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南極観測での技術支援 - 東京大学物性研究所

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南極観測での技術支援 - 東京大学物性研究所
南極観測での技術支援
第 43 次南極越冬隊に参加して
北海道大学大学院理学研究科極低温液化センター
櫻
勝巳
私は南極昭和基地での越冬生活を終え 2003 年 3 月末、1 年 4 ヵ月ぶりに日本に戻った。成田
に着いたときは夜だったので気がつかなかったが、次の日東京をぬける電車の中から見える咲き
始めたばかりの桜の花が新鮮なものとして映った。白い雪と茶色の岩肌の世界から緑と花が見え
る世界にやっと戻った気分である。越冬生活は長いようだが過ぎてしまうと早いもので、また行
きたいかと問われると「行きたい」と答えてしまう。
私が南極観測隊に参加するきっかけは低温工学のネットワークが南極で「極低温分野の仕事を
する人」を探していることを載せたことから始まる。参加できる条件などの情報を取り寄せ全国
の低温技術の仲間に応募を呼びかけた。しかし行きたい気があっても、職場や家庭の事情で、な
かなか候補者が決まらなかった。そのうちに私に「手をあげたら」というメールが入るようにな
り年齢的にもぎりぎり間に合うということで応募した。越冬隊員は帰国した時点で国家公務員で
なければならないという条件がある。定年前には帰国していなければならないのだ。私は予定通
り帰国したとして残り1年という年であった。
健康診断を受けてOKとなったが職場では私の仕事を代わってやる「人探し」で難航し、隊員
決定最後のメンバーの一人となった。人を送った後に代わりの要員を確保できるようにすること
が今後の大きな課題だろう。
2001 年 11 月 29 日に第 43 次南極観測隊
63 名(夏隊 23 人、越冬隊 40 人)が西オ
ーストラリアのフリーマントルから砕氷
船「しらせ」に乗って昭和基地に向かった。
別の海洋観測船でも 24 名が出かけたが観
測目的がちがうことから合流することは
なかった。右の図は 2002 年 11 月に日本を
離れ 2003 年 4 月に帰って来た第 44 次観測
隊「しらせ」の航路で、昭和基地からの帰
りはわれわれ 43 次越冬隊が共になる。
出航してまもなく船は揺れ始め、船酔い
に悩む隊員が出た。船は毎日海洋観測をし
ながら一路南へと向かう。南緯 40 度あた
りから南氷洋暴風圏に入る。捕鯨時代から
「吠える 40 度、狂う 50 度、叫ぶ 60 度」
と言われているとか、船はいっそう揺れが激しくなる。12 月 12 日頃に南緯 60 度地点で船は進
行方向を南から西にとる。舳先は大きなしぶきを上げ艦橋まで届く勢いで、船は縦に横に凄まじ
く揺れる。最大、左舷 53 度、右舷 48 度という記録的な揺れは床が壁になるありさまで、あち
こちで物が壊れるなど被害が起きた。私は幸いにも船酔いをすることもなく艦橋に上っては荒れ
る海を眺めていた。氷山が見えはじめ海が流氷状態になると波がピタリと治まり、いよいよ氷の
世界に入り込む。ペンギンも顔を見せ始め、分厚い氷を勢いつけて割りながら「しらせ」は進む。
一進一退を繰り返すころ昭和基地から飛行機がやって来て歓迎する。やがて基地のある東オング
ル島が見え、基地まで 11 マイルの地点で、手紙、酒、野菜、果物などを積んで第 1 便のヘリコ
プターが 42 次越冬隊の待っている昭和基地に向けて飛び立つ。われわれ隊員も「しらせ」の基
地接岸より先に順次ヘリコプターで基地に運ばれ、すぐに「夏作業」に組み込まれる。
この「夏作業」は基地を維持するためのさ
まざまな建築、修理作業、越冬するための物
資輸送、持ち帰りの廃棄物処理などである。
4 人とか 2 人一部屋の宿舎での生活は、いわ
ゆる「飯場生活」で、朝早くから夜遅くまで
日曜日なしの作業に追われ体のあちこちが
疲労で痛くなるなど、うわさ以上の重労働で
ある。素人が大半で、厚い氷割りから始まり、
重機運転、建物の土台作りから岩盤へのアン
カー打ち、コンクリートミキサー運転などな
ど。日本に帰ったら家を建てられるとの冗談
がでるほどである。これほど過密な作業工程
を組む理由は、短い夏の間「しらせ」が接岸
できる一月半ほどで作業を終えなければな
らないことにある。2 月初めに「しらせ」は
基地のある東オングル島から離れ、ヘリ輸送
が出来るところに待機し大陸や昭和基地な
どへの輸送を行う。もたもたしていると天候
の急変によっては氷に閉じ込められてしま
うおそれがある。
氷割り作業とケーブル引き
2 月中旬には観測や作業を終えた夏隊隊員を乗せ、最後のヘリが飛び立つ。このときの別れは
抱き合っての涙、涙である。「残される」という想いが強くはたらくかだろうか。
昭和基地は南極大陸から 4 キロほど離れた東オングル島にある。東より大きな西オングル
島がとなりにある。私は日曜日には遠足と称して西オングルとか大陸まで散歩に出かけた。
写真は空から見た昭和基地で、右側大型アンテナレドームの下方ある建物が私の主な勤務場所
「重力計室」である。
上空からの昭和基地
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基地から南極大陸方向
私の所属する観測部門は地学系で超伝導重力計の維持とデータ収録、VLBI(超長基線電波
干渉計)観測が主な仕事であった。地学部門の隊員は二人でもう一人は主に地震観測、GPS観
測を担当した。
(1)超伝導重力計
超伝導重力計は超伝導コイルで発生した磁場の中で球形の超伝導体を浮上させ、重力変化によ
って変動する位置を補正してやり、その制御電流を重力変化として読み取る。測定感度は 0.6 か
ら 1.0nGal。
写真1と図1に超伝導重力計内部の構造を示した。
図1
写真 1
図1
上の図は 2003 年春に起きた、アルジェリア地震と東北沖地震の振動が昭和基地の重力計に表
れたもので、上部の曲線が通常の潮汐での重力変化を表している。
ヘリウム液化装置は 1993 年に重力計と同時に設置されたもので住友重機社製。1ℓ/hの能力
である。写真2はヘリウム液化機、写真3は超伝導重力計、図2にそのフローを示す。
s
写真 3
写真2
図 2 液化機フロー
この液化機は冷凍機 2 台を使って冷却し、そこにヘリウムガスを流し液化させる。始動から
約 24 時間ようやく液化できる状態になり、140 リットルを溜めるために 1 週間連続運転となる。
昼夜交代の体制で私はもっぱら夜勤を受け持った。7 月の極夜のときは行きも帰りも暗闇の中で
真夜中は人の気配がまったくなくなり、表に出てはオーロラを眺めるのだが寒さが厳しく長くは
いられなかった。
装置はこれまで冷却水など何回かのトラブルがあり、記録を見ると液化率の低下も示していた。
シールド板温度と J-T 流量のコントロールの仕方が不明確な指示で、このコントロールの難し
さが液化率低下を招いていたようだ。液化させるヘリウムガスの流量(供給圧力調整)で温度を
コントロールすることで解決した。
液化の作業ではヘリウムガスボンベの交換が重労働で、空のボンベを外に出し、必要な数のボ
ンベを事前に中に入れておかねばならない。表に置かれているボンベは激しい風で飛ぶ砂などに
よって表面の塗装が変化している。砂が入り込まないように全ての隙間をテープでふさいでおか
ねばならない。
この液化作業は私と第 44 次隊の筑波大学池田さんで終わりになる予定で、新しく立ち上げて
いる超伝導重力計は再液化可能な冷凍機を組み込んでいる。現在、池田さんが新旧並行運転しな
がら調整している。写真 4 は新重力計で非常に小型である。写真 5 は液化窒素での予冷作業。
この後、液化ヘリウムを直接充填した。
写真4
新超伝導重力計
写真 5 予冷作業
(2)VLBI 観測
私の越冬中での重要な仕事の
ひとつに VLBI Very Long
Baseline Interferometry(超長
基線電波干渉計)観測があった。
全くの専門外の仕事であり、引
継ぎから手探り状態でマニュア
ルとにらめっこを繰り返した。
受信用 11m の多目的大型バラ
ボナアンテナが 1989 年(30 次
隊)に設置され、初めて VLBI
観測実験が行われた。その後
1998 年(39 次隊)に再開され
現在も観測を継続している。
VLBI の原理(国土地理院 HP より)
この観測はクェーサー等遥かかなたの天体からの電波を地球上の複数のパラボラアンテナで
受信することにより、到達する遅延時間からお互いの位置関係を高精度に求めることで、南半球
の高精度な座標系の構築、南極プレート運動や地殻変動を観測することを目的としている。
大型アンテナが設置されてから年数もたっていることから観測途中でアンテナが動かなくな
るなどのトラブルがあった。また、この観測では正確な時刻合わせが絶対的な重要さを持ってい
るが、突然に時刻が狂うなど観測が中断しあわてたこともあった。年間 8 回の観測行い、デー
タは磁気テープ 56 巻に保存し持ち帰った。
写真は 11m 大型アンテナが入っているレドーム
右上は衛星受信棟内アンテナコントロールシステム
右下はアンテナポインティングモニター画面
(3)野外支援など
越冬隊としての大きな仕事のひ
とつに昭和基地から 1000 キロほ
ど離れた大陸内部の基地「ドーム
ふじ」への物資輸送と基地立ち上
げがあった。そのための雪上車の
整備、物資の仕分け、S16 という
地点への集積などの支援作業に出
た。
地震計は昭和基地から離れた場
所にも設置されていて、バッテリ
ーの交換とデータ吸い上げに出か
ける。また、アデリーペンギンが
営巣する時期にも各地にその調査
に出る。夏はヘリコプターで運ん
でくれるが越冬中には海氷上を雪
上車で行くことになる。危険を伴
うので海氷上に赤い旗をつけた竹
棹を立てるルート作りが行われる。
右の図がルート図で、これらの仕
南方ルート図
事には担当隊員から支援要請が出され、それぞれの部署から手があがりチームを編成し出かける。
こうした野外行動はたいてい泊りがけで行われ食料や寝袋、燃料を橇と雪上車に積み込む。
作業は氷にドリルで穴を開け、厚さを測り「赤旗」を立て、方位を計測し記録しながら暗くなる
まで進められる。天候が悪くなると停滞を余儀なくされるので事前の予報が重要になる。海氷の
上なので、良くペンギンやアザラシに出会った。
(4)越冬生活
越冬中の生活は私にとってはきわめて規則正しく、食事は決まった時間にとり風呂にも毎日入
り日本では考えられない日常であった。40 人が閉ざされた場所で生活することから、気分が暗
くならないようにさまざまなイベントが工夫されている。週 3 回のバー、映画会、毎月の誕生
会、ひな祭り、花見、端午の節句、ミッドウィンター祭と何かとワイワイと騒いでいた。中でも
ミッドウィンターは 3 日間の大イベントで全員がかかわって準備し、眠る時間のない騒ぎであ
った。また、屋外では氷上(雪上)サッカー、ソフトボールの試合、遠足などが行われた。私は
休日に歩く仲間と隣の西オングル島とか大陸方面に出かけた。基地をほんの少し離れるだけで静
寂の世界で日本では体験できないことだ。
南極越冬という貴重な体験をさせてもらったことに感謝すると共に、支援して頂いた皆様に御
礼申し上げます。
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