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ヨハネス・シュタルクの人間形成論 - 東北大学教育学研究科・教育学部
科学・ナチズム・教育 ―ヨハネス・シュタルクの人間形成論― 清 水 禎 文 20世紀前半のドイツにおける教育論は、保守的な教育論を抜きに語ることはできない。その影響 は観念的な講壇教育学の影響をはるかに凌ぐものであったからである。物理学者ヨハネス・シュタ ルク(1874-1947)は、こうした保守的な教育論の論客の一人であった。彼は、1919年にノーベル物 理学賞を受賞するものの、1922年に大学を去る。そしてナチへの接近により、1933年に公職に復帰 する。その国民教育論は、ヒトラーおよびナチ党の教育政策をノーベル物理学賞の権威によって権 威づけるものであり、またその教員養成論は、ナチの教員養成政策に影響を与えるものであった。 彼は、個性伸張と国家との間で苦悩する教育学者の議論を一蹴し、イデオロギーに基づく国家教育 論を展開したと言えよう。 キーワード:ヨハネス・シュタルク ナチズム 国民教育論 教員養成論 保守革命 カール・ハ インリヒ・ベッカー 問題設定と先行研究の分析 1 ドイツの数学者であり、また「分析哲学の父」と言われる論理学者でもあったゴットロープ・フ レーゲ( 1848-1924)は、1924年の 月から 月まで、日記の形式で政治社会問題につ 3 5 いての見解を書き残している。その内容は、第一次世界大戦の敗北からドイツが甦るためには、 「社会民主主義の癌」を除き、 「ユダヤ人を一掃」し、 「自信をもって全軍を率いるドイツ皇帝」を 見つけなければならないというものである。そのさい、国民に必要なのは、 「祖国愛」であり、祖国 愛とは「その土地への愛、それ以上にその土地に住む民族への愛、民族の強く貴き面への誇り」で あるという。 フレーゲは、数学者、論理学者として厳密な議論を展開する一方で、少なくともこの日記におけ る政治社会問題に関しては、感情を前面に打ち出した議論を展開している。じっさいフレーゲは、 1924年 月 日の「日記」に次のように書いている。 5 2 最良の民族を決めるためには、あらかじめすべての民族を偏見なしに検討する必要があると考え 東北大学大学院教育学研究科 人間形成論講座 ― ― 1 科学・ナチズム・教育 る者は、真の祖国愛を知らない。…ここでの問題は、論理的な意味での判断でも、何を真実とする かということでもなくて、内的に感情的にいかなる立場をとるかということである。感情のみが参 加し、悟性は参加しない。あらかじめ悟性に相談することなく感情が語るのである。しかし、しば しばこのような感情の働きが、国家の問題を正しく合理的に判断するためには必要であるように思 われる。 ここに見られるフレーゲの思考形式、すなわち専門とする学的な領域には厳密な学的論理を適用 するが、その他の領域には感情を適用する―言い換えれば、専門以外の領域には実証性も、合理 性も、また客観性もない、きわめて通俗的な「常識」を適用する―思考形式は、およそ10年後の ナチ支配に道備えをする役割を果たしたとも言えよう。 しかし、こうしたフレーゲの二面性は彼独自の思考形式ではなかった。マルティン・ハイデガー、 エルンスト・ユンガー、ゴットフリート・ベンなどのナチ支配下のドイツの知識人にも、多かれ少 なかれ認められる思考形式である。 本論文においては、こうした思考形式における二面性から脱却することのできなかった―むし ろ積極的にこの二面性にとどまり、ナチの科学政策を担い、ナチの路線に従った国民教育論も展開 した―実験物理学者ヨハネス・シュタルク( 1874-1957)を取り上げ、主として 彼の1930年代の政治社会論、教育論を検討し、さらに当時の教育理論との比較検討を試みるもので ある。これらの検討を通して、ドイツの1930年代における教育論議の水準を見極めることができよ う。また、シュタルクとの対比において、ドイツ教育学の持つ両義性―いっそう正確に言うなら ば危うさ―の一端を照射できよう。 シュタルクについては、すでに少なからぬ研究において周辺的、断片的に言及されてきた。たと えば、 の大著『ハーケンクロイツ下の大学』においては、クリークやボイムラー と紹介されている。 は、シュ と並んで、 「《ドイツ的物理学》における褐色の教皇」 タルクを、生物的な人種主義にとどまらず、 「学者たちを煽り立て、非ユダヤ人学者の研究からユダ ヤ人の思想を削除」しようとしたナチのイデオローグと見なしている。これらのナチ時代におけ る高等教育史研究、思想史研究と並んで注目すべき教育史研究として、 の論文が挙げられる。彼らは、1933年までは教員養成に対するナチの公式路線が定まらず、 シュタルクの教員養成論(1931年)が「教員養成問題におけるナチ党の立場を決定」したと指摘す る。ちなみに、アインシュタインの伝記においては、シュタルクはアインシュタインの不倶戴天 の敵として紹介されてきた。 しかし、いずれの研究においても、シュタルクについては周辺的、断片的に言及されているに過 ぎず、彼の思想構造、教育論、そして教育学や教育政策への影響については十分に論じられていな い。つまり、これまでの研究においては、シュタルクに関する証言は、断片的なモザイクとして散 らばっており、その統一的なイメージは未だ描かれていない。近年、こうしたシュタルク研究を踏 は、第一次史料に基づきながら、 まえ、 によるシュタルク伝が公刊された。 ― ― 2 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年) 2 シュタルクの生涯を再構成しようと試みているものの、その記述の重点は科学者としてのシュタル クの歩みと、ナチとの関わりに置かれている。シュタルクの社会政策論については時代状況に照ら し合わせた検討が不十分であるし、またシュタルクの教育論についてはほとんど言及されていない。 なお、史料に関しては、公刊された多数の冊子、雑誌論文の他、ニーダーザクセン文書館にハノ ヴァー時代の書簡等が、またベルリン国立図書館に1899年から1920年までの約3000通の書簡、およ び戦後の脱ナチ化の過程に関する史料が、またミュンヘン国立図書館にはヴュルツブルク時代の史 料が所蔵されている。しかし、ベルリンの史料は一部閲覧に供されているものの、1920年以降の史 料は2006年10月 日まで未公開であり、閲覧することはできない。 1 シュタルクの生涯 2 物理学者としての経歴 ヨハネス・シュタルクは1874年 月15日、バイエルン州のマルクト・カルテンブルン近郊のシッ 4 ケンドルフの農家に生まれた。宗派はプロテスタントであった。レーゲンスブルクでギムナジウム を終了したシュタルクは、1894年秋にミュンヘン大学に入学し、オイゲン・ロンメル教授の下で物理 学を学び始めた。1899年 月 日、ミュンヘン大学物理学研究所の助手に就くが、ロンメルの後任 9 1 教授とは折りが会わず、1900年 月31日にゲッチンゲン大学に移り、 3 同年10月24日に私講師となる。 この時期、シュタルクは後にノーベル賞受賞の対象となる《カナル線におけるドップラー効果》(1905 年)を発見した。しかし、人格的な理由で教授の昇進を阻まれたシュタルクは、1906年 月 日にハ 4 1 ノファー工科大学に移る。ハノファーでの研究生活もまた、シュタルクにとって恵まれたものでは なかった。大学側は、すでに1907年 月 日をもってシュタルクを解雇するようにベルリンの文部 4 1 省に申し立てている。またシュタルク自身、ハノヴァーでの生活を《ハノヴァー監獄》と呼んで いる。仲裁に失敗した文部省は、シュタルクにアーヘンとダンツィヒのポストを提示するが、アー ヘンは大学側がシュタルクを拒否し、ダンツィヒはシュタルクが拒否したため、この転任は成立し なかった。結局、シュタルクは1907年10月 日から1908年 月30日までの 年間、グラフスヴァル 1 9 1 ト大学に移り、教鞭を執ることになった。1909年 月 日からアーヘン工科大学に移り、 4 1 ここで1917 年まで教授を務めた。この間、シュタルク効果(1913年)を発見し、1905年の発見と併せて、1919 年にノーベル物理学賞を授与されることになる。 シュタルクは実験物理学者としての名声を博する一方で、すでにアーヘン時代から反ユダヤ主義 傾向を表し始める。たとえば、1915年にはアインシュタインの相対性理論に対して《非物理学的精 神》と批判している。そして1920年には、やはりノーベル賞を受賞したルナール( 1862-1947)とともに、 明確な反ユダヤ主義を表明するに至る。彼等は、アインシュタインの相 対性理論、ハイゼンベルクの量子力学などを《ユダヤ的物理学》 、あるいは《教義学的物理学》と批 判する。もっとも、シュタルクにおける反ユダヤ主義は、ナチの人種理論とは異なり、理論物理学 における思弁的、観念的な性格―シュタルクの苦手とする数学を駆使した―に代表される《ユ ダヤ的精神》を批判するものであった。そして、その批判は必ずしもユダヤ人に限定されたもので ― ― 3 科学・ナチズム・教育 はなく、後には理論物理学を研究するドイツ人研究者―《白いユダヤ人》―にも及ぶことになる。 こうした反ユダヤ主義的傾向は、グライフスヴァルト大学において、さらに1920年10月 日から 1 転任したヴュルツブルク大学においても、同僚と問題を引き起こす原因となる。その結果シュタル 。最終的には、半年後の1922年 月 日をもっ クは、1921年10月 日をもって辞任を申し出ている 1 4 1 て健康上の理由により辞職した。じっさいには、この間、シュタルクはミュンヘン工科大学への転 任を画策していた。しかし、同大学哲学部は、シュタルクの教授資格論文を《不十分》( )とし、採用を見送った。結果的に、シュタルクはヴュルツブルク大学辞職後、民間企 業に移り、ナチが政権を掌握するまで大学での研究・教育から遠ざかることになった。 ナチとの関わり シュタルク自身の回想によれば、シュタルクとナチとの関わりは、彼が大学を辞した直後の1923 年頃に始まる。そして1924年以降には、次の記述を見出すことができる。 ヒトラーはここ半年、ドイツ軍の中において目覚ましく闘ってきた。その後、彼はミュンヘンに おいて、赤〔社会主義〕と黄金〔ユダヤ人〕のインターナショナルという非ドイツ的精神に対する 闘いに、彼の全人格を投じてきたのだ。彼の最高の目標はドイツ民族の自由であったし、また現在 もそうである。…私は生粋のバイエルン人として、また著名な業績を持つドイツ人として、偏狭な 党派主義者たちに言う。お前たちの不快な、不誠実なヒトラー批判については黙殺する、と。 さらに1930年の『アドルフ・ヒトラーの目標と人格』においては、次のように書いている。 ヒトラーは、ビスマルクと同様、現実を洞察する賜物を持っている。…彼は、観察された諸現象 の合法則的な連関を看取し、それらの究極的な原因や諸力の認識に至るまで突き進む偉大な自然科 学者に譬えられる。 シュタルクはナチ党の発足当初から、確信的なヒトラー信奉者であったし、またその認識は1930 年代を通じて―そしておそらく戦後も―変わることはなかった。 シュタルクがヒトラーおよびナチの運動に自覚的に加わっていく原因として推測できるのは、以下 の 点である。 3 反ユダヤ主義。実験物理学者としての顕著な業績を挙げるものの、理論物理学が隆盛するド イツの大学において、納得できるポストを得ることができなかったシュタルクは、理論物理学 を《ユダヤ的物理学》として非難する。こうしたシュタルクの反ユダヤ主義的が、ナチの反ユ ダヤ主義と共鳴したと考えられる。 ナチの科学政策。ナチ党の綱領には、科学政策、あるいは高等教育政策に関する明確な記述 は見あたらない。しかし、1933年 月の《公務員制度再建法》により、多くのユダヤ人研究者 4 ― ― 4 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年) 2 がドイツを追われたことは、科学政策においても反ユダヤ主義が貫徹されたと考えてよい。 《ユ ダヤ的物理学》に対して《アーリア的物理学》 、 《ドイツ的物理学》を掲げたシュタルクにとっ て、ナチの政策は軌を一にするものであったと考えてよい。 また、・ルストや・シェムによれば、ナチは《学問の自由》を条件付きで保障している。 シュタルク自身も、イギリスの科学雑誌 において、ナチが研究の自由を保障しているこ によれば、ナチの科学政策は以下の 点に集約され 4 とを力説する。しかし、 る。① 科学は国家にとって有益なものを証明しなければならない。純粋な認識を求める無目 的な研究は存在しない。② 人種研究が科学の核を形成する。③ 科学は全体として扱われるべ きであり、特殊専門化されてはならない。④ 科学の国際性は存在しない。つまり、国家イデオ ロギーに奉仕する限りにおいてのみ、 《学問の自由》は認められているに過ぎない。 しかしこうしたナチにおける条件つきの《学問の自由》も、反ユダヤ主義者であり、偏狭な 国家主義者であるシュタルクにとっては、まさに《学問の自由》を保障する運動に他ならなかっ たと考えられる。 ナチの政治思想。シュタルク自身は、体系的な政治思想を展開していない。しかし、多くの 冊子において議会制民主主義と社会主義とを批判し、党派的、宗派的に分裂したドイツを、ド イツの伝統に立ち戻り―伝統というもののシュタルクにおいては歴史的な考察は欠如してお り、せいぜいビスマルクにまでしか遡らない―、そこからドイツの統一、再建を目指そうとす る姿勢は一貫している。これらの議論は、ワイマール時代の保守革命論に通じるものであ る。しかしシュタルクは、ドイツの統一、再建を究極的にはヒトラーに委ねる点において、 保守革命論よりもいっそうナチの政治思想に近い立場にあった。 反ユダヤ主義者のシュタルクにとって、ヒトラーおよびナチへの接近は、ごく自然な歩みであっ たと考えられる。そのさい、シュタルクにおいては自然科学研究に要求されると思われる客観性、 論理性、検証可能性などの態度は、まったく欠落していた。 公職への復帰 1920年代からヒトラーおよびナチ党に親近感を持っていたシュタルクは、1930年に正式にナチ党 員となる。そして1933年のナチの政権掌握を契機として、シュタルクは帝国内相・フリックの推挙 により、物理工学研究所 ( 、以下)の所長に就任する。 は1887年に設立された内務省が所管する研究機関で、著名な研究者が所長を歴任してきた。シュタ ルクの所長就任については、内相フリックが望んだことであり、内部での評判は芳しくない。 じっさい、シュタルクは所長就任後も相対性理論と量子力学を徹底的に拒否し、別の考えを持つ所 員には人格的な批判を行い、ナチの政策に即した研究を展開しようとする。 1934年、は 内 務 省 か ら 新 た に 設 置 さ れ た 文 部 省 に 移 管 さ れ る。帝 国 ア カ デ ミ ー ( )の創立を望む文部省の計画と、をドイツの学術研究の中 ― ― 5 科学・ナチズム・教育 心的位置に高めようとするシュタルクの計画との間には軋轢が生じ、シュタルクの計画は実現しな かった。しかしシュタルクは、1939年に退官するまでの所長にとどまった。 戦後のシュタルク 1945年 月、 6 シュタルクは逮捕され、1947年 月 日に 年間の労働刑を宣告された。その翌日、 6 1 4 シュタルクは獄中において脳卒中で倒れ、1957年に死去する。 2 年間の拘留中、彼は自伝を書き残 している。 によれば、シュタルクの自伝を見るかぎり、ヒトラーに対するほとんど批判はな い。また、ユダヤ人虐殺などヒトラーの犯した犯罪には、一言も言及されていない。 また、裁判の過程においてシュタルクは、1934年以降ナチとの関わりは無くなったことを主張す る。そればかりか1934年以降は、ナチの学術政策に対してむしろ批判的であった、との主張を残し ている。 私は1934年から1937年まで文相ルストに対して、ドイツにおける研究の自由をめぐって困難な 闘いを戦っていたのです。…私が〔ドイツ学術緊急共同体の総裁〕選挙に立候補したのは、 〔当時 の〕私の考えによれば、ドイツにおける研究が脅迫的な軍隊組織になるのを妨げるためでした。 自伝や様々な手記には、シュタルクがもっぱら《学問の自由》あるいは《研究の自由》のために、 1934年以降はナチに対して非協力的であったとの自己証言が認められる。しかし、すでに10年代に は反ユダヤ主義的傾向を持ち、20年代にはヒトラーとナチに対して無条件に共鳴し、さらに30年代 には研究機関の所長として《ドイツ的物理学》の振興を積極的に担った事実は否定できない。また、 戦後ドイツにおける自然科学研究の水準は、ナチ時代に至るまでの20世紀初頭と比較すると―ノー ベル賞受賞者数を見るかぎりにおいて―、相対的に低下した。一因は、ユダヤ人研究者の海外流 出を促したナチの人種政策に求められる。こうした科学研究領域における反ユダヤ主義的政策を、 現場で積極的に荷担したシュタルクの倫理的責任は問われるべきであろう。 シュタルクにおける人間形成論 3 1930年代のシュタルクは、専門とする物理学ばかりではなく、宗教問題、学問論、教育論など広 く政治社会問題にも言及するようになる。ここでは、1930年代前半の、シュタルクがの所長に 就任するまでの比較的短期間にシュタルクが公刊した著作から、彼の教育に関わる議論を取り上げ て検討することにしたい。 ― ― 6 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年) 2 シュタルクにおける国民教育論 シュタルクは1932年、 『国民教育』を公刊した。その章構成は、 Ⅰ ドイツ民族の特性、業績および権利 Ⅱ ドイツ民族の危機 Ⅲ ドイツ民族の救済と保全 Ⅳ ドイツ国民国家の学校と学校教員 となっており、 《ドイツ民族》を前提とした教育論となっている。すでに章構成から推測できるよう に、 『国民教育』における議論は、むしろ時局的な議論が中心であり、教育論は付加的に付け加えら れていると言ってよい。 シュタルクは、ドイツ民族の特性として第一に《人種》を取り上げる。これが議論の前提であり、 出発点となる。ドイツにおいて最も影響力のある《北方人種》の特徴として、 《厳密性と慎重さ》 、 《規律と几帳面さ》 、《快活さ》を挙げている。また、ドイツ人の業績として、ラテン語の影響を 克服し、固有の発展を遂げた《文化言語》としての《ドイツ語》 、《詩人的素質》 、《建築技術》 、 《音 楽的創造》、《学問的業績》、 《技術》そして《教育》を挙げている。そして、こうしたドイツ人の 特性や業績は、ヒトラーの指導の下、将来いっそう確実になるであろうことが期待されている。 しかし、こうしたドイツの発展を阻害する要因がある。それは、シュタルクによれば《フランス 人とポーランド人》という外的要因であり、 《ユダヤ人》 、ドイツに党派性という分裂をもたらした 《カ トリック教会》、そして《倫理的な頽廃》という国内的要因である。政治的にはボルシェヴィズムと ワイマール共和国における中央党と社会民主党が挙げられている。 シュタルクによれば、こうしたドイツ発展の阻害要因を取り除き、ドイツの危機を救済できるの が、ヒトラーとナチ党である。とりわけヒトラーは、 「現在、選ばれた人々の助けを借りて、ドイツ 民族を国家的に教育することに従事している」。そして、その国家的な教育とは、次の世代に「ド 《民族共同体という イツを統一するための国家意識」を植え付けることである。より具体的には、 感情》、《国家的倫理への意志と社会的志操性》などを涵養することである。 こうした国家的教育の目標に基づき、学校および教員は、 《国家意識の発達》 、 《国民的連帯感の発 。そ 3 達》 、そして《ドイツ的民族共同体へ奉仕する意志の喚起》 、という つの課題を与えられる して、 「学校を帝国のものとし、教員を帝国支配下に置くことが、外的な形式において、また精神的 な作用において、ドイツ民族の国家的統合の締めくくりとなるであろう」 (傍点筆者)。こ こに端的に、一元的な国家支配を実現するためには、宗派的、党派的、地域的に分断された学校お よび教員を一元的に帝国支配下に置くべきであるとするシュタルクの構想が示されていると言えよ う。 シュタルクにおける教員養成論 、 『ナチズムと教員養成』(1931 『国民教育』とほぼ同時期に「アドルフ・ヒトラーの同意を得て」 年) が公刊されている。この書物は、ドイツにおける教員養成をナチの支配下に置くためのプロパ ― ― 7 科学・ナチズム・教育 ガンダ的書物と言える。しかし、すでに指摘したように、 と およびベリングは、こ の書物がナチの教員養成方針が定まる1934年まで、事実上ナチの教員養成を規定した、としている。 この書物は、以下の 章から構成されている。 4 序章 ヒトラーの教育観 Ⅰ 教員養成問題についての原則的見解 Ⅱ 国民学校教師を大学で養成することの必要性 Ⅲ 国民学校教師を大学で養成することをめぐる闘い シュタルクによれば、ナチにとって最も重要な学校教育の課題は、子どもを《国家意識》 、《社会 的志操性》に向けて、宗教的、身体的、精神的な教育を行うことにある。しかし、とりわけカトリッ ク地域の学校においては宗派的教育に重きが置かれ、教員養成もまた大学においてではなく、宗派 的な教員養成アカデミーにおいて行われている。しかもこうした宗派別教育は宗教政党によって支 持されているため、改革は困難な状況にある。シュタルクは、国家教育を実現するためには、まず 宗派性や党派性を超えた教員養成こそが喫緊の課題と考え、さらにナチこそがこうした教員養成を 可能にするとしている。 シュタルクの言うナチ的教員養成制度の趣旨は以下の通りである。 ラントによって異なる教員養成制度を廃止し、既存の大学において教員養成を行う。プロイ センなど一部のラントにおいて創設された教育アカデミーは、既存の大学の学問的水準に到達 しないので、既存の大学に吸収合併する。大学において教員養成を行うことにより、教員養成 は《科学性》 と並び、 《自由》と《多面性》という大学教育の つの重要 2 な特性を獲得できるからである。しかし、工科大学を含むすべての既存の大学において教育学 部を創設するわけではない。それは関係者の協議を経て決定されるべき事柄であるとされる。 大学において教員養成を行うことにより、国民学校教師の社会的、経済的地位が他のアカデ ミックな職業と同等レベルにまで向上する。これにより、優秀な人材が教職に就く可能性が開 かれる。 既存の大学に教育学部を創設する。哲学部において教員養成を行った場合、科目等の関わり で哲学部の肥大化を招き、学部の円滑な運営が困難になる。それゆえ、事実上不可能であるし、 また責任上、実行し得ない。教育学部を創設すれば、既存の学部に対する過剰な負担は回避で きる。 もっとも、大学での教員養成論、また教育学部新設論は、シュタルクも認めているようにナチ的 大学改革の一環であり、党派性と宗派性を超え、ナチが国民教育を一元的に掌握するための一提 言に過ぎなかったと言えよう。その議論のキーワードである《科学性》 《自由》 《多面性》も、むし ろ党派性、宗派性に対する闘争的なスローガンであったと解釈することもできる。 シュタルクの教員養成改革論は、ワイマール末期における教員養成の実態を考慮するとき、実現 困難であったろうし、混乱を招く議論に他ならなかったであろう。またその後のナチの教員養成政 策は朝令暮改であり、シュタルクの構想が実現されることはなかったと考えてよいであろう。 ― ― 8 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年) 2 シュタルクの教育に関する議論は、基本的にヒトラーおよびナチの政策に沿うものであり、歴史 的、哲学的、社会科学的教養は欠落した議論であった。クリークにおける思想史的な粉飾も、ボイ ムラーにおける哲学的な粉飾も見られない。彼らの議論と比較すると、シュタルクの教育論は反ユ ダヤ主義を前面に打ち出し、ヒトラーおよびナチを金科玉条のように振りかざす、むき出しのプロ パガンダであった。おそらく、1930年代に矢継ぎ早に公刊されるシュタルクの社会政策的著作は、 彼がナチの力を借りて公職に復帰することには役立ったことであろう。しかし、人間性の解放を目 指してきた近代教育学の伝統からみれば、価値の乏しい議論と言わざるをえない。 シュタルクとC.H.ベッカー 4 国民教育論にせよ教員養成論にせよ、シュタルクはそれらの基本線を描いているに過ぎず、緻密 な理論的構築を行っているわけではない。それゆえ、ワイマール期における教育論、あるいは教員 養成制度の改革と相俟って湧き上がった教員養成論との対比を試みることには困難が伴う。しかし、 たとえば は、ナチ時代の教員養成論として、制度的改革を求めるシュタルクの教員 養成論と内容的改革を求めるクリークの教員養成論を対比して論じている。ここでは敢えて、類 似したモティーフから教員養成改革を論じたカール・ハインリヒ・ベッカー( 1876-1933)との比較検討を試みたい。 周知のように、ベッカーはオリエント研究者であり、ワイマール時代にはプロイセンの文相とし て高等教育改革に尽力した人物である。教員養成問題については、 「教員養成の方途を既存大学の改 革に求めながらも挫折を余儀なくされ」、教育アカデミーを創設することになる。しかし「挫折」 によって誕生した教育アカデミーは結果的に、守旧的な大学に代わる新たな大学の可能性を提示す ることができ、またヘルバルト主義教育学に代わる教育学、新たな教授=学習モデルを示すことが できた。 ベッカーにおいて国民学校教師は、ワイマール共和国建設のための「国民の教育者」と位置づけ られている。つまり、国民学校教師は政治的役割を担わされていた。 こうしたベッカーの教員養成論に見られる国民学校教師養成の昇格、また国民学校教師に負わさ れた役割などを表面的に眺めるならば、シュタルクの教員養成論に類似性を見出すことができる。 また、ベッカーの場合、教員養成論を含む一連の大学改革構想の根底には、ベッカー独自の文化 政策論があった。ベッカーの文化政策論は、第一次世界大戦後、 「詩人と思想家の国」から「悪徳商 人とストライキの国から」へと堕落したドイツを文化国家として再生させること、 「連邦分立主義、 、国民意識の統合を目指すもので 宗派的分裂、さらには職業的社会的階層を越えた国民的な統一」 ある。そのさいベッカーによれば、 《ドイツ民族性》の保護が課題となる。 「教育の中心に国民的な 思想があるべきならば、我々はことに民族、その特性、そしてドイツ的本質を愛さなければならな い。正確には、何にもましてそれを愛さなければならない」と言う。 こうしたベッカーの保守的な思考―伝統を媒介とした統一的な国家意識の形成とそれによる国 家の再建―も、シュタルクの思考に類似している。むろん、ベッカーの議論はシュタルクほど感 ― ― 9 科学・ナチズム・教育 情的でも、ショーヴィニスティックでもない。両者の相違は、ベッカーがワイマール体制を必ずし も積極的ではないが受容しており(理性的共和主義) 、これに対してシュタルクは全面的に否定して いる点に求められる。そしてこの相違によって、ベッカーの教育アカデミーの構想は、対馬・佐藤の 指摘するように、・ライヒヴァインに継承され、ナチ支配下にあってもなお自由な教育実践の可能 性を生み出す原点となりえた。これに対して、シュタルクの議論は、結局ナチ的イデオロギーの プロパガンダにしかなりえなかった。 なお時系列的に考えるならば、保守的であるが同時にリベラリストであったベッカーの保守的な 側面がシュタルクに、リアリストとしての側面がライヒヴァインに継承されたと言えるのではなか ろうか。 おわりに 5 冒頭にフレーゲの二面性について紹介したように、シュタルクの場合も、もっとも価値判断から 遠くに位置づく物理学がイデオロギーと急進的に結びついた恰好の事例であろう。その政治社会論 においては、いわゆる科学的な思考形式は適用されず、論証抜きにナチのプロパガンダが繰り返さ れている。こうしたシュタルクの議論がナチ支配下の教育に与えた影響についてが、検証すること はできない。しかし、ノーベル賞の権威によって刊行された一連の著作の影響力は少なくなかった と推測できるし、またおそらくその政治的社会的影響力は、精神科学的教育学を中心とするナイー ブな講壇教育学の影響力を凌ぐものであったに違いない。 人間形成を個性の自由な展開ととらえるならば、シュタルクには人間形成論は存在しなかった。 彼の議論は国民を《国家》へと統合する近代国家における近代教育の完成形態、逆さまにしたユー トピア的教育構想と解釈することができる。こうしたシュタルクの教育論に対して―あるいは いっそう広くクリーク、ボイムラー、ギーゼなどに代表されるナチ的教育学に対して―、既存の 教育学はどのような形で対峙しようとしたのか。管見の限りシュタルクの議論に正面から対峙しよ うとしたドイツの教育学は見あたらない。 ベッカーは1933年にこの世を去るが、彼のように表 面的にはシュタルクと類似した議論を展開しながらも、微妙なバランスでノンコンフォーミズムを 貫き、体制の論理にとらわれない自由な教育実践の余地を残した議論は、1930年代のドイツにおい て希有な例であったと言えよう。 【註】 こ の ほ か、 ― ― 10 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年) 2 など。 とくに を 参照。また、 ベリング、望田・対馬・黒田訳『歴史のなかの教師たち−ドイツ教員社会史−』、ミネルヴァ書房、 1987年。とくに165頁を参照。 言うまでもなく、アインシュタインについては数多くの伝記が出版されているが、たとえば を参照。 1 プレヒト教授による1907年 月11日付けの書類。 また たとえば、 たとえば、 141-144 保 守 革 命 論 に つ い て は、 また、清水禎文「エルンスト・クリークの初期思想形成」、東北大学教育学部『研究集録』24号、1993年。 なお、巻頭言は1931年である。 ベリング、前掲書、165-173頁。 ― ― 11 科学・ナチズム・教育 対馬達雄・佐藤史浩「 ベッカーと ライヒヴァイン −教育アカデミーの創設構想とその受容をめぐって−」、 『教育学研究』57巻 号、1990年、108頁。また佐藤史浩の一連のベッカー研究を参照。 1 佐藤史浩「 ベッカーの文化政策論」、宮城学院女子大学『研究論文集』98号、2003年、21頁。なお、ベッカー の 文 化 政 策 論 に つ い て は、 を参照。 対馬・佐藤、前掲論文。 ― ― 12 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 号(2006年) 2 : ( ) ― ― 13 科学・ナチズム・教育 ― ― 14