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かなであん No.252

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かなであん No.252
ざいごう
浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
2014.2.20 発行
kanadean
No. 252
249-0002 逗子市山の根1-7-24
Tel : 046-871-1863 Fax : 046-872-3485
http:// kanadean.net mail: [email protected]
生き方を選び、決断する。その
ような権利とともに責任もまた
人がいる 生活がある
を理想に掲げると同時に、自分
の置かれている周りを見つめ、 だからこそ そこに教えが 大きかった時代だったようです。
こうでなければならないという
息づくのだろう 甘えという余地がないという面
頑なな心を解き放って、今いか
では、今の女性以上に自立して
に生きるべきかを工夫するとい
浄土真宗の2月は仏教婦人の
いた時代に親鸞聖人と恵信尼さ
月と定められています。私たち
う、人生を全うするにあたって、
まの家族生活があったのです。 もっとも求められる生き方であっ
が仏教婦人と聞いてまず思い浮
京都で親鸞聖人と暮らす娘、
たことが伝わってきます。 かべるのは、親鸞聖人の妻、恵
覚信尼に宛てた手紙には、飢餓
親鸞聖人ご夫妻のご教化は、
信尼さまでしょう。 によって、使用人や面倒をみて
教団や寺院を築くことではなく、
親鸞聖人が結婚された恵信尼
いる孫達のために着物などを売
自らがお念仏の他力の信心に生
さまが架空の人物ではないかと
り払い着るものもないと報告し
きることを貫かれたご生涯だっ
言われていた時代もありました
ながら、母親になったようだと、
たと考えるとき、お念仏のみ教
が、本願寺の蔵から恵信尼さま
何か充実した日々であるように
えがより深く味われます。 のお手紙が発見され、親鸞聖人
書かれてあり、環境に順応して
親鸞聖人は、み教えを一方的
と家庭を持ち、信仰に生きられ
生きた方であったことが推察さ
に教え導くのではなく、家族を
たご様子を知ることができるよ
れます。またそれは、あえて自
持ってこそ悩み、学び、気づく
うになりました。 分の生活を知らせることによっ
ことによって、そのなかでより
お手紙から拝察するご夫婦の
て、離れ暮らしていて直接話せ
普遍的な教えへと完成されてい
お姿として有名なのは、お互い
ない娘にも、生きていくという
かれたと言え、親鸞聖人と恵信
を観音菩薩と尊敬し合っておら
ことを知ってもらいたいという
尼さまは、世俗の営みのなかで
れたこと、晩年には京都と越後
親心が表れたものではなかった
阿弥陀仏のご本願と大慈悲を仰
に別れて過ごし生涯を終えられ
かと思えます。 ぐことを生き方の第一として生
たということですが、その夫婦
ご夫婦が京都と越後に離れた
きられ、後の私たちに生きる燈
像、家庭像は、現代の私たちの
まま生涯を終えられた本当の理
を示して下さったのです。 価値観では推しはかることはで
由は分かっていませんが、親鸞
信仰は生活から遊離したとこ
きません。 聖人が亡くなられたことを告げ
ろにあっては意味はありません。
* * * てきた覚信尼への返信に、 疑い
在家仏教を標とする浄土真宗は
京都と越後で交わしたお手紙
なく極楽往生こと、うれしく候、
『人がいる』『生活がある』そ
の内容には、その当時の社会の
うれしく候 、と強い調子で言い
こに『息づく教え』です。 風俗や習慣、財産、身分制度な
切っておられるように、遠く離
恵信尼だまが味われていたよ
どが書かれたものもあり、そこ
れておられても、同じお念仏の
うに、親鸞聖人のみ教えは日暮
からは、昔の女性が男性に従属
み教えをよろこばれたご夫婦の
らしのなかに息づいているので
する人生でなかったことがわか
人生を確信させ、恵信尼さまが、
す。 ります。女性であっても、自分
いかなる事情があっても、信仰
合掌
【絶対に正しい】
奏庵法座 という危険 全聾であることも、作曲をしたと
いうことも偽りのインチキがばれて
大騒ぎだ。「現代のベートーベン」
と呼ばれ、CDがクラシック界では
異例の売り上げ現象が起こっている
ことなど、ゴーストライターが現れ
て事件になるまでまったく知らな
かった。■言って悪いが、本当に障
害を持つ人々とベートーベンを除い
ては、これに登場する誰にも文句
を言う資格はないと思う。黒ずくめ
の衣装、髭に長髪、光を浴びると
耳鳴りがするためというサングラス、
どこを庇ってなのか手にはステッキ、
ピアノの弾き過ぎで痛めたと手には
包帯等々……。嘘だと判ってから言
うのも何だが、どこから見ても絵
に描いたような胡散臭さだ。■そ
れを天下の報道機関が見抜けず、詐
る。社会から非難されないよ
欺を助長させた。報道の義務と責
うにしていくという裏側には、
任からして、スポーツであれ、芸術
大勢に迎合してしまう危険性
であれ、政治であれ、それに通じ
た人の検証が第一だろう。その上に
が潜んでいる。世間の顰蹙を
その人となりなどを付加してドラマ
買うような行動は避けなけれ
に作り上げられたものなら、どう見
ばならないが、あまりにも時
るかはこちらの責任だ。オリンピッ
流に流されると、教えに背い
ク報道を見ていても、感動ものに仕
てしまうことになる。こんな
立てようとすればするほど真実が
仏教のもつ宿命的な板挟みを
ぼやける。■今回の件も、本物を知っ
一挙に解決する方法はない。
ていればつけない嘘。嘘は大きい
その時々、正確な情報と合理
ほどばれないと言うが、交響曲が
作曲できたらいいなあ∼という憧
的な理解と、そして仏教がも
れからではなく、有名になりたいた
つ独自の世界観に基づき判断
めだけの浅知恵からだったから、
していくしかない。 障害者やベートーベンを冒涜すると
戦争に協力した僧侶も心は
いう大罪に及ぶことに思いがいか
善意で満ちていた。「みんな
なかった。滑稽ですらあるが、本
のため、善かれと思って」そ
人は今も気づいていないだろう。■
うしたのである。そういう人
おかしかったら、「おかしいよ」
たちを声高に非難することは
と言ってくれる、「あんたの嘘はば
れているよ」とわからせてくれる人
できない。今「世界平和のた
がまわりに居てくれるのは幸せなこ
め、国のため、善かれと思っ
とだ。それがいない不幸は勘違い
て」やっていることにも間違
の連鎖を生む。■偽られたものと
いがあるかもしれない。そう
知らずにフィギアスケート音楽に使
いった間違いを少しでも防ぐ
用した高橋選手、「バイオリンのた
ためには、「自分は絶対正し
めのソナチネ」というもっともら
い」という「我」を捨てるし
しい題名の曲は虚しく流れたが、
彼に罪はない。注目をあびることを
かない。「この世は自分中心
目指したのではない、自分の目指
に動いているわけではない」
す道を真摯に求めてきた選手の姿に
という思いこそが、日々の判
は、真の難しさと楽しさを知ってい
断を下していく基盤となるの
る者の強さ、美しさがある。そこ
である。 にこそ、順位を越えたものを感じ取
(佐々木閑著より)
りたい。それがフェアというもの
だと思っている。 Norimaru
お坊さんを見る社会の目が
日時 厳しくなるのはありがたいこ
2月26日(水) とだ。世間の目を意識するこ
午前11時より とで、おのずから質が向上す
るのであるが、そこには問題
もある。世間の目を気にしす
「真宗宗歌」 ぎると、世の中のゆがみに流
正信偈 される危険が出てくるのだ。 法話 日本が戦争色に染まった時
ご文章拝読 代、「僧侶だから戦争に協力
「恩徳讃」 しない」と抵抗した人もかな
りいたが、戦争を賛美する僧
∼*∼ 侶も多く、反戦論者は迫害さ
おとき れ、賛美した人は褒められた。
ここに宗教のもつ問題点があ
毎週末の雪かきは、雪国育ち
にもさすがにこたえる作業でし
たが、厳しい豪雪地帯育ちから
すると、 これしきのことで
…… と思わされます。予定され
ていたご法事が延期になり、庵
に籠もって谷戸や街が雪化粧さ
れていくのを眺めていると、北
海道の豪雪では到底生まれよう
もない文化「雪見て一杯」がふ
と浮かびました。 ご法座の日には雪がなくなっ
ていることを願います。どうぞ
足元に気をつけてお参り下さい。
編 集 後 記
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