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要旨 [PDFファイル/167KB]
国際観光学科卒業論文(2015 年 12 月提出)要旨 指導教員:喜田慶文教授 生存説のパターンで最も信憑性のあるものについて ‐源義経を中心として真田幸村、明智光秀の生存ルート、目的に関してのパターンを調査 1820120015 山道 宥祐 1.論文構成 第一章 序論 1.1 はじめに 1.2 研究方法 1.3 源義経 第二章 生前までの経歴 源義経の生存説 2.1 源義経の生存説のルーツ 2.2 源義経生存説 2.3 義経遺留説 2.4 義経影武者説 2.5 義経脱出ルート 2.6 義経偽名説 2.7 義経年齢説 第三章 真田幸村と明智光秀との生存説の共通点を比較 3.1 真田幸村・明智光秀概要 3.2 遺留説 3.3 影武者説 3.4 脱出ルート 3.5 偽名説 3.6 年齢説 第四章 考察 第五章 まとめ 参考文献・参考資料・参考 web 一覧 謝辞 2.要約 (1)研究の目的 歴史という言葉にはいくつかの意味が存在しており、その中で古くから存在されているも のを記述・記録されている意味である。痕跡を残さなかったものは存在していないことを 意味しており、別の言い方で表すと、実際に戦いで負けて死んだ武将が徹底的な資料や情 報が無い限り、生存説として生き延びていたのではないか。また、生存説として政権を取 ることが出来る人物であるからこそ、生存説が存在し、後世の人たちに伝えたかったので はないかと考えられる。本論文では、生存説として有力な源義経を中心として歴史ミステ リーで取り上げられた真田幸村・明智光秀の生存説を比較して、最も信憑性のある生存説 のパターン及び仮説を立てて調査を行う。 (2)内容 まず義経の生存説が作られたルーツとして徳川光圀による蝦夷地での義経生存調査から始 まっていることが分かった。衣川から蝦夷地、そしてロシアからモンゴルにかけて義経の 史跡や遺留品、末松謙澄氏、小谷部全一郎氏といった歴史研究家の調査によって、義経成 吉思汗説が存在していることが分かった。第二章では遺留説、生存ルート、影武者説、偽 名説、年齢説の五つについて深く説明する。遺留説では、義経の生存ルート、墓及び史 跡、遺留品が奥州から蝦夷、海外の義経の墓や家に刻印されている源氏の家紋・笹竜胆と いった史跡が存在していることが分かった。また、成吉思汗の戦術が義経のものと酷似し ていることや、当時武士の訓練として行われた相撲や巻狩りがモンゴル帝国でも行われて いた。影武者説は、福島城主・杉目太郎行信が義経と瓜二つであり、身代わりになってい たことが記載されていた。脱出ルートとして陸路・海路は勿論、義経に至っては成吉思汗 として行動を興していることが記載され、偽名説では、小谷部氏による海外での義経の呼 ばれ方がキン・ウ・チイ、チン・キ・セー・ハンとして成吉思汗に近づいていることが調 査で分かった。年齢説では義経、成吉思汗の年表グラフをもって表示。出生は不明ではあ るが、年齢はほぼ一致しているのではないかと考えられる。 第三章では、比較対象である真田幸村・明智光秀の生存説として真田幸村の遺留説では、 薩摩に存在している墓や幸村が九度山で作った真田紐が大館に存在していることが分か り、光秀は、天海説として日光東照宮に桔梗紋が存在し、また明智平や慈眼寺に在る光秀 の像等の存在が分かった。影武者説では、幸村には真田十勇士及び真田の七人の影武者が 存在し、光秀は荒木山城守、細川友雪、重臣である溝尾勝兵衛が光秀の身代わっていた。 脱出ルートは、幸村は大坂から薩摩に逃げ延び、僧侶となって全国霊地して大館に着いた と記載されている。光秀は比叡山で僧侶となり、天海として家康の天下を裏で支えている ことが佐宗氏や資料によって分かった。光秀が生前時に家康を繋がっていることが歴史ミ ステリーによって分かった。偽名説として幸村は信濃屋、飯田と改名。年齢説では光秀と 天海の年齢差は近いものの当時は百歳以上生きていることが難儀なため生存説としては難 しいのではないかと考える。 (3)結論 三人の遺留説、生存ルート、影武者説、偽名説、年齢説の生存説で、信憑性があるものと して、影武者説、遺留説であることが分かった。また遺留説の存在で生存ルート、影武者 説、偽名説が浮上することが出来るのではないかと考える。また、真田幸村・明智光秀の 生存説のパターンとしても義経と同様、影武者説、遺留説の情報が多く、また今回の調査 では三人の歴史人物の共通点はほぼ一致していた部分があったが、生存説として数多くの 歴史人物が記されており、人物ごとに生存説の信憑性としてのパターンが変化する可能性 があるのではないかと考えられる。また源義経は、成吉思汗として帝国を築いたことを、 小谷部氏を含む多くの研究家によって調べられていた結果であり、生存説として生きてい たら何か大きなことに取り組んだという推測は正しかったのではないかと考えられる。