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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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17世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
齊藤, 栄一
明治学院大学藝術学研究 = Meiji Gakuin University
Art Studies, 24: 17-23
2014-07-10
http://hdl.handle.net/10723/2260
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
17
十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
ポンペイに代表されるような古代ローマの壁画において、リアルな
世界を再現するためのイリュージョニズムを担保するために、影ある
齊
藤
栄
一
光が差してくる方向やそれが生み出す影の落とし方に、恣意的な表現
キリスト教化されて以降、長いあいだ絵画の世界において影は等閑視
よって光が礼拝堂の西の方角から差していることが示されているが、
を右に、南側に配置されたものはその影を左に落としており、それに
そのルネッタに登場する人物たちが、北側に配置されたものはその影
たとえば、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画において、
や主観性が含み込まれてはならなかった。
されてきた。理由は明白である。九割九分の美術作品が宗教美術となっ
これなどはひとつの典型的な例であろう。
いは陰影はなくてはならない要素であったが、そののちヨーロッパが
た中世ヨーロッパにおいて、聖なる世界、超越的な世界をあらわすの
(1)
に、現実世界のなまなましさと直接につながる影はむしろ無用なもの
あるいは、ジョヴァンニ・ダ・パオロの「エジプトへの逃避」(一
のに、前景の聖家族には影がないという面白い表現がみられるが、こ
だったからである。中世ヨーロッパ絵画においてごく少数のきまぐれ
れもストイキツァが指摘しているように、聖家族に中世絵画の聖なる
四三六年、シエナ国立絵画館)において、遠景に広がる自然風景のな
しかし、やがて時代がたつにつれて、ヨーロッパ絵画の世界におい
かにとけこんでいる農民たちはたしかに地表にその影を落としている
て二つの要素が影の表現をあと押ししてゆくようになる。すなわち、
世界における二次元性が与えられているのだとすれば、遠景の影を持
な例外をのぞけば、リアリズムと直接的につながる形での影はみごと
パトロネージの世俗化という外因と、画家たち自身のリアリズムの探
つ農民たちは、たしかな肉体性を持つ現実の存在としてのリアリティ
なまでに影をひそめていたのであった。
求という内因である。ジョットによって種がまかれ、マサッチョによっ
をその影によって与えられているのである。
十七世紀にはいると、陰影あるいは影は、「光があたっていない部分」
ところが、ルネサンス絵画がその最盛期をむかえた十六世紀もすぎ、
パ絵画における不文律だったのである。
の関係にあるというのが、十五世紀から十六世紀にかけてのヨーロッ
どちらにせよ、影とはそれを投げかける存在のリアリティと不可分
(2)
て成育された陰影を駆使するリアリズムは、いわゆるルネサンス絵画
とはいえ、陰影はあくまで表現対象の立体性を担保するためのもの
において重要な表現上の武器となってゆく。
であり、光のあたり方の多寡によって表面上のみかけの彩色の違いが
生みだすイリュージョニスティックな立体感の演出のために役立つと
いう以上の役割がもとめられているわけではなかった。またそのさい、
という消極的な役割ばかりではなく、作品の表現上においてむしろ重
のものである。
るが、いっぽうで衣服に見られる高度なリアリズムはスルバラン特有
れなかった興味深い表現の可能性を開いていったことを、いくつかの
本論は、十七世紀ヨーロッパ絵画において、影がそれまでにはみら
画面の右端には彼が後ろの壁とおぼしきものに落とす影が見える。当
してみたい。強い光がグレゴリウスにあてられていることをうけて、
ここで我々は、スルバランがこの作品にほどこした影の処理に着目
(5)
要な役回りをさえ演じるようになってくる。
作例にあたりながら指摘する試みである。
然のことだが、影が見えるためには、影が落ちていない部分は影の部
一六六四年)が故郷リエレーナからふたたびセビリヤに出てきた一六
十七世紀前半のセビリヤ派を代表する画家スルバラン(一五九八―
顔に近い部分ほど明るさが増している。つまり光のあたり方が自然で
ず、その明るい部分において明るさが均等ではなく、グレゴリウスの
らされている。ところが、ここで奇妙なことがふたつおきている。ま
左半身の輪郭線と彼が落とす影とのあいだに見える壁はほの明るく照
分に対してより明るくなければならない。じっさい、グレゴリウスの
二六年に、ドミニコ会系のサンパブロ修道院と四〇〇〇レアルで計二
はない。また、この壁の部分を照らす光の源が、グレゴリウスの落と
○
一人の聖人像を描く契約をかわし、これは実際に実行された。うちわ
す影が語るようにむかって左のほうにあるとするなら、画家の左側に
○
けは、教皇グレゴリウス一世、ヒエロニムス、アンブロジウス、アウ
見える、つまりグレゴリウスの右半身の後ろにある壁もまた、その反
○
グスティヌスの三人の教父、ならびに十七人の聖人であった。これら
ろが、画面左半分に見える壁面は右半分のそれにくらべて不自然なほ
(3)
のほとんどは失われたかひどい損傷をこうむったが、「聖グレゴリウ
対側のそれと同じような明るさで見えるのでなければならない。とこ
強い明暗の対比と写実性の高い人体表現は、おそらく宮廷画家となっ
(4)
ス」(図1)は良い状態で残っている。
どに暗い。しかも、そのふたつの不自然さは、この作品を眼にした瞬
古典的なたたずまいは得られたかもしれないが、ある種の平板さにお
をすべてくまなく明るく描いていたとしたらどうだろう。作品として
すべてが闇の中に埋もれている。もしスルバランがグレゴリウスの顔
目鼻立ちがくっきり見えているのにたいして、左半分はそのほとんど
をこわしているのが彼の顔である。その右半分には強い光が当たり、
ズをとって立っているグレゴリウスにあって、唯一はげしく左右対称
この疑問を解くカギはグレゴリウスの顔にある。ほぼ左右対称のポー
ころに感じることができなかったのだろうか。
だろうか。そして、なぜ我々はその不自然さを、作品を見るやたちど
ちのものだ。なぜスルバランはこのようにも不自然な影を導入したの
ているうちに、もしくは他者によって指摘されてはじめて気がつくた
間にたちどころに認識されるといったものではなく、相当時間ながめ
てマドリッドへ上京する前のベラスケスの初期のスタイルの影響であ
図 1 スルバラン作「聖グレゴリウス」
162627年,セビリヤ美術館
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十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
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高まることになった。しかし、顔面の左右をまったく違う明るさであ
く変えることによって、グレゴリウスという存在の迫真性はにわかに
ちいることになったであろう。ところが、顔の左右の明るさをまった
重要な問題を提起してくれる作品でもある。
バリャドリード」(図2)は、影という観点から見たときにきわめて
ちにマネに大きな影響を残したことでも知られる「道化師パブロ・デ・
して道化師を描いた作品をいくつか残しているが、そのなかでも、の
かった時代にあって、宮中の人々の無聊を慰めるのに大いに活躍して
はなくてはならない存在であり、いまとはちがって極端に娯楽の少な
なぜか日本の宮中には存在しなかった道化師はヨーロッパの宮廷に
(6)
らわしておきながら、その背景の明るさを一様なものとしてしまえば、
そのことはただちに観者の気付くところとなるだろう。そこでスルバ
画面は全体としてアンバランスなものにとどまってしまうだろうし、
ランは顔面の明るい方の背景を暗くし、暗い方のそれを明るくするこ
かした直後とおぼしい姿が見事なまでに活写されている。肖像画とし
いた。ここでも道化師パブロがたった今面白いことを言ったかやった
かねてよりさまざまなところで指摘されているとおり、見るという
ては一見なんの変哲もないこの作品を「革命的な肖像画」と呼べると
とによって、画面全体の明暗のバランスを維持したのである。
行為はじつに能動的かつ積極的な行為であるが、とくに芸術作品に接
したら、そのよって来たるところは何だろうか。
見る眼」は無意識のうちにその不自然さを見ようとはせず、より完成
て作品の完成度が高められていると判断されるばあい、我々の「絵を
識されるものが、絵画作品にあっては、その不自然さのゆえにかえっ
る。したがって、現実世界においてはたちどころに不自然なものと認
現実世界を見るチャンネルから絵画作品を見るそれへと変換されてい
にいだきながら作品に接する。そのとき、我々の眼のチャンネルは、
より良い絵を見たい、より完成度の高い絵を見たいという願望をつね
壁との境界線がないことに気付き、そのことによって不安を憶えるわ
させてゆく。しかし、それと同時に我々はその絵画空間のなかに床と
ロにひきこまれてゆき、彼の顔の表情や体のしぐさにのみ関心を集中
我々はこの作品を眼にするなり、この作品の主体である道化師パブ
の床と壁、およびその両者の境界線がいっさい描かれていないからだ。
ぜなら、パブロのいる空間が室内であるとすればそこに存在するはず
すくなくとも我々のいる日常空間の延長上にある空間にはいない。な
どこされている。そもそもパブロは我々の前にある空間にはいない。
るだけのように見えるこの作品において、じつは驚くべき仕掛けがほ
なんの気なしに見ているかぎり、我々の前に一人の人間が立ってい
(7)
するときにその性格は強まる。我々は絵画作品を観るとき、自らが
度の高くなった作品を楽しむことに専念する。簡単に言えば、現実世
「絵を見ている」という状態にあることを強く意識している。そして、
界における自然さと絵画の世界におけるそれとは必ずしも一致しない。
けではない。なぜか。ここでもその問いを解くカギは影である。
道化師パブロの両脚から画面右にむかって影が落ちている。影が落
いや、それどころか、絵画の世界におけるリアリティはリアリズムを
ちているからにはそこは床であるはずだ。だから、この影はまず我々
否定することによってより高められることさえあるのだ。スルバラン
はそのことをよく分かっていて、それまでは現実の存在感をただ保障
に道化師パブロが我々の眼の前にある床の上に立っていることを示し
リアに見える。つまり、それを可能にするだけの強い光が彼の全身に
師パブロの身体はそのどの部分を見てもこれ以上には望めないほどク
則に照らし合わせてみれば、あきらかにそこから逸脱している。道化
てくれている。ところが、よく見るとこの影は描写のリアリズムの原
○
するだけの機能しか持たなかった影に、このようにも戦略的かつ斬新
○
な役割を与えたのである。
○
スルバランより一歳年下のベラスケスは宮廷画家ならではの画題と
20
十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
くまなくあてられている。とすれば、その強い光はまた彼が床に落と
す影にもまたくっきりとした輪郭を与えているのでなければならない。
しかし、ここに見られる影は、かろうじてそれが影であるという程度
いまここでベラスケスが我々に見せたいのは、道化師パブロがどの
の存在感しか持たされていない。
ような空間にいるかということではない。道化師パブロの生き生きと
した存在感、これこそがベラスケスが我々に伝えたいことなのだ。と
すれば、それをさまたげるものは可能な限り排除されなければならな
い。
ひとたび床と壁との境界を描きこんだが最後、床は床の、壁は壁の
リアリティを獲得せざるをえず、彼が床に落とす影もまた、リアルに
ればその役割を果たし終えているのであり、それ以降もひきつづきそ
描かれた床の上に、くっきりとした輪郭とともにその黒々とした姿を
の存在感を強く示しつづけると、肝心の人物像の存在感を脅かしかね
ここでも、先ほど述べた「眼のチャンネル理論」を応用することが
あらわさざるをえない。そうなってしまうと、たしかに道化師パブロ
できるだろう。ベラスケスが我々に示したかったのは、そしてなによ
がどのような場所にいるかという現状報告としては完全なものになる
存在感のみをできるかぎり純粋にあらわしたいのだ。とすれば、床と
り我々がこの絵の中に見たいのは、いわゆるルネサンス期の画家たち
ない。そこでベラスケスは、道化師パブロがそこに立っているという
壁との境界を取り払ったのだから、影を描くこともいっさいやめてし
が重要視していたミクロコスモスとしての緊密な絵画空間ではない。
ことを最低限示しただけの、文字どおり影の薄い影を描いたのだ。
まえばよさそうなものである。しかし、影さえ描かれていない画面を
空間などどうでもよいのだ。我々が見たいのは一人の道化師が、ある
が、そのぶん道化師パブロの生き生きとした存在感は相対的に引き下
想像すればすぐに分かることだが、そうしてしまうと、無地一色の空
眼で見ればこの影はいかにも不自然きわまりない。しかし、我々の眼
間性をまったく喪失してしまった絵画空間(平面?)を背に、高度に
のチャンネルを絵を見るそれに切り換えてみるならば、この影はこの
いは道化師という職にある一人の人間が我々の眼前で滑稽なことを言っ
ここでベラスケスが我々に与えたがっているのは、道化師パブロが
作品における演出の意図にみごとにかなっているがゆえに、この作品
たりやったりしている、その生き生きとした姿なのだ。そして、それ
眼の前に立っているという感覚であってそれ以上のものではない。そ
世界の中においてはむしろ自然なのである。作品としての完成度が高
立体的なリアリティを持たされた道化師パブロが、まるで宙に浮いて
のことを端的に担保するのが、人が床の上に立ったときに、ある方向
しまっているかのような姿をさらすことになり、ひとつの絵画作品と
から光が当てられれば必ず生じるはずの影を描くという方法である。
いとき、その絵画空間は、現実世界にあっては不自然であるはずのも
を見事なまでに達成しているのがこの影なのである。現実空間を見る
もっとも、その影は、そこに人が立っているということを示しさえす
しての全体性に破綻が生じてしまうことがただちに理解できよう。
げられてしまっただろう。なんとしてもベラスケスは道化師パブロの
図 2 ベラスケス作「道化師パブロ・
デ・バリャドリード」163540
年,プラド美術館,マドリッド
十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
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○
○
のをそうではなく見せてしまう力を持っているのである。
○
レンブラントが、十七世紀オランダ絵画にあって、光をあつかわせ
ればそのたくみさにおいて右に出るものがない画家であることはいま
さらいうまでもないことであるが、光のあつかいかたに長けていると
いうことは、同時に影のあつかいかたにもまた透でているということ
(8)
でもある。それをよくあらわしている作例として、かのケネス・クラー
クをして「ジェームズ一世朝風の演劇の血腥い混乱 」と評せしめた
「眼をつぶされるサムソン」(図3)をあげることができよう。
たしかに、レンブラントの作品としてはかなりの大ぶりな(二三六
×三○二センチ・メートル)のこの作品の前に立った瞬間に、我々は
眼前に展開する出来事の迫真性に引き込まれてしまう。だからといっ
(9)
て、この作品がウェステルマンの言うように「恐ろしいほどテクスト
に忠実だ」というわけではない。作品から判断する限り、サムソンの
髪は画面奥の空間へと逃げ去りつつあるデリラ本人が切ったように描
(
)
かれているが、聖書が語るところによれば、「彼女は膝を枕にサムソ
(
)
なく、デリラの策略にひっかかって酔わされていたことを暗示するも
れているのも、このときサムソンがただ眠気がさして寝入ったのでは
じように、これもまた聖書の記述にはない水差しが画面の左端に置か
うがよりドラマ性が高まるからという理由によるものであろう。おな
誰ともわからぬ男がサムソンの毛を切るよりは、デリラ本人が切るほ
とも、このような表現はレンブラント以前から見られるものであり、
はさみを手にしている姿はテキストと真っ向から対立している。もっ
ンを眠らせ、人を呼んで彼の毛七房をそらせた」のであり、デリラが
とも重要視していたかは、人物群像による構図に端的にあらわれてい
それはともかくとして、レンブラントがこの作品において何をもっ
の潰されつつある眼に収斂するように構成されている。もちろん我々
までもが彼の眼から放射状にのびる線上に置かれている。すべては彼
左の兵士が構える槍も、デリラの身体も、そしてサムソン自身の右脚
さに潰されているサムソンの眼あるいは彼の顔に集中しており、画面
図 3 レンブラント作「眼をつぶされるサムソン」1636年,シュテーデル研究所,フラン
クフルト
る。サムソン本人をのぞくすべての登場人物の視線はどれも、いまま
のなのかもしれない。
うだろう。デリラの身体も、そしてこちらを振り返っている顔面も、
の槍を構える男さながら暗く沈んでいなければならない。ところがど
を受けたところは強烈に輝き、光があたっていないところは、画面左
脚を中空に高くかかげ、画面の対角線上に身体を反転させ、頭部を
その全体が淡い色調で統一されていて、強烈な明暗の対比によって生
の視線もそれにもれない。
我々のほうに投げかけるこのサムソンのポーズは、ルーベンスとスナ
じるはずの鮮烈な存在感が与えられていない。
ここでも前述の言い方をくりかえせば、サムソンの光のあたりかた
イデルスの共作になる「縛られたプロメテウス」(一六一八年、フィ
が自然なものとするならば、デリラの部分における光のありかたはそ
ラデルフィア美術館)に由来するかもしれない。もしそうだとすれば、
その作品においてなによりも特筆すべきことは、肝臓をついばむ鷲の
れとは整合性をもたず、不自然である。しかし、その不自然さは、こ
)
鉤爪がプロメテウスの眼に深く食い込んでいることだ。そして、その
の作品の前に立つすべての観者がたちどころに感じとってしまうよう
(
プロメテウスさながらに眼を潰されつつあるサムソンにはかなり強い
)
(
)
ゆくように見えるということ以上にこのデリラについては語っていな
マでさえ、デリラは大惨事から画面の向こうの明るいところへ逃げて
なものとはいえない。この作品についてかなり詳しく語っているシャー
光があてられているが、その周囲にはその光はほとんどあたらず、画
面の七割方は暗く落とされている。
そもそもこの作品は、総督フレデリック・ヘンドリックからの作品
(
の注文に関して仲介の労を取ってくれた総督秘書のコンスタンス・ハ
くりかえすが、この作品の中心主題が眼を潰されつつあるサムソン
い。
我々の関心をサムソンの悲劇からそらせてしまう可能性のあるものは
の悲劇であることは明白である。したがって、レンブラントとしては、
)
にいる。外からはまばゆいばかりの陽光が照りつけているはずである。
デリラである。彼女はいま、サムソンよりもさらに洞窟の入り口近く
もうかがい知れる。とすると、奇妙なことが起きている箇所がある。
兵士たちが身に付けている武具がその光を強く反射していることから
陽光がとても強いものであることを物語っている。そのことはまた、
このことは、この洞窟のような空間の外からこの場所を照らしている
は相当に強いものであり、またその境界線は非常にはっきりしている。
腕にあって光があたっている部分と影が落ちている部分との明度の差
が、サムソンの右腕のうえにその影を投げかけている。サムソンの右
サムソンの右腕ごしにサムソンの眼を一突きにしている兵士の頭部
ソンの眼を潰すという暴力行為に直接たずさわっているわけではない。
なのである。この出来事のきっかけをつくった存在ではあるが、サム
ン物語の悲劇的なひとコマであることを表示するいわば記号的な存在
いるのであり、兵士たちと同等の脇役にすぎない。この作品がサムソ
男がほかならぬサムソンであることを示した段階でその役目を終えて
れたサムソンの頭髪とを持つことによって、ここで眼を潰されている
この作品におけるデリラはその両手にはさみとそれによって切り取ら
のそれのあいだを行ったり来たりしてしまうことになるかもしれない。
をさまたげてしまうかもしれない。我々の眼がサムソンの顔とデリラ
にその存在感を増してしまい、我々の視線がサムソンへと収斂するの
の対比をほどこしたとしよう。そのとたんに、デリラはいまある以上
デリラの身体や顔面においてもサムソンにおけるのと同等の強い明暗
とすれば、このときデリラは強い光を受けて、サムソン以上にその光
ことがうかがえる。
極力排除しなければならない。もし、現実世界でそうであるように、
れましては、この作品をある程度の距離から見ることができるよう、
ときにレンブラントからハイヘンスに送られた手紙には「閣下におか
イヘンスへの感謝のしるしとして贈られたと考えられているが、その
強い光のあたるところにお掛け下さい」という一文が見える。このこ
(
とからも、レンブラントがこの作品において光の効果を重視していた
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十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
十七世紀ヨーロッパ絵画の新しい影
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だからその彩色において、明暗の差の少ない、したがって存在感がい
あろう。
かった新しい可能性を探究してもいたのだということが見えてくるで
○
( ) 上村清雄他『フレスコ画の身体学
システィーナ礼拝堂の表象空間』
ありな書房、二○一二年、一七六頁。
( ) ストイキツァ、Ⅴ・Ⅰ・『影の歴史』岡田温司他訳、平凡社、二○○
八年、五九頁以下。
( )『西洋の美術』展カタログ、国立西洋美術館、一九八七年、カタログ
ナンバー七七。
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London,1991,pp.
161.
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165.
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,2003,p.
71.
( ) Br
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,p.
172
( ) クラーク、K・『レンブラントとイタリア・ルネサンス』尾崎彰宏他
訳、法政大学出版局、一九九二年、三一頁。
( ) ウェステルマン、M・『レンブラント』高橋達史訳、岩波書店、二○
○五年、一二八頁。
( )「士師記」一六章一九節(『聖書』新共同訳)、日本聖書協会、一九八
七、八八年。
( )『大レンブラント』展カタログ、京都国立博物館、二○○二年、一○
○頁。
( ) Schama,S.
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k,London,1999/2000,p.
421.
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1987,S.
130.
( ) Whi
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,London,1984/1992,p.
60.
( ) Schama,op.c
i
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.
,p.
422.
注
たずらに大きくならないような処置がほどこされているのだ。この悲
劇における暴力性という点では、直接それにかかわる兵士たちのほう
がその比重はあきらかに大きい。それゆえにこそ、デリラに比しては
るかに大きい存在感が、聖書にあってはその名前すら語られていない、
槍を構えて印象的なシルエットを浮かびあがらせている画面左のひと
りの兵士に与えられているのだ。
この作品にあっては、本来あるべきはずの影の不在が、作品全体の
統一的なテーマ、ここでは眼を潰されるサムソンという男の悲劇とい
うそれを、より集中度の高いものにするための効果的な手段として意
識的に用いられている。それによって高められることになったこの作
品の完成度のゆえに、我々はデリラの身体における影の不在に気づく
ことなく、あるいはそれにわずらわされずに、ひとつのすばらしい作
○
品として、この絵画空間を「絵を見るチャンネル」に切り換えた目で
享受するのである。
○
レンブラントはここで取り上げた作品のほかにも、たとえば「十字
架を立てる」(一六三三年頃、アルテ・ピナコテク、ミュンヘン)や
や、あるいは「サスキアの肖像」(一六三四年頃、カッセル美術館)
「十字架降下」(一六三三年、同)のような聖書をテーマにとった作例
のような肖像画においてさえも、
「不自然な影」を導入することによっ
て我々の視線を自分の思いどおりに見事に導いている。
十七世紀絵画といえば、とかく強烈な明暗の対比法であるテネブリ
ズモを用いたいわゆるドラマティックな「バロック絵画」がすぐに思
い浮かぶが、スルバランにせよベラスケスにせよ、そしてレンブラン
トにせよ、たんなる光の欠除した状態という性質を超えたユニークな
表現上の武器として影を用いた作例を見てゆけば、テネブリズモのみ
ならず、陰影表現それ自体において、十七世紀絵画がそれまでにはな
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