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フランツ・カフカの『城』における "可能的"世界と希望

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フランツ・カフカの『城』における "可能的"世界と希望
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
フランツ・カフカの『城』における "可能的"世界と希望
Author(s)
鷲尾, 多三郎
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1968, 8, p.153-165
Issue Date
1968-02-29
URL
http://hdl.handle.net/10069/9551
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153
フランツ・カフカの『城』における
"可能的"世界と希望
鷲尾多三郎
霧と闇の村に到着した測量技師Kは城の役人に滞在許可証を要求される.城
から招かれて長い旅をして来たKにしてみれば不当な要求である.さっそく彼
は夜間であるにもかかわらず城に電話をして要求の不当な旨を連絡する.し.か
し意外にも測量技師を呼んだ畢ぼえはないという返事である.それから間もな
くこんどは城から電話がかかって来て前の返事は誤りであるという.こうして
Kはどうにかその夜を過ごすことができて翌朝彼は城へと出かけてゆく.この
第-章において早くも作品のほとんどすべてを予示するかのような叙述があら
われる. 「到着以来はじめてほんとうの疲労を感じた. ---もちろん都合の悪
いときにである.新らしい知合いを採そうという気持に彼は逆らいがたく引き
つけられていた.しかし新らしい知合いができるたびに疲労は強まっていっ
たこうして彼はまた歩みを続けていった,.しかし長い道であった.つま
り,村の大通りであるこの通りは,城のある山-は通じていなかった.通りは
その近くへ通じているだけで,まるでわざと曲がるように曲がってしまってい
た.そして城から逸れもしないが,近づきもしなかった.さてやっと城へ入っ
ていくにちがいないとKはいつでも期待し,そう期待すればこそ歩みを続けて
いったのである.」 (S.17-18)a)ここに見られるKのやむことのない期待,
都合の悪いときの猿労,知合いのできるごとに強まる疲労,絶対的に閉ざされ
た城への道,それに作者の象徴的手法とはどれもみな作品の重要な要因であ
る.ことにKの城へ入ろうとする期待と努力は,散漫に展開する作品において
ただ一つ筋らしいものを与えている.逸れもしなければ近づきもしない道をK
はなぜ,どのようにして入って行こうとするのか.われわれは作品を読み進む
鷲尾多三郎
154
につれて作者の奇妙な難解な世界へと引き込まれてゆくのである.
およそ作家としてのカフカの特質は,日常生活においてわれわれの脳裡をか
すめては消えてゆくおぼろげな想念をはっきりと捉え,それを拡大し表現する
ことにあるようである.多くの場合彼の想念は世界と人間とのかかわり具合に
向けられる.しかし抽象的概念的なものではない.一見破綻なく進行している
日常生活において,その要因が,あるいは欠如するか,あるいは異常な作用を
呈するか,とにかく日常茶飯事がもはや日常茶飯事ではありえなくなった異様
な世界,とそこにおける人間の相貌である.一瞬ゾッとする幻想性と,反面執
槻なまでの日常性との混清はカフカの作品に多く見られるところである.さら
には響輪という手法がカフカには特徴的である.しかし響境はカフカにとって
単&る手法の問題ではない.カフカは時とすると日常生活に密着しながら次の
瞬間には日常生活をそっくり眺めうるような視点に立つのである.
「もしも君が平地を歩いていて進もうとする確かな意志をもちながら,しか
も後退するとすれば,事態は絶望的であろう.しかし君は険しい急坂をよじ登
っているのであり,おそらくは君自身が下から眺めたとおりの険しさなのだか
ら,後退はただ地勢のために起こったのかも知れぬ.絶望してはならない.」(2)
視点を移動することによって同一の局面が一変した相貌をあらわにする.その
過程をカフカはもどかしい論理の手続きに由らないで文字というカメラに直接
写しとる.したがってそこには論理の筋道を追うべきではなく,カフカの想念
にハッと思いあたることが必要である.上例は確かに響愉と言ってもよいであ
ろうが,それ以上にカフカの特異な視点の移動,カフカの人生観に基づくもの
である.日記に見られる次の文章はよくそれを証しているように思われる.
「立場の安定.私は特定の仕方で自分を展開しようとは思わない.私は他の
場所へ行きたいのであり,実はあの『他の天体-行こうとすること』なのであ
る.それには自分のすぐそばに立つだけで十分であろう.私が立っている場所
を他の場所として捉えられれば十分であろう.」(3)
+
+
+
1917年9月25日の日記にカフカは次のように書いている.
「結核患者として子をもつことは必ずしも罪深いとはいえない.フロベール
フランツ・カフカの『城』における"可能的"他界と希望155
の父親は結核患者であった.子供の肺が笛を吹く(医者が患者の胸に耳をあて
て聞くあの音楽を美しく表現したもの)ようになるか,それともフロベ-ルに
なるか,という選択.それが虚空で(im Leeren)協議されている問,父親の
おののき.」(4)
これもカフカの資質が捉えた恐ろしい想念である.まず「父親のおののき」
がそのまま読む者に伝わるからである.次にカフカの鋭敏な資質が無気味であ
る.フロベールは偉大な作家であった.結核患者として無名のうちに死んだの
ではない.この絶対的な生の一回性を思うとき,なぜそうでなければならなか
ったのか,なぜそれ以外ではありえなかったのか,一回的な生の不思議に思い
あたる.ことに実現された生と,あり得たかもしれない生(現実的な日常生活
の裏側に黒々と口を開けた可能的な生,カフカにおいてはその黒さが日常生活
の明るさに匹敵し,さらにはその明るさを消し去るほどに黒いのである)との
▲
懸隔が大きければ大きいほどいよいよその不思議におののかざるを得ない.そ
のときカフカの視点は世界の主宰者たちの場へと移動する.そして人間の運命
を現に協議している彼らの会議室と不安におののく人間とを如実に表現に定着
するのである.もちろん人間の関知できない世界の主宰者たちの協議室である
から, 「虚空」 (dasLeere)と呼ばれる.フロベールの父親が事実おののい
たわけではない.したがってこれは誓境である.しかしそれ以上にカフカの形
而上学である.そして小説『城』はカフカの形而上学の詳細な展開にはかなら
ないのである.
カフカの形而上学の基調をなすものは,自明な現実的生の裏側にひそむ≠可
能的な" (ありうるかもしれない)生に対するおののきである.それはまた
『城』全篇に溢れるものでもある.作者が直接におののきを描いているわけで
はないが,現実の生が一層日常生活に密着し,それを裏切る"可能的な"生は
一層黒々とした途方もない力をもつとき,両者の距たり,緊張が読む者におの
のきを与えるのである.城役所から呼ばれて村へやって来た測量技師Kの望み
はただわずかでも金を貯えて遠い妻子のもとへ帰りたいということである.
「いい仕事にはいい金を払ってくれるという話だが,ほんとうかね.私のように
妻子から離れて遠く旅するものはいくらかは持ち帰りたいものだよ.」 (S.ll)
鷲尾多三郎
156
「まず知らなければならないのはどんな仕事をするかだよ.たとえばこちらで
仕事をするというのなら,こちらに住むのが賢明だろう.それに上の城のなか
で暮らすのは私の性に合わないだろう.私はいつも自由でいたいよ.」 (S.12)
このごくありふれた日常性がKの身上であって決してこの枠を踏み越えること
はない.と言うより,このごくありふれた日常性が実は作者の意図したところ
であり,ここには作者の言う日常性の日常性たる所以が表わされている.つま
り,いくらかは金を持ち帰りたいという希望,城役所から干渉を受けずに自由
に暮らしたいという願い,どんな仕事が知りたいという欲求,換言すれば期待
と認識である.作者がごくありふれたKを描くことは知恵の樹の実を食べた人
間,ささやかな期待に心を寄せて生を営む人間そのものを描くことである.し
たがって作者の描くKが,ありふれた考えを抱き,ありふれた振舞いをするあ
りふれた人間であればあるはどKはいよいよわれわれに身近かな存在となるの
である.
城はおそらく世界の主宰者たちが人間の運命を協議し,しかも人間の関知で
きない「虚空」である.それだから城への道は「逸れもしないが,近づきもし
ない」のである.人間にとってはただ不可能を意味するのである.このことを
作者は小説の第一章において明らかにしているが,城を認識しようという期待
を抱いてKが努力を始めるのがまさにこのときである.以後『城』全篇は不可
能に対する人間の無意味な努力,その失敗と新たな開始の連続である.その際
作者は期待を抱いて努力するKを自明な日常性の枠の中でのみ描くのと対照的
に, 「虚空」の世界をもも可能的な"世界として作者のいわゆる移動した視点
から詳細に展開している.城役所と役人,村と村人の奇妙な相貌は作者の移動
した視点からの産物である.そうすることによって日常的なKと"可能的な"
世界との間には言い知れない断絶ができあがり,不可能という乾いた概念はお
ののきという恐怖感を伴なってわれわれに迫るのである.
+
+
+
作者が人間の主要な属性として認識能力をあげていることほすでに触れた
が, "可能的な"生を生み出すものはほかならぬ人間の認識である.一回的な
生から出発して,あるいはこうであったならば,あるいはこうもありうるので
フランツ・カフカのF城』における"可能的"憧界と希望157
はないか,という可能性が考えられるところに期待もあり,反面おののきも生
まれてくる.フロベールがもしや結核患者に--・という可能性が考えられると
ころに父親のおののきがあったのである.しかし人間はおののきながら生きる
ことはできない.おののきは払拭されなければならない.こうして人間は認識
により可能性を生み,それにおののき,ふたたびおののきの由来を認識しよう
とする,いわば認識の環のなかに閉じ込められている.それだからこそ知恵の
樹の実を食べたことは人間の堕落なのである.
「人間の堕落以来善悪の認識能力においてわれわれは本質的に同じである.
にもかかわらずわれわれはまさにこの点に特別な長所を求めようとする.しか
しこの認識の向こう側で真の相異が始まる.それが相反するように見えるのは
次の事情に因る.だれも認識だけでは満足できないで,それに従って行動する
ように努力せずにはいられない.ところがそのための力は与えられていない.
したがって必要欠くべからざる力をも失うという危険を冒してまで自己を破壊
しなければならない上だがこの最後の試みしか彼にはのこされていない。 (こ
れほまた認識の樹の実を食べることを額ずるに死をもって脅す意でもある.お
そらくこれはまた自然死の根癖的な意でもあるかもしれない.)ところで彼は
この試みを恐れる.むしろ善悪の認識を解消しようとする. ( 『人間の堕落」
という呼び方もこの恐怖に起因する.)しかし起こってしまったことは解消で
きない.鈍くすることができるだけである.この目的からさまざまな理由づけ
が始まる.全世界はこの理由づけでいっぱいである.いや可視世界全体はひと
ときの安らぎを求めようとする人間の理由づけにはかならない.それは認識と
いう事実を偽り,認識をまず目的とする試みである.」(5)
『城』についても多くを語っている作者のこのアフォリスムスからここでは
次の点だけを指摘しておこう.つまり,同じ認識からさまざまな理由づけが始
まる,それは限りある肉体と無限に求める認識とを同時にかね備えた人間が一
時の安らぎを求めようとする試みであって,世界はこの理由づけに溢れてい
る,と作者は言うのである.こうした人間観から『城」はさまざまな理由づけ
の衝突の場になる. F城」は出来事に乏しいわずか数日間の物語にすぎない
が,そこには長々とした弁説が多くのスペ-スを割いている.村長の話,おか
158
鷺!尾多三郎
みの話,フリ-ダの話,ペ-ど-の話,これらは会話とし、う性質のものではな
い.一方は他を埠とんど顧慮することなく,場合によっては不自然なほど長い
話である.相手ほどの場合もKであるが,彼はつねに聞き手である.そしてい
ずれも認識と期待を含んだKのごくありふれた日常性を否定するか,あるい
はくつがえすものばかりである. 「あなたは領主の仕事に採用されました」
(S.36)という城役所からの通知をKは受取った. K自身この通知をあらゆ
る角度から分析解釈して不安と期待とを抱く.それに対して, 「この手紙のな
かではあなたが測量技師として採用されているということは一言も言われてい
ません」 (S.105)と言って,城からの通知をほとんど反故同然に解釈してし
まうのは村長である.おか射ま言う. 「あな、たはここの事情に関して驚くほど
無知です.」 (S.82) 「あなたは誤解するほかにできることはないのです.」
(S.120) 「あなたはこの土地ではすべてを間違って見ています.」 (S.128)
ヽ
なぜ無知なのか,どのように誤解しているのか,おかみは説明しようとしてほ
とんど説明になっていない. Kは城への足がかりとして昔城役人の恋人であっ
たというフリーダと婚約する.しかし意見の相違が二人の仲を裂かずにいない.
フリ-ダについて抱いたKのかすかな期待をペ∼ピーがまっこうから否定す
る.その他,村長の妻は子供じみてものの役に立たないとKは思っていたのに,
実は村長は妻なしには何事もなしえないとか,重要な役人が実はもっとも下
っ端の役人であったとか,誤解や否定,見解の相違,意見の衝突が『城』の風
土である.こうしてKと村人たちとの間には目に見えない壁があるように思わ
れる.それどキろか両者は世界を異にしている感さえある.そしてこのことが
ほかならぬ作者のねらいであり, Kの日常性の日常性たる所以は一つずつくつ
がえされてゆくのである.人間の認識は否定され,期待は拒否される.しかし
この否定も拒否もKはそれほどの重要性をもっては受取っていない. Kにとっ
ては単なる意見の相違にすぎない. 「でもこんな心配はたとえ正しくとも,ま
だ私にとってはこの件をあえてやろうとしない理由にはなりません.ところで,
もし私が彼(城役人)に対して平気でいることができるなら,彼が私と話すな
んてことはまったく必要ではないんです.私の言葉が彼に与える印象を見とど
ければ,それで私には十分です.もし私の言葉が彼に少しも印象を与えず,彼
フランツ・カフカの『城』における"可能的"世界と希望159
がそれを全然聞いていないにしても,やはり一人の力ある人の前でものが言え
たという勝利を得たことになります.」 (S.75) 「私にとっていちばん重要な
ことは彼に面と向かって立つことです.」 (S.127) Kと会う村人たちはみな
否定的な拒絶的な態度をとるにもかかわらず, Kの目標は明確であり,初めか
ら変っていない.それは測量技師として自分を村へ呼んでおきながら不安定
な状態を強いる城役所へ,はっきりした話を取りつけに入って行くことである.
このことは実は,人間の運命を一方的に協議し強制する世界の主宰者たちの
「虚空」 -人間が参加しようとする試みにはかならない.人間の運命を決する
協議に参加することはできないかもしれない,しかし意見を述べ,いくらかで
も決定に影響を与えることができるなら人間としての自主性を保持することに
なり,真に自由でありうるのである.しかし作者はこれを≠可能的な"世界と
して描くのであって, Kの自明な日常性と決してかみ合うことはない. Kに
とって城役所は決して「虚空」としては現われない. Kは現実の城役所-入ろ
うとするのである.状況は悲観的である.読む者がそう思うのである.しかし
Kはせいぜいどこにでもある小さな障害としか感じない. 「無知なものはかえ
って多くのことをやってのけるという利点もあります.だから私は自分の無知
とその確かにまずい結果とをなおしばらくは引きずってゆこうと思います.」
(S.84)悲観的な状況のなかでKはなお期待に心を寄せながら城へ入ろうと努
力を続けるのである.こうした描写の二面性とそこに横たわる絶対的な拒たり
は読む者をして人間存在のあらわな姿におののかせずにはおかない.
+十十
人問が世界の主宰者たちの「虚空」 -参加しようとする試みが失敗に終るで
あろうということは容易に想像できる.しかしそれは絶対に不可能であろう
か.可能性はないものだろうか.可能性はあると作者は描いている.それどこ
ろかまさに実現されようとする可能性さえもあると言う.しかし人間が限りあ
る肉体をかね備えているという動かすことのできない事実から可能性は可能性
のまま終らざるをえない.これだけの結論は認識と肉体を人間の条件とみる見
方からすれば決して耳新らしいものではない.ここでも問題となるのは作者の
視点である.作者は「虚空」へ参加しようと期待し努力する人間を日常性の枠
160
鷲尾多三郎
のなかで描くと同時に,ありうるかもしれない≠可能的な"世界を作者の移動
した視点から描いている.つまり,人間は「虚空」へ入ろうとし, 「虚空」は
人間へはたらきかけようとする.両者は同一次元において展開され,しかも
「虚空」からのはたらきかけが圧倒的である.可能性は充満する.そのとき,
肉体の有限性という人間の根源的な欠陥によって可能性は可能性のまま終らざ
るをえない.肉体の有限という概念が痛切な響きを伴なって読む者に迫るので
ある.以上の意味でKとビュルゲルとの出会いは『城」の秘密を解明する場面
となっている.城役人の夜間聴取に召喚されたKは間違って城と村との「連絡
秘書」ビュルゲルの部屋に入ってしまう.連日の奔走に疲れ腫魔を抑えきれな
いKはいまにも眠りそうになっている.それでもKはすぐに部屋を出ようとす
るが,ビュルゲルはKが測量技師として呼ばれながら測量の仕事をしていない
と聞いてこの件をさらに追求してみようと言う. Kは係でもない秘書に期待は
かけられないしそれでなくとも今は眠い.しかしビュルゲルは長い弁説を始め
る. Kはほとんど夢うつつの状態にある.
「確かにここでほ多くのことが人をおどすようにできていますし,新らし
くここにやって来るとさまざまな障害がまったく乗り越え難いように見えま
す. -・-・しかし注意していただきたいが,それでもやはり全体の状態とほとん
ど一致しない機会がときには生じます.そういうときには一言によって,一つ
の眼差しによって,信頼の一つのしるLによって,生涯にわたる骨身を削るよ
うな努力によるより以上のものが得られます.」 (S.377-378)ビュルゲルは
この機会がどうして生じるのかを詳細に説明する.機会は秘書たちの勤務の都
合から生じるもので, 「係りでない秘書」を「夜間」 「予告なしに」襲うとき
-eあるとビュルゲル峰言う.それはそのまま,彼の前で今にも眠り込もうとし
ているKの状況でもある. Kはまたとない機会に直面していることになる.ど
ュルゲルもそのことをKに教えようと懸命になる.しかしKはほとんど眠りの
状態に入ってしまった.
「 『当事者自身は自分からはほとんど何も気づいていません.彼の考えによ
ればおそらく,ただどうでもいいような偶然の理由から-疲れ果て,失望
し,過労と失望のために考えなしになり,どうでもいいような気持で-行こ
フランツ・カフカの『城』における"可能的"世界と希望161
うとしたのとは別な部屋へ入り込んだ,というわけです. --・この人問をその、
まま捨ておけないものでしょうか.それができないのです. --・何が起こった
か,どういう理由で起こったか,この機会がいかに稀で,比類なく大きいもの
かを詳しく教えてやらずにいられないのです. ---今やその気になれば,測量
技師さん,すべてを支配でき,そのためにはとにかく自分の願いを述べる以外
にすることはないのだ,願いが叶えられる準備はすでに調っている,それどこ
ろか願いは叶えられることに向かって自分を差しのばしているのだ,というこ
とを教えてやらずにはいられないのです. -・-・』
Kは起こっていることには一切お構いなく眠っていた.
そのとき,わきの壁をやや激しく叩く音がした. Kはびっくりして起き上
り,壁を眺めた.
●
『--・さあ,行きなさい.眠りから全然抜けることができないようですね.
行きなさい.まだここでどうしようと言うんですか.いいえ,眠いのを詑びる
必要なんかありません.一体なぜ必要なんです.肉体の力はある限度までしか
及びません. --・そのようにして世界は自分の運行を正し,平衡を保っている
んです. -・-・さあ,行きなさい.向こうでは何があなたを持っているか知りま
せん.ここではすべてが機会に充ち溢れていますが. --もちろん大きすぎで
利用できなし機会というものがあります.ただそれ白身において挫折する事柄
もあります. -・-・』
-Kにはこの部屋が何とも言えず索漠たるものに思われた.この部屋がそう
なってしまったのか,以前からそうであったのか,彼は知らなかった. -・-」
(S.390-393)
ここでは城つまり「虚空」からの人間に対するほたらきかけが圧倒的であ
る.仲介役を勤めるビュルゲルは城と村との「連絡秘書」なのである.、世界の
t
一切を知り,世界を思うままに動かす「虚空」は人間にも自分たちの場-参加
する機会を与えようとする. Kのやむことのない期待と努力がまさに報いられ
ようとする・しかしその機会はKの手からスルリと抜けてしまう._疲労と睡眠
が原因であるが,いがに作者はこれを偶然的なものとして描こうとも,肉体の
有限性という絶対的な原因であることは確かである. Kが機会を逸することは
鷲尾多三郎
162
絶対的な原因による絶対的な結果であり, Kの期待は決して報いられないとい
うことである.人間は「虚空」-決して参加できないということである. 「虚
空」自身はそのことも知っており,事細かに説明してみせる. 「虚空」は世界
における一切を知っている世界の主宰者たちの場なのである.ところが実はK
の方には何事も起こってはいない.彼はただ眠っていたのであり,むろん機会
の何たるかさえ感じていない. Kは眠いから眠るという人間の自明な日常性を
具現している.このKの日常性と「虚空」を中心とする≠可能的な"坐,いわ
ば生の表と裏とを同時に描き,むしろ作者は生の裏側から表を照射する.作者
の視点の移動である.そのことによって自明な日常性は異様な相貌を呈してく
る.つまり,期待に心を寄せて努力する人間の,その期待は絶対的に報いられ
ない,という生のあらわな姿が浮き彫りにされる.こうしてKの期待は決定的
に道を断たれていることが示される. 「索漠たる部屋」とはそれを予感したの
であろうか.このビュルゲルとの出会い以後Kの身辺には何とはなしに限界め
いたものが漂い始める. 「自分の肉体をあてにできると信じ,この確信がなか
ったならば決してここ-も来なかったであろう彼が,なぜ二,三の苦しい夜と
不眠の一夜に耐えられなかったのか.なぜまさにここでどうしようもなく疲れ
てしまったのか.」 (S.396)そして,冬が長く,春と夏は二日以上なく,そ
のもっとも好天の日にさえときどき雪が降るという『城』世界の気候風土のな
かで, 「春までどの位あるんだろう」 (S.451)というKのつぶやきはすでに
死の徴であろう.しかし肉体の衰えをよそにKの城-入ろうとする期待の烈し
いことに変りはない.世界に失望した者同士地下の穴蔵部屋で狭くとも暖かい
人生を送ろうとペーピーから誘われたとき, Kはきっぱりと拒絶する.まだ期
待の火は燃え尽きてはいない.なおも城-の足がかりを求めてKが出て行くと
ころで『城』晩片は終っている.
+
+
マックス・ブロートは『城』等一版のあとがき(6)のなかで,カフカから聞い
たという作品の結末を次のように書いている.つまり, Kは自分の闘いを断念
はしないが,疲労のために死ぬ.死の床には村人たちが集まっている.そのと
き城から決定が下り,なるほど村に住む権利の要求は認められなかった,しか
フランツ・カフカの『城』における"可能的"世界と希望163
し事情を考慮して村で暮らし,働くことは許すというのである.マックス・プ
ロ-トの書くことが事実であるとしても,すでに見た『城』断片に付け加わる
ものは何もない. Kは村に到着した直後に滞在許可証を要求されて城-入ろう
とする.入ること自体にはいろいろと障害があり,遂に入れないままに終るけ
れども,入ろうと努力し村でいく日かを過ごすことには何の妨げもなかった.
Kの死にあたって城から発せられる決定はあらためてそれを明文化したものに
すぎない.断片のままにせよ,結末を想定するにせよ, Kの期待と努力のうち
努力はそのままに放置され,期待はあだであることは明らかである.
ここからカフカの希望の無さを云々することほ容易である.われわれが作品
の到る所で出会う否定,拒絶,衝突,食い違い,それに絶対的な不可能,これ
らはわれわれにやりきれない彰結した思いを抱かせずにはいないし,ひいては
作者の希望の無さ-と発展していくことも十分理由あることである.そもそも
ものを書くという中には測り知れない期待が含まれているものであるが,カフ
カは未発表の原稿を焼き捨てるようにと友人マックス・ブロートに言い通して
いる.カフカにとってはものを書くというごくありふれた行為が慰めともな
り,また疑わしいものともなる.カフカにとっては自明の行為が自明ではなく
期待と不安の問を動揺する.カフカにおいては異常な体験というものはなく,
体験の深さが異常なのである.こうしてすべてが問題性を孝み,自分の存在が
不安定になり,人間存在そのものが不安定になる.換言すれば,固定したも
の,破壊しえないものが見出せないということである.このようにカフカの希
望の無さとは,すべてを徹底的な動揺のうちに捉える点にある.このことから
前に引用した「立場の安定」のために不安定な自己を一歩抜け出ること,他の
場所-行くこと,つまり視点の移動は切実な祈りに似たものとなり,カフカの
作品に多く見られる響境も単なる表現の形式ではなく,カフカにとっては強い
実在性をもつのである.
『城』は不安定な人間存在を描いたものにはかならないが,一見安定してい
るかに見える日常性の安定的な要素を≠可能的な"生に対置することによって
すべて動揺させ,問題化した点に特色がある. 『城』が絶望の書と呼ばれる理
由がここにある.しかし,はたして『城』には動揺とか問題化とかを許さない
164
鷲尾多三郎
安定したものが見出せないのであろうか.すべてが動揺しているなかに作者が
祈りをこめて凝視しているものはないのであろうか.ここで私は一つの解釈を
試みたいと思うのである.カフカはアフォリスムスのなかに次のように書い七
いる.
「 『われわれに信仰が足りないとは言えない.だが,われわれが生きている
という単純な事実のなかにはとても浅み尽せないほどの信仰価値がある.』
『ここに信仰価値があるんだって?.だって生きないではいられないじゃな
いか.』
『まさにその"ではいられない"という点にこそ信仰の気狂いじみた力がひ
そんでいるのだ.この否定においてその力は形にあらわれる.』 」 (7)
われわれは生きることの意味を考える.よりよく生きることを考える.しか
し,生きていること自体に驚嘆することがあるだろうか.生きようとする意志
があろうとなかろうとわれわれは生きている.カフカはこの自明な,したがっ
てことさら感動を呼ばない事実のなかに,心を震わせながら,根源的な生のエネ
ルギーを認める.この根源的な盲目的な生物的な力が,すべてを徹底的な動揺
のうちに捉えるカフカにとっては動かしえないもの,破壊しえないものであっ
たにちがいない.それは存在するすべてに対する古代人の畏怖に似たものであ
ろう. 「信仰とは自己のなかにある破壊しえないものを解放することである.
より正しくは,自己を解放すること,より正しくは,破壊されないものである
こと,より正しくは,存在すること,である」(8)と同じくアフォリスムスのな
かに書いている.逆に言えば,カフカにとっては「存在すること」以外は一切
動揺のなかにあったのである.ここから『城』におけるKに思いを馳せてみる
と, 「私がここへ来たのは留まるためなんだ,私はここに留まるよ」 (S.201)
と言って死ぬまで城へ入ろうと努力するKの姿は,あるいはカフカにとって
「破壊しえないもの」の表現ではなかったろうか.作品のなかで十分な表現を
得ているとは思われない.逆に言えば,それほどKの努力は自明であり日常的
なのである.しかし,カフカが単純な自明な事実のなかに,信仰--とは言え
ないまでも,少なくとも足がかりを見出した点を考えるならば, Kはカフカに
とって希望の表現ではなかったかと思われる.
フランツ・カフカの『城』における"可能的"世界と希望165
註
(1) Franz Kafka : Das Schloss Roman, S. Fischer Verlag, Lizenzausgabe
von Schocken Books New York 1964テクストとしてこれを用いた.本文中のページ数はすべてこれに拠る.
{2) Franz Kafka : Hochzeitsvorbereitungen auf dem Lande und andere
Prosa aus dem NachlaB, S. Fischer Verlag, Lizenzausgabe von Schokken Books New York 1953. S. 40-41
{3)
Franz
Kafka
:
Tagebiicher
1910-1923.
S.
Fischer
Verlag,
Lizenzaus一
gabe von Schocken Books New York 1949- S. 561
(4) ibid. S. 534
(5) Franz Kafka : Hochzeitsvorbereitungen...... S. 49-50
{6) Max Brot : Nachwort zur ersten Ausgabe, in Kafkas ,,Schloss" 1964S. 526-527
(7)
Franz
Kafka
:
Hochzeitsvorbereitungen‥‥‥
S.
54
<8) tbtd. S.
(昭和42年9月30日受理)
Fly UP