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Page 1 Page 2 当館では、毎年「文書館の逸品展」として特定の家文書を
測 11 1■ ■開館時間 午前9時 30分 ∼午後 5時 ■場所 徳島県立文書館 2階 │■ 休館 日 ■展示解説 展示室 毎週月曜 日(月 曜 日が祝 日の場合その翌 日) 毎月第 3木 曜 日 2月 14日 (日 ),3月 13日 (日 ) ご あ い さつ 当館では、毎年 「文書館の逸品展」 として特定の家文書を取り上げた展示を開催 して い ま す 。 今 回 は 、「古 文 書 の 語 る神 山 の 歴 史 」 と題 して 、 庄 屋 の 家 に遺 され た 古 文 書 を と ξ籠 frlЁ 梶 L訛 に i乱鯨肥ミ 素 バ多 II瑠 驚仄 Zttfζ ttll露 ]辱1ヨ ピ 管 T繁 神 社 や 四国霊場 十 二 番 札所 焼 山 寺 ヾ あ ります 。町 内 には、古 い創 建 を有す る上 か ら信 仰 さ らに は南 北 朝 時代 に書 写 され た大般 若 経 を所 蔵 す る勧 善 寺 な どが あ り、古 く :堪 ]急 を集めた地域でもありました。│の 地域は、中世には「大粟山」 と呼ばれましたが、江 :LI(12月 蛮 t彎 倉 層 F垂浴 ご 語 Ъ テ 亀 魃 冨 ↑ 冨 │ス │を │、 ま [fttL 、 ど ltlk■a長 下 分 に分 立 )。 ぁセ め た 償 粟 試農 家 及 び 神 領 村 庄 屋 の 大 粟 家 に伝 え られ た の庄 を務 屋 上 上 分 本 展 で は 、 山村 「 か ら見 た新 「 古 文 書 に 基 づ い て 展示 内容 を構 成 しま した 。 庄 屋 文 書 か ら見 る村 」、 山村 ・ し しい 時代 」、「産 業」等 の 項 目の も とに、中 間部 に展 開 した 村政 や 村 び との 生業 暮 ら 、 の動 き を紹 介 し の 幕 末維 新 期 の 新 た な事 態 へ の 対 応 な ど、近 世 か ら近 代 にか け て 村社 会 ます。 の歴 史 と の 江 戸 時 代 、 全 国 には 6万 を超 え る村 が 存 在 しま した 。 それ ぞれ 村 に は固有 の を明 ら 生活 文 化 が あ り、個性 に彩 られ た地 域 社 会 を形 成 して い ま した 。 これ ら村 歴 史 え か に して 、 そ こか らさま ざま な知 見 を得 る こ とは 、 これ か らの 地 方膚1生 の あ り方 を考 て い く上 で t大 変意義 深 い こ とと思 われ ます。 に歴 史 資 料 を後 世 今 回 の展 示 が地 域徳 島 の 豊 か な歴 史 と文 化 を伝 え る場 とな り、 同時 に残 して い く こ との 大切 さを考 え る機 会 とな る こ とを願 つて い ます 。 英 男様 な 最 後 に な ります が 、 貴重 な資料 を ご寄託 い た だ き ま した粟 飯原 啓 史様 、大粟 し上 げ ます 。 らび に開催 に当 た りご協 力 い た だ きま した神 山町教 育委員 会 に厚 くお礼 申 平成 28年 1月 26日 徳 島県 立 文 書 館 長 下 山 神 山 の 地 誌 「大 粟 雑 志 稿 」 大粟 山 と呼 ばれ て い た現在 の神 山 町域 で あ る名 西郡 山分 に 関す る 地誌 で 、原 本 は、神 領 村 中津名 の 名 西 山分 7か 村 組 要 墓 曇 岸 新 左 9 可 幣∬l蝸 [富 ][ い 村武 田貞蔵 が写 し、神 領 村 の 大粟 太 郎兵衛 が 所 蔵 して た。 写本 で は あ るが (現 在 、原 本 の 伝 来 は不 明 )、 神 山町域 の歴 史 地名 ・ 史 料 ・ 民俗 ・ 伝 承 等 を網 羅 した 貴 重 な歴 史 資 料 で あ る。 -2- , 知 之 江 戸 時 代 の 神 山 と粟 飯 原 家 ・ 大 粟 家 鮎 喰川 中 上 流 の 山間部 に広 が る現在 の 神 山町 一 帯 は 平安 時代 か ら大 粟 山 と呼 ば れ 、長 講 堂 領 (皇 室 領 )一 宮 が 設 定 され て い た 。 天 正 13年 (1585)、 阿 波 に 蜂 須賀 氏 が 本 国 す る と他 の 山間部 と同様 に 、 そ の 支 配 に抵 抗す る土 豪 層 に よ る大 粟 山一 揆 が 発 生 してい る。 江 戸 時代 には広 野 :阿 川 ・ 鬼籠 野・ 神 領 ・ 左 右 内・ 上 山村 下分 ・ 上 山村 上 分 の 7村 が あ り、全 て 藩 の 御 蔵 地 (直 轄 地 )と な っ て い る。 各 村 は 複 数 の 名 に 分 か れ てお り、 これ は 山間部 特 有 の 制度 とな って い る。 この 地 域 は 山 が ち で 水 田は鮎 喰川 沿 い な どに 限 られ て ぉ り、 畠地 に 麦 ・ 粟 ・ 芋 類 な どが栽 培 され 、林 業や 紙 ・ 藍 ・ 煙 草 ・ 黍 な どの生 産 が 地域 の 生活 を支 え ごま てい た 。 ま た 、神領 村 の 次 郎銅 山や 阿川 村 の 持 部鋼 山な どの 阿 波 国 を 代表 す る銅 山 も江 戸 時代 に は 開発 され て い た : 江 戸 時代 後期 にな る と、 さま ざま な社 会変動 の 動 きが この 地 域 に も押 しよせ て きて い 2年 (1819)に は 、藩 が 賦 課す る 諸役 の 割付 に対 す る不 満 か ら上 山 ζ螢ゎ声 政 騒 動 (馬 割 騒 動 )が 発 生 。 明治 6年 (1873)に は t明 治 政 府 が 推 し進 め る地 租 改 正 作 業 に 対 す る反発 か ら弥 十 郎騒 動 が 発 生 して い る 。 1 さ尻 :難 暦署 鯨EEE彙 皇黒こ こFttη 露麓ク昌Ь[‖ ]奮 誓貨 :糞 ]]よIIttl籍 り、最初 の阿波国一 官であ った可能性 も指摘 され てい る神 社 である。 また 、左右 内村 には四国霊場十 二番札所 の焼 山寺 が、阿川村 には至徳 4年 (1387)か ら嘉慶 3 年(1389)に 書写された大般若経 (県 指定文ィ ヒ財)を 所蔵する勧善寺などの古刹も あ る。 上 山村 上 分 の粟飯原 家 は同家 の 成 立 書 な どに よる と、大粟 山一 揆 の 鎮圧 に功績 が あ り組 頭庄屋 な ども務 め た上 山村下分 の粟 飯原家 の分家 であ る。江戸時代 の は じめか ら上 分 の行政 を担 当 してい たが 、延宝 3年 (1675)に 上 山 村 が正 式 に分 村 し た とき に上 分 の 庄屋 とな ってい る。 神 領 村 の 大粟 家 はは じめ佐 々 木 を称 して お り、天 明 7年 (1787)に 神 領 村 の 取 立 役 (年 貢 徴 収役 )に 就任 。 寛 政 12年 (1800)か らは庄 屋 を 兼 帯 し、 嘉 永 6年 に大 粟 に改姓 して い る。 今 回 の 展示 は この 粟 飯 原 家 と大 粟 家 に 遺 され て い た 古文 書 を通 して 、江 戸 時 代 か ら明治 時代 は じめ にか けて の 神 山 の歴 史 を紹 介 す る も の で あ る。 ' … 3- ′庄 屋 文 書 か ら見 る 村 年貢 の徴 収 をは じめ として庄屋 の職務 は広範 囲 にわた つていた。 ここでは遺 さ れた古文書 か らそ の一 端 を紹介 してみ よ う。 証 (庄 屋廃 止 による帳簿 引継 の件 )オ オア00021‐21 他 立 天 明 7年 (1787)、 大粟家 (当 時 は佐 々木家 )は 神領村 の年貢徴収 を担 当す る取 役 に就任 す るが、 この時 に前任者 か ら検地帳 な ど業務 に必要 な帳簿 128冊 と証 文 2通 の 文書 を引き継 いでい る。寛政 12年 (1800)、 大粟家 は神領 村 の庄屋 を兼 帯す る こ とにな るが、 この時 に前任者 か らは徳 島藩 にお ける農村支配 の基本台帳 で あ る棟付 帳 な ど帳簿 46冊 、巻 物 4谷 、証 文類 316通 を引き継 いでい る。 この400点 余 の が純粋 に庄屋 として の業務 に必要 な文書 で 、 この 引継 は組頭庄屋岸新 左 衛 門 指 示 に よ つ て 行 わ れ て い る。 くみが しら 明治 4年 (1871)、 庄屋 が廃 止 され 、村 の行 政 め 責任者 として与 頭 が 設置 され ・ た。 これ に ともな い 、大粟家 は与頭 に就任 した佐伯恒太 郎 に対 して棟付 帳 検 地 帳な ど合計221冊 め帳簿 を引 き継 いでい る。 江戸時代 の行政 は文書主義 を原 則 と してお り、庄屋 が 作成・ 保 管す る文書 は膨 大 な量 に の ぼ つていた 。 大粟 家 に遺 され て い た文書 引継 目録 はそ の よ うな庄屋 文 書 の全容 を示す貴重 な記録 とい え る。 名西郡 上 山村 上 分御 土蔵御普 請 仕様 帖 アイハ01031 ハ01030 アイ 1E藩 よ り御建置 地所建物取調 書付控 上 山村 上 分 には年貢米や 飢饉対 策 の 囲米、棟 付帳 ・ 検 地帳 な どの 重要文書 を納 めぞ いた公 用 の御 上蔵 (郷 蔵 )が あ つた 。 この御 土蔵 は上 山村 上 分 の正式 な分 立 の 以前 か ら存在 してお り、 たびた び破損 と再建 を繰 り返 して きた。 ここにあげた は、庄屋 の粟 飯原権 左 衛 門 が再建 の た めに文政 4年 (1821)に 作成 した詳細 な仕様 書兼経費 見積書 であるL再 建 費 用銀 2貫 余 の うち約 3割 を藩 が 負 担 し、残 りは村 の 「百姓共 自力」 とな つてい る。 再建 工事 は翌 々年 に行 われ るが、 この御 土蔵 も 嘉永元 年 (1848)に は洪水 に よ り大 破 して しま う: この 時 も藩 と村 が 経費 を分 担 し、 庄屋 粟飯原 家 屋 敷 の 隣 に 御 土 蔵 は 再 建 され る 。 明 治 5年 (1872)、 県 は 旧藩 以 来 め 建 造 物 の 詳 細 な報 告 を 指 示 す る が 、 上 山村 上 分 か らは この御 土蔵 が 報 告 の 対象 とな つてい る。 明治 の 初 めか ら、粟飯 原 家 は御 土蔵 の払 い 下 げを 申請 して い たが 、明 治 22年 (1889)に 当 時rの 金 1円 で 同家 に払 い 下 げ 粟 飯 原 家 土蔵 (蜂 須 賀 家 の 卍紋 ) られ て い る。 -4- 神 山 の 産 物 (紙 と藍 ) 神 山では、江戸時代 、下分 上 山村・ 神領村付近 の 比 較的 広い盆地 を 中心 に新 田 開発 が進 展 した。 また鮎 喰川 に よ り徳 島 の街 に直結 してお り、林産 物 (材 木 0薪 ・ 炭 q肥 料 (下 草等 )0木 地 物・ 紙 )や 、椎茸 0茶 ・ 藍 ・ 鮎 な ど鮎 喰川 の水産物 等、 多 くの産 品があ っ た。 また 、次郎銅 山 とい う県内有 数 の銅 鉱 山 もあ り、江戸初期 か ら銅 の産 出 が あ っ た。 ◎紙 の生産 と専売制 紙 の 生産 は 、慶長 13年 (1608)の 検地帳 には梶 (カ ジノ キ :若 い枝 の皮 は紙 の原 料 )の 記載 が 上 山・ 神 領 ・ 鬼籠野分 にあ り、江戸 初 期 か ら行 われ てい た。元 和 2 年 (1616)に 寺島古町 (後 の紙屋町 、現在 の徳 島市 T番 町 近 )に 国産紙類販売 の免 許 が与 え られ 、紙漉人 か ら全て の紙 を紙方 役所 に集 め/Ak定 価格 で 買 い 取 り、免許 を持 3替 問屋 に蓼 売す る専売が行 われ た。専売制 は徐 々 に強ま り、宝永 3年 (1706) に紙 猪 奉行 が 置 か れ紙 漉人 を登録制 とし、 寛政 6年 (1794)に 紙椿奉行 が廃 止 さ れ紙方 代官 が 置 かれ た。「大粟雑 志 稿 」 に !ま 元文年 間まで神領 村 に紙 御役所 が置 かれ た と書 かれ て い る。 粟飯原家文書 には 、嘉永 4年 (1851)紙 方代 官 黒部 所 左 衛 門・ 庄 野太郎兵衛 か ら、 上 山村 上 分 の 粟 飯 原 直 介 に送 られ た通 達 が 2通 あ る。 12月 20日 の 文書 (ア ィハ 00965)は 、近年猪売買 に仲 買人 が入 り、椿作人 が猪木 を担保 に前借 りを行 い 経営 が 成 り立 た な くな り、椿 の 出荷 が 減少 し、.紙 漉 人 の 経 営 も成 り立 た な い 。 そ こで 、仲 買 を 禁 止 し、 上 分 の粟飯原 庄 太 夫 らを 山分 椿 調役 とす る格 売 買 の 統 制 強化 を す る通 達 で あ る。 12月 24日 の 文書 (ア イハ00966)で は 、 阿波 国 内 で猪 の 作柄 を調 査 した ところ今 年 は 良 か つ た ので 、紙 値 段 を ■厘 下 げ る と決 めた が 、そ の 後 実 際 に 紙 を漉 く と生 産 量 が 少 な い と報告 が あ つ た た め値 段 を昨 年 同様 とす る とい う通 達 で あ る。 紙 は 、猪 作 0紙 漉 ・ 販 売 ま で 藩 の 「乍 恐奉願 上 覚」 嘉 永 4年 アイハ00966 強 い統 制 下 に あ っ た。 fti‐ ◎ 山藍 藍 作 は 、元 文 5年 (1740)の 「御 国 中藍 作見 分記 録 」 に よれ ば神 山町域 の 7か 村 も含 まれ てお り、比 較 的早 く栽 培 され ていた 。 粟 飯 原 家 文 書 の染葉藍 に 関す る文書 (ア イハ 00968)は 、安政 3年 (1856)に 藍方 代官 所 が名 西 郡 の組 頭 庄屋 に 出 した も ので 、 国 内 の藍 作 が盛 ん な状 況 下で 、 山分 の村 々 か ら出 た染 葉 藍 の 中 で染 め色 が悪 い 粗 悪 品 が 出回 つてい る と聞 き、 そ う した こ とが な い よ うに とい う通達 で あ る。 -5- 庄 屋 に 伝 え られ た 幕 末 の 社 会 状 況 「泰 平 の 眠 りを覚 ます 上 喜 撲 た つた 四 は い で 夜 もねむれ ず 」 これ は 幕 末 の ペ リー 来航 に よる江 戸社 会 の 混乱ぶ りを紹 介 した 有名 な狂 歌 で あ るが 、 この 開国前 後 の 混 乱 ぶ りは遠 く離 れ た神 山 の 庄屋 へ も届 け られ た 。粟 飯原 家 文 書 (ア イハ01001) に は 、「嘉 永 六 丑 年 六 月 二 日ノ夜 相 州 浦 賀 江 異 国船 四 艘 渡 来 濱 口江 碇 卸 候 」「御 家 様 御 人 数 ―― 鉄 胞 洲 ・ 佃 島江 出 ル 左 之通 」 と嘉 永 6年 (1853)6月 ペ リー が 来 航 し、徳 島藩 は 江戸 の 佃 島 の警 固 を命 ぜ られ 、徳 島 か ら警 固 の た めに赴 く藩 士 ・ 人 夫 の様 子 が 詳 細 に記 され て い る。 また万 延 元年 (1860)11月 頃 の 江戸 の 状 況 を知 らせ る書 状 (ア イハ01002)に は 、大 老 井伊 直弼殺 害後 の 混乱 した 社会 の 様 子 が 克 明 に 記 され て い る。 そ こ には、新 た にプ ロィ セ ン (現 ドイ ツ)が 横 浜 に入 港 し条約締 結 を求 め て い る こ とや 、清 国 とのア ロー 戦争 に勝利 したイ ギ リスの 軍艦 4隻 が入 港 し新 た な要 求 を掲 げ威 嚇 を行 つて い る こ とな ど諸外 国 の圧 為森 紹 介 され て い る。 ま た物 価 高 で 社 会不安 が 高 ま るなか 、老 中安藤 信 正 、久世 広 周 らの警備 が一段 と 強 化 され た こ や 、異 国人 襲撃 水 戸 の浪 士 が深 関 わ つ て い る噂 と に く な どが 報 告 され て い る。 江 戸 で 見 聞 き した 混 乱 の 様 子 が す ぐ さま神 山 ま で 届 く な ど庶 民 の 情 報 収 集 の素 早 さに 驚 か され る 。 「御用醍醐御殿御触」 アイ,01066 安政2年 3月 -方 、幕府 の 政 ハ 策 も 「御 用 醍 醐御殿御 触」 (ア イ 01066)か らそ の一 端 が 窺 い 知 る こ とが で き る。 安 政 2年 (1855)3月 醍醐 寺 か ら末 寺 で あ る新 蔵 院 に送 られ た御 触 には 、 当時寺社 奉 行 の安 藤 信 正 が 諸外 国 の 脅威 が 増 す なか 、海 防 な どのた めに全 国 の 寺院 に 対 し梵 鐘 供 出 を命 じ、新 た に 銃砲 :銃 弾製 造 を行 うこ とが示 され て い る。 梵鐘 な ど金 属 供 出 を命 じ、銃 砲 ・ 銃 弾 に鋳造 しなお す こ とは 、第 二 次世界 大戦 時 に も行 われ た が 、 同様 の こ とが 幕 末 に も行 われ よ うと して い た事 態 に驚 か され る。 また 「醍 醐 御 殿 御 触 状 之写 」 (ア イ今01067)は 嘉 永 6年 (1853)12月 、醍醐 寺 三 宝 院 門跡 が 、諸 外 国 の退 散 と我 が 国 の 天 下泰 平 ・ 武 運長 久 を願 い 祈祷 を行 うた め末流 の一 同 に対 し 参 勤 を要 請 した 文書類 で あ る。 世 上 不穏 な この 時 期 の 宗教界 の 動 き を知 る上 で 貴 重 な資 料 で あ るが 、 同時 に この 行 為 を通 じて一 門 の者 か ら資金 集 め をす る寺 院 の した た か な姿 を見 る こ とが で き る。 この よ うに 、 庄屋 ′ 粟 飯原 家 は江 戸 の 状況 を始 め様 々 な情報 を入 手 し、 時 局 に 対 応 しつ つ 、幕末 動乱社 会 の 村 政 を行 つてい た とい え よ う。 -6- 粟飯原 太郎兵衛 の見た弥十 郎騒動 明治 6年 (1873)、 政府 が進 め る地租 改正 作 業 な どに反 対す る弥十 郎騒動 が起 き た 。 この 騒 動 に つ い て 、 大 正 4年 (1915)に 粟 飯 原 太 郎 兵 衛 (与 一 )が 封 筒 の 中袋 4枚 を開 き、そ の 表裏 に書 き付 け て い る。この 騒動 め 時、嘉永 3年 (1850) 生 まれ の 太 郎 兵 衛 は 23才 の 青年 で あ つ た。 なぜ 、 42年 を経 た この 時期 に、太郎 「 兵 衛 は この 書 付 を作成 しよ う と した の か 。 太 郎兵衛 が 言 うには 、 動 揺 ノ始 末 書 ハ 、 明治 十 五 ・ 六 年 ノ頃 、神領 村 警察 分署 ノ報告探 聞書 」 と して作成 され た が 、 内で る ゝ ゃ 1店認父炉〕T亀 ?tB裸 盆鴻翼ず謬ll様 隠 鮒 瑞 :憎 警 ノ鱒 太郎兵衛 は弥十 郎騒動 を 「暴 挙」 とし、 そ の 原 因 を 「地券 発行 ニ ア ウ」 と して い る。近 世 で は、土 地 は検 地時 の名負 人 に権在ちが あ り、 そ の 控人 の 家 が絶 えた 場合等 には、 名 中 で協議 し、 全員 納得 の上 で新 しい保 有者 を決 めて い た が 、 明治政府 け 、現在 耕 作 亀こ訂 す る者 に響 券 を発 行 しよ うと してい る。「斯 成候 テ ハ 、貧 民 ノ立 所 ナ シ 」 と言総 ヽ さ らに 「攣 兵 ヲ掛 ケ血税 ヲ絞 ル ト云事モ 偲 ナキ事ナリ」と穐言つていたと い う。 しか し、太 郎 兵衛 は 、「久 敷 徳 川 政 治 ニ ナ レ タ ル 旧慣 ナ レバ 、 山 間簡 素 ノ人 民共 ハ 、政 令 ノ不 服 ナ キ ニ ア ラ ス 、 弥 十 郎 ノ云 分 理 ナ キ ニ ア ラサ ル モ 、 大政 ノ向 フ虎 ヲ知 ラサ ル ハ 愚 卜云 . ン外 ナ シ」 と結論づ けてい る。 「 この太郎兵衛 が、弥十郎騒動 の 報告探聞書」 で問 用1828 題にしたのは次 の点である。 (弥十郎事件顛末書、下書)ア イ (1)当 時 の上分では、「上分上山村御庄屋粟飯原治太郎」ではなく、「上分上 山村用掛粟 飯原′ 「蔵」である。職名と人名が正確でない。 (2)本 根 川名 杉 内米 蔵 を場 な りに、西光 寺 で弥十 郎 を捕 縛 したが 、 そ こで 放 した理 由を 「数 人願 出 二 付 、其 乞 ヲ 容 し厳 戒加 ヘ テ返 シ タ リ」 とあるが 、実 は 「弥 十 郎 ヲ返 スベ キ憤 、沈 ニ ア ラザル 也 、衆寡難 敵」 で あ つて 、県 が 民衆 の力 に屈 したか らであ る。 (3)そ の後、殿宮・府殿・樫平 0本 根川等各名の民衆で 300人 余になつたが、離反する 者 も多かったも最終的に弥十郎・弥平を除いて門屋名 で捕縛 され、下分上 山村西光寺 に引き出され一応 の決着をみる。稲 田復衛を隊長 とする旧士族で編成 された鎮圧隊が 「上 山村へ出張ハ、鎮定後 ノ事」である。「士族五十余名、隊 ヲ作 リテ、只、山名 へ示 威 ノ為巡回セシノミ」であり「旧士族い行 (偉 業)セ サル事ハ明カナ リ」 とい う。 (1)の ず さんな記述もさることながら、 (2)(3)の よ うな虚偽が晩年の太郎兵衛 に筆 をとらせたのではないか。彼 にとつて、弥十郎騒動は 「愚」であつたが、「事実」を曲げ ることは、それ以上の 「愚」であつたのであろう。 -7- 展 示資料 一 覧 No. 題 表 年 代 備 考 庄屋 文書 か ら見る村 阿波御 国 図 (名 西郡図) 名西郡 図 (分 間図) 名西郡上山村 上分絵図 (分 間図) 名西郡 上 山村上分江畠絵図 名西郡神領村北部絵 図 (分 間図) 神領 上 山両村組合新用水絵 図控 今度棟附就御改先祖成 立 申上控 1 2 3 4 5 6 7 8 日暦 覚 (舅 孝養 に付き一人扶持下付 の件) 名西郡 上 山村 上分御 土蔵御普請仕様帖 覚 (書 状、行キ加勢夫 の件 ) 仕 上ル書附之 覚 (行キ庄屋宅詰めの件 ) 9 〔 元禄 期 ) 'サエ00023 文化9年 (1812) ヽ ヤシ00001 (文 化期 ) カミ ヤ00001 嘉永元年 (1848) (文 化期 ) カミ ヤ00002 オオア00004 オオア00006 アイハ01131 安政6年 (1859) 文政 3年 (1820) 天保 13年 (1842) 文化 10年 (1813) 神 山町教育委員会蔵 アイハ01137 アイハ01031 文政4年 (1821) 宝暦 6年 (1756) オオア00021006 宝暦 7年 (1756) オオア00021024 嘉永 7年 (1854) 安政 2年 (1855) 慶応4年 (1868) アイハ01067 17 醍醐御殿御触状 之写 御用醍醐御殿御触 (海 防用銃砲製造 のため梵鐘供出の件 ) 申上覚(御 用金上納 の件、他) 証 (庄 屋廃 上による帳簿 引継 の件) 旧藩 より御建置地所建物取調書付控 18 大粟神 社改正請願 井考 証 明治 8年 (1875) 10 12 │か 山利 13 14 15 16 ら見た新しい時代 明治 4年 (1871) 明治 5年 (1872) アイハ01066 アイハ00984 ホオア00021021 アイハ01030 材 ア00081 神LL の産 物 (紙 と藍 ) 19 20 0´ 22 23 南北猪 出来新 日 (通 達、山分猪調役 申付廻状 ) 南北猪 出来 目 (通 達、廻状紙値段変更 の件 ) 乍恐奉願 上 覚 (紙 漉人年貢、下中折紙 にて代納願 ) 山分染葉藍 (通 達、山分不正 の染葉藍 の件藍方代官所廻状 ) 廣野村 (通 達、藍種売買 の件 ) 嘉永4年 (1851) 嘉永4年 (1851) 麹 如 年 (1855) 安政3年 (1856) (近 世 ) アイハ00965 アイハ00966 アイハ00964 アイ/N00968 アヘケ00039 庄屋 に伝 えられ た幕 末 の 社 会 状況 24 25 26 行列 写) 、お固め人数 。 御書付 写 (異 国船渡 来 に付き御用番出府役人 へ仰 せ聞かせ 書 ) 愛許世 上向 (異 国船来訪二付き江戸 の状況 、風評報告 ) (異 国船浦賀来航 に健 K64「 (1853) 許 刀 アイハ01001 アイハ00999 万延元年 (1860) アイハ01002 アイハ01005 アイハ01109 アイハ01827-01830 嘉永 6年 (1853) 上山騒動 (馬 割騒動 )と 弥十郎騒 動 27 申上覚 28 29 覚 文政 3年 (1820) 文政4年 (1821) 弥十郎事件 の顛末書下書 大正 4年 (1915) 大粟雑 志稿と大粟太郎兵衛 30 31 32 33 大粟雑志稿 御尋 二付 申伝 之手運 申上書写 (次 郎銅 山の件 ) 神領阿川 両村境極書物ノ覚 御尋 二付 申伝之手運 申上書写 (次 郎銅 山の件 ) め 明治 31年 (1898) 明治 21年 (1888) 文化6年 (1806) 安政4年 (1857) オオア00011 オオア00003 オオア00021007 アイハ01080 が替わることがあります 「 古 文 書 が 語 る神 山 の 歴 史 」 ☆担 当職員による展示解説 (文 書館 2階 講座室・展示室 ) 日時 :2月 14日 (日 )・ 3月 13日 (日 )午 後 1時 半より 平成28年 1月 26日 発行 編集・発行 徳 島県立文書館