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反逆児アトラス/アトランティス戦記 第二部 ∼戦乱

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反逆児アトラス/アトランティス戦記 第二部 ∼戦乱
反逆児アトラス/アトランティス戦記 第二部 ∼戦乱
の大地∼
塚越広治
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
反逆児アトラス/アトランティス戦記 第二部 ∼戦乱の大地∼
︻Nコード︼
N1223CB
︻作者名︼
塚越広治
︻あらすじ︼
この作品は第二部からでもお読みいただいても分かるように書い
ています。戦いなどに興味がある方は第二部からお読みいただくと
よいかもしれません。
もし、第一部から読んでやろうという方は、次のURLからお願い
します。
http://ncode.syosetu.com/n5340
bs/
1
第二部からお読みいただく方のために、簡単に第一部のあらすじ
をまとめてみました。
第一部あらすじ ◆第二部からお読みいただく方のために◆
歴史書にも描かれない太古の昔、アトランティスという大陸があ
り、小国が興亡を繰り返しつつ、やがて9つの王国が宗教都市シリ
ャードに集う形でまとまった。そのアトランティスは海外への進出
を始めたが、国力の衰退と共に、アテナイを主力としたギリシャ諸
部族の軍に敗れ、いまは宗教都市シリャードにアテナイ軍を駐留さ
せることを条件に講和していた。
第一部は、そんな情勢の元で生まれ育った主人公のアトラスと、
大陸中原に覇を誇る大国シュレーブの姫エリュティア、フローイ国
の姫リーミル、希望と好奇心に満ちてアトランティスにやって来た
アテナイ軍の若き武将エキュネウスが出会いと一時の別れを経験し
ます。
第二部では、繰り返される戦の中で、彼らが再び出会いを果たし
ます。アトラスとエリュティアどちらも未だ堅い殻に閉じこもって
いた二人が、第二部では自分の本当の姿に目覚めてゆきます。
でも、それは苦難の道のりでした。相次ぐ戦場で、アトラスは自
分を支えてくれた者たちを失ってゆきます。その者たちが託した平
和や統一の思いをトラスは背負います。神に対する反逆児、殺人鬼、
破壊者、数知れぬ憎しみや蔑みの言葉がアトラスに投げかけられる
中、たった一人、敵だったエリュティアが彼を支えることになりま
す。
そんなアトラスとエリュティアを物語の最後まで見守ってやって
ください。
2
プロローグ︵前書き︶
<i156021|14426>
3
プロローグ
<i146110|14426>
アトランティス大陸中央に、肥沃な穀倉地帯を支配するアトラン
ティス最大の国家シュレーブがある。エリュティアという少女は、
その国で王女として生まれた。王家の者の愛情はもちろん、国民か
らも敬愛されて育った。愛らしく従順で、男性が女性に求める美徳
をすべて有している。
ただ、傍らに侍る乳母のルスララは、幸福に包まれているはずの
エリュティアが時折不憫に見える。エリュティアは生まれて15歳
の今まで、周囲から慈しまれる以外の環境はあり得なかった。とこ
ろが、この1ヶ月ほどの間、政略結婚の道具として、アトランティ
スから離れた東の島国ルージに嫁がされる話が出たかと思うと、そ
の話もエリュティアの心を不安でかき乱しただけですぐに消えた。
王宮の窓から東の方を眺めていたエリュティアは、ルスララを振
り返って首を傾げた。
﹁お父様は、誰と戦うというのです?﹂
その辺り、心が混乱したエリュティアばかりではない、乳母のル
スララにも男たちの真意が図りかねた。
堅く口止めされて誰にも話しては居ないが、ルージ国がアトラン
ティスを占領するアテナイ軍を排除するという名目の裏で、アトラ
ンティス9ヶ国を統合する神帝を暗殺したという。その首謀者はエ
ロゲル・スリン
リュティアが政略結婚で嫁ぐはずだったルージ国の王子アトラスで
ある。
神帝を支える諮問機関の六神司院が、アトランティスの反逆者た
るルージ国と、ルージ国と共に反旗を翻したヴェスター、グラト国
討伐の宣史をこのシュレーブに遣わし、国王はそれを受け入れて、
4
ルージ、ヴェスター、グラトの3ヶ国討伐の兵を挙げる。
ところが、男どもの口から発せられる言葉は、アトランティスを
束ねる宗教都市シリャードを占領する蛮族アテナイ軍を駆逐してア
トランティスを解放するということばかりである。
なにか、敵と味方の判別がつきずらい。
ルスララの後ろに控えるように黙って立っていた教師ドリクスは
ゆっくりと進み出て尋ねた。
﹁エリュティア様は、お父上を信じておいでかな?﹂
エリュティアは教師の言葉に素直に頷いた。ドリクスは言葉を重
ねた。
﹁では、このシュレーブ国と人々の幸福も信じておいででしょう?﹂
エリュティアはもう一度頷いたのを見たドリクスは、それがすべ
ての結論であるかのように断言した。
﹁それでは、先のことは真理の神ルミリアと運命を司るニクススに
お任せあれ﹂
何も考えず、なすがまま運命に身を任せよと言うのである。教師
としてのドリクスはこの素直な生徒が幼い頃からそう教育してきた
し、この生徒の素直さを愛していた。ただ、王の元に侍る謀臣とし
て、エリュティアが首を傾げる敵とも味方とも付かぬ状況を進言し
たのも彼である。
エリュティアの父がこれから戦うルージ国の兵士は、精強な事で
知られていた。その兵士を率いる数々の将の名も勇猛さで他国に鳴
り響いている。何よりそれらの将兵を統率するリダル王は、アトラ
ンティスの人々からも鬼神のように恐れられていた。今、その将士
を敵にすると知れれば、シュレーブ軍はルージ軍を上回る軍勢を有
するとはいえ、怯えに似た動揺が広がるに違いない。シリャードを
占拠する野蛮人どもを駆逐するという名目を与えておけば、兵士た
ちの士気もたかまるだろう。そして、真の戦いが始まる前、神帝が
5
ルージの手先によって暗殺されたことと、この戦が裏切り者ルージ
国を討つ正義の戦いだと宣言すれば、兵士は士気を保ったままその
刃をルージ国に向けるだろう。敵がルージ国だと事実を伏せている
のは、そういう意図である。
しかし、乳母ウスララのの見るところ、ドリクスの言葉にもかか
わらず、エリュティアの心は晴れぬらしく、小さく何かを呟いてい
た。
﹁あのお方が⋮⋮﹂
真理の神ルミリアと聞いて、エリュティアは思い出す人物が居た。
自分が嫁ぐ相手だというイメージを植え付けられつつ、東の島国の
王子アトラスと引き合わされたときのことである。真理の導きとは
何か、それを問うアトラスに彼女は答えられなかった。彼女の脳裏
にそのときの言葉のやりとりが鮮やかに蘇った。
﹁私の運命を定めるのは、私自身です﹂
﹁では、人に神の導きは不要だと仰るの?﹂
﹁私は自ら運命を切り開きます。エリュティア、妻としての貴女の
進むべき道も示しましょう﹂
﹁神々のご威光を知らないのは傲慢ではありませんか﹂
﹁いいや。神に運命をかき乱されてたまるものか。エリュティア、
私に貴女の運命を託しなさい﹂
そんな会話とともに思い起こされるアトラスの力強さと驕慢さ。
ただ、不思議なことに、そんなイメージが最後に出会ったときには
一変していた。
﹁リカケー︵月の女神︶の涙と申します。涙とともにあなたの心が
癒され、心の平安が訪れますよう﹂
そんなアトラスの言葉と共に手渡された涙の形をした真珠は、あ
の王子が驕慢さの裏で流した涙のように思えた。あの時の王子の澄
んだ目だけが、今のエリュティアに平穏をもたらすようで、彼女は
密かにその真珠をうけとった時のまま、大切に身につけていた。
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︵あの方は、本当に救国の英雄なのでしょうか。それなら、私は⋮
⋮︶
エリュティアはそんな思いを口にせず飲み込んだ。アトラスが居
るのは窓に広がる視界の遙か向こう、海の上である。
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ルージにて1
まぶしい朝日が輝く水平線の先に、まもなく、この船の人々の故
郷が見えてくるはずだった。
アトラスたちがアトランティス本土から、その東にあるルージ島、
アトランティス諸国の中で唯一、本土を離れた島国ルージに戻って
きたのは、アトランティス本土中央に位置するシリャードを発って
10日目の事である。
古くは幾多の国々が覇権を争ったアトランティスは、宗教都市シ
リャードにおいて、彼らが信奉する真理の神ルミリアの下に一つに
まとまり、年に一度、各国国王はシリャードにおかれたアトランテ
ィス議会に集うのである。その議会が今年はアテナイ討伐を宣言し
たルージ国王リダルの発言で終わりを告げた。
やがて、島が水平線に浮かび上がるように見えてきた。船上から
眺める父のリダル王がアトラスの傍らにいた。もともと無口で厳格
な父親だが、アトラスには戦を前にその視線に厳しさを増している
ようにも思えた。
ただ、アトラスは気づいては居ないが、アトラスを眺めるときに
リダルの視線が僅かながら和らぐことがある。アトラスが父親のリ
ダルに呼ばれてアトランティスを統率する都市国家シリャードに向
かい、いま父親とともにルージに戻るのは一ヶ月目である。この一
ヶ月で、息子は新たな経験をし成長を遂げたように感じられる。厳
格な王がわずかに息子に見せた愛情だった。
﹁良いか、アトラス。我らは4週間後には兵を率いてルージを発つ。
シリャードに立てこもるタレヴォー︵異境の野蛮人の意︶どもを蹴
散らしてくれる﹂
﹁その時には、是非とも先鋒を賜りたく﹂
8
アトラスは父の戦で、先陣を切って勇敢に戦って見せたいと言う
のである。父親は何も語らなかった。ただ、いよいよ港が近づいた
ということを教えるようにじっと前を見据え他だけである。
9
ルージにて2
﹁では、万事、手はず通りに﹂
港に入った船を下りて用意された馬に乗り換えたリダルは、配下
の者どもにそんな短い命令を発したのみである。王はわずかな従卒
を従えただけで、王都に戻る隊列を離れて、海岸縁の街道を北に向
かった。20日後の挙兵のために成すべき事が多い。そんな忙しい
時期である。リダル王は息子のアトラスにさえ北に向かう説明をし
なかった。もともと無口で頑固な性格で、配下に説明を求められる
のを嫌う。アトラスはそんな父の後姿を見送るしかなかった。ただ、
配下の者どもが王の行為に不安を漏らさないのは、王に対する忠誠
以上に、人としての信頼といえた。
アトラスは突然に笑顔を浮かべた。
﹁ああっ、アレスケイア。私が居ない間も元気にしていたか﹂
アトラスは王都からの迎えの人々の間に愛馬アレスケイアの姿を
見つけて、愛おしそうにその鼻面を撫でた。アレスケイアもまた、
一月ぶりの主人との再会に興奮して、荒い鼻息で主人に撫でられて
いた。
﹁おおっ、我らより仲の良いことだ﹂
アトラスとアレスケイアの姿を眺めたラヌガンはそう評した。ア
トラスに仕え、将来王となるアトラスを支える近習の一人である。
他の近習たちも声をそろえて王子と愛馬の仲の良さを褒め称えるよ
うに笑顔を浮かべた。
しかし、アトラスが心に秘めた悩みを打ち明けることができるの
が、この物言わぬ愛馬だけだと言うことを知る者は、近習の任を解
かれてシリャードに残ったザイラスのみである。
もともとアトランティスには、馬という動物は居なかった。先の
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大戦で海を渡って周辺諸国に攻め込んだアトランティスの人々は、
そこで初めて、住人たちが利用する馬という動物を知った。アトラ
ンティスの保守的な人々の中には、未だにこの動物に不安や嫌悪感
を持つ者たちもいるが、ルージ島の人々の気性には馬がよく合った。
この地では最初に持ち込まれた数十頭が、今や千数百頭に増えてい
て、荷物の運搬や乗馬に広く人々の生活に密着していた。
︵どんな戦だったのだろう︶
若者たちはそんな動物よりも、老人が思いで話として語る戦場を
舞台に、自分の姿を当てはめて胸を踊らせていた。ただ、最初は勢
いもよく占領地を広げたアトランティス連合軍も、やがて国力を失
い、負け戦に転じた。その戦いの悲惨さを、青年たちが思い浮かべ
ることはなかった。国力を失い、兵力も減じたアトランティスは、
アトランティス9カ国を統べる10番目の国家であり、宗教の中心
地でもある都市国家シリャードに、アテナイを中心としたギリシャ
諸部族の軍の駐留を認めるという屈辱的な条件で講和した。いまの
アトランティスの中央には2000人にも及ぶアテナイ軍が駐留し
つつ、アトランティスを監視下においている。アトランティナ︵ア
トランティス人のこと︶にとって屈辱的なことに、真理を司る太陽
神ルミリアを信奉する彼らにたいして、アテナイ人たちは毎年夏に
行われる自分たちの神の祭りに朝貢を求めていた。
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ルージにて3
ルージ王国のリダル王は、アトランティスを構成する9つの国王
が集まる議会の席上、アテナイ軍と戦い、アトランティスから駆逐
すると、ほかの王たちに宣言し、兵を整えるために母国に戻ってき
たのである。アテナイ軍はルージが動員できる7000人の兵力に
比べれば僅かで、アトランティス側の勝機は大きいが、アトランテ
ィスの聖域に立てこもるアテナイ軍との戦いで聖域が荒れ果てるこ
とを危惧する者たちもいた。何より、アテナイの2000の兵を駆
逐しても、その後にやってくるギリシャ諸部族の大兵力との戦いは、
長期に及ぶに違いないと考えていた。この大地は戦乱で荒れ果てる
かも知れない。独立の希望と同時にそんな大きな不安がわだかまっ
ていた。
様々な希望や不安を抱えながら、隊列の先頭を行くアトラスに、
王都バースの町並みが見えてきた。
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ルージにて3︵後書き︶
◆◆初回掲載 あとがき◆◆
この物語は、名前のある主要な登場人物だけでも百人以上登場し、
その中のアトラスとエリュティアを軸に物語が展開します。戦乱と
各国の興亡、人々の活躍を丁寧に描きたいところですが、物語がな
かなか進展せず、読んでくださる皆さんの興味も薄れてしまうので
はないかと危惧しています。
そこで、この物語の中で繊細な恋愛要素の描写は最小限にして、
ダイナミックな戦闘シーンを中心にして話を進めようかとも考えて
います。
もし、この物語を読んでいただいて、例えば、グライスとフェミ
ナ、ロユラスとタリア、これから登場するエリュティアの忠実な侍
女ラスクーナとアテナイの若い武将エキュネウスとの恋など、物語
を彩る人々の恋愛や友情までじっくり描いた方が良いなど、アドバ
イスや感じたことをお聞かせいただければありがたいです。
物語が大きく動き始める、初戦ネルギエの戦いまで頻繁に更新。
その後は1週間に一度程度の更新になると思います。
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ルージにて4
王都バースの中央にある王家の者たちの住まいは、城と言うより
館と言うに相応しい。20年前に対岸のヴェスター国からルージ国
のリダルに嫁いできたリネが、この都には城もないのかと驚いたと
いうエピソードがある。しかし、そのリネも今はこの国の王妃とし
てこの館に落ち着いていた。
ルージを訪れる賓客が、この王の館を密かに﹁女の館﹂と称する
ことがある。リダル王は厳格だが、衣食住の生活についてはさほど
興味がない質で、この館の生活習慣はリネの婚礼にヴェスター国か
らやって来た侍女団が取り仕切っており、最近はその女たちが政治
にまで口を差し挟むと言うことである。
都に戻ってきたアトラス一行を、館の門で出迎えたのは、そんな
女たちだった。
﹁母上、ただいま戻りました﹂
﹁おおっ。私の息子、アトラスよ。少し見ない間に一段と逞しゅう
なった﹂
﹁母上こそ、ご健勝そうで何よりです﹂
﹁さあ、中でシリャードでの土産話でも聞かせておくれ﹂
アトラスは息子の自分の腕を取って放そうとしない母親を不憫に
思った。この女性にとって、息子である自分だけが心の支えなので
ある。
リネが大陸の東北に位置するヴェスター国から海を隔てたこの島
国に嫁いできたのは僅か十四の少女の時だったという。二十人の従
者とともに来たとはいえ、どれほど心細かっただろう。心の支えと
なるべき夫リダル王子は、結婚して一年もたたないうちに、父親と
ともに海外に遠征した。残されたリネは生死も分からない不安を抱
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えたまま、夫を待ち続けた。しかし、二年後に帰ってきた夫は異境
の女を連れて戻り、その女は夫の子供を身ごもっていた。
遠征で王が亡くなり、息子のリダルが王位に就き、リネも王妃の
身分になった。異境の女が出産したのはその頃のことである。
︵夫の愛が異境の女に奪われた︶
リネはそう信じた。その後、彼女自身も身ごもり、アトラスを出
産した。先に生まれた子供は母が異境の蛮族の娘だという理由で王
位継承権はなく、次のルージ国王位はリネの息子アトラスに与えら
れる習わしである。しかし、夫の愛が得られないという悲しさを、
アトラスの母リネはずっと持ち続けていた。
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ルージにて5
﹁あとはのことはお前たちに任せる﹂
母親にシリャードでの土産話をするために、アトラスはラヌガン
たち近習にそう言い残してリネの居室へと消えた。その物言いが、
港で姿を消したリダル王の言い方と同じで、ラヌガンたち近習たち
を笑わせた。彼らが仕えるアトラスは、時折、自信なさげな様子も
見せるが、間違いなく勇猛果敢なリダル王の血を引いている。
﹁ザイラスが聞けばどう言うだろう﹂
近習の一人テウススが、この場にいない仲間の名を口にした。ザ
イラスは仲間の中でも年長で、アトラスに対して兄のように見守り、
時に厳しく叱責をすることがある。アトラスが最も信頼する近習だ
った。今は近習の身分を解かれて、シリャードにあるルージ王の邸
宅で留守居役を補佐している。各国との折衝の役割も担う重要な地
位で、それを任せたリダル王の信頼の厚さが伺えた。
ただ、そのザイラスが、アトランティスに渦巻く陰謀に巻き込ま
れて、既に殺害されたことを、この時期のアトラスたちは知らなか
った。
16
ルージにて6
﹁フローイ国のリーミル姫と、シュレーブ国のエリュティア姫。お
二人のご様子はどうであった?﹂
リネの一番の関心事は、アトラスが嫁に迎えるという姫のことだ
った。アトラスが苦笑いをしたのは、その話題のことなのか、アト
ラスがシリャードで政略結婚の為に出会わされた姫の名を、既にこ
の館の女たちが知っていることなのか、どちらか自分でも分からな
かった。この館で権力を振るうリネの歓心を買うために、リダル王
やアトラスの身辺のことを事細かくリネに注進に及ぶ人々が居る。
アトラスの身の回りの出来事は母に筒抜けだった。彼は母親の監視
下で生きているようなものだった。アトラスは話題を避けるように、
ありきたりな言葉で返事をした。
﹁どちらも、見目麗しい方々でした﹂
﹁それで、兄様としては、どちらを選ぶおつもりなの? リーミル
様、それとも、エリュティア様?﹂
そんな言葉で口を挟んだのは、アトラスの妹ピレナである。ピレ
ナはあっけらかんとした笑顔で言葉を継いだ。
﹁私の希望としてはエリュティア義姉様と言うところかしら。嫁い
でこられれば私がいろいろな事を教えて差し上げられて仲良く出来
そう。リーミル様は私と性格が合うか反駁するか2つに1つ。危険
な賭ねになるわね﹂
ピレナはまだ出会ったこともない二人の女性の性格まで聞き知っ
ていた。アトラスは身辺の情報が筒抜けになっている自分を笑うか
のように、苦笑いで妹に言葉を返した。
﹁何、心配はいらぬ。私の結婚前に、お前など、ゲルト国の片田舎
の貴族にでも嫁がせてやる﹂
17
﹁ひどいわ、厄介払いをするつもりなの﹂
普段は陽気なピレナがやや表情を曇らせた。アトラスは妹の表情
にその心の底を探るように尋ねてみた。
﹁お前は、すでにこのルージに誰か思いを寄せる男でも?﹂
そんな兄の言葉にピレナはとまどうように口ごもったため、アト
ラスは話題を変えた。
﹁今の私にあるのは、目の前の戦のことのみ﹂
﹁おおっ、アトラス。よう言うた﹂
母のリネはそんな言葉で息子を褒めた。勇ましい言葉は何よりリ
ダル王を喜ばせるだろう。アトラスは母に褒められたことを喜ぶふ
りしながら、内心は冷静に母親の姿を眺めていた。アトラスが父の
歓心を買うほど、父の視線はその母のリネにも向く。リネは異境の
女に奪われた夫の愛を奪い返すこともできるかも知れない。アトラ
スは母のため、父の歓心を買うべく努力して生きてきた。アトラス
が自分の本当の姿をかいま見せるのは、愛馬アレスケイアとの遠乗
りの時に、愛馬と交わす言葉の中だけである。
王が蛮族を駆逐する兵を挙げるという通達はルージ島全域の領主
たちに届いている頃で、まもなく各地の領主は兵を率いてこの王都
に参集する。
18
ルージにて6︵後書き︶
次は、舞台はシュレーブから美しい姫フェミナを迎えて、次の王グ
ライスの結婚でにぎわうフローイ国に移ります。
19
フローイ国・戦乱の予兆1
同じ頃、アトラスたちの話題に上ったフローイ国のリーミルは、
居室の窓から聞こえる賑やかな声に誘われて外を眺めた。弟グライ
スの婚礼を祝う人々でにぎわっているのである。
フローイ国はアトランティス大陸北西部に位置する大国である。
山岳地帯が多く農作物には恵まれないが、豊富な銀を産出する鉱山
に恵まれて経済は潤っている。人々は頑固で質朴だが、手先は器用
で、フローイで作られる銀細工の見事さは大陸の隅々に知れ渡って
いた。
今、この国は普段の質朴な人々の雰囲気が一転して華やかで、現
在のアトランティスを象徴する行事が行われようとしていた。アト
ランティス中央に位置する大国シュレーブから、王族の血を引く貴
族の娘フェミナが、このフローイの若き王子グライスに嫁いできた
のである。
フローイ国とシュレーブ国は、それぞれの王家の姫をルージ国の
王子アトラスに嫁がせて勢力を拡大しようと計っていた。しかし、
同時にフローイ国とシュレーブ国は互いに互いに相手から攻められ
ないよう手を結ぶことも忘れては居なかった。
平和的に結びつきを深めようと言うことではない。相手の裏をか
き、自国の勢力を拡大する機会を窺うために、表面上の結びつきと
笑顔が必要なのである。この時には、フローイ国王子グライスと、
シュレーブ国のフェミナが、国家の道具に使われたと言えるかも知
れない。
20
フローイ国・戦乱の予兆2
誰かの気配に気づいて振り返ったリーミルの目に、フローイ国全
土を挙げたお祭り騒ぎの主賓の姿を見つけた。グライスは衣装こそ
花婿に相応しいきらびやかな衣装を身につけていたが、浮かべる表
情は笑顔ではない。漂わせる雰囲気は生真面目で、まるで鎧を身に
つけ腰に剣を帯びているかのようだった。
﹁あら、花婿が美しい花嫁の側にいないでどうするの?﹂
リーミルの優しく叱るような口調に、グライスは少し黙っていた
が、やがて決意を口にした。
﹁姉上、私はアトラスを討たねばなりません﹂
﹁グライス、優しい弟﹂
そう言ってリーミルは優しく弟の肩を抱いた。グライスはシリャ
ードでの姉とアトラスのいきさつは聞き知っている。そして弟とし
て、帰国してからの姉の様子を眺めれば、アトラスに対する好意と
もつかぬ感情をにじませていた。ただ、自分はフローイ国の武将と
して、たとえ姉の思い人であろうと討たねばならないというのであ
る。
リーミルは壮麗な婚礼の席上で、祝福を受ける弟が何故か浮かぬ
顔で、心に何かのわだかまりを持っている事に気づいては居たが、
その理由を窺い知ることが出来なかった。結婚したばかりの新妻を
残して戦に出ることかとも考えていたが、アトラスに思いを寄せる
姉に対する思いやりだとは気づかなかったのである。
﹁いいわ。戦場では思う存分、暴れていらっしゃい。でも、今は花
嫁に優しくしてあげて﹂
21
祝宴にて
グライスとフェミナ、新婚の夫婦は、婚礼の主要な儀式を終えた
とは言え、二人の門出を祝うはずの席に主役の花婿の姿が無くとも、
人々は盛り上がって酒を酌み交わしあっていた。この婚礼の真の目
的が若い二人の結婚を祝福する為のものではないことを象徴するか
のようだった。
フェミナは育ちの良さを物語るように、祝福を受ける席で不愉快
な表情は見せては居ないが、時折うつむくような角度でかいま見せ
る表情は我が身の不幸を悲しんでいるようにも見える。酒の酔いを
覚ますという名目で席を離れていたリーミルが、いつの間にか姿を
消していたグライスを連れて戻ってきたが、新婚の夫の姿に、フェ
ミナは緊張感を漂わせただけで笑顔は見せなかった。
そんな二人にかまう様子もなく、宴席の人々の会話は弾んでいる。
今もまた、酒で顔を赤くしたシュレーブ国からの使いのルカゴスが
杯を掲げて叫んだ。
﹁フローイ国とシュレーブ国の行く末を祝福して!﹂
杯を煽り、テーブルの上の酒が入った壺を片手に、宴席の人々を
かき分けてボルスス王に歩み寄った。
﹁偉大なるボルスス王にも乾杯⋮⋮そして、戦での我らが聯合の勝
利を祈って﹂
そんな言葉に、賓客をむげに扱うこともできず、ボルススも笑顔
で杯を掲げて見せた。
﹁いや、今は我が国の若き王子と、そなたの国の姫君を祝ぉうてや
ってくだされ﹂
﹁おおっ、謙遜を。この国の反映と安泰も、ボルスス王の庇護の元
にあればこそ。我々が手を組めばルージ国のリダルなど⋮﹂
22
﹁いやはや、とんでもない﹂
ルカゴスはそんなボルススの言葉には興味がない、本心をちらり
と伺わせる質問をした。
﹁して、ご出陣はいつになさるおつもりかな?﹂
ルカゴスは人の良さそうな笑顔の中で目だけは素面の真剣にそん
な質問をした。ボルススは宴席を広く見回すように、ルカゴスと視
線を合わせず笑顔で答えた。
﹁いや、ルカゴス殿。今は孫の婚礼の席。そのような無粋な話は止
めにしてくだされ﹂
隣国からの使いと祖父の会話をリーミルは横目で横目で眺めなが
ら油断無く聞いていた。シュレーブ国とフローイ国に神帝を暗殺し
たルージ国に討伐の勅使が遣わされている。シュレーブ国のルカゴ
スは、婚礼の祝福の使者を装って、フローイ国が兵を挙げる時期を
探りに来ているのである。ただ、老獪なボルスス王は出兵時期の明
言を避けている。ルカゴスが更に回答を迫ろうとしたのを見て、リ
ーミルはルカゴスに割り込むように祖父に声をかけた。
﹁お爺さま。そろそろ宴席もお開きのようだわ﹂
リーミルが指さす先に新郎新婦の姿があった。
フェミナは緊張感を漂わせながら、来客に軽くお辞儀をし、侍女
に手を引かれて宴会の場を辞して寝所へと姿を消した。やや遅れて、
グライスもまた、酒の杯を置いて立ち上がった。やや緊張感があり、
杯を手にしていたも酔っている気配はなかった。リーミルは宴会の
場を辞するグライスの背を優しく見送った。婚礼の儀の後、人々の
祝宴を経て、この夜に新郎新婦の二人は寝所で初めて結ばれる習わ
しである。リーミルと弟グライス、そしてこの日、彼女たちの家族
となるあの娘フェミナも、この世界の複雑な情勢の中で運命をかき
乱される。間もなく、人々の運命が大きく動き出す戦を迎える。グ
ライスも初陣を果たすだろう。せめて、この一夜だけは、弟と義妹
の静かな愛が存在するよう祈ったのである。
23
この都カイーキは﹁月の都﹂と称される。その都に静かに月の光
が降り注いでいた。
24
新婚の二人︵前書き︶
国民たちも敬愛する王子の祝宴。もっと丁寧に描写すべきだったか
も知れません。もっとじっくり読みたいという方が多ければ、祝宴
のエピソードも改めて挿入してゆく予定です。でも、今回は話を進
めます。
25
新婚の二人
結婚式の明くる日。まだ前日の賑やかな余韻がさめては居ない。
しかし、質朴な気質を持った人々のこと、既に生活は平穏を取り戻
し始めている。王の館では王家の者たちがそろって朝食を取るのが
習わしである。この朝の食事は、新婚の二人をおもんばかってやや
遅い時間に設定されてはいたが、王ボルススと孫娘リーミルは既に
食卓についていて、テーブルの上の果実をつまんでいた。
﹁それで、お爺さまは、ランロイにお戻りになるのね﹂
リーミルが言ったランロイはフローイ国の古い都である。フロー
イ国で夜に張り巡らされる陰謀という意味を込めて、他国からフク
ロウの巣とも呼ばれている。いまから23年前、今回の婚礼を思い
起こさせる出来事があった。ボルススは息子のグラムスにシュレー
ブ国から姫ティルマを迎えたのである。自分は老いたと称して息子
のグラムスに王位を譲った。この時代に存命中ら王位を息子に譲る
というのは珍しい。しかし、ボルススにとって見れば、シュレーブ
国の姫を后に迎えた息子が王位に就いているというのは、フローイ
国とシュレーブ国の結びつきを喧伝し、他国を畏怖せしめる効果が
ある。もちろん、彼は実権を手放したわけではなかった。父親が息
子に政治や人生のアドバイスをするという形を取って、息子のグラ
ムスを操っていた。
新都建設が誰の発案だったのか明らかになっては居ない。形の上
ではリーミルの父グラムスが新都を建設するという宣言をした。そ
うやって、フローイ国の潤沢な財政をつぎ込んで作られたのが現在
の都カイーキである。周囲の森と東のイロット山系から流れ下る幾
筋かの川が流れ込む湖の畔にあって、都を囲む景色が美しく、建設
されたカイーキもまたその景色の一部に溶け込むかのように調和し
ていた。
26
実務的なボルスス王の見たところ、息子の目に狂いはなく、この
都は美しいばかりではなく、このカイーキに至る街道は山岳地帯の
隘路を通らねばならず、他国から攻めにくい位置にある。
ただ、この時のボルススは古い都ランロイに戻るということを、
顔をしかめて別の理由で述べた。
﹁ああ、ここに居れば、ルカゴスたちに出陣の時期をしつこく問い
詰められ続けるに違いないからな﹂
﹁たしかに、しつこそうな男ね﹂
今回の婚礼の席に、ルカゴスというシュレーブ国の貴族が祝いの
品を持って参列している。婚礼の祝福という名目で、フローイ国が
兵を挙げたルージ国討伐の軍を起こすつもりがあるのかどうか探り
に来ているのである。もちろん、彼は軍を動かすつもりで居る。た
だ、他国に指図される気はない。大陸の東に位置するルージが、大
陸中央のシリャード攻略の兵を送るとすれば、その軍は間違いなく
シュレーブ国を通る。シュレーブ国はフローイ国に先立ってルージ
国との戦を始めざるを得ないのである。
︵しばらくは様子を見ておけばいい︶
そんなボルススの意志を、傍らのリーミルは祖父の表情から正確
に読み取っていた。ただし、各地の領主に戦支度をしておけとの使
者は遣わせてはいる。次の使者を遣わせば10日とたたぬうちに、
数千の兵士が集まるだろう。
ボルススの意図を読み取ろうとするかのように、祖父の横顔を観
察するリーミルに、ボルススが聞いた。
﹁お前はどうするのだ?﹂
﹁私もお爺さまとランロイに﹂
リーミルは素直にそう言って笑った。彼女は血筋と言うことを考
えた。弟のグライスの無口で頑固な性格はフローイ国の人々の気質
を持っているが、このカイーキの都の煌びやかさもよく似合う。そ
ういう意味でグライスはシュレーブ国から嫁いできた母の血を強く
受け継いでいるようだ。しかし、リーミルは生まれ育ったこの町よ
27
り、田舎くささの残るランロイの町が好きだった。そういう辺り、
彼女は祖父の血を色濃く受け継いでいるのかも知れない。
28
愛と謀略と
﹁長い大戦になるやもしれぬな﹂
祖父が冗談とも本音ともつかない口調で言った言葉に孫娘が即答
した。
﹁でも、お爺さまは短く終わらせるおつもり﹂
﹁儂の心を読みおるのか。では、儂の次の一手は?﹂
﹁強い者から討つのでは? でも、損害を被るのは私たちではなく
てシュレーブであって欲しいわね。私たちはシュレーブが北方から
来るルージ・ヴェスター連合軍を討つお手伝いを。でも、一番手柄
は私たちに転がり込んできそうな気がするわ﹂
うまく立ち回れば、兵の損耗はシュレーブ国に負担させ、フロー
イ国は勝利の実利を得ることもできるだろうというのである。事実、
この後の情勢は彼女が語ったとおりになる。ボルススは孫娘の回答
に満足するように質問を続けた。
﹁その次は?﹂
﹁シュレーブ国は南から来るグラト国とも戦っているはず。最初の
戦場で一段落つけば、私たちはそこを救援にいくの、時間をかけて
ね。戦場に着く頃には、シュレーブもグラトも疲れ切っているんじ
ゃ⋮⋮﹂
リーミルはそこまで言いかけて口ごもった。侍女頭にかしづかれ
て新婚の二人が姿を現したことに気づいたのである。美しい新婦は、
シュレーブ国から大勢のお付きの者を伴って輿入れをしてきた。新
婦にその意識かあるかどうかは分からないが、シュレーブ国はその
者たちの中に密偵を忍ばせて、フローイの内情を探り出そうとする
だろう。もし、そういう役目を背負うとしたら、フェミナの背後に
忠実に控える侍女頭もその一人である。
リーミルは祖父との血なまぐさい話題を即座に変えて、二人に笑
29
顔で声をかけた。
﹁今、二人の仲のよい様子を、お爺さまと噂をしていたところなの﹂
リーミルの言葉に、グライスは戸惑うように妻を眺めたまま黙り
こくった。新婚の妻のフェミナは、硬い笑顔で会釈を返しただけで
ある。ボルススは笑顔を浮かべてはいたが、新婦の腰のあたりを撫
でるかのように念入りに眺め、素直に不満そうな本音を吐いた。
﹁なんと言うことだ。まだ、未通娘︵おぼこ。処女のこと︶ではな
いか﹂
もちろん、傍らのリーミルにやっと聞き取れるほどの呟きである。
リーミルは朗らかに笑った。祖父は、女など初夜の内に自分の所有
物にしてしまえと言いたいのである。リーミルの見立てでも、新婦
の足取りは滑らかで、初めて男と体をかわした女の危うさはなかっ
た。何より、妻が夫に甘える様子もなければ、夫が妻を気遣うのに
も慣れてはいない。どこかよそよそしい気配が夫婦を隔てていた。
長いテーブルの上座にボルススが座り、右にリーミルが居る。ボル
ススは手招きをしてテーブルの左側、リーミルの正面の席に二人を
招いた。ボルススは不満そうな表情を消し、人の良さそうな老人の
笑顔である。
﹁仲の良さそうな様子に、この爺の孫の顔が浮かぶようじゃわい﹂
そう声をかけるボルススの視線が、グライスの表情を撫でた一瞬
のみ、冷静で計算高い色を帯びていた。さっさと跡継ぎを生ませる
のだぞと要求しているのである。
﹁さあ、さあ﹂
リーミルが打ち鳴らす手の合図で、給仕が運んできた朝食の料理
と皿をテーブルに並べた。数枚の空の深皿が目の前に、テーブル中
央の大きな皿に盛ったパンやあぶり肉や果物。新婦のフェミナは背
後の侍女頭を困惑した顔で振り返った。シュレーブからフェミナに
付き従ってきた侍女頭もやや戸惑いを見せた。
シュレーブでは王侯貴族の食事はメニューごとに一人分づつ供さ
れる、テーブル中央の大皿から自分で分け取って食べる習慣はない
30
のである。新婦の戸惑いに気づいたグライスは新婦の目の前の皿を
手にし、拳大の大きさのパンを数個と、炙り肉を大きな木の匙で三
すくい、野菜の酢漬けを二すくい、別の皿から幾つかの果物を添え
た。
﹁自分で、好きなものを、この皿にこうやって取り分けて食べるの
だ﹂
グライスはそう言って、その皿を新婦の目の前に置き、山羊の発
酵乳を新婦のカップに注いだ。新婦は夫のなすがまま受け入れてい
るようだったが、困惑が隠せない。仲の良い家族が食事をする光景
なのだが、フェミナの生まれでは、身分の低い者どものすることで、
家族とはいえ貴族がほかの誰かに食事の皿に料理を移すことなど考
えられないのである。常に食事の傍らに侍る給仕の者がそれをする。
そして、新婦は山盛りになった料理の分量にも怯えるような気配を
見せた。
リーミルは笑いながら言った。
﹁グライス、優しい弟。その山盛りの皿は私に回してちょうだい。
新婦はまだ旅と祝いの席の疲れが残っている様子。食事は軽めに。
パンを一つ、炙り肉とナミッツ︵酢漬けの野菜︶を少し、果物は姫
のお好きに﹂
グライスが姉の指示に従おうとしたのをフェミナが立ち上がって
制した。
﹁お気遣いは無用に。自分でいたします﹂
そう言ったものの、下々の者どものすることをしなければならな
いという屈辱感もにじませている。新婚の夫はどう手助けして良い
か戸惑うように黙って妻を傍らで眺めていた。リーミルはそんな弟
に指示をした。
﹁グライス。姫には、水で割ったワインをさしあげて﹂
フェミナがカップに注がれた山羊の発酵乳の香りに眉を顰めてい
たのに気づいて居たのである。フローイの人々には普通の朝食の飲
み物だが、味と香りにやや癖がある。どろりとした喉ごしも気にな
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るかもしれない。香り付けにワインを入れた水なら、シュレーブ出
身者でも気にせず飲めるだろう。
細やかな配慮をしつつ、リーミルの心は別にあった。弟の妻に対
する不慣れな態度に、あの女に不慣れなルージ国のアトラスの姿を
思い出していたのである。まもなく、フローイ国はアトラスのルー
ジ国と剣を交える。その時、あのアトラスをほかの誰かに殺させた
くはない。殺さねばならないなら自分の手で⋮⋮。そんな残忍な愛
がリーミルの心をよぎっていた。
国王ボルススは、そんな家族の食事の光景を終始機嫌の良い笑顔
を浮かべて眺めていた。その祖父の笑顔を途絶えさせるように、唐
突にグライスが声を上げた。
﹁それで、私の出陣は?﹂
これから始まるはずの戦がいつ始まるのかと問うているのである。
食事の場に似つかわしくない話題だった。リーミルはパンを千切る
手を止めて、ボルススの様子をうかがい、それから、その視線をさ
りげなく正面に移した。グライスの表情は真剣で、フェミナはただ
戸惑いの様子を見せていた。しかし、フェミナの背後に控える侍女
頭の目は、話題を一言でも聞き逃すまいと緊張感を見せていた。
ボルススはその侍女頭にも聞こえるように、優しい祖父の体を繕
って語りかけた。
シリャード
﹁その話は、まだ良いではないか。婚礼の祝いも、まだ明けてはお
らぬ。聖都に使わした弔問の使者もまもなく戻って参ろう﹂
﹁しかし、出陣の準備が﹂
弟の言葉を制するようにリーミルが優しく言った。
﹁出陣はニクスス︵運命の神︶にお任せなさい。今はフェイブラ︵
愛の神︶が、貴方たちを見守っているわ﹂
ボルススはグライスをなだめるように、しかし、フェミナの背後
にさりげなく注意を配りながら言った。
﹁しかし、我らも是が非でも、シュレーブ国ジソー帝と力を合わせ
て戦わねばならぬ﹂
32
ボルススの考えるとおり、フェミナの背後の侍女頭の目がきらり
と輝いた。ボルススは続けた。
﹁しかし、気がかりは、シュレーブ国のバロドトス殿のこと。ひど
く我らを嫌っておる。我らがシュレーブ軍と合流するのを快くは思
うまいよ﹂
聖都シリャードのアトランティス議会に各国が集い、アトランテ
ィスが統一される前、国境を接するフローイ国と中原の覇者シュレ
ーブは盛んに領土争いを起こした。バロドトスはフローイ国からシ
ュレーブ国へ進入する街道が通る領地を治める領主である。両国の
境にあるだけに常に戦闘の中心となり、領土は乱れ、数多くの者た
ちを戦乱で失っている。更に、フローイにとっては計略の一つに過
ぎないが、今の領主バロドトスの祖父と叔父がフローイ国の闇討ち
で命を失っていた。アトランティスが統一されて20年以上になる
が、今に至るまで、バロドトスにとってフローイは身内の敵の国、
憎しみは増すのみなのである。
﹁我らフローイ国がシュレーブ国のジソー帝の元に駆けつけるとき、
バロドトス殿は我らを快く通してくださるだろうか﹂
ボルススはそう言って思わせぶりに善人らしいため息をつきなが
ら、腹の底では考えている。
︵これで良い︶
まもなく、ルージ国、ヴェスター国、グラト国が、聖都シリャー
ロゲルスリン
ドに巣くうアテナイ軍駆逐のために進軍し始める。アトランティス
の聖都シリャードがシュレーブ国中央に位置するため、六神司院の
詔を受けたシュレーブはその参加国の侵入を撃退せねばならない。
いかに中原の覇者とはいえ、一カ国で三カ国を相手にするのは分
が悪い。必ず参陣をせかす使者がフローイに来るはずである。その
時、侍女頭から情報を伝え聞いていたシュレーブのジソー帝はフロ
ーイ軍のために入り口を大きく開けてくれているだろう。ただ、こ
の時、フローイ国の人々はバロドトスという一領主がフローイの命
運を左右するとは考えては居なかった。
33
都の若者たち
国王リダルは帰国後にふらりと姿を消していたが、兵の参集の触
れは各地に行き届いていて、各地の領主が、二百、三百という兵士
を連れて集まり、集結したルージ軍はすでに三千を超えた。出陣の
日には五千が集まる予定である。
王の館に着陣の挨拶に来る領主たちの対応をするのは、不在の国
王に代わって王妃リネと長子のアトラスの役目である。
﹁大儀である。出陣の日まで、ごゆるりと鋭気を養われませ﹂
そんな、短いねぎらいの言葉かけるリネだが、ここのところ機嫌
が悪い。時に体調が悪いと称してアトラスに対応を任せることさえ
ある。アトラスはそんな母の複雑な心情を察していた。
彼女の身の回りには、彼女がヴェスターから嫁いできて以来、付
き従っている忠実な家臣や侍女がおり、更にその周囲を固めるのは
このルージの都で政務を執り行う文官たちである。ところが、現在、
都に集まってきている領主どもは根っからのルージ生まれでルージ
育ち、しかも、その者たちが先の遠征で王とともに生死を共にして
戦った。ところが、帰国した者どもはまるで異国の魔法にでもかか
ったように、王が異国から連れてきた女の信奉者になっていた。い
まは、その女フェリムネを囲む派閥を形成して、リネの周囲の人々
と対立する。更に、フェリムネ派の連中が裏で画策して、アトラス
を廃して、フェリムネの息子でリダル王の長子ロユラスを次期王位
につけようとしているとささやく者さえいた。
各地の領主が参集することで、武官と文官、ヴェスターとルージ
の血筋、次に戴く王を巡る利害、様々な要因が絡みあって、人々の
思いが混乱している。
そんな混乱も都の中だけのこと、アトラスやその近習の若者たち
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は町の喧噪に浮かれていた。王都は参集する兵士たちを収容する大
きさはなく、領主たちは町の外に陣を敷いている。それでも、町の
中は戦準備に追われて騒々しい。
﹁おおっ。こんな物まで?﹂
ラヌガンが手にしたのは、幾本もの手斧の一つである。切り出し
た木材とともに戦支度の物資として荷造りされかけていたのである。
﹁ラヌガンよ。それはおまえの石頭をカチ割るために要るのだろう
よ﹂
﹁おおっ。この石頭が戦に役立つならそれも本望﹂
王子とラヌガンのやりとりにほかの近習たちも声をそろえて笑い
あった。しかし、率直な驚きを隠してはいない。これから始まる戦
のために用意されている物資の多様さは若者たちの想像を超えてい
た。剣や弓や、膨大な数の矢の束だけではない、戦で破損した甲冑
の皮革をつづくろう大きな針やハサミや膠などの道具、宿営地で木
々を切り出して臨時の柵を作るための手斧など、若者たちには想像
もつかなかった道具の数々が、戦場で必要となるのである。
﹁なにやら、食い物の香りまで﹂
﹁大食らいのテウススが、なにやら嗅ぎ付けおった﹂
﹁笑うな。お前たちとて、昼食はまだだろう﹂
テウススが見つけたのは小さく丸い焼き菓子のような物である。
作業場の中から年老いた職人が焼きたての物を盆にのせて出てきて、
日当たりのいい板の上に並べた。老人は気安く言った。
﹁我が王子よ。ガンバクでございます。兵が戦場で食します﹂
老人が説明を終えるまもなくラヌガンが言った。
﹁いや、私が食するのではない。私の腹の虫が、食べたいと私に無
理強いするのだ﹂
ラヌガンが老人を眺め、老人も食べていいと許可するように頷い
た。一口大の粒である。ラヌガンは素早く口にほおりこんだが、す
ぐに顔をしかめて吐き出して文句を言った。
﹁歯が折れるかと思ったぞ。このような物が食い物だと信じられん﹂
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そんなラヌガンの姿にアトラスたちは笑いあった。入り口から作
業場の奥が見えていた。小麦粉に水や塩や砕いた木の実を混ぜる者
たち、それに魚の脂を混ぜて、足で踏んで体重をかけて練る者たち、
練り上げた生地を一口大にちぎって丸める女たち、丸めた生地を竈
で焼く者たち、その人々の生真面目に汗をかきつつ働く姿を眺めれ
ば、確かに食べ物に違いない。アトラスも一粒つまんで香りをかい
でみた。堅さはともかく食欲をそそる香りである。ただ、魚の脂は
数週間で変質して眉をしかめたくなるほど魚臭さを発するようにな
る事はまだ知らなかった。しかし、堅く焼き上げたガンバクは日持
ちだけは良い。日常生活では全く見かけない兵士の携行食なのであ
る。
﹁これはスープに入れてふやかして食するのです﹂
﹁それならそうと早く言え﹂
﹁スープがないときは、水でふやかします﹂
﹁ただの水で?﹂
﹁水がなければ、小便をかけて食うのです﹂
老人は笑ったが、そのまじめな笑顔に、この老人がそういう経験
をしたという重みが感じられた。
戦場で暖かなスープを作る余裕がないこともあるだろう。スープ
を作る水どころか、飲み水すら無いこともあるに違いない。体は乾
ききって飢えも感じてはいるが、乾燥したカンバクは砕いて口に入
れても、唾液も尽きた渇いた喉を通らない。そんな時、小便をかけ
て柔らかくして食うというのである。ひどく滑稽なことだが、同時
に凄惨な戦場の兵士の姿が、現実味を持って浮かび上がる。
ただ、今のアトラスたちは、戦場での勇ましい姿と名誉と、勇敢
さの対価として得られる賞賛のみが頭にあって、現実の悲惨さを考
えようとはしていない。
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リダル王帰還
都から郊外に目を移せば、街道沿いのあちこちに、幾十もの領主
の旗が立ち並び、兵が寝泊まりするテントが真新しく白く張られて
いた。そんな中、猛将との誉れ高いアガルススの陣を背景に三人の
若い兵士が立ち並ぶ旗を眺め回していた。
﹁おおっ、あれは南のバチックの領主マレニル様の旗。先の戦で我
らが王とともに戦った勇者じゃ﹂
﹁向こうには東の雄ライヴス殿が﹂
﹁これはいよいよ楽しみな戦になりそうだな﹂
﹁しかし、どのお方も我らが主のアガルスス様には及ぶまいよ﹂
何気ない兵士たちの会話に、猛将と言われるアガルススが、兵士
に慕われている様子がうかがえた。そして気さくな性格は領民たち
からも敬愛を集めていたのである。ただ、兵士の年齢は若く、先の
遠征を経験した者どころか、故郷を離れて参陣したこの地で、自分
の領主アガルスス以外の貴族の顔を知っている者も居ないのである。
そんな会話を交わす兵士の一人が、街道沿いに新たに姿を現した
武人を見つけて指さした。先頭の乗馬姿の男と、それに付き従うわ
ずか五名の従者の姿である。
﹁あの新たな剣士は?﹂
﹁旗持ちがおらぬ。どこぞの流浪の剣士が手柄を求めてきたのであ
ろう﹂
兵士が言うのは、領主ならその身分を示す旗を掲げる従者が付き
従っている。新たに姿を現した者たちはその旗も掲げず、たった六
人では兵力として役にも立たないというのである。
﹁しかし、なにやら勇壮な風格がありますな﹂
﹁よし、あの男を我が陣に招いてやろう﹂
﹁なるほど。我が陣に勇者が増えれば、アガルスス様もお喜びにな
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る﹂
剣士一行が陣の前を通りかかったのを幸い、三人の兵士たちは一
行の前方に手を広げて立ちふさがった。従者たちがやや緊張感を示
して剣の束に手をかけたのを、馬上の男が制し、立ちふさがった者
どもに声をかけた。
﹁何事か?﹂
低いがよく通る声である。
﹁我らは、アガルスス様の配下である。名のある剣士とお見受けし
てご相談がある﹂
﹁相談?﹂
﹁我が主、アガルスス様の幕下に加わられてはいかがか﹂
﹁ほぅ。儂にアガルススの陣に加われと?﹂
男は兵士たちが敬愛する領主を呼び捨てにしたのである。兵士は
怒りを抑えつつ言葉を継いだ。
﹁左様。さすれば手柄を立てる機会もあろう。何かご不満か?﹂
提案を受け入れる気配のない男に別の兵士が注釈を加えた。物わ
かりの悪い男に腹を立てていてその声が思いの外大きい。
﹁アガルスス様は、ルージでも並ぶ者無き勇者にて﹂
この時、天幕の中から、騒ぎを聞きつけたアガルススが顔を見せ、
事の顛末を察すると同時に、三人の配下を怒鳴りつけた。
﹁馬鹿者ぉっ。そのお方は、我らが王じゃぁ﹂
そんな怒鳴り声を上げるアガルススを馬上から眺め、リダルは旧
友にでも声をかけるような気さくさで挨拶をした。
﹁おぅ。アガルススか。久しいの﹂
﹁我らが王もご壮健にて﹂
﹁お前の怒鳴り声は、相も変わらず腹に響くわ﹂
先ほど声をかけた兵士たちは、王に不敬を働いてしまったことに
気づいて、地にひれ伏していた。アガルススはそんな配下と王を見
比べるように言った。
﹁我らが王のお人の悪さも、相変わらずですな﹂
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最初から身分を明かせばよいものを、このような若輩の兵士をか
らかっておもしろがるとはどうしたことかと文句を言うのである。
﹁まあ、許せ﹂
王は笑いながらアガルススに許しを請い、兵士たちに声をかけた。
﹁お前たち、名は?﹂
﹁ヂッグスでございます﹂
﹁リウズスと申します﹂
﹁レグロスです。陛下﹂
リダルはその者たちの名を一人も間違えずに口にして語りかけた。
﹁ヂッグス。リウズス。レグロス。次の戦で手柄を立てて、この儂
を配下に加えてみるがよい﹂
王はアガルススに向き直って命じた。
﹁アガルスス。明後日、戦の評定をする。館に出張って参れ。他の
領主どもにも、そう伝えよ﹂
リダルはそう言い残して笑いながら去った。兵士たちはただ唖然
としながらも、領主を通じて従うべき指導者の人柄にふれた。アガ
ルススは久しぶりに再会した王の後ろ姿を頼もしく見送りつつ、そ
の背になにやらわずかに失望感を漂わせているのに気づいて首を傾
げた。もし、アガルススがアトランティス議会から帰国したリダル
王が、その直後に北の方へ姿を消していたことを知っていれば、リ
ダルがその目的を果たし得ないで戻ってきたことに気づいたに違い
ない。
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老将サレノス1
ロユラスはミドルと肩を並べ、魚が山ほど入った籠を背負って王
都バースに姿を現した。歳を比べればロユラスがまもなく十八、ミ
ドルは一つ年上である。仲の良い兄弟にも見えるが二人の身分は大
きく違う。普通の漁師のミドルに比べて、その姿からは信じられな
いが、ロユラスはリダル王の長子という血筋を持っていた。
﹁しかし、まぁ、賑やかなのもいいことだ﹂
﹁今日も売れそうだな﹂
二人はそろって機嫌が良い。都に集まった兵士たちの空腹を満た
すために、毎日の獲物が飛ぶように売れるのである。この時代、ア
トランティスに貨幣は無く、物々交換だが、領主たちが商売相手の
なると、貨幣代わりの銀の粒が手にはいる。
﹁タリアが町の土産物を欲しがっていたぞ﹂
ロユラスは魚をと変えて銀の粒で、ミドルの妹に土産を買おうか
と提案しているのである。しかし、ミドルは妹タリアの心を察して
言った。
﹁町の土産物が欲しいんじゃない。お前からの贈り物が欲しいって
ことだ﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
ロユラスは口ごもった。王家の血筋とそれを拒否する自分。そん
な自分に彼女を幸福にすることができるだろうかという迷いである。
そんな会話をする二人が町に入った頃、背後からロユラスを呼ぶ声
が近づいてきた。振り返ってみれば、かけてくるタリアの姿があっ
た。
﹁タリアか。どうした?﹂
﹁ロユラス。大変。プチネ様の館に兵士たちが﹂
息を切らせて駆けてきた少女が、荒い息の間からそれだけ伝える
40
と、ロユラスの顔色が変わった。ロユラスの母は正確にはフェリム
ネという。アトランティス人の神話の中に、プチネという美しく優
しい女が、彼女に恋をした嵐の神サンレクスによって、生まれ故郷
から遠く離れたサンレクスの神殿に連れ去られ、寵愛を受けたもの
の彼女は故郷を思って嘆き悲しみつづけるという悲劇がある。
村の人々はいつしか、異国から連れてこられたフェリムネを、神
話の女性プチネにたとえて敬愛しているのである。
︵しまった。迂闊だった︶
ロユラスは穏やかな表情を変えた。彼は背負っていた籠を放り出
して、元来た道を駆け戻り始めた。ミドルは惜しそうな表情を浮か
べたものの、彼自身が背負っていた籠も放り出して叫んだ。
﹁さぁ、町の衆。アワガン村の漁師からの贈り物じゃ。皆で分けて
食べてくれ﹂
そして、ロユラスの背を追って駆けだした。
ロユラスは駆けながら浜辺の小舟の櫂を手にした。兵士が居ると
なれば何か武器になる物がいる。岬の端に母と彼が住む館が見えて
いた。
︵迂闊だった︶
ロユラスは繰り返しそう思った。各地の兵が都に集まって血なま
ぐさい雰囲気を放っている。情勢が大きく変わる気配がする。その
中で、迷惑なことに、ロユラスの母に王子の母としての正当な権利
を求める者がいた。ロユラスをリダル王の跡継ぎにして利を得よう
とする者どもたちである。王妃リネやその息子アトラスにとって、
自分たち母子は邪魔者だろう。その二人の取り巻きにとっても、ロ
ユラスと母フェリムネは国を安定させるために取り除いておきたい
存在に違いないのである。事実、過去に偶然を装って命をねらわれ
たことがある。
︵母の悲しみは俺のせいだ︶
41
ロユラスはそう考えている。母が岬の館から遙か東の海を眺めて
涙していることがある。この異境の地に連れてこられた女が、故郷
を偲んで流す涙に見える。
︵俺のせいだ︶
ロユラスは繰り返し思った。もし、リダル王が遠征からの帰国の
時に、母が自分を身ごもっていなかったら、母はこんな異境の地で
故郷を偲んで嘆くことはなかったはずだと考えるのである。
︵俺のせいだ︶
ロユラスは心の中で繰り返した。もし、自分がリダル王の長子と
して生まれなければ、母は命をねらわれる危険な目に遭わずともす
むはずだった。母に降りかかる不幸をもたらしているのは自分。ロ
ユラスはそう自分自身を呪っているのである。そして、ロユラスに
そういう運命をもたらしたのは、リダル王である。ロユラスがリダ
ルを父と呼ぶこともなく毛嫌いしているのはそのせいである。
思い悩みながら駆けていたロユラスは岬の館の手前で、五人の兵
士の姿を見つけた。手にした櫂を構えるロユラスに、兵士たちもま
た緊張した。とくに指揮官らしい兵士はすでに剣の束に手をかけて
いた。
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老将サレノス2
﹁ロユラス。櫂をおろしなさい。この人たちは敵ではありません﹂
館から出てきて叫ぶようにそう言ったのはロユラスの母フェリム
ネである。ロユラスはとまどいつつも母の指示に従った。
﹁ゴルスス。お前もだ。剣の束から手を放せ﹂
フェリムネの背後から長身で初老の男が姿を現して、指揮官の兵
にそう命じた。剣の束に手をかけていた兵士が緊張を解いた。初老
の男はロユラスの姿を眺めてフェリムネに言った。
﹁おおっ、大きゅうなられましたな﹂
﹁ええ。貴方がこの地を去って、まもなく十八年になりますもの﹂
フェリムネがそんな表現で息子の歳を語った。ロユラスの見ると
ころ、母の傍らにいる男の顔には歳は六十に達するかという皺が刻
まれていた。この時代、よほどの老人と言っていい。その老人がロ
ユラスに向ける視線が優しい。彼はロユラスに歩み寄り、昔を思い
出すような口調で名乗った。
﹁我らが王より、北のイングセの領地を賜るサレノスと申します。
お見知りおきを﹂
そして、臣下の礼をとるように、ロユラスの前に片膝をついて頭
を垂れて忠誠を誓った。
﹁ただいま、この時より、いついかなる時でも、あなた様を支える
者となりましょう﹂
﹁母さん、このジジイは?﹂
息子の言葉に、母は首を横に振って間違いを正した。
﹁サレノス殿よ﹂
ロユラスが知りたかったのは、その名ではなく男の正体である。
ロユラスに語りかけようとしたサレノスは、突然驚いたように周囲
を見回した。館を包囲するように集まった漁村の人々が、武器にな
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りそうなモリや櫂を手にして、フェリムネを守るために集まってき
たのである。サレノスは肩をすくめて苦笑いしながら言った。
﹁やれやれ。こうなることを避けるために、兵は村の外で待機させ
ておいたのですが﹂
200人ばかりの兵を率いて、都バースに向かう途中この館に立
ち寄った。血なまぐさい気配を避けるためにほとんどの兵は村の外
に待機させ、手兵だけを連れてフェリムネを訪問したというのであ
る。
集まった村人たちから、フェリムネに害をもたらす者は許さない
という真摯な気配が伝わってくる。
︵フェリムネ様への忠誠心とも言えまい。信頼、敬愛、信仰、どう
呼べばいいのか︶
サレノスは彼らを眺めてそう考えた。彼自身、村人と同じ経験を
した。先の遠征の戦いで、彼が出会った頃のフェリムネは、蛮族の
娘に過ぎなかった。混戦の中で、リダル王が負傷して部下ともはぐ
れた。その後、ようやくリダルを探し当てたサレノスらは、リダル
の傍らで彼を介護するフェリムネに出会ったのである。娘にとって
リダル王は敵と言ってもよかった。彼女はその男を甲斐甲斐しく介
護し、その心根に偽りはなかった。そう言う分け隔て無い優しさを
持った希有な女性だった。病癒えたリダル王は傍らに彼女を置いた。
アトランティス軍の遠征で土地は荒れ果て、食料を得る当てはない。
当時の彼女には幼い弟がおり、彼女はその弟を食べさせるために、
敵のアトランティス軍と行動をともにしたらしい。
王が傍らに置く女ということで、アトランティス軍将士が、彼女
に接する態度は丁寧ではあったが、その裏には蛮族に対する侮蔑も
秘めていた。ただ、そんな侮蔑も気にする様子はなく、故郷を遠く
離れた兵士たちの愚痴を聞いていたかと思うと、時に傷病兵を母の
ように世話をした、兵に対する態度が冷たいと王に姉のような口調
で叱咤することさえあった。いつしか、彼女は荒々しいアトランテ
ィスの将士たちの信頼を勝ち得ていた。サレノス自身、彼女をフェ
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リムネ様と敬意を込めて呼んでいる自分に気づいたのである。
いま、集まってきた村人たちは、昔は海賊働きもしたという、兵
士に劣らぬ荒々しさをもった人々である。リダル王の子を身ごもっ
て王とともにこの地にやってきた彼女は、いつしかこの村人たちか
らも敬愛される存在になっていたに違いない。
フェリムネを守るために武器を手にして集まった村人だったが、
敵意を感じさせないサレノスに困惑した。サレノスは苦笑いをして
言った。
﹁では、さっさと退散することにいたしましょう﹂
﹁御武運を﹂
フェリムネはその老将軍に短い言葉をかけたが、手柄を立てて欲
しいというのではなく、老人をいたわるように無事の帰還の願いが
こもっていた。サレノスはふと立ち止まってロユラスを振り返った。
﹁ロユラス様。いずれ、時期も巡って参りましょう。御身を大切に
されますよう﹂
老人は笑いながら馬上の人となり、五人の手兵を連れて去った。
︵時期が巡ってくる?︶
老武将の言葉の意味も分からないまま、ロユラスは言葉を繰り返
して呟いて老人を見送った。距離を置いてみれば、意外に小柄な老
人で、ロユラスは彼の包容力に包まれて、自分自身が縮こまってい
たのに気づいた。村人たちも同じだろう。サレノスに向けていた危
険人物という評定が今は失せ、驚きとともに自然に包囲を解いて、
サレノス主従を通した。敵ではなかったらしい、しかし、これから
兵を率いてリダル王の元で戦うつもりなのに違いない。ロユラスの
目がサレノスに向ける視線が冷ややかなのは、あの男もリダルの配
下だということである。彼は父に対する憎しみや侮蔑を持ち続けて
いた。
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ルージ国軍議
空はきれいに晴れ上がり、この王都でもやや高みに登れば太陽の
光を照り返して輝く海を眺めることができた。朝方、北東部の山々
を駆け下る風は、幾種類もの花の香りを運んでいた。夏を迎える前
のこの時期は、ルージ島の人々にとってもっとも心地よい。
リダル王が都に帰還し、サレノスがフェリムネの館でロユラスと
出会った明くる日である。もともと賑やかな王の館は、将軍たちが
参集し、いつもの雰囲気に荒々しい活気を加えていた。
戦の評定の場に加わったアトラスは周囲を見回した。どの将軍た
ちの顔にも懐かしさを感じさせる記憶がある。一年に一度、王都で
行われるリムラス神の祭りに集まる顔ぶれで、幼い頃にその太い腕
に抱き上げられたり、剣の手ほどきを受けた記憶だった。ただ、今
日の将軍たちは、これから始まる大戦にはやり立つように、優しげ
な気配を消していた。
﹁我らルージがアテナイを討つ先陣となる﹂
短くそう言ったリダル王に迷いは感じられなかった。
﹁明日。儂、アガルスス、アゴース、バラスの第一陣三千で渡洋す
る。ヴェスター軍と合流後にシリャードに立てこもるアテナイ軍を
撃破に向かう予定である﹂
﹁おおっ﹂
指名された三名の将軍がその栄誉に歓声を上げたが、アトラスの
表情は険しい。アトラスは一歩進み出て叫んだ。
﹁我が王よ、私にも先陣の栄誉を賜らんことを﹂
アトラスが幼い頃からのお守り役を務めてきたクイグリフスもま
た言った。
﹁我らが王よ、王子にも先陣を賜らんことを﹂
王リダルはやや考える様子を見せたが、クイグリフスの言葉も顧
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みることなく、息子に命じた。
﹁アトラス。お前は第二陣を率いて海を渡れ。クイグリフス。お前
は残る千名を率いて、王都バースを守備せよ﹂
リダル王はアトラスに第二陣を任せるというのである。ただ、ア
トラスは父の言葉に失望した。ルージ国は島国で海軍も充実しては
いるが、その軍船をかき集めても、乗せられる兵員の数は限られて
いる。第一陣としてリダルが直卒するルージ軍主力が渡洋する。そ
の船が戻ってきてアトラスたち第二陣を送り出すのは三週間も後に
なるだろう。リダルの気性からみて、息子が率いる第二陣の着陣を
待たずに先行して、先に戦を始めるかも知れない。アトラスは開戦
の場に立ち会えないのである。アトラスは父に反駁した。
﹁しかし、それでは、私は手柄を立てられません﹂
息子の言葉を父は一喝した。
﹁くどい﹂
父の言葉に、アトラスは周囲の領主たちの顔を見回したが、唯一、
賛同してくれそうなクイグリフスも顔を伏せていた。父と子の間の
割り込めない諍いから生まれた気まずい沈黙を破って、猛将アガル
ススが持ち前の大声を張り上げた。
おおいくさ
﹁若き王子よ。雑魚を蹴散らす初戦の先鋒など、このアガルススに
譲ってくだされ。儂らがその後の大戦の舞台を整えますゆえ、王子
の先鋒はその時に﹂
﹁おおっ、アガルスス、よぉ言うた﹂
王リダルは膝を打ってそう言い、言葉を継いだ。
﹁まったく、頼もしい者たちよな。先の戦を思い起こす﹂
部屋が活気づく中、突然に、入り口に小さな混乱が起きた。部屋
の入り口を守る若い衛兵が見知らぬ老人の侵入を静止しようとし、
上官が慌てて若い部下の非礼を詫びる姿である。賑やかに盛り上が
っていた将軍たちは沈黙し、入ってきた男を信じられぬ者でもみる
ように眺めた。王と将軍たちの沈黙は部屋の中に広がった。若いア
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トラスにもこの老人には全く見覚えがなかったが、並み居る将軍た
ちがこの老人に払う敬意が伝わってきた。
﹁おおっ。サレノスよ、参ったのか﹂
リダル王が席を立ち、歓迎する様子で笑顔を浮かべ腕を老人の方
に伸ばした。リダル王は臣下や民衆に気さくに笑顔を見せる男だが、
驚きの表情を見せることは少ない。アトラスは父の驚きの表情が喜
びに変わるのが、意外なものを見るようだった。サレノスはリダル
王の前に進み出て、片膝をついて臣下の礼をとると、短く言った。
﹁まかり越ました。寡兵なれど存分にお使いください﹂
率いてきた兵の数は僅かだが、王のために存分に働くというので
ある。リダル王はまるでそれが予定の計画だったかのように即断し
て命を下した。
﹁サレノスよ。そなたは第二陣のアトラスに侍り、支えてやってく
れ﹂
﹁承知﹂
﹁これで、儂も後続に不安なく出陣できるというもの﹂
その父と老人の会話にアトラスが反駁した。
﹁しかし。しかし、我が王よ。第二陣の指揮は私が取れとの仰せで
あったはず⋮⋮﹂
﹁それは既に決めたこと。ただし、サレノスの進言があるときは、
これに従え﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁くどいぞ。アトラス﹂
リダル王に、そう一喝されると、たとえ息子という関係であって
も、アトラスは反論する言葉は持たず、不満げに黙り込むしかない。
そんなアトラスを、サレノスは今は距離を置いて見守っていた。言
葉の短い王はそれ以上は語らず、アトラスもサレノスの出自を尋ね
る機会を失った。
軍議は終わり、明日、第一陣が出陣する。
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ルージ軍出陣
サレノスという老人の出自について、アトラスが幾ばくかの知識
を得たのは、軍議の明くる日、母親の私室を訪れたときである。母
親は腹立たしげな表情で落ち着きなく部屋を歩き回っていた。
﹁母上、いかがされました﹂
﹁あの者のことじゃ﹂
﹁あの者?﹂
﹁サレノスのこと﹂
母リネは、サレノスのみならず、既に軍議の内容まで知っていた。
彼女は親指の爪を食いちぎるほどの強さで噛んで言った。
﹁何ということじゃ。アトラスにあのような者をつけるとは﹂
﹁サレノスとは何者です?﹂
﹁裏切り者です﹂
﹁裏切り者とは?﹂
話を聞けば、過去の海外遠征の前には、誰よりもルージ王家に忠
実な男だったらしい。まるで異境の魔術にでもかけられたように、
帰国後は蛮族の女を信奉するようになった。そして今でもそれが続
いていると。
リネは普段からフェリムネの館を探らせているし、情報を持ち込
んで金にする村人もいる。彼女はサレノスがこの王都に姿を見せる
前にフェリムネの館に立ち寄って親しげに話をしたことを聞き知っ
ていた。王の謁見前に、王を惑わす蛮族の女の元を訪れるなど、王
と王妃の自分に対する裏切り行為だというのである。
敵か味方か、それがリネの判断基準だった。冷静なアトラスは、
母の言葉が一面しか見ていないことに気づいてはいた。ただ、母を
失望させることを避けて、母の話にいちいち頷いて見せた。この時
のアトラスは、自分と母リネと妹ピレナという家族にやや孤独感を
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感じていた。昨日の軍議の席上のこと、アトラスに幼い頃から守り
人として仕え、リダル王の信任の厚いクイグリフスでさえ頼りにな
らなかった。この家族を本心から守ろうとする者がいるのだろうか
という不安である。少なくとも、あのサレノスという老人は信頼で
きる味方ではあるまい。
この時、部屋に顔を見せた二人の少年がアトラスに声をかけた。
﹁我が王子よ﹂
﹁おおっ、ラヌガンとロイータスではないか﹂
姿を見せたのは、アトラスに近習として仕えるラヌガンとその弟
である。気さくに語り合う友人といってもいいが、この時のラヌガ
ンは、ややとまどうような気遣いを見せた。アトラスはその理由を
悟って、用件を先に切り出した。
﹁よかろう。先にゆけ。ただ、私の手柄も残しておいてくれ﹂
﹁わかりました。私は少し遠慮して、大物は王子に残しておきまし
ょう﹂
本来ならばラヌガンはアトラスの近習としてアトラスとともに出
陣する。ただ、今回は父親のバラスの願いで、ラヌガンはアトラス
に仕える近習の役職を解かれて、父とともに第一陣として渡洋する
のである。ラヌガンは、後に残されるアトラスを気遣って挨拶に来
てくれたに違いなかった。
帰って行くラヌガンの背を見送って、アトラスは安堵のため息と
同時に、自分の被害者意識を笑った。彼は孤独ではなかった。様々
な形で彼を支える人々がいたのである。
︵せめて、ザイラスがいてくれたら︶
アトラスは最も信頼する青年の名を思い起こした。彼なら、アト
ラスがとまどう前に導いてくれるだろうと考えたのである。この時
のアトラスは、シリャードに残ったザイラスが、既に六神司院の者
どもに、神帝の暗殺の実行犯として謀殺されたことを知らなかった。
この日、アトラスは都を立つ第一陣を複雑な気分で見送った。戦
に付きまとう怯えはなかった。ただ、希望や期待が、将来を見通せ
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ない不安や苛立ちに包まれて、心が落ち着かない。
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フローイ国出陣1
フローイ国にも出陣の時期が迫っているはずである。事実、古い
都のランロイに引き込んでいたはずの王ボルススやリーミルは、再
びこのカイーキに姿を見せていた。参集しろと命じた各地の領主が
率いた兵が都に集まり、シュレーブの都には及ばないものの、優美
で美しい雰囲気を漂わせていたこの都に荒々しさが吹き込んでいた。
ただ、意外なことに、王宮の中はフローイ国の人々らしい、気さ
くな雰囲気があふれ、いつもの生活が続いていた。ただ、ボルスス
の眉をひそめさせたのは、夕食の席での孫のグライスと新婦フェミ
ナの雰囲気にも進展が見られないことだったろう。二人の間には結
婚式以来、変わらないぎごちなさがあった。
この時期、遅い日没も過ぎ、下僕たちが館のあちこちに明かりを
灯し終わった頃、王ボルススは孫のグライスを部屋に呼んだ。グラ
イスはフェミナとの関係を問われるのかと考えたがそうではなかっ
た。家族の話を語るには不釣り合いな謀臣マッドケウスの姿が、王
の傍らに確認できたのである。
マッドケウスは面白そうに言った。
﹁シュレーブもずいぶん焦っておる様子﹂
彼が手にしているのは、樹皮に記載したシュレーブ国王からの書
状である。
﹁しつこく使者を使わしおって。ジソーもよほど慌てておるのであ
ろうよ﹂
確かに、フローイ軍の出陣を督促する使者が繰り返し来ている。
三回は出陣が遅れていることに、様々な理由を伝えて追い返した。
今は、四回目の使者がこの王都にいる。グライスは問うた。
﹁それで、出陣はいつになさるのですか﹂
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﹁知れたこと。我らの軍備は整った﹂
王ボルススはそう断言し、傍らのマッドケウスに命じた
﹁三日後に出陣する。シュレーブの使者にはそう伝えよ﹂
マッドケウスは王の命を伝えるためだろう、慇懃に一礼をし、部
屋から姿を消した。王ボルススはグライスの考えを聞くまでもなく、
出陣する腹づもりだったのだろう。
︵それなら、自分が呼ばれた理由は?︶
しかし、ふと首を傾げかけたグライスは、祖父の人のよい笑顔を
見て気づいた。国の命運を左右する決断をする。その経験を共有さ
せるのが祖父が孫に施した教育らしかった。部屋に残されたのは、
王と孫の二人のはずだが、意外なところから二人に声が響いた。
﹁三日後? では本当の出陣は明日?﹂
執務室のカーテンの陰から顔だけ覗かせたのはリーミルである。
カーテンの陰で祖父の話を立ち聞きしていた彼女は甘えるように笑
顔で言った。
﹁お爺さま⋮⋮﹂
ボルスス王は、孫娘のこの後の言葉を聞きもせず、断言した。
﹁いかん! 女に戦は向かん﹂
カーテンの陰からちらりと見える孫娘の右の肩口に鎧の肩当てが
見えた。カーテンで隠れた左腕には兜を抱えているだろう。腰には
剣も下げているだろう。
魂胆を見破られたリーミルは、ふてくされた様子でカーテンの陰
からその甲冑姿の全身を表した。出陣する気、マンマンである。彼
女は怒りを込めて尋ねた。
﹁どうして?﹂
﹁いかんと言ったら、いかん。女に戦の何がわかろうか﹂
王ボルススは具体的な説明をしないまま、リーミルに背を向けて
部屋を去った。ボルスス王の背後を追う様子を見せたリーミルを、
グライスが呼び止めた。
﹁リーミル姉さま﹂
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姉上という呼び名ではなく、幼い頃にともに遊んでいた頃の呼び
方である。ややこしい儀礼は廃して、姉と弟として本音で心を語ろ
うという気配があった。
﹁なあに?﹂
﹁王⋮⋮、お爺さまは、姉さまを一番信頼しているのですよ﹂
﹁戦に連れて行かないことが、信頼ですって?﹂
﹁軍の主力が出陣するとなれば、北の山賊どもも勢い付きましょう。
万が一の場合、この国を支える者が必要です﹂
そう言われると、リーミルも弟の言葉に渋々ながら納得せざるを
得ない。フローイ全土に散らばる鉱山はフローイに富をもたらして
はいる。しかし、そこで働く奴隷たちが逃亡し、都の北方の山々で
山賊集団と化していた。その者たちが勢いづくと同時に、彼らにあ
おられた鉱山奴隷たちが各地で反乱を起こす危うさがあるというの
である。
リーミルもグライスも軍の指揮能力という点では未知数だが、王
家の者が都にとどまって全土に目を光らせているという効果は大き
いのである。リーミルは弟の言葉を受け入れながらも交換条件を出
した。
﹁いいわ、今回は貴方が行きなさい。でも、次は私よ﹂
﹁分かりました。アトラスとの手合わせは姉さまに譲りましょう﹂
弟が発したアトラスという名に、リーミルはぴくりと反応して弟
の顔を眺めたが、グライスはそれ以上は語らず、これから大事な用
があるとでも言わんばかりに、足早に部屋から立ち去った。
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フローイ軍出陣2
館の各所の僅かな灯りが照らされるものが、この世界の全てであ
るかのようだった。小さな世界が静まりかえるなか、フェミナは間
近に迫っているというフローイ軍の出陣について考えていた。戦の
帰趨についてではなかった。今の彼女はただ、この国の軍の出陣を
見送ればいいのかと言うことだけ考えていた。
彼女はこの国の王子グライスに嫁いだときから、次の国王の王妃
としてこの国を統べるという義務感は自覚していた。ただ、この時
のフェミナには、この辺境の国にも、そこで暮らす人々にも愛着は
もてず次期王妃という立場を名誉だとは考えていない。やや、首を
かしげるのは、彼女の夫が、シュレーブ国では全く見かけなかった
タイプの男で、粗野な乱暴者というイメージにも当てはまらなかっ
た。夫を嫌っているわけではないが、理解しがたい思いが、夫との
関係に距離を置いているのである。
突然に、嫁ぐフェミナにシュレーブ国から付き従ってきた侍女た
ちが騒ぐ声が響いた。ここは、まるで大切な者を保管する宝物庫で
あるかのように、王の館でも最も奥まった部屋である。
﹁この奥はフェミナ様の居室です﹂
﹁困ります。入室にはフェミナ様の許可を﹂
侍女たちのそんな声が接近し、フェミナは状況を察して眉をひそ
めた。彼女の夫が居室に踏み込もうとしているのである。女の居室
に乱暴に踏み込もうというような野蛮な習慣を受け入れる気はなか
った。フローイ国に嫁ぎはしても、シュレーブ国の習慣を捨てる気
はない。フェミナはそれを夫にしっかりと要求せねばならないと考
えた。
部屋に乱入してきた夫を、フェミナは夫の前に立ちふさがって意
を決した表情で出迎えた。
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﹁何事です。野蛮な振る舞いは許しませんよ﹂
フェミナの鋭い視線を伴うそんな言葉も聞こえないように、グラ
イスは部屋の中をゆっくり見回した。不思議そうに、どこか懐かし
そうに。やがて、夫は妻の鋭い視線を正面から受け止めた。フェミ
ナは自分の鋭い表情が、夫の和らいだ表情に包まれるような気がし
て戸惑いを見せた。が、彼女は夫を非難する口調を弱めようとはし
なかった。
﹁たとえ、夫婦の間でも、礼儀を守りなさい﹂
フェミナは迷惑そうな顔をする夫に言葉を継いだ。
﹁フローイの野蛮な習慣など⋮⋮﹂
そんな言葉で怒りを伝える新妻を、グライスは謝罪や説明など不
要といわんばかりに肩に担いだ。男の肩に担がれるなど、フェミナ
にとって生まれて初めての経験で、屈辱だった。しかし、貴族とし
ての妙なプライドがあり、顔を上げて駆け寄ろうとする侍女たちに
言った。
﹁いいの。これは私たちの問題よ﹂
女として、妻として、このような振る舞いは許せないと、教えて
やらねばならない。ただ、そんなフェミナの姿は冷静に見れば、男
の肩に担がれながら虚勢を張っているような滑稽な雰囲気も漂わせ
ていた。
﹁このような乱暴、絶対に許しませんよ﹂
肩の上のフェミナの叫びはむなしく響いた。王の館の中、フロー
イ国の人々は妙な夫婦関係を見守るだけで、グライスの妻への乱暴
を諫める者はいなかった。
罵倒する妻を肩に担いだまま、グライスは黙って王都中央の街道
を歩んだ。人々はそんな二人の姿を見送った。大勢の人の前で、ま
るで荷物のように担がれる屈辱と怒りで、彼女は夫をなじり続けた
が、その声が周囲に遠慮するようでやや小さい。
﹁私をどうするつもりですか、この野蛮人﹂
街道上で大声を上げる彼女は注目を浴びていたのである。街道を
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行く人々は声の主を指さして眺めた。何事かと窓から顔を出す人々
は、その正体を知ってあきれ顔を笑顔に変えた。人々には若い夫婦
にありがちな痴話喧嘩を見守る気配はあったが、侮蔑の顔はどこに
もなかった。
夫を謗る語彙もつきて、彼女は同じ言葉を叫びながら、拳で夫の
背を打った。彼女の言葉にも暴力にも、あまりに手応えがない。こ
の無力感が彼女の過去の記憶の一つ一つを呼び起こした。王家に準
じる高貴な生まれで、幼い頃からちやほやされて育った。幸せだっ
たのは何も知らない幼い頃だけ。
幼いながら、初恋も経験した。しかし、将来、嫁ぐべき相手では
なく、色恋沙汰など嫁ぐ際の邪魔になると周囲の反対を受けた。周
囲の人々にとって、女など政略結婚の道具にしか過ぎないのである。
彼女の母もそうだった。ただ、フェミナは自分の運命を受け入れる
母親のような生き方を拒絶した。
このフローイ国に嫁ぐことも彼女の意志ではなかった。自分の運
命を自分で決められない悲しさ。それを彼女はこの世界には自分の
居場所がないと考えていた。
﹁この野蛮人! たとえ、夫婦の間でも礼儀を守りなさい!﹂
フェミナの声が、再び大きくなったのは、町の外れを過ぎ、人目
を気にする必要がなくなったからである。しかし、いつしかその言
葉も闇に溶けるように消えた。周囲は森で、時折差し込む月の光が、
街道に二人の淡い陰を作った。
ここで野蛮人から屈辱を受けても、自分には為す術がない。夫の
肩に担がれるというやや滑稽な姿のまま、今までに背負った重荷を
全て涙とともにはき出して、今の彼女の心は空虚だった。夫の背を
打っていた拳にも勢いがなくなっていた。
やがて、彼女は最後の怒りを込めて、短く言った。
﹁下ろしなさい。自分で歩きます!﹂
﹁そうか﹂
グライスはあっさりとそんな返事をした。彼女を地に下ろす夫の
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腕に意外な優しさがあり、フェミナの心に染みいった。グライスは
凝った肩の筋肉を揉み、肩をぐるぐる回して、意外なことに気づい
たように言った。
﹁重かった。華奢に見えても、大人の女だな﹂
﹁はぁ?﹂
フェミナは夫の言葉に意味もない呟きを漏らすしかない。重い甲
冑を身につけ、剣を腰に下げて歩くことを苦にしない男だが、初め
て担いだ生身の女は、今までのどんな重量物よりやっかいだったと
いうのである。ただ、その重さによって、彼は妻が一人の生身の人
間だと実感したらしいのである。
やや距離をおいて、夫婦は月に照らされた互いの姿を眺めた。泣
きはらした目に怒りや疑問を浮かべるフェミナに、夫グライスはぽ
つりと言った。
﹁よいか。明日、私は出陣する。その前に、眺めたいものがある﹂
﹁見せたいもの?﹂
﹁そうだ。お前とともに眺めなくてはならない﹂
夫の腕が腰に伸びてきたために、フェミナはそれを拒絶して、そ
の指先をつかんだ。手をつなぐという行為で、今しばらくはグライ
スに導かれるまま歩くと意思表示したのである。
二人は街道を逸れ、王都の北にそびえるメガムス山へと道をたど
った。緩急の傾斜が続き、いつしか、二人は互いの手をしっかりと
握っていた。続く沈黙に耐えられないというように、空を見上げて
フェミナが口を開いた。
﹁暗い。月も隠れてしまいました﹂
﹁よい。カイーキは月の都なのだ﹂
二人は歩き続けている。どれぐらいの時間歩いただろう。フェミ
ナの息が弾むほどの距離だった。メガムス山の山頂など、道を北部
に折れてまだ遙か先である。突然に視界が開け、グラムスは切り立
った急な斜面の下を指さした。
﹁見ろ﹂
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眼下に見えるのは、王都カイーキに違いなかった。王都を囲む黒
々とした濃淡は都を囲む森である。月が雲間から姿を現して、都の
東の湖を照らした。夜半に漁をする小舟が作る湖面の波が確認でき
るようだった。大小様々に輝く灯火が、星の光のように輝いて、王
都の全景を現しだしていた。
ずいぶん歩いたつもりだったが、湖面の波や王都の町並みが確認
できる小高い峠の光景だった。そこで生きる人々の息吹さえ感じる
ことができる距離と高さである。
シュレーブ国の都パトローサはその壮麗さと美しさで日の都と称さ
れる。このカイーキは森や湖を伴った夜景の美しさで月の都と呼ば
れるのはこの美しい夜景の所以か。フェミナはその人と自然が織り
なす美しさにため息をつきながら尋ねた。
﹁この景色を見せるために、あのような乱暴を働いたのですか﹂
﹁あの部屋で、この王都の景色を眺めようと言っても、お前は承諾
すまい﹂
グライスは快活に笑った。フェミナは静かに頷くしかない。たし
かに、拒絶しただろう。今、この景色に感動しているのは夫に担が
れたおかげといえるかも知れないのである。グライスは意外なこと
を言った。
﹁あれを、私の父と、シュレーブ国から嫁いで来た母が造った﹂
﹁ティルマ様が﹂
﹁ああ﹂
頷く夫の横顔にフェミナはふと思い出した。王の館でフェミナに
与えられた王妃の居室。グライスが乱入したときに、妙に懐かしげ
な様子を見せたのは、グライスが幼い頃に亡くした母の居室だった
せいもあるのだろう。言葉が短い夫だが、心の中をはき出すように
切れ切れに言葉を継いだ。
﹁あの灯りに人々が集う姿がある﹂
グライスは灯りの一つ一つを指さすように、伸ばした人差し指を
動かして見せた。広場で炊きあげられるかがり火、住民たちの家々
59
から漏れる灯り、一つ一つの灯りに様々な人が集い、それが一つに
まとまってこの王都カイーキになる。グライスはそう言うのである。
彼は空を仰いで、願い事でも口にするように言った。
﹁父と母のように、私もお前とあの都をもっと美しくしたい﹂
そして、やおらフェミナに向き合って提案した。
﹁どうだ、手を貸してくれるか?﹂
彼が両肩をつかむ手に力がこもったが、フェミナはそれを拒絶し
なかった。彼女の目から涙が静かにあふれただけである。グライス
という青年は、今までに彼女が出会ったどんな人々とも違った。彼
女にこの国を作る運命を託すという。彼女はようやく自分の居場所
を見つけた。彼女はグライスを見つめて囁くように言った。
﹁やっと、自分の運命を見つけたような気がします。この幸せが貴
方とともにありますよう﹂
彼女はこの夫を愛したいと思った。そして、この国や国民が愛お
しいという思いで満たされた。この時、緊張で彼女の肩をつかむ手
に力が入りすぎていたことに気づいたグライスは慌てて手を離した。
代わりにフェミナの腕が優しく伸びて彼を優しく抱きしめた。
月の光の下、二人が一つになった。
一夜が明け、今日は出陣だというのに、王の館の中はいつもと変
わらない朝食前の光景が広がっていた。食堂で雑談を交わす王ボル
ススとリーミルから少し遅れて、グライスとフェミナが姿を現した。
その二人を指ささんばかりに視線を注いだリーミルが、笑顔で言っ
た。
﹁あら、あらっ。女神パトロエのお許しがありますように⋮⋮﹂
﹁何のことだ?﹂
﹁不浄ではないの?﹂
﹁かまわぬよ。アレも男になったということだ﹂
アトランティス神話にパトロエという女神がいる。勇敢な男を愛
し、その男を願いを成就するという戦を司る女神である。ただ気ま
60
ぐれで嫉妬深い性格で、その男に女の匂いをかぎ取れば、逆にその
男に仇をなすという。信心深いアトランティスの将士たちは出陣前
に女と交わるのを避ける通例なのである。
新婚の夫婦をみれば、二人が寄り添い交わしあう視線にぎごちな
さがない。夫と新婦がつなぐ手には互いにいたわりがあり、その新
婦の体に艶やかさを感じることができる。
王ボルススもリーミルも、昨日の夜半の館の中での騒ぎは聞き知
っていた。何かがあったのだろうと期待を込めて推測を深めていた
ら、その回答が目の前に現れたというわけである。
昼を過ぎる頃、フェミナの顔から笑顔が消えていた。昨夜の彼女
は勇壮な出陣の先頭に立つ夫を見送る見送る妻という義務的な想像
をした。今、彼女の夫は、フローイ軍の一隊を率いる武将として、
王都カイーキを離れつつあった。
夫の勇壮な姿は想像通りだが、彼を見送るフェミナの心は、愛す
る者との別れの切なさと、戦場で夫を失うかも知れない不安や恐怖
に満ちていた。
61
シュレーブ国出陣1
シュレーブ国の都パトローサには既に八千を超える兵が集まっ
ていた。動員すれば、さらに数千が加わるだろう。それだけではな
い。その海軍はアトランティスの人々が女神リカケーの海と呼ぶシ
ラス湾に百を超える大小の軍船を浮かべていた。
中原の肥沃な大地からもたらされた富と人口の結果で、その兵力
は他国を圧倒するに違いない。ただ、その王はこれからやってくる
はずの三カ国の軍に焦りを見せていた。
﹁フローイ国のボルススは何をしているのだ﹂
﹁パロドトスさまが領地の通行を許すかどうか不安だとのこと﹂
﹁パロドトスにも良く言い含めてあるだろうに﹂
﹁ボルスス様のご懸念も最もかと﹂
﹁出陣後、背後の糧道を断たれるというのであろう﹂
アトランティスの国々がアトランティス議会の元にまとまる以前、
フローイ国は中原への野望を露わにしてシュレーブ国の領土を繰り
返し侵した。それがパロドトスが治める国境の地で、繰り返される
戦で身内を失った者が多く、領主から民に至るまでフローイを憎む
ことが甚だしい。パロドトスとその民がフローイ国に抱く憎しみは、
国境の守りとして申し分ない効果を持っていたのである。
ただ、フローイ軍の増援が必要な今は、国境の領主パロドトスに
フローイ軍の通過を認めさせねばならない。そのため、時期を待て
と命じてある。フローイが邪魔になった折には存分に戦わせてやる
と示唆しているのである。
王の娘の教師であり、王の傍らに侍る謀臣ドリクスには、王の心
を読み取るように、王が心に秘めた計画を察していた。シュレーブ
国王ジソーは、先の遠征には加わっては居らず、兵の運用という経
験では初心者に近い。初心者らしい虫のいい想像を膨らませている
62
に違いなかった。フローイ国とシュレーブ国が連合すれば、ルージ
国を首魁に仰ぐ三カ国の兵力を上回る。その三カ国は今は自分たち
が謀反の首謀者だとされていることには気がついて居らず、彼らを
待ち受けるシュレーブ国とフローイ国は一方的な奇襲をかけること
ができる。初戦で三カ国の主力を殲滅し、彼らの国を一気に占領す
る。シュレーブ国が得るのは新たな領地と、神帝暗殺の首謀者を葬
ったという栄誉である。この段階でフローイ軍は国を遠く離れて補
給に苦しんでいる。補給を絶ってやればフローイ軍は戦わずして自
滅するだろう。それからフローイ国へ進軍すればいい。フローイに
残存する兵力はわずかで、シュレーブ国の大軍を差し向ければ容易
に落ちる。ルージ国とフローイ国を手に入れてしまえば残りの国は
自然にシュレーブ国に服属するだろう。五年。国王ジソーは時の長
さをそう見積もった。五年後にはこのシュレーブ国がアトランティ
スに覇を唱えている姿である。
そして、今また、国王ジソーは新たな名案を考えついた。
﹁ドリクスよ。フローイ軍をいくつかに分断してやるというのはど
うだ?﹂
﹁分断?﹂
﹁半分を南からやってくるグラト国への振り向けさせる。残りをル
ージ国とヴェスター国と当たらせるのだ﹂
シュレーブ軍に加わるフローイ軍は三千、多くても四千というと
ころか。その軍を二つに分けてやれば、邪魔になったフローイ軍を
除くときに都合がいいと言うのである。国王ジソーは得意げな笑み
を浮かべて言葉を継いだ。
﹁どうだ、この計略は?﹂
ドリクスは少し考える振りをして言った。
﹁王よ。名案でございます﹂
ドリクスにとって、王の虫のいい考えには不安が膨らむ。ただ、
この国王の性格を考えれば、今はいさめても効果はあるまいと考え
たのである。
63
神帝が暗殺された後、この一月半というもの、神殿の奥で重病で
伏せっている神帝の回復を神々とともに祈念するという名目で、聖
都シリャードは堅く封鎖されて何者の出入りも許されてはいない。
ドリクスはシュレーブ国の都パトローサに、シュレーブ国もアテ
ナイ討伐の兵を挙げる準備をしているとの噂をばらまいていた。こ
の都パトローサに巣くう各国の間諜たちは本国にそんな情報を送っ
ているだろう。
この時、王宮に飛び込んできた使者が、腹立たしげだった王ジソ
ーの表情を一変させた。
﹁王よ。フローイ国ボルスス王が出陣を快諾されました﹂
﹁左様か。そうでなくてはならぬ﹂
使者の言葉に大きく頷いて、傍らのドリクスに語りかけた。
﹁いよいよ、我がシュレーブの覇業の始まりぞ﹂
アトランティスを統治する神帝への謀反人どもを葬るとか、占領
軍アテナイからアトランティスを解放するとかは眼中にない、王ジ
ソーの目の先にあるのはアトランティス全土にシュレーブ国の支配
を広げる自分の姿である。
聖都シリャードにいる占領軍司令官エウクロスが、遙か彼方から
やって来た甥のエキュネウスに語ったことがある。
﹁この大陸には9つの国があり、その軍は互いに他国に向けて牙を
研いでおる。我らギリシャ連合軍に対する憎しみの眼が我らに向い
ているように見えるが、我々が居なければ、奴ら野獣は口を開けた
とたんにその牙で隣国の喉元を食いちぎっているだろうよ﹂と
まさしく、そのエウクロスが語った様相が始まろうとしている。
今は、神帝暗殺の嫌疑を着せられたルージ国を首魁とするヴェスタ
ー・グラト連合軍をシュレーブ国とフローイ国が討つという図式だ
が、やがて、覇権を得ようとする国々によってアトランティス全土
は血なまぐさい戦場になる。
ドリクスは東の窓辺から聖都シリャードの方向を見やりながら、
64
この悪しき流れを作り出した者どものことを腹立たしく考えた。も
ロゲル・スリン
ちろん、アテナイ軍のことではなかった。聖都シリュードに巣くう
六神司院の者どもである。ルージ国が神帝暗殺というが、真に暗殺
をしたとすれば、神殿の奥に隠れたあの者どもだろう。神帝オター
ル、その地位に就くまでは、このシュレーブ国の王位継承権を持っ
た王子だった。若き頃のドリクスの生徒でもあった。ドリクスは若
い頃のオタールの快活で素直な人柄を懐かしく思い出しながら、今
は運命の赴くまま行動するしかあまるまいと考えていた。
65
シュレーブ国出陣2
昼を待たずに、ドリクスは王ジソーの呼び出しを受けた。二人目
の使者の来訪があったのである。使者は語った。
﹁パロドトス様の使者でございます。本日、フローイ軍三千が領内
を通過いたしましたのでご報告にと﹂
﹁早いな﹂
ドリクスがそんな疑問を呈した。順序から言えば、ボルススが出
陣を了解したという連絡があり、出陣の準備をし、フローイ領地を
行軍してシュレーブにたどり着いた段階でパロドトスからの使者が
来るはずだ。その二つの連絡かほぼ同時だったというのは、ボルス
スは出陣を了解したのとほぼ同時に軍を進めていたと言うことであ
る。
﹁まぁ、良い。早いに越したことはない。して、パトローサにつく
のはいつ頃か?﹂
﹁それが⋮⋮﹂
使者が語ったのは、フローイ軍がこのパトローサを避けるように
北東への街道を取ったことである。
第二の使者からほとんど間をおかず、三人目の使者が到着した。
王ジソーが待ちわびていたフローイ国からの使者である。
﹁我が王ボルススからの口上を申し述べます。戦場はイドボワの門。
我々は全力で向かいます故、貴軍も急ぎ出陣されますよう﹂
﹁あい分かった。ボルスス王には、よくぞ出陣を決意くださったと
礼を伝えてくだされ﹂
王ジソーは満面の笑顔で使者を追い返したが、使者が姿を消すの
と同時に、別人のように笑顔を怒りの表情に変え、床を踏みならし
た。
﹁ボルススのずる賢さよ﹂
66
国王ジソーが憎々しげに言葉を吐き捨てた。今までフローイ国に
出陣を急かしてシュレーブ国が戦の主導権を握っているつもりだっ
たが、逆に出陣を急かされたことで主導権を奪われたような気にな
ったこと。そして、フローイ軍を二手に分けようという計画が崩れ
たことである。
﹁フローイ軍が三千。では、我々が差し向ける兵力は⋮⋮﹂
﹁南東から来るグラト軍の軍勢は多くとも二千五百といったところ。
四千も兵を差し向ければ事足りましょう﹂
﹁では、残りの四千を﹂
﹁それが宜しいかと﹂
﹁将軍どもに命ずる。即刻、パトローサを出陣せよ﹂
﹁では、その手配をし、明日の朝の出陣を⋮⋮﹂
﹁いかん。今日出陣するのだ。ボルススに遅れを取ってなるものか﹂
その王の決断に、出陣は未だ先だと考えていた将士は混乱し、優
美な王都パトローサの雰囲気は荒々しく変貌した。
ドリクスは生徒であるエリュティアの傍らで、窓からそんな雰囲
気を味わっていた。エリュティアにもそんな混乱が乗り移ったよう
に不安な様子で疑問をぶつけた。
﹁父上の軍はアトラス様のルージ国と戦うのですか﹂
﹁その件は今は内密に﹂
ドリクスのその一言でエリュティアから周囲へ秘密が漏れる心配
はない。素直な少女は秘密にしておかなくてはならないという意識
をすり込めば素直にそれを守るだろう。ただ、確かに混乱する事態
に違いない。聖都シリャードに巣くうアテナイ軍を討伐する。そう
言う名目を掲げてシュレーブ王は参陣のふれを出し、この都に八千
以上もの大軍を集めた。もちろん、本来の敵はルージ国王リダルを
首魁とする反乱軍である。しかし、リダル王の勇猛さとルージ軍の
精強さはこのシュレーブにも響き渡っていて、相手がルージ軍と聞
けば将士の士気もくじけるかも知れないという不安をもっていたの
67
である。
この王都パトローサを出陣した八千二百の大軍は、ルードン河沿
いに東に進み、聖都シリャードで方向を転じて、一部は南から侵入
するグラト軍、王ジソー率いる主力はフローイ軍と合流して、北か
ら来る、ルージ・ヴェスター合同軍を迎え撃つ手はずである。
エリュティアは聖都シリャードでのアトラスとの別れを思い出し
た。アトラスはエリュティアに﹁女神リカケーの涙﹂と呼ばれる真
珠を与え、彼女は今でも肌身離さず持っていた。取り出して眺めて
みれば、彼女がとまどう心を写すように輝きは薄れたが涙の形は保
っていた。
彼女は別れ際に言った言葉を思い出した。
﹁願いますれば、貴方様がレトラスとして、私の元にお戻りくださ
いますように﹂
今、その自分の言葉は、彼女の心の中で滑稽さや迷いをもたらし
ている。では、どんな言葉、どんな関係なら良かったのか。彼女は
それを見いだせずにいた。彼女にできるのは祈ることだけだった。
﹁あの方に、ルミリアの真理の導きがありますように﹂
彼女はアトラスから与えられた﹁女神リカケーの涙﹂と呼ばれる
真珠を握りしめたまま遙か遠くに視線をやった。もう一方、海を隔
て離れたルージ国の王の館で、アトラスがエリュティアから与えら
れたクレアヌスの胸板を眺めていたと知ったら何を語っただろう。
事実、同じ時、アトラスはクレアヌスの胸板の表面に彫り上げら
れたルミリア神にエリュティアの面影を重ねて思いにふけっていた
のである。やや滑稽なのは、そのアトラスがその左腕にはリーミル
から与えられた銀の腕輪をしていたことかもしれない。聖都シリャ
ードにおけるリーミルやエリュティアとの出会いは、この無垢な若
者の心の中で恋愛にまで至らないと言うことだろうか。
68
イドポワ渓谷突入
その歴史の中で、アトランティス大陸中央の肥沃な平原にシュレ
ーブ国が急速に勢力を広げ、周辺の諸国がその肥沃地域の支配を求
めて侵入し、繰り返し小競り合いを起こしていた。そのため、中原
の覇者シュレーブ国と周辺諸国の関係は必ずしも良くはない。
ただ、北東部に位置するヴェスター国のみ例外だった。その状況
を作り出したのは、両国の境にあるイドポワ渓谷の地形である。東
西両側は切り立った崖がそびえ、その渓谷の底の街道は、人が一列
か二列でなければ通れないのである。
大軍を動かすに向かず、どちらからも攻めがたい地形が、シュレ
ーブ国とヴェスター国に平穏をもたらしてきたわけだった。
今まで平和だった街道を、今、ルージ軍が進み始めている。前衛
を行くアガルスス率いる一隊は、隊列を一列に整え直して渓谷へ突
入した。王リダルは愛馬を降りた。街道は細いばかりではなく幾つ
ものアップダウンがあって、馬に乗ったまま進むことができないの
である。従卒が王の馬の轡を取ろうとした。王に代わって自分が王
の愛馬を曳いていくというのである。
﹁よい。自分で曳く﹂
王は短くそう言って、馬の轡を取って部隊を先導し始めた。
﹁見よ。オスロケイアも父に良く似て、勇敢な馬だ。これからの戦
に逸っておるわ﹂
アトラスの愛馬アレスケイアの兄に当たる馬だが、リダルが過去
の遠征で利用した愛馬の名を引き継いでいる。その馬が、これから
の主人の運命を察し、それを避けようとするかのように、轡を曳く
をリダルに抗い、嘶きながら後ろ足で立ち上がる様子を見せたので
ある。王リダルは愛馬の首筋を叩き、たてがみを撫でて興奮を納め
させた。鼻面を撫でられた愛馬は追うに抗うことはなく、主人に付
69
き従った。この王は配下の者だけではなく、愛馬を信服させる気迫
を持っていた。
そんな地形が、渓谷の出口のイドポワの門と呼ばれる場所まで六
ゲリア︵約5km︶は続くのである。兵は一列や二列になりながら、
その道を押し合いへし合い歩む。ふと立ち止まった兵士に後ろの兵
士がぶつかって、そんな混乱が次々と広がらぬように、兵士は腕を
伸ばしても前の兵士の方に届かぬほどの間隔を置いている。
前衛のアガルススの部隊がイドポワの門を抜けて隊列を整え直し、
後続の兵士たちのために昼食を準備し終わる頃に、王リダルの部隊
が到着する、残りの部隊、更に、その後に続くヴェスター軍をそこ
で待てば、夕刻になるだろう。そういう長い隊列である。今も昔も、
側面を突かれたとしたら、これほど無防備な隊列はない。ルージ軍
とヴェスター軍はイドポワの門を抜けたところで野営をする予定に
なっていた。
ただ、そこには三日前からフロー軍とシュレーブ軍が布陣してい
る。両軍にとってここで待っていれば、間違いなくルージ・ヴェス
ター連合軍と遭遇するという場所である。
王リダルがふとその気配に気づいて見上げれば、東の崖の上に野
生の山羊の群れが姿を見せて、じっとこちらを見下ろしていた。深
い渓谷の底には風が吹かず、暑さのみたまっているようで、肌に幾
筋かの汗が流れた。
70
待ち受ける者たち1
これからやってくるはずのルージ・ヴェスター連合軍を待ち受け
るのは、街道が渓谷を抜けて、ようやく視界が広がるイドポワの門
と呼ばれる場所である。
シュレーブ軍がイドポワの門にたどり着いたのは、リダル王が渓
谷に突入する三日前の夕刻だった。シュレーブ国王ジソーを腹立た
しくさせたのは先に到着したフローイ軍の陣に翻る旗である。しか
し、三千と聞いていたフローイ軍は、眺めてみれば五百にも足らな
い数である。ジソーが進軍を停止しフローイ軍の陣に使いを出すと、
王ボルスス自身が僅かな配下を伴ってシュレーブの陣を訪れた。王
ボルススは王ジソーの姿を見つけるや人の良い笑顔を浮かべて後か
ら来たジソーを歓迎した。
﹁よく見えられましたな。ジソー王の到着を今か今かとお待ち申し
ておりましたぞ﹂
﹁お早いお着きですな﹂
王ジソーはやや皮肉を込めてそう言った。ジソーはそう言うがフ
ローイ軍はこの地に着くどころか既に布陣を終えていた。一部の兵
士をここに残したのは、南から進軍してくるシュレーブ軍をこの辺
りで足止めし布陣させるためである。ボルススは皮肉に気づく様子
も見せずに言った。
﹁今回は、シュレーブ国とジゾー王のために趣向を凝らしておりま
す﹂
﹁趣向?﹂
﹁左様。シュレーブ軍が主力としてルージの奴らめを壊滅する。そ
ういう趣向ですわい。お聞きになりたいかな﹂
なにやら利をもたらしそうなボルススの提案に、ジソーは機嫌を
直して、ボルススの説明を促した。
71
﹁是非﹂
﹁奴らはここで隊列を整えましょう。全てのルージ軍が門をくぐり
隊列を整えて、未だに戦いの準備も整わぬところを、精強なシュレ
ーブ軍が一気に奇襲をかけてこれを包囲殲滅するのです﹂
﹁して、ボルスス殿は?﹂
﹁我らフローイ軍は門を少し入った辺りで奴らの退路を断つお手伝
いをいたしましょう﹂
﹁なるほど﹂
﹁既に、我が兵は門の内側に伏せてありますわい﹂
そんなボルススの言葉に、ジソーはようやく理解して頷いた。フ
ローイ軍の主力はイドポワの門の向こうに隠されているのである。
ボルススは思わせぶりに言葉を継いだ。
﹁いかがかな。あのリダルめを討てば、ジソー王の勇猛さはアトラ
ンティス全土に鳴り響きましょうぞ﹂
ボルススはジソーの表情に心の内を読み取りながら、更に彼の虚
栄心を煽った。
﹁男どもは敬服し、吟遊詩人は各地でジソー王を讃える歌を歌い、
女子供はそれを口ずさんでジソー王の偉業を心に刻むのです﹂
王ボルススは人の良い笑顔で王ジソーの肩をたたくような親しさ
を込めながら言った。ただ、腹の底では、王ジソーの心を煽る言葉
がこれほどすらすらと口をついて流れ出す自分の弁舌に満足してい
る。事実、この時の王ジソーは戦いの結果の名誉のみで心が満たさ
れていた。
﹁あい分かった。我らシュレーブの奮戦ぶり、とくとご覧いただこ
う﹂
ジソーの言葉に、ボルススは新たな提案を持ちかけた。
﹁では、貴軍の陣立てを。ルージの奴らめは、このイドポワの門を
出て一ゲリア半︵約1200メートル︶の辺りで隊列を整えましょ
う。貴殿の軍は、この辺り、二ゲリア半の距離を置いて隊列を整え
るルージの奴らの目に入らぬところに。ルージの奴らめが門をくぐ
72
り終えた頃合いに、我らが合図の狼煙を上げまする﹂
﹁狼煙ですと?﹂
﹁よろしいか? リダルめを討ち取るのはジソー殿ですぞ。くれぐ
れも、リダルめがあの門を出、奴の部隊がこちらで無防備な姿を晒
すまでお待ちなされ﹂
﹁なるほど、門のこちらに姿を見せたリダルめを討ち取れと? 手
柄は儂のものだな﹂
﹁その通り。ジソー殿がリダルめを討つ勇壮な姿が目に浮かぶよう
ですわい﹂
王ボルススは腹の底で別のことを考えている。ルージ軍、とりわ
け、王リダルが直卒する部隊と直接にぶつかって兵を損耗するなど
まっぴらである。そういう役割は、このジソーに押しつけねばなら
ない。しかし、それと悟らせぬよう、ボルススは気前良く申し出た。
﹁ここに残した我が軍の精兵五百、ジソー王の配下として存分にお
使いくだされ﹂
この辺りの地形は、あらかじめ様々な情報収集で知っていた。た
だ、実際に現地を見聞してみると、予定した場所には、二千五百の
兵を隠すことしかできなかった。残された兵はイドポワの門の外に
布陣させたが、その兵を使えという。ただ、勝利の名誉にとりつか
れた王ジソーは提案を一蹴した。
﹁いや、フローイ軍部隊など無用。貴軍の五百には、後方で我らの
戦ぶりをとくと見ていただこう﹂
王ジソーのそんな言葉に、王ボルススは手を打って褒め称えた。
﹁おおっ、ジソー殿の何という勇猛さか﹂
ボルススは精兵五百と大げさに吹聴したが、実数は三百足らずで
ある。しかも、物資の運搬やそれを守るための補助的な兵士にすぎ
ない。その兵を精強なルージ軍との戦の前衛で使われて消耗させら
れてはかなわないのである。ボルススの予想通り、ジソーは提案を
蹴り、ボルススは予備兵力は一兵も損なわずにすむのである。もち
ろん、王ジソーがボルススの予備兵力を使うと言えば、別の手段を
73
講じてそれを避けただろう。
ボルススは早速傍らの兵士に、補助部隊の指揮官イドラスの名を
挙げて命じた。
﹁お前は、イドラスに後方に移動せよと伝えよ。猶予はならぬ、即
刻移動せよとな。ジソー王の邪魔になってならぬ﹂
ボルススの命令に呼応するように、ジソーもまた配下に命を下し
た。
﹁おぉっ。我らも布陣するぞ。各将軍に伝えよ。イドポワの門から
二ゲリア半の距離を置き、林に兵を伏せて次の命を待て﹂
﹁では、儂も我が軍の陣を見回ります故、戻らせていただこう。我
らが上げる狼煙を楽しみにお待ちくだされ。よろしいか? 狼煙を
待って一気に叩きつぶすのですぞ﹂
先ほどからボルススは繰り返し狼煙ということを言った。ボルス
スにとって大事なことだが、王ジソーにとって繰り返し聞かされて、
そのしつこさにやや腹立たしさを感じていた。
﹁ああっ。愉快、愉快。これで勝利と、シュレーブの栄誉は間違い
なしですわい﹂
王ボルススは陽気に笑いながら、ジソーの元を去った。彼も忙し
い。今からフローイ軍の布陣状態を確認せねばならず、ヴェスター
国に忍ばせてある密偵からの情報も検討せねばならないのである。
今までの情報によれば、ルージ・ヴェスター連合軍はルージ軍を
先頭にやってくる。ボルススは開戦は二日か三日後になるだろうと
考えていた。
74
待ち受ける者たち2
食事に関して不平を言うことのないフローイ国王子グライスだが、
さすがに、この朝の朝食のカンバクには眉をひそめて、苦笑いして
不平をつぶやいた。
﹁早く、まともな食事がしたいものだ﹂
イドポワの門の内側、東の緩斜面に布陣して三日になる。いつや
ってくるか分からない敵から兵を隠すために煙や臭いは厳禁である。
布陣した兵士たちは温かい物を食べることはかなわず、この数日と
いうもの、三度、三度、カンバクと呼ぶ携行食を水でふやかして食
べているのである。
フローイ国の王子グライスは、フローイ軍の一隊を率いてイドポ
ワの門の中の東側の斜面に陣取っていた。もともと、この辺りも西
側の崖と同じく切り立った崖だったという。王ボルススが幼い頃に
アトランティスを襲った大地震でその崖が崩れたらしい。更に、そ
の後の大雨で土砂や樹木が流され、一部がかなり緩やかな斜面にな
った。今はそこにまばらに新たな樹木が育っている。樹木の密度の
荒い森だが、フローイ軍を隠すに十分だった。陣の前方には街道が
あるはずだが、グライスの陣からも街道は見えないのである。陣を
離れて1ガルゲリア︵約80メートル︶ばかり前進してみると、ま
ばらな樹木を通して、西側の壁面を背景に南北に長く続く街道が見
下ろせた。
その赤茶けた地の色をして、この街道は﹁赤い道﹂と称される。
しかし、まもなく兵士たちの血を吸って、呪われた赤い道とでも呼
ばれるようになるかも知れない。
グライスその街道の北の方から駆けてきた商人姿の男が、街道を
逸れてこの斜面を登ってきたのに気づいた。やがて男はグライスに
気がついて服の中から首にかけていた札を取りだして掲げて見せた。
75
ボルスス王が放った密偵の印である。グライスは黙ったまま頷いて
通って良いと指示をした。この種の密偵が日に十数人は北からやっ
てくる。街道の北の端のヴェスター国の都レニグの状況や、そこに
いるルージ・ヴェスター両軍の動静を逐一伝えてくるのである。た
だ、今グライスの傍らを通過した密偵は、今までのどの密偵より慌
ただしい。やがて、グライスの元に王ボルススから自分の陣に来い
という伝令がやってきた。いよいよ、戦いが始まるのだろう。
﹁おおっ。居ったか﹂
グライスを呼びつけたはずのボルススが、この街道が見える位置
に姿を見せてそう言った。この王は気まぐれで行動が早い。グライ
スを呼ぶ伝令を出した直後、自分が出向く方が都合が良いことに気
づいたのだろう。事実、ボルススがグライスに語りかける言葉は目
の前の光景を必要とした。街道を指さしてボルススは言った。
﹁昼を待たず、ルージ軍の前衛がここを通過する﹂
﹁いよいよ、やって来るのですね﹂
﹁前衛はアガルスス。先の遠征でも、リダルに付き従った猛将だ。
続いて、リダルが直率する部隊、アゴース、バラスらが率いる部隊
が続く。その後のヴェスター軍がここを通りかかるのは夕刻前にな
ろう﹂
﹁私たちは、後から来るそのヴェスター軍を相手にするということ
ですね﹂
グライスの言葉にボルススは頷いた。グライスは気がかりなこと
を聞いた。姉リーミルの思い人のことである。
﹁それで、アトラスはどこに?﹂
﹁ああ、あの子狼なら、まだ海を渡っている頃だろうよ。第二陣を
率いてくるそうだ﹂
グライスはもう一つ聞きたいことがある。
﹁リダル王の密偵は、ここに伏せている我らに気づくことは無いで
しょうか?﹂
76
当然の疑問である。フローイ軍はルージ・ヴェスターの動向を探
るための密偵を盛んに出している。戦いが間近なら、ルージ軍もま
た密偵を放ったり、前方を偵察する小規模な部隊を出すだろう。
﹁まだ、奴らは蛮族の軍と戦う気でおるわい。この辺りには見向き
もせず先を急ぐだろうよ﹂
ボルススが言うのは、ルージ軍は密偵や偵察部隊を出さないとい
うのである。そして、軍人なら、このような無防備な隊列を続ける
ことを嫌う。目の前に渓谷の出口があるこの場所で留まって地形を
シリャード
調べることもすまいというのである。
まこと
﹁彼らが聖都を占領し、アトランティスに覇を唱えようとしている
のは、真ですか?﹂
これも当然感じる疑問だった。もし、彼らにそのような意図があ
るなら、シュレーブ国に入ったこの場所での戦いも想定してやって
くるだろう。
﹁それは問うまい﹂
﹁なぜです?﹂
﹁我らフローイ国には、奴らを討つ大義名分がある。それだけで充
分じゃわい﹂
そのボルススの言葉に、孫のグライスはこの戦いの意味を悟った。
神帝を暗殺し、アトランティスを我が物にしようという反逆者ども
を討つ戦いではなかった。フローイ国が勢力を広げる邪魔になる者
どもを排除しようという戦いである。
ボルススはグライスを武将としてではなく孫として接するように
寄り添い、その肩を抱いた。リーミルに劣ると考えていたこの孫が、
意外に知恵が回ることに気づいたのである。更にボルススを喜ばせ
たのは、孫から伝わる震えに、戦いの決意や緊張は感じ取れても、
怯えはなかったことである。
これからやってくる敵はもちろん、イドポワの門の外に布陣する
シュレーブ軍も、この辺りからは視界に入らない。そのシュレーブ
軍の陣営で、これからの戦いの様相を左右する小さな綻びが生じ始
77
めていた。
78
新たな陣立て
その日の朝、まだ朝食も取らない時間に、シュレーブ国王ジソー
は、後方に陣を敷いていたフローイ軍のイドラスの訪問を受けた。
挨拶もそこそこにイドラスはジソーに詰め寄った。
﹁王よ、陣立てを変えられますのか?﹂
イドラスがそう言ったのは、シュレーブ軍が陣を前進させつつあ
ることである。
﹁おおっ。その通り﹂
﹁それでは、我が王ボルススとの約束が違いましょう。至急、シュ
レーブ軍の陣を下げていただきたい﹂
イドラスも普段は温厚で礼儀をわきまえた男である。ただ、この
緊急時に、言葉に腹立たしさが混じっていて、言葉が荒い。その荒
っぽさに王ジソーは苛立ちを深めた。そもそも昨夜までの陣立ては
ボルススが指示したようなものだった。陣立てのみならず狼煙とい
う言葉を繰り返し使って、戦を始める頃合いさえ指示していたよう
な気がするのである。
昨夜遅く、シュレーブ軍のナグマルを筆頭とする将軍どもが、王
の陣を訪れて懇願した。もっと陣を前進させて積極的に戦うべきだ
という。シュレーブ軍随一の猛将で、王ジソーが他国にも自慢して
いるナグマルの言葉だけに、王の心に響いた。
シュレーブ国の将軍たちは、ルージ軍三千という情報は聞き知っ
ている。ただ、ここ数日、ルージ軍が出てくるはずのイドポワの門
の前の広い空間を眺めていれば、三千という数字が、四千、五千と
頭の中で膨れあがり、自軍を上回るルージ軍と戦わねばならぬかの
ような不安を煽ったのである。決して、臆病な者たちではないが、
容易な勝利があればそれを選びたくもなるだろう。
陣をもっと前進させ、ルージ軍が出てくる場所を縮めてやれば、
79
彼らシュレーブ軍が一度に戦うルージ軍の数は減り、イドポワの門
からこちらに出てくるルージ軍を少しづつ討ち取っていけばいい。
こちらは全軍、敵のルージ軍はイドポワの門をくぐってくる僅かな
兵である。シュレーブ軍にとって優勢な戦況が続き、そのうちルー
ジ軍も前進を諦めて後退するだろう。
この新たな思いつきは王ジソーを喜ばせた。何より今まで想定し
ていた戦いは、ボルススに押しつけられたような不快感がある。し
かし、配下の将軍たちの提案は、ジソーに独自の選択権を与えたの
である。
王ジソーは喜んで配下の武将の勇ましげな提案を受け入れた。た
だ、門の内側のフローイ国王ボルススにそれを伝えなかった。陣を
移動させたという既成事実を作ってから伝えれば良かろうと考えて
いたのである。
今朝、王ジソーは配下の武将たちが陣を移動させる喧噪で目覚め
た。今日の大勝利を予想させる音に、彼は機嫌が良かった。しかし、
今、目の前にいるフローイ軍の武将が彼の計画に文句を言いぶち壊
そうとする。
王ジソーは怒鳴るようにイドラスに言った。
﹁我が軍の差配は儂がする。口出しは無用である。とっとと自分の
陣に戻り温和しく眺めておれ﹂
フローイ軍の一介の武将として、イドラスはシュレーブ王にそう
言われると反論の余地はなく引き上げるしかない。イドラスはぬぐ
いきれない不満をにじませつつ、王ジソーに一礼し天幕を出た。入
れ替わりに給仕の者たちが天幕に入っていった。温かなスープが芳
しい香りはなってイドラスの鼻を刺激した。ジソーという王は、こ
の戦場にも調理人を同行させているらしい。
︵そんなことでは、そのうちに、墓の下で捧げ物の供物を食らうこ
とになりますぞ︶
イドラスはこの戦場感覚の無い王に、心の中でそんな言葉を吐き
80
捨てた。王ジソーの天幕の前で、イドラスを待っていた男に手短に
命じた。
﹁お前は、急ぎこの事態を我が王に伝え、指示を仰げ﹂
激変した状況を王ボルススに伝える必要があるだろう。彼自身は
自分の陣に戻って変化に対応せねばならない。しかし、そう命じて
送り出した使者がまもなく傷を負って帰陣した。前方に布陣するシ
ュレーブ軍の将兵に阻まれて通ることができず、無理に通ろうとし
て兵士と小競り合いになったという。イドラスは驚愕した。確かに、
シュレーブ軍四千の大軍はイドポワの門の近くに、蟻がはい出る隙
間もないほどに布陣してその出口を塞いでいた。イドラスには、イ
ドポワの門の内側に兵を伏せているボルススにこの状況を伝えるす
べがないのである。
81
先陣 アガルスス
ルージ軍の先陣を努めるアガルススという男は、何事につけ、人
の先頭に立たねば気が済まぬ男で、この行軍でも先頭に立って部隊
を率いていた。
﹁おおっ﹂
アガルススが嬉しそうに声を上げたのは、今まで左右を閉ざされ
ていた景色が、左手の方向に開けたからである。もちろん、その緩
やかな斜面の奥に伏せられたフローイ軍の姿は見えない。彼は振り
返って兵士に命じた。
﹁申し送りをせよ。今、アガルススがイドポワの門に到着したと﹂
兵士は忠実に命令を実行した。
﹁アガルスス殿が、イドポワの門に到着⋮⋮﹂
﹁アガルスス殿が、イドポワの門に到着⋮⋮﹂
そうやって、言葉が前の兵士から後ろの兵士へと伝わった。まだ、
先の見えぬ行軍をしている兵士たちも、それを聞けば今日の目的地
が間近だと元気を出すだろう。一時は視界が開けたとはいえ、イド
ポワの門で再び隘路になる。ここで一列縦隊を解くわけには行かず
立ち止まるわけにも行かない。アガルススは前方に見える、イドポ
ワの門と呼ばれる狭い出口に前進し続けた。
﹁女神パトロエもお赦しくださるか﹂
アガルススが小さくそうつぶやいて、狭く切り取られた天を仰い
だのは、この空間に涼やかな風が吹き込み、彼の髪を撫でるように
吹き抜けたからである。その優しさが、妻が彼の髪を撫でるときの
記憶に重なった。
パトロエという戦の女神は嫉妬深い。アトランティスの将士にと
って、戦前に女と交わるのは厳禁だった。ただ、アガルススは、今
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回のルージ国の出陣前夜、妻と床を共にした。若い頃のように肉体
をむさぼるような性交をするには、互いに歳をとり過ぎている。一
つの床で、妻は指で夫の髪を優しく梳き、唇を合わせて夫の愛情を
記憶に残そうとした。夫は妻の肩から腰の辺りを撫でて、その体温
と柔らかさを、これから続く殺伐とした戦の中の慰めにしようと記
憶に刻んだ。
ただ、妻との記憶も一瞬のこと、この熟練した武人は、イドポワ
の門をくぐりつつ、今夜の宿営地を整えるのと同時に、周囲の様子
を探らねばならないと考えていた。しかし、周囲を探るどころでは
なかった、前方に陣を敷く軍勢が見える。距離で言えば2フェスゲ
リア︵約400メートル︶を少し超える距離である。
83
アガルススとナグマル1
﹁貸せっ﹂
アガルススは傍らの兵士の旗を奪うように手にした。ルージ国を
示す濃い青地にアガルススを現すやや曲線をした三角が白く染め抜
かれていた。三角は狼の牙を象徴しており、さきの遠征以来使用し
ている意匠である。この旗を掲げれば、ルージ軍だと言うことや、
先陣がアガルススだと言うことが、相手に明瞭に分かるだろう。
そして、この時、前方の陣に一斉に掲げられた旗の緋の色で、シ
ュレーブ軍だと判別できる。
︵やはり︶
アガルススはそう思った。前方の陣から矢が放たれ、アガルスス
が前方の陣に感じ取っていた殺気を裏付けたのである。接近するな
と言う警告の矢ではなかった。明らかにアガルススを殺害しようと
狙った矢だが、逸った射手が命令も待たずに射たものだろう。アガ
ルススに届いても勢いの無い矢だった。アガルススは
この距離なら、アガルススの大声もシュレーブの陣に届く。彼は
傍らにいた従卒の一人に命じた。
﹁お前は、急ぎ戻って、我らが王にお伝え申せ。前方にシュレーブ
軍の陣。殺気あり。警戒されたし﹂
続けてもう一人の従卒に命じた
﹁お前はイドポワの門まで戻り、我が隊を整えて陣を敷け﹂
﹁殿は?﹂
﹁あ奴らと話して参る﹂
前方の軍はすぐさま突入してはてもおかしくはない距離である。
ただ、今はアガルススか率いる隊がイドポワの門を抜けて陣を敷き、
後続の王リダルに警戒する時間の余裕を作らねばならないのである。
彼は旗を手にしたまま十数歩進み出た。
84
﹁ルージ国のアガルススである﹂
アガルススは持ち前の大声を更に張り上げてゆっくりと名乗り、
更に言葉を継いだ。
﹁旗より察するに、前に居られるは、シュレーブ国の面々か? エ
ムスス殿、ナグマル殿、おおっ、ユキヌス殿も居られるか、その後
ろに見え隠れするのはジソー王。我らに何の遺恨あってのことかは
知らぬが、こそこそ隠れて居られないで、もっと前に、姿を見せな
され﹂
アガルススはゆっくり時間をかけてそう言った。その時間が味方
の戦の準備に費やす時間になる。そして、兵士の前で名を呼ばれ、
臆病ぶりを笑われた者どもは、兵に突撃を命じる前に、アガルスス
に反論したくなるだろう。
この時において、シュレーブ軍は戦機を逸した。すぐさま突撃す
れば、戦の準備が整わず後方に逃げることもできないアガルススの
部隊を容易に殲滅できたろう。しかし、様々な心の迷いが王ジソー
に戦いを始める命令を出すことをとまどわせた。
一瞬、停止した時間を打ち破るように、アガルススは手にした旗
竿の先を、彼を囲むシュレーブ軍の左翼の陣に向けた。
﹁おおっ、そこに見えるのはナグマル殿の旗ではないか?﹂
アガルススはシュレーブ軍の全ての兵に響き渡るように声を張り
上げた。
﹁ナグマル殿。臆病の通り名を持つそなたのこと、恐ろしければ無
理にとは言わぬが、一度、この儂と剣を交えては見ぬか?﹂
﹁臆病﹂の通り名というのは挑発のためのデマである。ただ、ア
ガルススはシュレーブ国に武勇のみ誇るナグマルという貴族が居る
ということは聞き知っていた。前方に翻る旗を見れば、噂の貴族が
居るに違いない。静止していた戦況に動きが生じた。アガルススが
指した陣の前衛の兵が左右に分かれて一人の男が進み出たのである。
﹁おおっ。一騎打ちの件、承知。我がナグマルぞ。アガルススよ、
その老いぼれのへらず口、きけぬようにしてやる﹂
85
進み出てきた男は右手の剣と左手の盾を打ち鳴らしながら、アガ
ルススをそう威嚇した。
︵ほぉっ︶
アガルススは彼の姿にやや感嘆のため息を漏らした。あの男とは
初対面だが、名乗りを上げた以上、ナグマル本人に違いあるまい。
彼が右腕に持った剣は、普通の兵士なら両腕で振り回す長さと重さ
がある。左腕の盾も肩から膝の辺りまである大きく重い。そして、
何より、肩幅が広い体格は、そんな重量物を自在に振り回す腕力を
誇示しているのである。
86
アガルススとナグマル1︵後書き︶
87
アガルススとナグマル2
ナグマルにはいたずらに己の武勇を誇る様子があり、その軍装も
勇壮で華美な点のみを求めているようで実戦的ではない。幾多の戦
場を駆け回ってきたアガルススは、そんなナグマルの強さを値踏み
する余裕があった。
﹁では、お相手いたそう﹂
そう言って進み出たアガルススは盾も持たず、行軍中に身につけ
ている軽鎧、右手に使い慣れた剣のみ手にした、ナグマルと比較に
ならない軽々とした姿である。アガルススのあまりの軽装をみたナ
グマルは怒りを浮かべて突進してきた。
﹁この儂を侮りおるか﹂
この瞬間からシュレーブ軍は動きを止め、この二人の一騎打ちに
注目した。
アガルススには確認しておかなければならないことがある。シュ
レーブ軍がルージ軍の進軍を妨害するようにここに布陣し、敵意を
シリャード
むき出しにしている理由である。この場所はシュレーブ国内に入る
場所とはいえ、聖都に向かう街道上の場所で、通行の自由は認めら
れる習わしだった。そして、王リダルが聖都を占領するアテナイ軍
討伐を宣言しているだけに、アテナイ軍と戦うために来たというこ
とも分かっているだろう。シュレーブ軍が、蛮族の軍と戦うルージ
軍に加勢して合流することはあっても、シュレーブがルージを敵と
見なす理由はないはずだった。
アガルススは迫ってきたナグマルからするりと身を避け、目標を
行き過ぎたナグマルが振り返るのを眺めながら声をかけた。
﹁ナグマルよ。何をトチ狂って、蛮族と戦おうとする我らを襲う?﹂
﹁黙れい、暗殺者どもがっ﹂
88
﹁我らルージが暗殺者だと? なにを惚けたことを﹂
ロゲルスゲラ
﹁とぼけるな。リダルかアトラスかは知らぬが、ルージが神帝を暗
殺したこと、六神司院から伝え聞いておる﹂
ナグマルは出陣後、聖都から北へ行軍の方向を転じるときに、王
ジソーから聞かされたことを語った。彼自身が聖都に巣くうアテナ
イ兵どもを駆逐するつもりで出陣したが、王ジソーはそこで行軍す
ることを止めず、本来の敵を宣言して、部隊を分けて北と南に行軍
を続けさせる指示したということである。
ナグマル自身がまだ整理が付かない心を振り払うように、振り上
げた剣を力任せに振り下ろすのを、アガルススは自分の剣で払った。
ナグマルの剣を受け流しただけにかかわらず、剣から伝わる衝撃は
大きく、ナグマルのすさまじい腕力を想像させた。ただ、その瞬間
にはアガルススは、するりとナグマルの背後に回り、彼の兜の上に
付いた羽の飾り物を切り落とした。もちろん、ナグマルの首筋に刃
を突き立てることもできたろう。アガルススはそれをしなかった理
由を大声で伝えた。
﹁まずは、臆病者呼ばわりしたことにお詫びのしるしだ﹂
﹁何を小賢しいジジイが﹂
ただ、ナグマルは自慢の兜の飾りを、大勢の兵士の目の前切り落
とされるなどという屈辱を今まで味わったことがなかった。彼は興
奮を増して、剣を上下左右に振りまわし、盾を突き出してアガルス
スを突き飛ばそうとしたが、剣はアガルススの剣に受け流され、盾
は軽やかに身をかわされて、アガルススを傷つけることはできない。
熟練した武人として、アガルススは彼に同情した。彼は長い経験
で知っていた。鎧は重いばかりではなく自由な動きを制限する。重
い剣や盾を振り回し続ければ、いかに腕力のある者でも疲労する。
風通しの悪い鎧の中では、体温が上がり、呼吸は荒くなり、動きは
鈍くなる。アガルススが見たところ、ナグマルの呼吸はすでに短く
荒く、見事な兜からはみ出した髪を伝って汗が滴り落ちていた。足
取りに軽やかさはなく、振り回す剣や盾で足元がふらついていた。
89
それでも、ナグマルは剣と盾で攻撃を止めない。シュレーブ軍の
面々から見れば、味方が一方的にルージ軍の猛将アガルススを攻撃
し続ける光景だが、二人の動きは円の縁をたどるようで、両軍の陣
営の中央から移動していない。
︵頃合いか︶
ナグマルが下から切り上げる剣を払いながら、アガルススはちら
りと自軍に目をやってそう考えた。アガルススの隊は門の入り口に
陣を敷き終えていた。一騎打ちの前に出した使者は王の元にたどり
着いているだろう。シュレーブ軍もルージ軍と話し合う余地も無か
ろう。あとは戦うのみである。アガルススはそう決断した。
ナグマルが右腕の剣を勢いよく切り上げたため、本来、その隙を
守るべき盾はアガルススを突き飛ばすように左側へと突き出され、
ナグマルの右の脇ががら空きになっていた。アガルススはそれを見
逃さず、ナグマルが身につけた鎧の肩当てと胸板の間から、ナグマ
ルの体を剣で深々と刺し貫いた。そして、一瞬の後悔と苦痛に呻く
ナグマルの体を蹴り倒しながら、自分の剣を抜いた。地に倒れたナ
グマルには、もはや剣の束を握る力は残されておらず。左腕にも重
い盾を振り回す力は残っていないようだった。ナグマルの荒い呼吸
に血の飛沫が混じった。剣を構えなおしたアガルススに向けるナグ
マルの表情に怒りはあっても哀れみを乞う様子はなく、最後に不敵
な笑みを浮かべて、苦しげに血の飛沫を吐いた。アガルススはナグ
マルの最後の矜持を認めつつ、彼の首筋を刺し貫いて止めを刺して、
彼が味わう最後の苦痛と死の恐怖から解放した。
アガルススはシュレーブの軍に向けて呼ばわった。
なきがら
﹁臆病者呼ばわりをしたこと、儂の誤りであった。この者は真の勇
者であった。誰かこの勇者の亡骸を引き取りに参られい﹂
間もなく、ナグマルの陣から数人の兵が進み出て、亡くなった主
人の体を引きずって陣に戻った。その兵士たちがアガルススに向け
る視線には、主人を討たれた憎しみより、シュレーブ国随一の勇者
90
を倒した男に対する恐れが大きい。おそらくはこの一騎打ちを眺め
ていたシュレーブ軍兵士に共通する感情だったろう。
アガルススは再び声を張り上げた。
﹁他に、儂の相手を努めてくださる勇者は居らぬか?﹂
彼はルージ軍を囲むように布陣するシュレーブ軍をゆっくり眺め
回して言葉を続けた。
﹁相手が居らぬなら、ご挨拶は終わった。これ以降は、我が兵がお
相手申そう﹂
そう言い終わると、アガルススはシュレーブ軍の陣にゆっくりと
背を向け、自分が指揮する兵たちに勝利を宣言するように豪快に笑
った。そして、兵士たちにも共に笑えと指示するかのように一騎打
ちの間、地面に突き刺してたてていた自分の旗竿を兵士たちに振っ
て見せた。兵士たちも自分たちの主人の勝利に沸いて笑い声が響い
ただけではなく、主人の言葉を繰り返す声が、ルージ軍の陣にいく
つも響き渡った。
﹁我らがお相手申そう﹂というのである。
アガルススの勝利は兵士たちに乗り移った。共に笑い、共に叫ぶ
ことで、兵士たちの心が一つになった。
これから、僅か五百に足らないルージ兵に、四千を超えるシュレ
ーブ軍が襲いかかる凄惨な戦いになる。
91
ルージ兵たち
アガルスス自身にとって、この状況で理想的な戦いというのは、
前面の敵をあしらいつつ、彼が率いる兵士を整然とイドポワの門の
内側に下げて、門を通ってくる敵をと戦うことである。しかし、後
方には王直卒の部隊がおり、突然に行く足を止めてしまったアガル
ススの隊のために混乱しているだろう。アガルススが急いで部隊を
後退させれば、体制を立て直そうとする王の部隊を更に混乱させる
ことになる。王が兵を引くまで今しばらくここで時間稼ぎをしなけ
ればならない。アガルススはそう考えていた。
前方を広く見渡せば、目に入るシュレーブ軍に厚く囲まれ、その
総数はざっと三千五百から四千といったところか。アガルススは従
卒に曳かせていた馬に乗った。普段は徒立ちで兵と共に行軍するア
ガルススだが、その手綱さばきも様になっている。
﹁おおっ、我らが殿は馬に乗っても、よう似合うわい﹂
主人を讃えた古参兵にアガルススは、陣に響き渡る声で答えた。
﹁当たり前じゃい。この儂が戦うのに、徒立ちも乗馬も関係あるも
のか。ただ、敵を葬るのみぞ﹂
その言葉に兵士たちは頼もしい指揮官を讃えるように喚声を上げ
た。アガルススは兵の士気を鼓舞するためにそう言ったが、その意
図は別にある。戦が始まれば彼の命令が末端まで届きにくい。馬で
前線を素早く移動しながら、兵に命令を与えてゆくつもりなのであ
る。彼は言葉を継いだ。
﹁馬上からなら、シュレーブの者どもが、よぉ見えるわい。おおっ、
奴ら、お前たちの姿に怯えて居るぞ﹂
彼は兵をかき分け、陣の前面に出ると、兵たちを振り返って、こ
の戦の意味を持ち前の大声で語りかけた。
﹁シュレーブの奴ら目は、真理の神ルミリアを裏切り、蛮族アテナ
92
イの走狗と成りはておったわ。薄汚い裏切り者どもを罵ってやれい
!﹂
そして、アガルススはシュレーブ軍に向き直って、味方の兵士の
言葉を誘う第一声を発した。
﹁裏切り者どもめ。蛮族アテナイの走狗め!﹂
アガルススの声が配下の兵にも伝わり、兵たちは次々に叫び始め
た。
﹁裏切り者どもめ。蛮族アテナイの走狗め!﹂
この時、兵士たちから迷いや恐れが消えた。ただ、指揮官と共に
戦う意志で一つになった。
93
シュレーブ兵たち
一方、シュレーブ軍の陣営では、シュレーブ軍随一の猛将ナグマ
ルが討ち取られた衝撃は大きく、指揮官たちの動揺が隠せない。そ
して、王の怒りは亡くなったナグマルに向けられている。
﹁なんという愚か者よ。儂の裁可も得ず勝手に出向いたばかりか、
討ち取られ、我が軍の士気を乱しおって﹂
この時、シュレーブ王ジソーは、ルージ軍の方からなにやら声が
響いているのに気づいた。言葉を聞き取ろうと天幕の外に出てみる
と、シュレーブ軍の兵たちは、敵の陣から聞こえる言葉に動揺し、
互いに顔を見合わせ合い、説明を仰ぐように指揮官を眺めた。指揮
シリャード
官もまた投げかけられる言葉に、混乱を隠せないでいた。
シリャード
出陣の時は、聖都に巣喰う蛮族の軍を討つのだと命令を受けてい
た。ところが、聖都にたどり着いてみると、そこでは蛮族を討つど
ころか、神帝が殺害れていたという信じられない話を聞かされた。
更に、その犯人であり、アトランティスに覇を唱えようという野望
をむき出しに軍を進める反逆者どもを討つという名目で軍は二つに
分けられ、一部は南から来るグラト軍を迎撃に向けられた。彼ら自
身は王と共に、ルージ、ヴェスター軍を迎え撃つために北上し、数
日前にこの地に陣を敷いた。そして、今、反逆者であるはずのルー
ジ兵どもから、裏切り者呼ばわりされているのである。状況が飲み
込めない兵たちの混乱が収まる様子がなかった。
王の傍らに控えていた将軍の一人エムススが言った。
﹁ルージ軍とはいえ、イドポワの門のこちらにいるアガルススの手
勢など僅かなもの。我らの軍を進めて一揉みすれば容易に捻りつぶ
せましょう﹂
﹁おおっ、エムススよ、よぉ言うた﹂
同輩のみが王の賞賛を浴びるのは面白くはない。この時、王の前
94
に進み出たのは、シュレーブ軍の中でもナグマルと並んで勇猛さを
讃えられる将軍ユキヌスだった。
﹁ルージの奴らなど、我が部隊のみで充分。我が王よ、私に先鋒を
お命じ下さい﹂
その言葉に呼応するように、王の前に居並ぶ将軍たちは口々に先
鋒を申し出た。何しろ、エムススやユキヌス手勢は一千人近い。ア
ガルススが率いる兵を遙かに上回る。それ以外の将軍たちが直卒す
るそれぞれの兵力も門の前に陣取るルージ軍を上回っていた。自分
の手勢で挑みかかれば目の前のルージ軍など踏みつぶしてしまえる
と考えているのである。手柄を他の将軍に奪われてはならない。こ
の時のシュレーブ軍将軍どもの憎しみに似た競争心は、敵であるル
ージ軍より、味方の将軍へと向けられているようだった。
﹁おおっ、なんという頼もしい者たちじゃ。では、あのアガルスス
を討った者を一番手柄といたそうぞ。どうじゃ?﹂
﹁王よ承知申しました﹂
王の提案に、将軍たちは一斉に同意の言葉を叫んだかと思うと、
一番手柄を挙げるのは自分だと言わんばかりに自陣へ駆け戻って行
った。
﹁手柄を立てて参れ。奴らを葬れば、名誉も褒美も、そなたたちの
望むままぞ﹂
王ジソーは勝利を確信して、そんな言葉を将軍たちの背に投げか
けた。
やがて、それぞれの将軍の陣で勝手気ままに突撃の合図の角笛が
鳴り響き始めた。シュレーブ軍の本陣で王ジソーが勢いよく前進し
始めた主力を頼もしげに眺めて、ルージ軍をあっという間に壊滅さ
せる様子を想像し、周囲の家臣に機嫌良く言った。
﹁見よ。ナグマルなど居らぬでも、我が軍の勝利は間違いないわい﹂
95
前哨戦。アガルススの戦い
敵味方の距離は、1フェスゲリア半︵約三百メートル︶を少し超
える距離だろうか。シュレーブ兵たちは、一斉に剣と盾を構え、か
け声をかけながら足並みをそろえて前進した。この時代のアトラン
ティス軍の標準的な戦い方だった。敵を威嚇しつつ前進し、弓や投
石の射程距離に入れば、後衛の一部が敵に矢を射かけ、投石機で石
を投げる。この間も主力は前進しつつ距離が半ゲリア辺りに迫った
ところで、指揮官の合図と共に一斉に駆け足で敵に襲いかかるので
ある。
そして、シュレーブ軍は弓を主な武器とする長距離攻撃専用の部
隊を持っていた。この時代そんな部隊を持っているのは、兵力や資
金が潤沢なシュレーブ国のみで、王ジソーの自慢の兵力でもあった。
自慢であるだけに王直属の指揮下で動く。この時は王を守るように
王の本営に取り残されていた。
前進するシュレーブ軍の部隊の横の間隔が縮まった。兵を指揮す
る将軍が怒鳴り声を上げれば、隣の部隊の将軍に届くという距離で
ある。
将軍エムススが苛立たしげに怒鳴った。
﹁ユキヌスよ。ここは儂の領分ぞ。出しゃばるではない、兵を下げ
よ﹂
﹁何を言うか。敵の正面にいる我らにこそ、先鋒の任が与えられて
当然。兵を下げるのは、エムスス、お前じゃ﹂
将軍たちが怒鳴り合いを繰り広げる中、兵は前進を続け、ルージ
軍の小さな陣を目指して三方から前進している。本来は指揮の混乱
を避けるために距離を置く部隊の兵士たちは、隣の部隊の兵士と接
触せんばかりである。
﹁儂の一番手柄を盗むつもりか、さすがは薄汚い盗人の小倅じゃの
96
う﹂
盗人というのはユキヌスの父親の蔑称である。隣の領主との些細
な領土争いを起こし、幾ばくかの領地を奪った。王に取り入るのが
旨いために、特に咎められずに自分の物とした。恥ずべき一家。王
へのおべっか使い。ユキヌスの一家には、他の貴族たちからそうい
う蔑視を受けていた。父を侮辱する言葉をユキヌスは腹に据えかね
た。彼は部隊に命令を下した。
﹁手柄を横取りされてなるものか。ユキヌス隊、全軍突撃! 敵を
踏みつぶせぃ﹂
ユキヌスの命令に、エムススもまた命令を下した。
﹁我が隊も突撃だ。手柄は我々のものぞ﹂
二つの部隊の両側の部隊にも命令は広がり、ゆっくりと行進して
いたシュレーブ軍兵士たちは一斉にかけ始めた。
97
前哨戦・アガルススの戦い2
イドポワの門の前に陣取るルージ軍の陣営では、シュレーブ軍の
事情など知るよしもない。しかし、アガルススは一斉に迫るシュレ
ーブ軍を眺めて、兵士たちの動揺を抑えるように、持ち前の大声を
張り上げて陽気に笑って見せた。
﹁はてさて、望みもせぬのに﹂
シュレーブ軍はそのもてる兵力を、ほぼ一斉に動かしたのである。
敵のシュレーブ軍の本陣から見ればこれほど壮観な光景はない。本
陣にいる王ジソーが喜ぶ姿が目に浮かぶようだった。味方から見れ
ば士気を挫かれかねない光景だが、この戦慣れした男にはその後の
戦況が思い浮かぶのである。
アガルススがルージ軍の前衛として率いてきた兵は、彼自身の兵
三百に数名の小領主の兵を加えて五百にも足りない。しかし、イド
ポワの門の出口を中心に、半径半ガルゲリア︵約半径80メートル︶
ばかりの半円形に布陣しており、陣の大きさは五百足らずで守るに
はちょうど良い。兵士にアガルススの指示が行き届き、戦いを支え
ることもでき、多少ある空間には、僅かだが予備兵力も確保して、
前衛で傷ついた兵士と入れ替えることもできるだろう。
突撃を始めたシュレーブ軍兵士の前衛が、その表情まで見える距
離に迫った。
﹁投石、準備。放て!﹂
アガルススの命令で兵士たちが手にした投石器から放たれた数百
個の石が前進してくるシュレーブ兵を捕らえた。倒れる兵士に後続
の兵士がつんのめって倒れ、更に後続の兵士に踏みつぶされて悲鳴
を上げるという有様である。
﹁おおっ、お前たちの放つ石は、ルミリアの真理の弓のごとく百発
98
百中じぁ﹂
アガルススは神の名を挙げて兵たちを鼓舞したが、命中するのも
道理で、四千人を超えるシュレーブ軍兵士の大半が味方同士の横の
間隔を縮めながらイドポワの門に突撃してくるのである。シュレー
ブ兵には左右に石を避ける間隔はなく、立ち止まって盾を構えて石
を防ごうとした者は、後ろから押し寄せる味方に押し倒され、その
足の下に踏みしだかれるという有様で、左右の部隊の間では兵が入
り交じって、兵は指揮をする指揮官の姿も見失って混乱していたの
である。
﹁投石準備、今一度。放てっ﹂
アガルススは無慈悲な命令を繰り返した。更に数百の石礫が飛び、
倒されるシュレーブ軍兵士が数知れず、シュレーブ軍兵士の悲鳴が
戦場に響き渡った。前方を駆けていた兵士の恐怖や苦痛の悲鳴に、
後方の兵士は足を止めた。指揮官も突然の大きな被害に戸惑ってい
た。
99
前哨戦・アガルススの戦い2︵後書き︶
ちょっと混乱しそうな言葉の解説です。
︻投石器・スリング︼
兵士が携行する石を遠くにとばすためのヒモのような器具です。W
ikiより
https://ja.wikipedia.org/wiki/
%E6%8A%95%E7%9F%B3%E5%99%A8
アトランティス軍の大半の兵士は、剣に加えて弓や投石機を持って
います。アガルススは携行に便利だという理由で兵士に投石機を装
備させています。もちろん、剣と共に短弓を装備する部隊もありま
す。
100
前哨戦・アガルススの戦い3
シュレーブ軍の陣営では王ジソーが目の前の歯がゆい戦況に地団
駄を踏んでいた。王の傍らに侍っていた大臣ルソノオが見かねて王
に提案をした。
﹁我が王よ、ここは一度兵を下げてはいかが?﹂
﹁兵を引くだと?﹂
﹁あの通り。味方の兵は敵を恐れ、行く足を止めてしまいました。
ここは一端兵を引き、隊列を整えて攻撃に転じるのが肝要かと﹂
﹁しかし、突撃を命じたものを﹂
﹁戦場の様相は生き物と同じ。変化する戦況の中で、兵を引き、被
害を減らすのも指揮官として有能な資質でありましょう﹂
ルソノオはそう言ったものの、攻撃を中止させて兵を引くという
という消極策に、王が乗り気ではないのを看取って、新たな提案を
加えた。
﹁弓隊を繰り出してはいかがでしょう﹂
﹁弓隊だと?﹂
﹁左様です。将軍どもの混乱した兵は下げ。代わりに王の弓隊を繰
り出すのです。我が王ご自慢のルムアヌ弓隊ならば、ルージどもの
投石など蹴散らしてしまえましょう﹂
﹁その後、もう一度将軍どもの兵を突撃させればよいのだな﹂
その王の考えを讃えるようにルソノオは頷いた。
﹁ご明察です﹂
ルムアヌ弓隊。シュレーブ軍は伝説的な弓の名手の名を取って、
そう呼んでいた。兵数は三百ほどだが、強弓を装備し、その射程は
投石機と変わらない。そして、相手を狙って倒すことが難しい投石
機と違って、敵を狙って射撃することが容易で、弓専門の兵士とし
て訓練も積んでいる。ルージの奴らめが堅く守った陣に矢を打ち込
101
めば、こちらの被害は少なく、大きな被害を与えることができるだ
ろう。
﹁よし。将軍どもの兵を下げさせよ。我がルムアヌ弓隊を前面に押
し出せいっ﹂
王の命令が下った。
102
前哨戦・アガルススの戦い4
﹁ええいっ、足を止めるな。前進﹂
投石によって思いもかけない被害を被ったとはいえ、まだ率いる
兵の数は多く、あと、一息駆ければ、敵陣に到達できる距離である。
僅かな敵兵を蹂躙することもできるだろうとユキヌスは考えていた。
﹁突撃せよ。足を止める者は斬る﹂
隣の部隊ではエムススがそう怒鳴りながら兵を叱咤していた。仲
の悪い二人だが、このまま前進を続けて兵の数で圧倒できるいう意
見では一致していた。
﹁見よ。敵は僅か、我らは多数。敵を踏みつぶすのに、何の遠慮が
あるかっ﹂
ユキヌスがそんな言葉で兵を叱咤したとき、本陣から聞こえたの
は角笛が短く繰り返し鳴らさる音である。ユキヌスもエムススにも
信じられない音だが退却を命じる合図に間違いはなかった。振り返
ってみれば、彼らの部隊の背後までルムアヌ弓隊が前進しているの
が見えた。王が弓隊の投入を決断したことが伺えた。
ルムアヌ弓隊が掲げる赤地に金色の三日月の紋章は王直轄の部隊
の印で、行く手を遮ることは許されない決まりだった。エムススは
怒鳴った。
﹁ユキヌスよ、いかがする?﹂
﹁やむを得ぬ。兵を引く﹂
﹁あい分かった﹂
競争相手が引くとなれば、どちらにも異存はなかった。既に、他
の将軍たちは命令に従って兵を引き始めている。ユキヌスは兵に命
じた。
﹁下がれっ﹂
﹁間隔を詰めよ。弓隊の行く手を遮ってはならぬ﹂
103
二人は兵たちの狭い間隔を更に縮めるように接近させて、弓隊が
通れる隙間を作り出した。下がりつつ間隔を詰めるという行為で兵
たちは更に混乱した。傷ついた仲間を助けて戻る余裕はなく、罪悪
感に苛まされる。そして、一端、背を向けたルージ軍に対して、シ
ュレーブ兵の心に恐怖のみ膨れあがっていった。
敵味方が、一息駆ければたどり着ける位置にいる。それは、ルー
ジ軍のアガルススにとっても同じだった。
﹁ルージ軍の勇者ども。突撃じゃぁ。裏切り者どもを討ち取れいっ﹂
彼はこの機会を逃さず兵士どもに命令を下したばかりではなく、
馬を駆って彼自身が剣を構えて突撃した。
シュレーブ軍兵士は信じられないものを見た。僅かな兵で亀の甲
羅のように堅く守りに徹するだろうと考えていたルージ軍が、恐れ
も見せず前進してきたのである。緊張で荒い呼吸を十もせぬうちに、
アガルススは敵に斬りかかった。徒立ちのルージ兵が追いついてシ
ュレーブ軍兵士の背後を襲った。
退却する体制にあったシュレーブ兵は、まだ、ましだったかも知
れない。前進を続けていたルムアル弓隊は、矢をつがえる間もなく、
アガルススが率いるルージ軍兵士とぶつかった。弓以外に身を守る
物は短剣のみ、盾や重装備の鎧もないルムアル弓隊は次々と討たれ
ていった。抵抗の手段を持たない弓隊と、退却で背を向け続ける兵
士を襲う様は一方的な虐殺にも見えた。
﹁陣へ退け﹂
頃合いかと見たアガルススは兵士たちにそう命令した。イドポワ
の門に敷いた陣から離れすぎるのは好ましくないということである。
﹁勝利は我らに。勝利は我らに﹂
アガルススはそう叫びながら、戦う敵と味方の間に割って入って、
敵味方を分け、味方を陣に下げた。
﹁味方の怪我人を残すな﹂
アガルススはそう命じることも忘れてはいない。
104
﹁勝利は我らに﹂
ルージ軍兵士たちアガルススの言葉を叫びつつ元の陣にとって返
した。討たれたルージ兵は僅か、両軍の中間には、混乱の中で討ち
取られたシュレーブ兵のおびただしい死体が残されていた。中には
乱戦に巻き込まれたユキヌスの姿もあり、その死体は信じられない
運命を見つめるかのように空を睨んでいた。
105
前哨戦・アガルススの戦い5
王ジソーから見れば、まるで自軍が魔法に翻弄されているかのよ
うなのような戦況だった。気がつけば、大軍を擁していたはずのシ
ュレーブ軍は、僅かな間にその二割の戦力を失って、王自慢のルム
アヌ弓隊など壊滅状態だった。そして間もなく、シュレーブ軍第二
の勇者ユキヌス戦死の報にまで接することになる。
その魔法を演出したのは言うまでもなく、ルージ軍のアガルスス
である。戦いが始まれば、どちらかの兵が損耗しつくすまで戦闘が
続くというこの時代、局地的な勝利の後、素早く兵を引くというこ
とができるのは、このアガルススという将と彼に信服する兵士たち
だけだったかも知れない。
ただ、この戦況も、アガルススの兵が疲れ切って戦意を失うまで
のこと。このまま戦えば、戦に敗れるのは、やがて、兵を少しづつ
損耗してゆくアガルススの方である。
︵もう一当てして門の内側に引くか︶
アガルススがそう考えたとき、イドポワの門の内側から、突撃の
合図の長く響く角笛の音とともに兵士の喚声が響いた。首を傾げた
アガルススの元にリダル王からの使者が駆けつけて伝えた。
フローイ軍の奇襲を受けているという。
﹁しまった﹂
アガルススは事態を察して小さく呟いた。シュレーブ軍がここで
待ち受けていたと言うことは、別の軍が門の内側の斜面に潜んでい
ても不思議はなかったのである。彼は味方の指揮官に決断を下した。
﹁ナガライル殿、タルス殿、ドルルス殿、貴殿らは王の加勢に行っ
てくだされ﹂
ナガライル、タルス、ドルルス、ともに小領主でそれぞれ数十名
の兵を率いて参陣し、アガルススの指揮下に編入されていたのであ
106
る。アガルススは彼らに背後で戦う王の救援に行けという。残され
るのはアガルスス直卒の三百余名の兵である。その三百も先ほどの
戦いで損じて、戦える者は二百五十あまりだろう。
タルスは短く聞いた。
﹁アガルスス殿、貴殿はどうされる﹂
﹁儂は、残る。シュレーブの奴らめを、通す訳にはゆかぬ﹂
運命を司る神ニクススは、その舞台に最も適した運命の者を遣わ
すといういわれがあった。その例を挙げるとすれば、この戦場にア
ガルススという男を配したことだろう。僅かな兵で敵を翻弄した。
しかし、戦の女神パトロエには見放されたらしい。
アガルススは、ただ、武人として、この運命を受け入れた。あと
は最後の役割を果たすだけだった。
﹁お前たちの勇敢な戦ぶり、この儂が、パトロエへの語りぐさして
やろう﹂
兵士たちもこの指揮官と生死を共にする運命を受け入れて頷いた。
107
戦いの角笛鳴る
時はやや戻る。アガルススがシュレーブ軍の猛将ナグマルとの一
騎打ちをしている頃、王ボルススは陣を離れ、街道を見下ろせる位
置から、孫のグライスと共に眼下を行軍するルージ軍を黙って眺め
ていた。
王ボルススの背後には、一千人を超える前衛部隊が陣を敷いてお
り、グライスが率いる三百の兵もいる。更にその後ろには王直卒の
四百の部隊が控えていた。前衛部隊の左右には門の押さえをするた
めの、ほぼ五百づつの部隊が両翼を広げている。もちろん斜面の森
に隠されて、街道からは見えないだろう。
イドポワの門は険しく人が登ることを許さない場所だが、その手
前の小高い場所を選んで狼煙の準備もしてある。狼煙を上げれば向
こう側でも見えるだろう。ただ、その狼煙を上げるのは、目の前の
ルージ軍の隊列が、全てイドポワの門をくぐり終え、後続のヴェス
ター軍の隊列が姿を見せてからのこと。見上げても、狭く切り取ら
れた空に太陽は見えないが、その太陽が姿を現して、西に傾く頃、
彼らフローイ軍の戦闘が始まる予定だった。
﹁リダル王はどこに?﹂
武将たる者にとって、あこがれもあり、敵としても一目見ておき
たい相手である。リダルが海を渡って遠征したのは、アトランティ
ス軍の異境の地の遠征も終わりに近い時期だったという。アトラン
ティス軍にとって兵力を損耗し、兵の補給も途絶えがちで、不利な
戦いが続いていた頃である。
当時のリダルは十八を少し超えていたと言うから、今のグライス
と同じぐらいの年齢だったはずだ。幾度もの退却戦の最中、僅か三
百ばかりの手兵を率い、数倍の敵を繰り返し潰走させたという武功
108
は、リダルの名を畏怖と共に敵に知らしめると共に、今に至るまで
アトランティスに半ば伝説のように語り継がれていた。アトランテ
ィスの人々は炉端で神話でも話すように子供にリダルの武功を話し
てきかせるのである。グライスもまた、子供の頃にそんな話を聞か
された者の一人だった。
その王は意外にも、グライスの正面にいた。
﹁あれがリダル王だ﹂
王ボルススは馬の轡を曳く男の姿を指さした。たしかに、その男
に付き従う従卒が掲げる旗は王の身分を示す旗である。ただ、男は
従卒がするように馬の轡を取り、時折、興奮する愛馬の首筋を優し
くたたいてなだめていた。王がこの馬にかける愛情が感じ取れた。
もし、王リダルの心を察することができるなら、家族に愛情を見せ
ることが苦手な男が、素直に愛情を返してくれる動物に心を許す姿
である。
﹁未だ間があろう。敵の姿をじっくり眺めておくのも良い﹂
ボルススが孫にそう言ったとき、イドポワの門を急ぎ足で戻って
くる一人のルージ兵の姿が見えた。緊急のようで、何かを叫びなが
ら駆けてくる姿だが、その声はボルススが居るここまでは届かない。
王リダルが何かを怒鳴るように命じた姿と共に、ルージ軍はぴたり
と行軍を止めた。
この時、イドポワの門の向こう側から歓声が沸き風に乗ってグラ
イスの耳にも届いた。グライスは緊張し、王ボルススを眺めた。
﹁ジソーめが、逸りおったか﹂
憎々しげにそう呟いたボルススに、グライスはあの使者がリダル
に戦闘開始を告げに来たのだと知った。目の前のルージ軍が全て門
を抜け終わるのを待つべき戦闘が、始まってしまったと言うことで
ある。
﹁この機会を逃してはならぬ﹂
王ボルススは戦闘を開始するという。グライスは疑問を呈した。
109
﹁しかし、まだ、リダルは私たちがここに居ることを気づいては居
らぬでしょう﹂
﹁なんの、奴のこと。門の外で待ち伏せされていたと知れば、ここ
にいる我らにもすぐに気がつこう﹂
事実、乱れる隊列を整えながら、ルージ国王リダルの視線は、斜
クラディク
面の森の奥を探るように注がれていた。
王ボルススは配下に命じた。
﹁突撃の角笛を吹け。我がフローイの緑旗を掲げよ﹂
手はずは定められている。フローイ軍の左翼五百はイドポワの門
を目指す。門の向こうの敵が容易にこちらに戻って来ることができ
ないようにする押さえである。
右翼の一部は狭い街道がこの斜面のある空間で視界が開ける場所
に岩を転がし、通路を塞ぎ、新たな敵部隊がこの種面に面する街道
に入ってこれない押さえとなる。やや遅れて中央に位置する軍勢が
一斉に前方の街道にいる敵に向かって駆け下るという手順である。
街道上の敵は三百に足りない。中央の陣の兵士八百に踏みつぶされ
るだろう
﹁我が王よ、私は?﹂
グライスの疑問は最もだった。王ボルススは両翼の部隊と前衛部
隊には攻撃を命じながらも、本来は中央に位置するグライスの部隊
には何も命令を出さなかったのである。
﹁お前は、儂が命を下すまで、ここで戦の流れを黙ってみておれ﹂
王の本陣の全面に位置していた中央部隊も、三百のグライスの部
隊を残して斜面を下っていった。王ボルススは、街道が見渡せるこ
の位置まで本陣を前進させた。ただ、そこで王の直卒部隊は動きを
止めた、王と王子の周りに残された兵力は、グライスとボルススが
率いる七百ばかり。斜面の下に長く伸びたルージ軍の隊列は三百人
足らずだろうか。その隊列の伸びきったルージ軍に千八百あまりの
フローイ軍が襲いかかっていった。
110
戦を教えるのに、ルージ軍が見渡せるここほど良い場所はないだ
ろう。右翼からルージの兵士どもの悲鳴が響いてきた。街道がこの
斜面で視界が開ける位置で、フローイ軍右翼の一部が急な斜面を利
用して、岩を転がり落としたのである。王リダルに続くアゴースや
バラスのルージ軍部隊は、その岩によって道を塞がれ、てしまった
のである。
111
戦いの角笛鳴る︵後書き︶
112
戦いの角笛鳴る2
王リダルが、前衛のアガルススからイドポワの門を抜ける位置に
たどり着いたという申し送りを受けたのも、ずいぶん前のこと、今
は王リダル自身がその門を、内側から眺める位置にいた。順調に見
える行軍だったが、王の愛馬オスロケイアのみ、落ち着かぬ様子で
たてがみが靡く強さで首を振り、時に立ち止まって、いなないてい
た。
﹁いましばらく我慢せよ。あの門を出れば街道は広くなる。また、
お前に乗って⋮⋮﹂
王リダルが愛馬にそう語りかけたとき、その門の方から、一人の
男が駆け戻ってくるのが見えた。
﹁でんれぃー、伝令でございます﹂
大声でそう呼ばわりつつ門の外から駆けてきたのは、言うまでも
なく、アガルススからの使者である。使者の様子は重大事を予想さ
せ王の周囲に緊張が走った。
﹁いかがした﹂
リダルの短い問いかけに、使者が息を切らせながら答えた。
﹁進軍を停止の具申に参りました﹂
﹁アガルススがそう言うたのか﹂
﹁﹃前方にシュレーブ軍の陣。我らに敵意あり﹄と、お伝えせよと
のことでございます﹂
﹁敵意だと?﹂
﹁奴らは旗を掲げるアガルスス殿に矢を射かけてまいりました﹂
思いもかけない状況だが、王リダルは即断して兵に命じた。
﹁後方部隊に申し送りせよ。行軍停止﹂
命令は狭い街道に沿って、兵士から兵士へと、王の命令が伝わっ
113
ていった。ただ、ことは重大である。リダルは一人の従卒に命じた。
﹁お前は、駆け戻ってアゴースとバラスに伝えよ。門の出口でアガ
ルススがシュレーブ軍四千と遭遇。我らに敵意があると。即刻、兵
を下げよ。よいか兵を下げよと念を押せ﹂
従卒は頷いて狭い街道を駆け戻った。狭い街道上の兵をかき分け
ながら進むために、たどり着くのに時間はかかるだろうが、後続の
アゴースやバラスも熟練した武人である。使者の口上を聞けば状況
を察するだろう。
後は、アガルススの部隊である。熟練の将士とはいえ僅か五百ば
かり。敵意をむき出した数千の軍勢に晒して置くわけには行かない
のである。王は地形を見回した。左に見える斜面はいま、街道上に
いるリダル直卒の部隊三百を優に収容する場所に見えた。そして、
街道上の空いた場所にアガルススの部隊を門のこちらに後退させる。
そう考えたリダルだが、はたと思い当たった。敵意のある軍が門の
出口で待ち伏せをしていた。もし、ルージ軍を襲うとすれば、この
斜面ほど敵が兵を伏せるのに適した場所はない。
王リダルがそう気づいたとたん、彼の想像を裏付ける戦いの角笛
が斜面の上から聞こえてきた。数百の敵が門の内側に内側を目指し
ていた。
アガルスス隊との連絡が絶たれる危険がある。王リダルは一瞬に
してそう判断した。駆け下ってきたのは門の内側を押さえることを
目的にした部隊である。そして兵の喧噪に気づいて左に目を転じて
みれば、後続のアゴースやバラスへの連絡に送った従卒が狭い街道
に入っていくや否や、森が途切れて地面や岩が露出する崖の上から、
巨大な岩がいくつも転がり落ちていた。何者かが街道を封鎖するた
めに落としたに違いなかった。王リダルの直卒の部隊はこの斜面の
下に左右の行く手を遮られて孤立しているのである。
一刻の猶予も無かった。王リダルは愛馬オスロケイアにまたがっ
て、声を張り上げた。
114
つわもの
﹁静まれぇい。ルージの強者共よ。この儂と共に戦おうとする者は
おるかぁ﹂
各所で王の言葉に応じる兵の声が響いた
﹁おおっ、我ら、常に王と共にありっ。王と共に戦わん﹂
115
戦いの角笛鳴る2︵後書き︶
次回更新は今週末の予定です。奇襲を受けたものの、王リダル率い
るルージ軍は反撃に転じます。
116
戦いの角笛鳴る3
パトロエ
﹁儂の元へ集え、ルージの強者共。戦神よ、ご照覧あれ﹂
リダルは兵たちに語りかけながらも周囲の状況に気を配ることを
忘れては居ない。
﹁緑旗。裏切り者共はフローイか﹂
リダルがそう呟いたのは、左右に駆け下ってくる部隊が掲げる旗
を見たからである。斜面に向かって左側。大小の岩が転がし落とさ
れ、街道は塞がれて兵を率いて戻ることはできない。右側のイドポ
ワの門を見れば、門の向こうから戻ってきた小部隊が、門を内側か
ら防ぐために駆け下ってきた、五百ばかりのフローイ兵と戦ってい
た。アガルススが王の加勢に向かわせた小領主の兵たちである。そ
して、王の元に集う兵士はざっと数えて二百数十、うち、戦えそう
な者は二百に足らないだろう。
﹁でんれいっ、伝令でございます﹂
そう呼ばわりながら、王の旗を求めて駆けてくる二人の兵士が居
た。アガルススが王の加勢にとイドポワの門の後方に送った部隊が、
斜面を駆け下ってきたフローイ軍左翼部隊と衝突し、その乱戦の中
を駆け抜けてきたのである。ただ、二人の足下がふらつく様子があ
り、近づいてきた彼らの脚や腕が赤く染まっているのが見えた。
﹁アガルススさまから伝言でございます。﹃今しばらく、門を支え
ます故、王はお退き下さいますよう﹄にとのことです﹂
本来は、右の拳を胸に当てて、言葉を伝えるのだが、伝言を伝え
た男の肩から血が滲んでいて右腕がだらりと垂れていた。傍らの男
は伝令のふらつく上半身を支えていたが、その男自身も腕や股から
血を流していた。門の向こうのアガルススの凄絶な戦いを想像させ
る二人の姿である。
117
﹁伝令、大儀であった﹂
王はねぎらいの言葉をかけ、意外なことを二人に聞いた。
﹁今、一人はどうした?﹂
その言葉に一瞬戸惑った二人だが、顔を見合わせて意味を悟って、
感激の表情を浮かべた。王が一兵卒に過ぎない自分たちを記憶して
いたと言うことである。出陣前にアガルススの陣でこの王に声をか
けられたことがある。王はその時の兵士を記憶していて、あの時の
三人組のもう一人はどうしたと尋ねているのである。
﹁リウズスはシュレーブの者どもと戦い果てました﹂
﹁左様か﹂
﹁王よ。我々はここで王と共に戦いまする﹂
﹁そのような姿では戦えまい﹂
王の言葉にヂッグスが反論した。
﹁なんの。剣を持てなくとも足があります。敵を蹴り飛ばしてでも
戦いとうございます﹂
ふらつくヂッグスの体を支えるように傍らにいたリグロスも言っ
た。
﹁足が不自由になれば、この口で敵の喉笛を食いちぎってリウズス
の仇を討ってご覧に入れます﹂
﹁お前たちに大事な役割がある﹂
王リダルはそう言いながら腰の剣を従卒に渡して命じた。
﹁その者に背負わせよ﹂
腕の自由がきかないチッグスに、従卒は王の剣を背負わせ、ベル
トで固定した。
﹁これは?﹂
﹁フローイの者どもにくれてやるのは惜しい。お前たちが、ルージ
まで持ち帰れ﹂
戦に敗れて敗死したあと、敵に奪われるのは惜しいというのであ
る。王は従卒が持っていた槍を手に、愛馬にまたがった。
﹁しかし、﹂
118
リグロスは周囲を見回して、尋ねるようにそう言った。この王の
命令は守らねばならないが、帰れと言われても戻る道は岩に阻まれ、
その後に駆け下りてきたフローイの部隊に塞がれているのである。
王は槍の穂先で斜面の上を指した。
﹁戻り口は塞がれた。我らが進む先は、この上のボルススのみ﹂
リダルが言うのは、優勢な敵に囲まれた現在、勝機を見いだせる
クラディク
としたら、敵の国王の首を挙げることのみ。その目標はこの斜面の
上の森の上、今も器の合間から見えている王の紋の入った緑旗の下
にいるというのである。王は言葉を継いだ。
﹁儂の傍らに控えおれ、儂が奴らの前衛に突入すれば、敵陣にも破
れが生じる。お前たちはその破れ目を抜けて、崖の上の森を北へ、
ヴェスターへと向え﹂
リダルがそう命じたとたん、角笛の合図と共に正面の部隊が駆け
下って来るのが見えた。ルージ軍の左右を塞いだフローイ軍が、い
よいよその主力を動かしてルージ軍を殲滅しようというのである。
時間に余裕はないのは分かっていた、ただヂックスには確認してお
かねばならないことがあった。
﹁運良く戻りましたら、この剣はいかがしましょう﹂
ヂッグスの問いに王は短く返答した。
﹁王都バース近くのアワガン村にロユラスという者が居る。その者
に託せ﹂
﹁ロユラス様﹂
ヂッグスとリグロスの二人は顔を見合わせてその名を心に刻んだ。
王は彼を囲む二百ばかりの兵に叫びかけた
﹁見よ。ルージの勇者共。裏切り者の正体はフローイぞ。裏切り者
共を我らがテツリスに代わって討ち取ろうぞ﹂
王の言葉と共に、負傷して地に座り込んでいた兵士までが槍を杖
代わりに立ち上がって叫んだ。
﹁裏切り者フローイを討ち取れぃ。裏切り者フローイにテツリスの
審判を﹂
119
アトランティスの人々の信仰にジメスという運命に基づいて裁定
を下す神が居る。テツリスという神はそのジメスの息子で、この世
界の正と邪について審判を下し、邪を罰する法の執行官のような役
割を持っている
王リダルを先頭に、ルージ軍部隊の突撃が開始された。王リダル
に率いられた兵たちの表情に恐れはなく、テツリスの裁きを執行す
るかのような狂気のみ感じさせた。
敵その裁きを受けるのはフローイ国王ボルススただ一人。しかし、
その二百ばかりのルージ兵たちの前から駆け下ってくるフローイ兵
は数倍。その固い殻を打ち破った先に、目指すボルススの本陣があ
る。
120
グライス参戦
街道が見える位置まで本陣を進めた王ボルススの陣から眺めれば、
八百人ばかりの前衛部隊が、荒い木々の間を縫って駆け上がってく
るルージ軍の小集団に、その四倍はあろうかというフローイ軍の前
衛が襲いかかっていく光景である。
この場合、坂を駆け下る者たちに戦いの勢いがあるはずだった。
しかし、どうだろう。王リダル率いるルージ兵たちは、後方や側面
の敵など目に入らぬかのように、前方のみ見つめて前進する足を止
めない。ルージ軍に正面から挑みかかったフローイ軍の前衛はみる
みるその厚みを減らし、食いちぎられるように前衛部隊に隙間が空
いた。
﹁ほぉ﹂
ボルススの口を突いて出たのは言葉にもならない感嘆と賞賛のた
め息である。いまや遠い記憶の彼方、伝説化したリダルの突撃を今
ボルスス自身が眺めているのである。王ボルススの傍らで孫のグラ
イスも驚きと共にその光景を眺めた。
ルージ軍はついにフローイ軍の前衛を食い破り、先頭の王リダル
が遮る者のない姿を現した。
﹁グライス。状況が変わった。行って、敵の勢いを止めよ。その後
のこと、儂がする﹂
王ボルススが孫に与えた短い教育の言葉である。ボルススが自分
の本隊以外に、孫が率いる部隊を手元に残したのはこういう状況の
変化に対応するためだった。ただ、祖父が初陣の孫に戦ってこいと
命じたのは、兵を損じているとはいえ、アトランティス最強のリダ
ル王とその直卒の部隊である。今は国を支える自分自身を守るのが
最優先。王ボルススは、そのためには、たとえ孫の命とはいえすり
121
減らす覚悟を決めていた。
祖父の言葉に優しさと厳しさ、そして王としての冷酷さを感じ取
りながら、グライスはこの王であり祖父でもある男の期待に応えた
いと思った。
﹁ロットラス﹂
グライスは王の本陣の前に布陣する自分の部隊にいる副官の名を
呼びながら駆けた。
﹁ロットラス。我が部隊を前進させよ。リダルめを阻んでくれる﹂
大声で命令を放ちながら自分の部隊に駆け込んでゆく孫に迷いは
感じられなかった。ボルススはその孫の背を頼もしげに見守った。
この時、王ボルススに声をかけた者が居る。
﹁我が王よ、リダルはこの旗を目指しているものと思われまする。
一度、旗を伏せられてはいかが?﹂
そう言ったのは王が最も信頼する側近の一人ストマスである。リ
ダル王の勢いを見ればこの本陣を突きかねず、王ボルススも危険に
さらされる恐れがある。王が居る本陣の旗印を隠せと言うのである。
クラディク
王ボルススはストマスを激しく睨んだのみで言葉を与えず、旗持ち
の兵士に命じた。
﹁旗持ちよ。我が緑旗を振れぃっ。リダルに見えるように、大きく
振れいっ﹂
未だ若いストマスは王の意図を察しかねて首を傾げた。もし、都
に残した謀臣マッドケウスがこの光景を見れば、若いストマスに笑
いながら説明しただろう。彼らの王ボルススは、孫の命を危険に晒
しながらも、自らに挑みかかる者があれば、真っ向から受けて立つ
という気概を持っている。その気概がなければ、このアトランティ
スに覇を唱えることなどできはしないだろう。
そして、この王は願望ではなく、冷静な事実の上に居る。目の前
に迫るルージ軍を見れば、勢いはあるが、後方や側面から攻め立て
るフローイ軍部隊によって兵力を急激に減らしている。いかに勢い
があろうと、味方があと三百、グライスの部隊が正面から戦いに加
122
われば勢いは止まり、リダル王の槍の穂先はここまで届くまいとい
う冷静な判断である。
123
グライス参戦︵後書き︶
戦況の変化の中、思いもかけず、グライスはリダルと正面から戦う
事になります。次回更新は明日の予定です。グライスの初陣はどん
な戦いになるでしょうか。
そして、この時、アトラスはルージ軍の第二陣を率いて、ヴェス
ター国王都レニグに到着。兵を整えて父リダルの軍を追従しようと
していますが・・・そのエピソードは未だ少し先に。
124
リダル王戦死
王リダルは素早く周囲を見回した。兵たちはよく彼に従っている。
この戦に勝機があり、生き延びる手段があるとすれば、リダルに付
き従って敵の王ボルススを討ち取ることのみ。兵たちは皆そう信じ
込んでいるようだった。ただ、前衛を打ち破ったとはいえ、側面や
後方から攻め立てられ、兵はじりじりと傷つき、脱落していた。つ
い先ほどまでいた二百の兵士たちも、今は戦える者は百名に足るま
い。
王の剣を背負ったヂッグスと彼を補佐するリグロスも、ふらつく
足で王の愛馬の傍らにいた。リダルは二人に左前方を指した。フロ
ーイ軍の隊列が途切れていて、その方向なら戦場から脱出できる可
能性があった。ヂッグスとリグロスは王に頷いて見せて、味方の集
団をなれてその方向に駆け始めた。ルージ軍の前方から新たなフロ
ーイ軍部隊が挑みかかってきたのは、その直後のことである。既に
リダル自身がルージ軍の先頭を駆け、槍を振るい続けている。敵の
返り血を浴びたすさまじい笑顔で兵たちを叱咤した。
﹁ボルススめ。最後の悪あがきをしおるわ。しかし、あれを突破す
れば、あとは、ボルススのみ。裏切り者の命はもらった。ルージの
勇者ども。勝利は間近ぞ﹂
そう言ったリダルは、愛馬オスロケイアの腹を蹴って前進を命じ、
小脇に抱えていた槍の穂先を敵に向けた。
徒立ちのルージ軍兵士たちも王のあとを追って、新たな部隊とぶ
つかり合った。新たに正面から挑みかかってきたフローイ軍部隊。
言うまでもなくフローイ国王子グライスが指揮する三百人である。
その先頭を兵を率いるグライスが駆けていた。
そこには、冷静な知謀も、軽やかな剣裁きも無く、戦う者の意志
だけがぶつかるように、剣と盾が発する重々しい音が響き、兵の肉
125
体がぶつかり合う音さえ聞こえるようだった。グライスには振り下
ろされる剣で斬られた者が、その瞬間に息をのむ音まで聞こえるよ
うに思えた。その苦痛の叫びを漏らすのは、その直後である。
次の瞬間、蹴散らされた兵士が倒れ、二人を遮る者もない位置で、
リム
グライスは王リダルと対峙した。徒立ちのグライスが見上げる馬上
ラス
の血まみれのリダルは、呪われた運命を背負ったといわれのある海
神にも見えた。
﹁リダルよ! 我が剣を受けいっ﹂
グライスがそう叫んでリダルに駆け寄りつつ剣を振り上げる刹那、
リダルの激しい槍の穂先が剣を捕らえて、グライスの手からはじき
飛ばした。次の瞬間、その槍が自分ののど元に向けられるのを見た
とき、グライスは死を覚悟した。しかし、グライスの喉を貫通する
はずの槍は、やや迷うように揺れたのみである。二人が再び見つめ
合った次の瞬間、リダルは馬をグライスに寄せ、その頭部を蹴り飛
ばした。グライスの体は激しく転がって地に伏せた。
﹁邪魔だ﹂
リダルがそう言い捨てた時には、その視線は既にフローイ軍本陣
に向いていた。リダルが自分を殺せるはずだったのに殺さなかった。
グライスは顔面を染めた鼻血を手の甲でぬぐってその理由を考えた。
リダルが若い自分を見くびって情けをかけたと言うことである。し
かし、リダルが自分が向けた槍の先の若者に、年格好が似た息子の
アトラスの姿を思い浮かべ、その命を奪うのをためらった言うこと
に気づくはずもなかった。
戦場で敵の同情を買って命を救われるなど、若いグライスにとっ
て死よりも恐れる屈辱だった。グライスは傍らの兵の死体の剣を手
に、頭部を激しく打ったためふらつく視線をリダルに向けてよろよ
ろと立ち上がって叫んだ。
﹁リダルよ。我を見くびるか! 私はフローイ国王子グライスだ﹂
﹁なんだと?﹂
リダルがグライスの名に反応して振り返るのと、槍を構えたのは
126
ほぼ同時である。一兵卒ならともかく、王子ならば屠ってゆく価値
はある。グライスはふらつく体制で剣を構える間もなく、リダルの
槍に突き殺されようとしたとき、意外なことが起きた。
﹁王子よ、危ない﹂
そんな叫びが聞こえた瞬間、馬上のリダルは、目を見開いて信じ
られないというような表情を浮かべ、苦痛の声を上げもせず、愛馬
から転がり落ちた。その背から胸元へとフローイ軍の投げ槍が貫い
ていた。
﹁王子よ、リダルに止めを﹂
そう言ったのはグライスの副官ロットラスである。王子の危機と
見て、リダルに槍を投げ、そして、今、王子に勝負の決着をつけよ
と提案しているのである。グライスは無我夢中で落馬したリダルに
駆け寄り、その首筋に剣を刺したが、リダルにはそれに抗う力は残
っていなかった。
リダルの愛馬が興奮して暴れたために、グライスはリダルの死体
を離れた。見回せば、まだ戦いは続いていた。グライスは次の敵を
求めて走った。ボルススの陣を目の前にした位置で、ルージ兵たち
は、王を失っても最後の一兵まで自殺的な戦いを止めずに潰えた。
王ボルススは本陣の兵を戦いに投入することもなく戦場には静けさ
が戻った。
右翼部隊から、アガルススとリダルに続く後続のルージ軍部隊は
前進を諦めたように、数十の死体を残して兵を退いたという知らせ
があった。ほぼ同じくして、イドポワの門の内側の押さえを担って
いた左翼部隊からは、門の外側の戦闘も終わりを告げたとの知らせ
がもたらされた。
戦いはひとまず終わったのである。戦が終わったかに見えた中で、
生き残ったフローイ兵たちは生気を尽くしたかのように、座り込ん
だり木々にもたれていた。その静寂を破って馬のいななきが響いて
いた。王ボルススは戦の終演を確認するかのように本陣から下って
127
きた。目の前に見えるのはリダルの死体に間違いはなかった。ただ、
その傍らに馬がおり、フローイ兵がリダルの死体に近づくのを阻む
ように暴れていた。
フローイには馬の扱いに慣れた者は少ない。戦を生き延びた今、
無用に負傷することを恐れるように、フローイ兵士たちは馬と敵の
王の死体を取り囲むようにいた。
﹁ルージは馬まで王に忠節を尽くしおる﹂
王ボルススは敵を讃えるようにそう言った。臆病な生き物だと聞
いていたが、馬が勇敢に主人を守ろうとしているように見える。
﹁赦せよ﹂
ボルススは短い謝罪の言葉と共に、兵士から槍を奪って投げた。
槍は見事にその首筋を捕らえ、馬は地に倒れた。更にボルススは手
斧の峰の部分で馬の頭部を一撃して殴り殺すように止めを刺した。
傍らに居たグライスは、祖父が死んでゆく馬に、斧の刃の残酷な傷
口を残さず、勇敢な姿をとどめてやろうとしたのだと考えた。
﹁槍は抜き、丁寧に葬ってやれ﹂
ボルススは馬を指さして静かに兵士にそう命じた。兵士が問うた。
﹁リダルの死体はいかがいたしましょう?﹂
﹁ジソー王と共に検分する。丁重に布で包み、運べるようにしてお
け﹂
味方であるはずのジソーという名にに軽蔑がこもっているように
見えた。戦場のあちこちでは、フローイ兵たちが地に転がったルー
ジ兵の体を改め、息がある者には止めを刺していた。勝者たるフロ
ーイ軍にも、傷つき苦痛にうめく者たちが居る。戦死したフローイ
兵士は百名に満たないが、一千名に近い兵士がいくらかの手傷を負
い、重傷者の数は百を超える。
︵この戦で得たものは何だろう︶
グライスは戦場を眺め回してそんなことを考えていた。
この夜、グライスは生の見込みのない味方兵士を、死までの苦痛
から救うために安楽死させてやるという凄絶な経験に涙を流すこと
128
になる。勇敢だが普通の青年に過ぎない。ただ、そんな彼にとって
思いもかけぬ事に、兵士たちの間でグライスがアトランティス最強
の勇者リダルを討ち取った英雄として噂が広がりかけていた。
血の臭いを吹き払うように風が吹き込んできて、その涼やかさに、
生きている者たちは、惚けたように崖に切り取られた小さな空を眺
めた。ただ、その風がぴたりと止むのと同時に、再び兵士たちはこ
の谷間に満ちた死臭を感じるのである。これから、この大地で繰り
返される幾多の戦いを思わせるようだった。
129
リダル王戦死︵後書き︶
意外な者から、リダル戦死の報告が、ヴェスターの都レニグにい
るアトラスにもたらされます。父を討ち取られたアトラスの運命は・
・・。また、リダルを討ち取ったものの、物思いにふけるグライス
の理由は・・・。
やがて、アトラスとグライスの一騎打ちを招くことになります。
不安に恐れおののきながら、戦勝と身内の者の安全を祈るルージや
フローイの、リネ、リーミル、フェミナの視点も入れようかと思っ
たのですが、今回は割愛することにしました。
次回更新から、父の敵討ちに燃えるアトラスが、ネルギエ平原での
戦闘に突入する流れを描きます。
130
戦いの後、グライスの思い
イドポワの門の内側のフローイ軍の陣では、戦いで疲れ切った兵
士たちが、戦の後片付けに慌ただしく働いていた。生きている者の
ための食事の準備、数百もの死体の埋葬など、すべきことは多いの
である。負傷した者は手当を受け、地面に敷いた毛布にずらりと横
たえられていた。初夏の暑さが籠もる天幕の中より、涼しい木陰で
休ませてやろうという配慮らしい。
そんな負傷兵と視線が合うたびに、王子グライスは黙って頷いて
兵士の健闘をたたえた。傷の軽い兵士たちがグライスに向ける視線
ジメス
が敬愛に満ちていた。リダルを討った若き勇者に対する視線だろう。
事実、負傷にうめきながら、王子に審判の神のご加護を願う声を上
げる兵士たちが居た。戦いによって勇者の運命を得たグライスを讃
えているのである。
グライスはふと気づいて立ち止まった。目を大きく見開いて空を
凝視している負傷兵だった。腹に巻いた布からとめどもなく血が滲
みだしていた。
﹁つい今し方、息を引き取りましてございます﹂
グライスは傍らの負傷兵の言葉に頷いて、死んだ兵士の瞼に手を
当てて閉じさせた。未だ若い。グライスよりほんの二、三歳年上に
見えた。故郷には妻や子供がいてもおかしくない年頃の青年だった。
立ち上がったグライスの手が僅から震えていた。ひょっとすれば、
自分自身もこの若い兵士のように死体になっていたのかも知れない。
いや、副官ロットラスが手槍を投げていなければ、自分はリダルの
槍に貫かれて死んでいただろう。グライスは素直にそう思った。
至近距離で相まみえたときのリダルの表情が、グライスの心に刻
まれてよみがえった。グライスの未熟さに、彼を見逃そうとした時
の戸惑いの表情と、その相手がフローイ国の王子だと知ったときに
131
向けた、自信に満ちた勝利の表情。そのリダルの記憶が、グライス
を恐怖とも緊張ともつかぬ不安で満たし、肩や手の震えが止まらな
かった。そんな姿を恥じて、グライスは自分の天幕に休息の場を求
めた。
横たわる気にもなれず、椅子に座って両肘を膝について前屈みに
なってじっと考え続けていた。この初陣の若者には、考えることだ
けが、心の迷いから抜け出す手段だった。心の中から迷いが抜ける
につれて浮かび上がったのは、幾つもの罪悪感である。
あのとき、グライスが声をかけたために、リダルに一瞬の隙が生
まれた。その隙を突いて背後から副官ロットラスが槍を投げ、グラ
イスがリダルに止めを刺した。偉大な勇者。グライスはリダルをそ
う実感していた。その偉大な勇者を自分は卑怯な手段で抹殺してし
まったのではないか。そう言う罪悪感の上に、兵士たちが卑怯者の
自分に向ける尊敬のまなざしを受ける罪悪感が加わった。
そんな彼にそっと呼びかけた者が居た。
﹁我が王子よ﹂
﹁ロットラスか﹂
﹁王子⋮⋮。私は⋮⋮﹂
王子とその付き人としての関係は長く、ロットラスはこの清廉な
若者の心をよく察していた。ロットラスは自分の行為が、王子の命
を救っただけではなく、この若者の名誉を傷つけることになったの
ではないかとも考えたのである。口ごもるロットラスの心を察して
グライスが言った。
﹁言うな。お前には感謝している﹂
卑怯者と謗られかねない運命は受け入れねばならないだろう。し
かし、その汚名は注いでみせる。そんなグライスの固い決意が、次
の戦いでリダルの息子アトラスとの無謀ともいえる一騎打ちへと駆
り立てていくのである。
副官ロットラスは、話題を転じて本来の用件を切り出した。
﹁我らが王がお呼びです。シュレーブ軍の陣へ同行せよと﹂
132
﹁シュレーブ軍の陣営へ?﹂
133
戦いの後、二人の王
イドポワの門を挟んで同時に戦いを繰り広げた二人の王が、再び
面会しようとしたのは陽が暮れかける頃である。王ボルススは孫の
グライスを伴って、シュレーブ国王ジソーの陣へと歩んでいた。二
人の後方に荷車が続いた。その上にのせられているのは毛布にくる
まれたリダル王の死体である。
イドポワの門をくぐったルージ兵は五百ばかりだったはずだが、
その兵がよほどの激戦をしたらしい。グライスが眺めるところ、そ
のルージ兵たちの死体が無造作さに地に転がっているばかりではな
い。四千を超える大部隊だったはずのシュレーブ軍は、明らかにそ
の数を減らしていた。戦死したシュレーブ軍兵士の数は四百に足ら
ないが、もはや戦えないほど負傷した兵はその倍に及ぶ。
﹁戦機を誤ればこういう事になる﹂
王ボルススが孫に言ったのは、シュレーブ軍の被害の大きさに違
いなかった。
﹁しかし、これがルージ軍三千との戦いであったら﹂
グライスが問うのは、最初のボルススの想定である。イドポワの
門をくぐったルージ軍全軍とシュレーブ軍の戦いという想定だった。
五百ばかりのルージ軍との戦いでこれほどの犠牲を出したのなら、
三千のルージ軍と戦えば、シュレーブ軍が敗れたのではないかとい
うのである。それは、イドポワの門の内側の斜面に布陣したフロー
イ軍が孤立してしまうのでは無いかという危惧を言外に込めていた。
﹁その時は、その時のこと。ジソーの奴は兵を退けばいいのだ﹂
﹁それでは、我らフローイがあの陣で孤立しました﹂
グライスの疑問に、王ボルススは話題を転じるように言った。
﹁意外かな? 山の上に川があったろう﹂
ボルススが言ったとおり、高所からわき出る水が細い流れとなっ
134
て集まり、南へと流れて、イドポワの門の東3ゲリア︵約2400
メートル︶ばかりの位置にある崖から流れ落ちて滝を作っていた。
斜面に陣を敷くフローイ軍は山を登って、その流れから水を得てい
たのである。
﹁それが?﹂
﹁水があり、兵糧がある。我らはあの場所で今しばらく過ごせばよ
い。しかし、門を抜けたルージ軍はそうはいかぬ。﹂
﹁兵糧が尽きるというのですか﹂
その言葉で、王ボルススは孫の洞察力に満足したが、その意見を
やや修正をした。
﹁第一陣の食料など数週間もてば良いだろう。しかし、リダルのこ
と、兵糧が尽きるまで、我らフローイが堅く守ったイドポワの門を
通って戻ろうとはすまい﹂
﹁では、どうしたと?﹂
﹁知れたこと。シュレーブの領地で砦や町を襲って食料を得ようと
するだろう﹂
ボルススは面白そうに続けた。
﹁考えても見よ。リダルめにあちこちの砦や町を襲われれば、逃げ
たジソーめも大あわてで防戦するだろう。どのみち、我らフローイ
を置いて、シュレーブとルージは戦わねばならぬ﹂
シュレーブ国から見ればひどい悪巧みだが、ボルススはそれを朗
らかな笑顔で言ったのである。そんなボルススが、やおら生真面目
な表情を作ったかと思うと、善良な好々爺を思わせる笑顔に変えた。
前方に陣の前まで出迎えに出たフローイ国王ジソーの姿を見つけた
のである。
135
戦いの後、王子デルタス登場
長く続く戦になるかも知れないという余韻が残っていた。しかし、
今日の戦は終わった。出迎えた王ジソーも、王ボルススの様子から
門の内側でのフローイ軍の勝利の臭いをかぎ取った。しかし、確認
しておきたいことがある。言うまでもなくリダルのことである。
﹁我が方は勇者アガルススを討ち取る大勝利でありました。そちら
の戦況はいかがでしょう﹂
王ボルススは言葉では答えず、腕を差しのばして後ろの荷車に積
んだものを指し示した。葬儀の時に遺体をくるむ様式から、荷車の
上の毛布の中身が遺体だと知れた。
﹁これが?﹂
﹁左様﹂
ボルススは続く返事に変えて、荷車の毛布をめくって見せた。シ
バウル
ゾー王にとって最も気がかりな人物だろう。ジソー王は安堵のため
息をつくように言った。
﹁おおっ、死んでも、嵐の神のごとき面構えをしておるわ﹂
﹁我が孫が討ち取り申した﹂
﹁おおっ。なんという、なんという勇者か。我が軍にもこれほどの
勇者は居らぬ﹂
この時のジソー王の感嘆の言葉に偽りはなかった。ただ、リダル
の死に、心に傷を負ったグライスは口を真一文字に閉じて黙ってい
ただけである。ボルススが約定を違えて陣を動かしたジソーに皮肉
ともつかぬことを言った。
﹁これも、貴国が我らに手柄を譲ってくださったおかげです﹂
ボルススの言葉に、ジソーは眉をぴくりと動かした。皮肉の意味
シリャード
を悟ったに違いない。しかし、彼は明るい笑顔で話題を転じた。
﹁そうだ。このリダルめの死体を聖都に送り、門に吊して晒してや
136
ればよい﹂
﹁死体を辱めるとおっしゃるのですか?﹂
沈黙を守っていたグライスが口を開き、非難の口調を隠そうとは
していない。ジソー王はグライスの口調を気にする様子もなく、思
いつきに酔うように言葉を続けた。
﹁その通り。反逆者の頭目の死体ともなれば目立つであろうよ。そ
して、我らの勝利と、この獣を討った者がフローイの若き勇者を喧
伝するのだ。さすれば我らが士気も上がりましょう﹂
シリャード
我らの勝利とジソーは言ったが、抜け目のない男で、既に勝利を
伝える使者を聖都とシュレーブの都パトローサに遣わしていた。使
者が伝える口上には、シュレーブ軍の勇猛さと、ジソー王の偉大な
の勝利に触れられては居ても、フローイ国については戦場の場にい
たということしか含まれてはいない。ボルススはイドポワの門の外
に陣を敷いていたイドラスが集めた情報でそれは知ってはいたが、
ジソーには何も語らなかった。
勝利の宣伝をすればするほど、王を討たれたルージ軍の憎しみは
シュレーブ国に向く。ルージ軍の主力を殲滅したのならともかく、
主力は残って王の敵討ちに爪を研いでいるだろう今、そのルージ軍
の憎しみはシュレーブに背負ってもらうに限る。
︵我らも、シュレーブの勝利を高らかに宣伝する手伝いができれば
いいのだが︶
ボルススは人の良い笑顔でそう考えていた。
戦勝の挨拶のあと、王たちの腹の探り合いが長く続くだろうと
考えていたグライスの予想は外れた。ジソー王の天幕に招き入れら
れ戦勝の杯を勧められたボルスス王は、ジソー王が陣立てを変えた
事には触れず、ジソー王とその指揮下の軍の敢闘を讃えたかと思う
と、いきなり本題を切り出したのである。
﹁しかし、奴らとは、もう一戦、せねばなり申さぬ﹂
ボルススの言葉にジソー王が疑問を呈した。
﹁何を? 我が軍に猛将アガルススを討ち取られ、貴軍によってリ
137
ダルが討たれ申した。有能な将士と王が討ち取られた上に、奴らが
未だ戦うと?﹂
﹁奴らにすればだまし討ちで王を討ち取られたようなもの。復讐心
に燃えておりましょう﹂
﹁さすれば、数千の兵をこのイドポワの門の備えとすればいいだけ
のこと。この門がある限り、奴らは我が国に入るはでき申さぬ﹂
﹁お忘れか?﹂
﹁何を?﹂
﹁奴らは名うての海軍国。海路、シラス湾を渡って、貴国の沿岸部
を襲いましょう。神出鬼没。いかに貴国の海軍とはいえ、ウルスス
王の頃よりその扱いには頭を悩ませる事態となりましょう﹂
ボルススはジソーの父親ウルスス王の時代の出来事と重ねて言っ
た。厳密に言えば違う。ルージ海軍がシュレーブ国の沿岸を侵した
例はない。ただ、古くはルージ本島や南のヤルージ島に本拠を置く
海賊たちがシラス湾に出没し、シュレーブ国の沿岸部を荒らし回っ
た歴史がある。50年ばかり前、リダルの父ロスドムによって、そ
の根拠が鎮圧されるまで続いたのである。その海賊どもがシュレー
ブ国の民に与えた恐怖と、シュレーブ海軍に与えた無力感は、今で
も深く彼らの記憶に刻まれていた。
確かに、ルージの者どもに海上を暴れ回られる事態は、シュレー
ブ王ジソーにとって避けたいことだった。彼は残された選択肢を口
にした。
﹁奴らが陸にいる今こそ殲滅の機会だと?﹂
﹁ご明察ですな﹂
﹁しかし、我らが待ち伏せを知った上で、奴らが再び陸路こちらに
出てくるということなどありましょうや﹂
﹁儂に案がありまする﹂
﹁案とな?﹂
﹁ジソー王はレネン国と、特別な親交がありましょう﹂
特別な親交という言葉に、ジソー王がぴくりと反応したのをボル
138
ススは見逃さなかった。アトランティスの九カ国は、都市国家シリ
ャードのアトランティス議会に集うようになって以降、他国を侵し
てはならないという堅い定めがあった。シュレーブはいくつかの理
由に隠してその定めを破っていたのである。
王ボルススが向ける視線の先にその若者が居た。王ジソーはそれ
に気づいて言った。
﹁おお、デルタス王子が居られましたな﹂
偶然に居られたという事ではない。王ジソーが彼をこの戦場に連
れてきた。レネン国の継承権を持つ第一王子である。中原の大国シ
ュレーブと、その北の小国レネンの力関係がうかがい知れた。若君
にシュレーブの文化や芸術を学ばせてはどうかと言われれば、それ
が人質の意味を持つことを分かっていても、レネン国はシュレーブ
国の申し入れを断りがたい。デルタスは僅か七歳の歳でシュレーブ
国の都パトローサに迎えられ、シュレーブでの生活も十二年を超え
た。実質上の人質とはいえ待遇は悪くはない。シュレーブ国は国の
威信をかけて、デルタスを王族として遇したし、彼の目付役として
のジソーは王位に就く前から彼を可愛がっていた。
しかし、王ジソーの立場で見ればどうだろう。いずれは、シュレ
ーブの貴族の娘を嫁がせてやろうとは思っていたが、格下の国の王
子に実の娘エリュティアを嫁がせることなど思いもよらなかった。
この戦場に彼を連れてきたのも、将来のレネン国王にシュレーブの
強大な軍事力を印象づけるためである。
この場の話題の中心になるはずの若者は、ただ黙って二人の王の
話を聞いていた。この若者には自分の感情や思考というものが欠落
しているようだった。ボルススの傍らにいたグライスには、デルタ
スが自分より二つ三つ年上に見えること以外、デルタスの感情を伴
わない表情や動作から、何も読み取ることはできなかった。ボルス
スはデルタスという一個の彫像がそこにあるかのように、彼の存在
を気にすることもなく、王ジソーに語った。
139
﹁レネン国に、ルージとヴェスターの軍の通行を許すと申し入れさ
せるのです﹂
ボルススが言うレネン国とは、今回の戦いでルージ国と共に兵を
挙げたヴェスター国の西に国境を接する小国である。両国を繋ぐ街
シリャード
道の幅は広く、レネンから南へ向かう街道はまっすぐ伸びてシュレ
ーブ国内を通過して聖都に至る。
戦死したリダルは、軍を動かすと言うことで、他国の無用な警戒
を避けるために、行軍の困難さを甘んじて受け入れてでも、同盟軍
のヴェスター国内のイドポワ街道を辿った。ただ、味方だと信じて
いたシュレーブ国やフローイ国に待ち伏せをされていると知ってい
たり、レネン国を通ることが可能なら、そちらの街道を通ったに違
いない。
この時、二人の王の会話を黙って聞いていたデルタスが突然に口
を開いた。
﹁しかし、反逆者どもの通行を許したとなれば、我がレネン国も反
逆者の仲間と見なされましょう﹂
﹁それは﹂
デルタスの正論に王ジソーは口ごもり、ボルススが言葉を継いだ。
﹁それは、奴らと我ら、どちらが先に貴国を通過しようとしたか。
そう言うことでありましょう﹂
﹁どういうことでしょう?﹂
﹁シュレーブ国は、ヴェスターにいるルージ・ヴェスター連合軍を
討つために貴国の通行を申し入れます。聞き入れてくださるな?﹂
﹁そう言うことであれば、父は必ず承諾いたしましょう﹂
﹁貴国の街道を通過する我らと無用な混乱を避けるために、貴国は
街道沿いの関所の兵を後方へ下げてくださるだけでよい。がら空き
になった街道を押し通るのは⋮⋮﹂
﹁ルージ・ヴェスター連合軍が、我が国の隙を突いて、貴国より先
に通るということですか﹂
﹁その通り。我らのためにあけた通路を、ルージが勝手に押し通っ
140
たということです﹂
﹁しかし、奴らが先に動きましょうや﹂
﹁それは、貴国が、我らにもルージにも恩を売ればよい﹂
﹁というと?﹂
﹁今回の戦で痛手を被った我らの有様をありのまま、奴らに伝えな
され。我らはネルギエの町に駐屯して兵を再編成するとも。奴らは
その知らせに小躍りして使者を歓待いたしましょう﹂
ネルギエの町というのは、イドポワの門の西方に位置して、数千
の兵を収容して養う大きさがある。七歳の頃のデルタスが、人質と
して国境を越え、シュレーブで最初に一夜を過ごした町だった。デ
ルタスはそんな思いを表に出さず、事務的に推測を語った。
﹁痛手を被ったシュレーブ・フローイ軍に、奴らが襲いかかってく
ると言うわけですか﹂
デルタスの言葉に頷くボルススに、ジソーは顔をしかめた。
﹁何? それは困る。我らはまず兵を整えねばならぬ﹂
﹁いや、都パトローサからネルギエまで四日もあれば増援が届きま
しょう。増援の要請を出せば、戦いが始まるときには、奴らを上回
る部隊を動員できるはず﹂
そう言われるとジソーには返す言葉がない。デルタスは次の疑問
を投げかけた。
﹁しかし、我がレネン国の申し入れを、奴らが信用して兵を進める
でしょうか﹂
﹁進めさせねばならぬ﹂
﹁どうやって?﹂
﹁つい先ほど、ジソー王が提案して居られた﹂
ジソーはボルススとデルタスの視線が自分に注がれるのを感じた
が、そのような提案の記憶には覚えがなかった。ボルススは彼の記
憶を辿るかのように言葉を継いだ。
﹁ルージ兵の死体から首を切り、反逆者の手先の証としてその首か
ら鼻と耳を削いでイドポワの門に並べ、リダルめの死体はシリャー
141
ドに運んで、反逆者として晒してやると。それを聞けば奴らは黙っ
ているまい﹂
ルージ兵の死体云々の文言は、情報を強調するためにボルススが
勝手に付け加えた。ただ、自信満々でそう言われると、戦場の高揚
した気分の中で確かにそう言ったかのような気になり、王ジソーは
眉を顰めただけである。デルタスが言った。
﹁ルージの奴らが王の死体を取り戻しに来るだろうというのですね﹂
﹁いかがか?﹂
ボルスス王がデルタスにそう尋ねた時点で、デルタスを使者とし
て認めたようなものだった。レネン国の王子という立場に加えて、
戦い直後の混乱した雰囲気の中での落ち着きのある物腰、ボルスス
の話に要点を突いた質問を投げかける知力など、使者として申し分
ない能力を持っていると値踏みしたのである。ボルススはジソーに
向き直って同じ事を尋ねた。
﹁いかがであろう。この者をルージとヴェスターへの使者として遣
わしては﹂
ボルススの提案に、ジソーは若者にその結論を求めた。
﹁いかがかな、デルタス殿﹂
﹁まず、レネンに戻り、我が王の裁可を仰いで後、使者の任を努め
たいと考えます﹂
王子として標準的な物言いだろう。ボルススは納得して頷いた。
﹁では、直ぐにレネンへ発たれるのがよろしかろう﹂
デルタスが即座にルージと接触するというのがボルススにとって
最大の関心事だった。今のままでは、ヴェスター軍と、ヴェスター
にいるルージ軍がどう動くかは予測がつかない。しかし、この若者
がルージに用件を伝えれば奴らはボルススの手の上で躍っているよ
うなものだった。必ず、レネンを通り、ネルギエの町に進出するに
違いない。
142
戦いの後、王子デルタス登場︵後書き︶
フローイ国王ボルススの新たな企みで、新たな戦いのお膳立てが整
いつつあります。次回、デルタス王子の帰国のエビソードに続いて、
舞台はヴェスター国に移ります。上陸し父の軍の後を追うアトラス
はまだ父の死を知りません。
143
戦いの後、デルタスとボルスス
夕刻、王ボルススの提案で、思いもかけず帰国が決まった。デル
タスにとって、実に十二年ぶりの帰郷である。既に日は暮れて、無
数の星々を背景に三日月が東の空にあり、兵士たちの慌ただしい声
も収まっていた。ただ、日は暮れてもデルタスは出発準備に慌ただ
しい。そんなデルタスは、ふと手を止めて考えた。
シリャード
毎年開催されるアトランティス議会の時期には、王ジソーは彼を
シリャード
伴って議会が開かれる聖都に行く。その折、議会に出席するために
シリャード
聖都に来る父のエダス王と顔を合わせていたときのことである。
︵なるほど、あの時か︶
スーイン
デルタスがそう考えたのは、昨年、聖都のシュレーブ国王の館で
開催された宴席の時のことである。アトランティスを束ねる神帝の
長寿を祈るという名目は掲げられてはいたが、シュレーブの威勢を
各国に誇示する目的の宴席である。出席した何人かの国王の一人に
レネン国王エダスの顔もあった。
宴席で父と息子が相席になったものの、会話は進まなかった。父
にしてみれば人質に差し出した息子にかける言葉が無く、息子にし
てみれば、普段は言葉を交わすことがない男より、シュレーブの人
々に親近感を感じるという具合だった。
この時、人の良さそうな男が一人やってきて、杯を傾けつつ世間
話の話題を投げかけた。父と子の隙間を埋めるような話題の数々に、
思いの外話は弾んだ。ただ、その男が二人の傍らを離れるまでの間
の短い出来事だった。あの男は名乗りもしない失礼さを感じさせも
せず、二人の心に入ってきたかと思うと、去り方もまた自然で、父
と子は会話が途絶えたことで男が傍らから去ったことに気づいたよ
うな具合だった。
思い起こせば、あの男がフローイ国王ボルススだった。普段は王
144
ジソーの傍らにいる青年と、レネン国王がぎごちない会話をしてい
る姿をめざとく見つけ、二人の関係を探ったに違いない。ボルスス
は会話の中から、青年が実質上の人質だと言うことや、現レネン国
王とその長子のわだかまりまで聞き出していたのである。
︵食えぬお人だ︶
デルタスは苦笑いしたくなる思いを感じつつ、ボルススのことを
そう思った。ボルススに関係を探ろうとする意図があったにせよ、
父との会話が弾むという生まれて初めての心地よい経験をさせても
らった。
思い出に浸るデルタスに、身の回りの世話をしている下僕が現れ
て言った。
﹁フローイ国王ボルスス様がお見えになっています﹂
お通ししてよろしいでしょうか。下僕がその言葉を途切れさせた
のは、突然にデルタスが笑ったからである。デルタスはその理由を
説明せず命じた。
﹁よい。お通してくれ﹂
ボルススのことを考えているときに、その本人が現れる。自然な
登場の仕方にデルタスは面白く、ボルススらしいと思ったのである。
もちろん、あのボルススのこと、この訪問の裏に何か含むところも
あるだろう。
﹁夜分にすまぬな。是非とも今日のうちにお渡ししたいものがあり
ましてな﹂
ボルススは傍らに控えていたグライスに合図して、配下の者に荷
を運び込ませた。
﹁これは?﹂
﹁リダル王が身につけていた甲冑ですわい。これがあれば、ルージ
の者どももリダル王が亡くなった知らせを信用するでしょう﹂
﹁なるほど﹂
デルタスは呟くようにそう短く言い、ボルススの意図を察した。
デルタスはレネン国王位継承者としての資格は持っていても、顔や
145
名を知るものはなく、ましてや若輩者である。そんなデルタスがル
ージ軍に出向いて、リダル王が戦死したと告げても、その言葉は信
用されないに違いない。派手さは微塵も無いが、鎧本来の実用性と
いう点ではこれに勝る鎧はないだろうと思わせる鎧である。着用し
ていた持ち主の気迫が残っているような鎧だった。その甲冑を眺め
たデルタスが言った。
﹁剣はいかがされました﹂
﹁剣とな﹂
ボルススが首を傾げるそぶりを見せたので、デルタスはその価値
を語った。
﹁ルージ国の者たちは、剣を自らの分身として重用すると。友愛の
証として剣を交換しあったり、王が正当な王位継承の証として次の
王に引き継ぐとか。たしか、リダル王も父のロスドム王から剣を賜
って王位継承の証としたはず﹂
デルタスの言葉にボルススは舌を巻いた。たしかに、ただの人質
ではなかった。各国の事情に良く精通し、状況を正確に読み取る能
力がある。それだけに、この青年には正直に事実を語って信用を得
る方が良いだろう。ボルススはそう考えた。
﹁念入りに辺りを探させたが、リダル王の剣は未だ見つかっておら
ぬ﹂
﹁そうですか﹂
デルタスが見るところ、ボルススは合理的な人物らしい。彼自身
が剣に価値を見いだすとすれば戦場での実用性のみ。勝利の記念品
として敵の王の剣に興味をもつ事は無かろう。それに今の状況でボ
ルススがデルタスを偽る理由もない。デルタスはそう判断したが、
もう一つ確認しておきたいことがある。リダルの遺体のことである。
デルタスは疑問を口にした。
﹁リダルの遺体はどうされます?﹂
﹁おおっ、その事よ。この暑さ故、遺体をヴェスターまで届けるこ
ともかなわぬ。我らフローイ国の手で丁重に荼毘に付し、貴国を通
146
じて王の遺骨をルージ国へお返し致しましょう﹂
溢れる感情が本物かどうか分からないが、ボルスス王の物言いは、
ルージの人々と亡くなったリダルへの敬愛に溢れていた。しかし、
傍らのグライスが素朴な疑問を呈した。
﹁しかし、それでは奴らがシュレーブに侵出する理由が無くなりま
す﹂
ルージ軍は王の死体が辱められることを避けるために、王の死体
を取り戻しに来る。遺骨を返せばその理由が無くなり、その後の戦
の算段も立たないというのである。デルタスはこの実直な若者に微
笑みかけて、ボルススの意図を読み解いてみせた。
﹁勇者よ、心配めさるな。遺骨を返すのは、次の戦が始まる直前の
こと。それまでは、私はルージ軍の者どもにそれを伝えねばよい。
そう言うことですな﹂
デルタスの言葉に、王ボルススは頷きもせず、満足げに人の良い
笑顔を浮かべただけである。彼はふとデルタスの天幕の小ささに気
づいたように見回してぽつりと言った。
﹁帰国されるにしても、従者の数が少なくては荷を運ぶにも難渋し
ましょう。そうだ、我が軍は明日、ネルギエへと移動します。ネル
ギエまで、我らがリダル王の甲冑を運んでしんぜましょう﹂
﹁感謝します﹂
デルタスは提案を拒否する理由もなく頷いた。次の戦場になるだ
ろうネルギエの土地までここから西へ二日。デルタスはそこから街
道を通って、まっすぐ北のレネンの都ロークを目指すのである。
147
次の戦場へ
デルタスを訪問したその足で、ボルススは従者も連れず、グライ
スを伴っただけで、ジソーの天幕を訪れた。
﹁何用かな?﹂
ジソー王の疑問も尤もで、つい日没前に顔を合わせて、両国の今
後の動向を話し合ったばかりである。ボルススはさらりと用件を明
かした。
﹁明日、我らは帰国します故、ご挨拶に参った次第﹂
その挨拶にジソーは飛び上がるほど驚いた。
﹁帰国ですと? 我が軍は南ではグラト軍と戦っておるのです。こ
の北では、間もなく来襲するルージとヴェスターを迎え撃たねばな
らぬ時期に?﹂
﹁心配はいり申さぬ。パトローサから増援を呼び寄せれば、貴国の
兵力はルージやヴェスターの軍を上回りましょう。勝利は勇猛さに
とどろくシュレーブの上にあり。間違いはございませぬ﹂
﹁しかし、﹂
ボルススはシュレーブを褒め称えることでジソーの反論を封じた。
ジソー王が口ごもる様子を見ながら、グライスは先のジソー王との
面会の出来事を思い出していた。ボルススはこれからの戦いの道筋
を話はした。しかし、あの会話を振り返れば、一言もフローイ国が
戦うとは語ってはいなかったのである。そして、ボルススはジソー
に哀れみを乞うような表情を見せて言った。
﹁それに、考えてもみてくだされ。貴国からの要請に応じた急な出
陣故に、我らフローイ軍は兵糧も少ない。お恥ずかしい話だが、間
もなく底をつきます。それまでに帰国せねば兵が飢えます﹂
ボルススの言葉にジソーは実に気前の良い申し出をした。
﹁それならば、我が軍がフローイの兵糧を提供いたしましょう。そ
148
れならば帰国せずとも安心して戦えましょう﹂
﹁おおっ、なんと寛大な申し出か。それならば我が軍も兵糧が続く
限り、シュレーブと協力して戦えるというもの﹂
ボルススは感激に耐えぬという表情でジソーの手を固く握りしめ、
何度も礼を言ってジソーの天幕を辞した。
ボルススはジソーとのやりとりを首を傾げて聞いていた孫に尋ね
た。この時ばかりは祖父が孫に注ぐ笑顔である。
﹁グライスよ。我が軍の兵糧は充分にあるはずだと考えておるな?﹂
﹁いえ﹂
﹁何故だ?﹂
﹁この戦はシュレーブの戦。そう言うことにしておけば、我らは国
力を損じることもなくジソーに恩を売れます﹂
﹁おおっ、言いおるわい﹂
﹁先ほどのデルタス殿から、我が王の心を察せよと教わったような
もの﹂
出陣の準備は充分整えていた。食料の備蓄も一月分はあるだろう。
しかし、フローイからの長い道のりを考えれば物資の補給は苦しい。
シュレーブから提供される物が活用できれば言うことはないのであ
る。そして、食料を提供せねば、さっさと戦列を離れて帰国すると
いうことをジソーに納得させたようなものだった。何より、補給は
苦しいが、良いこともある。シュレーブ国が戦場だと言うことであ
る。戦いが続けば、村や町が焼けることもあるだろう。畑も荒れる。
その損害を被るのは全てシュレーブ国である。
︵あと三月ばかりは︶
王ボルススは戦いの期間をそう考えた。アトランティスの暦で一
月は二十日。六十日先にはアトランティスの大地は豊かな実りの時
期を迎える。その頃までに兵士を故郷に帰してやれば、フローイ国
の収穫に差し支えることはあるまい。
149
ふんっ。ジソー王は鼻を鳴らした。満足をしたときの彼の癖であ
る。彼の目論見通り推移すれば、ルージ軍の主力を壊滅できただろ
う。しかし、ジソー王が軍を前進させるという失策で目的を達する
ことはできなかった。その結果にこだわることなく、次の最善の手
を打つというのはボルススらしい。
﹁さて、明日は陣を引き払い、西のネルギエへ移動じゃ﹂
ボルススの言葉にグライスは頷いたが、思いは他にある。次の戦
では誰かの手を借りず、自分の手でアトラスをしとめねばならない
という決意である。そのアトラスはまだ父の死も知らずヴェスター
にいた。
150
次の戦場へ︵後書き︶
次回更新は今週土曜日になる予定です。第二陣としてヴェスター国
に上陸したアトラスの視点に移ります。
151
ルージ軍第二陣:ヴェスター上陸
物語は一日さかのぼる。イドポワの門の戦いが始まろうとする頃、
これから始まる戦に逸るアトラスは第二陣を率いてヴェスターの都
レニグを目前に行軍していた。もちろん、間もなく始まるイドポワ
の門の戦いが、悲劇的な結果に終わったことをアトラスは知らない。
その、アトラスの表情は険しい。第二陣というのも形ばかり、補
給物資とその輸送や警備に当たる補助兵力が中心である。ヴェスタ
ーに上陸したアトラスは、その港町で第一陣の出発の話を聞いてや
シリャード
や安堵した。父リダル王はレニグで兵を休め、発ったのは三日前だ
ったという。急げば、聖都に到着するまでに追いつけるだろう。
アトラスに付き従うサレノスから見れば、王が意図するところは
良く分かる。第一陣が携行している食料は二週間ばかりの分量に過
ぎず、第二陣が運ぶ補給物資なしには長期間の戦いはできないので
ある。ただ、サレノスは別の言い方で、アトラスにそれを伝えた。
﹁お父上は到着を待っておいでだったのでしょう。アトラス殿を頼
りにしておられるのです﹂
サレノスの言葉にアトラスは即座に反論した。
シリャード
﹁もし、我が王が私を頼りにしているというなら、なぜ私を第一陣
に加えぬのだ﹂
﹁それは、蛮族どものことをお考え下さい。奴らが戦に逸って聖都
シリャード
を討って出れば直ぐに片がつきましょう。しかし、ずる賢い奴らの
こと、聖都に立てこもり援軍を呼ぶでしょう。そうすれば戦は長引
きます。我らが運ぶ兵糧が、第一陣の戦を支えることになるのです。
これこそ戦に勝る重要な任務﹂
﹁そんなことは臆病者に任せておけばよい。私は戦いたいのだ﹂
出陣以来、アトラスはこのサレノスを警戒して本心を語ることが
無く、老練なサレノスもアトラスの心を読み取れずにいた。
152
﹁隊列を見回る﹂
アトラスは短くそう言って、愛馬アレスケイアの手綱を曳いて馬
首を後方に向けて駆けだした。戦いたい。それが何のためかといえ
ば、母のためである。自分が父の歓心を買い、自分を通じて、あの
蛮族の女から、父の母に対する愛情を取り戻すのである。
サレノスはため息をつくような思いでアトラスの背を振り返って
いた。国の将来をあの若者に託して良いのかという疑問を打ち消し
たのかも知れない。
153
ルージ軍第二陣:都レニグ到着
第二陣の隊列は、第一陣の補充として戦闘に加わる兵士八百名が
先頭を行軍し、食料や戦闘で消耗する矢など補給物資を積む荷駄隊、
最後尾に荷駄を護衛するための兵士たちが百人ばかり続く。オウガ
ヌ、テウスス、スタラススの三人の近習は、隊列を見回ると称して
補充部隊の後方に居た。
﹁スタラススよ。見栄を張らぬで、甲冑は脱いで荷車に積め﹂
そう笑ったのはオウガヌである。ヴェスターのセイチャスの港に
上陸後、スタラススはその決意を秘めるように重い甲冑姿で行軍し
ているのである。年齢は僅か十四、この時代でも大人になりきれな
い子どもと言っていい。スタラススは子供じみた純粋さで、敬愛す
る王の指導を語った。
﹁我らが王が言われた。将たる者、兵と労苦を共にせよと。兵が甲
冑で行軍するのに、どうして私が楽ができよう﹂
﹁しかし、将たる者が戦の前にそのように疲れ切っていては、兵を
指揮できまい﹂
﹁なんと、私を若輩者と侮るか。私もカリルの月には十五歳。この
戦から帰還する頃には立派な大人じゃ﹂
カリルの月。夏の真っ盛りである。スタラススはアトランティス
の暦であと二ヶ月もすれば、この戦で初陣の手柄を立てて帰れるだ
ろうと言うのである。オウガヌが股間を指してスタラススをからか
うように言った。
﹁お前のここは、まだ、つるつるではないか﹂
陰毛の生えていないスタラススなど、子どもに間違い無いという
のである。そういう指摘をされるとスタラススは反論の余地はなく、
眉を顰めて不満げに頬を膨らませた。
154
近習たちの会話に兵たちの明るい笑い声が混じる中、アトラスが
姿を見せた。アトラスは愛馬アレスケイアを降り、轡を従者に取ら
せて、オオガヌら近習と共に歩いた。
﹁我らが王子も、あのジジイと気が合わぬと見える﹂
テウススがアトラスをからかうようにそう言った。あのジジイ。
もちろんサレノスのことを指している。近習たちも、若いながら王
都で生活して、アトラスの母リネと蛮族の女プチネの確執は知って
いる。そして、あの老人が、ルージ国を密かに二つに分かつリネ派
とプチネ派の一方、蛮族の女プチネとその息子ロユラスを擁しよう
とする派閥の長であろうとも推測していた。
幸か不幸か、先ほどからかわれた興奮が収まらぬスタラススが話
題を転じた。
﹁それにしても、今頃、ラヌガンは初陣を果たしているのであろう
か﹂
ラヌガンは出陣の直前まで近習仲間だった男である。今はその任
を解かれて父と共に第一陣にいる。
﹁急いても詮なきこと。われらも間もなく初陣を迎えよう﹂
テウススはそんなことをスタラススを通してアトラスに聞こえる
よう語りかけた。初陣やその手柄に急くというなら、アトラス王子
が最も焦りを感じているはずだった。近習としてその王子の心をか
き乱すことは避けたかったのである。子どもながら利口なスタラス
スも、自分の失言に気づいて俯いた。アトラスはそんな近習の配慮
に気づかぬふりをしながら更に話題を転じた。
﹁気がかりなのは聖都に残ったザイラスのこと。戦が始まればどう
なることか﹂
シリャード
﹁ほんに、戦いが始まれば無防備なまま、蛮族の攻撃に晒されまし
ょう﹂
﹁戦いが始まる前に、聖都を抜け出す算段とか﹂
﹁うまく抜け出せればよいが﹂
﹁レニグにつけば、なにやら知らせもありましょう﹂
155
﹁そうだな﹂
王子と近習がそんな会話をしていると馬蹄の音が響き、サレノ
スが姿を見せた。
﹁我が王子よ。隊列の先頭に立たれませ。レニグではヴェスター王
が出迎えに出て居られましょう﹂
港を出立して二日の行軍でルージ軍第二陣は、ルーオの峠にさし
かかったのである。その高みから前方にヴェスター国の都レニグが
見えていた。
156
レニグにて:王レイトス
都に到着したルージ軍をヴェスター国王レイトスは酒と肉を振る
舞って歓待した。兵士どもの喚声を聞きつつ、アトラスと近習はサ
レノスに導かれるようにレイトスの王宮へと歩を進めた。後世の歴
史に登場するどの王宮と比べても小さいかもしれない。ただ、間違
いなく王が住み、王の権威を誇示するための建築物である。ルージ
国でアトラスが住まう王の館に比べると目を見張りたくなる煌びや
かさだった。
この王宮の中、王の謁見の間でレイトスはアトラスを待っていた。
政略結婚を禁じたアトランティス議会の定めで、血縁関係を強調し
がたい間柄だが、レイトスにとってアトラスは紛れもなく甥である。
妹リネがルージ国王のリダル王子と偶然に出会い恋に落ちたという
自由恋愛という体裁を取って、レイトスが妹をルージに輿入れをさ
せて二十年あまりになる。その間、リネは夫の愛を蛮族の女に奪わ
れた不遇を、ヴェスターの兄に繰り返し使者を使わして訴えていた。
もちろん、ただの愚痴に近いが、繰り返し聞かされれば、妹を嫁が
せた兄としてその身が心配にもなるのである。夫婦関係のことをリ
ダル王には聞き難いが、この甥ならば素直に実情を話して聞かせて
くれるだろう。
﹁相変わらず元気な様子じゃのぉ﹂
﹁レイトス様もご健勝にて何よりです﹂
﹁そなたの母は元気にしておるか?﹂
﹁母も妹も病一つせず、ナナエラネのご加護かと﹂
アトラスは人の健康や病を司る女神ナナエラネの名を挙げて答え
たが、レイトスが聞きたいのは妹リネと義弟リダルの夫婦関係のこ
とである。レイトスは質問を変えた。
﹁家族は、皆、仲ようしておるか﹂
157
﹁ええっ、館に笑い声が絶えぬほど﹂
きわめて模範的な回答をする甥のアトラスだが、質問の本意に気
づいて、寂しげに眉を顰めるのをレイトスは見逃さなかった。寂し
げな表情。それで全ての実情がうかがい知れる。レイトスは話題を
転じた。
﹁して、出陣はいつにする﹂
レイトスから国王と他国の王子という堅苦しさが消え、叔父が甥
に語りかける親しみを感じさせる。
﹁できるだけ早く。できれば明日にでも﹂
﹁儂も同道する﹂
ヴェスター国王レイトスが、第一陣では麾下の将をリダルにつけ
て出陣させて都に残ったのは、義弟のリダルに思う存分戦をさせる
ためと、愛する妹の息子アトラスの後見人として、自らの軍を率い
て同道する目的もあった。
﹁おおっ﹂
レイトスの言葉にアトラスの近習たちは顔を見合わせて喜びの声
を上げた。傍らにいるサレノスを気遣ってそのあとの言葉を口にし
た者はなかった。しかし、この人物がアトラスの後見者として控え
ていれば、サレノスの影響力も失われるだろうと考えたのである。
158
レニグにて:異変の予兆
そんな会見のあとに準備されていた宴席は、スタラススらアトラ
スの近習たちを更に喜ばせた。戦の前という状況で、陽気な音曲や
女たちの華やかな舞は控えられていたが、大きな丸いテーブルの上
には山海の珍味が並べられ、湯気と共に食欲をそそる香りを放って
いた。戦に出れば、しばらくは、こういう贅を尽くした食事を取る
ことはできない。戦の前にふさわしい心づくしだった。
﹁おおっ、アトラスよ﹂
先にテーブルに着いていた老女が宴席に入ってきたアトラスを見
つけて立ち上がり、その体を柔らかく抱きしめた。
﹁おおっ。レイケ様もお元気そうで何よりです。ユマニさまもお久
しゅう﹂
﹁あれは?﹂
スタラススがその二人の女と彼が仕える王子の関係に首を傾げた。
ルージを離れ海を渡ったのは初めてのスタラススにとって、当然の
疑問だったかも知れない。オウガヌが笑いながら答えた。
﹁リネ様とレイトス様のお母君だ。我らが王子の母方の祖母という
わけだ。傍らにいるユマニ様はスタラスス王の后で王子の叔母にあ
たる﹂
この人々の奇妙な会話は神々まで拡大して考えねば分かりにくい。
彼らは真理の神ルミリアの元に集い政略結婚を禁じた定めを、自由
恋愛という理由にこじつけて破っている。篤い信仰と現実社会の狭
間で、祖母や孫という血縁関係に関わる言葉を封じているのである。
宴も半ば、杯を片手にした王レイトスは、そんな神に関わる心情
を象徴する言葉を吐いた。
﹁私はこの大地と、ここで受けるた生を見守る者に、仕えるのみ。
159
神々にはその姿をご照覧いただきたく﹂
その言葉に、王母レイケは満足げに孫のアトラスを眺め、后ユマ
ニはいままで何度聞かされたか分からないとあきれ顔を浮かべた。
ロゲル・スリン
レイトスはスタラススらアトラスの近習の顔を眺め回して機嫌良く
言葉を継いだ。
﹁アトラスがそう言い放ったときの六神司院の腐れ神官どもの顔、
そなたたちにも見せたかったぞ﹂
スーイン
ロゲル・スリン
スーイン
アトランティス九カ国を束ねる組織としてアトランティス議会が
あり、神帝が君臨する。六神司院とは神帝を補佐する六人の神官集
団で構成する組織である。
スーイン
ロゲル・スリン
アトラスがフローイ国の姫を暴漢から救った勇者として、議会に
招集されて並み居る王たちや神帝に謁見した。そのとき、六神司院
の神官たちが何故かアトラスを挑発した。アトラスは初めての晴れ
シリャード
やかな場で高揚した気分でその言葉で神官に反論したのである。こ
の言葉をきっかけに、王リダルが聖都に巣喰う蛮族を平らげる宣言
をした。いわばこの戦いを始めるきっかけになった発言である。
近習たちも、数ヶ月前のアトランティス議会で、アトラスが勇ま
しい言葉を吐いたことは知っていたが、本人はそれを語らず寡黙な
王リダルも蛮族との開戦を決意したことを語るのみで、具体的な様
相を知る者はいなかった。
﹁もっと聞きとうございます﹂
近習の一人、スタラススは無邪気に話をねだり、他の近習も頷い
た。しかし、アトラスは自分の暴言がこの戦を始めてしまったかの
シリャード
ような罪悪感を持っていた。彼は眉を顰めて話題を転じた。
シリャード
﹁今、気がかりは、聖都の蛮族共の動きでございます﹂
﹁蛮族共が我らの動きに気づいて兵を動かせば、聖都の者から知ら
せが参ろう﹂
﹁それで、何かの知らせは?﹂
﹁まだ何もないのだ﹂
レイトスの言葉にアトラスが首を傾げた。
160
シリャード
﹁私たちが聖都を去り、今ここに戻ってくるまで三ヶ月近くになり
シリャード
ましょう。その間、何も?﹂
ロゲル・スリン
﹁聖都にいる我が館の者は何も使いをよこさず、こちらから出した
使いも六神司院に追い返されて参った﹂
ロゲル・スリン
レイトスの言葉に、今度はアトラスの傍らのサレノスが首を傾げ
シリャード
て尋ねた。
﹁王が聖都にある自分の館に出した使者を、六神司院が追い返した
というのですか?﹂
シリャード
アトラスの祖父ウルスス王の時代からルージに仕える忠臣である。
その彼の長い経験を持ってしても、聖都が人々の自由な往来を制限
した事はなく、ましてや、アトランティス議会の時に各国の王が滞
シリャード
在する私邸に、王が使わした使者を追い返すなど考えられないこと
スーイン
だった。
スーイン
﹁神帝が病の床に伏したため、聖都を封鎖して、神々の祝福を注ぐ
結界を作るとか。神帝の病の回復を図ると言われれば抗いようもな
い﹂
シリャード
﹁それでどうしたのです﹂
﹁今は、聖都の四つの門を僧兵たちが固め、出入りを固く禁じてお
るとか﹂
﹁出陣した我らが王はそれをご存じですか?﹂
﹁むろん、知って居る﹂
﹁では、我らが王は何と?﹂
﹁﹃儂が兵を率いて直接に出向く故、状況は見たままお知らせしよ
う﹄と、笑っておったよ﹂
レイトスから伝え聞いた言葉は、いかにもリダルらしい明確な言
葉だった。宴は王リダルの勇猛さに話題を変えて盛り上がった。そ
の中、サレノスは宴席を眺めて笑顔を浮かべてはいたが、心の中で
は別のことを考えていた。第二陣は第一陣と異なり、多量の物資を
運んでいる。上陸後、荷車で運んだ物資を、細いイドポワ街道を南
下するために、荷車の荷を解き、馬と兵士で運ぶ準備を整えねばな
161
シリャード
らない。今まで聞いたことのない聖都の異変への不安を、そういう
実務的な作業を考えることで追い払おうとしていた。
彼らが異変の報に接するのは、この明くる日のことである。
162
レニグにて:異変の予兆︵後書き︶
アトラスのアトランティス議会での暴言。詳しくは第一部のこの辺
りで描写しています。詳しく知りたい方はどうぞ。
http://ncode.syosetu.com/n5340
bs/18/
163
レニグにて:不吉な予兆
明くる日、アトラスが目覚めたのは夜明け前である。寝ぼけ眼の
近習共を叩き起こし、王都レニグ郊外に張った陣に戻ると宣言した。
初陣の武功に逸っていたのはアトラスだけではなかった。近習のオ
ウガヌ、テウススも自らの勇壮な姿を思い浮かべるように喜び勇ん
で寝床から起き出した。ただ、近習の中でもっとも年若いが思慮深
いスタラススが、寝ぼけ眼と無邪気な笑顔、それに相反する大人び
た口調で言った。
﹁皆さん、逸りめさるな。この時間にレイトス王を叩き起こすおつ
もりか?﹂
スタラススにそう言われればその通りで、この王宮を離れようと
するなら、甥と叔父の関係にしても、昨夜の歓待の礼をレイトス王
にしなければ失礼に当たるだろう。夜も明けぬうちにその王を叩き
起こすことはできない。スタラススは言葉を継いだ。
﹁それに、陣のこと。サレノス様にお任せあれ﹂
サレノスは一人昨夜のうちに陣に戻っていた。今頃は出陣の準備
をしているだろう。王都レニグを発ち、イドポワ渓谷の手前で、運
搬する物資を兵士に分散して背負わせる。兵糧が先、最後に、戦い
で傷ついた兵士のための医療品や武具の補修のための物資。様々な
物資を効率よく輸送するための手順を指示するのである。
そのサレノスが、アトラスたちに王宮に留まるようにと言い残し
ていた。当然のこと。協力して兵を挙げるヴェスター国と出陣の打
ち合わせをせねばならない。
﹁私は今しばらく眠りまする。事は、夜が明け、サレノス殿が戻っ
て⋮⋮﹂
スタラススは最後まで言い終わる前に心地よい寝息を立てていた。
その無邪気な寝顔を見れば幼子の可愛らしさがある。
164
夜が明け、準備された朝食を取り終わった頃、サレノスが王宮の
アトラスの元に戻ってきた。いつもと変わらぬ表情で、アトラスた
ちは彼が準備を滞りなく整えたことを知った。宮殿の王の間には既
シリャード
にヴェスター国の重臣や兵を率いて集まった領主たちが、その顔ぶ
れをそろえていた。蛮族に乗っ取られた聖都を奪還するという崇高
な目的があり、集う人々の目から戦いに参加する喜びが溢れている
ようだった。
そんな志気の高まりの中、王の間に急ぎ足で入って来た二人の武
人の姿があった。
﹁メノトルにロイテルではないか。いかがした?﹂
王レイトスの怪訝な表情ももっともなことで、この二人はそれぞ
れが1000人近いヴェスター軍兵士を引き連れて、ルージ軍の第
一陣に加わっていた指揮官である。今頃はイドポワの門を抜けて進
軍しているはずの者たちだった。
﹁出陣したヴェスター、ルージ軍がこの王都レニグへ帰還して参り
ます﹂
﹁馬鹿を申せ﹂
﹁シュレーブがイドポワの門で待ち伏せ。ルージ軍の先鋒が奇襲を
うけたとのことでございました﹂
﹁どうして、シュレーブ軍が我らを襲うのだ﹂
﹁分かりませぬ﹂
﹁リダル王はいかがした?﹂
﹁何も聞いてはおりませぬ﹂
﹁分からぬ事ばかりではないか﹂
王レイトスの言葉にメノトルにロイテルは項垂れるばかりだが、
これもやむを得ない。隊列を整えて細いイドポワか移動に突入しよ
うとしたら突然に前を行くルージ軍部隊が後退してきた。その後退
してきたルージ軍部隊も王リダルから後退しろと命令を受けたのみ
165
で前線の状況は分からないのである。
﹁間もなく、ルージ軍将士たちも戻って参りましょう﹂
メノトルとロイテルはそう返事をするしかなかった。
166
レニグにて:アトラスの失言
ルージ軍自身の情勢がもたらされたのは夕刻だった。王都レニグ
に、第一陣に加わって一隊を率いていたバラスが息子ラヌガンを従
えて姿を見せたのである。ヴェスター国の主要な領主と、ルージ軍
第二陣を率いる領主たちが顔をそろえて、二人を王の間に出迎えた。
バラスは負傷した左腕を首から吊り、股に巻いた包帯から血が滲
むという悲惨な姿である。思いもかけない姿に親子を迎えた王宮は
緊張した。アトラスが怒鳴るように聞いた。
﹁バラス。父は、我らが王は、いかがした﹂
﹁わかりませぬ﹂
﹁わからぬだと﹂
﹁我らは王より、﹃シュレーブ軍の待ち伏せを受けた故、退け﹄と
の命を受けました。﹂
﹁シュレーブ軍だと﹂
﹁我ら自身も進もうとしてシュレーブの奴らめに阻まれました﹂
バラスの言葉にも誤解がある。リダル王の隊に追従していたバラ
スの部隊を襲ったのは斜面に陣取っていたフローイ軍の右翼の一部
である。ただ、王からシュレーブ軍の待ち伏せという連絡を受けた
クラディク
直後、崖の上から落とされた岩で行く手を遮られるのと同時に、彼
ら自身も被害を被っていた。フローイ軍が振る緑旗も、ほとんど垂
直な崖の上で、目撃していないのである。話を聞いていた王レイト
スが口を差し挟んだ。
﹁しかし、何故、シュレーブ軍が我らを襲う﹂
﹁その目的も分かりませぬ。ただ、先鋒のアガルスス殿の使者がシ
ュレーブの軍旗を確認したと言うのは間違いございません﹂
﹁お前は何をしていたのだ﹂
アトラスの言葉に怒りと焦燥が混じっていた。バラスは冷静を保
167
ちつつ事実を述べた。
﹁我ら自身も進もうとして攻撃を受け、王の命令を守って退くしか
ありませなんだ﹂
そのバラスの言葉に、イドポワ渓谷の地形をよく知る王レイトス
を始めとする諸侯は頷いた。あの地形で前方を行軍する者たちが後
退しようとするなら、後方にいたバラスらが先に後退してやらねば
ならないと納得したのである。サレノスらルージ軍の練達した諸侯
は別の観点から考えていた。ルージ国は王の命令が絶対でその命令
に反することは何人たりと許されない上、戦に熟練した王リダルの
判断にも間違いはあるまい。バラスが後退するという判断は間違っ
てはいない。ましてや、バラスの負傷を見れば、無理をおして前方
の様子を探ろうとしたことも伺えるのである。
しかし、バラスの言葉にアトラスのみ激高した。
﹁臆病者め! 我らが王を置いて逃げ帰りおったな﹂
その叫びのあと、王の間は凍り付くように静まりかえった。質実
なアトランティス人、とりわけルージ国の人々は、怠惰、卑怯とい
った言葉が投げかけられることを嫌う。その言葉の中でも、最も人
の名誉を傷つける卑怯者が逃げ帰るという表現で、アトラスは忠臣
をなじったのである。
︵失言だった⋮⋮︶
叫んだ瞬間に、アトラス自身がそう考えていた。バラスはアトラ
スの言葉に黙ったのみで反駁せず、傍らいた息子のラヌガンが、悔
し涙を浮かべて反駁した。
﹁なんというお言葉か。我が父が先の遠征では王と共に戦い、長く
忠義を尽くしたのをお忘れか﹂
アトラスはバラスへの怒りの表情を消すことなく、黙ってラヌガ
ンの言葉を浴びた。心は無垢でありながら、荒々しい武人を装って
生きてきたアトラスである。悲しい二面性を持ったこの青年には、
それ以外の対応はあり得なかった。ただ、もう少し時間をおけば、
この親子に素直に謝罪していたかも知れない。
168
思いあまったようにサレノスが口を開いた。
﹁バラスよ。我らが王子は父君の安否を気遣って混乱しておられる。
今は、下がって傷の手当てをせよ﹂
﹁いえ、我らはアゴース殿に兵を預け、イドポワ街道の入り口に布
陣しております。そこで我らが王の帰還を待ちたいと考えます﹂
バラスは街道から兵を後退させたあと、その入り口部分に、同輩
のアゴースと共に布陣しているというのである。僅かでも戦いの状
況を嗅ぎ取ったバラスと息子ラヌガンのみが状況を伝えに戻ったと
いうのである。
王の間から姿を消す直前に、ラヌガンがちらりとアトラスを振り
返って、怒りと悲しみの表情を見せた。アトラスはそのラヌガンに
謝罪どころか何の言葉もかけることもできなかった。ふと見回せば、
アトラスを囲むようにいた近習たちも、アトラスに冷ややかな視線
を注いで黙っていた。アトラスを中心に兄弟のように育った者たち
である。その内の一人、ラヌガンの父を臆病者呼ばわりし、ラヌガ
ンがその罵声に抗議をしたという光景は、他の近習たちの心にも疑
問や反感の芽を生んだに違いない。
﹁リダル王の安否と、シュレーブの意図が分からぬでは我々も動き
ようがない。どうじゃ、今しばらくレニグに逗留しては?﹂
ルージ軍の決断を問いつつ、ヴェスター軍の出陣は延期するとい
う決断を匂わせていた。それがヴェスター国王レイトスの決断であ
るらしい。
﹁我らが王子よ。第一陣はバラスとアゴースに任せてそのまま街道
入り口に布陣。我ら第二陣は王の言葉に甘えて、今しばらくレニグ
に逗留するのが良かろうと存じますが﹂
サレノスはアトラスにそう声をかけ、アトラスが黙って頷くのを
見て、王レイトスに返答した。
﹁仰せのままに。今しばらくご厄介になります﹂
169
レニグにて:混乱の数日
夕刻、サレノスは兵の様子を見て回らねばならないという理由で、
王レイトスとの折衝はアトラスに任せて王宮を退去した。第一陣が
奇襲を受けて王リダルの安否が不明という情報は郊外に陣を敷いた
第二陣の兵たちにも伝わっているはずである。その兵士たちの動揺
を鎮めなければならないのである。アトラスに付き従っていた近習
たちも、普段は避けているサレノスに付き従って王宮から姿を消し
た。アトラスは見捨てられたような意識に苛まれながら、夜を過ご
した。
︵ザイラスが居てくれたら︶
アトラスは月を見上げて、この場にいない近習のことを思った。
時に兄のような態度でアトラスに接する青年で、この場にいれば上
手く取り繕ってくれただろうと思うのである。
明くる日も事態は好転せず、王の安否も、シュレーブ軍が襲って
きた理由も何も分からないまま、苛立ちと不安の中に過ぎた。ただ、
イドポワ街道の入り口に陣を敷いたバラスやアゴースも、戦慣れし
た武人で、街道に兵をとどめておくことはできないと判断するや、
状況を探る少数の兵を街道に残してきている。そんな兵が一人、二
人と戻ってきて、都に情報をもたらした。
イドポワ街道の出口に陣を敷いていたというシュレーブ軍は既に
おびただ
去っていること。戦いがある直前、フローイ軍が街道を封鎖してい
て旅人や商人が通れなかったこと。イドポワ街道の手前には夥しい
数の兵士が埋葬されていて、その数が数百を超える気配があること。
何故か一頭の馬が丁寧に埋葬されていて、その装具から王リダルの
愛馬オスロケイアだと考えられること。イドポワの門の外にはルー
ジ兵の死体が埋葬もされず放置されていたこと。そういう断片的な
170
情報を整理すれば、第一陣の前衛が全滅に近い被害を被ったという
状況が浮かび上がって来るのだが、王の安否は未だに分からず、ル
ージ軍将兵、とりわけ息子のアトラスの不安をかき立てた。
とりわけ、近習たちはアトラスによそよそしく、アトラスは本音
を吐露する相手も、心の不安を相談する相手もない孤独感が若いア
トラスの苛立ちを深めた。
なすことなく、不安と苛立ちのみ高まる日が数日続いたあと、ヴ
ェスターの都レニグは意外な人物の来訪を受けることになった。使
者の名はデルタスという。
171
レニグにて:デルタスの来訪
バラスが第一陣の情報を最初にもたらしてから五日後、表面上の
平静さの裏で混乱は収まりきらない。アトラスは孤独感の中、改め
て父親の存在の大きさに怯えるようだった。サレノスがアトラスの
意向を伺うという形を取って、兵を率いる領主たちに様々な指示を
出していたが、それとて、アトラスはサレノスの提言に頷いて許可
を与えるのみで、領主たちを統率しているという意識はなかった。
突然に王が不在になり、役割を引き継がねばならなくなった時、彼
にとってサレノスは心から頼れる相手ではなく、心を許せる近習た
ちとも距離を置いてしまったのである。
そんなアトラスは王宮に一間を与えられて過ごしていた。美しく
手入れされた庭園が見渡せ、様々な花の香りが漂ってくる。時に部
屋に美しい蝶が迷い込むほどだが、アトラスの心を癒すことはでき
なかった。アトラスが独りぼっちの部屋に王レイトスの下僕が、王
の言葉を伝えに姿を見せた。隣国からアトラスに使者が来るという。
アトラスは下僕の案内に従い王の間に移動した。ただ、首を傾げて
いるのは、隣国レネンとの関係を思い浮かべる事ができないからで
ある。
導かれた王の間には、既にヴェスター国の重臣が顔を揃え、郊外
のルージ軍の陣からはサレノスが姿を見せ、サレノスの傍らにオウ
ガヌ、テウスス、スタラススの姿も見える。本来はアトラスと共に
いる三人だが今はアトラスと距離感を感じさせる。アトラスもそん
な三人と会話を交わすこともなくサレノスの傍らに立ち止まった。
アトランティスでは、貴人の訪問に先立ってその来訪を告げる先
触れの使者を出すのが礼儀とされている。上座に王レイトスがおり、
その前にいる男がその先触れの使者だろう。アトラスの入室を待っ
172
ていたかのように、広間の入り口の兵が叫んだ。
﹁レネン国王子デルタス様のお着きでございます﹂
その声に合わせて、一人の青年が、まるで進物の品でも持参した
ように従者に荷を担がせて現れた。両国の仲を取り持つ献上の品で
も持参したのかという姿である。見かけの歳より落ち着きを感じさ
せる男である。隣国の王子と言うが、アトラスやサレノスは初対面
だったし、王レイトスにしても隣国にこのような王子が居たという
のは記憶の隅を探ってようやく思い出したほどである。
﹁何用かな﹂
レイトスの問いかけにデルタスは口を開いた。
﹁順番に聞いていただかねばなりませぬ﹂
﹁聞こう﹂
﹁私は幼き頃よりシュレーブの王ジソーの元で育ちました。手短に
申します。王ジソーに連れられて、王と共にイドポワの門に同行し、
フローイ軍と合流したあと、ルージ軍との戦いを眺めました﹂
﹁戦いだと?﹂
﹁その通りです﹂
スーイン
﹁何故、シュレーブとフローイが我らを襲う﹂
スーイン
﹁神帝を暗殺した反逆者たちを討てとのこと﹂
﹁神帝を暗殺だと?﹂
もちろん、アトラスや王レイトスを始めこの王の間にいる人々に
そんなここ辺りは無かった。アトラスが話に割って入って反駁の声
を上げようとしたのを、傍らのサレノスが手を挙げて静止した。話
の続きを聞かねばならない。王子レイトスは話を続けた。
﹁シュレーブ軍はイドポワの門の外で、ルージ軍を待ち受け。フロ
ーイ軍はその退路を断つために門の内側に布陣していました﹂
デルタスの言葉にサレノスは僅かに頷いた。イドポワの門を何度
か通ったことがあるが確かにデルタスの言う布陣に該当する地形だ
った。
﹁我らが王リダルはどうしたのだ?﹂
173
そのアトラスの叫びは、この場にいるヴェスター、ルージ国の者
どもが尤も知りたいことである。
﹁戦死なされました﹂
﹁戦死だと、我らが王が﹂
﹁信じられぬ﹂
﹁信じられるのも道理。しかし、ご遺体は私自身が確認し、その証
拠としてリダル様の鎧を持参いたしました﹂
デルタスが振り返って従者に目配せをし運んできた荷の蓋を開け
させた。見覚えのある鎧が見えた。アトラスやサレノスが駆け寄り、
王レイトスも続いた。間近で検分すれば、鎧の胸板に刻まれた紋は
ルージ国王家の紋章に間違いなく、兜はリダルが好んだ海鳥の羽根
飾りがついていた。王リダルが着用していた鎧に間違いはなかった。
会話の主役は王レイトスからアトラスに移ったが、レイトスはそ
れを静止せず黙ってやりとりを聞いていた。二人の王子の会話が続
いた。興奮したアトラスが叫んだ。
﹁デルタスよ。どうしてそなたがこのような物を持参した?﹂
なきがら
シリャード
アトラスの質問に、デルタスは趣旨をややそらして答えた。
﹁シュレーブ国のジソー王は、リダル王の亡骸を聖都の門に晒し、
反逆者の末路を喧伝すると﹂
﹁デルタス! そなたは我らルージを侮辱するために来たのか﹂
﹁いいえ﹂
デルタスはきっぱりとそう言い、アトラスが落ち着くのを待って
言葉を継いだ。
﹁あなた方のために来たのです﹂
﹁我らのため?﹂
174
レニグにて:王リダル戦死の報
会話の主役は王レイトスからアトラスに移ったが、レイトスはそ
れを静止せず黙って二人の王子の会話を聞いた。興奮したアトラス
が叫んだ。
﹁デルタスよ。どうしてそなたがこのような物を持参した?﹂
なきがら
シリャード
アトラスの質問に、デルタスは趣旨をややそらして答えた。
﹁シュレーブ国のジソー王は、リダル王の亡骸を聖都の門に晒し、
反逆者の末路を喧伝すると﹂
﹁デルタス! そなたは我らルージを侮辱するために来たのか﹂
﹁いいえ﹂
デルタスはきっぱりとそう言い、アトラスが一息つくのを待って
言葉を継いだ。
﹁あなた方のために来たのです﹂
﹁我らのため?﹂
﹁シュレーブ・フローイ軍が凱旋するまでにもう一戦し、王の遺体
を取り戻すのがよろしいかと﹂
﹁もう一戦? 望むところだ﹂
アトラスの言葉の後、サレノスが口を挟んだ。
﹁しかし、イドポワの門の外では敵が待ち受けておりましょう﹂
﹁彼らも精強なルージ軍と戦い、大きな被害を出しております。シ
ュレーブ軍など、先鋒のアガルスス殿に名のある将が三名も討ち取
られました﹂
﹁それで?﹂
﹁門の外には守備兵を残し、残りはネルギエに移動しました﹂
﹁ネルギエだと﹂
﹁シュレーブ国の都パトローサからルーソム街道を北へ、我がレネ
ン国との国境の地です。都からの増援が容易。彼らはそこで増援を
175
待つとのこと。兵が整えばレネン国を通り、ブェスター国を西から
攻めることになりましょう﹂
﹁貴国は、我らを攻めるための為の他国の軍の通過を許すと言われ
るのか﹂
﹁既に、我が王はシュレーブ国の申し入れを受け入れて、通行の許
可を出しました。小国故、シュレーブ国やフローイ国の申し入れに
は逆らえませぬ﹂
﹁では、我が国はシュレーブ軍とフローイ軍を待って居れば良いと
いうことか﹂
王レイトスが放った問いかけに、アトラスが反駁した。
﹁それでは、我がれら王、我が父の遺体を取り戻せませぬ﹂
デルタスはアトラスに同意した。
シリャード
﹁たしかに、シュレーブ軍がここまで進軍するときには、リダル王
の遺体は邪魔になります。聖都に送られて辱められることは必定﹂
﹁では、どのようにせよと﹂
﹁我が国は、シュレーブの申し入れを受け入れて、街道沿いの関所
は開放し、兵士たちもおりませぬ。通る事ができるのはヴェスター・
ルージ軍も同じ﹂
﹁我らが先に貴国を通ってシュレーブに出よと?﹂
﹁それは貴国が勝手に押し通るのみ。我が国のあずかり知らぬ事で
す﹂
﹁しかし、どうして我らに荷担される?﹂
﹁いいえ、どちらにも荷担しない。それが我がレネン国が生き残る
道かと。そして我らのような小国が大国の狭間で生き延び続けるた
めには、両者に恩を売っておく必要がありましょう﹂
﹁なるほど。皆の者、使者殿の言葉、聞いたとおりだ﹂
王レイトスは頷いて、使者に向き合い、その手を取って言った。
﹁デルタス殿。貴国の申し入れ、このレイトス、心にしみた。あり
がたく考えさせていただこう。今日は間もなく日が暮れる。明日ま
でこの宮殿でごゆるりと休まれよ﹂
176
﹁ほっといたしました。これで私も任務を無事に全うできたという
もの。リダル王への弔問の使者は改めて参りましょう﹂
デルタスは、レイトスが一夜の宿を提供するという言葉でこの会
議の場から自分を追い払う意図に気づいていた。王レイトスは自分
の言葉を鵜呑みにはしていまい。デルタスが姿を消した後、デルタ
スの情報の真偽を巡って議論するつもりなのだろう。ただ、デルタ
スはヴェスター国とルージ国が自分の提案を受け入れざるを得ない
だろうと考えている。
そんなデルタスは少し立ち止まり、振り返って広間に集う人々の
顔を眺めた。
︵あの中に、我が思いを託す者は⋮⋮︶
レネン国が戦火に巻き込まれるのを避けた今、気にかかるのは自
分自身の安全のことである。デルタスの視線は、一瞬、アトラスの
上に止まり、そして、何事もなかったように再び歩き始めた。
177
レニグにて:王リダル戦死の報︵後書き︶
次回予告 デルタスの命の安全⋮⋮。思いもかけないややこしい
状況にありました。そして、もう一戦と、決意を秘めるアトラスも
また、戦いを前に帰国するかという問題に直面します。
178
レニグにて:帰国決定
デルタスが姿を消すのを待っていたように、王レイトスは父の訃
ニクスス
報と事態の急激な変化に戸惑い放心状態のアトラスを叱咤した。
パトロエ
﹁アトラス。リダルの血を引く者よ。戦士の生死は、運命の神と、
戦の女神と共にあり。それは、そなたもよくわかっていよう﹂
テツリス
我に返ったアトラスは父の兜を掲げて誓うように叫んだ。
テツリス
テツリス
ジメス
﹁もちろんのこと。しかし、審判の神は我らと共にあり。次の戦で
ジメス
は私が審判の神の槍を彼らに投じましょう﹂
アトランティスの神話に審判の神がいる。審判の神は審判の神の
息子で、正邪の判断をし、その槍によって裁きを下すという法の執
行官のような役割を担う神である。アトラスは自分の手で邪を暴き、
そして裁きを下すというのである。
しかし、ここで王レイトスは、デルタスもアトラスも予想しなか
ったことを言った。
﹁アトラスよ。そなたは一度ルージ国へ帰るがよい﹂
﹁何を言われるのです。このアトラスをそんな臆病者とお考えか?﹂
劇こうするアトラスを諭すように、王レイトスが努めて冷静に語
った。
﹁ルージに戻り、王位を継ぎ、再び兵を連れて戻るが良い。その間
のこと、儂が何とか差配しよう﹂
レイトスの言葉に、アトラスの傍らにいたサレノスは戸惑いつつ
も同意して頷いた。ルージ軍、そしてルージ国という国家の組織の
ことである。王から領地を与えられたという名目のもと、それぞれ
の土地に根ざした領主が民を徴用してルージ国王の元に参じて、共
に戦う。王リダルを失ったルージ軍は、彼らをまとめる旗頭を失っ
たのである。アトラスは王位継承者の身分だが、歴戦の領主を束ね
るには、年齢以外にもルージ国王という肩書きが不足しているので
179
ある。
そして、王レイトスが危惧するのは、ルージ国が主を失って混乱
している隙に乗じて、フェリムネと称する蛮族の女の息子ロユラス
を王に擁立する動きが出るのではないかということである。まず、
アトラスが国に戻って王位継承の儀式を執り行い、ルージ国の正当
な王だと内外に知らしめねばならない。
密かにロユラスを支持しているサレノスは、別の立場で、レイト
スと同じ事を考えていた。この混乱は、ロユラス支持派に絶好の機
会に見えるが時期は早い。この時期にロユラスを擁立すれば、アト
ラス支持派と争って共倒れになるに違いない。そればかりではなく
その混乱に乗じた他国の介入も招くだろう。
子どもの頃から母の嘆きを聞かされ続けてきたアトラスも二人の
心中を察する経験を持っていた。そして、王が不在のルージ軍で兵
が動揺している様子も肌で感じている。戦を経験したことのないア
トラスは、そんな兵士をまとめ上げ戦場に導いて勝利する自信がな
かった。しかも、近習さえ彼を見放している現状である。アトラス
にはアトランティスどころか、ルージ一国を背負う気概も失せてい
た。運命に流されて生きてきた青年アトラスは、先導者としての父
を失い、いまだ自分で歩き出すことができない。そんなアトラスを
象徴するようにサレノスと王レイトスの会話が始まった。
﹁しかし、気がかりは南のグラト国のこと。我らと時を同じゅうし
て兵を挙げたはず。シューレーブ国の攻撃を受けているのではあり
ませぬか﹂
﹁おそらくは﹂
﹁何か手だてを講じねばなりませぬ﹂
﹁おそらく、今、グラトに侵攻しているシュレーブ軍はせいぜい三
千と見た﹂
﹁確かに。それならば、勇猛なトニロス王が戦って撃退するでしょ
う。ただ、イドポワの門で我らと戦ったシュレーブ国とフローイ国
の軍が、グラト方面に増援に向かうとやっかいですな﹂
180
﹁我がヴェスターはデルタスの策に乗り、ネルギエの手前まで侵出
する。ただし、戦わず事態を静観する。それなら奴らも動けまい。
リダル王の遺体を取り戻す交渉もせねばならぬしな﹂
﹁では我らルージ軍の兵はこの地に留め置き、我らが王子アトラス
と少数の側近をルージに帰り、ルージ国王即位の議を行った後、こ
ちらに戻っていただいて再び軍を率いていただいて奴らと一戦に及
ぶということで﹂
﹁では、我らヴェスター国はネルギエの手前で十五日ばかり時を稼
げば良いと言うことだな﹂
アトラスがルージ国王として戻ってくる時間をそう推測したので
ある。
﹁その程度の時になりましょう﹂
サレノスは王レイトス頷いて、アトラスに視線をやって尋ねた。
﹁我が王子よ、いかがか?﹂
そう問われたアトラスは黙って頷くしかない。兵士たちもレニグ
郊外に駐屯する兵士たちも、敬愛する王が戦死したという情報を漏
れ聞けば混乱するだろう。アトラスにはそれをまとめる自信なかっ
た。いまは、この広間で並み居る重臣や、兵を率いるルージ国の領
主たちの前で、アトラスは王レイトスとサレノスが指し示す方向を
向くしかないのである。
ただ、この明くる日、本人も考えもしなかった出来事で、アトラ
スは自身の手で運命を定めることになることに誰も気づく者は居な
かった。
181
レニグにて:帰国決定︵後書き︶
アトラスの意志ではなく帰国が決まります。次回はそのアトラスに
デルタスが思いもかけない申し出を・・・
182
レニグにて:月下の庭園
夜も更けかけた頃、ヴェスター国やルージ国の者どもは、軍議の
席を食事の場に移し、それも終わった。もちろん酒を飲んで騒ぐと
いう雰囲気ではない。つい今朝方まで、間近に迫った出陣準備で慌
ただしかった宮殿内も静まりかえり、兵士たちの不安な囁きが風に
乗って静かに広がるようだった。アトラスの近習たちは郊外の陣に
戻り、残されたサレノスがまだ残された仕事があると言わんばかり
に、アトラスの傍らに侍っていた。
﹁我が王子よ、リダルの血を引く者よ。サレノス王が言われたこと、
心に刻まれましたな﹂
サレノスは王の死という表現は避けながら、アトラスのその役割
を担う覚悟を決めよというのである。
﹁分かっているというに﹂
アトラスはそう言ったが、進むべき方向を見失ったように落ち着
き無く視線を泳がせていた。偉大な王、偉大な父を突然に失って混
乱が収まらないアトラスに、サレノスはなんとかこの若者の心を落
ち着かせねばならない。我が王子という普段用いる敬称を捨て、サ
ヒュリシアン
レノスは若者をその名で呼んだ。
﹁アトラス様。お父上も神々の世界から見守っておられましょう。
まずはお気きを鎮めて我らルージの民を導く決意を固めなされ﹂
﹁くどいっ﹂
アトラスの苛立ちの言葉に、サレノスは言葉を返そうとして不意
に黙り込んだ。月の光に照らされた庭園の一角に居る人影に気づい
たのである。隠しておきたいルージ国の混乱する様子を誰かに聞か
れてしまった。そんな思いである。
その人影は存在を隠そうとする気配はなく、ただ自然に夜空を眺
めているように見えた。男は静かに言った。
183
﹁月が冴え渡っています﹂
独り言か、アトラスやサレノスに語りかけたのか分からない。た
だ、その声には記憶があった。
﹁デルタス殿か﹂
サレノスの問いかけに、別の形で声が帰ってきた。
﹁月の光に照らされる花々もまた美しい﹂
︵そうではあるまい︶
サレノスはそう思った。アトラスはレイトスと近しい関係だけに
王宮の中心に近い位置に寝所が与えられている。一方、デルタスは
王子の身分とはいえ他国の使者である。与えられる寝所は王宮の離
れに位置するはずだ。デルタスがここにいるということは、何かの
理由があって足を運んだと言うことである。
相手の意図を察する一瞬の間の後、花壇を形作る岩の一つに腰掛
けていたデルタスが静かに言った。
﹁他には誰も居らぬ様子。しばし、話し相手でもつとめては下さい
ませんか﹂
ここに居る者以外に、会話の内容が漏れる心配はないから、三人
で密談をしようと誘っているのである。デルタスは自分が座ってい
る岩と間隔を置いて並んでいる二つの岩を、手を伸ばして指し示し
た。その物静かでおおらかな仕草が、今まで混乱していたアトラス
の心を静めるかのようで、アトラスは静かにデルタスと向き合って
座った。サレノスはデルタスの意図を伺うようにアトラスの傍らに
立ちつくしたままである。月がアトラスとサレノスの背後から射し
ていて、デルタスには闇に閉ざされた二人の表情を読み取ることは
できない。しかし、それを気にする様子もなく、デルタスは話を始
めた。アトラスは月の光に照らされたデルタスの表情に、静かな微
笑を読み取った。
﹁先ほど、レイトス王の前で私が申したこと、一句たりとも事実と
相違ございませぬ。しかし、全てはフローイ国のボルスス王の受け
売りです﹂
184
﹁では、デルタス様を我らに遣わしたのは、フローイ国だというこ
とですか?﹂
﹁そういうことになるでしょうか﹂
﹁そういう内情を我らに明かして良いものですか﹂
﹁シュレーブ国のジソー王はともかく、フローイ国のボルスス王は、
私がここで明かすことなど気にもとめますまい﹂
アトラスが口を開いた
﹁しかし、どうして私にそのようなことを明かすのです?﹂
﹁見たところ、正直なご気性。そして、心を隠す者より露わにする
者の方が信頼が置けましょう﹂
﹁私が正直だと?﹂
﹁正直であられる。今の貴方の心の乱れが、お顔に滲んでおります
よ﹂
思いもかけない言葉に、アトラスは質問を転じた。
﹁では、ジソー王やボルスス王はいかがでしょう。シュレーブ軍と
フローイ軍が、我が先鋒のアガルススと、我らが王リダルを討ち取
ったことで勝利したと考えて兵を退きはすまいか﹂
﹁それは無いでしょう。彼らが殲滅するはずだったルージ軍の主力
は、その半数以上が無傷で退きました。そして、今はアトラス殿が
率いてきた増援もございましょう。更には、ヴェスター軍も無傷で
残っております。そのような軍勢をそのまま放置するわけにはゆき
ますまい。是非とも一戦して殲滅をと望んでいるはず﹂
そんな言葉を聞きながら、アトラスはやや別のことを考えていた。
残されたルージ軍の兵力が、敵に脅威を与えているというなら、そ
の功績は兵を無事に戦場から撤退させたバラスとアゴースにある。
その二人を臆病者呼ばわりした記憶が、アトラスの心の底に罪悪感
をにじみ出させた。デルタスはアトラスそんな心も知らないまま話
し続けていた。
﹁あなた方に王の仇討ちという戦う理由があるのと同時に、彼らに
も一戦交える必要があるということです。ただし、我が国の意図を
185
盛り込めば、両勢力の間に位置するレネン国が戦場になり、荒れ果
てるのは避けたいともいえましょう﹂
デルタスの説明は明快だった。ネルギエの地で一戦するというこ
とについて、両陣営とレネン国の目論見は一致しているのである。
二人の王子の会話にサレノスが割って入った。
﹁しかし、ボルススの提案となれば、ネルギエの地に何か姦計が隠
されていて、我らをおびき寄せる算段でもしていると言うことでし
ょうか﹂
﹁それも無いと考えます。ネルギエの地は村を除けば北に人が渡る
ことを許さぬ深い川があるだけの荒れ地です。未踏死の良い地形で
伏兵を置くこともできますまい。彼らにできるとすれば、これから
戦場となる地に堅く防御陣を敷き、いくつかの前線の砦を作る程度
でしょうか。戦は敵味方が正面からぶつかることなりましょう﹂
﹁真正面から? こちらも望むところ⋮⋮﹂
衝動的に勇ましい言葉を排吐いたアトラスが口ごもった。帰国す
るという予定になっているのである。
星空に包まれた美しい庭園の中に、再び静けさがもたらされた。
その静けさの中、デルタスが微笑を消して再び語り始めた。自分が
目撃した戦の状況である。もし、幾多の人々の死を無駄にせずにす
むとしたら、イドポワ街道の出口で自分が見たことを、この場でル
ージ国を代表するアトラスとサレノスに伝えておくことだろう。ア
ガルスス率いるルージ兵が死ぬまで戦い続けたこと。戦いの後、シ
ュレーブ軍は怒りにまかせてルージ兵の死体を切り刻むように乱暴
に扱って野に晒していること。門の内側の出来事は目撃していない
が、フローイ軍兵士から伝わってきてのは彼らが、自軍の兵士の死
体と共にルージ軍兵士の死体ばかりではなく王の愛馬まで敬意を込
めて葬ったことである。
アトラスとサレノスは静かに頷いて話を聞いた。デルタスが語る
言葉は、戦いの直後に、バラスが偵察のために送り出した幾人もの
兵士が持ち帰った情報を裏付けていた。いつの間にか、明るく輝く
186
月が中天に達し、アトラスとサレノスの表情も露わに照らし始めて
いた。
意外に静かな二人の表情を確認したかのように、デルタスは意外
な申し出をした。
﹁私をルージ国で、アトラス殿の元で、お使い下さらぬか。シュレ
ーブで育った経験が役に立ちましょう﹂
あまりに意外な言葉に、アトラスとサレノスは耳を疑うように絶
句した。国と国との間に同盟を結ぶというのでは無く、小国とはい
え一国の王位継承権をもつ王子が、他国に仕えたいというのである。
そのような例は、老練なサレノスも聞いたことがない。
驚くのも当然だといわんばかりに苦笑を浮かべたデルタスがその
理由を語った。
﹁レネンに帰国すれば、私は殺されましょう﹂
187
レニグにて、王子デルタス
デルタスの意外な言葉は、驚きでサレノスに返事の言葉を失わせ
たが、様々な思いに乱れるアトラスの心には、デルタスが発した死
という言葉が突き刺さるように伝わった。アトラスは乱れるの心の
隙間を、その死という言葉のみでを埋め尽くして安定させて尋ねた。
﹁王位継承権をもつデルタス殿が、何ゆえレネン国から命を狙われ
るのです?﹂
﹁私は幼少の頃に、留学という名目でシュレーブ国に人質に出され、
シュレーブ国の都パトローサで育ちました。それ故、私自身は母国
のことはよく知らず、父は病弱で、他には私を支える有力者もおり
ませぬ。生みの母も亡くなり、今は国内で有力貴族チャラバ家頭首
レドトス殿が、妹御を私の父王の後添えに差し出し、私の弟が生ま
れています。レドトス殿は血のつながりのある甥を王位につけたい
はず。国のことも良く分からぬ私のような王位継承者など目障りで
かなわないでしょう。事実、母ユマニが亡くなった時、私はその葬
儀の為に帰国することも許されませんでした。レドトス殿が裏で手
を回したと、ジソー様より伺いました﹂
﹁それとて、デルタス殿を殺害する正当な名目にはなりえぬでしょ
う﹂
﹁今回は、私自身がフローイ国やシュレーブ国の意向を父王に伝え、
レネン国王の代理として、レネン国の医師を代表する者としてこち
らに伺いました。遠く異国の地に居た私が突然に帰国し、王の代理
として振る舞っているのはレドトス殿も面白いはずはございますま
い。ましてや、父王が病に伏し明日とも知れぬ症状となれば、間違
いなく後継者問題が出て参ります。そのときに、何の保護者も居な
い私と、国随一の有力貴族の後ろ盾がある弟を並び立てることなど
できますまい﹂
188
﹁だから、その一方を除こうとすると?﹂
﹁既に私がシュレーブ国の息がかかっているという噂が流されてお
りますよ。噂には尾ひれがつき、間もなく、私を暗殺する理由も生
まれましょう﹂
﹁では、第一王子の身分のまま、育ったシュレーブ国に戻られては
いかが? 時を見てシュレーブ国の後ろ盾を得て、王として国に戻
られては﹂
﹁シュレーブ国王ジソーは偏狭なお方。私が力を持たないからこそ、
私を今まで手厚く遇してくださいました。これからは違います。ジ
ソー王の手元を離れた私は、レネン国の人間として見られましょう。
ましてや他国の人間で、今は敵対関係にあるヴェスター国やルージ
国の人々と接触しているとなれば、王ジソーは私に疑念を抱かれる
でしょう﹂
﹁そういうものなのですか﹂
スーイン
﹁寂しい方なのですよ。以前、ちらりと呟かれたことがあります。
もともと自分は王位を継ぐ人間ではなかった。しかし、兄が神帝と
なったために、突然にシュレーブ国の王位が転がり込んだ。そんな
自分に信服する家臣は少ないと⋮⋮。それだけに人を信用なさいま
せん﹂
そんな話にアトラスはじっと聞き入っていた。
︵こういう人物なのか︶
デルタスはアトラスという青年にそんな印象を抱いた。アトラス
が必死で自分の言葉に耳を傾け、次に吐くべき自分の言葉で心を満
たしている様子がかいま見える。突然に、父親の死と敗戦の報に接
しながら、その悲しさや敵への憎しみなどの個人的な感情を押さえ
込む様子など、それをアトラスの精神の強靱さと見たのである。デ
ルタスも洞察力のある人物だが、その点についてはアトラスを見誤
っていた。
アトラス本人の立場で彼の心を読み解けば、討ち死にしたリダル
は、偉大で敬愛すべき指導者であっても、父親としての情愛を感じ
189
ることが薄かった。家族という観点で見れば、リダルはアトラスが
母のために歓心をかうべき人物だったが、父親というよりルージ国
の力強き指導者という、家族を離れた別格の存在だった。
この時までのアトラスには、愛情に不器用なリダルという人物が、
息子に向けていた愛情を感じずに居たのである。心密かに自分の未
熟さを自覚するアトラスは、偉大な指導者を失った後、父親の死の
イメージは封印したまま、悲しみより混乱と不安に苛まされていた。
かれはそんな心も見せず、目の前のデルタスの境遇を表した。
﹁やっかいなことだ。母国にも育った土地にも居場所がないとは﹂
﹁アトラス殿に仕えたいという事情、察していただけましたか﹂
そんなデルタスの言葉に頷くアトラスに、サレノスが割って入っ
た。
﹁我らも王を失って混乱しております。お返事は日を改めて﹂
デルタスの申し入れを受け入れるには、アトラスの帰国のことも
話さねばならないだろう。ただし、それを今、明かすのは避けたい。
デルタスの申し入れを即座に受けるという返事はしにくいのである。
デルタスにも、アトラスが正常な判断を下すために心を整理するに
は数日はかかるだろうと見ていた。
ともあれ、明日、アトラスは帰国の準備をし、三日にはルージへ
の帰途に着く。先に出発した使者が今回の状況を伝えつつ、アトラ
スの王位継承の準備を整えるように本国に伝える予定である。帰国
直後に王位継承の議を執り行い直ちにヴェスターに戻るのは一ヶ月
先になるだろう。
その事情は知らぬまま、デルタスは言った。
﹁明日はこのヴェスターの都レニグの美しさを堪能させていただき
ましょう。帰国は三日後に致します﹂
デルタスが語るのは、明日三日間考えて帰国までに返事をくれと
いうのである。デルタスは現れたときと同様に、静かな夜の闇に溶
けるように姿を消した。
190
レニグにて:アトラスの孤独
﹁妙な人物でありましたな﹂
サレノスが発した呟きに、アトラスの返事はなかった。つかの間
だったが、彼の心の隙間を埋めていた者が居なくなり、再び、彼の
心は荒れ狂う混乱に突入しつつあった。ただ、この青年の悲劇の一
つは、こういう時でさえ、どういう表情を浮かべるべきか分からな
いということかもしれない。心の混乱とは裏腹に、アトラスのやや
眉を顰めただけの表情には感情が感じ取れなかった。
︵やっかいなことだ︶
サレノスは心の中で眉をひそめる思いだった。アトランティスの
大地は、これから戦で大いに荒れるだろう。そのときにルージ国を
率いるのは、アトランティスどころかルージ一国の行く末すらおぼ
つかぬこの青年アトラスである。この時、サレノスがロユラスのこ
とを考えないわけでは無かったが、その意図は心に秘めて表には出
さなかった。
﹁では、私は一足先に陣に戻り、兵どもに陣替えの準備をさせてお
きましょう。我らが王子は、ルージご帰還に備えてお休みなされま
せ﹂
サレノスはそう言い残して夜の闇に姿を消した。イドポワ街道か
ら戻ってきた残兵と、レニグ郊外に陣を張る第二陣を、まとめて東
へ向ける準備をせねばならないというのである。ただし、それは名
目上のこと。敗戦やリダル王戦死の報は、兵士たちにも伝わって広
がっているだろう。その士気の低下をできるだけ防ぐ手だてを講じ
ねばならない。アトラスはサレノスの言葉の隠れたそんな意図を察
する知恵は持っていた。ただ、どうすれば兵士たちの士気低下を防
ぐことができるのか。そんな経験は持ってはいない。アトラスは月
に照らされる庭園に一人取り残されていた。普段ならアトラスを支
191
えるべきオウガヌら近習たちは、何かと理由をつけて郊外の陣に引
き払ってしまっている。
敗戦の報や父の死、そして突然に背負うことになった大きな責任
で混乱するアトラスの心を、議場での緊迫感とその後のデルタスと
の思いもかけない月下の会見が、アトラスの外見の平常をもたらし
ていた。しかし、たった一人になってみると、アトラス自身が律し
てきた己の心の枠組みが、一つづつ外れて心に隙間が生じ、その隙
間で荒れ狂う様々な怒りや不安が収まらない。
明日は帰国の途につかねばならないと己の義務を考えて、寝床に
横になってみたが、悶々として寝返りを打つのみで、目は冴えるの
みだった。妙な話だが、父を失った衝撃は悲しみより、喪失感と不
安のみ大きかった。
アトラスは眠るという無駄な努力を諦めたように起き出して、外
出のための身支度を調えた。この青年は衝動的と言っていいほど決
断が早い。ただ、人々が彼を眺めて、何処へ向かおうとするのかを
判断するのは難しい。
192
レニグにて:アトラスの孤独︵後書き︶
次回、アトラスは思いもかけぬ場所に姿を見せることになります。
次回更新は日曜になる予定です。来年も変わらず、アトラスを見守
ってやってくださいね
193
レニグにて:近習たちの夜
同じ頃、レニグの都の郊外に陣を張って駐屯する第二陣のルージ
軍の天幕の一つに、オウガヌらアトラスの近習たちが居た。アトラ
スに口にした理由は様々だが、それぞれがこの陣に用を見いだした
と称して、アトラスの身辺を離れてここに集っているのである。
﹁それにしても、我らが王子のあの言葉は、何とも嘆かわしく、腹
立たしい﹂
オウガヌが何度繰り返したか分からない言葉を、腹立ちが収まら
ぬまま繰り返した。言うまでもなく、アトラスが敗残兵を連帰った
バラスとアゴースに放った、臆病者という失言のことである。オウ
ガヌはとりわけバラスの息子のラヌガンと仲が良い。そのラヌガン
が悔し涙を浮かべてアトラスに反駁した姿が焼き付いているのであ
る。テウススやスタラススも思いは同じだった。しかし、やや冷静
になってみると、王子から距離を置いてしまったことに罪悪感もわ
く。
﹁もどった方がよいのでは﹂
スタラススの言葉を全て聞きもせず、その結論を否定するように
オウガヌが尋ねた。
﹁どこへだ?﹂
﹁むろん、我らが王子の元へ。我らは近習となるときに、王子への
変わらぬ忠誠を誓ったはず﹂
﹁忠誠だと。忠誠は王たる者の資格にこそ捧げるもの。その資格を
持つ我らが王リダル様は既にこの世に亡く、その息子の才覚は父に
遠く及ばぬ﹂
﹁オウガヌよ、言い過ぎだ﹂
テウススの非難に、オウガヌ自身がそれを自覚していたらしく口
ごもったが、突然に視線を転じて話題を変えた。
194
﹁おおっ。犬が残飯でも漁っているのかと思うたわ﹂
天幕の入り口にちらりと姿を見せた人物に、オウガヌはそんな言
葉を投げかけたのである。スタラススとテウススは振り返ってその
人物を記憶の中に辿った。下級兵士というイメージがあって、ゴル
ススという名は記憶していない。ただ、サレノスの傍らに侍ってい
る青年だと、その顔を覚えていた。下級兵士の持つ槍を小脇に携え、
闇の中で律儀に見回りをしていたのだろう。それもまた、下級兵士
の重要な仕事の一つだった。ただ、彼が身につける衣服や甲冑は身
分にふさわしくなく、貴族が身につける物に近い。
ゴルススはオウガヌの侮辱の言葉を当然のことのように受け入れ
た。
﹁俺が犬に見えるというなら、その通りだろうよ。俺にはサレノス
様という仕えるにふさわしい主人が居る﹂
話の内容は謙虚だが、下級兵士が貴族に示すべき敬意は感じられ
ず、オウガヌは苛立ちを深めた。
﹁サレノスだと? 老いぼれの主人は見限って新たな飼い主を見つ
けた方が良さそうだな﹂
そんなサレノスへの侮辱の言葉に、自分に対する侮辱には顔色を
変えなかったゴルススが苛立ちを隠さずに言い返した。
﹁しかし、お前たちはどうだ? 飼い主も持たぬ野良犬に見えるぞ﹂
﹁この下賤の者が、我ら貴族に何を言うか﹂
﹁ほぉ。私のような下賤の者が主を持ち、貴族が主もなく吠えまく
る野良犬とは、不可解なことだな﹂
﹁野良犬だと﹂
﹁忠誠心を失って、主人の下から逃げ出した犬など、ただの野良犬
にも劣るだろうよ﹂
オウガヌはアトラスの元を離れたという彼らの会話を、ゴルスス
に聞かれていたことを知った。ゴルススも盗み聞きをしていたわけ
では無かろう。静まりかえった夜半に、陣の中を見回っていたら興
奮した会話が聞こえてきた。騒ぐ者どもを確認しようとやって来て
195
この状況に陥ったと言うことである。
反論の言葉もなく、オウガヌはこの無礼者を切って捨てようとい
う衝動に駆られて剣の束に手をかけた。その時、新たな声が響いた。
﹁愚か者がっ﹂
サレノスだった。一瞬、近習たちはサレノスが貴族に無礼に言葉
を吐いた部下を怒鳴ったのかと思ったがそうではない。彼の視線は
言葉と共に近習たちに向けられていた。サレノスは静かに言った。
﹁儂は、我らが王子に詫びねばならぬ﹂
意外な言葉に近習たちは首を傾げたが、サレノスは直ぐにこの理
由を続けた。
﹁お前たちが、儂の側をうろついておるのは、我らが王子が、姑息
にもお前たちに儂の身辺を探らせているのだと思うていた。しかし、
そうではなかったらしい﹂
サレノスはここで言葉を荒げ怒鳴るように言い放った。
﹁今この時、王子を支えるのがお前たちの役割。それを放棄すると
は何事かっ。我らが王リダルがご健在なら、前たちの命はなかった
ものと考えよ﹂
その言葉にオウガヌが反駁した。
﹁サレノス殿。暴言が過ぎよう。我が父ストパイロはそなたと同格。
いや、我がファスヌ家の家柄は、そなたの家柄より尊かろう﹂
オウガヌは、先ほどはサレノスに仕えるゴルススを犬とあざ笑い、
今はサレノスの血筋が自分に劣るというのである。ファヌス家を数
代前に遡れば、彼の祖先は、王家の姫を嫁に迎えた実績がある。そ
の王家の血筋の僅かな濃さを誇るのである。オウガヌは決して無能
な若者ではなく、王家に対する忠誠心も厚いが、その根拠は王家の
血筋が全てで、彼は自分の血筋の良さを鼻にかけることがある。
﹁それでは、この剣で、儂がそなたらの首をもらい受け、我らが王
子にお届けもうそうか﹂
サレノスが腰の剣を掲げて見せた。第二陣を監督せよとの指図と
共に王から託された剣である。束にアクアマリンがはめ込まれた、
196
紛れもない王家の品である。しかし、興奮したオウガヌはそれをあ
ざ笑った。
﹁我らが王子の才覚がリダル様に遙かに及ばぬのと同様に、そんな
剣など所詮は模造品。リダル様の持ち物に及ばぬ﹂
﹁まだ言うかっ﹂
静かな声音だった、それだけにサレノスが僅かに抜いて鞘から覗
いた白刃に、灯明の明かりが反射して冷たくぞっとする迫力があっ
た。サレノスとオウガヌのやりとりを見守るしかなかった近習たち
の表情が、意外な展開への驚きに変わった。オウガヌ自身もレノス
の肩越しに見えた人物に驚きを見せた。
思いもかけず話題の主が姿を現したのである。アトラスは静かに
言った。
﹁オウガヌの言うとおりだ。私の才覚はとうてい父には及ばぬ。私
は冷静さを欠き、思慮に浅いところがある﹂
今まで当事者の一方だったサレノスとゴルススは、仕える主に返
す言葉も持たなず黙りこくる近習たちを眺めた。アトラスも無言で
近習たちを眺めていたが、振り返ったサレノスに視線を移して言っ
た。
﹁サレノスよ。この者たちは、今まで愚かな私を支えてくれた良い
近習たちだ﹂
アトラスはサレノスにオウガヌたちを許せと語っている。サレノ
スはそれを悟って白刃を鞘に収めた。アトラスはそのまま皆に背を
向けた。
﹁我らが王子よ。何処へ﹂
スタラススがようやく言葉を発し、アトラスが短く答えた。
﹁バラスとアゴースの陣へ﹂
アトラスは、第一陣に加わって兵を撤退させてきた者たちの所へ
行くというのである。王子の背を追ったスタラススの声が響いてき
た。
﹁何をなされます?﹂
197
﹁臆病者だと罵ったこと、バラスとアゴース、そしてバラスの息子
ラヌガンにも詫びねばならぬ﹂
﹁では、このスタラススも共に参ります﹂
﹁良い。一人で行く﹂
﹁しかし⋮⋮﹂
﹁くどいぞ﹂
アトラスを載せた愛馬アレスケイアのひずめの音が遠ざかってい
った。
スタラススが戸惑い肩を落として天幕に戻ってきた。テウススが
言った。
﹁追いかけぬのか?﹂
﹁しかし、我らが王子がついて来るなと⋮⋮﹂
そのスタラススをサレノスは怒鳴った。
﹁馬鹿者め。我らが王子の元を離れる時には、勝手な理屈をつけお
ったくせに。今は王子を追うのと、追わぬのと、どちらが忠誠か。
儂はもう何も言わぬ。お前たちがそのおろか者の頭で考えよ﹂
その言葉に、スタラススとテウススが顔を見合わせ、次の瞬間に
駆けだして行った。
﹁お前は、野良犬のままか?﹂
取り残されてたたずむオウガヌは、そんなゴルススの侮辱の言葉
に、一瞬怒りの表情を見せたが、直ぐに後悔の表情に変えた。もち
ろん、アトラスの能力を父に及ばないと言い放ったことを思い起こ
してのことである。ゴルススは言葉を継いだ。
﹁王子の言葉が失言だったのなら、お前の言葉も本心ではあるまい、
感情に走り、口が滑っただけだろう。犬なら犬らしく主人のやり方
を学べ﹂
ゴルススはオウガヌに自分の失言の非を認めよというのである。
サレノスはその皮肉を込めたアドバイスを支持しながらも、ゴルス
スの物言いに苦笑したくなる。オウガヌが血筋によって他者に不遜
な態度とるのだが、このゴルススもまた高貴な血筋などまるで気に
198
かけぬ、貴族を犬呼ばわりする不遜さを持っている。ただ、このオ
ウガヌという誇りのみ高い若者はもう一押ししてやらねば動き出す
きっかけがつかめぬだろう。そう考えたサレノスはオウガヌに短く
言った。
﹁行けっ﹂
オウガヌは戸惑いと怒りの視線をゴルススとサレノスにちらりと
向けた後、天幕から走り出ていった。
サレノスは天幕の入り口で、闇にとけ込む彼の背を眺めた後、空
に視線を移した。雲一つ無い空に無数の星が輝いていた。気づけば、
ゴルススも傍らで同じ空を見上げている。サレノスはぽつりと言っ
た。
﹁ゴルススよ。お前はまだ儂を父と呼ばぬか﹂
サレノスの言葉に、ゴルススは少し間をおいて頭を下げた。
﹁畏れ多いことを。私は農夫の倅のゴルススにて﹂
﹁ややこしい、父と子だのぉ﹂
サレノスはそんな言葉をため息とともに吐き出した。父と息子の
関係を考えながら、王リダルのことをその息子アトラスに語って聞
かせてやらねばならないだろうと考えていた。しかし、それもアト
ラスが帰国し、王位に就いて戻ってきてから。一月以上は先だろう。
この夜、サレノスもアトラスの帰国が中止になるとは想像もできず
シリャード
にいた。
聖都からの使者がやってくるのは明くる日のことである。
199
六神司院︵ロゲル・スリン︶の使者
明くる朝、アトラスはベッドで飛び起き、冷や汗が額から頬に流
れ落ちるのを感じた。しかし、夜半、どんな悪夢にうなされ続けた
のかは覚えていない。目覚めの瞬間に、心の中が帰国の不安で満た
されたのである。王位を継承するために帰国する。ただ、国の人々
は王リダルの戦死とルージ軍の敗戦にどれほど混乱するだろう。同
時に父とは比較にならぬほど未熟な自分を、民は王として受け入れ
るだろうかという不安も湧く。
ルージ軍の敗北と王の戦死、既に過去の出来事がアトラスの心を
乱すばかりでなく、見通しの利かない将来に絶望に近い不安を感じ
ていた。そんなアトラスの心を更にかき乱す出来事が起きた。ヴェ
ロゲル・スリン
スター国王レイトスがアトラスの出立に延期の申し入れをしたので
ある。六神司院から使者が来るという。
アトランティスでは貴人の訪問の前に、先触れの使者を出してそ
ロゲル・スリン
ロ
の訪問を告げる。先触れの使者が都レニグに到着し、今日の昼に、
ゲル・スリン
六神司院の正使が、王レイトスに面会を求めるというのである。六
神司院正使が何を告げに来るのかは不明だが、その内容はアトラス
も帰国前に知っておく必要があるだろう。王レイトスの申し入れは
そう言う配慮である。
200
六神司院の使者2
正使を王宮に迎えたのは正午のことである。ただ、旅で汚れた衣
装を改めると称して、正使に与えられた部屋に籠もった後、様々に
思惑が乱れる人々の前に姿を表したのは、陽が中天から傾く頃だっ
た。一介の正使だが、王を待たせることを意に介しない横暴な意識
がにじみ出していた。
シリャード
スーイン
王の間に姿を見せた正使を王レイトスは玉座から降りて使者を迎
えた。使者とはいえ、聖都の神帝からの使いは、王の身分を上回る
地位を約束されているのである。
王レイトスと同じ血筋を持つとはいえ、他国のアトラスは席を外
し、隣接する部屋にいた。王レイトスと使者のやりとりは、盗み聞
ロゲル
きをせずともこの部屋にも漏れ聞こえてくる。レイトスはそう言う
配慮をしてアトラスとサレノスにこの部屋を与えたのである。
・スリン
正使は他者を見下し威張ることに慣れた人物である。ただ、六神
司院という背後に控える権力者を背景にせねばならず、自身にはそ
スーイン
の実力がないことを自覚していて、どこかおとおどする小心者の本
質がにじみ出していた。正使はそれが神帝の使いだと言うことを示
す紫色の包みを解いて、中の樹皮に記した文言を掲げて見せた。
スーイン
﹁ヴェスター国王レイトスよ。神々に列席し、この世で侵すべから
ざる神帝の使者として申し渡す。とくと聞きめされい﹂
スーイン
﹁聞かせていただこう﹂
スーイン
﹁去るマーゴの月。神帝が暗殺された﹂
ロゲル・スリン
スーイン
シリャード
﹁暗殺ですと? 神帝は重病とお聞きして心を痛めておったところ。
ロゲル・スリン
スーイン
六神司院は神帝の病回復の為と称して聖都を封鎖していたはずだが﹂
スーイン
﹁それは誤りである。我ら六神司院は、神帝の喪に伏すと同時に、
シリャード
神帝暗殺の陰謀を暴くのがその理由である。﹂
﹁聖都の我が館の者どもはいかがか? まるで連絡がつかぬ﹂
201
スーイン
﹁貴国の館に、神帝暗殺の詮議に赴いたところ、歯向かいおったの
シリャード
で、我が僧兵団が鎮圧した﹂
スーイン
シリャード
各国の王が聖都に集い、議会が開かれる間、国王たちが寝泊まり
する私邸がある。神帝を護衛する数百の僧兵を除けば、各国が聖都
に兵を進駐させる事はできない決まりで、会議が行われていない期
間は、各国の王の私邸には僅かな留守居役が居るのみである。
﹁僧兵が鎮圧とは?﹂
﹁古よりの習わしで、反逆者どもは死罪と決まっておる﹂
使者が言うのは、僧兵たちがヴェスター国王の私邸で数十名の留
守居役を殺害したと言うことである。
﹁我が国が、暗殺の陰謀に荷担したと?﹂
スーイン
ロゲル・スリン
スーイン
そんなレイトスの疑問に答えもせず、正使は言葉を続けた。
﹁神帝の崩御後の喪が明けた。六神司院も、次の神帝を立てねばな
らぬ。しかし、その前に欠かせぬのは、このたびの暗殺の詮議であ
る﹂
﹁我が国に参って、詮議とはいかなる事か。我が国が謀反を起こし
たとでも?﹂
﹁おうっ、その通り。事実、貴国は謀反人のルージ国に荷担してお
ロゲル・スリン
るではないか。その点に付き、シリャードに出向いて、各国の王の
前で申し開きをされよ﹂
この使者の物言いは、いかに六神司院の使者とはいえ、一国の王
に対して不遜過ぎた。王レイトスが怒りを見せて反駁しようとした
時、隣室にいたアトラスが姿を見せた。
202
六神司院の使者3
﹁我が国の館の者どもは、どうした?﹂
アトラスはこの使者の顔に記憶はなかったが、使者はアトラスを
記憶していたらしい。そして、ルージ国の王子がこの国にいること
スーイン
も察していたように、驚きも隠さず言った。
﹁おおっ、父を失った哀れな子狼よ。神帝暗殺の犯人が留守居役を
スーイン
務める館など、真っ先に詮議の対象になった﹂
﹁神帝暗殺の犯人だと﹂
そのアトラスの言葉に、正使は従者に持たせていた布の包みを解
スーイン
いて掲げて見せた。
﹁見なされい。神帝を暗殺した犯人が帯びていた剣である﹂
正使が掲げた短剣の束にアクアマリンがはめ込まれ、青い輝きを
放っていた。紛れもなくルージ国王家を示す品である。正使は言葉
を継いだ。
ロゲル・スリン
﹁これでも未だ言い逃れをするおつもりか!﹂
スーイン
﹁六神司院よ、謀りおったな。これは我が王が家臣ザイラスに与え
たもの﹂
﹁そう、ザイラスとか申したな。その暗殺者がこの剣で神帝の命を
うばいおった﹂
﹁暗殺だと。そのザイラス自身から状況を聞きたいものだ。ザイラ
スはどうした﹂
﹁反逆者は斬首され、その首は塩漬けにされて、反逆の証拠として
ロゲル・スリン
既にルージ国に届いておるわ﹂
﹁六神司院が、ザイラスを殺したというか﹂
﹁薄汚い暗殺者の末路などそうでなくてはならぬわ﹂
アトラスと正使の会話が熱くなる中、王レイトスが疑念を呈した。
﹁それは異な事を。王の身分でも、神官でもない者が、いかにして
203
スーイン
神帝に謁見できるというのか﹂
スーイン
去るアトランティス議会で、アトラスが神帝と謁見した。アトラ
スーイン
スはルージ国王子という身分だが、それですら、フローイ国王の推
スーイン
挙を得た特別な例に過ぎない。ましてや、ただの家臣が神帝に直接
に謁見を賜るなどあり得ないのである。そして神帝の周辺には常に
護衛の僧兵が控えており、近づくことすらできないはずだ。更に、
スーイン
例えどのような身分の者とて、剣を帯びたまま謁見が許可されるこ
とはない。
スーイン
ルージ国の一家臣が、神帝に接近し、その身を害するなどあり得
スーイン
ないことなのである。ルージ国の家臣が神帝を暗殺したという使者
の話は、受け入れがたい矛盾に満ちていた。
﹁王レイトスの申すこと、ごもっとも。ザイラスが神帝を害するこ
スーイン
スーイン
となどあり得ようか。まして、ザイラスは我が家中でも厚い忠誠で
知られた男﹂
﹁厚い忠誠ですと。熱い忠誠を持つ男が神帝を殺める。では、神帝
の暗殺者の意志は、ルージ国の意志でもあると?﹂
正使の言葉は口が達者という点では、生来無口なアトラスを圧倒
した。アトラスに理があるはずだが、正使はそれを逆手にとってル
ージの謀反に結びつけるのである。アトラスは苛立ち剣の束に手を
かけた。正使はその行為を咎めて言った。
﹁おぅっ、私を殺めなさるつもりか。その見苦しさも反逆者リダル
のお血筋か?﹂
﹁我が王を侮辱するかっ﹂
﹁この六神司院の使者、斬れるものなら、斬ってみるが良かろう﹂
父を失い、今また兄とも慕う近習ザイラスを六神司院に謀殺され
たことを知った若者の心情を考えれば、正使のこの言葉は軽率だっ
た。
﹁では、望みとおりに﹂
アトラスはそう言い終わらぬうちに腰の剣を抜き、水平に振るっ
て使者の首を落とした。悲鳴を上げる間もなく使者の首が床を転が
204
り、アトラスは残された体の首の切り口から飛び散った血潮を浴び
た。自分の行いの結果に、アトラスは冷や水を浴びせかけられたよ
うに冷静になり、王レイトスを振り返った。レイトスはアトラスが
謝罪の言葉を発する前にアトラスに声をかけた。
﹁痛快ではある。しかし⋮⋮﹂
衝動的であったとはいえ、横柄な態度が鼻をつく使者を切って捨
てたというのを、咎める気はない。あの不遜な態度に、レイトス自
身が考えなくもなかった。その想像の中の状況通り、正使の首と胴
体に分かれた死体をかたづけ、突然に主人を失ってあわてふためく
シリャード
正使の従者二人を部屋に押し込めるよう兵に命じた。いずれ、首な
し死体はあの従者に聖都まで持ち帰らせればよいと考えていた。王
レイトスは言葉を継いだ。
﹁やっかいなことにもなった﹂
その言葉が、自分が衝動的に正使を殺害したことかと、アトラス
ロゲル・スリン
は恐縮したが、続くレイトスの言葉はそうではなかった。
﹁六神司院の使者は、既に各国に出向いておろう﹂
王レイトスの言葉に、サレノスが賛同した。
ロゲル・スリン
﹁おそらくは、あの正使と同じ事を、各国の王どもに告げているで
しょう﹂
﹁我々は六神司院によって、反逆者に仕立て上げられたと言うこと
だ﹂
﹁我らからも各国に使いを出せばよろしいのでは。あの程度の陳腐
ロゲル・スリン
な口上を各国が信じるとは思えませぬ。我らに義があることを説け
ば、各国も納得しましょう﹂
アトラスが言うのは正論である。六神司院の使者の口上に、王レ
スーイン
イトスがすぐさま疑念を抱いたように、家来の一人が神殿の奥に侵
スーイン
入し神帝を殺めるなどできることではない。第一、アトランティス
解放のために兵を挙げると宣言したルージ国に神帝を殺める動機は
ないのである。
205
アトラスの言葉に、王レイトスとサレノスが顔を見合わせたが、
この時は王レイトスが若く純粋なアトラスの説明役を買って出た。
ロゲル・スリン
はな
﹁国は利によって動く。よいか、アトラス殿。シュレーブ国とフロ
ロゲル・スリン
ーイ国でさえ、六神司院の言い分など端から信じては居るまい。た
だ、六神司院の宣司によって、奴らは我々を滅ぼす口実を得た﹂
﹁シュレーブ国とフローイ国は、アトランティスを蛮族から解放す
る我らの敵に回ったというのですか。自国の利のために?﹂
﹁そうだ。そして今、事実には尾ひれがつけられ、ルージ国が初戦
で大敗した、リダル王が戦死したという事が広く喧伝されているは
ずだ。その状況で、成り行きを見守っている他国はどちらにつくと
?﹂
﹁我らの敵側に?﹂
ロゲル・スリン
﹁その通り。ここはシュレーブと一戦交え、シュレーブ国とシュレ
ーブ国をあやつる六神司院にルミリアの加護はないことを示さねば
ならぬ﹂
王レイトスの言葉にサレノスが頷いて同意した。
﹁まずは一戦あるのみですな﹂
﹁勝つ見込みは?﹂
﹁なければ作りましょう﹂
サレノスはそう言い、アトラスに向き直って言った。
﹁デルタス殿の言葉通りなら、次の戦で我らが相まみえるのは、増
援を受けたシュレーブ軍が五千、フローイ軍が二千あまりかと。そ
れなら、今の我々にも見込みがありましょう。ただし、ここに他国
の軍が加われば⋮⋮﹂
﹁我々が不利になると﹂
﹁我らが王子には、まず敵を討ったのち帰国していただくのがよろ
しいかと﹂
アトラスが帰国と王位継承の儀式は、とりあえず日延べし、まず
現状の兵力で一戦せねばならない。それについてアトラスに異存は
ない。しかし、彼は気がかりな人物の名を口にした。
206
﹁では、デルタス殿のことは﹂
レイトスはアトラスの言葉に答えず、笑顔に少し眉を顰め、肉親
に語りかける優しさで話題を変えて言った。
﹁おおっ、すまぬな王子よ、そなたの姿に気づかなんだ。あの畜生
めの血が臭いおる。まずは血で汚れた御身を洗い、衣服を改めてま
いれ﹂
レイトスは傍らに控えていた侍従に顎をしゃくって合図し、血ま
みれの王子のために風呂と替わりの衣服を準備しろと合図をした。
アトラスも改めて自分の姿を眺め回して、この凄惨な姿が、他国の
王の前で不敬に当たるのではないかと悟ったらしい。何も言わずに
侍従に導かれて王の間から姿を消した。
レイトスはサレノスに目配せをして、この間に留まるように伝え、
別の侍従に命じた。
﹁デルタス殿をお連れ申せ﹂
この時、サレノスは察した。昨夜の庭園でのこと。静かに月光が
降り注ぐのみの闇の中である。木々の影に一人、忍ばせておけば、
庭園での会話など聞き取れただろう。この王はデルタスがアトラス
に仕えたいと言ったことと、その意図を知っているのである。
アトラスを体良くこの場から下がらせたのは、これからデルタス
と話す内容を聞かせたくはないと言うことである。
サレノスには、サレノス王の意図をそれ以上のことを察すること
はできなかったが、レイトス王の決意を秘めた表情から、ただなら
ぬ事を言い出すに違いなかった。
衣類を改めて、アトラスが王の間に戻った時には、王の間に控え
ていた兵士や重臣は姿を消しており、王レイトスの傍らに控えるサ
レノスと、ややうつむき加減に考え込むデルタスの姿が見えた。王
レイトスがアトラスが戻ったことに気づいて声をかけた。
﹁おおっ、アトラスよ。たった今、デルタス殿との相談も成った。
我らは、明日の昼に出陣する。今回は儂が先陣を努め、デルタス殿
207
には我が陣に加わって頂いてご案内を願う﹂
本来なら自分が不在の間に、出陣という重要なことを決めたのか
と腹立たしくも感じるかも知れないが、この時のアトラスは、王デ
ルタスの先陣という言葉に惑わされた。
﹁私に父の敵を討たせてください。先陣は是非、この私に﹂
﹁焦るではない。レネン国を通過するまでのこと。それから先、先
陣はルージ国に譲る故、ネルギエでは大暴れをしてみせるがよい﹂
ヴェスターとルージ軍は戦のために隣国レネンを通過する。その
時のみヴェスター軍が先導するというのである。先陣を任せるとい
うのならアトラスに異存はないらしい。
デルタスはそんなアトラスを眺めているようだったが、心に隠し
た感情が悲しみや戸惑いの表情になって移り変わっていた。
アトラスは手にした短剣を固く握りしめた。元は父のもの、今は
信頼する近習の形見となったものである。復讐を誓っているように
見えた。
208
チッグスとリグロス 行方不明の剣
物語の流れの上で、ここでヂッグスとリグロスの動向に触れねば
ならない。戦死前のリダル王から剣を託された二人の兵士である。
彼らはイドポワ街道の東の崖の上にいた。険しい斜面は人が上り下
りすることを許さない。ましてや、ヂッグスは腕を上げ下げするこ
とすらままならず、リグロスは右の股を縛る包帯から血を流して足
を引きずりながら歩いていた。気まぐれのように降った雨で喉の渇
きは薄れたが、全身を濡らした雨は衣服にしみ込み、山の寒さを肌
に伝えた。
ヂッグスがため息をついた。目の前に険しい尾根が立ちふさがっ
て、街道が見えるルートを離れて木々の奥深くに侵入せねばならな
い。彼らは北を目指せば都レニグがあることを知っていた。ただ、
深い森に踏み込めば、時間や方位の目印になる太陽は見えず、複雑
な尾根に地形がかき乱されて進むべき方向を見失う。
リグロスが足の痛みに耐えかねて大木の一本に背を持たれかけて
座り込んだ。戦い前の緊張で食事が喉を通らず、その後、思いもか
けずに戦いに突入した。この二日間、二人はほとんど食事を口にし
ていない。戦いの場から離れて緊張感が解けてみると、胃袋に鈍い
痛みさえ感じるほどの空腹感を味わっていた。気力を尽くしたリグ
ロスが、先を行くヂッグスに擦れた声をかけた。
﹁ヂッグスよ。もう、俺を⋮⋮﹂
ここに置いてお前一人で王の命令を果たせと言い尽くさぬ前に、
ヂッグスが彼を振り返った。足こそ達者だが腕が不自由で、リグロ
スが支えてやらねば、彼もこの険しい地形を踏破することはおぼつ
かぬだろう。リグロスはそう察した。ヂッグスが荒い息を整えなが
ら擦れた言葉を吐き出した。
﹁どうした? リグロス﹂
209
﹁いいや、少し疲れただけだ﹂
リグロスは再び立ち上がって歩き始めた。
﹁おいっ、これは﹂
ニクスス
ヂッグスがやや自由が利く方の手で地面を指さした。焚き火の跡
である。
﹁おおっ、運命の神のお導きか。ありがたい﹂
リグロスが運命の神の名を挙げて、彼らの救いの象徴となる焚き
火の跡を眺めた。小さな焚き火の跡だが灰が厚く、ここに数日逗留
した者が居るということだった。猟師ならこの地に逗留することは
あるまい。そして太い木の枝が芯まできれいに燃えて灰になってい
た。普段から木を扱い慣れた者たちの焚き火である。おそらく、こ
の地で神殿か何かを建設するために切り出す巨木を探し求めたのだ
ろう。
おそらく、近くに伐採の跡があり、切り出した大木を運び出すた
めに切り開かれたルートがあるはずだった。そして、そのルートは
麓の村に続いているはずだ。果たして、二人はその斜面を見つけた。
木々が伐採されて視界が広がっていた。兵として国を出る前は、彼
らは貧しい木こりだった。その出自がこの二人を救った。
二人がたどり着いた麓の村では、手厚くもてなされ、傷の手当て
も受けた。ただ、得体の知れない二人に、好奇の目ばかりではなく、
不審者を眺める疑惑も混じっている。ルージ国の兵士だと言うが、
二人は重い甲冑は脱ぎ捨ててしまっていて、ルージ軍兵士だと言う
身分を示すものがなかった。そして、二人が持っていた一振りの剣
は一兵士が持つには贅沢すぎる品である。村人から連絡を受けた役
人が、近くの町から二人の身柄を確保するために訪れたが、その役
人ですら、剣の持つ意味の重要さに、二人の処遇を決めかねた。都
レニグに出した使いから、二人を都に送り届けよと言う命令が届い
たのは数日を経てからである。
剣をアワガン村のロユラスという者にと託されたが、今の二人に
210
は海を越えて帰国する手段はなく、ヴェスターの者たちに身を任せ
るしかなかった。
211
レネン国にて1
いよいよ、ルージ国とヴェスター国は、軍を隣国レネンとの国境
へと勧めた。物資の輸送部隊やそれを護衛する補助的な兵力も含め
れば総勢五千五百を超える。先陣を切るのはヴェスター王レイトス
が率いる部隊である。隣国レネンと交渉ごとが起きた時、王が先陣
にいるのが都合が良いという理由である。レニグ国王子デルタスも
その一行の中にいた。その他国の王との交渉という点で、ルージ軍
のサレノスはもちろん、アトラスも役不足だった。国境の手前で一
夜を過ごした両軍は、早朝に国境を越えた。
本来、国境を守備すべきレニグ国の部隊はおらず、デルタスが語
ったとおり、レネン国はヴェスターとルージ国の部隊の通過を見守
る腹づもりだと知れた。進軍の途中、村を二つ通過したが人の姿は
なく、アトラスには、村人が他国の軍とのトラブルを避けてどこか
に避難しているように思えた。
街道はレッタルの町で南へ折れて、目的地のネルギエへとまっす
ぐに南下する。レッタルを通りすぎればネルギエまで三日の行程で
ある。この日、両軍は村や町を避け、レッタルの町の手前の草原で
簡単な柵を張り巡らした一夜陣を張った。ただの一夜の宿営地では
ない。姿を見せず、通過させる腹づもりに見えるとはいえ、レネン
国の軍の奇襲に対する備えと言えた。両軍を通過させるという王子
デルタスの言葉があったとはいえ、レネン国でのデルタスの地位は
危うい。デルタスに反感を抱く者がレネン国王の意志を翻して、レ
ネン軍に戦を命じないとは限らないのである。
戦場が近づくにつれて緊張感が高まる。さらに、初戦の敗戦と王
を失った最初の衝撃は兵士たちの心に染み入り、その心を侵して覇
気が失せていた。その中で唯一明るくはしゃぐ天幕がある。
212
﹁ええい、わくわくする。私の手柄も間近﹂
﹁いいや、オウガヌ。一番手柄は私のものだ﹂
﹁テウススもオウガヌも、我らが王子に一番手柄を譲ろうとは考え
ぬのか? 厚かましい奴らじゃ﹂
﹁スタラススよ。そう言うお前は、我らが王子の側に侍り、その手
柄を横取りするのではあるまいな﹂
アトラスの天幕には、以前のように近習たちが集い、はしゃいで
いた。ただ、はしゃぎ方に、若者らしいぎごちなさがあって、勇ま
しい言葉で生死をかけた戦の前に心を奮い立たせようとする意識が
滲んで見えた。朗らかに談笑する近習の中心で、アトラスのみ何か
思いにふけるように黙っていた。そんなアトラスにテウススが声を
かけた。
﹁我らが王子よ、戦を前に思い悩むのは、勝利を逃すこと﹂
突然に話しかけられたアトラスは、返事ではなく心に思う人物の
名を口にした。
﹁ラヌガンはどうして姿を見せぬ﹂
元アトラスの近習で、今は父と共に軍を率いている。その父親の
陣はこの天幕から僅か五百歩ほどの距離である。顔を出そうと思え
ば直ぐに出せるはずだが、陣に閉じこもったように姿を見せないの
である。
﹁ラヌガンはまだ私を恨んでいるのだろうか﹂
﹁いえ、戸惑い、心の整理がつかぬのでしょう﹂
テウススがそう言った時、天幕の入り口に人の気配がし、アトラ
スたちは一斉に注視した。しかし、姿を見せたのは期待した人物で
はなかった。アトラスはその人物に声をかけた。
﹁デルタス殿⋮⋮﹂
213
レネン国にて2
デルタスは微笑みながら天幕の中の人々を眺め回したが何も言わ
なかった。アトラスはそのデルタスの様子を察し、目配せをして近
習たちを下がらせようとした。デルタスはそれを制して静かに笑い
ながらアトラスを散歩に誘った。
﹁アトラス殿、しばらく二人で、消えゆく月でも眺めながら語りま
せぬか﹂
デルタスの言葉に、アトラスは近習に手を振ってついてくるなと
指示し、デルタスについて天幕の外に出て空を見上げれば、デルタ
スとの初対面の日の満月は今はその一部が欠け始めていた。空を見
上げるアトラスの姿に、デルタスはふっと素直な笑いを漏らした。
﹁何か?﹂
笑いの理由を問うアトラスに、デルタスは視線を背後に向けた。
天幕の入り口からは三人の近習が顔を見せ、留まれと命じたにもか
かわらずついて来る気満々の様子である。
﹁スタラスス、オウガヌ、テウスス!﹂
アトラスはその名を喚んで命令に従えと念を押した。
﹁忠実な方々だ。アトラス殿の身辺が心配なのですよ﹂
デルタスは陣の中に置かれた荷の一つに腰をかけ、アトラスにも
座るように促しながらそう言った。
﹁身辺が心配?﹂
﹁私がその辺りの闇に刺客を忍ばせ、アトラス殿を誘い出せば、ア
トラス殿のお命一つでこのルージ軍とヴェスター軍は瓦解いたしま
しょう﹂
﹁そういうものか⋮⋮﹂
刺客をという物騒な話題に素直に頷くアトラスを愛でるように、
デルタスは朗らかに笑った。ただ、明日の出立の準備に慌ただしい
214
陣の中では、デルタスの笑い声もかき消され、二人の会話に耳を挟
む者も居ない。意外にも、たった二人で会話をするには丁度良い。
﹁やはり、アトラス殿は、見込み通りの、正直で包容力のあるお方﹂
﹁かいかぶられては困る。私は我らが王の死に心が乱れて収まらぬ。
家臣の者どもにまで酷い醜態を晒している﹂
﹁お父上を、我らが王と?﹂
シリャード
デルタスがそう言うのは、肉親を父という言葉でなく肩書きで呼
ぶのかという疑問である。アトラスはやや考えて答えた。
﹁そう呼ぶのが、ルージの習わしです﹂
デルタスは語り始めた。
﹁私が父と呼ぶべき方は、アトランティス議会の折りに、聖都で数
日を共に過ごすだけ。特別な感情はわかず義務的な会話をするのみ。
レネン国王としての父親に対する愛情が薄いと言われても仕方があ
りませぬ。家族というものが良く理解できませんでした﹂
デルタスの言葉に、アトラスは境遇こそ違え、父に対する同じ思
い感じ取った。デルタスは静かに言葉を続けた。
﹁私が初めて家族というものを意識させたのは、先日、十二年ぶり
に帰国した折、私を出迎えた幼いレンスでした﹂
﹁レンス?﹂
﹁ユマニ王妃の息子です﹂
その表現で、アトラスはレンスという子どもが、デルタスの腹違
いの弟だと悟った。デルタスは、その弟に他の人物には感じない家
族を感じたと言うことである。
﹁レンスは私を兄さまと呼び、シュレーブでの話をねだり続けまし
た。私のつたない経験を目を輝かせながら聞いてくれましたよ。本
当に心が安らぐ時間でした﹂
もともと口数は多くないタチだろうが、そのデルタスが、幼い弟
が自分のお気に入りの玩具を兄に与え、兄が好むと聞いた草花を自
らからたおって兄の元へ届けてというような些細な出来事まで、楽
しげに事細かく話した。ただ、その目にどこか寂しげな不安が漂っ
215
ている。
﹁そのレンス殿がいかがされたのですか?﹂
﹁いえ。何も⋮⋮﹂
﹁では、何かレンス殿の体調に不安でも?﹂
アトラスが重ねた問いに、デルタスは話題をそらすように立ち上
がった。
﹁長居をしすぎたようだ。今夜はこれでおいとまいたしましょう。
無駄な話をお聞かせしてしまいました﹂
デルタスの目は微笑んではいるが、口元は固く結ばれて、何かの
決意を秘めているようだった。デルタスが現れた時、アトラスは新
たな密談かと考えたがそうではなかった。ただ家族の話をしただけ
である。
︵弟のことを語っておきたい︶
そういうデルタスの思いを受け止める者は、アトラス以外にいな
かったということである。
明くる日の昼過ぎ、行軍の先頭をゆく王レイトスは、王子デルタ
スを護衛して都へ送り届けると称して、百名ばかりの兵士を連れて
本隊を離れ、本隊は王に代わってメノトルとロイテル、戦に熟練し
た二人のヴェスター軍領主が率いた。明くる日、サレノスとアトラ
スが先頭にルージ軍を率い、ヴェスター軍はその後に続いた。
216
レネン国にて3 アトラス初陣へ
レネン国を通過し始めて五日。ルージ軍がこの日の宿営地と決め
たのは、ネルギエの地まであと三日という距離の荒れ地である。陣
は緊張感に満ちていたが、そこに混じる不安と動揺は日を追って大
きくなるようだった。何しろ初戦で敗退しただけではなく、王を失
スーイン
っているのである。卑劣なだまし討ちで殺された王の仇を討つのだ
という士気を鼓舞する声も失われつつある。そして、神帝殺害に関
与したという噂まで密かに広がり、兵の士気は低下する一方である。
その陣の中で、サレノスが明日の戦いの準備を指示して回っている
声が響いていた。
アトラスの天幕では近習たちが、無力ながら少しでも士気を煽ろ
うとしているように
浮かれ騒いでいた。天幕の外から聞こえるサレノスの声に、テウス
スが不満を漏らした。
﹁まだ三日はあるというに、あのジジイは何を急いておるのか﹂
オウガヌがテウススに同調した。
﹁大方、臆病風にでも吹かれて兵を鼓舞して居らぬと不安でかなわ
ぬのだろうよ﹂
まだ幼きスタラススは別の疑問を口にした。
﹁それよりも、レイトス王の部隊はまだか、何をしておるのだろう﹂
﹁おい、スタラススよ。顔が赤いぞ。まさか水割りワインで酔って
居るのではあるまいな﹂
﹁水ごときで何を言う。なんなら、ワインを一壺飲み干してみせる
わ﹂
彼らが飲んでいるのは、水に少しのワインを混ぜて香りづけをし
た水である。テウススはまだ幼さが残るスタラススをからかい、ス
タラススがムキになって応じるといういつもの光景である。
217
﹁おくつろぎの中、失礼つかまつる﹂
そう声をかけて姿を見せたのは、サレノスを筆頭に、アゴース、
バラス、ユキロットら、ルージ軍でそれぞれが数百の兵を率いる領
主たちと、王サレノスからヴェスター軍の指揮を任されたロイテル
ら将軍たちである。
サレノスが思いもかけないことを言った。
﹁我らが王子よ、明日、シュレーブと一戦交える所存です。我らが
王子ご自身の出馬も願いたく参上しました﹂
﹁ネルギエの地まであと三日はかかると言うが﹂
﹁それは、奴らの本隊が陣を構える場所。その陣を守るようにいく
つかの砦を築くのが定法﹂
ロイテルの説明に、サレノスが続けた。
﹁我らは明日の夜陰に乗じてその砦を強襲し、奪いまする﹂
﹁奴らの砦を?﹂
アトラスの疑問に、サレノスはテーブルの上のカップの一つを取
り、テーブルの端に音を立てて置いた。
﹁奴らの本陣がネルギエの中央にございます﹂
置かれたカップの位置が敵の本陣だというのである。サレノスは
二つ目のカップを、最初のカップから離してテーブルの反対側の端
に置いてそのカップの意味を言った。
﹁本陣の北側前方に二百人ばかりの兵が詰める砦がございます﹂
更に三つ目のカップを中央の陣を示すカップの斜め前に置いて続
けた。
﹁そして、五十人ばかりの兵が居る二つ目の砦がその北西前方に﹂
四つ目のカップを中央の砦の斜め後方に置いた。
﹁そして、三つ目の砦は中央の砦からやや離れた南東部にあり、百
名ばかりの兵が駐屯しております﹂
三つの砦はほぼ直線上に位置して、三つ目の砦がやや離れた位置
にあるという位置関係である。
﹁私は、我らが王子と共に三百の兵を率い、夜陰に乗じて中央の砦
218
を奇襲いたします﹂
サレノスは砦を攻撃することを象徴するように、カップをひっく
り返した。無色に近い飲料だが、兵士の血を予感させ、水をワイン
はテーブルの上に広がった。アトラスがひっくり返ったカップの斜
め前のカップを指して疑問を呈した。
﹁しかし、北西部の砦の兵に背後を突かれはせぬか?﹂
﹁それは私にお任せあれ。時を同じくして、私が百の兵を率いてそ
の砦を落とします﹂
ロイテルがそう言って、アトラスが指すカップをひっくり返した。
﹁では、南東部の砦はどうか。前方の砦が攻撃を受けたとなれば加
勢に来るであろう﹂
アトラスが三つ目の砦を指さして問い、バラスが答えた。
﹁その砦はやや離れております。中央の砦が攻撃が受けたと知って
加勢に来るのに、時がかかりましょう。私が息子と共に百の兵を率
いて、我らが王子の部隊と共に進み。中央の砦の戦いには加わらず
に前進する予定﹂
熟練した武将たちが三百、百という兵の数を主張する。その点に
ついてアトラスが素朴な疑問を呈した。
﹁我々の兵は両軍合わせれば五千五百にはなろう。その内のたった
五百で勝てると﹂
テツリス
サレノスが結論を言った。
パトロエ
﹁審判の神の槍にかけて。今の五千五百の兵は精兵五百と同じ事﹂
﹁戦の女神は戦う者の意志で勝者を決めるとも申します﹂
バラスがそう言い添えた。バラスにそう言われてみると、アトラ
スも今の軍勢の士気の低下と向き合わざるを得ない。戦う意志を失
った兵を率いて戦う無謀さをアトラスは肌で感じていた。
﹁では、私も初陣ができるので?﹂
オウガヌが父バラスの傍らに控えていたラヌガンにちらりと目を
やって尋ねた。近習仲間だったラヌガンは父のバラスと共に戦い初
陣を経験する。親友でありライバルでもある男に引けを取ってはな
219
るかというのである。他の二人の近習も次々に声を上げた。
﹁近習として私も同行させてもらえるのですね﹂
﹁ラヌガンも、オウガヌも、テウススも初陣だというなら、このス
タラススも仲間はずれになさらぬよう﹂
近習たちの言葉をサレノスがはねつけた。
﹁お前たちは足手まといになる。この陣に控えておれ﹂
文句を言おうとする近習たちを制して、アゴースが言った。
﹁私も今回は居残りじゃ。文句はあるまい﹂
歴戦のアゴースにそう言われては若い近習たちも言葉を返しにく
い。まだ文句を言いたげなオウガヌにアゴースは笑いながら言った。
﹁それに、今回は陣にいても興味深いものが見られる﹂
﹁興味深いもの?﹂
首を傾げるスタラススに、アゴースは歯をむき出して笑ったのみ
で答えなかった。突然に初陣が決まったアトラスは戸惑い考え込ん
でいた。そんなアトラスにサレノスが語りかけた。
﹁ご心配めさるな。戦の手合いは、私にお任せあれ。今回は戦を感
じ取るだけでよろしゅかろう﹂
﹁心配だと⋮⋮﹂
アトラスにはその後の言葉が見つからない。突然聞かされた戦い
おおいくさ
に、不安を抱いているわけではなかった。ただ、三日後と予想して
いたネルギエの地での大戦の初陣に心を奪われていたが、突如とし
て、それが変更になった。自分の運命が常に誰かによって左右され、
自分自身で運命を切り開くことができないもどかしさと無力さに苛
まれて居たのである。
220
レネン国にて3 アトラス初陣へ︵後書き︶
アトラスは予想もしなかった初陣へ。次回更新は1月30日の予定
です。
221
三つの砦
明くる日も日が沈む頃、シュレーブ軍と共にネルギエの地にいる
フローイ軍の本陣に、王ボルススが不満と不機嫌な様子を隠そうと
もせず戻ってきた。ボルススの孫でフローイ国王位継承者のグライ
スにはその祖父の不機嫌さが理解できる。シュレーブ国王ジソーは、
フローイ軍に兵糧を提供すると約束したはずだが、その約束がまだ
果たされていないのである。グライスは、王ジソーの意図も理解し
ている。シュレーブ国はフローイ国の力を少しでも削いでおきたい
のである。
しかし、王ボルススの不機嫌な理由はそれだけではなかった。
﹁ジソーの阿呆めが。あんな砦など、作っても無駄だと教えてやっ
たのに﹂
王ボルススの腹立たしさの理由は、シュレーブ国王ジソーが、ボ
ルススの提案を受け入れなかったと言うことである。そんな祖父の
不満はグライスには理解しかねた。陣の北にシュレーブ軍が三つの
砦を築いていることは知ってはいたが、フローイ軍はそこへ兵を裂
いているわけではない。ただ、夜半、グライスが眠りについた頃、
衛兵に叩き起こされた。北に異変があり、王が呼んでいると。
王ボルススは陣の北の端で呟くように言った。
﹁始まりおったぞ﹂
まだ夜明けには時間があるこの闇に、北の空の地平が明るく輝い
ていた。ボルススはいよいよルージ軍が本格的に戦端を開いたこと
を知ったのである。
﹁シュレーブ軍は大丈夫でしょうか﹂
﹁大丈夫なら、砦を明け渡し兵をまとめて引き上げてくる。大丈夫
でなければ、使いをよこす間もあるまい。ジソーは砦に翻るルージ
222
の旗で味方の全滅を知ることになる﹂
﹁では、砦は奴らに奪われると?﹂
﹁目の前にあのような餌をぶら下げられて、食いつかぬ犬がいるも
のか。ましてや奴らは歴戦の勇将ぞろいぞ﹂
﹁数百ものシュレーブ兵がいる砦が、ただの餌ですか﹂
﹁シュレーブ軍が築いた三つの砦は単独で守るには兵が不足。攻め
られて加勢を求めるには砦が離れすぎて居る﹂
グライスは気になる者の名を挙げた。
﹁アトラスは、牙狼王の息子はいるのでしょうか﹂
﹁おそらくな。気になるか﹂
﹁たとえ、一時とはいえ、姉上が嫁ぐかもしれないと決まった相手
故に﹂
︵そうではあるまい︶
ボルススはそう思ったが口にせず、孫の顔を眺めた。初戦でルー
ジ国王リダルを討ち取って以来、孫の様子がおかしい。副官のロッ
トラスの手助けで得た功績に後ろめたさがあるのだろうと考えてい
た。グライスの立場で言えば少し違う。牙狼王とも言われるリダル
を討った勇者として栄誉を受けているが、自分は殺されるはずの立
場だった。リダルを殺害したのは、槍を投げたロットラスであるか
も知れず、仮にロットラスの槍が致命傷でなかったとしても、正々
堂々の勝負から逃げて、傷ついたリダルを討った野ではないかと自
分を責めているのである。王ボルススにも孫の心は読み切れてはお
らず、この後の戦の孫の行動を予測できなかった。
223
三つの砦︵後書き︶
次回更新は来週土曜日になります。王ボルススは孫が無謀な一騎打
ちを決意していることに気づいていません。物語は少しづつネルギ
エの戦いへと近づいていきます
224
近習たちの見たもの
一方、ルージ軍・ヴェスター軍の宿営地に最初の伝令が舞い戻っ
たのは、夜半をかなり過ぎてからである。
﹁お味方の大勝利。お味方の大勝利﹂
伝令はそう呼ばわりつつ駆けてきて、宿営地の中央で叫ぶように
繰り返した。
﹁我らが王子アトラス様のご勝利。中央の砦は陥落した﹂
宿営地で眠っていた兵士たちも起き出して、その勝利の報に湧い
た。間もなく、二人目の伝令が新たな情報をもたらした。
﹁お味方の大勝利。お味方の大勝利!﹂
伝令はそう呼ばわりつつ駆けてきて、一人目の伝令と同じく、宿
営の中央で繰り返し叫んだ。
﹁ヴェスター軍ロイテル様のご勝利。二つ目の砦が陥落したぞ﹂
二つ目の勝利の報に、一つ目の勝利が間違いなく本物だったと感
じ取った兵たちは、わき上がった。今まで沈滞していた宿営地だと
は信じられぬほどだった。かがり火には新たな薪が加えられて燃え
さかり、昼間のように宿営地を照らし出して、そのまぶしさに目を
細めねばならない。勝利を祝う兵たちが盾と剣を打ち鳴らす音が宿
営地に満ちて、鼓膜が痛いほどだった。
そんな中、三人目の伝令が合われた。
﹁お味方の大勝利。お味方の大勝利!﹂
三人目の伝令は、中央の砦の戦いの具体的な戦果の情報をもたら
した。
﹁中央の砦。討ち取った敵将エムススを筆頭に、倒した敵の数五百﹂
シュレーブの将エムススを討ち取ったのは事実だが、倒した敵兵
の数が意図的に水増しされていた。ただ、多数の敵兵を討ち取った
という情報は味方の士気の回復に目を見張るほどの効果があった。
225
オウガヌが素直な疑問を口にした。
﹁アゴース殿。中央の砦の敵兵は二百ばかりでは? 敵が五百とは
多すぎませぬか﹂
﹁気にするな。景気が良いに越したことはない﹂
アゴースは戦果を水増ししていることを気にもとめずにそう言っ
た。幼い割に勘の良いスタラススが周囲を見回して気がついた。
﹁アゴース殿が興味深いものを見せてやると言ったのは、このこと
で?﹂
アゴースは答えることなく、ただ会心の笑みを浮かべただけであ
る。オウガヌとテウススも周囲を見回て、宿営地の雰囲気が一変し
たのに気づいた。兵の士気が落ち覇気が感じられなかった宿営地に、
不安が薄れた兵の笑顔があった。これからの戦に、己の命をかける
価値を見いだしたというところかも知れない。
勝利の報に酔う宿営地に、四人目の伝令が到着して触れ回った。
﹁お味方の勝利。お味方の勝利。バラス殿が三つ目の砦を落とした。
敵の砦は全て落としたぞ。敵の砦は、す・べ・て落としたぁ﹂
宿営地の兵士たちは、今夜出陣した兵士たちが数百名に過ぎない
ことを知っている。その数百の兵がほんの一晩で砦を三つも落とす
手柄を得たのなら⋮⋮。兵士たちは次の戦いで自分が立てる手柄を
思い浮かべ、その夢に酔った。
アゴースは、兵士たちを眺める近習たちに言った。
﹁他人事ではないわい。あの兵士どもに、お前たちの姿を重ねて見
よ﹂
アゴースの言葉に、近習たちは顔を見合わせた。不安を口にこそ
出さなかったが、ここ数日の仲間内の会話で、勇ましい言葉を吐い
ていた裏には、混乱と不安と僅かな怯えがあった。今、兵の士気の
高まりに煽られるように、三人の近習たちの心にも希望や期待がよ
みがえっていた。
アゴースが宿営地の中央に進み出て、抜き身の白刃を天に向けて
声を張り上げた。
226
﹁聞けいっ。ルージとヴェスターの勇者どもよ﹂
わき上がっていた宿営地の兵士たちが、その呼びかけに気づいて、
剣と盾を打ち鳴らすのを止めたのを見計らって、アゴースは言葉を
継いだ。
﹁我らが王リダル、および付き従って亡くなった勇者たち⋮⋮。我
パトロエ
らを導いた勇者アガルススと、それに付き従い果てた勇敢な戦士た
ち⋮⋮。戦いの神は、我らに勇者どもの仇を討つ役割を与えてくだ
さった。次に戦い勝利するのは我々ぞ﹂
アゴースの叫びに呼応する兵士の数が知れず、共通の呼応にルー
ジ国とヴェスター国の境は感じさせなかった。卑怯な手段で殺害さ
ニメゲル
ジメス
パトロエ
れた者たちの仇を討つという明確な目的が与えられ、その戦には、
復讐の神と審判の神そして、今夜の勝利を導いた戦いの神のご加護
もあるに違いないというのである。
227
ネルギエの陣にて
フローイ国王ボルススが、夜半、予測したように、シュレーブ国
王ジソーが敗戦の全貌を知ったのは夜が明けてからである。身軽な
姿で逃げるために重い甲冑を脱ぎ捨て、剣も捨て、負った傷から血
を流しつつ槍を杖にした敗残兵たちが、ネルギエの本陣にたどり着
き始めたのである。しかし、その数も数十人で途絶えた。三つの砦
を合わせれば五百を超える兵士が居たはずだから、生き残った兵士
がこれだけというのは全滅といっても良い。砦からは連絡が無く、
状況を調べるために出した斥候が戻ってきた。
﹁何、砦が落とされたと? どの砦じゃ﹂
居並ぶ将軍たちを傍らに控えさせ、そう問う王ジソーの怒りの表
情に、余計なことに触れて自分に怒りが向くことを恐れた斥候は短
く答えた。
﹁北の砦、三つ全て﹂
斥候の答えに、王ジソーは怒りにまかせて手にした杯を投げつけ
た。
﹁馬鹿な。一夜にして? エムススの阿呆はいったい何をしていた
のだ﹂
﹁それが、エムスス殿は討ち死にされたと﹂
その報告に絶句する王ジソーに、居並ぶ将軍の中でひときわ大柄
な男が進み出て言った。
﹁我らが王よ。勝敗など時の運。イドポワの門の大勝利に比べれば、
エムススが守る砦の敗戦など取るに足らぬもの。私が到着した今、
恐れることは何もございませぬ﹂
﹁おおっ、ザガラックよ、よう言うた。さすがはシュレーブ一の勇
者ぞ﹂
228
王ジソーは、昨日、都から増援を連れて到着した将軍を頼もしげ
に眺めた。この男にそう言われてみれば、まだ、シュレーブ軍単独
でさえ、ルージ軍やヴェスター軍を圧倒する兵力がある。
同じ頃、シュレーブ軍の東に陣を敷くフローイ軍の王の天幕の中
で、王ボルススが部下の報告にあきれかえってため息をついていた。
﹁やれやれ、砦を三つともくれてやるとは気前の良いことだ﹂
一つや二つならともかく、全て奪われるというのは計算違いだっ
たと笑うのである。ただ、シュレーブ軍の豊富な兵の動員力から見
れば、まだまだ有利に戦えるに違いない。
王子グライスが尋ねた。
ニクスス
﹁これからどうなさいます?﹂
﹁知れたこと。運命の神の御心のままに﹂
王ボルススは運命の神の名を挙げたが、運命に頼るまでもなく次
の一手は決まっている。ただ、彼はやや首を傾げて居並ぶ家臣を眺
めた。
﹁問題は、誰を使いにやるかということだ﹂
数人が進み出ようとするのを制して、一人の小柄な老将が進み出
て、軽く頭を下げて申し出た。
﹁私が参りましょう。この老骨ならば、たとえ斬られても惜しくは
ありますまい﹂
﹁おおっ、レアフッダスよ。行ってくれるか﹂
王ボルススはその名を呼んで笑顔を浮かべた。グライスもよく知
っている。若い頃から王ボルススに仕えた忠臣で、グライスも子ど
もの頃に剣の手ほどきを受けたことがある。王ボルススは肩をすく
めて言葉を継いだ。
﹁しかし、老骨などとは言うてくれるな。そなたは私より二歳は若
い。それに、生魚喰らい︵セキキルシル︶の連中は愚鈍なほど義に
は篤い。そなたなら斬られることはあるまいよ﹂
レアフッダスは黙ったまま微笑んで王に応じた。先般の戦いで討
229
ち取ったルージ国王リダルの遺体は丁寧に荼毘に付してある。その
遺骨を目と鼻の先にいるルージ軍に返還にゆくのである。
230
ネルギエの陣にて︵後書き︶
︻生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶︼新鮮な魚を酢と油で和えて食す
習慣のあるルージの人々に対する蔑称
231
初陣の後
日が高く昇る頃になっても、未だに兵士たちは昨夜の興奮は冷め
切らず、中央の砦は焼けた物見櫓や幕舎からくすぶる煙と共に、興
奮や喧噪を砦の中を満たしていた。アトラスは新たに張られた天幕
の中にいた。戦いの中の緊張感が薄れてみると疲労感が全身を覆っ
たが、興奮は冷めずに眠る気にはなれない。兜を脱ぎ、鎧を外すに
つれて、昨夜の経験がよみがえってきた。
中央の砦を迂回して進んだバラスの部隊が、砦の南から火矢を射
かけた。思いもかけぬ方向から攻撃を受けた砦が動揺するのがわか
った。その隙を突いて、サレノスがアトラスを伴い砦の正面から攻
めかかったのである。バラスの部隊に退路を断たれ、北から本格的
な攻撃を受けたと気づいた敵の砦は更に混乱を深めた。サレノスと
アトラスは砦に侵入した、かがり火が倒れて火災が広がり、その灯
りで照らされた砦の中で、混乱し敵味方も分からないシュレーブ兵
を、右腕に白い布を巻いて味方だという合い印にしたルージ軍の精
兵が襲った。混乱から回復する間もなく殺戮される様子は一方的な
虐殺とも言えた。
同じ頃、ヴェスター国ロイテルが北西の砦を攻撃しているはずだ
った。サレノスは北西の空を焦がす灯りにロイテルが有利に戦いを
進めている気配を察するとともに、兵をまとめた。五十人ばかりの
元気な兵と傷ついた五十の兵を砦に残し、休息する間もなく南東の
砦を目指した。
バラスの部隊は中央の砦の南で火矢を射かけ、盛んに松明の明か
りをかざして存在を誇示したのみで戦いには加わらず、サレノスと
アトラスの突入と共に、南西の砦へと兵を進めていたのである。既
232
に南西の砦のシュレーブ兵と戦い始めているに違いない。その加勢
に向かったのである。
間もなく南西部の砦も落ちた。バラスは砦を焼き払わせて、加勢
に駆けつけた部隊と共に中央の砦に戻ってきた。ヴェスター軍のロ
イテルも落とした砦を焼き払って中央の砦へと姿を現した。やがて、
後方の宿営地にいた兵士たちも、アゴースに率いられて中央の砦へ
と到着した。もちろん、ルージ軍・ヴェスター軍その全ての軍勢を
この規模の小さな砦に収容することはできず。砦を中央にいくつも
の天幕が張られ、新たな宿営地が広がった。
三人の近習がアトラスの天幕を見つけて飛び込んできた。
﹁我らが王子よ。初陣で敵将エムススを討ち取られたとか﹂
テウススが自分のことのように喜びを顔に浮かべ、アトラスに飛
びつくように手を握ってそう言った。オウガヌもまたうらやましそ
うに語った。
﹁我ら近習も鼻が高い。しかし、次の戦では我らの手柄を王子に披
露せねば﹂
しかし、その祝福を受けるアトラスの顔に喜びがない。スタラス
スが心配そうに眉をひそめた。
﹁体のお具合でも? 怪我でもなされたのですか?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
アトラスは口ごもった。戦の興奮と混乱で心の整理がつかず、心
情を説明しがたいのである。昨夜の戦いの中、シュレーブ軍の将エ
ムススも傷つき、サレノスは彼を討つ役割をアトラスに与えた。ア
トラスの心には敵将を討ち取った名誉心など無く、狩りで他の誰か
が傷つけた獲物を仕留めた時のような、後悔に似た思いを心に残し
ただけである。何より、アトラス自身の感覚では一晩中駆け回って
剣を振るったというだけで、そこには彼自身の意志は介在していな
い。何のための戦いだったのか、自分は何のためにいるのか、自分
233
に問いかけつつ、周囲に配慮してその疑問や悩みを表情に出すこと
がためらわれていた。
﹁しかし、なんと言うことだ﹂
オウガヌが非難を隠そうともせず言った視線の先に、アトラスが
左腕に付けた銀の腕輪がある。近習たちはそれがフローイ国の王女
リミールからの贈り物だと知っていた。アトラスは口ごもりながら
もその説明をこじつけた。
﹁いや。これを身につけておけば、フローイ国の奴らへの憎しみが
薄れることがないからな﹂
﹁さすがは、我らが王子の思慮は奥深い﹂
スタラススは素直に寝台に腰掛けたまま身動きしないアトラスを
褒めたが、アトラスの心情を正直に語れば、本心を心に秘めねばな
らない環境で、唯一姉のように接したリーミルなら心を打ち明けら
れそうに思えるのかも知れない。そして、更に皮肉なことに、彼は
上着の下の胸に、シュレーブ国王女エリュティアから贈られたクレ
アヌスの胸板と呼ばれるお守りを身につけていた。彼女の無垢な包
容力を思い起こせば、アトラスは孤独が癒されるような気がするの
である。
近習が雰囲気を盛り上げようとすればするほど、考え込むアトラ
ス。そんな場に伝令の兵が現れて言った。
﹁我らが王子よ、使いの者が﹂
234
初陣の後︵後書き︶
次回更新は明日の予定です。フローイからの使者を迎え、その対応
をするアトラス。サレノスはそのアトラスの姿から、アトラスの父
に対する思いと偏見に気づきます。
235
父リダルの遺骨
﹁使いだと?﹂
﹁それが、フローイ軍よりの使者でございます﹂
﹁フローイ軍だと? 行こう﹂
アトラスは寝台から重い腰を上げた。砦の中央に軍議のための大
きな幕舎が設営されている。使者はそこに迎えるのである。ルージ
軍とヴェスター軍の混成軍だが、ルージ国の王リダルは戦死し、ヴ
ェスターのレイトス王が不在のため、形式上はアトラスが最高位の
指揮官として使者を遇する。
軍議のための幕舎でアトラスは上座に着き、テウススら近習の者
が護衛を努めるようにアトラスの傍らに控えていた。サレノスらル
ージ国の将軍たちと、ロイテルらヴェスター国の将軍たちはアトラ
スの両脇から幕舎入り口へと列を作っている。
使者はそのルージとヴェスターの列の間を通って案内されてきた。
その背後には紫の糸で刺繍が施された白い布がかけられた荷をうや
うやしく担ぐ四人の兵士がつづいている。その形状と使者を悼む様
式の布から、その荷が棺桶だろうと推察がつく。
使者は仰々しくお辞儀をして口を開いた。
﹁我が王ボルススより一隊を預かるレアフッダスと申します。お見
知りおきを﹂
サレノスとバラスはこの男を知っていた。過去の海外遠征で、こ
の男が指揮するフローイ軍とともに蛮族と戦った経験があり、信頼
できる男だと考えている。しかし、今は敵味方で、気安く昔話がで
きる関係ではない。
アトラスは名乗りも返さず、使者の用件を聞いた
﹁フローイ軍と言えば、我らが王リダルを討った者。その仇が何を
のこのこと現れたのだ﹂
236
ニクスス
パトロエ
﹁戦いの相手を決める者は運命の神の天秤。勝敗は戦いの神の槍の
穂先と申します。今回はリダル様と剣を交わすことになりましたが、
我らは神のご意志に従うまで﹂
﹁くどい、用件を先に申せ﹂
﹁この世に並ぶべきもない勇者。リダル様のご遺骨を、ご子息の手
にお返しに参りました﹂
﹁我らが王の遺骨だと﹂
アトラスが発した疑問の声に応じるように、レアフッダスは背後
の兵を振り返って頷いてみせると、その意を察した兵の一人が棺桶
にかけられた布をとって地面に敷き、棺桶を担いでいた兵士はうや
うやしく布の上に棺桶を置いた。棺桶の蓋が外され、幕舎の中に香
油の香りが漂った。棺桶の中を一目見たサレノスがその傍らに片膝
を付き臣下の礼を取った。棺桶の中には柔らかな毛布が幾重にも敷
かれ、その上に生前の姿が思い起こされるように頭骨から首、肋骨、
腰骨、足の骨が、新鮮な花と共に並べられていた。
サレノスはその指の骨についた指輪から、遺骨が紛れもなく王リ
ダルだと判断したのである。サレノスに続いて、並み居る将軍たち
も片膝をついて頭を垂れた。棺桶に駆け寄って眺めたアトラスのみ、
変わり果てた王の姿が信じられず、憎しみを込めて叫んだ。
﹁何故にフローイ国は、我らを襲ったのかっ﹂
﹁もともと、貴軍との戦闘はシュレーブ軍の役目。我らフローイ軍
は、貴軍がイドポワ街道を通過するのを監視することのみが役割で、
兵は林に身をひそめておりました。しかし、シュレーブ軍との戦闘
が始まった直後、戦闘に長けたリダル様は我が軍をいち早く発見さ
れて、リダル様は勇敢にも優勢な我が軍に戦いを挑んでこられまし
た。我らはこれに応じざるを得ませなんだ﹂
﹁こちらから、貴国に戦を仕掛けたというのか﹂
アトラスの問いにレアフッタスは視点を変えて話題を微妙にずら
した。
﹁まったく、勇壮な突撃でありました⋮⋮。私も緊張に拳を握りし
237
めるほど。リダル様と僅か百名の兵は、我らの前衛を幾重にも蹴散
らし、我らが王ボルススの本陣に迫る勢いでございました﹂
﹁そして、果てたか﹂
﹁あの勇壮なさま。我らは感服つかまつました。そして、リダル様
と付き従った将士の屍を丁重に葬りました﹂
そのレアフッタスの言葉に、アトラスは皮肉で応じた。先に王リ
ダルの死の知らせをもたらしたデルタスに聞いた内容である。
﹁遺体を辱めようとしたという話も聞いたが?﹂
レアフッタスはその事実を認めた。ただし、憎しみを駆り立て、
それをシュレーブに向ける誇張がされていた。
シリャード
﹁左様です。シュレーブ王ジソー様が、ご遺体を辱めようとなさい
ました。遺体を聖都に運んで、民衆の前で切り刻んで犬の餌にし、
首は門に掲げて晒しものにすると﹂
﹁我が王を晒し者にだと!﹂
﹁しかし、我らが王ボルススがそれを堅くお留めなされました。我
らの手で丁重に荼毘に付し、勇者の遺骨をお届けに上がった次第で
す﹂
﹁言えっ。何がフローイ国の望みだ﹂
﹁いいえ、何も。我らの古より伝わる礼儀に従い、勇者に敬意を表
したまで﹂
この時、アトラスとレアフッタスの会話を黙って聞いていたサレ
ノスが、疑問を口にした。
﹁レアフッタス殿、剣はいかがされた? 我らが王の剣は﹂
遺骨は指輪によって王だと確認できるが、サレノスの想像では、
戦場で剣が王の遺体の側にあったはずだった。時に王位継承権の意
味を持つ重要な品である。レアフッタスは首を傾げた。
﹁分かりませぬ。激しい乱戦でありました。その中で失われた物か
ルミリア
と。我らが王ボルススも探索させましたが、見つかりませなんだ。
ルミリア
それは真理の神に誓って申します﹂
真理の神に誓ってというのはアトランティス人がよく使う定型句
238
だが、信心深いアトランティスの人々にとって、この言葉を使う時
にその内容に嘘はない。なにより、サレノスはこの使者の誠実さを
知っていた。
この時、アトラスに何かの動きを察したサレノスは、進み出てレ
シリャード
アフッタスに接近するアトラスを制しようとした。アトラスが怒り
に任せて聖都からの使者を切り捨てた事がある。今また、この若者
が使者レアフッタスを斬り捨てるのではと危惧したのである。しか
し、違った。
﹁丁重な扱い、感謝する﹂
アトラスはゆっくと丁寧に言葉を選びながらそう言い、軽く頭を
下げて感謝の意を表した。サレノスはふと気づいた。アトラスの感
謝の言葉に、国を背負う者の責任感を感じ取ることはできても、肉
親を失った悲しみが感じ取ることができなかっのである。
︵この若者は純粋だが、王子という立場を演じているのではないだ
ろうか︶
サレノスの心に一抹の寂しさと同情がわいた。そんなサレノスの
シリャード
心情も知らず、アトラスは一国を率いる者として決意葉を継いだ。
ロゲル・スリン
﹁しかし、我らは、我が王の意志に従う。聖都に巣くう蛮族に、裏
テツリス
切り者の六神司院が荷担するなら、それも合わせて除く。そして、
ジメス
そなたたちがその前に立ちはだかるなら、ただ運命の神の槍の穂先
に掛けてゆくのみ﹂
﹁承知。この後、正邪の判断は審判の神にまかせ、我らはネルギエ
の地にて、正々堂々、相まみえましょう﹂
レアフッタスはそう言って一礼し、踵を返して兵士と共に姿を消
した。
239
父子、サレノスとゴルスス
その日の昼過ぎ、兵士たちが集められ、砦の中央に仮設された祭
壇の王リダルの棺を囲んだ。戦いで焼け残っていた物見櫓に登った
アトラスは、サレノスとヴェスターの将で王レイトスの代理人ロイ
テルを従えて、兵にこれからの戦いの意味を叫び続けていた。兵に
混じるバラスやアゴースら指揮官が、そのアトラスの言葉に呼応す
ジメス
るように、抜き身の剣を天に振りかざして兵士たちを鼓舞した。
はなむけ
﹁私は審判の神とともに、敵を討ち果たし、我らが王リダルと共に
果てた者たちへの弔いの餞としようぞ。我が忠節なる兵士どもよ。
この中に、誰か私に続く者はおるか?﹂
アトラスはそんな問いかけでスピーチを締めくくった。兵士たち
は口々に戦に加われる喜びを叫び、剣と盾を打ち鳴らした。その叫
びは、アトラスの名に代わって砦の内外に響き渡った。
﹁アトラス、我らが王子、アトラス!﹂
ルミリア
ジメス
﹁牙狼王リダルの息子、アトラス!﹂
﹁真理の神と審判の神の祝福を受けし者、アトラス!﹂
アトラスはそんな叫びを上げる兵士たちに手を振って答え終える
と、物見櫓の梯子を下りていった。サレノスはアトラスを見送りつ
つ、彼が優秀な生徒であり、熟練した役者だと言うことを知った。
長いスピーチもアトラスの心の叫びではなかった。王や王に殉じて
戦った兵士たち命のこと、彼らの勇敢な戦いぶりなど、兵士の士気
を鼓舞する言葉のいくつかはサレノスたちが彼に示唆した。アトラ
スは提示された言葉を、彼自身の意志であるかにようにつづって叫
んでいたのである。結果はサレノスらの期待通り、王の棺を眺めた
兵士たちはその精神的な衝撃を敵愾心へと変質させた。
兵士の喚声に包まれながら、アトラスは自分の幕舎へと足を進め
240
た。アトラスのスピーチに近習たちも興奮し、アトラスを讃えて浮
かれ騒いでいた。アトラス自身は心も体も自分の物ではないように
空虚だった。同時に石でも詰め込まれたかのように重く固く閉ざさ
れていた。そのアトラスにサレノスが声を掛けた。
﹁我らが王子よ。私の幕舎で茶でもいかがかな﹂
﹁サレノスよ。いまはそっとしておいてくれ﹂
﹁いや、静かに過ごしたいのであれば、私の幕舎こそ、うってつけ
でありましょう﹂
サレノスの言葉にアトラスは自嘲的に笑った。たしかにその通り
で、自分の幕舎に戻れば兵士だけではなく、近習たちで賑やかにな
るに違いない。近習たちが苦手にするサレノスの幕舎で何かの理由
を付けて人払いをすれば、相手にするのはこの老人だけですむ。
﹁では、後で﹂
﹁いえ。今でなくては。父王リダル様の事をお話申さねばなりませ
ぬ﹂
﹁我らが王のことだと?﹂
﹁いえ、ルージ国に君臨された我らが王ではありません。アトラス
様のお父君としてのリダル様の姿を、ご子息としてのアトラス様に﹂
意外な言葉に、アトラスは手振りで近習たちに先に自分の幕舎へ
ゆけと指示をし、サレノスが導くまま幕舎へと入った。
サレノスはアトラスに椅子を勧め、傍らに控えていたゴルススに
命じた。
﹁我らが王子にハラサ水などをお持ちせよ。蜂蜜はたっぷりと甘く﹂
サレノスが言ったハラサ水とは、蜂蜜で甘く味付けをした水にハ
ラサと呼ばれる柑橘系の果汁を入れ、香り付けにその皮を刻んで入
れる。アトランティスの人々の一般的な飲み物である。忠実なゴル
ススはサレノスの命令に異議は唱えなかったが、首を傾げながら幕
舎を出ていった。ハラサと言われても、行軍に持参する食料ではな
い。ゴルススは陣の物資に存在しないハラサを探してしばらく戻っ
241
てくることはないだろう。アトラスはサレノスが最も信頼する側近
を体良く遠ざけたことに気づいた。これからする話は、他の者に聞
かれたくないと言うことである。
サレノスは思い出をたぐるように話し始めた。
﹁先の遠征の折、私は二人の息子を同行させ、その二人ともを失い
ました。懐かしい故郷に帰ってみれば妻も病死しており、私は天涯
孤独の身の上となりました。帰国後に王位についたリダル様は私を
哀れみ、都の北に領地を下さり、そこで余生を暮らせと。二度と戦
場には戻らずとも良いと﹂
アトラスはサレノスの言葉に納得した。ルージ国では毎年の祭り
に各地の領主が都に集う習慣である。アトラスも子ども時代から各
地の領主とは面識があった。その席では見かけなかったと言うこと
とに納得がいった。サレノスは言葉を続けた。
﹁その王が先般、我が館に姿をおみせになりました﹂
アトラスはサレノスの言葉に再び小さく頷いた。アテナイ討伐を
宣言し、ルージに帰国したとき、王は行き先も告げぬまま、僅かな
従卒を従えて北の方に姿を消した。あれはサノスの領地へ行ったと
言うことである。サレノスは言葉を続けた。
﹁領地を良く治めているとお褒めの言葉を頂きましたが、我らが王
の本心が領地ではないことが察せられました。口ごもる王に、戦の
ことかと問うと、王は頷かれました﹂
﹁そなたに兵を率いて出陣せよと命じたか?﹂
﹁いえ。私の手を取って懇願をされました﹂
﹁懇願だと﹂
﹁我が息子を傍らで支えてやってくれと。あの気高い王がですぞ﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
﹁リダル様はルージ国の厳格な統率者であると同時に、一人の父親
でありました。我らが王子よ。いまは王リダル様を一人の父として
お考えなされませ﹂
アトラスはサレノスに答えず、話題を転じた。
242
﹁そなたはその申し入れを受けたと言うことか﹂
﹁いえ、私は戦にでる気にはなれませなんだ。このままこの地に身
を潜めていたいと。ひょっとすれば、孤独な身の上を恨み、私はこ
の世界に拗ねていたのやもしれません﹂
﹁拗ねるなど⋮⋮﹂
アトラスはこの老人の意外な言葉に自嘲的に微笑んだ。拗ねると
いうなら、むしろ現在の自分のことかも知れないと考えたのである。
サレノスの言葉は続いた。
﹁王はその権力を背景に私に出陣を命じることもできたでしょう。
しかし、王はそれをなさいませんでした﹂
たしかに、姿を消していた王リダルが都に戻ってきたのは、姿を
消した時の姿そのままで、王都バースでの軍議での王の破格の喜び
を見れば、サレノスの登場は意外な出来事であったに違いない。
﹁そんなそなたがどうして参陣を?﹂
﹁あのゴルススが、私に参陣せよと勧めてくれました。老いたりと
いえど、武人として、果てる時は戦場でという私の志を見抜いてい
るようでした﹂
﹁ゴルススとは何者なのだ﹂
﹁幼い頃に農民だった両親を失って、身よりもなかったため、小間
使いとして私の身近に置きました。他に身よりのない者同士です。
いつしか、私は失った息子の面影をゴルススの姿に求めるようにな
りました。我らが王の姿と、私自身の武人としての本懐、そして息
子のことを重ねて考えると、もう一度戦で手柄を立てて、我らが王
にゴルススを貴族の身分にとりたてて頂き、私の後継者にと考えま
した。しかし、それも私の身勝手。この世を拗ねたジジイが、ゴル
ススを言い訳にに利用して戦場に戻る夢を果たそうとしたのかも知
れませぬ﹂
サレノスは自分の心を問うように黙り込み、静かにアトラスの表
情を眺めた。血のつながらない息子のためにというサレノスの言葉
に、アトラスは一人の父親の気配を感じ取ることができる。ゴルス
243
スにもまた、密かに父を敬愛する息子の雰囲気を持っていた。アト
ラスにはあのリダルが自分のために懇願したという姿を思い浮かべ
ることはできなかった。ただ、この血の繋がりのない父子の姿と重
ねた。アトラスがリダルという人物を、自分の上に君臨する厳格な
王ではなく、一人の父親として認識した瞬間だったかもしれない。
サレノスが幕舎の入り口に姿を現した若者にそう声を掛けた。
﹁早かったの﹂
﹁兵士の一人がレニグの町で買い求めて持参しておりました﹂
軍の物資としてではなく、兵士が個人的に市で商人から買い求め
ていたと言うことである。戻ってきたゴルススはハラサ入りの水が
入ったカップを二つ、父とアトラスのためにテーブルに置いた。サ
レノスが言った﹁早かった﹂というのは、息子に明かしたことのな
い秘密を聞かれてしまったということである。
ゴルススは幼い頃からサレノスの身辺で過ごし、彼が過去に身に
つけた剣や甲冑を眺めて、武人としてのサレノスに敬愛の情を抱い
ていた。サレノスが夕日を眺める表情や、冬の寒さに拳を握りしめ
る姿や、焚き火の傍らで夜空の星々を見上げて物思いにふける姿な
ど、日常生活の中の光景の中に、サレノスが過去の戦場に思いを巡
らせていることに気づいていた。そして、ゴルススの目から見れば、
シリャード
サレノスの中に戸惑いと迷いが生じたのは、戦友として姿を見せた
アガルススという男から聖都の様子を聞いたときからである。
サレノスの王への対応ぶりは穏やかだったが、王が帰った後の迷
いは増したように見えた。ゴルススがサレノスに参陣を勧めたのは
そんな時である。サレノスという人物の迷いを払い、思いを果たし
て欲しいという願望だった。サレノスは決断した。
ただし、その決断の背景に、ゴルススを跡継ぎにしようという意
図があったということに、ゴルスス自身が気づいたのはつい今し方、
サレノスの言葉を漏れ聞いた時である。
244
父子、サレノスとゴルスス︵後書き︶
次回更新は、今週土曜の予定です。王子デルタスと共にレネン国の
都へと行った王レイトスが戻ってきます。ただ連れていた百名ばか
りの兵士はどこへ姿を消したのでしょう。
王レイトスの合流とともに、ルージ・ヴェスター連合軍はいよいよ
決戦の地ネルギエへと兵を進めます。
245
摂政デルタス
ルージ・ヴェスター連合軍が、シュレーブ軍の砦を奪って二日目。
サレノスの役割が兵の士気を回復することなら、ヴェスター国王レ
イトスも役割を果たしたように戻ってきた。ただ、率いていたはず
の兵は減り、王の身辺を警護する十人ばかりの従卒のみである。
王レイトスが陣に戻ってくるという知らせを受けて出迎えたアト
ラスは、その兵の数に首を傾げつつ、表現を変えて疑問を口にした。
﹁デルタス殿は?﹂
アトラスの問いに、王レイトスは満足げに微笑んで言った。
﹁デルタス殿は、摂政として王を支える者となられた。これで、我
らも背後の憂い無く、前方の敵と戦えるというもの﹂
﹁摂政ですって デルタス殿は国に帰れば殺されるやもしれぬと﹂
摂政というと、王を補佐する地位だが、レネン国は王が充分に政
務が執れぬほど病弱だと言うのが王子デルタスから聞いた話だった。
それ故、チャラバという有力貴族が、第二王子を擁して摂政の座を
狙い、その邪魔になる第一王子デルタスを除こうとしているはずだ。
しかし、王レイトスの話は、デルタスとチャラバの立場が逆転し、
デルタスが実質上のレネン国の政務を取り仕切る地位に就いたとい
う。
首を傾げるアトラスに、サレノスが口を挟んだ。
﹁そのデルタス殿を害そうとしていたチャラバという男が、よりに
もよって隣国のレイトス様に謀反の相談を持ちかけていたのですよ﹂
王レイトスが補足した。
﹁一年前、チャラバが儂によこしたのは、デルタス殿の弟君を支え
るゆえ、よろしくという内容であった。隣国とはいえ、謀反人を放
置するわけにもゆくまいよ﹂
﹁しかし、﹂
246
アトラスは口ごもった。アトラスが生まれたルージ国でも、アト
ラスの誕生や成長に合わせて、他国にこの者を引き立て見守ってや
ってくれという書状や使いぐらいは出しているだろう。チャラバが
隣国の王レイトスに使わしたのは、そう言う類の使者であったに違
いなく、謀反と言うにはほど遠いのではないか、アトラスはそう考
えたのである。
しかし、勘の良いアトラスは気づいた。
︵王レイトスはチャラバからの書状を謀反の証拠にでっち上げ、隣
国の有力貴族の当主を除いてその勢力を削いだのではないか︶とい
うことである。
有力貴族とはいえ、突然に謀反を企んだと断言されて混乱し、百
名を越える兵で館を囲まれれば、抗うすべもなく討ち取られるだろ
う。ただ、若いアトラスには自然な疑念が湧いた。
﹁しかし、レネン国も有力な貴族を失えば、我らルージ国やヴェス
ター国に対する憎しみも生まれ、デルタス殿も安穏とはしていられ
ぬでしょうに﹂
﹁病弱な王の背後で、好き勝手に権力を振るっていたチャラバには、
他の貴族の中に敵も多い。そのチャラバの敵が、今はデルタス殿を
支えていてくれる。そして、何よりデルタス殿には、我が精兵をお
貸しした。我がヴェスター国がデルタス殿を信頼しているという証
である。デルタス殿を害そうとする者は、もはやおるまい﹂
王レイトスの言葉にアトラスは頷いたが、ふと思い当たることが
ある。アトラスは傍らのサレノスに怒りを込めて言った。
シリャード
﹁そなた。このことを知っておったな?﹂
アトラスが思い起こしたのは、彼が聖都から来た無礼な問責の使
者を斬った時のこと。返り血を洗い落とし王の間に戻ってみれば、
そこにいたのがサレノスと王レイトス、そして王子デルタスのみだ
った。アトラスが不在の間に三人で今回のことを決めたと言うこと
である。サレノスはアトラスの疑念を否定しなかった。
﹁我らが王子には、背後の憂い無く、これからの戦のことのみ、考
247
えていただきたく﹂
﹁だから、私に相談もなく事を進めたというのかっ﹂
アトラスの怒りを、王レイトスが優しい叔父の口調でなだめた。
﹁アトラスよ、サレノスを叱るな。事は全て私が申し出た。利口な
そなたのこと、起きてみれば事の必要性も分かるであろう﹂
たしかに王レイトスが言う意味はアトラスも理解できた。レネン
国から密かに軍の通過を認めると言われても、権力基盤のない王子
デルタスを通じてのことである。王子デルタスに反感を持つチャラ
バが、いつその方針を覆すやも知れない。そうなれば、ネルギエの
地に向かうルージ・ヴェスター混成軍は退路も補給路も断たれてし
まう。戦いに専念するために邪魔なチャラバを除く必要があるとい
うことである。
不満を抱えたまま、黙りこくるアトラスに新たな記憶が湧いた。
王子デルタスが王レイトスと共に都に向かう前日の夜、デルタスが
密かにアトラスの陣を訪れて、親しげに語った人物のことである。
アトラスは唐突に聞いた。
﹁レンスどのはいかがされました?﹂
﹁レンス殿とは﹂
﹁デルタス殿には幼い弟君が居られたはず﹂
﹁知らぬな。そのような者には、気づかなかった﹂
そう語る王レイトスが、やや眉をひそめた。アトラスは察した。
その人物の生死は語れぬと言うことだった。唯一、自分を愛してく
れた肉親。それを失った王子デルタスの心情が哀れに思えた。
248
決戦の場所は
時折、一般民衆の姿の者が砦を訪れている。商人や農民、吟遊詩
人までその姿は雑多だが、その男たちの目つきや身のこなしは兵士
のものである。彼らが報告する情報をとりまとめれば、彼らは集落
の南東の荒れ地に陣を敷き、ルージ軍とヴェスター軍を待ち受けて
いるという。その数、シュレーブ軍は五千、フローイ軍は二千五百
だという。兵の数はルージ軍とヴェスター軍をはるかに上回る。
その方の兵の数を気にする様子もなく、戦うのが当然という表情
で、しかしやや眉をひそめてバラスが言った。
﹁しかし、場所が悪い﹂
その言葉に多くの将士が同意して頷いた。アゴースが記憶を頼り
に言った。
﹁ネルギエの地の西に川がございます。船がなければ渡れぬ川です﹂
アトランティス議会に出向く王リダルに随行してその地を通った
ことがある。ヴェスター軍の将ロイテルが頷いた。
﹁カルネルギエ川か﹂
﹁左様。あの地ではいかが﹂
﹁良かろう。皆はどうじゃ﹂
アゴースの提案に同意して頷いて問う王レイトスに、反論するヴ
ェスター軍の将士はなく、サレノスが頷いているのを見れば、アト
ラスも同意せざるを得ない。しかし、近習の一人スタラススが首を
傾げてそっと尋ねた。
﹁我らが王子よ。ネルギエの地とは、視界が広く開けた、陣立てに
よい土地と聞きます。そこがどうして場所が悪く、川があるネルギ
エの端に陣を敷くというのでしょう﹂
スタラススの自然に疑問に他の近習どもも首をひねったが答えは
見いだせないようで、問われてアトラス自身、答えに窮して口ごも
249
った。軍議が続き、サレノスが口を開いた。
﹁では、奴らめの陣へとまっすぐ進み、五ゲリア︵約4km︶ばか
しんがり
りの距離で右に転じて、川辺を右翼に、陣を敷くということで﹂
﹁では、私が行軍の殿を努めさせていただろう﹂
アゴースの言葉にヴェスターの将メノトルが感謝の言葉を漏らし
た。
﹁それはありがたい。アゴース殿なら申し分ございません﹂
軍議に加わる将軍たちは過去の海外遠征で幾多の戦を経験した者
たちである。そんな熟練した武人たちが常識であるかのように語り
すすめる軍議にアトラスは戸惑いついぽつりと呟いた。
﹁五ゲリア?﹂
傍らでその呟きを聞いたバラスが、距離を時間に置き換えて説明
した。
﹁我らが前進すれば、奴らはまずは今の陣に籠もって守りを固めま
しょう。我らが方向を川へ転じたのを知って追撃しても、既に我が
軍の前衛が川辺で陣を敷き戦支度を整えているでしょう。慣れた指
揮官なら、行軍する我らを追撃せず、戦を求めて我らを追い、奴ら
も川辺に陣を敷くことになりましょう﹂
﹁そういうものか。では、川辺というのは?﹂
﹁それは、我らが王子ご自身が、その目でご覧になればよろしかろ
う﹂
バラスの言葉は、説明してやらぬという悪意はなく、アトラスな
ら一目見ればその意味を理解するだろうという信頼感が籠もってい
た。ただその傍らにいる息子のラヌガンはアトラスと視線を合わす
ことなく黙っていた。バラスはアトラスと日常と変わらない会話を
していたために気づかなかったが、時折、腕や股に痛みを感じる表
情をする。砦を奪うという手柄を立てたが、初戦での傷はまだ癒え
ていないのである。息子のラヌガンはそんなアトラスの無神経さを
非難しているように思えた。それとも、敬愛する父を臆病者呼ばわ
りされた怒りを未だに解いていないのだろうか。その両方だろうと
250
アトラスは思った。
251
決戦の場所は︵後書き︶
次回更新は土曜日の予定です。ルージ・ヴェスター連合軍は決戦の
地ネルギエへと向かいます。
252
アトラス、戦場へ
翌日の早朝に進軍を開始したルージ軍は、正午を前に軍を停止さ
せた。干肉と冷たいスープに浸した携行食ガンバクが配られ、兵士
たちは戦い前の緊張で小さくなった胃を満たした。緩やかな斜面を
持った峠で、視界が広がり、麓が見える。眼下に広がる緑の原は、
豊かに実る麦畑である。汗ばんだ首筋に感じる風が峠を駆け下って、
麦の穂先を撫で、麦畑の表面を波打たせていた。兵士たちは感嘆の
ため息をついていた。島国で山岳地帯も多い。そんなルージ国で生
まれ育った兵士たちが、こんな豊かな平原を目にするのは初めてで
ある。
食事のための大休止も終え、これから起きる決戦で、カルネルギ
エの川辺にその部隊の右翼を伸ばすヴェスター軍が、先に隊形を整
えて行軍を開始し、アトラスとサレノスが先頭に立つルージ軍がこ
れに続いた。王レイトスの部隊が、予定された位置に到達して進む
方向を転じ、アトラスもまた、それに続いてカルネルギエ川へと兵
を向けた。既に麓に達していて行軍する歩兵の足取りは軽い。点在
する小さな林を除けば視界が良く聞く土地である。サレノスはもち
ろん徒立ちの兵たちより少し高い愛馬の背の上で、アトラスは周囲
を回したが、敵の姿を見つけることはできなかった。しかし、敵が
放った物見の兵は物陰に隠れてこの行軍を発見し、更に行軍の方向
を転じたことも本陣に伝えるだろうと考えた。
見上げる空は淡い雲に覆われ、行軍する兵士たちの影が淡い。し
かし、雨の気配はなく、肌を焼く夏の直射日光を遮り、視界が開け
た景色の中に涼やかな風が吹き渡っていた。兵が踏みしだく草むら
から昆虫が跳ね、草花がつける白や黄色の花に蝶が舞っていた。降
り注ぐ声に気づいて空を見上げれば、一羽の鷹が下界の兵士たちを
253
見守っているようだった。これから起きる凄惨な戦闘を感じさせる
ことがないのどかな田舎の景色である。
やがて、後方から一人の兵が駆けてきた。
﹁伝令ぇー﹂
それは隊列の最後尾につくアゴースからの情報である。千名ばか
りの敵兵が接近してくるのが確認できたという。アトラスを始め近
習たちは緊張した。
サレノスが尋ねた。
﹁アゴース殿は、援兵を要請されたか﹂
﹁いいえ。ただ、敵の接近を伝えるように、とだけ﹂
﹁左様か﹂
サレノスはそんな短い返事を与えた後、馬上のアトラスを振り仰
いで言った。
﹁我らが王子よ、一つ、アゴース殿の戦ぶり、眺めて参りましょう﹂
サレノスは部隊の指揮官には、前方のヴェスター軍の隊列にその
まま追従するよう指示をした。アトラスは愛馬アレスケイアの背を
降り、その轡を従兵に任せてた。今まで徒歩で行軍していた近習た
ちに合図をして、共にサレノスを追った。
ルージ・ヴェスター連合軍の最後尾では、戦は既に始まっていた。
シュレーブ兵が本陣を出た時にどれほどの人数が居たものかは分か
らない。ただ、行軍中のルージ・ヴェスター軍を襲うために、よほ
ど急いで駆けてきたのだろう。重い武具を身につけたシュレーブ軍
の将士たちは息を切らせているようだった。この場所に到着するま
でに脱落した兵士も多いだろう。自分が従うべき直属の指揮官を見
失った兵も多いに違いない。隊列も乱れていた。戦える数を数えれ
ばアゴースが伝えた千名ばかりである。
疲労し、戦うための陣形も整わず、指揮系統も乱れた烏合の衆に、
アゴースの精兵が襲いかかっていたのである。シュレーブ兵は既に
254
浮き足立ち、後方から遅れて追従してきたシュレーブ軍兵士は、前
方の戦いに加わるどころか、背を見せて逃げ始めていた。
その様子を眺めたスタラススがふと疑問を漏らした。
﹁バラス殿は我らを追撃する敵は居らぬと言っておられたはずだが﹂
その言葉を、アトラスは修正した。
﹁敵が熟練した指揮官ならば、ということだ﹂
サレノスがアトラスの言葉を補足するように言葉を継いだ
﹁左様。もし兵を率いる指揮官が熟練して居れば、兵の疲労と敵味
方の距離を鑑みて攻撃は無理だと悟り、戦わずに引き上げたでしょ
う。もし、戦に長けた王ならば、戦の前にこの結果を悟って、将兵
を死地に送ることはございますまい﹂
﹁王は命じた戦いの無謀さが理解できず、将は己の名誉にのみとら
われて退く事ができず兵を死に追いやったと言うことか﹂
アトラスの言葉に、サレノスは頷いたのみで、話題を転じた。
﹁戻りましょう。今の我々がなすべき事は、ネルゴーラ川に陣を敷
くこと﹂
﹁しかし、奴らが動かなければ?﹂
アトラスの疑問ももっともである。ルージ・ヴェスター連合軍が
川辺に陣を敷いても、敵が動かなければ、戦いになるまいというの
である。
﹁そのときは、それっ⋮⋮﹂
サレノスは周囲を指さした。既にシュレーブ国内に深く侵入して
いる。豊かな土地だと言うことを象徴するように、豊かな実りを付
けた麦畑が広がっていた。サレノスは言葉を継いだ。
﹁兵を出して刈り取り、焼き払って挑発してやれば、奴らも黙って
はいないでしょう﹂
豊かな収穫を前に穂が育つ前の麦を刈り取れば、この辺りの領主
は収穫や税収は期待できなくなる。それを嫌がって、敵も戦いを求
めるというのである。ただ、当然のことながらもっとも大きな損害
255
を被るのは、丹精に麦を育てた農民たちである。
﹁まったく、迷惑なことだな﹂
アトラスは戦を一言でそう表現した。兵を退く合図の角笛が轟き
渡った。アゴースが逃げる敵を深くは追わずに兵を退かせたと言う
ことである。アトラスは、カルネルギエ川へと足を向けたサレノス
が、アゴースの小さな勝利に満足せず眉をひそめたのに気づいた。
もろ
しかし、サレノスの立場で言えば違う。
︵敵兵は脆く、敵将は戦を知らない︶
サレノスは本来は味方に有利になるはずの事実に気づいて、眉を
ひそめていたのである。この後、川辺で戦うシュレーブ軍が傭兵を
中心とする軍で、シュレーブ国は別の主力を温存していると言うこ
とである。
明くる日、サレノスの予想とおり、敵を待ち受けるはずのシュレ
ーブ・フローイ軍が、今は、敵のルージ軍・ヴェスター軍を追って
陣を川辺に移動させ始めた。両軍から放たれる戦いの緊張感はネル
ギエの地一帯に満ちていた。
256
アトラス、戦場へ︵後書き︶
次回更新は、2月28日です。
257
布陣
距離を置いて対陣した両軍だが、いま、暗闇に見える敵陣のかが
り火をみれば、両軍の距離は三ゲリア︵2.4km︶もあるまい。
敵の夜襲に対する備えは万全だが、互いに敵の殲滅を目的にした戦
いだけに、小規模な夜襲はあるまいと考えていた。
夜明けと共に全軍を動かし、全力を持って敵と戦う。両軍あわせ
て一万を優に超える兵士たちの血みどろの戦いになるだろう。
夜が明け、退治する全軍を見渡した時、アトラスはカルネルギエ
の川辺に陣を敷くといった意味を理解していた。これから行われる
戦は両軍の真っ正面からのぶつかり合いだが、その戦いの最中、側
面に回り込んだ敵に攻撃を受けたり、後方に回り込まれるような不
利は避けたい。逆に味方は敵の側面や後方から攻撃をかけて有利な
戦の体勢を作ろうとする。
そのために、兵の一部を敵の側面に回そうと、味方は陣立ての両
翼を広げ、敵もまた同じ事を考えて両翼を広げる。
いま、敵味方の距離は半ゲリア︵約400メートル︶もあるまい。
互いに東西に長く兵を並べて向き合い、戦いの始まりを待っている。
ただ、両翼を広げて敵の側面を突くという点では、兵数に勝るシュ
レーブ・フローイ軍に有利なはずだが、向き合うヴェスター軍が、
この辺りでは南北に流れるネルゴーラ川の川辺から東西に陣を敷い
たため、川が邪魔になってヴェスター軍の側面に回り込んでこれを
突くことができないのである。言うまでもなく、味方の一方のルー
ジ軍の最高指揮官はアトラスのはずだが、実質上の采配はサレノス
が取っている。アトラスはただサレノスの進言に頷いて同意するの
みである。自分の采配など他の指揮官に及ばない。そう言う無力感
でアトラスは苛立っている。
258
つい先ほど、向き合うフローイ軍の陣形を眺めたサレノスが、ア
トラスの同意を得るという形を取ってルージ軍左翼の兵を率いるア
ゴースに兵を下げるよう指示した。中央に対して左翼は敵との距離
を置いて側面に回り込まれるのを遅らせようという配慮だとも分か
った。
戦に長けた指揮官とはこういうものかと納得しつつも、アトラス
は自分の未熟さと運命にあらがえない自分の無力感に苛立ちを深め
ていた。近習たちの忠誠は信じても良い。ただ、この戦場にアトラ
スの複雑な心根を理解できる者はおらず、アトラスは孤独を深めて
いた。もし、彼を理解しようと努める者があれば亡くなったザイラ
スであり、今はこの場にいないレネン国のデルタスだけではないか
と考えていた。
アトラスはふと左腕に気づき、更に右の指先で甲冑の胸を押さえ
て自嘲的な笑みを浮かべた。傍らにいたスタラススが、この緊張感
が漂う戦場に似つかわしくない表情に首を傾げて聞いた。
﹁我らが王子よ、いかがされたので﹂
﹁いやなんでもない﹂
アトラスはこの笑みの理由を説明できなかった。
︵私は、この場でこんなものを︶
アトラスが左腕につけていた銀の腕輪は、勇者に神の真理を、ル
ビーの赤い輝きは勇者に勇気を与えるという。そして胸に感じる肌
触りはクレアヌスの胸板と称される金属の円盤は、真理の神ルミリ
アの導きがあるというお守りだった。滑稽なことに、それをアトラ
スに与えたのは、今や敵になったシュレーブ国とフローイ国の二人
の姫である。迷信を信じるわけではなく、二人の姫への愛でもなく、
アトラスは与えられた品物を身につけていた。癒しきれない孤独や
迷いを振り払う者が居るとすれば、アトラスに明瞭な道を指し示し
たリーミルであり、無垢な心でアトラスを包んだエリュティアだっ
たということかも知れない。
259
布陣︵後書き︶
文章だけで分かりにくい戦闘の状況を、地図上に駒を並べて再現し
てみました。縦に並んだ水色の駒がルージ・ヴェスター軍、赤い駒
がシュレーブ・フローイ軍です。戦いを前に、敵味方は300m強
の距離を置いて長く部隊を広げています。最初一直線に部隊を並べ
ていたルージ軍ですが、サレノスはその左翼を少し交代させて戦い
の開始を待ちます。
ちなみに、画像のマップや駒はGMT社のシミュレーションゲーム
﹁アレクサンダー﹂と﹁シーザー﹂を利用しています。マップ上に
印刷された六角形のマス目は対辺が80メートル。駒1つが約30
0名の兵士を表しています。
<i183351|14426>
<i183352|14426>
260
シュレーブ軍動く
敵味方の間隔は、息を大きく吸い込んで駆ければ、その息が尽き
る前に敵陣に着くという距離である。この間隔が少しでも狭まれば、
弓や投石機の有効射程に入る。そして、弓や投石機などを構えてい
れば、二射目を射る前に、剣を振りかざして駆け足で迫ってきた敵
の突入を許して、弓を剣に持ち換える間もなく大きな被害を被る。
そんな距離だった。
両軍の前衛は、そんな距離で向き合って、槍の石突きで地をつき、
剣と盾を打ち合わせ、鬨の声をあげて相手を威嚇し合っていた。頭
上の太陽は中天を過ぎていた。早朝に始まるかと考えられていた戦
闘は、敵味方がにらみ合ったまま動かず、疲労の中に士気を磨り減
らすように時が過ぎていたのである。
敵味方が南北に分かれて、それぞれがカネルネギエ川から東西へ
長く陣を伸ばしている。フローイ軍はその長く伸びた陣の中央から
右側を担当し、その前衛部隊の後方に、フローイ国王ボルススが五
百ばかりの直卒の兵を率いて布陣していた。王ボルススは愉快そう
に手を打って叫んだ。
﹁全く、戦というのは、これだから面白いわい﹂
フローイ国王ボルススの本音であり、同時に実務的な目的も持っ
ている。王が目の前の光景を笑い飛ばす余裕を見せれば、緊張の極
致にある兵士たちも戦意を維持するだろう。
この状況を作りだしているのは、シュレーブ軍である。兵数が少
ないルージ・ヴェスター軍は今の陣形を保ったまま動くまい。フロ
ーイ軍も攻勢に出るならシュレーブと歩調を合わせて前進せねばな
らないが、そのシュレーブ軍が動こうとしないのである。
﹁砦を落とされたこと、行軍中の敵を攻撃して痛手を被ったこと、
怖じ気づいたのでしょうか﹂
261
﹁しっ﹂
王子グライスの言葉に、ボルススは短く鋭い警告を発した。グラ
イスの推測は正しい。シュレーブ王ジソーは戦いに慎重になってい
る。しかし、同盟軍の指揮官が怖じ気づいたと称したのを聞けば、
味方の兵士も動揺するだろう。
利口なグライスもそれに気づいて話題を転じた。
﹁アトラス王子は?﹂
王ボルススは、グライスにとって、ある決意を秘めた名だという
ことに気づくこともなく、返事代わりに前方のルージ軍の陣を指さ
した。
﹁奴はまだ自分の旗も持たぬはず。リダルが掲げていた王家の旗が
あろう。アトラスはその下にいる﹂
王ボルススはそう言ったが、すぐに王家の旗の傍らに翻る将旗に
気づいて、別の将の名を挙げた。
﹁おおっ。やはり、サレノスか﹂
ルージ軍が砦を落とした戦の手際よさが際だっていた、最も手慣
れた武人を考えればその名が思い浮かぶ。
﹁サレノスとは?﹂
﹁勇猛果敢で鳴り響いたリダルも、傍らにサレノスが居らねば、猪
突猛進の若武者に過ぎず、戦を生き延びることもできなかったろう
よ﹂
﹁そういう人物が、今のアトラスの傍らにいるということですか﹂
グライスの言葉に、王ボルススは頷いたのみである。過去の海外
遠征の時には、当時は王子だったリダルの傍らで支え続けた人物だ
という印象がある。数回、言葉を交わしたこともあるが、穏やかな
言葉と篤実な人柄の中に、底知れぬ知謀を感じさせる男だった。
この時、侍従の叫びが王ボルススとグライスの耳を射た。
﹁左翼、シュレーブ国。王の将旗が動きました﹂
観れば、左翼のシュレーブ軍が前進を始めていた。いよいよ、戦
262
が始まる。待ちに待った状況だが、王ボルススはシュレーブ国王を
評して舌打ちをするように言った。
﹁全く、気の早い御仁じゃ﹂
あらかじめ交わして約定では、前衛の兵に前進を命じる角笛を吹
き、それを合図にフローイ軍も足並みを揃えて前進する手はずだっ
た。しかし、戦功を焦ったのだろう。先に旗を振り、兵に前進をめ
いじたのである。やや遅れて、フローイ軍の前進を促す角笛の音が
クラディック
響いた。間髪入れず、王ボルススも命じた。
﹁我が緑旗を振れい。前進の角笛を吹けっ。我らも兵を進めるぞ。
我がフローイの勇者ども、敵を殲滅せいっ﹂
﹁では、私も参ります﹂
グライスが率いる部隊は前衛のフローイ軍の左翼に位置する。そ
の部隊に戻って指揮を執らねばならない。もちろん最も危険に晒さ
れる役割を持った部隊だったが、王ボルススは孫の命を省みる様子
もなく、グライスに頷いて見せただけである。役に立つものは孫の
命でも使う。そして、与えられた任務を達成した者に本当の王位継
承権を認めるという厳しさを持っていた。ただ、この時のグライス
は、王ボルススに与えられた任務より、敵のアトラスと刃を交わす
ということのみにとらわれていた。
おぅっ、おぅっ、おぅっ、おぅっ
今は先ほどまで戦場に満ちていた兵士たちの威嚇の声は聞こえず、
盾と剣を構えた兵士たちが一歩ごとに口を揃えて吐き出す短い怒号
で戦場が満たされた。
シュレーブ軍兵士、そしてフローイ軍兵士たちは、横一文字の陣
形のまま、小刻みに足を進めた。いよいよ、この地が兵士たちの苦
痛の叫びで満たされる時を迎えたのである。
263
シュレーブ軍動く︵後書き︶
ネルギエの戦い 開始直後
<i184199|14426>
シュレーブ軍が単独で全身を開始します。
264
アトラス突撃
﹁さて、まだ、やや時もありましょう﹂
サレノスがそう言ったのは、あのシュレーブ軍の前進速度なら、
前衛の兵士が槍や剣を交わすまで、少し間があるというのである。
右翼のネルゴーラ川から陣を広げるヴェスター軍とは、敵を待ち、
これを討つという作戦とも言えぬ簡単な約束を交わしている。ヴェ
スター軍はその約束を守り、距離を縮めてくるシュレーブ軍に対し
て兵を動かしていない。
戦況を眺めるアトラスに、サレノスは問うた。
﹁されば、我らはいかがしたものか﹂
﹁あそこではないのか﹂
アトラスは彼のほぼ正面、前進し続けるシュレーブ軍と、ようや
く前進を開始したフローイ軍の間隙を指さした。もともと横一文字
に陣を敷いているように見えるフローイ軍とシュレーブ軍の間には
やや間隔があり、シュレーブ軍が単独で前進を始めたため、フロー
イ軍もその隙間を埋めることができず、両軍の間隔が広がっている
のである。
﹁確かに﹂
サレノスはアトラスを眺めながら頷いたのは、アトラスが示す方
向の正しさだけではなかった。アトラスの姿に心の中で若き日の王
リダルの姿を思い起こしたからである。アトラスが迷わず指摘した
箇所に間違いはない。攻勢に出るきっかけをつかむとすれば、あの
隙間である。先の砦を奪った戦いの迷いのなさといい、今示した戦
術眼といい、アトラスは王子の肩書きをまとっただけの若者ではな
かった。本人に自覚があるかどうかは不明だが、彼はその才能に牙
狼王リダルの血を引いていた。
265
両陣営の距離は、もはや弓や投石器を使う距離ではなかった。弓
など手にしていれば、武器を剣に持ち換える前に、剣や槍を構えた
敵が突撃してくるだろうという距離である。接近する敵を待ち受け
るルージ・ヴェスター軍の兵士たちは、緊張で汗ばんだ掌で剣を握
り直した。渇いた喉を湿らそうとするように唾を飲み込む動作をし
たが、興奮で唾も出ず、ごくりと喉を鳴らしただけである。
やがて、敵陣から長く響く角笛の音が響いた。突撃せよとの合図
である。シュレーブ軍前衛部隊を率いる指揮官たちは、一斉に兵を
叱咤して駆け足させた、敵味方両軍は急速に距離を縮めた。敵を威
嚇する怒号が、敵味方が打ち合わせる剣の響きに変わった。アトラ
スが見回してみれば、東西に長く延びた戦列のいたる所で兵士が剣
を交わしていた。しかし、アトラスとサレノスはそのやや後方にい
て戦いを見守るようにその位置を動いていない。
前衛の兵士たちの一進一退の状況がどれほど続いただろう。勢い
づき敵を圧して突出した兵士たちがいたかと思うと、逆に押し返さ
れた。目の前の敵兵をようやく倒し、前進しようとした兵の目の前
に、倒した敵の後方から現れた。新たな敵に打ち倒されるという具
合で、兵は傷つき、疲労しながら、じりじりとその数を減らしてい
た。
そんな兵士たちを黙って眺めているのに耐えられぬというふうに、
アトラスがサレノスに怒鳴った。
﹁まだかっ﹂
早く戦いに加わりたいというのである。しかし、サレノスは何度
繰り返したのか分からぬ返事を、この時も返した。
﹁まだ、機は熟しませぬ﹂
サレノスの目から見れば、敵味方の兵士は一進一退を繰り返して
いるようだが、よく見れば戦意に勝るルージ・ヴェスター軍の方が
じりじりと敵を圧している。この状況が続けば、敵兵の士気は衰え、
敵の戦列は崩れて、味方は勝利を収めることができるだろう。
266
ただし、兵数に勝る敵は、いずれルージ軍の左翼の側面や後方を
脅かす状況になるだろう。左翼を守るアゴースは非常に不利な戦い
を強いられざるを得ない。もし、アゴースの部隊が崩れれば、ルー
ジ軍の全部隊は後方を脅かされて瓦解する。それを防ぐため、全軍
の状況を眺めつつ、左翼が不利な状況になった時に、予備部隊を投
入する。サレノスとアトラスの直卒の部隊は、そう言う役割を担っ
ていたのである。
アトラスは父の歓心を得るための人格を演じるという鬱積した人
生を歩んでいた。アトラス自身の戦いを前に、父王リダルが亡くな
ったが、それはアトラスの心を解放することなく、父に代わってル
ージ国を導かねばならないという重荷を背負っただけである。周囲
が常に比較する父親との対比で、功績や才覚が父に遠く及ばぬとい
う評価されている自覚もあった。なにより、戦いを前にいくつも重
ねた軍議の席上で、並み居る諸将の進言に頷くのみで、彼自身の心
は閉じたままだった。その無力感が、乱れ狂う心を圧縮しアトラス
の心は爆発寸前だった。サレノスは熟練の武人だが、乱れるアトラ
スの心を読み切れてはいない。
この瞬間、アトラスの心が爆発するように、彼の意図が戦場に放
ジメス
たれた。突如、アトラスは剣を抜き、天を刺し貫く勢いで叫んだ。
﹁ルージの勇者ども、我らが王リダルに代わって、奴らに審判の神
の鉄槌を!﹂
その叫びに、兵士が呼応する声を上げる間もなく、アトラスは前
面の敵に向けて駆けだした。アトラスの直卒の兵士たちもその背を
追わざるを得ない。この場で、行き足のついた兵士を押しとどめ、
元の位置に据えることは、歴戦のサレノスでさえできない。
あの勢いでは、アトラスは手勢を率いて敵陣深く突入し危険にさ
らされる可能性がある。サレノスはちらりと左翼に目をやった。歴
戦のアゴースなら、アトラスを引き戻す間、左翼を支えてくれるだ
ろう。サレノスはそう判断して部隊に命じた。
267
﹁我らの王子とともに敵を殲滅せよっ﹂
268
アトラス突撃︵後書き︶
コレまでの戦いの推移。
<i184349|14426>
<i184350|14426>
敵味方が一進一退の戦いが約半ザン︵30分︶ほど続いた中、アト
ラスが突撃を開始。左翼のアゴースの部隊は優勢なフローイ軍に対
して不利な戦いを強いられそうな体勢です
269
バラスの決断
前面の敵に背を向ければ斬られる。生き延びる可能性があるのが、
左右の味方兵士と共に戦って敵を打ち倒すこと。生き延びるために。
勝利するために。両軍の兵士たちはそう心に堅く言い聞かせながら
剣や盾を振るい続けて戦列を維持している。ただ、疲労や傷の痛み
と共に、心が揺らいでいる。
アトラスはその状況を変えた。アトラスが手勢を率いて突入した
箇所では、味方には新たな加勢が駆けつけたと勇気づけ、敵には生
き延びる見込みが無くなったという衝撃的な動揺を与えたのである。
シュレーブ・フローイ軍の戦列の最も弱い部分、アトラスが指摘
した薄い隙間をアトラス自身の部隊が食い破った。シュレーブ軍右
翼は側面を突かれるのを恐れて後退し、ルージ軍は勢いづいてそれ
を追った。
シュレーブ軍右翼は前方からはヴェスター軍に攻め立てられ、側
面から攻めるルージ軍に押されて後退するにつれて、戦列に生じた
隙間は拡大し、更に多くのルージ軍兵士がなだれ込んでいった。
ルージ軍は敵の戦列の破れ目で二手に分かれた。ルージ軍右翼に
位置したバラスは、前面のシュレーブ軍を突き崩しつつ、その側面
から背後へと兵を進めている。戦に長けたバラスのこと、敵をカル
ネルギア川を背に包囲する体勢を作るだろう。
一方、敵の戦列を突破したアトラスは、勢いの赴くまま攻勢を左
へと転じ、フローイ軍に挑みかかっていた。しかし、兵力の一部を
シュレーブ軍攻撃に割かれて、フローイ軍と戦うルージ軍の兵数は
少ない。
アトラスの様子を見れば、兵を退く気配もなくフローイ軍に突入
する様相を見せていた。勇敢だが、この戦場では無謀な行為だった。
このままでは、アトラスは勢いに任せて敵陣に突入し周囲を囲まれ
270
て孤立したあげく、討ち取られてしまうかも知れないのである。
サレノスは傍らを駆けるゴルススに、シュレーブ軍を追う味方を
指さして怒鳴るように命じた。
﹁バラス殿の元へ行き、伝えよ。我らが王子がフローイ軍に突入し
た。戻って王子を支えよと。急げっ﹂
ゴルススは黙ったまま頷き、命じられた方向へ駆け始めた。
サレノスは自分が命じた内容がどんなに困難なことかを知ってい
る。勢いづいて敵を追っているとはいえ、バラスの兵士たちに、い
ま戦っている敵に背を向けて、フローイ軍と戦う味方の加勢に駆け
つけろというのである。ただ、事態は緊急を要する。
サレノス自身、安穏とはしていられなかった。彼の手勢で、孤立
しかかっているアトラスの脱出路を確保せねばならないのである。
ルージ軍右翼では、僅かな兵がその戦意のみ旺盛で、敵を圧倒し
包囲しようとしていた。バラスの部隊はアトラスが敵陣に開けた穴
から突入し、シュレーブ軍右翼を圧しつつその側面から後方に回り
込みかけていたのである。理想的な戦況といえた。このまま敵を圧
しつつ前進して、敵をカルネルギア川へと包囲できる。その包囲の
最後の口を閉めるのがバラスの部隊である。包囲された敵は急速に
戦意を失い、味方は敵を殲滅するという大勝利が得られるだろう。
フローイ軍と戦う味方からバラスの将旗を目指して伝令が駆けてき
たのは、これからバラスが部隊を進めて包囲を完了しようかという
タイミングである。
バラスの傍らで父と共に戦う息子のラヌガンは、伝令の顔に記憶
があった。サレノスの傍らに侍る若者ゴルススである。ゴルススは
簡単に、しかし正確にルージ軍左翼の戦況とサレノスの命令を伝え
た。バラスは遠目に左翼方面の状況を眺め、そして、自らの戦場の
様子を眺めた。
﹁父上。間もなく、この方面での勝利も決まりましょう。その後、
フローイ軍に向かっては?﹂
271
ラヌガンがそう言うのも常識的な判断といえる。敵を包囲殲滅す
るという完全な勝利を収めつつある。しかし、左翼方面へと兵を割
けば、包囲は不完全になり、敵を取り逃がすだけではなく、背を向
けて左翼方面に向かうバラスの部隊は、逆に敵に背後を襲われて大
きな被害を被る危険性すらあった。しかし、バラスは迷わなかった。
﹁サレノス殿に、承知したと伝えよ﹂
伝令のゴルススにそう言い、サレノスの元に戻らせた。続いて信
頼できる部下の名を呼んで命令を下した。
﹁マリドラス。儂に替わって、我が息子と共にこの戦列を支えよ﹂
眼前のシュレーブ軍との戦いの指揮を、息子のラヌガンに引き継
ぐので、これを補佐せよというのである。
﹁承知﹂
マリドラスは短く答えて頷いたが、ラヌガンは承伏しかねるよう
に尋ねた。
﹁では、父上は?﹂
﹁儂は二百の兵を率いて、フローイの者どもに目にもの見せてくれ
るわ﹂
この間にも戦場には敵味方の怒号と剣や盾が打ち鳴らされる音に
満ちている。士気が旺盛なために敵を押しているが、バラスの兵は
シュレーブ軍に比べれば数は少ない。そこから二百を引き抜くとい
うのである。右翼の戦いは苦しくなるだろう。ただ、左翼側は、二
千五百のフローイ軍の精兵を相手に、もっと苦戦している。そこへ
僅か二百の兵で加勢するバラス自身も大きな危険を背負っていた。
ニクスス
﹁では、父上の代わりに、私が参ります﹂
﹁いや、ならぬ。これも運命の神の定め﹂
二分する役割を比べれば、フローイ軍との戦いは僅かな兵で味方
に加勢するだけではなく、敵中に孤立しかかっている王子を救出す
るという任務も背負っている。よほど戦慣れした者でなければ果た
すことは難しいだろう。
低く腹に響く兵士の怒号やうめき声、甲高く鼓膜を突く剣の音が
272
溢れるこの場で、会話を長く続けることはできない。話を締めくく
るように、バラスは一瞬、笑顔を息子に向けた。、憎しみや苦しみ
など負の人生がバラスという一個の人格で濾過されて、残された真
心のみに精製された笑顔のようだった。しかし、ラヌガンが父の心
を推し量ろうと眺めた時には、既に父は武人の表情で叫んでいた。
﹁ルージの勇者どもよ。儂は今からフローイの討伐に行く。前面の
シュレーブの弱兵との戦いに飽きた者は儂に続けいっ﹂
もちろん、この場に戦いに飽きた者など居るはずがない。しかし、
戦いに疲れ果てて剣戟のやや後ろで呼吸を整えていた兵士たちが、
剣を構えなおしてバラスの元に集まった。自らの役割を自覚してい
れば数が整うのを待つ時間もなく、バラスはその50名ばかりを率
いて駆け始めた。マリドラスとラヌガンは戦列を駆け回って兵を抽
出して、バラスの後を追わせた。
273
バラスの決断︵後書き︶
<i185390|14426>
<i185391|14426>
次回更新は明日です。フローイ軍のグライスが望んだアトラスと
の一騎打ち。思いもかけなかったアトラスの突入でグライスの望み
が叶います。さて、ネルギエの地での勝敗とともに、二人の勝敗の
行方は?
先の画像の説明で、1つの駒が約300名の兵士を表していると
記載していますが、戦闘開始後から戦い続けて、じりじりとその数
を減らしているとお考え下さい。死傷者が増え、完全に士気を失っ
て、戦えなくなった部隊の駒は地図上から除外しています。
274
アトラス対グライス
シュレーブ軍からやや遅れて前進し始めたフローイ軍も、正面の
ルージ軍の戦列と接触して戦闘が始まっていた。フローイ軍が長く
東に伸ばした戦列の右翼側は、ルージ軍の端から側面、更に、その
背後を脅かす体勢で有利な戦いを進めている。
しかし、本来は兵数が豊富なシュレーブ軍の隣で、有利に戦える
場所だったかも知れないが、シュレーブ軍の戦列との間に隙間が空
いたために、左翼側は一転して不利な戦場となった。そこでフロー
イ国王子グライスが戦っている。前衛の兵士たちの一進一退の戦闘
が続く中でも、戦経験が少ないグライスでさえ、味方がじりじりと
押されている戦況が肌で感じられた。彼自身も剣を構えて傍らの副
官ロットラスに頷いてみせた。彼自身の手勢を率いて前衛の戦いに
加わるという決心である。
その時、グライスは信じられないものを見た。前衛で戦うルージ
軍兵士の向こう、グライスの剣の切っ先など、とうてい及ぶはずの
ない場所で翻っていたルージ国王家の旗が、揺らめいたかと思うと、
兵士を連れて一斉に前線に突入してきたのである。あの旗の下に、
パトロエ
ルージ国王子アトラスが居る。
﹁おおっ。戦神よ、感謝します﹂
アトラスと剣を交わすことを望み続けたグライスは、この戦況の
変化を喜んだが、副官ロットラスは眉をひそめた。新たに突入して
きた部隊に、シュレーブ・フローイ連合軍の戦列が食い千切られ、
勢いに任せて突入するルージ兵と入り乱れ、指揮もままならない乱
戦に陥ったのである。敵味方が入り乱れる中、グライスは剣で天を
指し示す姿勢で叫んだ。
﹁アトラス。牙狼王リダルの息子アトラスよ﹂
心根の純粋な若者の叫びは、戦場によく響き渡り、兵士たちの怒
275
号や剣戟の喧噪を超えてアトラスに届いたらしい。アトラスは自分
の名を呼ぶ者の姿を探すようにグライスの方を眺めた。グライスは
存在をアトラスに誇示するように叫んだ。
テツリス
﹁私はフローイ国第一王子グライス。リダルを討った者だ﹂
﹁運命の神の槍の穂先にかけて。ここで巡り会えたことに感謝を﹂
﹁アトラス殿との一騎打ちを所望﹂
﹁おおっ、望むところ﹂
若者の勇敢な名乗り合いだが、戦に長けた者から見れば、未熟で
滑稽な姿に見えたかもしれない。なにしろ、彼らの周りでは両軍の
兵士が入り乱れて戦っていて、一対一の戦いができる状況ではなか
った。しかし、この二人の若者はそれをしようとした。
二人は戦う兵士たちをかき分けるように体を寄せ、一合、二合と
互いの剣を合わせ、盾で相手の剣を防いだが、その間にも傍らで戦
う兵士たちが振るい合う剣、突き出す槍、振り回す盾まで避けねば
ならない。彼らの足下には既に地に伏した兵の死体や、その死体が
投げ出した武器や盾が転がっていて、足下もおぼつかない。その中、
グライスが振り下ろした剣を払ったアトラスが、勢いよく払う盾の
縁で、グライスの脇腹を襲った。剣に手慣れた者が、本来は防御の
為の盾を武器として使うというのは良くあることだった。アトラス
の盾の衝撃は、革の鎧を通して、グライスに呼吸が止まるほどの激
痛を与えた。
ニクスス
痛みに呼吸を崩したグライスに、アトラスが剣を振り下ろそうと
する刹那だった。偶然か、運命の神が定めた運命かは分からない。
グライスの背後で戦い、一時の勝利を収めたフローイ兵の一人が、
戦闘を求めて次のルージ兵を捜した時、その視線の先にアトラスが
居た。兵の槍の穂先は的確にアトラスの左胸を正面から捉えた。
自らも剣を振るってルージ兵と戦いつつも、主人の様子を見守る
のに余念がない副官ロットラスの位置からは、のけぞったアトラス
の背に槍の穂先が貫いて見えた。
そして、アトラスが振下ろしかけていた剣を防ごうと振り上げた
276
グライスの剣は、胸に槍の衝撃を受けて伸ばしたアトラスの左腕を
捕らえた。アトラスの左腕は肘から先が盾をつかんだまま、盾の一
部であるかのように地に落ちて転がった。グライスの動きもそこま
でで、アトラスの盾の衝撃で折れた肋骨の激痛に耐えて剣を地に刺
して体を支えた。
副官ロットラスは新たな叫びに気づいて視線を転じた。
﹁我らが王子をお救い申せ﹂
そんな叫びと共に投げられたバラスの手槍は、再度アトラスを刺
し貫こうとした兵を捕らえた。サレノスがその手兵でようやく確保
していた脱出路から、バラスが突入してきたのである。グライスが
負傷したのを見て取った副官ロットラスも、新手の敵の突入に不利
を悟って剣を鞘に納めて、グライスに肩を貸して前線を離れた。
277
アトラス対グライス︵後書き︶
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<i185587|14426>
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次回更新は土曜日です。物語の最初のターニングポイントになるネ
ルギエの戦いも終了を迎えますが・・・
278
戦いの後
乱戦の中、フローイ国王ボルススは戦の引き際を考え始めていた。
カルネルギエ川の方向を眺めれば、シュレーブ王家の旗が揺らめい
て川辺へと移動する様子が見て取れる。明らかに押されているばか
りではなく、あの様子なら包囲されるsと言う最悪の事態も予想さ
れた。
シュレーブ軍が思いもかけず早く崩れたばかりではなく、包囲に
近い形で壊滅に近い被害を受けるとなれば、全滅と共にシュレーブ
軍と戦っている敵はこちらに向かってくる。そうすれば、フローイ
軍はいよいよ不利になる。
︵兵を退くなら早い内に︶
王ボルススはこの戦況の中でそんなことを決断し始めていた。戦
に負けたとは考えていない。兵を温存して、もう一度、戦う機会を
うかがうのみである。この王はそういうしぶとさを持っていた。
この時、王ボルススには思いもかけず、ルージ軍はやや兵を下げ
た。ルージ軍の陣から響いた長く響く角笛の響きをきっかけに、今
までぶつかり合うように剣を交わしていたルージ軍がやや退き始め
たのである。ただ、その兵士たちの目を見ればまだ戦意は失っては
いない。
そのため、戦に小康状態が訪れた。ボルススはまだ孫のグライス
が、ルージ軍のアトラスと戦って負傷したこと、相手のアトラスも
陣に後送されたことを知らなかった。
王ボルススが気の迷いかと考えた小康状態が続いた。
︵理由は分からぬが、こちらも兵を退く好機だろう︶
クラディック
王ボルススは命じた。
﹁我が緑旗を回せ。退却の角笛を吹け﹂
279
王旗を回して振るのは全軍退却の合図である。もし、敵が付け込
んで突撃してくれば、味方は総崩れにならざるを得ない危険な状況
である。しかし、不思議なことにルージ軍は攻撃に転じることはな
かったばかりか、シュレーブ軍との戦いに勝利したヴェスター軍ま
で、フローイ軍に向かっていたその勢いと方向をルージ軍に寄り添
うように転じた。
両陣営は味方の負傷兵を支えつつ兵を下げ、互いに先ほどまでの
怒りや憎しみを維持したまま距離を置いて睨み合った。戦場に静け
さが戻った。
やがて日没を迎えて、互いの姿が闇に溶け込んで見えなくなるに
つれて、その気配まで戦場から途絶えた。王ボルススはこの戦場か
ら兵を後退させたのである。敵が追ってくる気配はなかった。
王ボルススは、軍をネルギエの村の郊外の陣まで退却させた。今
夜はここで兵を整えるつもりである。ルージ軍と戦い、兵は傷つき、
討たれた有能な将も何人もいる。兵を失った将に新たな兵を与え、
将を失った兵どもに新たな指揮官を与えてやらねば、次の戦ができ
しんがり
ないのである。そして、本格的に退却するなら、敵の追撃を防ぎ、
捨て石になる殿の部隊も決めておかねばならない。
間もなく、王ボルススは、遅れて帰陣した孫が負傷したことを知
った。副官ロットラスに支えられながらも、グライスは自分の足で
歩いて王の天幕に姿を見せたのである。
あばら
﹁おおっ、グライスよ。大事無いか?﹂
﹁肋を何本か。しかし、腕や足は失っておりません。まだ戦えます﹂
グライスはそう言ったが、言葉を発する合間にも、折れた肋骨が
もたらす激痛に口元を歪めていた。祖父としてはゆっくりと休養せ
よと言ってやりたいところだが、現在のどう変わるか分からない状
況を考えれば、そうも言えない。王ボルススはそんな立場を首を傾
げて言った。
﹁しかし、不思議といえば、奴らが兵を退き、追撃してこぬ事﹂
280
王ボルススの言葉に、ロットラスが進み出て言った。
﹁グライス様が、アトラス殿と剣を交わされました﹂
﹁真か?﹂
グライスの顔を伺う王ボルススに、わき腹の痛みに顔をしかめた
のみで言葉を返すことができない。アトラスと戦って得られたもの
は、このわき腹の痛みのみで、勝利の感覚はなかったのである。ロ
ットラスが言葉を続けた。
﹁私には我が兵の槍がアトラス殿の胸に刺さり、その穂先が背を貫
くのを見ました。あれなら生きてはおらぬでしょう﹂
負傷したグライスを救出し、乱戦の中を抜けて脱出するためにじ
っくりと確認したわけではない。結論を避けて口にしなかったが、
敵が優勢なまま兵を退いたという事実を照らし合わせれば、アトラ
スが死んだというのも合点がいく。王ボルススは頷いた。
﹁死んだか。それで奴らもアトラスの遺体とともに兵を退いたと言
うことか﹂
﹁左様でしょう﹂
王ボルススは少し考えて、静かに言った。
﹁あの若造は、勇敢さでやつらの勝利を生み、自らの死でわれらに
勝利を与えて戦の舞台を閉じおった﹂
フローイ軍に手痛い被害を与えたのみならず、シュレーブ軍を包
囲して殲滅するという大勝利は、アトラスが手勢を率いて、シュレ
ーブ・フローイ連合軍の戦列を突破したことだというのである。た
だ、その勇敢さの故に、フローイ軍にその命を奪われ、フローイ軍
にも敵の王子を討ち取るという勝利をもたらした。
﹁グライスよ、良くやった。われらの勝利は、そなたがもたらした﹂
王ボルススはそう評価し、グライスの功績を認められたロットラ
スはうなづいたが、グライス自身は納得していない。アトラスが振
るった盾の衝撃を受けて地に転がり、アトラスが振り降ろす剣を受
けるために、下から振り上げた剣が、偶然にアトラスの左腕を斬り
飛ばした感触は記憶にあったが、わき腹の激痛や乱戦の中の混乱で、
281
アトラスに止めを刺し勝利した感覚はない。よくやったと言われて
も、喜ぶ気にはなれない。
ただ、姉のリーミルの顔がちらりとグライスの脳裏をよぎった。
姉が愛した者の死に、自分が荷担したという事かも知れないが、今
のグライスにはそんな心を整理する余裕はない。
282
銀の腕輪
明くる朝、王ボルススは、物見の兵の報告で、ルージ・ヴェスタ
ー軍が昨日の戦場から姿を消し、先に奪った三つの砦から撤退も始
シリャード
めているた事を知った。国境の砦まで捨てるというのは、彼らがシ
ュレーブ国内を通過し、聖都を攻略する意図を捨て、帰国するとい
うことである。
初夏の戦場の跡には、小雨が降り始めていた。グライスたちは戦
場に戻っていた。戦場に取り残されていた味方の兵の死体を埋葬せ
ねばならないのである。
死体の山の中に、まだ息がある兵士が居た。駆け寄ってみたが、
敵の槍に腹をえぐられて、生き延びる望みはなかった。この兵はこ
の状態のまま一夜苦しみ続けたと言うことである。グライスは渇き
を訴えた兵に革袋の水筒の水を与え、一口飲み干すのを待って、水
筒を短剣に持ち替えた。兵は彼の意図に気づき、それを望むように
こくりと頷いた。兵を苦痛から救う。そんな名目があるにしても、
兵の心臓を貫いた短剣に、グライスは一人の兵の命の重みも背負う
ようだった。
見晴らしのいい地形である。ネルゴーラ川の川辺に目をやれば、
背後はネルゴーラ川で逃げ場が無く、三方から包囲されるよう攻め
立てられたシュレーブ軍が戦っていた場所はシュレーブ兵の死体が
折り重なり、その数は数千に上るだろう。負傷し戦えぬ者も含めれ
ば、全滅と言っていいだろう。
探索の兵たちが、その折り重なった死体の中に王ジソーの姿は見
つからなかったことを告げた。おそらく、少数の護衛に守られなが
ら戦場を脱出するのに成功したのだろうが、何処にいるものか見当
283
がつかない。
グライスは死者の剣や盾が散乱する地を眺めてさまよった。遠目
に見えるカルネルギエ川の川筋と、死体を眺めてみれば、昨日の戦
闘の位置がおよそ見当がつく。しかし、アトラスと剣を交わした場
所を特定することは難しそうだった。
この時、朝日が何かに反射してグライスの目を射た。見つめてそ
の正体を探れば、銀の腕輪である。見事な細工の腕輪でフローイで
作られた物に違いなく、そんな高価な物を身につけるのは兵士では
あり得ない。その腕輪をはめた左腕の側にあるのは、形状から察す
ればルージ軍の盾で、やはり普通の兵士が持つ安価な物ではない。
高貴な者の武具である。
切り落とされた人間の腕という残酷な光景に相対して、グライス
は昨日の記憶を辿った。あのとき、アトラスはグライスの前面にい
て、左腕を払って、この盾でグライスの左の脇腹を襲った。その衝
撃でグライスは地に倒れ、アトラスは止めを刺すようにグライスに
剣を振り下ろそうとした。グライスの左後方にいた兵士がアトラス
に槍を突き出し、その側面にいたロットラスは兵士の槍がアトラス
の体を貫くのを眺めた。アトラスが振り下ろす剣を受けようと切り
上げたグライスの剣が、兵の槍にのけぞるアトラスの左腕を捕らえ、
この銀の腕輪をつけた左腕がここにある。
荒ぶる記憶を整理してもグライスの心は晴れなかった。グライス
はアトラスの左腕を指さし、短剣を渡して傍らの兵士に命じた。
﹁その腕から腕輪を外し、腕と盾と共にこの短剣も埋葬せよ﹂
アトラスが残した左腕と盾、それをグライスの武器と共に埋葬す
る。再び戦場で雌雄を決したいという意思を込めた、フローイの伝
承に基づいた行為である。
﹁腕輪はいかが致しましょう?﹂
兵士の問いにグライスが答えた。
﹁洗い清め、都の姉上にとどけ⋮⋮﹂
グライスは少し考え、言葉を継いだ。
284
﹁いや。姉上には私が持参する﹂
姉の思い人の死を知らせる品物を届けるだけではなく、その状況
も伝えるのが自分の責任だろうと考えたのである。敵味方に分かれ
た戦場で、アトラスが敵国の姫から贈られた腕輪を付けていた。ア
トラスもまたリーミルを深く愛していた。グライスはそう考え、そ
の二人の絆を断ち切ったことに罪悪感を感じているのである。
グライスは遙か南を眺めた。おそらくこちらは小康状態を迎える
シリャード
だろう。しかし、シュレーブ国の南部ではルージ・ヴェスターに賛
同して兵を挙げたグラト国が聖都を目指して攻め上り、シュレーブ
軍の一隊と戦っているはずだ。この勝敗の行方についてはまで情報
はなかった。
戦いはまだ始まったばかりといえた。今は戦を眺めているだけの
国々も、有利な側につこうとするだろう。ひょっとすれば混乱に応
じて隣国の領土を侵して新たな火種ができるかも知れない。アトラ
ンティスの大地を揺るがす戦乱の舞台は幕を開けた。
﹁フェミナ。すまぬな﹂
まだ帰国できそうにない事態を、グライスは都で彼の帰りを待つ
新妻を思い浮かべて、ため息と共に小さく詫びた。グライスの指揮
下にある兵士たちが味方の兵死体の埋葬に混乱し疲れ切る中だが、
ほんの僅か生じた一人の人間としての時間に、妻の思いのみに心を
満たすことは許されて良いだろう。
285
聖都︵シリャード︶のエキュネウス
シリャード
ルージ国、ヴェスター国、グラト国の三国が、アトランティスを
シリャード
解放すると称して、聖都へ兵を向けた。聖域に兵を向けるという一
見すれば矛盾する事態も、聖都中央に占領軍たるアテナイ軍が駐屯
していると言うことを知れば納得がゆく。
占領軍アテナイの若き武将エキュネウスもそこにいた。砦を一歩
スーイン
スーイン
出れば、春から初夏にかけてアトランティスの王たちが集う議会が
ロゲル・スリン
あり、神帝の館があった。その神帝が、ルージ国の者に暗殺されて
シリャード
スーイン
逝去したという布告が、六神司院によってなされたのは二週間前の
ことである。今は聖都の民に神帝の喪に服すようにとの布告が出て
いる。
重大事件の直後にもかかわらず、人々の生活は平穏に見える。後
難を恐れるように、表だって布告に異議を唱える者は居なかった。
占領者たるアテナイ軍が危惧するのは、事件に関わりを噂されて、
人々の憎しみがアテナイ軍に向くのではないかと言うことだが、も
ともと占領軍として憎まれていた以上の憎しみは、減りもしないが
増す気配もない。
ロゲル・スリン
興味深いのは、暗殺者として布告されたルージ国の者どもへの憎
しみも感じられないのである。人々は六神司院の布告を必ずしも信
じては居ないと言うことである。
イドポワの門と呼ばれる土地でルージ国の王リダルが戦死したと
いう報告に続いて、ネルギエの地で起きた、シュレーブ・フローイ
連合軍と、ルージ・ヴェスター連合軍の戦いの結果が伝わった。伝
えたのはシュレーブ国やフローイ国の者どもで、互いに功を競って
自国の戦功を吹聴しているが、フローイ軍が千名を超える死傷者を
出したことやシュレーブ軍が全滅に近い被害を被った事には充分に
286
触れられていない。
ロゲル・スリン
アテナイ軍は彼らに内通する六神司院を通じてその情報を得た。
︻勝利が誇張されているのではないかな。激戦を戦ったにしては、
アテナイ軍司令官エウクロスの
シュレーブ軍やフローイ軍の損害が少ないようだが︼
ロゲル・スリン
疑問に、六神司院の使者は薄ら笑いを浮かべて答えた。
︻そこはそれ。あの高慢な王子が討ち取られたとのこと。ルージ軍
など総崩れになったということでありましょうよ︼
︻アトラス殿が?︼
︻左様︼
︻亡くなったという証拠でも?︼
︻フローイ兵の槍に胸を貫かれ、更にフローイ国王子グライス殿に
左腕を奪われ、腕に付けていた腕輪は、証拠としてフローイ国が所
持しております︼
︻なるほど︼
エウクロスは短くそう言って頷いた。シュレーブ・フローイ連合
軍の一方的大勝利の不自然さも、ルージ国王子アトラスの戦死を聞
けば納得して受け入れられるように思われたのである。
二人の傍らで会話を聞いていたエキュネウスは呟いた。
︻モイラの糸が断ち切られたか、それとも、ニケに見放されたか︼
アトラスの死が、人の運命や寿命を司る女神モイラの定めであっ
シリャード
たのか、勝利の女神ニケに見放されたか、そのどちらだろうと考え
たのである。
考えてみれば、互いの誤解だったが、エキュネウスはこの聖都で
アトラスと剣を交わしたことがあった。彼はその折りに、アトラス
に言ったことを覚えている。
︻軍神アテーナーが我々二人を戦場で相まみえさせるように︼
アトラスの死は、軍神アテーナーはがエキュネウスの願いを聞き
入れなかったと言うことである。彼は右腕に、アトラスと交わした
287
剣の衝撃を思い出した。
︻アテーナーよ、アレースよ。私は祈る神を誤ったのでしょうか︼
シリャード
エキュネウスは戦を司る二神の名を挙げて心に問うた。アトラス
がこの聖都に攻め寄せるというイメージがあって、無意識に防御的
な戦を司るアテーナーに祈りを捧げたが、血まみれの戦場を背景に
した軍神アレースに祈るべきであったかと言うのである。剣を交え
た時、彼はアトラスに言葉を投げかけられた事には気づいていても、
アトランティスの言葉を解しないまま、その意味に気づいていない。
﹁この次は、戦場にて﹂
アトラスがエキュネウスに言い放ったその約束の言葉は、奇しく
もエキュネウスがアトラスに投げかけた約束と同じ意味だった。た
だ、アトラスの言葉は神を介在せず、彼の戦いの意志のみ感じさせ
る。
エキュネウスはふと一人の女性の面影を思い浮かべた。亡くなっ
たアトラスと夫婦になる予定だったエリュティアの姿である。彼女
の姿が美しく儚い。ただ、その姿に哀れさのみではなく、エキュネ
シリャード
ウスの愛の切なさも感じさせた。
今、その女性はこの聖都を貫いて流れるルードン河を遡ったシュ
レーブ国の都パトローサにいる。
288
都パトローサのエリュティア
アナラス
シュレーブ国の都パトローサ。王宮から離れてパトローサ郊外に
ドリクスの館があった。真理の神ルミリアの弟で創造の神の神殿の
神官の一人だが、王の一人娘エリュティアの教師という役割を持っ
ていて、この館が与えられている。その建物は簡素だが、広い庭園
に囲まれた美しい館である。庭園はベンチが一つ、北向きに置かれ
て、その背後に格子に組んだ壁と屋根がある。この時期はその格子
にブドウの蔓が茂って直射日光を遮って木陰を作っている。庭園に
咲き乱れる花々に蝶が舞い、樹木にはそこを巣にする小鳥たちがさ
えずっていた。
ドリクスはエリュティアをこの庭園に招いていた。ここのところ
憂鬱で落ち着きのない様子が絶えない生徒のためである。エリュテ
ィアはそんな庭園を散策していた。ドリクスは彼女を一人でそっと
して置いてやりたいと考えたが、乳母のルスララだけは彼女に尽き
っきりだった。
乳母ルスララが言った。
ルミリア
﹁血なまぐさい戦のことなど、殿方にお任せなさいませ。エリュテ
ィア様はただ、真理の神が私たちを守るように、このシュレーブ国
の民を見守っていればいいのですよ﹂
﹁そうなのでしょうか﹂
シリャード
この瞬間、エリュティアが考えていたのは戦のことではなかった。
聖都で彼女が嫁ぐべき相手と引き合わされたアトラスのことである。
彼女は小さな守り袋の中の真珠を握った。その感触が困惑する心を
静めてくれるのである。袋をあけで眺めれば真珠特有の輝きはなく
なっている。アクセサリーとして身につけた後、汗や皮脂を丁寧に
拭き取って手入れをして保管せねば、輝きを失ってしまうのである。
困惑ばかりが増えるこの世界で、彼女は心の平穏を保つために、肌
289
身離さず持っていたということだった。
ただし、そのアトラスも、今は彼女が良く理解できない理由で敵
国の王子となった。その名を呟くことが周囲の人々の思いをかき乱
すことに気づいた彼女は、今はアトラスの名を口にすることはなく
なった。
﹁いかがなさいました?﹂
ルスララはエリュティアの微妙な表情の変化に気づいてそんな声
を掛けた。不満や怒りを見せることが少ない従順な少女だが、この
時のエリュティアは、足下の地面の一画を見つめ、やや眉を顰めて
哀しげな顔をしたのである。
この庭園の植物は、慣れた園丁が丁寧に世話をしているが、時折、
可憐な花を付けた草花が雑草と呼ばれて、観賞用植物の生育に邪魔
にならないように、引き抜かれ捨てられている。
エリュティアが見つけたのは、そうやって片隅に抜き捨てられた
植物である。エリュティアがしゃがみ込み、うち捨てられた草花を
両手ですくい取ったばかりではなく、大切に眺めるように胸に抱い
たため、土がこぼれてドレスの胸元を汚した。そんな彼女の姿にル
スララが悲鳴を上げるように言った。
﹁姫様。お手が汚れます。お捨てなさいませ﹂
エリュティアは、その言葉が理解できぬという風にちらりとルス
ララの表情を伺ったが、きっぱりと言い切った。
﹁私は、この草花を育てたいのです﹂
﹁他に美しい花がいくらでもございましょう。それ、そこのサーフ
ェの花などいかがです。ドリクス様にお願いして一株頂いて参りま
しょう﹂
﹁私はこちらの花が良いのです﹂
こういう場合のエリュティアは頑固なほど意固地になる。それを
知っているルスララは、ため息をついて彼女に妥協した。
﹁では、ここでお待ち下さいませ。その花を生ける容器を何か探し
て参りましょう﹂
290
ルスララは足早に立ち去った。容器といったが、彼女はエリュテ
ィアが汚してしまった衣類の着替え、頬や手の汚れを洗う水や布の
手配をせねばならぬと考えていた。
この時、エリュティアがクスリと笑ったのは、ルスララの良く気
がつく様子を愛でたのか、胸に抱いた草花の束から小さな赤いテン
トウムシがはい出してきたのに気づいたのかどちらだろう。素直な
少女は、乳母の言いつけ通りそこで待ち続けた。
﹁通らせてもらうぞ!!﹂
苛立ちの籠もった怒鳴り声が響いてきたのはそんな時である。
291
アトラスの死とエリュティア
﹁困ります。お待ち下さい﹂
﹁お前たちでは話にならぬ﹂
﹁ここはドリクス様のお屋敷です﹂
﹁だから、余人を交えず会わせろと申しておる﹂
エリュティアが声の方向に視線をやると、甲冑に身を固め腰に剣
を帯びた三人の男たちと彼らが従える兵を、園丁たちがが押しとど
めているという姿だった。更に館の召使いどもが加わったが、何分、
武装し剣をちらつかせる恐ろしげな男たちだけに、取り囲むのみで
侵入を阻むことが出来ない。
その侵入者たちは一人の少女の前で立ち止まった。もともと彼ら
の進路上にいたエリュティアが逃げもせず立ち止まっていたために
遭遇したと言うことである。男の一人はエリュティアを眺めて考え
た。高貴な者が着用する衣装を身につけているが、頬や手や衣類は
泥で汚れている。大方、ドリクスに仕える巫女に違いないと。その
少女が彼らに命じた。
﹁そこから、どきなさい﹂
男たちは少女の言葉を理解しかねて顔を見合わせた。ただ、彼ら
の猛々しい様子を恐れる様子が無いことは見て取れた。広大な野原
にある小さな館を、野原に咲き乱れる四季の花々が包んでいるとい
う、自然を意匠した庭である。そこには花壇があるわけではなく、
花々の間を縫って通る小道がある。男たちはその緩やかな曲線を持
った小道を通らず、花々を踏み荒らして真っ直ぐ通ってきたと言う
ことである。
エリュティアは繰り返した。
﹁ニメーナスの苗が育っています。そこから、どきなさい﹂
ニーメナスという草花がこれからの時期、大輪の黄色い美しい花
292
を付ける。エリュティアは男たちにその苗を踏み荒らすなと命じて
いるのである。反論を試みた男たちは息をのんだ。彼らを見つめる
エリュティアの瞳に恐れも迷いもなく、凛と澄んでいて妥協の余地
を感じさせなかった。先ほどまで、あれほど荒々しかった男たちは、
一転して温和しく命令に従った。
そんな様子を、館から出てきたドリクスが黙って眺めていた。そ
の女性はシュレーブ国の王女だと説明し、ドリクスが介入する余地
もなく、エリュティアは男たちの荒々しさを鎮めてしまったのであ
る。沈黙する男たちに、ドリクスは笑顔を浮かべて問うた。
﹁私がこの館の主人ドリクスです。荒々しいお姿だが、我が館にど
のようなご用で?﹂
先頭の大男が声を張り上げた。
﹁おおっ、そなたがドリクス殿かっ﹂
男はそこまで元気よく言って、言葉を途切れさせた。再び、エリ
ュティアの視線を浴びたのである。怒りや憎しみの感情とは無縁の
少女らしいが、口を一文字に結び眉を顰めた不満げな視線が男を圧
した。
﹁静かになさいませ。人々やピピスが怯えます﹂
エリュティアは命令とその理由を説明した。確かに、武装した男
たちが張り上げる大声で館の人々は騒然としていたのである、しか
し、ピピスとはなんだろう。男たちは首を傾げた。
﹁ピピス。おいで﹂
エリュティアの呼びかけに、館の影でこちらを伺っていた動物が
飛び跳ねるように駆けてきた。アトランティスの人々がミットレと
呼ぶ、小型犬ほどの大きさの鹿の仲間である。臆病な動物だが、良
く懐いていて、エリュティアがピピスを眺める視線も優しく和らい
だ。彼女のペットらしい。
﹁無礼の段、申し訳ございませぬ。なにぶん都の儀礼に疎い田舎者
ゆえお許し願いたい﹂
後方にいた青年が進み出て礼儀正しく頭を垂れて謝罪し、言葉を
293
続けた。
﹁私は、我らが王より北のゴダルク地方を預かる領主ストラタスの
三男トラグラスと申します。こちらは長男のエルグラス、続いて次
男のオログデス。お目にかかれて光栄に存じます﹂
﹁そのストラタス様のご子息三人が何のご用かな﹂
ドリクスの問いに長兄エルグラスが答えた。
﹁父より200の兵を率いて王宮の警護に行けと。﹂
﹁そう言う話ならば、ディメラス殿が王不在の間の兵権を預かって
居られる。王宮にディメラス殿を尋ねられよ﹂
﹁いや、父がドリクス殿を訪ね、その意に従うようにと﹂
エルグラスの言葉に、ドリクスは笑顔の中でぴくと眉を動かした。
この青年たちの父親の意図が知れた。ドリクスがジソー王の傍らに
侍り知恵を授ける人物だと気づいていて、ドリクスに接近を謀って
いると言うことである。
﹁しかし、ご覧の通り、我が家には兵員は不要﹂
﹁それがドリクス殿のご意志なら、それに沿うのみ﹂
﹁しかし、何故兵など挙げられた? 加勢に向かうのならネルギエ
の地の戦場でありましょう﹂
﹁まだご存じないのですか﹂
﹁何を?﹂
﹁ネルギエの地の戦いで、ジソー王が率いる我が軍が全滅するほど
の大敗を帰したと﹂
﹁まさか﹂
﹁ヴェスターの捕虜になった数百の兵を除けば、ほぼ全員が戦死し
たと﹂
﹁我らが王はいかがされた?﹂
ドリクスの問いはエリュティアも最も知りたいことである。
﹁王は勇敢にも敵の包囲を突破し、イングバス殿の領地で再起を図
って居られます﹂
次男オログダスの言葉にエリュティアは安堵のため息をついた。
294
トラグラスがそんなエリュティアを励ますように言った。
ルミリア
﹁王が直属の兵を失っても、まだ我らがおります。真理の神に反旗
を翻す輩は、我らの手で討ち取ってみせましょう﹂
ドリクスが問うた。
﹁我が王の兵を全滅させるほどの精強なルージ軍と戦って勝利する
というのですか﹂
﹁なに、奴らはリダルを失い、今度の戦いでアトラスまで戦死した
となれば、残るルージ軍など烏合の衆です﹂
エルグラスの言葉に、エリュティアが叫ぶように問うた。
﹁アトラス様が亡くなられたのですか﹂
﹁その通り。兵士の槍に心の臓を貫かれ、斬られた腕を残して、ル
ージ軍はその死体を陣へ持ち帰りました﹂
﹁アトラス様が亡くなられた⋮⋮﹂
エリュティアは小さく呟いて、全身から力が抜けたようにその場
にしゃがみ込んだ。傍らのルスララが支えなければ地面に倒れ込ん
でいただろう。この時のエリュティアの心を読み解けば、感じたも
のは愛する者が亡くなったという衝撃ではないない。彼女は朧気な
がら、このアトランティスの社会が大きな混乱の中にあることに気
づいている。彼女が胸に抱えた草花と、人々が困窮する様子を重ね
て、何も出来ない自分に心を痛めてもいた。その中で、アトラスが
アトランティスを救う人物というイメージをすり込まれた彼女が、
アトランティスを救う支柱を失ってしまったという心の動揺だった
ろう。
泥にまみれたエリュティアの姿から、彼女をこの館の下女の一人
と信じて疑わない三人の兄弟は、彼女の名を確認することもなく足
早に去った。
エリュティアの心はまだ幼子のようで、男女間の愛の存在など実
感として感じることも出来ないらしかった。そんなエリュティアに、
ピピスが寄り添って慰め励ますように、湿った鼻面で彼女をつつい
ていた。アトラスが彼の本心をさらけ出すことが出来るのが愛馬ア
295
レスケイアだけなのと同様に、エリュティアが本当に心を通わせる
ことが出来るのはこの物言わぬピピスだけかも知れない。
そんなエリュティアと対照的に、悶々とする心の思いを整理した
時に、精製されて正体が明らかになったものがアトラスへの愛だと
気がついたリーミルがいる。彼女はいま、この都パトローサから西
へ、山岳地帯を抜けたところに位置するフローイ国の古い都ランロ
イにいる
296
カイーキのフェミナ
王ボルススと王子グライスが率いるフローイ軍が出陣して、優に
二週間が過ぎた。過ぎ去った正確な日にちは生活の記憶を整理しな
ければ分からない。愛する者が生きて帰る日を望んで待ち続ける女
たちにとって、長い時の流れだった。
夫グライスを戦場に送り出し、都カイーキの王宮で彼の帰りを待
つフェミナもそんな一人である。
﹁そうだわ。ナナエスの神殿にも貢ぎ物を﹂
フェミナが口にしたのは真理の神ルミリアの息子で、人間の寿命
や生死を司る神の名である。戦に出た夫の身を案じる妻の姿だった。
彼女の居室にお付きの侍女を一人伴って姿を見せたリーミルは、
やや冷静に語りかけた。
﹁落ち着きなさいな。フェミナ様。それにナナエスはパトロエと相
性が悪いともいいます。祈るならフェイブラになさればいかが﹂
人の寿命を司るナナエスは、勇者を愛し戦いの帰趨を決める戦い
の女神パトロエと、人の生死に縄張り争いがあって仲が悪いとされ
ている。両方に願うのは神の怒りを買うことになるかも知れない。
戦いの神パトロエとあわせて夫の無事を祈るなら、夫婦の愛を司る
フェイブラにするのが無難だろう。
フェミナはここのところ、神への祈りと貢ぎ物を欠かしたことが
ない。ただ、リーミルはその点では現実的だった。神に捧げる供物
があれば前線の兵士の食料として届けてやる方が良い。ただ、フェ
ミナの愛は一途でそんな義姉の意図には気づいていない。
﹁ああっ、姉上様。そういたします﹂
フェミナはそう言って、侍女たちに命じた。
﹁では、フェイブラの神殿の神官たちに祈りの準備を﹂
そして、慌ただしくリーミルの方を向き直って尋ねた。
297
﹁私は、今からフェイブラの神殿へ。姉上さまもご一緒なさいませ
んか﹂
フェミナの誘いをリーミルは笑顔で断った。
﹁いえ。私は今からランロイへ行きます。四、五日都を空けるので、
その挨拶に参りました﹂
リーミルが親しさを込めながらも丁寧な言葉遣いをするのは、彼
女の目から見て未だ世間知らずの貴族の娘に、次の王妃という立場
をさりげなく自覚させるためだったのかもしれない。リーミルが不
在の間、この都を取り仕切ってもらわねばならない。
リーミルは儀礼に乗っ取ったお辞儀をし、未来の王妃の居室を去
った。
年老いた侍女は居室を振り返って笑顔を浮かべた。
﹁あの方も、家にお着きになったということでしょうか⋮⋮。いえ、
下賤の者の言いよう、お許し下さいませ﹂
しゅうとしゅうとめ
﹁ルタガラ。気にしないで。貴女の言うとおりだわ。でも、まあ、
ここには気むずかしい舅や姑はいないから﹂
リーミルは先ほどの堅苦しい雰囲気を消し去り、気さくに笑いな
がらそう言った。﹁家に着く﹂というのはフローイ国の一般庶民が
よく使う表現で、嫁いできた女性が新たな家になじみ、家族の一員
になったということをそう表現しているのである。
先日、イドポワの戦いの戦勝の報告がこのカイーキにももたらさ
れていた。戦に勝利したばかりではなく、夫グライスがアトランテ
ィス随一の勇者リダルを討ったという報告に、フェミナは喜びを見
せるどころか、夫がそんな危険な目にあっていたのかという驚きと
恐怖を隠せないでいた。夫の生還を待ち望む妻の自然な姿かも知れ
ない。
そんな姿を思い起こしてみれば、ルタガラの言うとおり、フェミ
ナはこのフローイ王家の一員になりつつある。
298
ランロイのリーミル
フローイ国の旧都ランロイは、新都カイーキの北東、徒歩一日の
場所に位置する。重い荷物を満載した荷車を押しても一昼夜の距離
である。新都の建設と共に政治や文化的な機能は薄れたが、北部か
らカイーキへ向かう主要な街道が交わる地点から近く、現在でも新
都を遙かにしのぐ商業の中心地である。
﹁やはりこちらの方が落ち着くわ﹂
ランロイの町並みの中を一人で歩くリーミルはそう呟いた。美し
いが堅苦しさのあるカイーキとは違い、ここはフローイの人々の気
質に良くなじんだ町である。何より、人手が加わって人工的に作ら
れたという雰囲気が無く、雑多だが町に集うこと人々と共に育つよ
うに拡大した自然さがある。
彼女自身、この雰囲気に染まるように庶民の娘の衣類を身につけ
ていた。ただ、幼い頃から気さくでお転婆なリーミルは町の人から
も愛されていて、町を散策する庶民の衣装の彼女が、この国の王女
だと気づかぬ者は、他国から来た商人ぐらいのものだった。
リーミルの目的はランロイの散策ではない。フローイ国は軍の主
力をイドポワの門へ送った。その後、国内に残された兵士の中から
五百と三百の部隊を編成して本隊の増援に送った。国の北と西は海
で、東と西は山岳地帯である。他国の大軍が、現在のフローイ国の
隙を突いて攻め寄せる危険は感じては居ないが、北部で力を付けて
きている山賊どもの討伐や、遠征中の王ボルススが更に増援を求め
てきた場合の手はずも整えねばならないのである。判断を下すべき
王も、その王の跡を継ぐグライスも不在の今、この国の政の決定を
下すのは彼女の役割である。
そんな彼女にすがりつくように声を掛けてきた者が居る。一人の
老女だった。
299
﹁リーミル様。うちの息子が戦に出ています。戦の様子を何かご存
じでしょうか?﹂
町に布告される情報や町を行き来する行商人たちから得られる情
報は僅かで愛する人の生死を知りたいと考える人々の不安を癒すこ
とが出来ないのである。老女に誘われるように行き交う人々が足を
止めた。
﹁私の夫が⋮⋮﹂
﹁私の兄が⋮⋮﹂
﹁父がレルマナス将軍の元におります⋮⋮﹂
家族を気遣う者たちは口々にリーミルに安否を尋ねた。
﹁私たちの軍は精強です。そして共に戦うシュレーブ軍は一万もの
軍勢を動員してるわ。精強さと数で反乱軍どもを上回っているだけ
パトロエ
ではありません。アトランティスの大地に歯向かう者たちに神のご
加護は無いでしょう。戦の女神のご加護は私たちに。その証拠にル
ージの牙狼王リダルは、既にグライスが討ち取りました。反乱軍の
残党が残らず討ち取られるのも間近でしょう。あなたたちは、夫や
息子、兄弟や恋人、家族の平穏をフェイブラに祈りなさい﹂
家族の安否を問う者たちばかりではなく、道を行き交う人々も足
を止めてリーミルの言葉を聞いていた。その中に一人、リーミルと
顔を合わせないように、物陰で顔を伏せていたが、彼女の言葉を一
句たりとも聞き漏らさぬよう耳を傾けていた男が居た。ルージ国王
リダルの長子ロユラスである。ロユラスは心を整理するようそっと
呟いた。
﹁噂は本当だったか﹂
ランロイに来て以来、フローイ軍のイドポワの門での戦勝とルー
ジ国王リダルが戦死したという噂は耳にしていた。しかし、それは
民の願望から来る噂かも知れず、慎重なロユラスは事実を判断しか
ねていたのである。しかし、今、王女の口から直接にそれを聞いた。
この時、このランロイにある王の館の方から使いの者が駆けてき
た。
300
﹁伝令でございます。リーミル様には至急カイーキにお戻りあれと﹂
使いの者は乱れた呼吸の中でそう言って、クスナの板をリーミル
に手渡した。腕で抱え込めるほどの大きさの板に情報が記載されて
いる。リーミルがその包みを解いた時、伝令が民衆に向けて喜びの
声を上げた。
﹁皆の者、戦勝の報じゃ。我が軍はネルギエの地で、神に歯向かう
者どもと戦い、これを打ち破った。グライス様がルージ国の王子ア
トラスを討ち取って、奴らを完膚無きまで打ちのめしたぞ。戦争が
終わるのも間近じゃ﹂
使いの言葉に沸き立つ民衆の中央で、リーミルはクスナの板の文
字を追っていた。
﹁アトラスが、あのアトラスが⋮⋮﹂
そこには、先ほどまで民衆に朗らかに語りかけていた女性の姿は
なかった。リーミルは顰めた眉に、困惑と悲痛さを覗かせていた。
そんなリーミルを、ロユラスは何も言わずに見つめていた。
301
ランロイのリーミル2
リーミルはクスナの板に書かれた文字をじっと見つめていたかと
思うと、意を決したように布で包み直して使いの者に返して言った。
﹁都には、私が用を済ましたら直ぐに帰ると伝えなさい。それほど
時間はかからない﹂
戦勝の報に沸き返る民衆たちの声を通して伝えたリーミルの声も
大きく、ロユラスにも彼女の言葉が届いていた。足早に立ち去るリ
ーミルは、自分の後をさりげないふりで追うロユラスには気づかな
かった。
リーミルが足を向けたのは、この旧都に存在する王ボルススの館
である。王位に就けた息子が新都カイーキを建設したものの、海外
の遠征で戦死し、ボルススは再び王の地位に戻った。カイーキの華
美な雰囲気を批判したことのない男だが、この旧都の雰囲気を好む
らしく、今でも何かと理由を付けてこの町の館に逗留する。
そのため、この町にはカイーキに次ぐ兵の駐屯地だった。王の館
を警護する兵士たちの数は多く、館に近づくにつれて兵の姿は街道
をあふれかえるほどだったはずである。しかし今は館の警護に任ず
る少数を除けば、兵の姿はほとんど見かけない。
短期間で勝利をものにするために、王ボルススは一気に二千五百
という大軍を率いて出陣し、更にその後も増援の兵を求めてきた。
今のフローイ国に残るのは治安維持に任ずる兵力のみということで
ある。
﹁あのアトラスが⋮⋮。戦死なんて。なんて、間抜けな奴。なんて、
愚か者。なんて、⋮⋮﹂
滑稽な呟きだった。その死を信じたくないというリーミルの思い
が、彼女にアトラスに対するののしりの言葉をそっと呟かせたので
302
ある。その怒りは弟にも向いた。
﹁グライスの嘘つき。アトラスを討つ戦は、私に譲ると約束したは
ず﹂
クスナの板には、ネルギエの戦いの顛末と、南から攻め上がって
くるグラト国との戦場へ移動する事が伝えられていた。シュレーブ
国北部のルージ国とヴェスター国との戦いは王リダルと王子アトラ
スの死で、勝利に近い形で終わりを迎えたが、未だ南の戦の決着は
ついていないのである。
303
ランロイのロユラス
リーミルは背後に人の気配を察した。リーミルが立ち止まってみ
ると、足音も止まる。一定の距離をおいてついてくる足音には存在
を隠そうという気配はない。
﹁誰? えっ⋮⋮﹂
振り返ったリーミルは息をのんだ。背後にいた男に、今まで考え
続けていたアトラスの面影を感じ取ったからである。むろん、男は
ロユラスである。リーミルはこの不思議な男には新都カイーキで出
会った覚えがある。
﹁お前、何者?﹂
リーミルはそう尋ねながら、近づくロユラスの足を払って倒そう
としたが、男は器用に彼女が繰り出した右足を避けた。
﹁今日は正体を聞かせてもらうわよ。腕づくでもね﹂
リーミルはそう叫んでロユラスの顔面に拳を繰り出したが、ロユ
ラスはそれを避けてくるりと背後に回り込んで、リーミルを背後か
ら抱きしめた。背後から両腕ごと体を抱きしめられると、リーミル
は攻撃手段を封じられたように見える。幼い頃からお転婆で剣技や
格闘技も学んでいて、男をあしらう自身もあったがあっさりと押さ
え込まれてしまったのである。一方、ロユラスはもともと格闘技の
素質があったのかも知れないが、リーミルの攻撃を避けた軽快な身
のこなしは、小舟で漁をする時に体得したものである。
﹁何者かと? お忘れとは嘆かわしい。以前お会いした商人のロユ
ラスでございます﹂
リーミルの背後からそう囁くロユラスの腕は優しく温かでリーミ
ルに危害を加える気配はなかった。リーミルは笑顔で振り返って尋
ねた。
﹁商人なんて、嘘。本当のことをおっしゃい﹂
304
﹁私はしがない小さな町で生活を営んでおります。今はこの地で大
きな商いが出来ないかと考えておりました﹂
﹁その商いで他国に売る物は、このフローイの有様と動向?﹂
彼女はロユラスにこの国を探りにきたスパイかと問うのである。
彼女は穏やかにそう話しながら突如、右膝を勢いよく上げた。その
まま踏み下ろして踵で背後のロユラスの足の甲を砕くつもりである。
しかし、彼女は踵が地を踏みつける衝撃と痛みで眉を顰めた。彼
女の体の筋肉の動きを腕に感じて彼女の意図を悟ったロユラスは、
太い腕をほどいて彼女と距離を取ったのである。痛む右足をかばっ
てよろめくリーミルに、ロユラスは心配そうに声を掛けた。
﹁お怪我はないですか?﹂
﹁大丈夫よ。お前を王の館に連行するまではね﹂
﹁王の館まで行かれるのですか。それなら、途中までですが⋮⋮﹂
ロユラスはそう言って、リーミルを抱き上げて歩き始めた。
﹁お話でも伺いながら、私が館までお送りいたしましょう﹂
︵なんて、ふざけた男︶
おそらくそのイメージが、ロユラスをアトラスと区分する点だっ
たろう。顔立ちは似ている。しかし、腕に抱かれて眺める男の顔は、
妙な自信と野望に満ちていて、荒々しい行動の内側に子犬のような
愛らしさを感じさせるアトラスとは別人である。
彼女は辺りを見回した。しかし、王女を侮辱するこの男を捕らえ
よと命じるべき兵士の姿はなく、民衆の姿ばかりである。民に武術
に練達しているように見える男を取り押さえるよう命じて、非力な
民の身に危険が及ぶことは避けねばならず、何より、民に助けてく
れと懇願するのはリーミルの誇りが許さなかった。
彼女は気分を変えて微笑みながらロユラスに尋ねた。
﹁スクナの板に書かれていたこと、気になる?﹂
﹁なんのことでしょう﹂
﹁ルージ国の敗北、王リダルのこと、王子アトラスのこと。お前の
死んだ家族の事よ﹂
305
リーミルは敢えて、リダルとアトラスを男の家族と称した。しか
し、ロユラスはぴくりと眉を動かした以外、動揺するそぶりを見せ
ない。リーミルの推測は的外れだったのかも知れない。
﹁商人にとって気がかりは、この戦をいつ、どんな形で終わらせる
のかと言うことですよ﹂
﹁お前の手で終わらせるような口ぶりね﹂
﹁神々が、私のその運命を与えてくださるのなら﹂
﹁神に歯向かう反乱軍など、直ぐおじいさまの軍によって鎮圧され
るでしょうよ﹂
﹁これから戦うグラト軍のこと。北方で勢いづく山賊たちのこと﹂
ロユラスが笑顔で言った言葉は、リーミルの心の奥底の心配事を
言い当てていて、はからずもリーミルは動揺する表情を浮かべた。
ロユラスは彼女を優しく抱え直し、彼女の表情を評して言った。
﹁なんと素敵で素直な王女様だ。知りたいことを可愛いお顔で教え
てくださる。﹂
リーミルの表情で、指摘したことがリーミルの気がかりなと事だ
と分かったというのである。相手の心を探るつもりが逆に探られて
しまったのである。
﹁ほらっ、館が見えて参りました﹂
﹁ロユラスとやら﹂
﹁何か﹂
﹁お前が何者かはもう問いませんし、そんなことに興味はない。で
も、その厚かましさと大胆さはフローイ向きね﹂
﹁それも正直者故の資質でございましょう﹂
﹁私に仕えなさい。今の雇い主が出している報酬の倍の銀貨で貴男
を雇いましょう﹂
ニメシス
﹁商人にも、自由と道義がございます。いきなり立場を変えるなど
商業の神が許さぬでしょう﹂
﹁私の申し出を断れば、兵に命じて貴男を追わせるわよ﹂
﹁それは無理というものでございましょう﹂
306
そう言いながらロユラスは辺りを大げさに見回してみせた。そん
な目的に使える兵士が何処にいるのかと言うのだろう。この男はフ
ローイ国内に残る兵士の少なさに気づいているのだろう。ただ、ロ
ユラスはその点には触れず別の理由を挙げた。
﹁リーミル様は私を追うより、カイーキに帰る必要があるのでは?﹂
﹁お前に指図される気はいわ。私が歩む道は私が決めます﹂
﹁では、お好きになさいませ﹂
ロユラスはリーミルを優しく地に下ろし、見えてきた館の門番の
兵に手を振って、ここに王女様が居るぞと教えた。
﹁リーミル様。私を追うにせよ、グラト国と戦うお味方に増援を出
すにせよ、まずは軍を編成する必要がありましょう。あの二人の兵
士ではあまりに少なすぎます﹂
ロユラスは駆けてくる二人兵士を眺めてそう言い、リーミルに背
を向けて立ち去った。
リーミルはふと気づいて頭部に手をやった。髪飾りで頭部にまと
めていたはずの髪が、肩にかかって、風にそよいでいた。ロユラス
相手に立ち回りを繰り広げた時に無くしてしまったか。
︵気に入っていたのに︶
彼女はそう呟いたのが失った髪飾りのことかロユラスの興味深い
人柄のことかどちらか区別はつかない。しかし、リーミルには彼を
追う理由がなかった。王ボルススがスクナの板で知らせてきた状況
に早急に対処せねばならない。
307
ランロイのロユラス︵後書き︶
第二部から読まれて、リーミルとロユラスの関係をもう少し詳し
く知りたい方は、第一部42∼43話をご覧下さい。
次回更新は4月16日の予定です。ルージ国に居たはずのロユラ
スが、どうしてフローイ国に姿を見せていたのか明らかになります。
物語は来週までロユラス視点で続きます。ロユラスは彼自身が思い
もかけない方向へ物語を導いてゆきます。
ちなみに、現在のアトラスはヴェスター国の都レニグに後送されて
静養中。王リダルが兵士チッグスに託した剣と共に、物語はさらな
る展開を・・・
単調な展開だったこの物語も、今後は大きく動き始めます。ご期待
下さいね。
308
ロユラスの母
タレヴォー
﹁フローイは蛮族を積み、ルージは馬を積む﹂
アトランティスにそんな言葉があった。過去の海外遠征で、アト
ランティスの国々は各地の財貨や領土を求めて転戦した。現在のア
トランティスの様相を現すように、各国は連携がとれず一致団結し
て戦ったわけではなく、各国国王の望むままに戦をした。その中で、
たまたま、王の気質が合ったフローイ国とルージ国は共に戦うこと
が多く、この二国は比較されることが多い。
銀山など鉱物資源に富むフローイ国は、それを採掘する労働力を
欲し、戦で得た捕虜や降伏を拒んだ各地の小部族の民を鉱山奴隷と
してフローイに送った。一方、もともと勤勉で労働を苦にしないル
ージ国の人々は、日々の生活の補助に使う奴隷など欲しなかったし、
大規模な採掘をする鉱山もなかった。ただし、ルージの人々は異国
で初めて見た馬に興味を示した。慣れれば人に忠実に仕え、人や物
資に運搬に、人の何倍も役立つというのである。彼らは帰国の船に
奴隷ではなく馬を積んだ。
その差は現在の両国の姿の違いに繋がっている。フローイは奴隷
たちのおかげで銀を始めとする鉱物の採掘量を増やし、財力で潤っ
ている。ルージはアトランティスにおいて、馬の一大産地となった。
﹁銀細工を求めるならフローイへ。名馬を求めるならルージへ行け﹂
現在の商人たちから両国はそう語られる。
ロユラスの母はギリシャの小部族出身の女性だが、奴隷という身
分ではない。二十年以上にわたるアトランティスの海外遠征の最後
の年に、リダルと共にルージにやってきた。強引に連れ去ってきた
のだろうと噂されていたが、ロユラスはリダルからそのいきさつを
聞いたわけではない。
309
母を故郷に帰して懐かしい景色を見せてやりたい。それがロユラ
スの密かな願いである。ただ、その故郷を母に問うた時、母は哀し
げな顔をするのみで痛ましい記憶を封じるように思い出話をするこ
とがない。触れてはならない事らしい。
ロユラスに出来ることは、母の言葉を学ぶことだけである。母に
とって懐かしい言葉を交わして母の心を慰めるのである。
そんな中、ロユラスはふと気づいた。母のフェリムネは偶然に当
時ルージ王子だったリダルと出会い、アトランティスに渡ってきた。
同じ時期、同じ土地で捕らわれた人々が奴隷としてフローイに渡っ
てきたはずだった。その奴隷の人々の中に母フェリムネの故郷のこ
とを知る人々が多数居るに違いない。母の故郷のことを知るものも
いるだろう。ロユラスはそう考えたのである。
︵フローイへ行かねばならない︶
ロユラスはそう決心してこの地へやって来た。もちろん、その目
的は母には伏せて銀細工の商売を考えているとだけ伝えている。
310
ロユラスの母︵後書き︶
作者として気になっていたのが戦闘シーンの描写です。某Q&A
サイトでもアドバイスをもらって、第二部は﹁残酷描写あり﹂の警
告タグにチェックを入れることにしました。
戦場の様子をリアルに描くと言うことに主眼を置いていると言う
ことはご理解をお願いします。グロテスクさ、残酷さをアピールす
るような過度のグロ表現は、今後もありませんので、少し、ご安心
ください。
311
マキツキ街道
ロユラスはフローイ国各地の鉱山を訪れて、奴隷たちに母の故郷
の情報を求めるつもりで、ここへやって来た。しかし、そのとたん、
ルージとフローイが戦火を交えたという噂に出くわした。戦争が始
まったとなれば、たとえルージ出身者だと言うことを隠していても、
鉱山の管理者たちは他国の者に警戒するだろう。
代わって、ロユラスが目を付けたのが、各地の鉱山から逃れて山
賊化している元奴隷たちだった。ただ、何処にいるのか分からない
彼らと会うのは難しい。
﹁さっさと姿を現せば、銀細工などくれいてやるものを﹂
ロユラスは苛立たしげにそう呟いた。旧都ランロイは物資の流通
の中継地として、主要な街道が旧都を通る。食料や織物や銀細工な
ど数え切れないほどの多様な物資が、荷車に牽かれたり、行商人た
ちに担がれて行き来する。それを狙った山賊共も、街道に数多く出
没するはずだった。
出会いたいと思っても山賊共につてがあるわけではなく、ロユラ
スは裕福な銀細工商人の一人旅を装って、ランロイと北の港町セイ
タルを結ぶ街道を行き来して襲われるのを待っていたのである。
ロユラスは早く奪いに来いとでも言うように、手にした髪飾りを
ちらちらと振って見せた。リーミルを抱き上げて王の館に送る時に、
密かに彼女の髪から抜き取ったのである。怪我をした王女を王宮に
届けた当然の報酬だと考えていた。フローイ王家の紋章がついた髪
飾りである。何かの役に立つかも知れない。
山岳地帯を南北に真っ直ぐ抜けるマキツキ街道の道幅は広いが、
急な斜面で東西の視界が利かず、単調な景色が続く。景色の変化と
いえば街道の途中に建設された関所があることか。今、街道を行く
ロユラスの目の前に、街道の最も北の関所が見えてきた。街道の名
312
を冠してマキツキの砦と言われている。あの関所を抜ければ港町セ
イタルである。
以前、この国に来た時、山岳地帯にいる逃亡奴隷どもを集めて、
このフローイ国を攻めても面白いと考えたことがある。もちろん現
実的な計画に基づいたものではなく、ロユラスの妄想である。
︵なるほど︶
ロユラスは観察眼があり、素直に状況を受け入れる素直さがあっ
た。関所には百名ほどの兵が駐屯しており、冷静に見れば不審人物
の取り締まりだけが目的ではないだろう。フローイ国の北からの侵
入者を、この砦と言っても良いほどの頑丈な関所で防ぐのである。
﹁数千の兵を持ってしても、フローイとは攻めがたい国のようだ﹂
ロユラスはそう呟いた。関所の兵は百ばかりで、敵が数千の兵を
街道沿いに南下させれば容易に関所を打ち破って、フローイの都カ
イーキになだれ込む事が出来るようにも見える。しかし、百ばかり
の兵たちでこの関所を一日は守ることが出来るだろう。その間に、
後方のボングスの関所、その東西の関所などから兵が駆けつけて、
数日でこの関所に千を超えるフローイ兵が集まる。敵は砦を攻める
という出血を強いられ苦戦する。仮にこのマキツキの関所が落ちて
も、その後方に次の関所があり、後方に退いて敵に出血を強いる戦
いをすればいい。一見すれば、関所の兵は僅かだが、街道沿いの各
所に互いに増援に赴ける関所を設置することで、フローイ国は少数
の兵を効果的に配置して堅く国を守っていたのである。
ベナスス
ロユラスはランロイからここまで、二つの関所を、背に背負った
銀細工のアクセサリーと、商業の神の神殿が発行する商人の身分証
明書を見せるだけで怪しまれることなく通り抜けた。東部のシュレ
ーブ国内で始まった戦の雰囲気もこのあたりには届いていない。こ
の関所もまだ穏やかな雰囲気に満ちていた。
313
母子の逃亡奴隷
山賊に出会うという目的は果たせないまま、夕刻前にはセイタル
の町が見えてくるだろう。しかし、ロユラスは意外な形で山賊と遭
遇した。関所前の街道の両側に兵士たちの宿舎が建ち並んでいる。
そこに、丸太で組んだ人の背丈ほどの高さの檻があった。囚人を入
れておくための物で、事実、その中に年配の女と年若い男の姿があ
った。
︵なるほど︶
ロユラスが頷いたのは檻の中の囚人の衣服のことである。アトラ
ンティス人の物ではない。ただ、奴隷が身につける粗末な腰布姿で
もなかった。山賊を生業にしていたかどうかは分からないが、鉱山
から逃亡した奴隷が長く山の中で暮らしていた様子がうかがえた。
そしてロユラスが眉を顰めたのは、その檻の近くにある焼け残っ
た檻の残骸と、その中にあった黒こげの二体の死体である。ロユラ
スは状況を察した。逃亡奴隷は見せしめのために残酷な方法で処刑
されるのが常だった。そして、それがアトランティスの人々を襲う
山賊であった場合はなおさらである。処刑は火あぶりと決められて
いた。フローイでは罪人を入れた檻の周囲に薪を積んで火を付ける
という方法をとる。檻の中でもがきながら焼け死んでゆく罪人の姿
を人々に見せるのである。
そして、捕らえた罪人を檻に入れて人々の目に晒しておくという
のもフローイで良く行われる方法だった。これから殺害する罪人を
晒しながら、罪人を救出に来る別の関係者を捕らえる囮に使うので
ある。女と若い男が捕らえられて檻に入れられ、それを救出に来た
者たちが捕らわれて先に処刑されたのかとロユラスは結論した。
不思議なのは、罪人を町へ運んで町の中央の広場で処刑するのが
通例のはずだ。ここのように、通行人しかいない場所で処刑が行わ
314
れるのは珍しい。しかし、ロユラスは周囲を眺めて納得した。砦を
守る兵士の数に余裕がない。この罪人をランロイなど最寄りの町に
運ぶには、数日の日程と、五、六人の兵士と人足を必要とするだろ
う。この砦にはそのような人手の余裕はなく、邪魔になる罪人をこ
こで処刑したと言うことである。
あの女と若者もここで焼き殺される運命だろう。
︵哀れだが︶
ロユラスはそう呟いた。奴隷や山賊と会いたいと考えていたが、
あのような囚人と関わり合いになるのは危険が大きすぎる。何より、
何とかしてやりたいと思っても、ロユラス一人で何とかなるもので
はなさそうだった。
ロユラスが側を通りかかった時、檻の中から男女の会話が聞こえ
た。
︻母さん、大丈夫かい︼
︻大丈夫だよ。でも、なんとか逃げ出す算段をしなければ︼
ロユラスは立ち止まって、二人を眺めた。唇を舐める様子や、喉
をごくりと鳴らす様子から、この二人が渇きを覚えていることが感
じられる。天を眺めればここは渓谷にあっても日中の日当たりの良
い場所で、この母子の囚人は水も与えられず放置されていると言う
ことだろう。
空を見上げたロユラスは、腕で汗をぬぐう仕草をし、大げさな仕
草で腰に付けた革製の水袋を外して、その栓に指先をかけた。もち
ろん、喉の渇きを感じている母子はその動きを見逃すはずはない。
その瞬間、ロユラスは足下の石にでもつまづくようにバランスを
崩し、慌てて平衡を取ろうと腕振り上げ、掴んでいた水袋はロユラ
スの手を離れて、ぽとりと檻の中へと落ちた。
文字通り、降って湧いた幸運を、若者が見逃すはずもなく、急い
でそれを手にして母親に勧めた。母親は水袋に一口だけ口を付け、
残りを息子に返したが、その間もロユラスに視線を注いでいた。こ
れが偶然か、見知らぬ男の好意か極めようとしているようだった。
315
突然に、ロユラスがこの囚人に興味を示したのは、これから処刑
される母子に同情したわけではない。二人の交わした言葉が、ロユ
ラスの母の言葉の訛りや発音と同じだったのである。
ギリシャ人たちは、もともと幾つもの部族に分かれて互いに争っ
ていた。アトランティスの侵入でアテナイを中心として一つにまと
まり、アトランティスに勝利した。今は、アテナイを中心とする軍
をアトランティスの聖域に駐屯させている。
アテナイはアトランティスを占領後、自分たちと同部族の者や同
盟下にある諸部族の奴隷は解放して帰国させたが、同盟に加わらな
かった部族や勝利するまでに滅んだ部族の生き残りはこのアトラン
ティスに残した。アトランティスが戦に負けながら、多数のギリシ
ャ人奴隷を抱え込むというのはそういう事情である。
占領者も、奴隷も、幾つもの部族があり、同じギリシャ語でも言
葉の訛りが違っていることがあった。ロユラスはその言葉から、囚
人が母と同じ部族の人間だと知ったのである。
自分の迂闊さで、飲み水を囚人に奪われたとでもいうように、ロ
ユラスは肩をすくめながら、近くにいた兵士の指揮官に聞いた。
﹁いくらだい?﹂
﹁何がだ﹂
ロユラスは檻の囚人を指さした。
﹁奴隷だろう。二人まとめて、いくらで売る?﹂
﹁元は奴隷かもしれないが、今は山賊だ。山賊として処刑する﹂
﹁焼くのかい。そりゃ、もったいない。あの若い男は鉱山に良い値
で売れるぜ。女は多少年は食っていても別嬪だ。売春宿にでも売り
渡してやろうか﹂
ロユラスの言葉に檻の中の若者が反論した。
﹁ゲスなアトランティスの蛮族ども、母さんを売春婦にするだって。
そんなこと、この俺が許すもんか﹂
若い男の言葉に、ロユラスはもう一つ理解を深めた。あの囚人が
316
アトランティスの言葉も理解し、話すと言うことである。
ロユラスは囚人にはかまわず、兵士に商売の話を続けた。
﹁この砦なら、囚人はランロイにでも運んで、火あぶりにするはず
だろう?﹂
﹁罪人は捕らえた砦で処刑してしまえと言う命令が届いている﹂
﹁しかしなぁ、それはもったいない。そうだ、俺が奴隷を売れと掛
け合ってみるよ。都の偉いさんに、ちょっとした知り合いがあって、
懇意にしてもらってるんだ。銀細工商人のロユラスと言えばちょっ
とは知られてるんだぜ﹂
ロユラスの言葉は微妙な違いはあっても、知り合いが居るという
のは嘘ではなかった。ロユラスはその証拠にリーミルの髪飾りを懐
から取り出して、ちらりとその紋章を見せた。ロユラスが王家の物
と知り合いであるという疑いのない証拠だった。王家は兵士たちの
敬愛と信頼を集めているらしい。紋章を眺めた隊長の言葉は、ロユ
ラスにとって好転した。ただし、同意はするが難しいという。
﹁しかし、あの囚人どもをランロイへ送る兵士は付けられないぞ﹂
その指揮官に、ロユラスは砦の前の荷車を指さした。ランロイか
らこの砦に水や食料を運んできた牛が牽く荷車である。帰りは積む
荷物はなく空で帰るはずだ。
﹁あの荷車があるじゃないか。あれに囚人を檻ごと積んでランロイ
へ移送すればいい。ここで焼く手間も省けるぜ。後は俺がランロイ
で、役人に話を付けてあの奴隷を買い求めるさ﹂
﹁なるほど﹂
指揮官は頷いた。処刑やその後始末にも大きな手間がかかる。ラ
ンロイの町の役人に引き渡す算段がつくならそれにこしたことは無
い。指揮官はやっかい払いをするように兵士に命じて檻を荷車に乗
せた。
驚いたのは空の荷車を牛に牽かせて帰るつもりの牛使いである。
やっかい事に巻き込まれたように慌てる牛使いに、ロユラスは高額
の報酬を前払いして手早く話を付けた。高額の報酬を支払わなくて
317
はならなかったというのは、街道沿いに山賊たちが出没するからで
ある。そんな街道を、荷車を牛に牽かせてのろのろと三日の行程を
進む。積んでいるものが、山賊に見つかれば、必死で仲間を取り戻
しに来るだろう。危険に満ちた旅になる。
318
ロユラスの奇計
砦を発って間もなく、北から差し込んでいた日の光も西の山の斜
面に隔てられて届かず、山間の道は木々で薄暗い。戦の前は、港と
旧都ランロイの間で物資を運ぶ荷車や商人がせわしく往来する街道
だったらしいが、今は警備の兵の数が減り、山賊共が勢いづいて危
険が増した。自然に往来する人々の姿も減った。
ロユラスはそんな寂しげな街道で、不安げに視界の利かない山の
斜面を眺めて言った。
﹁大丈夫かな﹂
﹁何が﹂
ツツミス
﹁山賊のことさ。もう、俺たちを見つけて襲ってくる準備をしてい
るのかもしれない﹂
﹁旦那。それは言っちゃなんねえ。悪い言葉は、森の悪霊に聞かれ
たら、本当になっちまう﹂
牛使いは左手で牛の引き綱を操りながら、右の指先で額をこすり
道ばたに大きく唾を吐いて悪霊よけの呪いをした。牛使いが怯える
様子があり、ロユラスを満足させた。牛使いが怯える様子は檻の中
の青年も見ていたらしい。面白そうにあざ笑った
﹁そうだ。直ぐに仲間が俺たちを助けに来る。そうなったらお前た
ちは皆殺しだ。覚悟しておけ!﹂
牛使いは怒り狂って、牛に使う鞭を振り回した。
﹁この腐れ蛮族どもめ、ここで、先に俺が殺してやろうか﹂
﹁おいおいっ、大切な商品だ。傷つけないでくれよ﹂
﹁おまえの言うとおりになるぐらいなら、焼かれた方がまだマシと
いうものさ﹂
女の言葉にロユラスは首を傾げて見せた。
﹁そう言うものかね。お仲間のような黒こげの亡骸になりたいと?﹂
319
﹁あんな奴らが、仲間なものか﹂
﹁いや。助けに来てくれた奴らにそんな言い方をしちゃいけないな﹂
﹁誰が助けに来たって? あいつらが俺たちを追い回している内に、
兵隊に見つかって、みんな捕まっちまったのさ。あいつらが居なき
ゃ、兵隊に捕まるヘマはしてないよ﹂
檻の中の囚人が語るのは、ロユラスが想像していた内容と違った。
もう少し詳しい事情を聞き出したいと考えたが、牛使いが口を挟ん
だ。
ツツミス
﹁旦那。蛮族どもに、それ以上話をさせちゃいけねぇ。こいつらの
言葉は森の悪霊を呼ぶらしい﹂
牛使いの言葉に、ロユラスは肩をすくめて檻の中の人物たちに尋
ねた。
ツツミス
﹁本当かい? 怖い、怖い﹂
﹁馬鹿野郎。森の悪霊なんか呼ばなくても、俺が悪霊になってお前
たちを殺してやる﹂
笑顔で答えようとしてたロユラスが、突然に何かに気づいたよう
に振り返って、誰もいない背後の景色を丹念に眺め回した。ロユラ
スの怯える演技に、牛使いも不安げな表情でたずねた。
﹁旦那。何かあったのかい?﹂
ツツミス
﹁何かの気配を感じたんだ。絶対に⋮⋮、何かが、いた﹂
﹁何が?﹂
﹁山賊共の殺気か、森の悪霊の邪悪な吐息か⋮⋮﹂
ロユラスは言葉を途切れさせたかと思うと、牛使いからその背後
へと視線を移して驚いて見せた。牛使いも背後を振り返ったが、も
ちろん何もない。
﹁何です? 旦那﹂
﹁いや、お前の後ろに誰かの姿が見えたような気がしたんだが、気
のせいだったらしい﹂
不安げな表情のロユラスの脅しに、この牛使いは即座に提案した。
﹁旦那。この先の川のほとりに視界の利く場所がある。そこで夜を
320
過ごしましょう。明日、早朝に出発すれば、昼前にはウィアーデ街
道と合流点だ。道も少しは賑やかになって山賊よけになりまさあ﹂
日が落ちるよりかなり前に、牛使いが提案した宿営地に着いた。
この辺りで流れを屈曲させるソウソス川の流れと街道が接する位置
で、広い河原があって、風通しが良く、見晴らしも利く。牛使いは
日没を待たずに、周囲を照らすかがり火代わりの焚き火を大きく炊
ツツミス
きあげた。遠くからでも人目を引く欠点はあるが、忍び寄ってくる
山賊どもを見つけたり、森の悪霊を避ける効用はあるだろう。牛使
いはロユラスの脅しを本気で信じているのである。
321
解放
ロユラスは無口で沈黙を苦にしない男だが、牛使いは不安を払う
為なのか、焚き火を前に勇ましく話し続けていた。同業者とのトラ
ブルの話、酒場のばくちで一儲けした話、どこそこの売春宿で買っ
た女の話。檻の中の囚人が口を挟もうとすると、これから薪にする
木の枝で哀れな囚人を突き回して黙らせた。
ロユラスは牛使いの話に耳を傾ける振りをしながらも、周囲の地
形を眺めていた。アトランティス各地を巡りながら、こうやって各
地の地形や文物を眺めて好奇心を満たすのがロユラスの癖である。
ソウソス川はこの辺りの渓谷を縫って流れる川で、幾つもの支流
が流れ込んで水量は豊かだが、川底は深く川幅も広いために流れは
穏やかである。木々の豊かな緑の中で鳥が囀り土地と生き物が調和
して美しい光景を作りだしていた。ただ、文句を付けるとすれば渓
谷に日が遮られて日暮れが早いことと、広い河原に薪となる枯れ枝
が少ないことか。
ロユラスは立ち上がって、袋に入っていた干しブドウを無造作に
檻の中の二人に投げ与えた。そして、焚き火には背を向け闇に向け
て歩き出した。
﹁旦那。どこへ?﹂
牛使いの問いにロユラスは気さくに答えた。
﹁危険な場所だ。火を絶やすわけにはいかんだろ。待っていろ。俺
が薪を探してくるよ﹂
ロユラスは薪の中から松明になりそうな木を一本取り、その明か
りを頼りに街道を北へと戻った。宿営地には牛使いと囚人が残され
た。空腹を覚えていた檻の中の囚人は、与えられた食事にむしゃぶ
りついたが、女はそれが好意かどうか見極めるように、ロユラスの
背を注意深く眺めていた。
322
ロユラスは宿営地の焚き火の明かりが見えなくところまで来ると、
手にした明かりも地に捨てて、体をかがめて藪に飛び込んで身を隠
しながら藪の中を駆け足で戻った。不安を紛らわすためか、牛使い
の男は檻の中の囚人に声を掛けた。
﹁お前たちも、町に着けば焼かれちまう身だ。今の内に景色でも楽
しんで置おくんだな﹂
﹁俺たちの命の心配をする前に、自分の心配をするんだな﹂
﹁何だと﹂
ツツミス
﹁もうすぐ仲間が俺たちを助けに来るぞ。お前は首を切られて頭だ
けになって闇の中を飛び回るんだな。森の悪霊の仲間入りだ﹂
﹁この小僧がっ﹂
牛使いは棒きれで檻の中の若者を、怒りを込めて突き回したが、
逆にその棒きれを若者に奪われる有様だった。牛使いは恐ろしげな
想像に怯えてあわてふためいているのである。
この宿営地に来るまでの道のりで、ロユラスはさんざん牛使い
の不安を煽っていた。その効果がよく分かる様子だった。あの若者
の言葉も、この場を盛り上げる言葉として申し分ない。
ロユラスは姿は見せぬまま、闇の中で木々の枝葉をざわめかせ、
短く奇声を上げて、音のみで存在を露わにした。河原の焚き火まで
四分の一ゲリア︵約100メートル︶はあるが、周囲の木陰を移動
しつつ、それを繰り返せば、焚き火の側にいる男は、闇の中で大勢
の人間に囲まれているかのような印象を抱くだろう。
ロユラスは牛使いの不安が恐怖に替わりかけている様子を確認す
ると、さきほど灯りを捨てた位置まで足音をさせずに駆け戻り始め
た。もちろん、静寂は戻ったが、突然に訪れた静寂は男の心にしみ
こんで恐怖を煽るだろうと考えていた。ロユラスは男の様子を想像
して、自分の無邪気な遊びが気に入ったように笑っていた。
ややあって、ロユラスは一息ついたかと思うと、大声を上げて足
323
音も高らかに焚き火を目指して駆けた。
﹁おぉーい。逃げろぉ!﹂
焚き火が見えてる距離に接近し、続く言葉を叫んだ。
﹁山賊共が襲ってきたぁ﹂
焚き火の傍らの牛使いが見えたために、更に強い警告を発した。
﹁50人はいる。俺たちは殺されるぞ。逃げろ。今すぐだっ﹂
言いしれぬ不安の中にいた牛使いは、その言葉で恐怖と混乱の極
限を超えた。牛使いは背後を振り返る余裕もなく街道を南へと逃げ
去った。あの様子を見れば、息が続く限り走り続けるだろう。
ロユラスが息を整えながら牛使いの様子を評した。
﹁いやはや、牛使いが雇い主を置いて逃げちまいやがった﹂
事情が飲み込めず、檻の中の母子は顔を見合わせて首を傾げてい
た。
﹁さて、﹂
ロユラスはそんな言葉を吐いて呼吸を整えた、全速力で走ったた
め彼の行きも乱れている。ロユラスは牛使いが残していったナイフ
を手にして檻に近づいた。ロユラスが檻を作り上げている丸太を結
びつける縄をいくつか切り、中の囚人が出られるほどの隙間が空い
た。若者はその隙を見逃さず、ロユラスには礼も言わずに、隙間か
らするりと抜け出した。母親の方を出すためには丸太をもう一本外
さねばなるまい。ロユラスがそう判断して縄に手を伸ばした時のこ
とである。
先に檻を抜け出した若者はさきほど牛使いから奪った棒を武器代
わりに手にしていた。ロユラスは荒い呼吸と牛使いを追っ払う企み
が成功した面白さによっていたのかも知れない。若者が背後で棒を
振り上げるのに気づくのが遅れた。ロユラスは振り下ろされる棒を
避けきれず痛みに呻いて肩を押さえた。
︻母さん、今のうちだ。逃げよう︼
若者はそう言って母親を檻から救い出した。二人がロユラスに背
を向けて掛だそうとした時、河原にロユラスの声が響き渡った。 324
︻何をするのさ。痛いじゃないのよ!︼
母子はその声に驚いて足を止めて振り返った。ロユラスは無意識
のうちに、母との会話で使っているギリシャ語で文句を発していた
のである。
流ちょうな話し方で、母子の部族が話す言葉の訛りまで自然だっ
た。ただ、目の前のたくましい男が話す言葉として、ひどく違和感
がある。
︻お前、何者?︼
母親はロユラスに短く問い、ロユラスは返事の替わりに文句を言
った。
︻あなたたちから先に名乗ったらどうなの。それが礼儀というもの
だわ︼
女は不審そうな表情のまま答えた
︻私はヴァレリア。これは息子のマカリオス︼
︻私はロユラスよ。命の恩人の名はちゃんと覚えておきなさいね︼
ロユラスの立場で見れば、彼の言葉遣いはやむを得ない。普通は、
両親はもちろん周囲の人々との交流の中で、自然な言葉使いを覚え
てゆく。ロユラスの会話の相手は母親のみで、その母は実に女性ら
しい思いやりと優しさを持った人物だったし、そういう言葉遣いを
する。ロユラスはそれを真似るように学んでいたのである。今のロ
ユラス自身は自分の言葉遣いに違和感を感じてはいない。ヴァレリ
アがいきさつを尋ねた。
︻どうして、私たちを逃がしてくれるの?︼
︻逃がしてあげたお礼に、あなたたちの仲間に会わせてもらえない
かしら︼
仲間に会わせろというのは、彼らが隠している居場所に連れて行
ってくれと言うことで彼らのみに危険が及ぶこともありえる。
︻どうして会いたいんだい?︼
︻私の母について知りたいのよ︼
325
そんなロユラスの言葉ではなく、真摯な目の表情に、ヴァレリア
は彼の思いを読み取った。信用して良い人物らしい。
326
ヴァレリアの集落
ヴァレリアは険しく細い道の先頭を足早に歩きながら息も切らし
てはない。彼女はロユラスを先導しつつ、ロユラスの身の上話を聞
き、振り返って言った。
︻なるほど、お母さんが私たちと同じ部族という事ね。そんな事情
なら、その言葉遣いもしょうがないか︼
ロユラスがやや苛立ちを込めて要求した。
︻さっきから、貴女たちが言ってる言葉使いって何のことよ。ちゃ
んと説明してちょうだい︼
マカリオスが笑いを隠しきれずに吹き出した。笑ってはいけない
と思うのだが、この男にその滑稽さをどう説明してやればいいのだ
ろう。今の母と息子の様子には、初対面の者に対する不信感はなく、
昔からの長いつきあいのように親しさを感じさせる。命を救われた
という事実以上に、ロユラスが流暢に話す言葉で仲間だと確信した
のである。
三人は山の斜面に刻まれた細い道で夜明け迎えた。木々の枝に隠
れるような細い道や険しい崖が、ヴァレリアたちの集落をフローイ
兵から守っているのである。ただ、水場から離れ、飲み水の確保に
苦労するに違いない。
︻飲み水はどうしているの︼
︻川まで汲みに行くのよ︼
︻不便でしょう︼
︻ソウソス川の上流に住んでるハリラオスやディミトリスの集落も
あるけど、水場があると言うことは獣も集まる。獣が集まれば狼も
集まってくるという事よ︼
︻水場が近いと危険も近いと言うことね︼
ロユラスはそう答えながら考えた。
327
︵なるほど⋮⋮︶
逃亡奴隷たちも一つにまとまっているわけではない。ヴァレリア
のように山に住む者も居れば、川辺に隠れ住む者もいるということ
だった。いくつかのグループに分かれて行動し、時に互いに争うこ
とも多いらしい。しかし、彼らは共通して、場所を変えながら住ん
でいるという。兵士たちから身を隠すためてある。ヴァレリアたち
は冬は何箇所かの鉱山跡の洞窟に住み、時にテントを張って暮らす
という。
マカリオスが話題を変え、好奇心に満ちた質問をした。
︻ルージというのは、どんな所だい?︼
︻まぁ、海のきれいな所ね。私はアワガン村で漁師をしているの︼
︻アワガン村って?︼
︻ルージの都バースのから半日の所。私はそこで生まれたのよ︼
ヴァレリアは先導しつつ二人の前方を歩きながら、ロユラスの言
葉の不自然さも、彼の顔を眺めず聞いているだけなら笑わずにすむ
ことに気づいた。疑り深いほど慎重なう゛ぁれりあが、この男を信
用し受け入れ始めているということだろう。そして、この山中で育
って海を見たことのないマカリオスは、見たことのない広い景色に
憧れを広げているようだった。
ヴァレリアが何を目印に歩いているのか、ロユラスには理解でき
なかったが、細く曲がりくねったルートを辿りつつ、彼らは目的地
に到着した。母と息子がこの奥深い山の中で、家族の場所を探し当
てたのは、ロユラスがまだ気づかない目印が山の木々に刻んである
のかも知れない。
ヴァレリアとマカリオス母子がロユラスを案内したのは、街道か
ら小さな尾根を一つ隔てた山の中腹である。ここで、ロユラスはヴ
ァレリアがこの逃亡奴隷たちの集団のリーダーの妻だと知った。迎
えに出た者たちの先頭にいた男がヴァレリアから話を聞き、ロユラ
328
スに礼を述べたのである。
︻女房と息子の命を救ってくれたこと感謝する︼
︻気にしないで。私も貴方たちと会いたいと思っていたところだか
ら︼
ロユラスはそんな返事をしながら周囲を眺めた。木々の合間のあ
ちこちにテントが見えた。短い会話の間にその中から、一人、二人
と姿を見せ始め、やがてロユラスはこの集落の人々に厚く取り囲ま
れて、彼らの不安そうな視線を浴びていた。見回せばその数は老若
男女含めて百人に満たない。
ヴァレリアがロユラスと出会ったいきさつを語り聞かせ、ロユラ
スの来訪目的も語ったが、人々が部外者のロユラスに注ぐ視線に籠
もる不安は消えなかった。
ロユラスは彼らに自分の出自を語らねばならない。ただ、ルージ
王リダルの息子だと言うことは隠さねばならないと考えている。
︻私にも話をさせてちょうだい。私の母は貴方たちと同じ部族の者
なのよ︼
ロユラスが語り始めた言葉に、人々は視線に籠もった不安な感情
を、奇異な者を眺める驚きに変えた。昨日、ヴァレリアとマカリオ
スがロユラスに示した感情の変化だった。ただ、ロユラスは話し続
けなければならない。
︻私の母は哀しい思い出を封じて故郷のことを語ってくれないの。
でも、私は知りたい。心から。母の故郷のこと。母の家族のこと︼
ロユラスの話が進むにつれて、口元に手を当てて笑顔を隠し、俯
いてロユラスとの視線を避け、内に押さえ込んだ滑稽さの感情を涙
に変えて溢れさせる者まで居た。そんな彼らの様子に、ロユラス自
身も自分の言葉遣いのおかしさに気づいたが、こればかりはどうし
ようもなく言葉を継いだ。
︻お願いよ、私に貴方たちの故郷のことを教えてちょうだい︼
ただし、周囲の笑いを抑える顔に、ロユラスはもどかしさし腹立
たしさのみ高まり、ついにはアトランティスの言葉を変えた。
329
﹁ええいっ、止めた。もうお前たちの言葉は話さん!﹂
ロユラスがそう言い放った瞬間が、彼らが笑いを抑える限界でも
あったらしい。ロユラスの周囲は明るい笑い声に包まれた。彼らの
透き通った笑顔と、朗らかな笑い声は、ロユラスに対する疑いを解
き、仲間として受け入れたと言うことだろう。
腹立たしさはあっても、内心はロユラス自身が驚いていた。同じ
言葉を話すと言うことが、こんなにも人と人を信頼感で結ぶものか。
間もなく、仲間を救ってくれた来訪者をもてなす宴が始まり、ロ
ユラスはその心づくしの中央にいた。
330
クセノフォン
この日、日が暮れても続く宴の最中に、もう一つの出来事が起き
た。宴の席に一人の若者が駆け込んできたのである。宴に加わらず
山の麓でフローイ兵の襲来を警戒していた者たちの一人である。彼
は叫んだ。
︻クセノフォンの奴らが攻めてきた!︼
宴から笑顔が消え、
︻クセノフォン?︼
ロユラスがそう首を傾げたのは、その名にギリシャ風の雰囲気を
感じ取ったからである。攻めてきた者がフローイ軍ならともかく、
ギリシャ人同士の小競り合いでもあるということか。ヴァレリアが
ロユラスに事情を説明した。
︻私たちを下僕にしたがってる奴らよ。私とマカリオスがフローイ
兵どもに捕まっていたのは、水くみ場で奴らの手下に見つかって、
追いかけ回されている時なのよ︼
マカリオスが母の言葉を補った。
︻俺たちを人質にして、父に配下になれと迫るつもりだったんだ︼
︻その手下も捕まって⋮⋮私たちより先に火あぶりになったという
わけ︼
︻気がついたら、兵士に包囲されていて逃げ場がなかったんだ︼
二人の説明にロユラスはさらに首を傾げた
︻そのヴァレリアが何の用だろう⋮⋮︼
ロユラスがそう呟いた時、闇の木々の合間に男の声が響き渡った。
闇にとけ込んで姿は見えないが、声が大きい人物だと言うことは確
かである。
︻アイネアス。とうとうフローイの野蛮人共に、魂まで売りやがっ
たか︼
331
声の主はクセノフォンに違いなかった。この集落のリーダーのア
イアネスが怒鳴り返した。
︻どういうことだ?︼
︻しらばっくれるんじゃねぇ。俺の仲間を二人も兵隊に売り渡しや
がって︼
クセノフォンの叫びにマカリオスが怒鳴り返した。
︻父さんがそんなことするもんか。お前たちの仲間は自分で兵士に
捕まったんだよ︼
︻ガキが。このクセノフォン様を騙すつもりなら、もっと上手い嘘
をつくんだな︼
︻嘘じゃないよ。私とマカリオスを追っかけるのに夢中になってい
る内に兵隊に捕まっちまったのさ。おかげで、私たちも良い迷惑さ
ね︼
︻その声は、ヴァレリアだな。さては、お前がアイアネスをそその
かして、フローイの蛮族にすりよりやがったか︼
︻俺の女房を侮辱するのかっ︼
アイアネスのそんな怒鳴り声が響いた辺りで、ロユラスにもやや
事情が飲み込めてきた。クセノフォンは仲間がフローイ兵に捕らえ
られて火あぶりになったいきさつについてはよく知らないらしい。
彼が部下に命じてヴァレリア母子を襲わせたわけではないらしい。
たまたま水場に姿を見せた母子の姿を見つけたクセノフォンの配下
の者が、彼のの歓心を買おうと二人を襲ったに違いない。争いに夢
中になっている彼らに気づかれずにフローイ兵が、その逃げ道を遮
断して捕らえた。
しかし、この会話のすれ違いを聞けば、クセノフォンは頑固で、
母子の言葉に耳を傾ける気はないらしい。闇のあちこちでクセノフ
ォンの声に呼応する者どもの声を聞けば五十人はいるだろう。時折、
彼らが手にした剣が、集落の焚き火の灯りを反射して輝く。アイア
ネスの仲間たちも敵に備えるように剣を構えていた。
︵やれやれ、思わぬ事態に︶
332
このままでは、この二つのグループは意味もない殺し合いを始め
るだろう。ロユラスは商売道具が入った袋を手にして、ここは任せ
ろとでも言うようにアイアネスに頷いて見せて進み出た。
︻ここは一つ、お近づきの印にいかがでしょう︼
ロユラスは流ちょうなギリシャ語でそう語りながら袋から腕輪を
取り出して見せた。アトランティス人の承認が客に商品を勧める姿
である。姿はアトランティス人だが、話した言葉は流ちょうなギリ
シャ語。その違和感にクセノフォンは戸惑った。ロユラスは武器は
携えず、クセノフォンたちへの敵意も感じさせない。
︻どうです。光にかざすと美しい︼
ロユラスがそう言いながら、クセノフォンが手にする松明の光に
腕輪をかざして見せた。確かに、腕輪に彫り込まれた微細な模様が
光に映えて美しい。
︻そうそう、こんなものも︼
ロユラスは腕輪をずしりと重そうな革袋に仕舞い込み、替わりに
リーミルの髪飾りを取り出した。髪に挿すピンが尖ってきらりと輝
かたど
いたが、クセノフォンの目を引いたのは、その反対側の飾り部分の
デザインがフローイ王家の紋を模っていたことである。
クセノフォンが髪飾りに興味を示した時、ロユラスとの距離は、
既に腕を伸ばせば届くほどに詰まっていた。ロユラスは身を翻すよ
うに距離を縮め、クセノフォンの背後に回って太い左腕で彼の首を
締め上げた。右手にある髪飾りの尖った方を彼ののど元に当てて言
った。ロユラスがもう少しその角度を変えて力を込めれば、クセノ
フォンの喉を容易に刺し貫くことが出来るだろう。
︻もっと明るいところで、落ち着いて話をしたいんだけど︼
︻この腐れ商人が、何をしやがる︼
︻汚い言葉は嫌いよ︼
首領の危機と見たクセノフォンの仲間が駆け寄って来るのが見え
たため、ロユラスはクセノフォンののど元を髪飾りでちくちくと陰
333
湿に刺激して警告を与えた。
︻貴男の命の安全は保証するわ。話し合いがしたいだけだから、仲
間の人たちには帰ってもらえないかな︼
︻誰が、てめぇの命令なんか!!︼
︻あーら。話し合いがしたいだけなのに。私が怖いの?︼
ロユラスの声が大きく、クセノフォンの仲間にまで届く。
︻なんだとっ︼
︻貴男は、仲間が居なけりゃ、話し合いも出来ない臆病さんなの?︼
仲間の前でそう問われると、クセノフォンも男としての誇りが傷
つきかねない。彼は闇の中ら姿を現し始めている仲間に怒鳴った。
︻よぉーし。てめえらは帰れ。俺は一人でこいつらと話を付けて戻
る︼
︻良い子ね。貴男の仲間も聞き分けが良さそう︼
ロユラスがそう言ったとおり、クセノフォンの仲間たちの手で煌
めいて見えた刃物の輝きは消え、彼らの姿も気配も闇の中に溶ける
ように失せた。もちろん、帰っては居ないだろう。辺りに姿を隠し
て、こちらの様子をうかがっているはずだった。
ロユラスはクセノフォンを手際よく縛り上げ、文句を言いかける
彼の口に干し無花果を一つ押し込み、布で彼の口を覆い縛って聞き
たくもない罵声を封じた。
︻まあ、無花果でも食べていてちょうだい︼
ロユラスはそう言いながら、クセノフォンを縛ったロープの一端
をマカリオスに手渡した。
︻コレ、どうするんだい?︼
マカリオスの問いに、ロユラスは肩をすくめて、焚き火に近い位
置にある大木を指さした。あの明るい位置なら、隠れ潜んでいるク
セノフォンの仲間にも彼の姿がよく見え、リーダーが傷つけられて
いないことを知った仲間もほっとするだろう。
︻とりあえず、今は冷静に話せる気分じゃなさそう。明日の朝まで
あの樹の側で頭を冷やしてもらったら?︼
334
ロユラスは呟くようにそう言った。マカリオスは面白そうに言葉
にも声にも成らない罵声を発し続けているクセノフォンを引っ張っ
ていって樹につなぎ止めた。アイアネスの集落の者たちは、ロユラ
スの手際の良さを感心しながら見守っていた
しかし、この頑固な男にどうやって事情を理解させるか。ロユラ
スにその算段もつかないうちに、新たな客が血相を変えて現れた。
クセノフォンの仲間かと思ったがそうではない。現れた男はダミア
ノスと名乗った。
ツツミス
ロユラスはこの集落の慌ただしさに文句でも言うように眉を顰め
て言った。
︻いつも、こんなに賑やかなの?︼
︻いいえ。貴男が来てからよ。貴男には森の悪霊とやらでも憑いて
るのかしらね︼
そんなヴァレリアの笑顔も、ダミアノスの話を聞いて豹変した。
335
ダミアノス
ダミアノスが猟から戻ってきたら、彼の部落が200名を超える
フローイ兵に急襲されていたという。物陰に隠れ潜んで聞いたフロ
ーイ兵の話から生き残った男と女子どもはカイーキへ連行されて火
あぶりにされるという。一人では何も出来ずこのアイアネスを指導
者とする集落に救いを求めに来たのである。
ロユラスは理解した。各地の街道に出没する山賊に怯えたフロー
イ国内で物資の往来が減少している。軍が威信をかけて山賊討伐に
乗り出したと言うことである。山賊といっても、このアイネアスを
リーダーとする集落のように、戦える男手は集落の人数の半数にも
満たないだろう。戦いの訓練を受けた兵士に襲われればひとたまり
もないのである。
ダミアノスはアイネアスに膝を屈するように、彼の手を取って懇
願した。
︻俺の娘も捕まった。お願いだ。お前たちの手で助け出してくれな
いか。三日後には集落からウィアーテ街道を通って移送されるらし
い︼
︻捕まったのは何人居る?︼
︻ざっと30人。いや、怪我人も入れたら50は、いるかも知れな
い︼
ダミアノスの言葉にアイネアスは一瞬口ごもり、眉を顰めて首を
横に振った。
︻この部落の仲間は女子どもも含めても80人だ。200の兵と戦
って、怪我人を含む50の仲間を連れて逃げるのか。そりゃ無理だ︼
︻無理は承知だ。どうか一人でも二人でも助けてやっちゃもらえな
いか︼
︻ダミアノスよ。お前の気持ちは分かるが⋮⋮︼
336
︻では、どうだ。俺がこれから一人で兵士たちの中に切り込んで暴
れてやる。その混乱に乗じて捕まっている者を一人でも良い。救い
出してやってくれないか︼
ダミアノスの言葉をアイネアスは黙ったまま首を横に振って否定
した。そんな事をしても、ダミアノスが無駄に死ぬだけで、100
を超すフローイ兵の間に混乱を起こすことなどとうてい出来ないだ
ろう。
ロユラスは傍観者として周囲を観察し、彼らの会話を聞いていた。
アイネアスだけではない。ヴァレリアを始め集落の者全てが沈痛な
面持ちで黙っていた。救いたいとは思うがどうしようもないという
やりきれない失望感がこの場を包んでいた。
ロユラスは縛られたまま樹に繋がれているクセノフォンに目を移
してみた。当然、クセノフォンも彼らの会話を聞いていたはずであ
る。何か怒鳴り散らしたいらしく、猿ぐつわの下で盛んに口を動か
しているクセノフォンに、ロユラスは口元に手を当ててみせ、黙っ
て話を聞くことが猿ぐつわを取る条件だと伝えた。クセノフォンは
やむなく頷いた。
ロユラスが猿ぐつわを外すのを待っていたかのように、クセノフ
ォンは口の中の干し無花果を吐き捨て、腹にたまりきった怒りの言
葉を放とうとした。その瞬間、この集落に溢れる沈痛な思いを破る
かのように、ロユラスが彼の名を叫んだ。
︻勇者クセノフォン!︼
ロユラスの大声に、クセノフォンは怒りを忘れ、他のギリシャ人
たちはそれまでのし失望感を忘れてロユラスに視線を注いだ。ロユ
ラスは言葉を続けた。
︻あんたも部下を焼き殺された恨みがあるでしょう。兵隊に一泡吹
かせてやろうと思わない?︼
ロユラスの言葉にクセノフォンが一瞬のためらいを見せたのは、
確かにその意思がないわけではないということだろう。しかし、彼
はすぐさま現実的な返答をした
337
︻ダメだ。仲間をこれ以上殺させられない︼
︻いいえ。一泡吹かせて逃げるだけで良い︼
︻何をする?︼
︻ウィアーデ街道がマキツキ街道に合流するあたりが、両側が切り
立った崖で、隘路になってるでしょう︼
ロユラスの言葉にギリシャ人たちは頷いた。ロユラスはこの辺り
を歩き回って、街道沿いの地形を熟知している。ロユラスはヴァレ
リアに視線を移した。
︻ヴァレリア。あんたソウソス川沿いに住む仲間の話をしていたね︼
︻それがどうしたのよ︼
ロユラスはヴァレリアに答える間もないという風にダミアノスに
向き直って言った。
︻集落を襲われたと言っても、無事に逃げた者も居るでしょう。ダ
ミアノス、そう言う仲間を集めることは出来る? 一人でも多い方
が良いわ︼
ロユラスの言葉の意図はよく飲み込めないものの、ダミアノスは
同意して頷いた。
ウィアーデ街道の隘路、マキツキ街道、ソウソス川、 まとまり
のない地形がロユラスの中に1つにまとまっていた。
338
救出
決行の日。ウィアーテ街道がマキツキ街道と合流する隘路の出口
にには、クセノフォンとその配下が崖の上から落とした大小の岩が
1ゲリア︵約800メートル︶に渡って転がっていた。人の通行が
出来ないほどではないが、兵士が隊列を整えて往来することは出来
ず、進むのに難渋するだろう。
クセノフォンは岩を落とす役割を果たした後、北西に延びる街道
の南の崖の上を西に移動してて街道の様子を眺めていた。切り立っ
た崖もクセノフォンが居る位置では緩斜面になり街道に降りること
が出来る。街道を挟んだ向こうの崖の上には、兵士たちの退路を断
つための岩を落とすべくダミアノスとその仲間が控えていた。
フローイ兵たちはクセノフォンの集落を襲って焼き払った後、捕
らえたギリシャ人たちを近くのメシニの砦に連行したという。メシ
ニの砦からギリシャ人を連行して都カイーキへと向かうとなれば初
日の宿泊地をウィディスの町に選ぶはずで、彼らは早朝にメシニの
砦を発ち、クセノフォンたちが待ち受ける場所を通るのは、日が中
点にさしかかる頃だろう。
クセノフォンが画間に見下ろす光景はロユラスの予言通りになっ
た。
︻兵が180と仲間が50ほどか︼
クセノフォンは街道をやってくる人数をそう数えた。前衛の兵士
が100。後ろ手に縛られ数珠つなぎになったギリシャ人たちが5
0人ほど続き、後衛の兵士が80というところである。
前衛の兵士が街道上の大小の岩にたどり着いた機会を見計らって
クセノフォンは狼煙に火を付けさせた。高く登る煙は崖の向こうの
仲間に、岩を転がし落として街道を塞げという合図と同時に、マキ
339
ツキ街道にいるロユラスらにも兵士たちが来たことを知らせるので
ある。もちろん、狼煙はフローイ兵も目撃する。何か異変を感じる
はずだが、この場合はここに彼ら山賊の存在を誇示しておくのが都
合が良い。
向こうの崖の山賊たちは仕事をやり遂げ、彼らが転がし落とした
岩で街道は兵士の後方で塞がれてしまった。次はクセノフォンたち
の出番である。クセノフォンは彼がかき集めた仲間と共に自分たち
の姿を露わに、歓声を上げて緩斜面を駆け下った。フローイ兵の後
衛から1/4ゲリア︵約100メートル︶の距離を置いて、盾と剣
を打ち鳴らして威嚇した。
100の山賊が姿を現せば、100の兵士がこれを追う。ロユラ
スが言ったとおりになった。指揮官はクセノフォンたちの数を正確
に読み切り、後衛の兵80名全てに命じてクセノフォンたちに向け
た。クセノフォンたちは斜面を駆け上がって逃げ始めた。フローイ
兵も勢いづいて追ってくる。いや、クセノフォンの立場では追わせ
ねばならない。山の中の移動などクセノフォンたちの得意とすると
ころだが、兵士を引き離してしまってはならない。クセノフォンた
ちは追ってくるフローイ兵どもの姿を眺めつつ山の中奥深くへと引
き込んだ。
ウィアーテ街道上のフローイ軍指揮官の立場で見れば、この位置
は崖の上から矢を射られたり岩を落とされたりしても反撃するどこ
ろか防御も難しい場所である。さっさとぬける必要がある。
ところが、フローイ軍に問題がある。後方は大きな岩に塞がれて
脱出路はなく、前方には既に大小の岩や木々が落とされていて通る
のには難渋する。指揮官は前進を命じたが、捕らえたギリシャ人た
ちは老人や幼い子どもまで、後ろ手に縛られて数珠つなぎになって
いる状態で、大小の岩を乗り越えて前進させることが難しい。この
間にも、北の崖の上に十数人の山賊が姿を見せて、兵士たちを脅す
ように、岩を落とすそぶりを見せていた。
指揮官はやむなく、捕虜を繋ぐ綱の一端を岩の一つに結びつけて
340
逃げられぬようにせよと命じた。ギリシャ人捕虜たちを一時放棄し
て兵のみの安全を図ることにしたのである。兵士たちは歩調を早め
てこの危険地帯を脱出した。彼らを襲った山賊たちは、街道に降り
てくる気配をみせた者や、崖の上にいたもの共を合わせれば100
人を超えるだろう。兵士たちはこれほど多数の山賊たちに一度に遭
遇したのは初めてだった。恐怖には至らないまでも隠せない驚きを
現していた。
フローイ兵たちが一息つくタイミングで、一人の商人が指揮官に
駆け寄ってきた。ロユラスである。
﹁隊長様。大変です﹂
﹁何事だっ﹂
﹁ランロイが数百の反乱奴隷どもに襲われ、リーミル様ご自身が防
戦の指揮を執っておられます﹂
﹁なんだと﹂
﹁兵の余裕が無くランロイも陥落寸前。リーミル様は各所の関所の
兵たちに、至急ランロイへの移動をせよとの命令を伝えよと、出会
った私にこれを託されました﹂
ロユラスが懐から取り出して見せたのはリーミルの髪飾りである。
一介の商人が持つ持ち物ではなく、フローイ王家の紋章も入ってい
る。普段なら、一介の商人に命令を伝えさせると言うことに疑問を
抱いたかも知れないが、今までに経験がないほど多数の山賊に襲わ
れた直後で、この街道でそれほどの数の山賊に襲われるなら、ラン
ロイを襲ったのはどれほどの数の山賊だろうという不安の混じった
責任感がわき上がる。
指揮官は一人の兵に、山中に山賊を追った兵士たちが戻ってきた
ら、捕虜を連れてランロイへ迎えという命令を残し、ランロイへと
兵を進めた。街道にランロイへ向かう兵の姿が見えなくなった時、
ロユラスは森に向けて大きく合図の手を振った。残された兵士が森
の中から出てきた数十の山賊たちに驚く瞬間、ロユラスは手にした
棒で兵士の頭を打って気絶させた。
341
森から出てきたのはアイネアスを筆頭に、彼の部族の者たちであ
る。ロユラスは街道の奥を指さして言った。
︻早くして︼
街道にいる仲間を救出しろと言うのである。ここを去った兵士た
ちも、ランロイまでは行くまい。街道上で北に向かう商人か誰かに
出会うに違いない。出会った者に事情を聞けば、騙されたことに気
づいて戻ってくるだろう。それまでの間に、事を終わらせねばなら
ないのである。
ロユラスは白い手ぬぐいを取り出してメッセージを書き付けた。
リーミル様
ありがとうございます。
お借りした髪飾りはとても役に立ちました。
用は済みましたので、お返しいたします。
ロユラス
その布に髪飾りを包んで、気絶した兵士の手に握らせた。別に誰
かを愚弄する気はなく、ロユラスの好意である。捕虜を移送しろと
言う任務を放棄したあの指揮官も、この手紙と髪飾りがあれば、騙
されたのもやむを得ないと判断されて処罰されることはないだろう。
ただ、任務放棄の理由が自分にあることを知ったら、リーミルはさ
ぞかし怒り狂うだろう。
︵次に会うまでに、怒りを解いておいてくれればよいが︶
ロユラスは密かに真面目にそう思った。
アイアネスたちが捕虜の縄を解き、怪我人や幼い者たちに手を貸
しながら戻ってきた。兵士たちが戻ってくるため、直ぐに出発せね
ばならない。しかし、今ロユラスたちが居るマキツキ街道も、南に
はランロイに向かったフローイ兵がおり、北にはマキツキの砦があ
ってフローイ兵が詰めている。西のウィアーテ街道はクセノフォン
342
たちが岩で道を封鎖し、彼らを追ったフローイ兵もいる。そして、
街道から山へと入りアイネアスの集落に続く道はあっても、細く、
険しく、遠い。
体力のない子どもや老人、怪我人を連れて行けば、戻ってきた兵
士たちに追いつかれて、皆殺しにされるだろう。救出された者たち
に笑顔がないのはそういう行き詰まった状況にいる事を知っている
からである。
343
ソウソス川上流より
︻急ぎなさい︼
ロユラスがギリシャ人たちを叱咤しながらソウソス川の河原にた
どり着いたのは、正午を過ぎた頃である。河原に人影はない。ロユ
ラスたちは、救い出したギリシャ人たちに水を飲ませ、休憩を取ら
せた。ただ、彼らは行き止まりで、身を隠す場所もないこの地に不
安を隠せない。
間もなく、不安は現実になった。
︻兵士たちだ。ウィアーテ街道の合流点に姿を見せたぞ︼
そう叫んで駆けてきたのは偵察のために街道に残してきたアイア
ネスの仲間である。騙されたことに気づいて戻ってきたということ
だろう。辺りを調べてギリシャ人の捕虜が逃げたことに気づけば、
その逃げる方向はマキツキ街道を北上するほか無い事を悟って追っ
てくる。間もなく、それを知らせる仲間が駆けつけてきた。
︻大変だ。兵士どもが80人ばかりこちらに向かってくる︼
フローイ兵の指揮官が連れ戻った兵士たちの一部をウィアーテ街
道の探索に残し、大半の兵を率いて、捕虜たちが逃げた可能性が高
いマキツキ街道を北上してくるのである。
︻ダメだ。ここにいれば皆殺しにされる︼
誰かの叫びにアイネアスが悲痛な声を上げた。
︻ヴァレリアたちは何をしてるんだっ︼
︻これが、この者たちの限界か︼
ロユラスは密かにそう呟いていた。限界。時間でも、人数でも、
迫り来るフローイ兵という状況ではなく、目の前にいるギリシャ人
たちのことである。ヴァレリアとその部族、クセノフォンやダミア
ノスたちの人柄が妙に心地よく感じられ、ロユラスは彼らに捕虜を
救出する計画を提案した。ここまでは想定を上回る順調さだったが、
344
ギリシャ人たちの動きは、ロユラスの計画を達成するには及ばなか
ったらしい。この河原に姿を見せるはずの者たちの姿がない。ロユ
ラスは冷静に彼らを眺め、その彼らの姿を限界と称したのである。
しかし、この者たちを見捨てるわけにも行かず、ロユラスは頭の
中で次の策を練っていた。あとは、河原から街道に戻り、やや北に
ある小道からアイアネスの集落を目指す。険しく曲がりくねった道
や斜面を登り、老人や負傷者や子どもたちはついてこれずに脱落す
るだろうが、それも、追ってくる兵士の足止めの役に立つ。体力の
ある者たちだけでも救えるだろう。
ロユラスにすがりつくような視線を注ぐ捕虜たちに罪悪感を感じ
ながらも、彼らを見捨てる決断をしかけていた。
︻フローイ兵の姿が︼
河原から街道へ偵察に出ていたギリシャ人が駆け戻って来てそう
叫んだ。敵はいよいよ姿が見える位置まで戻ってきて彼らを追い始
めたのである。これ以上、一刻の猶予もなかった。険しい傾斜を登
ってアイアネスの集落へ。ロユラスがそう指示を出そうとした時、
アイアネスの声が響き、ギリシャ人たちの喚声が広まった。
︻ヴァレリアとマカリオスが戻ってきた︼
母と息子の説得が功を奏し、ソウソス川の上流に隠れ住んでいた
者たちが、仲間を救出するために筏を作って流したと言うことであ
る。流れ下ってくる幾艘もの筏の先頭でヴァレリアとマカリオスが
手を振っていた。
救援の者たちが現れたという感動の余韻に浸っている時間はなか
った。アイアネスたちは次々に川辺に着く筏に、救出した仲間を乗
せて、川の流れに戻した。ロユラスが最後の筏にアイアネスと共に
乗り、岸辺を離れた時、追っ手のフローイ兵たちが河原に姿を見せ
るのが見えた。
筏の上の人々が身を伏せたのは、そのフローイ兵たちが弓を手に
しているのが見えたからである。ただ、ロユラスのみ、筏の上に立
ったまま、兵士に向かって手を振り、今回の悪くない商売に礼を語
345
るように丁寧に頭を下げて見せた。兵士たちはそのロユラスめがけ
て盛んに矢を射たが、ロユラスに届く矢は少なく、川面の流れに乗
って筏と共に揺れるロユラスに命中する矢もなかった。ただ、危険
には違いない。
︻ロユラス。お前も伏せろ︼
アイアネスがロユラスの首根っこを掴んで伏せさせた時、ロユラ
スはフローイ兵をからかった楽しさを見せるように笑っていた。ギ
リシャ人たちはそのロユラスの様子を彼の剛胆さとみた。ロユラス
自身にはよく分からない。この世界と自分自身をあざ笑うように無
謀な危険に身を晒したくなる。ただ、この癖はやがてロユラスに悲
劇的な運命をもたらすことになる。
ロユラスは筏の上にあぐらをかいて座り込み、辺りを見回した。
︵これが、この者たちの限界か︶
周囲の者たちの笑顔を眺めて、先ほど考えたことを訂正せねばな
らないと考えていた。筏を造って救出に来た部族の者たちは、川の
上流でフローイ人に気づかれることなく平和に暮らしていたに違い
ない。筏を流したことで、この上流に逃亡奴隷が居ることに気づか
れてしまった。彼らは住み慣れた場所を離れて、新たな場所に身を
隠さなければならないだろう。そういう不都合を甘んじてでも、仲
間を救い出す決意を固めたと言うことである。アイアネスやクセノ
フォンも同じく自らの安全のためにダミアノスの集落の者たちを見
捨てることも容易だったがそれをしなかった。
この時のロユラスは、感心しつつも彼らの姿を冷静に観察してい
た。
346
ネリッサ
ソウソス川は、渓谷沿いに流れて曲がりくねり、時に川底から岩
がのぞき、時に流れが細く速くなる。その危険な流れも無事に乗り
切って、全ての筏がやがて見えてきた広い河原に到着した。街道か
ら遠く離れた山深い場所で、フローイ兵どもが追ってくる事はない
だろう。
気がかりは、先に兵を引きつけて逃げたクセノフォンたちのこと
だが、彼らも山の移動や身を隠すことには長けており、フローイ兵
に捕まるようなヘマはすまい。
マカリオスが手際よく近くの枯れ木を集めて火を焚き、ヴァレリ
アは僅かながら持参した干し肉や干しイチジクを仲間に分け与えて
いた。筏を流した部族の者たちはかいがいしく怪我人や子どもの世
話に忙しく働いていた。ただ、今はどの顔にも安堵の笑顔が浮かび、
互いの健闘や幸福をたたえ合っているように見えた。ロユラスはそ
んな彼らから少し離れて傍観者として彼らを眺めていた。
ロユラスが生まれる前の話だが、過去のアトランティスが5万に
及ぶ大兵力でギリシャの土地を侵した。アトランティス人の認識は、
小部族が互いに争う攻め取るのに都合の良い土地だったらしい。事
実、侵攻の初期の段階でアトランティス軍の勢いを止める者はなく、
彼らは勢いのまま占領地を広げた。しかし、やがて彼らはアトラン
ティスを共通の敵として手を携え、強大なアトランティス軍を各地
で破ったばかりか、占領軍をアトランティスの聖地シリャードに進
めるという信じられないことまでやった。
ロユラスは河原で談笑する者たちに、その民族の誇りと団結心の
片鱗を見せられた思いだった。
347
物思いにふけるロユラスに一人の幼女が近づいてきた。ロユラス
は捕虜の中にその姿を記憶していた。母親に寄り添っていても不思
議ではない年頃だが、保護する者もなさそうで、年長者の中に一人
不安げに戸惑う姿が目立っていたのである。
少女は黙って微笑み、河原の焚き火を指さして見せて、ロユラス
の手を引いた。
︻彼らの仲間には入れというの?︼
ロユラスの言葉に少女はにこりと笑って頷き、ロユラスを引く腕
に力を込めた。
︻私はロユラス。貴女、名は?︼
ロユラスの問いに少女はやや困った表情をし、開けた口を指さし
て無言で話す素振りを見せた。
︻その子はネリッサと申します。ずっと以前にフローイ兵に目の前
で母を殺されるのを見てから言葉が話せません︼
少女から遅れてきた老人がそう言った。
︻そう⋮⋮。ネリッサ、母から良い名を付けてもらったね︼
うなづく少女にロユラスは一つ悟った。心を交わすのに、時には
笑顔だけで足りるということである。ロユラスは男に視線を注いだ。
︻貴男は?︼
︻私はペリスと申します。ロユラスさま、向こうで皆が礼を申した
いと︼
ペリスが言うには、アイネアスの集落の者たちに命を助けてもら
った礼を言っていると、この計画を立案したのは、ギリシャ人たち
から離れ、河原と森の境に一人黙ってたたずんでいるロユラスだと
聞き知ったのである。
ペリスは仲間が命の恩人の元に出向いて礼を言わない非礼を謝罪
し、その訳を語った。ロユラスが余りに彼らと心の距離を置いてい
るのに、何か立ち入ってはいけない理由でもあるように思え、ここ
へ出向くのをためらっていたというのである。
ロユラスは自分が彼らにそう言う印象を与えていることを知った。
348
この少女ネリッサはそんなロユラスの心の距離を埋めようとしたの
だろうか。ロユラスはネリッサに手を引かれ、ペリスに伴われてギ
リシャ人たちが集う焚き火へと歩いた。時にふざけて剽軽な姿も見
せるこの男が、この時は無表情だった。状況に戸惑いどんな表情を
浮かべるべきか分からない。
そんなロユラスに焚き火の方から声が上がった
︻ロユラス︼
ロユラスを讃える声である。その声が広がった。
︻ロユラスっ︼
︻ロユラス!︼
︻ロユラスー︼
焚き火を囲む人々は、救出された者たちも、救出に携わった者た
ちも等しく立ち上がって、ロユラスの名を叫んで立ち上がった。彼
らの叫びが、ロユラスという人物を讃える歓声となって河原に満ち
た。
人々はロユラスに命を救われたという信頼感を持っていた。そし
て、彼らはヴァレリアたちから、ギリシャ人の母から言葉を学び育
てられた男だとも聞き知っているようだった。ただ、ロユラスはこ
の人々の前で、自分の言葉で出自を語らねばならない。語り始めよ
うとするロユラスの意図を察した人々は一斉に歓声を止め、座り込
んで黙って耳を傾けた。
︻私の母はフェリムネ。十七歳の時にルージ国に連れてこられて、
私を生んだの。私はルージのアワガン村で生まれ育って漁師をして
いたわ。でも、母のこと、故郷のことをもっと知りたいと思うじゃ
ない? だから⋮⋮︼
最初はロユラスの話に真摯に耳を傾けていた人々が、その違和感
に顔を見合わせたり戸惑ったりしている様子がかいま見えた。
ヴァレリアや彼女の夫がロユラスと出会った時に示した反応であ
る。ロユラスのたくましい体を眺めていれば、言葉遣いとの間のギ
ャップに、気の利いた冗談でも聞いた時のような笑みが浮かぶ。背
349
を向け俯いて表情は分からない者も多いが、彼らの震える肩を見れ
ば必死で笑いをこらえているに違いない。
﹁やはり、お前たちの言葉で話すべきじゃなかった﹂
そう言うロユラスの肩から力が抜け、一人で笑い始めた。ギリシ
ャ人の一員として違和感がなかった。仲間もまた彼と声を合わせて
笑った。笑い声に部族や民族の差はなかった。
ただ、ヴァレリアはロユラスの母の名を呟いて、眉を顰めていた。
︻フェリムネ?︼
彼女の部族ではありふれた名だ。彼女はそう考えることにした。
やがて、思い出したように襲ってきた疲労に、彼らの明るい笑い
声も薄れ、川の流れの飛沫の音に、寝息が混じるように静まりかえ
っていった。
350
マカリオス
明くる朝、クセノフォンが単身でロユラスたちが夜を過ごした河
原に姿を見せた。
︻どうやら、うまく行ったらしいな︼
笑顔でそう言ったクセノフォンは、兵士を誘導した仲間には一人
の犠牲者もなく、今頃はあの兵士どもは山中で道に迷っているだろ
うとも笑った。
︻どうだ、兵士どもの退路を塞ぎ、身を晒して兵士共を引きつけた
俺様が一番手柄だろう︼
クセノフォンは周囲を見回して、大声で自慢した。仲間の中で自
分を誇示し威張りたがる性格の男らしい。しかし、誰もクセノフォ
ンに反論はしなかった。昨日、全ての者が全力を尽くして仲間の命
を繋いだ。それは、怪我人や幼い者に手を貸して逃げた捕虜も同じ
である。一番というなら皆が一番で、クセノフォンもその一人には
違いない。
︻ロユラス・さん、︼
威張りん坊のこの男が、慣れない丁寧な口調でロユラスに語りか
けた。
︻俺はここに来るまでに考え続けていた︼
︻何を︼
︻俺たちは、五十人、六十人の仲間じゃ、やっていけねぇ。兵士に
襲われたらこのダミアノスの集落と同じになっちまう。実際、今ま
で幾つもの集落が潰されてるんだ︼
︻そんなことが⋮⋮︼
︻だから、俺はこのアイネアスに俺たちの仲間になれって誘ってた
んだ︼
クセノフォンの言葉にヴァレリアが鋭く反応した。
351
︻それを断られたから、私たちを拐かそうとしたんだろ。まっぴら
だよ。あんたの下につくのはね︼
アイネアスも妻の言葉を支持した。
︻女房の言うとおりだ。俺たちはお前の子分になる気はない︼
︻子分だと? 仲間だよ、仲間。仲間にしてやるって言ってるのに、
夫婦そろってこの通りの頑固モンだ︼
クセノフォンはこの夫婦に肩をすくめて見せて言葉を継いだ。
︻ロユラス・さん、俺は決めた。俺には91人の仲間がいる。女や
年寄りもいるが、腕の立つ者もいる。アンタさえ良ければ、俺は仲
間を連れて、アンタの子分になっても良い︼
思いも掛けない気前の良い申し出に、ロユラスは戸惑った。彼の
戸惑いを払拭するように、クセノフォンは声を張り上げて同意を求
めた。
︻どうだ。アイネアス。お前だって同じだろう。ダミアノスの集落
の者はどうだ?︼
アイネアスとダミアノスが頷くのを見たクセノフォンは更に視線
を移して問うた。
︻筏を流してくれたハリラオスやディミトリスの集落の者はどうだ
? お前らだけなら、こいつらを救えたか?︼
やや間をおいて、クセノフォンはロユラスを指さして結論を下し
た。
︻このロユラス・さんなら、年は若いが指導者として申し分はねぇ
だろ︼
クセノフォンの叫びに異論を唱える声はなく、申し出を受け入れ
て頷くのを期待する視線がロユラスに集中した。ギリシャ人の血と
アトランティス人の血。ギリシャの血筋はロユラスにここに残って
仲間をまとめろと囁いていた。一方、アトランティスの血筋は彼に
アワガン村とそこに住む母を思い起こさせた。
ロユラスは残念そうに、しかし決意を込めて言った。
︻私は母を残してきている。ルージに帰らなければ︼
352
諦めきれないクセノフォンが条件を付けた。
︻では、こうしたらどうだ? ロユラスさんが母をここに連れてく
ればいい。歓迎するぞ︼
ロユラスは黙って首を横に振った。その理由はギリシャ人たちに
も分かる。ロユラスの母はルージ国で平穏に生活しているらしい。
この命の危険にさらされる国に連れて来るわけにはいかないだろう。
なにより、戦が始まってアトランティス全土に広がるぶっそうな雰
囲気はギリシャ人たちも感じている。そんな中を母親を危険にさら
せとは言い難い。目の前の大きな希望が失われた失望感が広がった。
そんな中、アイネアスが進み出てロユラスの手を取って言った。
︻ロユラス。帰るというなら、もう止めはすまい。しかし、俺たち
は貴男がここへ帰るのを待っている。俺たちの事を忘れないでくれ︼
アイネアスはロユラスが頷くのをまって、息子に視線を注いだ。
マカリオスはどう説明して良いのか整理のつかない心から、結論だ
けを抽出して吐いた。
︻ロユラスさん、俺はアンタについて行くことに決めた︼
戸惑うマカリオスにその理由を求めるのは難しそうだが、父が息
子に注ぐ視線を見ればこの決意は父親公認であるらしい。ロユラス
はアイネアスに尋ねた。
︻どういうことなの?︼
アイネアスは説明に窮するように、髪をかき乱すように掻いた。
︻こいつも生まれてこの方、薄暗い山暮らしだ。広い海が見たいと
言われりゃ、父親として反対もできないって訳だ︼
︻しかし、ルージに帰るにも危険なのよ。戦が起きているシュレー
ブを抜けて帰るしかないわ︼
ロユラスはそう危険を説いた。フローイの港から中立国の港を経
て海路帰国するつもりだったが、ギリシャ人たちを逃がした犯人と
してロユラスの顔を覚えている兵士も多い。街道や町、何より港の
警備は厳しくなる。帰国にフローイ国の港は利用できず、行程は危
険に満ちていた。マカリオスが反論した。
353
︻危険なのは何処にいたって同じさ。それなら広い世界を見てみた
いんだ︼
︻第一、いつ戻ってこれるか分からない︼
ロユラスはマカリオスの動向に否定的な状況をいくつも並べたが、
彼の決意を翻すことは出来そうになかった。ヴァレリアが結論を下
すように言った。
︻連れてお行きよ。一人なら危険でも、二人いれば切り抜けられる
こともあるさ︼
その言葉に、ロユラスは妥協して言った。
︻街道は通らず、山越えをしてシュレーブに出るわ。そこからレネ
ン国を経由してヴェスター国を横断して、海路、ルージへ行きます。
山育ちの者には長い旅になるわよ︼
︻連れて行ってくれるんだな︼
ジェ・タレヴォー
マカリオスの言葉に素直な喜びが籠もっていた。ロユラスはアト
ランティス人の言葉で答えた。
﹁俺はフローイの銀細工売り、お前は半自由民で俺の使用人という
ことにしておけ﹂
︻ありがとう。そうする︼
﹁お前も、お前たちの言葉を使うのは終わりだ。注意しておけ、人
前でその言葉を使えば正体がバレるぞ﹂
マカリオスはアトランティスの言葉で頷いた。
﹁わかった。アンタを連れて戻るまでは、部族の言葉は使わない。
約束する﹂
﹁では、お前の集落に戻ったら、荷物を持って出発だ⋮⋮﹂
ロユラスはそう言いかけて言葉を途絶えさせ、マカリオスの言葉
を繰り返した。
﹁アンタを連れて戻るまでは?﹂
ロユラスは気づいたようにアイネアスとヴァレリア夫婦に向き直
って文句を言った。
﹁あんたたち、俺をハメたな?﹂
354
策略に引っかけたのかと問うたのである。マカリオスはロユラス
とルージへ行くことで好奇心を満たすことが出来る。そればかりで
はなく、ギリシャ人たちはロユラスにマカリオスという手綱を付け
ることで、彼にロユラスをフローイへ戻ってこさせる役割を期待し
ているのである。
夫婦はただ笑って否定しなかった。ロユラスは状況を受け入れて
肩をすくめたのみである。
ルージへは安全なルートを模索しながら一ヶ月半︵アトランティ
スの暦。現代の暦で30日︶はかかるだろうとロユラスは見ている。
このマカリオスと共にシュレーブの状況を眺めて旅をするのも良い
かもしれない、ロユラスはそんなことを考えていた。
同じ頃、ネルギエの戦で大勝したアトラスは、帰国の船旅にも耐
えられぬほどの重傷で、ヴェスター国の王宮で傷を癒していた。こ
の時、ロユラスもアトラスも自分の帰国と共に王位継承争いに巻き
込まれるとは想像もしていなかった。
355
マカリオス︵後書き︶
シリャード
この二人は自ら望みもしない王位継承争いに巻き込まれてゆきま
す。戦争は未だ続いています。その中で聖都で神帝追悼の儀式が行
われ、ギリシャ人武将エキュネウスは、父ジソー王の代理で出席し
たエリュティアと再会します。
フローイではフェミナが夫グライスの帰りを待ち続け、リーミルは
フローイとの国境に位置するシュレーブ国領主の不穏な動きが気に
なっています。
少し書きためてから再開しますので、次回更新は7月中旬の予定で
す。
登場人物達を温かく見守ってやってくださいね。
356
アトラス生存
戦場で左を負ったアトラスは、吐いた息が吸えないほどの激痛に
あえいだ。じっとしていても心臓の鼓動が激痛と合わせて耳に響く
ようだった。応急手当の後、荷車に乗せられて移動する、その車輪
が越える石の数だけ揺られて激痛にあえいだ。
レネン国からヴェスター国へと五日をかけて移送される間も、痛
みで食事もとれず、気を失っているのか眠っているのか分からぬ短
い安らぎの時間があっただけである。彼を心配して付き添っていた
スタラススら近習たちの姿も記憶に留めていない。
ヴェスターの王宮に着いた後、失った血とともに体力まで流し去
ったように消耗し尽くしたアトラスの体は、高熱に襲われて意識が
もうろうとする日々が続いた。
戦場で重傷を負った将士が、高熱を出し意識を失って、うわごと
バトロエ
を呟きながら生死の境をさまようことがあり、アトランティスの人
々はそれを戦の女神の試練と呼んでいた。
パトロエ
その戦の女神の試練をくぐり抜けて意識を回復したのは三日前で
ある。戦闘後、激痛と意識不明の中で、この王宮に到着して十日間
も戦場の出来事を振り返る余裕もなく過ごした。高熱はやっと去っ
たが全身の気だるさは抜けず、ベッドから立ち上がろうとして、足
下がふらついた。無意識に腕を振ったが、右腕と失った左腕のバラ
ンスがとれずにかえってふらついて床に尻餅をついた。失った腕を
確認するように無意識に傷口に当てた右手に勢いがあって、まだ癒
えきらない傷口の激痛に呻いた。
そういう自分自身の滑稽な姿に苛立ちを深め、ベッドをひっくり
返そうとしたが、右腕一本ではどうしようもない。足で蹴飛ばして
その衝撃が足から胴へ、胴から左腕の傷口へと届いて新たな痛みを
357
感じさせただけである。
無我夢中で敵陣に突入したことは思い出せても、その後に起きた
出来事の記憶はばらばらで、時間の流れに沿って整理できない。た
だ、フローイ国の王子グライスが振るった剣で左腕を失った瞬間の
ことは、信じられないことが起きたような驚きと共に記憶していた。
左腕の肘から先を失っていたがその傷口だけではなく、二の腕全
体に包帯が巻かれていて脇に近い部分に血がにじみ出していた。失
った腕の痛みに隠されていたが、その血が滲む部分にも別の痛みが
ある。
アトラスはその理由を、寝台の脇に置かれていたクレアヌスの胸
板で思い起こした。左胸に敵の槍を受けた。槍の穂先がこの厚い金
属の胸板に当たって逸れて、左の二の腕の肉と脇の肋骨をえぐりな
がら背後へと貫いた。その衝撃にのけぞって左腕を伸ばした瞬間に、
王子グライススの剣に腕を奪われた。そう言うことである。
戦の後、フロース軍の陣でグライスの副官ロットラスが、槍の穂
先がアトラスの背に貫いて見えたと報告した状況だが、槍はアトラ
スの胸を逸れてその背後に貫いていたのである。
戦場で互いに名乗り合ったはずだが、アトラスはグライスの名を
忘れて、彼の表情を怒りと共に記憶に刻んでいた。
﹁フローイ国の王子め。今度会った時には、お前の首を切り落とし
て、狼にでもくれてやる﹂
アトラスは憎しみを込めて、失った左腕の怨みを叫んだ。気がつ
いてみれば、スタラススやオウガヌ、テウススら近習がアトラスを
気遣うように姿を見せていた。先ほどまでの滑稽な姿を見られてい
たかもしれない。アトラスはその戸惑いや恐れを怒りの言葉に変え
ロゲル・スリン
て近習たちに怒鳴るように宣言した。
テツリス
﹁フローイとシュレーブ、そして六神司院の裏切り者どもめ。正邪
の審判の神に誓って、一人も生かしてはおかぬ。この私が奴らを皆
殺しにし、アトランティス中の狼が腹を膨らすまでその醜い餌を与
えてやる。﹂
358
父を殺され、兄とも慕うザイラスも殺されていた。更に自身の左
腕まだ奪われ、アトラスの憎しみは尽きることなく敵に放たれてい
ストカル
るようだった。
︵伝説の復讐鬼のようなお顔をなさる︶
アトラスを眺めたスタラススがやや寂しさを込めて評したのは、
今のアトラスから憎しみの感情のみしか感じられないことである。
事実、アトラスは憎むことによってパトロエの試練から回復したの
かもしれない。
この時、一人の兵が幕舎に姿を見せて来客を告げた。
﹁我らが王子よ。ラヌガン様とマリドラス様がお見舞いとご挨拶に
参られました﹂
﹁通せ﹂
告げられた名にアトラスは短く答えたが困惑が隠せない。
359
ラヌガンの帰国
二人の男が衛兵と入れ替わりに姿を見せた。ラヌガンと今は彼を
当主として仰ぐ叔父のマリドラスである。
アトラスは心臓の鼓動と共に疼き続ける腕の痛みを一瞬忘れるか
のように、眉をぴくりと動かして困惑の感情を見せた。並み居る将
士の前で臆病者呼ばわりしたこと。侮辱を受けたバラスはアトラス
を許したようだが、その息子はどうだろう。アトラスはラヌガンに
気まずい思いがあった。
ラヌガンが進み出て、右の掌を左胸に当てるルージの正式な礼法
でお辞儀をして言った。
﹁先に帰国します故、ご挨拶に参りました﹂
個人的な感情を内に秘めた儀礼的な言葉に、アトラスも応じた。
﹁私も、急ぎ戻らねばならない。次の出陣でそなた父子と再会しよ
うぞ﹂
アトラスはラヌガンの微妙な表情の曇りを見逃さず、心に浮かん
だ疑問を呈した。
﹁そなたの父、バラスの姿が見えぬが、いかがした?﹂
ラヌガンが口ごもったため、傍らのマリドラスが口を開いた。
﹁バラス殿は、フローイ軍陣営奥深く突入され戦死。勇敢な最後で
ありました﹂
アトラスは絶句した。アトラスの感情に配慮したのだろうか、ア
トラスが意識を回復した後、戦は大勝利だったということを告げて
も、数多くの戦死した者がいることに触れる者は居なかった。ただ、
バラスが戦死したと聞けば、アトラスにもその最後の想像はつく。
フローイ王子グライスと戦って左腕を失う衝撃の光景の直後に、敵
兵の壁を切り開くように登場したバラスの姿をハッキリと記憶して
いる。
360
目に焼き付けられたその姿から、アトラスを救出に来たという状
況が理解できる。
﹁私の責任だ﹂
アトラスは叫ぶようにそう言った。他に口を開く者のない状況に、
彼は言葉を継いだ。
﹁私の思慮が足りないばかりに、敵陣に無謀な突入をした。その愚
かな私を救う為に、ルージの偉大な勇将が死んだ。そう言うことだ
な﹂
アトラスはラヌガンの手を取り、深々と頭を下げた。
﹁許せ、ラヌガン。私がそなたの父を殺したのも同然﹂
君主が配下に取る姿勢ではなかった。親しい友人に罪を詫びる姿
勢である。この姿勢にラヌガンは戸惑った。戦の前に父親が臆病者
呼ばわりされて以来、アトラスと心に距離を置いていた。帰国の挨
拶に来たのも自らの意思ではなかった。バラス亡き後、ラヌガンを
支える叔父のマリドラスに連れられて来たのである。
ただ、戦の前に父の陣に素直に謝罪に来たアトラスの姿も目にし
ている。隔てる身分を除けば、幼い頃から身近な親友として育った。
その親友の謝罪を目にしながら許すことが出来なかった自分の心の
狭さを悔いる意識があった。ラヌガンは自分の姿を恥じた。
彼は跪いて臣下の礼を取り、アトラスの手を握って言った。
﹁我らが王子よ。父バラスの仇は、次の戦でアトラス王の先陣を努
めて討ち果たす所存﹂
王となるべきアトラスを支えるというのである。
﹁おおっ、お前と共に、二人の父の仇を討とうぞ﹂
肩を抱き合う二人を、スタラススら他の近習も手を取り合って喜
びの中で眺めていた。
いつの間にか姿を見せたサレノスが、そんな彼らを見守るように
いた。彼はやや不可思議な立場にいる。ルージ国の中でアトラスの
母、王妃リネが国政に口を挟んで国を乱すという者が居ることを聞
361
き知っていた。秘かに王の愛妾フェリムネを支える者たちである。
サレノス自身は政には距離を置いているが、王の後継者は血筋の
濃さで選ぶべきだと考えている。戦の前に敬愛するフェリムネの館
に足を運び王の長男ロユラスに忠誠を誓ったのもその自分の立場を
明確にするためである。リダル王のこと、そんなサレノスの行動は
秘かに掴んでいたかも知れない。しかし、王リダルは彼を次男アト
ラスの指導者の位置に据えた。
この戦の中、アトラスの傍らで彼を眺め続けていたが、勇敢さと
戦術眼は父王リダルの血を引いていたし、いま目の前に見せられる
光景は、リダルが家臣を引きつけて放さない人徳を、息子のアトラ
スも持っていると言うことである。
︵儂も老いたか︶
サレノスはそう思った。ロユラスに捧げる忠誠心に迷いはないが、
ロゲル・スリン
ロユラスとアトラスのどちらかを選択しようとした自分の判断に誤
りがあったのかと考えたのである。
この若者たちはまだ気づいては居ないだろう。六神司院から裏切
り者と名指しされたアトラスを廃し、王リダルの長男ロユラスを王
位に就けようする者たちが、フェリムネやロユラスが望まなくとも
現れる。帰国後に一波乱あるだろう。今は一つにまとまって見える
近習たちでさえ、彼らの一族はフェリムネ派とリネ派に分かれて争
う事になるかも知れない。
そして、もう一つサレノスの立場を複雑にしているのは、意外に
も王リダルの剣を秘かに所有していることである。イドポワの門の
戦いで王リダルが兵士チッグスらに託した剣はヴェスター国の役人
を経て王レイトスの手に渡っていたのである。レイトスはサレノス
を信頼し、彼にその剣を託した。サレノスの気性から見て信頼は裏
切るまいと考えたのだろう。甥のアトラスを支持するレイトスの信
頼にも応えねばならないとなれば、サレノスの立場はややこしい。
362
憎しみのアトラスの帰国︵前書き︶
舞台を分かっていただき安くするため・・・と言い訳して、私の文
章力不足を補うために、舞台や視点が変わるときに地図を利用しよ
うかと考えています。今回の舞台は赤い星の場所です。フローイ軍
は来たのネルギエからこの地へ移動しています。
<i202291|14426>
363
憎しみのアトラスの帰国
他の部隊は既に港へと移動し、残されていた五百名ばかりのアト
ラスの部隊が都レニグを離れようとしている。
体力を充分に回復していない王子を気遣って、馬車に乗せようと
するサレノスらの提案を断ったばかりか、アトラスは甲冑を身につ
けた重装備姿でいた。来た時のように近習たちと共に徒歩で港まで
歩く体力はなく、愛馬アレスケイアの背に乗って帰る手はずである。
アレスケイアを牽いてきた従卒が、両手の指を組んで腕を輪にし
あぶみ
た。アトランティスの人々は、馬の背に厚手の毛布を敷いて乗る。
後世の鞍や鞍についた鐙はなく、足を鐙にかけて馬の背に乗ること
が出来ない。この腕の輪を足がかりにして馬の背に乗ってくれと言
う配慮である。
﹁無駄な気遣いは止めよ!﹂
アトラスは従卒にそう怒りを向けた。その後に短い沈黙があり怒
りを向ける矛先を誤ったことに気づいた様子がうかがえた。
アトラスは愛馬の左からその背に飛び乗った。腹を馬の背につけ、
右足を馬の右へと渡しながら正面を向いて、その背に跨る。失った
左腕のバランスがとれないように、アトラスはその自然な動作が出
来ず、愛馬の背からずるずると滑り落ちた。その自らの滑稽な有様
に腹を立て、アトラスは重い兜に責任があるかのように脱ぎ、地に
投げ捨てた。そして愛馬の右に回って、その背に飛び乗りざま、愛
馬のたてがみを掴んで支えとして、ようやくその背に跨った。手綱
を取って、愛馬の腹を軽く蹴って歩ませ始めたが、右腕のみで扱う
手綱さばきは、愛馬にとって主人の意がくみ取りにくいのだろうか。
主人を気遣うように振り返ったアレスケイアの目に困惑が浮かんで
いた。
364
アトラスの付き従ってその傍らを歩む近習たちに、馬上のアトラ
スが息を乱しているのが聞こえた。癒えきらない腕の痛みを吐き出
しているのである。前方を真一文字に睨む視線は、戦への意思では
なく、激痛に耐える様子もかいま見える。とかと、そのアトラスの
姿は怒りに満ちていて、近習たちが王子を気遣って声を掛ける事が
出来る雰囲気ではない。
その姿が兵士たちに弱音は吐けないという責任感か、自分の弱み
を他人から隠したいという歪んだプライドのためか区別はつかなか
った。それはアトラスに尋ねても本人自身が心の整理が着いていな
かっただろう。傷の痛みと共に高まる怒りや憎しみの感情を制御で
きず、周囲に心を閉ざしたアトラスにはその吐き出し口すら無かっ
たのである。
帰国するルージ軍部隊を見送るために、ヴェスター軍の将士が王
宮から伸びる街道上に隊列を整えていた。ヴェスター国王レイトス
の合図で、その兵士たちが将軍たちに声を合わせて叫び始めた。
﹁伝説の勇者リダルの息子アトラス﹂
パトロエ
﹁ネルギエの勝利を導いた者。アトラス﹂
﹁戦の女神の試練をくぐり抜けた真の勇者の神々しき姿を見よ﹂
ヴェスター軍が勇者へ贈る餞の叫びである。叫ぶ言葉の内容にも、
兵士たちの心にも嘘はなかった。アトラスは先の戦でシュレーブ軍
を壊滅させた大勝利の立役者だった。数が上回るシュレーブ軍を相
手に優勢だったとはいえ一進一退の戦いを強いられていたが、アト
ラスの突入をきっかけに、戦況は一気に好転した。それを肌で感じ
ている兵士たちである。痛みに耐え溢れかえる憎しみを押さえた青
年の心は理解される事はなく、ただ一途に前を見つめる姿のみ、真
の勇者の神々しき姿として見えるのだろう。
アトラスは過ぎ去る都レニグからさらにその先にある戦場を思った
﹁私は再びこの大地に戻ってくる。その時にこそ、あ奴らを皆殺し
365
にしてやる⋮⋮﹂
ロゲル・スリン
この時、何処に向けて良いのか分からなかった全ての怒りと憎し
みが、父と自分の腕を奪ったフローイと、六神司院の者どもへと集
約し、一途な復讐心に転化した。この瞬間アトラスは全ての敵の息
の根を止めるためだけに生きることにした。
呟きが途絶えた。胸元の丸く固い感触に気づいたのである。滑稽
なことに、帰国途上のアトラスは秘かにクレアヌスの胸板を身につ
けていた。言うまでもない。そのアトラスの命を救ったアクセサリ
ー贈ったのは今は敵国の姫エリュティアである。
その胸板の裏に刻まれた文字がある。
﹃我、常にルミリアと共に在り。ルミリア、常に我を導かん﹄
アトラスがこのアクセサリーを身につけた理由を挙げれば、今の
ルミリア
アトラスが自分を導く者を求めているということか。胸板の表面に
刻まれた真理の女神のレリーフと、エリュティアの面影を重ね合わ
せるのはまだ先のことである。
366
憎しみのアトラスの帰国︵後書き︶
次回更新は明日の予定です。フローイ国王ボルススは帰国を決意。
グライスの帰国に秘められた意味は?
367
南の戦場︵前書き︶
物語の展開を分かりやすくするため、と言い訳をして︵汗っ︶、私
の文章能力の無さを補うために、今後舞台が変わる度に地図を利用
しようと思います。シュレーブ国の北のネルギエで戦ったフローイ
国王時グライスたちは、赤い星の位置に移動しています。
<i202291|14426>
368
南の戦場
アトラスがヴェスターの都レニグで傷を癒して帰国する頃、フロ
ーイ国王子グライスはもう一方の南の戦場にいた。脇腹に手を当て
てその感触を確認する王子の姿に、傍らの副官ロットラスが尋ねた。
﹁王子よ、傷はまだ癒えませぬのか?﹂
﹁いや、鎧もどきではなく、本物を身につけられることがありがた
い﹂
ネルギエの戦いの後、アトラスに折られた肋骨が治癒するまで身
につけていた胴鎧に似た保護具をようやく外して、今朝から鎧を身
につけているのである。ただ手で触れれば、僅かな痛みが戦場の出
パトロエ
来事の記憶を呼び覚ます。
﹁戦の女神よ、アトラスを真の勇者と認めて傍らに召したというの
ですか﹂
もちろん、この時のグライスはアトラスが生きていることを知ら
ない。ルージの王子アトラスは見事な手並みでシュレーブとフロー
イ軍の戦列を食いちぎり、シュレーブ軍の全滅という大勝利をもた
らして死んだ。今のグライスは、王リダルとその息子アトラスを討
パトロエ
った者として、将兵から賞賛されているが、グライス本人はその自
覚はなかった。戦の女神は、自分ではなくアトラスを勇者として愛
でて名誉の死を与えたのかと考えるのである。
グライスの前方で戦の喚声と、襲われたシュレーブ軍の砦が炎上
する煙が見えた。北部でのルージ・ヴェスター軍が兵を退いたにも
かかわらず、南のグラト軍はますます戦意盛んで兵を退く様子は見
せない。それもそのはず、グラト国は国境を接するシュレーブ国と
は元来仲が悪い。国境の領地を取ったり取られたりする諍いの後、
過去のアトランティス議会の設置と共に奪い返したはずの領地は認
369
められず、シュレーブのものとなった。グラト国王にはそんな不満
シリャード
が鬱積していたのである。
シュレーブ国中央にある聖都を蛮族から奪い返すという戦は、シュ
レーブとの戦いに変わると同時に、戦の目的もこの領地を奪い返す
ものに変わった。
フローイ軍がそんな戦場に到着したのは、ネルギエの戦いで失っ
た兵を埋葬し、傷ついた兵士を故郷に帰して、軍を再編成してから
である。フローイ国を発つ時には二千五百人は居た兵士が、今はそ
の後の補充兵も加えて千九百に減じていた。しかし、ボルススはま
だ戦えると考えていた。しかし、それも兵糧の補充を充分に受けて
入ればの話である。シュレーブ国はボルススに約束した物資を充分
に引き渡していない。ジソー王も軍の再編成を理由に、都パトロー
サに引きこもっていた。
初期には四千という兵力が投入された前線のシュレーブ軍も半減
し、フローイ国は前線を黙って傍観しているわけにも行かず、兵を
投入してこの前線を支えている。グライスは軍議の席で王ボルスス
に問うた。
﹁ネルギエでシュレーブ軍の主力は潰えたはず。王ジソーは本当に
ここへ援軍を送ってくるのでしょうか﹂
﹁ネルギエで潰えた兵どもは、ジソー王の私兵のようなもの﹂
﹁正規軍ではないと?﹂
﹁それを語るには、シュレーブ国の歴史を知らねばなるまい。その
昔、この肥沃な平原には幾つもの国があった﹂
﹁聞いたことがあります。シュレーブ、シミルナ、フトフス、カソ
ワスナなど、二十を越える国があったとか﹂
﹁あのパロドトスの奴の領地シフグナも同じこと﹂
ボルススが言ったパロドトスは、シュレーブ国の西の一部でフロ
ーイ国との国境地帯の領主である。シュレーブ国への出陣に際して、
370
フローイ軍の通行を認めるかどうか王ボルススが危惧した人物だっ
た。ボルススは言葉を継いだ。
﹁シフグナも同様。昔はこの平原で独立した国だった。それをクジ
ックス王の時代に、当時はルードン河の小国家シュレーブ国に国を
売りおったのよ﹂
ボルススの言葉をグライスは補った。
﹁もし、クジックスがシュレーブに併合されなければ、あの地は我
々フローイの物になっていたのですね﹂
ボルススは頷いた。当時のフローイ国は肥沃な中原を目指してシ
フグナへ盛んに兵を出した。繰り返される戦いの中で、クジックス
王はフローイ国に占領されるより、力を付けていたシュレーブ国の
庇護を求めて併合されて、一領主となったと言うことである。
フローイ国とシフグナ国ばかりではない、現在のアトランティス
大陸中央に勢力を広げるシュレーブ国の周辺領土の大半は、元はシ
ュレーブ国に帰順を申し出て併合された国々である。シュレーブ国
が兵を出して攻め取った地は少ない。そのため、シュレーブ王家と
周辺地域との感情は悪くはない。
フローイ国やルージ国が強大な権限を持った王が功績のある配下
に領地を与えて治めさせ、領地を与えられたことで王に忠誠を誓う。
しかし、シュレーブ国の場合は、どの周辺領地の領主どもも元は独
立国家だったという気概を残していて、シュレーブ王家に不満があ
れば反旗を翻して独立する様相も見せていたのである。
過去の海外遠征でシュレーブ国も兵士や物資など多大な損害を受
けていたが、領主たちに出陣を命じたシュレーブ王家はその損害に
見合う報償を与えられずにいた。不満を持った領主共が反旗を翻す
かも知れない。そういう危惧を抱いた王ジソーは領主の子弟の教育
や見聞の名目で、実質上は人質として都パトローサに住まわせ、各
領地の軍は解体した。代わってシュレーブ王家直卒の軍を強化し、
治安維持を名目に周辺領地に配備して領主共の反乱に目を光らせて
371
いたのである。
アトランティスの中央で最も強大な力を振るっているシュレーブ
シリャード
ロゲル・スリン
国も、一つ道を誤れば瓦解する危険を秘めているのである。
スーイン
この日の昼過ぎ、前線に聖都から六神司院の使者が到着した。各
国の代表を集めて神帝の追悼式典を執り行うという。
372
六神司院︵ロゲル・スリン︶の使者1
フローイ国王ボルススは、グラト軍に襲われて未だに黒煙を上げ
るシュレーブ軍の砦を視察すると称して前戦へ出た。北のネルギエ
のような大規模な合戦こそ無いが、長く続く戦で数多くのシュレー
ブ軍兵士が死体となって埋葬されている。最初は一人一人埋葬する
余裕もあったらしいが、戦死者の数が増え、生き残って埋葬を行う
兵士の数は減った。今は戦闘の都度、大きな穴を掘り戦死者をまと
めて葬っている。そんな墓があちらこちらに散見され、兵の死体が
放つ腐臭はかぶせた土を通して漂っていた。そして、それがシュレ
ーブ軍の流儀なのか、憎むべき敵兵の死体はただ山積みにされて晒
されている。炎天下の中で腐り果てた死体の分、その山が崩れて新
たな死体が加えられる。近づけば無数のハエが飛び立って身を包む。
ロゲル・スリン
そこにいるだけで体に死臭が染みつく凄惨な戦場の光景だった。王
ロゲル・スリン
ボルススが六神司院の使者を迎えたのはそう言う地である。
六神司院が命じた結果がこの光景だと伝える意図が王ボルススに
あったかどうか分からない。ただ、使者は期待した姿で現れた。周
囲の凄惨さに身をすくめ、漂う死臭を避けるように厚い布で口元を
ロゲル・スリン
覆っているが、それでも防ぎきれない不快な香りに眉を顰めていた。
ロゲル・スリン
﹁申し訳ございませぬな。六神司院の御使者を迎えるに、戦場では
このような場所しかございません﹂
王ボルススは丁寧な口調でそう言った。使者は六神司院の権威を
示すように姿勢を正し、紫色の包みを解こうとしたが、漂う死臭に
むせかえるように咳き込んだ。滑稽な姿だが笑うわけにもゆか王ボ
スーイン
ルススたちは笑いをかみ殺した。ただ、王ボルススやグライスはそ
スーイン
の包みの色を見逃しては居ない。あの紫の包みは神帝の言葉を伝え
ロゲル・スリン
スーイン
る樹皮を包む神聖な物で、神帝が亡くなった今、使える物は居ない
のである。六神司院がそれを使ってきたということは、彼らが神帝
373
の権威を我が物として利用していると言うことである。
使者は包みの中の樹皮に記した文言を掲げて読み上げた。
スーイン
﹁フローイ国王ボルススに申し渡す。
ロゲル・スリン
一つ、
六神司院の宣司に従い神帝の権威を侵す叛乱国討伐に立ち上がっ
た、忠誠心は誠に見事である。その忠誠と戦の勝利を祝い、ゲニメ
シリャード
スーイン
スの聖杯をつかわす。ありがたく受け取り召されよ。
二つ、
この度、聖都において、神帝の追悼式典を執り行う。叛乱国を除
く各国国王が列席する予定である。フローイ国もこれに列席するよ
う﹂
使者の口上に王ボルススは神妙に頷いたが、子どものように無邪
気に困った表情を浮かべ、左手で使者の手を引いて導くように歩い
た。ボルススが右腕の先に示す戦場の様子に使者は足下を確認する
ことを忘れた。王ボルススは同情を買うように下手に出た。
﹁話は承った。しかし、ご覧下され。戦場は未だこの有様。軍を率
ロゲル・スリン
いる儂がこの場を離れることは難しかろうと存ずる﹂
﹁六神司院の命に従えぬと?⋮⋮﹂
使者が怒りを込めてそう言い放った時、彼は足下の不安定さにバ
ランスを崩し、地面にかがんで手を地に付けた。彼の足と手が地面
に沈んだ。王ボルススは使者にそれと悟られぬよう兵の墓の一つへ
導いたのである。新たに漂った強い死臭で、ぬるりと手に感じたも
のが腐りかけた死体だと悟った使者は悲鳴を上げて後ずさりした。
しかし、ここは戦場で、王ボルススは使者が手や足を洗う充分な水
を用意してやることが出来なかった。
︵死体になった兵士も、墓の下であの使者の滑稽な姿を眺めていれ
ロゲル・スリン
ば、さぞかし溜飲を下げているだろう︶
グライスは高みから戦を煽るだけの六神司院にそう思った。
374
六神司院︵ロゲル・スリン︶の使者2
ほうほうの体で逃げ去るように帰った使者の後ろ姿に、王ボルス
ロゲルスゲラ
スは先ほどまでの人の良い笑顔を、一転して怒りが籠もった不満げ
な表情に変えた。
﹁ふんっ、六神司院の最高神官の一人ぐらいは顔を見せるかと思う
ロゲル・スリン
たに﹂
ロゲル・スリン
六神司院の依頼で兵を挙げて、ルージ国とヴェスター国を撃退し
たが、六人の最高神官で構成される六神司院の最高神官は一人も姿
を見せず、小者を使いによこしただけだったと、戦勝の贈り物とし
て献じられたゲニメスの聖杯をグライスに投げて不満をぶちまける
のである。
スーイン
聖杯を受け止めたグライスは戸惑った。小さな杯とはいえアトラ
ンティスの最高指導者たる神帝の執務機関から受け取った品である。
﹁これはいかが致しましょう﹂
﹁そんな物を有り難がる儂だと思うか。売り払ろうて、兵糧にでも
変えておけ﹂
ボルススの言葉に、グライスは傍らの近習の一人に聖杯を渡して
シリャード
頷いて見せ、王の指示に従えと伝えた。グライスはボルススに向き
直って問うた。
ロゲル・スリン
﹁戦はまだ続いています。この時期に聖都へ王を呼び集めるなど、
ロゲルスゲラ
六神司院は何を考えているのでしょう﹂
﹁六神司院の最高神官の者どもが、儂とジソーを列席させて、アト
ランティスの動静を左右するシュレーブ国と我がフローイ国を操っ
ているという力を誇示したいのさ﹂
﹁なるほど﹂
ロゲル・スリン
﹁そんな手にのるものかよ﹂
﹁では、六神司院を無視するのですか﹂
375
ロゲル・スリン
スーイン
グライスが疑問を呈したのもっともだった。神帝が亡くなったと
はいえ、六神司院は未だにアトランティス九カ国を精神的にまとめ
上げる権力を持っている。表だって逆らうのは得策では無かろう。
シリャード
王ボルススはやや考え、ぽんっと手を打って名案を思いついたと示
して見せた。
ロゲル・スリン
﹁決めたぞ。グライスよ、そなたは聖都で追悼の儀式とやらに出席
し、六神司院の有様を見た後、フローイに戻れ﹂
普段は祖父の言いつけに素直に従うグライスがやや不快げに尋ね
た。
ロゲル・スリン
﹁兵をこの地に残して、私だけ帰れとおっしゃるのですか﹂
シリャード
﹁その通りよ。六神司院に問われれば、脇腹の傷の治療とでも言っ
ておけ﹂
﹁では、聖都の儀式の後こちらに戻って参ります。兵を残して一人
では帰れませぬ﹂
﹁いや、帰らねばならぬ。しかし、機を見て三百の兵を率い、こち
らに戻る気配を見せよ﹂
﹁増援と言うことですか﹂
﹁いや、儂は六週間後︵注1︶に、この陣を引き払う。﹂
ボルススの意図はグライスにも分かる。間もなく収穫を迎える。
その時期には兵を帰国させておかねばならないのである。フローイ
国に取って益のない戦場から退散するに限る。
﹁では、私の兵の役目は?﹂
﹁出陣の準備が整わぬ体を装いながら、国境に陣を敷け。分かるか、
この意味が?﹂
﹁国境のシフグナの地の押さえ。領主パロドトス殿を牽制しておく
のですね﹂
﹁その通り。もしもあの地を閉ざされれば、我らの糧道は断たれ、
フローイ軍将兵はこの地で孤立し、飢える﹂
この言葉が、今のフローイ軍が最も危惧する状況である。フロー
イ軍はシュレーブ国の奥深くに侵出し、王ジソーが約束したはずの
376
補給物資は途絶えがちで、フローイ軍は手持ちの糧食もじりじりと
減らしているのである。機を見てフローイ国へと兵を退くのが良か
ろう。
この時、グライスはようやく妻フェミナの顔を思い出した。そし
て、ネルギエの戦場で回収したアトラスの腕輪を、姉のリーミルに
返してやらねば。グライスは複雑な思いで西の故郷を考えた。太陽
が赤く空を染めていた。
377
六神司院︵ロゲル・スリン︶の使者2︵後書き︶
注1:六週間。アトランティス人の暦は一週間が五日です。六週間
は三十日間となります
次の更新は明日の予定です
378
エリュティアの決意1︵前書き︶
<i202569|14426>
379
エリュティアの決意1
﹁戦はまだ続いているのですか?﹂
エリュティアが不思議そうに尋ね、侍女頭ルスララも返事の言葉
がないままに首を傾げてから肩をすくめてみせた。彼女たちには戦
況がよく分からない。イドポワの門の戦いでルージ国王を討ち取っ
て大勝利を収めたと聞いた後、続くネルギエの地の戦いでは、強力
なルージ・ヴェスター国軍を撃退した大勝利を収めたとも聞いた。
しかし、都パトローサを出陣した勇ましい兵たちは戻っては居ない。
戦の後、王ジソーが数人の供の者を連れて戻ったが、出陣した兵
士について触れることはなく、新たな部隊の編成に躍起になってい
るように見える。政に関わらぬ女たちには、大勝利を収めたにして
は戦はまだ続く気配もし、その帰趨が理解できない。
そんなタイミングで、エリュティアは彼女の居室に父王ジソーを
迎えた。ルスララは察した。王が娘に会うなら王の謁見の間に娘を
呼び出せばいい。娘の居室に姿を見せるなど他の家臣に聞かれたく
ない話をするのが目的に違いない。
王ジソーはやや大げさな身振りで腕を広げ、満面の笑顔を浮かべ
て言った。
﹁おおっ、エリュティア。可愛い娘。シュレーブの輝ける宝玉よ﹂
よど
王がかけた褒め言葉に、本来なら笑顔で礼の言葉を述べるのが王
宮での礼儀だが、この時のエリュティアは心に澱んだ疑問を口にし
た。
﹁戦はまだ続いているのですか?﹂
娘の今までにない物言いにシソーはやや戸惑ったが話題を変えた。
﹁宮殿に籠もっているから、いらぬことも考えるのであろう。そう
だ。もう一度、旅で気晴らしでもしてまいるがよい﹂
﹁旅⋮⋮とは?﹂
380
シリャード
﹁儂の代理で、聖都にゆくがよい﹂
﹁エリュティア様が王の代行ですって?﹂
そんなルスララの呟きももっともなことで、エリュティアは生ま
れてこの方、慈しまれたことはあっても、王の代理として職務に関
ロゲル・スリン
わったことはなかったのである。王ジソーは言葉を続けた。
スーイン
﹁いや何。儂はまだ続く戦の兵の編成に忙しい。なのに、六神司院
の者どもは神帝の追悼の儀式をするという﹂
スーイン
首を傾げたエリュティアの心をルスララが代弁した。
﹁崩御された神帝の追悼。そのような重大事にエリュティア様が列
席するにしても、王が居られなくてもよろしいのですか﹂
﹁いや、用意された席に座って神妙な表情をして居ればいいのだ。
細かな差配はドリクスに任せればよい﹂
王シゾーはエリュティアが最も信頼する教師の名を挙げ、続けて
彼女の意思を問うた。
﹁どうだ、エリュティア﹂
どうだと聞いたが、従順な娘のこと、必ず頷くに違いないと考え
ていたし、王の想像は当たった。
﹁参ります﹂
エリュティアは胸元に吊した小さな袋を握って、短く決意を込め
てそう言った。
﹁そうか。行ってくれるか。道中、信頼が置ける護衛も付けてやろ
う﹂
ロゲル・スリン
スーイン
王ジソーは機嫌良くそう言った。この政治感覚に長けた人物は、
シリャード
フローイ国王ボルススと同じく、六神司院が神帝追悼を名目に、自
分を聖都に召し出した理由に気づいている。娘のエリュティアなら
有力な家臣を遣わすより、王自身が欠席する名目も立つだろう。ジ
ソーはそう考えているのである。
部屋に取り残されたルスララはじっとエリュティアを眺めていた。
参ります。エリュティアの決意を込めた物言いを思い出していたの
である。 愛らしく周囲に従順で運命に身を任せて生きているよう
381
に見えるエリュティアが、その運命の中で自ら決断を下すように見
えることがある。信頼しているはずのルスララやドリクスに相談す
ることもなく、孤独に決断しているようにも見える。
﹁もう、私も歳かねぇ﹂
最近、ルスララは時折こんな言葉を呟く。この時もそう呟いてい
た。振り返ってみれば、十五の歳に宮廷に仕え始め、生まれたばか
りのエリュティアの侍女として仕えるようになったのが三十四の歳
だった。四十三で侍女たちの責任者の地位についてエリュティアに
仕え続けている。その自分もまもなく五十九歳になる。巷なら仕事
を引退するどころか寿命を迎えてもおかしくはない年齢である。見
回せば、ルスララほどではないにしても、忠実ではあるが歳を経た
者たちが多い。エリュティアと仲の良かったフェミナもフローイ国
王子に嫁いだ。今のエリュティアにもっと若く彼女の相談相手とな
る侍女が必要ではないか。ルスララはそんな事を考えていた。
もちろん、若いだけではなく家柄が確かな者。宮廷の礼儀作法を
身につけ、姫の話し相手がつとまる知的な話題を持つ者。更には王
家に対する忠誠心の厚い者。様々な条件がつく。ルスララは知って
いる限りの少女を思い浮かべた。一人一人を難しい条件でふるい落
とした時、最後に一人の少女の名を呟いた。
﹁ユリスラナ﹂
ただ、その口調にやや懐疑的な響きが籠もっていたのは、なにや
ら気がかりなことでもあるのかも知れない。
382
エリュティアの決意2
ルスララがその名を挙げて新たな女官を出仕させたいと希望を述
べた時、宮廷の生活一切を取り仕切る大臣ソグダスは信頼できるル
スララを支持し、教師ドリクスはエリュティアに年若い相談相手が
出来ることを喜んだ。ジソー王も機嫌良く申し出を裁可した。
ユリスラナがルスララに伴われて出仕したのはその一週間後であ
る。距離を置かずに向き合えば、エリュティアは彼女を見上げなく
てはならないほど長身である。取り立てて美人だと言うほどではな
いが、人の良い笑顔に陽気さが漂っていた。
ユリスラナはルスララに促されるまま、教えられたとおり腰を折
って伏し目がちに挨拶をした。
﹁ユリスラナと申します。よろしくお引き立てのほどお願いいたし
ます﹂
﹁よろしく﹂
エリュティアの言葉は短かったが、同じ顔ぶれの侍女に囲まれて
いた中で、新たに歳の近い侍女が現れたことに、戸惑いはあるが素
直な笑顔を浮かべていた。ルスララはほっと胸をなで下ろし、エリ
ュティアの喜びを愛でた。エリュティアは素直な疑問を口にした。
﹁歳は幾つ?﹂
﹁今年の夏で十八になりました﹂
﹁私より三つも長く生きているのですね﹂
エリュティアが素直な疑問を感じたのは、顔立ちを見れば年若い
ユリスラナと自分の身長差のことらしい。ユリスラナはそれに気づ
かず経験に置き換えて答えた。
﹁ええっ、姫様にミットレの罠の仕掛け方や、熟したトリフの実を
採る方法を教えてさし上げられますわ﹂
383
ミットレというのはエリュティアが飼っている小型の鹿の仲間の
動物である。高貴な者質が愛玩用として飼うため高額で売買される
のだが、臆病ですばしっこいため捕らえるのに猟師たちは罠を使う。
トリフの樹は大木で大きく広げた枝に豊かな実りをつけ、その季節
には甘酸っぱい芳しい香りを漂わせる。アトランティスの人々が秋
に好んで食べる果物の一つである。ただし、人の背丈より高いとこ
ろに実を付けるため、採集には木に登らねばならない。
ユリスラナが言ったのは、一国の王女に動物の罠の仕掛け方や、
木登りを教えると言うことである。エリュティアはその新鮮な話題
を目を輝かせて聞いていた。素直なエリュティアのこと、ユリスラ
ナが煽れば、その気になるかも知れない。ルスララは慌ててユリス
ラナの頭を拳骨で打って、初対面の挨拶は終わったと伝えた。
王宮の奥。エリュティアの居室に続く廊下の両脇に、侍女たちの
控えの間や居室が並んでいる。ユリスラナを伴ってエリュティアの
居室を辞したルスララは、その廊下を歩きながら怒りの表情を浮か
べていた。
﹁全く。なんて娘だい、おまえは。エリュティア様に木登りだなん
て﹂
﹁でも、ルスララが言ったのよ。いろいろなお話が出来るのが大事
だって﹂
﹁してはいけない話と、してもいい話は、私がこれから教えてやる
よ﹂
﹁でも。お婆様とお母様が話したこと。あれは嘘ね﹂
﹁何がだい?﹂
﹁パトローサの宮殿へ行けば、見目麗しく勇敢な殿方が一杯で、結
婚相手を見つけるにも不自由しないって。でも、ここは、どう? 女ばかり⋮⋮﹂
ユリスラナが不満げにそう言ったのも当然で、ここはエリュティ
アに仕える侍女たちの職場である。ルスララが末の妹の名を挙げた。
384
﹁私がレクサラにそう伝えろっていったのさ。そう言わなきゃお前
はここへ来なかったろうさ﹂
﹁ひどい。ルスララ婆ちゃんまでぐるだったなんて﹂
この言葉で二人の関係が知れる。ユリスラナはルスララの末の妹
の孫娘である。身内であるだけにその人柄は熟知していて人物には
信頼が置ける。
﹁いいから、しばらくは黙っていな。お前は口を開きさえしなけれ
ば、しっかり者の侍女に見えるから﹂
ルスララが言うとおり、ユリスラナの大きな目は善意の好奇心に
満ちていて、黙って立っていれば、気だての良い理知的な女性に見
える。しかし、ユリスラナはそっと口を開いた。
﹁ああっ、旅に出れば、この堅苦しさから解放されるのね﹂
﹁何を言うんだい。道中、みっちりと鍛えてあげるつもりだから、
その気でいなさい﹂
王女の身辺に仕えていれば様々な出来事に臨機応変の対応を求め
シリャード
られる。基本的な儀礼に加え、その様々な出来事に対処するすべを
学ばせるには聖都への短期間の訪問は新米の侍女ユリスラナを教育
するのに実に良い機会だった。
ユリスラナとの会話で少し明るさを取り戻したかに見えたエリュ
シリャード
ティアだが、間もなく一人で物思いにふける様子を見せ始めた。人
スー
にはどう表現して相談すればいいのか戸惑いのみ多い。彼女は聖都
イン
スーイン
へ行くと判断したが、それは彼女自身の心を鎮めるためである。神
帝オタールは、制度上は神帝の地位に就いた時から神々の身分に列
せられている。しかし、血筋を辿れば間違いなくエリュティアの叔
父であり、オタールも時に身分を離れてこの姪を導こうとした。そ
の優しい叔父の死が信じられず、しかも、その暗殺の黒幕にアトラ
スが居るというのもエリュティアの心を乱していた。こんな混乱に
襲われた時、彼女は胸に下げた小さな守り袋を握りしめる。アトラ
スから贈られた真珠﹁月の女神の涙﹂を身につけているのである。
385
アトラスを導く物がクレアヌスの胸板なら、エリュティアの行方の
知れない心の混乱の指針がこの真珠かも知れない。
この日、エリュティアは居室に新たな訪問者を迎えた。控えの間
にいる侍女にエリュティアの謁見を取り次いでもらうという流儀を
廃して、声の大きさのみでその用件を伝えようとするようだった。
﹁エリュティア姫。エリュティア様はおわしますや﹂
エリュティアは小首をひねった。この離れていても腹に響くこえ
には記憶があった。間もなく侍女が走り込んできて、訪問者の名を
伝えた。
﹁エリュティア様。ストラタス殿のご子息たちが面会をお望みです﹂
﹁通しなさい﹂
エリュティアの指示に、ルスララは眉を顰めたが反対はしなかっ
た。エリュティアはあのときの状況を思い出していた。ドリクスの
館の庭園の場面で、ルスララは居なかった。彼女はこの訪問者とは
初対面だろう。そして、この時まで、訪問者も初対面のつもりでい
た。
﹁エリュティア様です﹂
訪問者の三兄弟は、導かれた居室で侍女にそう紹介された。礼儀
上、直ぐに臣下の礼を取って挨拶をすべき所だが、三人とも目の前
のエリュティアに絶句して目を見開いたままだった。頬や手や衣服
に泥を付けた巫女。ドリクスの館で出会った少女の面影と重ねる時
間を要したらしい。しかし、彼女が訪問者を見つめる視線に力があ
って、あの時の女性に間違いがなかったと悟った。
長男のエルグレスを筆頭に、三人は慌てて膝を折り、右手を胸に
当てて臣下の礼を取った。あの時、ドリクスには名乗った記憶はあ
るが、エリュティアに名乗ったかどうか記憶がない。エルグラスは
兄弟を代表して身分と血筋を名乗り始めた。
﹁我らが王より北のゴダルク地方を預かる領主ストラタスの息子に
て、私は長男のエルグ⋮⋮﹂
386
言い終わる前にエリュティアが口を開いた。
﹁エルグラス殿、オログデス殿、トラグラス殿のお三方ですね。相
変わらず声の大きい﹂
やや眉を顰めて不満を現すエリュティアに、三人は型通りの挨拶
をするしかない。
﹁お目にかかれて光栄に存じます﹂
﹁今日は何のご用ですか﹂
﹁明日の御出立。我ら三人が兵を率いて護衛の任に就きまする。そ
のご挨拶に﹂
﹁大儀です。よろしくお願いします﹂
トラグラスがそうねぎらいの言葉を伝えるエリュティアを見上げ
れば、表情はほころんでいて、無邪気な幼児にも見える。荒々しい
男を視線で鎮める気迫と気品、そして、無垢に人を包む笑顔を浮か
べる人柄。トラグラスはこれから仕える王女がそんな一面を持って
いることを知った。
387
ルージ国王位継承
・スリン
スーイン
ロゲル
時はやや遡る。ヴェスター国でアトラスが、父の死を知り、六神
司院の使者から彼らが神帝暗殺の首謀者にされたことを知って間も
ロゲル・スリン
なくの事である。
六神司院は使者を各国に派遣して、ルージ国、ヴェスター国、グ
ラト国の叛乱行為を伝え、特にその首謀者たるルージ国の王リダル
を既に誅したことを告げて回った。そして、叛乱国と位置づけられ
た三カ国には、その罪を問責する使者が遣わされていた。ヴェスタ
ー国でアトラスが斬り捨てた使者もその一人である。問責の使者は
海を渡り、王や王子が不在のルージ国にも訪れていた。
その時、確かな血筋に生まれながら普段は目立たず、アトラスの
お守り役を務め続けているクイグリフスがその存在感をあらわにし
た。
上座に位置する問責の使者が興奮しながら述べる口上に、王の留
守を預けられたクイグリフスは穏やかに、しかし毅然とした態度で、
スーイン
ロゲル
その矛盾点を問うた。ちょうど、ヴェスター国で王レイトスやアト
・スリン
スーイン
スーイン
ラスが指摘した点である。更に、神帝が崩御したと言うなら、六神
スーイン
司院は神帝の代行者としての権限はないはずだが、使者は神帝の代
行者として、紫の包みと神帝のシンボルが刻印された容器に、問責
の内容を記した樹皮を納めて持参していた。
数々の矛盾のある使者を受け入れることは出来ない。改めて儀礼
に乗っ取った正式な使者を立てて出直せと使者を追い返した。クイ
グリフスの言い分に理がある。反論の言葉に窮した使者は、捨て台
詞を残して王都を去るしかなかった。
クイグリフスは直ちに事の顛末を知らせる連絡者をヴェスター国
とグラト国、アトラスの陣に送った。入れ替わるように、アトラス
率いるルージ軍陣地から、サレノスからの使者が帰国して前線の状
388
況を伝えた。イドポワの門で王リダルと勇将アガルススが戦死をし
たことは間違いなさそうだった。
ただ老練なサレノスのこと、王の死という衝撃の大きな情報に、
シュレーブ軍の砦をアトラスが率いるルージ軍が三つ易々と落とし
たという戦勝報告で締めくくられていた。
続く使者はネルギエの戦いの大勝利を伝え、アトラスは負傷した
ものの命に別状はないとも伝えた。
クイグリフスは兵士たちを送り出した村々にまで隠すことなく伝
えた。偉大な王を失った民衆の失望感や悲しみは、王を討った者た
ちへの憎しみに変わって、ルージ国民の戦意は燃え上がりそうな気
配を見せていた。士気を維持したのはクイグリフスの功績と言って
いい。
﹁まったく、王も世継ぎも出払った今、この国をどうするつもりじ
ゃ﹂
王妃リネは留守居役のクイグリフスを呼びつけてそう問うた。日
に数回、リネはクイグリフスを呼びつけて同じ事を問う。しかし、
ロゲル・スリン
スーイン
日常的な国政なら明確な指示が出せても、国の行く末を定める重大
事をクイグリフス一人で決めることは出来ない。六神司院から神帝
の暗殺者、神への反逆者と名指しされた国の行く末が決まるのは、
この国の王が定まってからである。リネは意味もなく繰り返した。
﹁この国をどうするつもりじゃ。早くアトラスを呼び戻さぬか。我
が兄レイトスなら⋮⋮﹂
﹁リネ様。ここはルージ国でございます。ヴェスター国の事を持ち
出すのはお控え下さい﹂
﹁何故じゃ﹂
説明に窮しかねて口ごもるクイグリフスに変わって、娘のピレナ
が答えた。
﹁お母さま。ここで生まれ育った者はヴェスターの流儀には染まり
ません。疎ましいだけ。私も同じ﹂
389
﹁おおっ、ピレナ。何を言うの﹂
﹁リネ様。お察し下さい﹂
短くそう言ったクイグリフスの言葉に力があってリネは渋々口を
閉じた。彼女の願いは息子アトラスを王位に就けること。その最も
有力な後援者に逆らいがたいのである。クイグリフスは事態を見通
して見えるピレナに黙礼すると、リネの居室を離れた。
バトロエ
﹁お母さま。戦は殿方にまかせ、今はお兄さまのことだけ考えてあ
げて。戦の女神は、大勝利の代償にお兄さまの腕を奪ったとも聞き
及びます﹂
﹁その通りじゃ。今はアトラスの帰国を待つのみ。あの子が王位に
就けばこの心も晴れましょう﹂
王妃リネの心の拠り所は、息子アトラスが次の王位に就き自分は
王母の立場に立つということであるらしい。自分がその立場にふさ
わしい血筋を引いていると言うことを強調するためか、ヴェスター
国の王の妹だと、ことさらに強調する。もともと頑固な性格であっ
たらしいが、このルージ国の習慣に染まらず、海を隔てた隣国の習
慣を維持して、時にルージ国の習慣を見下す素振りを見せる。
生粋のルージ国の人々にとって、王の愛娼フェリムネが国外から
来たからその息子のロユラスに王位継承権がないというなら、王妃
リネもまたよそ者なのである。よそ者の王妃が生んだ次男と、よそ
者の蛮族が生んだ長男。リネがよそ者を強調するほど、次男アトラ
スが王位を継ぐ正当性も揺らぐに違いないのである。
自分の居室に戻ったクイグリフスは侍従たちに秘かに命じた。
﹁アワガン村の様子を探れ。探索の人は増やせ。特にプチネの館は
念入りに﹂
プチネとは王の愛妾フェリムネの別名である。クイグリフスはそ
の館におかしな気配がないか念入りに探れと言うのである。アトラ
スの帰国と共に王位継承の儀式を行う準備は整えている。ただ、混
390
乱の中、王リダルの長男という血筋の濃さを根拠に、フェリムネの
息子ロユラスを王に押す者が出てくるかも知れない。そんな有力貴
族が秘かに館を訪れては居ないか調べよというのである。
数日前、ラヌガンが父バラスの遺骨を携えて帰国しクイグリフス
の元を訪れていた。他の将士も次々に帰国を果たし、間もなくアト
ラスもサレノスと共に帰国を果たすだろう。
アトラスたちの帰国前から王位継承争いが始まっているようなも
のだった。
391
ザイラスの墓︵前書き︶
<i203472|14426>
今回の舞台は、地図上の赤丸付近
392
ザイラスの墓
海が見渡せる岬に不思議な墓がある。周囲の木々は伐採されて視
界は良い。昼間は海面が視界一杯に輝き、夜は海風が木々を揺らす
葉ずれの音が墓を包んでいる。波の音は届かないが、浜辺のアワガ
ン村の漁師たちのだみ声が響いて聞こえることがある。
墓標は村人の墓のような粗末さはない。しかし、貴族のものにし
ては質素で、葬られている者の名も刻まれていない。
悼むべき王の葬儀は、次の王の即位式の直前に執り行われる習わ
しで王リダルの遺骨は王の館のルミリア神殿に安置されている。ア
トラスに先立って帰国したラヌガンが、その神殿に参り、続いて王
妃リネを訪れて形ばかりの戦勝報告をし、王家に変わらぬ忠誠を誓
った。直後に彼はリネの傍らのピレナに視線を注ぎ、彼女はその意
味を理解した。馬を駆って二人で王都バースを離れたのは間もなく
のことだった。やがて二人の姿がこの墓地にあった。
ピレナはその墓標に白いサーフェの花束をそっと置いた。故人が
生まれ育ったのがサーフェの花が咲く山岳地帯だと聞いたことがあ
る。
﹁ザイラス⋮⋮﹂
ピレナは葬られた者の名を呟いた。王リダルから最も信頼され、
ロゲル・スリン
スーイン
王子アトラスに兄のように侍っていた近習である。詰問者としてル
ージ国にやってきた六神司院の使者が、神帝暗殺の犯人として哀れ
なザイラスの頭部を塩漬けにして持参した。ルージ国の人々は彼を
ここに葬ったのである。
あのザイラスが暗殺の犯人などとはあり得ないという思いの反面、
万が一犯人であったら、ルージ国王子の近習としての扱いをするわ
けにも行かず、王都から離れたこの岬にこんな形で葬られたという
393
ことである。ラヌガンもまたその名を呟いただけだった。
﹁ザイラスよ﹂
幼い頃から共にアトラスの近習としてその傍らに侍ってきた仲間
である。彼は跪いて腰の短剣を墓標に捧げて誓った。
﹁お前の仇は、この私が⋮⋮﹂
その言葉の途中、ピレナが彼の肩に手を当てた。
﹁ほらっ、ルルナケイアが﹂
シリャード
彼女の言葉に振り返って指さす先を眺めれば、ラヌガンが乗って
シリャード
きた馬が、墓標を静かに眺めていた。ザイラスの愛馬だった。聖都
では乗馬をする機会もなく、主人に残されていたのである。聖都で
留守居役を仰せつかったザイラスも平穏な生活が続けばこの馬を呼
び寄せたかも知れないが、その機会は失われた。
普段は陽気で人なつっこい性格のルルナケイアが静かに墓標を眺
める姿は、帰らぬ主人の運命を悟ったようにも見えた。
﹁ザイラスが望むものは復讐ではないでしょう﹂
静かに語られたピレナの言葉は、ルルナケイアの心情を語ってい
るようだった。ラヌガンは返答に困って視線を海に転じたが、そこ
にある物を見つけて喚声を上げた。
﹁おおっ、我らが王子、我らが王の帰還か﹂
海を渡って帰ってくる軍船の群れを見つけたのである。ただ、残
念なことに帆柱に翻る旗はアトラスのものではなかった。しかし、
その船上にいるロユラスの姿まで判別できなかった。そして、アト
ラスの帰国は、まだしばらく先のことである。
アトラスのルージ王位即位と共にこの国は新たな運命を迎える。
﹁ザイラスが居れば﹂
ピレナがそう思ったのは、残された男どもに任せれば、アトラン
ティスの大地の運命を怒りと憎しみにまみれるような気がしたので
ある。王子アトラスに忠実に侍り、支え、守る。その武芸に秀でた
者。それがアトラスや他の近習がザイラスに与えた評価である。し
かし、ピレナはザイラスの評価とは違う一面に触れた経験を持って
394
いたのである。
395
ザイラスの墓︵後書き︶
もう少し、ザイラスについてピレナとラヌガンの思い出話を描き
たいところですが、物語の進展が遅れてしまいそうな気がして描く
のを戸惑っています。その辺りはサイドストーリーとして別途に描
くべきでしょうか。それともこの作品の中に挿入した方が良いのか
な、あるいはそんな横道に逸れる描写は不要? 読者の皆様のご意
見なども伺いながら描きたいと思いますので是非とも感想をお願い
します。ピレナとザイラスの関係についてはアトラス帰国後の部分
で少し触れることになります。
396
ロユラスの帰国︵前書き︶
<i203770|14426>
397
ロユラスの帰国
大勢の供や兵士を連れ、物資の運搬もしなければならないアトラ
シリャード
スの帰途の旅に比べて、マカリオス一人伴ったロユラスの旅は軽快
だった。シュレーブの王都パトローサや聖都など役人の目の厳しい
地域へ立ち寄るのは避けたが、ルードン河の川岸に出たあと、商船
に便乗して一気に河口の町ウルリへと移動した。
シュレーブ海軍の軍港とも言える町である。ロユラスが考えたと
おりだった。軍人は多いがこれからの戦いに逸る者たちで、役人の
ように不審者に目を光らす者は少ない。マカリオスは初めて眺める
リカケル・ナーバ
巨大な軍船の群れに驚きの声を上げた。百人の兵士が乗船できるの
ではないかと思われる巨大な船が帆を畳んで、月の女神の海と呼ば
れる内海に数十隻も碇を降ろしている。
アトランティス人に海軍が精強な国を問えば、まずルージ国を挙
げる。ただ、この港の光景を眺めた者は、軍船の巨大さと数におど
ろき、シュレーブ国が海軍でもルージ国をお圧倒するのではないか
と考える者も少なくはない。
ロユラスはしばらく黙って沖合を眺めた。訓練航海だろうか、三
隻の巨大軍船が沖合から戻ってくるのに気づいたのである。他の船
が停泊する合間を縫って港へはいる必要があるため、やや技量を要
する操船をしなければならない、巨大船の鈍重な動きや水兵の技量
がかいま見えた。
﹁船には乗らないのかい?﹂
マカリオスがそう聞いた。これから行くルージがこの内海を越え、
外洋を越えた先にあることは知っている。ロユラスは今のシュレー
ブ国とルージ国の関係に触れて言った。
﹁敵国の港まで運んでくれと頼むつもりか﹂
﹁じゃあどうするんだい﹂
398
リカケー
﹁月の女神に見守られながら、ヴェスター国のクトマスまで歩くか﹂
﹁そうか。それならこの町で食料は買い込んでおいたが良いな﹂
このマカリオスの言葉の勘の良さにロユラスは舌を巻いた。この
内海はシラス湾という地形的な名称を持っている。ただ、海面に夜
空の月を美しく映し出し、波の穏やかさが月の女神を連想させ、ア
リカケルナーバ
トランティスの神話の一節にもなっているため、人々は女神への敬
リカケー
愛とこの土地の誇りを込めて、この海を月の女神の海と呼んでいる。
ロユラスが言ったのは、この海が見える海岸沿いに歩き、月の女神
が密やかに姿を見せる時間に国境も越えるということである。マカ
リオスはそれを察して、これからの旅の食料をあらかじめ入手しよ
うとしたのである。
二人が、岬の手前で北へ方向を転じて道無き道を辿ってクトマス
にたどり着いたのは五日目である。既に同盟国ヴェスターの領地で、
ルージ国に帰る旅人は緊張を解いた。この港町でルージに渡る商船
いくさぶね
を探して便乗するつもりである。
﹁戦船ばかりだよ﹂
港を眺めたマカリオスがそうぼやいた。
︵船に乗るのを楽しみにここまで来たのに︶
そう言いたげだった。船上に見える兵士の姿で、船に素人のマカ
リオスにも海面に浮かぶ十数隻の船が自分たちが乗るべき商船では
ないことが分かる。
﹁妙だな﹂
ロユラスも周囲を見渡して首を傾げた。普段は数多くの商人の姿
を見かける港に、商人の姿はなく、事情を聞くことが出来ない。戸
惑う二人の背後から声を掛けた者がいた。
﹁お前たち、ルージへ渡るつもりなら北のレクサヘ行け。ここは危
険だ﹂
ロユラスらが振り返ると、年配の男が立っていた。甲冑は身につ
けてはいないが、潮風に染まった髪と、遮る者のない陽を浴び続け
399
た肌がたくましく、熟練した船乗りだと分かる。そして人の良い笑
みを浮かべていてもどこかドキリとする鋭い眼光は兵士に違いなか
った。男は振り返ったロユラスの顔を記憶を辿るように見つめた。
ロユラスは問うた。
﹁どういうことで?﹂
﹁シュレーブ海軍がここへ攻めて来るという噂がある。我々はクト
マスを守るためにルージから派遣され、商船は北へ待避させた﹂
﹁なるほど﹂
頷くロユラスに、マカリオスが素直な疑問を口にした。
﹁あのでかいシュレーブの軍船に、こんなちっぽけな軍船十隻ばか
りで戦いをするつもりかい﹂
ロユラスはマカリオスの言葉を補った。
﹁俺たちはウルリ経由でここへ来たんだ﹂
﹁おおっ、そこで戦支度をするシュレーブ海軍を?﹂
﹁いや、攻めてくることはあるまいよ﹂
﹁何故?﹂
﹁攻めてくるつもりなら、あの時、シュレーブの戦船は航海用の食
料や水の積み込みに忙しかったはずだが、そんな気配はなかった。
水兵どもも軍船の手入れと訓練をしていただけだ。町に戦の物資の
蓄えもない。攻めてくるにしてもあと一月は後になるだろうよ﹂
﹁なるほど﹂
男はロユラスの明快な回答に頷き、胸に手を当てて略式の礼をし、
記憶に留めていた名に確信を込めて、言葉を続けた。
﹁私は我らが王より二十隻の軍船を預かるルシラスと申します。お
見知りおき下さい。失礼ながら、あなた様はロユラス殿。航海の途
中、アワガン村の沖であなた様の姿を眺めたことがございます﹂
あまりに率直な物言いに、ロユラスはその言葉を否定し、身分を
偽ることができなかった。ちらりと目をやるとマカリオスが疑惑の
籠もった目でロユラスを眺めていた。目の前に現れた男は身なりは
質素でも身分の高い人間だと分かる。その男が敬意を持って接する
400
ロユラスという人物は⋮⋮。
﹁ロユラス。あんた、何者だい?﹂
マカリオスは小さく呟いた。ただ、ルシラスが指揮する軍船でル
ージに渡る途上、マカリオスはあれほど楽しみにしていた船旅の期
待を後悔に変え、酷い船酔いで苦しんでいた。可哀相だが、ルージ
に上陸するまで二日間の間、マカリオスにはロユラスの正体を問う
余裕はなかった。
船はアワガン村の沖合に達した。海に長く突き出した岬からこち
らを眺めているピレナとラヌガンの姿は背後の木々にとけ込んで見
えなかった。彼らの視線は交わりつつすれ違った。
401
ロユラスの帰国︵後書き︶
次回更新は土曜日です。アトラスが帰国し王位継承争いが勃発しま
す。
402
王位継承争いの始まり
ルージに上陸を果たしたロユラス一行に、新たな顔ぶれが加わっ
た。王都バースで兄のミドルと一緒に魚や貝を売って帰るタリアが、
馬上から目ざとく街道のロユラスを見つけたのである。運ぶ獲物が
大物だったのだろう。背負い篭ではなく馬に獲物を乗せて運んだ帰
りである。
﹁ふぅーん。逃亡奴隷なのね﹂
タリアが珍しい者を眺めるように、紹介されたマカリオスを眺め
た。厳密に言えばマカリオスは奴隷だった両親が逃亡してから生ま
れた息子で、奴隷の身分だったことはない。ただ、マカリオスにと
って、アトランティス人タリアが発した奴隷という言葉に好奇心は
あっても侮蔑的なニュアンスがないのが不思議だった。ルージ国で
は奴隷身分の者は皆無ではないが珍しく、この国でギリシャ人の代
表といえば、人々の敬愛を集めるフェリムネだけである。
﹁村まで乗っていきなさいな﹂
タリアは素早く馬を降り、マカリオスに譲った。青ざめた顔、時
折吐き気を押さえるように口元にに当てる手、何よりややふらつく
足下。そんなマカリオスの様子で、彼の船酔いの激しさとまだ残る
後遺症に気づいて、同情を示したのである。ロユラスが笑ってその
提案を拒絶した。
﹁いや、いい。それより水を飲ませてやってくれ﹂
山育ちのマカリオスに乗馬経験はないだろう。慣れない馬の背で
揺られれば、船酔いが残る身には辛いだろうと考えたのである。ロ
ユラスはそれだけ言ってミドルと肩を並べて歩き始めた。
マカリオスはタリアに与えられた革袋の水を一気に飲み、前を行
く二人の背を追った。マカリオスの視線は、ミドルと再び馬に跨っ
403
てマカリオスの傍らを行くタリアに注がれた。不思議な事が増えた。
この二人は庶民のようだが、ロユラスに特別な敬意も示さず対等の
物言いをしているのである。
﹁ロユラス。あいつは何者だい?﹂
そっと尋ねたマカリオスの疑問にタリアはやや考える素振りを見
せたが、やがてマカリオスの疑問を理解し、笑顔と共に答えを吐き
出した。
﹁ああっ、ロユラスがリダル様のご子息だって事ね﹂
﹁リダル様って、あのリダル様? ルージの牙狼王?﹂
﹁そうよ﹂
背後で響いたタリアの陽気な笑い声に振り返ったロユラスは、ミ
ドルに肩をすくめて見せた。アワガン村へ帰る道すがら、タリアに
事情を聞けばマカリオスもロユラスの立場を理解するだろう。
そんな一行を、アワガン村を包む不穏な空気が迎えた。ロユラス
は経験がある。サレノスを迎えた時の村の雰囲気である。もちろん、
今回の来客はまだ帰国していないサレノスであるはずがない。ロユ
ラスは緊張して拳を握った。あの時、サレノスが伴った兵士は数人
に過ぎなかった。しかし、今は衣装から将と判断できる者の数だけ
でも四、五人はおり、彼らが率いる兵の数はフェリムネの館を取り
囲むほどだった。
﹁ロユラス様だ﹂
ロユラスの帰還に気づいた見知らぬ将軍が、胸に手を当て忠誠を
誓う姿勢を取り、従う兵士も主を見習って同じ姿勢を取った。フェ
リムネの館を取り囲む数百の将士が一斉にロユラスに忠誠を示した。
そして、ロユラスの邪魔をせぬようその身を避けた。ロユラスかか
館まで、兵士が両脇を固める道ができ、マカリオスは状況が理解で
きぬまま、あわててロユラスの背を追って館の入り口をくぐった。
404
ルシラスとラヌガン
王や王子の不在の国政を預かる立場にいる者として、クイグリフ
スは王位継承の儀式の準備を始めねばならない。シュレーブ国やフ
ローイ国と戦争状態にある現在、一刻も早く王を擁立して国をまと
めねばならないのである。
彼はアトラスの帰国と共にネルギエの戦い大勝利の立役者として
国内に広く喧伝し、アトラスを王位に就ける手はずを整えていた。
反対する者はないだろう。即位の儀式には各地の領主を呼び集めね
ばならないが、この時期には戦場から戻った領主たちが王都に居た。
クイグリフスは各地に使者を出すのと同時に、王都に集う領主た
ちには直接に王の館に参集させた。これから行う即位式の段取りを
説明するためである。
館の広間の一番奥の王の座はむろん空位で、その前に祭壇が設え
てあり、王リダルの遺骨が安置されていた。傍らの后の座にリネは
姿を見せていない。この場に王妃の決断は不要。決定事項を伝える
のみという体裁を取ったのである。
二十人ばかりの男たちが集められ、祭壇の前に進み出て黙祷した
のち序列に従って並んだ。領主や大臣、海軍の司令官など、この国
を支える者たちである。
レマルネ
レマルネ
﹁我らが王、リダルの遺骨も我が国に戻った。これも戦の使者のご
加護というもの﹂
﹁おおっ﹂
パトロエ
部屋に集う者たちは一斉に同意の声を上げた。戦の使者とは戦い
の女神の配下で、片手に松明を掲げた聖女の姿で現され、勇者の遺
体を暗黒の死の世界から故郷に送り届ける者とされている。彼らの
王が死後も神々の寵愛を受けているというのである。クイグリフス
405
は続けた。
﹁間もなく、我らが王、偉大なる勇者、そして神々に愛されし者、
リダルの葬儀の準備が整う予定である。王子アトラスの帰国と共に、
テツリス
王の御霊を神の元へお送りする。そして、我らは心を合わせ、審判
ロゲル・スリン
の神の槍を裏切り者共に振るわねばならない。葬るべき者ども、そ
れはシュレーブ国、フローイ国、そして陰謀の首謀者六神司院であ
る。蛮族アテナイなどその余勢を駆って討ち取るのみ﹂
クイグリフスが挙げた明確な敵の名に、集う者たちは一斉の同意
の声を上げた。皆の心が一つになった様子を見計らい、クイグリフ
スは葬儀の後の予定へと話題を変えた。
﹁では、即位式の段取りのことだが﹂
もちろん、アトラスを即位させる段取りである。しかし、それを
言い終わる前に列席した者の中から一人の男が進み出て、祭壇に一
礼をしてクイグリフスに向き合った。
﹁その話の前に、私にも発言をお許し願いたい﹂
男を眺めた者たちの中から声が上がった。
﹁おおっ、イブゼラ家のご子息のルシラス殿か﹂
クイグリフスもその青年をよく知っている。代々、海軍の要職を
預かるイブゼラ家の当主の息子で、彼自身も数十隻の軍船を指揮す
る地位にある。ロユラスをルージへ帰国させた人物でもある。彼の
地位と発言はクイグリフスでも無視できない。
ルシラスはゆっくりと周囲を見渡し、自分の立場を明言した。
﹁私は、いや、我がイブゼラ家は、ロユラス殿こそ次の王にふわし
いと考えます﹂
あまりに実直な物言いに、一瞬広間は凍り付くように沈黙に包ま
れた。その沈黙を破る罵声が飛んだ。
﹁若造が、ルージ国への忠誠を失ぉたか﹂
そんな言葉を発したのはミラトス司祭である。ルージ国の宗教の
最高指導者であり、ルージ第一の賢者としての名声も高い。ただ神
406
々への信仰に篤い反面、蛮族を見下す傾向があり、蛮族の女の息子
が王位に就くなど認めることはないだろう。しかし、ルシラスはそ
の賢者に真っ向から反駁した。
﹁血筋の濃さから言えば、ロユラスどのは紛れもなく我らが王の長
子。ロユラス殿を立てるのに、忠誠を疑われるとはいかがなものか﹂
﹁蛮族の妾女の血筋が正当だと言いおるか﹂
﹁我らが王は、代々家臣を信服させる能力において選ばれたもの。
その能力こそ何よりの血筋である﹂
派閥という言葉で分ければ王妃リネ派の重鎮で、リネを通じてヴ
ェスターにも知人が多いカルシスが反駁した。
﹁アトラス殿はネルギエの戦いにおいて大勝利を治められた。これ
こそ王としての資質と神々の祝福を得ている証拠でありましょう﹂
王都の警護の責任者の言葉には重みがある。しかし、列席する別
の貴族が反論した。
﹁否! その戦いにおいてアトラス殿は無謀な戦いを挑み、数多く
の将士を危険にさらしたばかりか、自らの腕も失ったとか﹂
﹁何を言うか。戦いの勝敗は神々の加護にあり。ネルギエの勝利で
アトラス殿は神々の祝福を得た。腕を失ったことなどその証拠に過
ぎぬ﹂
﹁片腕のアトラス殿に王としての資質と神々の祝福があると?﹂
﹁では、ロユラストやら蛮族の息子に、神々の祝福があるとでも﹂
ロ
﹁アトラス殿は我らが王の跡継ぎとして育てられ、その資質は皆も
よく分かって居ろう﹂
ゲル・スリン
﹁しかし、生来の短気なご気性。ヴェスターでは有無を言わさず六
神司院の使者を切り捨てたとか﹂
言葉は入り乱れ、誰がどんな言葉を発したのか判別することは難
しい。ただ激しい言葉が交わされる中、人々は自然にリネ派のミラ
トス司祭とフェリムネ派のルシラスの周囲に集まって、整然と並ん
でいた人々は二分されて睨み合う事態になった。
407
﹁ラクサス殿、バイラス殿、ストロイ殿、あなた方のご意志はいか
がか﹂
ルシラスが名を呼んだ三人は、過去の遠征に参加し派閥で言えば
フェリムネを敬愛する者たちである。彼らは呼ばれた順に頷いてル
シラスの言葉を支持した。最後にルシラスはどちらにも加わらず中
立的な立ち位置にいた者の名を呼んだ。
﹁ラヌガン殿はいかがか﹂
ルシラスは、彼がアトラスの近習だったことは知っているが、父
のバラスがいればフェリムネ派としてロユラス支持に就いただろう
家柄である。そして、イドポワの戦いに参加した貴族から、臆病者
呼ばわりされた彼がアトラスに怨みを抱いているという情報も聞き
知っていた。
ラヌガンは俯いてやや考えて言った。
﹁ロユラス殿のお人柄はよく存じ上げませぬ。しかし、私はアトラ
ス殿の傍らに長く侍り、王にふさわしい方だと信じております﹂
ラヌガンがアトラスを裏切ってロユラス支持につくだろうと考え
ていたルシラスの期待は崩れた。
﹁アトラス殿に長く仕えたから次期の王とは? 我らが王のご意志
が示されて居らぬ。勝手な判断は不遜ではないか?﹂
ルシラスの言葉に、ラヌガンは唯一の道を指し示すように祭壇の
王の遺骨を指さした。
﹁不遜というなら、今はアトラス殿も居られず、ロユラス殿も列席
されない。お二人を無視し、王の遺骨の前で家臣共が勝手に跡継ぎ
の議論をすることこそ不遜。我らは我らが王のご意志を引き継ぐの
み﹂
跡継ぎの議論は当事者のアトラスとロユラスを交えてするべきだ
というラヌガンの意見はもっともだった。反論の声は上がらず、二
つの派閥はにらみ合いに終始した。クイグリフスはとりあえず彼ら
を散会させるしかなかった。
408
﹁迂闊だった。あの若造がこれほどとは﹂
クイグリフスはそう呟いていた。今まで大して注目もしていなか
ったルシラスがあっという間にロユラス支持の者どもをまとめてし
まったことである。もし、ルージが二つに分かれて争うことになれ
ば、海軍はロユラスにつく。兵を率いる領主も数多くロユラスにつ
くだろう。アトラスを支える者は精神的支柱のミラトス司祭、都の
警護に携わるカルシス配下の兵士。王妃リネの兄ヴェスター国軍の
介入が得られなければ不利な戦いになるだろうと、ルージ内乱を予
感していた。
同じ頃、アトラスは船上からルージを眺めていた。明日には沿岸
沿いに港へ移動し上陸を果たせるだろうと考えていた。もちろん王
都で行われている議論は知らず、腕を失った自分の姿を人々はどん
な気持ちで眺めるだろうという不安と、敵に対する憎しみが入り交
じり、故郷を眺める視線に混乱が浮かんでいた。。
そんなアトラスをサレノスは戸惑いつつ眺めていた。王リダルか
ら兵士チッグスへと託された剣は、ヴェスター王レイトスの手を経
て、今はサレノスの手元にある。老練なサレノスは既に王位継承を
巡る対立が起きていることは予想している。その決着をつけるに違
いない剣である。
409
ルシラスとラヌガン︵後書き︶
次回更新は明日です。いよいよ、アトラスとロユラスは王位継承争
いへと・・・。
410
ゴルススの言葉
明くる日の早朝、港を目の前にして剣を巡って一つの騒動が起き
た。50人も乗れば人で船が傾くのではないかと思われる小さな帆
船とはいえ、軍を率いる者としてサレノスにはカーテンで仕切られ
た個室が与えられていた。サレノスがその個室で王の剣を取り出し
て眺め、物思いにふけっている時だった。
個室の前には彼の身の回りの世話をする兵士も詰めている。今朝
はゴルススがその当番であったらしい。ゴルススの声がカーテン越
しにサレノスの耳に届いた。
﹁不埒者め。何の用があって、サレノス様のお部屋をのぞき見るか
っ﹂
﹁違うのです。我らは捜し物を﹂
﹁一兵士が探す物など、サレノス様のお部屋にあろうはずか無かろ
う﹂
﹁しかし﹂
﹁失せよ。さもなくば捕らえて詮議する﹂
忠実なゴルススがその言葉と共に腰の剣を抜く物騒な音が聞こえ
たため、サレノスはカーテンを上げ騒動の原因となった者を眺めた。
﹁朝っぱらから、物騒な音を立ておって、何事か﹂
そう言ったサレノスの前に騒動のきっかけになった二人の兵士が
いた。一瞬、兵の視線はサレノスに注がれたが続く瞬間にサレノス
の背後に移動した。
﹁あれだ。ヂッグスよ、ようやく見つけたぞ﹂
肩を抱き合って喜び、目には涙さえ浮かべていた。サレノスが振
り返って確認すれば、二人の視線は王の剣に注がれていた。言うま
でもなく、イドポワの戦いで王リダルから剣を託された二人である。
二人に敵意が無いことを見て取ったゴルススは剣を鞘に収めた。 411
事の次第がこの剣にあるらしいと見て取ったサレノスは、二人を部
屋に招き入れ、ゴルススに命じて部屋を仕切る幕を下ろさせた。
﹁やっと見つけた﹂
そんな感動に浸る兵士に、サレノス自身が静かな口調で声をひそ
めよと命じねばならない。
﹁なるほど。アガルスス殿の配下の者か﹂
ヂッグスとリグロス、二人の兵士の事情を聞いたサレノスはねぎ
らいの暖かさを込めてそう言った。アガルススの部隊のたった二人
の生き残りである。二人の話は表現は未熟だったが朴訥とした人柄
を滲ませていて嘘が入る余地はなかった。王から剣を託されたこと、
剣を携えて山岳地帯を迷ったこと、ようやく見つけた里で救われた
が役人に捕らわれるように保護されたこと、身分不相応な剣が役人
に取り上げられたこと、必死で剣の行方を探し求め、名も分からな
いルージ国の老将の手に渡ったことを知ったこと、老将といえば、
アトラスと行動を共にするサレノスではないかと思い至ったこと、
運命の神のご配慮か帰国の船にサレノスが居ることに気づいたこと、
語る内容はサレノスが知る事実と一致した。
﹁しかし、突然に部屋に踏み込もうとするなど、お前たちはこのゴ
ルススに斬られるとは思わなんだか?﹂
サレノスの問いに、二人は口を揃えて答えた。
﹁我らが王に託された大事な命令、果たすまでは死ねませぬ﹂
ヂッグスとリグロスの言葉に、ゴルススは唇をほころばせた。こ
の二人の忠誠を愛でたのである。
﹁ヂッグスにリグロス。お前たちの忠誠は分かった。しかし、この
剣は今しばらく儂が預かろう﹂
その言葉に顔を見合わせる二人に、サレノスは不安を払拭する言
葉を続けた。
﹁主を失ったとのこと、新たに仕える者が必要だろう。このゴルス
スの元でこの剣の行方を見届けよ。アガルスス殿には及ばぬが、こ
412
のゴルススもなかなかの人物。仕えるに不足はないぞ﹂
今回のようにサレノスの身辺を探る必要はない。ゴルススの側に
控えていれば剣の行方を見逃すことはない。二人は納得して頷いた。
﹁剣のこと、他言無用である。では⋮⋮﹂
外を指さして話は終わったと伝えるサレノスに、ゴルススは部屋
を仕切る幕を上げ、ヂッグスとリグロスに外で控えていろと手真似
で命じたあと再び幕を下ろした。その意図に首を傾げるサレノスに
ゴルススは語りかけた。
﹁この剣で、ずっとお悩みの様子﹂
﹁お前には隠し立てが出来ぬな。たしかに、どうした物か迷うてお
る﹂
﹁ならば、あの者どもにお任せになっては﹂
﹁儂もそれを考えている。我が王が託した者に任せるのがよいのか
と﹂
﹁しかし、身分違いの剣を有して居れば、再び不審者として捕らわ
れ剣は奪われるでしょう﹂
﹁どうすれば良いというのだ?﹂
﹁誰か、それなりの身分の物が護衛する必要がありましょう﹂
﹁では、儂があの二人に付き従ってロユラス殿の元へいこう﹂
﹁それはなりませぬ﹂
﹁どうして﹂
﹁サレノス様は我らが王よりアトラスとのを補佐せよと命ぜられま
した。補佐する立場にあるアトラス様の頭越しに行動するのはアト
ラス様への不忠、サレノス様自身がロユラス様に荷担し剣を渡され
ること、リダル様のご意思をないがしろにされることにも成りかね
ません﹂
﹁では、誰を護衛の任に付けるべきだと?﹂
﹁アトラス様﹂
﹁はぁ?﹂
サレノスはゴルススが口にした名の意外さに、言葉にならないた
413
め息をを漏らして笑い出した。
﹁お前はこれから王になるやも知れぬ王子を、あの二人の兵の護衛
に利用するというのか。ましてや王位争いへの相手に。それにお前
はロユラス殿に荷担するなと言うたはず。アトラス殿にこの剣を渡
せばアトラス殿に荷担することになろう﹂
﹁それはアトラス様のご気性次第でしょう﹂
﹁気性とな﹂
﹁サレノス様⋮⋮﹂
﹁何か﹂
﹁サレノス様は、王都に参集する前にロユラス殿に忠誠をお誓いに
なられました﹂
﹁おおっ、その忠誠は今でも変わらぬよ﹂
﹁しかし、アトラス殿と出ぉうて、アトラス殿のご気性にも惹かれ
るものがありましょう﹂
﹁お前には隠し事はできぬな﹂
﹁サレノス様の迷いを眺めながら、ロユラス殿とアトラス殿、あの
お二人に争う以外の運命はないものかと﹂
﹁お二人はともかく、周囲の者どもがそれを許すまいよ﹂
﹁我らが王リダル様の跡継ぎのこと、リダル様のご意志のみがそれ
を決めるべきでしょう﹂
﹁我らが王が剣を託しロユラス殿というご意志を示された﹂
ニクスス
﹁そう断言するのはいかがでしょう。剣はまだここにございます。
アトラス殿が剣をどう利用するか。運命の神に任せ、もう一押しし
てあの方のご気性を眺めてみたい気も致します﹂
﹁もし、その存在を知ったアトラス殿が、剣を我が物とした時は?﹂
﹁それはその時。サレノス様も仕える相手を定めることが出来まし
ょう﹂
ゴルススが言うのは、アトラスの人物を見限ってロユラスに荷担
すると言うことである。
﹁なるほど。しかし、その時期は儂に任せよ﹂
414
サレノスの言葉に頷いて、ゴルススは一礼し、部屋の外に控えて
いた二人を連れて去った。
︵ずいぶん雄弁になったものだ︶
サレノスがそう考えたのはゴルススのことである。無口で不平不
満どころか、サレノスに抗う言葉を発したことはない男というイメ
ージがあった。その男が自分の意見を口にしたのは初めてだった。
サレノスの傍らに侍りその苦悩を知って考え抜いていたのだろう。
息子が父を気遣うような気配にサレノスは微笑んだ。
しかし、父の決意を知ったアトラスはどんな行動を取るだろう。
サレノスの心に一抹の不安も湧いている。
415
ゴルススの言葉︵後書き︶
父の愛を求めて生きてきたアトラスと、父の愛を拒絶して生きてき
たロユラス。その二人は剣という形で父の意志と向き合います。次
回更新は今週土曜の予定です。
416
失意のアトラス
十数隻を数えた船は、帰国する兵士たちを乗せてほぼ同時に帰国
の途についたはずだが、風向きや複雑な潮の流れのために帰国の日
程に差がついた。
一隻、また一隻と時を経て港に着く軍船に乗る兵士たちを全て集
結させてから、アトラスはその一隊の先頭に立って王都バースに凱
旋する体裁を取り繕うのがよい。サレノスがそう進言したため、上
陸したアトラスは、帰国した兵士の上陸を最後まで待って、港の近
くに一夜を過ごす天幕を張った。
もちろん、王リダルの最後と彼の剣について、サレノスはアトラ
スに語らねばならない。サレノスはこの港でその時間を稼いだので
ある。
︵王の剣を、今の王都に持ち帰ることは出来ない︶
サレノスはそう信じていた。王都では王位継承争いが始まってい
るに違いなく、そこへこの剣を持ち込めば、貴族共はアトラスやロ
ユラスの意思を無視して争い始めるだろう。まず、二人の意思を問
わねばならない。
見上げれば先日まで夜空に細い弧を描いていた月もなく、宿営地
で勢いよく炊きあげられるかがり火に、星の光もかすむ闇の中、サ
レノスはゴルススと二人の兵士を伴ってアトラスの幕舎へと歩んだ。
﹁アトラス殿。会わせたい者がおります﹂
サレノスはそんな言葉で、ヂッグスとリグロスを引き合わせた。
もちろんアトラスにとって初対面の兵士で、アトラスはいぶかるよ
うにサレノスを眺めた。
﹁誰か?﹂
417
﹁この者たちはアガルスス殿の配下の者たちで、先のイドポワの門
の戦いで我らが王と共に戦い、その最後を知るものたちです﹂
﹁おおっ、それは﹂
アトラスの言葉が感動の笑顔で途絶えた。戦の後、アトラスが始
めてみせる笑顔だった。愛すべき父の死の様子を、フローイ国の老
臣レアフッダスから聞いていた。しかし、昔話を語られているよう
で、偉大な王の死の事実は受け入れることはできても、その父の最
後の様子が実感として淡い。
全滅した部隊の中で、彼らのみ生還したことを王子になじられる
のではないかと危惧していたヂッグスとリグロスも、ほっとして記
憶を辿って話し始めた。表現は未熟だったが、王リダルと同じ戦場
で呼吸をしていた者だけが持つ感覚があり、王リダルやその身辺の
兵士たちの様子が目に浮かぶように伝わった。アトラスも頷きなが
ら話を聞き、やがて目をつむって光景を思い浮かべているようだっ
た。
しかし、ヂッグスとリグロスの話も、王リダルの死の寸前の姿へ
と進んだ。リダルが剣を槍に持ち替えて、二人に剣を預けた時の思
い出である。
﹁我らが王は剣が敵に渡ることを惜しんで、我らに剣を預けられ⋮
⋮﹂
アトラスが興味を示した次の瞬間、リグロスの言葉にアトラスは絶
句した。
﹁剣をアワガン村のロユラスという者へと﹂
﹁我らが王が、剣をそなたたちに?﹂
そんな叫びを上げて興奮するアトラスに、サレノスが話にわって
入った。興奮したアトラスがこの二人を切って捨てるようなことは
避けたかったのである。
﹁我らが王は剣をこの二人に託し、自らは槍を手に勇者にふさわし
い最後を遂げられたとのことです﹂
﹁その事ではない。我らが王はその剣を誰に託せと?﹂
418
アトラスに問われたリグロスは、その名が何者かも知らず素直に
答えた。
﹁アワガン村のロユラスという者に渡せと﹂
アトラスが腰の剣に手を掛けるのではと考えたサレノスだが、意
に反してアトラスは黙りこくり椅子に腰を下ろした。アトラスは眉
をぴくりと動かしたのみで感情を押し殺したのである。
もし、亡くなったザイラスがいれば、アトラスの心境を読み解い
て見せただろう。父親に愛されたい、しかし、父親が真に愛してい
るのはロユラスではないかと感じながら生きてきた。そのアトラス
の想像が確信になっただけである。得体の知れない感情がどろりと
流れ出して、今は失望感だけで冷たく固まったアトラスの姿だった。
アトラスがヂッグスとリグロスに語りかけた言葉に感情がなかっ
た。
﹁父の最後を語ってくれたこと、感謝する。後で何か褒美をつかわ
そう﹂
それだけ言って俯いて黙りこくったアトラスに、サレノスは手真
似でゴルススに二人の兵士とともに幕舎を出るように指示した。彼
自身もアトラスに背を向けたが、アトラスの声が響いた。
﹁サレノスよ、お前は残れ。聞きたいことがある﹂
サレノスが振り返ると、アトラスは彼に向き合った椅子を腕で指
し示していた。アトラスの僅かな沈黙は、先の来客が天幕を去り二
人っきりになれるタイミングを謀っていたのだろう。アトラスは記
憶を辿った。
﹁サレノスよ。そなたは私に我らが王のことを語ってくれた事があ
ったな﹂
その言葉に籠もる苛立たしげな感情は誰に向けられたものか、そ
れを推し量るすべもなくサレノスは答えた。
﹁王が私の出陣を督促に参られた時のことですかな﹂
﹁そなたは言った。あの気高い王が息子アトラスのために出陣を懇
願したと﹂
419
アトラスの言葉に籠もった怒りが、記憶を辿りながら失望と悲し
みに変わっていた。サレノスは彼の感情の流れに身を任せて頷くし
かなかった。
﹁左様です。真摯なお姿でありました﹂
﹁私はそれを聞き、我らが王が息子に示した初めての配慮、初めて
の愛情だと考えた。いや、考えようと努めてきた﹂
アトラスが次の言葉を吐き出すのを防ぐようにサレノスは力強く
言った。
﹁いえ、リダル様は紛れもなくアトラス様のお父君。お父君の愛情
を疑う必要はございません﹂
アトラスは自虐的に微笑んで、静かに言った。
﹁隠すな。我らが王から見れば、私など頼りない若造の一人でしか
ない。我らが王が欲したのはそなたのような歴戦の勇将。私のよう
な厄介者ではない。そして、その役立たずの若造が王子の肩書きを
振り回していたために、何かの役割を与えてやらねばならなかった。
そんな私を理由にそなたを戦に誘い出せば一挙両得だったというわ
けだ。つまり、我らが王にとって、私など⋮⋮、サレノスという大
魚をつり上げる餌にしか過ぎぬ﹂
アトラスの心を乱した様々な感情は、王の剣というアイテムで濾
過されて、失望と孤独のみが残った。余りに断定的な物言いと孤独
に凝り固まった若者に、サレノスは彼の心に響く言葉を見つけて解
きほぐしてやることが出来なかった。
アトラスがふと気づいた素振りをして語った。
﹁明日、アワガン村へ行くのか。では、私も同行しよう。ロユラス
には用がある﹂
﹁用ですと?﹂
サレノスの問いにアトラスは沈黙を守った。天幕を出て行けと命
じられたわけではないが、これ以上ここに留まれる雰囲気ではなく、
サレノスはアトラスに一礼してこの場を去るしかなかった。
420
失意のアトラス︵後書き︶
次回更新は明日の予定です。いよいよアトラスとロユラスが向き合
って・・・
421
アワガン村へ
結局、アワガン村へ同行することについて、アトラス自身の理由
は明かさなかった。明くる朝、サレノスは兵たちにこの場に留め置
くように命じてアワガン村への道を歩き始めた。サレノスに同行す
る者はヂッグスとリグロス、ゴルスス。アトラスにはテウススが続
いた。兵士は連れず総勢六名の一行である。
﹁他の者はどうしたのですか﹂
普段はアトラスの元に侍る近習のオウガヌとスタラススの姿が見
えないのである。
﹁オウガヌは我が母リネからお呼びがかかって王都に参った﹂
﹁リネ様がオウガヌを?﹂
﹁頼りない息子より近習のオウガヌから聞きたいこともあるのだろ
うよ﹂
アトラスの自嘲的な笑みに、サレノスは話題を変えた。
﹁スタラススはどうしたのですか。何やらあの者が居るだけで明る
くなります﹂
﹁スタラススは昨夜使いの者が来て、母が重病だというので先に王
都に帰らせた﹂
﹁母君が重病ですと? 大変なことで﹂
サレノスは僅かながらスタラススの出自を知っていた。ルージ島
の北東部の領地を預かる領主の息子である。重病の母を見舞うとい
うなら王都バースは方向違いである。ただ、サレノスは深く詮索は
しなかった。
ともあれ、アワガン村まで徒歩で二ザン︵二時間︶ばかり。用を
済まして夕刻には帰ってこれるに違いない。
422
フェリムネとマカリオス
時は一日遡る。
アワガン村に平穏な空気が戻ったのは、ロユラスがフェリムネの
館に集う領主や兵士を追い返してからである。フェリムネ様を支え
るとか、ロユラス殿を時期王位の地位にと与太話をする者たちに興
味はなかった。
ロユラスの心にある判断基準は、母フェリムネをこの異国へと連
れ去り、悲しみの中で生きさせる王リダルという男だった。このア
ワガン村の人々のように純朴で、フェリムネに敬意を抱いて生きる
人々に心を許すことは出来ても、リダルに集う領主や兵士に心を許
すことは出来ないという理屈である。ロユラスが追い返したのはリ
ダルに飼われている犬共だという理由である。
事実、フェリムネの館に顔を見せた者たちの中には、人物の好き
嫌いの激しい王妃リネに嫌われたり、過去の失策をリダルに咎めら
れて出世が閉ざされた者たちがいる。フェリムネに対する敬愛では
なく彼女を利用して権力を拡大しようと謀る数多くの者たちが、う
さんくさい臭いを放っていたのである。
﹁ロユラス⋮⋮﹂
マカリオスがその名を呼びかけて口ごもった。ロユラスはその理
由を察して言った。
﹁ただのロユラスで良い﹂
マカリオスはルージ国に着いて以来、彼が王の息子だと聞かされ、
更にこの村に着いて見れば貴族共が彼に服従の礼を取り、次のルー
ジ王に尽かせるとまで言うのを眺めた。マカリオスはロユラスにど
う接して良い物か、戸惑いを深めていたのである。
フェリムネを守るように集まって成り行きを見守っていた村人た
423
ちは、ロユラスが領主や兵を追い返すのを手伝っていたが、その用
も終わって村人たちは笑顔を残して去った。今は数刻前の喧噪が信
じられない。
﹁ロユラスはロユラスだよ。変わらない﹂
タリアがそう笑った。タリアと共にロユラスが領主共を追い払う
のを眺めていたミドルはマカリオスの肩をぽんと叩いてタリアと去
って行った。言葉はなくともその笑顔が雄弁に物語っていた。ロユ
ラスは素のままのロユラスとして接すればいいと言うことである。
タリアが去り際にマカリオスの手を引いた。
﹁今夜はうちに泊まりなさい﹂
久々に帰ってきたロユラスに、母と息子だけで積もる話もあるだ
ろう。ロユラスとフェリムネだけにしてやるために、一晩だけ邪魔
者のマカリオスは引き取るという配慮である。ロユラスは無言のま
ま笑ってマカリオスを引き寄せ、タリアの配慮を断った。彼女は何
事かと問いもせず、笑顔のまま兄に導かれて帰って行った。ロユラ
スは軽く片手を上げて挨拶に代え、兄妹を見送った。優しい配慮と
素直な感謝が言葉もなく交わされていて、マカリオスはありのまま
接すればいいと言う意味をこの光景で察した。
館の扉は固く閉じられたままで、フェリムネの領主どもへの拒絶
の意思ともとれた。権力を持たないか弱い女が権力を笠にきた者た
ちに示す精一杯の姿勢かも知れない。ロユラスは母を一人にした事
を後悔した。戻ったことを早く告げて母親を安心させてやらねばな
らない。
﹁さて、母にお客様を紹介するか﹂
ギリシャ人を連れ帰るというのは計算外だったが、母の部族の者
なら昔話も出来て、母も心を癒すに違いない。ロユラスはそう考え
ていたし、マカリオスにも異存はなかった。
﹁母さん。今、帰ったよ﹂
固く閉ざされた扉を叩いて帰宅を告げたロユラスに、フェリムネ
424
は直ぐに扉を開けた。
﹁ああっ、ロユラス﹂
飛びついて息子の肩を抱くフェリムネに不安から解放された喜び
が溢れていた。
︵美しい人だな︶
マカリオスが素直にそう感じたのは、フェリムネの顔立ちばかり
ではなく、素直な喜びを交わす母と息子の姿のせいもあるだろう。
﹁あらっ﹂
フェリムネは大きな目を無邪気にきょとんとマカリオスに向けた。
ようやくマカリオスの存在に気づいたのである。マカリオスはそん
な彼女にぺこりと頭を下げて名乗った。
﹁小間使いのマカリオスと申します。よろしく﹂
帰国の道中は銀細工商人ロユラスとその小間使いの関係である。
これからは新たな関係に発展しそうな期待感があってマカリオスの
笑顔も澄んでいた。
﹁ようこそ。歓迎します﹂
笑顔でマカリオスの手を握るフェリムネをロユラスは眺めていた。
ただ、間もなくその笑顔がマカリオスの出自で哀しく曇るとは考え
ていなかった。
425
悲しみのフェリムネ
明くる朝、アトラスとサレノスがアワガン村へ向かっている頃、
その目的地ではフェリムネが館を離れて、波打ち際で一人沖を眺め
てたたずんでいた。漁師たちが船を揚げている浜からも離れた入り
江で物思いにふけっていたのである。
起きてみれば母の姿がない。その姿を探してロユラスとマカリオ
スは、日が高く昇ったこの時間に、ようやくここで彼女の姿を見つ
けたわけだった。
マカリオスは困惑している。昨夜、館の中は笑顔とギリシャの言
葉で溢れた。もともと陽気な性格だけに、ロユラスとの旅の様子を
楽しく語って聞かせ、フェリムネがそれに心を響かせて朗らかに笑
う光景だった。ところが、マカリオスの父と母が、フェリムネと同
じか近しい部族らしいと聞いた瞬間、彼女は表情を曇らせ、心を閉
じた。その理由は語らなかった。彼女の哀しげな様子に無理に聞き
出す雰囲気でもなく、マカリオスは自分がどんなヘマをして彼女を
悲しませたのか考えつつ、夜を明かしたのである。
この場でも戸惑い続けるマカリオスを制して、ロユラスが声を掛
けた。
︻母さん⋮⋮︼
既に、物音で息子たちが姿を現したのに気づいていたのだろう。
フェリムネは声を掛けられる前に振り向いていた。大きく澄んだ目
から涙が溢れて頬を伝って滴り落ちていた。その表情にロユラスは
言葉を失った。
︵この純粋で美しい人を悲しませてしまった︶
マカリオスはその思いを叫んだ。
︻すみません! 俺が何かヘマをしでかしたせいで︼
426
彼女の涙に謝罪して頭を下げるマカリオスに、彼女は彼の勘違い
を正した。
︻違うのよ。私の罪は遠く逃げても、ついて回るのかなと︼
︻罪だって︼
︻ロユラス。あなたに話しておかねばならないことがあります︼
︻何だい? 改まって︼
︻あなたの父、リダル様について︼
ロユラスはその名に眉を顰めた。聞きたくない名である。そんな
ギリシャ語の会話にアトランティスの言葉が割り込んだ。タリアが
彼らを見つけ、駆け寄りながら叫んだのである。
﹁また、領主がやってきたわよ﹂
﹁会わんぞ。追い返せ﹂
ロユラスも彼女との距離を埋める大声でそんな返事を返した。
﹁それが、この間来た、ジジイと⋮⋮﹂
その言葉でタリアが語るのがサレノスのことだとしれた。ロユラ
スは続けて問うた。
﹁他にも誰か居るのか﹂
ロユラスの問いに、やっと彼の元にたどり着いたタリアが弾ませ
た息の中からの名を吐き出した。
﹁王子アトラス様がっ﹂
﹁アトラスだって?﹂
村人たちがロユラスを探し回っていたのは、その意外な客が村を
訪れ、フェリムネの館で帰りを待っていることを告げるためだった。
彼らは話を中断して帰宅せざるを得ない。
427
悲しみのフェリムネ︵後書き︶
投稿の文章の長さの関係で、アトラスとロユラスの出会いは次に持
ち越しです。
本日、夕方に行進しますので、二人の対面をご期待ください。
428
アトラスとロユラス
来客は律儀に礼儀を守って、家の外で家人の帰りを待っていた。
フェリムネは扉を開けて客を招き入れ、待たせた詫びを口にした。
客は六人。フェリムネにとってサレノス以外は初対面の者たちだっ
た。ロユラスは話のきっかけを探すようにアトラスと視線を交わし
ながらも、その意図を隠してサレノスや初めて見る客人に視線を移
していた。アトラスは客のために椅子を整えるフェリムネを興味深
く眺めていた。
フェリムネは扉から中を伺う少女とその兄、そしてマカリオスに
声を掛けた。
﹁お客様に飲み物を準備するわ。マカリオス。あなたは裏で井戸水
を汲んでちょうだい。タリア。あなたは台所で蜂蜜の壺とカップを
用意して。ミドル。あなたは村に戻ってハラサの実を5つほどもら
ってきてくれるかしら﹂
フェリムネが指示した内容から、彼女が客にハラサ水と言われる
蜂蜜で甘く味付けをし、ハラサの実の果汁と細かく刻んだ皮で香り
付けをした飲み物を準備するつもりだと知れた。
︵もてなしは無用に︶
そう考えたサレノスだが、彼女の意図に気づいて声を掛けるのは
止めた。勘の良い彼女は来客がロユラスに用があるのだと気づいて
部外者を追い払ったのである。彼女自身も隣の台所へと姿を消した。
部屋にはロユラスと六人の来客が残された。
ロユラスはアトラスと向き合った時、どんな言葉を交わすかなど
考えても見なかったが、現実に相対したとき、自然に言葉が口を突
いて出た。
﹁なんとまあ、哀れな姿になったものだ﹂
429
アトラスがネルギエで戦死したと噂を聞いていたが、ヴェスター
国を旅する道中やルージ国に上陸した後、神々はアトラスの与えた
大勝利と引き替えに、彼の腕を奪ったと聞き知っていた。確かに、
目の前のたくましい青年の体には左腕が、肘から先が欠けていて、
その傷口には未だに包帯が巻かれていたのである。
アトラスはロユラスの言葉に自虐的に応じた。
﹁哀れではなかった時の私の姿をご存じだとでも?﹂
戦いに赴く前の姿を知っているのかと問うのである。互いに血縁
関係は否定してきた間柄だが、街道や海辺の岬を愛馬で駆ける青年
が、王リダルの息子アトラスだと判別がつくくらい繰り返し眺めて
いた経験がある。アトラスはロユラスを評する言葉を続けた。
﹁貴男の諧謔ぶりはお変わりない﹂
﹁俺の性格まで知っているような口ぶりだな﹂
そう言われればアトラスにも経験がある。愛馬と出かける遠乗り
で、水を求めるという理由をつけて海辺の村に立ち寄った時、村人
からロユラスの名が出るたびに注意深く耳を傾けていた。繰り返し
聞く村人たちの言葉は、何より雄弁にロユラスの人柄を描き出して
いたのである。
﹁しかし、いきなり、何用だ?﹂
﹁事情はこの二人に聞け﹂
アトラスは身を翻して、背後にいた二人の兵士をロユラスの前に
押し出した。突然に引き合わされたヂッグスとリグロスは、目の前
の人物を推し量って心の整理が着いていない。サレノスが柔らかい
口調で指示した。
﹁こちらがロユラス殿である。我らが王のことを語って聞かせて差
し上げてくれ﹂
サレノスは隣の台所へ視線を転じて、その入り口にちらりと見え
たフェリムネに声を掛けた。
﹁そうだ。フェリムネ様にも聞いていただこう。フェリムネ様はい
430
ずこに?﹂
サレノスの言葉に会わせてフェリムネが部屋に戻ってきた。これ
から行われるはずの自分の身分には不相応な話題を立ち聞きをする
つもりはなかったに違いないが、その話に混じるに違いない王リダ
ルの事も気がかりで入り口に背を向けてそっと立っていたらしい。
フェリムネが加わって、椅子の数が足りない。アトラスの近習テ
ウススが席を立って彼女に椅子を譲り、自らはアトラスの脇に立っ
た。これから始まる話は、彼女を愛した者の死。そして蛮族の女と
聞いていたが、この女性から漂う優しさにそうせざるを得ない。た
だし、テウススは王リダルの死が伝えられるという事は知っていて
も、アトラスが王の剣をロユラスに渡すことは知らなかった。チッ
グスとリグロスの話が始まった。テウススが二人の話を聞くのは初
めてである。昨日のアトラス同様、彼も兵士が語るたどたどしいが
現実味を伴う口調に飲み込まれていった。
テウススがふと気づいてみれば、部屋に女のすすり泣きが静かに
満ちていた。フェリムネの声が弱々しく響いた。
﹁では、噂は本当だったの?﹂
リダルが戦死したという噂は耳にしていたし、遺骨が王都バース
に戻ったという話も聞いていた。ただ、王の館どころか王都バース
へ行ける身分ではなく、この地で心の中で噂を否定し、リダルの生
存を信じて心の支えにしていたのである。その支えを失ったか弱い
女が泣き崩れる姿に、愛する者を失った純な悲しみが伝わってくる。
テウススが彼女を支えようとするのを、ロユラスが手を伸ばして
制し、自ら母に寄り添った。アトラスは彼女から視線を逸らして母
のことを考えた。王妃リネはこれほど純粋に王リダルを愛していた
ろうかと。
ロユラスは嘆き悲しむ母を寝室へと導き、ベッドにそっと残して
戻ってきた。彼は来客の中からサレノスを選んで声を掛けた。
﹁爺さん。おかげで母がリダルを愛していることは分かったし、母
431
に最愛の人の死を知らせてくれたことには感謝する。しかし、あん
たは母の涙を眺めるためにここへ来たのか﹂
﹁話には続きがございます﹂
﹁続きだと﹂
ロユラスに答える前に、サレノスはゴルススに目配せをし、ヂッ
グスとリグロスを連れて席を外せと指示した。ゴルススに連れられ
て部屋を出る二人は、サレノスが取り出した包みを眺めて成り行き
を確認して、王リダルから与えられた任務から解放されたことを知
った。
サレノスは包みを解いた。ロユラスの目の前に一振りの剣を掲げ
て見せた。束にはめ込まれたアクアマリン。王の剣の象徴を確認し
ようと腕を伸ばしたロユラスだったが、サレノスはそれがアトラス
の役目であるかのように、捧げた剣をアトラスに渡した。
﹁我が父が、貴男に託した剣だ。あの二人の兵士に代わってお渡し
する﹂
剣はアトラスの右手を経て、ロユラスへと手渡された。傍らにい
たテウススにもその剣が王リダルが腰に帯びていたものだという記
憶があった。彼は光景に息をのんだ次の瞬間、戸惑いとも怒りとも
つかない感情を言葉と共に吐き出した。
﹁我らが王子よ。気でも狂われたか﹂
アトラスは剣を渡したその手で、静かにテウススを制した。
︵この行為の意味はよく分かっている︶
そう頷いてみせるアトラスに、テウススは返す言葉がなかった。
自分は父に愛されては居なかった。では自分が生きて来た意味は⋮
⋮。昨夜思い乱れた心が、今は敵に対する憎しみのみに統一されて、
アトラスの心はむしろ平穏で、その視線に迷いはなかった
432
アトラスとロユラス︵後書き︶
次回更新は今週土曜日です。アトラスは剣を託した代償にあるもの
を求めます。彼がアワガン村に来た理由。それは・・・。そしてフ
ェリムネがロユラスに語ろうとしたこと。新たな展開にご期待下さ
いね。
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二つの提案
テウススの言葉通りだと頷いたロユラスは、アトラスの真意を問
うように尋ねた。
﹁この剣を渡す意味が分かっているのか?﹂
﹁我らが王の意思が、貴男にルージ国の未来を継ぐと言うことだ﹂
﹁その通り。お前はその意思を受け入れるのか﹂
﹁それが、我らが王の意思ならば﹂
明瞭にそう言いきったアトラスの素直さと頑固さに、ロユラスは
肩をすくめて見せた。アトラスはロユラスが想像もしなかった方向
に話を展開した。
﹁ただし、一つ条件がある﹂
ロゲル・スリン
﹁何だ? 剣を買えと言われても、俺にはそんな金はないぞ﹂
﹁私を将軍とし、憎きシュレーブとフローイ、何より六神司院に仇
を討たせて欲しい。この腕と共に失った父の怨み、きれいさっぱり
晴らしてやりたい﹂
アトラスの腕を失った姿と、彼の憎しみの表情を、ロユラスは哀
ストカル
れむように評した。
﹁復讐鬼に成りはてたか﹂
伝説の昔、アトランティスの大地にストカルという名の神々の寵
愛を受けた勇者が居たという。平和の中で過ごしていたストカルの
部落の者たちが、敵対する部族の奇襲にあい、ストカルを残して皆
殺しにされた。ストカル自身も腕を失うという重傷を負いながらも、
復讐に凝り固まり、仲間を殺した者たちを、一人、また一人と殺害
した。敵の部族を女子どもまで含めて皆殺しにし終わった時に、そ
の姿は神々の寵愛を受けた勇者ではなく、憎しみと怒りに狂って姿
も心も悪鬼に変貌した。狂ったストカルの刃が平和な人々にまで向
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パトロエ
いたため戦の女神がこの悪鬼を誅した。彼の死後、パトロエの剣ニ
メーシの慈悲で元の人間の姿に戻り、アトランティスのいずこかの
地にニメーシと共に葬られているという。アトランティスの人々が
憎しみを語る時に引用する神話の一部である。
ストカル
﹁おおっ、父とこの腕ばかりではない、戦いで果てた数多くの将士
の怨みを果たせるなら、伝説の復讐鬼に成りはてるも本望﹂
﹁では、俺が王となり、お前に兵権を託せば、どう使うつもりだ﹂
ロユラスはそう笑った。アトラスはロユラスに王位を渡すが、軍
を指揮する兵権をよこせと言う。兵権を与えれば軍を使って王位を
奪うことはたやすい。アトラスにその気はなくともアトラスの周囲
の者がそうするだろう。ロユラスは王位を奪われ、新たな国で邪魔
者でしか無く葬り去られるだろう。それならこのアワガン村で領主
として暮らし続ける方がずっと良い。兵権を条件にした王位など、
これほど空しい約束はあるまい。しかし、アトラスはその当然の成
り行きが分からないらしい。
アトラスが語る内容は、青年らしい想像に満ちていた。
ロゲル・スリン
﹁どう使うか? 知れたこと。兵を率いて海を渡り、シュレーブ軍
を討ち果たしつつ、ルードン河を遡って、六神司院の者どもを皆殺
しにしてやる﹂
﹁しかしなぁ、シュレーブ海軍がそれを許すまいよ。海の上の大き
な戦いになる。精強を誇るとはいえルージ海軍も大きな損害を出し、
兵をシュレーブ国へ進めることは難しい﹂
シリャード
シリャード
﹁では、ヴェスター国へ渡り、ヴェスターのレイトス王とともにシ
ュレーブから聖都へ兵を進めてやる﹂
ロゲル・スリン
﹁討伐にどれほどの兵が必要だと? あの聖都の高い城壁を越え、
中の六神司院やアテナイ軍を討伐するには一万を越える兵と、数年
の時間がかかるだろうよ。その間、フローイ軍とシュレーブ軍に側
面を脅かされながら戦うとでも?﹂
アトラスの提案をことごとく否定するロユラスに、サレノスが問
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うた。
﹁では、ロユラス殿。あなたは何も打つ手はないと?﹂
ロユラスは顎に手を当て、少し考える素振りを見せた後、アトラ
ロゲル・スリン
スに向かって朗らかに言った。
﹁アトラスよ。六神司院の手先の片割れ、フローイ国なら精兵三千
で堕とせるぞ﹂
﹁フローイ国だって?﹂
アトラスも笑った。フローイ国といえばアトランティス大陸の中
原のシュレーブ国の更に向こうである。ロユラスはシュレーブ国を
攻めること自体が無理だと断言したばかりではないか。サレノスも
アトラスと顔を見合わせて眉を顰めた。
ロユラスはそんな二人にかまわず、朗らかに明るい未来を語って
見せた。
﹁三千の兵でフローイを落とし、シュレーブ国の背後を脅かす。北
からヴェスター、南からグラトが攻めれば、いかにシュレーブとて
防ぐのは難しかろう﹂
ロユラスはフローイ国王女リーミルに出会った最初の旅で、フロ
ーイ国の関所の堅い守りと、巧みな配置に感心して、攻めがたい国
だと感心したことがある。また、国民は王家を敬愛し、忠誠心もな
みなみならない。二度目の旅、マカリオスらギリシャ人と出会った
旅でも同じ事を確認した。もし、アトラスがそれを知れば、ロユラ
スの意図の危険さに即座に提案を蹴っていたかもしれない。
ただ、アトラスは剣を返す条件に兵権をよこせという要求を伝え
る目的は果たした。ロユラスの戯れ言に長くつきあう暇はなかった。
アトラスは席を立った。
﹁その提案は、考えさせてもらおう。では、今日はこれにて﹂
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フェリムネの思い1
来客は帰った。フェリムネの様子を気遣って姿を見せていた村人
たちも、ミドルとタリアが気を利かせて村に連れ帰った。館には静
けさが戻った。
ロユラスは一人で剣を眺めていた。今まで王としての自分の立場
を考えたことはなかった。ただ何度か興味の赴くまま、広くアトラ
ンティスの各地を旅して眺めたことがある。この大地で何かを成し
遂げたいと沸き上がってくる衝動は、王リダルの血筋だろうか。
フェリムネに寄り添って席を外していたはずのマカリオスが、隣
の部屋で耳を澄ませていたのだろう。隣の部屋からちらりと姿を見
せて問うた。
﹁ロユラス。フローイ国を攻めるというのは、俺たちの部族をフロ
ーイ軍と戦わせるということかい?﹂
ロユラスは肩をすくめて見せた。
﹁お前たちは勇敢だが、戦いの訓練は受けていないだろう。そんな
者たちを兵士と戦わせるなど、危なくって、できっこなかろうよ﹂
﹁じゃあどうするつもりだい。フローイ軍の多くはシュレーブに出
払ってるけど、まだ国内には多くの兵が居る。それに、国の危機と
聞けば、今は国外の軍も急いで戻ってくるはずさ﹂
﹁そこは、それ。まあ、いろいろと算段が出来るというものさ﹂
ロユラスは話をはぐらかすように答えた。ロユラスの中で様々な
情勢が絡み合ってせいりされていた。それを解きほぐして分かりや
すく説明するのは難しい。ロユラスはただ手を振って一人にしてく
れと頼んだだけである。
ロユラスは一人でじっと考えた。
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母フェリムネのリダルへの愛は本物だった。しかし、リダルが母
をこの地に連れ去って悲しみに暮れさせていること、連れ去る理由
はおそらくフェリムネがリダルの子を身ごもっていたこと。母の悲
しみの理由の一つは、母のお腹にいたロユラス自身にもある。この
ときのロユラスにとって、母の悲しみを考えるほど、自分自身への
嫌悪感がぬぐえなかった。
そのフェリムネが、泣きはらした目のまま、部屋に姿を現した。
﹁それは、リダル様の剣?﹂
何かの支えが必要なように、マカリオスにに寄りかかって尋ねる
母の問いに、ロユラスは朗らかに笑って見せた。
﹁良い剣だろう。市で売れば一財産出来るぞ﹂
﹁そんな﹂
母の言葉にロユラスは呟くように応えることしかできなかった。
﹁こんな物にそれ以外の使い道があるはずがななろうさ﹂
︻ロユラス。あなたに聞いてもらわなければなりません︼
母フェリムネは二度目の決心を定めてそう言った。言葉がギリシ
ャ語に代わったのも自然だった。来客の前に波打ち際で語ろうとし
たこと、それを彼女の部族の言葉で素直に語るというのである。彼
女を部屋まで連れてきたマカリオスが気を利かせて部屋を出ようと
するその背に、彼女は声を掛けた。
︻いいわ、マカリオス。あなたも聞いてちょうだい︼
ロユラスとマカリオスが並んで椅子に座り、その前にフェリムネ
が向き合って座った。テーブルを挟まない距離の近さが、心を伝え
ようとする彼女の配慮にも思えた。彼女は語り始めた。
︻タネク。私にはそんな名の弟が居たの。子どもの頃に両親を亡く
して、私は幼い弟と二人っきり﹂
今でも彼女は自分の正確な年齢を知らない。そんな彼女が子ども
と表現したのだから、大人になりきれない十二か十三の歳の頃、更
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に幼い弟は五歳前後だろうか。彼女の話は続いた。
︻山羊飼いの手伝いや山羊の乳搾り、農作業の手伝い。頼まれる仕
事は何でもやった。時には、市で行き交う人に食べ物をねだる物乞
いまで。ロユラス、マカリオス。私のこと、軽蔑しないでちょうだ
い︼
彼女の言葉に、ロユラスとマカリオスは彼女を信じるように視線
を交わしただけである。彼女は話を続けた。
︻そんな生活が何年か続いて、海の彼方からアトランティス軍が攻
めてきたって聞いた時だって、私や弟には関係なかった。だって、
いつもお腹をすかして食べるのに精一杯だったもの。そんな時、ア
トランティス軍が村にも迫ってきて、男たちは戦うために村を出て
行ったの︼
彼女は遠い過去を振り返るよう視線を上げ、ややあって、途切れ
た言葉の続きを吐き出した。
︻私? 私はそんな男たちについて行ったの。変な話でしょ。でも、
キャンプの火の番や料理の手伝い、子どもでも出来ることがある。
でも一番大事なことは弟にちゃんと食べさせてやることだった。兵
隊たちから恵んでもらえる食べ残しが目当て。そんなある日、兵隊
が私に、敵が峠の向こうに駐屯しているから、その様子を探ってこ
いって︼
︻母さんは、そんな危ないことをさせられていたのかい︼
ロユラスの言葉に彼女は少し微笑んで言った。
︻アトランティス軍は強いし慎重なので、物見に出した兵士がみん
な捕まって帰ってこなかったの。そこで、土地の小娘なら、敵に怪
しまれずに敵の様子を探れると考えたのでしょう︼
聞き手は彼女の話に口を差し挟むことが出来ず、続きをねだるよ
うに彼女の表情を眺めた。彼女のは話は続いた。
︻土地の娘が、弟と薪拾いでもしているという体裁を取って峠へ出
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かけたわ。殺されるかも知れない小娘を哀れんだのでしょう。私に
食料はたっぷり持たされていたし、タネクと一緒だから何も怖くな
かった。変な話かしら。いつもお腹を空かせている子どもにとって、
死の恐怖より食べ物を持っている幸福感の方が大きかった。実際に
アトランティス軍の兵たちが必死で何かを探すのに何度か出会った
けど、私やタネクには興味がなさそうだったわ。私とタネクは手を
繋いで峠から流れる川辺を歩いていたの。その時よ。タネクが私の
手を引いて河原の木陰を指さすの。見ればアトランティス軍の者が
横たわっているのがみえたの。それも身なりを見れば普通の兵士じ
ゃない︼
︻それが、リダル王だったのかい?︼
マカリオスは突然に口を差し挟んで彼女の話を途切れさせたこと
を後悔するように、肩をすくめて口をつぐんだ。彼女の話は続いた。
︻ええ。それがリダル様。当時はまだ王子だったけれど。近づいて
みれば、肩や足に傷があって気を失っていた︼
︻味方を裏切って、その敵のリダルを助けたと言うことかい?︼
マカリオスはやや非難の口調に、フェリムネは眉を顰めて口ごも
った。
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フェリムネの思い2
裏切り者と罵られてもやむを得ないが、初めてリダルと視線を交
わした時のあの心情も理解して欲しいという思いがあった。彼女は
言葉を選んで心をつづった。
︻生きているかどうか、あの人の胸に手を当てた時、あの人は少し
意識を取り戻して、私たちを眺めたの。哀しそうで優しそうな目。
直ぐにまた意識を失って目を閉じてしまわれたけど、あの目は今で
も忘れられない。この人を助けてあげたいって思ったのよ︼
リダルの愛を拒否して生きてきたロユラスに、母が語るその表情
は理解できなかった。ただ、自分と弟が生きるために必死という十
数年の人生を歩んでいた彼女にとって、敵味方の倫理を越えて、リ
ダルの人柄に感銘を受けたのかも知れないと理解した。フェリムネ
は話を続けた。
︻木陰に小さな洞窟があったので、私とタネクの二人で足を持って
一生懸命に引きずって行ったの。リダル様はしばらくして意識を回
復したけど言葉は通じなかった。ただ、言葉でなくても、この人は
優しい人だって分かった。怪我で身動きがとれずに痛みに呻いてる
んだけど、時々、介抱するタネクに気づいて笑いかけようとするの。
その目が優しかった。数日、リダル様の介抱をしていて、やっと気
づいた。アトランティス兵たちが盛んに探していたのはこの人なん
じゃないかって。でも、探す場所を変えたのか、アトランティス兵
の姿は見かけなくなっていた。味方に教えれば、この人は殺される。
アトランティス軍に教えようにも、言葉は分からないし、何処にい
るかも分からない。困っている時に洞窟に入ってきたのがサレノス
殿。リダル様を捜し求めていて、川辺で洗って干していた血まみれ
の衣類で気づいて、私の足跡を辿って洞窟を見つけたって後から聞
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いたわ︼
︻あのサレノスの爺とはその時からの知り合いだったという事ね︼
ロユラスの女性のような物言いにもこマカリオスは笑うことも出
来ないまま、彼女の言葉に耳を傾け続けた。
︻それからは、リダル様のお側に置いていただいていたの。私は片
言の言葉を覚えるぐらいにね。私はタネクに与える食べ物に不自由
しなかったし、タネクはリダル様やサレノス殿に懐いて、私よりず
っと上手にアトランティスの言葉を話すようになった。でも、その
頃でしょう。ギリシャの部族に、敵に寝返った女とその弟がアトラ
ンティス軍の陣に居るという噂が広がっていたのは。ギリシャ軍の
情報を売ったとか、捕らえた兵士の拷問を手伝ったとか、敵の兵士
に体を売ったとか、噂には酷い尾ひれがついていたみたい。考えて
みれば、子どもにそんなことはできっこないのにね︼
彼女は記憶を整理するように言葉を途切れさせたが、ロユラスは
言葉を差し挟まず、じっと彼女が次の言葉を継ぐのを待っていた。
︻ある日、リダル様たちは帰国することになったの。帰国の途中、
私の部族の村を通りかかった時、仲間の元へ帰れと、私とタネクに
指輪や金の粒、食べ物を与えて下さった。タネクはついて行きたい
と泣いたけど、それは出来ないと言われたわ︼
彼女の口調にやや暗さと悲しみが混じり始めた。
︻部族では、三年以上も行方不明になっていた私とタネクが姿を現
したので大歓迎で迎えてくれた。でも、それはタネクがちらりとア
トランティスの言葉を口にするまで。何故アトランティス人の言葉
が話せるのかと問われて事情を話すと、噂になっていた裏切り者の
女と弟はお前たちだったのかと殴られたの。リダル様にもらった指
輪や金の粒も、敵に内通した証拠だと言われたわ︼
彼女が吐き出す言葉が悲しみで途切れ始めた。
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︻私は、村人たちに、殴られたり、蹴られたりしながら、樹に縛ら
れた。タネクは⋮⋮。タネクは、まだ、子どもだったのに、樹に吊
されてた。男たちは、私に裏切り者の最後を見せてやるって、吊さ
れたタネクの目を、ナイフで抉ったの。その後、痛みに泣き叫ぶタ
ネクが、声が出なくなるまで、棍棒で打ちのめされるのを見た。今
でも忘れられない。全部、私のせい。全部、私がリダル様と出会っ
てしまったから︼
泣き崩れるフェリムネに、ロユラスもマカリオスもそれ以上話を
聞く気にはなれなかった。今まで彼女が海の遙か彼方を眺めて嘆い
ていたのは、引き離された懐かしい故郷を考えていたわけではなか
った。目の前で殺された弟の残酷な最後の光景。それが自分の責任
として背負ってきた心の痛みのせいだった。彼女は最後の力を振り
絞るように、記憶の最後の一滴を絞り出した。
︻そこへ、リダル様がサレノス殿と一緒にやって来て、私を救い出
してくださったの︼
ロユラスには、突然にリダルが登場したことに疑問が湧いても、
母の背に手をかけて見守ることしかできない。
もし、この場にサレノスがいれば、彼女の言葉を少し補足しただ
ろう。リダルは彼女とタリクに命を救われた謝礼を与えてを解放し
た。直後に共に戦うことが多かったフローイ軍が村を襲って食料を
収奪し、逆らう村人がいれば奴隷を得る予定だと聞いた。リダルは
彼女とタネクを保護ためにいち早く駆けつけたのである。そこで目
撃したのが彼女が殺されかけていた光景で、リダルたちは彼女を救
出したということである。
︻幸せにならなくては。亡くなった人の分も︼
ロユラスは母にそう呟いた。フェリムネはその言葉に顔を上げ、
息子の顔を確認するよう眺めた。まるで亡くなったタネクが語りか
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けてきたような気がしたのである。
︻本当に、私だけが、幸せになって良いのかしら︼
︻今までずっと、そう望んできた。これからも︼
そんな言葉がロユラスの口をついて出た。あの世から姉を見守っ
てきたタネクが、ロユラスを通じて語ったのかと、彼は信じること
にした。今まで本当に母を支えてこれなかったという後悔が、悲し
みの理由を知って、今までより力強く母を支えてやれるとも考えた。
そんなロユラスに湧いてきた疑問がある。
︵じゃあ、俺を身籠もっていたからじゃなく、母さんの命を救うた
めにリダルは母さんをここへ連れてきたと?︶
父親と息子いう血筋を拒否してきた理由が、脆くも崩れたのであ
る。父を憎むことで自分の心を支えてきた。その支えが失われた。
リダルは紛れもなくロユラスの父で、死の間際にあってもロユラス
のことを気に掛けていた。
︵リダルはこの自分を愛していたのだろうか︶
そう考えた時に、ロユラスには母に良く聞かされた思い出がある。
﹁ルクバスの短剣は与えられていなくても、お前は私の大事なあの
人の息子﹂
母に抱かれて聞いた言葉の一部を繰り返してみた。
﹁ルクバスの短剣か﹂
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王都バース
アワガン村から港へ戻ったアトラスは、サレノスの演出に従って
王都バースに向かう街道をアレスケイアにまたがり、共に帰国した
五百の兵の先頭を進んだ。この時期、着用していれば暑いマントを
背に着けている。左腕が僅かに隠れ、失った肘から先が人々に誇張
されずに見えていた。人々に宣伝される彼の戦果の大きさに、失っ
た左腕は目立つまい。
王都に戻ったアトラスがせねばならないことは多い。出陣した者
たち、国に残って国を支えた者たちにねぎらいの言葉を掛けねばな
らず、何よりも王リダルの葬儀を滞りなく進めねばならない。
その忙しいアトラスを王宮の正門で出迎えたのは、政務を預かる
クイグリフスではなく、王妃リネの彼女の家臣団だった。予想でき
たこととはいえ、アトラスはやや眉を顰めた。ただ、サレノスが見
たところ、アトラスは感情を良く抑え、この場で母と息子の諍いは
避ける素振りを見せていた。
母に召されるまま、アトラスは母の居室へと呼ばれた。大事な用
があるという。
﹁帰国そうそう、何のご用で? 戦場の土産話ならば、後でごゆる
りと語りましょうほどに﹂
そう言ったアトラスはマントを脱ぎ、侍女に渡した。肘から先が
失われた左腕が露わになり、侍女は驚きの声をようやく抑えた。こ
の姿を母に隠しておく必要はない。アトラス自身は、腕を失ったこ
とを敵への憎しみに変えて心を満たしてい喪失感は感じては居ない。
周囲の人々にもこの感覚に慣れてもらわねばならない。そういう思
いだった。
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ただ、腕を失った息子の哀れな姿に大騒ぎするだろうと考えてい
た王妃リネは、一瞬たじろいだものの、意外に冷静な対応を見せた。
﹁おおっ、アトラス。腕を失っても私の大事な息子。元気な姿を見
せてくれたこと。いったい、幾柱の神に祝福されているのやら、神
への貢ぎ物に迷います﹂
オウガヌが姿を見せて言った。
﹁我らが王子よ。王子の活躍ぶりは、このオウガヌが先に語ってお
きました﹂
昨日、何故か王妃リネから召し出されて、アトラスより先に王都
に戻っていたのである。片腕のアトラスの姿に、王妃リネが平常心
を保ったのもこの近習から先に様子を聞いたためかも知れなかった。
そして、彼の父も姿を見せてアトラスに声を掛けた。
﹁負傷されたと聞いて心配しておりましたが、意外にお元気な様子。
このストパイロも安堵いたしました﹂
ロゲル・スリン
﹁ストパイロ殿も大げさな。この通り、左腕は神に召されましたが、
六神司院の者など、残った右腕一本で討ち果たして見せましょう﹂
﹁おお、我ら家臣団一同、心強きお言葉ですな﹂
﹁我らが王子よ。アリルスもここに﹂
﹁おおっ、兄弟そろって元気なことだ﹂
アトラスはアリルスの登場に素直な笑みを浮かべた。近習オウガ
ヌの弟で、幼い頃から性格を知り尽くすほど知っていた。身分を考
えなければ心が許せる親友と呼べるかも知れない。ただ、その少年
がこの場に姿を見せた理由が分からない。首を傾げたアトラスに、
王妃リネが語った。
﹁アトラスよ。そなたも知っておろう。あのザイラスが死んだとの
こと。もう一人新しい近習が居ても良い。ストパイロ殿はアリルス
を新しい近習に取り立ててはどうかと申し出られている﹂
ザイラスの死。敵への復讐心をかき立てる記憶に、アトラスは表
情を曇らせた。リネが言葉を継いだ。
﹁あのザイラスと違って、身分は確かな⋮⋮﹂
446
アトラスは、即座に続く母の言葉を封じた。
﹁母上、ザイラスのことは﹂
リネが指摘したいのは、ザイラスが見るべき家系を持たなかった
ということに違いないが、アトラスにとって彼の死は、兄を失った
のと同様だった。アトラスは険しい表情を和ませ、アリルスの肩に
手を掛けた。
﹁兄同様、私の傍らで、私を支えてくれるというのか﹂
︵はいっ︶
喜び勇んでそう返事をしかけたアリルスの口元に、アトラスは笑
顔のまま指を当てた。黙れと指示をして言った。
﹁今しばらくまて。その返事は明日、聞こう﹂
この居室の雰囲気は、父の剣をロユラスに託したと言える雰囲気
ではなかった。アリルスがアトラスに仕えるかどうか、明日の集ま
りでアトラスの身分が確定してから決めても遅くはあるまい。アト
ラスはストパイロに語りかけた。
﹁このお話は王位継承の話が一段落してからで良いでしょう﹂
﹁おおっ、これは気づかなんだ。アトラス殿もお忙しい様子﹂
ストパイロの言葉に耳を傾ける様子もなく、アトラスは母に向き
合った。
﹁母上のお変わりない様子を拝見し安堵いたしました。では、私は
これからクイグリフスと明日の段取りについて相談がありますので、
失礼いたします﹂
﹁ああっ、ゆるりと休めと言うてやりたいが、今はそれもならぬ。
戦場での話はまた今度話しておくれ﹂
自分が母やストパイロと話をしているうちに、クイグリフスはサ
レノスと先に話をして剣の話を聞いているだろう︶
アトラスはそう考えていた。その二人を捜さねばならないと考え
ていると、アトラスを見つけた青年が二人、急ぎ足で駆け寄ってき
447
た。
﹁我らが王子よ。サレノス殿とクイグリフス殿が、王子の居室でお
待ちです﹂
﹁ラヌガンとスタラススではないか﹂
アトラスは信頼の置ける近習の一方に首を傾げた。
﹁スタラススではないか。お前は、母が病気とか﹂
スタラススが憤慨して答えた。
﹁父ディラクスの嘘でありました﹂
﹁嘘とな﹂
﹁私を我らが王子から引き離し、近習の任を解くと﹂
﹁そなたの父は引退する歳でもあるまい﹂
近習の任を解くとなれば、家督を引き継ぐと言うことしか考えら
れなかったが、スタラススの父はまだ若く、スタラスス自身は家督
を継ぐには若すぎるのである。スタラススはアトラスの疑問には気
づかず、近習に就いた時のことを語った。
﹁私は我らが王よりアトラス殿のお側に仕えよと命じられました。
もし、その任を解く者があるとすれば、亡くなった我らが王か、王
位を継いだアトラス様だけ。私は父にそう申しました﹂
状況が読み切れないアトラスに、ラヌガンが語った。
﹁我らが王子よ。我らが王都は、次の王を巡って、争いを始めてい
るのです﹂
アトラスはその言葉で理解した。スタラススの祖父は過去の遠征
に参加した男で、遠征に参加した男たちにありがちなフェリムネ派
閥の有力者の一人である。フェリムネを支え、ロユラスを王位に押
す人物にとって、自分の家系からアトラスの近習を出しているのは
拙いのである。スタラススを呼び戻そうとするのも当然だった。
もう一つ思い当たることがある。母の居室にいたストパイロの提
案である。王家に対する忠誠は篤いが貴族の血筋を誇る所があり、
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フェリムネを蛮族の女、ロユラスを蛮族の小男と憎んで王妃リネに
与している。ストパイロが新たに息子を近習に加えようとしたのは、
王位に就くアトラスを支えると共に、アトラスを利用して権力を拡
大しようという意図が透けてみえる。
アトラスは複雑な思いを隠したまま、二人の近習を伴って居室に
戻った。漂う花の香りがサーフェの花だと気づくのに一瞬間をおい
た。山岳地帯に咲く花で、町で見かけることはない。この時、アト
ラスはその香りに、ザイラスと妹ピレナの関係を読み解くことは出
来なかった。
﹁おおっ、我らが王子よ﹂
クイグリフスが椅子から立ち上がってアトラスを迎えた。その平
穏な様子から、サレノスがまだ剣のことを、この忠臣に告げていな
いことが分かった。父の剣、そしてロユラスとの事を語るのはアト
ラスの役目であるらしい。
王都に戻った初日。アトラスは心も体も休めることも出来ず過ご
した。明日は再び領主や大臣を交えた会議で更に忙しくなる。
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クイグリフスの計略
アトラスとロユラスが同席の元で王位継承の話を進める。そう言
う段取りだった。
クイグリフスは用意周到な人物で、商人や旅人を装った者を使って
フェリムネの館の様子は常に探らせている。
フェリムネの館に出向いた領主や貴族の者たちの顔ぶれは掴んで
いたし、予想通りの者たちだった。その者たちが失意の体で王都に
戻ってきたのも知っている。理由は分からないがロユラスを王都に
呼び出す算段に狂いが生じているのは間違いないだろう。
クイグリフスはその状況に胸をなで下ろしていた。篤実さで王リ
ダルの信頼を得た人物で、彼の権力の基盤といえば、その王の信頼
のみである。王都で政務を取り仕切る貴族や、地方の経営を任され
た領主たちが繰り広げる権力拡大には興味はなく、この国の安寧の
みが生き甲斐のように職を全うしていたのである。
今、王都に表面化した王位継承問題。言い換えれば、王妃リネに
にすり寄って権力を伸ばそうとする者どもと、王の愛妾フェリムネ
の息子ロユラスを支えて、冷遇されていた身分を挽回しようと考え
る者どもの争い。クイグリフスはどちらにも属さず中立を保ってい
る。
ただし、国の安寧という彼の心の中で揺るぎない価値の基準では、
アトラスが王位を継ぐのが自然で国民も納得するだろうと考えてい
た。ただし、アトラスに剣の話を聞くまでは⋮⋮。
﹁我らが王の剣をあのような者に渡したですと?﹂
その驚きと共に、クイグリフスし長い夜を迎えた。
明くる日。列席する地方領主の顔ぶれは増えて、王の間から溢れ
450
そうだった。むろん、次の王に取り入る機会を逃さないためだろう。
普段は王の座に向かって右に、王から領地を預けられて地方を治
める領主たち、左に王都にあって国政を預かる大臣や貴族たちが列
席するのが習わしだった。ところが顔ぶれが入れ替わって、右にロ
ユラスを次の王位にというフェリムネ派、左にアトラスを王に押す
王妃リネ派に分かれて、激しく睨み合うように並んでいた。ただ、
左右どちらにも戸惑う顔がある。とりあえずこの場に列席したもの
の、どちらにつくかは決めかねている者も多いということである。
王の間の奥の中央には祭壇が設えられ、王リダルの遺骨が葬儀の
時を待っていた。生前は尊厳に満ちた王も、死後は家臣共の思惑に
振り回されて、墓に入ることも出来ないのである。祭壇に向かって
なら
左にアトラスの席があり、右にはフェリムネ派の人々が要求したロ
ユラスの席があるが、空席のままである。
この場に王妃リネの姿はない。男たちが次の王を決めるのが慣わ
しであり、それを乱せばアトラスが王位に就く正当性も失われる。
クイグリフスがこの場に出席を臨んだリネを説得した理由だが、過
去に偶然そうだったというだけで、王妃の出席を阻む決まりはない。
王妃リネの出席でこの場が乱れることを恐れたクイグリフスの知恵
である。
ロユラスがこの場に姿を見せないというのは、アトラスにとって
不可思議なことだった。領主の列の最も上座に座するサレノスも同
じ気持ちであるらしい。昨日手に入れた王リダルの剣をこの場に持
参すれば王位を約束されたのも同然なのである。
定刻を迎え、本来なら王リダルに代わってアトラスが会議の招集
目的を宣言すべき所だが、今は王位継承の一方である。公平性を保
って、クイグリフスが宣言した。
﹁ルージ国に永遠の栄えあれ。列席の諸氏に告げる。我々はイドポ
451
ワで亡くなられた王の追悼を行うと共に、次の王を立て国の行く末
を定めねばならない。存念ある者はこの場で申し述べよ﹂
クイグリフスの言葉が終わる前に立ち上がったのはストパイロで
ある。領主という身分だが、リネ派に与していることを誇るように、
息子共々左の列にいる。
﹁おおっ。この場に列席されぬ王妃リネ様に代わって申し述べる。
ルミリア
アトラス様は生来、お世継ぎとして生まれ、育てられた。それは真
理の神に誓って間違いなし。今更、それを否定し、蛮族の血を引く
漁民風情を王に頂くというのか﹂
ルシラスが怒りを込めて立ち上がり、ストパイロに反駁した。
﹁蛮族の血を引く漁民とは、我らが王の長子ロユラス様への侮辱。
聞き捨て成りませぬぞ﹂
﹁侮辱ではあるまい。アトランティスの神々の祝福を受けたリネ様
がお産みになった御子のみが正当なお世継ぎ。このルージに腐った
蛮族の血は要らぬ﹂
シリャード
スーイン
ミラトス司祭の言葉をバイラスがあざ笑った。
﹁司祭は気でも狂われたか。聖都にて神帝暗殺に関わったと噂され
ロゲル・スリン
るアトラス殿が、神聖な世継ぎだと?﹂
﹁それが六神司院の陰謀だと言うことは、ネルギエの地の大勝で、
神々はアトラス殿に真理あると示された﹂
会議は始まって間もなく怒号に満ちた。ストパイロとルシラスの
派閥の筆頭を含め、カルシス、バイラス、ラクサスら、様々な者た
ちが怒鳴りあい収拾がつかない。アトラスはそんな様子を他人事の
ように眺めていた。その冷静さに苛立ったのだろう、ルシラスがア
トラスを指さして叫んだ。
﹁見よ。失った腕を神々の祝福と見るか!﹂
﹁ルシラス! 口を慎むがよい﹂
そう怒鳴ったのは海軍を預かるイブシラ家頭首フェイサスで、ル
シラスの父である。
452
﹁愚息の暴言。許されよ﹂
彼はアトラスに礼し、長年の海上生活で鍛えられた良く腹に響く
声で言葉を続けた。
﹁先日、列席できなかったが、その席上でラヌガン殿が若いが当を
得た発言をされたと聞く。﹃王の遺骨の前で家臣共が勝手に跡継ぎ
の議論をすることこそ不遜。我らは我らが王のご意志を引き継ぐの
み﹄と。海軍を預かるこのフェイサスの意も同じ。我らが王の意志
に従うのみ﹂
その言葉にクイグリフスが頷いていた。この人物の立場はクイグ
リフスと良く似ている。政治家として国の安寧を願うクイグリフス
と比べ、軍人としての誇りを持って国の安寧を願う人物である。
昨夜、クイグリフスはアトラスとサレノスの話を聞くや、このフ
ェイサスも引き込んでいたのである。フェイサスは言葉を継いだ。
﹁我らにとって、王の意思とは何であろう。アトラス殿。それをご
存じだとか﹂
﹁王の意思。それは、王の剣の切っ先にあり﹂
アトラスが納得したようにそう答え、フェイサスは微笑んで言っ
た。
﹁その通りでございましょう。その王の剣がロユラス殿の手にある
となれば、王のご意志は明らかではございませんか﹂
﹁何かの間違い。我らが王の⋮⋮﹂
﹁ミラトス司祭殿。我らが王の判断に間違いがあるとでも?﹂
﹁しかし、アトランティスの神々に祝福されし世継ぎはアトラス殿
を置いて他にありませぬぞ。汚れた血などこのアトランティスの臣
民が望むと思われてか﹂
﹁ストパイロ殿。良いのだ。血筋が確かであるほど、その血筋に従
わねばならぬ。私は王リダルに従う﹂
アトラスの言葉に部屋の中はどよめいた。再びフェイサスの言葉
が響き渡った。
﹁私はロユラス殿の命あれば、全力でアトラス殿をお支えする所存
453
である。サレノス殿はいかが?﹂
突然に指名されたが、サレノスはフェイサスのように、全海軍を
預けられた身分ではない。ただ、全陸軍を統率するにたる能力と経
験を持っている。
﹁寡兵なれど、全力でアトラス殿にお仕えいたしましょう﹂
サレノスはそう断言し、これ以降、王の間は静まりかえって、海
と陸の両雄の発言に反駁する者は居なかった。
混乱の場が、ロユラスには王の座を、アトラスには全軍をという
流れでまとまりつつあった。クイグリフスが白髪の増えた髪を静か
になでつけた。私心のない彼の忠誠心が、国の分裂を防いだと言え
るかも知れない。
454
王妃リネ
家臣団の分裂はひとまず避けられたように見える。あとの問題は、
王妃リネの存在とその背後のヴェスター国である。アトラス自身が
ロユラスの王位継承を認めたとはいえ、王妃リネを納得させるのは
難しかろう。ただ、それをせねばならない。
ここで危惧した事態が生じた。
﹁おおっ。リネ様﹂
ストパイロが件の女性の登場に喜びの声を上げたが、五人ばかり
の侍女を引き連れて現れたリネは、そのストパイロに怒りの視線を
注いだ。
﹁ストパイロ殿。そなたが居ながら、何という事じゃ。我が息子ア
トラスをさしおいて、蛮族の女の息子を王にすると?﹂
王の間に響き渡る声で列席する者たちは察した。様々な出来事を
注進に及んでリネの歓心を買おうとする者たちがいる。その者たち
が会議の動向をいち早くリネに届け、彼女は男共の判断を覆すため
に、この場に乗り込んできたということである。
﹁我が兄レイトスが聞けば、何と言うでしょう﹂
リネはヴェスター国の立場を語った。リネの兄でヴェスター国王
レイトスは、血のつながりのないロユラスの即位を望むまい。様々
な名目でアトラスの即位を求めてルージ国に圧力を掛けてくるだろ
う。ルージ国の人々にとって、盟友との仲違いは避けたいことに違
いない。おそらく、リネは意志を貫くためなら母国に援助を求める
に違いない。
アトラスが立ち上がって叫んだ。
﹁母上。この場はお下がり下さい。話は後で伺いましょう﹂
﹁いいえ。この場でなくてはならぬ﹂
455
彼女は左腕に付けた腕輪を高く掲げた。
﹁良く見るがよい。私は十四の歳で、我らが王よりこの腕輪を賜り、
乞われてこの国に嫁ぎました。二十年前のことは今でも忘れており
ませぬ﹂
婚礼前に交わす結納の品である。彼女はこの品で自分が正当な王
妃、正当な世継ぎの母親だと主張したのである。この結びつきに異
論を唱えることの出来る者は居ないだろう。
婚礼の両家。この場合は婚礼を交わしたルージ国とヴェスター国
の両国が結ばれる約定の品の一つである。むろん、リネの母国ヴェ
スターも、当時ルージ国王子リダルに返礼の品を贈っている。リネ
の腕輪と対になる品があるとすれば、祭壇の前のリダルの遺骨と並
べられた指輪である。指輪に目をやった瞬間、リネの心で何かが弾
けた。
彼女自身がこれから嫁ぐ若い王子を思い浮かべつつ、幾つもの宝
物の中からあの指輪を選んだ時のこと。海を渡ってやって来たこの
きら
国で初めてリダルと対面した時のこと。彼女が指輪をリダルの指に
はめた時、リダルが見せた素直な笑顔。煌びやかだが、実用的では
ない大きな指輪に困惑を見せた数々の思い出。それは指輪を付けた
ままぎごちなく指を動かして生まれたばかりのアトラスを抱き上げ
る時の記憶にも繋がる。その幾つもの光景にはリダルを眺める彼女
の素直な笑顔の記憶が重なっていた。そんな指輪を夫は死ぬまで身
につけ続けていたのである。
王の死を知って以来、様々な思いで混乱し、生来の見栄っ張りな
性格で混乱を押し固めていたが、それが弾けて消え去り、心に残っ
て彼女を支えていたのは、夫リダルへの愛だった。母国王家の血筋
を背景にした彼女の言葉が変わった。
﹁我らが王リダル。いえ、私のただ一人の夫リダル様。彼を最も愛
したのは私。彼が最も愛してくれたのはこの私。そう信じたい。そ
456
の私と夫の息子の王位を認めないなど⋮⋮﹂
彼女の勝ち気な性格は言葉を途切れさせて涙が流れるのを押さえ
た。王の間は静まりかえった。わがままで扱いづらい王妃。そんな
印象で固まった彼女からリダルへの愛を感じさせる言葉を聞いたの
は初めてだった。
しかし、王の間は一人の男の登場で喧噪を取り戻した。現れたの
はリダルの剣を捧げたロユラスである。
457
王妃リネ︵後書き︶
次回更新は明日です。ロユラスはリネに思いもかけない提案をし、
事態は急展開します。
458
ルクバスの短剣
王宮に並み居る者たちのような正装ではなく、粗末な漁民の衣服
を身につけている。ただ、その衣装ではなく、落ち着き払った様子
から捧げた剣の持つ意味を察して、彼と彼の背後を歩くフェリムネ
ささや
の歩みを遮る者が居なかった。ただ、この場に集っていた者たちは、
傍らの者と顔を見合わせて、ロユラスとフェリムネの名を囁きあう
だけである。
次の王は私の所有物だと言わんばかりにアトラスの側に駆け寄っ
ていたリネも、驚きと共に無言で入り口に姿を現した者を眺めた。
ロユラスの立場で語れば、母を連れて王の館にやって来た。しか
し、王の間に入ろうとする前に、興奮したリネが慌ただしく彼の脇
をすり抜けて入って行った。リネはこの粗末な衣服の母と子の名は
知っていても面識はなかったのである。そして一騒動が起きたため、
ロユラスは部屋に入るきっかけを失っていたという滑稽な状況だっ
た。
ロユラスはその自分の滑稽さを楽しむように言った。
﹁何か揉めているようだな﹂
海で鍛えられた声がこの王の間に木霊するように響いた。窓から
差し込んだ陽の光が掲げた剣の束にはめ込まれたアクアマリンを青
く輝かせていた。王家の所持品を示す証である。
﹁それはリダル様の剣?﹂
リネの叫びにロユラスが答えた。
﹁ほぉ、その広間の奥からでも、それがわかりますか﹂
﹁誰か、あの蛮族の手から、我らが王の剣を奪い返すのじゃ﹂
リネの命令にもかかわらず、それに従おうとする者が居なかった。
リネは蛮族と呼ぶが、次の王になるやも知れぬ若者である。まして
459
や、その象徴たる剣を掲げているばかりではなく、国の重鎮たちが
居並ぶ中で動じる様子のない気迫は、たしかにロユラスが王の血筋
を引いていることを思わせる。
ロユラスはからかうように言った。
﹁あんたは、この剣が欲しいというのか?﹂
﹁当然であろう。もともとお前のような下賤の者が持って良い物で
はない!﹂
﹁では、取りに来るといい﹂
その言葉に、再びリネは興奮し、周囲を渡して叫んだ。
﹁誰か、誰かあの剣を﹂
﹁なんだ。自分で取りに来ぬのか。では、どうだ。あの指輪と、こ
の剣を交換というのでは?﹂
ロユラスは剣で王の遺骨の傍らに置かれた指輪を指し示した。先
ほど、夫との愛の記憶を呼び覚まされた品である。リネは口ごもっ
た。
﹁これは⋮⋮﹂
﹁ロユラス!﹂
短いが怒りが籠もった叱責が飛んだ。フェリムネである。ロユラ
スは母の意図を察して、リネに頭を下げて素直に詫びた。
﹁すまぬ。言い過ぎた﹂
フェリムネは、女性から愛する者の思い出の品を奪うのかと、息
子に怒りを向けたのである。
リネは剣によって粗末な身なりの男がロユラスだと知り、そのロ
ユラスをたしなめる様子から、女が蛮族の女フェリムネだと知った。
王リダルを愛した二人の女が相対したのはこれが初めてである。様
々に乱れる思いを封じて、二人の女は黙って見つめ合っていた。
その沈黙を破るようにロユラスが問うた。
460
﹁アトラスよ。ルクバスの短剣は何処にある?﹂
﹁ルクバスの短剣?﹂
アトラスは聞き覚えのない品に首を傾げ、ロユラスは髪に指をつ
っこんでかき乱して、自分の勘違いを笑った。与えられたのはアト
ラスが生まれたばかりの頃で、直接受け取ったのはアトラスではな
いかもしれない。アトラスにその短剣の記憶はなく、もちろんロユ
ラスも見たことはなかった。
﹁では、リネ様がお持ちか? アトラスが生まれた時にリダルが送
った祝いの品の一つだ﹂
﹁誕生の祝いの品は宝物庫に﹂
﹁では、その短剣をこの愚か共にも見せてやってくれ﹂
ロユラスは王の間に集う人々を見回してそう言った。リネは侍女
に耳打ちをして宝物庫へ走らせた。
﹁ルクバスの短剣? そのような品がこの場で何の意味が﹂
リネの叫びに、フェリムネが進み出て言った。
﹁私が出産して間もなくのことです。リダル様はこの子にロユラス
という名を与えてくださいました。勇敢さと人徳で名をはせたルー
ジの王の名だと。ただ、抱き上げた赤子に、﹃すまない。ロユラス
の名は与えてもルクバスの短剣はやれぬ﹄と。その言葉に首を傾げ
た私に、ルクバスの短剣が先代の王から即位の時の品として託され
た大事な物だと説明してくださいました﹂
列席する者たちは思いもかけない言葉にどよめき合った。王位を
象徴する品がもう一つ出てきたと言うことである。宝物庫から駆け
戻ってきた侍女が、持参した品をリネに確認を求め、リネに指示さ
れたまま王の間の中央で掲げて叫んだ。
﹁ルクバスの短剣でございます﹂
広がるどよめきを押さえるようにロユラスが言った。
﹁剣に王位を託す? ルージ王家に引き継がれる剣は、アトラスが
461
出生とともに王の証として受け継いでいるはず﹂
ロユラスはリダルがアトラス誕生と共に次の王だと決断していた
というのである。彼は言葉を継いだ。
﹁ここに列席する愚か者たちは、王の剣に惑わされて、王の意思を
読み誤ったな。そもそも、ルージ国に剣で王位を引き継ぐなどと言
う習慣はあるまい。リダル王が王位を譲られたのも、たまたまその
品が剣だったというだけのこと﹂
﹁何が望みじゃ?﹂
リネは混乱した。王位を争うべき相手が王位を譲るという。その
意図が分からないのである。ロユラスは意思を尊重するように静か
に母を眺め、フェリムネは記憶と感情を整理するように慎重に言っ
た。
﹁リダルさま。私がこの世で一番愛したお方です。そのお方の願い
が正しく行われますよう﹂
﹁では、何が欲しい? 領地か、それとも宝物か。望みの物をくれ
てやろう﹂
感情を抑えきれないリネの言葉にフェリムネは静かに断言した。
﹁いいえ、何も。私には愛するお方の形見として、このロユラスが
おります。ただ、もし望みが叶いますなら、今まで通り、アワガン
村で静かに暮らしとうございます﹂
母の言葉にロユラスはぴくりと眉を動かした。フェリムネは悲し
みが残る故郷に帰りたいとは言わなかった。母と共に生きる決心を
したロユラスもこのアトランティスの大地で生きるということであ
る。
王妃リネの派閥を形成していた者たちは派閥争いの勝利者として
喚声を上げた。しかし、ロユラスは列席する者たちへ声を張り上げ
た。
﹁考えてみろ。俺が手にしたこの剣は、リダル王が私的に利用して
462
きた実用品にすぎない。しかし、俺はこの剣によって、王アトラス
の後見人としての資格を得た。ここに列席する中で、俺に従うと決
めた者たちよ。俺に従い、アトラスに仕えよ﹂
フェリムネを支えロユラスを王位に就けようとした者たち喚声を
上げて、ロユラスに賛同した。アトラスにはやむを得ず反旗を翻し
たと言える者たちもロユラスに忠誠を尽くすなら反逆とは言えず、
そのロユラスがアトラスに従うというなら、ロユラスを通じて国に
尽くすことも出来るだろう。
リネ派とフェリムネ派。王リダルの死と共に浮上した亀裂は、ロ
ユラスとアトラスのもとで一つにまとまったのである。
ロユラスは一つ付け加えた。
﹁ただし、全ての者はアトラス不在の間は俺の差配に従え﹂
﹁アトラス王子の不在だと?﹂
口々にそんな声が上がったために、アトラスがロユラスの傍らに
進み寄って説明せざるを無い。
﹁コース、エレス、タイロの月の後、タキロの月に私は三千の兵を
挙げる。それまで王都の役人どもは出陣の物資の準備を整えよ。領
主たちは領地に戻り、兵の鋭気を養い、我が号令と共に、再び王都
に参集せよ﹂
アトラスは初冬に兵を挙げるという。兵を失った部隊の再編成。
消耗した物資の補充など、すべきことは山ほどある。何より秋を迎
えて実りを収穫せねばならない。準備万端整えて兵を挙げる。それ
を聞いた者たちの喚声が王の間に満ちて溢れた。
ただし、アトラスは出兵先が大陸の反対側のフローイ国だと言う
ことには触れずにいたし、ロユラスはそれが今は賢明な判断だと考
えていた。
463
ルクバスの短剣︵後書き︶
言葉の説明です。﹁コース、エレス、タイロの月の後、タキロの月﹂
アトランティスの暦は、1週間が5日。1ヶ月が4週間。1年が1
8ヶ月+ミッシューの5日からなります。物語は現在、私たちの暦
で言うと9月中旬で、アトラスは2ヶ月半ばかり先、現在の暦で1
2月初旬に出陣すると宣言しました。ただ、その時期は風が強まり
海も荒れ始めます・・・
シリャード
スーイン
次回更新は、土曜日の予定です。物語は兵を休めるアトラスたちか
ら離れ、聖都の神帝の追悼式へと移ります。
464
エュティア、聖都︵シリャード︶へ
肌を撫でる日差しの柔らかさに空を見上げれば、夏の日差しは和
らいで、ひときわ高い空の上を雲がいくつもに千切れて流れていた。
そんな空を眺めるエリュティアの姿は、無垢な好奇心を露わにし
た子どもにも見える。侍女たちはそんな王女を自慢げに愛でた。た
だ、そのエリュティアの表情に子どもらしい喜びの笑顔はない。彼
女はため息をつくのではないかと思われる無感動な表情を、川辺に
向けた。
アトランティス大陸の中原を西から東へと流れ下る大河である。
上空で雲を流す風が、川面で川の流れに逆らって波を立てていた。
秋に姿を見せる黄色いトンボが川辺を飛び交っているのが見える。
以前、彼女がこの川を下った春先と同じ穏やかな日差しだが、季節
は確実に過ぎていた。
乳母で侍女頭のルスララが、小舟に乗るエリュティアを導こうと
手を伸ばして足下を崩した。エリュティアは穏やかに微笑んで、し
なやかな腕で彼女を支えて船に乗り込んだ。間近に見るルスララの
金髪は艶やかさを失っていた。エリュティアをは育んだルスララは
スーイン
老い、エリュティアは子どもから成熟した女性の姿に変わりつつあ
る。彼女を乗せた小舟が桟橋を離れた。エリュティアを筆頭に神帝
追悼に出向く一行、七十人ばかりの人々を乗せた八艘の小舟はそれ
が運命のように川の流れに乗った。
ルードン河もシュレーブ国の王都パトローサの辺りは細く浅くな
り、大きな帆船を利用することは出来ないのである。エリュティア
シリャード
たちはこの船で半日ばかり川を下り、ミーラの港で帆船に乗り換え
て更に下流の聖都へ向かうのである。
465
エリュティアは、乱れる心からどんな言葉を選んで、自分の意思
を表せばいいのか分からない。大地での戦争は終わったのかと思っ
たが、男たちの様子を伺い見ていればまだ長く続く気配があった。
事実、王宮からこの船着き場に輿に乗って来る途中でも、腕や足
や体のどこかに包帯を巻いた兵士の姿があった。兵士姿の者はまだ
良い。重傷を負って、もはや兵士として役に立たない男たちが、僅
かな慰労金を与えられて解雇されて、王都に溢れて殺伐とした雰囲
気を作りだしていた。先に行われた戦、イドポワの門やネルギエの
戦いの負傷者たちである。そんな状況の変化に王都パトローサの市
民たちも、戦勝の布告を聞いては居ても首を傾げる者が多い。王都
を包んだ優美な雰囲気はもはや無く、憎しみや、怒りや、悲しみや
不安と恐れで溢れそうだった。エリュティアは敏感にそれを感じ取
っていた。
そればかりか、昨日は海軍を率いるクドムラスが王都に姿を見せ
ていた。王と王子を失って混乱しているはずのルージ国を海軍で攻
めるという意見具申に来たのである。戦は大地ばかりか海にまで広
がって収まる気配を見せない。
振り返れば、家臣団を引き連れた国王ジソーが手を振って見送っ
スーイン
ていた。エリュティアは軽く頭を下げて挨拶に代えただけである。
神帝の追悼式典への出席は国を代表する名誉な役だが、王都に溢れ
る混乱を収める役には立ちそうにない。少女は社会を支える一員と
なるべき歳に達しようとしているのに、その能力のない無力さに、
苛立ちとも悲しみとも分からない感情に満たされていた。しかし、
感情を表に出せば、周りの人々が困惑するだろう。大人になりかけ
た少女は、何も知らない幼女を装った。
結局、この日の朝、エリュティアは自分の意思を言葉で発しなか
466
シリャード
った。一行は今日はミーラの港町で一泊し、明日の夕刻前に聖都に
到着する予定である
467
エュティア、聖都︵シリャード︶へ︵後書き︶
次回更新予定は明日です、第一部でエリュティアと出会って面影が
忘れられないアテナイ軍の若き武将エキュネウスが・・・。第一部
に登場し、別れた人々の運命の糸が再び絡み合い始めます。
また、沈み行くアトランティスで必死に運命に抗って生きようとす
るアトラスやエリュティア。その人物と対照的に、沈み行くムウの
大地の上で過酷な運命を恨むこともなく、生命を全うしようとする
ルシュウとウルニ。次の物語も公開中です。よろしければ二つの物
語の人々を比べてみてやってくださいね。
﹁ムウの残照 第一部﹂
http://ncode.syosetu.com/n8437
dg/
468
聖都︵シリャード︶のエキュネウス
明くる日。空はよく晴れ渡り、ルードン河の河原から、アトラン
ティスの秋の美しい景色が見渡せた。
︻まったく、のどかなものだな︼
エキュネウスは苦笑とともに皮肉を込めてそう言った。ルードン
河を渡る渡し船が何艘か見える。乗っているのは裕福な商人や、市
シリャード
スーイン
民の身なりに化けた聖職者だろう。対岸に見える歓楽街は、北と対
をなして南聖都と呼ばれることもあるが、神帝の館やアトランティ
ス議会のある宗教都市ではなく、歓楽街である。市民たちが下卑た
シリャード
笑いを浮かべてマグニトラと呼ぶ時、酒場や博打場、売春宿が立ち
並ぶ対岸の区画を指している。
スーイン
エキュネウスは大きな戦の最中、聖都の市民共は酒や博打や売春
婦にうつつをぬかすのかというのである。
シリャード
聖都では、これから各国の者どもを迎えて盛大に行われる神帝の
追悼式典の最後の準備で慌ただしい。その中で、占領軍たるギリシ
ャ人たちは暇をもてあましていた。総数二千と称するギリシャ軍の
シリャード
うち三百人ばかりが、ルードン河の北の河原にいる。
スーイン
アトランティス9カ国を統率する聖都の中央に砦を構え、目を光
スーイン
らせている占領軍としては妙な配置だった。神帝追悼とそれに続き
ロゲル・スリン
新たな神帝の擁立する大事な儀式の間、異民族がこの都市の中央に
ロゲル・スリン
シリャード
いるのは望ましくないという六神司院の決定である。
もちろん、六神司院からアテナイ軍へ、聖都の外に陣を移すとい
シリャード
う交渉は丁寧に申し込まれたし、アテナイ軍を率いる指揮官エウリ
シリャード
クロスはそこへつけ込んで、聖都中央の砦を空にするのは儀式の間
のみという条件の他、聖都の城壁の門はアテナイが管理するなどい
くつかの条件を付けて受け入れた。
469
シリャード
ルードン河の河原に新たに陣を張ったエキュネウスらは、ルード
ン河の桟橋と、聖都の南門を監視するという役割を与えられていた。
︻戦が起きていとは信じられない︼
武将エキュネウスの言葉に副官カルトレオスに肩をすくめて見せ
た。
︻我らには関係なきこと。今はアトランティス人同士で盛大に争っ
てもらいましょう︼
︻戦の最中に追悼式をして、各国は集まるんだろうか︼
︻叛乱国ルージ、ヴェスター、グラトの三国は出席を見送る模様。
当然でしょうな︼
︻しかし、よほど盛大な式典なのだろうな︼
スーイン
エキュネウスはこのアトランティスの壮大な文化を考えつつそう
言ったが、カルトレオスは首を傾げた。
スーイン
︻さぁ、どうでしょう︼
︻どうでしょう?︼
︻追悼の手順も、次の神帝を擁立する基準も、その神帝の即位の儀
式も決まってはおらぬでしょう。滑稽なことです︼
シリャード
︻そんな大事なことを、どうしてアトランティスの者どもはおろそ
かにしておるのだ?︼
スーイン
︻このアトランティスの国王どもが聖都に集い、各国の争いを禁じ
スーイン
たのも三十年ばかり前。神帝も初代にすぎません︼
︻内乱が収束したというなら、その時に神帝を立てるのはどうした
んだ?︼
スーイン
スーイン
︻このアトランティスで力のあるシュレーブ国、フローイ国、ルー
ジ国から神帝の候補者を一人づつ出したとのことです。それが神帝
として亡くなった元シュレーブ国のオタール王子、フローイ国のボ
ルスス、ルージ国のリダルですよ︼
スーイン
スーイン
︻それ以外の国から文句は出なかったのか?︼
︻神帝の候補者を出さなかった六カ国は、神帝の諮問機関を構成す
470
・スリン
ロゲル
タレヴォー
る神官を一人づつ出したわけです。六人の神官が構成するので六神
司院というわけですな︼
ロゲル・スリン
副官カルトレオスは肩をすくめて言葉を継いだ。
︻その六神司院の神職どもが目の前の欲に腐り果て、奴らが蛮族と
スーイン
呼ぶ我らに取り入って権力を支えているわけですよ︼
スー
︻しかし、それではアトランティスは次の神帝を擁立するのは難し
いのではないか﹂
イン
︻その通り。前例をそのまま引き継ぐわけには行きません。次の神
帝候補を巡っても一騒動あるでしょう︼
︻叔父のエウリクロスは、その混乱へつけ込もうとしているのか︼
エキュネウスがそう尋ねたのは、間もなくルードン河を遡ってく
るギリシャ軍の軍船のことである。
︻船があるというのは何かと便利ですからな︼
シリャード
シリャード
副官カルトレオスはさりげなく話題を逸らした。今回、エウリク
シリャード
ロスはギリシャ軍を聖都の外に出す条件として、聖都の門はギリシ
ロゲル・スリン
ャ兵が固める。ギリシャの軍船は聖都の港へ常駐を許すという要求
を六神司院にのませていた。
エウリクロスが軍船をこの地まで遡らせたのはもう一つ理由があ
る。海で大規模な戦が起きるかも知れない。アトランティス人同士
の戦にギリシャ軍の船を巻き込みたくないのである。安全な上流へ
と待避させたのである。
シリャード
何人たりとも聖都に軍を進めてはならない。それがアトランティ
ス人たちが誓った不文律だった。ただし、ギリシャ軍との講和以降、
ギリシャ軍は例外とされていた。ただし、それも陸軍の兵士のみで、
ロゲル・スリン
アトランティナ
軍船はルードン河の下流の港に留め置く定めだった。
六神司院は、本来は議会に諮りアトランティス人の総意として決
定すべき事を、独断で認めたと言うことである。
思い起こせば、エキュネウス自身も、ルードン河下流のルソナの
471
シリャード
シリャード
港で下船し、陸路、聖都にやって来た。そして、その思い出をたぐ
れば聖都を目前にして出会った美しい少女の面影に至る。それがシ
ュレーブ国の王女エリュティアだと知ったのはやや後のことである。
この時、上流から下る二艘の船が目に入った。マストに掲げた旗
スーイン
の紋章からシュレーブ王家の所属と知れた。昨日、ルードン河の上
流のゲルト国から川を下ってきた者たちと同じく、神帝追悼の使者
を乗せた船だろうと想像がついた。
エキュネウスが眉を顰めたのは、下流からギリシャの軍船が遡っ
てこるのが見えたからである。このタイミングでは、シュレーブ国
ロゲル・スリン
の使いが下船し終わらないうちにギリシャの軍船が入港するだろう。
アトランティナ
六神司院からアテナイの軍船のことを知らされていればいいが、そ
うでなければアテナイ軍が、アトランティス人の聖なる土地に海軍
を侵入させようとしているように見えるだろう。
︻行こう︼
エキュネウスは短く言い、副官カルトレオスも頷いて部下の一隊
を率いて桟橋へ駆け始めた。占領軍としての立場は露わにしておき
たいが、無駄な衝突で兵を損耗したくはないというアテナイ軍の微
妙な立場を現していた。
ただ、この瞬間のエキュネウスは、シュレーブの船にエリュティ
アが居ることには気づいては居なかった。短い出会いの後、忘れら
れない面影になった少女である。
472
ユリスラナ
護衛のエルグラスらが率いる三十人ばかりの兵士を乗せた船が先
シリャード
行して、桟橋のある入り江に入るのが見えた。エリュティアと共に
シリャード
二隻目の船に乗るユリスラナも、間もなく聖都に到着する。
﹁あれが聖都なのね﹂
シリャード
ユリスラナは初めて見るようにそう言った。彼女は大柄な体にも
シリャード
かかわらず、するするとマストに登って聖都を二時間も前に目撃し
ている。ただ、目の前の景色の中で刻々と聖都の姿が大きくなるほ
ど、その壮大な大きさには驚かされているのだろう。
ルスララが笑った。
﹁お前のようなルチラ辺りの田舎者には見られない景色だよ。ここ
へ連れてきてやったことを感謝しなさい﹂
﹁はぁい。分かったわ。ルスララ叔母様﹂
そんなユリスラナの朗らかさや真面目さは信用して良い。ただ、
仕えるべき主人に対する忠誠心を危惧するように、ルスララは言い
聞かせた。
﹁いいかい。今のお前はエリュティア様に仕える侍女の一人。私は
その侍女を束ねる侍女頭。肉親だからといって特別扱いはしないよ。
私のことはルスララ様とお呼び﹂
﹁では、私のことは田舎者で礼儀知らずのユリスラナと呼びなさい﹂
つんっと澄まし顔で答えた声がルスララの頭の上から振ってきた。
長身のユリスラナと並んで話すと見下ろされている感覚になる。ル
スララは眉を顰めた。
﹁全く、態度まで、でかいのかい? でかいのは体だけにしなさい﹂
エリュティアは他の侍女に囲まれながら、ルスララとユリスラナ
会話を楽しむように微笑んでいた。そのユリスラナがふと気づいた
473
ように下流を指さした。
﹁ねぇ。あれはどこの船かしら﹂
ユリスラナが指さしたのは、流れに逆らってやってくる幾艘もの
船である。帆は畳み、櫂は外されている。ルードン河の川辺を歩い
てくる一団が、船の船首に付けたロープ引いていた。船の形に威圧
的な雰囲気が漂っていた。
一隻目の船で上陸した護衛役のエルグラスたちも船に気づいたよ
うで緊張感を露わにした。戦の経験こそ無いが、幼い頃から訓練を
受けているだけに、川を遡ってくる船が軍船で、しかも、船首に描
かれた目の意匠でギリシャの船だと分かる。そして、こちらに駆け
てくる一団の姿はアテナイ軍の将兵に違いない。
﹁端、停泊。外、停泊﹂
ギリシャ人たちが話す言葉に耳を傾ければ、アトランティスの片
言の言葉でそんな意味が聞き取れた。ルードン河の流れを引き込ん
だ大きな入り江に大小の桟橋が並んでいて、入り江の外にも流れに
沿って船着き場が設けられている。ギリシャ人たちは入港する船を
入り江の外の船着き場に着けろと言っているらしい。
シリャード
エルグレスら護衛の者にとって受け入れられる話ではなかった。
王家の船は入り江の中央の桟橋、聖都の城門の一番近くに停泊させ
る慣例である。シュレーブ王家の誇りにかけて、その慣例は守らね
ばならない。
﹁蛮族共が我らに指図でもするつもりか﹂
指揮官オログデスが剣の束に手を掛けたのを見た護衛の兵士たち
もまた剣を抜きかけた。
エリュティアが乗る船の甲板からも、アテナイ軍とエリュティア
の護衛が睨み合う緊張感が伝わってきた。
﹁いかが致しましょう?﹂
474
船長がそう言ったのも、もっともだった。戦闘が起きるかも知れ
ない。数で言えば、味方の兵の数は三十人ばかり。アテナイ兵も三
十人ばかりだが、城門の前に待機しているアテナイ兵も駆けつけて
くるだろう。そんな危険な場所に王女を下ろすわけにはいかないだ
ろう。
ただ、二隻目の船の船客は、エリュティアとお付きの侍女ばかり
である。ユリスラナが船上を眺め回したが、このような場合に指示
を出せる者が居なかった。
﹁船をいつもの桟橋につけて﹂
明確な指示が響いた。ユリスラナを始め侍女たちが驚きの視線を
向ける先にエリュティアが居た。
﹁でも、姫様⋮⋮﹂
シリャード
指示に疑問を呈するルスララにエリュティアが静かに微笑んで言
った。
﹁私たちは聖都へ行くのです﹂
そんな主人をユリスラナは感心のため息をつくような心持ちで眺
めた。船は左右六本の櫂を突きだし、水面に水しぶきを上げ始めた。
運命に流されるようにやってきた船が、これからは自分の判断で目
的地に向かう。そんな意思を露わにしたようだった。
︻我々の言葉が分かるものは居ないのか?︼
エキュネウスが母国の言葉で叫んだ。彼が話す片言のアトランテ
ィスの言葉では、意思を伝えることが出来ない。しかし、アトラン
ロゲル・スリン
ティス人が蛮族と蔑むギリシャ人の言葉を学ぼうとするのは、彼ら
にすり寄る六神司院の者たち以外には居ないだろう。
エキュネウスは入港しつつある船を、入り江の左右に分けて停泊
させて無用な衝突を防ぎたかったのである。しかし、その意図を伝
えることが出来ないまま、二隻目の船もまもなく中央の桟橋に着く。
エキュネウスはこれから入港するアテナイの軍船に入り江の入り口
で待たせるよう副官カルトレオスに命じて走らせた。
475
この間も、二隻目の船は桟橋に接岸し、乗客が降りる気配を見せ
た。エルグレスら護衛の者は緊張感を高め、乗客を守り蛮族を威嚇
するように剣を抜いた。自然に、向き合って睨み合っていたアテナ
イ兵も剣を抜きかけた。
︻剣を収めろ。戦いに来たのではない︼
目を離せば斬り合いを始めるだろう。そんな状況にエキュネウス
シリャード
が気を取られていると、不意に護衛のシュレーブ兵が剣を鞘に収め
た。
﹁剣を収めよ。我らの使命はエリュティア様を聖都へお連れするこ
とだ﹂
今にも始まりそうな戦闘から目が離せないのは、シュレーブ国の
護衛の士卒も同じだった。気がつけば、エリュティアが傍らにいた。
戦闘を始めれば彼女まで巻き込みかねない。エルグラスはそう判断
したのである。彼は兵士をエリュティアの前に整列させた。しかし、
エリュティアは自分を守ろうとする士卒をかき分けるように進み出
た。
両軍の兵士はあっけにとられるように沈黙した。アテナイ兵の立
場で見れば、船を下りた貴人の少女が、自分たちの指揮官エキュネ
ウスを静かに見つめているという姿である。また、エルグレスら護
衛の士卒も自分たちの王女と驚きの目で見つめ合う蛮族の指揮官の
意図を計りかねた。
エリュティアもエキュネウスも20スタン︵約3.6メートル︶
ばかり離れて向き合ったまま言葉を発しなかった。互いに相手を確
かめるような沈黙に、ユリスラナが突然割り込んだ。エリュティア
が危険にさらされるかも知れない状況に、男どもがただ突っ立って
いるだけという不満を抱いたのである。彼女はエリュティアの代わ
りを務めると言わんばかりに、するりとエキュネウスの正面に立ち
ふさがって笑顔を浮かべた。次の瞬間、彼女が飛び退った時には鞘
476
から抜けた剣を手にしていた。笑顔と共にエキュネウスの剣を奪っ
たのである。その切っ先はエキュネウスの首筋に向けられていた。
切っ先が少し揺れているのは、彼女の怯えではなく、少しでも動
けば剣で首を貫くという警告だろう。彼女は笑顔のまま、言葉を使
わず意思を伝えた。
﹁お止め、ユリスラナ。その方は私の命の恩人です﹂
エリュティアの声が響いた。エキュネウスの澄んだ瞳に、以前暴
走した馬車から救ってもらった記憶にたどり着いたのである。
﹁命の恩人ですって?﹂
ユリスラナが言葉を確認するように、切っ先は少し下げてエキュ
ネウスの鎧の胸をつついた。
﹁剣をその方に返しなさい﹂
エリュティアの叱責に、ユリスラナは渋々従った。エキュネウス
は受け取った剣を鞘に仕舞い、自分とエリュティアを順に指さして
言った。
シリャード
﹁私⋮⋮、貴女﹂
更に聖都の城門を指さして言葉を続けた。
シリャード
﹁門まで守ります﹂
シリャード
聖都の入り口まで護衛するというのである。片言だったが、意味
は通じた。たしかに、城門の前にいるアテナイ兵の間を通って聖都
へ入るには、アテナイ軍の指揮官に誘導してもらうのが一番だろう。
﹁では、よろしく﹂
素直な礼と共に前を歩くエキュネウスにつづくエリュティアに、
文句を言う侍女や護衛は居なかった。
シリャード
城門を抜け、聖都に一歩踏み込んで、後ろを振り返ったエキュネ
ウスにエリュティアは言った。
﹁命を救ってもらった返礼の品は改めて届けましょう。貴男の名は
?﹂
477
言葉を理解しかねたエキュネウスに、エリュティアは自分を指さ
して名乗った。
﹁エリュティア﹂
もちろん、エキュネウスは彼女の名を熟知している。名前を問わ
れたことに気づいた彼も自分を指さした。
﹁エキュネウス。エキュネウスと申します﹂
﹁アテナイのエキュネウス。その名、覚えておきます﹂
シリャード
護衛のエルグラスがそれ以上の挨拶は無用だとばかりに急かした
ため、一行は城門を離れ聖都中央にあるシュレーブ国王の館へと向
かった。
取り残されるように残った女が居た。さっき、指揮官に剣を向け
た危険な女、ユリスラナである。アテナイ兵が指揮官を守るように
動こうとしたのをエキュネウスは制止した。先ほどのこの女の行動
は、主を守ろうとしたためで、今は敵だという認識はないだろう。
しかし、エキュネウスは剣の束を固く握った。軍人としての誇りが
あって、二度も奪われるわけにはいかない。
ユリスラナはエキュネウスに顔を寄せて褒めた。
﹁貴男、良い度胸してるわね﹂
先ほど剣を向けられたエキュネウスに、恐怖や不安が感じられな
かったということである。
ちゅっ
ユリスラナは歯切れのいい音をさせてエキュネウスの頬にキスを
し、笑いながら主人の後を追って駆け去った。
478
エリュティア、聖都︵シリャード︶到着
シリャード
﹁なんとまぁ、清々しい雰囲気﹂
ルスララがそう言ったのは、聖都の中の蛮族、アテナイ軍の雰囲
アトランティナ
気が絶えたことである。
︵アトランティス人の聖なる都は、この洗練された落ち着きが無く
ては︶
力強くそう考えるルスララに、ユリスラナが通りの一画を指さし
て尋ねた。
﹁アレは? あら、あちらにも﹂
彼女か指さしたモノは、石の壁は崩れて煤け、木の屋根は焼け落
ちて、僅かに焼け残った部分に豪華な装飾が見える。元は豪華な館
であったらしいが、火災の後、そのまま放置されているという姿で
ある。ルスララが言う清々しい光景ではない。
スーイン
ロゲル・スリン
シリ
﹁アレはヴェスター国の王の館。その向こうはグラト国の王の館。
ャード
神帝の暗殺に荷担した国王どもの館よ。六神司院の僧兵どもが、聖
都の反逆者を鎮圧したのでしょう﹂
ルスララの言葉にエリュティかが表情を曇らせた。
﹁では、ルージ国王の館も?﹂
ルミリア
以前、訪問した時の品の良い庭園の光景が、今も記憶に鮮明に残
っていた。ルスララは頷いた。
シリャード
﹁ルージ国王の館も同じでございましょう。いえ、真理の神に誓っ
て。反逆者どもは聖都から取り除かねばなりません﹂
﹁館の者たちはどうしたのでしょう﹂
エリュティアの言葉にルスララが想像を交えて答えた。
﹁捕らえられて、牢獄にでも繋がれているのでしょう。反逆者にふ
さわしい﹂
ユリスラナが焼け落ちた館の一角を指さして、ルスララの想像を
479
否定した。幾体もの死体が白骨化して見えた。死体はそのまま晒し
ていたということである。骨が散乱しているのは、犠牲者が殺され
シリャード
て晒された後、市民たちが価値のある物を身ぐるみはがして持ち去
ったということであるらしい。残酷な光景が聖都の日常生活の一部
にとけ込んで、行き交う市民たちは違和感を感じている様子はなか
った。エリュティアの侍女たちはもう臭うはずのない死臭を避ける
ように、手で鼻と口元を覆って顔を曇らせた。
そんな景色の中、一行はシュレーブ国王家の館に到着した。アト
ランティス議会が閉会の間、この館の留守居役のハントスが出迎え
て言った。
﹁ようこそ、お戻り下さいました﹂
アトランティナ
シリャード
ハントスはエリュティア一行の到着を戻ると称した。アトランテ
シリャード
ロゲル・スリン
ィス人は祖先を辿ればこの聖都の地にあるという事である。むろん
そんな歴史はなく、聖都建設と共に六神司院が権威付けのために作
り上げた偽りの伝説である。
スーイン
﹁これから神帝の館に訪問したいのです﹂
スー
エリュティアの言葉はハントスを慌てさせた。一行の到着に合わ
イン
せて湯浴みや食事の支度が調えてある。エリュティアが崩御した神
帝の館を訪問するなど考えても居なかったのである。
﹁それは日を改めて﹂
ハントスの言葉を、エリュティアはきっぱり否定した。
﹁いえ、今日でなくてはなりません﹂
眉を顰めたエリュティアの一途な表情に、ハントスは妥協した。
﹁では、先触れの使者を走らせます故、先に湯浴みなどなされませ﹂
アトランティスのしきたりでは、王侯貴族の訪問の前に、間もな
スーイン
ロゲル・スリン
く訪問するという使者を立てるのが通例だった。ハントスはその使
者を立てるという。神帝の館は現在は六神司院の管理下にあり、彼
らの許可を求めねばならない。
480
ハントスが使用人に慌ただしく指示を出す様子と、予定が狂って
混乱する館の中をを眺めながら、素直なエリュティアはこの混乱は
自分のわがままが起こしたのだと自覚するように黙っていた。
傍らに控える侍女たちも忠実で、エリュティアの意向に逆らう者
は居なかった。ただ、ルスララがエリュティアの手を引いて、訪問
前に旅の汗を流し、衣類を改めるために浴場へと導いただけである。
エリュティアは黙ったまま素直にルスララに従った。心情を自分
でも説明しづらい。子どもから大人になりかけて、一人で考えるこ
とが多くなった。そして、戦が始まり困惑のみ多い。
スーイ
彼女の戸惑う心を見守り、時に助言を与えた叔父のオタールは、
ン
既にこの世の人ではない。追悼式典が始まれば、オタールは初代神
アトランティナ
帝として、エリュティアの肉親としての立場は途切れ、全てのアト
スーイン
ランティス人の上に君臨する神に列席する。今日は、彼女が一人の
肉親として神帝オタールに会える最後の日だった。
エリュティアは首から提げた小袋を、胸元から取り出して握りし
めた。エリュティアを妻として導こうと言ったアトラスが贈った品、
スーイン
月の女神︵リカケーの涙︶と名付けられた真珠である。エリュティ
アは神帝の館に訪問する途中、ルージ国王の館の側を通るはずだと
考えていた。今は敵になったあの若者の記憶を鮮明に蘇らせること
が出来るかも知れない。
今のエリュティアを支えるものは、あの若者の迷うことのない澄
んだ瞳だけかもしれなかった。
481
エリュティア、聖都︵シリャード︶到着︵後書き︶
スーイン
次回更新は明日の予定です。エリュティアは周囲に教えられるまま、
ルージ王子アトラスが神帝暗殺に荷担したと信じていましたが、ふ
と疑問が・・・
482
エリュティアの疑惑1︵前書き︶
長くなりましたので分割して投稿します。後半部は本日夕刻に投稿
しますね。
483
エリュティアの疑惑1
シリャード
﹁日が暮れるのが早くなりました。お早めにお帰り下さい﹂
シリャード
﹁いえ。久々に月明かりに照らされた聖都の景色も眺めてみたいの
です﹂
﹁いいえ。いけません。最近はこの聖都も物騒になりました﹂
﹁盗人でも?﹂
﹁それだけならまだしも、強盗や殺人など、ここの所、夜に悲鳴や
シリャード
怒号が途絶えた日はございません﹂
聖都の中でも各国の王の館が建ち並ぶ中心部でさえ犯罪が横行し
ているというのである。
﹁心配ございませぬ。我らが護衛いたします﹂
エルグレスら護衛についてきた兄弟が声を添えていった言葉にユ
リスラナが反駁した。
﹁貴方たちでは頼りないという事よ﹂
彼女の言葉に、ルスララは言葉より拳骨の方が早い。
﹁お前もだよ。ちょっとは侍女らしく、温和しく控えておいで﹂
打たれた頭を押さえるユリスラナにかまわず、ルスララは輿に乗
り込んだ。続くエリュティアの輿を先導する役割である。
スーイン
エリュティア一行がアトランティス議会の東にある神帝の館に近
づいたのは一時間ばかり後のことである。
数えれば水路にかかる橋を三つ渡り、回り道をしたことになる。
道順を指示しているのは先の輿に乗るルスララで、エリュティアが
焼け落ちたルージ国王の館に心を乱さないようにその前を避けるよ
う配慮したらしい。エリュティアは全てを運命に任せているように、
ルスララに文句は言わなかった。
484
スーイン
スーイン
エリュティアは神帝の館の前の広場で輿を降りた。会議場や神帝
スーイン
ロゲル・スリン
の館へは徒歩で入るのが礼儀とされていたのである。アトランティ
ス議会、神帝の館、六神司院の建物が並ぶ最も神聖で権威ある区画
である。その広場に怒号が響いていた。
スーイン
﹁何のために儂をここへ呼びつけたのだ。神帝即位だと聞いていた
ぞ﹂
﹁しっ。声が大きい﹂
ロ
眺めれば王族らしい旗持ちを従えた一団と、数人の僧兵を従えた
男たちが向き合う景色である。エリュティアは首を傾げた。
﹁あれは?﹂
ルスララが旗の紋章を読み解いて見せた。
ゲル・スリン
ロゲルスゲラ
﹁たしか、ゲルト国のシミナス王でございましょう。もう一方は六
神司院の神官ではありますまいか﹂
エリュティアの私的な訪問のためシュレーブ国を示す旗は掲げて
いないし、輿についた紋も小さく、興奮したシミナス王の目にとま
らなかったらしい。ゲルト国の一団はシュレーブ国の王族に気づか
ず、腹立ちが収まらぬと言わんばかりに、荒々しくエリュティアた
ロゲル・スリン
ちの横を過ぎていった。
彼らを見送った六神司院の一人が新たな来客を見つけて、こちら
スーイン
も怒りが収まらぬと言う口調で苛立ちが籠もった声を掛けてきた。
﹁何用か? お前たちも知っての通り、神帝崩御の追悼式まで何人
も館に入れるわけには行かぬ﹂
﹁無礼な言葉遣い、許しませんよ。こちらはシュレーブ国王ジソー
様の姫エリュティア様であらせる﹂
ロゲル・スリン
ルスララの叱責をあざ笑う返答が返ってきた。
スーイン
﹁儂は六神司院のガークトである。こちらはクジーススとグリポフ。
同じく神帝亡き後、神に成り代わってこのアトランティスの政務を
執り行って居る。王族の姫であろうと、我らの差配に従ってもらお
485
う﹂
ガークトの言葉に王の権威など無視するという驕慢さが感じられ
る。護衛の三兄弟の一人、末弟のトラグラスが進み出ようとしたユ
リスラナの襟首を掴んで引き戻した。命に変えてもエリュティアを
守るという気概は持っているが、この場にこの短気で戦闘的な女が
出張ってゆくと、そういう状況が生まれかねない。この場は、エリ
ュティアの判断を待つしかあるまい。
ルスララが問うた。
﹁姫様の訪問の話、既に使いの者を出しているはずです﹂
﹁そんなこと、聞いては居らぬ。訪問には改めて使者を立て、我ら
の裁可を得よ﹂
ロゲル
グジーススの言葉に混乱が収まらず拡大する気配を見せた時、広
場に新たな声が響いた。
ロゲル・スリン
﹁いや。良い。儂が招いたのだ﹂
六神司院の三人が口を揃えて新たな人物の名を呼んだ。
﹁ブクスス殿﹂
・スリン
ロゲル・スゲラ
ロゲル・スゲラ
初対面だがその名はルスララもエリュティアも知っていた。六神
司院を構成する最高神官の一人である。六人の神官は、肩書き上は
同格のはずだった。ただ、彼らの会話を聞いていると、命令する側
とされる側の序列ができていて、ブクススという男は彼らのリーダ
ー格のようだった。
ブクススの言葉に他の者は反対せず、いそいそと引き揚げて行っ
た。
486
エリュティアの疑惑2
スーイン
ブクススは神帝の遺体と面会したいというエリュティアの願いを
聞き入れた。ただし、特例であると理由を付けて、許可されたのは
彼女のみである。
ルミリア
エリュティアは別室にルスララたちを残し、ブクススと彼に忠実
に従う僧兵二人と館の奥の間に進んだ。館の奥の真理の神の像の祭
壇の前で、棺が静かに花に包まれていた。
ブクススの目配せで、僧兵が棺の蓋を開けた。エリュティアはそ
の光景に息をのんだ。荼毘に付す前に刈られた髪の一房が添えられ
スーイン
ていて生前の僅かな面影を残していた。棺桶の底に敷かれた柔らか
な敷物の上に、生前の姿を残すように腕や足の骨が並べられ、神帝
スーイン
の衣装が掛けられて、右腕に錫杖、左手に生前身につけていた腕輪
が添えられていた。穏やかな笑顔を浮かべた神帝オタールの面影が、
物言わぬ骨に変わっていた。
跪いてすすり泣くエリュティアにブクススが声を掛けた。
スーイン
﹁元は血縁関係もあるお方。さぞかし、お悲しみも深いでしょう﹂
スーイン
﹁これで、神帝がお亡くなりになったことを受け入れることが出来
た気がいたします﹂
﹁では、ここに来るまで、神帝の崩御のことは?﹂
﹁話は聞いても、思い浮かぶのは生前の面影ばかり。ここへ来てよ
うやく﹂
エリュティアはそれだけ言って顔を伏せて涙を拭いた。ブクスス
は柔らかな笑みを浮かべていたが、彼の表情には暖かみが無く、幼
子のように純真に本心を語るエリュティアに向けた目が、ずるがし
こく光った。ブクススは僧兵の一人に命じた。
スーイン
ロゲル・スリン
﹁執務室にエリュティア様のためにお飲み物の用意を﹂
ブクススが言う執務室というのは、神帝が六神司院を交えて様々
487
な政務について決定を下す部屋で、時に王族の者たちを迎え入れる
ために豪華な調度品に彩られた広い部屋である。ブクススはエリュ
ティアに笑顔を向けて誘った。
スーイン
﹁執務室は生前のままにしてあります。そこで茶でも飲みながら、
思い出話でも致しましょう﹂
﹁居間では?﹂
エリュティアが言うのは、神帝オタールが執務を離れ、私的にく
つろぐ部屋で、オタールの人柄を示すように質素だが、窓から美し
い庭園が見渡せる部屋だった。
﹁居間は追悼式の準備のために、さまざまな備品で塞がっておりま
してな﹂
ロゲル・スリン
ブクススはエリュティアを導いて執務室へ入り、普段は六神司院
の者しか座れない豪華な椅子の一つを示して彼女に座れと勧めた。
僧兵が持ってきた茶のカップをテーブルの上を滑らせて差し出し、
スーイン
ルミリア
ブクススは思い出に浸るように語り始めた。
﹁そうでしたな。神帝オタール様。真理の神に誓って。あれほど神
への忠誠と、アトランティスの民に対する慈愛に満ちた方は居られ
ませんでした﹂
スーイン
頷くエリュティアにブクススは言葉を重ねていった。やがてその
思い出が、神帝暗殺の段階に及んだ。ブクススによれば、この部屋
スーイン
が犯行現場である。エリュティアがシュレーブ国の王都パトローサ
スーイン
で聞かされていた、ルージ国王子アトラスの側近の一人が、神帝を
騙してこの館に侵入し、神帝を突き殺したという話である。もし、
この場にエリュティアの教師でありシュレーブ国の謀臣でもあるド
ロゲル・スリン
リクスがいれば、ブクススの話の意図を読み解いたろう。
ロゲル・スリン
スーイン
今、六神司院は予想外の展開に苦慮している。信仰を忘れて私欲
に走る腐り果てた六神司院を除こうとした神帝オタールに先んじて、
彼を暗殺してその罪をアテナイ軍へ兵を挙げるルージ国になすりつ
488
けた。
ロゲル・スリン
ただ、そのつじつま合わせの嘘は未熟で、各国は信じては居ない
ロゲル・スリン
スー
らしい。事実、六神司院が追悼式典に姿を見せると考えていた各国
イン
の王は姿を見せず、代理の者を派遣したのみである。六神司院は神
ロゲル・スリン
帝の後継者はゲルト国のシミナス王と決めていた。小国で発言力は
小さいが、その国王シミナスの名誉欲は人一倍だった。六神司院に
スーイン
とってこれほど操りやすい人物は居なかった。しかし、追悼式典の
ロゲル・スリン
後、各国の王が列席する間でシミナスを神帝へ推挙する企みも、集
まらぬ国王の為に潰えた。次の一手を考えねばならない。六神司院
はそう言う立場にいる。
スーイン
ブクススがエリュティアを神帝の館に受け入れたのは、アトラン
ティス最大のシュレーブ国の姫に、この場所で反逆者の存在を強く
印象づけ、ルージ国を筆頭に神に反逆する者どもを討ち滅ぼす目的
を彼女にすり込むことだった。
︵この小娘なら容易だろう︶
ブクススはエリュティアの純真さに、幼女の愚かさを描いていた
のである。
ただ、エリュティアは純真さと同時に、理知的な素直さも持って
スーイン
いた。彼女は執務室を眺めまわして思い出を語った。
﹁私はこの部屋は初めてです。生前、神帝が私とお会い下さるのは
いつも居間でした。庭園の美しい花々、花に舞う蝶を眺めながら様
々な話をしてくださったのです﹂
﹁そうですか﹂
﹁ご公務と私的な事柄は分ける方でした。私が居間へ招かれたのも
そのためです﹂
スーイン
﹁では、その懐かしい部屋へご案内した方が良かったのですかな﹂
スーイン
﹁もし神帝がザイラスを招いて、殺されたとすれば、そちらの部屋
でしょう。神帝に私的に命じられてこの執務室へ来ることなど信じ
489
られません。ましてや、この執務室の入り口には幾人もの僧兵の方
々が居られます。剣を携えた者が入室するなど許されるのでしょう
か﹂
エリュティアはブクススを嘘つきだと表現するのは避けたが、彼
スーイン
の言葉に明確に疑問を呈したのである。ブクススが取り繕った。
﹁それは、神帝の御心の中でしか分からぬ事﹂
﹁だからこそ、迷いが沸き上がって消えません﹂
エリュティアは静かに立ち上がった。彼女の頬を伝う涙が光を受
けてきらりと輝いた。壁の高い窓から差し込む陽の光が赤く、間も
なく日が暮れる。館ではハントスらがやきもきしながら彼女の安全
な帰宅を待っているだろう。彼女は素直にそう考えた。
スーイン
あさって、神帝の追悼式典が盛大に取り行われる。
490
ユリスラナ、恋の予感
スーイン
追悼式典は盛大に、そして粛々と進んだ。崩御したのは初代で、
ロゲル・スリン
過去に規範となるべき式典の様式はなかった。神帝の追悼を取り仕
切って、自らの権威を印象づけようという六神司院どもの演出であ
る。
ロゲル・スリン
長い葬列も、数百人の巫女の聖歌と数百人の聖職者の聖典の詠唱
も、六神司院の意図に気づいてみれば白々しい。ユリスラナなどエ
リュティアの背後で居眠りをする都度、ルスララの拳骨を喰らって、
何度も小さく悲鳴を上げ、文句の言葉を呟いていた。式典は荘厳な
演出と共にそんな滑稽さを含んでいたのである。
ロゲル・スリン
シリャード
六神司院はその記録の名は明らかにしなかった。ただ、記録に過
去の事例を鑑みれば、聖都からルードン河を少し遡った所にある名
もない高地が、墓所として聖なる場所だと宣言された。既に墓所と
しての基礎工事は完了していて周囲にはルードン河から水を引き込
スーイン
んだ堀で囲まれその内側は柵で囲まれて人の侵入を阻んでいた。
スーイン
ただし、その終了は神帝の死を悼む余韻もなかった。式典の舞台
は移動した。神帝の棺が神官たちの聖典の詠唱と共に水路の船着き
ロゲル・スリン
ロゲル・スゲラ
場にある祭壇へと移されたのである。祭壇の両脇に三つづつ豪奢な
ロゲル・スリン
席が設えられていて、六神司院の最高神官が着座した。各国の使者
は整列し立ったままである。これも、各国の上位に六神司院の威光
を示そうという演出らしい。
その各国の中、シュレーブ国の一団の後方で、ユリスラナは退屈
をもてあまして周囲を眺め回していた。
﹁ホント、爺さんばかり﹂
ユリスラナは正直な女性で、考えは率直に表情と言葉にする。言
491
葉の前に発した舌打ちが小さかったことだけが、彼女の遠慮の証で
あるらしい。各国の使者に年輩者が多いのも当然のことである。各
国の大臣や高級神官が国王の代理人として選ばれて派遣されている
のである。護衛のエルグラスが呟いた。
﹁ユリスラナの言うとおりだ。各国の王はどうした。我がジソー王
は戦で忙しいにしても、ルージ国ら反逆国を除けば、国王が出席せ
ぬのは道理に合わぬ﹂
スーイン
ロゲル・スリン
末弟のトラグラスが声をひそめて言った。
アトランティナ
﹁神帝暗殺の真の犯人は、六神司院かも知れぬということですよ﹂
ロゲル・スリン
﹁何と言うことだ﹂
﹁六神司院がアトランティス人の敵として宣言される。そんな状況
ロゲル・スリン
になる危うさを考えれば、⋮⋮﹂
﹁六神司院と距離を置くのが肝要ということか。各国が惚けた年寄
りを遣わすのも分かるな﹂
頷く次男オログラスの言葉に、トラグラスが付け加えた。
﹁国王は出席せぬ。しかし、王族のエリュティア様は各国のジジイ
どもの中で存在感がありましょう。我らが王ジソー様の判断は確か
だと言うことです﹂
エルグラス兄弟は会話を止めた。聖典の詠唱の終了と共に広場は
スーイン
静まりかえり、式典は最後の局面を迎えたのである。巫女たちが小
脇の篭から投げ上げる白い花々の下を、屈強な僧兵が神帝の棺桶を
担いで水路に浮かぶ小舟に載せた。式典に参加した各国の者たちは、
小舟が水路をルードン河へ移動するのを眺めただけである。
式典の終了が宣言された。
ユリスラナは男共の謀略の話には興味がない。同僚の侍女が、注
意散漫な彼女の小脇をつついて帰宅を促した。明日の早朝に船を仕
立てて王都パトローサへ帰る。侍女たちはそのエリュティアの身の
回りの世話で忙しくなるのである。
492
フェリン
ユリスラナは目を輝かせたのはそんな時だった。
﹁わおっ。これこそ恋の神のお導きよ﹂
広場に溢れかえるジジイ共の中に、彼女の目にかなう若者を見つ
けたのである。しかも、その若者が足早にこちらへやってくるのが
見える。
﹁シュレーブ国のエリュティア様では?﹂
エリュティアは若者の言葉に振り返ってこくりと頷いた。護衛の
エルグレスらは剣の束に手を伸ばすほど緊張した。若者は血を浴び
た衣類は改めているが、戦場の香りが身に染みついた雰囲気が漂っ
ていた。
互いに名は知っているが初対面である。見知らぬ顔に首を傾げる
エリュティアに、男は名乗った。
﹁フローイ国王子グライスと申します。シュレーブ国の紋章を拝見
し、エリュティア様ではないかと﹂
相手の正体にエリュティアは笑顔を浮かべた。
﹁お会いできて光栄です。先の戦ではリダル王都とアトラス王子を
伐った勇者の名はパトローサにまで響いております﹂
アトラス王子の名を口にする時にエリュティアの表情が曇った。
グライスもまた避けたい話題であるように話を逸らした。
﹁南の戦場でグラトと戦っておりましたが、所用が出来、一度国に
戻らねばなりません。その前にパトローサでジソー王にも謁見をと
考えております﹂
グライスの言葉にユリスラナは満足げに一人頷いていた。この若
者と、パトローサでもう一度会えると言うことである。しかし、も
っと名案を思いついた。彼女はエリュティアに顔を寄せ、囁くよう
に提案した。
﹁リュティア様。船に余裕がございます。グライス様を誘ってパト
ローサまで同行されては?﹂
思いも掛けない展開に、エリュティアは戸惑いグライスに返答を
493
求めた。
﹁いかがでしょう?﹂
﹁光栄です。徒歩の旅には飽きていたところです。よく気がつく良
い侍女がおられる﹂
フェリン
グライスが自分に向けた好意の言葉と笑顔に、ユリスラナは心の
フェリン
中で恋の神に感謝を捧げた。明日、この若者とともに一日半の船旅
が始まる。彼女の心は恋の予感に膨らんだ。彼女が恋の神が悪戯好
きの性格だったと思い起こすのは、明日のことである。
ただ、本当に結ばれる者との出会いを、既に果たしていたのだと
シリャード
知るのは、更に数年を待たねばならない。アテナイの軍のエキュネ
シリャード
ウスも、それに気づくはずもなく、聖都を離れるエリュティアへの
思いに焦がれていた。エキュネウスの目の前を聖都の水路から出て
きた小舟がルードン河の本流へと過ぎ去って行った。
初秋の風がルードン河の川辺を撫でている。
494
フェミナが生きる場所
明くる日。早朝から空は晴れ渡って、空を眺めるのに背伸びして
腕を掲げたくなるほどの高さで、雲がゆるゆると流れていた。
しかし、ユリスラナの表情が暗い。彼女は何度めになるか分から
フェリン
ない失恋のため息をついた。
﹁なんて酷い恋の神の悪戯?﹂
昨夜、彼女は侍女たちからグライスが既婚者だと聞かされていた
のである。そんな彼女のぼやきを侍女たちは笑った。
ユリスラナの母親のような年齢の女たちである。娘の失恋を過去
の自分に当てはめて苦笑いするような微笑ましさがあった。エリュ
ティアに長く仕え、熟練はしていても大人びた心ではエリュティア
の心の機微を捕らえるのが難しい。心が晴れぬエリュティアを慰め
ようとしても出来ない自分たちに代わって、このユリスラナという
新米侍女は、行動そのものがエリュティアの心に明るく響くようだ
った。
事実、エリュティアが浮かべる笑顔は、周囲の者に対する配慮で
はなく、心の底から湧いて出る楽しさのようだった。
そして、この日。エリュティアを喜ばせたのは、ユリスラナが提
案したグライスとの同行である。グライスは彼女たちと同じ船上に
いる。
船は風向きが良くなれば帆を少し上げたが、船員の多くは、馬を
操る雇われ人足に混じって川岸で船の船首から伸びるロープを引い
ていた。川を下る時はミーラの港町で一泊して船を乗り換えたが、
グライスの急ぎの貴国の旅のため、夕刻までこの船で川を遡り、リ
ウアの町で一泊の後、王都パトローサへ向かう予定である。
﹁それにしても、穏やかで美しい景色だ﹂
495
グライスが羨ましげにルードン河の両岸を眺め渡した。ルードン
アナリシア
河の豊かな水はこの辺りの耕作地を潤している。今の時期はその収
穫も終わりかけ、農夫たちは今年の豊かな実りを豊穣の神に感謝を
捧げつつ、今年の実りの最後の刈り取りをしているのである。
グライスは故郷のことを考えた、やや時期はずれるが、フローイ
国でも収穫の時期を迎えている、今は多数の男手を兵士に取られ、
残された年寄りや女子どもが収穫に疲れ切っているだろう。収穫ま
でには兵を故郷に帰そうという王ボルススの目論見は、長引く戦に
潰えていたのである。
気づけば、エリュティアの護衛の三兄弟の長兄エルグレスの腹に
響く声が川岸から響いていた。どうやら、じっとしているのが性に
合わぬタチらしく、船を牽く者たちを激励し、時に自らも船を牽い
ていた。
グライスの傍らには、次男と三男。昨日はグライスに警戒感も抱
いたが、今はルージ国の牙狼王リダルとその息子を討ったグライス
の正体を知っている。素直に尊敬の目を向けていた。シュレーブ国
と言えば煌びやかな貴族文化を想像するが、地方に行けば田舎者が
持つ純朴さと頑強さを漂わせ持つ者たちもいるのである。
次兄のオログラスが言った。
﹁見事な景色でございましょう。毎年、あの麦の束を抱きしめた時
の香りはたまりませぬ。そしてその束を背中一杯に背負う満足感と
言ったら﹂
﹁農夫にでもなったような口調だな﹂
グライスのからかう調子に、末弟のトラグラスが大まじめで答え
た。
﹁おお、その通り。兄はどんな農夫より多く刈り、多く背負います﹂
この兄弟は領主の息子として領民たちの上に君臨しているはずだ。
それなのに収穫の汗も喜びも農民たちと共にすることもあるという。
496
グライスは兄弟の背後に見えた数人の兵士に目をやった。この兄弟
たちに対する自然な敬愛の雰囲気が見て取れる。戦場でこの兄弟の
ためなら命を捧げることも厭うまい。
﹁王ジソーには財力であがなった傭兵が失われても、まだ領主の兵
が居る﹂
王ボルススが言ったのはこのような兵である。
グライスは気さくな青年で、雄弁ではないが話しかけれれば、会
話が途絶えることはなかった。その会話の中に婚礼の話題が出たの
をエリュティアは聞き逃さなかった。
﹁では、フェミナは元気で過ごしているのですね?﹂
問いたいとは考えていたが、輿入れの前のフェミナの哀しげな様
子が気がかりで躊躇していたのである。
﹁ええ。我らが王ボルススや我が姉リーミルとも仲良く﹂
﹁フェミナが?﹂
グライスの笑顔の答えに、エリュティアは信じられないというよ
うに、目を丸くして問い返した。そして、それが失礼だったと気づ
いたように黙りこくった。信じられないという心情はグライスにも
理解できた。フローイ国へ輿入れしてきた時のフェミナの様子を思
い起こせば、片田舎の王子に嫁がされる時には悲しみに暮れていた
のだろうし、心を許したエリュティアにはその心情を打ち明けても
居ただろう。
夫婦が心を交わした経緯には滑稽さがあって詳細に説明がしづら
い。グライスはその時の状況を短く伝えた。
﹁私と共に、都カイーキを建設すると言ってくれました﹂
グライスの笑顔は素直で、言葉に偽りがないことが伝わった。エ
リュティアはほっとため息をつくように温かく言葉を口にした。
﹁そうですか。都カイーキを﹂
﹁シュレーブ国の王都パトローサが煌びやかな﹃陽の都﹄なら、私
の国の都は月の光に照らされる美しい﹃月の都﹄です﹂
497
静かな会話に、喧噪が割り込んできた。この日の宿泊地のリウア
の桟橋に船がついたのである。グライスはその町ではなく、町の遙
パトローサ
か先を眺めて驚きの言葉を吐いた。
﹁おおっ、あれは陽の都か﹂
アトランティスの大地の中央。視界が開けた先に地平線が存在し
た。地面より人の背丈ほど高いだけの甲板から、その西の地平線の
手前に巨大な都市の一角が夕日を背景に見えた。この港町から徒歩
で五時間ばかりだという距離で眺めても、王都パトローサの壮麗さ
を感じ取ることが出来た。
﹁どうです。フローイの方には想像もつかぬほどでしょう﹂
オログラスがそう言ったのは、田舎の国の王子にはあの壮麗さを
経験したことはあるまいというのである。桟橋から船に駆け上がっ
てきたエルグラスが次男に拳骨を浴びせた。生意気を言うなと言う
のである。驚愕したという経験ではこの三兄弟も同じで、田舎から
二百の兵を率いて出てきて、この景色をしばらく言葉もなく眺めた
経験があった。
グライスはエリュティアの顔を眺め、静かに微笑んで言った。
﹁私とフェミナも、忙しくなりそうだ﹂
パトローサ
確かに目の前の王都パトローサは壮麗だった。しかし、夫婦はフ
ローイ国の都カイーキを陽の都に負けぬ美しい町にするという決意
である。
﹁フェミナは自分の生きる場所を見つけたのですね﹂
幼なじみの人生と重ねて自分自身を振り返った。
498
パトローサのグライス
グライスはシュレーブ国が優美な文化に彩られているだけではな
く、合理的な行政組織を国土に広げていることを知った。昨夜、エ
リュティアの一行が隣国のグライスを伴ってリウアの港町で宿泊し
たという情報は、その夜の内に王都パトローサに伝えられていたの
である。グライスが王都パトローサに到着する頃には、同盟国の勇
者を迎える歓迎式典が準備されていた。
しかし、歓迎式典というが、その実、グライスを王ジソーから切
り離す方便ではないかとも思えた。面会を求めたグライスに、王ジ
ソーは無粋な話は歓迎式典の後だと係の者を遣わして返答した。
﹁急ぎの旅故、私は明日には母国へ発たねばなりませぬ。我がフロ
ーイ軍への兵糧の援助だけお願いできればと﹂
そう伝言を依頼したグライスに、王ジソーは面会するという。兵
糧が届かなければ戦い続けることは出来ずフローイ軍は引き揚げざ
るを得ない。そう繰り返してきた脅しが通じたのかと考えたがそう
ではなかった。
謁見の間に通されたグライスに、王ジソーは彼がまだ知らない事
実を伝えたのである。
﹁グラト国の奴らも今回の戦勝に満足して兵を留めおった﹂
戦勝という言葉でグライスは理解した。南からシュレーブ国へ攻
め込んでいたグラト国のことである。ジソー王の手兵が不利な戦い
をしていたし、加勢に駆けつけたフローイ軍も積極的に戦いに参加
していない。ネルギエの戦いの後で王都に戻った王ジソーが増援の
兵を送らなければ、早晩あの辺りはグラト軍の手に落ちるの結果は
目に見えていた。グラト国は占領地に兵を留めて、戦をそれ以上拡
大させなかったということである。それも理解できる、まず占領地
499
の守りを固めねばならないだろう。
しかし、グライスが信じられないと思った。
﹁ウィルレスの地を奴らに渡したと言われるのですか﹂
王ジソーが増援を送った気配はなく、みすみすあの地を敵に明け
渡したのかと言うことである。王ジソーは言い訳じみた事を答えた。
﹁いや、イドランの町の辺りのみよ。それに駐留しているグラト兵
は僅か千五百に過ぎぬと言う。春先に三千ばかりの兵を送れば容易
に取り返せよう﹂
収穫期の後、一息つく頃に兵を動かすに不向きな冬の季節を迎え
る。この王はその時期に準備を整えて、春に町を取り戻す兵を動か
すという。
民衆はこの王に信服していたし、国内の統治は学ぶべき点が多い。
王ジソーは内政には長けた人物らしい。ただ、武人ではなかった。
王は春先にというが、それまでにグラトは町やその一帯の防御を固
めてしまうに違いなかった。考えているほど、奪われた土地を取り
戻すのは容易ではない。それに、町に駐留するグラト軍がじっとし
ているとは思えず、守りを固めた後は、その周辺地域を荒らすだろ
う。僅か千五百と言うが、その兵がイドランの町を中心に、荒らす
のがどちらの方向かは分からない。シュレーブ軍は、北や東や西、
襲われるかも知れない土地に、守備隊を派遣せねばならないという
ことである。
そして、為政者にとって恐るべきは、敵と同時に、領主や民衆の
支持を失ってしまうことだろう。増援も送らずイドランの町を明け
渡した王ジソーの処置を、占領地の民衆はどう思うだろう。そのウ
ィルレスの地を治める領主、そして王ジソーに見放されたウィルレ
スの領主の事を知った他の領主たちは、この王に信服し続けるだろ
うか。シュレーブ国はあの国境の町を全力で守りきらねばならなか
った。
500
グライスはそう思ったが口にしなかった。フローイ国なら王を諫
め助言する者も多いだろう。ただ、王ジソーには王としての孤独感
が漂っていた。助言者に恵まれぬのか、王としてのプライドが助言
者の言葉を拒絶しているのか、そのどちらだろう。
孤独な王は笑顔を浮かべて言った。
﹁とりあえず、ルージ国はそなたのおかげで片付いた。王と跡継ぎ
を失えば国内は混乱して我が国に降伏の使者を送ってくるのも間近
だろうヴェスター国も一国で我が国に挑む度胸はあるまい。グラト
国は来年早々に片付ければよい。戦も、ほぼ終わったの﹂
︵終わっただって? これからが本番だというのに、何を暢気な︶
グライスはそう思ったが口にせず、フローイ国王ボルススの名代
として口上を伝えた。
﹁戦が終わったとなれば、我らフローイ軍も早々に退散せねばなり
ませぬ。ただ、お恥ずかしい話ですが持参した兵糧が尽きかけてお
ります。貴国にお願いしていた兵糧のご援助はいかがなりましたで
しょうか﹂
﹁おおっ、その事か。手配はしていたのだが、遅れている様子。さ
っそく送り届けるよう督促しておこう﹂
王ジソーは何度目か分からぬ空手形を切った。グライスはそれを
信用しては居ない。王ジソーが兵糧を提供するという約束を守って
いれば、この国の行政組織は素早く王の命令を実行していただろう。
老かいな王ボルススは兵糧を切らすということはすまいが、周辺
の市で購った食料だけでは足りず、持参した携行食ガンバクに、そ
の辺りで摘んだ野草をいれ、多量の水を入れて粥にして兵に食べさ
せるというほど、食料を切り詰めていた。帰国を急ぐ原因の一つで
ある。
﹁では、お約束の兵糧こと、よろしくお願いいたします﹂
礼儀正しく一礼して立ち去ろうとするグライスに、王ジソーは声
を掛けた。
501
﹁歓迎の宴には出ぬと言うか?﹂
﹁田舎者の不作法、失礼の段。申し訳ございませぬ。先を急ぐたび
故に、出立せねばなりませぬ﹂
﹁それは残念なこと﹂
王ジソーはそう言ったが、グライスは王ボルススの使いを果たし
て、この都には留まる必要を感じなかった。しかし、ふと思いつい
て提案した。
﹁歓迎の式典には出席できませんが、この王とパトローサの壮麗さ、
身にしみて妻のフェミナに良い土産話になりました。つきましては、
返礼と言うには恥ずかしいのですが、来年の季節が良くなる春頃に、
我が王都カイーキにエリュティア様をお招きしたいのですが、いか
がでしょう﹂
﹁おおっ。フェミナか。あれも元気にしておるということだな﹂
﹁ええ、エリュティア様の顔を見れば、妻も喜ぶでことしょう。我
が国上げて歓迎いたします﹂
この言葉はグライスの本音だった。
﹁エリュティアに伝えておこう。エリュティアも喜ぶことだろうて﹂
ジソーの言葉にグライスは再び一礼をし、改めて正式な使者を遣
わして招待すると約束して王の間を辞した。
502
パトローサのグライス︵後書き︶
シフグナの地から帰国の途へつくシーンを描く予定でしたが長くな
りましたので、分割投稿します。
シフグナの地を通るシーンは明日の更新で描く予定です。
503
シフグナの地︵前書き︶
<i209643|14426>
シフグナの地。シュレーブ国の西、フローイ国との国境の地で黄緑
色で示しています
504
シフグナの地
リルシネ
早朝、目覚めたグライスはこの朝の心地よさをどの神に感謝を捧
げればいいのか迷ったあげく、彼の頬を優しく撫でた秋風の神に第
一の感謝を捧げることにした。肥沃で平坦な大地の上に盛り上がっ
た丘があった。グライス一行はここを宿泊地と決めて一夜を明かし
たのである。
空の下、毛布一枚にくるまって夜を過ごすことを苦にしない男だ
が、この季節は屋内より屋外の方が心地よいと考えてもいた。
見渡せば刈り取りがすんだ麦畑が広がって見えるが、夏に穂を風
に靡かせた麦の喪失感はなく、大地はひとときの落ち着きを取り戻
し、来年の豊かな実りの準備をしているように思えた。
﹁おおっ、リリラッタが⋮⋮﹂
そう呟いた兵士につられて大空を眺めれば、その名を持つ鳥が無
数の群れをなして西の空へ飛んでいった。ヨーロッパの冬の寒さを
避けて、アトランティス大陸を中継して現代はフロリダ半島やカリ
ブ海と呼ばれる海域の島々や大地へと移動する渡り鳥で、この姿は
アトランティスの初秋の風物詩だった。神々に命じられて亡くなっ
た者たちの魂を運ぶといういわれがある。兵士たちが胸に手を当て
て敬意を表したのは、先の戦でなくなった戦友たちのことだったろ
うか。
王都パトローサから街道を西へ辿り、一泊したギジュクの町を早
朝に発てば、昼過ぎにはシフグナの地へ入り、日暮れが早くなった
この季節でも、夜になる前には領主パロドトスの住む館に着ける。
グライスたちは日程をそう聞かされていた。
王都パトローサからの通達が行き届いていて、グライスの旅は順
505
調だったし、パロドトスからは街道を行くグライス一行に領主の館
で一行を出迎えるという使者が着いていた。
シフグナの領地の境にある関所は、グライスが通ってきたどんな
関所より厳重な造りで、昔はここがシフグナ国とシュレーブ国を隔
てる国境線上だったということが理解できた。その昔、グライスが
生まれた西のフローイ国と戦って何度かの不幸な敗戦をしたあと、
当時は東にあったシュレーブ国の庇護を求めて併合された歴史があ
る。シフグナの地の者にとって屈辱的な歴史で、そのきっかけを作
ったフローイ国への憎しみを露わにする者が多い。グライスがふと
気づいてみれば、彼と行動を共にする十人ほどの者たちが緊張で手
を固く握りしめていた。
しかし、領主パロドトスは到着した一行を旧知の者を出迎えるよ
うな笑顔で迎えた。
﹁貴国の出陣の折りは、我らに何か手落ちでもあって我が館を避け
られたのかと危惧しておりました﹂
パロドトスが言うのは、フローイ軍が今回の出陣でシフグナの地
を中央を避けて国境沿いに北へ抜けてイドポワの門へと向かったと
いうことてある。むろん、パロドトスとの無用なトラブルも避けた
と言うことだった。
﹁ルージの精兵を迎え伐つ急ぎの出陣でありました故。ご挨拶も出
来なかったこと、こちらこそ失礼つかまつりました﹂
﹁いや。それを聞いて安心いたしました。いや目出度い。我が館も、
血の街道の勇者を迎えることができたとは﹂
﹁血の街道の戦い?﹂
﹁おおっ。フローイ国がリダルの奴らめを討った折り、ルージの者
どもの血が溢れて街道を流れるほどだったとか﹂
もちろん、噂は誇張されている。戦勝を大げさに吹聴してシュレ
ーブ国内の戦意を鼓舞するためにばらまかれた噂だろう。グライス
506
に代わって、別の男が噂を否定した。
﹁ただの噂でありましょう。謀略しかできぬ臆病者たちに、そんな
勇敢な戦いが出来ましょうや﹂
赤ら顔でろれつが回らず、よほど酔っていると見えた。
﹁ラムドス! 控えよ﹂
パロドトスは男を叱責し、
﹁これは愚息ラムドスと申します。武人の端くれ故、グライス殿の
戦功を妬んでおるのでしょう﹂
﹁このラムドスを甘く見てくださるな。フローイの者どもを蔑みは
しても妬むなどありえましょうや﹂
ラムドスはグライスに酒臭い息を吹き付けるようにそう言い片腕
に抱えたワインの酒壺を飲み干した。
パロドトスはそんな息子の非礼を詫びたがこの場をさらせようと
はしなかった。館の客間にグライスたちを招き入れた。人払いをし
たのは、それに合わせてグライスの護衛の兵を遠ざける為もあった
ろう。大きく開けた天窓から日差しが降り注ぐ部屋に、パロドトス
とラムドス、テーブルを挟んで向き合った位置にグライスと副官ロ
ットラスの四人だけという状況である。
﹁食事の準備が出来るまで、喉でも潤しながら戦の話でも聞かせて
くださいませぬか﹂
パロドトスはテーブルに置かれたワイン壺から自らカップに酒を
ついでグライスに勧めた。
副官ロットラスが目配せを送ってよこした。飲むなというのであ
る。過去にフローイ国の貴族がこの館に招かれて毒殺されたことが
ある。ただ、そんな話題なら、フローイ国が過去のシフグナ国の王
族を謀殺したという経験もあり、両者は互いに騙し騙される中で憎
しみを募らせていた。
グライスは勧められた酒の返礼であるかのように、ワイン壺から
別のカップ二つにワインを注いでパロドトスとラムドスに差し出し
た。ラムドスはふんっと鼻を鳴らして、量が足りぬという風にカッ
507
プには興味を示さずワイン壺を手にして直接口をつけた。
﹁このシフグナでは良いブドウが収穫されると聞いています﹂
グライスはそう言って勧められた酒を飲み干した。酒の味とその
残り香を味わいながら、副官ロットラスにも飲んでみよと勧めた。
﹁なるほど、旨い﹂
ワインを堪能する主従に、ラムドスが声を張り上げた。
﹁おおっ、山育ちの田舎者にもこの味が分かるというのか。西の盗
人にこの地を奪われなくて良かったわい﹂
田舎者という侮蔑の言葉だけではない、西の盗人と言うのは過去
にこの地に攻め込んだフローイ国の事を指しているのは明白だった。
この侮辱に怒りを露わにしかけたロットラスに、パロドトスは息子
を叱責した。
﹁ラムドス。何度言えば分かる。お客人の話し相手にも成らぬ奴。
下がって、代わりに姉と弟を呼んで参れ﹂
ラムドスは不機嫌に席を蹴って立ち上がった。グライスは酒に酔
っているはずの彼の足取りが意外にしっかりしているのに気づかぬ
素振りをしながら尋ねた。
﹁ラムドス殿の姉と弟?﹂
﹁アレには姉のパレサネ、弟のクレアドスがおります。家族のご紹
介がてら話し相手を務めさせましょう﹂
丁度、館の小者が宴席の準備が整ったと告げたため、彼らは場所
を変えた。広間の中央の豪奢なテーブルに、数十人いても飲み干せ
ぬ数のワイン壺が並べられ、山盛りになった料理の数々は香ばしい
香りを放っていた。壁際の楽士たちが笛や琴を奏で始めると、客人
にあてがわれた席の前に一人の女性が進み出て舞いはじめた。
﹁クレアドスと申します。勇者にお目にかかれて光栄に存じます﹂
舞に目を奪われるグライスとロットラス始終の前に若者が進み出
て名乗った。礼儀正しくはあるが父親同様にどこかずる賢しこそう
な目の光を持っていた。
﹁あれが姉のパレサネでございますよ。後で話し相手でも務めさせ
508
ましょう﹂
パロドトスが指さす先に舞を見せる女性がいた。彼女がちらりと
向けた視線がグライスの視線と交わった。リーミルが聞けば怒るだ
ろうが、弟のグライスから見て勝ち気な性格の姉のリーミルは意外
にも女性らしくたおやかな美しい舞を見せるという感想を持ってい
た。
ただ、目の前で舞う美女の動きは、リーミルの舞より躍動的で、
その手に剣でも持たせれば似合うだろうと思わせる。何より、時折
パトロエ
パトロエ
グライスに向ける視線に侮蔑と憎しみが籠もっていた。
﹁戦の女神の舞のようです﹂
グライスは目の前の舞をそう評した。戦の女神が勇者の死を追悼
するために、天女が奏でる音曲に合わせて舞うという。その姿を思
い浮かべたのである。
グライス朝早い出立のためと言い訳をして、宴席を辞したのは夜
が更けてからである。寝酒と称してワインを一壺拝借してもいた。
寝室に与えられた部屋に案内された後、グライスはワイン壺をロ
ットラスに託して言った。
﹁兵に届けてやってくれ。緊張でろくに食事もして居るまい﹂
そして笑って一言付け加えた。
﹁私が直に毒味をしたと伝えてやれ。安心して飲めるだろう﹂
ロットラスも笑いながら承知した。
グライスは寝床に横になって考えた。パロドトスは憎むべき相手
を丁寧に館に招き入れた。これは王ジソーへの忠誠を示すためだ。
しかし、彼はグライスに失礼な態度を取る息子を叱りはしても、遠
ざけようとはしなかった。長兄ラムドスは本当に酔ってはいるまい。
酒の上での暴言にみせかけてグライスを挑発したのは争乱の火種を
期待したらしい。先にグライスが手を出したとなれば、パロドトス
はジソーの威光に逆らうことなく、フローイ国と争う名目になる。
509
そんな陰謀を企てるパロドトスと同じ目の光を次男は受け継いでい
た。そして美しい姫パレサネはグライスへの憎しみを隠そうとはし
なかった。
﹁我らが王が言ったとおり⋮⋮﹂
そう呟きかけたグライスは、眠りに落ち、続く思いを夢の中に吐
き出した。
︵やはり、油断ならぬ︶
明くる朝。数日の逗留を求められたが、グライスはそれを固辞し
た。早く帰らねばならない理由が、このパロドトスのシフグナの地
というのは滑稽なことだった。フローイ軍主力がこの地を通過する
のを保証されるため、いち早く帰国して準備を整えねばならない。
﹁我らが王ボルススが兵を率いてこの地を通過いたします。その時
にも何かとご助力を仰ぎたいと﹂
﹁喜んで歓待させていただこう﹂
グライスはそのパロドトスの言葉に笑顔で応えたが、信用しては
居ない。ふとパロドトスの傍らのパレサネの冷たい視線に気づいた。
一言では表現しがたい不憫さが感じられた。フローイに対する憎し
みを植え付けられる人生を歩んで、彼女は舞にそれを表現した。グ
ライスの姉リーミルの優美な舞はおそらく自由奔放な彼女の性格を
反映しているのだろうとも思える。
︵いきなり、舞を見せろと言えば怒るだろうか︶
グライスはふと妻を思い出してそう思った。フェミナも若い貴族
女性のたしなみとして舞は習っているだろう。彼女がどんな人生を
舞に反映して見せてくれるのかと好奇心が湧いたのである。
この館を発てば、妻が待つフローイの王都カイーキまで三日の距
離である。グライスの周囲は帰国に夢を膨らませる兵士たちの笑顔
に包まれていた。やがて、春を待たずに王都カイーキが戦火に見舞
われて炎上する。
510
グライスの帰国
ふと気づいて戦場の出来事を思い起こしてみれば、風は涼しくな
った。肌を焼く陽の光も、肌を流れる汗も感じない肌を風が撫でて
いった。
﹁いかがされました?﹂
副官ロットラスがそう聞いたのは、グライスの足取りが、突然に
めまいでも起こしたようにふらついたからである。事実、グライス
は吐き気を覚え、口元を押さえていた。
﹁いや、何でもない﹂
グライスはそう言って戦場の記憶を心に閉じた。この戦の途中、
彼は年を一つ重ねて十七歳になっていた。この時代では、大人とし
て扱われる歳だが、戦場に響き渡った兵士の公文の声、積み重なる
無数の死体の光景や、死体が放つ腐臭が、この若者の心に鋭く突き
刺さっていた。
日が落ちるのは早く、夜が長くなったことが実感できた。日は西
方の空高くにあり、この日のグライス一行の影を長くしていた。シ
フグナの地の西端の国境の砦が見えてきて、あれを越えれば懐かし
いフローイ国である。この旅の最後の緊張が高まる中、砦から一騎
の鎧姿の将か駆けてくるのが見えた。ルージ国ならともかく、シュ
レーブやフローイで騎馬の将を見かけるのは珍しい。珍しいのは馬
だけではない。接近する鎧を見れば、胸元が大きい女物の鎧である。
女性の将というのは珍しい。
グライス一行には馬上の将の顔には意外な記憶があった。パロド
トスの館で一行に舞を見せたパレサネである。
﹁この馬はルージ産の名馬故、一日に千ゲリア︵800km︶を駆
511
けます﹂
もちろん、一日に800kmも駆けるほどの馬はおらず、アトラ
ンティス人たちが早さを表現する時の決まり文句である。パレサネ
が言ったのは、パロドトスの館にいたはずの彼女が、グライスに先
んじてこの砦に姿を見せたことを語っているのだろう。彼女は北西
へと曲がる街道を通らず、細い道を真っ直ぐ馬を飛ばしてきたと言
うことである。
﹁何のご用ですか﹂
﹁国境の兵どもが、戦の噂で猛っております。間違いがあってはな
らぬ故に、父が兵を鎮めて参れと申しました﹂
﹁シュレーブ国の兵、シフグナの兵は戦いを求めていると仰るのか﹂
グライスがそう言ったのは、出陣の時の記憶である。フローイ国
からイドポワの門へ向かう途中この国境の砦を通った。王ジソーか
らの通行許可の通達が徹底していたために、砦の兵士たちはフロー
イ軍の通行を許したが、仇敵のフローイ軍に向ける視線に敵意と侮
蔑を隠しては居なかった。
パレサネはグライスの言葉を否定した。
﹁いえ。最初はそれを危惧しておりました。しかし、﹂
﹁しかし?﹂
﹁兵は牙狼王リダルとその息子の反逆児アトラスを討った勇者を讃
えようと﹂
にやりと笑いを浮かべたパレサネの言葉に、勇者とは自分のこと
かとグライスは自嘲的に笑った。対照的に、牙狼王リダルの息子ア
トラスには反逆児の通り名がついているらしい。
パレサネは十人ばかりのグライス一行を導くように先頭に立ち、
街道沿いの両側にずらりと並ぶ兵士たちの間を抜けていった。突然
パレサネが抜きはなって掲げた剣を合図に、兵たちの声が響き始め
た。
﹁神々への裏切り者リダル、及びその息子反逆児アトラスを誅した
勇者グライス﹂
512
パトロエ
﹁戦の女神の祝福を受けし者。フローイのグライス﹂
﹁フローイの若き勇者グライスに神々の祝福あれっ﹂
そんな叫びと、型通りに盾と剣を打ち鳴らす作法で兵士たちはグ
ライスを迎えた。
︵この規模の砦なら詰める兵士は二百ばかりか︶
グライスがそう考えた砦の規模に比べ、兵の数がやや多い。兵が
掲げた旗はこの地シフグナばかりではなく隣の領主の旗が混じって
いた。グライスはふと気づいたように副官を振り返って言った。
﹁ロットラスよ。すまぬが、我らが王ボルススの元へ戻り、国境の
砦でシフグナとフェイナ、ルチラナの地の領主の方々から歓待を受
けて感謝していたと伝えてくれぬか﹂
﹁グライス様がお喜びだったということは、私どもからボルスス王
にお伝えいたしましょう。﹂
パレサネの言葉に、グライスは彼女に向き直った。
﹁いえ、このような歓待を受けても、今の私は返礼の品を持ちませ
ん。我らが王もこの地を通過する時の返礼の品を調達しておきたい
と思うはず﹂
ロットラスはグライスに頷いて見せ、兵二人を選んで連れて、元
来た道を戻り始めた。グライスも頷いて信頼の出来る部下の背を見
送った。彼なら状況を旨く伝えるだろう。王ボルススは帰国をパロ
ドトスが妨害することは視野に入れているだろう。パロドトスが領
地から集められる数百の兵をもって妨害しようと、二千近い手勢で
はかりごと
蹴散らして押し通ればよい。しかし、パロドトスが近隣の領主と通
じて謀を進めているとしたらやっかいな話だし、その裏にシュレー
ブ国王ジソーの影が見えるなら、更に慎重にならねばならない。
グライスはパレサネに一礼して、砦を通り過ぎた。振り返りはし
なかったが、パレサネが驕慢に腕組みをして彼を見送る様子が見え
るようだった。あの兵たちから感じた敵意や憎しみが薄れていく中、
513
かれは国境を越えた。
国境から峠を一つ過ぎればフローイ国の砦がある。今夜そこで一
泊すれば、明くる日には王都カイーキに着く。甲冑を外しく、つろ
いで妻の顔を眺めて語り合えるのも間もなくだろう。国境を越えて
国に帰ってみると生きているという実感が湧いた。同時に戦場で命
を落とした数多くの者どもの記憶が蘇り、一つ運命が狂えば自分も
生きては居られなかったとも考えた。
峠を下る頃には日が暮れ、麓の砦で炊き上げるかがり火が見えた。
グライス一行の今夜の目的地である。数ヶ月の戦場の重みとシフグ
ナの地での緊張から、一歩ごとに解放され疲労感がグライスを支配
し、思考力まで朧気で、グライスの体はただ今夜の寝床だけを求め
ているようだった。
﹁あれは?﹂
砦の前に見えた人影に、グライスは最後の緊張感を振り絞って考
えた。砦の前で明るく輝くかがり火でシルエットになって、その人
物が小柄で華奢だと言うこと以外には判別しづらい。しかし、その
人物は、闇から現れかがり火に照らされた男の姿を判別したらしく
駆け寄ってきた。
﹁フェミナ。フェミナか﹂
グライスは彼をかき抱いた女性の名を呼んだ。フェミナは何も言
わず、グライスの体温に彼の命を感じるよう彼の胸に顔を埋めて抱
きしめていた。
﹁どうしたのだ。こんなところで﹂
﹁今日、お戻りになると聞いて﹂
フェミナが言うのは夫の帰国を聞いて、王都カイーキで待ってい
ることは出来ず、国境の砦までってきたと言うのである。グライス
が気づいて見回してみると、砦の兵士たちが若い夫婦の久々の再会
を愛でるように見守っていた。グライスはフェミナの体を引きはが
すように距離を置いて言った。
514
﹁カイーキで待って居ればよいものを﹂
フェミナはその言葉を理解しかねるように黙りこくって、大きな
目を見開いて夫の顔を眺めた。自分を愛してくれる男。共に都を作
ろうと生きる場所を与えて入れた男。フェミナの思いはその夫が帰
国と共に自分を優しく抱きしめてキスをしてくれるはずだと信じて
いた。
﹁戦場でお変わりになられたのですか?﹂
彼女の言葉通り夫は出陣前の細やかな優しさと心の躍動感を失っ
ていたのである。
﹁私は、疲れた﹂
戦場で死んだ多くの兵士の命を背負ってここにいる。砦の兵士の
前で自分が生きていることのみ喜ぶわけにも行かぬだろう。そんな
理由を説明する気力もなく、ただ妻の手を引いて、グライスは砦に
入って行った。
フェミナがその夜の内に、侍女を連れてカイーキへ発った事を知
ったのは、翌朝グライスが目覚めてからである。
515
フェミナの思い
この日、王都カイーキの人々は若い王子の帰還を歓呼の声で迎え
た。もしも、出迎えに来た兵士たちが道を空けなければ、グライス
は民衆に包まれて進むことも出来ず、王の館に着くのは日が暮れて
いたかも知れない。
帰還を告げるべき王はもちろん不在である。あと、帰還を告げる
とすれば姉のリーミルだった。彼女には次の出陣の相談をせねばな
らず、何より手渡すべき品がある。グライスは甲冑のみ脱いだ質素
ななりで姉の居室に向かった。グライスの帰還の歓迎の宴の準備に
忙殺された後で一息ついているはずである。王が不在の今、王女と
王子の立場にいる者にゆっくりとくつろぐ時間は少ない。グライス
が笑みを漏らしたのは、姉がその忙しさにぼやく様子を思い浮かべ
ることが出来たからである。
入り口の簾の向こうに、入室を戸惑う気配の弟の姿を見つけたリ
ーミルが声を掛けた。
﹁グライス。お帰りなさい﹂
﹁姉上。ただ今戻りました﹂
短い沈黙の後、グライスは紫の布に包んだ品を姉に差し出した。
解きかけた包みから銀の腕輪の一部が見えた時、リーミルは手を止
めて包みを開こうとはしなかった。
グライスは話題を変えた。
﹁私は直ぐに出陣せねばなりません。我らが王のご命令です﹂
﹁もう、次の出陣ですって﹂
﹁パロドトスが何やら画策している様子。いまだシュレーブにいる
我らが王と兵士たちを、無事に我が国に戻さねばなりません﹂
﹁そうなの﹂
516
今度は眉をひそめたリーミルが話題を変えて言葉を続けた。
﹁フェミナとは?﹂
﹁フェミナ?﹂
﹁今朝早く、泣きながら戻ってきました﹂
﹁何か言ってましたか﹂
﹁私の部屋に駆け込んできて、貴男が変わってしまったと﹂
﹁そうですか﹂
グライスは自分の心の変化を十分に説明してやれないという罪悪
感を持っていた。しかし、姉の口からそれを聞かされると、妻が夫
婦間の問題を姉に告げ口をしたような不快感も湧いた。
不快そうに眉を顰めるグライスに、リーミルは姉として、女とし
てアドバイスを与えた。
﹁宴の前に、もう一度会っておくと良いわ﹂
どうせ、夫婦は宴で顔を合わせる。その前に夫婦間の些細な問題
を解決しておけば、家臣にも心配を掛けずにすむというのである。
﹁フェミナと会う前に、風呂に入って、その汗臭い衣類も改めなさ
い。そうすれば気分も変わるでしょう﹂
グライスはその言葉に袖口を鼻に近づけて、くんっと臭いを嗅い
で顔をしかめて納得した。出陣前と変わらぬ弟の素直さを愛でるよ
うに、リーミルは彼を優しく抱いて囁いた。
﹁よく生きて帰ってきたわね。嬉しいわ﹂
グライスには姉の声が少し震えているのが分かった。
﹁さぁ。フェミナのところへ﹂
リーミルはグライスに背を向けて入り口の簾を指さした。グライ
スは俯いて目を閉じ顔を背けたリーミルの目から涙が溢れるのでは
ないかと思った。リーミルが口元に当てた指先から嗚咽が漏れ出す
こことはなかったが、彼女の視線の先に紫の包みから覗き見える銀
の腕輪があった。彼女がアトラスに贈った品である。グライスは黙
って姉の部屋を辞した。
517
風呂に入ってみると、数ヶ月水浴びしかしなかった体からは、滑
稽なほど垢が落ち、陽と風と埃と地にまみれた髪はもとの艶やかさ
を取り戻した。侍女が用意した香油を少しつけた。香を焚きこめた
衣類を身につければ生まれ変わった心地がし、妻に心情を語る素直
さが戻ったようにも思えた。顔を見せてもおかしくないフェミナは
姿を見せず、侍女をやって様子を伺えば、彼女は王妃の間に閉じこ
もって昼食の席にも姿を見せぬと言う。
﹁手っ取り早く言えば、拗ねていると言うことだな﹂
そう言ったグライスの言葉に、侍女は頷きはしなかったが戸惑い
を見せたのが同意の印だった。グライスが時に少年の心を見せるよ
うに、フェミナの心も十六歳の少女の幼さを残していた。
王妃の間への侵入は、以前経験したようにフェミナの侍女たちの
間を押し通ってゆかねばならないのかと考えていたが、侍女たちは
抗いもせずグライスを迎えた。むしろ閉じこもってしまった后を案
じて助けを求める視線でグライスを眺めていた。
﹁すまぬ、フェミナ。私が間違っていた﹂
グライスがしかめっ面で小さく繰り返す呟きは、姉のリーミルが
教えた拗ねた女をなだめる手段である。周囲の侍女にも漏れ聞こえ
ていたが笑い出す者はなく、この若い夫を微笑ましく見守っている
ようだった。
﹁フェミナ。入るぞ﹂
その呼びかけに、一呼吸置いて妻の拒絶の声が帰ってきた。
﹁まだ駄目です。入らないで﹂
怒りの声ではなく、突然の来訪者に対する驚きの感情がこもって
いた。侍女たちが顔を見合わせてから、グライスに頷いて見せ、彼
女たちも后と同意見だと伝えた。
﹁全く。女というのは気難しい﹂
姉から妻が泣いていたと聞いていたから、グライスは事情を察し
518
ている。まだ入るなと言うのは泣きはらした目の涙を拭い、乱れた
髪を梳く暇をくれということである。アトランティスでは王家の館
のように豪奢な建物であっても、部屋仕切るドアはない。部屋を仕
切る物はカーテンか簾で、今のグライスにはフェミナが慌てて衣服
を整える様子が簾の向こうに見えている。男性の立場で言えば、些
細なもめ事など、夫の謝罪を妻が受け入れて笑顔を浮かべるだけで
良いはずだ。
﹁入る﹂
グライスは短くそう言って妻の部屋へ侵入した。彼は妻が怒るか
とも考えたが、フェミナがグライスに向けた表情は怒りではなく戸
惑いだった。彼女は戸惑う心を整理するようにグライスに言った。
﹁ごめんなさい。貴男が生還したと聞いて嬉しくて、甘えることし
か考えていませんでした。私は悪い妻でしょうか?﹂
フェミナにそう言われて、グライスの胸に彼女の顔を埋められる
と、グライスは謝罪と彼の心情を妻に話すタイミングを失っていた。
彼は国を預かる王の代理の言葉を吐いた。
﹁いや。私が不在の間、よくこの国を支えてくれた﹂
﹁本当? 本当にそう考えてくださるのですか﹂
﹁あぁ﹂
﹁これでやっと、貴男の妻になれたような気がします﹂
﹁これからも、私が不在の間は国と民を守ってくれ﹂
﹁これからも? これで最後では?﹂
﹁私は間もなく出陣する﹂
グライスの言葉で、フェミナは夫の胸から顔を上げ、信じられな
いものを見るように夫を眺めてなじった。
﹁また出陣? フローイの殿方はなんと戦がお好きなのです。この
国で、この館で、また私は一人ぼっち﹂
フェミナの声は怒りから、不快悲しみと失望に変わった。彼女は
グライスに入り口を指さした。
﹁出て行って﹂
519
このまま部屋にいても、妻をなだめることも慰めることも出来な
いだろう。グライスは自分の部屋に帰ることにした。出陣を前にす
べきことは多いのである。妻に出て行けと命じられて退散する夫。
滑稽な姿かも知れないがフェミナの侍女たちに彼を笑う者は居なか
った。
陽が西の空を赤く染め始めた頃、館の広間でグライスの戦功を祝
う宴が始まった。王が不在のためにそれほど豪勢な物ではなかった
が、心づくしの料理や酒がテーブルに並べられ、都の主立った重臣
たちも顔を揃えていた。
リーミルがフェミナの手を取って引いてきて、大きなテーブルの
上座に座るグライスの脇に座らせた。離れて眺めれば、お似合いの
夫婦だが、二人に会話がなかった。宴も日没と共に盛り上がり、酒
に酔った者たちの歌声が響いていた。グライスもフェミナも、意地
を張るように互いの会話を避けていた。
やがてフェミナがグライスの上着の裾を引いて、会話のきっかけ
にした。
﹁私とメガムス山の峠に行っていただけませんか?﹂
遠慮がちのか細い声にグライスは答えた。
﹁かまわぬが、いつ?﹂
﹁今夜﹂
﹁今夜? 今夜は無理だ﹂
宴もたけなわで、いつ終わるとも知れない。この宴はグライスの
戦功の祝いと同時に亡くなった大勢の兵士の追悼も兼ねていた。宴
に顔を揃えた者の中には家族を戦でなくした者もいる。主賓がこの
席を離れるわけには行かぬのである。フェミナはすがるようにグラ
イスに体を寄せて言った。
﹁でも⋮⋮﹂
﹁くどいぞ。フェミナ﹂
メガムス山の峠。フェミナが言うのは、出陣前に二人がカイーキ
520
の夜景を眺めた場所だった。グライスは彼女が二人にとってロマン
チックな場所で過ごしたいと要求しているのだろうと決め込んだ。
フェミナはこれ以上何を言っても無駄だと諦めるように席を立ち、
宴席から姿を消した。
この日以降、二人はフローイ国の習慣に従って、朝夕の食事のテ
ーブルは共にしたが、特別な会話はなかった。グライスは出陣の準
備に慌ただしく過ごし、二週間後、五百ばかりの兵を率いて再び出
陣した。
フェミナはその夫の背を寂しげに見送っただけである。
521
謀略の王都パトローサ1
アトランティスに﹃グスリルが妬みに惹かれてやって来る﹄とい
グスラル
リカケー
ニメゲル
う表現があった。本来は悲しみなど負の感情を喰らい、人々を悪い
感情から解放する神獣だが、月の女神が復讐の神に遣わしたグスラ
ルの数匹が、その性格を変えられグスリルと呼ばれる悪意の手先に
なった。人の負の感情を喰らうために、妬みの感情を持つ者に取り
ロゲル・スリン
憑いて、その悪意を煽るという。今のこの地でグスリルに相当する
スーイン
者が居るとすれば、六神司院のブクススだろう。
神帝の追悼式典の仕上げに慌ただしく働いているはずの人物が、
この王都パトローサに姿を見せていたのである。彼は王ジソーに一
礼し、それが新たな儀礼であるかのように、顔を上着のフードで覆
って王の間を辞した。
︵戦は一段落した︶
シリャード
そう言う思いがシュレーブ国王ジソーの胸にあった。シュレーブ
ロゲル・スリン
国優位の内に戦火は縮小した。反逆国家共から聖都を守った。その
功績は尾ひれをつけて六神司院と各国に伝えてある。この冬の間に
は小国はシュレーブに靡いて、アトランティス議会でのシュレーブ
国の発言権も高まるに違いない。
発言権が高まる。王ジソーはフローイ国王ボルススのように、機
会があればアトランティスを統一してやろうとは考えては居ない。
では、亡くなった者たちがこの王の心を知れば、自分は何のために
命を捧げたのかと嘆くだろう。
﹁あとは、フローイ国のボルススめのこと﹂
王ジソーは腹立たしくその名を呟いた。イドポワの門の戦いでは、
フローイ軍の損害はシュレーブ軍より少なかったにもかかわらず、
522
ルージ国王リダルを討ち取るという第一の戦功はフローイ軍に奪わ
れた。ネルギエの地での戦いでは戦いに参加したシュレーブ軍は壊
滅状態で王ジソーすら戦場を脱出する状況だったが、フローイ軍は
持ちこたえたばかりでなく、王子アトラスを討ち取る戦功まで上げ
た。まるで、フローイ国がシュレーブ国に損な役回りばかり押し付
けているような腹立たしさがある。
ロゲル・スリン
先ほどまで居た六神司院のブクススが、王ジソーの心を乱してそ
んな妬みや苛立ちをかき立てていたのである。
ジソーはシュレーブ国王家の次男として生まれた。兄のオタール
スーイン
が幼い頃から厳しい帝王教育を受けるのを横目に、彼は狩りや詩歌
に自由な時を過ごした。転機が訪れたのは、兄オタールが神帝に選
出されたことである。空位になったシュレーブ国王の座に就くこと
になったが、古式の礼法にうるさいシュレーブ王家の中で、臣下に
対する儀礼をわきまえて居るとは言い難い。臣下の者から小馬鹿に
されているのではと被害妄想の中で暮らすうちに、海外に遠征して
いた父のシュレーブ王が帰国の船で病死した。彼を支える後ろ盾が
失われた。彼は間輪に信頼できる者も無く王位に就いた。
国内の貴族から王妃を迎えたが、エリュティアを産んで二年後に、
第二子の出産の時に母子ともに亡くなった。それ以来、彼は新しい
ニクスス
王后を迎えずにいた。唯一の肉親と言える一人娘だけを溺愛してい
たのである。
もともと、運命の神の気まぐれで舞い込んできた王位である。奇
妙なことに、シュレーブという国に対する愛国心や執着心は無かっ
た。むしろ、自分を軽んじているように見える家臣たちに対して嫌
悪感さえ抱いているふうだった。自分一代さえ安泰なら、あとは誰
が王位を継いでこの国をどうしようが興味がなかった。
その王ジソーが、突然に表情をほころばせた。
523
シリャード
﹁おお。よう戻った。これでそなたも一人前の王女よな﹂
王の間に聖都から戻ったエリュティアが姿を見せたのである。彼
は娘がこの国で唯一彼を信頼し愛してくれる人間だろうと考えてい
た。
シリャード
﹁ただ今戻りました﹂
シリャード
﹁聖都の様子はどうであった﹂
﹁オタール様は聖都の少し上流の墳墓に祀られると﹂
﹁おおっ、そうか。そのうち、私も参るとしよう﹂
ロゲル・スリン
父の言葉にエリュティアは話題を変えた。
﹁六神司院のブクスス殿が?﹂
エリュティアが首を傾げたのはこの王宮でその人物を見かけたと
言うことである。正体を隠したいらしいが、素直なエリュティアは
顔を隠したブクススの姿を一目見て、人物を判別していたある。接
点はないだろうと考えていた娘から飛び出した意外な何王ジソーは
尋ねた。
シリャード
スーイン
﹁奴を知っておるのか?﹂
﹁聖都で神帝のお話を聞かせてくださいましたから﹂
﹁なるほど﹂
﹁お父さま⋮⋮﹂
スーイン
﹁なんだ? エリュティア、我が娘よ﹂
﹁アトラス様は、神帝暗殺に関わったのですか。本当に?﹂
シーソーにとって、エリュティアには困ったことが一つある。素
スーイン
直であるが故に、思ったことを口にし、それが核心を突いていると
言うことである。エリュティアはルージ国王子アトラスが神帝暗殺
に関わったということに疑問を抱いているらしい。しかし、もしそ
うなら、シュレーブ国とフローイ国がルージ国を討ったという正当
性が失われてしまうだろう。ジソーにとってエリュティアの疑問に
答えることは出来ない。
ジソーはやや間を置いて考えるふりをし、表情に満足げな笑顔を
浮かべて、娘に提案した。
524
﹁戦も一段落した。領地の様子を見て回らねばならぬ。お前も一緒
にどうだ。都から離れれば気も晴れる﹂
首を傾げたまま質問の答えを求め続ける様子の娘に、ジソーは新
たな提案を付け加えた。
﹁おおっ、そうだ。フローイ国のグライス殿よりフェミナの近況を
シリャード
伝え聞いている。ファギヌに伝えてやれば喜ぶだろうて﹂
ファギヌは聖都付近に領地を持つファーギン家の頭首である。シ
ュレーブ王家に次ぐ名家と言っていい。娘をフローイ国に嫁がせた
が便りがほとんど無いとぼやいていたのを思い出したのである。エ
リュティアはジソーの言葉に、諦めたように顔を背けて言った。
シリャード
﹁いえ、しばらくは王都パトローサで休みとうございます。ルスラ
ラも聖都への旅の疲れが抜けぬ様子﹂
﹁そうか。しかし、儂は明日、出立せねばならぬ﹂
ジソーは最後に自分の決断だけを言って娘に背を向けて、それ以
ロゲル・スゲラ
上語ろうとしなかった。その背を見ると、酷く孤独に見える。
ロゲル・スリン
同じ頃、王都パトローサの船着き場に六神司院の最高神官の一人、
ブクススがパトローサを振り返って、曰わくあり気にニヤリとほく
そ笑んでいた。
525
謀略の王都パトローサ1︵後書き︶
次回更新は明日の予定です。謀略の深みにはまっていくフローイ国
王ボルスス・・・
526
謀略の王都パトローサ2
シリャード
シリャード
グラト国との戦場の真北に聖都がある。王ボルススは聖都に用は
にかわ
なく、国境へと帰国の兵を進めていた。ただ、兵糧を始め、折れた
剣や槍や失われた矢の補充、甲冑を補修するための膠などの物資が
不足がちである。通りかかった村や町で調達できる量にも限りがあ
った。
鋭気に満ちた頃の王ボルススなら、一気に帰国への道を辿ったか
も知れないが、数ヶ月の戦いに疲れた今のボルススは、仇敵のパロ
ドトスへの不安が高まっていた。ボルススはシフグナの地を前に、
りんしょく
装備を充分に調えておこうと考えた。
﹁しかし、何と吝嗇な男でしょうな﹂
王の傍らを歩いていた副官アレクロスが、周囲に広がる広大な麦
畑を眺めて言った。既に刈り取りは終わっているが、豊かな実りが
想像できた。吝嗇とは、もちろん再三の要請にもかかわらず、兵糧
を提供をしぶるシュレーブ国王ジソーのことである。ボルススは頷
いた。
﹁全く、ここが敵国ならさっさと奪ってやるものを﹂
﹁しかし、ここなら水だけは不自由しませんな﹂
ルードン河の対岸に王都パトローサが見える。ボルススはそんな
河原で兵を休ませ、使いの者を渡し船に乗せてパトローサへ送った。
ジソーの所在を確認した後、ボルスス自身が嫌みの一つも言うため
に出向くつもりで居た。ただ、使いは意外な返答をもたらした。
﹁何、ジソーめは出陣したと?﹂
相当ボルススに、世事に長けた使いは町の様子まで調べ上げてき
ていた。
527
﹁いえ、そう言うことになっておりますが、市民どもに確認しまし
たところ、兵を動かした気配はございませぬ﹂
﹁当然のこと。グラトの者どもは、手に入れた領地で昼寝でもして
居るところだ。どこに戦があるか﹂
﹁しかし、王ジソーより伝言が残されてございました﹂
﹁あの吝嗇家が伝言だと﹂
﹁王ジソーは、これで何でも調達せよと、金の粒を袋で5袋、提供
なさいました﹂
兵糧の代わりに砂金を提供するという王ジソーに、ボルススは首
を傾げたが、アレクロスがその意図を読み解いて見せた。
﹁ジソー様はネルギエの戦いの後、逃げるように戦場を去られまし
た。我らと顔を合しづらいのでしょう。しかし、金の粒が袋で五つ
とは思い切った贈り物ですな﹂
﹁失のうた兵の命が、それっぽっちで購えるものかよ﹂
﹁確かに﹂
頷くアレクロスにボルススが命じた。
﹁五十の兵と共にパトローサへ渡り、二週間分の兵糧と酒を調達し
て参れ。三日ばかりここで兵を休めよう﹂
数時間後、アレクロスらは取り急ぎ今夜の分をフローイ軍の陣営
に届けてよこした。もし、シュレーブ国から食料を提供されていれ
ば、多少なりとも安全性に疑いを抱いたかも知れない。しかし、大
勢の王都の民たちが行き交う市で直接買い付けた食料だけに、疑う
者はなかった。何より久しぶりの温かな食事である。届いた酒と干
し肉、新鮮な果物、焼き上げて間もないパンに兵士たちは喚声を上
げた。
︵儂も老いたわい︶
体が重く感じるのは満腹感のせいばかりではない。ボルススは食
事の後、一挙に戦の疲れが湧いたようで体の怠さを感じていた。指
先には軽い痺れまで感じてボルススは無意識に指の先をこすった。
528
三日の休息と命じていたが、ボルススは二日目に出発を命じた。
体調がすぐれず回復する気配はない。早く帰国してじっくりと体を
休めたいと考えたのである。見回せば疲れがたまっているのはボル
ススだけではない。若い兵士たちも冷や汗を流し、うつろな目をす
るほど体調を崩した者が大勢居る。
︵水あたりでもしおったか︶
ボルススはそう考えていた。慣れぬ土地で体調を崩すことはよく
あることだった。ただし、恐ろしいのは、そんな兵士たちが増えて
ゆくことである。歩けなくなった兵士を別の兵士が支えて歩く。そ
の兵士も疲れて倒れる。やがて軍は兵を進めるのもおぼつかない状
態になる。過去の海外遠征で、ボルススはまだ動ける兵士を救うた
めに、倒れた数多くの兵士をその地に残して捨てる辛い経験があっ
た。
三日後、国境の地シフグナを前に、ボルススが恐れていた出来事
が起き始めていた。倒れる兵士たちを荷車に乗せて運んでいるが、
その荷車を牽く兵士たちもまた苦しげにあえいでいた。兵士たちの
額に流れる汗は労働の対価ではなく、体調不良が沸き上がって体を
凍り付かせるような冷たい汗である。
﹁コトバートが良かろう﹂
ボルススは額の冷や汗を拭き、痺れる指を向けて渡河の位置をそ
う指示した。ボルスス自身も体調を崩している。しかし、年老いた
王は重い甲冑は脱ぎ去ったが、やはり体調を崩しているアレクロス
の懇願にも、自分の足で歩くと譲らなかった。
千八百の兵に与える水の便を考えて、ルードン河沿いに行軍する
予定である。ただ、帰国の途上、どこかで川を渡らなくてはならな
い。アトランティスの大地を貫くルードン河もこの辺りは人が歩い
て渡れる浅瀬がある。上流に行くにつれて浅瀬は増えるが、仇敵の
パロドトスが治める土地で渡河して不利な体勢を見せたくはなかっ
529
た。弱みを見せればつけ込んでくるに違いない。
﹁あれは、ロットラスではないか﹂
川沿いに歩いてくる数人の人影を見つけたアレクロスが言った。
確かに、国境の手前から、グライスに命じられて戻ってきたロット
ラスだった。
﹁何事か⋮⋮﹂
ボルススは駆け寄ってきたロットラスに問いかけ終わる前に、地
に膝をついて吐いた。胃が口から飛び出すのではないかと思うほど
酷い吐き気がボルススを襲ったのである。呼吸さえおぼつかないほ
どの吐き気に、ボルススは自分の体が何か悪い物でも吐き出そうと
しているのかとも感じた。
︵何か悪いもの︶
ロゲル・スリン
そう思いついたボルススのかすむ目に荷車の兵糧が目に入った。
六神司院の者たちが本人も気づかぬように暗殺するために遅効性の
毒物を遣うことがあるという。王都パトローサで購った兵糧が入っ
た百の袋とワインが入った数十の酒壺。全てに毒を入れる必要はな
かった。フローイ兵が購入した数袋の兵糧にでも毒物を紛れ込ませ
ることは出来るだろう。
530
謀略の王都パトローサ2︵後書き︶
次回更新は今週末の予定です。ボルススの運命は、そしてシフグナ
の西で領主パロドトスを牽制するグライスは・・・
531
コトバートの虐殺
王ボルススはもはや体調の悪さを兵に隠そうとはしていなかった。
隠しきれる状態ではなかったし、兵たちも同じく目眩や手足の痺れ
に悩まされ、戦うどころか行軍すらままならない者が大半である。
王都パトローサで購入した多量の兵糧も運ぶ余裕はなくうち捨てた。
空になった荷車は歩けなくなった兵士たちを乗せている。
そんな中、グライスから遣わされたロットラスが合流し、この悲
惨な有様に絶句した。
﹁いかがなさったのです﹂
﹁ふんっ。流行病にしては、この有様を見て喜びそうな者たちがた
んとおるわい﹂
シフグナの領主パロドトスに含むところがあるらしいと聞いて、
王ボルススは毒を盛られたという思いを深めた。しかし、誰がどん
ロゲル・スリン
な目的を持っているのか、その意図が掴みきれない。思い当たる者
たちは六神司院を始め数え切れなかった。
そして、誰の仕業か分からぬ以上、この国で誰かに頼ることもで
きず、フローイ国へ帰国するしかない。ボルススは空を見上げた。
雲に覆われてはいたが雨の気配はまだ無かった。ボルススは今夜の
野営の地をこの広い河原と定めて、兵にそれを命じた。健康な者な
ら国境まで五日とかからぬ距離である。しかし、今の兵ならその倍
の時間はかかるかも知れない。
ボルススはロットラスら主だった者と野営の焚き火を囲んで、口
に含んだワインを地面に吐き出し、いまいまし気に言った。
﹁ワインまで苦いわい﹂
河原のそこかしこに炊き上げられる焚き火の火に辺りを見回すと、
携行食ガンバクを薄い粥にしたものすら喉を通らぬ者もいる。兵士
532
たちは弱り切っていた。
ボルススは決断した。
﹁アレクロスよ。兵を二手に分ける。未だ自力で歩ける者千人をロ
ットラスに預ける﹂
ロットラスに向き直って命じた。
﹁お前は兵を率いこのままルードン河の南岸を西へ向かい。一気に
シフグナを抜けよ。﹂
﹁我らが王は?﹂
﹁儂は明日コトバートで渡河し、シフグナへ向かう﹂
ロゲル・スリン
﹁シフグナの前で兵を分けるなど危険ではありませぬか﹂
﹁何、念のためよ。今回の出兵は六神司院の他、シュレーブ国の督
促も受けてのもの。もし、督促に応じて出兵した我らを襲うならば
信義に背く。各国の笑いものになるだろうよ。面子だけのジソーめ
がそんな事をするとは思えぬ。それに、パロドトスに何も仕掛けて
くる気がなければ、問題はあるまい。それに⋮⋮﹂
口ごもった王の次の言葉を、アレクロスとロットラスは察した。
パロドトスらが兵を動かして今のフローイ軍を襲えば、フローイ軍
千八百は全滅するかもしれない。王ボルススはそれを避けるためル
ードン河の南北、両岸に分けて兵を進めるというのである。パロド
トスは両方を襲うことは難しく、二手に分かれたフローイ軍の一方
は助かるだろう。そしてパロドトスがどちらを襲うかと言えば、王
旗を掲げて行軍するボルスス直卒の部隊である。王ボルススは囮に
なって注意を引きつけるというのである。アレクロスは驚いて提案
した。
﹁王よ、私が王旗を掲げて渡河いたしましょう。奴らは王旗を目指
して参ります。王は旗を伏せたままロットラスと共にルードンの南
岸をゆかれませ﹂
﹁いや無駄だ。パロドトスは儂の面をよぉ知って居る。二手に分け
た兵のどちらに儂が居るかはすぐに判別できよう﹂
﹁では、国境に兵を進めているグライス様を呼び寄せては﹂
533
﹁いかん。僅かな手兵を敵地奥深く踏み込ませることになる﹂
明くる日。王ボルススは、出発するロットラスに率いられて進む
千の兵士を見送った。ロットラスは河原を南へと離れ、広がる森の
中に姿を隠すように、その中の街道を進んでいった。兵の数が半分
になった、パロドトスが何かを仕掛けてくるとすれば絶好の機会に
も見えるだろう。
倒れた兵を支える兵士の数も減り、ボルススの部隊の行軍は更に
過酷になった。
﹁フローイまであと一週間じゃ。旨い者をたらふく食い、温かな寝
床でゆっくりと戦勝の疲れを拭おうぞ﹂
ボルススは、あと一週間︵アトランティスの暦で五日間︶と触れ
回らせたが、もちろん兵士を励ます嘘である。無事にシフグナを抜
けるには二週間はかかるかもしれない。
河原を上流へと進むボルススの一隊に視界が開けた。河はこの辺
りで緩やかに蛇行し、川幅も広がり河原を舐めるように浅く流れて
いた。深いところでも兵士の膝の辺り。ここなら体が弱り切った兵
士でも渡ることが出来るだろう。いまは対岸の芦原に遮られて見え
ないが、芦原を超えればシフグナへ続く街道がある。
﹁一雨来るか﹂
多少の幸運に感謝した。雨がもう一日早ければ、川は増水しこの
地も渡ることは出来ず立ち往生したろう。空は雲で覆われて太陽は
見えないが、明るさをみれば日暮れまではまだ間がある。ボルスス
は渡河して向こう岸に見える芦原で今夜をすごそうと決めた。
﹁盾は捨てよ﹂
ボルススはそう命じた。槍を杖代わりにしている兵も多いが、ふ
らつく足で大きな盾を持って渡河するのは危険だろうと感じたので
ある。
534
﹁歩けぬ者には肩を貸してやれ﹂
副官アレクロスは兵士たちそう命じたばかりではなく、彼自身も
おぼつかない足取りで荷車に横たわっていた兵士に肩を貸し、河へ
足を踏み入れた。
八百の兵のうち大半が渡りきったのを確認して、ボルスス自身も
河へ足を踏み入れた。浅くとも流れが速く秋の水はもう冷たかった。
ボルススが川を半ば渡った時、向こう岸の芦原が風にそよぐのが見
えた。しかし、芦原を揺らしたのは風ではなかった。弓を手にした
兵士たちである。数を数えれば土手沿いに、数百の敵味方不明の兵
が弓を構えていた。
剣を抜けと命じても、その体力のあるフローイ兵はほとんど居な
かったろう。疲労しきって思考力も感情も失った兵士たちは、起き
ていることさえ理解できぬように、降り注ぐ矢を浴びて絶命してい
った。
﹁何者か﹂
ボルススはそう叫んで駆けだしたが、対岸の敵の兵士の所属は分
からないまま、新たな矢をつがえて二射、三射と矢を放ち続けるの
が見えた。
﹁ボルススめは、生け捕れいっ﹂
女の声が響き、敵兵は弓を捨て剣を抜いて襲いかかってきたが、
もはやまともに反撃できるフローイ兵はいない。それは戦いとは呼
べず一方的な虐殺だった。兵敵は抵抗するフローイ兵を斬り、まだ
息のある兵士にはその喉笛に剣を刺した。ふらつく足で逃げようと
するフローイ兵は追われてその背後から止めを刺された。間もなく、
数百のフローイ兵が死体になって河原に散らばった。
負傷し河原に横たわるボルススに近づいてきた者が居る。先ほど
535
の命令を発した女に違いなかった。ボルススはこの女に記憶の糸を
辿った。力も尽きたボルススは剣も捨てて言った。
﹁ふんっ。嬢ちゃんかよ﹂
﹁私をご存じで?﹂
﹁おおっ、その母親譲りの蛇のような残忍な目。ヒクサネの娘パレ
サネであろう﹂
﹁私のことをご存じなら、これもご理解できるでしょう﹂
パレサネは河原に横たわる数百のフローイ兵の骸を指さした。
﹁父と母の復讐かよ。手のこんだことを﹂
﹁父と母? そして、私の﹂
十八年前、ボルススは新たな都カイーキを見せると称してシフグ
ナの王と王妃をフローイ国へ招いて謀殺した。パレサネはその時に
シフグナに残された王の忘れ形見である。
﹁そなたの復讐だと?﹂
﹁お前に父と母を奪われ、パロドトスには国を奪われた﹂
﹁国を﹂
﹁そうよ。奴が私を養女にしたという名分を掲げていても、その実、
ただの妾に過ぎぬ。奴に犯されるたびにつのる憎しみが、ボルスス
よ、お前に分かろうか﹂
シフグナ国が王を失った後、弟のパロドトスが王位を継ぎ、シュ
レーブに併合された。ボルススはその経緯は知っていても、シフグ
ナ王女パレサネが叔父のパロドトスの養女になった内情を知ったの
は初めてである。
﹁憎しみだけで生きてきたか。哀れなものよな﹂
ボルススの冷笑にパレサネも冷笑で答えた。
ロゲル・スリン
﹁その憎しみの半分は今日で終わる。後の半分はパロドトスめを殺
した時に﹂
﹁こんな事をして何になる。六神司院の宣司を受けて兵を挙げた我
らに兵を向けるなど﹂
536
ロゲル・スリン
﹁その六神司院がフローイを、ボルススめを討てと﹂
ロゲル・スリン
﹁しかし、何の得がある﹂
ロゲル・スリン
﹁我ら王家の再興。六神司院はフローイの地を切り取り放題だと﹂
六神司院はシュレーブに併合されたシフグナをもう一度独立国の
ロゲル・スリン
地位に戻すと約束したらしい。フローイ軍を毒で弱らせ、止めをシ
ロゲル・スリン
フグナにさせる。フローイ軍の最後に六神司院が関与した証拠は残
らない。
﹁ふんっ、腐りきった六神司院が考えそうなこと。ジソーは知って
居るのか?﹂
﹁ジソー? そうね。ジソー殿の兵も利用することに致しましょう
か。ジソーを手先にフローイに攻め込ませ、得られた彼の地は我ら
シフグナの物に﹂
ボルススはパレサネには答えず、周囲を見渡した。ややかすむ目
にでも敵兵を数百と見積もることが出来た。おそらくシフグナの大
半の兵をここへ動員したと言うことである。ロットラスが率いた兵
は未だ襲われることなく帰国の足を速めているだろう。ボルススは
ため息をつくように言った。
﹁嬢ちゃんにしてやられるとは、この儂も老いたわい﹂
ボルススはパレサネが剣の切っ先を向けるのを眺めて言葉を継い
だ。
﹁儂の用も終わったかい﹂
﹁いえ、あなた様にはまだ役に立っていただかねば成りません﹂
パレサネはそう言うと剣を捨てて側の手斧を振り上げた。振り下
ろされた手斧に血しぶきが吹き上がって、ボルススの頭部が河原に
転がった。しかし、ロットラスの兵を逃がしたボルススの表情に無
念さはなく、ボルススが運命を全うし、それを受け入れたかのよう
にみえた。
パレサネはその表情に憎しみを露わにした。ボルススが兵の理不
尽な死に怒りや悔しさを吐きつつ死んでこそ、彼女の怨みも晴れる
はずだった。
537
水の重みに絶えきれず重い雲から溢れた雨が、河原にいる者たち
の体を痛いほど打った。その雨の下で、パレサネはボルススの遺体
に憎しみを晴らすように斧を繰り返し振り下ろし続けた。パレサネ
の恐ろしげな形相に、制止する兵は居なかった。大粒の雨に打たれ
ながら彼女の頬に涙が流れているようにも見える。ただ、その涙は
復讐を果たした歓喜の涙ではなく、癒されない憎しみと悲しみに混
乱する者の涙のようだった。
538
コトバートの虐殺︵後書き︶
ボルスス王の死。国境に兵を進めていたグライスはそれを知ります。
王都カイーキのリーミルやフェミナに走る衝撃。
次回更新は明日の予定です。
539
王ホルススの死
︵王が帰参するとすれば、今日辺りか︶
グライスがそう考える日が一日、また一日と過ぎたが、帰国する
はずのフローイ軍は姿を見せない。グライスが居るのは国境の峠の
隘路を抜けて半日の位置にあるルウオの砦である。仇敵シフグナを
刺激しすぎるのを避けて兵をこの地に留めている。
戦争状態ではないから商人などがフローイとシュレーブの往来で
頻繁にこの街道を利用する。グライスはさりげなくこの地に数百の
増援を駐屯している情報を、商人たちにばらまいていた。シフグナ
のパロドトスも背後にグライスの兵の影を感じて迂闊に兵を動かす
ことは出来ないだろうと考えていた。ただし、国境には物見の兵を
数人組にして頻繁に出して動向を探らせていた。
そんな国境を物見に出ていた兵が、足下もおぼつかない兵士の肩
を支えて戻ってきた。
﹁その者たちは? その有様はどういうことだ﹂
グライスの問いに、戻ってきた物見の兵が答えた。
﹁物見に出向く途中、この者たちに出会いました。隊長は私にこの
者を連れてグライス様に報告に行けと。隊長は詳しく探るために国
境へ﹂
足下もおぼつかない兵士。それは事情を聞けば、王ボルススから
ロットラスに指揮を委譲された兵の一人である。このような弱り切
った兵が峠の向こうに列をなしているという。兵は言った。
﹁ロットラス様と共にルードン河南岸の街道を帰国の途についてお
りましたが、関所でシフグナの者どもに行く手を阻まれ、ロットラ
ス様は強行突破を命じられました﹂
﹁ロットラスは何処に居る。ロットラスに尋ねたい﹂
540
しんがり
﹁おそらくは、隊列の殿を守って戦場を離れているかと﹂
﹁では、我らが王はいかがした﹂
﹁分かりませぬ﹂
﹁分からぬと?﹂
グライスは苛立ちを押さえ込んだ。目の前にいるのは今にも倒れ
そうな一人の兵士である。王が何処にいるかなど知るすべはないだ
ろう。グライスは砦の兵を振り返って命じた。
﹁新たな物見を出せ。国境の様子を全て明らかにせよ。必要なら私
自身も出向く﹂
グライスの命令に、新たな物見の者たちが砦を駆けだして行った。
しんがり
間もなく、先に帰参した物見の隊長が戻り、新たな情報をもたら
した。
﹁ロットラス様は無事です。我らの隊列の殿を守って後ほど帰陣さ
れるかと﹂
﹁我らが王はいかがした? 無事か?﹂
﹁関所の兵は数十名。多くとも百を少し越える程度でございました。
敵の大半は死傷して逃げ去り、無人の関所は炎上しておりました。
ただ我らが王は、ロットラス様と兵を分けられたとのこと。王の部
隊の所在は掴めませなんだ﹂
まだまだ、情報は不十分だが、グライスは決断して命じた。
カイーキ
﹁国境に兵を出す。帰国する兵を無事に収容せねばならん。至急、
カイーキ
王都の姉君に戦闘の発生と王の安否が不明だと伝えよ﹂
第一報を伝える伝令の兵士が王都へと走り出していった。
グライスは豪雨の中を夜を徹して峠を越えた。途中で休息してい
る状況ではなかった。病か何かで倒れるほど弱った兵士たちが列を
なして歩むのを、すれ違いざま励まして歩いた。国境を越えた安堵
感に地に伏して歩けなくなった兵士には介護の兵をつけてやりもし
た。
541
隊列の最後を守って歩いていたロットラスと出会った。もちろん
王ボルススと分かれて行軍していた彼は、王の最後の消息を知らな
い。
峠を下り始め、シフグナとの国境にある関所が見えたのは早朝で
ある。雨で火災は収まっていたが、焼け落ちた屋根や柱が淡い霧を
通して見え、敵味方の死体が転がっているのも分かった。昨日、こ
こで戦闘があったのは間違いなかった。
砦を出る時に引き連れていた兵五百の内、二百は倒れた兵士の介
護につけて砦に下がらせていた。今のグライスは三百ばかりの兵を
率いて、シフグナに一歩踏み込んでいた。砦の建物を除けば周囲は
見渡す限りの荒れ地である。
霧の中から湧いて出るように、一人の騎馬の将が姿を現した。グ
ライスにも記憶がある。パレサネである。彼女は声が届く距離まで
接近し、霧に鈍く響く笑い声を上げた後、短く用件のみ叫んだ。
﹁王子グライスよ。そなたを新たなフローイ国王にしてさしあげた。
我らが贈り物を受け取るが良い﹂
パレサネが投げよこした包みが地面に転がった。ロットラスが目
配せで傍らの兵士に都に行けと指示をした。戻ってきた兵士が抱え
る包みは明らかに血が滲んでいた。包みを解いて確認したロットラ
スは絶句し、グライスは悲しみの籠もった怒気を発して女の名を呼
んだ。
﹁パレサネぇぇぇ!﹂
いうまでもなく、包みの中身は誅殺されてボルススの首である。
グライスが憎々しげに叫んで剣を抜き駆けだそうとするのをロッ
トラスが押しとどめた。馬に乗るパレサネに追いついて斬りつける
ことは無理だろう。何より、パレサネが駆け戻った方向の晴れかけ
た霧の向こうに、敵の兵士の姿がかいま見えた。
﹁グライス様。ここは引き揚げ時。あの女は我々をシフグナの奥深
542
く誘い込もうとしているのです。あの女の手に乗ってはなりません﹂
憎しみが籠もった無言でパレサネの後ろ姿を目で追うグライスに、
ロットラスが提案した。
﹁一度、砦に戻りましょう。これからのこと、リーミル様と協議な
さいませ﹂
グライスにもロットラスの言う理屈は分かっている。王ボルスス
が殺害されたという事実は目の前にある。しかし、その死に復讐す
べき相手は、パレサネ個人だろうか、シフグナの領主パロドトスだ
ろうか、それともその背後にいるやもしれないシュレーブ国王ジソ
ニクスス
ーか、今のグライスにはそれを判じることが出来なかったのである。
﹁パレサネよ。今は去るが、この礼は待たせはせぬ。運命の神に代
わって、私がお前の命日を決めてやろう﹂
その声が届いたのかどうか、立ち去るグライスの背から、パレサ
ネの笑い声が降りかかってくるようだった。
543
王妃フェミナ
国境の情報は一日遅れでカイーキのリーミルにもたらされた。
リーミルは国境のシフグナが仇敵の地だとは知っていたが、シフ
グナが動員できる兵など三百ばかりのはずだった。そんなパロドト
スの兵が二千人近いフローイの大部隊と小競り合いを起こし、全滅
に近い状況に陥しいれるなど、想像もつかなかったのである。
﹁王都の主だった者たちを招集なさい﹂
リーミルがそう命じて、王宮に重臣たちが集まったのは夜も更け
てからである。
﹁哀しいことですが、グライスからの報告に寄れば王が亡くなった
のは事実らしい﹂
リーミルは集まった重臣たちを見回して事実を伝え、言葉を続け
た。
﹁存念がある者はこの場で述べなさい﹂
﹁憎っくきパロドトス、討ち取るべし。早々に討伐の兵を挙げまし
ょう﹂
都の近衛兵を預かるレクドラスの言葉に、大臣ルタゴオが反駁し
た。
﹁しかし、おぬしの手兵はどれほど居る? 都を守る兵は二百にも
満たぬだろう﹂
﹁兵が足りぬのは奴らとて同じはず。それにルウオの砦にはグライ
ス様の無傷の兵が五百はおる﹂
レクドラスの言葉にリーミルも考えた。守るには充分だが、こち
らから攻め込んで敵地を占領するには兵が足りない。それはシフグ
ナのパロドトスも同じだろう。パロドトスはこちらに攻め込む前に、
フローイ国の兵力を削ぎたがっているはず。グライスの兵を盛んに
544
挑発しているのは、彼の兵を領地深くに誘い込んで殲滅しようとい
う意図が伺えた。
別の重臣が言った。
﹁我らが王を殺害したのはパロドトスが暴走したからでは? それ
ならば、我らがシフグナに攻め込むのはシュレーブ国と戦を起こす
こと﹂
﹁我らが王を殺されて、戦を思いとどまれと?﹂
﹁まずはシュレーブ国のジソー殿の意思を伺うのが肝要﹂
幾つもの意見が交わされる中、リーミルは侍従に命じた。
﹁グライスに伝令を。﹃国境から兵を退き、ルウオの砦を固く守れ﹄
と。砦から出てはなるまい﹂
会議の席上に新たにフェミナが姿を見せた。重臣たちの意見をま
とめ上げ、的確な命令を下してゆくリーミルに、フェミナは口も挟
めず眺めていた。何よりこの時の彼女にはシュレーブ国出身という
負い目があった。その負い目が彼女に口を開かせた。
﹁シュレーブ国がボルスス様を襲ったというのですか?﹂
﹁そうらしいわね﹂
﹁そんな信じられません。私の父がそんなことを許すはずがありま
せん﹂
フェミナが言うことは分かる。フェミナの父ガルラナスは、現王
家に次ぐ名家でシュレーブ国建国以来の功労者の家系である。その
娘を嫁がせたフローイ国と戦を始めるとは信じられないというので
ある。
﹁信じられないことが起きるのよ﹂
リーミルが冷静に言い放った言葉に、フェミナは呆然と立ちつく
し、ややあって全身から力が抜けるように床にへた込んだ。そのフ
ェミナにリーミルの叱責が飛んだ。
﹁しっかりなさい。貴女は若くともフローイ国の王妃。グライス不
在の今、この国をしっかりと支えなさい﹂
545
リーミルの言葉に反駁する重臣たちは居なかった。フェミナは黙
って大きな目から涙を溢れさせた。今は敵国の女としてグライスと
別れさせられるどころか、殺される危険すら考えていた。その彼女
をこの国の人々は王妃として認めて受け入れるというのである。
きら
フェミナ自身は気づいては居ないだろうが、この国に嫁いできた
頃の煌びやかさは無くしているが、この土地にとけ込む田舎臭さを
身につけていた。何よりこの国の人々は、彼女から夫グライスへの
一途な愛情を感じ取っていたのである。
フェミナは決断したように言った。
﹁では、私の父に使いを。今の状況を伝えます﹂
﹁ガルラナス殿に? それは名案かもしれない﹂
﹁しかし、国境の地はパロドトスが押さえております。使いを送る
のは危険では﹂
シリャード
レクドラスの言葉ももっともだが、リーミルは使者を送る別のル
ートを思いついた。
﹁レネン国を通って南へシフグナさえ通らねば、聖都にも行き着け
るでしょう﹂
頷く重臣たちを眺め、リーミルは一人の人物に視線を止めた。
パトローサ
﹁ジナフス。貴男に行ってもらいましょう。この中で他の誰よりも
分別があり、弁が立ちます﹂
﹁しかし、どこへ参るのでしょう﹂
﹁まずはガルラナス殿の元で協力を求め、それから王都へ赴いて、
ジソーを詰問していらっしゃい﹂
﹁彼の国の王を詰問するので?﹂
﹁いい? 遠慮をすることはない。ジソーには、フローイ国は王を
殺されて怒り狂い、返答次第では五千の兵でシュレーブを攻める準
備を整えていると伝えなさい﹂
もちろん五千の兵というのは、でまかせである。今のフローイ国
にそんな兵力を捻出する余裕はない。ただ、その言葉はフローイ国
546
の人々の心情をよく伝えることが出来るだろう。
ルミリア
﹁承知いたしました。ただいま、出立いたします。真理の神に誓っ
て。真実を明らかにして参ります﹂
シリャード
ジナフスは丁重に一礼すると慌ただしく広間を後にした。リーミ
シリャード
ルはジナフスに命じなかったことがある。聖都がガルラナスの領地
シリャード
の一画にあり、彼の領地を訪れるなら聖都へも立ち寄れるはずだっ
た。
ルミリア
リーミルは忠臣が残した言葉を考えた。
シリャード
ロゲル・スリン
︵真理の神に誓って。真実を? いえ、真実は聖都の闇の中︶
事件の背後に、聖都の六神司院の存在を想像したのである。もし、
奴らが関与しているなら、こちらの同行は知らせぬ方が良い。
547
冬の予兆
コトバートに降った豪雨は、ルードン河を増水させ、河原まで河
に変えた。激しく荒れ狂う流れは、河原に散らばっていた幾百のフ
ローイ兵の死体を覆い隠した。数日を経て、元の穏やかな流れを取
り戻したコトバートの浅瀬には、戦いの気配は消え去り、両岸の芦
原が風にそよいでいただけである。
時を同じくして、ルードン河下流の王都パトローサの市民たちが、
ミットレ
上流から流れ下って岸辺を漂う死体の多さに恐怖を深めていた。
パトローサ
﹁なんですか? 王都が騒がしい﹂
エリュティアはピピスと名付けたペットの小鹿の頭を不安げに撫
でた。
尋ねられたルスララもおよその事情は、王宮に乱れ溢れるうわさ
話で聞き知っていた。ルードン河の岸辺に無数の死体が流れ着いて
いるというのである。ルスララは作り笑いを浮かべ、さりげないふ
りを装って答えた。
﹁いま、人をやって調べさせています。姫様はピピスと一緒に散歩
でもいかがですか。そうだわ。ドリクス殿の庭園がよろしいでしょ
パトローサ
う。冬になる前に秋の最後の花々を﹂
教師ドリクスの館が王都の北西の郊外にある。エリュティアをド
リクスの館へ誘えば、この王都の人々の心を乱す出来事からエリュ
ティアを遠ざけることが出来る。ルスララは自分の名案が気に入っ
た。
﹁さあ、さあ。エリュティア様のお出かけの支度を﹂
そう指図するルスララが意外な者を見つけて声を掛けた。
﹁ドリクス殿ではございませぬか﹂
これから訪問しようと考えていた相手が王宮に姿を見せたと言う
548
ことである。ドリクスの館を訪問するというルスララの計画は潰え
たが、エリュティアは晴れやかな笑顔を浮かべてドリクスを歓迎し
た。ドリクスは来訪の目的を短く語った。
﹁我らが王に面会をと考えて参ったのですが﹂
ドリクスはエリュティアに配慮は見せていたが、それでも不安や
戸惑いを隠せては居ない。エリュティアはこの教師の心の混乱を見
抜いていた。
ユリスラナが髪や衣類の乱れも気にせず駆け込んできて叫んだ。
﹁姫さま大変です﹂
﹁何事です?﹂
﹁ルードン河に数え切れないほどの死体が流れていると﹂
﹁数え切れないほど?﹂
﹁それはもう、川面が見えぬほど﹂
川面を死体が覆うというのは大げさすぎる表現だが、ユリスラナ
の驚きを考えれば理解できる。
エリュティアの恐怖に引きつった表情を見て、ルスララは渋い顔
をしてユリスラナを睨んだ。王宮の男どもが、町が騒がしい理由を
正確に伝えてこない。おそらく、ジソー王不在の間に王宮の政務を
預かるフェイサス大臣らの指示だろう。事件の正確な状況が分かる
までエリュティアと彼女を囲む侍女団を混乱させまいとしたのであ
る。
ただ、ルスララは独自の情報を求めて混乱の場に使いを出した。
それがユリスラナだった。ただし、この元気の良い娘は素直で勇敢
だが配慮を欠いたところがある。周囲の配慮にもかかわらず、彼女
はエリュティアの心を乱す状況を暴露したのである。ただ、この時
にドリクスが意外に感じたのは、エリュティア自身は情報を求めた
ことである。以前の彼女なら、恐ろしげなものには目をつむり、ピ
ススを固く抱いていただけだったろう。
549
﹁上流の住民たちに流行病でも?﹂
﹁それが死んでいるのはフローイ国の兵士ではないかと﹂
﹁どうして?﹂
﹁岸に流れ着いた死体には全て刀傷があるとのことです。私が見た
死体には幾本もの矢が深々と⋮⋮﹂
ルスララの叱責が飛んだ。
﹁ユリスラナ。それまでになさい﹂
これ以上話を続ければ、彼女は河原に漂う死臭まで、エリュティ
アに細かく伝えることになるだろう。事実、ユリスラナは死臭を避
けるように鼻をつまんでいたのである。
ミットレ
﹁王宮の者たちも、落ち着きますまい。ここは大臣や近衛兵に任せ、
しばらくは我が館に逗留なさいませ﹂
﹁ピピス。お前も行くわね?﹂
少し考えていたエリュティアがペットの小鹿にそう尋ねたのは、
ドリクスの提案に従うと言うことである。ドリクスはルスララに頷
いて見せて、その準備を依頼した。エリュティアは幼女の時からそ
うだったように、素直に老教師に手を引かれて王都を後にした。ル
スララたちはドリクスの館までの短い旅の支度を調えて直ぐに追い
ついてくるだろう。
ドリクスは少しでも早く、彼女を混乱の王都から遠ざけてやるつ
もりだった。
﹁以前も、先生とこの道を歩いたことがあります﹂
エリュティアが静かに昔を懐かしんでそう言った。十年以上も前
のことである。ドリクスにも記憶があった。王女としての厳しい躾
けと、母のいない寂しさが相まって幼いエリュティアが心を乱して
泣きわめくことがあった。そんな時にこの郊外を二人で歩いたので
ある。
ただ、あの時は、夏を迎えようとする春の頃だった。今の二人の
周囲には、刈り入れが終わって落ち着きを取り戻した麦畑が広がっ
550
ている。麦わらを咥えて畑を駆け回るネズミは暖かな寝床を作る準
備に忙しく、木々の枝を駆けるリスたちは木の実を咥えて食料をた
シミリラ
めるのに余念がない。
シミリラ
間もなく冬の女神が、北東方向から冷たい風と共にやってくる。
カワラネ
そんな時期だった。冬の女神は冷たく厳格な神であるという。しか
カワラネ
し、その厳格さの中に、その後に迎える春の精霊たちを育む包容力
も持っているとされていた。
︵もし、願いが叶うなら、その精霊たちと共に、エリュティアも育
んでもらいたい︶
ドリクスはそう考えた。ちらりと眺めたエリュティアの横顔は、
幼さが残っては居たが大人の女性へと心の変化も感じさせる。そし
て、ドリクスはもう一つ祈った。このエリュティアがあのジソー王
の頑なな心をほぐすようにと。
ドリクスは王都をちらりと振り返った。巨大な都市はドリクスの
視界の端にもその全貌を見せては居ない。今日、彼が王都を訪れた
のは、河で起きた騒ぎを聞きつけて、王ジソーがフローイ国と戦火
を交えるつもりかと考えたからである。王ジソーの真意を確認し、
必要なら諫めるつもりだったが、彼の真意は確認できず目的を果た
すことが出来なかった。
︵孤独な王︶
ドリクスは王ジソーをそう哀れんでいた。ここのところ、ジソー
が信頼できるドリクスを遠ざけているのは、彼がたびたび苦言を呈
するからである。アトランティスで起きている大きな変化の中で、
決断を下す者は自分一人。そんな王ジソーの意識が自ら孤独を深め
ているようでもある。
この時、エリュティアとドリクスは背後から聞こえてきた数多く
の重々しい足音に振り返った。エリュティアはドリクスの顔を見上
げて困った顔をし短く尋ねた。
﹁先生⋮⋮﹂
551
ドリクスはエリュティアの問いを理解した。多くの兵がドリクス
の迷惑にならぬかと問うているのである。ドリクスは兵を率いて駆
けてくるエルグラスら兄弟は知っている。忠実な兄弟がエリュティ
アを護衛しようといち早く駆けつける姿である。
しかし、王都を一歩出ればドリクスの館は一時間あまりの距離で、
治安の良いこの辺りでは護衛の兵は必要はない。ドリクスは肩をす
くめて答えた。
パトローサ
﹁我が館にはあれほどの数の兵が宿泊する部屋はございませぬ。あ
の兄弟はともかく、兵には王都に戻ってもらわねばなりますまい﹂
エリュティアはドリクスの言葉に素直に頷いて賛同したが、やや
あって、もう一度首を傾げた。
﹁では、食料は?﹂
﹁食料?﹂
シリャード
﹁あの兄弟はいい人たちです。でも他の人の十倍は食べます﹂
彼女は先日の聖都への旅で兄弟と同行して、彼らの食欲には素直
に驚いていた。その記憶をたどって、あの三人がドリクスの館の食
料庫を空にせぬかと心配しているのである。
子供じみた想像だが、ドリクスは彼女の幼女のような純真さを愛
で、微笑んで言った。
﹁なんとかいたしましょう﹂
シミリラ
北東から吹き始めた冷たい風が吹き抜けた。人々に冬の女神の使
いの訪れを予感させた。
552
ジソー王の命令
パトローサ
三週間︵アトランティスの暦で15日間︶で帰ると言い置いて、
少数の護衛を連れて王都を後にした王ジソーが、二週間を経ずして
慌ただしく戻ってきた。
﹁旅は順調でありましたか?﹂
大臣フェイサスの言葉に王ジソーは短く答えただけである。
﹁馬鹿め﹂
フェイサスは王の言葉を理解した。意に沿わぬ状況全てに怒りを
向けている。この王は他人に指図されたり、何かを提言されるのを
嫌う。特にルージ国を筆頭にする反逆国との戦が起きて以来その傾
シリャード
向が顕著になった。フェイサスは多数のフローイ兵の死体が流れ着
いたという異変を聖都にいたジソーに事実のみ伝えて王の意向を伺
シリャード
ったのである。
パトローサ
聖都にいたジソーは、フェイサスからの連絡を待つまでもなく状
シリャード
況を知っていた。当然のことである。ルードン河の流れは王都から
ロゲル・スリン
更に下流の聖都へも、哀れな兵士たちの遺体を流していた。
ツキルスナ
六神司院の聖職者たちは、死臭を嫌って哀れな使者たちに同情も
見せなかった。死者の魂を神々の元へ送る儀式を執り行うこともな
く、僧兵たちに岸に流れ着いた死体を河の流れに戻せと命じただけ
である。
パトローサ
ジソーはそんな光景を目にして、怒りを露わに王都へ戻ってきた。
︵いずれは、戦わねばならぬ︶
フローイ国にそう言う思いを抱いては居たが、今はその時ではな
い。北でルージ・ヴェスター軍を撃退し、南ではグラト国を撃退し
たと吹聴しているがその実態は危うい。王と王子を失ったルージ国
553
はともかく、ヴェスター国は戦力を温存しているし、グラトはシュ
レーブ国の領地の一部を奪われた。その状態で、フローイ国を敵に
回せば、シュレーブ国は周囲を敵に囲まれることになる。ジソーに
とって最も避けたいことだった。
ジソーの怒りの矛先はシフグナのパロドトスに向いている。フロ
ーイ国とシフグナは元々仇敵の関係で、フローイ軍を襲うとすれば
シフグナのパロドトスしかあり得なかった。彼は王の裁可も得ず、
勝手に兵を動かしたと言うことである。
﹁パロドトスめは、何と言うことをしでかしおったのか。至急、シ
フグナへ詰問の使者を遣わせいっ。事と次第ではただでは許さぬ﹂
王の怒りが執務室に響いていた。フェイサスは王の命令を実行す
るための準備をせよと傍らの小者に目配せをした直後に従卒が一人
走り込んできて、来訪者の名を告げた。その意外な名に驚くフェイ
サスに、王ジソーは怒鳴り声を上げた。
﹁何事か?﹂
﹁我らが王よ。パロドトスが王宮に参って、面会を求めております﹂
事件の詰問の使者を出そうとしていた相手が、使者を出す前に来
たと言うことである。
﹁丁度良いわい。儂自らパロドトスめに事の次第を詰問してくれよ
う。奴をここへ連れだせい。今すぐに﹂
フェイサスは傍らの小者に王の命令を実行するように指示しなが
ら、侮蔑を込めて思った。
︵昔から立ち回るのが上手い男だ︶
パロドトスのことである。どんな意図があって今回の事件を起こ
したにせよ、シフグナに閉じこもって王の叱責を受けるより、自ら
王宮に出向いて我が身の正当性を解く方が良い。
﹁パロドトス、何と言うことをしでかしおった﹂
執務室に呼び出されたパロドトスは、ジソーの怒りに神妙だった。
554
彼はその状況を語った。
﹁フローイ軍が長い戦の疲れか、流行病で行軍にも難渋していた様
子を知りました。わが兵二百を出して救出に向かわせました﹂
﹁救出だと?﹂
﹁左様です、我らが王よ。弱ったフローイ兵を我が地で休ませよう
としたのです﹂
﹁それが何故に戦になるのだ﹂
﹁ご存じの通り、我らとフローイ国は仇敵の関係。フローイ軍は我
が兵の姿を見て矢を射かけ、剣を抜いて突撃して参りました﹂
﹁それで戦になったというのか﹂
﹁左様です﹂
シソーの傍らからフェイサスが問うた。
﹁パロドトス殿。そなたの兵が攻撃をかけたとも聞いておるが?﹂
そのような情報は得られてはいないが、いかにもありそうなこと
だった。フェイサスはパロドトスに探りを入れたのである。
﹁とんでもない。誤解か、我らを貶めようという策略に違いござい
ませぬ。我が手兵などかき集めても三百にも足りませぬ。そのよう
ロゲル・スリン
な兵でいかにして二千を越えるフローイ軍に戦いなど挑む気になり
ましょうや。我らは応戦したのみでございます﹂
パロドトスの言い分ももっともに聞こえる。この辺りが六神司院
の策略の巧妙なところだろう。フローイ兵士たちが弱っていた状況
は、あちこちから伝え聞いているが、それが誰の策略かどうかは分
からない。そもそも策略が存在したという証拠はない。得られる事
実をつなぎ合わせれはパロドトスの主張を覆すものはなかった。
﹁では、いかがしたものか﹂
﹁フローイに嫁いだリーミル様のお父君を通じて、今回の件を釈明
する使者を送られてはいかが﹂
﹁おおっ。黄金五枚も使わそう。あのボルススめのこと。僅かな兵
を失っても、黄金を目にすれば機嫌を直すだろう﹂
555
ジソーはボルススが無くなったと言うことはまだ知らないのであ
る。黄金を使わすという思いつきを加えることで、フェイサスの提
言を自分の考えに変えて命令を下した。﹁ガルナラスに使いを出せ。
フローイ国へ今回の件の釈明の使者を出せと。﹃我が国は帰国と戦
をするつもりなどない。今回の出来事は偶発的な出来事﹄だと。い
や、使者はガルラナス自身が務めるのがよい﹂
その叫びが執務室に響き渡った
556
レネン国王子デルタスの思惑
レネン国王宮の周囲で色づいていた樹木の葉も、風が吹くたびに
舞い散り、地面に敷き詰められていた葉も人々に踏みしだかれるよ
うに土に帰っていた。峠から吹き下ろす風も心地よい涼しさが過ぎ
て、時折身震いするほどの寒さを感じさせる。
そんな寒さを気使って、デルタスに声を掛けた下女がいた。名を
シアネネという。
﹁デルタス様、お召し物の上からお羽織りください﹂
彼は差し出された上着を、年老いた下女の肩に掛けてやった。
﹁これは私よりそなたにふさわしかろうよ﹂
デルタスが恐縮する老女に向けた笑顔は本物である。彼女は自分
の年齢を知らないが、王宮に来たのはまだ子どもの頃だったという。
それ以来、優に三十年は越えているだろう。い頃に王子デルタスの
世話係だったということを自慢に過ごした王宮暮らしはデルタスよ
り遙かに長いのである。デルタスの帰国を喜んだのは、利を得た貴
族を除けば、この老女だけではあるまいか。彼がシュレーブの文化
を学ぶという名目で実質的な人質に出て以来、今の王宮内は世代も
交代し、デルタスを身近に知るものは少ない。
︵そういえば︶
デルタスはもう一人、彼の帰国を心から喜んでくれただろう人物
を思い出した。彼の腹違いの弟である。もちろん今は居ない。謀反
を企んだチャラバ家のレドトスを討つ時の争いに巻き込まれて母親
ともども死んだとされている。
﹁シアネネ。執務室に何か温かい飲み物を運んでくれぬか﹂
557
そう命じなければ、この老女は庭に面した肌寒い廊下でデルタス
の側に控えているだろう。デルタスは堅苦しい雰囲気に満ちた執務
室へ足を向けた。レネン国王が重臣たちと共に国政を論じ、家臣に
命令を伝える部屋だが、今は病身の王に代わってデルタスが王の席
についている。そのデルタスからつかず離れず、二人の屈強な兵士
が付き添っていた。忠誠心のある男たちで、デルタスを守るためな
ら命すら投げ出すだろう。ただし、その忠誠心も隣国ヴェスター国
王レイトスがデルタスを守れと指示している故である。もし、レイ
トスがデルタスを殺せと秘かに命じたら、この護衛の者は一転して
暗殺者に代わる。
シリャード
一人の文官が執務室に姿を見せて報告した。
﹁デルタス様。フローイ国の使者が聖都への通行を求めております﹂
﹁通してやれ。問題はあるまい。﹂
デルタスは短く言い。護衛にも聞こえるように続けた。
﹁我らはフローイ国と争うてはおらぬ﹂
小国であろうと、ヴェスター国の意のままにならぬと伝えたと言
うことである。執務室の入り口を守るように立つ護衛は何も言わな
かった。
︵しかし⋮⋮︶
デルタスは首を傾げた。フローイ国の使いと言うが、三週間ばか
シリャード
り前にレネン国の王の病気見舞いと称してフローイ国の使いが港町
から訪れていた。見舞いの後、使者は来た道を戻ることなく、聖都
シリャード
カイーキ
へと旅立ち、用を済ましたように、レネン国を通ってフローイ国へ
帰国していった。考えれば妙な話で、聖都はフローイ国の王都から
シリャード
東にあり、レネン国を通るというのはずいぶん遠回りをしているこ
パトローサ シリ
とになる。そして、今回の使者もまたその遠回りをして聖都へ行く
という。
︵フローイ国とシフグナと、やはり何かあったのか︶
ャード
仇敵の関係だと言うことは知っている。シュレーブ国の王都や聖
558
シリャード
都の死体の一件も、聖都にいるレネン国の者どもから報告を受けて
いた。その出来事を関連づければ状況のきな臭さが伝わってくるよ
うだった。
眉を顰めて考え込んでいたデルタスが、一転して笑顔を浮かべた。
本心ではない。彼は帰国以来この種の作り笑いが上手くなった。
﹁おおっ。これはニズムス殿ではないですか。何のご用で?﹂
デルタスがニズムスと呼んだのは、チャラバ家のレドトス亡き後、
権力を伸ばそうとデルタスに接近する数多くの貴族の一人である。
日に数回はこのような貴族が訪れて、デルタスの歓心をかおうと様
々な注進に及ぶ。
﹁デルタス殿。お人払いを﹂
ニズムスは入り口の護衛にちらりと目をやってそう言った。
﹁いや。あの者たちの忠誠は信頼できる。そのまま話を聞かせてく
ださい﹂
今のレネン国にはヴェスターに聞かれて拙いことはない。
﹁実は、我が領地の漁師共が不思議なものを目にしたと﹂
﹁不思議なもの?﹂
﹁海岸も見えぬ沖合で数え切れぬほどの軍船が西へ向かうのを見た
とか﹂
﹁旗は? どの国の軍船だった?﹂
﹁それが淡い霧の中。旗の色も紋章も分からなかったとのこと。恐
ろしく近寄って眺めることも出来なかったと。しかし、何かの異変
の前触れに違いございませぬ。デルタス様もご用心下さい﹂
レネン国は貧しい小国だが、その海岸には幾つもの入り江があり、
いい漁場になっている。ただ、冬を迎えるこの時期には潮目が変わ
り、漁民たちは獲物を沖合に求めて船を出す。そんな漁船の漁師た
ちが軍船を目撃したというのである。
デルタスはニズムスの手を取って謝意を表した。
559
﹁わかった。考えておこう。また、何かあれば知らせてくれ。ニズ
ムス殿のこと、信頼している﹂
そう言葉を掛けながら、デルタスは別のことを考えていた。噂が
事実であっても、軍船が陸地も見えない沖合を西へ航行していたと
するなら、この国には影響はない。今のデルタスは新たな権力争い
の中で国をまとめるのに力を注ぎたいのである。
560
レネン国王子デルタスの思惑︵後書き︶
<i213653|14426>
次回更新は週末の予定です。目撃されたものは、もちろんルージ軍
の軍船。次回はフローイ国視点でリーミルが所属不明の軍勢の上陸
の報告に接して・・・
次回更新をご期待くださいね。
561
セイタルの戦火
フローイ国北部にはいくつもの砦があり、互いに連携し合って万
カイーキ
全の守りを固めている。一つ一つの砦は小さくとも、どんな敵が攻
めて来ても、その守りを破って王都に攻め込むのは無理だろう。フ
ローイ国の主だった者たちはそう確信している。
もう一方、南から東部の国境に至る地にはルウオの砦があった。
シフグナとは攻め込んだ攻め込まれたりを繰り返す中、ルウオの砦
カイーキ
はフローイ軍の前線基地としての役割を持つようになり、北部の幾
カイーキ
つもの砦を合わせたほどの規模をもち、兵の収容数も多い。
ただし、ルウオの砦は王都にも近く、ここを破られれば敵に王都
に迫られる恐れがあった。
そのため、グライスは数日間王ボルススの葬儀で砦を空けたあと、
慌ただしく砦に戻って離れることは出来ない。
カイーキ
カイーキ
王都では、帰国を果たした兵士たちが体を癒していた。弱り果て
て戻ってきた兵士たちの姿と、戻ってこなかった兵士の多さに王都
の人々の間に不安が広がっている。
王宮ではリーミルが今後の策を練っていた。今は亡き王の執務室
にリーミルの声が響いた。
﹁この冬の間に準備を整え、次の春と共にパロドトスを血祭りにあ
げてやるわ﹂
その恐ろしげな復讐の言葉に、執務室のテーブルを囲んで座る重
臣たちは頷いた。
﹁ジナフス。貴男の考えは?﹂
リーミルがシュレーブ国王ジソーの元へ派遣した使者である。二
週間の急ぎ旅を果たして帰国し、疲れもみせずこの会議に加わって
いる。 562
パトローサ
﹁私が王都に赴いた折り、ジソー様は既に事の次第をご存じでした。
ルードン河上流から多数の死体が流れてきたので事態を知ったとの
ことでございました﹂
﹁それで、ジソーは関与しているようなの﹂
﹁問いただしましたが否定されました。そして、私の来訪より先に
パロドトスを詰問したと﹂
﹁手際の良い事ね。それで?﹂
﹁パロドトスが申すには、流行病に苦しむ我が軍を見かねて救出し
ようとしたところ、我がフローイ軍がパロドトスの兵を攻撃したた
め戦闘が生じたとのことです﹂
﹁デタラメよ﹂
﹁確かに、それはパロドトスめの嘘でしょう。私がグライス殿に命
じられて我らが王の元に戻った時、大半の兵は体調の不調を訴えて
おりました。私が率いて帰国したのは、まだ幾分元気な者たちです。
ボルスス王が手元に残した兵は歩くのもやっとという状態。とうて
い戦いを挑むような者たちではありませぬ﹂
黙ってジナフスの報告を聞く重臣たちの中で、リーミルが疑問の
声を上げた。
﹁それも都合のいい話。どうしてパロドトスに都合良く、奴の領地
を前に流行病など﹂
今まで黙っていたロットラスが口を開いた。。
パトローサ
﹁毒を盛られたと言うことやもしれませぬ﹂
﹁毒ですって? 毒を盛られたとしたら、王都を通った後です。シ
フグナのパロドトスが毒を盛れるはずが無いでしょう﹂
﹁いえ、我らの食料に一袋の毒入りの干し肉、一瓶の毒入りワイン
を忍ばせれば良いだけのこと。我らはその一袋の干し肉をスープに
し、一瓶のワインでワイン水を作って全兵士に分け与えます﹂
﹁では、パロドトスの手の者が?﹂
﹁いえ、パロドトスだけとは限らぬでしょう﹂
﹁どうして?﹂
563
﹁もし、パロドトスなら、邪魔者の我らを殺すほどの多量の毒を盛
ったはず。我が兵士を生かさず殺さずの状態にしたのは、パロドト
スに殺害の役を押し付けようとした者がいたのかも知れませぬ﹂
少し考えて、リーミルが言った。
﹁では、犯人が分からぬ以上、今はジソーの出方次第というところ
かしら﹂
﹁ジソーがパロドトスを討てば彼の言葉は本物。しかし、それをせ
ぬ時はジソーもパロドトスに荷担していると見て良いでしょう﹂
ロットラスの言葉に、リーミルが答えた。
シリャード
﹁その時はこちらから兵を出してパロドトスを討ち、シフグナを取
る﹂
ロゲル・スリン
﹁しかし、聖都で誓った各国の不戦の約定は? 反逆国ルージめら
シリャード
は六神司院から追討せよとの宣司が出たが、それ以外の戦いは不戦
の約定を破ることになるでしょう﹂
スーイン
ルミリア
大臣シアギルがそう言ったのは、アトランティスが聖都に神の代
理人としての神帝を擁立し、真理の神の元で、各国は互いに争わな
ロゲル・スリン
いと宣誓したことである。それ以降、アトランティスには見かけの
平和が訪れていた。六神司院の宣司も無く、戦を始めるわけにゆか
ぬと言うのである。
シアギルの言葉にロットラスが反駁した。
﹁しかし、先に手を出したのはシュレーブであろう﹂
﹁それがまだ分からぬ。ここは慎重に事を進めねば、我らが神に対
する反逆者になりかねぬではないか﹂
二人のやり取りで論争に火がついたように、執務室は重臣たちの
怒声が入り乱れた。論争を制したのはリーミルだった。
カイーキ
﹁もういいわ。今は国境のシフグナへ備えを万全にし、帰国した兵
は休養させ、早く復帰させなさい﹂
﹁兵を故郷に帰すので?﹂
シアギルの言葉にリーミルが答えた。
﹁いまはその余裕はないわ。一兵でも多く欲しいところ。この王都
564
で休養させ、元気を回復した兵は新たな指揮官の下で再編成なさい﹂
普通は、戦が終われば兵は故郷に帰して元の仕事に就かせる。今
年は豊作だったが収穫期に男手が少なかったため、収穫できないま
カイーキ
ま畑で腐らせてしまった実りもあるという。兵士たちが帰れば、冬
の間にすべき仕事は多い。兵士の身分のまま王都に止め置くという
のは、そんな準備をせぬままに春の種まきの季節を迎えると言うこ
とである。
そして、大臣シアギルが眉を顰めたのは財政のことである。兵を
兵のまま維持すると言うことは、その間の兵の食料を始め、様々な
費用や物資をフローイ国の国庫から支出するということで多額の財
政負担になるだろう。旧都ランロイからの食料の運搬も増やさねば
カイーキ
ならない。
一見、王都は壮麗な都市だが、都市の建設以降、急激に増えた人
口を支える食糧の長期の備蓄はなく、それをしようとしても森を大
きく切り開かねば倉庫群を建設する場所がなかった。今は手軽な食
料庫としての役割を担う旧都ランロイから定期的に不足する物資を
運んでいるのである。
この日の夜更け、リーミルはようやく寝床に就いた。充分に眠っ
て体も心も疲れを取らねばならないことは分かっているが、目が冴
えて眠れない。
リーミルは入り口に人の気配を察して寝床で寝返りを打った。い
つもは眠りに就いている時間にリーミルの部屋の灯りがついていた。
それに気づいて誰かが部屋を確認に来たものの、リーミルを起こす
のを恐れて、彼女が起きているかどうか確認のために幕の向こうで
リーミルの寝息を探っていたのだろう。
入り口の幕の向こうで、ようやくリーミルが起きていることを確
認したらしい侍女の声が響いた。
﹁姫さま。温かいお飲み物でもお持ちいたしましょうか﹂
565
﹁ルタガラね。冷たい井戸水でワイン水でも作ってちょうだい﹂
ルタガラと呼ばれた侍女が入り口から去っていく気配が感じ取れ
かまど
た。ルタガラは温かい飲み物をと言ったが、この時間は調理人も台
所の竈も火を落として眠っているだろう。あの老侍女に今から火を
おこして温かい飲み物を作れとは言い難い。カップに注いだ冷たい
井戸水に蜂蜜で甘みをつけワインを少し垂らして香りをつけたワイ
ン水なら手軽に作れるに違いなかった。何より、妙に冷えた心から
雑念を追い払うには冷たい飲み物の方が向いているような気がした
のである。
ややあって、ルタガラがワイン水を盆にのせて運んできた。
﹁ありがとう。美味しいわ﹂
この日初めて、リーミルの顔が和らいだ。こうしてみると、リー
ミルはまだ十八歳になったばかりの少女に過ぎない。重臣たちの意
見をよく聞き、適切にその意見をまとめ上げてゆくため、重臣たち
が彼女に注ぐ信頼と期待は大きい。ただ、この緊急事態に過度な重
荷を背負わせていると気づく者はルタガラだけだったのかも知れな
い。
﹁姫さま。月の光がきれいに差し込んで参ります﹂
ルタガラは空になったカップをリーミルから受け取り、ランプの
火を吹き消して、開いていた窓を更に広く開けた。リーミルは子ど
もの時からの癖で閉塞感を嫌う。暖炉に火を入れる真冬でも窓を開
けて外気に当たっていることがある。ルタガラはそんなリーミルの
気性をよく知っていた。彼女は部屋を月の淡い光で満たして、リー
ミルを寝床に誘っているのである。
﹁本当、きれいね。月の光を浴びて眠るとしましょう。ルタガラ。
貴女も早く休みなさいな﹂
老女が一礼して部屋を去り、リーミルが寝床で目を閉じた時、慌
ただしい足音が近づいてきた。本来このリーミルの私室に来るには、
566
侍女の取り次ぎが必要だが、その手間さえ省いてシアギルが入り口
の幕の向こうで用件を叫んだ。
﹁姫さま。重大事でございます。セイタルの町が襲われたとのこと
です﹂
﹁落ち着きなさい。話は執務室で聞きます。誰か灯りを﹂
リーミルは眠る間もなく寝床を離れ上着の袖に腕を通した。
執務室に再び顔を揃えた重臣たちの光景で、事の重大さが理解で
きた。
﹁セイタルが何者かに襲われ、町は大混乱に陥っているとのことで
す﹂
シアギルの言葉にリーミルがやや不快そうに尋ねた。
﹁セイタルの守備兵は何をしているの? 海賊くらい叩き出しなさ
い﹂
カイ
フローイ国の沿岸の小都市や漁村を海賊が襲うことがある。リー
ーキ
ミルは海賊が町を荒らしたのかというのである。セイタルはこの王
都の北に位置するフローイ国を代表する港町である。重要な町の治
安を維持するため他の町より多くの兵士が配備されている。
︵武装した海賊とはいえ、数十名の正規兵が居れば容易に鎮圧でき
るはず︶
リーミルはそう感じている。都の治安を担当する近衛兵の司令官
ルチラスがリーミルの考えを覆した。
﹁いえ、町の守備兵でも手に余り、マキツキの砦から50の兵が出
向きました﹂
﹁では、逃亡奴隷ども?﹂
奴隷たちが反旗を翻したのかと問うリーミルの言葉もルチラスは
否定した。
﹁奴隷どもなら容易に鎮圧出来ましょう。セイタルの兵も、応援に
出たマキツキの兵でも手に余る敵だとか﹂
﹁そんな敵がどこから湧いて出たの﹂
567
リーミルが視線を移して問う重臣たちは、皆同じ事を言った。
﹁わかりませぬ﹂と
フローイ国と戦争状態にある国は存在する。しかし、ヴェスター
国やグラト国は陸路シュレーブ国の向こうの国で、他国を攻めるほ
どの海軍は持っていない。有力な海軍国のルージ国は王リダルと世
継ぎアトラスを失って混乱の最中だろうし、多数の大型の軍船を擁
するシュレーブ国海軍がルージ国に睨みを利かせていて、ルージ軍
が大規模な戦を仕掛けてくるとも思えなかった。
リーミルは中途半端な結論を下さざるを得ない。
﹁とりあえず、全ての砦には注意して守りを固めよと指示なさい。
必要なら、私が兵を率いて出向きます﹂
カイーキ
こうして、第一報がリーミルに届いた。ただし、その知らせも実
際にセイタルが襲われてから二日をかけて届いている。王都にいる
者たちには、現在のセイタルや敵の状況は分からないのである。リ
ーミルたちが、敵がルージ王家の旗を掲げていると知るのは、明く
る日の朝に伝令がもたらした情報によってである。
568
リーミルの愛︵前書き︶
<i214256|14426>
569
リーミルの愛
早朝。昨日の重臣たちが再び王の執務室のテーブルを囲んでいた。
カイーキ
もちろん、港町セイタルの件である。何者かの攻撃を受けたという
情報を受けたが、別の港も攻撃を受けているやも知れず、王都の兵
を迂闊に動かすわけには行かない。重臣たちが集まっても選択肢は、
待つこと以外になかった。
カイーキ
今、シフグナのパロドトスへの備えに五百あまりの兵を取られ、
カイーキ
王都に駐屯する軍勢はシュレーブ国から帰国を果たして弱り切った
兵士を除けば、王都を守備する近衛兵を含めても四百あまりに過ぎ
ない。それ以外は、二十、三十、多くとも二百人という単位でフロ
ーイ各地の町や関所を兼ねた砦にばらまかれていた。
攻め込んできた敵の勢いから見れば相当な大軍らしいと推測が着
く。手元の兵力を無駄に使うわけに行かないのである。
沈痛な面持ちでテーブルを囲むリーミルたちの元へ新たな情報が
もたらされた。
﹁マキツキの関所が破られました﹂
詳細を聞けば、伝令が告げた事実は、守備隊は全滅し、指揮官は
戦死したということである。
﹁それはセイタルも敵の手に渡ったという事ね﹂
リーミルがそう言ったのは、港町セイタルは多少の防御もあり、
守備隊もいれば、マキツキの砦から増援も得ている。セイタルを守
りきれるのではないかと期待していたのである。ところがその南の
マキツキの砦まで失ったというのは、セイタルはとっくに落ちて敵
の手に渡ったと言うことに違いなかった。
﹁兵の半数をセイタルに増援に出して、砦を守る兵が不足しておっ
たところを突かれたようです﹂
570
近衛兵指揮官ルトラスがマキツキの砦が奪われた理由をそう述べ、
リーミルが自然な疑問を呈した。
﹁マキツキがセイタルに増援を出すのと同時に、他の砦がマキツキ
に増援を送る手はずのはず﹂
リーミルたちフローイ国の人々の想定では、マキツキの砦が攻撃
を受けるにしても、その時には他の町や砦から増援を受けたマキツ
キの砦の守備隊は数百に達していて、更に数日すれば千名に近い守
備兵力がそろうはずである。ルトラスも首を傾げつつ唯一無二の理
由を述べた。
﹁しかし、砦が落ちたという早さを考えれば、他の砦から増援は間
に合わなかったと考えるべきでしょう﹂
﹁しかし、敵は短時間でマキツキの砦を落とす大軍。そんな大軍が
そんなに早く⋮⋮﹂
リーミルの思いは他の重臣たちも同じだった。攻め込んだ敵が大
軍であればあるほど、移動させるのに時間がかかるだろう。仮に敵
が二千人だとしても、セイタルを攻撃し、残敵を掃討して町を占領
下に置き、再び軍をまとめて行軍し、マキツキの砦にたどり着くに
ルミリア
はどんなに急いでも二日。砦を落とすのに更に数日は要したろう。
ルミリア
敵はそれを半分以下の時間で実行している。
︵真理の神の御光を︶
はら
敵が何か邪悪な者の加護を受けて兵を操っているなら、真理の神
の御光でその邪を祓ってもらいたい。リーミルはそう願ったのであ
る。重臣たちもまた、この不可思議さに首をひねって、明確な理由
を見つけ出せない苛立ちを見せていた。
ふと、重臣の一人が思いついたように叫んだ。
﹁砦に内通者を忍ばせ、内通者に砦に混乱を起こさせたと言うこと
では﹂
その意見に賛同する者が声を上げた。
﹁おおっ。そうに違いない。そうでなければこれほど早く砦が落ち
るはずがない﹂
571
ひそ
他の重臣たちが賛同する声が続き始め執務室の空気を支配する中
で、近衛兵指揮官ルトラスは反論する言葉も持たないまま眉を顰め
ていた。内通者が居る。それは現状からすれば否定しがたいが、軍
の中に裏切り者が出たと言われるのはルトラスにとって侮辱された
のも同然だった。
その中、リーミルの叱責の声が響いた。
﹁馬鹿なことを言わないで。貴方たちはフローイ軍の中に裏切り者
が居るとでも言うの﹂
﹁しかし、この状況を考えてみまするに⋮⋮﹂
重臣たちの言葉に、リーミルはやおら立ち上がった。彼女は壁に
掛かっていたフローイ国に伝わる宝剣を手にすると、鞘から半ば抜
いた。刀身が朝日に輝いて重臣たちの目を射た。
﹁お黙り! 貴方たちは前戦で戦って命を落とした兵を侮辱するつ
もり? この次、我が将兵を侮辱する者があれば、私がこの手で成
敗するわよ﹂
内通者が出た可能性はぬぐえないが、この場で疑心暗鬼に陥るこ
とは避けなければならない。ルトラスは言葉には出さなかったが、
全将兵はこれからこの王女の信頼に応えるべく戦うだろうと思った。
リーミルは話題を転じた。
﹁どこの軍なの? このフローイに喧嘩を売ろうってのは。パロド
トスはグライスが封じているはず﹂
リーミルの疑問ももっともだった。普段は生真面目で些細なこと
でさえ報告が上がるこの国で、現在の戦いの情報を届けてくる者が
あまりに少ないのである。中でも、自分たちが誰と戦っているのか
という一番大事な情報が届いていない。
重臣の一人が、まだ未確認だと遠慮しながら言った。
﹁それが青紫旗を掲げている様子﹂
青紫といえばルージ国を象徴する色だが、それはフローイ国の誰
もが信じがたい事だった。リーミルはルージ国の人々に対する蔑称
572
で尋ね返した。
﹁生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶どもなの。でも、奴らは王と王子
を失って、ここから遙か向こうに島に閉じこもって身動きがとれぬ
はず﹂
﹁しかし、青紫旗は間違いないようで。しかも、その旗には王の紋
章が﹂
﹁馬鹿なことを言わないで。リダルが生きているとでも?﹂
リーミルはそう言いながら、ちらりと別の一人のことを考えた。
リダルではなくともルージ国王旗を掲げる事が出来る人物アトラス
である。むろん、この時の彼女は、アトラスが死んだと信じていた。
ただし、その信念に僅かな願いが侵入して、アトラスが王旗を掲げ
る姿が目に浮かんだ。
彼女はそんな個人的な思いを振り切るように命じた。
﹁至急、メスナルの砦に増援を。間もなく攻撃を受けるはず。その
前に防御を固めるの﹂
敵に勢いがあるとはいえ、セイタルを占領し、マキツキの砦で戦
って息切れしている頃だろう。早急にこれから戦いの場になる砦の
防御を固めようというのである。重臣たちもそろって頷いた。
この時、新たな伝令が新たな情報をもたらした。
﹁メスナルの砦が破られました﹂
リーミルの驚きの声が響いた。
﹁何ですって?﹂
港町セイタルからマキツキの砦まで徒歩で一日はある、大軍を動
かせばその倍の日程はかかるだろう。敵はセイタルの町を攻撃して
から一日後にはマキツキの砦を落としたという。マキツキの砦から
その南にあるメスナルの砦も同じ程度の距離がある。敵はマキツキ
で戦い、更に砦の増援に来たフローイ軍を街道上で蹴散らして、明
くる日にはメスナルの砦まで落としたというのである。これも信じ
られない早さだった。
573
リーミルは決意を固めて言った。
﹁都の兵をまとめなさい。私がボングスへ行く﹂
メスナルの砦の南にある町だが、防御的な役割も担っていて、町
カイーキ
の外には堀と頑丈な柵がある。何より百名近い兵士たちが駐屯して
町の治安を維持している。急速に王都に迫る敵を押しとどめるのに
都合の良い防御拠点だった。
しかし、近衛兵指揮官ルトラスがリーミルを制して言った。
﹁いえ、私が行って敵の勢いを止めて参りましょう﹂
﹁私も敵の姿を直に見てきたいわ﹂
リーミルの言葉に、ルトラスはきっぱりと言い切った。
カイーキ
﹁姫さまには留まってもらわねばなりませぬ。グライス様不在の今、
リーミル様まで都を空ければ王都の市民たちが不安がります﹂
カイーキ
ルトラスを支持しながらも、重臣の一人が現実的な問題に触れた。
﹁しかし、ルトラス。兵はどうする。この王都の兵は余りに少ない﹂
﹁何、二百の手勢を率い、途中の砦に居る兵も収容させればボング
スに着く頃は千を超える軍勢になる。これで生魚喰らい︵セキキ・
ルシル︶どもの勢いを止め、セイタルまで追い返してみせましょう﹂
リーミルは少し考え決断した。
﹁では、ルトラスにお願いしましょう﹂
リーミルは先ほど壁から下した宝剣を差し出して言葉を継いだ。
﹁遠慮は要らない。敵を思う存分に蹴散らしていらっしゃい﹂
もちろん、出陣する者を励ますための表現で、押しとどめること
が出来れば上々だろう。困難な任務である。ルトラスは剣を受け取
って恭しく捧げ持ち、澄んだ笑顔を浮かべて言った。
﹁姫さまのご命令なら、このルトラスも全将兵も、命を捧げるのも
厭わぬでしょう﹂
背を向け足早やに立ち去るルトラスを眺め、リーミルはふと先ほ
ど口にした自分の言葉を振り返った。
︵私も敵の姿を直に見てきたいわ⋮⋮。いえ、その言葉は王女とし
574
て︶
敵の姿を見たいというのは王女の責任として、愛する者の姿を一
目見たいというわけではないはず。リーミルはそう自分にも心を押
し隠した。
575
真の目的地
カイーキ
今、王都に居るリーミルたちを最も苛立たせているのは情報不足
である。奇妙なことに、ルージ軍と戦闘を交えている前線からの伝
カイーキ
令はほとんど来ず、戦いに負けて後方に退いてくるはずの兵もいな
い為に、戦った者たちから得られる情報もない。王都から派遣した
物見の兵も、その大半は消息を絶って戻ることはなかった。
カイーキ
リーミルや重臣の苛立ちは、王宮の者どもに乗り移り、やがてそ
れは不安や恐怖になって王都の市民の間に広まっていった。ただ僅
かにリーミルを喜ばせたのは、市民たちの間から兵士を志願する者
が現れたことである。大事な故郷を守ろうとするのは市民たちも王
族の者と同様だったということである。
リーミルは重臣たちと計って、彼らに剣や盾や槍を与え三百人ば
かりの義勇軍を編成した。ただし、大勢の年寄りが混じり、兵士と
しての訓練も受けていない。
王の執務室に新たな情報が届いた。
︵さすがは︶
カイーキ
リーミルがそう思ったのは、二日前にボングスを目指して出撃し
カイーキ
たルトラスの事である。王都の情報不足を知っていて、既に三度の
伝令をよこし、王都に出来る限りの情報を届けていた。四度目の情
報はリーミルたちを驚かせた。
ルトラスはリウドの砦を出発してボングスに向かう途中、敵の姿
を確認したというのである。守るつもりのボングスは既に敵の手に
落ちたと言うことだった。その報告の最後にある知らせを聞いた重
臣たちの何人かがルトラスに罵声を浴びせた。
﹁ルトラスめ。ルージと戦うとは口先だけか。戦わず兵を退きおっ
た﹂
576
﹁立て続けに砦を落とされ臆病風に吹かれおったか﹂
﹁もっと勇敢な者に指揮を任せるべきであった﹂
重臣たちがそう言ったのは、ルトラスが手兵をまとめて、後方の
リウドの砦に退いたことを知ったからである。
リーミルがそんな重臣たちに反駁した。
﹁馬鹿ね。ルトラスはここにいる誰より忠実な武人です﹂
並みの指揮官なら武勇を誇り、迫り来る敵と戦おうとしたろう。
カイーキ
ただ、彼が背負う任務は、僅かな手兵でマキツキ街道を南下する敵
の大軍の勢いを止め、王都への突入を防ぐことである。勇気のみ鼓
舞して戦って全滅するより、味方から臆病とそしりを受けても退い
て任務を果たすというルトラスの矜持だったろう。
リウドの砦の守りを固めたルトラスは、更に数回にわたって伝令
を送ってきた。送られてきた戦況の報告に、敵の戦意は衰えず戦闘
は続いているが、戦況は膠着状態だが敵はじわじわと兵を損耗して
おり、退くなら敵が先だろうとも述べられていた。誠実で慎重な人
柄だけに、ルトラスの報告は信用できた。
︵ルトラスがやってくれた︶
敵はマキツキ街道上の数多くの砦や町を占拠したが、フローイ国
には街道の西にある町や砦は多い。街道をルージ軍に押さえられて
今は連絡が途絶えがちだが、それらの町や砦にいる兵をなんとか集
めればルージ軍を叩き出すこともできるだろう。そんな算段がつい
カイーキ
たのもルトラスがルージ軍の勢いを止めたおかげだった。
カイーキ
シフグナに備えたルウオの砦にいるグライスにも、王都を通じて
状況は伝えられており、守備隊の一部を王都に回す策を提言してき
たがリーミルは拒否した。砦の守備隊が減ればパロドトスも気づく
だろう。彼が攻め込んでくれば、フローイ国は北はルージ軍、東の
シフグナの両方と同時に事を構えることになる。たとえこの先、シ
フグナのパロドトスを討つにしても、今は戦いは避けておきたかっ
577
たのである。たとえ戦わずとも、ルウオの砦の守備隊はその役割を
カイーキ
充分に果たしていると言えた。ただ、グライスが油断のならないパ
ロドトスに睨みを利かせつつ、後方の王都のようすに気を揉んでい
る様子はうかがえた。
しかし、リーミルたちの安堵にもかかわらず、更に一日が経過し
てリウドの砦からの連絡が途絶えた。二日目に物陰に隠れながら敵
の中を突破してきた兵士が事の次第を語った。砦の背後に突如敵兵
が湧いて出たという。
リウドの砦は南北から敵に攻められ陥落したというのである。ル
トラスの行方は分からぬと言う。
一人の重臣が献策した。
﹁次はグラフラの町。町の防御を固めませねば成りませぬ﹂
リウドの砦が落ちたとすれば、次はその南の町が攻撃されること
は容易に想像がつく。しかし、別の重臣が反論した。
﹁グラフラなど、堀も柵もない。あの町をどうやって守るというの
だ﹂
﹁しかし、グラフラをみすみす敵に渡すのか﹂
重臣のその言葉にリーミルは躊躇した。迷うリーミルにロットラ
スが献策した。
﹁これ以上、兵を小出しにして減らすわけには行かないでしょう﹂
ロットラスが言うのは、敵が上陸して以来、フローイ軍は、数十、
多くとも百数十の兵をルージ軍と戦わせて失い続けている。ルージ
カイーキ
軍と戦うなら、こちらも相応の数の兵士を揃えて戦わねばならない
と言うのである。
カイーキ
リーミルは頷いた。
﹁奴らが王都を攻めるというなら、我らも兵を王都に集めましょう。
奴らが来るならここで兵を整えてルージ軍を迎え撃つ﹂
578
カイーキ
カイーキ
ここで、王都の歴史について説明せねばならない。地図を見れば、
王都はフローイ国の中で南の偏った位置にある。もともと、ランロ
イ近辺に勢力を持っていた部族が北に勢力を広げてフローイという
国家を作った。その後、勢力を広げるのは東の山々を越えたシフグ
ナの地だが、シフグナを攻略するに辺り、カイーキは兵を集めるの
カイーキ
に都合の良い土地だった。
現在の王都を囲む堀や石塀は美しく意匠されてはいるが、同時に
戦闘的な意味も込められているのである。攻められた時の防御力と
いう点ではフローイ国随一といえた。
カイーキ
﹃至急、全軍は王都に参集せよ﹄
リーミルが下した命令は、ルージ軍にマキツキ街道の交通の要衝
ボングスを押さえられたため、西部や北部の町や砦には届くまい。
しかし、リーミルたちにとって問題にはならない。遠く離れた兵士
に招集をかけてもルージ軍との戦いには間に合うまい。むしろ、後
方に置いたまま、ルージ軍の長く伸びた補給路を襲わせるのがよい。
カイーキ
彼女の命令が近隣の小砦に届き、小部隊が王都へと移動し始めた
頃、リーミルたちは戸惑いを隠せないでいた。リウドの砦を落とし、
その勢いでグラフラに攻め込むかと考えたルージ軍は、リウドの砦
で勢いを止めたのである。
﹁さすがのルージ軍も、戦いで兵を失い疲れ果て勢いを失ったので
ございましょう﹂
そう言う者もいれば、別の意見を持つ者も居た。
﹁我が国に講和の使者を遣わすつもりでは?﹂
﹁いや、何か我が国を油断させる策なのやもしれません﹂
重臣たちの意見は入り乱れ、リーミルにもルージ軍の意図は読み
とれなかった。
カイーキ
リーミルらが王都に兵士を集結させて守りを固めた。充分とは言
579
えないが七百を越える兵が集まり、都の市民たちから編成された義
勇軍も三百はいる。
︵なんとかなる︶
リーミルがそんな漠然として希望を抱いた頃、リウドの砦で二日
間動きを止めていたルージ軍が再び動き始めたという報告が届いた。
続いてグラフラの町が占領されたという報告を受けたが、もちろ
カイーキ
んリーミルらの想定内のことである。数日前から戦火を恐れて避難
するグラフラの住民たちが、王都にたどり着き始めている。
報告を受けたリーミルは呟いた。
﹁来るなら来てご覧。一泡吹かせて、海の彼方に追い返してやる﹂
カイーキ
集結させたフローイ軍の兵力はルージ軍に劣るかも知れないが、
王都の防御力を合わせれば互角以上の戦いが出来るに違いなかった。
しかし、ルージ軍が姿を見せる様子がなかった。待つ身は辛く、リ
ーミルが苛立っているのを見たロットラスが言った。
﹁ひとつ、私がグラフラあたりまで出張ってルージ軍の様子を眺め
て参りましょう﹂
彼は手際よく選んだ三名の兵士を連れてグラフラへと出立した。
しかし、ロットラスの出立と入れ代わりに、先に物見に出していた
兵が戻って驚くべき事を告げた。南下を続けてきたルージ軍はグラ
フラの町を発ち、その全軍は南から東に向きを転じたという。
﹁しまった﹂
カイーキ
リーミルは致命的な誤りに気づいた。港町セイタルからマキツキ
街道を勢いよく南下してきた敵が、王都を目指しているのだろうと
考えて防御を固めた。しかし、ルージ軍が目指していたものは、今
は都の役割をもたず、政治から遠ざかっているランロイだった。都
としての役割は終えたが、今でも商業の中心で、膨大な穀物や宝物
を蓄えている。
やがて戻ってきたロットラスも、驚くべき情報を携えていた。森
に姿を隠しながらランロイへと進路を転じたルージ軍を眺めたとい
580
う。
﹁ルージ軍のなかにアトラス王子の姿が﹂
信じられない情報にリーミルは一言呟いた。
﹁まさか見間違いでしょう﹂
﹁いえ、王旗を掲げていた者、その顔は左腕に吊った盾に半ば隠れ
ていましたが、見覚えがございます﹂
﹁でも、ロットラス。貴男はアトラスが槍に貫かれるのを見たと。
ルミリア
しかも、グライスが持参した腕輪は、間違いなく私がアトラスに贈
った品﹂
﹁真理の神に誓って。私はアトラス王子が槍で貫かれるのを見まし
た。しかし、いかなる神の仕業か分かりませぬが、生きていたもの
と﹂
気丈に振る舞い、重臣たちに的確な判断を下していたリーミルが
呆然とし小さく呟いていた。
﹁アトラスが生きていた?﹂
581
捕虜ルトラス
旧都ランロイのフローイ国王の館に、今はルージ軍の青紫旗が翻
っていた。旗に白く染め抜かれているのは、狼の牙と爪を現す王家
の紋章である。
町を占領したルージ軍将兵が何より望んだのは、一夜の温かい寝
床だったのかも知れない。将兵ばかりではなく、馬たちもまた世話
係の兵が与える飼い葉に興味を示さず、疲労困憊した体を休めてい
た。
セイタルに上陸以来、兵の先頭に立って戦ってきたアトラスも、
短いながら久しぶりに落ち着いた睡眠を取ることが出来た。ただ、
指揮官としての責任が、早朝にアトラスを目覚めさせた。戦いの前
半は順調に推移したとはいえ、この占領地ですべきことは多い。ゆ
っくりと休息を取るわけには行かないのである。
床に足をつけ、寝台に腰掛けたアトラスはふと思った。
︵いつの間に︶
左腕を失った体も、今はバランス感覚を取り戻し、日常の生活に
不自由することはなくなっていた。何より、愛馬アレスケイアの背
に跨るのも苦労を感じさせることはない。やや不自由さを感じるの
は、左腕で持っている盾を持つことが出来ぬ為に、盾を肩から吊り、
左に残された二の腕で盾を操作するように改めたことである。アト
ラスは右股の包帯を固く巻き直し、肩の包帯も確認した。傷口から
流れる血は止まって包帯に滲んだ血も渇きかけていた。フローイに
上陸後に常に兵の先頭に立って、剣を敵の血で濡らしていた証だっ
た。
館の中は壁掛けやテーブルの上の調度品など、全て片付けさせた
582
ために質素な空間に変貌していた。アトラスはそんな部屋の一つで
上着を羽織り、腰に剣を吊した。久しぶりにベッドで寝たことで、
起床後に侍女が持ってくる金だらいの水で手と顔を洗う習慣を思い
出した。
近習の一人、スタラススが金だらいを携えて入ってきた。
﹁我らが王子よ。寝坊ですな。顔でも洗って目を覚ましなされ﹂
﹁スタラススよ。王子ではない。我らが王だ﹂
テウススが大きな水差しを抱えて入ってきて、スタラススの勘違
いを訂正した。
﹁かまわぬ。私自身がまだ慣れぬ﹂
アトラスはそう笑った。近習たちは今まで付き従っていたアトラ
スが王の身分になったことに慣れていないし、アトラスも即位式か
ら数ヶ月を経ても、近しい近習たちから王と呼ばれるのに戸惑いが
ある。
スタラススとテウススの心づくしに甘えて、冷たい水で顔を洗っ
たアトラスは、ふと気づいて言った。
﹁館の女たちはどうした?﹂
顔を洗う水を持参するぐらい女たちに任せでも良いはずだった。
﹁女どもは、夜の内に逃げ去りましたよ。おかげでこの館は、むさ
苦しい男ばかり﹂
バウム
テウススの言葉に、スタラススが笑いながら言葉を継いだ。
﹁ルージ軍、とりわけアトラス様が悪神の化身だと恐れておったよ
うです﹂
﹁嫌われたものだな﹂
アトラスは苦笑するしかない。館に居た主だった者は捕らえて監
禁しているが、雑用をこなしていた侍女や小間使いや調理人は特に
管理していない。そのような者が逃げ去って、館の中は寂しくなっ
ていたのである。
寂しいと言えば、アトラスはふと時の流れを寂しく思った。昨年
583
の冬は、彼の傍らで彼を支える個性溢れる近習たちは五人もいて賑
やかだった。今は、兄とも敬愛したザイラスは死に、ラヌガンはネ
ルギエの地でアトラスを守って死んだ父のバラスに代わり、叔父に
支えられながら軍を率いるためにアトラスの傍らを離れた。そして、
今回の遠征ではオウガヌも近習の地位から離れて父親のストパイロ
と共に戦に加わっている。アトラスの傍らにはスタラススとテウス
スが残って居るのみである。
﹁では行くか﹂
アトラスの言葉に二人の近習が頷いた。やらねばならないことは
多いが、まず町の状況を検分せねばならない。
町中も大半の住人たちが立ち去って閑散としている中、このラン
ロイを故郷と定めて、健気に生活を維持しようとする僅かな人々が
売り子が上げる声に誘われて日々の食料を買い求めていた。その人
々から向けられる冷ややかな視線を浴びながらアトラスはサレノス
を伴って町の中を歩いた。
︵信じられない︶
それがルージ軍将兵に共通する思いだったろう。後続の歩兵の連
絡を総合して、ルージ軍が失った将兵は二百名をやや越える。しか
し、その損害も落とした砦の数が六つ、交通の要衝にあるセイタル、
ボングス、グラフラの町、そしてフローイの旧都ランロイを占拠し
たことを考えれば少なすぎる損害だった。
﹁他の町は焼いても、ランロイだけは絶対に焼くな﹂
館や役所で捕らえた役人たちに案内させながら、ルージ国を出る
前にロユラスが固く命じた言葉を思い出していた。
アトラスらが信じられないと目を見張ったのは、ランロイに備蓄
された穀物の量である。おそらくルージ軍を数年は養う分量かあり、
一国が買えるではないかと思えるほど宝物の数々である。この町に
はフローイ国の富が集積していた
584
サレノスが笑いながら問うた。
﹁ご懸念は晴れましたかな﹂
﹁何のことだ﹂
﹁この兵糧があれば、ルージ軍は今後数十年は喰うに困りますまい﹂
サレノスが言う言葉に隠された意味まで解すれば、アトラスが心
を押し隠しているということだったのかも知れない。母国を遠く離
れ兵たちの食料や医療品、戦いで傷ついた武器や武具の補充など配
慮しなければならないことが多い。アトラスは将兵の動揺を恐れて
補給の不安を心の内に固く秘めていた。
しかし、サレノスら歴戦の将から見れば、当然の事で、悩みはア
トラスが心に秘めるより吐き出して共有して欲しいということであ
る。ただ、この若者が戦いのみではなく兵糧まで考える心の広さを
持っているのは好ましい。
町の検分が終わり、王の館に戻ったアトラスに、次の用が待って
いた。捕らえた者たちから、このフローイの様相を聞き出さねばな
らない。とりわけ、王族の者たちの所在が気がかりだったし、フロ
ーイに上陸後、余りに抵抗が少なかった不可思議さも聞きただした
いところだった。
ルージ国の将士が居並ぶ広間で尋問が行われた。何人かの尋問の
後、手首を縛られた一人の男が牽き据えられて来た。甲冑の下につ
ける衣類を身につけていて、甲冑を脱がされた軍人だと知れた。
﹁リウドで捕らえた敵将を連れて参りました﹂
アトラスが男に問うた。
﹁名は?﹂
アトラスの問いに、男が怒鳴り返した。
﹁生魚喰らい︵セキキルシル︶どもに名乗る名は持たぬ﹂
ルージ国の人々が生魚喰らい︵セキキルシル︶という蔑称で呼ば
れているのは噂で知っていたが、面と向かってその罵声を浴びて、
噂を確認したのは初めてだった。戦いは半ばとはいえ順調に勝ち続
585
けている心に余裕もあり、敵将を囲むルージ将兵は苦笑いを浮かべ
た。サレノスが敵将に代わって名を告げた。
﹁他に捕らえた者たちによれば、この者の名はルトラスと申すそう
です。リウドの砦で指揮を執っていたとか﹂
リウドの砦の指揮官と聞いて、並み居る将士は笑顔を消した。彼
らは憎しみや怒り、そして尊敬、様々な感情を隠さず表情に浮かべ
た。フローイ国に上陸以来初めて、ルージ軍を苦戦させ最も多くの
リムラス
ルージ軍兵士を殺した将である。そのルトラスは憎しみの言葉を吐
き出した。
バウム
﹁アトラスよ。呪われた海の神の血を牽く者よ。その腕と引き替え
バウム
に、悪神の加護でも得おったか﹂
﹁悪神の加護?﹂
﹁おおっ、我が砦の後方に薄汚いルージ兵を湧かせおったな﹂
ルトラスが言ったのは、彼が守る砦の後方に、突如ルージ軍部隊
が現れたと言うことである。アトラスはやや考えて、その意味に気
づいて笑い始めた。
﹁何がおかしい﹂
﹁いや、私も、いまここにいることが不思議でたまらぬ﹂
アトラスの率直な本音である。幾つもの町や砦を墜とし、リウド
の砦では守りを固めたルトラスに苦戦し持久戦になるとも覚悟した
が、思いの外簡単に守りが崩れた。その意外さは苦笑いするより無
かった。
アトラスの素直な笑い声と笑顔に面食らって、黙り込むルトラス
タレヴォー
にアトラスはその理由を明かした。
﹁異邦人の手引きで、我が兵の一部を砦の東の崖の上を進ませた﹂
﹁そんなことが?﹂
フローイ国の人々は山中にそんな道があることは知るまい。山中
に隠れ潜む逃亡奴隷たちが利用する道である。ロユラスはその策の
中で砦が守りを固めた時には、この者に先導させて迂回しろと、ギ
リシャ人マカリオスをルージ軍に加えていたのである。
586
この時、敵将へ侮蔑的な言葉が投げかけられた。
﹁ふんっ。我が兵の精強さに肝を潰したであろう﹂
アトラスの元近習の一人でいまは父と共に戦っているオウガヌだ
カイーキ
った。アトラスとサレノスは眉を顰めた。オウガヌには父と共にグ
ラフラの町を守れと命じてある。今は王都とフローイ北西部の敵の
連絡を絶つ重要な拠点である。その拠点を父と共に守れと命じられ
たオウガヌは、与えられた任務の重要性にも気づかず、アトラスの
命令も軽んじていると言うことである。
しかし、彼の父ストパイロはルージ国きっての有力貴族で、王位
継承でもアトラスを支えて重臣だった。そして、リウドの砦の戦い
でも、正面から苦戦するアトラスに、砦の後方から敵を攪乱して、
砦を落とす一番手柄を立てた功労者でもある。この場でオウガヌを
カイーキ
叱責する事をためらったアトラスだが、ルトラスに向けた質問に苛
立ちの感情が滲んでいた。
﹁ボルスス王を始め、王族の姿が見あたらぬ。王都に居るのか﹂
﹁ふん。知るものか﹂
ルトラスはそっぽを向きながらも、注意深くルージ将兵を眺めた。
砦を後方から攻められた理由は分かった。今ひとつ分かったのは、
ルージ軍がまだボルスス王の死を知らないことである。この事実は
交渉に利用できるかもしれない。
587
捕虜ルトラス︵後書き︶
攻めあぐんでいた砦が陥落した理由に続いて、次回更新ではルージ
軍の進撃の早さの秘密が明らかに・・・。でも、勘の良い読者様な
ら既にお気づきでしょうか。
また、ふと生じたアトラスとオウガヌの感情のもつれが広がってゆ
きます。
次回更新は明日の予定です。
588
オウガヌ、対立の火だね
ルトラスの尋問は、いくつかの型通りの質問を繰り返して終わっ
た。ルージ軍が尋問せねばならない者の数は多く、ルトラス一人に
関わっては居られないらしい。
広間から連れ出されるルトラスは振り向いて叫んだ。
﹁おいっ、そこの若造﹂
広間に集まったルージ軍将士の視線がルトラスに集まった。ルト
ラスの視線が自分に向いているのに気づいたオウガヌが怒りを込め
て言った。
﹁小僧とは俺のことか? 俺の名はオウガヌ。お前の砦を陥落させ、
タレヴォー
勇者様だ。覚えておけ﹂
﹁異邦人の手助けを受けるしかない臆病者が勇者様だと? ルージ
も地に落ちたものだ﹂
カイーキ
﹁砦を落とされて悔しいのか。臆病者にグラフラの守りが任される
ものか。まもなく俺が王都を攻め落としてやろう﹂
︵グラフラの守りだと。それは面白い︶
ルトラスはオウガヌの言葉を聞き逃さずそう考えた。ルトラスは
ただ笑ってオウガヌを挑発した。オウガヌが挑発に乗って怒鳴った。
カイーキ
﹁なにがおかしい﹂
﹁今、王都にいる我が軍二千に、我らが王ボルススが間もなく三千
の兵を率いて帰国する。その時、五千の兵で攻められて、血祭りに
上げられるのはお前だ。覚悟しておけ﹂
﹁何を口からでまかせをっ﹂
タレヴォー
﹁でまかせではないわ。その後からもジソー王がシュレーブ軍を率
いてくる。お前のような臆病者など、異邦人の足でも舐めて助けて
もらうか、今の内に我らに命乞いをするが良い﹂
所在不明の王ジソーが率いるフローイ軍、フローイ国と協力して
589
戦う強大なシュレーブ国の軍、ともにいまのルージ軍の不安を煽る
話題だった。オウガヌは反論できない苛立ちを込めてルトラスに駆
け寄って殴りつけた。ルトラスは折れた奥歯を血と共に床に吐き出
して言った。
﹁忘れるな。フローイとシュレーブの大軍がグラフラを襲って、お
カイーキ
前の首を取る。首だけになる前に、その首を何処に飾って欲しいか
言い残しておけ。グラフラの町の広場か? それとも王都の入り口
にでも?﹂
﹁まだ言うかっ﹂
再び殴りかかろうとしたオウガヌの背後からアトラスが飛びかか
って羽交い締めにした。
﹁オウガヌよ。もうやめておけ。縛られた者を殴るなど、お前の名
誉も損なうだろう﹂
﹁しかし、この男は⋮⋮﹂
﹁さっさとグラフラへ戻れ﹂
アトラスの命令に、敵将ルトラスが面白そうに言葉を重ねてオウ
ガヌを挑発した。
﹁おおっ、その通り。さっさとグラフラに戻って、己の首を飾るに
丁度良い場所を探すが良い﹂
アトラスは兵に命じて、ルトラスをさっさと部屋から連れ出して
監禁しろと命じた。ただ、オウガヌ自身は腹の虫が治まらぬように
言った。
﹁我らが王よ。あの暴言をそのままに、私にあの男に背を向けて帰
れとでも?﹂
﹁お前にはグラフラの守りを命じてあるはず﹂
オウガヌの興奮が乗り移るように、命令を聞かぬ彼に苛立ちを深
めるアトラスの様子を察したサレノスが、静かに、しかし気迫を込
めて言った。
﹁戻れ。ここはお前がいる場所ではない。グラフラは我らにとって
重要な地。その守備を任されていることを忘れるな﹂
590
オウガヌは反論しようとしたが、周囲を見回してみれば、彼を支
持する将兵は居ないらしい。皆、沈黙を保って冷静にオウガヌを見
守っていた。オウガヌは腹立たしげにテーブルの上にあった水差し
を床にたたきつけて広間を去った。
一方、王の館から連れ出されたルトラスは、縛られた腕の縄を牽
く二人の兵に尋ねていた。
﹁お前たちはアレに乗ってきたのか﹂
顎でしゃくって示す先に馬が居た。数百、ひょっとしたら千頭を
超える数かも知れない。ルトラスはこんな多くの馬を眺めたのは初
めてだった。ルージ軍は、昨日まで馬を郊外に繋いでいたが、世話
をするのに便利なためにランロイの町に引き入れていたのである。
兵士は素直に答えた。
﹁そうだ。おれたちルージ人にとって友人であり家族でもある﹂
二人目の兵士が付け加えた
﹁そして今回は俺たちの戦友にもなった﹂
ルトラスは目の前の光景に、ルージ軍の進撃の早さを納得した。
ルージ軍はセイタルの港町に上陸した後、戦闘の大半は千名ほど
の歩兵に任せ、主力は軽装歩兵二名を乗せた千の馬でマキツキの砦
に向かいこれを落とした。騎馬兵と呼ぶには中途半端な兵たちだっ
た。ルージ国の人々は乗馬には慣れてはいても、馬上で弓を射る習
慣はなかったし、馬上で戦うには彼らが装備する剣は短すぎた。槍
はあっても馬上で槍を振り回して戦えるほど、馬と槍の扱いに慣れ
た者も少ない。
彼らは戦場の手前で馬を降り、一部の兵にその世話を任せて、軽
装歩兵の姿で敵に挑みかかったのである。軽い鎧を身にまとい、弓
と剣しか武器を持たぬ兵である。しかし、その移動速度はフローイ
軍の想像を遙かに超えていた。
フローイ軍は敵が迫ってくると言う連絡を受けることも出来ない
591
まま、敵の大軍が突然に目の前に現れたという状況だった。フロー
イ軍兵士たちは混乱した。もともと多くとも百名、今はセイタルへ
と増援を出して数十名しか守備兵の居ないマキツキの砦は、二千の
兵にあっという間に陥落した。
砦の占領と僅かな残敵の掃討は後方から駆けつける歩兵に任せ、
砦を破った彼らは再び馬に乗って次の目的地に移動し、後方から応
援に駆けつけたフローイ兵も街道上で一蹴した。時折、後方へと情
報を携えたフローイ軍の伝令を追い越しざまにこれを捕らえもした。
カイーキ
前線の情報を持って駆け足で後方に戻る兵士が、ルージ軍の進撃の
早さに追いつかれてしまっていたのである。王都にいたリーミルら
が前線からの情報不足に悩まされた原因である。
592
アトラスの不安
主だった者たちの尋問は終えたが、捕らえた者たちの口は堅く有
用な情報は得られていない。ただ、王の館の警護に当たるルージ軍
兵士が二人、奇妙な噂を伝えてきた。館の小間使いをしていた老人
がルージ軍兵士を憎々しげに眺めて言ったという。
﹁卑怯にも、我らが王が亡くなった混乱をついて攻め寄せてきおっ
た﹂
身分の低い者の一言だけに、王の状況を誤解しているのかも知れ
ない。一方、漏らした情報の重要さを理解せず真実を語ったように
も見える。本当にボルススが亡くなったのかどうか、捕らえた重臣
たちを改めて詮議せねばならない。
しかし、今のアトラスにはもう一つ気がかりなことがあった。ア
トラスはさりげなく周囲を見回した。広間から他の将兵が姿を消し、
残るのはサレノスのみだった。アトラスは短く問うた。
﹁サレノス。グラフラの守りは大丈夫だろうか﹂
﹁ストパイロには彼の兵の他、八百の増援をつけてあります。守っ
てもらわねばなりますまい﹂
サレノスの言葉にも気が晴れぬ表情で、アトラスは別の提案をし
た。
かなめ
﹁私がグラフラの守りに就き、ストパイロとオウガヌにランロイを
任せるというのはどうだろう﹂
﹁このランロイの物資こそ我らの戦の要。ストパイロ殿の手には余
りましょう﹂
アトラスの質問に明確な回答を与えながらも、サレノスも顔を曇
らせていた。二人には共通する不安を言葉に出来なかった。
593
ルージ軍は三千をやや超える兵のうち、五百をセイタルからグラ
フラ間の街道の守りに当て、残りの二千五百の兵を千をグラフラに、
カイーキ
千五百をランロイに配備していた。都でもない町に千もの兵を配備
しているのは、このグラフラが王都とフローイ国西方の連絡を遮断
する重要な町だからである。
ストパイロはもともと王家に次ぐ名門貴族で、彼の家は歴代の王
に仕え続けている。ストパイロ自身も先代の王リダルや王妃リネに
忠誠を尽くしてきた。何より、アトラスとロユラスの王位継承問題
が持ち上がった時にアトラスを最も熱心に支持した。息子のオウガ
ヌは幼い頃から近習としてアトラスの傍らにおり、身分差を感じさ
せない親友に近い。そんな近しい関係が、この戦場で支障になって
いる。
アトラスやサレノスの本音を言えば、グラフラの守りはストパイ
ロ親子よりもっと慎重な者に任せたいところだったし、元近習のラ
ヌガンなどが適任者に違いない。先のネルギエの戦いで父バラスを
失っているとはいえ、ラヌガンは忠誠心があり、戦に長けた叔父も
彼を補佐している。ただし、家柄の序列として、ラヌガンの家柄は
ストパイロに劣るのである。そのため、ラヌガンが率いる部隊はス
トパイロの指揮下に組み込んでグラフラの守りにつけている。ラヌ
ガンにグラフラの守りを任せるとすればストパイロを彼の指揮下に
入れねばならない。しかし、誇り高いストパイロは、格下の者の指
揮下に入ることを拒絶し、無用な混乱を招くだろうと思われた。
アトラスの心配にもかかわらず、サレノスが言うとおり、グラフ
ラの町の守りはストパイロ親子に任せるよりほかないだろう。
594
ストパイロの計画
日が暮れる頃、オウガヌがランロイからグラフラの町へと、数人
の従者を連れて帰ってきた。町の入り口で彼の姿を一目眺めたルー
ジ軍の衛兵が、難を避けるように彼と視線を交わすのを避けた。も
ともと威張り散らすことが多い青年である。今は苛立ちが加わって
いて、視線を交わしたことすら不愉快に感じて、従者に向ける罵声
や暴力が他に向くかも知れない。
もちろん、オウガヌの機嫌の悪さはランロイでの出来事に起因し
ている。彼は王アトラスやサレノスが手こずった砦を自分が落とし
たと考えていた。アトラスが彼に手柄を立てさせるために幾多の将
士の中から、砦を迂回する部隊にストパイロ親子を選んだことも、
ギリシャ人マカリオスが手際よく砦の後方へ導いたことも、何より
もその迂回策を提言したのは親子が見下すロユラスだと言うことも。
オウガヌは気づいては居ない。彼はアトラスが自分の功績を正当に
評価していないと苛立っていたのである。
オウガヌらルージ軍守備隊は、町長の館を占拠してルージ軍司令
部として利用していた。町中は兵が闊歩し市民の姿は少ない。占領
と共に町を脱出しようとする民を妨げなかった。これから戦場にな
るやも知れぬ町で、民にフローイ軍の手引きでもされるのはやっか
いだったからである。しかし、町を捨てる決心がつかぬ者たちも居
た。そう言う者たちは、ルージ兵に卑屈な愛想笑いを浮かべつつ、
細々と露店を開いて日々の糧を稼いでいた。
その露店の一つから、通りかかったオウガヌに石が飛び若い女の
罵声が放たれた。
595
﹁人殺しめ。地獄へ落ちろ﹂
振り返るオウガヌに、露天の一つから女が飛び出してきた。彼女
バウム
ニメゲル
は再び憎しみをこめた叫びを放った。
﹁悪神の手先め。お前など復讐の神の槍に突かれ、炎に包まれて、
のたうち回って狂い死にすればいい﹂
貧しい身なりの女の身の上は明らかではなかったが、この戦場で
ありがちなこと、親しい身内をルージ兵に殺された怨みを叫んでい
るのだろうと推測がついた。辺りの露天の住人たちは凍り付いたよ
うに静止して女とオウガヌを眺めていた。
﹁女、もう一度言ってみろ。俺を侮辱した者がどうなるか教えてや
る﹂
朝から積もっていた苛立ちがオウガヌに腰の剣を抜かせた。女は
ちらつく白刃を恐れる様子もなく罵声を続けた。
﹁ふんっ。所詮、ルージの田舎兵士。子どもを殺すことしか出来ぬ
のでしょう﹂
女の言葉を察すれば、占領時の戦いに巻き込まれて亡くなったの
は彼女の幼い子どもであったのかも知れない。武器も持たず、武装
した敵の将士に復讐する手段は石を投げるか罵声を放つだけ。この
若く貧しい女の哀れさが漂っていた。オウガヌは苛立ちで女の哀れ
さをくみ取る余裕もなく剣を振るった。
女は短い悲鳴を上げ、胸元を地に染めて道に転がった。
﹁後は、犬にでも喰わせろ﹂
オウガヌは血が滴る剣先で哀れな死体を示してそう言い、足早に
立ち去った。見送る町の人々の目に憎しみの灯が見えた。
事件から一時間もせぬうちに、オウガヌは司令部の私室に客を迎
えた。
﹁オウガヌよ。町で女を殺めたそうだな﹂
怒りを抑え切れず、声に怒りが籠もっていた。部屋に入ってきた
のはもと近習仲間のラヌガンである。今は百五十人ばかりの部隊を
596
率い、叔父と共にストパイロの指揮下にいる。普段は身分の上下を
気にするオウガヌも、幼い頃から共に過ごして近習仲間には親友と
しての意識を持っていた。他の者になら怒りを見せただろうオウガ
ヌも、ラヌガンの態度を受け流して答えた。
﹁おおっ。それがどうした﹂
﹁どうしただと。自分がしでかしたことが分かって居らぬのか?﹂
﹁無礼を働いた下賤の女を一人征伐しただけ。その何が悪い﹂
﹁民衆を敵に回したと言うことだ﹂
﹁フローイ国の民など、もともと敵ばかり。敵の数を一人減らすの
に問題はあるまい﹂
﹁これから、ボルスス王の本隊と戦をしようと言う時に、町で叛乱
でも起きたらどうする。我らはフローイ軍と、フローイの民衆の両
方と争わねばならぬハメになる﹂
﹁叛乱だと。上等ではないか、我らに不満を抱く者が名乗り出てく
れるようなもの。片っ端から首を切り落とし、逆らえぬようにして
やる﹂
﹁なんと愚かな奴だ﹂
﹁この俺が愚かだと?﹂
﹁おお、その通り﹂
興奮する二人の会話を遮るように、部屋に鷹揚な声が響いた。
﹁もうやめよ。近習同士で言い争って何になる﹂
新たに姿を見せたのはオウガヌの父で守備部隊の司令官を任され
たストパイロである。かれは二人の争いを分けるように話題を転じ
た。
﹁丁度良い、トリルナの砦を攻める相談をしたかったところだ﹂
﹁トリルナの砦ですって?﹂
ラヌガンの驚きの声に、オウガヌはデに知っていたかのように笑
った。ストパイロがラヌガンに語った。
﹁知らぬのか? このグラフラから西に一日の距離にある。たいそ
597
う立派な砦だが、物見をやって調べたところ、守備兵の数は百名に
も足らぬ。我らの手勢で攻め取るのに丁度良い﹂
﹁砦があるのは知っております。しかし、我らが王からこのグラフ
ラを固く守って動くなと命じられているはずでは﹂
﹁いや、我らが王はまだお若い。先代の王リダル様なら、攻め取れ
と命じたはず。戦の何たるかを行動で、若い王にお教えするのも我
らの役目ではないか﹂
﹁私は従えませぬ。私の叔父マリドラスもそう言うでしょう。我ら
が王の命令に従うと﹂
﹁何を言う。ラヌガンよ。お前は我らが王から、ストパイロの指揮
下で戦えと命じられたはず。その私の命令に従えぬというのは、我
らが王の命令をないがしろにするものであろう﹂
﹁では、このグラフラの守りはどうなります﹂
﹁五百の兵は残そう。そうだお前に任せてやろう。我らは五百の兵
で充分。三日もあればトリルナの砦を落とし、戦勝報告を我らが王
に届けよう﹂
ストパイロの言葉に、息子のオウガヌが親友らしく笑いながら言
葉を継いだ。
﹁まったく欲のない奴だな。こんな簡単な戦で勇名を轟かせること
が出来るものを。まぁ、心配するな。砦を落として三日で帰ってく
る﹂
﹁では、落とした砦は、焼いて来い﹂
ラヌガンがそう言ったのは、戦略上、さほど価値のない砦を取り、
その砦を守るために守備兵を置けば、グラフラの兵が減り、守りが
手薄になると言うことである。しかし、オウガヌの言葉は自信満々
だった。
﹁戦勝の証を何故焼かねばならぬ。俺が兵を率いてトリルナの砦を
起点にフローイ全土を占領してやる﹂
﹁馬鹿なことを。ストパイロ殿。私はこのことをランロイの我らが
王にお知らせせねばなりませぬ﹂
598
﹁おおっ、知らせよ。我ら親子の戦勝の知らせの先触れになる﹂
親子は大声で笑いながら部屋から消え、ラヌガンのみ、薄暗くな
りかけた中に一人取り残されていた。思いを巡らしても名案は浮か
ばず、ラヌガンも素早く身を翻して部屋から消えた。一刻も早くこ
の状況をランロイに居るアトラスに知らせねばならない。
599
ランロイにて
サレノスがアトラスの部屋に顔を見せた時、彼は諸肌脱いで士卒
に胸の包帯を巻き直させていた。取り替えた包帯にはまだ血が滲ん
でいた。港町セイタルに上陸後、アトラスは常に兵の先頭に立って
パトロエ
ナナエラネ
戦い続けた。その証と言える。ただサレノスが眉を顰めたのは、彼
の立場で考えれば、その勇敢さが無謀さに代わると危うい。
ニクスス
﹁傷の具合はいかがですかな﹂
﹁運命の神の定めと戦いの女神の導きを得た。この上、医の女神の
ご加護まで願うのは欲張りいうものだろうよ﹂
アトラスはそんな軽口で答えた。サレノスは特別な感情を見せず、
短く報告した。
﹁略奪者どもの処刑が終わりました﹂
アトラスは小さく頷いた。
﹁そうか﹂
ランロイの広場で、民衆の前で首をはねられたのは、規律を乱し
たルージ兵である。民家に押し入り女と娘を犯そうとしたあげく、
それを防ごうとした男を殺害した者二名。裕福な商家に忍び込んで
家人を殺害し金品を盗んだ者三名だった。
ランロイを占拠して間もなく、戦闘から解放された心が落ち着い
てみると、ずいぶん敵地の奥深くに侵入したという孤立感がアトラ
スの心に湧いた。そんな彼を励ますように、サレノスが言ったこと
がある。﹁過去の海外遠征では、四方は全てが敵の蛮族でありまし
た。しかも何を考えているのか分からず言葉も通じぬ蛮族ども。そ
れに比べれば今回は言葉は通じますな﹂と。
敵地奥深くで動揺が起きやすい兵の規律を維持し、敵地の住民た
ちの叛乱をも防いでいたのは、このルージ軍の厳格な公正さである。
事実、公正さに欠け、蛮族を見下すのみだったシュレーブ軍など住
600
民の叛乱に悩まされた経験を持っている。
フローイ国に進出したルージ軍にとって一兵たりとも無駄に失い
たくない時機だった。しかし、過去の経験を生かせば、泥棒や強盗
などは厳正に処罰して町の治安を維持せねばならないが、それは味
方の兵であっても同じ扱いをせねばならない。サレノスはアトラス
をそう諭し、アトラスはそれを受け入れた。
そして、戦に不慣れなアトラスらが未だ経験したことのないこと
があった。ルージ軍がランロイで捕らえた者たちの尋問は進んで、
断片的ながら現在のフローイ国の兵力や配備についての情報が得ら
れていた。情報を集めるのは戦にとって重大事で、周囲を偵察する
物見の兵を数多く派遣している。
それ以外に捕らえた不審者たちの尋問があった。表だって捕虜に
尋問するのは、アトラスらルージ軍の主だった者たちだが、情報を
吐かぬ者や話した情報に疑いがある時に、サレノスらは捕虜を傍ら
の兵士に命じて奥の部屋へ連行させる。
王宮の奥から鞭が打ち鳴らされる音や怒号、哀れな犠牲者の悲鳴
が漏れ聞こえる。その残酷な音で他の捕虜の自白を誘う意図でもあ
るかのように、王宮に響き渡って隠されることがない。
アトラスの近習スタラススがぽつりと言った。
﹁これなら、戦の方がまだ気が楽じゃ﹂
テウススも同意して黙って頷いたが、アトラスは眉を顰めて語ら
なかった。若者たちが想像もしなかった戦の側面である。
ランロイまでの戦闘で捕虜にした者たちや、ランロイを占領する
時に捕らえた役人たちの他、マキツキ街道の各所に設けた関所で不
カイーキ
審な者が捕らえられればランロイに送られて尋問を受ける。
そんな中、不審な者が捕らわれて送られてきて、王都からの使者
だと吐いた。北西部の領地へ食料の手配を求める伝令だった。また、
601
カイーキ
不審な商人を捕らえてみれば、北西部に出す手紙を持参しており、
手紙の内容から王都の食糧不足を告げる内容だと知れた。しかも緊
急を要するらしい。
﹁やはり、フローイ国がシュレーブ国と一戦交えたというのは本当
のようですな﹂
サレノスが慎重にそう言った。ネルギエの戦いで協力してルージ
軍と戦ったシュレーブ国とフローイ国が、戦火を交えたらしいと言
う情報は掴んでいた。しかし彼らにとって、その理由も掴めず、に
わかに信じがたいことだった。ランロイとグラフラを占領され、自
国の食料の補給を絶たれたとしても、隣国シュレーブ国から食料を
運び込むことも出来るはずだ。それも出来ず食糧不足に陥っている
というのは、シュレーブ国との間に何かがあったに違いない。
﹁降伏勧告を早めても良いと言うことか?﹂
アトラスの言葉にサレノスは少し考えて答えた。
﹁今しばらく、機会を見た方がよいかも知れませぬ﹂
フローイ軍がシュレーブで大きな被害を被り、ボルススも戦死し
たという噂は聞いているが信じるにたる証拠がない。今は慎重に事
を構える方が良いというのである。アトラスもそれを理解して頷い
た。
過去のフローイ国が隣国への進出を図って、国の南に偏った位置
に進出の足がかりになる都市カイーキを築いた。ただし、当時のボ
ルススは、家督を譲った息子と嫁にその都市の建設と維持を任せつ
つ、実権は手放さず経済と富の中心は旧都ランロイのままだった。
カイーキ
カイーキ
フローイ国侵攻の計画を立てたロユラスはそんな歴史は知らなか
ったが、王都が置かれた位置の歪さ、煌びやかな王都で暮らす人々
カイーキ
の多さ、その人々の生活をまかなう物資が頻繁にランロイから運ば
れていることに気づいていた。
隣国シュレーブ国との間の峠道は、細く、長く、険しい。王都の
602
人々の生活を支える物資を運ぶには適さない。実質上の都ランロイ
と交通の要衝グラフラを押さえればフローイ国は身動きがとれまい。
そう考えていたのである。
更に街道上のセイタル、ボングス、グラフラの町から脱出してゆ
く民衆たちに、偽の情報を吹き込んである。隣町に逃げ込んだ民衆
たちは、フローイ各地の領主のルージ軍の手引きや、ルージ軍への
寝返りの噂を広めているだろう。各地の領主や役人は疑心暗鬼で身
動きがとれまい。
カイーキ
そして、ロユラスが考えもしなかったフローイ国とシュレーブ国
カイーキ
の対立が起き、王都はシュレーブ国からの食料調達の手段も絶たれ
た。王都の自滅を待って、フローイ国北西部攻略に乗り出すという
ロユラスの計画だが、その自滅が早まるかも知れない。
アトラスは、心秘かに、フローイ国がルージ国が申し入れを受け
て降伏するのではないかという期待も持っていた。そうすれば、ル
ージ国は一兵も失わずフローイ国の支配権を手に入れることが出来
るだろう。
そんな甘い期待も、新たにもたらされた情報に打ちのめされた。
グラフラからラヌガンが送ってよこした伝令である。
﹁何? オウガヌがグラフラで民を殺害しただと﹂
最初の報告に、表情に怒りを浮かべたアトラスだが、続く報告に
はアトラスもサレノスも驚愕した。
﹁ストパイロが勝手に戦を始めたというのか﹂
アトラスの言葉にサレノスも同調して言葉を継いだ。
﹁至急戻って、ストパイロに兵を退けと伝えよ。いや、こちらから
伝令を出す﹂
疲れ切った伝令を帰らせて命令を伝えるのではなく、直接に伝令
を出すというのである。事は緊急を要した。呼び寄せられた新たな
伝令に伝えるべき口上を聞かせるサレノスにアトラスは付け加えた。
﹁命令はラヌガンに伝えよ。行ってストパイロの愚か者を止めてこ
603
いと﹂
幼い頃からその慎重で忠実な性格を知り尽くしていたし、ストパ
イロの息子オウガヌとも親友関係にある。この状況下で最も信頼で
きる使者だろう。
足早に部屋を出て行った伝令の背を見送ってサレノスが言った。
﹁ストパイロめ。戦を甘く見て功を焦っておりますな﹂
アトラスもリウドの砦を思い出して頷いた。ランロイに来るまで
に、アトラスはリウドの砦で苦戦し足止めを食う結果になった。こ
の時、後方から追いついた歩兵部隊のストパイロの部隊に迂回路を
進ませて敵の後方を突かせて砦を落とした。ストパイロや息子のオ
ウガヌは、苦戦する王を自分たちが救ったと自信をつけている。
ただ、アトラスが幾つもの砦や町を驚くべき早さで落としたのは、
敵の準備が整わず混乱する隙をついた為である。アトラスが戦の準
備を整えたリウドの砦で苦戦したように、トリルナの砦も既に戦の
準備に怠りはあるまい。しかも、歩兵で歩みの遅いストパイロの兵
は砦に接近する前から動きを察知されてしまうに違いない。
何より、マカリオスを同行させていない彼らは、迂回路を使って
敵の後方を突くという事も出来ず砦に正面から攻めかかるしかない。
アトラスはストパイロの部隊の全滅すら考えねばならない状況だ
った。
604
ランロイにて︵後書き︶
カイーキ
次回更新は明日の予定です。王都のリーミル。じっとジリ貧を待っ
てる人ではないです︵笑︶リーミルが打つ一手は?
605
リーミルの決意
カイーキ
﹁貴方たち。よく帰ってきてくれたわね。嬉しいわ﹂
王都のフローイ軍宿舎に傷病兵たちを見舞うリーミルの笑顔と言
葉は本物である。一方、帰らなかった者たちの事を考えると気が重
い。王ボルススは補給に携わる補助兵力も含めれば二千八百人の兵
士を遠征にかり出し、その後リーミルはボルススの求めに応じて二
百と三百に分けて増援の兵士を送った。帰ってきた者は八百を少し
超える兵士で、しかも未だに剣を振るうどころか自力で歩ける者も
少ない。ただし、傷病兵の目の輝きは戻ってきている。
一人の兵士がベッドの上で上半身を起こし拳を高く掲げて叫んだ。
﹁我ら、フローイ王家のために﹂
ジメス
別の兵士は立ち上がる体力がないのを悔しそうに、ベッドに腰掛
けたまま叫んだ。
﹁シフグナの者どもに審判の神の槍を突き立てよ﹂
王家への忠誠と、仇への憎しみの言葉が宿舎に溢れた。戻ってき
た兵士たちは、王ボルススが我が身を囮として自分たちを救ったと
信じて疑わないのである。もちろんそう言う意図もあったろうが、
生死を分ける極限状態で合理的な王が考えていたのは、次の戦のた
めに出来るだけ多くの兵力を残さねばならぬということだったろう。
リーミルもそんな祖父の血を牽いて、戦いをくぐり抜けて来た兵
たちへの尊敬と共に冷静に考えていた。
︵この者たちは、まだ戦力として、あてにできない。ただ⋮⋮︶
リーミルは傍らにいるロットラスを眺めて言った。
﹁貴男も、よくこの者たちを連れ帰ってきてくれたわ﹂
﹁いえ、我らが王より預かった兵の二百は失いました﹂
兵を失ったと言うが、生き残った兵がロットラスに注ぐ敬意の視
線が実態を物語っていた。彼が王ボルススから千の兵を与えられた
606
とはいえその大半はようやく自力で歩ける者たちだった。シフグナ
しんがり
へ侵入後に前方を防ぐ百の敵兵を突破し、後方から追いすがる敵に
対して殿で兵を逃がしながら戦いつつ、ルウオの砦に帰還した。こ
のロットラスが居なければ王ボルススが二手に分けた兵の残りの一
カイーキ
方も全滅していたかも知れないのである。
パトローサ
兵舎から王都の中央を貫く街道に出てみると、様々な人の姿で溢
れていた。五千人の市民を抱え、シュレーブ国の王都に次ぐ、アト
ランティス第二の都市だった。更に今はランロイやグラフラを脱出
してきた市民が流入し、一挙に膨れあがった人口で町は混雑と混乱、
そして人々の不安に満ちていた。
そんな人々がリーミルに寄せる信頼は厚い。ロットラス以外の護
衛もつけずに出歩いていた彼女は人々に取り囲まれた。
﹁リーミル様。ランロイから逃げて参りました。まだ、親類の者も
残っております。ランロイの様子は何か分かりますでしょうか?﹂
﹁シュレーブ国との戦も起きたとの噂です。誠でしょうか。ルージ
とシュレーブに攻められどうやってフローイを守るのでしょう?﹂
﹁グラフラの町では市民が殺害されているとも聞きます。残された
者は大丈夫でしょうか?﹂
﹁今のフローイはルージに蹂躙されるがまま。奴らを追い出して平
和を取り戻せるのでしょうか?﹂
市民の声は途切れることなく投げかけられ、リーミルはその一つ
一つに応じることは出来ない。彼女は傍らにあった木箱に飛び乗り、
一段高い位置から市民を眺め回して語りかけた。
﹁聞きなさい﹂
その一言で騒がしかった街道の人々の間に沈黙が広がっていった。
リーミルはそれを待って語り始めた。
﹁生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶どもが、西の小島からのこのこと
やって来たけれど、主力はグラフラとランロイに置いている。我が
国のど真ん中です。周りから取り囲んで叩きのめしてやりましょう﹂
王女の勇ましい言葉に上がる喚声を制してリーミルは言葉を継い
607
だ。
﹁西では、我らが勇者グライスが千名の兵を率いてシフグナに睨み
を利かせています。リダルを討った勇者に睨まれて、今頃はシフグ
ナの物は縮み上がっているでしょう﹂
もちろん千人の兵というのは市民を鼓舞する嘘である。実数は六
百足らずだろう。しかし再び喚声が上がり、王女の言葉を疑う者が
カイーキ
居なかった。リーミルは語り続けた。
﹁ルウオの砦、この王都には、我が国を守るに充分な精強無比な兵
が居ます。そして、考えてみなさい。トリルの地、エミタの地、レ
イメの地には無傷の兵が居ます。これらの兵を統合すれば、敵を叩
き出すには充分。必ずこのフローイに楯突く愚か者共を殲滅しまし
ょう。さあ、王宮までの道を空けて、早く私にその仕事をさせてち
ょうだい﹂
ロットラスは群衆をかき分けてリーミルの道を確保しながら考え
ていた。リーミルが群衆に語ったフローイ国北西部の兵を統合する
ということである。この群衆をかき分けるより困難な道のりになる
だろう。
王宮に戻ったリーミルは、夕方に主だった者を会議室に集めよと
ロットラスに指示して、命令の最後に一言付け加えた。
﹁しばらく、一人にしてちょうだい﹂
﹁言いつけの通りに。侍女にワイン水などお持ちするよう伝えてお
きます﹂
ロットラスはリーミルの疲労を考えるようにそう言い置いて部屋
を去った。
王宮の私室で一人考え込むリーミルに来訪者があった。
﹁フェミナ。どうしたの?﹂
﹁父から色よい返事が返って参りません﹂
フェミナがそう言ったのは、シフグナの独走を罰しろと言う要求
のことである。有力貴族とはいえ、フローイ国の言い分のみで一領
608
主を罰しろと言うのは無理な話だが、若いフェミナはそれに気づい
ていないのだろう。
﹁もうしばらく待てば、状況も変わるでしょう﹂
﹁待てません。私が直接行って、父にシフグナのパロドトスの糾弾
とシュレーブ国との和平の件を確認して参りたいと思います﹂
その一途さに、彼女の思いの軽薄さを笑うことは出来ず、リーミ
ルは別の言葉で語った。
﹁シュレーブの有力貴族に働きかけるというなら、既にティルマ様
の繋がりでルタゴラ家に話をつけてあります﹂
ただし、シュレーブ国から嫁いできた王妃ティルマは、グライス
を産んだ後、若くして亡くなったために、今はその生家のルタゴラ
家との繋がりも切れたのも同然である。続いてリーミルは意外な言
葉を笑顔で吐いた。
﹁考えてみなさい。今の貴女はフローイ国にとって大事な人質です﹂
リーミルの人なつっこい笑顔が、人質という物騒な表現を和らげ
ていた。
﹁人質ですか?﹂
﹁そう。貴女がここに留まる限り、貴男のお父上に遠慮してジソー
はここを攻められないし、パロドトスにも攻めるなと圧力を掛ける
でしょう﹂
﹁そんなことが﹂
﹁シュレーブへ行くのと、ここに留まるのと。どちらがフローイ国
王妃の役割か、よくお考えなさい﹂
﹁分かりました。留まることに致します﹂
フェミナがリーミルに頬を寄せて抱きしめる様子は、実の姉に対
する妹のようで信頼感に満ちていた。リーミルはフェミナの肩を優
しく掴んで、腕の長さの距離を置いて向き合った。
﹁ところで、貴女の計画は順調なの?﹂
リーミルの問いにフェミナは戸惑った。隠すつもりはない。しか
し、この理知的な義姉は、フェミナが語らずとも彼女がしているこ
609
とを見抜いているようだった。
﹁それは、夫に先に話したいと思います﹂
フェミナは頬を少し赤らめ戸惑いながらそう答え、リーミルもそ
れを認めた。
﹁そうね。そうなさい﹂
私室を立ち去ったフェミナに代わって新たな者がロットラスと共
に現れた。右肩から左の脇下に掛けた赤いタスキで伝令の兵だと知
れた。
﹁リーミル様にご報告がございます﹂
﹁何?﹂
﹁グラフラに忍ぶ味方から、トリルへの使者が捕らえられたとのこ
とです﹂
ルージ軍の占領下の町にも市民を装った者を忍ばせて動向を探っ
ていた。その一人からもたらされた情報だという。
﹁これで全て捕らえられたと言うことか﹂
ロットラスがそう言ったのは、北西部各地の領主に出した伝令の
事である。リーミルは覚悟していたかのように言った。
アナラス
﹁奴らも馬鹿ではないという事よ﹂
アナラス
﹁それでも、大地の神の右手へ行かれますか﹂
アナラス
﹁行きます。大地の神の背にも行かねばならぬでしょう﹂
大地の神の右手とは、アトランティス人が西を指して言う言葉で、
同じく背とは北を指している。西や東と明確にいわず、様々な比喩
を示唆する表現に、これからの困難さが伺えた。
リーミルはまだルージの占領下にない北西部を回って兵を統合す
るつもりなのである。ただし、その為にはルージ軍の支配下にある
グラフラを突破せねばならない。代理の者にさせるわけには行かな
い。忠実な領主たちだが、彼らをまとめる者が居なければ、百名に
も足りぬ少数の手兵でばらばらにルージ軍に挑んで撃破されるだろ
う。領主たちをまとめて命令を出す者が必要なのである。
610
しかし、各地に出した使者が捉えられている状況では、グラフラ
の突破にもう一手打つ必要がある。
カイーキ
夕刻、ロットラスに指示したとおり、王都の会議室に参集した。
カイーキ
重臣たちを前にしたリーミルの言葉に驚きの表情を浮かべた。
﹁私は、この王都にいる全軍で、グラフラを攻めるつもりです﹂
611
守将バルスス
カイーキ
王都でリーミルが出陣の決意を固めていた頃、ストパイロは五百
の兵を率いてトリルナの砦を目前にしていた。彼らが勇ましく進軍
する道は、山岳地帯を抜けてグラフラとフローイ国西岸の町トリル
を結んでいてトリル街道と呼ばれている。主要街道の一つだけによ
く整備され、荷車が容易にすれ違える100スタン︵18メートル︶
の道幅がある。ただその広い街道が、峠の辺りで街道の両側が険し
い崖になり道幅も60スタンに狭まっている。人の往来を監視する
のにはここより適した場所はない。そんな所にトリルナの砦があっ
た。普段は民の往来を監視するための施設で、十数名の兵士が常駐
しているに過ぎない。ただし、今は兵士も増員されて五十を超える
兵士が居る。
﹁いささか、物見の兵の話と違うようで﹂
ストパイロの指揮下に組み込まれた小領主ディアラスが首を傾げ
てそう言った。過去の海外遠征にも加わった経験のある歴戦の男で
六十人の兵を率いている。ストパイロは不安を吹っ切るように笑い、
他の領主や兵に聞こえるように声を張り上げた。
﹁いや何、敵兵の数など僅かなもの。我らの兵で一気に攻めかかれ
ば、恐れをなして逃げ去るに違いなかろう。我らの勝利は間違いな
い﹂
一気に攻めかかるとストパイロは言うが、砦は見上げるほどの塀
があり、その前の街道上には、頑丈な柵が新たに三重に設置されて
いる。手前の柵には人が通る出入り口が右側に、その次の柵は左に
と、左右交互に交互に出入り口が設けられ、砦に攻めかかるには、
兵は列をなして柵と柵の間を左右に進んでゆかねばならない。更に
砦の壁の向こうには真新しい櫓が二つ見える。戦が始まれば、敵は
612
あの見晴らしの良い櫓から、柵で右往左往する味方に矢を射かけて
くるだろうと想像がつく。
﹁見事なものだ﹂
四十人ばかりの兵を率いる小領主メニムズが、ため息をつくよう
な口調で砦の守将の手腕を褒めた。僅かな兵と僅かな時間で最高の
防御を整えたと考えたのである。
﹁ここは、兵を退きますか﹂
メニムズの冷静すぎる言葉にストパイロは怒りを露わにした。
﹁何を言う。一戦もせず敵に背を向けたとあってはルージの恥にな
る﹂
︵そうではあるまい︶
メニズムはそう思った。兵を出すにあたり反対意見もあったとい
う。その反対を押し切ってここまで兵を率いてきた以上、戦わぬと
言うのは名門貴族のストパイロの面子が立たない。恥というなら、
ルージ軍ではなくストパイロの恥と言うことだ。
ストパイロは視線を一人の領主に定めて問うた。
﹁デアラス殿、先鋒はいかがか?﹂
﹁いや。ここは引き揚げ時かと﹂
﹁では、ルウデス殿は? そなたの突撃と共に我らも敵に弓を射掛
けて加勢しよう﹂
﹁我が兵は僅か三十。砦の門にたどり着く前に全員が敵に射殺され
ましょう﹂
ルウデスの他には⋮⋮。次に指名する領主を求めて周囲をも回す
ストパイロと視線を合わすことを避けるばかりである。戦うという
意思でストパイロは孤立した。戦わず、指揮下の小領主たちが命令
も聞かないというのでは、ストパイロ個人の名誉も家名も傷つくに
違いない。彼は苛立たしげに最後の選択肢を口にした。
﹁ええいっ、皆が手柄が要らぬと言うなら、儂が行く﹂
総指揮官の言葉に指揮下の小領主たちは沈黙し眉を顰めた。総指
揮官が戦い戦死するようなことでもあれば、軍の士気が救いがたい
613
ほど落ちる。そして、総指揮官が戦死する状況でお前たちは何をし
ていたのかと叱責を受ける事にもなる。
ストパイロに長く仕える老臣シオナスはそんな状況を眺めていた。
主人の命令には逆らいがたいし、家名も守らねばならない。しかし、
小領主たちの言うこともよく分かる。今の状況で攻めかかるのは無
謀以外の何者でもない。
膠着した状況に、若いオウガヌが口を挟んだ。
﹁父上。ここは私に。百の兵を与えてくだされば、あんな砦など半
ザン︵30分︶で落として見せましょう﹂
﹁おお。お前が行くか﹂
ストパイロが息子に言葉を掛けた瞬間に、老臣シオナスは決心し
た。幼い頃から守り育てたこの若者を死なせるわけにはいかないだ
ろう。彼は一歩進み出て言った。
﹁ストパイロ様。私に攻撃をお命じ下さい。三十の兵で結構﹂
﹁おおっ、シオナス。そなたが行ってくれるか﹂
﹁父上、私もシオナスと﹂
信頼の置ける者、それがシオナスならなおのこと、共に戦えるの
なら心強い。オウガヌの申し出をシオナスは制した。
﹁いえ、若君はここに。この老骨の戦ぶりをご覧下さい﹂
シオナスは視線を転じてメニズムを振り返った、小領主と領主の
家臣という立場の違いこそあれ、過去の海外遠征で共に戦った経験
があり性格があって仲が良い。シオナスはメニムズに歩み寄って言
った。
﹁盾が不足。貴隊の盾を拝借したい﹂
敵の矢が降り注ぐ中を前進せねばならないので、兵たちが普段所
持している盾に、もう一つ余分に持たせたいというのである。メニ
ムズは異論もなく頷いた。シオナスはふと気づいたようにメニムズ
の傍らにいた兵の腰に目を止めて言った。
﹁その腰のものも所望﹂
614
一兵士の粗末な剣を貸せという。自らの剣帯を外してメニムズに
託し、兵士の剣を腰につけて笑いながら周囲の者たちに言った。
﹁敵を倒すに、この剣で充分﹂
シオナスの剣を手にしたまま、メニムズは囁くように尋ねた。
﹁シオナスよ。そなたは死ぬつもりか?﹂
﹁儂は主人とその家名を守ってきた。それを最後まで貫くのみ﹂
﹁他に、何かの手段もあろう﹂
メニムズの問いにシオナスは僅かに微笑んだだけである。言葉の
説得であの誇り高いストパイロの意思を変えることは出来ない事は、
この二人はよく分かっていた。シオナスは話題を変えた。
﹁儂には剣を託す息子も居らぬ。その剣はそなたの孫ルクススに与
えてやってくれ﹂
﹁ありがたく受け取ろう。しかし、そなたの手から渡してやる方が
ルクススも喜ぶだろう。喜ばせてやってくれ﹂
前方を眺めれば砦の櫓には既に十数名の敵の弓兵が姿を見せてい
る。今は見えないが塀の向こうにも弓を構えた兵士が居るだろう。
シオナスはその光景を眺めたのみでメニムズには返事をしなかっ
た。率いる兵に盾を一つ余分に持たせ、狭い柵の間を抜けてゆくた
めに梯子を二つを立てて運ばせ、兵に命じた。
﹁よいか。まずは二つの盾で身を守れい。砦にたどり着いたら先の
五名で梯子を掛け、次の五名は姿を見せる敵の弓兵を射よ。残りの
二十名は梯子を登れ。儂も後から続く﹂
この後の光景で、ストパイロは自分の命令の無謀さを悟っただろ
うか。メニムズは兵を進め柵の手前から矢を放ってシオナスを援護
したが、こちらの矢が届く距離と言うことは、敵の矢も届く。メニ
ムズの部隊も被害を被っていた。しかし、柵の間を進むシオナスの
部隊の兵たちは、降り注ぐ矢の雨に手にした盾の隙間から矢を受け、
倒れた兵を越える時に崩したバランスによって生じた隙間から矢を
615
受けるという具合で、次々と矢を浴びて倒れていった。肩に矢を受
けながらも前進していたシオナスがついに胸に、続いて首と腹にも
矢を受けて倒れ、彼が率いた部隊は全滅した。メニムズは傷ついた
手兵を率いて後退したが、柵の内側の死体まで回収する余裕はなか
った。
正面から攻めるのは難しい。ストパイロはそれを悟ったらしい。
しかし、兵を退くとは言わなかった。彼の判断基準は自らの誇りと
家名の価値のみで、数十人の兵と忠実な老臣を失った今、砦を落と
さず帰るというのは考えられない事らしかった。柵を焼き払えと言
う意見も出たが、その具体的な手段も考えられず日が暮れていった。
このままでは無謀な戦闘が続き、明日には全滅するのではないか、
しかし、総指揮官ストパイロの意思を変えうる者も居ない。そんな
絶望的な雰囲気が漂う中、グラフラ方面から馬が駆ける音が闇の中
から届いてきた。
姿を見せたのはラヌガンである。
﹁ストパイロ殿はおられるか﹂
松明の明かりで命令を伝えるべき者を探すラヌガンに、ストパイ
ロが声を上げた。
﹁おおっ、ここに居る。いかがした﹂
﹁我らが王より口上を承って参りました。直ちに兵を退けと﹂
﹁兵を退けだと。僅かな被害を出したものの、明日には砦が落ちよ
うと言う時にか?﹂
砦が落ちる。それが事実か否かたった今到着したばかりのラヌガ
ンでも分かる。将にも兵にも士気が感じられず、砦を落とす算段が
つかないに違いなかった。そして、ストパイロ自身も状況を無視し
た言葉に将兵から冷たい視線を浴びているのに気づいていた。
彼は名誉を失う言葉を避けて、勇ましい言葉を続けた。
﹁王の命令とはいえ、目の前の敵を背にして退くとはいかがなもの
616
か﹂
﹁我らが王の命令は、兵を退け。そして、グラフラの守りを固めよ。
それだけです﹂
﹁では、やむを得ぬ。もう一息でこの砦も我が物となったものを。
ほんに口惜しいわい﹂
保身に長けた男である。王の命令に忠実な故に、自らの勝利が消
えたと言うのである。兵を退くと決まったが夜明けも近い。ルージ
軍は闇の中で兵を動かす混乱を恐れ、夜明けを待つと決した。
﹁よぉ、来てくれた。我らだけでは、いかんともしがたいところだ
った﹂
メニムズら小領主が囲む焚き火に誘われたラヌガンは、そんな歓
待の言葉を受けた。
﹁それで、我が方の被害はどの程度?﹂
一夜陣の端に置かれた十体ばかりの遺体を眺めたラヌガンはそう
問うた。並べられた遺体は矢を受けて亡くなったメニムズの手兵で
ある。この程度の被害ではあるまいと言いたげな口調だった。
﹁間もなくわかるだろうよ﹂
デアラスがそう言うとおりだった。日の出にはまだ間があるが、
世界には光が戻って、柵の間に斃れた兵士に滲む血の色まで見える。
ラヌガンは全てを察した。
﹁酷いものだ﹂
﹁しかし、シオナスが我らの代わりに斃れねば、もっと酷い戦いに
なったろう。そしてお前が来なければ、我らもここで果てていたか
もしれぬ﹂
メニムズはふと立ち上がって柵に歩み寄って行った。矢が届くか
どうかという距離を置いて叫んだ。
﹁私はルージ軍のメニズム。砦の守将に問う。お前の名は?﹂
ややあって、返事が届いた。
﹁バルスス﹂
617
短く名を叫んで姿を見せた男は、思いの外若い。歳は二十を少し
越したところか。名のみで家名を名乗らなかったのは、寄るべき家
柄の無いただの軍人だということに違いない。
︵ただの若者がこれほどの⋮⋮︶
メニムズらは改めて砦の守将に驚きを感じている。メニムズは敬
意を込めて短く言った。
﹁バルスス。その名、覚えておこう﹂
バルススが与えられた敬意に敬意で返すように提案を持ちかけて
きた。
﹁メニムズよ。我ら守備隊は今より一ザン︵一時間︶、弓と矢を置
こう。斃れた兵士を収容するが良い﹂
﹁ありがたい。感謝する﹂
メニムズの指示でおそるおそる柵まで前進したルージ兵たちだが、
バルススの言葉通り、矢を射かけてくることはなかった。ルージ軍
は全ての戦死者を回収して帰途に着いた。考えてみれば、ルージ軍
が戦死者を放置して帰れば、彼らが死体を片付けねばならない。そ
の手間を省いたとも勘ぐることも出来る。謀略に長けた者なら、多
くの戦死者を運ぶことでルージ軍の行軍が遅れるという時間稼ぎも
考えたろう。ただ、メガムズはあのバルススの提案が若者らしい純
粋な男気によるものと信じたい。
メニムズはシオナスの遺体を眺めて語りかけるように小さく言っ
た。
﹁シオナスよ。そなたが戦ったのは、若くとも、戦う価値のある者
だった﹂
メニムズは遺体を包む毛布を閉じた。足取りの重い帰途の行軍が
始まった。
618
リーミルの策謀
カイーキ
グラフラを攻めると宣言したリーミルだが、帰国した兵士たちは
まだ戦力として期待できない。彼女の手元にあるのは王都の守備兵
が三百ばかりと、戦は未経験の義勇兵三百である。
︵やむを得ない︶
彼女がそう考えたのは、国境との間にあるルウオの守備兵のこと
である。
﹁ジソーにシフグナの押さえに念を押し、ルウオの砦のグライスの
四百の兵のうち、二百の兵早急に戻し、残りの二百も様子を見なが
らグライスに率いて戻らせましょう。どう?﹂
﹁では、ルウオのとでは元の守備隊のみでシフグナにそなえるので
すか﹂
﹁やむを得ないわ﹂
シフグナの地のパロドトスが周辺の領主と図って攻めてきた時の
押さえとして、国境に近いルウオの砦にグライスが増援を率いて駐
屯している。それを引き上げさせようというのである。
会議室に集う重臣たちに問う素振りを見せたが、彼女の心は決ま
っていた。リーミルや重臣に混じってフェミナの姿がリーミルの横
にある。彼女は夫が戻ってくると言う提案に喜びの表情を浮かべた
が、直後に王妃としての責任感を背負うようにその感情を消し去っ
た。いつの間にか会議の席に加わるようになったフェミナだったが、
重臣たちに異論を挟む者は居なかった。
リーミルはフェミナを眺めて言った。
﹁フェミナ。お父君に手紙を書いてちょうだい。フローイ国は平和
を望んでいる。シフグナのパロドトスがこれ以上我が国に敵対する
のを押さえるようにジソーに掛け合ってと﹂
﹁はい﹂
619
素直に頷くフェミナにリーミルは念を押した。
﹁余計なことは書かないで良いわ。ジソーに腹黒いパロドトスを押
さえるよう伝えることが大事。それ以外のことを書けば、肝心の点
がぼけてしまうでしょう?﹂
リーミルがこう言っておかなければ、素直なフェミナは現在のフ
ローイ国の窮状を切々と伝え、父親に願いを懇願する手紙を書いて
しまうだろう。フローイ国にとってシュレーブと強気の外交をする
ために現在の窮状を知られることは避けたいのである。
﹁ジソー自身には、私がフローイ国に正式な使者を立てます﹂
﹁シュレーブ国へ援軍を要請するのですか?﹂
重臣の言葉にリーミルは首を横に振った。
﹁そんなことをすれば、あのパロドトスが援軍を騙って大手を振っ
て我が国に侵入し、我々はそれを防ぐ理由が無くなるわよ﹂
﹁それでは、使者はどんな用件で?﹂
﹁もしパロドトスが敵対的な動きを見せれば、それをシュレーブ国
の意思と見なし、シュレーブ国との関係は絶つと。ルージ国、ヴェ
スター国、グラト国、三カ国を相手に一カ国だけで戦えばいいと念
を押してやるわ﹂
﹁しかし、どうやって使者を送りましょう。海路はルージ軍に押さ
えられております﹂
﹁シフグナを通るしかないでしょう。以前海路から送った使者の依
頼をジソーが受け入れていれば、既にシフグナのパロドトスには兵
を勝手に動かすなと圧力がかかっているはず。もし、パロドトスが
我が国の使者を妨害するならジソーもパロドトスに荷担するつもり
と見て良いでしょう﹂
﹁それでも、パロドトスは我らの使者を妨害するかと存じますが﹂
重臣の言葉にロットラスはもつともだとうなづきながらも一つの
提案をした。
シュレーブ
﹁使者は二人一組にし、一人は正式な使者の体裁を整え、もう一人
は物売りの姿でも装ってつかず離れず王都に向かわせて。もし、使
620
者がシフグナで捕らえられ殺されるようなことがあれば、もう一人
が戻ってそれを伝えればいかがか﹂
﹁それがよい﹂
ロットラスの提案に賛同する者たちの声が上がり、リーミルもそ
カイーキ
れを受け入れ、次の命令を発した。
﹁ロットラス。ルウオの砦に今の王都の状況を伝え、グライスには
機を見て四百の兵を率いて戻れと伝えなさい。グライスも駄目だと
は言わぬでしょう。貴男はグライスの後、ルウオの砦の指揮を執っ
てちょうだい﹂
彼女は優しく微笑んで念を押した。
﹁今度は貴男自身で伝えなさい﹂
カイーキ
リーミルがそう言って含み笑いをする理由がロットラスに分かっ
た。彼は王都やリーミルの身辺の出来事を、細かくそして密かにル
ウオの砦のグライスに伝えさせていたのである。
グライスは姉のリーミルを信頼している。ただ、不満があるとす
れば、姉が弟の負担を減らそうと、自分が責任を背負ってグライス
に不安な情報を伝えぬまま行動を起こしかねないと言うことである。
グライスは姉の身辺の情報を詳しく知る必要があった。ロットラス
はその適任者だった。グライスの副官のはずのロットラスがグライ
スの身辺を離れてリーミルの傍らにいるのはそう言う理由である。
緩やかなスパイと言えるかも知れない。
ロットラスもスパイ行為をしていたことに触れず、左胸に手の平
を当てて正式な答礼をして言った。
﹁了解しました。ルウオの守りはお任せ下さい﹂
重臣の一人が自然な思いを口にした。
カイ
﹁グライス様の兵を戻してグラフラを攻めると言っても、兵が足り
ぬのではないでしょうか﹂
リーミルは返答の表現をやや考えて口にした。
ーキ
﹁おそらく、生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶の連中は、私たちが王
都に篭って守りを固めていると信じているでしょう。でも、いま、
621
この瞬間に、戦うか戦わぬかは、私たちフローイ国が決める事が出
来る。ならば攻めましょう﹂
ルージ軍がいかに大軍で攻め込み、数多くの砦や町を占領したと
はいえ、今は落とした砦の防御を固め、占領した町の治安維持に努
めねばならないだろう。現在のルージ軍はよほどの愚か者でなけれ
ば攻勢を続けることはできず、守りを固め次の攻撃の準備をすると
いう選択肢しかないはずだった。一方、フローイ国には攻撃と防御
の二つの選択肢があるというのである。
同じ頃、トリルナの砦へ攻撃を掛けているストパイロは、自分が
その愚か者だとは考えてはいなかったし、リーミルの元にもルージ
軍にそんな愚か者がいるという情報は入っていなかった。
﹁では、出撃は?﹂
ロットラスの問いかけに、リーミルは周囲の意見も聞くように重
臣たちを眺めて慎重に言葉を吐き出した。
﹁これから出す使者がジソーに面会するのに三日。ジソーがパロド
トスに戦うなと言明する使者に二日を見ましょう﹂
彼女は決意を込めて言葉を継いだ。
﹁我々が兵を出すのは五日後。それでどう?﹂
﹁了解いたしました。では兵を率いるのは誰に命じましょう﹂
重臣アサズスの不安げな言葉が今のフローイ軍を物語っていた。
他国に鳴り響いた陸軍国だが、勇将の多くは王ボルススとともに遠
征で戦死し、残った思い当たる名もグラフラで分断された北西部に
散らばっていて連絡がつかない。
﹁その役目は、儂に任せていただけるのでしょうな﹂
カイーキ
進み出たのは老将ボルナスだった。長く王ボルススに仕え忠誠心
も抜きんでているほか、戦の経験でも、現在の王都では並ぶべき者
カイーキ
も居ない戦場巧者である。しかし、リーミルはその申し出に少し首
を傾げ、柔らかく却下した。
﹁ボルナス。貴男の勇敢さと知謀はこの王都の守りにこそ必要でし
ょう。グライスの傍らで、彼を支えてやってちょうだい﹂
622
﹁では、誰をやるのです?﹂
ボルナスは周囲を見渡した。他の者どもを侮る気はないにせよ、
戦に慣れた者は自分の他にはいないだろうと考えたのである。リー
ミルは短く答えた。
﹁私が行きます。その為にグライスをここへ呼び戻すのです﹂
リーミルの言葉にどよめく重臣たちを安心させるかのように、彼
女は一人の若者に目を留めて言った。
﹁ただし、兵の指揮はセイディスに任せるわ﹂
リーミルの指名に再び部屋の中はどよめき、指名を受けたセイデ
ィスも面食らって黙りこくった。確かに彼の才能を支持する者は多
い。しかし戦場経験はない。リーミルは指名の理由を語った。
﹁貴男の実直さと勇敢さは、撤退向きよ﹂
リーミルの言葉の意外さに、指揮を指名されたセイディスは首を
傾げて聞き直した。
﹁撤退と申されたので?﹂
﹁その通りよ﹂
そう言って、リーミルは祖父ボルスス譲りの策謀を内に秘めた笑
顔を浮かべた。
623
タゴカルの森︵前書き︶
<i217067|14426>
624
タゴカルの森
カイーキ
フローイ軍が王都で出陣の準備を整えている頃、ストパイロ率い
るルージ軍はトリルナの砦の攻略を断念してグラフラへ帰途する途
上にあった。
﹁もう少し早くならぬのかっ﹂
馬に跨ったストパイロが遅れがちになる後列を怒鳴りに来た。彼
の意図は分かる。グラフラを守れと命じられていたが、無断でその
半数の兵を動かした。砦は取れずに四十人ばかりの兵を失い、負傷
者はその倍はいる。その責任に対する叱責を恐れて、少しでも早く
兵をグラフラに戻そうとしているのである。
しかし、怒鳴ったとしても、戦死した仲間の遺体を運ぶ兵の歩み
が早まるわけではなかった。ストパイロは苛立ちを隠さず言った。
﹁兵の遺体はここに埋葬して行けぬのか﹂
生きている兵士たちは馬上の指揮官をちらりと振り仰いだ。反感
のこもった視線だった。メニムズが兵の意思を代弁した。
﹁何を言われるのか。我が国に尽くした者たち。出来れば荼毘に付
し古法に則り神の世界へ送るのが定法。グラフラの町まで行けば荼
毘に付すことも埋葬することも出来ましょう﹂
メニムズの言うとおりだった。敗戦を喫したイドポワの門の戦い
や、指揮官を失い掛けて急遽兵を下げたネルギエの地での戦いはと
もかく、今は目の前で戦死した戦友の遺体をうち捨ててゆくという
のは彼らの心情から考えて出来ないことだった。
苛立たしげな様子のストパイロにメニムズが提案した。
﹁では、ストパイロ殿とオウガヌ殿の馬と百の兵をお貸し願いたい。
それで死者をグラフラへ運びましょう。ストパイロ殿は残りの兵を
連れていそぎ戻られてはいかが﹂
指揮官のストパイロとオウガヌは馬上にあるが、彼らが率いる兵
625
は馬を持たない歩兵である。二人が馬を残したとしても彼らが率い
る兵の行軍に遅れが出ることはないはずだった。二頭の馬と荷車が
あれば戦死者を少数の兵で運ぶ事も出来るに違いない。
ストパイロは少し考えて言った。
﹁いや、馬は駄目だ。儂がグラフラに戻るのに要る。兵は五十。そ
れ以上は割けぬ﹂
﹁それなら、我が手兵だけで結構。私がその任に就こう。ストパイ
ロ殿は兵を率いて先行なされい﹂
メニズムの言葉にラヌガンが申し出た。
﹁私もメニムズ殿と同行いたします﹂
もし、この場で役に立てるとしたらメニムズを手助けすることだ
ろう。ラヌガンはそう考えたのである。その彼にオウガヌが声を掛
けた。
﹁ラヌガンよ。お前も早く戻った方が良いのでは﹂
﹁いや、グラフラにいる我が部隊の兵は、叔父に任せてある。未熟
者の私より上手い戦をする﹂
オウガヌの返事は短い。
﹁そうか﹂
ラヌガンが叔父を信頼するようすが羨ましく思える。もし自分に
ラヌガンの叔父に当たる戦上手な先輩がいるとしたら、戦死したシ
オナスだったのではなかったかと考えたのである。
﹁では好きにせよ。しかし、遅れるなっ﹂
ストパイロはそう言い置いて、兵士たちの歩みののろさを叱咤し
ながら、列の先頭へと馬を飛ばして戻って行った。兵士の歩みが早
くなり、最後尾で戦死者を運搬していたメニムズの隊は街道上に取
り残されていった。
メニムズは遠ざかる隊列を見送りながら呟くように言った。
﹁困ったものだ。あれほど急いでは、戦う前から兵が疲れ切ってし
まう﹂
ラヌガンはネルギエの戦いの直前、無理な行軍で疲れ切ったシュ
626
レーブ軍の部隊がルージ軍にあしらわれた様子をアトラスと共に眺
めたのを思い出した。
小領主デアラスとルウデスが気を利かせて、メニムズのために食
料を積んだ荷車を五つ残して去った。ストパイロの想定ではトリル
ナの砦を落とした後、そこに備蓄するつもりだったものである。行
軍を急ぐために食料を放棄したと言えば、パロドトスも文句は言え
まい。
メニムズにとって食料はともかく荷車はありがたい。彼は兵に指
示して荷車の食料は放棄し、遺体や自力で歩けぬ負傷兵を乗せた。
ラヌガンは荷車を牽くための馬具を持ってこなかったことを後悔し
た。やむなく、足を負傷した兵士二名を彼の馬に乗せた。
グラフラの南西部に深い森がある。土地の人々はタゴカルの森と
呼ぶ、呪われた場所という伝承がある。密に茂った木々や、その間
を縫うように伸びるツタが人の通行を妨害し、僅かに切り開かれた
間を凹凸のある小道が通っているだけという地形である。行軍は緩
やかだが順調に進んだ。街道の右手の方向に深い森が見えてくると
グラフラも間近だということである。
冬の日は短い。夕焼けが見えたかと思うとすぐにあたりは闇に包
まれる。
﹁明日の夕刻にはグラフラに着けよう﹂
メニムズはそう言って行軍を停止させ、今夜の宿営の準備をする
ように兵に命じた。
﹁ストパイロ殿の部隊が着くのは夜明け前でしょうか﹂
ラヌガンは先行する部隊の苦労に同情し苦笑いするように言った。
彼の性格から見れば夜を徹して行軍させかねない。メニムズは黙っ
てため息をついた。
その宿営地にフローイ軍出撃の報告が入ったのは夜半のことであ
627
る。情報や命令の伝達の速さという点で、馬を使うルージ軍は他国
よりはるかに優れていた。もちろん、グラフラの町を経由して、先
行するストパイロの隊はその情報を得ているだろうし、ランロイに
いるアトラスの元にも同じ情報が届けられているだろう。
﹁いかが致しましょう﹂
﹁とりあえず、このまま帰るより他、無かろうよ﹂
﹁ストパイロ殿ではないですが、急ぎ戻っては﹂
﹁我らが急いで帰ったところで、戦は始まっていよう。三十名ばか
りの兵士が急ぎ戻っても出来ることはあるまい。グラフラにそなた
の叔父がいる。そして、我らが王もランロイから馬を飛ばして駆け
つけよう﹂
カイーキ
﹁フローイ軍が攻めてきた意図が分かりません﹂
﹁二つ。王都の兵に余裕があればグラフラとランロイを攻める。兵
が不足していればグラフラを突破し、フローイ北西部に散らばるフ
カイーキ
ローイ軍と合流させる﹂
カイーキ
﹁フローイ軍は王都を放棄することもあるのですか﹂
﹁知恵の回る者なら王都に留まっても自滅するだけだと悟るだろう
よ﹂
﹁我々はその自滅を待っていたのですね﹂
そのラヌガンの言葉に頷きながらも、メニムズは呟いた。
﹁しかし、困った﹂
﹁何がです?﹂
﹁もし、奴らが数百でも軍を突破させ、トリルナに向かえば、我ら
は逃げ場のないこの街道上でその奴らと遭遇することになる﹂
フローイ軍がグラフラに向かえば、当然、グラフラの守りを固め
ているルージ軍と戦闘になるはずだった。しかし、フローイ軍がグ
ラフラの占領でもルージ軍との戦闘でもなく、ルージ軍の戦列を食
い破ってトリルナの砦へと駆け抜けたら⋮⋮。メニムズが危惧する
のはその点である。
やや沈黙が続いたあと、ラヌガンが言った。
628
﹁やむを得ませんね﹂
ラヌガンが向けた視線の方向に焚き火の明かりに照らされた森の
中へ続く小道が見えていた。
︵数百の兵を通過させるのは無理だが、それは都合が良い。荷車は
何とかなるだろう︶
そんな僅かな可能性に納得してメズムスも頷いた。あの道は者中
でいくつかに分岐しながらも、その出口の一つはグラフラの南にあ
る。多少回り道だが、危険は少ない。無事に帰り着けるだろう。
629
グラフラにて
グラフラの町のルージ軍司令部の中に声が響いた。
﹁五百だと﹂
グラフラに戻ったストパイロは、留守を守っていたマリドラスの
報告を聞くや怪訝な表情を浮かべた。物見の兵が戻って告げたフロ
ーイ軍兵士の数である。
ストパイロはフローイ軍出陣の報に接して、彼が率いていた四百
ばかりの兵を街道上に捨て去るように、その指揮を小領主に任せて
カイーキ
彼自身は単身馬を飛ばしてグラフラに戻っていたのである。ストパ
イロは繰り返した。
﹁たった五百だと? 信じられぬ﹂
﹁多くとも六百を上回りますまい﹂
﹁メスナルの砦で捕らえた敵将によると、王都には二千の兵がおり、
更に王ボルススが遠征か戻れば三千の兵を連れていると﹂
オウガヌは、ランロイで敵将ルトラスからそんな情報を耳にして
いた。しかし、マリドラスは歴戦の将らしく疑問を述べた。
﹁それはその敵将の偽りでしょう。フローイ国が捻出できる兵の数
など五千が良いところ。その兵はネルギエで我らと戦い損耗し、更
にグラトとも戦ったとか。かなり損耗して居るでしょう﹂
マリドラスの言葉にも関わらず、オウガヌには自分たちが敵地奥
深くにおり、孤立無援に陥ったのではないかとの不安に、敵の規模
が膨れあがって見える。しかし、それはオウガヌだけではなく父親
のストパイロも同じだったし、部下のルージ軍将兵も同じ思いだっ
たかもしれない。オウガヌは激しく反論した。
﹁しかし、五百で攻めてくるなどと信じれません。きっとそれは先
鋒の兵。その後に、千、二千、いや三千の大軍が続いてくるに違い
ありません﹂
630
父親のストパイロももっともらしく頷き、周りの人々を見回して
言った。
﹁そうなれば、我がグラフラはいかにも兵力が不足。ランロイにい
る我らが王に援軍を求めねばなるまい﹂
﹁いや、現在でもこのグラフラには五百の兵がおります。敵が攻め
てくるならば戦って守り抜くのみ。不安だといわれるなら、最初か
ら千の兵が居れば、こんな不安も無かったものを﹂
﹁儂がトリルナの砦に兵を割いたことを責めておるのか﹂
﹁それは言うても、詮無きこと。戻ってこられるなら兵を連れて戻
ってきて頂きたかった﹂
﹁儂が単身戻ったのは、グラフラの守りを固めるため。兵も明日に
は戻ってこよう﹂
﹁我らが王の命令はこの町を固く守って動くなと言うことだったは
ず﹂
正論を投げかけられ、反論に窮したストパイロは顔を赤らめて怒
りを露わにし論点を転じた。
﹁それなら、グラフラの守りが不安な今、我らが王は援軍を出すの
に異論はあるまい﹂
﹁与えられた兵で不足していると言われるのですか﹂
マリドラスの言葉を無視してストパイロは傍らにいた兵に命じた。
﹁﹃フローイ軍がグラフラに迫りつつあり。先鋒五百の背後に数千
の軍が続く可能性あり。至急援軍を乞う﹄ よいか、間違いなくそ
う伝えよ。行け﹂
送り出した伝令に伝えさせる口上に不満を露わにしたマリドラス
にストパイロは言い放った。
﹁我らが王より、この町の守りを任されたのは儂である。儂の判断
と命令に従えいっ﹂
この頃、ランロイにいたアトラスも、フローイ軍出撃の報告を受
けて兵を整え、三百をランロイの治安維持に残し、自ら千二百の兵
を率いて出達していた。パロドトスの指揮に不満と不安を抱いてい
631
たのである。馬に乗ったアトラスの兵は、明日にはマキツキ街道の
合流点に到着する予定である。
グラフラでは街道上に設けた柵の点検をするというということ以
外に、トリルナの砦の攻略に失敗した兵たちが帰還するのを待つの
みの時間が経過した。守りにつく兵を見回るストパイロ父子の怒号
は叱咤激励を越え、自らの苛立ちを鎮めるために発しているように
見えた。戻ってきた物見の兵が、五百の先鋒の後に続くはずのフロ
ーイ軍が姿を見せない事を告げてから、更に父子は苛立ちを深めて
いた。
︵町を守るなら、これ以上喜ばしい報告はあるまいに︶
マリドラスの見立てでは、攻め寄せるフローイ軍が少ないのは喜
ばしいことだが、ストパイロ父子にとっては数千のフローイ軍と報
告した以上、その軍勢が現れぬとあっては、僅か五百に怯えたと家
名を汚しかねないと保身に走っているのだろう。
更に状況に変化をもたらす知らせが届いた。フローイ軍がグラフ
ラまで一日の距離を置いて進軍を停止したというのである。
﹁停止しただと。馬鹿を申せ﹂
ストパイロは怒りの声を上げた。ストパイロの立場は微妙になっ
た。千名という兵を与えられながら、その半数の兵でトリルナの砦
を攻めてグラフラの守りをおろそかにしたこと、砦が奪えず無駄に
兵を失ったこと、五百のフローイ軍を数千と吹聴して援軍を求めた
こと。グラフラを攻めると称したフローイ軍が軍を停止させたこと。
うち続くミスは王の叱責を買うかもしれない。
ストパイロは全てに困り果てたように言った。
﹁奴らは何のつもりだ﹂
マリドラスは彼の所感を述べた。
﹁新たな砦でも築くつもりではないでしょうか。今しばらく様子を
見てはいかが﹂
マリドラスがそう言い終わるのを待っていたかのように、次の物
632
見の兵が戻って告げた。フローイ軍は街道上で持参した丸太を組み、
カイーキ
森の木を伐採しているというのである。
﹁なるほど、王都の守りを固めるために砦を築くということか﹂
オウガヌの言葉に頷いたマリドラスも、続くストパイロの言葉に
驚いて目を見張った。ストパイロは名案を思いついたという風に、
ぽんと手を打ち言い放ったのである。
﹁我らが兵でその砦を奪ってやるというのはどうだ﹂
問うという体裁を取りながらも、固い決意を秘めた言葉だった。
新たな砦を襲ってフローイ軍の意図を妨害することが出来れば、今
までのストパイロの失策を補うに足るだろう。そういう保身が見え
隠れしていた。
ただし、再びグラフラの守りをおろそかにすることにもなる。今、
このランロイに集うのはマリドラスを始め領主の配下か小領主のみ
である。ストパイロの意思を覆す立場にある者は誰もいなかった。
633
タゴカルの森のリーミル
冬を迎えた木々は、葉を落として枝ばかりになっている。その枝
でさえ陽を遮るのではないかと思われるほど、太く背が高い樹木が
枝を広げて周囲や空を覆っていた。樹木の間には、まるで蜘蛛が巣
を張るようにツタが絡み合って人の行く手を妨げている。そんな空
間に十人ばかりの人影が見える。一歩ごとに枯れた落ち葉が踏みし
だかれる音が響いた。
男の一人が地面に膝をつき、辺りを注意深く見回し、落ち葉や伸
びた草や蔓で隠された地面から道の気配を読み取っていた。まばら
にしか通る者は居ない。このあたりは狩りをする猟師がたまに通る
ぐらいだろう。豊かな自然は人が作った細い道など短期間で消して
しまうのである。過去に切り払われたツタの痕跡、元は地面が露出
していたはずの地面のへこみ。その僅かな道の手がかりを辿らねば、
思いも掛けぬ方向へと進み、崖に行く手を阻まれ、古木とそこに密
カイーキ
に絡んだツタの壁にぶつかって引き返さざるを得なくなる。
王都からマキツキ街道を半日ほど北へ歩んだ辺りに、森を抜けて
北西部へ向かう小道があることが知られている。この集団が歩んで
いるのはそう言う道である。男たちは庶民の衣類を身にまとい、織
物や銀細工が入った袋を背負って商人を装っている。ただ、その屈
強な体格や鋭い目つきは商人ではない。その男たちの中に深くフー
ドをかぶって顔を隠した者がいる。発した声で女だと知れた。
﹁思ったより、時間がかかりそうね﹂
﹁ランロイから伸びる道と合流すれば、だいぶマシになるでしょう﹂
旧都ランロイから西へ伸びる街道がマキツキ街道に合流している。
カイーキ
合流点からマキツキ街道を北へ半日歩めばグラフラ、南へ一日半歩
めば王都である。街道以外にタゴカルの森を抜ける名も無き小道が
グラフラを通らずに西部の町へと続いている。荷車を移動させるに
634
は不向きな地形だが、ランロイから西部の町に向かう商人たちが近
道として利用している。日常利用されているだけにる、その道にた
どり着けば、生い茂る草木をかき分けねばならないやっかいさは無
くなるだろうと言うのである。
外気の肌寒さにもかかわらず、急いで道を切り開くために振り回
す鉈で、男たちは汗をかいていた。
﹁一休みしましょう﹂
女の言葉は提案というより慣れきった命令口調だった。フードを
脱いで顔を露わにしたのはリーミルである。命令を受ける立場で、
男たちがリーミルの護衛だろうと察しがつく。護衛の男が言った。
﹁すみませぬ。先を急がねばならぬのに﹂
﹁いいえ。これほどとは思わなかった﹂
リーミルはそう言いながら、苔の生えた岩に座って携行食の干し
肉を食いちぎった。水袋の水を飲んでいた護衛の一人が言った。
﹁セイディスに比べれば、こちらの方がマシでしょう﹂
﹁左様。こちらは今のところ生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶どもと
戦わぬですむ気楽さはある﹂
﹁しかし、砦を作るまねごとをするセイディスに比べれば、こちら
で道を切り開く方が疲れるのではないか﹂
護衛たちの冗談に耳を傾けながら、リーミルは右腕の腕輪を何か
の願いでも込めるように無意識に撫でていた。袖をまくり上げて二
の腕にはめた腕輪を眺めれば、銀細工に長けたフローイ国の人々に
は、簡素な造りに見える腕輪である。互いに相手の正体に気づかな
いまま会話を交わし、別れ際の彼女にアトラスが与えたものである。
今は敵国の王となったアトラスに、この瞬間のみは憎しみより懐
かしさが感じられた。ただ、あの出来事からまだ一年もたってはい
ない。
リーミルは余分な感情を振り払うように今の状況に考えを移した。
635
彼女の目的はフローイ国北西部の将兵をかき集めることである。王
族のリーミルなら領主たちも彼女の呼びかけに応じるだろう。ただ
し、彼女自身が出向かねばならないし、彼女だけでも良い。街道を
カイーキ
進軍させたセイデスス率いる五百の軍は、ルージ軍の目をそらす囮
である。共に王都を出発したが、リーミルは兵の指揮をセイディス
に任せ、十人ばかりの護衛を連れて森の中を進んでいたのである。
﹁ひめさま⋮⋮﹂
再び前方を切り開き始めた護衛が鉈を振るう手を止めて、リーミ
ルを振り返って発しかけた言葉を荒っぽく言い換えた。
﹁ウィナナ。道が見えてきた。しかし聞き慣れぬ声がするぞ﹂
ウィナナとフローイではありがちな女性の名で呼ばれたリーミル
は、上着のフードを目深にかぶりなおした。リーミルはもう声を出
さなかった。彼女に代わって傍らの護衛が尋ねた。
﹁聞き慣れぬ声?﹂
耳を澄ませた別の護衛が声を低くして答えた。
﹁言葉に聞き慣れぬ訛りがある。たぶんルージ軍の者たちだ﹂
一行の間に緊張が走った。次の瞬間、前方から一人の男が姿を現
した。
藪をかき分けて姿を現した人物は甲冑姿で軍人だと分かる。肩に
着けた所属を判別する青い布はルージ軍のものである。平時にそん
な布を着ける将兵は居らず、この人物が戦闘を終わって間もない状
況にあると知れた。
トリルナの砦の戦いの戦死者の運搬をしてグラフラに戻るメニム
ズだった。一行は軍隊の通例として、部隊の前方を探る兵士を出し
ている。この時は兵の少ないメニムズは自ら兵に先立って前方を偵
察していたのである。
一方、道を切り開きながら進むリーミルらは前方を探る余裕はな
く、森に響く荷車の音に気づいて耳を澄ませていたら、兵より先行
636
していたメニムズといきなり出くわしたという格好だった。
﹁何者だ﹂
メニムズは森の中に見つけた集団にそう問いかけた。視界の利か
ない森の中を見回してざっと数えれば十人ばかり、しかし集団のリ
カイーキ
ーダーがよく分からない。一人の男が進み出て言った。
﹁我々は西のトリルの商人でございます。王都に商品の買い付けに
参って居ったところ﹂
カイーキ
ひげ面の男は背負っていた袋から布を出して見せた。しかし、メ
ニズムの声に潜む不信感は晴れない。
﹁何故、この様なところに?﹂
﹁グラフラでは戦があり、ルージ軍が王都に攻め寄せると聞いて恐
ろしく、この森を通って、トリルへ帰る途中でありました﹂
納得できそうな状況だが、商人にしては屈強な体格と鋭い目つき
に、メニムズは警戒を解いていない。しかし、ふと男たちの姿の中
に混じった人物に目を留めて警戒を緩めた。
﹁女が居るのか﹂
フローイ軍なら女連れで移動することはあるまい。この者たちは
確かに商人かも知れぬ。ひげ面の男は言った。
カイーキ
﹁左様です。トリルの町の商人の一人娘で名はウィナナと申します。
なにぶん田舎者故に王都が見たいと申して我らと同行しておりまし
た﹂
﹁なるほど﹂
頷くメニムズを、リーミルはフードの奥からちらりと眺めて考え
た。
︵面識はない︶
リーミルはそう確認して、ゆっくりとフードを脱いで顔を見せた。
女がいると言うことを知られた以上、フードで顔を隠しているより、
敵の油断を誘えるに違いない。何よりルージ国で彼女の顔を記憶し
ているのはアトラスぐらいのものだろう。
しかし、まさか彼女の顔を知るものがルージ軍にいるなど、リー
637
ミルの油断だった。メニムズの背後から姿を見せた若者が、驚きと
共に問うた。
﹁リーミル様ではありませぬか﹂
その若者の顔にリーミルは記憶がなかった。戸惑い口ごもる素振
りを見せるリーミルに若者は名乗った。
シリャード
﹁私はラヌガンと申します。我らが王アトラスの近習でございまし
た。そして聖都で、リーミル様が我が王の館を訪問された折りにお
見かけしたことがございます﹂
その言葉に、リーミルは内心舌打ちする思いだった。まさか、そ
んな形で彼女の姿が知られていたとは。護衛の者が取り繕った。
﹁いえ。我が国の王女などと畏れ多いこと。何かの勘違いでありま
しょう。この者はフェイラル家の娘でウィナナに間違いございませ
ぬ﹂
﹁いや、そのお方の右腕の腕輪の意匠にも記憶がございます。我ら
が王アトラスが腕にしていたもの。リーミル姫に贈ったと聞き及ん
でおります﹂
リーミルは秘かに周囲を見回していた。最初に現れた将と次に姿
を現した若者は兵を連れている気配はあったが、その兵がいるのは
ずっと後方だろう。リーミルたちは前進は阻まれたが、今はこの二
人だけである。
リーミルはやや大げさに安堵のため息をついて見せた。意外に姿
にラヌガンとメニムズは顔を見合わせた。その瞬間、リーミルは身
を翻して駆け出しながら護衛たちに命じた。
﹁ここまでね。さっさとずらかるわよ﹂
駆けるリーミルは逃げ切る自信があった。何より道は知っている
し、あの二人は指揮官のようで、兵を置いて単独で追ってくること
はあるまい。一度、兵の所へ戻り、兵に命じてリーミルたちを追う。
その間にさっさと逃げおおせる事が出来るはずだった。彼女はやや
余裕を込めて呟いていた。
﹁ラヌガンとやら、覚えてらっしゃい﹂
638
今回は、彼女の企みを台無しにした若者として、苛立ちと共にそ
の名と顔を記憶した。
639
グライスの約束
カイーキ
カイーキ
グライスがリーミルの出撃と入れ替わりに王都に戻ってきた。慌
ただしい動きの中で姉と弟は顔を合わせる暇もなかった。王都には
有能な重臣や官吏が居るとはいえ、王や王の一族が裁可せねば実行
カイーキ
できないことも多い。グライスは官吏の提案を受け矢継ぎ早に、市
民を王都の南門や北門の防御施設の構築を命じたり、商店が抱える
食料の在庫を供出させると同時に市民一人あたりの割り当てを決め、
カイーキ
食糧を配給するなど官吏に命じて行った。
次の戦いはこの王都を巡る攻防戦になるだろう。しかし、山や湖
カイーキ
など自然の障害と城壁や城門など人工的な要害でルージ軍の侵入を
阻むつもりで居る。グライスはこの王都市街を戦火に晒す気はない。
グラフラにいる敵のルージ軍は一千ばかり。ランロイに駐屯する
敵は千を超える。合わせて二千数百。グライスはグラフラからの流
民たちなどから集めた情報で、その数をかなり正確に把握していた。
リーミルの囮となったフローイ軍は、指揮官セイディスが連れて
カイーキ
戻る予定である。もともと王都の防備に当たっていた守備兵三百に
カイーキ
グライスが先に王都に戻らせた二百を加えた五百の兵である。勇敢
カイーキ
で慎重なセイディスは、無事にその五百の兵を王都に連れ戻るだろ
カイーキ
う。グライスの手元の手勢二百に王都の義勇兵三百、セイディスが
カイーキ
指揮する部隊が五百、合わせて千の兵士がいれば、守りの堅い王都
が陥落することはあるまい。ただし、王都に備蓄している食糧が続
く限りという条件である。三週間はもつ食料を食い延ばして五週間
は持たせる予定だったが、グラフラやランロイからの避難民が流入
して、食料の消費も増えていた。
しかし、リーミルが北西部に脱出し、兵力をまとめれば一千近い
兵力にはなるだろうし、信頼できる指揮官たちも戦いに加わる。そ
640
れを待って南北からルージ軍本隊を攻め、ランロイを奪い返す。グ
ライスらはそう言う腹づもりでいる。まだ戦に負けたとは考えては
居なかった。
重臣の一人が執務室へ告げに来た。
﹁グライス様。北の城門の防備が整いました﹂
﹁あとで、私が検分しよう。城門の指揮官にそう伝えて置いてくれ﹂
そんな短い会話をしていた時、フェミナが姿を見せた。フローイ
の人々は王妃として接している。しかし夫のグライスは、ボルスス
王死去の後の混乱で、まだ即位をすましておらず、厳密に言えば二
人は王子とその妻の身分である。
何か言いたげなフェミナの表情を眺めてグライスは思った。
︵この緊急時をわきまえず、また峠に行こうと誘うつもりだろう︶
カイーキ
しかし、彼女の言葉はそうではなかった。
﹁王都の民が、飢えと戦の噂で混乱しています﹂
﹁それを押さえようと重臣たちは腐心しておる﹂
﹁姉君が仰いました。シュレーブに援軍を頼むのは無理だと。でも
⋮⋮、戦の間だけ、民をシュレーブ国へ避難させることは出来るの
では?﹂
カイーキ
﹁何と? 国が滅ぶわけでもないのに民を脱出させろと﹂
カイーキ
﹁では、王都は戦火に見舞われずにすむのですか﹂
﹁その為に私が姉上にここを任された。王都が戦火に見舞われるの
は私が死ぬ時以外にあり得ぬ﹂
ナナエス
カイーキ
夫の言葉に、死という不吉な運命を予感したフェミナは、不吉さ
ジメス
を振り払うように神の名を口にした。
ニクスス
﹁ああっ、審判の神と寿命の神のご加護を﹂
﹁いや、私の命など、運命の神に託そう﹂
グライスはそう言いながら妻の手を握った。
︵冷たい︶
グライスは妻の指先の冷たさから、彼女がこの王都の各所をさま
641
ようように見て歩いた事を知った。
今のグライスには、彼女の提案が未熟だと笑うことは出来なかっ
た。彼女なりに考え抜いた様子が真摯な表情にうかがえる。なによ
り自分の身の安全より飢えて怯える民のことを考えるというのは民
を治める王妃の資質を満たしている。
グライスはこの妻に恥じた。彼女は見ず知らずの夫の元に嫁いで
きた。そんな土地でこんな短い間に立派に王妃としての努めを果た
そうとしている。それに比べてこの自分は夫として妻に何かをして
やれたかと考えたのである。
カイーキ
グライスは妻の手を両手で包んで温めながら約束した。
﹁戦が終われば、もう一度、お前とあの峠からこの王都を眺めよう﹂
夫の言葉に若い妻は表情を輝かせた。
﹁きっと?﹂
﹁ああ。きっと﹂
ルードス
この短い約束には、アトランティス人の会話にありがちな契約の
神の名は出てこなかった。神など無関係。夫と妻が互いを信頼して
交わした人と人の約束である。
グライスは知恵もあり勇敢でフローイ国を率いる若者として申し
分ない素質を持っている。ただ、先代の王ボルススがそう考えてい
たように、姉のリーミルに比べて足らないところがある。視野が狭
いと言う点である。
グライスは若者らしい純真さで、敵となったルージ、ヴェスター、
グラト三カ国を討伐すれば平和が戻ると考えていた。当面の戦も攻
ロ
め込んできたルージ軍を撃退すれば終わると信じているのである。
ゲル・スリン
現在のアトランティスの戦乱の理由の奥には、君臨しようとする六
神司院があり、今まで続いていた見かけの平和の底では各国の勢力
アトランティナ
拡大の欲望が煮えたぎって、大地に吹き出さんばかりになっている
様相には気づいては居なかった。
この戦乱はまだまだ続く。アトランティス人が居る限り。
642
セイディス
街道上で姿を露わにしているセイディスの兵は五百。その数はど
こかに潜んでいるルージ軍の物見の兵にもよく見えているに違いな
いし、その兵が砦を建設しかけていることにも気づいているだろう。
﹁ルージ軍はやってくるでしょうか﹂
部下の一人がセイディスにそう問うた。
﹁グラフラを守る兵が千。グラフラを守るなら、こちらを攻める余
力はない﹂
﹁それでも攻めてきたら?﹂
セイディスは笑って答えた。
﹁砦を捨てて逃げろとのご命令だ﹂
そのために、グラフラから一日の距離を置いている。ルージ軍が
この場所で戦闘を望むならば、ここに到着する前に街道上のどこか
で行軍で疲れた兵を休ませねばならない。そういう距離である。グ
ラフラ付近に物見に出してあるこちらの兵は、昼夜兼行で戻ってル
ージ軍の出陣を知らせるだろう。ルージ軍がここへたどり着く前に
さっさと兵を退くことが出来る。
戦うことではなく、リーミルがルージ軍の戦列を抜けるまでルー
ジ軍の注意を惹くことが任務だとリーミルは固く言明していたし、
セイディスもそのつもりで配下に命令を下している。
カイーキ
ただ、彼らの予想を覆して、物見がグラフラからルージ軍が出撃
したという知らせをもたらした。
﹁少ないな﹂
意外な出撃だが、ルージ軍の数にも首を傾げざるを得ない。王都
を攻めるには兵の数が少なすぎる。セイディスの疑問に部下が一つ
の解釈を示した。
﹁我らの砦作りを妨害するつもりでしょうか﹂
643
セイディスは答えず周囲の兵士を見渡して問うた。
﹁リーミル様からの知らせはまだ見えぬか﹂
あらかじめ定められていた予定では、リーミルがトリルナの砦の
手前にたどり着いた辺りで護衛の一人をセイディスの元へ使いによ
カイーキ
こすことになっている。セイディスはリーミルが目的地に達したこ
とを確認して兵を王都に戻すことになっていた。もちろん、不測の
場合の判断はセイディスに託されている。
リーミルからの使いが着かないうちに、ルージ軍と交戦に陥りか
ねない状況になった。セイディスは少し考え、決断を下した。
﹁奴らが昨日の昼にグラフラを出たのなら、こちらに着くのは今日
の昼頃になる。あと、二ザン︵二時間︶ばかり、リーミル様からの
使いを待とう。それから撤退の準備を整え、兵を退くか﹂
部下も頷いてセイディスの判断を支持して、ぽつりと言った。
﹁リーミル様がトリルナに着いておればよいですが﹂
セイディスは撤退の準備と言ったがすべきことは多くはない。全
てを捨ててゆくのである。ただ、ここまで運んできた木材を敵の手
カイーキ
に渡すのを避けるために、藁束や集めた枯れ葉に油を掛けて木材を
焼いて行く。後は剣と盾のみを所持した身軽な姿で王都へ帰る予定
である。
この時、物見が戻って、セイディスらが考えもしなかった情報を
もたらした。今日の昼どころか、ルージ軍が目前に迫ってきている
という。ルージ軍兵士は睡眠も充分な休息も取らずに行軍していた
のである。
カイーキ
もう、リーミルからの使いを待っていられる余裕はなかった。こ
カイーキ
の兵を無傷で王都に戻さねばならない。セイディスは即座に命じた。
﹁材木に火をつけよ。兵四百は王都へ先行せよ。私は百の兵で殿を
守る﹂
戦を予感させるように西の空が赤く染まり始めていた。
644
カイーキ
明くる日の早朝、セイディスの兵が、ルージ軍にしつこく追われ
て振り切れないという情報が王都のグライスに届いた。
グラフラを出陣したルージ軍は五百と聞いていたが、殿を努める
セイディスが百名足らずの兵で全滅もせず、敵の追撃を遅らせてい
るという。つまりルージ軍も数を減らし、セイディスと同じか少し
上回る程度の兵力だろうと想像がついた。
グライスは少し考えて命じた。
カイーキ
﹁救援の兵を出す﹂
カイーキ
﹁しかし、王都の守りはどうなるので?﹂
重臣は王都の守りのために兵が必要な時に出陣して守りを薄くす
カイーキ
るのかと問うのである。グライスは言った。
﹁この王都の守りには是が非でもセイディスの兵が要る。見殺しに
は出来ぬ﹂
カイーキ
セイディスが救う価値のある勇将だと言うだけではなく、彼が率
いる兵を、敵の追撃でむざむざ減らしてしまっては、王都防衛の算
段も立たなくなると言うのである。
﹁では、今度こそ儂の出番ですな﹂
老将ボルナスが進み出てそう言った。
﹁行ってくれるか。では三百の兵を与える。ルージ軍兵士も疲れ切
っていよう。軽く一戦し、奴らをたじろがせて戻ってこい﹂
軽く一戦しとグライスは言ったが、勢いに乗った敵を押しとどめ
るのは困難を伴う。若いグライスですらそれを知っていたし、歴戦
のボルナスも分かっているだろう。ただボルナスは軽く笑って命令
を受諾した。
645
街道上の両軍
時は半日ほど前の街道上に戻る。
﹁ストパイロ殿。どこかで兵を休めましょう﹂
﹁馬鹿なことを言うな。敵はもう目前ぞ﹂
﹁このままでは敵と遭遇しても満足に戦えませぬ﹂
﹁戦いに弱音は禁物であろう。我らが疲れていても、敵は我が軍の
勢いに恐れおののいておるわ﹂
﹁ストパイロ殿、貴男は馬に乗っているから良いが、兵は重い甲冑
を着け、盾や剣を持って行軍しております。せめて、もう少し行軍
の歩調をゆるめてはいかが﹂
﹁そなたは私を侮辱するか。兵は疲れても戦うのみ。将軍が疲れて
は戦の判断を誤るもの﹂
そんな言葉が交わされたのも数時間も前のことである。物見が戻
ってフローイ軍の姿を伝えた後、ストパイロが下した命令は、行軍
を維持することだった。
街道上のフローイ兵は百名ばかりに減っており、作りかけの砦の
一部に火を放っているという。ルージ軍から見れば、砦を占領する
という目的も失われ兵を退く機会だが、ストパイロの立場では判断
は違った。幾つもの失策を補おうとした目的が失われようとしてい
る。ここは砦に残るフローイ兵を討ち取って功績にせねばならない
と考えたのである。
﹁こちらは五百。フローイ軍はたかが百人ではないか。これほど有
利な状況で戦わぬという理はあるまい﹂
ストパイロは自軍の優勢を主張するが、彼が率いてきた五百の兵
は急激な行軍について行けずに脱落した兵士が多い。今は三百にも
646
満たず、その兵も疲れ切っている。
一方、街道上でルージ軍を待ち受けるセイディスは、部下の将士
から意見具申を受けていた。
﹁セイディス様。砦は全て焼かず、残して置いて生魚喰らい︵セキ
キ・ルシル︶どもが迫ってから火をかけましょう﹂
﹁材木に火をかける藁束は湿して置くのがよい。煙を上げ、奴らを
いぶして目を見えなくしてやりましょう﹂
﹁我らはその煙の後ろ、街道の両側に兵を伏せ襲ってくる敵の先鋒
しんがり
を一気に遅い、素早く退くのです﹂
危険な殿の戦を努めるために、セイディスはこれから戦力になり
そうな若い兵士たちを先に逃がした。彼の元に残ったのは白髪交じ
りの老兵たちである。万が一、失っても惜しくはないと、セイディ
スが自分自身に言い聞かせて残した者たちである。しかし、老兵た
ちであるだけに過去の海外の遠征を知る者が多い。彼らの戦意は高
く、過去の経験には耳を傾けざるを得ないものがあった
セイディスは彼らの言葉にいちいち頷いて見せ、笑いながら満足
気に言った。
﹁さても、我が部隊は歴戦の勇士揃いよな﹂
セイディス自身は実戦経験はないが、熟練した将士に支えられて
いた。老兵たちも自分たちの経験に素直に耳を傾ける若い指揮官に
好感を感じている。そして、その若い指揮官は残った将兵と生死を
共にする覚悟を見せていた。
事実、セイディスは黙って周囲を見渡して、将士の数を数えてい
た。彼自身を含めて百十四名。その顔を一人一人まで記憶するよう
カイーキ
に眺め回した。ルージ軍は五百だという。味方は少ないが、四、五
時間も敵をここで足止めすれば、先に徹底した味方は無事に王都へ
帰り着くことが出来るに違いない。
セイディスは背後を振り返った。もはや味方の姿は見えないが、
先に後退した味方の一部に、5ゲリア︵4km︶ばかり後方に、柵
647
を築いてから撤退を続行するよう命じてある。現在の位置でルージ
軍先鋒に打撃を与え、敵の混乱に乗じて後方の防御拠点に下がるつ
もりである。敵が追撃を諦めればそれでよし、諦めずに追ってくれ
ば再び戦う。
ニクスス
セイディスは小さく呟いた。
﹁この勇者どもに運命の神のご加護を﹂
その呟きが終わらぬうちに、前方の様子を探らせていた物見が戻
ってルージ軍が姿を見せたことを告げた。セイディスは即座に命じ
た。
﹁材木に火をかけよ﹂
パトロエ
そして戦いの始まりを決意する言葉を空へ放った。
﹁戦いの神よ、我れらが戦をお見守り下さい﹂
街道上に上がった火の手と高く立ち上った煙は、フローイ軍の将
兵にはこれから一気に燃え上がる戦意に思え、ルージ軍のストパイ
ロには自分を誘う狼煙のようにも見えたに違いない。
648
セイディスとストパイロ、二人の指揮官
戦場にありがちな混乱や、ミスと言っていい指揮官の判断が、互
いに想像できない戦況を生み出したてゆく。
攻め寄せたルージ軍の側から見れば、フローイ軍が放った火で街
道上に煙が立ちこめて視界が利かない。しかし、向こうにフローイ
兵が居るのは間違いがない。ストパイロは行軍が遅れた兵の到着も、
疲れた兵士に休息を与えることもせず、手元の三百の兵に突撃を命
じた。
想定通りの状況に、百名のフローイ兵は炎と煙の合間を駆け抜け
てきたルージ兵に襲いかかった。ルージ兵にしてみれば、視界が開
けたとたんに剣を構えたフローイ兵が襲いかかってきたという状況
だった。ルージ兵の忠誠さと勇猛さは行軍の疲労で消耗し、突然に
合われたフローイ兵への驚きは恐怖に近かった。それは互いに剣を
交わすという状況ではない。ルージ兵は剣を振っても、フローイ兵
が振り下ろす剣をようやく受け止めるためで敵を傷つけるためでは
なかった。
戦いの中にいる兵士たちにとって、時間の経過は意味が無く、殺
すか殺されるかの緊迫感の中にいた。その中、自らも兵に混じって
剣を振るっていたセイディスが気づくと、戦場に鐘の音が響いてい
た。ルージ軍が兵を退かせる時の合図の音に違いなかった。
目の前のルージ兵に剣を振り下ろし、敵兵の苦痛の叫びを聞く余
裕もないまま、剣を横に振って別の敵兵の背に傷を負わせた。そん
な激しい動きの中で周囲を眺めてみれば、ルージ兵も退却の合図に
気づいたらしい。彼らは背を見せて、今は淡くなりつつある煙の壁
の向こうへと姿を消していった。
﹁追うな。我らも退く。負傷者を残すな﹂
649
セイディスは退却するルージ兵を追う味方の兵に声をかけつつ、
ざっと地表を眺めた。斃れた敵のルージ兵は六十ほどか、味方の死
者は五人ばかり。しかし、多くの兵は負傷している。セイディスは
自力で歩けぬほど負傷した味方の兵に肩を貸して戦場から去った。
セイディスの目的地は後方5ゲリアの防御拠点である。
テセディスたちの負傷者を運びながらの退却は、思いの外時間と
労力を費やした。
︵うまくいけば︶
セイディスが期待を込めて考えたのは、先鋒の被害を見たルージ
軍が戦う利が無いことを悟って兵を退くのではないかということで
ある。事実、すぐさま新手のルージ軍が追撃してきても良い状況で、
敵はその気配を見せなかった。
セイディスには分からぬ事だが、この時にルージ軍では同士討ち
になるのではないかと思われるほどの酷い対立が起きていた。
﹁何のための退き鐘か。突撃をさせたことそのものが無謀でしょう﹂
ストパイの指揮下で不満を募らせていた小領主ルウデスが怒りを
爆発させたのである。合図で戻ってみればストパイロが息子と共に
ただ戦闘を眺めていた。数十名の手兵を失い、彼自身も負傷したル
ウデスにとって当然の怒りだった。
﹁ルウデスよ。このルージ軍に、命令に服従せぬ不忠者がいるなど、
儂には信じられるわ﹂
そんなストパイロの言葉に、同じく指揮下にいるデアラスが怒り
を露わにした。
﹁不忠者というなら、王の命を無視して兵を出したストパイロ殿こ
そ不忠。そして配下に戦えと命じながら、自分の剣を抜く勇気も持
たれぬのかっ。儂は兵を退く。アトラス王の為になら命は惜しまぬ。
しかし、臆病者の元では死ねぬ﹂
﹁儂が臆病者だと言うか﹂
650
﹁そうでないと言われるなら、ご自分の剣を抜いて証明なされい﹂
﹁おおっ。敵の数など僅か百。臆病者のお前たちの手を借りずとも、
我が手兵のみで敵を討ち取ってくれる﹂
ストパイロは馬上で剣を抜いて叫んだ。
﹁我が兵よ。儂に続け﹂
ストパイロの兵たちが槍を杖代わりにするほど疲れ切りながらも
命令に抗いきれず二人、三人と、勇ましく先頭の馬上の指揮官に続
いて行った。その数は百を少し超える程度だろうか。
再び、セイディスに目を移そう。彼が後方の防御拠点まであと2
ゲリアの位置まで後退した時、ルージ軍が追撃してきたのに気づい
た。むろんストパイロの手兵である。セイディスは戦えぬほど傷つ
いた味方の兵を街道脇の藪に隠して休ませ、八十ばかりの兵を街道
上に並べて敵を迎え撃った。
僅かな戦闘時間の間に、セイディスと配下の兵士はルージ軍の半
数を討ち取った。戦場に響くルージ軍の指揮官の声は勇敢だが、ル
ージ兵には戦意が感じられず、叱咤激励する指揮官の怒声のみで動
かされているようだった。しかし、その怒声も半数の兵が斃れると
パトロエ
撤退を叫ぶ悲痛な声音に変わった。
︵戦の女神よ。これが勝利と言えるのでしょうか︶
セイディスは小さくそう呟いた。疲労して戦意を失いつつあるル
ージ兵を一方的に虐殺するかのような戦闘だった。彼はルージ軍を
追わず、退却を続けた。後方の防御拠点まで一時間ばかりの距離の
はずだが、戦闘を交えた退却で時間が経過し、太陽は傾いて西の森
の陰に隠れてしまっている。
セイディスは防御拠点で一夜を過ごすことを兵に告げた。ただ、
ルージ軍の追撃が終わるだろうという希望的観測は心に秘めて口に
しなかった。ルージ兵の疲労や受けた打撃の大きさから考えれば、
追撃を続ける余力も気力もあるまいと判断したのである。
651
しかし、夜半、セイディスらフローイ軍が防御拠点で炊き上げる
かがり火の北に、もう一つのかがり火が灯った。味方の兵であるは
ずはなく。ルージ軍が陣を敷いたに違いなかった。
﹁なんと。しつこい連中だ﹂
カイーキ
セイディスは呆れるように言い、傍らの部下に命じた。
カイーキ
﹁お前は、急ぎ王都へ戻って、ルージ軍の接近を知らせよ﹂
この辺りは王都に近い。例え敵が小部隊だとしても、その接近を
伝えておかねばならないだろう。昼間のルージ軍との交戦を見れば
ルージ兵は疲れ切っている。ルージ軍指揮官は今夜は陣で兵を休め、
明日、戦いを挑むつもりだろう。
﹁さて、どうしたものか﹂
そう肩をすくめるセイディスに歴戦の老兵の一人が言った。
﹁セイディス様。私たちは夕飯を食いっぱぐれるようです﹂
セイディスはその意味を察して笑いながら命じた。
﹁そうだな。そうしよう。もう一つかがり火を焚け。火を一晩中絶
やすな。鍋の粥は水を足し、煮立てて生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶
どもにも臭いを嗅がせてやれ﹂
そんなフローイ軍の陣の様子は、1ゲリア︵800m︶ばかり距
バトロエ
離を置いて陣を敷いたルージ軍側も物見を出して探らせている。
﹁これこそ。戦の女神のご加護﹂
戻った物見の報告に、ストパイロは手を打って喜んだ。昼間、多
数の手兵を失って意気消沈していたが、その後、行軍の早さについ
て行けずに脱落していた兵士たちがたどり着き始め、その数が百を
超え、もう少し待てば二百に迫る数になるのではないかと期待でき
るほどになった。
デアラスとルウデスは兵を退いたようで姿を見せないが、負傷兵
ばかりの彼らには去ってもらう方が良い。二人の背信行為は後で糾
弾してやるとの決意をこめてそう考えていた。
652
ボルナス到着
夜明け前、陽が昇る直前の最も冷え込む時間帯で、行軍するセイ
ディスらの吐く息が白い。闇にとけ込んでいた周囲の光景は、徐々
にその姿と色を現し始めていた。行軍する者たちの足下で地面を覆
う枯れ葉が砕けた。
彼らに笑顔が見える。
﹁意外に、痛快なものだな﹂
セイディスは声を上げて笑った。目前の敵に背を向けて逃げたに
しては、心地よい達成感があった。今頃、ルージ兵たちは、フロー
カイーキ
イ軍の陣が夜の内に空っぽになっているのに気づいて地団駄を踏ん
でいるかもしれない。
足が達者な者なら夕方には王都にたどり着き、温かい夕食を堪能
するだろうという場所である。ルージ軍も追撃は諦めて兵を退くだ
ろう。そう考えた兵士たちもセイディスに同調して笑顔を浮かべた。
ただ、セイディス一行は、負傷者を抱えていた。一部の者は自力
で歩けず担架で運ばれている。そのために行軍の歩調は緩やかで、
しかも頻繁に休息を取って負傷者をいたわってやらねばならない。
﹁この辺りで大休止するか﹂
温かい汁物など作って食すほどの休憩を取ろうというのである。
大鍋は捨ててきたが、兵士は大きな金属のカップを身につけている。
湯を沸かし蜂蜜でも入れれは温かい飲み物になる。体を温めれば兵
たちの心や体から疲労が僅かでも抜けるだろう。
︵さすがは︶
セイディスがそう考えた。細かな指示を与えるより、彼らを眺め
ほくち
ている方がいい経験になる。セイディスの命令を聞くや、古参兵た
ちはさっさと藪に入り、薪と火口になる樹木の繊維を調達してきた。
653
ほくち
彼らは慣れた手つきで固い枝とローブを擦り合わせて火口に火を灯
し、その火を薪に移した。
間もなく、冷気に包まれた街道上に、いくつかの焚き火が燃え上
がって兵士たちを暖めた。
﹁セイディス様。ちょっと北の方を見て参ります。﹂
一人の兵が命じられるまでもなく、セイディスの許可を取るとい
う形を取って北へと走り出した。休憩でくつろぐ間も油断せず敵の
気配に精神をとぎすませておかねばならない。セイディスは頷いて
許可を与えた。
飲み物の温かさが身に染み渡る間もなく物見に出た兵士が慌てて
駆け戻ってきた。追撃してきたルージ軍を見つけたに違いない。セ
イディスはそれを察して短く問うた。
﹁敵の位置は﹂
﹁敵は約二百かと。北二ゲリア半︵2000m︶まで迫っておりま
す﹂
﹁まったく、しつこい連中だ。俺たちがここまで恨まれるようなこ
とをしたか﹂
セイディスは肩をすくめて冗談めかして言ったが、その目は冷静
に兵士を見回して戦える者を数えていた。負傷者を連れて撤退を続
ければルージ軍に追いつかれるのは目に見えている。戦える者は七
カイーキ
十名。地の利のある場所でもう一戦せねばならないだろう。ただ、
街道も王都に近づくにつれて幅は広くなり整備されて身を隠す場所
もないのである。
カイーキ
一人の負傷兵が担架から身を起こして言った。
﹁セイディスさま。我々を残して王都へお戻り下さい﹂
他の負傷者たちも、その兵士に同調して声を上げた。負傷者を残
していけばセイディスは無事に帰り着けるだろうというのである。
﹁私がリーミル様から承ったのは、兵を無事に撤退させろという命
令だ。兵を残して逃げたのでは命令が果たせぬよ﹂
654
カイーキ
彼の決意を秘めた目に、異論を唱える者はなかった。カップに残
っていた湯を一息に飲み干して命じた。
﹁まず、歩けぬ者を藪に隠せ。歩けても剣を振れぬ者は王都へ先行
せよ。残りの者は私と共に戦え。生魚喰らい︵セキキ・ルシル︶な
ど、何度でも蹴散らしてやる﹂
防御のための柵を築く間もなく、セイディスは兵を敵に相対する
ように並べた。この場所で敵を迎え撃つ。兵の前方に立ってこれか
ら現れる敵を睨みつつその決意を固めたのである。しかし、兵に激
カイーキ
励の声を掛けようと振り返ったセイディスは、意外なものを見つけ
た。
グライスが王都から遣わした部隊が到着したのである。指揮官が
僅かな手兵で戦いの準備を整えたセイディスを大声で讃えた。
﹁おおっ。セイディスよ、勇ましいのぉ﹂
﹁ボルナス殿。どうしてここへ﹂
﹁そなたの帰りが遅いので、どこかで迷子になっているのかと、グ
ライス殿が私を遣わされた﹂
救援に遣わされたということをボルナスはそんな表現で言った。
セイディスは頭を下げて感謝の言葉を述べた。
﹁ボルナス殿と共に戦えること光栄に存じます﹂
カイーキ
共に戦える。その言葉に反応するようにボルナスはくすりと笑っ
た。
﹁セイディスよ。儂はここへ来るまでにそなたが王都に戻した兵た
ちとすれちごうた。そなたの元へ戻って戦うと言いおったので怒鳴
りつけてやったわい。セイディスの命令を守れとな﹂
カイーキ
﹁私の命令?﹂
﹁王都へ戻れと。そなたも同じ。リーミル様から受けた命令は兵を
無事に退かせることであろう。命令を守って負傷者どもを無事に連
れ帰れ。儂も奴らを蹴散らして直ぐに戻る﹂
ボルナスは自分が時間稼ぎをしている間に、負傷兵たちを撤退さ
655
せろと言うのである。たしかに、セイディスの部隊の負傷兵たちは、
彼が手を貸してやらねば動くことが出来ぬ者もいる。
彼がルージ軍と戦った経験から言えば、敵兵は二百とはいえ疲労
は抜けていないだろう。戦場に到着した兵の戦意は高く、しかもボ
ルナスが指揮するとなれば友軍の勝機は高い。セイディスはそう判
断し、指揮下の兵に負傷者に手を貸すよう命じた後、ボルナスに向
かって頭を下げた。
﹁ではご武運を﹂
﹁おおっ。任せておけい﹂
ボルナスはそれだけ言うと、もはや敵視か眼中にないと言わんば
かりに前方を睨んで兵に命じた。
﹁フローイの強者ども、盾と剣を打ち鳴らせぃ﹂
もう前方にルージ軍の姿が半ゲリア︵400m︶の距離に見えて
いた。増援の到着に気づいたらしい。やや警戒感を滲ませて行軍を
停止させたようだが、戦の意思は失っていないと言わんばかりに、
ルージ軍もまた盾と剣を打ち鳴らす音を響かせた。
656
街道上のアトラス
︵敵は百、こちらは二百。いや敵は兵の数をもっと減らしているだ
ろう︶
その思いがストパイロを支えて敵を追わせていた、追撃すると言
うこと自体、勝利しているような高揚感に包まれていた。
ただ、突然にストパイロの目前に新たな敵が加わった。敵の都に
近づくにつれて敵の増援が現れやすくなるのは当然だったが、勝利
に取り憑かれたストパイロにとって驚愕の出来事であったらしい。
敵が剣と盾を打ち鳴らす威嚇の音が響いてきて、兵士が驚きを見
せたため、ストパイロは自軍の兵にも同じ事をさせた。両軍はその
場に踏みとどまって互いに威嚇するのみ。そんな時間が経過した。
街道上のにらみ合いも三時間が経過した。ストパイロは新たな敵
に慎重になって攻めることはなく、ボルナスも戦わずこの場で時間
稼ぎをするつもりだった。やがて、変化が現れたのは、フローイ軍
が街道の緩やかなカーブの向こうに姿を消したことである。フロー
イ軍を率いるボルナスから見れば当然の行動で、味方を退却させる
ために来て、任務を終えたために帰るということである。ただ、ル
ージ軍のストパイロの見立ては違った。
﹁おおっ。フローイ軍が我らに怯えて逃げたぞ。追って、奴らを殲
滅しろ﹂
ストパイロはグラフラの町を出撃して以来、敵を追撃するという
カイーキ
勇壮な気分に取り憑かれていた。この時もその気分のみで命令を下
したのだろう。王都という敵が最も多くの戦力を集結させている場
所に近いと言うことは忘れているかのようだった。
無謀な追撃が再び始まった。
657
同じ頃、アトラスは馬上の兵を率いて街道上を進んでいた。アト
ラスとサレノスを除けば一頭の馬に二人の軽装兵が乗っている。ア
トラスは六百頭の馬に千二百の兵士を連れてきた。その目的はボル
ナスと同じ。彼がセイディスの部隊を引き揚げさせる任務を持って
いたのと同様、アトラスはパロドトスの部隊と敵の間に割り込んで
戦闘を回避して、パロドトスを引き揚げさせるつもりである。
先頭をゆくアトラスがサレノスを振り返って前方を指さした。
﹁あれは、ルウデスとデアラスでは?﹂
﹁そのようで﹂
うなづくサレノスは、そう言い終わる前に馬の腹を蹴っていた。
アトラスも愛馬アレスケイアの腹を蹴って駆けろと促した。
負傷兵を連れて戻ったのは、たしかにアトラスが指摘した二人だ
った。二人はアトラスの突然の出現に驚き、戦場を独自で離れたこ
とを詫びた。
﹁反逆の罪は問わぬ﹂
アトラスは二人の側で愛馬を降り、そう断言した。ストパイロが
指揮官としての器量を持ち合わせていないのは明らかだった。スト
パイへの怒りが渦巻いて心の中が整理できないが、混乱する心の中
から若者らしい純真な思いが浮かび上がってきた。
︵責任を問うなら、その者の下にこの二人を組み込んだ私の責任だ
ろう︶
﹁そのストパイロ殿は何処に?﹂
サレノスの問いに、ルウデスが背後を指さして答えた。
﹁フローイ軍の砦から先へと、敵を追ってゆかれました﹂
アトラスはそれを聞くや、愛馬に飛び乗り、馬上から士卒に声を
掛けた。
﹁デアラスとルウデスよ。その配下の勇者たちよ。よう無事でいて
くれた。ストパイロのことは私に任せよ﹂
カイーキ
アトラスは追いついてきた部隊に前進を促した。フローイ軍は砦
を焼いたという。それならフローイ軍には留まる理由はなく王都へ
658
引き揚げてゆくだろう。ストパイロも敵が居なくなった砦の焼け跡
で兵を休ませているだろうと考えていた。
アトラスの怒りを払拭するようにサレノスが冗談めかして言った。
﹁まったく。敵とはいえ、上手い戦いぶりをする﹂
その名は知らないが、ルウデスやデアラスに大きな被害を与えた
敵将のことである。
﹁それは敵にもサレノスが居ると言うことか?﹂
﹁フローイ国にも名だたる幾多の将士が居りますからな﹂
アトラスは先の戦いのことを考えていた。王リダルを筆頭にアガ
ルススやバラスなどルージ国を代表する戦巧者とその配下の古参兵
を失っていた。ネルギエの地ではアトラスの突撃でルージ軍は大勝
利のきっかけを得たとも言えるが、バラスや彼と共に戦死した者の
多くはその無謀さの結果死んだ。その記憶がアトラスの心に罪悪感
を生んでいた。
サレノスはイドポワの門の戦いで果てたアガルススの記憶から別
のこと、過去の海外遠征のことを考えていた。ルージ軍とフローイ
軍は共に戦うことも多く、互いの将士をよく知っていたし、中には
親友と言っていいほど親しい者たちも居た。サレノスにとってボル
ナスがその存在である。豪放さの中に繊細さを秘めた男で、ルージ
軍のアガルススによく似た男である。その気さくさで冷静沈着さを
失わないサレノスを笑っていた。ただ笑いの中に敬意が込められて
いて悪い気はしなかった。心に思いを潜めた自分と比べてボルナス
のあっけらかんとして性格が羨ましく感じることもあった。ただ、
サレノスはアトランティスに帰国し、妻や子を失った失意で隠遁し
た後は互いの連絡も途絶えていた。その男が前方にいる。サレノス
はその運命を知るよしもなかった。
フローイ軍が陣を作っていたという場所にさしかかっていた。ア
トラスは怒りを露わにした。
﹁ストパイロめ。私の命令をどこまで無視するつもりかっ﹂
659
無謀な進撃を止めるためにここまで出張ってきたが、ストパイロ
はまだ敵を追い、無駄な戦を続けているのである。
﹁この辺りは敵の本拠も近うございます﹂
サレノスの言葉にアトラスは苛立たしげに言った。
﹁分かっている。しかし⋮⋮﹂
今のストパイロは、アトラスが直に命令を与えねば、その命令に
従うまい。そういう腹立たしい驕慢さが目立っていた。戻れと命ず
るのはアトラス以外にあり得なかった。
﹁まだ、芯が暖こうございます。燃え落ちてから、三ザン︵時間︶
かと﹂
街道上で燃え残った材木を調べた兵がそう所見を述べ、ストパイ
ロが街道上に取り残して行った数多くの負傷兵の証言がそれを裏付
けた。
﹁三ザン︵時間︶か、なら、二ザンで追いつけるか﹂
歩兵を率いたストパイロが三ザン前にここを発ったのなら、今か
ら馬を疲れさせない程度に急げば二ザンで追いつける。アトラスは
そう考え、サレノスf言い添えた。
﹁ただ、敵の伏兵にも気をつけねばなりませぬ﹂
カイーキ
アトラスも決意を込めて頷いた。
︵まったく、王都突入せんばかの勢いだな︶
660
ストパイロ、戦死
アトラスがストパイロの元にたどり着いた時、戦いはあらかた終
わっていた。ストパイロの手兵は全滅といって良かった。ストパイ
ロも街道の傍らで血に染まって息絶えていた。フローイ軍は負傷し
たルージ兵に止めを刺す間もなく戦場を去っていた。まだ息のある
兵士がそこここに転がっているという具合である。
﹁酷いものだ﹂
アトラスは息のある者の手当を命じながらそう呟いていた。そう
こうするうちに街道の両側の森の中から、三人、四人と、傷ついた
ルージ軍兵士たちが姿を見せた。この悲惨な戦場から脱出した者た
ちも居たのである。友軍の姿を見つけて街道上に出てきた者は百名
足らず。そのほとんどが傷つきも今は戦えぬ姿である。
その中にストパイロの息子オウガヌの姿があった。
﹁我らが王子よ。我が父が討たれました﹂
そう言ったオウガヌにアトラスは怒りを隠さなかった。ストパイ
ロに向けるべき怒りがその矛先を失って息子のオウガヌに向いたと
いう格好だった。
﹁泣き言を言うな。千名もの兵を与えられながら、その半数を殺し
おって﹂
感情を露わにした若いアトラスを制してサレノスが言った。
﹁ストパイロ殿が戦死されたか﹂
悔しげに頷くオウガヌに、サレノスは言葉を継いだ。
﹁この有様は、いかなる戦いだった?﹂
サレノスが尋ねたのは、疲労していたとはいえ、精強なルージ軍
兵士が一方的に殲滅されたかのような状況についてである。オウガ
ヌが語るには、前方の敵に挑みかかったら、突然に後方から新たな
敵が現れたという。オウガヌは短い言葉で報告を締めくくった。
661
﹁まこと、悔しゅうございます﹂
﹁そなたの父は、敵の伏兵も考えずに兵を進めたか﹂
サレノスはため息をつくように周囲を見渡した。街道の両側は樹
木がまばらに生える林で兵を隠しやすい。ただ、敵も兵を退くのみ
ではなく反撃してルージ軍に大きな被害を与えて足止めするなど、
敵にもよほど戦いに長けた者が居る。
オウガヌが懇願した。
﹁我らが王よ。願わくば、このオウガヌを王の戦列に加えていただ
き、父の敵を討たせていただきたい﹂
﹁これだけ兵を失い、まだ戦うというか。お前は負傷者を連れてグ
ラフラへ戻れ。一兵も残すな﹂
アトラスはオウガヌに背を向けて激しくそう命じた。しかし、こ
の時、アトラスは戦いを継続したいと言うオウガヌと同じ思いに取
り憑かれかけていた。フローイ軍が去ってまだ一ザンにもならぬと
言う。とすれば、敵は3ゲリア先を行軍している。追いつけない距
離ではない。
兵士たちに傷ついた者たちの手当をさせながら、アトラスはサレ
ノス以下の主だった者を集めた。
﹁サレノスよ。いかがする?﹂
カイーキ
﹁いかがとは﹂
﹁今なら、王都の城門も大きく開いていよう﹂
カイーキ
カイーキ
アトラスの言う意味は理解できた。今、戦い続けている味方兵士
を帰還させるために、王都は城門を開けている。
カイーキ
マキツキ街道とグラフラの町を押さえてフローイ国王都を北西部
から孤立させ、ランロイを占領することで、王都を飢えさせる。春
には飢餓も極限に達し、敵は降伏を受け入れるだろう。ほぼ無傷で
フローイが手にはいる。それがロユラスが立てた作戦計画である。
その計画は現段階まで、彼の予定通りに進んだ。
ただ、この国に兵を進めてグラフラやランロイを占領し、フロー
662
カイーキ
イ国が文物豊かな国だというイメージを持ってみると、本当に王都
のフローイ軍を飢餓に追い込めるのかという疑問が湧く。更に背後
のシュレーブ国の存在。シュレーブ国から食糧の補給を受けるので
はないかという疑問も湧いてアトラスたちを惑わせていた。ロユラ
カイーキ
スはシュレーブ国とフローイ国を結ぶ街道の幅の狭さや険しさを説
いて王都を支える食料を運ぶのは無理だと言ったが、アトラスはそ
の街道を自分で経験していない。疑問が湧くのは当然かも知れなか
った。
そして、シュレーブ国がフローイに増援の兵を出すのではないか
とも危惧も高まる。ロユラスはシュレーブ国辺境のシフグナの地と
フローイ国との長い軋轢や住民たちの憎み合う様子を肌で感じて、
カイーキ
フローイ国はシュレーブ国の増援を受け入れるまいと判断したが、
その判断が間違いだったら⋮⋮。
戦に長けたサレノスでさえ、そう言う疑問を抱いていて、王都の
カイーキ
様子を睨みながら力攻めもやむを得まいと考えていた。しかし、そ
の時、王都に攻め込むために、頑丈な城門を打ち破るのに大きな被
害を出すことになるのは間違いない。ストパイロの暴走でルージ軍
は大きな痛手を被っていた。今のアトラスの手元に残された兵力で
力にものを言わせて攻めるのは無理だろう。
ただし、今はその城門が開いている。
﹁サレノスよ。いかがか。みなはどう思う?﹂
アトラス指揮下の主だった者たちは再び考え込んだ。
敵が飢えない時には力攻めをするか、城門が開いている今、押し
通るか。ボルスス王が戦死し、シュレーブ国に派遣されたフローイ
軍が全滅したという噂があり、敵の兵力不足も頷ける。ただし、も
しも、それが噂に過ぎず王ボルスス自ら帰国した遠征軍を連れて反
撃の機会をうかがっているとしたら。
攻めるか退くか、歴戦のサレノスにも判断がつきがたいほど、不
安と期待を乗せた天秤が釣り合っていた。サレノスは決意を込めて
アトラスを眺めて言った。
663
﹁牙狼王リダル様のお血筋を信じております。どちらなりとご命令
下され。我らはそれに従います﹂
周囲の昭志たちもサレノスの言葉に頷いて同意した。アトラスは
カイーキ
短く決意の言葉を発した。
﹁わかった。王都へ兵を進めよう﹂
アトラスは怨みがましい視線をアトラスに注いで負傷兵をまとめ
るオウガヌを残し、将兵に前進を命じた。
カイーキ
王都に兵を進めると決断したアトラスは、先を進むフローイ軍部
隊を攻めはしなかった。
︵さすがはリダル様のお血筋︶
サレノスはそう思った。もしアトラスが目の前のボルナスに戦い
カイーキ
を挑もうとしたらサレノスが停止するよう進言したに違いなかった
のである。敵と戦わず、つかず離れず敵を追って王都に接近する。
カイーキ
今の距離は敵に存在を知られずにすむのに丁度良い間隔だろう。
﹁王都に着く頃には日も暮れるだろう﹂
アトラスの言葉にサレノスが頷いた。
﹁そのようです。その時に⋮⋮﹂
闇の中で敵味方の区別がつきにくくなる。敵との距離を一気に縮
め、城門をくぐろうとする敵に襲いかかり、開いている城門から一
気に町へなだれ込む。そう言う算段である。
664
王都︵カイーキ︶突入
カイーキ
王都の王宮で、グライスはセイディスの帰還に続いて、ボルナス
の部隊がルージ軍を打ち破ったとの情報に接して胸を撫で下ろして
いた。しかし、続いてルージ軍の大軍が現れたとの連絡に驚きを隠
せなかった。ルージ軍がいかに精強で勢いに乗っているとはいえ、
グラフラとランロイを落として、少なくとも一ヶ月は兵を休め、失
った将兵を再編成し、占領地の治安回復を図るだろうというのがフ
ローイ国の見立てだった。アトラスがそうであるように、グライス
もストパイロという名誉心に取り憑かれた男の暴走で、その戦術の
常識が崩れたことに驚いていたのである。
グライスは伝令の兵に問うた。
﹁敵は五百ばかり。その大半をセイディスとボルナスが討ち取った
と聞くが﹂
﹁それが、ボルナス様からの知らせでは、敵は千を超える新手とか﹂
その言葉に、グライスは素早く反応して命令を下した。
カイーキ
﹁城門の守りを固めよ。ルージ兵など一兵たりとも通すな﹂
戦が行われているにせよ、この城壁で堅く守られた王都に安直に
攻め寄せる者は居ない。そんな安堵感が崩れて王宮は突然に慌ただ
しくなり、慌ただしく市内を走り回る兵士たちによって、伝染する
ように町の人々にも混乱が広がっていった。
混乱の中、不安げなフェミナが王の執務室に姿を見せた。
﹁ここで戦が始まるのですか?﹂
カイーキ
﹁心配するな。あの城門を考えるがよい。千どころか、二千、三千
の兵で攻めても、城門を抜き、王都になだれ込むなど無理であろう﹂
﹁では、大丈夫ですね﹂
﹁ああ、任せておけ。そなたは居室で機織りでもしておるがよい﹂
グライスの言葉にフェミナは少し頬を赤らめた。こうしてみると、
665
二人は十七歳と十六歳の純粋な若者である。中世ヨーロッパの高貴
な女性が刺繍をしたように、アトランティスでは、女性のたしなみ
として機織りをする。グライスはフェミナが彼のために祈りを込め
て布を織っていることを侍女たちから聞いていた。祈りの内容まで
は分からない。ただ、彼女が頬を赤らめた表情から察するしかない。
﹁私は重臣どもとルージ軍を叩き返す算段をせねばならない﹂
グライスはそんな言葉でフェミナを居室に帰した。入れ替わりに
姿を見せたのはセイディスだった。
﹁グライス様。ルージ軍の新手が現れたとか﹂
﹁ああ。ボルナスが急ぎ知らせてきた﹂
﹁いかがされるおつもりで﹂
﹁まずはボルナスの帰還を待って、堅く城門を閉じる。後はルージ
軍の様子を眺めながら決めよう。それでどうだ?﹂
﹁ボルナス殿の帰還はいつに﹂
﹁夕刻になるだろう﹂
﹁それまでにルージ軍がボルナス殿を攻めればいかが致します﹂
﹁ルージ軍はボルナスの部隊から一ザン︵一時間︶分の距離はある
という。攻められる前に帰り着くだろう﹂
﹁まずは守りを固める。それ以外にすることがあるか、重臣たちと
カイーキ
も相談しよう。主だった者たちを部屋に集めてくれ﹂
王都の重臣たちを交えた軍議が始まった。しかし、待つというこ
と以外の選択肢はなく重苦しい雰囲気が部屋を包んだ。やがて窓か
ら差し込む陽の光も薄れ、侍従たちが点灯して回る灯明の明かりに
変わった。炎は焼けた油の香りを漂わせ、時に揺れてすすをまき散
らした。そんな事をじっと眺めているだけの時間が過ぎた。
﹁ボルナス様、ご帰還﹂
城門に上がった声が広がり、門からの伝令がその情報を王宮に伝
えた。兵士たちが掲げた松明の光にボルナスの旗が確認できたとい
666
う。ボルナスとその部隊を迎え入れるために城門が大きく開かれた。
部屋に集った者たちは友軍の帰還の報にほっと胸をなで下ろし、
笑顔を浮かべた。しかしこの時、王宮にまで響き渡るほどの角笛の
音が人々の耳を貫いたかと思うと、地を振るわすほどの馬蹄の音が
響き始めた。日暮れと共にボルナスの部隊との距離をゆっくりと詰
めていたルージ軍が夜の闇の中から姿を現したのである。
乗馬をたしなまないフローイの人々にとって、馬で駆けるルージ
兵は信じられない速度で迫ってきた。もし、ボルナスがこの早さを
知っていれば、彼の部隊の後方につかず離れず行軍するルージ軍部
隊の存在を知った時、その意図にも気づくことができたかも知れな
い。しかし、この進撃の早さは彼にとって未知の出来事だった。そ
して、それに気づいた今、彼はルージ軍の意図を察した。自分の部
カイーキ
隊に紛れて城門を突破するつもりだと。彼は兵士たちに怒鳴った。
﹁者ども。王都へ駆けよ。息が続く限り全力で駆けよ﹂
この兵士たちを城門の内へ入らせ、扉を閉じなければならないの
である。ボルナスは右手で剣を抜き、左手に松明の明かりを掲げて、
迫ってくるルージ軍の前に一人立ちふさがって腕を広げた。もちろ
ん、たった一人で敵を足止めできるとは考えてはいない。死を覚悟
したこの瞬間に敵の姿をハッキリ眺めておきたかったのである。
﹁サレノスよ。お前か﹂
松明を掲げたボルナスとルージ軍の先頭を駆ける将。すれ違う一
瞬の時、僅かな光だが、互いに懐かしい旧友の顔を確認するに充分
だった。
﹁おおっ﹂
そのサレノスの声も終わらぬうちに、ボルナスはサレノスに続く
馬上の兵士の剣に斃れ、続く兵たちの馬蹄にかけられて地に転がっ
た。懐かしい戦友同士の再会はたったこれだけである。
﹁すまぬ﹂
そんな後悔とも哀れみともつかぬ呟きを旧友に残してサレノスは
馬を駆けさせていた。その運命の非情さを嘆く間もなく、ルージ軍
667
の突撃は続いた。
城壁の上で弓を射かける弓兵も、ルージ軍の出現は突然のことで、
闇の中に矢の目標が定まらない。そうこうするうちに、ルージ軍部
隊はボルナスの部隊に追いつき、入り交じって弓兵たちはますます
目標を定めがたい。
やがてルージ軍はボルナスの部隊と剣を一合、槍を一突き交わし
ただけで、本当の目的を露わにするように、ボルナスの部隊をやり
過ごして城門へ殺到した。大きく開かれた城門にはルージ軍の勢い
を押しとどめる者はなく、ルージ兵は次々に馬を飛び降り、剣を抜
いて混乱するフローイ兵に斬りかかっていった。ボルナスの部隊も
カイーキ
また、続くルージ軍に背後から襲われて次々に斃れていった。
王都の北の城門は僅かな時間でルージ軍の手に落ちた。
668
最後から二番目の約束︵前書き︶
*おわび*
最近の投稿で、シュレーブ国のシフグナの領主パロドトスと、ルー
ジ国の有力貴族で、アトラスに近習として仕えたオウガヌの父スト
パイロの名を混同している描写が何箇所もありました。読んでいた
だいていた方々を混乱させて申し訳ありませんでした。今週初めに
それを修正しました。
669
最後から二番目の約束
カイーキ
目的が分からない新手のルージ軍の登場に、フローイ国は王都を
カイーキ
守る城壁と城門を頼りにルージ軍の出方をうかがうという消極的な
選択をするしかなかった。王都にいる者たちは城壁と城門に絶大な
信頼を寄せていて、城門が破られたらということは全く考慮してい
なかったのである。今はその敵の意図が明らかになった。
カイーキ
セイディスが連れた五百の兵のうち、彼が先に帰還させた四百人
カイ
は無事に王都に戻っていた。この部隊は、リーミルを北西部へ逃が
ーキ
す間だけ、彼の指揮下に組み込まれていただけで、任務を終えて王
都に戻った今、三十人ばかりの単位の小部隊を束ねる小隊長が数人
いるのみで、部隊を統括する指揮官は居ない。市民から徴募した三
百の義勇兵は街の治安を預かるレマラスに預けられており、五人、
十人と分散して街の各所に配置されている。
カイーキ
この中でグライスの直接の指揮下にあるのは、彼がルウオの砦か
ら引き連れてきた僅か二百の兵のみである。グライスは王都守る大
半の部隊の位置も分からず、兵を掌握できずにいた。
日暮れの直後、ボルナスとその配下の兵士たちも無事に帰還する
だろうという安堵感が王宮に漂い始めた時、その知らせが届けられ
た。
﹁北の城門が破られた﹂
カイーキ
王宮は震撼した。敵が間近に迫っているどころか、その敵が堅く
守られた城門を破ったというのである。王都全域が敵に踏みにじら
れる危険にさらされているということである。
この瞬間、王の執務室にいた者たちは、まだ北の城門を取り戻せ
るという期待を持っていた。グライスも同じである。彼は即座に命
じた。
﹁セイディスよ。私の二百の兵を連れ、北の城門を取り返してこい﹂
670
﹁承知﹂
セイディスが駆け出す背を眺める間もなく、グライスは次の命令
を下した。
﹁ジルガスよ。そなたはレマラスを探して、義勇兵たちを率いて市
民を南の城門からの逃がせと伝えよ﹂
﹁お任せくだされ﹂
﹁レルナスよ。そなたはセイディスが街道から連れ帰った兵士を掌
握し、王宮に集めよ。兵が集まり次第、私がルージ軍主力と一戦す
る﹂
グライスは矢継ぎ早に命令を下しながら、アトラスの事を考えて
いた。ルージ軍の中にルージ王家の旗と片腕の敵将を目撃したとい
カイーキ
う情報は幾つもあった。片腕の敵将がアトラスだと断定する証拠は
得られていないが、王都に攻め込むという大胆な事をするなど、ネ
ルギエの戦いで無謀な敵陣の突破を計った彼以外にあり得ないと考
えていたのである。
﹁場所をテラスへ移そう﹂
グライスは重臣たちを王宮のテラスへと先導し、冷たい外気に身
をまかせた。王宮の中でも他より高位置にあり、四方に見晴らしが
利く。
﹁おお。西にも火の手が﹂
誰が先に声を上げたのか分からない。ただ、テラスにいた者たち
は、一斉に西の窓に大引く広げられたカーテンの外を眺めた。火の
粉が舞上げられるほど激しく燃え上がっている様子が見て取れた。
北の城門を突破した敵が攻撃の手を西へと向けたと言う事か。
新たな状況に、グライスたちは悲痛な声を上げた。
カイーキ
﹁しまった。兵舎にシフグナから帰還した者たちが居る﹂
王都に駐屯する兵士たちが寝起きする場所だが、今はシフグナか
ら生還した者たちが体を休めている。ようやく自力で歩ける程度の
体力の者たちで、ルージ軍に襲われれば殲滅されるかもしれない。
﹁彼らが自力で脱出する事を祈りましょう﹂
671
今のグライスには、彼らを救いに行く兵力は無く、老臣のそんな
言葉に頷くしかなかった。忠実な兵士たちが殺戮に会っているので
はないかという苛立ちと、何も出来ない無力感にグライスは拳で石
造りのテーブルを叩いた。
感情を露わにさせたグライスの姿に驚いて、侍女を伴って姿を見
せた女性は、ただ彼の名を呼ぶしかなかった。
﹁グライス様﹂
﹁フェミナか﹂
姿を見せた妻に、グライスはやや興奮する感情を消した。自分に
カイーキ
心配を掛けまいとしているのだろう。夫の心情を悟ったフェミナは
静かに尋ねた。
カイーキ
﹁敵が、ルージの軍が王都に攻め込んだとか﹂
﹁すまぬ。私がふがいないばかりに、王都に敵の侵入を許してしま
った﹂
﹁私たちはどうなるのです?﹂
﹁私たちとは?﹂
カイーキ
﹁民を避難させながらこの街を離れ、シュレーブで再起を図っては
?﹂
カイーキ
夫と共に王都を離れる。それが今のフェミナの望みだった。
︵王都が戦火に見舞われるのは、私が死ぬ時以外にあり得ぬ︶
カイーキ
先日、そう言いきったグライスの言葉の不吉さを、フェミナは恐
れていたのである。しかし、もちろん今の段階でグライスが王都を
捨てるわけには行かないだろう。グライスは妻と会話しながらも、
これから戦うアトラスの所在を考えていた。アトラスが居るとすれ
ば新たに火の手が上がって戦闘の気配が見える当たりに違いない。
兵士が集結次第、それを襲い、南門から脱出する民を保護する。そ
んな段取りをグライスは妻に短く言い聞かせた。
﹁私はまだすべきことがある﹂
﹁では、私も残ります。ここに﹂
﹁いや。そなたが気になっては戦えぬ。私を思う存分戦わせてくれ﹂
672
﹁私がお邪魔だと?﹂
﹁いや。そうではない﹂
グライスは少し考えて言葉を継いだ。敵は北から西へと回ったら
しいが、未だ東は火の手は上がっていない。そして東門から北のメ
ガムス山へと続く道がある。あそこならフェミナに脱出しろと説得
できるだろう。グライスは言葉を継いだ。
﹁そうだ、あの峠で待っていてくれ。私もここでなすべき事をはた
してから行く﹂
﹁本当に?﹂
﹁本当だ﹂
グライスは短く答え、妻に侍る侍女の一人に命じた。
﹁ニメーネ。頼んだぞ﹂
グライスがそう言った時、レルナスが命令を果たして戻ってきた。
﹁グライス様、兵がそろいました﹂
グライスは、それが決別の決心のように妻を振り返りもせず、短
く言った。
﹁では、行く﹂
セイディスが連れ帰った四百を超える兵である。疲れ切っている
カイーキ
だろうが今は一番頼りになる兵士たちだった。この兵士たちととも
にアトラスと一戦し王都から叩き出す。グライスの心はその責任に
のみ満たされていた。
ニメーネと呼ばれた侍女も、自分の任務に気づいたように夫を見
送る妻に声を掛けた。
﹁フェミナ様。私たちも﹂
︵グライス様。お待ちしています︶
フェミナは心の中で夫の約束に念を押した。夫は戦場へ、妻は二
人が初めて愛を交わした峠に行く。しかし、そこは凄惨な光景が一
望に見渡せる場所である。
673
決着。グライスとアトラス
混乱しきった街の中で、敵の主力が何処にいるのか判別しがたい。
ルージ軍は北門から侵入した。その後、攻撃の矛先を西へ向けたら
しい。西には兵の詰め所があり、敵軍にとって真っ先に狙いたい目
標だった。一方、街の東は一般の民が住む市街地で兵を進めるのは
容易だが占領すべき価値はない。ルージ軍はこの町を熟知するよう
に適切に兵を進めていた。
火災は北部から市街中心部へも燃え広がっていて、思いもかけな
い方向に火の手が上がる。いまのフローイ軍には街の火災を消し止
める能力は無く、民衆を街から脱出させながら、敵を求めて戦いを
挑むしかなかった。
その間も、最初に火の手が上がった北部から逃げてきた民が道に
溢れていた。僅かな家財道具を入れた袋を担ぐ老人や、両手に泣き
わめく幼子の手を引く母親、はぐれた家族を捜して声を上げる男な
ど、目に入る光景は混乱ばかりだった。
グライスらは脱出路を指さし叫びながら避難民をかき分けて進む
しかない。避難民たちはその声さえも聞き取っては居ないだろう。
配下の全軍を率いてルージ軍の主力と雌雄を決する。グライスは
そんな自分の思いが断ち切られている事に気づいた。彼はこちらの
ルージ軍部隊に数十名、新たに見つけた敵に数十名と当たらせなが
ら、西にいるはずのルージ軍主力に向かって突き進んだ。
カイーキ
敵兵を殺すという明確な目的で統一された現在のルージ軍と違っ
て、グライスの兵は民を守り、王都を守り、グライスを守るという
目的で混乱し、ルージ兵に挑んでも討ち取られる事が多い。グライ
スはアトラスに巡り会う前から次々と兵の数を減らしていった。グ
ライスは局地的な戦いに疲れ切り、最後の兵士まで失った。いまだ
にルージ軍の勢いは衰えぬように、火の手と混乱する人々の叫びが
674
広がり続けていた。
カイーキ
兵を失ったグライスには、もはやこの王都でなすべき事はなかっ
た。彼に残された選択肢はこの場を落ち延びて再起を図ることであ
る。
︵落ちるか︶
そう考えた瞬間、一人の男の影が目に入った。建物が吹き上げる
炎に照らされた男には明らかに左腕がなかった。
﹁アトラスか﹂
グライスの呟きに誤りはなかった。フローイ軍の一団に遭遇し、
討ち取った直後らしく兵士の遺体や戦いの状況を検分している指揮
官と護衛である。ふと向きを変えて炎に照らし出された指揮官の顔
パトロエ
ニクスス
は、ネルギエの戦いで剣を交わしたアトラスに間違いがなかった。
﹁おおっ。戦の女神よ。運命の神よ感謝いたします﹂
グライスが目を輝かせてそう呟いたのは、もし、アトラスを討ち
取れば形勢は一気に変わる。王を失ったルージ軍はフローイから撤
退していくだろうということだった。しかし、アトラスの側には十
名以上の身辺警護の兵士がついている。グライスがいかに剣に自信
を持っていたとしても、十人の兵士を相手にし、さらにアトラスを
討ち取るのは不可能だろう。
︵自分はこの地で果てても︶
グライスは姉と妻を信じていた。自分が死んでもこの国を託せる
だろう。そして若武者らしい純真さを持ち、自分と同じくアトラス
にもそれがあると信じていた。彼は燃えさかる周囲の炎に照らされ
ながらアトラスの名を呼び、自分の正体も明らかにした。
﹁アトラスよ。私はグライス。その片腕を奪った者を覚えているか
?﹂
意外な者の出現にアトラスも驚きを見せた。しかし、剣を構える
グライスに戦闘の意思を見て取ったアトラスも即座に剣を抜いた。
そして自ら戦うと言わんばかりに、警護の兵士を制して剣を鞘に収
めさせた。護衛の兵に頼らず自ら相手をするというアトラスの姿に、
675
グライスは左腕の盾を投げ捨てた。アトラスはその意味を察して苦
笑いを浮かべた。
﹁片腕の私を哀れんで、盾は要らぬと? しかし、悪いが、私はこ
の通り盾を捨てることは出来ぬ﹂
アトラスは左に残った二の腕を上げて見せて、盾は鎧の一部とし
て肩から吊されていて手放せないと言った。
﹁それで結構。ネルギエの地での決着を着けさせてもらおう﹂
グライスが走り寄り剣を振り下ろしたのが戦闘の始まりだった。
僅か半年前まで、この二人は王子だった。いまはアトラスは即位
式を終えて王位に就き、グライスは豪華な即位式こそ経ては居ない
が実質上のフローイ国王として扱われている。ただ、互いの純真さ
は初めて剣を交わした時のままだった。
﹁アトラスよ。もし、姉の愛を受け入れていたらと思うと残念でた
まらぬ﹂
﹁お前が、イドポワで我が父を討って以降、我らの運命は決したよ
うなもの﹂
しかし、やがて戦いの終わりを告げる音が響いた。グライスが振
り下ろした剣が、それを避けようと身を翻したアトラスの盾の縁に
当たり、鋭い音を響かせて折れた。アトラスはそれに気づく間もな
く反撃に転じて、グライスの左脇腹から右胸へ深々と貫いた。グラ
イスを蹴り倒すように彼の体から剣を引き抜いたアトラスは戦いが
終わりを告げたことを知った。グライスは致命傷を負い、剣も折れ
て戦うすべがなかった。
こんな場合、勝者は敗者の苦痛が長引かないよう、止めを刺すの
がアトランティスの武人の礼儀とされていた。アトラスも敬意を持
って対すべき武人にその礼儀を払おうとした。
﹁グライスよ。そなたの名は勇者として心に刻んでおこう﹂
アトラスが剣を振り下ろそうとした刹那、グライスは腕を上げて
アトラスを制した。
﹁待て﹂
676
グライスの気高さが、言葉を口ごもらせたが、戸惑いながらも続
く言葉を紡ぎ出した。
﹁アトラスよ、私の負けだ。残された命、長くはない。その残りの
命を与えてやりたい女性が居る﹂
喧噪が渦巻く戦場に、ここだけは僅かな静寂があり、アトラスは
短く答えた。
﹁よかろう。グライス、お前が望むなら﹂
グライスは激痛に耐え、血が滴る脇腹に手を当てながら立ち上が
った。誰の目から見てもグライスの命が長くないことは明白だった。
グライスは武人として最も気になることを尋ねた。
﹁アトラスよ。私を女々しいと笑うか?﹂
アトラスは戸惑いを見せ、話題を逸らすかのように、地に転がっ
ていた戦死した兵士の槍を拾ってグライスに与えた。
﹁これを杖に立ち去り、好きなところで果てるがよい﹂
アトラスは戦場の東を指さした。戦いの最後の場は街の南に推移
しており、アトラスは戦いがほぼ終わった地区を検分して回ってい
たのである。東なら既に兵士もほとんど居らず、無事に街の外へ出
られる公算が高い。
﹁我らが王よ。敵の王子でございますぞ﹂
敵の王子を見逃すのかと問う護衛に、アトラスは短く答えた。
﹁よい﹂
アトラスはグライスの問いに素直に答えられなかった自分につい
て考えていた。結婚を名目に出会わされた女性はいたが、未だに女
うと
性に対して恋愛の感情を持った経験は無かった。夫に愛されぬと嘆
く母の傍らで育って、男女の愛が疎ましいと考えていた。しかし、
腕を失って帰国したあと、王リダルを愛した二人の女性に触れ、父
が女性に注いだ感情も感じ取った。
︵あの感情は?︶
まだ、それが﹁愛﹂というものかどうかも理解できずにいた。た
った今、グライスが口にした感情は大切に守らねばならない。そん
677
な気がしたのである。
678
十七歳、最後の約束
カイーキ
フェミナは五人ほどの侍女を伴って、王都の東の門から北のメガ
ムス山への道を辿っていた。頂上で溶けて消えるように目的地のな
い山道に、大勢の侍女を伴う意味はない。大半の侍女は民と共に南
の城門から外へ逃がした。グライスは彼女たちに護衛をつける余裕
もなかった。先ほどまで彼女たちを包んでいた町や人が焼ける臭い
は、山を駆け下ってくる風に吹き払われていた。
カイーキ
山道を辿る女たちはこの道を熟知している。フェミナが月に何度
か、峠から王都を眺めるのに付き添っているのである。
いくつかの低い峰を辿りながら、細く、長く、時に険しい山頂へ
続くつづら折りの道である。両腕を広げると両側に生い茂る樹木に
手が届くという狭い道で、その道が南の方向に向いた時、地表が空
を照らすのがわかる。麓は見えなくても、風にそよぐ樹木の葉に、
麓で燃えさかる炎の灯りがちらついていた。ニメーネはそんな景色
に気を取られがちなフェミナに声を掛けた。
﹁足下にお気をつけ下さい﹂
﹁私は大丈夫。それより、グライス様があとから来るとのことです。
グライス様は道に迷われたりしないでしょうか﹂
ニメーネは話題を逸らすように斜面の上を眺めた。
﹁まもなく峠に着きましょう﹂
ニメーネは生粋のフローイ国の女性である。フェミナがシュレー
ブ国から嫁いできた時に共にこの国へ来た侍女団が、この国になじ
まず閉鎖的な雰囲気が抜けないため、早くこの国になじんでもらお
うと、リーミルがフェミナの侍女に抜擢した。若い頃からリーミル
やグライスに仕え、二人の性格は熟知しているし、人柄の良さとい
う点でも申し分なかった。フェミナも最近はこの女性を信頼し、フ
679
ローイ国の事はニメーネに尋ねるのが習慣だった。フェミナは願い
を語った。
﹁早く。早くこの戦が終わって、グライス様と過ごしたい﹂
﹁ほらっ、フェミナ様。空が広く見えて参りました。峠は間近です
わ﹂
平らで木々もまばらになったこの先の峠は麓が見渡せるばかりで
はなく、空が広い。ニメーネはフェミナが盛んに口にする夫の名を
さりげなく聞き流し、別の話題を向けていた。フェミナは峠にいれ
ば夫が自分を迎えに来てくれると信じているらしい。しかし、ニメ
ーネが知るグライスは自分に科せられた責任に忠実な若者で、たと
え愛する妻とはいえ戦いの最中に責任を放棄して会いに来る男では
ない。それを知れば、今のフェミナは落胆するだろう。
カイーキ
間もなく、彼女たちはその峠に着いた。彼女たちはなす事もなく
カイ
じっとその凄惨な光景を眺めていた。火災は広がってほぼ王都を包
ーキ
んでいた。その凄惨さは、音も臭いもなく、ただ静けさの中に、王
都の街の炎が揺らいでいた。
ニメーネが悲しみから目を背けるように、腕を差し上げて中点の
空を指さした。
﹁フェミナ様。お空をご覧下さい。チッチネの三つ星が美しく輝い
ております﹂
ギリシャ人たちが神話のオリオンに例え、現代にオリオン座とし
て伝わる冬の星座の中央の三つの星である。アトランティス人たち
にも、美しく冬の夜空を彩る星にまつわる伝承がある。ただ、フェ
ミナはシュレーブ国の伝承は知っていても、フローイ国に伝わるそ
パトロエ
れは知るまい。彼女は気晴らしに空を眺めて伝承を語った。
戦の女神が一人の勇者の死を悼んで勇者の魂を星に刻んだという。
夫を失った妻は空を見るたびにその悲しみを忘れる事が出来ず、冬
パトロエ
が来るたびに空を見上げて嘆き悲しんだ。幼い娘チッチネは自分の
パトロエ
命と引き替えに、母を父の元へ送り届けるよう、戦の女神に願い出
た。戦の女神は少女の願いを愛でて夜空に親子が住む場所を与え、
680
親子は仲良く手を繋いで暮らしているという。
ニメーネは夫の死とそれを嘆く妻という不吉な出来事が含まれる
物語を語り始めた事を後悔した。ただ、フェミナは夫婦の再会とい
う結末を喜んで、憧れを込めて空を眺めていた。
空の星は変わらず瞬き続けているようにみえたが、やがてチッチ
ナの三つ星も中天から姿を消していた。どれほど時間が経過したの
だろう。ニメーネは無意識にすりあわせた手で自分の指先の冷たさ
に気づいて、フェミナに声を掛けた
﹁フェミナ様。お寒くはございませぬか﹂
フェミナはそれに応えず、耳を澄ます素振りを見せた。ニメーネ
の耳にも、かすかに、大きくなる物音が聞こえた。音は時折途絶え
るが、少しづつ大きく響いて誰かの接近を知らせていた。
やがて姿を現した人物にフェミナは喜びの声を上げた。
﹁グライス様﹂
ニメーネにとって意外な事に姿を見せたのはまぎれもなくグライ
スだった。
﹁待て﹂
駆け寄ろうとした妻を、グライスは短い言葉で制し、大きく息を
整えてグライスから彼女に歩み寄った。
﹁そこが景色がよく見える。そこへ座れ。私も隣に。そなたが私に
見せたいと言った物、一緒に眺めよう﹂
グライスの歩みを助けようと、彼の足下を松明で照らしたニメー
ネが息をのんだ。左の脇腹の当たりが血に滲んで、左の股から膝や
踝へと流れ落ちていて、今も新たな血のしずくが足に筋を作った。
気づいて眺めれば松明の炎に照らされたグライスの顔は血の気を
失って青ざめて見える。直ぐに手当をとも考えた瞬間、彼女はグラ
イスの意図を悟った。彼が戦場を捨ててここへ姿を見せたのは、も
はや命が尽きるというということを自覚したからだろう。
ニメーネの戸惑いに気づいたグライスは、静かに、しかしキッパ
リと首を横に振って、フェミナに知らせるなと命じた。
681
おそらくグライスが彼女に与えた最後の指示になるだろう。彼女
はそれに従おうと決心した。しかし、グライスがここまでたどり着
くまでに彼を苦しめた苦痛や、いま、それを悟られぬように平静を
装う精神力を考えたニメーネは、思わず嗚咽を漏らしかけた。俯い
てしっかり閉じた瞼でそれ以上の涙を押さえた。彼女はフェミナに
グライスの血が見えないように松明の明かりを遠ざけた。グライス
は傷口を見せぬよう、痛みに乱れる呼吸を整えてフェミナの左に腰
掛けて麓を眺めた。
﹁あの美しかった月の都が﹂
フェミナがグライスに目の前の景色を説明するように語り、グラ
イスは短く答えた。
﹁また、作ればいいのだ﹂
少し首を傾げて言葉を継いだ。
﹁そなたが見せたいと言ったものは?﹂
﹁今はここからは見えません﹂
市街で炎上する炎の明るさに、彼女が見せたかったものはかき消
されていたのである。
﹁でも、明るくなれば﹂
東の空が少し白んでいる。あと一時間ばかりで一帯は明るくなり、
葉ずれの音ばかりでその存在を現していた木々もその姿を見せるだ
ろう。フェミナは闇の間かで振り返って確認するように言った。
﹁ねぇ、ニメーネ。貴女はどう思う?﹂
﹁いいえ、フェミナさま。侍女の意見などどうでも良い事。今夜は
二人で語り合いなさいませ﹂
グライスが思い出したように尋ねた。
シリャード
﹁そうだ。そなたの故郷の話をしてくれ﹂
カイーキ
﹁ご存じでしょう。私の故郷は聖都の近くにございます﹂
眼下に炎上している王都の光景があり、その炎が湖の湖面のさざ
波を照らして、小さな光の粒の飛沫に見えた。哀しく切ない光景か
ら話題を逸らすようにフェミナは明るい記憶のみ辿っては話し続け
682
た。ふと気づいてみれば、夫は常に忙しく、フェミナはこれほど長
く話したのは初めてだった。
﹁あらっ。私ばかり話して﹂
シリャード
﹁いや。続けてくれ﹂
﹁聖都の近くに森がございます。美しい泉があり、この国に嫁ぐ前
にはエリュティア様と遠乗りに出かけました﹂
﹁エリュティア様か﹂
﹁ご存じですか?﹂
﹁遠征から戻る途中にお会した事がある。気品に満ちた方だった﹂
薄れる意識と共に、最近の出来事がグライスには遠い過去の記憶
のように思われた。この時、フェミナが喜びの声を上げた。
﹁あら。もう湖が見えてきました﹂
この大地に夜明けを告げる光が戻ってきて、景色が色を取り戻し
て輝いていた。フェミナが湖の向こう岸を指さした。
﹁ほらっ。あれです﹂
グライスには、もはやフェミナが指さす先がかすんで見えなかっ
カイーキ
たが、彼女は指さすものを説明した。
﹁王都に親の無い子や、子供を失った年寄りがたくさん居りました。
カイーキ
湖の畔にあの館を建て、その者たちを収容いたしました。きっと、
あの者たちがあそこで王都をまた少し大きくしてくれるでしょう﹂
﹁金はどうした﹂
グライスが言うのは、そんな館を建設するには金が要るというこ
とである。国庫の金を使うには、王の承諾が要る。グライスはボル
ススがそんに許可を与えたとは聞いていないし、グライス自身もフ
カイーキ
ェミナが言うことには初耳である。フェミナは恥ずかしげに言った。
﹁私の嫁入り道具を少し金に換えました﹂
﹁お前は良い妻だ。そしてこの国の良い王妃を得た﹂
グライスの満足げな声音は擦れてはてたが嘘はなかった。王都は
焼け落ちてしまったが、このフェミナなら後を信じて任せる事が出
来るだろう。グライスはフェミナの耳元に口を近づけて言った。も
683
カイーキ
はや大きな声を出す力も残っていなかった。
﹁フェミナよ。約束してくれ。王都を再建すると﹂
﹁もちろん﹂
王妃としての堅苦しさが抜け、思わず一人の少女として口にした
約束だった。ただし、彼女の心の中ではグライスと共に力を尽くし
てという条件がつく。その念を押そうとグライスを眺めたフェミナ
は、夫が彼女に預けた上半身の重みに気づいた。仲良く寄り添って
いた夫の上半身から力が失せ、グライスは彼女の胸で目を閉じたま
ま頭を垂れて、何も言わなかった。
﹁そんな⋮⋮﹂
彼女が夫を抱きしめる腕に、体温を失った血がぬるりと付着した。
彼女は状況を悟り、言葉が途絶えてすすり泣きに代わった。
684
アトラスの哀しみ
夜明けからまもなく、フローイ軍の組織的な抵抗は途絶えた。町
の中に時折響く剣の音は、逃げ遅れたフローイ兵が見回りのルージ
兵に襲われる戦闘である。
カイーキ
アトラスは昨夜グライスが指揮を執っていた王宮のテラスにいた。
石造りの王宮はさすがに焼け残っていたが、王都の大半は灰燼に帰
し、未だくすぶるだけではなく、その一部は炎を上げている。
フローイ国に上陸後、兵を率いて常にその先頭を駆けてきた。し
かし、戦闘が一段落すると暇をもてあます瞬間がある。王として、
全軍の指揮官として、命令を与え終わると、その現場を自ら確認し
たくなるのだが、細々した現場にいちいち顔を出すと将兵は王の登
場に恐縮し作業がはかどらず、指揮官は自分が王に信頼して任せら
れていないのかと危惧することもあるだろう。信頼できる者たちに
は口出しせず任せておけばよい。アトラスはそう言うことを父のリ
ダルが教えてくれていたことに気づいた。
一人の男が姿を見せ、アトラスは尋ねた。
﹁サレノスか。首尾はいかがか﹂
カイーキ
﹁リーミル様、グライス殿の奥方フェミナ様は未だに見つかりませ
ぬ﹂
ルージ軍は王都の占領とともにフローイ国の王族を探索させてい
た。この国を支配する者に、降伏を受け入れさせねばならないので
ある。もし降伏を受け入れればフローイ国の戦は終わる。しかし、
それができないときは、ルージ軍はまだ占領していない北東部の砦
や町を一つづつ落としてゆかねばならない。今の疲れたルージ軍に
その余力はなく、季節も冬を迎えて大軍は動かし辛い。戦力を整え、
春を待って次の戦いを始めることになるだろう。
685
状況が不透明な中でサレノスは一つ断言した。
﹁しかし、ボルスス王が亡くなったのは事実のようです﹂
ルージ軍はグラフラやランロイを占領して、ボルスス王が亡くな
ったという情報は得ていたが、同盟を結んでいるシュレーブ国と戦
闘をしたというのは直ちには信じがたいことだった。更に王が亡く
なったにしては、フローイ国は王の葬儀をした気配も無かった。
ただ、詳細な情報が得られてみると、シフグナの地とフローイ国
の確執はルージ国まで知られていてシフグナとボルスス王の、王の
戦死に乗じたかのようなルージ軍の侵攻に混乱し葬儀をする暇もな
かったという事情にも納得が行く。
フローイ国王ボルススは亡くなっていたのである。アトラスも納
得せざるを得ない。
﹁我が父の仇、私の手で葬り去ってやりたかった﹂
﹁これも、ボルスス殿と我らが王の運命というもの﹂
﹁では、王位は?﹂
アトラスが尋ねたのは、降伏勧告をすべき相手である。
﹁フローイ国では男子が王位を継承する習わし。グライス様が王位
継承権を持っておられましたが、戦死されたとなれば、グライス様
に続く弟君もおられず、姉君のリーミル様か奥方のフェミナ様が継
承するのではないかと﹂
カイーキ
﹁その二人が、二人とも行方しれずということか﹂
﹁ただ、お二人とも、最近まで王都におられたことは間違いないよ
うです﹂
﹁招きに応じては下さるまい。こちらか探すしかあるまいよ﹂
サレノスはその言葉に応じず、眉をひそめて言った。
﹁しかし、我らが王よ、グライス殿と一対一の戦いを行ったとか。
いま少し慎重におなりください。もし我れら王の身の上に不幸があ
れば、王を信じてここまで来た全軍は瓦解いたします﹂
﹁許せ。確かに軽率であった﹂
アトラスは素直にわびた。ただ、後悔はしていない。剣によって
686
心を交わしたという印象があって、敵だったグライスの心が敬意と
ともにアトラスの心に刻まれていた。
アトラスは王宮の庭に視線を転じた。
王宮の中にフローイ国の人々がいる。長年の王宮暮らしで他に行
く当てもなく、ここを死に場所と決めて残った宮仕えの人々や昨夜
の火災から逃れてきた民である。サレノスはアトラスの許可を取る
という形で、彼らの命を保証し、王宮の食料庫の扉を開いて民に食
カイーキ
糧を配給することを布告した。
更に、民には王都への出入り自由を与えた。命の安全が保証され、
食糧の配給があれば、街を脱出した人々も戻ってくるだろう。食料
の不足分はすぐにランロイから運ばせればいい。それを聞いたアト
ラスは尋ねた。
﹁それで蔵の食料はどうなのだ﹂
その問いに少し考え込んだサレノスに、アトスは言葉を継いだ。
﹁よい。正直に言え﹂
カイーキ
﹁あと二週間もすれば尽きていたかと﹂
﹁私はこの王都を焼き払わずとも、ロユラスの進言通り敵の飢えを
待つべきだったのか﹂
﹁いえ。そうばかりとは言えませぬ。人々は飢えずに生きておりま
す﹂
若いアトラスやロユラスには、その光景を伝えるのが難しい。サ
レノスは若い頃の遠征で険しい岩山に立てこもって防戦する敵を囲
んだことがある。為政者はそう簡単に戦いをあきらめることはなく、
アトランティス軍がその岩山を落としたのは、四ヶ月もたってから
である。しかも、そこで眺めた光景は餓死者と骨と皮ばかりにやせ
カイーキ
衰えた兵士や民である。
もし王都を兵糧攻めにしていれば、あの凄惨な光景が繰り返され
ていた可能性が高い。サレノスは表現を変えてアトラスを諭した。
﹁どちらに転んでも戦とは残酷なもの。戦う決意を固めたのなら、
目の前の光景は受け入れねばなりませぬ﹂
687
数日を経ても、探索する相手は見つからず、戦の後片付けに追わ
れていた。サレノスは王宮の宝物庫は封鎖し入り口には警護の兵を
カイ
つけていた。王宮に残った者たちに命じて武器や武具はすべて供出
ーキ
カイーキ
させて武器庫に納め、やはり厳重に封鎖して護衛の兵をつけた。王
都に居た重臣たちは戦って死ぬか、王都を脱出して残っていない。
残った者たちと王宮に避難した者たちの身の安全は保証し行動の自
由は許してある。
その者たちに奇妙な行動が見かけられることがある。彼らは王宮
を占拠したルージ兵を無視するように乱れた王宮内を清掃しはじめ
た。一人の女官が水差しの壺を抱えて、アトラスが居た王の居室に
姿を見せた。居室の主の飲料水を新しいものに交換に来たのである。
いつもの生活を規則正しく繰り返すことによって元の平穏が取り戻
せると信じようとしているようだった。
アトラスたちは彼らの行為を止めはしなかったが、サレノスはふ
と気づいて、女官に水差しの壺の水を毒味させ、部屋の入り口にい
た警護の兵士にも、この部屋に運び込む水や食料を持ち込む者には
毒味をさせろと命じた。万が一、アトラスが飲み食いするものに毒
でも混入されてはと危惧したのである。女官は冷ややかな笑顔でそ
んなサレノスたちを眺めていた。
カイーキ
戦いから更に三週間が経過した。脱出した民が王都に戻ってくる
ばかりではなく、王宮勤めをしていた人々もルージ軍占領下の噂を
聞いて王宮に姿を見せ始めた。脱出したものの、食料はなく、寒い
屋外での野宿も体に堪える。戻ってくるしかなかったのである。そ
の間、ルージ軍はランロイやグラフラからの流民はもとの居住地に
戻した。大きな人口を抱えた王都だったが、その大半の区画が焼け、
今残っているのは中央部の石造りの王宮と神殿、東側の居住区の一
部である。更に王都郊外の湖の畔に村と言えないまでもいくつかの
真新しい建物が幾つかあるのが見つかり、一部の民を移住させた。
688
カイ
いうまでもなくフェミナが私費を費やして建築させたものである。
ーキ
ランロイに備蓄されている食糧などの物資の移動は再開され、王
カイーキ
都の民の生活もわずかに平穏を取り戻しかけていた。
王都は奇妙な均衡状態にあった。必要以上に干渉しあわないとい
う関係で、王宮仕えの者やフローイ国の民は互いにそこにいること
を無視するかのように共存している。ただし、フローイ国の人々の
心に隠されたルージ軍への憎悪は薄れることはなく、アトラスが街
の視察に出るときにサレノスがつける護衛も必要不可欠だった。
ルージ軍の中でも片腕のアトラスはとりわけ目立つ。立つことも
おぼつかない病身の兵士や一般の民、さらには女子供まで数千人を
虐殺した男として一身に憎しみを集めていたのである。アトラスは
それを自覚していた。
街の中を歩けば、憎しみの目がアトラスに向き、アトラスの視線
をかわしつつ、通り過ぎたアトラスの背後で憎々しげに地面に唾を
吐いて侮蔑の意を表す人々など数知れなかった。アトラスはその人
カイーキ
々に言い訳けじみたことは言わなかった。
カイーキ
王都占領後に郊外に葬ったフローイ国の人々の数は確かに数千に
達していた。その主な者は王都の守備兵だが、兵舎では一般の兵と
区別がつかず、病床の兵がすべて殺されていたし、民間人の姿であ
りながら剣を持った義勇兵や、義勇兵と見間違われて殺されて民も
いる。火災から逃げ遅れて亡くなった老人や女子供も多数いるに違
いなかった。
パトローサ
カイーキ
悲劇という言葉で表現するなら、アトランティスの中でもその壮
麗さではシュレーブ国の都にも並ぶフローイ国の王都が焼失したこ
とと、数千の人々が死んだことが挙げられる。ただ、もう一つ、悲
劇を付け加えても良い。この戦いは繊細な心を隠し持った一人の青
年の心に、深い悲しみと自虐を残した。
︵自分は人々の憎しみを背負って生き続けるしかあるまい︶
アトラスは半ばあきらめのようにそう考えていた。
689
フェミナの憎しみ
カイーキ
峠を駆け抜ける風が強くなり、激しい葉擦れの音がニメーネたち
を包んだ。風は斜面を駆け下り、王都の炎を冷たくあおり立ててい
た。
︵フェミナ様をいつまでもここに留まらせるわけにはゆかない︶
カイーキ
ニメーネはフェミナの凍えた指先を握ってそう思った。
峠から王都炎上を眺めたフェミナたちだが、ここには食料も無く
保護する者も居ない。彼女たちにグライスの遺体を背負って移動す
る能力はなく、枯れ枝をスコップ代わりに使って遺体をようやく隠
せるほどの穴を掘った。ニメーネは懐に忍ばせていた鋭いナイフで
遺体の髪を切り、遺髪を大切に布に包んで懐にしまった。フェミナ
はすすり泣きながらグライスに寄り添ったままだった。王妃として
の成長が見えたフェミナも、こうして見ると、ただの十七歳の少女
で幼さばかりが目立つ。ニメーネが語りかけた。
﹁フェミナ様。いつまでもここには居られません﹂
ひざまづ
﹁でも、グライス様をここに置いてはいけません﹂
説得にもかかわらず、フェミナは遺体の傍らに跪いて立ち上がろ
うとしなかった。別の侍女かニメーネの意図を代弁するように言っ
た。
﹁一時、ここでお眠りいただきましょう。時が来れば、人を伴って
グライス様のお体を麓に運んで荼毘に付す機会もありましょう﹂
フェミナはその言葉も拒絶した。
﹁ニメーネ。貴女たちは山を下りなさい。私はここに残ります﹂
グライスの死の瞬間、フェミナを眺めたニメーネが危惧したこと
がある。アトランティスの神話の中に、愛する男性の死を目撃する
女の話が二つあり、二つの話のヒロインはどちらも死んだ男の後を
追って自殺する。夫の後を追って湖に身を投げるルーミナ、離れた
690
戦場で亡くなった婚約者を追って短剣で喉を突くレーネ。どちらも、
アトランティスの人々が好む愛にまつわる悲劇のヒロインである。
ニメーネはフェミナがその有名なヒロインと同じ運命をたどろうと
するのではないかと思ったのである。ここに残れば、思い詰めた彼
カイーキ
女はルーミナとレーネの運命を自分の運命と重ねようとするだろう。
ニメーネは断言するように語りかけた。
﹁フェミナ様。グライス様との最後の約束をお忘れですか。王都を
再建すると約束されたはずです﹂
﹁私、一人で?﹂
﹁グライス様とのお約束、果たしましょう。約束を果たすことがグ
ライス様への愛の証﹂
その言葉に、フェミナは泣きはらした目を大きく開けてニメーネ
カイーキ
の表情をじっと眺めていた。やがて、彼女は小さくこくりと頷いて
ジメス
ニメーネに同意した。ただ、次の瞬間、麓に燃えさかる王都を眺め
て叫んだ。
﹁生魚食らい︵セキキ・ルシル︶ども。審判の神に誓って、呪われ
るがいい﹂
悲しみを怒りや憎しみに変質させたのだろう。ニメーネはこの清
純な少女の口からそんな汚い蔑称が飛び出したのに驚いた。育ちが
良く、気だても良い。生まれてこのかた誰かを罵ると言うことがあ
ったろうかと思わせる少女である。この戦が始まってから、王宮の
中でルージ国の人々を生魚食らい︵セキキ・ルシル︶という蔑称で
呼ぶことが多い。彼女は王宮の人々の会話からそんな蔑称があるこ
とに気づいていたらしい。ニメーネは憎しみも彼女が生きる糧にな
るだろうとも思った。
彼女の気持ちを思いやれば、見ず知らずの国、見ず知らずの王子
の元へ嫁がされてきた不安は、十六歳の少女にとってどれほど心を
惑わせたろう。その不安の中で、ようやく信頼を築き上げて、夫を
愛する喜びも覚えた。その瞬間、ルージ軍はそんな彼女から最愛の
人を奪い去ったのである。
691
カイーキ
フェミナは未だ炎上を続けている麓の王都の中にいるルージ軍を
ニメゲル
睨んで、もう一度叫んだ。
﹁復讐の神に誓って。生魚食らい︵セキキ・ルシル︶どもを一人残
らず殺してやる﹂
ストカル
ニメーネはすすり泣くフェミナを背後から抱きしめた。今は憎し
みを生きる糧にしても、復讐鬼の運命を背負わせてはなるまい。
侍女たちがグライスの遺体を穴に運び入れて、土をかけた。ニメ
ーネはフェミナがグライスの穏やかな死に顔を確認したのを見届け
て侍女に頷いて見せた。侍女たちが最後にかけた土でグライスの遺
体はすべて地面の下に埋もれた。
遺体の上の土に落ち葉を厚くかぶせて埋葬を隠した。万が一、ル
ージ軍の探索があっても遺体が見つかり掘り起こされることがない
ようにとの配慮である。
﹁フェミナ様、この石を墓標代わりに﹂
ニメーネはわずかな弔いの印として、拳大の白い石を見つけてフ
ェミナに手渡した。彼女はその石を静かに地面に置き、少し考えて、
髪飾りを抜いた。頭の上でまとめられていた金髪が肩に垂れて朝日
に照らされて光の涙が流れ落ちるように見えた。彼女は自分の身代
わりにと言うように、墓標の石の下にその髪飾りを入れた。それが
彼女にとって決別の儀式だったかのように、立ち上がって先導する
ために手を伸ばしていたニメーネの手を握った。
カイーキ
ニメーネの指示で峠を下った彼女たちは、麓の岸で小舟を手に入
れて湖を渡った。目的地はフェミナが作らせた王都港外の村である。
彼女たちを匿ってくれる者たちもいるはずだった。
︵大丈夫︶
ニメーネがそう思ったのは、フェミナの目が怒りと復讐に満ちて
いたからである。これなら、自殺を考えることはあるまい。そして
復讐を考えたとしても、今のか弱いフェミナはその力も手段もない。
ただし、グライスが、都の再建を託したのも、彼女に生き続けさせ
692
るための目的を与えたのだろう。グライスの願いは妻の自殺でも復
讐でもない。
693
王宮への帰還
フェミナが私費を投じて湖の畔の森を切り開き、建築させた五棟
ナクミラ・スタジール
の建物からなる村とも言えぬ小さな集落を、そこにすむ人たちはフ
ェミナに感謝と敬意を込めて、小さな集落を王妃の都と呼んでいた。
人々はフェミナ一行を温かく迎えるとともに、手厚く匿った。
﹁フェミナ様方、ルージの兵士どもでございます﹂
夜半、村のリーダーがフェミナたちに提供した部屋に駆け込んで
異変を告げた。リーダーは裏口から森へと彼女たちを導き、ルージ
兵の目から隠した。身を潜めて、ルージ軍兵士の声に耳を澄ませて
いると、リーミルとフェミナの名を叫んでいた。
ニメーネは木陰で声を潜めて言った。
﹁フェミナ様。リーミル様もまだ捕らわれていない様子。きっとト
カイーキ
カイ
リルナの砦にたどり着かれ、今頃はトリルの街にでもおられるので
しょう﹂
﹁では、王都にルージ軍が攻め込んだこと、お知らせせねば﹂
ーキ
﹁いえリーミル様も聡いお方です。グラフラの様子など探らせて王
カイーキ
都が敵の手に落ちたことはお知りになるでしょう﹂
﹁では、リーミル様は、北にいる軍をまとめて王都を取り戻しにい
らっしゃるのですね。きっと、グライス様の仇を討ってくださいま
すね?﹂
フェミナの言葉に、ニメーネは彼女を失望させないように言葉を
選んで言った。
﹁でも、今すぐにというわけでは﹂
﹁お義姉様が早く帰ってくださると良いのに﹂
﹁私たちも、その時を待ちましょう﹂
694
カイーキ
この集落で数週間の時が経過した。彼女たちにとって意外なこと
に、ルージ軍は王都ばかりではなく王宮の出入りの自由も許してい
るという。
ニメーネは村人に王宮の様子を探らせた。略奪や暴行が行われる
カイーキ
のが戦争の常だがルージ軍は自らを戒めるように治安維持に努めて
いるらしい。噂通り、王都は表面上の落ち着きは取り戻していた。
︵何の目的が?⋮⋮︶
知らせを聞いたニメーネらはそう思った。一方的に攻め込んで、
富の収奪もせず、民の命も奪わぬなど、ルージ軍の戦の目的がつか
めないというのである。
アトラスの生い立ちを知らねば、彼の行為を理解するのは難しい。
アトラスは幼い頃から夫に愛されないと嘆く母の傍らにいて、女が
嘆く行為に嫌悪感を持っていた。そのために王宮内で女官たちに乱
暴な扱いをすることを固く禁じていたのである。また、サレノスら
はリーミルやフェミナをとらえてルージ軍に協力させるためには街
の治安維持は必要不可欠だとも考えていた。
ナクミラ・スタジール
ニメーネは彼女たちが過ごすこの王妃の都が意外に危険だと考え
始めていた。この数週間の間にルージ軍の探索が繰り返し行われ、
カイーキ
その都度、リーミルとフェミナを見つけたら届け出よときつく命令
されていた。
ルージ軍は未だ見つからないリーミルとフェミナが、王都を脱出
ナクミラ・スタジール
したものの遠くへは逃げられず近くに潜んでいると見ていた。ルー
ジ軍の目で見れば、この王妃の都は二人が隠れ潜むのに絶好の場所
だった。いずれ二人はここに姿を表す可能性が高いと見ており、朝
カイーキ
夕、時間を変えて、人々の油断を突いて探索していたのである。
ニメーネが不安を抱いたことがもう一つある。王都で家を失った
者の一部がルージ軍によってこの集落に移された。家は手狭になっ
たばかりではなく、見ず知らずの流民が増えた。今までの村人たち
は信頼しても良い。ただ、新たに入ってきた者たちの中には、フェ
695
ナクミラ・スタジール
ミナたちの素性に気付ばルージ軍に密告する者も出てくるかもしれ
ない。
王妃の都とは名ばかりで、三百人の住人であふれかえる小さな集
落である。
︵もう、ここには危険だ︶
ニメーネはそう判断した。彼女は危険だと不安を与えないように、
フェミナを外して、侍女たちと村のリーダーだけを集めた。
﹁どこか、フェミナ様を安全にお守りできる場所はないかしら?﹂
ニメーネの言葉に、侍女の一人が提案した。
﹁フェミナ様をシュレーブ国のご実家に戻っていただいて、戦乱が
終わってから戻っていただくというのは?﹂
﹁それは、私も話したのだけれど、﹃自分はもうフローイ国の人間
だ﹄と。お優しくてもあの一途な御気性。私たちにフェミナ様の意
志を変えることはできぬでしょう﹂
ニメーネの言葉に別の侍女が言葉を付け加えた。
﹁何より、シュレーブ国のパロドトスがボルスス王を討ったことが、
気がかりなご様子です﹂
かくま
﹁もはや、シュレーブ国を信じておられぬと?﹂
﹁では、どこにお匿いすれば⋮⋮﹂
うつむいて考え込む侍女たちに集落のリーダーのベルナスが申し
かくま
訳なさそうに頭を下げた。
﹁ここで、十分にお匿いできなくて、申し訳ございません﹂
カイーキ
﹁気にしないで、ベルナス。どこかに良い場所を知らないかしら﹂
﹁この辺りは王都の東の郊外。ここより東には、森が広がるばかり
で身を潜めて暮らす場所はございません。﹂
﹁そう⋮⋮﹂
頷くニメーネにベルナスは言った。
あるじ
ニクスス
﹁王宮には数百の侍従や女官が過ごしているというのに、王宮の本
当の主がこなと所で家探しとは、運命の神も、何という悲しげな運
命をお与えになったことか﹂
696
ベルナスの嘆きに、ニメーネは閃く考えがあった。
﹁王宮? そうね、私たちは王宮に戻るのが良いわ﹂
意外な言葉に首を傾げる侍女たちにニメーネは説いた。フェミナ
の居室は王宮の一番奥まった位置にあり、守るのに容易だと言うこ
と、。奥まった位置に見えるが、隠し部屋があって緊急時に身を隠
すことができるほか、王宮の地下を通って外に出る地下通路もある。
グライスの父が妻の安全を守るためにそう設計させた。昔から謀略
や裏切りに長けてきたフローイ国の王族が自分の身を守る知恵であ
る。
王宮はルージ軍の占領下にあって、女官たちの居住区は一般の兵
士の立ち入りは禁止されて安全が守られているという。そこへ行け
ばルージ軍の探索の網にもかかるどころか、ルージ軍が彼女たちの
身の安全を保証してくれるようなものだ。自分たちが探している相
手が、まさかそんなところに潜んでいるなど考えもすまい。しばら
カイーキ
く王宮に身を隠し、機を見てまだルージ軍の手の及ばない北へと逃
げればいい。
﹁でも、王宮には、王都へ入らねばなりません。危険はないですか
?﹂
その侍女の疑問にベルナスが答えた。
﹁ちょうど良い。私の甥が東の城門の門番をしております﹂
﹁門番、そのような者が信頼できるのですか?﹂
その侍女の言葉ももっともだった。ルージ軍はリーミルやフェミ
ナなど王族を探索しているとはいえ、その顔を知らない。しかし、
カイーキ
ずるがしこいルージ軍は、王都の民の中から王族の顔を知る者を多
額の金で雇って、王都に出入りする者たちの顔を確認させていたの
である。ベルナスは笑いながら言った。
﹁いえ、ルージ軍の奴らめを惑わし、金を巻き上げるためにやって
おるようなもの。あらかじめ言い含めておけば、喜んで知らんふり
をするでしょう﹂
﹁では、お頼みします﹂
697
ニメーネはそう言って頭を下げた。メヌエラという名の侍女が尋
カイーキ
ねた。
﹁王都に入った後はどういたしましょう﹂
﹁そうね。フェミナ様には万が一のことを考えて、地下通路から居
室に入っていただきましょう。メヌエラ、貴女は地下通路を知って
いる。フェミナ様をご案内して﹂
ニメーネは他の侍女に微笑みかけながら、きっぱりと言った。
﹁他の者は私と一緒に、王宮の門を正々堂々、くぐってゆきましょ
う﹂
ルージ軍の侵攻以来、彼らに殴られっぱなしになっているような
不満と怒りが心の底に渦巻いていた。物怖じせず胸を張って敵の間
を抜けてゆく。フローイ国の女の矜持のようなものだった。
カイーキ
ニメーネはフェミナに王都に戻るという提案をしなければならな
い。敵のまっただ中に戻ると言うことに、若いフェミナがおびえて
拒否するのではと危惧したが、フェミナの言葉は違った。
﹁王宮? あのアトラスも居るのですね﹂
彼女はこの集落にいる間に、ルージ軍をアトラスが率いているこ
とと、そのアトラスが夫グライスを殺害した噂を聞き知っていた。
﹁ええ、居るでしょう﹂
﹁それならば、行きます﹂
フェミナの目に怒りが浮かび、復讐の感情が彼女の体からあふれ
そうだった。
698
アトラス暗殺1︵前書き︶
文字数が多くなったので分割投稿します。アトラス暗殺の後半部は
本日午後から公開です。暗殺は成功するでしょうか
699
アトラス暗殺1
﹁王宮の門を正々堂々、くぐってゆきましょう﹂
そう決意し実行したニメーネたちだが、王宮侵入はあっけないほ
ど容易に進んだ。ニメーネが所持していた短刀こそ取り上げられた
が、身分を聞かれた他には詮索されることもなかった。
﹁お前たち。リーミル様とフェミナ様の所在は知らぬか。知ってい
れば申し出よ。我らが王が褒美を遣わしてくださる﹂
門にいたルージ軍の衛兵は、王宮に入ろうとするニメーネに大ま
じめにそう命じて、ニメーネたちを内心驚かせた。申し出よと命じ
ても、王家に対する忠誠心の厚い王宮の人々が敵に密告することは
あり得まい。様々な謀略や駆け引きの中で生き残ってきたフローイ
国の人々と、島国に閉じこもって生活をしてきたルージ国の人々の
気質の差といえる。
しかし、門を通って王宮に入るには、自分たちがリーミルやフェ
ミナと関わりのない身分だと偽らねばならない。
﹁私どもは、台所働きの下女でございます。リーミル様やフェミナ
様の所在など、知るよしもございませぬ﹂
ニメーネは王家の者に直接仕える誇りを捨てて下卑た笑みを浮か
べざるを得ない。ルージ国の人々の愚直さに誇りが打ち砕かれるよ
うで、高貴なニメーネを内心酷く苛立たせた。
一方、地下通路からルージ兵の目を避けて王妃の間に戻ったフェ
ミナは、眉を顰めて居室の中を見回していた。侵入したルージ兵は
王族の姿を求めて王宮中を荒らし回ったらしい。王宮に留まった者
たちの手で片付けられ補修もされていたが、家具の傷や暖炉の破損
などルージ兵の狼藉の跡は消えていなかった。
﹁アトラスめ﹂
フェミナは小さくその名を呟いていたが、その仇がどんな人物で、
700
王宮のどこにいるのかはまだ知るよしもない。
彼女たちが王宮に戻って五日も経つと、王宮の雰囲気や情報をほ
ぼ正確につかんでいた。フェミナが王妃の間に戻ったことを知る者
は、王宮勤めの者たちの一部で、しかも堅く口止めしてある。フェ
ミナの居室は王宮のもっとも奥まったところで長い廊下を抜けてく
る。その両脇に侍女たちが寝起きする部屋が並んでいた。廊下の入
り口にはルージ軍の衛兵が立っていたが廊下へ足を踏み入れること
はつつなかった。ニメーネが考えた通り、フェミナの居室は安全地
帯だった。ニメーネは、ここのところ落ち着きのないフェミナを安
心させるために言った。
﹁ルージ軍は会議室や広間を占拠し、我が物顔に振る舞っておりま
すが、この部屋は安全。安心しておくつろぎいただきませ﹂
﹁アトラスはどこにいるのです?﹂
﹁今は亡きボルスス王の執務室にベッドを運び、居室として過ごし
ているとか﹂
﹁アトラスめ。なんと厚かましいっ﹂
フェミナは怒りを見せたが、ルージ軍には司令部として使う建物
が必要である。アトラスらルージ軍はアトラスの居室とした王の執
務室の他、幾つかの部屋を占拠してフローイ国の人々の入室を禁止
していたが、台所などの空間は勝手に使えと言わんばかりに、王宮
の人々に使用を任せていた。余計なトラブルを避けようとする棲み
分けは、王宮でも行われていたのである。その中、フェミナの憎し
みが止まらなかった。生きるために時に憎しみも必要かもしれない
が、憎しみと怒りだけにとりつかれれば行動を誤る。ニメーネは穏
やかに説いた。
﹁いえ、ボルスス王の執務室なら、入室が禁止されていても私たち
に同行を探ることは容易です。アトラスには執務室にいてもらいま
しょう﹂
﹁では、奴の食事に毒でも盛ってやればいいんだわ﹂
701
ジメス
﹁奴らは食事を外から運んで参ります。この王宮で毒殺は難しかろ
カイーキ
うと存じます。それより、リーミル様のことを運命の神にご祈念な
さいませ﹂
王宮のルージ軍は百名ばかり。王都に攻め込んだルージ兵の大半
は、王宮の西の焼け落ちた兵舎跡に仮の天幕を張って夜を過ごして
いた。食事はそこでまとめて作ったものを王宮にも運ぶ。用心深い
ニクスス
パト
ルージ軍は王宮の台所で怪しげな薬でも混入されぬよう用心してい
るという噂だった。
﹁そうね。お義姉さまのことも心配﹂
ロエ
﹁神殿に出向くことはかないませぬが、神殿から運命の神と戦の女
神の小さな神像を借りて参りましょう。何かの捧げものをし、リー
ミル様のご健勝と、グライス様のご冥福を祈りましょう﹂
そんな言葉を交わしているフェミナとニメーネの前に、細長い水
差しの壺を抱えた侍女が現れた。
﹁ニメーネ様。お言いつけの物、購って参りました﹂
﹁いいわ。見せてちょうだい﹂
壺を受け取ったニメーネに、フェミナが興味を示して水差しの中
を眺めると、ワインの芳香が漂った。ニメーネは種明かしをするよ
うに、別の水差しにワインを移し、中の物を取り出した。驚いたこ
とに、1スタン︵18センチ︶を超える長さの短刀が二本出てきた。
﹁王宮の地下通路を使えば良いのですが、万が一、通路の存在が露
見すると大変なので、こうやって門を通って手に入れているのです﹂
ニメーネはそう説明し、短刀を濡らしたワインを拭ってテーブル
に置いた。
﹁あと何本か必要ね﹂
﹁数日あれば、そろえてごらんにいれます﹂
﹁たのむわ﹂
ルージ軍の者どもは純朴で愚直。この頃、王宮の女たちはフロー
イ兵をなめきっていたのである。しかし、その大胆で気が強いとい
うフローイ女の気質は、王宮の女たちでさえ取っ組み合いの喧嘩沙
702
汰を導くことがある。この時にも、侍女部屋の一つから激しく怒鳴
りあう声が響いてきたかと思うと、部屋の中の調度品が破壊される
音が響いてきた。
﹁ニメーネ様、部屋でジェルナとテスラネが喧嘩を﹂
居室に飛び込んできた若い侍女がニメーネに助けを求め、ニメー
ネは忌々しげにため息をついた。
﹁まったく、あの二人は今がどんな時か分かっているの?﹂
ニメーネが言うのは、ごたごたを起こして廊下の入り口にいるル
ージ軍の衛兵に侵入する口実を与えてはならないと言うことである。
ニメーネたちは足早に喧嘩が起きた部屋へ向かった。
王妃の間。一人取り残されたフェミナの目の前に、ワイン壺と短
刀が残されていた。
﹁アトラスは王の執務室に﹂
フェミナは決意を込めて小さく呟いた。
侍女たちの喧嘩は、理由を聞けば些細なことで、ジェルナとテス
ラネが日常の不満をぶつけ合ったということである。ニメーネは二
人の喧嘩を分け、二人の言い分を丁寧に聞いてやり、二人にルージ
兵を引き込む行為の愚かしさを厳しく説いた。ようやく、王妃の間
に戻ったニメーネは驚いて部屋の中を眺め回し、ベッドの下まで確
認した。フェミナの姿がない。そして、テーブルに置いた短刀の一
振りも消えていた。
﹁フェミナ様、フェミナ様はどこへ?﹂
703
アトラス暗殺2
同じ頃、アトラスは王宮の広間に一人いた。王宮の広間あった装飾
品や壁掛けの大半は取り払わせていたが、唯一、フローイ国の地図
を染め抜いた壁掛けはそのままにしてある。アトラスはその地図を
眺めていたのである。
サレノスをはじめとする主だった者たちとの軍議を終えた。王家
の者を探索して捕らえ、降伏を受け入れさせる。それがかなわぬ場
合は、春を待って兵を出し領地を攻め取ってゆく。その想定は変わ
ることはなかった。
ランロイ
ただ、地図を眺めれば、フローイ国は広い。アトラスたちルージ
軍は、北のセイタルの港町からこの王都に至る街道と、その東側を
占領下に納めた。ただ、まだ手つかずの西側の地は遙かに広い。長
い冬の後に、長く苦しい戦が待っているように思えた。
アトラスはふと人の気配に気づいて広間の入り口を振り返った。
水差しを抱えた女が居室の入り口に長く突っ立っている。左腕のな
い男を眺めて怯えたのか。そのためアトラスは尋ねてやらねばなら
なかった。
﹁何の用だ?﹂
﹁アトラス様ですね。わっ、ワインをお持ちしました﹂
女はアトラスの名を確認し おずおずと進み出てた。フェミナで
ある。もちろん、両者は初対面である。ワインとはいえフローイ国
の者の勧めるものに口をつけるゆくまい。ただ、女の一途な表情を
眺めていると、部屋を出て行けと怒鳴る気にはなれない。おそらく、
広間の入り口の衛兵も、まだ幼く見える女の一途な表情に油断して、
王にワインを持参したという話を信じて広間に通したのだろう。
アトラスは黙ってテーブルの上のカップを指さした。ワインを注
ぎたければ勝手に注げばいい。飲むか捨てるかはアトラスの自由だ。
704
アトラスは女の意志に任せ、再び地図を眺めた。
ふと気づくと、まだ女の気配が広間に残っていた。振り向くと女
はテーブルの位置を過ぎ、直接ワインを飲ませようとするかのよう
に、ワイン壺を抱えたまま、ゆっくりとアトラスに接近していた。
フェミナの立場で見れば、アトラスが王の執務室に居るものと一
途に決め込んでいたが、そこには彼の姿は無く、暗殺には失敗した。
乱れる心を再び復讐心でかき立てて広間にやってきた。若い彼女は
不安と怒りに乱れた心を隠し切れていない。
︵この娘、何のつもりだ?︶
フェミナのあからさまに不審な様子にアトラスは興味を抱いた。
振り返ってじっと眺めると動きを止めるために見ていないふりをす
る必要がある。フェミナが静かに足を進め、アトラスが女の不意を
突くように視線を注ぐと止まる。繰り返される光景は滑稽だが、女
にはこの行動しかないと思い詰めた様子がある。そんなことを繰り
返すうちに、彼女はアトラスの背後に迫ってきた。
害意があることは眺めてみれば分かるのだが、誰かを襲うには、
武芸に熟達した様子はなく、アトラスがその気になればすぐに取り
押さえることができるだろう。襲ってくるなら後一呼吸の間。アト
ラスがそう読んで振り返った通り、フェミナは突如行動を変えた。
左腕に抱えていたワイン壺に右手を入れて抜き身の短刀を取り出
したのである。ワイン壺が足下に落ちてワインを飛び散らせて転が
り、短刀の刃が光を受けて輝いた。
﹁グライス様の仇!﹂
フェミナが突き出す短刀を予測していたアトラスは身を翻してそ
れを避け、易々と彼女の手首を捻って短刀を離させた。床に落ちた
短刀を広間の隅へと蹴り飛ばし、暴れるフェミナを背後から右腕一
本で抱きしめるように押さえ込んだ。
﹁離せ、アトラス。私の手で夫グライスの仇を討ってやる﹂
﹁夫グライス?﹂
アトラスはその言葉で腕の中で泣きわめくフェミナの正体を察し
705
た。部屋の中の激しい物音と女の罵声で異変に気づいた衛兵と隣室
のサレノスが駆けつけた。
﹁我らが王よ。いかがされた﹂
サレノスの問いにアトラスは短く答えた。
﹁グライス殿の奥方だそうだ﹂
﹁フェミナ様?﹂
サレノスは絶句した。必死に探し回っても見つからなかった女性
の一人が目の前にいる。体を押さえ込むアトラスの腕の強さと駆け
つけた男たちの中で、フェミナは泣きわめきながら暗殺の失敗を受
け入れて叫んだ。
﹁生魚食らい︵セキキ・ルシル︶どもめ、あとは私を八つ裂きにで
も火あぶりにでもするがいい。グライス様のもとへいけるならそれ
も本望です﹂
八つ裂きか、火あぶりか、確かにアトランティスで王殺しはそう
いう処刑がされることがある。彼女の想像力の豊かさにアトラスと
サレノスは黙って肩をすくめて顔を見合わせた。ただし、笑うこと
はできない。彼女はそこまで思い詰めて暗殺を実行しようとしたと
いうことである。
もちろん、アトラスたちにとって処刑というのはもっとも避けた
いことである。説得し降伏を受け入れてもらわねばならない。万が
一、殺害したりすれば、ルージ軍に対するフローイの民の敵意に火
がついて燃え上がるだろう。アトラスたちにとって好ましくない結
果を招くに違いなかった。
︵いかがしたものか?︶
サレノスを眺めて黙ったままそう問いかけるアトラスが、突然に
悲鳴を上げた。油断した隙にフェミナに噛みつかれたのである。ア
トラスの右腕にフェミナの歯形がしっかり残っていた。兵士があわ
てて彼女を取り押さえ、アトラスは命じた。
﹁とりあえず物置にでも閉じこめておけ。丁重にだぞ﹂
706
フェミナがアトラスの暗殺を謀ってルージ軍に捕らえられた。そ
の情報は王妃の間にいたニメーネらにも伝わった。同時にサレノス
に命じられたルージ兵が、侍女の間や王妃の間に雪崩れ込んだ。
ニメーネはフェミナの助命を条件に名乗り出た。もちろん、彼女
たちがここにいる理由も明かさねばならない。隠し部屋や、隠し通
路の存在がルージ軍にも露わになり、十数本の短刀も押収された。
アトラスは苦笑した。
﹁全く、フローイ国の女というのはなんと大胆なのだ﹂
サレノスが命じて王妃の間につながる隠し地下通路は閉鎖させた。
これでフェミナが居住する王妃の間は、王妃の間に続く廊下さえ見
張っていれば逃げ場のない牢獄になった。アトラスは命の保証と引
き替えに、フェミナを物置から王妃の間に移して軟禁した。その間
も彼女はそれが唯一の抵抗であるかのようにアトラスに罵声を浴び
せ続けた。一途な復讐心に燃えるフェミナに降伏を受け入れさせる
のは難しそうだった。とすれば、アトラスとサレノスには、もう一
人の女性の名が思い浮かぶ。
アトラスは問うた。
カイーキ
﹁リーミル様は見つからなかったか﹂
﹁しかし、王都の近くに隠れ潜んでいる可能性が高いでしょう。今
一度、各地を探索させましょう﹂
グラフラにいるメニムズとラヌガンから、リーミルらしき女性を
見かけたという知らせが届いている。リーミルがフェミナと別行動
しているのは間違いなかろう。しかし、そのリーミルの行方は依然
として知れなかった。
707
リーミル、新たな策略
フローイ国王女リーミルは、森の中の木こり小屋に隠れ潜んで三
週間になる。食料は木こりに届けさせていた。国に忠実で、突然に
カイーキ
攻め込んできたルージ軍に憤りを感じている人物で、裏切る心配は
なかった。
カイーキ
リーミルが王都の炎上を知ったのは、陥落した日の昼過ぎである。
カイ
森の中だったが、耳を澄ますと街道の喧噪が聞こえ、夜半には王都
ーキ
方向の空が赤く染まって見えた。異変があった気配は察したが、王
都がルージ軍の攻撃を受けたとまでは考えていなかった。ただ、昼
過ぎに王都から脱出してきた負傷兵や民間人の一団に遭遇して、突
如現れたルージの大軍が北の城門を押し破って進入しことを知った。
続く避難民の一団からは、市街がほぼ炎上したことを聞き知った。
彼女を何より悲しませたのは、弟グライスの死の知らせだった。
しかし、悲しみがあまに大きかったため、彼女の心はそれを受け入
れず、今でもどこかに隠れ潜んで反撃機会をうかがっているのでは
カイーキ
ないかとさえ考えていた。
リーミルは王都を脱出してきた兵を指揮下に組み入れ、その数は
六十人に及んだ。避難民たちには森を抜けトリルナの砦から北を目
指すよう指示した。リーミルと遭遇したルージ軍は、彼女の正体に
気づいたために行く手を阻んだが、民間人ならそのまま通行を許し
ただろう。この避難民もルージ軍と出会っても安全な地域へ逃げる
ことができるだろうと考えたのである。
﹁武器になるものは捨ててゆきなさい﹂
カイ
リーミルはそう命じた。武器を持っていれば兵士ではないかと勘
ーキ
ぐられて戦闘が起きるかもしれない。彼女はちらりと後悔した。王
都で民に武器を与えて義勇兵としたが、にわか作りで訓練も受けて
おらぬ彼らは、武器を手にしているが故に戦い、ルージ兵の餌食に
708
なったかもしれないと考えたのである。
密に生えていた樹木もこの辺りはめぼしい樹は切り倒されてまば
らになり、陽の光も差し込むリーミルは、一人で切り株の一つに腰
掛けて冬の日差しを浴び、野鳥の声に包まれていた。そんな一人っ
きりののどかさもほんの一時。
彼女は小屋に戻って、今後のことを決めねばならない。
﹁この後は?﹂
リーミルは兵士たちにそう問うたが、ここには彼女にアドバイス
できる重臣たちはいない。一般の兵士たちを相手に彼女の判断だけ
カイーキ
ですべてが決まる孤独な状況だった。一人の兵士が言った。
カイーキ
﹁ルウオの砦へ行き、ロットラス殿の手兵と合流して王都を取り戻
すのはいかがでしょう﹂
﹁ルウオの砦の兵はたかだか二百。王都を落とすほどの戦力を持っ
たルージ軍に挑むのは兵を無駄に殺すのも同じこと﹂
﹁では⋮⋮﹂
﹁とりあえず、ルウオの砦へ行きましょう。後のことはそれから﹂
カイーキ
リーミルはそう言ったが、心は半ば決まっていた。北西部への脱
出路を絶たれ、ランロイからの補給も途絶え、王都も占領されて孤
立すれば、ルウオの砦は早晩に落ちる。その前に兵を率いてシュレ
ーブへ行き、シュレーブ王ジソーの庇護を求めようということであ
る。ただし、王ボルススを謀殺したシフグナのパロドトスに行く手
を遮られる恐れがあった。そして、王家の者が国を離れたとなれば、
フローイ国北西部の領主たちはフローイ王家が国を捨てたと思わな
いだろうか。もし、そうなれば領主たちはルージ軍に靡き、フロー
イ国は瓦解するかもしれない。そう言う恐れも考えねばならなかっ
た。
しかし、リーミルの計画も頓挫した。
﹁あのシフグナの大年増め﹂
709
カイーキ
リーミルがそう罵ったのはシフグナのパロドトスの養女のパレサ
ネのことである。王都陥落の混乱を突いて、パロドトスが兵を進め
て国境を越え、ルウオの砦を占領したのである。グライスから祖父
ボルススを討ったのがパレサネだと聞いていて、思わず砦に兵を進
めたのも彼女かと考えたのだが、パロドトス本人と長兄のラムドス
を中心に、シフグナと隣接する領地イェフズの領主の手兵だった。
砦を守備していたロットラスも混乱の中で行方知れずである。
ルージ国王ジソーには、シフグナの暴走を堅く押さえるように申
し入れてあるはずだが、シュレーブ国はその申し入れを破棄したこ
とになる。
シュレーブ国王の庇護を頼るという方法も絶たれた。更に、失意
のリーミルたちに追い打ちをかけるように、フェミナが王宮でルー
カイーキ
ジ軍に捕らえられたという知らせがもたらされた。知らせをもたら
した木こりは、早晩、王都の広場でフェミナが処刑されるだろうと
カイーキ
いう街の噂も付け加えた。
﹁王都か⋮⋮﹂
彼女は何かを思いついたようにそう呟いた。ただ、その直後に彼
女が配下の者に命じたのは別の場所である。
﹁イクナラへ行きましょう﹂
イクナラとはカイーキの西の森林地帯の名だが、王族のものがそ
れを口にする時にはそこにある別荘のことを指す。小さな滝のそば
に小高い丘があって見晴らしが良い。この場合、見晴らしが良いと
いうのは謀略の中で過ごしたフローイ国の王族にとって、暗殺者が
近寄りがたいと言うことでもある。
フローイ国の要人を探し求めるルージ軍が、探索の手を伸ばすに
違いない場所だが、軍の要衝ではなく探索が終われば警戒は緩やか
になるだろう。
幾人かの兵は、王の護衛として付き従った経験があり、その環境
をよく知っていた。
﹁しかし、何故、そのようなところに﹂
710
兵士たちは首を傾げた。くつろげる別荘という以外、何もない場
所である。
711
リーミル、新たな策略︵後書き︶
次回、リーミルの意図が明らかになります
更新は明日の予定です
712
同盟成立1
三日後、リーミルらは目立たないよう少人数に分かれてイクナラ
へ移動した。先に出した物見の報告通り、ルージ軍の気配はなかっ
た。館の年老いた管理人が五人、彼女たちを丁重に出迎えた。彼ら
カイーキ
の話ではルージ軍は二度ばかりここを探索に来たという。しかし、
腹立たしいのは、王都陥落の混乱をついてこのイクラナを略奪しよ
うとしたのは、ルージ軍ではなくフローイ国の盗賊集団だったこと
である。ただ、館の管理人は引退したとはいえ元は熟練した兵士た
ちで、盗賊団が太刀打ちできる相手ではなかった。イクナラの館は
無事に保たれていた。別荘らしく、王族やその家臣の着替えの衣装
やアクセサリーが保管されている。
兵の一人が首を傾げた。
﹁油断しているのでしょうか? ルージ軍は衛兵もおいておらぬよ
うで﹂
﹁いいえ、ずるがしこい奴らのこと。私たちの油断を誘っているの
でしょう。ルージ軍が警備していなければ、ここにくる者もいるは
ず。私たちが油断して戻ってきた機会をねらって一網打尽にするつ
もりだわ﹂
﹁では、ここは危険ではありませんか﹂
カイーキ
﹁長居をするつもりはない。久しぶりに風呂に入り、衣類を改めま
しょう﹂
明くる朝、リーミルは使者を王都の西門に送った。貴人の訪問に
先立って、あらかじめそれを告げる使者を出すというのがアトラン
ティスの礼法に則った手続きである。使者はフローイ国王女リーミ
ルがルージ国王アトラスの面会を求めると用件を伝えた。探し求め
ている相手から、そのような使者が来れば、ルージ軍も少なからず
713
驚くだろう。
カイーキ
リーミル一行が王都西門に到着したとき、一人の民の視線が、六
十人ばかりの行列の先頭をゆく女に止まった。
﹁リーミル様﹂
その叫びと驚きは笑顔とともに広がり、ルージ軍の占領下にある
民の希望がふくれあがっていった。ただ、彼女の姿と彼女に続く者
たちの姿は軍人ではない。王国の姫と姫に仕える家臣団という様相
である。
武器を持たぬため、ルージ軍の衛兵たちもリーミルらを押しとど
める理由はなく、彼女たちは王宮の門をくぐった。慌てて出てきた
従者に案内され、リーミルは家臣団の大半を王宮の中庭に残し、五
人ばかりの家臣を伴って王宮の広間へ進んだ。
やがて、アトラスがサレノスらを伴って、広間に姿を現した。久
しぶりに眺めるアトラスの姿に、リーミルは息を飲んだ。噂通り、
彼は左腕の肘から先を失った姿に変わっていた。そればかりではな
かった。アトラスは穏やかな笑顔を浮かべてはいたが、初めて出会
ったときの純朴な田舎貴族の雰囲気は消えていた。何か堅く冷たい
気配がアトラスを包んでいる。それは王の威厳ではなく、不安と戸
惑い、怒りと嘆き、様々に乱れる心を必死で律しようとする悲しみ
のように見える。一時、素直な心を交わしたことがあるリーミルだ
けに見えたアトラスの本当の姿かもしれなかった。
とはいえ、リーミルもそんな驚きや課せられた責任の重さをかみ
しめながら感情を押し殺している。
﹁このたびはお目通りがかない、恐悦至極に存じます﹂
﹁リーミルさまも、ご健勝の様子。このアトラスも安堵いたしまし
た﹂
そんな定型的な挨拶を交わした後、アトラスは静かに尋ねた。
﹁それで、何をお求めか?﹂
﹁ルージ国に都合の良い話を持って参りました﹂
﹁それは、フローイ国の降伏? それなら、リーミル様やフェミナ
714
様の命は保証し、お望みの場所で終生安楽にお過ごしいただけるよ
う手配いたしましょう﹂
アトラスの言葉に、リーミルは笑い始めた。
﹁降伏ですって? 何の冗談をおっしゃっているのです﹂
意外な言葉にとまどうルージ軍将兵を面白そうに眺め回して、リ
ーミルは言葉を継いだ。
﹁私たちフローイ国は、王ボルススをシュレーブ国に討たれ、彼の
国に復讐を誓った。ここに至っては、シュレーブ国と戦うあなた方
と目的は同じ。その貴方たちと同盟を結んであげるというのです﹂
サレノスが会話に割り込んだ。
カイーキ
﹁リーミル殿。それはあまりに今の状況をわきまえておられぬ。ラ
ンロイや王都は我がルージ軍の手中にあり、もはやフローイ国は失
われたも同然﹂
﹁お黙りなさい。状況をわきまえていないのは、そなたです﹂
リーミルはルージ国きっての老将サレノスを叱りつけただけでは
なく、その後の口調を祖父をいたわるかのような優しげな口調に変
えてルージ軍の者どもを諭した。
﹁今のルージ軍にどんな力があるというのです? 我が国奥深く攻
め込んで孤立して居るではありませんか﹂
相手や状況に応じて臨機応変に口調を変えるというのは祖父ボル
ススから学んだことだった。彼女は今度は恫喝するような口調で断
言した。
﹁北西部にはまだ三千のフローイ軍兵士がおり、反撃を開始するの
も間近です﹂
その恫喝に反駁したのはオウガヌである。父のストパイロが戦死
カイーキ
しグラフラの町を任せるにも不安があったため、戦の後の休息を理
由に王都に呼び寄せていたのである。オウガヌは敗残の王女を見下
して笑った。
﹁それなら、ここでリーミル様とフェミナ様を亡き者にしては? 国をまとめる者が居なくなったフローイ国は瓦解しましょう﹂
715
オウガヌの笑い声にーミルは冷笑で答えた。
﹁馬鹿ね。もし、私やフェミナが殺されるどころか傷つけられでも
したら、フローイ国に残された兵士三千は憎しみに奮い立つでしょ
う。ルージ軍はそれを押しとどめることができるつもり? 孤立し
たルージ軍はアトラス王以下、兵士まで一人残らず殺されるだけ﹂
リーミルの言葉にオウガヌはいらだちを深めた。
﹁三千のフローイ兵? 口から出任せであろう﹂
﹁北のクセナルには銀が採取できる鉱山がいくつもあり、資金は豊
富。西のトリネラは肥沃な地で多くの民がおります。三千程度の兵
が養えぬとお思いか﹂
リーミルの言葉の壮大さにサレノスはあきれるように言った。
﹁それにしても三千とは大言壮語が過ぎよう﹂
﹁嘘か誠か決めるのは貴方たち。しかし、その三千に怯えるのも怯
えるのも貴方たちだわ﹂
リーミルはその判断をルージ軍に任せるという。嘘だと決めつけ
るのは容易いが、これからのフローイ軍との戦いで、目前の敵と戦
いつつリーミルの言った三千の増援が突如現れたらどうするか、三
千と言わないでも、千五百の兵が控えていたらと、戸惑いながら戦
わねばならない。フローイ国と手を結べば、シュレーブ国との戦い
も容易になるのは間違いがない。リーミルの言葉に反論できるルー
ジ軍将兵は居なかった。
この時、広間に陽気な笑い声が響いた。笑い出したのはアトラス
である。
﹁か弱い細腕でこの私を暗殺しようとするフェミナ様。探索を逃れ
るために我が軍が占領する王宮を利用する侍女殿、そして今は同盟
を結んで我が軍を助けてやろうと言うリーミル様。フローイ国の女
はなんと大胆な者たちだ﹂
716
同盟成立2
︵乗ってきた︶
リーミルは心密かにそう思った。アトラスが彼女の提案に興味を
示し賛同するだろうと考えたのである。
︵御しやすい︶
彼女が初めて出会ったときのアトラスは、世間を知らず、そのと
まどいを隠すことも知らない子犬のように愛らしかった。その御し
やすさの片鱗が今のアトラスにも残っていると考えたのである。そ
こにつけ込んでアトラスを籠絡すればルージ国を手に入れることが
できるかもしれない。
﹁同盟の条件は?﹂
アトラスが問い、リーミルは答えた。
﹁一つ、フローイ国から奪った物をすべて私たちに返すこと、街、
砦、そこにある食料と物資すべてよ。二つ、このフローイ国は私た
ちのもの。ルージ国は我が国の政に口は出さないで。三つ、この国
の民は傷つけず自由を保障すること。捕虜にした者も解放なさって
ください﹂
リーミルが迷い無くルージ国へ突きつける条件に、アトラスは尋
ねた。
﹁私たちルージ国には、どんな利があると?﹂
﹁その三つを守るなら、私たちフローイ国はたった今から抜いた剣
を鞘に収め、ルージ国がシュレーブ国と戦うときには加勢いたしま
しょう。そして、その時までルージ軍にはフローイ国に駐留する許
可を与え、食料は提供いたします﹂
リーミルは加勢という表現を使った。王を謀殺したシュレーブ国
を攻めたいが今のフローイ国には兵力が足りない。ルージ国を先鋒
にして戦わせることができれば、それに越したことはない。戦って
717
兵を損じるのはルージ軍、フローイ軍は加勢と称してそれを眺める
だけ。
もちろん、サレノスはリーミルのそんな意図を見抜いている。そ
の彼にアトラスが意見を求めた。
﹁サレノスよ、いかがか?﹂
ルージ軍はフローイ国を攻め取り、春を待って、ウェスター国や
グラト国とシュレーブ国を南北と西から攻めるつもりで居た。しか
し、フローイ国の降伏が期待できなければ、まだ占領していない地
域を攻め取って行かねばならず、ルージ軍も大きな損害を覚悟せね
ばならない。フローイ国と同盟を結び、ともに戦うというのなら、
その時間は省け、何よ兵の損耗は少ない。サレノスは気むずかしい
表情のまま答えた。
﹁リーミル様の申し出を受け入れるべきかと存じます﹂
﹁他の者はどうか?﹂
アトラスが見回すルージ軍の者たちは、サレノス同様に苦々しい
表情のまま黙っていた。ルージ軍にとって利益の大きい提案だが、
勝利を目前にしたゲームの終盤で鮮やかに形勢を逆転されたかのよ
うな苛立ちがあった。何より、申し出を受け入れるのが当然という
リーミルの余裕の表情は腹立たしい。
もちろん、アトラスも同じ思いだが、最後の決断を下した。
﹁よかろう。その申し出を受け入れましょう﹂
アトラスの返答に、リーミルは彼の心を惑わすように素直で愛ら
しい笑顔を浮かべていった。
﹁よかった。アトラス様ならそういっていただけると信じてました﹂
リーミルは話題を転じた。
﹁それで、フェミナ様はどこに?﹂
王暗殺を計った罪で処刑されるのではないかとの噂があり、リー
ミルにとって気がかりな人物である。
﹁王妃の間でおくつろぎいただいている﹂
アトラスの返答にリーミルは安堵の表情を浮かべて、もう一人、
718
気になる人物のことを尋ねた。
﹁では、グライス、我が弟の所在はご存じ?﹂
アトラスは少し考える間をおいて静かに答えた。
﹁グライス殿はお亡くなりになられた。先日、北の山の峠で亡くな
られていたグライス殿の遺体を回収し、古式にのっとり丁重に荼毘
に付したところ﹂
アトラスの言葉に、リーミルは最愛の弟を失った心の動揺を押さ
えて静かに頭を下げて感謝の意を表した。
﹁丁寧な扱い、お礼を申します﹂
﹁いや、我が父の遺体を丁重に扱っていただいた返礼。刃には刃を、
恩には恩を返す。我が国の作法です﹂
ルージ国とフローイ国、両者の講和は成立した。ただ、両国は剣
を交えて間もない。ルージ国は王リダルを討ち取られ、フローイ国
は王子グライスを失っていた。兵たちは親しい戦友を失った者も多
い。人々の諍いの火種は残ったままである。
719
同盟成立2︵後書き︶
次回の舞台はシュレーブ国です。手柄を焦るシュレーブ海軍が、
アトラス不在のルージ国に攻撃をかけようと王ジソーに意見具申し
ます。いよいよロユラス率いる海の戦いの幕開けに・・・
次回更新は年明け一月七日の予定です。
もし、よろしければ、それまでの間に、次の物語はいかがでしょう。
﹁ムウの残照﹂ 第一部完結しています
http://ncode.syosetu.com/n8437
dg/
大地が海に沈むという同じ境遇で、運命に抗いながら生きるアトラ
スと、運命を受け入れながらも人として一生懸命に生きるルシュウ
を比べてみてください。
では、皆様、来年もよいお年を
720
シミリラデラへの思い
シュレーブ国は一時の平穏の中にいる。家族や友を失った者の悲
しみと憎しみは心に深く刻みつけられていた。しかし、戦の気配が
薄まって、多くの人々は元の生活を取り戻どそうとするかのように、
パトローサ
戦の記憶を片隅に追いやっている。とくに戦火に見舞われていない
ルミリア
王都ではその傾向が顕著で、町の人々の話題はこの冬の寒さのこと
であり、王宮の人々の話題は年越しに行われる真理の女神の祭りの
式典の準備のことだった。
シュレーブ国王女エリュティアは、そんな偽りの平穏の中に居た。
彼女の生活で変わったことがあるとすれば、侍女頭のルスララが体
調を崩して出仕を控えていることである。長年の宮仕えができなく
なることを嫌がって、侍女の間に留まっていた彼女だが、信頼でき
パトローサ
る侍女頭を労って、王ジソーがルードン河の川辺の保養所に移した。
王都から半日の場所である。
そんな彼女をドリクスが見舞いに訪れた。保養所の庭先にルスラ
ラの姿を見つけたドリクスは驚きの声を上げた。
﹁おおっ。ルスララ殿、寝ておられなくてよろしいのですかな﹂
﹁あら、ドリクス様。なんと大げさな。この通り、元気でございま
すよ﹂
﹁それは良かった﹂
ドリクスは安堵のため息をついた。ただ、若い頃のルスララを知
る彼には、彼女の動きに老いを感じ取ることができた。振り返って
見れば、彼自身にも同じことが言える。
ルスララが遠くを見るように目を細めて、門を眺めた。何かの動
きに気がついたのである。近くの物が鮮明に見えにくくなっていた
か、最近は目が霞むようで遠くの物も見えにくい。
﹁あれは?﹂
721
その問いに、ドリクスも目を細め、人物を判断した。
﹁ユリスラナ殿ですな﹂
ルスララもその人物を確認して表情に怒りを浮かべた。
﹁エリュティア様のお世話を滞りなくせよと言い聞かせてあるのに、
何をこんな所をほっつき歩いてるんだか﹂
ユリスラナ自身はそんな怒りに気づく様子もなく、明るく近づい
てきてぺこりと頭を下げて挨拶をした。
﹁こんにちわ。叔母様、お元気な様子ね﹂
﹁ああ、あんたを怒鳴りつけることができるほど元気だよ。エリュ
ティア様のお世話はどうしたんだい﹂
ルスララの怒りをユリスラナはさらりと交わして答えた。
﹁私は先触れの使者です。これからエリュティア様がお見舞いにお
越しになるのをお伝えに来ました﹂
﹁エリュティア様だって。大変だ。お迎えの準備をしなきゃ。掃除
をして、花瓶の花を代えなければ﹂
ルスララは手際よく下女に迎えの準備を命じ、最後に姪にも命じ
た。
﹁ユリスラナ、お前は温かい飲み物を準備なさい﹂
姪は叔母の言葉に、ぷっと頬をふくらませて不満を表した。
﹁私はエリュティア様のお使いです。叔母様は使者をこき使うつも
りなの﹂
﹁いいかい、ユリスラナ。あんたはこの病人をこき使うつもりかい﹂
﹁だって、さっきまで元気だと﹂
返答する気もないと彼女を睨む叔母に、ユリスラナはしぶしぶ台
所へと姿を消した。そんな叔母と姪のほのぼのとした姿を眺め、ド
リクスは思いついたように言った。
﹁良かったのかもしれませぬ﹂
﹁何が良かったと?﹂
﹁エリュティア様も王宮の中では息が詰まりましょう。ここなら気
兼ねせず自然体で居られる﹂
722
ルスララ自身も感じていたことである。
﹁ほんに、エリュティア様は、本心を相談する相手がおられぬよう
にななられてから不安ばかり多いようで、心を乱しておられるご様
子﹂
パトローサ
﹁それは心配ですな﹂
﹁最近は、王都も悪いことばかり。この私も、この保養所でへ行け
と言われたときには、ドリクス様のように我らが王の不興でも買っ
たのかと﹂
ルスララは、はたと気づいて口ごもり、ややあって謝罪の言葉を
継いだ。
﹁不興などと、勝手な物言い失礼いたしました﹂
﹁我らが王が、私に引退を命じられたのは、まさしくその通りであ
りましょう。お前の顔など見たくないと言われたも同然﹂
シリャード
ロゲル・スリン
ドリクスが言う出来事はルスララも聞き知っていた。
ロゲル・スリン
ドリクスは戦いの背後に聖都に巣くう六神司院の存在をかぎ取っ
ていた。六神司院が反逆国と断じた三カ国はすでに兵を進めており、
戦わぬと言う選択肢は無かった。
スーイン
ロ
初戦で反逆国を破り兵を押し戻した後、シュレーブ国がアトラン
ゲル・スゲラ
ティス九カ国を代表して神帝暗殺の顛末を明らかにする。むろん六
神司院に非があればそれを罰するという条件で反逆国と講和すると
いうのがドリクスの考えだった。それなら平和も戻り、シュレーブ
国もアトランティスでの主導権も握れるだろう。
しかし、講和をすべき時期に、王ジソーは使者を遣わしてネルギ
エの地への増援を求めた。それを諫めて講和を主張するドリクスは、
王と意見が食い違い始めた。様々に手を回して増援を回避し、戦い
を思いとどまらせようとしたドリクスは王との対立を深めた。
パトローサ
ネルギエの戦いの後、逃げ帰ったという表現が当てはまりそうな
様相で王都へ戻った王ジソーは、ドリクスと顔を合わせるのが気ま
ずかったらしく、ドリクスの年齢を理由に引退を命じたのである。
723
二人は思い出したくない出来事に互いに口をつぐんで、沈黙が続
いたが、やがて二人そろって表情を和らげた。庭先に訪問客一行が
到着し、花束を抱いて輿を降りるエリュティアの姿が見えたのであ
る。
エリュティアも堅い表情を意外な者を見つけた笑顔に代えた。
﹁ルスララ、元気そうで安心しました。それに、ドリクス様も﹂
﹁私も久しぶりにお目にかかって、安心いたしましたよ﹂
ルスララが広げた腕でエリュティアをかき抱こうとしたため、彼
女は胸に抱いた花が潰されないよう右手に花を移して腕を広げた。
ドリクスが彼女の手から花を受け取って、花とエリュティアを見比
べるように眺めた。花束と考えたがそうではなかった。ドリクスは
微笑んで根をつけたままの植物の名を語った。
﹁シミリラデラですな。﹂
シミリラ
冬に親指の先ほどの小さな紫の花を一株にいくつもつける植物で、
北風の神を象徴する。アトランティスの少女の間には、花の数だけ
シミリラ
祈りを捧げれば、願いが叶うという伝承がある。
﹁ええ。北風の神の祝福が暖かい春をもたらしますように。祈りを
込めるために持参しました﹂
エリュティアはそう語り、ルスララの腕をほどいて、春の種まき
を待つ土ばかりの花壇の一つに、しゃがみこんだ。もともと柔らか
く掘り返してあるはずの花壇の土も、寒さに凍り付いていた。穴を
掘るエリュティアの指先が凍り付きそうな気配に、ルスララは悲鳴
でも上げるように言った。
﹁姫様。そんな事は侍女に任せなされませ﹂
﹁いえ。自分でしないと、願いが叶いませんもの﹂
エリュティアは振り返りながらそう言って、何かを求めるように
ルスララとドリクスを眺めて困ったか表情で黙りこくった。ドリク
スは彼女の意図を察した。
︵ちょっと、あっちへ行ってて下さい︶
エリュティアはそういう要求をしているのである。少女たちに伝
724
わる儀式は一人で行い、儀式の間は無言を保つ習わしである。
﹁では、ルスララ殿が温かい飲み物などを準備されております。暖
炉のある居間でお待ちしておりますよ﹂
ドリクスはそう言って、シミリラデラの株を花壇の隅にそっと置
き、ルスララとエリュティアおつきの侍女たちにも目配せをしてエ
リュティアに背を向けた。むろんエリュティアから目を離すことな
く、庭がよく見渡せる大きな窓の部屋に場所を移しただけである。
窓から見える庭園の光景は、窓枠で切り取られて、エリュティア
の姿を一途な少女を描いた絵画になった。
﹁それにしても﹂
エリュティアを眺めて首を傾げるドリクスにルスララが尋ねた
﹁何か?﹂
﹁気のせいか、エリュティアさまは迷い事があると、胸元の袋を握
っておられるような気が致します﹂
ルスララは頷いて、種明かしをするように言った。
リカケル・ラーナ
﹁あれは、ルージ国のアトラスから贈られた真珠が入っているので
ございますよ。何でも月の女神の涙と申すそうで。人の心に平穏を
もたらすとか﹂
﹁そう言ういわれのある物なら、銀の鎖をつけ首飾りにでもしてお
けばよいものを﹂
﹁私もそう申したのですが、﹂
細工師に命じて真珠を銀の枠にはめ、細い鎖をつければ首輪にな
るし、腕輪にはめ込むこともできるだろう。エュティアはアトラス
から与えられたまま、手を加えることを拒否して小さな飾り袋に真
珠一粒を入れて身につけているのである。
エリュティアの心が読み難い。
︵無垢なエリュティア様が心を閉ざしているわけでは無かろう︶
ドリクスもルスララも同じ事を考えていた。無垢な心を失ってし
まった自分と、無垢であるが故に自分の心を伝える手段に乏しいエ
リュティア。触れあえない心のもどかしさにドリクスはふと考えた。
725
︵エリュティア様は、あの真珠を通じて心を通い合わせているので
は?︶
そう考えれば、エリュティアの姿は、真珠が象徴するものと共に
祈りを捧げているようにも見えた。
﹁どうしたんですか。こんなところで。せっかくハラサ水を温めた
のに、冷めてしまうじゃないですか﹂
響いた明るい声は、ユリスラナの不満げな感情を伝えていた。祈
りが終わったエリュティアにもその声が届いたらしい、彼女は立ち
上がって笑顔で振り向いた。苦笑いするルスララとドリクスは顔を
見合わせた。田舎くささの抜けきらないユリスラナの純朴な人柄は、
時に堅く凍り付いた人々の心をほぐしている。
人々はユリスラナに要求されるまま、居間の暖炉の前に場所を移
した。エリュティアはハラサ水のカップで手の平を温めながら、ふ
と思いついたように尋ねた。
﹁先生。戦はまだ続くのですか﹂
その質問の厳しい本質に、ドリクスもルスララも戸惑う感情をよ
うやく抑えた。この無垢な魂に傷をつけることは避けねばならず、
トライネ
嘘で濁らせることも許されない。ドリクスは慎重に言葉を選んで語
った。
﹁おそらくは、冬があけて春風の女神の息吹を感じるようになる頃
に再び始まりましょう﹂
大気に暖かさが戻り、人々が畑に麦を蒔き終わった頃、各国の権
力者は再び兵を招集して戦いに挑むだろうというのである。
パトローサ
ただ、戦う人々の思惑は、ドリクスの常識的な判断を裏切って戦
いを起こそうとしている。今、ルードン河の流れを王都へと遡る一
艘の軍船があった。
726
海の戦いへ︵前書き︶
<i213653|14426>
727
海の戦いへ
ここの所、シュレーブ国王ジソーの頭を悩ませているのは、シフ
グナの領主パロドトスである。勝手にフローイ軍に戦を挑んだかと
思うと、堅く戦いを戒めたにもかからず、近隣の領主と計ってフロ
ーイ国へ兵を進め、フローイ国の都を脅かしている。
むろん、王は怒り狂い、討伐さえ口にしたが、滑稽な事にその兵
力がなかった。イドポワの戦いに続くネルギエの戦い、そして、南
ではグラト軍との戦いで、王直属の軍隊は損耗し、八千を超えた直
轄の常備軍も今や三千を下回る。おそらく、次の春とともにルージ
軍やヴェスター軍、グラト軍は三方からこの国に攻め込んでくるに
違いなかった。その敵に備えねて兵を温存せねばならない。
そればかりではなかった。もともと、各領地の領主たちに代わっ
て、領地の治安維持をするという名目で、王直属の兵士を各地に派
遣して領主に睨みをきかせてきた。パロドトスや近隣の領主が王の
パトローサ
命令を無視して勝手なことを始めたのは、その睨みを利かせていた
兵士をルージ国ら反逆国との戦いのために王都へ引き上げさせたか
らに違いない。王ジソーはそう考えていた。
﹁全く、領主どもは、日頃の恩も忘れおって﹂
王ジソーが叫んだ王宮の広間にシュレーブ国の主立った物たちが
集められていた。古くからシュレーブ王家に忠実に仕えてきた者た
ちで、それだけに各地の領主に対して優越感をにじませている。
王の言葉に賛同し、領主たちの不忠をなじる声が響く中で、王ジ
ソーは声を張り上げた。
﹁我らシュレーブ王家は、我が国を守るために、莫大な財貨を使い、
数多くの将兵も失のうた。しかるにどうじゃ。春の出兵要請に応じ
ると申し出てきたのはゴダルグの領主ストラタスとリマルダの領主
ガルラナス以下、わずか八名のみ﹂
728
広間からあふれる勢いで怒りを発する王に触れることを恐れるよ
うに口をきく者はなく、王と視線を合わせようともしなかった。王
は怒りと共に言葉をはき出した。
﹁我が王家が、いったい、いくつの領地を守ってやっておると思う。
二十四じゃ、二十四。出兵要請に応じぬ一六の領主は何を考えてお
る﹂
王ジソーは足を踏みならして怒りを露わにした。王は何を考えて
おると問うが、その理由は領主たちを比べれば明らかだった。王の
出兵要請を受諾したゴダルグの領主ストラタスとリマルダの領主ガ
ルラナスらは、すべて元は王家の腹心の家臣で、王家に忠誠を尽く
し手柄を立ててその領地を与えられた。兵を出し渋るのは過去のシ
ュレーブ国が領地を広げた頃に併合されて領地を安堵された小国家
だった。その関係は自ら併合を願い出たものもあるが多くは大国シ
ロゲル・スリン
ュレーブの脅しに屈した結果であり、中にはシュレーブ王家の仇敵
といえる者さえ混じっていたのである。
シリャード
そして、もしもこの場にドリクスがいれば、六神司院の手が伸び
ている事を指摘したろう。大国の力を削ぎたい聖都の神官たちは、
周辺の領主たちに様々な誘いや離反の手を伸ばしてもいた。
﹁誰ぞ、あの不忠者どもに出兵させるのに良い方法があれば述べよ﹂
王ジソーは再び叫んだが、顔を見合わせる者たちだけで答える者
がいない。王の命令に服さぬ領主たちをなだめ、圧力をかける手段
が見つからないのである。
その中から居間まで黙っていた男が一人進み出た。
﹁海にも戦う勇士が居ることをお忘れか﹂
﹁おおっ。セイラスか﹂
﹁不忠者の領主めらに頼らずとも、我が王には我が海軍があり申す﹂
セイラスの言葉に手柄と王の歓心を一気に奪われる事を恐れた腹
心のルソノオが異論を述べた。
﹁しかし、ルージ海軍はアトランティスでも随一の名が轟いており
729
ます。いかに我が海軍とて、手に余るやもしれませぬ﹂
﹁いいや。さにあらず﹂
﹁その自信に裏付けでもおありか?﹂
﹁いまやルージ海軍は、フローイへの物資の補給で辟易としておる
はず。戦うどころかワインや小麦を運ぶ商船と変わらぬ﹂
この言葉は正しい。ルージ海軍の軍船の半数はフローイ国への物
資の輸送や、傷病兵をルージ国へ送り返すのに使われていた。ただ
ルージ軍がランロイ占領で物資には不自由することが無くなったと
は考えが及ばない。
﹁さすればセイラス殿は、いかがするというのだ﹂
﹁我が海軍は、軍船の大きさでも数でもルージ海軍を上回り、しか
も、我らが王の命令とともに、全軍がルージ海軍に襲いかかり、こ
れを壊滅したしましょう﹂
﹁セイラスよ。よぅ言うてくれた﹂
王ジソーは海軍司令官を褒め称えた。しかし、やや考えて言い添
えた。
﹁そなたの言い分は天晴れなれども、今しばらくは待てい﹂
﹁よもや、我らが王は、我が海軍の力を疑っておられるのでは﹂
﹁いや。そうではないが、儂にも存念がある。戦の駆け引きと、戦
う時期は儂にまかせい﹂
﹁承った﹂
納得したと口にしたものの、セイラスは不審そうに王の顔を眺め
た。王ジソーが口にできない本心を明かせば、彼は自分の権力のよ
り所が直轄の軍にあると考えている。ところがイドポワの門からネ
ルギエへの戦いで陸軍兵力の半数以上を一気に失った。ここで海軍
兵力まで傷つけてしまったらと恐怖に似た不安を抱えていたのであ
る。
次の戦に備えねばならないが、次に損じるのは各領主の兵。そう
すれば領主どもの力を削ぐことにもなり、シュレーブ王家の威信も
高まるに違いない。そう考えていたのである。
730
パトローサ
しかし、セイラスは王都にくる直前、すでに部下のクドムラスに、
軍港ウルリに集結させた軍船に出撃の準備をせよと命じていた。
731
クトマス沖の海戦
アトランティス大陸を俯瞰してみれば、シュレーブ国の北東部の
ヴェスター国と南西部のラルト国が岬のように海に突き出して巨大
リカケー
な湾を作っている。地形的にシラス湾と呼ばれる内海を、アトラン
リカケル・ナーバ
リカケル・ナーバ
ティスの人々はその波の静かさをもって、月の女神に象徴させて月
の女神の海と呼んでいる。
セイラスは百の軍船を率いてその月の女神の海の湾口に居た。こ
リカケル
の辺りは巨大な湾が海の満ち引きとともに、膨大な海水を招き入れ
・ルタラ
たり吐き出したりする潮の流れがあり、船乗りたちは月の女神の息
吹と呼んでいた。セイラスは女神の吐息に乗せて軍船を外洋へと導
いた。
女神の緩やかでも力強い吐息は、外洋を北から南へと流れる激し
い潮の流れを和らげていた。セイラスはその流れに逆らい、ヴェス
リカケー
ター国沿岸に沿って艦隊を北上させた。
﹁セイラス様。さすがに外洋は月の女神のご加護が及びませんな﹂
波が荒れるということを、部下のクドムラスはそんな表現で言っ
た。
﹁だからこそ、我らの軍船があるのだ﹂
セイラスが言うのは、彼らの巨大な軍船のことである。全長二千
スタン︵約36m︶はあり、後の古代ギリシャの軍船の大きさに匹
敵する。過去の海外遠征で、外洋の波の荒れた海に悩まされた彼ら
は、船を大きくすることで安定性を増そうとしたのである。アトラ
ンティスの標準的な大きさのルージ海軍の軍船が、全長千五百スタ
ン︵約25m︶しかないのに比べると、この時代で人々を驚かせる
ほどの大きさである。
大きさばかりではなく、左右に三十二人づつ配置された六十四人
の漕ぎ手がおり、漕ぎ手が疲れ切るまでという条件付きながら、他
732
のアトランティスのどの船より速い。甲板には帆や舵を操作する二
十人の水夫の他、三十人の兵士が乗船している。遠くから矢を射か
けても接弦して敵船に乗り移って剣で戦いを挑んでも、敵の船を容
易く圧倒できるだろう。
しかも、その船を百隻も率いてきた。セイラスらシュレーブ海軍
は、この軍船に絶大な自信を持っていた。
﹁この分では、クトマスに着くのは明日になりますな﹂
副官クドムラスは戦の期待を込めてそう言った。シュレーブ艦隊
は風にも恵まれ、帆は帆柱がきしむほどの勢いで膨らんで、目的地
へと力強く航海を続けていた。
セイラスはやや眉を顰めて命じた。
﹁やや早いが、やむを得まい。今夜はナホロスに上陸する。ナホロ
スへ船首を向けよ﹂
この時代、過去のアトランティスが行った海外への長距離の航海
などごくまれな場合である。一般には遠洋の航海や夜間の航行は避
け、日没前に砂浜に船を乗り上げ、乗員は陸で夜を過ごす。何より、
今のシュレーブ軍は百隻に及ぶ艦隊で、夜間航行で味方を見失って
ばらばらになるのは避けたいのである。
航路の西岸のヴェスター国沿岸は強い海流に削られたかのように
岩肌を露出する海岸で船を接岸することはできない。しかし、アト
ランティスの船乗りは後世の船乗りが海図を読み解くように、上陸
できる砂浜のある島々を記憶している。セイラスが口にしたナホロ
スはそんな島の一つである。島の北側は激しい海流に削られた険し
い崖だが、南側に広い砂浜があり碇を降ろせる浅瀬もある。百隻の
軍船を留めるのに都合の良い場所なのである。
クドムラスはセイラスが指示した島の名を、水夫に命じて怒鳴ら
せた。船から船へと今夜の目的地が伝わり、艦隊はナホロスへ進路
を向けた。
﹁しかし、本当にクトマスへ行くのですか﹂
ナホロスを早朝に発てば昼過ぎにはクトマスに着くだろう。クド
733
ムラスの言葉には、今なら引き返すこともできるというニュアンス
が籠もっていた。クトマスへ行けば間違いなく、ヴェスター国の港
クトマスに駐留するルージ海軍の部隊と交戦することになるだろう。
戦いを禁じている王ジソーの意向に背くことになるのではないか。
クドムラスは内心そう考えているのである。
﹁何も問題はあるまい。我らは外洋訓練をしておるだけ。ただし、
敵対する者があればこれを葬るのも訓練の一環である﹂
戦は禁じられているが、セイラスは訓練航海をしているだけ。戦
闘が起きてもそれはやむを得ない防御的な戦闘だった。王にはそう
申し開きしつつ、勝利を印象づけるつもりだろう。クドムラスは王
に対する緩やかな命令違反をする指揮官を、その背後で密かにあざ
笑った。
彼はこの気むずかしい指揮官の下で十年以上の月日を海で過ごし
た。今のクドムラスの経験はセイラスに取って代わる資格がある。
この上官の足をすくえば、自分に海軍司令官の要職が舞い込む可能
性が高い。彼はその時期を期待しながらほくそ笑んでいた。
︵今は、勢いに乗って命令違反でも何でもするが良いさ。この私の
身に危害が降りかかることさえなければ大歓迎だ︶
戦闘が起きたのは、明くる日の昼過ぎである。シュレーブ海軍が
期待した奇襲にはならなかった。沿岸部の見張りの兵が上げた狼煙
が次々に伝わって、接近を知らせていたのである。
シュレーブ海軍の襲来を待たず、ヴェスター海軍の守備艦隊二十
隻にルージ海軍の増援二十隻を加えた四十隻の軍船が港の外で、シ
ュレーブ艦隊を待ち受けていた。ただ、軍船の大きさで劣り、数も
半数に満たないヴェスター・ルージ海軍の軍船は次々に焼かれ、沈
められていった。
﹁オールを出せっ、全速前進﹂
セイラスは残り少なくなった敵を目の前に、怒鳴るようにそう命
じた。敵に向かって突進し、オールを船内に引き込み、船腹を擦る
734
ように敵船のオールをへし折り、オールを握る漕ぎ手も負傷させる。
アトランティスの海の戦いの戦術である。推進力を失った敵には、
後続する味方が火矢を射かけ、かぎ爪のついたロープで敵船を引き
寄せて乗り移って敵の兵士を倒し、船を焼き払う。
陽も傾かぬうちに、ヴェスター・ルージ海軍の軍船は、逃げ去っ
た数隻以外は、炎上して波間に漂いつつ潮の流れに乗って見えなく
なった。
さらにセイラスは、港へ侵入し、上陸させた兵士たちに町や港の
桟橋を焼き払わせた。シュレーブ海軍は三十名ばかりの戦死者と二
百を上回る負傷者を出したが、それとて敵の被害に比べれば僅かで、
シュレーブ海軍は一隻の船も失っていない。セイラス率いるシュレ
ーブ海軍の完勝と言えた。
セイラスらは勝利に酔いつつ、クトマスを離れた。早い潮の流れ
が彼らを待っていたが、それさえ、この潮の流れの中の操艦より勝
利の方が容易いという自信につながっただけである。
海の戦いの幕開けだった。
735
クトマス沖の海戦︵後書き︶
次回更新は土曜日の予定です。
防衛のため軍船を数箇所に分散しているルージ海軍は不利な戦いを
強いられ、局地的な海戦を続けますが・・・。その時、ロユラスが
命じた意外な作戦は・・・
﹁分散しているから不利になるというなら、敵を分散させてやれば
よかろう?﹂
彼は敗戦を笑い飛ばしながらそんなことを言ってます
736
ピレナとタリア
岬の高台から西の方向を眺めれば、広大な海に島々が浮かぶ光景
である。大陸は水平線に隠れて見えない。視界に入らない向こう岸
から奥深く、シュレーブ国で幾つかの戦いが起き、更に山々を隔て
たフローイ国で戦いが行われていると言うが、海を眺めるアトラス
の妹ピレナには、その凄惨な光景が想像もつかない。
ピレナはサーフェの花に命というものを考えた。振り返って、小
さな墓標を眺めれば、ザイラスの墓を埋め尽くした幾つものサーフ
ェの花束は、今は花は萎れて地に落ち、葉は新鮮な輝きを失って淡
い土色に変わって、花束は海風に乾燥した葉擦れの音を響かせてい
た。
その葉の一枚ごとにピレナの悲しみの涙を吸った花束と同様、ピ
レナ自身も悲しみの涙は枯れ尽くして、今は寂しげな笑顔を浮かべ
ているだけである。ザイラスの死の悲しみも、幼い頃に言葉や笑顔
を交わし合ったほのぼのした記憶に塗り替えられていた。その彼女
も冬を迎えて年を一つ重ねて十四になっている。
カイーキ
彼女は墓標の傍らに腰掛けて海を眺めた。
﹁ねぇ、ザイラス。お兄さまはランロイや王都を占領したそうよ﹂
フローイ国へ遠征した部隊から、ルージの都にもたらされた戦勝
報告だが、ピレナの表情は固い。ザイラスが眉を顰めてため息をつ
く姿が思い浮かぶようだった。兄のアトラスは、出陣に際して亡く
なった者たちに代わって復讐を成し遂げるという決意を告げていた。
ザイラスの篤実な人柄を思い起こせば、ピレナの願いが混じって
彼の思いが復讐ではなく、人々が平穏に暮らす世界であるように思
える。このルージ本島と南のヤルージ島がピレナにとってすべての
世界だった。しかし、彼女らの運命が大きく変わり始めてから、ピ
737
レナの世界は漠然とながらアトランティスやアトランティスを囲む
大きな海、その外にあるという大陸にまで広がった。
彼女の想像もつかない大きな世界に、兄の復讐の先に彼女やザイ
ラスが望むものがあるのかどうか、まだ幼い彼女は首を傾げるだけ
である。
この時、近くの樹木につながれていた愛馬エルナケイアが、別の
人の気配を察していなないた。ピレナ気がついて振り返ると一人の
村娘の姿があった。彼女を見つめる村娘にピレナは首を傾げて問う
た。
﹁どなた?﹂
自分より二つか三つ年上らしい、アワガン村のタリアである。村
を通りかかったピレナを見かけて密かにここへ追ってきた。ピレナ
には面識はないが、タリアは町で姫様としてピレナを眺めたことが
ある。タリアは突然に質問をした。
﹁ロユラス。いえ、ロユラス様は、お元気にしておられますか?﹂
初対面で名乗りもせず、いきなり質問を投げかけるのは不躾な行
為だが、ピレナはタリアのせっぱ詰まった様子に、ロユラスに親し
みを抱いてその身を心配している気配を感じ取った。確かに、彼女
の母リネがロユラス暗殺を謀るのではないかという根拠のない噂が
まことしやかに流れている。
﹁ロユラス様は、昼は館の会議室に籠もりっきり、夜はその横の一
室で寝起きしているわ﹂
ピレナは他人を語るようにロユラスの近況を伝えた。血筋から言
えば、腹違いの兄に当たる男だが、まだ肉親という感覚は沸いてこ
ない。ただ、その人物の不思議な雰囲気に好奇心はある。ロユラス
の近況を知って安堵するタリアの様子に、ピレナも唐突な質問をし
た。
﹁貴女は、ロユラス様のことが好きなの?﹂
こういう時のピレナは、幼い頃から兄のアトラスを悩ませたほど
738
好奇心の塊になる。口ごもるタリアにピレナは質問を重ねた。
﹁ロユラスってどんな人なの?﹂
﹁どんなと言われると、男です﹂
唐突な質問にタリアは妙な答えを返すしかなかった。ピレナは気
にする様子もなく次の質問を投げかけた。
﹁ロユラス様って、アワガン村では何をしていたの﹂
ピレナにそう聞かれても、タリア自身が行動の読めない男だった。
彼女は記憶をたどって言った。
﹁それは私たちと漁をしたり、海の向こうへ商いに行くと言って出
かけたり﹂
﹁漁などしていたの﹂
﹁でも、たいていは、母のフェリムネさまと一緒にお過ごしです﹂
﹁フェリムネってどんな人?﹂
素朴な疑問だった。王位継承で揉めたときに王の館に姿を見せた
フェリムネを見かけたことがあり、ピレナの好奇心の対象の一つで
ある。ただ、タリアは返答に窮した。彼女を始めアワガン村の人々
は、理由など求めず、フェリムネの人柄を敬愛していたのである。
難しい言葉を持たないタリアは敬愛の理由をわかりやすい言葉で表
した。
﹁お優しい方です﹂
ピレナの好奇心はくるくると切り替わって次の質問を発した。
﹁ロユラスと貴女はどんな関係?﹂
矢継ぎ早に発せられる質問にタリアは困った顔をして言った。
﹁ピレナ様。一度には答えられません﹂
ピレナは頷いて納得した。
﹁そうね。それでは一つだけ。貴女とロユラス様はアイしあってい
るの﹂
アイしあう。愛し合う。ピレナ自身が心に持つ疑問が、質問をぎ
ごちない口調にさせた。ただ、タリアの言葉ではなく、はにかみ、
心乱れる様子にピレナは彼女の質問の答えを得た。タリアはぎごち
739
なく心を言葉に紡ぎ始めた。
﹁ロユラス。いえ、ロユラス様が﹂
ピレナはタリアを制止して言った。
﹁待って。普段、ロユラスと呼び捨てにしているなら、そう呼べば
いい。貴女が言うとおりの人物なら、いきなり敬称をつけられるよ
り喜ぶわよ﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁アイしあう男女に一番大事なことだわ﹂
ピレナはそう断言して付け加えた。
﹁二人だけの時は、私のこともピレナ様ではなくピレナと呼んで下
さいな﹂
愛という疑問は片づいたらしい。ピレナはふと気づいて別の疑問
を口にした。
﹁それで、貴女の名は?﹂
ピレナはようやく相手の名を知らないことに気づいたらしい。
﹁タリアです﹂
タリアも名乗るのを忘れていた自分の不躾な態度に気づいたらし
い。二人は顔を見合わせて笑い合った。年齢が近いというばかりで
はなく、互いに大切な人がいるという境遇で一致していてうち解け
合うのに時間はかからなかった。大切な人がいたという過去の話で
はなく、ピレナの大切な人、ザイラスは彼女の心で息づいていた。
ピレナはふと思いついて、枯れたサーフェをかき集めた。両腕に
抱えて余るほどある。彼女は岬の崖っぷちに立ち、その腕を大きく
開いた。サーフェが海風に舞い散った。亡くなった数多くの人々を
悼む散骨の儀式にも見えた。
﹁何をなさるのです?﹂
タリアの疑問に答えず、ピレナは言った。
﹁さぁ、貴女も手伝って﹂
間もなく、墓は枯れた葉の一片も残さず、黒っぽい地面に置かれ
740
た小さな石の墓標だけになった。
﹁ここにローホミルを植えようと思うの﹂
ピレナは墓標を眺め、今度は花束ではなく、持参した野草を植え
るという。地面に沿って茎を伸ばし、小さな紫色の花を幾つも咲か
せる野草である。
︵きっと︶
ピレナはその光景を想像した。春とともに墓は小さな花で覆われ
る。夏を前に枯れてしまうが、それは生命の終わりではない。地に
落ちた種子は、冬を前に芽吹く。冬の寒さを力強く乗り越えて成長
した生命は、次の春にまた可憐な花を咲かせる。命が引き継がれて
いく光景がここで繰り返されていくはずだった。
今は寄り添って立つ二人の娘の静かな時間が破られた。
﹁あれは﹂
タリアが指さす沖合に一隻の軍船が見えたのである。帆は帆柱の
一部と共に焼け落ち、酷く損傷した船腹から左右五本ばかりの櫂が
尽きだして弱々しく海を撫でていた。戦には素人の二人にも、戦闘
の後だと言うことが理解できた。
さらに、岬へと駆け上がってくる人物がピレナの姿を確認して叫
んだ。
﹁姫様。王の館にお戻り下さい。ルシラス殿がシュレーブの軍船が
クトマスに迫っていると知らせて参りました﹂
現れたのは王妃リネに仕える若い侍従の一人である。戦闘前にル
シラスが本国へ発した情報が届いたのである。ただ、侍従もピレナ
が眺めた光景に気づいて息をのんだ。あの軍船の悲惨な姿が、彼が
告げた戦いの結果だろうと気づいたのである。
741
妹ピレナ
﹁そなたたちは、いったい、どうするつもりじゃ。まったく、口先
だけかや﹂
ロユラスは肩をすくめてそう呟くように言い、周囲の者は苦笑い
の表情を浮かべた。ロユラスは先ほどまでこの広間で弁舌をふるっ
ていた王妃リネの口まねをしたのである。彼女は日に一度は侍女団
を引き連れて広間に姿を現して、男どもの不手際を責める。王たる
夫を亡くしたとはいえ、ルージ国の盟邦ヴェスター国王の妹君の立
場があって、彼女をおろそかに扱うことはできない。
ただし、ロユラスは彼女に一つ功績を認めねばならない。王妃リ
ネがやっかいだという思いで海軍司令官フェイサスの思いはロユラ
スと一致していて、その話題では苦笑いを交わす関係である。
フェイサスはロユラスを王位に就けようと計った息子のルシラス
を一言で制してアトラスが王位に就く道を開いたばかりではなく、
ロユラスが進言したフローイ国侵攻の作戦は、誇り高いルージ海軍
をただの輸送船団として扱うようなもので、フェイサスの心情を傷
つけているかもしれないのである。王妃リネの存在はそのロユラス
とフェイサスの関係をつなぎ止める役割をしたのである。
フローイ国侵攻は順調に進んでみると、フェイサスは事実を受け
カイーキ
入れて、ロユラスの正しさを認めている。フローイ国と講和したと
いう情報はまだ届いてはいなかったが、フローイ国の王都を陥落さ
せたという。思いもかけない早い陥落に、ロユラスはアトラスの軍
事的な才能を認めた。ふと、サレノスの顔が浮かび、彼ならロユラ
スとアトラスが同じリダルの血を引いていると言うだろうとも思っ
た。
本格的な冬を迎え、陸の戦いは有利のうちに一段落がついていた。
ルージ国の目下の気がかりは大兵力を要するシュレーブ海軍のこと
742
である。海が荒れやすい冬に本格的な動きをするとは考えていなか
ったが、春の到来と共に本格的な襲来があるだろうと考えていた。
しかし、勝利の功に焦る軍人の心理を読み切れていなかったよう
で、シュレーブ海軍がクトマス沖に姿を見せたという情報に驚きを
隠せなかったのは昨日のことである。そして、今日は、ルシラスが
敗軍の将として帰国した。クトマス沖での戦況を語り、最後に悔し
げに言った。
﹁フローイに向けた軍船が手元にあれば﹂
ルージ海軍は三百隻近い軍船を有しているが、どこに現れるか分
からぬ敵に合わせて数カ所に分散して配備されている。ルシラスが
二十隻の船を率いて守備していたクトマスの町もその一つである。
ルシラスが言うのは指揮下の二十隻以外に、フローイ国への輸送に
振り向けている数十隻の軍船が指揮下に加わっていればと語ってい
るのである。
父親のフェイサスが即座に怒鳴りつけた。
﹁ルシラスよ。敗軍の将が見苦しい﹂
﹁せめて、敵と数が同じなら、このルシラス。みすみす負けやせぬ﹂
﹁それが、くどいというのだ﹂
海の戦いに慣れない重臣たちは、口出しをするきっかけもつかめ
ず、親子の論争を眺めるしかない。ロユラスがフェイサス言った。
﹁息子をそう責めるな。シュレーブの軍船は俺もウルリの港で眺め
たことがある。アレが動き出したとなればやっかいなことだ﹂
﹁では、どうするとおっしゃるのですか﹂
フェイサスの問いに、ロユラスはうつむいて少し考えて言った。
﹁我が海軍があちこちに分散しているから困るというなら。奴らの
方こそそうしてやればいい﹂
﹁どうしたら、そんなことが?﹂
ロユラスはフェイサスに視線を移して言った。
﹁フェイサスよ。海賊たちのへの戒めを解いてやってはどうか﹂
﹁海賊たちのへの戒めですと﹂
743
﹁ウルスス王の時代に討伐した海賊どもを、罪を許し、命を救う代
償に、漁民にしているのではないか﹂
ロユラスの言うとおり、現在の王アトラスの祖父の代に、ルージ
本島とアトランティス大陸の間にある無数の島々を根城にして暴れ
回る海賊たちを討伐した。海賊たちの助命を条件に、ルージ本島の
村に移住させて漁民にした。アワガン村などはその良い例の一つで、
未だに海賊時代の荒々しい気風を残していた。
ロユラスは言葉を継いだ。
﹁奴らが暴れ回れば、シュレーブ海軍もどこに出没するか分からぬ
相手に手を焼くだろう﹂
﹁その通りですが﹂
フェイサスの表情は渋い。ロユラスの言葉は、海の治安を預かる
フェイサスに、元犯罪者たちを開放し、犯罪をあおれと要求するよ
うなものである。ロユラスはフェイサスの悩みを気にする様子もな
く言い添えた。
﹁いや、何。襲うのはシュレーブの沿岸のみで良い。それでも獲物
はたくさんある。シュレーブの商船に沿岸部の裕福な町。フェイサ
スよ、お前の許可があれば海賊どもも大喜びだぞ﹂
ロユラスは自分の思いつきに酔うように話し続けた。
﹁おおっ、そうだ。シュレーブの大商人どもの財宝を奪って、町で
ばらまいてやればいい、住民から苦情は起きず、商人どもはこぞっ
て王に苦情を言うだろう﹂
フェイサスは渋い表情を変えることなく、ロユラスのたくましい
想像の広がりを押さえるように言った。
﹁分かりました。認めましょう。ただし、戦の間だけです﹂
海の治安を守る責任者の承諾を得たロユラスは、うれしげに言っ
た。
﹁それは良かった。俺も一度、海賊を経験してみたいと思ってたん
だ﹂
ロユラスの言葉にフェイサスは念を押した。
744
﹁もし、戦が終わっても続けられるなら、私はロユラス様も海賊と
して捕らえて処刑せねばなりませんな﹂
話は順調に進んだが、実務はややこしい。昔は海賊だった者たち
に海賊家業に戻って良いとの布告を出し、漁船で海賊ができるわけ
ではなく、それなりの船や武器も提供してやらねばならない。なに
よりも、むやみやたらと海賊働きをされてはかなわず、幾つもの海
賊の船に統一して命令を下して管理する必要もあるだろう。重臣た
ちは思いもかけない手続きに謀殺されることを予想しつつ足早に広
間を去った。
広間にロユラスが取り残された。これから起きる海の戦に血をた
ぎらせるように微笑んでいた。彼は再び遠くフローイの地にいるサ
レノスの事を思い出した。
﹁お父上の血筋でございましょう﹂
フローイ国侵攻の計画を立てるロユラスをサレノスはそう評して、
アトラスと共に出撃した。
︵お父上の血筋か︶
以前なら、リダルの息子だと称されるのを嫌がったロユラスだが、
母の心に触れた今は父親に対する憎しみは消え、むしろ父親を愛せ
なかった自分への自虐的気分が沸いていた。
物思いにふけるロユラスに声をかける者がいた。
﹁ロユラス。ロユラス様﹂
振り返って眺めれば、カーテンの陰に半ば姿を隠して笑顔をのぞ
かせるピレナの姿があった。
ピレナは唐突に聞いた
﹁ロユラス様は、アワガン村のタリアのことは好き?﹂
﹁タリアだって?﹂
﹁私の親友だわ。どう、タリアのこと、愛してる?﹂
突然の質問に無言のロユラスにピレナは歩み寄って尋ねた。
745
﹁ねぇ。愛してるの?﹂
ロユラスは口ごもり、ようやく話題をそらす言葉を吐いた。
﹁そんなこと、どうでもよかろうよ﹂
﹁ほらっ、その慌てた様子。好きなんでしょ。アイしてるんでしょ。
図星でしょ﹂
﹁他人を驚かせるのが、お前の趣味か?﹂
﹁ええ、心を見透かされた殿方がどきまぎして慌てる様子を見るの
は、大好き!﹂
﹁やっかいな娘だな﹂
﹁じゃあ、この館にいて、タリアのこと思い出すことはある?﹂
﹁時々な﹂
﹁分かってないのね。それが女をアイすると言うことだわ﹂
ピレナはそう断言した。ロユラスは改めてピレナをまじまじと眺
めた。まだ幼い。歳は確か十四になったばかりの子供である。そん
な子供から男女の愛を説かれるとは思わなかった。ロユラスの油断
だった。しつこいと叱りつける気にもなれず、子供をあしらう感覚
でつい本音を吐いた。
﹁ピレナよ。お前の言う通りだろうよ。俺に好きな女がいても不思
議じゃあるまい﹂
﹁ロユラスはタリアが好きなのね﹂
﹁そうだ﹂
﹁タリアのこと、アイしているのね﹂
微妙な愛を理解しているかどうか分からない妹の﹁アイしている﹂
という言葉にロユラスはそれが現実に存在すると断言して言った。
﹁その通りだ。間違いない﹂
気づいてみれば、いつの間にやら、ロユラス、ピレナと名前を呼
び合う親しさが生まれていた。
﹁それじゃあ。あとは直接に自分で言うのよ。男らしくね﹂
ピレナが先ほどまで姿を隠していたカーテンをめくって、もう一
人の人物の姿を露わにした。ロユラスは戸惑いながら、その人物の
746
名を呟いた
﹁タリアか?﹂
彼女は言葉を発しないままロユラスに駆け寄って、彼の胸に顔を
埋めた。ロユラスも彼女を愛でるように眺め、優しく抱いた。
タリアはロユラスの胸に顔を埋めたまま言った。
﹁約束して。戦が終わったらアワガン村に、私の所へ帰ってくるっ
て﹂
﹁容易いご用だ﹂
﹁本当に?﹂
﹁本当だ﹂
胸元のタリアにそう囁いた後、ロユラスは顔を上げて、不思議そ
うに二人を眺めるピレナを眺めた。
愛し合う男女が、熱烈な抱擁とキスを交わし、愛の言葉を叫び合
う。彼女はそんな光景を期待していたのだろう。ロユラスは苦笑い
を贈って、これが大人の愛情だと彼女に教えた。しかし、久々にタ
リアと出会え、心を素直に伝えることができたというのは、このピ
レナのおかげだろう。人に本心を明かさないロユラスに本音を開か
せたという点で、ピレナも立派な策士と言えた。彼女は策略を巡ら
すという点でリダルの血を引いているのかもしれない。
﹁俺の妹か﹂
ロユラスのそんな呟きに、タリアも振り返って彼女を眺めて頷い
た。
747
アワガン村の海賊
この時代、アトランティスの海賊たちは、商船の航路に近い島々
で獲物を待ち伏せて襲うのを得意にする者と、数隻の海賊船で海岸
部の町を襲うことを得意にする者たちがいる。アワガン村の元海賊
たちは後者である。
村の浜辺の若者たちに浴びせかけるように、声が響いていた。
﹁いいか。殺しは極力やっちゃなんねえ。ただし、自分の身は守れ﹂
そんな物騒な声だが、元は海賊だったとはいえ、世代は代わって
おり、若者たちは生まれたときから漁師として育っている。張り切
って声を張り上げているのは白髪交じりの年配の者たちである。
﹁殺しをやると人の恨みを買う。特に女子供を殺せば恨みは一生つ
きまとう。恨みを持って追いかけてくる者はしつこいぜ﹂
別の先輩海賊が、彼自身の体験を込めて自信の籠もった意見を述
べた。
﹁大事なことはな、奴らを怯えさせ、俺たちの姿を見ただけで、供
物を差し出すようにすることだ﹂
ロユラスも初心者として、先輩の話を注意深く聞いていた。年寄
りが体験談として海賊時代のことを語るのを聞いたたことはあるが、
この時ほど大っぴらに昔の話を聞くのは初めてだった。
体験談は続いた。
﹁ただし、ここが大事だ。全部、奪っちゃなんねえ。奴らが生きる
分は残してやれ﹂
ロユラスはその言葉を理解した。生きていくための食料まで全て
奪えば、必死の抵抗をうける。獲物はほどほどに、次の収穫を生む
芽までつみ取っては後で苦労するという、海賊らしい合理性だろう。
ロユラスはふと思い出した。ギリシャ人の彼の母はアトランティ
スの神々の神像を祀ることはないが、アワガン村の人々は、家内安
748
ルードス
アナリシア
全でも祈るように、契約の神と豊穣の神の小さな像を並べて祀って
いる。漁民の彼らがどうして海と関わりのない神々を祀るのか不思
議だったが、被害者たちの生命はできるだけ保証するという契約と、
彼らが稼いだ財産を収穫する豊穣の祈りと自戒を込めて祀っていた
アナリシア
のではないかと思い当たったのである。
ロユラスも豊穣の神と、タリアの姿を交互に思い浮かべ、彼女が
ルードス
数多くの恵みを得られるようにと祈った。ただ、戦いが終わればタ
リアのもとへ戻るという約束を契約の神に祈るのを忘れた。
ロユラスがふと気づけば、男たちら距離を置いてこちらを眺める
女や子供の姿がある。男たちの妻や母、子供たちである。女たちの
不安げな表情や、子供が母に寄り添う様子に気づいてみれば、ロユ
ラスが村の人々に求めた行為の危険性が思い起こされる。漁師とい
う時に命がけの仕事ではなく、まさしく生と死の狭間の運命を彼ら
に課すことになる。
この若者たちを海賊に駆り立てて、死の危険にさらすだけではな
く、時に殺人まで犯させるというのに、ロユラスの心に、女たちと
向き合いがたい罪悪感が浮かんだ。
ただ、先日はクトマスの町がシュレーブ海軍によって焼き払われ、
巻き添えで死んだ女子供や老人も数え切れないと聞く。シュレーブ
海軍をそのままにしておけば、やがてルージ国の沿岸部の村も同じ
目に遭う。村や町を守るため。そんな理由をこじつけるしかない。
同じ光景は、他の幾つかの村でも見られる。このアワガン村の者
たち以外にも、元海賊だった者たちの村が幾つかあった。ロユラス
はその村々を回り、彼の管理下で仕事をする条件で、船と武器を提
供し海賊働きを許した。
ロユラスの配下に三十隻ほどの海賊船と、五百人ばかりの荒くれ
男たちが海賊として加わった。
749
ロユラスは最初の襲撃地を決めていた。シュレーブ海軍が利用す
るウルリの港町のやや北にボラナルの港町がある。ロユラスはフロ
ーイ国からシュレーブ国を抜けてルージ国に帰る途中に通過した町
である。ウルリが軍港として発展するにつれて、商船が追い出され
るようにボラナルへと移動したらしく、大商人たちが集う商業港と
しての機能を持っていた。
警備は緩やかだと言うことは町の雰囲気の中に感じ取っていた。
ウルリから海路で半日、ボラナルが襲われたということを知って、
シュレーブ海軍が駆けつけるのは、明くる日になる。町を襲った後、
姿を消すには十分だった。何より、大商人の蔵や商船が集うという
のは、海賊に知ってこれほど良い狩り場は無いだろう。
時を同じくして別の船団が別の幾つもの町を襲い、すぐに姿を消
す予定だった。沿岸部のあちこちから海賊の被害の情報が届けば、
ウルリのシュレーブ海軍も大あわてだろう。
750
アワガン村の海賊︵後書き︶
次回更新は、今週の土曜日からの三日間の予定です。
751
ボラナル襲撃
海賊見習いのロユラスが率いる五隻の海賊船は、夜半ボラナルの
近海を遊弋した。実質上の指揮官でミドルの父ジョナルが、獲物を
襲う前に慎重に偵察するものだと教え、ロユラスも納得した。ロユ
ラスの見込み通り、港の周辺にシュレーブ軍の軍船の姿はなかった。
空が白み始めると同時に、海賊船は港へと接近し始めた。ここ数
十年間、海賊に襲われた経験のない町は平和な雰囲気と活気に満ち
ていた。遠目に眺める人々の顔には陰りがなかった。陸の戦いが一
段落し、一時の平和を貪っている姿である。
海賊船はいよいよ港の桟橋に接近した。豊かな富を象徴する商船
が何十艘も停泊し、その何艘かは多量の物資を搭載して、船底を海
面から深く沈めていた。
さら
﹁女房が怖けりゃ、女を、とりわけ綺麗で若い女は掠うんじゃねぇ
ぞ﹂
ボラナルで女を誘拐して連れ帰れば、男たちの身を心配して待っ
ている女たちとの間に一悶着起きるに違いないというのである。ジ
ョナルが新米海賊たちの緊張をほぐすようにそう叫び、笑い声が広
がった。昔は襲った町で女を掠うこともあったらしい。ただし、今
回はルージ国を遙かに離れた場所で、戦闘員になる男たちを多数搭
乗させてきた。男たちだけで狭苦しい海賊船に、女などを乗せて長
い航海をする気にはなれない。
船腹から数多くの櫂を突きだした軍船でもなく、平底の商船でも
ない。甲板のない丸底の船は、古いシュレーブの船乗りに、海賊の
記憶を蘇らせた。彼らは過去の記憶に恐怖した。
漕ぎ手が左右五人づつ。それ以外の者たちは鍋の中に熾した火を
火矢の先端に移し、商船の帆や帆柱に放ち始めた。船を焼いてしま
752
うには惜しい。余裕があれば乗り込んで船を奪って帰りたいところ
だが、鈍足の商船を連れてシュレーブの軍船から逃げ切れる保証は
なく、今回はあきらめるしかない。
五隻の海賊船が港の桟橋に着くまでに半数の商船が炎上し始め、
商船の甲板では必死で消火に当たる水夫たちの姿が右往左往して見
えた。海賊たちは船底に隠していた剣や手斧を右手に、左手には松
明を手にして桟橋から町の中へと駆け込んでいった。
間もなく放火された家並みから煙が上がり始め、煙は炎に変わっ
て隣家へと燃え移っていった。海賊たちは二十人ほどのグループに
分かれて町を荒らし回った。ロユラスはジョナルやミドルと同じグ
ループにいた。
彼らは民衆を脅すように大声で呼ばわっていた。
﹁俺たちはレイランの海賊様だ﹂
﹁久々にレイランから出向いてやったぞ。歓迎の貢ぎ物はどうした﹂
海賊たちが口々に叫び、口にするレイランは、アトランティス沿
岸を荒らし回って恐れられた海賊の根拠地である。過去を知るもの
なら、その名を聞くだけで怯えるだろう。
﹁兵隊どもが出てきたぞ﹂
海賊の一人がそんな声を上げた。剣を構えた男たちが出てきたの
である。ただ、裕福だが平和な小さい町の治安を維持するためだけ
にいる。それだけに数は多くない。二十名ばかりのグループに分か
れて町を荒らし回っていた海賊の一団は、四名の警備兵を瞬く間に
片付けた。
手当たり次第に家々に侵入し、家人を脅してめぼしいものを奪い、
家を焼く。海賊たちの脅しの声以外は、人々の驚きと恐怖の声ばか
りだった。やがて炎は町に広がり、逃げまどう人々の姿が町中にあ
ふれた。混乱は海賊たちにとって都合が良い。ロユラスが腰につけ
た袋も奪った貴金属でずしりと重かった。
﹁やっちまえ﹂
ロユラスがそんな声の方向に視線をやってみれば、海賊たちを待
753
ち伏せするように物陰にいた警備兵が三人姿を現していた。避難す
る民でごった返す街道上である。
﹁まずいっ﹂
ロユラスがそう舌打ちしたのは、海賊と警備兵が切り結んだまま
逃げまどう民衆になだれ込んだことである。身軽な民は剣を避けて
逃げたが、老女が一人海賊が振り回す剣に触れて悲鳴を上げる間も
なく血を吹いて倒れた。幼い子供の手を引いた妊婦も、警備兵を避
けきれず、振り回される剣に触れて倒れた。
三人の勇敢な警備兵が死んだ後、苦痛にもがき苦しむ妊婦とその
傍らで何もできず呆然と寄り添う幼い男の子の姿が残っていた。傷
を見れば、この母親が生き延びる望みはなかった。
﹁ロユラス。行くぞ﹂
ジョナルにそう声をかけられたが、ロユラスはしばらく黙って母
と子の姿を眺め、それがやむを得ない手段であるかのように、手に
した剣でもがき苦しむ母親の喉を突いて絶命させた。ちらりと子供
の様子を眺めれば、泣きもせず目の前の光景が信じられないように
目を見開いていた。この子はロユラスが母を苦痛から救ったとは思
うまい。ロユラスは腰の袋を外して子供に与え、逃げ去るように立
ち去った。
海賊たちが獲物に満足したのは、日も高く上がった頃である。ジ
ョナルが吹いた指笛の合図が海賊たちの間に広がり、町のあちこち
に散らばった海賊たちから指笛が響いた。引き上げの合図である。
彼らは獲物を手に桟橋へと戻り、未だ桟橋に係留されている商船を
焼き払い、自分たちの船へと戻った。獲物の大きさに海賊たちの表
情は明るい。警備兵との戦闘で傷ついた者、それに肩を貸して支え
る者でさえ、作り笑顔を浮かべていた。
彼らは敢えて陽気に振る舞ったが、この襲撃で仲間に二人の死者
が出た他、負傷者の数も多い。ロユラス自身も生まれて初めて人を
殺めた。そして、戦闘や略奪に巻き込まれた町にも数多くの死者が
出たに違いない。ロユラスは遠ざかるボラナルの町の姿が空に吹き
754
上げる煙に変わるまで、じっとこの経験をかみしめていた。
﹁どうでい、ロユラス。初仕事の感想は?﹂
ジョナルの大声に、ロユラスは初めてその存在に気づいたかのよ
うに顔を上げた。彼は少し考えて言った
﹁これが海賊か。これが戦というものか﹂
﹁なんか気にいらねぇえ事でもあるってのかい?﹂
﹁いんや、俺は皆を危険に晒したのかと﹂
﹁気に病むんじゃねぇぞ。漁師をやるより、ちっとばかり危険だが、
獲物は多い。帰って獲物を見せりゃあ、女房子供も大はしゃぎだぜ﹂
ジョナルの言葉はロユラスが現国王の兄だという身分差を感じさ
せない荒っぽさがある。海の上では経験が物を言う。ここでは、海
の生活に慣れたジョナルが格上の存在だが、それだけではなくこの
仕事の責任をロユラスに代わって背負ってやるという包容力も見せ
ていた。
ジョナルとロユラスの会話の中、ジョナルの息子ミドルの悲痛な
声が響いた。
﹁畜生。ルストルが死んじまった﹂
警備兵と戦って傷ついていた仲間である。ロユラスにとってもミ
ドルと並ぶ幼なじみの一人だった。故郷にはルストルの帰りを待つ
妻と幼い子供がいる。ロユラスは戦を実感した。
ただの気まぐれのようにフローイ国侵攻の計画を練り、アトラス
にそれを託して実行させた。計画が順調に推移しているとの報告を
受けて、ロユラスは自分の戦略と才能に内心得意満面だった。しか
し、それはいまロユラスが味わっているこの思いの何百倍、何千倍、
ひょっとしたら想像もつかないほどの重荷を、弟アトラスに背負わ
せることになっているだろう。
ロユラスは母フェリムネと自分のためだけに飄々と生きてきたが、
あの弟はずっと王家の血筋の重みを背負い、今はルージ国王として、
フローイの人々の憎しみの中にいる。
755
ロユラスはふと苦笑した。いつの間にやらアトラスに弟という感
情を抱いていた。弟アトラスが背負った重みの半分は自分が背負っ
てやらねばなるまい。ロユラスの心にそんな思いが浮かんでいた。
756
エリュティアの成長
ロユラスがボラナスの町を襲撃したのと時を同じくして、五つの
パトローサ
海賊船団がシュレーブの沿岸部の町を荒らした。
ただ、その知らせはまだシュレーブ国王都には届いていない。も
ちろん、王の謁見の間を訪れようとしてするエリュティアと侍女ル
テナエもそれを知る立場にはなかった。休養中のルスララに代わっ
てエリュティアの侍女たちを束ねているルテナエが慎重な性格を露
わにして囁くように言った。
﹁お言葉にはくれぐれもお気をつけなさいませ﹂
たとえ愛娘のお願いであっても、あの気まぐれな王は感情を害さ
ないとも限らないということである。その予想された出来事が、彼
女たちの目の前で起きていた。
パトローサ
シュレーブの王都にシュレーブ海軍司令官セイラスからの使いが
到着していたのである。
使者の口上を聞き始めた王ジソーは表情に怒りを露わにした。
﹁戦いの時期は儂が決めるとセイラスに言い聞かせておいたはず。
奴は儂の命令を無視して勝手に戦を始めおったというのか﹂
王の言葉はセイラスの予想通りだった。使者はこの王の怒りをそ
らすためにセイラスから派遣されていた。使者はセイラスから言い
含められた通りの口上を述べた。
リカケル・ナーバ
﹁いえ、訓練航海の途中、ルージ海軍に襲われ、これを撃退したも
のです﹂
﹁月の女神の海の外へ出て訓練だと?﹂
王の疑問ももっともだった。シュレーブ海軍は防御的な色彩が濃
い。攻め寄せてきた敵を迎え撃ったり、海賊から沿岸の町を守るた
めにいる外洋に出ることは滅多になく、大半は波の静かな湾の中に
757
リカケル・ナーバ
いる。ただ、その守備範囲である月の女神の海が広いために、軍船
の数は島国のルージ海軍に匹敵するほど多い。
そんなシュレーブ海軍がルージ海軍と交戦したということは、王
ジソーの命令を無視し、戦いを求めて外洋に出たという事に違いな
い。その判断は正しい。しかし、セイラスはその王の怒りを解く口
上も準備させていた。
﹁我らシュレーブ海軍は王のために命を捧げる覚悟。王の命令とと
もに、ルージ国侵攻の先鋒となりまする。そのためには、兵員に外
洋の荒海を経験させておくことが必要。全ては、我らが王のいかな
るご命令も実行するためでございます﹂
﹁儂に忠誠を尽くそうとな﹂
﹁それだけではございませぬ﹂
﹁他にも何かあるのか﹂
﹁我らシュレーブ海軍が、我らが王のために積み重ねてきた訓練の
成果をお聞きくださいませ。我らが王に忠誠を尽くすセイラス殿率
いる我が海軍は、突然に襲いかかってきた六十隻もの敵を一気に片
付け、我らには一隻の被害もございませんでした﹂
実際にクトマス沖で戦ったヴェスター国とルージ国の軍船を合わ
せて四十隻あまりだが、敵の被害は景気よく水増しされていた。
﹁おお、そうか。セイラスめ、やりおるわい﹂
全ての人々が自分の意向に沿うというのが、この王の秩序の基準
で、その基準に沿い、自分のために努力と労力を惜しまなず戦果を
上げたというのは、賞賛に値する。この日、使者がウルリの軍港へ
帰ってからも、気まぐれな王の笑顔は続いた。
王の機嫌が良い。その状況でエリュティアがルテナエを伴って姿
を現した。
﹁お父さま⋮⋮﹂
口ごもる愛娘に機嫌の良い父が尋ねた。
﹁エリュティアよ。いかがした。庭で新しい花でも見つけたと知ら
758
せに来たか?﹂
﹁いいえ﹂
﹁我が愛しい娘よ、何か心配事でも﹂
父の質問に口ごもるエリュティアを見かねるように侍女ルテナエ
が言い添えた。
﹁エリュティア様は、我らが王のお手伝いをしたいと、ずっと気に
かけておられます﹂
侍女の言葉に、機嫌の良かった王はいきなり怒りを露わにした。
愛娘には、くつろいで過ごせと指示してある。それ以外の選択肢は
与えていない。その愛娘が父である自分の言いつけに逆らい、しか
も、政務にまで口を出そうとしているのかと考えたのである。ただ、
その王の怒りは娘ではなく侍女に向いた。
﹁ルテナエ。そなたら侍女どもは、我が娘に何か良からぬ事でも吹
き込みおったのか﹂
王の怒りにルテナエは平伏した。
﹁とんでもございませぬ﹂
エリュティアは侍女に寄り添って断言した。
﹁お父さま。私が言い出したこと。ルテナエには何の責任もござい
ませぬ﹂
娘にそう言われると、怒りをルテナエに向けるわけにも行かず、
愛娘に怒りを向けるには彼女を愛しすぎていた。
王ジソーは孤独な王子として育った。民や家臣の敬愛ばかりでは
なく父や母の愛情も聡明な兄のオタールに向けられていると感じ続
けていた。思いもかけずシュレーブ国王の座に就いたが、孤独感は
劣等感を加えて膨れあがった。それを癒した最愛の妻も流行病で他
界した。愛する妻を一途に思い、後添えを迎えることも拒否し続け
たところを見れば、人並み以上の愛情を持った人物だろう。そのジ
ソーの愛は、妻が残した娘一人に注がれてた。エリュティアがジソ
ーにとって自分を愛してくれる存在の象徴だった。
そのエリュティアがいつまでも自分の意のままの人形で傍らにい
759
てくれたらというのが父としてのジソーの密かな思いだった。しか
し、その愛娘が一人前の人として成長し始めている。
760
フェミナの父1
海軍司令官セイラスは、新たな戦勝報告を携えてウルリの港へ戻
ってきた。ロユラスらルージ国の海賊が沿岸の町を襲う数日前であ
る。
クトマスのあと、帰港の途上にルージ島南部のヤルージ島とラル
ージ島を襲い、ルージ軍の軍船五十を沈め、五つの町や村を焼き払
ってきた。もはや海軍の根拠地として機能はすまい。ルージ海軍が
保有した三百の軍船も二百を少し超える程度まで打撃を与えた。シ
ュレーブ海軍が失ったものは大型軍船五隻と百名を下回る兵員に過
ぎない。小規模な港町を潰し、ルージ軍の兵力を一カ所に集めて決
戦に持ち込むというのがセイラスの戦略で、その計画の一部を完璧
に果たして帰国したと言うことである。
パトローサ
ウルリに戻った彼を王ジソーの使者が待っていた。セイラスは苦
笑した。先のクトマスの戦勝祝いのために王都に帰還せよという。
パトローサ
その意図は理解できた。セイラスをウルリから引き離しておけば勝
手に海軍を指揮することはできず、大戦果を上げたセイラスを王都
パトローサ
に呼び戻して、その功績を自分の物として民に印象づけることがで
きるだろう。
パトローサ
セイラスは巨大な軍船でルードン河を王都まで遡ることはできず、
小さな帆船に乗り換えてきた。ただ、小さな船から王都の桟橋に降
パトローサ
り立った彼を人々の歓喜が包んだ。すでに彼の最初の使者が伝えた
戦勝報告は王都に鳴り響いていて、喜びに沸く人々は彼の帰りを待
ち受けていたのである。
勝利の将軍をたたえる宴は数日間にわたって続いた。エリュティ
アはそんな賑やかさと喜びから一人取り残されたように、特別な目
的も持たずに王宮の回廊をさまようように歩いていた。
761
﹁あれは?﹂
エリュティアは王宮の一角で見かけた人物に首を傾げた。顔は見
知っていても王宮で日常的に見かける人物ではない。侍女がエリュ
ティアも知っている男の名を口にした。
﹁リマルダのガルラナス様でございましょう。ただ、傍らのお子様
は﹂
カイーキ
フローイ国に政略結婚で嫁いだフェミナの父がまだ幼さが残る少
年と居た。フローイ国王都が陥落したという知らせと共に父と娘の
音信が途絶えていた。娘の消息を確認するために何度か王宮を訪れ
ていて、娘フェミナからジソー宛の親書も届けたことがある。今も
その目的があるのだろう。
ガルラナスもエリュティアに気づいて寂しげな会釈をした。その
表情で、彼が王と謁見できなかったことが知れた。最近、王に謁見
できずに帰ることがある。ガルラナスが娘のフェミナをフローイ国
に嫁がせたのは、王ジソーの命令といっても良い申し入れだった。
その申し入れに応じたガルラナスに、王ジソーは知りうるフェミナ
の近況を伝えてやらねばならないだろうがその情報を持っていなか
った。
カイーキ
じゅうりん
王ジソーはまだフローイ国がルージ国と講和したということは知
らないが、フローイ国の王都がルージ軍に蹂躙されたという知らせ
は受けている。自分の命令で嫁がせたフェミナの消息が分からない
というのは、王ジソーにとってガルラナスと顔を合わせるのに気ま
シリャード
ずいのである。しかも、ガルラナスは代々王家に忠誠を尽くした家
系で、聖都付近の広大な領地を所有する有力者である。その彼を他
の家臣と同様に扱って怒鳴りつけることもしがたい苛立ちもつのっ
ている。
また、ガルラナスは二度ばかり、フローイ国王子の妻としての立
場のフェミナからの親書を携えてきた。王ジソーにとって家臣の一
人に過ぎない娘が、自分と対等に交渉しようと計っているかのよう
な腹立たしさを感じていた。
762
様々な思惑が絡んで、王ジソーは考えつく限りの言い訳を駆使し
てガルラナスの謁見を断り続けているのである。
ガルラナスが王宮から立ち去ろうとしている。
︵もし、私に力があれば︶
エリュティアは失望感と共にそう思った。もし、自分に力があれ
ば、ガルラナスは彼女を頼って王に謁見しようとしただろう。しか
し、彼はエリュティアに寂しげな笑顔を送っただけ。エリュティア
は彼にとってそれだけの存在感だった。
﹁ガルラナス様﹂
戸惑いを込めた呼びかけに、ガルラナスと少年が振り向いた。
﹁何か?﹂
﹁フェミナの事など、お聞かせ願えませんか。私にとっても親しい
幼なじみ。彼女の事が心配でなりません﹂
そんな用件を述べる彼女に、ガルラナスは笑顔に喜びの表情を浮
かべた。
﹁それは、私どもももお願いしたいこと﹂
﹁それに、私もフローイ国のグライス様と言葉を交わしたことがご
ざいます。その折りに聞いたフェミナのこともお話しができれば﹂
エリュティアの言葉に少年も歓喜の表情で言った。
﹁それは良い﹂
﹁貴方は?﹂
﹁私は、フェミナの弟でリシアスと申します。お見知りおきを﹂
少年は聡明な物言いをしたが、幼いが故の生意気さが垣間見える。
ガルラナスは笑顔を浮かべたまま謝罪した。
ナクトル
﹁我が子息の不躾の段、お許し下さい。今日はこのリシアスの忠義
の宣誓で王宮に参ったのですが﹂
口ごもるガルラナスにリシアスが言葉を継いだ。
﹁我らが王は、このリシアスがまだ幼い故に儀式は先で良かろうと
申されたそうです﹂
763
エリュティアは理解した。各地の領主は跡継ぎと定めた人物がま
だ若いうちに王に謁見を求めて、王の前で忠誠を誓わせて領地を安
ナクトル
ナクトル
堵する。シュレーブにそう言うナクトルと呼ばれる儀礼があった。
ただ、リシアスはその儀式を経るにはまだ幼い。ガルラナスは儀式
を口実に王の謁見を求めたに違いない。
764
フェミナの父2 仕えるべき者
エリュティアは彼を居室に招いた。招く場所はその部屋でなけれ
ばならいとエリュティアは考えているようだった。エリュティアは
庭が見えるテーブルに二人を導き、温かい飲み物を準備するように
侍女に命じた。その姿を見守るガルラナスにとってエリュティアは
娘と同じ年頃で、おそれおおいと感じつつも、エリュティアの姿に
娘の姿を投影して思い出に浸っているようだった。
話は弾んだ。何よりも、リシアスがフェミナのことを聞きたがり、
フェミナについて問うた時には自慢げに答えた。リシアスが年の離
れた姉に寄せる敬愛が見て取れた。ガルラナスはエリュティアが窓
の外の空を眺める仕草を何度か繰り返すのに気づいていた。来客の
自分たちが邪魔なのかと気遣ってみたが、彼女はその都度新たな話
題を持ち出して時間をつないだ。
その彼女がふと、入り口から漏れ聞こえる物音に気づいたように
席を立ち上がり、侍女にもう一人分の飲み物を追加するよう命じた。
彼女はガルラナスらにはそのままくつろいでくれと言い置いて部屋
から姿を消した。
そのエリュティアがほとんど間をおかず、人を連れて戻ってきた。
逃がさぬとでも言うように強く手を握り、男の腕を曳いてきた。孤
独な王が心を癒すために昼食の前の時間に愛娘の部屋を訪れるとい
うのはいつものことだったのである。
﹁いま、フェミナのお話などしておりました﹂
エリュティアが笑顔でそんなことを話す相手は紛れもなく王ジソ
ーである。突然の面会に驚いたのはジソーだけではなかった。あれ
ほど苦労して求めた謁見がこれほど簡単にかなうことにガルラナス
も驚いていた。
765
﹁さあ、飲み物もございます。お父上もフェミナとの昔話でも聞か
せて下さりませ﹂
エリュティアに手を引かれるまま、王ジソーは考える間もなくテ
ーブルに着いた。
﹁今日は思いもかけず、お目にかかれたこと、恐悦至極に存じます﹂
ガルラナスの型通りの挨拶に、王ジソーは短い言葉と共に頷いた
だけである。
﹁うむ。儂も機会を設けてそなたと話し合わねばと考えていたとこ
ろ﹂
エリュティアは静かな笑顔で、二人の会話を取り持つように言っ
た。
﹁先ほどまで、ガルラナス様にお話ししていたのです。フローイ国
のグライスさまと旅に同行したときのこと。フェミナはグライス様
と新しい王都を建設すると喜んでいるそうです。﹂
王ジソーは愛娘の笑顔に、亡くなった妻の顔を思い浮かべた。気
づかぬうちに愛娘は成長し大人の姿をかいま見せる。ただ、その姿
も一瞬のこと、エリュティアは無邪気な笑顔で言った。
﹁リシアス。貴方にピピスを紹介するわ﹂
﹁ピピスとは誰です?﹂
リシアスの問いに答える間もなく、エリュティアは彼の手を引い
ミットレ
て立ち上がらせた。エリュティアの視線の先の庭の片隅に、彼は一
頭の小鹿の姿を見つけて、その名を理解した。大人びた振る舞いを
する彼も、他の子供と同じく小動物は大好きだった。
エリュティアは部屋に父とガルラナスを残し、侍女たちには部屋
から下がるよう命じて庭に出た。大きな窓から部屋の中が見える。
楽しげな雰囲気ではないが、会話が続いている様子に彼女は安堵し
た。
﹁痛いっ﹂
小さく悲鳴を上げたリシアスに気づいて振り返ると、ピピスがリ
シアスの尻を頭でこづいていた。まだ角は持っていないが勢いよく
766
頭突きされると意外なほど大きな衝撃がある。リシアスは不満げに
文句を言った。
﹁お前は、この私が嫌いだというのか?﹂
エリュティアは笑ってピピスの意図を説明した。
﹁後ろから突然に抱こうとしたので驚いたのでしょう。今度は前か
らゆっくりと抱いてやって﹂
リシアスはピピスの前にしゃがみ、そっと腕を伸ばした。
﹁本当だ。ふわふわして暖かい﹂
リシアスは満足し、ピピスも幸せそうにリシアスの頬に鼻面をこ
すりつけていた。そんなリシアスとピピスの姿を見守るエリュティ
アの笑顔が途絶えた。一人の伝令が王に駆け寄り何かを耳打ちする
のが見えたのである。
﹁何、海賊だと?﹂
王の言葉が漏れ聞こえ、王が席を立ち、ガルラナスへの挨拶の間
もなく、伝令に命じる怒りの声が響いた。
﹁セイラスを呼べ。セイラスは何をしておったのだ﹂
面会は突然の出来事で途絶えた。今のところフェミナの消息は王
ジソーにも分からない。それが得られた情報の全てだが、王自らが
そう語っただけでもガルラナスにとって価値があった。面会の突然
の中断を取り繕うように、エリュティアはリシアスとピピスを連れ
て戻った。エリュティアは言った。
﹁ありがとうございます。今日はフェミナの話が聞けて嬉しゅうご
ざいました﹂
﹁こちらこそ、ありがとうございました。我が領地を通りかかった
時には、気兼ねなく我が館にもおいで下さい。歓迎いたします﹂
素直に感謝の言葉を口にしてみると、彼女に声をかけられてから
の出来事が、王の面会を断られ続けていた彼を、王に合わせてやろ
うというエリュティアの配慮だったことに気づいた。ガルラナスは
もう一度深々とお辞儀をし、エリュティアを見上げて敬愛の表情を
767
シリャード
浮かべただけの息子の頭を押さえてお別れのお辞儀をさせた。
聖都を一歩出ればガルラナスが治めるリマルダの地で、これから
エリュティアにも訪れる機会はあるだろう。彼女はその地の思い出
シリャード
を語った。
﹁聖都の北の泉など美しく記憶しております。リマルダに参った時
シリャード
は再び訪れてみたいと考えております﹂
﹁聖都の北の泉?﹂
父と子がそろって首を傾げたのは、フローイに嫁ぐ前にフェミナ
がエリュティアを誘った森の中の小さな泉である。二人の少女はこ
れから巡り会う運命を慰め合うように一時を過ごした場所だった。
ただ、あの泉はフェミナだけの秘密の場所だったらしい。そう気づ
いたエリュティアは微笑んでいった。
﹁では、私がお二人をご案内いたしましょう。ただ、フェミナだけ
の泉。訪れるのは彼女の許可を得てからに致しましょう﹂
彼女はそんな言い回しで、消息不明のフェミナがまだ生きている
という信念の籠もった期待を伝えた。
パトローサ
明くる日、王都から東に向かう街道に、王宮を後にし、数人の従
者を引き連れて帰路に就いたガルラナス一行の姿があった。
﹁父上﹂
﹁なんだ﹂
﹁帰りは船を使わぬのですか?﹂
﹁この辺りは冬でも景色が美しい。お前と景色を眺めながら歩くの
も悪くはあるまい﹂
ガルラナスはそう答えたが、本音は違う。春には、ルージ軍がシ
ュレーブ国に攻め込んでくるやも知れず、王ジソーは春と共に出兵
カイーキ
の準備を心に留め置けと各地の領主に伝えてきていた。ルージ軍が
フローイ国の王都を落とした勢いからすれば、この辺りも戦場にな
るのではないかと不吉な予感がし、その戦場の地形を念入りに眺め
ておきたかったのである。息子の言葉がとぎれたため、父は息子が
768
戸惑い考え込む様子に気づいた。
﹁何か悩んでおるのか﹂
父の言葉に息子は戸惑いながら尋ねた。
﹁私はあの王にお仕えせねばならぬのですか?﹂
息子の言葉に父親は一瞬怒りを露わにした。彼の家柄は代々王家
に忠誠を尽くし、取り立ててもらった恩もある。
﹁次の当主になる身で何を言うのだ﹂
父の怒りを気にする様子も無く、息子は言った。
﹁私は、仕えるならエリュティア様が良い﹂
息子の率直な言葉に、父も少し考えて頷いた。
﹁そうかもしれぬな﹂
景色はのどかで戦の気配はない。風のない大地に太陽の光のみ豊
かに降り注いで、冬の寒さの中で太陽の暖かさが感じ取れた。
しかし、もしもこの父と子か河を下って帰路に就いていれば、セ
イラスらが慌ただしくウルリの軍港に戻る光景に、戦場が海へと移
ったことを実感したかも知れない。
769
ロユラスの人生
シュレーブ海軍司令官セイラスが海賊の出現の情報に慌ててウル
リの軍港に戻った頃、海賊たちは帰途について故郷の村を目前にし
ていた。彼らは襲撃地でさんざんレイランの海賊だと吹聴していた
が、帰るのは故郷の村々で、ロユラスらはアワガン村に帰る。
﹁おいっ、ロユラス。考え事なんざお前に似合わねぇ。しっかり、
オールを握りやがれ﹂
海賊を率いるジョナルの言葉は荒っぽく、ロユラスが王の兄だと
いう身分差を感じさせない。海の上では経験が物を言う。風や潮や
天候の読み方、操船、水夫たちを束ねる力量などあらゆる点でジョ
ナルはロユラスの上回っている。ロユラスはジョナルを師匠として
素直に敬愛していて、師匠の荒っぽさを激励としてとらえていた。
母フェリムネの悲しみと、何もできない自分の無力感、自分たち
にその運命をもたらした父リダルと憎しみに似た嫌悪感。ロユラス
の心を支えてきたものが次々に崩れ去って、新たな経験で塗り替え
られていた。自分が生きてきた証、自分が生きる意味が分からず、
彼の心は、波の上で船と共に揺れていたのである。
﹁漕げ、漕げ、もっと漕げ。この潮の流れを超えれば、女たちが待
ってるぞ﹂
リカケル・ナーバ
アトランティス本土とルージ島の間には北から南へ流れる強い潮
の流れがあり、更に月の女神の海に吸い込まれたり、吐き出される
潮の流れが絡み合い、数多くの島々にかき乱されて渦を巻く時間が
ある。海賊たちは小島に上陸してその渦の時間をやり過ごし、再び
船出したのは昼過ぎである。日暮れ頃にはアワガン村の浜辺に帰り
着けるだろう。海賊たちはこの辺りの潮の流れをよく知っていた。
770
日中天にさしかかっても、ロユラスの心をかき乱し続けるのは、
人々の命である。甲板のない船は、船底に安置されたルストルの遺
体を隠すことはできず、ロユラスの目の前にある。出港の日は馬鹿
げた冗談を交わし合った相手が今は冗談もロユラスへの恨みも口に
することはない。そして、もう一つロユラスの心に刻まれたのは、
彼らが襲ったボラナルの町の妊婦と彼女が手を引いていた幼い子供
の姿であり、彼の右手に残された記憶は、数人の警備兵と交わした
剣の衝撃ではなく。女を安楽死させたときに彼女の首筋に沈みゆく
剣の手応えだった。
ロユラスは冗談で作り上げた壁の中で飄々と過ごしてきた。この
世界で起きる出来事は興味深く面白く、そこを舞台に登場する人々
は安っぽい芝居を演じる役者のように感じてきた。ところが人の命
に直面し、自分自身でその命を絶つという経験を経た。自分自身が
その舞台の一人になってみると、自身の人生に幾つもの疑問がわい
て出た。それは一つの疑問に集約する。
ロユラスは呟いた。
﹁俺は何をしてきたんだ。何のために生きるのだ?﹂
その疑問を自身の人生に当てはめれば続く疑問が沸く。母を遠い
ギリシャの地に帰すという目的が崩れると、なんとなく故郷のイメ
ージを持っていたギリシャの地が今は問い異国に思えるのである。
﹁俺には帰る故郷も無いのか﹂
心から虚飾がはぎ取られ、生身の人間として世界に生まれ直して
みると孤独と迷いのみ多い。
思い悩み続けるロユラスが乗る船も、すでにアワガン村の浜辺は
近づいていた。五隻の海賊船は波の静かな入り江に入った。大勢の
村人たちの姿が、その名まで判別できる距離だった。岬の高台から
沖合まで視界が利く。岬で男たちの帰りに気づいた村人の知らせで、
村人たちは総出で浜に集まって居たのである。
771
海賊船は次々と砂浜に乗り上げて停止した。浜辺の女子供は船に
駆け寄って身内の姿を求め、船の男たちはその中に家族の顔を見つ
けて浜へ飛び降りた。ただ、身内の姿を見つけることができぬ者た
ちもいる。ロユラスはそんな家族に遠慮するよう最後に船を下り、
足下を波に洗われながら歩み寄ってきた母を抱いた。
﹁フェリムネ様は先にロユラスと館へお戻りくだせえ。分け前は後
で届けまさあ﹂
ロユラスには荒っぽい口調のジョナルも、フェリムネにだけは礼
儀正しい。息子を抱きしめていたフェリムネはジョナルの意図を理
解して黙礼した。ジョナルは亡くなった遺体を仲間に命じて船から
降ろさせていた。仲間の二人が死に三人が重傷を負っていた。痛い
に抱きついて嘆き悲しむ人々をいまはそっと見守るしかない。
ジョナルはすでに視線を仲間に移し、遺体を家族の家へ運ぶよう
指示をしていた。
﹁ルストルらが死んだ。俺の責任だ﹂
ロユラスは寄り添う母にそう呟いた。フェリムネは言葉を発せず、
ただ息子を強く引き寄せて抱いた。眉を顰めてじっと前を見つめて
歩き続けるロユラスは、少なくともあと数回は、海賊としての彼ら
に出航を命じねばならないだろうと考えていた。
ロユラスは振り返らず、浜辺で彼を見送るタリアの姿には気づか
なかった。
772
ロユラスの迷い
我が家に息子を迎え入れた母フェリムネは息子の自慢話を聞き出
そうとはしなかったし、ロユラスもボラナルの町の出来事を話そう
とはしなかった。
ただ、フェリムネは会話の中で村の人々の事に僅かに触れた。
﹁シュレーブ海軍があちこちの町を襲っていると聞いて心配してい
たのよ﹂
シュレーブ海軍がクトマスを襲った勢いのまま、他のルージ沿岸
の都市を襲って焼き払っていた。僅かな情報に頼って男の帰りを待
バース
ち続けるアワガン村の人々は、既にいち早く町でその情報を入手し
ていた。次に襲われるのはどこか。王都からあふれるように広がっ
た不安が、アワガン村にも届いていたのである。ロユラスはその出
来事に驚きつつも表情には出さず、母を安心させる言葉を吐いた。
﹁大丈夫さ。ここはシュレーブ国から距離がある﹂
﹁いいえ、違うの。村の人たちは、シュレーブ海軍と貴方たちが出
会いかと不安でたまらなかったのよ﹂
村に残されていた人々の不安は、村が襲われるのではないかとい
うことではなく、村の男たちの船がその有力な海軍と遭遇して、彼
らが命を落とすのではないかと言うことだったらしい。シュレーブ
海軍にルージ沿岸部が襲われるというのは、予想できないことでは
なかった。その危惧が現実になったことで、ロユラスは心密かに進
めている計画を早める必要に迫られた。
その夜、村から賑やかな踊りの曲が流れてきたが、明るく躍動的
ナナエス
な旋律にどこかよそよそしさがある。喜びの宴ではなく死者を悼む
ナナエラネ
儀式である。寿命を司る神の元へ使者を送り、その娘で健康を司る
神に負傷者の全快を祈っているのである。
773
村人を束ねるジョナルは、出来事の全ての責任を背負うように、
ロユラスを宴に引っ張り出そうとはせず、ロユラスもそんな宴に不
釣り合いだと自分に言い聞かせるように、普段の気さくで剽軽な姿
を捨てて死者に対して沈黙を守った。フェリムネとロユラスの二人
バース
は、ただの母と息子として共に夕食を食べて一夜を過ごした。
船の都合でアワガン村へ戻ったロユラスだが、今は王都の王の館
バース
に戻り、アトラス不在の間の王の代理人としての勤めを果たさねば
ならない。そう決意していたロユラスに、夜明けを待たずに王都か
ら迎えの者が到着した。
﹁ルージ国各地が、シュレーブ海軍に襲われて大きな被害を被った﹂
バース
使者は、時間もわきまえぬ緊急の用件をそう述べた。既に村の人
々が知っている内容だが、王都はロユラスの帰還を知って、早く戻
れと督促してきたのである。
日が昇る頃、ロユラスは黙って出立の準備を整え、母はそれを手
伝った。館の入り口につながれた馬へと向かったロユラスが驚いた
ことに、村人たちが総出で彼を迎えるように館を取り巻いて悲しみ
や不安を表情に浮かべていた。
村人の中から進み出た若い女は、村で育ったロユラスの幼なじみ
といえた。
﹁ロユラス。何か言っておくれよ。うちの亭主が帰ってこなかった
のは何故?﹂
﹁それは﹂
理由に口ごもるロユラスに、別の女が声を上げた。
﹁私は漁師と結婚したんだ。その夫が何故、海賊に?﹂
ロユラスを責める口調に、ロユラスを呼びに来た使者が腹立たし
げに言い放った。
﹁我らが王の兄ロユラス様に、何の不満を言うか。彼の村々では数
えきれぬほどの男どもが、兵士としてフローイ国へ渡った。戦死し
た者、傷ついた者も数知れぬ。お前たちも見習って王家に忠誠を尽
774
くすがよい﹂
使者の高圧的な態度と言葉に人々は一斉に反感を露わにした。村
人たちが怒りの言葉を発しようとした刹那、ロユラスが口を開いた。
﹁皆を海賊にしたこと、俺が言い出した。全て俺の責任だ。しかし、
今の俺は何をして償えばよいか分からぬ。考える時をくれ﹂
ロユラスはそれだけ言い残して馬に乗り、彼の背を見送るタリア
らを後にした。遠ざかる姿が、互いの心の距離を表すようだった。
775
ロユラスの計略
バース
ロユラスが王都に到着したのは日が高く昇る前である。王の館の
会議室でルージ海軍司令官フェイサスがロユラスに深々と頭を下げ
た。
﹁全ては私の不手際。誠に申し訳ございませぬ﹂
フェイサスは司令官として各地の港で敵の蹂躙を許し、敵に目立
つ損害を与えぬまま、その戦力の三分の一を失っていた事である。
ロユラス気にするなと手を振った。
﹁不手際というなら、各港の船をルージ本島に戻す事に気づかなか
った俺の責任だろうよ﹂
﹁しかし、それでは港は守る手段がございませぬ﹂
フェイサスはそう反駁した。シュレーブ海軍に襲われた港町は、
最初に襲われたクトマス同様に軍船は沈められ、町は焼き払われて、
町の人々の多くは殺害されたり、人質か奴隷にするために掠われた。
その被害の規模を考えれば、ロユラスら海賊たちの襲撃など取るに
足らないほどだった。フェイサスの苦渋の表情は、指揮下の軍船を
失ったばかりではなく、守るべき人々も守れなかったという後悔を
にじませていた。
ロユラスは短く問うた。
﹁では、どうする﹂
﹁我らは全軍を挙げて、シュレーブ海軍に決戦を挑む所存です﹂
﹁あのでかい船に真正面から?﹂
﹁船の大きさは、我らの夜襲で補えば何とかなりましょう﹂
﹁しかし、奴らも長い航海をした。しばらくは大人しくなるだろう。
問題は次に来るときだな﹂
﹁なるほど﹂
フェイサスもロユラスの言葉を理解して頷いた。状況を考えれば、
776
シュレーブ海軍は百隻を超える船で三十日を超える航海をしている
ことになる。おそらく、水や食糧の補給に港へ戻るだろう。
長い航海を経て、船の損傷箇所を補修し、食料や武器の補給をす
る。大規模な船団だけに、再び出航するのに時間もかかる。海賊た
ちのように気軽にあちこち出没することはできないのである。
﹁では、次は?﹂
﹁船の補修、物資の補給と兵の休養に二十日。十日の航海でこちら
に姿を見せるとして三十日後﹂
そのロユラスの推測にフェイサスは同意し、次の質問を投げかけ
た。
﹁では、どこに﹂
﹁次に奴らが来るのはレイランだろうよ﹂
ロユラスが断言する地名に、フェイサスはやや首を傾げたため、
ロユラスは言葉を付け加えた。
﹁俺たちがそこを喧伝してきたからな﹂
ロユラスたちは襲ったボルナスの町でレイラン諸島を吹聴した。
ほかのグループの海賊たちも同様である。聞き知ったシュレーブ海
軍はレイラン諸島の海賊たちが再び暴れ出したと考えるだろう。
今までの状況を考えれば、ルージ国の沿岸を攻撃したシュレーブ
海軍と、シュレーブ国の沿岸を荒らした海賊船はどこかですれ違っ
ていたのかも知れないが、互いに敵を目撃していない。海は広いの
である。頻繁に出撃を繰り返すことが難しいシュレーブ海軍は、ど
こをうろついているか分からぬ海賊船を探す事はせず、その根拠地
を襲おうとするに違いない。
フェイサスはロユラスの言葉を理解し決意を込めて言った。
﹁奴らがレイランにくるなら、こちらもそこへ軍を集結させましょ
う﹂
しかし、ロユラスの言葉は意外だった。
﹁いや。もう一戦か二戦、海賊たちに任せてくれ﹂
﹁我ら正規海軍でも手に余る敵を、海賊ごときにまかせろと仰るの
777
ですか﹂
﹁海賊だから、奴らとの戦の算段も立とうというものさ﹂
ロユラスはそう言いながら眉を顰めた。フェイサスから見れば、
ロユラスは飄々として時に自信家の面を見せる、そんな人物である。
フェイサスにとって戸惑うロユラスのは初めて見る表情だった。フ
ェイサスはロユラスがその言葉に自信がないのかとも思ったがそう
ではなかった。優勢なシュレーブ海軍との戦いに勝つためには、ア
ワガン村の者たちを含め、元海賊たちにあと何度か戦いを求めねば
ならない。それしかない。ロユラスはそう信じていた。
しかし、今の自分に、あの人々に命を危険に晒せと要求する資格
があるのか、命の代償として与えるべきものがあるのか。世を拗ね
て距離を置いていたときには考えもしなかったことがロユラスの心
を乱すのである。
しかし、迷いつつも瞳に信念の色が失われていない。
︵やはり、リダル様のお血筋︶
フェイサスはそう思い、頷いてロユラス同意した。
﹁このフェイサス。ロユラス様のご判断に従いましょう。ただ、我
ら海軍の出番も残しておいて欲しいものです﹂
そんなフェイサスの冗談をロユラスは聞いていなかった。海賊た
ちは多額の獲物を得たが、それは今まで平和に仲良く暮らした仲間
の死に見合うものだろうか。それをアワガン村を始め、海賊たちを
納得させて次の襲撃に追い立てなくてはならない。
778
ロユラスの帰る場所
その日の夕刻、ロユラスの姿は再びアワガン村にあった。村人た
ちを煽って戦意をかき立て、戦に駆り出さればならない。村の中央
に集まった人々に、ロユラスは声を張り上げていた。
﹁いいか。戦はまだ続く。シュレーブ海軍はまだまだ暴れ回るだろ
う﹂
ロユラスの言葉は村人たちの心に響いていない。偉い役人がもっ
たいをつけた演説をしている。そんな冷たい雰囲気が漂い、人々が
ロユラスに向ける視線にも不信感が混じっていた。
﹁ストラ、ミザラ、ウリハル、幾つもの町が襲われ、焼かれ、人々
が殺された。このアワガン村も同じだ。いずれシュレーブ海軍に襲
われる﹂
ロユラスが叫び続ける声に、人々はどう応じて良いか分からぬよ
うに黙りこくったり顔を見合わせたりするのみだった。ロユラスは
無駄を知りつつ叫び続けた。
﹁村を、家族を、守りたければ戦え﹂
ロユラスの叫びに応える者はない。彼は幼い頃から過ごしたこの
アワガン村で、これほどの孤独感を味わったのは初めてだった。心
の繋がりが途絶えたまま沈黙が続いた。この時、沈黙の中からタリ
アが進み出た。
﹁ロユラス。私は貴方に何をしてあげられるの?﹂
戦に奮い立てと村人を煽るロユラスに、微妙にずれた返答だった。
ロユラスは戸惑いを隠せず、彼の話題もずれた。死体になって帰っ
てきた男たちの事である。
﹁俺はルストルと同じ船で帰ってきた。笑ってくれ。船の上で死ん
だルストルと向き合って話をしてたんだ。子供の頃のこと、初めて
漁に出たときのこと、一緒に悪戯をしてジョナルからこっぴどく殴
779
られたこと⋮⋮﹂
ロユラスは村人を眺めて、ふと目をとめた。ルストルの妻ラクナ
エと、もう一人の死者レイセルの妻ニーラ、亡くなった者の妻の顔
をみつけたのである。この二人にも思い出がある。
﹁ルストルがラクナエへ求婚したいと相談を持ちかけてきたときの
照れくさそうな姿は今でも覚えている。ニーラが身ごもったと嬉し
そうに知らせに来たレイセルの顔も覚えている﹂
タレヴォー
ロユラスは口ごももって、やや沈黙を置いて、秘めていた心情を
吐きだした。
ジェ・タレヴォー
﹁みんなは、ここが帰るべき場所だ。でも、俺の母は異邦人、そし
て俺はただの半異邦人だった。俺には帰るべき故郷がない﹂
一人孤独を深めるロユラスの姿に、ルストルの妻ラクナエがぽつ
りと言った。
﹁ロユラス。貴方は、私たちの何を受け入れてくれるの? それが、
きっと家族というものなんだわ﹂
ニーラがタリアの背を優しく押して、孤独なロユラスを支えてや
れと言った。戸惑いつつ歩み寄るタリアの姿に、ロユラスは黙って
注目し、見つめ合った。タリアはロユラスの胸にそっと顔を埋めて、
囁くように言った。
﹁あんたは、やっと私を一人の女として見てくれたね﹂
この瞬間、ロユラスは彼女の言葉を理解した。今まで親友の妹で
あり、幼なじみであり、口喧嘩を交わす友達だった。好きかと聞か
れれば嫌いではない関係である。しかし、今のタリアはロユラスに
とって生涯の伴侶となるべき大切な女性だった。このアワガン村で、
子供や孫へ引き継がれてゆく命の絆が彼女を通じて見えた。
ピレナがアイしているかとたどたどしい愛を尋ねたが、今はロユ
ラス自身がちゃんと妻になるべき女性に対する愛を理解した。
ロユラスの演説に代わってジョナルの荒っぽいだみ声が響いた。
﹁戦が嫌なら、さっさと終わらせやがれ。この唐変木﹂
780
荒っぽい声に驚いて胸に抱いたタリアから顔を上げたロユラスに、
別の男が叫んだ。
﹁行く先はレイランだな。出航準備はできてらぁ。さっさと命令し
やがれ、この間抜け﹂
次の行く先については最初の出航の時に彼らに言い含めてある。
しかし、言葉の荒っぽさにロユラスは苦笑いを浮かべた。
﹁俺は気が弱い。もっと優しく言ってくれ﹂
男は言い返した。
﹁気が弱いだぁ? いいかっ。今、村を守れる者は、お前しかいね
ぇ。そう思いやがれ。言いてぇことは、それだけだ﹂
ジョナルが怒鳴るように念を押した。
﹁分かったか。のろま﹂
﹁分かったよ﹂
頷いてそう言うロユラスを見つめてから、ジョナルは村の者を眺
め回して言った。
﹁俺はロユラスに教えられることはすべて教え終わった。たった今、
アワガン村の海賊の頭をコイツに譲るぜ。文句のある奴はいねぇな
?﹂
異論を唱える村人はいなかった。彼らは戦って勝つ算段があるの
かとは聞かなかった。ただ、幼い頃からよく知るロユラスを信頼し
命を預けるという。ロユラスはその命の重みを背負った。
この時、女たちが指さした、沖合に夕日で影になった船が幾艘も
見え、その数が増えていった。海賊船の形状が露わになり、やがて
その船上に近隣の海賊村の人々の姿が確認できた。手はずを守って
このアワガン村へ集結してきた海賊たちの一団である。
次はシュレーブ海軍を相手にする危険な戦いになる。ロユラスは
彼らに正直にそう伝えていたが、浜に上陸する海賊たちに戦を厭う
表情をした者は居なかった。彼らもシュレーブ海軍がルージ沿岸部
の町を襲って、町を焼き、子供や年寄りを殺し、女を人質や奴隷に
781
掠ったという噂は聞き知っていた。
﹁海軍のくせに、海賊より酷いまねをしやがる﹂
彼らはそろってそう憤り、襲撃を受けた町の者たちに代わって復
讐を誓っていたのである。船乗りや漁師たちの奇妙な郷土愛といえ
るかも知れなかった。
782
クドムラスの思惑
セイラスがシュレーブ海軍を率いて、海賊討伐に出航の準備を整
えたのは、ロユラスが予測したより十日は早い。戦闘に必要な物資
を集め、船に積むというという作業をセイラスは兵に命じて昼夜兼
行で行わせたのである。
﹁海軍は海賊すら取り締まれぬのか﹂
そんな王の叱責で、誇り高い指揮官が出航の期日が早めた。戦を
指揮官の感情が左右するというのは、若いロユラスに想像がつかな
かった出来事である。ただし、セイラスは指揮下の三百の軍船を役
割に応じて分けざるを得なかった。
富が豊かなシュレーブ国の海軍とはいえ、全てが大型軍船ではな
く、一般の軍船二百隻と大型軍船が百隻という構成である。
セイラスは自ら率いる大型軍船百の中から七十を直接の指揮下に
リカケル・ナーバ
置いた。一般の軍船二百のうち、およそ五十隻は沿岸都市を襲いに
来る海賊を発見するために、広大な月の女神の海をパトロールする
よう命じた。百隻は海賊から沿岸の町を守るために それぞれの港
に数隻づつ分散させて駐留させた。戦いを求めて姿を見せるかも知
れないルージ海軍への押さえとして、大型軍船三十と一般の軍船五
十隻を副官クドムラスに指揮を任せてウルリの港に残すことにした。
ロユラスたち海賊が沿岸部を荒らしたことで、セイラスはその持て
る戦力の半分以上を割かれてしまっていたのである。
リカケル・ナーバ
﹁レイランと申しても、無数の島がございます﹂
軍港ウルリの守備と月の女神の海のパトロールを任されたクドム
ラスはそう疑問を呈した。セイラスもクドムラスも、集めた情報か
ら海賊がレイランを根城にしていると信じて疑わなかった。ただ、
783
その名で呼ばれる島は、北レイラン島、西レイラン島、南レイラン
島の三つで、さらにその周辺には名もない小島を含めれば数え切れ
ない。クドムラスはどの島を目指すのかと問うのである。
セイラスはこともなげに応えた。
﹁海賊どもが船を係留できる島、上陸して生活できる島、賊が根城
にしているなら奴らと生活を共にしている女も居よう。そんな島の
数は限られておる。なに、奴らが姿を見せなければ、レイラン一帯、
我らの狩り場となろうよ﹂
セイラスは自信ありげな笑顔を浮かべていたが、不安が無いわけ
リカケル・ナーバ
ではなかった。シュレーブ海軍は波の穏やかな内海で活動してきた。
しかし、月の女神の海の湾口を出れば北から南へと強い潮の流れが
あり、その流れが島々に乱されている、潮の満ち引きと共に変化す
リムラス
パトロエ
る。セイラスたちはその変化を十分に読み取る経験がなかった。
﹁海神と戦の女神のご加護を﹂
リムラス
戦勝を祈ってみせるクドムラスを、若いギリアスがたしなめるよ
うに言った。
﹁クドムラス殿。海神といえばルージ国の守護神。敵を利するおつ
もりか﹂
明らかに小馬鹿にした雰囲気を漂わすギリアスに、クドムラスは
謙虚な笑顔で応えた。
﹁いや、これは、私の失態。セイサス様、お許しくだされ。ギリア
ス殿、よくぞ言って下さった﹂
リムラス
クドムラスはそう言いながら、腹の底ではギリアスをあざ笑って
考えていた。
︵この若造が。セイラスと一緒に海神の怒りをかって海の藻屑にな
るがいい︶
クドムラスは、その表面に漂わす謙虚さを、セイラスに仕えなが
ら身につけた。彼の上官は有能な武人として名が知れ渡っていたが、
その実、失敗を部下に押しつけてきた結果の有能さである。クドム
784
ラスもセイラスの失敗を背負わされて腸が煮える思いをした記憶は
数え切れない。その恨みを押さえつつ忠実な部下を装ったため、セ
イラスは彼を重用し、副官の地位に据えた。クドムラスにはセイラ
スに対する敬意など微塵もなく、セイラスに対する恨みの数々が凝
縮して憎しみに変わっていた。
しかし、彼はギリアスに同情してもいる。若くして副官の地位に
ついて有頂天になっているようだが、これからセイラスの失策の責
任をかぶり続けなくてはならない地位である。
部下の気持ちなど歯牙にもかけぬ。そんな態度でセイラスは言っ
た。
﹁クドムラスよ。そなたはまだ私の足下に及ばぬが、私を上回る軍
船の指揮権を与えてやったのだ。ありがたく思い、私の留守の間、
忠勤に励め。失敗は許さぬ﹂
﹁仰せの通りに﹂
クドムラスは神妙な面持ちで頷いたが、腹の底では別の事を考え
ていた。
︵何を恩着せがましい︶
先の戦いでセイラスは百隻の軍船でルージ海軍を打ち破ったと称
している。今回の海賊の討伐に前回と同様の戦力では彼の沽券に関
わると考えて、出撃は七十隻に減らした。残された軍船の指揮を任
せるのはクドムラスしかいない。クドムラスは偶然ではなく上官の
ニメゲル
名誉心の結果として大軍を指揮下に治めた。ただ、その彼自身はい
ラミクス
まだセイラスの指揮下にいる事は間違いない。
︵しかし、幸運の神のご加護か、それとも復讐の神のお導きか。面
白くなってきた︶
思いもかけず、クドムラスはセイラスの副官の地位を外れた。そ
もそも、海賊の蹂躙を許したという王の怒りは、セイラスが王の意
向を無視して戦いを求めた結果である。セイラスが失策を犯す機を
見て、王に過去の出来事を注進して王の怒りを煽れば、セイラスの
失脚も誘えるはずだ。セイラスの後釜に就くのは自分しか居ない。
785
クドムラスは勇壮に出航する七十隻を眺めながら、ほくそ笑んで
いた。
786
海賊登場
出航前、セイラスは副官に海賊どもが船を係留できる島は限られ
ていると言った。シュレーブ海軍も同じである。ましてや、七十隻
に及ぶ大型軍船を揚陸できる浜のある島は少ない。
昔から、アトランティス本土とルージ島の間の海域にあるそのよ
うな島は航海の中継所としてよく知られ、商船や漁船にもよく利用
されていた。外洋に不慣れなシュレーブ海軍にもその島々の位置は
知られている。彼らはその僅かな経験を頼りに外洋へ乗り出した。
﹁また。これで五つ目でございます﹂
クドムラスに代わって副官を務めるギリアスが、風に名がされな
がらも空高く上る煙を指さした。指さされずとも、セイラスも気づ
いている。小島の小高い丘の上から狼煙が上げられているのである。
海賊たちが使う通信手段だという事はよく知られていた。
﹁上陸して討伐いたしましょうか﹂
﹁いや、ほっておけ﹂
セイラスは苦々しい表情で言った。目障りだが、兵を上陸させて
数人の敵を討ち取るのに時間ばかり無駄になる。狼煙を上げる前な
らともかく、シュレーブ海軍の接近を告げ終わった見張り場を襲う
意味はない。腹立たしいが見逃してゆくしかない。
しかし、その腹立たしさも、海賊どもを一網打尽にしてやれば満
足感に変わるに違いない。事実、先の戦で自信をつけた兵士たちは、
海賊たちを皆殺しにする会話で盛り上がっていた。海賊船に数多く
の兵で矢の雨を降らせても良い、体当たりをしてやれば小型の海賊
船など沈めたり転覆させたりするのも容易なはずだった。なにより、
軽快に見える海賊船も漕ぎ手の数は少ない、六十人を超える漕ぎ手
787
が居るシュレーブ国の大型軍船は逃げる海賊船を容易に捕獲できる
だろう。あらゆる面で、シュレーブ海軍に敗北の要素はなく、彼ら
に勝利の栄光が待ち受けているだけ。そう思われたのである。
この日、セイラスは目的のレイラン諸島まで一日の距離がある島
で一夜を過ごす予定で居た。
﹁ナホロスが良い﹂
セイラスは島の名を指定した。先の戦闘で一夜を過ごした島で、
その位置も地理も知っている、前回の戦勝の記憶が残る島で過ごす
のも縁起が良い。島の南に広い浜があり、乗員が上陸して一夜を過
ごす事ができる。
島にたどり着いたセイラスは満ち潮に乗せて軍船を浜に乗り上げ
させた。セイラスは浜に降りて船首を海へと押しやってみた。びく
とも動かない。これで引き潮と共に大型の軍船は砂浜に固定されて
潮の流れを心配することなく一夜を過ごせるはずだ。
部下の船も指揮官を見習って、次々に浜に船を乗り上げた。前回
より軍船の数は減っているが、七十隻の軍船で海岸線は隙間もなく
埋め尽くされているように見える。上陸した兵士や漕ぎ手は六千人
を超えて浜を埋めた。兵士たちの戦意を煽るように、あちこちで焚
き火が燃え上がり、浜は闇から切り離されてここだけが真昼のよう
だった。海賊どもはこの大軍になすことなく怯えているだろう。焚
き火を囲んだ兵士たちは明くる日の勝利を信じ切っていた。
浜の喧噪で、兵士たちの耳には打ち寄せる波の音は聞こえず、燃
え上がる焚き火の明るさに慣れきった兵士の目には、海賊船の姿も
暗い海にとけ込んで見えてはいなかった。
その暗い海に、ぽつりぽつりと明かりが灯っていった。もし見る
事ができるとすれば、それは凍える冬の海面をオールでたたく飛沫
を浴びた海賊たちの姿であり、感じる事ができるなら、海賊たちの
788
燃え上がる戦意だったろう。
789
海賊たちの凱歌
リカケー
夜空に細く弧を描いた月に雲がかかり始めた。
﹁月の女神のご加護か﹂
ロユラスは空を見上げてそう言った。僅かな月の光も消えた。満
天の星々の光は、ロユラスが乗る海賊船を包むように降り注いでい
るが、姿を露わにするほど強くはない。
ナホロス島の浜はシュレーブ軍兵士が炊き上げる焚き火で照らさ
れ、兵士一人一人が判別できるほどで、その明かりにを背景にした
軍船も影となって明瞭に見えた。
接近を続ける海賊たちにとって、海に飛び込めば、既に腰の深さ
ほどの浅瀬だが、軽く喫水の浅い海賊船は悠々と海の上を浜辺へ接
近を続けていた。分厚い毛皮の上着を着用しているが、その内側の
肌を湿らせているのは、オールを力強くこぎ続けてきた体から滲む
汗である。男たちの吐息が夜目にも白い。船首と船尾で小さな鍋に
炊かれた火は暖房用ではないだろう。
ロユラスはその小さな炎の灯りに、こぶし大の壺を照らして眺め
た。壺の小さな口は中身がこぼれ出さないよう布で堅く栓がされ、
その布の端が伸びて風に揺らめいていた。壺には腕の長さほどの紐
がつけられていて、紐を軽く振り回してみたロユラスの様子から、
壺を振り回して投げるのだと推測がつく。
やがて、接近する海賊船は浜にいたシュレーブ兵の目にも入った
らしい。海を指さす者や大声で危険を知らせる者、百隻にも及ぶ海
賊船の突然の出現に驚きの声を上げる者で騒がしくなり始めた。
︵ちょうどいい︶
ロユラスはこの距離をそう思った。壺を投げれば間違いなく敵の
軍船に届く。そういう距離だった。
790
﹁さぁ。景気よく暖まろうぜ﹂
ロユラスは壺の口から伸びた布きれに火を移し、紐を勢いよく振
り回して壺をシュレーブの軍船へ投げた。壺は軍船の甲板で砕けて
中身が飛び散って燃え上がった。ロユラスに続いて海賊たちが投げ
つける壺は次々に軍船の上で燃え上がって帆柱を焦がし、舷側で砕
シミリラ
けた壺はオールを突き出す小窓から船内に火の粉を広げた。
﹁冬の女神のご加護もあるようだぜ﹂
北風に象徴される女神だが、北西部から吹いた風が島の北の山岳
地帯に遮られて乱れて、ロユラスたちと浜を隔てるように吹いてい
た。硫黄臭い香りは浜に充満し、シュレーブ兵は臭いに咳き込んで、
軍船の火を消すどころか、浜で逃げまどい北の山岳地帯へと逃げ出
す者さえ見えた。
ロユラスたちが投げつけた壺は、ルージ北部の火山で豊富にとれ
る硫黄に油を混ぜたもので満たされていた。火がつけばよく燃えて
消すのも難しい。粘りのある混ぜ物はあちこちに飛び散って付着し、
幾つもの火種となって火災は拡大していった。
もともと物資を奪う海賊家業で、奪う獲物を燃やしてしまっては
意味がない。普段使う武器ではないが、小規模な小競り合いで使う
事がある。ロユラスはそれを準備させていたのである。
燃え上がった軍船は、僅かな距離で並べられていた隣の軍船を焦
がして燃え上がらせていった。七十隻の軍船が次々に燃え上がって、
風がなければ海上の海賊たちにも熱気が伝わったに違いない。
海賊たちにとっても信じられない光景だった。正面から戦闘しよ
うとすれば追い回されて一方的に殲滅される。そんな強大な敵があ
っさり炎上を続けていたのである。ただ、考えてみれば不自然さは
ない。強い海流が流れるこの海域で、シュレーブ海軍が一夜を過ご
すのに浜に上陸するというのは当然だった。そんな島は限られてい
て、海賊たちは小島に見張りを置いて、敵がどの方向に進路をとっ
ているかを狼煙で仲間に伝えた。敵が一夜を過ごす島の数は絞られ
791
てゆき、やがてそれがナホロス島だと特定された。海賊たちは迷わ
ず敵がいる島を目指した。
敵の数がこれほど多いというのは想像外だったが、それさえ、敵
の軍船が延焼やすくなると言う利を得た。
ロユラスの船に乗る海賊たちは、この光景をもたらした指揮官ロ
ユラスに尊敬のまなざしで眺めていたし、他の海賊船でも、ロユラ
スの船の方向を眺めて同じ事を考えていただろう。
敵味方双方にとって、夜明けと共に戦いの結果が露わになった。
ロユラスらは敵の軍船四、五隻ばかりを焼き尽くし、その倍を半焼
させて戦闘力を奪えば大成功だと考えていたが、朝日に照らされた
敵の大半は炎上し尽くして、燃え残った船体や帆柱がくすぶってい
た。
僅かに残った二隻の軍船が島を離れた。一隻は甲板の上にあふれ
る乗員で喫水が深く沈み、もう一方は半ば焼けて傾いているという
酷い姿である。島に取り残された兵士たちが連れて行ってくれと哀
願し、波打ち際まで追い、一部の兵士は泳いで船を目指したが、冬
の冷たい海でおぼれて海面から姿を消した。
海賊たちは立ち去る二隻の軍船を攻撃せずに見逃した。戦の結果
をシュレーブ国に伝えるのにちょうど良い。海賊にやられたのは不
運だったと、再戦を求めて同数の艦隊をよこすだろうか。それとも、
彼らが敵として相手にしている海賊が手強いとなれば、もっと多く
の軍船を派遣して雪辱を期すだろうか。ロユラスにとってどちらで
も良い。
今回の敗北に懲りて引きこもるなら、シュレーブ沿岸部を襲って
シュレーブ海軍は腰抜けだと触れ回ってやれば、遅かれ早かれ、敵
は艦隊を派遣する事になるだろう。
ロユラスは、二隻の哀れな軍船を眺めて言った。
﹁見かけは勇ましいな﹂
軍船は焼き払われたが、戦闘で傷ついた兵士は居ないだろう。船
792
上の兵士は元気まんまんで拳を振り上げて、海賊たちに罵声と恨み
の言葉を浴びせかけていたのである。ロユラスは立ち上がって、潮
風に流されてくる罵声に、正々堂々という言葉を聞き取った。
ロユラスは仲間を眺めて笑った。
﹁海賊に正々堂々と戦えだとよ。無理な事を言ってくれるじゃない
か﹂
仲間の笑い声の中、彼は再び敵の方へ向き直った。
﹁ロユラス。身を屈めな﹂
ロユラスに海賊の頭の地位を譲ったジョナルが叫んだ。敵から距
離があるとはいえ、弓を放てば矢が届く。そんな危険な距離で、目
の前の戦果を見届けて神にでも報告するように、ロユラスは立ち上
がって腕を広げて天に伸ばしていたのである。弓を持った敵がいれ
は絶好の標的になるだろう。ロユラスという青年は、こうやって危
険に身をさらして運命を神に問う癖がある。
ロユラスもその欠点を自覚しているのだろうか。笑いながらも素
直にジョナルに従った。ジョナルは話題を変えた。
﹁この後はどうするんだ﹂
﹁後始末は、海軍に任せるさ﹂
この後は海軍司令官フェイサスの出番だというのである。
﹁忙しい﹂
戦闘以外の任務でそう文句を言う彼の表情が思い浮かんだ。島に
は数千の敵が取り残されている。その敵の始末をフェイサスに命じ
ねばならない。戦闘の必要はないだろう、水も食料もない島に放置
されるか、降伏して捕虜になるかの選択を迫れば、島に残された敵
は降伏を選ぶに違いない。捕虜の一部は、シュレーブ海軍が奴隷と
して連れ去ったルージ国の民との交換に使えるだろう。
ひといくさ
﹁いや、そこじゃねぇ。俺たちの戦はこれで終わりか?﹂
﹁まだ、敵の船は二百はいる。もう一戦せにゃならんだろうよ﹂
﹁この獲物じゃ、まだ足りないっていうのか﹂
﹁その通り﹂
793
﹁なんて欲張りな奴だ﹂
パトロエ
同じ船に乗る幼なじみのミドルが言い、言葉を継いだ。
﹁本当に、戦の女神があきれるぜ﹂
ミドルの冗談に、笑い声でわき上がる船上、ロユラスは笑顔で応
じながらも漠然と別の事を考えていた。遠く離れた弟の事である。
春の訪れを待って、彼の弟アトラスは西側からシュレーブ国へ兵を
進めるだろう。今は直接支援してやれる手段は少ない。しかし、シ
ュレーブ海軍を排除すれば、ルージ島からシュレーブ国へ物資や増
援の兵士を送る事も容易になる。
︵ルージ国の民の命を背負う責任を、一人背負い続ける孤独な弟の
ために︶
ロユラス自身が整理できず乱れる心を整理すれば、そんな言葉が
浮かび上がってきたかも知れない。
794
海賊たちの凱歌︵後書き︶
次回更新は今週土曜の予定です。あと数回はロユラス視点で物語が
進む予定ですが、アトラスやリーミル、エリュティアの存在が薄れ
てしまいそうで、フローイ国を舞台にアトラス視点に戻すべきかと
も迷っています。この辺りは群像劇の難しさですね。
物語の感想以外にも、何かよいアドバイスがあればお聞かせいただ
けるとうれしいです。
795
ロユラスの告白
バース
勝利を収めて帰ってきたロユラスらをアワガン村の人々は総出で
迎えた。浜に近づくにつれて、衣装からフェイサスら王都に居るは
ずの重臣たちだろうと推測がつく人物の姿も見えた。
距離が詰まるにつれて互いの顔まで見えた。村に帰ってきた六隻
の海賊船の一つにロユラスの姿を見つけて指さすピレナの姿があり、
その傍らで安堵するのはタリアである。村人たちは船の数を数えて
減っていない事に心配を紛らわせ、接近する船の船上に身内の姿を
見つけて安堵し、やがてその身内が五体満足で戻った喜びに沸いた。
大戦果を上げたという海賊たちの自慢を聞く間もなく、出迎えた
リナシア
ナナエラネ
村人たちは見つけた身内に駆け寄った。ロユラスも母フェリムネの
抱擁を受けて、互いの生命を味わい、愛の女神と健康の神に感謝の
言葉を捧げた。
ロユラスと同じ船にいたミドルは、妹タリアの抱擁を受けていた。
次にタリアの抱擁を受けるのは父の自分だと考えていたジョナルは
苦笑いを浮かべた。兄の抱擁をさっさと切り上げて顔を上げたタリ
アの視線は、父ではなくロユラスに注がれていた。ジョナルはタリ
アを指さし、ロユラスに声を張り上げて言った。
﹁おいっ、ロユラス。大事な娘を嫁にくれてやるんだ。大事にしろ
よ﹂
もともとロユラスとタリアは、将来は夫婦になるだろうというほ
ほえましさを感じさせる関係だった。ただし、結婚に当たっては、
ロユラスは村一番の頑固者のジョナルを説得し、娘をもらい受ける
許可を得ねばならない。その手間もなく、ジョナル自身が結婚を認
めると宣言したのである。タリアは頬を赤く染めてロユラスを眺め
た。ジョナルは結婚の条件だと言わんばかりに言葉を継いだ。
﹁これからは、危ねぇまねをしてタリアを泣かせるようなことはす
796
るんじゃねぇぞ﹂
危ねぇまね。戦の事かと漠然としたイメージを抱く人々の中で、
ロユラス自身は正しく意味をくみ取った。シュレーブの軍船の前で
身を危険に晒した行為の事である。ジョナルはもっと命を大事にし
ろと言うのである。
﹁わかった。気をつける。次の戦が終わったら、タリアと俺の祝言
だ﹂
その言葉にわき上がる浜で、ロユラスはおどけるように叫んだ。
﹁ジョナル。あんたはもう引退して良い。村で子供たちの喧嘩の仲
裁でもしてやってくれ。万が一あんたが死んだんじゃ、この村も寂
しくなる。第一、俺はあんたに孫の顔を見せてやりてぇ﹂
ミドルはその言葉で察した。息子の彼の目から見ても、父のジョ
ナルは体調を崩した事を隠しきれず無理を重ねている様子がうかが
い知れた。何の病か分からないが、次の航海をするのは無理だろう。
頑固一徹の父親は、彼が引退しろと言っても聞き入れる事はあるま
い。しかし、ロユラスは孫の顔を見るという目的を与えて、ジョナ
ルに引退を求めたのである。ジョナルは渋々頷いた。
﹁ロユラス﹂
タリアが呼びかける声が響いてロユラスは彼女に視線を注いだ。
その瞬間、彼は祝言という言葉をタリアへのプロポーズとして吐い
た事を思い出した。彼女の笑顔がまぶしい。彼女と直接目を合わせ
る事が照れくさく、ロユラスは彼を見守るように歩み寄ってきたピ
レナに視線を転じて彼女を抱き上げて言った。
﹁何か言いたい事でも?﹂
﹁女にアイを告白できる勇気があるなら、私の自慢の兄さまだわ﹂
彼女はそんな言葉でロユラスのプロポーズをたたえた。
﹁しかし﹂
ロユラスは口ごもった。
﹁なあに?﹂
不思議そうにロユラスを眺めるピレナに、ロユラスは照れくささ
797
を隠そうともせず言った。
﹁俺にはタリアの返事を聞きに行く勇気がない。お前が代わりに聞
いてくれないか﹂
そんな会話に、フェイサスが軍人らしい厳格さを滲ませて割り込
んだ。
﹁ロユラス殿。無事のご帰還、安心いたしました。つきましては、
至急、ご相談せねばならない事がございます﹂
﹁なんだ?﹂
﹁フローイ国へ出陣したアトラス様から火急の知らせがございます﹂
﹁何か、不幸でもあったのか﹂
﹁いえ、状況は好転したと。しかし、情勢も大きく変わり、この後
の事で相談したいと﹂
ロユラスは短く言った。
﹁行こう﹂
ロユラスはタリアを振り返って一別したのみで、不満を露わにす
カイーキ
るピレナを残し、村人たちに背を向けて歩き始めた。
﹁戻ってきてね﹂
タリアは唯一つの祈りを口にした。
バース
王都でロユラスを待っていたのは、フローイ国の王都陥落の後の
情勢だった。ボルスス王が既に無くなっていた事、フローイ国とシ
ュレーブ国がの同盟が崩れた事。何より彼らを喜ばせたのは、アト
ラミクス
ラスがフローイ国のリーミル姫を相手に講和と同盟を結んだという
知らせである。
ラミクス
﹁いったい、幸運の神は我らが王に幾つご加護を授けなさったのか﹂
幸運の神は人の誕生と共に一つ幸運を授けるとされている。重
臣たちはそんな言葉でアトラスの近況を讃えたが、ロユラスのみ、
ニクスス
物思いにふけるように評した。
﹁運命の神の館の扉を開けたのさ﹂
幸運ではなく、アトラスが自力で運命を切り開いたというのであ
798
る。フローイ国との講和は喜ぶべき事だが、ロユラスの想定よりず
いぶん早い。ロユラスも、シュレーブ海軍の壊滅を急がなくてはな
らないのかも知れない。ロユラスの中に小さな焦りが生まれていた。
799
ロユラスの告白︵後書き︶
同じ頃、シュレーブ国でも異変が・・・。次回更新は明日の予定で
す。
800
シュレーブ海軍司令菅解任︵前書き︶
昨日更新できませんでした。期待してアクセスしていただいた方、
すみませんでした。
801
シュレーブ海軍司令菅解任
パトローサ
美しい王都にも本格的な冬が訪れている。にも関わらず、宮殿の
内部では王ジソーが煮えたぎるほどの怒りを発し続けていた。王の
不満は怒りになってその相手も切り替わる。今は先ほど返礼の使者
を送ってよこしたレネン国のデルタスに向いていた。
﹁恩知らずのデルタスの奴め、あれほど手厚くもてなしてきてやっ
たものを﹂
側近の者たちは王の怒りの火の粉を浴びるのを恐れ、黙って王に
頷いてみせるだけである。
レネン国は領土は広くとも、その大半が山岳地帯と海辺の湿地帯
パトローサ
で貧しい。その国力の無いレネン国の跡継ぎデルタスを幼い頃から
シュレーブ国の王都に招いて育ててやった。王ジソーはデルタスが
実質上の人質だったとは考えていない。
王ジソーがデルタスに兵を挙げてシュレーブ国の傘下に加わるよ
うにとの使者を使わしたのは二週間も前の事である。レネン国から
の答礼の使者が告げたのは、レネン国の国内が安定せず、兵は出せ
カイーキ
ないという事である。
フローイ国王都がルージ軍の手に渡っているという情報は既に届
いている。その混乱に乗じてシフグナの地のパロドトスが兵を動か
してフローイ国の国境の砦を落としている。もはやフローイ国は同
盟国として期待できない。次の戦ではシュレーブ一国で、ルージ国、
ヴェスター国、ゲルト国の三国を相手にせねばならないという状況
に、ジソーは焦りを隠せないで居た。もし、フローイ国がルージ国
と講和し、同盟まで結んだと知れば彼の焦りはもっと増しただろう
が、この時の彼はまだそれを知らない。
兵を挙げて共に反逆国どもを討伐しようと使いをだしたものの、
色よい返事をよこしたのはゲルト国のみである。
802
自分は運に恵まれず、信頼できる部下に恵まれないと嘆く王が娘
を溺愛するのは、その孤独故かも知れない。事実、心を癒すように
娘の部屋を訪れる王の表情は、いつも和らいでいる。
﹁エリュティアよ、今日も息災にしておったか﹂
﹁我らが王よ。おかげさまで、今日も安寧として過ごしております﹂
愛娘の返事に王ジソーは眉をぴくりと動かしただけで不満を抑え
た。我らが王というのは身分の違いを明らかにした呼び方で、お父
さまと子供じみた甘えのある普段の呼び方ではない。エリュティア
の心の成長とも言える。しかし、父親のジソーにしてみれば、娘が
自分と距離を置こうとしているようにも感じられる。
﹁おおっ、エリュティアよ。そなただけは、いつも通りお父さまと
呼んでくれ﹂
今度はエリュティアがやや眉を顰めた。大人びてみたのに、それ
を認めてもらえなかった少女の不満。しかし、彼女は素直だった。
﹁お父さまは、心労でお疲れの様子。私に出来ることは無いのでし
ょうか﹂
私に出来ること。最近のエリュティアはこの質問をよくする。し
かし、父ジソーの答えはいつも同じだった。
﹁いや、よい。無能な家来どもの相手で疲れておるだけじゃ﹂
﹁無能と言われては、家臣の方々も気を悪くいたしましょう。信じ
て差し上げれば﹂
﹁信じてやれと言うか﹂
父の言葉にエリュティアは頷いた。他の者の言葉なら毎期だと反
感を感じたかも知れない。しかし、濁りのないエリュティアの心根
は父の心に素直にしみた。任せることが出来ないという彼の性格は、
人を信じることが出来ないからかも知れないと、王ジソーは素直に
考えた。
王ジソーは娘の無言に言葉で応えて言った。
﹁お前の言う通りかも知れぬ。考えてみよう﹂
803
﹁では、私のことも﹂
娘のことも信頼して王を支える役割を与えてもらいたいというの
である。王ジソーはやや言葉に詰まった。この時、侍従の一人が部
屋に駆け込んできて、王に耳打ちをした。
﹁クドムラスだと?﹂
王はその名に記憶を巡らし、ようやく海軍司令官の副官の顔を思
い起こした。王は問うた。
﹁その男がどうしたというのだ﹂
﹁海辺の町々が海賊被害にあった本当の理由を知らせたいと申して
おります﹂
﹁よし。会おう﹂
王は短く言い、娘に向き直って忙しげに言葉を残して部屋を去っ
た。
﹁エリュティアよ。話は明日、また﹂
王の間にクドムラスが控えていた。顔を見れば海軍の指揮を任せ
ているセイラスの傍らに居た男として記憶している。常にセイラス
の影にいるような印象があり、セイラスと共に長い海軍の軍務経験
を想像させた。
クドムラスは王の前に片膝を就いて跪き、胸に右手を当てる忠誠
の挨拶をしたかと思うと、挨拶もそこそこに切り出した。
﹁我らが王よ。私は軍人の忠誠心の元で悩みながら参りました﹂
﹁はっきりと申せ﹂
﹁セイラス殿の事でございます﹂
﹁セイラスは今海賊討伐に出している。それがどうしたというのだ﹂
﹁その事でございます。我らが王はご存じでありましょうや。各地
の町が海賊どもに襲われていた時のこと、セイラス殿は功名心に駆
られ、ルージ軍へと戦いを求めて軍船を出しておりました。王の命
を守り出撃を自重して守りを固めてさえおれば、海賊どもの襲撃な
ど防ぐのは容易であったものを。このクドムラス、残念でなりませ
804
ぬ﹂
﹁セイラスが訓練の途中で敵に遭遇して戦ったというのは嘘だった
と申すか。儂の命令を無視したとな﹂
王ジソーは怒りを滲ませた。自分の命令がないがしろにされる。
それが何よりこの王の怒りを買うことはクドムラスはよく知ってい
た。彼は王の怒りを燃え上がらせるようにたたみかけた。
﹁我らが王よ、その通りでございます。このクドムラス、軍人とし
て上官への忠誠心故にご報告を戸惑いましたが、我らが王への忠誠
心には及ぶべくもなく、今回この通りご注進に参った次第でござい
ます﹂
﹁我が町が海賊どもに蹂躙されたのは、セイラスめが我が命令を無
視して勝手気ままな戦をしたからだな﹂
﹁左様です、我らが王よ﹂
パトローサ
その日の夕刻、セイラスが帰国し王都に戻ってきた。彼の帰国は、
王の心で入り乱れる不満の中で、その最高潮に達した怒りがセイラ
ス自身に向いた時だった。セイラスは部下のクドムラスの裏切りを
知らず、海賊に受けた被害を報告するつもりできた。あの王の気性
から見て、彼が七十隻の軍船を失ったという大敗を隠さない方が良
い。負け戦の責任は、厳重な見張りをせよとのセイラスの命令をお
ろそかにした副官に押しつけ、彼自身は汚名を拭うための再戦を願
い出る方が良かろうという判断である。
神妙な面持ちで王の前に進み出たセイラスが忠誠の姿勢をとった
とたん、王の罵声が投げかけられた。
﹁セイラスよ。お前は儂の命令を無視して勝手な戦をし、その隙を
海賊たちに突かれたそうだな﹂
﹁勝手な戦など。私は王に命じられたとおり戦ったまででございま
すぞ﹂
突然の王の罵声に面食らい、セイラスは王の言葉がクトマスを襲
った出撃だと考えず、王に命じられて出撃した今回の戦いのことか
805
と考えたのである。その勘違いは王の逆鱗に触れた。
﹁この期に及んで何を申すか。そなたは我が町々を海賊に蹂躙され
た責任を儂になすりつけるつもりか﹂
﹁いや、私の勘違いでございました。私は今回の海賊討伐のことか
と考えたのです﹂
﹁では、儂の命令通り、海賊は討ち果たしたのだな﹂
﹁いやそれは﹂
﹁いかがした?﹂
﹁奴らの計略にはまり、軍船五十を失いました﹂
セイラスは意図的に損害を減らして報告したが、王の怒りは解け
ない。
﹁なに、討伐どころか軍船五十を失って、逃げ帰ってきたと申すか
?﹂
﹁申し訳ございませぬ。その屈辱を晴らすために再度の出撃の許可
を頂に参りました﹂
王とセイラスを囲むようにいる他の重臣たちは、口ごもり困惑す
るセイラスに同情しつつも口を挟んで火の粉を浴びる愚を避けて黙
りこくっていた。
怒りが全身に巡った時のこの王は、実にしつこい。海賊騒動とは
無関係の過去の事柄まで、腹の底にため込んでいたセイラスへの不
満を挙げて彼の責任を追及した。
王は最後の審判を下すように断言した。
﹁今までの功績に免じて命まで取ろうとは言わぬ。しかし、お前の
ような者に海軍の指揮は任せておけぬ。任は解く﹂
﹁では、海軍はどうなるので?﹂
﹁指揮は既にクドムラスに任せた。お前はもう要らぬ﹂
﹁クドムラスにですと﹂
﹁左様、お前の出過ぎた真似を忠心から報告に参ったわ﹂
王のその言葉で、セイラスはクドムラスの裏切りを知った。広間
から王が去り、王の歓心を買うのに熱心な重臣立ちもそれに続いた。
806
一人取り残されたセイラスは拳を握りしめて呟いていた。
﹁おのれ。クドムラスめ﹂
そのクドムラスは軍港ボラナルに居た。今は我が手に収めた司令
官室に閉じこもって何かを悩むように、部屋を一人歩き回っていた。
海軍司令官の地位を得たクドムラスに計算違いがあった。王はセ
イラスに命令を下したように、彼にも警戒を巌にして、守りに徹せ
よと命じるだろうと考えていた。ところが王が彼に命じたのは、シ
ュレーブ海軍の全力を挙げて海賊どもを討伐せよとの命令だった。
王ジソーの立場で見ればそれも当然のこと。フローイ国という有
力な同盟国を失った彼は別の同盟国を求めているが色よい返事がな
い。そんな時に、シュレーブ海軍が海賊ごときに大敗したという知
らせが広まれば、シュレーブ国と手を携えようという国はますます
見つからなくなる。王ジソーにとって、次の海賊討伐で先の負け戦
を補わなくてはならなかったのである。
807
シュレーブ海軍司令菅解任︵後書き︶
次回更新予定は今週土曜日です。シュレーブ海軍出撃を知ったロユ
ラスたちルージ国の海賊は・・・
808
シュレーブ海軍出撃
パトローサ
王都で王と面会した後、クドムラスは従者を一人伴っただけの軽
装でウルリに戻ってきた。従者が大切に抱え込む紫の包みの中には、
シュレーブ国王家の紋を刻んだクスナの板が収められており、そこ
にはクドムラスを新たな海軍司令官に任命するという王の命令が明
記されていた。シュレーブ海軍の中でこの命令板に逆らえる者はな
いはずだった。
町の通りを抜け、港で潮風に吹かれてみると、水兵たちの声が耳
に届いた。
﹁セイラス様が海賊どもに大敗を期したって本当かい﹂
﹁そうともよ。七十がたった一隻しか帰らなかった。それもぼろぼ
ろにされてたそうだ。生きて帰った連中は二百人に満たねぇらしい﹂
らしいという伝聞で話をしているのは、出撃した艦隊がこのウル
リの港に戻っていないからである。セイラスは敗軍の姿を晒して海
軍の士気が低下するのを恐れて、帰国した一隻の軍船をルードン河
河口の港町ラクマに停泊させ乗せてきた兵士たちもそこに留めてい
パトローサ
る。ナホロス島を出港して帰国の途に就いたもう一隻は荒波を超え
られず途中で沈んでいた。
うわさ話が広がるのは早い、セイラスが敗戦の釈明のために王都
に出向いた頃にはこのウルリにも伝わっていたのである。クドムラ
スは耳にした噂に思わずほくそ笑んだ。しかし、その冷酷な笑みを
即座に消して兵士たちに怒鳴った。
﹁馬鹿者ども。噂に惑わされるでない。馬鹿げた噂をばらまく者が
いれば私が直接成敗するぞ﹂
噂の真偽のほどは定かではないが、それは司令部に集めた指揮官
たちから聞けばいい。クドムラスは彼自身の帰還に先立って、早駆
けの使者を遣わして彼の司令官就任と、軍船の船長どもを司令部に
809
招集する命令を伝えさせていた。
ややあって、クドムラスは衣服を改め、司令部を置く建物の広間
に姿を見せた。広間に参集した者たちは、それぞれ数隻の軍船を指
揮下に持つレドスと呼ばれる階級の者たちだけだが、それでも広間
を埋めるほど居る。クドムラスはこの者たちの頂点に立っている。
ただ、彼らは新たな最高司令官に反感を滲ませていた。その反感す
ら、昨日まで同輩と認識していた者がいきなり最高司令官になった
嫉妬だろうと、クドムラスは満足感に代えた。
セイラスがこのウルリに戻らなかったというのは、新たに海軍司
令官の地位に就いたクドムラスにとって都合が良かった。解任され
たことを知らないセイラスと顔を合わせていれば一悶着起きただろ
う。
﹁今頃は解任されたことを知って怒り狂っているだろう﹂
クドムラスは小さくそう呟きながら、従者に顎をしゃくって合図
をした。従者が王の命令を記録したクスナの板を掲げるのに合わせ、
クドムラスは大声で呼ばわった。
﹁儂の命令を伝える。三日後に全軍を挙げて海賊討伐に出撃する。
皆も滞りなくその準備をせよ﹂
彼の声に、広間の中から即座に疑問の声が上がった。
﹁しかし、セイラス殿がウルリに戻るのを待った方が良いのでは﹂
﹁セイラスは解任され、すでに軍人ですらない。そのような者に頼
ると言うのか﹂
﹁負けたとはいえ、セイラス殿の長年の経験は役に立ちましょう﹂
レドス
﹁儂の経験がセイラスに劣ると申すか﹂
別の指揮官が別の疑問を叫んだ。
﹁噂では島に友軍が取り残されているとも聞きます。セイラス殿な
ら先に彼らを救出なさるでしょう﹂
﹁もちろんだが、海賊どもの討伐をせねば、島に取り残された仲間
の救出もおぼつかぬではないか﹂
810
﹁海賊、海賊と仰るが、我らが海賊討伐に精を出している間にルー
ジ海軍が襲ってきたらいかが致します。セイラス殿なら仲間の救出
を最優先になさるでしょう﹂
﹁セイラスがどうするかは知らぬ。今は儂が最高司令官である。儂
の命令に従えぬのは、我らが王への反逆とも同じ﹂
クドムラスは新たな部下たちのセイラスへの敬愛と、そのセイラ
スを失脚させたクドムラスへの反感を感じ取っていた。部下たちは、
クドムラスが部下の進言を受け付けない偏狭な上官だと悟っていた。
三日後、クドムラスは五十の軍船を沿岸部の防衛に残した他、残
る全軍、大型軍船四十を含む二百隻近い軍船を率いて出港した。こ
の時代、他では考えられぬほどの大艦隊といえた。海賊を討伐し、
島に取り残された味方を救い、襲ってくるルージ海軍を蹴散らすに
十分な兵力に違いない。
司令官と指揮官の意思の疎通は十分とは言えないが、クドムラス
は勝利を確信してた。彼はセイラスの大敗の原因が海賊の夜襲だと
いうのはラクマに帰還した敗残兵から聞き知っていたし、海賊ども
が狼煙で仲間に合図を送ったというのも知っていた。海賊の手口が
分かっていれば同じ轍を踏む事はない。
︵この航海の先に見えるものは、確実な勝利のみ︶
リカケル・ナーバ
クドムラスはそう信じていた。未だ司令官に対する敬意を知らぬ
部下も、この戦いの結果、彼に靡くはずだった。
大船団は、風にも恵まれて波の静かな月の女神の海の上を白波を
立てて進んでいた。もはや、ウルリの町は遠く離れ、水平線の彼方
に消えた。
811
シュレーブ海軍出撃︵後書き︶
シュレーブ海軍に対抗するロユラスたちの次の秘策は・・・。戦い
の中でロユラスとタリアの愛の行方は・・・。次回更新は明日の予
定です。
812
ロユラスの次の一手
窓から澄んだ朝日が差し込むルージ国王の館の広間に、ロユラス
と重臣たちが集まっていた。
ルージ海軍の士気を任されたフェイサスが口を開いた。
ぶ
﹁次は我が海軍の出番でしょうな﹂
﹁いや、まだ分が悪い﹂
ロユラスは眉を顰めてそう言った。ルージ海軍がいかに精鋭揃い
とはいえ、敵船に矢を射かけるにしてもこちらは低い位置から敵兵
の姿はほとんど見えぬままで、大型軍船の高い甲板にいる敵はルー
ジ国の軍船の甲板上の兵士の姿を眺めてねらい打ちに出来る。接近
して敵の船に乗り移ろうにも、よじ登るのは容易ではないばかりか、
敵兵の数のがずっと多いのである。弓でも白兵戦でも、彼らルージ
海軍の戦い方が敵に通用しないのである。
﹁しかし、もう海賊船で夜襲をかけるという方法も通用しますまい﹂
フェイサスの言葉に、ロユラスは少し考え、納得するように言っ
た。
﹁そうだな。奴らも馬鹿じゃない﹂
﹁とすれば、我々は不利な戦でもせねばならぬと言うことでしょう
か﹂
フェイサスの覚悟の籠もった言葉に、周囲の重臣たちは返答する
言葉もなかった。ロユラスは首を捻りながらようやく言葉を紡ぎ出
した。
﹁あれだけでかい船なら、操船もやっかいだろう。船足が速いのも
奴らの漕ぎ手が元気なうちだけだ。俺たちに利があるとすればその
点だ﹂
﹁では、どうなさるので?﹂
﹁さて、どうしたものか﹂
813
ロユラスは知恵を借りたいとでも言うように、広間に集まった重
臣たちを眺めたが、彼と視線を避ける者ばかりで結論が出ない。ロ
ユラスは広間に満ちた閉塞感を振り払うように、いつもの朗らかな
笑顔を取り戻して言った。
﹁ここまでくりゃ、海賊たちとは一蓮托生だ。まぁ、その辺りは海
賊どもの知恵を借りるさ﹂
︵知恵を借りると称したが、何か心当たりもあるのかも知れない︶
ロユラスが口元を僅かにゆがめて微笑む表情に、フェイサスはそ
う考えた。最近、フェイサスはこの青年の微妙な表情や仕草にその
心情のかけらを読み取ることがある。
フェイサスは笑いながら言った。
﹁アワガン村ですか。私も同行いたしましょう﹂
ロユラスをほっておけば、海賊たちだけで戦をすると言い出しか
ねず、フェイサスは国を守るべき海軍の責任が果たせない。彼はそ
れを危惧したのである。
二人は日没と共にアワガン村に到着した。ロユラスに心当たりが
あると考えたフェイサスの思惑は的中した。考えを聞きたいと称し
て浜に集めた村人たちを前に、ロユラスは手にした棒で砂浜に二つ
の島を描き始めた。浜辺の大きな焚き火の光にロユラスが描き出す
変が浮かび上がって見えた。
﹁北にルージ島、南にヤルージ島﹂
彼は二つの島と距離を置いて、一本の線でアトランティス大陸の
リカケル・ナーバ
東の海岸線を描いた。ロユラスは国と海の名で海岸線を説明した。
﹁我々の西の対岸にヴェスターや、月の女神の海がある﹂
続いて、ロユラスが島と海岸線の間に幾つもの印をつけたのを眺
めた村人たちは、その印を察して口々に言った。
﹁レイラン﹂
﹁ナホロス﹂
﹁チルダルン﹂
814
﹁カンスー﹂
﹁ルーサーン﹂
全て、その海域の島々を総合する名称である。ロユラスは村人た
の反応に満足し、続いてその南側を三カ所、力を込めて突いた。
﹁問題はここだ﹂
それは海軍司令官フェイサスも知っていた。
﹁シミカ、ハナホロ、キュリセですな﹂
ロユラスはその通りだと頷きながら、北から南横断する線を描き、
ジョナルの意見を伺うように彼の顔を眺めた。ロユラスが描く線が
航路だと察したジョナルは、事の重大さに少し考えたが、決断した
ようににやりと笑った。
﹁そりゃあ面白れぇ﹂
﹁やれるか?﹂
ロユラスの問いに、ジョナルと同意を誘うように村人たちを眺め
て言った。
﹁俺たちを誰だと思ってるんだ。アワガン村の海賊様たちだぜ。な
ぁ﹂
ジョナルの言葉を否定する男たちは居なかった。皆、ごくりと喉
を鳴らして決意の唾液を飲み込みつつも、笑顔を浮かべていた。ミ
ドルが賛同を示すように言った。
﹁じゃあ、俺たちはそこで待っていればいいんだな﹂
﹁いや、敵はレイランに来るだろう。俺たちはそこで待つ。フェイ
サスには海軍を率いてヤルージ島の北で俺たちを待っていてもらお
う﹂
自信を臭わせるロユラスら男たちだったが、タリアは村の女たち
を代表するように不安げに呟いた。
﹁シミカ、ハナホロ、キュリセですって﹂
潮の流れが速く、乱れる。時間によっては巨大な渦を巻くことさ
えある。船底を傷つける海面すれすれの岩礁も多い。いずれもそん
な海域である。ロユラスが示した北から南への航路を取れば、避け
815
きれない運命のようにその難所の一つにぶつかるだろう。その海域
を熟知した漁師でさえ危険を嫌がって、普段は避ける場所である。
﹁ロユラス。貴方は⋮⋮﹂
ルードス
言葉は最後まではき出せず、タリアは残る思いを胸に秘めるよう
に、契約の神の白い石を胸の中で握りしめた。
人々は、夜明けと共にシュレーブ海軍の出現を知らせる狼煙を目
撃することになるとは考えてもみなかった。
816
ロユラスの次の一手︵後書き︶
次回更新は三月四日の予定です。海の戦いも終盤へ。ロユラスとタ
リアの愛の行方は・・・。
ご期待くださいね
817
タリアの愛、約束の時
バース
最近、王都の王の館で寝起きすることが多くなったロユラスだが、
生活習慣の一部は変わらず、今でも夜明け前に起き出している。空
を見上げれば、白んだ空に星々の粒は溶けて消えてしまった。波音
に誘われて海を眺めれば、黒を背景に灰色に見えた波頭が、今は青
黒い海に白く見える。ただ、太陽の光を受けて輝きだすのは未だ少
し後である。早起きの漁師たち、今は海賊に戻った者たちでさえ、
姿を見せるには早い。
︵ロユラスは、今でもロユラス︶
タリアは海岸にたたずむロユラスの姿を見つけて安堵するように
そう思った。彼女も漁師の娘として、幼い頃から早朝に起床する習
ルードス
慣を持っていた。そして、時に身を危険に晒す漁師の家族として、
ルードス
契約の神を信じていた。
契約の神は厳格な性格と同時に人の運命の機微を楽しむ陽気さが
ルードス
あるとされている。アワガン村の人々は、時折、浜に打ち寄せられ
る白い小石を、そんな契約の神の気まぐれがもたらした幸運の印と
信じていた。少女たちの間では幸福な結婚を象徴するお守りとして
扱われ、とりわけ夜明けと共に拾ったものに御利益が多いとされて
いた。今、タリアか胸に抱えるように持っている小さな石もその一
つである。
彼女は意図して砂浜を歩く足に力を込めて、ロユラスの背後で足
音を立てた。ロユラスが彼女に気づいて振り返りざま、彼に駆け寄
ってこの約束の小石を差し出して、先日のプロポーズの返事に代え
る。そう言う心づもりだった。
気心の知れた関係だが、面と向かって妻になると言うのは、何や
ら大きな不安と気恥ずかしさがある。タリアはこの石に、幼なじみ
から妻になるという約束を込めたつもりだった。
818
しかし、タリアの意に相違して、ロユラスは振り向く様子は無か
った。彼女は小さな怒りを表情に浮かべて腰に手を当てて男の名を
呼んだ。
﹁ちょっと、ロユラス﹂
予期しなかった人物の登場にロユラスは素直に驚きの表情を浮か
べた。
﹁タリアじゃないか。どうした、一人で?﹂
﹁ロユラス。貴方こそ、何をしているの?﹂
この短い会話で、タリアは小石をロユラスに託すタイミングを失
した。彼女は無意識のうちに小石を固く握り込んで隠した。
ロユラスは言った。
﹁俺か、俺はいろいろ考えていた。父のこと、弟や妹のこと。俺に
もこの国に家族がいたのだと﹂
﹁当たり前じゃないの。リダル様は貴方の父、アトラス様やピレナ
様は貴方の弟と妹。誰にでも家族はいる。だから⋮⋮﹂
タリアはロユラスと結ばれるという意味の言葉を幾つもたどった
が、それを全て飲み込んで黙りこくった。リダル、アトラス、ピレ
ナの名は、タリアが忘れようとしている不安をかき立てていた。目
の前の男は今までの幼なじみではなく、れっきとした王族の一員だ
った。彼女はただの漁師の娘。彼女の父ジョナルとロユラスが、タ
リアの結婚を巡る話題を口にしていた。それが、ただの冗談に過ぎ
ないのだと笑い飛ばせるほど、二人の身分は違う。その不安が、タ
リアの心に重くわだかまっていたのである。
﹁だから?﹂
ルードス
タリアが口ごもった先を問うロユラスが、彼女が握る指の間から
見えるものに気づいて感嘆の言葉に代えた。
﹁ああ、懐かしい。それは、昔、俺がここで見つけた契約の神の石
だろう﹂
﹁違うわ。私が見つけたのよ﹂
タリアは幼い頃の怒りを込めて、ロユラスの記憶を正した。二人
819
はこの白い石を通じて、生まれて初めて出会った瞬間の記憶を持っ
ていた。
年齢を数える習慣のないアトランティスの民だが、タリアの記憶
を整理すれば、母親について歩いていた幼児が一人で冒険を始める
頃だから、三歳か四歳の頃だったろうか。ロユラスは彼女より一つ
年上だから四歳か五歳。歳は覚えていなくても、彼女は波の冷たい
季節だったと記憶している。周囲の乙女のうわさ話に好奇心をそそ
られて、一人で夜明けの波打ち際を石を捜して歩いたのである。
うつむきながら歩いていた彼女の視界に先に入ったものは、石だ
ったのか、少年の足だったのかよく分からない。そんな彼女の幼い
過去の姿を、今のロユラスが語った。
﹁違うだろ。あのとき、それは俺の足下に転がってたんだ﹂
身分の違いなど無かった幼い頃の記憶。初めて視線を交わした瞬
間のことも覚えていた。突然のことで幼いロユラスは戸惑い、少女
の視線をそらすのが目的のように、うつむいて足下の石を拾い上げ
たのである。ただ、ギリシャ人の母の手一つで育てられた彼はアト
ルードス
ランティスの伝承には無知だった。それをタリアは記憶をたどって
言った。
﹁でも、ロユラスはこれが契約の神の石だというのも知らなかった
わ﹂
﹁でも、俺が先に拾ったんだ﹂
﹁でも、見つけたのは、私が先よ﹂
﹁でも、間違いなく、先に俺の手の中にあった﹂
そんなロユラスに言い返そうとしたタリアは、ふと気づいたよう
に肩から力を抜いて笑顔を浮かべた。
﹁その負けず嫌いなところ、今でも変わりがないわね﹂
﹁タリアの強情なところも﹂
ロユラスの言葉に、タリアは苦笑いを浮かべ、手の中で小石をも
てあそびながら言った。
﹁でも、今はあの頃と違う。ロユラスはもう王族で、私たちを治め
820
るお方だわ﹂
彼女は胸に抱いた思いに区切りをつけるかのように大きくため息
をついた。そして約束の小石を握った手を海に向かって振り上げた。
タリアが石を投げ捨てる寸前、ロユラスは背後から左右の手で彼女
の手を包み込んで意外なことを語った。
﹁俺は、弟アトラスと、妹ピレナに、心から感謝している﹂
﹁では、王族になって王の館に行く決心をしたの?﹂
タリアの涙に、彼女の背後のロユラスが語りかけた。
﹁いや、彼らは俺に家族というものを教えてくれた﹂
﹁家族ですって?﹂
﹁そうだ。俺は決心した。もし、俺が家族を作るなら、母のいるこ
の村で、幼い頃から共に過ごしたお前と﹂
彼は信じられない言葉に大きく目を見開いて黙り込むタリアに続
けて問うた。
﹁嫌か?﹂
ルードス
タリアはロユラスに向き直って激しく首を振り、悲しみの涙を喜
びの涙に代えて、ロユラスの胸に顔を埋めた。もし、契約の神のご
意志があったとすれば、石によってこの二人を巡り合わせ、タリア
が石に込めた願いを聞き届けたことかも知れない。この時、朝日が
差して、ロユラスの胸から顔を上げたタリアの幸福そうな表情を照
らした。
沖合を眺めてぴくりと反応したロユラスの表情は険しい。彼はタ
ルードス
リアが手にした石を取り上げて新たな約束を込めた。
﹁契約の神に誓って。戦が終わったら、俺は、村に戻ってくる﹂
タリアも祈りを捧げた。
﹁私たちの命が、私たちの子供や孫に引き継がれ、永遠にこの村と
共にありますように﹂
そんなタリアを抱きしめながら、ロユラスの決意を込めた視線か
沖合に注がれていた。水平線近くの小島から白く立ち上る煙はシュ
レーブ海軍襲来の知らせである。戦いに赴く時を告げていた。
821
ロユラス、出航
ヴェルン島が上げた白色の狼煙が、幾つもの島を中継してロユラ
スの元に届いたのは夜明けから間もない時間だった。西の海を眺め
ればアトランティス大陸の東の海岸線が見えると言うほど、ルージ
島と大陸の間の海域で最も南西に位置する島である。
ロユラスはアワガン村の南の岬の高台にフェイサスと共にいた。
海軍はアワガン村の片隅に天幕を張り、ロユラスがアワガン村に留
まる間の臨時の司令部としている。ロユラスは狼煙がより確認しや
すいこの高台にフェイサスを誘ったのである。
﹁まだ遠いな﹂
ロユラスは敵の位置を語り、フェイサスはその距離を感嘆した。
﹁その遠い敵の様子が分かるのですな。私も若い頃は苦労させられ
たものです﹂
ルージ海軍を預かるフェイサスは海賊たちが利用した狼煙の効用
を認めざるを得ない。フェイサスが若い頃、海賊どもを捕捉するた
めに苦労したことがある。海賊どもの根拠地の島を突き止めて討伐
に向かっても、この連絡網を使ってルージ海軍の出現を知った海賊
たちはさっさと行方をくらましてしまうのである。ただし、今は、
海賊たちが敵の行方を突き止めるために狼煙が上げられている。
狼煙で全ての情報を伝えるのは無理だが、五つに区切ったエリア
のどこで敵を目撃したのかと言うことは煙の色で出来る仕組みであ
る。幾つかの島の狼煙場に居る者たちが、ルージ軍の艦隊を発見し
たときに、定められた色の狼煙を上げる仕組みで、敵の軍船の数ま
では不明だが、敵の出現とその移動を推測するのに参考になる。
︵次はどこに︶
それがロユラスとフェイサスの最大の関心事だったが、次の狼煙
822
が上がったのは陽が西に傾き始めた頃である。
黒い狼煙がすぐに濃い灰色に変わった。最初の黒色は他の島の狼
煙を中継しているという印、その後の濃い灰色の狼煙は、ヴェルン
島の北方の領域で敵を目撃したと言うことである。前回の襲来は島
々の間を縫うように航行したのに比べれば、今回は島々にから離れ
て航行しているらしい。大陸の東岸の海岸沿いに北上する航路を取
っているのだろうと推測がついた。
﹁敵がレイランを目指すなら、次は黄色のはずですな﹂
フェイサスはそう言った。濃い灰色のエリアから、レイランへ進
路を取れば黄色い狼煙が上がるエリアを通過するはずだと言うので
ある。ただ、ロユラスたちは次の知らせを待っている暇はなかった。
すぐに出航せねばレイランで敵を待ち受けることが出来なくなる。
﹁早く次の連絡があればいいのですが﹂
﹁やむを得んさ。どうせ間もなく風が出る﹂
ロユラスがそう言うのは、天候を眺めれば海面は穏やかだが、吹
き渡る風が強くなり始めている。海域全体に吹く風が強まる気配を
見せていた。狼煙が吹き払われて通信手段として使えなくなるとい
うことである。
﹁俺たちもすぐに狼煙を上げよう﹂
アワガン村の岬の丘から上げた狼煙は遠くからでも見える。他の
村々ではその狼煙の方向からアワガン村の岬で出航を促す狼煙を上
げたことを知るだろう。
明くる朝、アワガン村の男たちは六隻の海賊船に分乗して出港し
た。他の村々の海賊たちと合流しながらレイラン島へ向かうのであ
る。
タリアたち村の女は遠ざかっていく船をいつまでも見送り、浜辺
から水平線の彼方に消えた人々の姿を探すように、女たちは岬の丘
に移動して親しい人々の姿を水平線近くに眺めた。タリアの手にロ
823
ユラスが約束を込めた白い石が握られていた。その石に彼は帰って
くると約束した。
﹁帰ってくるだけじゃだめよ﹂
タリアがそう呟いたのは、先の戦いで死者となって帰ってきた者
の存在を思い起こしたからである。帰ってきたときにロユラスの暖
かい息吹を感じ取ることが出来ねば意味がない。
この時、沖合の島から狼煙が上がるのが見えた。ロユラスやフェ
イサスが予想した黄色い狼煙ではなかった。狼煙の黒い色は敵が更
に北方へ移動を続けていることを示唆している。岬にいたフェイサ
スが呟いた。
﹁もう北方には奴らが襲う目的地はないはずだが﹂
シュレーブ海軍が最初に襲ったクトマスの町があの付近最大の町
で、それより北には襲うべき価値のある町はほとんどないはずだ。
フェイサスがそう首を傾げるように、船上から狼煙を眺めているロ
ユラスも同じ疑問を抱いているかもしれない。
戦いは、ルージ国側とシュレーブ国側双方の疑念や誤解を織り込
みながら進んでゆくのである。
824
シュレーブ艦隊出現
ロユラスらがレイランやその周辺の島々に到着したのは出航して
三日目である。敵艦隊は大陸東岸の海岸線に沿って北へ向かったと
言うこと以外、新たな動向は分からない。ロユラスらはこの海域に
到着して三日以内に敵が来るものと考えていた。
いくさ
敵はレイランが海賊の本拠地だと知っているはずだ、敵は来るだ
ろう、敵は本拠地を突くべきだ。しかし、戦を考える上で積み重ね
た推測の一つでも崩れていたら。海賊たちに多くの迷いを生じさせ、
若いロユラスもまた最高指揮官だという精神的な圧力に加えて多く
の迷いを持っていた。
海賊たちはレイラン島の北にある小高い山に見張りを置いている
が、この三日間、敵の姿を確認出来ずにいる。更に二日が無駄に過
ぎた。
﹁ロユラス。敵は本当に来るんだろうか﹂
ロユラスが幼なじみの親しみと戸惑いを込めてそう聞いた。
﹁来るさ﹂
ロユラスの言葉に、別の仲間も不安を口にした。
﹁しかし、水や食料も少ない﹂
﹁残りはどれだけある?﹂
﹁もってもあと六日。帰りの航路に三日を要するとすれば、留まれ
るのはあと三日だけだ﹂
あと三日と称したが、天候が荒れて船が出せないという不測の事
態も考えられる。大きな嵐がくれば、どこかの島に四、五日は足止
めされることは珍しくない。そうなれば水や食糧などあっという間
に尽きてしまうだろう。出来ればすぐにでも帰途につきたいところ
だった。
825
その島に罵声が響いた。
﹁小賢しい。海賊ごときが、我らに命令するのか﹂
﹁その海賊ごときに大事な船を焼き払われた海軍様には、お似合い
だぜ﹂
﹁何ぉ。卑怯な手をつかって我らをだまし討ちにしたくせに﹂
﹁海軍から話は聞いたぜ。お前ら、ナホロス島で捕虜にしてくれっ
て懇願したんだってな﹂
海賊たちが高笑とともに言ったのは事実である。海賊たちに船の
大半を焼き払われ、島に取り残されたシュレーブ海軍の将兵は姿を
見せたルージ海軍の降伏勧告に応じて命を長らえていた。
﹁海賊がルージ海軍とつるんでおるのか﹂
ロユラスは聞こえてきた罵声と、あざけりの声に笑った。彼は先
の戦いで捕虜にしたシュレーブ軍兵士を五十人ばかり海軍の船を利
用してこのレイランに運んだ。昔は海賊が根城とした島だが、住居
や桟橋は朽ち果てかけている。そんな施設を修繕するための労働力
である。そして彼らを利用する目的がもう一つあった。
ひざまづ
ロユラスは海賊たちに命じた。
﹁そいつらを、俺の前に跪かせろ﹂
誰かに屈辱的な姿勢を取らせるというのはロユラスの流儀ではな
い。ただし、この時はその演技を必要とした。海賊たちは捕虜の頭
かしら
を押さえたり、膝を内側から蹴ってロユラスの命令を実行した。
﹁お前がこの薄汚い者たちの頭か﹂
ギリアスが憎々しげにロユラスを見上げてそう確認した。セイラ
スの副官だが、ナホロス島に残る兵士を指揮しろと島に取り残され
て、捕虜になっていたのである。ギリアスの言葉は間違っていない。
ただ、海賊たちに命令を下している様子を見れば明らかだが、荒く
れ男たちを束ねるにはいかにも若い。ロユラスはその回答のように
腰につけた剣を抜き、束にはめ込まれたアクアマリンを見せた。先
代の王リダルが彼に託した剣である。
826
ギリアスはその象徴に息をのんだ。明らかにルージ王家の紋章で
ある。
﹁貴様は⋮⋮﹂
﹁先代の王リダルの長子のロユラスだ﹂
﹁リダルの長子だと。では、フローイ国に攻め込んだというアトラ
スは?﹂
﹁あれは俺の弟だ。国を束ねる者があんな危険な所に出向いて身を
さらすなど古今聞いたことはないぞ﹂
﹁では、お前が本当の王か?﹂
ギリアスの問いに答えず、浜辺に並んだ海賊船の中、青いルージ
王家の旗を掲げた海賊船を指さした。真面目な問いに嘘をつくのは
ロユラスの性格に合わない。この時は海賊船を指さしただけだから、
嘘にはなるまいと考えていた。ギリアスは思いついたように言った。
﹁馬鹿めが。我らの前に正体を現しおって。後はシュレーブ海軍が
お前を殺せば、ルージ国との戦も、我らが勝利したのも同然だとい
うことだ﹂
ロユラスがルージ国の王。そんなギリアスの言葉を楽しむように
訂正もせず、若いロユラスは微笑みを浮かべ続けているのみで応え
ない。この場合、ロユラスにとって、ギリアスのその妄想は都合が
よかった。ギリアスは苛立ちや怒りを増幅させて言葉を継いだ。
﹁お前の正体を知ったからには、シュレーブ海軍は総力を挙げてお
前を追うぞ﹂
ロユラスは彼を挑発するようにおどけて言った。
﹁間抜けなシュレーブ海軍にそれが出来るかな?﹂
﹁おおっ、してやるとも﹂
ギリアスの言葉をロユラスは煽った。
﹁しかし、俺たちの逃げ足が速いぞ﹂
﹁必ず、お前を捕らえて殺してやる﹂
﹁怖い、怖い﹂
﹁ルージ王として首を刎ねられるのが良いか、海賊の頭として首を
827
吊されるのが良いか、よく考えておけ﹂
﹁しかし、それもシュレーブ海軍が俺の所在を知っていればの話だ
ぞ﹂
ロユラスの言葉にギリアスはニヤリと笑った。海賊たちが漏れ聞
こえていた会話で、シュレーブ海軍が姿を現したことは知っていた
し、それを耳にしたタイミングを考えれば、間もなく味方海軍が姿
を現す。ギリアスは、もはや海賊たちは逃げ出す暇もあるまいと考
えていた。
﹁我らはレイランがお前たちの根拠地だと知っている。味方はここ
に来るに決まっている。お前たち海賊はすべて吊し首か火あぶりだ。
処刑台で悔しがるが良い﹂
ギリアスの言葉に海賊たちは顔を見合わせてほくそ笑んだが、ロ
ユラスはそんな彼らに眉を顰めて首を僅かに横に振って、笑顔を消
せと合図をした。海賊たちにとって最も知りたかったこと。シュレ
ーブ海軍が本当にレイランに来るかどうか。ギリアスが明言したの
である。
この時、一人の海賊が北の山を指さして叫んだ。
﹁狼煙が上がった﹂
シュレーブ海軍を見つけたという合図である。ロユラスは即座に
命じた。
﹁仲間をまとめろ﹂
見張りのために島のあちこちに散らばっていた仲間を浜に集めて
みると、レイランの北に間違いなくシュレーブ軍の将旗を掲げた艦
隊が目撃でき、その進路はまっすぐレイランに向けているというこ
とが分かった。その数は大型軍船四十を含む百隻を超える。
ロユラスは仲間に命じた。
﹁ずらかるぞ﹂
ミドルはがギリアスら捕虜を指さして尋ねた。
828
﹁こいつらはどうする?﹂
﹁ほっとけ、ずらかるのが先だ﹂
ロユラスは王家の旗を掲げた海賊船に向かってかけだし、ギリア
スはそんなロユラスらを苦々しげに見送った。
﹁必ず、奴らを捕らえて吊してやる﹂
ギリアスは憎々しげにそう呟いていた。ロユラスがルージ国の本
当の王であり、その王が王家を象徴する旗を掲げた海賊船に乗って
逃げた。それは誰かが与えたまやかしの情報ではなく、ギリアス自
身の想像であり目の前で目撃した光景だった。ギリアスのような自
信家にとって、もはや都合の良い妄想ではなく事実。それをギリア
スは叫んだ。
﹁お前たちを追い詰めて、この私がルージ国を敗北にに追い込んで
やる﹂
一方、ロユラスはいつも浮かべている剽軽な笑顔を消し、真剣な
眼差しで数多くの島々と南の水平線を眺めていた。
これから彼がしようとしていることは、戦いとも言えないかも知
れない。敵に遭遇してひたすら南へ逃げる。それだけである。彼は
先に出航した船を眺めた。半数は敵に捕捉されて沈められることも
あり得るのではないかと考えていた。海賊たちもその運命は自覚し
ているだろう。
829
追跡
レイランの北の山頂から水平線近くに目撃されていたシュレーブ
艦隊だが、海に浮かんだ彼らにはレイランの山頂が見えるかどうか
と言う距離で、島として実感が籠もる光景が見えるには未だ距離が
ある。
﹁間もなくレイランが見えて参りましょう﹂
副官としてクドムラスを支えるべき立場のディルナスが冷たさを
感じさせるほど冷静に言った。頷いて見せたクドムラスにディルナ
スが言葉を続けた。
﹁海賊どもがいればいいのですが﹂
﹁いる。必ずな﹂
﹁わかりますか﹂
上官を嘲笑するように薄笑いを浮かべたディルナスに、クドムラ
スは腹立たしげに言葉を吐いた。
﹁わかる。奴らが狼煙を上げるのは、我らの存在をレイランに伝え
るため。おらんでどうする﹂
﹁もし、セイラス殿ならば、レイラン以外の島々にも戦力を割いた
でしょう﹂
﹁セイラスなど惨敗の将などどうでも良い﹂
ディルナスは薄笑いを止めていない。今のディルナスの感情はシ
ュレーブ海軍の将兵を代表すると言えた。セイラスは気むずかしく
厳格な指揮官だったが、部下の敬愛を集めていた。今のクドムラス
はその敬愛する指揮官に取って代わった男である。そしてクドムラ
スが王に取り入ってセイラスをその地位から追い落としたというの
は海軍の将兵にも広まっていた。正々堂々が尊ばれる海軍の中で、
クドムラスの行為は将兵の侮蔑を招いていたのである。
クドムラス自身もそれを自覚しているようだった。彼は自分に心
830
服しない部下たちに、自分の能力を見せようとして、いたずらにセ
イラスと違う命令を下し続けていた。アトランティスの東岸に沿っ
て北上するというのもそれである。セイラスが島々の間を縫って航
行したあげく惨敗を喫したセイラスの無能さと揶揄してこの航路を
取った。
クドムラスの考えではこの沿岸部は潮の流れがやや緩やかなはず
で、海賊たちが島々に置く見張りにも見つかりにくい。狼煙を上げ
た島々には少数の軍船を派遣して討伐する。シュレーブ海軍はその
行動を知られぬまま、海賊どもが予想もしなかった北方から一気に
襲いかかって、海賊を一網打尽に殲滅する。それがクドムラスが立
てた戦術だった。
ただ、アトランティス東岸の浜辺は切り立った崖が多く、夜間に
艦隊を休める浜がほとんど無い。狼煙を上げた島々の討伐に向けた
軍船が戻って合流するまで、艦隊は波に揺られながら海岸近くの浅
瀬に碇を降ろして、座礁の危険に晒されながら停泊を続けた。
予定より時間を費やしたというのは、ロユラスだけではなかった。
クドムラス率いるシュレーブ海軍も、同じである。更に、彼らは食
料と水という、海賊たちと同じ不安を抱えていた。クドムラスは航
行速度を重視して少しでも船を軽くしようと積荷は最小限にした。
出港してきたときに搭載していた四十日分の水や食料の半分以上も
消費し尽くしていた。しかし、クドムラスはレイランの海賊どもを
討伐して彼らの豊富な水や食料を奪えばいいと称して部下の不安に
耳を傾けようとはしなかった。
シュレーブ海軍がレイランに到着したのは、陽が中天を少し過ぎ
た頃である。大型軍船を一斉に浜に乗り上げて兵士を上陸させ、島
の海賊どもを討伐する。同時にその他の軍船で島を包囲し海賊ども
の脱出を防ぐというのがクドムラスの立てた計画で、彼自身はその
戦術に自信満々だった。
しかし、軍船でレイランを包囲したものの逃げ出す海賊船はなく、
831
島に上陸した兵士たちは敵ではなく味方兵士を見つける羽目になっ
た。海賊たちが島に残したギリアス以下五十人の捕虜である。
旗艦に収容されて状況を聞いたギリアスは喜々として言った。
﹁おおっ、セイラスが失脚しましたか﹂
出航前にセイラスに忠実でクドムラスを見下していた将だが、ナ
ホロスに置き去りにされるに及んで恨みをつのらせていたのである。
海賊どもを殲滅する計画が大きく狂ったクドムラスだが、ギリア
スによって新たな情報を得た。海賊たちは間違いなくこの島にいた
ということである。クドムラスは逃げられたことには触れず、自分
の正しさのみ盛り込みながら指揮下の将兵に次の命令を告げた。
﹁海賊どもは間違いなくこの島にいた。私の判断に間違いはあるま
い。奴らは我らシュレーブ海軍を恐れて南へ逃げ出したのだ﹂
この時、ギリアスがクドムラスに耳打ちをするように言い、クド
ムラスは驚くように叫んだ。
﹁ルージ国王だと﹂
﹁その通り。王家の旗を掲げた海賊船に、本物のルージ国王が﹂
ギリアスが囁いた内容は、にわかには信じがたい情報だが、実際
にロユラスと名乗る若者が所有する剣の束のアクアマリンを目撃し
た兵士もおり、ルージ王家の旗を掲げた海賊船が合ったのも確から
しい。
ギリアスはおもねるように卑屈な笑顔を浮かべた。
﹁奴らを早く追わねば﹂
﹁おおっ、その通りだ﹂
敵の国王を捕らえてルージ国を屈服させる。その大手柄が今のク
ドムラスの目の前に突きつけられたのである。司令官の判断にディ
ルナスが異論を差し挟んだ。
﹁しかし、我らは今しばらく、ここで兵を休めなくてはなりません﹂
シュレーブ艦隊は出航以来兵を十分に休める間もなくここまで来
た。突然に変わる風に合わせて帆を操り舵を取り続けた水兵や急な
832
海流に逆らって船を前進させ続けた漕ぎ手は疲労を蓄積させていた
のである。クドムラスはやや思い悩む表情を見せた。目の前に餌を
ぶら下げられたが、ディルナスの指摘ももっともだった。
ギリアスが提案を拒絶されるかもしれない不快感の混じった表情
をディルナスに向けたが、すぐにその視線をギリアスの遙か向こう
の南の水平線へと移動させた。ギリアスは叫んだ。
﹁あれは、ルージ国王が乗る海賊船でございますぞ﹂
ギリアスが指さす先に、一隻の海賊船が見える。そのマストの上
に掲げられた王家を示す青い旗が判別できる距離である。この瞬間、
クドムラスに迷いはなかった。
﹁全艦、奴を追え。ルージ国王を捕らえた者には我らが王が褒美を
下さるぞ﹂
既にレイラン島に上陸していた兵士たちの収容を待つ暇もなく、
クドムラスは旗艦の進路を南へと向けた。
833
追跡︵後書き︶
次回更新は三月十八日︵土︶と十九日の予定です。シュレーブ海軍
の追撃と、追撃を続けさせるための海賊たちの駆け引きが繰り広げ
られますが・・・
834
逃げるロユラス
﹁のろまな奴らめ。やっと追って来る気になったらしい﹂
大半の仲間は南の水平線の沖合に逃げ延びていて、ロユラスの位
置からですら見えない。ロユラスの周りには彼の船も含め、十数名
の男たちが乗る小さな海賊船が五隻だけである。百名を超える兵士
が乗る百隻を超える艦隊から見れば小さすぎる獲物である。
ただ、マストに掲げたルージ国の青紫色の旗。とりわけオオカミ
の牙と爪を象徴する意匠をシュレーブ王家を象徴する紋は、数十隻
の海賊船団より敵を引きつけるのに効果があった。マストに将旗を
掲げた大型軍船が浜を離れる様子が見え、他の軍船の甲板にも兵士
が慌ただしく動き回って出港の準備を整える様子が見える。
あとは南で潮が渦巻くシミカ、ハナホロ、キュリセのいずれかの
海域に敵を誘導する算段である。船を潮の流れに乗せて漕いでも、
丸三日はかかる距離だった。
﹁フェイサスの予言も外れたようだな﹂
ロユラスがそう言い、ミドルたち同じ船に乗る仲間も頷いた。ル
ージ海軍の指揮を預かるフェイサスは、シュレーブ海軍の動きを予
想して、敵は個々に海賊船を追ってくるだろうと語っていたし、ロ
ユラスたちはその腹づもりでいた。
﹁まったく、なんて陣形だ﹂
ロユラスの幼なじみのミドルは櫂を握る手を動かしながら笑っ
た。シュレーブ海軍はロユラスたちを追いながら、両腕を広げてロ
ユラスを捕まえようとするように、横に広がる陣形を作り上げてい
ったのである。王家の旗を掲げた海賊船を何が何でも捕らえようと
する意思の表れに見える。ただ、小島が多いこの海域では航行に一
番不便な陣形だろう。シュレーブ艦隊やその指揮官がこの海域に不
835
慣れな証拠だった。
﹁まったく、奴らは俺たちを捕まえるのに必死だぜ﹂
アトンという名の若者がそう笑い、ミドルが応えた。
﹁この船にルージの国王が乗っているとなりゃ、追っかけたくもな
るさ﹂
ミドルの言葉にロユラスは肩をすくめて笑った。
﹁おい、おい。俺は自分がルージ国王だなんて、一言も言っちゃい
ないぜ﹂
ロユラスが言うのは事実である。彼はシュレーブの捕虜の前で王
ではないかという素振りは見せたが、断言はしていない。彼が自分
が王だと言えば疑う捕虜もいたかもしれない。しかし、捕虜たちは
勝手な推測を膨らませていた。ロユラスらが嘘を吹き込むよりずっ
と真実みを帯びて、海賊船に王が居るという情報がシュレーブ海軍
に伝わっているだろう。
ロユラスは海賊船を潮の流れに任せながら、たまに島に接近しす
ぎないように、自らオールを握って船の針路を操作した。島に接近
しすぎて岩礁で傷つく敵の軍船がロユラスたちから何度か見えてい
た。
陣形を保つために、シュレーブ艦隊の軍船の漕ぎ手は力一杯漕ぎ
続けたり、島を避けるための急な進路転換で慌ただしく漕いだり、
ずいぶん忙しいことだろう。
ロユラスは逃げるどころか、海賊船がシュレーブ艦隊を引き離し
てしまいすぎないよう、注意しながら間隔を保たねばならない。
敵兵の疲労に同情しつつ、ロユラスは言った。
﹁俺たちは食事にするか﹂
馬の発酵乳が入った革袋を肌に身につけて持っていた。ロユラス
は傍らを進む仲間の船にも振って見せて、食事をしておけと命じた。
櫂を動かし続けていた体は温かいが、足の先や指先は冬の海の冷た
さを吸って凍えている。男たちが身につけている毛皮のコートから、
836
波の飛沫が船底へしたたり落ちていた。男たちは櫂を船上に置き、
懐から取りだした革袋に指先を当てて暖を取り、配られた干し肉を
かじり、革袋の中の発酵乳や蜂蜜入りのワインを口にした。男たち
が吐く白い息に生命感が凝縮されているようだった。彼らはこれか
ら続く航海に、体力を温存しておかねばならないことを自覚してい
た。やがて、干し肉など口にしても飲み込めぬほど疲労がたまる。
たっぷりと蜂蜜を入れたワインだけが、彼らの命を支える食料にな
る。
敵との距離が放つ矢が届きそうな間隔に詰まってきた。仲間の一
人が肩をすくめて笑って言った。
﹁おいおい、飯はもっと仲良くゆっくり食うもんだぜ﹂
十分な休息もなく追跡を続ける敵に対する同情に、海賊たちの笑
いが広がった。
﹁しょうがねぇな﹂
ロユラスは仲間にふたたび櫂を手にするように命じた。海を吹き
渡る風は乱れ、船を進めるものは、潮の流れと櫂を握る男たちの力
強い腕の動きだけだった。
この日の陽は傾き、櫂が立てる水しぶきの一粒一粒まで赤く染め
ていた。
837
追うクドムラス
夜空に丸い月が出ていた。淡い雲が風に吹かれて流れていた。や
がて、その上空の強い風が海面にまで降りてくるのではないかと思
わせた。
シュレーブ海軍のクドムラスの迷いは深まっている。このまま追
い続けても追いつけないまま取り逃がしてしまうのではないか。夜
の闇に紛れて海賊が姿を消してしまうのではないかという不安であ
る。
波の静かな海なら、海賊船ごときに船足でひけは取らない自信は
あったが、潮の流れの複雑さや障害物の多さ、何より百隻を超える
軍船の艦隊運動の難しさなどクドムラスを悩ませていた。
同時に、隠しきれない戸惑いや混乱を滲ませるクドムラスに、将
兵たちの侮蔑の視線が注がれていて彼もそれを痛いほど感じ取って
いる。そんな侮蔑も、彼がルージ国王を捕らえ、ルージ国を降伏に
導けば、絶大な尊敬に変わるに違いと彼は考えていた。
副官のディルナスなど、クドムラスに対する侮蔑こそ隠していた
が、不信感を隠そうとはしていない。彼はクドムラスに疑問を呈し
た。
﹁このまま潮の流れに乗っていくのは危険では﹂
﹁何故だ?﹂
﹁この先には、ハナホロ、キュリセ、シミカがございます。古来よ
りよく知られた危険な海でございます﹂
クドムラスらシュレーブ海軍の将兵も、海で生きる者としてその
海域の名は噂で知っている。クドムラスは腹立たしげに言った。
﹁そんなことを、私が知らないとでも考えておるのか﹂
﹁しかし、艦隊を危険に晒すというのは﹂
念を押す副官ディルナスを、ナロス島で救出されたギリアスがあ
838
ざ笑った。
﹁くどいぞ。まだハナホロまで一日以上もあろう。そんなことも知
らぬのか﹂
ディルナスもハナホロの位置ぐらいは知っている。反論しようと
する彼が口を開く前に、クドムラスが彼を侮辱する言葉を吐いた。
﹁おおかた、この男の臆病故であろうよ。目に見えぬ危険にまで恐
れをなしているのだ﹂
軍人にとって最も避けたい臆病者という言葉を浴びたディルナス
は、怒りと共に反論の言葉を飲み込んだ。
︵もう、何も言うまい︶
ディルナスの感情は怒りすら超えて、この愚かな上官を見限った
と言うことである。彼はもはや自分の安全のみ考えようと決心した。
目前の様々な不安が頭をよぎる中、クドムラスの心の中は、彼が
ルージ王を捕らえる名誉心と、海賊を捕らえための計略のみで満た
されて、危険海域への不安がかき消されるように薄れた。
海賊どもを包囲して捕らえようと横に長い陣形を取らせたクドム
ラスだが、艦隊の船足が落ちる事を悟っていた。彼はそれが自分の
責任だとは言わず、新たな命令を副官ディルナスではなくギリアス
に命じた。
﹁陣形を解く。各軍船はそれぞれ海賊どもを全力で追え。即刻そう
伝えよ﹂
ギリアスは自分が副官に任命されたかのように、命令を伝える兵
士も使わず、自ら声を張り上げて右舷左舷へ移動して隣を航行する
船に命令を伝えた。その命令は船から船へと伝わり、やがて漕ぎ手
が疲れ切った船が脱落するように、百隻以上に及ぶシュレーブ海軍
の陣形が乱れていった。
︵セイデス殿なら︶
ディルナスはこの状況では意味のないことを思った。船底では思
考力さえ失って荒い息を吐く無表情な漕ぎ手たちを、小さな灯りが
839
照らし出していた。僅かな休息しかとれない彼らの疲労は限界に近
いのである。櫂を漕ぐ席の傍らに置かれた籠の中の食料に手をつけ
た形跡もない。疲労がたまって食欲も失っているのである。先の海
軍司令官セイデスなら、この状況に海賊たちの追撃を中止し、漕ぎ
手に休息や睡眠を取らせ、食欲を取り戻した彼らに十分な食事を取
らせるだろう。
彼らが救いを求めるようにディルナスに視線を注いだとき、甲板
からクドムラスの命令を伝えるギリアスの声が響いてきた
﹁帆を上げろ﹂
船を進める順風が空から降りてきたのである。これで、今しばら
くは風に任せて、漕ぎ手たちも休息をとれるかも知れない。シュレ
ーブ艦隊はばらばらになりながらも、海賊船を目指して夜の闇を突
き進んでいった。
840
最初の犠牲者たち
夜明けと共に、海賊たちはシュレーブ海軍の戦術の変更を知った。
﹁ようやく、フェイサスの言うとおりになったぞ﹂
ロユラスが愉快そうに言った。今まで敵は海賊を追うことより艦
隊の隊列を守ることにこだわってきたために、海賊船に追いつくこ
とが出来なかった。これから僚船を気にせずに全速で海賊船を追う
となれば、速度が勝る敵の軍船は海賊船を捕捉することもあるだろ
う。そんな危険が増すと言うことである。ロユラスの笑顔はその不
安を吹き飛ばすためのものである。
将旗を掲げた大型軍船が、両弦に数十の櫂の水しぶきを上げなが
ら、ロユラスが乗る海賊船を目指して迫ってくるのが見えた。
﹁ずらかるぞ。みんな散れ﹂
ロユラスはアワガン村の他の仲間の船四隻にそう命じた。敵の軍
船は王家の旗を掲げたロユラスの船を目指して来るに違いない。仲
間の船はロユラスの船から遠ざけた方が良い。アワガン村以外の海
賊たちの船は、とっくに南の島々に待避している。
ロユラスたちには、敵の大型軍船と戦うという選択肢があるはず
が無く、逃げ続けた。ただ、目の前の島にまっすぐ接近して、上陸
して逃げるのかと思わせつつ、島の手前で急な方向転換をしてみた
り、疲れた様子を見せて潮の流れに船を任せたかと思うと、敵が放
つ矢の射程ぎりぎりで勢いよく船を前進させたり、島の海岸縁ぎり
ぎりに船を進めてみたり、逃げ方は様々で数え切れない。
﹁奴らも焦っているだろう﹂
ミドルが言い、仲間が応えた。
﹁あんなでかい船で俺たちを捕まえようってのが間違いなんだよ﹂
事実、艦隊の先頭で海賊を追う旗艦では、クドムラスらが苛立っ
841
ていた。
﹁ええいっ、ちょこまかと﹂
いままで味方を横に広げる陣形で、海賊を上回る船足で前進する
事が出来れば、味方のいずれかの艦が海賊を捕捉出来た。これから
はばらばらに海賊船を追う。そのためにクドムラスの旗艦でさえ、
前方の敵に合わせて船首を右に向けたり左に向けたり、慌ただしい。
しかも風に頼る操船が出来ず、帆は下ろして漕ぎ手の力に頼って航
行せざるを得ないのである。
ギリアスが悲鳴を上げるように言った。
﹁クドムラス様。島に接近しすぎますと危険です﹂
﹁言われなくても分かっておる﹂
既に、何隻かの味方の軍船が海面から見えない岩礁に櫂を折られ、
船体を傷つけられているのが見えていた。喫水の浅い海賊船が島を
すれすれにすり抜けてゆくのと違い、それを追う軍船は島から距離
を置いて航行しなければならない。そして、統一された指揮から離
れて、勝手気ままに動き出したシュレーブ海軍の軍船同士が衝突し
かける場面まで生じている。
海賊船の立場で見れば、ロユラスたちはそうやって距離を保ちつ
つ、逃げる風体を装いながら敵を南へと誘導していった。ただし、
リカケル・ユエ
小細工ができるのしばらくの間だけである。間もなく、彼らは月の
女神の鏡と呼ばれる島がほとんど無い海域を通過する。海賊にとっ
て逃げるのに難しく、敵は波の穏やかな海面の海賊船を見逃さず捕
捉するのも容易という海域である。
逃げる海賊たちにとって避けたい海域だが、目的の海域へ誘導す
るためには避けて通れない場所である。むろん海賊たちはこの海域
の存在は知っている。普段は心休まる海も、この時には狩りの獲物
にされる危険な海域だった
﹁ロフェが見えてきた﹂
ミドルの叫びは、その小島を過ぎれば、海賊たちの船はいよいよ
842
リカケル・ユエ
月の女神の鏡へと入っていくと言うことである。ロフェが左舷から
船尾へと遠ざかり、前方には水平線が広がった。
視界が広がっていったのは、シュレーブ海軍も同じだった。クド
ムラスは前方に見えるルージ国王家の旗を指さし、喜々として命じ
た。
﹁海賊どもの命運は尽きたぞ。一気に捕獲せいっ﹂
あの旗を掲げた海賊船ただ一隻を捕獲し、ルージ国王を捕らえれ
ば、ルージ国を降伏に追い込んだ立役者としてクドムラスの名はア
トランティス中に鳴り響くだろう。彼は目の前の名誉に酔った。
この時、ギリアスが新たに前方を指さした。
﹁クドムラス様。アレを﹂
指さされずともクドムラスにも、海賊船の動きの変化が見えてい
た。
仲間の海賊船が王家の旗を掲げた船に寄って行ったかと思うと、
それが予定の行動だったかのように、旗を掲げていた海賊船もマス
トの旗を下げた。そうすると海賊船は入り交じってどれが王が乗船
していた船かの区別がつかない。
五隻の海賊船は再び互いに距離を開けたばかりではなく、一隻は
真南に、二隻は東南へ、別の二隻は西南へと、南へ進む要素は残し
つつ、互いに進路を変えた。併走するかに見えた二隻もまた微妙に
進路を変えた。
大型軍船の甲板から見ているクドムラスは、自分たちが追うべき
船を見失って、どの海賊船が王家の旗を掲げていたのか分からない。
﹁ええい。我らも分散し、全てを追えばよい﹂
各軍船は見つけた海賊船の中から最も近いものを全力で追え。そ
ういう命令が旗艦から発せられ、水兵の叫びで船から船へと伝わっ
ていった。統一した指揮が失われた。
クドムラスが搭乗する大型軍船が、海賊船の最初の一隻に追いつ
843
いたのは、一ザン︵一時間︶ばかり後のことである。接近した海賊
船に十数人の男たちが見える。みな疲労困憊しているように見えた。
ただし、櫂を漕ぐのに疲れ切っているのはクドムラスの足の下の船
底で軍船の櫂を握っている兵士も同じである。
クドムラスは甲板から海面の海賊船を見下ろしてギリアスに問う
た。
﹁どうだ。お前が見た王はおるか﹂
﹁よく分かりませぬが、居ないようにも思われます﹂
﹁ええいっ、はっきりせい﹂
そんな罵声に口ごもるギリアスに、クドムラスは業を煮やした。
﹁もうよい。奴らを射殺してしまえ﹂
ルージ国王が居るなら生け捕りにするのが望ましい。彼はそう考
えて敵を生け捕りにしろと命じていた。しかし、目の前の光景を見
れば、自分の命令の困難さに向き合わざるを得ない。海賊船を検分
している間にも、他の海賊船はさっさと逃げて距離を稼いでいるの
である。生け捕りはあきらめて、弓で射殺してしまうか、海賊船に
船をぶつけて転覆させてやるしかない。
クドムラスの旗艦から数十本の矢が放たれ、防ぐことも出来ない
男たちはたおれた。生存者が居なくなった海賊船が、生きる意志を
失ったかのように波に漂い潮に流されていった。
844
最初の犠牲者たち︵後書き︶
次回更新は明日の予定です。アワガン村の海賊船、残り四隻の運命
は・・・
845
悲劇の追跡︵前書き︶
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846
悲劇の追跡
最初の一隻にくわえ、二隻目の海賊船を捕獲したりは、更に一ザ
ン半後である。今度は躊躇無く矢を射かけ、海上に漂う海賊船に兵
を乗り移らせて乗員の顔を確認させた。ギリアスが王だと考えた男
は見つからない。
﹁ええいっ、他の者どもは物見遊山でもしておるつもりか。海賊ど
もが逃げてしまうではないか﹂
目的の男が見つからない苛立ちを加わって、クドムラスは怒りを
込めて激しく命じた。
﹁あの馬鹿どもに早く海賊を追えと伝えよ。港へ戻ったら職務怠慢
で罰してやる﹂
旗艦以外に百隻の軍船を有するシュレーブ艦隊だが、広い海に散
らばり、変更される命令が届いたり届かなかったり、指揮系統が混
乱を極めていたのである。旗艦のそばに停止した百隻以上のシュレ
ーブ海軍の軍船は、旗艦が海賊船を捕捉したのを見つけて、旗艦が
任務を果たしたものと独自の判断をし、旗艦に接近し船足を止めて
しまっていたのである。
今度こそと、クドムラスは新たな指示を与えたが、全ての味方に
命令が届いたかどうか確証はなかった。
﹁我らも、次の海賊船を追うぞ﹂
クドムラスは旗艦にもそう命じ、慌てて付け加えた
﹁取り逃がしてしまうぞ。急げ﹂
未だ三隻の海賊船が海上に見えていたが、あちこちに散らばって
水平線の彼方に姿を消すようにも見える。
﹁何れを追いましょうや﹂
ギリアスは散らばった三隻の何れを追うのかと問うのである。
847
﹁ええいっ、真ん中のを追えっ。奴らはたった三隻、こちらは百隻
を超える。いずれかの味方が他の奴らを捕らえるだろう﹂
再び追撃が始まった。クドムラスらシュレーブ軍は必死で海賊船
を追うが、逃げる三隻も必死である。ただし、互いに見える船の姿
が明瞭になりその距離が詰まっている様子が伺える。今はシュレー
ブ海軍の軍船から海賊船には疲れた体にむち打って櫂を握る男たち
が見えていたし、海賊船からは軍船の甲板上で弓を構える兵士たち
が見えていた。
﹁急げ。あと三隻、三隻始末すれば我らの勝利が決まるのだ﹂
海賊はたった三隻。接近し弓を射かけるのもよし、体当たりして
転覆させるのもよし、シュレーブ海軍の軍船に負ける要素はない。
パトローサ
クドムラスは勝利に酔っていた。部下の賞賛を浴びる自分の姿だけ
ではなく、英雄として王都へ凱旋行進し、王ジソーの賞賛を受ける
姿まで思い描いていた。
そのクドムラスに水を浴びせるようにギリアスは言った。
﹁クドムラス様、あれを﹂
ギリアスが指さす場所が一カ所に留まらない。南西や南東の方向
から新たな海賊船が姿を現し、その数も十や二十ではない。
﹁海賊たちの根拠地はレイランはなく、この辺りであったか。見よ。
蜂の巣をつついたようではないか﹂
もちろん、クドムラスの想像に過ぎない。ロユラスは海賊船をレ
イランに集結させて、シュレーブ艦隊を発見すると共に、打ち合わ
せをして、仲間を月の女神の鏡の周辺の島々へと先に逃がした。姿
を現したのはそう言う島々で休息を取っていた仲間である。
この瞬間、クドムラスは危険海域の存在を忘れ、目の前に現れた
百隻近い海賊船を蹴散らし、沈める功績に酔った。矢を射かけても
よし、体当たりして転覆させてもよし、海賊どもに負ける危険はな
く、海賊を一方的に殺戮する有利な戦いである。
848
北方から逃げ続けていたアワガン村の三隻の海賊船は、今まで上
げていた王家の旗を一斉に降ろした。
﹁海賊どもが小賢しいことを﹂
クドムラスは旗艦の甲板で、憎々しげに足を踏みならしてそう言
った。新たに姿を現した海賊船の意図を知ったのである。新旧の海
賊船の航路は入り交じり、たった三隻だった目標の区別がつかず、
その数は百に増えてしまったのである。
﹁ええいっ、全部沈めてしまえ﹂
クドムラスは目標も見失い、旗艦をそのまま前進させた。旗艦以
外のシュレーブ海軍の軍船も、それぞれに目をつけた海賊船を追っ
ていた。海賊は、南へ、南へと逃げ、シュレーブ艦隊はネズミを追
う猫のように追い続けた。
ロユラスたちの船からも、軍船に追いつかれ、体当たりされて沈
む海賊船、矢を射かけられる海賊船が、一隻、また一隻と増えてい
くのが見えていた。あの一隻ごとに、仲間の命が、十数人、また十
数十人と失われてゆく悲痛な光景である。しかし、彼らは歯がみし
ながらも、悔し涙を櫂を操る腕の力に代えるしかない。
危険な海域も時間によって変化する。ロユラスらは、ただ時を待
って船を進めていた。時計などないこの時代に時を告げるのは太陽
リカケル・ナーバ
だけだが、ロユラスらはその時を日が傾いて赤く染まる前と考えて
いた。
満潮の時に月の女神の海の巨大な湾がたっぷり蓄えた海水が干潮
に切り替わるときに、狭まった湾口から勢いよく吐き出す潮の流れ
がある。
この辺りを熟知するルージ国の漁師たちはその兆候を知っていた。
西から吐き出される潮が南北に流れる潮にぶつかって波が立つ。そ
の気配が見えてきた。
849
すでに、追う者も追われる者もその兆候の中にいた。クドムラス
らも急激に荒ぶり始めた潮の流れに気づいた。
﹁何が起きているのだ﹂
﹁ハナホロかキュリセにさしかかったものと思われまする﹂
﹁何だと﹂
クドムラスは驚愕した、目の前の勝利にかき消されて見失ってい
た恐怖がわき上がってきて、彼は大声で命じた。
﹁ええいっ、西へ進路をとれ。この海域を避けるぞ﹂
その命令が僚船に伝わる間もなく、突然に面舵を切った旗艦に、
後方からきた味方が突っ込んできた。
850
ロユラスの死
海面が荒れ、海賊たちの小さな船は翻弄されていた。櫂を漕ぐ手
は休めて潮の流れに船を任せ、前方から迫り来る岩礁を櫂で突いて
左右にやり過ごしていた。漁師たちがハナホロと呼ぶ海域で、岩礁
が多く絶好の漁場にもなるが、潮の流れが複雑で、とりわけ、日に
二回、波が荒く潮が渦巻くじかんがある。
シュレーブ海軍の軍船の甲板から眺める小さな海賊船は、波と潮
の流れと岩礁に悩まされつつ航行していたが、シュレーブ海軍の軍
船はさらに大きな災厄に見舞われていた。静かな海では安定感もあ
り、船足の速い船だが、海面に隠れた岩礁に櫂を折られ、渦に翻弄
されて進む方向を失い、後続の船と衝突する有様だった。何より、
波から姿を見せた岩礁を避けきれずに船腹を削られたり、海面に隠
れた岩礁に船底に穴を開けられて浸水し傾いていた。
クドムラスが乗る旗艦は右舷に味方の軍船に衝突されたものの右
舷三十二本の櫂の一部を折られただけで船体への損傷は免れた。大
きく揺れた甲板の上でクドムラスはロープに手をかけて体を支えて
命じた。
﹁ええいっ、船を戻せっ﹂
﹁クドムラス様。漕ぎ手が疲れ切っております﹂
甲板の階段から下を覗き込んだギリアスが悲痛な声を上げた。船
首を北へ転じて潮の流れに逆らって船を進めることは出来ないとい
うのである。他の船も同じ状況だろう。方向を転じようとしても周
囲の船が邪魔になる。指揮命令系統は寸断されて仲間の船と呼吸を
合わせるように一斉に方向転換することも出来ない。百隻を超える
シュレーブ海軍の軍船は、南へ進路を取るしかない。前方の危険海
域で仲間の船が被害を受けているのが見えていても。自分の意志で
進路を変更して逃れることが出来るとすれば、艦隊の後方にいる一
851
部の船だけだろう。
旗艦の左舷方向にいた一部の軍船は、前方の難を逃れ南東部の潮
の流れに乗ったが、そちらにはシミカと呼ばれる海の難所がある。
渦巻く潮こそないが、時間を問わず南北に力強く潮が流れる海域で、
操船が難しく、こちらより遙かに船を傷つける岩礁が多い。海をよ
く知るルージ海軍などは絶対に踏み込まぬ海域である。逃れたつも
りのシュレーブ艦隊も生きて抜ける艦は半数にも満たず、その艦も
大きく傷ついているだろう。
ロユラスら海賊たちは、潮に翻弄されながらも何とかハナホロを
抜けた。後方で被害を被る軍船を眺めて喜ぶ余裕はなかった。しか
も、すぐ南に次の難所キュリセがある。ただし、海賊たちはハナホ
ロとキュリセの間に、岩礁の少なく潮の乱れもない水路があること
を知っていた。ただし、それは目に見えるわけではなく、目標にな
る島の位置や距離を目安に導き出した水路である。海賊たちは南か
ら南西へと水路に沿って進路を変えた。
南へと進路を取り続けるシュレーブ艦隊の目前を横切るかのよう
な進路の変更に、敵味方の距離が一気に詰まっていった。
左舷を指さしたミドルの叫びがあがった。
﹁ヤルージの岬に狼煙が上がった﹂
ルージ島本島の南にあるヤルージ島からルージ海軍の見張りが上
げた狼煙である。ルージ海軍がシュレーブ海軍の接近を発見し、出
撃することを知らせてきたのである。シュレーブ艦隊は既に多くの
被害を出しているし、特に大型軍船は致命傷を負っているだろう。
この水路を知らないシュレーブ海軍はこのまま南のシミカに突入
して、更に大きな被害を被ったあと、ルージ海軍の襲撃を受けるこ
とになる。海の戦いに熟達したルージ海軍は傷ついたシュレーブ海
軍を取り逃がすことなく葬り去るに違いない。
シュレーブ海軍の損害を確認するため、ロユラスの船は海賊船の
852
しんがり
殿にいた。敵の矢が届く距離である。大きく傷ついた何隻もの軍船
がみえ、傾いた甲板の上で右往左往する兵士の姿もはっきりと見え
た。ロユラスは村で彼らの帰りを待つ者たちを思い起こし、最後に
海軍の司令官の名と役割を考えた。
ニクスス
︵タリア。俺たちの出番は終わったぞ。あとはフェイサスの出番だ
な︶
この瞬間、運命の神の導きのように、ロユラスは立ち上がって大
きくのびをし、腕を振って敵に別れの挨拶をした。堅苦しさを脱ぎ
捨てたいつものロユラスの剽軽な姿だった。
﹁ロユラス。危ない。伏せろ﹂
そう叫んだ仲間が先に矢を肩に受けた。敵船から矢が放たれたの
である。
﹁ロユラス﹂
仲間の叫びが次々に響いた。ロユラスをねらったのかどうかは分
パトロエ
からない。敵が放った矢の一本がロユラスの首筋を貫き、ロユラス
は言葉を発しないまま倒れた。
戦いの勝利が確定した瞬間、戦の女神が、勇者を愛でて近くに召
し出すという。これがその瞬間だったのかもしれない。
853
ヒュリシアン送りの儀式
ここのところ、タリアは何度かピレナを手伝って、野草ローホミ
ルを岬のザイラスの墓へ運んでいる。墓とその周辺をピレナと二人
で花で包む計画である。アトランティスの野山でごく普通に見みか
ける野草で、未だ開花には少し早い時期だろう。しかし、森の周辺
で採取してきたその植物の茎には明らかに蕾と分かるふくらみを付
け、それを丁寧に眺めれば、その蕾の先が紫色に染まっているのも
分かる。
﹁ここの土に合わないのかしら﹂
ピレナが寂しそう首を傾げて言った。先に植えたローホミルの葉
が生命感を失って茶色く変わりかけていた。
﹁水が足りないのかも﹂
タリアが地面に手を当てて湿り具合を確認した。萎れた葉に指先
が指先が当たってその下の一輪の花が見えた。葉に隠れていた一輪
の紫の花が初めて陽の光を浴びた。早朝に咲き夕方にはしぼむ。短
い命の花である。
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二人は、同じように息をのみ、同じ事を感じた。
︵綺麗⋮⋮︶
この時、それ以外の思いはなかった。この一輪の花はその生涯を
通して最も美しく輝き、二人はその命の美しさの頂点を目撃した満
足感を感じたのである。
二人はどちらが言うともなく、枯れかけたローホミルを抜いて植
え替えるのを止めた。持参した新たなローホミルは新しい地面に。
植え終わって革袋に入れて持参した水を振りかけた。水滴が散って
陽の光を小さな虹に変えた。
854
﹁あれ⋮⋮﹂
ルードス
ピレナが立ち上がって水平線を指さした。
﹁帰ってきたんだわ。契約の神に感謝を﹂
タリアがピレナの手を取って笑顔を浮かべた。最初に見えた一隻
が、二隻、三隻と増えていった。しかし、それに続く船が見えない。
この村を出て行った海賊船は五隻だが、戻ってきたのは三隻のみ。
その意味を察したタリアは喜びの感情を消し、絶句して口に手を
当てた。姿を見せない二隻が沈み、乗っていた者たちが犠牲になっ
たのだろうと気づいたのである。
﹁きっと、疲れたので、近くの港へ寄ったのよ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁行きましょう﹂
ピレナは愛馬エルナケイアに跨って背後にタリアを乗せて駆けさ
せた。
二人が浜に着いたとき、帰還に気づいていた村人たちが総出で出
迎えていた。女に子供、老人、男たちの帰りを待ちわびていた家族
の姿である。
波打ち際で飛沫を立てて船を下り、船を浜に上げる男たちに笑顔
はなかった。疲労困憊ばかりではなく、悲しみの表情が見える。
﹁あの人は、ナウルスは、何故居ないんだい﹂
﹁うちの父さんはどうしたの?﹂
﹁私の息子が死んだというのか﹂
帰らなかった船の乗員の家族たちの声が浜に響いた。生還した男
たちは家族の叫びに悲しげに首を横に振った。
︵彼らはもう帰らない︶と
男たちが、船に横たわっていた怪我人を担いで運び出した。ミド
ルたちはロユラスの体を担いだ。首筋の矢は抜かれていたが、首に
855
巻かれた布からどろりとした赤黒い血が滴っていた。頭や腕はだら
りと垂れて生気がなかった。
﹁ロユラス﹂
息子の名を呼ぶフェリムネの声が震えた。帰ってきた男たちは三
十九人、二人は遺体で戻ってきた。船と共に沈んで帰らなかった男
たちは二十六人に及ぶ。悲痛な叫びと悲しみが村を包んだ。
パトロエ
その日から一日、喪に服す習慣である。その後、遺体を火葬にす
る。海で死んで帰らなかった者たちはその遺品を焼く。戦の女神が
英雄を自らの傍らに召し出す例外を除けば、アルテリシアの娘たち
と称される五人の女神が使わす使者が、亡くなった者たちの魂を迎
えに来るとされている。ルージ国の漁師たちは遺体や遺品を焼いた
灰を小船に乗せ、沖の潮に乗せてアルテリシアの五人の娘に引き渡
す習慣だった。人々の魂はこの世界の外、ヒュリシアンと呼ばれる
静寂の混沌に戻るのである。
二日後、ルージ海軍がシュレーブ海軍の討伐を終えて帰港した。
残敵七十隻を沈め、一千人以上の捕虜を得、ルージ海軍の損害は皆
無という完勝だった。このような大勝利を上げた場合、都で凱旋行
進を行った兵士たちの勇敢さを讃え、大規模な祝勝会で兵をねぎら
うのが通例だが、海軍司令官フェイサスはそれをせず、海軍を分け
て海賊を出した村々に派遣した。フェイサスは海賊たちの犠牲の上
に立って自らの勝利を誇示する気はなかったし、海賊になった村人
たちはその凱旋行進の先頭に立つことを拒否した。多くの死傷者を
出して間もない村人たちが、戦勝を祝う気持ちになれないのは当然
だった。
バース
フェイサス自身は二十隻の軍船を率いてアワガン村にやってきた。
そればかりではなかった王都からはピレナのみではなく王妃リネも
姿を現してヒュリシアン送りの儀式を見守った。
この時期に咲く花は少なく、村人たちは遺灰の入った小船に永遠
856
を象徴する常緑樹の枝を入れた。神々は黙って人々を見守っている
はずだった。聖職者が教典の文句を唱えることもなく、人が人とし
て身内をヒュリシアンの混沌へと送るのである。そこで亡くなった
者たちは神と共に一つになる。そう考えれば悲しくはないはずだが、
人々は人間として悲しみに暮れて涙を流していた。
ピレナは母の傍らを離れ、タリアに寄り添っていた。王妃リネは
そんな娘にも気づかず村人たちを眺めていた。彼女の視線は村人た
ちの様子を広く眺める素振りをしながら、その中心に一人の女性を
置いていた。夫に先立たれ、今は一人息子も失って嘆くフェリムネ
の姿だった。リネは戸惑いつつ足を進め、フェリムネの背から肩へ
手をかけた。
驚いて振り返ったフェリムネも、王妃リネも何も言葉を口にしな
かった。ただ抱擁し孤独な魂を共有した。
小船は沖合の潮に乗せねばならない。二人の村人が別の船を操っ
て、小船を沖へ曳いていった。海の彼方に亡くなった者たちの魂が
遠ざかっていった。
﹁一緒に﹂
歯を食いしばるように涙を抑えるタリアに、ピレナがそう声をか
けた。ピレナが指さす愛馬エルナケイアに、彼女の意図を察した。
エルナケイアも主人を誘うように前足でせわしなく地面をかいてい
た。ピレナもエルナケイアも、タリアを岬の高台に誘っているので
ある。あの高台からなら水平線に消える小船を今しばらく眺めてい
られる。
タリアはピレナの腰に捕まりながら彼女の背に顔を埋めて泣きじ
ゃくった。ピレナも兄の死に涙を拭っていた。エルナケイアはそん
な二人の少女を岬に運んだ。
高台からは、たしかに遠ざかる小船が見えていた。潮の流れを捕
らえた船がロープを解いて死者の魂が乗る小船を解放した。小船は
857
別れを惜しむように波に揺られて流されていった。
彼女たちがふと足下に気づいてみれば、先日植えたローホミルが
ちゃんと根付いて緑の葉を広げていた。ヒュリシアンで一つになる
魂を象徴するように、一つの株が幾つもの小さな紫の花を開かせて
いた。冬も半ば以上が終わって春を迎え始める印だった。
︵どれがロユラスの花?︶
幾つもの花の中にロユラスの面影を追った二人は考えるのを止め
た。ロユラスは面影を残してすでにヒュリシアンの混沌で大勢の魂
と一緒になって、安寧と静寂のなかにいるはずだった。
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この頃、遠く離れた国でロユラスのことを思い出している者が居
た。今は王となったアトラスと、フローイ国の姫リーミルである。
858
ヒュリシアン送りの儀式︵後書き︶
次回更新は四月一日の予定です。再び舞台はフロー異国に戻ります。
アトラスはまださまざまな問題に直面しています。
*ローホミル:画像のようなオオイヌノフグリをイメージしていま
す。花言葉は﹃信頼﹄、﹃清らかさ﹄、﹃忠実﹄。物語ではアトラ
ンティス原産のこの野草が、ヨーロッパに広がったと設定していま
す。オオイヌノフグリはヨーロッパから日本にも渡ってきて、今の
私たちにも身近に見ることが出来ます。田舎の野山だけではなく、
都会でも街路樹や花壇の隅っこなど小さな地面に遠慮がちに育って
います。ちょうど今の季節が花をつける時期です。みなさんも身近
にこの花を探して眺めてみて下さいね。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n1223cb/
反逆児アトラス/アトランティス戦記 第二部 ∼戦乱
の大地∼
2017年3月26日10時23分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
860
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