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travel diary wina へのリンク

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travel diary wina へのリンク
市内に人り、かっては城壁であったリンク通りに入ると、歴史的な建造物が次々
に現れてくる。オーストリアはヨーロッパにあって、あえて呼ぶなら中欧であ
る。北はドイツ、南はイタリア、西はスイスを挟んでフランス、東はチエコス
ロバキア、ハンガリー、ユ-ゴスラビア等の東欧諸国に接している。古来より
この地理的条件からヨーロッパの経済、文化の交流する要衝であった。またア
ルプス山脈の内陸でもあり、その高度により多彩な風光をもつ九つの州からな
っている。ウイーンはこの国の主都であり、もっとも東に属するが故に東欧の
民族と香りか入り、またブルポン家と並ぶハスブルグ家の王朝文化の遣産に富
んだ魅力的な街でもある。特にこのリンク通りにはウーインの華やかな建造物
が宝石を鏤めた如く立ち並んでぃる。ハプスブルグ家オーストリア皇帝フラン
ツ・ヨーゼフ城壁散策中の事件を契機にこのりンク通りが造られた。東の脅威
であったトルコに戦争の勝利の後は城壁はもはや無用のものとなり、両側に遊
歩道をもつ幅六十メーター長さ四キロのリンク通り、世界でも屈指といわれる
美しい通りに代わった。
バスがりンク通りに入り、左手の緑深い公園の奥にウイーンには多い音楽家の
像が見える。日本もサポートして金色に化粧直しをしたヨハン・シュトラウス
の像である。各国の空航会社の建物のある通りを過ぎて、ケルトナー通りにに
交差する右手には有名な国立オペラ座(千九百四十五年戦災で焼失、千九百五
十五年再建された)である。さらに進んで、王宮公園に建つモーツアルト像、
その奥に広がるホーフブルク宮殿(翌タオーケストラ演奏の楽しんだ会場があ
る)。そしてブルク劇場が続いている。通りの左手にはホーフブルグ宮殿に向か
い合い、美術博物館と白然博物館を挟んで建つ女帝マリア・テレジアの颯爽た
る騎馬像、続いて国会議事堂、少し奥まって教会のような尖塔をもつ市庁舎、
千三百六十五年ルドフ六世創立のウイーン大学、語り合いながら歩く男女学生
たちの姿。千八百五十三年城壁の事件でヨ-ゼフ皇帝が救済されたことを感謝
して建てられたヴォーテイフ教会の上部も見える。ここから少し右に折れ四、
五区画行くと、千七百七十一年マリア・テレジアが戦費調達のため創ったと言
うウイーン証券取引所がある。 ここからの記憶が薄れてどう道を通ったか思い
出せないが、オペラ座の反対の全日空ビルの裏側、ケルトナー通り四十六の免
税店 WALTZ に来ていた。ウィーンのお土産を買う為である。
買物を終えて、観光の目玉べルベデーレー宮殿とシェーンブルク宮殿に向かう。
シュヴァルツエンベルク広場にある噴水の背後に建てられ、ウイーンの人達に
今では快く思われていないソ連の第二次大戦戦勝記念碑の話しを聴ぎながら宮
殿に向かう。ベルベール宮殿の建物は修理中、オーストリア風バロック建築の
代表格、中が見られなかったのは残念。裏側の庭園をみながら表側に回る。白
い花だけと思っていたマロニエは今を盛りと咲き誇っていた。表に回ると、遠
くシュテハン大寺院を望む大庭園である。一行の記念写真をとり、ガイドさん
の説明に耳を傾ける。フランスルイ十四世に疎んじらオーストリアにやってき
たオイゲン公、オスマントルコを撃墜し、影の皇帝とも称された人物で、ベル
ベール宮殿はオイゲン公が夏の宮殿として建てたもの。後に王宮のコレクショ
ン収蔵のためマリア・テレジアはこの宮殿を購入し、上宮を美術館とした。現
在クリムトやシーレを陳列する現代ギャラリー、下宮はバロックの遺品を陳列
している。また犬理石の間はオーストリアの歴史上重要な部屋の一つになって
いる。千九百五十五年五月十五日英、仏、米、ソの占領軍の外務大臣と戦後十
年の占領に終止符をうつオーストリアの主権回復を宣言する国家条約の調印式
をした部屋である。折しも前々日の十三日の事とて記念行事の準備をしていた。
このところ、北朝鮮の核問題でウィーン発の記事が目立つ。それは国連機関が
二ューヨーク、ジュネーヴとこのウィーンにある事と関係していたのだ。しか
も国連機関の建物を僅か一シリングで貸していると竹村健一は言う。国の平和
維持、世界平和への稿貢献方法の例としてTV解説にとり上げていた。今も国
際都市としての面目躍如である。一日、二日でウイーンが分かるわけでない。
観光と言え、これを機会に関心を持つ事だ。
次の観光シェーンブルン官殿に向かう。オットーワーグナーのマジョリカハウ
ス等眺めながら。シエーンブルンとはSchonner Brunnen 美しい泉の意。十七
世紀この辺りはハプスブルク家の狩場。時の皇帝マティアスが狩りの折り館の
近くで泉を発見したことにちなみ、後に皇帝レオポルド一世が息子ヨーゼフ一
世のため築城を計画、名を現在のものした。最初の設計はフィシャー・フォン・
エルラッハ。ハプスブルク家に対抗するフランス、ブルボン家のべルサイユ宮
殿以上の大規模な計画であった。然し、完成までには十七世紀のハプスブルク
家の財政はトルコ軍との戦い等やマリ・テレジアの意見、好みが入り、より規
模の縮小と四十余年の歳月を必要とした。千六百九十六年築城、建築様式も当
初のバロック式からロココ式へと変わっていった。夏の離宮とも呼ばれるシエ
ーンブルン宮殿。部屋の数千四百四十二室、現在公開されている部屋数三百九
十八室、部屋の数はもとよりその仕様、家具調度品の豪華さにはため息のみ。
ボヘミアンクリスタルのシャンデリア、豪華な木彫り金箔、壁天井の絵や装飾
等々。
記憶を甦させるための章
近衛兵の間
ビリヤードの間
くるみの間
三つの部屋に通ずる吹き抜け共有の大理石のストーブがある
皇帝謁見の間
皇帝フランツ・ヨーゼフの書斎
皇帝フランシスコ一世の執務室の机
皇帝フランツ・ヨーゼフの寝室
千九百十六年十一月二十五死去。 寝室、洗面、御手洗い
フランツ・ヨーゼフと皇后エリザベー卜の寝室
皇后エリザベー卜の客間
エリザベ-卜十六世四人の子の一人、ルドルフ皇太子心中事件とうたかたの
恋の話
マリア・アントワネットの部屋
マリア・テレジアにはジョセフを長女とし十六人の子供あり
アントワネットは未娘から二番目。ニ十才から三十九才までの子
召し使の間
マイセンの洗面器、エリザベートクリスタル、寝室、祈祷台、
フランツ・ジョセフ
フランツ二世(テリジアの孫)とだまし絵、
アントワネットのヴエルサイユ宮殿での使用机
テレジア朝食の間
子供部屋
黄色の間
鏡の間
幼いモーツァルトが御前演奏を行った。その時マリーアントワネットとモー
ツァルトが
出会った部屋
大口ーザの間、小口ーザの間
ヨーゼフ・ローザの装飾的風景画がある
ランプの間
大広間
強烈な印象を持った部屋、高い広い天井のフレスコ画、写真あり
中国の小部屋、小広間、中国の楕円小部屋
漆が装飾されている。
馬の間
馬が直接入った
カルセールの間
儀式の間
テレジアが勲章を与える間
マリア・テレジアの肖像太作
ヨーゼフ大公とイサベラ公女のアゥグスチナー教会における結婚式
中国フル-の間
沈金、蒔絵の間
ナポレオンの部屋
千八百五年ー千八百九年戦争
ナポレオンとマルイルイースの間に息子ライヒシュタットがいたが、不幸に
も夭折
ミリオンの間
ムガール帝国の絵があり、皇帝の朝食の間でもあった。
壁に鏡が有りシャンデリアが一層光る
ゴブランの間
六個の椅子の絵、座席と背に十二カ月を表す絵あり。ゴブラン織が懸けてあ
る
回想の部屋
赤いサロン
ヨーゼフ二世
フランツ・ヨゼーフ誕生の間
十八才から六十八才まで皇帝
フランツ・カール公の書斎
フランツ・カール公の客室
初めてみた宮殿
ハプスプルク家の贅を尽くした宮殿而も国内だけの権威だけでなく時のヨーロ
ッパ全土を視野、意識にいれて造られた営殿。民族大移動によって引き起こさ
れた混乱はやがてローマを滅亡に導くが、やがてながい複綜した地域的な統舎
から、八世紀中ごろシャルルマーニューによりヨ-ロッパ統一が一時ははから
れる。その後勢力を伸ばすいずれの 玉朝の支配者もローマ帝国の栄光とシャル
ルマーニュー統一と同じ夢を見て歴史を追う姿を見る思いがする。そして口-
マの野心、法治、文化とキリスト教は時代が代わり、支配者が代わろうともヨ
ーロッパに生き続ける。かっては神聖口ーマ帝国の皇位を極めたハプスブルク
家も十三世紀それまでの支配者だったバーベンベルク家を倒したスイス山中の
豪族であった。然しハプスブル家の残した遺産から、ほんの僅かなもの、ほん
の一時ではあったが直接眼にして、「野心を洗練した芸術に昇華させる能力」、
「権謀術策を華麗なる外交に変える能力」をかいま見たような気がした。これ
までヨーロッパの歴史も多少学んできた積もりだが現地、現物を見ないと洞察
の機能は働かないようだ。
宮殿の観光を終えてホテルに入る。
Hotel Erzherzog Rainer 住所 Wiedner Hauptstrasse 27-29
ケルトナー通りをリンクの外に出て工科大学を左に見ながらまっすぐにそして
パウラナー教会の先を左に四十程歩くと左側にある。少し先には魔笛の噴水が
ある。ホテルはこじんまりした庶民的なホテル、エレベーターが変わっていた。
フロアーに止まると、ドアーを押して出入りするスタイル。部屋は狭く、小さ
なシングルベッド一台。夜の食事の時間にはまだ時間があるので、ウイーンの
観光には欠かせないシュテファン大寺院に行くことにした。近くにあると言う
ので地図も持たずに出たものの、聞いてみるとあまり近くでもなさそうだ。カ
ールス広場まで来ると、シュテファンの尖塔が見えてきた。後で知るのだが、
カールス広場の豪壮な丸屋根の大教会でカール教会と呼ばれ、千七百十三年猛
威を振るっていたペストを封ずるためカール六世自ら祈願文と新しい教会の献
納を誓った事で建てられた。三年後バロック建築の大家フィシャー・フォン・
エルラッハが親子二代にわたって完成させた代表的な建築の一つ。既に閉門し
ていて中を見ることが出来ず残念。時間までに戻るにはやはり遠そうなのでカ
ール教会や工科大学を眺めながら再びホテルに戻る。
途中ミニスーパーに立ち寄り、パン棚を覗いたがアンカーヴォルトのパン無残
だった。ウィーインでは、パンはやはりべッカライの棚にあるのが似合ってい
る。一日の汗を流し、正装して食事に出る。
今夕の食事は創業千四百四十七年の歴史のあるレストラン Griechenbeisl 。地
下鉄シユテフアン駅で下車、ケルトナー通りに続く Rotentermstrasse と
Fraishmarkt の左側。中世の石畳の小路、両端には専の輪止めになる立ち石(馬
車にのるための踏み石ともきく)がある。中に人ると、如何にも歴史を感じさ
せる雰囲気を持っている。古くから名のある文人、音楽家,科学者もこよなく
訪れたレストランと言う。オニオンスープ、白いアスパラガス、やや薄くたた
いた牛かつ、馬鈴薯に白身魚、パンは焼きたて手作りのブロッチエン、デザー
トはアップルパイ、もちろんビールとワインでウィーンのグルメを楽しんだ。
五月十四日(土曜日)
ホテルにはレストランが併営されており、朝食はハムとチーズ、コーヒー、焼
きたてのブロチエン、果物。午前中は自由行動。昨日シュテファン大寺院に行
き損なったので早起きして電車でいくことにした。地下鉄 Kepheplatz 昨夕利
用したのだが、いざ自分たちでやると、切符の買い方さえ苦労する。駅員も改
札係もいない。このシステムは人問の良心に任せているのだ。他のヨーロツパ
の国々もそうかも知れない。やはり永ぐキリストが人の心に入り込んでいる国
なのか。
シュテファン大寺院は駅を出ると直ぐにあった。街のほぼ中心であり、域壁の
中心でもあった。営殿ではなく、寺院であったことがそのまま神の位置を示し
ていたように思えた。中では丁度ミサが行われていた。荘厳と静寂の中で心洗
われる世界にいるような感慨になる。長い歴史にわたってウィーンの人々の精
稗的支柱であったこのシュテファ大寺院が訪れた私達の驚嘆をよそに永い永い
波乱と苦難の歴史を持っていたことなど知る由もなかった。ローマ時代は都市
の城壁の外におかれた小さな教会であったと言う。しかしハプスブルク家の隆
盛と都市の繁栄そして戦火はシュテファン大寺院の位置と姿形だけだけでなく、
人々への精神的重みを一層与えてゆくようになった。寺院はウイーン一番の繁
華街で歩行者天国の通りにもなっているケルトナー通りにあり。
朝早くまだ商店も開いていないが、暫しウィンドショッピンダしながら散策す。
パン屋さん、菓子屋さん、露店の八百屋さんは店をすでに開いでいた。美味し
そうなサンドウィチの店をちよっとスナップ、先ほどの八百屋で苺を一箱を買
い、再びホテルに戻る。
午面中 この繁華街には再びツアー一行でやってきた。原さんのガイドで名の
ある建物やお店を見て歩く。地下鉄カールスプラッツ駅よりケントナー通りを
シュテファン大寺院まで、そしてシュテファン広場を左に歩行者天国の広がる
グラーベン通りを、十時の開店前でデリカテッセンスーパーユリウス・マイン
ルは見れない。そのまま更に左にコールマルクト通りを行くと、右手に王宮御
用達で有名なコンデトライのデメル店(左側には惣菜店もあり)、正面にはミハ
エル教会の建物が見える。コ-ルマルクト通りのつきあたりはホーフブルク営
の一角で現在は太統領官邸や諸官庁の建物に使われている。ミハエル広場から
左のアウグスチナー通りの方に行くとヨーゼフ広場にでる。真ん中に馬上姿の
ヨーゼフ二世像、この辺りにはスペイン乗馬学校、国立図書館等がある。モー
ツアルトに扮した何人かの青年に出会う。昔ここのパルフィ宮でモーツアルト
が親しい人々とのコンサー卜を楽しんだと言う。それに関係している風景なの
だろう。アウグスチナー通りを更に進んで左に回るとお目当てのザッハーホテ
ル、ザッハートルテ由来のホテルと言う。その本物のザッハートルテとウイン
ナーコーヒーを楽しもうと言うわけだ。一度に両方味わうには欲が深過ぎた。
砂糖を入れないレモンティでザッハートルテをそしてウィンナーコーヒーだけ
を味わえる余裕があればと思う。後で気がつくのだが、椅子は曲線の優美さで
有名になった卜ーネットスタイル、思い出の場所にちょとスナップ。昼の食事
はケルトナーの近くの中華料理を予定していると言う。
ウィーンも今日一日、この後一行に別れて美術館にいぐことにした。未だ方向
音痴で何度か道を聞きながらオぺラ座を右手にリンク通りを歩く。通りに面し
て王宮公園があり最初にゲーテの像がある。次にモーツアルト像、今でこそこ
の華麗ないでたちでに音楽の天才モーツアル卜を重ね合わせる人も多かろうが、
曲の著作権の無かった当時どんなに演奏に使われようとも一枚だけの楽譜代、
非常に苦しい生活を強いられていたことなど改めて知る次第。旅行前に見た映
画「アマデゥス」のモーツアルトが浮かび上がる。モーツアルト像を過ぎると
奥に深く広々と続く王宮の建物、そしてこれと対照となるかの様にリンク通り
の反対側には女帝マリア・テレジア像を間に挟んで自然博物館と美術博物館が
ある。
美術博はいま ISABELLA D'ESTE となっていた。四十五シリングの切符を買
い、恐る恐る胸をときめかしつつ中に人る。今回の旅行で初めて入る美術館で
ある。階段を上がると広い踊り場そしてそこには天井、壁に目を見張るばかり
の彫刻の飾り、最初から度肝を抜かれる。左右両翼に繰り広がる大ホール、そ
して展示の絵画彫刻の数々、廊下天井のフレスコ画、感動の連続だ。どんな順
序で回ったか定かではないが、ブリューゲル、ルーベンスの絵は今も鮮明に記
憶に浮かぶ。バベルの塔は聖書に出てくる物語、絵はよく紹介されているが本
物の前に立つとこの出会いに又一段の感激が湧く。この美術館はハプスブルク
家歴代皇帝の収集品を展示するために建てられたもので、展示品の良、質もさ
ることながら内部の装飾そして建物自体が芸術作品になっている印象である。
絶対王朝の贅と権力の故に遺し得たものと思う。
午後からはウィーンの森の観光。時間が無いにもかかわらずぶらぶらと徒歩で
ホテルに帰る。食事も思った様な店が見当たらず手元にあった食べ物で済ます。
土曜の午後街の店もお休み、ウィーンの森に向かう人も多いと言う。バスでウ
ィーン大学を通り街を抜けるが、時折ウィーンの記念建造物であることを示す
赤と白のフラッグを見かける。シュウベルトの住んでいたアパー卜の一角が見
えた。今では有名な作曲家も四才でこの二部屋の狭いアパー卜に移り住み、十
一才でウィーン少年合唱団に入る。十四才で作曲をはじめる。その頃のアパー
卜が保存されている。
幸いなことに今日は天気もよい。敷石を詰めた山道を上に昇につれてウィーン
の街の展望が開けてきた。少々霞がかかりしかと判らぬ所があるが、ウィーン
の街はパノラマに見える。左にはドナウ川の流れ、街のシンボル シュテファン
大寺院、手前にある金ピカの暁却炉の塔、後は所在の定かでない。初めての旅
人には其れとおぼしく見えるだけの展望だが、ウィーンを訪れている実感が改
めて湧いてくる。
森の麓はウィ-ンワインのぶどう畑。コートタジールに発しアルプス山脈千百
キロはここカーレンベルクとロイベルツベルクの峰に終わる。ウイーンの森は
ブナ、カエデ、カシ、シイの樹等の雑木林。森の中暫し散策する。森には幾つ
ものルー卜があり、ルー卜ごとに木の幹にいろを印に付けている。休日には森
林浴や散策を楽しむ人が多いと言う。ウィーンのは十九世紀の終わり、当時ウ
ィーンの巾長だったカールエルガーが市民の健康維持とりクリエーションのた
め保護地城として指定し、多くの南民や観光審に親しまれてきた。然しこの森
にも危機の訪れたことがあると言う。プロイセンに敗れ、市が財既難に陥った
時、この森の樹木を伐採し、売却しようと言う計画があった時である。この危
機に小さな村の村長さんが根気強い救済活動を展開し、この計画を破棄させた
と言う。お陰で今日多くの人達が楽しむ事ができているのだ。帰りま来た道を
戻る。黄色い花が目立つ。花は「金の鎖」と言う。敷石の道は千九百三十三年
から千九百三十五年失業対策事業で造られたもの。途中新酒を飲ませるホイリ
ゲの町に立ち寄る。束ねた松の葉(三百円以下、以上は杉の葉を軒に垂らして
いる)の所は新酒を振る舞うと言う。
ここにはウィ-ン市長の家や耳の悪化に悩み此の近くの温泉の湯治に来てい
たが、いっこうに回復せず絶望した楽聖べートベンが遺書を遺した為有名にな
った建物が有り見学す。べートーベン三十三才の頃。近くに教会がありその当
時は辺り一面田園地帯であったと言う。
「田園」のイメ-ジもここから生まれた
と説明する。教会で偶々結婚式風景に遭遇した。質素で素朴な教会結婚、太変
可愛く奇麗な花嫁、思わずシャッターパチパチという次第であった。ウィーン
の街に人るところで大きな市民住宅群が見えてきた。戦後の社会主義思想の普
及の中で生まれ、家賃は二万円以上に上げてはいけない事になっていると言う。
森の上から見えた焼却場のところを通る。初めただの焼却炉であったが、ガウ
デイの焼却炉に習って屋上に芝生を張り塔を斬新な物に代えたと言う。
バスは中央墓地に向かっている。ウィーン市民の生活に話が及ぶ。福祉制度が
進んでおり、幼稚園から大学まで授業料は無料、医療もすべて無料。然し税金
は収入の三十八%、平均的手取り給与は十七万円で共働きが多い。大学人学率
十三%、大学卒業まで六年、生涯収入を考えると必ずしも大卒が有利とは言え
ない。夏休み四週間。来る通りに自動車会社のオフィスがあったが、売れてい
る順位はオペル、フォルクスワーゲン、マツダ、トヨタ、ニッサン、三菱と続
く。
墓地にやりてきた。暗い感じはない、特に今は五月の新緑と白い大埋石が墓地
を一層明かるくしている。墓地と言うより公園の感じがする。国民の八十三%
から八十四%を占めるカソリックの墓地で千八百七十四年十一月一日開設され
た。三十五万の墓所に約三百万人が眠っている。ユダヤ墓地は別にある。当初
十五万人から十六万人であったが今は七千人と言う。十一月一曰のハーロイン、
十二月ニ十四曰のクリスマスイブ、五月一日の母の日には御墓参りで賑わう。
映画「第三の男」のラストシーン並木道の場面は此の墓地の中の並木道と言わ
れている。正面入り口から二百メーター程行った左側に楽聖達の眠る墓がまと
められている。正面にモーツアル、左奥にべートーベン、右手前からブラーム
ス、シュトラウス子、シュトラウス親、奥にヨウゼフ・シュトラウス。モーツ
アルトは像だけで、遺骨はないと言う。他の区の墓もそうだが、立派な像がつ
いているのが眼につく。
時間もだいぶ経ちホテルに向かう。今日は墓地の見学は予定に無かったが、結
婚式も偶然で誠に縁起の良い日であった。お風呂に入りさっぱりしてからこの
ホテルでの正装姿の暁餐会、食事の内容は印象が薄くなってしまったが、コー
ス料理でお定まりだったような気がする。これから行く新王宮の会議場でのウ
ィーンオペラとオーケストラに気が行っていたのだろう。市電に乗り継ぎなが
ら王宮公園前のブルクリンで降り、少し暗くなり出した王宮の英雄広場をカー
ル太公記念像とオイゲン公記念像を横に見ながら会場に入った。赤い絨毯を敷
ぃたこの字型の階段を上がるとそこは広くそして天井の高い会場である。その
天井には色彩鮮やかなフレスコ画、前方に舞台がある。オペラには日本の歌手
根津のぶ子が出演する。指揮者はゲルト・ホーフバゥアーである。オペラ十七
曲、モーツアルトとヨハンシュトラウス六曲、アンコールで青きドナウ他二曲、
久しぶりに音楽を楽しむ。ウィーン最後の夜、胸を高ぶらせつつ眠る。
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