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Title 再論:タシロ三世 ベヒァー著「誓約と支配」に関連して
Title Author Publisher Jtitle Abstract Genre URL Powered by TCPDF (www.tcpdf.org) 再論:タシロ三世 ベヒァー著「誓約と支配」に関連して : 歴史的地域研究試論 森田, 茂(Morita, Shigeru) 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会 慶應義塾大学日吉紀要. ドイツ語学・文学 No.32 (2001. 3) ,p.1- 71 Departmental Bulletin Paper http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032372-20010331 -0001 1 再 論 ベ ヒ ァ ー著 :タ シ ロ 三 世 「誓 約 と支 配 」 に 関 連 して 一 一 歴史 的地域研究試論 一 一一 森 は Matthias Becher著 じ め 「誓 約 と支 配1)」 は 田 茂 に 「カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 エ トス の 研 究 」 を 副 題 と し て い る こ と か ら分 る よ う に , フ ラ ン ク 王 国 国 王 カ ー ル 大 帝 の 言 動 を 探 る 中 で , バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世 追 放 問 題 及 び そ れ に密 着 す る カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と し て の エ トス を 論 じ て い る。 そ の 詳 細 に つ い て は 本 稿 2.で 扱 う と し て , 最 初 に 本 稿1.で フ ラ ン ク王 国 の 「伝 声 管 」 と 目 さ れ る 「フ ラ ン ク王 国 年 代 記 」 等 に 従 い つ つ , カ ー ル 大 帝 と タ シ ロ3世 を 整 理 す る 。 最 後 に 本 稿3.で のか か わ り フ ラ ン ク 王 国 に 呑 み こ ま れ て 行 くバ イ エ ル ン 太 公 国 の 姿 を 纏 δ6, こ れ を 「慶 應 義 塾 大 学 日 吉 紀 要 : ドイ ッ 語 学 ・文 学 」 第 28号 所 載 の 筆 者 に よ る論 攷 「タ シ ロ 三 世 と カ ー ル 大 帝 」(S .1-55)へ の補 筆 とす る。 1.タ シ ロ3世 と カ ール 大 帝 の っ なが り 血 縁 関 係 か ら 言 う と , バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世Tassilo 1) Matthias Karls des Arbeitskreis Thorbecke Becher, Gro゚en, Eid und Herrschaft. in:Vortr臠e f mittelalterliche Verlag, Sigmaringen(以 Untersuchungen III,(*741?, und Forschungen, Geschichte, 下 zum hg. 在位 Herrscherethos von Sonderband 「誓 約 と 支 配 」 と 省 略) . Konstanzer 39,1993, Jan 2 748-788, †794以 後)の 母 ヒ ル トル ー ドChiltrudは 大 帝Karl いはCarolus der GroBe或 Magnus , フ ラ ン ク王 国 国 王 カ ー ル Rex(*747?, 在 位768一 皇 帝800一 †814) の 父 で メ ー ロ ヴ ィ ン グ家 宮 宰 か ら フ ラ ン ク王 国 王 位 を 簒 奪 し た ピ ピ ー ン Pippin der J }†768)と gere或 いはPippin III.(*714/716?,741宮 宰 一751/52フ ラ ン ク王 国 国 兄 妹 の 関 係 に あ る。 従 っ て タ シ ロ と カ ー ル は 従 兄 弟 同 士 で , 一 時 期 ,770-772年 の 間 , 両 人 は, そ の 妻 が 姉 妹 で あ っ た た め , 義 兄 弟 で も あ っ た 。 彼 ら両 人 の 祖 父 が メ ー ロ ヴ ィ ン グ家 宮 宰 カ ー ル ・マ ル テ ルKarl (*689?, 宮 宰714?一 †741)で Martell あ る。 し か し そ の 後 , 両 人 の 間 に 宿 命 的 な 激 しい 骨 肉 の 争 い が 生 ま れ , 結 局 カ ー ル が タ シ ロ を 文 字 通 り排 除 す る。 そ こ に 至 る 過 程 を 主 と して フ ラ ン ク王 国 の 公 式 記 録 文 書 「ア ィ ンハ ル ドの と言 わ れ る 年 代 記3)」 及 び 「フ ラ ン ク 王 国 年 代 記2)」, 「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 続 編4)」 等 に 基 づ き年 号 順 に 概 述 して 置 こ う。 2) Annales regni Germaniae Francorum, Historica(以 (以 下SSと 省 略),1895, Ausgew臧lte Quellen vom Stein-Ged臘htnisausgabe, hg. Reinhold stadt.(以 の Hannover.羅 deutschen zur 下 Georg karolingischen Rau,1955, Heinrich Pertz, in:Monumenta 省 略), Scriptores zur Bd.5, Quellen von ed. von 下MGHと rerum 独 対 訳 書 :Die Geschichte von Rudolf des Wissenschaftliche Mittelalters. Buchner(以 Reichsgeschichte,1. 「フ ラ ン ク 王 国 年 代 記 」 を Germanicarum Reichsannalen, in: Freiherr 下FvSと 省 略), Teil, neubearbeitet Buchgesellschaft E. V. 「王 国 年 代 記 」 と 省 略)。 Darm- こ の 書 に は 註3 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 の 一 部 が 付 加 さ れ て い る が タ シ ロ3世 に関 す る部 分 は 付 加 され て い な い 。 3)Annales MGH qui dicuntur SS,1895, Einhardi, Hannoverに ed. 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 と 省 略)。 Friedrich Kurzeは von Georg Heinrich Pertz, 註2の 併 載 , 「ア ィ ン ハ ル ドの と言 わ れ る年 代 記 」(以 こ の 年 代 記 に つ い て 註2の 下 書 の 校閲 者 , ア ィ ンハ ル ドの 手 に 成 る も の で は な い , と し, 現 在 で は そ 』 の 説 が 大 方 の 研 究 者 の 支 持 を 得 て い る。 この 年 代 記 の 記 者 は未 だ 特 定 され て い な い0 4) Chronicarum tionibus, unter der sellschaft quae dicuntur in:FvS, Bd.4a, Quellen Leitung von Darmstadt.「 編 年 誌 」 に は 第2, の は そ の 続 編(以 第3, 下 Herwig Fredegar zur cholastici Geschichte Wolfram,1982, libri IV des 7. und cum continua- B. Jahrhunderts, Wissenschaftliche Buchge- フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 と そ の 続 編 四 書 」。 「フ レ ー デ ガ ル 第4編 年誌 と続 編 が あ る。 本 稿 で 主 と して 引 用 され る 「編 年 誌 続 編 」 と 省 略)。 再論 :タシロ三世 〈748年 〉 ピ ピ ー ン は 彼 の 温 情 に 基 づ きper suum beneficium5)タ 3 シ ロを バ イ エ ル ン太 公 に 任 ず る(「 王 国 年 代 記 」)。 〈755年 〉 タ シ ロ は フ ラ ン ク 王 国 の 五 月 総 会 に 参 加 す る(Ann. 〈756年 〉 タ シ ロ は ピ ピー ンの ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 に 従 軍 す る(「 編 年 誌 続編 」)。 〈757年> 16歳 に な っ た タ シ ロ は コ ン ピ エ ー ニ ュ で ピ ピ ー ン及 び そ の 二 人 の 子 息 カ ー ル(後 Mosl.6))。 の 大 帝), カ ー ル マ ン に 託 身7)を 伴 う 誠 実 誓 約Treueid, り 家 臣 誓 約Vasalleneidを っ ま 行 な う 。 タ シ ロ の 家 臣 も彼 ら に 同 様 の 誓 約 を 行 な う(「 王国 年 代 記 」)。 〈763年 〉 タ シ ロ は , ピ ピ ー ン の 率 い る 第4次 ア キ タ ニ ア戦 役 に参 加 す べ く ピ ピ ー ンの 本 陣 に 赴 く も の の , 邪 悪 な 考 え を 抱 い て バ イ エ ル ン に 帰 っ て し ま う。 タ シ ロ は , ピ ピ ー ン と は 二 度 と顔 を 合 わ せ た く な い , と 言 う(「 王 国 年 代 記 」)。彼 は 病 気 を 口 実 に し た(「 所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」)。 〈778年 〉 バ イ エ ル ン軍 が カ ー ル 大 帝 の ス ペ イ ン戦 役 に 参 加 す る(「 王 国 年 代 記 」)。 〈781年 〉 タ シ ロは ヴ ォル ム スに い る カ ール 大 帝 の 許 に 出 頭 , 諸 種 誓 約 を更 新 し,選 りす ぐりの 人 質12人 を差 し出 す。 「王 国 年 代 記 」 に は この 記 述 の 直 後 に 「しか し前 述 の タ シ ロ太 公 は行 な った 誓 約 を 長 くは守 らな か った 」 との 言 葉 が 見 え る(「王 国年代 記」)。こ の 折 , タ シ ロ に 二 つ の 王 宮 イ ン ゴル シ ュ 5)beneficiumの 訳 語 と して は 情 」 を 当 て て お く。 本 稿9ペ 6)Annales Mosellani, ed. 「封 土 」 「温 情 」 が 考 え ら れ る が , こ こで は 「温 ー ジ参 照 。 von Georg Heinrich Pertz ,in:MGH SS Tom.1, 1826,Hannover. 7)「 世 界 大 百 科 事 典 」 日 立 デ ジ タ ル 平 凡 社 ,CD-ROM版 社 百 科 」 と省 略)の 「 託 身 」 の項(執 筆 :世 良 晃 志 郎)に ,1998年(以 下 「平 凡 よれば 「 一般 的に は自 己 の一 身 を相 手 方 の保 護 と支 配 と に託 し, 相 手 方 との 間 に支 配=服 従 の関 係 を設 定 す る行 為 」 を言 い 「封 主=封 臣関 係 の設 定 は, 封 臣 た る べ き者 が 封 主 た るべ き 者 の も と に赴 き, 封 主 に対 して 『誠 実 の 宣 誓fidelitas』 を行 な うと共 に, 自分 の 両 手 を 合 わ せ て 差 し出 し, 封 主 が こ の封 臣 の 手 を 自分 の 両 手 で 外 側 か ら包 む , とい う行 為 に よ って 行 な わ れ た 。 『託 身 』 の 語 は, この 臣 従 行 為 の う ちで , 誠 実 の宣 誓 を含 ま ず, 手 の授 受 に よ る服 従 儀 礼 の み を 指 す 」 4 タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン が 与 え ら れ た 模 様8)。 〈787年 〉 タ シ ロの二 人 の使 者 が ロー マ で教 皇 に会 い, 教 皇 に カ ー ル大 帝 と タ シ ロ3世 と の 間 の 「和 平 約 定 」 の 執 り成 し を 依 頼 す る。 教 皇 は ロ ー マ 滞 在 中 の カ ー ル に タ シ ロ 側 の 要 請 を 伝 え る 。 カ ー ル は , 直 ち に 約 定 を 成 立 さ せ る, と教 皇 に 返 答 , 教 皇 が そ れ を タ シ ロ の 使 者 に 伝 え る。 彼 ら が , 自分 た ち に は この場 で約 定 に調 印 す る権 限 まで は与 え られ て い な い, と回 答 す る。 タ シ ロ に 誠 意 が な い と 判 断 した 教 皇 は , 使 者 らに , タ シ ロ が 既 に カ ー ル に 対 して 行 な っ た 誓 約 を 完 全 遵 守 す る よ う 要 求 , 守 ら な い 場 合 に は , タ シ ロ 破 門 ・領 地 へ の 干 渉 ・流 血 の 惨 事 も 起 こ り か ね な い , と 脅 す 。 会 談 決 裂 後 カ ー ル は タ シ ロ を ヴ ォ ル ム ス に 召 還 す る が タ シ ロ は 出 頭 を 拒 否 す る。 そ こ で カ ー ル は軍 を 三 っ に 編 成 し, 三 方 か ら バ イ エ ル ン攻 撃 に 出 る 。 バ イ エ ル ン で は 既 に 貴 族 (=豪 族)層 が カ ー ル大 帝 に 加 担 , タ シ ロ か ら離 れ て い た た あ, タ シ ロ は, カ ー ル に 降 伏 , レ ヒ河 畔 の カ ー ル の 本 陣 に赴 き カ ー ル に 託 身 を 行 な い , ピ ピ ー ン か ら 受 領 し た 領 土 を 返 還 , 宣 誓 を 更 新 , 人 質 と して 選 り す ぐ り の12 名 の 他 , 子 息 テ ー オ ドTheodoを 8) Divisio Regnorum,806 省 略)Secto カ ー ル に 差 し出 す(「 王 国年 代 記 」)。 そ の 後 Febr.6., II,Capitularia Regum tius,1883, Hannover.5.127.... duabus villis quarum quondam Tassiloni Northgowe, Legum(Legumは Francorum Tom.1, et Baiovariam, nomina sunt beneficiavimus et....こ の in:MGH sicut Ingoldestat et et pertinent 「王 国 分 割 令 」(806年)は , 以 下LLと ed. von Tassilo Alfred Lutrahahof, ad Bore- tenuit, excepto pagum quas qui nos dicitur 実 現 さ れ ず に 終 る。 こ こ に は カ ー ル の 子 息 た ち へ の 贈 与 分 が 規 定 さ れ て い る 。Pippin(;Karlmann)分 て , イ タ リ ア , ア レマ ニ ア の 一 部 等 , と 列 挙 す る 中 で とし 「タ シ ロ が 所 有 し て い た バ イ エ ル ン 」 に も 言 及 さ れ , 「ノ ル トガ ゥ の 一 部 を 成 し, 我 々 が 嘗 て タ シ ロ に 温 情 に よ り与 え た イ ン ゴ ル シ ュ タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン」 と の 言 が あ る 。 こ こ で 言 われ る [註12参 「嘗 てquondam」 は781年 以 外 に は想定 不能 , と い う のが 「王 令 覚 書 集 照]」 , 「王 国 年 代 記 」, 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 等 か ら す る 解 釈 。 し か しL.Kolmerは 年 或 い は787年 , 何 年 に カ ー ル が タ シ ロ に 与 え た と 言 う 確 証 が な い 以 上 ,757 も 考 え ら れ る , と す る(註102の 書 のS.306参 照)。 再 論 :タ シ ロ三 世 で タ シ ロは バ イ エ ル ンを所 謂 「封 土Lehen9)」 5 と して 再 度 受 領 した の で あ ろ う が , そ の 記 述 は 「王 国 年 代 記 」 に は 見 え な い 。 〈788年 〉 カ ー ル大 帝 の 指 示 に従 い タ シ ロは 家 臣 と共 に イ ンゲ ル ハ イ ムの 宮 廷 会 議 に 参 加 す る。 タ シ ロ は そ の 場 で バ イ エ ル ン 人 か ら, タ シ ロ は 誓 約 を 守 っ て い な い , と様 々 な 例 を 挙 げ て 訴 え ら れ る。 タ シ ロ は最 後 に ア キ タ ニ ア 戦役 での 「戦 列 離 脱harislizlo)」 の 罪 を 問 わ れ , そ の 場 で 死 刑 を 宣 告 さ れ る 。 カ ー ル 大 帝 は タ シ ロ の 罪 一 等 を 減 じ, タ シ ロ の 希 望 に 沿 っ て 彼 に 出 家 を 言 い 渡 す 。 タ シ ロ の 子 息 テ ー オ ド も僧 院 送 り と な り, タ シ ロ に 忠 実 な 家 臣 は 追 放 さ れ る(「 王 国 年 代 記 」)。 タ シ ロ の 妻 リ ゥ ト ビ ル クLiutbircに つ いて は 「王 国 年 代 記 」 に は 一 言 の 記 載 も な い が , 彼 女 も僧 院 で 死 を 迎 え る 。 〈794年 〉 この年 「王 国 年 代 記 」 に タ シ ロ に っ い て の 記 事 は 一 切 無 いll), し か し, タ シ ロ は僧 院 か ら フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 に 召 還 さ れ , そ こ で 悔 い 改 め の 告 解 を し, 孫 子 の 代 に お い て も バ イ エ ル ン の 統 治 権 を 放 棄 す る , と カ ー ル 大 帝 に 誓 い , 罪 を 赦 さ れ , 僧 院 で 僧 と して 暮 ら す 。 以 後 タ シ ロ の 消 息 は 途 絶 え る 。794年 以 後 何 年 か の12月11日 2-1.ベ Becherは Eidと ヒ ァー著 に タ シ ロは世 を去 った ら しい。 「誓 約 と 支 配 」 に つ い て 序 文 で , 誓 約 を , 裁 判 で 証 拠 作 用 を 持 つ 保 証 誓 約assertorischer 誓 約 者 の 爾 後 の 行 動 を 規 制 す る 約 束 誓 約promissorischer 9)H。C. FauBnerの 土),Allod(完 言 う 「貸 借 地Leihegut」 全 私 有 地)と 紀 以 後 に な って現 れ る もの故 , そ れ 以 前 の 時 代 に つ い て 述 べ る 場 合 に はLehenは 10)E.Rosenstock(註73の od. はHeer「 書 のS.347f.参 書 のS.64f. herislizはHeerschliB, Anm.49)に 「zerrei゚en引 い はslizは 去 る」 の意 。 び53参 照。 表 現 す る方 照)。 よ れ ば , 現 代 語 な らharisliz , 前 半 部hari或 い はheri 古 代 高 地 ド イ ツ 語 のslizzanに き 裂 く, zerst6ren破 る 」 の 意 で , 中 世 低 地 ドイ ッ 語 の 再 帰 動 詞sich 11)註52及 避 け てLeihegutと herislizはHeerschleiBで 軍 隊 」 の 意 , 後 半 部sliz或 当 た り,slizzanは 二 種 に に 同 じ で , FauBnerはLehen(封 い う概 念 は12世 が 実 態 を 反 映 す る , と言 う(註92の Eidの 壊 す る , trennen分 slitenは 離す 「身 を 引 き 離 す , 立 ち 6 分 け , 誠 実 誓 約Treueidは Kapitularien12)」 に は789年 約 束 誓 約 の 一 つ , と す る。 「王 令 覚 と802年 の 全 般 的 誠 実 誓 約allgemeiner 書 集 Treueid の誓 約 範例 とそ の 実施 規 定 が 記 載 され て い る。 メ ー ロ ヴ ィ ング朝 時 代 に も誠 実 誓 約 は存 在 した が , そ の 文 言 , 意 義 , 国 王 の 指 示 等 は 伝 え られ て い な い 。 従 っ て カ ー ル に よ る こ れ らの 全 般 的 誠 実 誓 約 は , 文 献 上 , 最 古 の 誓 約 例 と言 え る。 メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 か ら カ ー ロ リ ン グ 朝 へ の 誓 約 の 連 続 性 を 調 査 す る こ と は 困 難 で あ る, と い う の も7世 紀 後 半 に 入 る と誠 実 誓 約 の 記 述 が 途 絶 え て し ま う か ら で , 途 絶 え た 理 由 は色 々 と あ ろ う が , 力 を つ け て き た 豪 族 が , 国 王 が 全 王 国 民 か ら誓 約 を 取 る こ と を 阻 ん だ か ら, と も言 わ れ る。 し か し カ ー ロ リ ン グ朝 の カ ー ル 大 帝 は , 誠 実 誓 約 を 利 用 し て む し ろ 豪 族 を 抑 え た , と言 え よ う, とBecherは 言 う。802年 約 者 と の 間 の 誠 実 は 「主 人dominus」 とBecherは ロ3世 の 全 般 的 誠 実 誓 約 に お い て , 支 配 者 と誓 と 「臣 下homo」 の 間 の 誠 実 と され る, 言 い , こ の 「主 人 」 と 「臣 下 」 の 対 応 は , バ イ エ ル ン太 公 タ シ が757年 に ピ ピ ー ン に 対 し て 行 な っ た と さ れ る 「家 臣 誓 約Vasal・ leneid」 に も殆 ど 同 じ形 で 現 れ る , と 指 摘 す る 。 そ して ピ ピ ー ン に 対 す る タ シ ロ の 誓 約 は , 伝 え られ る 最 古 の 家 臣 誓 約 , と さ れ る 。 国 制 史 研 究 は , こ の 12)FranCois B Louis Ganshof, Was hlaus Nachf./Weimar. waren die Kapitularien? ,1961,Hermann S.35-49に よれ ば 「Capitularien王 令 覚 書 集 」 は国 王 の サ イ ンな ど の入 った書 面 で はな く, 王 室 会議 参加 者 や 書 記 等 が 王 民 へ の 告 知 の た め に と った メ モ の集 合体 で あ る。 当 時 は王民 へ の行 政機 関 か らの 伝達 は 口頭 で な され た。 そ の た め伝 達 の任 に 当 た る 者 に と って メ モ は 不 可 欠 だ っ た。 従 っ て, メ モ を と る人 間 に よ って 内容 も大 き く異 な った, とさ れ る。 日付 の入 って い な い文 書 も数 多 くあ り, 「 王 令 覚 書 集 」 の編 纂 は17世 紀 か ら行 な わ れ て い る が, そ の在 りよ うに批 判 の声 も上 が って い る, との こと。 会 議 に先 立 って 厂 議題」 と い うよ うな形 で 王 令 内容 が提 示 さ れ る こと も無 か った。 そ の理 由 は簡 単 で, 多 く の参 加 者 が ラ テ ン語 を読 め なか っ た こ と, 現 代 と違 って大 量 コ ピー手 段 が 無 か っ た こ とか らで あ る。 従 って 我 々 日本 人 は,Capitularienと 言 えば,天皇 の詔勅 を 連 想 す るだ ろ うが , 御 名 御 璽 等 ま っ た く記 載 され て い な い文 書 を纏 め た単 な る メ モ集 に過 ぎな い一 一 尤 も この メ モを 統 治 者 も活 用 した よ うで あ る。Becherも 言 う よ う に, 近 年 , フ ラ ン ク王 国 国 制 史 の研 究 が 深 ま る にっ れ 「王 令 覚 書 集 」 の 「法 的 」 性 格 が疑 問 視 され , 「指 針 的 」 性 格 が 強 調 され る よ う にな って い る。 再論 :タシロ三世 タ シ ロの家 臣誓 約 を802年 の全 般 的 誠 実 誓 約 と比 較 ・検 討 す る と,802年 7 の 誓 約 に は決 定 的 な変 革 が 見 られ る, とす る。 我 々 は, 史 資 料 の面 か ら様 々 に 制 約 さ れ て い る が, カ ー ル大 帝 の支 配 者 と して の エ トス を探 る た め に, 先 ず バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ が行 な っ た と さ れ る諸 種 誓 約 を 取 り上 げ, そ の 後 で 789年 及 び802年 の 全 般 的 誠 実 誓 約 の 誓 約 範 例 と実 施 規 定 の 検 討 に入 る, と Becherは 言 う。 2-2.太 Becherは 先 ず 公 タ シ ロ3世 の 誓約 「王 国 年 代 記 」 の 性 格 に っ い て 分 析 す る 。 「王 国 年 代 記 」 の 成 立 過 程 に つ い て は , そ の 最 古 部 分 , 即 ち741年 記 者 に よ り787年 か ら793年 に まで 遡 る部 分 , は同 一 の 入 る , と す る 先 学 の 論13)に まで に一 気 に書 き下 ろ され , 以 後 は逐 年 記 述 に 同調 す る。 そ の記 者 に つ い て は 「僧 院 の 一 学 僧 が これ 程 まで 詳 細 に事 柄 を 記 述 す る こ と は不 可 能 で あ る。 彼 は諸 種 の 交 渉 事 に っ い て あ る 程 度 確 か な 情 報 ま で 得 て い る 。 ベ ネ ヴ ェ ン トBeneventや ル ンBayern対 側近 策 につ い て これ 程 充 分 な情 報 を 得 て い る者 は, カ ー ル大 帝 の くに 仕 え て い た 者 以 外 に 考 え ら れ な い 」 す る。 バ イェ こ れ ら の こ と か らBecherは , と 述 べ る ラ ン ケ の 所 説14)を 「王 国 年 代 記 」 是 認 か ら は客観 的 叙 述 は期 待 し難 く, カ ー ル 大 帝 の 国 内 外 の 敵 手 の 視 点 は 一 切 欠 落 の ま ま フ ラ ン ク 王 国 の 視 点 か ら 記 述 が さ れ る , と 判 断 す る 。 更 に , 「王 国 年 代 記 」 の 執 筆 動 機 は , バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世 い か, の太 公位 剥 奪 を 合 理化 す る こ とに あ った の で はな と推 測 す る 学 者 も い る , とBecherは 述 べ, 「王 国 年 代 記 」 は タ シ ロ 記 述 に お い て纏 ま りを見 せ は す る もの の, タ シ ロは極 あ て 否定 的 に描 か れ て 13) Die Karolinger Gro゚en, bearb. vom von Geschichtsquellen Anfang des Heinrich im L B. Jahrhunderts bis zum we, in:Wattenbach-Levison, Mittelalter. Vorzeit und Tode Karls des Deutschlands Karolinger, II. Heft,1953, Weimar.5.250. 14) Leopold Ranke, in:Abhandlungen Zur der Berlin,1855, Berlin.5.434. Kritik K fr舅kisch-deutscher niglichen Akademie Reichsannalisten,1854, der Wissenschaften zu 8 い る, と す る。Becherは 「Peter Classenに 家 臣 誓 約 は し て い な い が ,787年 る 。 ク ラ セ ン は ,757年 よれば ,757年 に タ シ ロ3世 は に家 臣 誓 約 を行 な っ た こ と は確 実 , と さ れ に タ シ ロが 行 な っ た と され る家 臣 誓 約 は実 際 は誠 実 誓 約 で あ っ た が , こ の 誠 実 誓 約 を ,787年 の 家 臣誓 約 を手 本 に家 臣 誓 約 へ と 解 釈 変 更 し た の で は な い か , と し て い る が , こ の 説 に 最 近 で はLothar Kolmer, Kurt Reindel ,Karl Brunner, も 同 調 し て い る。 従 っ て ,757年 Herwig Wolfram, Joachim の コ ン ピ エ ー ニ ュCompiegneの Jahn15) 誓 約 問題 に つ い て の 『王 国 年 代 記 」 の 発 言 は 多 数 の 研 究 者 に よ っ て 疑 問 視 さ れ た 」 と述 べ る(S.2216))。 そ の 上 でBecherは ,757年 の 誓 約 の 解 釈 変 更 に追 い込 まれ た 背 景 に は恐 ら く当 時 の 政 治情 勢 が あ った の で あ り, カー ル は従 兄 弟 タ シ ロ に 対 して 行 な っ た 処 断 の 事 後 正 当 化 の 必 要 に 迫 ら れ た の で あ ろ う , と す る。 Becherは 個 別 的検 証 に入 る前 に検 証 方 法 にっ いて 「あ る 事 象 が 『王 国 年 代 記 」 を 底 本 と し な い 若 干 の 自 立 的 文 献 か ら傍 証 を 得 られ て 初 め て , 我 々 は 確 か な 基 盤 に立 っ 。 我 々 の 検 証 対 象 は 『王 国 年 代 記 』 で あ り ,検証基準 と し て 二 種 類 の 文 献 を 選 ぶ 。 第 一 グ ル ー プ は , 「王 国 年 代 記 』 を 底 本 と す る 依 拠 的 文 献 , 即 ち 『所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 』 と 『メ ス 年 代 記 古 本17)』 , で あ り, 第 ニ グ ル ー プ は , 自 立 的 文 献 , 即 ち 『編 年 誌 続 編 』 及 び 所 謂 小 規 模 年 代 記 , で あ る 。 注 目 す べ き は , 二 種 類 目 の 文 献 は 『王 国 年 代 記 』 記 述 の 際 に 資 料 と して 利 用 さ れ て い る こ と で あ る 。 そ れ 故 , 『王 国 年 代 記 』 が 二 種 類 目 の 文 献 15)Joachim Jahn, Agilolfinger, Ducatus Monographien Bosl, Bd.35,1991, Baiuvariorum zur . Das Geschichte StuttgartのS.339に des bairische Herzogtum Mittelalters, hg. von der Karl 「コ ン ピ エ ー ニ ュ の 出 来 事 は 後 の 陰 惨 な 事 件 を 背 景 に 置 い て 見 て は な ら な い 。 む し ろ フ ラ ン ク 国 王 と成 人 に 達 し た バ イ エ ル ン太 公 が 聖 遺 物 に か け て 同 盟 を 結 ん だ の で あ っ て , こ の 聖 化 さ れ た 合 法 的 な 条 約 は両 者 の将 来 の関 係 を確 固 た る友 好 的基 盤 の上 に築 く こと を意 図 した もの で あ る」 と の一 文 が あ る。 16) ()内 にS.と 数 字 の み が 示 さ れ た 場 合 , 註1のBecherの 著 作 の ペ ー ジ を示 す 。 17) Annales Mettenses Priores. ed. von B . de Simson, in:MGH SS .1905. 再 論 :タ シ ロ三 世 9 と異 な る点 は我 々 に と って特 に示 唆 す る と ころ多 い。 以 下 の考 察 は, タ シ ロ に 関 す る 『王 国 年 代 記 」 の 記 述 の う ち , 他 の 自 立 的 文 献 の 記 述 と 一一致 し な い 部分 を 『篩 に か け るherausfiltern』 こ と を 目 的 と す る」(S.23f.)と 前 置 きす るQ 2-3.タ 「王 国 年 代 記 」748年 シ ロ太 公 政 権 の 発 足 の 記 述18)に つ い て のBecherの 検 証 内 容 は以 下 の よ う に な る。 ピ ピ ー ン と グ リ ー フ ォ 間 の 兄 弟 確 執 は , 若 干 ニ ュ ア ン ス を 異 に す る も の の , 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 に も て い る が ,per suum beneficiumと 「メ ス 年 代 記 古 本 」 に も記 録 さ れ い う表 現 は, 両 年 代 記 共 に 「王 国 年 代 記 」 を 底 本 に し て い る に も拘 らず , 両 年 代 記 に 記 載 さ れ て い な い 。 従 っ て 「王 国 年 代 記 」 中 の 「ピ ピ ー ン は 温 情 に よ り タ シ ロ を バ イ エ ル ン太 公 に 任 じ た 」 と の 記 述 自 体 に 信 頼 が 置 け な い 。 しか し 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 はper suum beneficiumと い う表 現 を 封 建 制 度 下 の 術 語 可 能 性 も あ る , とBecherは 「封 土 」 の 意 味 で 使 っ た 言 う 。 だ と す れ ば そ の 狙 い は , ピ ピ ー ンへ の タ シ ロ の 従 属 性 を 強 調 す る こ と に あ り, そ の 背 景 は 「王 国 年 代 記 」 が 書 か れ た 時 代 , つ ま り787年 754年 以 後 の 時 代 ,790年 頃 , に求 あ られ る, とす る。 タ シ ロ の 母 ヒ ル トル ー ドが 没 し た 後 に ピ ピ ー ンが タ シ ロ の 後 見 役 に 就 い た , と の 通 説 に 対 し て , そ の 事 実 は な か っ た だ ろ う, とBecherは 18)「 王 国 年 代 記 」FvS Baioariam Tassilone exercitu adduxit, conlocavit usque Bd.5 pervenit, conquisivit.... suo, supra suum Grifo ipsum Haec Saxonia ducatum similiter, beneficium; ル ン に 入 り , こ の 太 公 国 を 奪 い ヒ ル 聞 い て de audiens nominatos Lantfridum per S.12. totos iter sibi subiugavit, Pippinus sibi Tassilonem Peragens fiter in ducatu in cum arripiens Grifonem 「グ リ ー フ ォ は ザ ク セ ン か トル ー fugiendo Hiltrudem illuc subiugavit, 反論 cum secum Baioariorum ら逃 亡 し て バ イ エ ドと タ シ ロ を 服 属 さ せ た 。 一 一こ れ を ピ ピ ー ン は 軍 を 引 き 連 れ バ イ エ ル ン に 向 か い 上 記 の 者 た ち を 屈 服 さ せ , グ リ ー フ ォ と ラ ン トフ リ ー ル ン太 公 に 任 じ た 」 ドを 連 れ 帰 っ た 。 ピ ピ ー ン は 温 情 に よ り タ シ ロ を バ イ エ 10 す る 。 ピ ピ ー ン後 見 に つ い て 「編 年 誌 続 編 」 も 「王 国 年 代 記 」 も一 言 も言 及 して い な い か ら で あ る と し, 更 に , タ シ ロ は こ の 年 に は 既 に13歳 ル ン部 族 法 典 」 は成 人 年 齢 を12歳 , 「バ イ エ と して お り , タ シ ロ は 生 母 ヒ ル トル ー ド の没 後 に は太 公 の地 位 に即 いて い た, とす る。 755年 に タ シ ロが フ ラ ン ク王 国 の五 月総 会 に参 加 した こ とは, 小 規 模 年 代 記 に も 伝 え ら れ て い る こ と か ら , 事 実 で あ ろ う し, ま た 当 時 大 き な 意 味 を 持 っ た の で あ ろ う 。 翌756年 タ シ ロ は ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 に 従 軍 す る。 と こ ろ が , こ の 従 軍 は 「編 年 誌 続 編 」 に は 記 録 さ れ て い る19)が, こ れ を 参 照 し て い る 「王 国 年 代 記 」 に は755年 756年 の 総 会 出 席 も こ の 従 軍 も一 切 記 載 さ れ て い な い 。 に ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 に タ シ ロ が ピ ピ ー ン の 家 臣 と し て 従 軍 して い た と す る と, 翌757年 の ピ ピ ー ン 等 と の 「誓 約 」 は ど う い う 意 味 を 持 っ の か? 恐 ら く こ の 辺 の 事 情 が 「王 国 年 代 言己」 記 者 に756年 し控 え さ せ た の で あ ろ う, とBecherは てBecherは ,1.家 の タ シ ロ従 軍 の 記 載 を 差 推 測 す る 。 タ シ ロ従 軍 の 根 拠 に つ い 族 的 連 帯 か ら の 伯 父 ピ ピ ー ン へ の 協 力 ,2.「 バ イエ ル ン部 族 法 典 」 中 の 国 王 が 太 公 に 対 して 持 つ 召 集 権 へ の 服 従20) ,3.ロ ー マ教 皇 擁 護 を 図 る ピ ピ ー ンの ラ ン ゴ バ ル ド征 討 と, 教 皇 と の 友 好 関 係 維 持 を 図 る バ イエ ル ン側 の 利益 との一 致 , の 三 点 を 挙 げ る。 2-4.757年 757年 の の タ シ ロ3世 の カ ー ロ リ ン グ 陣 営 に 対 す る タ シ ロ3世 「 戦 列 離 脱 」 と 並 ん で ,Becher論 19)「 編 年 誌続 編 」FvS 20)「 の誓 約 の 誓 約 は ,763年 攷 の重 要 な柱 を なす の タシロ 。や や 詳 細 に 述 べ る 。 Bd.4a,39,S.306. バ イエ ル ン部 族 法 典Lex Baiuvariorum」(世 良晃志郎訳 , 創 文 社 ,1977年 〈 以 下 「バ イエ ル ン部 族 法 典 」 と省 略 〉)に は太 公 に対 す る国 王 の召 集 権 そ の もの を 規 定 した条 項 は無 いが , そ の第II章 第4項(190ペ ー ジ)「 も し誰 か が , 國 王 ま た はそ の 太 公 領 の 太 公 が 命 じた る出 陣 中 , 自己 の 軍 隊 内 で 争 いを 誘 發 し… 」 及 び 第8項(193ペ ー ジ)「 も し誰 か が, 國 王 の命 令 に よ り, ま た そ の太 公 領 を 權 力 中 に 有 す る 自己 の太 公 の 命令 に よ り, 人 を殺 害 した る と き は …」 及 び第III章 第1項 の規 定(註54参 照)か ら, 太 公 へ の召 集 権 の存 在 を推 定 し得 る。 再 論 :タ シ ロ三 世 「王 国 年 代 記 」 に よ れ ば ,757年 11 太 公 タ シ ロ は コ ン ピエ ー ニ ュの 王 国 会 議 に 現 れ , 国 王 ピ ピ ー ン と そ の 子 息 た ち に 家 臣 と し て 託 身 と誠 実 誓 約 を 行 な っ た 。Becherは , 過 去 の 研 究 の 大 部 分 は757年 の こ の 記 述21)に 信 頼 を 置 く, と, 過 去 の 研 究 状 況 を 批 判 的 に 指 摘 し た 後 に , ク ラ ヴ ィ ン ケ ル の 言 を 引 用 す る 「彼(=タ シ ロ3世)が 諸 種 の 誓 約 を 行 な っ た こ と は 信 じ られ る が , フ ラ ン ク人 の 友 , 血 縁 関 係 並 び に 嘗 て の 後 見 関 係 で 結 ば れ た ピ ピ ー ンの 友 た ら ん と し て , そ れ 以 上 の 誓 約 を 行 な っ た と い う の は 信 じ難 い22)」。 こ の 引 用 に よ りBecherは 自 ら の 論 述 の 方 向 を 明 ら か に し, 個 々 の 問 題 点 に 言 及 す る。 厂王 国 年 代 記 」「の 記 述 を 注 意 深 く読 む と色 々 気 付 く点 が あ る , と言 う。 先 ず , タ シ ロ の カ ー ロ リ ン グ家 へ の 服 属 の 描 写 が 非 常 に詳 細 な こ と で あ る。 だ 21)「 王 国 年 代 記 」FvS Compendio co se cum per sanctorum supradictis mente et deberet. Rustici Sic omnibus sic et dictum eius, rex Pippinus Tassilo venit, diebus sacramenta vitae homines supradictus eius sic superius sicut sancti natu, qui エ ル ン太 公 タ シ ロ が 来 た 。 タ シ ロ は , erant regi corpus in eo, Pippino recta suos sancti sancti aliis vasati- vassus dominos sacramentis cum et in esse Dionis Martini, C ut promiserat; firmaverunt, multis.「 と共 に 王 国 会 議 を 開 催 in innumerabilia, sicut seu sicut quam ピ ピ ー ン は コ ン ピ エ ー ニ ュ で フ ラ ン ク人 et promisit vassus supra suum Baioariorum, multa Germani conservaret, nominatis placitum Carlomanno, Tassilo et dux fidelitatem et iustitiam, maiores locis et Carolo ecnon tenuit iuravit inponens, per confirmavit est, in Et domno devotione Eleuther eius manus, manus fil firma et S.16, Francis;ibique commendans reliquias et Bd.5, sicut そ し て 国 王 し た 。 そ こ に バ イ ピ ピ ー ン に 両 手 を 差 出 し て 託 身 を 行 な っ て 家 臣 に な り , 諸 聖 人 の 聖 遺 物 に 両 手 を 置 き , 数 限 り な く 多 く の 誓 約 を 行 な い , 国 王 ピ ピ ー ン と 前 述 の そ の 子 息 カ ー ル と カ ー ル マ ン に , 臣 下 る 主 人 に , 臣 下 と して 正 義 に 則 り誠 心 誠 意 を 尽 し て , と し て 恩 義 を 受 け て い と, 誠 実 を 誓 タ シ ロ は , 聖 デ ィ ォ ニ ー ジ ゥ ス , ル ス テ ィ ク ス と エ レ ゥ テ ー ヌ ス と 聖 マ ル テ ィ ー ヌ ス の 聖 遺 物 に 手 を 置 き な が ら, 守 す る , と 誓 い を 固 め た 。 彼 に 随 伴 っ た 。 既 述 の リ ク ス, 聖 ゲ ル マ ー こ の 誓 約 を 生 涯 に 亙 っ て 遵 し て き た 既 述 の 豪 族 た ち も 前 述 の 場 所 及 び 多 くの 他 の 場 所 で 誓 い を 固 め た 」 22) Hermann Krawinkel, in:Forschungen B hlaus zum Nachf./Weimar.5.51. Untersuchungen deutschen zum Recht, Bd. fr舅kischen II,1936, Benefizialrecht, Verlag Hermann 12 が755年 の 項 に 見 え る ア キ タ ニ ア 太 公 ヴ ァ ィ フ ァ ルWaifar(†76823))の ピ ピ ー ンへ の 服 属 経 過 は 「ヴ ァ ィ フ ァ ル が , 聖 ペ トル ス の 権 利 を 擁 護 す る , と 誓 っ た の で , ピ ピ ー ン は40名 の人 質 を 差 出 させ て この誓 約 を固 め た後 , フ ラ ンキ ア に 帰 還 す る 」 と 記 さ れ て い る だ け , ま た758年 の ザ ク セ ン人 の 服 属 に 至 っ て は 「ピ ピ ー ン の 望 み を す べ て 叶 え る, と ザ ク セ ン人 は 表 明 し ,贈 り 物 と し て 毎 年300頭 Becherは の 馬 を 王 国 会 議 に 差 出 す , と約 束 し た 」 と あ る だ け , と 述 べ る 。 更 にBecherは , フ ラ ン ク王 国 に と って 非 常 に 大 きな 意 義 を 持 っ ピ ピ ー ン の 国 王 即 位 式(751年)及 世Stephanus IL(在 も僅 か な 記 載 一 か らBecherは 757年 位752-757)に び ロ ー マ 教 皇 ス テ フ ァ ー ヌ ス2 よ る ピ ピ ー ンの 塗 油 式(754年)に 夫 々二 行 半 程 度 一 つ いて し か な い , と言 う。 こ れ ら の 記 述 状 況 , こ れ は 過 去 に 遡 及 し て ウ ェ イ ト付 け が な さ れ た 結 果 で あ り , の コ ン ピエ ー ニ ュの 詳 細 な 記 述 は 「王 国 年 代 記 」 記 者 の 意 図 に 基 づ く , と す る 。 ま た 記 述 の 特 異 性 が 指 摘 さ れ る 。 即 ち 「家 臣 と して 」 が 重 複 ・強 調 さ れ て い る こ と, ま た 託 身 の 描 写 は 簡 単 だ が , タ シ ロ 個 人 が した 誓 約 一 の 内容 に具 体 性 が欠 け るに しろ そ が 多 岐 に亙 る こ とが 暗示 さ れ て い る こ と , 同時 に誓 約 相 手 が ピ ピー ンだ け で な くそ の二 人 の子 息 に ま で拡 大 さ れ て い る こ と, 更 に誓 約 の有 効 期 限 が 「生 涯 に亙 って」 と 明記 さ れ て い る こ と, 云 々。 こ れ ら諸 点 に っ い てBecherは , 「家 臣 と して 」 の 重 複 は読 者 の 脳 裏 に タ シ ロが カ ール に服 属 した こ とを 印 象 付 け る た あ, と し, タ シ ロの託 身 描 写 は, 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 に もあ るに は あ るが, そ もそ も託 身 が記 述 され 23)Lexikon des gart-Weimar(以 宰 た ち は7世 Mittelalters, 下LMAと Studienausg .,1999, Verlag 省 略), Bd.VIII, Sp.1931に J.B. Metzler, Stutt- よれ ば, フ ラ ン ク王 国 宮 紀 末 頃 か ら著 し く 自 立 性 を 強 め て き た ア キ タ ニ ア 太 公 国 を 再 び 王 国 に 服 属 さ せ よ う と す る 。745年 ピ ピ ー ン は ア キ タ ニ ア 太 公 フ ノ ァ ル ドHunoald を 征 圧 , そ の 子 息 ヴ ァ ィ フ ァル を後 継 太 公 に 任 ず る。 教 会 財 産 を巡 って ヴ ァ ィ フ ァ ル は ピ ピ ー ン と 対 立 , ピ ピ ー ン は760-768年 る。768年 に 亙 っ て ア キ タ ニ ア に軍 を 送 ヴ ァ ィ フ ァル は 自分 の 部 下 に捕 え られ 殺 され る。 これ は ピ ピー ンの 差 し金 , と 噂 さ れ た 。 以 後 ア キ タ ニ ア 太 公 国 は 消 滅 , ア キ タ ニ ア は フ ラ ン ク王 国 に 帰 属 す る。 再 論 :タ シ ロ三 世 る こ と 自体 , 「王 国 年 代 記 」 及 び 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 に お い て も, 他 に は 無 い , と 言 う 。 更 にBecherは 788年 13 ,757年 の記 述 が異 様 に詳細 なの は の タ シ ロ裁 判 の 合 法 性 を 根 拠 付 け る 必 要 に 迫 られ て い た か ら で あ ろ う , と し, 記 者 は カ ー ル 大 帝 の 利 益 擁 護 を 第 一 義 的 に 考 え た , と す る。 し か し, 形 式 と 内 容 の デ ィ ス マ ッ チ , 即 ち 年 代 記 と い う, 客 観 性 の 期 待 さ れ る形 式 と 大 げ さな表 現 に満 ち た主 観 的 内容 の ア ンバ ラ ン スは 価 値 を 疑 わ せ る に 充 分 」 とBecherは 二 っ の依 拠 的年 代 記 「『王 国 年 代 記 」 の 資 料 判 定 す る。 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 と 「メ ス年 代 記 古 本 」 で は こ の 件 は ど う描 か れ る か 。 前 者 で は 底 本 と若 干 の 相 違 が 見 ら れ る が 基 本 的 に 底 本 に 追 随 す る , と彼 は 考 え る 。 し か し後 者 に 関 し て 彼 は 著 し い 違 い を 指 摘 す る。 即 ち , 「メ ス 年 代 記 古 本 」 で は タ シ ロ の 託 身 は ま っ た く触 れ ら れ ず 誠 実 誓 約 の み が 記 述 さ れ る , と し, 「『メ ス 年 代 記 古 本 』 の 記 者 は バ イ エ ル ン に 特 別 な 関 心 を 持 っ て い た た め , 彼 に は 『王 国 年 代 記 』 の 記 述 は 真 実 と思 え な か っ た か らで あ ろ う」 とBecherは 推 測 す る。 自 立 的 文 献 で は ど うで あ ろ うか 。 小 規 模 年 代 記 , 例 え ば 「聖 ア マ ン ド ゥ ス 年 代 記Annales menses」 も sancti Amandi」 も 「ム ル バ ハ 年 代 記Annales 「ロ ル シ ュ年 代 記Annales Nazariani24)」 も, Lauresha- こ れ ら年 代 記 は カ ー ロ リ ン グ派 で あ る に も拘 らず , コ ン ピ エ ー ニ ュ に つ い て の 報 告 は 皆 無 。 「編 年 誌 続 編 」 も コ ン ピ エ ー ニ ュ の 出 来 事 に は ノ ー タ ッ チ タ シ ロ服 属 は ピ ピ ー ン の 政 治 的 勝 利 で あ る の で これ を 黙 殺 す る こ と は こ の 年 代 記 を 利 す る こ と に は な ら な い で あ ろ う に , とBecherは 時 の 記 者 は ニ ー ベ ル ン グ 伯Graf ラ ン ド伯Graf 24) Childebrand(†751年 付 言 す る 。 「編 年 誌 続 編 」 の 当 Nibelung(†768年 以 後)25)は736年 こ の 年 代 記 は ロ ル シ ュ 僧 院 の 聖 人Nazariusに 付 け られ て い る が , ム ル バ ハMurbachで 25)Childebrandは ンは従 兄 弟 同 士 。 以 後)で , 彼 の父 ヒル デ ブ か ら751年 因 ん でAnnales ま で この続 編 Nazarianiと 名 書 か れ た 年 代 記 , と想 定 さ れ て い る。 カ ー ル ・マ ル テ ル と 異 母 兄 弟 。 従 っ て ニ ー ベ ル ン グ と ピ ピ ー 14 に 関 わ り, そ の 後 を 受 け た の が ニ ー ベ ル ン グ で753年 か ら768年 ま で を担 当 した。 ニ ー ベ ル ング は ピ ピー ンに対 す る他 の 人 々 の誠 実 誓 約 や 服 属 行 為 は そ れ な り に 伝 え た し, 大 して 重 要 と も 思 わ れ な い ピ ピ ー ンの ラ ン ゴ バ ル ド作 戦 へ の タ シ ロ の 参 加 も 伝 え た の に , とBecherは 言 う 。757年 の項 で 「王 国 年 代 記 」 と 「編 年 誌 続 編 」 と が 記 述 を 共 に し て い る の は ビ ザ ン ツ帝 国 に 関 し て で あ る が , そ の 記 述 の 力 点 の 置 き方 は 双 方 に お い て 全 く異 な る 。 前 者 は, ビ ザ ンッ帝 国 使 節 団 が 来 訪 し ピ ピー ンに立 派 な パ イプ オ ル ガ ンを贈 呈 した , と のみ 記 す が , 後 者 は, こ の年 の記 述 対 象 を フ ラ ンク王 国 と ビザ ンッ帝 国 の関 係 に 絞 り, ピ ピ ー ンが 派 遣 した 使 節 団 へ の 答 礼 と して の ビ ザ ン ッ 帝 国 使 節 団 の 来 訪 , と述 べ る。Becherは , 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は , ビザ ン ツ 帝 国 が 恰 も フ ラ ン ク王 国 に 朝 貢 に 来 た か の 如 き 印 象 を 与 え る, と し, こ の 記 述 を , フ ラ ン ク 王 国 の 優 越 を 明 示 せ ん とす る 一 方 的 記 述 , と断 ず る。 と もか くBecherは , ニ ー ベ ル ン グが何 故 「編 年 誌 続 編 」 で タ シ ロ の 託 身 や 誠 実 誓 約 を 語 らな か っ た の か , そ の 理 由 が 見 出 せ な い , と 述 べ , 次 の 疑 問 を 提 起 す る : 「タ シ ロ は757年 約 や 誠 実 誓 約 を し た の か?」 に 本 当 に ピ ピ ー ン に 託 身 を した の か , 家 臣 誓 「『王 国 年 代 記 』 の 記 者 は ビザ ン ッ 帝 国 皇 帝 と の 友 好 関 係 記 述 の 場 合 に 既 に 不 正 確 な 記 述 を し て お り非 難 さ る べ き で あ る が , タ シロ の場 合 に もカ ー ル大 帝 の意 向 に添 って歴 史 的正 確 さを犠 牲 に した の で は な い か?」(S.42)。 こ の 疑 問 を 解 く鍵 は 当 時 の タ シ ロ の 旅 程 の 再 現 と コ ン ピ エ ー ニ ュ の 王 国 会 議 の 開 催 日 程 に あ る , とBecherは 言 い , 「王 国 会 議 は 恐 ら く五 月 総 会26)と 重 な っ て 開 か れ た で あ ろ う 。 タ シ ロ は757年5月9日 に 未 だ フ ラ イ ジ ン グ に 居 た こ と が 研 究 に よ り確 認 さ れ て い る。 当 時 の 旅 行 は 毎 日25キ ロ か ら60キ 26)Herwig Wolfram, Mitteilungen jahr der 1968, Salzburg. ロ 進 む , と さ れ る 。 彼 は 早 け れ ば5月10日 Das F Gesellschaft stentum S.160に f よれ ば Tassilos Salzburger llL ,Herzogs der Landeskunde,108. に コ ンビ Bayern, in: Vereins- 「古 い 三 月 総 会 は , 丁 度 こ の 頃 , 五 月 に 移 さ れ た ら し い 。 と 言 う の も , フ ラ ン ク 歩 兵 軍 が 騎 兵 軍 に 改 変 さ れ , 五 月 な ら多 数 の 馬 へ の 餌 の 供 給 が 容 易 にな る点 が 考 慮 され たか らで あ る」 亘 論」 タシi]三世 15 エー ニ ュに 向 けて 出 発 で き るが , タ シ ロ は果 た して 王 国 会議 に参 加 した の で あ ろ うか?」 コ ン ピエ ー ニ ュー フ ラ イ ジ ン グ間 は直線 距 離 で凡 そ700キ ロ, 実 際 の旅 路 は この2倍 近 く に な ろ う。 とす れ ば6月 に ず れ 込 ん で の コ ン ピ エ ー ニ ュ 到 着 が や っ と の こ と, と言 え そ うで あ る。 以 上 の 論 点 に 基 づ き Becherは 次 ぎ の よ う な結 論 を 出 す :タ シ ロ服 属 の描 写 が詳 細 を 極 め る だ け に, 他 の 自立 的 年 代 記 が この件 に ま った く触 れ て い な い こと に違 和 感 を覚 え る。748年 に 関 して は 「編 年 誌 続 編 」 も小 規 模 年 代 記 も少 な くと もバ イエ ル ンへ の ピ ピー ン出 兵 の記 述 は して い た。 しか し757年 に関 して は記 述 す る年 代 記 は 「王 国 年 代 記 」 と それ に追 随 す る 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 の み 。 そ して ,757年 以 後 フ ラ ン ク王 国 の バ イ エル ン太 公 国 へ の影 響 力 が, 僧 院 建 立 を含 あ て, 増 大 した か とい う と, そ れ も記 録 され て い な い。790年 当 時 , つ ま り 「王 国年 代 記 」 作 成 当 時, カ ー ル大 帝 及 び そ の周 辺 は バ イエ ル ン太 公 タ シ ロ3世 の フ ラ ン ク王 国 へ の服 属 を可 能 な 限 り古 い年 代 に遡 らせ た か った。 そ の よ うな王 宮 側 の要 望 に応 え て757年 然 で あ ろ う, と し,Becherは の項 が執 筆 さ れ た, と考 え られ て 当 言 う :「総 合 的 に判 断 す る と, タ シロ は コ ン ピエ ー ニ ュ の王 国 会 議 に 出席 しな か った の で は な いか , と の疑 念 が 強 ま る。 タ シ ロ は757年 に託 身 も誓 約 も して い な い が 故 に, 『王 国 年 代 記 」757年 の 叙 述 は8世 紀 の 政 治 史 を 論 ず る際 に 殆 ど そ の 前 提 た り得 な い, と言 え る」 (S.45)a 2-5.763年 「王 国 年 代 記 」763年 27)「 の 項 の バ 王 国 年 代 記 」FvS Nivernis et malum se eius subtrahendo ei Baioariam voluit. Rex イ エ ル S.20. iter postposuit ingenium avunculus widere Bd.5 quartum Baioariorum の タ シ ロの ン 太 公 Pippinus faciens fecit, pet Pippinus et omnia post posuit; nusquam fiter の 報 告27)は habuit peragendo omnia, Ibique quae quae ingenia amplius per 詳 faciem Aquitaniam し く suum Tassilo promiserat, benefacta, per , placitum Aquitaniam. seduxit, et 「脱 走 」 rex in sacramanta inde 「戦 列 離 脱 」 dux et Pippinus fraudulenta supradicti usque in per rex se regis ad 16 Cadurciam pervenit Franciam Aquitaniam reversus est. Et ル で 王 国 会 議 を 開 き4回 vastando facta et revertendo est hiems valida.「 per Lemovicas in 国 王 ピ ピー ン は ニ ヴ ェー 目の ア キ タニ ア戦 役 に赴 い た。 そ の 時 バ イエ ル ン太 公 タ シ ロ は そ れ ま で に 彼 が し て い た 誓 約 や 約 束 を す べ て 反 故 に し, 悪 心 を 起 こ し て 戦 列 を 離 れ た 。 母 方 の 伯 父 で 国 王 ピ ピ ー ン が 彼 に 与 え た す べ て の 温 情 を 反 古 に し, 邪 念 を 抱 い て 彼 は バ イ エ ル ン に 急 遽 退 却 , 二 度 と既 述 の 国 王 の 顔 を 見 た く な い , と言 っ た 。 国 王 ピ ピ ー ン は ア キ タ ニ ア を 劫 掠 しっ つ 通 っ て カ オ ー ル に ま で 至 り , リモ ー ジ ュを経 て フ ラ ンキ ア に帰 った。 厳 しい冬 が来 た」 Herwig Wolframは ariorum , 近 著Salzburg et Carantanorum Verlag Wien M 節Malignus chenの homo Becherの Bayern und die 第5章Zur Tassilo, Osterreich, Quellen ihrer Die fr舅kisch-bayerischen propinquus noster, Conversio Bago- Zeit,1995, R. Oldenbourg Geschichte, S.338-344で 第2 , 水 準 を上 回 る こ の 学 位 論 文 に 総 論 的 に 賛 意 を 表 す る 。 が , 各 論 に 及 ぶ と様 変 わ り, 例 え ば757年 タ シ ロ3世 の 誓 に 関 し て は ,Becherが の 承 認 が5月9日 , フ ラ イジ ング僧 院へ の寄 進 文 書 へ の 付 け で行 わ れて い る ので 彼 は そ の 日に フ ラ イ ジ ング に 居 た , と判 断 で き る , と主 張 す る と,Wolframは 可 能 性 も あ る 」 と反 論 す る。Wolframは 「そ の 承 認 は 後 刻 行 わ れ た , そ の 著F stentumのS.166で , ザ ル ッ ブ ル ク 大 聖 堂 へ の タ シ ロ の 寄 進 は 公 母 ヒ ル ト ル ー ド, と り わ け ピ ピ ー ン の 関 与 を 得 て 行 わ れ た も の で しか な い , と 述 べ て い る が , そ れ が ,Becherに よ っ て, タ シ ロ は 全 統 治 期 間 を 通 じて ザ ル ッ ブ ル ク と 密 接 な 関 係 を 持 っ て い た 故 そ う い う こ と は 無 い , と 否 定 さ れ る と ,Wolframは 「ち ょ っ と し た ジ ャ ブVorgepl舅kel を 打 ち 返 し て お く 必 要 が あ る 」 と 前 置 き し て , ザ ル ッ ブ ル ク 文 書(Notitia Arnonis及 びBreves Notitiae)に れ る に 過 ぎ ず ,Becherの っ い ての 彼 お 得 意 の緻 密 な分 析 が述 べ 立 て ら 論 理 構 造 に食 い込 む もの に は な って い な い。 そ の後 に 強 烈 な ア ッパ ー カ ッ トが 打 ち 出 さ れ る の を 期 待 して 読 み 進 む 。 が , 出 て 来 る も の は763年 の 「戦 列 離 脱 」 に っ い て の 論 評 : 「Becherは と す る が , や は り763年 『戦 列 離 脱 』 は 無 か っ た に ピピ ー ン に不 快 感 を 催 させ る何 か が , どん な こ とか 分 ら な い に し て も , 起 こ っ た に 違 い な い 。 で な け れ ば タ シ ロ が 教 皇 パ ゥ ル ス1世 (在 位757-767)に ピ ピ ー ン へ の 執 り成 し を 依 頼 す る 筈 が な い」 に 過 ぎ ず , WolframはBecherの Jahnに 掌 の 中 で 動 く だ け 。 Wolframの 捧 げ ら れ て い る(Jahnに もJahnに 刑 さ れ て 僧 院 送 り)と の 関 連 で757年 及 び763年 う と す る 姿 勢 に 乏 し い 。 そ れ に 反 し てBecherは ロ3世 照)。 Wolframに して して も 実 証 的 な 綿 密 な 基 礎 的 文 献 研 究 に よ り 優 れ た 業 績 を 挙 げ た 斯 界 の 第 一 人 者 で あ る が , こ と タ シ ロ に 関 す る 限 り,788年 う に ,789年 こ の 近 著 はJoachim つ い て は 本 稿 の 註15参 及 び802年 の タ シ ロ の 死 刑 判 決(減 及 び781年 を 総 合 的 に把 握 しよ , 本 稿2-11.以 下 に示 され る よ の 全 般 的誠 実誓 約 及 び そ の 実施 規 定 等 を 見 通 しつ つ タ シ 事 件 を 扱 い カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と し て の エ トス を も そ こ か ら 抉 り 出 そ う と す る 。 こ の よ う なBecherの ダ イ ナ ミズ ム は 彼 ら に は 見 ら れ な い 。 再 論 :タ シ ロ三 世 17 検 討 も さ れ ず に 大 方 の 研 究 者 に よ り, 確 定 的 事 実 , と受 け 止 あ ら れ て い る , とBecherは 述 べ, 具 体 的検 討 に 入 る。 「王 国 年 代 記 」 で は 「悪 心 を 起 こ し て 」 「邪 念 を 抱 い て 」 が 強 調 さ れ る が , 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 は , 病 気 を 理 由 にper して い る こ と をBecherは dolum戦 列 を 離 れ た, と 指 摘 す る。 ピ ピ ー ン は , タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 で 戦 力 が 弱 体 化 し た に も拘 ら ず , ア キ タ ニ ア を 劫 掠 した こ と が 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 か ら分 る 。 「王 国 年 代 記 」 は フ ラ ン ク 王 国 の 栄 華 の 記 録 が 目 的 で あ る 以 上 , 戦 果 の 誇 大 報 告 は あ っ て も, 敗 北 の 報 告 は 殆 ど 無 い。 ニ ヴ ェ ー ル Niversで の タ シ ロの 「戦 列 離 脱 」 は ピ ピ ー ン に と っ て 屈 辱 的 事 件 で あ っ た 。 国 王 に 対 す る 侮 辱 を 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 が 記 録 し た の に は , そ れ な り の 思 惑 が あ っ た か ら, 即 ち , タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 は ピ ピ ー ン の 子 息 カ ー ル 大 帝 の 立 場 を 有 利 に す る か ら , とBecherは 想 定 す る。 ピ ピ ー ン は, ヴ ァ ィ フ ァ ル 及 び タ シ ロ と の 両 面 戦 争 を 避 け た か らか , タ シ ロ に 対 し て 制 裁 を 加 え て い な い 。Becherは 公 ラ ー ド ゥ ル フRadulfの ト3世Sigibert , テ ィ ー リ ン ゲ ンTh ingen太 叛 乱 に 対 処 した メ ー ロ ヴ ィ ング朝 国 王 ジ ー ギ ベ ル III.(在 位632一 †656)の 例28)を 引 き , 「ジ ー ギ ベ ル トの ラ ー ド ゥ ル フ征 討 は 成 果 な し に 終 わ る も の の ピ ピ ー ン と は対 照 的 な 反 応 を した 」 と し , ピ ピ ー ンが 制 裁 を 加 え な か っ た こ と は 説 明 困 難 , と す る。 成 程763年 に は厳 冬 が 訪 れ , 翌 年 は大 飢 饉 に襲 わ れ た よ うで はあ るが, ピ ピー ン はそ の後 もア キ タ ニ ア 征 討 は 続 け て い る 。Becherに 言 わ せ れ ば 「757年 の タ シ ロ 服 属 に っ い て の 『王 国 年 代 記 』 の 描 写 を 信 ず る な ら, ま た , そ の6年 28) テ ィ ー リ ン ゲ ン 太 公 ラ ー ド ゥ ル フ は , ヴ ェ ン ド人Wenden(フ 接 触 し た ス ラ ヴ人 の 総 称)を ギ ゼ ルAdalgisel及 征 服 し た 後 , ア ゥ ス ト リアAustrien総 び 若 い ジ ー ギ ベ ル ト3世 後 の タ シ ロの ラ ン ク人 等 と 督 アーダル に 叛 旗 を 翻 す 。 ジ ー ギ ベ ル ト は641 年 この叛 徒 の征 討 を企 て, ラー ドゥル フ と結 託 した アギ ロル フ ィ ン グ家 の フ ァ ラ Faraを 敗 死 さ せ る 。 しか し ラ ー ド ゥ ル フ は , フ ラ ン ク 王 国 の 一 部 貴 族(=豪 族) と密 か に結 託 , フ ラ ンク王 国 の包 囲 を逃 れ て フ ラ ン ク王 国軍 を打 ち破 り, テ ィー リ ン ゲ ン王 を 名 乗 る 。 以 後 フ ラ ン ク 王 国 の ラ イ ン 河 右 岸 に お け る 影 響 力 は 低 下 し て 行 く(LMA, Bd.VII, Sp.391に よ る)。 18 『戦 列 離 脱 』 の 記 述 を 信 ず る な ら ば , 従 来 か ら事 実 上 独 立 的 統 治 を し て い た 太 公 タ シ ロ を 服 属 さ せ る方 が , ヴ ァ ィ フ ァ ル 征 討 よ り も, ピ ピ ー ン に と っ て 遙 か に 重 要 だ っ た 筈 で あ る 」。 も し タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 が 事 実 だ と す れ ば , タ シ ロ は 自 らの行 為 が惹 起 す る結 果 に っ い て 明確 に意 識 したで あ ろ う。 とす れ ば , とBecherは 論 を 進 め る : 「タ シ ロ に と っ て の 関 心 事 は ピ ピ ー ン の 仕 掛 け る 戦 争 へ の 対 策 で あ る 。 タ シ ロ の 『戦 列 離 脱 』 か ら直 接 に 利 益 を 受 け た の は ヴ ァ ィ フ ァ ル で あ る 以 上 , タ シ ロ は ヴ ァ ィ フ ァル と 簡 単 に 同 盟 で き る 。 そ の 同 盟 に 更 に ラ ン ゴ バ ル ド国 王 一 …タ シ ロ の(未 来 の)舅 一 一 を も 引 き込 あ ば , タ シ ロ は ピ ピ ー一ンの 制 裁 に 曝 さ れ ず に 済 む こ と に な る。 だ が , 我 々 は タ シ ロ に つ い て そ の よ う な 行 動 は ま っ た く聞 い て い な い 」。 更 にBecherは ,763年 の 「王 国 年 代 記 」 等 の 描 写 に は 決 定 的 な 謎 が あ る , とす る 。 「何 故 タ シ ロ は , ピ ピ ー ン に 屈 辱 を 味 わ わ せ る た め に , 直 線 距 離 に し て1000キ ロ もあ るニ ヴ ェ ー ル に 臣 下 と共 に赴 き直 ぐま た故 国 に 帰 っ た の か 。 タ シ ロ は使 者 を通 して ピ ピー ンに不 参 加 と家 臣 誓 約 の 解 消 を 伝 え る こ と もで き た 。 こ の 方 が ピ ピ ー ン の 勢 力 下 の 土 地 に 赴 く よ り遙 か に タ シ ロ に と っ て 安 全 だ っ た ろ う」 と 述 べ , 「王 国 年 代 記 」 及 び 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 763年 の 項 は殆 ど 有 り得 な い タ シ ロ の 行 動 を 記 述 し て い る, と言 う。(S.48) 依 拠 的 年 代 記 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 と 「メ ス年 代 記 古 本 」 の ど ち ら も タ シ ロ が 「病 気 を 理 由 に 戦 列 を 離 れ た 」 と して い る が , 全 体 的 に は 「王 国 年 代 記 」 と大 き く違 わ な い 。 た だ 「メ ス年 代 記 古 本 」 の 場 合 は タ シ ロ に 対 す る 告 発 的 表 現 が 和 ら い で い る, とBecherは 言 う。 自 立 的 年 代 記 の 場 合 は ど う か 。 も し 自 立 的 年 代 記 が763年 の 「タ シ ロ 脱 走 」 を 記 録 し て い る な ら, 今 ま で 提 起 し た 疑 問 点 は す べ て 雲 散 霧 消 す る が , 小 規 模 年 代 記 は ど れ も, そ して 「編 年 誌 続 編 」 も, ニ ヴ ェ ー ル で の タ シ ロ 「戦 列 離 脱 」 事 件 に は一 言 も 触 れ て い な い , とBecherは 763年 報 告 す る。 以 後 の フ ラ ン ク 王 国 と バ イ エ ル ン太 公 国 の 関 係 は ど う か 。768年 , ピ ピ ー ン が 死 去 す る 。 「王 国 年 代 記 」 の 叙 述 を 真 に 受 け る な ら, バ イ エ ル ン は 公 式 に は757年 以 後 は フ ラ ンク王 国 の一 部 にな って い る。 しか し, ピ ピ ー 再 論 :タ シ ロ三 世 19 ンが 死 期 を 悟 っ て カ ー ル と カ ー ル マ ン へ の 領 土 分 割 を 決 定 し た と き, バ イ エ ル ン に は ま っ た く触 れ ら れ て い な い 。 従 っ て , バ イ エ ル ン太 公 国 は フ ラ ン ク 王 国 の 支 配 下 に は 入 って い な い , と ピ ピ ー ン は 考 え て い た の だ ろ う。 一 方 , こ の 時 期 , ラ ン ゴ バ ル ド王 国 を 巡 っ て 事 態 は 大 き く揺 れ 動 く。 タ シ ロ は765年 頃 ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ スDesiderius(在 王 女 リ ゥ ト ビル ク と 結 婚 す る。770年 位757-774)の 頃 , 国 王 カ ー ル も, 和 平 へ と 努 力 す る 王 母 ベ ル ト ラ ー ダ の 奔 走 に よ り, デ ジ デ ー リ ゥ ス の 娘(名 前 不 詳)を 妻 に迎 え る。 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 に よ る な ら, 従 兄 弟 関 係 に あ っ た 国 王 カ ー ル と 家 臣 タ シ ロ は 更 に 義 兄 弟 の 関 係 に 入 る こ と に な る一 ・ 一こ の よ う な 関 係 は, こ れ ま で の 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 が 真 実 で あ る と す れ ば , 理 解 し に く く, Becherは 「カ ー ル は フ ラ ン ク人 か ら非 難 を 浴 び た だ ろ う に 」 と 表 現 す る 。 しか し他 方 こ れ ま で の 「王 国 年 代 記 」 の 報 告 に は 何 ら現 実 的 根 拠 が 無 か っ た と 前 提 す れ ば , っ ま り, タ シ ロ太 公 は ニ ヴ ェ ー ル に は 姿 を 現 さ な か っ た が 故 に 太 公 が 国 王 ピ ピ ー ン の 戦 列 を 離 れ る こ と な ど有 り得 な か っ た , と 前 提 す れ ば , タ シ ロ と カ ー ル の 接 近 は 容 易 に 説 明 が つ く, とBecherは 主 張 す る。 当 時 フ ラ ン ク 王 国 は カ ー ル と カ ー ル マ ン に 分 割 さ れ , ピ ピ ー ン在 世 時 の 纏 ま り は な く, カ ー ル マ ン は 粗 野 で 強 引 な カ ー ル に 悩 ま さ れ て い た 。 そ れ は 兎 も角 , ラ ン ゴ バ ル ド王 女 と の カ ー ル の 結 婚 に よ り フ ラ ン ク 王 国 ・バ イ エ ル ン 太 公 国 ・ラ ン ゴ バ ル ド王 国 の 間 に 大 連 合 が 生 ま れ る 。 一一方 ,772年 3世 の 長 男 テ ー オ ドTheodoは 位772-795)か 子 息(王 子)に , 太公 タ シロ ロ ー マ で ハ ド リア ー ヌ ス1世Hadrianus I.(在 ら洗 礼 を 受 け塗 油 さ れ る一 一 一教 皇 に よ る 洗 礼 ・塗 油 は 国 王 の 限 られ 太 公 の 子 息(公 子)が そ の 対 象 に な っ た こ と は嘗 て 無 か っ た 。 バ イ エ ル ン太 公 国 と ロ ー マ 教 皇 庁 の 伝 統 的 な 絆 は 一 層 強 ま る が ,結 果 論 か ら言 え ば , タ シ ロ は カ ー ル と ハ ド リ ア ー ヌ ス と の 関 係 に 強 く縛 ら れ て し ま う。 こ の よ う な 情 勢 の 中 で ,773年 , 国 王 カ ー ル は ラ ン ゴ バ ル ド王 国 征 服 の 挙 に 出 る。 タ シ ロ は 舅 の ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ ス に 一 切 手 を 貸 さ な か っ た , い や , 手 を 貸 せ な か っ た , と言 う の が 適 切 か も しれ な い 。 タシ ロ は こ れ に よ り フ ラ ン ク 王 国 と 対 抗 し て 行 く上 で の 大 切 な 味 方 を 失 な う 。 20 以 上 か ら明 らか な よ う に , フ ラ ン ク王 国 と バ イ エ ル ン太 公 国 の 関 係 は763 年 以 後 も大 き な 変 動 無 く経 過 し た 。 従 っ て 763年 「王 国 年 代 記 」763年 の 状 況 に 忠 実 に, と 言 う よ り,790年 の記 録 は, 当 時 の フ ラ ンク王 国 の要 請 に忠 実 に, 記 さ れ た の で は な い か, と の 疑 念 が ま た ま た 強 ま っ て く る, と Becherは 言 う。 2-6.タ Becherは 言 う : 「781年 H.Krawinkelだ シ ロ の781年 の 誓 約 に 誠 実 誓 約 が 繰 り返 さ れ た こ と に 疑 念 を 挟 む の は け で , K. Reindel29)もH. Wolfram30)も し , こ の 更 新 の 際 に イ ン ゴ ル シ ュ タ トIngolstadtと hofenの 両 王 宮 が タ シ ロに授 け られ た, 誓 約 更 新 を事 実 と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ンLauter- と す る 。 P. Classen31)は , タ シロ の 誓 約 は誠 実 誓 約 だ った, と しな が ら も, 王 宮 返還 に よ り タ シ ロに 物 的 拘 束 が 29) Kurt Reindel, zum Ausgang der Geschichte, Beck. hg. S.174に し,725年 Politische von よれば Geschichte vom Agilolfingerzeit, Max Spindler, Ende des in:Handbuch Bd.1,2., der erarb. 更 新 ,12名 bis bayerischen Aufl.,1981, 「タ シ ロ は 封 土 誓 約Lehenseidを 或 い は728年 6. Jahrhunderts M chen の人 質 を提 供 に バ イ エ ル ン か ら分 離 さ れ た ノ ル トガ ゥ に あ る 王 宮 イ ン ゴ ル シ ュ タ トと ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン を 取 り戻 し た 。 し か し こ の こ と は , 更 新 さ れ た 友 好 関 係 の 証 と して の 贈 り物 で は な く, タ シ ロ が そ の 家 臣 誓 約 と託 身 に よ っ て 従 来 か ら 受 け て い た 人 的 拘 束 に 今 や 物 的 拘 束 が 加 わ っ た こ と を 意 味 す る 」 註8参 照。 30)Wolfram, F stentum, 承 , ヴ ォ ル ム スWormsに S.168に よれば 「タ シ ロ は 提 案 さ れ た 人 質 交 換 を 了 来 て 誓 約 を 更 新 す る。 豪 華 な贈 り物 が 渡 され , 同時 に タ シ ロ は 古 くか ら の バ イ エ ル ン の 領 地 で あ る 王 宮 イ ン ゴ ル シ ュ タ トと ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ンを 取 り戻 す 」 31)P。Classen(註88の ロ は781年 書 のS.238)に よれ ば 「教 皇 と 国 王 の 使 者 に 招 か れ て タ シ 秋 ヴ ォ ル ム ス の カ ー ル の 王 宮 に 現 れ る 。18年 前 ピ ピ ー ンの軍 列 を離 れ て か ら初 め て フ ラ ン ク国 王 の 要 請 , 軍 事 的 要 請 で は な いが , に応 じた。 ピ ピー ン へ の 古 い 誓 約 が 更 新 さ れ る・ しか し788年 の 裁 判 を 根 底 に お い て 執 筆 して い る 『王 国 年 代 記 』 の 記 者 で す ら 『家 臣 誓 約 』 と は 言 っ て い な い 。 こ の 時 イ ン ゴ ル シ ュ タ トと ラ ゥ タホ ー フ ェ ンが 能 性 は あ る」 『封 土beneficia』 と して タ シ ロ に 与 え られ た 可 再 論 :タ シ ロ 三 世 か か っ た 可 能 性 は 否 定 し な い 。L. Kolmer32)は ル の 家 臣 に な っ て い た な ら ,781年 に カ ー の儀 式 は大 部 分 不 要 な筈 で は な い か, 指 摘 す る 」。 こ の よ う に 述 べ た 後 「王 国 年 代 記 」781年 , も し タ シ ロ が757年 21 「王 国 年 代 記 」781年 の 項33)の と 検 討 に入 る。 の 項 を 読 む と, 全 て が カ ー ル の 思 い 通 り に 運 ん だ よ う に 見 え る が , 実 際 は そ う で は な か っ た ら し い 。Becherに よれ ば, カ ー ル は 当 初 使 節 団 に こ の 誓 約 問 題 を 任 せ る っ も り だ っ た ら し い 。 し か し タ シ ロ は, 32)註102の 33)「.王 書 のS.305参 supradicto, una Bd.5 hi sunt cum missis Eborhardum nisi sicut regis et domni iureiurando Tassilo dux ad veniret omnia in causa diu praefatus dux 「そ し て そ れ か ら 二 人 の 使 者 , 皇[=ハ promiserat vel dux ド リ ア ー ヌ ス1世]に in quicquid domni ad rege rex in Carisiacum consensit Carolo non simi et dans duodecim Pippino regi vel villa de promissiones, p fidelium manu quas Pippini tunc a domno regis et aliter faceret, domni Et praefatus domno ducem diaconem partem praesentiam Caroli apostolico et contestandum, et ut non sacramenta Tassilo ab Tassilonem Francorum. obsides ibi renovans sunt missi commonendum et domnus supradicti duo suorum ut sumptos conservaret, recepti ad regis supradictus promiserat sunt episcopi, ad his nominibus:Riculfum dudum magni praesentiam;quod electos, ut et ipsi obsides Caroli iam civitatem, missi sacramentorum Caroli se Wormatiam non regis Baioariorum, coniungens Et tunc et Damasus pincernarum, priscorum domni eius S.40ff. Formonsus magister ut reminisceret Sed 照。 国 年 代 記 」FvS et tunc rennuit. Et regis ad obsides iureiurando suorum;qui Sinberti episcopi. fecerat, conservavit. フ ォル モ ンス ス と ダマ スス の両 司教 , が既 述 の教 よ り, 国 王 カ ー ル の 使 者 , 助 祭 リ ク ル フ ス と 献 酌 頭 エ ボ ル ハ ル ド ゥ ス, と共 に タ シ ロ太 公 の 許 に 派 遣 さ れ た 。 彼 ら は タ シ ロ に , 古 い 誓 約 を 思 い 出 す よ う , 久 し く以 前 に 国 王 ピ ピ ー ン と カ ー ル 大 帝 及 び フ ラ ン ク人 に 対 し て 誓 約 し た こ と に 背 く行 動 を と ら ぬ よ う, 警 告 し諭 し た 。 す る と バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ は 国 王 カ ー ル か ら提 供 さ れ た 人 質 を 受 け 入 れ た 後 に 御 前 に 出 頭 す る こ と に 同意 した。 これ を既 述 の王 は拒 否 しな か った。 既 述 の太 公 は ヴ ォル ム ス の 町 に来 て い と敬 虔 な る 国王 の御 前 に現 れ , そ こで彼 は, 国 王 ピ ピー ンに誓 約 で約 束 し た こ とす べ て を 国 王 カ ー ル 及 び 国 王 の 家 臣 に 対 し て 遵 守 す る 保 証 と し て , 諸 誓 約 を 更 新 し, 高 貴'な 人 質12名 Quierzyの を 差 し 出 し た。 こ れ ら の 人 質 は キ ェ ル ジ 御 料 地 で 司 教 シ ンベ ル トゥ スの 手 か ら渡 され た。 だが , 既 述 の太 公 タ シ ロ は 自 ら誓 っ た 諸 誓 約 を 長 く は 守 ら な か っ た 」 22 カ ー ル との 直 談 判 を 要 求 , 更 に, 道 中 及 び 王 宮 滞 在 中 の 身 辺 保 証 の た め に カ ー ル に 人 質 を 出 す よ う要 請 し た ら し い 。 こ れ らす べ て を 承 知 の 上 で781年 の 項 の 記 述 が 生 ま れ た の で あ り , こ の こ と か ら, 当 時 の カ ー ル の 立 場 は 決 し て 強 固 な も の で は な か っ た , とBecherは 項 の 叙 述 で757年 推 測 す る。 興 味 深 い こ と は , こ の に タ シ ロ が した と さ れ る 家 臣 誓 約 に つ い て 一 切 言 及 さ れ て い な い こ と , 及 び ,757年 で あ っ た が ,781年 の 誓 約 対 象 者 は ピ ピ ー ン, カ ー ル 及 び カ ー ル マ ン の 項 で は カ ー ル マ ンに は 触 れ ず に34)「 家 臣fideles」 が 加 え ら れ て い る こ と , 及 び 「タ シ ロ は 自 ら 誓 っ た 諸 誓 約 を 長 く は 守 ら な か っ た 」 と い う文 言 が こ の 項 の 事 後 的 記 載 を 証 明 し て い る こ と, 等 で あ ろ う。 依 拠 的 年 代 記 で あ る 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 の 記 述 は 大 筋 に お い て 「王 国 年 代 記 」 を 踏 襲 し て い る 。 こ の 年 代 記 も 「タ シ ロ は 自 ら誓 っ た 諸 誓 約 を 長 く は 守 ら な か っ た 」 と い う言 葉 で 記 述 を 終 え て い る , とBecherは 言 う。 「メ ス年 代 記 古 本 」 も 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 と大 体 同 じ で , 異 な る 点 は , タ シ ロが 要 求 した フ ラ ンク人 の 人 質 は ヴ ォル ム スで の 交 渉 終 了 後 に返 還 され た と の 記 述 が 加 わ っ て い る こ と と, 「王 国 年 代 記 」 や 記 」 と 異 な り, カ ー ル は タ シ ロ を 敬 意 を も っ てcum , 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 honore故 国 に帰 した, と い う言 葉 で こ の 項 が 終 っ て い る こ と, で あ る, と彼 は言 う。 自立 的年 代 記 で は ど うか? 残 念 な が ら 「編 年 誌 続 編 」 は768年 の カ ール と カ ー ル マ ン の 夫 々 の 即 位 で 記 述 が 終 わ っ て し ま う。 小 規 模 年 代 記 の み が 今 や 検 査 役 を 務 め る こ と に な る。 先 ず 「ア ヴ ェ ン テ ィ ー ヌ ス 編 年 誌Chronik des この編 年 誌 の情 報 源 は タ シ ロの宰 相 ク Aventinus」 ラ ン ツCrantz35)で 34)771年 の 情 報 か ら見 よ う。 あ る。 ク ラ ン ツ に よ れ ば, 教 皇 ハ ド リア ー ヌ スが タ シ ロ カ ー ル マ ンが死 去 す る と,カ ール(大 帝)は カ ー ル マ ンの 妻 子 を 相 続 か ら 排 除 , そ の 領 地 を 奪 う。 カ ー ル の この 行 為 に は法 的 正 当 性 が 無 い。 この こ とへ の 35) 配 慮 か ら年 代 記 の781年 の項 に カ ー ル マ ンの名 が記 載 され て いな いの で あ ろ う。 ク ラ ンッCrantzは ア ヴェ ンテ ィ ー ヌ ス に よ って発 見 され た 古 文 書 の著 者 と さ れ ,ク ラ ンッ とい う名 前 自体 ,ア ヴ ェ ンテ ィー ヌ ス に よ って 与 え られ た。この 古 文 書 の 内容 か ら判 断 して, 著 者 は タ シ ロ3世 側 近 の名 士 とい う こ とで, ク ラ ン ッ は 宰 相 に擬 せ られ て い る。 一 方 , ア ヴェ ンテ ィー ヌスAventinusは(本 名Johannes 再論 :タシロ三世 23 太 公 を譲 歩 に導 き, カ ー ル大 帝 に バ イエ ル ン攻 撃 を控 え させ た, との こ とで, この編 年 誌 は カ ー ル と タ シ ロの ヴ ォル ム ス で の談 合 を伝 え て は い るが36),タ シ ロの 誓 約 に つ い て は一 言 も描 写 して い な い。 こ の報 告 が正 しい とす れ ば 「王 国 年 代 記 」 記 者 の 事 実 報 告 の 恣 意 性 を 証 す る 更 な る 例 と な ろ う, と Becherは 言 う。 但 し, この 編 年 誌 の 場 合 , 描 か れ る事 件 と記 述 の時 点 が 余 りに も隔 た って い る た め確 実 な想 定 は不 可 能 , と彼 は付 言 す る。 他 の 自立 的 年 代 記 を 見 る と, 若 干 の年 代 記 の場 合 ,781年 と い う項 目す らな い こ とが 目 に付 く。 これ ら 自立 的 年 代 記 は言 葉 数 が 少 な く, 通 例 , 非 常 に重 要 な 出 来事 Turmair[*1477一 †1534])1517年 バ イ エ ル ン 王 国 の 王 室 歴 史 編 纂 者 に な る。 主 著 は 「バ イ エ ル ン歴 代 太 公 年 代 記Annales ducum Boiariae」 , こ れ を 完 成 さ せ て か ら, そ の ドイ ッ 語 版 「バ イ エ ル ン編 年 誌Baierische Chronik」 を1522-33年 に書 く。 しか し こ の 書 は 反 教 皇 的 傾 向 の た め 彼 の 死 後 に 刊 行 さ れ た 。 ア ヴ ェ ン テ ィ ー ヌ ス は ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 時 代 の 歴 史 を 書 く に 当 た っ て タ シ ロ3世 の宰 相 ク ラ ン ツ が 書 い た 史 書 を 参 考 に し, こ の 編 年 誌 に は こ の 時 代 を 記 述 し た 他 の 年 代 記 ・編 年 誌 に は 見 出 せ な い 出 来 事 の 記 述 ・時 代 の 捉 え 方 が あ る 。 ク ラ ン ツ が 書 い た と さ れ る 史 書 は そ の 後 散 逸 し, 現 代 に 伝 え られ て い な い 。 ク ラ ン ッ と ア ヴ ェ ン テ ィ ー ヌ ス に つ い て はSigmund 36) des achten der Wissenschaften, Riezler, Ein Jahrhunderts, Bayerische Werke Rom und k schenket und Sie derzwischen, in Baiern ig. zu entpfieng stiessen gros und von der Kaiser M die gar erlich K niglichen frid miteinander Aventinus, Akademie Da schicket legt zw@n veter, k erpot an.「 ig im im dem k grosse pabst von herzog Karl, gen der der sich bischof frid zwischen schenket und Akademie 詳 しい。 , genannt machten zu seinem Geschichtswerk nigl. bayer. chen.5.109. undertediger, kam k S.247-291に Turmairs gelt;herwider Thessel ewigen hg. Thessel, Thessel guet herzog ainen ward herzog Herzog im V, Christian bairisches der Classe,1881, in:Johannes Bd. Wissenschaften,1886, Hadrianus in:Sitzungsberichte Historische Chronik, S舂mtliche verlorenes Wormbs, ig zuckt noch und mir er. す る と教 皇 ハ ドリア ー ヌ ス が 間 に 割 っ て 入 っ て 調 停 役 を 務 め , 二 人 の 司 教 を ロ ー マ か らバ イ エ ル ン の 太 公 タ シ ロの許 に 送 り, 彼 ら は太 公 と国 王 の 間 に和 平 を 成 立 させ た。 太 公 タ シ ロ は彼 の 従 兄 弟 , 国 王 カ ー ル を 訪 ね て ヴ ォ ル ム スへ 出 向 き, カ ー ル に 多 くの金 品 を 贈 っ た。 これ に応 え て 国 王 は タ シ ロに そ れ を 上 回 る贈 り物 を な し太 公 タ シ ロを鄭 重 に も て な し, 彼 に 充 分 な る 敬 意 を 表 し た 。 彼 ら は 互 い に 恒 久 的 和 平 を 契 っ た 」 24 の み を 記 述 す る 。 しか し, とBecherは 疑 問 を 提 起 す る : 「タ シ ロ の 再 度 に 及 ぶ カ ー ル へ の 服 属 行 為 が 記 者 た ち に完 全 に 無 視 さ れ る ほ ど重 要 度 に 欠 け た の か?」 そ の 他 の 小 規 模 年 代 記 は, カ ー ル の ロ ー マ か ら の 帰 還 , ヴ ォ ル ム ス の 五 月 総 会 に つ い て 記 し て い る が , タ シ ロ に つ い て の 言 及 は 無 い 。 「ロ ル シ ュ年 代 記 」 や 「モ ゼ ラ ー ヌ ス 年 代 記Annales Mosellani」 記 し て い る が , 「ペ タ ヴ ィ ア ー ヌ ス 年 代 記Annales は タ シ ロの名 を Petaviani」 の 記 述37)の 枠 を 出 る も の は 無 い 。 従 っ て , こ れ ら三 っ の 年 代 記 は い ず れ も ヴ ォ ル ム ス で の タ シ ロ 宣 誓 を 伝 え て い な い , とBecherは い てper suum comigatum」 纏 め る 。 「国 王 か ら の 賜 暇 に 基 づ と い う表 現 か ら, カ ー ル に 対 す る タ シ ロ の 誠 実 誓 約 の 存 在 は 推 論 で き な い, とBecherは 記 」781年 37) 「モ ゼ ラ ー ヌ ス 年 代 の 項 の 表 現38)を 見 る と , カ ー ル に 対 す る タ シ ロ の 誓 約 の 存 在 を 匂 MGH SS hic annus, ibi 言 う。 一 方 fuit Tom.1, nisi tantum Taxilo, regi, et per ed. von Pertz,1826 Vurmacia dux suum G.H. de civitate Bawaria, comigatum ,Hannover.5.16. venerunt magnaque rediit ad Sine Franci munera patriam.「 ad hoste fuit placitum;et praesentavit domno この年 は 出兵 は無 か った が 多 く の フ ラ ン ク人 が ヴ ォ ル ム ス の 町 の 王 国 会 議 に や っ て 来 た 。 そ れ に バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ が 参 加 し た 。 彼 は 国 王 に あ ま た の 贈 り物 を し, 国 王 の 賜 暇 に 基 づ い て 故 国 へ 帰 っ た 」781年 の 記 述 にお け る 「モ ゼ ラ ー ヌ ス 年 代 記 」 と 「ロ ル シ3年 代 記 」 の違 い は 固有 名 詞 の標 記 に あ る だ け, と言 って 良 い。 38) MGH rex SS Karlus Tom. XVI, Romam et Karlomannus;quern unxit in imperatore. Et Et super ibi disponsata est rex Francorum habuit civitatem.「 Pertz,1963 conventum est papa Italiam reversus magnum G.H. baptizatus Adrianus regem Aequitaniam. ed. von ibi mutato et est ,Hannover.5.497. filius nomine fratrem Rottrhud, in Francia eius, qui vocavit eius filia et colloquium id est Magis campum perrexit vocabatur Pippinum Ludowigum et super regis, Constantino cum apud Dasilone, et Wormosiam 国 王 カ ー ル は ロ ー マ に 至 り, そ こ で 彼 の 子 息 カ ー ル マ ン は 洗 礼 を 受 け る。 教 皇 ハ ド リア ー ヌ ス は カ ー ル マ ン の 名 を 改 め て ピ ピ ー ン と し て イ タ リ ア 国 王 に 塗 油 し, そ の 弟 ル ー ドヴ ィ ヒ を ア キ タ ニ ア 国 王 に 塗 油 す る 。 国 王 の 息 女 ロ ー トル ー ドは ビ ザ ン ッ 帝 国 皇 帝 コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス と 婚 約 す る 。 そ し て 国 王 は フ ラ ン キ ア に 戻 り, タ シ ロ と の 会 談 に 臨 み , ヴ ォ ル ム ス の 町 の 近 く で 開 か れ る フ ラ ンク人 の大 集 会 で あ る五 月 総 会 に参 加 す る」 再 論 :タ シ ロ三 世 25 わ せ る表 現 は無 い 。 こ れ ら の こ と か らBecherは タ シ ロへ の 物 的 拘 束 た る 「カ ー ル か ら タ シ ロ へ の両 王 宮 イ ン ゴル シ ュ タ トと ラ ゥ タ ホー フ ェ ンの返 還 」 につ いて , これ は 781年 に 行 な わ れ た の で は な く, タ シ ロ が カ ー ル の 家 臣 に な っ た787年 能 性 が 非 常 に 高 い , と言 う 。781年 の可 に カ ー ル が タ シ ロ と 会 談 を して い る こ と は, 諸 種 の 年 代 記 の 報 告 か ら, 事 実 と認 定 で き る が , そ の 際 の 主 題 は 「イ ン ゴ ル シ ュ タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ン」 で は な く, ラ ン ゴ バ ル ド ・バ イ エ ル ン国 境 の 紛 争 問 題 だ っ た , とBecherは 推 測 す る 。 国 境 紛 争 は ,774年 フ ラ ンク 王 国 が ラ ン ゴ バ ル ドを 征 服 し て 以 来 , 既 に 多 発 して い た か らで あ る 。784年 に は ブ レ ン ナ ーBrenner峠 で フ ラ ン ク 人 と バ イ エ ル ン人 の 大 規 模 な 紛 争 が 発 生 す る。 こ れ を き っ か け に フ ラ ン ク 国 王 と バ イ エ ル ン太 公 の 対 立 は 収 拾 し難 い も の に な っ た の で あ ろ う, とBecherは 2-7.787年 タ シ ロ が787年 推 断 す る。(S.58) タ シ ロ, カ ー ル の家 臣 に に カ ー ル の 家 臣 に な っ た こ と は , 研 究 史 上 , 一 致 して い る 。 し か し, タ シ ロ の 服 属 が757年 の コ ン ピ エ ー ニ ュ の 行 為 の 反 復 と して 捉 え て い る か 否 か , こ の 点 が 大 い に 問 題 に な る 点 , とBecherは 「王 国 年 代 記 」 は787年 burgと 言 う。 タ シ ロ が , ザ ル ッ ブ ル ク 司 教 ア ル ンArn モ ー ン ツ ェ ー 僧 院 長 フ ン リ ヒHunrich von Mondseeを von Salz- 主 体 とす る使 節 団 を ロー マ に派 遣 した, と伝 え る。 そ の 目的 は, ロ ー マ教 皇 ハ ドリア ー ヌ ス1世 に カ ー ル と タ シ ロ の 間 の 和 平 の 執 り 成 しを 依 頼 す る こ と に あ っ た 。 教 皇 は使 節 団 の 依 頼 に 応 じ, 当 時 ロ ー マ に 滞 在 して い た カ ー ル に 調 停 案 一 一 そ の 内 容 の 記 述 は無 い 一 一を 提 示 す る 。 カ ー ル は , 教 皇 の 調 停 案 を 自 ら の 願 望 と一 致 す る も の と受 け止 あ , 直 ち に 和 平 締 結 を 提 案 す る 。 しか し タ シ ロ の 使 節 団 は, カ ー ル の 和 平 案 に 署 名 す る 全 権 は 与 え られ て い な か っ た の で , そ れ へ の 署 名 を 拒 否 す る。 こ れ を 教 皇 は , タ シ ロ 側 の 不 誠 実 の 証 , と 捉 え る 。 こ の 時 既 に カ ー ル は べ ネ ヴ ェ ン トを 征 圧 して お り , こ れ は , 教 皇 に と っ て は , 教 皇 領 の 安 定 を 図 る上 で 歓 迎 す べ き こ と で あ っ た が 故 に , 教 皇 は 恐 ら く カ ー 26 ル の べ ネ ヴ ェ ン ト征 圧 時 点 で , 従 来 の バ イ エ ル ン と の 友 好 関 係 保 持 政 策 か ら カ ー ル 側 へ と方 向 転 換 を した の で あ ろ う, とBecherは 指 摘 す る。 教 皇 は , タシ ロ が ピ ピー ン とカ ー ル に対 して行 な った誓 約 を遵 守 しな い な ら , タシ ロ 及 び そ の 一 派 を 破 門 す る , タ シ ロ は カ ー ル 及 び そ の 子 息 と フ ラ ン ク 人gens Francorumに 服 従 せ よ , と 言 う。 太 公 タ シ ロ が こ れ を 拒 否 す る な ら , バ イエ ル ン は フ ラ ン ク王 国 の攻 撃 を 受 け る こ と に な るが あ る, と す る。Becherは , そ の責 はす べ て タ シ ロ に , 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は詳 細 で あ る に も拘 ら ず , こ の 交 渉 へ の タ シ ロ の 基 本 的 姿 勢 及 び カ ー ル の 和 平 案 に つ い て 何 も述 べ て い な い , と し, 記 者 は 単 に757年 を根 底 に置 い て タ シ ロに服 属 を迫 る教 皇 を描 くだ け , 更 に 奇 妙 な こ と に , こ の 項 の 記 述 は757年 781年 の 誓 約 に は 触 れ る もの の の そ れ に っ い て は一切 言 及 し て い な い , とBecherは でBecherは 「カ ー ロ リ ン グ 側 の 宣 伝 が757年 し て い る の は ,757年 , 指 摘 す る。 そ こ の 託 身 と誠 実 誓 約 だ け に 集 中 の 託 身 と誠 実 誓 約 が788年 の タ シ ロ廃 位 の 正 当 化 の 重 要 な根 拠 を成 す か らで あ る」 と推 論 す る。 カ ール は フ ラ ンキ ア に帰 還 後 タ シ ロ に出 頭 を要 請 す る。 タ シ ロ は これ を 拒 否 , そ こ で カ ー ル は 軍 を 三 軍 に 分 け バ イ エ ル ン征 討 に 赴 く。 カ ー ル 自 身 , 軍 を 率 い て レ ヒ フ ェ ル トLechfeldに 向 か う 。 他 の 一 軍 は, 東 フ ラ ン ク 人 , テ ィ ー リ ン ゲ ン人 と ザ ク セ ン人 か ら 成 り, ドナ ウ 河 畔 の ペ リ ン グPf6rring に 集 結 , も う一一 軍 を イ タ リ ア 国 王 ピ ピ ー ン が 率 い , ト リエ ン トTrientに 出 , 兵 を ボ ー ツ ェ ンBozenに ま で 派 遣 す る。 こ の よ う な 兵 力 展 開 は , カ ー ル が 入 念 に バ イ エ ル ン征 圧 作 戦 を 練 っ て 来 た こ と を 示 す る。 バ イ エ ル ン貴 族(一 進 豪 族)の , とBecherは 述べ 支 持 を 失 っ た タ シ ロ は, 戦 わ ず して カ ー ル の 軍 門 に 降 り, カ ー ル に 託 身 と誓 約 を 行 な う39) 。 39)「 王 国年 代 記 」FvS semetipsum, vassaticum tradens Bd.5 se et reddens recredidit se in omnibus sacramenta Theodonem.「 S.54. undique manibus ducatum manibus sibi commissum peccasse et dedit obsides in constrictus et male Tassilo domni regis a domno egisse. Tunc electos XII et tertium venit Caroli Pippino denuo decimum per in rege,et renovans filium suum タ シ ロ は, あ らゆ る面 か ら締 め 付 け られ , 自 らや って 来 て 国 王 再 論.:タ シ ロ三世 依 拠 的資 料 27 「メ ス 年 代 記 古 本 」 は 「王 国 年 代 記 」 と殆 ど 変 わ る と こ ろ は 無 く, た だ , カ ー ル の 側 に 「正 義iusutitia」 在 り, とい うよ うな記 述 は して い な い 。 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 も 同 様 で 殆 ど変 わ り は無 い が , タ シ ロ に 対 す る 教 皇 の 脅 しが 詳 細 に は 描 か れ て い な い 点 が 違 い だ ろ う か 。 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 が 書 か れ た814年 に は最 早 そ の よ うな 詳 細 にっ いて の 関 心 が 無 くな っ て い た の で あ ろ う 。 「フ ラ ン ク人 」 の 強 調 が 見 られ な い 代 り に , 記 者 の 叙 述 の 力 点 は 国 王 カ ー ル の 寛 大 さ に 移 っ て い る, とBecherは 787年 言 う。 の タ シ ロ服 属 は 同 時 代 人 か ら重 要 な 出 来 事 と 考 え ら れ , 自 立 的 諸 年 代 記 も こ の 事 件 を 報 告 し て い る , とBecherは の 記 者 は785年 述 べ る 。 「ロ ル シ ュ年 代 記 」 以 後 は ロ ル シ ュ 僧 院 長 リ ヒ ボ ドRichbod は ア ル ク ィ ンAlcuin40)と von Lorschで , 彼 接 触 が あ っ た の で こ の年 代 記 は王 宮 の影 響 を 受 け て い た 可 能 性 も あ る 。 しか し リ ヒ ボ ドは 「王 国 年 代 記 」 が 沈 黙 し て い る ハ ル ドラ ドHardradの 蜂 起41)や , カ ー ル の 長 子 で あ る 屈 背 の ピ ピ ー ンPippin der カ ー ル に 両 の手 を さ しの べ カー ル の 家 臣 とな り, 国 王 ピ ピー ンか ら彼 に渡 され た 太 公 国 を返 還 , 彼 は す べ て に 亙 って誤 った悪 し き行為 に及 ん だ こ とを 認 め た 。 更 に 彼 は改 め て諸 誓 約 を行 な い ,12名 の選 りす ぐり の人 質 及 び彼 の 子 息 テ ー オ ド を人 質 に加 え て差 し出 した」 40) Alcuin, Alkuin, Alchwine(*730?一 †804)は , LMA ,Bd.1, Sp.417f.に よ れ ば , ア ン グ ロ サ ク ソ ン系 の学 者 で,781年 カ ー ル 大 帝 は 彼 を フ ラ ン ク王 国 に 招 聘 す る。 彼 は, 特 に教 会 問 題 で カ ー ル の補 佐 役 を務 め る と 同時 に, カ ー ル の精 神 的 ・ 宗 教 的 ・政 治 的 側 面 に大 き な影 響 を与 え, カ ー ル の宮 廷 学 校 で も指 導 的立 場 に立 つ 。 当 時33・4歳 の カ ー ル は武 力 だ けで は帝 国 は建 設 で き な い こ と に気 付 きっ っ あ り, フ ラ ンク王 国 を 内 部 か ら改 革 しよ う と して い た。 41) Hardrad(*?一 †786)は テ ィ ー リ ン ゲ ンTh ingenの 豪 族 の 一 人 と 考 え られ る。LMA, -Die Bd. VIII,Sp.749f.及 びJohannes Urspr ge Deutschlands 702に よ れ ば, テ ィー リンゲ ン王 国 は,531年 1世Theuderich 伯 制 度(伯 Fried, Der Weg bis 1024,1994,Propyl臚n I.と ク ロー タ ル1世Chlothar in die Geschichte Verlag Berlin. S. メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 国 王 テ ゥデ リヒ I.に征 圧 さ れ 王 朝 は 消 滅 す る。 に よ る統 治)が 導 入 さ れ る が,641年 テ ィ ー リ ンゲ ンは 太 公 国 と な り, フ ラ ン ク人 と想 定 され る初 代 テ ィー リ ンゲ ン太 公 に ラ ー ドゥル フRadulfが 任 命 さ れ る が, 彼 は フ ラ ンク王 国 に叛 旗 を翻 して独 立 す る。 こ の独 立 王 国 は ヘ デ ンHeden od. Hetan太 公 時 代 に再 び メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 に吸 収 さ れ, こ の 地 域 の 28 Buckligeの 謀 反42)な ど に つ い て も報 告 して い る 。 リ ヒ ボ ド は787年 について 「タ シ ロ は 国 王 の 要 請 を 平 和 的 に 受 け 入 れ 国 王 に 子 息 テ ー オ ドを 人 質 と し て 差 し出 し た 」 と の み 述 べ , タ シ ロ服 属 の 性 格 に つ い て は 何 も触 れ て い な い 。 リ ヒ ボ ドの 心 を 深 く捉 え た の は , 教 皇 か ら洗 礼 も塗 油 も受 け , 僧 院 ク レ ム ス ミ ュ ン ス タ ーKremsm sterの 建 立 に も助 力 し た タ シ ロ の 長 男 テ ー オ ドが 人 質 に さ れ た こ と だ っ た の だ ろ う, とBecherは 「ケ ス ニ ゥ ス年 代 記 断 章Fragmentum 推 測 す る。 Annalium'Chesnii」 は シ ロ は カ ー ル の 許 に 赴 き , バ イ エ ル ン人 の 部 族 太 公 国regnumを 「10月5日 タ 返還, 自ら と王 国 を 国 王 の 手 に 引 渡 す 」 と 述 べ る 。 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 は787年 786年 か ら788年 の 出 来 事 を 詳 し く記 述 す る 。 こ の 年 代 記 は ま で の 事 件 を 詳 細 に 記 録 し て い る 。786年 の ハ ル ドラ ドの 叛 乱 に つ い て も 触 れ , カ ー ル 大 帝 に 対 し明 確 に 距 離 を 置 い て い る 。 そ れ だ け フ ラ ンク化 が 政 治 ・教 会 制 度 の両 面 で進 む。 カ ー ロ リ ン グ朝 に な って カ ー ル大 帝 は征 服 した諸 部 族 の豪 族 を融 合 さ せ る た め, 部 族 横 断 的結 婚 政 策 を採 る(こ の政 策 か ら後 に帝 国 貴 族Reichsadelが 生 まれ る)。 この 政 策 に 則 りハ ル ド ラ ドは フ ラ ンク人 と婚 約 させ られ た息 女 を渡 す よ う王 命 に よ り迫 られ る が, 彼 が これ を拒 否 した こ とか ら混 乱 が 生 じ大 規 模 な謀 反 に な っ た, と考 え られ て い る。 この謀 反 は, テ ィ ー リ ンゲ ンに残 っ て い た強 固 な氏 族 的 伝 統 か ら来 る フ ラ ンク王 国 化 に対 す る政 治 的 反 感 の根 強 さ を強 く示 して い る, と言 え よ う。 42)Fried, Weg in die Geschichte, S.258f.に よれ ば , Pippin der Bucklige(*770 一†811)は カ ー ル大 帝 とそ の 最 初 の 妻 ヒ ミル トル ー ドHimiltrudの 長 子 。792年 間 に 生 まれ た ピ ピー ンは父 王 に対 して 叛 乱 を 起 こす 。 息 子 が 父 に叛 旗 を翻 す事 態 は長 い カ ー ロ リ ング家 の歴 史 の 中 で も嘗 て 無 か っ た。 カ ー ル は こ の長 男 を嫡 子 と して 大 事 に育 て た よ うだ が ,781年 と787年 の 遺 産 分 割 案 で カ ー ル は長 男 ピ ピー ンを 無 視 し3人 目 の 妻 ヒ ル デ ガ ル ドHildegardと J gere, Pippin(<Karlmann), Ludwigの の 間 に 出 来 た 三 子Karl der み を対 象 に した相 続 案 を作 る。 当 時 カ ール は, タ シ ロ問 題 の 処 理 に 追 わ れ レーゲ ンス ブル ク に滞 在 中 で , タ シ ロ裁 判 は味 方 も作 った が 敵 も作 った , と彼 は意 識 して いた 。 そ の 彼 の と こ ろ に フ ラ ンク の豪 族 を 巻 き込 ん で の 謀 反 の 報 せ , カ ール を 殺 害 し ピ ピ ー ンを 王 座 に即 け る, と の報 告 が入 った 。 直 ち に カ ー ル は手 を 打 っ。 共謀 者 は残 酷 な 罰 を 受 け縛 り首 に さ れ た 者 も い た 。22歳 の ピ ピー ン は剃 髪 さ れ て 僧 院 ザ ン ク ト ・ガ レ ンに送 られ , そ の 後 プ リムPr の 僧 院 で死 ぬ 。 再 論 :タシ ロ三 世 に こ の 年 代 記 の787年 の 記 述 は 注 目 さ れ て 良 い , とBecherは 29 言 う。 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 で は 以 下 の 如 く描 写 さ れ る : 「フ ラ ン ク 国 王 カ ー ル は ロ ー マ か ら引 き 返 す 途 上 , パ ヴ ィ アPaviaの 町 で ラ ン ゴ バ ル ド人 を 集 あ , そ の 会 議 で 彼 らの う ち の 非 常 に 欺 瞞 的 な 者 た ち を フ ラ ンキ ア に 追 放 した 。 そ れ か ら フ ラ ン キ ア に 行 き ヴ ォ ル ム ス に 滞 在 した 。 引 き 続 い て フ ラ ン ク軍 を 召 集 , ア レマ ニ ア 人 と バ イ エ ル ン人 の 国 境 に 向 か い レ ヒ と 呼 ば れ る 河 ま で 進 ん だ 。 そ こヘ バ ィ エ ル ン太 公 タ シ ロ が カ ー ル を 訪 れ , 彼 に , そ の 上 部 先 端 に 人 間 の 姿 が 象 ら れ て い る 笏43)と 共 に 自分 の 領 国 を 返 還 し た 。 タ シ ロ は カ ー ル の 家 臣 に な り, カ ー ル に そ の 子 息 テ ー オ ドを 人 質 と し て 差 し 出 し た44)」。 「王 国 年 代 記 」 に 記 載 さ れ て い な か っ た ラ ン ゴ バ ル ド人 の 叛 乱 が こ こ に は 記 さ れ , カ ー ル が 三 軍 を 以 っ て バ イ エ ル ン征 討 に 向 か っ た , と い う 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は 姿 を 消 す , とBecherは Becherは 指 摘 す る。 , タ シ ロ にっ いて の 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 が 初 め て 他 の 年 代 記 か ら も 支 え ら れ た , と し,787年 の 太 公 タ シ ロ の 家 臣 と して の 託 身 は 信 頼 で き る, と言 う 。 し か し , そ れ が757年 43)Wolfram, F stentum, S.170に の 託 身 の 反 復 で あ る , と の 「王 国 年 代 よ れ ば 「Karl Hauckは こ の 『笏baculum』 を ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 伝 来 の 笏 , と し, 笏 の 上 部 の 人 間 の 姿 を 氏 族 祖 , 『一 族 一 統 の 祖pater et generis gentis』 と 衆 民 の 先 と し て い る 。 タ シ ロ は こ の 笏 を 古 い 墓 丘 に 立 っ て 渡 し た の で あ ろ う が , 氏 族 と も 部 族 と も 無 縁 の カ ー ロ リ ン グ 家 の カ ー ル に こ れ を 差 し 出 した こ と は , タ シ ロ の , 彼 の 『部 族 』 の , 彼 の 『生 国 』 の 全 面 的 敗 北 を 意 味 す る と 同 時 に , タ シ ロ が 主 体 的 に 支 配 権 の 相 続 を 放 棄 し た こ と, を 意 味 す る」 44) MGH SS Tom.1, Francorum de gavit, et venit in exercitu flumen ad eum, hominis ei obsidem. ed. Roma exinde et et ad ad ei effectus in in est vassus Postea eius, veniens patriam, et autem et Dessilo in Theodonem cuius rex congre- exiliavit. Alamannorum ipsam Carolus Langobardos Franciam resedit. fines Illucque baculo Hannover.5.43. civitatem eorum Lech. cum Paveia Wormaciam perrexit appellatur reddidit erat, Pertz,1826, revertens, Franciam, et G.H. fraudelentissimos Francorum quod von Ipseque commoto Beiweriorum, dux Beiweriorum capite filium ad similitudo suum dedit 30 記 」 の 記 述 を 受 け継 ぐ年 代 記 は存 在 し な い こ と も, 彼 は 指 摘 す る 。 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 自 らが 我 々 に 与 え た 情 報 , つ ま り781年 つ い て 記 者 が787年 とBecherは の 諸 種 誓 約 の更 新 , に の 項 で 一 言 も言 及 して い な い の は , 首 尾 一 貫 性 に 欠 け る , 苦 言 を 呈 し, 基 本 的 に カ ー ロ リ ン グ 派 の 年 代 記 , 即 ち 「ロ ル シ ュ 年 代 記 」, 「ム ル バ ハ 年 代 記 」, 「ケ ス ニ ゥ ス年 代 記 断 章 」 が タ シ ロ の 諸 種 誓 約 の 更 新 を 証 言 し て い な い 点 か ら し て ,Becherは757年 「王 国 年 代 記 」 の 記 事 は 事 後 的 に , 即 ち790年 及 び781年 の 頃 の 時 流 に沿 って , 作 成 され た も の , と 断 定 す る 。(S.63) 2-8.788年 の 太 公 タ シ ロ3世 諸 研 究 は, タ シ ロ裁 判 を 描 写 す る際 Karl Brunnerだ に 対 す る裁 判 「王 国 年 代 記 」 に 大 き く 依 存 す る 。 け は 厂ロ ル シ ュ年 代 記 」 と 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 の 持 つ 意 義 を 指 摘 し, こ れ ら二 っ の 年 代 記 に は 王 宮 か ら独 立 し た 視 野 を 持 つ 「失 わ れ た 伝 統 の 名 残 り」 を 認 め る こ と が で き る, と言 う。 「王 国 年 代 記 」788年 45)「 王 国 年 代 記 」FvS Tassilo fidem postquam uxore est の 項 は タ シ ロ 裁 判 の 様 子 を 伝 え る45)。 カ ー ル は イ ン postea ad et ut confessus perdere, iuratum suum Avaros in se non coeperunt haberet, dedit cum Quod et Tassilo eorum in mente dixisse, antequam habuit;et et placita etiam 「そ し て 信 頼 で き る バ obsidibus vassos retinerent etiamsi sic et manerent vel se potuit, stabile confessus regis quando iurarent;et mortuum イ エ ル ン 人 た ち が 言 い 出 し た suadente sed domni haberet, quid se magis, voluisset permitteret, quam ad iurabant, omnes esse , quod apparuit, sacramenta, suos, dolo filios 守 っ て い な い , 彼 は 他 の 人 質 と 共 に 自 分 の 息 子 を 差 彼 の 妻 et non supradicti sub dicere fraudulens homines decem melius Baioarii postea denegare consiliasse;et dixit, fideles nisi al transmisisse, vitam aliter est S.54. salvam Liutbergane. adortasse iubebat, suam filium sua Bd.5 ita sicut vivere. :タ シ ロ は し っ か り と 誓 約 を し出 し, 誓 約 を し た 後 で も, リ ゥ ト ビ ル ク に 唆 さ れ て 欺 瞞 を 重 ね た , と 。 こ れ を タ シ ロ は 否 定 で き ず , 彼 は , ア ヴ ァ ー ル 人 の 許 に 使 者 を 派 遣 呼 び 寄 せ 彼 ら の 命 を 狙 し た , 既 述 の 国 王 の 家 臣 を 自 分 の と こ ろ に っ た , と 告 白 し た 。 タ シ ロ は , 自 分 の 臣 下 が 誓 約 を す る と , 彼 ら を 呼 ん で , 誓 約 を し て も 心 は 別 で い い の だ , 表 面 を 取 り 繕 う こ と だ , と 再論 :タシロ三世 ゲ ルハ イムIngelheimで 31 王 国 会 議 を 開 く。 こ の会 議 に国 王 の命 令 で タ シ ロ及 び その 家 臣 が 出 席 す る。 そ の 場 で タ シ ロ は 自分 の家 臣か ら糾 弾 され る。 タ シ ロ も罪 を 告 白 せ ざ るを 得 な い 。 タ シ ロの 不 誠 実 を理 由 に タ シ ロを 断 罪 す るの が この 会議 の主 目的 だ った の だ ろ うが , ど う も これ らの 罪 だ けで は断 罪 す る に は不 充 分 , と思 わ れ た の か,25年 前 の事 件 ,763年 に タ シ ロが 犯 した と さ れ る 「戦 列 離 脱 」 が 持 ち 出 され る46)。この 判 決 に 際 して フ ラ ン ク人 が大 きな 役 割 を演 じた よ うで あ る。 「王 国 年 代 記 」 記 者 が様 々 な場 面 で フ ラ ン ク人 の 関 与 を 強 調 して き た の も, この 場 面 を 念 頭 に置 い て い た か らで あ ろ う, と Becherは 言 う。 「王 国 年 代 記 」 の記 述 に よ れ ば, 参 加 者=裁 判 官=貴 族(= 豪 族); フ ラ ン ク軍 は 「彼 の 以 前 の 様 々 な悪 行 , 彼 が 国 王 ピ ピー ンの戦 列 を 離 れ た こ とを想 起 しっ っ」 死 刑 判 決 を 下 す が ,763年 当 時 ラ ンゴバ ル ド人 も ザ クセ ン人 も王 国 会 議 に は未 だ 出席 して いな か った一 て フ ラ ン ク人 に征 圧 さ れ た の だ か ら, とBecherは 彼 ら はそ の後 にな っ 指 摘 す る。 更 にBecher は様 々 な問 題 点 を指 摘 す る : 「戦 列 離 脱 」 へ の死 刑 判 決 が一・ 世 代 後 に な って 初 め て 下 され た こ と, カ ール は死 刑 判 決 に は関 わ らず 「憐 れ み」 か ら タ シ ロ へ の 死 刑 判 決 を 減 刑 す る場 面 で 初 あ て 登 場 し 「い と敬 虔 な る国 王 」 役 に徹 す 命 じ た , と か , 更 に , た と え 自 分 に10人 り 付 け ら れ る 位 な ら , 息 子 を10人 の 息 子 が 居 て も, 息 子 た ち が 誓 約 に 縛 と も地 獄 に 追 い や る だ ろ う, と 言 っ た , と 告 白 した 。 更 に , こん な 風 に生 き る よ り死 ん だ 方 が ま しだ, と も言 っ た, と」 46) 「王 国 年 代 記 」FvS Baioar C synodum Langobardi domnum theodisca lingua mortem.「 S.54f. Et et Saxones, congregati quomodo Bd.5 fuerunt, Pippinum harisliz de haec vel ex omnia omnibus provinc reminiscentes regem in dicitur, visi sunt conprobatus , priorum exercitu qui eundem et ad eundem malorum derelinquens iudicasse ,Franci eius, et et ibi,quod Tassilonem ad こ れ ら す べ て が タ シ ロ に 関 して 確 認 さ れ る 。 フ ラ ン ク 人 , バ イ エ ル ン 人 , ラ ン ゴ バ ル ド人 , ザ ク セ ン人 及 び 会 議 に 召 集 さ れ た 王 国 全 地 域 か ら の 者 た ち は, 彼 の 以 前 の 様 々 な 悪 行 , 彼 が 国 王 ピ ピ ー ン の 戦 列 を 離 れ た こ と(ド イ ッ語 で harisliz)を よれ ば, 想 起 し っ っ , 彼 に 死 刑 判 決 を 下 し た 」 註73の 単 語theodiscaが 文 献 上 に 現 れ た の は こ れ が2例 前(786年)のtheotisce。 書 のS.45f.に 目 , 最 初 に 記 録 さ れ た の は2年 32 る こ と47), 記 者 の こ の よ う な 描 写 に よ り 裁 判 の 主 役 は カ ー ル で は な く 出 席 し た 貴 族(=豪 族)た ち で あ る こ と が 強 調 さ れ る こ と, 等 々 。 依 拠 的 年 代 記 で は 「メ ス 年 代 記 古 本 」 は 「王 国 年 代 記 」 に 凡 そ 準 ず る が , 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 は 「王 国 年 代 記 」 と大 き く異 な る 。 「所 謂 ア ィ ン ハ ル ド年 代 記 」 で は, バ イ エ ル ン人 は タ シ ロ を 大 逆 罪crimen はreus maiestatisで maiestatis或 い 告発 す る, 即 ち, タ シ ロは, フ ラ ンク王 国 を敵 視 す る ラ ン ゴ バ ル ド王 国 王 女 で タ シ ロ の 妻 リ ゥ ト ビ ル ク に 唆 さ れ , ア ヴ ァ ー ル 人 に フ ラ ン ク 人 攻 撃 を 煽 動 し た , と 言 う の が バ イ エ ル ン人 の 述 べ 立 て た タ シ ロ の 罪 状 で あ る 。 こ れ に よ り 「王 国 年 代 記 」 で タ シ ロ 断 罪 に 当 た っ て 決 定 的 役 割 を 果 た し た 「戦 列 離 脱 」 は 影 が 薄 く な る48), とBecherは 自 立 的 年 代 記 で はBecherは 47) 「王 国 年 代 記 」FvS capitale eum motus ab iamfato monasterio ipsis Dei S.56. salvaret animam. amorem omnes quia rege ut pro Similiter licentiam et volebant, pauci missi adclamarent p sibi Baioar sunt quid tonsorandi agendi deiudicatus C rex erat, Et interrogatus paenitentiam Theodo simus eius Tassilo, haberet peccatis et filius eius missus, perdurare moriretur. praedictus tantis voce Carolus consanguineus ac suis fidelibus, ut non et una domnus Dei, et monasterio Caroli dum iamdictus postolavit, et in regis Sed domno introeundi tonsoratus domni ab vero 「ロ ル シ ュ年 代 記 」 を 取 り上 げ る 。 こ の sententiam, clementissimo voluisset;ille suam Bd.5 ferire misericordia contenuit 先ず 言 う。 qui in in exilio.「 a agere et in et ut est et adversitate し か し全 出 席 者 が 異 口 同 音 に , 彼 を 死 刑 に , と 叫 ぶ 中 , 既 述 の い と敬 虔 な る 国 王 カ ー ル は , 神 へ の 愛 か ら憐 れ み の 情 に 動 か さ れ , タ シ ロ は 彼 の 血 縁 者 で あ っ た た め , 神 及 び 国 王 に 誠 実 な 彼 ら 出 席 者 か ら死 刑 判 決 撤 回 を 獲 得 し た 。 前 述 の い と慈 悲 深 き国 王 か ら, 何 を 望 む か , と 尋 ね ら れ た 既 述 の タ シ ロ は, 剃 髪 し僧 院 に 入 り犯 し た 多 く の 過 ち を 償 う許 し を 得 て , 自 身 の 霊 魂 を 救 済 し た い , と乞 う た 。 彼 の 子 息 テ ー オ ド も裁 か れ, 剃髪 さ れ 僧 院 に 送 られ た 。 国 王 カ ー ル に 逆 らい続 け よ う と した少 数 の バ イエ ル ン人 は追放 され た 」 48)Becherは , そ の 後 のharislizの と さ れ ,Capitulare カール は (ss7) 扱 い にっ い て Italicum(801年)とCapitulare 「こ れ は 大 逆 罪 の 一 部 を 成 す 」 Bononiense(811年)で 「harislizは 大 逆 罪 と し て 死 刑 に 処 す 」 と 規 定 し た , と付 言 し て い る。 再 論 :タシ ロ三 世 33 年 代 記 も 「王 国 年 代 記 」 同 様 , タ シ ロ 裁 判 正 当 化 の た あ の 資 料 を 思 わ せ る も の , と 彼 は 述 べ る が , 「王 国 年 代 記 」 と の 違 い も拾 い 出 す 。 「ロ ル シ ュ 年 代 記 」 に よ れ ば , イ ンゲ ル ハ イ ム の 会 議 の 進 行 中 に , タ シ ロ に 起 因 して , 軋 轢 が 生 じ る。 そ の 原 因 は , 記 者 に よ れ ば 「タ シ ロ の ま た と 無 く邪 悪 な 陰 謀 」 と の フ ラ ン ク 人 の 告 発 に あ る。 しか し そ の 陰 謀 と は, 妻 リ ゥ ト ビ ル ク及 び 隣 接 す る キ リ ス ト教 徒 及 び 異 教 徒 の 民 族 の 助 け を 借 り て フ ラ ン ク人 攻 撃 を 図 っ た , と い う漠 た る も の 。 こ の フ ラ ン ク人 の 告 発 に 続 い て , バ イ エ ル ン人 の 太 公 顧 問 た ち が タ シ ロ攻 撃 を し た , と 記 者 は 述 べ る 。Becherは , この年 代 記 の記 者 リ ヒ ボ ドは タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 に は 触 れ て い な い が , リ ヒ ボ ドに と っ て は, タ シ ロの異 民 族 との連 携 が フ ラ ンク王 国 に と って許 せ な い犯 罪 だ った の だ ろ う, と推 測 す る。 ま た , 裁 判 に お け る フ ラ ン ク 人 の 役 割 は 「王 国 年 代 記 」 同 様 描 写 さ れ て い る が , ラ ン ゴ バ ル ド人 や ザ ク セ ン人 に っ い て は 触 れ ら れ て い な い , とBecherは 言 う。 こ の 年 代 記 は, カ ー ル は , タ シ ロ を 僧 院 入 り さ せ た 後 , バ イ エ ル ンの 古 都 レー ゲ ン ス ブ ル ク に 行 き , 服 属 の 証 と しZ人 質 を 受 け 取 り, こ の 国 を 彼 の 考 え 通 り に 組 織 し た , と 淡 々 と 記 述 す る, と Becherは 指 摘 す る。 「ケ ス ニ ゥ ス 年 代 記 断 章 」 は タ シ ロ ー 族 の そ の 後 の 運 命 に つ い て 情 報 を 提 供 ず る 。 タ シ ロ は7月6日 リー アTrierの に ザ ン ク ト ・ゴ ア ー ルSt. Goarで ザ ン ク ト ・マ ク シ ミ ー ンSt. Maximinで 二 人 の 娘 は シ ェ ルChellesと ラ ー ンLaonの ビ ル ク も僧 院 入 り し た , と。Becherは , テ ー オ ドは ト 剃 髪 され , タ シ ロの 僧 院 に入 れ られ, 彼 の 妻 リ ゥ ト , こ の年 代 記 に は裁 判 叙 述 が一 切 無 い だ け に , カ ー ル に よ る バ イ エ ル ン 占 領 は, 「ロ ル シ ュ年 代 記 」 の 記 述 の 場 合 同 様 , 異 国 に よ る 「ご く当 た り 前 の 占 領 」 と して 描 か れ る , と 指 摘 す る 。 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 は ど う か 。 こ の 年 代 記 も 王 宮 派 年 代 記 と は 異 な っ た 描 写 を し て お り, 裁 判 記 述 は 無 い , とBecherは 記 」 に 基 づ くBecherの 言 う。 以 下 に 「ム ル バ ハ 年 代 叙 述 を 引 用 し よ う : 「タ シ ロ が イ ン ゲ ル ハ イ ム に 来 た 後 , 国 王 カ ー ル は, 恐 ら く タ シ ロ に 隠 れ て , バ イ エ ル ン の タ シ ロ の 妻 子 の 許 に 使 者 を 遣 わ し, 彼 の 妻 子 と彼 の 財 宝 及 び 一 族 郎 党 を 連 れ て 来 さ せ る49)。 34 タ シ ロ の 妻 子 ・財 宝 が イ ン ゲ ル ハ イ ム に 到 着 し た 後 で フ ラ ン ク 人 は タ シ ロ に 掴 み か か り, 彼 を 武 装 解 除 , 国 王 カ ー 一ル の 許 に 引 き 連 れ て 行 く。 カ ー ル は 従 兄 弟 タ シ ロ に, 今 まで に多 くの他 の民 族 と共 に企 ん だ陰 謀 等 につ い て訊 ね る。 タ シ ロ は こ れ を否 定 で き な い。 否 定 で き な か った理 由 が, 妻 子 が 既 に捕 わ れ て 先 行 き を 見 通 せ な く な っ た か らか , 実 際 に タ シ ロ に 罪 の 意 識 が あ っ た か ら か , は 詳 らか に さ れ な い 。 カ ー ル は タ シ ロ の 剃 髪 と 僧 院 送 り を 決 定 す る 。 タ シ ロ は, 剃 髪 は屈 辱 的 行 為 な ので 公 開 の場 で しな い で欲 しい, と カ ー ル に頼 む 。 タ シ ロ は ザ ン ク ト ・ゴ ア ー ル の 僧 院 内 で 剃 髪 さ れ , 続 い て 僧 院 ジ ュ ミ エ ー ジ ュJumiさgesに Theotpertも 送 られ る 。 彼 の 二 人 の 子 息 テ ー オ ド と テ ー オ トペ ル ト 剃 髪 さ れ , 太 公 妃 リ ゥ ト ビ ル ク も 追 放 さ れ る50)。振 り返 っ て 見 れ ば , タ シ ロ は ,787年 カ ー ル の 家 臣 に な り788年 イ ンゲ ルハ イム に姿 を現 した 。 恐 ら く こ の 時 タ シ ロ は, 彼 の 支 配 権 に 関 して は カ ー ル に 服 属 し た 以 上 も は や 大 き な 危 険 は 無 い, と考 え た と 思 わ れ る 。 さ も な け れ ば788年 に, タ シ ロ は バ イ エ ル ン に 留 ま る か , 義 兄 弟 ラ ン ゴ バ ル ド国 王 ア ー デ ル ヒ ス 49) こ の記 述 を 裏 付 け る 資料 が1972年 Staatliche Liutprandが Bibliothekで 春Bernhard Bischoffに よ りRegensburger 偶 然 発 見 さ れ た。 こ の 資 料 は 僧 リ ゥ ト プ ラ ン ド タ シ ロの 息 女 コ タニCotaniに 宛 て た手 紙 で , こ の手 紙 に は, リ ゥ トプ ラ ン ドと無 名 のバ イ エ ル ンの僧 が フ ラ ンク王 国 の宮 廷 で行 な っ た交 渉 が失 敗 に終 っ た こ と, 更 に, 公 女 コ タ ニ に フ ラ ンク王 国 宮 廷 に 出頭 す る よ うに, と の命 令 が 下 って い る こ と, 早 急 に私 と共 に イ ンゲ ル ハ イム に行 かれ る よ うに, と い う 命 令 に近 い内 容 が 認 め られ て い る。 こ の発 見 に よ り 「ム ル バハ 年 代 記 」 の記 述 の 正 当 性 が 確 認 され た。Vg1. Bernhard Briefe aus Tassilonischer Akademie 50) und Bischoff, Salzburger Karolingischer der Wissenschaften,1973, M chen. Formelb Zeit,Verlag S.20f. und her und der Bayerischen 55. リ ゥ トビル ク につ いて は同 じ く僧 院 入 り した, と も, 不 詳 , と もさ れ る。 51)Adelchis, 生 没 年 不詳 。 最 後 の ラ ンゴバ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥス の子 息 ,759 年 以 降 デ ジ デ ー リゥ ス と国 王 の 肩 書 を 共 にす る。774年 父 と共 に カ ー ル大 帝 に よ り王 位 を 追 わ れ , デ ジ デ ー リゥ ス はパ ヴ ィ アで 抵 抗 を続 け たが , ア ー デ ル ヒスが 逃 れ た ヴ ェ ロ ーナVeronaは フ ラ ン ク王 国 に 降 伏 す る。 そ こで ア ー デ ル ヒス は ビ ザ ン ッ帝 国 に 逃 れ , 政 治 亡 命 者 と して 元 老 の 肩 書 を得 , そ の 地 で ラ ンゴバ ル ド王 国 復 興 の 努 力 を 続 け るが ,788年 カ ラ ブ リアKalabrienに 上 陸 した ビザ ンッの 派 遣 軍 が フ ラ ン ク王 国 派 の 軍 に 打 ち 破 られ , 最 終 的 に失 敗 に終 る。 再 論 :タ シ ロ三 世 Adelchis51)の 35 よ う に 亡 命 の 道 を 選 ん だ だ ろ う。 タ シ ロ は , 家 臣 に 加 わ る こ と が 廃 位 の 前 段 階 に な ろ う と は 予 想 だ に しな か っ た だ ろ う 。 そ れ に タ シ ロ に は , 自 らの 権 力 手 段 た る 妻 と 次 男 テ ー オ トペ ル ト, 更 に 財 宝 が カ ー ル の 手 の 届 か な い 所 に 温 存 さ れ て い る, と い う 自 負 も あ っ た 。 しか しカ ー ル の 奇 襲 攻 撃 は 完 全 に タ シ ロ の 裏 を か い た 」 一 一 「ム ル バ ハ 年 代 記 」 の 記 者 は788年 の記 述 の 末 尾 で カ ー ル 大 帝 を 大 仰 に 褒 め 称 え る こ と に よ り, 公 け に は カ ー ロ リ ン グ 派 の ポ ー ズ を と る 。 が , 実 際 に は 反 カ ー ロ リ ン グ 派 貴 族(=豪 族)の 側 に 立 っ て い た の か も知 れ ず , そ れ だ け に こ の 記 述 と 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 の 齟 齬 は 興 味 深 い , とBecherは 言 う。 2-9.788年 以 後 の僧 タ シ ロの運 命 タ シ ロ の 僧 院 入 り後 は 「王 国 年 代 記 」 は彼 の そ の 後 に っ い て 完 全 に 沈 黙 す る。 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 に と っ て は タ シ ロ の 支 配 領 域 は事 実 上 も国 法 上 も カ ー ル の 手 に 移 っ た の で あ ろ う が , バ イ エ ル ン で は フ ラ ン ク王 国 の 遣 り 口 の 合 法 性 に っ い て か な り疑 問 が 生 じ た ら し い 。 カ ー ル 自 身 も,794年 の 「ロ ル シ ュ 年 代 記 」 の 報 告52)に あ る よ う に , 疑 念 を 抱 い て い た 。 こ の よ う に Becherは 書 い て , フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 に 触 れ る 。 これ に タ シ ロ も僧 院 か ら連 れ 出 さ れ 参 加 す る 。 こ の 会 議 で 作 成 さ れ た 「覚 52) Annales Laureshamenses, Hannover.5.36. Et domno rege, tradens eam 王 と 和 解 に 移 譲 53) commissis sinodo Tom advenit omnem regi.「 SS .1, ed. Tassilo, potestatem von et G.H. Pertz,1826, pacificavit quarr in は ibi Paioaria cum habuit, そ し て そ の 王 国 会 議 に タ シ ロ が 現 れ , そ こ で 彼 は 国 し, 彼 が バ イ エ ル ン に お い て 持 っ て い た 権 能 を す べ て 放 棄 し そ れ を 国 王 し た 」 Franconofurtensis, aevi capitulum, Karoli ipso abnegans Karolini Hannover-Leipzig. est in domno Synodus Concilia in:MGH 書capitulum53)」 regis. in:MGH I. Pars LL I, ed. Nr.19(794)G.,5.165f. qui In culpis, dudum medio tam Baioariae sanctissimi quarr tempore von His dux III . Concilia, Albert de Tasiloni sobrinus concil Pippini Tom. II, Werminghoff,1906, peractis fuerat, adstetit domni secto C definitum videlicet veniam regis adversus domni rogans eum pro et 36 カ ー ル と タ シ ロ の 合 意 を 詳 し く伝 え て い る。 こ の 「覚 書 」 に よ れ ば , タ シ ロ は 従 兄 弟 カ ー ル と 和 解 し, 彼 が バ イ エ ル ン に 対 し て 持 つ あ ら ゆ る権 能potestasを 放 棄 す る 。 タ シ ロ は, 僧 院 に 捕 え られ て い た も の の , 政 治 的 に は権 能 を持 った大 物 だ った。 カ ー ル は タ シ ロを廃 位 させ は した が, 彼 の権 能 は入 手 regni p ut Francorum simi Karoli ab eo res puro in eo postmodum filiabus omni suis dilectionis inantea.「 sine motus, praefato et gratia visus pleniter est fil Tasiloni suscepisse, ut Et sua securus atque postulasse, de idcirco suis in ducato proiecit et, in et fil domnus et culpas aelemosina Parte iustitiam indulsit animo Dei nostri omnem filiabus repetitione gratuitu et in est Necnon vel ulla domni scandalum gurpivit commendavit. concessit visus omnem debuerant, lite calcanda, sub extiterat, indulgentiam petitione et sciebat. illi auf pertinere postea fidei suae atque fuisset in illius misericordia misericordia indulsit Tram quantum legitime quas humili animo perpetrata proprietatis, Baioariorum et fraudator accipere, videlicet sua, quaeque quarr regis, in quibus mereretur demittens et commiserat, eum misericordia ac noster, perpetratas in amore existeret そ の 後 で , 前 バ イ エ ル ン太 公 で 国 王 カ ー ル の 従 兄 弟 タ シ ロ に つ い て の 覚 書 が作 成 さ れ た。 タ シロ は神 聖 な会 議 場 の 中央 に立 ち, 国 王 ピ ピー ンの時 代 に 彼 及 び フ ラ ン ク王 国 に 対 し て な し た 過 失 に っ い て , 及 び , 後 に 敬 虔 な る 我 ら の 国 王 カ ー ル の元 で な した過 失 , 並 び に国 王 カ ー ル へ の誠 実 を裏 切 った罪 に っ い て赦 し を 求 め た 。 タ シ ロ は 国 王 か ら慈 悲 を 得 た い , と謙 虚 に 願 い 出 た 。 タ シ ロ は , 心 も清 ら か に , 彼 の 心 に 生 ま れ た 怒 り や 不 満 を す べ て 押 し鎮 め た , と 述 べ た 。 更 に 彼 は バ イ エ ル ン太 公 国 に お い て 彼 及 び 彼 の 子 息 息 女 に 法 律 上 帰 属 す る 全 て の 権 能 、 及 び財 産 を放 棄 した。 タシ ロ は, 騒 乱 がす べ て沈 静 化 した後 もそ れ らに っ い て返 還 請 求 を し な い こ と に 同 意 し, 彼 の 子 息 息 女 を 国 王 の 慈 悲 に 委 ね た 。 そ こ で 我 々 の 国 王 は , 憐 れ み の 情 に 動 か さ れ , 既 述 の タ シ ロ の 罪 過 を 大 らか に 赦 し, 暖 く タ シ ロ を 敬 愛 を 込 め て 受 け 入 れ た 。 神 の 恩 寵 に よ り国 王 の 立 居 振 舞 い は 以 後 晴 朗 だ っ た 」。 付 言 す る な ら ば , こ の に 対 す る 「罪 過culpae」 「覚 書 」 の 中 で ,Becherは , ピ ピー ン と カ ー ル を 厳 密 に 区 別 す る 。 上 の 日 本 文 は そ のBecherの 解釈 に 従 っ て 訳 出 し た 。 しか し ラ テ ン語 原 文 は , 読 め ば 分 る よ う に , 相 当 に 乱 れ て い る 。 従 っ て , こ の 原 文 はBecherの 解 釈 を許 さ な い こ と もな い が, そ の よ うな区 別 が 適 切 か ど うか は , 研 究 者 の 間 で も意 見 の 分 か れ る と こ ろ で あ る 。 も し峻 別 が 不 適 切 な ら, 訳 文4行 こ と に な る。 目 の 「並 び に 国 王 カ ー ル 」 を 「並 び に 国 王 た ち 」 に 改 め る 再 論 :タ シ ロ三 世 で き なか った。 何 故 な ら 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 第III章 第1項54)に 37 は太 公 職 は代 々 ア ギ ロル フ ィ ン グ家 に帰 す と明 記 さ れ て い るか らで あ る。 従 って カ ー ル が タ シ ロ の 権 能 を 入 手 す る た め に は タ シ ロ に そ れ を 自身 の 意 思 で 放 棄 さ せ な け れ ば な ら な か っ た 。 「覚 書 」 を 読 ん で 受 け る 印 象 は 「王 国 年 代 記 」 が 与 え る 印 象 と は 大 き く異 な る 。 こ の 「覚 書 」 は 王 国 官 房 の 手 に な る が , 事 柄 は 比 較 的 客 観 的 に 記 述 さ れ て い る , とBecherは 述 べ る。 カ ー ル に と っ て は タ シ ロ の 同 意 が 重 要 で , タ シ ロが 王 国 会 議 に現 れ る こ とで カ ール は 自 らのバ イエ ル ン占拠 の合 法 性 に対 す る 世 間 の 疑 念 を 払 拭 した か っ た 。 そ れ 故 , カ ー ル は タ シ ロ の 意 を 迎 え ざ る を 得 な か った。 この会 議 の場 で タ シ ロ は誠 実誓 約 違 反 の 罪 を る詐 欺 師fraudator fidei suae」 ピー ンに対 して は 「過 失culpae」 「自 らの 誠 実 を 騙 と の 表 現 で カ ー ル に 対 して は 容 認 す る が , ピ を 認 め る の み 。 「王 国 年 代 記 」 は , タ シ ロ は 両 者 に 対 し て 誠 実 誓 約 違 反 の 罪 を 犯 し た , つ ま り 「す べ て に 亙 っ て 誤 っ た 悪 し き 行 為 に 及 ん だin omnibus peccasse et male egisse(註39参 照)」, と して い た 。 フ ラ ン ク フ ル トの こ の 王 国 会 議 の 記 録 は ピ ピ ー ン時 代 の タ シ ロ の 「戦 列 離 脱 」 に っ い て は 一 切 触 れ て い な い 。 こ れ は 「王 国 年 代 記 」 に 対 す る 批 判 と 受 け 止 め ら れ よ う , とBecherは 言 う。 タ シ ロが 自 己 の持 っ 権 能 を公 的 に 放 棄 した こ と に よ り, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は , あ る い は 可 能 だ っ た か も知 れ な い お 家再 興 , の基 盤 を 法 的 に も失 う。 2-10.誠 実 誓 約 に 関 す る 「王 国年 代 記」 の 資料 価 値 以 上 の 検 討 か ら,787年 ま で の タ シ ロ に 関 す る 「王 国 年 代 記 」 の 報 告 は 改 竄 さ れ た 部 分 も あ れ ば 公 式 見 解 に 基 づ い て 書 か れ た 部 分 も あ る, とBecher 54) 「バ イエ ル ン部 族 法 典 」 第III章 第1項(208ペ ー ジ以 下)に よ れ ば 「太 公 は人 民 に君 臨 す る者 に して, 彼 は常 に ア ギ ロル フ ィ ンガ ー氏 族 よ り出 で た る もの , 且 っ 出づ べ き もの な り。 け だ し吾 人 の先 王 は, しか く彼 等 に承 認 した れ ば な り。 す な は ち ,彼 等 の氏 族 の 中 に て 國 王 に 對 し忠 實 に して 賢 明 な り し者 , か か る者 を ば, 彼 等(吾 人 の 先 王)は , そ の人 民 を支 配 せ しめ んが た め に太 公 に任 命 した る な り」 38 は 纏 め る 。 改 竄 部 分 は757年 及 び763年 の 報 告 , 即 ち タ シ ロの 誠 実誓 約 及 び 託 身 , 「戦 列 離 脱 」 で あ り, 公 式 見 解 に よ る 部 分 は748年 わ る バ イ エ ル ン を 巻 き 込 ん で の 戦 い の 報 告 と ,781年 ヴ ォ ル ム ス で の 出 会 い の 報 告 で あ る。Becherは 788年 の グ リー フ ォ に 関 のカ ール と タシロの , 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は の 裁 判 も カ ー ロ リ ン グ 派 の 見 地 か ら記 述 す る こ と に 努 力 し た が ,787 年 の報 告 だ け は ほ ぼ信 頼 で き る, とす る。 748年 ,757年 ,763年 に つ い て の 世 人 の 記 憶 は788年 に は色 褪 せ て い る。 従 っ て 王 宮 側 は 自 ら の 意 図 に 添 っ て 記 述 す る こ と が で き た 。 しか し781年 は 世 人 の 記 憶 に 未 だ 新 し い の で , 「王 国 年 代 記 」 も 真 実 に 若 干 奉 仕 す る 結 果 と な っ た が , こ の よ う な 「王 国 年 代 記 」 批 判 も, 同 時 代 の 年 代 記 が あ れ ば こ そ 可 能 で あ っ た 。 し か し例 え ば 信 頼 で き る 「編 年 誌 続 編 」 が あ る事 柄 に 対 し て 沈 黙 し て い る か ら と言 っ て , そ の 事 柄 の 存 在 が 否 定 で き る か と言 う と, そ れ は 不 可 能 , 沈 黙 は 否 定 で は な い の だ か ら, とBecherは 「王 国 年 代 記 」 が 書 き 始 め られ た 頃 , 即 ち787年 言 う。 頃, カ ー ル は様 々 な問 題 に 直 面 して い た :ザ ク セ ン人 の 相 変 わ らず の 叛 乱 ,786年 の ハ ル ドラ ドに 率 い ら れ た 東 フ ラ ン ク 人 と テ ィ ー リ ン ゲ ン 人 の 蜂 起 , ブ ル タ ー ニ ュ 人Bretonenの 暴 動 ,787年 の べ ネ ヴ ェ ン ト太 公 ア リ ヒ スArichis 謀 反 , そ れ に タ シ ロ の 不 穏 な 動 き 。789年 ン人Wilzenの 55) von Benevent55)の に は東 ス ラ ヴ人 の 一 派 ヴ ィル ッ ェ 侵 攻 。 カ ー ル は これ らをす べ て鎮 圧 し自 らの意 思 を貫 徹 す る Arichis von Benevent(*774一 太 公758一 †787)は , LMA, Bd.1, Sp.930f.に 。 よ れ ば,591年 以 来 ベ ネ ヴ ェ ン トを支 配 す る太 公 家 の 出 で, ラ ンゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リゥ スの 息 女 ア ーデ ル ペ ル ガAdelpergaと 結 婚 , タ シ ロ と は義 兄 弟 の 関 係 にあ っ た。 彼 の政 策 は支 配 権 の 拡 大 及 び保 全 に そ の中 心 が あ り, ラ ンゴバ ル ド王 国 , 教 皇 , ナ ポ リや ビザ ンッ帝 国 の 出 方 を 常 に注 視 して い た。774年 , ラ ンゴバ ル ド王 国 が カ ール 大 帝 に征 服 され る と, 彼 は, 自国 を ラ ン ゴバ ル ド王 国 の 後 継 独 立 王 国 と位 置 付 けて 王 座 に即 い た 。 ナ ポ リに 対 して 彼 は軍 事 行 動 を 繰 り返 した 。 そ の結 果,787年 , 教 皇 の 策 動 で カ ール に征 服 され , カ ール の 高権 を承 認 し人 質 と貢 納 金 を 差 出 す。 ア リヒス は ビザ ン ッ帝 国 とは良 好 な 関 係 を維 持 , 彼 の死 の 直 後 , ビザ ン ッ の 使 節 団 が 彼 を 元 老 に した 旨 を 伝 え に 来 た。 彼 は文 化 面 で も ベ ネ ヴェ ン トに貢 献 した。 再 論 :タ シ ロ三 世 39 こ の 時 代 は フ ラ ン ク 王 国 の 正 念 場 で あ っ た 。 従 っ て 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は こ の よ う な 危 機 感 を 背 景 に 執 筆 した 。 フ ラ ン ク 王 国 の 諸 太 公 も 公 式 に は フ ラ ン ク人 に 従 属 す る。 こ れ が 王 宮 の 考 え る 「正 義iustitia」 で あ っ た 。748年 タ シ ロ は ピ ピ ー ン か ら バ イ エ ル ン太 公 に 任 じ ら れ る, と さ れ る が , そ の の ち 独 立 を 謳 歌 し,763年 を788年 タ シ ロ は こ の 「正 義 」 を 破 っ て し ま う , そ う い う タ シ ロ 「正 義 」 感 に 燃 え る貴 族(一 豪 族 , 実 体 的 に は フ ラ ンク軍)が 断罪 す る, と い う の が 「王 国 年 代 記 」 記 者 の 記 述 の 骨 子 と な る , とBecherは そ し てBecherは 言 う : 「タ シ ロ に っ い て の 「王 国 年 代 記 』 の 詳 細 な 報 告 , 「正 義 」 と い う 言 葉 の 多 用 ,757年 788年 及 び763年 言 う。 の 事 態 の 改 竄 ,781年 お よび の 出 来 事 の 改 変 , こ れ ら は 単 に バ イ エ ル ン併 合 の 正 当 化 だ け を 狙 っ た も の で は な か っ た の で あ る 」(5.76) 2-11.誓 Becherは 約 ,788年 以 前 と以 後 , 現 存 す る 最 古 の 誠 実 誓 約 範 例Treueidformularは789年 実 誓 約 範 例(以 後789年Aと 省 略)と ,802年 の 誠 実 誓 約 範 例(802年B)と 年 の も う 一 つ の 誠 実 誓 約 範 例(802年C)の 56)誠 実 誓 約 範 例A:Duplex Francorum, Alfred domini mei ero diebus vitae meae edictum, Boretius, Caroli sine 同 二 つ , 合 計 三 つ で あ る56), と し , legationis ed. von ille partibus の 誠 Tom.1, regis fraude in:MGH Capitularia Regum Nr.23,18,5.63. Sic promitto et filiorum et malo eius, quia ingenio.「 fidelis ego sum et 私, 誰 某 は, 私 の 主 人 で あ る国 王 カ ー ル 及 び そ の 子 息 た ち に 対 して , 私 の生 存 中 , 邪 念 を 抱 い た り悪 心 を 起 こ し た り せ ず , 誠 実 で あ る こ と を 誓 う」 誠 実 誓 約 範 例802年B: ego, quod ab imperatori, fraude per ista sanctorum per meam attendam die inantea filio Pippini et malo sui, sicut isto 同 上 ,Nr.34,19,S.101. ingenio drictum regis de patrocinia voluntatem, et consentiam.「 in sum Berthanae parte esse quae fidelis et mea debet Sacramentale ad homo in hoc quantum suam qualiter domno pura partem et ad suo. loco sunt, quia mihi Karolo reginae, domino Deus repromitto Si me p simo mente absque honorem adiuvet diebus intellectum regni Deus vitae et meae dederit, sic 誓 約 に よ り私 は , 今 日 か ら先 , 敬 虔 な る皇 帝 カ ー ル , 国 王 ピ ピ ー ン及 び 王 妃 ベ ル タ の 子 息 た る カ ー ル に , 心 清 ら か に , 邪 念 を 抱 い 40 789年Aは786年 の ハ ル ド ラ ドの 蜂 起 を き っ か け に カ ー ル 大 帝 が 作 成 を 指 示 し た と 推 定 さ れ る 一 方 ,802年Bと802年Cは , 「正 義iustitia」 の強 調 が 見 られ る こ と か ら, タ シ ロ 問 題 と の 関 わ り を 連 想 さ せ る , と す る 。 こ の 三 っ の 誠 実 誓 約 範 例 の 相 互 関 連 は,789年Aは802年Bの は802年Bに 大 き く依 存 す る が ,802年B経 込 み ,802年Cは802年Bを い る, とBecherは (A)sacramentum: 手本 にな る 。802年C 由 で789年Aの 内 容 を も取 り 短 縮 し た も の に 留 ま らず 独 自 の 要 素 を 含 ん で 言 い, 誠 実 誓 約 範 例 に現 れ る個 々 の問 題 の検 討 に移 る 。 こ の 語 の 持 つ 意 味 の 一 っ , 「誠 実 誓 約 」 に つ い て の 歴 史 的 検 討 にBecherは 入 り, メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 で の 誠 実 誓 約 の 機 能 を 検 討 し 「メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 で は 誠 実 誓 約 は 国 王 即 位 に と っ て の 本 質 的 構 成 要 素 で は な か っ た 。 国 王 は , 即 位 す る と , 誠 実 誓 約 を 臣 下 か ら請 求 す る 。 誓 約 者 は 誓 約 の 提供 に よ りそ の 支 配 を 明 確 に 承 認 す る。 誠 実 誓 約 の 機 能 は, 従 って , 国 王 の 支 配 権 を 確 保 し拡 大 す る も の で は あ っ て も, 国 王 の 支 配 権 を 根 拠 付 け る も の で は な か っ た 」 と位 置 付 け る。 続 い て 彼 は , キ リ ス ト教 徒 と ロ ー マ 人 の 兀 で のSaCramentUmは , キ リ ス ト教 徒 に と っ て は で あ り, ロ ー マ 人 に と っ て は 「秘 蹟 」 「受 洗 の 誓 い 」 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 いFahneneid」 で あ った, た り悪 心 を起 こ した りせ ず , 彼 の 王 職 に対 して , 正 義 に則 り臣下 が そ の主 人 に対 して 在 るべ き よ う に誠 実 で あ る こ とを 誓 う。 神 の 励 ま しを受 けっ つ , こ こ に あ る 聖 遺 物 にか けて , 神 か ら授 け られ た 知 力 の 及 ぶ 限 り, 私 の生 存 中 , 私 の 意 志 に基 づ き, この 誓 約 に留 意 し同 意 す る こ とを 誓 う」(ベ ル タ=ベ ル トラ ー ダ) 誠 実 誓 約 範 例802年C: repromitto ego:domno 同 上 ,Nr.34,19,S」02, Sacramentale Karolo p Berthane, fidelis sum, sicut homo suum regnum habeo custodiam et ad suum et custodire isto die inantea, si me sanctorum rectum. adiuvet simo imperatori, filio Pippini per drictum debet esse domino Et illud sacramentum volo, in quantum ego Deus, qui coelum et terram quod qualiter regis et suo, ad iuratum scio et intellego,ab creavit,et ista patrocinia.「 誓 約 に よ り私 は, 敬 虔 な る皇 帝 カ ー ル, 国王 ピ ピー ン と ベル タの 子 息 た る カ ー ル に, 彼 の王 権 と彼 の 正 義 に対 して, 正 義 に則 り 臣下 が そ の 主 人 に対 して 在 るべ き よ う に誠 実 で あ る こ とを 誓 う。 私 の理 解 力 と知 力 の能 う る限 り, この 日か ら先 , 天 地 を 創 造 した 神 の 励 ま しを受 けっ っ , この 聖 遺 物 に か けて , 私 が 行 な った 誓 約 を 尊 重 し且 っ 尊 重 す る意 志 を 持 っ 」 再 論 :タ シ ロ三 世 と す る。 こ の 両 概 念 の 元 で 宗 教 者 た る 生 ま れ る 。sacramentumは 「キ リス トの 兵 士milites 41 Christi」 が 神 格 化 さ れ た 皇 帝 に 対 し聖 ・俗 界 に 亙 る 生 殺 与 奪 の 権 を 与 え る 。 「誠 実 の 誓 いsacramentum 辺 り に 求 め られ よ う , とBecherは fidelitatis」の 根 源 的 機 能 は こ の す る。 こ の よ う なsacramentumが ル マ ン人 と ロ ー マ 人 の 軍 事 的 接 触 に 媒 介 さ れ て , ゲ 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 の 概 念 で フ ラ ンク人 の 許 に入 る。 中 世 初 期 の フ ラ ンク人 に は戦 闘 員 と非 戦 闘 員 の 区 別 は も は や 無 く, 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 も 「臣 下 誓 約Untertaneneid」 も 同 義 で あ った 。 具 体 的 に言 え ば , ロ ー マ に服 属 した フ ラ ンク人 は ロ ー マの 支 配 域 辺 境 に 入 植 さ せ られ る こ と も あ り, 嘗 て の 敵 国 人 で あ る 彼 らか ら は 誓 約 が 求 め ら れ た 。 ま た ロ ー マ と の 諸 誓 約foederaに 基 づ き軍 務 に っ い た フ ラ ン ク 人 も い た 。 更 に フ ラ ン ク 人 諸 王 の 中 に も 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 を 固 あ た 上 で ロ ー マ 帝 国 指 導 部 に 参 加 した 者 も い た 。 これ ら の 人 々 の 行 な っ た 誓 約 は 「軍 務 誓 約sacramentum militiae57)」 に 纏 め ら れ る。 こ のsacramentum mili- tiaeが , ロ ー マ 軍 と 関 わ っ た ゲ ル マ ン人 を 経 て , ゲ ル マ ン諸 国 に 入 り, そ の 段 階 でmilitiaeが 一 般 ゲ ル マ ン人 に と っ て 概 念 的 に 把 握 し に く か っ た た あ 排 除 さ れsacramentumと な っ た 可 能 性 が 高 く, 古 代 か ら中 世 初 期 へ の 連 続 性 を こ のsacramentumに 求 め る と す れ ば , 「軍 旗 へ の 忠 誠 の 誓 い 」 と い う 概 念 を 介 して で あ る , とBecherは 分 析 す る。 支 配 者 が配 下 に誓 約 を行 な う よ う求 め る 時 点 に っ い て ,Becherは , ロ ー マ時 代 の軍 務 誓 約 は毎年 , メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 の 誠 実 誓 約 は 国 王 に と っ て 適 切 と思 わ れ た 時 点 , カ ー ル 大 帝 の 宣 誓 は カ ー ル の 決 断 に 従 って , で あ る , と述 べ る。 (B)pars:Becherは 「王 令 覚 書 集 」 や 「王 国 年 代 記 」 や に 現 れ るparsと い う 単 語 を 分 析 す る。 parsの 「編 年 誌 続 編 」 等 基 本 的 意 味 は , 全 体 の 「部 分 」 で あ り, これ は ロ ー マ の 法 律 用 語 に も 「互 い に 向 か い 合 う人 ・集 団 」 の 意 味 で 既 に 出 て き て い る , と言 う。 こ の 語 は 一 種 の 技 術 的 慣 用 語 と し て 使 用 57)Becherはsacramentum Soldateneidの 好 ま しい。 militareとsacramentum 訳 語 を 与 え て い るが , sacramentum militiaeの 双方 に militiaeに 統 一 す る こ とが 42 さ れ て い る も の でparsを 用 い な くて も そ の 主 旨 は 表 現 で き る が , こ の 語 を 用 い れ ば 読 者 の 理 解 を 得 や す い , と し,parsは , 対 等 な両 者 の一 致 を表 現 す る 場 合 は 主 格(pars, partes), 他 方 へ の 誓 約 ・服 属 ・朝 貢 を 表 現 す る 場 合 は 与 格(parte, partibus), 或 い は前 置 詞ad, te)表 現 さ れ る , と す る 。 parsの 「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 」 を 経 て Becherは (C)子 proを 伴 っ て(ad partem ,pro par- こ の 語 法 は , 「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 続 編 」, 「歴 史10巻58)」 に まで 遡 る こ とが で き る, と 言 う。 息 を 含 む 誠 実 誓 約 :バ イ エ ル ン 太 公 タ シ ロ3世 は757年 コ ン ピエ ー ニ ュ で フ ラ ン ク 国 王 ピ ピー ン と そ の 二 人 の 子 息 に 誠 実 誓 約 を 行 な った。 この よ う な , 王 子 を も含 め た 誠 実 誓 約 は そ の 例 が 過 去 に も若 干 見 ら れ る が , その 場 合 の前 提 条 件 は, そ の王 子 が 王 位 継 承 者 に指 定 され て い るか , 或 い は, 既 に 国 王 の ラ ン ク に 達 して い る か , で あ る, と す る 。 こ の 種 の 誠 実 誓 約 は 基 本 的 に メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 ま で 遡 及 し得 る, とBecherは (D)sine fraude et malo ingenio:763年 バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ は ピ ピ ー ン の 戦 列 を 離 れ た , と さ れ , 「王 国 年 代 記 」 で は こ しper malum ingenium, 邪 念 を 抱 い てper 況 が 説 明 さ れ る 。 一 方 ,789年Aに 年Bに はabsque fraude は, これ らの表 現 は et malo 言 う。 はsine ingenioと は 「悪 心 を 起 ingenia fraudulenta」 , タ シ ロ3世 と そ の状 fraude et malo であ り ,fraudulens, , この 種 の規 定 fraudulenter等 語 は, ロ ー マ時 代 を経 て メ ー ロ ヴ ィ ング朝 の 事 象 を 記 録 した史 書 ガ ル編 年 誌 」 や を 表 現 す る場 合 に 使 用 さ れ ,1975年 事 典Lateinisch-germanisches 58) の単 「フ レ ー デ 「フ レ ー デ ガ ル 編 年 誌 続 編 」, 更 に カ ー ロ リ ン グ 朝 に 入 っ て 「王 国 年 代 記 」 に も現 れ る と し, そ の 殆 ど す べ て が はuntriuwa(不 ,802 い う語 句 が 見 ら れ る。 Becher 「悪 意 阻 止 規 定Arglistklausel」 は ロ ー マ 時 代 に も あ っ た , と言 う。fraus ingenio のG Lexikon」 .K , 誠 実 誓 約 へ の違 反 行 為 blerの に は , frausは 誠 実), と示 さ れ て い る, とBecherは 「 歴 史10巻Decem Tours(*538/39一 libri historiarum」 †593)の 手 に成 る。 「ラ テ ン語 ゲ ル マ ン語 古 代 高 地 ドイ ッ語 で 指摘 す る。 以 上 の 検 は トゥー ルの グ レゴ リ ゥスGregor von 再 論 :タ シ ロ三 世 討 を 経 た 後 ,Becherは 及 び789年 と802年 「公 式 史 書 43 『王 国 年 代 記 』 に お け る使 用 語 彙 の 選 択 の 両 誠 実 誓 約 範 例 へ の 『悪 意 阻 止 規 定 』 の 組 み 込 み は , 同 一 の 支 配 構 想 に 発 し, タ シ ロ事 件 が そ の 根 底 に あ る」 と 明 言 す る。 以 上 の Becherの 検 討 結 果 か らす れ ば 「悪 意 阻 止 規 定 」 の 日 本 語 訳 は 「誓 約 に 違 反 せず 悪 心 を起 こ さず 」 と な ろ うか。 (E)誓 約 と代 理 人 :Becherは , 国 王 の代 理 人 が誠 実 誓 約 を受 け られ る か ど うか に つ い て 言 及 し, メ ー ロ ヴ ィ ン グ 朝 に お い て も, 太 公 , 伯 , 王 使 , 軍 司 令 官 等 が 王 に代 わ って 誓 約 を受 け る こ とが 常 態 で あ った こと を諸 種 の史 書 か ら証 明 す る 。 但 し, カ ー ロ リ ン グ 朝 に な っ て か ら暫 時 は 国 王 が 直 接 に 誓 約 を 受 け た よ う で あ る。 が , 全 国 民 か ら誠 実 誓 約 を 受 け る と な る と そ れ は 不 可 能 な の で , 王 使 に 代 行 さ せ た , と す る。 (F)dominusとhomo:802年B, い る が ,757年 Cで はdominusはhomoと 対 比 され て に タ シ ロ が カ ー ル に し た 誠 実 誓 約 で はdominusはvassus と 対 応 す る。 こ のhomoとvassusの 間 に は概 念 上 の 違 い は な く双 方 と も 「臣 下 」 の 意 で 用 い ら れ る , とBecherは 言 う59)。8世 紀 に は こ の 主 従 関 係 は 身 分 の高 い人 々 を もそ の対 象 にす る よ うに な った。 こ う した主 従 関係 の発 展 状 況 を 土 台 に 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は , タ シ ロ が 行 な っ た と さ れ る誠 実 誓 約 に 託 身 を 付 加 す る こ と に よ り, バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ の 従 軍 義 務 を 記 者 は 明 確 に し得 た , とBecherは (;豪 族)をdominus-homo関 指 摘 す る。 当 時 の 王 宮 の 最 大 関 心 事 は, 王 国 貴 族 係 に 位 置 付 け る こ と に よ って , 彼 らを王 国 の 軍 事 行 動 に 動 員 す る こ と で あ り , 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は , タ シ ロ を 手 玉 59)Becherは vassusは 更 にvassus dominiciに つ い て 説 明 す る(S.152f 「主 人 の 配 下 」 の 意 で , 厳 密 な 規 定 を 受 け た 術 語 で は な く 一 般 的 に 「従 属 者 」 を 示 す の み だ が , 単 な るvassiで 1iche .): ケ ル ト語 起 源 の Vasallen)と は な く てvassi dominici(;k6nig- な る と, これ は明 確 な概 念 規 定 を 持 ち, 司 教 , 僧 院 長, 伯 に 次 ぐ役 職 で , 主 た る仕 事 は , 国 王 の 指 示 に よ る 王 国 内 巡 行 , 王 宮 へ の 出 仕 及 び 王 国 会 議 へ の 出 席 で あ る 。 し か し そ の 最 大 の 任 務 は, 王 国 会 議 で 出 兵 決 議 が 下 さ れ ば そ れ に 従 っ て 軍 務 に 就 く こ と で , こ れ を 拒 否 す る と 官 職honorと ciumを 失 う 。 honorに っ い て は本 稿2-11.(1)参 照。 領 国benefi- 44 に 取 って , 王 国 の こ の よ う な 要 請 に 応 え た , とBecherは して ,802年B, Cの 文 言 は 「王 国 年 代 記 」 に 記 述 さ れ た タ シ ロ の 誓 約 文 言 に 共 通 す る 点 を 持 っが,上述の 「王 宮 の 最 大 関 心 事 」 か らす れ ば , こ れ は 当 然 の こ と で あ ろ う , と言 う。 (G)per per drictum:757年 iustitiaが タ シ ロ が カ ー ル に行 な っ た と され る 誠 実 誓 約 に 出 て く る。 ま た802年B, が 見 ら れ る 。Becherは tiaは 公IE aequitasと Cに はper drictum60)と い う語 句 , こ の 両 者 は 同 じ内 容 を 表 わ す , と 言 う。 正 義iusti共 に 古 来 キ リ ス ト教 世 界 の 支 配 者 の 持 っ べ き 徳 義 と さ れ る。 と こ ろ で 「正 義 」 は常 に 具 体 的 で あ る。 ラ ン ゴ バ ル ド人 か ら聖 ペ テ ロ の 「正 義 」 を 守 る た め に ピ ピ ー ン は 戦 争 を し た 。 ア キ タ ニ ア 太 公 ヴ ァ ィ フ ァ ル か ら 同 地 に あ る フ ラ ン ク王 国 教 会 の 「正 義 」 を 守 る た あ に 彼 は 戦 い を 構 え た 。 ア ヴ ァ ー ル 人 か ら キ リス ト教 会 の 「正 義 」 を 守 る た め に カ ー ル は 戦 い を 仕 掛 け た , と い う具 合 。 つ ま り 「正 義 」 は 戦 争 を 合 理 化 す る 中 心 的 概 念 と し て 用 い られ て き た , とBecherは 指 摘 す る 。 「正 義 」 は , 従 っ て , 具 体 的 内 容 を 持 っ が 故 に 「権 利 」 で も あ る。757年 誓 約 に お い て 初 め て こ のiustitiaが -homo関 に タ シ ロが 行 な った と され る誠 実 誠 実 誓 約 に 加 わ り, 「正 義 」 はdominus 係 と共 に 大 き な 力 を 発 揮 し , 臣下 即 ち誓 約 者 は, 支 配 者 の 義」 即ち 「権 利 」 の 尊 重 を 余 儀 な く さ れ る。per drictum及 びper 「正 iustitia の 意 を 充 全 に 伝 え る と す れ ば 「支 配 者 の 正 義 , 即 ち権 利 に則 っ て 」 と な ろ う。 因 み にdrictum, iustitiaは す る 『Recht』 (H)regnum ドイ ッ 語 で は 厂正 義 」 と が そ の 訳 語 に 当 て ら れ る。 et rectum:802年Cは regnum 誓 約 者 に 「彼(; と彼 の 正 義 へad suum カ ー ル は789年 「フ ラ ン ク王 国 の 国 王 に し て 導 き 手rex corum」 et ad suum と い う名 辞 を 自 ら に 与 え る。 rectorと 60)Becherに 「権 利 」 の 双 方 を 意 味 よれ ば(5.163), drictumは rectum」 カ ー ル 大 帝)の 王権 の 誠 実 を 義 務 付 け る。 et rector regni Fran- い う 名 辞 は806年 の 「王 国 分 平 俗 ラ テ ン語directum(=rectum)に 由 来 す る。 一 般 人 に誓 約 内 容 を理 解 し易 くす る ため に用 い られ たの だ ろ う, と さ れ る。 再 論 :タ シ ロ三 世 割 令Divisio regnorum」 に も出 て お り, 以 後 そ の 数 を 増 す 。 こ の よ う な 対 語 は 教 父 ア ゥ グ ス テ ィ ー ヌ スAugustinus61)の 名 辞 論N・mentheorie62)の 受 け た 結 果 で , 名 辞 論 は , セ ヴ ィ リ ァ の イ シ ドルIsidor プ リ ア ー ヌ スPseudo-Cyprian64)を von 経 て ア ル ク ィ ンAlcuinに ラ ン ク 王 国 に 影 響 を 与 え た , とBecherは 持 者rexの 45 影響 を Sevilla63), 偽 キ 受 け継 が れ , フ 言 う。 名 辞 論 に よ れ ば , 王 権 の 所 責 務 は 「曲 が っ た こ と を 矯 正 し, 正 し き を 鼓 舞 し, 聖 な る も の を 尊 崇 す る 」 こ と に あ り 「臣 下 の 導 き 手rector」 に な る こ と, そ れ を し な い 君 主 は 不 適 切 な 支 配 者 , 君 主 の 名 に 値 しな い 暴 君 , と さ れ る 。 こ の 影 響 を 受 け て カ ー ルが 自己 確 認 の た め に用 いた称 号 が 「王 者 に して 導 き 手 」 で あ り , そ の 対 応 と し て 「王 権 と 正 義 」 と い う 表 現 は 理 解 さ れ ね ば な ら な い , と 61)Aurelius Augustinus(*354-430)は テ ン ジ ゥ スHortensius」 , キ ケ ロCiceroの 失 わ れ た作 品 「ホ ル に刺 激 さ れ て 哲 学 と関 わ る よ うに な り, 後 に ロ ー マ で ア ム プ ロ ジ ゥ スAmbrosiusの 説 教 を 聴 き, キ リス ト教 に 生 き る 決 心 を す る。 西 方 教 会 の 教 父 と し て 最 も 重 要 な 人 物 で , ヨ ー ロ ッ パ の キ リ ス ト教 を 代 表 す る 一・ 人 。 彼 の 書 で カ ール 大 帝 に影 響 を与 え た の は リ ス ト教 の 教 えDe 62) doctrina christiana」 「神 の 国De civitate Dei」 と 「キ と され て い る。 名 辞 論 と は, 簡 単 に 言 え ば , 名 は体 を 表 わ す , と い う 説 で , 語 源 論 に も 関 連 す る 。rexの 63)Isidor 語 源 はregere「 von 統 治 す る , 正 し く 導 く」 及 び 「corrigere正 Sevilla(*560一 †636), す 」。 セ ヴ ィ リ ァ の 大 司 教 。 〈当 代 に 比 類 な き 学 者 , 世 の 終 り ま で 最 も 優 れ た 学 識 の 士 〉 と い う 賛 辞 に 違 わ ず , 神 学 ・歴 史 ・文 学 ・科 学 等 多 方 面 に 亙 っ て 多 数 の 著 書 を 残 す 。 彼 の 著 作 は , 古 代 の 文 物 に 関 す る 知 識 の 源泉 と して, 中世 を通 じて西 欧 世 界 に強 い影 響 力 を及 ぼ した。 彼 の著 作 の 一 部 は790年 代 にAlcuinグ ル ー プ に よ っ て 古 代 高 地 ドイ ッ 語 に 翻 訳 さ れ た , と 言 わ れ る。 64)Cyprianus von Karthago(*200/210一 項 に よ れ ば , 彼 は246年 †258), 平 凡 社 百 科 こ ろ キ リ ス ト教 に 回 心 し,249年 「キ プ リア ヌ ス 」 の カル タゴの司教 とな る 。 ヴ ァ レ リ ア ー ヌ ス 帝 に よ る 迫 害 の 中 で 殉 教 す る 。 迫 害 の 際 に 逃 亡 し後 に 教 会 に戻 っ た者 を受 け入 れ るべ きか ど うか が 問 題 と な っ た と き, キ プ リア ヌ ス は一 定 の 悔 い 改 め を 課 し こ れ を 行 な っ た 者 は 受 け 入 れ て よ し, と し た こ と か ら ロ ー マ と 対 立 す る。 彼 は, 真 の 教 会 と は 恩 恵 の機 関 で あ るが 故 に 「教 会 の 外 に 救 い は な い 」 と 言 え る , と 考 え た 。 彼 は 教 会 の 公 共 性 と 聖 性 を 強 く 自 覚 し た キ リ ス ト者 と して カ ト リ ッ ク 教 会 で 尊 ば れ て い る 。 後 に 彼 の 名 を 付 した 多 く の 偽 書 が 出 る 。 46 Becherは 説 く。 (1)honor regni:802年Bでad 分 が802年Cで honorは はad suum honorem regnum et ad regni suiと 表 現 さ れ て い た 部 suum rectumに 変 更 さ れ る。 メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 時 代 に は 「官 職 」 の 意 味 で 使 わ れ て い た 。 特 に 太 公 や宮 宰 等 の上 級 役 職 を示 した。 宮 宰 職 に多 くを送 り出 して い た カ ー ロ リ ン グ 家 一 統 の カ ー ル に は こ の 言 葉 は 馴 染 み 深 く, こ の 場 合 は 「honor regius」 っ ま り 「王 職 」 の 意 で こ の 語 は 用 い られ た の だ ろ う , とBecherは 推 断 す る 。 王 職 は(H)で 分 析 した よ うに 「王 権 と 正 義 」 に 密 着 す る も の で あ り, 従 っ て , 名 辞 論 の 影 響 下 に あ る こ の 表 現honor rectumと (J)誓 何 ら変 わ る と こ ろ は無 い , とBecherは 約 と キ リス ト教 :802年B,Cに regniはregnum et 言 う。 お いて 眼 前 の聖 遺 物 にか け て誓 約 す る こ と が 必 須 要 素 に な っ た 。 現 実 に 聖 遺 物 に 触 れ て の 誓 い か ど うか は 範 例 文 面 か ら は 分 らな い 。 しか し 「歴 史10巻 等 の 史 書 に よ れ ば ,6世 」, 「フ ラ ン ク 人 の 歴 史65)」, 「編 年 誌 」 紀 以 来 , 聖 遺 物 に 触 れ て の 誓 約 は 一 般 化 し た 。802 年 カ ー ル 大 帝 は こ れ を 誓 約 に 含 め た 訳 だ が , こ れ は757年 の 「タ シ ロ の 家 臣 誓 約 」 に つ い て の 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 と密 接 に 関 連 す る, とBecherは う 。 恐 ら く787年 に も タ シ ロ は757年 誓 約 を した の で あ ろ う が ,802年 同 様4或 い は5聖 人 の 聖 遺 物 に触 れ て に カ ール が この よ うな 宗 教 的 誓 約 の 実 施 を 決 断 した 狙 い は, キ リス ト教 及 び そ の 権 威 に 縋 り つ つ 貴 族(=豪 彼 の 王 権 を 承 認 さ せ る こ と, に あ っ た , とBecherは 《(A)一(J)の 65)Liber ま と め 》 カ ー ル 大 帝 に よ り789年 historiae Francorum.こ 所 業 」 と さ れ て い た が ,MGHの 言 の書 は 当初 族)た ちに 言 う。 と802年 「Gesta に 提 示 され た 三 っ Francorumフ ラ ン ク人 の 編 纂 を 通 して 現 書 名 に な っ た 。 著 者 も執 筆 場 所 も不 明 で あ る が , 本 書 の 内 容 は 主 と し て ノ ィ ス ト リア 関 連 の 事 象 に 限 ら れ , ノ ィ ス ト リ ア 人 の み を フ ラ ン ク 人 と し, ア ゥ ス ト リ ア 人 や ブ ル グ ン ド人 は フ ラ ン ク人 と は して い な い こ と か ら, 本 書 は ノ ィ ス ト リ ア 人 の 手 に な る も の , と想 定 さ れ , 執 筆 時 期 に つ い て は 諸 研 究 は 一 致 し て727年 考 に さ れ た 史 書 の 一一つ にGregor 対 象 時 期 は7世 von Toursの とす る。 この書 の記 述 に 当 た って参 「歴 史10巻 」 が 挙 げ られ , 記 述 紀 末 以 後 で , こ の 時 期 に 関 す る 記 述 は 信 頼 で き る, と さ れ る 。 再論 :タシロ三世 47 の誠 実 誓 約 範 例 に基 づ い て フ ラ ンク王 国 の諸 種 誓 約 に用 い られ て い る言 葉 を 「王 国年 代 記 」 及 び 諸 種 史 書 に 当 た って 検 討 した 結 果 , 次 ぎ の諸 点 が カ ール 大 帝 に よ り新 た に誓 約 に追 加 さ れ て い る こ とが 明 ら か に な っ た :第1点 , 「誓 約 に違 反 せ ず 悪 心 を起 こさず 」 と い う悪 意 阻 止 規 定 , 第2点 , 「主 人 と臣 下 」 の関 係 , 第3点 , 「正 義 に基 づ き」 と い う文 言 , 第4点 , 聖 遺 物 に触 れ て の キ リス ト教 的誓 約 , 第5点 , カ ー ル の 「王 権 と正 義 」 へ の絶 対 的服 従 , 及 び 「王 者 に して導 き手 」 とい う王 職 の定 義 , 第1点 及 び第2点 代 記 」 で757年 に タ シ ロが 行 な った と報 告 さ れ て い る誠 実 誓 約 に も盛 り込 ま れ て い る要 素 で あ る。 第5点 Zacharias(在 位741-752)の リヒ3世Childerich 用 い た論 理 は 「王 国 年 は, 既 に ピ ピー ンが , ロ ー マ教 皇 ツ ァハ リア ス 助 言 も得 て ,751年 メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 国 王 ヒル デ III.か ら王 位 を簒 奪 , フ ラ ン ク王 国国 王 に即 位 した 際 に 現 実 の検 証 を経 た論 理 , で あ る, とBecherは これ ら789年 と802年 言 う。 の誠 実 誓 約 範 例 は, 誓 約 者 を支 配 者 へ の絶 対 服 従 に 追 い込 む こ とに よ り, カ ール 大 帝 の 新 た な 諸 施 策 に対 す る一 切 の 反 抗 を 押 さ え付 け, 同 時 に貴 族(=豪 族)を 始 め とす る全 国民 を カ ー ル の 意 図 す る戦 争 に駆 り立 て る こ とを 目的 と した もの, とBecherは (K)誠 実 誓 約 範 例789年Aの 言 う。 実 施 規 定 :メ ー ロ ヴ ィ ン グ朝 の全 般 的 誠 実 誓 約 は残 って い な いが , 誠 実 誓 約 は6世 紀 以 来 存 在 した。 カ ー ル はハ ル ドラ ド の 叛 乱 を 鎮 圧 後 , 叛 乱 に 同調 した貴 族(=豪 族)の 言 葉 , 国 王 に誠 実 誓 約 を 行 な った者 に しか 国 王 へ の 誠 実 義 務 は無 い, に愕 然 とす る。 そ こで カ ール は, この実 施 規 定 で, 王 国 の成 人 全 員 一 一司教 を先 頭 に伯 や貴 族(=豪 て, 徴 兵 対 象 の非 自 由民 に至 るま で一 こ の789年 族)を 経 に誠 実 誓 約 を行 な わ せ るよ う定 め る。 の誠 実 誓 約 は 「全 般 的誠 実 誓 約 」 の皮 切 りで, 導 入 目的 は, 当初 は, 謀 反 人 の 処 罰 で あ った。 この誓 約 は王 国 民 全 体 に課 せ られ た ので , 国 王 と貴族(=豪 (L)802年 族)の 間 に距 離 を 置 く結 果 を 生 ん だ , と もBecherは 言 う。 の両 誠 実 誓 約 範 例 の実 施 規 定 :この実 施 規 定 で カ ー ル は, 従来 の 誠実誓約観一 国 王 の生 命 を狙 う陰謀 及 び外 敵 との結 託 の み を禁 じて い た と 受 け取 られ て い た捉 え方 一 一 を否 定 し, 新 しい誠 実 誓 約 観 を具 体 的 に提 示 す 48 る 。 即 ち ,(a)神 の 掟 に 従 う義 務 と 並 ん で ,(b)国 教 会 , 弱 者 及 び 介 護 を 必 要 と す る 人 々 の 保 護 ,(d)国 正 な 公 務 の 執 行 , を 挙 げ る。(a)で 王 へ の 服 従 ,(e)公 は , 王 国 は 神 か ら授 け ら れ た と さ れ , 神 に 誠 実 な 者 は 同 時 に 王 に 誠 実 な 者fideles る。(b)で 王 の 財 物 の 尊 重 ,(c) Dei et regisで あ る こ と が 説 か れ は , 王 領 地 の 横 領 ま が い の 行 為 を 非 難 ,(c)で は, 国 王 が この よ う な 保 護 に 甚 く気 を 遣 っ て い る こ と を 国 民 に 知 ら せ ,(d)で は, カ ー ル は 国 民 の 従 軍 態 様 を 詳 細 に 規 定 し 同 時 に 従 軍 義 務 を 強 調 す る。 《(K)と(L)の ま と め 》786年 の ハ ル ド ラ ドの 叛 乱 , 及 び787年 の タシ ロ の 服 属 以 来 , 支 配 者 と 臣 下 の 関 係 を 見 る カ ー ル の 目 は大 き く変 化 し た 。 そ の 一 例 が 従 来 の 誠 実 観 が789年 点 で あ る, とBecherは 並 び に802年 に お い て 大 き く拡 大 さ れ て い る 言 う 。 こ の 全 般 的 誠 実 誓 約 が , 後 に は未 成 年 者 を も そ の 誓 約 者 に 加 え て い る こ と か ら, カ ー ル に と っ て 如 何 に 重 要 な 政 策 手 段 で あ っ た か が 理 解 さ れ よ う。789年 の 実 施 規 定 が 全 般 的 誠 実 誓 約 に取 り組 む カ ー ル の 戦 術 を 表 現 す る, と す る な ら,802年 の実 施 規 定 は カ ー ル の支 配 者 と し て の エ ト ス を 示 し た , と言 え よ う。 2-12.全 以 下 にBecherに 体 総 括 よ る全 体 的 総 括 の概 要 を示 そ う :カ ー ル は, フ ラ ン ク王 国領 土 を拡 大 した た あ, 存 命 中 に既 に大 帝 の 添 え名 を 獲得 した 。786年 カー ル はハ ル ドラ ドに誓 約 を さ せ るが, これ は フ ラ ン ク王 国領 内 の人 間 に彼 が さ せ た最 初 の誓 約 で あ る。 既 に早 くか ら国制 史研 究者 の 間 で は,789年 に続 く 802年 の 誓 約 と, 「王 国 年 代 記 」 に 記 述 され て い るバ イエ ル ン太 公 タ シ ロが した と さ れ る757年 の 家 臣 誓 約 との 関 連 が指 摘 され て い た。 「王 国 年 代 記 」 748年 ,781年 及 び788年 の報 告 に つ い て, 部 分 的 に, ア プ ロー チ は異 な る が, 「王 国 年 代 記 」 に依 拠 しな い 自立 的 な他 の年 代 記 か ら傍 証 を得 られ た が, 757年 の記 述 に つ い て は ま った く傍 証 は無 い。 従 って, この記 述 を捏 造 とす る議 論 を 否 定 で き な か っ た。 ま た748年 に タ シ ロ は 「ピ ピー ン の温 情 に よ り」 バ イエ ル ン太 公 に任 じ られ た訳 で もな か った。763年 の バ イエ ル ン太 公 再 論 :タ シ ロ三 世 の 「戦 列 離 脱 」 も で っ ち 上 げ で あ る 。781年 49 タ シ ロ は ヴ ォル ム スの 王 国会 議 に 参 加 す る が , カ ー ル に 家 臣 誓 約 の 更 新 も誠 実 誓 約 も し て い な い 。 だ が787 年 の叙 述 , タ シ ロが カ ー ル の家 臣 に な った, との叙 述 だ け は他 の年 代 記 か ら も傍 証 を 得 られ る , 但 しそ れ は 当 然 , 過 去 に な さ れ た 家 臣 誓 約 の 反 復 と し て で は な い 。788年 の タ シ ロ裁 判 にっ い て の 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 は 「詩 と 真 実 」 の 綯 い 交 ぜ で しか な い 。 しか し 「王 国 年 代 記 」 記 者 は , カ ー ル 大 帝 に よ る バ イ エ ル ン併 合 を 正 当 化 す る 目 的 だ け を 追 求 した の で は な か っ た 。 彼 は , ア ル ヌ ル フ ィ ン グ家66)に 匹 敵 す る ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 出 身 の タ シ ロ を 例 に と りっ っ , 併 せ て 国 王 と貴 族(=豪 族)の 関 係 , 即 ち 命 令 と服 従 の 関 係 , の 定 着 化 を も狙 っ て い た の で あ る 。 バ イ エ ル ン太 公 は , 昔 か ら フ ラ ン ク国 王 に 公 式 的 に は 従 属 して い た も の の , 事 実 上 は 独 立 を 享 受 しっ っ , 太 公 と し て フ ラ ン ク 王 国 貴 族(=豪 族)の 代 表 者 と言 っ て よ か った 。 こ の タ シ ロ を 臣下 と し て 描 く こ と が 「王 国 年 代 記 」 記 者 の 最 大 使 命 で あ っ た 。 タ シ ロ を う ま く失 脚 さ せ た カ ー ル は ,789年 全 般 的 誠 実 誓 約 を 王 国 内 で 実 施 す る。 こ の 誓 約 文 言 に 「邪 念 を 抱 か ず(=誓 約 に違 反 せ ず)悪 が 入 る 。 こ の 文 言 は , タ シ ロ が763年 る 「王 国 年 代 記 」 の 表 現 心 を 起 こ さ ず 」 と い う悪 意 阻 止 規 定 に 犯 し た と さ れ る 「戦 列 離 脱 」 を め ぐ 「悪 心 を 起 こ し」 及 び 「邪 念 を 抱 い て 」 と軌 を 一 に し, こ の 表 現 が 同 一 の 発 想 か ら出 た こ と は 明 白 で あ る 。 ま た789年 誠 実 誓 約 に は 「主 人 一 臣 下 」 の 対 応 表 現 が あ る が ,757年 の タ シ ロが 行 な っ た と さ れ る 家 臣 誓 約 に も 同 様 の 表 現 が あ る。 タ シ ロ に つ い て の 記 」 の 記 述 中 の 多 く の 要 素 が802年 とdrictumも 66) 宮 宰)の 娘 ベ ッ ガBeggaは (=ピ 「王 国 年 代 の 全 般 的 誠 実 誓 約 と 一 致 す る 。iustitia そ う で あ り, 聖 遺 物 に 触 れ て の 誓 約 に っ い て も両 者 は 一一致 す ピ ピー ン家(一Pippiniden)の フ(メ の全 般 的 大 ピ ピー ン(=ピ ピー ン1世 ア ル ヌ ル フ ィ ン グ家(=Arnulfinger)の ス司 教)の 子 息 ア ンゼ ギ ゼ ル(Ansegisel, ピ ー ン2世)を Martel1)で , ア ゥス ト リア 宮 宰)と アル ヌル 結 ばれ , 中 ピ ピー ン 成 す 。 中 ピ ピー ン の 子 息 が カ ー ル ・マ ル テ ル(=Karl カ ー ロ リン グ家(=Karolinger)の 名 は こ の カ ー ル ・マ ル テ ル に 由 来 す る。 カ ール ・マ ル テル の 子 息 が 小 ピ ピー ン(=ピ ラ ン ク王 国 国 王)で , そ の 長 男 が カ ール 大 帝 。 ピー ン3世 , 宮 宰 , 後 に フ 50 る これ らの こ と は驚 くにあ た らな い 。 と言 うの も, 「王 国 年 代 記 」 に し て も全 般 的 誠 実 誓 約 に して も王 宮 周 辺 か ら生 み 出 され た もの で あ り,790年 頃 は,741年 に遡 って の 「王 国 年 代 記 」 が 王 宮 周辺 で一 気 に書 き下 ろ され っ っ あ った か らで あ る。 一 方 ,802年 の 全 般 的 誠 実誓 約 の 持 つ諸 要 素 の 中 に は, メ ー ロ ヴ ィ ング朝 時 代 と も, 「王 国年 代 記 」 の タ シ ロ記 述 と も関 連 を 持 た な い 部 分(「 正義rectum」 , 「国民の導 き手rector」, 「王 の職位honor regni」 等)が あ る。 これ らは, ア ル ク ィ ンが 媒 介 した 名 辞 論 の 影 響 下 に 生 まれ た もの で , 力 に よ る政 策 を 進 め て 来 た カ ール 大 帝 が 更 な る支 配 原 理 を 求 あ た 証 左 で あ る。 802年 の 実 施 規 定 で カ ー ル は そ の支 配 の 根 本 理 念 を初 め て 明 らか に す る :キ リス ト教 の 理 念 に基 づ き神 の 掟 に適 う生 活 を 営 め , 支 配 者 の 財 物 を 尊 重 せ よ, 教 会 及 び弱 者 を , 寡 婦 を 保 護 せ よ, 国 王 に服 従 せ よ ,即 ち 無 条 件 に 徴 兵 命 令 に応 ぜ よ, 云 々 。 これ らの 政 策 理 念 を 掲 げっ つ , カ ー ル は社 会 に お け る 自己 の 支 配 者 と して の 役 割 を 貫 徹 す る意 志 を 明 らか に し, そ の た め の 手 段 と して 誠 実 誓 約 を 王 国 内 の 成 人 全 員 に行 な わ せ る。 従 って802年 は, カ ー ル に と って は, 貴 族(=豪 の 全般 的 誠 実 誓 約 族)の 跳 梁 跋 扈 を 許 す 既 存 秩 序 を 変 革 せ ん とす る彼 の 努 力 に合 法 性 の 衣 を 被 せ る唯 一 の 強 力 な 政 策 手 段 で あ った 。 こ の 全 般 的 誠 実 誓 約 が 新 しい支 配 者 エ トスを 押 し広 あ る役 目を 担 う。 3.784年 と タ シ ロ3世 「誓 約 と支 配 」 に お け るMatthias Becherの 所 論 を背 景 に, 先 ず, バ イエ ル ン と フ ラ ン ク 王 国 の 対 抗 関 係 が 従 来 ど の よ う に 捉 え られ て き た か , に っ い て , 目 を 引 く論 述 , と り わ けBecherの 論 考 に そ の 基 盤 を 提 供 した と 考 え ら れ る 論 述 等 を 取 り上 げ て そ の 概 要 を 述 べ , そ の 後 で784年 に起 きた フ ラ ンク 人 に よ る ボ ー ツ ェ ン67)事件 を 両 国 の 対 抗 史 の 中 に 位 置 付 け て み た い 。 67) エ ッ チ ュ 河 谷Etschtalの リ ア 領(イ 北 辺 , ア イ ザ ク 河Eisackに タ リ ア 名Bolzano), 面 す る町 , 現 在 は イ タ 当 時 は バ イ エ ル ン太 公 国 領 。 ブ レ ン ナ ー 峠 を 経 て バ イ エ ル ン と イ タ リ ア を 結 ぶ 交 通 の 要 衝 。 パ ゥ ル ス ・デ ィ ァ コ ー ヌ スPaulus Diaconusに よ れ ば , 既 に680年 に こ こ に は ロ ーマ が 作 った 城 砦 が あ った 。 再論 :タシ ロ三世 19世 紀 末 ,Rankeは 彼 の浩 瀚 な著 作 カ ー ル大 帝 を 51 「世 界 史 の 執 行 者 」 と 褒 あ 称 え る68)。 「世 界 史 」 の 中 に タ シ ロ3世 も登 場 す る 。Rankeの 見地か らす れ ば , カ ー ル 大 帝 に 対 抗 し抵 抗 を 続 け る バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ3世 , ベ ネ ヴ ェ ン ト太 公 ア リ ヒ ス, ラ ン ゴ バ ル ド国 王 ア ー デ ル ヒ ス等 の 存 在 は許 さ れ な い69)。「タ シ ロ の よ う な 太 公 , 自 分 を ヨ ー ロ ッパ の 王 侯 と も感 じて い る よ う な 太 公 が 存 在 し て い た な ら, ドイ ッ の 国 家 統 合 は 決 し て 有 り得 な か っ た だ ろ う70)」 と ま でRankeは タ シ ロ を 扱 き下 ろ す 。 Rankeの タ シ ロ3世 像 を読 む と 「王 国 年 代 記71)」 が そ の 下 敷 き に な って い る こ と が 手 に 取 る よ う に 分 る 。 即 ち , タ シ ロ は ,757年 フ ラ ン ク国 王 ピ ピ ー ン に 家 臣 誓 約 を 行 な い ,763年 ピ ピ ー ンの ア キ タ ニ ア戦 役 で 「戦 列 離 脱 」 を 行 な い ,781年 カ ール と ロ ー マ 教 皇 か ら既 に 為 さ れ た 家 臣 誓 約 を 忘 れ な い よ う厳 し く警 告 さ れ ,787年 ル に 降 伏 後 , 家 臣 誓 約 を し,788年 髪 さ れ る72)。794年 カー カ ー ル大 帝 の赦 免 を得 て死 刑 を 免 れ の フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 に つ い て は は , 既 述 の よ う に , 一 切 記 し て い な い 。 同 様 にRankeも , 剃 「王 国 年 代 記 」 , 僧 タ シ ロが最 後 に 出 席 し た こ の 王 国 会 議 に っ い て 一 言 も 触 れ な い し, 「王 国 年 代 記 」 同 様 , そ の 死 に っ い て も沈 黙 す る。 偉 大 な 世 界 史 学 界 の 重 鎮Rankeに れ た この よ って 描 か 「タ シ ロ 像 」 が , ドイ ッ に お い て も 日本 に お い て も長 い 間 , 「ドイ ッ 史 」 に お け る一 般 的 な 「タ シ ロ像 」 で あ り続 け て 来 て い る, と言 っ て も 過 68)Leopold von Bd.8,14. Ranke(*1795-t1886) Kapitel, 「世 界 史 」 hg. は1881年 von , Karl Horst Michael, 以 後 の 執 筆 , der Gro゚e, Hamburg, in:Weltgeschichte oJ.(1928?). と さ れ て い る 。 彼 は1865年 にvonの S.412.彼 の 称 号 を 得 て い る。 69) Ranke, Karl der Gro゚e,5.414 . 70) Ranke, Karl der Gro゚e,5.419 . 71) 註14に あ る よ う にRankeは 年 代 記 は ロ ル シ3で Laurissenses S.247に 「王 国 年 代 記 」 研 究 者 と し て も 知 ら れ る 発 見 さ れ た と の こ とで 当 初 maiores」 と呼 ば れ た が , Wattenbach-Levison, よ れ ば, ラ ン ケが これ を 「Annales Regni Ranke, Karl der Gro゚e,5.415-418 . Geschichtsquellen, Francorum」 め そ れ が 先 例 と な っ て 現 在 の 名 称 が 定 着 ・一 般 化 した 。 72) 。 この 「ロ ル シ ュ 年 代 記Annales と名 付 け た た 52 言 で は な い。 この 「タ シ ロ 像 」 に 対 し,20世 紀 に 入 る と , ドイ ツ 法 制 史 及 び 国 制 史 関 係 者 か ら質 的 に 異 な る 「タ シ ロ像 」 が 対 置 さ れ 出 す 。 こ れ ら研 究 者 も基 本 的 に 「王 国 年 代 記 」 の タ シ ロ 記 述 を 尊 重 す る が , 「王 国 年 代 記 」 に 見 ら れ な か っ た タ シ ロ太 公 及 び カ ー ル 大 帝 の 側 面 を 強 調 す る。 例 え ばRosenstockは , タ シ ロ も, カ ー 一ル 同 様 , 神 の 恩 寵 を 受 け て い る人 間 で , 何 の 問 題 も起 こ さ ず に , バ イ エ ル ン太 公 国 を 率 い , 妻 リ ゥ ト ビ ル ク を 裏 切 る こ と も な く, ロ ー マ 教 皇 の 庇 護 を 受 け っ っ 申 し分 の 無 い 平 和 な 暮 し を 営 む , と 言 う73)。772年 タ シ ロ は 子 息 テ ー オ ドに ロ ー マ 教 皇 か ら洗 礼 を 受 け さ せ ,777年 彼 を共 治 太 公 Mitregentに 第1項 据 え る 。 こ れ は 「バ イ エ ル ン 部 族 法 典 」 第III章 の規 定 に 沿 っ た 処 置 で あ る が , こ の 規 定 の た め に カ ー ル は バ イ エ ル ン に 手 出 しが で き な い74)。 カ ー ロ リ ン グ 家 す ら こ の よ う な 規 定 に よ っ て は そ の 王 位 が 保 証 さ れ て はい な か った の で あ る。 ア ル ヌル フ ィ ング家 が フ ラ ンク王 国 の 宮 宰 に過 ぎ な か っ た 頃 , ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は バ イ エ ル ンで 既 に 国 王 に 等 し い 権 力 を 手 に 入 れ て い た 。 古 い 貴 族(=豪 族)の 家 柄 と して ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は ア ル ヌ ル フ ィ ン グ家 に 引 け を 取 ら な か っ た 。 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は ア レマ ニ ア や ブ ル グ ン ドに も有 力 な 縁 者 を 持 ち , ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 の 潜 在 的 な 勢 力 は 侮 れ な か っ た 。 カ ー ル 大 帝 が そ の 子 息 た ち に ロ ー マ 教 皇 か ら洗 礼 を 受 け さ せ る の は タ シ ロ に 後 れ る こ と9年 ,781年 で あ る。 カ ー ル 大 帝 に と っ て は ア ル ヌ ル フ ィ ン グ家 に 匹 敵 す る伝 統 あ る名 家 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 が 存 在 す る こ と 自 体 が 大 き な 苛 立 ち で あ っ た75)。 カ ー ル は タ シ ロ の 外 堀 を 埋 あ る方 策 を 取 る。 73) Eugen Rosenstock, Herzogtums Bayern, Deutsch, hg. 66,Anm.172に sischen Unser von Volksname in:Wege Hans Eggers よ れ ば ,1928年 Gesellschaft f der 1970, Deutsch Forschung Darmstadt. und die Aufhebung Bd.156, S.51.こ Der Volkskunde, hg. Breslau,1928)0 74) Rosenstock, Unser Volksname Deutsch,5.52. 75) Rosenstock, Unser Volksname Deutsch,5.52. von Theodor Volksname の 書 は 註79の に 既 に 公 刊 さ れ て い る(Mitteilungen Siebs, des 書 のS. der Schle- Bd. XXIX, 再 論 :タシ ロ三 世 彼 は ,781年 の子 息 た ちへ の ロ ー マで の洗 礼 の機 会 を , ロ ー マ教 皇 を タ シ ロ か ら離 反 さ せ る 手 段 と して も使 う76)。787年 王国会議で 53 秋 , カ ー ル は ア ゥク ス ブ ル ク の 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 に タ シ ロ の 手 足 を 縛 る 新 し い 規 定 , バ イ エ ル ン太 公 に と っ て こ の 上 な く屈 辱 的 な 法 規 定 , 所 謂 silO」 を 潜 り込 ま せ る こ と に 成 功 す る 。 こ の ン 部 族 法 典 , 第II章8a77)」 「タ シ ロ条 項lex 「タ シ ロ 条 項 」 と は Tas- 「バ イ エ ル で あ り, 傲 慢 で 反 抗 的 な 太 公 を 破 門 しそ の 領 国 を 取 り上 げ る こ と を 内 容 と す る78)。 バ イ エ ル ン太 公 国 の 南 の 国 ラ ン ゴ バ ル ド 王 国 を 滅 ぼ して 南 接 の 外 堀 を 埋 め , タ シ ロ に 残 っ た 最 後 の 味 方 で あ る ロ ー マ 教 皇 を タ シ ロ か ら離 反 さ せ , 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 に 入 し, バ イ エ ル ン の 大 部 分 の 貴 族(=豪 族)を 「タ シ ロ条 項 」 を 挿 カ ー ル の 手 下 に し79), ザ ク セ ン情 勢 も ほ ぼ 安 定 を 見 た 今 , カ ー ル は 圧 倒 的 軍 事 力 を 誇 る フ ラ ン ク 軍 を 背 景 76) Rosenstock, Unser Volksname Deutsch ,5.53. 77)「 バ イ エ ル ン部 族 法 典 第II章 第8項a」 , 「も しそ の太 公 領 の , 國 王 が 任 命 した る誰 か 太 公 が, 無 鐵 砲 ま た は頑 冥 , ま た は輕 率 に 煽 動 せ られ , 或 は無 恥 且 っ 尊 大 , ま た は 高 慢 且 っ好 戦 的 に して , 國 王 の命 令 を 輕 視 した る と き は,[國 王 の] 贈 物 た るそ の 太 公 位 を 喪 失 す べ く, しか の み な らず , 彼 は天 國 を 望 む 希 望 を 剥 奪 せ られ た る こ とを 知 るべ く, 救 い の力 を失 ふ べ し」(「バ イエ ル ン部 族 法 典 」194 ペ ー ジ)。 78)Rosenstock, Unser Volksname Deutsch ,S.57-66.「 タ シ ロ条 項 」 が 「バ イ ェ ル ン部 族 法 典 」 に挿 入 され た 時 期 につ い て は研 究 者 間 に 多 く の議 論 が あ る が , 787年 か788年 と い う こ とで 大 体 は一 致 して い る。Rosenstockは , 当時の歴史 状 況 等 か ら考 え て, ま た, この条 項 の太 公及 び バ イエ ル ン人 に対 す る侮 辱 的 内容 か ら して,787年 に タ シ ロが レ ヒ河 畔 で カ ー ル の軍 門 に降 った とき以 外 に は挿 入 時 期 は考 え られ な い, とす る。787年 秋 に は バ イエ ル ンの地 ア ゥク ス ブ ル クで王 国 79) 会 議 が 開 か れ て い る こ とか ら も,Rosenstockの この 判 断 は妥 当, と され て い る。 Heinrich Mitteis, Lehnrecht und Staatsgewalt-Untersuchungen zur mittelalterlichen Verfassungsgeschichte,1958, Darmst弓dt.に は次 ぎ の よ うな 記 述 が 見 られ る :「タ シ ロ裁 判 の皮 切 りはバ イ エ ル ンの フ ラ ンク派 家 臣 が 務 あ た。 彼 ら フ ラ ン ク派 の タ シ ロの 家 臣 らは彼 らの主 人 タ シ ロ3世 の 監 督 役 と して 機 能 し た(S.68f.)」 及 び 厂この 裁判 が う ま く行 った とす れ ば, そ の 大 部 分 は これ ら フ ラ ン ク派 家 臣 の お 蔭 で あ った , と カ ール は知 っ た よ うで あ る。 とい うの も今 や , い ず れ は フ ラ ン ク王 国 の 権 益 下 に入 る王 国 外 部 の 王 侯 や 家 臣 に この 政 治 的 託 身 を さ せ, 彼 らを 支配 関 係 の 中 に 取 り込 む か らで あ る(S.70)」 54 に タ シ ロ に 迫 る 。Rosenstockは を 威 嚇 す る 。788年 言 う : 「『タ シ ロ 条 項 』 は 王 命 に 従 わ ぬ 太 公 タ シ ロ は 王 命 に 従 い イ ンゲ ル ハ イ ム に 来 る 。 こ の 条 項 の 存 在 自 体 が タ シ ロ を カ ー ル の 仕 掛 け た 罠 に 落 と し込 む 。 タ シ ロ は こ の 条 項 の 適 用 を免 れ る た あ に為 さ ざ る を得 な い対 応 を した。 タ シ ロに は イ ンゲ ルハ イ ム の 王 国 会 議 か ら逃 れ る 術 は 無 か っ た80)」 と 。Rosenstockは こ こに カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と して の エ トス を 見 る 。 当 然 の こ と な が ら ,787年 に 「タ シ ロ 条 項 」 が 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 に 挿 入 さ れ た こ と は 「王 国 年 代 記 」 に は 記 述 さ れ な い。 40年 に 亙 っ て バ イ エ ル ン太 公 国 を 治 め て 来 た タ シ ロ の 人 間 性 に も触 れ な が ら,Rosenstockは 「平 和 的 人 間 的 タ シ ロ像 」 を 描 き 出 す 。 し か し1936 年 , ク ラ ヴ ィ ン ケ ル は ,Rankeが 「タ シ ロ 像 」 を 描 く際 に 資 料 と して 用 い た 「王 国 年 代 記 」 に お け る757年 の タ シ ロ関 連 記 述 を 否 定 し 「冤 罪 に 滅 び た タ シ ロ」 像 を 世 に 公 開 す る 。 Krawinkelは , 「王 国 年 代 記 」757年 る こ と は 作 り話Machwerk81)だ の項 で タ シ ロに つ い て述 べ られ て い , と す る。 彼 の 判 断 根 拠 は , 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 そ の もの に 内 在 す る 非 論 理 性 , 同 時 代 に っ い て 記 述 し て い る 他 の 年 代 記 , 特 に 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 と の 差 異 , タ シ ロ の バ イ エ ル ン太 公 国 に お け る 政 治 の 実 態 , 及 び 託 身 に つ い て の 時 代 考 証 , 等 , に 求 め られ よ う。 託 身 と は, 弱 者 或 い は保 護 を 必 要 とす る人 間 に対 す る強 者 或 い は好 戦 的 人 間 の 支 配 権Suzer舅it舩の 設 定 で あ る, と 彼 は 定 義 す る82)。 タ シ ロ の 託 身 は , 政 治 的 託 身 の 最 初 の 例 , ま た , 封 土 制 度 と 家 臣 制 度 の 融 合 した 最 初 の 記 述 例 と し て 非 常 に 大 き な 意 義 を 持 っ 。 し か し 「王 国 年 代 記 」 及 び ル ド年 代 記 」 に あ る757年 「所 謂 ア ィ ンハ の 託 身 の 報 告 は信 頼 で き な い , こ れ は む し ろ788 年 の 裁 判 を 合 法 化 す る た め の 捏 造 で は な い か , と 彼 は 推 論 す る83)。 そ の 理 由 80) Rosenstock, 81) Krawinkel, Benefizialrecht,5.55. Unser Volksname 82) Krawinkel, Benefizialrecht,5.48. 83) Krawinkel, Benefiaialrecht,5.51. Deutsch,5.51. 再 論 :タ シ ロ三 世 55 は , 一 つ は , タ シ ロ に 関 す る 情 報 が 両 年 代 記 に お い て 信 憑 性 を 欠 く こ と, 二 つ は , こ の 時 代 の 他 の 政 治 的 託 身 例 の 形 態 及 び 内 容 やvassus或 い はvassa1- lUSの 意 味 と か 用 法 に 関 し て 得 ら れ て い る 情 報 か ら判 断 し て , で あ る84)。 そ う し て タ シ ロ を 巡 る 客 観 情 勢 に っ い て も触 れ , 「タ シ ロ は757年 に託 身 を し て 家 臣 に な っ た と さ れ るが , 当時 , タシ ロ と ピ ピー ンの 関係 に は些 か の濁 り も 無 く, そ の 必 要 は 無 か っ た し, そ の 後 も タ シ ロ は787年 ま で他 か らの干 渉 を 受 け ず に 国 内 統 治 を 行 な い , 教 会 関 係 を も, 独 自 に 教 会 会 議 を 召 集 し た り, フ ラ ンク王 国 と繋 が って い る と考 え られ る司 教 た ち を排 除 す る ほ ど に, 完 全 に 掌 握 し, 法 律 も 制 定 し, 年 号 も彼 の 就 任 年 が 初 年 と し て 数 え ら れ て い る ほ ど に 国 内 を 掌 握 して い た85)」等 , と述 べ る。763年 は,757年 の 「戦 列 離 脱 」 に つ い て の 託 身 が 事 実 な ら, 「王 国 年 代 記 」 の 記 者 は , 「 戦 列 離 脱 」 は家 臣 と し て の 義 務 違 反 で あ る, と書 い て 然 る べ き な の に , 記 者 は た だ 慨 嘆 す る の み 。18年 後(781年)に カ ー ル も757年 の 「家 臣 と して の 義 務 」 を タ シ ロ に 思 い 出 さ せ よ う と は し て い な い86)。 一 方 ,763年 に つ い てKrawinkelは 明 言 はせ ず に の 「戦 列 離 脱 」 の 事 実 関 係 「タ シ ロ が , 二 人 の フ ラ ン ク王 国 の 伯 同 様 , ヴ ァ ィ フ ァ ル 側 に 寝 返 り ヴ ァ ィ フ ァ ル に加 勢 した と は 到 底 考 え ら れ な い が , 脱 走 と い う形 を と っ た 政 治 的 抗 議 の 性 格 は 『王 国 年 代 記 』 の 記 述 か ら 仄 か に 透 け て 見 え て く る87)」 と 言 う 。 彼 は 結 論 と し て , タ シ ロ は757年 84)KrawinkelはBenefizialrecht, い て以 下 の よ う に述 べ る一 vassaticum se commendare」 S.55及 びS.57でvassus及 びvassallusに に は, つ 周 知 の こ とで あ るが 「託 身 を して 家 臣 に加 わ るin とか 「家 臣 と してsicut vassus」 とい う表 現 は, これ らの 単 語 が こ の よ う な意 味 で 使 用 さ れ て い る資料 例 と して は タ シ ロの ケ ー ス が 最 古 の もの で あ り, フ ラ ン クの文 献 を見 回 して も, 最 初 の 「家 臣vassus」 は 22年 後 にや っ と文 献 に登 場 す る。 が , こ れ ら家 臣 は低 身 分 の者 た ち で, 部 分 的 に は非 自由 民 も含 まれ て い る。 同 時 に留 意 す べ き こ とは,vassus及 びvassallus と い う単 語 が高 位 の 人 々 を 示 す よ う に な り始 め た 時 期 は8世 紀 末 の数 十 年 間 で あ った こ とで あ る。 そ の 時 期 で も政 治 的 託 身 が家 臣拘 束 を生 む, と い う の は後 世 の 付 足 しで あ り捏 造 で あ る。 85) Krawinkel, Benefizialrecht,5.51. 86) Krawinkel, Benefizialrecht,5.52. 87) Krawinkel, Benefizialrecht,5.54. 56 単 に 修 好amicitiasを 取 り結 ん だ に過 ぎ な い の で は な いか , と考 え る。 こ の よ う に し てKrawinke1は , 「王 国 年 代 記 」 に 記 述 さ れ て い る757年 の 家 臣 誓 約 及 び 託 身 を フ レ ー ム ア ッ プ と し,757年 「戦 列 離 脱 」 を 死 刑 相 当 と判 断 した788年 を 元 に763年 の タシロ の タシロの の 判 決 は 不 当 で あ り, タ シ ロ は 冤 罪 に よ り僧 院 で 死 ぬ 運 命 に 陥 っ た , と す る。 バ イ エ ル ン史 畑 で も ,Krawinkelと れ る。 例 え ばClassen88)は で あ り,757年 同様 に , タ シ ロ は787年 「タ シ ロ 冤 罪 説 」 が 導 き 出 さ に初 あ て家 臣誓 約 を行 な った の に は行 な っ て い な い , と主 張 す る。Classenが757年 ロ が 家 臣 誓 約 を し て い な い と す る 根 拠 は 四 つ あ り, 一 つ は ,757年 に タシ の タシロ の 家 臣 誓 約 を 記 述 し て い る 年 代 記 は 「王 国 年 代 記 」 と そ れ に 依 拠 す る 「所 謂 ア ィ ンハ ル ド年 代 記 」 の み で , 同 様 に 「王 国 年 代 記 」 に 依 拠 し な が ら も カ ー ロ リ ン グ 派 で 平 素 バ イ エ ル ン に 並 々 な ら ぬ 関 心 を 示 して い る 「メ ス 年 代 記 古 本 」 は757年 の タ シ ロ の 誓 約 を 誠 実 誓 約 と し 「王 国 年 代 記 」 の 家 臣 誓 約 と い う 記 述 を 意 識 的 に 退 け て い る こ と, 二 っ は, タ シ ロ を 家 臣 と す る 記 述 は , 781年 を 含 め て ,788年 ま で 一 切 無 い の に 対 し て ,787年 の タ シ ロの 家 臣誓 約 は 多 く の 年 代 記 に 記 載 さ れ て い る こ と, 三 つ は , 「王 国 年 代 記 」 す ら787 年 の 家 臣 誓 約 を757年 の 家 臣 誓 約 の 反 復 と は 述 べ て い な い こ と, 四 つ は , そ も そ も太 公 が 家 臣 と し て 託 身 し た 例 は こ れ ま で 他 の 文 献 資 料 に 記 録 さ れ て い な い こ と , で あ る 。 そ う してClassenは 757年 次 ぎ の よ う に 推 論 す る : 「タ シ ロが に カ ー ロ リ ング家 に誓 った誠 実 は, 同盟 上 の誠 実 , 友 好 関 係 にお け る 誠 実 , 従 属 的 誠 実 , と い う よ う に 多 岐 に 亙 る解 釈 を 許 す 。 そ こ で788年 の裁 判 を 経 て , 王 宮 筋 に よ り , 家 臣 制 度 と い う観 点 か ら こ の 誠 実 誓 約 に 検 討 が 加 え ら れ ,757年 に タ シ ロが 行 な った 「誠 実 」 誓 約 を 「家 臣 」 誓 約 へ と 解 釈 変 更 を し,763年 に タ シ ロ に よ る 「戦 列 離 脱 」 と い う政 治 的 ス キ ャ ン ダ ル を 法 律 上 の 犯 罪 と し て 立 件 可 能 な よ う に , ま た 「戦 列 離 脱 」 は 無 条 件 的 従 軍 義 務 88) Peter Classen, Bayern Gro゚en und Talsilos und die politischen M臘hte im III.(1978), in:Ausgew臧lte Classen, hg. J. Fleckenstein,1983, Jan Thorbecke Verlag Zeitalter Karls des Aufs舩ze von Peter Sigmaringen.5.243. 再 論 :タ シ ロ三 世 に 違 反 す る と い う結 論 を 引 き 出 せ る よ う に し た89)」。763年 列 離 脱 」 に つ い て はClassenは 57 の タ シ ロ の 「戦 そ の 事 実 が あ っ た こ と を 疑 わ な いgo)。彼 は , フ ラ ン ク フ ル トの 王 国 会 議 で の 僧 タ シ ロ は , 裁 か れ る 者 と し て で は な く行 為 す る 者 と して , 相 続 の 断 念 を 表 明 す る主 体 と し て 行 動 し た , と し91), こ の 彼 の 行 動 が ,788年 の 裁 判 を 補 完 す る と 同 時 に , バ イ エ ル ン を フ ラ ン ク王 国 に 組 み 込 ま ん と す る カ ー ル の 意 図 を 完 全 に 実 現 さ せ る , と す る 。Classenは 757年 の 家 臣 誓 約 及 び 託 身 を 否 定 す る こ と に よ り ,Krawinkel同 様, タシロ 及 び バ イ エ ル ン太 公 家 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ 家 は 冤 罪 に よ り滅 び た , と断 定 す る 。 1973年 ,FauBnerが FauBnerは カ ー ル 大 帝 の 支 配 者 と し て の エ トス を 抉 り 出 す92)。 用 語 を 定 義 付 け る : 「財Besitzは 『貸 借 恩 典 に 基 づ くiure bene- ficiali財」 と 『私 的 所 有 権 に基 づ くiure proprietario財93)』 と に 分 け ら れ94), 前 者 は 返 還 期 限 の 点 か ら 『懇 請 に基 づ く引 渡 しワberlassung per precariam」 と 『貸 主 及 び 借 人 の 交 替 ま で に 限 るauf Herrn-und Mannfall引 渡 し」 と に 分 け られ る。 後 者 の 引 渡 し は, 国 王 ・帝 国 教 会 ・高 級 貴 族 を 対 象 に 国 家 財 産 を 89) Classen, Bayern und die politischen M臘hte,5.244. 90) Classen, Bayern und die politischen M臘hte, 91) Classen, Bayern und die politischen M臘hte,5.245. 92) Hans er Constantin weltliches Erforschung Jg.,1973, B Die Reichsgut des 93)FauBner, Fau゚ner, hlau Verf im Mittelalters, Verlag K ln ungsgewalt, Verf S.235. ungsgewalt des Hochmittelalter, hg. von deutschen in:Deutsches H.Fuhrmann und K nigs Archiv f H.M.Schaller,29. Wien. S.355ff.に よ れ ば , 私 的 所 有 権 に 基 づ く財 の 場 合 , 誰 に 売 ろ う と贈 与 し よ う と, 誰 と何 を 交 換 し よ う と 自 由 で あ る が , 一っ だ け 制 約 が 生 ま れ る。 そ れ は 外 国 人 に 売 る場 合 で , 国 権 の 及 ば な い と こ ろ へ 財 が 転 移 す る場 合 , 管 轄 部 署 の 許 可 が 必 要 , と い う の が 中 世 の 制 度 , 並 び に 現 代 社 会 の 通 例 で あ る。 94)FauBner, Verf ungsgewalt., 従 来 , 前 者 はLehen(封 Lehenと かAllodと S.347, Anm.3に 土), 後 者 はAllod(完 い う 法 概 念 及 び 術 語 は12世 よれ ば, これ らの 財 にっ いて , 全 私 有 地)と さ れ て き た が, 紀 に な って 初 めて 現 れ る もの な の で , 中 世 初 期 ・盛 期 を 含 め て 所 有 制 度 を 論 ず る場 合 に は こ れ ら の 術 語 は 適 切 で な い。 58 引 渡 す 場 合 で一 一一 こ れ が タ シ ロ3世 に 関 わ る貸 借 関 係 一 債 務 法 に よ る貸 借 契 約 は存 在 す る が , 基 本 的 に 文 書 で は 確 認 さ れ な い 個 人 的 信 頼 関 係 に 基 づ く 契 約 で あ る。 貸 主Leiheherrと 借 人Leihemannと の 間 で 契 約 が 成 立 す る と, 借 人 は 誠 実 誓 約 を 行 な う。 厳 か な 授 与 式 の 後 に 初 め て 貸 借 地Leihegutが 借 人 の 権 能 へ と 移 行 す る 。 こ の 貸 借 関 係 は , 貸 主 或 い は 借 人 , ど ち らか の 死 に よ り終 る 。 貸 主 が 死 亡 し た 場 合 自 発 的 退 職 , 強 制 的 追 放 も死 と 同 じ 貸 主 の 交 替 が 生 じ貸 借 契 約 は 解 消 し, 借 人 は 貸 主 と 新 た な 貸 借 契 約 を 結 ぶ 努 力 を す る。 借 人 が 死 亡 し た 場 合 一 一 教 会 か ら の 破 門 ・僧 院 入 りKlostertodも 死 と 同 じ一 借 人 の 交 替 が 生 じ, 貸 主 は 貸 借 地 を 回 収 で き利 用 ・保 全 権 も入 手 で き る。 死 亡 し た 借 人 の 家 族 員 は貸 借 契 約 の 更 新 し か 要 求 で き な い 」95)。 こ の よ う に 述 べ てFauBnerは 「僧 院 入 り の 際 , タ シ ロ3世 タ シ ロ3世 の 場 合 に つ い て の判 断 に 移 る。 か らバ イ エ ル ン太 公 国 が 剥 奪 さ れ た の で , あ た か も彼 の 子 供 も太 公 国 に 対 して も は や 請 求 権 が 無 い か の よ う に 思 わ れ る が , 中 世 初 期 の 法 に よ れ ば , 彼 の 子 供 た ち は 自己 の 自立 的 な 請 求 権 を 持 っ 。 この 権 利 は, 父 か ら太 公 国 が 剥 奪 さ れ よ う と , 何 の 侵 害 も受 け な い 。 そ れ ど こ ろ か 父 が 僧 院 に 追 放 さ れ た と 同 時 に , 子 供 た ち は ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 の 相 続 人 と し て バ イ エ ル ン太 公 国 の 相 続 を 請 求 で き る こ と は 『バ イ エ ル ン部 族 法 典 』 第III章 第1項 の 規 定 か ら して も 明 ら か で あ る96)。 タ シ ロ の 子 供 た ち が 持 っ 太 公 国 へ の請 求 権 が こ う した根 拠 に支 え られ て い る以 上 , カ ー ル大 帝 が バ イ エ ル ン太 公 国 を 国 庫 に 回 収 し, バ イ エ ル ン問 題 に 決 着 を 付 け る た め に は , タ シ ロ の 子 供 た ち を 抹 殺 す る しか な か っ た し, 妻 リ ゥ ト ビル ク を も 出 家 の 道 に 追 い や る他 に な か っ た 」 とFauBnerは 述 べ, 更 に 「法 は不 可 侵 の も の と し て 尊 重 さ れ て い た の で , 法 は 曲 げ ず に , 法 規 範 と一 致 し, か っ , 自 ら の 政 治 的 意 図 の 実 現 を 結 果 す る よ う な 事 実 関 係 が 作 り 上 げ ら れ た97)」 とFauBner は 言 う。 「王 国 年 代 記 」 に は 子 息 テ ー オ ドも 剃 髪 さ れ た , と 記 さ れ て は い る 95) Fau゚ner, Verf 96)註54参 97) ungsgewalt,5.347-351 照。 Fau゚ner, Verf ungsgewalt,5.363. . 再 論 :タ シ ロ三 世 59 も の の , そ の 処 分 理 由 は示 さ れ ぬ ま ま で あ り, 太 公 妃 リ ゥ ト ビ ル ク に 至 っ て は , そ の 処 分 理 由 も処 分 内 容 も一 切 合 切 何 も書 か れ て い な い 。 こ の よ う に 強 引 に 闇 雲 に 突 っ走 る結 末 の 付 け様 が , タ シ ロ の 子 息 息 女 や 妻 か ら は彼 ら の 持 っ バ イ エ ル ン太 公 国 へ の 請 求 権 は容 易 に は奪 え な い こ と を 王 宮 筋 が 予 感 して い た こ と を , 何 よ り も 明 白 に 語 っ て い る。 特 に 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 を 背 景 に こ の 問 題 を 考 え る場 合 , ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 か ら支 配 権 を 究 極 的 に 奪 い 去 る た め に は, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 当 主 に よ る権 利 放 棄 宣 言 , 換 言 す れ ば 「バ イ エ ル ン部 族 法 典 」 か ら の 脱 出 宣 言 , が 必 要 で あ っ た の だ ろ う 。 そ の 点 , 794年 の カ ー ル 大 帝 側 の 事 態 解 決 策 は 大 き な 進 歩 を 示 し, 見 事 と言 う よ り他 な い。 Fau゚nerは フ ラ ン ク王 国 に よ る バ イ エ ル ン太 公 国 の 併 合 を 法 制 面 か ら取 り上 げ , カ ー ル 大 帝 の 強 烈 な 支 配 者 エ トス を 明 らか に す る 。 バ イ エ ル ン太 公 国 を 巡 る ,Rankeの Karl と は異 な る も う一 っ の 「カ ー ル 像 」 の 誕 生 で あ る 。 Brunnerは ,1979年 エ ル ン太 公 タ シ ロ3世 発 表 の 論 文98)の 中 で , タ シ ロ 問 題 に 触 れ ,「バ イ が757年 コ ン ピ エ ー ニ ュ で 行 な っ た 誓 約 は ,788年 以 後 に 生 ま れ た 「王 国 年 代 記 』 の 解 釈 の 中 で , 家 臣 誓 約 に 変 質 さ せ ら れ て し ま っ て い る 。781年 に カ ー ル に 対 して な さ れ た 誓 約 が 封 土 制 の 形 で 考 案 さ れ 実 行 さ れ た , と い う こ と は 先 ず 有 り 得 な い 。 兎 も 角 タ シ ロ 個 人 と して こ の 時 , イ ン ゴ ル シ ュ タ ト と ラ ゥ タ ホ ー フ ェ ンの 両 王 宮 の 返 還 に よ っ て 物 的 拘 束 を 受 け る こ と に は な っ た の で あ ろ う」 と述 べ る。 彼 は ,787年 の 封 誓 約=家 臣誓 約 を 前 提 と して 過 去 の す べ て の 誓 約 が 新 た な 解 釈 を 受 け た , と の 立 場 に 立 っ 。 「タ シ ロ は7年 後 ,22歳 の 時(筆 者 補 :即 ち763年)に 見 か ら身 を 解 き 放 っ99)」 と のBrunnerの シ ロの 98) 99) , ピ ピー ンの政 治 的 後 表 現 か ら分 る よ う に ,763年 の タ 「戦 列 離 脱 」 は事 実 と して 捉 え ら れ て い る が , 「戦 列 離 脱 」 と い う 表 Karl Brunner, lichungen des XXV,1979, Hermann Brunner, Oppositionelle Gruppen Instituts Oppositionelle B der hlaus im sterreichischen Nachf. Gruppen,5.53. Wien-K Karolingerreich, in:Ver Geschichtsforschung, ln-Graz.5.58 ffentBd. 60 現 を 用 い る こ と は 避 け て い る。 「戦 列 離 脱 」 に 関 し てBrunnerは 「ず っ と以 前 か ら タ シ ロ は フ ラ ン ク 軍 の 軍 規 の 元 に 置 か れ て い た 。 こ の 『ず っ と以 前 か ら」 を 強 調 す る た め に ,788年 裁 判 の際 の告 発 内容 と して, タ シロ太 公 が フ ラ ン ク 国 王 に 対 して 行 な っ た 最 初 の 不 当 行 為 ,763年 れ た100)」 と す る 。Brunnerは 言 う :「タ シ ロ3世 の 『戦 列 離 脱 』 が 選 ば の 伝 統 は, そ の 後 抑 圧 さ れ な い ど こ ろ か , 独 自 の 貴 族 意 識 醸 成 の た め , ル ー トヴ ィ ヒ2世 Ludwig ドイ ッ 人 王 II.der Deutsche(*805一 †876)の 王 国 で は 益 々 尊 重 さ れ た101)」 一一 方 ,Lothar Kolmerlo2)は そ の 著 で , タ シ ロ 裁 判 全 体 を 見 通 す 場 合 ,「『王 国 年 代 記 』 の記 述 に は客 観 性 獲 得 へ の努 力 は見 られ な い。 この年 代 記 か らは, 非 常 に 主 観 的 で 大 雑 把 な , 年 毎 に 繰 り返 さ れ る 虚 偽 記 述 か ら の 視 点 しか 得 ら れ な い 。 『現 実 の 』 事 実 関 係 を 再 構 築 す る場 合 , 『王 国 年 代 記 』 や ンハ ル ド年 代 記 」 か ら得 られ る 情 報 を 『所 謂 ア ィ 『篩 に か け るfiltern』 こ と の で き る 並 行 的 な 伝 承 が 存 在 し な い た あ に , そ の 困 難 さ は 深 ま る103)」 と 指 摘 す る 。 こ の 指 摘 を 踏 ま え てBecherは 並 行 的 年 代 記 を篩 に見 立 て 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 を 「篩 に か けverfiltern」 , そ の 著 書 を 完 成 さ せ た 。 verfilternと Becherの 発 想 はKolmerの い う この 指摘 に 端 を 発 す る もの , と思 わ れ る。 こ の よ う な 前 置 き に 続 い てKolmerは ,757年 に タ シ ロが 行 な っ た誓 約 は家 臣 誓 約 で は な く, 誠 実 誓 約 で あ る , と す る 。 そ の 理 由 の 一 っ は,787年 にもタシ ロ は家 臣 誓 約 を行 な うが, だ とす る と, 家 臣 誓 約 の 反 復 は 不 自然 で あ る こ とlo4),二 っ は ,781年 100) Brunner, 101)Brunner, に タ シ ロが王 国 会 議 に参 加 す るに 当 た って カ ー ル が タ Oppositionelle Oppositionelle Gruppen ,5.59. Gruppen , S.120.ル ー ト ヴ ィ ヒ2世 ドイ ッ人 王 は カ ー ル 大 帝 の 孫 で 東 フ ラ ン ク 王 国 の 国 王 。 彼 は ドイ ツ 諸 地 域 を 支 配 し そ の 統 治 者 と して 行 動 し た 最 初 の 王(本 紀 要 第31号[2000年9月]所 ジ ャ ー ル 人 と 中 世 前 期 の バ イ エ ル ン」4ペ 102)Lothar Kolmer, Zeitschrift 103) Kolmer, f bayerische Kommendation 104) Kolmer, Zur Kommendation,5 Kommendation Landesgeschichte, ,S.294. .297f. 載の筆者に よる 「マ ー ジ 以 下 参 照)。 und Absetzung Bd.43, Heft Tassilos llL , in: 2,1980, C.H. Beck. 再論 :タシロ三世 61 シ ロの身 の安 全 保 障 の た め に タ シ ロ に人 質 を 提 供 す るが , も し757年 に タ シ ロが カ ー ル の家 臣 に な って い るな ら,781年 の カー ル の この措 置 は不 要 な筈 で あ る105),と い う も の で あ る。 こ こま で は上 述 の 論 者 た ち と大 枠 に お い て 一 致 し 「王 国 年 代 記 」 の記 述 に信 を置 く こ とは しな い。 しか し, この後 , Kolmerは そ の俗 物 ぶ りを 発揮 す る。 彼 は 「戦 列 離 脱 」 の 法議 論 に 入 るが, 彼 が タ シ ロに よ る 「戦 列 離 脱 」 が あ った と推 定 す るか ど うか に っ い て は一 切 明言 しな い。 が, 彼 の論 調 か ら して 「戦 列 離 脱 」 を 事 実 と見 な して い る こ と は 明 らか で あ る。Kolmerは757年 当 時 の 「誠 実 誓 約 の 文 言 は我 々 に は分 ら な い」 と言 い なが ら, 彼 は, タ シ ロの行 な った誠 実 誓 約 の 内容 を 「802年 の カ ー ル の 王令 が示 す よ うに, 誠 実 誓 約 は, 国 王 の 存 命 期 間 に 限 定 され る もの で な く, そ の 内容 も, 敵 を 国 内 に 呼 び 込 ん だ り 『他 人 の 不誠 実 に 同調 しそ れ を黙 秘 した り』 す る こ と を禁 じて い る だ けで は な い106)」と捉 え る。 そ して 彼 は言 う :「タ シ ロの 起 訴 及 び そ れ か ら出 て来 た 判 決 は異 常 で も何 で もな い。 日常 的判 決 の枠 内 の もの で しか な い。 誠 実 義務 とそ れ か ら生 ず る様 々 な義 務 は決 ま って い る。 そ れ は 習慣 法 に な って い る。 全 体 的 に 見 れ ば, 誠 実 の上 に 社 会 秩 序 , 当 時 の 『国家 』 は成 立 して い た の で あ り, 不 誠 実 は この支 配 秩 序 を揺 るが す もの だ った107)」とす る。802年 を根 拠 に757年 遡 及 して788年 Kolmerの の 「誠 実 」誓 約 に の 裁 判 を 「日 常 的 な 判 決 」 と し て 正 当 化 す る こ の よ う な 論 法 こそ, 「王 国年 代 記 」 の記 述 を貫 く思 考方 法 ,788年 か ら757 年 を再 構 成 しそ れ に沿 って過 去 の事 象 に解 釈 の変 更 を加 え る論 述 態 度 と将 に 同根 , と言 わ ざ るを得 な い。Rankeの 「タ シ ロ像 」 の復 活 で あ る。 以 上 , タ シ ロ裁 判 を 中心 に, この 問 題 に 深 く関 わ った研 究 者 た ち の立 論 を 紹 介 した。 以 下 で, フ ラ ン ク王 国 とバ イエ ル ン太 公 国 との対 立 の原 因, 及 び 決 定 的対 立 に至 った動 因 を 見 て行 きた い。 105) Kolmer, 106)Kolmer, 罪 が 107) Kommendation,5.305. Kommendation, 「他 人 の 不 誠 実 へ の 同 調 Kolmer, Kommendation,5.324. S.300.同 書5.315でKolmerは ・黙 秘 」 に あ る , と 明 言 , し て い る 。 リ ゥ ト ビ ル ク の 62 先 ず , フ ラ ンク王 国 を背 景 に 置 きつ っ バ イエ ル ンの歴 史 を概 括 す る こ と に す る 。St6rmerは 言 うlo8): 「メ ー ロ ヴ ィ ン グ 王 国 の 西 の 王 国 部 分 で は ア ギ ロ ル フ ィ ン グー 族 の 『フ ラ ン ク の 家 系 』 が 大 き な 役 割 を 果 た し, こ の フ ラ ン ク系 ア ギ ロ ル フ ィ ン グー 族 は , バ イ エ ル ン系 及 び ラ ン ゴ バ ル ド系 一 族 と並 ん で , フ ラ ン ク王 国 で 最 高 の 豪 族 層 に 属 し た 。 バ イ エ ル ン系 ア ギ ロ ル フ ィ ン グ ー 族 に と っ て は ラ イ ン系 及 び ラ イ ン東 岸 系 縁 戚 関 係 が ず っ と 重 要 で ,7世 紀 初 期 に既 に モ ー ゼ ル河 域 で ア ギ ロル フ ィ ングー 族 と され る二 人 の豪 族 , 巨富 と 傲 慢 の た め に 非 難 さ れ た ク ロ ー ド ァ ル ドChrodoaldと Fara, の 名 が 挙 が っ て い る 。7,8世 そ の子 息 フ ァ ラ 紀 に お い て は 中 部 ラ イ ン地 域 が ア ギ ロ ル フ ィ ン グ ー 族 の 中 心 地 と考 え ら れ , こ こ で は 早 くか ら ゲ ー ロ ル デ ィ ン グ 家 Geroldingerが ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 と非 常 に近 い 縁 戚 関 係 を 結 ん で い た。 テ ィ ー リ ン ゲ ン系 東 フ ラ ン ク の 太 公 ヘ デ ンHedenも ア ギ ロ ル フ ィ ング家 と 姻 戚 関 係 に あ っ た ら し い 。 更 に 重 要 な の は , 少 な く と も8世 紀 に は ア レマ ニ ア 太 公 も, 外 戚 関 係 か ら見 る な ら, 同 様 に ア ギ ロ ル フ ィ ン グ ー 族 だ っ た こ と で あ り, オ ー デ ィ ロ 太 公 は こ の シ ュ ヴ ァ ー ベ ンSchwaben(=ア の 出 で あ る 。 ド ナ ウ 上 流 の パ ー レ ンBaaren地 holfingerで 一族 は も ア ギ ロ ル フAgilolfと レマ ニ ァ)系 域 の ア ラ ホ ル フ ィ ン グ 家Ala- い う名 に 出 遭 う。 強 大 で 非 常 に 古 い こ の , バ イ 手 ル ン の ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 , ア レマ ニ ア太 公 一 族 及 び ゲ ー ロ ル デ ィ ン グ 家 と も非 常 に 近 い 姻 戚 関 係 を 持 っ て い た 。 後 の 歴 史 に と っ て 決 定 的 に 重 要 な こ と は, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 一 統 が , ア ル プ ス地 域 と ア ル プ ス前 縁 地 と を コ ン トロー ル す る二 っ の相 隣 り合 う太 公 領 を 擁 して い た こ とで あ る 」。 一 方 ,Erich 108)Wilhelm Z611nerlo9)に よ れ ば , バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ3世 St Agilolfinger rmer, B.Jahrhundert, desmuseum, 109)Erich Bd.LX, 133. in:Baiernzeit Katalog Z Zur Die llner, in Ober Nr.96,1977, Die Geschichte Herkunft der im politischen sterreich, の実 家 アギ Kr臟tefeld Ober vom sterreichisches 6 . bis Lan- Linz.5.6f. der Bayern, Agilulfinger hrsg. von ,in:Wege Karl Bosl,1965, der Forschung, Darmstadt. S. 再 論 :タ シ ロ三 世 ル ル フ ィ ン グ 家Agilulfinger(=ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家)は 63 , ブ ル グ ン ドの 貴 族 の 家 系 で, 王 家 の 血 統 を ひ い て い る可 能 性 す ら あ り, バ イ エ ル ン と シ ュ ヴ ァ ー ベ ン の 太 公 を 出 して い る 名 家 で あ る 。736年 頃, ア レマ ニ ア系 ア ギ ル ル フ ィ ン グ 家 の 一 人 , ア レ マ ニ ア 太 公 ゴ ッ ト フ リー ドGottfriedの 子 息 オー デ ィ ロOdilo, が バ イ エ ル ン太 公 位 を 継 ぐ。 と言 う の も, 彼 の 前 任 者 フ グ ベ ル トHugbert或 いはHucbertに 男 系 子 孫 が 居 な か った か らで あ る デ ィ ロ と ヒ ル トル ー ド と の 間 に 生 ま れ た の が タ シ ロ3世 。 この オ ー で あ る ので , タ シ ロ は シ ュ ヴ ァ ー ベ ン系 と バ イ エ ル ン 系 の ア ギ ル ル フ ィ ン グ 家 の 跡 取 り , で あ る 。 こ の よ う な ア ギ ル ル フ ィ ン グ家 一 統 の 広 大 な 地 域 へ の 浸 透 , そ の 保 有 す る 政 治 力 か ら判 断 す る な ら ば , ア ギ ル ル フ ィ ン グ 家 の 勢 力 は カ ー ロ リ ン グ 家 の そ れ を 上 回 っ て い た , と 言 っ て も過 言 で は 無 か ろ う。 Friedrich Prinzllo)に よ れ ば , バ イ エ ル ン及 び ア レ マ ニ ア の8世 る キ ー ポ イ ン ト と な る年 は疑 い も 無 く743年 で あ る 。741年 紀 におけ に カ ー ル ・マ ル テ ル が 死 去 し た 後 , 既 に 国 王 同 然 に 支 配 権 を 行 使 して い た カ ー ロ リ ン グ 家 宮 宰 ピ ピ ー ン に 対 す る 叛 乱 が743年 に ア レマ ニ ア で 起 こ る。 バ イエ ル ンで も オ ー デ ィ ロ 太 公 と 二 人 の 義 兄 弟(カ ー ル及 び カ ー ル マ ンの 両 宮 宰)の 間 に戦 い が 始 ま る 。 オ ー デ ィ ロ は 教 皇 の 後 ろ 盾 を 得 る。 教 皇 と し て も キ リ ス ト教 界 の ト ッ プ と して カ ー ロ リ ン グ 家 の 野 蛮 な 侵 略 行 為 を 座 視 で き な く な っ た た め で あ ろ う , 教 皇 は 特 使 セ ル ギ ゥ スSergiusを 派 遣 し, 両 宮 宰 に バ イ エ ル ン攻 撃 を 止 め る よ う説 得 に 当 た ら せ よ う と す る 。 オ ー デ ィ ロ は そ の 他 の 部 族(ザ セ ン人 ・ア レマ ニ ァ人 ・ス ラ ヴ人 ・ア キ タ ニ ァ太 公 フ ノ ァル ドHunoald等)の も受 け た が , 打 ち 負 か さ れ る 。 ア レマ ニ ア で の 戦 い は746年 トの 血 の 惨 劇Blutbad von Cannstatt」 の ク 支援 「カ ン シ ュ タ で 結 末 を 迎 え , ア レマ ニ ア 太 公 国 は 消 滅 す る 。 こ の 戦 闘 に 際 し て 時 の ア レ マ ニ ア 太 公 テ ゥ デ バ ル ドTheudebaldと バ イ エ ル ン太 公 オ ー デ ィ ロ は 手 に 手 を 携 え て 行 動 す る 110) Friedrich Prinz, Zur Herrschaftsstruktur B.Jahrhundert, Renkhoff,102. in:Bl舩ter f deutsche Jg.,1966,Wiesbaden. S.11. Bayerns (Erich und Z611nerに よ り Landesgeschichte, Alemanniens hg. von im Otto 64 両 太 公 は 兄 弟 と推 定 され るll1))。 こ の 戦 い は ア レ マ ニ ア 並 び に バ イ エ ル ン対 フ ラ ンク王 国 の戦 いで は あ るが , 実 質 は, アギ ロル フ ィ ング家 対 カ ー ロ リ ング 家 の 戦 い で あ っ た 。750年 以 後 , 地 下 納 骨 堂 に置 か れ た聖 人 及 び殉 教 者 の聖 遺 物 が ア ル プ ス北 部 領 域 に 流 入 す るii2)。 フ ラ ン ク 国 王 周 辺 の 豪 族 が こ れ ら 聖 遺 物 を 運 び 込 む 。 メ ス 司 教 ク ロ ー デ ガ ン グChrodegang か ら60年 代 に 聖 ゴ ル ゴ ニ ゥ スGorgoniusの 遺 体 を ゴ ル ッ ェGorze僧 び , バ イ エ ル ン の 一 豪 族 フ ォ ジ家Huosierの フScharnitz-Schlehdorfは von Metzは 僧 院 シ ャ ー ニ ッ=シ ローマ 院 に運 ュ レ ー ドル , フ ラ ン クの 典 型 的 保 護 聖 人 デ ィ ォ ニ ー ジ ゥ ス の 他 , ロ ー マ の 聖 人 テ ル ト ゥ リ ー ンTerutullinを フ ト ラ ンSch臟tlarn僧 そ の 保 護 聖 人 に 加 え る。 シ ェ 院 は, サ ン ドニ に 倣 って, デ ィ ォ ニ ー ジ ゥ ス, ル ス テ ィク ス, エ レ ゥテ ー リゥス の三 聖 人 を そ の保 護 聖 人 とす る。 バ イエ ル ンに と っ て 非 常 に 特 徴 的 な こ と は , こ れ ら保 護 聖 人 の 輸 入 は788年 Inn河 上 流 ザ ル ッ ァハSalzach河 と レ ヒLech河 まで はイ ン 間 の 地 域 , の豪 族 の僧 院 , っ ま り 太 公 が 殆 ど 勢 力 を 持 た な い 地 域 に 限 定 さ れ る こ と で , イ ニ ヒ ェ ンInnichen(保 pollitus)は 護 聖 人St. Candidus)と ザ ン ク ト ・ペ ル テ ンSt. P61ten(保 護 聖 人Hy- そ の 例 外 で あ る。 こ の よ う な 事 実 か ら も, バ イ エ ル ン が 二 っ の 根 本 的 に 分 か れ た 祭 祀 的 ・支 配 的 領 域 か ら成 り 立 って い た こ と が 分 る。 考 古 学 的 に 見 て も, バ イ エ ル ン西 部(ポ fen, ア ゥ ク ス ブ ル クAugsburg等)で リ ングPolling, パ フ ェ ンホ ー フ ェ ンPfaffenhoは輸 入 品 や フ ラ ン クの芸 術 品 な どが豊 か に 収 め ら れ た 墓 が 発 掘 さ れ る が , 下 バ イ エ ル ン や エ ン スEnns河 域, 即 ち, ア ギ ロ ル フ ィ ン グ家 統 治 の 中 核 地 帯 か ら は そ の よ う な 遺 跡 は 殆 ど検 出 さ れ な い 。 こ の こ と は , バ イ エ ル ン西 部 で は 強 力 な フ ラ ン ク派 豪 族 が 存 在 し た た あ , 彼 ら は 豊 か な 副 葬 品 を 墓 所 に 収 め ら れ た が , バ イ エ ル ン東 部 で は 太 公 権 力 が 飛 び抜 け て 強大 で あ った た め, 政 治 力 を持 った, 豊 か な豪 族 が生 ま れ な か っ た こ と を 示 す 。 バ イ エ ル ン 豪 族 が バ イ エ ル ン西 部 に 集 中 し て い た 事 実 は , 757年 以 後 及 び788年 の 裁 判 の 流 れ を 見 る上 で も重 要 な 要 素 で あ る。 そ う し 111) Z 112) Prinz, Herrschaftsstruktur, S.18ff. llner,Herkunft der Agilulfinger,5.127. 再 論 :タ シ ロ三 世 てPrinzは 言 うll3): 「バ イ エ ル ン 西 部 で は, 太 公 僧 院 が 真 珠 の ネ ッ ク レ ス の よ う に 連 な って い る の に 気 付 く(Rattenberg近 Bichlwang, 65 Ebbs, Kufstein近 郊 のErl)。 郊 のRadfeld ,Kund1, Brixlegg, この 太 公 教 会 の 西 方 に は太 公 の 所 領 は 無 い 。 有 る の は テ ー ゲ ル ン ゼ ーTegernseeや シ ュ リ ー ア ゼ ーSchliersee等 の バ イ エ ル ン 西 部 の 豪 族 の 僧 院 で あ る。 こ の こ と か ら, イ ン 河 沿 い の 太 公 僧 院 の こ の 連 な り は 一 種 の ア ギ ロ ル フ ィ ン グ派 の 防 衛 の た め の 教 会 組 織 バ イ エ ル ン西 部 の フ ラ ン ク派 豪 族 に 対 す る 太 公 側 の 国 内 境 界 線 即 ち, と考 え て も , 誤 り は 無 か ろ う 」。 こ の よ う な バ イ エ ル ン 太 公 国 の 持 っ 二 極 性 も, タ シ ロ3 世 の対 フ ラ ンク王 国 政 策 を複 雑 に した大 き な原 因 で あ る。 748年 , オ ー デ ィ ロ 太 公 が 死 去 した 時 , 嘗 て ロ ー マ 属 州 で あ っ た 内 陸 ノ リ ク ムBinnennoricumに sche Karantanenが 根 付 い た ス ロ ヴ ェ ニ ア 系 の カ ラ ン タ ニ ア 人sloweni, 攻 撃 して く る ア ヴ ァ ー ル 人 か ら 自 ら の 国 家 を 守 る た め , 隣 人 で あ る バ イ エ ル ン に 支 援 を 要 請 し て く る。 バ イ エ ル ン人 は こ の 時 , 積 極 的 に救 援 す る。 そ の後 , オ ー デ ィロ は カ ラ ン タニ ア人 を一 種 の保 護 的 支 配 の 下 に 置 い た , と も さ れ る114)。 こ の 活 動 が , ザ ル ッ ブ ル ク の 行 な う宣 教 や 東 部 アル プ ス地 域 の 政 治 的 併 合 に道 を 開 くき っか け とな る。 768年 , カ ー ロ リ ン グ家 初 代 国 王 ピ ピ ー ン が 死 去 す る。 若 い カ ー ロ リ ン グ 朝 の 最 初 に して 最 大 の 危 機 に 直 面 して , 王 国 官 房 は, 新 しい 王 朝 の 一 時 的 な 弱 み を覆 い 隠 す た め, 国 王 の称 号 に 「神 の 恩 寵gratia Dei」 と い う 言 葉 を 付 け 加 え る115)。 ア キ タ ニ ア は カ ー ル と カ ー ル マ ン に よ り征 服 さ れ る も の の , この戦 い を き っか け に両 兄 弟 間 の確 執 が 顕 在 化 す る。 そ の暴 発 を防 止 し フ ラ ン ク 王 国 を 防 衛 せ ん と し て , 彼 ら の 母 親 で 元 王 妃 ベ ル ト ラ ー ダ(; ベ ル タ) が フ ラ ンク王 国 に敵 対 的 な諸 国 と交 渉 を 行 な う。 彼 女 はバ イエ ル ンに タ シ ロ を 訪 ね そ の 支 援 を 要 請 し, そ の 後 ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ ス の 許 に 行 き, 最 後 に ロ ー マ に 赴 く。 タ シ ロ は , ベ ル ト ラ ー ダ の 使 者 で フ ル ダ の 僧 ス 113) Prinz, Herrschaftsstruktur 114) St ,5.21. rmer, Agilolfinger ,5.3. 115)Wolfram, F stentum ,5.164. 66 ト ゥ ル ムSturm von Fuldaを 通 して , 暗 黙 の 了 解 と して , フ ラ ン ク王 国 に バ イ エ ル ン 太 公 国 の 主 体 性 を 容 認 さ せ た116) , と の 情 報 を 得 る 。770年 頃 , ベ ル ト ラ ー ダ は ラ ン ゴ バ ル ド王 女 を カ ー ル の 妻 に す る こ と に 成 功 す る 。 タ シ ロ も ラ ン ゴ バ ル ド王 国 を 訪 れ こ れ に 力 を 貸 し て い た 。 バ イ エ ル ン の 「フ ラ ン ク 派 」 は , ピ ピ ー ン の 死 去 に よ り, 外 交 上 の 支 え を 失 う。 カ ー ル は 権 力 基 盤 の 弱 体 化 を認 識 せ ざ る を得 な い。 この よ うな カ ー ル の弱 点 が王 妃 ベ ル トラー ダ の外 交 活 動 を許 した, と言 え る。 し か し カ ー ル マ ン が771年12月 に死 去 す る と , 情 勢 は 一 転 す る 。 即 ち , カ ー ル と デ ジ デ ー一 リ ゥ ス の 間 の 同 盟 は , フ ラ ンク王 国 が カ ー ル マ ン とカ ー ル に 分 割 支 配 さ れ, 更 に カ ー ル マ ンが , 父 ピ ピー ン同 様 , 反 ラ ン ゴバ ル ド政 策 を 追 及 して い た た め に, 成 立 して い た。 カ ー ル マ ンが 死 ぬ と , カ ー ル は そ の 領 土 を 遺 児 に 渡 さ ず 乗 っ取 って し ま う。 カ ー ル を 怖 れ た カ ー ル マ ン の 妻 子 は ラ ン ゴ バ ル ド国 王 デ ジ デ ー リ ゥ ス の 許 に 逃 げ る。 「諸 王 の 父 」 及 び ヨ ー ロ ッパ の 仲 裁 者 と して の デ ジ デ ー リ ゥ ス の 地 位 は, カ ー ル に よ る フ ラ ン ク 王 国 の 統 一 に よ り , カ ー ル が 彼 の 女 婿 で あ っ て も, 強 く 脅 か さ れ た 。 そ こ で デ ジ デ ー リ ゥ ス は , フ ラ ン ク 王 国 に そ の 二 元 性 を 維 持 さ せ ん と し ,772年 Pentapolis117)に , ラ ヴ ェ ン ナ 太 守 領Exarchatと 再 び 攻 撃 を か け, ロ ー マ に迫 ペ ン タ ポ リ ス り118), 教 皇 ハ ド リ ア ー ヌ ス1 世 に, カ ー ル マ ンの 子 息 た ち に フ ラ ンク国 王 へ の 塗 油 を 行 な う よ う要 求 す る。 こ れ は 甚 だ し く カ ー ル の 不 快 を 買 う。 カ ー ル は デ ジ デ ー リ ゥ ス と の 同 盟 を 破 116) Benno Hubensteiner, Kultur,10.Aufl.,1997, sche Geschichte, Bayerische Ludwig S.173の Geschichte, Verlag 記述 M Staat chen. und S.41.同 Volk, Kunst und 時 にReindel, Politi- 「タ シ ロ は , 僧 ス ト ゥ ル ム の 仲 介 協 定 で , 何 ら か の 拘 束 を 負 っ た 可 能 性 も 当 然 考 え ら れ る」 も 考 慮 し な け れ ば な ら な い 。 ll7)初 期 中 世 のPentapolisと (現Pesaro), は , イ タ リ ア のAriminum(現Rimini), Fanum(現Fano), Sena Pisaurum Gallica(現Senigallia), Anconaの5都 市 を 言 う。 118) Heinrich Handbuch L der Grundmann, Stuttgart.5.170. we, Deutschland Deutschen Bd.1, erster im fr舅kischen Geschichte,9., unver舅derter neu Reich, bearbeit. Nachdruck,1973, in:Gebhardt, Aufl. hg. Union von H. Verlag 再 論 三 タ シ ロ三 世 67 棄 , そ の 息 女 で あ る 妻 を そ の 実 家 デ ジ デ ー リ ゥ ス の 許 に 送 り帰 す119)。 ハ ド リ ア ー ヌ ス は ラ ン ゴ バ ル ドか らの 保 護 を ビザ ン ッ 帝 国 に 求 あ る が 無 駄 に 終 り , カ ー ル に 救 援 要 請 を す る 。 カ ー ル は 地 盤 沈 下 を 取 り戻 す た め こ れ を き っ か け に 一 気 に 攻 勢 に 出 る。773年 間 包 囲 し た 後 ,774年6月 夏 , ラ ン ゴ バ ル ド戦 役 を 開 始 , パ ヴ ィ ァ を 長 期 , デ ジ デ ー リ ゥ ス を 降 伏 さ せ る。 こ の 間 , タ シ ロ は 微 動 だ に し な い 。 舅 を 見 殺 し に す る 。 カ ー ル は ラ ン ゴ バ ル ド王 位 に 即 く 。 St6rmerは こ の流 れ を 「新 た な カ ー ロ リ ン グ=ロ バ ル ド王 国 を 速 や か に 崩 壊 さ せ ーマの権力構 造 は ランゴ , これ に よ りタ シ ロ は遂 に完 全 な孤 立 に追 い 込 ま れ る」 と総 括 す る120)。 一 方 , タ シ ロ を 巡 る 情 勢 は ど う か 。769年 , ボ ー ツ ェ ンに 多数 の バ イエ ル ン貴 族 が 参 集 し, イ ニ ヒ ェ ン僧 院 の 創 立 を 祝 う。772年 , タ シ ロは そ の権 勢 の 最 頂 点 に 立 っ 。 デ ジ デ ー リ ゥ ス を 通 して バ イ エ ル ン 太 公 国 ・フ ラ ン ク 王 国 ・ラ ン ゴ バ ル ド王 国 が 同 盟 関 係 に 入 り, フ ラ ン ク 軍 の 総 帥 カ ー ル は 彼 の 義 兄 弟 に な る 。 そ の 上 , 彼 の 幼 い 子 息 テ ー オ ドは 聖 霊 降 臨 祭 に ロ ー マ で ハ ド リ ア ー ヌ ス1世 か ら洗 礼 を 受 け 塗 油 さ れ る。 テ ー オ ド は, 王 子 で も カ ー ロ リ ン グ家 公 子 で もな く して塗 油 の秘 蹟 を授 け られ た最 初 の公 子 とな る 。 テー オ ド の塗 油 は, カ ー ル の子 息 ピ ピー ン とル ー トヴ ィ ヒの国 王 塗 油 に先 んず る こと 9年 で あ っ た 。 以 後 タ シ ロ と ハ ド リア ー ヌ ス1世 の 間 に 実 父 と代 父compater の 関 係 が生 まれ る。 タ シ ロ はハ ドリア ー ヌ ス を 自分 の保 護 者 と も カ ー ル と の 仲 介 役 と も 考 え る。 同 じ772年 , タ シ ロ3世 は大 き な 戦 果 を 挙 げ る。 彼 は カ ラ ン タ ニ ア人 の 国 家 内 の 異 教 徒 暴 動 を 制 圧 し た の で あ る。 こ れ を nales Juvavenses 119)Wolfram, 120) St 121)L6we, maximi」 F stentum, rmer, Agilolfinger, Deutschland, 「ザ ル ッ ブ ル ク大 年 代 記An- は , 同 年 の カ ー ル に よ る ザ ク セ ン人 の イ ル ミー ン S.166. S.5. S.171に よ れ ば , ザ ク セ ン人 の 崇 拝 す るIrminsulは ら の 部 族 支 配 の 柱 で あ り象 徴 で あ り, 部 族 の 政 治 的 , 宗 教=祭 結 び付 け られ て い た。 彼 祀 的秩 序 と密 接 に 68 ズ ル121)破壊 に 匹 敵 す る 快 挙 , と 称 え , タ シ ロ は キ リ ス ト教 世 界 に お け る最 高 の支 配 者 の一 一 人122), コ ン ス タ ン テ ィ ン大 帝Constantinus と 称 え られ る。Prinzは 再来, 言 う : 「『名 誉 に 溢 れ 限 り無 く傑 出 せ る 高 貴 な る バ イ ェ ル ン太 公 タ シ ロGloriosissimus riorum der GroBeの atque praecellentissimus Tassilo dux Baiuva- vir inluster』 と い う 称 号 を こ の 頃 タ シ ロ は 自 ら に 与 え る 。 こ れ は 将 に 度 肝 を 抜 か れ る 称 号 で , 欠 け て い る の は 『国 王rex』 る123)」 。774年 と い う単 語 だ け で あ , デ ジ デ ー リ ゥ ス が カ ー ル の 軍 門 に屈 す る 一 方 で ,767年 始 ま っ た ザ ル ッ ブ ル ク の ル ー ペ ル ト教 会Rupertikircheが 教 区 の 首 都 教 会 が 出 来 上 が る 。777年 に 完成, バ イエル ン に は カ ラ ンタ ニ ア国 内 の異 教 徒 の鎮 圧 後 に 準 備 さ れ た ク レ ム ス.ミ ュ ン ス タ ー 僧 院 が 建 立 さ れ る124)。 カ ー ル が ザ ク セ ンを 征 服 し ラ ン ゴ バ ル ド王 位 に 即 位 し た 時 , タ シ ロ は , 既 に は っ き り と頬 に 冷 た い 風 を 感 じて い た 。 カ ー ル は , ボ ー 平 原 の 北 に 隣 接 し, ア ル プ ス の 重 要 な 峠 道 を 押 さ え , 完 全 な 独 立 を 享 受 して い る バ イ エ ル ン を 既 に 次 ぎ の 攻 撃 目 標 に 定 あ て い た 。778年 , バ イ エ ル ン軍 は ア キ タ ニ ア か ら ス ペ イ ン方 面 へ の フ ラ ン ク軍 の 作 戦 に参 加 す る が , カ ー ル は 既 定 戦 略 に 従 っ て 行 動 す る 。780年 末 , カ ー ル は ロ ー マ を 訪 れ 教 皇 と 会 談 , タ シ ロ3世 に共 同 対 処 す る こ と を 教 皇 と 約 定 し, デ ジ デ ー リ ゥ ス に 続 い て , 最 後 の 同 盟 者 で あ る ロ ー マ 教 皇 を タ シ ロ か ら奪 い 去 る 。 タ シ ロ は , 歴 代 の バ イ エ ル ン太 公 が 享 受 して い た ロ ー マ 教 皇 と の 伝 統 的 な 友 好 関 係 , ま た 彼 と ハ ド リア ー ヌ ス 教 皇 と の 間 に 築 い た 実 父 と 代 父 の 関 係 , を 失 っ て し ま う 。 そ の 決 定 的 原 因 は 「安 全 保 障 を 必 要 と して い た ロ ー マ 教 皇 に す れ ば , 統 一 さ れ た フ ラ ン ク 王 国 支 配 者 の 持 つ 軍 事 力 を バ イ エ ル ン太 公 タ シ ロ の そ れ と 比 べ た と き , タ シ ロ の 軍 事 122)Wolfram, 123) Salzburg Friedrich Prinz, Nov./Dez.1988/Nr.6. る 一Friedrich 124) Reindel, Herzog S.5.尚 Prinz, Karolingerreich, Land,1999, Bayern Herzog Osterreich,5.283, Tassilos Tassilos in:Lech-lsar-Land, Wilheim Politische Gl k , こ れ と ほ ぼ 同 Gl hg. und Ende, in:Bayernspiegel, じ論 文 が 以 下 の よ う に 発 表 さ れ て い k und vom i. OB. Geschichte,5.173 Anm.492. u.209. Ende-Bayerns Heimatverband Weg Lech-lsar- ins 再 論 :タ シロ三 世 69 力 が 遙 か に 劣 っ て い た か ら125)」 で あ る。 「王 国 年 代 記 」 に よ れ ば ,781年4 月 , 復 活 祭 を カ ー ル は ロ ー マ で 過 ご し, 教 皇 は 彼 の 二 人 の 子 息 ピ ピ ー ン と ル ー ト ヴ ィ ヒ に 洗 礼 ・塗 油 を 授 け る 。 カ ー ル が フ ラ ン キ ア に 帰 国 し た 後 , 教 皇 とカ ー ル は タ シ ロの 許 に使 者 を 送 る, とな って い る。 何 を 根 拠 に タ シ ロを ヴ ォ ル ム ス に 出 頭 さ せ た か は , 明 示 さ れ て い な い 。Wolframは 「若 干 の 信 憑 性 が あ る の が , カ ー ル が 提 起 し た 『タ シ ロ は 反 カ ー ル だ , カ ー ル の 敵 で あ る ザ ク セ ン人 ・ス ラ ヴ 人 ・ア ヴ ァ ー ル 人 と 結 託 し た 』 と い う 非 難126)が そ の 根 拠 で あ ろ う」 と す る。 カ ー ル と教 皇 の 統 一 行 動 に タ シ ロ も 抗 す る 術 が な い 。 784年 , カ ー ル と タ シ ロ の 間 に初 め て 熱 い 戦 争 が 起 こ る。 ト リ エ ン ト Trientの フ ラ ン ク 系 ラ ン ゴ バ ル ド伯 が バ イ エ ル ン南 部 国 境 地 域 , 南 テ ィ ロ ー ル の ボ ー ツ ェ ン, ヴ ィ ン チ ガ ゥVintschgau周 き っ か け はWolframに 辺 に侵 入 した の で あ る。 そ の よ れ ば 「ラ ン ゴ バ ル ド国 王 リ ゥ ト プ ラ ン ドは 嘗 て エ ッチ ュ河 谷 を そ の支 配 下 に置 い て い た が, リ ゥ トビル クが タ シ ロの許 に嫁 す と き , そ れ を 持 参 金 と し て 彼 女 に 渡 し た 。 ト リ エ ン ト伯 が そ れ を 奪 還 し よ う と して127)」 起 こ っ た 戦 争 で あ っ た 。Rosenstockに よ れ ば 「ブ レ ン ナ ー 街 道 で カ ール の 士 官 た ち と タ シ ロ の軍 隊 の間 で国 境 紛 争 が起 こ った。 カ ー ル の 士 官 た ち が 南 方 か ら 嘗 て の 国 境 を 取 り 戻 そ う と し た の で あ る128)」 。 こ の40 年 間 絶 え て 無 か っ た フ ラ ン ク 王 国 と バ イ エ ル ン太 公 国 と の 間 の 血 ま み れ の 衝 突129)で あ っ た 。 そ の 後 の 戦 闘 の 様 子 に つ い て は 何 の 報 告 も な い が , こ の 軍 事 衝 突 は タ シ ロ に 衝 撃 を 与 え る 。Reindel130)に よれば 「タ シ ロ は , カ ー ル が タ シ ロ に 対 し て 決 定 的 打 撃 を 与 え る 準 備 を して い る , と 確 信 し た に 違 い な か っ た 」。 125)Wolfram, 126)Herwig F stentum,5.171. Wolfram, Die Geburt seiner Entstehung,1987, Verlag 127)Wolfram, Die Geburt Mitteleuropas, Geschichteヨsterreichs Kremayr&Scheriau, Mitteleuropas,5 .103. 128) Rosenstock, Unser 129) St Volksname, S.55f. 130) Reindel, Politische Geschichte,5.174. rmer,Agilolfinger,5.10. Wien.5.103. vor 70 この血 腥 い国 境 紛 争 はRankeの 注 目す る と こ ろ と もな る。 彼 は 「年 代 記 に は エ ッチ ュ地 域 で の フ ラ ンク人 に対 す るバ イ エル ン人 の 戦 いす ら述 べ られ る。 これ は双 方 に と って耐 え 難 い状 態 で あ る。787年 バ イエ ル ン太 公 は, 教 皇 の 執 り成 しの 元 で カ ール と充 分 に話 合 うた め に, 二 人 の 高 位 聖 職 者 を ロ ー マ に送 り出 した131)」と記 す 。781年 に は カ ール が タ シ ロの 許 に使 者 を派 遣 し た が ,787年 は カ ール は悠 然 と タ シ ロの反 応 を待 ち受 け る。 ロ ー マ教 皇 と の 会 談 結 果 は, 既 に述 べ た よ うに,787年 , フ ラ ン ク軍 に よ る三 方 か らの バ イ エ ル ン大襲 撃 を 惹 き起 こ し, バ イエ ル ン太 公 国 は滅 亡 へ の 坂 道 を 転 が り落 ち て行 く。 以 上 の こ とか ら明 らか な よ うに,784年 は, カ ー ロ リ ン グ家 と ア ギ ロル フ ィ ン グ家 間 の従 来 の 内部 矛 盾 が敵 対 矛 盾 に決 定 的 に転 化 した 時点 , と把 握 して よ か ろ う。 「王 国 年 代 記 」 の 記 述 に幻 惑 され る と, ア ギ ロル フ ィ ン グ家 消 滅 に至 る 中世 初 期 のバ イエ ル ン史 の実 像 を見 失 う可 能 性 が非 常 に高 い。 こ の こ と は過 去 の研 究 状 況 か ら見 て明 らか で あ る。 中 世 バ イエ ル ン史 研 究 を 的 を射 た も の に す る た あ に も, よ り生 産 的 に す る た め に も,Becherに よる 784年 の位 置付 け提 言132)を真 剣 に受 け止 め る必 要 が あ るの で はあ る まい か。 お わ り に 「支 配 者 の エ トス 」 と 言 う 場 合 の 「エ ト スEthos」 の 訳 語 の 問 題 で あ る。 「心 理 」 と 訳 す と 少 し弱 い 。 「情 念 」 は如 何 に も お ど ろ お ど う し い 。 そ の 「お ど ろ お ど う し さ」 が カ ー ル 大 帝 の 場 合 に は, 彼 の 支 配 者 と し て の 在 り よ う か ら観 る と, 将 に ぴ っ た り して い る の か も 知 れ な い 。 「支 配 者 の エ トスJ'と 言 う場 合 の エ トス の 一 般 的 訳 語 と し て は , こ の 両 者 を 足 し て 二 で 割 っ て 出 て 来 131)Ranke, sogar 132)Becher Karl ein Kampf S.58, der der Gro゚e, S.416.前 Bajoarier 本 稿25ペ gegen ー ジ 参 照 。 半 部 の die ド イ ッ 文 はIn Franken im den Etschgebiet Annalen wird erw臧nt, 再論 :タシロ三世 71 る 「心 情 」 く らいが 妥 当 か 。 しか し古 来 ,.民衆 は, 大 抵 , 支 配 者 に裏 切 られ る と した も の。 支 配 者 の心 と支 配 者 以 外 の人 心 は別 の と こ ろ に在 る の だ。 と す る と, 支 配 者 の エ トス, と言 う と き の 「エ トス」 に は 「真 情 」 と い う訳 語 を当 て る のが 最 適 と も思 え る。 中 らず と雖 も遠 か らず , か 。 本 稿 は ミ ュ ン ヒ ェ ン大 学 バ イ エ ル ン史 研 究 所 所 長Prof. Dr. 〈完 〉 Walter Ziegler氏 の ご 好 意 と 同 研 究 所 の 便 宜 提 供 を 受 け て 成 立 し た も の で あ る 。 こ こ に 特 記 して 感 謝 の 意 を 表 し た い。 ま た 本 稿 で 扱 わ れ たMatthias 教 示 さ れ た エ ア ラ ンゲ ン大 学 文 学 部 助 手Dr. Becherの Andreas 著 書 の存 在 を小 生 に Otto Weber氏 に も厚 く お 礼 を 申 し上 げ る。 2000年11月13日 ミ3ン ヒェ ンにて