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「九大日文」17全文

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「九大日文」17全文
九大日文 17
[ 論
目 次
文 ]
京城だより②
『芥川龍之介全集』未収録資料紹介
嚴
基權
002
―宮崎光男との親交をめぐって―
不在の「作者」と造反する語り手
稲田
大貴 035
池田
静香 052
―三島由紀夫『潮騒』論―
「呻き声」の彼方
―『沈黙』への道―
「無力」なイエス像形象のための選択
―遠藤周作『イエスの生涯』における E・シュタウファー『イエス
管原とよ子 066
その人
と歴史』の引用のあり方―
[ 書
評 ]
金成妍著『越境する文学
中根
隆行 082
河内
重雄 085
―朝鮮児童文学の生成と日本児童文学者による口演童話活動』
関口安義著『評伝長崎太郎』
彙報
089
京城だより②
Ki-kweon
『芥川龍之介全集』未収録資
料紹介 ― 宮崎光男との親交をめぐっ―
て
EOM
嚴 基 權
おく
てう せん
だ い ざい
あいだ
ぬま
し
ま つ う ら ひん らう
へん
へん めい
れん さい
を 送 つ た。そ の 間 日 日 紙 に 、 松 浦 貧 郎 と い ふ 變 名 で 、
い ぐわい
し
さう さく
み
し たが
朝 鮮 を 題 材 とした「 沼 の彼方」といふ一 篇 を 連 載 した
けい かう
か
こ と の あ る 以 外 、 氏 は 創 作 を もの し た の を 見 な い 。 從
いま
え
おも
とも
げん
し
ひつ りやく
に し得ないけれども、とにかく、氏の 筆 力 は
つまび ら か
つ て 、 今 、 ど う いふ 傾 向 の ものを 書かう とす るか、 そ れ
詳
し ん らい
を
大正一五年七月二四日夕刊五面〕
信 賴 するに足ると 思 ふ。友 のために一 言 する。
〔「京城日報」
文は芥川が自殺する丁度一年前に書かれたものである。広告文
大正一五年七月二四日に「京城日報」に掲載された以上の広告
の中には「京城日報」に新しく連載され始める小説について、
今回は「京城日報」における『芥川龍之介全集』の未収録資
れている文章が二つ見当たる。まず、芥川が「京城日報」に小
作 者 宮 崎 光 男 の 言 葉 の 代 り に 芥 川 の 紹 介 文が 掲 載 さ れ る 。 宮
料を紹介する。「京城日報」には芥川龍之介という名前で書か
説を寄せる友のために書いた文章を紹介する。
さい ご
崎光男という名前は芥川の全集でも確認できない、あまり馴染
みのない人物のように見える。しかし、宮崎の略歴を覗いてみ
じ ろ
新作 小説 連 載 豫告
あい べ つ
か ん き やう
ると、芥川との接点が垣間見えてくる。では、このように当時
や ま な か み ね た らう し
き も
どく し や
の文壇の大家であった芥川に、朝鮮の新聞に小説の紹介文まで
かう てう
く わん け つ
高 潮 し た 氣 持 ち で 讀 者 を ひき つけ、 感 興 のまとゝなつ
ちか
とく
さく し や
り き さく
しん かう
し ん し ん さく か く わ い し ん
へん
し
かは り う の す け し
さ
書かせた宮崎光男という人物は何者であったのか、また芥川と
く
近 く 大 好 評 の うちに 完 結 いたし
ひき つゞ
てゐたが、 いよ
崎が勤めていた読売新聞社の記事や復刻版『新聞人名辞典一~
はどのような付き合いをしていたのだろうか。一先ず、当時宮
けい さい
とも
梅津星耕畫
ねん らい
宮 崎 光 男 は 明 治 二 八 年 八 月 二 〇 日 、 佐 賀県 の 東 松 浦 郡 唐 津
を参照しながら宮崎光男について見てみよう。
三 巻 』(昭和六 三年二月、日 本 図書センター、以下『 新聞人名 』と略す )
掲 載 い た し ま す 。 特 に 作 者 と 親 交 の あ る芥 川 龍 之 介 氏
せう かいぶん
宮崎光男作
の 紹 介 文 を左に………
芥川龍之介
途上
わ たく し
小説
を し
本篇の作者のために
さく し や み や ざ き
とうきやう
しんぶん き しや
ねん かん
在 有 浦 生 ま れの 人で あ る。 別 名 は 北 村 豊 太 郎 、 松 浦 貧 郎 。 ど
ほん へん
ざう
のような理由で朝鮮に渡ったのか詳細は不明だが、大正二年三
さう さく よく
創 作 慾 を 藏 しつゝ、東 京 日日 新 聞 記 者 としての十 年 間
本 篇 の 作 者 宮 崎 光 男 氏は 私 の 年 來 の 友 で あ る 。 氏は
(2)
さ
ま す。 引 續 き 新 進 作 家 會 心 の 力 作 として左の 一 篇 を
だ い か う ひや う
山 中 峰 太 郎 氏の 傑 作 小 説 「 愛 別 の 十 字 路 」 は 最 後 ま で
け つ さく せ う せ つ
(1)
(3)
月に京城にある善隣商業学校を卒業している。その後は、朝鮮
の女」は大正一四年四月、五月号の「婦人画報」に二回発表さ
のは 、「『日本の女』の由来と『偸盗 』の横行」である。「日本
文章が発表された動機について「芥川」には、お金に窮してい
大正五年九月に東京日日新聞社会部に入る。大正一五年一一月
た宮崎が芥川のところに駆けつけて 、事情を説明した後、「何
れたもので、二冊の洋書についての紹介が書かれてある。この
銀行、日本電報通信社、福岡日日新聞社、實業之日本 を経て、
昭和六年一二月に再び読売新聞社に戻って昭和二〇年一〇月の
か談話をしてもらつて、私がそれを筆記して、芥川に筆を入れ
には読売新聞整理部に移り、昭和五年の新愛知新聞社を経て、
退職まで勤める。
だということが述べられている。つまり、宮崎自身の私事の理
由で芥川に原稿を 書かせ、「日本の女」の原稿料をもらったこ
てもらつたうえで、一枚十圓見當で『婦人畫報』に賣り込」ん
(「読売新聞 」昭和二年七月二六~二八日 /三回連載、以下「死直前」と略
ら、芥川は宮崎を「世の中に出してくれた恩人」と言ったとい
とになる。こうした宮崎の身勝手な要求にすんなりと応じなが
こうした宮崎が芥川といつから交流し始めたのかは定かでは
」と述べ
す )で 「 僕 と 芥 川 君 と は 、 十 年 こ の 方 の 交 友 で あ る 。
ない。が、芥川の死の直後に宮崎の書いた「死直前の芥川君」
られている。また、宮崎が戦後に書いた「芥川龍之介と菊池寛」
う。同じ文章によれば、芥川は「そうさ、恩人でなくて何だ。
を、廣く世間一般に讀まれる新聞というものに、はじめて拾い
あのとき君が、有名でなかつた僕の小説(『偸盗』のことだ)
あげて載せてくれたからこそ、僕というものゝ存在が擴大され
「この
(「文藝春秋」所収、昭和二五年一一月、以下「芥川」と略す)で、
きていれば、交遊三十幾年ということになろう。二人があとで
て行 つたんじや ないか。あの御恩は一生わすれやしないよ。」
二人は、わずかに相前後して親しくなつた私の亡友で、いま生
した關係はない。どちらも『新思潮』の卵として、まだ世間に
『文豪』と呼ばれるようになつたことなどは、私らに、そう大
と、宮崎に対して感謝の気持ちを表したという。
思われる。大正五年ごろから始まった親交は芥川が死ぬ直前ま
題についてもすんなり聞いてくれる、仲の良い間柄であったと
この様に芥川龍之介と宮崎光男との付き合いは、金銭的な問
賣り出していなかつた頃からの、へらず口をたゝき合う友で」
あったと回想していることから推測すると、おそらく宮崎が東
京日日新聞社に入る大正五年あたりから二人の付き合いが始ま
ったと思われる。
思い出が綴られている。その中で、宮崎は「京城日報」に小説
を寄せた当時の話と共に、小説が途中で中断になった理由を次
で続いた。前記の「死直前」でも最期に面会した時の芥川との
のよ うに 述べてい る。
その後の宮崎と芥川との親交の様子は、前述したように全集
ない。しかし、一方的ではあるが、二人の友情を伺えるような
にも宮崎に関する書簡などの資料が収録されておらず定かでは
エピソードを宮崎は「芥川」に綴っている。その中で興味深い
(5)
(4)
「ぢや僕 (注―芥川)は、君 (注―宮崎)にすつかり濟まない
許してくれ給へ。」
以上の文章からは、宮崎と芥川とがかなり親密な関係にあっ
たことが窺える。しかし、芥川の全集や研究書などに宮崎に関
する資料、特に書簡がほとんど存在しなかったためか、二人の
た意味でも芥川が宮崎光男という友の為に直接書いた「提灯文」
交流についてはこれまでほとんど知られてこなかった。こうし
「 え?」
ことをしてしまつたよ。
「それ、去年のその頃さ、京城の新聞に小説を書くことに
絶したその 小説のことが 、むしろを かしかつた。(それに
僕は、今考へれば缺點だらけでしかも、不穩味が祟つて中
「うむあれか、あの駄小説か。ハヽヽヽヽヽ」
を挙げている。この様な夏に対する窮屈さは、同月九日の「京
夏が嫌いな理由について夏の暑さ、匂い、それから夏の単調さ
特に夏に対する感想が淡々と綴られている。この中で芥川は、
年七月一五日付の「京城日報」に掲載されており、芥川の季節、
もう一つの資料は「夏の感覚」という随筆である。大正一四
は貴重な資料になると思われる。
僕は譯がわからなかつた。
な つた か ら、 僕の 提 灯 文 が あ れ ば 一 層 都合 が いゝ つて 、
よつて、兎に角も、下仁田生活の後期三ケ月ほどを糊した
城日報」に掲載された萩原朔太郎の「夏とその情思」にも似た
君がさういつてよこしたことがあつたぢやないか」
ことは、猶一層をかしかつたかも知れない。)が、その稿
う書いてゐる今でもひんやりとして慄えるのを覺える
介氏」と、矢野白雨の「芥川 氏の形相」、茶谷八郎の「詩歌に
佐藤春夫の義弟である古木鉄太郎の「作家印象記 2 芥川龍之
評論、教育者で児童心理学者の高島平三郎の「芥川君の死」や
付録として「京城日報」に収録されている芥川龍之介に関する
ような感想が述べられている。 最後に、「夏の感覚」と共に、
「 で も 、 そ れほ ど 君 の 生 活 を 支 配 し つ ゝ あ つ た 小 説 に 、 僕
現れた芥川龍之介」、
「全集となる芥川の作品」、平井保興の「芥
した深刻さを思ひ出すと、笑ひ沙汰などではない。か
料の出鱈目な遲れ方から、僕と妻との間が眞暗闇になり
のヅボラから、ウンと提灯を持たなかつたことは、僕とし
川追 悼
く
君の生活的事情について僕に詳しく報ずるところのなかつ
て友逹甲斐のないことだつたよ。失敬々々。がしかし君も、
)
(
之介」などといった資料も同時に掲載しておく。
文藝講演會雜記」や佐藤圭四郎の「有島武郎と芥川龍
たのは、ちよつと手落ちだな。」
いつまでもこだわつてゐるのだつた。がしかし僕は、そこ
【注記】
芥川君は、僕がそれについて何も思つてゐはしないのに、
掲 載 さ れ た 三 日 後 の 大 正 一 五年 七月二 七 日 であ る 。朝 の三 面には 「小 説
作者宮崎光男の言葉が「京城日報」に掲載されるのは、芥川の紹介文が
しさと感謝とを感じた。(注は嚴)
に動く芥川君の友情のこまかさを思ふと、涙ぐましいうれ
1
の 中 で 宮 崎 は 小 説 の 内 容と 共 に 「年 少 時 代 の数年 間 を 」朝 鮮 で過ご した
途 上 明日 よ り掲 載 」 とい う 見 出し で 「作 者 の 言 葉」が書か れ てい る。 そ
連載時宮崎は東京毎日新聞社の社員であった。
正 六年 一 〇月 二 〇日 か ら一 一月四日 まで連載)に 発表され てい る。その
うか。「戯作三昧」は芥川の小説として初めて「大阪毎日新聞」夕刊(大
(九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程一年)
ことについて述べている。
宮崎の生まれた年について、『新聞人名』の一巻と二巻にはそれぞれ明
凡例
一、芥川龍之介の全集未収録資料の翻刻に当たり、本文表記は
原則として原文に従った。
歴史的仮名遣いで表記した。なお、判読不可能な文字は(■)
一、漢字は可能な限り、原文そのままの旧漢字で、仮名遣いも
で記した。
れ、判読困難な場合は一般的な読みに従った。
一、ルビや句読点も原文のままに付した。ただし、活字がつぶ
芥川龍之介
一、句読点、太字、傍点も原文のままに記した。
せい くわつ
一、各資料の最後に、掲載された日付、朝夕刊の別、掲載面数
を付した。
夏の感覺
―
かん かく
わ たし と も
が、
『新聞人名』の一巻には「佐賀日日新聞、実業之世界」、二巻には「佐
が 勤 め てい た の か 定 か では ない た め、 こ こ で は 「読売 」 の記事 を 基 にし
果して「偸盗」のことであったかは疑問である。「偸盗」は周知のとお
ている。
なつ
い
かぎ
く
ま た わ たし じ ぶ ん
おこ
夏の感 覺
わ たし
作 品で あ る 。「芥川 」で語ら れてい る ように、「中央 公 論」は「廣 く世 間
り 、 大 正 三 年 四 月と 七 月 発 行 の「中 央 公論 」 に二回 に 渡 っ て掲 載 さ れた
く
の 變 化 、 それは 私 の 云ふ 限 りで も なく、 叉 私 自 分 と して
へん く わ
なつ
夏 が 來 ると いふ 事 によ つて 私 共 の 生 活 に 起 るいろ
すれば 、「僕の小説」とは、「偸盗」ではなく、「戯作三味」ではないだろ
れ る 新聞 」 に 「 は じ め て 拾 い あ げ て 」とい う 表現 に相応 の 背 景 が あ る と
一 般 に 讀 ま れ る 新 聞 」 では な い 。
「 芥 川 」 に お け る 「 廣 く世 間 一 般 に 讀 ま
こと
賀日日 」、三巻には「福岡日日、実業之世界」とある。実際にどこに宮崎
経歴について「読売 」では 、「福岡日日、実業之日本」と なっている。
載している。
京 日日 新聞 」 に 大正 八 年 六 月六 日 か ら同 年 七月二 七日 ま で、 全四 五回 連
広告文にもあるように宮崎は松浦貧郎という筆名で「沼の彼方」を「東
治二八年だと思われる。
隣 商 業 学 校 を卒 業 し た 点 か ら推 測す ると 、 宮崎 の 生 ま れ年 は 正し くは 明
が 六 三 と な っ て い る 点 、 ま た 、 同 じ 記事 で大 正二年 三 月 に京 城 に あ る善
新聞 」(昭和三三年九月二五日夕刊、以下「読売」と略す)に、宮崎の年
正 し い の か は 定 か で は な い 。 が、 宮 崎 の訃 報 の記 事 が掲 載 さ れた 「 読 売
治 二 〇 年 と 記 さ れて い るが 、 三 巻 に は 明 治 二 八 年 と な っ てい る。 ど れ が
2
3
4
5
なつ
かん
い
かんが
た
た
こ
い み
じゆん す ゐ
かんが
なつ
く
こと
そと
で
いろ
も
えんねつ
さい ち う
かんが
うち
み
うち
かん
なつ
かげ
ま なつ
あき
たん て う
す
なつ
あき
なに
こと
かん めい
き
わ たし
ひや う し
ふか
うへ
こと
の 色 を 持 つ 、 そ れを 考 へ る と 夏 は ど う も 私 に
おと
とほ
おほ
かん
じ ぶん
おな
いへ
やう
こと
には
それ
み
わ たし
き
おと づ
非常に 夏 らしい 感 じをうける 事 が 夫 にある 私 はあまり
なつ
を 感 ずる 事 がある、それと 同 じ 様 に、
かん
樹 の 葉 を わ た る 風 の 音 づ れ や 、 蔭 を 見 て 直ぐ 秋 の 來 て ゐ るの
は
り つし う
かんが
この
ると い ろ
は うめ ん
げい
こ よみ
さうした方面から 夏 といふものを 考 へ度くない。 純 粹 に 夏
り いう
に く たい
わ たし
からだ
なつ
は 好 ましくない。さうした 單 調 な 夏 の 中 で 感 銘 の 深 かつた 事
お も しろ
だい
な ぜ
そのものだけの 感 じについて云ひ度い、此の意味で 考 へてみ
わ たし
そ れは
こゝ ろ
ふ ゆ く わい
のみ
かぜ
を 考 へてみると、夏 の 最 中 に 秋 を 感 ずる 事 である、 暦 の 上
ひ かく て き な つ
―
こと
わたし
に く たい
が 私 の 心 を うば ひ、 肉 體 に
ひき
き
れば 比 較 的 夏 と い ふ もの は 私 に 面 白 く な いの で あ る。 何故
り いう
あつ
い
で も 立 秋 に は ま だ 遠 い 炎 熱 の 眞 夏 の 中 に 、 何 か の 拍 子に 、
あつ
あた
こと
―
夏 は 暑 い、その 暑 いといふ 事 が
なつ
かといふに、その理 由 を云つてみると三つある 第 一の理 由 は、
き や う つう
ふ ゆ く わい
冬にも 共 通 する 事 だ
ひ じや う
たと
非 常 な不 愉 快 を 與 へ て ゆく 、 肉 體 が 不 愉 快 だ と 私 は 藝
い か
じ か
こと
みち
たん て う す
おな
で き
おんがく
ある
なつ
めい ぎ
き ぶん
にほ
で
つち
ひ じや う
そと
り いう
ま
つね
おち は
わ たし
だい
ま ためい いう
かゞ や
かん
そ
あ
おな
ふく
わ たし
まつた
ゆゑ
なつ
み
つち
く らゐ
こと
とき あ
あつ
なつ
こけ
ひ
ふゆ し も が
ばん たゝ
い か
あを あを
ま なつ
ひか
う つく
かん
せ い さん
つち
かん
つち
あ
なつ
かん
には
あ
や
外 へ は 出 ず に 、 多 く 自 分 の 家 の 庭 だ け を 見 て 四 季の 訪 れ を
で き
感 じてゐるが、夏 、殊 に眞 夏 には、 暑 さのために 庭 の 土 が燒
じ ゆ つ て き かん し や う
術 的 鑑 賞 が 出來 な くなる、 例 へば 一 匹 の 蚤 が 身體に く ひ
か れ て 非 常 に 荒 れ て ゆく 、 そ れ は 冬 霜 枯 れの た め に 土 が 荒
わ たし
にほ
ひ じや う
ついてゐると、如何にいゝ 音 樂 でも、 叉 名 優 の 名 技でもそれ
かん
かん しや う
を ぢ つ と 鑑 賞 し てゐ る 事 が 出來 な い、 その氣 分 と いふ もの
れて ゆ くの と 同 じ 位 に い た いた し い ゝ や な 感 じを う け るけ
にほ
どう さ か
にほ
く わ もつ
かん
は 全 くこはされてしまふ、のと 同 じである 第 二の理 由 は、夏
れど、其れを 含 んだ 土 が 蒼 々 とした 苔 に日の 光 りを浴びなが
とき
にほ
なつ
は 匂 ひ と い ふ もの が あ ま り に 單 調 過 ぎ る 、 私 は 常 に 外 へ 出
ら 輝 い て ゐ るの を 見 る 時 荒 れ 土 か ら う ける 凄 慘 な 感 じ と い
ま つた
た 時 、 動 坂 か ら 私 の 自家 ま で の 路 を 歩 いて ゐ る間 に 、 い ろ
ふ もの よ り 全 く は なれて 、 如何 に も 夏 ら し い 感 じ を うけ る
はな
つち
の 匂 ひ を 感 ず る の で あ るが、 そ れが 夏 に な る と非 常 に
く
にほ
ば んに ほ
せ かい
ほう ふ
あき
あぢ
なつ
はる
の で あ る 故 に 私 に と つて 、 一 番 讃 え たい 美 し い 夏 の 感 じ
たん じゆ ん
なつ
單 純 になつてしまふ、花 の 匂 ひ、果 物 の 匂 ひ 落 葉の 匂 ひ、土
あへ
五日朝刊一面〕
り いう
き こう
も
ち や う ど き や う らく
いろ
かう さ
ひか
と きわ た し
は 、 夏 に は な くてむ しろ 春 に あ る 〔「京城日 報」大正 一四年 七月一
なつ
だい
ふく ざつ
いろ
わか は
し んぶ ん
し
の 匂 ひと一 番 匂 ひの世 界 に 豐 富であるのは、 秋 にしくものは
たん て う
き や く たん
匂い が あまりに 單 調 である、 第 三 の理 由 は、 敢 て 夏 のみ
み
じ さつ
な い が 、 そ れ に し て も 夏 は こ れら の
なつ
わか は
もち
【付録】
ふゆ
は つ らつ
いろ
芥川君の死
しよ か
きやうれつ
でなく 冬 もさうであ るが、 夏 は 極 端 な 氣 候 で あ るだけに 味
たと
が な い そ して 强 烈 な 色 を 持 な が ら 複 雜 し た 色 を 持 つて ゐ な
のぞ
おも
ひと
をし
高島平三郎
ひが し や ま
ま た あき
か はく ん
い、 例 へ ば 初 夏の 潑 溂 た る 嫩 葉の 色 の や う な 丁 度 京 洛 の
かん
こと
△ … … 芥 川 君 の 自 殺 を 新 聞 で 知 つ た 時 私 は 、 ほ ん と うに 惜
ぎ おん
祇園から 東 山 を 望 んで見るやうな 嫩 葉の 交 叉した 光 りとい
い 事 を し たと 思 つた 、 か つあ ゝ した 、ま じめ な 人 の ことであ
ま つた
く
ふ も の は 全 く 感 じ ら れ な く なつ て し ま ふ 、 そ れが 叉 秋 が來
いた
ちが
か なり
おも
つめ
じ じや う
かな ら
また
しよ り
りやう
は るか
つゞ
し ん けい し つ
めん だ う
ち よ つと
けい かう
こく し よ
れい
じ けん
くは
せう がく せい ぜん
つひ
き や く たん
じ しん
一、
わ たし
ねん
れい せ い
ひ はん
かは くん
し ん さい ち や く ぜ ん
あや ま
じ けつ
はじ
だ ん あん
はん てき
めん だん
りう かう
よう い
く わい めん く わい
かん えう
たい し や う
私 が 芥 川 龍 之 介 氏 と 初 め て 面 談 し たの が 、 大 正 十 二
あく た か は り う の す け し
芥川氏の形相【上】
わ たし
な ら な い 冷 靜 に 批 判 して 誤 らぬ 斷 案 を 下す 用 意が 肝 要 で
しん きやう
ひと
ば あひ
せ ぞく
さそ
しんはい
るからそのこゝに 至 るまで には可 成 つき 詰 た事 情 もあり 叉
そ いん
心 配 してゐる 〔「京城日報」昭和二年七月二九日朝刊一面〕
ぶん し
ゐ がく てき
あ る、 私 は 芥 川 君 の 自 決 が 一 般 的 に 流 行 せねばよ いが と
べん ご
ぐ わ ん らい ぜ ん たい て き
み
心 境 も あ つ たに は 違 い な い と 思 ふ が し か し そ れ は 必 ず しも
じ さつ
はん
かは くん
く わん
じ さつ
矢野白 雨
自 殺 そのものゝ 辯 護にはならない
ぶん し
△ … … 元 來 全 體 的 に 見て 文 士 は醫 學 的 に 素 因 を もつ、 つ
かんが
ま り 文 士は 一 般 の 人 々よ り 遙 に 神 經 質 で 一 寸 とし た事に
しん こく
も夫を 深 刻 に 考 へ て 處 理しよ うと す る 傾 向 を も つ てゐる 加
かん かう
ふ る に 芥 川 君 の 場 合 は 兩 三 日 續 い た 酷 暑 と 例の 小 學 生 全
しう
かは くん
集 の 刊 行 に 關 する世 俗 的な 面 倒 くさい事 件 は 遂 に 極 端
しか
げん い ん
り いう
なん
む しん
あく
こと
う
わ たし
い か
ひ げき
じ さつ
す
す
だん
じゆん し
さい
たい
め
し う さい
こん にち
ひと
あい だ わ た し
たか
りう の す け し
し う さい
しん り
しん り
えい
かん
ち や く かく て き
ろん り てき
し
え
たい
にん しき
ひと
おそ
いん しや う
き
しう
へう げん
せ つめい
ンハ ウエ ルの 天 才 は 眞 理を 直 覺 的 に 認 識 して こ れを 表 現
てん さい
そ こ で 私 は 龍 之 介 氏 の お も かげ を 偲 ぶ 時 常 に 、 シ ヨ ウペ
わたし
才 がものしたものであつたらう。
と き つね
そ し て 龍 之 介 氏 が 今 日 の 偉 を か ち得 た の も 恐 ら く こ の 秀
りう の す け し
き ひん
み
年 の 震 災 直 前 で あ つた。 その 後 一二 回 面 會 し たのみ に
し ん けい し つ
かな ら
じ さつ
せ じん
とゞま
に 神 經 質 な芥 川 君 を自 殺 にまで 誘 つたものであらう
おも
おも
止 つ た が 、 そ の 間 私 の 眼に 映 じ た 氏に 對 す る 印 象 と も
で き
いん く わ
ば あひ
△ … … 然 し 原 因 、 理 由 は 何 で あ るに せ よ 私 は 自 殺 そ れ 自 身
こと
ひ つえ う
じ さつ
く 佛 敎 の 因 果 といふ
ぶ つ きや う
じん せい
申すべきは、見るからに 秀 才 らしい 感 じのする 人 で、しかも氣
みと
じ さつ
ぜ つ たい
〲
(ママ)おそ
じ さつ しや
すべ
を 絶 對 に 認 め る 事 が 出來ない 總 て 人 生 は如何なる場 合 に お
のきいた氣 品 の 高 い 人 であつた。
すべ
ごと
ゐ
いても自 殺 する 必 要 はないと 思 ふ 飽 まで戰ふべきであると 思
もし じ さ つ し や
り かい
ふ 若 自 殺 者 といふ自 殺 者 がこと
かは くん
こ と を 理 解 し て ゐ た な ら ぼ 恐 ら くは 自 殺 し ない で 濟ん だと
おも
す なは
思 ふ、芥 川 君 もま た 必 ずや あん な 事 に な らずに濟ん だこと
おも
じ さつ
ゝ 思 ふ 卽 ち 總 て の 自 殺 は 無 信 仰 が 生ん だ悲 劇 で あ る と 斷 ず
の ぎ し や う ぐん
じ さつ
かう めう
ぶん
りう の す け し
にんしき
じん ぶ つ
えいびん
つね
へう げん
し う さい
しや
ろん り てき
お
しん り
おも
も つと
てん さい
し う さい ろ ん
こと は
せつめい
ちや くかくてき
ち
するに 對 し、 秀 才 は 眞 理を 論 理 的 に きはめて 、これを 說 明
も つと
かんが
る
び くわ
てい
することが 巧 妙 で 銳 敏 だ、といつた 言 葉を 思 ひ起こす。
おほ
ころ
し
△ … … 尤 も 乃 木 將 軍 の 自 殺 の 如 き は 世 人 は こ れを 殉 死 と
しやう
ていかう
じ ふん
稱 して 大 いに美 化 し て 考 へて ゐるがし かも自 殺 そのもの
を とこ
をんな
人 物 であつた、シヨウペンハウエルの「 天 才 は 眞 理を 直 覺 的
て
こと
また
そして 龍 之 介 氏は 常 に後 者 の 秀 才 論 に 尤 もよく合致した
まも
かん しん で き
さう
おな
ゝ 感 心 出 來 な い 事 は 同 じで あ る、 叉 或 る 女 が ゐて 自 分 の 貞
ま つと
で き
やう
ば あひ
もん だ い
か うめ う
しや
えいびん
べ つげ ん
ぜ んし や
し
に 認 識 して 文 を 表 現 し、秀 才 は 論 理 的 に究めて、これを 說 明
て い さう
操 を 守 る た め 對 手の 男 に 抵 抗 し て 殺 さ れた と か 、 或 は 死 ね
み
くわ がくしやてき
するに 巧 妙 で 銳 敏 だ」といつたことを 別 言 すると、前 者 は詩
じ けん
てき
ば 貞 操 を 全 うすることが出來るといつた 様 な場 合 なら 問 題
けつ
かん しや う て き
人 的 であり、後 者 は 科 學 者 的 であるといへる。
なん
べつ
せ じん
は自ら 別 である
△ … … 何 に して も 世 人 は 決 して 感 傷 的 に この 事 件 を 見て は
え
き てう
りう の す け し じ しん
り ち
ゐ
し
さく ひん
さく し な
くわ がく しや
し
せつ
ひと
よ つて 龍 之 介 氏自 身 や 氏の 作 品 が 科 學 者 の そ れの や うに
みと
冷 た い 理智 を 基 調 と して 居 た こ と も 、 氏 の 作 品 に 接 し た 人 々
ひと
の 等 しく 認 め得たところである。
りう の す け し
ま くわ
も つと
し ぜん
はつ き
き ち
あた か
ち や くか く
ごと
じつ
み
し う さい
し
しかして 龍 之 介 氏が 、
そのために 發 揮したものは、實 に 秀 才
りう の す け し
魔 化 しでなければならぬ。
し
さく ひん
である氏にとつて、 最 も自 然 な奇智であつたのだ。
りう の す け し
ごと
み
りう の す け し
け つ さく
しやう
き ち
し
かみ
さく ひん
ほとん
龍 之 介 氏の 作 品 にうかゞはれる 恰 も 直 覺 の 如 く見え、詩
し う さい が た
りう の す け し
の 如 く 見 ゆ る もの は 、そ れ は 奇 智 で あ つ た 。 氏の 作 品 の 殆
り ち
こ ゝろ
そう こ う
シ ョ ウ ペ ン ハ ウ エ ル の い は ゆ る 秀 才 型 で あ つ た 龍 之 介 氏、
また くわ がく しや てき
せ つめい
き ち てき せつめい
叉 科 學 者 的 に つめ た い理 智を もつてゐた 龍 之 介 氏は 、その
さう ぞう
せつめい
どは、この奇智 的 說 明 の 奏 功 せるものではあるまいか。
さく ひん
へう げん
作 品 において、 表 現 しやうとするよりも、まず 說 明 しやうと
み
とき
き ち
よ
あきら
き
ら
つひ
ろ んき よ
ゑが
じ つ さい
み
さくひん
けん き ち てき せつめい
りう の すけ し
し
てつがく
おも
ごと
み
ほど
ごと
そ し て そ の 明 か な る 論 據 は 、 龍 之 介 氏の 作 品 に は 詩の 如
かう めう
試 みに 龍 之 介 氏の 傑 作 とも 稱 すべき「山鴫」「 神 々の微
し み づか
とく しやく
せつめい
さく ひん
ため
してゐ る 、あ る ものを 創 造しや うとす るより も、たゞ 說 明 し
し
笑」 を 讀む 時 、 これ等 も 遂 に 一 見 奇智 的 說 明 だと 思 へぬ 程
せつめい
み
りう の す け し
かん
や う と し て ゐ た 。 こ の 說 明 し や う とす る こ と も 、 氏 自 ら も つ
み
ため
巧 妙 に奇智だけを切り離して 描 いて見せたものであることが
た にん
て ゐ な い もの を 他 人 に 見 せ る 爲 に 感 じ さ せ る 爲 に 、 說 明 し や
わ かる 。
やう
し
う と す る の で あ る 。 そ こ に 龍 之 介 氏 およ び 氏 の 作 品 の 特 色
し
があつたのではなからうか。
とき
またりう の す け し じ しん
し
し
げい じゆ つ
し じ しん
たれ
こ ゝろ
そん ざい
ない よう
けい し き
じ つ さい
て つが く
く 見 ゆ る も の は あ つ て も 、 實 際 の 詩は な い 哲 學 の 如 く に 見 え
じ つ ざい
し
そ し て そ れは 時 に 詩 の 様 に 見 え る こ と が あ る。 け れ ど も そ
昭和二年八月一〇日朝刊六面〕
るものはあつても、 實 際 の 哲 學 のないことである 〔「京城日報」
けつ
れは 決 し て 詩 で は な い 。 そ し て 叉 龍 之 介 氏 自 身 も 詩 人 で は な
し
りう の す け し
【下】
かつた。
じ つざ い
「 詩 は 實 在 す る もの で あ る。 す く な く と も 、 そ の 詩 人 の 心 に
しか
のみは 實 在 するものであらねばならぬ」と 誰 やらいつた。
なに
じ ぶん じ しん
ゆめ み
おな
けん
げい じゆ つ
へう げん
しやう めい
ゐ
内 容 が あつて 形 式 が 後からこ しらへ るもので あることの謬
し じん
見 で あ ることを、そ れが如何して 證 明 して居 ることに な ら
りう の す け し
やう
へう げん
然 るに 龍 之 介 氏の 藝 術 は 、 氏自 身 の 心 に 存 在 してゐ な
み
げい じゆ つ て き けい か う
なか
かつた。 龍 之 介 氏は詩 人 が 何 よりも自 分 自 身 を 夢 見やうと
た にん
ぜん はん
てん しん
う。
なに
りう の す け し
たい
な に もの
するに 對 し、何 よりもまづ他 人 に 何 物 かを見せ 様 としてゐた。
も
し じん
つと
もの
かう めう
へう げん
つと
こと は
しろ
をは
はく ぼく
ゑが
い ぐわい
ぐわ か
つく
なん ら
し
こと は
し じん
同 じく「 點 心 」の 中 に 「 藝 術 は 表 現 にはじま つて 表 現
し
に 終 る、畫を 描 かない 畫 家、詩を 作 らない詩 人 、などゝいふ
じ ぶん じ じん
も
おも
こと は
こ れが 龍 之 介 氏の 前 半 に おける 藝 術 的 傾 向 であ つた。
やう しき くわ
し
い み
自 分 自 身 に 詩 を 持 つ て ゐ る 詩 人 に と つて 、 努 む べき は、 そ
し
やう
じ ぶん じ しん
ひ
言 葉は 、比 喩 として以 外 に は 何 等の 意味 もない 言 葉だ、そ
こ ゝろ
はん
せいさく
す なは
の 心 の 詩 を 様 式 化 す る こと で あ る。 卽 ち 表 現 す る こと で
れは 白 く な い 白 墨 と い ふ よ り も も つ と 愚 か な 言 葉 と 思 は な け
もの
らしい 物 を製 作 し 様 とするについて 努 むべきは 巧 妙 なる胡
し
ある。これに 反 し自 分 自 身 に詩を持つてゐない 者 にとつて、詩
し
ゑが
つく
りう の す け し
びゆうけん
し
ゑが
れば ならぬ云々」、これも 龍 之 介 氏の 謬 見 ではあるまいか。
そん ざい
ぐわ か
し
え
とき
し
し
やう
へう げん
う
へう げん
と
まへ
ぐわ か
ゑが
い み い ぐわい
し
しん
つく
ほ どえ ら
と
じん ぶ つ
かく わが ぶん だん
あたか
程 偉 いとすべき 人 物 であつた、
かん
え
ご ご
あつ
みやう
し よ ざい
と
東京 にて
と「下」の間に「中」の文章が存在する可能性もある―嚴注)
い み
詩歌に現れた芥川龍之介(上)
むしぼし
さ
ごと
ふ と おも
茶谷八郎
日朝刊六面〕
(八月一一日朝刊、一二日朝・夕刊の現物の確認が出来ず、
「上」
ひ あい
兎も 角 我 文 壇 にあ つては 、 恰 も 明 星を取り去 られた 如
し
くにさびしさと悲 哀 を 感 じ得ない。〔「京城日報」昭和二年八月一三
つく
し じん
こと は
かれ ない 畫 作 ら れな い詩の 存 在 することを知り得なかつたの
し
こと は
こ れに よ ると 氏は 、 描 か れ た 畫 、 作 ら れた る 詩は ■ て も、 描
し たが
ではあるまいか。
ひと
從 つ て 氏 に と つ て は 詩 人 と い ふ 言 葉 、 畫 家 と い ふ 言 葉は
たん
な に もの
し じん
し じん
單 に そ の 人 が あ る 時 、 詩 を 表 現 し 畫 を 描 く と い ふ 意 味以 外
しん
に 何 物 もなかつたといふ 様 に受け取れる。
わ たし
まへ
私 は 眞 の詩 人 は、詩を 表 現 する 前 にすでに詩 人 であり、眞
ゑが
たん
し じん
ぐわ か
じ こ
み
げ い じ ゆ つ くわん
げい じゆつ
びゆう
て つ たう て つ び し
うつ
わ たし じ し ん
かは
ひと
ゆ
すべ
ひ じや う
たい へん
く わん きや う
ち よ つと
たい
く
わ たし
おも
れい
―
で あ る 、 こ れ は 私 の 總 て に 對 し て もい ひ う る
とき
わたし
かた
おも
み
せいかく
けつ はく
で 私 はそ
わたし
が 、 私 の 移 り 遷 り行 く 環 境 に い つ か さ う な つて行 つ たの
わ たし
もゐる、どちらも 本 當 なのであらう、 私 のもつて生れた 性 格
ほんとう
.ら
.し
.のないやうに 思 はれて
れて ゐ る し 、 或 る 人 か ら は 大 變 だ
ひと
私 は 或 る 人 か らは 非 常 に 綺 麗 ず き の や う に 見 ら
わ たし
かえ り
虫 干 の意味ではないが、午後の 暑 さの 所 在 なさに、不圖 思
ぐわ か
き や う つう て ん
し
ひさ
の 畫 家は畫を 描 かない 前 に 旣に 畫 家である。ゆえに詩を 作 り
せ く わい
やう
―
ひ出 して 、 久 し く 顧 み ない で ゐ た机 の ま はり を 片 附 けは じ
おも
りう の す け し
に
畫を描くことは、單 に詩 人 であり 畫 家であるといふことには、
もんだ い
さい かう
ぐ わ い けい て き
めた、
てん
ほ どぢうよう
それ 程 重 要 なる 問 題 ではないと 思 ふ。
な い めん て き
( マ マ)
か ゝ る 點 が 西 行 、 芭 蕉 と 龍 之 介 氏 と が 外 形 的 に の み 似て
りう の す け し
さく ひん
ゐて 、 内 面 的 の 世 界 に おいて 共 通 點 を 見出せなかつ て
さい きん
所以ではあるまいか。
き
し か し 最 近 の 龍 之 介 氏の 作 品 は こ の 自 己の 藝 術 觀 の 謬
ぶ
われ
せい くわつ
さい
く らゐ
き
ら
で
せい くわつ
げい
げい じゆ つ
げい じゆ つ か
え
とき
おも
さい て き
げい じゆ つ か
ら
せつ
へい かう
ずゐ
いな りう の す け し
ずゐ
とも
さく ひん
ひと
くわ がく しや てき
さい かう
ら
ほね
ゐ
め
せい り
し はい
きり あ
と き わ たし
はい
か げん
ひと
う ら へう し
ふ る ざつ し
みな
じつ
ねい
く わい こ
わら
おぼ
な かば
いん
く
か ひ
だ
ひ かれ氣 味で 、
み
ふ る げん かう
ちう おう こう ろん
き り ぬ き ち やう
ぎ み
と 思 ふ く らゐ バ カ な 潔 白 さ
の 時 、 私 自 身 で も 一 寸 おや
じ かく
見 を 自 覺 して 來て ゐ た 様 で あ る。 氏の 藝 術 は 徹 頭 徹 尾 氏
に支 配 された 人 のやうに、實 に叮 寧 に、そして甲斐々々しく、
けん
自 らの 生 活 から 生れて來て居た、 否 龍 之 介 氏の 生 活 の
整 理し 初 めたのである、しかし 笑 ふべし 半 にいたつてもう駄
み づか
一 部 で あ る と い つ て もよ い 位 、 骨 の 髄 の 髄 ま で も 藝 術 家 に
目 だつ た 、 目に ふ る ゝ もの 皆 、 懷 古 の 因 と な らざ るは な し
か
す なは
りう の す け
ねん
め
なつて ゐ た さ れ ど 矢張り 氏は 芭 蕉 等 と 共 に 平 行 し 得ぬ 藝 術
といつたやうな、センチメンタルに溺れかけたのである、それ
かん
はん
ねん
はじ
家であつた。 吾 々が 西 行、芭蕉等の 作 品 に 接 する 時 ■にこの
でいゝ加 減 に 切 上げやうとしたが、つひ
じゆ つ か
さい
し
感 を 深 く す る もの が あ る。 卽 ち 西 行 、 芭 蕉 等 は 天 才 的 を 藝
ホ コ リ を 一 杯 か ぶ つ た 古 雜 誌 や 切 抜 帳 や 古 原 稿 を わ けて
ごと
龍 之 介 氏の 如 きは、二百 年 に一人出ないであらうと 思 はれる
りう の す け し
や は
術 家 で あ るに 反 し 、 龍 之 介 は 科 學 者 的 な 藝 術 家 で あ つ た
ゐ た 、 そ の 時 私 は 裏 表 紙の と れ た 中 央 公 論 を 見 つ け 出 し た
ふか
ことであつて、西 行、芭蕉が百 年 に一 人 しか出ないとすれば、
もく じ
ひら
わす
なか
りう
しゆ
が き ひつ
たい し や う
ねん
いろ かみ た んざ く
ふる
はん
(下)
ひと
わ たし
おも
た ゞし と く と み そ ほ う し
月一八日朝刊六面〕
さい どく
わ たし
(マ マ)
せい くわつ
が き
きや く ろ ん
きや う み
も
ぶん
ねばならぬ 人 々であると 思 つてゐる、かういふ 極 論 をさへ持
こ ゝろ
ふく
げん だ い げい じゆ つ か よ ぎ し う
ので、なに 心 なく 目 次を 開 くとそれには、 忘 れもせない
さう に ふ
か ち
つ 私 で あ る 、 但 徳 富 蘇 峰 氏の 「 生 活 の 興 味」 なる一 文
さく
く
は 再 讀 の價値があることをいひたい 」 〔「京城日報」昭和二年八
の すけ し
が き
「 現 代 藝 術 家 余 技 集 」 が 載 て ゐ る、 そ して そ の 中 に芥 川 龍
くは
○
之 介 氏 の 作 も 含 ま れて ゐ るの で あ る ( 大 正 十 一年の 三 月 號)
うた
い ま す こ し 詳 し く い ふ と 、 そ れ に は 「 我鬼 抄 」 と して句三
く
十句、 歌 十六 首 、それに我鬼 筆 にかゝる 色 紙 短冊が1ツ宛 版
かぞ
あた か
ひ
ぶん
しよ
かは り う
わ たし
あ い し やう
く
しやう
く
あぢ
あぢ
むね
し
せま
し
かは り う の す け し
き やう ち
く
いま
つ
しの
く
と 胸 に 迫 つて來る、 今 にしてこ
ゆう う つ
く
じ とを
さうい つた詩 境 が こん
し きや う
であると 思 つてゐる、味 はへば 味 はふほど、汲めども盡きぬ、
おも
私 の 愛 唱 す る句で ある、この 句の 境 地 こ そ 氏の す べて
ひ
さ も あ ら ば あ れ 、 私 は こ ゝ で は た ゞ 「 我 鬼 抄 」 に つ いて 記
し
にして 挿 入 してある、 大 正 十一 年 といへば左まで 古 くない
き おく
みづか
おほ かた
わ たし
じや う
元 日や手を洗 ひをる夕心
せ ば よ か つ た の だ 、 た ゞ あ り し 日 の 詩 人 芥 川 龍 之 介 氏を 忍 べ
の すけ し
つひ
か ら 、 大 方 の 記 憶 す る と こ ろ で あ ら う 、 が 、そ の 日 は 芥 川 龍
さら
ばよい……。
あ
かく なに
○
日に當たるのであつたから、なほ 更 、遂 に 私 をしてこの一 文
たい
こと
く
之 介 氏が、 自 ら生命を死なしめてより、 數 ふれば 恰 も 初 七
さう
し
を 草 せしむるにいたつた。
ひと
かた
人 の 「 死」 に 對 し て 兎 角 何 か 「 言 い た い 」の は 人 情 の し
と
しん い
けい
たい
かんが
す
おも
からしむ ると ころで あ らう、その■ 方 い づれにして も、 殊 に
ば あひ
そのものに 對 してはやゝ 考 へ過ぎると 思 はないこともない。
ば あひ
の 句を 唱 せ ば 文字 通 り 憂 鬱 であ る、し かし さういふの は句
じ さつ
あきら
自 殺 の 場 合 に お いて は 。 し かし い づ れの 場 合 も問 は ず輕 々に
かい
こ じん
は う げん
おほ
ひと
ら
すべ
たい
ぴ
ひ はん
と
ぜ ん げん
の 讃 美 批判 を 問
らく や う
かた
だい
く
おも
こ てん てき
よく 語 つてゐる、 私 はさう 思 つてゐる。
わ たし
し
めん
も つと
麥埃かぶる童子の眠りかな
は うげ ん
あく た か は り う の す け し
たい
放 言 すべきでないことだけは 明 かである、いはんやその 眞 意
わ たし
〲
私 は 今 こ ゝ に 芥 川 龍 之 介 氏 の 死 に 對 し 多 くの 人
し
「 洛 陽 」と 題 す る一句で あ る、古 典 的 な氏の 一 面 を 最 も
―
ある
いま
.ず
.つけるやうな 放 言 をするにおいてをやで
を曲 解 し故 人 をき
むし
だ う が くし やり う
ひ や う ばん
しん り ち は
く
わ たし
寢てゐれば夜長の疉匂ふかな
き おく
さく
さ ほど
とう じ
あらは
み のが
曇 天 や まむ し 生 き ゐ る 罎 の 中
こん ご
よ
う
さ ほ ど ぢう
え い きや う
みち
うへ
がなした(また 今 後もなすであらう)それ
わ たし
ぢき
く
可 成 り 評 判 に なつ た 句 だ と 記 憶 し て ゐ る、 當 時の い は ゆ
く りか へ
し や く わ い て き あく え い き や う
はや
く
はんとするものではない、寧 ろそれ等の 總 てに 對 し、たゞ 前 言
し よ せん
し
る「 新 理智派」と呼ばれてゐた氏の 作 が、句の 上 に 現 れた見 逃
もの
よ
な「それによつておよぼす 社 會 的 惡 影 響 」 などは左 程 重
を 繰 返 し た い だ けで あ る ( 私 は 世の い ふ と こ ろ の 道 學 者 流
おも
せないものであらう、しかし 私 はこの句は左 程 とりたくない。
だい し
大 視しやうとは 思 はぬ、たとへ、それによつて 直 に 影 響 を受
け るや う な 者 は 所 詮 、 お そ か れ 早 か れ 、 さ う い ふ 道 を た ど ら
たし か な か む ら けん き ち し
おも
しん しやう
いま
わす
たゝみ
く
み
みじか
こと
し き
なが
く
あき ら
しん か
へそ
わ たし
あく た か は り う の す け
せい しん
かた
うた
わび
じつ
うた
か じん あく た か は
しう しん せん せい
み
じゆん ぜん
え
めう
わたし
か
わ たし
あま
さく か
おほ
ひ れい
わ たし
半 生 を 精 進 してもらひたかつた、と。だがこれは 余 りに非 禮
はんせい
しむ ることを故 人 が ゆ るす ならば 、 純 然 た る歌 人 と して 後
じん
く懷 し み たい 、 こ れ は 私 の ひが め で あ ら う 。 私 だ けに いは
わたし
の すけ
「 臍 く き れ しや あ るひ は いま だ」 も 實 に い ひ 得て 妙 で あ る、
芥 川 龍 之 介 と し て ゞ な く、 歌 人 芥 川 龍 之 介 の 方を よ り 多
わ たし
ともに 私 の すき な 歌 だ、 かういふ 歌 を見 ると、 私 は 作 家
み
う
とほ
るが 、後で し らべて 見よう) 私 は 今 この 忘 れて ゐ た句を 見
おも
.
確 中 村 憲 吉 氏 だ つた と 思 ふ 、 寢 床 か ら 疉 へ 下り たそ
うた
おぼ
ち よ つと ざん ね ん
.低
.さ
.を詠んだ 歌 があつた( 覺 えてゐないのが 一 寸 殘 念 であ
の
ふ と
わ たし だ ち
て 、不 圖 、そ ん な こ とを 思 ひ浮 か べた、 そ し て 遠 く芭 蕉を お
もふのである。
く
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな
うた
く
冬心の竹の畫見に來、ひさかた
し
の雪茶を煮つつわが待つらくに
ないひ 方 である、 詫 ねばならない。
み のが
えう
「 伯 母 の い ふ 」 と 註 の あ る 一 句で あ る 、 私 逹 は この 短 い 註
ぜ い げん
を 見 逃 し て は な ら な い 、 こ の 註 が あ れ ば こ そ この 句の 眞 價 が
はんぜん
判 然 する、 贅 言 は 要 しないであらう。
ひと
むし
とう ぜん
あた
い じや う
うた
あく た か は り う の す け
き
おほ
お どろ
かほ
き
まへ
ふつ
き
とする、それでゐてよく 芥 川 龍 之 介 になつてゐる、前 の「き
あ い し やう
「 と な り の い も じ 」 秀 眞 先 生 に 、 と い ふ 註 が あ る、 ま た 私
もん
の 愛 唱 お く 能 はざ る 歌 で はあるが、 驚 くほど子規が髣髴
しん かう
氏の 歌 は 殊 に子規の 流 れを汲んでゐることが 明 かである、
し き
子規 と 親 交 の あつた漱 石の 門 に入つた 人 と して 寧 ろ 當 然 で
とく
か じん
しゆ
ふう かく
かん
い じや う
かげ
しうしんせん せい
が き
さく
び じゆつがくかうけうじゆ か とりしうしん し
おほ
きん さく
〲
た
きう さく
あは
す
とう
こ じん
きん か
いん よう
く 舊 作 ば かりで、故 人 は
おな
わ た し じ じん かん が
みが家の」以 上 に 子規 といふ 大 き な 顔 がの ぞ いて る、 子規
あい よ う か
じゆん す ゐ
うす曇るちまたを見つゝ暗綠の玉子食ひをれば風吹きにけり
あらう。
くわん
といふ 大 きな 影 がさしてゐる、 私 自 身 考 へたいのである、
き
あ らは
し な ゆう き
こ れは後 に 「 支那 游 記」 一 巻 を ものした 「上海」 の 一 首
註にある「 秀 眞 先 生 」といふのは、同 じ田端に住む鑄 金 家、東
いう ぜん
どん て ん
わ たし
京美 術 學 校 敎 授 香 取 秀 眞 氏のことである。
たま ご
じつ
.ら
.ふ
.氣 も ち な どみ ぢ ん も な い 、 純 粹 の 歌 人 と し
で あ る。 て
し
ての 氏が 、 實 に 悠 然 と 現 れてゐる、 私 の 愛 踊歌 の 一ツ だ
あん り や く
うた
○
さい と う し げ きち し
以 上 「我鬼抄」の 作 はこと
うた
「 暗 綠 の 玉 子 」 は 如 何に も 曇 天 の 上 海 に 相 應 し い 、 特 に こ
おも
い ま わ たし
よう い
ざん ねん
かう
或るひは 迷 惑 は 思 はれ、「 近 作 」もこゝに 合 せ 引 用 せねばな
めい わく
の 歌 は 、 齋 藤 茂 吉 氏 の 歌 に お け る 風 格 さ う い ふ もの が 感 じ
られる。
ちう
ゑ
はい
も つと
どう し
あま
わ たし
さいし よ
か んが
き と
か
=
が き
さう き い ぐ わ い
く
顧 みれば、私の 最 初 の企圖である「我鬼抄」想 記以 外 に、
か へり
らないが、今 私 にその 用 意がないのは 殘 念 である、いづれ 稿
しゆ
窓のへにいささむら竹軒のへに糸瓜ある宿は忠兵衛が宿
どう
を新たにし、もつと 私 も 考 へたい。
こ ざは
きみが家の軒の糸瓜はけふの雨に臍腐れしやあるひはいまだ
は
「小 澤 碧 童 に」の二 首 である、 忠 兵衛いふとのは 俳 人碧 童 氏
な まへ
ちう
ゑ
ずゐ ぶん
はし た とう せい し
つゐ たう か
し か
芥 川 龍 之 介 氏の 死 書
あく た か は り う の す け し
余 り に い は で もの こ と を 書 い た や う で あ る 、 そ れを 悔 い つ ゝ
うた
せめて も、 橋 田 東 聲 氏の 追 悼 歌
ぢう し
も 重 視し た 歌 で 、「 忠 兵 衛が 宿」 も 隨 分 き いて ゐ るし、ま た
の名 前 である、いはゆるアララギ派のリズムといふことを 最
かげ
つる
に
かう
たか
ふで
ひと
し
=
いな
こと
おほ
はか
ら
せ つぼ う
み
ほん かい
い み
あく た か は し
たん かう ぼ ん
しんじつ
かんが
さく ひん
ぜん しふ
むか
ど てい せい
せい こう
してなされた 多 くの一團 本 界 にとつて一つの 眞 實 がまだ 迎 へ
ふ き
せいぜん
ほ く わん
き
ど
は つ へう
お
た し よ かん か う え ん
こと
ぎ きや く
ぜん しふ
てい ほん
なか
ま た あく た か は し
おさ
いふ 事 を聞いてゐるその他 書 簡 、講 演 ノートなど、叉 芥 川 氏
こと
を 加 へ て 保 管 し て置 い たの が こん どの 全 集 の 底 本 と な ると
くは
コ リ 性 の 芥 川 氏が 單 行 本 と し て 出 し た 作 品 に 一 度 訂 正
しやう
を 納 め る 事 を 切 望 す る ので あ る 。
をさ
く もの も 面 影 さへ も 鶴 に 似 て け 高 き 人 を 死 な し め に け り
き
られるか 否 かを 計 り見るバロメーターとも 考 へられはしな
こと
い だ ら う か。 わ れ 等 は か ゝ る 意 味に お い て もこの 全 集 が 成 功
お どろ
和二年八月二〇日朝刊六面〕
せい
を附記さしてもらひ、この 稿 の 筆 をおく。(完)〔「京城日報」昭
全集となる芥川の作品
百ヶ日に豫約を締切る
じ さつ
こと
じゆん
く わん
こ しませい
おほ
もん だ い
いな
じん せい
いん
にち
み づか
すゝ
なみだ
ひき う
つく
い そが
いは
こと
いう じん
ぜんしふ
は つ へう
だ んか ん
へん し ふ
く しん
にん
おほ
かん かう
に ち ま へ けい たい
かう だう
芥川龍之介追悼
文藝講演會雜記(上)
しよ し
こと
もら
た
もと も
し たし
さう
あく た か は し
や な かは り う の す け
つと
こ じん
ら
たる
あく た か は り う の
平 井 保興
とき
く
おも
おも
みな ぶん だん
たい ど
東京
ぶ ん げい し ゆ ん し ゆ し や し ゆ さい
こ
いは なみ し よ てん
どう に ん
こ あな り う
もら
じ だい
が 生 前 一度も 發 表 した 事 のない戯 曲 がこの 中 に 納 められて
あく た か は り う の す け し
ちや う ど
芥 川 龍 之 介 氏が自 殺 して、一 世 を 驚 かした 事 はまだ記
とこ ろ
ゐるといふ 事 などもきいてゐる。その他、 柳 川 隆 之 介 といふ
おく
憶 に新しい 處 であるが、 丁 度今日がその百ヶ 日 にあたる。
まう ら
ご じん
よ やく ぼ しふ
むか
せい こう
おほ
まさ を し
にち
ペ ン ネ ー ムで 發 表 し て ゐた 時 代 の もの も あり す べて 芥 川 氏
じ ゆん び
あく た か は し
ま つた
よ
ぜん しふ
そして 芥 川 氏の 全 作 品 を 網 羅 し た「 全 集 」が その 百 ヶ 日
の書いたものは 斷 簡 れい 墨 も 洩 さぬやうに 努 めてゐる 相 であ
あ いだ
しめ き
おほ
ぜ ん さく ひん
の 間 に 全 く 準 備をとゝのへ、豫 約 募 集 をし、 因 縁 深 い今
る。 裝 幀に 苦 心 して ゐ る 小 穴 隆 一 氏は 故 人 の 最 も 親 か つ
こ
ぜん しふ
ぜんしふ
ゐ かう
こと
かん かう
ぜん しふ
ぼく
日 そ の 申 込 み を 締 切 ら う と し て ゐ る。 吾 人 も こ の 人 生 の 殉
た 友 人 の 一人、 編 輯 にあたる 同 人 は 皆 文 壇 にそ う
おも
けう し や あく た か は し
し
ぜん しふ
ぜん しふ
い せん しん り つ は
か
敎 者 芥 川 氏 の 全 集 が 大 いに 世に 迎 へ ら れる 事 を よ そなが
諸 氏 で あ り そ の 刊 行 を す る 岩 波 書 店 の 態 度を 思 ふ 時 わ れ等
いの
こと
いうじんしよ し
きく ち く わん し は じ
た づさ
ふか
ら 祈 つてやまないものであるこの 全 集 が 成 功 するか 否 かとい
〔「京城日報」昭和二年一一月二日朝刊六面〕
はこの 全 集 に一 人 も 多 く申込んで 貰 ひたいと 思 ふのである。
おも
ま たへん し ふ
き も さく し
と う ほ ん せ い さう
ゐ ごん
お
し
ふ 事 は、氏が 思 ひを遺された遺 稿 のためにも 大 きな 問 題 であ
しん じ
なか
かは し
ねん と う
さう
ら う し 、 叉 編 輯 に 携 は つ た 友 人 諸 氏 に と つて も 大 き な 關
さ
心 事 で あ ら うと 思 ふ 菊 池 寛 氏 初 め 、 久 米 正 雄 氏、 小 島 政 二
らう し
郎 氏 、佐 々木 茂 索 氏な どこの 全 集 のために 自 ら 進 ん で 忙
き
しい 中 を 東 奔 西 走 さ れて ゐ る と い ふ 事 を き く だに 涙 ぐ ま し
えい り
い 氣 が す る。 芥 川 氏の 遺 言 に よ り 全 集 の 刊 行 を 引 受 け た 岩
せん げん
やう
さい
じゆん しん
ぜん
にく よう じ
とう きやう
だい
四 五 日 前 慶 大 の 講 堂 で、 文 藝 春 秋 社 主 催 の 芥 川 龍 之
なみ し
しゆ がん てん
ゆ
波 氏 も 、 營 利 を 念 頭 に 置か ず 一意 專 心 立 派 な 全 集 を 作 る 事
えい り
とき
介 追 悼 文 藝 講 演 會 が あつた 時 、行きたかつたのだけれど
いな
す け つ ゐ た う ぶ ん げ い か う え ん く わい
を 宣 言 し て ゐ る。 こ の 様 に 一 切 が 純 眞 に な さ れて ゐ る 「 全
せい こう
だい
も、 生 憎 用 事 の た め そ れが かなは ず 、 こ の た び 東 京 で 第 二
しふ
よ やく ぼ しふ
集 」 の 豫 約 募 集 が 成 功 す る か 否 か は 營 利を 第 一 の 主 眼 點 と
かう えん
まる
うち
はう ち かう だう
はう ち かう だう
き
き
けい たい
こと
ため
かう だう
こと
ひざ
わ たし
で き
うへ
つく え
べん り
かん たん
き
じや く
なや
てき し
の
のち
かん たん
なや
ぼう とう
むす
ふ たゝ
じや う ぶ
し
さく ひん
し ん たい
とうだん
たい
し
れい
べや う
し ん けい す ゐ じ や く
うち
ぶ し う た らう し
じや う ぶ
あ らは
し ん たい
し ん たい
る事に致します
じつ
とま づ 冒 頭 に 述べ、 身 體 を 丈 夫 に す るこ と … … 身 體 を 大
く わい め
回 目の 講 演 を 丸 の 内 の 報 知 講 堂 で 聞く 事 にし たが、 私 は
切 にしなければならないといひ芥川氏が痼 疾 の 神 經 衰 弱 に
そく き
い す
そく き
も つと
はし
(ママ)つゐおく
しつ
實 の と ころ 報 知 講 堂 で 聞くよ り は 慶 大 の 講 堂 で 聞き たか つ
ち や う かう し や
せつ び
せつ び
そう め い
かゞ や
しう し をんじや うてき
え
あか
次ぎは ( 追 憶 二三」といふので南部 修 太 郎 氏の 登 壇 。氏
つ
し
たの で あ る。 と い ふの は 速 記 を と り た か つ た 爲 で あ る。 慶 大
惱 ん で ゐ た と いふ こ と か ら 、 芥 川 氏の 作 品 の 内 に もそ の 病
けい だ う
だ い よう
せい
ち や う じ かん た
せつ
の 講 堂 で は 聴 講 者 の 或 る 一部 分 の 椅 子に は 、 簡 單 な 机 を
弱 に 對 する 惱 みとい ふものが 現 れてゐるといひ、その 例
あたま
けい たい
代 用 す る 設 備 が あ るの で 、 ち よ つ と 速 記 を と る に も 便 利で あ
を一二 摘 示した 後 、 再 び 身 體 を 丈 夫にしなければならな
お
はう ち かう だう
ず ゐ ぶ ん く つう
な い で も な い が 、 そ れは 随 分 苦 痛 で あ り か つ 長 時 間 堪 へ う
したが
たい
るが 、 報 知 講 堂 には さうした 設 備が ない…… 最 も 膝 の 上 に
いといふことで 簡 單 に 結 んでゐた。
ぶ ぶん
ノー トを 置き 頭 を さげ 背 を 圓 く し て ペ ンを 走 ら す 事 は 出來
そく き
かく かう し
かうえん
す
ないよう
ころ
こ とは
かん たん
かう
あま
で ゆく 。
り やう う で
よう
ちう おう
はん しん
めいかい
こ ゝろ も
さ
は 聰 明 に 輝 くひとみ、終 始 温 情 的 な笑みをたゝえてゐる 明
わ たし
すこ
はこ
る もの で な い … … そ れで 速 記 を と るの は 止 め に し た 。 從 つ て
×
しやう ご
げん じ
る い 容 貌 で 、 テー ブ ル の 中 央 に 上 半 身 を 心 持 ち か ゞ め 、 左
ほ どが いね ん て き
×
お
右 の 兩 腕 を テ ー ブル の は し に さ ゝ へ て 、 明 快 に 言 辭 を 運 ん
が いね んて き す
私 がこれから記してゆく 各 講 師の 講 演 の 内 容 は、簡 單 で 余
ご ご
じ
り に 概 念 的 過 ぎ る 程 概 念 的 な も の で あ るこ と を 斷 つ て 置 く
かい さい
み
じや う ぐわい
あふ
雄君が風邪を引いてゐるから應援を賴むといふので、突然に
よ ち
ち や う かう し や
私はプログラムにも乘つてゐません通り飛入りで……久米正
じや う な い り つ す ゐ
だん ぢよ がく せい
開 催 は 午 後 一 時と い ふ に 、 正 午 を 少 し 過 ぎ た 頃 す で に 講
かた
てい こく
だう
堂 の 大 方 は 男 女 學 生 の 聽 講 者 で 滿 ちて し ま つた。 そ うし
はく しゆ
かい く わい
じ
さ
き
へてみ たので すが 、どうもいゝ考へが浮びませんので 、「追
ごと
せいくわいふり
出て來たやうなわけでして、さて何にを話さうかと色々と考
らい
て 定 刻 に は 場 内 立 錐 の 余地 もなく、 なほ 場 外 に 溢 れる
も のか ず し
者 數 知れずといふ 盛 會 振 である。
た
かる
みぎ
て
もこちらに來る電車の中で考へたのですが、その時ふと芥川
ち う (マ マ ) ふ
憶二三」といふことで何にかお話をしやうと思ひまして、今
し
夫 に立つて、右 の手
とうだん
て
うへ
や が て 萬 雷 の 如 き 拍 手 の もと に 開 會 の 辭 とあ つて佐 々木
も さく し
茂 索 氏が 登 壇 する。氏はテーブルの 中
をさ
きは
くち はや
こ たん
(マ マ)
君が亡くなつてから今日で幾日になるかと思ひまして一つ二
ふか
せい し
を ズボ ン の ポケ ツ ト 深 く に 納 め 、 左 手を テー ブル の 上 に 輕 く
君が亡くなつてから九十日目に當るのであります……私は今
つ(指折り數へる)と數へてゆきますと、丁度今日 て 芥川
でも芥川君が亡くなられたとは、どうしても思へないのであ
は なし
ちやう しう
の せ て 、 聽 衆 を 正 視 し なが ら 極 め て 口 早 な そ うして枯 淡 な
私は講演會の仕事や芥川の全集の出版の仕事で急がしいの
てう し
調 子 で 話 て ゆ く。
ります。かつて夏目漱石先生が亡くなられた當時、久米正雄
とい
が―先生がどうしても亡くなられたとは思はれない
―
んので地方で講演する「肉體と文學」といふ話を簡單に述べ
で、この講演で何にを話さうかといふ準備も出來てをりませ
おく
あき う ら
せう はん
かう えん く わい
だい
ます
おく
き さい たい あく た か は り う の す け
か きや う
い ま ひ や う ばん
をとこ
次
つゐ
郎
こ し ま せ い (マ マ ) じ らう
かうだん
ま れた 秋 麗 らかな 小 半 日を 一 代 の 鬼 才 大 芥 川 龍 之 助 を 追
はくしゆ
あらは
ぶ し
うことをよくいつて居られましたが、私は芥川君が亡くなつ
やぶ
やがて 破 れんばかりの 拍 手 に 送 られて南部氏が 降 壇 してゆ
憶 す るに ふ さはし い 講 演 會 は 益 々佳 境 に は いつて ゆく。
(マ マ)
えん だん
たとはどうしても思へないのであります。今でも芥川君が彼
ま
のぎつしりと詰まつた本棚を脊にして、愛煙してゐた ベ ツ
し
おほ
くと間 もなく 演 壇 に 現 れ たの は 今 評 判 の 小 島 政
い み
氏であ る。
いろ
トを斯う口にくはえ(右口唇に左の人指し指て煙草を深くく
し
はえた時のやうにして見せる)すばりすばりとバツトを吸つ
とも
れい
たい
げい じゆ つ
たい
み
いま し
めん
ひと
じ ぶん
ねつ しん
あく た か は し
こ
ねつ
れい
とく
かん
だい
し
よう
はい
へう じや う
た い く な い し げん じ
つう
あく た か は り う の す け
うち がは
かへ
をは
はじ
みぎ
つゞ
ち う お う ひだ り
かへ
し
ふう
さく か
ど うさ く
…そんなわけで東京で講演するタネがまだ仕込んでありませ
と 明 るい 表 情 を 終 りまで 續 けてゆく。
あか
身 體の 位 置 を 換 へ 初 め 、 夫 を く り 返 し な が ら 、 そ の 動 作
ゐ ち
と 氏 は テー ブ ル の 内 側 を 右 端 中 央 左 端 と い ふ 風 に 、 そ ろ
し
すが、
それも合せてお聽き下さると甚だしあはせに存じます。
日に歸まして三十一日の日、朝日講堂で再び講演會を開きま
夜行で盛岡の方へ田舎廻りの講演に出かけます。そして三十
いものですから……今日此の講演が終へますと、十時卅分の
東京の講演の事や、地方の講演のうち合せや何にかで急がし
み
氏は 色 々な意味で なんとなくスケールの 大 き な 男 だ と い
ふか
し
てゐる姿がよく目に見へます。また私が書齋で讀書でもして
ゐ き
ちや う しう
ふ 感 じを氏の 容 貌、體 軀乃 至 言 辭を 通 じてうかがはれる 作 家
おほ
ゐるとき 、「芥川 さんが お見得でございます」と女中が取り
の
である、「後 輩 の見たる 芥 川 龍 之 介 」これが氏のいはんとす
かん が い ふ か
つぎに來るやうに感じられる時が今だにあります。
な さけ
る 題 である。
つゐ おく
あく た か は り う の す け
かん たん
あく た か は し ほ ど げ い じ ゆ つ
じ かく
しや くわい
く
と 感 慨 深 さうに述べて ゆけば、 多 くの 聽 衆 と氏と 共 に
あく た か は り う の す け
き はい
芥 川 龍 之 介 の 追 憶 の 情 こ ま や か な 雰 圍 氣に 、 深 くつ ゝま
ぶん だん
れてゆくやうな氣 配 だつた。〔「京城日報」昭和二年一一月八日朝刊六
面〕
(中)
し
し ん けん
か く て 氏は 文 壇 人 と し て 芥 川 龍 之 介 の 藝 術 に 對 す る 熱
い
はん ゐ ない
意と、 眞 劒 と自 覺 などを 簡 單 な 例 を ひ いて 、 自 分 の 今 知 る
しや くわい
範 圍 内 において 芥 川 氏 程 藝 術 に 對 して 熱 心 な 人 を見た
ぶん だん
もの か た
か れん
もの
ぢよ がく せい
べん
まん じや う
めぐ
そこ
んので(笑聲起る)最も私の芥川觀は 旣に新聞や雜誌で書き
せう かい
ことは ないと いひ。 ま た 社 會 人 と ての 芥 川 氏の 一 面 を 例
せい
ゆ う べん
古されてをりますのでよんどころなく田舎廻りのタネで(再
つゐ おく
して 紹 介 し 、 文 壇 人 と して ま た 社 會 人 と し て の 故 人の 徳 の
ふか
はい
ほの お
と 雄 辯 に 物 語 つてゆけば、 滿 場 は水 底 の
み
し
追 憶 を しみ
るやうに聽へまして甚だ失禮ですが…田舎廻りのタネで御許
び笑聲)…田舎廻りなんていひますと地方の人を侮辱してゐ
なみだ
ちやう しう
〲
やうなしめやかな 深 い 靜 寂と、氏の 炎 の やうな 辯 によはさ
かん げき
すう
も、まだ芥川さん程偉らくありませんので、如何かと思ひま
しを願つて置きます最も私が偉らさうなことを饒舌りまして
れ た 數 千の 聽 衆 は 身 じ ろ ぎ 一 つ せ ず 可 憐 な 女 學 生 な どは す
で に 感 激 の 涙 を ひ と み 一 杯 う か べ て ゐ る 者 さ へ あ つ た。 惠
( マ マ)
こ じん
とく
して(笑聲起る … 最も芥川さんと私はたつた一つ違いなん
さら
ご
ゐ くみせい じ し
きん だ い
さく ひん
きん だ いぶん げい
とく ちやう
とく ちやう
だい か
その後を井 汲 淸 治氏が「 近 代 文 藝 の一 特 徴 」といふ 題 下
ない よう
も つと
は つ へう
と く ぎ じや う
だう
と く ぎ じや う
もん だ い
おも
べ つ もん だ い
さく ひん
を 、 近 代 に お い て は 堂 々 と 發 表 を し て は ゞ か ら な いや う に な
きん だ い
さく ひん
の も と に 近 代 の 作 品 の 一つの 特 徴 と し て 、 か つて ま で はそ
わら
の 作 品 の 内 容 が、 徳 義 上 如何はしく 思 は れるや うな 作 品
まん じや う
と 諧 謔 を ま じ へ て 滿 場 を どつ と 笑 は せ 、 更 に 故 人 の 徳 を
ですが、芥川さんはあんなに偉らくつて私は…
たゝえてゆく。
かう せ つ
さら
さく ひん
ごと
ろん
が ふ べう く わ い
の
つ た … … 最 も 徳 義 上 如 何 の 問 題 は 別 問 題 と して … … か ゝ
ぎ かう
しんてう しや
とく ちやう
すなは
たと
私は芥川さんに啓發されてゐる處は少くありませんでした…
ろんきふ
きん だ い ぶん げい
な い ざい て き か ち
ぶん しやう てき か ち
ひや う
こと は
何 等 外 在 的 價 値 ( も し もか う し た 言 葉が い へ る な らば と 註
な ん ら ぐ わ い ざい て き か ち
その 作 品 の 内 在 的 價値、 卽 ち 技 巧 の 巧 拙 のみを 論 じて、
さく ひん
ひ ひや う か ち
けい かう
る 傾 向 が 近 代 文 藝 の 一つの 特 徴 であると述べ、 更 に 作 品
( マ マ)
ひき
せ わ
…私が結婚するとき芥川さんが仲介人でありました(笑聲起
れい
ひと
の 批 評 價 値 に 論 及 して、 例 へ ば 新 潮 社 の 合 評 會 の 如 き 、
しやう
る ( ……佐々木茂索だつてさうなのであります。
まん じや う
し じ しん
と 滿 場 を 笑 醉 さ せ て ゆ く。 そ れ か ら 人 の 世 話 を よ く や つ た
あく たかは し
はげ
けつ
な い ざ いて き か ち
さ と うは る を し
みち
す ) … … 文 章 的 價 値 に は そ の 評 を およ ぼ さ な い と い ふ や う
あひ
ゆ
私が家を持つたに就て、芥川さんが一軒めつけて呉たのです
芥 川 氏を氏自 身 の 例 を 引
かう だん
ぶんがく
げい ひ は ん
な 事 柄 から、 將 來 の文 藝 批 判 の行くべき 道 は、内 在 的 價値
(下)
ろん
ぐ わ い ざい て き か ち
し や うら い
が、御承知の通り昔の建築は兎も角、近頃の安建築になりま
論 を 下して 降 壇 す れば 〔「京城日 報」昭和二年一一月九日朝刊六面〕
と 外 在 的 價 値 と 相 ま つて ゆ く べき で は な か らう かとい ふ 結
ことが ら
た家は此の米材が使つてあつたのです。然し折角めつけて下
すと、柱に米材が使つてあります芥川さんがめつけて下すつ
すつたので、御好意を無にしてはと思ひまして住むことにな
つたのですが、御承知の通り米材はヤニを澤山もつて居りま
す。ですからうつかり柱に寄りかゝりますと、ヤニがべつと
はく しゆ
むか
とう だん
―
あく た か は
わ たし
とも
しつ
つ ぎ は 「ヒ ス テ リ ー と 文 學 」 と い ふ の で 佐 藤 春 夫 氏 が 激 し
がく ろん
し ん けい す ゐ じ や く
ひだ り
みぎ
うで
芥 川 も 私 も 共 に痼 疾 の
ぼう とう
し
ぶ
しん
ちう
と い ふ 言 葉 を 冒 頭 に し て 、 い は ゆ るヒ ス テ
は い
が
はな
かほ
央 に 左 ひ じ を つ い て 右 の 腕 を テ ー ブル の 一 部に さゝ へて 身
おう
こと は
い 拍 手 に 迎 へ ら れて 登 壇 す る
( マ マ)
―
りと衣類につきまして、容易に離れ難くなります。ですから
の
神經衰 弱 で
とくかう
小島の家は後ろ髪を引かれるやうな家だと、友人からよくい
うへ こ
はれました。
わら
リーと 文 學 論 に 這入つてゆくのであるが、氏はテーブルの 中
さか
と 盛 んに 笑 はせた 上 故人の 徳 行 を二三述べた後
ちう しん
げん
し
く つう
く ひ かく て き ち ひ
ひ じや う
體の 中 心 をは か り 、 う つむ き 勝 ちに 話 し なが らと きど き 顔 を
し ん けい す ゐ じ や く
芥川さんといふ人は直接といふよも間接に多く人に親切を盡
み
上げるのだが、神 經 衰 弱 のためであらう、氏は非 常 に苦 痛
あ
された方であります
かうだん
×
の や うに 見へ る… …その 喘ぐ や うに し て 一 言 一句 比 較 的 小 さ
むす
×
と 結 んで 降 壇 する。
ろん じ ゆつ
かん
し
やう す
み
し
わ たし
とも
ひ じや う
わ たし
た りやう
の
の
す
ほど い しき
た
もう ろ う
いま すこ
すゐ みん や く
いろ
ふか
じゆ つ く わ い
かん が い ふ か
かん が い
だん じや う
と き あく た か は し
じや う
し
し
し
と ころ
ちや う しう
で き
多 量 に 呑み 過ぎ二 日 程 意 識 が 朦 朧 と して 今 少 し で 死 ぬ 處
おん せい
どく
こ じん つゐ ぼ
し
であつたと述べ、その 時 芥 川 氏が 睡 眠 薬で 死ぬことが 出來
き
とも
うご
な 音 聲 で 論 述 し て ゆ く 氏の 様 子 を 見 て ゐ ると 、 私 は 非 常
ろん
いま
で
に氣の 毒 のや うに 感 じ られて、ともすれば 氏と 共 に 私 もな
ため し
あま
き
おも
ると いつ たと、 氏に して は そ れは 感 慨 深 い で あ ら うところの
き も
き
ん と な く 喘ぐ や う な 氣持 ちに さへ な つて ゆく。 そ の 爲 氏の 論
わたし
き おく
思 ひ 出 に 泌 々と し て ゆ けば 、 壇 上 に 述 懷 す る氏 も 聽 衆
(マ マ ) し や
す
おそ
えんりよ
さ たん
た
ぶんがく
く わん し や う
で ばな し
ふか
ぶんがく
ほんろ ん
さい
とめ
み
つう
こと
み
み
は い
で き
さい
ぶ ん げい
の
つう
たと
たい
いま
くわん
こゝに海を見るとする、その 海 を見るに 際 し 、そこに海に 關
み
る と き 、 そ こ に 美 の 深 さを 見 る 事 が 出 來 る と 述 べ 、 例 へ ば 今
び
一 つ の 物 を 觀 賞 す るに 際 し て 、 そこに 文 藝 を 通 じ てみ
もの
おも
も 共 に 故 人 追 慕 の 情 に 堪 へぬ 感 慨 の 色 が 深 く 動 い て ゐ た 。
ばく ぜ ん
ろん し
が 私 に は つき り と聞き と れ なか つ た し 、 余 り に 今 の
者
わ たし
ぼうとく
ぶ ん げい く わ ん し や う
×
私 の ■ に 漠 然 と し 過 ぎ て ゐ る 論 旨の 記 憶 を こ ゝ に 記すこ と
ろん し
×
きく ち く わん し
うつ
やがて 思 ひ出 話 をそれに 留 て 本 論 に 這入つてゆく。
し
とうだん
い ぎ
は、氏の 論 旨を 冒 瀆 する 恐 れがあるので 遠 慮 することにして
つ
たい く
次ぎに 登 壇 した 菊 池 寛 氏の「 文 藝 觀 賞 とその意義」に 移
お
しん たい
ふ に あひ
ちひ
こえ
び
み
ぶんがく
で き
み
やま
やま
み
び
かん
する 文 學 ……海の 文 學 を 通 じて見るとき、その海に 對 して一
かれ
じ やう
やま
やま
氏は 彼 のどつしりとした 體 軀でテーブルの左 端 に立つて、
し
ることにする。
まい
かた
め
しめ
め
しやくほど あ
へん
みぎ
て
へん
しめ
さら
もの
うへ
ひだ り て
ちうかん
あ
みぎ
いま
たん
て
みぎ
かる
ぶんがく
しめ
て
め
つう
じや う めん
ちや う ど
しめ
ぶ ん げい
もの
かみ
め
つう
は 丁 度この 邊 に な る(と 左 手を テー ブルの 上 面 と、 神 の
ちやう ど
上 面 から一 尺 程 上げて 示 し)
そう し て 文 學 を 通 じ て み る眼
じや う めん
つぎ に 神 のみ る眼をこの 邊 と する(と 右 の手をテーブルの
かみ
ゝの 處 とする(とテーブルの 上 を 右 の手で 輕 くなでゝ 示 し)
と ころ
を み る と 假 定 して そ の 一 つ の 物 を た ゞ 單 に み る 眼 を 丁 度 こ
か てい
じみ られ るもの であ ると述 べ、 更 に 、 今 こゝに 一つの 或を 物
の
ても 山 の 文 學 を 通 じてその 山 を見るとき、山 に一入の美を 感
つう
入の美 を見 るこ とが 出來 る。 さて こ ゝに 一つの 山 を見 るにし
げん かう
おも
原 稿 五六 枚 を机 上 に置くと、 身 體 に不似 合 な 小 さな 聲 で
かは し
芥川と私が或る時、數寄屋橋から日本銀行の方に向つて歩い
まづ芥 川 氏の 思 ひ出しを 語 つてゆく。
た時の事ですが、突然芥川が私の側から離れて五六間をへだ
ちう い
けつろん
かみ
とうだん
かうだん
め
ちか
すなは
◇
かみ
だい
ちか
み
鏡 花 氏、題 は「おやつ 頃 」氏
は小柄な 體 軀で 强い 近 眼 、そしてちよつと見ると、どこかの
きん がん
せん (ママ) きやうく わ し
め
みる眼を 示 す 右 の手との 中 間 に上げて 示 し)つまり 文 藝 を 通
君、馬には常識がないからね
君……君、どう
てた向側の方を急に歩き出したので私=
が
といひますと芥川が―君あすこに馬がゐるだ
したんだ―
い
といふのです、見るとなる程私逹が歩いてゆく先方
ら―
う
に馬がゐるのです。ですか―
ら
彼の馬がどうした―
の
と
― とい
―
さ いし やう
さい ご
し
聞きますと芥川が
あ く たか は し
かう えん り よ かう
ころ
結 論 して 降 壇 をする。
むす
おも
うつ
じて み る眼は 神 のみ る眼に 近 い、 卽 ち 神 に 近 いのであると
は なし
いま
で ばな し
と 話 を 結 ん で 、 芥 川 氏 が 細 小 な こ と に で もよ く 注 意 す
さら
とき ち はう
泉
ふのです。なる程馬には常識がありません。
の
とも
す ゐ み ん ざい
つよ
◇
をとこ
あく た か は し
あく た か は し
たい く
る 男 であると述べ、更 に 今 一つの 思 ひ出 話 に 移 つてゆく。
し
ねむ
こ
最 後に 登 壇 したのは
さい し
それは氏が 芥 川 氏と 共 に或 る 時 地 方 に 講 演 旅 行 に行つ
た 際 氏 が 眠 れ な い の で 芥 川 氏 か ら 睡 眠 劑 を もら ひ 、 そ れ を
ばん と う
くび
ちう おう
すが た
た
えん だん
し
まるで 頸 だけ出してゐるやうです
わら
たか
い
とまづ 笑 はせる。
あい けう
―
番 頭 さんよろしくの 姿 である、 演 壇 のテーブルが 高 いの
―
で
わたし
すん ほふ
し
すこ
もん か
かは
な まへ
なら
有 島 武 郎 と 芥 川 龍 之 介 と ( 一)
あり
おも
ひき
ほど
し よく ん
なに
な まへ
圭四郎
しゆ
き やう み
ざつ
有 島、芥 川 とかう二人の名 前 を 並 べてかけば 諸 君 は「ハヽ
を じ
ぼう とう
テー ブ ルの 中 央 に ちよ こ ん と立 つ た 氏は 愛 嬌 た つぷ りの好い
いた
アま た か 」 と 思 ふ だ ら う 。 そ れ 程 こ の 二 人 の 名 前 は 種 々 の 雜
はなし
わ
けつ まつ
き く わい
叔父さんである。「 私 はこれから 寸 法 といふことについて 少
うつ
こんにち
誌 新 聞 に 論 じられ 今 日 にいたるまで機 會 あるごとに、 興 味
はなし
ろん
しお 話 を 致 します。」を 冒 頭 にして、かつて氏が紅葉の 門 下
の 湧 く た び ご と に 引 あ ひに 出 され る。 一 た い 何 が われわ れを
たう じ
し し んぶ ん
で あ つ た 當 時の 話 に 移 る
どく
いた
かんが
―
もら
らう まん て き
有 島 と芥 川
あり し ま
さい
く
いう いん
わ
はな は
ぜ ん ざ く らゐ
なか
ぢよ せい
みち
けつ く わ
の 興 味を湧か
きや う み
こ じん
てん き ぼ
ぶ ん が く れ い さん
さい
さく ひん
じや う し
と
り せい
ひと
かは
人 道 主 義 者 有 島 は は なや か な 女 性 を 道 づ
じ ん だ う し ゆ ぎ し や あり し ま
思 つて 辛 抱 して 貰 ふことにする。
しんぼう
いま
かう させるの か。 しかもその 結 末 は いつで も きまりき つたや
いろ
わ たし
私は紅葉先生の玄關に居りましたとき、ある時先生の奥さん
どう え う
ぶんがく
うに「 敗 北 の 文 學 」であり、プロ 文 學 禮 讃 のための 前 座 位
こ らい
は いぼ く
が私に一枚の羽織を下さいました着てみますとそれが(とい
で し か な かつた。 し かも 私 は 今 ま た 「 點 鬼 簿」の 中 の 二人
つ
き
ひ乍ら兩手を袖の 中に 入れ 、
その袖口をブラブラ振つて見せ)
芥川
かは
を ひ つ ぱ り 出 さん と して ゐ る。 再 々の 誘 引 で 故 人 に は 甚 だ
げん きふ
丁度こんな具合で手が袖口に出ません。奥さんに聞いてみま
すん ほふ
お 氣 の 毒 の 至 り で は あ る が、 ど う もわ れ
は かま
すと大人並みにこしらへたのださうです(笑聲起る)つまり
のう やく しや
むす
おも
すや うな 考 へ させ るや うな 作 品 をの こ して おい た 結 果 だと
さら
こゝ ろ え
ひと
―
私の身體の寸法に合さずに作つたから斯うなつたのであう。
すん ほふ
と 述べ 更 に 能 役 者 の 袴 に 寸 法 を 言 及 しやがて
ひと
そら
はく しゆ
ゆふ や
おく
えい きう
す
ぜ んし や
じ めつ
そん ざい
こ どく
か いき ふ て き く も ん
き
き
かは り う の す け
げいじゆつ し じやうしゆ ぎ
み づか
しや
あり し ま た け らう
ほん
ち し き かい きふ
に い づ れ も 自 滅 し て い つた。 もは や 有 島 武 郎 と 芥 川 龍 之 介
こ ほり
れとして 浪 漫 的 色 彩 の なか に 情 死を 遂げ 、 理 性 の 人 芥 川 は
ひ び や
に ぎや
いろ
と 結 び 次ぎ に 古 來 よ り あ る 童 謡か ら 色 と い ふ こ と
むす
ひと
氷 の や う に 澄 み 切 つ た 孤 獨 の な か に 自 ら の 生 命 を た ち切 つ
かは
芥 川 さん と い ふ 人 は この 色 と い ふ こ と を よ く
ひと
き
―
さんといふ 人 はこの 寸 法 といふことをよ く 心 得た 人 であり
―
ました
こ ゝろ え
ろん
ていつた。 前 者 は 階 級 的 苦 悶 に後 者 は 藝 術 至 上 主 義の中
―
く
ちか
と 結 んで 賑 かな 拍 手 に 送 られ
を 論 じ 來て
かう だん
ひ
心 得た 人 でありました
て 降 壇 する。
あき
はた
あり し ま
かは
くわ い めつ
あり し ま
て き そん ざ い
か く て よ き 秋 の 日は 暮 れ 近 く 、 日 比 谷 あ た り の 空 に 夕 燒 き
うご
かには 果 して 有 島 芥川 的 存 在 は 潰 滅 して いつたであらう
しづ
い
ち し き かい きふ
は 永 久 に 存 在 し な いで あ ら う 。 し か し 日 本 の 知 識 階 級 の な
くも
じ さつ
そん ざい
に ほん
ち し き かい きふ
あり
か?いはゆる自 殺 せざる生ける 有 島 、芥 川 は日 本 の知 識 階 級
に ほん
雲 が 靜 かに 動 いてゐた。(完)〔「京城日報」昭和二年一一月一〇日朝
刊六面〕
かは
けい けん
しん
しやう へき
まへ
た
島 、芥 川 が 經 驗 したところの 深 淵と 障 壁 の 前 に立ちふさが
しま
の なか に 存 在 し てゐ ない で あ らう か? 日 本 の 知 識 階 級 は 有
けん
もし た
ち し き かい きふ
ひと
かれ ら
きや う み い
で き
ぞん
せ かい
そく し ん
ぜ う けん い ぐ わ い
ふ あん
そ いん
た せう に
め
こん ほん てき
どう き
すくな
しよ
ぜん
あり
こ じん て き か て い て き
じつ
なりうることは出來る。しかしながらその 動 機は 少 くともこ
かは
の 素 因 を 促 進 せ しめ た 根 本 的 の 契 機で は なか つた 実 に 有 島
あり し ま
有 島 、 芥 川 を 檢 討 す るこ とは わ が 知 識 階 級 に と つ て 興 味 以
つては ゐ ない だらう か? 若 立 ちふさが つてゐ るとするならば
く わん けい
じ かく
しやう へき
いま
かは
をして「三千世 界 は見開いた目」といはしめ、芥 川 をして「莫 然
じや う
ち し き かい きふ
しん
わ たし
み
上 の 關 係 を も つ て ゐ る と い ひ 得 る で あ ら う。 し か り 、 彼 等
そん ざい
あり し ま
に ほん
條 件 以 外 に 存 じ てゐ た 。
たる不 安 」といはしめたものは、かうした個 人 的 家 庭 的 の 諸
おほ
かは
々 の 多 く は 有 島 、 芥 川 が ぶ つ か つた と こ ろ の 深 淵 と 障 壁 の
あり し ま
さく か
は 存 在 して ゐるの だ、 日 本 の 知 識 階 級 の 自 覺 しつゝある 人
た
せ かい
み
め
かは
ばく ぜ ん
ふ
あ
し ぜ ん し ゆ ぎ さく
ほね
だう ちやく か
ちう
し まい
は ぐる ま
かう ほう
かぞ
あ
いう う つ
きやうねつ
なん びと
なかにうかゞはれはしないだらうか。チエホフとモウパツサン
また
私 は 今 この 二人に 多 少 似 通 つた 作 家 と してチエ ホフ とモ
まへ
おな
ごと
前 に立ちふさがりつゝあるのである。しからば 有 島 をして「三
( マ マ)
し
オパツ サンを 擧げ る 、「 鷗」「三人姉 妹 」にあらはれた 憂 鬱 と
さく ひん
かは
千世 界 は見開いた目」といはしめ芥 川 をして「 莫 然 たる不安」
くわんしん
あり
「死の 如 く 强し」や「赤 道 直 下」にあらはれた 强 熱 とアン
い じや う
ち し き かい きふ
か んが
日 本 の知 識 階 級 は一たいこの二人の 作 品 およ
に ほん
なん
と い は し め た も の は 一た い 何 で あ つ た か。 有 島 、 芥 川 は な ぜ
ニ ユ イ は 「 ど も 叉 の 死 」「 骨 」 や 「 齒 車 」「 阿 呆 の 一 生 」 の
じ さつ
わたし
自 殺 したか。 私 はそのことに異 常 な 關 心 をもつ。
く
さて われ
なに
や
に ん き さく
ふ じん
かれ ら
り さう
じや う
ちう ちよ
つひ
せ い さん
げん じ つ
げん じ つ
お く そこ
てつ てい
ぐう ざう
け つろ ん
えい
し ぜん しゆ ぎ
こ ち や う て き かん
を も つて 自 然 主 義 作 家 中 の 一の 高 峰 に 數 へ るこ と に 何 人 も
き
ぶんだん
び そ の 死に よ つ て 何 を 考 へ て る る か。 こ の 二 人は 同 じや
たう じ
情 とを 淸 算 して 現 實 の 奥 底 に 徹 底 せんとした自 然 主 義の
躊 躇 し な いであ ら う。 あ ら ゆる 偶 像 とげ ん 影 と 誇 張 的 感
にん き
ま じ め
か
うに 當 時の 文 壇 での 人 氣 作 家であつた。しかし 彼 等はまたそ
もの ご と
しん ぶん
の 人 氣にいゝ氣になつて矢鱈に「 新 聞 もの」
「婦 人 もの」を書
かれ ら
まけ
ば あひ
かん
もく て き
し よさん
きや く く わん て き
げん じ つ ばく ろ
し めい
し ぜん しゆ ぎ
が く て き せ い さ ん く わんけ い
し ぜん しゆ
しゆ がん
き じゆ つ
し ぜん しゆ ぎ
くわ
じ しん
も つと
げん じ つ
きふ そく
けん きは
ぶん がく てき し てう
せい き
理 想 は 遂 に「 現 實 はニヒルである」といふ 結 論 を得てあらは
どう や う
し
づま
きはしなかつた。また 同 様 に 彼 等は 物 事 を眞面目に見、かつ
うしな
そん ざい
い
れ た の で あ る 。 自 然 主 義 は も ち ろ ん 十九 世 紀の 急 速 な る 科
りやう しや
しや
じん せい
考 へ た。 し か も 彼 等 は い づ れも 「 人 生 の 行 き 詰 り 」 を 感 じ
學 的 生 産 關 係 の 所 産 としてあらはれたものであつた。しか
たい し や う
かれ ら
この 「 ど うに も な ら ない 人 生 」 の た め に 遂に 負 た。こ れだ け
しながら「自 然 主 義」なる一 種 の 文 學 的 思 潮 はそれ自 身 に
かんが
の
かう さつ
は た の あき こ
じん せい
な ら べ て み て も こ の 兩 者 の 存 在 と 死 は た し かに わ れ
目 的 に おい て 現 實 暴 露を 主 眼 として ゐ た、 し かも 現 實 の い
お い て か な る 使 命 を も つ て ゐ た か 。 自 然 主 義 は も ちろ ん そ の
ぜん しや
きや く ど
しゆ
考 察 の よき 對 象 た ることを 失 は ないであらう。この 場 合
りやう しや
く
前 者 に 波多 野 秋 子が あ り 後 者 に 「ス プリ ング・ ボ ー ト」た る
ざい れう
べやう て き ぜ う た い
か んが
いく た
せい
ま じゆ つ
し ほんしゆ ぎ き こう
せい き
つは らざ る 客 觀 的 な 記 述 と いふ ことは 一 見 極 めて 尤 も
けい す ゐ じやく し やう
どう じ
ばく
女人があるといふやうなゴシツプの 材 料 や 兩 者 ともに 極 度
ま
げん じ つ
と
じ だい
たと
てい
的 作 用 に よ つ て 糊 塗せ ん と は じ め た 時 代 で あ る、 例 へ ば 家 庭
て き さ よう
が 漸 次 そ の 複 雜 さを 增し 同 時にそ の カ ラ クリ を 幾 多の 魔 術
ぜん じ
き しよ き
らし い 考 へ で あ る 。 が こ れ は 幸 に して 十九 世 紀 よ り二 十 世
うなが
しや しやう
紀 初 期にかけての 現 實 の 暴 露であつた。それは資 本 主 義機 構
じ ん て き か て い て き ぜ う けん
どう き
ふく ざつ
ま た そ の 他 す べ て の 個 人 的 家 庭 的 條 件 を 捨 象 し て し ま つて
し
そ いん
の神 經 衰 弱 症 による 病 的 状 態 にあ つたといふやうな、
はなし
ぜ う けん
もちろんかゝる 條 件 は その 死の 動 機を 促 し た 一の 素 因 と
の 話 である
しゆ み
こと さら
けい し き び
はん ざつ
きは
さう れい
ろ こつ
ぎ れい
ぐん こ く し ゆ ぎ
とう
趣 味に お け る 殊 更 に 煩 雜 に し て か つ 莊 麗 な 儀 禮 、 軍 國 主 義
に お け る 形 式 美 と い つ た もの が 極 め て 露 骨 に た い 頭 し は じ め
てきせいしん
だい てき ふん
あらは
(二)
み づか
じ しん
ひ てい
じゆん
ふく
それ 自 らにおいてそれ自 身 を否 定 する矛 盾 を 含 むこ
し
し よ さん
い
し さう し
じ ゆん
み づか
かん たん
せつめい
べん し や う て き
い
じ しん
じゆん
わたし
せつめい
に ん げん
ひ てい
し やう
とう
べん し や う て き
ふく
つね
あた
じゆん
い ろん
人 は これを 簡 單 に 辯 證 的 と 說 明 するま さに 辯 證 的
ひと
―
と
しゆ
ち う く ん あい こ く
た の で あ る。 或ひ は 忠 君 愛 國 の近 代 的 扮 裝 とい つて もよ ろ
ぶ つ かい
たう ぜ ん
はく
で あ る。 思 想 史の 說 明 と して は 私 も こ れ に 異 論 は な い だが
もく て き
く わ が く て き せ か い く わん
かい ぼう
せい き
げん じ つ
だつ
しい。とにかくさういふ一 種 の■神化 的 精 神 の 現 れである。
し ぜん しゆ ぎ
しか るに自 然 主 義 はかういふいかめ しい 物 界 を 剝 奪 して 白
この 矛 盾 に 生きつゝあ る生ける 人 間 に と つては 常 に この矛
それ 自 らにおいてそれ自 身 を否 定 すべき矛 盾 を 含 むことは
ぜん しゆ ぎ
ちう
晝 の 下に 震へ 戰 く 現 實 の 解 剖 を 目 的 としてゐた。しかも 自
―
い ぎ
じや う
とき
ぐ たい て き けい たい
だい
え
い
みち
ゆ
い ぎ
い ぎ
い み
じんせい
し ぜん しゆ ぎ
け つく わ
みち
い
い み
ゆ
この 矛 盾 を 止 揚 す べき 統 一が 與 へ られねば
盾 の意義
じゆん
然 主 義 その もの は 十九 世 紀 の 科 學 的 世 界 觀 の 當 然 の 所 産
うら ぎ
たう じ
かい ぼう
ひ てい
たい
ならぬではないか。問 題 はこゝにある。しかもこの意義が見出
たん く わ
おち い
み づか
で あ る。 して み れば 自 然 主 義 は そ れ 自 ら の 母 胎 を 裏 切 ら ね
だせ な か つた 時 、 ま たは 見 出 だ して もこ の 意義を 意 味 づける
きや く ど
は め
し ぜん しゆ ぎ
ば な ら な い と い ふ 破 目 に 陷 つ た の で あ る。 す な は ち 當 時 の ブ
べ き 具 體 的 形 態 を と り 得 な か つ た と き 行 く べき 道 は た つ た 一
し さう
ルジヨア思 想 の 極 度に 尖 端 化 されたものはあらゆるものに
つである。それはニヒルの 道 である、その 結 果 は 人 生 の行き
さき
み づか
え
分 析 の メ ス を ふ る ふ こ と に よ つて こ れ 自 ら を 否 定 せ ざ る を 得
ち しき
かん たん
めい かく
ち しき
うけ と
き
はつ
ぎ
て い し やう
ほう く わい
めん
〲
だ かい
かた
ふくろ
し や く わいて き
み い
げん
だつきやく
きう しや じ つ
をさ
しや くわ いがく しや
ぼ つ らく
「 沒 理 想 」に 納 ま る
ぼ つ り さう
そ れ は 舊 寫 實 主 義の 提 唱 す る 社 會 的 人 間 、
こと は
し ぜん
げん
けつ
づま りと いふや う な こ とに なつ て く る。 自 然 主 義 は この 意味
い がく
ひと
みち
かい きふ てき
みち
なく な つ た。 け れ ど もその 分 析 の メ スの 先 からは 解 剖 ■ 上
わづか
ほん のう
はう
し つて き へん か く
だ かい
に お い て たし か に 動 き が と れ な く な つて 來 た ので あ つ た 。 結
たう た つ
で き
どう じ
うち こ
き
の 醫 學 の 知 識 の や うに 簡 單 に か つ 明 確 に 新 しい 知 識 を 受 取
極 こ れは そ の 藏 す るむ じ ゆんを 解 消 す べき 打 開 の 道 が見 出
すが た
しやう へき
てきしやしやう
しゆ ぎ
し かた
ふく すう
し ぜん しゆ ぎ
ほ う く わ い ぼ つ らく
てい
つたこれはなんで も 複 數 で 片 づ けるや うとする 社 會 學 者 の
けい き
かい せう
ることは出來なかつた。 本 能 に生きるありのまゝの 人 の
だせなくなつて來たのだ。どうにもならぬこの 袋 小路を 脫 却
―
し ゆが ん
どう じ
つ
うご
そ の 到 逹 し 得 た もの は 僅 に こ れ に 過 ぎ な か つ た 。 け
す べき 道
もく て き
え
し めい
ざう
姿
階 級 的 人 間 の 發 見に よ つ て 打 開 さ れ たの で あ るが 、 舊 寫 實
も
いう
きや く
だ し そ の 主 眼 と し た 分 折 的 捨 象 そ の もの が 同 時 に 方 法で あ
主 義に よ る 自 然 主 義に おい ては た か
し だ う げん り
す
り 目 的 であつたから。そこにこの 障 壁 を 打 越えて 質 的 變 革
じ や う たい
し や じ つし ゆ ぎ
を も た ら す べき 指 導 原 理を 持 ち得 な か つ たの で あ る。 同 時に
たう た つ
―
この 到 逹 せる 狀 態に おいてこ れはその 有 する使 命 を盡くし
か 景 氣の いゝ 言 葉を つ かふ と「 崩 壊 」 で あ り 「 沒 落 」で あ
よ り 仕 方 が な か つ た。 こ れを 一 面 よ り いへ ば 、 そ して い さゝ
え
ふん
たともいひ得ないのである。〔「京城日報」昭和五年二月一一日朝刊六
面〕
政 が ひ つ く り かへ つ た ナ ポ レ オ ンが 島 流 しに さ れた り し たや
せい
い ひ 草で は あ る。 が し か し 自 然 主 義 の 崩 壊 沒 落 は ロ シ ア 帝
ひ さう
かん じや う
と もな
まさ
き
とき
あり し ま
ごと
じ つ たい
あは
し たい
(ママ)じつ
てき がふ
げん
はん めん
ふ よう い
で き
わ たし
かく
けいく わい
あ らは
はんめん
けい もう き
たれ
し さう
じゆん
ふ だん
ほ しやう
き や う らく
じ いう しゆ
んでゐる。〔「京城日報」昭和五年二月一三日朝刊六面〕
し さう
しや
ひそ
反 面 に おいて 私 が いま いつたやうな矛 盾 が不 斷 に或ひは
ほそ
あたか
ば あひ
川がベロナール ー 實 は 猫 い
ぼ つ らく
(三)
ぶ ん げい ふ く こ う き
く わい しゆ ぎ
しゆ ぎ し てう
しよ き
せん
き
文 藝 復 興 期の 思 想 、 啓 蒙 期 の 思 想 、 自 由 主 義 し か し て 社
く なう
う な悲 壯 な 感 情 を 伴 ふロマンチイツクでは なくて 實 態 は
芥
かい (ママ)
もの い
あま
ふ あん
出來やう。輕 快 の 反 面 に不 安 があり、 享 樂 の■に苦 惱 が 潜
不 用 意にその頭 角 を 現 さないとは 誰 がよく保 證 することが
みじ
すが た
細 りつゝある 蠟燭の燈が 將 に消えんとする 時 の 如 く 哀 れにも
はつ
ねこ
慘 め な 姿 で あ つた、 そして 恰 も これは 有 島 の 死 體 か らウ
わ
ジが湧いて 發 見されたり
し や う けい たい
し ぜん しゆ ぎ ろん
で 死んだことはじつにこの鳴 物 入りの「 沒 落 」の 現
し
ら ず か カル モ チ ン な ら な は こ の 場 合 に よ く 適 合 す るの で あ る
―
が
象 形 態 で あ つ た ので あ る 。
くさ
ふり ま
おそ
かゝ は
あへ
し さう
こう せい
ち し き かい きふ
せ い さん
し き かい きふ
えいく わ
じ だい
會 主 義 ―こ れ ら の 主 義 思 潮 の 初 期 に お い て そ の 先 端 を 切 つ
わ たし
さう お う
ち しき
だ い へう
き う し さう
し ん ほ し さう
ち し き かい きふ
し ぢ
ぜん
う
しん ほ
し さう
あいだ
し はい
きふ
ち し き かい きふ
で き
て 代 表 さ れ る 舊 思 想 の 支 持 を 受 けて ゐ る 間 は 、 知 識 階 級 の
だ い へう
る 人 間 の知 識 を 代 表 す る知 識 階 級 の 思 想 が 支 配 階 級 によつ
に ん げん
してよ く なし う る ものであ る。 し か り不 斷に 尖 銳 化 し つゝあ
く わん けい
私 は 古 臭 い か び の は え た や う な 自 然 主 義 論 な どを 余 り に
じゆん
關 係 に 相 應 せ る思 想 を 構 成 した もの 、それは 知 識 階 級 に
し ぜん しゆ ぎ
たものは いづれも知 識 階 級 であつた。その時 代 々々の 生 産
し さう し じ や う
るゐ じ
( マ マ)
ふ
なが く 振 舞 は すこ と を 恐 れ る。 こ れに も 拘 ら ず 敢 て し たと
なか
し
いふのは思 想 史 上 において自 然 主 義がなしたやうな矛 盾 が
し さう
し よし や
なん
こ の 二 人 の 思 想 の 中 に や ゝ 類 似 し て あ ら は れ て ゐ るこ と を 知
しん
らんがためなのである。
とく ちや う
さて 親 愛 なる 諸 者 よ ?
ば あひ
さら
すゝ
し ん ほ し さう
し ぢ しや
ほ し ゆ し さう
かう ふく
し は い か い きふ
ほ しゆ
モ ダ ンエ ー ヂ を 特 徴 づ け る もの は 何 で あ るか。 ? キ ヤフ エ
るに この 思 想 が 更 に 進 んで その支持 者 た る支 配 階 級 の保 守
持 つ い は ゆ る 進 歩 思 想 は 安 全 に 進 歩 す るこ とが 出來 る、 し か
うら ぎ
し さう
であり、シネマであり、クララ・ボウでありジヨージ・バンク
し さう
せ い て き けい た い
だつ
あり し ま
だ ん ぜ ん は ん ぎや く
かは
せん
ロフトでありジヤズであり、マネキンであり、圓本であり、ダ
か 或 ひ は そ の 寄 生 的 形 態 を 脫し て 斷 然 反 逆 す る か の 選 一
思 想 を 裏 切る 場 合 、 こゝに 進 歩思 想 は 保 守 思 想 に 降 伏 する
つよ
てき じやうたい
ツチカツトでありラツパ・ズボンであり、そしてマルクス、エ
けい き
たい べつ
あ ひこ と は
げん だ い
し よ せん し や う し ん し や う めい
さう
し さう
ら
てき じやうたい
てん
たち ば
た
よう にん
ま じ め
ほ しゆ し
ほ し ゆ し さう
し は い か い きふ
たう て い し は い か い き ふ
せん
だんぜん はん
ら
しん ほ し
で き
か
的 狀 態 に た ち いた ら ねば なら ない 。 し か も 有 島 、 芥 川 は い
せつめい
ンゲルスであり、スターリン、ブハリンである。うぬぼれ 强き
し
づ れ も こ の 選 一 的 狀 態 の 立 場に 立つたの であ る。 彼 れ等 の
わ
せん かく
先 覺 の 士 は こ れ を 大 別 し て ア メ リ カ ニ ズ ム と ル シ ア ニ ズム と
つた。 か れ等 の 天 廩と もいふ べき 眞面目 さは 益 々その 進 歩 思
思 想 は 到 底 支 配 階 級 の 保 守 思 想 を 容 認 す ること が 出來 な か
ぼ つ らく
ひゞ
ます
「 沒 落 」のやうな 景 氣のよさそうな 合 言 葉でしかないのだ。
に 分 けて 說 明 す る。 し かして れは 所 詮 正 眞 正 銘 の とこ ろ
わ たし
けつ く わ
ら
想 を かつて遂 には 支 配 階 級 の 保 守 思 想に 斷 然 反 旗を ひるが
すくな
ざ だん
ち し き は ん ば い げふ し や
ふ じん ざつ し
少 くとも 私 に はこれほどにしか 響 かないのだ「 現 代 はテ
は く わん
じ だい
へ す に い た つ た。 し か も そ の 結 果 は ど う で あ つ たか。 か れ等
せ き じや う
會 の 席 上 で 葉 巻 の 煙と ともに い ひ得 る知 識 販 賣 業 者 の
く わい
ム ポ と ス ピ ー ドの 時 代 で す ね 」 と ひ な こ と を 婦 人 雜 誌 の 座 談
しん てん
ます
く もん
かれ ら
なか
やぶ
じゆん
いさ
せい くわつ
ふか
うち やぶ
つひ
じ が
どう し
お
わ たし
せい ぐわん
す
たい
わ たし じ ぶ ん
こと が ら
かみ
や しん
す
こ せい
ぢう し
は ん ぎや く
ぐう ざう
か ち
く わん けい
けう し さう
く わん きや う
けん
げん ざい
はん だん
しめ
とん
ぜ つ たい
こ せい い ぐわ い
こ せい
く わん きや う
ひつ えう
もよくしや うと いふ 誓 願 な り野 心 なり から生 れたことで は
し
でん とう
う
し
せい くわつ
い
よう きう
な く 、 私 が 現 在 の 私 自 分 を 住みよ くしや うた めの 必 要 か
し
し だい
かん たん
せい くわつ
ない ぶ てき えう きう
とら
ぼう ゐ
ふり ま
く わん きや う
わ たし
せい
の自 由 を捕へ うるため に 生きるが い ゝ」 ……が「個 性 以 外
じ いう
じ こ
は そ の 思 想 を 進 展 さ す こ と に よ つて 益 々 苦 悶 の 中 に お ち こ ん
こ ゝろ
し
ち しき
さい
し よ き べい こく いう が く ぜ ん
せ い く わ つ たい ど
し
あり し ま
ひ
で い つ た の で あ る その 思 想 は あ ら ゆ る 傳 統 を 打 破 つ て 勇 ま し
はん
ら惹き起こされた 事 柄 に過ぎないのだ」(自己の 要 求 )。これ
し
く も保 守 思想に 反 逆を 試 みていつたが、 彼 等の 生 活 は そ
は 前 時 代 に お い て 「 神 」 と い ふ 偶 像 に よ つて す べ て を 判 斷 せ
でん とう
せい くわつ
じゆん り はん
てん らく
ま じ め
み
ぢ
ん と し た キリ ス ト 教 思 想 に 對 す る 反 逆 で あ る と ゝ も に そ こ
しん えん
ち し き かい きふ
かは
かんが
で き
れが維持されてゐる 傳 統 を左 様 に 簡 單 に打ち 破 ることが出來
に 自 我の 發 見 が 生 じ 、 こ れの 價 値 が 重 視 さ れ た こ とを 示 す 。
ら
でん とう
あり し ま
さ やう
なかつた。そして 生 活 と思想は 次 第 に矛 盾 を 深 め つゝ 遂
同 時に この 環 境 と の 關 係 は 「個 性 は 環 境 に 頓 着なく
ゐ ぢ
に か れ等 は 死の 深 淵 に 顚 落 して い つ た。 知 識 と 生 活 。 思 想
その 内 部 的 要 求 を以て 生 活 す」べきであり「個 性 は 絶 對
なか
し
た 中 に 有 島 、 芥 川 は 眞 面 目 さ ゆ ゑ に 死 を も つて そ れ ら の 一 切
と 傳 統 。 知 識 階 級 の 矛 盾 離 反 す る 生 活 態 度の じ め じ め し
ば あひ
かい けつ
あり し ま
じゆ ん
の矛 盾 を 解 決 していつた。
にふ しん
けう し さう
え
じ
さ つ ほ ろの う
く わつ
せ つし ゆ
し
わ たし じ し ん
すがた
しゆ が てき
し たが
なほ
し ゆ く わん
つく
活 に 攝 取 す る ため に 私 自 身 の 姿 に 從 つ て こ れ を 創 り 直
く わん ぜ ん
の もの に 如 何 な る 暴 威を 振 舞 ふ と も こ れは 環 境 を 私 の 生
し さう
いま 有 島 の 場 合 を 考 へ て 見 る。 有 島 の 初 期 米 國 遊 學 前
かう
し
ま で の 思 想 は 完 全 に キリ ス ト 敎 思 想 で あ る 。 こ れは 札 幌 農
がく かう
え い きや う
し
わか
むね
め
しゆ ちや う
てき
し
せい くわ つ
けい かう
ご さら
し ゆ ん かん
すゝ
に
どう か う
げん
的 で ある。 氏の かゝ る 傾 向 は その後 更 に 進 んで 動 向 の 一 元
どく り つ けう くわ い
さなければならぬ」。氏はこゝでまつたく 主 我 的 であり 主 觀
いう しゆ ぎ てき
べい こく ぜ ん
たい
由 主 義 的 な 獨 立 敎 會 の 影 響 と の ため に 氏の 若 い 胸 に 芽 ば
し さう
てん
學 校 の 校 風 と そ れ に 刺 戟 さ れて 入 信 す る こ と に よ つ て 得 た 自
ねん
く く わく
ぜ つ ぼう てき
だ う し ゆ ぎ て きし ゆ ち や う
ひつ し
ほ んし ん
ば あひ
みち
た
のこ
けい けん
す なは
ひ やく
たれ
り ち
で き
ひと
し ゆ ん かん
ごと
ひと
ひ つえ う
ひ つと う ご
うしな
ど り やく
しゆん
きや う かい
し
を 主 張 し 「 わ れ わ れ の 生 活 に お い て 一 瞬 間 で も 煮 つま つ
しやう
えたものであつた。次に思 想 の一 轉 は 米 國 前 後にはじまり 大
ほとん
つ
ばん お ほ
とき
た場 合 に 立 つた 經 驗 のあ る 人 は 誰 で も知つてゐる 如 く、 人
こ じ んし ゆ ぎ
めい ろ
こ じん し ゆ ぎ
に ん げん
うご
正 五、六 年 までを一區 劃 とする人 道 主 義 的 主 張 である。
くわ てい
し
じ こ ほん ゐ
じ
は 本 心 か ら 動 い て か ゝ る 時 に は そ こ に は も う努 力 の 必 要 な
どう じ
だい
え
てつ てい てき
て つて い
同 時 に こ れ は ま た 個 人 主 義 に 徹 底 せ ん と す る も の で 、 この 時
た ゞ 一 の 道 の み が 殘 さ れ る。 し か して か ゝ る 瞬 間 が わ れ わ
ぞは な く なつ て し ま ふ。 卽 ち理智 分 別 の 境 界 は 失 は れて
てき ど りやく
わ たし
べつ
的 努 力 によつて得られたものである。氏はこの個 人 主 義を次
代 への 過 程 は 「 迷 路」 に描れたや うな 殆 ど 絶 望 的 な 必 死
せつめい
し
ほつ
く わん きや う
わ たし
しや くわい
じ つ げん
じ
し さう
けい かう
じん しゆ ぎ し てう
さい かう てう
さい せん たん
とく
た い し やう
たつ
はし
し よ ぞく
し よ ねん ど
きは
おう
し
てき
は
わがくに
しゆ
し ぜん
きは
ひと
はん
こ
れにとつて一 番 大 きな飛 躍 の出來る 瞬 間 である」
( 筆 頭 語)
ごと
ば あひ
わ たし
て つて い て き
ぎの 如 く 說 明 してゐる。「 私 は 徹 底 的 に自己 本 位の 人 間 で
ゆ
たち ば
に おいて 最 高 潮 に 逹 してゐるの であ る。 かゝる 主 我 的 な 個
くみ た
ゆ
人 主 義 思 潮 はま た 大 正 の 初 年 度に 旺 盛を 極 め た 我 國 一 般
ゆ
み ちび
あらうとしてゐる。この 立 場が 徹 底 的 に 實 現 されるやうに自
の 思 想 で も あ つ た 。 特 に 氏の 所 屬 し て ゐ た 「 白 樺 」 一 派 の 人
せい くわつ
く わつ
分の 生 活 を 導 い て行 か う と して ゐ る。 たゞ し 私 が 欲 す る
々 に は こ の 思 潮 の 最 先 端 に 走 つ て ゐ た の で あ る か ら 氏 もま た
は たら
ば あひ
し
所 の 生 活 を 組 立てゝ行くためにはやむを得ず 環 境 に
このや うな 傾 向 に あ つ たこ とはむ し ろ 極 めて 自 然 なことであ
しか
え
働 き か け て 行 か ね ば な ら ぬ 場 合 が 生 ず る か も 知 れ な い。 … 縦
と ころ
令 然 し か ゝ る 場 合 が 生じ て もこれは 私 が 社 會 を いく らで
ち し き かい きふ
た
けい もう き
とく ちやう
こ ゝろ
ちう い
つ た 。 こ れ は い は ば 、 知 識 階 級 の 啓 蒙 期 を 特 徴 づ け る一 の
い じや う
ラヂカリズムであつた。
き
た
もと
さい かう
し
かた
まも
さく ひん
じ いう
(四)
ぜん じゆ つ
ち し き かい きふ
かい きふ
いう
とく ちやう
しん ち し き
し は い か い きふ
うら ぎ
つゐ
前 述 したやうに知 識 階 級 の 有 する 特 徴 は 新 知 識 の 追
きう
う
はん
やぶ
せい くわつ
( マ マ)
ち しき
で き
たと
か
ゐ ぢ
せ い く わ つ たい ど
だい
でんとう
しん ほ
やぶ
で
さう
かん たん
らう どう
らう どう し や
かな ら
すゝ
かれ
せい くわつ
せう せ つ か
ち しき
でん とう
う
ち しき
及 にあ る。 が こ れが この 階 級 を 支 配す る支 配 階 級 を 裏 切 つ
じ
どう や う
はうしう
まも
「己れを主とする以 上 、他人にもおなじ 心 のあるのに 注 意
じ げふ
じ いう
た と き 、 問 題 は に ゝ に 生 ず る。 知 識 の 進 歩 は 必 ず し もこ
すべ
じ ぶん
し よ う 。 自 分 の 自 由 を 守 る と 同 様 な 氣 持 で 他 人の 自 由 を 守
たい と く
はう しう
さく ち う
ね (ママ)じんだうしゆ ぎ
じう ぶん
し
せう せ つ
なに
れに 伴 つて 生 活 態 度の 變 革 を もたら す ものでは ない。 何
え
こ じん し ゆ ぎ
で き
さく ひん
しゆ だい
へん かく
らう」
「 凡 ての事 業 とその 報 酬 とを自己のなかに 求 めるよう。
ゆ え と い つて 知 識 は あ ら ゆ る 傳 統 を 打 ち 破 つ て 進 む こ と が 出
はう しう
じ だい
しや
と もな
自 己 の 成 就 す る こ と 、 そ れ が そ の ま ゝ 報 酬 で あ つて そ の 他 に
來るが 生 活 は そ れが 維 持 さ れて ゐ る 傳 統 を さや う に 簡 單 に
は つ けん
た
は一の 報 酬 もあり得 ないことを 充 分 に 體 得 しや う」〈己れを
しゆ
じ
主 とするもの〉かゝる個 人 主 義に根さず 人 道 主 義は氏の 作 品
反 することになる。 例 へばいまこゝに 小 説 家があつて、 勞 働
打 ち 破 る こ と は 出 來 な い。 か く し て 知 識 と 生 活 は こ ゝに 相
しん
ずゐ しよ
き
の 隨 所 に 發 見 す る こ と が 出 來 る も の で あ つ て 、 ま た こ れを か
おし
き
し
おし
あい
うば
しや くわい うん
せいくわつ
こ さく
ど
か
に ん げん
ゑが
さい
ば
かれ
はな
でん とう
ふ まん
し ぢ
せ かい
きう らい
り つ は い はん
い ぜん
し ん こ う か いき ふ
むか
せい くわつ じやうたい
ふで
いう
ゑが
し よ さい
うへ
かん
かれ
よ
せいくわつたい
た せう
に ち じや う
かれ ら
せい くわつ
たん
かい きふ い し き
く わん
い し
かん
かれ
者 を 主 題 と し た 小 説 を 書くと す る。 この とき 彼 は 勞 働 者 の
けつ しん
ほ じよ
あい
の うじ やう
た く 信 じて ゐた時 代 の 作 品 は 氏の 作 中 その 最 高 峰 を 形 づ く
さい
ぶつ し
の
ち やう ほ
生 活 狀 態 を 描 き 出 す 場合 に 。 も し 彼 が 單 に 書 齋 の 机 の 上
さゝ
ほくかいだう
つてゐた。氏が 北 海 道 における四百五十 町 歩の 農 場 を小 作
で 書 かう とす る な ら ば 彼 は あ き ら かに そ こに ギ ヤツ プを 感 じ
し
人に 與 へたのも、一 切 の 所 有 關 係 を斷ち切つて、その 生 活
な け れば な ら な い 。 ま た か う し た 階 級 意 識 を も つ た 畫 家 が カ
い
た せう
ちう じつ
あい
あい
ゐ かん
た
をペンによつて 支 へやうと 決 心 したこともないしは 社 會 運
ンヴアスに 向 ふ 際 、 花 や裸 體 をのみ 描 くものとすれば 彼 はこ
じ こ
じつ じ
し よ い う く わん けい
動 に た い し て 多 少 と も 物 資 の 補 助 を 惜 ま な か つ た こ と もみ な
れに た い しあき ら か に 不 滿 を 感 ず るで あ らう 。 彼 等は い づ れ
あた
「 自 己 に 忠 實 に 生き ん が ため 」 で あ つた 。 し か も氏 は か ゝ る
もその 新 興 階 級 を支持すべき意志を 有 しながらその 生 活 態
せ い く わつ たい ど
けん か い
もの
せいくわつ
い し
どく り つ
裕 の あ る 人 間 な らま だ し も 、 一 管 の 筆 を もつ て 日 常 の 糧
いう
ぐわ か
生 活 態 度を 一 言 で 「 愛 」 で あ ると いふ 。 他 を 愛 す る と い ふ
く し て 二 律 背 反 の 世 界 は は じ ま る 。 こ れが 生 活 に 多 少 の 余
度は 依 然 と し て 舊 來 の 傳 統 に と ら は れて ゐ る のみ で あ る。 か
あい
まん ぞく
ら たい
ことが そ の 實 自 己 を 愛 すること なのであ る 。
「 愛 は 惜 みなく 奪
どう
ふ」によつてこの 愛 の 見 解 は遺 憾 なく述べられてゐる。
すゝ
このまゝで 進 んで 滿 足 してゐられればそれでいゝのである。
か い き ふて き く も ん
やつ
ど
お
すくな
く もん
せい くわつ
し だい
をうる 者 であり、しかも 生 活 のためにのみその意志とは 獨 立
はん
せ んた ん
あり
じやうたい
だ が 反 省 の メ ス は こ の ま ゝ に や む べき で は な か つ た。 そ し て
ま
つく
な 作 品 を 作 る べき 狀 態 に 置 か れ たとき 、 こ の 苦 悶 は 次 第 に
さく ひん
その 先 端 にあたつたものはお定りの「 階 級 的 苦 悶 」といふ 奴
ど
ほ しやう
ば あひ
その 度を 增して行 く。 有 島 の 場 合 に はま だし もかゝ る 生 活
ゆ
であつた。〔「京城日報」昭和五年二月一四日朝刊六面〕
の 保 證 が あ つ た か ら その 度は 少 か つた 。 し か しそ れ で も な
けう せ い
せ い ぎ かん
か う どう
わ たし
なに
な
せい じやう く わ
う
ち しき
で き
う ん どう
そだ
こん ほん てき し ぢ りやく
い ぐわ い
ち し き かい きふ
かん
らう どう う ん どう
い しき
けつ ろん
ち し き かい きふ
か
しん にふ
じ ぶん
こ
せい くわつ
ち
せん げん
たゝ か
い ぜん
え
つひ
ぞく
くは
み づか
ぜん しや
き やく り やく
はん けつ
ぶ ん く わ う ん どう
かいきふ
り ろ ん て き じ つ さい て き し
ひ つう
かいきふ
く べつ
だい
らう どう う ん どう
いく た
でん とう
あり し ま
たう た つ
どう
かれ
せ い く わ つ たい ど
せん げん
で き
ぞく
え
あり し ま
らう どう
こ
けつ きやく
しや
い しき
え
ぜつ
ヨ ア と プロ レ タ リ ヤの 生 活 態 度を 區 別 し た。 そ して 前 者 の
ひと
だう しや
むな
し ゆ ん かん
して 勞 働 運 動 のたゞ中 に 進 入 して ゆくことを 宣 言 した。が
み
せい
その 瞬 間 に お いて 、彼 れは 自 分 の 生 活 と いふ ものが依 然
え
ほ 「 文 化 の 未 路」を 感 ぜざ るを得 な かつた。 私 は か く知 識
と し て ブル ジ ヨ ア 思 想 の 傳 統 の 下 に あ るこ と を 感 ぜ ざ るを 得
かんが
みん しう
( マ マ)
かい きふ
り つろ ん
り つ ろん
あ ざむ
べん ご
かい きふ い ぐわい
い ぜん
で き
かいきふ
だい
へん く わ
だい
ちから
階 級 を そ の 彼 方 に 追 ひ や る 力 を 「 正 義 感 」 と で も名 づ く る
なかつた。 かくして 有 島 は 幾 多の血み どろな 戰 ひのゝち 遂
かん
も の で あ ら う か。 考 へ て 見 れば 知 識 階 級 の 根 本 的 支持 力
に 空 しい 結 論 に 到 逹 し な けれ ば な ら なかつ た のであ る。 す な
ねん だ い
だう てい
か
あり し ま
ち し き かい きふ
し や く わ い しん てん
り つ は い はん
はう ほふ
お
ともなつて 動 くものはこの「 正 義 感 」以 外 に 何 があらう一
は ち 知 識 階 級 に 屬 す る もの は 勞 働 運 動 の 理 論 的 實 際 的 指
み ち
八六〇 年 代 「 民 衆 の中へ」の 叫 聲 は もちろんこれによ つて
導 者 と な る こ と は 出 來 な い と い ふ こ と を 。 ま た この 階 級 に 屬
ぶん くわ
社 會 進 展 の 道 程 が 變 化 され べ くもないが、しかもなほ二
する 人 々が 勞 働 運 動 なりもしくは 第 四 階 級 の 文 化 運 動 に 加
かい きふ
律 背 反 の 知 識 階 級 に と つては 、その 行 動 を 正 常 化 す る唯
う
せい ぎ かん
べん ご
かん
一の 方 法 で はあ るま いか 第 四 階 級 以 外 の 階 級 に生れ 育 ち
はることは越ゆべからざるものを越えることであることを……
けう ゐ く
お く そこ
かい きふ
し さう
敎 育 を受けた 有 島 が、第 四 階 級 のために 辯 護し 立 論 し、運 動
らに 下 さ ざ るを 得 な か つ た。 彼 は こ ゝ に お いて 極 力 ブ ル ジ
かくして遂に 有 島 は「 宣 言 一つ」において悲 痛 なる 判 決 を 自
うご
奥 底 に すむ 「 正 義 感 」 は依 然 と して こ れを 欺 く こ とが出來
する。そんな馬鹿げ たことは 出來ない……といひながらその
だい
しん
どう じや う
はん き
く わい しゆ
じ つ げん
ち し き かい きふ
え
たい ぼ う
( マ マ) じ こ
かれ
かれ
しう ゐ
かい
だい
の
ざい さん いう む
( 五)
かれ
あり し ま
はん けつ
あり
じつ
らう どう し や
したが
し やく わ い し ゆ ぎ
き
ち し き かい きふ
し やう り
ぜん ぜん べつ こ
どう
く わい しゆ ぎ
せ かい
ぞく
しやう り
じてゐたのである。〔「京城日報」昭和五年二月一五日朝刊六面〕
げん
ぼう てき
しん
にん
意 識 は 結 局 い か に し て も 後 者 の 意 識 と な り 得 ないこ と を 絶
じつ
ねつ い
し さう
有 島 は 實 に よ く 第 四 階 級 の ために 辯 護し 、 立 論 し 、か つ
あり
なかつた。
どう
き そ
し やう り
うへ
かい きふ
れき し て き し ん く わ
だい
かい きふ
望 的 に 述べた 彼 の 判 決 に 從 へば 實 に知 識 階 級 に 屬 するも
だい
い し
く わい
か い き ふ と う さう
かれ
運 動 し た 彼 の 意 志 は 明 ら か に ブ ル ヂ ヨ アの 思 想 に 反 旗 をひ る
間 であつた。しかも 有 島は 社 會 主 義運 動 の 勝 利をかたく 信
の は 財 産 有 無 に か ゝは ら ず 勞 働 者 と は 全 然 別 個 の 世 界 の 人
どう
もちつ つ 階 級 鬪 爭 によ る 第 四 階 級 の 勝 利を かたく 信 じて
がへした。そして 第 四 階 級 の 運 動 に 滿腔の 熱 意と 同 情 とを
たい
スの 科 學 的 社 會 主 義の 實 現 を 待 望 した。かくして 彼 は 階
くわ がく てき
ゐた。 そして 社 會 の 歴 史 的 進 化 の 上 に基礎を おいたマル ク
きふ とう さう
い しき
級 鬪 爭 に 對 して の 知 識 階 級 としての■ ■を 「 自 己の問 題
ふか
じ
じ しん
な いせ い
かれ
せ いく わ つ
かくして 有 島 はやがて來たるであらう社 會 主 義の 勝 利を
わた
かれ
は ん ぎや く
こ どく
かん
え
と し て 深 く 意 識 せ ざ る を 得 な か つ た 。 そ し て 彼 が 彼 の 周 圍を
え
いく ど
し さう
前 に ぬ か う と し て ぬ けき れ な か つ た ブ ル ジ ヨ ア 思 想 の し つ こ
たい
ま じ め
ほ し ゆ し さう
ね つ じや う
かん
生 活
ち しき
も
く
見 渡 し 自 分 自 身 を 内 省 す るこ と に よ つて 彼 は ま す
でんとう
かれ
まつ ろ
い 殻の な かに ま さ し く 「 文 化 の 末 路 」 を 感 ぜ ざ る を 得 な か つ
し さう
いく ど
ぶん くわ
と思 想 、傳 統 と知 識 の 大 なる■を 痛 感 せざるを得なかつた。
た 。 か れは い かに さ び し い 孤 獨 を 感 じ たで あ ら うか。 か れは
かれ
試 み た。 彼 の燃 え るやな 熱 情 と眞面目は 幾 度となく 彼 を
こ ゝろ
つう かん
彼 は 幾 度となくブルジヨアの保 守 思 想 にたいして 反 逆 を
しん
じ ぶん
き や う ぐう
い ぜん
し さう
い しき
どう
せい くわつ
さん か
さい
で
のぞ
た う てい で
き
あり しま
なに
きや う ち
あん ぢ う
ありしま
臨ま な い で あ ら う。 し か し 有 島 に と つ て は こ の 境 地 に 安 住し
き
勝 利 を 信 じ つゝ も 依 然 と し て その 運 動 に 參 加 す る こ と の 出
てゐることは到底出來なかつた。何ゆえならすでに有島をはぐ
しやう り
思 想 、 意 識 、 生 活 あ らゆる 一 切 の も
―
來ぬ 自 分 の 境 遇
ち し き かい きふ
ぼ つ らく
え
だい
たい
が くしや
かい きふ
おも
かい きふ
たう し よ
ねつせつ
し さう か
ら う どう しや
ひと だ ち
む
だ
き
ひ つう
せん
う んど う か
だい
ど りや く
ぼつら く
みち
えい くわ
こ じんしゆ ぎ
す
ば
し さう
し さう
くわ い し ゆ ぎ
い きほ
し ほん し ゆ ぎ
し ほん し ゆ ぎ
けいたい
けい たい
み づか
お
くんだ個人主義といふ思想そのものが資本主義の一形態として
だい
ひ てい
く わ い し ゆ ぎ う ん どう
をかなしんだ。と 同 時に知 識 階 級 の 沒 落 を見ざるを得
どう じ
―
の
クラルテの彼方にい素晴らしい 勢 ひをもつて起こりつゝある、
まつた
よ
こ じん しゆ ぎ
じ ゆく
な か つ た 。 社 會 主 義 運 動 に 對 す る 當 初 の 熱 切 な る かれの 寄
日 々に 尖 銳化しつゝある社 會 主義の下にそれ 自 らの爛 熟 に
ぜ つけ う
りや う
き
ひ
與はこゝにおいて 全 く否定されてしまつた。そしてかれは悲痛
五年二月一八日朝刊六面〕
よつて没落の道をたどりつゝあつたからである 〔「京城日報」昭和
よ
にも絶叫した。「どんなえらい學者であれ、
思 想家であ れ 、
運動家
なに
た
(六)
ぐ わん ら い
は
で あ れ 、 頭 梁 で あ れ、 第四 階級 な 勞働 者たる こと なしに 第四
かい きふ
じやう さ
階級に 何もの かを 寄與す ると思 つたら」それは 「明 らかに潜
みだ
上 沙汰であり」もしくは第四階級はその人逹の無駄な努 力 に
くわ い し ゆ
てつがく てき
こと
かんじ や う
あま
ち しき
くわ が く て き
しん
りやくだ つかい きふ
し や くわ い し ゆ
つひ
し さう
し てう
せい
とう
しん ほ
に ほん
き
きよ だい
あ きら
とも
し ほ んし ゆ ぎ
で
き
し ゆ ち やう
そ しき
す なは
ほ てう
めい ぢ ま つ き
あみ
ゆ
め
たい
い
たが
こ じん しゆ ぎ
あり
た い ( マ マ)
おうしうせんらん
元 来 この 個 人主 義 とい ふ 思想は 資本 主義の 一形 態として 派
てき
よつてかき亂されるのほかはないものである」と「たとひユー
き
きやく た ん
ゆ
おな
生したことは日本の資本主義が明治末期より歐洲戰亂の大正に
せい し う
し さう
くわ い し ゆ ぎ
む
かく じ
げん ぞん
ずして 吾 々は現 存 して行 く ことが出 來ないのであ る。有島は
へだ
きふそ く
トピ ヤ的 な社 會 主 義 か ら 哲學 的の そ れに なり 、 遂に 科 學 的の
かけて急速に進歩すると共にこれと歩調を同じうして個人主義
くわ い し ゆ ぎ
かい きふ じ しん
し
けうやう
たう ぜん
つひ
社 會 主義が成就されたとはいへ、學説としての社 會 主義は遂
思潮が擡頭したのでも 明 かである。 卽 ち「他は他 己 は己」
だい
た
が くせ つ
に 第 四 階 級 自身 の 社 會 主 義 で あ る こと は 出來 ない 」 と。 知識
の思想であつた。吾々は巨大なる其組織の網の目によつてお互
やく
かい きふ
け い ざ い くわ ん け い
き
階級としてその敎養なり思想なり殊に感 情 なりが 略 奪階級の
ひに隔てられ各自は 極 端に己を主 張 して行く。しかもかうせ
ち し き かい きふ
で
お役に立つやうに仕向けられて來てゐたことを余りにも信じて
あり
ゐ た 有 島 は た と ひ 知 識 階級 が そ の 經 濟 關 係 に お いて 當 然 プロ
ぞく
い
さけ
し よ せ ん ち し き かい き ふ
ひ
く もん
い
え
し さう
じや う た い
え
けうやう
かぎ
じよ
すゝ
こ んな ん
し だい
か
きふ しん て き
しか
す くな
なに
こ じん
わ り あ ひ こ ん なん
じ ゆん
なう
に ほん
け つ きや く
じ だい
こ じん
ぢ
し さ うじ や う
個人と次第に掘りさげて行つた。こゝまでは割合困難を
こ じん
―
神
かん じやう
レタリアートに屬するとするも所詮知識階級はその思想、
敎養 、
感ぜずに困難があつたにせよ 少 くともそれは思想 上 の苦惱に
なか
た う す ゐ きや う
かん
感 情 に おいて ブル ジ ヨア で あ ること を 叫 ばざ る を 得 な かつた
( マ マ )み ん し う
のであつた。かくして 「 民衆の中へ入らんとして入り得ざる
序よく進んで來ない。それは何故であるか。明治時代の日本に
たつ
げ い じ ゆつ
きやく てん
たう ひ
ごと
限 ら れ て ゐ た の で あ る然 し 神 ―個人 と な つて く ると さうは 順
く もん
あり
苦 悶 は 有 島に あ つて 極 點に 逹 した。 かくの如く 苦悶の 状 態
なん
じ ぶん
げいじ ゆつ
くわ ん せ い
なに ご と
きや う ら く
ぼつ とう
さ さう
しよさん
した が
こ じん
だい
あた ま
も はや
なか
お いて そ れが 如 何に 急進 的 で あ るに せ よ 神 ― 個 人 は 結 局 ブル
ひと
にあ つて たゞ 一の 逃避は藝 術 の 陶醉 境 に游飛することであ
た
まん じ そ く
にん げ ん
しか
ジヨア思想の所産たるに止まり 從 つて問題は只 頭 の中だけで
さい かう てう
い
すゝ
る。人が何といはふとひたすら自分の芸 術 の 完 成に没頭する
進んでゆけばいゝのである。然るに神―個人となると最早、そ
てん
恍 惚 境 にある。この一點にのみ生きうる人間は他の何事をも
くわ うこ つ き や う
げ い じ ゆつ
ことで あ る。 まことに藝 術 の 最高潮 は 圓滿自足 を 享 樂す る
へん かく
しん えん
とゞ
かう
ぜ ん せ い くわ つ
めつ は ふ
へん かく
しん えん
で
ふち
らい
み んし う
きや く か れ
あま
こ どく
み づか
あ
き
みち
ぶ んくわ
き
か のうせい
みんしう
こ どく
かなし
ねつ じやう
しん
なか
せん
みち
とう
で
かれ
き
けつ
あ りし ま
ぼつ こ う
これは 孤獨の道で あつたが 有島
け うや う
でん とう
じ
―
い しき し さう
ぶ ん くわ
だい
みち
ち
來の民衆がつくり上げて來た文化の可能性を信ずることが出來
し さ う じやう
ふち
き
れは 思 想 上 の變 革たるに 止ま らず 全生 活 の變革となつて 來
くわい
なかつた。といつて第一の時期にある民衆の中に投ずべく彼は
こ じん
る。こゝに深淵がある、幸にしてめくら滅法にこの深淵を越え
き
にん げ ん
余 り に も ブ ル ジ ヨ ア 文化 の 傳 統 を 血 に う けて ゐ た 。 こ れは 結
で
し んえ ん
ふか
るこ との 出來 た 人間 は 神 ―個 人 ―社 會 と なる こと が 出來 たの
にんげ ん
ふち
―
す
局 彼をして 自 らの意識思想、敎養がブルジヨアのものであつ
たい
ひきかへ
あま
と
であるが大ていの人間はこの深淵の此方で淵をのぞく。淵は深
つとちう ちよ
おも
げん
て プロ レ タリ ヤの もの で ない こ とを 悲 く も宣 言し たに 過 ぎ な
くら
ひ きか へ
ほか
だい
く暗い。一寸躊躇する。そのうちには引返す人間もある。飛ば
ひ きか へ
あり
のこ
か つ た 。 殘 され た 第 二 の 道
と
じつ
實にわが有島はこの一人に外ならなかつた。
じ や うせ い
あん い
た
ふ あん
みち
しん えん
もと
まへ
―
みん しう
た
ふた ゝ
しう た
くわい
ゆ
あり
社 會 をおして行くところのそ
そこ
ひき かへ
うご
ふち
じ ん せい
ゆふ
も
う
で
じ とほ
き
じ ん せい
ちか
くろ
し
ふち
か
信ぜずにはゐられなかつた。かくして有島
しん
がふせいりやく
に と つ て は 孤 獨の 道を ゆ く べ く熱 情 が あ り す ぎ た 。 彼 は 勃 興
ひと
―
ぼつ こ う
か うけ い き
い なぎやく
げんいん
じ
は めつ
かへ飛こむ人
とび
んとして飛べず引返さんとして引返されず、思ひ余つて淵のな
ともな
おうしう たい せん さ う
しん てん
お
こ じん しゆ ぎ
しつつある民衆の 合成 力 を
どう
は めつ
の素晴らしい力
ほん ら う ど う
ねん
こ じんしゆ
かくして有島の個人主義は破滅した。この個人主義の破滅とい
はついに深淵の前に立つた。これは文字通りの人生のゆきづま
あり しま
ふことのなかには歐洲大戰爭により引續く好景氣にめぐまれた
りであつた。かれは一歩も動くことが出來なかつた。
まじめな彼
ありしま
くわんて きじやうせい
りや く
し
ば
日本 勞働運動の進展 に 伴 ふ プロレタリ エルの勃 興といふ 客
れは安易の道を求めて 再 び引返さうとはしなかつた。かれは淵
の
はう かう
きやく
觀 的 情 勢を念頭に置かねばならない、否 逆 にかうした 情 勢
の前に立ちつつ終日終夜、淵の底を埋めてゐるまつ黑ないひ知
ぜ ん くわ い
ひ き つゞ
こそが有島のヂレンマを■らしめた原因なのであるがこのこと
まつ ろ
まへ
については前 回 でやや述べたのでこゝでは 略 す。
ぶ ん くわ
じ
こ
ぎ
じ うら い
みんしう
き
ぶ ん くわ
じ
み かぎ
しん えん
しんえん
かん
そこ
ひく
うづ
しんえん
しん えん
み
たい
なか
し だい
そこ
は
う
きよ む
きよ む
あ
おほ
きや う ふ
あ りし ま
ふ
ま ぢか
き
そら
つひ
れぬ不安をのぞいてゐた。人生の夕暮はすでに近づいてゐた。
あり しま
きや う ち
だい
が ふ せい りや く
とざ
有島は「文化の末路」のなかで三つの方向を指示してゐる。
ふ
くわ ち う
だい
だい
みち
みち
しんえん
もつと
ど
なか
深淵の底に低く 塡まつてゐた暗は次第に浮き上がつて來た。遂
し
み ん し う て き ぶ ん くわ
ひと
み づか
いつまでも自己僞まんによつて從來の民衆がつくりあげた文化
しん
ろ
とう
た うてい た
む は ん せい
( マ マ)
に深淵そのものが暗の中に閉されてしまつた。有島は間近に闇
か の うせ い
の 可 能 性 を 信 ず る か 。 そ そ し て そ の 境 地 に あ つて 自 らを そ
を 感じ た。 も は や 深 淵に 對 す る底を 見 る や う な 恐 怖 は そ こ に
こ どく
だ い へ う て き えい ゆ う
なか
ひと
たいてい
あ
の 代 表 的 英 雄 に 仕 立て 上 げ る か。 或 ひは その 合 成 力 を 見 限 つ
つた。そしてその闇のたゞ中から一羽の 虛無の大鳥が不吉な空
はなかつた。深淵とも見わけのつかぬ 虛無の闇があるのみであ
みんしう
た
にある民衆の中に投じてその民衆的文化の渦中に溶けこむか。
て孤獨の一路をさびしいながら踏みとげるか。或は第一の時期
ざ
き
せい じ つ
かれ
た うて い じ
だい
こ
ぎ まん
みち
ふ
じう
お どろ
し ゆん か ん
と
しん えん
なか
み づか
あり
いつた。〔「京城日報」昭和五年二月一九日朝刊六面〕
おそ
てん らく
く 驚 い た 。 が そ の 瞬 間 彼 は 闇の 深 淵の 中 に 自 ら を 轉落 し て
め
あり
と す れば 殘 さ れ た 第二 の 道 は 最 も 香
かん
.ば
.た
.きをたゝえて飛んで行つた。有島はわれにもな
恐 ろし い 羽
は んせ い
みち
ひと
―
のこ
……である。一は大抵の無反省な人のたどるところながら一度
みじ
わた
反省の目覚めた人には到底堪ゆべくもない。第三の道は深淵を
おも
ひと 思 ひに 渡つ た人
で
行くことは出來なかつた。誠實な彼は到底自己僞瞞によつて從
ゆ
ばしくない慘めな道である。有島はもちろん第一の道を踏んで
(七)
さ くひん
と く ちや う
ふで
けん
かん
の
い まさ ら の
た
きん だい
ち
まつ ろ
した が
なん ら
ぜつ ぼうてき
さい ご
わ りあひ
てん
そ
あた か
ひ げき
ち から
しう
い)末路とはいひながら何等かのはなやかな一點を添ゆるに 力
き
も
きやく
み
く
うご
いろ
めん
くみ と
みぎ
ら う まん て き
え
か
よこ
ひだ り
い
し
うご
ら う まん て き
た せう
なに
ゆ
ぐろ
し
あ くた
ふ あん
し
え
しん び て き
べやうて き
し んけ い
き
も て あそ
で
は有島にみるやうな浪漫的な何ものをも見出し得な
あり
.と
.り
.のある多 少あつけない審美的
局 を見るやうな浪漫的なゆ
あるものであり、 從 つて絶望的な最後の割合に 恰 も悲劇の終
あ くた か は
か
芥 川の作品を特 徴 づけるものは?と今更述べ立てるまでも
おほ
氣持 ち が汲 取 り 得 ら れるの で あ る。 と ころが 芥 川 の 死に おい
す くな
めい は く
は うは ふ
.性
.の
.
なく多くの評家が筆をそろへて述べてゐるやうにそれは理
い ご
り
ひと
げん
じ さ つ しや じ しん
.さ
.である氏しは最さ後
鋭
まで理性の人であつた。現に「自殺者自身
く つう
くち
し
て われ
しん り
もつと
えら
か
の心理をありのまゝに書こう」とし、死の方法そのものについ
いのである。そこに横たはるものはドス黑い不安と 病 的な神經
は うは ふ
てら
り
か う くわ て き
て も 最 も 苦痛の 少 い嫌 惡を 感じな い、 しかも 最 も効果 的な
れを色づけるべき如何なるはなやかさも見つけることは出來な
の 動き と 右 に も 左 に も 動き の と れ な い 行 き づ ま り で あ る。 こ
しゆ み て き
こ ちや う
もつと
方法を選んだことにおいて明白にされてゐる。或はこれを近代
い く ぶん
ゆる
趣味的な衒ひとでも一口にいつてしまへばいつてしまへないこ
も てあ そ
り
ち
おな
あい だ
だ う てい
ぼく
まへ
〲
ゑが
よく ぼう
ゑが
おも
ねん
なん
ちが
あ いだ
か ぞくだち
し
ぼく
ちう しや う
した心地になつてマ
ち
い。一面からいへば死ぬることによつて死そのものをも 弄 ん
ち
よ
た くみ
ぐ たい て き
ど う じ やう
ぼく
でゐるとさへいはれるであらう「僕はこの二年ばかりの 間 は死
り
し
かんが
理智によつて 弄 び、さうしたことによつて生れて來る理智そ
か んじ や う
と も な い だ ら う。 し かし 幾 分の 誇 張 が 許 さ れ る な らば 理 智 を
しゆ
き てう
ゆ
はん
ぬ こ とば かり 考 へ つづ けた僕のしみ
とも な
なが
す るど
むか
のものに 伴 つて生れる一種の感 情 といつたやうなものが氏の
つう
た んじゆん
あく
し
イレンデ ルを 讀ん だの もこの 間 で あ る 。 マ イ レ ン デ ル は 抽 象
さ くひん ぜ ん たい
えい
か ん じ やう
は
作品全體を通じて流れてゐる基調ではあるまいか。それは一般
う
ぶん
さく そう
てき
的 な 言 葉 で 巧 に 死 に 向 ふ 道程 を 描 い て ゐ るに 違 ひ な い。 が 僕
ち
ともな
みち
はもつと具體的の同じことを描きたいと思つてゐる。家族逹に
めん り
めん
すゝ
のレアリズムに見受けるやうな單 純 な一 直 線に進む道ではな
た い す る 同 情 な ど は かう いふ 欲望 の 前 には 何 で も ない」 と い
どう じ
ちやくせん
くと同時に一面ま たこれに 伴 つて來 る錯綜し た感 情 の も つ
い一面理智による分析の 尖 銳さは飽まで もこれを 銳 くして行
きは
みち
し ゆ くわ ん て き
き
も
ありしま
ね つじや う
こ ちや う て き
は ん えい
く わて い
む
―
も
け つ きや く ゆ
いだ
とゞ
じつ
す
どう じ
どう ぶつ り よく
わた
しよ
べう てき
くわい
お くそ こ
も
ぞ くて き
し や うぢ き
しん
むし
か
かん
はん て き
社 會 ともいふ一般的
い めい
す
で止まると同時にその奥底にすむ「所謂
たい
―
し や く わ いて き ぜ う け ん か ぞ く て き ぜ う け ん
こ ほり
ふ こ と は 芥 川 を して 氷 の や うに 澄 み 渡 つ た 病 的 な 神經を 持 た
さ く しや じ しん
こ ゝに 作 者 自 身の 極め て 主 觀 的 な 氣持 ちが 反 映 さ れて
ゆ
いく た
う
ぶ んせ き
ぎ
―
れ
ゑが
ほう
ふう かく
かれ じ し ん
しめたのである。社 會 的條件家族的條件も「なんでも 正 直に書
きや くせ ん
ぜ んぜ ん
すゝ
これが種々な 曲 線を描いて進んで行く道である。有島は彼自身
かねばならぬ義務を持つてゐる」芥川にとつては寧ろ從屬的な
ぶんが くて きし ゆは ふ
しゆ
は文學的手法においては全然レアリズムを奉ずるとはいひなが
あり しま こ じん
はな
ち
位置にあつたであらう。結 局 行くべき所に行き着いたといふ感
きう らい
のが
もつと
ゐ
ら そ こ に 舊 來 の ロ マ ンチ シズ ムに い ろ ど ら れ た 幾 多 の 誇 張 的
かんじや う
さい ご
せ い くわ つ り や く
し
分析の過 程が 神人
じを 私 は彼の死に對して抱く。神人
し
うつく
かれ
感 情 は見逃せない。これは有島個人の風格より生まれる熱 情
てき
わた し
の し か らしめ た と こ ろであ る。 かつま た 氏の 最後 を 最 も華 々
あは
し
け つくわ
にん
うし な
じう
ひき
けん
む ない よ う
そん ざい
を 失 つ た と す る な らば そ れは 無 内 容 の 存 在
み
ど う ぶ つ り よく
かういふこ と
さら
生 活 力 と い ふ もの が實は 動物 力 の 異名に 過ぎ ない」 こと を
わる
そ んざ い
し く、 惡 く い へ ば 合ゴ シ ツ プ 的た ら しめ たと こ ろの 美 し き 女
見、 人間 獸の 一 匹で あ るこ とを 發見し た。が 更にこの動物 力
―
人の存在は(これはまた氏のフエミニズムの結果にほかならな
し
か
かい
いう が
かん じやう
はな
ら う まん て き
じや う さ う
す がた
なが
ねつ じやう
あさ
けい
なが
はな
い
り
ち
えい び ん
こ てん て き
か
うら
かる
たゞ よ
かす
ゑが
しや う
の 空 氣 で あ る 、 朝風 に 長 い 鼻 を 象の や うに ブ ラ つ か せ る 和 尚
くう き
情 操 は 「 鼻 」 だ と か 「 芋 粥 」 だ と かに も ら れ た 輕 い ユ ー モ ア
かゆ
れた浪漫的な熱 情 など、この理智の 銳敏さの 裏にある幽かな
すなはち死そのものよりほかになか
たう じ
む 優 雅 な 感 情 の 流 れで あ る。 或は 「 キリ シタ ン もの 」 に 描 か
―
か
つたであらう。〔「京城日報」昭和五年二月二〇日朝刊六面〕
れき し
がかりにいへたとして
この
きん
て き か い しや く
くは
ふく
えう し
ぢ よ きふ
こ ひひと
せ い くわ つ
む
あを
せうぢよ
つま
まづ
の 姿 はたゞその一景のみで生きる古典的な香の 漂 ふユーモア
かれ
(八)
ざい れう
彼は好んで「 歷史もの」を書いた。當時或る評家はこれを解
ふる
て幼子を「あばば……」とあやすなかにも、貧しいカフエーの
き おく
さ し つか え
おほ
の 生 活 で あ る 。 そ れか ら 無 垢 な 少女 が 人 妻 と な り 、 母 と な つ
の
ことを述べてゐたと記憶するが、それはかゝるごく大ざつぱな
しやうにん
きよ
して 古き 材料に 近 代 的 解 釋 を 加 へ た もの で あ る と い ふや う な
わす
お ほい し
の すけ
い うぢ よ
つま
ひざ ま く ら
けう
た うぜ ん
きは
いう
さ く しや
わた し
どく とく
かは
かる
り
なが
ち
り
す るど
た ぶん
しや う
へう げ ん
女給が戀人とのランデ・ヴーに靑葱をブラさげてゐるなかにも
はん ろ ん
あい だ
作 者は み な 獨 特の 輕 い ユ ー モ ア と 理 智 の 銳 さ とを 多分に 表 現
ね
一般論によつて 承 認されて差 支 ないものだらうか復讐の一舉
ほそ か は
きやくた ん
ち
を寢た 間 も忘れぬ大石内蔵之助が遊女の膝 枕 に陶然とする遊
さ い し やく け ん び
せい
つう
し て ゐ る。
ぢ らう
をん な
さ くひん
冶郎であつたり、
才 色 兼備の細川忠興の妻が宗教狂のしかも極
わる
か いほ う
かれ
り
ひか
おも
ち
に ち ろ せん えき
うめ
かげ
しつ
なか
しづ
たゞ よ
て
ひ はち
うへ
なが
いろ
どう じ
く
しゆ
かん じ や う
け つくわ
し
ぎ かう
げ い じゆつ
なが
ぎ かう
ひつぜん
くわん せい
みちび
み
は ふそ く
か なら
き よう
せつ
とも な
い
み
り
ち
じ う おう
ぎ かう
は
てん しん
げ い じ ゆつ て き かん げ き
―
小器用さではない
こ
し やく よ う
―
かい
だか ら技巧をみ が くと いふ こ と
(九)
ち
かくして 私 は芥川の作品を通じて流れる理智とそれより 生
かく ご
いや み
さく
めて覺悟の惡いたゞの 女 だつたり俳聖芭蕉が 極 端なエゴイス
し やし ん
かり
なに
しや う し
じ いう
えい ゆ う
も
ずる一種の感 情 の流れを見るのである。しかもこの理智を縦横
れ いさ う
えい ゆ う れ つ ふ
ぬ
たん
に馳驅した結果、それとともに 必 ず 伴 ふところのものは技巧
まへ
きん
トだつたり、文豪馬琴もたゞ單たる模倣作家だつたり、日露戰役
ぶん が う
の名 將 が死ぬ前に禮装の寫眞をとる嫌味家だつたり、彼の理智
であつた。氏はこの技巧といふことを 說明して 「藝 術 的感激
たゞ よ
し
によつていはゆる英雄烈婦がみなその借着をむごたらしくヒツ
といつてゐる。〔「京城日報」昭和五年二月二一日朝刊六面〕
をもたらすべきある必然の法則を 借 用することである」(點心)
め い しや う
パがれてゐる。しかもさうした英雄だとか、賢夫人だとかの重
き らく
けん ふ じん
さうな、よろひを 脫いだなかには自由な何ものよりも解放され
おと
ら うぼ く
た氣樂さが 漂 つてゐる。たてきつた 障 子にうららかな日の光
ほど
りがさして老木の梅の影を映し出し、微かに 漂 つてゐる墨の色
うご
あを そ ら
ふ じん
い
す るど
き
きは
か いぼ う
と しわ か
にん げ ん
か う くわ
ぎ かう
ち
かんが
り
ぎ かう
うへ
ま
げ い じ ゆつ
はうはふ
せん れん
かんが
かぎ
うへ
そんざい
か なら
い しき
同 時 に 藝 術 を 完 成 に 導 く 階 梯を 意 味す る もの で あ る こ れ ゆ
あき
は
してゐる内蔵之助、秋の靑空に鳶の飛ぶのをホツとして眺める
くら の す け
を動かす程の音さへない室の中で、靜かに手を火鉢の上にかざ
そめ
ゑに 技 巧が 理 智 によ つて そ の 洗 練を 增 す限 り 、そ れは 必 ず、
ま
じ
その効果を 考 へる上からも、
その方法を 考 へる上からも、意識
きん
.い
.し
.や
.く
.をした這入つて來た年若きの士を見て
馬琴、自分のか
で な け れ ば な ら な い 技 巧の な い 藝 術 と い ふ こ と は 存在 す る こ
す がた
す
耳まで眞つ赤に染る三十八の忠興夫人、さうした極めて人間ら
だつ
しい憑かれることより 脫した人の 姿 は、 銳 い解剖のもとに澄
で
き
き へう
ぎ かう
どう じ
げ い じ ゆつ な い よ う
ぎ か うそ ん ち や う
かん
し よう ち
てん さい
し
こ うくわ
げ い じ ゆ つ くわ つ ど う
じ どう ぐ う じ ん
し よう ち
しゆ
こん
なん
い しき てき
りん
わた し
は 考 へ る 。 氏が 藝 術 活 動 を 意 識 的 な もの
げ い じ ゆ つく わ つ ど う
く
こゝでわれ
てん しん
かわからない。がのばした爲めにある効果が生ずることは百も
しや う
あは
なん
と の 出 來 な い も の で あ る。 だ か ら 技 巧 は 同 時 に 藝 術 内 容 の 鑑
し なつ
も
( マ マ) せ き
(マ マ)
承 知してゐたのだ。もし 承 知してゐなかつたとしたら雲林は
た ぶん
し
天才でも何でもない。一種の 自働偶人なのだ」(點心)といつ
ぎ かう は
へん えい
賞 する基標ともなりうるものである。かうした技巧尊 重 、い
かんが
しゆ み
お
かんが
はゆる技巧派ともいふべきやうなものゝ片影は氏の師夏目 瀬
み
どう や う
てゐる。
せき
ひと
ぎ かう て き
石に も見 う けら れるところの もので ある。 考 へ れば 瀬 石 も
り せい
まい
理性の人であり、技巧的であり、同様に趣味を多分に持ち合せ
りや う に ん
ひと
わる
で
き
しよいう
と
わた し
ち
かく
りや うしや
あい だ
ぎ
り せい
おほ
し
こ じ ん て き し ゆ み せい
てい
こひ
かた
こ とも
こ てん て き ふう かく
おほいし
いう
ひ
ば めん
り
ち
そ んざ い
いな
り
ち
さ く しや じ しん
さい
も
―
あた ま
こ
た い し やう
けう
しゆ み
彼一個の趣味より
かれ
くわ い て き ぜ う け ん
さうした
き めう
―
むす め
もと
き げき
あづ
け つ くわ
とする、その藝 術 活 動の根柢にすむものは何であつたか。私
わら
はこれを氏の有する個人的趣味性の結果に求めやうとするだか
はな
フンと鼻で笑ふ人の惡さを所有してゐた。私 は 兩 者の 間 に多
て ゐ た。 し か も 兩 人 と も に 一 枚ヒ ツ ぺが して 置 いて かげで フ
いだ
おも
こ
はゝ
ら「或る日の大石」を例にとれは、お預けになつた後の大石の
き よ つ うて ん
け つ くわ
じ
おほいし
くの共通點を見出すことが出來る。それは兎も角として吾々は
い し き て き くわ つ ど う
か めん
さい くん
い つ た り 、 し た 古 典 的 風 格 、 何 時の 間 に か 娘 が 細 君 と な り 母
げ い じ ゆつ
ゆ うれ つ ふ
り
となつて「あばば……」と子供をあやしてゐるその奇妙な對 象 、
さけ
かは
と叫んだところのものについて、その結果に思ひおよばねばな
芥川のいはゆる藝 術 の意識的 活 動と稱へ、理智と呼び、理性
し
ち
てい
葱をブラつかせながら戀を語るその悲喜劇な場面
まん
り
れつ ふ
らない氏は「かうした英雄烈婦の假面によつてなされる自己欺
か めん
まへ
にんげん
もの が すで に 作 者 自 身の 持 つ て 生 れ た ― 社 會 的 條 件や 敎 養 の
えい ゆ う
わた し
つね
程度から來る一切のものをひつくるめて
ち から
み
さ
力 に よ つ て 英雄の 假面 を と り去 つ て 常 の 人間 を 見 烈婦のヴエ
をん な
さ く しや
瞞を修正すべき理智の存在を否みはしない」といひ、此理智の
さ
ともな
しゆ
か ん じ やう
ぐ たい て き
ち
て き て ん し ゆ み て き けい
ひつ ぜん
の すけ
け つ きや く
かれみづか
ぎやくてん
ば めん
み づか
ち
きやく げ ん
り
じつ げん
ゐたのである。で問題は 自 ら 逆 轉する。すなはち理智の解剖
かいぼ う
生じ た もので は な からう か 、 作 者の 頭 に 浮 ん だ モテイ ー フ そ
せき
り
かい ほ う
だい
ールを去つて 女 を見たが 私 が前にのべたやうにその理智の分
き ふ し ん て き は くわ い て き
ねん
ぶん せつ
のものは、すでにかうした場面に彼 自 らによつて 局 限されて
―
具體的にいへば古的典趣味的傾
はた
ふく
は 果 し て 急 進 的破 壞 的 な理 智の 分 折と ゝ も に 必 然 に 生
析に 伴 ふ一種の感 情
―
向
か
きり すみ
ひ はち
て
し ゆだ ん ぎ か う
さ く ひん
す
そんざい
ゆる
え
けつ
ち
―
り
と い ふ もの は 結 局 か う し た モ テ イ ー フ を よ り よ く 實 現 す る た
うめ
し
さ くしや じ しん
どくりつ
じて來るものであらうか?復讐の一念より解放された内蔵之助
じ じつ
おも
ものが氏の作品にあつては獨立の存在を許され得ないものであ
じ や うけ い
つ
と りす て
めの手段技巧に過ぎなかつたのである。だから決して理智その
ふう が
ろん
しゆ み はん だん
さうした風雅な 情 景は事實ありさうに思へる。がこゝ
す がた
―
姿
げ い じゆつ
げ い じゆつ
が 馥 郁 た る梅 の 香 に 醉 な が ら切 炭の 火鉢 に 手を かざし て ゐ る
し
てん さい
い しき てき
い
み
と はう
うん りん
げ いじ ゆつ
で
き
みち
きやうつ うて きけ つかん
そう
し
つひ
つた。作者自身の趣味判斷によつてモテイーフを取捨する
もん だい
くわ つ ど う
まつ
まぬ か
に問題が生ずる。氏は藝 術 を論じて次ぎのやうにいふ「藝 術
とき
ほう
ブルヂヨア藝 術 の 共 通的缺陷は聰明なる氏をもつてしても遂
ゑが
に 免 れ ること の 出 來 ない 道であ つた 。〔「京城日 報」昭和五年二 月
せき じやう
まつ
活 動 は どん な 天才 で も 意識 的 な も の だ と い ふ 意 味 は 倪 雲 林が
まつ
し
石 上 の 松を 描 く 時に そ の 松 の 枝 を こと ごと く 途 方 も な い 一 方
ぐ わ めん
うん りん
二二日朝刊六面〕
か う くわ
あた
へのばしたとするそのときその松の枝をのばしたことがどうし
てある効果を畫面に與へるか。それは雲林も知つてゐたかどう
(十)
ざつ
かは
しゆ み
こ てんしゆ み
せ かい
しゆ
よう そ
と
な
た
かれ どく と く
はん
せ かい
ひと
わけ
えら
―
ひと
し うけ う
み
え
かぎ
なに
いふ譯にはゆかない。ゆえに宗敎によへるものはごく限られた
おそ
てき
めい
じ しん
ら
ほか
げん
てき
み
よ
し うけ う
し
はや
きや う ふ
か
す くな
まん
―
くわ ん の うて き よ く ぼ う
せ つ めい
くは
ぼく
そ う は ん か うて き せい し ん
お
ひつ えう
かん じ ゆ せい
疑惑、恐 怖、
驕慢、官 能的欲望
ぎ
氏もまたこの選ばれた人のなかには見出し得なかつた。何ゆ
し
人で しか ない。
ぼく
かん
ち
ゑ?「恐ろしい四ツの敵
しん み つ
かうした芥川の趣味の世―
界
種々の要素から成り立つが煩
― にあくまで閉ぢこもつてす
め
しゆ
り
べての 外 界に目をとざして、ひたすらこの親密な彼獨特の世界
ぐ わ い かい
雜をはぶくため古典趣味といふ
ほう はふ
し
と く ちや う
僕はかういふ言葉を見るが早いか一層反抗的精神の起こるのを
ゆう ひ や く で
つ ゐき う
い う りよ く
さいぢ うえう
.し
.た
.こ
.と
.はないのである。けれども
に雄飛躍出來ればそれにこ
ち
がた
いう
感じ た 、 そ れ等 の 敵 と 呼ば れ る もの は 少 く と も 僕 に は 感 受 性
り
え
きんだい ち し きじ ん
や理智の異名に外ならなかつた 。」こゝで 說明を加へる必要も
かぎ
い しき てき げい じゆつ くわつ どう じつ げん
もと
である限り、それは求むべくして得られ難いものである氏の趣
こ じん
し
「理智の追求」といふことは近代知識人の有する最重要な特 徴
し
はつ てん
とも な
じ や うひ ん
り せい
ひ はん
ひつぜん て き
じ しん
じ や うた い
をさ
かへ
つ
じ しん は つ
い
あく ま
しん
も の がた
み
し んし や
あ きら
かみ
き
り せい
しん
てう
で
き
ほん し つ
が ふ り せい
しう けう
きやく げ ん
しん
とき
じ
かれ
つ
しん
ない。氏自身の言が宗敎は氏にとつて如何なるものであるかを
み
きん だい せい くわ つ
味 、 氏 個 人の 意 識 的 藝 術 活 動實 現の ための 有 力 なる 方法で
ち
せいし つ
こた
明 か に 物 語 つ て ゐ る。 宗 敎 の 本 質 は 信 の 一 字 に 盡 き る。 信 は
り
し ゆ み せい
あ んぢ う
くは
あつた理智は、近代生 活 の發展に 伴 つて必然的にそれ自身發
ぎ やく
し
ある意味では理性を超越し合理性の 極 限にある。
てん
展 し て 逆 に 氏 の 趣 味 性 そ の 他 の も の に まで 批 判を 加 へ な け れ
「信者になる氣はありませんか」と聞かれた時、彼は答へる。
あらそ
ぼく
しゆ み
「惡魔を信じることは出來ますがね」と。
はげ
かで激しく 爭 はねばならなくなつた。氏はかうした 狀 態を次
ばならなくなつたのである。かくして趣味と理性は氏自身のな
の
ま
ひと
こ
だ らく
ぼ く じ しん
おそ れ
ぼく
かれ
も し かげ
しん
ひか
ぼく
ひか
なか
しん
い じやう
ひか
「では何ゆゑ神を信じないのです?」
ごと
りう
ぼく
から
しん
ぎの如く述べる。「僕の安住したがる性質は 上 品に納まり返つ
ぼく
かぎ
「 若 影 を 信 じ る な ら ば 光 り も 信 ぜ ず に は ゐ ら れ な いで せ う 」
き
ぢ
き
て ゐ る と そ の ま ゝ 僕 は 風 流の 魔の 子に 堕 落 さ せ る 惧 が あ る こ
ふ
たい
で
「しかし光りのない暗もあるでせう」
せい し つ
た
うか
えい
しうけう
せ かい
り せい り
た
ち
きや く げ ん
せい ぢ
じつげふ
かれ
げ い じ ゆつ
か くし て 神祕 的な 宗敎の 世 界 は 理性 理智に 極 限 された 彼に
しん ひ て き
しん
彼 も ま た 僕 の や うに 暗の 中 を あ る い た 。 が 暗 の あ る以 上 は 光
じ
い
の性質が吹き切れない限り僕は人にも僕自身にも僕の信ずると
ま
け ん めい
ころをはつきりさせて自他に對する意地づくからも殻の出來る
ぼく
かへ
だ らく
りもあると信じてゐた。
ちか
をさ
ふう りう
ことをふせがねばならぬ。追々僕も一生懸命にならないと浮ば
とき
じ や う ひん
よく きう
あ り がた
の
ひ
かげ
ぶつしつ しゆ ぎ
じ んせ い
くわ が く
しん ひ し ゆ ぎ
ざつ
ほか
どう やう ぶつしつしゆ ぎ
み な かれ
どう や う
おそ
し
は永劫に鎖された扉であつた。ではその他の政治、實業、藝 術 、
い しき
れない時が近づくらしい。」
たう ひ
たれ
は くわい
意識 として は 上 品に 納ま り返り 風流 の 魔の 子に 堕落 させ る
しうけう
り せい
科學といつたやうなものは?これらは皆彼にとつて「恐ろしい
ます
い う か ん かい き ふ て き い し きけ い た い
ところの有閑階級的意識形態である。しかも理性はこれを破 壞
あらそ
と
あ へん
きよ
人生を蔭した雜色のエナメルに外ならなかつた」すなはち氏の
せま
たう ひ
あ へん
日朝刊六面〕
きよ ひ
せよ と 迫 るこ ゝ で 爭 ひ は 益 々 度を加 へ 一 面逃 避 への 欲求 も さ
物質主義は神祕主義を拒否すると同様物質主義もまた同様に拒
し うけ う
くは
かんとなる。逃避への一途として「宗敎」といふ有難いものが
否されねばならなかつたのであ る。〔「京城日 報」昭和五年二月二三
ど
ある。宗敎は阿片であるといふ。だが阿片は誰にでも飲めると
(十一)
かは
いう
こ じん てき しゆ み
り せい
どく じ
はつ
ひ さう
たい ど
け つし ん
はた
いだ
げ んじ つ
てい ど
じつげん
え
いふ悲壯な決心を抱かしめずにはゐなかつたのである。だがそ
さう さく
あらは
よし ひで
つひ
せい
た
うした態度は果して現實においてどの程度まで實現し得られる
り せい
き ん だ い て きさ う
た
げ んじ つ
ひと
き
息 苦 し く な るば か りで あ る。 ピリ
〲
き
しんけい
しん けい
した神
え
もの だ ら う か。 創 作 に 現 れ た 良 秀 さ へ も 遂 に 生 命 を 絶 た ずに
わた し
り せい
い
く
す
はゐられなかつたのではないか。まして現實の人においては…
り せい
り せい
せ かい
くわつ
みだ
た うぜ ん
は當然われ
け つ き やく
みち
そ んざ い
しゆ
り せい
ひ てい
しう し
か ていて き はん ざ つ
こと
し
自身の存在を否定しなければならないので
じ しん
かき 亂す ば か りで あ る結 局 も し 理 性 に 終 始す ると す れば わ れ
く
あらゆる近代的騷音はいづれもこのとがり切つた神經を
生 活 はます
―
經
く
こ ほり
私 は すで に 芥 川 の 有 す る個 人 的趣 味は 理性 の そ れ 獨自の 發
てん
り
た
かた
なが つゞ
展によつてこくされるといつた。しかし理性はまだこれによつ
え
わ が せ い めい
え
しんけい
…。理性が理性によつて堪えられなくなつたといへば、もはや
し めい
くわ て い
むすめ
が
てその使命がつきたといひ得られない。理性は理性そのものに
わた し
ゑが
ぜ ん ぜ ん ぎ せい
ぢ ごく
じや う
れいこ く
ぎ せい
しん
神經に生きるほかはあるまい。「 氷 のやうに澄み切つた神經」
さい ひ はん
おや こ
ぞく
よ つ て 再 批判さ れね ば な ら ない 。 私 は か うした 過 程の 萌芽を
しよ き
ぐわ か
さ くひん
の世界である。だがこれも永續きのするものではあり得ない。
し
き
おそ
むす め
げ いじゆつ し じやうし ゆ ぎ
こ
い き くる
すでに氏の初期の作品に屬する「地獄變」においてうかゞふこ
で
し
とが出來る。畫家良秀は親子の 情 を全然犠牲にして己が 娘 が
や
け つ くわ
じ
かんた ん
もその結果はどうであつたか。かれはついにわれと我生命を絶
燒け死ぬありさまを恐ろしい冷酷さをもつて描きあげた。しか
つけ
たねばならなくなつた。これを簡單に藝 術 至 上 主義として片
した が
り せい
さら
い
けつ
くる
きや う ち
めい
べうてきじやうたい
みち
はつ へう
し さ う て きくる
き
つひ
くは
くわん き やう
などが加速度的に加はつてゐるこ
さ くざ つ
さ く ひん
き
ごと
けん
ちよ く せ つ
きや う ち
し
さい
だ うて い
あそ
これらが錯雑して來たとき遂に來るべきものが
み のが
―
き
わた し
た うた つ
さい きん
か そく ど てき
ある。もちろんかくなる道には種々の家庭的煩雜と、殊に死の
さ いき ん
お
い んせ き
じ さつ
.き
.さ
.つ
.。そして健けん
最近に起こつた姻戚の一人の自殺にからむい
り せ い めい
み
あらは
み
じ しん
―
ことは、その理性命のずるところに 從 つた。だがその理性は更
付 ら れ る もの で あ ら う か 。 か れが 自 己の 娘 を 犠 牲に して 得 た
し よさ ん
せい か く
し
げ い じ ゆつ て き れ う し ん
ぐわ
さい し
か うじ や う
康 上 より來る病的 狀 態
さい ひ はん
たお
り せい
ひ はん
り せい
とは決して見逃してはならない。思想的苦しみと、 環 境 より
さら
り せい
ゑが
ご
かれ
に理性によつて再批判されねばならない。彼は理性によつて生
つち
り せい
き更に理性によつて倒れたといはれるであらう。この意味で「一
來る苦しみ
くわ い
り せい
ちう じつ
ゆ
たい ど
み
い
塊 の土」はその理性に徹して解剖の所産である。これらに 現
來るよりほかに道はないのである。しかも死そのものと遊べる
り せい
れた理性の理性による再批判といふことは、氏の性格より生ず
境 地に到逹したのであつた。かくの如き 境 地にいたる道程に
ま
ざ んこ く
かいぼ う
る「ありのまゝを 忠實に描 き出 さんと す る」 藝 術 的良 心 に 煽
つ い て は 私 が こ ゝ で こ と 新 し く 記 述 す る ま で も な い。 一 切 は
ど
てつ
られてその度を增して行く。そして最後にはあの畫家良秀に見
この 最近 に發 表 さ れ た三 、 四 の 作品 に つ けて 直 接 見 れば そ れ
げ ん しゆ く
さ う さ くた い ど
し
るやうな嚴 肅 な、しかし殘酷な態度がそつくりそのまゝ氏自身
ぼく
りや うし ん
う。〔「京城日報」昭和五年二月二六日朝刊六面〕
や ばん
が 克明 に 記 さ れて あ るこ と は たや す く發 見 し うるこ とであ ら
ぼく
い のち
き
の創作態度となつてあらはれて來るのを見る。
ぼく
唯 僕 の ペ ン カ ラ 流 れ 出 し た 命 だ けあ ると いふ 氣 に なつた」 と
なが
「僕は野蠻な歡びのなかに僕には 兩 親もなければ妻子もない。
(十二)
だい
あり しま
かは
け つ くわ
ろん
か
ごと
けつ きやく
け はい
りよく しよく
かゝは
い ぜん
―
る 綠 色 へ の ど う けい
もと
つね
いく ど
み どり
せん げん
てう せん
せい くわ つ
はひ
恒 に 幾 度 か 宣 言 され、 挑 戰 され
り ろん
くわてい
ち しき
ぼ つ らく
く
し た 暗 黑 の な か か ら 、 たゞ
あん こ く
い しき てき
め ざめ
ち しき
ほが
わら
明 る くて 朗 ら か な 笑 ひ を
あか
だ。かくして 傷 ついた 沒 落 の 過 程 にある知 識 人は、そのじめ
きず
た に 拘 ら ず 依 然 と し て 「 理 論 は 綠 で あ るが 生 活 は 灰 色 で
わた し
しか
くわんしん
ちん ふ
す
あ る 」 の で あ る。 な ぜなら 知 識 人は 意 識 的 に 目 醒 て ゐ ない の
あきら
どく しや
き
せつ
私 は こ の 表題 に お い て 有 島 、 芥 川 を 論 評 す る か の 如き 氣 配
し ゆ くわ ん み
き
かゝ
く
を 明 かにしてゐた。然るにその結果においては結 局 この二人
しん
てい
の心境を、しかも主 觀 味たつぷりに たゞ 說明したに過ぎない
くわん
だい
きふ かう
し よく
とう てい しや ば
く わ ん らく
かげ
かん たん
わら
てい さう
い そが
くわん らく
ばい ぢよ ばい
求 めよ うと し て ゐ る 。 … … カ フ エ ー 、 ダ ン ス ホー ル 、 スポ ー
きは も のて き
かの 觀 を 呈し て 來 た こ とに 氣 づ く 。 こ れは い さゝ か 陳 腐で は
ひ
あ る が 際 物 的に 表 題 を 掲 げ て 讀 者 の 歡 心 を 買 つ た の で は な い
か
飾 の なかに 歡 樂 の 籬の 蔭 には 笑 ひの 賣 女 賣 男が 忙 し い
.ん
.ら
.ん
.な電
ツ、マージヤン、トツカビンとサツポロビールのけ
なに
せつめい
書いてゐるうちに、つひに批評にまでいたらなかつた。いな、
く
と しては 說 明 す
で き
す るこ とが出 來なか つたので ある、 われ
え
てん らく
じ しん
みち
おほ
すくな
たう す ゐ
じやう ぜつ
をど
ばく
さい
るや う な 媚笑 と散 彈 のや う な 冗 舌 と、あ らゆる 一 切 の レヴ
か ん し やう せ か い
急 行 時 の 一 等 停 車 場の や うに 簡 單 に 、 貞 操 の 歡 樂 の テイ
けい しき
めい
ると いふ 形 式 を と らざ るを 得 なく なつた ので あ る。 何 ゆ ゑな
し
キ ユ ー ル で ふ け る 感 傷 世 界 の 陶 醉 、 ウエ ー トレ スの 爆 發 す
ツ ケ ツ ト を 賣 つ て ゐ るで は な い か 、 そ し て ジ ヤ ズで 踊 つ て リ
い しき てき
り いう
自 身 が 多 かれ 少
く
らば その 理 由 は至 極 明 白 で あ る。 わ れ
む い しき てき
かれ 或ひは意 識 的 に か無 意 識 的 に かその 顚 落 の 道 を たどり
うしな
てき
せ い く わつ な ん
し つげ ふ
たう ひ
ぶん
さい
し
てん さい しゆ ぎ てき
いま
くさ
のこ
こ じん しゆ ぎ てき めい
ま つ し や う し ん けい
ユー 的 ス ピー ドの刺 戟 の なかに 末 梢 神 經 と 未 だに 殘 つてゐ
し さうてきこんきよ
つゝあ る からであ る。
たいり つ
かい きふ
あいだ
かい ざい
ほん
えい
.ゆ
.ん
.銳
し
に 對 立 し て ゐ る 三 つ の 階 級 の 間 に 介 在 して 日 本
せい くわ つ てき
るか び の は え た や う な 天 才 主 義 的 、 個 人 主 義 的 迷 も うの な
ち しきかいきふ
―
か い き ふ て き く もん
ひ
かに …… には ゞ 一 切 のル ンペ ン・ イ ンテリ ゲンチ ヤはま さに
ち し き じん
おも
る、 知 識 人 の 階 級 的 苦 悶
ひ
といつたやうなものは日に日に
の知 識 階 級 は ま さ しく 生 活 的 、 思 想 的 根 據 を 失 ひ つ ゝ あ
ゆ
逃 避 し つ ゝ あ る。
せん えいくわ
ぐ わ い て き し や く わ い て き し よ ぜ う けん
しん けい すゐ じやく
先 銳化 して行くやうに 思 はれる。それには 生 活 難 とか、失 業
しゆ
く
ぞく
じ こ
た
とう し
じ が
ち う か ん て き そん ざ い
やく
ぶん せき
い しき
ふか
く
われ
く
ち しき
しゆ
はすましてゐられなくなつたのである。内 省
こ てん てきふう けい
文 明 と 神 經 衰 弱 は つき もの だ。 と いふ や う な い ひ 草 は も
しう しよく なん
どうさつ
じ じつ
.や
.れ
.みたいなこと
は や 古 典 的 風 景 に 屬 し つゝあ る 。 こ ん な し
ほ てう
くは
加 へ つゝあるこ とは事 實 であ る。が これと
く
とか、 就 職 難 と かその 他 種 々の 外 的 社 會 的 諸 條 件 が そ
ぢう あ つ
の 重 壓 をます
め
つう
じ こ ひ はん
いろ め が ね
けつ きよく なん
と
くすり
み であ る。 その 結 果 は アダリ ン と か 、ヂ アール とかの 薬 を
けつ く わ
を して 鳴かず 飛ばずの 中 間 的 存 在 の 意 識 を 深 からしめたの
な
ないせい
をいつてわれ
ない せい
もと
あい
せい くわつ
せい くわつ
ち から
ち し き かい きふ
けん たい
は ひ いろ
は ひ いろ
ゆ
ともに 内 省 の目も歩 調 を一にして 深 く 洞 察 して行く。しかも
と か 、 自 己 批 判 と か 、 あ る ひ は 自 我の 分 析 と か、 知 識 人 は 種
せう
けふ ゐ
ふ あん
せい くわつ
じう まん
ふか
斷えず 生 活 の 脅 威におびえて ゐ る知 識 階 級 の 生 活 は……
らそ れは 結 局 何 の 役 に も 立 た な か つ た 。 ま す
々な 色 眼 鏡 を 通 じ て 「 自己 」を 透 視 せ ん と した。 し かしなが
た
そ れ ゆ ゑ に 不 安 と 焦 躁 と 絶 望 と… … 倦 怠 と 力 なき 愛 によつ
もの
ぜ つ ぼう
て 充 滿 さ れて ゐ るの だ 。 そ し て そ の 灰 色 の 生 活 が 求 む る と
さい
こ ろ の も の は か う し た 一 切 の 物 憂 い 灰 色 か ら の が れや う と す
ねむ
じやうたい
し ん けい
ぬ
げん て き
みち
ろ ん ばく
じ つ さい て き
もの
かた
い か
く
かた
を 活かしう る
し べん て き きや く が く し や
げん ざい
つて 論 駁 される 時 があつても、この見 方 がもつとも 現 在 のわ
とき
唯 一の 道 で は なか ら う か。 そ れが 如 何に 思 辯 的 曲 學 者 に よ
こ ゝろ ぼ そ
した氣
き
は 一 元 的 な 實 際 的 な 物 の 見 方 こそが われ
へん たい て き
く
變 態 的 な 心 細 い 狀 態 に な つて 來 た。 そ して そ れ か ら抜 け
ゆ
の ま ね ば 眠 ら れ な い の だ と か 「 神 經 の み に 生 き る」 だ と かの
りん う
出て くるもの は 霖 雨 の中をぬ れそぼれて行 くぢメ
せん でん
ひ けふ もの
じつしやう
に
ゆうしや
せん
げん だ い
ふ ま じ め
む るゐ
せい くわつ
かん じや う
ゆ
くる
ふ あん
たう ば く ろ
討 暴露
お
がく
てつ がく
た
そこ
けん ぜ ん
ない がん
さい
め ば
しう だん しゆ ぎ てき
はじ
せい くわつ
かは
て き は ん どう
すく
く
しん し
し べん
ひ がん
いう ゐ
ち しき
じゆん
てつ てい
すく
きう らい
が く もん
ふく
ふ あん
し ほん しゆ ぎ
ど り よく
しん
まつ
おう ざ
あ
り はん
どう じ
せう
み き
けん
かい きふ
そ して 自 覺 し つ ゝあ る イ ンテ リ ゲ ンチ ヤ の かう し
じ かく
け い れ ん 的 反 動 を 内 含 し つ ゝ あ る 資 本 主 義 への 偏 り な き 檢
―
こ じん し ゆ ぎ
ち しき
に 卽した見方なのである。一度は思 辯 の彼 岸 に 祭 り上
ど
く
れ
は ん ぎや く き し つ
く わい ひ て き
いだ
じ ぶん
かた
げ ら れた 神 學 、 哲 學 その 他 一 切 の 學 問 をそ の 優 位の 王 座 か
べや う
ど り よく か
おそ
じ ぶん
し や く かく
そく
持、そしてヒステリカルな 浪 人 根 性 、妙 にひねくれた 高 踏 的
ら 引 ず り 下 ろ し て し ま ふ こ と に よ つて 、 舊 來 の 知 識 人 に 離 反
じつ
せん し
とう
かん じや う
かう たふ て き
な 趣 味、末 梢 的 な 反 逆 氣 質 、その 宣 傳 において無類の 勇 者
す る と ゝ もに こ ゝ に 健 全 な 芽 生 え が 生 ず るで あ らう。 と 同 時
らう に ん こん し や う めう
で 、 戰 士 で 努 力 家 で あ り 、 その 實 證 す べ き 生 活 戰 線 に あ
に 知 識 は そ の 生 活 を 、その な かに 含 ま れ た矛 盾 を 解 消 す
が う まん
てき
つて は 實 に 臆 病 で 、 回 避 的 で、卑 怯 者 で 、かつ不 眞面目
ち しき
はん てき ふうてう
まつ
で、 豪 慢 であ る 等 々… …と い つたや う な もので あ る。 現 代 の
る こ と に よ つて 、 初 め て 底 な し の 不 安 か ら 救 は れ るの であ る
しゆ み
知 識 人の一 般 的 風 潮 とは 恐 らくこれに似た 感 情 ではあるま
個 人 主 義に 代 る 集 團 主 義 的 イ デオ ロ ギーの 徹 底 と、 未期の
じ つ さい
あい に く
ひき
いかだが かうした 感 情 はいつまで 抱 いて行かねば ならない
し ん けい
の か 。 實 際 わく
れ
は こ ん な 自 分 で 自 分 を 苦 しめ るや うな
く してゐるのだ。つねにバ.ツ.タ.の 觸 角 のや
かんが
考 へ に は飽き
と し て ゐ る 神 經 な どに は 愛 憎 が つき て ゐ るの
かく
けん ぜ ん
みぎ
しん り
(
)
み
―
み
めい はく
われ
ぼ つらく
ひと
いう
しん
い み
たん
も
はこゝに 眞 の意味のモダン・エ
ち し き かい きふ
( ママ)きう らい
ぼ つ らく
ぜん じ かいきふ
ち しき
ち し き じん
そん ざい
い み
ゐ ぢ
はその 階 級 的 自 覺 を 有 するとともに「 沒 落 」そのことに意味
か い き ふ て き じ かく
かゝ る沒落の 道 を たど つた。 し かしモダ ン・エーヂの 知 識 人
みち
え 殘 りの 蠟燭に 等 しいものだらうか?。 舊 來 の知 識 人はみな
のこ
知 識 階 級 は 沒 落 しつゝあるといふ。だがこれはたゞ 單 に燃
ち し きか い き ふ
れい めい
て き し よ ぞく
た 不 安 か ら 救 は れよ う と す る 眞 摯 な 努 力 精 進 。 そ し て 階 級
く
ふ
と
うにピリ
ぬ
たい ち
し ん けい
的 所 屬の明 白
し ばら
どん ぢう (ママ)そこ ぢから
だ。 も つ と 鈍 重 は 底 力 の あ る 神 經 が 欲 し いの で あ る。 右
ーヂの 黎 明 を見る。
き も
おな
ぜ つ たい
な クリ ー ヤ な 氣 持 ち に な つて この 大 地 を 踏み しめ て 見 たいの
ひだ り
とか 左 と かは 暫 く抜きとつてもいゝ。 兎に 角 もつと 健 全
げん か い な い
である。〔「京城日報」五年二月二八日朝刊六面〕
完
ち しき
そん
にんしき
かん かく
え
き ぼう
お も しろ
も
く
どう じ
じ かく
ふ がふ り
ひ つ し て き ど り よく
こん にち
に とつて 必 死 的 努 力
は ひ いろ
ち しきにん
を見出すであらう。知 識 階 級 が 漸 次 階 級 としての 存 在 を維持
さら
もの
い じや う
更 に 知 識 の 限 界 内 で い つて も 同 じ こ と だ。 絶 對 の 眞 理と
そん ざい
し 得 ら れ な く な る 、 そ の こ と が 同 時 に 知 識 人 そ の もの の 自 覺
けつ
と希 望 とを 持 たし め る もの な ので は なか ら うか。 この 不 合 理
ま ちが
いふ や う なもの が 決 し て 存 在 し な い以 上 、 た と へ 、 感 覺 が
そ ぼく
けん ぜ ん
健 全 な歩み を と ることは 實 に われ
じつ
間 違 ふときがあらうがあるまいが、
「 物 は 存 する」といふ 認 識
さう たい て き
ぜ つ たい
な 面 白 くもな い 實 に メランコリー な 灰 色 の 今 日 に おいて 、
じつ
は 相 對 的 な 絶 對 なのだもちろんナイーブである。がこの素 朴
ゆ
ご ま くわ
じつ
きよ ぎ
こんにち
みち
たゞ
となり あひ
ひ はん
ふくろ
し だん
たな
つく え
たゝみ
かん
お
はい
はう ふ
おほ
ゆか
しき
せ
かん
む
へ や
かさ
上といはず、 袋 戸 棚 や 疉 の上まで一 杯 の本が立てたり 重 ね
みち
にん しき
ひ にく
.い
.ゆ
.ら
.い
.とあ
.と誤魔 化 しと 虛僞の 今 日 において、正
である。か
しつ げふ
たり、 その中に は 和 綴の 漢 書 など も 多 く、 さういふ部屋の眞
そう わ い き ん し ゆ く
げん じ つ
こと
く わい
す
よ く 話 も さ れ る が 、 何 よ り も 知 識 の 豐 富 さ と いふ 感 じ を 受
ちんと 坐 つてをられた。
う
中 に 小 さ な紫 檀 の 机 が 置 か れ 、 床 を 背 に して 此 方 向き に き
し さう ぜ ん だ う
つね
かん
はこのためにはあらゆる 感
は 恒 に 現 實 に 對 す る 認 識 と批 判
く
いのち
すわ
る。しかし思 想 善 導 と 贈 賄 、緊 縮 と 失 業とが皮 肉 にも 隣 合
く
たい
し い 道 を 歩 ん で 行 く と い ふ こ とは 實 に 六 ヶ 敷 し い棘の 道 で あ
こん にち
わす
する 今 日 である。われ
ふ
と を 忘 れて は な ら な い 。 わ れ
そく
ひ やく
ひ つえ う
い
が ひ
ふる
つよ
とう き
たく
あつ
てうこく
さら
しや
おぼ
ブレ ー クの 複 製 などが 何 時も 床 に 立 て か けて あ つ たのを 覺 え
ふく せい
すうはい
けずにはゐられなかつた。 殊 に 繪 畫の 話が好きで 、レムブラ
しやう
傷 も そ の 足 下 に 踏 み つ けて 行 か ね ば な ら な い。 そ れは 「 命
ントを 崇 拜 する心が 强 いらしかつた。エヂプト 彫 刻 の 寫 眞や
たいが く せい
ゆか
はこれによつて生き甲斐
く
がけの飛 躍 」を 必 要 とする。われ
かん
さく ら
を 感 じようとするものである。
かう ふく
かん
げい じゆつ
てゐる。また 古 い 陶 器なども 澤 山 蒐 めてゐて、 皿 など出して
わ たし
い のち
チエホフの「 櫻 の園」の 大 學 生 はいふ。
じつ
來て見せながら
よ
「 私 は 幸 福 を 感 じます」と
いま
か
ぎ こう
かん たん
さら
「 マ ル クス と か 何 と か い つ て み て も、 藝 術 に は及ば ないで
かうふく
かう ふく
あく た
だがこの 幸 福 は 今 の世には 實 に 命 ととりかへるのである。
かは て き そん ざい
しげ
すなあ……」といつて、その 皿 にしげしげと見入りながら、
「や
―
あり し ま
ご
き
芥 川 的 存 在 は 幸 福 と 生 命をと り代 へ 損
い み
かい
とも飽きないですよ」と、そんなことをいつたりされた。
あ
「 か う して 此 所 か らあ の 木 の 葉の 動 く の を 見て ゐ ると 、 ち つ
うご
川さんはふと其の方を見やりながら、
その二 階 の部屋の手擦越しには 庭 の立樹が 繁 つてゐた。 芥
には
この 意 味で 有 島
古木鐵太郎
じ ぎ
へ や
はり、技 巧 だなあ!」と 感 嘆 されたりした。
日報」昭和五年三月一日朝刊六面〕
ねい
ねたともいへ るだらう。(完)(一九三〇年二月十八 日)〔「京城
め
作家 印象記(2)芥川龍 之 介氏
はつ
たゝみ
かを
かい
はじ
さい
あ
す
しゆ み
あ らは
せき
ゆか
せう
自分のだといふと
やく
た 。 そ れ は ア ン ド レ ・ ジ イ ド の 「 背 徳 者 」 だ つ た。 そ の 譯 本
はい とく
「あれはいゝ本ですね、實に綺 麗 な小説ですね!」といはれ
き れい
「あの 玄 關に あつた本は 誰 の です?」と訊 かれるので、私が
げん
つて、上つて來ると
かい
ある日、私は友逹三人ばかりと芥川さんを訪ねたことがあつ
あく た
しゆ
に
たれ
た。 二 階 で 少 時話して ゐると芥川さんは一寸階下に 下りて行
かみ
くせ
芥 川 さん は 先づその 長 髪 が 眼につき 、 丁 寧 に お辭 儀を さ
か
れ るの で 髮 が 前に か ぶ さつて 疉 に 惹 き 、 顔 を 挙 げ なが ら 素
れう
はた
早く 兩 手でそれを 搔きあげられるのが 癖 だつた。
かん
田 端 の 家 の あ の 二 階 の 日本 間 が 初 め の 頃の 書 齋 で 、 そ の 書
さい
しや
齋 の 感 じ も 主 人の 趣 味 を 現 し た もの に見 え た 。 私 は 漱 石 の
さい
書 齋 を 寫 眞 で 見 た こ と が あ るが 、 そ れとよ く 似 てゐ た。 床 の
たの し
さつ
よ
が 出 た ば か り の 頃で 、 私 は そ れを 電 車 の 中 な どで 樂 み に 讀ん
ぬま
や
かい
最後に私が 芥川 さんに會 つたのは 、芥川さんが自 殺 す る數
でゐたのだつた。
けい
い
しつ
かう
たし か
はる
ざ
は
しつ
かう
や
たの
げん
おう せつ
たん か
確 に 春 の 晴 れた 午 前 だ つ た が 、 東 屋 の 玄 關 傍 の 應 接 間 で 、
い
かう
かう
と
形 式は亡 ぶま いとい ふ 意見 だつ た。 その 原 稿 を 直ちに 其所で
けい
二 人 で 對 坐 し て そ の 質 問 の 原 稿 を 賴 ん だ 。 芥 川 さ んは 短 歌 の
もら
へ や
た
ろう
書いて 貰 つた。芥川 さんは 原 稿 を 書き なが ら、中途で 時々自
たん か
め
ヶ月前だつた。芥川さんが鵠 沼 の東屋に行つてゐる時「 改 造」
すが た
分の 部屋 に 起つて 行 つたり され た。 拭き こん だ光つた 廊 下を
かん
おん かる
で「 短 歌の 形 式は亡びるだらうか、如何?」といふ 質 問の原 稿
スリツパの足 音 輕 く歩 かれたあの 後 姿 が 今 も私の 眼 に は つ
たの
ひさ
きりと殘つてゐる。〔「京城日報」昭和一四年六月一日夕刊四面〕
か
かは
を 賴 み に 行 つ た 時 だ つ た。 そ の 時は 一 寸 久 し ぶ りに 會 つ たの
はつ
あの 長 髪 が 刈 られて、 輕 々した 五分 刈に な つてゐた。そ れは
かる
で 、 芥 川 さんの 様 子 が 何と な く 變 つて ゐ る 様 に 感 ぜ ら れた。
―
はじめに
―
三島由紀夫『潮騒』論
D a i k i
稲 田 大 貴
I N A D A
不在の「作者」と
造反する語り手
一
『 潮 騒 』 は 書 き 下 ろ し 長 編 小 説 と し て 、 昭和 二 十 九 年 六 月 に
新潮社より刊行された。『 潮騒』は刊行後、瞬く間にベストセ
( モ デ ル と な っ た 神 島 ― 引 用 者 注 )は 既 成 道 徳 が 生 き 永 らへ て
ゐるところである。(中略)そこでこの小説は反ロミオとジ
ュリエット的なものであり、既成道徳の帰依者たち乃至は
適応者たちの幸福な物語であり、どの一頁にもデカダンス
の影もとどめぬ小説であり、考へられるかぎりの「作者不
在」の小説たるべきであつた。私は今まで得意としてきた
から)、ともすると既 成道徳の枠をはみ出さうとする 登場
手法を悉く捨 て、(なぜなら手法にはいつも作者がひ そむ
(「潮騒」用)」未発表資料、
『決定版 三島由紀夫全集
』
(以下『全集
人 物 を 厳 し く 監 視 し 規 制 し た こ と を 告 白 す る 。(「あ と が き
(巻号)
』と記す)にのみ収録)
自らあとがきを付すことは、作中に自身が入り込む要素になり
この資料は『潮騒』のあとがきとして書かれながら、結局は付
ラーとなり、第一回新潮社文学賞を受賞する。文壇での評価は
得る。自らの創作手法を捨てるほどに「作者不在」を目指した
されず、未発表となっていた文章である。その経緯は不明だが、
三島由紀夫は『潮騒』執筆以前の昭和二十六年十二月、朝日
賛否両論あったものの、五度の映画化、多くの文学全集等への
新聞特別 通信員の資 格で世界一周旅行に赴いた。『潮騒』はそ
いのだろうか。テクストが「書かれたもの」である以上、そこ
しかし「作者不在」とはいったいどのような意味にとればよ
作品であ る以 上、 このあ と が き は不 要であっ たの だろう 。
三島は三重県神島へ取材に赴き、それに基づいて『潮騒』は書
・バルトによ
って著 され た「作者 の 死」 以 降 、 作 品 は その主 宰者たる 作者
R
私は一篇の牧歌小説を書かうと企て、わがアルカディア
意味を「正しい」もの一つに決定づける作者である。本研究が
しここで言う作者は「神学的」な作者、換言すればテクストの
を切り離され、テクストとして自由な解釈が可能となった。但
(3)
を描 かうと 試みた 。い ふま でもな く現 実の 日本の その 地
のよ うに書き 残している 。
に は 「 作 者 」 が 存 在 す る と 考 え ら れ る 。確 か に
エ 」 を 藍 本 と し て 書 か れ た 作 品 で あ る 。 ま た 執 筆 にあ た っ て
の旅行 で訪れたギリシアの地に感銘を受け 、「ダフニスとクロ
再録など、その世間的な評価は高い。
28
かれた。このような経緯で書かれた『潮騒』について三島は次
(1)
(2)
ば、エキセントリックな異常人に対する偏愛をみとめざる
れないような性格を好んでいた。少し乱暴な言い方をすれ
を得ない。そこで、小説の筋立てにも、ほとんどいつも血
物、血なまぐさい、破壊的な犯罪へとつき進まずにはいら
斂する、一箇の実体としてあるのではない。その「作者」とは、
の匂い、背徳、反逆の雰囲気が色こく立ちこめていた。異
問題とするのは、あくまでも読者の側が要請する「作者」であ
読み手がテクストを受容するときに、その内部に見る「作者の
る。しかしこの「作者」は、例えば三島由紀夫という個人に収
像 」 で あ る 。 で は こ の よ う な 「 作 者 」 は 、テ ク ス ト を 読 む と
り、テクスト論における「作者」のあり方についての再検討の
と著者自身が位置づける『潮騒』の「作者」を見出す試みであ
いう行為においてどのように機能するのか。本稿は「作者不在」
した一切の異様、異常なものが払いのけられている。(佐伯
にはいられなかった。ところが、この『潮騒』からはそう
常なもの、偏奇なもの、病的なものをくり返し取り上げず
昭和四十八年十二月)
彰一「『潮騒 』(文庫版)解説 『潮騒』について 」(『潮騒』(文庫版)
問題の所在
ることの証左 であ ろう。佐伯が述べるように、『潮騒』は三島
章を付すというのは 、『 潮騒』 が「三島らしく」ない作品であ
一般読者に広く読まれることを目的としている文庫版にこの文
由紀夫の作品でありながら、その作品群中に置かれたとき、他
先の問いを再 度繰り返し ておきたい 。「作者不在」とは、ど
のような意味なのだろうか。創作手法、すなわち文体に潜む作
作品との間に極めて決定的なズレが見出される。このように、
『潮騒』から「三島らしさ」を読み取ることは極めて困難であ
わば「作家の意思」のことであろう。確かにこの意味において
『潮騒』は「作者不在」のように読まれる。ここで新潮文庫版
意味において 、『潮騒』は「作者不在」と言える。佐伯はこの
り、三島由紀夫という存在がテクストから透視されないという
い。
し ての三島は 、『愛の渇き』の女主人公、ま た『金閣寺』
一つだけ、ぽつんと浮き上り、孤立して見える。小説家と
自体が 、『潮騒』というテクストにおいて「作者」が機能して
う枠組に回収している。しかしこのような論考が付されること
に通底 するものであると 述べ 、『潮騒』を「三島由紀夫」とい
から、原型にのっとった創作の態度、方法が作家、三島由紀夫
後で、『 潮騒』が「ダフ ニスと クロエ」を藍本としていること
の主人公に見られるように、強烈なドラマを内に含んだ人
そういう中に、この『潮騒』をすえて見ると、いかにも
『潮騒』(昭和六十年改版)に付された佐伯彰一の文章を見てみた
者とは、思想やイデオロギーといった三島個人に帰せられるい
二
一端でもある。
(4)
が明らかとなる。パラテクストに示されるこのような「作者の
意図」は、作者によるテクストへの介入であり、三島が他の文
者不在」の「幸福な物語」を志向して書かれた作品であること
章で『 潮騒』 に言及 することは 、『潮騒』というテクストを受
いるとも言える。一般読者には読み取り難いであろう「三島ら
在は「作者」という空所を生じさせており、その空所は解釈を
容する読者にとって確かに一つの読みの指標となる。しかしこ
しさ」を佐伯の論考は提示し、補填している。つまり作者の不
にある空所として存在し、機能しているのである。
こで示された「作者の意図」に従った解釈が、唯一無二の「正
要求する。いわば『潮騒』において「作者」は発語主体の位置
しかし三島は『潮騒』を「作者不在」の小説と位置付けつつ
しい」ものでないことは言うまでもないだろう。むしろこのよ
的な 関係 か ら参 照し て み た い 。 三 島 は 『 潮 騒』 刊 行後間 も な
「 私 は 自 作 「 潮 騒 」 の な か で 、自 然 描
』 収録 )の 中 で 、
本 稿ではこの仮 説に基づき、「わがアルカディア」として描
創出する機能を担っているのではないか。
出された歌島の空間表象についての考察を行い、次いで「幸福
がどのように機能しているのかを明らかにすることが本稿の目
これ らの 試みから『 潮騒』というテクストにおいて、「作者」
な物語 」
として紡がれる新治と初江の関係性について分析する。
写をふんだんに使ひ、
「わがアルカディヤ」を描かうとしたが、
かつ た 。
」と述べている。またその後、
『現代小説は古典たりえ
るか 』(新潮社 昭和三十二年九月『全集 』収録)に収められた「私
仕事といふのは「美徳のよろめき」といふ姦通小説ですが、こ
にしておく必要があるだろう。この「作者」が作品を支配する
具体的な考察に入る前に 、「作者」の位相についてより明確
三島由紀夫という作家と同一ではない。テクスト論の構えから
れはジイドのいはゆるレシ(物語)にするつもりです。いはゆ
見れば 、三島 由紀夫という個 人から 、『潮騒』というテクスト
ことは先に述べた通りである。この「作者の像」は決して作者、
したあとがきを照合すると、いわゆる「作者の意図」として、
作者とは異なり、読者の側から見出される「作者の像」である
『潮騒』が「わがアルカディア」たる歌島を舞台として 、「作
が、ああいふもの です 。」と述べる。これらの引用と先に提示
の商売道具」では、「「ブリタニキュス」のおかげで妨げられた
29
る小説ではありません 。「潮騒」もレシのつもりで書きました
三 「作者」と語り手
的である。
『全集
うな「作者の意図」が『潮騒』というテクストの新たな解釈を
も 刊 行 の 後 、 多 く の 文 章 で言 及 し て い る 。無 論 、 先 に 挙げ た
直接的には結びつかない。よってそれらの文章を『潮騒』とい
あと がきを含め て、『潮騒』と いうテクストとそれらの文章は
(5)
う テ ク ス ト を め ぐ る パラ テ ク ス ト と し て 捉え 、 相 互 テ ク ス ト
(6)
い 、 昭 和 三十 年 十 一 月に 刊 行 さ れ た 『 小 説家の 休暇 』( 講談 社
(7)
出来上がつたものは、トリアノン宮趣味の人工的自然にすぎな
28
は断 絶し ている 。 つまり 発 語主 体が 切り 離され た もの とし て 、
置しており、それらの文章は『潮騒』の作者自身による自己注
る 。『 潮騒』に言及した文 章は 、時系列的に『潮騒』の後に位
釈と言える 。この作者による自己注釈によって「作者の意図」
を引用しつつ、『 潮騒』 に「三島らしさ」がないということを
関を切断することは極めて強引な所作である。先に佐伯の文章
に述べた通りである。
『潮騒』というテクストにおける「作者」
のである。しかしそれが唯一の「正しい」解釈でないことは先
が見 出さ れ、仮 構 さ れ た 「 作者 」は ゼ ロから プラ スへと 転 じる
しかし『潮騒』というテクストにおいて、このように発語連
『潮騒』というテクストがある、ということができる。
述べた。このような「三島らしさ」の欠如によって生じた空所
称の客観的視点から語る。しかし登場人物に内的焦点化した語
係はどのようにあるの か 。『潮騒』の語り手は基本的には三人
では『潮騒』において、そのような「作者」と語り手との関
の位相はこのようにある。
言語表現」の言語連関、すなわち「作者」を、ないことがある
者」は、換言すれば発語主体の位置を占める空所である。この
りも見受けられ、また服部達が「われらにとって美は存在する
ものの表現として「
」と呼称している 。この仮構された「作
「作者」を仮構してしまうのである。加藤典洋は「発語主体―
に導かれて、読者は本来テクストから遡及不可能であるはずの
(10)
か
(8)
空所を補填するためにはテクストにおける「作者の意図」を読
-A
(
)
」(「群像」昭 和三 十年 六月)において指摘するように 、「遠
義性に門戸を開いたものの 、「正しい」読みとしての「作者の
み取る必要があるが、既存のテクスト論の枠組はテクストの多
の語り手は自由自在にその位置を変え、物語っている。換言す
近法が欠け」た視点の語りも見受けられる。つまり 、『潮騒』
このような語り手は言うまでもなく 、「作者」とは区別され
れば、「神の視点」での語りがなされているのである。
る。 ・プリンスはテクストに内包される「作者」について「状
スは語り手と「作者」の区別について、「不在の語り手」「可能
統合には責任を持つと考えられる 。」と述べる。さらにプリン
な限りの見えない語り手」の場合、その区別は不明瞭なものと
況・事象を報告することはないが,状況・事象の選択,配分,
のものである。しかしそれは発語連関を完全に切断した場合に
なり、語り手が物語中に現れる等質物語世界的物語の語り手の
る他の文章が参照されることになる。無論、テクスト論的に言
されたテクストであり、その作者名はパラテクストとして機能
場合には 明確に なる と 述べ ている 。し かし『 潮 騒』の語 り 手
おいてのみ である 。『潮騒』は 三島由紀夫という作者名が記載
えば、これらの文章は『潮騒』というテクストとは全く無関係
価値判断のゆえにパラテクスト、三島が『潮騒』に言及してい
い」ものであるか否かという判断を留保せざるを得ない。この
意図」には言及できない。つまり読者は、自らの解釈が「正し
11
G
する 。この作者名という共通項によって、
『潮騒』と『潮騒』
に言及した他の文章は相互テクスト的な関係に置かれるのであ
(9)
は「不 在の語り手 」、等質物語世界 的物語の語り手のどちらに
(11)
も当てはまらない 。『潮騒』の語り手は「不在の語り手」と言
『 潮 騒 』 の ス トー リ ー は 、途 中 で 新治 が沖縄へ 向 か う船 に乗
四 「アルカディア」の創出をめぐって
また、語り手自身がテクスト中の登場人物として現れる訳でも
し てゆく。「歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島であ
り込む箇所を除けば、その舞台を基本的に歌島に限定して進行
えるほどには、物語に介入しない立場をとっておらず、そして
騒』の語り手はテクストに内在する「作者」との関係において
る 。「わがアルカディア」とは、語りの力によって生み出され
他の空間と相対しない、唯一の絶対的物語空間として表わされ
る 。」という書 き出しによ って、歌島という空間が創出され、
なく等質物語 世界的物語の語り 手とも一致しない。では 、『潮
どのように位置づけられるのか。
者」とを 、同一と見做すことは できない。「作者」は確 かにテ
た、歌島とそこに生きる人々によって構成される唯一絶対の理
ここまでの論考を踏まえれば、
『潮騒』における語り手と「作
クストから見出され、決してアプリオリに存在するものではな
物語の主人公、新治はどのように語られているのか。
では「わがアルカディア」として語られる歌島を舞台とする
想郷と し て読者に 提 出される 。
に先行する位置を占める。語り手もまたテクストからのみ見出
い。しかしテ クストから見出 されると同時に、「作者」はそれ
されるが、その存在は決してテクストに先行することはない。
一昨年新制中学を出たばかりだから、まだ十八である。
このとき 、語り 手は 「作者 」の 下位に位置づけられ、「作者の
意図」に従い、それを表象する装置として機能する。しかし語
年齢に適つてゐる。これ以上日焼けしやうのない肌と、こ
背丈は高く、体つきも立派で、顔立ちの稚なさだけがその
の島の人たちの特色をなす形のよい鼻と、ひびわれた唇を
り手は、単純に「作者」の意図を語るのではない。確かに「作
象でもある。つまり「作者」がテクストの発語連関に位置を占
を職場とする者の海からの賜物で、決して知的な澄み方で
持つてゐる。黒目がちな目はよく澄んでゐたが、それは海
者」の意図を表象する装置だが、語り手はそれ自体が一つの表
持ち、自らその表象の一部となっている。このように見れば、
はなかつた。(『潮騒』『全集 』収録 二二七頁)
めるのに対して、語り手は文学テクストそれ自体にその位置を
語り手が「作者」に限りなく近づくことはあっても、同一であ
というテ クストを解 釈し 、「作者」の機能について考察してゆ
上のように捉えた上で、語り手による語りの方法から『潮騒』
戟に触発される都会の少年の環境とはちがつて、
歌島 に は 、
だし、女のことを考へるのは早いと思つてゐた。多くの刺
新治はいつも着実な考へをもつてゐた。自分はまだ十八
る と は 決 し て言 え な い 。 本 稿 で は 「 作 者 」 と 語 り 手 の 関 係 を 以
く。
4
一軒のパチンコ屋も、一軒の酒場も、一人の酌婦もなかつ
りの手法は外部との差異を浮かび上がらせることによって、内
から眼差すことのできる位置、すなわち歌島外にある。この語
哨から灯台までのあの貴重な二人きりの時間に、何をなす
歌島にはおよそ模倣の対象がなかつた。そこで新治は観的
都会の少年はまづ小説や映画から恋愛の作法を学ぶが、
その内部、歌島という空間の絶対性は語り手の存在によって破
の語り手は内部にあるのではなく、外部から内部を語っており、
語り 手は 外部の知識を有し ていると言える。つまり 、『潮騒』
る役割を果たす。そして、このような語りが行われることから、
に、内部 の思 考を共有する こと の不 可能な読者 の理解を 補 助す
部 ( 歌島)を 「そ れと は 異なる 領 域 」 とし て 明確 にする と同時
たのである。(『潮騒』二三八頁)
痛切に何かをせずにしまつた、といふ悔恨の念が残つたの
られている。
『潮騒』というテクストにはこのように、内部 (歌
べきであつたか、思ひ出しても見当がつかなかつた。ただ
である。(『潮騒』二三八頁)
ぬやうな顔つきできいてゐた。新治にも都会育ちの初恋の
堅固 に守 られ ている の である 。
ており、その境界は揺るがされている。だが歌島という内部は、
て成り立つものではない。歌島は外部からの侵犯に常に曝され
しかし『潮騒』におけるその対立構造は、明確な境界によっ
島)/外部 (歌島外)という対立構造が見出されるのである。
少年のやうな傷つきやすい神経はなかつた。
成人の哄笑は、
新治より一つ若い竜二はこの話をわかつたやうなわから
彼をけつして傷つけず、むしろ宥め、温めた。(『潮騒』三一
の島まで来んうちに消へてしまふ。海がなア、島に要るま
「(前略)どんな時世になつても、あんまり悪い習慣は、こ
このように新治は外界から隔絶された「アルカディア」である
すぐな善えもんを護つてくれるんや。そいで泥棒一人もね
つすぐな善えもんだけを送つてよこし、島に残つとるまつ
六頁)
ではなく、語り手の立ち位置にある。一つ目の引用にある「こ
歌島を象徴する男として描写される。しかし問題は、その内容
て耐へる心掛や、裏腹のない愛や、勇気や、卑怯なとこは
ぇこの島には、いつまでも、まごころや、まじめに働らい
安 夫 は ゆ う べ こ つ そ り 買 つ た 女 の 話 を 、 千 代子 に ほ の め か
ちつともない男らしい人が生きとるんや」(『潮騒』二六八頁)
の島の人たちの特色をなす」という表現に注意したい。これは
に留意して他の引用を見ると、語り手は新治に内的焦点化しつ
歌島外の人々との対比でしか成立しない表現である。このこと
つも 、「都会」との対比をも って語 っていることが分かる。こ
のと き語 り手 の位 置 は 、新治 の 内面 にあ りつ つも、歌島 を 外部
浄な歌島では、彼は固く口をつぐみ、こんな若さで偽善者
が女を知つてゐることは自慢の種になるはずだつたが、清
さうと思つたが、やめにした。ふつうの農漁村なら、安夫
要素と異なるという点にある。それらはその肯定的積極的
記号のパターンの意味論上の価値は、対の項における対立
を保証しているともいえよう。したがって、特定の文化的
在を明らかにするという構造論的仕掛けが記号の意味作用
分化した価値の担い手によって逆照射され、特徴づけられ
特性によって定義されるのではなく、対立する質、および
を気取つてゐたのである。(『潮騒』二七四頁)
歌島を内部たらしめているのは、いわば「協同体意識」ともい
るのである。
それゆえ、対立は必然的に排除の関係をも前提とする。
うべきものであり、一種の「文化」である。一つ目の引用にあ
より広汎にとられた範疇の中では、等質の要素を含みなが
る「善えもん」とは、歌島の「協同体」の理念に照らし合わせ
た場合にそれに適うものを指す。また二つ目の引用において安
合わなければならない。我々が、文化の中で秩序と考える
状態は、こうした統合と排除の無数の組み合わせの上に成
らも、これらの対立項は、別のレヴェルでは互いに排除し
からであ る。また こ れ らの引 用 に見 られるよ うに 、歌島の内 外
五月 )
り 立 っ てい る 。 『文 化 と両 義性 』 文庫 版 岩 波書 店 平成十二年
島の「協同体」理念に適ったものではなく、排除の対象となる
を分けているのが海という空間であることには目を向けておく
夫が女を買った話を隠さなければならないのは、彼の行為が歌
必要がある。新治は初江をめぐって安夫とともに沖縄へと向か
(
)
歌島という空間に何らかの意味を付与し、描き出すには「そう
(
れることになるが、この英雄譚、あるいは嫁取り譚ともいうべ
ではない」ものを必然的に孕む。歌島の「清浄さ」を描き出す
う宮田照吉の船に乗り、手柄を立てて、初江の婿として認めら
き物語は内と外とのあわいとしての海を舞台としている。この
させることでその輪郭が浮かび上がるのである。そしてその外
ときには、歌島の外部に表される「そうではない」ものを対置
さて、先に述べた排除の関係について、山口昌男は次のよう
点に関しては、また後に触れることにしたい。
ともあれ意味作用は、単独の範疇では成り立たず、関係
までも外部と対比し、その差異を浮かび上がらせることで、相
手は歌島を「聖域」そのものとして描き出すことはなく、あく
うべき歌島と いう 空間が見出 されるのである 。『潮騒』の語り
れる「文化」がそれを排除することで、一種の「聖域」ともい
部からの 侵犯に対し て歌島の 、「協同体意 識」によって形成さ
項の存在を前提とする。一つの記号の存在は、他の不在の
に述べている。
存在を意味する。逆に不在(マイナス記号)は、記号の存
対的な「聖域」とし て歌島を描 出している 。「わがアルカディ
だろう。どんなすぐれた描写があるにせよ、その全体が語
ているが、むしろ、語りものと言ったほうがわかりやすい
この作品は小説ではない。中村真一郎氏は物語だと言っ
一眼目である。つまり、これは、神話、おとぎばなし、あ
りものにほかならぬことを理解することが、この作品の第
ない。しかしその相対性、すなわち内部/外部という二項対立
が明確な境界によって区切られることによって、内部は絶対性
ア」とは本来、このように相対的なものとしてしか発見され得
を持った、「禁じ られた聖域 」となる。しかしそれが語られて
(中略)
いわゆる小説は、それに現実と対応的な諸条件がからみ
るいは講談の親戚である。
ア」としての歌島は、あくまでも外部から眼差されたものであ
あうことによって生まれてくるだろう。くりかえすが、そ
しま うと き、相対性の罠に落ち てしまうのである 。『潮騒』に
り 、「アルカディア」 そのもの ではあり得ない。つまり語り手
らは、この講談的な筋はこびは、苦笑ものでしかあるまい。
の地点からの批判にはこの作品は耐ええない。その観点か
おいて外部の存在である語り手によって語られる「アルカディ
の存在ゆえに、歌島という空間は「禁じられた聖域」であるこ
着させたメルヘンである。(磯貝英夫「三島由紀夫の『潮騒』」「国
島にことよせつつもしかし根本的には架空の土台の上に定
「潮騒」は、つまるところ、ある理想的な原型を、実在の
とをやめ 、「アルカディア」そのものではないものとして語ら
れざるを得ないのである。
五 「幸福な物語」とすれ違う二人
で『潮騒』がどのように読まれてきたのか、この点について確
存在するかを意識的に実験した小説であった。
」 と 評 さ れ るよ
評価 でも 、「ポピュラリティに 淫しながらも、その彼方に何が
このように否定的な評価は枚挙に暇がないが、一方の肯定的な
文学」昭和四十年十一月)
認をしておきたい 。『潮騒』に関する評価は賛否両論あるもの
次に新治と初江の関係について検討するが、その前にこれま
の、概して否定的な評価 が多いように思われる。例えば 、「こ
こに物語られた人間交渉は、僕にはかなり卑俗な神話的という
この点を整理し 、「この 作品を近代小説とするか、作者のいう
うに、類型的、通俗的という見方は一致している。西本匡克は
「語りもの」とするかにかかっているのである。
」 と述べる。
より講談種の人間美談だと思われる 。」 、「浪花節をとうりこ
(14)
な小説」ではないと否定するか、物語として積極的に意味づけ
つまりこの評価の分かれ目は、物語である『潮騒』を「近代的
(15)
(12)
し て 、 講 談 仕 立 て に な っ て い る 」 な ど の 否定 的 な 評 価 が 多 く
目につく。
(13)
を行うことで肯定的な見解を下すか、という点にある。
また近年の研究動向に関して、九内悠水子は佐藤秀明、羽鳥
徹哉 、柴田勝二の論 を挙げ 、「三氏が問題視した〈恋愛〉、あ
初江はそつと自分の写真に手をふれて、男に返した。
し た。
騒」に、今ひとつの側面を浮かび上がらせた。」とまとめてい
るいは〈日本〉というモチーフは〈幸福な物語〉としての「潮
を知つてゐた。(『潮騒』三七八頁)
た。彼はあの冒険を切り抜けたのが、自分の力であること
たと考へたのである。しかしそのとき若者は眉を聳やかし
少女の目には矜りがうかんだ。自分の写真が新治を守つ
る 。これらの研究は、
『潮騒』という物語を既存の研究とは異
(16)
以 上の 『潮 騒』 に関する評価と研 究動向からは 、『潮騒』が
た後にテクストはその幕を降ろす。この箇所が読者に与える違
くない。しかし結末部において二人の微妙なすれ違いが語られ
ば、これからの二人の未来が幸福なものであることは想像に難
新治と初江はいくつもの障害を乗り越え、互いの想いは婚約と
あくまでも「近代小説」とは一線を画した物語として捉えられ
和感は 、『潮騒』が「物語 」として読ま れることに由来するこ
のだが、『潮騒』を物語として捉えている点に変わりはなく、
ていることが分かる。これは『潮騒』を「幸福な物語」、「レシ
とは疑いない。つまり『潮騒』を「幸福な物語」と読むならば、
いう形 で成就する 。『潮騒』を「幸福な物語」として読むなら
これらの文章からは『潮騒』が「近代小説」/物語の対立構造
れず 、「作家の意図」とし て「わがアルカディア」を描くとい
確かに『潮騒』が物語性の強いテクストであることは否定さ
ことが即座に「歌島」の物語を根底から覆すものではないにし
転しかねない種子を孕むことになるのではないだろうか。この
った時、叙事的な物語世界は自意識の物語、内面の物語へと反
箇所について杉本和 宏は 、「主 人公が自分の力を自覚してしま
この箇所は明らかにそれとは趣を異にしていると言える。この
う意図の下、物語的要素を強調して書かれたテクストであるこ
ても、ここには、めでたし、めでたしで終わる物語世界を相対
と論じ ている 。杉 本 論 で は 、 二 人の すれ違い によ る 違 和 感 が
化しかねない要素が伏在しているようにも思われるのである。」
若者は美しい歯をあらはして微笑した。それから自分の
が「自意識の物語、内面の物語へと反転」する可能性を示唆し
結末部において不意に表れ、それによって「叙事的な物語世界」
なさ」が見出される。
胸のかくしから、ちいさな初江の写真を出して、許嫁に示
(18)
読んだとき、その結末には違和感ともいうような「しっくりこ
とは疑いない。しかし『潮騒』を一箇の「幸福な物語」として
から眼差されていることが解る。
(物語 )」と述べる 三島の 自己注釈と同 一の見解である。また
それに新たな意味づけを行った論考に数えられる。
なるコンテクストから解釈したという点において評価されるも
(17)
というテクストに底流していたのではないか。そもそも既存の
において突然現れたわけではないと考える。その原因は『潮騒』
ている。しかし二人のすれ違いの原因となるものは、この箇所
ら政治的関心も社会意識も持たず、いはゆる「封建的な」
ぎぬ。一方、登場人物はと見ると、彼らは現代に生きなが
人の見た自然ではない。私の孤独な観照の生んだ自然にす
は現実に、そのモデルの島で、かうしたものすべてに無関
心な、しかも發溂たる若い美しい男女を見たのである。た
諸秩序の残存にも、たえて批判の目を向けない。しかし私
しかにかういふ 彼らの盲 目 を美しくしてゐるものは 、 自然
研究、または「作家の意図」として示される「近代小説」/物
『潮騒』が物語性の極めて強いテクストであることは否定され
の見方、自然への対し方における、古い伝習的な協同体意
語の枠組みから『潮騒』を捉えることでその違和感は表出する。
ストであることと同義ではない。
ないが、それは『潮騒』が「近代」的要素が全く排されたテク
目で自然を見ることができたとしたら、物語は内的に何の
識だと思はれた。もし私がその意識をわがものとし、その
矛盾も孕まずに語られたにちがひない。が、私にはできな
以上のことを踏まえた上で、結末部の二人のすれ違いを新治
最も色濃く表れていると考えられる、新治に内的焦点化して自
と初江の関係から考察する。その手続きとして、新治の認識が
かつた。そこで私の目が見たあのやうな孤独な自然の背景
三島は『潮騒』に描かれた自然が「協同体意識」に根ざしたも
説家の休暇』
)
は、痴愚としか見えない結果に終つたのである。(前掲『小
のなかで、少しも孤独を知らぬやうに見える登場人物たち
然が描写される箇所に着目し、分析してゆく。
六 「他者」のあらわれ
『潮騒』における自然描写について、三島は次のように述べ
ている。
ヒュペーリオン的孤独を招来せぬところの確乎たる協同体
フニスとクロエ」に倣つた以上、かうしたギリシア的自然、
べたように、語り手が歌島の外部に属し、その「協同体意識」
に内的焦点化して描写するものである。前者に関しては先に述
一つは語り手が自らの位置から描写するもの、もう一つは新治
いるが 、『潮騒』 における自然描写には大別して二種類ある。
のではない、自身の「孤独な観照」によるものであると述べて
意識に裏附けられた唯心論的自然であつた。私は自然の頻
何ら問題はない。しかし後者については議論の余地がある。
「協
の内部にない以 上 、「孤独な観照」として自然を捉えることに
さて私が「潮騒」の中でゑがかうと思つた自然は 、「ダ
騒」には根本的な矛盾がある。あの自然は、協同体内部の
繁 な擬人化 をも辞さなかつた。それにも かかはらず 、「潮
に足らぬものであり、矛盾を生じせしめていると見做して作者
る。歌島外の知識を有する語り手による新治の内面描写が信用
的焦点化は果たして十全なものであったのか、という問題であ
ある。このことは一つの問題を提起する。語り手の新治への内
然は「協同体意識」に根ざしたものでなければならないはずで
に思はれた。(『潮騒』二六〇頁)
彼の体内の若々しい血潮の流れと調べをあはせてゐるやう
るやうに思われ、彼の聞く潮騒は、海の巨きな潮の流れが、
に見えぬものの一部が、若者の体の深みにまでしみ滲み入
の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、自然をつくりなす目
若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上
同体」内部にある新治に内的焦点化して語られる以上、その自
を批判することも可能ではあるだろう。しかしそのような批判
唯心論的自然」を背景とした「幸福な物語」という「作者の意
で再三述べた通りである。むしろ「協同体意識に裏附けられた
かだが、それが唯一の「正しい」読みではないことは、これま
者の意図」が、それを目指したものであることは引用から明ら
的自然」であるという前提に基づいた批判である。確かに「作
描かれる新治の見る自然が「協同体意識に裏附けられた唯心論
らば、考えたり感じたりするまでもなく、自然と新治とは一体
語は新治 であるが、「唯心論的自然」として捉えられているな
る。引 用中の 「考えた 」「感じた」「思われ」「思われた」の主
と自体が既に、自己と自然とが分かたれていることの証左であ
然」であるようにも見える。しかし自己と自然を同定させるこ
る。これは一見すると、「孤独な観照」ではない、「唯心論的自
自然を自己同定し、自然と自己を照らし合わせている様子を語
これらの描写において新治に内的焦点化した語り手は、新治が
は、極めて実体的に作者を捉えた見方であり、また『潮騒』に
図」のゆえに『潮騒』というテクストがどのように読まれるの
化 し て い る は ず であ る 。 こ の よ う に 語 ら れ て い る 以 上 、 新 治 は
か、という点が問題である。
まずは新治に内的焦点化した語り手による自然描写を確認し
ているのである。このとき新治の自己は「協同体意識」から切
自 然 に 対 す る 個 人 と し て 、 つ ま り 「 孤 独な 観 照 」 で 自 然 を 捉 え
り離されたのものとしてある。そしてその新治が、自然を自己
ておきたい。
そのとき二人の頭上を鳥影がかすめた。隼であつた。新
他 (自然)と い う 対 立 構 造 が 見 出 さ れる 。そ の意 味にお い てこ
れらの自然描写は 、「協同 体意 識」に基づいたものではなく、
同定させるべき「他」として捉えていることから、自 (新治)/
新治の「孤独な観照」に拠っている。
はほぐれ、日頃の男らしい態度を取戻して、彼は灯台の前
をとほつて家へかへるところだから、そこまで送つてゆか
治 は それ を 吉 兆だと 考 へ た 。する と 、もつ れ がちだ つ た舌
うと申出た。(『潮騒』二四八頁)
ない。この時点で新治が知ることはないが、初江は照吉の娘で
同体意識」であり、歌島の「協同体」にとっての「他者」では
あり 、「協同体」内部の 存在である。だが新治にとってはその
では新治のこのような「孤独な観照」による自然観はどこに
に自/他という対立構造を迫ったもの、それが初江の存在であ
端を発しているのか。新治を「協同体意識」から乖離させ、彼
「少女」を「見知らぬ」がゆえに、彼女は「他者」として顕現
て自己とは同 一化しない、他者性を持った「他者 」、つまり自
れは、テクスト結末部まで貫かれる。つまり「他者」とは決し
する。そして初江の、新治にとっての「他者」としてのあらわ
る。
一人の見知 らぬ少女が 、「算盤」と 呼ばれる頑丈な木の枠
己の認識への回収不可能性を持った、絶対的「他」としての他
者である。ここで先に述べた新治と安夫が沖縄へと向かう船で
(中略)
を砂に立て、それに身を凭せかけて休んでゐた。
若者はこの顔に見覚えがない。歌島には見覚えのない顔
が初江の婿にふさわしいかを見定めるために二人を自分の船に
のエピソードに触れておきたい。照吉は、新治と安夫、どちら
少女はかるく眉をひきしめた。目は若者のほうを見ずに、
いものを見るやうに、正面に立つてまともに少女を見た。
若者はわざわざ、少女の前をとほつた。子供がめづらし
てゐるその様子が、島の快活な女たちとはちがつてゐる。
を離れた「自由」を感じる。結局新治は沖縄に上陸することな
新治 は初 江の 存在によって歌島から外部へと赴き、「協同体」
る物語は「他者」としての初江によって導かれたものである。
るわけだが、この内部と外部のあわいである海で繰り広げられ
乗せる。そこで新治は手柄を立てて、初江の婿として認められ
よそ も の
は他者らしい身装はしてゐない。ただ、海に一人で見入つ
はない筈だ。他者は一目で見分けられる。と謂つて、少女
じつと沖を見つめたままであつた。(『潮騒』二二八頁)
「協同体意識」の外部へと誘い、そこから乖離した自己として
く歌島へと凱旋することになるが、ここで感じた外部は新治を
の自覚を迫るのである。
・レヴィナスは「他者」の現前を「顔」( visage
)と呼ぶが、
その冒 頭に位 置する 。『潮騒』というテクストは二人の出会い
『潮騒』のプロットの時系列において、新治と初江の出会いは
と共に始まるのである。新治にとって初江は「見知らぬ少女」
体」の 一員としての新治 は、初江との出会いによって、「協同
新治にとっての初江は正に「顔」としてあるのである 。「協同
他者 (初江)と い う構造 に回収 さ れた 。では この 「他者 」とし
体意識」とはまた別個の自己たることを迫られ、自己 (新治)/
たしや
新治の持つ「協同体意識」に回収されない「他者」であること
として新治の前に現れる、いわば「他者」である。また初江が、
明らかである。しかし、それはあくまでも新治にとっての「協
は二人の初めての会話で初江が標準語を用いていることからも
E
ての初江は、新治をどのように変容させたのか。
識別できない、自己と「他者」の「還元不能な差異」の表象で
めたひとつの思惟である。たしかに私は他の人間について
内的焦点化できていないのではなく、初江という「他者」を迎
独な観照」に拠っているのは、語り手が新治に対して、十全に
このように新治と初江の関係を見たとき、
新治の自然観が「孤
ある 。
の経験を持つことができる。しかし、経験では他の人間の
接し たことによ って 、「協同体意識」から乖離した自己たるこ
顔が励起するのは知や経験よりもさらに古く、さらに目覚
なかにある不可解な差異は識別できない。それに対して、
を共有できない。また新治もここまで論じてきたように、初江
しかし語り手は明らかに歌島外にあり、決して「協同体意識」
独な観照」によって生み出されたものになったと述べていた。
物とできなかったがゆえに 、『潮騒』における自然描写が「孤
また三島は先の引用において、自身が「協同体意識」を我が
とを迫られたことによる。
元不能の差異によって励起された思惟、つまり「……につ
顔においてあるいは顔を介して覚醒させられた思惟は、還
…)ではないような思惟なのである。
いての」
( pansée de
それはすぐれて「……のための、……の身代わりの」
(
…)思惟である。(E・レヴィナス『観念に到来
pansée pour
する神について』内田樹訳 国文社 一九九七年十二月)
かつた」などと語られ、その無知を強調される。しかしその記
て新治は「少しも物を考へない少年」、「考へることが上手でな
物の描き方も類型的であり、近代人が持つ孤独や自我意識、苦
騒』について「確かに、近代小説作法の上から考えれば、各人
るが「近代」性の萌芽とは言えないだろうか。西本匡克は『潮
観を持つに至っている。これは限定された意味においてではあ
一員としてではない、自 己が生じ 、「孤独な観照」による自然
という「他者」を被ること で「思惟」 が始まり 、「協同体」の
述は決して正確なものとは言えない。新治がたびたび物思いに
悩等が描出されておらず、悪玉、善玉という戯画化された講談
「他者」の顕現は「思惟」の始まりである。テクスト中におい
まり初江は新治にとって決して「自然」としてあるのではなく、
調の人情話にすぎないかもしれない。
」 と述べているが、新治
耽り、初江のことを考えている描写は随所になされている。つ
「思惟」を迫る、自己の認識への回収不可能を有する「他者」
のである。つまり結末部における二人のすれ違いは、経験では
してその「思惟」の覚醒こそが、自己なる存在を目覚めさせる
接することによって「他者」に対する「思惟」が生まれる。そ
なのである 。換言すれば、「顔」として到来した「他者」を迎
は「アルカディア」としての歌島を解体する可能性でもある。
萌芽は『潮騒』の裏側に流れ、結末部において表出する。それ
悩」の入り口に立ったと考えられる。このような「近代」性の
は、初江という「他者」を被ったことで「孤独や自我意識、苦
(19)
七
結論
「アルカディア」は語り手によって外部から眼差されたもので
点から『潮騒』を読んだとき、その結末部で描かれる二人のす
「近代小説」/物語という対立構造を前提としている。この地
そしてもう一つの「作者の意図」である「幸福な物語」とは
あり 、そ れ自 体では も はやあ り 得な い。
うに機能しているかを明らかにすることを目的としていた。こ
本 稿は『潮騒』と いうテクストにおいて、「作者」がどのよ
れまでの論考をまとめつつ、再度 、『 潮騒』における「作者」
分析した結果、自 (新治)/他 (自然)の対立構造が見出された。
釈するにあたって、新治に内的焦点化して語られる自然描写を
れ違いは、その枠組に回収できない。この二人のすれ違いを解
三島自身が「作者不在」と語る『潮騒』は、確かに「三島ら
の機能について明示することで本稿の結論としたい。
しさ」の欠如という意味において「作者不在」である。しかし
差しているのである。このように、新治に「協同体」から切り
新治は「協同体意識」から乖離した「孤独な観照」で自然を眼
離された自己である ことを迫ったのが初江の存在である 。「他
作者が不在ゆえに、その作者が占める位置が空所として機能す
自らの読みについての価値判断が不可能となる。そのため、読
る。同時に、作者の占める位置が空所であるがゆえに、読者は
が新治が自己となる始まりであり、
二人のすれ違いは自己と「他
者」としての初江は新治に「思惟」を生じせしめる。これこそ
者」との「還元不能の差異」の表れと読むことができる。この
者は「作者」を仮構することになるのである。この「作者」は
た文章をパラテクストとして参照することで仮構されるもので
いるのは、語り手による内的焦点化が不十分なのではなく、初
ように解釈したとき、新治の自然観が「孤独な観照」に拠って
いわゆる「作者の意図」であり、作者自身が『潮騒』に言及し
な物語」を意図して書かれた作品だが、この解釈は唯一の「正
江という「他者」によって導かれた「思惟」によって自己が生
ある 。『 潮騒』は 「作者不在」の「わがアルカディア」、「幸福
しい」ものではない。むしろこの「作者の意図」が『潮騒』の
さて、ではこのように『潮 騒』を解釈したとき 、「作者」は
成されたことが原因であると言える。
それを踏まえ 、「わがア ルカディア」と位置づけられる歌島
新たな解釈を創出するのである。
物語」といった「作者の意図」に導かれて、歌島という空間、
新治と初江のすれ違いを語りの方法に着目して考察してきた。
どのように機能しているのか。「わがアルカディア 」、「幸福な
成立している歌島という内部を絶対的なものとして描き出すの
て絶対的な空間ではなく、相対的な「アルカディア」としてし
その結果、歌島という空間が外部の視点を持った語り手によっ
という空間に着目したわけだが、歌島は語り手によって、外部
ではなく、主に「都会」と語られる外部の知識、視点を用いて、
との対比でもって語られる。語り手は「協同体意識」によって
相対的な「アルカディア」として描出しているのである。この
か語られておらず、それがもはや「アルカディア」たりえない
の内側」で、テクストから、「作者」の意図(あるいは反意図)といった
性に対する応答である。加藤は同書において「作者の像」を「「言表行為
お い て 提 示 し た 「 作 者 の 像 」概 念 は 、テ クス ト 論 によ る 価 値決 定 の不 能
ものを受け取ると感じること」によって読者の側が仮構する、「人格をと
できない結末部での新治と初江のすれ違いは、
新治が初江を「他
もなったあの「作者」
」ではないものと定義する。
ことが明らかとなった。また「幸福な物語」という枠組に回収
ら切り離された自己としてしか語られ得ないことによるもので
者」として迎接したことで「思惟」が生じ 、「協同 体意識」か
は 、映 画版 へ の言及も 含め て次のも のが挙げ られる 。「潮騒に就て 」(東
十月 、『全集
年一月 、『全集
』収録)、「受賞
』 収録 )、「「潮騒」のこ と 」(「婦人公論」昭 和三 十一年
に つ いて( 新潮社文 学賞「潮騒 」)」(「芸術新 潮」及び 「新潮」昭 和三 十
ロケ随行記 」(「婦人公論」昭和二十九年十一月 、
『全集
宝 映 画 「 潮 騒 」 ち ら し 昭 和 二 十 九 年 十月 、
『全集補巻』収録)、
「「潮騒」
本 稿 で 取 り 上 げ た も の の他 、 三 島 が『 潮騒 』 に 言 及 し て いる 主な 文 章
あった。これらの考察からは「作者の意図」に対する、語り手
められ、結果として「作者」に造反することになった。しかし
このような語り手の造反はアプリオリにあるのではない。それ
は「作者 」の存 在によってのみ導かれるものである 。「作者不
在」であるがゆえに、逆説的に「作者」が導かれる『潮騒』と
28
』収録 )、「時の言葉(インタビュー )」(「週刊 新潮」昭和
』収録)、
『私の遍歴時代』(講談社 昭
』収録)、
「映画「潮騒」の想ひ出」(「東宝
』 収 録 )な
』収録)、
「 美 し い 女 性 はど こ に ゐ る ― 吉 永 小 百
映 画 」 昭 和 三 十 六年 十 月 、
『全集
三 十 二 年一 月 十 四 日 、
『全集
和 三 十 九 年 四月 、
『 全集
31
29
』収録)。その他の未発表資料として歌劇台本(『全集
が遺されているが、上演はされていない。
(『全集
』収録)
ど 。ま た そ れ ら と 性 格 は異 な る が 、未発 表 の 創作 ノー トも 遺 さ れ て いる
合と「潮騒」より」(「若い女性」昭和三十九年六月、
『全集
32
いうテクストにおける 、「作者」はこのように機能している。
28
29
)
・ ジ ュ ネ ッ ト は 『 パ ラ ン プ セ ス ト 』( 和 泉 涼 一 訳 水 声 社 平 成 八年
25
『 ダ フ ニ ス と ク ロ エ 』 は ロ ン ゴ ス 作 と 伝 え ら れ て い る 牧 歌 的 恋愛 物 語 。
牧人
33
【注記】
の恋がたり』
(養徳社 昭和二十三年八月 である。
4
『定本三島由紀夫書誌』(島崎博、三島瑤子編 薔薇十字社 昭和四十七年
一 月 ) によ れ ば 、 三 島 の 蔵 書 は 呉 茂 一 訳 の『 ダフ ニ スと ク ロ エ ー
(
)
・バ ルト『 物語 の構 造 分 析』 花 輪 光訳 みすず書 房 昭 和五 十 四年 十
とはギリシャの地名だが、ここでは牧
アルカディア
Arcadia, Arkadia
歌的理想郷の意味で用いられている。
加藤典洋 が『テクストから遠く離れて 』(講談社 平成 十 六年一月)に
一月
り、「表題・副題・章題、後書き・緒言・前書き等々、傍注・脚注、エピ
公 式 も し く は 非 公 式 のあ る 注 釈 を 与 え る 」
(『パランプセスト』)ものであ
テ ク ス トと は 「 テ ク ス トに ある 種 の ( 可変的 な ) 囲い を 、そし て 時 に は
八月)、
『スイユ』(和泉涼一訳 水声社 平成十三年三月)において、パラ
G
自らが紡ごうとする物語内容の「力」によって、その語りを歪
の造反が見出 される 。「作者 」が示 す意図に対して、語り手は
5
R
6
1
2
3
4
語 主 体 ― 言 語 表 象 」 の言 語 連 関 を考 察し た の に 対し て 、そ れに 虚 構言 語
」、一般言語表象の場合「0」
、
グ ラ フ 、 挿 絵 、 作 者 によ る 書 評依 頼 状 ・帯 ・ カ ヴ ァ ー 、お よ び そ の 他 多
+A
」と 示し た 。( 前 掲『 テ クス ト から遠く 離 れて 』)
-A
『 潮 騒 』 に 冠 さ れ る 三 島 由 紀 夫 と い う 名 が 、 平 岡 公 威 の ペ ン ネ ーム で あ
虚 構言 語 の場 合 を「
を加え、言語連関を現実言語の場合は「
しているのである。この場合、
présenter
[
(
]
)
・プリンス『物語論辞典』遠藤健一訳 松柏社 平成三年五月
做して問題はないと考える。
(前掲『スイユ』
)
と さ れ て い る こ と か ら 、遅 延的 な 「 作者 によ る 公 的 エピテ クス ト」と 見
る。しかし未発表資料とはいえ、全集に収録されている点と、
「 あ と がき 」
騒 』 に 先 立 つも ので は な い にし ても 、他 の文 章と はや や そ の性 格 が 異な
し て は 、未 発 表 資 料 で あ り 、ま た執筆 時 期が 明ら か でな い こと か ら 、
『潮
か ら 、 自己 注 釈 に位 置づけ ら れる 。 但し「あ と がき(「潮騒 」 用 )」 に関
る も の は 、 自 立 的 で 『 潮 騒 』と い うテ ク ス トに 対 し て 遅 延 的で ある こ と
の 時 制 に分 け ら れる 。本 稿 で 取 り 上 げ た 、三 島 が『 潮 騒 』 に言 及 し て い
介 的な も の に分 類 さ れ 、さ ら に オリジ ナ ル 、事後 的 、遅 延 的と い う三 つ
に よ る 公 的 エピ テ ク ス ト 」 に分 類 さ れる 。 こ れ はま た 自 立的な も の 、 媒
ジ ュ ネッ ト に よ る と 著者 自 身 が 自 作 に言 及 し て いる 別 の文 章 は 「 作者
るエピテクスト」に拡散している。
作者名はぺリテクストに分類され、「作者名はタイトルとともに、あらゆ
少なくとも最初は書物の外部にあるものをエピテクストと分類している。
テクストをその場所の違いから、同一の書物にあるものをぺリテクスト、
て いる こと が 問 題な の で あ る 。 ジ ュネッ ト は『 ス イ ユ 』 にお いて 、パ ラ
三 島 由 紀 夫 と い う 名 が、ジ ュネッ ト の用語で いえ ば「遊 走 的」に拡散 し
る こ と は周 知 の こと で ある 。し かし そ のこと はここで は問 題で は な い。
9
そ れ にあたる と述 べる。 そ してそれらは「テ クストを 取り囲み延長する
くのタイプの付随的な、自作または他人の作による標識など」(同前)が
ことによって、まさにテクストを
présenterと いう動詞には通常の意味〔提示、紹介する〕のほかに、もっ
と も 強 力な 意 味 が こ め ら れ て い る 。 つ ま り テ ク ス ト を 存 在 さ せ る
rendre
、言い換えるなら、世界におけるテクストの存在とその「受容」
présenter
および消費を、少なくとも今日では書物という形で保証する」
(『スイユ』)
ものであると説明される。
J・クリステヴァは『テクストとしての小説』(谷口勇訳 国文社 昭和
六十年十月)で、相互(間)テクスト性について次のように説明する。
「そ
パロル
ラング
、ク
、ス
、ト
、とは、端的な情 報を目指す伝達的な言葉を、先行の、も
れ故、テ
テク
序 を配 分 し 直 す 超 ‐ 言 語 的 装 置 である 、 と 定 義し てお く。 し た がっ て 、
し く は 共 時 的な 、 多 種 の 言 表 類 型 と 関 連 づ け る こ と に よ っ て 、言 語 の 秩
―
ス ト が 位 置 する 場 た る 言 語 と 、 テ クス ト と の関係 は分 配 替 え ( 破壊 = 構
ラング
テ ク ス ト は 一 種 の生 産 性 な ので あ る 。 そ の 意 味 は こ う で あ る
テク
築 ) 的 で あ る 。 だ か ら 、純 言 語 学的と い うよ りも むし ろ 、論 理 学 的 ・数
学 的 な カ テ ゴ リ ー を 通し て 、 テ ク ス ト に 接 近 す る こ と が で き る 。
、ク
、ス
、ト
、間
、相
、互
、関
、連
、性
、 間テ
ス ト は 諸 種 のテ ク ス ト の 相 互 置 換で あ り 、テ
和し合うことになる。
」
クスト性
で あ る 。 すな わ ち 、 一テ ク ス ト の空間 にお い
inter-textualité
て は、 他 の諸テ ク ス トから 取ら れた多様 な言表が 交 差し 、 かつ相互に 中
加藤 は竹田青 嗣 の論(『言語的 思考 へ―脱 構築と 現象学 』径書房 平成
十三年十二月)を受けて、竹田が現実言語と一般言語表象の二分法で「発
寺田透「美しい海の映像」
(「日本読書新聞」昭和二十九年七月十二日)
G
(1)
(2)
10
12 11
7
8
中 野重 治 「 潮 騒 と 大 人気 な い 話 」(「新 日本文 学 」 昭和三 十 二年 十月 )
『三島由紀夫 ダンディズムの文芸世界』双文社出版 平成十一年六月
九内論で取り上げられている三氏の論は次の通りである。佐藤秀明「
〈初
「『潮騒』―「歌島」の物語― 」(「国際関係学部紀要」(中部大学)平成
女学院大学国語国文学誌」平成十八年十二月)
二年三月)
前掲『三島由紀夫 ダンディズムの文芸世界』
潮社 平 成 十二 年 十一 月 ― 平成 十 八年 四月 ) に 拠 る 。 特 に 必 要と 思 わ れる場
※
(九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程二年)
合を除き、ルビ、傍点等は省略している。
なお本文、並びに三島の文章の引用は全て『決定版 三島由紀夫全集』
(新
賞 」平 成三年 四月 )、羽鳥徹哉「「潮騒」 の夢と 話法 」(「国文学」 平成五
「三島由紀夫「潮騒」論―歌島の〈道徳〉、芸術家の〈道徳〉―」
(「広島
られる精神』おうふう 平成十三年十一月)
。
年 五月 )、柴田勝二 「二つの 太陽―『 潮騒』 の寓意 」(『三 島由紀夫 魅せ
恋〉 のかたち ―三島由紀夫『潮騒』 のプロッ トと語り手― 」(「解 釈と 鑑
18
19
松本鶴雄「潮騒」
(「解釈と鑑賞」昭和五十一年二月)
16 15 14 13
17
―
『沈黙』への道
I K E D A
S h i z u k a
池 田 静 香
作品に、短編集『哀歌』(講談社 昭 年 月)と没後になって一
3
頁 ))と断言 する。長編 執筆の 前 に
が『哀歌』には 、『沈黙』 に直 接かかわる題材の作品より、作
者の眼に『沈黙』への前奏曲として映ることは自然である。だ
者の病床体験を素材とした短編が数多く収められている。この
病 床 体 験 を 素 材 と し た短 編 群 に 対 し 遠 藤 は 、
『沈黙』と『哀歌』
の関係性について「方法論として明確に意識し」ていたわけで
は なく 「試行 錯誤 的な気 持 でや った 」(「「哀 歌」 の思い 出」 頁)
もちろん「哀歌」の中のすべての作品が「沈黙」と同じ時
のだと断りつつ、次のように 説明する。
代を扱っているのではない。むしろ、それとはまったく関
次第に小さくなったところに「沈黙」の踏絵のイエスの顔
係のない挿話から成りたっている。/しかし、その円周が
頁)
(
月
になる。その顔に「哀歌」の諸短篇は結局は結実してしま
年
う。
昭
加えて「初版あとがき」(『哀歌』講談社 昭 年 月)で、
『哀歌』
3
資料として常々引き合いに出されてきたのが、短編集『哀歌』
るよう努めて書いたと、言い添えている (遠藤作品における動物の
犬の眼」から「踏絵の基督の眼」( 頁)のイメージが喚起され
すこと にあるとし 、「「四十歳の男」の九官鳥 、「私のもの」の
年
月号)や、長崎の殉教地 (雲仙)を旅しキチジロ
(「新潮」昭
月 ~昭
年
年
。
月)所収など参照)
1
月 )に も 及 ん だ 三 度 の 手 術 を 含 む 大 患 を 通 し 、
昭
眼が持つダブル・イメージについては「私の文学」
(『われらの文学
301
『沈黙』は、生死の境を体験したといわれる二年二ヶ月 (昭
年
5
作者が「文学的回心」の結果書き上げた大作だ。この病床体験
37
武彦・遠藤周作』講談社
シタン信仰について記述される「帰郷 」(「群像」昭 年 月号)
、
ともなれば、その執筆時期や素材の取捨選択から、これらが読
4
らには「トモギ村」(『沈黙』)のモデルとなった長崎市外海地区
40
が舞 台と なり 十 六番 館 (当時)でみた 踏絵の 印象 と カク レキリ
10
1
ー (『沈黙』)の原型が登場する「雲仙」(「世界」昭 年 月号)
、さ
福永
だ。また収録作品のなかでも「踏絵」が登場する「その前日」
て次 第に育まれた (略)私の基督教における 現在の立場を示」
46
執筆の主 眼を、「病院生活を背景にした作品を書くことによっ
講談社学芸 文庫
325
せ、『沈黙』を論じる際、作家の意識の変流を辿る根拠となる
324
『哀歌』文庫版出版にあたり遠藤は、
「
「哀歌」を私の「沈黙」
下引用は文庫に拠った)がある。
冊 に ま と め ら れ た 長 編『満 潮の 時刻 』(新潮文 庫 平 年 月 。以
46
325
「呻き声」の彼方
―
3
『 沈 黙 』( 新 潮 社 昭 年 月 )へ の ス テ ッ プ と 位 置づ け ら れ る
はじめに
41
7
はそれに繋がる短編をいくつか書くという執筆スタイルに合わ
63
の前奏曲、と考えてくださってよい」(「「哀歌」の思い出」(『哀歌』
2
9
35
14
1
39
42
38
れた病床体験を経た文学的回心の表れとしての『哀歌』や『満
昭
年
。だが 、作者 が『 哀歌』の
月)など )
ひ と つの 回 心 」(『近
は、後に作者が「『沈黙』という私にとって大事な作品はあの
代 文 学 遠 望 』国 文 社
ぐ こ と は な い で あ ろ う ( 佐 藤 泰正 「 遠藤 周 作
―
潮の時刻』の立場は、作者自身の断定 (定義づけ)もあり、揺ら
月
無駄で はなかっ た 」(初出「
年
」 昭 年 月 号 。 引 用 は 『 生 き上 手 死に
PHP
頁に拠っ た)と振り 返る よう に、病
生 活 上 の 挫 折 が な け れ ば 、心 の な か で 熟 さ な か っ た 」(「何一 つ
平
8
(
)
年
じめとする作家自身の病床体験を元とした同時期の短編から、
平
の「母胎」を、短編という断片的な形で表現したのが短編集『哀
。
月))
(
月~昭
年
の 変 遷 は 、 作 家 の 文 学 的出 発 期 と な っ た フ ラ ン ス 留 学中 昭 年
月 )の 意 識や 体験を もと にし た 初の 長編小 説『 青
6
年
25
い小さな葡萄 』(「文学界」昭 年 ~ 月号)等々から紆余曲折を
1
す土台となると考える。そこでまず、
『哀歌』、
『満潮の時刻』、
経て、『 沈黙』執筆へと 至った作家の意識の重なりや逸れを示
31
同じく『沈黙』への道標としてしばしば採り上げられ、作家
弱 者 か ら の 視点 」
(『遠藤周
月 所 収) な ど )が 指 摘 する通 り 作 品 内
2
の関係をめぐって」
(「清心語文」平
―
の死後一冊に纏められた『満潮の時刻』(「潮」昭 年 ~ 月号)
年
12
作品 (佐伯彰一「『沈黙』への船出」(「新潮」平 年 月号 ))と見なさ
シーンをもってして、まさに『沈黙』への明確な船出を示した
た「踏絵 」から踏絵 を踏ん だも のたち (弱者)へ 思いを は せる
『沈黙』以前と以後
大いに参考としたモーリアックの「非情の凝視」に倣った色調
『 沈 黙』 以 前の 作 品の 基礎 には、 遠藤 が文 学 的出発にあ たり
「死」への意識の変化
れるべき であり 、『 哀歌』所収作品からでは「断片的」にしか
月 号 )に お い て 人間 の 深 淵 に 潜 む 拷 問と 色情 へ の 欲 望 を描 い
がある。それは、芥川賞受賞作「白い人」(「近代文学」昭 年 、
これまでの研究史で『沈黙』へのステップとして位置づけら
30
5
た視線や、第二次世界大戦下における九州大学医学部生体解剖
6
事 件 を 題 材 と し た「 海 と 毒 薬 」(「文 学 界」 昭 年 、 、 月 号 )
32
6
8
10
評価される。
『 哀 歌 』と 比 較し 明 らかに 見 てと れ る 長編 だと
学 的 回 心 」)が 、
6
抽出できなかった作者の病床体験における「内的体験」(=「文
12
―
『沈黙』を中心とする作品について比較する際の視点を提示す
平
1
る。
作 のす べて 』 朝文社
は、先行研究 (広石廉二「『満潮の時刻』
40
28
8
分身とおぼしき主人公が、大病での入院後長崎へ行きそこでみ
4
の場面や表記の不統一があるものの、クライマックスで遠藤の
18
6
14
歌 』 だ と さ れ る ( 山 根 道 公 「 遠藤 周 作 『 満 潮 の 時 刻 』 論
『沈黙』を振り返ることで見出されるおぼろげな線である。こ
1
―
12
『沈黙 』と
生・玉 置 邦 雄編『作 品論 遠藤周作』双文 社 出版
「あとがき」で示した『沈黙』と病床体験を題材とした作品群
上手』文春文庫
53
床体験を経た文学的回心の先にある「母なる神」への志向の母
4
潮の時刻』から『沈黙』への表現の変遷、並びに『哀歌』をは
59
、機
、的
、な
、関連には、もう一つの通路 伏流 がある。それは、
『満
の有
183
胎となる 体験とし て位置づけ られ (奥野政元 「「沈黙」論」(笠井 秋
4
、こ
月 所 収 ))
6
た作品を経て、昭和
年再び結核が再発した遠藤は、約二年二
ヶ月を病床で過ごすなかに「人間の哀しみ」に寄り添う基督の
において、医学者を引き合いとしながら善と悪の境目とそれを
11
月号)で採り上げた棄教司祭が教えから離れざるを得
30
絵を踏む場面の「踏むがいいの声」として結実する。
―
『 満 潮 の時 刻 』
この 死を覚悟した病床 体験を 経た心境の変化について遠藤
を中心に」
(「キリスト教文化研究所年報」平
は、山根道公の指摘 (「遠藤周作の病床体験と信仰
月)
)にもあるように
中に青 年時代に 入っ た世代 (注 、「海と 毒薬」の勝 呂)が戦 後を生
15
3
月)で得た文学的課題である二点 (①日本人に合ったキリスト
年
月
日)
)で、以下のように語ったとされる。
マ
でいろいろ体験がありますが、僕には三カ年の留学 (昭 年
マ
ら に 強 く す る だ け で 、 し ず め て く れな い 。 し か し 人 生 の 中
ういうときはだめでしたね。近代文学はそういう不安をさ
病気中、自分が文学でどのくらい助かるかと思ったら、そ
昭 年
『沈黙』(原題「日なたの匂い」)脱稿直後に受けた新聞取材 (「 “弱
年
に純文学)にみられる特徴は、フランス留学体験 (昭
てしま う悪行を カトリッ クの立場 からど う理解す べきか)を執筆のテー
教を求める根本となる西洋との距離感の問題②戦争が垣間見せた人間がなし
マとし、テーマに沿った事象を提示するとともにその根底に潜
のことを、平岡篤頼 (「解説」
(『月光のドミナ』新潮文庫 昭 年 月))
む問題を凝視し、浮き彫りにしていくというところにある。こ
は、「遠藤周作の小説家としての誠実さ」の表れとして、「わか
7
か ら)と 病気 が 、い い 修 業 に なっ たと 思 いま す 。(略)/小
説が違ってきました。前は何書いても、あとで読み返すと
死のことがどこかにはいっていた。
「病気 」中の 読書 歴については 、「切支丹関係の本を手に入れ
頁))という述懐がある程度で、ここで対象とされ
出そうとする」( 頁)作風にあると指摘する。そのため、描い
月
平
ては勉強を続け ていた」(「沈黙の声」(『沈黙の声』プレジデント社
年
た事象が内在する問題を露呈しつくした地点から、「それゆえ
た作品の詳細は不明だが、遠藤文学と「死」については、例え
頁 )に 、 作 品 が 支 配 さ れ る 。 だ が 、 先 に 挙 げ た 小 説 の な
岡
大きなテーマに据え 」、「『沈黙』から『侍』『スキャンダル』」
14
ば鈴木秀子が「「死」というものを通過儀礼として (略)かなり
7
かで、神を希求 する 絶望的な叫びの先に、「救い」が描かれる
4
282
のかといえば、疑問が残る。このような「非情の凝視」に徹し
286
にこそ神を求めずにはいられない作者自身の絶望的な叫び」(平
らない状態を分析によって解消するのではなく、そのまま描き
10
6
3
27
2
25
47
40
頁 ))くことにあ った。こうし た『 沈黙』以前の遠藤作品 (主
10
者”をテーマに追求 「日なたの匂い」を脱稿した遠藤周作氏」
(「東京新聞」
35
月~昭
年
きるさまを描 」(「あとがき」(『あまりに碧い空』新潮社 昭 年 月
いる 。ま た「海と毒薬」を経た作者の創作意識の一つは 、「戦
眼」や「犬の眼」を借りて表現され、ゆくゆくは『沈黙』で踏
眼差しの萌芽を発見していく。それが『哀歌』では「九官鳥の
35
なんとなく超えてしまう日本人の罪意識の問題を描いたこと、
~
1
更には「黄色い人」(「群像」昭 年 月号)や「火山」(「文学界」昭
年
10
なくなる様相を徹底的に描こうとする作者の視点として表れて
34
252
28
と 、「死を前にして、人間 が生 きるということはどういうこと
は、①「戦争における死」を取り扱ったものに、フランス留学
ト教 が禁じられた時代における 死」だ。『沈黙』以前の執筆に
月号
を素地とした「白い 人」や『青い小さな葡萄 』、自身の戦争体
年
頁 ))と 指 摘 し て い る 。 こ の 指
に つ い て 」(「 知 識 」 昭
なのか、問うている」(長谷川泉×鈴木秀子「遠藤文学における「悪」
験を題 材とし た「黄色い人」や「黒い十字架 」(「知性」昭 年
「病気のあと 、「死」にとらわれなくなった遠藤氏」と記者に
、②「病室での死」には『哀歌』所収短編や「葡萄」(「新
月 号)
、③「禁教下における死」には 、「最後の殉教
月号)
とした作品群が『沈黙』へとゆるやかに繋がっていったことは、
者 」(「別冊文藝春秋」 昭 年 月号)など がある 。病床 体験を 素地
7
「死」と遠藤文学の関係は、
『沈黙』に「「死」のことが入って
年
潮」昭
摘は、先に引用した『沈黙』脱稿後のインタビュー紙面後半で、
112
いるか否か」ということではなく、
「『沈黙』を機に、遠藤の「死」
35
10
12
まとめ らてしま う状況と齟齬をきた すようだが、この当時の
30
62
への態度 、「死」への認識に変化 がある」と考えるのが妥当だ
ような繋がりもしくは断絶をもって『沈黙』へと至ったのだろ
作者述懐により示されているが、これら三つの場面として焦点
黙』の終わりをどう読むか」
(
「国文学
解釈と鑑賞」平
年
月号
頁)
)
佐藤泰正が「『沈黙』の生まれる初源の一点」として指摘(「『沈
うか。
化されている遠藤作品における「死」の問題は、具体的にどの
れなくなった遠藤氏」
)とは、新聞用語としての表現だろう。
年春 、『沈黙』の執筆動機ともなった
と誰もが考えるように、私も考えた。自分の信ずるも
自分の信念や思想を棄てて戦争のなかに死んでいかなけれ
だったのだろう。/私は戦争中に育った人間である。当然、
は留学を断念せざるを得なく なり 、『沈黙』執筆前に再発し た
な暴 力によ って自分の 信念や 思 想を たや すく曲げ てい った
ばならなかった人間を数多く見ていた。(略)人間が肉体的
のを自分の足で踏んだとき、いったい彼らはどういう心情
でみた踏絵の黒い足指の痕によって焦点が定まった③「キリス
結核の療養によ って体験し た② 「病室での死」、最後に、長崎
実地検分を行い、また出征こそしなかったものの自身も第二次
―
あの黒い足指の痕を残した人びとはどういう人だったのか
のように述懐する。
とされる長崎でみた十六番館の踏絵との出合いについて、以下
する 通り 、遠 藤 は 昭和
144
定 的にまとめ られ てしま う 「死」への 態度の 変化 (「死にと ら わ
「踏絵の足指の痕」から得た創作の原点
「死」を前にしていかに生きるか
―
『 沈 黙 』 以 前 の 遠 藤 の 「 死 」 へ の 意 識 に は、 三 つ の 場 面 があ
9
世界大戦中に青 年期を過ごした①「戦争における死」、二つ目
る。そのひとつが戦争の傷痕生々しい時期のフランス留学中で
22
を思えば、事足りる。先に引用した「東京新聞」紙面後半で断
ろう 。それは 、鈴 木の発言に限らず 、『沈黙』が踏絵に足をか
2
けるかかけないかで生死を分けた時代の信仰の物語であること
34
39
信用しなければ、自分も信用しない。/だから踏絵に足を
人間が自分で自分を信用していない時代であった。他人も
ケースを私は目のあたりにしていたのである。
その時代は、
よって、わずかだが浮かび上がる。
『満潮の時刻』を『沈黙』の現代版として読み合わせることに
そのものから読み解くことは容易くはない。だがこの意識は、
ではない」と感じた第二次世界大戦下とつながる視線を『沈黙』
「死」の享受
前述した通り、長崎で十六番館の踏絵を見た体験は、
『沈黙』
・『満潮の時刻』の場合
『満潮の時刻』と『沈黙』の間
―
かけ ていった人びとの話は 、(略)切実な問題 だった。〈信
仰〉などと言 うと縁遠い話になるの なら、〈自分の生き方
や思想・信念を暴力によって歪められざるをえなかった人
に分かる問題のはずだった。踏絵の足指の痕は、他人事で
執筆と併せて書いた長編『満潮の時刻』に登場する。物語は遠
間の気持〉と考えてみればどうだろう。誰にでも痛いほど
はない。/それが、私を小説へのスタート地点に立たせた
藤とおぼしき主人公・明石が、入院生活を送る様子を基盤とし
られたキリスト教という洋服を自分の身の丈にあった和服に仕
中心とする。そしてこの納得のさせ方が、この作品の特徴だろ
やって自らの人生の完結の様として納得させるかということを
。 その 試 み の 一 つ と し て 遠 藤 は 、肺 結核 が再発 し た 昭和
照)
年の病気「療養中」、
「戦国時代の切支丹たちのなかに (注、
死ぬ」ということと「第二次世界大戦での戦死」を重ね合わせ、
戦地に赴くことのなかった自身と比べることなぞ戦死したもの
頁、
頁、
頁、
(
頁、
。むろん、「戦争」
頁)
34
、「切支 丹関
洋服 を 和服 に 仕 立て 直 す 方 途 を)探っ て みた いと 思い 」
~
249
~
たちを 思えば不遜 であると逡 巡しつつも 、「死」と隣り合わせ
頁、
209
。そ
係の本を手に入れては勉強を続けていた」(「沈黙の声」 頁)
にある病床の身の日常を、ことある毎に戦争体験と結びつけ、
~
159
再び「戦争」を生きようとしているかのように描かれる
頁、
93
れ な が ら 信 仰 を 求 め た 人 々 の 物 語 (『沈黙 』)は 、 禁 教 下 に 踏 絵
~
91
頁 )が あ り 、 比 べ も の に な ら な い と 自 戒 し つ つ も 、 明 石は
自らの死と戦場での死の場面を、病室で比較考察する。そんな
~
なくとも「死」に 抵抗する人間の生 き様 (「夫婦による連帯感」
が兵士に強いた孤独な死の形に比べれば、病院での死には、少
67
して遥か昔、キリスト教が禁じられていく激動の時代に翻弄さ
を踏むか踏まないかで生死を分けた人々の生き様と、第二次世
界大戦下を生きた作家自身の経験に基づく問題意識とが融合す
世 紀キ リ シ タ ン弾 圧 下の 長 崎を 舞 台と し てい
63
14
う。「戦中派」として設定される明石は、作中執拗に「病室で
立て直すことにある (「合わない洋服 」(「新潮」昭 年 月号)など参
て進み、入院中の明石の意識は、病気で死ぬということをどう
のである。(注、傍線は池田、以下同。(「沈黙の声」 ~ 頁))
17
『沈黙』に限らず遠藤文学を貫く大きなテーマは、母から着せ
16
12
ることによって、創作の「スタート地点」へと促された。むろ
ん 、『 沈黙』は
105
55
35
42
るため、この引用で作家が示した「踏絵の足指の痕は、他人事
17
54
106
37
彼は、入院中の仲間の死を、以下の描写をもってしる。
帯 感 )が あ り 、 そ こ に 明 石 は 「 人間 の 素 晴 らし さ 」(
頁 )を 認
月)から、この描写が実際の病床体験から得た着想であろうことが
昭
める (「病室に聞こえてきた獣の吼える声」(初出『私のイエス』祥伝社
と五年前、短編「葡萄」でも同じように創られている。夜、寝
らげ、死を迎える人間たちの抵抗の一つのありようとして、
「手
は、また誰かが死んだために近親者が泣いているのかと思
続いてはまた途切れる。(略)/病室に戻ると、真暗な空間
「 葡萄 」
(抵抗)を託し、かつ人間が死ぬことの意味を見出す。
を握りあ」い「孤独感」を和らげることに「死」に対する救い
で死ぬと いうことの意味を 思い悩む なかに、「死の恐怖」を和
の中に眼を大きくあけて、明石は今の若い看護婦の何気な
静まった病棟から聞こえてくる「呻き声」に耳を澄ませ、病気
く言った言葉を考えていた。病棟の中は静まりかえり、あ
って目をさますと、泣声ではなく、泣声よりも呻き声のよ
この「病院 での 死」の描写は、『満潮の時刻』に先んずるこ
。
うかがえる)
年
は一つの声によって目がさめた。部屋の中は真暗で本間さ
んも井口君も開沢君も、かすかな寝息をたて眠っていた。
ある夜のことだった。入院した最初の夜と同じように、彼
106
うでまるで犬の遠吠えに似ていた。途切れては、また続き、
/声は風に乗って廊下の奥の方から聞こえてくる。はじめ
7
の咆吼のような 呻き声はしんとなく聞こえなく なってい
みや哀しみに寄り添う基督の眼差しを提示した。そしてこの病
編において、さらに動物たちの眼や妻の眼を借り、病死の苦し
で夫婦の連帯感に救いを託した遠藤は、その後『哀歌』所収短
(
覚はなまなましいから、どんな人間も自分だけがこの苦痛
た。(略)我々が何か、苦痛や不幸にぶつかるとき、その感
頁 、「 十姉 妹 の眼 」
頁 、「 犬の 眼 」
室に降り注ぐ眼差しは『満潮の時刻』でも登場 (「九官鳥」 ~
~
た。不幸や苦痛はそれがどんな種類のものであれ、人間に
を蒙っているような錯覚に捉われることを彼は知ってい
頁 )し 、 明 石 はこ れ ら 動物
191
197
行に赴き、踏絵を見る場面の描かれ方にかかっている。
イマックスで、退院した明石が、入院中の夢に誘われて長崎旅
込む余地があるのだろうか。このことは『満潮の時刻』のクラ
しようとした「戦争での死」の場面に、そうした眼差しが入り
だが、明石が「病室での死」への希望的相似形として追体験
からなのだと確信する。
たちの眼に惹かれるのは、その眼差しが「人間の生活とよぶも
194
孤独感を同時に与えるものだ。そしてこの孤独感がさらに
193
の 、 人生 とよ ぶ も の ( 略 )を 悲 し み な が ら 愛 し 」( 頁)て いる
196
192
51
苦痛や不幸の感情を増大する。( ~ 頁)
「孤独感」を和らげ、人間が死ぬということに私たちが抵抗す
頁)を増 大させるの だと考えるようになっていく 。そし てこの
病室で「死」に怯える「孤独感」は、「人間の苦痛や不幸」
して明石に届き、彼はその「呻き声」を聞きながら、真っ暗な
病院での死は、夜の闇とともに「咆吼」のような「呻き声」と
96
る一つの形に、
「夫婦が手を握りあ」うしかない人間の行為 (連
96
93
明石はその踏絵の前にたった一人の男を想いうかべる。
( 略 )眼 を あ け て も う 一 度 、 踏 絵 を 見 る 。 略
(
)
それ は衰 弱
書セン ター
平
年
月
~
229
頁)で『満潮の時刻』を「『沈黙』とは表
230
自 分 の 顔 に 足 を かけ る も の を 憎 ん で は い な か っ た 。 / ( 私
鳥の 眼」と病院のなかで思い出した「少 年時代に (略)犬の眼
ぞらえて意識していたはずだ。だが、ここで「それら病院のな
に示した通り、明石は病院での死を、常に戦争における死にな
は ……
おまえの足の痛みを知っている。お前がそれに耐えられぬのな
ら 踏 みな さ い 。 私 の 顔 に 足 を か ける の だ 。 も し 、 お 前 を 愛 する 者 が 私
ら遠藤流基督の眼差しは、病院での死の苦しみの同伴者にはな
に発見したもの」である。既に『哀歌』所収短編で示したこれ
したもの」が、どこまでを内包するのかということである。先
と 同 じ 立 場 に い た な ら ば 、 そ の 人 は 私 と 同 じ こ と を い う だろ う。 踏 み
中で明石にふと聞えた。/九官鳥の眼
あ あ 、 こ の基
……
督の眼差しはあの病院の九官鳥の眼と同じだった。彼が少
での死を重ね提示した。だが、この引用部分で指示されている
を、さらに『満潮の時刻』で踏み込み、病室で死ぬことに戦争
のは、その思索の幅をも含む「病院のなかでの体験」なのだろ
な い悩 み を 九 官 鳥に 話し か けるこ と )や 「 死 」に 抵 抗 する 術 ( 夫婦 で
中に発見したものと同じだった。明石は硝子ケースに両手
のだろうか。
提 示 さ れ た 行 為 ( 九 官 鳥 の 眼 差 し に 導 か れる よ う に 誰 にも 打ち 明 け ら れ
『満潮の時刻』を読む限り、戦場での兵士の死は、
「 無 人の ジ
うか。果たして、病室での死の不安を和らげる術として作中で
が聞こえた明石は、病院で苦しみを打ち明けた九官鳥の眼や自
。( ~ 頁)
……
踏絵を踏んだものたちへ思いを馳せ、「踏みなさい。
」という声
ャングルの中で置きざりにされたまま、自決する」情景が想定
をあてたまま長い間、動かなかった。それら病院のなかで
殺した飼い主をじっと見つめ続けていた犬の眼に、踏絵の基督
され、その「悲惨さに意味があるのか」( 頁)と明石は自問す
手 を握 り 合 う こ と)が 介 在する 場が 、戦 場での 死の 場面に はあ る
で「焦点を結」ぶ。これは、先述した『哀歌』初版あとがきや
の眼差しを 思い 合わせ、「病院 で体験したものが」明石の内部
彼が体験したものが、今、ようやく 焦点を結びつつある
りえる。だが遠藤は 、『 哀歌』 で取り組んだ病院での死の場面
年時代に雨の日の雑木林のふちで、うずくまった犬の眼の
かで」と語られる「それら」が指すのは、直前の「病院の九官
な さ い 。 足 を かけ な さ い 。)/ こ の 声 が 静 ま り か え っ た部 屋の
る基督の顔だった。人間と同じように、みじめで孤独な基
だがここで注 目すべきは 、「それ ら病院のなかで明石が体験
。
裏一体」と位置づける)
4
督の顔だった。
/その眼差しは決して恨んではいなかった。
し、消耗しそして哀しそうな眼でじっとこちらをむいてい
11
の何か、誰かと連がる可能性を見出すことはできない。つまり
る。ジャングルで一人ぼっちで死んでいく。ここに、自分以外
(この意味において佐藤泰正は「解説」
(『作家の自伝
遠藤周作』日本図
274
文庫版あとがきで作家自身が指摘していることと同等であろう
67
273
98
感は、その先にある基督の眼差しを感じるための鍵のようなも
いだせない空間として描いている。動物の眼や仲間同士の連帯
遠藤は戦場を、動物の眼にも仲間同士の連帯感にも有効性を見
「死」の場面は、似通った表現と場面をもって創られている。
の違う場面設定をもって創られた『満潮の時刻』と『沈黙』の
るであろう。そしてまるでコインの裏表をなすように、時空間
『 沈黙』における 「死」 の意 味、それは、踏絵を踏むか踏ま
・『沈黙』の場合
うとした思索の幅までは含まれないと言えるだろう。それは、
時刻』 や 短編「葡萄」 と同 様に、夜の 闇 のなか で 、咆 吼の よ う
ないかの選択の場面を通して描かれる 。『沈黙』でも『満潮の
ば、この引用部分の「病室での体験」には、戦争を追体験しよ
のであるはずなのに、それらが剥奪された空間なのだ。とすれ
『沈黙』のスタート地点に立った作家の意識にあった、自らの
な呻き声を聴く。
戦争体験を重ねた第二次世界大戦下の「死」を前にしてどう生
きるのか、という問題に、真摯に取り組みはしたもののそこに
で、耳をすますとその声はすぐ消え、しばらくして、また
遠くで何か声がする。二匹の犬が争っているような唸り声
長く 続いた 。(略)だれかの鼾 だとわかった (略)/閂をは
人間 的な 意 味 ( 救 い)ま では導 き出 せなか った と いうこ と にも
の場面を、戦時下とのいびつな相似形を強調して創作したこと
くる 。(略)/通辞だった。 略 /「私はただ、あの鼾を」
ずす音がする。誰かが遠くから急ぎ足でこちらに近づいて
なろう。だが、遠藤が『満潮の時刻』において、
「病室での死」
「 病 室 で の 死 」 に は 「 死 へ の 抵 抗 」 も し く は 「 心 の 安 ら ぎ (救
は興味深い。作中でその二つを相似形として描き出しながら、
(
)
繰り返しになるが、十六番館の踏絵の前で『沈黙』へのスタ
もうそれは鼾のような声ではなく、穴に逆さに吊られた者
ふたたび鼾のような声が高く低く耳に伝わってきた。
いや 、
らた信徒たちの呻いている声だ」(略)/その言葉が終ると
に黙った (略)/「あ れは、鼾ではない 。穴吊りにかけ れ
ート地点に立った遠藤の眼前には、禁教下で思想信条の変更を
たちの力尽きた息たえだえの呻き声だということが、司祭
と司祭は闇の中で答えた。/突然、通辞はおどろいたよう
迫られた者と第二次世界大戦下で思想信条に規制をかけられた
に も 今 は っ き り と わ か っ た 。/ 略 自 分 は そ れ に 気 が つ き
」のさまを提示することができ、「戦争での死」には、死へ
い)
者たちが抱き合わせになっていた。このことに加えて、
『哀歌』
も せ ず 、 祈 り も せず 、 笑 っ て い た の であ る 。 略 自 分 だ け
の抵抗の様を提示しえなかった。
黙』と同心円を描いているのだとすれば、
『満潮の時刻』(「病室
あとがきに示されたように、
病床体験をもとに書いた短編が『沈
(
)
信じていた。だが自分よりももっとあの人のために苦痛を
がこの夜あの人と同じように苦しんでいるのだと傲慢にも
)
『沈黙』(「禁教下での死」)へのステップ
で の死 」「戦場で の死」)は 、
(
でもありながら、同時に『沈黙』の現代版として位置づけられ
祭か。他人の苦し みを引きうける司祭か)主よ。なぜ、この瞬間
受けている者がすぐそばにいたのである。(略)頭の中で、
は、仲間が死ぬことの苦しみを「呻き声」のもとに感じ、その
間が死ぬことの意味を捉え、基督と同じ眼差しを感じる。彼ら
い悩みを九官鳥に打ち明け、また夫婦が手を握りあうことに人
~
頁)
)
310
いる苦しみを、夜の闇の中で「呻き声」(「鼾」)を通してしらさ
界大戦中、正義の名のもとに行われた同胞虐殺事件のあったフ
わせた娘スザンヌ・パストルのある行為によって命拾いしたド
世界大戦中レジスタンスによる拷問をうけながらもそこに居合
在仏日本人で料理屋の給仕係を務める伊原のもとを、第二次
ォンスの井戸を見に行った体験をもとに書かれている。
『満潮の時刻』において、明石が夜中の病室で、他の入院患者
その後を探し歩くハンツの話を、人種は違えど同じ敗戦国の人
イツ人神学生・ハンツが客として訪れる。伊原は、スザンヌの
間として興味深く聞く。伊原は、ハンツとともにスザンヌの墓
する場面を 、『沈黙』の舞台設定に合わせて置換したものと言
は「踏むがいい」という踏絵の摩滅した基督の声を聴くのだ。
年
月
頁 ))円 形 劇 場 の 跡 を 通 ら ね ば な ら な
を探しに行く。墓に行くためには「むかし、ローマ人がリヨン
平
50
が病室で人間が死ぬということの意味を思惟し、誰にも言えな
す。この地面には彼等の血が染みこんでいるのですぜ。/
君、ぼく等のたっている所では基督教徒が虐殺されたので
「足もとを見てごらんなさい。もう十何世紀も前、ハンツ
うに 問い かけ られる の を 、 伊 原 は見る 。
かった。そのとき道案内人クロスヴスキイからハンツが次のよ
1 』( 新 潮 社
「死」は、「死」に向かうものたちの苦しみや哀しさは、「呻き
「病室」
・「禁教下」
・「戦場」
を征服した時 (略)キリスト教徒を虐殺した」(『遠藤周作文学全集
―
「呻き声」の彼方
『 沈 黙』 では 「呻 き声」 を聞 く こと でロドリ ゴは真の 愛の行
4
また『満潮の時刻』では「呻き声」に耳を澄ますことで、明石
為に踏み出し、摩滅した踏絵の基督から、許しの神の声をきく。
11
声」を通して描かれている。
える。そして、その「呻き声」の先に、神を志向し、ロドリゴ
たちの死 (もしくは死へ向かう苦しみ)を「呻き声」をもって感知
」の匂いを嗅 がされる 。この描写は、
て仲 間 の 「死 ( の苦しみ )
れる。ロドリゴが夜の闇の中で呻き声に耳を澄ませ、結果とし
さな葡萄』は、遠藤がフランス留学中に実地検分した第二次世
藤周作の初の 長編小説に『青 い小さな葡萄』がある 。『青い小
の作品から耳を澄ませることで作品を創っている。例えば、遠
遠藤は、こうした「闇」から響いてくる「(呻き)声」に初期
声に敏感になることによってしるのだ。
自分ではない別の声が呟きつづけている。(それでもお前は司
った。(略)この呻き声は今、なぜ、あなたがいつも黙って
まであなたは私をからかわれるのであるかと彼は叫びたか
月
305
いるのかと訴えている。(「沈黙」(『遠藤周作文学全集2』新潮社
平 年
6
ロドリゴは、志を同じくする者が拷問による「死」に晒されて
11
―
ハ
(「闇 」 から 聞 こ える「 叫び 声 」)は 、 前章ま でで示し た『満 潮の 時
この『青い小さな葡萄』における「戦争における死」の描写
闇 を 凝 視 し なが ら 耳 を 澄 ま す 。
刻』、
『沈黙』で描かれた「病室での死」、「禁教下での死」の描
あの収容所の頃を思いだすんですよ。おなじよ
ぼくはここに夜、来るのが好きでね。ここに来ると
―
うな処刑、
おなじような血のことを思いだすのですからね。
写の基いであろう。そして『青い小さな葡萄』を振り返れば、
ンツ君
すからね。/ここは今、皆、雪に埋もれて、怖ろしいほど
作中冒頭、伊原は戦後間もないリヨンにおける人々の声を「呻
おなじような処刑、おなじような血のことを思いだすので
静かじゃありませんか。ニューエンベルグの収容所も今ご
に集まって、叫びはじめたら、どうしますかね。彼等はあ
屋や絞首台で殺された幾十万人の人間たちが、この闇の中
黙らせておくに限りますよ。だが、ハンツ君、もしガス部
っちゃ、世の中はうまく運びませんからねえ。死んだ者は
あるいはたがいに絡みあいながら呻いている。冬のリヨン
が、男女が、この夜、湿ったベッドの上に 孤 りぽっちで、
ド・ショルイの沼沢地帯まで拡がっている。/無数の人間
なかに眠っている。
それは大きな、疲れた獣のようにポン・
い臭気をふくんでいる、広場のむこうにリヨンの街が闇の
いこんだ。/霧は塵埃と汚物との浮いたソーヌ河のドス黒
雨にぬれた顔をハンカチで拭い、彼は霧の臭いを大きく吸
き」として捉えている。
の収容所で受けた恐怖や拷問や死を償ってくれ、納得のい
消えてしまうわけですか。わかっていますよ。そうでなく
ろはこの通りですか。拷問室、ガス部屋、絞首台も、雪に
くまで償ってくれと叫んでいるんですぜ。/生き残った連
がてこの霧のなかに閉じこめられてしまう。( 頁)
の夜空には一屑の星もない。彼等の呻きもうつろな顔もや
(
)
」(他に戦争で殺された「マニラの群衆の呻き声」 頁)の先には、
き声)
だ が 、 戦 争 を 背 景 と し た こ の 「 闇 」 か ら 聞 こ え る 「 叫 び 声 (呻
ひと
中は戦争裁判や民主主義や未来の平和ですべてを始末した
頁
つもりか知らないが、
死んだ人間の苦しみはそれだけじゃ、
もとへ戻らない。
」
ハンツのの脳裏に、病院の映写会で「ユダヤ人を処分した収容
示する独自の基督の眼差しは差し込まない。その代わりに、
「フ
『満 潮の 時刻』(病院)や『 沈黙』(禁教下)とは違い、遠藤 が提
後にこの言葉は、拷問によってなくした右腕の治療で通院中の
12
所ガス部屋」( 頁)のシーンを見た際、蘇る。またフォンスの
34
52
井戸を見に行った場面において、井戸の「闇を直視する」伊原
抗するただ一つの路」( 頁)をみずからで創り上げなければな
ォンスの闇の井戸も犯すことの できない (略)人間の運命に反
86
殺し合いの末 、「死んだ人間の苦し み」の声に、伊原は井戸の
して蘇る。そして「どっちが正しいのかわかりゃしない」
( 頁)
24
の頭 の中にも 、「憤怒とも呪詛ともつ かぬ群衆の声」( 頁)と
63
遠藤が、戦争という場面における拷問や虐殺の「死」に、な
らないという決意が示される。
88
んらかの肯定的な意味を見出したかったであろうことは、留学
ヴィツのあのような地獄世界が他の世紀ならばとも角、我
アウシュヴィツ考察は既に終ったのだと思う。/アウシュ
々はあの事実を忘れてはならぬ」というような第一段階の
昭和
年代までの戦争への態度とサド理解
―
「遠藤周作にとっての「悪」
我々が人間について悲しむだけではなく、そこから人間の
々の世紀に、
我々の生きていた時代にあったということは、
期 か ら 抱 え た サ ド へ の 関 心 を み る こ と で 、 私 た ち は し る ( 拙稿
。さらに は戦 時 下
月 )参照 )
における奇跡的な愛の行為を示すことのできた強者の死につい
威厳、人間の自由、人間を救うものについて考える義務を
年
てであれば、遠藤はアウシュヴィツで妻子ある者の身代わりと
んに歎きの歌だけではすまされぬ、もう一つの大きな声を
我々に要求する筈だ。(略)それに手を出す以上、我々はた
を中 心 に 」(「遠藤 周作文 学研究」 平
二 部 」(「朝 日 新 聞 」 昭 年 月 日 ~昭 年 月 日 )で 詳
。この 人間 たちを救えるのは
内部 に持 たねば な らぬ (略 )
7
細に描い た。 だ が 、
『沈黙』の初源にあった作者の意識は、「人
2
ア ウ シ ュ ヴ ィ ツ で 女 や 老 人 や 子 供 を 殺 し た 人 間 たち を 指し て いる ので
57
何か、この人間たち (私は被迫害者だけを言っているのではない。
3
いった」(「沈黙の声」 ~ 頁)弱者との重なり合いの上に成立し
7
間が肉体的な暴力によって自分の信念や思想をたやすく曲げて
の一生
なってガス室へ赴いたコルベ神父を、畏敬の念を込め後年「女
9
30
22
56
ていた。戦争における「弱者」への救いとの格闘が念頭にあっ
あ る )を く い と める も の は 何か につ い て根 本 的 な、本 質 的
「すべてはナチズムのせいだ」とか「すべては戦争のせい
て戯曲を小説を書く権利があるのだと思う。それはたんに
だ」とか「二度と戦争をやってはならぬ」という答えだけ
な方向を考えられる作家のみがこのアウシュヴィツについ
が『沈黙』執筆のスタート地点にあった二つの意識は、歴史を
分が価しないと思った作家はあの大量虐殺やおぞましいガ
ですまされる問題ではない筈である。(略)まだ、それに自
ス室や子供の死や、それから獣のような収容所の独逸人た
ちを描写することはとてもできない。それがやはり作家の
月号
~ 頁)
)
芸」昭
。
誠実さである(略)
(「書評 アウシュヴィツは素材にできるか」(「文
167
「アウシュヴィツ」を「戦争」や「第二次世界大戦」と言い換
166
えることにはかなりの戸惑いと危険性を覚えるものの、ここで
8
だ。つまりたんに「人間はどこまで堕落しうるか」とか「我
41
述以上の何ものかを持っていなければならぬと私は思うの
年
なりを書くとするならば、それはたんなる報告、ルポ、記
戦後二十年後にこの地獄を素材として我々が小説なり戯曲
藤は、書評のなかで以下のような認識を示している。
容所で行われた大惨事を文学作品の素材とすることについて遠
『 沈 黙 』 発 表 同 年 の 夏 、 第 二 次 世 界 大 戦 下ア ウ シ ュ ヴ ィ ツ 収
舞台に据えることによって創られていくこととなる。
の続編を書きたいと願った肺結核再発前の創作意欲がある。だ
たの だろう。その意 識の源流の 一つには、『海と毒薬』で描い
17
た「疲れ」 から生 体解剖事件に参加した (「踏絵 を踏んだ 」)勝呂
16
と な っ た 『 留 学 』( 文 藝 春 秋 新 社 昭 年 月 )の な か に は 、 作 者
しい視線が薄れているとするその理由について、今後考察を深
が「「海と毒薬」のなか で勝 呂や戸 田を 問いつめた」( 頁)厳
遠藤がアウシュヴィツを素材にする「作家の誠実さ」だと認識
のは 何か (略)について根本 的な、本質 的な方向を考え」る執
している 「この 人間 たち (注、迫害し た者も された者も )を救える
めていく上で重要な事例にもなるものと考える。
組んだ『満潮の時刻』との間にあったと考える。しかし戦後二
から先の道筋を示した言及ではない。そのため小稿の指摘によ
る禁教下の弱者たちへの思いと戦時下を生きねばならなかった
発した留学期に抱えた戦争と死への意識や、昭和
年代の 執筆
はない。ただ、それでも考えるのは、遠藤が小説家としての出
って、遠藤が『沈黙』で示した許しの神の意義がゆらぐもので
自らの体験の融合は、あくまで「スタート地点」であり、そこ
終わり に
と『沈黙』との間にある有機的な連関を明らかにすることを目
努めたのか (『沈黙』以前の作品を例にとれば「従軍司祭」(「世界」昭
争 での 死 に救 い 人間 的な 意味 )を ど の よ う にし て 見 い だ そうと
いった系譜である。このことは、遠藤が執筆人生のなかで「戦
ま り に 碧 い 空 』)が 、 歴 史 に 舞 台 を 求 め た 『 沈 黙 』 へ と 繋 が っ て
標とし、遠藤の『 沈黙』執筆の原点には、「病室での死」・「禁
意図としていた戦中派の戦後の生き方という問題(「あとがき」
『あ
教下の死」・「戦争における死」という三つの場面が想定されて
年
小稿では『沈黙』のスタート地点に立った遠藤の思いととも
いたことを踏まえ 、『満潮の時刻』『沈黙』『青い小さな葡萄』
ある 。
(
」、思い悩む小稿の意識の源 泉でも
月 号) に顕 著に 表 れ て いる )
死が、作中、明石の病院体験の意味として取りこぼされていく
それは 、『満潮の時刻』で明石が追体験しようとした戦場での
取り残していくところに、
『沈黙』が成立したとも考えられる。
捕まり拷問を受け片腕をなくした基督教徒・ハンツの神への嘆
かっ たかわり に独 逸兵 ( ナチ )であること からレジス タンスに
を嘆くキチジローの描写と 、『青い小さな葡萄』で誰も殺さな
に足をかけ、またロドリゴを売る密告者となってしまったこと
にも一条の光が降り注ぐ ( ~ 頁、 頁)
。自らの弱さから踏絵
『 沈 黙 』 で は 、 禁 教 下 に お け る 「 弱 者 」( 転 び 者 ・ キ チ ジ ロ ー )
日本と
―
『 沈黙 』 への 布 石
ヨーロッパ の距離 」(『遠藤周作のすべて』所収)が、
に抱えた作家の問題意識のうち、戦時下における死への救いを
を例に比 較考察を試みた。これ らを見ていくと 、『沈黙』以前
に、
『沈黙』への前奏曲となった短編集『哀歌』・『満潮の時刻』
30
直後、歴史に舞台を採った『沈黙』が上梓される。
基 督 の 眼 差 し (「救 い 」)を 見 出 す こ と が か な わな か っ た 。そ の
晩年の述懐 (「沈黙の声」)に示された『沈黙』創作の初源であ
209
十年の時点 (『満潮の時刻』)では、戦場での死の場面に直接的な
い小さな葡萄』(第一段階の考察)と戦後二十年経った地点で取り
筆に対する姿勢と同様の取り組みが、戦後十一年で書いた『青
6
こ と に も 表 れ て い よ う 。併 せ て、広 石 廉 二 (「『留 学』
306
307
315
34
39
9
。これは、遠藤が『沈黙』の歩みの方向
たと位 置 づける ( 川 島 )
を定めた力強い第一歩である。ただ一方で、第二次世界大戦に
ことにより、遠藤は弱者に光を当て『沈黙』へと収斂していっ
頁 )「(な ぜ 、俺 を このよ うな 時 代に 生 れ させ た ので す か
「 札の 辻 」 か
(『沈黙』)に当てたような温かい眼差しを導かず、
翻弄されたネズミの生を弱者のままに据えおいて、キチジロー
きの描写も大変似通 っている (「この俺は転び者だとも。だとて一昔
。また、『哀歌』所収短編の一つ
頁))
かった、その理由が気にかかる。
『沈黙』以後、
『死海の ほと り 』
ら舞台装置を歴史にとった『沈黙』へと筆が向かわざるを得な
れ ん 」(『沈 黙 』
(略))」(『青い小さな葡萄』
前に生れあわせていたならば、善かあ切支丹としてハライソに参ったかもし
「札の辻」(「新潮」昭 年 月号)では、作家の分身らしき主人公
が、戦時下において国家の大義と信仰のはざまで葛藤するユダ
やはり、収容所で死ぬ強者の生として描かれる。たとえその強
に お い て再 び 焦 点 化 さ れ る ネ ズ ミ ( ねず み )の 生 は 、 そ こ で も
り、戦後になってネズミが処刑されたかもしれないダハウの収
『 沈 黙 』 執 筆 の スター
に 死 ん で い く 様 )を 表 し て い る と し て も 、
者 の 生 が 、遠 藤 が 示 し た 基 督 そ の も の ( み す ぼ ら し く も 愛 の 行為 故
書くことが可能となり、その反面、何が背後へと押しやられて
小説の時代をどこに設定するのかという選択によって、何を
険しいものとして想像する。
黙』からさらに『死海のほとり』でそこへ到達した道のりを、
ト地点にあった戦 時下における弱者への意識を思うとき 、『沈
によって、切支丹弾圧と自分が生きた時代を引き合わせる。こ
こには 、「沈黙の声」で示された十六番館の踏絵をみた (昭 年
頁)として描かれるため、先行研
究では弱者・キチジローの原型の一つであり、また『沈黙』後
。
月所収))
(「信徒の友」昭
年
『 沈 黙』 へ と ( た
月号)も参照)への理解を、
と え そ れ が 点 線 と し て で あ っ て も )直 線 的 に つ な げ る 回 路 か ら だ け
平 年
でなく、その間にあったであろう紆余曲折や行きつ戻りつした
」
(『遠藤周作〈和解〉の物語』和泉書院
主人公は、推測の範疇ではあるが、ネズミがコルベ神父 (『女の
であろう迷路のような道程として考察を深めることが、有効な
『哀歌』
―
要な役割を担う登場人物として扱われる (川島秀一「地上の哀しさ
頁)ん
―
「身代わりになって罰をうけて死」(
二部』)同様 、
手立 てだろうと 考える。今 回は 、「死」の場面に共通した作品
一生
だ こ と を 伝 え 聞 き 、「 な に が ネ ズ ミ に そ ん な 変 り か た を さ せ
の表現をおうことで、その土台をわずかに作りだそうとしたに
12
6
9
、なにがそんな遠い地点ま でネズミを引き上げ たのだろ
(略)
40
48
12
れる言及 (「沈黙の声」の他、遠藤周作×佐古純一郎「対談「現代の献身」」
いくの か。このことを考察するには 、『沈黙』創作の初源と さ
232
の書き下ろし長編『死海のほとり』(新潮社 昭 年 月)でも重
連中の一人」(『哀歌』初版本
ネズミは「刑場に行く前に踏絵でもなんでも踏むにちがいない
春)遠藤の意識と同じテーマが既 に見出される。また、作中の
39
容所の牢獄と切支丹たちが捕らえられた牢獄が重なり合うこと
刑 さ れ た 智 福 寺 ( 札 の 辻 )や 小 伝 馬 町 へ 赴 い た と き の 記 憶 を 辿
11 64
ヤ系ドイツ人修道士のネズミとともに江戸時代切支丹たちが処
38
270
う」( 頁)と考える。先行研究では、ここに踏絵体験が相まる
236
234
すぎない。今後、更に調査を進め、稿を改めて考察の機会を持
ちたい。
(長崎市遠藤周作文学館)
T
o
y
o
と よ 子
SUGAHARA
k
月号、新潮
書込みや折の跡などをページごとに一つひとつ写真に撮り、パ
所蔵
コン写真データと略記)を一般公開している。更に、同文学館は、
ソコンに写真画像として収めたパソコン写真データ (以下、パソ
冊を目録化した『長崎市遠藤周作文学館
、 遠 藤 の 旧 蔵書
Ⅰ 』 と 略記 )
3
点を目録化した『平成
509 27
年度
3
28
遠
目録』と略記)を発行し、遠藤研究のための貴重な資料
21
』(昭和 年 月
年度
目録』、
先 記 したよ う に、遠藤 著 は 種々の 形 で、遠藤 著の 典拠を示し
本論では、以上の資料を活用している。
、
、
、
、
頁に
129 129
うに、引用典拠の著者を不明瞭に、などの形でである。
、
ているが、その中で、記名の頻度の高いのはシュタウファーで
ある。合計 箇所、即ち遠藤著の
111
だが、現在、長崎市遠藤周作文学館の調査、資料公開によっ
月から現在も、同文学館内において、蔵書
98
て、遠藤著の典拠を確定することが可能となっている。同文学
年
50
書込み、遠藤が折り込んだと推測される折の跡など、あらゆる
書への文字の書込み、傍線や一~数行を括るように施した線の
E・シュタウファー、荒井献訳『エルサレムとローマ』(昭和
と記述があり、目録、並びにパソコン写真データに基づいて、
頁に
は、
「シュタウファーの『イエス・キリストの時代』によった」
46
シュタウファーの名が記されている。但し、このうちの
10
133
在も、同文学館内において、同文学館が、遠藤による遠藤の蔵
館では、平成
300
6
154
目録 ( 以 下 、 目 録 と 略記)を 一 般 公開 し 、ま た 、 同 年同 月 か ら 現
6
冊の蔵書における書込みを閲覧することができる。
ことや、
約
の調査、資料公開により、遠藤が所蔵していた書籍を確認する
パソコン写真データに見当らないなどの例もあるが、同文学館
『目録Ⅰ』、『平成
日初 版、三 省 堂)が 、目録 、
カンド ウ、金山 政英訳『キ リス トとその 時代
遠藤著が典拠にしたと推測されるダニエル・ロップス著、S=
を確定することが可能となっているのである。勿論、中には、
を提供している。このような資料提供によって、遠藤著の典拠
成
藤周作文学館所蔵蔵書目録』
( 平成 年 月 日、同文学館、以下、
『平
年度
蔵書 目録Ⅰ』(平成 年 月 日、長崎市遠藤周作文 学館、以下 、『目録
遠藤の旧蔵書
869
「学者たちのマタイ福音書の写本の研究によって」( 頁)のよ
o
20
20
「無力」なイエス像形象のた
めの選択
タ ウ フ ァ ー『 イ エス
り方
はじめに
管 原
― 遠 藤 周 作 『 イ エ ス の 生 涯 』 にお け る E ・ シ ュ
そ の 人 と 歴 史 』 の 引 用の あ
―
一
年春季号~ 年
6
遠藤周作『イ エスの生 涯』(昭 和 年 月 日、新潮社 、以下、遠
藤著と略記、初出は「聖書物語」、
「波」昭和
48
社)には、種々の形 での 典拠が示されている 。例えば「ルナン
24
15
の『イ エス伝 』」( 頁)のよう に 正確に、或いはC・H・ドッ
20 2
48
20
20
10
43
ドを「G・H・トッド」( 頁)のように不正確に、また或いは
31
12
40
19
月
その人と歴史 』(昭和 年 月 日初版・昭和 年 月 日第
25
2
25
箇所にも及ぶ
わけではないこと、或いは書込みを施していても、遠藤著に活
ことや、遠藤著は書込みを施している箇所だけを引用している
るシュタ ウフ ァー著への書込み箇所の総 数が約
確定している。その他、パソコン写真データからは、遠藤によ
版 、 日 本 基督 教 団 出 版部 、以 下 、シ ュタ ウフ ァー 著と 略記)が 典 拠 だと
エス
2
える」(以上、 頁)こと、(二)「『イエスの生涯』には、悲しげ
にも『イエス―その人と歴史―』を踏襲していることがうかが
、 時間 的 経 過 の み な ら ず 、 そ の 根 拠
と 歴 史 ― 』 と 一 致 し (中 略)
、
日 、 日本 基 督 教 団 出 版 部 )が 典 拠 だと 確 定 で き て い る 。 他
、
111
年
、
として各所に示されている聖書の対応章節やイエスの言葉など
、
頁につい ては、目録とパソ
箇所、即ち
50
コン写真データから、E・シュタウファー、高柳伊三郎訳『イ
の
98
37
遠藤著における典拠に遡った論はまだ少ない状況であり、シ
な表情をうかべるイエスの姿が随所に描写されて」おり、その
ことは、偶然の一致と見るべきであ」(以上、 ― 頁)ること、
イエス像が「シュタウファーの抱いたイメージと共通している
(四)「シュタウファーが
を強調して描いている」( 頁)こと、
(三)「遠藤はシュタウファーよりもさらにイエスの〈孤独〉
53
46
かしていない場合があることなども確認できている。
52
10
20
月
日 、 高 知大 学 国 語 国 文 学 会 、
―
らも、基本的にはたくさんの奇跡を行い、権威あるイエス像を
イエス像の一面としてイエスの無力さということを示唆しなが
主張しているのに対し、遠藤は奇跡や権威あるイエスの姿を一
―
年
月
日 、 至文 堂 、
―
頁)を発 表し ている。イエス
挑発 する 作
れる」(同頁)こと、以上である。天羽は、右の論の発表後、天
タウファーには見られぬものであり、遠藤独自の発展と考えら
エスである、といったような『イエスの生涯』の主張は、シュ
年
切排し 、〈無力 さ〉にこだわっている。無力であるがゆえにイ
号 、平成
頁)が詳 論と し てある 。 この 天羽の 論にお いては、以 下の
(「高知大国文」第
家』平成
羽美代子「イエス像の変革 」(柘 植光彦編『 遠藤周作
日第
版、天主
7
点に着目させられる。即ち、
(一)「遠藤は『イエスの生涯』を
像に関するシュタウファー著の遠藤著への影響について、前者
月
5
ウファーの『イエス―その人と歴史―』から借りたということ
日初版・昭和 年
2
書くにあたって、編年史にこだわり、その際の枠組みをシュタ
天羽が指摘するように、遠藤著のイエスはシュタウファー著
の論の方が詳しいが、二つの論の主旨は同様である。
月
6
ができる」こと 、つまり 「『イエスの生涯』は、ヨハネ福音書
156
が記 述 するイ エ スと 異 なり 、 奇 蹟を 行 え ない (シ ュタウフ ァー著
年
7
スがヨルダン川で受洗してから刑死するまでの期間を四年半と
146
13
は「奇跡」の記である が、遠藤著は、目録 、『目録Ⅰ』に記載のある、エ・
ラゲ訳『新約聖書』明治
43
の流れに即してイエスの一生の流れを設定していること、イエ
1
20
していること、さらに聖書には記されていない年号を作中で記
10
12
している数ヶ所において、シュタウファーの『イエス―その人
20
16
作『イエスの生涯』における〈イエス像〉造形過程の一考察―
4
49
4
35
シュタウファー『イエス―その人と歴史―』の影響について―」
ュタウファーの典拠に遡った論に限ると、天羽美代子「遠藤周
54
42
80
51
5 12
58
―
遠 藤著 と シ ュ タ ウ ファ ー著
の違い
二
―
公教會出版の記述と同じ「奇蹟」の記であるため、シュタウファー著に関す
。また、遠藤著は確かに、多くの箇所において、シュタ
管原)
イエ ス像 、テ ー マ や基 本姿 勢
は二十年間一貫して、すでに『傾向的』である福音書内の資料
シュタウファー著は、訳者高柳伊三郎が、「シュタウファー
マや著者の基本的姿勢の違いである。
二書において着目したい点は、イエス像の違い、著書のテー
る場合には「奇跡」を、一方、遠藤著に関する場合には「奇蹟」を使用・注
ウファー著を枠組みとして活用しているが、有名な「宮きよめ」
た出 来事の記述には相違が見られる 。「宮きよめ」の年代につ
のみから十九世紀的意味でのイエス伝を書くことは不可能であ
や弟子派遣の年代などのイエスの年代記や、イエスを中心とし
ではなく、共観福音書を基としているのである。更には、天羽
いては、遠藤著はシュタウファー著とは異なり、ヨハネ福音書
フ ァー教 授
頁)と評す
い こ と を 知 っ て い る 」( 頁 、 傍 点 シ ュ タ ウ フ ァ ー )と し て 、 シ ュ
ュタウファー著を枠組みとしてどのように活用し、また、遠藤
どのように引用したり活用したりしているか、即ち、遠藤はシ
釈では 、
キリスト者とユダヤ人ではたいへん食いちがっている」
タウファー著の 目指 す方向 性を示している。また、「事実の解
「 キ リ ス ト教 の 福 音 書 の ほ か に 、 ユ ダ ヤ 人 の イ
頁)ために、
(
20
のイエス像にふさわしい記述になるよう、シュタウファー著の
そこで、本論では、遠藤著はシュタウファー著を典拠として、
うな具体性や、精神の分析や、説得力をもって試みようとする。
は、イエスの内的・外的生活の発達心理学的描写を、小説のよ
、記
、であった。それ
るように、「十九 世紀の 理想は、イ エスの伝
その『人』と『神学』」、シュタウファー著、
ることを認めている。ここに様式史的研究の成果が彼に与えた
日、遠藤周作学会事務
―
が 力 説 す る イ エ ス の 外 貌 に つ い て の 共 通 性 は 認 め ら れ な い (イ
月
その人と
(中略)直接的な影響をみてよいであろう」(高柳伊三郎「シュタウ
年
力』―遠藤周作『イエスの生涯』とE・シュタウファー『イエス
エスの年代記の比較、及びイエスの外貌については、拙論「奇跡という『無
歴史』―」、
「遠藤周作研究」第三号、平成
282
著 は と も に 、 イ エ ス の 受 洗 か ら 刑 死 ま で の 期 間 を 「 四年 半 」 で
。因みに、遠藤著とシュタウファー
頁を 参照 されたい )
10
しかし、はたしてこの理想が妥当であったかどうかは問題であ
―
9
る。だがとにかく今日では、われわれはその理想は達成できな
局、
22
タウファー著は、共通点も有するが、相違点も有する。
27
はなく、約四年二か月としている。このように、遠藤著とシュ
14
記述をどのように選択したり変更したりしているかについて、
がら、イエスの奇跡は「歴史 的事実 である」( 頁)こと 、「わ
エスに関する報道をも、系統的にじゅうぶん利用」( 頁)しな
過程について明らかにしたい。
具体的に示し、遠藤が「無力」なイエス像を形象していった一
2
3
1
スの自己証言である」( 頁)ことを主張する。シュタウファー
たしはそれである」という神顕現の定式文が「最も大胆なイエ
269
著は随所に反キリスト教的なユダヤ側の証言を根拠の一つとし
かと疑問にも思うが、遠藤著においては、イエスだけがそのよ
る」ような愛の行為に及ぶ人間は、現実に存在するのではない
うな愛の行為を為し得るとしている。
て、シュタウファー著が最も重視する奇跡や神顕現の定式文を
証明する。そして、シュタウファー著のイエス像を逞しく威厳
と、遠藤著がシュタウファー著を引用しても、文脈が異なる場
以上のように、テーマや執筆の前提となる基本姿勢が異なる
それに対して、遠藤著はシュタウファー著のような反キリス
に満ちた存在としている。
パソコン写真データによって確認できた書込み箇所や書込み内
合が多いのではないかということが、まず推測される。事実、
容 な ど が 遠 藤 著 に 活 か さ れ て い る と 確 認 でき る 箇 所 であ っ て
ト教的なユダヤ側の証言を利用することを基本的姿勢としては
ルトマンやボルンカムなども取り上げることによって、シュタ
も、文脈を比較すると、異なっている箇所は少なくない。つま
おらず、また、十九世紀的イエス伝の著者ではないとされるブ
ウファー著と同様、十九世紀的ではないイエス伝を目指してい
異なるなどの場合が多々あるのである。例えば、後の章「五」
り、語句自体の意味は同じであっても、その語句を含む文脈が
に詳述するように、イエス時代の「大工の多くは巡回労働者だ
ると考えられるものの、シュタウファー著が回避しようとした
は成立し得ないほどの重要さである。更に、遠藤著は奇蹟を行
っ た 」( 遠 藤 著 、 頁 )と い う イ エ ス 時 代 の 生 活 の 様 に つ い て 、
イエスやユダなど、人物の内面描写は、それがなくては遠藤著
えない「無力」なイエスが無類の愛の神であるということを、
種々の典拠を利用しながら立証していくことをテーマとし、復
を基に記述していると分かる箇所においても、そうである。イ
パソコン写真データから、明らかに遠藤著がシュタウファー著
た。(中略)そして彼等はイエスが自分たちのそばにまだい
自分たちの卑劣な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛
けるその語句の果たす役割が変化し、二書の文脈が異なったも
の文脈の中に置いて、その語句を捉えようとすると、文脈にお
自体の意味は変わらないのであるが、その語句をひとまとまり
家族や友人同 士、恋人同士などにおいては、「自分たちの卑
過程を知ることができる。以下には、二書の比較のあり様から、
はない、遠藤著に特徴的な「無力」なイエス像形象のための一
要な作業であり、また、その作業により、シュタウファー著に
したがって、二書を比較し、その文脈を確認することは、重
のになるという場合が多く見られるのである。
もいつも横にいる気持と同じような心理である。( 頁)
るかの如き感じがした。子供にとって失った母がその死後
をもってそれに応えることは人間のできることではなかっ
エス時代の「大工」が「巡回労働者」であるという、その語句
活をめぐる終末部において、次のように記述するに至る。
12
劣な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応え
248
ための一過程について、具体的に示していく。
四種類に分類して、前章「一」に記した目的、即ちシュタウフ
的な、自己証言も語っていないのである』とシュタウファーは
も同じことがいえる。つまり語録史料はイエスのどんなメシヤ
子、イスラエルの王、ユダヤ人の王という意味の称号について
という結論に至らせる』」( 頁)
。
書いている。②『語録史料はイエスがメシヤと自称しなかった
と判断 できる 箇所を、二書 それぞれから引用し 、《例1》に示
引用された語句の形や意味が同じであり、また文脈も同じだ
証言 も 知 らな いのである 。しかし語 録史 料は、キ リスト教 最古
える。簡単にいえば、語録史料はイエスのどんなメシヤ的自己
の王という、同じような意義の称号についても、同じことがい
いということである。ダビデの子、イスラエルの王、ユダヤ人
語句の形や
・シュタウファー著=「①第一の、根本的で確実な事実は、
す。例文には、以下の通り、記号を付す。二書において、一致
メシヤという概念が語録史料(Q)にはまったく見いだされな
する部分には点線を、相違する部分には波線を傍線として付す
のイエスに関する記録であるだけでなく、同時に、もっぱらイ
―
シュタ ウファー著からの引用 のあり方(一)
ァー著の遠藤 著への引用のあり方 、「無力」なイエス像形象の
三
―
が、取り上げる例文の内容により、単語や語句単位で一致する
ではない)を提供しようとする、原始教会唯一の書である。そ
エスの言葉(イエスに対しての、またはイエスについての言葉
的な意義をもち、イエス自身はメシヤと自称しなかったという
れだから、②語録史料の証言は、われわれの問題にとって根本
一致するかそうでないかを示す部分、或いはそれらを複合させ
て示す部分などがある。傍線の始まりには①、②、……と番号
結論に至らせるものである。
」( ― 頁)
221
が複数回に及 ぶ場合など がある。以上は、《例2》~《例4》
じ表現形式を踏襲し、文脈も同じだと言える。細かな点におい
う概念が語録史料(聖書より前にできたイエスの言葉を集めた
・遠藤著=「①『第一の根本的で確実な事実は、メシヤとい
表現が異なっているが、文脈に影響する記述の違いではない。
「知らない」(シュタウファー著)というように、
藤著)に対して、
、
「語っていない」(遠
対して、
「簡単にいえば」(シュタウファー著)
「つまり」(遠藤著)に
著)というように、熟語が異なり、また、
史料)にはまったく見出されないということである。ダビデの
《例1》
て 、① 中の 「 意 味 」( 遠藤 著 )に 対し て 、「 意 義」(シュタウフ ァー
《例1》については、シュタウファー著の語句や文など、同
220
についても、同じである。
シュタウファー著の方は、番号順になっていない場合や、番号
は遠藤著を基準とし、シュタウファー著はそれに準じるため、
を付すが、番号を見やすくするため、文中に記す。番号の順序
かそうでないかを示す部分や単語や語句単位ではなく、内容で
意味、及び文脈が変化していない例
98
更に、遠藤著は所謂Q史料を言い換えているが、この変化も文
々が救い主来臨という信仰伝統の基に、イエスをメシヤと見な
四
たしはそれである」というイエスの神顕現の定式文の記述箇所
ある。遠藤は、シュタウファー著が重視して記述している「わ
方によっ て 、
文脈に少しずれが生じていると考える例の一つを、
文脈が変化しているというほどではないが、引用や記述のし
ておらぬ以上我 々はそれを手さぐりで想像するより仕方がな
・遠藤著=「①聖書がイエスの顔についてほとんど何も語っ
《例2》
いては引用していない。シュタウファー著のイエス像は、この
い。シュタウファーによると②当時のユダヤ教は神の教えを説
の規定にはずれた者は人々から冷たくあしらわれ、批判される
く者は『背のたかい、身体強健なもの』と規定しており、③こ
だが、遠藤著は、それを全く引用したり活かしたりしていない。
らの一つである奇跡についても、
遠藤著は殆ど記述していない。
はイエスの外見について人人の侮蔑する記事が書かれていない
以上、当時のユダヤ人としては普通の身長を持っておられたの
習慣があったと書いている。もしこの説が本当なら、④聖書に
ち溢れたシュタウファー著のイエス像とは相容れないからだと
かもしれぬ。」( 頁)
。
みじめで「無力」な遠藤著のイエス像は、奇蹟を行い、人々か
考えることが可能である 。《例1》で取り上げたシュタウファ
ら崇拝され 、「わたしはそれ である」と自己証言する威厳に満
また、シュタウファー著が最も主張をし、記述もしている事が
定式文を最大の要素として、威厳に満ちた存在となっているの
は、遠藤著のイエス像と合わないシュタウファー著の内容につ
次の《例2》によって示す。
意味は変化していないが、文脈にずれが生じている例
シ ュ タ ウ フ ァ ー 著 か ら の 引 用 の あ り 方 ( 二―
)
語句の形や
―
例があ る ばかり で ある 。
したという箇所 (遠藤著 頁、シュタウファー著 頁)など、僅かな
著 を 中 略 し な が ら引 用 し て い る な ど の 違 い も あ る が 、 全 体 の 文
脈に影響するものではない。②では、遠藤著はシュタウファー
このように、引 用に変化が見られないのは、「無力」に象徴
脈 と し て 、 二 書 は一 致 す る 。
される遠藤著のイエス像と、メシヤと自称しないというシュタ
124
に書込みを施しても、遠藤著には活かしていないように、遠藤
ウファー著のイエス像が重なったためと推測することが可能で
88
《例1》のように、語句や文脈が変化していない例としては、
付ける資料の一つとして、引用されたのだと考える。
他のパレスチナのユダヤ人と本質的に異なるところはなかった
ことから結論してよいのは、イエスは、外面的にはその時代の
て人物描写をしているが、イエスについてはしていない。その
・シュタウファー著=「①④新約聖書は洗礼者ヨハネについ
三一年過越祭近いガリラヤ伝道のクライマックスにおいて、人
ー著の記述内容は、みじめで「無力」な遠藤著のイエス像を裏
10
認していることで確証される。③ラビたちは、正しいユダヤ人、
ということである。こういう結論は、ユダヤの反対者たちが黙
中の「幼いイエスの満足な成長に関するルカの記録と、しばし
脈に大きな違いはないと言える。更に、シュタウファー著の④
のユダヤ人の考え方について、同様の記述をしているので、文
このことで一致する」という記述は遠藤著にはないが、遠藤著
ば大急ぎで祭りの旅をしたイエスに関するヨハネの証言とは、
特に教師の外貌に対しては非常にはっきりした基準をもってお
スの姿や衣服については、古代ユダヤ人の攻撃は、少しも非難
り、この基準にそぐわないものを侮蔑し冷酷に批評した。イエ
根拠を聖書に求めているため、二書の記述内容は一致している
もシュタウファー著と同様、イエスの「身体的資格」を考える
部分がある。たとえば④中の「~のかもしれぬ」(遠藤著)に対
に異なるので、その違いが表現のし方に影響したと考えられる
しかし、先記したように、二書それぞれのイエス像は根本的
と見 てよい 。
に価するものを見いださなかった。ということは、もしイエス
人の像を素描しなければならない、そして、ばらばらの間接的
の外貌について知ろうとするなら、当時のパレスチナのユダヤ
な福音書の証拠から得られるわずかな個性的特徴を加えればよ
②ラビたちの信念によれば、神の臨在の反映は、ただ背の高
いということを意味している。
た」(シュタウファー著)という記述がそうである。遠藤著の記述
のし方は、弱くて悲しげで「無力」であるという遠藤著のイエ
、「~であ っ
して 、「明らかに~はず である 」(シュタウファー著 )
ス像を反映してか、或いはまた、聖書にイエスの容姿について
い強健な人間にだけありえた。④イエスは明らかにこういう身
スの外見に対して、攻撃をしないということはなかったはずで
の記述があまり ないためか 、「~の かもしれぬ」と、弱い表現
体的資格をもっていたはずである。でなければ、反対者がイエ
ば大急ぎで祭りの旅をしたイエスに関するヨハネの証言とは、
のし方である。逆に、シュタウファー著の記述のし方は、逞し
ある。幼いイエスの満足な成長に関するルカの記録と、しばし
このことで一致する。要するにイエスは、少なくともユダヤ人
くて威厳に満ちたイエス像を反映してか、或いはまた、シュタ
が黙認し ている こと で確証される」、④中に「でなければ、反
ダヤ側の証言がないとの自信からか、断定的である。遠藤著は、
ついての表現を、シュタウファー著の記述として引用し、遠藤
冒頭における文末表現からして既に、弱々しげな、また、悲し
ったはずである」との記述が見られること、即ち、駁論的なユ
対し て 、「背の 高い強 健 な 人間 」(シュタウフ ァー著)と 、同じと
対者がイエスの外見に対して、攻撃をしないということはなか
言ってよい表現形式によって記述し、また、教師に対する当時
著がイエスの容姿について想像している箇所である。イエスの
《例2》は、シュタウファー著に記述されたイエスの容姿に
95
身 長 や 体 つ き を 、「 背 の た か い 、 身 体 強 健 なも の 」(遠藤 著 )に
ウファー著の①④中に「こういう結論は、ユダヤの反対者たち
の標準的な大きさであった。」( ― 頁)
。
94
じていると言える。
イエス像や基本的姿勢が異なるために、文脈に僅かなずれが生
げなイエスに繋がるような記述にしている。つまり、二書では、
も、文脈に変化が見られる例である。
の形や意味が変化していない 場合の 例であるが、《例2》より
次の《例3》も、《例1》、《例2》と同様、引用された語句
おけるイエス像と二書における基本的姿勢や目的が異なるから
を見つけ出すのは、《例1》と同様、難しい。理由は、二書に
も②ガリラヤの大工の多くは巡回労働者だったから、彼も固定
家を建てるのではなく、むしろ細工師というべきもので、しか
その仕事を習われた。(中略)大工といってもその仕事は建物や
・遠藤著=「①養父ヨゼフは大工だったから、イエスもまた
《例3》
である。たとえば、「イエスは (中略)ヨハネ教団のなかで洗者
《 例 2 》 の よ う に 、文 脈 に僅 かな ず れ を 生 じ さ せ る 程 度 の 例
ヨハネの愛弟子」であったという遠藤著の記述 ( 頁)は、「イ
シュ タ ウファ ー著 の記述 ( 頁 )を踏まえ ている ものと 考える
ハネの弟 子たちにも明らかにヨハネの愛弟子であり 、」という
エスはヨハネのバプテスマを固守している間は、一般人にもヨ
か、生活の苦労、働く男女の汗の臭いをイエスが身にしみて知
を求めに応じて歩きながら仕事をされたのであろう。貧しさと
した店を持っておられたのではなく、③ナザレの町やその周り
42
が、その時期のイエスに、遠藤著は只管に「愛」を求める像を
っておられたことは、聖書に出てくる彼の譬話をよむとはっき
法 的敬 虔 」 さ に 徹 す る 像を 描 写 し てい る ( 頁)の で、 二書と
ても、根本的にイエス像が異なっているのである。つまり、語
もにイエスが洗者ヨハネの「愛弟子」であることを記述してい
てくるが、そうした人たちはナザレやその周辺の至る所にも住
ではなかった。聖書のなかには惨めな不具者や病人が次々と出
巡回労働者として彼が毎日みたのは生活の辛さや貧しさだけ
語句の形 や
く人に神は慰めを与えていない。」( ― 頁)
( 中 略 )貧 し き 者 に 神 は ま だ 天 国 を 与 え て は い な い 。 病 に泣
句の形や語句自体の意味は同じであっても、文脈においては明
まったりするような引用箇所は、少ないのである。
五
シ ュ タ ウ フ ァ ー 著 か ら の 引 用 の あ り 方 ( 三―
)
―
意味は変 化していないが、文脈が変 化している例
14
福音書は十二歳のイエスの宮もうでについて語る。この二つの
マタイによる福音書はエジプトへの避難について、ルカによる
紀元二七年まで)については、われわれはほとんど知らない。
・シュタウファー著=「イエスの初期時代(紀元前七年から
12
像が根本的に異なるため、文脈が一致したり、僅かなずれで収
んでいた。(中略)
101
らかな違いがあるのである。そのように、二書におけるイエス
(中略)
り感じられる。(中略)
102
描 写 する ( 頁)のに 対し て、シュ タウフ ァー 著は「律法と律
37
物語は、イエスに対する政治的脅威と、ヨセフの政治的事情へ
せたかということを記述するきっかけとしてはいない。遠藤著
工が巡回労働者であったことが、イエスの内面をどのようにさ
はシュタウファー著の記述を引用して、イエスがどのような生
記し、イエスが「母のような同伴者」へとなっていく伏線を敷
活を送っていたか、イエスの内面はどのようであったかなどを
父はけっして世を捨てた敬虔主義者ではなかった。(中略)
の警戒心を明らかにする、興味ある光を投じている。イエスの
マルコによる福音書六章三節から、われわれは①イエスがヨ
著、 頁)がある。この記述は、表現形式も語句自体の意味も、
ガ リ ラ ヤ 人 の グ ル ー プ が 結 成 さ れ は じ め た 」 と い う 箇 所 ( 遠藤
化が現われている例として、ヨハネ教団時代のイエスに「同郷
このように、語句の形や意味は変化していないが、文脈に変
いているのである。
セフの仕事を学んだことを知る。②パレスチナ・ユダヤ人の大
工は巡回労働者であった。このことは、ユダヤ教の伝承がいろ
いろ論争的に酷評している、③イエスのエジプトへの仕事の旅
と関係があるかもしれない。」( ― 頁)
《例3》では、①の部分は同じ、②の部分では「ガリラヤ」(遠
77
「パレスチナ・ユダヤ人」(シュタウファー著)な
藤著)に対して、
76
ウファー著がイエスの初期時代についてはよく分からないと書
ない。ただ、③の部分は、明らかに異なる記述である。シュタ
ど、一部異なる記述となっているが、文脈に影響するものでは
タウフ ァー著、
成を 、イ エスの 「目 だたな い出 発」と し て記述し て いる (シ ュ
っている。シュタウファー著は、右のガリラヤ人グループの結
シュタウファー著に書かれたものと同様であるが、文脈が異な
頁 )の に 対 し て 、 遠 藤著 は 、 イ エ ス が 頭 角 を あ
いているためか、遠藤著はシュタウファー著にはない記述を想
44
のみにある。遠藤著は、大工が巡回労働者であるならば、各地
をよく目にし、イエスの心を苦しくしたという記述は、遠藤著
ナザ レ を 中心 と し た 各 地 を めぐ って 、社会 的 弱者 や身体 的 弱者
像力を働かせて書いている。
イエスは巡回労働者であったから、
たから」という箇 所 (遠藤著、 頁)や、受難直前のエルサレム
への逃れの原因は「過越祭の日までは死ぬまいと決心されてい
文脈が変化していると言える。また、受難直前のイエスの北方
らわし始めた現象の一つとして記述して (遠藤著、同頁)おり、
100
を痛めたはずだと想像するのである。つまり、遠藤著はイエス
を巡回する際、イエスが様々な弱者とめぐり会い、その度に心
ュタウファー著、
(シュタウファー著、
藤著、 頁)なども、それぞれ「イエスは過越しに死のうとした」
行きのイエスの態度を「皆の先頭を歩いた」と記述する箇所(遠
、「イエスが先頭に立って行かれた」(シ
頁)
て、シュタウファー著から引用するとともに、社会的弱者や身
135
時代の生活形態を、語句の形や語句自体の意味はそのままにし
頁 )と あ り 、 語 句 の 形 や 語 句 自 体 の 意 味 は 同
149
として引用しているのである。だが、シュタウファー著は、大
体 的 弱 者 に 心を 痛 め る と い う 遠 藤 著 の イ エ ス 像 を 描 く き っ か け
ている。北方への逃れも、先頭に立ってエルサレムに向かうの
じだと言えるが、これらの語句が記された背景、文脈が異なっ
150
138
も、シュタウファー著はイエスが奇跡を行うことが要因だとす
るのに対して、遠藤著はイエスが奇蹟を行えないことが要因だ
(中略)
畔の小麦畠は黄ばむ季節になった。
このように、語句の形や語句自体の意味は同じであっても、
に彼に奇蹟を求めてきた者もあったが、その眼にはもう期待で
言いきった。住民たちのなかには湖畔の町々の人々と同じよう
イエスの説くことは神の使信ではなく、⑤悪霊の言葉だとさえ
監視員たちはナザレの町でもイエスに論争を挑んだ。彼等は
文脈が異なっている箇所は多い。理由は、先記したように、二
はなくただ好奇心と軽蔑の色があるだけだった。⑥奇蹟を行わ
とし ているの であ る 。
書におけるイエス像が根本的に異なり、また、遠藤著は、シュ
⑦聖書のところどころに書きちらされているこのナザレでの
四ノ二十九)。
の断崖に連れていき、投げ落そうとさえしたのである(ルカ、
ぬイエスを見て、怒りにかられた彼等は彼を町の南にある岩山
―
語句の形は
タウファー著とは異なり、母の愛に満ちたイエスを強く主張す
シュタ ウファー著からの引用 のあり方(四 )
―
ることを目的としているためである。
六
酷似しているが、語句の意味、及び文脈が変化している例
味、及び文脈が変化している例である。長い引用となるが、語
『狐にも穴がある。空の鳥にも巣がある。しかし人の子には枕
らも反感と敵意をもって見られたイエスの口から、
れたかが 摑めるのである。⑨身内からも、かつての知り合いか
を去ったイエスがいかに⑧悪化した空気のなかで人々に迎えら
不吉な出来事をつづり合わせてみると、我々にはガリラヤ湖畔
句の意味、及び文脈がどのように変化しているかを確認し、ま
次に示す《例4》は、語句の形は酷似しているが、語句の意
た、それにも関わらず、いかに文章構成は酷似しているかを確
するところもない』
(ルカ、九ノ五十八)
という悲しみの言葉が洩れるのを聞くが、それは我々に訴え
認するためには必要な量である。
る切実な響きをもっている。(中略)
『この後は弟子たち多く退きて、もはやイエスと共に歩まざり
・遠藤著=「(前略)あれほどイエスをとり囲んだガリラヤの
《例4》
群衆たちは①急速に熱狂的な興奮からさめつつあった。②イエ
き』
き従うのはおそらく少数の者たちだけだったのかもしれぬ。イ
崩壊はおそらくこの時期に前後するものであろう。今、彼につ
ヨハネ福音書六章六十六節のみが記録しているこの弟子団の
スは今や、彼等の眼には『期待はずれの預言者』としてうつり
うイエスの新しいイメージが監視員たちの工作で少しずつ人々
はじめ ていた。③『無力な男 』『結局はなにもできぬ男』とい
の心に植えつけられていた。そして④夏はやがて秋に移り、湖
エスは彼等に向って、
けたことはマルコ福音書にかすかに記載されているようだが、
き家もない旅 であ ったのだろう 。」( ― 頁、⑪は二 箇所に付して
びの声はなく、時にはふり続く秋の雨に濡れ、時には泊まるべ
た。群衆はもう彼等をとり囲まず、町や村でも一行を迎える悦
ウフ ァーがのべ ているよ うにか つての華やかさはもうなかっ
その旅には『⑬彼等はまるで逃げているようだった』とシュタ
と悲しげに問うたとヨハネ福音書は書いている。
⑩『 汝 等 も去 らんと 欲 するか』
『 結 局 は 何も
(中略)イエスは彼等にとっても『無力なる男』
できぬ男』にうつってしまったのである。
( 中 略 )し か し 彼 等 は な ぜ か こ の 無 力 な師 を 棄 て ら れ な か っ
たのである。(中略)今人々から見棄てられ、孤独で一人ぽっち
無力にみえればみえるほどこの人を見棄てれば、そのあと、ど
のガリラヤ伝 道の 絶頂 点である(ヨハネ六・一四以下)。だが
こで議会の新しい派遣団がガリラヤに現われた。そこでいっそ
スは過越しの祭りにはエルサレムに現われなかった。(中略)そ
う強化された反対扇動が現われた。人々はこの神をけがす者に
①たちま ち、局面は急転 回する(ヨハネ六・六〇以 下)。イエ
(中略)
そらくこの時期の記憶が聖書作家たちの語り部だった生存弟子
れたようである。⑫彼等が旅した地名もさだかではないのはお
ンの地方(マルコ、七ノ二十四、三十一)に流浪の旅を続けら
彼はそれを拒み、そのことでそそのかしたという責任を問われ
突が起こった。イエスは彼らを戒めるべきであった。ところが
②その頃、弟子たちが安息日に麦の穂をつみとったことから衝
いた(ヨハネ六・五九)。④ 四月には小麦畑は黄ばんでくる。
イエスは、しばらくの間はなお、カペナウム地方に滞留して
のろいを叫ぶのである。
たちにとって、悲しい思い出だったからであろう。イエスの内
人に知られざるこのイエス一行の放浪がどのくらい続いたの
二〇 )(中 略)
。 ③ す で に エ ル サレ ム の 律 法 学者 たちは 、イ エ ス
ルサレムからさえも、彼のもとに駆せ参じた(マルコ三・七、
なしてカペナウムから、ガリラヤやパレスチナの全土から、エ
イエスは背教の説教者である。しかも民衆は、いつも群れを
る。(中略)
かはわからない。⑪彼等が南部ガリラヤやツロやシドンを経て
ママ
ふたたび湖畔に戻り、更に北のトランス・ヨルダンを歩きつづ
(マルコ、七ノ三十六、八ノ二十六)。(中略)
ス自身も人々に自分が知られるのを避けておられたからである
面の苦闘は弟子たちにも理解しがたかったものだろうし、イエ
ところ』もなく南部ガリラヤ(ルカ、七ノ十一)やツロとシド
とまれ、⑪この年の秋、イエスと彼等とは文字通り『枕する
感じていたのかもしれぬ。
・シュタウファー著=「紀元三一年の過越しの時は、イエス
いるが、同じ内容なので、同一番号にしている・注管原)
111
んなに言いようのない悔いと寂しさが残るかを彼等は無意識に
のイエスからどうしても離れることはできなかった。イエスが
101
ナザレの南方には、メギドの平野の上に《墜落の岩》といわれ
力さ》に対する軽蔑は、きわめてユダヤ的なものである。
(中略)
る有名な絶壁があった。(中略)人々はそこでイエスをつきおと
の奇跡活動を現場で調べるためにカペナウムにやって来ていた
は事実である。同じように背教の説教も事実である。だから彼
章 一 節 以 下 と ル カ に よ る 福 音 書 四 章 一 六 節以 下 の 伝 承の 断 片
そうとはかったのである。要するに、⑦マルコによる福音書六
(マル コ三・二二以下 )。彼らの見解では、イエスの悪霊放逐
⑧状況は、イエスにとって、彼の親族や弟子たちにとって、
は、⑧危険の多かった後期ガリラヤ時代を写したスナップ写真
はにせ予言者であり、彼の奇跡は⑤悪霊の奇跡である。(中略)
また彼に忠実であろうとするすべての人々にとって、まったく
に、時には南部ガリラヤに(ルカ七・一一以下)、時にはツロ
このようにして⑪われわれは、イエスをこの夏の月日のうち
のようなものである。
を救 おう と いう絶 望 的な 考 え を持つに至った(マ ル コ三・二
湖畔やトランスヨルダンに(マ ルコ七・三一、八・二二)、見
とシ ドンの地方に(マル コ七・二四、三一)、時にはふたたび
任能力のないものと宣言して、イエスと同時に親族や友人全体
⑧恐るべきものであった。そこで⑨イエスの母は、イエスを責
一)。しかし ながら、この好意的な、くりかえされた救助の試
いだすのである。⑫彼はそこでふたりの病人をいやしたが、い
みも 、すべて、失敗に帰し てしまう(マルコ三・三一以下)。
カペナウムの町は、この法律の保護外におかれた人間から大挙
三六、八・二六)。彼はけっして人に知られようとしなかった。
⑬彼はまるで逃げているようであった。⑨《きつねには穴があ
つもそのいやしについて語ることを彼らに禁じた(マルコ七・
り、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所が
の 離 反の 運 動 はイ エ スの弟 子団 の 中ま でも 深く 侵 入してく る
イ一一・二三以 下参 照)。イ エスに忠実でありつづける弟子だ
(ヨハネ六・六六以下)。イエスはカペナウムを去った(マタ
ない 》
と、
イエスはルカによる福音書九章五八節に語っている。
」
して離反することによって、みずからを救ったのである。⑩こ
けが彼のもとに留まる。(中略)③エルサレムからの派遣員の扇
( ―
。
頁)
動が、この場合ほど成功したことは他になかった。イエスは不
貞の私生児と罵倒され、自分を救うことのできない恥さらしの
に書きちらされているこのナザレでの不吉な出来事をつづり合
していると言ってよい。たとえば、⑦の「聖書のところどころ
聖書の箇所を記述する⑥、⑦、⑨~⑫について、二書は一致
( 中 略 )彼 は 不 名 誉 な 逃 亡 に よ っ て し か 自 分 を救 う こ と が で
「マ ル コ に よ る 福 音 書 六 章 一 節 以 下と ル カ
(遠藤 著)に対し て 、
悪化した空気のなかで人々に迎えられたかが 摑めるのである」
わせてみると、我々にはガリラヤ湖畔を去ったイエスがいかに
きなかった( ルカ 四・三〇 )。⑥奇跡を行なう者としての《無
れ去った(⑥ルカ四・二九)。
魔術師と侮辱される(ルカ四・二三)。間一髪、かろうじてイ
129
エスは、にせ予言者に石を投げようとする熱狂者たちから逃が
125
による福音書四章一六節以下の伝承の断片は、危険の多かった
に曰ひけるは狐は穴あり、空の鳥は巣あり、然れど人の子は枕
っている。先記し たエ・ラゲ訳『新約聖書』は 、「イエズヽ之
「悲しみ」、「悲しげ」という描写を遠藤著が行うことにも繋が
す る 處 な し 、 と 。」(ル カ九 ・五 八)の 記 、「 イ エ ズ ヽ 十 二 人 に 向
( シ ュ タ ウ フ ァ ー 著 )と い う よ う に 、 取 り 上 げ る 聖 書 の 記 述 の し
ひ 、汝 等も去 らんと欲 する か、と曰ひ しに 、」(ヨハネ六・六八)
後期ガリラヤ時代を写したスナップ写真のようなものである」
ていると見てよい。なぜなら、遠藤著は、シュタウファー著の
の記 であり、「悲しみ」、「悲しげ」という言葉の記述をしてい
方が異なっていても、二書が基としている聖書の箇所は一致し
詳しい記述を簡略化して引用している場合があるからである。
な い ( エ ・ ラ ゲ 訳 『 新 約 聖 書 』 か ら の 引 用 は 、 漢 字 表 記 にお いて 、で き る
著が多用する「棄てる」の漢字表記部分は、エ・ラゲ訳『新約聖書』による
う記述は、パソコン写真データから、明らかにシュタウファー
著によるものと考えられ、そのシュタウファー著は、イエス受
。遠藤著 刊行 時、既 に刊行 さ れ てい た山谷省
ため で あ る ・注 管 原 )
日 、 日 本 基 督 教 団 出 版部 、以 下 、『 増 新
れているが、シュタウファー著のイエスは奇蹟を行えることを
ている。遠藤著のイエスは奇蹟を行えないことを要因として逃
下 、『 新 共 同
解』(平成 年 月 日初版・同年 月 日再版、日本基督教団出版局、以
新約聖書略
略 解 』 と 略 記 )や 、
新約聖書略解』(昭和
ものと考えられるなど、遠藤による記述の根拠を探る上で重要だと判断する
頁)が、遠藤著は「聖書によると 」(同頁)と記述する
月
吾、高柳伊三郎、小川治郎編『増訂新版
ほかに、ヨハネ福音書と共観福音書とを比較して決定している
範囲内でではあるが、そのままの表記としている。理由として、例えば遠藤
例 え ば 、 イ エ ス 受 洗 は 「 二 八 年 の 二 月 頃 」( 遠藤 著 、 頁 )と い
30
、「ルカ三・一以下」などの
洗の年代を「マルコ一・九」( 頁)
(以 上 、
年
1
遠藤著刊行後の発行である山内眞監修『新共同訳
3
100
だが、聖書の同じ箇所を引いていても、二書の文脈は異なっ
のみなのである 。
40
32
3
20
10
1
要因として逃れているからである。したがって、⑫中の、イエ
ていない。
「ルカ九・五八」については、「地上でのイエスの生
、「 イ エ ス は 狐 や 鳥 で す ら ね ぐら を も つ が、 お
頁)
版
活 そ のも の が 労 苦 に 満 ち た も の であ っ た こと を示 す 」(『増訂 新
頁)と解
人・注 管原 )の 志願 を取 り 合 わ な い 」(『新共 同
の れ が枕 する と こ ろ の な い 旅 人 であ る こ と を 告 げ 、 彼 ( 第一 の
194
共同
弟 子 》 に 覚 悟 を き か れ た 」(『 増 新 略解 』、 頁 )と 解 説 し 、『 新
説している。
「ヨハネ六・六八」については、「イエスは《十二
略解 』、
タウファー著の記述はない。また、イエスの「いやし」とその
このような遠藤著の特徴は、⑨、⑩のように、聖書にはない
異なる 。
略解』 に解 説はない。つまり 、『略解』においても、遠
282
述せず、イエスが人に知られまいとしたという文脈が二書では
口止めについて、シュタウファー著は記述するが、遠藤著は記
略 解 』、
地名の記述すらないのだろうという遠藤著の想像に値するシュ
スたちの逃れが「悲しい思い出」だから、聖書作家たちによる
略 解 』 と 略 記 )も 、 イ エ ス の 「 悲 し み 」 と は 記 述し
12
206
様の場合でも、その季節そのものは一致していない。遠藤著は
「小麦畠」が「黄ばむ季節」を秋としているが、シュタウファ
は黄ばんでくる」(シュタウファー著)など、季節を表す語句が同
ー著は四月から夏にかけてとしているのである。イエス時代の
藤著のイエス像のような悲しみのイエスは明記されていないの
遠藤著からの引用文に記した④以外の部分は、すべて遠藤著
ツロやシドンに、日本の秋雨に相当する気象状況があったかど
である。
即ち「無力」であることが原因で、⑧のように、イエスが「悪
い秋雨に濡れそぼるみじめなイエス一行をイメージするのでは
うか分からないが、日本の季節や気象状況を知る読者は、冷た
のイエスが奇蹟を行えず、人々の求めるメシヤでなかったこと、
化した空気のなか」に追い込まれたとしている。悪化した状況
力な男」イエスを記述するのに、ふさわしい季節に変わってい
このように、二書のイエス像が異なるので、⑬においても異
ないかと推測することが可能である。遠藤著は、みじめで「無
.
に奇蹟を行えないから、⑤のように、イエスは「悪霊」の「言
.」(傍点管原)しか吐けないの である 。しかし 、シュタウファ
葉
る。
は身内からの敵視ともなって現われている。そして、そのよう
ー著からの引用文に記した④以外の部分は、シュタウファー著
のイエスが、律法が定める安息日についても敢然とした態度を
べきもの」、
「危険の多かった」ものになったとしている。また、
ある。シュタウファー著のように「彼」とすると、イエスのみ
「彼」となっているのに、遠藤著は「彼等」となっているので
なって記述されているのである。つまり、シュタウファー著は
ことが明記されているのだが、シュタウファー著の文言とは異
イエスに対する身内の態度については、シュタウファー著は遠
なるのである。ここは、シュタウファーの書からの典拠である
藤著と異なり 、「好意的」とし ている。そして、シュタウファ
が逃げていることを示すことになるが、遠藤著のように「彼等」
とったことをきっかけとして、また、イエスは奇跡を行うこと
ー著においては、イエスは奇跡を行うことができるので、⑤の
「彼」と「彼 等」。大差なく見えるかもし れないが、文脈に照
と する と 、イ エ ス 一行 が 逃げ て いる こと を示 すことになる 。
を原因として、⑧のように、イエスの周囲の「状況」が「恐る
.跡
.」(傍点管原)と呪われている。例えば
ように、「悪霊」の「奇
らすと、その差は明瞭である。シュタウファー著は、唯イエス
⑧の 「悪 化し た 空気 の な か 」( 遠藤 著 )
、「状況は 」「恐る べ きも
の」(シュタウファー著)
、「危険の多かった」(シュタウファー著)な
なって、イエスは追われる身となっているのであるが、遠藤著
のみが奇跡を行えるのであり、また、そうであることが要因と
って追われる身となっている。だから、シュタウファー著は「彼
は、イエスが奇蹟を行えず、また、そうであることが要因とな
エスの周囲の状況が悪化している原因は全く異なるのである。
他の異なる部分としては、④、⑪の部分がある。たとえば、
どのように、用いられる語句自体の意味は同様であっても、イ
「 小 麦 畠 は 黄 ば む 季 節 に な っ た 」( 遠藤 著 )に 対し て 、「小 麦 畑
構成などが非常に似ているのである。その結果、全体的な文章
とまとまりにして比較すると、言葉の使い方や枠としての文章
の流れにも共通性が見られるのであり、遠藤は、シュタウファ
等」 ではなく 、「彼」なの である。しかも、シュタウファー著
いる。遠藤著は秋雨と相俟って、奇蹟を行えないがために、み
像したくなるほどなのである。だが、先記した通り、二書にお
ー著を常に手元に置いて、遠藤著を記述したのではないかと想
は逃げているようであっても、その途上で「いやし」も行って
ファー著は奇跡を行えずに「かつての華やかさ」をなくしたイ
いてはテーマや基本的姿勢が異なるので、
イ エス像はもとより 、
じめで人目を憚って逃げ延びる様で記述しているが、シュタウ
エス 一行など、記 述しては いな い。
4》で引用した文章全体における書込み箇所の比率を確認する
記述の細かな相違 も散見する結果と なっている。試みに 、《例
行でしかなく、
この《例4》については、全体の文脈がまったく異なってい
行に亘る引用文の内、書込み箇所は約
ること、しかしそれにもかかわらず、語句の用い方や文章構成
と、約
しかも、その約
は極めて酷似していること、つまり、シュタウファー著の文章
とを原因とし た文 脈で活 かされた行の 総数は 、
( ゼ ロ )であ
行のうち、遠藤著に、イエスが奇跡を行うこ
ァー 著 から得 た語 句を用 い なが ら、遠藤著の文 脈 を嵌め 込 んで
《例1》~《例4》のまとめ
―
構成を文脈としてではなく形として利用し、そこにシュタウフ
―
おわり に
より、遠藤著がどのようにシュタウファー著を引用したり、活
パンと魚の奇蹟、カナの婚宴での奇蹟などについて記述してい
のである。奇蹟に関して言えば、遠藤著は、主たる奇蹟である
ファー著が強調する事柄に関しても、遠藤著は記述していない
に関して言えば、
シュタウファー著がヨハネ福音書に着目して、
る姿勢を認めることができる。更に、イエスの神顕現の定式文
な解釈も付け加え、また、他の奇蹟については、記述を回避す
して、引用したり、活用したりしていると指摘することが可能
、た
、し
、が
、そ
、れ
、で
、あ
、る
、』」
『わ
イエスは「サマリヤで初めて、(中略)
るが、単純に奇蹟のみを記すというものではなく、より現実的
である。二書を比較すると、イエスの年代記に処々異なる点が
エスを描出することを目的とし、シュタウファー著から遠藤著
見られるものの、イエスやイエスの周囲に起こった出来事をひ
に活かせる資料を選別して、または表現を変えるなど工夫を施
明らかにする こと ができたと 考える。遠藤著は、「無力」なイ
そのように、イエス像やテーマなどが異なるので、シュタウ
ことが可能である。
タウファー著をそのままの文脈では引用していないのだと言う
込みを施し、また、形式としての文章構成を利用しても、シュ
0
9
用したりしているかについて、一部ではあるが、具体的に示し、
《例1》~《例4》に示した具体例とそれに基づいた考察に
七
る。つまり、イエス像、テーマや基本的姿勢が異なるため、書
9
いることを指摘できるのである。
40
と「自己証言」したとする ( 頁、傍点シュタウファー)のに対し
内容を選択したりするなどして、引用や活用を行っていると指
ことを目的として、シュタウファー著の表現を変えてみたり、
遠藤著は、一貫し て、「無力」なイエスを求め、それを描く
摘できる。また、遠藤著は、裏切りさえも赦し愛するという母
37
《例4》に引 用し た遠藤 著の 記述、即ち「『この後は弟子たち
である」という発言は、認められないと言うのである。しかし、
たったイエス像を、シュタウファー著を大いに活用しながら、
れ、裏切られるという構成にし、シュタウファー著とは遠く隔
の男」( 頁)と貶めるほどまでに表現し、また、皆から軽蔑さ
この時期に前後 するものであろう」( ― 頁)と いう、多くの
六章六十六節のみが記録しているこの弟子団の崩壊はおそらく
多く退きて、もはやイエスと共に歩まざりき』/ヨハネ福音書
なる神イエスを描くために、イエスを「現実に無能な役たたず
日、 頁)としている。遠
分が他の福音書では全く記述されていないからである」(以上、
年
月
て、遠藤は「同意しかねる」とし、その「最大の理由はこの部
「聖書物語」
(その十)、
「波」昭 和
1
藤は、ヨハネ福音書にしか記述のないイエスの「わたしはそれ
3
107
45
104
また、資料を活用することをご許可いただいた。記して、御礼を申し上げる。
本論執筆にあたり、長崎市遠藤周作文学館には、資料をご提供いただき、
活用したり引用したりしないのだと指摘することが可能なので
ある。
(八 女学院高等学校非常勤講師)
著は 、
遠藤著のイエス像に合わないシュタウファー著の記述は、
【付記 】
形象したのであ る 。
219
音書にしか記述がなくても、認めている。このことから、遠藤
弟子たちがイエスから離れていったことについては、ヨハネ福
103
◎書評
金成妍著
―
『 越境 する 文学
朝鮮児童
文学の生成と日本児童文学者
による口演童話活動』
な る ほ ど 、巌 谷 小 波や 久 留島 武 彦 、 大 井冷 光 ら の 朝 鮮 ( 旧満
『京城日報』紙掲載の児童文 芸物
洲 )行 の 日 程 詳 細 に 始 ま り 、
や京城日報社主宰の「お伽講演会」実施の一覧表、巻末の「日
・
などの諸資料は膨大かつ詳細で圧倒される。また、副題に記さ
本 人に よ る 朝 鮮 口演 年譜 」 に い たる ま で 、本 書 所載 の 表 年譜
れているとおり、その丹念な資料踏査から裏づけられる「朝鮮
差することによって織りなす位相も、たんに『オリニ』創刊の
児童文学の生成と日本児童文学者による口演童話活動」とが交
意味で本書は、この分野における実証的研究として草分け的な
i
k
u
y
a
k
a
T
ただこう述べてみても門外漢の書評としては体をなさない。
E
N
A
K
A
N
中 根 隆 行
よって、ないものねだりになるかもしれないが、やや異なる方
背景にとどまらない地平を切り開いたものとなっている。その
韓国は言うに及ばず、日本の児童文学でさえ不案内な私が評
向から本書を位置づけてみよう。本書の章立ては「序」に続き、
ものとなるだろう。
朝鮮児童文
率直な感想を言えば、金成妍著『越境する文学
―
者として相応しいのかどうかはわからないが、そんな立場から
成期」「第三章 朝鮮児童文学の展開期」「終章 朝鮮口演を終え
「第一章 朝鮮児童文学の胎動期」「第二章 朝鮮児童文学の生
た日本児童文学者が持ち帰った「物語」」となっている。
「胎動
から、これほど自信に満ちた学術書も珍しいのではないかと感
じた 。「序」には「植民地期の 朝鮮で行われた日本児童文学者
成からは、朝鮮児童文学の史的展開を体系的に素描しようとす
期」「生成期」「展開期」と端的に区分けされた第三章までの構
学の生成と日本児童文学者による口演童話活動』を読み始めて
による口演童話活動を実証的に研究した初めての試みである」
児童文学が交差する位相の問題、具体的に言えば朝鮮児童文学
るねらいが読みとれる。そこで気になるのが、先述した日韓の
と明記され 、「筆者 は、当時、植民地期の朝鮮で刊行されてい
た日本語の新聞と韓国語の新聞をすべて通覧し、その活動の組
の史的展開のなかでの巌谷小波を筆頭とする日本の児童文学者
織的・思想的背景、口演で話された内容の詳細、移動のスケジ
ュール、参加メンバーなどの詳細を明らかにし、この時期の口
まずは本書の内容をまとめておこう。第一章では、先行研究
の口演童話活動の位置づけ方である。
るに至った」と述べられているからである。
演活動が朝鮮における児童文学の誕生を促したという結論を得
崔南 善 の 日本 留学 期と 、日 露戦後の巌 谷 小波や 久 留島武彦 ら に
並び称される詩人であり出版界のアントレプレナーでもあった
を踏まえて朝鮮児童文学成立の経緯を略述しながら、李光洙と
話活動と宗主国系のメディアとのかかわりから明らかにしたこ
果は、朝鮮における児童文化運動の実態を巌谷小波らの口演童
さて、このようにみればもう諒解できるだろうが、本書の成
れてきた観のある朝鮮における児童文学研究にたいして、そこ
にたんなる対抗の構図だけではない、日本のそれとの影響受容
とに求められる。つまり、これまで一国主義的な側面からなさ
関係を組み入れたということになる。ただ、この影響受容関係
そして、一九〇八年の『少年』創刊から一九一〇年代の朝鮮に
おけ る児 童 (少年 )雑 誌 の 動向 と 、 併 合後 の 朝 鮮 で開 催 さ れた
というのは、比較文学の出所来歴を踏まえると厄介な代物であ
よる博文館のお伽講話会の盛行がピンポイントで重ねられる。
て論じられる。それに続く第二章では、渡鮮した日本の児童文
巌谷小波や久留島武彦らの口演童話会の詳細が、これまた重ね
によって成り立つ関係であり、ややもすれば宗主国文化から植
る。いうまでもなく、それは上位から下位へという力学的構図
民地文化へという短絡化を助長することにもなりかねないから
学者の口演活動を主とする京城日報社の「京日お伽講演会」な
童文芸雑誌『オリニ』に焦点をあて、朝鮮における「児童」概
どを追うとともに、方定煥ら天道教幹部によって発刊された児
である。
けれども、この点が気になったところというわけではない。
念の定立や児童文化への眼差しの高まりが検証される。
本書では、朝鮮から帰還後の久留島武彦が「虎の胃袋学校」な
次に第三章では、「京日コドモ会」から「朝鮮童話普及会」、
「朝鮮児童協会」へと続く児童文化関連団体の組織化の変遷や、
を論じた終章など、影響受容関係に還元されない箇所もあり、
著者もこのような力学的構図の罠を承知しているであろうこと
ど朝鮮の虎をモチーフにした童話を断続的に発表していること
らかにされる。韓国では近代の児童文学の本格的な出発と位置
みて硬い分析という印象が残る。日本と朝鮮の児童文化運動を
は察せられる。だが、そうだからこそというべきか、全体的に
総計六万人を動員したとされる巌谷小波による「全鮮巡回お伽
づけられている一九二三年の『オリニ』創刊を、同時期に行わ
講演会」を中心に、朝鮮における児童文化運動のありようが明
れていた宗主国系の児童文化運動の文脈のなかに織り込むこと
推論部分もあり、必ずしもそれらが有機的に連環しているとは
それぞれ章内に併記して論じる構成はともかく、やや粗削りな
言い難いからである。そこで再び、本書の問題提起に戻ろう。
によって、朝鮮における童話普及運動の位相が提示される。ま
日申報』での翻訳・翻案掲載のありようも具体的に素描されて
っていたと考えられ、そうした口演活動の役割を検証しな
朝鮮で行われた日本人の口演活動は極めて重要な意味をも
た、巌谷小波による口演童話と書記童話それぞれの分析や『毎
った。
いる。詳しくは論じられないが、ここのところは大変興味深か
ければ、約一〇年後に胎動する朝鮮児童文学の成立に関す
いった子どものイメージのパラダイム・シフトであるのだが、
したのだろうか。むろん、これは「少年」「児童」「子ども」と
本書の学術的価値はあるのだろう。しかし、その目的は「朝鮮
査して児童文化運動の実態を明らかにした実証的研究。ここに
に宗主国系の児童文化運動が転用されたのか、またそれが文学
童」概念の誕生に大きくかかわっている。ならばそこに、いか
動との連携は、抗日運動との関係性を含めて、朝鮮独自の「児
ではないか。儒教道徳とは異質な「人乃天思想」と児童文化運
その内実は実証作業に加えて理論的に掘り下げる必要があるの
る全体像を把握することはできないのである。(「序」)
児童文学の成立に関する全体像を把握する」
こと である も のの 、
テクストにどのような痕跡を残しているのかといった点こそよ
口演童話を中心に朝鮮で発行されていた新聞雑誌を綿密に踏
国系の児童文化運動というピースを、朝鮮児童文学研究のこれ
おもにそれは巌谷小波らの朝鮮における活動に代表される宗主
り柔軟に追究しなければならないのではないか。
本書の 表題は「越境の文学」である。「越境」という語は近
まで顧みられることのなかった空白として埋めることに設定さ
ように思われる。もとより、これは本書で明らかにされた成果
ったのかを考えると、本書はまだその内実を描き切れていない
年でもよく見かけるが、何がどこからどこへ横断し、どう変わ
たとえば 、「児童」という概 念が一九二〇年代に定着した経
の課題であり、著者の今後の研究に期待したい。ないものねだ
鮮児 童文学の 成立をどう 論 じる かであ る 。
れている。だが、大切なのは、それらの空白を埋めたあとで朝
が 「 少 年 思 想 」( 崔 南 善 )か ら 「「幼い 男 女 」の 独 自 の 価 値を 唱
緯については論じられているのだが、朝鮮における「児童」観
(愛媛大学法文学部人文学科准教授)
二六六〇円+税)
を本書は提示したのだから。
三 〇 一頁
りの読後感ではあるが、それを望みたくなるような研究の基盤
花書院
根拠はそれぞれの資料への言及と「子どもの日」の設立などの
(二 〇一 〇年三 月
え る 」「 児 童解 放 論 」( 金 小 春)に 向 か う と し て も 、 そ の 定 立 の
社会 的側 面に求め られている 。 実証 的な 作業とし てはこ れ で納
得できるのだが 、「児童」が 旧弊より解放されたから「児童」
概念が定立したのだろうか。ジェンダー・システムはどう機能
関口安義著『 評伝長崎太郎』
S h i g e o
無試験検定トップ合格
菊池寛の 退学 事件
二
教 育へ の 夢
二
二
二
学友た ち
事件の新解釈
井川恭との交わり
一
深まる信仰
四
三
第三章
二
四
父の 愛
重 雄
第四章
大学中退と左傾
悔悟の一夏
K O U C H I
ここ二十年、関口安義氏は芥川龍之介とその同時代の人々の
三
一
進路の変更
若き太郎の悩み
評伝の執筆に取り組まれている。現在刊行されているのは、
『評
卒業 記念 旅 行
河 内
誓 言 を破 る
菊池寛と佐野文夫
、『評伝松岡譲』(平成
伝豊島与志雄』(昭和六十二年十一月 未来社)
第五 章
大学自治と佐々木惣一
四
三
一
、『評伝成瀬正一』(平成六年八月 日本エディター
三年一 月 小沢書店 )
三
一
佐野文夫のその後
、『芥川龍之介とその時代』(平成十一年三月 筑摩書
ス ク ー ル 出 版部 )
ニューヨーク時代
パリへ
四
四
日本のブレイキアン
ニューヨ ー ク 支店へ
友情と二人の森先生
京都大学法学部
日本共産党初代委員長
、『 恒藤 恭と その 時代』( 平成 十四年五 月 日本 エディタースクール
房)
第六章
評伝藤 岡蔵六』(平成十六年七月 イー・
結婚と日本郵船入社
、『悲運の哲学者
出版部 )
美術館めぐりと古書の収集
二
三
一
一
二 山本良吉と武蔵高校
美術教育 家の素地
教育界への転身
四
旧制武蔵高校教授に
イタリアの旅
一
第八章
四
京大事件
京都大学学生主事に
弟、長崎次郎の活躍
二
東洋美術と短歌
激動の時代の中で
一
旧制山口高校長となる
四
美術教育者とし て
高 岡 高 商 校長 に 就 任
第十章
三
第九章
三
三
ヨーロ ッ パ視察旅 行
。この評伝シリーズに、新たに『評伝 長崎太郎』
デ ィ ー ・ア イ )
キリスト教との出会い
第 七章
が加わることになった。
長 崎 太 郎 ( 一 八 九 二 ― 一 九 六 九 )は 芥 川 龍 之 介 の 第 一 高 等 学 校
の同級生で、後年、京都市立美術大学の学長に就任した教育者
である。
ウィリアム・ブレイクの収集家としても知られている。
長崎太 郎 への旅
二
四
父母 と家系
『評伝長崎太郎』の目次は以下の通りである。
はじめに
高知県安芸市
故郷と生い立ち
一
第一章
小学校と中学校
一高の青春
三
第二章
一
京都美大事件
京都市立美術大学長
四
三
長崎太郎年譜
事 項索 引
あと がき
人名索引
二
美術教育者の養成
安芸へ帰る
本書はタイトルに評伝とある。故に、本書単体で、個人史と
も も じ ま み さお
太郎 が伝 記 を書 い て も お か し く な い 人 物 は 、 他 に も 百島 操 牧
個人史ということに関して付け加えておくと、本書は長崎太
師や終生の師・佐々木惣一など、大勢いるからである。
例えば、長崎太郎の弟・次郎の出版事業について、第九章で
郎の周辺の人達に注目して読んでも、得るものが多い。
詳しく触れられている。長崎次郎の長崎書店は、昭和期におけ
ができない。クリスチャンの小川正子によるハンセン病患者の
るキリスト教関係の書籍の出版について考える時、落とすこと
救済状況を書いた『救癩手記
小島の春』(昭和十三年十一月)が、
して一般に読まれると考えられる。そして、それは間違いでは
どしている。あるいは、長崎太郎の第一高等学校の同級生であ
を記録した時、次郎は沖縄に「癩者」のための寮を寄付するな
二百二十版、二十二万冊を数えるというまさかのベストセラー
に影響を受けた久松真一や、大徳寺派の宗教人である立花大亀
共産党初代委員長の佐野文夫の個人史として読むことも可能で
る佐野文夫に関しては、特に一章が割かれており、本書は日本
例えば、昭和十四年に、西田幾多郎の哲学や鈴木大拙の禅学
ない。
翌年には、土屋文明に師事し作歌を始める。関口氏によると、
ることは、関口氏の狙いの一端に過ぎない。このことは、氏が
しかしながら、このように個人史として本書が単体で読まれ
ある。
とともに、長崎太郎は参禅の会「真人会」を作っている。その
長崎太郎が同会を作り、作歌を始めたのは、京都帝国大学学生
であった。久松真一や立花大亀が参禅の会を作るのは分かる。
。
(引用文中の傍線は全て引用者による)
「はじめに」で次のように述べていることからも明らかである
課長の激務を乗り切るため、精神を統一して仕事に当たるため
しかし、中学生の頃からキリスト教やその芸術に深い関わりの
人物に光を当てる必要を感じていた。
知識人の精神史を考えようとするわたしは、早くからこの
芥川龍之介とその周辺の人々を研究対象とし、近代日本の
ある長崎太郎が、キリスト教によってではなく、わざわざこの
時期にいわゆる日本的なものに積極的に関わることで精神を静
あるいは、京都市立美術大学を去り、最晩年を故郷の高知県
めようとするのは興味深い。
安芸市で過ごす長崎太郎が、残された時間をプロテスタントの
伝道者・森勝四郎の伝記を書くのに費やしたのも面白い。長崎
精 神史 、つ まり 、時代 精神 の 一要 素とし て 長崎 太郎 ( その思
その二つの間に幅があると考えることもできよう。二つの異質
垣間見 られる 。「まったく異質の二つの個性」ということは、
異なる諸要素の関わり合いを発見する時、時代精神の豊かさが
な要素の間に、
それらをつなぐ要素が見出されることもあろう。
想等)を解し 、他 の 様々 な要 素と関 係付 ける こと で、多 様で豊
ち ょ う ど 、右 翼 と 極 左 ( 講 座 派 )の 間 に 、 議 会 に よ る 民 主 主 義
かな流れとして精神を構築すること、そのような精神の産物と
築することが、氏の狙いである。
之介とその時代』だけではない。評伝シリーズがネットワーク
『 評伝 長崎太 郎 』 の 場合 は 、 往復 の 対象となるの は『 芥川 龍
要素として捉えるように。
を認める労農派を位置付け、それらを反発し合いつつ共存する
して芸術を理解すること。このような超越論的な時代精神を構
精神史を考える上でポイントとなるのは、相異なりながら共
存する諸要素を、豊かさとしていかに描き出すかということで
ある。氏は『賢治童話を読む』(平成二十年十二月 港の人)で次の
よう に述べている。
ト教体験に言及する形で、日本におけるキリスト教の多様性を
例えば、氏は『評伝長崎太郎』において、長崎太郎のキリス
を形成している。
ある。(略)この二人の同時代人を比較・対照することは、
テスタント)は、カルヴィニズムの信仰告白の立場をとる日本基
示 し て い る 。 長 崎太 郎 の 通 っ た 高知県 安 芸 市 の 安 芸 教 会 (プロ
宮沢賢治と芥川龍之介は、実は同時代を生きた人なので
ない か。
四十一年に同教会に赴任した百島操は、日本基督教会の考え方
督教会の牧師により、布教活動がなされてきた。しかし、明治
近代日本を生きた知識人の精神史の解明につながるのでは
わたしは芥川をより包括的に捉えるため、その周辺にも
百島は大正期、大阪東教会で活動したが、その社会主義的発
から次第に離れていく。
光りを当ててきた。そうした研究経歴を経て、日本の近代
を把握するには、ほかならぬ賢治と龍之介というまったく
言から警察当局にマークされていた。また、安芸市には当然の
類似について述べている箇所よりはむしろ、類似を指摘してい
つまり、読者が注目すべきは、氏が宮沢賢治と芥川龍之介の
一口に長崎太郎へのキリスト教の影響と言っても、その内容は
基督教講義所を開設、安芸教会は分裂することになる。つまり、
教をしたことのある森は、森に従う安芸教会の信徒と共に安芸
郎はその一人である。明治四十五年一月、安芸教会で何度か説
第に浮上してきたのである。
異質の二つの個性をぶつけてみるのがよいとの考えが、次
ない個所、指摘し得ぬ箇所である。そのような観点で『賢治童
ことながら、日本基督教会系以外の牧師もいた。前述の森勝四
話を読む』と『芥川龍之介とその時代』を往復しつつ読み、相
立 九 十 年記念誌 』(昭和五 十一年三月 日本基督教団高知教会)などを
々を言うのであれば、関口氏が行っているように『高知教会創
実に多様なのである。長崎太郎に限らず、キリスト教の影響云
西洋 画への親近 感だけでなく 、「支那」趣味といった要素も考
もあったと考えられる。しかしながら、芥川龍之介の場合は、
なものであり、かえって日本画の方が異質なものに見えること
慮する必要がある。芥川龍之介は長崎県で唐画とともに日本画
異なるので、長崎太郎と芥川龍之介とでは、日本画と出会うと
と出会っている。主題やカンバスの有無など、唐画と西洋画と
いっても、鑑賞方法など、出会い方が異なると考えられるので
神はどのよう なもの であったのかを詳細に検討する必要があ
そし て 、『評伝 松岡譲』に 目を移 すと、同じく大正期、仏教
繙き、その地にはどのような教会があったのか、その思想・精
哲学に造詣の深い松岡譲の『法城を護る人々』(全三巻 大正十二
画と の出会い ・日本 画観 は一 枚岩ではないことに気付かされ
ある。関口氏の評伝シリーズ間の往復運動により、彼らの日本
では鑑賞方法が自ずと異なる。唐画と日本画も当然鑑賞方法は
第一書房)は、本願寺派の仏教がプロテス
る。
年六月―大正十五年五月
る。
タントの キリ スト教 と 相異 なりな がら 時 に相 似形 を描き つつ 展
最も不毛な精神史は、単一的・直線的で、再構成の余地の無
開し ていたこと を示している 。『評伝長崎太郎』と『評伝松岡
いものである。何を前景化し、問題にするのかに合わせて、様
て価値は無い。不毛な精神史にならぬよう、関口氏がとった戦
譲』を往復する時、多様なキリスト教の思想的土壌と、大正期
略は、評伝を往復可能なネットワークとして構築することであ
々な形で諸要素を再構成できる豊かさが無ければ、精神史とし
あ る いは 、長 崎太郎 は ニュ ーヨー ク でブレイ クなど の 版 画 を
ろう。
数多く手に入れているが、この頃から明治・大正の浮世絵を集
る。氏の評伝シリーズを諸要素の差異に注目して読むことで、
の新仏教運動の産物として文学作品を捉え直すことが可能とな
めるようになる。長崎太郎はニューヨークの美術商から西洋版
た人名・事項の索引は、差異に注目する上での一助となる。
精神史的研究の有効性が明らかになる。各評伝の巻末に付され
五五〇〇円
である。
三七〇頁
(九州大学人文科学研究院専門研究員)
日本エディタースクール出版部
画の鑑賞の手解きを受け、アメリカで日本の絵画と出会った訳
+税)
(二〇一〇年十月
『 芥川 龍之 介 と そ の 時 代 』 に 目 を 移 す と 、芥川 龍 之 介 も 長 崎
樺』は積極的に西洋の芸術と鑑賞方法を紹介している。芥川龍
太郎同様、西洋画の鑑賞に慣れ親しんでいた。大正期、雑誌『白
之介と同時代の青年達にとって、西洋画とその鑑賞方法は身近
彙報
二 〇一 〇 年一 〇 月九日 ( 土)
第 九 回 九 州 大学 日 本 語 文 学 会
〇日 時
九州 大 学 伊都キ ャ ンパ ス
◆
〇会場
九州 大学
波潟 剛
比較 社会文化・ 言語文 化研究 教育棟
一、開会の辞
一、研 究 発表
一、閉会の辞
一 、懇親 会
九 州 大学
松 本 常彦
二 〇一 〇 年一 〇 月九日 ( 土)
第九回 九 州 大学 日 本語 日 本 文 学 会総 会
九 州 大学 伊 都キ ャ ン パ ス
◆
〇日 時
比較 社会文化・ 言語文 化研究 教育棟
〇 会場
一、二 〇〇九 年度事業 報告
一、二 〇一〇 年度事業 計画
一、二 〇一〇 年度予算案
・ 現 実 に生 き 始 め る た め に
一 、 そ の他
・
五 、 申 込 先 は 「 九 大 日 文 」編 集 委 員 会。
ト を 付 し て 修 正 を 求 め る 場 合 もあ る 。
査読の 上、決 定する。 その際 、コメン
四 、 投 稿 論 文 の 採否 は 編 集 委 員 会 に よ る
し、こ れを刊行 費とす る。
は各自掲載頁数に応じた費用を負担
三 、 規 定 分 量 は 設 け ない 。 但 し 、執 筆 者
につ い て の研究。
二 、 内 容 は 日 本 語 文 学 に関 連 す る 各 分 野
一 、 投 稿 資 格 は 会 員 に限 る 。
投稿規 定
九州大学大学院修士課程二年 柿崎 隆宏
田代 ゆき
◆
―村 上春樹 『 羊をめ ぐる冒険 』 論 ―
― ば け も のた ち の造 型に つ い て ―
・「ペ ン ネ ン ネ ン ネ ン ネン ネネム の 伝記 」
九州大学大学院修士課程二年 賴 怡真
・ 黒 島 伝 治 「渦 巻 け る 烏 の 群 」 論
河内 重雄
― シ ベ リ ア の 現 地民 に と っ て の 日 本 軍 ―
九 州 大 学 人 文科 学 研 究 院 専 門 研 究 員
・門鉄 職 場詩誌 「ろん ど」
福 岡 市 文学 館
―「枠 」 組から はみ出 すものについての
考察 ―
一、総 会
◆
編集後記
「九大日文」十七号をお届けいたします。
投 稿 し て 下 さっ た 会 員 の 方 々 、 編 集 作 業 に
り て 厚 く お 礼 申 し 上 げま す 。
協 力 し て 下 さい ま し た 皆 様 に 、 こ の 場 を か
さ て 、 前 回 の 九 大 日 文 学 会総 会 に て 会 計
が年々赤 字であ ること が指摘されました。
◆
編集 委員
藤本 晃嗣 (編集長)
原因 の 一 つ に 論 文 投 稿 本数 が減 り 、雑 誌 が
薄くなってい ることが 挙げられま す。我々
嚴
李
美玲
栗崎 愛子
柿崎 隆宏
基權
在籍 院生 の 奮 起は 当然 求め られ ま す が 、編
集 委 員と し て は 「九 大 日 文 」と い う 発 表 の
場 を 、 多 く の 方 々 が 利 用 し や すい 環 境 を 整
え て い く 必 要 があ る と 考え て い ま す 。
今後 、
会 員 の皆 様 へ の連 絡 や 情 報 交 換 を よ り 円 滑
に す る 工夫 を 行 っ て い き た い と 思 い ま す 。
本 号 の 編 集 作 業 中 に 東 北 ・ 関 東 大 震災 が
起こりまし た 。
こ の後 記 を書いて い る今 も 、
被害 は拡大 し先が 見え な い 状況 で す。日 本
の み な ら ず 世 界 が 一 体 と なっ て 被 災 地 へ の
救援活動 を行っ て おり 、危機 的状 況 にお け
九大 日文
「 九 大 日 文 」 編 集 委員 会
九 州 大 学 日 本語 文 学 会
二〇 一一年三 月三 十一日 発 行
編 集 発行
八一九―〇三九五
福岡市西区元岡七四四番地
九州大学大学院比較社会文化研究院
郵便振替
〇一七二〇―五―一〇五六七三
松本常彦研究室気付
城 島 印 刷株 式 会 社
八一〇―〇〇一二
印刷製本
福岡市中央区白金二―九―六
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す 。 九 州 で 文 学 に 携 る 我々 に一 体 何 が で き
る 人 の 繋 がり の 重 要 性 を 再 認識 さ せ られま
る の か と い う 問 い を 抱 え つ つ 、 一 人で も 多
く の 命 が助 か る こ と を 切 に 願い ま す 。
(F)
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