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新潟大学人文学部 英米文化履修コース 2009 年度卒業論文概要

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新潟大学人文学部 英米文化履修コース 2009 年度卒業論文概要
新潟大学人文学部
英米文化履修コース
2009 年度卒業論文概要
【英語学】
秋田直彦
On Causative sentences in English
遠藤香里
Notes on Ellipses on English
佐藤佳代
On Negative Polarity Items
渋間宏喜
On double Object constructions in English
高岡玲奈
On Anaphoric Relations in English and Japanese
中村侑子
On Aspects in English and Japanese
皆川良太
On Control in English
【英米文学・文化】
板垣多恵
「怒れる若者たち」研究
―イギリスにおける若者文化の始まり―
岩永実希
E. M. フォースター作品における「場所」の研究
―Howards End の「家」
について―
風間彩香
『夏の夜の夢』における森の役割
―不調和はどのようにして調和されたか
―
上村逸美
George Bernard Shaw, Pygmalion 研究
近藤ゆかり ナサニエル・ホーソーン研究
―視線から読み解く罪の問題―
佐々木優子
William Shakespeare, Othello 研究
佐藤亜希子
『ダーバヴィル家のテス』研究
須嵜由吏
What Paulina Mary represents in Villette ―The Perfect Maiden with
―「証拠」の悲劇―
―ハーディが描いたテスの本質―
Duality―
高橋麻衣
W. Somerset Maugham, The Moon and the Sixpence 研究
―「月」ストリ
ックランドの生き方―
田中研人
A Study of Alice Fantasies: The Circular Structure in Through the
Looking- Glass
田邉
卓
トマス・ジェファソン研究
―ジェファソン農本主義の再評価―
内藤
優
レイチェル・カーソン研究
―Silent Spring がなぜ社会的反響を巻き起こし
たのか―
成瀬真奈美
Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray 研究
水藻佑花
A Study of “Culture of Fear”
皆澤雄介
E. M. Forster, Where Angels Fear to Tread 研究
―なぜフィリップとミ
ス・ァボットは結ばれなかったのか―
本川貴光
ヴィクトリア朝における教育問題
渡辺泰右
リチャード・ローティ研究
―貧民児童教育の望ましい在り方とは―
―「リベラル・ユートピア」における「公私の
区別」―
1
卒業論文概要
秋田
直彦
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Causative Sentences in English
この論文は、英語における使役文についての研究である。使役文とは「X が Y に何かを
させる(ある状態にさせる)」という解釈を持つ。ここで取り上げるのは純粋に使役行為の
みを表す迂言的(periphrastic)使役動詞 have と make を含む使役文である。
(1) a. I have Mary study syntax.
b. I make Mary study syntax.
(1)の文は一見すると全く同じ構造であるが、この2つの使役動詞はそれぞれ異なる性質を
持っている。Ritter and Rosen (1993)は、have は VP を、make は IP を補部に取るため、
have は一時的な動作や状態を表すステージレベル述語のみを取ることが可能であり、一方
で make はステージレベル述語と恒久的な状態を表す個体レベル述語の両方を取ることが
可能であると分析している。
(2) a. *I have my son intelligent.
b. I make my son intelligent.
さらに、一般に have は受動態化が出来ないが、make は受動態化が可能である。
Baron(1974)は、これは make が have よりも使役の働きかけが強いためと分析している。
(3) a. *Mary is had (to) study syntax.
b. Mary is made to study syntax.
このような違いを説明するために、上記の Ritter and Rosen の提案と Basilico(2003)の
小節(Small Clause)構造の提案を採用した。Basilico は小節を Verbal Small Clause(SCV)
と Adjectival Small Clause(SCA)に分類し、それぞれ異なる Topic Phrase(TopP)を持って
いるとしている。SCA は個体レベル述語を取り、その主語は小節の Topic として TopP の指
定部に繰り上がる。一方で SCV はステージレベル述語を取り、その主語は Topic とはなら
ないため、出来事が生じた時と場所を表す Stage Topic が指定部へと繰り上がると提案して
いる。これらの提案を基に、本論文では特に使役文の受動態化の分析により、have は(4a)
に示される Stage Topic SC(SCST)を、make は(4b)に示される Non-Stage Topic SC(SCNST)
と IP を補部に取ることを提案した。(4a)の prot は Stage Topic を表している。
(4) a. [VP have [TopP prot [ VP Mary study syntax]]]
b. [VP make [TopP Maryi [AP ti intelligent]]]
これにより、ステージレベル述語を補部に取る際、have は(4a)に示されるように SCST
の構造を持つため受動態化が出来ないが、make は IP の構造を持つため受動態化が可能で
あること、また make は SCNST の構造を取るため個体レベル述語を取ることができ、同時
に受動態化が可能である、ということが説明可能となる。
以上の分析から、迂言的使役動詞の have と make がそれぞれ以下のような異なる補部を語
彙記載項として持っているため、上記の補部と受動態化の相違が生じると結論付けた。
(5) a. have: [
b. make: [
SCST] /
SCNST]
[-
/
[
[+IP]]
IP]
2
卒業論文概要
遠藤
香里
新潟大学人文学部英米文化履修コース
Notes on Ellipses in English
この論文は、英語における省略現象に関する研究である。ここでとり上げるのは、以下
のような NP 削除、VP 削除、間接疑問縮約、空所化である。
( 1 ) a . To m ’ s b i k e i s n e w b u t [ D P M a r y [ D ‘ s ] [ N P e ] ] i s o l d .
b . B e c a u s e B i l l m i g h t n o t [ V P e ] , A n n w i l l c o m e t o t h e p a r t y.
c. John bought something, but nobody knows [CP what [C +wh] [IP e]].
d. John ate meat and Mary [e] fish.
第二章では、先行研究について述べる。Lobeck(1990)によれば、(1a-c)の省略現象はあ
る特定の要素によって導かれる、という統一的な分析をすることができる。また、VP 削除、
間接疑問縮約は Chomsky(1981)で提案された ECP(the Empty Category Principle:空範疇
原理)に従うと Zagona(1988)と Chao(1987)で提案されたが、NP 削除も同様に ECP に従う
と Lobeck は論じた。また Lobeck(1991)では、機能範疇のみが省略を許し、その機能範疇
内で指定部と主要部に一致が起こるときに、その補部が削除されると提案されている。
一方、(1d)の空所化は、上の3つの省略現象とは異なる独自の制約をもつ、という点でそ
れらとは区別される。
また Merchant(2001)では、英語だけでなく他の言語も例に挙げながら、間接疑問縮約の
主な分析である移動分析と非移動分析について論じている。
第三章では、前章で述べた英語における省略現象の構造が、日本語にも当てはまるかど
うかを考察し、共通点と相違点を探る。その構造とは、機能範疇が語彙範疇である省略さ
れる構成素を導き、その指定辞の位置に留まるというものである。NP 削除については英語
と同様の構造を採用することができるが、VP 削除に関しては、同様の構造を採用すると非
文法的な文になってしまった。そこで、VP 内の主要部が IP の主要部位置に移動するとい
う主要部移動を採用することによって、その問題を解決することができると提案した。
3
卒業論文概要
佐藤
佳代
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Negative Polarity Items
本論文は英語における否定極性表現とその認可要素についての考察である。否定極性表
現(以下、NPI)とは、否定文や疑問文など限られた環境に生じる語の事で、その生起
を認可する語を認可要素と呼ぶ。NPI と認可要素の問題は様々な観点から研究がなさ
れている。ここでは否定文、特に Van der Wouden が主張する様に、全ての NPI を認
可する認可要素 not を含む文について(1)NPI の主語・目的語の非対称性による文法性
の差異、(2) 副詞的要素の違いによる文法性の差異、 (3) 従属節内の認可要素による
主節の NPI の認可、主節内の認可要素による従属節の NPI の認可の差異、 (4) 離接
接続詞 or と合接接続詞 and の違いが生む文法性の差異、以上の一見単純そうな四つ
の問題となる例文を挙げ、NPI とその認可要素の関係性を分析した。
表面構造において認可要素が NPI に先行・支配しているとき、NPI が認可されるという
C 統御を用いた表面構造分析では(1)の例文の文法性の違いは明らかである。
(1)(a)John did not eat anything.
(b)*Anyone did not eat an apple.
またミニマリストプログラムの素性照合理論を用いた仮説は、NPI が移動し NEG 素性を
照合されれば認可されるという制約である。例えば(2)の例文は次のように分析される。
(2)(a) Tom did not lift a finger to save us.
[AGRsP Tomi AGRs [TP T [NegP NEG [AGRoP AGRo [VP ti lift a finger [IP to save us]]]]]]
(b)*Tom did not lift a finger in order to save us.
[AGRsP Tomi AGRs [TP T [NegP NEG [AGRoP AGRo [VP ti lift a finger]]] [AdvP in order to
[VP save us]]]
LF 構造において、NPI が認可要素 NOT に直接的に支配されるとき認可されるという LF
構造における制約を用いると以下のような説明ができる。
(3)(a) That anyone moved suddenly didn't bother Tom.
LF: NOT ([CP anyone [CP that [VP ti moved quickly]]] [Tom bothered])
(b)*That Tom didn't move bothered anyone.
LF: *(NOT [CP that [VP Tom moved]]) [VP anyone bothered]
これらの分析で説明できない(4)の文を、様々な仮説を立てて検証を試みた。例えば LF
構造を仮定しての分析は以下のようになる。
(4)(a) I am not requesting jewelry or anything expensive.
LF: NOT [jewelry, anything expensive]
(b)*I am not requesting jewelry and anything expensive.
LF: *NOT AND [jewelry, anything expensive]
NPI の問題についての分析は、個々の現象を局所的に説明できるに過ぎないと結論付けた。
4
卒業論文概要
渋間
宏喜
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Double Object Constructions in English
この論文は英語における二重目的語構文と与格構文間の相違、並びに基底構造はどちら
かについて考察したものである。
二重目的語構文、与格構文はそれぞれ(1a,b)に例示されるようなものを指す。
(1) a.
John sent Mary an e-mail.
b. John sent an e-mail to Mary.
[二重目的語構文]
[与格構文]
一般的にこの二つの構文は相互に自由に書き換えることが可能とされているが、必ずしも
そうではない。Kayne(1984)によれば、二重目的語構文においては間接目的語と直接目的語
の間に所有関係が成立するとされているが、与格構文にそうした関係はない。
(2) a. *John sent Mary an e-mail, but she has not received the e-mail yet.
b.
John sent an e-mail to Mary, but she has not received the e-mail yet.
構造的な違いを考える上で重要となるのが Thematic hierarchy(主題階層)である。
Larson(1988)は Theme>Goal の主題階層のもと、二重目的語構文が与格構文から派生する
と 主 張 す る 。 こ れ に 対 し て Aoun and Li(1989) 、 Pesetsky(1995) 、 Takano(1998) は
Goal>Theme の主題階層を採用している。Larson の分析を採用すると、主題階層は各言語
の parameter によって異なることとなるため、これは Fukui(1986,1988)の主張に反する。
そこで私は Aoun and Li らに従って Goal>Theme の主題階層を仮定した。
二重目的語を考える上で、直接目的語へ格を付与する方法もまた大きな課題となる。そ
こで私は Aoun and Li、Pesetsky の提案をもとに空の動詞 e、e’を設定し、二重目的語構文
中の空の動詞 e は特別に直接目的語に対して格付与することができるものとした。加えて
この動詞が文中に現れると、間接目的語は影響を受けるもの、直接目的語は間接目的語の
状態変化にかかわるものとして捉えられることを示した。同様に与格構文中に e’が生じる場
合、特別な格付与は行われず、間接目的語は直接目的語の着点、直接目的語は移動する物
として捉えることができることを示した。さらに、受動態においては空の動詞は主動詞に
吸収されるものと考えた。
John sent Mary (e) an e-mail.
b. John sent an e-maili to Mary (e’) ti.
(3) a.
なお、この空の動詞を用いた分析方法は与格構文にしたときに、間接目的語に前置詞 to を
とるものに適応できるものである。
5
卒業論文概要
高岡
玲奈
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Anaphoric Relations in English and Japanese
本論文では、英語と日本語における照応関係において、代名詞や再帰代名詞とそれが指
し示す名詞句との間にはどのような構造上の条件があるのかに焦点を当て、議論を進めた。
(1) a. After John Adams woke up, he was hungry.
b. *He was hungry after John Adams woke up.
Langacker(1969)は、
「代名詞が full NP より先に現れ、かつ full NP を統御する場合は、代
名詞化が起こらず、それ以外なら代名詞化が起こる」ということ提案した。これに対して、
Lasnik(1976)は、統御の概念を若干修正し、「代名詞が full NP に先行し、かつ full NP を
k 統御すると、その文は不適格になる」と提案した。
(2) a. Near him, Dan saw a snake.
b. *Near Dan, he saw a snake.
Reinhart(1976, 1981, 1983)は、c統御という概念を用いて、
「代名詞が full NP を C 統御
すると照応関係が成立しない」と提案した。
さらに Chomsky(1981)は、指示の表現に基づいて名詞句を照応形、代名詞形、指示表現
の3種類に分類し、それぞれに対して束縛原理を提案し、照応関係を説明した。
次に日本語の再起代名詞、「自分」「自分自身」「彼自身」について論じた。ここでは、
LD-Binding(Long Distance Binding 長 距 離 束 縛 ) が 可 能 か と い う こ と と 、 Subject
orientation(主語指向性)があるかないかということに焦点を当て、それぞれの特性について
まとめ、英語の再帰代名詞と比較した。英語の再帰代名詞は元来局所的であり、指向性が
ないという特性を持つのに対して、日本語の再帰代名詞は以下のような特性を持つことが
明らかになった。
LD-binding
Subject orientation
自分
○
○
自分自身
×
○
彼自身
×
×
6
卒業論文概要
中村
侑子
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Aspects
in English and
Japanese
この論文では、英語と日本語におけるアスペクト決定の要因を明らかにした。アスペク
トとは、一つの出来事の始まり・経過・終わりに注目する概念である。動詞のもつアスペ
クトについて、アスペクトを決定するのは動詞単体か、それとも動詞に後続する目的語や
前置詞句の要素などかを考察した。
まず、英語におけるアスペクトを考察した。最初に、動詞の目的語を単数形の場合と複
数形の場合とで分け、その後、境界性(in/for)や動詞と結びつく副詞の存在(up)、そして、
その結合された副詞の位置について例文を挙げて、容認可能性を調べた。また、複数形の
場合のみ、限定詞 the の影響についても述べた。
(1)
(2)
a.
I ate up an apple in an hour.
b.
*I ate up an apple for an hour.
a.
*I ate apples in an hour.
b.
I ate apples for an hour.
(1)において、up のもつ終点という特性と前置詞句の特性が一致する(1a)は容認され、一致
しない(1b)が容認不可となった。(2)では、目的語 apples の持つ継続性と前置詞句の特性が
一致する(2b)は容認可となり、一致しない(2a)は容認されない。
次に、日本語におけるアスペクトを考察した。日本語は動詞の目的語が単数形・複数形
によってアスペクトに影響が出ないと考えられる。そのため、調べる項目は境界性 (―間/
―で)、動詞と複合動詞間(―上げる)のアスペクトの影響のみとした。
(3)
a.
b.
(4)
*空を1時間で見る。
空を1時間見る。
a.
絵を1時間で描き上げる。
b.
*絵を1時間描き上げる。
(3)では、「見る」という動詞がもつ継続性が時間表現の特性と一致する(3b)で容認され、
一致しない(3a)は容認不可となる。また、(4)においては、「―上げる」が持つ終点という特
性と時間表現の特性が一致する(4a)は容認され、一致しない(4b)は容認されないということ
がわかった。
最後に、それまでに考察された英語・日本語におけるアスペクト決定の特性を比較し、
その振る舞いの違いや共通点を論じた。
7
卒業論文概要
皆川
良太
新潟大学人文学部英米文化履修コース
On Control in English
この論文は、英語におけるコントロール現象についての研究である。英語で、ある動詞
が不定詞補文をとる場合、その不定詞補文の主語が誰であるかを決定する必要があり、そ
の主語位置に PRO(目に見えない主語)があると考える。
(1) John asked Bill PRO to leave.
例文(1)では、不定詞補文の主語 PRO は Bill によってコントロールされている。PRO の先
行詞(コントローラー)を決定する際の基本的な原則は、
「PRO に最も近い主文の名詞句がそ
のコントローラーになる」という最短距離の原則である。しかしこの原則には、少数の反
例がある。
(2) John promised Bill PRO to leave.
promise のような動詞が目的語と不定詞補文をとる場合、PRO に最も近い名詞句ではない
名詞句が PRO のコントローラーになる。
このような反例を説明する分析として、意味論的分析と統語論的分析がある。意味論的
分析では、主に Jackendoff(1972)の分析によって、コントロール問題は主題関係と結び付
けられる。統語論的分析には Manzini(1983)の分析と Larson(1991)の分析があり、Manzini
ではコントロールは束縛理論と結び付けられて考えられ、Larson では基底構造において最
短距離の原則が適用されると考えられている。この論文では、それぞれの分析の比較を行
なった。
比較の結果、意味論的分析では、persuade のような動詞が目的語と不定詞補文をとり、
その補文が受動化されるときに、コントローラーの予測が実際とは異なることがわかった。
また、Manzini の分析では、主文が二つ以上の名詞句を持つ場合にはコントローラーがど
ちらの名詞句に指定されるのか説明できないことがわかった。その点、Larson の分析では、
コントローラーの指定が正確に予測され、上記の二つの問題点も説明できることがわかっ
た。
また、promise 構文の容認性の判断に関して、容認できる人と容認できない人の二つのグ
ループに分かれるという事実に基づいた、中島(1998)の分析にも言及した。この分析では、
最短距離の原則を移動の派生関係に言及するように修正し、それを基底構造ではなく論理
形式レベルにおいて適用させるとする。
最後に、どの分析によっても説明されることができない例として、force が目的語と不定
詞補文をとり、その不定詞補文が受動化された例を挙げた。
8
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
板垣多恵「怒れる若者たち」研究~イギリスにおける若者文化の始まり~
1956 年 5 月 8 日、Royal Court Theatre にて公開された John Osborne の演劇 Look Back
in Anger『怒りをこめてふりかえれ』が爆発的なヒットを収めて以来、労働階級に属する
20 代の作家たちを「怒れる若者たち」と呼ぶ一大ブームが巻き起こった。このフレーズは
文学批評家からはジャーナリズムによる単なる陳腐な宣伝文句にすぎないと軽視され、当
の作家たちも安易なレッテル張りに反感を示した。しかし、1960 年代以降イギリスで華々
しいユース・カルチャーを築いてきた若者のパワーの初期のかたちが「怒れる若者たち」
に見られることを考慮すると、これを単なる宣伝文句だと片付けることはできない。本論
文では、若者たちの「怒り」の対象と当時の社会との関係性を述べ、
「怒れる若者たち」を
重要な文化の始まりとして再評価することを目的とした。
第一章では、ブームの発端である Look Back in Anger から、文学的な新しい要素である
「同世代(contemporary)」の問題を取り上げ、作品を世代間の闘争の物語と読み解くこと
によって当時の若者とその親世代の意見の違いが若者の怒りとなっていることを示した。
そして、「怒れる若者たち」ブームを若者世代が新しい観念を持つようになったひとつの転
機と捉えられる可能性を提示した。
第二章では、「怒れる若者たち」の共通項を述べ、彼らの思想の背景を考察した。戦後労
働階級が中流階級へ、中流階級が上流階級へと移行可能になり、従来の階級意識が薄れる
中、それでも労働階級の中には他の階級と相容れない感情が存在し、それが「怒れる若者
たち」作品の労働階級の主人公たちと他の階級の登場人物との断絶を生んでいることを指
摘した。親の世代や他の階級の人間と分かり合うことを拒否する「怒れる若者たち」の主
人公たちの閉鎖的なスタイルは、自分と同じ質の集団に閉じこもる若者文化の特徴と同様
であると言うことができる。
第三章では、イギリスの若者文化はアメリカのカウンター・カルチャーから派生したも
のであり、「怒れる若者たち」作品にもアメリカ的要素が随所に見られることを述べた。そ
れは福祉国家の完成により「成熟」という形で成長が止まってしまったイギリスの、
「成熟」
を知らない成長し続けるアメリカへの羨望と焦燥感があったと考えられる。いわばまだ「子
供」であるアメリカを羨望する、「大人」になってしまったイギリスのピーターパン・シン
ドロームであり、「怒れる若者たち」以降続く若者だけの文化の世界はネバーランドである
と言える。
結論として、「怒れる若者たち」の「怒り」は「成熟」から何も生まれないことに気づい
た若者たちの焦燥感と虚無感から生まれ、その矛先は間延びした安定志向の社会と親世代
へ向いたのであった。それが若者が独自の文化を築く発端となったのだ。
「怒れる若者たち」
は若者たちの「成熟の拒否」という新しいムーブメントであり、イギリスの若者文化の第
一段階としてもう一度見直される必要がある。
9
卒業論文概要
岩永実希
新潟大学人文学部英米文化履修コース
E.M.フォースター作品における「場所」の研究
―Howards End の「家」について―
本論文では、E.M.フォースター(Edward Morgan Forster)の Howards End(1910)
で、
「家」において著者の考えが最もあらわれていることを明らかにすることを目的とした。
第一章では、E.M.フォースターは土地霊を信じていて、土地は人と深く結びき、人に影
響を与えるために、土地と人物のアイデンティティを類似させている事に着目した。土地
霊の影響が顕著にあらわれている作品として The Longest Journey(1907)があげられる。
また、Howards End において、ハワーズ・エンド邸はウィルコックス夫人にとって単に所
有権を有するだけのものではなく、精神の一部であったことも、土地霊が関係していると
考察した。E.M.フォースターは自身の経験を作品に生かす際、経験した場所と作品内の舞
台を同じ場所に設定することも、土地霊を意識しているためと考えられる。
第二章では、Howards End 以前に書かれた作品である Where Angels Fear to Tread
(1905)、A Room With A View(1908)においても、異なるものの交流について描かれてい
ることに着目し、E.M.フォースターの最大の関心は異なるものの交流であるとみなし、三
作品に見られる著者の主張を考察した。Where Angels Fear to Tread では、どちらかに偏
ることの否定と、異なるものの共存には両端を見、釣り合いを取る必要性を、A Room With
A View では、個人を超えた交流の重要性を、Howards End では、自己完結の否定と、異
なるものの共存の必要性を主張していた。
第三章では、第一章、第二章を踏まえて Howards End は E.M.フォースターの考えが家
において最も描き出されていることを論証した。E.M.フォースターの家“ルクネスト”が
モデルになっているハワーズ・エンド邸は、土地霊によって著者の考えが投影されている
場所である。したがって、ハワーズ・エンド邸の所有者のウィルコックス夫人、及びマー
ガレットは E.M.フォースターの代弁者といえる。マーガレットが一貫して主張していた考
えは、冒頭のエピグラフに置かれている‘Only connect…’である。
‘Only connect…’は、
フォースターの最大の関心である、異なるものの交流について、フォースターの理想を端
的に言い表した言葉である。
以上のことから、ハワーズ・エンド邸は土地霊によって E.M.フォースターの考えが投影
されているので、E.M.フォースターのユートピアとして描かれているといえる。また、E.M.
フォースターの最大の関心であった、異なるものの交流についての理想の考えは‘Only
connect…’であり、だからこそ、同じ考えをもっているマーガレットがウィルコックス夫
人の後継者としてハワーズ・エンド邸の所有者になったのである。
10
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修コース
風間彩香 『夏の夜の夢』における森の役割~不調和はどのようにして調和されたか
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『夏の夜の夢』(A Midsummer
Night’s Dream)は、作品冒頭で見られた不調和が最終的には調和し、三組のカップルの結
婚式で幕が閉じるという喜劇である。そうした不調和から調和へという流れに伴い、舞台
も宮廷→森→宮廷というように動いていることがわかる。当初、宮廷においてみられた不
調和が森という場を経ることによって調和され、再び登場人物たちは宮廷へと帰ってくる
のである。本論文では、作品中でも指摘されているこうした「不調和の調和」が森を介在
することによってどのように達成されているのかということについて論じた。
まず第一章では、「不調和の調和」という考え方が、対立しているものが一つに統一され
るという点で discordia concors(相反するものの一致)という概念と通じるものであると
考え、それをもとに不調和が調和されるとはどのようなことなのかということについて論
じた。そこから以下の二つの点を指摘した。一点目は、「不調和の調和」を達成する上で対
立する二つのものを「結合」させる力、そして全体を「統一」させる力の二つが働いてい
るのだという点である。二点目は、
「不調和」の状態は「調和」を達成させる上で、必要不
可欠のものであったという点である。
そして以下、「不調和の調和」を達成するために森はどのような役割を果たしているのか
ということについて論じた。まず第二章では、森において働く「逆転」の力について論じ
た。本作品における森という場は、日常世界である宮廷とは逆のことが起こる場所として
描かれているということを指摘し、そうした逆転性というものが作中でも描かれている「五
月祭」などの祝祭によって付与されたものであることを論じた。さらに、そうした逆転を
経験することによって、登場人物である四人の若者たちが成長したのだということを述べ
た。彼らは逆転によってもたらされるアイデンティティの崩壊や、友情関係から恋愛関係
への移行などを経て、成長へと至ったのだ。そして第三章では、目のイメージや「複視」
という現象について論じた。登場人物の一人ヘレナの言葉では、目は愛に関与しないとい
うことが言及されているが、作品全体で見ると、愛の過程に目は全面的に関与しているこ
とがうかがえる。こうした矛盾を念頭に置き、作品において「目」や「見ること」がどの
ように描かれているのかということについて論じた。そして恋に落ちている若者たちの
「目」は正常に機能してはいるのだが、正確に見えてはいない状態であり、劇中劇におい
てピラマスとシスビーが壁の隙間からお互いを見るように、若者たちの目には何らかの障
害があるのだということを論じた。彼らは森を介在する前はそれに無意識であったのだが、
森から帰還した際のハーミアの台詞 parted eye に象徴されるように、彼らは森を経ること
によってそうした障害をも認識するようになったのだということを述べた。
以上をふまえると、「不調和の調和」の一連の動きは結婚という秩序を確立するためのも
のであったということがわかる。結婚は若者たちの幸せであると同時に、社会のためのも
のでもある。そしてそれ自体が異性の組み合わせであるという点で「不調和の調和」であ
り、作品が到達しなければならないゴールだったのだといえる。恋愛から結婚という秩序
を手に入れるために、森において若者たちが経験した混乱は必要なことだったのである。
11
卒業論文概要
上村
逸美
新潟大学人文学部英米文化履修コース
George Bernard Shaw, Pygmalion 研究
ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)の戯曲『ピグマリオン』
(Pygmalion, 初演 1913、出版 1916)は、言語学者のヒギンズが同じく言語学者のピッカ
リングに、花売り娘イライザの訛りを矯正し完璧な発音の英語を身につけさせることを賭
け、彼女に特訓をし、英国レディに仕立て上げていく話である。本論文の目的は、この作
品においてショーが女性の社会進出というテーマを扱っていることを示し、かつ、そのテ
ーマに対して彼がどのような主張をしているのかということを明らかにするものである。
序章ではまず、ショーの進歩思想や、それによって現状の改革に目を向け、「目的を持っ
た演劇」を書いて大衆を教育しようとした作品スタイルについて言及した。
第一章では、作品が執筆された当時の英国での女性の生活や、社会状況について述べた。
女性が男性と比べ、いかに不平等な扱いを受けていたかを示すことで、作品の女性問題と
いうテーマが当時の実社会に適合していることを明らかにした。
第二章では、ショーや彼の作品が持つ3つの特徴、すなわち、「目的を持った演劇」を書
くこととそれを生涯書くに至る略歴、「善」と「悪」の描き方、彼が何かに強く属すことな
く孤立した存在であるということを挙げ、難解と言われた彼の思想や作品の主旨を本論文
で正確に分析するためのアプローチ方法について示した。また、彼に強く影響を与えたノ
ルウェーの劇作家イプセンの戯曲『人形の家』
(Et dukkehjem, 1879 年)との共通点や、
ショーの周囲の自立した女性たちとの関連性についても述べ、彼が女性の社会進出に肯定
的意見を持つ根拠となるような、彼の周辺環境について論じた。
第三章では、第二章の分析方法に基づいて、戯曲の筋やそれぞれの登場人物が持つ役割
と主張を分析し、作品の主旨について論じた。
『ピグマリオン』では、イライザ、ヒギンズ、
ピッカリングという主要人物3人を中心に男女間の支配関係が示されており、第4、5幕
でのヒギンズとイライザの2度の衝突において、ショーの主旨が最も強く象徴的に描かれ
ている。この衝突から女性の生命力と自立心が示され、イライザが反抗しヒギンズの支配
から逃れることで女性の芽生えと解放を象徴している。また、この衝突の持つ意味合いを
深めたり、主要人物だけでは表現しきれなかった主旨を補足したりするのに、脇役たちが
個々に役割を果たしている。
以上のことから、ショーがこの作品上で当時の社会的問題である女性問題を表現してお
り、また当時の社会状況を批判し、女性の社会進出を社会が受け入れるべきであると主張
しているのだと結論付けた。女性は男性に養われるだけの無能な「人形」ではなく、生命
力と自立心を持っている人間である。女性は社会に進出する権利を有しており、それはこ
れからの世に必要なものであるということを示したのだ。女性が権利を獲得し社会に出て
行くには、ただ時代の流れを待つのではなく、女性自身の積極的な行動が必要なのである。
12
卒業論文概要
近藤ゆかり
新潟大学人文学部英米文化履修コース
ナサニエル・ホーソーン研究
―視線から読み解く罪の問題―
本論文では、「視線」をキーワードにホーソーンの作品研究を行い、
「見ること」
「見られ
ること」がキャラクターの罪意識とどのように関係しているのかを明らかにし、ホーソーン
の考える罪とはいかなるものであったのかを考察することを目的とした。そのために、何ら
かの形で罪の問題が描かれており、さらにその中に「視線」の効果を読み取ることができる
と思われる作品を複数取り上げて考察することにした。
第 1 章では「あざ」を取り上げて、まず、あざが見る人によって異なる意味を持つこと
を指摘した。そして、あざを不完全さの象徴と考えるエイルマーの視線が、ジョージアナの
自分自身のあざに対する考えを変えてしまったことに注目し、視線は時に、人を罪人にして
しまうほど大きな影響力を持っているということを明らかにした。
第 2 章の「牧師の黒いヴェール」では、フーパー牧師のヴェールに対する考えと、教区
民たちのヴェールに対する考えや印象を比較した上で、ヴェール姿を恐れる人々を無視し、
最期の時までヴェールをつけ続けた牧師の傲慢さを明らかにした。そして、ヴェールに隠さ
れた秘密を打ち明けることなく死んでいった牧師の罪深さを示し、ホーソーンは、フーパー
牧師にはこの世で罪を告白する必要があったと考えていたと論じた。
第 3 章では「ウェイクフィールド」を取り上げて、まず、家を出る動機となった虚栄心
に見られるウェイクフィールドの罪深さを示した。そして、妻を監視し続けたウェイクフィ
ールドの視線が、他者に何の影響も与えていなかったことを指摘した後に、ウェイクフィー
ルドが世間から孤立した存在になっていることを明らかにした。ここから、ホーソーンの作
品における罪人には罪の結果として孤立が与えられているということが分かった。
第 4 章では「若いグッドマン・ブラウン」において、妻フェイスと、森の中で目撃した
と思われる人々がそれぞれブラウンにとって信じられない存在となったことを明らかにし、
善も悪も信じられなくなったブラウンが居場所を見出すことができずに孤立していく様子
を示した。ブラウンの罪深さは他者の罪深さばかりを非難し、自分自身の罪を認めようとし
ない点にあると論じ、ホーソーンは罪の自覚の必要性を述べていることを示した。
第 5 章では『緋文字』を取り上げて、ヘスター、ディムズデイル牧師、チリングワース
がそれぞれどのような罪を犯し、罪意識がどのように描かれているのかを明らかにした。緋
文字を胸につけ、私生児パールを抱いてさらし台に立つヘスターに対して、自らの罪を告白
できずに苦しみ続けるディムズデイルからは、
公の前で罪を告白することの必要性を読み取
ることができる。また、牧師の心の中を覗くことに徹底したチリングワースは罪深い人間で
ありながらも、告白や罪の自覚の必要性を説く点には、ホーソーンが求めた人間像が描かれ
ていると主張した。
以上のことから「見る」「見られる」といった視線がホーソーンの作品に登場する罪人の
罪意識に何かしらの影響を与えていることが分かった。そしてホーソーンは、罪人には罪の
結果として孤立を与えており、また罪を告白することの重要性を繰り返し述べ、公の前、つ
まり他者が見ている前で、自分自身の罪深さを認めることが罪の赦しに繋がると考えていた
と結論づけた。
13
卒業論文概要
新潟大学人文学部英米文化履修
コース
佐々木
優子
William Shakespeare, Othello 研究
―「証拠」の悲劇―
『オセロー』(Othello)はシェイクスピア(William Shakespeare)の四大悲劇のひとつであ
り、夫婦の愛と嫉妬をテーマとした作品である。この作品の悲劇の核はこれまで様々に論
じられてきた。先行研究で指摘されてきた悲劇の核はどれも作品には不可欠である。しか
し、それらの他にもオセロー(Othello)の破滅に大きく関わる要素が考えられる。そこで本
論文では、新たな悲劇の核「証拠」を提示し、「証拠」とオセローの破滅の関係を探った。
第一章では、先行研究で論じられてきた悲劇の核を、オセロー内部の要因、人種的要因、
イアーゴー(Iago)の陰謀とその戦略の 3 つに分類して検証した。オセローが性格や思考に欠
点のある人物であること、ムーア人という劣等感と周囲の白人達の黒人観に苦しめられる
こと、イアーゴーの巧みな誘惑術、これらはオセローを破滅に向かわせる要素と言える。
だが、これらは悲劇の核として十分であるとは言えず、オセローの破滅により深く関わる
要素が必要であることを指摘した。
第二章では、新たな悲劇の核として「証拠」を挙げ、それに焦点を当ててオセローの破
滅を分析した。イアーゴーの言葉を信用する時、デズデモーナ(Desdemona)の不義を疑惑
から確信へ変える時、嫉妬・怒り・憎しみ・復讐心を増幅させる時、デズデモーナとキャ
シオー(Cassio)への復讐を決意する時に存在しているのが「証拠」なのである。「証拠」は
オセローの破滅に大きな影響を与えているのである。
では、なぜオセローはイアーゴーにのみデズデモーナの不義の「証拠」を示すよう要求
したのか。デズデモーナが貞潔だという「証拠」を求めないのはなぜか。これらの疑問点
を第三章で扱った。イアーゴーは、表向きは忠実な人物である。オセローをはじめ多くの
人物が彼を忠実で信用できると評価している。寛大なオセローはイアーゴーが提供する「証
拠」を信憑性が高いと判断し、鵜呑みにしてしまうのである。また、オセローはデズデモ
ーナも信頼している。不貞疑惑が浮上しても、彼にとって彼女は素晴らしく貞淑な女性で
あり続けている。オセローがイアーゴーに不貞の「証拠」を求めたのは、彼がイアーゴー
とデズデモーナの両者を信じていたからであろう。デズデモーナが不貞であることは信じ
難いが、イアーゴーが「証拠」を示せるのであれば事実だとオセロー考えたのだと言える。
デズデモーナとイアーゴーの両者を信じて取った手段が「証拠」だったのである。
以上のことから、「証拠」は、オセローを破滅に導く原動力として、嫉妬に悩まされるオ
セローが救いを求めたものとして重要であり、悲劇の核に相応しいと考えられる。オセロ
ーは運命を託して自ら求めた「証拠」によって破滅へと向かうことになる。『オセロー』は
「証拠」の悲劇なのである。
14
卒業論文概要
佐藤亜貴子
新潟大学人文学部英米文化履修コース
『ダーバヴィル家のテス』研究
―ハーディが描いたテスの本質―
ハ ー デ ィ (Thomas Hardy, 1840 - 1928) の 『 ダ ー バ ヴ ィ ル 家 の テ ス 』 (Tess of the
D’Urbervilles, 1891)では、作者であるハーディが主人公テスを一見すると肉体的にも精神
的にも何の欠陥もない女性として描いているため、彼女が作中で人間の崇高さを体現して
いると解釈することが多い。多くの読者は、次々とふりかかる悲劇に苦しむ、まだあどけ
なさの残る少女テスの姿に同情し、一方で彼女を不幸へと陥れた因襲的社会を表すとされ
る二人の男性は批判されるのが常であった。本論文では、テスが本当に崇高と擁護される
に値する完璧な女性であったのかを検証し、その上でハーディが描こうとしたテスの本質
を明らかにすることを目的とした。
第一章では、テスを様々な場面から検証してハーディが彼女をどのように描いていたか
検証した。テスはアレクとエンジェル二人の男性を魅了した美しい外見を持ち、また受動
的で自己犠牲をいとわない献身的な性格であった。当時のイギリスの理想の女性像と比較
して彼女が肉体的にも精神的にも当時のイギリスの理想の女性像と一致していることを証
明した。
第二章では、欠陥のない無垢な女性であったはずのテスが犯した過ちに着目した。彼女
の最大の悲劇であるチェイスの森でのレイプ事件の要因のひとつには、他の女性達に女性
として勝利して優越感を得たいという彼女の欲や見栄からの欠陥があった。そしてハーデ
ィはテスのそうした人間らしい部分の存在を認識していた。
第三章では、ハーディがテスの欠陥を認識しながらも彼女を’pure’であるとして一貫して
擁護した理由に注目し、それがテスに課せられた象徴性を強調するためにあるとした。彼
はテスに多くを象徴させた。テスの姿は時々イヴと重なり、また彼女は自然による処女性
の回復や、荒廃していく農村などを象徴していた。ハーディがテスを擁護したのは、彼女
の罪には彼女自身の意思や悪意がなかったからである。彼が与えた多くの象徴性のため結
果的にテスは悲劇の犠牲となり批判の的となった。
以上のことから、テスは完璧な女性として描かれているように見えるが重要な場面で彼
女は不注意から自ら悲劇へと向かっているようにも見える。しかしそれは彼女自身の意思
ではなく作者ハーディの意思の結果であった。それゆえ読者だけではなく作者ハーディも
テスに同情的で、彼女に創造主としての罪悪感を持っていたから彼女を’pure’であると最後
まで擁護し続けたのである。
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卒業論文概要
須嵜由吏
新潟大学人文学部英米文化履修コース
What Paulina Mary represents in Villette
―The Perfect Maiden with Duality-
本論文では『ヴィレット』(1853)における脇役ポーリーナ・メアリに焦点を当て、彼女の
二重性に着目し、彼女の描かれ方について論じた。ポーリーナの第一の二重性は、彼女が奇
妙にもその身一つに「子どもらしさ(子どもっぽさ)」とそれに相反する「淑女らしさ」と
を混在させていることにある。また第二の二重性は彼女の人間としての現実的存在感に関わ
る。ポーリーナは時に妖精や人形のように形容され、イメージのような存在となるが、一方
で彼女の感受性の強さや豊かな表情の変化等は他の登場人物には見出せない人間らしさを
感じさせる。そこで本論文ではこれらの二重性について明示し、また二重性が象徴するもの
と二重性の結実とを明らかにすることで、ポーリーナが父権制社会における「完璧」な女性
像を象徴していることを述べた。また本論の最後にはこうして見出されたポーリーナ像との
比較から、より個性的なルーシーの姿を再確認し、彼女がヒロインたる意義について述べた。
第1章では第一の二重性を明らかにするため、彼女のふるまいや外見に表れる子どもらし
い(子どもっぽい)一面と淑女らしい一面を、幼少期と青年期とに分けて考察した。幼少期
の彼女は自分を大人に見せようと背伸びし、うっかり子どもっぽさを表す。青年期では子ど
もっぽさを残しつつも知的で清楚な美女となり、外面、内面共にほぼ完璧な理想的淑女とな
る。だが彼女は時にあえて子どもらしくも振る舞い、自己を二重の存在と認識する。ここで
彼女の二重性は本当の自分と建前の自分との対立ではない。彼女は子どもの自分を演じる時
以外も社会的に理想的な淑女を演じていて、彼女には本当の自分が存在する場所がないのだ。
第2章ではポーリーナの人間としての存在感を、それが希薄になる時と強烈になる時とに
分けて考察した。彼女の存在感が希薄になるのは、彼女が人形や妖精といった非人間的なも
のによって形容される時である。彼女は様々なイメージから成る混合物のような存在である。
一方彼女の存在感が強烈となるのは、敏感な感受性や情熱的な感情が言葉や表情において表
される時であり、その描写は詳細だ。これは鈍感な周囲の女性たちによっても強調される。
第3章では彼女の二重性が象徴するところとその結実について述べた。ポーリーナの「淑
女」の性質は彼女が理想的で家庭的な「家庭の天使」であること、またはその予備軍である
ことを象徴する。一方彼女の「子ども」の性質は彼女が男性に劣る弱い存在であること、性
的感情を持たない純粋無垢な存在であることを象徴する。この二つの性質を同時に体現しよ
うとした彼女は精神分裂を起こしかけた。だが最終的に第一の二重性は克服される。物語終
盤でポーリーナは自らの二重性それぞれの側の要因とも言える二人の男性(父親と恋人)を
結びつけ、彼らの関係の不和を整えることで、自己の二重性を象徴的に調和させた。だがこ
れは第二の二重性における人間的存在感の希薄さの側の勝利でもある。不和から調和を生み
だすという理想的統治能力を発揮した彼女は「完璧」で理想的な女性像となることにより、
ほぼイメージのような存在となり、その結果実在性を失う。この典型化されたポーリーナと
比べるとルーシーがより個性的な存在に見えてくる。彼女はポーリーナを賛美するが、彼女
自身は何かの典型に当てはめられることを拒む。この典型化されない姿こそが彼女の魅力だ。
固定的でないルーシーを通して、我々は、様々なステレオタイプ像を観察出来るのである。
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卒業論文概要
高橋麻衣
新潟大学人文学部英米文化履修コース
W. Somerset Maugham, The Moon and Sixpence 研究
―「月」ストリックランドの生き方―
『月と六ペンス』(The Moon and Sixpence)はサマセット・モーム(W. Somerset
Maugham)が、画家ポール・ゴーギャンをモデルとした主人公チャールズ・ストリックラ
ンドの後半生を描いた小説である。本論文では、ストリックランドをゴーギャンとは全く異
なる人物として描いたモームの意図を明らかにする。
第一章では、ゴーギャンとストリックランドの主な相違点である、画家への転向の仕方、
家族への態度、ストルーヴ夫人との情事の場面を取り上げ、比較した。ゴーギャンは、自
分の都合で捨てた家族に対し良心の呵責を感じ、再び養えるように金銭面についても考え
ていた。ストリックランドからはそのような面は取り除かれ、ゴーギャンが本心を隠すた
めに身に付けた傲岸さだけがそのまま残っている。また、ストルーヴ夫人との情事はゴー
ギャンの人生にはなかった出来事で、これを描くことによってモームは、画家ストリック
ランドがニルヴァーナ(悟りの境地)に至るために絵を描いているということを示した。
第二章では、モームの芸術観と人間観について論じた。モームは世紀末唯美思想の影響
を受け、芸術家を優遇する態度をとっている。そのような芸術至上主義的な考え方は『月と
六ペンス』にも投影されており、画家ストリックランドを神聖視しているところがある。ま
た、モームは人生には意味がなく、自分好みに人生模様を織ることができると考え、その理
想の人生模様がストリックランドの人生模様なのであった。そして、人間は首尾一貫せず、
矛盾しているという現実主義的な人間観をもち、それを『月と六ペンス』にも投影している。
『月と六ペンス』には、芸術至上主義と現実主義との相反する性質を持つモーム自身の矛盾
が表れている。
第三章では、題名『月と六ペンス』について考察した。
「月」は芸術と結び付けられ、
狂熱、狂乱という意味を持つことから、芸術的創造情熱に取りつかれたストリックランドを
指し、「六ペンス」はお金や世俗的なものを意味することから、ストリックランド夫人やス
トルーヴ夫妻といった彼の周りの卑俗な人々を指している。モームは、どちらの生き方がよ
いという判決をしておらず、どちらも認めている。第二章を踏まえて考えると、芸術至上主
義的な「月」ストリックランドを、現実主義的な「六ペンス」の人々で中和していて、どち
らが欠けてもこの物語は成り立たないのである。よって、『月と六ペンス』は「月」と「六
ペンス」の比較対照、この二つの生き方の対照がテーマであったと言える。
以上のことから、「月」と「六ペンス」を対照するというテーマのためにこの作品が書
かれ、そのテーマに合うように、ゴーギャンからストリックランドが創りだされたのである。
ストリックランドにはモームの理想が織り込まれていることから、特に「月」ストリックラ
ンドがニルヴァーナに至るまでの生き方の提示が目的であったと言える。
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卒業論文概要
田中研人
新潟大学人文学部英米文化履修コース
A Study of Alice Fantasies
― The Circular Structure in Through the Looking-Glass ―
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』について扱い、特に
後者の方を論じた。この論文では、
『鏡の国のアリス』を構成する大きな要素となっている
と思われる鏡、ノンセンス、夢という三つのトピックに着目し、それらがすべて終わりの
見えない円環的構造を示していることを証明し、この構造が『鏡の国のアリス』において
何を象徴しているのかを明らかにすることを目的とした。
まず、第一章では『鏡の国のアリス』のキーワードの一つとして鏡を扱った。まず参考
文献などから鏡というものが元来どういった意味合いをもって使用され、何を象徴するの
かについて言及した。そこで鏡は物事を逆さまに映し出す作用の他に、真理や幻影を映し
出す効果をもっていること、さらには鏡のように二項対立的な要素が対比されることで新
たな含意を生むことを明らかにした。その上で『鏡の国のアリス』における鏡のイメージ
というものが、合わせ鏡のように終わりの見えない深さを導くものであり、それが物語で
は恐怖を喚起するものとしてとらえられていることを証明した。
第二章では、まずどちらのアリス作品にも特徴的に見られるノンセンスとはどういった
ものなのかを参考文献などを踏まえながら述べていった。そこでノンセンスというものは、
単に sense の逆の意味ではなく、現実の意味体系を一度崩し、別の形で意味体系を修復し
たものであり、それによってアリス作品の中ではあべこべの世界が作られていることをま
ず証明した。またこの物語の中では、言葉や名前というものがよく話題として上がる。言
葉というのは sense によって知覚されるものである。そこからノンセンス自体の持つ特徴
として、ノンセンスは sense によって認識されて初めて成り立つものであると同時に、明
確な答えを持たない曖昧性を内在していることを明らかにし、ノンセンスというものが独
自のルールをもって、終わりなき循環的構造を描いていることを証明した。
第三章ではアリス両作品の共通モチーフである夢について論じる。アリスにおける夢の
構造は両作品において大きく違う。
『不思議の国のアリス』ではアリスが夢を見、夢から覚
める点で、夢というものに始まりと終わりが見えるが『鏡の国のアリス』では、夢に明確
な始まりと終わりの構造が見えない。アリスは自分が夢を見る主体なのか、夢を見られる
客体なのか答えを見いだせないまま物語は終わる。後者における夢とは、夢自体について
の問題というよりもむしろ知覚についての問題のように思える。それはアリスが夢を見る
存在であるとともに夢を見られる存在であり、そしてまた誰かがその夢を見ているかもし
れないという無限に続く循環的な問いから発せられた感覚というものへの疑いである。
以上のことから、結論として『鏡の国のアリス』における循環構造が象徴するものは主
観的観念性への懐疑であり、同時に真理への懐疑であるということを導いた。私たちの存
在というのは他人から知覚されて初めて認められるものであるという観念論的な考えがこ
の作品にはある一方で、感覚という不確かなものを信じることへのためらいが『鏡の国の
アリス』の循環構造とその曖昧性から見ることができた。作者キャロルはこの終わりの見
えない循環構造を物語中に描くことで、真理に対する答えを曖昧なままに隠したのである。
18
卒業論文概要
田邉
卓
新潟大学人文学部英米文化履修コース
トマス・ジェファソン研究
―ジェファソン農本主義の再評価―
トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)は農業を中心とした国家作りを構想してい
た農本主義者であった。ジェファソンの農業政策は先行研究においてはアレクサンダー・
ハミルトン(Alexander Hamilton)の経済政策へ歩み寄った妥協したものと評価されてき
た。確かにジェファソンの経済システムは今日において採用できるものではないが、農本
思想の道徳的価値に焦点を当てることにより、ジェファソンの思想は評価できるのではな
いか。本論文において、基本的人権を保障する手段として農業が必要であったことを論証
することにより、ジェファソンの思想の価値を再発見することを目的とする。
第 1 章では、ジェファソンの共和主義と農業の関係性を示した。ジェファソンは共和制
を維持するためには人民の徳が必要であると考えていた。徳を備えるためには生計の手段
を他人に依存していない状態でなければならず、この適性があるのは自ら土地を所有して
いる独立自営農民である。ジェファソンはこの自営農民を増やすために土地改革を試み、
できる限り多くの人に平等に土地が配分されるようし、共和制を保つことを目指した。
第 2 章では、ハミルトンが構想していた共和国像を提示し、ジェファソンとハミルトン
の抗争の中で、ジェファソンの思想が変化したのかを明らかにした。ジェファソンは政治
家としては、当初は反対していたハミルトン的政策を受け入れたが、思想家としては受け
入れなかった。それは二人の思想が根本的に対立していたからである。農業を単なる食料
の配給手段としてしか見なしていなかったハミルトンとは違い、ジェファソンの農業への
信頼は晩年になっても揺らがなかった。
第 3 章では、農業の道徳的価値を深めるためにジェファソンのインディアン・黒人政策
と農業の関係を見ていった。ジェファソンはインディアン・黒人の能力を評価しているが、
白人には劣ると考えていた。またジェファソンは人権を確保するためには道徳的感覚が必
要であると思っていたので、同じアメリカという共同体に住むインディアン・黒人を農業
に従事させることによりその道徳的欠陥を補おうとしていた。道徳的感覚は人権を守るも
のであるが、それは特に言論の自由を確保するものである。それはジェファソンが道徳的
感覚は人間の内的要素であるとし、そこにはあらゆる権力が及ばないから政府に任せるこ
とはできず、人間の内なる要素である言論は道徳によって保護されねばならないとしてい
たことからわかるのである。そしてこの道徳的感覚を養うために農業は必要であり、ジェ
ファソン農本主義はこの点において価値があったのである。
19
卒業論文概要
内藤
優
新潟大学人文学部英米文化履修コース
Rachel Carson 研究:
Silent Spring がなぜ社会的反響を巻き起こしたのか
本論文では、レイチェル・カーソンの著書 Silent Spring『沈黙の春』を取り上げ、なぜ
本書がアメリカにおいて環境革命と呼ばれるほどの反響を巻き起こすことができたのかと
いうことについて考察することを目的とする。
第一章では、カーソンが環境に対してどのような思想を抱いていたのか、またその形成
過程を記述することで、著者の立場を示した。そして当時のアメリカにおいて、 Silent
Spring が注目していた化学薬品による被害状況をみていくことで、本書がアメリカ国民に
受け入れられる下地が出来ていたことを記した。また本書への反応に着目することで、そ
こには賛否両論の議論があったが、最終的には、カーソンの主張がアメリカ国民を環境保
護に目を向けることができたことを示した。
第二章では、環境倫理に注目し、その形成過程をアルド・レオポルドに着目して記した。
レオポルドの時代には環境全体を配慮して生活することは一般的ではなかったが、カーソ
ンの時代には必然的にそうならざるを得なくなっていった。そして、その環境倫理はアメ
リカ政府、市民団体によって、より一般市民に広まったと考えられる。政府はケネディ大
統領が Silent Spring の主張に対して科学的調査を行わせることで、この主張を正式に認め
ることを示し、支持する立場を明らかにした。環境保護団体などの市民団体は、各団体が
独自の活動を行う中でそれぞれの成功を収めた。環境保護団体の設立を促進した団体もあ
れば、子どもたちに環境教育を施すプログラムを築くことで、会員数を増やす団体もあっ
た。これらから、アメリカ国民が徐々に環境を気遣う姿勢ができあがっていったと考えら
れる。
第三章では、Silent Spring をカーソンの次世代のための遺言としてとらえた。それは、
これからを生きていく人々、主に生まれてくる子どもたちのための警鐘であるということ
を示した。そして今まで通り化学薬品に頼るという方法の代替案として、カーソンが提唱
した「別の道」から、アメリカ国民が環境保護への関心を誘引する要素を見ていった。そ
こから、環境倫理に目覚めたアメリカ国民が、カーソンの残した言葉に同調できたという
ことを述べた。
以上から、Silent Spring に大きな反響が起こったのには、様々な要因が絡んでいること
がわかった。本書が出版された当時の化学薬品の被害状況が目に見えて明らかにわかるよ
うになると、アメリカ国民が自然環境に関心を持たざるを得ないのは間違いない。そんな
中、レオポルドが唱えた環境倫理がアメリカ国民の中に芽生え、ケネディ大統領を始め、
一般市民も本書を読み、環境を守らなければという気持ちを駆り立てたのである。そこか
ら、環境革命は引き起こされ、1970 年の「アース・デー」、そしてアメリカが中心となって
行われた国連人間環境会議にまでつながっていったのである。
20
卒業論文概要
成瀬
真奈実
新潟大学人文学部英米文化履修コース
Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray 研究
Oscar Wilde 作、The Picture of Dorian Gray(1890)の主人公ドリアンは、自分の肖像
画が代わりに醜悪になることで永遠の若さを手に入れた人物である。しかし、快楽を求め
る一方、放蕩を重ねるごとに醜悪になっていく肖像画に耐えかね、最後にそれを破壊する。
そして、分身を破壊することが自身の死を招くこととなった。数年前に書かれた The
Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde(1886)との類似性からも、この結末は罪に対す
る報いとして「道徳」の勝利と捉えられる。だが、ワイルドは退廃的な人物として知られ
ており、こうした意図でもって結末をまとめたかどうか疑問に感じられる。本論文では主
人公を通じて作者が表現したことを考察した。
第一章ではまず、当時の「道徳」が資本主義社会で台頭した中産階級の大衆が定める美
徳で形作られ、それを人々が盲目的に従うという歪んだ構造になっていたことを述べた。
その結果、為になるもの、リスペクタビリティ(respectability)なものだけが求められ、
物事の本質は無視された。芸術分野でも同様の動きがあり、この背景のもとでワイルドは
芸術復興として「道徳」に抵抗していた。よって、本をたどると彼は「道徳」の歪んだ部
分に抵抗していたと考える。
第二章ではドリアンと肖像画の関係を検証した。ドリアンは醜悪になっていく肖像画を
「良心」として見ているが、一方で彼はその醜悪さと自分の若々しさを対比して喜び、肖
像画がその作者を殺害するきっかけにもなっていた。ドリアンが意識した時だけ肖像画が
「良心」としての役割を果たしていたことから、彼の快楽主義と道徳主義の二重性ははっ
きり分かれたものではなく、主人公はその中立的な立場から物事を見ることができる人物
であることを示した。そして、相反する概念の葛藤を解決するために、後々罪に見合った
善行で魂を浄化するという救済法に期待して放蕩生活を過ごすという構造を見出した。ま
た、その救済法とは第一章で述べたような虚栄心を満足させるための俗物の「道徳」行為
であることも指摘した。その上で快楽を追い求めるうちにこの救済法に対する期待が疑問
へ変化しつつも、唯一の救済法として頼り続けてきたことを述べた。
第三章では始めに結末の重要な要素であるドリアンの「死」について、彼の恐怖とは死
に至るまでの過程であったこと、そして死の場面の描写から結末の「死」が罪に対する罰
や破滅ではなく、終了を強調しているとした。そこで、着目すべきなのは死そのものより、
保管し続けてきた肖像画を破壊したという点にあると考えた。そのタイミングが頼りにし
てきた救済法に効果がないと明らかになった時であったことから、ワイルドがドリアンの
生き方を通じて表現していたのは虚栄心による自己否認、つまり、俗物が信じる「道徳」
の否定であり、それを示すために快楽主義に目覚めたドリアンにあえて道徳主義の要素を
残し、失敗へと追い込んだと結論付けた。反面教師という形で警告をしていたのである。
以上から、
『ドリアン・グレイの肖像』の根底に流れるテーマはワイルドが抵抗した「道
徳」の歪みに対する批判であるといえる。そして、彼は自分の意図することを「見せる」
という形で相手の感受性に訴えかけ、気づかせるという方法をとっていた。よって、この
作品には一貫して自分の意志を貫く彼の姿勢が窺えるのである。
21
卒業論文概要
水藻佑花
新潟大学人文学部英米文化履修コース
A Study of “Culture of Fear”
アメリカ合衆国はこれまで、世界の様々な分野で影響力を誇ってきた。しかしその一方で
国内では、様々な問題を抱えている。社会学者バリー・グラスナーは、このアメリカの背景
に「恐怖の文化」があると、著書 The Culture of Fear: Why Americans Are Afraid of the
Wrong Things の中で主張する。本論文では、この「恐怖の文化」について考察し、その不
十分な点を指摘したうえで、アメリカにおける「恐怖の文化」とは何かを再定義することを
目的とする。
第一章では、グラスナーの理論に基づいて、恐怖商人であるニュースメディアの実態と、
「恐怖の文化」が生み出すパラドックスについて考察した。本来事実をありのまま伝えるは
ずのニュースメディアは、人々に恐怖をばらまくことで多大な利益を得ている。ニュースメ
ディアはその影響力の大きさから、恐怖商人として主要な役割を果たしているといえる。ま
た、この「恐怖の文化」があることによって生み出されるパラドックスは、見せかけの恐怖
ばかりが流行し、本来議論されるべき問題が放置されている現在のアメリカ社会を示してい
る。そしてそれは同時に、恐怖商人たちだけでなくアメリカ人全体が、問題を放置してしま
った状態であることを表している。
第二章では、1999 年に起こったコロンバイン高校銃乱射事件から、まず「恐怖の文化」
が実際にどのような役割を果たしているのか考察した。監督マイケル・ムーアは、映画
Bowling for Columbine の中で、事件が起こったアメリカ社会の根底に「恐怖の文化」があ
ると指摘する。また事件後の犯人や犠牲者に対する報道や、人々の反応からも、
「恐怖の文
化」の断片がうかがえる。さらに、ムーアとグラスナーの両者を比較すると、ムーアの主張
はグラスナーの理論を補強しており、その意味で意義のあるものだといえる。しかしそれで
もやはり、その「恐怖」の対象の広さから理論が曖昧であり、「恐怖の文化」におけるアメ
リカの特異性を示すには不十分であるということがわかる。
第三章では、アメリカ社会における恐怖とは何かを検討した。恐怖は人間の本能のひとつ
であるが、恐怖商人は、社会的に作られた恐怖を利用している。その一つが、アメリカ白人
が持っている、黒人に対する恐怖である。長年の奴隷制や、今も残る人種差別は、アメリカ
白人に拭いきれない恐怖を植え付けている。このような歴史的、社会的に積み重ねられてき
た恐怖こそ、アメリカにおける「恐怖の文化」を特徴づけるものなのだといえる。
以上のことから、アメリカにおける「恐怖の文化」を論じる際には、アメリカ白人の持つ
恐怖に焦点を当てる必要があると考える。よって私は、「恐怖の文化」とは、アメリカ白人
の恐怖に根ざした現象であると再定義し、本論文の結論とする。
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卒業論文概要
皆澤
雄介
新潟大学人文学部英米文化履修コース
E. M. Forster, Where Angels Fear to Tread 研究
―なぜフィリップとミス・アボットは結ばれなかったのか―
E. M. Forster の『天使も踏むを恐れるところ』(Where Angels Fear to Tread)(1905)
は、イギリス・ソーストンとイタリア・モンテリアーノの価値観の対立がフィリップ、ミ
ス・アボット、ジーノなどを通して描かれている。この小説にはソーストンとモンテリア
ーノの対立だけではなく、同じソーストン社会のフィリップとミス・アボットの対立も描
かれている。ソーストンとモンテリアーノの価値観の対立は、フィリップとジーノの友情
の成立によって和解に終わる。しかしフィリップとミス・アボットは結ばれることなく結
末を迎える。本論文では、フォースターがどのような意図でこの結末を描いたのかという
点について考察した。
第 1 章では、フィリップとミス・アボットの価値観について考察した。フィリップは体
格の問題、挫折、母・ヘリトン夫人の影響が要因となり、人生を「見世物」と捉え、能動
的な人物ではなく、他の影響によって動く受動的な人物である。ミス・アボットは世間体
を大事にするソーストン社会的な「善」「悪」ではなく、道徳的な「善」と「悪」で判断す
る人物である。
第 2 章では、モンテリアーノという場所が与えた影響について考察した。モンテリアー
ノの守護聖人・聖デオダータの伝説にある甘美さと野蛮さは、モンテリアーノという町を
表している。甘美は人々を惹きつける文化や芸術。野蛮はソーストン社会では考えること
のできない生き方をするジーノや世間体を気にしないといったモンテリアーノの「現実」
である。フィリップはモンテリアーノの町にある塔をこの町の象徴であると言ったことは、
フィリップが「現実」を見ることが徐々にできるようになったことを表していると考えた。
第3章では、ジーノという人間が与えた影響を考察した。フィリップにとってジーノは
「現実」を気づかせる人物として存在する。フィリップにとってイタリアはおとぎの国で
あったが、ジーノの存在によっておとぎの国は崩壊し、「現実」の国となった。またフィリ
ップが女神ではなく「現実」の女性としてミス・アボットを好きになったこともジーノの
存在が大きく影響している。ミス・アボットにとってジーノは自身の価値観を崩壊させる
存在である。ミス・アボットはジーノの赤ちゃんへの深い愛情を認めることにより、「善」
「悪」より大きな「愛情」という存在を認めた。
第4章では、フォースターの価値観に対する考えについて考察した。フォースターはソ
ーストンの価値観だけを否定するのではなく、またモンテリアーノの価値観だけを肯定し
ているのではない。フォースターは両者の価値観を認めていると考えた。
以上のことから、フィリップは「現実」を知ることによって自身のミス・アボットへの
愛に気づき、ミス・アボットは「愛情」を知ることにより、ジーノへの愛を認めた。フィ
リップもミス・アボットも自身の不完全な部分を認めたことにより自分の気持ちに気づく
ことができた。フォースターにとって重要なことは、「認める」ことであって、認めること
ができたからこそフィリップとミス・アボットは結ばれることがないと言える。
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卒業論文概要
本川貴光
新潟大学人文学部英米文化履修コース
ヴィクトリア朝における教育問題
―貧民児童教育の望ましい在り方とは―
元来イギリスにおいて教育は一部の特権階級にのみ施されるものであり、労働者階級は
読み書きの仕方もわからない者が大半であった。しかし、産業革命が興ったことで貧民た
ちは上流階級に「成り上がること」を望むようになり、民衆たちは成り上がるための手段
として教育を必要とした。本論文では、ヴィクトリア時代の貧民に向けた教育、とりわけ
学校制度に注目し、彼らにとってどのような教育を施すことが望ましかったのかを示すこ
とを目的とした。
第 1 章では、ヴィクトリア時代に貧民教育施設として数多くが開設された日曜学校を取
り上げ、その実情を明かした。日曜学校は、貧民児童のために無料で開放され、読み書き
などを教える慈善機関であった。しかし、その実態は慈善と称すことで上流階級の者が下
流階級の者に教育を善意で施してやっている、という階級的差別意識を広めるものとなっ
ていた。さらには国教会がキリスト教の精神を教え込むために読み書きを教えるといった、
偏った教育内容を教える機関としての姿も見られた。国教会が労働者階級に学ばせたいこ
とを教授する機関となっていた日曜学校の実態には、非常に疑問が残る。
第 2 章では、労働児童の生活実態から 1870 年初等教育法による学校教育義務化の動きを
検証した。この時代において貧民児童は働かなくてはならず、家庭にとっては貴重な労働
力であった。国家は、貧民児童の道徳率の低下や児童の無教養な状態が犯罪増加につなが
るといった考えから、1870 年に初等教育法を成立させて国家による初等教育の義務化を推
進した。しかし、急に公立学校の建設を進めるということになったために「学校の基準」
があいまいになってしまい、教員や施設整備などが不十分な状態であった。また、学校を
全国に広げることで貧民の税負担が増えることとなり、そのために貧民児童の労働がより
忙しくなってさらに学校に通う時間がなくなるという矛盾が生じていた。貧民児童の大半
が学校に通うよりも仕事に行くことを優先せざるを得なかった状況を考えると、国として
は学校の建設を進めるよりもまず貧民児階級の生活水準を向上させることを最優先すべき
であり、学校制度を義務化するにはまだ早かったと言える。このような状態で公教育制度
を展開して学校建設を進めて行くのではなく、貧民児童が大半の時間を過ごす「家庭での
教育」の充実を図るべきではなかっただろうか。
1 章と 2 章から「学校」という存在がヴィクトリア時代を生きる貧民児童の生活実態にそぐ
わなかったものであるとし、彼らに対しては学校教育ではなくて家庭教育に主眼をおいて展
開していくことが望ましかったのだと結論づける。彼らにとっては学校において「読み書き
などの基礎知識」を学ぶことが重要なのではなく、家庭や職場において生きていく上で役に
立つ「有用な知識」を獲得していくことが大切だったのではないだろうか。
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卒業論文概要
渡辺泰右
新潟大学人文学部英米文化履修コース
リチャード・ローティ研究
―「リベラル・ユートピア」における「公私の区別」―
リチャード・ローティはプラトン以来哲学者達が自らの命題と課してきた普遍的な真理
の追究を放棄する。彼が提案するのは真理を歴史的に語ること、すなわち真理をそれぞれ
の時代や文化の中で個別に創られた社会現象として捉えるプラグマティックな姿勢である。
ローティは自らが理想とする社会を「リベラル・ユートピア」と呼ぶが、その社会では真
理を歴史の偶然の産物とみなす。そのため人々は自己や他者の信念の絶対性を疑う見地に
立ち、普遍的な真理にとらわれることなく自由に自己創造や自己実現が可能になる。
だが個人の自己創造や自己実現は時に他者を傷つけたり、妨害したりする。それゆえロ
ーティのリベラル・ユートピアにおいては、公的領域では他者の心情に配慮する「公私の
区別」が必要になる。本論文ではローティのリベラル・ユートピアの意義と問題点を「公
私の区別」テーゼの妥当性から検討した。
第1章では普遍的な真理を追究するプラトニズムから、真理を暫定的なものとみなすプ
ラグマティズムへの転向を主張するローティの理論を明らかにした。そしてそのようなプ
ラグマティズムの思想がリベラル・ユートピアにおいていかなる含意を持ち、それがどの
ように自由主義と結びつくのかを論じた。
第 2 章ではリベラル・ユートピアの内実を「公」と「私」、双方の側面から明らかにした。
その社会では他者に「残酷さ」、すなわち精神的、あるいは肉体的な苦痛を与えないという
ミニマムな原則が用いられる。その原則さえ守れば人々は自由な自己創造が可能になるが、
他者に対して責任を負う領域においては「残酷さ」を与えぬよう態度や行動に注意しなけ
ればならない。
第 3 章では「公私の区別」テーゼの問題点を指摘し、その論者としてシャンタル・ムフ
が提唱する「闘技的民主主義」の思想を取り上げた。自己創造は必ずしも私的に行われる
わけではなく、政府や社会の決定が自己に影響を及ぼすこともある。それゆえ「公」と「私」
を完全に分けることは出来ない。また「公私の区別」は社会に対しての批判的な意見も私
的なものとして排除してしまう。それゆえムフは対立を社会改善するものとして顕在化し
ようとする「闘技的民主主義」の方が自由主義の本質を理解していると主張する。
確かにローティの理論は包括的な価値観を提供しない。それゆえ宗教間の対立や妊娠中
絶、同性愛といった問題を解決する手段にはならない。しかしローティの「公私の区別」
は現在の多元的社会の中にあり、個々人がより自由に自己創造、自己実現を達成しようと
試みたものである。それゆえ「リベラル・ユートピア」は 21 世紀の新たな思想の一つとし
て、価値のあるものとして結論づけた。
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