...

いい加減な夜食 - タテ書き小説ネット

by user

on
Category: Documents
9

views

Report

Comments

Transcript

いい加減な夜食 - タテ書き小説ネット
いい加減な夜食
秋川滝美
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
いい加減な夜食
︻Nコード︼
N2319BF
︻作者名︼
秋川滝美
︻あらすじ︼
賞味期限切れの食材で作り上げたいい加減なリゾット。
そこから始まった無意識の想いは時を経て確実な形となっていく。
優秀過ぎる上司にとって使い慣れた道具に過ぎない私が、
こんな想いに気付いても仕方ないのに。
︵R18要素は大変希薄です。︶
1
*書籍化のため、2012年9月25日20時にて本編削除致しま
した。
2
いい加減じゃない夜食︵前書き︶
いい加減な夜食 番外編です。
3
いい加減じゃない夜食
﹁まだ起きていたのか﹂
まずこの時間に、そもそもこんな場所に、滅多に現れないはずの
ない人間が突然現れて、宮野は面食らった。
もうとっくに日付も変わった深夜である。
そんな時間に、なぜこの館の主が厨房にやってきたのだろう。
もしかしたら仕事が立て込んで、徹夜でもする予定なのだろうか
⋮と、宮野は俊紀の様子を伺った。
けれど、そんなに切迫した様子も、仕事に追われている様子もな
くて、宮野は怪訝に思う。
﹁俊紀様⋮⋮なにかお入り用でしたか?コーヒーでもお入れしまし
ょうか?﹂
﹁いや、コーヒーはいい。だが、ちょっと厨房を使って良いか?﹂
宮野はますます仰天した。
原島財閥総裁原島俊紀が、未だかつて、厨房で何かをしたことが
あっただろうか。
もう随分長くなってしまった原島家での年月を、ずっと辿り直し
ても、そんな記憶はない。
あるとしたら、まだ子どもだった頃の俊紀が、戯れにクッキーを
作ると言い出した彼の母親和子とともに、厨房を粉だらけにしたこ
とぐらいである。
4
﹁なんでしょう?お腹でもお空きになりましたか?それならば私が
何か誂えましょうか?﹂
それとも、佳乃様に⋮と言いかけて、宮野は言葉を切った。
その日、俊紀の妻で、原島邸の女主人である佳乃は、朝から随分
具合悪そうにしていた。
どうやら春先の落ち着かぬ気候で、風邪を引き込んだらしい。
それでも、俊紀に心配をかけてはならないと、朝は時間通り起き
出して、主の食事の支度や世話のあれこれをこなし、出勤する彼を
きちんと見送った。
たとえ婚姻届詐欺まがいといえども、入籍も済ませ、結婚式を待
つばかりとなっている状態で、そこまで俊紀に気を遣わねばならな
いというのはいかがなものか、と宮野は心配する。
俊紀の出勤を見送るまでは絶対に倒れたりするまいと、佳乃は、
残っている全てのエネルギーをかき集めるように踏みとどまってい
たが、彼が出勤したあと、もう精も根も尽き果てたとばかり、ベッ
ドに潜り込んだ。
﹁すみません宮野さん、今日、欠勤させて下さい﹂
女主人が使用人頭に欠勤を申し出るという、あり得ない事態に、
宮野は頭を抱えてしまう。
この人は、いったい、いつになったら自分の立場に慣れるのだろ
う。
佳乃は、夜食係兼管理人補佐として原島邸に雇用され、すぐに俊
紀の私設秘書になった。
それから5年もの間使用人としてこの館に住み、この家に関わる
5
すべてのことを司るのは宮野だと頭に叩き込んでいる。
彼女が体調を崩して寝込むことは一度もなかったけれど、自分の
体調不調にしても、とりあえず報告すべきは宮野だ、と思ったとし
ても無理はないのかも知れない。
﹁佳乃様⋮、佳乃様はもう使用人ではないのですから、欠勤という
ことはございません﹂
宮野が、そう言うと、漸く思い出したように、佳乃は言った。
﹁ああ⋮そうでしたね。すみません、ついなんか習慣で⋮﹂
﹁熱、上がってきたんじゃないですか?﹂
青ざめた顔色で、震えだしそうな佳乃を気遣いながら宮野は言っ
た。こんなに具合が悪そうなのに、よくも今まで動き回れていたも
のだと感心する。
﹁社長が出勤されるまでは⋮と思って、気合い入れてました。でも、
あんまり賢いやり方じゃなかったみたいです⋮⋮﹂
今日が、衣装あわせの日で良かった⋮と、佳乃は力なく言った。
すみませんが、門前さんに連絡して、日を改めて貰ってください⋮
そう言ったあと、もうこれ以上は無理だ、と布団に顔を埋めた。
﹁畏まりました。門前には連絡しておきます。それよりも、お医者
様をお呼び致しましょう﹂
その言葉を聞いて、佳乃はさっき潜り込んだばかりの布団から、
やっと手だけを出して、いらないとばかりに左右に振った。
6
﹁私、病院とかお医者さんとか見ると、余計に具合悪くなるんです。
だから、このまま寝かせてください﹂
﹁では、せめて風邪薬でもお持ちしましょうか?﹂
﹁薬も嫌いです⋮⋮﹂
まるで子どものような物言いに、宮野は思わず目を細める。
あの原島俊紀の右腕として、もう何年もあらゆる業務をこなして
きた佳乃が、医者嫌い、薬嫌いなんて弱点を持っていたとは⋮。
宮野は佳乃の様子を見ながらちょっと考える。
彼女は元々体育会系、しかも柔道で鍛え上げた身体だ。ただの風
邪ぐらいなら、自力で熱を上げて治すタイプなのだろう。
それならば、なにもせずに寝かしてやるのが一番かも知れない。
そもそも、本人が医者も薬もいらないというのであれば、それより
他に方法はない。
﹁では、ゆっくりお休み下さい。時々様子を伺いに参ります﹂
そう言って、宮野は佳乃の部屋から下がった。
佳乃は、いつも眠っている俊紀の部屋ではなく、滅多に使わない
自分の部屋のベッドに潜り込んでいた。自分が引き込んだ風邪が、
俊紀に移るのを畏れるように⋮。
どこまでも主に気を遣う佳乃は、更に痛々しかった。
その後、宮野は、数時間おきに佳乃の部屋を覗いたが、彼女は昏
々と眠り続けていた。
食事も取らず、ただただ眠ることで体力を回復しようとする佳乃
は、まるで動物のようだった。
無意識に、是が非でも俊紀の帰宅までに熱を下げようと躍起にな
7
っていたのかも知れない。
けれど、夕刻になっても佳乃の熱は下がらなかった。
宮野は、何よりも体調不良を俊紀に知られたくないと思っている
佳乃のためにも、一刻でも主の帰宅が遅いことを祈った。
甲斐あって、俊紀から
﹁ちょっと仕事が片づかない、帰宅は夜半になるかも知れない﹂
という電話が入った時には、思わず上げそうになった歓声を必死
で押さえたほどだ。
結婚式とそのあとの新婚旅行休暇を確保するために、俊紀のスケ
ジュールはかなり厳しいものになっている。
その上、右腕の佳乃は、衣装あわせだのなんだのと、しょっちゅ
う門前に呼び出されている。
佳乃本人は、結婚式なんて必要ないと言い切っているぐらいだか
ら、ここで門前との打ち合せを止めさせたら、これ幸いと結婚式を
ボイコットしかねない。
俊紀はそれを畏れて、少々自分が忙しい思いをしてでも、佳乃に
結婚式の打ち合せを優先させている。
そのこと自体、きっと佳乃には負担になっているのだろうけれど
⋮。
﹁結婚式なんてやらなければ、一人であんなに忙しい目に遭わなく
てすむのに⋮﹂
と、自分を残して出勤していく俊紀を見送るたびに、ぼやいてい
た。
俊紀が帰宅したのは、午後11時過ぎだった。
8
﹁佳乃は?﹂
開口一番そう聞いた主に、宮野はやむなく、
﹁少々お疲れのようです。頭痛がするから先に休む、とおっしゃっ
てました。俊紀様に、申し訳ありませんとお伝え下さいとのことで
した﹂
そんな宮野の言葉を、俊紀は疑うでもなく、
﹁そうか、このところ予定が立て込んでいるからな。まあ、早めに
休むのはいいことだ﹂
とあっさり聞き入れて、自室に戻っていった。
それから数時間後、宮野は佳乃の下がりきらない熱を心配して、
飲み物でも持って様子を見に行こうと、厨房にやってきたところだ
った。
そこに現れたのが主である。
﹁俊紀様、なにを⋮?﹂
厨房のどこに何があるかを、何故知っているのだろう。
俊紀は、迷いもなく、小さな鍋と米を取り出した。
仰天している宮野をよそに、ボールで正しく米をとぎ、わざわざ
ペットボトルのミネラルウォーターを入れて火にかけた。
﹁佳乃が熱を出していると、何故言わなかった?﹂
ガス台の前で、水が沸き上がらないように注意しながら、俊紀は
宮野を軽く睨むように見た。
9
﹁それは⋮﹂
どう説明して良いのか、迷っている間に、俊紀は勝手に結論を出
した。
﹁まあいい、きっと佳乃の気持ちを考えてのことだろう?﹂
﹁はい﹂
﹁朝から具合が悪かったのか?﹂
﹁おそらく⋮﹂
﹁馬鹿な奴だ﹂
吐き捨てるように俊紀は言った。
佳乃を責めると言うよりも、気付かなかった自分を責める口調で
⋮。
﹁具合が悪い時ぐらい、そういえばいいものを⋮﹂
﹁俊紀様⋮佳乃様は⋮﹂
﹁わかってる。それも佳乃の考えの一つなんだろう。もう少し、甘
えてくれれば良いんだがな⋮﹂
宮野はそんな俊紀のセリフにぎょっとした。
原島俊紀の発言にしては、あまりに似合わない。
けれどそれは、まさしく今の彼の心境で、押さえきれない佳乃へ
の想いが、あふれ出したとしか言いようがなかった。
もっと甘えて、もっと頼って、自分がいなければ生きられないほ
ど依存して欲しい。
そうすれば、佳乃を失う心配などせずに済むのに⋮。言葉の裏に
込められた、主の思いが切なかった。
﹁佳乃様は?﹂
10
具合が悪いと知っているということは、きっと俊紀は佳乃の部屋
に行ったのだろう。
佳乃がまた無理をしていなければいいが⋮と宮野は心配になった。
﹁熱はだいぶ下がったらしい。測ってみたら微熱だった﹂
﹁それはようございました﹂
宮野は、佳乃が、自分の部屋に現れた俊紀を見て、気合いで熱を
下げたんじゃあるまいな⋮と一瞬あり得ない想像をした。
けれど、気力で熱が下げられるほど回復したのであれば、それは
それで大丈夫だろう。
﹁朝から何も食べてないんだってな⋮﹂
心配そうな顔で、俊紀は鍋の中の米を見つめる。
ああ⋮それで⋮。
宮野は、こんな時間に厨房に現れた主の意図を理解した。
きっと主は、いつも自分に夜食を作ってくれる佳乃のために、今
日は自分が夜食を作ってやろうと思ったのだろう。
それにしても、よくお粥の炊き方など知っていたものだ⋮と感心
する。
﹁佳乃に聞いた﹂
佳乃がこの原島邸に住み込んでまもなく、純粋に彼女が夜食係だ
った頃、遅く戻った俊紀のために、彼女は何度も夜食を誂えた。
それが彼女の仕事だったのだから、当然といえば当然だった。
11
俊紀は、以前のように宮野に運ばせるのではなく、佳乃自身に夜
食を運ばせるように指示した。
俊紀が夜食を食べる間、沈黙に耐えられず話題を探しあぐねた佳
乃は、その日の夜食の作り方を披露するようになった。
そのうち、その日の夜食だけでなく、いろいろな料理についても
⋮。
そうやって、料理について語る佳乃は、ひどく自然で楽しげで、
俊紀もそんな彼女を見るのがとても楽しかった。
そうした日々の中で、俊紀はいろいろな料理の作り方を学んだの
だという。厨房のどこに何があるのかも含めて⋮。
﹁まあ、実践するのは初めてだけどな⋮﹂
理論がわかっていれば、そう難しいこともないだろう。
理科の実験と似たようなものだ、と俊紀は照れ隠しのように笑っ
た。
﹁知っていたか?粥を炊く時は、かき混ぜてはいけないそうだ。そ
れがさらさらの粥を作るこつなんだと﹂
佳乃は、粘りがあってしっかりした粥よりも、さらさらの米が少
なめの粥の方が好きなんだそうだ⋮。
俊紀は、本当に愛しそうな顔で、そう言った。
﹁そうですか⋮存じませんでした﹂
宮野は、俊紀が佳乃を想う気持ちに触れ、なんだか少し涙ぐみそ
うになってしまった。
そんな宮野を尻目に、俊紀は炊きあがった粥を木の椀に盛り、山
12
本が揃えてある梅干の保管場所に行く。何種類もある梅干の中から、
いかにも昔ながらのただ塩だけで漬けた梅干を選んで小皿に盛った。
﹁甘い梅干も嫌いだそうだ。まったく、甘くない女だよな﹂
そう言うと、小さな盆に、粥の椀と梅干の小皿、箸とレンゲをの
せた俊紀は、自分の仕事にひどく満足した笑顔で厨房を出て行った。
ああ⋮お幸せそうな笑顔だ⋮。
宮野は、ますます涙が出そうになる。
これまでいろいろなことがあった。そしてこれからもきっといろ
いろあるのだろう。
それでも、佳乃がそばにいる限り、主はあんな風に笑える。
宮野は、主のあの笑顔を取り戻してくれた佳乃に心の底から感謝
した。
宮野は、小鍋に残っていた粥を、少しだけ掬って口に入れてみる。
正しくて、それでいてほのかな甘みのある、今の俊紀らしい味が
した。
︵いい加減じゃない夜食 End.︶
13
いい加減じゃない夜食︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
14
いい加減な柔道
何でこんなことに⋮。
佳乃は深い深いため息をついた。
原島邸の庭深くにある小さな武道場。
目の前にいるのは長年仕えた主、というよりも、今はもっと微妙
な関係である原島俊紀。
彼と対峙するならば、ダンスよりも柔道が望ましいと思ったのは
それこそもう5年も前の話である。
あのときだって、別に本気でそれを願った訳じゃない。ただの比
較だった。
慣れないパーティドレスにピンヒール、本物のアクセサリーで飾
り立てられたことが、つくづく不本意で、こんな格好私らしくない、
柔道着の方が絶対似合う。
ましてや、こんな絢爛豪華な男相手になんてことだ⋮と思っただ
けのことである。
自分よりもずっと大きくて、肩幅だって筋肉量だって二倍近くあ
るような男と乱取りなんてしたいはずがない。
そもそも、ここにこの男がいること自体が大間違いだと佳乃は思
う。
本来なら、目の前に立っているのは、緊急対策班の井上だったは
ずなのだ。
ことの発端は、佳乃が学生時代にひたすら精進を重ねた柔道。
その柔道の技はいったいどれぐらいまでの体格差を跳ね返せるの
か、という問題だった。
15
佳乃は拳を握って主張した。
﹁柔道は万能です。体格差はなんとでもできます。今は外国の要請
もあって体重別になっていますが、本来は無差別級でも問題ありま
せん﹂
一方、緊急対策班の面々は、それだって限界があるはずだと言い
張る。
傭兵上がりの猛者達は、普段から物騒な武器や装置の扱いには慣
れているし、ルール無用の肉弾戦なら向かうところ敵なしだ。
けれど、武道としての柔道に関しては思いの外造詣が浅く、それ
こそ学校の体育で習った受け身を取るのがせいぜいで、十数年に渡
って正しく精進してきた佳乃には到底敵わない。
悔し紛れに、いくら佳乃が黒帯でも、所詮女、多少の体格差なら
ともかく、井上クラスの大男では太刀打ちできないだろう、とつい
うっかり呟いた。
負けん気の強い佳乃のことである、売り言葉に買い言葉で、じゃ
あ一度、一番体格差の大きい井上さんと対戦してみましょう、とい
うことになったのである。
井上の身長は185センチ、体重はおそらく80キロを超えてい
るだろう。
その井上相手に一本取れたなら、佳乃の言う﹁体格差は関係ない﹂
という説を認めよう、と緊急対策班の連中は言った。
たとえ柔道は素人とはいっても、相手はあの井上である。いくら
佳乃でもそんなことは不可能だろうと思って⋮。
ところが、実際その対戦はなかなか実現しなかった。
緊急対策班の面々は言うまでもなく、常時交代で休日といえども
俊紀の護衛やら原島邸の警護やらに就いている。
佳乃とて俊紀の私設秘書としての仕事があり、暇にしているわけ
16
でもない。
お互いの時間が取れず、スケジュールのすりあわせに苦心してい
るところを、こともあろうに主の俊紀に見つかってしまった。
﹁お前らはいったい何を考えているんだ!﹂
井上はボスの怒りの前に、脱兎のごとく逃げ出したが、佳乃はそ
うはいかなかった。
俊紀にしても、説教して楽しいのは佳乃の方に決まっている。井
上など全放置で、ためらいもなく佳乃を捕まえた。
長年の上司、いやそれ以上の存在である俊紀に一喝された佳乃は
つい口をとがらせる。
﹁だって⋮けんか売ってきたの井上さん達だし⋮﹂
﹁だからといって、あの連中相手に柔道なんて愚かにもほどがある﹂
﹁どうしてですか?﹂
﹁どうしてって⋮柔道といったらお前⋮﹂
組んずほぐれつ、投げたり投げられたり、押さえたり押さえ込ま
れたり、で密着度が高すぎるだろう!たとえ井上相手でも許せるか
そんなもの!!
と、苛立ちに紛れて危うく口走りそうになるのを、俊紀はなんと
か我慢した。
それではあまりにも、嫉妬に狂っているみたいで情けなさすぎる。
実際その通りで、井上に押さえ込まれる佳乃を想像しただけでも、
血管が二、三本切れそうになったにしても、原島財閥総裁原島俊紀
たる者、それを丸ごと表に出すわけにはいかなかった。
とは言っても、佳乃はやる気満々、受けて立つ井上の方も、ここ
まで来たら後には引けぬ、といった風である。今は逃げ去ったとし
17
ても、そのうちまた対戦の日は来るだろう。
なんとか、その状況を上手く回避する方法は無いかと俊紀は必死
で知恵を巡らせる。
そして、ほんの数秒で、笑い出した。
なんだ、考え込むほどのことでもない。簡単な話じゃないか。
要するに、体格差が大きい相手であればあるほどいいのだ。
井上に相手をさせるのが嫌なら自分がやればいい。
﹁佳乃﹂
﹁なんですか?﹂
﹁井上よりも私の方が背が高い﹂
確かに緊急対策班で一番背が高い井上ですら、俊紀と並ぶとおよ
そ二センチは低かった。
腰回りはさすがに井上の方がしっかりしているが、だからといっ
て筋肉量が劣るわけではない。肩幅にしても俊紀の方がずっとある。
﹁だからなんですか?﹂
﹁体格差を跳ね返す証明をしたいなら、私の方が適当だ﹂
﹁うそ⋮﹂
そんな馬鹿な!と叫んで、逃げ出そうかと思った。
体格差実験が成功しようと失敗しようと、相手が俊紀では佳乃に
とってちっとも嬉しいことではない。
失敗すれば自説は崩れるし、成功するということは、長年の主を
投げ飛ばすことになる。
長年の主だけならともかく、今や彼は⋮と思ったところで佳乃は
思考を止めた。
18
﹁いや⋮あの⋮やっぱりいいです。よく考えたらそんな証明する必
要ありませんでした。体格差がどうであれ柔道が優れているのは間
違いありません。何も私が実践しなくても⋮﹂
﹁ほう⋮負けを認めて逃げるわけか﹂
﹁負けてませんって。どんな柔道理論の本にでもちゃんとでてます
から!﹂
﹁生憎読んだことがない。例えその理論が実際にあるとしても、限
度はあるだろう。お前が私を投げることなど出来ないはずだ﹂
﹁⋮⋮出来ますよ﹂
﹁無理に決まっている﹂
﹁絶対出来ます!﹂
﹁じゃあ、やってみろ﹂
そして、え⋮それはまた今度日を改めて⋮、と言い出す間もなく、
そのまま武道場に引っ張ってこられたというわけである。
どうしてそんなものが必要なのだ⋮と思うほど、何から何まで備
えられている原島邸において、柔道着ぐらいあって当然だ。
言うまでもなく武道場には、各サイズの柔道着が置かれていて、
佳乃はしぶしぶ自分のサイズの柔道着に腕を通した。
その瞬間だけは確かにほっとしたのだ。
誰の仕事かはわからないが、そんなに頻繁に使われているとは思
えない柔道着が洗いさらされ、よく揉み込まれ、適度に柔らかくな
っていることに驚きながら、帯をきゅっと締めると、精神が研ぎ澄
まされる気がする。 本来なら、まずは正座して精神統一から入りたいところだが、あ
いにくそんな場合ではなかった。
柔道着なんて着たことあるのか?と疑った主は、意外にまともに
着こなしていて、あらゆる意味でのそつのなさを、こんなところで
19
も発揮している。
慣れた柔道着に身を包んで、すっかり余裕を取り戻した佳乃がつい
﹁わりとスムーズに着ましたね﹂
なんてからかうように言ってみたら、
﹁学校の授業でやったからな﹂
と、俊紀はごまかすように笑った。
その笑いが、非常に怪しいことに何故気付かなかったのか、と後
で思ったけれど、そのときはそんなことを疑いすらしなかったのだ。
武道場は小さいとは言っても、スポーツセンターの一室ぐらいの
広さはあり、二人が乱取りするぐらい余裕であった。
それなのに、柔道着を着た俊紀がその真ん中に立っていると、ま
るで六畳ぐらいの狭さに見えてしまう。
ただでさえ威圧的な主に、柔道着というアイテムはやはり与えす
ぎだ⋮と佳乃はうんざりする。
それでも長年鍛えてきた技に不安があるわけでもなく、主兼恋人
を投げ飛ばすことに若干のためらいを覚えはしても、それ自体が不
可能だとは少しも思わなかった。
原島邸に住むようになってすぐに始められた護身術の講習で、柔
道の黒帯なんだからそこまでは必要ない、と俊紀に言われたにもか
かわらず、佳乃は運動不足とストレス解消のために嬉々として実地
訓練に励んだ。
相手をしたのは当然、緊急対策班の面々で、彼らは実にあっけな
く佳乃に投げ飛ばされることになった。
上背こそ俊紀ほどにではないにしても、筋骨隆々たるメンバーで
20
あっても、佳乃が掛けた技を外すことは出来なかったのである。
﹁姫さん、勘弁して下さい!おれ達はどっちかっていうと外国仕込
みなんですから、柔道の経験はそんなにありません。武器とか情報
設備駆使しての戦闘なら負けませんが、純正のルールに従った柔道
には対抗できません!﹂
と、逃げ出そうとする緊急対策班員を片っ端から捕まえて、佳乃
は武道場に連行した。
護身術が一段落して、それ以上は必要ない、いい加減に連中を本
務に戻せ、と俊紀に止められて、佳乃は渋々実地訓練を終了した。
それでも、彼らがちょっとでも暇そうにしていると今度は﹁指導﹂
と称して呼び出している。
特に、あの鳥居道広がらみで俊紀と衝突し、会社を早退した挙げ
句行方をくらました一件で、自分の居場所を見事に探り当てられた
ことが面白くなかった佳乃は、逆恨みとわかっていても、最近はま
た頻繁に彼らを餌食にしていたのだ。
﹁姫さん、俺は今日はちょっと最新の盗聴器の具合を調べないと﹂
﹁姫さん、俺は俊紀様の車に危ない仕掛けがされてないか調べない
と﹂
﹁姫さん、俺は庭にチャドク蛾が大量発生してないか調べないと﹂
﹁姫さん、俺は厨房に黒い奴らが入り込んでないか調べないと﹂
むくつけき猛者達の言い訳がどんどん情けなくなっていく。
最後の﹁黒い奴ら﹂に至っては、聞きつけた山本シェフが特大フ
ライパンを持って襲いかかりそうになったぐらいだ。
﹁俺の厨房にそんなもんはいない!!﹂
21
そんな言い訳のすべてを、右から左へ聞き流し、佳乃はにっこり
笑って言う。
﹁まあそう言わずに練習しましょうよ、覚えておいて損はありませ
んよ。柔道は武器もいらない、最新鋭の装備もいらない万全の備え
ですからね!﹂
原島邸の次期女主人である佳乃にそう言われて抵抗できる者はい
なかった。そして彼らは入れ替わり立ち替わり、佳乃にぶん投げら
れることになった。
原島財閥が誇る精鋭部隊ともあろう者が、何とも無さけない有様
であった。
だからこそ、俊紀と対峙し、いつも通りに気楽に技を掛けようと
して、どこにも隙がないなんてこと想像もしなかった。
そして、あれ、おかしい⋮と思った瞬間、あっけなく寝技に持ち
込まれていた。
﹁なんで!?﹂
がっちり押さえ込まれて、本当に身動きが取れなかった。
身長差は25センチ近く、体重差も相当あるだろう。それでも、
相手に引けを取るとは思わなかった。それぐらいの相手なら理論上
は何とかなるはずだったのだ。
ただし、それが、相手が素人の場合だということを佳乃はすっか
り忘れていた。
いや、正確に言えば、ちゃんとわかっていた。ただ、俊紀が素人
じゃないなんて思いもしなかっただけだ。
原島財閥のお坊っちゃまが柔道にいそしむなんて考えるはずがな
い。
22
いつだってSPやらなんやらに囲まれているのだから、それこそ
佳乃が受けた基本の護身術程度で十分なはずだと思いこんでいたの
である。
﹁柔道の黒帯は世界にお前ひとりじゃない﹂
余裕で佳乃を押さえ込み、俊紀は腹黒く笑った。
その笑みは途中から腹黒いというよりも実に淫靡な色に変わる。
﹁良い感じのシチュエーションだな﹂
そのまま、俊紀の唇が重なってきた。
口づけにもそれ以上の行為にも、もう随分慣らされた。
それでも、まだ初心者マークをくっつけたままの佳乃が、こんな
風に真っ昼間から、明るい武道場で、しかも柔道着のままで重ねら
れる唇に対処できるわけがない。
自分がどこにいて、何をしようとしていたのかまで、あっけなく
忘れさせられた。
息も継げないほどにぴったりと重ねられた唇の隙間から、熱い舌
に潜り込まれ、まるで数を数えるように歯列を端からなぞり上げら
れる。
そんなところが敏感だなんて思ったこともなかったのに、俊紀の
舌がなぞるところから小さな火が次々と熾る。
なんとか技を外そうとして、柔道着を握りしめていた佳乃の手か
ら力がすっかり抜けるまで、俊紀の唇は離れなかった。
俊紀は、佳乃の力が全部抜けたことを確認して、満足そうに笑っ
た後、さらに行為を進める。
しっかり締めたはずの帯はあっけなく解かれ、もうすっかり覚え
てしまった体温が肌を探った。
最初はいつも俊紀の体温の方が熱いと感じ、それは途中で逆転す
23
る。
自分を探る熱い手にそれ以上の熱を呼ばれ、佳乃はあっという間
に俊紀の熱を越える。
余すところ無くバラ色に染まった肌を隅々まで唇でなぞられ、佳
乃はさらに熱を上げる。
口から漏れる細い喘ぎが次第に絶え間なくなっていく。そして、
寄せてくる欲求に、これ以上は耐えられない、もう限界だというと
ころで、俊紀が自分の中に押し入ってきた。
佳乃はその感触にむしろ安堵し、それから⋮酔いしれた。
身体の一番奥深いところを何度も何度も擦り上げられて、次第に
呼吸すらも辛くなる。
それでももっと近付きたくて、佳乃は俊紀の背中に回した腕に力
を込める。
込められた力に応えるように、俊紀が強く佳乃を抱きしめた次の
瞬間、全てが弾けた。
しばらくして、荒い息を整えながら、ゆっくりと冷めていく熱を
惜しむように、俊紀は佳乃の額にそっと唇を寄せる。唇が届く寸前
に漏らした言葉が憎らしかった。
﹁楽しいな、柔道は﹂
そして、俊紀は、佳乃の額に唇を付けたままくっくっと笑う。
﹁こんないい加減なの柔道とは言いません!!冒涜もいいところで
す!!﹂
という佳乃の不満の叫びが武道場にこだましても、俊紀の笑いは
止まらなかった。
24
End.
25
いい加減な仮装
﹁お前はなんて悪い奴なんだ!﹂
﹁だって⋮見てみたいんでしょ、あの人が慌てるところ?﹂
﹁そりゃそうだけど﹂
﹁だったら使える手は何でも使わないと﹂
﹁まったく小賢しい奴だ、こっちに引っ張っといて本当に良かった﹂
﹁私としては勘弁して欲しかったんですけどね﹂
﹁まだそんなことを⋮﹂
﹁あ⋮ほら、そろそろお客様が着く頃ですよ﹂
﹁ああ⋮そうだな﹂
そして、魔女の衣装を着た女と黒マントにマスクの魔術師はエン
トランスに降りていった。
何でこんなことに⋮⋮。
先だって、原島邸の武道場でもそんなことを思ったが、本日も佳
乃は全く不本意だった。
さらに、自分の姿を見下ろして、この衣装を選んだ人間の意地の
悪さを実感する。
10月31日という、どうにもならないおふざけ絶好調のタイミ
ングで催されたパーティーは普段の俊紀からすれば絶対にパスだっ
たはずだ。
それなのに、どうしても外せない商談があるとかで俊紀は参加を
決めた。
確かに今回、それを承知で参加せざるを得ないほど交渉期間が延
びていたから、仕方がないと言えば無かった。
26
それにしても、主はどこにいるのだろう。会場に着くなり魔術師
の仮装の男に連れ去られたけれど⋮。
そう思いながら見回した先には、中身も外見もそれ以外に考えら
れないという感じの魔女がひとり。すぐに彼女は佳乃に近付いてき
た。
﹁佳乃さん、そのドレスすごく素敵ですね!﹂
魔女はそんな風に言って、悪戯そうな目で佳乃の全身を見る。
その日の佳乃は、俊紀のタキシードに合わせて、同じような黒の、
但し至って地味なドレスだった。
いつもなら二人して黒なんて暑苦しくて⋮と門前に止められるに
違いないが、今日はその門前も居ない。急遽参加を決めたパーティ
ーだったから、俊紀が手配してくれた衣装にそのまま袖を通したに
過ぎない。
紛れもなく上質のドレス、しかも過度に女性を強調しないデザイ
ンで、佳乃の嗜好にぴったりのチョイス。佳乃は、さすが⋮と思わ
ざる得なかった。
それなのに、魔女はとんでもないことを言った。
﹁でも、申し訳ありませんが、ちょっと着替えて頂けませんか?﹂
問答無用で魔女に拉致され、原島邸と匹敵するほど大きな屋敷の
着替え用とおぼしき控え室に連れて行かれた。
この衣装に着替えて下さい!と紙袋を渡された時は面食らったが、
そもそも企画自体がハロウィンパーティーだったから、まあ仮装は
デフォルトか、と納得して受け取った。
まさかそれがこんなものだとは思いもせずに⋮。
27
﹁あの⋮どうしてこんな?﹂
戸惑い120%の眼差しで魔女を見遣れば、魔女はくすくす笑い
ながら打ち明け話をする。
﹁ここだけの話、うちの社長、原島さんにやられっぱなしで⋮﹂
﹁え⋮そうですか?かなり良い感じの渡り合いになってると思って
ましたが⋮﹂
俊紀にしては珍しく交渉に時間が掛かっていたのは事実である。
いつもならもうとっくにまとめきっていたに違いない契約。いつ
も通り、巧妙に自社にとって都合に良い条件を隠したつもりが悉く
暴かれて、まさしくイーブンに持っていこうとする相手に苦笑い。
久々に手応えがある相手だ⋮なんて面白そうに言っていたぐらい
である。
﹁きっと、お互いに相手のことを好敵手だと思っているのでしょう。
とにかく、今までこんな思いをしたことがない、と悔しがっている
ので、ここらでちょっとあのアンドロイドみたいに冷徹なマスクが
壊れるところを見てみたい、という感じですね﹂
魔女はそう言って笑う。
あの社長にとって好敵手というのはむしろあなたのことではない
のか⋮と佳乃は思う。
何度か同席した交渉の場で、彼の後ろに控えていた本日の魔女は、
常に抜け目ない視線で上司の挙動を監視していた。
佳乃より一つ二つ年上かと思われる彼女と、仕事の場で顔を合わ
せた時にはちょっと驚いたが、そこはお互い社会人。以前の邂逅な
ど無かったふりでそれぞれの上司のサポートに徹した。
28
彼女は、滅多にあることではなかったが、上司がほんの些細な引
っかかりを作る度に、何気なくそれを削り取って修正していく。佳
乃や俊紀が、その引っかかりに気づいて、おや⋮と思うと同時かそ
れよりも早いタイミングで⋮。
ああ⋮この人はきっと、この上司にとって何よりも大切な存在な
のだろうな⋮と思わずにいられなかった。
部下という敷居を越えて生活全ての中で、彼の大事なパートナー
なのだろうな⋮と。
後になって、彼女が以前、たまたま一緒になった私的な席で、愛
情の裏返しといわんばかりに散々けなしくさした男が、あの上司な
のだとわかって、ものすごく納得したことを覚えている。
そんなことを魔女の扮装の女に告げてみたら、彼女はあっさり言
った。
﹁ああ、それはお互い様ですね。私もあなたのことをそんな風に思
いますから。でもまあ、それは別にして、男同士でこんなに勝負が
付かない相手が久々だと言うことです﹂
﹁なるほど⋮それならわかるような気がします﹂
﹁で、プライベート巻き込んでもいいから、一度ぐらい人間くさい
ところを見てみたいという下世話な好奇心がむくむくと⋮ですねえ
⋮﹂
﹁それはちょっと⋮いかがなものかと⋮⋮﹂
と、佳乃は半ば呆れながら答えた。こんな公私混同ってありなの
?である。
﹁あの人、ちょっと感覚が日本人離れしてておかしいですから勘弁
して下さい。でも、実は私も、原島さんが慌てる時ってどんなだろ
29
うって興味津々なんです。佳乃さんもそう思いません?﹂
確かに、俊紀が慌てている姿なんて見たことがなかった。
いつだって彼は冷静で、全てを手の中に入れて、佳乃はその手の
上で踊らされているだけのような気になる。
特に仕事の場を離れてしまえば、もう二人の関係は俊紀の思うま
まであった。
別名﹁やりたい放題﹂に翻弄される日々がずっと続いてきていた。
or
Treat?
で。
﹁ね?せっかくの機会なんですからちょっと悪戯してしまいましょ
Trick
うよ﹂
魔女は手に持っていた杖を軽く振って、ことさら茶目っ気たっぷ
りの顔になる。
佳乃は、こんな顔で迫られたら、きっとあの優秀な上司もめろめ
ろなんだろうな⋮と思ってしまう。
来た時と全然違う服装なら見つけづらいでしょうし、うまくお客
達の間に紛れてしまえば原島さんさぞやはあなたを捜すのに苦労す
るでしょうねえ⋮と魔女は嬉しそうに笑う。
﹁あ、でも、もしも佳乃さんが嫌だっておっしゃるんならもちろん
無理強いはしません。何か別の手を考えますから!﹂
と、彼女は最後の最後で心遣いを覗かせる。そのドレス脱いじゃ
うの確かにもったいないし⋮と言われてしまえば、別にそんなのど
うでも⋮と逆に思ってしまう。
そこまでが彼女の作戦だとしたら、確かに﹁魔女﹂以外の何者で
もない。
30
佳乃は、申し訳なさそうな彼女の表情にほだされて、まあたまに
はこんなおふざけも良いでしょう、とつい答えてしまった。
途端に魔女の顔がぱっと明るくなる。
﹁それでは、本日は、本気のかくれんぼをお願いします﹂
それもう今までにさんざんやってきたんですけど⋮⋮とはさすが
に言えなかった。
かくして、佳乃は控え室で渡された衣装に着替えたわけであるが、
その姿を鏡に映してみて、この先の成り行きにちょっと頭が痛くな
った。
﹁仮装パーティーに、これってどうなの?﹂
もう何年も同じ屋根の下に暮らした相手である。服を着ている姿
もそうではない姿ももう脳裏に焼き付くほどに見られている。
佳乃の一挙一動、何一つ見逃さない視線は、全ての情報をインプ
ットしているに違いない。だから、どれほど沢山の人間の中に紛れ
ていたとしても、見つけ出すことなど容易だと俊紀は思っているだ
ろう。
けれど、そもそも第一条件から偽られるなんて予想しているだろ
うか。
魔女が佳乃に用意した衣装は、ラフだが細身のデニムパンツに白
いシャツ。そして膝あたりまである黒い長エプロン。
要するに仮装でもなんでもない。強いて言えば、会場内に何十人
といる給仕達と同じ衣装だった。しかも、男性の⋮⋮。
会場内にはメイド服とまでは行かないが、それなりに可愛いデザ
インのふくらんだスカートを身につけた女性給仕も沢山いる。
31
そのスカートもありきたりな黒ではなくてやはりデニム地になっ
ているのは、いかにもそれらしく仮装した客達がフォーマルに偏り、
使用人と見分けづらいことと、余りにもフォーマルが溢れすぎて会
場中が重苦しくなりすぎる、ということかららしい。
だから使用人達は、あえてカフェの給仕然としたカジュアルな服
装に統一されたと聞いた。いかにもご当地らしい、そしてあの魔女
と魔術師らしいぶっとんだ感覚だった。
だから、そのカジュアル使用人軍団と同じ服装にしてしまえば、
いくら俊紀といえども、佳乃を見つけ出すのは難しいのではないか。
ましてや、可愛らしい女性給仕ならともかく、男性給仕には目も向
けないのではないか。
魔女達が何かをしたにしても、きっと自分のパートナーはせいぜ
い着てきた黒のドレスにいくつかのオプションを足したぐらいの姿
で居ると思うぐらいだろうと。
本日は魔術師に扮している上司にそう提案した魔女は、佳乃の男
性給仕姿に満足そうに頷いた。
日本人にしても今時珍しいと思っていた佳乃の黒髪は、この家の
使用人の中ではごく普通。この地において、個性の象徴となりうる
黒髪をあえて他の色に染めたいと思う者は少ないらしい。
もしも浮くようならウイッグも用意しようかと思ったんですけど、
このメンバーなら何もしない方がかえって目立ちませんね、と魔女
は言った。
﹁これでみんなと同じ仮面を付ければ完璧ですね﹂
そして、彼女はその他の給仕達と全く同じ、実に素っ気ない目の
周りだけを隠す仮面を佳乃に渡した。一丁上がり、といわんばかり
に⋮。
32
その後、策に長けすぎる魔女は、じゃあまたあとで⋮と、他の客
達に挨拶をしに行ってしまった。
さてと⋮と佳乃は会場をちょっと見渡す。
ハロウィンパーティー、しかも国際的大企業主催というだけあっ
て、沢山の客が詰めかけている。そして、その大半は多かれ少なか
れ仮装をしていた。
かぶり物あり、濃い化粧あり⋮そうでない者でも最低仮面は付け
ている。
自分と似た背格好、しかも佳乃が着てきたような黒いドレス姿の
女性がかなりいるし、俊紀がそのうちの誰かを佳乃だと思いこむ可
能性は高かった。
思い込んで何をするか想像すると、ちょっと、いや、かなり面白
くない気分になるが、そうなる前に止めに入ればいいだろう、と佳
乃は自分を納得させた。
格好が格好だけに、お客然としていては不自然とばかり、佳乃は
サービス用のトレイを片手に会場を回る。
なにもそこまで⋮と魔女は慌てて止めたが、お客様としてグラス
片手に、おほほほっと歓談するよりもずっと自分に向いている、と
佳乃は取り合わなかった。
現に、トレイを持っていれば、会場を出たり入ったりしても見と
がめられることもないし、本来の使用人は佳乃の素性を知らされて
いるから、ポーズ以上の仕事を押しつけられることもない。
たまに客達から用向きを言いつけられても、さりげなく途中でバ
トンタッチしてくれるぐらいの行き届きぶりだった。
なるほど⋮この家の使用人は原島家と同じぐらい優秀だな⋮なん
て佳乃は思う。
けれど、日本よりも遙かにパーティーが多く、サービスというこ
33
とに慣れた国であることを鑑みれば、むしろ日本であの水準を維持
している原島家の方が優位かも知れない。
家の広さにしても、この家は随分広いけれど、原島家とそうかわ
りはない。
国土全体の面積まで考えれば、やはり原島家最強、と思ってしま
うのは身びいきに違いないけれど⋮。
適当に会場内をまわり、飲み物を配ったり空いたグラスを片付け
たりしながら、それとなく俊紀の姿を探していた佳乃は、それより
先に意外な人物を見つけた。
あれは⋮鳥居さん⋮⋮。
ハロウィンパーティとは言っても、大騒ぎで扮装を凝らしている
のは若い男女ばかりだった。
それなりの年齢層の男性はちょっとそれっぽいマントやマスクを
身につけているだけで、基本は夜会用のタキシードである。
今夜は参加者のほとんどが日本人というパーティーで、その中に
あって、鳥居の容貌はかなり目立つ。マジシャンの仮装もよく似合
っていた。
佳乃にとっては比較対象が別格過ぎてその価値も薄れがちではあ
ったが、鳥居はそもそもがかなりの美男子である。当然、彼の回り
には女性客が沢山集まっており、その人だかり故に佳乃も彼の存在
に気が付いた。
絶妙のタイミングで、魔女がすり寄ってきた。
﹁ご紹介致しましょうか?﹂
﹁え⋮?﹂
﹁もちろんもっと後でですが。ああいうイケメンと話しているあな
34
たを見たら、きっと原島さん大変でしょうね﹂
その展開は既に終わってます、とも言えなかった。
なんなの今日はいったい!と目眩がしそうになる佳乃に、魔女は
鳥居のプロフィールまで説明する。
﹁我が社が取引させていただいている銀行の方です。今日は日本人
のお客様が多いので、懐かしいだろうと思ってお呼びしました。女
性としてもああいう見目麗しい方が一人でも多い方が嬉しいですし
ね﹂
とは言っても、彼女自身もきっと自分の上司以上に鳥居を評価す
ることなんて無い。
だから彼女が鳥居を呼んだというのは、むしろくだんの魔術師か
ら女性の目を逸らすのが目的ではないかと疑うぐらいだった。
もちろん、同じ立場となったら佳乃自身が鳥居を当て馬に使いか
ねない。
どこまで申し訳ないんだ⋮⋮と更にがっくりする。
﹁ちょっと前に、銀行を辞めて帰国する話もあったようなんですが、
どうやらこちらに残ることにしたらしくて我が社としては助かりま
した﹂
もう少し場が落ち着いたらご紹介に上がりますよ、と言い残して、
また魔女は人混みに紛れていった。
﹁銀行⋮⋮辞めなかったんだ﹂
思わず佳乃は呟く。
35
あのごたごたの後でいったい彼はどうしたのだろう、と気にはし
ていたが、それを調べることも出来ず、今まで来ていた。
もしも、今まで勤めていた銀行を辞めてしまって、人生の方向性
自体が変わっていたらどう詫びて良いかわからないと思っていただ
けに、彼が今まで通りの生活を送れていたことに安堵する。
まあ、佳乃自身が彼に思わせぶりなことを言ったわけでもしたわ
けでもないのだから、そこまで気にする必要もなかったが、それで
も宮原家が彼にしたことを思えば、やはり詫びるしかない⋮と佳乃
は思う。
もしも話す機会があれば⋮であったが⋮。
だがその機会は、魔女の采配に頼るより先にやってきた。
例によって給仕よろしく、トレイに飲み物をのせて会場を回って
いた佳乃に、鳥居が声を掛けたのだ。
﹁すみません﹂
そんな風にかけられた声に、ぎくりとして振り向くと、彼はごく
普通にトレイの上から白ワインのグラスを取った。少し呑んでみて、
軽く顔をしかめて
﹁甘めだな。もう少しドライなのは無い?﹂
と聞く。
﹁厨房にあると思いますので、持って参ります﹂
佳乃はそう答えて、彼の飲みかけのグラスを受け取り、厨房に急
いだ。
36
鳥居が自分に全然気付かなかったことに安堵する。その上で、鳥
居が気付かなかったのだから、もしかしたら俊紀も⋮と少し期待し
てしまう。
会場に目を走らせ、佳乃を見つけられずに徐々に苛立っていく俊
紀を遠目に見るのは確かにちょっと面白そうだ。
佳乃から辛口ワインのグラスを受け取った後も、鳥居は女性達に
取り巻かれていた。
その光景を離れたところから見ていた佳乃は、急に会場内の温度
が少し上がったように感じた。
もしかして⋮と思って見回した目の先にいたのは、当然のことな
がら俊紀だった。
彼に関しては全然説明がいらない。もう見たまんま、吸血鬼だっ
た。
しかも彼こそ仮装でもなんでもない。
いつもの黒のタキシードを着て、辛うじて仮面とマントを付けて
いるに過ぎないのに、生き血を吸う相手を探す吸血鬼そのものの雰
囲気を巻き散らかしていた。
会場内に彼がいれば、自分は必ず気が付く。変わる空気だけで。
その上、佳乃と違って俊紀には非常にわかりやすい特徴がある。
外国人が多ければそう目立ちもしないだろうが、大半が日本人の
中にあっては、
彼の190センチ近い身長はそれだけで十分な特徴だった。
今までどこにいたのだろう、と思いかけて、俊紀の隣にいる魔術
師に気が付いた。
ああそうか⋮二人していなかったということは早速商談だったの
だな。そもそも俊紀はそこにしか目的はなかったのだから当然だ。
お互い、お目付役無しの商談でさぞかし激しい攻防があったことだ
37
ろう。それでも二人揃って会場に戻ったということはそれなりの結
論が出たということか⋮と佳乃は安心する。
それまで鳥居の回りに群がっていた女性達が、ばらばらと吸血鬼
と魔術師の方に動き始める。
我先にと全員が動かないところに、辛うじて女性達の品の良さが
残っていた。
佳乃はそれを見て眉を顰める魔女の様子を窺って、ちょっと吹き
出しそうになる。
魔女の方も、やっぱり会場に目を走らせ佳乃の姿を探す。佳乃の
居る場所を確認して、彼女はやれやれと両手を逆ハの字に翳した。
お互い大変よね⋮
目くらまし作戦失敗。そんなセリフが聞こえるようだった。
と思う間もなく、魔術師が魔女につかつかと歩み寄る。
魔女に何事か囁いた瞬間、彼女はにやっと笑う。あえて佳乃の方
を見ないことで、自分の話だと察してしまう佳乃。
小声で魔女が何事かを答えたあと、魔術師がちらっと佳乃を見た。
くすり⋮そんな調子で魔術師が笑った。
きっとあの男も相当に意地が悪い。顔の綺麗な男というのはみん
なそんな計り知れない意地の悪さを持っているものなのか、と疑い
たくなってくる。
あの吸血鬼や魔術師に比べれば、やはり鳥居は善人としか言いよ
うがなかった。そもそも仮装からして、鳥居はマジシャン。あの二
人とは段違いであった。
彼らが現れたのならちょうどいい。魔女殿のご用命はかくれんぼ
だし、休憩がてらちょっと中座して外の空気を吸ってこよう。
38
佳乃はそう思って、持っていたトレイにさりげなく空いた皿など
を集めながらパーティールームを出た。トレイを厨房に返し、その
まま勝手口から裏庭に出る。
防音対策もしっかり施されているらしい建物は、一歩外に出てし
まえば中の喧噪を外に伝えることはなかった。
裏庭には二羽鶏がいる⋮⋮いや違う、ここにいるのはなんちゃっ
て給仕がひとりだけだ。
そんな馬鹿なことを思いながら佳乃は裏庭に置かれていたベンチ
に腰掛けた。
ずっと立ちっぱなしで給仕のまねごとをしていたのだ。疲れて当
然である。
でもまあ、あのパーティドレスを着て知らない面々と歓談するよ
りはこっちの方がずっと良い。
佳乃は、やれやれと深く座って、夜空を見上げた。
ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
綺麗な月だなあ⋮⋮確か昨日満月だったはずだけど、今日だって
十分綺麗だよね、なんて思ったあと、室内の明るさに疲れた目を休
めようと、ゆっくり目を閉じた。
ああもうずっとここにいちゃだめかな⋮と考えていた佳乃が次に
目を開けたのは、首筋にちくりと痛みを感じたからだった。
あ⋮虫にでも刺されちゃったかな?と思った瞬間、今度は唇に温
もりを感じた。続いて身体全体にも⋮。
驚いて見開いた目に入ってきたのは、当然例の吸血鬼で⋮。
﹁⋮見つけるの早過ぎ⋮﹂
39
首筋に軽く歯を立てられたあと、さらに唇から存分に生気を吸わ
れ、佳乃がため息とともに漏らしたのはそんな言葉だった。
﹁遅いぐらいだ﹂
俊紀は、満足そうに佳乃を抱きしめたまま、それでも口調だけは
不満の色を滲ませる。
﹁そうですか?﹂
佳乃がパーティールームを出てからそんなに時間は経っていない。
つまり俊紀は、あの部屋に入るか入らないかのうちに佳乃を見つ
けて、部屋から出る彼女を追ったということになる。
さすがに俊紀が厨房に入り込むわけにはいかない。
佳乃が厨房から裏庭に出ることまで見越して、自分は外から裏庭
に回ったのだろう。
そこまで含めて、遅いなんて言いようがなかった。
遅くなんてないという佳乃に、俊紀は﹁遅いぐらい﹂の根拠を説
明をする。
﹁お前、あの男と会っただろう?﹂
﹁誰のことですか?﹂
﹁わかっているくせに﹂
その悔しそうな顔で、鳥居のことだと察する。佳乃はつい笑って
しまう。
﹁笑うな。あいつがいることに気が付く前に連れ帰ってしまえば良
かった﹂
40
﹁何言ってるんですか。さっきまで商談だったんでしょう?﹂
﹁それでもだ﹂
本当に子どもみたいに⋮と佳乃は更に笑う。
俊紀が鳥居を畏れる要因などただの一つもないのに⋮。
鳥居は佳乃に全く気付かなかった。もちろん、招待客の詳細は知
っているはずで、そこに原島俊紀の名前があるなら当然佳乃が居る
ことも予測の範囲内。もしかしたら彼も佳乃を捜していたかも知れ
ない。
それでも、言葉まで交しておきながら鳥居は佳乃を見つけられず、
俊紀は部屋に入った瞬間に佳乃を見つけ出した。
佳乃の方だって同じだ。
鳥居が女性客に囲まれていなければ、彼に気付くことはなかった
だろう。
俊紀が部屋に入ってきただけで変わる空気を察したのとは大違い
だった。
あなた以外にそんな存在はいない⋮と伝えるように、佳乃は今度
は自分から唇を重ねた。
またしばらく、無言の時が過ぎ、佳乃は、漸く得心したらしき俊
紀に訊ねた。
﹁契約、何とかなりそうですか?﹂
﹁ああ。そうでなければ、わざわざこんなところまで来た甲斐がな
い﹂
﹁それはよかったです。珍しく時間が掛かったので心配してました﹂
﹁掛かったと言うよりも掛けた、という方が正しいな。お互いに駆
け引きを楽しんだ、ってことだ。まあそれも決着だ。正式に書類を
作って数日内に帰国できるだろう﹂
﹁嬉しいです﹂
﹁そうか?﹂
41
﹁外国は嫌いじゃないですが、そろそろ山本さんのご飯が食べたい
し、宮野さんにも逢いたいです﹂
﹁まあ、あいつらもお前がいないのを寂しがってるだろう﹂
﹁静かで良いとか思ってるかも﹂
﹁かもな﹂
抱きしめられている胸から俊紀のくぐもった笑いが響いてくる。
肌寒く感じ始めていたのに、こんなにも暖かい、と佳乃は俊紀の
存在を喜ぶ。
﹁そういえば、なんでわかったですか?﹂
私、来た時と全然違う格好だったし、まるで男の子みたいにして
たはずなのに⋮と佳乃は聞いてみた。
何でそんなことを聞かれるのかすらわからないといった顔で俊紀
が答える。
﹁わかるだろう、そんなもの﹂
﹁え⋮でも⋮﹂
﹁お前はどうなんだ?﹂
そう聞き返されて、佳乃は、姿を見るまでなく彼の存在を察した
自分を思い出す。
﹁わか⋮りますね、そういえば﹂
﹁空気が違う。お前が居ると居ないとでは室温まで違う気がする﹂
その場の空気を暖めているものをずっと探っていけば、そこに必
ずお前がいる。
だからどんな恰好をしていても、お前の居る場所は私にはすぐわ
42
かる。
照れも恥じらいもせずに俊紀はそう説明した。
なんだ⋮同じだ⋮と佳乃は思う。
部屋に俊紀が入って来た瞬間、変わる空気。
俊紀も自分に対してそんな風に思っているのか⋮と思うと、佳乃
はちょっと不思議な感覚に囚われる。
何でそんなところまで同じなのだろう⋮と。
﹁じゃあ、あの人達の企みは無意味だったってことですね?﹂
慌てる俊紀を見たいという魔女と魔術師の悪巧みはあっけなく粉
砕された。
﹁当たり前だ。私が慌てるのはお前がいなくなった時だけだ。だか
ら、お前は私が慌てる姿を見ることなんて出来ない。他の連中にし
たって、もう私のそんな姿を見ることはない。なぜなら、お前がど
こかに行ってしまうことなど、この私が許さないからだ﹂
どこにも行かせない。そんなことを考えることも許さない。
そう言って俊紀は一層強く佳乃を抱きしめる。その腕の強さに、
更に佳乃は安心する。
必要とされる自分、ここにいていい自分を実感する。
そして、俊紀の胸に凭れたまま呟いた。
﹁いずれにしても、もうそろそろ中に戻らないと⋮﹂
魔術師達が姿が見えなくなった二人を探しに来るのも時間の問題
だろう。
43
姿を消した恋人達にそんな無粋なことでもあえてやりそうな魔女
と魔術師だった。
﹁もういい。契約はまとまるし、これ以上ここに用はない﹂
﹁でも⋮﹂
﹁控え室に戻って着替えてこい﹂
だが彼は、俊紀の言葉に従って、中に戻ろうとした佳乃をすぐに
引き留めた。
﹁いややっぱりそのままでいい。下手に戻って連中に捕まっても面
倒だ。衣装の処理は明日でも良いだろう﹂
そして二人は、門の脇に﹁SIC主催ハロウィンパーティー会場﹂
と書かれた屋敷を後にした。
﹁それにしても、何でまたそんな格好に?﹂
ホテルに帰るハイヤーの中で俊紀が笑っている。
色気もくそもない、仮装ですらない、と、それでもどこか満足そ
うに言う。
﹁何着たって同じですよ。申し訳ありません、色気なくて﹂
色気というなら、濡れ羽鴉色のタキシードの俊紀の方がずっとあ
る。
会場で一番色気のある男だろうと佳乃は思う。その次は恐らくあ
の魔術師だろう。
でも、魔女に言わせればきっと順位は逆転する。
うちの社長が一番に決まっていると言い張るに違いない。
﹁何を着ても何を着ていなくても確かに同じだ﹂
44
着ていない状態を想像したらしい男は更に嬉しそうに笑う。嬉し
そうというには今度は余りにも邪気があり過ぎで蹴飛ばしたくなる
ぐらいだった。
﹁どうせどう頑張っても無理ですよ。あ、でもお祖父様のお葬式の
時⋮﹂
確かどなたかは相当てんばってませんでしたっけ?と、佳乃は、
辛うじて自分が﹁色気らしきものを撒いた﹂過去を見つける。
その言葉で、喪服に包まれた佳乃の姿を思い出した俊紀は、言葉
につまった。
あのときは確かにすごかった⋮。
何日も触れていなかったことを割り引いても相当の破壊力。
そもそも、親睦会の時などにドレスアップした佳乃はかなり色っ
ぽい。
あれはもしかしたら、門前が意図してやっているのではないか。
普段全く女性らしくない格好で走り回っている佳乃をあえていか
にも女性的な姿に整え、思わず誰もがうっとり見入るほど魅力的な
装いで接客させる。
相手が男性であれば涎を垂らさんばかりになるし、当然俊紀は穏
やかではない。
その穏やかではない俊紀を見たいだけのために、背中が全部開い
たようなドレスを選んでいるのではないか。
これは一度問い質すべき事項だ、と脳にメモをして俊紀は隣の佳
乃を見る。
ありふれたデニムのパンツに白いシャツ。さっきまでしていた黒
45
のエプロンはさすがにもう外している。
そのお陰ではっきりと見える綺麗な胸のシルエットが、まるで誘
っているかのようで目が離せなくなる。
そんな俊紀のよこしまな視線など我関せずで、佳乃は窓の外の夜
景を見ていた。
ちょうど大きな橋にさしかかり、窓からは街全体のネオン風景が
見渡せる。
薄く青い光に照らされる横顔は、とてもじゃないが色気がないな
んて言えなかった。
こんなに色気のない格好でいても自分は佳乃の色気を最大限に関
知してしまうのか、と逆に滅入りそうになる。
だとしたら自分以外の男がそうじゃないという確証はない。
﹁まいったな⋮﹂
思わず口から漏れた言葉に、佳乃が振り向いた。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁やっぱりお前は、ずっとそんな格好でいろ。下手に色気なんて撒
くな。変な虫に寄ってこられても困る。特にどっかの銀行屋は困る﹂
怒ったように言う俊紀。佳乃には何がなんだかわからない。それ
でも俊紀がそんな顔をしている時はたいてい根拠不明の焼き餅だと
察するぐらいの経験は積んでいた。
﹁大丈夫です。虫は付きません﹂
﹁根拠は?﹂
﹁防虫剤のボスみたいな人が張り付いてますから﹂
﹁防虫⋮⋮それは私のことか?﹂
﹁他に誰が?﹂
真っ昼間に、ただ一緒に食事をしていただけですごい勢いで特攻
46
掛けてきたくせに⋮と思いながら、あえて口にはしなかった。
ホテルの部屋に戻った防虫剤のボスは、やれやれと言わんばかり
に上着を脱ぐ。
もう少し着ていればいいのに⋮と佳乃は思う。
俊紀がこういう盛装をするときというのは、大抵大きな仕事がら
みのパーティーの時で、佳乃がその姿をじっくり見ている暇なんて
無い。
原島邸の親睦会の時はことさらそうで、じっと見惚れていたい気
持ちをもぎ離して接客に追われる。
ダンスをすることもあるが、それもだって長い親睦会の中のほん
のしばらくの時間に過ぎない。
たまには俊紀のこんな姿を独り占めしてじっくり見ていたかった。
とはいっても、自分の方は男性給仕スタイルだし釣り合わないこ
とこの上ない。仕方ないか⋮と佳乃は小さく息を漏らした。
﹁どうした?﹂
耳敏く聞きつけた俊紀が訊ねる。
﹁いや⋮素敵だなあ⋮と思って⋮﹂
うっかりそのまま口にして、佳乃は瞬時に赤面する。
これじゃあかっこいいお客が来て涎垂らさんばかりの給仕じゃな
いの⋮と。
﹁お前なあ⋮﹂
俊紀は苦笑いしながらベッドの端にちょこんと腰掛けている佳乃
を見た。
47
素敵だから脱ぐな、と言わんばかりの佳乃。だが俊紀の方は、こ
れを脱がねば始められないことがしたくてたまらない。
いくら恋人達のコミュニケーションがストレートな国にいるとは
いえ、さすがにハイヤーの車内であれこれするには日本人としての
常識が邪魔をする。
隣の女に腕を伸ばして引き寄せたいのを必死に我慢してホテルに
戻ったのである。
もうこの上、どんな服も必要なかった。
﹁明後日には帰国できる。だから明日の夜は精一杯めかし込んでど
こかに食事に行こう。だが今は⋮﹂
俊紀の長い指が佳乃のシャツに潜り込む。
手慣れた動作で背中のホックを軽く外し、隠されていた素肌を暴
く。
目を瞑っても頭に浮かべられるほど覚えた女の肌を一から確かめ
るように指で探り、たまらず漏れ始める喘ぎ声を唇で封じた。
色気の有無など関係無しに常に欲しくてならない存在を存分に味
わう。
それこそ佳乃が自分を防虫剤だと言うのなら、その存在を隅々ま
で擦り込んで虫など絶対近づけなくしてやると言わんばかりに⋮。
しばらくお互いの存在を堪能した後、俊紀がぽつりと呟いた。
﹁あいつらは馬鹿だ﹂
﹁なにがですか?﹂
﹁少なくとも対局の方向に進めば多少は私が苛つくところが見られ
ただろうに﹂
﹁対局?﹂
﹁お前に門前が選ぶような服を着せてあの会場に立たせておけば、
48
多分⋮﹂
佳乃のオンとオフは激しい。
自分で意図的に装うことなどありえないが、誰か、主に門前に女
性の特性を無理矢理オンにされた佳乃は必ず男達に囲まれる。性格
から来るものもあるが、単純に容姿に惹かれる男も少なくない。
親睦会の時が良い例だ。佳乃はいつだって俊紀が女性に囲まれて
いると不満に思っているらしいが、佳乃の方だって最初から最後ま
で男達に取り巻かれている。
終盤ともなれば佳乃と踊りたい男達が列を成し、俊紀の苛立ちは
最高潮だ。
そんな姿を見たくなくていっそダンスなどやめてしまおうかと思
うが、それでは自分自身が佳乃と踊れなくなる。
滅多にない着飾った佳乃を腕に抱く機会を失うのは不本意で、い
わば苦渋の選択で楽団を入れ続けている。
原島家の親睦会であれば俊紀と佳乃の関係は周知であったが、今
夜はそうではない。
下心満載で佳乃に近付く男は限りなくいるに違いない。会場に入
った瞬間にそんな姿を見せられたら自分は冷静ではいられなかった
はずだ。
ものすごい勢いで男達の真ん中から佳乃を引っ張り出しに行った
だろう。
きっと普段のビジネスライクな自分とはほど遠い形相で⋮。
下手に門前仕様で飾らせてオン状態になられては困る。
だからこそ、俊紀は今夜佳乃に実に地味で露出の少ないドレスを
着せた。
あえて﹁商用﹂を前面に出して、一欠片の色気も漏らさぬように
と、俊紀が用意したものである。
それでもどんな地味なドレスでもドレスはドレス。すらりと伸び
49
た綺麗な足も、つい唇を寄せたくなる滑らかな首筋も隠してはいな
い。
それを思うと、一人にしておくのが心配で、最大最速で商談を終
わらせた。
本来ならあの魔術師もどきの男にもう少し粘らせても良いかとは
思ったが、それはあくまでも手元に佳乃が居る場合だ。
到着早々、本日は私の補佐役も接待で忙しいので一対一の交渉を
⋮と持ちかけられた瞬間、短期決戦を決意した。
会場に入って、黒のドレスではなく男性給仕の格好をしている佳
乃を見て思わず安堵し、さらに画策した魔女もどきに感謝したぐら
いだった。
佳乃の存在を自分の目から隠すことなど不可能なのだから、彼ら
が向かうべきはかくれんぼや鬼ごっこではなくそちらの方向だった
のだ。
﹁まあでも、そんなことされなくて良かった﹂
﹁良かったですね、いい加減な仮装で﹂
﹁まったくだ﹂
そして、盛装も仮装も脱ぎ捨てた二人は、本来あるべき姿である
べき人の腕の中で、長い夜に酔いしれた。
End.
50
いい加減な仮装︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
51
いい加減な隠し味︵前書き︶
R18要素皆無です。
佳乃が原島邸に住み込んで2年目の冬。
52
いい加減な隠し味
深夜の原島邸の廊下で、宮野はあたりに漂う懐かしい香りにふと
立ち止まった。
山本、あるいは松木という一流のシェフが常駐する原島邸ではつ
いぞ登場することのない市販のカレールーを使ったカレーの香り。
これは⋮と思って厨房を覗いてみると、案の定佳乃が小さな鍋を
くるくるとかき混ぜながらカレールーを溶かし込んでいるところだ
った。
いかにも彼女らしく、適当な感じにかき混ぜているのに、何故か
その表情はけっこう真面目で何事か思い煩っている様子だった。
佳乃が原島邸に住み込むようになってからかれこれ二年近くが経
ち、春が来れば三年目に突入する。
佳乃はもうすっかり原島邸に馴染んでいたし、周囲も彼女の存在
に慣れた。
それでも時折こうやって突拍子もない時間に突拍子もないことを
やり出すことのある佳乃は、宮野にとって面白くもあり、どこか侮
れないと感じさせる同僚でもある。
常に正統派の料理しか出てこない原島邸で子どものころから馴染
みの深かったカレーを食べたくなったにしても、二月のこんなに寒
い、しかも日付はとっくに変わったような深夜に作らなくてもよさ
そうなものである。
なにが佳乃をそんな行為に走らせているのかはかりかねて宮野は
そっと声をかけた。
﹁谷本さん﹂
﹁うわっ⋮⋮びっくりした!﹂
53
精一杯押さえてかけたはずの声なのに、予想以上のリアクション
を取った佳乃に宮野の方が驚いてしまう。その慌てた表情に、宮野
はまた柔らかい笑顔を浮かべる。
﹁夜中にごめんなさい⋮﹂
悪戯を見つかった子どもそのものの表情で佳乃は詫びた。
鍋の中にはとろみがつき始めたカレー。早く煮えるようにと思っ
てか、細かく切ったジャガイモや人参が見え隠れして、これまたい
かにも家庭料理、といわんばかりに薄切りの肉が使われていた。
きっと冷凍庫をかき回して、一番沢山あって少しぐらい使っても
支障がなさそうな薄切り牛肉を拝借することにしたのだろう。
﹁そいうえばこういうカレー、随分長いこと食べていません。味を
知っている者にはたまらなく食べたくなる時がありますね﹂
宮野は、いつもの感情抑圧型微笑を添えて佳乃を安心させるよう
に言った。
﹁そ⋮そうなんです。山本さんのカレーもすごく美味しいんですけ
ど、たまにこういうキャンプみたいなのが食べたくて⋮﹂
佳乃は話を合わせるように一生懸命に言葉を繋ぐ。
宮野はそんな佳乃の様子がおかしくてならない。とっさに隠した
紙箱とカレンダーの日付を見れば、佳乃が何を考えていたのか明白
だったが、それに触れれば佳乃のささやかな、本当にささやかな企
みが台無しになってしまうだろう。
だから、あえてそこには触れず、いつもの調子で言った。
54
﹁今のうちに作っておけば明日の夜には食べ頃になりますね﹂
﹁いきなり二日目のカレー、ってことで⋮﹂
あからさまに よかった⋮と書いてある顔で佳乃も笑う。
﹁ちょっと仕事が立て込んできていて、明日あたり相当遅くまで仕
事することになりそうなんですよ⋮寒いし、夜食にカレーうどんと
か食べたいかなあ⋮って﹂
﹁ああ、それは良いですね。きっと俊紀様もお喜びになるでしょう﹂
夜食係として雇用されたはずの佳乃は、原島邸に住み込んですぐ
に俊紀の私設秘書として仕事をすることになった。
朝から晩まで俊紀の忙しい日常に付きっきりの状態で、料理をす
ることは本当にまれになっていたが、それでもたまにはこんな風に
夜食の支度をする時がある。
それは今では俊紀のためというよりも、山本が絶対に作りそうに
ない、でもどうしても忘れられない自分の思い出の味を再現するた
めに⋮ということの方が多くなっていた。
焼いた卵とケチャップのトーストサンドとか、茹でて温めたうど
んに濃い出汁醤油をかけてたっぷりの葱と削り鰹を載せたうどんと
か、あるいはごはんに塩昆布や胡麻、大葉の千切り、ちりめんじゃ
こ⋮などを混ぜ込んで作った簡単なまぜごはん。
そういう本人曰く﹁下世話﹂な夜食は、物珍しさをエッセンスと
して俊紀をかなり喜ばせもしていた。
きっとこの寒い二月の夜に体を芯から温めるカレーうどんも俊紀
は大いに気に入ることだろう。
﹁もしよかったら、宮野さんも召し上がりますか?﹂
明日の方が美味しいとは思いますけど、今すぐでも多分⋮といい
55
かける佳乃を押しとどめて、宮野はいよいよ優しい笑顔になった。
﹁それは最初に俊紀様に召し上がって頂いた方がよさそうです。そ
れにきっと明日の方がもっと美味しくなるでしょうから、私も今夜
は我慢しておきます﹂
そして宮野は、それでは私はお先に失礼します⋮と厨房を出て行
った。
その宮野の後ろ姿を見送って、佳乃はふーっと息を漏らす。
あの使用人頭も、主そのものもどうしてこうも神出鬼没なのか⋮。
もしかしたらこの原島邸には佳乃が知らない秘密の通路とかが設
えられていて、主の部屋あるいは宮野の部屋からいろいろなところ
にショートカットしていけるようになっているのではないか、と疑
いたくなるほどだった。
いずれにしても現場を押さえられなくて良かった⋮と佳乃はエプ
ロンのポケットに突っ込んだ小さな紙箱を取り出す。
鍋の中のカレーはほどよく煮込まれて絶妙の具合である。
小皿にほんの少しよそって味見をしたあと、佳乃はそのカレーに
ひとつまみの塩と一垂らしの醤油。それから紙箱を開けて中のもの
を一つだけぽとんと落とした。その褐色の小さな固まりがまんべん
なく解けるようにお玉でかき混ぜ、姿が見えなくなったところで火
を止めた。
﹁ミッション・コンプリート﹂
そして佳乃は鍋に蓋をして、小さなメモに﹁お鍋のカレーは夜食
用です﹂と書いて、山本の目に付きやすいように冷蔵庫の扉にマグ
ネットで止め、厨房をあとにした。
56
﹁何だ谷本、お前やけに眠そうだな。夜更かしでもしたのか?﹂
朝食の席で、給仕をする佳乃を一目見て、俊紀は開口一番そう言
った。昨夜はそんなに遅くまで仕事をしたわけでもないのに⋮と怪
訝な顔をする。
﹁ちょっとだけ⋮﹂
﹁そうか?どうせまた本でも読んでたんだろう。お前は暇さえあれ
ば本に齧り付いているからな。読みたいのはわかるが、睡眠はしっ
かり取れ﹂
そんな風に皮肉混じりに言う主。
普段ならまず一言二言言い返す佳乃であるが、実はあなたが寝て
しまってから夜中にカレー作ってました、なんて言えるはずがない。
仕方なく大人しく頭を下げた。
﹁すみませんでした。今度から気を付けます﹂
あまりに素直に答える部下に、俊紀はかえって面食らって、佳乃
をじっと見た。
反論する気力もないほどなのか⋮と。そういえば、何やら少し顔
も赤らんでいる。もしかしたら熱でも出かけているのかもしれない
⋮と思う。
だが、その日はいくつかの会議、しかもかなり大事な会議が入っ
ているし、そのあとも予定が目白押しになっている。佳乃に休まれ
ると少々支障が大きかった。
﹁休ませてやりたいところだが今日あいにく忙しい。お前は根性だ
けはそこらの男よりずっとあるから、まあ頑張れるだろう﹂
57
こういうところがなあ⋮と佳乃は柔らかくなりかける自分の心に
戸惑う。
出会い自体があまりにも俺様仕様。そのあとの展開も最早、唯我
独尊としか言いようのない運びだっただけに、原島俊紀というのは
思いやりとか優しさとかいうものは一切持たない男なのかと思って
いた。
だが、実際に寝食を共にし、一日中の大半を一緒に過ごすように
なると、俊紀というのは根本的にはかなり細やかな男なのだという
のが徐々にわかってきた。
山本、松木を始めとする通いの使用人達の顔色が少しでも優れな
いと、それは体から来るものなのか、あるいは何か心配事があるの
か、と宮野に訊ねている。
体調であれば無理をしないように休ませ、心因性のものであるな
らその解決の糸口を探らせる。
使用人達の困りごとで俊紀が解決できない問題などそうそうある
わけもなく、彼らの顔色の悪さはたいていすぐに回復する。
それでいて俊紀は、使用人達にはなるべくそうした気遣いを気取
らせぬよう宮野の采配であるかのように取り繕うことも忘れなかっ
た。
宮野自身はもう俊紀のとの付き合いが長いので阿吽の呼吸なのは
言うまでもないし、俊紀に心配をかけるぐらいならと、困り事があ
れば早めに彼に相談するようにしている。
原島邸において俊紀の地位が絶対という意味の中には、彼の判断
や配慮には何一つ間違いがないという使用人の絶対的な信頼が含ま
れている。
俊紀様がいらっしゃれば大丈夫、使用人はみなそう感じていたし、
58
佳乃が同じように感じるまでに長い時間は必要ではなかった。
原島邸で一番新入りの佳乃は、住み込んだ当初はやはりあれこれ
戸惑うことも多く、あからさまに困った顔をしていることがあった。
そんなとき俊紀は、多層構造の嫌みや皮肉の影に、さりげなくと
いう言葉すら大げさに思えるほど微かな気遣いを紛れ込ませる。他
の使用人達にするように宮野を通せば、そんなことにはならないは
ずだが、四六時中一緒にいる佳乃相手ではそうでもするしかなかっ
たのだろう。
だから佳乃は、俊紀が表向きこそ非常に横柄ではあったが、頼り
になる主だということにまったく異存はない。
加えて俊紀は自分の部下、特に佳乃に関してはあらゆる意味で教
育に熱心だった。
佳乃は自分自身、同年代の人間に比べていくらかは雑学知識に長
けていると思っていたが、そんなもの足元に及ばぬほど俊紀の持っ
ている知識は深く広く、その一つ一つを惜しみなく佳乃に伝えてく
れた。
新しい知識を一つ得るたびに思考の幅が広がり、それにつれて自
分の世界も広がる。
原島俊紀は佳乃が今まで出会ったどんな教師よりも優秀で面倒見
の良い指導者だった。
彼への尊敬の念は次第にその域を越えて、薄紅色の想いに変りつ
つあった。
私が彼に惹かれても無理はない⋮無理はないけど、それが叶うと
思うことには無理がありすぎる⋮。
佳乃は一日が終わる事に濃くなっていく俊紀への想いを持て余す。
その想いが、使用人が主を信頼するという域を越えかけているこ
とぐらいわかる。
59
そうでなければ、彼の元に早々と届けられる有名ブランドの包み
紙を見る度にこんなに心が痛むわけがない。
直接本人に渡そうとしたところで、受け取るはずもない男だから、
彼にプレゼントを渡したい女性達は宅配便、あるいは佳乃頼み。
昨年のクリスマスも相当な騒ぎだったし、今も社内を歩くたびに
小さな紙袋を渡される。もちろん原島邸にだってかなりの数が届け
られる。
﹁お願い、谷本さん!これ社長に渡して!﹂
そして佳乃は、またか⋮と思いながら、それを受け取っては俊紀
の机に積み上げ、自分の気持ちを押し隠す。
﹁相変わらず絶大な人気ですねえ⋮これ全部質屋に売ったらどれぐ
らいになりますかね?﹂
なんて、いかにもどうでもいいという顔をしながら⋮。
けれど、そのどれ一つ、自ら手にとって眺めたりしない俊紀に大
いに安堵する自分は、どれだけ面倒くさいんだ⋮と思うぐらいの自
覚はあった。
そしてそれらの大量の贈り物は、食べ物であればそのまま使用人
達の胃袋に、品物であればすべてリサイクルショップ行となり、そ
の売り上げがどこかの施設に寄付される。その末路を贈り主らが知
ることは決してないだろうけれど⋮。
それでも、原島俊紀がそれだけの人気を得ていると目の前に突き
つけられるたびに、佳乃は現実を思い知る。
彼女らほど華やかでもなく、しかも部下である自分などお呼びじ
ゃないと苦い想いが湧くのだった。
今年もまた二月がやってくる。
60
親睦会でダンスが復活したという噂を聞き込んで、すわ嫁選び本
格化か?とばかり昨年のバレンタインは大騒ぎ。
実際、いったいいくつの段ボールがいるのかと思うほどの量が届
き、使用人達ももうチョコレートは見たくない⋮とうんざりするほ
どだった。
今年もきっと同じぐらいのチョコレートが届けられるだろう。で
もそのどれ一つ俊紀が口にすることなど無い。
彼は甘い物が嫌いなわけではなく、特にチョコレートはむしろ好
きな方だったが、バレンタインのチョコレートはさすがに例外で、
贈り主の気持ちなど知ったことかと右から左へ佳乃に差し戻して終
了。
嫌いじゃないならせめて一口ぐらい食べればよいのに⋮と複雑な
心境を抱えた佳乃でさえ思ってしまうぐらいだった。
どうせ食べてもらえないなら用意するだけ無駄?それとも、食べ
てもらえなくても意思表示することに意味があるの?
佳乃は段ボール箱に無造作に放り込まれたチョコレートを見なが
ら思う。
﹁一つぐらい召し上がったらどうですか?﹂
﹁不公平だろ?こんなにある中から一つどうやって選ぶんだ﹂
﹁好きなの食べればいいじゃないですか﹂
社長の好きなベルギーブランドのも沢山来てますよ、と言ったと
ころで俊紀はバレンタインなんて面倒な物じゃなければな、ととり
あわない。
それでも一度は原島邸に持ち帰るあたりせめてもの良心と解釈す
べきなのだろう。
あとは宮野がカードを確認し、明確に差出人がわかっている相手
61
にはホワイトデーのお返しの手配をして終了。
いったい何年こんなことを繰り返しているのかわからないが、使
用人頭というのは本当に大変だ⋮と密かに同情してしまう佳乃だっ
た。
﹁谷本、腹が減った﹂
帰宅後二人が持ち帰った仕事を終えたのは、予想通り午後十一時
を回るころだった。
佳乃はとっさに時計を見てちょっと安堵する。
ああ⋮よかったぎりぎり今日のうちだ⋮。
もしも日付が変わっていても、寝るまでは一日のうちだ、と無理
矢理自分を納得させるつもりだった。
どうせこれがバレンタインの一環だなんて主は思いもしないだろ
う。
﹁昨日の夜、カレー作ったんですけど⋮召し上がりますか?﹂
﹁カレー?﹂
﹁えーっと⋮カレーうどんとか⋮私好きなんですけど⋮﹂
と言いかけて、はたと気が付いた。
この人⋮カレーうどんなんて食べたことあるんだろうか?
宮野は温まって良い、と言っていたが、山本の作る本格的なカレ
ーがカレーうどんに向くとも思えない。
ましてや外でカレーうどんを啜る主なんて想像すら出来なかった。
﹁食べたこと⋮無いですよね?﹂
62
﹁いや⋮ある﹂
﹁どこで!?﹂
﹁給食﹂
佳乃は、あちゃー⋮それはいったい何年前の話だ⋮と片手で目を
覆いたくなる。
﹁えーっと⋮お嫌いとか?﹂
﹁嫌いじゃなかったと思う。たぶん⋮﹂
﹁じゃあちょっと作ってきますね﹂
﹁ああ⋮﹂
何やら不本意そうな主を残して、佳乃は厨房へ急いだ。
そうだよね⋮夜食としてカレーうどんというのはそもそも間違っ
ていそうだし、原島俊紀とカレーうどんは相容れない。
それでもたとえ一口でも食べて貰えればそれでいい。
カレーの隠し味にチョコレートを使ったことは私だけの秘密だ。
今日という特別な意味を持つ日に、彼が口にしたチョコレートは
きっとこれだけ。
それを本人に伝える勇気なんてないし、伝わらなくても構わない。
自己満足上等!
そんなことを考えながら、佳乃はカレーを温めた。
昨夜作ったカレーは、出勤前と帰宅直後に火を入れたおかげで、
見事な二日目のカレーになっていた。
そのカレーに惜しげもなく水を足し、粉末の和風出汁を放り込む。
醤油とみりんで味を調え、茹でうどんを入れてしばらく火にかけ
る。
うどんに関しては、打ち立て生麺極上といつもなら思うけれど、
63
カレーうどんに限ってはそこらのスーパーで売っている茹でうどん
の柔らかさが一番しっくりくる。
あれはどういう刷り込みなんだろう⋮と首を傾げながら、佳乃は
丼に移したカレーうどんに刻み葱を散らして俊紀のところに運んだ。
﹁お待たせしました﹂
﹁お⋮良い匂いだな﹂
と言いながら俊紀は早速箸をつける。
佳乃はとっさに俊紀の着ている服を確認する。
よかった、黒いシャツだ⋮。
一口食べた俊紀は、シャツを凝視している佳乃を見て笑う。
﹁この色なら少しぐらい飛ばしても大丈夫⋮とか思っているんだろ
う?﹂
﹁あ⋮ええっと⋮その通りです﹂
だから何で私の考えてることがわかるんだ⋮そもそもカレーうど
んなんてほとんど汁気のない給食のしか食べたことないって言った
くせに、どうしてカレーうどんを服に飛ばさずに食べることが至難
の業だなんて知ってるんだ⋮と佳乃は何故かちょっと不本意な気持
ちになる。
この主は何でもかんでも知っていすぎる⋮
と、思いかけて、ぎくりとした。
﹁もしかして、カレーの作り方とかご存じですか?﹂
﹁ああ知ってる。面倒らしいな。玉葱炒めたりスパイス合わせたり
⋮﹂
﹁じゃなくて、インスタントの方ですが⋮﹂
64
﹁そっちか。それは簡単だろう。肉と野菜を切って炒めて煮込んで
ルー入れて終了﹂
ふう⋮。
佳乃は心の中でため息をついた。良かった⋮そこまでで。
そして二人は、案の定跳ね返ったカレーの滴を笑い合いながらカ
レーうどんを平らげた。
翌朝、宮野は厨房に残るカレーの香りを確認し、朝食後新聞に目
を通している俊紀に話しかけた。佳乃はちょうど席を外している。
﹁カレーうどんのお味はいかがでしたか?﹂
﹁美味かった。だがなあ⋮﹂
佳乃が作る夜食なら何でも好みのはずの俊紀が珍しく言いよどみ、
宮野はちょっと眉を寄せた。
﹁何かご不満な点でも?﹂
俊紀はちょっと躊躇った挙げ句、ぽつりと漏らした。
﹁いや⋮夕べは遅くまで仕事になるとわかってたし、もしかしたら
サンドイッチか何かを用意してるかと⋮﹂
﹁パンの方がお好みでしたか?﹂
﹁というよりも⋮ココアでも出てくるんじゃな⋮いや、なんでもな
い﹂
俊紀は、あからさまに﹃余計なことを言った﹄という顔で、こと
65
さらがさがさと音を立てて新聞を畳み、食堂を出て行った。
俊紀が出て行ったあと、お代わりのコーヒーを持って戻ってきた
佳乃は主の姿がないことに首を傾げる。
﹁コーヒーは書斎にお運び下さい﹂
﹁あ⋮はい⋮﹂
そして佳乃も食堂を出て行く。
誰もいなくなった食堂で宮野は一人ほくそ笑む。
佳乃が主にバレンタインデーのチョコレートを差し出すなんてこ
とをするはずがない。
あの主相手に義理チョコなんて概念はないだろうし、本気チョコ
は言わずもがな。
まだそこまで佳乃の気持ちは育っていないと俊紀は諦めてはいた
のだろう。
それでも、もしかしたら⋮と望みをかける気持ちを捨てられなか
った。
もしかしたら自分に想いを抱いていたとしても、それを素直に表
せず、夜食に紛れてホットチョコレートでも出してくるんじゃない
か⋮と。
だがその望みは、あっけなくカレーうどんに粉砕された。
いつもながら俊紀の胃袋をしっかり掴む味だったが、どう考えて
もバレンタインデーとはまったく相容れないメニューに、主は人知
れずため息をついたのだろう。
段ボールにいくつものチョコレートを貰いながら、一番欲しいた
った一つが貰えない。
そんな主の心中を思って宮野は苦笑する。
66
もちろん主は気が付いてもいないのだろう。
佳乃が、カレーにそっと忍ばせた一欠片のチョコレート。
宮野が厨房に入った途端に、とっさにポケットに隠した小さな紙
箱はどう考えてもチョコレートで、しかもあの慌てた様子はただの
隠し味以上の意味があったに違いない。
カレーという強烈な味に隠したほのかな甘み。
いかにも佳乃らしいささやかな意思表示。
それを伝えてやれば、主はきっと喜ぶだろうけれどそれは佳乃が
望むところではない。
そして宮野は佳乃の小さな秘密を心の奥にしまい込む。
佳乃が何物にも紛れ込ましたりせずに、想いそのものを俊紀に渡
せる日が、一日も早く来ることを祈りながら⋮。
End.
67
いい加減な隠し味︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
68
いい加減な寝言 ①︵前書き︶
少々長くなりましたので三話に分けます。
69
いい加減な寝言 ①
なんで⋮。
明けていく空をカーテンの隙間から見上げて、佳乃はこぼれそう
な涙を堪えた。
窓際ぎりぎりに置かれている大きなベッドからは、少し手を伸ば
しただけで、重い布で作られたカーテンに触れることが出来た。
ベッドに横たわったまま、いつもしっかりと合わせられているカ
ーテンを少しだけずらして見る群青色の空が好きだったのに、今日
のこの色はまるで心の切なさを煽るような寂しい色だった。
背中に感じる心地よい体温の持ち主は、腕を佳乃に巻き付けたま
ま規則正しい寝息を立てている。
つい先ほどまで本当に暖かくて、もうずっとこの腕の中にいたい
と願っていたのに⋮。
下町の狭いビジネスホテルのベッドで、この存在を受け入れてか
らまだいくらも経っていない。
それなのに自分の体がもうすっかりこの男に馴染んで、自然に寄
り添ってしまうことが不思議な気がしたり、当たり前のような気が
したり⋮。
五年も間近にいたのだから、心はとっくに馴染んでいる。馴染ん
でいるなんて生やさしい言葉では飾れないほど、溺れているといっ
ても良いぐらいだ。
だから、身体を重ねられて奥の奥まで入り込まれた時も、痛みよ
りも安堵や心地よさが勝ってしまった。
そうなるように彼が慣れぬ自分を解いてくれたことはわかった。
その時は彼の思いやりが嬉しいとすら思ったのに⋮そのことまで
70
も今の私は心に刺さる棘だと感じてしまう。
過去という言葉がこんなにも重い朝。
カーテンの向こうでどんどん夜が終わっていく。
夜が明ければ、この腕を抜け出しても、彼は不自然に思わないだ
ろう。
毎朝のように、そうやって朝食の支度のためにベッドを抜け出し
ている。不本意そうにはするけれど、そのこと自体を咎められたこ
とはない。
そのまま懸命に息を殺し、涙を耐えきった佳乃は、ようやく明け
切った空を確認し、自分を囲い込む男の腕をそっと外した。
初夏とはいうものの、何も纏わず眠り込む主の肩口が冷えてしま
わぬように上掛けをきちんとかけ直し、佳乃は静かに部屋を出る。
自分に与えられた部屋に戻って、自分の物だと感じてはいけない
残り香を捨て去るために熱いシャワーを浴びた。
どれほど洗い流しても、自分に染み込んでいる主の存在など流し
きれるものではないとわかっていても、そうせずにはいられなかっ
た。
﹁ナナ⋮もう少し寝かせてくれ⋮﹂
大抵彼よりも先に目覚める佳乃が目を開けた途端に、眉間のしわ
が目に入った。
眠っている時までそんな顔をしなくていいのに⋮とそっとなぞる
ように触れた瞬間、彼の口から漏れた言葉。
佳乃が驚いて手を引くと、主は何ごともなかったようにまた眠り
続けた。
ナナ⋮。
71
それはいったい誰?
なんて自問するまでもなかった。
自分にそうやって触れに来る手を目も開けぬままに窘めるのであ
れば、それは当然、そうすることが日常であった存在だ。
佳乃がこの原島邸に来てから、主がそうした関係を誰かと結んで
いた気配はない。
余程巧妙に隠していたのなら別であるが、二十四時間ほとんど一
緒にいる佳乃に悟らせないままにそんな関係を持つのは不可能だろ
う。
だとしたらその名前の持ち主は、佳乃が彼のところに来る前に付
き合っていた相手だ。
過去のこと、と振り切ればいい。
主はもう三十も半ば過ぎた大人の男である。何もないわけがない
のだ。あったことはあったこと、それはもう仕方がない。
けれど、そう思う端から、苦くて飲み下せない想いが湧き上がる。
五年、あるいはそれ以上経っても消えていかないその名前。
自分に触れるのは、その名前の持ち主に決まっていると確信して
いるようなセリフ⋮。
とうとうこぼれ落ちた涙は、シャワーに紛れて排水溝に流れてい
ったけれど、苦い想いも五年かけて全身で吸収してしまった主その
ものの存在も、消すことは出来なかった。
なんとか涙を止めて、シャワーを終えた佳乃は、身支度を済ませ
て厨房に降りる。
昨日のうちに山本が作っておいてくれたビジソワーズを冷蔵庫か
ら取り出し、カップに注いでアサツキのみじん切りを散らす。
72
緑と白のコントラストが目に染みて、またこぼれそうになる涙を
叱りつけて、トースターにパンを二枚。それから、ベーコンとスク
ランブルエッグ⋮。
心は裂けそうなのに身体は勝手に主のための食事を誂えていた。
それらが整うころに、宮野が起きてきた。
﹁おはようございます、谷本さん。今日は早いですね﹂
そう言われて、壁の時計を見ると、確かにいつもよりも十分ぐら
い早かった。
いつもならば夜が明けた後も、主の腕の中にいるのが心地よくて、
時間ぎりぎりまでその心地よさを味わっているのに、今日はそうし
なかったからだろう。
佳乃は、初めて気がついた⋮という顔で、曖昧に笑う。
﹁もうすっかり夏なんですね。夜明けが早くなったのに気がつきま
せんでした⋮﹂
枕元にも、自室の壁にも時計はある。そんな言い訳が通るわけが
ない。
だが宮野は、微かに赤らんでいる佳乃の目の縁を目敏く見つけた
らしく、それ以上言葉を重ねることはなかった。
宮野は、そういう意味ではないのですよ⋮と言おうとして言葉を
止めたのだ。
今日は日曜日だ。しかも、休日といえども公私を問わず所用が立
て込む俊紀のスケジュールの中で、珍しく何も予定のない一日だっ
た。
どう考えても夜明けとともに起き出して、朝食を摂るとは思えな
い。
73
ましてや、長年欲しくてならなかった花を漸く手折った直後の初
めての休日。
二人して昼近くまで部屋から出てこないだろうと踏んでいたのに
⋮。
言葉は止めたものの、物問いたげな視線は止められなかったらし
く、佳乃は宮野の視線を受け止めた後、小さく、あ⋮と呟いた。
﹁日曜日⋮でしたね﹂
﹁ええ⋮恐らく俊紀様はもう少しお休みになられるのでは⋮?﹂
﹁そうですね。じゃあ⋮﹂
と、もうほとんど出来上がっている朝食を佳乃は困ったように見
下ろした。
自分が食べるべきだろうか⋮でも食欲なんてこれっぽっちもない
⋮。
﹁よろしければ、私が頂きましょうか?﹂
﹁そうして頂けると助かります﹂
宮野の申し出に感謝しながら、佳乃はトレーの上に載せた朝食を、
いつも宮野が食事を摂っている厨房の小さなテーブルに置く。
それから小さなポットに紅茶も用意した。
宮野が紅茶を嗜む様子は、まるで英国紳士のようで、佳乃はそん
な姿を見るのを楽しみにしている。でも今日はその上品な姿を見て
いる気持ちのゆとりも皆無だった。
﹁じゃ⋮私⋮﹂
そう言って、佳乃は厨房を出ていく。宮野はきっと主の部屋に戻
74
るのだろうな、と思いながら佳乃を見送った。
厨房を出た佳乃は、真っ直ぐに自分の部屋に戻り、パソコンを立
ち上げた。
ネットの海を泳ぎ回り、なんとか主の過去の恋人達の名前を見つ
けようとした。
特に﹁ナナ﹂という名を持つ、きっと美しいに違いない女性を⋮。
けれど、十数人ヒットした過去の﹁原島俊紀のお相手﹂達の中に、
その名前を持つ女性は一人もいなかった。
ただの愛称だったんだろうか⋮名前自体が﹁ナナ﹂でなくても、
あだ名ならどんな呼び方をしたって構わない。
あんな風に彼に名前を呼ばせる女性が、どんな人なのか知りたい
と思ったけれど、かなりの時間をかけても佳乃が﹁ナナ﹂に辿り着
くことはなかった。
目覚めたときには既に佳乃が腕の中にいなかった。
俊紀は通常、佳乃が身じろぎすることで目を覚ますのだが、昨夜
は今日が休日だということも頭にあって、相当遅くまでその存在を
貪った。
おかげでつい眠りが深くなったのだろう。いつもなら、ベッドか
ら出ていく寸前の佳乃をつかまえて、彼女が依然として自分の仕事
にしている朝食の支度など忘れてしまえとばかり、深く口付けたり、
それ以上の行為に及んだりする。
だが、今日はそれも出来なかった。彼女は余程こっそり出て行っ
たのだろう。
その腹立たしさと言ったらないが、佳乃が誂えた朝食を食べる楽
しみを思えば、それもやむを得ない。
今日は日曜日だ。それならば、少々行き過ぎた運動で失ったカロ
リーを補給した後で改めて⋮という展開もありだ。
75
どうせ佳乃は厨房にいる。勝手に抜け出した罰に、思い切り濃い
口づけでも与えて、せいぜい赤く染め上げてやるか⋮。
そう思った俊紀は、薄手のガウンを羽織り、長い階段を下りてい
った。
その足音を聞きながら、佳乃は邸内のあちこちにを思い浮かべる。
とてもじゃないが、今すぐ彼の顔は見られない。この苦い想いは
紛れもなく嫉妬だ。
新参も新参、しかも十数番目の愛人が焼き餅焼くなんて許される
もんじゃない。というよりもあり得ない。六ヶ月を半月に縮めかね
ない暴挙だ。
顔を合わせるだけならともかく、ベッドに連れ戻されでもしたら
大変だ。
感情のままに﹁ナナって誰ですか!?﹂と泣き叫びかねない。も
う少し落ち着くまで、少なくとも、自分に、あんたなんてただの愛
人だとしっかり言い聞かせ直すまで、彼の顔は見ない方がいい。
こんなに広い屋敷なのだから、一カ所ぐらい隠れる場所があるは
ずだ。幸い彼は今しがた、階段を下りていった。今のうちに二階の
どこかに潜り込もう。
二階はパーティールームや客室、支度室ばかりだ。あそこが使わ
れるのは親睦会の時ぐらい。そうやって隠れているあいだに心の揺
れも少しは収まるだろう⋮。
佳乃は足音が遠ざかるのを待って、こっそり二階に下りた。長い
廊下を見渡して、一番奥にある支度室に入る。
親睦会の時に着替えで使うだけの部屋は、それでも普段からしっ
かりと清掃されている。塵一つない支度室の、更にクローゼットの
中に座り込んで、佳乃は自分の膝を抱きしめた。
﹁おはようございます、俊紀様﹂
76
佳乃が誂えていった朝食を食べ終わり、二杯目のブラックティー
を飲んでいた宮野は、思いがけず早い時刻に現れた主の姿に驚いて
立ち上がった。
﹁おはよう。谷本は?﹂
﹁先ほど上に戻られたはずですが⋮﹂
佳乃が階上に戻ってからしばらく経つ。 佳乃は主の部屋ではなく、自分の部屋に戻ったのだろうか⋮。そ
んなことをすれば、主の機嫌を損ねるとわかっているはずなのに⋮。
そう思いながら、宮野は予想通り極めて不満げな顔になった俊紀が、
来た時の倍の速さで遠ざかっていくのを見送った。
三階に上がり、念のためにと覗いた佳乃の部屋はもちろん、俊紀
の部屋にも彼女はいなかった。ではいつもの場所か、と図書室にも
行ってみたが姿がない。
庭の離れにでも入り込んだか⋮と三階から目を凝らしてみても、
今度はそこに人影を認めることは出来なかった。
食堂にも、居間にも、もう一度戻ってみた厨房にもいないとわか
って、俊紀は宮野にも佳乃を捜すように指示した。
77
いい加減な寝言 ②
谷本さん、と呼ばれた声に佳乃は返事をしなかった。
暗い部屋でよかった⋮。
ドアが開けられた瞬間、反射的に息を止めた。
ウオークインクローゼットの中に入り込んでいたのは正解だ。さ
すがに宮野もこの中まで捜しには来なかった。
名前を呼んで答えがなければ、そこに佳乃はいない、と判断した
のだろう。
主の理不尽さに腹を立てて無視を決め込んだことはあったが、今
まで宮野に呼ばれて返事をしないなどということは一度もなかった
のだから当然だ。
佳乃はやれやれ⋮、と息を吐く。
ただ一つ気になったのは、彼が出て行った時に響いたかちゃりと
いう音。
あれはもしかしたら、施錠の音だったのでは⋮⋮?
佳乃はそう気付いて青ざめた。
この部屋は支度室だ。日も差さず、昼間から暗い小さな部屋であ
る。
だがその一番奥、佳乃が入り込んだクローゼットの隅には実は一
財産眠っている。
パーティの度に、門前が佳乃を飾り立てる原島家宝飾コレクショ
ンの一部がここに置かれているのだ。
78
﹁何でこんな衣装部屋みたいなところに置いてるんですか!?﹂
と驚いて訊いた佳乃に、俊紀は至って面倒くさそうに答えた。
﹁そこで使うことが一番多いからだ﹂
﹁だからって⋮﹂
﹁そんなところに置いてあるなんて誰も思わないだろう?盲点じゃ
ないか﹂
そりゃあそうだろう⋮何カラットあるかわからないようなダイヤ
のネックレスやら、極めて透明度の高いエメラルドやサファイヤ、
ルビー、真珠にゴールド、プラチナ⋮⋮。
そんなコレクションが、こんな部屋にどかんと置いてあるなんて
どんな泥棒だって思わない。
﹁そもそも、あの連中の目をかすめてこの原島邸に入り込める泥棒
なんていない。万が一、入り込めたとしても、普段からこの部屋に
は鍵がかかっている﹂
その言葉には納得できた。
原島邸に緊急対策班ある限り、不届き者は侵入不可能だ。それで
も鍵がかけてあるのは、使用人達に要らぬ出来心を起こさせないた
めなのだろう。
支度室なのに外からしか鍵の開閉が出来ないという作りに、初め
てその部屋に入った時にはかなりの違和感を感じた。
なんで?と首を傾げた佳乃は、門前がクローゼットの奥にある金
庫から見事なサファイアのネックレスと揃いのイヤリングを取り出
したことで、なるほど⋮と思ったものだ。
部屋の鍵もすごいが、金庫の鍵もすごかった。これなら泥棒だっ
て太刀打ちできない。 存在場所自体のありえなさぶりと合わせて
まず安全といえた。
79
ただ、今日に限ってその支度室の鍵が開いていた。だからこそ佳
乃が入り込めたわけであるが、果たしてそれは幸運だったのか。
宮野がいつもポケットにマスターキーを入れているのは知ってい
るが、日曜日の朝一番からそんなに職務をまっとうしなくていいだ
ろう。これでは佳乃は誰かが見つけてくれるまでここから出られな
い。携帯なんて自分の部屋に置きっぱなしだし、この部屋には内線
もない。
本来鍵がかかっているべき場所に、すんなり入れた不自然さに気
付かずにいるほど動揺していた自分に更に落ち込み、佳乃は途方に
暮れた。
﹁いたか?﹂
﹁どこにもいらっしゃいません﹂
広い邸内をくまなく捜したあと、宮野は俊紀に報告した。
﹁まさか、外に出たのか?こんな時間から⋮﹂
﹁あるいは⋮﹂
とっさに目を遣った壁の時計は、まだ七時になったばかりである。
出かけるにしても、こんな時間からというのはおかしすぎた。可
能性があるとしたら、それは彼女お得意の逃亡としか考えられない。
﹁俊紀様⋮﹂
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮あの⋮なにかその⋮谷本さんとの間に⋮﹂
﹁なにもない﹂
数日前、佳乃が逃げ出したのには理由がある。
それは俊紀とて十分納得のいく理由だった。
80
あからさまに主に迫られて、受け入れることが怖くて、受け入れ
ていい理由を一つも思いづけずに逃げた。初で頭でっかちの佳乃に
は十分考えられることだった。
だが、今日は違う。
確かに昨夜、俊紀は男として持てる技巧の全てを駆使して、佳乃
に対する所有権を固めようとした。
何度も意識を飛ばし、無理矢理引き戻し、また意地悪く焦らし、
夜の間中、散々啼かせて、乞わせて、骨の髄まで蕩けさせた。
佳乃の神経の末端まで、原島俊紀という存在を塗り込めた。だが、
佳乃もそのひとつひとつに非常に拙いまでも一生懸命に応えようと
した。
求められるままに、未熟な身体を差しだし、俊紀が思うままに拓
かせた。初めて経験する違いない感覚に怯えながらも、俊紀の腕の
中で細く鋭い声をあげて達した。
俊紀は満足げに微笑み、その後も煽るように佳乃の体奥を揺らし
続けた。そして、幾度目かに快楽の大波が佳乃を襲ったと同時に、
自身も堪えきらず熱を放った。
その熱を受けきった佳乃の紅潮した頬、そして不意に咲いた艶め
かしすぎる微笑み。
明らかに自分が女に変えたという誇らしさの中で見たその微笑み
の中に、迷いのようなものは一筋も混じっていなかった。
深い満足と、俊紀への甘やかな想いをしっかりと感じさせた。
濃い交わりの後で、幾ばくかの処理のために離そうとした身体に
縋り付いて、もう少しだけこうしていて下さい⋮と恥ずかしそうに
囁いた声を思い出すと、体中の血が一点に集中しそうになる。
その佳乃が、なぜ今逃げ出すというのだろう。そんなはずがない
のだ。だからこそ、自分はあんなに安心して、佳乃が抜け出したこ
とにも気付かぬほどの深い眠りの中にいた。
もう大丈夫だ、佳乃は間違いなく私のものだ⋮と。
81
﹁ではいったい⋮﹂
困惑している宮野。俊紀は苛立たしげに、内線で緊急対策班詰め
所を呼び出した。
﹁私だ。誰か外に出た形跡はあるか?﹂
班長の大澤は、日曜の朝っぱらから何なんだいったい⋮とぶつぶ
つ言いながら、詰め所にいた何人かの部下に確認を取った。
﹁誰か出てった奴がいるか?﹂
﹁誰か⋮って?﹂
﹁この時間で、相手はボスだ﹂
﹁ああ⋮じゃあ、姫さんですね﹂
﹁だろうな。で?﹂
﹁姫さんどころか、誰一人、外にも行ってないし、外からも入って
きてません﹂
﹁だよな﹂
土曜から日曜日にかけて、いやそれ以外の平日であっても、深夜
の原島邸には高感度のセンサーが設置され、あらゆるものの出入り
が監視される。
人間はもちろん、猫一匹ですらその監視から逃れることは出来な
い。だから、センサーの感度が下げられる昼間ならともかく、夜か
ら早朝にかけての原島邸から緊急対策班の目を逃れて抜け出すこと
など不可能だった。
﹁誰も出入りしてねーよ。センサーがぶっ壊れでもしてるんなら別
だが⋮﹂
82
と応えた途端に、詰め所に大きくアラームが鳴り響く。
確認した班員の井上がやれやれと首を振って言った。
﹁またあの野良猫です。もうちょっと感度緩くした方がいいんじゃ
ないですか?猫にまで反応させなくても⋮﹂
﹁それで何かやばいことになったらどうすんだ。過敏ぐらいでちょ
うどいいんだよ。ということでボス。センサー感度は文句なし。姫
さんは出てってない。よかったな﹂
﹁よくない。とにかく谷本を捜し出せ﹂
⋮まったく、自分の女ぐらい自分で管理しやがれ⋮とは思ったが
口に出せるわけもなく、大澤は、了解、と電話を切った。
﹁姫さん捜せってご用命だ﹂
﹁⋮⋮またですか?﹂
﹁まただよ﹂
﹁姫さんにかかっちゃ、ボスも形無しだな﹂
﹁面白いっちゃ面白いが、こう度々は迷惑だ﹂
﹁にしても⋮どこに行ったんだろう?中にないはずないのに⋮﹂
そのころ佳乃は、自業自得を絵に描いたような状況の中で相変わ
らず膝を抱えていた。
こんなことならさっき宮野さんに呼ばれた時、素直に返事してお
けばよかった。
考えてみれば、宮野を無視する理由などないのだ。宮野は。ちょ
っと一人になりたいんです、とでも言えば、少しの間なら主をごま
かしてくれる程度には、佳乃の味方だ。
もっと言えば、俊紀が寝言で誰の名前を呼ぼうと、それは自分が
83
文句を言える筋合いじゃない。
彼には、ナナであろうがハチであろうが、呼びたい名を呼ぶ権利
がある。
たまたまそれが横に佳乃がいるときで、その事実に立ち直れない
ほど傷ついたからといって、俊紀には関係ないのだ。
佳乃がお払い箱になった後、また違う誰かの隣で眠っている時に、
佳乃の名を呼ぶ可能性だってゼロじゃない⋮。
と思いかけて、佳乃は泣く泣くその考えを否定した。
いや、ゼロだな⋮私よりずっと素敵だろう次のお相手、その人と
あれこれ楽しんだあとで、寝言が﹁たにもと⋮腹が減った⋮﹂なん
て、ないわー。
それにしても、本当に困った。いったい私はいつここから出られ
るんだろう。
叫んでみたところで、二階の一番奥のこの部屋から階下にも階上
にも聞こえる可能性はない。
この部屋の真上は、昔、孝史と和子が使っていた部屋で今は空き
部屋だし、下は会議室だ。
一般家庭に会議室があること自体がおかしい、という佳乃の考え
が正解で、この部屋が使われているところを見たことなどない。
人がいたって分厚い床と天井に阻まれて声など伝わらないのに、
そもそも人そのものがいないとなったら聞こえるわけがない。
俊紀はきっと、佳乃は外に行ったと思っている。原島邸について
誰よりも詳しい宮野が捜して、いないというのならそれを疑うこと
はしない。
緊急対策班を外に放って捜索させるかも知れないが、邸内を再度
探すことはないだろう。ましてや、いつも鍵がかかっている支度室
の中に佳乃がいるとは思わないはずだ。
84
次の親睦会までここから出られないってことはないよね?それま
でには誰かが見つけてくれるよね?と必死に佳乃は自分に言い聞か
せた。
大澤が佳乃を見つけたのは一時間後だった。
部下達を外に聞き込みに行かせたものの、佳乃は絶対に外に出て
いないという確信があった。
センサーに引っかかってないこと以上に、携帯も財布も持たず外
に出て行くようなタイプではない。
その上、佳乃の靴は全部残っている。ないのは室内履きだけで、
それならその室内履きは、きっと今も彼女の足にくっついているは
ずだ。
宮野が捜したと言っていたが、あのじーさんだってもういい年だ、
きっと見落としたのだと信じて、邸内を片っ端から隅々まで探した。
何だってこの家こんなに広いんだ、畜生!と主とその祖先達を存
分に罵りながら、とりあえず隠れ場所の多そうな庭から捜したが、
庭には居なかった。
まあ、庭にしゃがみ込んでるわけもないか⋮と屋敷内に戻り、一
階から順に全ての部屋のドアを開けていった。
こんなところに入れるはずがない⋮と思うような物置の扉まで全
て開けて、暗いところは懐中電灯で照らし確認する。
大澤は二階の捜索の最後で、再奥の支度室に入ろうとして鍵に阻
まれた。鍵がかかってるなら入れるはずないが⋮とは思ったが、念
のために⋮と一階に下りて宮野に訊ねた。
﹁支度室の鍵ってずっとかかってたよな?﹂
もちろん⋮と言いかけて、そういえば昨夜からこのドアは開いて
いた、と思いだした。
85
昨日の夜中、ハウスクリーニングの定期清掃が入った。
クローゼットの中までは清掃しないが、とりあえず中にある物が
物なので、宮野はずっと作業を見守り、彼らが帰宅するまで目を離
さなかったが、施錠はしなかった。
ハウスクリーニングが入ったあとはワックスを乾かすために、朝
まで扉を開放しておくのが常だったからだ。
朝になって、佳乃を捜した際、ついでにワックスが乾いているこ
とも確認して施錠したのだ。だからそれ以前は、確かに支度室の鍵
は開いていたはずだ。
﹁哀れな子猫が、支度室で鳴いてる気がするぜ﹂
大澤は、宮野からマスターキーを受け取って、階段を二段とばし
に駆け上がった。
大層な鍵をがちゃがちゃ言わせながら開けて、真っ暗な部屋を持
っていた懐中電灯で照らすと、奥の方に蹲っている人影があった。
86
いい加減な寝言 ③
﹁姫さんか?﹂
﹁大澤さん⋮﹂
佳乃は懐中電灯の明かりに眩しそうに目を細めながらその向こう
にいる大澤を見た。
次の瞬間、うわー助かったあ!!と叫びながら、大澤の横をすり
抜けて佳乃が走った。
すわ、今度こそ逃走か!と慌てて追いかけた大澤は行き先を見届
けて爆笑した。
佳乃が駆け込んでいったのは、二階中央に設けられた化粧室だっ
た。
﹁危なかった⋮⋮﹂
すっきりとした顔で出てきた佳乃は、笑いをかみ殺している大澤
を見て、さすがに恥ずかしそうな顔になる。
﹁すみませんでした⋮﹂
﹁なんでこんなことに?﹂
﹁いや⋮あの⋮ちょっと次の親睦会の衣装でも考えようかなって思
って⋮﹂
﹁日曜の朝っぱらからか?﹂
﹁えーっと⋮⋮﹂
この人がごまかせるわけないよね⋮ある意味、あの寝言男よりも
ずっとプロだもの。
87
佳乃はそんな諦めに似た気持ちで、クローゼットに隠れていたこ
と、宮野の呼びかけに返事もせずにいたら、施錠されて出られなく
なったことを告げた。
その動機まではさすがに語れなかったが、それは自分の管轄じゃ
ないと判断したらしき大澤は、まあ進退窮まらなくなるような場所
で隠れん坊はやめとけ、とだけ言って、佳乃が見つかったことを俊
紀に知らせた。
どうやら俊紀は屋敷の外にいるらしく携帯を使っての会話だった。
﹁姫さんいたぜ。ああ⋮支度室に閉じこめられてた。まったく、ナ
ナじゃあるまいし⋮﹂
そう報告して電話を切った大澤は、じゃあな⋮と緊急対策班の詰
め所に戻っていった。
佳乃は大澤のセリフの中にまで出てきた﹁ナナ﹂という名前に半
ば絶望仕掛ける。
大澤さんまで知ってるなんて、きっとすごく仲がよかったんだ⋮。
でもって、それをマスコミに嗅ぎつけられないよう細心の注意をす
るほど大事な関係だったんだ⋮。
朝と同じ楔を同じ傷に打ち込まれ、佳乃はしょんぼりと階段を下
りた。
﹁どうなさいました?﹂
降りてきた佳乃を認めて、すぐに閉じこめてしまったことを詫び
ようとした宮野は、あまりにもしょげかえっている佳乃の様子にセ
リフを入れ替えざるを得なかった。
声をかけられて、ぼんやり宮野を見た佳乃は、ついうっかり訊ね
てしまった。
88
宮野まで知っていたら更に傷を深めるとわかっていながら⋮。
﹁あの⋮宮野さん⋮ナナさんってご存じですか?﹂
﹁ナナ⋮⋮?ああ、存じております﹂
ああ⋮やっぱり。
常にSPとして俊紀についている大澤だけではなく、滅多に原島
邸から出ない宮野まで彼女を知っているならば、ナナという女性は
ここにもしょっちゅう出入りしていたのだろう。
それならば俊紀の部屋にもベッドにも、何度も入ったに違いない。
﹁どんな方でした?きれいな方ですか?﹂
宮野は、自分の両腕をしがみつくように掴んで詰め寄った佳乃に
目を見張った。
﹁いいえ、あれはきれいというよりも可愛いと申し上げる方が⋮。
なんというか小悪魔的とでも⋮﹂
﹁そう⋮なんですか﹂
きれいじゃなくてかわいい系。でも小悪魔的⋮それはさぞかしチ
ャーミングな人だったんだろうな⋮と佳乃は俯く。いずれにしても
自分とは全然違う⋮。
﹁谷本さん?﹂
﹁なんでその方と別れたんですか?﹂
﹁別れた?まあ⋮そういう言い方もできなくも⋮死んだんですよ。
かわいそうに⋮﹂
﹁亡くなったんですか⋮﹂
若くして病気ででも亡くなったのだろうか、あるいは事故か。
89
どっちにしてもそれじゃあますます太刀打ちできない。
もうきっと彼女はずっと俊紀の心に住み続けるのだろう⋮⋮それ
こそ永遠に。
賞味期限六ヶ月の愛人達なんて全然敵わないに決まっている。
でも、ちょっと待って⋮さっき大澤さん、ナナじゃあるまいし、
って言ったよね?
もしかしてナナさんもクローゼットに閉じこめられたことがある
んだろうか⋮。
﹁その方も支度室に?﹂
﹁支度室に限らず、あっちこっちでしょっちゅう出られなくなって
ましたねえ﹂
﹁それは⋮随分変わった⋮人ですね⋮﹂
もしや主は、逃亡と潜伏が習い性の女に萌えるマニアなのか⋮?
と、嫌な疑惑にとりつかれそうになった佳乃に宮野は笑いながら
言った。
﹁ナナは人じゃありませんよ。俊紀様が飼われていたネコです﹂
﹁ネコーーーー!?﹂
寝言で呼ぶのがネコの名前って⋮それはいったいどういうことだ!
三十路半ばの俺様総裁、あまりにもキャラ外しすぎだろう!
しかも、そんないい加減な寝言に落ち込みまくった私も情けなさ
過ぎる!
責めるべきは自分かはたまた寝言男か、と悩む佳乃に、宮野はネ
コの﹁ナナ﹂について教えてくれた。
90
俊紀がまだ小学生の頃、原島邸の門脇に蹲っていた白い小さな子
猫。
親とはぐれたのか、それとも誰かに捨てられたのか⋮とにかく、
その子猫は弱り切って今にも死んでしまいそうだった。
俊紀はそれを拾って帰り、獣医に診せ、熱心に看病した。
もう駄目かと思われた子猫は、随分しぶとく命を繋ぎ、少しずつ
ミルクを飲み、餌を食べ、やがて元気に原島邸を飛び回るようにな
った。
命の恩人だという感覚がネコにあったとは思えないが、とにかく
俊紀の後をついて回り、夜も同じ部屋で休んだ。
ネコ用の寝床を用意してあったけれど、朝になるとちゃっかり俊
紀のベッドに潜り込んでいることも多かったらしい。
﹁またナナに起こされた﹂
早朝、中学生になったばかりの俊紀が子猫を腕に抱いて苦笑いを
していた様子を宮野はよく覚えていた。
ナナと名付けられたネコはそれからしばらく原島邸で飼われてい
たが、ある日、原島邸からうっかり飛び出して、門の前で車に轢か
れてしまった。
いくら広い家でも、閉じこめるのはかわいそうだと庭と家の中を
自由に行き来させていた俊紀は、家に中に閉じこめておかなかった
ことを随分悔いていた。
外にさえ出さなければ守れたはずの命だったのに⋮と。
それきり俊紀はもうペットを飼うことはなかった。
﹁そうだったんですか⋮﹂
自分が拾って大事に育てたネコの最期がそんな形だったなんて⋮。
哀れな最期を遂げたネコの話は、佳乃の高ぶった気持ちを一気に
91
静めた。
﹁俊紀様が何かナナのことを話されましたか?﹂
﹁ええっと⋮その⋮寝言で⋮﹂
言った途端赤面した。
主の寝言を訊くことが出来る場所にいたと告げるような物である。
もちろん、そんなことは宮野は先刻ご承知に決まっているけれど、
それを自ら語ってしまうのはあまりにも臆面がない。だが、宮野は
平然と話を続けた。
﹁朝方、よく俊紀様のお顔に悪戯していたんですよ、ナナは。早く
起きろと言わんばかりに⋮だからきっと⋮﹂
自分に触れる柔らかい感触をうっかり勘違いしてしまったのだろ
う。
ネコと間違われたのは不本意に違いないだろうけれど、見逃して
差し上げて下さい、と宮野は佳乃に頭を下げた。
ナナが死んでしまってから随分になる。最期が最期だっただけに、
俊紀がナナについて語ることはなくなっていた。
多忙すぎる日常にあって、もうナナのことを思い出すことなかっ
たのかもしれない。それが寝言とはいえ心に浮かんできたのは、き
っと俊紀が昔に戻りつつあるからだ。
仕事人間で感情を殺しきり、アンドロイドみたいに働きづめにな
る前の俊紀に⋮。
それは俊紀本人だけではなく、宮野にとってもとても嬉しいこと
だった。
そして宮野は、俊紀があれほど佳乃を外に出したがらない理由に
思い至った。
92
俊紀は、万が一佳乃がナナのように外に出た途端事故にあっては
大変だと思っているのだろう。かわいがっていたナナと同じ末路を
辿らせまいとして、佳乃を必要以上に拘束してしまうのだ。
佳乃を失うことなど耐えられないに決まっているから⋮。
﹁私、馬鹿みたいですよね⋮﹂
どうせ隠したって宮野にはばれている。
そう思った佳乃は自嘲たっぷりに呟いた。俊紀の寝言を勝手に勘
違いして、勝手に傷ついて、勝手に隠れて、挙げ句の果てに閉じこ
められて⋮本当に馬鹿だ。
﹁黙ってていただけますか?﹂
寝言を聞いたことも、それに焼き餅を焼いたことも⋮と佳乃は上
目遣いに宮野を見る。
その目つきが、いよいよかつてのナナが悪戯を見つかった時の目
に重なって、宮野はまたやんわりと微笑む。
﹁わかっております。俊紀様には、私からもお詫びしておきます。
クローゼットの中で捜し物をされていた谷本さんを閉じこめてしま
いました、と⋮﹂
でもそれでは宮野さんが叱られてしまいます⋮悪いのは返事をし
なかった私なのに⋮ともっと小さくなった声で呟く佳乃。
宮野は、それこそ子猫を撫でるようによしよしと掌を佳乃の頭に
載せたくなってしまう。
けれどそんなことをしているところを主に見つかったら、それこ
そ大目玉である。だから、代わりに安心させるように言ってやった。
93
﹁大丈夫です。俊紀様は私にはそんなにきつく仰ったりしませんし、
失敗を失敗と認めて素直に詫びる者を責めたりなさいません﹂
佳乃がその言葉を聞いて頷き、やっと笑ったところで、玄関を開
ける音が響いてきた。 きっと俊紀が戻ってきたのだろう。
﹁さっさと行って先に謝っておしまいなさい﹂
勝手に抜け出してごめんなさい、と可愛らしく詫びれば、俊紀は
きっとそれ以上言葉を重ねず、そのまま佳乃を寝室連れ込むだろう。
そして、元々そうやって過ごすつもりだった休日を数時間遅れで
始めるはずだ。
あれこれ話すよりも、触れあっている方がいいとばかりに⋮。
話すことしかできなかった五年の日々、それ自体は価値のある日
々ではあったが、俊紀は、今は何よりも佳乃の温もりを感じていた
いに違いない。
腕の中に佳乃がいる喜びを追い求めていれば、今朝の些細な事件
などすぐに忘れ去るだろう。
﹁谷本!﹂
五年の間呼び続けた名前は、今も変わることなく彼の口から漏れ
る。
それが佳乃という名前に代わることがあるのだろうか⋮。
あるとしたらそれはどんなきっかけによるのだろう。
もしも﹁佳乃﹂と呼ばれる日が来たら、ほんの少しでいいから﹁
ナナ﹂という名前よりも甘く響いて欲しい。
そんなことを想いながら、佳乃は慌ただしい足取りの主を迎えた。
﹁ごめんなさい。またやらかしてしまいました⋮﹂
94
そう言いながら、佳乃は珍しく自分から俊紀の背に腕を回した。
一瞬の驚きの後、まったくお前は⋮と苦笑いしながら俊紀はしっ
かりと抱き返し、宮野の予想通り佳乃を連れて自室に戻っていった。
﹁何を探していた?﹂
探し物をしていて閉じこめられてしまった、と宮野が用意してく
れた説明をそのまま口にした佳乃に俊紀が訊いた。
こともあろうに、自分の下に組み敷いて息も出来ないほど深い口
づけの後、更に行為を進めようと淫らに手を動かしながら⋮。
そんなふうにされたら答えなど口に出来るわけがない。
もともとない答えなら余計である。
佳乃は、これは誰の声だ、と思うような喘ぎ声の間から辛うじて、
忘れちゃいました⋮と答えた。
長い指が身体の隅々まで辿って熱を熾し、一番熱い部分に滑り込
む。彼の唇は佳乃の唇から離れ、首から下へと流れていく。そんな
ことを繰り返されれば、冷静な思考なんて遙か彼方に飛ばされ、満
たされることしか考えられなくなってしまう。
もしも今、何を探していた、ではなく、なにをしていた、と聞か
れれば、間違いなく自分は、あなたの寝言に嫉妬して感情がセーブ
できなくなって隠れてました、と告げてしまうだろう。
だが幸いなことに、俊紀はそんな質問はしなかった。最早どんな
質問もせず、彼はただ佳乃を翻弄した。昨夜と同じように⋮。
家の中でも遭難するなら、間違ってもひとりで外になんて出せな
いな⋮。
長い営みが漸く終わり、くったりと主の胸に伏した佳乃の耳に響
いてきたのは、俊紀のそんな声だった。
95
︵いい加減な寝言 End.︶
96
いい加減な寝言 ③︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
97
いい加減じゃない贈り物︵前書き︶
バレンタインデー、その後です。
︵例によって清いです。申し訳ありません︶
98
いい加減じゃない贈り物
﹁直接受け取られた物はございませんね?﹂
そう言いながら、宮野が書斎に入ってきた。
佳乃が出社支度をしている間に、メールチェックを済ませようと
していた俊紀は宮野が持っているリストを見て、もうそんな時期か
⋮と思う。
二月十四日に俊紀宛に届けられた膨大な数のチョコレートは、会
社と原島邸の両方をあわせて宮野によってその送り主がリスト化さ
れていた。
例年、三月の声を聞くと宮野はデパートの外商部を原島邸に呼ん
で、それぞれに相応しいお返しを誂えるのであるが、今年もその時
期がやってきていた。
佳乃が原島邸に住み込んで五年。今年こそは主は佳乃から形のま
まのチョコレートを受け取ったのだろうか⋮とかけてみた鎌は見事
に主の機嫌を損ねた。
﹁あるわけがないだろう。その手の物を私が受け取らないことは知
っているはずだ。今更なにをふざけたことを言っているんだ﹂
では、今年佳乃が原島邸の面々のために用意した小さなチョコレ
ートは、やはり主のところには届かなかったのか⋮と宮野は痛まし
そうに俊紀を見た。
バレンタインデーの数日前に、佳乃が通販サイトを利用して誂え
たチョコレートがまとまって原島邸に届けられていた。
もちろん配達されたものを受け取ったのは宮野であるが、その中
にもしかしたら俊紀に贈る分も含まれているのかもしれないと微か
99
な期待を抱いた。
だがそれは、山本や松木、緊急対策班の面々に渡すための物ばか
りで、主のための物を含んではいなかったらしい。
勘違いしようもないいかにも﹁義理チョコ﹂然としたその小さな
包みを宮野自身も受け取ったが、主が受け取っていないとするとそ
れすらも申し訳ない気分になってしまう。
谷本さんは本当に不器用だ⋮。
宮野は今年もバレンタイン前夜、遅い時間に厨房に漂っていたカ
レーの香りを思い出しながらため息をついた。
そんな風にあからさまに俊紀だけを例外扱いにしてしまえば、彼
のことを特別だと思っていることがかえって浮き彫りになるではな
いか。
いっそ皆と同じように、あの小さな包みをなに食わぬ顔で渡して
しまえばよかったのに⋮。いつもお世話になってますから⋮なんて
言いながら渡せば、その中に彼女の深い想いが混じっていたとして
も、主が気付くことはなかっただろう。カレーの隠し味ほどではな
いにしても、わかりにくさでは相当なもののはずだ。
ただ、他の使用人達と同じようなチョコレートを貰ったら、それ
はそれで俊紀の機嫌を大いに損ねたかも知れないけれど⋮。
﹁では例年通り、外商を呼んで手配しておきます﹂ ﹁頼む﹂
宮野と俊紀がそんな会話を交していたところに入ってきたのは緊
急対策班の大澤だった。
﹁ああ、ここにいたのか、宮野さん﹂
100
大澤は、例によって主など無視して宮野に話しかける。
いつもながら傍若無人な緊急対策班班長に、俊紀はやれやれとい
わんばかりだ。宮野の方も、そんな大澤にはもう慣れ切っていたし、
俊紀がそのことで今更咎めたりしないこともわかっているので、普
通に言葉を返す。
﹁なにか?﹂
﹁どうせ今日あたり、デパートの外商を呼ぶだろう?﹂
﹁お察しの通りですが⋮﹂
﹁悪いが、もし来たらちょっとうちの小川に声かけてくれないか?﹂
﹁小川さん、ですか?﹂
﹁ああ、あいつ今日は原島邸担当だからずっと詰め所にいるし﹂
﹁はい?﹂
﹁姫さん用に何か選ばせてくれ。俺たちの中じゃ、そういうのまと
もに選べそうなのあいつぐらいしかいねえんだ﹂
そういえば⋮と緊急対策班の面々を思い浮かべて宮野は吹き出し
そうになる。
確かに、あのむくつけき男達は、女性が好みそうな小物を選ぶな
んて芸当は出来そうにない。小川にしたって大して得意そうでもな
いが、それはもう比較の問題なのだろう。あるいは強引な班長に、
面倒な役割を押しつけられてしまったのかもしれない。
と、そこまで考えて、宮野は直近から突き進んでくる冷たい視線
に気がついた。
しまった⋮と思った時に大いに手遅れ。
﹁大澤⋮お前達、谷本からチョコレート貰ったのか?﹂
大澤は、その声で初めて俊紀に気付いたように主を見た。
101
﹁貰ったぞ。ちっこくてかわいい箱に入った奴。全く腹の足しにも
ならなかったが、まあ姫さんの気持ちだし。多分、俺たちだけじゃ
なくて山本や松木も貰ったんじゃね?もっとも、あいつらはテクが
あるからお返しなら姫さんの喜びそうな甘ものとかささっと作っち
まうだろうけど﹂
そして、そういやあんたはどうすんだ?と宮野を見る。
まずい⋮これでは俊紀だけがもらっていないということが明白で
はないか⋮と宮野は頭を抱えた。
案の定、更に俊紀の視線は冷たくなった。
﹁宮野、お前も貰ったのか?﹂
﹁⋮⋮はい。でも、あれはいわゆる義理なんとかという奴で⋮﹂
﹁じゃあ谷本は、私には義理すら感じてない、ということなんだな
?﹂
﹁俊紀様⋮それは⋮﹂
不機嫌な俊紀はしょっちゅう見ているが、困っている宮野という
のはあまり見られない、と大澤は面白がって二人を見ている。
だが、俊紀の不機嫌が限界を超えそうな気配にさすがにまずいと
思ったのか、助け船を出してきた。
﹁俺たちは同僚だが、あんたはボスじゃねえか。気軽に﹃これ義理
チョコです﹄なんて渡せねえだろう?﹂
﹁私は直属上司なんだがな﹂
﹁直属でもなんでも、社長相手に一従業員がちっこいチョコなんて
無理無理。しかもあんなに沢山ご立派なブランド品が届きまくって
るの知ってるんだから余計だ﹂
もしくは、こき使いすぎて感謝も義理も底をついちまってるのか
102
もなー、と本当に余計なセリフを残して、大澤は高笑いとともに去
っていった。
助け船と思ったのはとんだ泥船だった⋮と宮野は更に困り果てる。
このままでは、不機嫌をそのまま佳乃にぶつけかねない。それは
いくらなんでも佳乃が気の毒だった。
佳乃が守り続けてきた小さな秘密を暴露してしまうのは忍びない。
だが、今の俊紀の心境も佳乃に負けず劣らずいたたまれない。
苦渋の選択が、主サイドに寄ったとしてもそれはもう勘弁して貰
おう、と宮野は腹をくくった。
﹁俊紀様⋮﹂
﹁なんだ﹂
﹁カレーうどんはお好きですか?﹂
﹁唐突に何だ?﹂
﹁谷本さんがお出ししている⋮﹂
﹁ああ、あれか。下世話な味ではあるが、あれはあれで美味い﹂
﹁最近もお召し上がりになりましたよね?﹂
﹁先月食べた﹂
﹁日付までご記憶ですか?﹂
﹁⋮十四日だった﹂
実のところ、俊紀は毎年毎年、あえてその日は遅くまで仕事を入
れて、夜食が必要なシチュエーションを作っていたが、佳乃が夜食
としてチョコレートの類を出してきたことは一度もない。
佳乃を私設秘書にしてから俊紀の仕事はかなり効率化され、夜遅
くまで自宅で仕事をすることなど滅多になくなった。だというのに、
バレンタインの日に限って夜食が必要になるほどの作業量が発生す
る不自然さに佳乃は気付きもしない。
もっといえば、予め夜中まで働くとわかっているのに、あえて夜
103
食が欲しくなるほど軽い夕食に誂えられている献立にもまったく疑
問を感じていないらしい。
バレンタインの当日になると、俊紀はこっそり山本に指示を出す。
曰く、昼食が遅かったから、曰く、少々胃の調子がよくない、曰
く、どうあっても今日はあっさりした和食がいい⋮。
そんな風に食事の内容に口を出すことなど滅多にない主が、わざ
わざ電話で連絡してくる意味を山本はもうきっと気付いている。
その証拠に、今年のバレンタインに際しては﹁献立に関しては心
得ております﹂などと数日前に囁かれてしまった。主としてかなり
体裁の悪い思いはしたが、そんなことはどうでもいい。
そうまでして仕組んだことだというのに、佳乃はまったく気付く
気配もない。
あの鈍さはどうしたことだ、と思いながら何度バレンタインを迎
えたことか⋮。
高まる期待を見事に粉砕して毎年出てくるのはカレーうどん。
それにしてもなぜ今宮野がそれに言及するのか⋮と、俊紀は首を
傾げた。
宮野は意味ありげに微笑みながら言う。
﹁毎年、バレンタインはカレーうどん、でしたよね?﹂
﹁確かに⋮あいつそんなにカレーうどんが好きなのか?それなら山
本に言って作らせればいいものを⋮﹂
この主は、佳乃のことを鈍いと思っているらしいが、自分だって
相当なものだ、と宮野は苦笑する。
毎年特定の日に同じメニューが出てくるならば、そこには何らか
の意図があるに決まっている。それについてちょっと考えてみれば、
この主ならば正解に辿り着くのは難しくないだろうに⋮。
﹁俊紀様。恐らく山本は、谷本さんが作るようなカレーは作りませ
104
ん。市販のカレールーを使うなんてもってのほかでしょう。そして
カレーうどんにはやっぱりああいったカレーが向いております﹂
﹁そう言われればそうだな。まあ、あいつはインスタントが好きな
んだろう﹂
﹁インスタントを工夫されるのがお上手なんですよ﹂
﹁にしても、なぜバレンタイン⋮﹂
﹁さあ?なにか思うところがおありなのでしょう﹂
それだけ言うと宮野は、では外商に電話をして参ります、と書斎
をあとにした。
市販のカレールーを使ったカレーの味を深めるために、一般的に
どんな工夫が成されるのか俊紀が調べることを期待しながら⋮。
工夫するのが上手⋮か⋮まあ確かその通りだろう、と俊紀は思う。
リゾットにしてもその他の物にしても、元々インスタントだとわ
かっていてもどこか違う味わいにしてしまう。
薄っぺらな味わいに留めず、これぞと思う味に仕上げるために、
佳乃はいろいろな隠し味を使っているのだろう。
だからきっとカレーうどんにも⋮と思い当たって俊紀は目の前に
あったパソコンの検索用の窓に﹃カレー、隠し味﹄と入力してみた。
にんにく、ウスターソース、牛乳⋮と続いていく項目。
りんごというのを目にして、子ども向けのカレールーのコマーシ
ャルを思い出す。
そう言えば昔参加したキャンプであのカレーを食べてみて、あま
りにも甘くて驚いた。
原島邸で出されるカレーは常に本格的で子ども向けに牛乳などで
緩められることはあってもあそこまで甘いことなどなかったからだ。
もともと甘くできているならそれはそれで便利だ、と思ったこと
を覚えている。
105
隠し味の項目は、どんどん甘みを増す物に変わっていく。りんご、
ヨーグルト、蜂蜜⋮そして俊紀は、次の瞬間、棒グラフの下の方に
スクロールしていた手を止めた。
﹃チョコレート﹄
俊紀の目に飛び込んできたのは燦然と輝くその文字だった。
三人に一人がニンニクを入れると答えた中で、チョコレートを入
れる人は十人に一人ぐらい⋮だが、カレーの隠し味としてチョコレ
ートを使う人間が確かにいる。
佳乃がそれを使ったという保証はない。けれど、毎年あえてバレ
ンタインの日にカレーうどんを出してくる目的が、隠し味としてチ
ョコレートを入れることにあるとしたら、それはいかにも佳乃らし
い話だった。
感謝にしても、義理にしても、俊紀にしてみればもっと深い色で
あって欲しい想いであっても、いずれにしても表に出すことを躊躇
い、隠しに隠した気持ち。
シャツに飛んだ滴を笑いながら、一緒に食べたカレーうどんにそ
んなものが含まれてた可能性がある。というよりも、宮野の言葉か
ら推察するにそれは間違いないだろう。しかも、四年も前から⋮。
俊紀は、パソコンのモニターのチョコレートという文字を見つめ
る自分の顔がどれほど綻んでいるか、簡単に想像できた。
きっとこれ以上ないというほどだらしない顔をしているだろう。
谷本⋮お前は本当に面倒くさい奴だ。面倒くさくて小賢しい。
こんなことを四年もやっていたのか⋮宮野に言われるまで気付か
なかった私も間抜けだが、あまりにもわかりにく過ぎるだろう。
もうちょっとわかりやすくなってくれないものか、なんてお前に
言ったところで無理なんだろうけれど⋮。
106
そして俊紀は、万が一にも佳乃の秘密を嗅ぎつけたことが本人に
ばれないように、検索履歴をきれいに消去する。
来年のバレンタインにはカレーうどんなんて小技を使わずにすむ
関係に持ち込みたい。 だが、あれはあれで美味い。隠し味に気付
かぬふりでずっとあのカレーうどんを作らせ続けるというのも一興
だ⋮などと黒い想いを巡らせながら、俊紀はパソコンの電源を落と
した。
翌年三月、俊紀は佳乃の胸元に、やっぱり保険かけてください!
と言いたくなるようなダイヤのネックレスを飾った。
佳乃も、今年こそはちゃんとしたチョコレートを⋮と思わないで
もなかったが、結婚もしたし、互いの想いも確認済みとあってかえ
って気恥ずかしくなってしまった。
その上、急にカレーうどんを止めてしまうのも、いらぬ憶測を呼
ぶだろうと、例年通り夜食にはカレーうどんを用意した。
だから、誕生日でも記念日でもない三月に、俊紀がそんなプレゼ
ントをくれる意味がわからなくて首を傾げた。
﹁えーっと⋮⋮これはいったい?﹂
﹁気に入らないのか?﹂
﹁いいえ。すごくきれいですけど⋮﹂
﹁ホワイトデーだろう?﹂
﹁確かに。でも⋮﹂
﹁長年のカレーうどんのお返しだ﹂
﹁げ⋮﹂
﹁なんでそこで﹃げ﹄なんだ、まあカレーうどんは美味いし大いに
けっこうだが、たまには普通にチョコレートをくれてもいいんだぞ﹂
﹁⋮け、検討しておきます⋮。とりあえずこれ、ありがとうござい
ました﹂
107
もう、物を贈っても愛人のつもりかと突き返されることも、あか
らさますぎる想いを贈って拒まれることもない。どんな物も想いも、
何かに紛れ込ませる必要などない関係。
それが確かに築かれたと信じられる今、あえてイベントに乗じて、
あれこれやり取りするのも楽しいじゃないか。
そんなことを思いながら俊紀は、慌ててぱたぱたと出て行く佳乃
を満足げに見送った。
End.
108
いい加減じゃない贈り物︵後書き︶
お読みいただいてありがとうございました。
109
いい加減なイメチェン
﹁門前さん、私の髪、もうちょっと伸ばした方がいいと思いません
か!?﹂
秋の親睦会が近付き、いつも通り打ち合せをしようと原島邸にや
ってきた門前は、原島邸のドアを開けるやいなや、階段を駆け下り
てきた佳乃に迎えられた。
息せき切って駆けてきたと思ったらなにを聞くやら⋮と門前は笑
い出しそうになる。
佳乃の髪は、ベリーとまでは言わないけれど、いかにも体育会系
にありがちなショートカット。洗うのも乾かすのも至って簡単な体
育会系御用達のスタイルだった。
それは原島邸に来るずっと前から同じだったらしい。
前に一度、ロングにしていたことがあるの?と訊ねたら、幼稚園
の時に肩につくぐらいまでありましたが、それっきりです、ときっ
ぱり答えられてしまった。
﹁私の髪、多いし堅いし伸ばしたら収拾つかなくなりそうで⋮﹂
本当はちょっとだけ、さらさらロングに憧れて伸ばし始めてみた
時期もあったんですけど、肩まで伸びるまでにギブしちゃいました
ー、と舌でも出しそうな感じで笑っていた。
確かに佳乃の髪質では、今のショートから伸ばし始めてある程度
の長さに揃うまでの期間は、それはもう新手のメデューサか?とい
いたくなるほど広がって大変なことになるだろう。それを各種ヘア
110
グッズで騙し騙し伸ばしていくなんて、佳乃の性格では出来そうに
もない。
あーもうやだ!!っとばかり美容院に走り込み、ざっぱり切って
しまったに違いない。
その佳乃が髪を伸ばした方がいいのか?と聞いてくる根拠は何だ
ろう⋮⋮と門前は不思議に思った。
﹁そりゃあ、スタイリストとしてはもうちょっと長さがあった方が
アレンジに幅がでるけど、どうして急に?﹂
佳乃との付き合いはもう四年目に入っている。
最初は、原島邸親睦会の時のコーディネイトだけだったのが、だ
んだんにその他の仕事がらみのパーティーに出かけていく時の服装
まで細かく相談するようになっていた。
接する機会が増えれば、女同士のこと、徐々に二人はうち解け、
今では姉妹のようにあれこれ話をする仲になっていた。
既に母を失い、女友達とも滅多に会えない環境にある佳乃にとっ
て、門前は唯一の同性の相談相手として貴重な存在なのかもしれな
い。
年頃の女性としては相当に気の毒な環境。だからこそ、余計に門
前は佳乃が可愛いいし、困り事心配事は出来る限り何とかしてやり
たいと思ってしまうのだ。
ほらほら、お姉さんに打ち明けてご覧なさい、といわんばかりの
顔の門前に、佳乃は安心したように一冊の雑誌を差し出した。
そこに写っていたのは、見慣れた原島邸の主と近頃躍進中のアパ
レルメーカーの女性社長。
いかにも有能そうな彼女は、ビジネスなのに女性らしい曲線を前
面に押し出すようなデザインのスーツとピンヒール姿。
髪型はといえばこれまたお約束のようなストレートボブ。
111
書類を覗き込むために片手で掻き上げる仕草は、さぞや色っぽい
ことだろう。
﹁こういう髪型にした方が大人っぽくていかにも仕事出来そうな感
じじゃありません?﹂
目の前で、どう?どう?どう?と子犬がしっぽを振っていた。
門前は、四年前の初めての親睦会できゃんきゃん吠えていた子犬
は、依然として成長しきっていないのか、と吹き出しそうになる。
それでもなんとか笑いを堪えて、その写真と目の前の佳乃を見比
べた。
この写真の女社長と比べれば、確かに佳乃は子どもっぽい。
犬っぽいまで言うのは門前の主観に過ぎないから抜きにするとし
ても、二人を比べれば間違いなく女社長の方が大人の女性に見える
だろう。
だが、見た目と中身が一致するとは限らない。佳乃の見た目がど
れほど子どもっぽくても、彼女の有能さとは関係なかった。
﹁別にいいじゃない、仕事できそうに見えなくても、実際にあなた
が有能だってことは周りのみんなが認めてるんじゃないの?﹂
﹁そんなことないです⋮⋮﹂
あら⋮しっぽが垂れたちゃったわ⋮
門前はなんかもう本当に抱きしめてよしよししたくなるのを必死
で我慢する。
いったい誰に比べて仕事が出来ないなんて思い込んでいるのだ、
この子犬は⋮。
まさか、いつも隣でばりばり稼ぎまくっている俺様総裁じゃある
112
まいな、とばかり、佳乃の顔を覗き込むと、どうやらそれは当たっ
ているらしかった。
﹁社長ってすごいですよね⋮あれだけ沢山の関連会社の動向、全部
ちゃんと把握してるんですよ。どうかすると、それぞれの会社の社
長よりもずっと細かく知ってるんです。この間もグループ会議みた
いなのがあったんですけど、その時も、自分の会社なのにそんなこ
とも知らないのか、って叱りつけてました﹂
会社の社長というのは、概ね組織の一番上に立って全体を把握す
るものだ。
だから細部にわたる実務というのは担当部署に任せきりという者
も多いし、そうでなければ組織としてうまく運営できない。
実務に口を出しすぎる管理職が疎ましがられるのは定石。だが、
俊紀は口を出すことと、情報を握って管理することは違うのだと言
う。
知っていて尚かつ口を出さず現場に任せる。その上で、何か問題
があった時はすかさずフォローをする。
逆に言えば、問題が起こった時の対処というのは早ければ早いほ
どいいのだから、問題が起きてから現場に事情を測りに行っている
ようでは遅すぎる。
日頃からアンテナを張り巡らせておく必要があるのだ。なんでも
任せっぱなしにしておけばいいというものではない。
それが俊紀の持論で、自らもそれを実践していた。
﹁あんなに忙しいのに⋮それにあれだけの情報よく頭に入れてられ
ると思います﹂
妬ましいやら羨ましいやら⋮⋮私もあれぐらい頭よかったらなあ。
どうやったらあんな風になれるんでしょうねえ?なんか特殊な食
113
べ物とかあるのかなあ⋮と佳乃はため息をつく。
門前は、やだ、この子、本気で俊紀様とタメ張る気なの?と呆れ
てしまう。
大抵の人間なら、しかも彼の部下ならば、俊紀と自分との差など
わかり切っている。
だから比べることすらしないというのに、佳乃は何とか同じ土俵
によじ登ろうとしている。特殊な食べ物なんてあるわけないが、も
しもあったとしたら俊紀の倍でも胃袋に詰め込んで、何とか彼に追
いすがろうとするかもしれない。
その向上心だけでも見上げたものだと思うが、それすらも佳乃は
認めないだろう。
﹃谷本の吸収力はすごい﹄
佳乃が俊紀の私設秘書になってしばらくした頃、俊紀が宮野相手
にそんなことを言っていた。
なにを教えても、スポンジで水を吸い取るように吸収してしまう。
いや、スポンジのように絞り直せばまた水が染み出すというような
こともなく、確実に自分の中に取り込んで外に漏らさない。
あれほどの吸収力がありながら、なぜあんなに学業が振るわなか
ったのか謎すぎる、と半ば苦笑しながら首をひねっていた。
確かに佳乃の在籍していた大学はいわゆるFランク。
株式会社原島ならば門前払いレベルだったし、実際に佳乃は門前
払いを食ったのだ。
佳乃が書類で撥ねられたと知った俊紀は、後に採用方法を根本的
に見直させ、エントリーシートから大学名記入欄を削った。
佳乃のようなイレギュラーな存在はそうそういないにしても、可
能性の芽を潰すのは会社にとって不利益にしかならないということ
114
らしい。
俊紀にそれをさせるほど、佳乃は優秀だったのだ。
﹁谷本さんは、好奇心が広範すぎたのでしょう﹂
宮野は、佳乃が図書室を整理する様子を見ていて、そんな結論に
達した。
いわゆる﹃読んだことのある本﹄の分野がとんでもなく広い。
佳乃が並べ直そうと棚から出して積み上げた本を手に取ってみて、
これは何の本だろう?と首を傾げる宮野に、彼女は片っぱしからそ
の概要を説明してくれた。
これは中世ヨーロッパの服装史に関する本です、これは東南アジ
アの一部にしか生存していない鳥類についての話です、これは某S
F作家が別名で書いた官能小説です⋮⋮と、放っておけばいつまで
も解説していそうだった。しかもひどく楽しげに⋮。
それだけの量の本を読みあさっていたら、いわゆる学生必須の五
教科七科目とか九科目とかの問題集など解いている暇はなかっただ
ろう。
本から得た知識をそのまま学業に活かすことはなかなか難しい。
それらの知識は大人になって社会に出て、経験と重ねることで始
めて活きてくる。
佳乃が学生時代に詰め込んだ、書物から得た知識は、今になって
やっと花開いたに違いない。
﹁なるほど、そうかもしれない。まあ、いずれにしても将来が楽し
みだ﹂
宮野の意見に頷いた俊紀はひどく満足げに笑っていた。
つまり俊紀は、最初の最初から佳乃を高く評価していたのだ。そ
115
してその評価は今だって少しも落ちていない。
佳乃はいつも俊紀の要求に応え切れていないと感じているようだ
が、それは俊紀が部下を育てる上での作戦だ。
常に、現状の能力よりも少しだけ大きな課題を与え努力させる。
そうすることで、部下達の底上げを図っている。
努力の量では誰にも引けを取らない佳乃は、いつだってあえぎな
がらでも俊紀が求める以上の結果を出してきたのだ。
外見なんてまったく関係ない。見た目なんて子どもでも犬でも構
わない、俊紀にいわせればそういうことになるに決まっていた。
とはいっても、そんなことを言えば、それはそれで佳乃はまた落
ち込むだろう。
﹁私やっぱり犬なんですかーー!﹂とか、叫びそうだった。
少しでも仕事が出来るようになりたい。
そして誰から見てもそれがわかる姿になりたい。
それは、常に自分を連れ歩く俊紀の体面を思ってのことだ。たと
え本人がそれに気付いていないにしても、俊紀に認められたいとい
う気持ちの中に滲むほの甘い想いは、日々加速度的に濃くなってい
る。俊紀は俊紀で、その想いが育っていることに気付かぬままに、
育ちきる日をひたすら待っている。
なんとも観察しがいのある二人。そして二人のゴールはどんどん
近付いていた。
﹁じゃあ⋮このあたり、少しだけ伸ばしてみたら?﹂
門前は、佳乃の耳の脇あたりの髪を少し引っ張りながら笑う。
﹁サイドを顎ぐらいまで伸ばして、そこから首に向けて後ろ上がり
のラインをつけてみたらどう?﹂
116
その程度の長さなら、あまり広がりもしないし扱いも邪魔という
ほどではない。
ちゃんとブローするとか多少のケアは必要だけど、それぐらいは
やってもらわないと⋮と門前に言われた佳乃は、鏡を覗いて髪の伸
びた自分を想像している。
髪がそんな風に伸びれば、この写真の女社長のようなスーツも少
しは似合うかな?とか、ブローブラシで耳の横の髪をとかしながら
ぶつぶつ呟く。
﹁イメチェンとしてはいい加減だけど、少しは女実業家って感じに
なりますかね?﹂
こみ上げる笑いを堪えながら、門前は、まあ頑張ってね、と言う
しかなかった。
﹁なんかこのごろ、感じ違うな⋮姫さん﹂
﹁うーん⋮⋮確かに、ちょっと色気づいたか?﹂
﹁色気??あの柔道一直線が?﹂
﹁それはお前が投げられ専門だからそう思うだけだろう。あれでも
親睦会の時とかけっこうすごいんだぞ﹂
﹁そうなのか?俺、親睦会担当したことないからなあ⋮﹂
﹁今度一回見てみろよ、別人二十八号だ﹂
﹁何人いるんだよ、姫さんは!﹂
﹁少なくとも二人はいそうだって思うよ、あの恰好で見ると﹂
﹁ふーん⋮⋮でも今は柔道着だぜ﹂
﹁でも違うよな⋮あ、そうだ髪だ!﹂
﹁髪⋮⋮そういえばちょっと伸びたか?﹂
﹁伸びたよ、耳んとこ。へーかわいいじゃん﹂
﹁おま⋮やめとけ、姫さんのことかわいいとか言わない方がいいぞ﹂
117
﹁なんで?かわいいと思わねえ?﹂
﹁思っても言わない方がいいことってあるんだよ﹂
﹁かわいいものをかわいいと言ってどこが⋮﹂
﹁誰がかわいいって?﹂
例によって、道場で﹁柔道の練習﹂に付き合わされ、佳乃と小川
の乱取りを見ながらひそひそ話を続けていた緊急対策班の若手二人
は、いきなり後ろから主に首根っこを掴まれた。
その後ろには、やれやれといわんばかりの顔をした班長の大澤。
﹁ボ⋮ボス、それに班長、いつの間に?﹂
さっきまで、二人がかりで定例になっている原島邸のセキュリテ
ィチェックをしていたはずなのに、相変わらずの神出鬼没ぶりであ
る。
﹁お前らが﹃かわいい﹄というのはあれのことか?﹂
その瞬間、佳乃が豪快に小川を投げ飛ばした。
﹁やりぃーー!!小川さーん、生きてますかー?﹂
何とか受け身を取って怪我こそしなかったものの、現役緊急対策
班としては情けない有様の小川を豪快に笑う佳乃。
その姿は確かに﹃かわいい﹄からはかなり遠ざかっていた。
﹁訂正します⋮⋮凛々しいの間違いでした⋮﹂
さっきまでのあの姿は幻だったに違いない。そういうことにして
118
おこう⋮⋮
ものすごい目で主に睨み付けられた若手二人は、こそこそと道場
から逃げ出そうとした。だが、俊紀は無情にも佳乃に言いはなった。
﹁谷本、こいつらちょっとたるんでいる。ついでに二、三回投げ飛
ばしていいぞ﹂
﹁え⋮⋮いいんですか?﹂
いつもなら緊急対策班に柔道の相手をさせたら渋い顔する俊紀。
その俊紀から、珍しく許可を得て、佳乃は嬉々として若手班員を道
場の真ん中に引っ張って行く。
言うまでもなくそれは、佳乃を﹁かわいい﹂と言った方の男だっ
た。
佳乃は俊紀の仰せの通り、あっという間にその班員に綺麗な一本
背負いをかませ、呵々大笑。
きっと彼は二度と佳乃を﹁かわいい﹂などと思わないだろう。
﹁谷本、気が済んだら着替えて書斎に来い。来期の収益予測立てる
ぞ﹂
﹁はーい﹂
そして佳乃は、あーすっきりした、と道場に備えられている更衣
室に駆け込んでいき、俊紀は、急げよ、と言い残して屋敷の方に戻
っていった。
残された若い班員は、投げ飛ばされたもう一人の班員の脇にしゃ
がみ込んだ。
﹁ほらみろ、いわんこっちゃない﹂
﹁なんでこんな目に⋮﹂
119
﹁ボスの前で姫さんのことかわいいなんて言ったら、気に障るに決
まってるだろう﹂
﹁なんで!?ボスは姫さんが気に入らないのか?﹂
﹁⋮⋮お前、頭空っぽだろう。姫さんのこと気に入ってる男が他に
いるってわかっただけでも逆鱗密着だよ!﹂
﹁み⋮密着?!﹂
普通は触れるとか、触るとか、そういうレベルだろう!?とぶつ
ぶつ文句を言う男に、そんな程度じゃねえから、密着って言ってん
だろうが、馬鹿たれが!と軽く頭を叩き、彼は投げられ男を引っ張
り起こした。
﹁あ⋮そういうことね。なんだ、かわいいのはボスの方か⋮﹂
﹁だーかーらー、やめろってー﹂
そして若い班員達は二人してげらげら笑った。
﹁あんたさーほんと最近、わかりやすいよな﹂
すたすたと歩く俊紀に追いつきながら大澤が笑う。
﹁なにがだ﹂
﹁聞かなくても自覚あるんだろ?﹂
﹁ほっとけ﹂
﹁ま、牽制したくなる気持ちはわかるよ。姫さんお年頃だし、髪も
伸ばして確かにかわいくなってきたよな。あんたにしちゃ気が気じ
ゃないだろうよ﹂
﹁お前までかわいいとか言うな!﹂
﹁いいじゃねえか、かわいいもんをかわいいって言ってどこが悪い
120
よ。だからってなにもしねえよ﹂
﹁当たり前だ。ただでさえ、手を焼い⋮﹂
﹁へえ⋮そうなんだ﹂
耳敏く俊紀の失言を聞きつけた大澤が、すかさず突っ込む。全部
聞かなくても俊紀の気持ちなどわかっている。
ただでさえ、責めあぐねているのに、この上ライバルまで増えら
れてはたまったものではない、俊紀はそう言いたいのだろう。
それがたとえ、緊急対策班のひよっこ班員でも男は男。佳乃の趣
味がその男にぴったりじゃないという保障なんてない。
﹁まったくねえ⋮ま、いいことだけどな。あんたがそんな風なのは﹂
﹁これはこれで大変なんだ﹂
相手の気持ちがどこを向いているか、さっぱり読めない駆け引き
は、女など勝手に堕ちてくると思っていた俊紀にとってはひどくや
りづらい。
もしかしたら、と思った次の瞬間には、やっぱり違うのか、と思
わされる。
ただ、それも含めて、この生活というのは確かに大澤の言うとお
り﹁いいこと﹂なのかもしれない。
佳乃が何を思って急に髪を伸ばし始めたのか想像もつかないが、
それが自分以外の男のためではないことを神に祈りたいぐらいだっ
た。
大澤は、物思いにふけりながら庭を歩く主を見て忍び笑いを漏ら
す。
佳乃が何を思って髪を伸ばし始めたかなんて分かり切っている。
先だって、仕事の関係で会ったアパレルメーカーの女社長。
121
彼女はもちろん俊紀にご執心で、仕事とは言いながら、ことある
事にプライベートでの誘いをかける。それも、かなり巧妙に仕事と
の境界を暈かしながら⋮⋮。
見るからに有能そうで、それでいて女性の特性を前面に引き出し
た魅力的な女だった。
その女社長と俊紀があれこれ話をする姿を、少し離れたところに
控えて見ていた佳乃の
眼差し。それは、もしも俊紀が目にしたら、さぞや喜ぶだろうと思
うような切なさを含んでいた。
佳乃が髪を伸ばし始めたのはその直後。
恐らく、週刊誌に載せられた俊紀とその女社長とのツーショット
でも見て、ちょっとは自分も何とかしなくては⋮とでも思ったのだ
ろう。
ボス、心配しなくても、ほとんどリーチだ。
大澤は心の中でそんなことを呟く。
でもな、あんたのためにも、もうちょっとじたばたした方がいい。
人間らしさを取り戻す恰好のリハビリだ。それに、じたばたして、
あがいて、やっとやっと手に入れたほうがありがたみが増して、ず
っと大事にするだろう。
あんたが姫さんを蔑ろにするなんて思いたくないが、念のためっ
て奴だ。
まあ、せいぜい苦労しやがれ。
そして大澤は、隣を歩く主に横目で温い視線を投げて意地悪く笑
った。
122
End.
123
いい加減なイメチェン︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
124
いい加減じゃない引渡人 ①
結婚式は和服で神前。
白無垢に角隠し、そして隣には紋付き袴姿の花婿。
お色直しなんてなくてもいい。豪華な披露宴も要らない。
ただ自分と夫になる人と、その家族⋮⋮限られた人数でひっそり
と式を挙げて、そのあとはさっと着替えて食事でもして終わりにす
ればいい。
佳乃は、自分が結婚するとしたらそんな形がいいとずっと思って
いた。
自分がどんな相手と結婚するのか、いや、結婚自体するかどうか
わからなかった小学生の頃から、ぼんやりとそんな風に思ってきた
のだ。
お色直し五回に、絢爛豪華な披露宴なんてひたすらお金の無駄で
しかない。結婚式と披露宴の規模と、その後の幸せに相関関係なん
て全くないのだから⋮と。
それなのに、いったいこの騒ぎは何なのだろう⋮⋮。
一度は延期になり、その後のごたごたでずっとそのままになって
いた結婚式は、あわよくばもうきっぱりと中止になってくれ、とい
う佳乃の願い叶わず、帰国してすぐに挙行されることになった。
あれこれ考えたら、ゆっくりなんてしていられない。そうでなく
とも当初予定よりも遅れに遅れているのだから、という俊紀に押し
切られてしまったのだ。
会場は俊紀が既に押さえてあった都内のホテル。
さすがに最初に予定していたお色直しの回数は半減して貰ったけ
れど、それでも佳乃がずっと心に描いてきたものとは、全然違う結
婚式になってしまった。
125
そこはかとなく憧れてきた白無垢は、負担が大きすぎるだろうと
カットされた。
最初に誂えてあったマーメイドラインのドレスもやめにして、代
わりに用意されたウエディングドレスはAライン。
極めてシンプルなデザインだったが、それではあまりに素っ気な
いと、ビーズやスパコールが要所要所に使われている。マリアベー
ルが更に上品さを引き出し、佳乃の雰囲気にぴったりだと門前は太
鼓判を押す。
確かに佳乃の今の体調ならば、和服よりも洋装の方が、しかも下
半身を隠すAラインがありがたいけれど、そこまで配慮してくれる
のならばいっそ中止してくれ、と思ってしまう。
二度目となった衣装あわせで、鏡の中のウエディングドレス姿の
自分と対峙してみても、やっぱり何か違う感は否めず、この姿であ
の絢爛豪華な花婿のところまで、一人で歩いていくのかと思うと、
漏れ出すため息が止められなくなる。
神前式なら、最初から二人並んで神殿に入れたはずなのに⋮と小
さく呟いた声を拾って、門前がくすりと笑った。
﹁そうねえ⋮⋮招待客もすごい数だからチャペルも大きいし、その
分歩かなきゃならない距離も長いわね。さぞや俊紀様はご満悦でし
ょう、その長い距離を自分のために着飾った花嫁が、会場中の視線
を浴びてしずしずと歩いてくるんだから﹂
招待客だけならまだしも、どこから嗅ぎつけたのか、世界各国の
放送局から取材要請まで来ている。
嗅ぎつけたというのは、恐らく当たってないことぐらいわかって
いる。きっと得意満面の俺様俊紀が、全世界に﹃原島財閥総裁の妻﹄
を知らしめるために呼び寄せたに決まっている。
せめてもの救いは、結婚式が遅れただけで既に二人が入籍を済ま
126
せていて、微妙に変わり始めている身体のラインから佳乃の体調に
察しがつけられたとしても、順番違いではないとわかっていること
ぐらいだ。
ただまあそれも、恐らくは大丈夫だと門前は言う。
まだ自分が思っているほどには体型の変化もない。むしろもう少
しちゃんと食べて眠ってこの半年で失った体重を取り戻さないと洒
落にならない、と彼女は言うのだ。
﹁ちゃんと食べてるんでしょうね?﹂
まるで小うるさい母親のように、顔を合わせるたびに門前はそん
なことを聞く。それどころか、厨房にまで入り込んで佳乃の間食に
ついてまで指示し始めるほどだった。
﹁一度にたくさん食べられなくなってくるから、食べたくなった時
にいつでもつまめるようなものを用意しておいてあげてね﹂
食べやすくて栄養のバランスも取れているようなものがいい、と
注文を付けられた山本は、佳乃のために常に小さなおにぎりを用意
してくれている。
いつも同じでは飽きてしまうだろうと、おにぎりの具を工夫した
り、焼きおにぎりにしてくれることもあった。
醤油がしっかり染み込み香ばしく焼き上げたおにぎりには、細か
いちりめんじゃこがふんだんに混ぜ込んであってカルシウムもしっ
かり取れる。
焼きたてはもちろん、冷めても美味しく食べられる味だった。
原島邸の人々は、みな佳乃のことを心配してくれている。それを
如実に感じるたびに、佳乃は自分の回りの全ての人々に感謝したく
なる。それでも、結婚式という一大行事への不安は払拭しきれなか
127
った。
﹁今晩泊まって下さるんですよね?﹂
結婚式前夜、佳乃は門前にそんなことを聞いた。
早朝から佳乃の支度を始めねばならない関係で、結婚式前夜は原
島邸に泊まることは決まっていたのに、改めて確認する佳乃を門前
は怪訝な顔で見る。
﹁そう決めてたはずだけど?どうかした?﹂
そう聞いた門前は、佳乃の縋るような眼差しにふっと笑った。
ああ⋮この子でも不安なんだな⋮と思い当たる。
原島邸に住み込んで六年、来た当時からかなりのくそ度胸で、大
した玉だ⋮と唸ることも多かったけれど、そこはそれ自分の結婚式。
しかもあんな大規模な結婚式とあっては勝手が違う。
ましてや原島俊紀の個人秘書ではなく、配偶者として初めて世間
に顔をさらすわけである。緊張しないはずがない。
かといってその不安を、俊紀本人が察してほぐしてくれるかとい
うと、彼の場合、全然方向違いの努力を始めることが目に見えてい
る。
まあそれも一つの方法だとは認めるが、とりあえず今は、他愛も
ない女同士のおしゃべりにふけりたい気分なのだろう。
﹁もしよかったら、私のところで少しお話ししましょうか﹂
そして門前は、佳乃を自分にあてがわれたゲストルームに誘った。
ただし、またしても逃亡した、と大騒ぎにならないように、宮野
には予め佳乃が自分の部屋にいることを断わって⋮。
128
﹁さて、これでよし﹂
なるほど、女子会ですね?とわかったような顔で頷いた宮野に、
そんな言葉も知っているのね⋮と佳乃と二人で笑いながら、門前は
ゲストルームに入った。
広いベッドと小さな応接セットにミニ・バーまで備えたゲストル
ームは、宮野の言う﹃女子会﹄にはうってつけだ。
﹁何か飲まれますか?﹂
と聞く佳乃。門前は本当ならワインとでも答えたかったが、聞い
た本人が飲めないことはわかっているので、お茶でも入れましょう
か⋮と立ち上がった。
その門前を押しとどめ、佳乃は自分が立って急須で焙じ茶を入れ
た。
﹁で、佳乃さん、またなにか悩んでるの?﹂
単刀直入に聞いた門前に、佳乃はちょっと驚いたように答えた。
﹁いえ⋮悩んでいる訳じゃないんですが⋮﹂
﹁訳じゃないけど、ただ不安?﹂
﹁そのとおりです﹂
﹁なるほど﹂
﹁これってマリッジ・ブルーっていうんですか?﹂
もう一つのブルーも混じっていそうだけど⋮と思いながら、門前
は佳乃が入れてくれた焙じ茶を受け取る。
129
﹁あの人の隣に立つなんて大変⋮⋮本当に私でいいのかしら?って
ところでしょ?﹂
﹁ビンゴです。多分、そんなこと言ったらまた酷い目に遭わされま
すけど﹂
佳乃はそう言って弱々しく笑った。
それがわかってるだけでも進歩だわ⋮⋮。
今までの佳乃ならば、きっと俊紀もそう思ってる、それでも佳乃
があれこれ便利だからそのままにしてある、なんて更に卑屈になっ
ていただろう。
そうではなくて、佳乃の存在自体を俊紀が欲していることは納得
している。
その上で、外からどう見えるか気にしているのだから、俊紀は相
当あれこれ頑張ったのだろう。
﹁まあ外からどう見えたって、当人同士が納得してるなら問題ない
でしょ?﹂
﹁そうなんですよね⋮⋮でも、なんというか⋮今まで縦だった関係
を、それを維持したままで、場合によって横に置き換えるって私に
は難しすぎます﹂
﹁うーん⋮⋮そうねえ⋮仕事場では主従だし、家に帰れば横並び⋮
それは確かに切り替えが難しいかも⋮﹂
﹁でしょ?私そんなに器用じゃないんですよ﹂
﹁じゃあ仕事辞めちゃえば?﹂
﹁それも考えたんですけど⋮それはそれで困るみたいで⋮⋮﹂
行方をくらましていた佳乃が見つかって、ドイツから帰国したこ
とを聞きつけた役員達は、直後に行われた月例会議で、恐る恐る懲
130
戒辞令の撤回を進言した。
社長である俊紀が下した辞令の撤回を求めるには、それ自体に相
当な覚悟が必要だったはずだが、それでもこのまま谷本佳乃を懲戒
免職扱いにしておくことは、あまりにも社益に反するという判断が
なされたに違いない。
そもそも、佳乃を懲戒免職にすべきだという判断自体が、山瀬製
作所と提携しないことを選んだ佳乃への批判から来ている。
その裏にあったいろいろな状況が明るみに出て、さらに寺田電器
の新製品がリコールとなった現状を鑑みれば、佳乃の判断は十分根
拠があってのことだとわかった。
そうなると、佳乃をこのままの状態にしておくことは、役員達に
とってひどく寝覚めの悪いことだったのだろう。
だが俊紀はその進言を聞き入れず、佳乃の懲戒辞令も撤回しなか
った。
その代わりに、事故に遭う前と同じ状況を回復した。つまり、株
式会社原島の社員としてではなく、再び彼女を私設秘書として雇用
したのだった。
﹃それではまた同じことになってしまう。社長になにかあっても谷
本さんが代行できるように社員にしておくべきだ﹂
そんな声が、あちこちから起こったが俊紀は頑として譲らなかっ
た。
俊紀にしてみれば、社員に戻してまた何か大きな判断を佳乃に委
ねなければならなくなったとき、そしてその結果が思わしくなかっ
た時、佳乃の進退について会社の意向を考えなければならなくなる
なんてまっぴらだった。
私設秘書にしておく限り、その心配はない。
131
佳乃がどんな失敗を言い訳に逃げ出そうとしても、その身分を原
島俊紀個人にくくりつけることが出来る。もう二度と、雇用契約解
除届などという危ない代物を彼女に渡すつもりもなかった。
﹁谷本佳乃は私の個人秘書だ。会社の仕事をさせるにしても、従来
通り、私の指示で、私自身の責任下においてやらせる。谷本がやっ
たことの全責任は私に帰属させる。口出しは無用だ﹂
それが俊紀の最後通牒だったという。
結果として、谷本佳乃の履歴書には﹃株式会社原島懲戒免職﹄と
いうとんでもない記録が残され、それ以後どんな転職も不可能とい
う状態に陥った。
佳乃から話の成り行きを聞いた門前は、俊紀の本当の狙いはそこ
にあったのではないかと忍び笑いを漏らした。
﹁それじゃあ、間違っても鳥居氏の銀行に転職は無理よねえ﹂
いくら鳥居が佳乃を気に入っていたとしても、あの大銀行がそん
な怪しい履歴のある人間を雇用するはずがない。
それどころか、日本中捜しても﹃株式会社原島﹄で、しかも﹃懲
戒免職﹄になった人間を雇いたいと思うところはないかもしれない。
籠の鳥は、二度と外で餌を探せない。
それは、俊紀にとって理想的な状況に思えた。
﹁俊紀様らしいわね。でもまあ、結婚してることが表に出たら、会
社の人たちも社員じゃない方がやりやすいってわかるでしょう﹂
﹁まあそうなんですけどね⋮。俊紀さんって、ほんと、あいかわら
ず⋮⋮﹂
132
俊紀さんね⋮と門前は温い笑顔が浮かびそうになる。
今まで﹃社長﹄としか呼べなかった佳乃が、こうやって彼の名前
を口にする。
そんな小さな積み重ねの一つ一つが二人の関係を変えていく。だ
から心配することなんてなにもない。
門前から見ればそれは明白なのだが、佳乃自身はそう思っていな
いのだろう。
﹁どっちにしても、もう少ししたら嫌でも仕事はお休みってことに
なるでしょ?その間に、横並びになれるように頑張ってみたらいい
んじゃない?﹂
結婚式が終わって半年もすれば、原島邸に新しい住民が増える。
佳乃はぎりぎりまで仕事をするつもりかもしれないが、あの佳乃
に関しては異常な過保護ぶりを発揮する俊紀が、そんなことを許す
はずがない。
たとえ何の異常もなくても、早々に﹃産休﹄に入らせるだろう。
自宅の書斎で出来る仕事はともかく、出社には及ばない、と⋮。
もしかしたら、出産が近付いたら、俊紀自身が原島邸の佳乃のそ
ばから離れなくなるかもしれない。
﹃いい加減にして下さい、社長がそんなじゃ、社員の方に示しが尽
きません!﹄
なんて、叫んで俊紀を会社に追いやろうとする佳乃の姿が目に浮
かんだ。
まあそうなったらなったで、二人の一方的だった力関係が崩れる。
女は弱し、されど母は強し、を地で行けば俊紀と佳乃の立ち位置
133
はますます横並びに近付くことだろう。
とはいえ、昔から俊紀を知っている門前としては、佳乃の尻に敷
かれる俊紀の姿はあまり見たくなかったが⋮⋮。
134
いい加減じゃない引渡人 ②
﹁佳乃は?﹂
原島邸には、結婚式に明日に控えて、遠方から上京してきた原島
家親族が何組か宿泊していた。
夕食までは佳乃も同席していたが、明日のこともあるし、身体に
負担をかけてはいけないと早めに部屋に戻らせたはずなのに、部屋
に戻ってみても佳乃はいなかった。
﹃存じませんが⋮⋮?﹄と、躊躇いがちな表情で答えられたらどう
しよう⋮と、最早習い性になりかけている不安に囚われながら俊紀
は、宮野に佳乃の所在を訊いた。
宮野は、大丈夫です、もう佳乃様はどこにも行ったりしません、
と俊紀の肩でも叩いてやりたい気がした。
佳乃がそばにいない、しかもその居所もわからない、というとき
の俊紀というのは、本当に親にはぐれた子どものような表情になる。
緊急対策班の大澤などは﹃見ちゃいられねえ﹄と言うが、まさに
その通りだった。
佳乃自身が、一度でもあの俊紀の姿を見たら、自分がいかに俊紀
に必要とされているかすぐにわかるはずだ。
もう二度と俊紀のそばを離れようと思わぬほどに⋮⋮。
﹁佳乃様は、門前さんの部屋にいらっしゃいます。明日に備えてあ
れこれ打ち合わせたいことがおありだとかで⋮﹂
﹁打ち合せ?まだ、打ち合わせなければならないことがあるのか?
この間からずっと二人でごちゃごちゃ話しっぱなしだったじゃない
135
か﹂
佳乃が原島邸で過ごす時間の大半を門前に攫われて、やむを得な
い、そっちが優先だと理解のあるふりをしながら、その実、俊紀と
しては大いに不満だったのだ。
ただでさえ佳乃は、ドイツ滞在期間の無理がたたって万全の体調
とは言えない。
本人は、これでもミュンヘンにいた時よりもずっと体調はいいん
です、と言い張っているが、俊紀は心配でならない。
少しでも身体を休めさせたくて、同じベッドにいる佳乃に手を伸
ばす頻度もぐっと押さえている。
さすがにゼロには出来ないあたりは、三十代の男としてはいささ
か我慢が足りないのではないかという自覚はあるが、ここまでくる
と﹃だからどうした﹄と開き直りの域に達している。
愛しい女が隣に寝ていて平然としていられるほど枯れてはいない。
これまでを振り返ってみても、実際に佳乃を腕に抱いて眠ったの
は六年の歳月の中のほんの一部でしかない。
最初の最初から欲しかった女をただ五年もじりじりと待ち続けた
のだ。
それを思えば、我慢なんて効かなくて当然だと思う。その上、結
ばれてからもあれこれ事件が相次ぎ、お預けに次ぐ、お預け。
やっと取り戻したかと思ったら﹃体調に配慮﹄が必要なんて勘弁
してくれ、だった。
佳乃が身籠もっている自分の子ども。それはもちろん愛しいに決
まっている。生まれたら猫かわいがりしてしまう恐れも十分ある。
親馬鹿と呼ばれることも予想の範疇だ。
だが、今の今、なんとなくその存在がちらりと疎ましい。生まれ
る前から、子ども相手に、佳乃を取り合っているような気がする。
どうも、あいつの腹の中にいるのは男のような気がしてならない
136
⋮⋮。だとしたら、まさに男同士で佳乃の奪い合いだ。なんとも大
人げない⋮⋮。
そんな風に苦笑しながら、俊紀は宮野に言いつける。
﹁悪いが、山本に⋮⋮﹂
﹁佳乃様の夜食でしたら、もうそろそろ出来上がる頃です﹂
﹁気が利くな﹂
﹁門前さんもお誘いいたしましょう﹂
そうすれば、俊紀様も佳乃様と一緒に過ごせますし⋮という思い
を感情抑圧型の微笑に忍ばせた宮野は、佳乃と門前を呼びに行った。
﹁佳乃様、お部屋の方で俊紀様がお待ちです。お夜食の用意も出来
ておりますが⋮よろしければ門前さんもいかがですか?﹂
その言葉を聞いた途端、佳乃のお腹が小さく鳴った。聞きつけた
門前が吹き出す。
﹁けっこうなことだわ。結婚式の前夜に、緊張でなにも喉が通らな
いって花嫁さん、かなりの数いるのよ。さすがは佳乃さん﹂
﹁だって門前さん、最近食べる端からお腹空いちゃって。夜は特に
辛いです﹂
﹁あー俊紀様の遺伝子大爆発ね。お夜食大好き魔王!﹂
﹁門前さん、俊紀様は別に夜食が好きなのではなくて⋮⋮﹂
﹁はいはい。佳乃さんが作る夜食、が好きなのね?﹂
﹁その通りでございます﹂
﹁宮野さん⋮⋮﹂
くすくすと笑いながら会話する宮野と門前に佳乃は二の句が継げ
137
なかった。
﹁あ⋮BLTだ!﹂
夜食は美容に悪いし、明らかに邪魔者だから私は遠慮しておくわ、
と言う門前を残し、佳乃は自分たちの部屋に戻った。
部屋に入ってまず目に入ってきたのは、テーブルの上の山本特製
のBLT。
たっぷりのベーコンとレタス、トマトを挟んだトーストサンドイ
ッチだった。
﹁山本さんのおにぎりもすごく美味しいけど、BLTはまた格別な
んですよねー!﹂
﹁お前は、私よりもサンドイッチの方がいいのか?﹂
﹁俊紀さん⋮⋮﹂
佳乃は、なにそれ⋮と思わず力が抜けそうになった。
人間相手ですらない焼き餅発言は原島邸主としては情けなさ過ぎ
る。
佳乃は、同じく部屋に入ってきたとたん、俊紀の腰砕け発言に出
くわした宮野をちらりと見た。彼は明らかに笑いを堪えている顔を
している。
佳乃に用意したココアとは別に、またポットを持っているところ
をみると、中身は俊紀のための紅茶だろう。
﹁よ⋮佳乃様、俊紀様に紅茶をお持ちしました。あとはお任せして
よろしいでしょうか?﹂
﹁はい⋮ありがとうございました⋮⋮﹂
紅茶の入ったポットとカップを辛うじて無事にテーブルに置いて、
138
宮野はなんとか笑いを押さえ込んだまま、部屋から出て行った。
きっと自室に戻ったら、存分に笑いこけるつもりだろう。
﹁あの⋮他の方の前であんまり正直すぎる発言もいかがなものかと
⋮﹂
﹁は?宮野のことか?今さらだろう﹂
確かに、たかが焼き餅発言の一つ二つ、これまでの俊紀の振る舞
いに比べたら何でもない。俊紀は、宮野がいようが、山本がいよう
が、それどころか和子や塔子がいても平然としたいようにしてきた。
今さらだと言われれば、まったくその通り、としか言いようがな
い。
だが、佳乃にしてみれば、それも含めて丸ごと全部勘弁してほし
かった。
﹁もうちょっと控えめになりませんか⋮⋮?せめて人前だけでも⋮﹂
﹁人前じゃなければいいということか?﹂
﹁だから、そうじゃなくて!!!﹂
俊紀は、目の前で困っている佳乃がかわいくて仕方がない。
どれだけ時が経っても、佳乃は人前で俊紀と触れあうことはおろ
か、言葉でじゃれ合うことにすら慣れようとしない。
あからさまに俊紀にあれこれ仕掛けられるたびに、赤くなって戸
惑う佳乃は、そんなことでこれから母親になるのに本当に大丈夫か
?と思うほどだ。
だからといって、佳乃のその初々しさが微塵も薄れてなど欲しく
もない。このままでいてくれ⋮と思うばかりだった。
﹁まあいい、せっかく山本が用意してくれたんだ、冷めないうちに
食べろ﹂
139
﹁はい!﹂
元気よく返事をして、早速佳乃は手を伸ばす。
﹁あーおいしい!やっぱり山本さんって天才!ただのサンドイッチ
なのに、何でこんなに美味しく作れるんだろう⋮⋮﹂
そんなことに首を傾げながら、ぱくぱく食べる佳乃。
俊紀に言わせれば、山本の料理が美味いのは当たり前なのだ。
長年厳しい修行を積み、素材を見分ける目も、微かな隠し味を嗅
ぎ取って再現する舌も磨き上げた。それを職業とすることを目指し
て努力した結果なのだから、評価されて当然なのだ。
だが、佳乃は違う。
料理に関して、どんな修行も積んだはずはない。
子どもの頃だって特別料理に興味を示してレシピ本を読みあさっ
たこともないと言っていた。
そんな時間があったら、歴史の本や美味しいものが沢山出てくる
小説を読んでいたと⋮⋮。
まあ、それによって磨かれた部分はあるにしても、聞く限りでは、
料理修行とはほど遠かったはずだ。
しかも本来料理に興味を示すようになる年代以降、彼女の興味は
料理よりも柔道で、物よりも対戦相手をどう料理するかに尽きた。
それなのに、佳乃の料理は旨い。美味と言うよりも旨いのだ。も
しかしたらそう感じているのは自分だけで、それこそ佳乃への感情
故かと思った時期もあったが、山本や松木もちゃんと認めていると
ころを見ると、一定以上の水準には達しているのだろう。
だから、俊紀にとっては佳乃の方が余程不思議だといえた。
﹁召し上がらないんですか?﹂
140
食べ続けている佳乃をただ黙ってみている俊紀に気付いた佳乃が、
声をかけた。
﹁私はいい。しっかり食べろ。明日はどれぐらい食べられるかわか
らないぞ﹂
﹁そうでした⋮⋮﹂
途端に佳乃のテンションが下がった。
持っていた齧りかけのBLTをそっと皿に戻しそうにまでなって
いる。
不安で仕方がない⋮⋮と顔に書いてあった。
﹁⋮⋮⋮本当に私なんかで大丈夫でしょうか⋮⋮﹂
﹁大丈夫じゃない﹂
﹁⋮⋮え!?﹂
大丈夫だといわれても信じられない。でも、大丈夫じゃないと言
われても、それはそれで信じたくなくなってしまう。佳乃は、そん
な自分を持て余す。
だが、俊紀本人がそういうのならやっぱり大丈夫ではないのだろ
う⋮⋮。
﹁佳乃﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁私﹃なんか﹄じゃ大丈夫じゃないんだ﹂
﹁はい?﹂
﹁お前を語るのに﹃なんか﹄という言葉はいらない。お前はお前で
あるだけで十分だと言っただろう?足りないものも、多すぎるもの
もない。私にはそのままのお前が必要だ。だから﹃私なんか﹄と言
141
われたら、大丈夫だとは言えない﹂
﹁俊紀さん⋮⋮﹂
﹁私たちはもう随分前から夫婦だ。だが、これまではそれを知る者
はほとんどいなかった。でも、明日からは私たちが夫婦であること
を全世界が知ることになる。お前は原島財閥総裁である原島俊紀の
妻というレッテルを貼られてしまう。どこに行っても、なにをして
も、そのレッテルがお前について回る﹂
そのレッテルの重さに負けずにいられるだろうか⋮。
周囲から注がれる眼差しに、生涯耐えていけるのだろうか⋮。
佳乃の不安はそこに尽きた。
﹁そのレッテルを貼ったのは私だと言うことを忘れないでくれ﹂
どういう意味か測りかねて、佳乃はとっさに返事が出来なかった。
俊紀は、そんな佳乃を、慣れた仕草で抱き寄せた。
﹁そのレッテルの重さも、煩わしさも、私が一番よくわかっている。
それでも私はお前にそのレッテルを貼りたかった。他の誰でもない
お前に。そしてそれは、お前ならその重いレッテルを貼っても、今
までと何も変わることなく、お前らしさを残したままちゃんとやっ
ていけると信じたからだ﹂
レッテルの重さに潰れる人間もいる。レッテルの輝かしさに酔い
しれて、自分の輝きを見失う人間もいる。
自らが光る必要がないほどに、レッテルは永遠に光り続けるのだ
から。
けれど、俊紀はそんな人間に自分の伴侶としての地位を与える気
にはなれなかった。
佳乃ならば、どんなレッテルを貼ったところで、そこに張られた
142
ことに戸惑いはしても、そのレッテル自体に影響されることはない
だろう。
なんかくっついてる、これ私に似合わないかも⋮と首を傾げなが
らでも、まあそれはそれとして⋮とかなんとか言いながら、それま
で通りに生きていくだろう。
出会ってからこれまでに、ずっと俊紀が見てきた佳乃のままに⋮
⋮。
﹁だからな、そのレッテルのことは忘れてしまえ﹂
﹁忘れていいんですか?﹂
﹁いいんだ。お前が私の妻であることはお前自身が認識する必要は
ない。まわりが忘れなければいい。お前が私の物だと周囲の人間が
わかっていればいいんだ﹂
﹁えーっと⋮じゃあ私はあなたの妻だって思わないほうがいいんで
すか?!﹂
それはある意味楽そうだけど、ちょっと辛い⋮かも⋮しかも寂し
い⋮⋮
そんな想いが顔に出たのだろう。
俊紀は、馬鹿だな⋮と呟きながら更に腕に力を込めた。
﹁心配するな。お前の認識がどうであれ、事実は揺らがない。頭の
先から足の先までお前は私のものだ。その存在の、隅から隅まで私
の妻だ。忘れるとか意識するとかそういう手ぬるい次元じゃない。
だから、レッテルに不安を感じる必要も、制約される必要もない﹂
ありのままのお前でいてくれ、と俊紀は言った。
それこそが、私が求めるお前の姿なのだから⋮と。
佳乃はにっこり笑って答えた。
143
﹁わかりました⋮まあ⋮変われといわれても無理なんですけど⋮﹂
﹁まあ、そうだな。但し、これだけは言っておく﹂
﹁なんですか?﹂
﹁離婚届には二度と触るな﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁今度お前の名前が入った離婚届なんぞ目にしたら、座敷牢に放り
込んで、もう二度と外には出さない。覚悟しておけ﹂
﹁ざ⋮座敷牢なんてあるんですか?!﹂
﹁さあな?どう思う?﹂
私は原島邸の隅々まで知っているのか?と自問自答する。
六年近く暮らした原島邸とはいえ、知らないところはないと思っ
ていても、もしかしたら俊紀しか知らない場所に、暗くて黴くさい
座敷牢があるのかもしれない⋮⋮。
そんなことを思って、背中を冷たい汗が流れそうになった。
﹁まあ、お前をそんなところに閉じこめたら、当然私もそこに居続
けになるがな﹂
﹁居続け⋮⋮﹂
﹁それはそれで楽しいか⋮。もうずっと二人でそこに籠もって、朝
から晩まで⋮⋮﹂
と、言いながら俊紀は佳乃の耳元をぺろりと舐め上げた。
そのまま唇で耳を愛撫され、やがてその唇は佳乃のそれに重なり、
気付いた時にはベッドの上⋮⋮。
身体に触れる手はとても優しくて、佳乃の身体への気遣いに満ち
ていたけれど、明らかに所有権を主張した行為。緩やかなだけに、
逆にいつもよりも煽られ、頭の芯からとろけさせられるような営み
だった。
144
しばらくして、漸く落ち着きを取り戻した佳乃が、やっぱり座敷
牢というのは冗談か⋮と安心しかけたころ、再び佳乃を脅すような
声が響いてきた。
﹁冗談かどうか確かめる気など起こすなよ。今度あの用紙を見せら
れたら、私はなにをするかわからない﹂
自分自身を見失って、お前がどこにも行かないように拘束してお
くことしか考えられなくなる。そのためにどんな手でも使う、たと
え犯罪であっても厭わないだろう。
だから、そんなことはしないでくれ⋮と、彼は縋るような眼差し
で語った。
﹁わかりました﹂
俊紀の眼差しに満ちた哀願に、佳乃は自分がここにいる意味を思
い出す。
この人には私が必要だ。まわりがそれをどう思うと、私を認めよ
うが認めまいが、そんなことは関係ない。
私がここにいるのは、彼が私を必要としていて、私にも彼が必要
だからだ。それ以上でもそれ以下でもない。
﹁私はもうどこにも行きません。あなたのそばで、あなたの子ども
を育てて、ここで生きていきます。あなたの貼ったレッテルが剥が
れてしまわないように⋮⋮﹂
﹁剥がれたら貼り直す。剥がしても貼り直す。それでもだめなら彫
り込む﹂
不安を払い、落ち着きを取り戻した佳乃に、俊紀のその言葉はむ
145
しろ逆効果だった。
懲戒免職歴あり、の上に彫り物つき⋮⋮それっていったいどんな
ヤクザ?
と思ったら、急に笑いこみ上げてきた。
いくらなんでもあんまりだろう私、いくらレッテルは関係ないっ
て言っても⋮⋮
﹁なに笑ってるんだ!﹂
脅していたつもりの相手にいきなり笑い出されて、俊紀はまたし
ても予想の斜め上に飛ばれたことを思い知る。
﹁ごめんなさい!ちょっと⋮⋮﹂
と言いながら、佳乃はまだ笑いが止らない。
さっきまでしおしおになっていたのに、いったいこいつは⋮⋮と
途方に暮れそうなる。
けれど⋮⋮と、俊紀は思う。
こうやって笑っている方がいい。
難しい顔で悩んでいるよりも、不安に怯えているよりも、どれだ
け俊紀の思考の斜め上をいこうが、こうやって無邪気に笑っている
方がずっといい。
佳乃のこの無邪気な笑顔を守るためなら、それこそ自分は何でも
146
するだろう。
座敷牢に閉じこめてしまいたくなる独占欲とは対局の想いに自分
でも戸惑いながら、俊紀は佳乃の心地よい笑い声に耳を傾け続けた。
翌日、それでもやはり戻ってきた不安に捕まった佳乃は、祭壇ま
での長い道のりに怖じ気を震いそうになっていた。
教会の中には、何百人もの招待客。そして世界各国から詰めかけ
たマスコミ。
その中を、一人で歩くのか⋮と。
今、まさに、両側に開かれようとしている扉の前で何度も深呼吸
している佳乃に、近付いてきた足音があった。
﹁佳乃様﹂
礼服をきちんと着こなした老紳士が、いつもの感情抑圧型微笑を
浮かべ立っていた。
﹁俊紀様に、佳乃様を祭壇までお連れする役目を仰せつかりました﹂
﹁宮野さん⋮⋮﹂
本来ならそれは、花嫁の父あるいは兄、祖父などの近親者の努め
である。
だが、佳乃の父も祖父も既に亡く、言うまでもなく兄弟もいない。
頼める者が誰もいないという状況で、佳乃は﹁それなら仕方あり
ません、一人で歩いていきます﹂と気丈にも言ったのであるが、招
待客の数や、教会の広さを知って、式が近付くにつれ高まる不安を
持て余していた。
147
それでも、今さらどうにもならない⋮とあきらめて、何とか一人
で辿り着こうとしていたのである。
だが俊紀は、佳乃の不安の大きさを感じ取って、昨晩、急にその
役目を宮野に頼んだのだという。
宮野は最初、そんな大役はとても自分には無理だ⋮と辞退したが、
佳乃が不安がっていることを再三再四説明して、なんとか引き受け
させた。
決め手となったのは、
﹁宮野のじーさんがやらないなら、俺がやってもいいぜ。そのかわ
り、そのまま攫って逃げてもしらねーぞ!﹂
という、大澤の脅し文句だった。
宮野ばかりか、俊紀の顔色まで瞬時に失せ、それぐらいなら私が
!と慌てて宮野が引き受けた。大澤なら、本当にやりかねないと思
ったのだろう。
﹁ということで、力不足ですが、私といっしょに⋮﹂
佳乃の目から涙が幾粒もこぼれた。
慌てて飛んできた門前が、何度もハンカチで押さえても涙は止ら
ず、宮野は門前に睨み付けられる始末だった。
﹁もう⋮仕方ないわねえ⋮。まあお化粧が崩れようがなにしようが、
祭壇に到着さえすれば俊紀様はご満足でしょうから、これでいいっ
てことにしますか﹂
最後はそんな諦めの台詞とともに、門前は佳乃を宮野の腕に預け、
ドアの中に送り込んだ。
148
長い通路の先に待っている俊紀の姿が目に入ったが、その表情は
もう涙でかすんでわからない。
隣にいる宮野からも、小さな嗚咽が聞こえてきた。
原島邸に初めて行った夏の日、俊紀と自分を繋いだのは宮野だっ
た。
原島邸で過ごした日々、逃げ出した日々、宮野は全てを見守り、
支えてくれた。
その宮野に導かれ、一歩ずつ俊紀の元に進んでいく。自分を俊紀
に引き渡す人間として、宮野以上に相応しい存在はないと思えた。
﹁ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします﹂
佳乃は祭壇に辿り着く直前、宮野にそう囁く。
更に高くなった宮野の嗚咽を耳にしながら、佳乃は俊紀の手を取
り、祭壇に並んだ。
End.
149
いい加減じゃない引渡人 ②︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
150
いい加減な謝罪
﹁和子様にお願いしてはいけませんか?﹂
﹁佳乃⋮⋮﹂
本当にそれでいいのか⋮と俊紀の目が言っていた。
二人の会話を横で聞いていた宮野と山本も、顔を見合わせながら
戸惑っている。
だが、佳乃はきっぱりと言い切った。
﹁このままにしておいて、いいことなんて一つもありません。それ
にこちらから伺った方が、和子様はきっと⋮⋮﹂
俊紀の事故で起こった和子と佳乃の確執は、城島塔子が和子を諭
す、という形で終息に向かった。俊紀を通じて、その経緯を説明さ
れた佳乃は、自分なりに母親としての和子の心情を理解して、俊紀
共々、一言も和子を責めたりはしなかった。
だが、佳乃の帰国後、和子は一度も原島邸を訪れてはくれない。
俊紀の留守を預かった孝史は、その間の業務報告や引き継ぎを兼
ねて何度も原島邸に現れたにもかかわらず、和子を伴うことはなか
ったのだ。
宮野を始めとする周囲の人間にしても、これはもう時間に解決し
てもらうしかないだろう、と静観することに決めていた。
それでも、状況が動かないまま時が過ぎ、春の親睦会、そしてそ
の一ヶ月後に控えた佳乃の出産を前に、このままにはしておけない、
どうにかならないものか⋮⋮と俊紀が悩んでいることもわかってい
た。
だから佳乃が、春の親睦会準備を和子に手助けしてほしいと言い
151
出した時は、ほっとする一方で、佳乃の気持ちを考えるとやはり無
理をしているのではないかという懸念が湧くのを止められなかった。
招待客を決めたり、それに合わせた献立作り、内装、宿泊への対
応⋮⋮など、親睦会にまつわる業務は煩雑だ。
招待客の数からして、ちょっとした名家の結婚式かと思うぐらい
の数であるし、客層も多種多様。仕事の絡みも相当ある。
それでも普段の佳乃であれば問題なくこなせる業務には違いない
が、なんといっても臨月目前の身体である。無理をして何かあった
ら大変だ、と誰もが思っていた。
俊紀などは、もういっそ今年は中止でも構わない、と言い出した
ほどだったが、さすがにそれは⋮⋮と佳乃だけでなく孝史も眉を顰
めた。
例によって、公私混同が過ぎる、と佳乃にやんわりと諭され、な
んとか佳乃の負担を小さくできないか、と考えていたところ、佳乃
が言い出したのが﹁困った時は先代に縋る﹂という方法だった。
﹁先代⋮⋮というのはその⋮和子様のことでしょうか⋮⋮?﹂
宮野があえてそう聞かねばならないほど、佳乃はひどくあっさり
その方法を口にした。
﹁もちろん。原島邸の女主人に和子様の他に先代と呼べる方がいら
っしゃるんですか?﹂
﹁いえ⋮⋮でも⋮⋮﹂
﹁私自身は、今まで通りに親睦会の準備も出来ると思ってるんです
が、そうは思ってない方がけっこうたくさんいらっしゃるみたいな
んですよね。かと言って中止というわけにもいかないし、このまま
だと、俊紀さんが全部の手配を自分でやるって言い出しかねません。
会社の方だけでも大変なのに、この上、親睦会のことまでやり出し
152
たら、本当に倒れちゃいます﹂
そう思いませんか、宮野さん?とにっこり微笑まれて、宮野は反
論の言葉を失う。
山本にしても、
﹁献立決めのあれこれや接客手配、俊紀さんに任せると大変ですよ
∼﹂
と脅すように言われれば、その通りだと頷くしかなかった。
孝史から俊紀に代替わりした直後の親睦会で、空席だった女主人
の役割を果たしたのは俊紀本人だった。
完璧主義の俊紀は求めるレベルは、それまでの女主人であった和
子とは段違い。
山本も宮野もへとへとになってしまったのだ。
そこまですることはないだろう、と思うようなことにまで完璧を
貫こうとうする俊紀に、原島邸使用人はみんなして音を上げ、﹁や
はりここは女性の方が適役なのでは⋮﹂と拝み倒して、次回以降和
子の助力を得た、という経緯がある。
ここでまた、俺様俊紀の再登板となるのは﹁勘弁してくれ﹂に違
いなかった。
﹁ね?だから、和子様にお願いするのが一番ですよ﹂
そして佳乃は、本当に大丈夫か?私も一緒に行った方がいいんじ
ゃないか?とつきまとう俊紀に、﹁ややこしくなるだけです!﹂と、
最後は逆ギレしながら、原島邸の黒いベンツを駆って、孝史と和子
の住む隠居宅を訪れた。原島邸に来てもらえばいいじゃないか、と
いう外野の意見など完全無視の形だった。
153
﹁うちに来てくれるなんて珍しい。これは嬉しい客人だ﹂
佳乃が来たと聞いた孝史は、そう言って喜色満面に迎えてくれた
が、そこにはやはり和子の姿はなかった。
﹁孝史様、今日は和子様にお願いがあって参りました。和子様はい
らっしゃいますか?﹂
﹁⋮⋮和子に? それは⋮﹂
﹁親睦会のことと、他にもお願いがあるので、出来ましたらお目通
りしたいのですが﹂
﹁わかった⋮⋮。ちょっと待っていなさい﹂
そして孝史は応接室から出て行き、ほどなく和子を連れて戻って
きた。
結婚式には参列してくれたものの、和子はずっと佳乃の目を避け
るように会場の片隅で時を過ごしていた。
当然、言葉も交わすことなかったので、和子とこうやって穏やか
に対峙するのは、俊紀の事故があってから初めてだった。
﹁佳乃さん⋮⋮﹂
﹁突然お邪魔して申し訳ありません。ちょっとご相談差し上げたい
ことがありまして⋮﹂
自分はもう産み月が近いので、あまり無理は出来ない。俊紀も多
忙でそれどころではないので、非常に申し訳ないけれど、親睦会準
備を手伝ってもらえないだろうか⋮と願い出た佳乃を、和子はまる
で首が二つ生えているかのような驚愕の眼差しで見つめた。
﹁でも⋮私は⋮﹂
154
あなたに、あんなにひどいことをしたのに⋮と続けそうになる和
子を遮って、佳乃は言った。
﹁同じことを、私もするかもしれません﹂
﹁佳乃さん?﹂
﹁私も、この子が大きくなって、私の手から離れていこうとしたら、
そしてその途中で生死に関わるような事故に遭ったら、同じことを
するかもしれません﹂
﹁あなたは私とは違うわ、私ほど愚かじゃない﹂
﹁それはどうでしょう? 男の方から見たら母親と子どもの絆なん
て、どれも愚かなものなのかもしれません。なんでそこまで⋮って
思うときもあるでしょう﹂
ね⋮そうでしょう?と言わんばかりに、佳乃は孝史を見た。孝史
は返答に困ったような顔で、少し笑う。
佳乃は、時候の挨拶から入るでもなく、気詰まりな沈黙を重ねる
でもなく、まっすぐに自分が来た目的を告げ、二人の間にあった確
執の本質をほぐすことから話を始めた。
いかにも佳乃らしい単刀直入さは、和子の罪の意識を少しでも早
く軽くしようという心遣いに満ちていて、それを感じるだけで和子
は救われた思いがする。
そんな和子に、あえてそれ以上詫びの言葉を連ねさせないために、
佳乃は話し続ける。
﹁実は私も頭の中ではそう思ってました。そこまで執着するのはお
かしい⋮別々の人間なんだから、子どもは所有物じゃないんだから
って。でも、実際に自分が妊娠したらそんな理屈なんて何処かに飛
んじゃいました。私が守らなければ、この子は生きていけない。私
155
が飲んで、食べて、自分の身体を通してこの子に養分を流し込まな
ければ、この子は生まれることすら出来ない。生まれてからだって、
当分の間はその状態が続きますよね。その状態をどこで見切るかっ
て、すごく難しいと思います。理性でちょっとずつ間を取ろうと頑
張るんでしょうね、きっと。でも、あんな大事故にあって身動きで
きない、明日の命もしれない状態を目にしたら、気持ちは一気に生
まれたての赤ん坊のころに逆戻りしますよね。私が守らなければ⋮
って⋮⋮。昨日今日現れた女になんて任せておけない、って⋮﹂
きっと私もそうなりますよ、この子を大事にすればするほど⋮。
そして、佳乃は和子の目を見てはっきりと言った。
﹁今回のことは、確かにとても辛かった。俊紀さんのそばにいたか
ったし、付きっきりで祈り続けていたかった。きっとあの辛さは生
涯忘れられないでしょう。でも、和子様の気持ちも今ならわかりま
す。そして、あの痛みを知っていれば、同じような状態になった時
にでも、もしかしたらブレーキがかかるかもしれないって、ちょっ
と期待してるんです﹂
﹁もちろんよ⋮佳乃さんは、私みたいに馬鹿なことにはならないわ﹂
﹁さあ⋮どうでしょう?私、昨日俊紀さんとお腹からぶつかりそう
になって、すごい目で睨み付けたらしいんですよ。俊紀さん、獣じ
みてる⋮ってびびってました﹂
﹁え⋮俊紀が?﹂
昨日の朝、原島邸の廊下を曲がろうとした佳乃は、出会い頭に俊
紀と衝突しそうになった。佳乃は出勤する俊紀を見送るために玄関
に急ぎ、俊紀は鞄に入れ忘れた書類を取りに書斎に戻るところだっ
た。どっちもが時間に追われていたために、けっこうな勢いでぶつ
かりそうになったのだ。
156
佳乃のお腹はもう随分大きくなっているから、当然ぶつかるとし
たらお腹からになる。
とっさにお腹を庇った佳乃は、肩から派手に俊紀にぶつかり反射
的に彼を睨んでしまったらしい。
﹁お前、子どもにちょっかいかけられそうになってる雌ライオンみ
たいだったぞ﹂
夜になって帰宅した俊紀が苦笑いをしていた。
女にあんな目で睨み付けられたの初めてだ、ちょっと背筋が冷た
くなった⋮と。
佳乃は、子犬も母になればライオンレベルに昇格するんですよ、
と、笑うしかなかったが、そこから考えても、いずれ和子と同じ罠
に落ちることは大いにあり得ると思った。
﹁そう⋮⋮﹂
俺様一直線、向かうところ敵なしの息子が、ちょっと佳乃に睨み
付けられただけで怖じ気づいたと聞いて、ますます和子は、敵わな
い、と思う。
所詮、子どもというものは、こうして親から離れていく。
親よりも大事な相手に出会い、愛しながら、そして畏れながら生
きていく。
それを止めようとする方が間違っているのだ⋮と。
そんな和子の思いをよそに、佳乃は話を続ける。
﹁だから、危険性は私にもあるってことです。で、和子様にお願い
なんですが⋮﹂
﹁なにかしら?﹂
157
﹁私がこの子を育てている間に、あーこれはまずい、って思ったら、
ちゃんと教えて頂けませんか?﹂
﹁え?﹂
﹁俊紀さんも私も初めての子育てです。教えてくれる人が必要です。
でも私の両親はすでにいません。だから、和子様と孝史様だけが頼
りです。変なことしそうになってたら注意して下さい﹂
﹁それを⋮⋮私に⋮⋮?﹂
﹁お願いします。でも、予めお断りしておきます。申し訳ありませ
んが、注意されても素直に聞くかどうかはわかりません。俊紀さん
と話し合って自分たちが正しいという判断をするかもしれません。
それすらパスで私が独断するかもしれません。それでも、とりあえ
ず一言声をかけて頂けませんか? 勢いに任せて暴走するのではな
く、ちゃんと止って考える機会がほしいんです﹂
佳乃は、我ながらなんてい言いぐさ⋮とは思う。
だが、佳乃にしてみればそれが正直な気持ちだった。
もしも、和子にもそうやって声をかけて立ち止まらせる人間がい
たとしたら、今回のような軋轢を生むことにはならなかっただろう。
和子は元々とても聡明な人間なのだから、母親としての本能に乗
っ取られた状態であっても、少し冷静になれれば、理詰めで考えを
修正することも出来ただろう。
同じ罠に陥るかもしれない自分のために、ぜひとも和子にその役
目を果たしてほしかった。それと同時に、その役目を和子が担うと
いう形で孫の成長に関わっていってほしかった。さもないと、この
まま和子は初孫という存在から、自分自身を切り離しかねない。
それはあまりにも痛ましかったし、我が子からたった一人の祖母
を奪うことになる。
﹁佳乃さん⋮あなたは本当に⋮﹂
158
お人好しね、と続けたほうがいいのか、それともいっそ計算高い
わね、と言ってしまった方がいいのか、と和子は迷う。
佳乃は、和子の振る舞いを許し、孫の成育に関わってほしいとい
う。
けれどそれは、今後は常に今回の和子自身を反面教師として、佳
乃と俊紀の子育てを一歩引いて冷静に見守ってほしいという依頼だ。
隔絶でもなく、ベタ甘の祖母でもなく⋮⋮。
それはむしろ、許しという名の罰だという見方も出来なくはない。
それでも和子は、感謝せずにはいられなかった。
我が子である俊紀とも、これから生まれる孫とも、今後一切関わ
ってくれるな、といわれても仕方がないことを自分はした。
それなのに、自らここを訪れて、こんな申し出をしてくれるのだ
から⋮⋮。
﹁ということで、これからもよろしくお願いいたします﹂
佳乃は大きくなったお腹を無意識に手で庇いながら、深く頭を下
げた。
その姿に恐縮し、和子はあわててお佳乃の頭を上げさせて言う。
﹁頭なんて下げないで!そうしなければならないのは私の方じゃな
いの!!これからは、子育てだけじゃなく、私に出来ることはなん
でもするからいつでも声をかけて!!﹂
﹁じゃあとりあえず、親睦会の準備からお願いします!﹂
その返事の速さに、和子は思わずあっけにとられ、とうとう笑い
出してしまった。
あまりに巧みすぎる。
159
さすが俊紀が一目で気に入っただけのことはある、と今さらなが
らに納得する。
この調子で、俊紀の入院中、取引先を散々都合良く動かしてきた
のだろう。
これはもう﹁この人でよかった﹂ではなく﹁この人でなければな
らなかった﹂のレベルだと確信した。
﹁わかったわ。親睦会の準備も久しぶりだけど、まあ昔を思い出し
てやってみます﹂
﹁ありがとうございます!じゃあ早速!﹂
そして佳乃は、え⋮今から?と驚く和子を、そのまま原島邸の車
に押し込んで、一緒に原島邸に戻った。
じゃあ私も行く、と自ら言い出さなければ、置いてけぼりを食う
ところだった孝史に、車中で何度も詫びながら⋮⋮。
﹁お帰りなさいませ、佳乃様。いらっしゃいませ孝史様、和子様﹂
どうなることかとはらはらしながら待っていた使用人頭は、黒い
ベンツからまず和子が降り、佳乃を助けて車から降ろす姿を見て安
堵した。
﹁ただいま戻りました、宮野さん。俊紀さんはまだ?﹂
﹁先ほど、そろそろ会社を出ると連絡がございました。そろそろお
帰りになる頃です﹂
﹁あ、じゃあちょうどよかった。親睦会の打ち合せを兼ねてみんな
で夕食を⋮﹂
﹁かしこまりました。山本に伝えて参ります﹂
﹁お願いします﹂
160
そして、原島邸先代並びに当代主夫妻は、本当に久しぶりに和や
かな会食を楽しんだ。
﹁大丈夫か?﹂
孝史夫妻を見送って、自室に戻った俊紀が佳乃を気遣って訊いた。
﹁何ともないですよ。出かけたとは言っても車で往復しただけです
し、特にお腹も張ってないし⋮﹂
産み月が近付くと、胎動は少なくなるはずだと聞かされていたに
もかかわらず、今日もお腹の中の赤ん坊は元気に動き回っていた。
時にはうっと息が詰まるほどに蹴り上げられることもあって、外
からの攻撃に備えることならお手の物の佳乃も、さすがに処置無し
で、蹴るに任せるしかない。
ただ、どうやらそれも今は収まっているところを見ると、ふんだ
んに運動して、今は満足して眠っているのかもしれない。
だが、俊紀は、身体じゃない⋮⋮と、さらに気遣わしげに問いを
重ねた。
﹁お袋とのこと、無理してないか?﹂
ああ、そっちね⋮⋮と、佳乃は頷いて、それから簡単に否定した。
﹁私、きっと、人と争い続けるには根性が足りないんです﹂
161
﹁そうなのか?﹂
私を相手に何年抵抗していたんだ⋮⋮と言いそうになった俊紀は、
それはもろに泣き言だ、あまりにも情けなさ過ぎると、言葉を飲み
込んだ。
佳乃は、俊紀が飲み込んだ言葉をちゃんと察したらしく、くすっ
と笑って説明を足す。
﹁対等の相手とやりあうとか、自分より強い相手にへこまされてる
状態ならけっこう平気なんですけど、あきらかにあっちに呵責があ
って顔色を伺われてるっていうのはどうにもこうにも居心地悪くて
⋮⋮﹂
﹁なるほど⋮確かに、今はそういう状態だったな﹂
﹁事実の解釈としては、和子様は﹃佳乃さんに申し訳ない﹄の一点
張りで、まともに目もあわせて下さらないし、周りもそうされても
仕方がない、みたいな感じだし﹂
﹁そりゃそうだろう。お袋がお前にしたこと考えたら当然の反応だ。
私自身、許せそうになかった﹂
﹁だからですよ⋮⋮﹂
﹁佳乃?﹂
﹁私と和子様が和解しなければ、俊紀さんはずっと私サイドに立つ
でしょう?﹂
﹁決まってる﹂
﹁息子が自分を敵視するなんて、母親にしてみれば最悪の事態です。
そんな姿、この子に見せたくありません。そういうものだ⋮なんて
学習されたらどうするんですか﹂
﹁まさか﹂
﹁あり得ない事態じゃないんですよ。子どもって案外ちゃんと見て
ます。親がその親を大事にしてなかったら、自分もその程度でいい
んだな⋮って思っちゃいます﹂
162
夫婦仲の悪い両親の子どもは、やっぱり仲の悪い夫婦になったり、
祖父母を敬わない親の姿を見て、自分も祖父母ばかりでなく、親自
身も軽んじたり⋮⋮そんな影響が少なからず出てくる。
佳乃は自分がなるならやはり反面教師ではなく、ストレートに見
習いたくなるような教師になりたかった。
﹁そうか⋮でも、それならやっぱり気持ち的に無理をしてるんじゃ
ないのか?﹂
﹁大丈夫です。それに本当は、和子様の気持ちよりも、俊紀さんの
気持ちの方が⋮⋮﹂
﹁どういう意味だ?﹂
﹁いやでしょ?母親と妻を天秤にかけるなんて﹂
和子と佳乃を天秤にかければ、俊紀は必ず佳乃を取る。
それについてはもう確信がある。そして、それこそが和子は佳乃
を疎んじた理由だ。
佳乃と和子が諍えば、俊紀は必ず和子を敵と認定する。だがその
状態が俊紀にとって心地よいはずがない。
圧倒的傾きを持って、佳乃に重きを置くにしても、和子を軽んじ
ることを是としたいはずがないのだ。
佳乃はそれがわかっているからこそ、和子との和解を願った。俊
紀が天秤なんて使わずにすむ状況を目指した。
しかも、元来プライドの高い和子にはっきりとした詫びすらも言
わせないように、怒濤の勢いで話を進め、育児への協力と親睦会の
手助けを取り付けたあと、そのまま孝史夫妻を引き連れ会食に持ち
込んだ。
これで手打ちだ、とでもいわんばかりに⋮⋮
自分に非がある、詫びねばならないとわかっていても、遙か年下
163
のしかも息子の妻に頭を下げるのは気持ちの上で負担に違いない。
和子の性格ならきっとそうだ。
はっきりとした謝罪がないと許せない、と意地を張ることは簡単
だし、理が通ったことかもしれないが、佳乃にしてみればそんなこ
とどうでもいいのだ。
和子の様子を見ていれば、後悔していることも、謝罪の気持ちが
あることも一目瞭然。 それならば、ここであえて和子に明確な謝
罪を求めて、和子のプライドを傷つける必要などない。
﹁そうか⋮⋮お前はそこまで考えて⋮⋮﹂
﹁っていうか⋮⋮。本当にどうでもいいんです、私は﹂
﹁どうでも?﹂
﹁はい。だって私は、俊紀さんのそばにいられるし、子どもも産ま
れます。和子様は二度と私に出て行けとは仰らないでしょうし⋮﹂
﹁当たり前だ!!﹂
この期に及んで、母はおろか、それ以外の人間であっても佳乃を
何処かにやろうとする人間がいるとしたら、絶対に許さない。
たとえそれが佳乃自身であったとしても、直ちに座敷牢行だ、と
宣言するほどなのだ。
瞬時に顔色を変えかける俊紀を、はいはい⋮と宥めながら佳乃は
言う。
﹁だから、なんにも問題はありません。私はあなたのそばにさえい
られるなら、それでいいんです。誰が誰に謝るとか、誰が誰を許す
とか、ほんとにもうどーでも。謝罪なんていい加減上等!﹂
そして佳乃は、ね?そうでしょ?といわんばかりに、俊紀を見上
げる。
それからそっと彼に腕を回して抱きつき、うーん⋮⋮と、少しだ
164
け不満そうな声を漏らした。
その声を聞いて俊紀は、やはり何かひっかかりが残っているのだ
ろうか、と不安げに佳乃の顔を覗き込んだ。
﹁気になることがあるんだろう?﹂
﹁俊紀さん⋮﹂
﹁どうした?なんでも言ってみろ﹂
俊紀の腕の中、居心地悪そうにもじもじしていたあとで、ようや
く意を決したように佳乃は言った。
﹁お腹がつっかえて、いまいちちゃんとくっつけません!﹂
もぞもぞしている佳乃を抱えたまま答えを待っていた俊紀は、一
瞬言葉を失い、それから爆笑した。
﹁まったくだな。でも、それももうあとわずかだ。生まれたらまた
すぐに⋮⋮﹂
すぐに何する気ですか?と、軽く睨む佳乃。
俊紀は、今度は私が存分に﹃協力﹄してやる、と久しぶりのフェ
ロモン全開の眼差しとともに約束する。
﹁そんなことして、年子になってもいいんですかーーー!?﹂
佳乃の絶叫は、前渡しのような濃い口づけにさっさと飲み込まれ
て消えた。
165
End.
166
いい加減な謝罪︵後書き︶
和子との和解は?というお訊ね︵リクエスト?︶を頂きましたので
⋮⋮
お読み頂いてありがとうございました。
167
いい加減な処分︵前書き︶
佳乃と緊急対策班。︵今回俊紀欠席です︶
168
いい加減な処分
﹁班長、時間は?﹂
﹁五分だ﹂
﹁うへえ⋮厳しいっすね﹂
﹁それ以上は無理だ。ここから目的地までダッシュで往復したら余
裕だろ﹂
﹁ぎりぎり⋮って、班長ならそうかもしれませんが、俺たちじゃ⋮
⋮﹂
﹁日頃の鍛錬が足りねえんだよ、お前らは。言っとくが、間に合わ
なかったら罰金な﹂
﹁ひでえ!!﹂
原島邸緊急対策班の詰め所は、原島邸の敷地内に二カ所ある。
一カ所は邸内の一階に。そしてもう一カ所は裏口脇に設えられた
一見離れ風の建物。
交代勤務で原島邸の警備に当たるメンバーはその二カ所に別れて、
原島邸の敷地と原島邸そのものへの侵入者に備えているのだが、そ
の日、班長の大澤、小川、井上の三人が詰めていたのは庭にある詰
め所の方だった。
夜ともなれば、敷地内には野良猫にすら反応してしまうほどの高
感度センサーが張りめぐらされ、緊急対策班員といえどもそのセン
サーに引っかからずに原島邸に入り込むことは困難だった。
センサーを作動させずに邸内に入るには一時的にセンサーを解除
するしかない。
ただ、それも長時間となるとまずいことなど言うまでもない。
大澤が、五分がリミットだ、というのも当然だった。
169
時刻は午前二時。
言いだしっぺで実行役を言い渡された井上とバディの小川が、詰
め所の入り口でひそひそ話をしている。
﹁なんで、家の中の奴らに頼んでおかなかったんだよ﹂
﹁しょうがないじゃないですか。さっき手に入れてきたばっかりな
んですから﹂
﹁お前はたいがいそうだよな。アイデアは悪くないがタイミングが
悪すぎだ。センサー動かす前の時間なら余裕だったのに﹂
﹁そんな時間なら、姫さんだって起きてるでしょう? 当然ボスも
⋮⋮。だとしたら忍び込むなんて無理に決まってます﹂
﹁ボスが近くにいる時に、姫さんにプレゼントなんて渡したら、嫉
妬の嵐で大変だな﹂
小川と井上は、尋常じゃない主の独占欲を思い出し、ため息をつ
く。
井上が手に持っているのは、素っ気ない紙袋。
中に入っているのは、発売になったばかりの話題作。
予約の段階で増刷が決まってしまったという世界的人気作家の新
作だった。
このところ、佳乃は、お腹の子どものこともあって随分大人しく
過ごしている。
これまで恰好のストレス発散手段だった柔道は言うまでもなく、
運動の類はかなり制限されて、楽しみといえば読書ぐらい⋮。
原島邸の図書室にある本を片っ端から読んではいたが、元々大半
は読んだことのある本で、退屈しのぎとしてはいささか弱い。
例の緊急対策班慰労バーベキューパーティー以後、全員が佳乃の
170
ファンに転じた緊急対策班の面々は、外に出るたびに面白そうな本
やゲームの類を持って帰っては、佳乃に届けていた。
但し、それが俊紀の目に止ればまたけっこうな冷たい眼差しで睨
まれてしまうから、あくまでも、こっそり⋮が厳守されていた。
お祭り好き、悪戯好きの緊急対策班は、邸内のあちこちに新しい
本やゲームを隠しては、それを佳乃が見つけた時の驚いた顔を見る
のを秘かに喜んでいたのだった。
今回の﹁ブツ﹂は日付が替わる午前0時ちょうどに、深夜営業し
ている書店で発売になったものを井上が買いに行ってきたもの。
いつもと違って、今回はスピードが勝負で、なんとか早く佳乃に
届けようと、緊急対策班は躍起になっていた。
﹁普通に渡せばいいじゃねえか。﹃姫さん、これどうぞ﹄ってさ﹂
﹁それじゃつまんないでしょ? サプライズってプレゼントしては
最高じゃないですか?しかもそれが自分が欲しかったものなら余計
ですよ﹂
﹁欲しかったもの、って随分自信があるんだな﹂
﹁だって、姫さんネットでポチってましたから﹂
﹁え⋮じゃあ、予約してるのか?﹂
﹁そうですよ﹂
﹁それなら別に⋮⋮﹂
﹁わかってないなあ⋮⋮小川さん﹂
こんな苦労して持ってく意味ないだろう!!と言いたげな小川に、
井上は目の前で人差し指を振り振りしながら言う。
緊急対策班で一番図体がでかい男のそんな仕草は、なぜだかちょ
っとキュートですらあって、小川はつい笑い出しそうになる。
﹁なにがわかってないんだよ﹂
171
﹁予約するほど欲しい本なんですよ。早く読みたいに決まってるじ
ゃないですか﹂
﹁予約してあるならちゃんと届くだろう?﹂
﹁それがそうでもないんですよね。予約した本の引き渡しって発売
後になるじゃないですか。ネットショップが発売と同時に発送した
って、店頭で買うよりも遅いことの方が多いんですよ。下手すりゃ
二、三日遅れちまいます。特にこの本は、日付変わるとともに発売
になったから、絶対に店頭で買った方が早いんです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
に、したって同じ本が二冊になっちまうじゃないか⋮じゃまくさ
いぞ、と小川はあくまでも否定姿勢。しかし、井上はぜんぜんめげ
なかった。
﹁そこはそれ、ちょっと秘策が⋮⋮﹂
﹁なんだ?﹂
﹁見て下さいよ、これ⋮⋮﹂
﹁お⋮⋮すげえ、サイン入りだ﹂
﹁姫さん、この作家の大ファンじゃないですか。サイン本ならすご
く喜んでくれますよ﹂
﹁よく手に入ったなこんなもん⋮⋮何時間も前から並んでたやつい
たんじゃないのか?﹂
発売と同時にサイン会をやる作家はいないでもない。
今回もきっとそうだったのだろう。
だが、こんなに話題になっている人気作家であれば、サインが欲
しいファンはきっと長蛇の列。思いつきで走っていった井上がよく
手に入れられたものである。
﹁そりゃあね⋮⋮魚心あれば水心、ですよ。ちょいとね⋮﹂
172
小川は、﹁ちょいと﹂何やったんだ!と、問いつめたくなったが
やめにした。
いくら井上が極めて察しの悪い迂闊者だとしても、彼とて緊急対
策班の一員なのである。後ろ暗い手の一つや二つ平気で使えるに違
いない。
深く追及しない方がお互いのためだ。
﹁というわけで、ブツは手に入りました。あとは姫さんのところに
そっと置いてくるだけです。出来ればやっぱり枕元、とかいいです
よね!﹂
﹁まあ⋮それはそうだが⋮あの人の枕元ってことは、当然⋮⋮﹂
﹁そうなんですよねえ⋮⋮隣にボスが寝てますよね﹂
﹁うまくすりゃあ、精も根も尽き果てて爆睡、なんだが⋮どうだろ
う⋮さすがに最近はちょっとぐらい控えてるよなあ⋮﹂
﹁普通ならねえ⋮⋮でも、ボスだし⋮。やっぱり⋮? いや、俺あ
んまりそいうこと考えたくないです!﹂
﹁俺だってだ!!そもそも寝てるボスの部屋なんて絶対入りたくな
いぞ!﹂
というか⋮⋮﹁こと﹂のあとであられもない姿で眠り惚けている
⋮かもしれない、主の部屋に入るなんて論外だった。
﹁じゃあ⋮⋮どこに?﹂
﹁姫さんの部屋?﹂
﹁使ってないじゃないですか。というか、もうとっくにボスの部屋
に吸収合併済み﹂
﹁だったな⋮⋮﹂
と言ったあとしばらく考えてから、小川は、なんだ⋮と笑い出す。
173
﹁厨房でいいじゃねえか﹂
﹁厨房?﹂
﹁厨房にちっこいテーブルあるだろ?﹂
﹁ああ⋮⋮あの山本さんの休憩用﹂
﹁そうそう。あれの上に﹃姫さんへ﹄って書いておいときゃいいん
じゃね?﹂
﹁そうか⋮朝一で厨房に入るの、姫さんでしたね﹂
佳乃は毎朝、俊紀の朝食を誂えるために厨房に降りる。
通いの山本は言うまでもなく、使用人頭である宮野よりも早い時
刻に⋮。
それならば、その厨房に佳乃の宛名を書いておいておけば、間違
いなく佳乃の目に止るだろう。
﹁確かにそれなら、虎の穴は回避できますね﹂
﹁虎の穴ってお前⋮⋮﹂
﹁小川さんだってそう思ってるんでしょ?﹂
﹁ま⋮⋮まあな⋮﹂
普段でさえ、かなりな俺様である主。きっと、佳乃を抱いたまま
眠っているだろう。
想像するだにあどけなくかわいらしく眠りこけているだろう佳乃
の姿を、ちらりとでも他の人間が見た、なんてことになったらどん
な牙を剥くかは想像に難くない。
虎の穴と言うよりも、むしろ虎の口の中に等しい。
﹁じゃあまあ目的地は厨房に変更だ。それなら三階に上がる必要が
ないから時間も短縮できるし、一石二鳥だ﹂
﹁助かったー!庭の隅っこの詰め所から邸内の、しかも三階まで往
174
復するのに五分って、そんな化け物班長ぐらいっす。韋駄天かっち
ゅうの﹂
﹁まったくだよな。あの人、絶対、素で巨人に入れるぞ﹂
﹁何で巨人ですか?﹂
﹁入団テスト50メートル6.3秒以内らしいぞ。余裕だろ﹂
﹁きっとそのスピードのまま1キロぐらい走りますね﹂
﹁んなわけあるか!﹂
その時降ってきたのはやっぱり班長大澤の声。とっくにセンサー
解除に行ったかと思っていたら、まだこんなところに⋮と井上と小
川は首をすくめる。
﹁あ⋮⋮聞こえてました?﹂
﹁くだらねえことしゃべってないで、さっさと行ってこい!センサ
ー切るぞ!﹂
﹁ラジャー!﹂
そして二人は、韋駄天班長に蹴り出され邸内を目指した。
裏口から邸内に入って、厨房にサプライズプレゼントを置いた二
人が、ぜいぜいいいながら戻ったのは五分十五秒後。
﹁アウト﹂
渋い顔で時計の秒針を睨みながら待っていた大澤は、二人が詰め
所に入るなりセンサーを復旧させて宣言した。
﹁班長∼勘弁して下さいよ∼。ちゃんと5分台で戻ったじゃないで
すか﹂
﹁十五秒もオーバーだ。十五秒あったら核ミサイルの発射ボタンだ
175
って押せるぞ﹂
﹁なに言ってんですか!!そんなもの一秒でOKです﹂
﹁だよな?だとしたら十五秒がどんだけ致命傷かわかるよな?﹂
﹁あううう⋮⋮﹂
わけがわかりません⋮と小さく呟いてみたが、当然大澤が許すわ
けもない。
あえなく二人組は罰金⋮⋮となるところを、救ったのは佳乃だっ
た。
﹁井上さん、ありがとうございます!! まだしばらく届かないだ
ろうって思ってたのに、すっごくうれしいです!おまけにサイン本
なんて⋮⋮﹂
早朝の厨房で﹁姫さんへ﹂と書かれた紙袋を見つけて、怪訝な顔
をしながらあけてみた佳乃は、中から出てきた本に歓声を上げた。
数日前からカウントダウンが始まるような全国的な熱狂の中、自
分の手元に来るのは何日後だろうと苛立つような気分でいたのだ。
それなのに、明らかに書店で買ってきました、といわんばかりの
茶色の紙袋に、マジック書きの宛名のサプライズプレゼントが届い
た。
宛名の﹁姫さん﹂という書き方を見るまでもなく、実質本意の緊
急対策班からだとはわかったが、それを考えてくれたのが誰かがわ
からず、大澤に尋ねたところ、
﹁あー、うちの若いのだ。あいつあれでも案外気が利くしアイデア
マンだ。但し、ここ一番ってときに察しが悪くて困りもんだけどな﹂
なんでその察しが悪い時って言うのが、悉く仕事の時に出るのか
176
謎だぜ、なんて首を傾げながら、大澤は発案者が井上であることを
教えてくれた。
﹁図体でかいから小回り来かねえし、走らせても今いちだし。第一
頭悪すぎだ﹂
﹁頭?﹂
﹁五分で往復しろって言ったら鈍足のくせに馬鹿正直に全力で走り
やがって、しかも家の中まで⋮⋮そんなものちょっと連絡とって、
裏口で中の奴に渡しゃいいじゃねえか﹂
﹁でも、裏口から厨房なんてすぐだし⋮﹂
﹁その﹃すぐ﹄が致命傷。往復十五秒なら、確実にそこで縮められ
たはずだ﹂
﹁あーそうか⋮そうですね。でも本当に十五秒なら別に⋮﹂
核ミサイルのスイッチなんて押すわけないんですから⋮と苦笑し
ならが言う佳乃に、大澤は真顔で答えた。
﹁実際、その十五秒の間になにが侵入してくるかわかったもんじゃ
ない。ただでさえ5分間センサー切ってたんだ。その上にプラス十
五秒は許し難い。おまけに、自分の能力では要求されてるミッショ
ンを完遂できないとわかっていながら、代替手段を考えることもせ
ず十五秒ぐらい、とか言いやがった。そこが問題なんだ﹂
緊急対策班としての心構えの問題だ、と苦虫を噛み潰したような
顔で大澤は言う。
その顔を見ながら佳乃は、大澤とは対照的にほっこりと笑顔にな
ってしまう。
ああ⋮⋮この人はいつだってこんなにも一生懸命に原島を守ろう
としてくれている。
177
この人がいてくれるからこそ、原島財閥は安泰だったし、これか
らも安泰なんだ⋮。
﹁大澤さん、いつもありがとう⋮⋮﹂
感極まった、という風で礼を言う佳乃に、大澤は大いに照れた。
﹁やめとけよ、姫さん。俺らはこれが仕事なんだからよ。あんたが
やらかして原島から懲戒食らったのと同じで、俺たちだってうっか
りなんかやらかしたらすぐにあのおっかないボスに処分されちまう。
そうならないようにするのは当然だ﹂
﹁処分? そんなことあるんですか?﹂
﹁あったよ。ボスはそういうとこかなり厳しい。原島を危険にさら
すようなミスやらかしたら即減俸、最悪、首だ。だから今回も⋮⋮﹂
﹁今回も!?まさか⋮井上さん?﹂
﹁まあ⋮⋮そうだ。とはいっても今回はボスんとこまで上げる必要
もない。ちょっとしたおしおき、罰金程度だな﹂
﹁おしおき!?罰金!?止めて下さい、私のために!!﹂
﹁いや⋮姫さんのためってことじゃなくて⋮⋮﹂
﹁おーさわさん!!今回のことは、仕事とは関係ないでしょ?﹂
﹁だーかーらー!俺は心構えの問題をだなあ﹂
﹁心構えなんてくそ食らえです!こんなお遊び混じりのときまで完
璧目ざせっていわれたら、みんな糸の張りすぎでそのうち切れちゃ
います!五分が五分十五秒になったって、実害なかったんだからい
いでしょ!﹂
﹁結果論だ。たまたまなにも起こらなかったってだけで﹂
﹁あーそうですか!じゃあ、あの私が紙谷さんところに行った時、
SPつけ損ねたのも処分対象ですね?た・ま・た・ま!なにも起こ
178
らなかったけど、心構えがなっちゃいないですよね。そもそも私が
出かけたのにも気がつかなかったんですから!﹂
﹁うわ⋮それ今持ち出すかよ⋮⋮﹂
﹁同じ問題なんでしょ!?﹂
﹁わかった!わかったからそんなに興奮するな!腹の子に悪いぜ!﹂
﹁興奮もします!私のために井上さんたちが⋮⋮﹂
﹁それもわかった!今回はノーカンにしとく!!﹂
﹁ならいいです。部下の処分もある程度はいい加減にしとかないと
自分の首絞めますよ﹂
佳乃は、そう言ってにんまり微笑むと俊紀の出勤の準備をしに行
ってしまった。
後に残された大澤は、ただ呆然。
まいった⋮⋮。
まさかこんなところで、あの佳乃の懲戒辞令騒ぎのときの失態を
持ち出されるとは思いもしなかった大澤は、がっくりと項垂れてし
まった。
まったく侮れない⋮⋮。
昔から侮れないとは思っていたが、最近特にパワーアップしてい
る。
これでは俊紀ですらその力関係を逆転される日が近いかもしれな
い。
ただでさえ、俊紀は佳乃に関しては大甘だし、この上子どもでも
産まれた日には⋮⋮と思うと、ちょっとおかしいやら、それでいい
のか原島財閥総裁!と揶揄したくなるやら、まったく微妙な気分に
179
なる。
処分はいい加減に⋮って、あんたあのときボスがそれをやろうと
するのを必死で止めて懲戒辞令に持ち込んだんじゃなかったのかよ
⋮⋮。
それでも、まあ、妙に後ろ向きまくって自信喪失して逃げ出され
るよりはずっといい。
姫さんがいなくなると、世界規模で捜さなきゃならんこと以上に、
あの俺様をフォローするのも大変だし⋮⋮。
大澤はそんなことを思いながら、階段をほとんどのっしのっし、
という感じで上がっていく佳乃を見送った。
︵End.︶
180
いい加減な処分︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
181
いい加減な人間観察︵前書き︶
佳乃が原島邸に住み込む寸前の話です。
182
いい加減な人間観察
その日、主である原島俊紀から﹁今から帰宅する﹂という連絡を
受けた宮野が、佳乃に夜食を用意するように連絡してきたのは、午
後九時のことだった。
原島邸に夜食係として雇い入れられてからおよそ一年半。春が来
ればこことはおさらばだと思っていたのに、あの専横な主はあろう
ことか佳乃の内定していた就職まで辞退させ、管理人補佐兼夜食係
として正式に雇用すると言い放った。
私の人生いったいどこで間違えた︰︰と嘆いても後の祭り。
電話一本で内定を不意にされた佳乃が働けるところは他にはない。
やむなく原島邸に就職することを決めた。
それから半月がたって、佳乃はようやく自分の望んでいた進路と
現状の乖離に折合いを付けつつあるところだった。
住み込みになるのは四月からで、今はまだ通いの身分。
主が戻らなければ待機時間の間中ずっと待っていなければならな
いが、早い時間に戻ってくれば、佳乃はその時点で夜食を作りお役
ご免とばかり帰宅することが出来る。
今から帰宅するということは、夜食を作って九時半には佳乃も家
に帰れるだろう。
なんてありがたい⋮⋮と思っていたのに、宮野は余計な注文を持
ってきた。
﹁俊紀様は、今夜は暖かい麺類が召し上がりたいそうですので、お
帰りになってから支度をして頂けませんか?﹂
183
うわ⋮⋮そうきたか。
サンドイッチでも作り置きして、さっさと帰ってしまおうと思っ
ていた佳乃は、いつもながらわがままな主の注文にちょっとうんざ
りした。
夜食として提供されるもの中には作り置きが可能な物もある。
サンドイッチもそうだし、おにぎりとか、いなり寿司と巻きずし、
などという寿司もそうだ。
そういうものであれば、先に作っておくことも可能なのに、主は
いつも﹁温かい物﹂を所望する。
夏の盛りでもそんなことを言っていたのだから、あの男はやっぱ
り腹の底まで冷酷な性格で、温かい物でも食べて腹から温めない限
り、人間らしく振る舞うことも不可能なんじゃないか、とすら思っ
てしまう。
あるいは単に精神的な近親憎悪で﹁冷たい物﹂は嫌いだとか⋮⋮
?まさかね。
作り置きできない﹁温かいもの﹂を要求されれば、佳乃は主が帰
宅するまで原島邸に留まって作りたてを出すしかない。
それも法外に高い時給のうちだ、といわれてしまえば反論の余地
などないし、どっちにしてもそんなことを言ってくるのは帰宅が早
い日に限られたので、佳乃は諦めて厨房で夜食の下準備にかかった。
﹁温かい麺類ねえ⋮⋮﹂
原島邸の厨房にある大きな冷蔵庫を開けて、佳乃は中身を検分す
る。
184
ただし、そうやって隅々まで検分したところでなにが決まるわけ
でもない。
なぜなら、その佳乃一人ぐらい簡単に中に入ってしまえるのでは
ないか、と思えるような巨大な冷蔵庫の中には、ありとあらゆる食
材が詰め込まれ、﹁冷蔵庫の中にある物でささっと﹂なんて献立は
無理なのだ。
﹁何でもあるって、何にもないのと同じぐらい質悪いよね!﹂
佳乃は、夜中に冷蔵庫を開ける度にそんなことを呟く。
実のところ、この原島邸という場所はどこかのレジャーランドま
がいの深夜営業ディスカウントショップさながらに﹁ないものない﹂
のではないかと疑っている。
ないとしたら、三十を越えたとか越えないとか聞いている俺様主
の﹁奥様﹂ぐらいではないのだろうか。
そんなことをぶつぶつ言っていても始まらない。
佳乃は麺だというなら、まず主役の麺から決めよう、と冷凍庫を
引っかき回す。
﹁お⋮⋮ラッキー!お蕎麦がある!﹂
しかも、それはかなり有名な製麺会社のもので、レンジでチンし
て4分半、見事な腰の日本蕎麦が出来上がる、という優れもの。
うどんの方が消化にいいかな?⋮⋮と、は思ったが、冷凍庫の中
にパックされたご飯はあったがうどんはなかった。
グルメシェフの山本は、あいかわらずおばちゃん仕様で冷凍ご飯
185
を作り続けているらしい、とつい笑ってしまう。
温く笑いながらさらに冷凍庫をあさり続けると、そこには小さな
肉らしきかたまり⋮。
保存袋に貼られたラベルにはグルメシェフの几帳面な字で﹁鴨﹂
と書いてあった。
量から考えて何かに使った残りだろう。これなら拝借しても構わ
ないはず。
幸い、野菜室には太くて立派な葱もあった。
﹁よっし。じゃあ今晩の俺様のお夜食は鴨南蛮と参りましょう!﹂
鼻歌交じりに冷凍鴨肉をレンジに放り込んで、オート解凍キーを
押す。
昆布と鰹節を捜しだして一人前の出汁を取りながら蕎麦を湯戻し
する。
触書通り、レンジでチンしようかと思ったが、鴨がぐるぐる回っ
ているし、待っているのも面倒くさかった。
どうせ数分も経たないうちに主が戻ってくるだろう。下手に待た
せて煩く文句を言われるのもいやだった。
茹であがった麺を水に晒していると、外で車が止る気配がした。
ほどなく宮野の声が聞こえてくる。
﹁おかえりなさいませ、俊紀様﹂
﹁⋮⋮今帰った﹂
どこのお武家じゃ。お帰りなさいといわれたら、ただいま、だろ
うが!
聞くだに機嫌の悪そうな声の主。
186
今日は会社で余程面白くないことがあったのだろうか。
きっと顔にはいつもより三割増しの仏頂面が貼り付いているだろ
う。
主は、使用人頭から今日一日の報告を聞きながら三階にある自室
に向かう。
着替えて書斎に入る頃に合わせて夜食を誂え終えれば、今日の佳
乃の仕事は終わりだ。
だが、出来上がった鴨南蛮をお盆に載せて、折良く厨房に入って
きた宮野に渡そうとすると、彼は意外なことを言い出した。
﹁ちょっと俊紀様に別の用を仰せつかりました。申し訳ありません
が、谷本さんそのお夜食を俊紀様にお届け願えますか?﹂
いやです、あの男には会いたくありません。特にあんなに機嫌の
悪そうな時は!
そう言えればどんなに良いだろう⋮⋮。
でも言えるわけがない。なんと言っても掛け持ちしまくっていた
沢山のバイトを全部止めても大丈夫なぐらい高額のバイト料を支払
ってくれるありがたい主だ。
ものすごく性格は悪いし、高飛車ではあるけれど、この先もそれ
なりに付き合わねばならないのだから、その気前の良さに免じて、
夜食ぐらい運んでやろう。
そう判断して佳乃は出来たての、香ばしい葱の香りに満ちた鴨南
蛮を捧げ持って三階の書斎に行った。
﹁谷本です。夜食をお持ちしました﹂
﹁入れ﹂
187
そこで入るなと言われたらむしろびっくりだよ、とか思いながら
佳乃は書斎に入る。
とんでもない経緯で内定を辞退させられてから半月。佳乃が主の
顔を見るのはそれ以来だった。
あいかわらず造詣の見事な顔ではあるな、それだけは認めてやる
ぞ、性格はとんでもないけど⋮などと考えながら鴨南蛮の丼を両袖
がついた机の上に置く。
箸を置こうとして、箸置きがないことに気づき、やむなくそのま
ま主に差し出した。
パソコンの画面を見ていた主は、ぬっと出された箸に気付いて、
意外にもくすりと笑った。
へえ⋮⋮こんなふうに笑うこともあるんだ⋮⋮って、それはどっ
かの少女漫画の﹁ヒロイン、無骨なヒーローにほのかにときめく、
の図﹂じゃないか。しかも超使い古され済み!あほくさ︰︰。
どんなにきれいに笑ったところで、この俺様性格の主にときめい
たりするもんか、と自分に言い聞かせながら佳乃はお盆を抱えて、
退場を試みる。
﹁では私は失礼いたします、どうぞごゆっくり﹂
﹁待て﹂
えーっと︰︰待てと言われてもねえ︰︰なんか忘れただろうか?
と佳乃は首をひねる。
﹁七味︰︰とか持ってきますか?﹂
188
﹁いらん﹂
確かに、その刺激的な性格に、更なる刺激は必要ないよなあ︰︰。
﹁だれが刺激的な性格だ!﹂
﹁うわ︰すみません、ついうっかり口に︰︰﹂
心の中で思っただけのはずの台詞は、どうやら勝手にお出掛けし
ていたらしい。
不満とともに黙り込むかと思った主は、意外にも更に笑った。
どうしたことだ︰︰。さっきの不機嫌そうな声はどこにしまった
?それとも今日は余程お日柄が良いのか?ものすごく株価が上がっ
たとか?すごいインサイダー情報掴んだとか??だめだろう、それ
は!!
というか、笑ってないでさっさと食べろ。
頭の中で一人漫才を繰り広げる佳乃を面白そうに眺めながら、原
島俊紀は湯気の立つ鴨南蛮を食べ出した。
佳乃が今度こそやれやれ︰と部屋を出ようとすると、また主の声
がした。
﹁待てと言っただろう﹂
犬か私は。
夜食を作り終えたらそれで業務終了のはずじゃないか。食べ終わ
るまで主の横で待機なんて聞いてないぞ、と佳乃の顔に抑えきれな
い不満の色が浮かぶ。
﹁何かご用でしょうか?﹂
189
﹁今日はまだ時間が早い。たまには話でもしていけ﹂
﹁︰︰話といわれましても︰︰﹂
﹁今日は会社で面白くないことが連発だった。なんか気が紛れるよ
うな話はないか﹂
﹁すみません。それは夜食係の範疇ではありません﹂
﹁︰︰それもそうだな﹂
﹁ではこれにて︰︰﹂
どろん。
と思ったらまた失敗だった。
﹁じゃあ、この蕎麦の作り方でも教えてくれ﹂
﹁なんでですか?作るんですか、ご自分で?﹂
原島財閥総裁原島俊紀、推定三十才、が作る鴨南蛮。
それはいったいどんな値段が付くのだ?
﹁話の中身なんかどうでもいいんだ。気が紛れさえすれば﹂
意味不明だ︰︰と佳乃はまじまじと性悪主を眺めてしまう。
それならもっと気を紛らわすに相応しい、きれいなお姉さんが高
級な酒を注いでくれるクラブとか、もっときれいなお姉さんがもっ
とうふふなあれこれしてくれるお部屋とかに行けばいい。
なにを好きこのんで、夜食係に鴨南蛮指南受けようとしてるんだ
︰財閥総裁ご乱心か?
﹁仕事が面白くないからって、今さら蕎麦屋に転身は無理でしょう
?﹂
190
しかも、冷凍麺で作った蕎麦が出てくる蕎麦屋ってかなり嫌だ。
﹁だれが蕎麦屋に転身だ!お前はいちいち言うことがねじ曲がって
るな﹂
﹁申し訳ありません。お気に召さないなら春からの仕事は︰︰﹂
﹁気に入らないとは言ってない。お前が作る夜食は美味い﹂
それは発言の婉曲具合とは無関係だ。
それともあれか、どんな頑固オヤジが営む汚い店でもラーメンさ
え美味ければ大行列だ、っていうのと同じなのか??
まあどっちでもいい。私にしてもここでもう一回内定ひっくり返
されたら今後こそ食いっぱぐれだ。最終手段はなくもないが、どち
らかというとそれは使いたくない。
果てしなく広がっていく、主への心中つっこみ。その畳み方が思
い出せず、佳乃は減っていく丼の中身を見るとはなししに見る。
主自身を眺めるよりも、その方が遙かに問題がなさそうだったか
らだ。
いいから、くっちゃべってないで伸びる前に食べてしまえ、と思
っているのに、主はまたしても箸を止める。
﹁で?﹂
﹁はい?﹂
﹁この蕎麦はどうやって作るんだ?﹂
﹁出汁取って味付けて、蕎麦温めて放り込んで、焦がした葱と鴨肉
トッピング﹂
﹁それで?﹂
﹁それだけです﹂
﹁︰︰それだけ︰︰﹂
191
もうちょっと物の言い方というものがあるだろう︰︰と思わず俊
紀は残り少なくなった鴨南蛮と夜食係を交互に眺めてしまった。
誰かに何かを説明しろ、と言って、こんなに素っ気ない答えを返
されたのは初めてだった。
シェフの山本あたりにそんな説明を求めれば、恐らく小一時間か
けて鴨南蛮の蘊蓄を垂れ流しそうである。
ましてや相手は年頃の娘、俊紀のような男相手なら、話題を切ら
したくなくてずっと話し続けているのが常だった。
﹁蕎麦は?信州とか山形とかの有名どころか?﹂
﹁さあ?パッケージには薮って書いてありましたけど、冷凍ですか
ら﹂
﹁冷凍なのか?!﹂
﹁はい。あ︰︰でも、ちゃんとお湯で温めて戻しましたから!﹂
レンジでチンよりも一手間かかってます、といわんばかりの夜食
係。
俊紀は今度こそ脱力である。
もしかしたら、今まで出されてきたあれもこれも、全てこんな調
子で作られていたのだろうか︰︰どれもひどく自分の口に合う味だ
ったけれど︰︰。
﹁念のために聞くが︰︰味つけは?﹂
﹁○○のツユの素。大変お手軽で便利です﹂
なんでそんなものがうちの厨房にあるのだ、まさか山本が使うは
ずもないのに︰︰と顔に書いてある主に、佳乃は平然と説明する。
﹁私が頼んで買っておいてもらいました。いつ帰ってくるかわから
192
ない、しかもすぐに食べたいどなたかの為にはスピードこそ命です。
それに、このツユの素、某醤油メーカーの大ヒット製品で変な蕎麦
屋の出汁より絶対美味しいですから﹂
それが証拠に、話している間にも食べ進んだ主の丼は綺麗に空に
なっていた。
﹁なるほ︰︰ど︰﹂
﹁まあ、基本的には出汁さえしっかり取って、良い素材を使えば多
少インスタント使っても大丈夫ってことです。特に夜食なんてその
程度で十分ですよ﹂
そう言うと、佳乃はからになった丼をまたお盆に載せ、俊紀の手を
じっと見た。
﹁なんだ?﹂
揺るがぬ視線が自分の顔に向かってくることには慣れているが、
佳乃が見ているのは手だ︰︰と思ったところで、俊紀はまだ自分の
握っていたければ、死ぬまで握ってて
手の中にある箸に気がついた。
﹁これも、だったな﹂
﹁あなたの私財ですから、
頂いても構いませんが、やっぱり使ったあとは洗った方がいいと思
います﹂
言ったあとから後悔した。
ああ︰︰なんか今日の私はこの男の言うとおり随分と発言がねじ
くれている。
193
おそらく、春から始まるはずだった華麗なるOLライフを奪われ
た怨念が滲み出ているのだろう。
さすがにこんなやり取りを繰り返していたら、主だってうんざり
する、というか怒り出すだろう。元々機嫌が悪かったのだから、当
然だ。
それなのに、怒り出すと思った主は、佳乃の意に反して弾けるよ
うな笑い声を上げた。
さっきの﹁くすり︰︰﹂が、ヒロイン﹃微萌え﹄だとしたら、こ
の朗らかな笑い声は、﹃ふぉーりんらぶ一直線﹄だ。
但し、管理人補佐兼夜食係は適用除外であるが︰︰。
俊紀は、半ば百面相になりかけている夜食係が持っている盆の上
に箸を戻した。
受け取った佳乃は、盆を掲げたまま器用に一礼する。
﹁お粗末様でした﹂
﹁ご馳走様。いろいろ︰︰美味かった﹂
﹁それはよかったです﹂
これで今度こそ退場だ︰︰と佳乃は盆を持って俊紀の書斎を出る。
さすがに三度目に呼び止められることはなかった。
書斎から出たところで佳乃は、そこに立っていた宮野にぶつかり
そうになった。
﹁うわ︰なんでこんなところに﹂
﹁あ︰︰いや、その︰︰﹂
微妙に後ろめたそうな顔の使用人頭︰︰。佳乃は、その顔を見て
194
思い至る。
﹁もしかして、私、人身御供でした?﹂
機嫌悪く帰宅した主。どうやら宮野は、その虎の穴に自分が餌を
運ぶのが嫌で佳乃に仕事を振ったらしい。
振ったはいいが、やっぱりどうなったのか気になって、ドアの前
で様子を窺っていたのだろう。
﹁宮野さん︰︰ずるいです﹂
﹁すみません、谷本さん。いつにもまして俊紀様がご機嫌斜めでし
たので﹂
﹁だからといって、私が行ったってもっと機嫌が悪くなるだけでし
ょう﹂
﹁でも︰︰笑ってらっしゃいましたよね?俊紀様﹂
あんなに険悪なムードを纏って帰宅したのに、佳乃が夜食を運ん
でいった途端に機嫌を直した。そればかりか、ぼそぼそと聞こえて
くる会話の最後には、普段に似合わぬほど明るい笑い声を上げてい
た。
元々彼が、この夜食係を気にしていることがわかっていた宮野は、
機嫌の悪い俊紀にとって佳乃がどれほど有効なのかに興味を引かれ
た。
どうにも好奇心を抑えられなくなり、本人にはひどく気の毒だと
は思いながらも、夜食配達係を佳乃に押しつけてみたのである。
もしかしたら、逆鱗に触れるかもしれない、その時は自分が飛び
込んで谷本佳乃を救出しよう、と待機していたのに、意外に親しげ
に進んでいく会話。
やはり俊紀は相当にあの谷本佳乃という女子学生を気に入ってい
るらしい。
195
まあ︰さもなければ、こんなに強引な形で彼女を雇用するはずが
ないのですが︰︰
と、思いながら宮野はお盆を持って厨房に戻っていく佳乃を見送
る。
主は、この先いったいどういう展開を望むのか。それを、彼女は
どのように受け止めるのか⋮⋮。
極めて興味深い、主と夜食係の人間関係観察。
そのいい加減気味な観察記録の一ページ目が記されたのはまさに
この日だった。
End.
、
196
いい加減な人間観察︵後書き︶
お読み頂いてありがとうございました。
197
いい加減じゃないおまじない ①
﹁佳乃様、外商の者が参っておりますが﹂
﹁ああ、今行きます﹂
結婚式まで数日となった土曜日の午後、二人は昼食を終え居間で
寛いでいるところだった。
宮野に呼ばれて部屋から出た佳乃は、そのあと寝室によって何か
を取り出した気配のあと、ぱたぱたと階段を降りていった。
佳乃がデパートの外商担当者を呼ぶなんて珍しいと思いながら見
に行ってみると、佳乃が外商担当に小さなケースを渡したところだ
った。
﹁ではお預かりいたします﹂
﹁そんなに時間はかかりませんよね?﹂
﹁はい。少々変形はしているようですがそれを直して、磨き直すだ
けですから、明日の午後にはお届けに上がれるはずです﹂
﹁よかった。あまり時間がかかるならもうそのままでもいいと思っ
てたんです﹂
﹁ご心配には及びません。店頭にお持ちいただければその場ででき
るぐらいのことですから﹂
﹁じゃあ、よろしくお願いいたします﹂
﹁畏まりました﹂
佳乃から受け取ったケースを丁重に鞄にしまい、深々とお辞儀を
したあと、外商担当の男は帰っていった。
彼の姿を見送って、やれやれという顔をになった佳乃に俊紀は訊
ねた。
198
﹁なにか手入れの必要なものがあったのか?﹂
佳乃が手渡していたケースの形状から考えて、中身はアクセサリ
ー、恐らく指輪かブローチの類いだろうと思った。
だが佳乃は普段からアクセサリーを身につけることはなく、親睦
会で使う物はすべて原島家のコレクションである。
どれもクオリティの高い美しい物ばかりだが、その管理について
は門前に一任されている。本来ならばそれは原島邸の女主人である
佳乃の役割で、いくら懇意とは言え使用人に任されるべき物ではな
い。
だが、そういった物に全く興味がないらしい佳乃は、和子が引退
したあと一時的にその務めを託された門前に任せきりにしている。
佳乃にしてみれば、自分よりもずっと知識もあり、どこで何を使
うかは彼女に任されている以上、その管理も門前に任せた方がずっ
と効率的だということらしい。
和子の代から原島邸に出入りし、絶対の信頼の元に原島コレクシ
ョンを任されている門前は、日頃からそれらの手入れも怠らず、佳
乃がデパートの外商を呼んでまで磨き直さねばならない物があると
は思えなかった。
怪訝な顔で訊ねた俊紀に、佳乃はわざわざ降りてこなくてもよか
ったのに、といわんばかりの顔で答えた。
﹁えーっと⋮⋮原島コレクションじゃないんです。私の個人的な持
ち物でちょっときれいにしておきたい物があったのでお願いしまし
た。いけませんでしたか?﹂
自分の用事で外商を呼びつけたことを咎められるとでも思ったの
か、佳乃は慌ててそんなことを言った。彼女はいまだに自分がこの
家の女主であるという自覚が全然ないらしい。
199
佳乃は、この家に関わるどんなことでも自分の意のままにできる
権限を与えられていて、外商なんていわずもがな、呼びたければ何
人でも呼べ、である。
それなのに、いかにも許しを得ずに申し訳なかったとでもいわん
ばかりの佳乃に、俊紀はもうそろそろ自分の裁量範囲を覚えてもら
いたいものだとため息を漏らす。
﹁いや、それはかまわないが、お前、アクセサリーなんて持ってた
のか?﹂
﹁まあ⋮⋮少しぐらいは。でも古い物ばっかりだし、そもそも門前
さんのコーディネイトには全くあわないから使う機会なんて全然な
いんです。そういえば結婚式で使いたいものがあったら教えてって
門前さんに言われてたの忘れてました。門前さんの提案でひとっつ
も文句なんてないんですけど、せっかくの結婚式なんだからって⋮
⋮。ついでだからちょっと見てきますね﹂
佳乃は、そう言ってぱたぱたと部屋から出ていった。
﹃ついで﹄というような用事は一つもないはずなのに、そんなこと
を言う佳乃に違和感を覚えた。
翌日、外商は約束どおり小さなケースを届けに来た。
あいにく佳乃は例によって門前に拉致されて衣装合わせの真っ最
中で対応できず、宮野が受け取り二人の部屋に届けに来た。
俊紀は、手渡されたケースをサイドテーブルに置いてみたものの、
佳乃が自ら手入れを頼むほど大事にしているアクセサリーというの
はどんなものか気になって、そのケースをそっと開けてみた。
﹁指輪か⋮⋮﹂
ごくシンプル、しかも細いゴールドの指輪。形を整え磨き直した
だけあってそれなりの輝きを放ってはいたが、磨ききれなかった傷
200
んだ。
がいくつか残っているところを見ると、やはり古い物に違いなかっ
た。
Liebe﹄︵愛を込めて︶
好奇心を抑えきれず手に取ってみた次の瞬間、俊紀は息を
﹃Alles
指輪の裏側に刻まれた文字は、所々消えかけてはいたが読み取れ
ないほどではなく、明らかに恋人から贈られた指輪であると証明し
ていた。
いったい誰が⋮⋮!
俊紀は思わずその指輪を力任せに握りつぶしてしまいたくなった。
指輪の古さから考えれば、それは佳乃が俊紀に会うずっと前に贈
られたもののはずだ。
自分より先に佳乃に愛を囁いた男がいる。この指輪はその男の愛
の証として贈られた。そして佳乃はその指輪をずっと持っていた。
磨き直すほど大事にしながら⋮⋮
それを俊紀に知られたくなくて、昨日、佳乃はそそくさと逃げ出
していったのだろう。
血が沸き返るような怒りが押し寄せた。
原島邸に来るようになってからあと、佳乃の男関係はすべて断ち
切った。本当に完璧にというほどに。今にして思えば、あれは完璧
というよりも狂気に近かった。
胃袋から自分を掴み込んだ谷本佳乃という学生への執着は、半年
もしない間にふくれあがり、彼女の生活全てを掌握しなければ気が
済まなくなった。原島財閥に関わる全ての人間は自分が保護すべき
存在であるという、とんでもない言い訳を編み出し、佳乃に緊急対
策班員を張りつけたのもその頃の話である。
201
﹁なんで俺があんな小娘のお守りしなけりゃならないんだ!﹂
当時、佳乃担当だった班員がそんな愚痴をこぼしていたことを覚
えている。それでも俊紀は、そんな愚痴など切り捨てて佳乃の行動
を逐一報告させた。コンパや打ち上げがある度に予定変更で呼び出
しをかけられたのはそのおかげだ。
まさか佳乃は俊紀がそんなことをしているとは夢にも思っていな
かっただろうけれど⋮⋮
幸い佳乃は、恋人が欲しいという年頃の娘らしい願望はあまり持
っていなかったらしく、自分から積極的に男との交友を深めること
もなかった。
もしもそんなことがあったとしたら、相手の男はいささか不快な
目に遭うことになっただろうし、俊紀自身もそれを緊急対策班に指
示する理由にも困っただろうから、佳乃が独り身を貫いてくれてよ
かったとは思う。
とにかく、二人が出会った頃佳乃には恋人はいなかったし、思い
を寄せる相手もいなかった。原島邸に住み込んでからは、さらに時
間も機会もなくなったはずである。
だから、今目の前にある指輪がいったい誰からどのような形で贈
られたのか、俊紀には見当もつかなかった。
﹁関係ねえだろ﹂
佳乃が持っている指輪の出所を探ってくれ、と言われた大澤は呆
れ返った。
当然である。佳乃が原島邸に出入りするようになって既に八年。
谷本佳乃という学生については八年前に詳細な調査がなされてい
202
る。その時点で、彼女の身辺にそういった関係の男は一人も存在せ
ず、そこから何年か遡っても谷本佳乃に男の影はなかった。
彼女に思いを寄せた男の形跡は複数認められたが、色事に関して
恐ろしく鈍感な佳乃が気づくわけもない。
何より、彼らが積極的なアプローチをするには佳乃自身が忙しす
ぎたのだ。高校生までは両親に連れられて日本と海外を行ったり来
たり、暇さえあれば読書と柔道。両親を亡くしてからはバイト三昧
で、誰かと恋愛している暇などなかったのだろう。
かくして、谷本佳乃は彼氏いない歴=年齢という実に見事な経歴
のまま、原島財閥総裁に拉致され今に至っているのである。
どんな指輪を持っていようが、そこに何が刻まれていようが、俊
紀が気に病むようなことではない。
﹁俺が知る限り姫さんにはあんたより前に付き合った男なんていな
い。万が一いたとしても今の姫さんはあんたのものだ。それでいい
じゃねえか﹂
﹁いやだ﹂
﹁いやだって⋮⋮過去が変えられるとでも思ってんのか?﹂
﹁過去は変えられないことぐらいわかってる。だが、あいつに関し
て私が知らないことがあること自体が許せない﹂
大澤は、あまりにも独占欲に凝り固まり、かつ一方的な俊紀の言
い分に開いた口がふさがらなくなる。
﹁だったらあんたは、あの華々しい女遍歴をいちいち全部姫さんに
報告したのか?﹂
﹁するわけがない。必要もない。あれは全部遊びだ﹂
﹁姫さんだって同じかもしれないだろ?﹂
﹁少なくとも相手にとってはそうじゃない﹂
203
原島邸に来た時点で彼女の周りに男の影がなかったことは間違い
ない。 だとしたらそれ以前に彼女はあの指輪を受け取った。二十
歳にもならない小娘にあんな指輪を渡したのである。
材質は十八金もしくは二十四金、しかも刻まれているのはドイツ
語。少なくとも中高生といった佳乃と同年代の男の仕業ではない。
まるで結婚指輪のようなそれに込められた思いが生半可なものであ
るはずがなかった。
﹁あの指輪を贈った相手は間違いなく本気だった。そして佳乃はそ
の指輪を今でも大事に持っている。それを考えると⋮⋮﹂
﹁だったら本人に訊けよ。うだうだ考えてるよりその方が早いじゃ
ねえか﹂
こんな風に自分の過去を探られるなんて、佳乃にとっても不快に
違いない。出会った頃なら辛うじて許されたことでも、夫婦になっ
てしかも子どもまでできているというのに緊急対策班にそんな仕事
をさせたと知ったら佳乃はどれほど傷つくだろう。
それぐらいなら単刀直入に訊いた方が余程ましだ。
だが俊紀は思い詰めたような顔で首を振った。
﹁あいつの口から他の男の話なんて聞きたくない﹂
大澤は三度呆れ返る。こいつは本当にあの原島俊紀なのか。これ
ではまるで嫉妬に狂う青二才と同じではないか。とてもじゃないが、
世界に名だたる原島財閥を統括する三十六歳の男とは思えない。
佳乃とペアになって以来とんでもないバカップルに成り下がった
ことはわかっていたが、ピンでもここまで馬鹿になっていたとは⋮⋮
そんな思いがそのまま口から出ていった。
﹁馬鹿じゃねえのか!﹂
204
﹁ああ多分そうなんだろう。だが⋮⋮﹂
﹁だが、なんだよ!﹂
﹁恐いんだよ﹂
﹁なにが!﹂
﹁もしもあいつの中に、私より大事だと思う男が存在しているとし
たら、しかもそれをあいつから聞かされたら、私は何をしてしまう
かわからない﹂
それこそ、相手の男を完膚なまでに叩きつぶしこの世から抹消し
かねない。その上で、佳乃自身も二度と原島邸の外に出さないとで
も言いだしかねない。
﹁あんたは本当に馬鹿だ。姫さんにとってあんたより大事な男がい
るわけないだろ? 腹の中の子どもが男だったとしても、多分姫さ
んの優先順位は永遠にあんたが一位だ﹂
﹁わかるか、そんなこと﹂
﹁わかるさ﹂
ちょっと考えて見ろよ、と大澤は俊紀に言い聞かせる。
﹁もしも俺たちがドイツで姫さんを見つけてあんたが迎えに行かな
かったとしたら、姫さんは自分で戻ってきたと思うか?﹂
﹁戻らなかっただろうな﹂
﹁腹にあんたの子どもができてるってわかったら?﹂
﹁多分、それでも戻らない。というか、あの状況で妊娠がわかって
たらもう絶対に戻ってなんて来なかったはずだ﹂
﹁だろう? 子どものことを考えたら普通は戻る。原島財閥の後継
者って地位を子どもから奪うことなんてできるはずがない。だが、
姫さんは戻らない。あんたにとって自分の存在がいかに邪魔になる
か考えたら戻るわけがない。つまり、子どもの未来の安定よりもあ
205
んたの方が大事だったんだ﹂
﹁⋮⋮そう、か?﹂
﹁そうなんだよ。だから大丈夫だ。過去にどんな男がいても現状姫
さんにはあんたより大事な奴なんていねえよ! でもって、多分、
過去にだって男なんていなかったよ﹂
なんせあの姫さんの﹃初めて﹄はあんただったんだからな、と大
澤は下卑た笑いを浮かべた。
さらに、下らない疑いを抱えていないでとっとと訊いてしまえ、
と焚きつけていたところにやってきたのは当の本人だった。
﹁お、姫さん、いいところへ.ちょっと訊くがな⋮⋮﹂
﹁大澤!﹂
﹁どうしたんですか?﹂
﹁この男があまりにもうじうじと気にするんで、ちょっと訊かせて
もらいたいんだが、この指輪⋮⋮﹂
﹁あ、もう届いたんですね!﹂
そう言うなり佳乃は大澤が持っていたビロード張りのケースを奪
い取って、さも大切そうに蓋を開ける。そして、中に入っている指
輪を取り出し、そっと右手の薬指に嵌めた。
手の平側と甲の側、両方から何度も翳して確かめる姿は、どれほ
ど彼女がその指輪を大事に思っているか証明しているようで、大澤
からみても俊紀の心配がちょっと頷ける気もした。
自分の指にその指輪がそれなりに似合っていると満足したのか、
佳乃は安心したようにその指輪を外し、またそっとケースにしまっ
た。
﹁よかった⋮⋮あんまり不自然じゃなくて﹂
﹁不自然?﹂
206
彼女が漏らした言葉があまりにも不可解で、俊紀は探るように佳
乃を見てしまう。そんな俊紀の表情に気づいた佳乃は、ああ、ごめ
んなさいと軽く笑った。
﹁説明してませんでしたよね。これ、実は母の指輪なんです﹂
﹁お母さん?﹂
﹁はい。母の結婚指輪です﹂
事故で亡くなったときに本当はそのまま一緒に葬ってしまおうか
とも思った。そうすべきだとも思った。
けれど火葬場の係員から金属は外してくださいと言われ、やむな
く二人の指から結婚指輪を抜いた。ここにあるのはその二つの指輪
のうちの片方。母が嵌めていた物だった。
父が母のために選んだ指輪が自分の指に違和感なく嵌まるかどう
かちょっと心配だった、と佳乃は説明した。
﹁じゃあその裏に刻んである気障な文字ってえのは、親父さんが?﹂
﹁笑っちゃいますよね。英語とか日本語ならともかく、何でわざわ
ざドイツ語でって私も思いました。でもうちの父、照れ屋のくせに
けっこうロマンティストだったらしくて﹂
ちょっと見ではわからなくてもちゃんと伝えたかったのかもしれ
ません、と亡き父を思い出しながら佳乃はひっそりと笑った。
﹁そういうことか。でも何で今ごろ急にそんな物を?﹂
﹁結婚式で使おうと思って⋮⋮﹂
﹁お袋さんの結婚指輪を?﹂
﹁別に結婚指輪じゃなくてもいいんですけど、母もアクセサリー類
ってあまり使わない人だったんで、これぐらいしか残ってないんで
207
す﹂
﹁いや、姫さん。悪いが話が全然見えねえ﹂
﹁もしかしてサムシング・フォーか?﹂
それまでずっと黙り込んでいた俊紀が、ようやく口にした言葉に
佳乃は大きく頷いた。だが大澤は初めて耳にした言葉らしく、首を
かしげながら訊いた。
﹁サムシングなんとかって何だ?﹂
古い物を一つ、新しい物を一つ、借り物を一つ、青い物を一つ。
その四つを備えて結婚式を挙げれば、花嫁は幸せになれる、とい
うのがサムシング・フォー。イングランドに伝わる古いおまじない
の一つで、結婚情報誌に紹介されることも多く近頃はそれを実践す
る花嫁も多いらしい。
それによって与えられるものが花嫁の幸せだけであるなら、もう
とっくに幸せどっぷりの佳乃には関係ない。
でもよくよく調べてみればそのおまじないは、もともとは花嫁の
幸せと言うよりも一族の繁栄を願うものだったらしい。
それならば、いくら原島家がこれ以上はないと言うほど隆盛を誇
っていても、その状態が永続することを祈ることはできる。
自分という異分子が原島家に影を落とさないように、ここは一つ
イングランドの知恵にすがってみよう、と佳乃は思ってしまったの
だ。
﹁せっかく洋装で教会式にするならちょっとあやかってみようかな
ーって⋮⋮﹂
﹁だったら最初にそう言ってくれ! 私がどんな気になったと思っ
208
てるんだ!﹂
﹁はい?﹂
﹁あのな、姫さん。こいつな、その指輪を姫さんが誰からもらった
か気になっていても立ってもいられなかったんだぜ。いや、そうか
⋮⋮お袋さんの指輪かあ!﹂
﹁俊紀さん⋮⋮私にこんな指輪贈ってくれるような酔狂な人はそん
なにいませんって﹂
﹁それは私が酔狂だとけなしているのか?﹂
﹁いや、そういうわけでは⋮⋮﹂
といいながらも佳乃はクスクス笑っている。
けなしていると言うよりも明らかに喜んでるな、と大澤はちょっ
としらけた気分になる。
自分にこの指輪を贈った人間に俊紀が嫉妬したことを知って、佳
乃は嬉しくてならないのだろう。
結局これでは、いつものバカップル全開状態、またしても巻き込
まれた大澤はいい面の皮だった。
﹁ま、サムシング・フォーだかファンタスティックフォーだか知ら
ないが、あんまり思わせぶりなことしないでくれ。いい迷惑だ﹂
﹁思わせぶりって⋮⋮﹂
ふてくされたように大澤に言われて、思わず佳乃は勝手に勘違い
したくせに、と反論したくなった。だが、確かに昨日デパートの外
商担当が取りに来た時点で説明しておけばよかったとは思う。
ただ、佳乃は俊紀がそんな誤解をするとは思ってもいなかったし、
自分がそんなジンクスを実践してみようと考えたこと自体が少し恥
ずかしかったのだ。できれば俊紀に知られることなく、こっそり自
己完結してしまいたかった。
それでも大事にしまい込んでいた母の指輪を取り出して眺めてみ
209
たら、使っていなかっただけあって、やはりくすんでしまっていた。
いくら右手に嵌めておくにしても少しは手入れしてから、と思っ
たのが間違いだった。左手なら指輪の交換の際に目につく可能性も
あるけれど右手なんて誰も気にもしなかっただろうに。
﹁変な心配させてすみませんでした﹂
﹁いや、それはもういい。で、他の三つは揃ったのか?﹂
﹁はい。なんとか﹂
﹃新しい物﹄は一番簡単だった。
普通はドレスが貸衣装になるから手袋などの小物類を新調するら
しいが、佳乃の場合はドレスもベールもオーダーメイドでばりばり
の新品である。あえて新しい物を用意する必要はなかった。
﹃青い物﹄についても問題はなかった。
佳乃のように、嫁ぎ先の魔除けとして使う人は珍しいけれど、洋
装の花嫁の何割かは自分自身の幸せのためにサムシング・フォーを
取り入れる。 だから結婚式場の方でもガーターベルトに青いリボ
ンを結んだ物を用意しているし、ウエディングブーケに青い花を入
れることを提案する場合もある。
佳乃のブーケは白とグリーンで統一されているから、そこに青い
花を入れることはせずに、ガーターベルトを使うことにして青い物
もクリア。
﹃新しい物﹄﹃青い物﹄と進んで、次は﹃借りた物﹄。
ここにきて、佳乃はちょっと悩んでしまった。
友人で幸せな結婚をしている人間が思い当たらない。
親友の朋香はまだ未婚だし、それ以外で物の貸し借りができるほ
ど懇意な人はいなかった。
ドイツで世話になった橘瑞穂は、どこからどう見ても幸せそのも
210
のの結婚生活を送っているが、相変わらず夫婦ともに大忙しの彼女
らは、当日の早朝羽田着の飛行機でやってくる。
佳乃が支度が終わった頃にしか会場に着かない予定なので、瑞穂
から何かを借り出すというのはかなりの綱渡りである。
予め頼んで置いたにしても、万が一何かの加減で飛行機が遅れた
り、美弥が具合でも悪くして欠席したり、と言うことになっては目
も当てられない。
ただでさえ大きな結婚式で不安要素が多いのだから、さらに一つ
増やすのは勘弁してもらいたかった。
もういっそ、最近結婚したと聞いたばかりのあの居酒屋の女店主
にでも頼もうかと思ったぐらいだが、何度か顔を合わせただけの人
だから、それもちょっと⋮⋮と思っているときにタイミングよく門
前が現れた。
そういえばこの人も幸せな奥さんだ⋮⋮と佳乃はにんまりとし、
門前に訳を話して首尾よくハンカチを借り受けることに成功した。
といった経過で、最後まで残ったのが﹃古い物﹄だった。
﹃これから始まる生活の豊かさを願って、祖先から伝えられたもの
を受け継ぐという意味で母親か祖母から譲り受けた物を身につける。
母親のアクセサリーを使う場合が多い﹄
そんなネットの説明を読んで、母の残した物からなにか⋮⋮と小
さなジュエルボックスを開けてみた佳乃はどうにも困ってしまった。
宮原家というそれなりの旧家に育ったお嬢様のくせに、母が残し
たアクセサリー類はあまりにもささやかな物ばかりだった。
指輪はないし、ピアスやイヤリングはそもそも母が身につけてい
るところを見たこともない。ネックレスは二、三あったけれどそれ
もシンプルな金鎖、あるいはごくごくささやかなプチダイヤ。
結婚当初はどちらも就職したばかりでお金がなかったにしても、
211
佳乃が中学生になるころには二人ともいっぱしの研究者になってい
て経済的に困っていたわけでもなかった。
それなのにこんなにジュエルボックスの中身が乏しいのはやはり
母の嗜好としか言いようがない。
アクセサリーよりも書物を欲しがるのは研究者としては当然。父
はさすがに女性としてそれでは⋮⋮と思ったこともあったらしく、
たまにはアクセサリーの一つも買ってやろうとしたようだ。だが、
そのたびにきっぱり断られ、かといってサプライズで選んで差し出
すなんてことができる性格でもなく、結局、欲しくないものを贈っ
ても仕方がないとあきらめたという。
まさか、自分たちがいなくなってから、一人娘がそのジュエルボ
ックスの中を覗いて、こんなに眉を寄せてため息をつくことになる
なんて思っても見なかったことだろう。
母の物がだめなら祖母はどうだろう、と静代の姿を思い浮かべて
みたが、和服を着ているところしか出てこない。彼女にとってアク
セサリーというのはせいぜい宝石を使った帯留めぐらいの物だろう。
帯留めではウエディングドレスに使いようもない。
しょうがないから、母のネックレスをブレスレットのように手首
に巻いてみようか⋮と思いかけたときに、別のケースにしまってあ
った結婚指輪を思い出したのだ。
祖母の静代は、涙ながらに指輪を両親の指から外し、お父さんと
お母さんの形見だからと佳乃に渡してくれた。佳乃は二人の遺品を
整理したときに、その指輪が元々入っていたらしいケースを見つけ、
嵌める人がなくなった指輪をそっとそのケースに収めた。二つ並ん
だ指輪は、仲がよかった両親を思わせ新たな涙を呼んだ。
佳乃は両親の指輪を見るのが辛くて、そのケースを母のジュエル
ボックスとは別のところにしまっていたのだ。
生前母がずっと身につけていた指輪。しかも遺品とは言え、確か
に佳乃が譲り受けた物である。これ以上サムシングオールドにぴっ
212
たりな物はなかった。
ということで、佳乃はその指輪を磨き直し結婚式当日に身につけ
ることに決め、なんとかサムシング・フォーが整ったというわけで
ある。
﹁なるほど。それは大変だったな﹂
﹁いえ、別に大変と言うほどのことじゃありませんけど、やっぱり
私って母に似てるんだなーって思っておかしかったです﹂
﹁確かにお前もアクセサリーの類いには全然興味がないな﹂
﹁姫さんは、もっぱら花より団子だもんな﹂
﹁ほっといてください﹂
﹁とはいっても、一つぐらい何か持っとかないと、あんたの娘がま
た苦労するぞ﹂
﹁大丈夫ですよ。どうせこの家にはアクセサリーなんて山ほどある
んですから﹂
﹁確かにな。先祖代々伝えられてきてるという意味では原島コレク
ションは天下一品のサムシングオールドだ。娘が何人生まれても大
丈夫だ。まあ、せいぜい励んでくれ。そしたらだれかさんも余計な
ことを考えてる暇もなくなるだろうし﹂
﹁励むって何をですか!﹂
さあね、そこの焼き餅焼きに訊いたら? なんて大澤は目を弓形
にする。わたわたと慌てている佳乃とは対照的に、俊紀はそれはい
い考えだ、とやたら満足そうにする。
冷やかしが片方にしか通じない状況はいつものこと。
大澤は、姫さんほどとは言わないまでも、少しぐらいは決まり悪
そうな顔でもすればいいのに、全くかわいげがないなこいつは⋮⋮
とただ苦笑するしかなかった。
213
214
いい加減じゃないおまじない ②
﹁俊紀様、何をなさっていらっしゃるのですか?﹂
在宅しているときはたいてい書斎で仕事をしているか、佳乃を抱
え込んで居間か寝室で過ごすことがもっぱらである主が、珍しく家
の中を行ったり来たりしているのに気が付いて宮野が怪訝そうな顔
で訊いた。
﹁どこかにあるはずなんだが⋮⋮﹂
﹁何かお探しですか?﹂
﹁ああ。これぐらいで蓋に蔦模様が彫り込んである木の箱なんだが、
どこかで見かけなかったか?﹂
俊紀はそう言いながら両手で文庫本ぐらいの大きさを示す。宮野
は俊紀の手と手の間の隙間を暫く眺めたあと、ぽんと手を打った。
﹁あの古いオルゴールのことですね? 確か先々代の奥様が大事に
されていた⋮⋮﹂
﹁あれオルゴールだったのか?﹂
﹁はい。もうとっくに壊れて音は出ませんが、奥様が先々代から最
初に贈られたプレゼントだったらしく大層お気に入りで、壊れてし
まったあともずっと枕元に置いて、小物入れとして使っていらっし
ゃいました﹂
﹁ああ、それだ。なかにいろいろ細かい物が入っていた覚えがある﹂
﹁あのオルゴールに何か?﹂
﹁確かあの中に、古い物がいろいろ入っていたと思うんだが⋮⋮﹂
﹁さあ⋮⋮私は中に入っている物までは拝見しておりませんが、あ
215
のオルゴールなら図書室の引き出しに入っているはずです﹂
宮野が言い終わるより早く、俊紀は図書室に向かった。
普段なら宮野に取りに行かせて待っているのに珍しいことだ、と
思いながら宮野も俊紀の後を追う。
何か余程大切な物でも入っているのだろうか⋮⋮
﹁引き出しってどれのことだ? こんなにあったらわからないじゃ
ないか﹂
図書室にある書架の一番下に小さな引き出しがつけられている。
普通の家庭ならその引き出しを開けてみるだけでいいのだろうけ
れど、原島邸の場合は書架の数もただ事ではない。
区立図書館の分室ぐらいはあると言われる蔵書を全て納めるため
には、原島邸の一階部分の大半を占める図書室にぎっちり本棚を詰
め込む必要があり、その全てが同じ仕様で同じ引き出しが付けられ
ている。
これを全部片っ端から開けなければならないのか、と俊紀は天井
を仰ぎたくなった。
宮野はそんな俊紀を安心させるように笑いながら、一つの引き出
しを開けた。
﹁全部開ける必要はありません。あのオルゴールが入っているのは
この引き出しです﹂
俊紀は、すんなり場所を示した宮野に驚きの目を向ける。
ゆかり
﹁この引き出しの中身を全部覚えているのか? さすがだな、宮野﹂
﹁全部というわけではございません。代々当主の縁の品が納められ
ているのはこの引き出しだと知っているだけです。それ以外の引き
216
出しの中身に関しては私にはわかりかねます﹂
﹁なんだ、そうか。まあそうだろうな﹂
﹁そういうことでございます。ああ⋮⋮ありました。これですね?﹂
そう言いながら引き出しの奥から取り出した箱を見て、俊紀が目
を輝かせた。
﹁それだ。ありがとう、よく見つけてくれた﹂
﹁いいえ、なんでもないことです。それで、その中に何が?﹂
﹁うん? ああ、古いコインだ。ここにあればいいんだが⋮⋮﹂
俊紀は古びた木製のオルゴールをそっと開け、中を覗き込んだ。
どうやら目的の物を見つけたらしく、さらに嬉しそうな顔になる。
﹁ああ、あった。よかった﹂
﹁なんでごさいますか?﹂
﹁ほら、見てみろ﹂
﹁おや⋮⋮これはイギリス⋮⋮のコインですか?﹂
﹁一九〇八年製造。ということは、一番古いタイプだな。925銀
だ﹂
宮野は手渡されたコインをひっくり返してみて、そこに刻まれた
数字を見て得心がいったらしい。
﹁なるほど⋮⋮そういうことでございますか﹂
﹁そういうことだ。まあ、ちょっとしたサプライズだな﹂
﹁きっとお喜びになるでしょう﹂
﹁だといいがな﹂
そして俊紀はそのコインを大事そうにハンカチに包むと、古いオ
217
ルゴールを元の引き出しにしまい、図書室から出ていった。
その後ろ姿を見送って、宮野は大きく顔をほころばせる。
佳乃が手入れに出した指輪の送り主を関して、俊紀があらぬ妄想
に囚われて大変だったという話は大澤から聞いていた。結局、佳乃
の母親の物だったと判明し、主の疑惑は笑い話に終わったわけであ
るが、佳乃はサムシング・フォーの一つとしてその指輪を身につけ
るらしい。
佳乃は首尾よく四つの品物を揃えたらしいが、俊紀はそのおまじ
ないには続きがあることを知っていたのだろう。
だからこそ彼は自ら家のあちこちを探し回ってまであのコインを
見つけ出した。おそらく最後のおまじないのことを知っていながら、
手に入れる難しさを思って諦めてしまっただろう佳乃のために。
満足げに去って行った主の背中から、佳乃に対する深い想いが滲
み出ているようだった。
結婚式当日、支度を終えた佳乃は、控え室でぽつんと座っていた。
参列者は既に入場済み、俊紀は花婿用の控え室にいるので、佳乃
は一人きりで、案内係が呼びに来るのを待っていた。
もうそろそろかな⋮⋮と思ったころに、控え室のドアが開いた。
だが入ってきたのは案内係ではなく門前だった。先に入場となる花
婿の最終チェックを終えて戻ってきてくれたらしい。
﹁ああ、よかった。ぎりぎりセーフだわ﹂
﹁どうしたんですか?﹂
﹁あ、立たないで、ちょっとそのまま座ってて!﹂
何か忘れた物でもあったのだろうか? 頼んでおいたハンカチは
もうちゃんと受け取ったのに⋮⋮と思いながら立ち上がろうとした
佳乃を押しとどめ、門前はこともあろうに佳乃の大きく膨らんだド
レスの裾をまくり上げた。
218
﹁も、門前さーん! なにするんですか!!﹂
﹁ごめんね! ちょっとだけ我慢してて!﹂
花嫁のドレスに潜り込んだスタイリストは、左足の靴を脱がせる
と、すぐにまたそれを佳乃の足に戻した。
何かを入れたらしく、踵にひんやりした感触が伝わってくる。
﹁なんですか?﹂
﹁サムシング・フォーの仕上げですって﹂
﹁仕上げ?﹂
﹁何か一つ古い物を、何か一つ新しい物を、何か一つ借りた物を、
何か一つ青い物を、に続きがあるの、知ってるわよね?﹂
﹁続き⋮⋮じゃあこれ⋮⋮﹂
﹁そう、6ペンス硬貨よ﹂
﹁門前さん捜してくださったんですか?!﹂
6ペンス硬貨については佳乃だって知っていた。
花嫁がさらに幸せになるように、サムシング・フォーに加えて、
左の靴に古いイギリスのコイン、6ペンス硬貨を忍ばせる。
けれど、その6ペンス硬貨は一九六七年で製造中止。今では幻の
コインとなっている。
ネットショップや古物商を探せば手に入らないこともないが、サ
ムシング・フォーを思いついたのが式の直前だったために時間がな
く、これは無理だと諦めたのだ。
その6ペンス硬貨をわざわざ門前が見つけてきてくれたのか、と
佳乃は感激した。
だが門前は首を振った。
﹁私じゃないのよ﹂
219
﹁え? じゃあ誰が?﹂
﹁俊紀様。あなたがサムシング・フォーを身につけるって聞いたあ
と、家の中をあちこと捜してくださったそうよ。確か見た覚えがあ
るって⋮⋮﹂
﹁俊紀さん、6ペンス硬貨のことまで知ってたんですか﹂
﹁あの人が知らないことなんてないんじゃないの? まあ、慌てて
調べた可能性もなきにしもあらずだけど﹂
あなたに関わることは何でもかんでも知ってなきゃ気が済まない
人だものね、と門前は苦笑する。
﹁とにかく、家捜しして見つけたコインを今になって渡してきたっ
てわけ。﹃すまないが、これを佳乃に﹄ですって。俊紀様の支度を
チェックし終わって、もう花婿入場って時になってよ! せめて前
日に渡してくれればドレスに潜り込むことなんてなかったのに!﹂
﹁俊紀さんらしいです﹂
﹁ま、そうよね。究極のサプライズ? きっとこれ、俊紀さんのお
祖母さまが嫁いでこられたときに靴に入れてたものに違いないわ。
いつも枕元に置いてた小物入れに大事にしまってあったそうだから﹂
﹁わあ⋮⋮じゃあ効果ばっちりですね﹂
﹁これ以上はないって感じね。よかったわね、これで完璧よ﹂
﹁ありがとうございました!﹂
﹁その言葉は、俊紀様にどうぞ。お礼に何を要求されるか覚悟した
方がいいかもしれないけど﹂
﹁え⋮⋮﹂
何か不埒なことを思い浮かべたに違いない花嫁は、ほんのり紅色
に染まり、それと同時にちょっと困った顔になる。
この顔が見たくて、主はこの娘にあれこれ仕掛けてるんじゃない
のかしら、と思うほど佳乃の困った顔は独特の色気と愛らしさに満
220
ちていた。
喜ばせるにしても困らせるにしても、俊紀は佳乃を構いたくて仕
方がないらしいし、そのたびに佳乃は全力で反応して、俊紀の思う
つぼに嵌まっている。
サムシング・フォーに、自分ではなく一族の繁栄を託す佳乃。佳
乃の思いなど知らず、花嫁のさらなる幸せを願って6ペンスコイン
を持ち出す俊紀。
お互いに相手のことだけを考える二人は、この先もずっと幸せ、
かつ最強バカップルであり続けるだろう。
﹁花嫁様、お時間でございます﹂
控え室のドアが開いて、案内係が顔を出した。
門前は佳乃が立ち上がるのに手を貸し、ドレスの裾を整えたあと
控え室から送り出す。
最後の一つが足りないから微妙にいい加減ですね、なんて佳乃が
言っていたおまじないは、俊紀の気遣いで見事に仕上がった。
これで佳乃が願う原島家の繁栄も、俊紀が願う花嫁の幸福も完璧
に叶うことだろう。
門前は幸福のお裾分けをもらったような笑顔を浮かべ、バッグか
ら厚手のハンカチを取り出す。
そして彼女は、主が用意したもう一つのサプライズ、正装の使用
人頭に遭遇して花嫁の目からこぼれ落ちるに違いない涙が、完璧に
仕上げたメイクを台無しにするのを阻止するために大急ぎで花嫁の
あとを追った。
End
221
222
いい加減じゃないおまじない ②︵後書き︶
お読みいただいてありがとうございました。
223
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n2319bf/
いい加減な夜食
2016年7月7日18時20分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
224
Fly UP