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オスマン的家産官僚制とテイマール体制
オ ス マ ン的 家 産 官 僚 制 とテ イ マー ル 体 制 鈴木 董 東京大学東洋文化研究所 1イ ス ラム帝 国 と して の オス マ ン帝 国 オ ス マ ン帝 国 は 、13世 紀 末 、 イ ス ラ ム 世 界 と ビ ザ ン ツ 世 界 のせ め ぎ 合 うア ナ ト リア西 北部 の フ ロ ンテ ィ ア に 出 現 し、 ま ず ア ナ トリア で 、 つ い で バ ル カ ンへ と着 実 に 発 展 し、16世 紀 に 入 り、 地 中海 世 界 の 約4分 の3を 支 配 す る に至 り、1922年 ま で約6世 紀 半 近 くに わ た っ て存 続 した。 こ の 国家 の原 初 の担 い手 は 、 トル コ系 ム ス リム で あ っ た 。 しか し、 国家 の統 合 の基 軸 は 、 民 族 よ りむ しろ宗 教 と して のイ ス ラ ム に求 め られ 、 トル コ民 族 国 家 とい うよ りは 、 む しろ イ ス ラ ム帝 国 とい うべ き存 在 とな っ て い っ た。 2オ ス マ ン帝 国 に つ い て の 二 つ の イ メ ー ジ こ のオ スマ ン帝 国 の 国家 構 造 に つ い て は 、相 い 異 な る二 つ の イ メ ー ジ が成 立 して い る。 ドイ ツ の社 会 学 者 マ ック ス ・ウェー バ ー は、 周 知 の 如 く、 中 国 を 典型 的 な家 産 官 僚 制 国家 と して と らえた 。 これ に対 し、 ウ ェー バ ー は、 オ スマ ン 帝 国 に つ い て は 、 む しろ封 建 制 的 要 素 を重 視 し た 。 彼 の場 合 、オ スマ ン帝 国 につ い て 、 家 産 制 的 軍 隊 に つ い て 、 ま た宮 廷 の官 職 につ い て 、家 産 制 的 要 素 につ い て も言 及 して はい る が、 この 国 家 の 家 産 官 僚 制 的 国家 と して の側 面 につ い て ふ れ る とこ ろ は少 ない 。 そ して 、オ スマ ン帝 国 に お け る官 僚 制 化 の 面 につ い てふ れ る とき も 、 封 建 制 的 構 造 を も っ て い て も 、事 務 量 が増 大 す る に つ れ て ま す ま す 官僚 制 化 す る傾 向 を示 した と論 じた 。 ウ ェー バ ー に とっ て 、オ スマ ン帝 国 は 、 レー ン制 な らぬ プ ブ リュ ンデ 封 建 制 を根 底 とす る国 家 のイ メー ジ が強 か っ た。 この こ とは 、オ スマ ン史 研 究 の 当時 の状 況 と と もに 、 ウェ ー バ ー が オ スマ ン帝 国 を扱 うに あ た って 、 テ ィ ッシ ェ ン ドル フ の トル コ封 建 制 論 を 主材 料 と した こ とに よ る とこ ろ が大 き い で あ ろ う。 ウ ェー バ ー の影 響 を受 けつ つ 、独 自の比 較 国 制 史研 究 を な し とげ た オ ッ トー ・ヒン ツ ェ も ま た 、 彼 の封 建 制 論 にお い て 、 ウ ェー バ ー のイ メ ー ジ を 受 け継 ぎ 、 オ スマ ン帝 国 の封 建 制 につ い て 論 じた 。 しか し、オ スマ ン帝 国史 研 究 の歴 史 の な か で は 、 封 建制 的 国家 と して よ りは家 産 官 僚 制 的 国 家 と して のオ スマ ン 国家 のイ メー ジ が 、遥 か に 根 強 い もの とな っ て い る。 この よ うに 、オ スマ ン帝 国 の 国家 構 造 につ い て は 、 二 つ の 相 い 異 な るイ メー ジ が 、存 在 して い る。 そ れ で は 、オ スマ ン 国家 の実 相 は如 何 な る もの で あ っ た か。 この 点 につ い て 、原 初 よ り 18世 紀 末 に至 る5世 紀 問 の前 近 代 のオ スマ ン帝 国 に つ き、 少 し検 討 してみ よ う。 275 鈴木 3封 董 建 制 的 要 素 と して の テ ィ マ ー ル オ ス マ ン 国 家 の 起 源 は 、13世 紀 末 に お け るイ ス ラ ム世 界 の 西 北 の辺 境 、 アナ トリア の最 西 北 端 に現 わ れ た オ ス マ ンな る指 導 者 に 率 い られ た ム ス リム ・トル コ系 の集 団 に求 め られ る。 こ の 集 団 は、 原 初 、騎 兵 を 中 心 とす る集 団 で あ っ た。 オ ス マ ン帝 国 は 、 始祖 伝 説 に お い て は 、 中央 ア ジ ア に 起源 を もつ トル コ系遊 牧 民 の オ グズ族 の カ ユ 部 族 に求 め られ る。 そ して 、 この オ ス マ ン帝 国 時代 に成 立 した始 祖 伝 説 は 、 トル コ本 国 にお い て のみ な らず 欧 米 に お け る、近 代 史 学 に お い て も、長 ら く定説 とな っ た。 漸 く戦 間 期 に 至 り、 ポー ル ・ウ ィテ ッ クが 、原 初 の オ ス マ ン集 団 の性 格 に つ い て 、遊 牧 部族 集 団 とい うよ り も、 む しろ既 に部 族 的 きず な を離 れ フ ロ ンテ ィア で 活 動 す る戦利 品獲 得 を もめ ざす イ ス ラム の 聖 戦 、 ガ ザ ー を こ と とす る戦 士 、す な わ ちガ ー ズ ィー の集 団 で あ っ た との説 を提 示 した 。 この 説 は、 現 在 の と こ ろ最 有 力 の 学説 とな っ て い る。 原 初 のオ スマ ン集 団 の 性格 が い か な る もの で あ ろ うと、 オ ス マ ン集 団 は 、周 囲 の ム ス リム ・ トル コ系 の諸 君侯 国 とも争 いっ つ 、他 方 で ビザ ン ツ帝 国領 の征 服 を進 め、 国家 形 成 を進 め てい っ た。 そ の際 、戦 士 た ちの 給養 の 方 法 と して は、 征 服 地 を与 えて い く方 法 を とっ た。 原 初 にお け る 戦 士 た ち へ の 土 地授 与 の 詳 しい 実 態 は 、14世 紀 に つ い て の 同時 代 史 料 が 乏 しい こ と も あ っ て 、 必 ず し もつ まび らか で な い 。 しか し、 少 な く と も 、14世 紀 末 に か け て 、 戦 士 達 に 対 す る君 主 の統 制 も次 第 に 強化 され 、征 服 地 に お い て 検 地(タ フ リルtahrir)が 体 系 的 に行 われ る よ うに な っ て い った 。15世 紀 後 半 成 立 の オ ス マ ン帝 国 の最 初 の 年 代 記 類 に お い て も 、 この 時期 に つ いて 「 書 か れ た(ヤ ズル ドウyaZlldl)」 15世 紀 初頭 に な る と、 同 時代 の 検 地 帳(タ との 表 現 が しば しば 見 られ る よ うに な る 。 そ して 、 フ リル ・デ フ テ リtahrirdefteri)の 現 物 が残 され 始 め る。 こ うして、 原 初 以来 の ム ス リム ・ トル コ系 の戦 士 た ち を最 初 の母 体 と しつ つ 、 そ の後 、 様 々 の 要 素 が加 わ りっ つ 拡 大 した 騎 兵 た ちの 給 養 の形 態 が確 立 して い っ た 。 テ ィマ ー ルtimar 制 と呼 ばれ る こ の給 養 形 態 こそ 、 オ ス マ ン帝 国 の封 建 制 的 要 素 とい うべ き もの で あ った 。 テ ィマ ー ル 制 も、 時 代 に よ り姿 を変 え て い っ た が 、 こ こで は、 そ の確 立 した 形 に っ い て 、 素 描 を試 み る こ と と しよ う。 確 立 され た 形 で のテ ィマ ー ル 制 度 にお い て 、年 収 税 額 で 表 示 され た 課 税 対 象 は、 原 初 、 何 よ りも土 地 で あっ た で あ ろ う。 しか し、後 に は、 土地 以 外 の徴 税 対 象 も、テ ィマ ール の 対象 とな っ た 。 た だ 、や は り基 本 は土 地 に あ るか ら 、 こ こ で は 、土 地 へ の徴 税 権 を対 象 と した テ ィマ ー ル に対 象 を絞 りみ てい く こ と と しよ う。 テ ィマ ー ル を授 与 され た者 は、 そ の テ ィマ ー ル の所 在 す る地 方 に在 住 し、 テ ィマ ー ル か ら の 収 入 に よ り生 活 し、 か つ 年 収 額 に応 じて 規 定 され た装 備 と補 助 軍 事 力 を養 い 、 戦 時 に召 集 を受 けて 規 定 の装 備 と補 助 軍 事 力 を整 えて 軍 役 義 務 に従 い従 軍 した 。 そ の場 、 テ ィマ ー ル の対 象 とな った 土 地 は 、 国有 で あ り、テ ィマ ー ル 保 有 者 は、 あ く まで 徴 税 権 のみ を与 え られ た 。 下 地 は原 則 と して 国家 に属 し、納 税 者 で も あ る、 耕 作 者 と して の 農 民 は、 直 接 、 国家 と世 襲 の 認 め られ た 永 小 作 契 約 を結 ん だ。 そ して、 彼 らは、 規 定 に従 い 、 一 定 額 の 税 をテ ィマ ー ル 保 有 者 に支 払 った 。 276 オ ス マ ン 的 家 産 官 僚制 とテ ィ マ ー ル体 制 テ ィ マ ール 保 持 者 は 、 下地 に対 して い か な る支 配権 も有 せ ず 、 ま た 当然 の権 利 と して の テ ィ マー ル 保 持 者 の 地位 の世 襲 権 も、 有 して い な か っ た。 た だ 、 軍役 に服 し うる男 子 の あ る とき は、 事 実 上 、世 襲 が認 め られ た。 但 し、テ ィマ ー ル は 、基 本 分 と加 増 分 か らな り、事 実 上 の相 続 に あ た っ て は 、基 本 分 のみ が対 象 とな り、 加 増 分 は 国庫 に帰 属 した。 テ ィ マー ル 授 与 は、 オ ス マ ン帝 国 の 君 主 た る スル タ ン の発 す るベ ラ ー トberat(勅 許 状)を も って 行 われ た が 、 テ ィマ ー ル 保 持 者 が死 去 した とき 、相 続 に あた って 新 た な勅 許 状 が与 え られ た。 逆 に、 スル タ ンが 没 し た とき は 、全 テ ィマ ー ル 保 持 者 に対 し、 新 スル タ ン の名 の 下 に 、勅 許 状 が新 た に賦 与 され た 。 テ ィマ ー ル 保 持 者 は、 徴 税 対 象 者 た る農 民 らに対 して は 、裁 判 権 な どは有 しなか った 。 裁 判 は 、原 則 と して イ ス ラム 法 官(ト ル コ語 で カ ドゥkad1、 ア ラ ビ ア語 の カ ー デ ィー に 由来)が 行 うこ と とな っ てい た 。 た だ 、テ ィマ ー ル 保 持 者 た ちか らな るテ ィ マー ル 制 騎 兵 軍 の指 揮 系 統 は、 同時 に帝 国 の 地 方 行 政 組 織 と な っ て い た 。 帝 国 の 国 土 は 、 サ ン ジ ャ ク ・ベ イsancakbeyiの 管 轄 す るサ ン ジ ャ ク sancak(ト ル コ語 の 原 義 は 「 旗 」)に分 かれ て い た 。 サ ン ジ ャ ク ・ベ イ は 、 古 くは 、 テ ィマ ー ル 制 騎 兵 の小 軍 団 の指 揮 官 で あ り、 小 軍管 区長 官 とい うべ き存在 で あ った。 何 人 か のサ ンジ ャ ク ・ ベ イ の上 に は 、ベ イ レル ベ イbeylerbeyiな る者 が い た 。 ベ イ レル ベ イ とは 、ベ イ た ち のベ イ 、 す な わ ち武 将 た ちの 将 を意 味 し、 元 来 は 、 君 主 に次 ぐ総 司 令 官 を意 味 し、 王 子 が この任 に つ く の が 例 で あ っ た が 、14世 紀 後 半 に性 格 が 変 じ、 王 子 に か わ っ て 臣 下 が任 ぜ られ る よ うにな り、 テ ィマ ー ル 制 騎 兵 の 司 令 官 、 大 軍 管 区 長 官 とい うべ き もの とな り、 さ ら に複 数 化 して い っ た 。 戦 時 には 、 自 らの 大 軍 管 区内 の サ ンジ ャ ク ・ベ イ とそ の 下 に あ る騎 兵 た ち を率 い て 従 軍 した 。 ベ イ レル ベ イ 、 サ ンジ ャ ク ・ベ イ は 、 本 来 は軍 職 で あ った が 、 次 第 に地 方 行 政 官 と して の性 格 をお び る よ うにな っ た 。 こ う して 、 ベ イ レル ベ イ とそ の 軍 管 区で あ るベ イ レルベ イ リク は 総 督 と州 、 サ ン ジ ャ ク ・ベ イ とサ ンジ ャク は 県 知 事 と県 とい うべ き もの とな っ て い っ た。 た だ 、 帝 国 の 地 方 行 政 の 真 の 根 幹 は 、 イ ス ラ ム法 官(カ ド ゥ)と そ の 管 轄 区 で イ ス ラ ム 法 官 区 と よぶ べ きカ ザkazaで あ り、 空 間 的 に は 、 一 つ の サ ン ジ ャ ク 内 に い くつ か の カ ザ が 存 在 し て い た が 、 ベ イ レル ベ イ 、 サ ンジ ャク ・ベ イ 系 の 地 方 行 政 系 統 とイ ス ラム 法 官 とは 直接 の指 揮 命 令 関係 に な く、 イ ス ラム 法 官 は 直接 中 央 につ らな り、 両 者 は 相 互 補 完 、相 互 監視 関係 に あ っ た。 そ して 、 ベ イ レル ベ イ 、 サ ンジ ャク ・ベ イ 系 列 に属 す る地 方 在 住 の テ ィマ ール 制 騎 兵 に は裁 判 権 は な く、 平 時 に は 治 安維 持 や イ ス ラム 法 官 の 要 請 下 に 実 力 行使 を 伴 う執行 行 為 に たず さわ るの み で あ っ た 。 この よ うに、 オス マ ン帝 国 は、一 方 で 封建 制 的要 素 の 強い 国 家 と して と らえ られ る こ とが あ っ た が 、全 体 と して の そ の 国 制 、 国 家構 造 は 、 少 な く と も レー ン制 的 封建 制 に基 く国家 に見 られ る よ うな 分 権 的 構 造 とは 、 対 照 的 な 、集 権 的 構 造 を有 して い た。 そ の集 権 度 は 、 レー ン制 的封 建 制 の概 念 を抽 出 す る際 の 土 台 とな っ た 西 欧 キ リス ト教 世 界 の 諸 国 家 で い え ば 、近 世 絶 対 王 政 時 代 に始 め て 達 成 され た 水 準 を、 既 に15世 紀 末 か ら16世 紀 初 頭 に お い て 超 え て い た とい え よ う。 そ の意 味 で は 、オ ス マ ン帝 国 もま た 、 偉 大 な る 中 国史 家 、 宮 崎 市 定 の提 唱 した 厂 東洋的近世」 277 鈴木 董 に 、既 に到 達 して い た とい え る。 それ で は 、 こ の よ うな集 権 化 を可 能 と した も の は何 で あ った のか 。 こ の こ と を解 明 す べ くオ ス マ ン 帝 国 の 国制 、 国家 構 造 につ い て のい ま一 つ のイ メー ジ と して の 家 産 官 僚 制 国家 と して の 面 に つ い て 、検 討 を加 え る こ とと しよ う。 4家 産 官 僚 制 化 の進 展 原 初 、 オ ス マ ン 家 出身 の指 導 者 は 、戦 士 た ち の推 戴 に よ りそ の地 位 につ き 、指 導 者 と戦 士 た ち の 関 係 は 、 君 臣 関係 とい うよ りは 「 仲 間 中 の 第 一 人 者(プ リム ス ・イ ンテ ル パ ー レス)」 と 仲 間 た ち との 関係 に 近 い も の が あ っ た。 そ して 、 オ ス マ ン集 団 は 、 オ ス マ ン家 出身 の 指 導 者 と そ の 一 族 、 そ して 有 力 戦 士 た ち に よ っ て 、相 互 協力 の 下 で 指 導 され て い た。 しか し、征 服 の 進 展 に よ り支 配 領 域 が拡 大 して い くに つ れ て 、 オ ス マ ン 家 出 身 の指 導 者 は 、 次 第 に 君 主 化 し、 さ らに 君 主 に よ る集 権 化 ・専 制化 が 進 行 し、 この方 向 で 新 た な 支配 組 織 が 形 成 され て い っ た 。 そ れ と と もに 、 オ ス マ ン家 出 身 の 指 導 者 と戦 士 た ち との 関係 も次 第 に 君 臣 関 係 化 し、 イ ス ラム 世 界 に広 く見 られ る君 主 の 即位 時 にお け る臣 下 の 臣 従 の 誓 い と して の バ イ ア に僅 か に か っ て の推 戴 の 痕 跡 を と どめ る にす ぎ な く な っ た 。 と りわ け15世 紀 後 半 、 第 七 代 メ フ メ ッ トニ 世 の コ ン ス タ ンテ ィ ノポ リス 征 服 後 は、 そ れ まで 続 い て きた 君 主 と主 だ った 臣下 と の公 式 の 共 食 の 慣 例 も廃 され 、 君 主 の 孤 食 化 が 進 ん で い た 。 これ につ れ て 、 君 主 の 称 号 も、 ベ イbey、 ガー ズ ィーgaz曾か らス ル タ ンsultanへ と変 じて い っ た。 君 主 に よ る専 制 化 ・集 権 化 と並 行 して 、 オ ス マ ン 国家 の場 合 、 原 初 に見 られ た オ ス マ ンー 族 の共 働 もま た み られ な くな り、 第4代 バ ヤ ズ ィ ッ トー 世 以 降 、 父 子 相 続 制 に従 い つ つ 、 即 位 し た 君 主 に よ る兄弟 殺 しが 慣 例化 し、有 力 な 政 治 勢 力 と して の王 族 の 存 在 しな い社 会 が 出 現 した。 こ の よ うな君 主 に よ る専 制 化 ・集 権 化 は、 そ の方 向 に お け る新 た な支 配 組 織 形 成 に よ って 組 織 的 に基 礎 づ け られ てい った 。 そ して 、 新 た な支 配 組 織 形 成 は、 お お む ね イ ス ラ ム世 界 の な か で と りわ け ア ッバ ー ス朝 以 降 成 立 して きた 組 織 モ デ ル を 、 アナ トリア にお け る先 行 国家 で あ る ル ー ム ・セ ル ジ ュー ク朝 や 先 進 的 諸 君 侯 国 を通 じて 継 受 しっ っ 進 行 した。 こ の よ うな新 た な 支 配 組 織 形 成 の第 一 歩 は 、 早 く も初 代 オ ス マ ンの 治 世 に 、 イ ス ラム 法 官 (カ ド ゥ ・ア ラ ビア語 で カ ー デ ィー)制 度 の 導 入 とい う形 で 始 った 。 イ ス ラ ム 法 官 と して は 、 イ ス ラ ム法 学 の 専 門 家 と して の ウ ラマ ーulema(ア ラ ビア語 で ウ ラマ ー)が 任 ぜ られ た が 、 当 初 、 オ スマ ン集 団 内 に ウ レマ ー は存 在 しな か っ た の で 、 ア ナ トリア の先 進 地域 か ら招 致 す る形 で人 員 補 充 が な され た。 そ して、 第2代 (メ ド レセmedrese)(ア オル ハ ン時 代 に 入 り、 オ ス マ ン領 内 に もイ ス ラ ム学 院 ラ ビア語 で マ ドラサ)が 初 め て 開設 され 、 自前 の ウラ マ ー 向 け の人 材 の養 成 が始 っ た。 イ ス ラ ム 法官 は 、 主 と して イ ス ラ ム 法(シ ャ リー ア)に 基 く裁 判 に あ た る と と もに 、 地 方行 政 の末 端 と して 主要 な 民政 に もあ た っ た。 イ ス ラム 法 官 制 度 の 導 入 は 、 オ ス マ ン朝 の君 主 が 支 配 領 域 内 に お い て イ ス ラム法 とい うイ ス ラム 世 界全 域 にお け る世 界 法 に基 く一 円的 裁判 権 を把 握 した こ とを意 味 し、 ま た そ の民 政 機 能 は 、 支 配領 域 内 にお け る君 主 の 一 円的 徴税 権 ・物 資 人 員 動 員 権 を 支 え る こ と とな っ た。 中世 の 西 欧 キ リス ト教 世 界 にお い て は 、 法 秩 序 は 重層 的 で あ 278 オ ス マ ン 的 家 産 官 僚制 とテ ィ マー ル 体 制 り、 社 会 は社 会 諸 階層 の特 権 のバ ラ ンス の体 系 で あ り、 王 は そ の 王 国 に お け る 一 円 的裁 判 権 も 一 円的 徴 税 権 も有 さな か った 。 こ の点 か ら して も、 オ ス マ ン国家 は 、 い か に封 建 制 的 側 面 を有 して い よ う と、 中世 西 欧 のそ れ とは非 常 に異 な る 国制 を有 して い た とい え る。 初 代 オ ス マ ン に よ るイ ス ラム 法 官 制 度 導 入 は 、 空 間 的 に集 権 化 を進 め君 主 の一 円支 配 を貫 徹 して い くた め の 最 大 の て こ とな っ た が 、 第2代 オ ル ハ ン時 代 に は 、 君 主 の補 佐 者 と して 宰 相 (ヴ ェ ズ ィー ルvezir)制 度 が導 入 され 、 これ は権 カ ヒエ ラル キ ー に お け る君 主 の 専 制 化 の 最 大 の 基礎 とな った 。 宰 相 制 度 は 、 ア ッバ ー ス 朝 で 成 立 し広 くイ ス ラ ム世 界 の諸 王 朝 に継 受 され た もの で あ った 。 原 初 、 オ ス マ ン朝 の 宰相 は 、 非 軍 事 的 な民 政 面 で の 君 主 の補 佐 者 と され 、 これ ま た オ ス マ ン集 団 外 か ら招 か れ た イ ス ラム 法 学 者 が 起 用 され た 。 そ の 後 、 オ ス マ ン国 家 の領 域 が 、 か つ て の ビザ ン ツ帝 国 の 東 半 で あ った ア ナ トリア(ト ル コ名 ア ナ ドルAnadolu)の ず 、 西 半 で あ った バ ル カ ン(ル メ リRumeli)へ と拡 が っ た 第3代 みな ら ム ラ トー 世 の 時 代 に、 宰 相 は 、 民政 上 の 権 能 の み な らず 軍 事 上 の権 能 も与 え られ 、 ま た 従 来 は 一 名 で あ っ た もの が複 数 化 し、第 一 宰相 は 、大 宰 相(ヴ ェズ ィー リ ・ア ー ザ ムvezir-iazam、 ヴ ェズ ィラ ザ ムvezirazam) かなめ と呼 ばれ 、 次 第 に 君 主 の 「 絶 対 的代 理 人 」 と して 支 配 組 織 の 実 質 的 要 とな っ て い っ た。 ム ラ トー 世 の 時 代 、 オ ス マ ン 朝 の支 配 領 域 内 の 主 要都 市 に順 次任 命 され て い っ たイ ス ラ ム 法 官(カ ドゥ)の ヒエ ラル キ ー 的組 織 と して の 編 成 も進 め られ 、 そ の 頂 点 と して 、支 配 者 身 分 と して の ア ス ケ リaskeri身 分 所 属 者 の 裁 判 と相 続 等 に 主 と して か か わ る カ ザ ス ケ ルkazasker (カー デ ィ ・ア ス ケ ルkad1-1asker)(軍 人 の 法 官)職 が創 設 され 、 これ が 全 イ ス ラ ム 法 官 の 長 と してイ ス ラ ム法 官 全 体 の指 揮 監 督 ・任 免 の 権 が 与 え られ た。 オ スマ ン 国 家 に お け る君 主 に よ る 中央 集 権 的 ・君 主 専制 的 な新 た な支 配 組 織 形 成 の努 力 は 、 行 政 ・司 法 の み な らず 軍 事 に も及 んで い っ た。 原 初 以来 、 オ スマ ン朝 の軍 制 の 中心 は騎 兵 に あ り、 原 初 の オ ス マ ン集 団以 来 の戦 士 た ち に加 え 、征 服 され た 同 じ くム ス リム ・ トル コ系 の 諸 君 侯 国 の 軍 人 た ち に加 え て 、 しば しば同 じ く征 服 され た 旧 ビザ ン ツ系 の軍 事 力 も これ に加 え られ て 拡 大 して い っ た。 この 騎 兵 た ち は 、オ スマ ン家 の 指 導者 自身 に よ り指 揮 され た が 、 とき にベ イ レル ベ イ の称 号 を帯 び た 者 に よ っ て指 揮 され た 。 この 頃 の ベ イ レル ベ イ は 、総 司 令 官 とい うべ き もの で あ り、 王 子 が この 任 に あ た って きた 。 しか し、 ム ラ トー 世 の時 に 、ベ イ レル ベ イ に初 めて 臣 下 か ら ラ ラ ・シ ャー ヒ ン が任 ぜ られ た 。 これ は 、騎 兵 た ち の指 揮 命 令 系 統 の 制 度 化 へ の 一 歩 で あ っ た。 そ して ま た 、14世 紀 末 以 降 、前 述 した よ うに 、騎 兵 た ち の給 養 の シ ス テ ム も ま た 、 テ ィマ ー ル 制へ と次 第 に制 度 化 され 、 統 制 も強化 され て い っ た。 これ に加 えて 、 既 に第2代 オル ハ ンの 時 代 に 、君 主 直 属 の 常備 軍 形 成 の試 み が始 っ た。 オル ハ ン時代 に は 歩 兵 のヤ ヤ と騎 兵 の ミュ セ ッ レム が創 設 され た が 、 主 に徴 募 制 に よっ てお り大 き な成 功 をみ な か っ た。 しか し、 ム ラ トー 世 時代 に は 、 歩 兵 のイ ェ ニ チ ェ リyenigeriが 本 格 的 に 組 織 化 され 、 従 来 の騎 兵 た ち へ の カ ウン タ ー ・バ ラ ンス とな る と と も に戦 場 に あ っ て は連 携 し て相 互 補 完 的 役 割 を果 た す よ うに な っ た。 そ して 、 この イ ェニ チ ェ リは 、 君 主 直属 の奴 隷 出身 者 か ら構 成 され た が 、奴 隷 軍人 の使 用 は 、 古 くア ッバ ー ス 朝期 に確 立 し、 イ ス ラ ム世 界 に特 徴 的 な家 産 制 的 軍 隊 の 形成 方法 とな っ た。 マ ム ル ー ク、 グ ラー ム な ど と呼 ばれ る奴 隷 軍 人 のオ ス 279 鈴木 董 マ ン 版 と い うべ き イ ェ ニ チ ェ リ は 、 原 則 と し て 、 現 金 の 俸 給 に よ り給 養 され た 。 マ ム ル ー ク 制 度 の オ ス マ ン版 と い うべ き 、 こ の 奴 隷 軍 人 と し て は 、 歩 兵 の イ ェ ニ チ ェ リ に 加 え 、 後 に そ の 補 助 部 隊 で あ る 砲 兵 、 砲 車 兵 な ど 、 さ ら に 騎 兵 も 加 わ り、 全 体 と し て カ プ ク ル 軍 団kaplkulu ocaklar1と 呼 ば れ る も の へ と発 展 し て い っ た 。 イ ェニ チ ェ リの 人員 補 充 は 、 当初 、戦 利 品 と して の戦 争 捕 虜 に対 す る君 主 のイ ス ラ ム 法上 の 5分 の1の 取 分 に 基 く ペ ン チ ソ ク ・オ ウ ラ ヌpengiko削an1制 度 に 基 づ い て い た が 、14世 紀末 ま で に は 、 オ ス マ ン領 内 の キ リ ス ト教 徒 臣 民 の 子 弟 中 、 十 代 の 少 年 を 強 制 徴 集 し君 主 の 奴 隷 化 しイ ス ラ ム に 改 宗 させ て 用 い るデ ヴ シ ル メ(少 年 徴:集 制 度)に よる こ と とな っ た。 イ ス ラ ム世 界 にお け る奴隷 軍 人 の 人 員補 充 の方 法 と して極 め て 例 外 的 な このデ ヴシル メ制 度 の創 出 に よっ て 、オ スマ ン朝 の 君 主 は 、 そ の 常備 軍 の た め に等 質 の 人材 を恒 常 的 に補 充 す る こ とが 可 能 とな り、君 主 直 属 の 家 産 制 的 軍 隊 は 、確 た る基 礎 を得 た 。 な お 、 オ ス マ ン 朝 で は 、 デ ヴ シ ル メ に よ っ て 得 た 少 年 た ち の う ち 、 最 優 秀 部 分 を 、 宮 廷(サ ラ イsaray)に 小 姓(イ チ ュ ・オ ウ ラ ヌigo創anl)と して採 用 す る の が例 とな っ て い っ た。 小 姓 た ち は 、 宮 廷 の な か で 君 主 の 私 生 活 の 場 の 部 分 に お い て 、 女 性 の み の 居 所 と し て の 後 宮(ハ レ ムharem)に 対 し、 男 性 の み の 居 住 と し て の 内 廷(エ ン デ ル ンenderun)で 君 主 に奉 仕 しつ つ 、 文 武 の 訓 練 を 受 け 、 君 主 子 飼 い の 将 来 の オ ス マ ン 帝 国 の 幹 部 要 員 と して 、15世 紀後 半以 降 、大 き な意 味 を もっ こ と と なっ た。 14世 紀 末 、 第3代 ム ラ トー 世 時 代 に 、 確 た る 形 を と り始 め た オ ス マ ン 帝 国 の 君 主 専 制 的 ・ 中 央 集 権 的 な 支 配 組 織 と そ の 担 い 手 と し て の 支 配 エ リー トの 発 展 は 、1453年 、 第 七 代 メ フメ ッ トニ 世 が 、 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ポ リ ス を 征 服 し て ビ ザ ン ツ 帝 国 を滅 ぼ し 、 ビ ザ ン ツ ー 千 年 の 帝 都 を 自 らの都 と して 以 降 、 新 しい段 階 に入 っ た。 メ フ メ ッ トニ 世 は 、 初 期 以 来 、 大 宰 相 、 宰 相 を 輩 出 し た ウ レ マ ー 系 の 名 門 、 チ ャ ダ ル ル gandarl1家 出 身 の 大 宰 相 ハ リル ・パ シ ャHalilP閃aを 処 刑 し た 。 そ の 後 、 大 宰 相 ・宰 相 に は 、 ウ レマ ー 系 の 人 物 よ り、 む し ろ君 主 子 飼 い の デ ヴ シ ル メ 系 の 宮 廷 奴 隷 出 身 者 が 任 用 さ れ る こ と が ふ え て い っ た 。 こ の 傾 向 は 、16世 地 方 に お け る ベ イ レ ル ベ イ(総 紀 前 半 に確 た る もの と な り、 さ らに 宮 廷 奴 隷 出 身 者 は 、 督)、 サ ン ジ ャ ク ・ベ イ(知 事)の 職 に も 進 出 して い っ た 。 メ フ メ ッ トニ 世 の 時 代 に は 、 ま た イ ェ ニ チ ェ リ へ の 火 砲 の 装 備 が 進 み 、 大 砲 か ら さ ら に 小 銃 へ と移 っ て い っ た と み ら れ る 。 支 配 組 織 の 文 民 的 部 分 に お い て も 、 文 書 行 政 と財 政 の 組 織 が 次 第 に 構 造 分 化 を と げ て い っ た 。 と 同時 に、 なお 当初 は ウ レマ ー 系 の 人 々 が 主 要 な 担 い 手 で は あ った が 、 世俗 的 な 純粋 の 実務 官 僚 と し て の キ ャ ー テ ィ プkatip(書 記)が 進 出 し始 め た 。 こ の よ うな 方 向 で の オ ス マ ン 帝 国 の 支 配 組 織 の 発 展 は 、16世 曾 孫 に あ た る第10代 西欧人 が めに ス レイ マ ン ー 世(S茸1eyman)の 「 壮 麗 者TheMagnificent,IlManifico」 「 立 法 者(カ ヌ ー ニ ーKanuni)」 紀 に 入 り、 メ フ メ ッ トニ 世 の 時 代 に確 た る段 階 に達 した。 邦人 が大 帝 、 と呼 び 、 オ ス マ ン人 が 制 度 典 章 が整 っ た た と呼 ぶ ス レイ マ ン の時 代 に、 オ ス マ ン国 家 の 帝 国 体 制 が 確 立 した。 と同時 に、 オ ス マ ン 国家 の 家産 官僚 制 国家 と して の側 面 が 、非 常 に強 ま っ て い っ た。 280 オ ス マ ン的 家 産 官 僚 制 とテ ィマ ー ル 体 制 5オ ス マ ン家産 官 僚 制 の変 容 オ ス マ ン帝 国 の支 配 組 織 の 担 い 手 は 、 同 時 代 の オ ス マ ン 人 土 に よっ て 、 「 剣 の 人(エ セ イ フehl-iseyf)」 と 「 筆 の 人(エ フ リ ・カ レムehl-ikalem)」 フリ ・ の二 つ の柱 か ら成 りた っ て い る もの と して と らえ られ た。 これ は 、 現 実 と も照 応 して お り、 実 態 と して は、 「 剣 の人」 は さ らに テ ィマ ー ル 制 の在 地 騎 兵 とカ プ クル 軍 団員 、 厂筆 の 人 」 は ウ レマ ー(イ キ ャー テ ィ プ(書 記)か ス ラム 法 学 者)と らな って い た 。 こ の よ うに、 オ ス マ ン帝 国の 支 配 層 は 、 相 い 異 な る四 っ の社 会 層 か らな り、 これ ら四社 会 層 は 、上 下 秩 序 関係 に あ る ので は な く、 並 立 して支 配 組 織 内 の機 能 を分 担 す る も の と して 、 と ら え られ て い た 。 た だ 、 現 実 には 、 これ ら 四社 会 層 は 時 間 の経 過 の 中で 出現 し、 四社 会 層 の 間 の 力 関係 と支 配 組 織 内 で の 重 要 性 もま た 、 時 間 の経 過 と と もに変 化 して い った 。 そ して 、 この 変 動 はま た 、 オ ス マ ン帝 国 にお け る封 建 制 的 要 素 と家 産 官 僚 制 的 要 素 の関 係 の 変 化 にか か わ って いた。 オ ス マ ン帝 国 にお け る封 建 制 的 要 素 とい うべ きテ ィマ ー ル 制 騎 兵 は 、 初 期 以 来 、 一 六 世 紀 初 頭 ま で オ ス マ ン帝 国 の 軍 事 力 の 中心 で あ り、 そ の給 養 形 態 と して の テ ィマ ー ル 制 は 、 帝 国 の 軍 事 、 税 制 、 土地 制 度 の 骨 格 をな した 。 しか し、16世 紀 後 半 か ら、 この状 況 に 変 化 が 生 じ始 め 、 古 典 的 な テ ィマ ー ル 制 は 変 容 し始 め た。 テ ィマ ー ル 制 の 変容 を 中 心 とす る変 化 を 、 同 時 代 のオ ス マ ン人 土 は 、 古 き 良 き 制度 の 堕 落 、 悪 しき新 た な る もの の 出現 とみ 、 オ ス マ ン 国 家 の衰 退 の も とい とな り うる もの と して と らえ た。 そ して 、 近 代 の オ ス マ ン 史研 究者 た ち も 、 長 ら くオ ス マ ン朝 人 土 の衰 退 ・没 落観 を受 け継 ぎ 、 これ を前 提 と して16世 紀 末 以 降 の オ ス マ ン帝 国 の 歴 史 を と ら えが ち で あ っ た 。 こ の た め 、 衰 退 期 と 目 され た17、18世 紀 史 の研 究 は 当 閑 に 付 され 、 原 初 か ら16世 紀 中葉 ま で の 古 典 期 と 、 こく 19世 紀 初 頭 以 降 の 改 革 期 に 焦 点 が あ て られ が ち で あ っ た。 しか し、 この よ うな見 方 が 正 鵠 を 得 た も の か ど うか につ い て は 、再 考 を要 す る。 確 か に 、 オ ス マ ン帝 国 で は 、16世 紀 後 半 よ りテ ィマ ー ル 地 を徴 税 請 負 地 と して い く動 き が 加 速 化 し て い っ た 。 そ して 、 徴 税 方 法 の 変 化 に よ り、 様 々 の 不 都 合 も 生 じ、16世 紀 末 か ら 17世 紀 初 頭 に か け て の一 連 の民 衆 反 乱 の 重 要 な 一 因 とな っ た の も確 かで あ ろ う。 しか し、 こ の徴 税 方 法 の変 化 の大 き な原 因 の 一 つ は 、 軍 隊 の俸 給 用 の財 源 の拡 大 の必 要 性 に あ った と見 られ る。 そ して 、そ の背 後 に は 、火 砲 の 重 要化 に よ る歩 兵 イ ェ ニチ ェ リを 中心 とす る常 備 軍 の拡 大 の動 き が あ っ た と考 え られ る。 とす れ ば 、 テ ィ マー ル 地 か ら徴 税 請 負 地 へ の動 き は、 単 な る古 典 体 制 の解 体 とい うよ り、 軍 事 技術 の急 速 な革 新 と して の軍 事 革命 に対 す る、 オ ス マ ン側 の環 境 適 応 の努 力 の結 果 で あ っ た と もい え る。 そ して 、テ ィマ ー ル 制 騎 兵 か ら常 備 軍 団 へ の 軍事 的 重 点 の移 動 は、 封 建 的 要 素 に対 し家 産 制 的要 素 が よ り強 ま って い く こ と を意 味 して い た 。 オ スマ ン帝 国 没 落 観 の い ま一 つ の 論 点 は 、 第10代 ス レイ マ ンー 世 の 没 後 、 無 能 な君 主 が 続 い た とい う点 で あ っ た 。 確 か に 、 初 代 か ら第10代 ま で の オ ス マ ン朝 の 君 主 は 、 ほ ぼす べ て 有 能 な君 主 で あ っ た の に 対 し、 第11代 セ リム ニ 世 以 降 は 、 有 能 な ら ざ る君 主 が 多 い とい え る。 た だ 、 こ の事 態 の 背 景 に もま た 、 単 な る個 人 の資 質 の 問題 のみ で な く、 オ ス マ ン帝 国 の 支 配組 281 鈴木 董 織 の発 展 とそ の 中 にお け る君 主 の役 割 の 変 化 が あ った 。 オ ス マ ン帝 国 の支 配 組 織 は、 ス レイ マ ン の時 代 に一 つ の新 しい段 階 に達 した。 そ こで は 、 も はや イ ス ラム 世 界 にお け る先 進 的組 織 モ デ ル の受 容 に よ る組 織形 成 の過 程 は ほ ぼ飽 和 点 に 達 し、 オ ス マ ン朝独 自の維 持 発 展 が弱 ま り、組 織 内 にお け る構 造 と機 能 の分 化 が進 行 し始 め て い た 。 この 流 れ の 中で 、16世 紀 後 半 よ り、 「スル タ ン の 絶 対 的 代 理 人 」 と して の 大 宰 相(ヴ ザ ムvezirazam)の ェズ ィラ 役 割 が拡 大 し、 君 主 自体 の役 割 は 後 退 して い っ た 。 そ して 、1654年 に は 、 かん が 大 宰相 が 宮廷 か ら離 れ て 、イ ス タ ン ブル 市 中 に独 自の官 衙 を もつ に 至 っ た。 そ して 、 大 宰 相 の かん が 官衙 と して の 「大 宰 相 府(バ ー ブ ・ア サ ー フ ィーbab-1asafi,バ ー ブ ・ア リーbab-1ali)」 の 役 割 は、 そ の後 ます ます 増 大 し、19世 紀 に入 る とオ ス マ ン政 府 そ の も の を意 味す る に至 っ た。 この よ うな流 れ は 、 同 じく17世 紀 中葉 に 生 じた財 務 長 官府(バ ー ブ ・デ フテ リーbab-ldefteri) の 宮 廷 か らの独 立 に も現 れ て い る。 そ こ に見 られ る流 れ は 、 君 主個 人 と宮 廷 に負 う と こ ろの 大 きい 、 よ り家 産制 的 な シ ス テ ムか ら、 支 配 組織 のル ー テ ィ ン と して政 務 を遂 行 して い く よ り官 僚 制 的 な シ ス テ ム へ の移 行 の流 れ で あ っ た。 実 際 、17世 紀 後 半 に入 る と、 支配 エ リー トの 構 成 に お い て 、 純 粋 の 世 俗 的 実 務 官 僚 と して の キ ャー テ ィプ(書 記)層 出身 者 の進 出 が 見 られ 始 ま る。 この 動 きは 、 ま ず 財 務 官 僚 出身 のパ シ ャ の 増 大 と して 現 わ れ る 。 そ して 、18世 紀 初 頭 以 降 に な る と、 大 宰 相 府 の役 割 が ま す ま す 大 き くな っ て い っ た こ と と も連 動 して 、 大 宰 相府 内で 昇 進 を重 ね て きた 文 書 官 僚 の台 頭 が 著 しくな る。 と りわ け 、 大 宰相 府 の 文 書 官 僚 の 監 督者 で あ る 「書 記 官長(レ キ ュ ッ ター プreisUl-kUttab)出 イ ス ・ウル ・ 身 の大 宰相 が数 多 く現 われ る よ うに な っ て い く。 そ して 、 こ の傾 向 は、18世 紀 末 へ とか け て 、 よ り顕 著 とな っ て い った 。 そ れ とほ ぼ 並 行 して 、 組 織 の 構 造 分 化 も さ らに進 行 し、18世 紀 に は 、16世 紀 の 支 配 組 織 と は非 常 に 異 な る組 織 構 造 、政 策 決 定 過 程 を有 す る よ うに な っ てい った。 ここ に見 られ る流 れ は 、 い わ ば官 僚 制 化 の 流 れ で あ っ た 。 書 記 層 の 台 頭 と は対 照 的 な動 き が 、 宮 廷 出 身 者 に 見 られ た 。16世 紀 は 、 ス ル タ ン子 飼 い の 宮 廷 奴 隷 の ヘ ゲ モ ニー の 時 代 で あ っ た 。 しか し、17世 紀 に入 る と、 一 方 で 、 宮 廷 の エ リー ト 要 員 で あ る小 姓(イ チ ュ ・オ ウ ラヌ)の 性 格 が 変 わ り始 め 、デ ヴ シル メ系 の宮 廷 奴 隷 のみ で な くムス リム の子 弟 が 混 入 し始 めた 。 と 同時 に、 宮 廷 の小 姓 出身 者 の支 配 エ リー ト最 上 層 部 に 占 め る シ ェ ア が 逓 減 し始 め た 。 そ して 、18世 紀 に入 る と、 奴 隷 出 身 で あ る と 自 由人 出 身 で あ る とを問 わず 宮 廷 出身 の トップ ・エ リー トは激 減 す る に至 っ た。 こ こ に も また 、 少 な く とも 、君 主 の家 を拠 り所 とす るオ ス マ ン朝 にお け る古 典 的 な家 産 制 的要 素 の後 退 が顕 著 に見 られ る とい え よ う。 そ れ は、 実 務 官 僚 の 台 頭 とい う官 僚 制 化 の 超 勢 と並 行 して進 行 して い た 。 た だ こ こで 、17世 紀 か ら18世 紀 に か け て 、君 主 の家 を 中心 とす る 家 産 制 的 傾 向 とは 少 し異 な る新 た な別 の タイ プ の 家 産 制 的 要 素 も顕 著 とな り始 め て い た こ とに言 及 してお く必 要 が あ ろ う。 そ れ は、 大 官 の 「 家 」 の役 割 の増 大 と大 官 の 「 家 」 に奉 仕 した人 々 の公 式 の支 配 組 織 へ の 進 出 と組 織 内で の台 頭 で あ る。 そ の一 つ の象 徴 は、 従 来 、大 宰相 個 人 の家 の差 配 で あ っ た 「 大 宰 相 用 人(サ ダー レ ッ ト ・ケ トヒ ュダ ス ゥsadaretkethUdasi)」 が公 的 官 僚 とな り、 大 宰 相 府 内 にお け る実 務 官 僚 の 首 位 の地 位 を 占 めた こ とで あ ろ う。 そ こ に は 、宮 廷 か らの分 離 の進 行 282 オ スマ ン 的家 産 官 僚 制 とテ ィマ ール 体 制 に み られ た傾 向 とは相 い反 す る新 た な 家 産 制 化patrimonializationの 流 れ が 現 わ れ て い る。 こ の新 た な 「 家 産制 化 」 現 象 は 、 オ ス マ ン帝 国 の支 配 組 織 の拡 大 とそ の役 割 の増 大 のな か で 、 当 時 の 財 源 と人 的 資源 で は対 応 し きれ ぬ 部 分 も拡 大 し、 公 式 組 織formalorganizationの を補 完 す る もの と して 、 非 公 式informalな 大 官 の 厂 家(カ 機能 ブkap1)」 の役 割 が 増 大 した た め生 じた とみ るべ き で あ ろ う。 13世 紀 末 か ら18世 紀 末 に至 る 前 近 代 の オ ス マ ン 帝 国 の5世 紀 間 の オ ス マ ン帝 国 の 国 制 、 そ して支 配 組 織 の発 展 過 程 の 中 で 、長 期 の ト レン ドと して は 、 封 建 制 的 要 素 に対 す る家 産 制 的 要 素 の優 位 化 が進 行 し、 さ らに君 主 とそ の 家 に依 拠 す る家 産 制 的 要 素 に対 す る官 僚 制 的 要 素 の 顕 著 化 が 進 行 して い っ た。 そ して 、18世 紀 に は 、16世 紀 の そ れ とは 全 く異 な る 、 国 制 、 支 配 組 織 を有 す る に至 っ て い た 。 た だ 、18世 紀 に お い て も 、 大 宰 相 府 出 身 の 文 書 官 僚 の 進 出 とい う 官 僚 制 化 の トレン ドと と も に、大 官 の 「家 」 の役 割 の増 大 とい う新 た な家 産 制 化 の トレン ドが 、 相 互 補 完 しっ つ 並 行 して 進 行 して い た。 しか し、そ の な かで 、 最 も支 配 的 な トレ ン ドは 、 「 官 僚 制 化 」 の トレン ドで あ った 。 そ して 、 こ の 中 で 蓄 積 され た組 織 技 術organizationaltechnologyと 、 この 中 で 生 み 出 され た 大 宰 相 府 出身 の 文 書 官 僚 を 中核 とす る高 度 の 組 織 技 術 を有 す る マ ン ・パ ワ ー こそ が 、18世 紀 か ら19世 紀 にか け て 、 厂 西 洋 の衝 撃 」 の 下 で 、近 代 西 欧 か らモ デ ル を導 入 しつ つ 、 西 欧 の 脅 威 に対 抗 し 自 己の 存 立 を保 と うとす る 「 西 洋 化Westanization」 に よ る改 革 の 最 大 の 受 け皿 と な っ た の で あっ た 。 283 鈴木 董 [Abstract] Ottoman Patrimonial Bureaucracy and Timar System SUZUKI Tadashi Institute of Oriental Culture, The Universityof Tokyo Two imagescause complicationconcerningthe state structureof the OttomanEmpire.One of these imagesattachesmuch importanceto the feudal element,while the other emphasizesthe elementof the patrimonialbureaucracy. The essentialfeudal elementin the formeris calledthe timar system.The roots of the OttomanStateare lookedfor in the Muslim-Turkish groupthat appearedin Anatoliain the 13' century.Thesegroupswere centeredon mountedwarriorsgazi whosepurposewas the holy war, gaza. This group adoptedmethodof distributionof the conqueredlandsas the allowanceof the warriors.Lateron systematicland surveys (tahrir) started,and the systemcalledtimar in which the sovereigndistributedallowancesto each warriorin line with the land surveyrecords,known as tahrir defteri,was established. In contrastwith this development, the patrimonialbureaucraticnatureof the OttomanState intensifieswith the establishment of the membersof the Ottomanfamilyas the sovereigns,centralizationof power in their hands,and systematization of their rule. The Ottomanruler, in the early stageswas a firstamongthe equals-Primus interpares. As they securedthe title of sultan, however,they startedto reign as despots,and only then the patrimonialbureaucracywith its allegianceto the will and orders of the Sultanwas establishedas an organizationin order to accomplishtheir rule and administration. Thus,the timarsystemas the militaryorganizationof the mountedsoldiers,and the patrimonialbureaucraticsystemexistedtogetherin the OttomanStatefor a while,yet from the second half of the sixteenthcenturyonwards,sigrificantchangestook place in the militarysystem.The mountedsoldiersunderthe timar systemstartedto loose their militaryfunction,and gradually deprivedof their timar.Thosetimar landsweregivento tax collectorsin their respectiveregions. This, however,was not a result of the corruptionof the mountedsoldiergroup,but ratherwas a renectionof the developmentsthat pushed for larger regular armieswith foot soldiersat the center, as firearmsgainedimportance.Hence,it shouldbe understoodas the Ottomanresponse that best fitted to the militaryrevolutionsin its environment. 284