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ジェイムス・R・グリーン 「労働運動とニューディール」

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ジェイムス・R・グリーン 「労働運動とニューディール」
9.ジェイムス.R・グリーン
「労働運動とニューディール」
広瀬和重
【要約】
序
産業別組織会議(CongressoflndustrialOrganization:以下CIO
と略記)の成立によって,それまで未組織であった多くの産業労働者は組織化され,
ワグナー法により大きな勝利を収めた。同法によって組合選挙,団体交渉などを管
理するために全国労働関係局が創設された。さらに社会保障や累進課税といったニ
ューディール諸立法は,長年の社会福祉軽視に終りを告げた。これらの法令はニュ
ーディール連合に加わるための労働者の入口であった。ほとんどの労働運動指導者
は,民主党に加わるために政治的独立性を犠牲にした。左翼の諸党は州・地方選挙
で民主党と闘ったにもかかわらず,ローズペルトが第二期当選を果たすとその第三
政党への熱意は次第に薄れていった。ニューディール連合に加わることで明らかな
収穫があった。では失ったものは何か。民主党内部での活動に対する障壁は,組織
化された労働者が抵抗出来ないことを証明した。労働者の抵抗は党の外で進展して
いた。そういった運動は独立した政治運動の基盤を提供したのだろうか。
ニューディール連合形成以来,大労組は民主党に依存するようになり,そのリー
ダー達は第三政党の要求を生みだすような組合員の反乱に恐れを抱くようになった。
それは1956年一部の州,地方レベルでの民主党員の左傾化を防ぐために,労働者
の無党派連盟(Non-PartisanLeague)が形成された時以来少なくとも問題に
なっていた。1955年それらの勢力はアメリカ労働総同盟(AmericanFederatlon
ofLabor:以下AFLと略記)の総会で全国農民労働者党への尊敬すべき少数派を
勝ちとったが,その努力から何も起きなかった。なぜ全国農民労働者党がそのとき
形成されなかったかを理解することは,今日,労働者階級の有権者が直面している
ジレンマを理解する手助けとなるだろう。
1920年代の遺産
労働運動は大きな負債を抱えて大恐慌にみまわれた。1920年代AFLは不況,
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失業,オープンショップを主張する雇用者などの攻撃によって,およそ200万人
のメンバーを失った。社会党は戦時中の弾圧と1919年の共産主義の高揚によって
崩壊し,共産党は20年代攻撃的なストライキに関与していたが,恐`朧の時にはそ
れはまだ相対的に孤立したセクトだった。
AFLは1924年のラフォーレット(RobertM・LaFollette)上院議員の進歩
的な大統領選を除いて,圧力団体方式の政治参加の古いポリシーを維持し,その影
響力を極端な労働者の政党運動を抑制するために行使した。AFLの全国選挙にお
ける無党派主義はその影響力を制限したので,ローズペルトは1952年の選挙では
事実上組合を無視した。顧みればニューディール期組合は国家の保護に頼り過ぎて
いたのであり,恐'慌時のAFLの無党派主義は弱点であった。
ニューディールの最初の百日間はAFLが反対した保護立法を含む改革の洪水を
まき起こした。全国復興法(tlleNatlonalRecoveryAct:以下NRAと略記)
は7条a項で温和に団体交渉を奨励し,最低賃金や最長労働時間を指摘する法令を
含んでいた。しかし,大企業によるNRA自身の終焉をも可能にしていたのでAF
Lの反対は理解出来た。組織化された労働者は現実的なプログラムを持たず,ニュ
ーディール初期は防衛的であったため,組合は労働,社会立法を広く民主党議員と
ニューディール官僚の手に委ねた。
NRAに対する反抗1955~55
AFLの指導者すべてがNRAの労働者保護能力を無視していたのではなかった。
また常に産業別労組は職能別労組より国家の干渉を求めることに活発であった。例
えば国際婦人服労働組合のデヴィッド・ダピンスキー(DavidDubinsky)と合
同被服労働組合のシドニー・ヒルマン(S1dneyHillman)は彼らの混乱し,抑
圧された工場に国家の規制が必要であると信じる初期社会主義者であった。合同炭
鉱労働組合(UnitedMineWorkers:以下UMWと略記)のジョン.L・ルイス
(JohnL・Lewis)は共和党支持者であるにも拘らずNRAを利用した。三つの
産業労組すべてがNRAと雇用者自身の再編成に伴う混乱を利用した。
しかし,一般的に産業別労働者はNRAで何も得なかったし,しばしば後退を余
儀なくされた。雇用者はNRAを御用組合形成に利用した。左翼は多くの都市で効
果的な失業労働者運動を展開し,その攻撃的戦術はローズペルト政府に直接救済の
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制定を促した。
ヒューイ・ロング(HueyLong)の「富の分配」,アプトン・シンクレア
(UptonSincleir)の「カリフォルニアの貧困の終焉」というような人気のあ
る選挙運動が民主党内ニューディール左派を繰作した。党外では社会主義者がプリ
ッジポート,ミルウォーキーで市長選を,ミネソタではフロイト゛・オルソン
(F1oydOlson)が農民,労働者票で知事選を勝ち取り,幾つかの産業都市では
再び労働者の政党の関心が高まった。社会党が農民・労働者の政党に柔軟な態度を
取ったのに対して共産党はあらゆる種類の改革運動に反対した。
また1954年労働者が様々な抗議行動に参加した時,労働者階級の攻撃性は全国
に爆発した。これは未組織労働者の闘争心の高揚,左翼の影響,そしてNRAとそ
の企業よりの条項への幅広い敵意を反映していた。これに対して民主党政府が十二
州で武力によって織物労働者の絶望的なストライキを破ったことはスト参加者の労
働者の政党の関心を高めた。民主党はこの年の選挙で大勝したが,有権者はかなり
ニューディール左派に興味を示しており,ローズベルトも民主党も明らかに労働者
票の重要性増加に注目していた。
リベラルな民主党員,より急進的な候補への労働者票は,伝統的政党システムが
破綻するにちがいないこと,そして農民・労働者の政党の機が熟したことを共産党
指導者に確信させた。1955年半ばには人民戦線力泄界共産主義政策として受け入
れられ,共産党はAFLの組合内で公然と労働者の政党を提唱した。
1955年初頭,ニューディールはローズベルトがワグナー労働法案への援助を拒絶
したため労働者間では人気がなく,ローズペルトヘの不信はワグナー法に同意した
後も尾を引いた。全国繊維労組のフランンス・ゴーマン(FranclsGorman)は
社共両党および産業労組の援助により10月のAFL総会で労働者の政党のため実
らざる闘争を指揮した。彼は民主党政府が1954年のストライキに軍隊を使ったこ
とを思い起させ,NRAによって繊維労働者の生活水準が実質的に低下したことを
宣言した。そしてニューディールが労働者同様に産業のものであると主張し,「我
々は酷く失望した」と述べた。
ローズベノレトの労働者票の利用
NRAの違憲判決,その後のワグナー法への援助,社会保障,そして後期ニュー
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ディールの革新的政策は,組織化された労働者のローズペルト支持を堅固にした。
彼らの政治的独立性は1956年に援助を勝ち取るまで続いたが,1954年と1956年
における全国的な労働者の政党形成の試みは,社会党の沈黙,共産党の移り気な態
度などによって失敗した。左翼両党は農民・労働者の隊列に好意を示したと同様に
独自のパルチザンにも関心があった。そしてUMWによる1956年のローズペルト
に対する再選保証は,ノーマン・トーマス(NormanThomas)を始めとする農民
・労働者を失望させた。
CIO,UMWを率いるルイスは,新しい産業労組は大統領と民主党の公務員の
支持が必要であると信じ,古いAFLの政治参加の条件を引き継ぎ,組合建設を強
調しパルチザンにまで信頼をおかないアメリカ労働運動の古いサンディカリストの
伝統を継承していた。
ルイスはローズペルト再選のために労働者無党派連盟(Labor,sNon-Partlsan
League:以下LNPLと略記)を労働者の支持を得るために創設した。またニュー
ヨークではLNPLによってローズペルトヘの支持獲得のためアメリカ労働党
(AmqerlcanLaborParty以下ALPと略記)が創設された。しかしLNPL
は他州では労働者の政党の設立を奨励せず,事実マサチュセッツではかなり強力な
州の農民・労働者の政党運動を進路変更させた。もはやLNPLは「民主党凧のし
っぽ」にすぎないと見られた。3o年代の政党建設は,急進主義が最初に地方レベ
ルで発展したことを示した。そして地方レベルの急進主義はコミュニティと産業の
特異な闘争から生じた。この基盤無しに共産主義者,社会主義者,そして農民・労
働者も何も得るとところは無かった。
ローズペルトは再選され民主党は大勝したが,農民・労働者の政党は惨めな様
相を呈し,社会党を落胆させた。しかし共産党は,階級線の先鋭化が進み共産党が
一体性を失わずに参加できる多重階級の第三政党成立の機が熟したと主張した。C
IOの成功は新党の社会的基盤を提供したかにみえ,その種の基盤はかつて古い社
会党に受け入れられていた。
しかし社会党は内紛によって分裂し,共産党はCIO内で人民戦線を推進できる
か憂慮していたので,1956年の選挙以降両党はほとんど貢献しなかった。またC
IOの第三党への努力も民主党との強力な同盟をまえに後退しなけオuまならなかった。
民主党はローズペルトのワグナー法を基盤に,組織化された労働者への大幅な譲
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歩なしにCIO役員の支持とストライキにおける友好的もしくは中立的な公務員を
得ることができた。プリントのストライキでGM(QeneralMotors)にUAW
(theUnitedAutoWorkers:以下UAWと略記)を認めさせたことがその一
例である。UAW内で高揚していた労働者の政党の感情は抗し難いものであったが,
その指導者は民主党政治家との関係を発展させることで,CIOの他の官僚と合流した。
1957年の失業の増大は,ローズペルト政府に救済事業の後退と革新的社会立法
遂行の縮小を余儀なくさせた。しかしすでにCIOは民主党と堅く結ばれており,
そしてローズベルトヘの信頼は労働者を民主党へと投票させた。労働者はローズペ
ルトと民主党への支持と引き換えに何を得たのだろうか。一つには1956年の労働
者の支持がニューディールの左傾化を進めたことである。実際に革新的立法はCI
Oが政治的になる以前に出来たのであり,攻撃的な大衆の休みない直接的運動の産
物であった。もう一つは1956年以降民主党が労働者の政党の代理となったという
ことであるが,実際にCIOのメンバーがワシントンで官職を得ることはなかった。
50年代の重要な政治的変化は地方にあり,多くの共和党支配の産業都市での親
CIO候補者の勝利は目覚ましい躍進であった。50年代の農民・労働者の政党運
動は公務員の中により大きく広げられたかもしれない。
ところが労働運動家はニューディール派もしくは共和党左派に労働者を代表させ
ようとした。また幾人かの政治家は民主党内で社会的ユニオニズムの意識を代弁し
ていたが,50年代後半までほとんどのニューディール政治家は労働者票を当然の
ように得ることができた。ローズペルトの人気,ロビー活動の強調,地方の民主党
支持の公務員の援助の必要性は,組織化された労働者の政治的独立性を困難にした。
しかし,まだ労働運動は新しく得た政治力をより効果的に使用することができた。
そして統一された左翼は自活できる農民・労働者の政党を創設できたに違いない。
そうなれば,民主党に加わらずにローズペルトを支持できたであろう。そしてもし
LNPLがALPのような組織を他地域に奨励,支持していれば,保守的でそして
日和見主義的な民主党政治家に左寄りの選択があったであろう。ところが民主党は
右傾化し反労働者の立場をとったので,組合は政党を創っていく独立した選挙,組
織の基盤を失った。
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