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勤王志士 藤井右門 ∼略伝∼

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勤王志士 藤井右門 ∼略伝∼
勤王志士 藤井右門 ∼略伝∼
藤井 満
右門は勤皇の思想を説き、尊王倒幕、王政
復古を願い、大政奉還の実現のため諸国を
巡り、運動に身を挺した勤皇の志士である。
享保五年(一七二〇年)小杉町に生まれ
た。
父は播州赤穂(藩主浅野内匠頭長矩、国
家老は忠臣蔵で有名な大石内蔵介、千二
百石)の江戸詰家老(八百石)で藤井叉左
衛門宗茂であった。
赤穂藩断絶(元禄十四年・一七〇一)後、
越中に隠遁、吉平と改名して作道村津幡江
の郷土若林宅助の食客となっていたが、そ
の後小杉の金森文右衛門という山廻役の家
に雇われ、小杉に移住し津幡江屋吉平と称し所帯を持った。また、叉左衛門を略して左門と称し
た。
母は大手崎村、赤江屋九郎平の娘である。
子供は二男一女で、右門は長男で幼名を吉太郎という、幼少より年のわりに体も大きく、かつ力も
強く、知識も備わった利発な子供だった。
父より過去の家柄、父の苦悩を聞き、父の左門に呼応して自ら右門と称し、子供ながらも悲憤の
念を押えることの出来ぬものがあった。
父母の亡きあと家は姉に養子をもらって継がせ、自分は都へ上る決意を固める。
享保二〇年(一七三五年)十六歳の時、京都に上がり、同じ勤皇思想をもつ竹内式部と意気投
合、学問、武術に励み、尊王論を探求し、尊王倒幕、王政復古をめざして奔走する。
元文三年(一七三八年)京都の勤王家の一人である藤井忠義の養子となり直明と改名、従五位
大和の守となった。十九才
宝暦九年(一七五九年)宝暦の大獄。
竹内式部と共に公家の門を往来して王政復古の画策をし、桃園天皇の耳にも達したが陰謀が発
覚、竹内式部は捕らえられ三宅島へ流罪、右門はひそかに京都をのがれ政之助と変名して故郷
の小杉に隠住する。四〇才
だが右門は更に富山の売薬商人に身を扮して再度諸国を巡り、勤皇の志士をひそかに募り、明
和元年には山県大貳と出会い、交わりを深め、幕府を倒して王政復古の運動を大胆に進めたが、
明和三年(一七六六年)またも計画が露見し、右門、大貳の両名は捕らわれの身となる。翌明和四
年(一七六七)八月二一日(明和の大獄、)大貳は斬首刑、右門は梟首獄門(首を切られ、さらし首
の刑)の極刑に処される。この時右門は四八才であった。
越中の出身で日瓔という僧が幕府に願い出て右門の遺骨を貰い受け浅草の妙高寺に葬る。
宝暦事件は式部と右門とであり、明和事件は大貳と右門であり、右門だけが両事件に深い関係
があったことから推察してみても右門がこの事件の中心人物であったことを否定することが出来な
いものがある。
明治二十四年(一八九一)十二月十七日正四位を贈られる。
明治四十二年(一九〇九)東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓に際し小杉青年団に於いて記念事
業として里閣碑が建立される。(旧小杉小学校校庭)碑銘 贈正四位藤井右門先生里閭碑。
大正六年(一九一七)百五十年祭執行。その後、毎年命日の八月二十一日に右門廟前で右門
祭が行われている。
昭和十一年(一九三六)当時、県議会議長であり右門遺烈顕彰会会長で藤井右門の崇拝者でも
あった片口安太郎氏が中心となり史資料を集め調査研究の結果、東京浅草妙高寺に右門の墓が
あることが判明、百七十年祭に当たり遺骨を分骨して墓碑を藤井家の菩提寺の日澄寺横(社会福
祉会館の裏)右門の生誕地にも近い一角に建立することを計画する。
その間、安太郎氏は東京、京都の関係者に依頼、説得、町民への協力
要請などに奔走し、遂に念願の墓碑(廟)を建立するに至る。(現在は右門
公園となっている。)
昭和三十年頃まで右門祭の夜は墓前で町内対抗青年相撲大会が開催
された。
現在は長寿会の皆さんにより右門祭前に除草奉仕をして右門顕彰に努
められている。
右門は ただ
勤王の志士と
いうだけでなく
幕府の政治の道具に利用されてきた
儒学に対し勤王思想の国学を説き、
極刑に散った世直しの先覚者であっ
た。
また、勤皇の志士といえば時代は幕
末と思われがちであるが(事実、新聞
の記事で幕末になっていたことがあ
る。)右門が極刑に処せられ命を絶た
れたのが明治維新の約百年前のことであり、勤王の志士の先駆者といわれる所似である。
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