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世界史第076講

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世界史第076講
第8章
二つの大戦と近代世界
欧米の中国進出
清の動揺
① 白蓮教徒の乱(1796∼1804 年)
乾隆帝の治世末期ごろから諸方面で繁栄にかげりがみられるようになった。地方では
か ろう
郷紳が台頭し、天地会・哥老会などの反清運動もさかんになった。人口増加と土地不足
で困窮した農民は各地で反乱を起こしたが、そのなかでも最大のものが嘉慶帝(位 1796
びゃくれんきょうと
∼1820 年)初期に四川省を中心に起こった白 蓮 教 徒 の乱で、鎮圧に 10 年近くを要し、
清の財政は窮乏した。その後も天理教徒の乱(1813 年)など各地で反乱があいついだ。
②
イギリスの自由貿易の圧力
こうこう(コホン
清は 18 世紀半ば以降、ヨーロッパとの貿易を広州 1 港に限定し、 公 行 と呼ばれ
る特許商人組合に貿易を独占させる制限貿易を行っていた。産業革命を達成したイギリ
スは、マカートニー(1793 年に乾隆帝に謁見)やアマースト(1816 年に北京に至るが、
さんききゅうこうとう
三跪九叩頭を拒否して嘉慶帝に謁見できず)らの使節を派遣して自由貿易を求めたが、
失敗に終わった。
アヘン戦争
①
アヘン戦争の背景
イギリスが中国から輸入する茶の量が増大すると、茶の代価としての銀が一方的に中
国に流出するようになった。この片貿易を是正するため、イギリスは、イギリス製の綿
製品をインドで売り、その代価でインド産のアヘン(麻薬の一種)を購入して中国に密輸
し、さらにアヘンを売却した代価で茶を購入して本国に運ぶ三角貿易を開始した。1833
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第 76 講
欧米の中国進出
年にイギリス東インド会社の中国貿易独占権が廃止され中国貿易が自由化されたこと
もあり、中国へのアヘン流入は激増して、1830 年代にイギリスの茶の輸入量を上回り、
この結果、中国からイギリスへ銀が流出するようになった。中国では、アヘン吸飲の害
毒が広がっただけでなく、銀価が高騰し地租を銀納する農民を苦しめた。
②
アヘン戦争勃発から敗北へ
道光帝(位 1820∼50 年)に欽差大臣に任命された林則徐が、広州でアヘンを没収廃棄
したことに対してイギリスが宣戦、アヘン戦争(1840∼42 年)が勃発した。戦争中、平
英団の活動などもあったが、清はイギリスの近代兵器の前に敗北した。
③
欧米諸国と不平等条約の締結
(1) 南京条約(1842 年)
アヘン戦争の清とイギリスの講和条約
5 港開港(広州・福州・厦門・寧波・上海)、公行の廃止、香港割譲、賠償金の支払いな
どをみとめる
(2) 五港(五口)通商章程(1843 年)
清とイギリスの講和条約
こもんさい
(3) 虎門寨追加条約(1843 年)
南京条約の追加条約
ぼうか
(4) 望厦条約(1844 年)
清とアメリカの修好通商条約
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第8章
二つの大戦と近代世界
こうほ
(5) 黄埔条約(1844 年)
清とフランスの修好通商条約
欧米諸国との不平等条約において、清は最恵国待遇・領事裁判権(治外法権)・関税自主
権の喪失などをみとめることになった。また、開港場には中国の行政権が及ばない外国
人居留地の租界が設置されるようになった(1845 年にイギリスが上海に設置したのが最
初)。
アロー戦争
①
アロー戦争の背景
南京条約後も期待したほど中国貿易が拡大しなかったため、欧米諸国は条約改定の機
会をうかがった。
②
アロー戦争の勃発・経緯から敗北へ
イギリスはアロー号事件を、フランスのナポレオン 3 世はフランス人宣教師殺害事件
を、それぞれ口実として清に開戦、アロー戦争(第 2 次アヘン戦争)(1856∼60 年)が勃
発した。清は屈服した天津条約(1858 年)を締結したが、再び戦闘が起こった。イギリス・
フランス軍は北京を占領し、円明園を破壊した。清は降伏して北京条約(1860 年)を締結
した。
③
北京条約の締結
キリスト教布教の自由、開港場の増加(天津・南京など 11 港)、九竜半島南部の割譲、
がもん
外国公使の北京駐在(これにもとづいて翌年、外交事務官庁として総理各国事務衙門(総
理衙門)が設立される)、外国人の内地旅行の自由、アヘン貿易の公認、長江航行の自由
などをみとめる
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第 76 講
欧米の中国進出
ロシアの東方進出
①
ロシアと中国の国境画定条約
(1) ネルチンスク条約(1689 年)
ロシアのピョートル 1 世が清の康熙帝と締結した条約で、スタノヴォイ山脈(外興安
嶺)とアルグン川を国境と定めた。
(2) キャフタ条約(1727 年)
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第8章
二つの大戦と近代世界
ロシアが清の雍正帝と締結した条約で、外モンゴル方面の国境を定めた。
(3) アイグン(愛琿)条約(1858 年)
ロシアの領土拡大をはかる東シベリア総督のムラヴィヨフが、アロー戦争の混乱に乗
じて、清と締結した条約で、黒竜江(アムール川)を国境と定め、ウスリー川以東の沿海
州をロシアと清の共同管理とした。
(4) (露清)北京条約(1860 年)
ロシアがアロー戦争の講和を調停した代償として、清と締結した条約で、ロシアはウ
スリー川以東の沿海州を獲得した。ロシアは沿海州にウラジヴォストークを建設し、極
東経営の拠点とした。
(5) イリ条約(1881 年)
中央アジア進出をはかるロシアは、19 世紀後半にブハラ(ボハラ)=ハン国、ヒヴァ=
ハン国、コーカンド=ハン国を支配下に置いた。またイスラーム教徒の反乱を機にイリ
地方を占領する入り事件を起こし、イリ条約で中央アジアの国境を定めた。
②
ロシアと日本の国境画定条約
(1) 日露和親条約(1885 年)
ロシアと日本の江戸幕府が締結した条約で、千島列島のエトロフ島(択捉島)以南を日
本領とし、樺太を雑居地域と定めた。
からふと
(2) 樺太・千島交換条約(1875 年)
ロシアと日本の明治政府が締結した条約で、樺太(サハリン)をロシア領、全千島列島
を日本領と定めた。
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第 76 講
欧米の中国進出
<ロシアの東方進出> 太平天国の乱
①
太平天国の乱の背景
アヘン戦争敗北以後の民衆の貧窮化などで、清朝支配に対する不満が高まった。
②
太平天国の乱の勃発
ハッカ
きんでんそん
キリスト教的宗教結社の上帝会(排上帝会)の洪秀全(客家の出身)が、広西省金田村で
てん けい
挙兵し、太平天国(1851∼64 年)を建てた。太平天国は南京を占領し天京と改称して都
めつ まんこうかん
てんちょうでんぽ
とし、
「滅満興漢」をスローガンとして清朝打倒をかかげた。さらに天朝田畝制度(男女
べんぱつ
てんそく
ねんぐん
平等に土地を配分)や辮髪や纏足の廃止をとなえて勢力を拡大した。同時期に、捻軍と
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第8章
二つの大戦と近代世界
よばれる農民反乱軍の活動も活発になった。
③
太平天国の乱の鎮圧
太平天国の乱の鎮圧に際して、清朝の正規軍である八旗や緑営は無力であったため、
そう こくはん
しょう
地方官僚や郷紳が組織した義勇軍である郷勇が活躍した。曾国藩が率いた 湘 軍(湘勇)
りこうしょう
わい
や李鴻章が率いた淮軍(淮勇)がその代表である。また、アメリカ人のウォードやイギリ
ス人のゴードンなど欧米人が指揮した中国人の軍隊である常勝軍も鎮圧に協力した。
洋務運動
ぼくそう
かんぽう
せいたいこう
太平天国の乱平定後の同治帝(穆宗)(咸豊帝と西太后の子)(位 1861∼75 年)の治世は、
「同治の中興」と呼ばれる比較的安定した時代となった。太平天国の乱の鎮圧に活躍し
た漢人官僚の曾国藩・李鴻章・左宗棠らが中心となって、1860 年頃から洋務運動とい
う富国強兵をめざす近代化運動が推進された。これは「中体西用」の精神を基本とし、
伝統的儒学にもとづく政治体制は維持したまま、軍事など技術の導入をはかるものであ
ったため、清仏戦争・日清戦争に敗北し限界を露呈した。
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第 76 講
欧米の中国進出
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第8章
二つの大戦と近代世界
文中の 1 ∼ 10 に適切な語句を下記の語群から選び、記号で答えよ。
〔札幌大学〕
清は、18 世紀前半にアヘンに対する禁令を出したが、効果がなかった。そこで、1839 年
にアヘン厳禁を主張する 1 を 2 に派遣した。彼はイギリス商人からアヘンを没収
し、廃棄した。イギリス政府は、この措置を清朝を開国させる機会ととらえ、1840 年に戦
争に踏み切った。 1 は民兵を組織するなどして善戦した。しかし、イギリス艦隊が北上
して北京に近づくと、清朝はイギリスに屈服した。清朝は 1842 年、イギリスと南京条約を
結び、賠償金の支払いのほかに、 3 の割譲、 4 の廃止、5 港の開港を認めた。
戦争による多額の出費と賠償金の負担を、清朝は農民に重税を課すことで切り抜けようと
したため、社会矛盾は激化した。広東省出身の 5 た 6 という宗教結社は、1851 年に 7 がキリスト教の影響を受けてつくっ
というスローガンのもと、清朝打倒を掲げて
広西省で挙兵して太平天国をたてた。太平天国軍は、1853 年には南京を占領し、天京と改
称して首都とした。彼らは纏足の撤廃、男女の平等、土地の均分、租税の軽減など、はっき
りとした規律や目標・制度をととのえており、以後の中国における民族運動の源となった。
この反乱を鎮圧したのは郷勇とよばれる地方の義勇軍で、 8 の湘軍や 9 の淮軍
がその中心であった。イギリスはキリスト教的色彩をもつ太平天国に、一時的に期待をよせ
たが、第二次アヘン戦争の敗北によって弱体化した清朝を介して中国に進出する方針を定め、
清朝を援助するようになった。ゴードンら欧米人が率いる 10 は、太平天国鎮圧に活躍
した。湘軍の攻撃を受け、太平天国は 1864 年に南京を失い、ほどなくして滅亡した。
〔語群〕
33
イ.李鴻章
ロ.広州
ハ.扶助工農
ニ.軍閥
ホ.上帝会
ヘ.租界 ト.林則徐
チ.胡適
リ.公行
ヌ.上海
ル.左宗棠
ヲ.曾国藩
ワ.天津
カ.香港
ヨ.袁世凱
タ.洪秀全
レ.捻軍
ソ.常勝軍
ツ.滅満興漢
ネ.毛沢東
第 76 講
欧米の中国進出
清朝に関する下記の設問に答えなさい。 〔南山大学〕
(1) 太平天国軍と戦った常勝軍を創設した人物を選びなさい。
㋐ ゴードン
㋑ ウォード
㋒ ホーキンズ
㋓ フォード
(2) 太平天国に関する記述として誤っているものを選びなさい。すべて正しい場合は㋔を選
びなさい。
㋐ 洪秀全は、1851 年に広東省で蜂起した。
㋑ 「滅満興漢」をスローガンにかかげた。
㋒ 天朝田畝制度を発布した。
㋓ 纏足を禁止した。
(3) 曾国藩が組織した郷勇の名称を選びなさい。
㋐ 捻軍
㋑ 淮軍
㋒ 湘軍
㋓ 禁軍
㋒ 宣統帝
㋓ 光緒帝
(4) 西太后の息子である皇帝を選びなさい。
㋐ 同治帝
㋑ 道光帝
(5) 清の結んだ条約が締結順に並んでいるものを選びなさい。
㋐ イリ条約 ―― ネルチンスク条約 ―― 黄埔条約 ―― キャフタ条約
㋑ ネルチンスク条約 ―― イリ条約 ―― キャフタ条約 ―― 黄埔条約
㋒ キャフタ条約 ―― ネルチンスク条約 ―― イリ条約 ―― 黄埔条約
㋓ ネルチンスク条約 ―― キャフタ条約 ―― 黄埔条約 ―― イリ条約
(6) 貿易の自由化を求めて 19 世紀初めにイギリスが清朝におくった人物を選びなさい。
㋐ ハミルトン
㋑ マカートニー
㋒ アマースト
㋓ ローレンス
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第8章
二つの大戦と近代世界
(7) 19 世紀前半におけるアジアの三角貿易に関する記述として誤っているものを選びなさ
い。すべて正しい場合は㋔を選びなさい。
㋐ イギリスから中国にアヘンが運ばれた。
㋑ 中国からイギリスに茶が運ばれた。
㋒ インドから中国に綿花が運ばれた。
㋓ イギリスからインドに綿製品が運ばれた。
(8) 1842 年に締結された南京条約に関する記述として誤っているものを選びなさい。すべ
て正しい場合は㋔を選びなさい。
㋐ 清はイギリスに対して香港島の割譲を認めた。
㋑ 清は上海・寧波・福州・広州・天津の 5 港の開港を認めた。
㋒ 清は公行の廃止を認めた。
㋓ 清はイギリスに対して賠償金の支払いを認めた。
(9) アロー戦争で英仏軍に略奪・破壊された離宮の設計に加わった宣教師の中国名を選びな
さい。
㋐ 南懐仁
㋑ 湯若望
㋒ 郎世寧
㋓ 利瑪竇
(10) 清とロシアの関係に関する以下の記述の下線部のうち、誤っているものを選びなさい。
すべて正しい場合は㋔を選びなさい。
19 世紀のなかばに、ロシアは東シベリア総督㋐ムラヴィヨフのもとで、清に対する圧
力を強め、1858 年には㋑アイグン条約を結んで、㋒ウスリー川以北を領有した。また、
㋓1860 年には北京条約を結んで沿海州を獲得した。
次の文章をよく読み、後記の問に答えよ。 〔福岡大学〕
清朝は、三藩の乱を平定した第 4 代の( イ )帝、軍機処を設置した第 5 代の( ロ )帝、
『四庫全書』を編纂した第 6 代の A 35
帝と続いた、三代にわたる最盛期が過ぎ、18 世紀
第 76 講
欧米の中国進出
末以降は次第に下り坂にさしかかっていた。1796 年には、宗教結社を中心とする農民反乱
である B の乱が発生した。
林則徐は 1785 年、中国の福建省の貧しい知識人の家庭に生まれた。林は若くして、科挙
に合格して進士となった。林が官僚の道についたのは、第 7 代の嘉慶帝の時である。
この後、長く地方官僚を勤め、河川工事、漕運、水利、塩税の問題に携わり、1837 年に
は湖広総督に任命された。
18 世紀にイギリスは中国の茶の輸入を拡大したが、その代価である大量の銀が流出した。
1793 年にイギリス人の( ハ )は A 帝に拝謁して条約締結による貿易拡大を要求し
たが、不成功に終わった。19 世紀になると茶貿易の拡大にともない、イギリスの( ニ )
をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへ輸出する C 貿易が行わ
れた。中国ではイギリスが持ち込むアヘンの害が拡大した。清朝の第 8 代の道光帝はアヘン
吸飲者死刑論に関する意見を地方官僚に求め、これに林も賛成の答申を出した。彼の答申は
高く評価され、1838 年に欽差大臣に任命された。
林は 1839 年に中国で唯一の貿易港のある D に着任し、アヘンの没収・廃棄、中国
人密貿易者の処罰、イギリス商館区の封鎖を断行した。これに憤激したイギリスは自由貿易
の実現を唱えて海軍を派遣し、1840 年に清朝との間でアヘン戦争が勃発した。動揺した清
朝は、同年に林を欽差大臣から解任した。林は浙江省へ左遷され、1841 年にさらに新疆の
イリ地方に追放された。
アヘン戦争は清朝の敗北に終わり、清朝は 1842 年に E て、 F の割譲、上海・寧波・福州・アモイ・ D 条約を結んだ。これによっ
の 5 港の開港、公行の廃止、賠償
金の支払いなどが決まった。続いて翌年に清朝は領事裁判権(治外法権)、協定関税(関税自主
権の喪失)、最恵国待遇などを認める不平等条約を結んだ。清朝は 1844 年にアメリカと
( ホ )条約を、フランスと( ヘ )条約を各々結び、イギリスと同等の権利を認めた。
せん かん
せん せい
林は 1845 年にようやく許され、陝甘総督、陝西巡撫などを歴任した。 G を指導者と
する(あ)太平天国の乱が勃発すると、林は再び欽差大臣に任命されて鎮圧のため広西省に向
かった。しかし、その途中の 1850 年に 66 歳で没した。彼の死後、1856 年にイギリスとの
間で H 戦争(第 2 次アヘン戦争)が起こった。清朝は敗北し、(い)北京条約を結んだこと
によって、中国の危機はさらに深まった。
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第8章
二つの大戦と近代世界
問 1 文中の空欄 A ∼ H に当てはまる最も適切な語句を考えて書き入れよ。た
だし、通常、漢字で記される語句は正しい漢字で書け。
問 2 文中の空欄( イ )∼( ヘ )に当てはまる最も適切な語句を下記の語群の中から選
び、その番号を記入せよ。
〔語群〕
(11) アイグン
(12) アダム=シャール
(13) アマースト
(14) 永楽
(15) 絹織物
(16) キャフタ
(17) 九カ国
(18) 江華島
(19) 康熙
(20) 光緒
(21) 香辛料
(22) 洪武
(23) 孝文
(24) 黄埔
(25) 砂糖
(26) 正統
(27) 宣統
(28) タバコ
(29) 天津
(32) 望厦
(33) ポーツマス
(30) ネルチンスク (31) ブーヴェ
(34) マカートニー (35) マテオ=リッチ (36) 万暦
(38) 雍正
(37) 綿織物
(39) 四カ国
問 3 文中の下線部(あ)・(い)に関する下記の問に答えよ。解答は番号で記入せよ。
(あ) この政権で定められたものとして、正しいのはどれか。
(1) 青苗法
(2) 平準法
(3) 府兵制
(4) 天朝田畝制度
(5) 里甲制
(い) この条約に関して清朝が認めたものとして、正しいのはどれか。
(1) 遼東半島の割譲 (2) マカオの割譲
(4) 台湾の割譲
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(3) 外国軍の北京駐兵権
(5) キリスト教布教の自由
第 76 講
欧米の中国進出
次の文章を読んで、空欄 A ∼ G に最も適切な語句を記入しなさい。
〔明治学院大学〕
1689 年、清の康熙帝はロシア皇帝ピョートル 1 世と A 条約を結び、両国の国境を
外興安嶺とアルグン川の線と定めた。この地域は 1616 年に清の太祖 B が後金国を建
国した地であったため、清王朝では漢人の入植を禁じた。
しかし 1858 年、太平天国の乱や C 戦争に揺れる清との間で、ロシアは D 約を結び、黒竜江(アムール川)を新たな国境線と定めた。1860 年には露清 E び、ロシアは F 川以東の G 条
条約を結
を獲得したが、両条約は河川上の国境画定に関する
不備が多かった。
38
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