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Page 1 金沢大学学術情報州ジトリ 金沢大学 Kanaraพa University
Title
宋代における都市の商人組織「行」について
Author(s)
小野寺, 郁夫
Citation
金沢大学法文学部論集 史学編 = Studies and essays by the Faculty of
Law and Literature, Kanazawa University, 13(1965): 42-74
Issue Date
1966-03-28
Type
Departmental Bulletin Paper
Text version
publisher
URL
http://hdl.handle.net/2297/40101
Right
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,各著作権等管理事業者に確認してください。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
∼ −
1‐
42
I
野寺郁夫
宋代における都市の商人組織司行﹂について
まえ
小
出来上ったものであって、予めそのことを記して敬意を表しておきたい。私達の知り得ることは余りに少いが、更に
ぶ﹂︵史学一四ノー、一九三五年。﹁支那経済史考証﹂上巻所収︶の二論文を発表された。拙稿は専らその成果に導かれて
博士還暦記念東洋史論叢、一九二五年︶とこれを加筆修正された﹁唐宋時代の商人組合﹃行﹄を論じて清代の会館に及
過去に宋代の行を論じられたのは、主として加藤繁博士で、﹁唐宋時代に於ける商人組合﹃行﹄について﹂︵白鳥
であろう。
の実体を宋代についで解明することにしたのである。.ギルドに比定することの可否は、その後に検討されるべきこと
とは論外におくとしても、しかく簡単に割切ってしまえるものであろうか。私はそこに多少の疑問を感じたため、行
れるのが普通であり、それは宋代の行とて例外ではない。しかしながら、ヨーロシバのギルドが一様でないらしいこ
るものである。何故に行を取上げたかといえば、次のようなことである。行はヨーロッパのギルドに比定して説明さ
して行った。そのことは当然都市の繁栄を伴っていた。本稿は、その都市の商人を行の問題を通して取上げようとす
宋代に入って五代の乱世が落着きを見せると、自から農業生産力が高まつて商工業を促進し、貨幣経済が広く浸透
き
多少とも明かにすることができれば、望外の喜びである。
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司
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戸
伊
●
一
一
一
一
43
なお、本論に入る前に断っておかねばならないことがある。それは﹁行商﹂という言葉についてである。加藤博士
務、懐交引者湊之。若行商則鋪買為保任、詣京師権務給銭、又移女南州給茶。若非行商則鋪買自害之、韓譜與茶
其輸邊粟者、非議行商、率其土人。既得交引、特詣衝要州府謡之。市得者寡至京師。京師有坐寶、置鋪隷名権貨
、
鋪を経営する坐寶と対をなすもので、
①
う。何れの場合も旅商人移動商人の意と取ってよさそうである。そして行商という言葉は、都市に居住して常設の店
とあって、登州黄縣の宗立本なる者は代を行商で、妻と一緒に雛州、それから昌楽県と、練帛を売り歩いていたとい
甲志蓋宗立本小兒︶
宗
本、
?登
登州
州黄
黄縣
縣人
人。。世世為行商。年長未有子。紹興戊寅盛夏、與妻販練帛、抵瀦州元將往昌樂。︵洪遭の夷堅
宗立
立本
編糟九天禧四年閏士一月庚午︶
とあって、滑州で糧斜を入中させたために、行商が奔集し、京師の穀物価格が騰貴したという。また、
詔、京城置場十四へ發常平倉粟、銭耀以濟貧民。時許滑州入中糧儲、行商萱運奔赴、京師穀食躍貴故也。︵長
賎?
とあって、行商が舟船を用いて、旱害を被った地方に糧斜を運送できるように計られている。また、
称l食貨型薑大寒竺麦月︺
知索墓請霧謹零雇篭。所壽喜載震、以鑿旱晨。従之。桑臺襄1以下薑と略
税三十之ごといった行商に当り、いわゆるギョウショウで、旅商人のことである。若干類例をあげてゑると、
︵補注︶
是否はともかくとして、ここの行商は旧唐書常叶楊炎伝に、両税法の施行に際して、﹁不居虚而行商者、在所郡縣、
とあるのを引用されて、行商を行人の意にとり、開封の米行人が団結して営業を独占したことの例とされた。事柄の
寶。︵雲薑簑編1以下長編と略称11哨へ景雪姜月季︶
は
’1−︲
−
−
。 ‐ け 正 。 ー 1
“
手
いては次の如くになる。
が存在していたということができる。そこでただ固有の地方名をあげているものに限って一覧して承よう。北宋につ
とあって、諸路州軍に餅斗を取扱う行があった。かくの如く諸路と一般的に指示している例は多く、各路の州軍に行
︵会要食貨罰常平倉景徳三年四月︶,
諸路州軍︵中略︶應收耀餅掛之時、官吏敢今後令提畢官篭受行人請求、高其債直者、許諸人糾告、嚴行腿断。
とあって、両京即ち開封と洛陽とその他各地方の州府に荘宅行のあったことが知られる。また、
下雨京及諸道州府商税院、集莊宅行人衆、︵長編唯一太平興国八年三月乙酉︶
して、その他の地方について検討して承よう。先ず、
所的にはどうであろうか。北宋の首都開封に存在したことはいうまでもなく、その史料は特に多いので省略に従うと
行は宋初から宋末まで通じて存在した。そのことは本論に随処に引かれる史料から汲みとられるであろう。では場
|行の分布
商を一応除外して論を進めることにする。
三行の商人は行商と呼ばれたが、大体は行商と行戸乃至行鋪との相違が認められるようである。従って本稿では、行
の及ぶ限りでは、行商と行人行戸とは劃然と区別されて使用されている。後世においても外国貿易に従事した広東十
寶に成変った者が無数にあるといわれ、行商坐買と連称されている。あるいは単に行坐と称されることもある。管見
とあって、紹興十一年に宋金の講和が成立してから二十年の間に、、軍政が乱れ、武具に身を固めるべき者で行商・坐
﹂二十年間、披堅執鋭之士、化爲行商坐貿者、不知其幾。︵建炎以来繋年要録噛炸紹璽一千一年三月己卯︶
︹何溥︶又言軍政之弊。日、爲將帥者、不治兵而治財、刻剥之政行と而柑摩之恩絶へ市井之習成、而訓練之法壊。
、
一 一 一 ・ 一 一 - 一 一 一 一 ‐ − - 一 一 寺 . . ‐ 巳 一 一 一 ‘ 一 一 一 一 一 = ‐ 一 − − − − − . − − − . 一 一 一 一 一 巳 一 一 → − − - 一 一 一 一 一 一 一 一 ー − −
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荊
一
妬
西川路普州行鋪会要食貨佇商税雑録乾徳六年四月
長編錯刈一兀鮎五年士一月乙未
広南西路静江府
会要食貨鰍免行銭紹興十二年六月三日
建炎以来繋年要録噛六紹興三年七月辛巳
この外には、
福建路汀州武平県上杭県
ノ
けをあげて承よう。先ず加藤博士があげられた地志類からは、両断路の平江府篦山県、明州、鎮江軍等が数えられる。
建・湖南・湖北・四川・二広の州軍に及んでいることは明かなので取上げる必要はあるまい。そこで州府県鎮の例だ
③
南宋に入っては、首都臨安府の場合、開封の例にならって省略してよいであろう。また路分についても、江漸・福
とあって、両漸進南では州県だけでなく、鎮砦にも及んでいた。
毎至州縣或鎭砦、皆豫差諸色行戸、各以其物齋負、迎子界首、日随之、以待其所寶買、出境乃已。
なお、両断准南の例で、
京西
西北
餅斗行人蘇東焚奏議集汁一兀祓六年十一月奏准南閉耀状
京
北路
路頴
頴州州
両
断路路
両断
准南准
路 南路諸色行戸
河東路火山軍︵鰯斗︶行人長編酷寵一兀豊七年五月丁未
侠西路永興軍絲絹行人諫水紀聞伊禰
②、
挾西路・渭州滞原県絲絹行人長編錯一慶暦元年一百丙戌
河北路邪州行戸欧陽永叔集一一一河北奉使奏章、再奏郭承鮎
一﹄
河北路︵叫斗︶行人ゞ会要食貨九三市擢綻草天聖五年正月
I
,
K
、
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一
一
‐ 一 一 寺 一 一 一 一 〒 司 一 = ■ ー ー 一 一
妬
福建路汀州寧化県
会要食貨鴎免行銭紹興十二年十二月六日
⑤
︲④
建炎以来繋年要録雌ル紹興士一軍二月乙亥
会要食貨剛漕運嘉定十一年正月二十五日
眞文忠公集倦
会要食貨順互市紹興二十九年十一月一干一日
会要食貨鰍免行銭紹興十九年十一月十四日
会要食貨附免行銭紹興十九年五月二十六日
会要食貨鰍免行銭紹興十四年七月十日
広南西路雷化高融宜廉皇欽賀貴十州
蕊州路開州両県
広南東路連英循惠新恩六州
利州路文州県
成都府路黎州︲
江南東路太平州当塗県黄池鎮
福建路泉州
等の例があげられる。この中には、
廣南路連英循惠新恩州城市、不過六七百家、非通商販之地○
とあって、商業があまり盛んでない地方もまじっていた。
以上のことからだけでも、行が宋の領域全体に普及していた、あるいは普及して行ったことが分る。但しそれは、
両断准南では州県以下の鎮砦に及んでいるのに、広南では州でも寂蓼の有様であったことから推定される如く、決し
て一様で朧なかった。なお、南宋の史料が南方ばかりなのは当然のことであるが、北宋の史料が北方中心なのは史料
が偏在していたためであろうか、俄かに断定し難い。
行の種別については、先ず長編会要等の示すところによって列挙すると、
︵香薬・象牙︶行、莊宅行、斜斗行、匹帛行、肉行︵あるいは屠行︶、︵布帛︶行、︵甕器︶行、金行、銀行、果
薦?
子行、珠子行、︵桿草︶行、絲絹行、〃柿行、茶行、米麦行、糠米行、米行、彩色行、赤石子行、酒行、︵破鉄・
縄索︶行、紙行、紅花行、麻布行、酵行、牛馬行、︵計秤︺行、木行、︵零丈赤︶行、.︵竹木碍瓦蘆箔等︶行
が数えられる。括弧内は単に取扱い品目を指し、必ずしも行名と限らない。これらの中、地方で代表的な行といえば、
その頻度から云っても金銀匹帛とか餅斗の行であったようである。次に東京夢華録の中には、
肉行、果子行︹あるいは菓子行︶、牛行、馬行、藍行、紗行、大小貨行、魚行
が見える。同様に都城紀勝には、
酒行、食飯行、骨董行︵買寶七宝︶、香水行︵開浴堂︶、花行。
西湖老人繁勝録には、
銀朱繰色行、金漆卓糞行へ猪行、青器行、虚布行、麻布行、青果行、海鮮行、 紙 扇 行 、 麻 線 行 、 蟹 行 、 魚 行 、 木
行、竹行う菓行、螢行。
夢梁 録 に は 、
酒行、食飯行、方硫行、鎗金行、冠子行、魚行、蟹行、薑行、菱行へ猪行、菜行、鮮魚行、布行、難鵺行、骨董
幸
⑥
行へ散兒行︵讃珠子︶、墜線行︵倣靴畦︶、香水行、蕊行、米行、青果行、魚兒活行
武林旧事には、
陶
行、
、布
布行
行、
、猪
猪行行
圃行
、、鮮魚行、魚行、蟹行
が見えている。その外
至於故楮羽毛扇牌、皆有行鋪。其餘可知美。︵都勝紀勝鋪席︶
.一
とあって、行は故楮・羽毛・扇牌などの微細な物品に至るまで存在していた。但し、これらの中には、
内亦有不當行而借名之者、如酒行食飯行是也。︵都城紀勝諸柿︶
一
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一 一 一 一 一 一 − 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一
47
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− − − ー − 一 一 一 一 一 _ 一 一
一
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二一も﹃、︸、
I
48
とあって、酒行食飯行は同じく行とはいいながらも当行しないという点で他の行とは相違していた。当行とは、次章
に述べるように当二行役一の意と考えられる。酒行の活動には著しいものがあるが、一つにはこの説明に従い、また
実際上においても他の行とは一線が劃されると思われるので、以後の行論からは割愛することにしたい。
さて次に行数・行戸数等については、開封の例で多少明かにすることができる。行数は西湖老人繁勝録によると、
’四百十四行あったといわれる。確かに、
權知開封府司録参軍朱炎言、奉詔在京免行銭、貧下戸減萬繕。已減百六十餘行、依菖祗應。近有彩色等十三行、
願復納免行。欲蕊許。︵長編鎧一煕寧八年四月準耒︶
⑧
とあって、百六十行を上廻る行が存在していた。行戸数は、免行銭︵後述︺を納めた戸数から推定するより仕方がな
い。それによると、元豊八年当時で六千四百有奇あった。もっとも、
●
雑販破鐵小販縄索等貧下行人、共八千六百五十四人、月納自一百以下至三文二女、計歳納銭四千三百餘絹。︵長
編聡尼一兀豊三年九月甲子︶
とあって、元豊三年当時破鉄を雑販し縄索を小販するような貧下の行戸藤八千六百五十四人あり、この時これを除い
⑨
たのであるから、両者を合算した一万五千位の戸数も充分想定し得る。他に若干の祗応していた戸もあった︵後述︶
こととて、少くとも一万台にはのぼったであろう。一行内では肉行の例で、中戸十三戸下戸十三戸といい、仮に上戸
も十三戸とすると三十六戸になる。一定していなかったことは勿論であるが、一例として参考に価するであろう。
行戸には貧富の差があった。それは行と行との間でも見られたし、また行の中でも見られた。次にそういう貧戸の
⑪
例をあげてふよう。行内に上中下があったことは今の肉行の例がそうであるし、また茶行でも兼井戸十余戸と下戸と
⑩
が存在していた。貧しいものになると、果子行において、
止是此等皆貧民無抵當。故本務差入、逐日収受合納官銭。︵長編酷砿煕寧五年十一月丁巳︶
− 一 一 一 = 一 一 一 一 一 口 = 一 一 一 ー 一 一 ‐ = 一 一
一 = − マ ー ー ー 一 一 一 一 −
一 一 一 一 一
一 一 一 一 一 一 一 − − − 一 ←
−
一 一 一 一 一 一 一 戸
− − − 一 − − _ 一
4
ウ
とあって、市易法によって官府が低利貸付けを行なった際に、抵当に入れるものがなく、利子を日割にして毎日取立
てられていた。また破鉄や縄索を取扱う者には、先の例に見る如く免行銭の月納額が三文二文というものもあった。
但し、煕寧六年に免行銭が施行されてから下等戸の加入が増大したらしい事実は考慮しなければならない。
以上考察してきたところによって、行が各地各種各階層にまで浸透して↓いる有様が明かになったと思われる。即ち、
行は何か特別に変ったものではなく、極めて普遍に存在していたといえよう。そして行戸も、ごくありふれたもので
あったといえよう。︲
二行の任務
行戸が商工業者である以上、官府との売渡し・買取りに従事したことはいうまでもない。その際官府あるいは官僚
が何かにつけて随時行戸を利用したことは十分想定しうるし、また行戸も利益を得るためには策略を講じ、あるいは
吏人と通同したことも同様に認めうるであろう。但しその売買については、商人の営利活動として別に考究する必要
︵イ︶
があると思われるのでここでは触れないことにし、それ以外の特に顕著な対外的公的活動を取上げ、時間の推移に従
って検討して象たい。
f
○コmlfc○コ
先ず太宗朝に、
︵趙︶孚又言、莊宅多有箏訴、皆由衷私妄篇文契。説界至則全無丈尺、昧隣里則不便聞知。欺問建行、獄訟増益。
請、下雨京及諸道州府商税院、集莊宅行人衆、定割移典寶文契各一本、立為傍様、違者論如法。詔、従之。︵長
編嗜一太平興国八年三月乙酉︶
とある。これは莊宅の文契について定式がなく、境界とか隣里とかが不明確で訴訟が増加したところから、両京と諸
一 凸 一 一 一 一 一 一 一
F = = 一 一 ‐ 一 一 一 一 一 一 一 一 ー 一 一 - 一 一 一 一
丙 T 一 一 一
二 F =
∼
ノ
管?
道州府の商税院に莊宅行人を集め、割移と典費の文契それぞれ一本を定めて雛形にさせたものである。莊宅行人につ
いていえば、
入内押班江徳明言、︵中略︶又帳螢空地、元許指射承賃。先準賃地浮造、如欲韓賃貨寶、並中費入官。及應係官
地、並不得出賃修蓋浮造。自來須中費入官、毎令莊宅行人相度、多有材植不堪。却令收折退地、除落課利、又不
許再賃與人。以此荒閑侵占、退落課利不少。︵下略︶︵会要食貨瑚左右開店宅務天聖四垂一月︶
ともある。ここでは官有の空地を賃借りして建物を造った者が転賃あるいは売却しようとする際には官府に売渡すこ
の
のの
の唾
唾、
、f
f、
、群
群つ
つ画
画函
函
とに
にな
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っ,
,て
てい
いてて
、、
莊莊
宅宅
行行
人人
瘤にその土地並びに建造物について相度させていた。
眞宗朝になると、香薬に︵
詔、香藥
藥庫
庫、
、今
今後
後送
送納
納禾
香藥、即勒行人、比並近月則例、不得鰭損官司。佑定債鏡上簿、立爲定額。︵会要食貨戴
内香薬庫景穂三年六月︺
とあって、香薬庫で送納されてきた香薬の価格を行人が見積りさせられ、官司に損を来さないように注意されている。
ロ
また布帛について、
詔、布
布津
庫、︵
略略︶應綱運楠退者、監官勒行人、定験塩與不埖韓染科造、具數申三司。︵会要食貨載布庫景徳四
︵中中
年五月︶
とあって、綱
綱霊
運の際に選別して退けられた布帛について、染め変えて定め通り造れるかどうか、〃行人が布庫で検査さ
せられている。
・また葵器について、
詔、蕊器庫、除棟封椿供進外、餘者令本庫將様赴三司、行人佑債出費。︵下略︶︵会要食貨菰蕊器庫景徳四年九月︶
とあって、蕊器庫が封椿して供進する以外の物についてへ見本を三司に持って行き、そこで行人に価格をつけさせ、
f
I
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h
眞宗朝になると、香薬について、﹃
50
ノ
5
1
川里元している。↑
また金銀について、
金銀?
詔、女思院、串略︶及置帳別貯七等金様や毎内降到金銀、各差行人看験か即不得支次金雑白銀。︵下略︶︵会要
職官炬文思院景徳四年八月︺
とあって、文思院に七種の金銀の見本を備えておき、宮中から金銀が支出されるごとに、次金や雑白銀を渡されない
ように行人を遣して看験させている。また銀器に銅を混入することが流行した時、”ゞ、
監察御史冠該言、在京市騨所賓銀器之馬へ多難以銅。恭自來失於條約、致廟巡得以通容。欲乞、特降救命、下開
封府、令諸庵界、嚴切覺察断絶、許諸色人告捉入官、勒行人看験詣實分籔、比紐鰐慣鰄銭。︵下略︶︵会要食貨恒
市易大中祥符三年三月︶
とあって、そのような銀器が発見されるごとに混合の割合を看鹸させられ、不当の利得を比定紐計︵計算︶している。
!渚?
また諸州から左藏庫に送納された金銀の器物について、
詔、請州納左藏金銀器物者、令本庫監門使臣、勒行人験分綴受之。︵会要食貨舐左藏庫大中祥符五年十一月︶
とあって、その純分を調べさせられている。
次に左藏庫の監官b専副の交代に際し、妻
従?
詔、左藏庫〃︵中略︶又監官専副年滿日交割、仰將蕾界得替末帳前月帳尾見在官物、勅行人看醗。擦帳内椿詑名目
交割、不得信縦飢有看験へ致與元帳不同。如行人鋤取意看験、不依元帳、令蕊界監専、申解赴省、乞行勘断。如
實薦官與元帳不同、即令新界聲説交割、別入庫屋收管。︵下略︶︵会要食貨証左藏庫大中祥符六年士一月︶
とあって、︽その前月の帳尾に載っていう塁目物について、還言すると残高と現物とについて、どういう行の行人か不明
であるが看験させられている。
’
﹁’
一
一
一.
一.
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口
戸
以上見て来たところによるとへ行人は契約文書の雛形を作製しているし︵莊宅の例︶、また価格の見積り︵莊宅。香
薬・
のの
例例
︶︶や品質・規格の検査︵布帛●金銀の例︶を担当し、あるいは帳簿の検査︵左藏庫の例︶にもたずさわった、
・甕
甕器器
といえよう。
この外注目すべきことには、定期的に時価の決定に参加していた。たとえば、
提畢庫務所言、雑買務準内東門剖子、九月收買匹帛内、白施毎匹二千二百、十月收買皀繩毎匹二千八百、及收買
果子、添減慣例不定。稀府司未牒到時佶。検會大中祥符九年條例、時佑於旬假日、集行人定奪。望、自今令府司、
候入旬一日、類聚牒雑買務、価別篇事宜、取本務官批鑿月日、齋送當司、置簿抄上黙検。從之。︵会要食貨逝
雑買務天禧二年十二月︶
とあって、大中祥符九年の条例にならって、諸行の行人が旬ごとの休日に一斉に集って、次旬の諸物価を決定して開
通?
封府に報告する、開封府ではその旬の第一日目にそれを雑買務に通知し、また別に一本を作って雑買務の官吏に収領
“⑬
]。唖“,L﹄つゆ“・
し た 月日 を 記 入 し
して
ても
もら
らい
い、
、提
提挙
挙塞
諸司庫務司に送ることにした。
仁宗朝になると、斜斗について、
梢?
准南等路發運司方仲筍等言、︵中略︶乞、今後應和擬斜斗、装發至卸納倉場、如瞼得粗弱不堪上供、即委自知州同判
入倉、同與監官、勾集綱梢人員、對衆子細看験。如委實粗弱不堪、便勒行人定験、紐計鱈官債鐘井任費搬替請受、
⑬
牒元耀州軍、勘断監専斗級、於合分灘人名下、剥納入官。︵中略︶從之。︵会要食貨媚市耀緩草天聖三年十月十
一一両口︶
とあって、准南両断州軍で和籍した斜斗に質悪なものを含む弊が生じたので、以後運送して来て倉場に卸納する時に、
確かに上供に不適ときまれば、直ちに行人に定験させ、損費を計算して、買入れの州軍と連絡をとるようにした。同
様に在京の梗米倉では、
I
−
ー −
夕
52
− − 。 ■ 一 一 一 一 一 一 マ マ 一 一 一 一 一 一 → 一 一 一 一 一 一
一﹃一
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55
1
三司言、在京糧米倉、有低次糾針、萬數甚多。有司勾到行人佑債、毎針六十文。︵下略︶︵会要食貨訳京諸倉天
聖四年十二月︶
・さ︸碓昔・→
とあって、下
餅餅
釧斗が多量にのぼったので、行人に値ぶゑさせて売却している。
下等
等のの
また眞珠について、
見?
衝州客毛英言、將産業於蕃客虚椅當、畭眞珠三百六十雨、到京納商税院。行人佑験債例、穂、近降詔、禁止庶民、
不得用眞珠耳墜項珠、市建貿易不行、只量小佑債。縁自寶下眞珠、方得限鐘納税、無所從出。︵下略︶︵会要食貨咽
禁珠玉景鮎四年正月二十七日︶
わら
とあって、在京の商税院で客商が持って来た眞珠について、行人が価例を調べて価格を見積っている。
また桿草について、︲
三省一言、準敷收買桿草一千萬束、行人佑定、毎束一十三斤、末等慣例一十九文。︵下略︶︵会要食貨焔市耀根草
宝元二年九月九日︶
とあって、政府が収買するのに価例を佑定した。
これら解斗・眞珠・桿草の例についても、殆ど眞宗朝と同様であると認め得よう。が他に次に見るように工業技術
の提供も行なわれた。即ち、
詳定利害所言、︵中略︶後苑毎鉦鎗金百雨、却破火耗二銭半、雑白艇銀、破五鐘。須要行人、承受斤雨、錆折不霊、
けずりとかし
:至界滿、收爲出剰。如火折過、勒行人陪填。︵下略︶︵会要職官矩後苑造作所嘉祐六年士一月一千一百︶
とあって、行人が後苑の造作所に赴いて金銀を錘鎗しており、受取った一定量に使い残りがあれば余剰として取上げ
られ、無駄が出来て不足すれば自弁させられたという。
− ? ■ ロ ー ロ ー ー
一 一 口 一 マ ー ー ー ー 一
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54
﹄つ、や〃L樟つの、〆
近︵口︶・︲,・§
さて神宗朝に入ると新らしい事実が現われてくる。即ち、,
⑭
︵王安石︶白上日へ、從來諸司や皆取賂於果子行人。︵下略︶︵長編酷砿煕寧五年十一月丁已︶壬匡
とあって、諸司が皆んな果子行人から賄賂を取っていたといわれ、また、
詔、提畢在京市易務及開封府司録司、同詳定諸行利害以聞。初京師供百物有行へ雛與外州軍等、而官司上下須索、
⑮
無慮十倍以上。凡諸行陪納狼多、一而齋操輸送之費、復不在是。下逮稗販貧民、亦多以故失職。肉行徐中正等以爲
一言因乞出免行役銭、更不以肉供諸虚。故有是詔。︵長編雌に煕寧六年四月庚辰︶
と
って
て、
、京京
とあ
あっ
紅師の諸行は外州軍とは比較にならないほど苛酷な官司の須索を蒙っており、肉行でも諸虚に肉を供進し
てい た 。 ま た 、
詳定行戸利害條貫所言、擦米麥等行状、歳供様禾蕎麥等薦新、皆有陪費。︵下略︶↑︵長編酷矩煕寧六年八月己丑︶
とあって、米麦等の行は毎年柵飛、〃瀞詠等の薦新を供出したが、それに附随する費用をも伴っていたという。
これはいわば金品の徴発である。この事実は確かに今はじめて指摘されるが、傾向としてはその前から続いていた
と考えられる。というのは、
上封事者言、雑買務與内東門司出納、因縁爲姦也。眞宗日、此二司屡曽制置亨常給銭五百萬於本司う以備支遣、
不欲稽滞債直也。先帝時常以銭百萬、命宋思恭検校。凡宮中市物、令即時面給。其上用詑復増、常滿其敷。価聞
思恭亦不能憲副先旨。近日宮中凡所須索へ並付左藏庫。雛動須鐙韓、且免擬民也。︵会要食貨五
雑買務大中祥
五
符二年五月十一日︶
また、︲.
「
‘
{
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55
詔、雑買務、毎存買賓、讓一支給債銭、不得激滞。︵会要食貨逝雑買務大中祥符二年十月一千三日︶
また 、
︲⑯,
知開封府察襄言、内東門市行人物、有累年未償債銭者。請、自今並關雑買務、以見銭市之。︵中略︶從之o︵会要
食貨遡雑買務至和元年十一月︶
︲⑰
等とあって、太宗朝以来雑買務。内東門司で代価の支払いを遅滞しているのである。それが神宗朝を迎えていよいよ
甚しいことになり、肉行の例に現われている如く、農村の役と軌を一にして行役ととらえられるようになった。ここ
⑱
に於いて肉行の徐中正等が行役を銭納する代りに、更に肉を諸処に供しないで済むように願い出、免行役銭︵免行銭
ともいう︶が施行されることになった。その施行に当っては、
恥⑲
詳定行戸利害所言、乞、約諸行利入厚薄、納免行銭、以禄吏、與免行戸祗應。自今禁中寶買、並下雑費場雑買務。
価置市司、佶市物之低昂、凡内外官司、欲占物債、則取辨焉。皆從之。︵長編唯龍煕寧六年八月丙申︶
とあって、諸行の利益の多寡に従って免行銭を納めさせ、吏禄に充当し、これまでの行戸の祗應を免除する。そして
今後禁中の売買には何れも雑売場・雑買務を経由させ、時価通りに支払うことを確認し、価格の見積りには市司を設
置してこれに当らせることにした。かくてこの段階では、免行銭さえ納入していれば金品を徴発されることなく、ま
た官府に出向いて価格の見積りや昂質。規格の検査を強いられることもなく、また旬価を報告する必要も、造作所で/
無償で仕事する必要もなくなったのである。
しかしながら中には免行銭よりも祗応を利益とする行もあった。
鵠問所尋奏、聯へ糠米等行、乞不納銭、依蕾祗應。︵下略︶︵長編鎧一一煕寧七年二一月辛酉︶
とあって、糠米等の行が従前通り祗應することを乞うており、また実際に、
權知開封府司録参軍朱炎言、奉詔、在京免行鐘、貧下戸減萬繕玲已減百六十餘行、依薑祗應。近有彩色等十三行、
↓願復納免行。欲蕊許。從之。︵長編鎧一煕寧八年四月癸未︶
⑳
とあって、貧下の戸がいる百六十余行で元の如くに祗応していた。が、彩色等十三行が再び銭納を願い出て認められ
た。祗応と銭納とでは一長一短があったのであろう。
免行銭額は、元豊三年当時で三万四千八百余繕、その上に自然増収もあるといわれ、また元豊八年には四万三千三
⑳
百
奇に
に及
及び
び、
、そ
その
の中中
百有
有奇
六六
一二%ほどの二万六千九百有奇が行戸の和雇に向けられ、残る三八%ほどの一万六千四百有奇
が吏禄に計上されていた。
時は恰かも新法党と旧法党との競争の時代で、哲宗の代に移り変ると、一早く新法の施策は取消され、免行銭も廃
止された。
尚書省言、︵中略︶其在京免行銭、壷行放罷。自來以免行銭、充吏禄及食料銭等、並以所掻沖河堤岸司及京城所房
⑳
廊銭内給o其諸色行人自來差付官中祇應人數、下開封府、並依菖條。從之。︵会要食貨瓶戸部元豊八年九月四
口H︶
とあって、以後吏禄の分は沖河堤岸司と京城所の房廊銭から支給し、また行人を官中に差付して祗応させていた分に
ついては、﹁開封府に下して並びに旧条による﹂とあれば、免行銭施行以前の状態に返して無償で仕事させることに
したものであろう。
、行戸は外国の使節への売渡しも担当していた。たとえば、
詔、市易務見計置下準備外國人使收買之物、約計五萬餘貫。今止鶴見在數目供寶。候絶、罷行計置、令行人依蕾
酉。庵曹
例供應。所有元豊四年一百一千四日西騨買費祗應、令市易管認出費朝旨、更不施行。︵長編綣焔元祐一兀年閏二
月例詔
己供、
一
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−
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1
56
とあって、旧法の世を迎え、行人が旧例によって外国の使節が収買する物品を供応させられることになった。それま
では一兀豊四年一百一一十四日に都亭西駅に於ける河西蕃部への出売は市易務に管認させるという朝旨が降っていて、市
易務の担当するところであった。そしてこの時五万余貫にのぼる物品を貯えていた。外国人に対するという意味で、
通常の売買とは相違していることが感じられる。今ここに類例をあげて承よう。先ず、
︾詔、渓洞下渓州教練使田遂等、自京進奉、回至辰州日池鎮務。黙検有金漆銀装椅子一隻。孵是本州刺史彰儒猛令
製造o宜令開封府嚴行指揮、在京行鋪商販人、自今不得與外道進奉人員井渓洞鐵人、製造違越制度器用、及買費
禁椎物色、來帯將歸本道。許人陳告、並當決配。︵会要食貨僅市易乾興元年五月︶
とあって、眞宗朝末に在京の諸行鋪商販人は外国の進奉の使者や渓洞鐵人のために違法の器物を製造したり、統制下
、
物品
品を
を売
売買
買し
した
たり
り、、
の物
そそ
﹄れを本国に持帰らせてはならないという禁令が出されている。さしづめこの金漆銀装の椅子
また、
余靖言、風聞、西騨勾當使臣與如定等、下行鋪收買物色太多。此非國家之意。︵中略︶昨者賀從勵來朝廷、賓賜途
等がそれに該当していた。
禮。在賊常分、固宜感恩。今者如定之來、乃形割地之詞。又知賊意輕侮中國、甚於前時。朝廷待之、尤當減於從
副、始合事篭。︵下略︶︵長編酷一一慶暦三年七月庚寅︶
とあって、西夏の使者与如定等が行鋪から多量に物品を収買しているが、前の使者賀從勵より中国を軽侮する念が強
詔、諸虎、不許指占都亭西騨三位舎屋o在騨官吏、不得於見祗應行人虚、收買物色、占役工匠。︵会要職官琿
く現われているから前より恩典を薄くして減額すべきことが上奏されている。また、
鴻艫寺煕寧八年閏四月十八日︶
とあって、都亭西駅に祗応している行人がいた。また、
詔、自今同文館高麗人、出外置到物、並検察。有違朧者、即腕順留納、以雑支銭、給還債直。︵中略︶行人情願將
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58
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椅勢、非理掻擾、諸州公使庫尤甚○至有少欠行人物債數千繕。繕隔歳月、不曽支還。如金銀匹帛等行、往往停閉
都省言、︵中略︶看詳八州縣行戸立債定時旬債直、令在任官、下行買物。蓋知物債低昂、以防鱈損貫暴之利。冒法
の間の状況については、
北宋末には、杭州の市戸呉禧等の欣によって免行銭の法が杭州から両漸路、更に諸路へと拡張して施行された。そ
とあって、蔚秤を造る行人が文思院下界に和雇されて副秤の製造を担当した。
施行外へ今績條具到下項。︵下略︶︵会要食貨献宋量政荊四年九月二十六日︶
⑳
文思院下界奏、契勘、本院見奉行聖旨指揮、別置掛秤一作。除已申請到、乞收造針秤行人和雇製造等、書一遵依
また和雇も見られ、
さて哲宗朝も紹聖年間に入ると再び免行銭が施行されて、銭納が現われた。勿論一部には祗応が続いたであろう。
﹄つ函mlI﹄﹄・ロ﹄ロの︽1L﹄つい割
義務づけられる例も見られたのである。
以上外国の使節との売買は街市で自由になされることもあり、また高麗の使節に対するように官府の命令によって
諸色行戸を差し、使者が入境してから出境するまで、物品を持廻って、付きっきりで売買に応じさせたという。
とあって、高麗の使者が入朝すると、経路I当る両断准南の州郡では騒然となり、州県あるいは鎮砦ごとに予てより
︹長編識朝一兀祐五年十二月乙未︶
然・毎至州縣或鎮砦、皆豫差諸色行戸、各以其物齋負、迎子界首、日随之、以待其所寶買へ出境乃已。︵下略︶
︹高麗︶已而入朝奉貢。朝廷待遇之禮、賜與之數、皆非常等呉中瞳沿路供頓、極子華盛。両断推南州郡、爲之騒
て入館させへ店開きさせたこともあった。また、
⑳
とあって、同文館に物品を持つて入って高麗人と交易することができた。またそれには、相国寺附近の行鋪人を差し
物入館交易、価具姓名、關本館照會。監門不得阻節o︵下遥︵長編唯泗一兀砿五年十月癸丑︶
$
1
’
酌
店騨、逃領改業。︵下略︶︵会要職官に太府寺宣和七年四月十九日︶
とあって、諸州県でも行戸が旬価を立定していて正常の売買がなさるべきであった。が、実際は開封府に於ける免行
銭施行前夜に類して行戸に対する掻擾が起り、公使庫は代価を支払わず、金銀匹帛等の行がもっとも被害を蒙ってい
た。
︵ハ︶
以上で北宋時代における行の動きは大体察し得られると思う。次に南宋に移ろう。先ず免行銭の法が施行された期
⑳。旨巴⑳
間は左の如くである。
⑳巨詔⑳
?l紹與元年三月
偉﹄季惇
紹興十一年四月11紹興二十五年五月・
免行銭の法が廃罷されていた間には、
索0⑨1
詔、編佶打套局、今後行衆逐旋供刺増減名件債數、委自雑寶場官審實、限當日實封申太府寺。本寺書時實封、備
申戸部尚書鴎、随宜増減。如有減債、即申尚書省總制司、候指揮添債、一面行□、増減出費。︵会要食貨脆雑
寶場紹興四年七月二十六日︶
服?
とあって、編佑打套局に詔して行衆に随時市場価格の変動を供報させた。但し、かたや臨安府では市令司が定期的に
⑳
価例を定めていた。この外、
詔、三路市舶司香藥物貨井諸州軍起到無用鰄罰衣物等納詑、牒報編佑局p官吏將帯合用行牙人、前去就庫、編棟
等第色額詑、差南綱牙人等、同市舶司、看佑時直債銭、供申尚書金部。︵下略︶︵会要食貨畑金部紹興九年六月
⑳
二十一日︶
﹄障い﹃、″$﹄﹄つい
具?
免行銭の法が立てられていた期間、それは全域に施行され、紹興十三年当時、四川には五十万絹の免行銭が蓄積さ
・色額を調査させていた。
とあって、市
薬薬
峰物貨と諸州軍から送って来た無用の鰄罰の衣服等について、編佑局が行人牙人を差して等第
市舶
舶司
司の
の香香
⑫⑬
I
れていた。また紹興二十五年には全国の一年間の総額が百八万余緒に及んだ。
高宗朝の末、免行銭が廃止されてからは、解斗の収擢に際し、
右正言都民望言、︵中略︶又物債高下、随時低昂。官私收耀之初、略集行人、供倶三等債直。後有増減、更不復
問。︵下略︶︵建炎以來繋年要録鑑一一紹興一千九年閏六月癸酉︶
とあって、行人が三等の価直を供具していた。ここではそれが収耀の初期だけであったのがその後も旬ごとに佑定す
樗樟の廻りL﹄﹄”の
ることに改められた。
孝宗朝に入っては、左藏庫の質が落ちかかった零丈赤について、
入?
戸部言、契勘、左藏東西庫︵中略︶、外有零丈赤、積墜在庫。歳久色暗、令雑費場出費、不免低債、暗失國用。
今年欲乞、並支全匹、人暦請勘。其餘零丈赤、依文臣時服條例、計債納銭。牒臨安府市令司、差行人佑債、關報
糧審院麺於逐官料銭暦内、除尅施行・︵中略︶從之。︵会要食貨証左藏庫乾道二年九月十四日︶.
‘、樫﹄のmlf潭唖画一
とあって、臨安府市令司に牒して行人を差して価格を見積らせ、糧審院に関報させた。
寧宗朝には福建市舶司から左藏庫への綱運に際し、市舶司が条具した一節内に、・
照得、本司遮年綱運、並於未支装前、喚上舶務合干人等、重立罪賞、不得就綱官乞筧。方差官吏、監視行人、先
次分色額等第。伺交装日、提畢官同本司官属、公共下庫、再監無干凝行人、重験色額。価差泉州無干擬官監視、
以省降銅陶法物、對綱官、雨平秤製勅雨。當官封角、毎包作封頭雨箇。︵会要食貨剛漕運嘉定十一年正月一干
五日︶
〆
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一
一
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一
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60
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6
1
とあって、官吏が行人を監視して先ず色額・等第を別け、積込象の日には提挙官一同が再び関係していない別の行人
に重ねて色額を験くさせ、その上で綱官に対していた。
これらの有様は、免行銭が施行される以前、即ち眞宗朝仁宗朝と殆ど変りないような感じをうける。
さて私達の目にしうる史料は極めて不充分なものであるがへその制約の中で多少の整理をしてぷたい。先ずいえる
ことは行戸が担当した仕事の種類である。繰返してあげると耐それには価格の見積りや品質・規格の検査、旬価の決
定︵後に市司の手に移った︶、契約文書の雛形の作製、官司の帳簿の検査、造作所での技術の提供、外国の使節への
売買等が数えられる。その他にもっとも重要と思われるのは金品の徴発であった。これは売買の際に代価を支払わな
いことにも関連し、北宋でも南宋でも、また首都でも諸地方でも、多少とも見られる現象であった。免行銭はその銭
納化を試ゑたもので、新法時代の開封府に始まって杭州から両断路、それから諸路へと拡大して行った。行戸に課さ
れた以上の任務乃至負担は、祗応するにせよ免行銭を納めるにせよ、決して一時期だけに限られるのではなく、宋代
全般を通じて不変に見られたことも、蛇足ながら附加えておく。
三行の性質
行は前章に見た如く実際上に行動を要請されていた。それではその行とは一体如何なる性質を帯びていたのであろ
うか。欧陽修によると、河北の邪州に於いて、
採問得戸邪州之民、自聞朝廷差下郭承肪、其上等人戸、各訴免行戸、及欲逃移他郡o縁承満久在河北、其鰄穣之
欣、人霊知之。︵欧陽女忠公集河北奉使奏章華一再奏郭承茄︶
と、悪名高い者が知州に任命されて来るとい・うので、その土地の上等戸が各々行戸であることを免ぜられるようにと
訴え、あるいは他州に逃移しようとしている、といわれている。とこで行戸であることを免ぜられるように訴えてい
、
I
一
ー
−
ー
62
■
いけない、とされているpまた前に引用したように、
と、官府が行から物貨を買上げるには時価通りにし、欲する物貨を売る行がない場合に、新しくその行を設立しては
五月戊辰︶
詳定行戸利害條貫所奏、︵中略︶官司下行買物、如時佑、所無不得創立行戸。︵中略︶從之。︵長編雌琿煕害芙年
従来の行に加えて新たに行が官設される場合もあったらしい。先ず、
される傾向をもっていた。
と、一旦
旦名
名籍
籍に
に記
記さ
され
れる
る︲
とへ一生涯は勿論のこと子孫に至るまでも脱する機会がないものといわれ、半永久的に掌握
御史臺井戸部照會罷黄池鎮行鋪状︶
照對、︵中略︶諸般百物、皆有行名、人戸之掛名籍、終其身以至子孫、無由得脱。︵西山先生眞文忠公文集倦申
戸の名籍・数目などが立定されているし、また、
て行戸の名籍・数目・納入の銭数を立定することにし、それに先立って行なってはいけないとされている。ここで行
とあっ
って
て、
、官
官痙
府への供応に耐えられなくなって店をたたんだ行戸が以後帰業して元通り店を開く時をまって、はじめ
月十九日︶
雷開張日、依元降指揮、酌中立定、既不得先次審量、立定行戸名目出納鐘數。︵会要職官惟太府寺宣和七年四
州縣行戸、自來多是備見官中掻擬、無銭陪備、致將鋪席停閉、致有見關行戸。今既罷供應、合候逐行人戸歸業依
更に見て承ると、その掌握の仕方については、宣和三年、開封府以外の地方にも免行銭を施行した際に、
掌握されていたということになる。
即ち
ち、
、行
行は
は民
民戸
戸が
が自
自由
由に
に離
離脱
脱で
でき
き坐
ない性質のもので、それを左右する権限は官府が握っ︲ていた。行戸は官府に把持し
即
ることに注目して承ると、行戸は単に普通に商人というだけでなく、何かある特有の意味を帯びていることが分る。
罫
一
一 一 一
− T = ‐ 』 一 一 一 一 一 口 − − − − −
∼ 一 一 一 一 一 一 ‐ 一 ロ ロ ー ー ・ 一 一 一
63
一
立の事情の最も大事な面を物語るものである・
⑮
と、はっきり官府が科索するために行を置いたといわれている。これは余りに科索を強調しすぎた嫌いがあるが、設
市津謂之行縮者へ因官府科索而得此名、不以其物小大、但合充用者、皆置爲行。︵灌圃耐得翁の都城紀勝諸行︶
乃至罰則で否定的な表現をとっているが、次の例は、
て官府の入用を調えさせてはならないとされている。やはり行の設立が禁じられているのである。以上は何れも禁令
と、今後公庫あるいは官僚自身が必要とする金繪・器用・食飲の類は一切市価で売買し、これまでのように行を置い
聴・︵中略︶俳詔調能叶斡野計稠に計髄︵周益國文忠公集奏議奄論州縣置行直廃︶
⑭
臣愚欲望、聖慈明筋監司郡守、自今公庫私家、凡金繪器用食飲之所需、一切以市債爲準へ母循蕾弊、置行直
達させた場合の罰則が定められている。また南宋に入っても、
とあり、すでにある行に所属している者を、官府の買物の便宜によって別の行に認定し、または別行の扱う商品を調
要食貨順和市宣和三年一百一千八日︶
其︵在京︶不納免行銭諸色行人v価不許科差非本行事。︵中略︶諸路令行戸供應非本行斡運興販物者︽準此。︵会
とか、
刑部言、︵中略︶其非本行、因寶物旋令認定行者、杖一百。並從之。︵長編糟叩一兀肪六年八月率丑︶
ともあって、同様に新たに行を設立することを禁じたものである。その外に、
照得、︵中略︶朝廷屡行申筋、不許捌立行名。︵西山先生眞文忠公文集悩申御史臺井戸部照會罷黄池鎮行鋪状︶
,歩﹂Jい︺、
不得先次審量、立定行戸名目出納銭數。︵会要職官惟太府寺宣和七年四月十九日︶〃
I
−
一
一
∼
64
行への加入も見られる。たとえば、
⑮
毎糾一人入行、測訴訟不已。︵長編酷化煕寧五年十一月丁已︶
あっ
って
て、
、↑行戸が重い負担に苦しゑ、一人でも仲間を多くしようとして、小商人を糾合して行に入れようとしている。
とあ
また続いて、
今自立法數月以來、乃有情願投行人。
とあり、また、
各自詣官、投充行人。︵文献通考唯一市羅考の鄭侠奏議版︶
とあって、自から加入を申出るという。また南宋の例に、免行銭の徴収について、
金部言、今來奏請事理内、有合開收行一尺門承指揮、毎季蕊本行衆戸同欣保明、申陳開收。︵会要食貨鰍免行
銭紹興十五年四月十七日︶
とあって、新たに行に加入すべき者ができた時には、季節毎にその行内の者が名を書連ねて保証し申請すべきもので
行がどのように組織されたかというと、唐代においては行頭が置かれて一行の取締りに当っていた。宋代において
あった。
これに類するものを掲げると、
とりもと
詳定所奏、以爲昨米行有當旬頭曹賛者、以須索糯米五百石不能供、至錐經以死。︵長編鎧一一煕寧七年二一月辛酉︶
とあって、米行で旬頭に当っていた曹賛なる者が須索められた糯米五百石を供出することができないで縊死してしま
ったという。また南宋に入って、
臣僚一言巳降指揮、放免行銭、繼罷市令司、非不嚴切。諸路州軍、間有別作名色如行頭之類、收買物色、未免科
擾。︵会要刑法二禁約淳煕七年四月十五日︶
総
とあって、免行銭の徴収をやめ、市令司も廃止して厳重に取締っているにも拘らず、時に行頭の類の名目を別に作
⑰⑳
って物貨を買入れており、掻擾が絶えないという。行頭が官設のものであり、官府で物貨を買入れる際にその要求に
応じたことが知られる。なお、牙人あるいは番頭の意を示すこともあった。
この外に行老が存した。加藤博士に依擦して解釈すると、茶房・酒建・妓館・食店・櫃坊・馬牙・解庫・銀鋪・旅
店等の人の集まる特定の場所に設けられ、情偽を察報する、いわば民間における警察の任務を負わされるものであっ
た。また人力・幹当。酒食作匠等の使用人を雇入れる際に、その斡旋を行なっていた。また時には、官僚に利用ざれ
て、酒の売りさばきも担当したのである。これでぷると、行老は直接に行と関係を有したことが窺われないし、行頭
とはその仕事の内容も相違しているようである。
それでは行に加入するとしないとは商工業者の自由になったであろうか。否。これには、
鄭侠奏議践云、︵中略︶才立法、随有指揮、元不係行人、不得在街市費易、與納免行銭人争利。仰各自詣官、投充
行人、納免行銭、方得在市寶易。不赴官自投行者有罪、告者有賞o︵文献通考唯一市雑考︶
とあって、行に加入して免行銭を納入した上でなければ街市で売買してはならず、これに違反した者は科罪する旨の
指揮が降っていたという。どこまでを売買と見倣すかは区別しにくいが、営業権の付与を条件として強制的に加入さ
此?
せたことが認められるのではなかろうか。こうして誰でも都市内に定住して商業を営もうとする者は、すべて行に加
入しなければならなかったのである。
商業を通じてみた行内の有様についてば、
王安石日、︵中略︶兼井之家、如茶一行、自來有十餘戸o若客人將茶到京、即先韻獣設燕、乞爲定債。比十餘戸所
買茶、更不敢取利、但得爲定高債、既於下戸倍取利、以償其費。今立市易法、即此十餘戸與下戸、買寶均一、此
十餘戸所以不便新法造誇議也o臣昨但見取得茶行人欣如此、餘行戸蓋皆如此。︵長編誰矩煕寧五年閏七月丙辰︶
ノ
I
−ー一ー一言一一一ママ寺
●
66
とあって、茶行において有力者である兼井戸が十余戸存在し、客商はこれに霞贈を行ない、宴席を設け、低い価格で
売渡す、その代りに高い価格をつけて貰って下戸から利益をとっていたという。また、
賓硫朴者、爲兼井所抑、久留京師、乃至經待漏乞指揮。臣︵王安石︶諭令自經市易務、此事非中所管。尋聞、呂
嘉問才買硫朴、兼井即欲依新法占買。嘉問乃悉俵與近下硫鋪。︵前に同じ︶
・しきたり
とあって、硫行に客商が訪れた時も、やはり下層の楠鋪を牽制しながら買占めを計ったという。この兼井戸と下層戸
の対立は、行の加入に資格の制限がなかったことからくる当然の結果である。
しかしながら、行はある程度の共通性をもった一つの場であって、充分には明かにしかねるが、行例即ち行の例が
定まっていた模様である。それは、
的長編増一一煕寧七年三月己未︶
安石日、︵中略︶臣曽雇一洗濯婦人。自言、有兒能作餅、縁行例重無賠費、開張不得。未出免行以前、#大抵如此。
とあって、一洗濯婦の子が餅を作る技能をもっていても、行例が重く、それをつぐなう費用が出なかったため開業で
雇?
きなかった、といわれており、ここの行例が一兀来各個の分担費そのものでなく、それを取りきめた〃しきたり〃と解
されることから知られる。元朝の史料には、﹁和顧和買和羅、並依市債。不以是何戸計、照依行例應當﹂︵大元聖政
国朝典章、戸部矩科役、物価︶と、行の例の尊重されるべきことが見えている。
次に、必ずしも行と直接に関係しないこともあろうが、それぞれの特徴を検討して承よう。先ず省阻が異っていた。
,、はしため
都市銭晒、官用七十七、街市通用七十五、魚肉菜七十二昭、金銀七十四F珠珍。雇脾捉・買虫蟻六十八、文字五
十六阻。行市各有短長使用。︵孟元老の東京夢華録誰都市銭阻︶
かきもの
とぁって、官府は七十七、街市一般には七十五、魚肉菜には七士一、金銀には七十四、珠珍、それに鱒捉を雇い、虫
蟻を買うには六十八、文字には五十六をそれぞれ百として通用させ、行市では様灸の数え方があったという。
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1
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また衣装について、
はお
其士農工商諸行百戸、衣装各有本色、不敢越外、謂如香鋪裏香人、即頂帽披背、質庫掌事、即着皀杉角帯不頂帽
之類。街市行人、便認得是何色目。︵同書鎧民俗︶
とあって、士農工商や諸行の人戸にそれぞれの衣装があって、香鋪の香人は帽子を頂き背子を披り、質庫の掌事が皀
杉や角帯を着け帽子を頂かないという風で、街市を歩行している人がどこの者か一目で識別できたという。
また神仏の祭祀があり、北宋の開封府では、六月二十四日灌口二郎の誕生日に、神保観において賑かなお祭りをす
ろ習わしで、
天曉、諸司及諸行百姓、厭送甚多、其社火呈於露臺之上、所獄之物、動以萬數。︵同書噛六月一ハ日雀府君生日
二十四日神保観神生日︶
とあって、朝が明け初めると、諸司や諸行の人女が沢山の献納を行ない、その社の火が露台の上に浮び上るという。
あるいは南宋の杭州においては、東嶽天斉仁聖帝の聖誕の日である三月二十八日の頃に、
或諸行鐘戸、以異果名花精巧麺食呈獄者、︵中略︶舟車道路、絡騨往來、無日無之。︵夢梁録錨一千八日東嶽聖
帝誕辰︶
とあって、同様に果物・花・麺食を奉納する者等の往来が絶えないという。こういうことをするには、
諸寵建立聖殿者、倶有社會局諸行亦有獄供之社。︵同書臘一社会︶
とあって、諸行に献供の社なるものが設けられていた。その時には、続いて掲げられている如く、七宝行が七宝の玩
⑲
具を献じ、青果行が時節の果物を、魚児活行が異様な亀魚を献ずる等、それぞれの特色が発揮されたのである。これ
らの社は、行を内部から支える自治的な集団であったと思われる。
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社は祭祀を行なう外庭官府の行事に協力して街をねり歩くこどもあった。即ち、’
一▲冒二
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68
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中秋?
臨安府鮎検所、管城内外諸酒庫、毎歳清明前開煮、中前寶新迎年。諸庫呈覆本所、揮日開沽呈様、各庫預頒告示、
官私妓女、新麗肱著、差偲社隊鼓樂、以榮迎引。︵中略︶次八仙道人、諸行社隊、如魚兒活擴・糖樵・麺食諸般市
食、車架・異檜奇松・賭銭行・漁父・出猟・臺閣等。︵同書裁諸庫迎煮︶
とあって、中秋節近くなって酒庫で新酒が出来た時、妓女・社隊・鼓楽が行列をなして街を触れ廻ったという。
一言にしていうなら、行は統治の便宜上設けられた意味合いが濃く自治性が稀薄な商人組織であった。但し、行は
一つの活動の場であって、内を支えるには社の如きものがあり、そこには多少の自治が生まれ、ある程度の結束も認
められたものと思われる。
四行戸の位置
これまでは行を冠したものについて検討してきたが、勿論それの承が行戸なのではない。却って行を冠しないでた
だ商品名によって、あるいはただ普通に商人と呼称している例が多いほどである。そこで坐寶と称するものはすべて
行戸であると見倣しても大過ないと考える。但し次のような人達は行戸に該当しなかった。即ち、
⑪
上言、︵中略︶説匹帛行薑有手下抱綿角人、今亦講收入行。︵王︶安石日、此事臣所未曽勘會、恐未必有也Q︵長
編磯一一一照箪七年三月戊午︺・
⑳
くつかもじ
とあってへ匹帛行の下に手下抱二総角一人がいて、この種の人は本来行戸とは別の種の人と考えられていた。また、
上間安石納免行銭如何、或云提湯餅人亦令出銭、有之乎。︵長編増一一煕寧七年一二月癸丑︶
かごこぱこ︲
とあって、提二湯餅一人はやはり行戸と一線を劃されるものであった。その外﹁負し水措レ粥以至麻畦頭髪之属﹂
︵文献通考噌一鄭侠奏議践︶とか﹁提し藍掌し霊微小買寶之人﹂︵建炎以来繋年要録糟卜紹興二十五年五月丁未朔︶
一
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69
についても同様のことが考えられる。これらは武林旧事︵巻六︶によると小経紀に分類されている。それは貧下の経
紀といっても同じことと考えられ、
⑫
戸部言、︵中略︶今訪聞、州縣多將零細小鋪貧下經紀不係合該行戸之人、及村店貨賓細小之民、一例敷納。︵会要
食貨鰍免行銭紹興十一年六月十八日︶
とあって、零細な小鋪の外に貧下の経紀がいて、彼等は行戸でなかった。この外、仲介商人である牙人については、
市易法の施行に際して、
中
中書
書奏
奏、
、︵
︵中中
略略
︶︶
欲欲
︷ 在京置市易務、︵中略︶許召在京諸行鋪牙人、充本務行人牙人。︵長編考一一煕寧五年三月丙午︶
とあって
て、
、一
一応
応行
行人
人と
と元
牙人とは区別されている。
行戸は客商の将来した物貨を引取って都市内で売捌きに当った。客商は専ら行戸に卸売りをした如くである。それ
キ︽ 、
I
⑬
多爲
爲兼井之家所困、往往折閲失業。至於行鋪稗販、亦爲取利、致多窮碧。︵下略︶
詔日、天下商旅物貨至京、多
︵長編竜一一煕寧五年三月丙午︶
ともあって、行鋪に売渡していることからも推測される。近隣の村戸の場合は、都市内で振売りをしていた。それは
たとえば、
開封府言、京城浩穰、郷莊人人
戸戸
、、
般般
載載
﹃到柴草、入城貨売不少。多被在京官私牙人出城接買、預先商量、作定債例、
欲乞
乞、
、特
特降降
量與些小定銭收買。︵中略︶欲
坐指揮止絶、如有違犯、並乞重行断遣。所費柴草、任從人戸自便貨寶。及令
廟巡人等、常切覺察收捉、送送
官官
勘勘
断断
。。
︾所寶遵稟。從之。︵会要食貨催市易天聖八年三月︶
車に
牛の
に︲
のせ
︲、
せ、入城して自由に売買できる立前であったことから察せられる。しかしこ
とあって、郷莊の人戸が柴草を車牛
れにも自から制約が伴ったらしく、
日色州
自來多是備見官中掻擾︽無銭陪備、致將鋪席停閉、致有見關行一尾︵中略︶其四方商旅村戸、時暫將物
市行
貨戸
實、
、
、許與買人從便交易、行戸不得障固。如違、依彊市法科罪。︵会要職官に太府寺宣和七年四月十九
、 古
はかりしらぺ
打作作頭等、令本院召募有家業及五百貫以上人充、価召臨安府元籍定有物力金銀鋪戸一茗委保。如有作過人、令
文思院上界打造金銀器皿、自來止瀝作家和雇百姓作匠、承攪掌管金銀等、拘轄人匠造作、以致作弊。今乞將合用
・をとった。また、
作匠匠
とあって、作
云が入作して金銀の仕事を開始する時に、鋪戸がその色額を着験して秤盤し、終了時にも同様の手続き
得入庫
庫、
、同
同奉
專副封鎖。
合用
用金
金坤
銀、各支一色、令鋪戸看験色額秤盤。遇晩放作、令鋪戸將器物§再行看験色額秤盤、數足方
作匠入作時、合
防止していた。 また、
と
って
て、
、直
直鐸接に製造にあたったのは作匠であり、これに籍定された鋪戸十名が鉦鎗を監視し作匠に交付して爽雑を
とあ
あっ
安
府、
、拘
拘俸
集元來鋪戸、周而復始。日後遇關、從本院報臨安府、踏逐接填、各正身赴院有験。
安府
冠?
打造器物、係臨安府籍定鋪戸一十名、監視鉦鎗、交付作匠、以免來雑○近縁前界作弊、止差浮淀牙人。今欲下臨
要職官北文思院淳煕九年七月士一百の条に、
なお、文思院で働く行戸について補足的な説明を加えておく。それは器物の製造について、南宋の例であるがへ会
の方に重点がおかれているとも考えられる。
害してはならない、としていて、それが一時的に拡張されたものであることが知られる。もっともこれは四方の商旅
とあって、逃亡した行戸が帰業する間、暫時その都市以外の商人や村戸に対して自由に交易を認め、行戸はそれを防
、-ノ入縣
保人均陪。若召募未足、即令籍定前項鋪戸、權行隔別承攪掌管。
〆
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〆
70
ノ
同じ類型の中に入れて論じて承ても余り意味がなかろう。それが可能となる迄には、明代における行の実体が明らか
説明している。ここに現われている行には、宋代と同じような趣きを窺うことができる。しかしながら、勿論直ちに
である。それがこの万暦年間迄時によって変更があっても続いていた。﹂そして徴銀の制を詳細な数字の例をあげて
互に交代させ、それを名づけて行戸といった。その後各行に不便になったので徴銀の制が始まった。即ち古の免役銭
職業とするところを官府の簿籍に載せたことに始まる。そして各衙門に大典礼があるごとに簿籍を基に金銭で役使し、
ころから名付けたのであろう。明代北京の行は、国初に成祖が建都した時、居民の疎密によって保甲を編成し、その
に大凡次のようなことがいわれている。﹁舗行の起原は何時のことか不明であるが、鋪居の民は各行が同じでないと
最後に後世の例に徴して承よう。明の万暦二十一年に出た沈傍の宛署雑記という書があって、その巻十三舗行の項
粋、の“.
開係では行戸と目されるが、民間においては、少くとも宋代では坐貿乃至都市の商人で充分なのである。
換えて考えても大差がなさそうである。それは恐らく行が上からの組織であることに由来するのであろう。官府との
ならともかく、行戸だからといって特別に政治的経済的意味を附与する必要はなく、坐買乃至は単に都市の商人と置
ける行の影響力を考えると、さほどに大きかったとは思えない。即ち、行戸は社会的存在そのものとして取上げるの
結局本稿を通じていって承ると、行が何者なのかに焦点を合わせて考察を進めて来たのであるが、改めて当時に於
いても、このような参加の仕方をしていたと考えられる。
十名の籍定された鋪戸とは金銀鋪戸であると考えられる。北宋において後苑造作所で行戸が鉦錆している場合等につ
が不足した場合にはそれらの金銀鋪戸に代行させることにした。ここの器物とはすべて金銀の器物に関したことで、
百貫以上の者をあてることにした。その際先の臨安府が籍定した有物力の金銀鋪戸二名にその作家を保証させ、作家
とあって、金銀の器皿の製造には作家がいて作匠を和雇し、金銀を引受けて掌管しており、この時その作家に家業五
〆
、
にされ、更にその間の社会の変化、経済の変化が考慮されなければならないだろう。その結果は、あるいは同じ類型
、
−
−
−
71
−
−
−
一
注
の中に入らないものかも知れないのである。
、
この時詳定行戸利害所が設置されて問題の処理に当ったが、仁宗朝末にも詳定行戸利害所が見えており、行戸の負担が検
第一所収︶参照。
これは多くが吏禄を支給されていなかったことに関連する。宮崎市定博士の﹁王安石の吏士合一策﹂︵﹁アジア史研究﹂
長編髭↑同年同月癸亥
会要食貨禧和市同年同月七日。
会要食貨琿市易務同年月日。
会要食貨廻漕運、同
同姻
姻水
水運
運の何れも同年月日。
同じ個所に類似の記載がある。
会要食貨垂市易煕寧六年正月七日。
第三章参照。
長編酷垂煕寧六年五月戊辰。
会要食貨壷戸部元豊八年九月四日、長編護同年同月乙未。
夢梁録華団行。
夢梁録雪鋪席。
建炎以来繋年要録華推同年同月丁未。
会要食貨鴎免行銭同年同月十七日。
建炎以来繋年要録蕊紹興十二年七月乙卯。
安陽集、家伝華。
長編盤七同年同月庚辰。
⑰⑯⑮⑭⑬⑫⑪⑩⑨⑧⑦、⑥⑤④③②①
⑬
|
ノ
逆
一
、
討された。︵蘇東玻集趣司馬温公行状︶。後苑造作所で行戸の火耗を増したことなど、 その成果であったらしい︵会要職
官窄後苑造作所嘉祓六年十二月二十一百︶。
会要食貨壷市易務煕寧七年三月。なお長編畷葬煕寧六年五月戊辰の条参照。
会要食貨嘩免行銭同年同月八日、建炎以来繋年要録同年同月丙子。
会要食貨嘩免行銭同年同月一百、建炎以来繋年要録灌同年同月丁未朔。
会要食貨垂雑買務紹興六年五月十五日。
会要職官壱編佑局同年月日。
建炎以来繋年要録龍紹興十三年三月辛卯。
建炎以来繋年要録罐炉紹興二十五年五月丁未朔。
会要食貨匡市易紹興三十年十月二十五日。
一
夢梁録聿団行。
会要食貨暹市易煕寧六年正月七日。
ー
会要食貨呼免行銭、同刑法二禁約の同年月日。建炎以来繋年要録著同年同月甲辰・甲寅。
会要職官︾太府寺靖康元年正月十八日の条に﹁詔罷諸郡免行銭﹂とあり、中断したのは確かである。
会要食貨迦量衡同年月日。
長編蝋元砿八年二月辛亥、 蘇東玻奏議集華論高麗買書利害割子。
会要食貨垂市易務同年月日。
長編塞猩同年同月乙未。
会要食貨壷戸部元豊八年九月四日、長編塞涯同年同月乙未。
長編篭元豊三年九月甲子。
⑳⑮、⑳⑫⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑳⑲
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夢梁録増米鋪。加藤博士の﹁唐宋時代の市﹂︲︵﹁支那経済史考証﹂上巻所収︶参照
会要食貨垂市易務同年月。
会要食貨嘩免行銭同年同月二日。
会要食貨暹市易、同垂市易務同年同月二十六日。
会要食貨鐸市易、同垂市易務同年同月二十六日。
補注
軍
l昭和四○・一○・二六I
本稿は京都大学に提出した修士論文の一部を更に考え直してゑたものである。在学中御指導を賜わった宮崎教授、田村教授、佐
附記
会経済史学三○ノ六︶参照。
日野開三郎氏は、最近、唐五代に於いて行商に客商の意味の用法が厳存したことを述べられている。同氏の﹁唐代商税考﹂。︵社
/
第九期︶。この紹介は佐藤武敏氏が﹁唐代ギルドの新資料﹂︵中国史研究二︶の中で試承られている。
近年行と社との関係を示す唐代の資料が明かにされている。曾毅公﹁北京石刻中所保存的重要史譜﹂︵文物、一九五九年
施徳操の北雷灸繰録下。加藤博士の行に関する初めの論文参照。
⑳⑳⑳
⑬、、⑳
伯教授に厚く感謝の意を表したい。また東洋史研究室の諸兄にいろいろお世話頂いたことも併せ記しておく。
一
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