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ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動

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ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
3 月)183‒193 頁
Kyoto Bulletin of Islamic Area Studies, 8 (March 2015), pp. 183–193
ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
藤井 千晶*
The Islamic Group Uamsho’s Activities
toward the Pursuance of National Sovereignty for Zanzibar
FUJII Chiaki
This paper investigates the activities of Uamsho, an Islamic group in Zanzibar—a semiautonomous region of Tanzania—to determine why they have won public support in recent
years. When Uamsho was registered as an NGO in 2002, their assertions and activities had
mainly religious aspects. In 2010, however, when two major parties in Zanzibar, Chama
cha Mapinduzi (CCM) and Civic United Front (CUF), formed a ruling coalition, some CUF
supporters who were dissatisfied with the coalition joined Uamsho and began lobbying for
national sovereignty for Zanzibar. Moreover, Uamsho had a good opportunity to defend their
assertion because the amended Constitution of Zanzibar stated that Zanzibar was a country,
as did the draft of the Constitution of Tanzania, which is scheduled to be amended in the
near future. The draft also proposes adopting a three-tier government system managed by the
Government of the United Republic of Tanzania, the Revolutionary Government of Zanzibar,
and the Government of Tanganyika. In this situation, Uamsho has contributed to rallying
public opinion in favor of Zanzibar’s sovereignty and has succeeded in establishing the
identities of “Zanzibar” as a country and the “Zanzibari” as the people of Zanzibar.
1. はじめに
本稿の目的は、ザンジバルのイスラーム系組織「ウアムショ(Uamsho)」に焦点を当て、その活動
がなぜ近年活発化してきたのかについてタンザニア連合共和国(以下タンザニア)の政治背景をも
とに考察することである。ザンジバルは国際的にはタンザニアの一部であり、ウングジャ島とペ
ンバ島、さらに十数の小島で構成されている。島の総面積は 2,654 平方キロメートルで、人口は約
130 万人である(2012 年)
[National Bureau of Statistics 2014a]
。また、住民の 99%以上がムスリムで
ある。
ウアムショはスワヒリ語で「覚醒」を意味する。正式名称は Jumuiya ya Uamsho na Mihadhara ya
Kiislam (JUMIKI, Association for Islamic Mobilization and Propagation) であり、イスラーム系 NGO と
して 2002 年に政府に登録された。1980 年代以降、ザンジバルでは多くのアンサール・スンナのグ
ループが組織された[Loimeier 2009: 130]。アンサール・スンナとは、クルアーンとハディースに
立脚し、イスラームを忠実に実践するという思想である[藤井 2010: 110]
。この思想は 1964 年のザ
ンジバル革命後1)、サウディアラビアやスーダンから招聘された教師や、これらの国でイスラーム
学を学んで帰国した学生たちによってもたらされた。彼らは、聖者信仰やタリーカの活動、預言
者生誕祭、イスラーム的伝統医療などを、預言者時代の後に付け加えられたものであると批判し
* 大阪大学大学院言語文化研究科招聘研究員
1)
1963 年 12 月、ザンジバルはジャムシード(Jamshīd bin ʻAbd Allāh bin Khalīfa)を国王としてイギリスからの独立
を果たした。しかし、この王国はアラブ人主体の政党である ZNP(Zanzibar Nationalist Party: ザンジバル国民党)
が実権を握ったため、わずか 1 ヶ月後の 1964 年 1 月、この体制に不満を持つ者たちによってザンジバル革命が
引き起こされた。その際、多くのアラブ系住民が島外に脱出した。
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イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
た[Loimeier 2009: 126]。ウアムショの創設者であるナッソー・バーチュー(Nassor Abdullah Bachu,
1952− )は、1990 年代初めからザンジバルで活動したアンサール・スンナの担い手であり、ザンジ
バルでスーダン人やエジプト人教師からイスラーム学を学んでいる[藤井 2010: 112]
。
先行研究においてウアムショは、特に「テロ行為」を行う暴力的グループとして言及されてきた。
タードマンによると、ウアムショはサウディアラビアの影響を受けた団体であり、アフガニスタン
におけるジハード訓練のビデオやチラシを配布し、イスラーム法の施行を拒否する政治家の殺害を
主張したり、ウアムショの指導者の一人であるアッザン・ハリード・ハムダンが、ザンジバルをイ
スラーム法で統治された島に戻すための計画の一つとして、島内の非ムスリムをイスラームへ改宗
させるため、キリスト教徒の少女を誘拐することを主張したりしてきた[Terdman 2007: 10]
。
また、例えば 2003 年には政府によるデモの禁止やムフティーの任命方法 2)、観光業による西洋
文化の影響の増大に対する抗議デモ、カトリック教会への放火 3)、2004 年にはムフティーの自宅
や警察車両、イギリス人高官が滞在中のバーへの放火などについて、ザンジバル政府は「ムスリ
ムのテロリスト」であるウアムショによる攻撃であるとして非難した[Loimeier 2009: 134; Terdman
2007: 5–6]
。同様の事件はそれ以降も発生し、多くの場合、ウアムショの広報担当者は関与を否定
しているが、このような政府の声明は、ウアムショに対する「テロリスト」や「急進的なイスラーム
組織」というイメージを揺るぎないものにした。
しかしながら、ザンジバル住民がウアムショを政府と同じように捉えていたかは先行研究では明
らかにされていない。ザンジバル住民もまたウアムショを「テロリスト」と捉えていたならば、ウ
アムショが現在のような住民からの多くの支持を得る結果となったかは疑問である。ウアムショの
主張や活動に大きな変化がみられたのは 2010 年頃であり、ウアムショはタンザニア本土からの独
立とイスラーム法による統治を要求し始めた。この時期、ザンジバルでは国民投票による賛成多数
で連立政権が樹立したにも関わらず、新政権に不満を持った住民がウアムショの活動に賛同した
[Gatsiounis 2012: 81]。しかしながら、なぜ政府によって「テロリスト」というレッテルを貼られた
ウアムショを住民たちが選んだのか、ウアムショのどのような主張や活動が住民の支持を得たのか
については、先行研究では明らかにされてこなかった。
そこで本稿では、ウアムショの主張や近年の出版物、ザンジバルやタンザニアの政治的背景を考
察し、ウアムショの活動がなぜザンジバルの人々の支持を獲得し、現在活発に政治的活動をするに
至ったのかについて明らかにする。本稿で暴力的側面だけではないウアムショの理念や活動を紹介
する事は、今後のウアムショ研究や東アフリカのイスラーム運動、タンザニア政治に関する研究の
進展にも繋がると考える。
2.ウアムショについて
2-1.ウアムショの規約内容
最初に、ウアムショがどのような目的や信念を持って設立されたかを明らかにするために、ウア
ムショの規約(Katiba ya Jumuiya ya Uamsho na Mihadhara ya Kiislamu Zanzibar[JUMIKI 2012])を参
照する。本規約はウアムショの理念や目的に加え、入会条件、内部委員会や役職の構成、構成員の
遵守事項、組織の資金源や使途、協会の解散や規約改正の方法などを定めている。本節では、特に
2)
ムフティーは政府によって任命されているが、ウアムショは投票によって選ばれるべきであると主張している
[Terdman 2007: 6]。
3)
ウアムショは、近年のザンジバルにおける本土出身のキリスト教徒の増加に伴う、さらなる教会の建設に抗議
してきた[Gatsiounis 2012: 81]
。
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ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
ウアムショの理念や設立目的に焦点を当てて詳述していく。
ウアムショは、ザンジバルにおける異教徒の増加や宗教的慣習の衰退、道徳規範の喪失、ムスリ
ム同士の連帯や相互扶助関係の希薄化等を問題視している。そして善行を促し、悪行を慎むことを
ムスリムに想起させることが協会設立の目的であると説いている。その目的を果たすため、ウアム
ショはムスリム同士の友愛や連帯、繁栄、栄光、イスラームの尊厳や相続、歴史や特色、教育、文
化の保護について、ムスリムに教育するための講演会を実施するとしている[JUMIKI 2012: 1–3]。
また、社会貢献もウアムショ設立の目的として掲げている。その内容は、困難な状況にあるムス
リムを保護し、人権を守ること、孤児や寡婦・身体の不自由な年輩者・エイズ患者への寄付、イス
ラーム法に基づいた子どもの権利の保護、紛争・災害・エイズ・麻薬等の問題解決に努めることで
ある。これらを達成するため、講演会や勉強会などの開催、書籍や雑誌・新聞記事の執筆、国内外
のムスリムやイスラーム団体との連携、イスラーム的な生活を実践するための教育、慈善活動や環
境の整備に尽力することを掲げている[JUMIKI 2012: 3]。
このように、ウアムショの規約で明記されている組織の主な目的は、ムスリム同士の連帯と相互
扶助の強化、社会貢献であり、イスラームの教義を基礎とした善行を促進するために積極的にイス
ラーム教育を実施することである。
2-2.近年のウアムショの著作内容
次に、2012 年に出版されたウアムショの関連書籍『ザンジバル人と世界の共同体への光̶̶我々
には連合体制を拒否する根本的な原因がある』について詳述する4)。本著の中で「ウアムショ」と
いう言葉は、全 48 ページの中でわずか1度しか登場しない[Suleiman 2012: 25]。その理由は、政
府による出版活動の妨害を避けるためであると考えられる。しかしながら、本書の表紙と背表紙に
はウアムショの最高指導者であるファリード・ハディをはじめとする指導者や支持者たちが、講演
会やデモ活動を実施している写真が掲載されており、本書はザンジバルにおいて「ウアムショの本」
として広く認知されている。
本書の前半 19 ページは「タンガニーカによる植民地主義からのザンジバルの独立を主張する叙
事詩」が占めている5 )。タンガニーカ連合共和国(以下タンガニーカ)とは、ザンジバルと合併する
前のタンザニア本土側の名称である。詩の中では宗教と政治は一つであるべきという見解や、ザン
ジバルが国家として独立することの必要性等が説かれている[Suleiman 2012: 1–19]
。
本書の後半では、引き続き「タンガニーカによる植民地支配の状況からのザンジバルの独立」に
加え、「政教一致」を中心に言及されている。本書での現在のザンジバルの位置づけは「国家」であ
る。ザンジバルとタンガニーカは 1964 年に合併してタンザニアを建国したが、それはあくまで国
と国との連合体制であり、ザンジバルは「国家」である状態を保っている、という立場をとってい
るのである。
本書はタンザニアの現状について、タンザニア本土のザンジバルに対する「植民地体制」である
と主張し、1964 年の連合体制成立の当初から続くタンザニア本土とザンジバルの「不平等な関係」
に対する不満を訴えている。タンザニア本土と合併して以降、ザンジバルは国家としての基本的な
4)
なお、本書の著者はスレイマン・ハッジ(1973– , ザンジバル中南部ンディジャーニ出身)であるが、彼の経歴等
についての記載はなく、不明である。
5)
このスワヒリ語の叙事詩は「utenzi」と呼ばれ、宗教に関する文章を書く際に好まれる文体である。文体は 1 行 8
音節から成り、4 行で 1 連を構成する 。詩の長さは題材や内容、作者によって異なるが、3000 連を越える叙事詩
も存在する[Topan 2001: 108]
。本書の叙事詩は 166 連で構成されている。
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権利を侵害され、困難を強いられてきたと捉えているのである[Suleiman 2012: 21–22]。
また本書は、これまでタンザニア本土が国内外においてザンジバルの権利や道徳規範、尊厳を侵
害してきたが、ザンジバル側は天然資源や観光、外貨収入から、現状よりも多くの利益を受けるに
値する、と指摘している[Suleiman 2012: i–ii]。さらに、ザンジバル独自の通貨、国旗、国連の議
席、ザンジバル人/ザンジバル国としての尊厳、宗教(イスラーム)6)、資源、パスポート、市民権
の獲得を求めている[Suleiman 2012: 32]。
また、政治体制について、イスラームは神が定めた人生の指針であり、人間は神の命令に従わな
ければならないのに対して、民主主義は人間が自分勝手に行動し、神に逆らうものであると論じ、
政教一致を主張している[Suleiman 2012: 21]。これは、既存のタンザニアの政教分離の方針とは異
なり、イスラーム法に則った国家建設を目指すことを意味している。
以上のように近年のウアムショは、タンザニア本土との不平等な連合体制の解消と政教一致の実
現を主張しており、政治的な傾向が強くなっていることがわかる。そして、これらの問題を克服す
るためには、ザンジバルの国家としての主権の獲得が必要であると繰り返し主張しているのである。
3.連合体制と憲法の問題
3-1.タンザニア本土とザンジバルの連合体制
(1)タンガニーカ主導の連合体制
本章では、タンザニア独立以降の歴史について詳述し、ザンジバル側の不満の根源となった政治
的出来事について考察する。タンガニーカはイギリスの信託統治領であったが、1961 年に独立し
た。一方、イギリスの保護領であったザンジバルは、1963 年 12 月に「ザンジバル王国」として独立
したが、1964 年 1 月にザンジバル革命が起こり、新たに「ザンジバル人民共和国」が建国された。
そして 1964 年 4 月、タンガニーカと合併して「タンガニーカ・ザンジバル連合共和国」が建国され、
同年 10 月には国名が現在の「タンザニア連合共和国」に変更された。
ザンジバル革命はちょうどキューバ危機(1962 年)の後に引き起されたため、ザンジバルは「ア
フリカのキューバ」とも呼ばれ、特にアメリカから危険視された。そこでアメリカが、かつてザン
ジバルを保護領としていたイギリスに事態の収拾を求めたため、イギリスはタンガニーカ大統領の
ニエレレにザンジバルと合併して新たに連合国家を建設するように強く働きかけた。これに対して
ニエレレは当初、難色を示していたが、最終的にはイギリスからの圧力に屈して受け入れる形と
なった[Shivji 2008: 72–76, 243]。
ザンジバル革命が起きてわずか 3 ヶ月でタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立した理由
は、ニエレレが半ば強引に進めたからであるとされている。タンガニーカとの合併は、ザンジバル
のカルメ大統領にとっても自身の政治権力を維持するために有益であった[Shivji 2008: 98]。しか
し、連合体制成立に向けての交渉は、ごく限られた関係者によって極秘に進められ、特にザンジバ
ル側においては大統領の側近を初めとした人々でさえも連合体制成立後に初めて知らされた事実で
あったため、その後大きな不満を残すこととなった[Bakari 2000: 136–138]
。
(2)憲法制定の問題点
タンガニーカ・ザンジバル連合共和国の成立後に制定された憲法についても、タンザニア本土側
6)
ここでイスラームについて言及されている理由は、ザンジバルのイスラームが初代タンザニア大統領のジュ
リウス・ニエレレの政策によってキリスト教(カトリック)に取って代わられた、という認識があるためである
[Suleiman 2012: 32]
。
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ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
の一方的な主導で作成された。 1964 年 4 月 26 日付で布告された「タンガニーカ・ザンジバル連合
共和国暫定憲法」は、既存のタンガニーカ共和国憲法を修正する形で作成された。また、この憲法
の作成についてもザンジバル側の議会が関与することはなく、タンガニーカ議会のみによって決定
された[Shivji 2008: 91, 98; 2009: 68–69]。その後、正式に「タンザニア連合共和国憲法」が制定され
たのは、13 年後の 1977 年である。
また、この暫定憲法には「タンガニーカとザンジバルは 1 つの主権共和国に統合された」と記載
されており、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が 1 つの国家であることが明記されている。し
かし同時に、「本憲法は 2 つの立法府と行政府、つまりザンジバルの法律に基づくザンジバルのた
めのものと、連合共和国のためのものに対して規定を作成した」と記されており、2 つの政府の存
在もまた認めているのである。実際、ザンジバルは現在まで独自の自治政府や大統領、議会、憲法
を有している。
なお、1977 年に制定されたタンザニア連合共和国憲法には、1 章 1 節に「タンザニアは 1 つの連
合共和国である」とのみ明記されており、ザンジバルが国家であるという記載はない。また、後述
するように 1984 年に発布されたザンジバル憲法においても、1 章 1 節に「ザンジバルはタンザニア
連合共和国の一部である」と記載されており、2010 年まで変更されることはなかった。このような
ザンジバルが国家であるか否かについての曖昧な規定が、現在までタンザニア国内で議論を引き起
こす一因になっているのである。
さらに、タンザニア連合共和国憲法は①憲法・行政、②外交、③防衛、④警察、⑤国家の非常時
における権限、⑥市民権、⑦入国管理、⑧外国からの借入金、⑨公的サービス、⑩所得税・法人税・
間接税、⑪港湾・民間航空・郵便・電信についての権限は連合共和国にあるとし、ザンジバル単独
による決定を認めないと定めている[Shivji 2008: 94–95]。このような権利の制限は、ザンジバルでは
タンガニーカとの合併以降、2 つの政府によって二重に統治されているという不満に繋がっている。
(3)複数政党制の導入
また、タンザニアは 1977 年以降、一党制をとっており、CCM(Chama cha Mapinduzi: 革命党)の
みが政党として承認されていた7)。しかし、1992 年に複数政党制が導入されると、ザンジバルで
は CUF(Civic United Front: 市民統一戦線)が新たに政党として承認され、ペンバ島を中心に支持を
集めた。その後、CUF は CCM の政策に不満を持つ多くのザンジバル住民からの支持を獲得した。
さらに、多くのペンバ島住民がウングジャ島の都市近郊に移住して商売を営んでいることもあり、
現在ではウングジャ島においても有力な政党に成長している。
複数政党制の導入以降、5 年ごとの 1995 年、2000 年、2005 年に実施された国政選挙において、
2 党は激しく対立し、死傷者も発生するほどの暴動が続いた。これを受けて 2010 年 7 月に実施さ
れた国政選挙では、CCM と CUF の政争を終結させることを目的とした、2 党による連立政権樹立
の是非を問う国民投票がザンジバルで実施された。選挙は大きな問題もなく終了し、約 3 分の 2 の
投票者が連立政権の設立に賛成して承認された8)。2010 年 11 月に連立政権が誕生して以降、ザン
ジバルでは比較的安定した政治運営がなされている。
7)
独立後、タンザニア本土では TANU(Tanzanian African National Union: タンザニア・アフリカ民族同盟)
、ザンジ
バルでは ASP(Afro-Shirazi Party: アフロ・シラズィ党)がそれぞれ一党支配していたが、1977 年に TANU と ASP
が合併して CCM を結成し、 タンザニアは完全に CCM の一党支配に移行した。
8)国民投票は「総選挙後、早急に実施される新しい政治構造(CCM と CUF の連立政権)を承認しますか」と問うもの
であった。結果は、66.4%の投票者が「承認する」と回答した[Matheson 2012: 601]。
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3-2.現在の憲法問題
(1)連合体制についての議論の活発化
1960 年代から 1980 年代初頭にかけて、連合体制の批判はタブー視されており、ザンジバルにお
いてもタンザニア本土においても公然と批判する者はなかった[Bakari 2000: 140]。しかし、1983
年から 1985 年にかけては、政治決定の前に一般からの意見を募ったりザンジバル側が初めて連合
体制の不満を示したりするなど、自由な議論が公然となされ始めた[Shivji 2008: 250]。
1984 年のザンジバル革命 20 周年記念式典では、ザンジバル大統領のジュンベが連合体制につい
ての不満を述べ、ザンジバルの民主主義や 3 政府体制、自治の強化、連合国の事案の縮小を要求し
た[Hotuba ya Warioba 2013: 13–14; Shivji 2008: 250]。3 政府体制とは、ザンジバルとタンザニア本
土のそれぞれに国家としての権限を与え、さらに連合政府をつくって最小限の権限を委ねる形態で
ある。ジュンベは連合体制問題の解決のため、憲法裁判所に訴えることも試みたが、タンザニア憲
法の侵害と見なされて早々に妨害され、最終的には大統領職の辞任とザンジバルからの追放を余儀
なくされた[Bakari 2000: 140–141]9)。
また、1993 年 8 月にはタンザニア本土の国会議員 55 人で構成されたグループが、タンガニーカ
政府の設立を求め、1995 年までに連合政府内にタンガニーカ政府を設立することが一旦決定され
た。しかしながら、後にニエレレ元大統領が介入し、取り消されている[Bakari 2000: 144–145]1 0 )。
(2)連合体制の是非をめぐる現状
それでは、3 政府体制はタンザニアにおいてどの程度浸透しているのであろうか。後述するよう
に、2013 年 12 月にタンザニア連合共和国憲法草案の第 2 版が公表されたが、ダル・エス・サラー
ムにおける草案発表の場で憲法改正委員会の議長であるジョセフ・S・ワリオバが、演説を行って
いる。その内容は『タンザニア連合共和国大統領ジャカヤ・ムリショ・キクウェテ氏とザンジバル
大統領アリー・モハメド・シェイン氏への委員会報告書提出の際の憲法改正委員会議長ジョセフ・
S・ワリオバ氏の演説』として文書化されている[Hotuba ya Warioba 2013]。
ワリオバ率いる憲法改正委員会は憲法草案の作成にあたり、タンザニア国民から広く意見を募っ
た11)。3 政府体制については、タンザニア本土では 39,000 人以上が連合体制についての意見を述
べ、その内の 27,000 人が連合体制の構造について言及した。ザンジバルでは約 38,000 人の回答者
のうち、19,000 人が連合体制の構造について意見を述べた。そして、タンザニア本土ではその内の
61%が 3 政府体制、24%が 2 政府体制、13%が 1 政府体制を支持すると回答した。一方のザンジバ
ルでは、60%が 3 政府体制、34%が 2 政府体制、0.1%が 1 政府体制に賛成すると述べた[Hotuba ya
Warioba 2013: 12–13]。ザンジバル側だけでなくタンザニア本土側においてもまた、60%以上とい
うほぼ同じ割合の人が 3 政府体制を望んでいることがわかる。
また、現在の 2 政府体制(タンザニア連合政府とザンジバル政府)に対するザンジバル側の主な
不満の理由として、タンザニア連合政府がザンジバルよりもタンザニア本土を重視していることが
9)一部のザンジバルの支配者層が、自分たちと敵対する者とジュンベ大統領が組んで都合の良いようにザンジバル
の主権を拡大することを恐れ、本土の与党指導者とともにジュンベの計画を妨害したとされている[Bakari 2000:
140–141]
。
10)ニエレレは 1985 年に大統領職を辞してからも、大きな政治的影響力を持っていた。なお、前述のザンジバルの
ジュンベ大統領の失職と追放についても、革命記念式典に列席していたニエレレの怒りを買ったことが一つの要
因とされている。
11)3 政府体制については 1993 年と 1999 年にもタンザニア本土とザンジバルで世論調査が実施されている[Hotuba
ya Warioba 2013: 14]。しかしながら、3 政府体制の支持者が両地域でわずか 0.13%に留まるなど、あまりにも当時
の実情とかけ離れた結果となったため、データの信憑性は低いと考えられている[Bakari 2000: 144–145]。
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ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
挙げられている。一方のタンザニア本土側のザンジバルに対する不満は、ザンジバルは独立国家
であり、独自の国旗、国家、政府を持ち、独自に憲法改正を実施しているにも関わらず、タンザ
ニア本土は独自の特色を失っていること、タンザニア連合共和国憲法では「タンザニアは 1 つの国
家である」と明記されているにもかかわらず、2010 年に改正されたザンジバル憲法には「2 つの国
家である」と定められていたり、ザンジバル議会がタンザニア議会よりも優位であると明記されて
いたりすること、タンザニア本土の国民はザンジバルの土地を所有する権利を持たないが、ザン
ジバル国民はタンザニア本土の土地を所有することができることなどが挙げられている[Hotuba ya
Warioba 2013: 15]。
(3)憲法改正の動向
以上のようなザンジバル内の政治の安定やタンザニア全体での連合体制についての議論の活発
化といった流れもあり、2010 年 8 月、ザンジバル憲法の改正法案がザンジバル議会で可決された。
そして、既存憲法1章 1 節の「ザンジバルはタンザニア連合共和国の一部である」という記述が、
改正後には「1.ザンジバルは国家であり、ウングジャ島とペンバ島、その 2 島を取り囲む小島の
全地域とその領海で構成されている。その地域とは、タンガニーカとザンジバルとの連合以前、ザ
ンジバル人民共和国と呼ばれていた地域である。2.ザンジバルはタンザニア連合共和国を構成す
る 2 国のうちの 1 国である。」に変更された。ザンジバルは国家であることが、憲法上で初めて明
記されたのである。
一方のタンザニア連合共和国憲法も現在、改正の過渡期を迎えている。なぜなら、ジャカヤ・キ
クウェテ大統領が 2010 年にタンザニアの大統領に再選した際、憲法の改正を公約にしていたため
である。憲法草案は 2013 年に 2 度発表されており、当初は 2014 年までに新しい憲法を制定する予
定であったが、2015 年以降にずれ込む見込みである。
既存のタンザニア連合共和国憲法では、ザンジバルを「タンザニアの一部」と記載していたが、
憲法草案では、第 1 条に「タンザニア連合共和国は国家であり、タンガニーカ共和国とザンジバル
人民共和国の 2 国からなる完全な主権を持つ連合である」という文言に変更されている。
また、憲法改正委員会は、もはや現在のタンザニア政府とザンジバル政府による 2 政府体制の継
続は難しく、タンザニア本土とザンジバルが同等の権利を有し、連合政府は必要最小限の権限のみ
を行使する 3 政府体制が望ましいと結論づけており[Hotuba ya Warioba 2013: 20–21]、憲法草案の
第 60 条には 3 政府体制で政権運営をすることが明記されている。
しかしながら、憲法草案の末尾には第 63 条の「連合に関する事項」の補足として、次の 7 項目を
連合政府の権限であると定めている。それらは①タンザニア連合共和国の憲法と政府、②タンザニ
ア連合共和国の防衛と治安、③市民権と入国管理、④通貨と中央銀行、⑤外交関係、⑥政党の登
録、⑦個人所得税、法人税、関税、連合国内で製造された商品の物品税についてである。
これらの条項の設定は、完全な国家主権を求めるザンジバル住民の理解の獲得を難しくしてい
る。憲法の文面上ではザンジバルを「国家」と定義しながらもこのような条件を設けることは、も
はや実態としては「主権国家」とは言えず、連合政府の表面的なパフォーマンスに過ぎないという
人々の不満に繋がっているのである。
4.ウアムショ活発化の原因分析
4-1.ウアムショと CUF の関係
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イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
前述のように CCM と CUF は 2010 年、連立政権を樹立し、ザンジバルの政治的安定がもたらさ
れた。しかしながら、その後の連立政権による政策は、多くの住民が望むものではなかった。連立
政府は経済的困難を克服するために、ザンジバルをより小さな自治国家にしようとしたが、住民の
中には、政府が他のムスリム国家との経済的な繋がりを奪おうとしていると考える者もいた。さ
らに、ザンジバル住民の多くは OIC(Organisation of Islamic Cooperation: イスラーム協力機構)に加
盟すれば海外からの資金援助が期待できると考えていたが、連立政府はこれを拒否した[Gatsiounis
2012: 81–82]
。
また、筆者の調査協力者の一人は「2010 年の選挙で連立政権が誕生した後、ウアムショの活動が
活発化した。CUF の党員の中にはこれまで敵対関係にあった CCM との連立政権に不満を持つ者達
がいた。CCM との連立に失望した CUF の支持者らが、ウアムショで活動し始めた(36 歳/税関職
員)
」と述べている。
たしかに、ウアムショと CUF の主張は現在の連合体制に対して批判的な立場をとっている点で
一致している。CUF は 1992 年に政党として認可された当初から、3 政府体制採用の必要性を主張
している[Bakari 2000: 141]。現体制について変化を求める点でウアムショと CUF の主張は共通し
ているといえるであろう。
一方の CCM の規約には、3 政府体制については明記されていない。CCM はタンザニアの与党で
あり、表向きには現体制を支持しているが、実際のところ、ザンジバルでもタンザニア本土でも評
判が良くないことを党員ら自身も理解しているため、それについて明確な態度を示していないのが
現状である[Bakari 2000: 141]。
このように、2010 年はザンジバルの政治的安定のため、CCM と CUF が連立政権を組んだことによ
り表面的にはザンジバルは 1 つに団結したが、CUF 支持者のウアムショへの流入がウアムショの思想
や活動に影響を与え、結果としてウアムショが国政に対して政治的意見を主張し始めたと考えられる。
4-2.憲法改正とウアムショ
このようにみると、ザンジバル政府とウアムショは敵対関係にあるようにもおもわれる。政府が
ウアムショに対して公の場での活動を禁止し、妨害を繰り返してきたことは事実である。しかしな
がら、2010 年に改正されたザンジバル憲法において「ザンジバルは国家である」と明記され、政府
自身もザンジバルを国家として認識していることを明確にした。このことから、ザンジバル政府と
ウアムショの連合体制に対する見解は、必ずしも対立しているわけではなく、むしろザンジバルの
国家としての主権を主張する点においては一致しており、反発し合いながらも互いに異なる立場で
ザンジバルの権利を主張してきたといえるであろう。
ウアムショの活動は、いまやザンジバル内の民意をまとめ、先導するには非常に有益なものと
なっており、ザンジバル政府にとっても、もし国家主権の獲得という目標が一致しているウアム
ショを完全に弾圧すれば、自らの首を絞めることになるとともに、多くの民衆からの支持を失い、
批判を受ける結果になってしまうことは明らかである。
また、タンザニア憲法草案に明記された 3 政府体制は、ウアムショをはじめとしたザンジバル側
が求めているような「主権国家」の実現にはほど遠いものの、ザンジバルがタンザニア本土と同等
の権利を得るための第一段階となるであろう。憲法の改正によってその実現の可能性が高まった現
在、ザンジバルの主権獲得を表立って主張するウアムショの活動に、さらなるザンジバル住民の期
待と支持が集まることが予想される。
190
ザンジバルの国家主権獲得をめぐるイスラーム組織ウアムショの活動
4-3.「ザンジバル国/国民」としてのアイデンティティーの確立
以上のような連立政権の樹立による政治の安定や憲法改正をとおして、ザンジバル内の世論は
「国家主権の獲得」に結集し、ザンジバルの「国家」としての、そして「ザンジバル人(Mzanzibari)
」
としてのアイデンティティーを強めてきた。また、ザンジバル住民がタンザニア本土について言及
する場合、「タンガニーカ(Tanganyika)」と呼ぶ場合が近年顕著である。同様に、タンザニア本土
の住民を「タンガニーカ人(Mtanganyika)」と呼び、「ザンジバル人」と明確に区別している。
このような国家や国民としてのザンジバルのアイデンティティーの高まりには、ウアムショによ
る活動も大きく影響している。実際、ウアムショの講演会や出版物において「ザンジバル(国/人)」
や「タンガニーカ(国/人)」という呼称は、ザンジバルの国家主権の獲得やタンザニア本土に対す
る不満を述べる際に効果的に用いられている。その結果、ザンジバル内における出自や民族的な差
異よりも、タンザニア本土とは異なるザンジバルとしてのアイデンティティーが高まり、ウアム
ショは島内の世論を政治面だけではなく、精神面においても団結させることに成功したのである。
5.結論
本稿の目的は、ザンジバルのイスラーム系組織「ウアムショ」の活動がなぜ近年活発化してきた
のかについて考察することであった。その結果、2010 年の CCM と CUF による連立政権の発足に
不満をもった CUF の支持者がウアムショの活動に加わったこと、2010 年に改正されたザンジバル
憲法において、ザンジバルが国家であると明記され、間近に控えるタンザニア憲法の改正において
もザンジバルは国家として承認される見込みであり、ザンジバル住民やウアムショにとってザンジ
バルの国家主権の獲得と現在の連合体制の見直しを求める好機を迎えていること、ウアムショがザ
ンジバルの国家主権についての世論をまとめ、「ザンジバル国」や「ザンジバル人」としてのアイデ
ンティティーの確立に成功していることの 3 点が、ウアムショが近年活発化した原因である、と結
論づけた。
これまでの先行研究では、ウアムショが CCM 率いるザンジバル政府によって「テロリスト」と
いうレッテルを貼られ、互いに対立してきたことが明らかにされていたが、本稿では、最大野党
であった CUF の支持者らが CCM との連立政権樹立に失望した結果、ウアムショへ活動を移し、
CUF の政策と親和性のある主張を掲げて活動を始めたこと、さらに近年ではザンジバル政府とウ
アムショの立場は類似しつつあり、ウアムショの活動は島内の結束を強固なものとし、タンザニア
の国政に影響を与えるまでに至っていることを新たに指摘した。
このような経緯をみてみると、ザンジバルは着実に国家として承認される道を歩んでいるように
みえる。しかしながら、国家として求める主権の範囲がタンザニア本土とザンジバルの間で統一さ
れておらず、表面的なものになりかねないという懸念がザンジバル側には根強く存在する。現段階
で 3 政府体制を掲げたタンザニア連合共和国憲法が発布されたとしても、国家の定義や 3 政府体制
を採用した際の「小さな」連合政府の役割をめぐっての議論を深めて決定しなければ、新たな不満
が双方に生じることとなるであろう。
また、タンザニア連合共和国憲法でザンジバルが国家として承認された場合の具体的な国家運営
について、ザンジバルでは十分に議論されていない。実際、ザンジバルの総面積はタンザニア全体
の約 355 分の 1 に過ぎないうえ、資源も乏しく外貨収入は観光業に依存している12)。このような
12)タンザニアの総面積が 942,800km2 であるのに対し、ザンジバルの総面積は 2,654km2 である[National Bureau of
Statistics 2014a: 1]。
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イスラーム世界研究 第 8 巻(2015 年 3 月)
状況の中で実際に国家として運営するのであれば、政治が安定して世論と政府の意見がほぼ一致し
ている現在、ザンジバル内で具体的な政策を話し合うことは急務であろう。
宗教的活動から政治的活動に大きく転換したウアムショは、当初の理念を現実的な状況を踏まえ
て再考する必要があるであろう。例えば、ウアムショが求めていた当初の国家の政治体制は、イス
ラームを基礎とした政教一致であるが、改正されたザンジバル憲法やタンザニア憲法草案は民主主
義的統治を掲げている。これまでのウアムショの活動は、タンザニア本土に対する不満を根源とし
て、声高に国家としての主権の獲得を主張するに留まっていたが、タンザニア連合共和国憲法で国
家として承認された後、ウアムショとしてどのような立場をとり、現実的な主張を展開していくの
か、より具体的に方針を固める必要性があるであろう。
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