...

Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

by user

on
Category: Documents
8

views

Report

Comments

Transcript

Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
<批評・紹介>岡崎精郎著「タングート古代史研究」
前田, 正名
東洋史研究 (1974), 33(2): 291-298
1974-09-30
https://doi.org/10.14989/153540
Right
Type
Textversion
Journal Article
publisher
Kyoto University
タング l ト 古 代 史 研 究
崎
精
郎
形式をとり、序論、第一篇、第二篇、第三篇、結論となっており、
最後に附録第一、第二、第三を附している。本文の各篤とも序説 、
本論、結語という形式を踏んで論述している。
第一篇は﹁唐代および五代におけるタング Iトの設展﹂で、第一
意﹁唐代におけるタング lトの設展﹂、第二章﹁五代期におけるタ
ング lトの研究││夏州政権の展開を中心として││﹂から成って
いる。第一章の内容はかつて著者が大撃を卒業するに嘗り提出した
の撃界における活動の最初として記念すべき論文であるが、その内
論文﹁唐代における黛項の設展﹂であって、昭和二十二年に東方史
論叢第一に掲げた問題名の論文を訂補したものである。これは著者 '
部を卒業していらい、,約三十年間にわたり努力してきたタング lト
古代史に闘する研究成果をまとめたものである。今回、この蓄を得
タング lト 白 卒 夏 部 と 東 山 部 第 四 節 勃 興 期 の タ ン グ lトと唐の
唐、吐谷津と
容は序説、第一節唐代タング lトの部族一世曾、第二節階、唐と吐
たことは同製の人々 とともに最近の皐界の慶事としてよろこびに堪
支配付迭絡の暴政とその影響、口武宗、宣宗の世におけるタング
本書は東洋史研究叢刊第二十七として東洋史研究曾が昭和四十七
えない次第である。筆者は研究がかなり著者のそれと関係してくる
の活躍と定難軍節度使李氏の成立││、結論となっている。この第
lトの叛飢とその針策、第五節唐末におけるタング lト││卒夏部
ト付吐蕃の進出とタング iトの動向、口河陥陥泊以後における内属
面があるため、かねてから著者の面識を得、時には抜刷の恵迭にも
預り啓震を受けてきた者であって、二十年以上も前にさかのぼるが
一篇第一章は本書の各篇各章を通じてもっとも多くの紙数を費して
いるのは、それだけ著者の若き情熱を傾けた力作だからである。
第一篇第一章はまず序説においてタング lトが西夏を建園したこ
とは東洋近世史上において重要な意義があると指摘し、しかもその
四川省西北部にかけての地域から、唐初、吐蕃の進出とともに唐に
る。そしてタング lトががんらいの居住地であった青海省方面より
建国の基礎は既に唐代において着々と進められていたと述べてい
本書の主要部分は陪唐代から北宋期における西夏建闘にいたるま
ので、ここに本警 の内容を簡寧に紹介してみたいと思う。
知しているつもりであって、それに最近本書を一讃する機曾を得た
甘州ウィグルについて見解を承ったことがある。こうして筆者はタ
ングlトの専門家ではないが従来の著者の研究経過の概略を一態存
まだかけだしの研究生の頃、著者の私宅に赴いて遠慮なく河西史や
谷混との聞におけるタング lト 付 惰 、 吐 谷 海 と タ ン グ lト、伺
グ lト、第三節唐と吐蕃との聞におけるタング l
Jン
著
年十一月に刊行したもので、著者が昭和十七年に京都帝国大田字文皐
曾 A 5剣本文一ニ六六頁 索引三七頁
昭 和 四 十 七 年 十 一 月 京 都 東洋史研究
岡
でのタング lト褒展史を時期順に述べたものであるが、全慢が論文
-121ー
批評・紹介
2
9
1
2
9
2
内属し、東北方に移動して、甘粛、侠西北部、ォルドス方面に庚くあり、その奴部であって、吐蕃は出師に際し必ず哩末を従えたので
分布し、中唐より晩唐にかけて著しく勃興し、その卒夏部の部省拓あるから、これを直に吐蕃に支配されるようになった吐谷海の部衆
抜思恭が唐末の混飢を機として銀、夏の地に勢力を増大し、中和元と断定するには疑問が残る。一位、唐後半期から北宋期にかけて漢
年(八八一﹀に定難軍節度使の地位を得るにいたり、さらに五代の民族周遊の諸民族の祉曾も大きく曲変化しつつあって、ウィグルにお
ε
いても吐蕃においても下層の者が支配階層を凌いでいく傾向が着取
観世期に入るにいたるまで唐一代を通じタング lトの設展をあと つ
け、西北透彊におけるその勢力の確立過程を論じている。第一節にせられ、かつて故前田直呉氏が指摘したように中園位曾が唐宋の縦覧
おいてタング 1トの部落組織を論じ、その最強部族である拓抜氏と革を迎えている時にこれをとりまく東ア ジ アの諸民族枇曾も沓来の
鮮卑の拓政氏との関係に燭れているのは、本書が通じて政治史的叙趨制から新たな開制に礎化していくのであって、このような東アジ
第こ笥はタング lト と ア 全 穫 に 封 す るE観的立場から混末の撞頭を考えねばならないので
述であるだけに興味の惹かれる部分である。 一
吐谷津との関係を論じるが、陪代にこの雨者は緊密な迷脚揮を保つてないか。唐末から北宋初期にかけて温末が掻頭してきたことは西北
評の域
いたが、麿の貞甑六年三ハ三二﹀、タング lトの拓抜氏を吐谷海か溢濁史の一大事であるが、この問題を論じていけば箪なる 書﹄
ら分離して、唐は西方拓頭上非常な成功を牧めたと述べている。こを脱するので、ここでは問題の所在を指摘するに止める。本章は宮
の見方は正しいと思う。崎市定博士、小野川秀美博士、佐藤長博士その他先翠の研究を注意
第三節では諸史料を引いて吐蕃の進出を述べ、これにともなうタ深く引用し、詳細な補注にこれを示し、丹念に史料を探索して考謹
ング iトと吐蕃との関係を論じ、内徒した拓抜氏以外の多くのタンをすすめている。
グ lトは吐蕃の下に屈服したとし、河隣陥波後の内属タング lト に 第 二 章 は 五 代 期 に お け る タ ン グ lトを論じた研究であるが、これ
ついて検討を加えているが、内従せず故地に残留したタング 1トがは著者が昭和二十九年に東方拳第九輯に縄けた﹁五代期における夏
吐蕃の傘下に入り、調薬と穏されたことを論じるに際し、西国龍雄州政構の展開﹂に手を加えたものである。この章は第一章の後を承
博士の西夏語の研究結果を引用している。なお、吐蕃の支配下にあけて五代期におけるタング lト諸族、中でもその中心的存在であつ
った哩末(葎末﹀について、小野川秀美博士の設を承けて、それはた定難寧節度使李氏(拓抜氏﹀の動向を五代諸王朝と遼との閥速の
おそらく吐谷海の部衆で吐蕃に支配されたものであるとしている下に、タング lトがどのような経過をたどってその勢力を績張して
が、これはよほど慎重に検討する必要がある。従来、論者によってきたかを述べたものである。内容は序説、第一節五代初期の李氏、
唖末を現業と封比して考える者も居るが、哩末と弾薬とを類似のも第二節五代王朝と遼の聞におけるタング lト諸族の動向、第三節夏
のと考えるのは無理ではないか。新唐書倉一一一六下吐蕃俸に見える州防衛戦をめぐって、第四節李勢股時代の夏州、結語となってい
ように、現末はがんらい吐蕃の下に立つ弱者であることは切らがでる。
-122一
夏州の李氏は後梁に服じ、ついで後唐に服するが、その位置 が契
丹と中原との中間に介在するため、五代諸王朝にとって夏州タング
展開と貿易問題││西夏建園前史の一節として││﹂の一部を材料
、結語から成っている。第一章は昭和四十二年、
を中心として 1ll
追手門事院大事文事部紀要第一に載せた﹁宋初広おける夏州政権の
した論文の一部を補ったものである 。第一章は序説において、既に
和三十四年、東洋史研究第十八省第一一慨に掲げた問題名の論文を訂
補したもの、第三章は前記の追手門事院大皐文田宇部紀要第一に掲載
とLているほか、ほとんど別に書き下したものであり、第二章は昭
lトは 警戒すべき存在であって、李氏占契丹との連繋設さえ生じた
らなかったど論じている。本章はたえず契丹と五代王朝の関係から
立政楢を固め得、後周の時期になってもこの濁立僚制はほとんど餐
五代を通じてその勢力を確立したが、強大な宋の墜力が波及するに
唐末にタング lトの李氏が中園の西北角に確固とした勢力を築き、
と指摘し、後麿が 夏州を攻撃して失敗したこと、この後、李舞超、
李努般の時期を経、後音、後漢の勢力の微弱な時期に乗じ夏州に濁
で正鵠を得た論であるが、ここではなお夏州が無定河上流域のまこ
トが宋に来貢し、夏州の李氏政機がその摩迫を蒙 っていく後相を論
に射する支配が不動のものになったと断じている。
-123-
夏州政権を論じているのは李氏政摘の地理的意義を明かにしたもの
じているが、これが宋遼二園がタング lト諸部を争う前鰯れである
及んで李繕捧はついに屈服したが李総遜は執劫に抵抗し、鐙州を攻
陥し、西夏建国の基礎を固めたことを概観している。そして第一節
り、それは北貌の世租が赫漣昌の緩る加熱定河上流の統高城を陥れた
時、莫大なる畜産を得ていることからでも察知されるのであって、
とに紹好の牧地に恵まれた、移しい畜産のある地域である鮎を論じ
る必要があろう。がんらいオルドス沙漠東南縁迭は無定河流域や窟
李氏の夏州政権の経済的基盤がこの無類の畜産地域を占接している
を宋に朝貢させたが、著者は磯朗吹裕勤の居住地が墜州路に嘗って
部の噸朗吹裕勃
はm
が
としている。この時、太卒輿闘四年に拓抜日策、
に﹁宋初における李氏の動向﹂を掲げ、宋の太租のタング lト招撫
州方面のタング l
策が進んで、太卒輿園四年(九七九)、府州、幽車
う。著者が二二九頁において李仁繭が龍徳二年ハ九二二﹀、後耳目に
馬五百匹を献じ、これが他のタングlトの貢献する畜産より多いこ
とを述べ、また一四五頁ー一四六頁にタング lト諸族貢献物表を掲
げて、貢献物の中では歴倒的応畜産物の多いことを示しているもの
O﹀に従来の父子相績の慣例を破って李総捧が兄弟相績によって絡
承すると、李氏政権に動揺が生じ、内航がおこったこと、宋がこれ
を機とし李総捧を内役し、彰徳軍節度使に任じ相州に縛出せしめ、
その鐘貼地であった夏州から李総掠を逐い梯ったことを述べてい
る。第三節は﹁李総選の奉兵と抵抗戦争﹂で、李総捧の宋への内
第二節は﹁李総捧の縫承と内従事件﹂で、太卒輿園五年(九八
の、夏州が特に豊富な畜産地域であることを論じていないのは残念
である。
第三篇は﹁西夏建闘前史の研究﹂で、序説、第一章李総遷の興起
前後、第二章宋初における二三の禁令とタング lト問題│1李総選
の興起をめぐって1 1、第三章李徳明持代の研究ーーその経済外交
いたことに注目し、これが宋に鏑附するに及んで宋の夏川李氏政権
という事責にもとづいている鮎を明かにする べきではないかと思
野川流域など緑地に恵まれ北貌の時期からきわめて豊富な畜産があ
3
9
2
294
附、内徒に反し、その族弟李総遜は唐代いらい李氏が保持してきた
停統的接貼地夏州を守る最後の一人として宋に激しく抵抗した始末
を述べている。第四節は﹁宋遼聞における李緩遁の動向﹂で薙照三
年(九八六)、李総遜と宋とが全然、夜交渉となって、翌年雄照四
年︿九八七)李総遜は遼に降り、これを縛機として従来宋に入貢し
ていた西域諸国も宋への入貢を止めて遼に来朝するようになったこ
と、李総捧と李総遜とが封立したが、ついに李総捧も遼に入貢する
にいたったことを述べている。ここで論述をすすめるに笛り、宮崎
市定博士の﹁西夏の興起と青白堕問題﹂(東亜経済研究第十八谷第
二腕﹀を踏まえ、{木がタング lトの青白堕採取を厳禁したことは彼
等を食糧攻めにしたことになり、追いつめられたタング lト諸部が
大同国結して鍍観するにいたったと述べている。、そして結語におい
て李総遜の叛飢を要約してまとめ、李氏(拓抜氏)の世系表を掲げ
ている。
第二章は序説において中閣の歴史上、塞外民族と漢民族との通
婚、混血が有した重要な意義を述べ、第一節に﹁女ロ私市の品目﹂を
掲げ、タング lトが中闘に来て、女口を私市して蹄還するのを禁じ
た事情を説明し、第二節は﹁宋初のタング lトと流民問題﹂で、宋
がタング lトに波入した流民の回収に努めたことを述べている。第
三節は﹁西北漫の動凱と人口一質問貝﹂で、宋が漢人が塞外に流出する
のを禁じたにも拘らず、西北迭において漢人は依然として蕃部に浪
人し、人口寅買が行われたこと、第四節は﹁蕃漢通婚とその禁令﹂
で、至道元年(九九五﹀、西北線透諸州の漢人が内閣潤したタ γグ lト
と婚姻することを禁じたことを述べ、五代いらい見受けられた蕃漢
遜婚が全く禁絶された事賓に注目し、第五節﹁蕃漢遁婚禁止令の背
景とその意義﹂において通婚を禁止したのは李縫遜の勢力が績大し
てくるので、これに宋が封臨隠したものであるとしている。結語にお
いて著者は女口私市を禁止した歴史的背景は李繕遜の興起による西
北遣の緊迫した情勢にあると論じ、西夏の支配者層において蕃世間通
婚は屡見するが、西夏建闘よりその鼠墳にいたる二百徐年聞にわた
って西夏圏内の漢人は異民族支配下にあってなおタング lトと混融
せず、元代に入ってもタγグlト浪人漢人は﹁漢河西﹂として、タ
ング lトである﹁蕃河西﹂と区別されたと指摘している。視野を元
代にまで機げて論じるに敬意を携うが、この場合、漢人がタング l
トに抽出入していく際、オルドス沙漠南縁の白子山塊附近すなわち宋
の保安寧順寧塞附近から流亡していくことが多いのに注意を向ける
必要があろう。
第三章は﹁李徳明時代の研究﹂であるが、保安軍における椎場の
成立までと、この以後とに分けて考察している。序設において李徳
明活躍の意義を概説し、第一節に寸椎場の成立をめぐって﹂を掲
げ、李徳明がついに景徳四年(一 OO七﹀七月に保安軍椎場に赴い
て交易する権利を得た次第を述べ、遼のようにまだ園家健制の整わ
ない李氏が宋と橋場において交易することは特筆広債すると言って
いる。そして李氏から宋への入貢に際し将来される品目も唐、五
代、宋初の場合はほとんど馬匹であったが、この時期の貢献ロ聞はヴ
ァラエティーに富んでいることに着目し、これは河西ウィグルの入
貢品目であるとし、李徳明時代にはタング lトは河西ウィグルの鎖
中国貿易の仲縫をしていたと論じている。この指摘は李氏の交易活
動上、非常に重要な意味を含んでいる。たしかに李氏の将来品目に
は甘州ウィグルの貢献品目、が見え、李氏、がこの頃、河西ウィグルを
-124ー
2
9
5
支配し始めた意義は大きい。試みに宋初から嘉秘八年︿一 O六三)
にいたる聞における西涼府、甘州の宋'
への貢献品目を調べると西涼
府(涼州)からはほとんど馬だけが貢献されているのに反し、甘州
からは玉類、資貨類、砲砂、筑香など西方から流入した主恩われる
諸種の貨財が貢献されている。河西ウィグルの最大の集圏は甘州ウ
ィグルであることは言うまでもない。第二節は﹁その後における経
済成長と政治後展﹂で、保安軍機場における交易構獲得後、さらに
交易を求めて李徳明が入冠したこと、甘州ウィグルを攻撃して遼と
争ったことを述べ、ついに天聖六年(一 O ニ八)に李徳明はその子
李元臭をして河西ウィグルの本線地である甘州を占領せしめ、ここ
に西夏建園の基礎を固めたと結んでいる。
第二篇は﹁タング lト・ウィグル関係の研究﹂である。その第一
章タング lト・ウィグル交渉史の研究は昭和三十五年、第五回日本
西殺事曾紀要に愛表した﹁タング 1ト・ウィグル交渉過程の研究
への入貢路をタング lトが脅かしたこと、宋が甘州ウィグルの入貢
││西夏建闘史の一節として││﹂を訂補したものである 。第一簡
は﹁唐・五代における 交渉過程﹂で、甘州に移住したウィグルの宋
路確保に重大な関心を掛っていることを述べている。第二節は﹁宋
初の河西ウィグルと李氏﹂で、李総濯の西涼府攻撃、李徳明と甘州
ウィグルとの戦いについて述べ、第三節に﹁李氏の河西経略﹂を掲
げ、李徳明の西涼府占領-李元臭の甘州占領と、これにともなう
遼・宋の態度に燭れ、大食の海路入貢など、タング lトの河西占領
が東西交通上大きな繁化を引きおこしていることを指摘している。
また、李元臭が渥河流域に侵入し、青唐族大首領崎原礎墜下の軍を
破ったこと、瓜、沙、粛三州も陥って河西通廊が完全に李元美の支
F
配下に入ったことを述べている。李氏の 河西通廊制盤がすすんでい
くにしたがい、 ,甘州ウィグルに新な動きが生じ、これをめぐって
宋、遼の角逐が展開されるが、著者はこの際生じた東西交易路の大
きな努化に注目している。著者の大局観は受賞なものであるが、室
萄の言ではあるが、李氏が河西通廊を東方から逐次に制墜していく
にしたがって東西交易路が愛化し、河西通廊西方から、また河西通
廊から中圏内地に逮する新な路が設生していく、たとえば大中鮮符
いくのであって、このような貼にまで燭れて論述をすすめれば甘州
四年︿一O 一一﹀から宗一骨路が、天稽四年(一 O 二
O﹀から秦州路
が、天聖中期(天聖は一 O 二三ト一 O 一一一一)から青海路が展開して
ウィグルの激しい交易活動と、これを支配していく李氏の歴史的役
割がより一一層明瞭となると思う。
また著者は二六九頁に西涼府が李氏に抽出する年代を大中鮮符六年
o=
O 三二)に西涼府が完全に波したと述べ、一二五頁、二六二
ニ﹀二月と大中静符八年(一 O 一五﹀九月との聞に考え、
一
(
この考定には筆者の所論も参考にされているが、二七一頁に明道元
年三
頁、二九九頁などには威卒六年(一0
0=一﹀十一月に西涼府が李総
蓬に占領されたと述べている。これは著者自身には充分理解してい
ることと思うが一見、讃者を迷わせるから、威卒六年十一月は李繕
遜の一時的占領に過ぎないこと、明道元年の占領は、その前にウィ
グルに奪回されていたものを李元美があらためて銭いたものである
ことを説明する必要があろう。
第四節は﹁西夏支配下の河西﹂では西夏の支配下にありながらウ
ィグルの勢力は相嘗なもので、西夏の支配を河西園部に限定して言
えばおそらく鮎と線との支配に過ぎなかったと論じている。河西通
1
-125-
グルの動向を述べたものである。最後に結論を掲げ唐代より宋初に
いたるまでのタング lトの歴史的援展を回顧して要約し、著者の関
第一章に述べた李元美期の河西全土支配にいたるまでの致治
廊 は 言 う ま で も な く 古 来 東 西 交 通 の 要 路 が 通 じ 、 西 夏 が こ こ を 占 有 ﹄ の章は
史的記述の後を承け、ムれに封懸していく宋、遼の態度と河西ウィ
す る と こ の 東 西 交 通 路 は 断 紹 し 、 西 夏 の 図 境 に沿って新な闘際交通
路が誕生するのであって、ここでは卓曜監軍司、黒山威漏監軍司そ
心はまさに西夏史研究に向わんとしていると述べ、その意欲を示し
の他の監軍司の交通上の意義などの検討から西夏園家の基盤とでも
F交 易上 の重
言うべき、その版闘の占める国際的調野における交通
ている。
なったこと、仇餓などの裁剣には烏桓の大人と同じく機能したと考
えられる和断官、が居たこと、タング lト法典が成立じたのは西夏建
論文はまずタング lト内部に血の復餓を重んずる慣習があったが、
しだいに人命賠償の形態をとり、財貨を以って血縁に代えるように
人と接繍するにしたがい展開させた法について論述している。この
附録第二は﹁タング!ト慣習法と西夏法典﹂で、タングlトが漢
讃者に感じさせる。
さらに哲皐者高坂正顕博士の見解まで引いて、その幅の底い皐聞を
成立問題に論及している。この間題を論じるに賞り著者は西夏関係
の文献のほか、江上波夫、山田憲太郎、白鳥清など諸氏の研究や、
関見録の記録とを結びつけて考察し、タングlトにおける羊崇奔の
摩 げ て い る 。 そ して羊骨を 灼 い て 占 う 方 法 が 祭 天 の ほ か に 行 わ れ て
いることを指摘し、マルコ"ポlロの記述と清初の人家土弘の西陵
師、占卜師の三機能について述べ、その占卜について四種の方法を
シャーマニズムにほかならないとし、シャーマニズムがタング iト
、
に行われた詮を諸史料を翠げて一示し、特にシャ l マンの折滞 師 、 盤
族信仰について﹂ である 。著者はタング lト民族の民衆生活を直接
規範したものは法ではなく、また併教でもなく、遼の場合と同じく
主論の後に附録三篇が附せられている。第一は﹁タング l トの民
要意義にも鍋れて論ずれば﹁西夏支配下の河西﹂の歴史的意味がさ
,らに鮮明になったのでないか。しかし第三篇の後に掲げた結論にも
あるように、これから著者の研究は商夏史に向うのであって、今後
の成果に期待したい。第五節は﹁文化並びに経済面におけるタング
lト・ウィグル関係﹂である。
第三篇第二章は﹁河西ウィグルをめぐる闘際関係の研究││劉遼
闘係を中心として││﹂である。これは昭和三十三年に石演先生古
稀記念東洋琴論叢に枚められている論文を訂補したもの。第一節は
﹁河西ウィグルをめぐる遼と五代王朝﹂との閥係危論じたもので、
時を逐うて遼と河西ウィグルは緊密化するが、むしろ河西ウィグル
の経済活動は五代王朝を封象としたものであると述べ、第二節﹁河
西ウィグルと宋、遼﹂では五代に引き績き北宋期に入っても河西ウ
ィグルの宋への入貢一が綴いたこと、しかし李総遜が遼に投降してい
らい、李総遜は西方諸国朝貢使を宋から鱒じて遼に赴かしめたこと
を述べ、時期とともに河西ウィグルの入貢をめぐって宋、遼の手い
が激化したと述べている。第三節は﹁タング lトの河西占有と遼の
封河西工作﹂である。宋、遼の河西ウィグルをめぐる角逐の間隙に
乗 ず る ご と く 、 タ ン グ l トの李氏が河西に進出し、李元臭が完全に
河西全土を支配したことを説き、遼の河西料開策が執劫に績けられ、
由り育唐に達していることに注目している。こ
遼
t 使、がウィグル路に
-126一
o
O
29
展史の立場から論究したものではない。著者は大皐卒業いらい、約
三十年間の歳月を費じて、タング lトが唐代に吐谷津と接鋤し、吐
留後一世紀以上も経た後で、李一元臭時代の律法書も李元臭の刑政の
ら問題を取り上げ、研究した結果を設表じている。筆者もまたか﹄
っ
参考にじか埼きなかったものとし、 νエングラlドのアジア博物館
て西夏時代の河西を避ける交通路その他について論じたら﹂とがあ
所蔵コズロフ・コレクションの中で最近西国龍雄樽士が天盛奮改新
る。しかし、これらの護表されているものはいずれも個々のタング
定禁令と修正したものに注目して、宋史夏闘停下と劉照し、これを , lト族に関した 事項であって、著者のように一貫したタング lト登
紹興十八年(一一四八﹀に檎備した律と考えている。
附録第三は﹁高田田行紀に見える打嘗の語について﹂である。高昌
蕃に逐われ、また唐に録勝されてよりいらい、漢民族と契丹との間
に介在して動揺しながらも、ついに李総濯が侍統的根抽源地の夏州か
を附している 。 これは行聞に惨み出る慎重な論のすすめ方とともに
著者の良心的態度の現われであろう。
密、丹念に調査し、論を慎重に進めている。本文中に史料の出典を
括弧に入れて一均一ホし、さらにこのほか各章ごとにその移りに補註
ら興起して鐙州を陥れ、河西東部を い、李元臭期の河西全土制
制
捜
盤、西夏建闘にいたるまで屈折しなが
ら護展していく様相をみごと
にまとめ 上げている 。先撃の研究や論述する事項に関する論文は級
行紀とは太卒奥園六年ハ九八一﹀に王延徳が西ウィグルの本接地で
ある高昌に使した時、彼が記した政行記のことであって、原本は失
J
われているが績資治通鑑長編谷二五、 島
市木史容四九O高昌侍などに牧
められ、その原形を窺うことができるものであ免 この中に打嘗の
F
ル語から解して租税、徴畿の意にとられたが、著者はこの打首は漢
民族の言語から解せねばならぬと言い、石山福治氏の解意をとっ
て、安排する、適嘗にこしらえ整理するの意としている 。 これにつ
必要であると思う。また李元美期に成立した西夏画家については著
者が論じたタング lト・ウィグルの交渉のほかに検討すべき事項が
多く、特に交日朝、交通について闘際的規野から論じる態度に飲けて
いるのは残念である。しかし、これとて結論に窺われるように今後
の著者の研究に倹っところであろう。著者が西夏史研究の新しい成
果を績之授表されるのを同皐の土とともに期待したい。 '
要するに唐代いらい西夏建国にいたるまでのタング lト設展史を
いて最近、愛宕松男教授は著者の読に賛意を示 した 。︿愛宕松男
若干、希望を言えば木書に地闘が一枚もないのはいかがなものか
﹁斡脱銭とその背景(下 ご (東洋史研究第三十二容第二蹴﹀これら
と思う。讃者の便に供するためにせめてオルドス沙漠、夏州、賀関
'
附録三篇はいずれも附録というものの、本論に論じたタング lト族
山山娠、 震州、西涼府、 甘州、河西通廊などの位置を示した地闘が
の祉曾に閥ー
する重要なことがらであって、讃者は必ず本論と併せ讃
む必要がある。
以上、いくらか卒板に流れた憾みもあるが本論の各篇、附録三篇
の内容を網羅的に紹介してみた。がんらいタング lト族は唐、五
代、北宋の西北逢種史上の重要な意義を有する民族であるが、従
来、種々な立場から諸家が論じている。宮崎市定 1小野川秀美、藤
枝晃、佐藤長、中島敏、西国龍雄、山本澄子等諸氏が各自の槻鮎か
-127ー
語が使用されているのであるがスタニスラウス・ジュリアン (
ωg守
ZEST--g
)は掘保を奥える意味に解し、白鳥庫士ロ得士はそン コ
2
9
7
2
9
8
手際よくまとめ上げたことは息界にとって大きい牧獲で、本書の出
現によってタング lト族に闘した従来の個々の研究は新な意義を奥
えられたと言っても過言ではない。省末の索引もタング Jト史に閥
記
大津
本年度東洋史研究舎大曾の講演者並びに講演題目は次の
通り決定致しました。(敬稀略﹀
朱全忠政権の成立
吉田
正憲
間野英二
午 前 九 時J午 後 六 時
電話(七五一﹀
二 OO
(前田正名)
する事項を調べるに際し研究者の便宜となろう。本書の内容の紹介
に際し、所々に挟んだ妄評は偏えに著者の諒恕を請う次第である。
--=ロ
ヨ﹄
十一月三日(覗)
繁友曾館講演室(二階)
京都市左京医吉田近衛町
なお嘗日は、大曾終了後同曾館内におレて懇親舎を議定
しておりますので多数御参舎下さい。
JFJA叩 V
lb
p
I
L、
r'!jrlJ
7
u,(
i
l
研
二十世紀中園の一棉作農村における農民層分解について
唐代河北藩鎮における交易について
﹁開稿用兵﹂と韓佐宵政権
テ ィ ム l ル家に闘する一俸承について
信夫
三田村泰助
史
事
インドネシア共産黛とインドネシア協曾
カイイムトゥ文書補論
現育代の顕川庚氏について
清代華宵の水利組織について
金の景組について
東'洋
いずれも近出泊下$
曾
訂幅引 l離京倒:肺からiIiパス @l
号、市電話量畠[車山岨}
来凹臨河属i
町から市パ λ @
番、@番
究
-128ー
日
時
場
所
曾
多数御来襲下さるようお願い致します。
i
i
j
¥
関
正
昭
法
調
明 介
昭
衣畑
川地
森 多 山 永
田 国 田 積
強
大
Fly UP