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「大竹しのぶのブランチから見えてきたもの」 と題

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「大竹しのぶのブランチから見えてきたもの」 と題
=1
上演翻訳におけるジェンダー意識
小田島 恒志
昨年 2002年)、雑誌『すぼる』の9月号に「大竹しのぶのブランチから見えてきたもの」と題して山口昌
男氏と川本三郎氏による対談が掲載された。目次の紹介文にあるように、 『欲望という名の電車』のブランチ
と『風と共に去りぬ』のスカーレットという二人の女性が共有する背景からアメリカの精神史の一面が浮き彫
りになることを指摘する内容であるが、この対談が独特なのは、単純にテキストから論じ始めているのではな
く、大竹しのぶという一女優の演技が発端になっている点である。常に勝利を志向するアメリカ文化にも南北
戦争の負けた側の意識と文化という側面もあることをあらためて感じさせた、と両氏が見倣すこの舞台は、同
年5月にシアターコクーンで蟻川幸雄の演出で上演されたものである。対談の中で川本氏は、大竹のブランチ
は「今までのヴィヴィアン.リーや杉村春子が演じた『欲望という名の電車』とは全然違」い、 「非常にイノ
セントで傷つきやすいブランチ」で、それによって「初めてあの芝居のおもしろさが分かったというか、ああ、
、1、
これは負けた人間の物語なんだ、ということが鮮明に分か」ったという。
このように文芸雑誌が一女優の演技からテキストにさかのぼって文化論を展開するのは異例のことだが、別
の文芸雑誌『文学界』 (2002年7月号)でも演劇評論家の長谷部浩氏がこの舞台を取り上げ、大竹の演技(と
蛤川の演出)を絶賛している。長谷部氏は「杉村春子のブランチは高貴さ繊細さが身上だった。やがては狂気
に至る悲惨と哀れが強調されていたが、大竹は没落していく一族の最後のひとりとして、したたかさを身につ
けなければならなかった人間として演じている」とし、 「ブランチから神秘のベールを剥ぎ取り、生身の女性
(2)
として描き出した」と指摘する。
上演時、新聞各紙に掲載された劇評を見ても、概ね同じような反応であった。だが、控えめな表現ながら、
(3)
「詩情と陰影にはやや欠けるが-」 (中村桂子氏、読売新聞)、 「早口の話し方に現代的テンポを感じるが-」
(4)
(河野孝氏、日本経済新聞)といった反応に評者が若干の違和感を覚えている節も窺える。実際、 『テアトロ』
2003年1月号の対談を始め、インターネットのWEB上に掲載された個人の劇評や巷で耳にした評判では、賛
否両論、はっきりと意見が分かれ、そのことは、 2002年度の演劇賞として、大竹が朝日舞台芸術賞を『欲望と
いう名の電車』を含むすべての出演作品を対象に受賞したのに対し、読売演劇糞では最優秀女優賞のみならず
大賞を受賞したにもかかわらず、 『欲望という名の電車』が対象外になっていたことに象徴される。
これだけはっきりと賞賛と反感の両極端の反応を演劇評論家からも一般観客からも受けた上演は珍しい。だ
が、総じて言えばこれは、この舞台が多くの観客に「今までと違う」という印象を与えたことを意味している。
もちろん、その原因の多くは大竹の演技と蟻川の演出にある。確かな技術と才能のオリジナリティによって、
日本の観客が従来持っていた『欲望という名の電車』観、あるいはブランチ観、といったものを打ち破ったわ
けだが、もし、単に「今までと違う」ということであるなら、前年に世界初の男性俳優によるブランチで話題
を呼んだ篠井英介主演による公演や、蛤川版の直後に語り手と演じ手を分離させた特殊な上演形態で注目され
たク・ナウカ公演(宮城聴構成・演出、美加理主演)のほうが、はるかに「違う」と言っていい。にもかかわ
らず、蟻川版が特別に従来と「違う」印象を与えた原因の一つとして、これら二作とは別の物理的条件の違い
を挙げることが可能かと思われる。すなわち、翻訳の違いである。そう断言するのは、筆者が翻訳担当の当事
者として、当初からこれまでの舞台上演台本との差別化を意識していたからであり、また、上演後の反応 一
賛否両論の特に否の万 一 が、演技や演出に向けられているように見えながら、実は翻訳に起因するものが
多々あると思い当たるからである。
小論は、筆者の翻訳担当当事者としての特殊な立場を活かして、上演後の反応から見えて来るものを分析、
検証する試みである。と同時に、このように「上演台本の翻訳」といった実際の上演上の条件が、どのように
-382-
(2)
演劇研究の対象として視野に納め得るかを探っていくものである。従って、従来のテキスト研究を主体とした
文学的研究論文とも、演技や演出の「成果」を対象とした演劇評論とも、手続きや論法が異なるものになるこ
とを予め記しておきたい。
筆者が特殊な立場にあるのはそれだけに留まらない。 「従来の」日本の『欲望という名の電車』というとき、
翻訳は一つではない。 1953年の日本初演以来87年までに594回演じられた杉村春子主演の文学座公演では、初
演こそ田島博・山下修訳が用いられたものの、 64年の再演以来、一貫して鳴海四郎訳が使用されたO これは早
川書房刊行の『テネシー・ウィリアムズ戯曲選集』に収録されており、最近でも、 2000年10月に新国立劇場で
上演された栗山民也演出、樋口可南子主演の舞台で、上演台本として使われた。これに対し、 1979年の東恵美
子主演の青年座公演以来、 89年の岸田今日子主演の演劇集団円公演や、 95年の栗原小巻主演のエイコーン主催
の山形公演など、言わば日本を代表する大女優が「杉村春子」に挑戦するような形で上演されてきた多くの舞
台で用いられたのが小田島雄志訳であった。これは新潮文庫に収録されており、先に挙げた篠井英介版とク・
ナウカ版もこれを上演台本として用いている。この他、 84年の水谷良重主演のPARCO公演で用いられた青
井陽治訳など、別の例もないわけではないが、出版されていることによるアクセスの良さから考えられる潜在
的な観客(-読者)も含めれば、従来の『欲望という名の電車』の翻訳は鳴海訳と小田島雄志訳に二分される
と言ってよい。筆者が特殊な立場にあると断ったのは、この後者、小田島雄志が実の父である上に戯曲翻訳実
践の師匠であるという事情による。
いささか論点が私事に堕する嫌いがあるものの、この事実の意味するところは大きい。ノJ、田島雄志は新潮文
(5)
庫の後書きで田島、山下、鳴海ら先訳者の名を挙げ、 「参考にさせていただ」いたと謝辞を述べているが、筆
者の場合、その鳴海訳も含め、とくに直前の例としての小田島雄志訳を「参考」どころか「模範」ないし「見
本」として読み込んでいるからである。極端な言い方をすれば、筆者は普段戯曲の翻訳をする場合、小田島雄
志の訳文や語感をどこか真似している節がある、あるいは、少なくともそう自覚している。にもかかわらず、
今回熔川氏から「新しい訳」を依頼されたため、過剰なまでに意識的にならざるを得なかったわけだが、その
結果筆者が試みたのが、徹底した表現段階での差別化である。すなわち、原文テキストの解釈は先訳者たちの
ものとほぼ全く変わらないのに、日本語で表わす段階で極力意識的に変えているわけである0 -股に、翻訳者
が変われば解釈が変わると思われがちだが、その点でこの新訳は特殊なケースだと言っていい。
これには具体的な説明が必要だろう。第一場、ブランチが登場とともに言う余りにも有名な、象徴的なセリ
フがある。これを比べてみる。
・・・ 「欲望」と言う名の電車に乗って、 「墓場」という電車に乗りかえて、六つElの角でおりるように言わ
(6)
れたのだけど - 「極楽」というところで。 (小田島雄志訳)
- 「欲望」という名の電車に乗って、 「墓場」という電車に乗り換えて、六つ目の角で降りるように言わ
7
れたんだけど
そこが、 「天国」だよって。 (拙訳)
ほぼ、同じスタイルを取りながら、最後の一言だけ表現を変えている。これはブランチが妹ステラの家を訪ね
てきた事実に、 「欲望」の行き着く先は「死」だというこの物語の主題とも言うべき主人公の心象風景を暗示
的に - というより明示的に 一 重ねたセリフであるが、この家の住所がElysianFieldsなのである。こ
れはギリシャ神話における英雄や善人が死後に住む楽土エーリュシオンを意味する地名で、舞台となっている
ニューオリンズに実在する通りの名である。これを日本語に置き換えるとしたら「極楽」がまさにうってつけ
の訳語と考えられ、先行する鳴海訳でもこの語が用いられていた。単に死後の世界を意味するだけではなく、
それが安楽の地であること、キリスト教文化圏から見た異教の響きがあること、など、原語のニュアンスをよ
く伝えている。そして、名セリフとしてあまりにも長く日本の観客が馴染んでいるため、一見、変える必要は
-381-
(3)
ないように思われる。
(8)
だが、馴染んでいない観客にとってどうだろう。同じニュアンスで伝わるだろうか。当然のことながら、こ
うした疑問に答える際、翻訳者はまず自身の感覚に訴える。筆者にとって、 「極楽」という語は異教は異教で
もあまりにも東洋的に響きすぎるように思われる。また、 「死後の」という意味の薄れた、ただの「安楽の地」
とも受け止められ、逆に、死と結びつけるとどうしても仏教を連想させられてしまう。さらに、この語をアメ
リカ南部の町の実在の地名と見倣すのは、かなりの飛躍がある。
こうした違和感は、先訳者たちの言葉の選択-の批判を意味するものではなく、単純に世代の違いによるも
(9)
のと思われる。これまで多くの日本の観客が「極楽」という言葉に、アメリカ人観客がElysianFieldsという
「地名」に感じるものに近い印象を覚えてきたのだろう。だが、筆者と同じ、或いはさらに若い世代には同じ
効果は期待できない。しかし、だからと言って、それに代わる新しい言葉があるわけではない。そこで、筆者
が選んだのは、まず観客にはっきりと「死後の世界」を連想させること、かつ「地獄」のようなネガティヴな
ニュアンスを伴わないこと、という条件で、その結果単純に「天国」にしたわけである。これでは「異教的響
き」は諦めざるを得ないが、逆に「東洋的」という必要以上の含みを排除することができる。また、 「○○と
いうところで降りなさいと言われた」という原文の文法を無視して表記のように表現することによって、今た
どり着いた場所が「天国」なのだと強調し、 「欲望」 - 「墓場」 - 「死後の世界」の図式を明確に印象づけよ
うとも試みた。ここには文法よりも、原文の行末の「!」に込められた発話者の感情を強調したという側面も
10
ある。
だが、象徴的な意味はある程度伝えられても、これが実在の地名なのだと観客にイメージさせる際の「飛躍
感」は「極楽」の場合とあまり変わらない。鳴海訳ではこの「飛躍感」を、これに続くやり取りで媛和しよう
と試みている。筆者はそれを同じ箇所で別の方法で試みた。
ユニス ここだよ、それなら。
ブランチ ここが≪極楽≫ ?
l'.ド
ユニス そう、ここが極楽通りさ。 (鳴海訳)
ユーニス それなら、今、あんたの立ってるとこだよ。
ブランチ ここ?
、し■1
ユーニス そう、 「天国」。エリージャン・フィールド。 (拙訳)
ここにも前提としている観客の世代間の格差が見られる。恐らく、片仮名で記された地名に意味があるという
事実を当たり前のこととしていなかったであろう初期の日本の観客には、拙訳のような「言い直し」は「余計
なお世話」だと響いたことだろう。逆に、ウォール・ストリートを「壁通り」と訳すことがナンセンスだと思
われる現代の日本人にとって、 「極楽通り」は実在の地名というより、商店街か何かの通称のように響いてし
13
まう。原文に対して先訳者たちと同じ解釈をしながら違う表現を試みるというのはこういうことである。
以上、見てきたように、このような差別化の根拠となる「翻訳者自身の感覚」には、世代間格差が大きく影
響しているわけだが、それは何もこの『欲望という名の電車』という戯曲に限ったことではない。古典的作品
と呼ばれる地位にある戯曲を現代の観客に向けて新しく翻訳する際に必ず見られる傾向であり、近年では他な
らぬ小田島雄志によるシェイクスピア作品の全訳という訳業に典型的な例を見てとれる。だが、 『欲望という
名の電車』という戯曲の場合、上演後の反応から、そうした一般的条件を越えたある特別な一面が浮かび上が
って来た。小論の表題に掲げた「ジェンダー意識」の格差である。
日本語 一 特に会話で用いられる日本語 一 には性差がある。翻訳の際、 「わたし」 「おれ」などの人称
表現や「よ」 「わ」などの語尾の選択など、原文にない部分が「翻訳者の感覚」によって決定される。だが、
-380-
0
そうした意識的な性差の感覚だけでなく、無意識に作用する部分もあることを、筆者は上演後のあるひとつの
反応から気付かされた。
先に述べた「表現段階での差別化」の一環として行った筆者の試みの一つに、ステラの姉に対する呼称があ
る。原文や二つの先行訳では、ブランチが訪ねてきたことを知らされ、急いで家に戻って来たステラが、 「ブ
ランチ! 」と叫ぶ。これは、この戯曲の最終場面で、精神を患い医者に連れられて退場する姉を見送る彼女の
涙ながらの「ブランチ!ブランチ! ブランチ!」という叫びと呼応する。だが、筆者はそのまま表記する
ことを蒔跨った。妹が姉を名前で呼ぶのは西洋では当たり前である。と言うより、それが一番自然な呼び方で
ある。従来、翻訳劇ではこれを当たり前のこととして訳されてきた傾向がある。会話自体は日本語に置き換え
られながら、呼称は西洋風のままでも自然なものとして受け容れる暗黙の了解が観客の側にもあったように思
う。だが、現代の日本では、日本人の姉妹でも妹が姉を名前で呼ぶことは必ずしも珍しいこととは言えなくな
って来ている。そうなると、原文では当たり前の呼び方だったものが、日本語会話の中に置かれると特別な意
味あい - ここでは「現代的な姉妹関係」、 「特別仲のいい友だち感覚の姉妹関係」など - を帯びかねな
いという事情が生じてくる。拙訳では、昔ながらの日本式の当たり前の呼び万 一 「お姉さん」 - を採
択することにした。
14)
一昨年、 『プルーフ/証明』というアメリカで2000年に初演されたばかりの現代劇を翻訳した際には、似た
ように成人後別々に暮らしていた姉妹が再会したときの妹から姉への呼称を「お姉ちゃん」にした。このとき
は、妹がまだ十代だった頃に姉が家を出てしまったので、妹にとって姉は昔のまま「お姉ちゃん」と敢えて幼
さを感じさせる呼び方で接するのが自然だろうとの判断からであった。同じようにステラも再会した姉ブラン
チを昔のように呼ぶだろうと考えたのだが、その上で、より正式な「お姉さん」を選んだのは、それによって、
昔の大邸宅での令嬢としての暮し振りが灰めかされるだろうとの狙いがあったからである。
ところが、このような理論武装にも関わらず、上演後人づてにこの呼称の選択に異議を唱えてくる人がいて、
驚いた - 「名前で呼ぶのを避けたかったという意図は分からないでもない。が、それにしたって、 ≪お姉
さん≫ではなく、 ≪姉さん≫とすべきではなかったのか」と。驚いたのは、筆者の頭の中に「姉さん」という
選択肢がまったくなかったからである。この意見がどういう世代のどういう立場の人からのものか分からなか
ったが、女性だったとだけ知らされてさらに驚いた。筆者はほとんど無意識のうちに「姉さん」という選択肢
を外していたわけだが、改めて思い返してみるとそれは、 「翻訳者自身の感覚」として、 「姉」を「姉さん」と
呼ぶのは男言葉だとの認識があったからだ。 「弟」が「姉」を「姉さん」と呼ぶことはあっても、 「妹」はそう
は言わないだろう、という潜入観である。これは単純に翻訳者の生活習慣によって規定されたものだと考えら
れる。育った地方によっても当然差異は生じるだろうが、筆者の場合、実際に「姉」を「姉さん」と呼ぶ女性
を知らない。試しに、三十代から五十代の女性十数人ほどで構成されるカルチャースクールの教室や、大学の
(ユ5)
戯曲翻訳を扱っている二つのクラスで筆者の見解(感覚)を受講者に判断してもらったところ、一人も反対意
見は出なかった。もちろん、リサーチとしては甚だ不十分な数と環境であるため、それで正否が判定されるわ
けではないが、少なくとも筆者と共通の感覚をもつ観客が相当数想定される以上、この呼称の選択は完全な間
違いとは言えないだろう。結局、 「姉さん」とすべきだと主張した人の根拠は分からずじまいだったが、機会
があれば調査してみたい。
だが、もう一つ注目すべき事象がある。先訳者が二人とも、 「ブランチ」という名前とともに「姉さん」と
いう呼称も併用している点である。筆者も含め翻訳者が皆男性であるという共通条件を考慮すると、ここに、
用語選択における性差意識に関しても世代間格差があることが見てとれる。これは一見瑛末な問題のようだが、
実は、 『欲望という名の電車』の翻訳に於いて、さらには上演に対する反応を考える上で、重要な要素だと言
えよう。と言うのも、この格差がこの戯曲の核とも言うべきブランチ・デュボアのキャラクター決定に影響を
及ぼし得るからである。
筆者がステラの口から「お姉さん」と言わせることを選んだときにも、それに対してある人が異議を唱えた
ときにも、アメリカ南部の大農園の令嬢としてどういう日本語を話すのがふさわしいか、という理屈に合わな
-379-
(5)
い前提がそれぞれの念頭にある。そしてそれがブランチのセリフの大半を決定するわけだが、前提が、演じる
側(役者、演出家、訳者)と受ける側(観客、読者、評論家)で食い違うとき、否定的な反応を引き起こすこ
とになる。今回、筆者が意識的に行った差別化は、まさにこの前提に重点を置いたものであった。例えば、第
二場で、ブランチが入浴している間に、スタンリーがステラからその田舎の邸宅ベルレーヴが人手に渡ったと
聞かされた後の場面である。スタンリーはブランチの荷物を引っ掻き回して、権利書か引渡し契約書か何かの
証拠の書類を授そうとする。その後、ブランチが浴室から出てきた後、ステラが席をはずし、スタンリーとブ
ランチの最初の対決の場となる。スタンリーは最初は言葉で書類の所在を追求するものの、一向に筋の通った
返事が得られず、業を煮やしてブランチのトランクを乱暴に押し開ける。それに対しブランチが言う なにを考えてらっしゃるの、いったい? その子供みたいな頭の底にどんな考えがあるっていうの?
私が妹を裏切って、なにかを持ち逃げしてるとでも? 私がやります! そのほうが早いし、かんたん
16
でしょ- (小田島雄志訳)
これを新訳では次のように表現した。
なに考えてんのよ、いったい? その小学生並みの頭で何を思いついたって言うの? わたしが何かを
持ち逃げして、妹を悔してるとでも言いたいの? どいて、わたしがやるわ! その方が早いし、簡単
17)
でしょ- (拙訳)
恐らく、杉山弘氏が「否定的な意見を耳にすることもあった」例として挙げている「ヒロインのブランチが狂
気へと追い立てられていく中で、大竹のせりふが日常会話としてリアルなあまり、南部美人と言われたブラン
(18
チの気品を損なっているのではないかと、気になって仕方がなかった」という指摘は、こういう部分に対して
だと思われる。確かに、こうして並べてみると、先行訳の方が「気品」があるように思われる。もし、これが
南部美人の彼女を迎えにきてくれるはずの空想の中の恋人シェップ・ハントリーを相手にしゃべっているのだ
としたら、当然、そういう言葉遣いになるはずである。
だが、相手はスタンリーである。初めから敵対する存在として、それも動物的なまでに野卑で、下品な存在
として軽蔑しきっている男を相手に、果たして彼女が「なにを考えてらっしゃるの」と敬語で話し掛けられる
だろうか - それもこのような反射的に嫌悪感をみなぎらせて出てくるセリフで。この直前で、浴室から出
てきたブランチは、ステラがその場にいなかったのでスタンリーに背中のボタンを留めさせようと、彼を呼び
19)
入れるのだが、その言い方は"Youmayenter!"と、完全に上から下への物言いなのである。これを先行訳で
20
(21)
は「さ、どうぞこちらへ!」 (鳴海訳)、 「どうぞお入りになって!」 (小田島雄志訳)と、 「気品」を感じさせ
22
る表現になっているが、筆者はむしろ、スタンリーの「王国」に侵入しておきながら彼を見下すブランチのし
23
たたかさを強調すべく、 「さあ、入っていいわよ!」と、いかにも彼女自身が立場をわきまえていないことを
示唆する表現を採用した。この流れでくると、先の引用箇所でも「なにを考えてらっしゃるの」という表現は
出て来なくなる。
ここに、翻訳者の性差感覚における世代間格差の一端が見出せる。すなわち、筆者にとってこれらの「気品」
のある表現は、相手に対する尊敬語としてこの場に相応しくない敬意過剰と映るのにたいして、先訳者たちに
は必ずしも「尊敬」をともなわない、女性の用いる「丁寧語」の範時だったのだろう、ということである。い
ささか下世話な喰えだが、外国人留学生が日本人の生活のモデルとしてよく引き合いに出す漫画『サザエさん』
を見れば、上の世代のフネが夫の波平に対して使う言葉遣いと下の世代のサザエが夫のマスオに対して使うそ
れがあきらかに違うように、日本の女性の男性に対する言葉遣い - あるいはその典型 - は世代によっ
て変わるものである。だが、もし、筆者が自らの感覚に逆らって、敬意過剰と映るのも厭わずブランチに先行
訳と同じ言葉遣いをあてはめていたら、はたしてそれが「南部美人と言われたブランチの気品」を表わすこと
-378-
(6)
になっていたであろうか。
このようなどうどう巡りのような疑問を敢えて持ち出したのも、この公演の際、プログラム掲載用に対談を
行った筆者の同僚にしてアメリカ南部出身者のジェームズ・バーダマン氏の次の発言が重要だと思われるから
である。
-・典型的な南部女性像としては、南部美人(サザンベル)とレディの二種類がある。サザンベルは、 『風
と共に去りぬ』のスカーレット・オハラみたいな女性。ただきれいなだけで、世の中のことにあまり興味
を持たない。自己中心でいいんです。ただ、いつも面白い話題を提供することで、周りにいっぱい男性が
集まってくればいい。レディは経営者として、一家の母として農場を切り盛りできる人。人のために働く
24
のをいとわない。サザンベルを卒業してレディになるのが理想だけれど、ブランチはそうはなれない。
これに従うと、もしブランチが「レディ」だったら、下のものであるスタンリーにも「敬語」を自然に使えた
かもしれないと言えそうだ。だが、彼女は「レディ」になれなかった「南部美人(サザンベル)」であり、し
かもそれすらも途中で挫折しているわけである。もし、彼女に「レディ」の言葉遣いをさせてしまうと、 「南
部美人」であった自己の過去を跳び越えて、 「レディ」になろうとしていた過去の「思い」への執着を表わす
ことになってしまい、狂気の伏線としての幻想の中に生きている印象が強く出過ぎることになる。筆者はその
ような「レディ」を演じるブランチ像を避け、あくまで「南部美人」としての自身のアイデンティティに固執
するブランチを表現しようとした。恐らく、それが伝わった観客には、長谷部氏の言うように「ブランチから
神秘のベールを剥ぎ取り」、川本氏の言うように「非常にイノセントで傷つきやすい」 「負けた人間の物語」と
して映ったのだろう。 「神秘のベール」とは、手の届かなかった「レディ」への幻想と置き換えることもでき
る。逆に、伝わらなかった観客の求めた「南部美人と言われたブランチの気品」もまさにその「ベール」のこ
とで、 「南部美人」ではなく「レディ」を演じるブランチが見たかった、ということになるのではないだろう
25
か。
翻訳者のジェンダー意識に実践者の立場から最初に注目したのは恐らく松岡和子氏であろう。松岡氏は、や
はり現場の要請からシェイクスピアの新訳を試みるうちに、これまでの代表的な翻訳者がほぼ皆男性であり、
(26
自らが女性であることに新しい視点の可能性を感じていったと言う。これは原文の解釈にも関わる大きな問題
で、そういう意味では『欲望という名の電車』も女性が翻訳すればさらに新たな解釈が見えてくるかもしれな
い。だが、筆者のように、先訳者と同じ解釈に立ちながら、表現の段階で新たなジェンダー意識を反映させる
ことで、寧ろ送り手よりも受け争(観客)の側の解釈の多様性が浮き彫りになることが今回の検証で見えてき
た。もし、その受け手の側の解釈が、例えば「ブランチはレディである」という「誤解」を前提にしていると
したら、そうした受け手の舞台全体に対する評価も見直す必要が出てくるだろう。そうなると、翻訳という一
見瑛末に見える上演上の条件を上演後に検証してみることも、全く意味のないことではないように思われる。
注
拙訳に使用した原文テキストはTennessee Williams, A Streetcar Named Desire and Other Plays, (Penguin Books, 1962)
である。また、翻訳の引用は、鳴海四郎訳は『テネシー・ウィリアムズ戯曲集Ⅰ』 (早川書房、昭和52年)、小田島雄志
訳は『欲望という名の電車』 (新潮文庫、昭和63年)、拙訳は出版されていないため、上演台本『欲望という名の電車』
(Bunkamuraシアターコクーン、 2002年)を用いた。鳴海訳は原本としてNewDirections版を用いているため、全体とし
ては違いがあるが、小論では共通部分にのみ言及することにした。小田島雄志訳は拙訳と同じPenguin Books版を原本
としている。
尚、上演史に関しては、 2000年10月の新国立劇場公演(栗山民也演出)のプログラムを参照した。
(1)川本三郎、 「大竹しのぶのブランチから見えてきたもの」、 『すぼる』 9月号(集英社、平成14年)、 97頁。
(2)長谷部浩、 「チェーホフとテネシー・ウィリアムズ、不安と焦燥」、 『文学界』 7月号(文聾春秋社、平成14年)、
-377-
(7)
292頁。
(3)中村桂子、 『読売新聞』 2002年5月22日(夕刊)。
(4)河野孝、 『日本経済新聞』 2002年5月21日(夕刊)0
(5)小田島雄志、前掲書、 220頁。
(6)小田島雄志訳、前掲書、 12頁。なお、原文は 一
・- ¶ley told me to take a streetcar named Desire, and血en transfer to one called Cemeteries and ride six blocks
and get off at - Elysian Fields! (p.117).
さらに、鳴海四郎訳は - 《欲望≫という名の電車に乗って、 ≪墓場≫と書いたのに乗りかえて、六つ日の角でおりるように教わってき
たんですけど - 《極楽≫ というところで。 (前掲書、 18頁)0
(7)拙訳、前掲書、 7頁。
(8)この「極楽」以外にも、例えばスタンリーがポーランド系であることを蔑んで表わす「ポーラック」 (Polack)
という蔑称も、従来は観客の「了解事項」であった。分からなくても、使われ方で分かるだろう、とそのまま使
われていたのだが、こういう言葉も筆者は了解していない側に立ち、 「ポーランドもん」 「ポーランドもの」 「ポ
ーランド野郎」など文脈に沿って訳し分けた。
(9)それぞれの生年は鳴海氏が1917年、小田島雄志が1930年、筆者が1962年。
(10)症(6)の原文参照。さらに、実際の日本語会話を想定してみると、ブランチは妹の住所であるElysianFields
という地名を人に示して道順を開いたのだろうから、 「六つ目の角のElysianFieldsというところで降りなさい」
と言われるより、 「六つ目で降りなさい、そこがElysianFieldsだよ」と言われる方が自然だろう、との判断もあ
>*
(ll)鳴海訳、前掲書、 18頁。なお、原文は EUNICE: That's where you are now.
BR匁NCH: At Elysian Fields?
EUNICE: This here is Elysian Fields, (p.117).
さらに、小田島雄志訳は ユーニス そんならあんたの立ってるところだよ。
ブランチ 「極楽」が?
ユーニス そう、ここが「極楽」さ。 (前掲書、 12頁)。
(12)拙訳、前掲書、 7頁。
(13)注(ll)にあるように、中間世代の小田島雄志訳では既に「極楽通り」に違和感を覚えてこれを避けた節が窺え
る。
(14) proof,DavidAuburn作。 2000年度のビューリツアー賞受賞作。日本初演は2001年5月。
(15)昼間部のクラスは55人、夜間部のクラスは47人履修しており、後者はかなりの割合で社会人学生を含み、世代は
様々である。
(16)小田島雄志訳、前掲書、 50頁。なお、原文は -What in the name of heaven are you thinking of! What's in the back of that little boy's mind of yours? That I am
absconding with something, attempting some kind of treachery on my sister? - Let me do that! It will be faster and
simpler- (op.cit, pp. 138-139.)
さらに、鳴海訳は -一体全体なにを考えてらっしゃるの! まるで子供じゃない!あたしが妹を裏切って、なにかを横取りして
るとでも思ってるの? - あたしがやります!そのほうが早いし簡単よ- (前掲書、 53頁)。
(17)拙訳、前掲書、 50頁。
(18)杉山弘、 「何かが弾けた大竹しのぶ」、 『テアトロ』 3月号(カモミール社、 2003年)、 58頁。但し、杉山氏は「現
代のブランチ」と捉えて、全体としての上演意義は評価している0
(19) A Streetcar Named Desire, op.cit, p.136.
(20)鳴海訳、前掲書、 48頁。
(21)小田島雄志訳、前掲書、 45頁。
(22)第八場で、スタンリーはヒュ-ィ.ロングの言葉を引用して - 「男は誰でも、一国の王様なり!」だ。この家じゃ俺が王様だ- (拙訳、前掲書、 169頁)
と叫んでいる。
(23)拙訳、前掲書、 45頁。
(24)ジェームズ・M・バーダマン、 「開けっぴろげの町で」、 『欲望という名の電車』公演プログラム(東急文化村、
2002年)、 16頁。
(25)しかし、長谷部氏が「大竹しのぶのブランチは(中略)あくまで現在である」、 「南部の大地主の娘であるとか
(中略)過去などは、傍証にすぎない」 (『テアトロ』 3月号、前掲書、 33頁)と言い切るほどには、筆者は過去
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(8)
を無視して訳したつもりはない。例えば、屋敷の名称BelleReveを、 「ベルリーヴ」と英語読みする慣例に逆ら
って、 「ベルレーヴ」とフランス語読みにしてみた。ブランチという英語名でありながら「デュボア」というフ
ランス系の苗字が「デュボイス」と英語読みされないことにあわせて、屋敷の名称も先祖が建てたときにはフラ
ンス語読みだったであろうとの判断からである。アメリカ人もたいてい「ベルリーヴ」と発音するが、それを敢
えて「ベルレ-ヴ」にすることで、過去への思いが一層強調されると思ったのだが、役者がそのように発音して
くれたにもかかわらず、数ある劇評の中で「ベルレ-ヴ」と表記してあったのは『文学界』の長谷部氏の記事だ
けで、あとはみな「ベルリーヴ」であり、どうやらこの試みは失敗であった。
(26)松岡和子、 「全訳という旅の途中」、 『シェイクスピアがわかる』 (朝日新聞社、 1999年) 165-170頁。
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