ン ク 国 王 カ ー ル は ロ ー マ か
ら引 き 返 す 途 上 , パ ヴ ィ アPaviaの
町 で ラ ン ゴ バ ル ド人 を 集 あ , そ の 会 議 で
彼 らの う ち の 非 常 に 欺 瞞 的 な 者 た ち を フ ラ ンキ ア に 追 放 した 。 そ れ か ら フ ラ
ン キ ア に 行 き ヴ ォ ル ム ス に 滞 在 した 。 引 き 続 い て フ ラ ン ク軍 を 召 集 , ア レマ
ニ ア 人 と バ イ エ ル ン人 の 国 境 に 向 か い レ ヒ と 呼 ば れ る 河 ま で 進 ん だ
。 そ こヘ
バ ィ エ ル ン太 公 タ シ ロ が カ ー ル を 訪 れ , 彼 に , そ の 上 部 先 端 に 人 間 の 姿 が 象
ら れ て い る 笏43)と 共 に 自分 の 領 国 を 返 還 し た 。 タ シ ロ は カ ー ル の 家 臣 に な り,
カ ー ル に そ の 子 息 テ ー オ ドを 人 質 と し て 差 し 出 し た44)」。 「王 国 年 代 記 」 に 記
載 さ れ て い な か っ た ラ ン ゴ バ ル ド人 の 叛 乱 が こ こ に は 記 さ れ , カ ー ル が 三 軍
を 以 っ て バ イ エ ル ン征 討 に 向 か っ た , と い う 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は 姿 を 消
す , とBecherは
Becherは
指 摘 す る。
, タ シ ロ にっ いて の
「王 国 年 代 記 」 の 記 述 が 初 め て 他 の 年 代 記
か ら も 支 え ら れ た , と し,787年
の 太 公 タ シ ロ の 家 臣 と して の 託 身 は 信 頼 で
き る, と言 う 。 し か し , そ れ が757年
43)Wolfram,
F
stentum,
S.170に
の 託 身 の 反 復 で あ る , と の 「王 国 年 代
よ れ ば
「Karl
Hauckは
こ の
『笏baculum』
を ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 伝 来 の 笏 ,
と し, 笏 の 上 部 の 人 間 の 姿 を 氏 族
祖 , 『一 族 一 統 の 祖pater
et
generis
gentis』
と 衆 民 の 先
と し て い る 。 タ シ ロ は こ の 笏 を 古
い 墓 丘 に 立 っ て 渡 し た の で あ ろ う が , 氏 族 と も 部 族 と も 無 縁 の カ ー ロ リ ン グ 家 の
カ ー ル に こ れ を 差 し 出
した こ と は , タ シ ロ の , 彼 の
『部 族 』 の , 彼 の
『生 国 』 の
全 面 的 敗 北 を 意 味 す る と 同 時 に , タ シ ロ が 主 体 的 に 支 配 権 の 相 続 を 放 棄
し た こ
と, を 意 味 す る」
44)
MGH
SS
Tom.1,
Francorum
de
gavit,
et
venit
in
exercitu
flumen
ad
eum,
hominis
ei obsidem.
ed.
Roma
exinde
et
et
ad
ad
ei
effectus
in
in
est
vassus
Postea
eius,
veniens
patriam,
et
autem
et
Dessilo
in
Theodonem
cuius
rex
congre-
exiliavit.
Alamannorum
ipsam
Carolus
Langobardos
Franciam
resedit.
fines
Illucque
baculo
Hannover.5.43.
civitatem
eorum
Lech.
cum
Paveia
Wormaciam
perrexit
appellatur
reddidit
erat,
Pertz,1826,
revertens,
Franciam,
et
G.H.
fraudelentissimos
Francorum
quod
von
Ipseque
commoto
Beiweriorum,
dux
Beiweriorum
capite
filium
ad
similitudo
suum
dedit
30
記 」 の 記 述 を 受 け継 ぐ年 代 記 は存 在 し な い こ と も, 彼 は 指 摘 す る 。 「王 国 年
代 記 」 の 記 者 自 らが 我 々 に 与 え た 情 報 , つ ま り781年
つ い て 記 者 が787年
とBecherは
の 諸 種 誓 約 の更 新 , に
の 項 で 一 言 も言 及 して い な い の は , 首 尾 一 貫 性 に 欠 け る ,
苦 言 を 呈 し, 基 本 的 に カ ー ロ リ ン グ 派 の 年 代 記 , 即 ち 「ロ ル
シ ュ 年 代 記 」, 「ム ル バ ハ 年 代 記 」, 「ケ ス ニ ゥ ス年 代 記 断 章 」 が タ シ ロ の 諸 種
誓 約 の 更 新 を 証 言 し て い な い 点 か ら し て ,Becherは757年
「王 国 年 代 記 」 の 記 事 は 事 後 的 に , 即 ち790年
及 び781年
の
頃 の 時 流 に沿 って , 作 成 され
た も の , と 断 定 す る 。(S.63)
2-8.788年
の 太 公 タ シ ロ3世
諸 研 究 は, タ シ ロ裁 判 を 描 写 す る際
Karl
Brunnerだ
に 対 す る裁 判
「王 国 年 代 記 」 に 大 き く 依 存 す る 。
け は 厂ロ ル シ ュ年 代 記 」 と 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 の 持 つ 意 義
を 指 摘 し, こ れ ら二 っ の 年 代 記 に は 王 宮 か ら独 立 し た 視 野 を 持 つ 「失 わ れ た
伝 統 の 名 残 り」 を 認 め る こ と が で き る, と言 う。
「王 国 年 代 記 」788年
45)「
王 国 年 代 記 」FvS
Tassilo
fidem
postquam
uxore
est
の 項 は タ シ ロ 裁 判 の 様 子 を 伝 え る45)。 カ ー ル は イ ン
postea
ad
et
ut
confessus
perdere,
iuratum
suum
Avaros
in
se
non
coeperunt
haberet,
dedit
cum
Quod
et Tassilo
eorum
in
mente
dixisse,
antequam
habuit;et
et
placita
etiam
「そ し て 信 頼 で き る バ
obsidibus
vassos
retinerent
etiamsi
sic
et
manerent
vel
se
potuit,
stabile
confessus
regis
quando
iurarent;et
mortuum
イ エ ル ン 人 た ち が 言 い 出 し た
suadente
sed
domni
haberet,
quid
se
magis,
voluisset
permitteret,
quam
ad
iurabant,
omnes
esse
, quod
apparuit,
sacramenta,
suos,
dolo
filios
守 っ て い な い , 彼 は 他 の 人 質 と 共 に 自 分 の 息 子 を 差
彼 の 妻
et
non
supradicti
sub
dicere
fraudulens
homines
decem
melius
Baioarii
postea
denegare
consiliasse;et
dixit,
fideles
nisi
al
transmisisse,
vitam
aliter
est
S.54.
salvam
Liutbergane.
adortasse
iubebat,
suam
filium
sua
Bd.5
ita
sicut
vivere.
:タ シ ロ は し っ か り と 誓 約 を
し出
し, 誓 約 を し た 後 で も,
リ ゥ ト ビ ル ク に 唆 さ れ て 欺 瞞 を 重 ね た , と 。 こ れ を タ シ ロ は 否 定 で き ず ,
彼 は , ア ヴ ァ ー ル 人 の 許 に 使 者 を 派 遣
呼 び 寄 せ 彼
ら の 命 を 狙
し た , 既 述 の 国 王 の 家 臣 を 自 分 の と こ ろ に
っ た , と 告 白 し た 。 タ シ ロ は , 自 分 の 臣 下 が 誓 約 を す る
と , 彼 ら を 呼 ん で , 誓 約 を し て も 心 は 別 で い い の だ , 表 面 を 取
り 繕 う こ と だ , と
再論 :タシロ三世
ゲ ルハ イムIngelheimで
31
王 国 会 議 を 開 く。 こ の会 議 に国 王 の命 令 で タ シ ロ及
び その 家 臣 が 出 席 す る。 そ の 場 で タ シ ロ は 自分 の家 臣か ら糾 弾 され る。 タ シ
ロ も罪 を 告 白 せ ざ るを 得 な い 。 タ シ ロの 不 誠 実 を理 由 に タ シ ロを 断 罪 す るの
が この 会議 の主 目的 だ った の だ ろ うが , ど う も これ らの 罪 だ けで は断 罪 す る
に は不 充 分 , と思 わ れ た の か,25年 前 の事 件 ,763年 に タ シ ロが 犯 した と さ
れ る 「戦 列 離 脱 」 が 持 ち 出 され る46)。この 判 決 に 際 して フ ラ ン ク人 が大 きな
役 割 を演 じた よ うで あ る。 「王 国 年 代 記 」 記 者 が様 々 な場 面 で フ ラ ン ク人 の
関 与 を 強 調 して き た の も, この 場 面 を 念 頭 に置 い て い た か らで あ ろ う, と
Becherは
言 う。 「王 国 年 代 記 」 の記 述 に よ れ ば, 参 加 者=裁 判 官=貴 族(=
豪 族); フ ラ ン ク軍 は 「彼 の 以 前 の 様 々 な悪 行 , 彼 が 国 王 ピ ピー ンの戦 列 を
離 れ た こ とを想 起 しっ っ」 死 刑 判 決 を 下 す が ,763年 当 時 ラ ンゴバ ル ド人 も
ザ クセ ン人 も王 国 会 議 に は未 だ 出席 して いな か った一
て フ ラ ン ク人 に征 圧 さ れ た の だ か ら, とBecherは
彼 ら はそ の後 にな っ
指 摘 す る。 更 にBecher
は様 々 な問 題 点 を指 摘 す る : 「戦 列 離 脱 」 へ の死 刑 判 決 が一・
世 代 後 に な って
初 め て 下 され た こ と, カ ール は死 刑 判 決 に は関 わ らず 「憐 れ み」 か ら タ シ ロ
へ の 死 刑 判 決 を 減 刑 す る場 面 で 初 あ て 登 場 し 「い と敬 虔 な る国 王 」 役 に徹 す
命 じ た , と か , 更 に , た と え 自 分 に10人
り 付 け ら れ る 位 な ら , 息 子 を10人
の 息 子 が 居 て も, 息 子 た ち が 誓 約 に 縛
と も地 獄 に 追 い や る だ ろ う, と 言 っ た , と 告
白 した 。 更 に , こん な 風 に生 き る よ り死 ん だ 方 が ま しだ, と も言 っ た, と」
46)
「王 国 年 代 記 」FvS
Baioar
C
synodum
Langobardi
domnum
theodisca
lingua
mortem.「
S.54f. Et
et Saxones,
congregati
quomodo
Bd.5
fuerunt,
Pippinum
harisliz
de
haec
vel ex
omnia
omnibus
provinc
reminiscentes
regem
in
dicitur, visi sunt
conprobatus
,
priorum
exercitu
qui
eundem
et
ad eundem
malorum
derelinquens
iudicasse
,Franci
eius, et
et ibi,quod
Tassilonem
ad
こ れ ら す べ て が タ シ ロ に 関 して 確 認 さ れ る 。 フ ラ ン ク 人 , バ イ エ ル ン
人 , ラ ン ゴ バ ル ド人 , ザ ク セ ン人 及 び 会 議 に 召 集 さ れ た 王 国 全 地 域 か ら の 者 た ち
は, 彼 の 以 前 の 様 々 な 悪 行 , 彼 が 国 王 ピ ピ ー ン の 戦 列 を 離 れ た こ と(ド
イ ッ語 で
harisliz)を
よれ ば,
想 起 し っ っ , 彼 に 死 刑 判 決 を 下 し た 」 註73の
単 語theodiscaが
文 献 上 に 現 れ た の は こ れ が2例
前(786年)のtheotisce。
書 のS.45f.に
目 , 最 初 に 記 録 さ れ た の は2年
32
る こ と47), 記 者 の こ の よ う な 描 写 に よ り 裁 判 の 主 役 は カ ー ル で は な く 出 席 し
た 貴 族(=豪
族)た
ち で あ る こ と が 強 調 さ れ る こ と, 等 々 。
依 拠 的 年 代 記 で は 「メ ス 年 代 記 古 本 」 は 「王 国 年 代 記 」 に 凡 そ 準 ず る が ,
「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 は 「王 国 年 代 記 」 と大 き く異 な る 。 「所 謂 ア ィ ン
ハ ル ド年 代 記 」 で は, バ イ エ ル ン人 は タ シ ロ を 大 逆 罪crimen
はreus
maiestatisで
maiestatis或 い
告発 す る, 即 ち, タ シ ロは, フ ラ ンク王 国 を敵 視 す る ラ
ン ゴ バ ル ド王 国 王 女 で タ シ ロ の 妻 リ ゥ ト ビ ル ク に 唆 さ れ , ア ヴ ァ ー ル 人 に フ
ラ ン ク 人 攻 撃 を 煽 動 し た , と 言 う の が バ イ エ ル ン人 の 述 べ 立 て た タ シ ロ の 罪
状 で あ る 。 こ れ に よ り 「王 国 年 代 記 」 で タ シ ロ 断 罪 に 当 た っ て 決 定 的 役 割 を
果 た し た 「戦 列 離 脱 」 は 影 が 薄 く な る48), とBecherは
自 立 的 年 代 記 で はBecherは
47)
「王 国 年 代 記 」FvS
capitale
eum
motus
ab
iamfato
monasterio
ipsis Dei
S.56.
salvaret
animam.
amorem
omnes
quia
rege
ut
pro
Similiter
licentiam
et
volebant,
pauci
missi
adclamarent
p
sibi
Baioar
sunt
quid
tonsorandi
agendi
deiudicatus
C
rex
erat,
Et interrogatus
paenitentiam
Theodo
simus
eius
Tassilo,
haberet
peccatis
et filius eius
missus,
perdurare
moriretur.
praedictus
tantis
voce
Carolus
consanguineus
ac suis fidelibus, ut non
et
una
domnus
Dei, et
monasterio
Caroli
dum
iamdictus
postolavit,
et in
regis
Sed
domno
introeundi
tonsoratus
domni
ab
vero
「ロ ル シ ュ年 代 記 」 を 取 り上 げ る 。 こ の
sententiam,
clementissimo
voluisset;ille
suam
Bd.5
ferire
misericordia
contenuit
先ず
言 う。
qui
in
in exilio.「
a
agere
et
in
et
ut
est
et
adversitate
し か し全 出 席
者 が 異 口 同 音 に , 彼 を 死 刑 に , と 叫 ぶ 中 , 既 述 の い と敬 虔 な る 国 王 カ ー ル は , 神
へ の 愛 か ら憐 れ み の 情 に 動 か さ れ , タ シ ロ は 彼 の 血 縁 者 で あ っ た た め , 神 及 び 国
王 に 誠 実 な 彼 ら 出 席 者 か ら死 刑 判 決 撤 回 を 獲 得 し た 。 前 述 の い と慈 悲 深 き国 王 か
ら, 何 を 望 む か , と 尋 ね ら れ た 既 述 の タ シ ロ は, 剃 髪 し僧 院 に 入 り犯 し た 多 く の
過 ち を 償 う許 し を 得 て , 自 身 の 霊 魂 を 救 済 し た い , と乞 う た 。 彼 の 子 息 テ ー オ ド
も裁 か れ, 剃髪 さ れ 僧 院 に 送 られ た 。 国 王 カ ー ル に 逆 らい続 け よ う と した少 数 の
バ イエ ル ン人 は追放 され た 」
48)Becherは
, そ の 後 のharislizの
と さ れ ,Capitulare
カール は
(ss7)
扱 い にっ い て
Italicum(801年)とCapitulare
「こ れ は 大 逆 罪 の 一 部 を 成 す 」
Bononiense(811年)で
「harislizは 大 逆 罪 と し て 死 刑 に 処 す 」 と 規 定 し た , と付 言 し て い る。
再 論 :タシ ロ三 世
33
年 代 記 も 「王 国 年 代 記 」 同 様 , タ シ ロ 裁 判 正 当 化 の た あ の 資 料 を 思 わ せ る も
の , と 彼 は 述 べ る が , 「王 国 年 代 記 」 と の 違 い も拾 い 出 す 。 「ロ ル シ ュ 年 代
記 」 に よ れ ば , イ ンゲ ル ハ イ ム の 会 議 の 進 行 中 に , タ シ ロ に 起 因 して , 軋 轢
が 生 じ る。 そ の 原 因 は , 記 者 に よ れ ば 「タ シ ロ の ま た と 無 く邪 悪 な 陰 謀 」 と
の フ ラ ン ク 人 の 告 発 に あ る。 しか し そ の 陰 謀 と は, 妻 リ ゥ ト ビ ル ク及 び 隣 接
す る キ リ ス ト教 徒 及 び 異 教 徒 の 民 族 の 助 け を 借 り て フ ラ ン ク人 攻 撃 を 図 っ た ,
と い う漠 た る も の 。 こ の フ ラ ン ク人 の 告 発 に 続 い て , バ イ エ ル ン人 の 太 公 顧
問 た ち が タ シ ロ攻 撃 を し た , と 記 者 は 述 べ る 。Becherは
, この年 代 記 の記
者 リ ヒ ボ ドは タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 に は 触 れ て い な い が , リ ヒ ボ ドに と っ て
は, タ シ ロの異 民 族 との連 携 が フ ラ ンク王 国 に と って許 せ な い犯 罪 だ った の
だ ろ う, と推 測 す る。 ま た , 裁 判 に お け る フ ラ ン ク 人 の 役 割 は
「王 国 年 代
記 」 同 様 描 写 さ れ て い る が , ラ ン ゴ バ ル ド人 や ザ ク セ ン人 に っ い て は 触 れ ら
れ て い な い , とBecherは
言 う。 こ の 年 代 記 は, カ ー ル は , タ シ ロ を 僧 院 入
り さ せ た 後 , バ イ エ ル ンの 古 都 レー ゲ ン ス ブ ル ク に 行 き , 服 属 の 証 と しZ人
質 を 受 け 取 り, こ の 国 を 彼 の 考 え 通 り に 組 織 し た , と 淡 々 と 記 述 す る, と
Becherは
指 摘 す る。
「ケ ス ニ ゥ ス 年 代 記 断 章 」 は タ シ ロ ー 族 の そ の 後 の 運 命 に つ い て 情 報 を 提
供 ず る 。 タ シ ロ は7月6日
リー アTrierの
に ザ ン ク ト ・ゴ ア ー ルSt. Goarで
ザ ン ク ト ・マ ク シ ミ ー ンSt. Maximinで
二 人 の 娘 は シ ェ ルChellesと
ラ ー ンLaonの
ビ ル ク も僧 院 入 り し た , と。Becherは
, テ ー オ ドは ト
剃 髪 され ,
タ シ ロの
僧 院 に入 れ られ, 彼 の 妻 リ ゥ ト
, こ の年 代 記 に は裁 判 叙 述 が一 切 無
い だ け に , カ ー ル に よ る バ イ エ ル ン 占 領 は, 「ロ ル シ ュ年 代 記 」 の 記 述 の 場
合 同 様 , 異 国 に よ る 「ご く当 た り 前 の 占 領 」 と して 描 か れ る , と 指 摘 す る 。
「ム ル バ ハ 年 代 記 」 は ど う か 。 こ の 年 代 記 も 王 宮 派 年 代 記 と は 異 な っ た 描
写 を し て お り, 裁 判 記 述 は 無 い , とBecherは
記 」 に 基 づ くBecherの
言 う。 以 下 に
「ム ル バ ハ 年 代
叙 述 を 引 用 し よ う : 「タ シ ロ が イ ン ゲ ル ハ イ ム に 来
た 後 , 国 王 カ ー ル は, 恐 ら く タ シ ロ に 隠 れ て , バ イ エ ル ン の タ シ ロ の 妻 子 の
許 に 使 者 を 遣 わ し, 彼 の 妻 子 と彼 の 財 宝 及 び 一 族 郎 党 を 連 れ て 来 さ せ る49)。
34
タ シ ロ の 妻 子 ・財 宝 が イ ン ゲ ル ハ イ ム に 到 着 し た 後 で フ ラ ン ク 人 は タ シ ロ に
掴 み か か り, 彼 を 武 装 解 除 , 国 王 カ ー
一ル の 許 に 引 き 連 れ て 行 く。 カ ー ル は 従
兄 弟 タ シ ロ に, 今 まで に多 くの他 の民 族 と共 に企 ん だ陰 謀 等 につ い て訊 ね る。
タ シ ロ は こ れ を否 定 で き な い。 否 定 で き な か った理 由 が, 妻 子 が 既 に捕 わ れ
て 先 行 き を 見 通 せ な く な っ た か らか , 実 際 に タ シ ロ に 罪 の 意 識 が あ っ た か ら
か , は 詳 らか に さ れ な い 。 カ ー ル は タ シ ロ の 剃 髪 と 僧 院 送 り を 決 定 す る 。 タ
シ ロ は, 剃 髪 は屈 辱 的 行 為 な ので 公 開 の場 で しな い で欲 しい, と カ ー ル に頼
む 。 タ シ ロ は ザ ン ク ト ・ゴ ア ー ル の 僧 院 内 で 剃 髪 さ れ , 続 い て 僧 院 ジ ュ ミ
エ ー ジ ュJumiさgesに
Theotpertも
送 られ る 。 彼 の 二 人 の 子 息 テ ー オ ド と テ ー オ トペ ル ト
剃 髪 さ れ , 太 公 妃 リ ゥ ト ビ ル ク も 追 放 さ れ る50)。振 り返 っ て 見
れ ば , タ シ ロ は ,787年
カ ー ル の 家 臣 に な り788年
イ ンゲ ルハ イム に姿 を現
した 。 恐 ら く こ の 時 タ シ ロ は, 彼 の 支 配 権 に 関 して は カ ー ル に 服 属 し た 以 上
も は や 大 き な 危 険 は 無 い, と考 え た と 思 わ れ る 。 さ も な け れ ば788年
に, タ
シ ロ は バ イ エ ル ン に 留 ま る か , 義 兄 弟 ラ ン ゴ バ ル ド国 王 ア ー デ ル ヒ ス
49)
こ の記 述 を 裏 付 け る 資料 が1972年
Staatliche
Liutprandが
Bibliothekで
春Bernhard
Bischoffに よ りRegensburger
偶 然 発 見 さ れ た。 こ の 資 料 は 僧 リ ゥ ト プ ラ ン ド
タ シ ロの 息 女 コ タニCotaniに
宛 て た手 紙 で , こ の手 紙 に は, リ ゥ
トプ ラ ン ドと無 名 のバ イ エ ル ンの僧 が フ ラ ンク王 国 の宮 廷 で行 な っ た交 渉 が失 敗
に終 っ た こ と, 更 に, 公 女 コ タ ニ に フ ラ ンク王 国 宮 廷 に 出頭 す る よ うに, と の命
令 が 下 って い る こ と, 早 急 に私 と共 に イ ンゲ ル ハ イム に行 かれ る よ うに, と い う
命 令 に近 い内 容 が 認 め られ て い る。 こ の発 見 に よ り 「ム ル バハ 年 代 記 」 の記 述 の
正 当 性 が 確 認 され た。Vg1. Bernhard
Briefe aus Tassilonischer
Akademie
50)
und
Bischoff, Salzburger
Karolingischer
der Wissenschaften,1973,
M
chen.
Formelb
Zeit,Verlag
S.20f. und
her
und
der Bayerischen
55.
リ ゥ トビル ク につ いて は同 じ く僧 院 入 り した, と も, 不 詳 , と もさ れ る。
51)Adelchis,
生 没 年 不詳 。 最 後 の ラ ンゴバ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥス の子 息 ,759
年 以 降 デ ジ デ ー リゥ ス と国 王 の 肩 書 を 共 にす る。774年
父 と共 に カ ー ル大 帝 に よ
り王 位 を 追 わ れ , デ ジ デ ー リゥ ス はパ ヴ ィ アで 抵 抗 を続 け たが , ア ー デ ル ヒスが
逃 れ た ヴ ェ ロ ーナVeronaは
フ ラ ン ク王 国 に 降 伏 す る。 そ こで ア ー デ ル ヒス は ビ
ザ ン ッ帝 国 に 逃 れ , 政 治 亡 命 者 と して 元 老 の 肩 書 を得 , そ の 地 で ラ ンゴバ ル ド王
国 復 興 の 努 力 を 続 け るが ,788年 カ ラ ブ リアKalabrienに
上 陸 した ビザ ンッの 派
遣 軍 が フ ラ ン ク王 国 派 の 軍 に 打 ち 破 られ , 最 終 的 に失 敗 に終 る。
再 論 :タ シ ロ三 世
Adelchis51)の
35
よ う に 亡 命 の 道 を 選 ん だ だ ろ う。 タ シ ロ は , 家 臣 に 加 わ る こ と
が 廃 位 の 前 段 階 に な ろ う と は 予 想 だ に しな か っ た だ ろ う 。 そ れ に タ シ ロ に は ,
自 らの 権 力 手 段 た る 妻 と 次 男 テ ー オ トペ ル ト, 更 に 財 宝 が カ ー ル の 手 の 届 か
な い 所 に 温 存 さ れ て い る, と い う 自 負 も あ っ た 。 しか しカ ー ル の 奇 襲 攻 撃 は
完 全 に タ シ ロ の 裏 を か い た 」 一 一 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 の 記 者 は788年
の記 述
の 末 尾 で カ ー ル 大 帝 を 大 仰 に 褒 め 称 え る こ と に よ り, 公 け に は カ ー ロ リ ン グ
派 の ポ ー ズ を と る 。 が , 実 際 に は 反 カ ー ロ リ ン グ 派 貴 族(=豪
族)の
側 に
立 っ て い た の か も知 れ ず , そ れ だ け に こ の 記 述 と 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 の 齟
齬 は 興 味 深 い , とBecherは
言 う。
2-9.788年
以 後 の僧 タ シ ロの運 命
タ シ ロ の 僧 院 入 り後 は 「王 国 年 代 記 」 は彼 の そ の 後 に っ い て 完 全 に 沈 黙 す
る。 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 に と っ て は タ シ ロ の 支 配 領 域 は事 実 上 も国 法 上 も
カ ー ル の 手 に 移 っ た の で あ ろ う が , バ イ エ ル ン で は フ ラ ン ク王 国 の 遣 り 口 の
合 法 性 に っ い て か な り疑 問 が 生 じ た ら し い 。 カ ー ル 自 身 も,794年
の
「ロ ル
シ ュ 年 代 記 」 の 報 告52)に あ る よ う に , 疑 念 を 抱 い て い た 。 こ の よ う に
Becherは
書 い て , フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 に 触 れ る 。 これ に タ シ ロ も僧
院 か ら連 れ 出 さ れ 参 加 す る 。 こ の 会 議 で 作 成 さ れ た 「覚
52)
Annales
Laureshamenses,
Hannover.5.36.
Et
domno
rege,
tradens
eam
王 と 和 解
に 移 譲
53)
commissis
sinodo
Tom
advenit
omnem
regi.「
SS
.1, ed.
Tassilo,
potestatem
von
et
G.H.
Pertz,1826,
pacificavit
quarr
in
は
ibi
Paioaria
cum
habuit,
そ し て そ の 王 国 会 議 に タ シ ロ が 現 れ , そ こ で 彼 は 国
し, 彼 が バ イ エ ル ン に お い て 持 っ て い た 権 能 を す べ て 放 棄
し そ れ を 国 王
し た 」
Franconofurtensis,
aevi
capitulum,
Karoli
ipso
abnegans
Karolini
Hannover-Leipzig.
est
in
domno
Synodus
Concilia
in:MGH
書capitulum53)」
regis.
in:MGH
I.
Pars
LL
I, ed.
Nr.19(794)G.,5.165f.
qui
In
culpis,
dudum
medio
tam
Baioariae
sanctissimi
quarr
tempore
von
His
dux
III . Concilia,
Albert
de
Tasiloni
sobrinus
concil
Pippini
Tom.
II,
Werminghoff,1906,
peractis
fuerat,
adstetit
domni
secto
C
definitum
videlicet
veniam
regis
adversus
domni
rogans
eum
pro
et
36
カ ー ル と タ シ ロ の 合 意 を 詳 し く伝 え て い る。 こ の 「覚 書 」 に よ れ ば , タ シ ロ
は 従 兄 弟 カ ー ル と 和 解 し, 彼 が バ イ エ ル ン に 対 し て 持 つ あ ら ゆ る権 能potestasを 放 棄 す る 。 タ シ ロ は, 僧 院 に 捕 え られ て い た も の の , 政 治 的 に は権 能
を持 った大 物 だ った。 カ ー ル は タ シ ロを廃 位 させ は した が, 彼 の権 能 は入 手
regni
p
ut
Francorum
simi
Karoli
ab
eo
res
puro
in eo
postmodum
filiabus
omni
suis
dilectionis
inantea.「
sine
motus,
praefato
et gratia
visus
pleniter
est
fil
Tasiloni
suscepisse,
ut
Et
sua
securus
atque
postulasse,
de
idcirco
suis
in
ducato
proiecit
et, in
et
fil
domnus
et culpas
aelemosina
Parte
iustitiam
indulsit
animo
Dei
nostri
omnem
filiabus
repetitione
gratuitu
et in
est
Necnon
vel
ulla
domni
scandalum
gurpivit
commendavit.
concessit
visus
omnem
debuerant,
lite calcanda,
sub
extiterat, indulgentiam
petitione
et sciebat.
illi auf
pertinere
postea
fidei suae
atque
fuisset
in illius misericordia
misericordia
indulsit
Tram
quantum
legitime
quas
humili
animo
perpetrata
proprietatis,
Baioariorum
et
fraudator
accipere,
videlicet
sua, quaeque
quarr
regis, in quibus
mereretur
demittens
et
commiserat,
eum
misericordia
ac
noster,
perpetratas
in
amore
existeret
そ の 後 で , 前 バ イ エ ル ン太 公 で 国 王 カ ー ル の 従 兄 弟 タ シ ロ に つ い て の
覚 書 が作 成 さ れ た。 タ シロ は神 聖 な会 議 場 の 中央 に立 ち, 国 王 ピ ピー ンの時 代 に
彼 及 び フ ラ ン ク王 国 に 対 し て な し た 過 失 に っ い て , 及 び , 後 に 敬 虔 な る 我 ら の 国
王 カ ー ル の元 で な した過 失 , 並 び に国 王 カ ー ル へ の誠 実 を裏 切 った罪 に っ い て赦
し を 求 め た 。 タ シ ロ は 国 王 か ら慈 悲 を 得 た い , と謙 虚 に 願 い 出 た 。 タ シ ロ は , 心
も清 ら か に , 彼 の 心 に 生 ま れ た 怒 り や 不 満 を す べ て 押 し鎮 め た , と 述 べ た 。 更 に
彼 は バ イ エ ル ン太 公 国 に お い て 彼 及 び 彼 の 子 息 息 女 に 法 律 上 帰 属 す る 全 て の 権 能 、
及 び財 産 を放 棄 した。 タシ ロ は, 騒 乱 がす べ て沈 静 化 した後 もそ れ らに っ い て返
還 請 求 を し な い こ と に 同 意 し, 彼 の 子 息 息 女 を 国 王 の 慈 悲 に 委 ね た 。 そ こ で 我 々
の 国 王 は , 憐 れ み の 情 に 動 か さ れ , 既 述 の タ シ ロ の 罪 過 を 大 らか に 赦 し, 暖 く タ
シ ロ を 敬 愛 を 込 め て 受 け 入 れ た 。 神 の 恩 寵 に よ り国 王 の 立 居 振 舞 い は 以 後 晴 朗
だ っ た 」。 付 言 す る な ら ば , こ の
に 対 す る 「罪 過culpae」
「覚 書 」 の 中 で ,Becherは
, ピ ピー ン と カ ー ル
を 厳 密 に 区 別 す る 。 上 の 日 本 文 は そ のBecherの
解釈
に 従 っ て 訳 出 し た 。 しか し ラ テ ン語 原 文 は , 読 め ば 分 る よ う に , 相 当 に 乱 れ て い
る 。 従 っ て , こ の 原 文 はBecherの
解 釈 を許 さ な い こ と もな い が, そ の よ うな区
別 が 適 切 か ど うか は , 研 究 者 の 間 で も意 見 の 分 か れ る と こ ろ で あ る 。 も し峻 別 が
不 適 切 な ら, 訳 文4行
こ と に な る。
目 の 「並 び に 国 王 カ ー ル 」 を 「並 び に 国 王 た ち 」 に 改 め る
再 論 :タ シ ロ三 世
で き なか った。 何 故 な ら
「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 第III章
第1項54)に
37
は太 公
職 は代 々 ア ギ ロル フ ィ ン グ家 に帰 す と明 記 さ れ て い るか らで あ る。 従 って
カ ー ル が タ シ ロ の 権 能 を 入 手 す る た め に は タ シ ロ に そ れ を 自身 の 意 思 で 放 棄
さ せ な け れ ば な ら な か っ た 。 「覚 書 」 を 読 ん で 受 け る 印 象 は
「王 国 年 代 記 」
が 与 え る 印 象 と は 大 き く異 な る 。
こ の 「覚 書 」 は 王 国 官 房 の 手 に な る が , 事 柄 は 比 較 的 客 観 的 に 記 述 さ れ て
い る , とBecherは
述 べ る。 カ ー ル に と っ て は タ シ ロ の 同 意 が 重 要 で , タ シ
ロが 王 国 会 議 に現 れ る こ とで カ ール は 自 らのバ イエ ル ン占拠 の合 法 性 に対 す
る 世 間 の 疑 念 を 払 拭 した か っ た 。 そ れ 故 , カ ー ル は タ シ ロ の 意 を 迎 え ざ る を
得 な か った。 この会 議 の場 で タ シ ロ は誠 実誓 約 違 反 の 罪 を
る詐 欺 師fraudator
fidei suae」
ピー ンに対 して は
「過 失culpae」
「自 らの 誠 実 を 騙
と の 表 現 で カ ー ル に 対 して は 容 認 す る が , ピ
を 認 め る の み 。 「王 国 年 代 記 」 は , タ シ ロ
は 両 者 に 対 し て 誠 実 誓 約 違 反 の 罪 を 犯 し た , つ ま り 「す べ て に 亙 っ て 誤 っ た
悪 し き 行 為 に 及 ん だin
omnibus
peccasse
et male
egisse(註39参
照)」, と して
い た 。 フ ラ ン ク フ ル トの こ の 王 国 会 議 の 記 録 は ピ ピ ー ン時 代 の タ シ ロ の 「戦
列 離 脱 」 に っ い て は 一 切 触 れ て い な い 。 こ れ は 「王 国 年 代 記 」 に 対 す る 批 判
と 受 け 止 め ら れ よ う , とBecherは
言 う。 タ シ ロが 自 己 の持 っ 権 能 を公 的 に
放 棄 した こ と に よ り, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は , あ る い は 可 能 だ っ た か も知 れ
な い お 家再 興 , の基 盤 を 法 的 に も失 う。
2-10.誠 実 誓 約 に 関 す る 「王 国年 代 記」 の 資料 価 値
以 上 の 検 討 か ら,787年
ま で の タ シ ロ に 関 す る 「王 国 年 代 記 」 の 報 告 は 改
竄 さ れ た 部 分 も あ れ ば 公 式 見 解 に 基 づ い て 書 か れ た 部 分 も あ る, とBecher
54)
「バ イエ ル ン部 族 法 典 」 第III章 第1項(208ペ
ー ジ以 下)に
よ れ ば 「太 公 は人
民 に君 臨 す る者 に して, 彼 は常 に ア ギ ロル フ ィ ンガ ー氏 族 よ り出 で た る もの , 且
っ 出づ べ き もの な り。 け だ し吾 人 の先 王 は, しか く彼 等 に承 認 した れ ば な り。 す
な は ち ,彼 等 の氏 族 の 中 に て 國 王 に 對 し忠 實 に して 賢 明 な り し者 , か か る者 を
ば, 彼 等(吾 人 の 先 王)は , そ の人 民 を支 配 せ しめ んが た め に太 公 に任 命 した る
な り」
38
は 纏 め る 。 改 竄 部 分 は757年
及 び763年
の 報 告 , 即 ち タ シ ロの 誠 実誓 約 及 び
託 身 , 「戦 列 離 脱 」 で あ り, 公 式 見 解 に よ る 部 分 は748年
わ る バ イ エ ル ン を 巻 き 込 ん で の 戦 い の 報 告 と ,781年
ヴ ォ ル ム ス で の 出 会 い の 報 告 で あ る。Becherは
788年
の グ リー フ ォ に 関
のカ ール と タシロの
, 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は
の 裁 判 も カ ー ロ リ ン グ 派 の 見 地 か ら記 述 す る こ と に 努 力 し た が ,787
年 の報 告 だ け は ほ ぼ信 頼 で き る, とす る。
748年
,757年
,763年
に つ い て の 世 人 の 記 憶 は788年
に は色 褪 せ て い る。
従 っ て 王 宮 側 は 自 ら の 意 図 に 添 っ て 記 述 す る こ と が で き た 。 しか し781年
は
世 人 の 記 憶 に 未 だ 新 し い の で , 「王 国 年 代 記 」 も 真 実 に 若 干 奉 仕 す る 結 果 と
な っ た が , こ の よ う な 「王 国 年 代 記 」 批 判 も, 同 時 代 の 年 代 記 が あ れ ば こ そ
可 能 で あ っ た 。 し か し例 え ば 信 頼 で き る 「編 年 誌 続 編 」 が あ る事 柄 に 対 し て
沈 黙 し て い る か ら と言 っ て , そ の 事 柄 の 存 在 が 否 定 で き る か と言 う と, そ れ
は 不 可 能 , 沈 黙 は 否 定 で は な い の だ か ら, とBecherは
「王 国 年 代 記 」 が 書 き 始 め られ た 頃 , 即 ち787年
言 う。
頃, カ ー ル は様 々 な問 題
に 直 面 して い た :ザ ク セ ン人 の 相 変 わ らず の 叛 乱 ,786年
の ハ ル ドラ ドに 率
い ら れ た 東 フ ラ ン ク 人 と テ ィ ー リ ン ゲ ン 人 の 蜂 起 , ブ ル タ ー ニ ュ 人Bretonenの
暴 動 ,787年
の べ ネ ヴ ェ ン ト太 公 ア リ ヒ スArichis
謀 反 , そ れ に タ シ ロ の 不 穏 な 動 き 。789年
ン人Wilzenの
55)
von
Benevent55)の
に は東 ス ラ ヴ人 の 一 派 ヴ ィル ッ ェ
侵 攻 。 カ ー ル は これ らをす べ て鎮 圧 し自 らの意 思 を貫 徹 す る
Arichis von Benevent(*774一
太 公758一 †787)は , LMA,
Bd.1, Sp.930f.に
。
よ
れ ば,591年 以 来 ベ ネ ヴ ェ ン トを支 配 す る太 公 家 の 出 で, ラ ンゴ バ ル ド国 王 デ ジ
デ ー リゥ スの 息 女 ア ーデ ル ペ ル ガAdelpergaと
結 婚 , タ シ ロ と は義 兄 弟 の 関 係
にあ っ た。 彼 の政 策 は支 配 権 の 拡 大 及 び保 全 に そ の中 心 が あ り, ラ ンゴバ ル ド王
国 , 教 皇 , ナ ポ リや ビザ ンッ帝 国 の 出 方 を 常 に注 視 して い た。774年 , ラ ンゴバ
ル ド王 国 が カ ール 大 帝 に征 服 され る と, 彼 は, 自国 を ラ ン ゴバ ル ド王 国 の 後 継 独
立 王 国 と位 置 付 けて 王 座 に即 い た 。 ナ ポ リに 対 して 彼 は軍 事 行 動 を 繰 り返 した 。
そ の結 果,787年 , 教 皇 の 策 動 で カ ール に征 服 され , カ ール の 高権 を承 認 し人 質
と貢 納 金 を 差 出 す。 ア リヒス は ビザ ン ッ帝 国 とは良 好 な 関 係 を維 持 , 彼 の死 の 直
後 , ビザ ン ッ の 使 節 団 が 彼 を 元 老 に した 旨 を 伝 え に 来 た。 彼 は文 化 面 で も ベ ネ
ヴェ ン トに貢 献 した。
再 論 :タ シ ロ三 世
39
こ の 時 代 は フ ラ ン ク 王 国 の 正 念 場 で あ っ た 。 従 っ て 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は
こ の よ う な 危 機 感 を 背 景 に 執 筆 した 。 フ ラ ン ク 王 国 の 諸 太 公 も 公 式 に は フ ラ
ン ク人 に 従 属 す る。 こ れ が 王 宮 の 考 え る 「正 義iustitia」 で あ っ た 。748年
タ
シ ロ は ピ ピ ー ン か ら バ イ エ ル ン太 公 に 任 じ ら れ る, と さ れ る が , そ の の ち 独
立 を 謳 歌 し,763年
を788年
タ シ ロ は こ の 「正 義 」 を 破 っ て し ま う , そ う い う タ シ ロ
「正 義 」 感 に 燃 え る貴 族(一
豪 族 , 実 体 的 に は フ ラ ンク軍)が
断罪 す
る, と い う の が
「王 国 年 代 記 」 記 者 の 記 述 の 骨 子 と な る , とBecherは
そ し てBecherは
言 う : 「タ シ ロ に っ い て の 「王 国 年 代 記 』 の 詳 細 な 報 告 ,
「正 義 」 と い う 言 葉 の 多 用 ,757年
788年
及 び763年
言 う。
の 事 態 の 改 竄 ,781年
お よび
の 出 来 事 の 改 変 , こ れ ら は 単 に バ イ エ ル ン併 合 の 正 当 化 だ け を 狙 っ た
も の で は な か っ た の で あ る 」(5.76)
2-11.誓
Becherは
約 ,788年
以 前 と以 後
, 現 存 す る 最 古 の 誠 実 誓 約 範 例Treueidformularは789年
実 誓 約 範 例(以
後789年Aと
省 略)と
,802年
の 誠 実 誓 約 範 例(802年B)と
年 の も う 一 つ の 誠 実 誓 約 範 例(802年C)の
56)誠
実 誓 約 範 例A:Duplex
Francorum,
Alfred
domini
mei
ero
diebus
vitae
meae
edictum,
Boretius,
Caroli
sine
同
二 つ , 合 計 三 つ で あ る56), と し ,
legationis
ed. von
ille partibus
の 誠
Tom.1,
regis
fraude
in:MGH
Capitularia
Regum
Nr.23,18,5.63. Sic promitto
et filiorum
et malo
eius, quia
ingenio.「
fidelis
ego
sum
et
私, 誰 某 は, 私 の 主 人
で あ る国 王 カ ー ル 及 び そ の 子 息 た ち に 対 して , 私 の生 存 中 , 邪 念 を 抱 い た り悪 心
を 起 こ し た り せ ず , 誠 実 で あ る こ と を 誓 う」
誠 実 誓 約 範 例802年B:
ego,
quod
ab
imperatori,
fraude
per
ista
sanctorum
per
meam
attendam
die
inantea
filio Pippini
et malo
sui, sicut
isto
同 上 ,Nr.34,19,S.101.
ingenio
drictum
regis
de
patrocinia
voluntatem,
et
consentiam.「
in
sum
Berthanae
parte
esse
quae
fidelis
et
mea
debet
Sacramentale
ad
homo
in hoc
quantum
suam
qualiter
domno
pura
partem
et ad
suo.
loco
sunt, quia
mihi
Karolo
reginae,
domino
Deus
repromitto
Si me
p
simo
mente
absque
honorem
adiuvet
diebus
intellectum
regni
Deus
vitae
et
meae
dederit,
sic
誓 約 に よ り私 は , 今 日 か ら先 , 敬 虔 な る皇 帝 カ ー
ル , 国 王 ピ ピ ー ン及 び 王 妃 ベ ル タ の 子 息 た る カ ー ル に , 心 清 ら か に , 邪 念 を 抱 い
40
789年Aは786年
の ハ ル ド ラ ドの 蜂 起 を き っ か け に カ ー ル 大 帝 が 作 成 を 指
示 し た と 推 定 さ れ る 一 方 ,802年Bと802年Cは
, 「正 義iustitia」
の強 調 が
見 られ る こ と か ら, タ シ ロ 問 題 と の 関 わ り を 連 想 さ せ る , と す る 。 こ の 三 っ
の 誠 実 誓 約 範 例 の 相 互 関 連 は,789年Aは802年Bの
は802年Bに
大 き く依 存 す る が ,802年B経
込 み ,802年Cは802年Bを
い る, とBecherは
(A)sacramentum:
手本 にな る
。802年C
由 で789年Aの
内 容 を も取 り
短 縮 し た も の に 留 ま らず 独 自 の 要 素 を 含 ん で
言 い, 誠 実 誓 約 範 例 に現 れ る個 々 の問 題 の検 討 に移 る
。
こ の 語 の 持 つ 意 味 の 一 っ , 「誠 実 誓 約 」 に つ い て の 歴
史 的 検 討 にBecherは
入 り, メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 で の 誠 実 誓 約 の 機 能 を 検 討 し
「メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 で は 誠 実 誓 約 は 国 王 即 位 に と っ て の 本 質 的 構 成 要 素 で は
な か っ た 。 国 王 は , 即 位 す る と , 誠 実 誓 約 を 臣 下 か ら請 求 す る 。 誓 約 者 は 誓
約 の 提供 に よ りそ の 支 配 を 明 確 に 承 認 す る。 誠 実 誓 約 の 機 能 は, 従 って , 国
王 の 支 配 権 を 確 保 し拡 大 す る も の で は あ っ て も, 国 王 の 支 配 権 を 根 拠 付 け る
も の で は な か っ た 」 と位 置 付 け る。 続 い て 彼 は , キ リ ス ト教 徒 と ロ ー マ 人 の
兀 で のSaCramentUmは
, キ リ ス ト教 徒 に と っ て は
で あ り, ロ ー マ 人 に と っ て は
「秘 蹟 」 「受 洗 の 誓 い 」
「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 いFahneneid」
で あ った,
た り悪 心 を起 こ した りせ ず , 彼 の 王 職 に対 して , 正 義 に則 り臣下 が そ の主 人 に対
して 在 るべ き よ う に誠 実 で あ る こ とを 誓 う。 神 の 励 ま しを受 けっ つ , こ こ に あ る
聖 遺 物 にか けて , 神 か ら授 け られ た 知 力 の 及 ぶ 限 り, 私 の生 存 中 , 私 の 意 志 に基
づ き, この 誓 約 に留 意 し同 意 す る こ とを 誓 う」(ベ ル タ=ベ ル トラ ー ダ)
誠 実 誓 約 範 例802年C:
repromitto
ego:domno
同 上 ,Nr.34,19,S」02, Sacramentale
Karolo
p
Berthane, fidelis sum, sicut homo
suum
regnum
habeo
custodiam
et ad suum
et custodire
isto die inantea, si me
sanctorum
rectum.
adiuvet
simo
imperatori, filio Pippini
per drictum
debet
esse domino
Et illud sacramentum
volo, in quantum
ego
Deus, qui coelum
et terram
quod
qualiter
regis et
suo, ad
iuratum
scio et intellego,ab
creavit,et ista
patrocinia.「 誓 約 に よ り私 は, 敬 虔 な る皇 帝 カ ー ル, 国王 ピ ピー ン
と ベル タの 子 息 た る カ ー ル に, 彼 の王 権 と彼 の 正 義 に対 して, 正 義 に則 り 臣下 が
そ の 主 人 に対 して 在 るべ き よ う に誠 実 で あ る こ とを 誓 う。 私 の理 解 力 と知 力 の能
う る限 り, この 日か ら先 , 天 地 を 創 造 した 神 の 励 ま しを受 けっ っ , この 聖 遺 物 に
か けて , 私 が 行 な った 誓 約 を 尊 重 し且 っ 尊 重 す る意 志 を 持 っ 」
再 論 :タ シ ロ三 世
と す る。 こ の 両 概 念 の 元 で 宗 教 者 た る
生 ま れ る 。sacramentumは
「キ リス トの 兵 士milites
41
Christi」 が
神 格 化 さ れ た 皇 帝 に 対 し聖 ・俗 界 に 亙 る 生 殺 与
奪 の 権 を 与 え る 。 「誠 実 の 誓 いsacramentum
辺 り に 求 め られ よ う , とBecherは
fidelitatis」の 根 源 的 機 能 は こ の
す る。 こ の よ う なsacramentumが
ル マ ン人 と ロ ー マ 人 の 軍 事 的 接 触 に 媒 介 さ れ て
, ゲ
「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 の 概
念 で フ ラ ンク人 の 許 に入 る。 中 世 初 期 の フ ラ ンク人 に は戦 闘 員 と非 戦 闘 員 の
区 別 は も は や 無 く, 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 も 「臣 下 誓 約Untertaneneid」
も
同 義 で あ った 。 具 体 的 に言 え ば , ロ ー マ に服 属 した フ ラ ンク人 は ロ ー マの 支
配 域 辺 境 に 入 植 さ せ られ る こ と も あ り, 嘗 て の 敵 国 人 で あ る 彼 らか ら は 誓 約
が 求 め ら れ た 。 ま た ロ ー マ と の 諸 誓 約foederaに
基 づ き軍 務 に っ い た フ ラ ン
ク 人 も い た 。 更 に フ ラ ン ク 人 諸 王 の 中 に も 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 を 固 あ た
上 で ロ ー マ 帝 国 指 導 部 に 参 加 した 者 も い た 。 これ ら の 人 々 の 行 な っ た 誓 約 は
「軍 務 誓 約sacramentum
militiae57)」 に 纏 め ら れ る。 こ のsacramentum
mili-
tiaeが , ロ ー マ 軍 と 関 わ っ た ゲ ル マ ン人 を 経 て , ゲ ル マ ン諸 国 に 入 り, そ の
段 階 でmilitiaeが
一 般 ゲ ル マ ン人 に と っ て 概 念 的 に 把 握 し に く か っ た た あ
排 除 さ れsacramentumと
な っ た 可 能 性 が 高 く, 古 代 か ら中 世 初 期 へ の 連 続
性 を こ のsacramentumに
求 め る と す れ ば , 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 と い う
概 念 を 介 して で あ る , とBecherは
分 析 す る。 支 配 者 が配 下 に誓 約 を行 な う
よ う求 め る 時 点 に っ い て ,Becherは
, ロ ー マ時 代 の軍 務 誓 約 は毎年 , メ ー
ロ ヴ ィ ン グ 朝 の 誠 実 誓 約 は 国 王 に と っ て 適 切 と思 わ れ た 時 点 , カ ー ル 大 帝 の
宣 誓 は カ ー ル の 決 断 に 従 って , で あ る , と述 べ る。
(B)pars:Becherは
「王 令 覚 書 集 」 や
「王 国 年 代 記 」 や
に 現 れ るparsと
い う 単 語 を 分 析 す る。 parsの
「編 年 誌 続 編 」 等
基 本 的 意 味 は , 全 体 の 「部
分 」 で あ り, これ は ロ ー マ の 法 律 用 語 に も 「互 い に 向 か い 合 う人 ・集 団 」 の
意 味 で 既 に 出 て き て い る , と言 う。 こ の 語 は 一 種 の 技 術 的 慣 用 語 と し て 使 用
57)Becherはsacramentum
Soldateneidの
好 ま しい。
militareとsacramentum
訳 語 を 与 え て い るが , sacramentum
militiaeの
双方 に
militiaeに 統 一 す る こ とが
42
さ れ て い る も の でparsを
用 い な くて も そ の 主 旨 は 表 現 で き る が , こ の 語 を
用 い れ ば 読 者 の 理 解 を 得 や す い , と し,parsは
, 対 等 な両 者 の一 致 を表 現
す る 場 合 は 主 格(pars, partes), 他 方 へ の 誓 約 ・服 属 ・朝 貢 を 表 現 す る 場 合 は
与 格(parte,
partibus), 或 い は前 置 詞ad,
te)表 現 さ れ る , と す る 。 parsの
「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 」 を 経 て
Becherは
(C)子
proを
伴 っ て(ad
partem ,pro par-
こ の 語 法 は , 「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 続 編 」,
「歴 史10巻58)」
に まで 遡 る こ とが で き る, と
言 う。
息 を 含 む 誠 実 誓 約 :バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世
は757年
コ ン ピエ ー
ニ ュ で フ ラ ン ク 国 王 ピ ピー ン と そ の 二 人 の 子 息 に 誠 実 誓 約 を 行 な
った。 この
よ う な , 王 子 を も含 め た 誠 実 誓 約 は そ の 例 が 過 去 に も若 干 見 ら れ る が
, その
場 合 の前 提 条 件 は, そ の王 子 が 王 位 継 承 者 に指 定 され て い るか , 或 い は, 既
に 国 王 の ラ ン ク に 達 して い る か , で あ る, と す る 。 こ の 種 の 誠 実 誓 約 は 基 本
的 に メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 ま で 遡 及 し得 る, とBecherは
(D)sine
fraude
et malo
ingenio:763年
バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ は ピ ピ ー
ン の 戦 列 を 離 れ た , と さ れ , 「王 国 年 代 記 」 で は
こ しper
malum
ingenium,
邪 念 を 抱 い てper
況 が 説 明 さ れ る 。 一 方 ,789年Aに
年Bに
はabsque
fraude
は, これ らの表 現 は
et malo
言 う。
はsine
ingenioと
は
「悪 心 を 起
ingenia fraudulenta」
, タ シ ロ3世
と そ の状
fraude
et malo
であ り
,fraudulens,
, この 種 の規 定
fraudulenter等
語 は, ロ ー マ時 代 を経 て メ ー ロ ヴ ィ ング朝 の 事 象 を 記 録 した史 書
ガ ル編 年 誌 」 や
を 表 現 す る場 合 に 使 用 さ れ ,1975年
事 典Lateinisch-germanisches
58)
の単
「フ レ ー デ
「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 続 編 」, 更 に カ ー ロ リ ン グ 朝 に 入 っ て
「王 国 年 代 記 」 に も現 れ る と し, そ の 殆 ど す べ て が
はuntriuwa(不
,802
い う語 句 が 見 ら れ る。 Becher
「悪 意 阻 止 規 定Arglistklausel」
は ロ ー マ 時 代 に も あ っ た , と言 う。fraus
ingenio
のG
Lexikon」
.K
, 誠 実 誓 約 へ の違 反 行 為
blerの
に は , frausは
誠 実), と示 さ れ て い る, とBecherは
「
歴 史10巻Decem
Tours(*538/39一
libri historiarum」
†593)の 手 に成 る。
「ラ テ ン語 ゲ ル マ ン語
古 代 高 地 ドイ ッ語 で
指摘 す る。 以 上 の 検
は トゥー ルの グ レゴ リ ゥスGregor
von
再 論 :タ シ ロ三 世
討 を 経 た 後 ,Becherは
及 び789年
と802年
「公 式 史 書
43
『王 国 年 代 記 』 に お け る使 用 語 彙 の 選 択
の 両 誠 実 誓 約 範 例 へ の 『悪 意 阻 止 規 定 』 の 組 み 込 み は ,
同 一 の 支 配 構 想 に 発 し, タ シ ロ事 件 が そ の 根 底 に あ る」 と 明 言 す る。 以 上 の
Becherの
検 討 結 果 か らす れ ば
「悪 意 阻 止 規 定 」 の 日 本 語 訳 は
「誓 約 に 違 反
せず 悪 心 を起 こ さず 」 と な ろ うか。
(E)誓
約 と代 理 人 :Becherは
, 国 王 の代 理 人 が誠 実 誓 約 を受 け られ る か ど
うか に つ い て 言 及 し, メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 に お い て も, 太 公 , 伯 , 王 使 , 軍 司
令 官 等 が 王 に代 わ って 誓 約 を受 け る こ とが 常 態 で あ った こと を諸 種 の史 書 か
ら証 明 す る 。 但 し, カ ー ロ リ ン グ 朝 に な っ て か ら暫 時 は 国 王 が 直 接 に 誓 約 を
受 け た よ う で あ る。 が , 全 国 民 か ら誠 実 誓 約 を 受 け る と な る と そ れ は 不 可 能
な の で , 王 使 に 代 行 さ せ た , と す る。
(F)dominusとhomo:802年B,
い る が ,757年
Cで
はdominusはhomoと
対 比 され て
に タ シ ロ が カ ー ル に し た 誠 実 誓 約 で はdominusはvassus
と 対 応 す る。 こ のhomoとvassusの
間 に は概 念 上 の 違 い は な く双 方 と も
「臣 下 」 の 意 で 用 い ら れ る , とBecherは
言 う59)。8世 紀 に は こ の 主 従 関 係 は
身 分 の高 い人 々 を もそ の対 象 にす る よ うに な った。 こ う した主 従 関係 の発 展
状 況 を 土 台 に 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は , タ シ ロ が 行 な っ た と さ れ る誠 実 誓 約
に 託 身 を 付 加 す る こ と に よ り, バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ の 従 軍 義 務 を 記 者 は 明
確 に し得 た , とBecherは
(;豪 族)をdominus-homo関
指 摘 す る。 当 時 の 王 宮 の 最 大 関 心 事 は, 王 国 貴 族
係 に 位 置 付 け る こ と に よ って , 彼 らを王 国
の 軍 事 行 動 に 動 員 す る こ と で あ り , 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は , タ シ ロ を 手 玉
59)Becherは
vassusは
更 にvassus
dominiciに
つ い て 説 明 す る(S.152f
「主 人 の 配 下 」 の 意 で , 厳 密 な 規 定 を 受 け た 術 語 で は な く 一 般 的 に
「従 属 者 」 を 示 す の み だ が , 単 な るvassiで
1iche
.): ケ ル ト語 起 源 の
Vasallen)と
は な く てvassi
dominici(;k6nig-
な る と, これ は明 確 な概 念 規 定 を 持 ち, 司 教 , 僧 院 長, 伯 に
次 ぐ役 職 で , 主 た る仕 事 は , 国 王 の 指 示 に よ る 王 国 内 巡 行 , 王 宮 へ の 出 仕 及 び 王
国 会 議 へ の 出 席 で あ る 。 し か し そ の 最 大 の 任 務 は, 王 国 会 議 で 出 兵 決 議 が 下 さ れ
ば そ れ に 従 っ て 軍 務 に 就 く こ と で , こ れ を 拒 否 す る と 官 職honorと
ciumを
失 う 。 honorに
っ い て は本 稿2-11.(1)参
照。
領 国benefi-
44
に 取 って , 王 国 の こ の よ う な 要 請 に 応 え た , とBecherは
して ,802年B,
Cの 文 言 は 「王 国 年 代 記 」 に 記 述 さ れ た タ シ ロ の 誓 約 文 言 に 共 通 す る 点 を 持
っが,上述の
「王 宮 の 最 大 関 心 事 」 か らす れ ば , こ れ は 当 然 の こ と で あ ろ う ,
と言 う。
(G)per
per
drictum:757年
iustitiaが
タ シ ロ が カ ー ル に行 な っ た と され る 誠 実 誓 約 に
出 て く る。 ま た802年B,
が 見 ら れ る 。Becherは
tiaは 公IE aequitasと
Cに
はper
drictum60)と
い う語 句
, こ の 両 者 は 同 じ内 容 を 表 わ す , と 言 う。 正 義iusti共 に 古 来 キ リ ス ト教 世 界 の 支 配 者 の 持 っ べ き 徳 義 と さ
れ る。 と こ ろ で 「正 義 」 は常 に 具 体 的 で あ る。 ラ ン ゴ バ ル ド人 か ら聖 ペ テ ロ
の 「正 義 」 を 守 る た め に ピ ピ ー ン は 戦 争 を し た 。 ア キ タ ニ ア 太 公 ヴ ァ ィ フ ァ
ル か ら 同 地 に あ る フ ラ ン ク王 国 教 会 の 「正 義 」 を 守 る た あ に 彼 は 戦 い を 構 え
た 。 ア ヴ ァ ー ル 人 か ら キ リス ト教 会 の 「正 義 」 を 守 る た め に カ ー ル は 戦 い を
仕 掛 け た , と い う具 合 。 つ ま り 「正 義 」 は 戦 争 を 合 理 化 す る 中 心 的 概 念 と し
て 用 い られ て き た , とBecherは
指 摘 す る 。 「正 義 」 は , 従 っ て , 具 体 的 内
容 を 持 っ が 故 に 「権 利 」 で も あ る。757年
誓 約 に お い て 初 め て こ のiustitiaが
-homo関
に タ シ ロが 行 な った と され る誠 実
誠 実 誓 約 に 加 わ り, 「正 義 」 はdominus
係 と共 に 大 き な 力 を 発 揮 し
, 臣下 即 ち誓 約 者 は, 支 配 者 の
義」 即ち
「権 利 」 の 尊 重 を 余 儀 な く さ れ る。per
drictum及
びper
「正
iustitia
の 意 を 充 全 に 伝 え る と す れ ば 「支 配 者 の 正 義 , 即 ち権 利 に則 っ て 」 と な ろ う。
因 み にdrictum,
iustitiaは
す る 『Recht』
(H)regnum
ドイ ッ 語 で は
厂正 義 」 と
が そ の 訳 語 に 当 て ら れ る。
et rectum:802年Cは
regnum
誓 約 者 に 「彼(;
と彼 の 正 義 へad
suum
カ ー ル は789年
「フ ラ ン ク王 国 の 国 王 に し て 導 き 手rex
corum」
et ad
suum
と い う名 辞 を 自 ら に 与 え る。 rectorと
60)Becherに
「権 利 」 の 双 方 を 意 味
よれ ば(5.163), drictumは
rectum」
カ ー ル 大 帝)の
王権
の 誠 実 を 義 務 付 け る。
et rector regni Fran-
い う 名 辞 は806年
の
「王 国 分
平 俗 ラ テ ン語directum(=rectum)に
由 来 す る。 一 般 人 に誓 約 内 容 を理 解 し易 くす る ため に用 い られ たの だ ろ う, と さ
れ る。
再 論 :タ シ ロ三 世
割 令Divisio
regnorum」
に も出 て お り, 以 後 そ の 数 を 増 す 。 こ の よ う な 対 語
は 教 父 ア ゥ グ ス テ ィ ー ヌ スAugustinus61)の
名 辞 論N・mentheorie62)の
受 け た 結 果 で , 名 辞 論 は , セ ヴ ィ リ ァ の イ シ ドルIsidor
プ リ ア ー ヌ スPseudo-Cyprian64)を
von
経 て ア ル ク ィ ンAlcuinに
ラ ン ク 王 国 に 影 響 を 与 え た , とBecherは
持 者rexの
45
影響 を
Sevilla63), 偽 キ
受 け継 が れ , フ
言 う。 名 辞 論 に よ れ ば , 王 権 の 所
責 務 は 「曲 が っ た こ と を 矯 正 し, 正 し き を 鼓 舞 し, 聖 な る も の を
尊 崇 す る 」 こ と に あ り 「臣 下 の 導 き 手rector」
に な る こ と, そ れ を し な い 君
主 は 不 適 切 な 支 配 者 , 君 主 の 名 に 値 しな い 暴 君 , と さ れ る 。 こ の 影 響 を 受 け
て カ ー ルが 自己 確 認 の た め に用 いた称 号 が
「王 者 に して 導 き 手 」 で あ り , そ
の 対 応 と し て 「王 権 と 正 義 」 と い う 表 現 は 理 解 さ れ ね ば な ら な い , と
61)Aurelius
Augustinus(*354-430)は
テ ン ジ ゥ スHortensius」
, キ ケ ロCiceroの
失 わ れ た作 品
「ホ ル
に刺 激 さ れ て 哲 学 と関 わ る よ うに な り, 後 に ロ ー マ で
ア ム プ ロ ジ ゥ スAmbrosiusの
説 教 を 聴 き, キ リス ト教 に 生 き る 決 心 を す る。 西
方 教 会 の 教 父 と し て 最 も 重 要 な 人 物 で , ヨ ー ロ ッ パ の キ リ ス ト教 を 代 表 す る 一・
人 。 彼 の 書 で カ ール 大 帝 に影 響 を与 え た の は
リ ス ト教 の 教 えDe
62)
doctrina
christiana」
「神 の 国De
civitate
Dei」
と 「キ
と され て い る。
名 辞 論 と は, 簡 単 に 言 え ば , 名 は体 を 表 わ す , と い う 説 で , 語 源 論 に も 関 連 す
る 。rexの
63)Isidor
語 源 はregere「
von
統 治 す る , 正 し く 導 く」 及 び 「corrigere正
Sevilla(*560一
†636),
す 」。
セ ヴ ィ リ ァ の 大 司 教 。 〈当 代 に 比 類 な き 学
者 , 世 の 終 り ま で 最 も 優 れ た 学 識 の 士 〉 と い う 賛 辞 に 違 わ ず , 神 学 ・歴 史 ・文
学 ・科 学 等 多 方 面 に 亙 っ て 多 数 の 著 書 を 残 す 。 彼 の 著 作 は , 古 代 の 文 物 に 関 す る
知 識 の 源泉 と して, 中世 を通 じて西 欧 世 界 に強 い影 響 力 を及 ぼ した。 彼 の著 作 の
一 部 は790年
代 にAlcuinグ
ル ー プ に よ っ て 古 代 高 地 ドイ ッ 語 に 翻 訳 さ れ た , と
言 わ れ る。
64)Cyprianus
von
Karthago(*200/210一
項 に よ れ ば , 彼 は246年
†258), 平 凡 社 百 科
こ ろ キ リ ス ト教 に 回 心 し,249年
「キ プ リア ヌ ス 」 の
カル タゴの司教 とな
る 。 ヴ ァ レ リ ア ー ヌ ス 帝 に よ る 迫 害 の 中 で 殉 教 す る 。 迫 害 の 際 に 逃 亡 し後 に 教 会
に戻 っ た者 を受 け入 れ るべ きか ど うか が 問 題 と な っ た と き, キ プ リア ヌ ス は一 定
の 悔 い 改 め を 課 し こ れ を 行 な っ た 者 は 受 け 入 れ て よ し, と し た こ と か ら ロ ー マ と
対 立 す る。 彼 は, 真 の 教 会 と は 恩 恵 の機 関 で あ るが 故 に
「教 会 の 外 に 救 い は な
い 」 と 言 え る , と 考 え た 。 彼 は 教 会 の 公 共 性 と 聖 性 を 強 く 自 覚 し た キ リ ス ト者 と
して カ ト リ ッ ク 教 会 で 尊 ば れ て い る 。 後 に 彼 の 名 を 付 した 多 く の 偽 書 が 出 る 。
46
Becherは
説 く。
(1)honor
regni:802年Bでad
分 が802年Cで
honorは
はad
suum
honorem
regnum
et ad
regni
suiと 表 現 さ れ て い た 部
suum
rectumに
変 更 さ れ る。
メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 時 代 に は 「官 職 」 の 意 味 で 使 わ れ て い た 。 特 に
太 公 や宮 宰 等 の上 級 役 職 を示 した。 宮 宰 職 に多 くを送 り出 して い た カ ー ロ リ
ン グ 家 一 統 の カ ー ル に は こ の 言 葉 は 馴 染 み 深 く, こ の 場 合 は 「honor
regius」
っ ま り 「王 職 」 の 意 で こ の 語 は 用 い られ た の だ ろ う , とBecherは
推 断 す る 。 王 職 は(H)で
分 析 した よ うに
「王 権 と 正 義 」 に 密 着 す る も の で
あ り, 従 っ て , 名 辞 論 の 影 響 下 に あ る こ の 表 現honor
rectumと
(J)誓
何 ら変 わ る と こ ろ は無 い , とBecherは
約 と キ リス ト教 :802年B,Cに
regniはregnum
et
言 う。
お いて 眼 前 の聖 遺 物 にか け て誓 約 す
る こ と が 必 須 要 素 に な っ た 。 現 実 に 聖 遺 物 に 触 れ て の 誓 い か ど うか は 範 例 文
面 か ら は 分 らな い 。 しか し 「歴 史10巻
等 の 史 書 に よ れ ば ,6世
」, 「フ ラ ン ク 人 の 歴 史65)」, 「編 年 誌 」
紀 以 来 , 聖 遺 物 に 触 れ て の 誓 約 は 一 般 化 し た 。802
年 カ ー ル 大 帝 は こ れ を 誓 約 に 含 め た 訳 だ が , こ れ は757年
の
「タ シ ロ の 家 臣
誓 約 」 に つ い て の 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 と密 接 に 関 連 す る, とBecherは
う 。 恐 ら く787年
に も タ シ ロ は757年
誓 約 を した の で あ ろ う が ,802年
同 様4或
い は5聖
人 の 聖 遺 物 に触 れ て
に カ ール が この よ うな 宗 教 的 誓 約 の 実 施 を
決 断 した 狙 い は, キ リス ト教 及 び そ の 権 威 に 縋 り つ つ 貴 族(=豪
彼 の 王 権 を 承 認 さ せ る こ と, に あ っ た , とBecherは
《(A)一(J)の
65)Liber
ま と め 》 カ ー ル 大 帝 に よ り789年
historiae
Francorum.こ
所 業 」 と さ れ て い た が ,MGHの
言
の書 は 当初
族)た
ちに
言 う。
と802年
「Gesta
に 提 示 され た 三 っ
Francorumフ
ラ ン ク人 の
編 纂 を 通 して 現 書 名 に な っ た 。 著 者 も執 筆 場 所
も不 明 で あ る が , 本 書 の 内 容 は 主 と し て ノ ィ ス ト リア 関 連 の 事 象 に 限 ら れ , ノ ィ
ス ト リ ア 人 の み を フ ラ ン ク 人 と し, ア ゥ ス ト リ ア 人 や ブ ル グ ン ド人 は フ ラ ン ク人
と は して い な い こ と か ら, 本 書 は ノ ィ ス ト リ ア 人 の 手 に な る も の , と想 定 さ れ ,
執 筆 時 期 に つ い て は 諸 研 究 は 一 致 し て727年
考 に さ れ た 史 書 の 一一つ にGregor
対 象 時 期 は7世
von
Toursの
とす る。 この書 の記 述 に 当 た って参
「歴 史10巻
」 が 挙 げ られ , 記 述
紀 末 以 後 で , こ の 時 期 に 関 す る 記 述 は 信 頼 で き る, と さ れ る 。
再論 :タシロ三世
47
の誠 実 誓 約 範 例 に基 づ い て フ ラ ンク王 国 の諸 種 誓 約 に用 い られ て い る言 葉 を
「王 国年 代 記 」 及 び 諸 種 史 書 に 当 た って 検 討 した 結 果 , 次 ぎ の諸 点 が カ ール
大 帝 に よ り新 た に誓 約 に追 加 さ れ て い る こ とが 明 ら か に な っ た :第1点 ,
「誓 約 に違 反 せ ず 悪 心 を起 こさず 」 と い う悪 意 阻 止 規 定 , 第2点 , 「主 人 と臣
下 」 の関 係 , 第3点 , 「正 義 に基 づ き」 と い う文 言 , 第4点 , 聖 遺 物 に触 れ
て の キ リス ト教 的誓 約 , 第5点 , カ ー ル の 「王 権 と正 義 」 へ の絶 対 的服 従 ,
及 び 「王 者 に して導 き手 」 とい う王 職 の定 義 , 第1点 及 び第2点
代 記 」 で757年
に タ シ ロが 行 な った と報 告 さ れ て い る誠 実 誓 約 に も盛 り込 ま
れ て い る要 素 で あ る。 第5点
Zacharias(在 位741-752)の
リヒ3世Childerich
用 い た論 理
は 「王 国 年
は, 既 に ピ ピー ンが , ロ ー マ教 皇 ツ ァハ リア ス
助 言 も得 て ,751年
メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 国 王 ヒル デ
III.か ら王 位 を簒 奪 , フ ラ ン ク王 国国 王 に即 位 した 際 に
現 実 の検 証 を経 た論 理 , で あ る, とBecherは
これ ら789年 と802年
言 う。
の誠 実 誓 約 範 例 は, 誓 約 者 を支 配 者 へ の絶 対 服 従 に
追 い込 む こ とに よ り, カ ール 大 帝 の 新 た な 諸 施 策 に対 す る一 切 の 反 抗 を 押 さ
え付 け, 同 時 に貴 族(=豪
族)を 始 め とす る全 国民 を カ ー ル の 意 図 す る戦 争
に駆 り立 て る こ とを 目的 と した もの, とBecherは
(K)誠
実 誓 約 範 例789年Aの
言 う。
実 施 規 定 :メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 の全 般 的 誠 実 誓
約 は残 って い な いが , 誠 実 誓 約 は6世 紀 以 来 存 在 した。 カ ー ル はハ ル ドラ ド
の 叛 乱 を 鎮 圧 後 , 叛 乱 に 同調 した貴 族(=豪
族)の 言 葉 , 国 王 に誠 実 誓 約 を
行 な った者 に しか 国 王 へ の 誠 実 義 務 は無 い, に愕 然 とす る。 そ こで カ ール は,
この実 施 規 定 で, 王 国 の成 人 全 員 一 一司教 を先 頭 に伯 や貴 族(=豪
て, 徴 兵 対 象 の非 自 由民 に至 るま で一
こ の789年
族)を 経
に誠 実 誓 約 を行 な わ せ るよ う定 め る。
の誠 実 誓 約 は 「全 般 的誠 実 誓 約 」 の皮 切 りで, 導 入 目的 は, 当初
は, 謀 反 人 の 処 罰 で あ った。 この誓 約 は王 国 民 全 体 に課 せ られ た ので , 国 王
と貴族(=豪
(L)802年
族)の 間 に距 離 を 置 く結 果 を 生 ん だ , と もBecherは
言 う。
の両 誠 実 誓 約 範 例 の実 施 規 定 :この実 施 規 定 で カ ー ル は, 従来 の
誠実誓約観一
国 王 の生 命 を狙 う陰謀 及 び外 敵 との結 託 の み を禁 じて い た と
受 け取 られ て い た捉 え方 一
一
を否 定 し, 新 しい誠 実 誓 約 観 を具 体 的 に提 示 す
48
る 。 即 ち ,(a)神
の 掟 に 従 う義 務
と 並 ん で ,(b)国
教 会 , 弱 者 及 び 介 護 を 必 要 と す る 人 々 の 保 護 ,(d)国
正 な 公 務 の 執 行 , を 挙 げ る。(a)で
王 へ の 服 従 ,(e)公
は , 王 国 は 神 か ら授 け ら れ た と さ れ ,
神 に 誠 実 な 者 は 同 時 に 王 に 誠 実 な 者fideles
る。(b)で
王 の 財 物 の 尊 重 ,(c)
Dei et regisで あ る こ と が 説 か れ
は , 王 領 地 の 横 領 ま が い の 行 為 を 非 難 ,(c)で
は, 国 王 が この
よ う な 保 護 に 甚 く気 を 遣 っ て い る こ と を 国 民 に 知 ら せ ,(d)で
は, カ ー ル
は 国 民 の 従 軍 態 様 を 詳 細 に 規 定 し 同 時 に 従 軍 義 務 を 強 調 す る。
《(K)と(L)の
ま と め 》786年
の ハ ル ド ラ ドの 叛 乱 , 及 び787年
の タシ
ロ の 服 属 以 来 , 支 配 者 と 臣 下 の 関 係 を 見 る カ ー ル の 目 は大 き く変 化 し た 。 そ
の 一 例 が 従 来 の 誠 実 観 が789年
点 で あ る, とBecherは
並 び に802年
に お い て 大 き く拡 大 さ れ て い る
言 う 。 こ の 全 般 的 誠 実 誓 約 が , 後 に は未 成 年 者 を も
そ の 誓 約 者 に 加 え て い る こ と か ら, カ ー ル に と っ て 如 何 に 重 要 な 政 策 手 段 で
あ っ た か が 理 解 さ れ よ う。789年
の 実 施 規 定 が 全 般 的 誠 実 誓 約 に取 り組 む
カ ー ル の 戦 術 を 表 現 す る, と す る な ら,802年
の実 施 規 定 は カ ー ル の支 配 者
と し て の エ ト ス を 示 し た , と言 え よ う。
2-12.全
以 下 にBecherに
体 総 括
よ る全 体 的 総 括 の概 要 を示 そ う :カ ー ル は, フ ラ ン ク王
国領 土 を拡 大 した た あ, 存 命 中 に既 に大 帝 の 添 え名 を 獲得 した 。786年
カー
ル はハ ル ドラ ドに誓 約 を さ せ るが, これ は フ ラ ン ク王 国領 内 の人 間 に彼 が さ
せ た最 初 の誓 約 で あ る。 既 に早 くか ら国制 史研 究者 の 間 で は,789年
に続 く
802年 の 誓 約 と, 「王 国 年 代 記 」 に 記 述 され て い るバ イエ ル ン太 公 タ シ ロが
した と さ れ る757年 の 家 臣 誓 約 との 関 連 が指 摘 され て い た。 「王 国 年 代 記 」
748年 ,781年 及 び788年
の報 告 に つ い て, 部 分 的 に, ア プ ロー チ は異 な る
が, 「王 国 年 代 記 」 に依 拠 しな い 自立 的 な他 の年 代 記 か ら傍 証 を得 られ た が,
757年 の記 述 に つ い て は ま った く傍 証 は無 い。 従 って, この記 述 を捏 造 とす
る議 論 を 否 定 で き な か っ た。 ま た748年
に タ シ ロ は 「ピ ピー ン の温 情 に よ
り」 バ イエ ル ン太 公 に任 じ られ た訳 で もな か った。763年
の バ イエ ル ン太 公
再 論 :タ シ ロ三 世
の
「戦 列 離 脱 」 も で っ ち 上 げ で あ る 。781年
49
タ シ ロ は ヴ ォル ム スの 王 国会 議
に 参 加 す る が , カ ー ル に 家 臣 誓 約 の 更 新 も誠 実 誓 約 も し て い な い 。 だ が787
年 の叙 述 , タ シ ロが カ ー ル の家 臣 に な った, との叙 述 だ け は他 の年 代 記 か ら
も傍 証 を 得 られ る , 但 しそ れ は 当 然 , 過 去 に な さ れ た 家 臣 誓 約 の 反 復 と し て
で は な い 。788年
の タ シ ロ裁 判 にっ い て の
「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は 「詩 と 真
実 」 の 綯 い 交 ぜ で しか な い 。 しか し 「王 国 年 代 記 」 記 者 は , カ ー ル 大 帝 に よ
る バ イ エ ル ン併 合 を 正 当 化 す る 目 的 だ け を 追 求 した の で は な か っ た 。 彼 は ,
ア ル ヌ ル フ ィ ン グ家66)に 匹 敵 す る ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 出 身 の タ シ ロ を 例 に と
りっ っ , 併 せ て 国 王 と貴 族(=豪
族)の
関 係 , 即 ち 命 令 と服 従 の 関 係 , の 定
着 化 を も狙 っ て い た の で あ る 。 バ イ エ ル ン太 公 は , 昔 か ら フ ラ ン ク国 王 に 公
式 的 に は 従 属 して い た も の の , 事 実 上 は 独 立 を 享 受 しっ っ , 太 公 と し て フ ラ
ン ク 王 国 貴 族(=豪
族)の
代 表 者 と言 っ て よ か った
。 こ の タ シ ロ を 臣下 と し
て 描 く こ と が 「王 国 年 代 記 」 記 者 の 最 大 使 命 で あ っ た 。 タ シ ロ を う ま く失 脚
さ せ た カ ー ル は ,789年
全 般 的 誠 実 誓 約 を 王 国 内 で 実 施 す る。 こ の 誓 約 文 言
に 「邪 念 を 抱 か ず(=誓
約 に違 反 せ ず)悪
が 入 る 。 こ の 文 言 は , タ シ ロ が763年
る 「王 国 年 代 記 」 の 表 現
心 を 起 こ さ ず 」 と い う悪 意 阻 止 規 定
に 犯 し た と さ れ る 「戦 列 離 脱 」 を め ぐ
「悪 心 を 起 こ し」 及 び 「邪 念 を 抱 い て 」 と軌 を 一 に
し, こ の 表 現 が 同 一 の 発 想 か ら出 た こ と は 明 白 で あ る 。 ま た789年
誠 実 誓 約 に は 「主 人 一 臣 下 」 の 対 応 表 現 が あ る が ,757年
の タ シ ロが 行 な っ
た と さ れ る 家 臣 誓 約 に も 同 様 の 表 現 が あ る。 タ シ ロ に つ い て の
記 」 の 記 述 中 の 多 く の 要 素 が802年
とdrictumも
66)
宮 宰)の 娘 ベ ッ ガBeggaは
(=ピ
「王 国 年 代
の 全 般 的 誠 実 誓 約 と 一 致 す る 。iustitia
そ う で あ り, 聖 遺 物 に 触 れ て の 誓 約 に っ い て も両 者 は 一一致 す
ピ ピー ン家(一Pippiniden)の
フ(メ
の全 般 的
大 ピ ピー ン(=ピ
ピー ン1世
ア ル ヌ ル フ ィ ン グ家(=Arnulfinger)の
ス司 教)の 子 息 ア ンゼ ギ ゼ ル(Ansegisel,
ピ ー ン2世)を
Martel1)で
, ア ゥス ト リア
宮 宰)と
アル ヌル
結 ばれ , 中 ピ ピー ン
成 す 。 中 ピ ピー ン の 子 息 が カ ー ル ・マ ル テ ル(=Karl
カ ー ロ リン グ家(=Karolinger)の
名 は こ の カ ー ル ・マ ル テ ル に 由
来 す る。 カ ール ・マ ル テル の 子 息 が 小 ピ ピー ン(=ピ
ラ ン ク王 国 国 王)で , そ の 長 男 が カ ール 大 帝 。
ピー ン3世 , 宮 宰 , 後 に フ
50
る
これ らの こ と は驚 くにあ た らな い 。 と言 うの も, 「王 国 年 代 記 」 に し
て も全 般 的 誠 実 誓 約 に して も王 宮 周 辺 か ら生 み 出 され た もの で あ り,790年
頃 は,741年 に遡 って の 「王 国 年 代 記 」 が 王 宮 周辺 で一 気 に書 き下 ろ され っ
っ あ った か らで あ る。 一 方 ,802年 の 全 般 的 誠 実誓 約 の 持 つ諸 要 素 の 中 に は,
メ ー ロ ヴ ィ ング朝 時 代 と も, 「王 国年 代 記 」 の タ シ ロ記 述 と も関 連 を 持 た な
い 部 分(「 正義rectum」 , 「国民の導 き手rector」, 「王 の職位honor
regni」 等)が
あ る。 これ らは, ア ル ク ィ ンが 媒 介 した 名 辞 論 の 影 響 下 に 生 まれ た もの で ,
力 に よ る政 策 を 進 め て 来 た カ ール 大 帝 が 更 な る支 配 原 理 を 求 あ た 証 左 で あ る。
802年 の 実 施 規 定 で カ ー ル は そ の支 配 の 根 本 理 念 を初 め て 明 らか に す る :キ
リス ト教 の 理 念 に基 づ き神 の 掟 に適 う生 活 を 営 め , 支 配 者 の 財 物 を 尊 重 せ よ,
教 会 及 び弱 者 を , 寡 婦 を 保 護 せ よ, 国 王 に服 従 せ よ ,即 ち 無 条 件 に 徴 兵 命 令
に応 ぜ よ, 云 々 。 これ らの 政 策 理 念 を 掲 げっ つ , カ ー ル は社 会 に お け る 自己
の 支 配 者 と して の 役 割 を 貫 徹 す る意 志 を 明 らか に し, そ の た め の 手 段 と して
誠 実 誓 約 を 王 国 内 の 成 人 全 員 に行 な わ せ る。 従 って802年
は, カ ー ル に と って は, 貴 族(=豪
の 全般 的 誠 実 誓 約
族)の 跳 梁 跋 扈 を 許 す 既 存 秩 序 を 変 革 せ
ん とす る彼 の 努 力 に合 法 性 の 衣 を 被 せ る唯 一 の 強 力 な 政 策 手 段 で あ った 。 こ
の 全 般 的 誠 実 誓 約 が 新 しい支 配 者 エ トスを 押 し広 あ る役 目を 担 う。
3.784年
と タ シ ロ3世
「誓 約 と支 配 」 に お け るMatthias
Becherの
所 論 を背 景 に, 先 ず, バ イエ
ル ン と フ ラ ン ク 王 国 の 対 抗 関 係 が 従 来 ど の よ う に 捉 え られ て き た か , に っ い
て , 目 を 引 く論 述 , と り わ けBecherの
論 考 に そ の 基 盤 を 提 供 した と 考 え ら
れ る 論 述 等 を 取 り上 げ て そ の 概 要 を 述 べ , そ の 後 で784年
に起 きた フ ラ ンク
人 に よ る ボ ー ツ ェ ン67)事件 を 両 国 の 対 抗 史 の 中 に 位 置 付 け て み た い 。
67)
エ ッ チ ュ 河 谷Etschtalの
リ ア 領(イ
北 辺 , ア イ ザ ク 河Eisackに
タ リ ア 名Bolzano),
面 す る町 , 現 在 は イ タ
当 時 は バ イ エ ル ン太 公 国 領 。 ブ レ ン ナ ー 峠 を 経
て バ イ エ ル ン と イ タ リ ア を 結 ぶ 交 通 の 要 衝 。 パ ゥ ル ス ・デ ィ ァ コ ー ヌ スPaulus
Diaconusに
よ れ ば , 既 に680年
に こ こ に は ロ ーマ が 作 った 城 砦 が あ った 。
再論 :タシ ロ三世
19世 紀 末 ,Rankeは
彼 の浩 瀚 な著 作
カ ー ル大 帝 を
51
「世 界 史 の 執 行 者 」 と 褒 あ 称 え る68)。
「世 界 史 」 の 中 に タ シ ロ3世
も登 場 す る 。Rankeの
見地か
らす れ ば , カ ー ル 大 帝 に 対 抗 し抵 抗 を 続 け る バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ3世
, ベ
ネ ヴ ェ ン ト太 公 ア リ ヒ ス, ラ ン ゴ バ ル ド国 王 ア ー デ ル ヒ ス等 の 存 在 は許 さ れ
な い69)。「タ シ ロ の よ う な 太 公 , 自 分 を ヨ ー ロ ッパ の 王 侯 と も感 じて い る よ
う な 太 公 が 存 在 し て い た な ら, ドイ ッ の 国 家 統 合 は 決 し て 有 り得 な か っ た だ
ろ う70)」 と ま でRankeは
タ シ ロ を 扱 き下 ろ す 。 Rankeの
タ シ ロ3世
像 を読
む と 「王 国 年 代 記71)」 が そ の 下 敷 き に な って い る こ と が 手 に 取 る よ う に 分 る
。
即 ち , タ シ ロ は ,757年
フ ラ ン ク国 王 ピ ピ ー ン に 家 臣 誓 約 を 行 な い ,763年
ピ ピ ー ンの ア キ タ ニ ア戦 役 で
「戦 列 離 脱 」 を 行 な い ,781年
カ ール と ロ ー マ
教 皇 か ら既 に 為 さ れ た 家 臣 誓 約 を 忘 れ な い よ う厳 し く警 告 さ れ ,787年
ル に 降 伏 後 , 家 臣 誓 約 を し,788年
髪 さ れ る72)。794年
カー
カ ー ル大 帝 の赦 免 を得 て死 刑 を 免 れ
の フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 に つ い て は
は , 既 述 の よ う に , 一 切 記 し て い な い 。 同 様 にRankeも
, 剃
「王 国 年 代 記 」
, 僧 タ シ ロが最 後
に 出 席 し た こ の 王 国 会 議 に っ い て 一 言 も 触 れ な い し, 「王 国 年 代 記 」 同 様 ,
そ の 死 に っ い て も沈 黙 す る。 偉 大 な 世 界 史 学 界 の 重 鎮Rankeに
れ た この
よ って 描 か
「タ シ ロ 像 」 が , ドイ ッ に お い て も 日本 に お い て も長 い 間 , 「ドイ
ッ 史 」 に お け る一 般 的 な 「タ シ ロ像 」 で あ り続 け て 来 て い る, と言 っ て も 過
68)Leopold
von
Bd.8,14.
Ranke(*1795-t1886)
Kapitel,
「世 界 史 」
hg.
は1881年
von
, Karl
Horst
Michael,
以 後 の 執 筆 ,
der
Gro゚e,
Hamburg,
in:Weltgeschichte
oJ.(1928?).
と さ れ て い る 。 彼 は1865年
にvonの
S.412.彼
の
称 号 を 得
て い る。
69)
Ranke,
Karl
der
Gro゚e,5.414
.
70)
Ranke,
Karl
der
Gro゚e,5.419
.
71)
註14に
あ る よ う にRankeは
年 代 記 は ロ ル シ3で
Laurissenses
S.247に
「王 国 年 代 記 」 研 究 者 と し て も 知 ら れ る
発 見 さ れ た と の こ とで 当 初
maiores」
と呼 ば れ た が , Wattenbach-Levison,
よ れ ば, ラ ン ケが これ を
「Annales
Regni
Ranke,
Karl
der
Gro゚e,5.415-418
.
Geschichtsquellen,
Francorum」
め そ れ が 先 例 と な っ て 現 在 の 名 称 が 定 着 ・一 般 化 した 。
72)
。 この
「ロ ル シ ュ 年 代 記Annales
と名 付 け た た
52
言 で は な い。
この
「タ シ ロ 像 」 に 対 し,20世
紀 に 入 る と , ドイ ツ 法 制 史 及 び 国 制 史 関
係 者 か ら質 的 に 異 な る 「タ シ ロ像 」 が 対 置 さ れ 出 す 。 こ れ ら研 究 者 も基 本 的
に 「王 国 年 代 記 」 の タ シ ロ 記 述 を 尊 重 す る が , 「王 国 年 代 記 」 に 見 ら れ な
か っ た タ シ ロ太 公 及 び カ ー ル 大 帝 の 側 面 を 強 調 す る。 例 え ばRosenstockは
,
タ シ ロ も, カ ー
一ル 同 様 , 神 の 恩 寵 を 受 け て い る人 間 で , 何 の 問 題 も起 こ さ ず
に , バ イ エ ル ン太 公 国 を 率 い , 妻 リ ゥ ト ビ ル ク を 裏 切 る こ と も な く, ロ ー マ
教 皇 の 庇 護 を 受 け っ っ 申 し分 の 無 い 平 和 な 暮 し を 営 む , と 言 う73)。772年
タ
シ ロ は 子 息 テ ー オ ドに ロ ー マ 教 皇 か ら洗 礼 を 受 け さ せ ,777年
彼 を共 治 太 公
Mitregentに
第1項
据 え る 。 こ れ は 「バ イ エ ル ン 部 族 法 典 」 第III章
の規 定
に 沿 っ た 処 置 で あ る が , こ の 規 定 の た め に カ ー ル は バ イ エ ル ン に 手 出 しが で
き な い74)。 カ ー ロ リ ン グ 家 す ら こ の よ う な 規 定 に よ っ て は そ の 王 位 が 保 証 さ
れ て はい な か った の で あ る。 ア ル ヌル フ ィ ング家 が フ ラ ンク王 国 の 宮 宰 に過
ぎ な か っ た 頃 , ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は バ イ エ ル ンで 既 に 国 王 に 等 し い 権 力 を
手 に 入 れ て い た 。 古 い 貴 族(=豪
族)の
家 柄 と して ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は ア
ル ヌ ル フ ィ ン グ家 に 引 け を 取 ら な か っ た 。 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は ア レマ ニ ア
や ブ ル グ ン ドに も有 力 な 縁 者 を 持 ち , ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 の 潜 在 的 な 勢 力 は
侮 れ な か っ た 。 カ ー ル 大 帝 が そ の 子 息 た ち に ロ ー マ 教 皇 か ら洗 礼 を 受 け さ せ
る の は タ シ ロ に 後 れ る こ と9年
,781年
で あ る。 カ ー ル 大 帝 に と っ て は ア ル
ヌ ル フ ィ ン グ家 に 匹 敵 す る伝 統 あ る名 家 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 が 存 在 す る こ と
自 体 が 大 き な 苛 立 ち で あ っ た75)。 カ ー ル は タ シ ロ の 外 堀 を 埋 あ る方 策 を 取 る。
73)
Eugen
Rosenstock,
Herzogtums
Bayern,
Deutsch,
hg.
66,Anm.172に
sischen
Unser
von
Volksname
in:Wege
Hans
Eggers
よ れ ば ,1928年
Gesellschaft
f
der
1970,
Deutsch
Forschung
Darmstadt.
und
die
Aufhebung
Bd.156,
S.51.こ
Der
Volkskunde,
hg.
Breslau,1928)0
74)
Rosenstock,
Unser
Volksname
Deutsch,5.52.
75)
Rosenstock,
Unser
Volksname
Deutsch,5.52.
von
Theodor
Volksname
の 書 は 註79の
に 既 に 公 刊 さ れ て い る(Mitteilungen
Siebs,
des
書 のS.
der
Schle-
Bd.
XXIX,
再 論 :タシ ロ三 世
彼 は ,781年
の子 息 た ちへ の ロ ー マで の洗 礼 の機 会 を , ロ ー マ教 皇 を タ シ ロ
か ら離 反 さ せ る 手 段 と して も使 う76)。787年
王国会議で
53
秋 , カ ー ル は ア ゥク ス ブ ル ク の
「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 に タ シ ロ の 手 足 を 縛 る 新 し い 規 定 , バ イ
エ ル ン太 公 に と っ て こ の 上 な く屈 辱 的 な 法 規 定 , 所 謂
silO」 を 潜 り込 ま せ る こ と に 成 功 す る 。 こ の
ン 部 族 法 典 , 第II章8a77)」
「タ シ ロ条 項lex
「タ シ ロ 条 項 」 と は
Tas-
「バ イ エ ル
で あ り, 傲 慢 で 反 抗 的 な 太 公 を 破 門 しそ の 領 国
を 取 り上 げ る こ と を 内 容 と す る78)。 バ イ エ ル ン太 公 国 の 南 の 国 ラ ン ゴ バ ル ド
王 国 を 滅 ぼ して 南 接 の 外 堀 を 埋 め , タ シ ロ に 残 っ た 最 後 の 味 方 で あ る ロ ー マ
教 皇 を タ シ ロ か ら離 反 さ せ , 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 に
入 し, バ イ エ ル ン の 大 部 分 の 貴 族(=豪
族)を
「タ シ ロ条 項 」 を 挿
カ ー ル の 手 下 に し79), ザ ク セ
ン情 勢 も ほ ぼ 安 定 を 見 た 今 , カ ー ル は 圧 倒 的 軍 事 力 を 誇 る フ ラ ン ク 軍 を 背 景
76)
Rosenstock, Unser
Volksname
Deutsch ,5.53.
77)「 バ イ エ ル ン部 族 法 典 第II章 第8項a」 , 「も しそ の太 公 領 の , 國 王 が 任 命 した
る誰 か 太 公 が, 無 鐵 砲 ま た は頑 冥 , ま た は輕 率 に 煽 動 せ られ , 或 は無 恥 且 っ 尊
大 , ま た は 高 慢 且 っ好 戦 的 に して , 國 王 の命 令 を 輕 視 した る と き は,[國 王 の]
贈 物 た るそ の 太 公 位 を 喪 失 す べ く, しか の み な らず , 彼 は天 國 を 望 む 希 望 を 剥 奪
せ られ た る こ とを 知 るべ く, 救 い の力 を失 ふ べ し」(「バ イエ ル ン部 族 法 典 」194
ペ ー ジ)。
78)Rosenstock,
Unser
Volksname
Deutsch ,S.57-66.「 タ シ ロ条 項 」 が 「バ イ ェ
ル ン部 族 法 典 」 に挿 入 され た 時 期 につ い て は研 究 者 間 に 多 く の議 論 が あ る が ,
787年 か788年
と い う こ とで 大 体 は一 致 して い る。Rosenstockは
, 当時の歴史
状 況 等 か ら考 え て, ま た, この条 項 の太 公及 び バ イエ ル ン人 に対 す る侮 辱 的 内容
か ら して,787年
に タ シ ロが レ ヒ河 畔 で カ ー ル の軍 門 に降 った とき以 外 に は挿 入
時 期 は考 え られ な い, とす る。787年 秋 に は バ イエ ル ンの地 ア ゥク ス ブ ル クで王 国
79)
会 議 が 開 か れ て い る こ とか ら も,Rosenstockの
この 判 断 は妥 当, と され て い る。
Heinrich Mitteis, Lehnrecht
und Staatsgewalt-Untersuchungen
zur
mittelalterlichen
Verfassungsgeschichte,1958,
Darmst弓dt.に
は次 ぎ の よ うな
記 述 が 見 られ る :「タ シ ロ裁 判 の皮 切 りはバ イ エ ル ンの フ ラ ンク派 家 臣 が 務 あ た。
彼 ら フ ラ ン ク派 の タ シ ロの 家 臣 らは彼 らの主 人 タ シ ロ3世 の 監 督 役 と して 機 能 し
た(S.68f.)」 及 び 厂この 裁判 が う ま く行 った とす れ ば, そ の 大 部 分 は これ ら フ ラ
ン ク派 家 臣 の お 蔭 で あ った , と カ ール は知 っ た よ うで あ る。 とい うの も今 や , い
ず れ は フ ラ ン ク王 国 の 権 益 下 に入 る王 国 外 部 の 王 侯 や 家 臣 に この 政 治 的 託 身 を さ
せ, 彼 らを 支配 関 係 の 中 に 取 り込 む か らで あ る(S.70)」
54
に タ シ ロ に 迫 る 。Rosenstockは
を 威 嚇 す る 。788年
言 う : 「『タ シ ロ 条 項 』 は 王 命 に 従 わ ぬ 太 公
タ シ ロ は 王 命 に 従 い イ ンゲ ル ハ イ ム に 来 る 。 こ の 条 項 の
存 在 自 体 が タ シ ロ を カ ー ル の 仕 掛 け た 罠 に 落 と し込 む 。 タ シ ロ は こ の 条 項 の
適 用 を免 れ る た あ に為 さ ざ る を得 な い対 応 を した。 タ シ ロに は イ ンゲ ルハ イ
ム の 王 国 会 議 か ら逃 れ る 術 は 無 か っ た80)」 と 。Rosenstockは
こ こに カ ー ル
大 帝 の 支 配 者 と して の エ トス を 見 る 。 当 然 の こ と な が ら ,787年
に
「タ シ ロ
条 項 」 が 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 に 挿 入 さ れ た こ と は 「王 国 年 代 記 」 に は 記
述 さ れ な い。
40年
に 亙 っ て バ イ エ ル ン太 公 国 を 治 め て 来 た タ シ ロ の 人 間 性 に も触 れ な
が ら,Rosenstockは
「平 和 的 人 間 的 タ シ ロ像 」 を 描 き 出 す 。 し か し1936
年 , ク ラ ヴ ィ ン ケ ル は ,Rankeが
「タ シ ロ 像 」 を 描 く際 に 資 料 と して 用 い
た 「王 国 年 代 記 」 に お け る757年
の タ シ ロ関 連 記 述 を 否 定 し 「冤 罪 に 滅 び た
タ シ ロ」 像 を 世 に 公 開 す る 。
Krawinkelは
, 「王 国 年 代 記 」757年
る こ と は 作 り話Machwerk81)だ
の項 で タ シ ロに つ い て述 べ られ て い
, と す る。 彼 の 判 断 根 拠 は , 「王 国 年 代 記 」
の 記 述 そ の もの に 内 在 す る 非 論 理 性 , 同 時 代 に っ い て 記 述 し て い る 他 の 年 代
記 , 特 に 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 と の 差 異 , タ シ ロ の バ イ エ ル ン太 公 国
に お け る 政 治 の 実 態 , 及 び 託 身 に つ い て の 時 代 考 証 , 等 , に 求 め られ よ う。
託 身 と は, 弱 者 或 い は保 護 を 必 要 とす る人 間 に対 す る強 者 或 い は好 戦 的 人 間
の 支 配 権Suzer舅it舩の
設 定 で あ る, と 彼 は 定 義 す る82)。 タ シ ロ の 託 身 は ,
政 治 的 託 身 の 最 初 の 例 , ま た , 封 土 制 度 と 家 臣 制 度 の 融 合 した 最 初 の 記 述 例
と し て 非 常 に 大 き な 意 義 を 持 っ 。 し か し 「王 国 年 代 記 」 及 び
ル ド年 代 記 」 に あ る757年
「所 謂 ア ィ ンハ
の 託 身 の 報 告 は信 頼 で き な い , こ れ は む し ろ788
年 の 裁 判 を 合 法 化 す る た め の 捏 造 で は な い か , と 彼 は 推 論 す る83)。 そ の 理 由
80)
Rosenstock,
81)
Krawinkel,
Benefizialrecht,5.55.
Unser
Volksname
82)
Krawinkel,
Benefizialrecht,5.48.
83)
Krawinkel,
Benefiaialrecht,5.51.
Deutsch,5.51.
再 論 :タ シ ロ三 世
55
は , 一 つ は , タ シ ロ に 関 す る 情 報 が 両 年 代 記 に お い て 信 憑 性 を 欠 く こ と, 二
つ は , こ の 時 代 の 他 の 政 治 的 託 身 例 の 形 態 及 び 内 容 やvassus或
い はvassa1-
lUSの 意 味 と か 用 法 に 関 し て 得 ら れ て い る 情 報 か ら判 断 し て , で あ る84)。 そ
う し て タ シ ロ を 巡 る 客 観 情 勢 に っ い て も触 れ , 「タ シ ロ は757年
に託 身 を し
て 家 臣 に な っ た と さ れ るが , 当時 , タシ ロ と ピ ピー ンの 関係 に は些 か の濁 り
も 無 く, そ の 必 要 は 無 か っ た し, そ の 後 も タ シ ロ は787年
ま で他 か らの干 渉
を 受 け ず に 国 内 統 治 を 行 な い , 教 会 関 係 を も, 独 自 に 教 会 会 議 を 召 集 し た り,
フ ラ ンク王 国 と繋 が って い る と考 え られ る司 教 た ち を排 除 す る ほ ど に, 完 全
に 掌 握 し, 法 律 も 制 定 し, 年 号 も彼 の 就 任 年 が 初 年 と し て 数 え ら れ て い る ほ
ど に 国 内 を 掌 握 して い た85)」等 , と述 べ る。763年
は,757年
の 「戦 列 離 脱 」 に つ い て
の 託 身 が 事 実 な ら, 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は , 「
戦 列 離 脱 」 は家 臣
と し て の 義 務 違 反 で あ る, と書 い て 然 る べ き な の に , 記 者 は た だ 慨 嘆 す る の
み 。18年
後(781年)に
カ ー ル も757年
の
「家 臣 と して の 義 務 」 を タ シ ロ に
思 い 出 さ せ よ う と は し て い な い86)。 一 方 ,763年
に つ い てKrawinkelは
明 言 はせ ず に
の
「戦 列 離 脱 」 の 事 実 関 係
「タ シ ロ が , 二 人 の フ ラ ン ク王 国 の 伯
同 様 , ヴ ァ ィ フ ァ ル 側 に 寝 返 り ヴ ァ ィ フ ァ ル に加 勢 した と は 到 底 考 え ら れ な
い が , 脱 走 と い う形 を と っ た 政 治 的 抗 議 の 性 格 は 『王 国 年 代 記 』 の 記 述 か ら
仄 か に 透 け て 見 え て く る87)」 と 言 う 。 彼 は 結 論 と し て , タ シ ロ は757年
84)KrawinkelはBenefizialrecht,
い て以 下 の よ う に述 べ る一
vassaticum
se commendare」
S.55及 びS.57でvassus及
びvassallusに
に は,
つ
周 知 の こ とで あ るが 「託 身 を して 家 臣 に加 わ るin
とか 「家 臣 と してsicut vassus」
とい う表 現 は,
これ らの 単 語 が こ の よ う な意 味 で 使 用 さ れ て い る資料 例 と して は タ シ ロの ケ ー ス
が 最 古 の もの で あ り, フ ラ ン クの文 献 を見 回 して も, 最 初 の 「家 臣vassus」
は
22年 後 にや っ と文 献 に登 場 す る。 が , こ れ ら家 臣 は低 身 分 の者 た ち で, 部 分 的
に は非 自由 民 も含 まれ て い る。 同 時 に留 意 す べ き こ とは,vassus及
びvassallus
と い う単 語 が高 位 の 人 々 を 示 す よ う に な り始 め た 時 期 は8世 紀 末 の数 十 年 間 で
あ った こ とで あ る。 そ の 時 期 で も政 治 的 託 身 が家 臣拘 束 を生 む, と い う の は後 世
の 付 足 しで あ り捏 造 で あ る。
85)
Krawinkel, Benefizialrecht,5.51.
86)
Krawinkel, Benefizialrecht,5.52.
87)
Krawinkel, Benefizialrecht,5.54.
56
単 に 修 好amicitiasを
取 り結 ん だ に過 ぎ な い の で は な いか , と考 え る。 こ の
よ う に し てKrawinke1は
, 「王 国 年 代 記 」 に 記 述 さ れ て い る757年
の 家 臣 誓 約 及 び 託 身 を フ レ ー ム ア ッ プ と し,757年
「戦 列 離 脱 」 を 死 刑 相 当 と判 断 した788年
を 元 に763年
の タシロ
の タシロの
の 判 決 は 不 当 で あ り, タ シ ロ は 冤
罪 に よ り僧 院 で 死 ぬ 運 命 に 陥 っ た , と す る。
バ イ エ ル ン史 畑 で も ,Krawinkelと
れ る。 例 え ばClassen88)は
で あ り,757年
同様 に
, タ シ ロ は787年
「タ シ ロ 冤 罪 説 」 が 導 き 出 さ
に初 あ て家 臣誓 約 を行 な った の
に は行 な っ て い な い , と主 張 す る。Classenが757年
ロ が 家 臣 誓 約 を し て い な い と す る 根 拠 は 四 つ あ り, 一 つ は ,757年
に タシ
の タシロ
の 家 臣 誓 約 を 記 述 し て い る 年 代 記 は 「王 国 年 代 記 」 と そ れ に 依 拠 す る 「所 謂
ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 の み で , 同 様 に 「王 国 年 代 記 」 に 依 拠 し な が ら も カ ー
ロ リ ン グ 派 で 平 素 バ イ エ ル ン に 並 々 な ら ぬ 関 心 を 示 して い る 「メ ス 年 代 記 古
本 」 は757年
の タ シ ロ の 誓 約 を 誠 実 誓 約 と し 「王 国 年 代 記 」 の 家 臣 誓 約 と い
う 記 述 を 意 識 的 に 退 け て い る こ と, 二 っ は, タ シ ロ を 家 臣 と す る 記 述 は ,
781年
を 含 め て ,788年
ま で 一 切 無 い の に 対 し て ,787年
の タ シ ロの 家 臣誓
約 は 多 く の 年 代 記 に 記 載 さ れ て い る こ と, 三 つ は , 「王 国 年 代 記 」 す ら787
年 の 家 臣 誓 約 を757年
の 家 臣 誓 約 の 反 復 と は 述 べ て い な い こ と, 四 つ は , そ
も そ も太 公 が 家 臣 と し て 託 身 し た 例 は こ れ ま で 他 の 文 献 資 料 に 記 録 さ れ て い
な い こ と , で あ る 。 そ う してClassenは
757年
次 ぎ の よ う に 推 論 す る : 「タ シ ロが
に カ ー ロ リ ング家 に誓 った誠 実 は, 同盟 上 の誠 実 , 友 好 関 係 にお け る
誠 実 , 従 属 的 誠 実 , と い う よ う に 多 岐 に 亙 る解 釈 を 許 す 。 そ こ で788年
の裁
判 を 経 て , 王 宮 筋 に よ り , 家 臣 制 度 と い う観 点 か ら こ の 誠 実 誓 約 に 検 討 が 加
え ら れ ,757年
に タ シ ロが 行 な った
「誠 実 」 誓 約 を
「家 臣 」 誓 約 へ と 解 釈 変
更 を し,763年
に タ シ ロ に よ る 「戦 列 離 脱 」 と い う政 治 的 ス キ ャ ン ダ ル を 法
律 上 の 犯 罪 と し て 立 件 可 能 な よ う に , ま た 「戦 列 離 脱 」 は 無 条 件 的 従 軍 義 務
88)
Peter Classen, Bayern
Gro゚en
und
Talsilos
und
die politischen M臘hte
im
III.(1978), in:Ausgew臧lte
Classen, hg. J. Fleckenstein,1983, Jan Thorbecke
Verlag
Zeitalter Karls des
Aufs舩ze
von
Peter
Sigmaringen.5.243.
再 論 :タ シ ロ三 世
に 違 反 す る と い う結 論 を 引 き 出 せ る よ う に し た89)」。763年
列 離 脱 」 に つ い て はClassenは
57
の タ シ ロ の 「戦
そ の 事 実 が あ っ た こ と を 疑 わ な いgo)。彼 は ,
フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 で の 僧 タ シ ロ は , 裁 か れ る 者 と し て で は な く行 為
す る 者 と して , 相 続 の 断 念 を 表 明 す る主 体 と し て 行 動 し た , と し91), こ の 彼
の 行 動 が ,788年
の 裁 判 を 補 完 す る と 同 時 に , バ イ エ ル ン を フ ラ ン ク王 国 に
組 み 込 ま ん と す る カ ー ル の 意 図 を 完 全 に 実 現 さ せ る , と す る 。Classenは
757年
の 家 臣 誓 約 及 び 託 身 を 否 定 す る こ と に よ り ,Krawinkel同
様, タシロ
及 び バ イ エ ル ン太 公 家 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は 冤 罪 に よ り滅 び た , と断 定 す る 。
1973年
,FauBnerが
FauBnerは
カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と し て の エ トス を 抉 り 出 す92)。
用 語 を 定 義 付 け る : 「財Besitzは
『貸 借 恩 典 に 基 づ くiure
bene-
ficiali財」 と 『私 的 所 有 権 に基 づ くiure proprietario財93)』
と に 分 け ら れ94),
前 者 は 返 還 期 限 の 点 か ら 『懇 請 に基 づ く引 渡 しワberlassung
per precariam」
と 『貸 主 及 び 借 人 の 交 替 ま で に 限 るauf
Herrn-und
Mannfall引
渡 し」 と に 分
け られ る。 後 者 の 引 渡 し は, 国 王 ・帝 国 教 会 ・高 級 貴 族 を 対 象 に 国 家 財 産 を
89)
Classen,
Bayern
und
die politischen
M臘hte,5.244.
90)
Classen,
Bayern
und
die politischen
M臘hte,
91)
Classen,
Bayern
und
die politischen
M臘hte,5.245.
92)
Hans
er
Constantin
weltliches
Erforschung
Jg.,1973, B
Die
Reichsgut
des
93)FauBner,
Fau゚ner,
hlau
Verf
im
Mittelalters,
Verlag
K
ln
ungsgewalt,
Verf
S.235.
ungsgewalt
des
Hochmittelalter,
hg.
von
deutschen
in:Deutsches
H.Fuhrmann
und
K
nigs
Archiv
f
H.M.Schaller,29.
Wien.
S.355ff.に
よ れ ば , 私 的 所 有 権 に 基 づ く財 の 場
合 , 誰 に 売 ろ う と贈 与 し よ う と, 誰 と何 を 交 換 し よ う と 自 由 で あ る が , 一っ
だ け
制 約 が 生 ま れ る。 そ れ は 外 国 人 に 売 る場 合 で , 国 権 の 及 ば な い と こ ろ へ 財 が 転 移
す る場 合 , 管 轄 部 署 の 許 可 が 必 要 , と い う の が 中 世 の 制 度 , 並 び に 現 代 社 会 の 通
例 で あ る。
94)FauBner,
Verf
ungsgewalt.,
従 来 , 前 者 はLehen(封
Lehenと
かAllodと
S.347, Anm.3に
土), 後 者 はAllod(完
い う 法 概 念 及 び 術 語 は12世
よれ ば, これ らの 財 にっ いて ,
全 私 有 地)と
さ れ て き た が,
紀 に な って 初 めて 現 れ る もの な
の で , 中 世 初 期 ・盛 期 を 含 め て 所 有 制 度 を 論 ず る場 合 に は こ れ ら の 術 語 は 適 切 で
な い。
58
引 渡 す 場 合 で一 一一
こ れ が タ シ ロ3世
に 関 わ る貸 借 関 係 一
債 務 法 に よ る貸 借
契 約 は存 在 す る が , 基 本 的 に 文 書 で は 確 認 さ れ な い 個 人 的 信 頼 関 係 に 基 づ く
契 約 で あ る。 貸 主Leiheherrと
借 人Leihemannと
の 間 で 契 約 が 成 立 す る と,
借 人 は 誠 実 誓 約 を 行 な う。 厳 か な 授 与 式 の 後 に 初 め て 貸 借 地Leihegutが
借
人 の 権 能 へ と 移 行 す る 。 こ の 貸 借 関 係 は , 貸 主 或 い は 借 人 , ど ち らか の 死 に
よ り終 る 。 貸 主 が 死 亡 し た 場 合
自 発 的 退 職 , 強 制 的 追 放 も死 と 同 じ
貸 主 の 交 替 が 生 じ貸 借 契 約 は 解 消 し, 借 人 は 貸 主 と 新 た な 貸 借 契 約 を 結 ぶ 努
力 を す る。 借 人 が 死 亡 し た 場 合 一 一 教 会 か ら の 破 門 ・僧 院 入 りKlostertodも
死 と 同 じ一
借 人 の 交 替 が 生 じ, 貸 主 は 貸 借 地 を 回 収 で き利 用 ・保 全 権 も入
手 で き る。 死 亡 し た 借 人 の 家 族 員 は貸 借 契 約 の 更 新 し か 要 求 で き な い 」95)。
こ の よ う に 述 べ てFauBnerは
「僧 院 入 り の 際 , タ シ ロ3世
タ シ ロ3世
の 場 合 に つ い て の判 断 に 移 る。
か らバ イ エ ル ン太 公 国 が 剥 奪 さ れ た の で , あ
た か も彼 の 子 供 も太 公 国 に 対 して も は や 請 求 権 が 無 い か の よ う に 思 わ れ る が ,
中 世 初 期 の 法 に よ れ ば , 彼 の 子 供 た ち は 自己 の 自立 的 な 請 求 権 を 持 っ 。 この
権 利 は, 父 か ら太 公 国 が 剥 奪 さ れ よ う と , 何 の 侵 害 も受 け な い 。 そ れ ど こ ろ
か 父 が 僧 院 に 追 放 さ れ た と 同 時 に , 子 供 た ち は ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 の 相 続 人
と し て バ イ エ ル ン太 公 国 の 相 続 を 請 求 で き る こ と は 『バ イ エ ル ン部 族 法 典 』
第III章
第1項
の 規 定 か ら して も 明 ら か で あ る96)。 タ シ ロ の 子 供 た ち が 持 っ
太 公 国 へ の請 求 権 が こ う した根 拠 に支 え られ て い る以 上 , カ ー ル大 帝 が バ イ
エ ル ン太 公 国 を 国 庫 に 回 収 し, バ イ エ ル ン問 題 に 決 着 を 付 け る た め に は , タ
シ ロ の 子 供 た ち を 抹 殺 す る しか な か っ た し, 妻 リ ゥ ト ビル ク を も 出 家 の 道 に
追 い や る他 に な か っ た 」 とFauBnerは
述 べ, 更 に
「法 は不 可 侵 の も の と し
て 尊 重 さ れ て い た の で , 法 は 曲 げ ず に , 法 規 範 と一 致 し, か っ , 自 ら の 政 治
的 意 図 の 実 現 を 結 果 す る よ う な 事 実 関 係 が 作 り 上 げ ら れ た97)」 とFauBner
は 言 う。 「王 国 年 代 記 」 に は 子 息 テ ー オ ドも 剃 髪 さ れ た , と 記 さ れ て は い る
95)
Fau゚ner, Verf
96)註54参
97)
ungsgewalt,5.347-351
照。
Fau゚ner, Verf
ungsgewalt,5.363.
.
再 論 :タ シ ロ三 世
59
も の の , そ の 処 分 理 由 は示 さ れ ぬ ま ま で あ り, 太 公 妃 リ ゥ ト ビ ル ク に 至 っ て
は , そ の 処 分 理 由 も処 分 内 容 も一 切 合 切 何 も書 か れ て い な い 。 こ の よ う に 強
引 に 闇 雲 に 突 っ走 る結 末 の 付 け様 が , タ シ ロ の 子 息 息 女 や 妻 か ら は彼 ら の 持
っ バ イ エ ル ン太 公 国 へ の 請 求 権 は容 易 に は奪 え な い こ と を 王 宮 筋 が 予 感 して
い た こ と を , 何 よ り も 明 白 に 語 っ て い る。 特 に 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 を 背
景 に こ の 問 題 を 考 え る場 合 , ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 か ら支 配 権 を 究 極 的 に 奪 い
去 る た め に は, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 当 主 に よ る権 利 放 棄 宣 言 , 換 言 す れ ば
「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 か ら の 脱 出 宣 言 , が 必 要 で あ っ た の だ ろ う 。 そ の 点 ,
794年
の カ ー ル 大 帝 側 の 事 態 解 決 策 は 大 き な 進 歩 を 示 し, 見 事 と言 う よ り他
な い。
Fau゚nerは
フ ラ ン ク王 国 に よ る バ イ エ ル ン太 公 国 の 併 合 を 法 制 面 か ら取
り上 げ , カ ー ル 大 帝 の 強 烈 な 支 配 者 エ トス を 明 らか に す る 。 バ イ エ ル ン太 公
国 を 巡 る ,Rankeの
Karl
と は異 な る も う一 っ の 「カ ー ル 像 」 の 誕 生 で あ る 。
Brunnerは
,1979年
エ ル ン太 公 タ シ ロ3世
発 表 の 論 文98)の 中 で , タ シ ロ 問 題 に 触 れ ,「バ イ
が757年
コ ン ピ エ ー ニ ュ で 行 な っ た 誓 約 は ,788年
以
後 に 生 ま れ た 「王 国 年 代 記 』 の 解 釈 の 中 で , 家 臣 誓 約 に 変 質 さ せ ら れ て し
ま っ て い る 。781年
に カ ー ル に 対 して な さ れ た 誓 約 が 封 土 制 の 形 で 考 案 さ れ
実 行 さ れ た , と い う こ と は 先 ず 有 り 得 な い 。 兎 も 角 タ シ ロ 個 人 と して こ の 時 ,
イ ン ゴ ル シ ュ タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ンの 両 王 宮 の 返 還 に よ っ て 物 的 拘 束 を 受
け る こ と に は な っ た の で あ ろ う」 と述 べ る。 彼 は ,787年
の 封 誓 約=家
臣誓
約 を 前 提 と して 過 去 の す べ て の 誓 約 が 新 た な 解 釈 を 受 け た , と の 立 場 に 立 っ 。
「タ シ ロ は7年
後 ,22歳
の 時(筆
者 補 :即 ち763年)に
見 か ら身 を 解 き 放 っ99)」 と のBrunnerの
シ ロの
98)
99)
, ピ ピー ンの政 治 的 後
表 現 か ら分 る よ う に ,763年
の タ
「戦 列 離 脱 」 は事 実 と して 捉 え ら れ て い る が , 「戦 列 離 脱 」 と い う 表
Karl
Brunner,
lichungen
des
XXV,1979,
Hermann
Brunner,
Oppositionelle
Gruppen
Instituts
Oppositionelle
B
der
hlaus
im
sterreichischen
Nachf.
Gruppen,5.53.
Wien-K
Karolingerreich,
in:Ver
Geschichtsforschung,
ln-Graz.5.58
ffentBd.
60
現 を 用 い る こ と は 避 け て い る。 「戦 列 離 脱 」 に 関 し てBrunnerは
「ず っ と以
前 か ら タ シ ロ は フ ラ ン ク 軍 の 軍 規 の 元 に 置 か れ て い た 。 こ の 『ず っ と以 前 か
ら」 を 強 調 す る た め に ,788年
裁 判 の際 の告 発 内容 と して, タ シロ太 公 が フ
ラ ン ク 国 王 に 対 して 行 な っ た 最 初 の 不 当 行 為 ,763年
れ た100)」 と す る 。Brunnerは
言 う :「タ シ ロ3世
の
『戦 列 離 脱 』 が 選 ば
の 伝 統 は, そ の 後 抑 圧 さ れ
な い ど こ ろ か , 独 自 の 貴 族 意 識 醸 成 の た め , ル ー トヴ ィ ヒ2世
Ludwig
ドイ ッ 人 王
II.der Deutsche(*805一 †876)の 王 国 で は 益 々 尊 重 さ れ た101)」
一一
方 ,Lothar
Kolmerlo2)は
そ の 著 で , タ シ ロ 裁 判 全 体 を 見 通 す 場 合 ,「『王
国 年 代 記 』 の記 述 に は客 観 性 獲 得 へ の努 力 は見 られ な い。 この年 代 記 か らは,
非 常 に 主 観 的 で 大 雑 把 な , 年 毎 に 繰 り返 さ れ る 虚 偽 記 述 か ら の 視 点 しか 得 ら
れ な い 。 『現 実 の 』 事 実 関 係 を 再 構 築 す る場 合 , 『王 国 年 代 記 』 や
ンハ ル ド年 代 記 」 か ら得 られ る 情 報 を
『所 謂 ア ィ
『篩 に か け るfiltern』 こ と の で き る 並
行 的 な 伝 承 が 存 在 し な い た あ に , そ の 困 難 さ は 深 ま る103)」 と 指 摘 す る 。 こ
の 指 摘 を 踏 ま え てBecherは
並 行 的 年 代 記 を篩 に見 立 て
「王 国 年 代 記 」 の 記
述 を 「篩 に か けverfiltern」 , そ の 著 書 を 完 成 さ せ た 。 verfilternと
Becherの
発 想 はKolmerの
い う
この 指摘 に 端 を 発 す る もの , と思 わ れ る。 こ の
よ う な 前 置 き に 続 い てKolmerは
,757年
に タ シ ロが 行 な っ た誓 約 は家 臣 誓
約 で は な く, 誠 実 誓 約 で あ る , と す る 。 そ の 理 由 の 一 っ は,787年
にもタシ
ロ は家 臣 誓 約 を行 な うが, だ とす る と, 家 臣 誓 約 の 反 復 は 不 自然 で あ る こ
とlo4),二 っ は ,781年
100)
Brunner,
101)Brunner,
に タ シ ロが王 国 会 議 に参 加 す るに 当 た って カ ー ル が タ
Oppositionelle
Oppositionelle
Gruppen
,5.59.
Gruppen
, S.120.ル
ー ト ヴ ィ ヒ2世
ドイ ッ人 王 は
カ ー ル 大 帝 の 孫 で 東 フ ラ ン ク 王 国 の 国 王 。 彼 は ドイ ツ 諸 地 域 を 支 配 し そ の 統 治 者
と して 行 動 し た 最 初 の 王(本
紀 要 第31号[2000年9月]所
ジ ャ ー ル 人 と 中 世 前 期 の バ イ エ ル ン」4ペ
102)Lothar
Kolmer,
Zeitschrift
103)
Kolmer,
f
bayerische
Kommendation
104)
Kolmer,
Zur
Kommendation,5
Kommendation
Landesgeschichte,
,S.294.
.297f.
載の筆者に よる
「マ
ー ジ 以 下 参 照)。
und
Absetzung
Bd.43, Heft
Tassilos
llL
, in:
2,1980, C.H. Beck.
再論 :タシロ三世
61
シ ロの身 の安 全 保 障 の た め に タ シ ロ に人 質 を 提 供 す るが , も し757年 に タ シ
ロが カ ー ル の家 臣 に な って い るな ら,781年
の カー ル の この措 置 は不 要 な筈
で あ る105),と い う も の で あ る。 こ こま で は上 述 の 論 者 た ち と大 枠 に お い て
一 致 し 「王 国 年 代 記 」 の記 述 に信 を置 く こ とは しな い。 しか し, この後 ,
Kolmerは
そ の俗 物 ぶ りを 発揮 す る。 彼 は 「戦 列 離 脱 」 の 法議 論 に 入 るが,
彼 が タ シ ロに よ る 「戦 列 離 脱 」 が あ った と推 定 す るか ど うか に っ い て は一 切
明言 しな い。 が, 彼 の論 調 か ら して 「戦 列 離 脱 」 を 事 実 と見 な して い る こ と
は 明 らか で あ る。Kolmerは757年
当 時 の 「誠 実 誓 約 の 文 言 は我 々 に は分 ら
な い」 と言 い なが ら, 彼 は, タ シ ロの行 な った誠 実 誓 約 の 内容 を 「802年 の
カ ー ル の 王令 が示 す よ うに, 誠 実 誓 約 は, 国 王 の 存 命 期 間 に 限 定 され る もの
で な く, そ の 内容 も, 敵 を 国 内 に 呼 び 込 ん だ り 『他 人 の 不誠 実 に 同調 しそ れ
を黙 秘 した り』 す る こ と を禁 じて い る だ けで は な い106)」と捉 え る。 そ して
彼 は言 う :「タ シ ロの 起 訴 及 び そ れ か ら出 て来 た 判 決 は異 常 で も何 で もな い。
日常 的判 決 の枠 内 の もの で しか な い。 誠 実 義務 とそ れ か ら生 ず る様 々 な義 務
は決 ま って い る。 そ れ は 習慣 法 に な って い る。 全 体 的 に 見 れ ば, 誠 実 の上 に
社 会 秩 序 , 当 時 の 『国家 』 は成 立 して い た の で あ り, 不 誠 実 は この支 配 秩 序
を揺 るが す もの だ った107)」とす る。802年 を根 拠 に757年
遡 及 して788年
Kolmerの
の 「誠 実 」誓 約 に
の 裁 判 を 「日 常 的 な 判 決 」 と し て 正 当 化 す る こ の よ う な
論 法 こそ, 「王 国年 代 記 」 の記 述 を貫 く思 考方 法 ,788年 か ら757
年 を再 構 成 しそ れ に沿 って過 去 の事 象 に解 釈 の変 更 を加 え る論 述 態 度 と将 に
同根 , と言 わ ざ るを得 な い。Rankeの
「タ シ ロ像 」 の復 活 で あ る。
以 上 , タ シ ロ裁 判 を 中心 に, この 問 題 に 深 く関 わ った研 究 者 た ち の立 論 を
紹 介 した。 以 下 で, フ ラ ン ク王 国 とバ イエ ル ン太 公 国 との対 立 の原 因, 及 び
決 定 的対 立 に至 った動 因 を 見 て行 きた い。
105)
Kolmer,
106)Kolmer,
罪 が
107)
Kommendation,5.305.
Kommendation,
「他 人 の 不 誠 実 へ の 同 調
Kolmer,
Kommendation,5.324.
S.300.同
書5.315でKolmerは
・黙 秘 」 に あ る ,
と 明 言
,
し て い る 。
リ ゥ ト ビ ル ク の
62
先 ず , フ ラ ンク王 国 を背 景 に 置 きつ っ バ イエ ル ンの歴 史 を概 括 す る こ と に
す る 。St6rmerは
言 うlo8): 「メ ー ロ ヴ ィ ン グ 王 国 の 西 の 王 国 部 分 で は ア ギ
ロ ル フ ィ ン グー 族 の 『フ ラ ン ク の 家 系 』 が 大 き な 役 割 を 果 た し, こ の フ ラ ン
ク系 ア ギ ロ ル フ ィ ン グー 族 は , バ イ エ ル ン系 及 び ラ ン ゴ バ ル ド系 一 族 と並 ん
で , フ ラ ン ク王 国 で 最 高 の 豪 族 層 に 属 し た 。 バ イ エ ル ン系 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ
ー 族 に と っ て は ラ イ ン系 及 び ラ イ ン東 岸 系 縁 戚 関 係 が ず
っ と 重 要 で ,7世
紀
初 期 に既 に モ ー ゼ ル河 域 で ア ギ ロル フ ィ ングー 族 と され る二 人 の豪 族 , 巨富
と 傲 慢 の た め に 非 難 さ れ た ク ロ ー ド ァ ル ドChrodoaldと
Fara,
の 名 が 挙 が っ て い る 。7,8世
そ の子 息 フ ァ ラ
紀 に お い て は 中 部 ラ イ ン地 域 が ア ギ ロ
ル フ ィ ン グ ー 族 の 中 心 地 と考 え ら れ , こ こ で は 早 くか ら ゲ ー ロ ル デ ィ ン グ 家
Geroldingerが
ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 と非 常 に近 い 縁 戚 関 係 を 結 ん で い た。
テ ィ ー リ ン ゲ ン系 東 フ ラ ン ク の 太 公 ヘ デ ンHedenも
ア ギ ロ ル フ ィ ング家 と
姻 戚 関 係 に あ っ た ら し い 。 更 に 重 要 な の は , 少 な く と も8世
紀 に は ア レマ ニ
ア 太 公 も, 外 戚 関 係 か ら見 る な ら, 同 様 に ア ギ ロ ル フ ィ ン グ ー 族 だ っ た こ と
で あ り, オ ー デ ィ ロ 太 公 は こ の シ ュ ヴ ァ ー ベ ンSchwaben(=ア
の 出 で あ る 。 ド ナ ウ 上 流 の パ ー レ ンBaaren地
holfingerで
一族 は
も ア ギ ロ ル フAgilolfと
レマ ニ ァ)系
域 の ア ラ ホ ル フ ィ ン グ 家Ala-
い う名 に 出 遭 う。 強 大 で 非 常 に 古 い こ の
, バ イ 手 ル ン の ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 , ア レマ ニ ア太 公 一 族 及 び ゲ ー ロ
ル デ ィ ン グ 家 と も非 常 に 近 い 姻 戚 関 係 を 持 っ て い た 。 後 の 歴 史 に と っ て 決 定
的 に 重 要 な こ と は, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 一 統 が , ア ル プ ス地 域 と ア ル プ ス前
縁 地 と を コ ン トロー ル す る二 っ の相 隣 り合 う太 公 領 を 擁 して い た こ とで あ
る 」。
一 方 ,Erich
108)Wilhelm
Z611nerlo9)に
よ れ ば , バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ3世
St
Agilolfinger
rmer,
B.Jahrhundert,
desmuseum,
109)Erich
Bd.LX,
133.
in:Baiernzeit
Katalog
Z
Zur
Die
llner,
in
Ober
Nr.96,1977,
Die
Geschichte
Herkunft
der
im
politischen
sterreich,
の実 家 アギ
Kr臟tefeld
Ober
vom
sterreichisches
6 . bis
Lan-
Linz.5.6f.
der
Bayern,
Agilulfinger
hrsg.
von
,in:Wege
Karl
Bosl,1965,
der
Forschung,
Darmstadt.
S.
再 論 :タ シ ロ三 世
ル ル フ ィ ン グ 家Agilulfinger(=ア
ギ ロ ル フ ィ ン グ家)は
63
, ブ ル グ ン ドの 貴 族
の 家 系 で, 王 家 の 血 統 を ひ い て い る可 能 性 す ら あ り, バ イ エ ル ン と シ ュ
ヴ ァ ー ベ ン の 太 公 を 出 して い る 名 家 で あ る 。736年
頃, ア レマ ニ ア系 ア ギ ル
ル フ ィ ン グ 家 の 一 人 , ア レ マ ニ ア 太 公 ゴ ッ ト フ リー ドGottfriedの
子 息 オー
デ ィ ロOdilo,
が バ イ エ ル ン太 公 位 を 継 ぐ。 と言 う の も, 彼 の 前 任 者 フ グ ベ
ル トHugbert或
いはHucbertに
男 系 子 孫 が 居 な か った か らで あ る
デ ィ ロ と ヒ ル トル ー ド と の 間 に 生 ま れ た の が タ シ ロ3世
。 この オ ー
で あ る ので , タ シ ロ
は シ ュ ヴ ァ ー ベ ン系 と バ イ エ ル ン 系 の ア ギ ル ル フ ィ ン グ 家 の 跡 取 り , で あ る 。
こ の よ う な ア ギ ル ル フ ィ ン グ家 一 統 の 広 大 な 地 域 へ の 浸 透 , そ の 保 有 す る 政
治 力 か ら判 断 す る な ら ば , ア ギ ル ル フ ィ ン グ 家 の 勢 力 は カ ー ロ リ ン グ 家 の そ
れ を 上 回 っ て い た , と 言 っ て も過 言 で は 無 か ろ う。
Friedrich
Prinzllo)に よ れ ば , バ イ エ ル ン及 び ア レ マ ニ ア の8世
る キ ー ポ イ ン ト と な る年 は疑 い も 無 く743年
で あ る 。741年
紀 におけ
に カ ー ル ・マ ル
テ ル が 死 去 し た 後 , 既 に 国 王 同 然 に 支 配 権 を 行 使 して い た カ ー ロ リ ン グ 家 宮
宰 ピ ピ ー ン に 対 す る 叛 乱 が743年
に ア レマ ニ ア で 起 こ る。 バ イエ ル ンで も
オ ー デ ィ ロ 太 公 と 二 人 の 義 兄 弟(カ
ー ル及 び カ ー ル マ ンの 両 宮 宰)の
間 に戦 い
が 始 ま る 。 オ ー デ ィ ロ は 教 皇 の 後 ろ 盾 を 得 る。 教 皇 と し て も キ リ ス ト教 界 の
ト ッ プ と して カ ー ロ リ ン グ 家 の 野 蛮 な 侵 略 行 為 を 座 視 で き な く な っ た た め で
あ ろ う , 教 皇 は 特 使 セ ル ギ ゥ スSergiusを
派 遣 し, 両 宮 宰 に バ イ エ ル ン攻 撃
を 止 め る よ う説 得 に 当 た ら せ よ う と す る 。 オ ー デ ィ ロ は そ の 他 の 部 族(ザ
セ ン人 ・ア レマ ニ ァ人 ・ス ラ ヴ人 ・ア キ タ ニ ァ太 公 フ ノ ァル ドHunoald等)の
も受 け た が , 打 ち 負 か さ れ る 。 ア レマ ニ ア で の 戦 い は746年
トの 血 の 惨 劇Blutbad
von Cannstatt」
の
ク
支援
「カ ン シ ュ タ
で 結 末 を 迎 え , ア レマ ニ ア 太 公 国 は 消
滅 す る 。 こ の 戦 闘 に 際 し て 時 の ア レ マ ニ ア 太 公 テ ゥ デ バ ル ドTheudebaldと
バ イ エ ル ン太 公 オ ー デ ィ ロ は 手 に 手 を 携 え て 行 動 す る
110)
Friedrich Prinz, Zur Herrschaftsstruktur
B.Jahrhundert,
Renkhoff,102.
in:Bl舩ter f
deutsche
Jg.,1966,Wiesbaden.
S.11.
Bayerns
(Erich
und
Z611nerに よ り
Landesgeschichte,
Alemanniens
hg. von
im
Otto
64
両 太 公 は 兄 弟 と推 定 され るll1))。 こ の 戦 い は ア レ マ ニ ア 並 び に バ イ エ ル ン対 フ
ラ ンク王 国 の戦 いで は あ るが , 実 質 は, アギ ロル フ ィ ング家 対 カ ー ロ リ ング
家 の 戦 い で あ っ た 。750年
以 後 , 地 下 納 骨 堂 に置 か れ た聖 人 及 び殉 教 者 の聖
遺 物 が ア ル プ ス北 部 領 域 に 流 入 す るii2)。 フ ラ ン ク 国 王 周 辺 の 豪 族 が こ れ ら
聖 遺 物 を 運 び 込 む 。 メ ス 司 教 ク ロ ー デ ガ ン グChrodegang
か ら60年
代 に 聖 ゴ ル ゴ ニ ゥ スGorgoniusの
遺 体 を ゴ ル ッ ェGorze僧
び , バ イ エ ル ン の 一 豪 族 フ ォ ジ家Huosierの
フScharnitz-Schlehdorfは
von Metzは
僧 院 シ ャ ー ニ ッ=シ
ローマ
院 に運
ュ レ ー ドル
, フ ラ ン クの 典 型 的 保 護 聖 人 デ ィ ォ ニ ー ジ ゥ ス の
他 , ロ ー マ の 聖 人 テ ル ト ゥ リ ー ンTerutullinを
フ ト ラ ンSch臟tlarn僧
そ の 保 護 聖 人 に 加 え る。 シ ェ
院 は, サ ン ドニ に 倣 って, デ ィ ォ ニ ー ジ ゥ ス, ル ス
テ ィク ス, エ レ ゥテ ー リゥス の三 聖 人 を そ の保 護 聖 人 とす る。 バ イエ ル ンに
と っ て 非 常 に 特 徴 的 な こ と は , こ れ ら保 護 聖 人 の 輸 入 は788年
Inn河 上 流
ザ ル ッ ァハSalzach河
と レ ヒLech河
まで はイ ン
間 の 地 域 , の豪 族 の僧 院 ,
っ ま り 太 公 が 殆 ど 勢 力 を 持 た な い 地 域 に 限 定 さ れ る こ と で , イ ニ ヒ ェ ンInnichen(保
pollitus)は
護 聖 人St. Candidus)と
ザ ン ク ト ・ペ ル テ ンSt. P61ten(保
護 聖 人Hy-
そ の 例 外 で あ る。 こ の よ う な 事 実 か ら も, バ イ エ ル ン が 二 っ の
根 本 的 に 分 か れ た 祭 祀 的 ・支 配 的 領 域 か ら成 り 立 って い た こ と が 分 る。 考 古 学
的 に 見 て も, バ イ エ ル ン西 部(ポ
fen, ア ゥ ク ス ブ ル クAugsburg等)で
リ ングPolling, パ フ ェ ンホ ー フ ェ ンPfaffenhoは輸 入 品 や フ ラ ン クの芸 術 品 な どが豊 か
に 収 め ら れ た 墓 が 発 掘 さ れ る が , 下 バ イ エ ル ン や エ ン スEnns河
域, 即 ち,
ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 統 治 の 中 核 地 帯 か ら は そ の よ う な 遺 跡 は 殆 ど検 出 さ れ な
い 。 こ の こ と は , バ イ エ ル ン西 部 で は 強 力 な フ ラ ン ク派 豪 族 が 存 在 し た た あ ,
彼 ら は 豊 か な 副 葬 品 を 墓 所 に 収 め ら れ た が , バ イ エ ル ン東 部 で は 太 公 権 力 が
飛 び抜 け て 強大 で あ った た め, 政 治 力 を持 った, 豊 か な豪 族 が生 ま れ な か っ
た こ と を 示 す 。 バ イ エ ル ン 豪 族 が バ イ エ ル ン西 部 に 集 中 し て い た 事 実 は ,
757年
以 後 及 び788年
の 裁 判 の 流 れ を 見 る上 で も重 要 な 要 素 で あ る。 そ う し
111)
Z
112)
Prinz, Herrschaftsstruktur, S.18ff.
llner,Herkunft
der Agilulfinger,5.127.
再 論 :タ シ ロ三 世
てPrinzは
言 うll3): 「バ イ エ ル ン 西 部 で は, 太 公 僧 院 が 真 珠 の ネ ッ ク レ ス の
よ う に 連 な って い る の に 気 付 く(Rattenberg近
Bichlwang,
65
Ebbs, Kufstein近
郊 のErl)。
郊 のRadfeld
,Kund1, Brixlegg,
この 太 公 教 会 の 西 方 に は太 公 の 所 領
は 無 い 。 有 る の は テ ー ゲ ル ン ゼ ーTegernseeや
シ ュ リ ー ア ゼ ーSchliersee等
の バ イ エ ル ン 西 部 の 豪 族 の 僧 院 で あ る。 こ の こ と か ら, イ ン 河 沿 い の 太 公 僧
院 の こ の 連 な り は 一 種 の ア ギ ロ ル フ ィ ン グ派 の 防 衛 の た め の 教 会 組 織
バ イ エ ル ン西 部 の フ ラ ン ク派 豪 族 に 対 す る 太 公 側 の 国 内 境 界 線
即 ち,
と考 え て も
,
誤 り は 無 か ろ う 」。 こ の よ う な バ イ エ ル ン 太 公 国 の 持 っ 二 極 性 も, タ シ ロ3
世 の対 フ ラ ンク王 国 政 策 を複 雑 に した大 き な原 因 で あ る。
748年 , オ ー デ ィ ロ 太 公 が 死 去 した 時 , 嘗 て ロ ー マ 属 州 で あ っ た 内 陸 ノ リ
ク ムBinnennoricumに
sche Karantanenが
根 付 い た ス ロ ヴ ェ ニ ア 系 の カ ラ ン タ ニ ア 人sloweni, 攻 撃 して く る ア ヴ ァ ー ル 人 か ら 自 ら の 国 家 を 守 る た め
,
隣 人 で あ る バ イ エ ル ン に 支 援 を 要 請 し て く る。 バ イ エ ル ン人 は こ の 時 , 積 極
的 に救 援 す る。 そ の後 , オ ー デ ィロ は カ ラ ン タニ ア人 を一 種 の保 護 的 支 配 の
下 に 置 い た , と も さ れ る114)。 こ の 活 動 が , ザ ル ッ ブ ル ク の 行 な う宣 教 や 東
部 アル プ ス地 域 の 政 治 的 併 合 に道 を 開 くき っか け とな る。
768年 , カ ー ロ リ ン グ家 初 代 国 王 ピ ピ ー ン が 死 去 す る。 若 い カ ー ロ リ ン グ
朝 の 最 初 に して 最 大 の 危 機 に 直 面 して , 王 国 官 房 は, 新 しい 王 朝 の 一 時 的 な
弱 み を覆 い 隠 す た め, 国 王 の称 号 に
「神 の 恩 寵gratia
Dei」 と い う 言 葉 を 付
け 加 え る115)。 ア キ タ ニ ア は カ ー ル と カ ー ル マ ン に よ り征 服 さ れ る も の の ,
この戦 い を き っか け に両 兄 弟 間 の確 執 が 顕 在 化 す る。 そ の暴 発 を防 止 し フ ラ
ン ク 王 国 を 防 衛 せ ん と し て , 彼 ら の 母 親 で 元 王 妃 ベ ル ト ラ ー ダ(;
ベ ル タ)
が フ ラ ンク王 国 に敵 対 的 な諸 国 と交 渉 を 行 な う。 彼 女 はバ イエ ル ンに タ シ ロ
を 訪 ね そ の 支 援 を 要 請 し, そ の 後 ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ ス の 許 に 行
き, 最 後 に ロ ー マ に 赴 く。 タ シ ロ は , ベ ル ト ラ ー ダ の 使 者 で フ ル ダ の 僧 ス
113)
Prinz, Herrschaftsstruktur
114)
St
,5.21.
rmer, Agilolfinger ,5.3.
115)Wolfram,
F
stentum
,5.164.
66
ト ゥ ル ムSturm
von
Fuldaを
通 して ,
暗 黙 の 了 解 と して ,
フ ラ ン ク王 国 に
バ イ エ ル ン 太 公 国 の 主 体 性 を 容 認 さ せ た116) , と の 情 報 を 得 る 。770年
頃 , ベ
ル ト ラ ー ダ は ラ ン ゴ バ ル ド王 女 を カ ー ル の 妻 に す る こ と に 成 功 す る 。 タ シ ロ
も ラ ン ゴ バ ル ド王 国 を 訪 れ こ れ に 力 を 貸 し て い た 。 バ イ エ ル ン の
「フ ラ ン ク
派 」 は , ピ ピ ー ン の 死 去 に よ り, 外 交 上 の 支 え を 失 う。 カ ー ル は 権 力 基 盤 の
弱 体 化 を認 識 せ ざ る を得 な い。 この よ うな カ ー ル の弱 点 が王 妃 ベ ル トラー ダ
の外 交 活 動 を許 した,
と言 え る。
し か し カ ー ル マ ン が771年12月
に死 去 す
る と , 情 勢 は 一 転 す る 。 即 ち , カ ー ル と デ ジ デ ー一 リ ゥ ス の 間 の 同 盟 は , フ ラ
ンク王 国 が カ ー ル マ ン とカ ー ル に 分 割 支 配 さ れ, 更 に カ ー ル マ ンが , 父 ピ
ピー ン同 様 , 反 ラ ン ゴバ ル
ド政 策 を 追 及
して い た た め に, 成 立
して い た。
カ ー ル マ ンが 死 ぬ と , カ ー ル は そ の 領 土 を 遺 児 に 渡 さ ず 乗 っ取 って し ま う。
カ ー ル を 怖 れ た カ ー ル マ ン の 妻 子 は ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ ス の 許 に
逃 げ る。
「諸 王 の 父 」
及 び ヨ ー ロ ッパ の 仲 裁 者 と して の デ ジ デ ー リ ゥ ス の 地
位 は, カ ー ル に よ る フ ラ ン ク 王 国 の 統 一 に よ り , カ ー ル が 彼 の 女 婿 で あ っ て
も, 強 く 脅 か さ れ た 。 そ こ で デ ジ デ ー リ ゥ ス は , フ ラ ン ク 王 国 に そ の 二 元 性
を 維 持 さ せ ん と し ,772年
Pentapolis117)に
, ラ ヴ ェ ン ナ 太 守 領Exarchatと
再 び 攻 撃 を か け, ロ ー マ に迫
ペ ン タ ポ リ ス
り118), 教 皇 ハ
ド リ ア ー ヌ ス1
世 に, カ ー ル マ ンの 子 息 た ち に フ ラ ンク国 王 へ の 塗 油 を 行 な う よ う要 求 す る。
こ れ は 甚 だ し く カ ー ル の 不 快 を 買 う。 カ ー ル は デ ジ デ ー リ ゥ ス と の 同 盟 を 破
116)
Benno
Hubensteiner,
Kultur,10.Aufl.,1997,
sche
Geschichte,
Bayerische
Ludwig
S.173の
Geschichte,
Verlag
記述
M
Staat
chen.
und
S.41.同
Volk, Kunst
und
時 にReindel,
Politi-
「タ シ ロ は , 僧 ス ト ゥ ル ム の 仲 介 協 定 で , 何 ら か
の 拘 束 を 負 っ た 可 能 性 も 当 然 考 え ら れ る」 も 考 慮 し な け れ ば な ら な い 。
ll7)初
期 中 世 のPentapolisと
(現Pesaro),
は , イ タ リ ア のAriminum(現Rimini),
Fanum(現Fano),
Sena
Pisaurum
Gallica(現Senigallia),
Anconaの5都
市 を 言 う。
118)
Heinrich
Handbuch
L
der
Grundmann,
Stuttgart.5.170.
we,
Deutschland
Deutschen
Bd.1, erster
im
fr舅kischen
Geschichte,9.,
unver舅derter
neu
Reich,
bearbeit.
Nachdruck,1973,
in:Gebhardt,
Aufl.
hg.
Union
von
H.
Verlag
再 論 三 タ シ ロ三 世
67
棄 , そ の 息 女 で あ る 妻 を そ の 実 家 デ ジ デ ー リ ゥ ス の 許 に 送 り帰 す119)。 ハ ド
リ ア ー ヌ ス は ラ ン ゴ バ ル ドか らの 保 護 を ビザ ン ッ 帝 国 に 求 あ る が 無 駄 に 終 り
,
カ ー ル に 救 援 要 請 を す る 。 カ ー ル は 地 盤 沈 下 を 取 り戻 す た め こ れ を き っ か け
に 一 気 に 攻 勢 に 出 る。773年
間 包 囲 し た 後 ,774年6月
夏 , ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 を 開 始 , パ ヴ ィ ァ を 長 期
, デ ジ デ ー リ ゥ ス を 降 伏 さ せ る。 こ の 間 , タ シ ロ
は 微 動 だ に し な い 。 舅 を 見 殺 し に す る 。 カ ー ル は ラ ン ゴ バ ル ド王 位 に 即 く
。
St6rmerは
こ の流 れ を
「新 た な カ ー ロ リ ン グ=ロ
バ ル ド王 国 を 速 や か に 崩 壊 さ せ
ーマの権力構 造 は ランゴ
, これ に よ りタ シ ロ は遂 に完 全 な孤 立 に追 い
込 ま れ る」 と総 括 す る120)。
一 方 , タ シ ロ を 巡 る 情 勢 は ど う か 。769年
, ボ ー ツ ェ ンに 多数 の バ イエ ル
ン貴 族 が 参 集 し, イ ニ ヒ ェ ン僧 院 の 創 立 を 祝 う。772年
, タ シ ロは そ の権 勢
の 最 頂 点 に 立 っ 。 デ ジ デ ー リ ゥ ス を 通 して バ イ エ ル ン 太 公 国 ・フ ラ ン ク 王
国 ・ラ ン ゴ バ ル ド王 国 が 同 盟 関 係 に 入 り, フ ラ ン ク 軍 の 総 帥 カ ー ル は 彼 の 義
兄 弟 に な る 。 そ の 上 , 彼 の 幼 い 子 息 テ ー オ ドは 聖 霊 降 臨 祭 に ロ ー マ で ハ ド リ
ア ー ヌ ス1世
か ら洗 礼 を 受 け 塗 油 さ れ る。 テ ー オ ド は, 王 子 で も カ ー ロ リ ン
グ家 公 子 で もな く して塗 油 の秘 蹟 を授 け られ た最 初 の公 子 とな る
。 テー オ ド
の塗 油 は, カ ー ル の子 息 ピ ピー ン とル ー トヴ ィ ヒの国 王 塗 油 に先 んず る こと
9年 で あ っ た 。 以 後 タ シ ロ と ハ ド リア ー ヌ ス1世
の 間 に 実 父 と代 父compater
の 関 係 が生 まれ る。 タ シ ロ はハ ドリア ー ヌ ス を 自分 の保 護 者 と も カ ー ル と の
仲 介 役 と も 考 え る。
同 じ772年
, タ シ ロ3世
は大 き な 戦 果 を 挙 げ る。 彼 は カ ラ ン タ ニ ア人 の 国
家 内 の 異 教 徒 暴 動 を 制 圧 し た の で あ る。 こ れ を
nales Juvavenses
119)Wolfram,
120)
St
121)L6we,
maximi」
F
stentum,
rmer, Agilolfinger,
Deutschland,
「ザ ル ッ ブ ル ク大 年 代 記An-
は , 同 年 の カ ー ル に よ る ザ ク セ ン人 の イ ル ミー ン
S.166.
S.5.
S.171に
よ れ ば , ザ ク セ ン人 の 崇 拝 す るIrminsulは
ら の 部 族 支 配 の 柱 で あ り象 徴 で あ り, 部 族 の 政 治 的 , 宗 教=祭
結 び付 け られ て い た。
彼
祀 的秩 序 と密 接 に
68
ズ ル121)破壊 に 匹 敵 す る 快 挙 , と 称 え , タ シ ロ は キ リ ス ト教 世 界 に お け る最
高 の支 配 者 の一
一 人122), コ ン ス タ ン テ ィ ン大 帝Constantinus
と 称 え られ る。Prinzは
再来,
言 う : 「『名 誉 に 溢 れ 限 り無 く傑 出 せ る 高 貴 な る バ イ
ェ ル ン太 公 タ シ ロGloriosissimus
riorum
der GroBeの
atque praecellentissimus
Tassilo dux
Baiuva-
vir inluster』 と い う 称 号 を こ の 頃 タ シ ロ は 自 ら に 与 え る 。 こ れ は 将 に
度 肝 を 抜 か れ る 称 号 で , 欠 け て い る の は 『国 王rex』
る123)」
。774年
と い う単 語 だ け で あ
, デ ジ デ ー リ ゥ ス が カ ー ル の 軍 門 に屈 す る 一 方 で ,767年
始 ま っ た ザ ル ッ ブ ル ク の ル ー ペ ル ト教 会Rupertikircheが
教 区 の 首 都 教 会 が 出 来 上 が る 。777年
に
完成, バ イエル ン
に は カ ラ ンタ ニ ア国 内 の異 教 徒 の鎮 圧
後 に 準 備 さ れ た ク レ ム ス.ミ ュ ン ス タ ー 僧 院 が 建 立 さ れ る124)。
カ ー ル が ザ ク セ ンを 征 服 し ラ ン ゴ バ ル ド王 位 に 即 位 し た 時 , タ シ ロ は , 既
に は っ き り と頬 に 冷 た い 風 を 感 じて い た 。 カ ー ル は , ボ ー 平 原 の 北 に 隣 接 し,
ア ル プ ス の 重 要 な 峠 道 を 押 さ え , 完 全 な 独 立 を 享 受 して い る バ イ エ ル ン を 既
に 次 ぎ の 攻 撃 目 標 に 定 あ て い た 。778年
, バ イ エ ル ン軍 は ア キ タ ニ ア か ら ス
ペ イ ン方 面 へ の フ ラ ン ク軍 の 作 戦 に参 加 す る が , カ ー ル は 既 定 戦 略 に 従 っ て
行 動 す る 。780年
末 , カ ー ル は ロ ー マ を 訪 れ 教 皇 と 会 談 , タ シ ロ3世
に共 同
対 処 す る こ と を 教 皇 と 約 定 し, デ ジ デ ー リ ゥ ス に 続 い て , 最 後 の 同 盟 者 で あ
る ロ ー マ 教 皇 を タ シ ロ か ら奪 い 去 る 。 タ シ ロ は , 歴 代 の バ イ エ ル ン太 公 が 享
受 して い た ロ ー マ 教 皇 と の 伝 統 的 な 友 好 関 係 , ま た 彼 と ハ ド リア ー ヌ ス 教 皇
と の 間 に 築 い た 実 父 と 代 父 の 関 係 , を 失 っ て し ま う 。 そ の 決 定 的 原 因 は 「安
全 保 障 を 必 要 と して い た ロ ー マ 教 皇 に す れ ば , 統 一 さ れ た フ ラ ン ク 王 国 支 配
者 の 持 つ 軍 事 力 を バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ の そ れ と 比 べ た と き , タ シ ロ の 軍 事
122)Wolfram,
123)
Salzburg
Friedrich
Prinz,
Nov./Dez.1988/Nr.6.
る 一Friedrich
124)
Reindel,
Herzog
S.5.尚
Prinz,
Karolingerreich,
Land,1999,
Bayern
Herzog
Osterreich,5.283,
Tassilos
Tassilos
in:Lech-lsar-Land,
Wilheim
Politische
Gl
k
, こ れ と ほ ぼ 同
Gl
hg.
und
Ende,
in:Bayernspiegel,
じ論 文 が 以 下 の よ う に 発 表 さ れ て い
k
und
vom
i. OB.
Geschichte,5.173
Anm.492.
u.209.
Ende-Bayerns
Heimatverband
Weg
Lech-lsar-
ins
再 論 :タ シロ三 世
69
力 が 遙 か に 劣 っ て い た か ら125)」 で あ る。 「王 国 年 代 記 」 に よ れ ば ,781年4
月 , 復 活 祭 を カ ー ル は ロ ー マ で 過 ご し, 教 皇 は 彼 の 二 人 の 子 息 ピ ピ ー ン と
ル ー ト ヴ ィ ヒ に 洗 礼 ・塗 油 を 授 け る 。 カ ー ル が フ ラ ン キ ア に 帰 国 し た 後 , 教
皇 とカ ー ル は タ シ ロの 許 に使 者 を 送 る, とな って い る。 何 を 根 拠 に タ シ ロを
ヴ ォ ル ム ス に 出 頭 さ せ た か は , 明 示 さ れ て い な い 。Wolframは
「若 干 の 信
憑 性 が あ る の が , カ ー ル が 提 起 し た 『タ シ ロ は 反 カ ー ル だ , カ ー ル の 敵 で あ
る ザ ク セ ン人 ・ス ラ ヴ 人 ・ア ヴ ァ ー ル 人 と 結 託 し た 』 と い う 非 難126)が そ の
根 拠 で あ ろ う」 と す る。 カ ー ル と教 皇 の 統 一 行 動 に タ シ ロ も 抗 す る 術 が な い 。
784年
, カ ー ル と タ シ ロ の 間 に初 め て 熱 い 戦 争 が 起 こ る。 ト リ エ ン ト
Trientの
フ ラ ン ク 系 ラ ン ゴ バ ル ド伯 が バ イ エ ル ン南 部 国 境 地 域 , 南 テ ィ ロ ー
ル の ボ ー ツ ェ ン, ヴ ィ ン チ ガ ゥVintschgau周
き っ か け はWolframに
辺 に侵 入 した の で あ る。 そ の
よ れ ば 「ラ ン ゴ バ ル ド国 王 リ ゥ ト プ ラ ン ドは 嘗 て
エ ッチ ュ河 谷 を そ の支 配 下 に置 い て い た が, リ ゥ トビル クが タ シ ロの許 に嫁
す と き , そ れ を 持 参 金 と し て 彼 女 に 渡 し た 。 ト リ エ ン ト伯 が そ れ を 奪 還 し よ
う と して127)」 起 こ っ た 戦 争 で あ っ た 。Rosenstockに
よ れ ば 「ブ レ ン ナ ー 街
道 で カ ール の 士 官 た ち と タ シ ロ の軍 隊 の間 で国 境 紛 争 が起 こ った。 カ ー ル の
士 官 た ち が 南 方 か ら 嘗 て の 国 境 を 取 り 戻 そ う と し た の で あ る128)」
。 こ の40
年 間 絶 え て 無 か っ た フ ラ ン ク 王 国 と バ イ エ ル ン太 公 国 と の 間 の 血 ま み れ の 衝
突129)で あ っ た 。 そ の 後 の 戦 闘 の 様 子 に つ い て は 何 の 報 告 も な い が , こ の 軍
事 衝 突 は タ シ ロ に 衝 撃 を 与 え る 。Reindel130)に
よれば
「タ シ ロ は , カ ー ル
が タ シ ロ に 対 し て 決 定 的 打 撃 を 与 え る 準 備 を して い る , と 確 信 し た に 違 い な
か っ た 」。
125)Wolfram,
126)Herwig
F
stentum,5.171.
Wolfram,
Die Geburt
seiner Entstehung,1987, Verlag
127)Wolfram,
Die Geburt
Mitteleuropas, Geschichteヨsterreichs
Kremayr&Scheriau,
Mitteleuropas,5 .103.
128)
Rosenstock, Unser
129)
St
Volksname,
S.55f.
130)
Reindel, Politische Geschichte,5.174.
rmer,Agilolfinger,5.10.
Wien.5.103.
vor
70
この血 腥 い国 境 紛 争 はRankeの
注 目す る と こ ろ と もな る。 彼 は 「年 代 記
に は エ ッチ ュ地 域 で の フ ラ ンク人 に対 す るバ イ エル ン人 の 戦 いす ら述 べ られ
る。 これ は双 方 に と って耐 え 難 い状 態 で あ る。787年 バ イエ ル ン太 公 は, 教
皇 の 執 り成 しの 元 で カ ール と充 分 に話 合 うた め に, 二 人 の 高 位 聖 職 者 を ロ ー
マ に送 り出 した131)」と記 す 。781年 に は カ ール が タ シ ロの 許 に使 者 を派 遣 し
た が ,787年
は カ ール は悠 然 と タ シ ロの反 応 を待 ち受 け る。 ロ ー マ教 皇 と の
会 談 結 果 は, 既 に述 べ た よ うに,787年 , フ ラ ン ク軍 に よ る三 方 か らの バ イ
エ ル ン大襲 撃 を 惹 き起 こ し, バ イエ ル ン太 公 国 は滅 亡 へ の 坂 道 を 転 が り落 ち
て行 く。
以 上 の こ とか ら明 らか な よ うに,784年
は, カ ー ロ リ ン グ家 と ア ギ ロル
フ ィ ン グ家 間 の従 来 の 内部 矛 盾 が敵 対 矛 盾 に決 定 的 に転 化 した 時点 , と把 握
して よ か ろ う。 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 に幻 惑 され る と, ア ギ ロル フ ィ ン グ家
消 滅 に至 る 中世 初 期 のバ イエ ル ン史 の実 像 を見 失 う可 能 性 が非 常 に高 い。 こ
の こ と は過 去 の研 究 状 況 か ら見 て明 らか で あ る。 中 世 バ イエ ル ン史 研 究 を 的
を射 た も の に す る た あ に も, よ り生 産 的 に す る た め に も,Becherに
よる
784年 の位 置付 け提 言132)を真 剣 に受 け止 め る必 要 が あ るの で はあ る まい か。
お
わ
り
に
「支 配 者 の エ トス 」 と 言 う 場 合 の 「エ ト スEthos」
の 訳 語 の 問 題 で あ る。
「心 理 」 と 訳 す と 少 し弱 い 。 「情 念 」 は如 何 に も お ど ろ お ど う し い 。 そ の 「お
ど ろ お ど う し さ」 が カ ー ル 大 帝 の 場 合 に は, 彼 の 支 配 者 と し て の 在 り よ う か
ら観 る と, 将 に ぴ っ た り して い る の か も 知 れ な い 。 「支 配 者 の エ トスJ'と 言
う場 合 の エ トス の 一 般 的 訳 語 と し て は , こ の 両 者 を 足 し て 二 で 割 っ て 出 て 来
131)Ranke,
sogar
132)Becher
Karl
ein
Kampf
S.58,
der
der
Gro゚e,
S.416.前
Bajoarier
本 稿25ペ
gegen
ー ジ 参 照 。
半 部 の
die
ド イ ッ 文 はIn
Franken
im
den
Etschgebiet
Annalen
wird
erw臧nt,
再論 :タシロ三世
71
る 「心 情 」 く らいが 妥 当 か 。 しか し古 来 ,.民衆 は, 大 抵 , 支 配 者 に裏 切 られ
る と した も の。 支 配 者 の心 と支 配 者 以 外 の人 心 は別 の と こ ろ に在 る の だ。 と
す る と, 支 配 者 の エ トス, と言 う と き の 「エ トス」 に は 「真 情 」 と い う訳 語
を当 て る のが 最 適 と も思 え る。 中 らず と雖 も遠 か らず , か 。
本 稿 は ミ ュ ン ヒ ェ ン大 学 バ イ エ ル ン史 研 究 所 所 長Prof.
Dr.
〈完 〉
Walter
Ziegler氏
の
ご 好 意 と 同 研 究 所 の 便 宜 提 供 を 受 け て 成 立 し た も の で あ る 。 こ こ に 特 記 して 感 謝
の 意 を 表 し た い。
ま た 本 稿 で 扱 わ れ たMatthias
教 示 さ れ た エ ア ラ ンゲ ン大 学 文 学 部 助 手Dr.
Becherの
Andreas
著 書 の存 在 を小 生 に
Otto
Weber氏
に も厚 く
お 礼 を 申 し上 げ る。
2000年11月13日
ミ3ン
ヒェ ンにて
Fly UP