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哲学・思想の基礎 第11回:善と悪とは何か

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哲学・思想の基礎 第11回:善と悪とは何か
哲学・思想の基礎
第11回:善と悪とは何か
石田担当分
その1:近現代哲学における善と悪(1)
質問への回答
意志の善さについて
• 「意志が善くなければ、きわめて悪く有害になること
もある。」とあるが、貧乏な家の人が、自分の子供を
救うため、高額な薬を盗んだ場合、これは悪く有害
なのか。
→当然、悪をなす(罪を犯す)ことになります。
• 子供を救おうとする意志は善いが、行為が悪ければ、
すべて悪になるのか。
→子供を救おうとする意志自体は善いと言えますが、
単純に手段が悪いだけでなく、悪い行為を選択して
しまったために、この行動は悪となります。
善と快
• 私は人に何かをしてあげたときに「自分は今
いいことをしたな」「自分はなんていい人間な
んだ」、と考えてしまうことがあります。自分と
しては何かしてあげるのを「善」の行為だと考
えてやっているのですが、実際はカント的に
言えばそういう考えを持って、人に何かしてあ
げるのは「悪」にあたるのでしょうか。
• →「いいことをした」ことに快を感じる限り、こ
の行為は善とはいえません。カント的には、
見返りを期待せずに無条件に善いことをする
のが、善だということになります。
• カントのいう「善い」「悪い」は、社会的、一般
的に正しいか正しくないかということではなく、
川の流れに従うように、無条件に*自然の法
則に従うことだと私は考えます。私たちは誰し
も、幸せになりたいという欲求を抱いています。
その中には、名声や富、よりよい社会的身分
を得たいという思いも含まれます。また誰か
によく思われたい、好かれたいという欲求も
あります。そういった思いから行われる[次に
続く] *下線部分は「あたかも自然法則に従う」が正確で
す
正しい行為(ボランティア活動、手助け)には見
返りをうけたいという目的が根底にあります。
カントはそういう見返りを求めない行為を「善」
と呼んでいると私は解釈します。
→その解釈は当たっています。見返りを求め
ない無条件の行為が善です。
• カントの道徳法則の道徳とは、現在私たちが使用している意
味の道徳と同じと考えてよいのでしょうか。
→同じと考えてよいでしょう。
• また、「一般的な法則」とはある時代において正しいとされた
天動説のようなものと考えて間違いありませんか。
→そうです。
• さらに、「神が要請される」とは誰に(何に)要請しているので
しょうか。
→この場合、特に誰かに要請するということではありません。
• 「神が必要と[要請?]される」と「神が人によって作り出され
る」とは意味が違うのでしょうか。
→「要請される」は「作り出される」とは違います。「作り出され
る」は人間が自分で考え出すことですが、「要請される」は人
間を超えたものが要請されることです。
• レジュメの内容を必死に俗っぽいレベルに変換して
理解してみようと試みたのですが、
• ~したい(will)が~しなければならない(should)にイ
コールになるようにすることが望ましいということで
すよね。
→道徳法則に従うことは「~すべき」(soll)になります。
• 例えば「A君とBさんがいるとする。A君はBさんのこ
とが好きである。A君とBさんが一緒の電車に乗って
いる時、A君の前に老人がやってきた。A君はBさん
に好かれたいので老人に席をゆずった」というケー
スの場合、A君が(老人に席をゆずるべきだ)という
思いからではなく、(Bさんに好かれたいから)[次へ]
• 思いから(席をゆずる)という行動にでているので、行
動自体が“善”であっても“最高善”ではないというこ
とですか。
→カント的には、ここには快が入っているので、この
行動は善ではありません。もちろん最高善ではあり
ません。
• では、例えば死期が迫っている患者に嘘を吐いてし
まうことは、カント的な善の考えではタブーでしょうか。
• このあたりがこんがらがってしまいました。
→そもそもカント的には嘘をつくことは善ではありま
せん。
宗教と道徳
• 宗教→道徳ではなく、道徳→宗教というところは新
たな考えが知れて有意義でしたし、興味深かったと
ころは、『宗教論』35頁にあった、人間が悪と呼ばれ
るのは、「その人間が悪しき行為をなすからではなく
て、それらの行為がその人間のうちの悪しき格率を
推定させるような性質を備えているからである」とい
う言葉は、「ヒトを裁くのではなく罪を裁け」ということ
ですか。[次に続く]
→それに近い言い方です。
• 私はこの文章を聞いた時、その人間が“悪”と呼ば
れるには内容が大切で、その行為が人々に悪とう
つる事だと悪となるということを考え、それと同時に
私たち人間の中で悪でなかった場合その行為が正
当化されるのか、疑問に思いました。何故なら、
後々その格率を(の?)とらえ方が変化するものも中
にはあるのでは?とも考えたのでそこが不思議に
思ったのです。
→たしかに、このようなことも考えられます。
• カントの考えは書き方が複雑で分かりずらかったで
す。いい人と思われたいからごみを拾うのはだめで、
いつでもどこでも誰も見ていなくてもごみを拾うのが
よいという解釈であっていますか?
→その解釈が合っています。
• 哲学者が納得するような普遍的なものなんてないと
思います。プラトンのイデア論のようにこの世界は不
完全とするのが一番いい気がします。不完全な世
界だから完全な善も存在せずどんなときにも善いと
言いきれるような善なんてないということです。
→不完全でも、善を求めることはできるはずです。
善はルールか
• 私は善悪について、善というものは自分の周りのコ
ミュニケーション内で、存在するルール規則に適っ
たものであり、適わなかったものが悪だと思います。
なぜなら、ルールに適っていない人物というのは、
“自分のみ”という“自己中心的”な態度をとり、周り
の人々に迷惑をかけます。ある共同体の中で生活
しているなら、相手に迷惑をかけるということは、わ
るい行為と受け取ることができるのでこれが悪であ
ると思います。
→ルールに合っているからといって善とは限りませ
ん。カントは道徳は、いつでも誰に対しても当てはま
ると考えます。
最高善と「心(魂)の不死」
• 感性界(現実の世界)では人は道徳的であっ
ても、必ずしも幸福を得られるとは限りません。
逆にまず幸福を得ようとすると、人は道徳的
ではなくなります。そこで、本来はやはり道徳
的であれば幸福を得られるのが望ましいと言
えます。それが道徳性と幸福との一致=最高
善です。しかし、道徳性と幸福との完全な一
致は感性界では得られる保障はありません。
[続く]
• そこで、その完全な一致を目指す無限な進行
が考えられます。この無限な進行をカントは
「理性的存在者の実在と人格性とが無限に
存続すること」(心の不死)と呼びます。最高善
はこのような心の不死を前提として可能とな
るとカントは考えます。そしてこのような最高
善を成り立たせる世界を生み出すのが神だと
されます。
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