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Page 1 Page 2 Page 3 く新しい女) の語り ー9 マ ドリ ッ ドの出版社が
明治大学教養論集 通巻466号
(2011・3) pp.17−76
〈新しい女〉の語り
パルド=バサン『日射病』(1889)の始まり
大 楠 栄 三
はじめに
エミリア・パルド=バサンEmilia Pardo Bazan(1851−1921)は19世紀
末から20世紀初めのスペイン文壇に確固たる地位を占めた女流作家である。
「日射病』1加o♂αc歪6η(1889)は代表作と称される『ウリョーアの館』(1886)
とその続篇「母なる自然』(1887)につづく第7作目の小説であるが,本作
の「始まり」一タイトルや献辞という書物の始まりと書き出し第1章とい
うテクストの始まり一は,それまでの6小説には見られない新しさを呈し
ている。
本論文は,こうした「語り」の新しさに着目することによって,そこにパ
ルド=バサンによる〈新しい女>1)の創造,ひいては〈新しい女〉を論じる
言説獲得の目論見を読み取ろうとするものである。
1.作品紹介
後の考察にかかわるため,
おきたい。
まず『日射病』の書誌的情報を少し詳しく見て
18 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
出 版 社
表紙と扉(第5ページ2))の上部に記載されているように,“SUCESORES
DE N. RAMIREZ Y C.A−EDITORES”,「Narciso Ramirezの後継者たち」。
パルド=バサンの作品を出版するのは初めてとなる。しかし,これはManuel
Henrichが所有するこの会社が同じバルセロナの出版社Daniel Cortezoの
叢書「現代スペイン小説家」“Novelistas espafioles contemporaneos”を
引き継いだため。パルド=バサンの第5作『ウリョーアの館』が同叢書の第
1巻として初回配本されており,続篇『母なる自然』も同じく出版されてい
たからである。
出版社Daniel Cortezoは,レオポルド・アラス“クラリン”Leopoldo
Alas“Clarin”(1852−1901)の書
簡3)によれば,稿料の支払いが良
い上に,美しい装丁と挿絵の書籍
8UCE80RES DE N, RAMIREZ Y C.昌一ED:TOBES
BAECELON▲
を作るという定評があり,クラリ
ン自身『ラ・レヘンタ』を同社か
ら出版する。そして,叢書「現代
EMILIA PARDO BAZA}1
スペイン小説家」を継承した
INSOLACI6N
「Narciso Ramirezの後継者たち」
●
(HISTORI△A】旺OROSム)
のおかげで『日射病』も,パル
ド=バサンの著作で初めて挿絵
ILUSTRACI6N DE J. CUCHY
(Jos6 Cuchy作)をともなう「ス
ペインでは稀有の豪華美装」(表
一♪《×〉←→一一
紙デザインPasc6)4)で刊行さ
れ,「ちょっと気の利いた繊細な
BARCEI」ONA
1暫PB露買丁▲D8 LO5 SσOEOORZ日DE N, R▲麗藍巴SI 1「C・巳
挿絵」5)と作者を満足させること
P轟SAje de Escadillere, n直皿om‘
1889
になる。
〈新しい女〉の語り 19
マドリッドの出版社がこうした美しい書物を作製できるようになるまでか
なりの期間を要した6)ことを考えに入れるなら,小説第4作までをマドリッ
ドで出版していたパルド=バサンが,第5作『ウリョーアの館』以後の小説
を作家間で定評のあるバルセロナの出版社から刊行しえたことは,(少なく
とも同時代のスペイン文壇を代表する作家クラリンと比肩しうる)彼女の名
声と,これに伴う販売部数の確立を証していると言えるだろう。それは,も
ちろん,当時のスペイン出版界における『日射病』のポジションを示してい
るとも取れる。
執筆・出版年
『日射病』は,出版後およそ1世紀にわたって作者パルド=バサンが実
体験をもとに構想した作品,とする解釈が広まってきた7)。こうした読みは
Gonz61ez Herran(1999)とPatifio Eirin(1998a)の研究によってその根
拠をなくしたが,本論における考察と密接に関係してくるため,事実関係を
今一度確認しておく。
『日射病』に関する初めての情報は,1887年6月16日付のペレス=ガル
ドスBenito P6rez Gald6s(1843−1920)宛の私信に見出せる。パルド=バ
サンはマドリッドからガリシアに向かう列車の中でアイディアが浮かんだ小
説の執筆を始め,7月中に脱稿するつもりだ,そして『日射病』というタイ
トルを付けたことを明かす8)。第2の言及は1年後,1888年7月10日付の
ラサロ=ガルディアーノJos6 Lazaro Galdiano(1862−1947)宛の私信で,
パルド=バサンはバルセロナ在住の彼に『日射病』のゲラ刷りを目にしたか
どうかを訊ねている9)。そして3番目の言及が,先ほど引用した叢書「現代
スペイン小説家」の担当編集者(Jos6 Yxart’°))に挿絵の印象を伝える私信
であり,挿絵の入った版ができていた以上,本文の校正は1889年1月24日
の時点で終わっていたことになる。つまり,本文の校正に6ヶ月以上かかっ
たのだ。
20 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
しかし,実際に出版されたのは,その2ヶ月後。1889年3月21日付の私
信(Jos6 Yxart宛)で『日射病』の美装された献本を受領した旨を伝える
とともに,マドリッドではまだ店頭に並んでいないと聞いたが販売は大丈夫
かと社主に確かめて欲しいと訴えている11)。3月24日にEl Liberα1,4月3
日にLα Epocaの紙面に書評が掲載されたことを考えに入れるなら,書店に
並んだのは1889年3月末ということになる12)。
1887年夏に脱稿していたはずの『日射病』が出版までに1年半も要した
理由として,Gonzalez Herranは1888年7月10日の時点でゲラが上がっ
ていた以上,執筆ではなく校正や挿絵といった出版製作の問題であったはず
だ。現存する唯一のゲラ(パルド=バサンによる修正の入った)と初版の間
に多くの相違点が存在することをもとに,パルド=バサンが何度も校正を重
ねた(よって,彼女が当時住んでいたガリシア地方のコルーニャとバルセロ
ナの間で何度もゲラの遣り取りがあった)ためであり,その結果,挿絵をふ
くむ組版作業にも時間がかかったに違いないと推測している13)。
あらすじ
自宅の寝室で眠りから覚めたアシス・タボアダは頭痛にさいなまれている。
召使いアンヘラはその原因を前の日に一日中外に居て太陽に当たったせいだ
と言う。ハーブティーを飲み体調はどうにか回復するが,内面では彼女を責
める声と擁護する声がせめぎ合っている。内面の声によって,彼女が年の離
れた夫アンドラデ侯爵を2年前に亡くし喪に服している32歳の未亡人であ
り,幼い娘をもつことが明かされる。アシスは,たとえ徒労に終わろうとウ
ルダクス神父にあのことを告解しなければと,寝室の暗闇のなか脳裏に次に
続く話を思い描いていく(第1章:5月16日)。
一昨日,わたし(アシス)が常連となっているサアグン公爵邸でのサロン
の模様。砲兵隊司令官を務めた同郷(ガリシア地方)の男ガブリエル・パル
ドがスペイン人はすべからく野蛮であり,それは太陽の強い光によるものだ
〈新しい女〉の語り 21
と持説を展開し,それにわたしを含む女性陣が反論するなか,公爵夫人は新
参者ディエゴ・パチェコに助けを求あ,これをきっかけにパチェコが紹介さ
れる。彼が退席した後,パチェコのことが話題に上る(第2章:5月14日)。
翌日,聖イシドロの祝日(5月15日)の早朝,ミサに出かけたわたしは
街路でパチェコと出くわし,聖イシドロの祭礼に誘われる。いつの間にか二
人だけで行くことになり,馬車に乗ってマンサナレス川まで下る。河畔に立
ち並ぶ出店を見て回り,聖イシドロ礼拝堂でミサに出席しようとするが,あ
まりの人混みに断念する(第3章)。パチェコと昼食を取ることになり,やっ
と見つけた軽食屋で勧められるままにシェリー酒を飲み,やって来たロマの
老婆に手相を観てもらう(第4∼5章)。食後,祭り見物を続けるが,午後の
強い日射しと一層の人混み,そして酒酔いのため,わたしは海にいるような
妄想を抱く(第6章)。川岸の家屋で休ませてもらった後,暗くなったので
馬車で帰宅,パチェコと挨拶もせずに別れる。わたしは深夜ベッドの中でそ
の日の出来事を後悔する(第7章:5月15日夜)。前日にほんのわずか言葉
を交わしただけの男性と二人で出かけたりしたのは彼のせい,予期せぬ状況
のせいに過ぎない。今後彼には何もさせないとわたしは決意を固める(第8
章:5月16日)。
アシスが脳裏に描いたことを記したなら,こんなものであろうが,彼女が
誠実に何ら省略せずに告白したと信用すべきではない。ただ,彼女が今回の
出来事が起きるまで貞節の道を歩んできたのは事実である。故郷ビーゴで裕
福だが母のいない一人娘として育てられた彼女は,父が政界に出るたあ上京
したマドリッドで,50過ぎの男やもめの侯爵と結婚。娘一人をもうけたが,
7年後に夫は死去し,以後,自由気ままだが品行方正を心掛け,穏やかな日々
を送っていた(第9章)。
アシスはベッドから抜け出して入浴し,前日の不品行が洗い流されるかの
ようでホッとする。夕食の招待に応えてカルデニョサ姉妹の家を訪れる。独
身の年配婦人二人との会話に退屈し早々においとまする。自宅の呼び鈴を鳴
22 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
らすと,ドアを開けたのはあの男だった(第10章:5月16日)。アシスは
パチェコをなじるが,彼は彼女のことを心配してやって来た,あなたも自分
のことが気になっていたに違いないと言い寄られ,翌日に会う約束をしてし
まう(第11章)。
翌日の午後,アシス邸戸口では出かける準備のできた馬車が5時から彼女
を待っていたが,7時近くに一人の男が出て行っただけだった(第12章:5
月17日)。その夜9時頃,ガブリエル・パルドがアシス邸を訪れると召使い
の応対がいつもと違う。アシスに引き入れられた部屋で男物の名刺入れを見
つけるが,何も言わず,アシスの求めに応じ散歩に出かける。パルドは故郷
での昔の恋話をするが,アシスはパチェコとのことを彼に打ち明けるべきか
悩む(第13章)。散歩をしながら,パルドは恋愛上のモラルに関して男女で
違いがあるという持説を展開する。アシスがくしゃみをしたことで話が中断
し,彼女を送り届ける。パルドはアシスが他の女性と変わりないのだと判断
し,自分の想いが断たれたと悟る(第14章)。
翌日の午後をアシスは訪問返しに費やす。帰路,最近の自分の振る舞いは
慎重さを欠いている,早めにガリシアに避暑に向かおうと考えながら,自宅
への階段を上ると,パチェコに腕を掴まれる。なぜ居留守を使うのだと問い
つあられ,その夜9時に会う約束をさせられる。戸惑いながらも,邪魔な召
使いアンヘラを外出させ,彼を待ち受ける(第15章:5月18日)。パチェ
コが来訪し,二人は互いのことを話しながら愛撫する。深夜彼を見送りなが
ら,アシスはすぐに故郷に発たなければと自分に釘を差す(第16章)。
アシスが召使いと旅行の準備をしていると,いきなりパチェコがやって来
る。冬物の整理をしていると嘘をつくが,すぐに見破られ,昼食を一緒に取
ることを約束させられる(第17章:5月19日)。荷造りの最中に突然昼食
を外で取ると言い出した主人にアンヘラは疑いのまなざしを向ける。しかし,
アシスはシベレス広場でパチェコと待ち合わせ,馬車で郊外のラス・ベンタ
スへ行く。そこで食堂に入り,人目に付かない個室に案内される(第18章)。
〈新しい女〉の語り 23
二人の様子を見守っていたタバコ工場に勤める女たちがうわさ話をしている
と,アシスが部屋の窓を開ける。すると,漏れ聞こえてきた機械式ピアノの
曲に合わせ,娘たちが踊り出す。二人で食事をしている部屋へ,子どもたち,
次いで老婆が現れ,工場への口利きをパチェコに頼む。彼が娘二人と踊り
(第19章),戻ってくると,いきなりアシスは帰り支度を始め,口論の末,
馬車に乗って一人帰途につく(第20章)。
帰宅したアシスは荷造りに励むが,胸に痛みを覚え休むことにする。パチェ
コに取った振る舞いを思い返しながら,現実と幻想の区別が付かなくなり,
自分が列車に乗ってカスティーリャの荒野を進んでいる様子を思い描く。寝
室のドアをノックする音で目を覚ますと,別れの挨拶に訪れたパルドだった。
二人が話をしているとパチェコが現れ,パルドは二人の関係に感づく。女と
はこんなものだと思いながら場を辞する(第21章)。
パルドの退席後,二人ははじめ互いをなじるが,ついに愛を確認する。そ
して,使用人たちを欺す策を講じた後,パチェコはその夜アシスの寝室に居
残る。語り手は二人が愛し合うようになった原因は何だったのかと問いかけ,
翌朝窓が開け放たれるまで寝室に足を踏み入れるのは控えようと述べる。二
人は人目を気にすることなく窓に顔をのぞかせ,これからの結婚について話
し,聖イシドロの祭りでロマの老婆に告げられた占いを思い起こすのだった
(第22章)。
物語の構造
このあらすじから推測できるように,『日射病』は物語の語りと時間の流
れの点で,これまでにない複雑な構造を呈している。そこで,ジュネットの
用語を使って以下に記述しておこう。
第1章は,物語世界に作中人物として姿を現さない(「物語世界外的」な)
語り手が,作中人物を3人称で指し示す(「異質物語世界的」な)語りで始
まる。しかし,第2章から第8章は,主人公アシス(すなわち,「物語世界
24 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
Chap.1 :5/16−1
アシス・タボアダ
U:5/14 サアグン公爵邸
皿:5/15−1聖イシドロの祝祭日
rv: −2
O O
V: −3
「私」
IX:アシスの過去
X:5/16−3
vr: −4
Vπ: −5
四:5/16−2
X【: −4
X旺 :5/17−1
X皿: −2
畑: −3
X粗 :5/19−1
XV :5/18−1
㎜; −2
XVI: −2
珊【: −3
XX: −4
粗: −5
皿: −6→5/20早朝
内的」な語り手)が,自分自身を1人称「わたし」で指示する(「等質物語
世界的」な,語り手=主人公であるため厳密には「自己物語世界的」な)語
りとなる。つづく第9章から最終の第22章までは,第1章と同じ異質物語
世界的な語りに戻る。
すなわち,書き出し第1章と第9章から最終章までの14章,計15章が
「物語世界外的」で「異質物語世界的」な語りによって物語の枠を構成し,
ヒロインの語り(「物語世界内的」で「自己物語世界的」な語り)を前後か
らその枠に挟み込むことになる。
日付は一切記載されていないが,アシスが回顧するパートの第3章冒頭に
「マドリッドの守護神の祝祭日」と明記されていることから,すべてを推定
できる。第3章から第7章までが聖イシドロの祝祭日5月15日一日の出来
事であり,第2章サアグン邸でのサロンがその前日の5月14日。アシスの
語りの最後となる第8章は,内容的に第1章末に連結するため,第1章と第
〈新しい女〉の語り 25
8章は5月16日の朝のこととなる。
第9章では,いきなりアシスの過去が語られ,次ぐ第10章冒頭が内容的
に第8章末に続くため,第10章と11章は5月16日。第12章以降エピロー
グとなる第22章まで,起きたことが継起的に語られるため,5月17日から,
18,19,そして20日早朝までの物語だと推定できる。・物語の枠に挟み込ま
れたアシスの語り(計7章)の内の6章が回顧的言説(第2∼7章)−5月
14日から15日夜までの2日間に自分に起きた出来事を語る一であり,こ
れに語り手による回顧(第9章)を加え,2箇所が「後説法」になっている
ことが分かる。
つまり,物語は5月14日のアシスとパチェコの出会いから,15日の聖イ
シドロの祭礼見物,紆余曲折の4日間(16,17,18,19日)の後二人が結ば
れた夜の翌朝20日までの出来事ということになる。物語内容の時間を計算
するなら,約6日ほど。6日間という物語内容の時間は,それまでの6小説
一『パスクアル・ロペス』:2年以上,『ある新婚旅行』:半年ほど,「ラ・ト
リブーナ(女弁士)』:6年以上,「ビラモルタの白鳥』:半年ほど,『ウリョー
アの館』:12年以上,『母なる自然』:10日以上一と較べたとき,短さが際
立っている。それまでの「大きな物語」に対して,『日射病』がいかに短期
間の出来事を扱った「小さな物語」であるか分かるだろう。
2.ペリテクストの新しさ
ジュネットは「それによってあるテクストが書物となり,それによってあ
るテクストが読者,より一般的には大衆に対し,書物として提示されるもの」
の総体を「パラテクストParatexte」と命名する。それは,「内部(テクスト)
に対しても外部(テクストに関する人々の言説)に対してもそれ自体として
厳密な境界をもたない」曖昧な領域,「ある種の敷居seuil」14)だという。本
章では,『日射病』のこうしたパラテクストに焦点を当て,考察を進める。
26 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
パラテクストは,それが占める場所のテクストとの関連から,2つの範疇
に分けられる。第一の範疇は,「タイトルや序文のように,同じ書物の空間
内にあってテクストの周囲にあるもの」や「ときには章題やある種の注のよ
うに,テクストの隙間に挿入されているもの」であり,これをジュネットは
「ペリテクストpgritexte」と呼ぶ15)。
第二の範疇は,「同じ書物のなかのテクストに物質的に付属しておらず,
潜在的には無制限の物理的かつ社会的空間のなかをいわば自由自在に流通し
ているあらゆるパラテクスト要素」であり,これを「エピテクストeipitexte」
と名付ける。その場所は「書物ノ外ナラドコデモ」となり,ということはつ
まり,新聞や雑誌というメディアに支えられた作者のインタビューや対談と
いうあらゆる公の資料が入りうる(公的エピテクスト)。それはまた(公刊
の意図の有無は無関係に)作者が発した私的なコミュニケーションの形をとっ
たメッセージであり,「作者の書簡や日記に含まれた証言」(私的エピテクス
ト)でもありうる16)。
ジュネットの示す公式「パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト」に
倣って,両範疇を活用しようと思うが,書物『日射病』の新しさは第一の範
疇,ペリテクストにおいてである。では,読者が通常の読書においてそれら
のメッセージに出会うはずの順序で考察を始めてみよう。
タイトルの新しさ
前章で『日射病』がバルセロナの「Narciso Ramirezの後継者たち」か
ら挿絵入りの美装で出版されたことを根拠に,パルド=バサンの名声の確立
に言及した。表紙に記載された作者名“EMILIA PARDO BAZAN”を目に
した読者は,既刊の6小説や,フランス自然主義を紹介することでスペイン
文壇に物議をかもし彼女を時の人とした評論『今日的問題』La cuesti6n
Palpitαnte(1883),スペインへのロシア小説導入の先駆けとなったマドリッ
ド文芸協会での講演をもとにした『ロシアの革命と小説』La revoluci6n y la
〈新しい女〉の語り 27
novela en Rusia(1887)を筆頭に,雑誌・新聞メディアに掲載されていた
短編(cuento)や数々の文芸評論を執筆した女流作家を思い起こしただろ
う17)。第5作『ウリョーアの館』冒頭に付された「自伝素描」”Apuntes
autobiogrdficos”(1886)に目をとおした読者なら,裕福な家庭に生まれ,
分野を問わず渉猟し独学で幅広い知識を身につけた彼女が,ガリシアの大邸
宅で小説執筆に当たっている様子を思い浮かべたかもしれない。
次にタイトル“INSOLACION”(表紙,背表紙,第3ページ,扉という4
箇所に記載された)に目をやった読者は当惑したに違いない。これまでとまっ
たく異なるタイトルが新作に付されているからだ18)。
第1作『パスクアル・ロペス:ある医学生の自伝』Pascual L6Pez. A uto−
bigorafiα de un estudiante de medicinα(1879)一怠惰な医学生と敬
度で純朴な少女の恋愛と失恋,それにダイヤ生成という科学小説的要素
が絡んだ自伝形式の小説。
第2作『ある新婚旅行』Un vial’e de novios(1881)一地方の娘がマドリッ
ド出身の男と結婚し,フランスに新婚旅行に出掛け,紆余曲折の後,一
人帰郷するまでの物語。
第3作『ラ・トリブーナ(女弁士)』La Tribunα(1883)一貧しい少女
がタバコ工場で働きはじめ,9月革命(1868年)から第一共和制の誕生
(1873年2月)にいたる社会的混乱のもと,政治集会でおこなった名演
説をきっかけに「民衆の女弁士」と呼ばれるようになる。しかし,女工
は裕福な家庭出身の将校の甘い誘いにのり身を任せてしまい,父のいな
い子を産んでしまう。
第4作『ビラモルタの白鳥』El Cisne de Vilamorta(1885)一地方の町
に暮らすロマン主義詩人気取りの男,筆名「ビラモルタの白鳥」を主人
公に,一方で,彼を恋い慕うあまり散財した結果,破産し自殺してしま
う醜い女教師の話。もう一方で,避暑にやって来た大臣夫人にその男が
28 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
心を寄せ,気を引くためにマドリッドで詩集まで出版するが,批評家に
酷評され,彼女にも相手にされずアメリカに発つまでの話が展開する。
第5作『ウリョーアの館』Los Pazos de Ulloa(1886)一ウリョーアの
館を領有する侯爵の依頼を受け,若い司祭がガリシア地方の山村に赴き,
老猫な執事に抗しながら館の管理にあたる。侯爵とその叔父の娘との結
婚を斡旋するが,侯爵は,生まれたのが女の子で,妻がもう子供の産め
ない体となったことから,家族への関心を失い,また,国会議員選出選
挙にも敗れてしまう。侯爵は司祭と妻との関係を疑い,司祭を追い出す。
遠い教区に左遷させられていた司祭が10年後,村に戻り侯爵の二人の
子と再会するシーンで終わる。
第6作『母なる自然』La madre Naturaleza(1887)一前作の続篇であ
り,侯爵と召使いとの間にできた男の子と正妻との間の女の子は,ガリ
シアの自然の中ほのかな愛を育んでいる。しかし,そこに娘の叔父が姉
の遺児と結婚する意思を固めやって来て,二人が兄妹であることを明か
してしまう。息子は館を出て行き,娘は叔父の申し出を拒絶し,修道院
に入る。そして,叔父はウリョーアの館を一人去っていく。
上記の梗概から明らかなように,『パスクアル・ロペス』,『ラ・トリブーナ』,
『ビラモルタの白鳥』の3作は主人公の名前や呼称がタイトルになっている。
『ある新婚旅行』は内容そのものを,『ウリョーアの館』は物語が展開する場
所そのもの。つまり,極めて「直接的な事実的指名」19)になっているのであ
る。
前作『母なる自然』は,確かに読み手の解釈次第といったところがある。
それでも,拙論2°)で考察したように,タイトルが終行で登場人物が口にする
「継母なる自然」と対立する形で,兄妹を優しく庇護し二人の愛を育む「母
なる自然」であるという点から,作品のテーマを直戴的に指し示していると
言える。
〈新しい女〉の語り 29
対して,新作は『日射病』一「太陽光線に過度にさらされることによって
引き起こされる体調不良あるいは病気」2「)である。文字通りに解するなら,
登場人物が日射病を患う小説となる。それまでの直接性に対して,本当に中
心的なテーマと結びついているのかと読者に疑念を抱かせるタイトルである。
エコは「タイトルというものはそれ自体すでに解釈への一つの鍵である」22)
と指摘するが,「日射病」は解釈への鍵となりうるのだろうか。
初のサブタイトル(HISTORIA AMOROSA)+序文の不在
次に読者が目を留めるのは,タイトルの下に付された「愛の物語」であろ
う。確かに,前作『母なる自然』にもサブタイトル「『ウリョーアの館』の
後篇」が記されていたが,両者が意味するところは明らかに異なる。読者の
疑念は増したに違いない。「日射病」は何かの比喩なのだろうかと。
こうした疑念を抱きつつページを捲った読者は,失望を覚えることになる。
パルド=バサンのそれまでの小説で本の扉を開いた場所に必ずあった,作者
によるオリジナル序文が『日射病』には付されていないからだ23)。
たとえば第2作『ある新婚旅行』の序文(1881)では,パルド=バサンは
次のようなことを記している一昨年の1880年9月にフランスのヴィシー
へ湯治に行ったときの旅の出来事を小説にすることにした。フランスでは自
然主義を掲げる作家たちが人気を博しているが,小説がたんなる娯楽でない
こと,小説家に想像力と同じく観察と分析の能力が必要とされること,「小
説が人生の写しであり,作家がそこに加える唯一のものが彼の現実の物事に
対する見方である」ことは疑いようがない。ただし,嫌悪を抱かせるものを
好んで取り上げる,それも冗長に描写するといったことは彼らの欠点であり,
私は『ドン・キホーテ』から脈々と続くスペインのリアリズムにもとづき,
今回の習俗小説を執筆した。本作には教訓的な要素はまったくないが,それ
はセルバンテス,ゲーテ,ウォルター・スコット,ディケンズが同じく目指
したことなのだ,など。
30 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
彼女の序文の目的は明らかだ。パルド=バサンは論説的な調子で,みずか
り らの小説美学を表明することによって,読者に自分の本を正しく読んでもら
おうとしている。正しくとは,作者が意図した通りにという意味であり,こ
れはある意味で「こう読んで下さい」という読者への警告となる。これまで
欠かさず読者に読み方を指南してきたパルド=バサンが,『日射病』ではそ
れを放棄しているのである。
また,パルド=バサンのオリジナルな序文は,その終わりに場所と時が記
載されている一“Santiago, abril 16,1879”24),“Granja de Meiras, octubre
de 1882”,“La Corufia, septiembre de l884”,“Granja de Meiras, septiembre
de 1886”。これらの序文は,小説テクストよりも後の時点で書かれたことが
内容的に明らかなため,この記載によって読者は執筆終了の場所と時期を特
定することが可能なわけである。他方,『日射病』の場合,読者が脱稿の時
期を特定することは不可能となる。
初の献辞 ホセ・ラサロ=ガルディアーノへ
またもやパルド=バサンのペリテクストに初のものが現れる。読者は,扉
(第5ページ)に続く最初の右側紙面(第7ページ)の中央に,大きく記さ
れた献辞を目にするのだ一「ホセ・ラサロ=ガルディアーノへ 友情の証
しとして 作者」“AJos6 Lazaro Galdiano en prenda de amistad La
Autora”。
受け手は,すでにパルド=バサンの彼宛の私信を取り上げた,ホセ・ラサ
ロ=ガルディアーノ(1862−1947)である。
スペインのナバーラ地方出身の資産家の子息で,1880年18歳のときから
バルセロナに居を定め法学を学んだが,芸術と文学への思いを捨てきれず,
バルセロナやマドリッドの新聞(La Vanguardia, El imPαrcial, El Liberal)
に芸術批評を寄稿していた。また,バルセロナ万博(1888年4月8日∼12
月9日開催)では芸術展の委員を務めている25)。
〈新しい女〉の語り 31
しかし,彼の名がスペインの知
識人たちに知られるようになるの
は1888年末にマドリッドへ転居
した後のこと。1889年1月に月
刊誌「現代スペイン」La Espafia
へ9…飽・9・…an・
Modernaを創刊してからである。
en Prenda de a:nistad
弱冠26歳の彼は所有者として資
金を提供するだけではなく,編集
《a(2伽
長として1889年1月から1914年
12月に廃刊となるまでの19年間
途切れることなく,計228号を刊
行する。スペインの思想家ミゲ
ル・デ・ウナムーノ(1864−1936)
の言に拠るなら「19世紀末から
20世紀初めにかけてのスペイン文化の最も堅固なモニュメント」26)をなし,
現在でも「質の面からも内容からしても当時のヨーロッパの最良の文化雑誌
にもっとも近付いた」27)という評価を受ける雑誌である。
どの党派にも汲みせず,専門誌でもなく,一般大衆の知的好奇心をくすぐ
るさまざまなテーマを扱っている一歴史,芸術,文学,政治,科学,文献
学,宗教,法律,心理学,社会学,医学,経済,犯罪人類学など。執筆陣も
多彩で,国の内外を問わずとにかく著名な作家に良好な条件(高い原稿料を
即金)で原稿を依頼している。たとえば,次のような鐸々たる顔ぶれである
一 Men6ndez Pelayo, Gonzalez Serrano, Valera, Campoamor, Gald6s,
Pardo Bazan, Clarin, Echegaray, Adolfo Posada, Altamira, Unamuno,
Palacio Vald6s;Zola, T. Gautier, Tolstoy, Daudet, Flaubert, Turgenev,
Dostoevsky, los Goncourt, Dumas, Balzac, Maupassant, M. Gorki, Oscar
Wilde...
32 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
若手の起用には慎重であったというが,さきほどのウナムーノは彼に見出
された一人である。一(1909年ブエノスアイレスの五α翫c∫6π紙にて)
「みなさんが,この紙面でわたくしをたびたび読むことが可能なのは,他で
もないラサロのおかげであり,彼がいなければわたくしはペンを置かなけれ
ばならなかっただろう」28)。ラサロ;ガルディアーノはこのように誰からも
敬愛を受けた編集者だった。たとえば,ニカラグワの詩人ルベン・ダリーオ
(1868−1916)は「主要な地位を占める現代スペイン誌は,所有者であるラサ
ロ氏の世話と情熱に支えられている」29)と讃える。
ちなみに,ラサロは,出版事業だけでなく,金融業(Banco Hispano・
americanoの創設)においても活躍し,資産を鉄道,海運,自動車,鉱山業
に投資することでスペイン有数の財産家となる。その後,資産を芸術品の収
集につぎ込み,死後スペイン政府に寄贈されたコレクションは現在ラサロ;
ガルディアーノ美術館(元は彼の邸宅)に展示されるとともに,名を冠した
財団は彼の蔵書の保管・閲覧・出版に当たっている。
パルドニバサンとの関係
バルセロナで万博が始まり,5月20日(1888年)にスペイン王家と政府
の歴々の参列のもと公式の開会式が開催されようとしていた頃のことである。
力タルーニャの世紀末文芸復興(レナシェンサ)で重要な役割を果たしたバ
ルセロナの小説家ナルシス・オリィエNarcis Oller(1846−1930)3°)は,以
前31)から親交のあったパルド=バサンから,カタルーニャの作家たちを訪ね
る良い機会なので万博を見学したい。ついては,ホテルと馬車を準備して欲
しいと依頼を受ける。5月20日駅まで迎えに出向くと,パルド=バサンは
当時国会議員を務めていた大小説家と同じ車両にいたという。
オリィエは開会式においても場にそぐわない衣装で異彩を放った「われら
がジョルジュ・サンド」に,毎日随行することになる。5月27日,パルド=
バサンが芸術パビリオンで開催された詩のコンクールに登場したところ,出
〈新しい女〉の語り 33
席者からざわめきが起きるほど,バルセロナにも熱烈な信奉者がいたようで
ある。二人が同じパビリオンの絵画セクションを訪ねたとき,姿を現したの
がラサロ=ガルディアーノである。パルド=バサンの愛読者だったラサロは,
知人のオリィエに頼み,彼女を紹介してもらう。馬車に同乗したラサロは,
ホテルへの帰路,万博に来訪する知人の応対に疲弊した様子のオリィエに,
自分がパルド=バサンを案内しようと申し出たという。翌28日,オリィエ
がホテルに迎えに行ったところパルド=バサンは不在で,翌朝も不在だった。
29日夜になってやっと出会えた彼女によると,バルセロナ北の海岸(Areny
de Mar)にラサロと遠出したという。結局,その後一ヶ月間パルド=バサ
ンは毎日ラサロと出掛け,オリィエも他のバルセロナの作家たちも別れのと
きまで彼女と会うことがかなわなかったそうだ。
7月10日付の書簡で,パルド=バサンはラサロにラ・コルーニャの自宅
に無事戻ったことを伝え,力タルーニャへの旅にいかに満足しているか謝辞
を述べるとともに,まだ訪れたことのない土地を是非訪れたい,ついては是
非同行して欲しいという言葉を添える32)。この礼状は,次のような別れの言
葉で終わっている一「ハイメがあなたにキスではなく(もうこうした表現
に似合わない歴とした坊ちゃんですから)握手を,チビの娘たちはキスと抱
擁を送ります。そして,私は真の友人として親愛を」33)。ハイメとはパルド=
バサンの当時12歳の長男,「チビの娘たち」は下の姉妹(Blanca, Carmen)
のことである。一見決まり切った結語に見えるが,何か変ではないか。単に
バルセロナで万博を案内してもらっただけの相手に,愛する子供たちからの
親愛のこもった別れの言葉を記すのは。翌8月,パルド;バサンはなぜかポ
ルトガルに避暑に出掛ける。オリィエによると,秋口に出会ったラサロはそ
の夏ポルトガルのボルトでパルド=バサンに出くわしたという。
1888年末,ラサロは「現代スペイン」誌創刊にそなえマドリッドに居を
構えるが,それはFaus(2003)とAcosta(2007)の伝記によると,パルド=
バサンの自宅と同じ建物の同じ階なのである3‘)。
34 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
パラテクストの命令
ジュネットはパラテクストの発する「命令的能力」に言及する。パラテク
ストが「ある種の語用論および戦略の特権的な場」であり,「テクストのよ
り正しい受容とより妥当な読みのたあに大衆に働きかける特権的な場」だか
らだという35)。当然,この語用論的特性は受け手を選ぶことにつながる。
この特性がもっとも顕著に現れるのは,献辞の場合だろう。作者は献辞に
よって,「知的・芸術的・政治的その他の公的次元に属するその人物との関
係を表明」36)する。つまり,作品の献辞は常に二人の受け手を対象としてお
り,一人はもちろん「献辞の受け手」であるが,読者もまたその受け手とな
る。作者が「知的もしくは個人的な,現実的もしくは象徴的な関係を宣言」
したとしても,読者が献辞の受け手に関して何ら情報を有していなかったと
したらどうなるだろうか。作者の読みの命令はこうした読者には伝わらない。
「そういう知識のある人々はそういう知識のない人々と同じようには読まな
い」37)のだ。
1889年3月末に店頭に並んだ書物『日射病』のパラテクストはいかなる
命令を発したのだろうか。これまでの考察で明らかなように,単なる情報で
なく,みずからの意図を伝達しようという作者の戦略が窺えるペリテクスト
要素は,タイトル「日射病」,サブタイトル「愛の物語」,序文の不在一上
で言及したように,序文がないからといって読者の読みにかかわらないわけ
ではない。その可能性を含む体系にあって,正しい読みを指定しない,脱稿
の時期を示さないという作者の暗黙のメッセージで充満している一,献辞
「ホセ・ラサロ=ガルディアーノへ 友情の証しとして 作者」となる。
これらのペリテクスト要素に,パルド=バサンの書簡というエピテクスト
要素を絡ませながら,パラテクストが発したであろう「命令」を,受け手で
ある読者の知識に応じて推察してみよう。
〈新しい女〉の語り 35
一般読者へ
まず19世紀末のスペインでは小説読者の大半を占めていたのが男性であっ
たことを思い起こそう。女性の非識字率は他のヨーロッパ諸国に較べ格段に
高く,1877年で80∼85%,共和制政府による女性教育改革により世紀末の
時点で71.4%まで低下するが,男性の55.7%に較べ依然高かった38)。こうし
た一般男性読者は『日射病』を,サブタイトルに随って「愛の物語」として
読んだに違いない。
たとえば,気さくなユーモアで読者を楽しませることを企図した挿絵入り
大衆紙Madrid C6mico39)に1889年8月10日掲載された書評(2流の批評
家Emilio Bobadilla[1862−1921]による)がその好例である4°)一小説の
文体を賞賛しながらも,「読者を考えさせたり心を動かせたりする場面は1
ページもない」,「若く綺麗な未亡人の軽率さと見かけ倒しの放蕩者の味気な
さばかりが目立つこっけいな話にすぎない」からです。「品行方正なご婦人
がある日起きて,ほとんど知らない若者に付いて聖イシドロの祭礼に行くこ
となどあり得るでしょうか」,「女の権威」である自分が言うのだから間違い
ありません,歴とした婦人が簡単に誘いに乗るものではないのです。「太陽
光線がすべての原因」で「決定論,あるいは宿命論」の見地からアシスがパ
チェコの気まぐれな肉欲に屈したとでもいうのでしょうか。とにかく,一番
の欠点は,作者の分析的才知が登場人物の心理に深く入り込んでいないこと,
『日射病』には「心理が足りない」“Hay poca psicologia en ella”のです。
つまり,パルド=バサンの指令どおり「愛の物語」として読み,ヒロイン
の心理描写が物足りないため,信愚性に欠けると難じているわけである。
実は,この書評は,雑誌の3ページと6ページに分載されており,その間
に,「タイミングの悪い間抜け」“EI ganso inoportuno”というタイトルが
掲げられた12コマ戯画(Ram6n Escalerによる)が挿入されている一い
かにも上流階級といった二人連れ,年輩の男性と若い女性が散策しており,
36 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
.EL GANSO INOPORTUNO
と’\
雇関
謝’畷
そこに若い優男が現れ女性に目を付ける。二人はボートで湖面に出るが,優
男もそれを追う。年輩の男がボートを漕ぐのに困憲し居眠りしている隙を見
計らって,優男が女を口説く。しかし,目をさました男にオールで殴打され,
優男は湖面へ。
『日射病』のあらすじ一司令官パルドではなく,若い優男パチェコによ
〈新しい女〉の語り 37
る婦人アシスの口説きと成功一をまるで調刺しているかのようである。こ
の戯画も当時の一般男性読者がおこなった「愛の物語」という読みを裏付け
ているのではないだろうか。
1889年3月の時点で刊行されていた「現代スペイン」1月号と2月号の誌
面に目をとおしていた一般読者も多くいたことだろう。両号には,当時のス
ペインの政治,文学,教育,科学の中心で活躍していた政治家カノバス・デ
ル・カスティーリョ(1828−97),詩人ラモン・デ・カンボアモル(1817−1901),
小説家ペレス=ガルドス,教育改革者ヒネル・デ・ロス・リオス(1839−
1915)といった大物たちの記事が掲載されていたからである。ということは,
一般読者は『日射病』の献辞にラサロ=ガルディアーノの名を目にしたとき,
無名の批評家ではなく,創刊間もない「現代スペイン」の編集者,27歳の
青年実業家一「現代スペイン」誌の表紙に記載された「編集長・社主J.
ラサロ」“DIRECTOR PROPIETARIO J. LAZARO”を思い浮かべたはず
である。
さらに,「現代スペイン」誌の両号に,鐸々たる執筆者に混じって,パル
ド=バサンの署名入り寄稿4篇一短編1篇と書評1篇が創刊号に,評論1
篇と書評1篇が2月号に掲載されていたことを思い起こしたかもしれない41)。
両号に2篇も掲載されているのは彼女だけなのだから。
他方,パルド=バサンが爵位を有する貴族の娘で,結婚し3人の子供がい
る女流作家であることは,当時周知のことであった。ただし,第3作『ラ・
トリブーナ』と評論『今日的問題』の出版が巻き起こした物議以降,パルド=
バサンが1883年頃から実質的に夫と別居状態にあり,マドリッドにも居を
構えていたことまでは知らなかっただろうが42)。
こうした知識をもった一般男性読者は,作者パルド=バサンに「私は『日
射病:愛の物語」をラサロ=ガルディアーノに献ずる」と言われたら何を想
像しただろうか。敬度なキリスト教徒で良家の夫人が自然主義支持を表明し
ただけで物議をかもす土壌である。子供のいる37歳の人妻が27歳の青年実
38 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
業家に「友情の証し」として「愛の物語」を献ずると公言したら,スキャン
ダル以外の何物でもないだろう。すなわち,こうした読者は,ペリテクスト
の命令にしたがって,『日射病』を愛の物語として,さらに,ヒロインのア
シス・タボアダに作者パルド=バサンを,ディエゴ・パチェコに実業家ラサ
ロ=ガルディアーノを重ね合わせながら読み進めたに違いない一もちろん
読者がこのように解釈せねばならぬ義務はないのは事実だが,ペリテクスト
に込められた作者の意図からするとそうした読みがもっとも正しいわけだ。
作家仲間へ
『日射病』出版(1889年3月末)の直前,すでにスペイン文壇の重鎮で
あった文学史家メネンデス・イ・ペラーヨMarcelino Men6ndez y Pelayo
(1856−1912)はパルド=バサンから次のような書簡(1888年12月8日付)
を受け取る一
私の友人の一人,ホセ・ラサロ=ガルディアーノ氏がマドリッドで
「現代スペイン」というタイトルの雑誌を創刊しようとしています。第
1号は1889年2月1日に発刊予定です。この事業に乗り出す前に相談
を受けた私は,彼を励ましました。というのも実際スペインには,こう
した類の品位ある出版物が存在しないからです。ただガルディアーノ氏
が協力してくれる作家がいるかどうか不安だと言うので,私の名という
保証の元で,私が作家たちと交渉することを約束したのです。私は喜ん
で交渉するつもりです。なぜならガルディアーノ氏が真摯で知性ある人
物で,何か良いことができる人だと信じているからです。創刊号には最
良の執筆者を集あたいとのことですので,あなたの寄稿を是非にと希望
しています。これからの号にも依頼することになるでしょうが,「現代
スペイン」誌は埋め草や追従記事は認めませんので43)。
〈新しい女〉の語り 39
彼と同郷の小説家ペレーダJos6 Maria de Pereda(1833−1906)も同様に
(1888年12月28日付)一
私たちはこれまで真の批評と書評,生粋の味わいをもった本当に文学的・
現実的な組織が欠けていることを嘆いてきました。しかし,この雑誌が
発刊されるとき,文学を愛するものは皆,寛大で勇気ある創刊者を助け
るたあに触れ回るべきでしょう。「現代スペイン」誌はスペインで最良
の執筆陣を集めるために犠牲をいといません。当然この企てに着手し
たとき,その関心と品格によって批評と書評の誌面はこれから獲得する
執筆者たちに捧げられることになるはずです。ですから,あなたが執筆
陣の一人に加わらないとしたら私は本当にがっかりしてしまいます44)。
ペレーダはパルド=バサンから執筆協力を再三依頼されたらしい。ガルドス
に次のように愚痴をこぼしている(1888年12月29日付の書簡)一「「現代
スペイン」の広告を目にしましたが,私はこの雑誌のせいでエミリア夫人に
よる頭痛にかなり悩まされています。夫人は編集者の熱狂的な庇護者であり,
その編集者は推察するにかなり気取った紳士にちがいありません」45)。
このように交友のあった大勢の作家たちが彼女から協力の依頼を受ける46)。
そして,誰もが真の編集長はパルド=バサン自身なのではないかと疑ったよ
うである47)。たとえば,結局協力を断ったペレーダは「現代スペイン」の創
刊号に目をとおした後で,次のようにメネンデス・イ・ペラーヨに書き送っ
ている(1889年2月25日付)一「雑誌が彼女から誕生したのでないなら,
誌面で執筆協力者の書籍だけを取り上げるという不条理を,パルドはなぜ擁
護するのだろう。出版社にもっと駆けつけるように刺激し,逃亡する者を懲
らしあるためだろうか」(傍点は引用者)48)。あるいは,パルド=バサンから
ラサロ=ガルディアーノを紹介されたクラリンは,雑誌への全面協力を別の
誌面上(1889年2月23日)で次のように公表する一「「現代スペイン」誌
40 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
は,私の聞いたところに拠ると,顧問としてエミリア・パルド=バサンとい
う著名な広告塔を採用している」と述べた後,「執筆協力者として加わらせ
ていただくことになりました」49)。
これらの作家たちがパルド=バサンから受け取った書簡は,受け手たちに
とって『日射病』の私的エピテクストとして機能したのではないだろうか。
ペレーダは出版の2年後,次のような書評を書いている一「あなたの侯
爵夫人は,前夜の会合で挨拶を交わしただけの色男といきなり聖イシドロの
祭礼に出掛ける。そこで彼と安食堂や休憩場に入り込んで泥酔する……そし
て,二人とも想像可能ないろいろなことにウンザリして帰宅すると,その後
読者の目の前で関係を持つのだ。どのように罪を犯したのかという詳細な描
写とともに」5°)。このようにヒロインの行動がいかに叱責に値するかを並べ
立てるわけだが,ペレーダはなぜか『日射病』に存在しない「罪を犯す」
“pecar”場面の詳細な描写を難じている。
「現代スペイン」誌への協力を約束したクラリンは,ラサロから『日射病』
の書評を依頼されるが,それを拒絶する51)。そして,数ヶ月前まで親密な書
簡をやりとりしていたパルド=バサンの新作を,他の誌面(Madrid C6mico
1889年5月11日)上で酷評する一『日射病』を「著名なガリシア婦人の偽
の官能的気まぐれ」“boutade pseudo er6tica de la ilustre dama gallega”
と呼び,「エミリア夫人がお書きになった小説のなかで最低の作品」だと断
じるのである52)。
別の機会においても,パルド=バサンが女性にもかかわらず男性のような
作品を執筆していることを長々と指摘し,自分が公平に評価することを強調
した後で一「われわれ読者に一度も真の愛を思い起こさせることのない愛
の物語historia amorosa」(傍点は引用者)だ。「狼褻本」ではないが,「官
能的な愛」をテーマとし,「詩情でカモフラージュされるわけでもない,罪
深くありきたりの口説きの肉体的な愛」が,「もっとも粗野な官能性,陳腐
で表面的で欲望が貧血症を起こしたような無味乾燥の,とでも評すべき官能
〈新しい女〉の語り 41
■
性」が描き出されている。そして,「『日射病』の不道徳性inmoralidadを
説く人々に対してあなたを擁護することなどどうしてできるでしょうか」と
パルド=バサンに辛辣な呼びかけをおこなっている53)。
『日射病」の校訂者Marina Mayoralは,こうしたクラリンの評言に「客
観性の欠如」5‘)を指摘する。ペレーダにしろクラリンにしろ,まるで別の小
説を評しているかのような論調である。両者が共通して非難する『日射病』
の官能性,こうした読みに,本小説のパラテクストーサブタイトル「愛の
物語」,序文の不在,献辞「ホセ・ラサロ=ガルディアーノへ 友情の証し
として 作者」といったペリテクスト要素とパルド=バサンの私信というエ
ピテクスト要素一が影響を与えたとは考えられないだろうか。
これらの作家たちが,パルド=バサンとラサロの個人的関係(バルセロナ
万博やポルトガルでの出来事,マドリッドで隣人であること)を知っていた
かどうか確証はない。もし知っていたとしたら,脱稿の日付が記載されてい
ないこともあいまって,パルド=バサンがラサロとのアバンチュール(1888
年5月末∼6月)をもとに『日射病』(実際は,1887年夏に本文を執筆終了,
1888年7月初めにゲラ刷り)を構想したと誤読したことだろう。とくにク
ラリンの書評は,小説の作中人物の関係に,パルド=バサンとラサロの関係
を重ね合わせて読んだかのような苛立ちに満ちている。
ペレス=ガルドスへ
読者のなかで,なぜガルドスを別途に取り上げるのか。19世紀スペイン
最大の作家というだけではもちろんない。ところで,ガルドスもパルド=バ
サンから次のような協力依頼を受けている(1888年12月7日付)。つまり,
他のどの作家よりも先に依頼されていたのだ一
今日はあなたに,ドン・ホセ・ラサロ=ガルディアーノ氏という知性に
溢れ立派な人格で,その上進取の精神に富む方が,これまでスペインに
42 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
存在したことのない雑誌を創刊なさることを知らせるためにペンを執り
ました。真摯で良質である上にきちんと支払いがなされる雑誌です。
[……]彼の意図がとても気に入った上に,もし雑誌の成功に寄与でき
たなら,私の名を編集長として表紙に掲げてくれるかもしれません。あ
るいは,こうした出版物には暗黙の協力の方が好ましいかもしれません。
雑誌の出版にはガルディアーノ氏が不可欠ですし,彼も自分の有り余る
知性に文学界の練達が結びつくことを望んでいます。つまり,私は控え
めに,新しい雑誌に大変興味を抱いているので,あなたに89年2月1
日の創刊号に何か書いていただきたいとお願いしているわけです55)。
ガルドスは多忙な執筆活動のなか,高利貸しをめぐる4部作『トルケマダ』
Torquemadaの第1作『火刑に処されるトルケマダ』Torquemαda en la
hoguerαを「現代スペイン」誌2月号と3月号に寄稿する。しかしその後,
ガルドスの作品は「現代スペイン」に一切掲載されていない。
なぜか。3月末に出版された『日射病』,とくにそのペリテクスト要素が
ガルドスに何らかの読みを仕向けたのではないだろうか。すなわち,『日射
病』をパルド=バサンによる,ラサロ=ガルディアーノという若者との「愛
の物語」,アバンチュールの告白として読んだ。後の研究者たち56>がおこなっ
たような,自伝的な読みをおこなったのではないか。
『日射病』出版から5ヶ月,パルド=バサンがガルドスに宛てた書簡
(1889年8月26日)は,そうしたガルドスの「読み」を裏付けている一
ロ
あなたの手紙を読んだところです。手紙が言い当てたことをあなたに告
白することで少し驚かせることになるでしょう。誰があなたにポルトガ
ルでの委細を知らせたのか知っています。そして,私を非難するのに何
のことに言及しているかも分かりました。私の誠実さに訴えるとあなた
が仰るように,誠実さをもっと前に表現すべきでした。というのも今で
〈新しい女〉の語り 43
はこの名はふさわしくないからです。とにかく今となっては本能に随っ
て率直にお話ししましょう。私の肉体的な不義はボルトではなく,バル
■ ■ . り セロナに,あなたが立ち去ってから3日後の5月の最後の数日にさかの
ぼるのです。[……]何も弁解はしません。ただ,予期できない状況の
結果としての,感覚の一時的な過失を告白することによって,あなたの
愛を失う決心がつかなかったということは説明させて下さい。あなたは
私の幸福であったので,それを台無しにすることが怖かった。あの出来
事は罪深い二人にとって同じくその場限りの偶発的なもの・でしかないと
思っていました。私は過ちを犯しました。私は追い掛けられ,情熱的に
愛され,感染してしまったのです。(傍点は引用者)57)
前で触れたが,パルド=バサンがバルセロナを万博見学に訪れたとき,オリィ
エが彼女と同じ車両で出会ったのはガルドスだったのである。彼は市長に招
待され国会議員として万博を見学したが,5月22日にバルセロナを後にし
ている58>。その後,5月27日にパルド=バサンはラサロと出会ったのである。
「5月最後の数日」ということは,二人がバルセロナ北の海岸(Areny de
Mar)に遠出したときのことだろう。
残念ながらガルドスがパルド;バサンに送った手紙は残っていない。しか
し,ここで言及されている「手紙」が,パルド=バサンにラサロとの不義を
詰問する内容だったことは想像に難くない。ガルドスに「ポルトガルでの委
細を知らせた」人物とは,バルセロナの小説家オリィエである59)。しかし,
オリィエが伝える前から,つまり『日射病』出版を契機にガルドスは二人の
関係に疑いの目を向けていたのではないか。恋人パルド=バサンの意向に抗
して「現代スペイン」への寄稿を3月号を最後に止めた事実が,そうした読
みをガルドスに遂行させた可能性が高いことを証している。
ガルドスとパルド=バサンは1887年春頃から友情を超えた関係になって
いたが,方や40代半ばの気楽な独身(親族と同居していたが),方や30代
44 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
半ばの子持ちの人妻(別居していたが)。二人が信奉する.イデオロギー(ガ
ルドスは進歩主義者,パルド=バサンはカルロス派の伝統主義者)からして
も,到底公にできる関係ではなかった6°)。
ちなみに,パルド=バサンはその後も不義の謝罪を次のように繰り返して
いる一「バルセロナで引き起こされたエクスタシーに関しては,どんな人
にも起こりうる不慮の,ほとんど無意識の出来事の一つだったと信じて下さ
い。あなたに抱いていた,そして今抱いている愛に対して罪を犯したわけで
はないのです。[……]あそこであなたを見捨てた,はっきり言うなら,あ
なたに不実を犯したのは私の想像力であって,私の魂ではないのです」61)。
ラサロ=ガルディアーノへ
では,『日射病』の献辞の受け手はパラテクストによってどんな働きかけ
を受けたのだろうか。
愛人ガルドスへの告白に明らかなように,パルド;バサンとラサロ=ガル
ディアーノはバルセロナで関係を結びほぼ1ヶ月を恋人として過ごした。そ
して,ラサロは,帰宅した彼女から(すでに2度言及した)礼状(1888年7
月10日付)を受け取るのだが,そこには次の一文が見受けられる一「もう
あなたは『日射病』のゲラ刷をご覧になりましたか。代父としてその健康に
関心をお持ちになるに違いありません」(傍点は引用者)62)。
「代父」“padrino”とはいわゆるゴッド・ファーザー,カトリック教会の
洗礼などの秘跡や位階を授与する祭礼においてそれを受ける人に付き添い,
庇護する責任をもった男性のことである63)。「あなたは『日射病』の代父で
すよ」とは,献辞がもともと経済的庇護を請うためのオマージュだったこと
を思い返すなら,まさに「私は『日射病』をあなたに献じます」と作者が宣
言していることになるだろう。弱冠25歳ほぼ無名の文学好きの資産家が,
11歳年上でスペイン中に名の知れ渡った女流作家から新作を献ずるという
名誉を受けたわけである。有頂天になったに違いない。
〈新しい女〉の語り 45
翌8月パルド=バサンに誘われ,ラサロはポルトガルを二人旅する。雑誌
創刊の話が持ち上がったのはこのときだろう。パルド=バサンがガルドスに
後年書き記したところによると一「バルセロナを離れて私と会える場所に
住むことを決心した創刊者は,自分の資金の使い方や従事する仕事について
私に相談をもちかけ,彼の未来の決定を私の裁量に任せました。[……]雑
誌に関しては,あらゆる困難あらゆる障害,そしてあらゆる問題を指摘し
ました。たび重なる失敗についても話しました。[……]こうしたことを話
し,彼に選択の完全な自由を与えたにもかかわらず,彼は私がかなり不確か
だと指摘したものを選んだのです。そうすれば二人の軌道を接近させ,仕事
と思想の共同体を産み出すことになると言いながら」64)。
どう考えても,雑誌編集の経験一わずか20号だが,1880年3月4日か
ら同年10月25日まで地方誌「ガリシア誌」Revista de Galiciaを編集し
た一のあるパルド=バサンがイニシアティブを取って,ある意味,自分へ
の愛情を利用してラサロに「現代スペイン」創刊を仕向けたのである。
パルド=バサンに随って「現代スペイン」を発刊したばかりのラサロは,
1889年3月末,自分への「献辞」をともない,表紙にサブタイトル「愛の
物語」と記載された『日射病』を手にしたとき,何を感じただろうか。こう
したペリテクストと,彼が受け取った「代父」という私的エピテクストによっ
てラサロは,これは自分への「愛の物語」だという読みを遂行したのではな
いだろうか。こうして,以後彼は終始一貫パルド=バサンの企画に全面協力
することになるのだ。
3.語りの新しさ
ヒロイン「アシス・タボアダ」
当時の読者にとって,『日射病』の新しさはペリテクストだけではなかっ
たはずだ。内部のテクストにおいてもその新しさは際立っているからである。
46 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
献辞のページをめくった最初の右側紙面(9ページ)は上半部に挿絵が刷り
込まれている。
そして,「日射病」の書き出し
コ アシス・タボアダが夢の縁から抜け出たと認識した最初の徴候は,き
わめて鋭いドリルでこあかみを右から左へえぐり抜かれるかのような痛
みだった。
La primer sefial por donde Asis Taboada se hizo cargo de que
habia salido de los limbos del suefio, fue un dolor como si Ie
barrenasen las sienes de parte a parte con un barreno finisirno;(1:
67)65}
読者が新しさを感じるのは,作中人
物が冒頭一行目からいきなり固有名
「アシス・タボアダ」“Asfs Taboada”
として導入されている点であり,こ
れがパルド=バサンの小説史上はじ
めての現象だからである。
しかも,正式な洗礼名“Francisca
de Asis”ではなく,省略した親称
“Asis”によって指し示されてい
る。第1章の異質物語世界的な語
りのなかで大半の場合,彼女はこ
の親称「アシス」あるいは,「夫人」
“la sefiora”(67)や「貴婦人」“la
dama”(69)と指し示される。他に
は,一度「フランシスカ・タボアダ」
〈新しい女〉の語り 47
“Francisca Taboada”(71)と「罪ある女」“la culpable”(72)と示され
るだけである。語り手による紹介が一切ないまま,「アシス」は「わたし」
として第2章から第8章まで続く等質物語世界的な語りを担うことになる
のだ。
この名指しの手法を,パルド=バサンの小説に読み親しんできた読者は新
しい,むしろ奇異に感じたはずである。作中人物の物語世界への導入と名指
しの手法に関しては,すでに拙稿66)で第1作から第6作まで考察済みのため,
考察結果を簡単に記すだけに留めるが,それまでの手法と明確に異なるから
である。便宜的に,第1作から4作までの手法を「名指しシステムA」,第5
作と6作のそれを「名指しシステムB」としよう。大まかに分けて2つのタ
イプがあるわけである。
タイプAは,まず(第4作『ビラモルタの白鳥」を例に取るなら)「一人
の男」“un hombre”として物語世界に登場した主人公が,視覚・聴覚・嗅
覚といった外面的な情報のみが提示される(外的焦点化された)言説のなか,
読み手にとって未知の存在として動き回る。次に,他の作中人物が「セグン
ドだ」と彼の名前を口にする。すると,語り手もその瞬間から彼を「セグン
ド」と名指しし始めるというものである。第4作までの4小説をとおして,
主要な作中人物は例外なくこの手法で導入・名指しされている。第1作「パ
スクアル・ロペス』にいたっては,自伝体小説(等質物語世界的な語り)で,
語り手「わたし」がタイトルの人物であることは自明にもかかわらず,「わ
たし」が「パスクアル・ロペスです」と自己紹介する場面が設定され,それ
以後,他の作中人物から「パスクアル」と名指しされ始めるという徹底ぶり
である。
タイプBは,(第5作『ウリョーアの館』を例に)書き出しで「その騎乗
者」“el jinete”と導入された作中人物は,まず外的焦点化された言説のな
か素性や姓名は謎のまま動き回る。そして,読者にとって未知の存在のまま,
彼の知覚をとおして(つまり,彼が「焦点人物」となって),他の作中人物
48 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
たちが「3人の男の一団」“un grupo de tres hombres”,次に,「先頭をやっ
て来た猟師」“el cazador que venia delante”というように導入される。彼
が「侯爵さまですか?」と相手の身元を確認すると,ただちに語り手もその
相手を「侯爵」と名指しし始めるという具合である。未知のままだった「騎
乗者」は,他の作中人物(侯爵)が発した問いかけ「あなたの名前はフリア
ン・アルバレスですか?」に「そうです」と答えた直後から,語り手に固有
名「フリアン」と名指しされ始める。
これまでの6作品において主人公たちは,「一人の人物」“una persona”,
「その新婚夫婦」“los desposados”,「一人の男」“un hombre”,「一人の女の
子」“una mozuela”,「一人の小僧」“un rapazuelo”,「三女」“la tercera”
として読者の前に登場してきた。紹介の儀式のようなプロセスを経てやっと
固有名で名指しされたわけである。対して,『日射病』では書き出し一行目
からいきなり「アシス・タボアダ」と登場する。これまでのパルド=バサン
研究においてこの現象が指摘されたことは一切ないが,果たして,看過すべ
き無意味な事象なのだろうか。
■ ジュネットは「ある人間に命名するnommer」ことについて考察している。
この動詞は二つの行為を含んでおり,第一の行為は,「その人物のためにひ
リ ロ
とつの名前を選ぶ」こと。それは「洗礼bαp temeの行為」であり,「われわ
れがなにかに名前を付けることができる稀な機会」のひとつで,この行為は
「好みや妥協や伝統によってほとんどいつも動機づけられている」という。
第二の行為は,「身元の同定」であり,多くの人物のなかから特定の人物を
「指名」し身元確認するというものである67)。
語り手が「語り」をコントロールする異質物語世界的な語りにおいて,
「一人の男」として登場した作中人物を(何らかの契機が設定されているに
せよ)ある瞬間から固有名「セグンド」と名指しするというのは,まさに語
り手による「命名」に他ならない。ジュネットが命名を「洗礼の行為」だと
言い換えているように,名前を選び,指名するという行為にはある種の権威
〈新しい女〉の語り 49
が付帯している(たとえば,洗礼という祭礼において司祭が帯びる権威のよ
うに)。こうした意味で,語り手による命名行為なしにヒロインを「アシス・
タボアダ」として導入する手法は,第1章の物語世界を支配している語り手
の権威からのヒロインの解放として解釈できるのではないだろうか。という
のも,ヒロインが「アシス・タボアダ」として,小説冒頭一行目の時点から,
語り手による命名というコントロールを放れて物語世界に生きている,まる
で物語世界が始まる前からすでに生きていたという印象を読み手が受けるか
らである。この点から,ヒロインを読み手にとって既知の存在だと想定した
書き出しとも言えるだろう。
書き出し第1章:「アシスVS語り手」
書き出し第1段落では,アシス自身が先程の「痛み」“dolor”を体のパー
ツ毎に感じ取っていく過程が詳述される一
その後,毛根が何千もの針先に変容し,頭蓋骨に突き刺さるように思え
■ た。またにがく乾いた口がべとべとし,舌がエスパルトの切れ端となり,
頬がほてり,動脈が猛り狂ったように脈打つのを感じた。体が大声で,
確かにもう跳び起きるのに適当な時間だが,彼はそうした剛胆な行為を
できる状態ではないと宣言していた。
夫人はため息をついた。そして,寝返りを打ち,骨がガタガタだとい
うことを確信した。
luego le pareci6 que las raices del pelo se le convertian en millares
de puntas de aguja y se le clavaban en el craneo. Tambi6n not6 que
la boca estaba pegajosita, amarga y seca;1a lengua, hecha un
pedazo de esparto;las mejillas ardian;latian desaforadamente las
arterias;yel cuerpo declaraba a gritos que, si era ya hora muy
razonable de saltar de cama, no estaba 61 para valentias tales.
50 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
Suspir61a se負ora;dio una vuelta, convenci6ndose de que tenia
molidisimos los huesos;(1:67)
このように書き出しからヒロインの肉体的苦痛が前景化される。それも,
「べとべと」“pegajosita”や「ガタガタ」“molidfsimos”といった,形容詞
(pegajoso, molido)に縮小辞・ito,あるいは接尾辞一isimoを付けた(絶対
■ 最上級)きわめて主観的な表現がなされている。
アシスはこの後,鐘を鳴らし召使いを呼ぷ。鎧戸を開けられ,射し込んだ
太陽光に彼女は悲鳴を上げる。召使いに頭が割れるように痛むと訴え,ハー
ブティーを頼む。ほてる頬と額を冷やそうとシーツにもぐるが,こもったう
めき声が時折感知される。すると,語り手は次のようにヒロインの頭痛を形
容する一
彼女の頭頂部では,きっと造幣局のすべての機械が作動していたはず
だ。というのも,貨幣工場を訪問し,鋳造室から半狂乱で出てきたとき
に経験した以外にこうした気の動転は覚えがなかったからだ。
En la mollera suya funcionaba, de seguro, toda la maquinaria de
la Casa de la Moneda, pues no recordaba aturdimiento como el
presente, sino el que habia experimentado al visitar la f6brica de
dinero y salir medio loca de las salas de acufiaci6n.(1:68)
この後も,アシスが殴られるように頭が痛む様子が鋳造工場の騒音に喩えて
描かれるが,引用文中の「きっと」“de seguro”という表現が,この描写が
語り手による形容であることを読み手に印象づける。先程の主観的な形容も
語り手に起因するものだったのだ。こうした描写によって前景化されるのは,
もちろん,ヒロインの肉体的苦痛であるが,同時に,ヒロインの苦痛を哀れ
むどころか嘲笑している感さえする,語り手の姿勢も読み手の印象に残るだ
〈新しい女〉の語り 51
ろう。
召使いがハーブティーを持って戻ってきたとき,読者にとって目新しいペ
リテクスト要素の一つ,タイトル「日射病」に関する有力な情報がもたらさ
れる一
「奥様,お悪いのですか? 患っておいでなのは,私たちの土地で日射
病と呼ばれるものに違いありません……昨日は鳥さえも落下する暑さで
したから。それなのにあなた様は一日中外にいらっしゃったのですか
ら……」
つ
「そのせいでしょうね……」と貴婦人は肯定した。
−Sefiorita_Vaya por Dios. dSe encuentra peor?Lo que tiene no
es sino eso que le dicen alla en nuestra tierra un soleado...Ayer se
caian los P6jaros de calor, y usted fuera todo el santo dia...
−Eso sera...−afirm61a dama.(1:69)
“soleado”というガリシア語(召使いはガリシア地方ルゴ出身のため)が用
いられているが,まさにタイトルに言及されている。つまり,ヒロインは猛
暑の前日「一日中外にいた」ため,日射病による頭痛に苦しんでいるという
わけである。しかも,ヒロインがそれを「肯定した」と記されている以上,
読者はこうした読みを確信するに違いない。
しかし,掛かり付けの医者を呼びにやらせましょうかという召使いの気配
りをアシスは断り,熱すぎると不平をこぼしながらもハーブティーを飲み
干す。召使いが立ち去り,じっと休んでいると,ハーブティーのせいか偏
頭痛が消え,発熱と吐き気もおさまる。すると,いきなり語り手が一「確
かに体に関しては良くなった,はるかに良くなった。しかし,魂は? 夫人
は内心どんなに穏やかでなかったことだろう」“Sf,10 que es el cuerpo se
encontraba mejor, infinitamente mejor;pero, dy el alma?LQu6 procesi6n
52 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
le andaba por dentro a la sefiora?”(1:70)肉体的苦痛は和らいだかもし
れないが,精神的にはそんなはずはない,と語り手がヒロインにからみ始め
る。アシスがモラルに反したことを犯したかのように。こうした言説から,
語り手がヒロインに対し親近感を抱いていないことが見えてくる。
続いて語り手は目覚めの時がいかに意識が澄みわたり,自己省察し悔俊す
るのに最適であるか,持論をまるで普遍的な説であるかのように現在形を使っ
て展開する一
疑いの余地はない。意識がみずからのすべての特権を享受できる時が
あるとするなら,それは目覚めの時だ。[……]長い旅路の後,われわ
ロ れがずっと以前に出て行った町が実際には存在しないようなもの。目覚
ロ めたとき,前日の熱情や不安は雲となって消え去り,もう決してわれわ
れを悩ますことはないとわれわれに思えるものです。ベッドというのは
まさに熟考し自己省察する独房のようなものなのです。
No cabe duda:si hay una hora del dia en que la conclencla goza
todos sus fueros, es la del despertar.[_];yasi como despu6s de un
largo viaje parece que la ciudad de donde salimos hace tiernpo no
existe realmente, al despertar suele figurarsenos que las fiebres y
cuidados de la vispera’ 唐?@han ido en humo y ya no volveran a
acosarnos nunca. Es la cama una especie de celda donde se medita
yhace examen de conciencia(1:70)
上の引用でいきなり使用された1人称複数「われわれ」を読み手はどう解釈
するだろうか。
言語学者バンヴェニストは印欧語の「わたしたち」について,「《わたし》
の優越性が,ここではきわめて強く,一定の条件のもとでは,この複数は単
数の代わりをつとめうる」と述べ,単なる「量化ないしは倍化された《わた
〈新しい女〉の語り 53
し》」ではない,つまり,複数の主体「われわれ」を意味しない可能性があ
ることを指摘する。それは「増大されると同時に輪郭のぼやけた,膨張した
《わたし》」だと説明し,二つの用法をあげる。一方で,《わたし》は《わた
■
したち》を名のることによって,「一段とかさの大きい,荘厳な,しかし限
定の少ない人称に拡大される」。これが「尊称の《われわれ》」である。他方,
《わたしたち》を用いることによって,「《わたし》のくだすあまりにも鮮明
な断定がぼかされ,よりゆるやかで,かどのとれた表現」となる。これが
「筆者ないし弁者の《われわれ》」である68)。
もっとも一般的な解釈は,バンヴェニストの指摘する「筆者ないし弁者の
《われわれ》」であろう。しかし,引用文のきわあて断定的な口調は,とうて
い「鮮明な断定がぼかされ」た表現ではない。では,バンヴェニストが「尊
称の《われわれ》」と称する,「膨張した《わたし》」はどうだろうか。「一段
とかさの大きい,荘厳」なる主体としての語り手である。もちろん,「われ
われ」を単純に複数人称として解する可能性も残っている。この場合,「わ
れわれ」とは「語り手+読み手」であり,物語世界外の語り手が「スイユ」
を挟んで直に接している現実の読者へ,一体化を求めていることになる。読
み手はこれら二つの可能性のなか,たゆたうしかない。
続いて,ヒロインの内面の声ともう一つの声が交互に描出される一
《でも本当のことかしら? 「それ」は実際に起きたのかしら? 神さま,
わたしはそれを夢で見たのでしょうか? わたしの疑問を晴らして下さ
い。》神は否定や肯定す弓ことによってわざわざ返答することはなかっ
ロ ■ ■
たが,われわれのモラルの片隅に居を構え,神の声が可能なようにわれ
われにきわめて断定的に話しかける「あれ」が答えたのだった一「た
り いそうなる偽善者よ,おまえこそ,それがどうして起きたのかはっきり
知っているはずだ。私に訊ねようとするな。さもなくばおまえが痛むよ
■ うなことを言ってやるぞ」。
54 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
一《乙Pero es de veras?乙Pero me ha pasadoθso?Se負or Dios de los
ej6rcitos,乙lo he sofiado o no?Sacame de esta duda》一. Y aunque
Dios no se tomaba el trabajo de responder negando o afirmando,
aquello que reside en alg血n rinc6n de nuestro ser moral y nos
habla tan categ6ricamente como pudiera hacerlo una voz divina,
contestaba:−Grandisima hip6crita, bien sabes t血c6mo fue:no me
preguntes, que te dir6 algo que te escueza,(1:70−71)
代名詞で繰り返される「それ」“eso, lo”が何を指し示すのか読み手に不明
なまま,二つの声の掛け合いは続く。
ところで,アシスを「偽善者」と呼び捨て,「おまえが痛むようなこと」
を知っていると脅す「あれ」“aquello”とは誰の声だろうか。「われわれの
モラル」の片隅に存し,「われわれに」に話しかける「あれ」。この場合も
「われわれ」の解釈が問題となる。「神」を引き合いに出し,ヒロインに脅迫
まがいの言葉を発する「あれ」が帰属するところの「われわれ」とは? 果
たして,読者は自分がこうした「あれ」の発言に荷担することを望むだろう
か。むしろ,権威を誇示するかのような口調から,多くの読み手は,バンヴェ
ニストの指摘する「尊称の《われわれ》」と解するのではないか。すなわち,
「一段とかさの大きい,荘厳」なる主体としての語り手が姿を現してくるの
である。
もう一つ注記すべきは,この威厳ある「語り手」がヒロインへの反感を露
わにしている点である。この時点から読み手は,「アシスvs語り手」とい
う二項対立を感じ取りつつ読み進めることになる。
さらに,二つの主体の掛け合いは続く一
■
「悪魔(召使いのあだ名)が言うとおりだわ。昨日わたしは日射病を患っ
たのよ。わたしにとって,太陽は,命を奪うようなものだから……マド
〈新しい女〉の語り 55
リッドの灼熱ときたら! 快適な夏よ! こんな人混みの中に居残って
しまって。この時期は故郷に戻っておくべきだったわ……」
フランシスカ・タボアダ夫人は太陽に罪を着せることができてほんの
少し落ち着いた。惑星の王はきっと抗議の声を一言も口にしなかったこ
とだろう。
−Tiene raz6n la Diabla:ayer atrap6 un soleado, y para mi, el
sol_ rnatarme. iEste chicharrero de Madrid!iEl veranito y su
alma!Bien empleado, por meterme en avisperos. A estas horas
debia yo andar por mi tierra...
Dofia Francisca Taboada se qued6 un poquitin mas tranquila
desde que pudo echarle la culpa al so1. A buen seguro que el astro−
rey dijese esta boca es mia protestando(1:71)
掛け合いのなか,アシスは,語り手の先ほどの警告一「どうして起きたの
かはっきり知っているはずだ」一など意に介することなく,「日射病を患っ
たのよ」と洒唖々々している。語り手が一方的に,難癖を付けるだけである。
たとえば,「太陽に罪を着せた」アシスに対して,太陽は「冷静で無関心な」
惑星であるから「抗議の声を一言も口にしなかったことだろう」と皮肉を言っ
ている。
この皮肉に読み手は当惑する一太陽が実際は無罪ということは,アシス
の苦痛の原因は日射病ではないのか。語り手の言説によって,ヒロインの言
葉(言説)は少しずつ読み手の信頼を失っていくことになるのだ。
続いて,「厳格な声」“la voz inflexible”,すなわち「われわれのモラル」
と称する語り手がヒロインを責め立てる,「告白するのだ」と一
「とにかく」と厳格な声は陳述した。「告白するのだ,アシス。太陽を
■ ■ 浴びただけだというのか。さあ,私に嘘をつくんじゃない。お互いよく
56
明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
知った仲じゃないか。わずかだが32年前から共に歩んできたのだから。
[……]おまえは今日まで非の打ち所のない夫人だった。まさに。完壁
な未亡人だった。その通り。2年間の喪を一人で取り仕切った(極めて
賞賛に値することではあるが,率直に言おう。最後は,おまえの叔父,
夫,生来の紳士である高名なアンドラデ侯爵を愛するために何らかの美
徳を必要としていたのだろう。[……]おまえは長い間娘の養育に尽く
してきた,愛情ある母親だ。誰も否定するものはいない。[……]しか
■ ■ の し……どうしたんだ? 一瞬油断したんだな。そして子供みたいなこと
を犯した。[……]太陽とか暑さとかいった言い訳は止めにしよう。支
払いの悪い奴の弁解にすぎないから。愛情や情熱という卑俗な言い訳さ
えしないんだな……おまえ,もうダメだよ。下品な過ちとも言える,酌
つ ロ .
量すべき事由のない歴とした大罪なんだから。おまえはしくじったんだ!」
−De todos modos−arguy6 la voz inflexible−, confiesa, Asis, que
si no hubieses tomado m直s que soL..Vamos, a mi no me vengas
t血con historias, que ya sabes que nos conocemos_icomo que
andamos juntos hace la friolera de treinta y dos abriles1[_]T丘 has
sido hasta la presente una sefiora intachable;bien:una perfecta
viuda;conforme:te has llevado en peso tus dos afiitos de luto(cosa
tanto mas meritoria cuanto que, seamos francos, Ultimamente ya
necesitabaS alguna virtud para querer a tu tio, esposo y sefior natu−
ral, el insigne marqu6s de Andrade,[...]);[_]:has consagrado
largas horas al cuidado de tu nifia y eres madre carifiosa;nadie lo
niega[_]:pero...Lqu6 quieres, mujer?, te descuidaste un minuto,
incurriste en una chiquillada[...]No andemos con sol por aqui y
calor por alla. Disculpas de mal pagador. Te falta hasta la excusa
vulgar, la del carifiito y la pasioncilla... Nada, chica, nada. Un
pecado gordo en frio, sin circunstancias atenuantes y con ribetes de
〈新しい女〉の語り 57
desliz chabacano.:Te luciste!(1:71−2)
この時点まで,ヒロインに関する情報は,固有名「フランシスカ・タボアダ」
だけであったことを思い起こそう。容姿といった外面的な情報さえ一切提示
されないまま,読み手は彼女が苦痛にあえぐ様子に接してきたのだ。まるで
アシスがすでにわれわれ読み手にとって見知った(既知の)人物であるかの
ように,物語世界の情報が制禦(制限)されていたことになる。しかし,読
み手はやっと「厳格な声」の発話の中から,ヒロインについてのさまざまな
データを抽出し,整理することができる一32歳,完壁な未亡人,2年間の
喪,叔父が夫で,高名なアンドラデ侯爵,娘がいる,など。
上に引いた語り手による「陳述」(“arguir”という司法用語が用いられて
いる)によってアシスは追い詰められる。ハーブティーの効果が弱まり,書
き出しと同じ頭痛が再発する一
以前こめかみをえぐっていたドリルがコルク抜きになった。後頭部で踏
ん張りながら,瓶の栓同様に,脳髄を引っかけ抜き取ろうとするかのよ
うだった。
El barreno que antes le taladraba la sien, se habia vuelto
sacacorchos, y haciendo hincapi6 en el occipucio, parecia que
enganchaba los sesos a fin de arrancarlos igual que el tap6n de una
botella.(1:72)
コルク抜きが脳髄を抜き取ろうとするかのような頭痛一生々しい苦痛の描
写である。しかし,アシスは,語り手による陳述によって再発した頭痛に抗
して,ベッドから跳び起き,洗面所に行く。そして,発熱のたあ火照った額
や頬を濡らし,口に水を含み,まぶたを水に浸す。すると,快方に向かう一
58 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
妄想が消え去り,ドリルの先が脳髄から少しずつ抜き去られるように思っ
. . ■ ■ た。ああ,なんて気が楽になったことか! ベッドへ,もう一度ベッド
り ロ へ行き,目を閉じて,黙ってじっとしていよう。何のことも考えずに……
の ■ その通り,言うのは簡単だ。考えないとおまえは言ったな? 耳鳴り
と動悸,偏頭痛と発熱が治まれば治まるほど,思い出は鮮明で鋭敏とな
り,悪魔に取り慧かれたように活発に思案するのだった。
crey6 sentir que se le despejaban las ideas y que la punta del
barreno se retiraba poquito a poco de los sesos. iAy, qu6 alivio tan
rico!Ala cama, a la cama otra vez, a cerrar los ojos, a estarse
quietecita y callada y sin pensar en cosa ninguna...
Si, a buena parte. CNo pensar dijiste?Cuanto mas se aquietaban
los zumbidos y los latidos y la jaqueca y la calentura, mas nitidos
yagudos eran Ios recuerdos, m合s activas y endiabladas las
cavilaciones.(1:73)
ここではアシスと語り手二人の(内的)発話が,自由間接言説(話法)で描
き出されている一「何のことも考えずに……その通り,言うのは簡単だ。
考えないとおまえは言ったな?」。上の引用で明らかなように,この返答は,
これまでの「あれ」や「厳格な声」の発話のようにダッシュ(一)を使って
導入されていない。異質物語的な語りの言説のなかに挿入されている。こう
した文体的特徴から,読み手はアシスに絶えず反論する「声」が語り手のも
のだと確信するはずである。やはり,「アシスvs語り手」の言い合いなの
だ。
アシスは,語り手の言葉など気に留めず,「眠気を催すのに,決まり切っ
たお祈りを繰り返すほど良いことはないわ」と,祈り始める。それに対して
語り手が,「確かに彼女はそれを試みた,しかし」,彼女の内面で「不安と道
徳的な焦燥」が深まり,祈りが無駄に終わったことを強調する。
〈新しい女〉の語り 59
続いて,アシスの内面の声が一段落にわたって自由間接言説で描出され
る一
■ ■ の り あんな前代未聞の驚くべきことを告解されたらウルダクス神父は大変な
ことになるわ。胸元といった些細なことや断食に背いたり[……]した
だけであんなに立腹なさる方だから。最初の驚きの印象と,最初の痛烈
な非難を緩和するには,どんな風に腕曲に言えぱいいかしら?そう,そ
う,ウルダクス神父には遠回しに言うに限るわ。[……]宿命や一連の
り 状況といったことが分かるように,少なくともあれについて事の始めか
ら説明させてくだされば,あらゆる正確な釈明と注記とともに十分に説
明することができたなら……でも,あんなに厳しく叱責する頭の固いイ
エズス会士を前に一体誰が弁解しようと思うかしら?
Bonito se pondria el padre Urdax cuando tocasen a confesarse
de aquella cosa inaudita y estupenda. iE1, que tanto se atufaba
por menudencias de escotes, infracciones de ayuno[...]!乙Qu6
circunloquios serian m合s adecuados para atenuar la primer impresi6n
de espanto y la primer filipica?Si, si icircunloquios al padre Urdax!
[...]Si al menos permitiese explicar la cosa desde un principio,
bien explicada, con todas las aclaraciones y notas precisas para que
se viese la fatalidad, la serie de circunstancias que...Pero, Lqui6n se
atreve a hacer m6rito de ciertas disculpas ante un jesuita tan duro
de pelar y tan largo de entendederas? (1:73−74)
このようにアシスは,神父に告解しても「時間の無駄」にすぎないと確信
している。にもかかわらず,第2章から8章までつづく等質物語世界的な物
語を,脳裏に組み立て始める。まさに語り手に強制され一
60 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
アシスは寝室のほの暗い静寂のなか次に続く話を脳裏に組み立てるのだっ
た。その話の中で,彼女が自分をもっとも悪い立場に置くのではなく,
ロ の ■ 問題を取り繕うとすることは明らかだ。ただし,皆さま,それはほとん
■ ど取り繕いようのないものだったのです。
Asis, en la penumbra del dormitorio, entre el silencio, componia
mentalmente el relato que sigue, donde claro esta que no habia de
colocarse en el peor lugar, sino paliar el caso:aunque, se五〇res, ello
admitia bien pocos paliativos.
この第1章最後の段落に至り,読み手には二項対立「アシスvs語り手」
が鮮明になる。語り手は「問題を取り繕うとすることは明らかだ」と注記す
ることによって,物語が始まる前から,第2章から8章までつづくアシスの
告白に関して,信慧性に注意するよう訴えているのだから。
第1章終行になって初めて,語り手が「スイユ」を挟んで直に接している
現実の読者へ,「皆さま」“sefiores”と呼びかけている点も見過してはなら
ない。二項対立の図式のなかで,語り手は読み手に訴えているのだ,作中人
物アシスの言説(第2∼8章)を鵜のみにするなと。つまり,第9章以降の
語り手の言説を頼りに読み進めるように指図しているわけである。
とうした語り手による指図のもと,読み手は,結局第1章では「謎」のま
ま終わった,アシスに起きた「それ」や「あの前代未聞の驚くべきこと」に
惹き付けられつつ次章を読み進めることになるのである。
アシスの語り 告白
この後,アシスが語り手「わたし」となって,5月14日のディエゴ・パ
チェコとの出会いから,翌15日に聖イシドロ祭礼に連れ立って出掛け,夜
帰宅し就寝するまでのことを思い起こしつつ語る。
「わたし」は記憶の不確かな点を断りながらも,「わたしの魂と対話してい
〈新しい女〉の語り 61
るのだから,何の隠し事もしない」“Ya que estoy dialogando con mi alma
ynada ha de ocultarse”(III:93)と,パチェコに惹き付けられ,彼の誘い
に乗った経緯を語っていく。理由は一「他でもない体がわたしにこうした
馬鹿げた言動を求めていたから」“Nada menos que estas tonterias me
estaba pidiendo el cuerpo a mi.”(III:93)。そして,明言する一「皆さん,
どうして女はハンサムな男を見つけ出す権利を持つべきでないのでしょう。
なぜ女がそれを表明することが悪く思われなければならないのでしょう。
[……]女は口にしないにしても,思っているのです。そして抑圧・隠蔽さ
れ,内面に留まっている以上に危険なことはないのですよ」“Sefior, dpor
qu6 no han de tener las mujeres derecho para encontrar guapos a los
hombres que lo sean, y por qu6 ha de mirarse mal que lo manifiesten
[_]Si no lo decimos, lo pensamos, y no hay nada mas peligroso que lo
reprimido y oculto, lo que se queda dentro.”(III:93−94)
聖イシドロ祭礼の人混みの中,パチェコに昼食に誘われると,ためらいな
がら承諾してしまう一「パチェコは油断したわたしに礼を欠くような手の
早い男かしら? 絶対そんな男ではない。油断するかどうかはわたし次第。
これまで拒んでわたしはどんなに楽しい時を無駄にしたかしら!」“乙Era
Pacheco algUn atrevido, capaz de faltarme si yo no le daba pie?No, por
cierto, y el no darle pie quedaba de mi cuenta. iQu6 buen rato me
perdia rehusando!”(IV:114)。「わたし」は昼食に取ったシェリー酒のせ
いで酔ってしまい,人波や女たちの喧嘩,見せ物小屋の光景をもとにさまざ
まな妄想を繰り返す。妄想のなか,休んだ家屋で思わずパチェコと抱擁した,
といったことを語るのである。
この語りによって,読み手は第1章で前景化されたアシスの苦痛の原因
が一たとえ「わたし」が「太陽のせいで体調を崩した」と帰宅時に召使い
に言ったとしても一,日射病ではなく,単に慣れないお酒を飲み過ぎたか
らだと知ることになる69)。すなわち,タイトル「日射病」の虚偽性がアシス
62 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
の語りをとおして顕在化するのである。
ところで,こうした第2章から8章までつづく,アシスという「語る主体
と語られる文の主語とが一致する言説」はまさに「告白」ではないだろうか。
それが無駄だと知りつつもウルダクス神父に「告解」を試るという前提で,
しかも,威厳ある語り手に強いられて,「自分自身の行為と思考を認知」す
るために語っているのであるから7°)。
そして,フーコーが指摘するように,「性は告白の特権的な題材」71)であっ
た。それはもちろん「性が本性上,認識の網を逃れ去るもの」72)だからであ
る。ただし,19世紀になって科学的言説の企てに組み込まれることによっ
て,告白は対象をずらすことになる。もはや単に「主体が隠そうと思ってい
ることを対象にする」のではなく,語る者にも隠されているが,「問う側と
問われる側が共に参加する」作業によってしか立ち現れてこない性現象を対
象とするようになったのだ。
『日射病』では,作中人物アシスが(第2章から8章までを)「語る者」で
あり,それを囲むように,告白を「聴く者」としての語り手の言説が設定さ
れている。こうした「語り」の構成によって現前化されるアシスの告白の隠
れた意味とは何だろうか。19世紀以来発展を見た「性の科学」が性の真理
を産出する中核技術として,告白を利用したことを忘れてはならない73)。そ
セクシユアリテ
れは「性的欲望」と称されるものだ。第2章から8章にかけての自己物語世
セクシュアリテ
界的な語りをとおして読み手の前に顕在化するのは,アシスの「性的欲望」
なのである。アシスは,まさに「性的欲望」を持った身体として現れ出るの
である。
「アシスvs語り手」の結末 ハッピーエンド
第9章冒頭,自分の語りに戻った語り手は,またもやアシスの告白の信慧
性に疑問を呈する一「たとえみずからの良心と対話したとしても,アンド
ラデ侯爵未亡人が完全に誠実で,軽率や軽薄,あるいは媚という領域におけ
〈新しい女〉の語り 63
るみずからの罪を重くするような,何らかの詳細を省略しなかったとわれわ
れは断言できない。こうした告白というジャンルではすべてが可能であり,
誰も信頼すべきでない。告白を脳裏に何の制限もなく率直におこなう人はい
ないのだから」“No afirmamos que, aun dialogando con su conciencia
propia, fuese la marquesa viuda de Andrade perfectamente sincera, y no
omitiese alg血n detalle, que agravara su tanto de culpa en el terreno de
la imprevisi6n, la ligereza o la coqueteria. Todo es posible y no conviene
salir fiador de nadie en este 96nero de confesiones, que nunca se hacen
sin pelos en la lengua y restricciones en la mente.”(IX:160)。
しかし,読み手は告白の信慧性などもう気に留めない。読み手の前で,こ
れからアシスが性的欲望を持った作中人物としてリアルに行動していくのだ
から。最終章(第22章),アシスの家を辞去しようとするパチェコを引き止
めるのは,彼女の言葉ではない。性的欲望を持った身体なのだ一「ただ同
じ熱に火照った二人の両手が互いを探し合い,触れ合うと,絡み合い,溶け
合ったのだった」“S610 sus manos, encendidas por la misma fiebre, se
buscaban, y habi6ndose encontrado, se entrelazaban y fundian.”(XXII:
284)。
’語り手は,自分に服従しない「アシス=性的欲望」を非難する一アシス
はパチェコを見つめていたが,「彼の態度,彼の顔,そして彼の瞳に実際には
存在しない何か崇高なものを見出していたのだ」“descubria en su apostura,
en su cara, en sus ojos, algo sublime, que realmente no existia”(XXII:
284)。一晩中留まってもいいのかと確認を求めるパチェコに,アシスは一瞬
躊躇する。その時,語り手は堪りかねたかのように叫ぶ一「救いの永遠な
る節操よ。司令官(ガブリエル・パルド)から「常套句」と不適当な呼び名
をされた,日常を支配するおまえたちよ。どうして恐るべき感情の激流を
抑えることをしてくれないのか?」“Principios salvadores, eternos, mal
llamados por el comandante cZ¢c麓s, que regis las horas normales, dpor
■
64 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
qu6 no resistis mejor el embate de este formidable torrente?”(XXII:
286)。ところが,二人は一夜を共にする。すると,語り手はいったん「語り」
を放棄する一「どうぞ神よ,悪い作品を作りたくないので,太陽が窓から
入り込み,黄金の光によって寝室を照らし出すまで,私が中に入るのを免除
してください。その窓を,髪は乱れているが,陽気で夜明けよりも生き生き
. ■
としたアシスが,何の心配もなく,むしろ誇りをもって,一杯一杯に開ける
のである」“porque no gusto de hacer mala obra,1ibreme Dios de entrar
hasta que el sol alumbra con dorada claridad el saloncito, colandose por
la ventana que Asis, despeinada, alegre, m合s fresca que el amanecer,
abre de par en par, sin recelo o mas bien con orgullo.”(XXII:289)。
続いて,パチェコが現れ,二人は抱き合ったまま窓から顔を出す。まるで隣
人たちに「結婚報告」をしているかのように。
「アシスvs語り手」という勝負の結果は明らかだ。語り手は,読み手か
らの信頼を失い,完全に敗北する。そして,これが最も重要なことだが,ヒ
ロインは幸せを手に入れるのである。パルド=バサンのこれまでの6作品で,
主人公が物語の結末において幸福になる,つまり,ハッピーエンドは一作も
ない。当時の読者一小説のヒロインが不幸な結末を迎えることに慣れた一
は,このハッピーエンドも『日射病』の新しさとして感じ取ったに違いない。
4.おわりに
〈新しい女〉アシス・タボアダの誕生
アシス・タボアダは一般的な意味における〈新しい女〉ではない。それほ
ど知性は感じられない上,これまで一度も働いた経験はない。外出は自家用
の馬車で,その際たえず身なりに気を配る。仕事をしなくてもよい,社交界
に生きる侯爵夫人。フーコーが指摘するような,「真先に性的欲望の装置に
よって認められた人物」であるところの,「有閑婦人」なのである74)。その
〈新しい女〉の語り 65
上,小説終行で男に結婚の約束までさせてしまう。
しかし,アシスの家庭や社交界における振る舞いには自己犠牲や献身(い
わゆる〈家庭の天使〉)の片鱗さえ見られない。幼い娘を持つにもかかわら
ず,彼女の選択にはまったく関与しない。5日前に知り合った男性と一夜を
共にすることに関しても,内面の葛藤はあるが,結局は,社交界でもっとも
価値の置かれる体面を気に掛けることはない。
その上,アシスは彼女が生きる社交界で「性的欲望化された存在」である
ことだけに満足しない。パルド=バサンの,そしてスペイン小説で初めて,
男を性の対象として見る権利を主張した。この権利の主張は,小説終行で陽
ロ 光のなか「何の心配もなく,むしろ誇りをもって,窓を一杯一杯に開ける」
という行為において瞭然としている。その上,少なくともこの終行では,ア
シスのセクシュアリティは社会的に認知されている。
彼女が価値として存在しなければならない社交界と,未亡人ならびに母親
としての義務の束縛から放れ,自己のセクシュアリティに目覚めた,そして
みずからのイニシアティブで好きな男と結婚する意思を公表したという点か
ら,アシスを〈新しい女〉と呼ぶことが可能だろう。パルド=バサンの小説
史上初めてのヒロイン,〈新しい女〉の誕生なのだ。
〈新しい女〉の語り
本稿第2章で考察したように,『日射病』のパラテクスト要素一タイト
ル,サブタイトル,序文の不在,献辞というペリテクストとエピテクスト
(作者パルド=バサンの私信)一は,当時の読者と作家仲間,すなわち男性
たちに,本小説を「愛の物語」,それもスキャンダラスな恋物語として読む
命令を発していた。
しかし,テクスト内部,とくにその始まりはどうだろう。ヒロインを命名
することなく,物語世界にいきなりアシス・タボアダとして導入する。アシ
スは小説冒頭から語り手の権威から解放されたヒロインとして設定されてい
66 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
た。そして第1章中で,〈ヒロインvs語り手〉という二項対立の構図が前
景化されていく。つづく第2章から8章のヒロインの告白をとおして,アシ
スの「性的欲望」が顕在化された後,ヒロインは権威ある語り手を打ち負か
してしまう。読後,読み手の脳裏に残るのは,〈新しい女〉アシスである。
『日射病』という書物の「敷居seuil」において,当時の男性読者に対しス
キャンダラスな恋物語という「読み」を設定したのは,テクスト内部におい
て,男性読者のそうした「読み」を打ち負かす(裏切る),そして〈新しい
女〉を誕生させるための,作者パルド=バサンが採った「語り」の戦略では
なかったのか。
昨今の『日射病』研究で,アシスによるセクシュアリティの「発見」を論
じたものは数多い75)。しかし,どの研究者も物語の内容ばかりを対象に分析
を展開している。本稿に新味があるとすれば,『日射病』のパラテクストと
テクストの始まりが有する〈新しさ〉に注目し,これを起点に「語り」を分
析することによって〈新しい女〉の誕生を導き出した点であろう。
〈新しい女流作家〉パルド=バサンの誕生
パルド=バサンが『日射病』で採った「語り」の戦略は,出版後の作家の
実生活によって裏打ちされるかもしれない。
『日射病』のペリテクストによって若者ラサロ=ガルディアーノとのアバ
ンチュールの告白を受けたペレス=ガルドスを思い起こそう。
パルド=バサンによる不義の告白後,二人の関係はいったん冷えてしまう
が,その間もパルド=バサンは書簡をとおしてガルドスに次のように呼びか
け愛をささやく一「おサルさん」“Miquifio, Miquito”,「ネズミちゃん」
“Ratoncifio”,「子猫ちゃん」“Minino”76)。そして,ある日の手紙で「あな
たは私の友情を必要としているのね」と歓声をあげ,密会の約束をする。再
び自分の(女性としての身体の)虜になったガルドスにパルド=バサンは宣
言する一「私を愛するということは,船乗り,あるいは戦時下の兵士と結
〈新しい女〉の語り 67
婚するのとまったく同じ不都合と情熱を伴うものなのよ。いつもあなたを驚
かせてあげる」77)。つまり,パルド=バサンはみずからの性的欲望を自覚し
ており,性的欲望の主体として,その自由を男性ガルドスに認めさせようと
しているのだ。
さらに,愛人のガルドスに経済的に自立するという意思(彼女自身「男性
的な」“prop6sito, del todo varonil”と称する)を表明する一「私は両親
からの援助を受けることなく,文学的仕事だけで生きていくことを決めまし
た。というのも,父の後見から解放されることを望むなら,何においても依
存しないことによってみずからの自立を立証しなければならないからです」78)。
そして,「現代スペイン」誌の実質的な編集長として,寄稿を拒絶したガル
ドスに再度,執筆を依頼するのだ一「ねえ,ラサロのためにもう一冊小説
をすぐ書いてくれませんか」79)。
パルド=バサンのこれらの書簡に日付は記されていない。しかし,1889
年から1890年のものであるのは確かである。こうした書簡から見えてくる
のは,『日射病』出版(1889年3月末)後,復縁した愛人ガルドスに,性的
欲望を持ち,かつ仕事をすることによって経済的に自立した,まさに〈新し
い女〉としての自分を認知させようとするパルド=バサンの姿である。
他方,『日射病』の「代父」ラサロ=ガルディアーノに対してどうだった
のか。パルド;バサンの伝記作家たちが指摘するように,雑誌の創刊がなかっ
たとしたら,二人の関係ははかない,おそらくバルセロナでのアバンチュー
ルのみで終わったことだろう8°)。しかし,彼女は,前に引用したガルドスへ
の書簡で明らかなように,自立するためにラサロを利用した。単に経済的な
自立という意味だけではない。むしろ,自分の好きなことが執筆可能な場,
自立した言説空間を獲得するためと言っても過言ではない。
こうしたパルド=バサンの意図は,第一に,創刊後の「現代スペイン」に
寄稿された彼女の記事と(ラサロ所有の)出版社「現代スペイン」によって
出版されたモノグラフィーの膨大な数によって確認できる8’)。第二に,掲載.
68 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
された記事の内容によっても明らかだ。パルド=バサンは「現代スペイン」
誌に,女性作家ゴメス・デ・アベリャネダ(1814−1873)に対するアカデミー
入会拒絶の問題を彼女への書簡という形で論じた記事(「アカデミー問題」,
1889年2月)や,スペインで初めての本格的なフェミニズム論と称される
「スペイン女性」(1890年5月∼8月)を筆頭に,女性の教育や社会的立場を
問題にする記事を次々に寄稿する。フェミニズム論を自由に展開可能な言説
空間として「現代スペイン」誌を活用したのである。
またこれは,彼女が1890年末「現代スペイン」誌への協力をいったん中
断することからも窺える。中断の理由は,父親の遺産をもとにみずからの雑
誌「新世相批判」Nuevo Tθα’m C漉coを創刊したからである。名実ともに,
みずからの言説空間を獲得した彼女のやる気はすさまじく,創刊号(1891
年1月)から最終号(1893年12月)までの30号(各号100ページ以上)
すべての誌面を,彼女一人の執筆で埋めている。そして,この雑誌をもとに,
1892年,女性読者をターゲットとした叢書「女の図書館」“La Biblioteca de
la Mujer”をスタートさせ,スチュアート・ミル(1806−1873)の「女性の
隷属』(1869)などをスペイン女性に紹介することになるのである。
このような,『日射病』出版後のガルドスやラサロとの実生活には,パル
ド;バサンがまず女性として身体を任せ(つまり,「愛の物語」),その後〈新
しい女〉として自立していくプロセスを確認できるだろう。つまり,『日射
病』の「語り」の戦略は,作者パルド=バサンの生きる戦略でもあった。こ
うした意味で,『日射病』を,その出版を契機にしたく新しい女流作家〉パ
ルド=バサンの誕生として解釈することができるのである。
【本研究は科研費(基盤研究C 21520337)の助成を受けたものである】
《注》
1) 19世紀末の作品に登場する新しいタイプのヒロインたちに付された〈新しい
女〉“new woman”というネーミングならびに概念に関しては,川本静子『〈新
しい女たち〉の世紀末』に依拠する。〈新しい女〉に対する良i妻賢母型ヒロイン
〈新しい女〉の語り 69
である〈家庭の天使〉のスペインにおける状況に関しては,Aldaraca(1992)
の第2章“El angel del hogar:la espiritualizaci6n de la mujer en el Siglo
XIX”に詳しい。ちなみに,私が調べた限りでは,パルド=バサンは〈新しい女〉
“mujer nueva”という言葉を1890年出版の小説La pruebaの中で初めて使用
している。
2) この考察には,スペイン国立図書館所蔵の初版(4/3878)を使用した。
3) クラリンはマドリッドの著名な書店主であり出版も手がけるFernando Fe宛
の手紙(27・II−1884)で次のように出版社Daniel Cortezoを賞賛している一“la
casa Cortezo de Barcelona que publica ahora mi Regenta[_]paga muy bien
y ademas hace libros hermosos, ilustrados, empastados, etc., y seria dificil en
ciertas obras igualar sus circunstancias.”(Blanquat 1981:10).
4) クラリンは書評でこのように豪華な版であることを讃えている:Alas.(2003:
108)。.
5)パルド=バサンは当時,出版社Sucesores de Ramirezで編集長を務めていた
Jos6 Yxart宛ての書簡(24−1−1889)で次のように挿絵の印象を伝えている一
“Ya escribi a los Sres. Ramfrez rectificando mis primeras impresiones sobre
el ilustrador de mi novela. La ilustraci6n, sin ser una obra de arte de esas
que sorprenden, resulta muy aceptable, bastante graciosa y fina.”(Torres
1977:400).
6) Blapquat(1981:10−11, nota 6).
7) Bravo Villasante(1973:150), Clさmessy(1982:235), Mayoral(1987:10」13),
Whitaker(1988:364), Soriano−Molla(2003:17)など。
8) Gonzalez Herran(1999:77).
9) Soriano−Molla(2003:107−109).
10)バルセロナを中心に活躍した文芸批評家で数々の叢書の編集も務めたJos6
Yxartの伝記的事項については, Cabr6(1996)に詳しい。出版社Daniel
Cortezoで,クラリンの『ラ・レヘンタ』を始めとする数々の名作を刊行した叢
書「芸術と文学」“Biblioteca Arte y Letras”も彼が担当編集長であった。
ll).
Torres(1977:403−404).
12)
Gonzalez Herran(1999:84).
13)
Gonz61ez Herran(1999:80−83).
14)
ジュネット(2001:12)。
15)
ジュネット(2001:15)。
16)
ジュネット(2001:389−390)。
17)
パルド=バサンの著作についてはPatifio Eirin(1998b)の文献目録(pp.19一
49)を参照した。
18)Villanueva(1999:XVII)も『日射病』と次作『郷愁』M∂鋭’磁(1889)のタ
70 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
イトルの異常性を指摘している。
19) ジュネット(2001:93)。
20) 大楠(2009,2010)。
21) Real Academia Espahola,ヱ)iccionαrio de la Lenguα Espafiola 22 ed.(Ma−
drid:Espasa Calpe,2001)に拠る。
22) エコ(1994:4)。
23) 「ウリョーアの館』の後篇である『母なる自然』だけが序文を持たない。
24)『ある新婚旅行』の場合は,本文の最終行に日付をもっている一“Marzo,
1881”。
25) ナバーラ地方の中心都市パンプローナの南に位置するBeire,あるいはOlite
村で1862年1月30日に生まれた。ラサロの伝記的情報に関する専門的研究はま
だ公刊されていないため,Yeves Andr6s(2002), Faus(2003)を参照した。
26) Rodriguez−Mofiino(2001:12).
27)Celma Valero(1991:29)。「現代スペイン」誌については, Celma Valero
(1991)とYeves Andr6s(2002)を参照した。
28) Yeves Andr6s(20q2:23).
29) Celma Valero(1991:36).
30)パルド=バサンとラサロの付き合いについては,Narcis Oller Memdiries
魏θ短漉s,en Obres Completes(Barcelona:Selecta,1985)を主な情報源として,
Bravo Villasante(1973:149−150), Faus(2003:354−358,437), Acosta(2007:
287−293,295−301)が詳述しており,これらを参照した。
31)Jos6 Yxart宛の手紙(1883年7月9日)に“salude a mi buen amigo el Sr.
Oller a quien pronto escribir6”と登場している(Torres 1977:387)。
32) “se me quedaron sin ver tantas cosas con que suefio hace afios![_]Si
alg血n dia logro cumplir el prop6sito de verlas, espero que V, sacrificando sus
sibaritismos y sus aficiones al confort, y resignado de antemano a camas
duras y palanganas tamafias como soperas, se determine a acompafiarme.”
(Soriano−Molla 2003:107−109).
33) “Jaime le envia a V. no un beso(ya es un sefiorito muy formal para tales
demostraciones)sin6 un apreton de manos:las pequefiillas un beso y abrazo
yyo el afecto de su muy verdadera amiga q. b. s. m. Emilia Pardo Baz且n”.
(Soriano−Molla 2003:109).
34)パルド=バサンがマドリッドに借りていた家は“Serrano 683D izquierda”,
ラサロは“Serrano 683Q”を借りている(Faus 2003:421,439;Acosta 2007:
301)。
35) ジュネット(2001:12,21−22)。
36) ジュネット(2001:155)。
〈新しい女〉の語り
71
37)
ジュネット(2001:18)。
38)
∫agoe (1998:12Z 134).
39)
Madrid C6micoについてはCelma Valero(1991:21−28)を参照した。
40)
Fray Candil.と署名されているが,これはEmilio Bobadillaのペンネームで
ある。
41) Emilia Pardo Bazan,“Morri6n y Boina.”La Espahα Mode77za 1(1889):5−36;
“Notas bibliograficas:La leyenda de Jos6, hijo de Jacob, y la. de Alejandro
Magno.”LαEspafia Modernα1(1889):183−186;“La cuesti6n acad6rnica. A.
Gertrudis G6mez Avellaneda.”La Espahα Moderna 2(1889):173−184;“Notas
bibliograficas:Mezclilla, colecci6n de articulos por Clarin.1)e lαpoesia
gallega, discurso leido en el Ateneo de Madrid por el Marqu6s de Figueroa.”
La Espafia M()dernα2 (1889):185−195.
42)夫∫os6 Quirogaは,人々のからかいと憐れみの混じった視線や自分の名誉を
汚すような中傷に耐えられなくなったという(Acosta 2007:278−282)。
43) Sanchez Reyes(1953:144).
44) Gonzalez Herr盃n(1983:280−281).
45) Ortiz・Armengol(1996:445).
46) Faus(2003;436−441).
47) Acosta(2007:299). .
48) Pereda y Torres Quevedo(1953:318).
49) Alas(2004:779).
50) Pereda(1891:45).
51) クラリンとラサロの関係はRodrfguez−Monlno(2001:19−44)に詳述されてい
る。また,クラリンは後年,「現代スペイン」への協力断絶の理由を,ラサロと
パルド=バサンの編集姿勢にあったことをガルドス宛の私信(1890年7月2日)
で明かしている一“e1 Sr. Lazaro con el cual he tronado, no precisamente por
los 20 duros que da por cada articulazo creyendo hacerle a uno de oro sino
por cuesti6n de fuero critico. Queria hacerme tributario del furor literario−
uterino de dofia Emilia ayudandola a fuerza de articulos, ifigthrese Vd.! Total
que ahora publico yo en rnis folletos el articulo que 61 queria postergar y el
que me pedia 61, pero este no les gustara mucho ni a 61 ni a D.a Emilia.”
(Ortega 1964:256−257).
52)
Alas(2003:91).
53)
Alas(2003:99−114).
54)
Mayoral(1987:16).
55)
Acosta(2007:297).
56)
Bravo Villasante(1973:150), Cl6messy(1982:235), Mayoral(1987:10−13),
72
明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
Whitaker(1988:364), Soriano−Molla(2003:17)など。
57)
Bravo Villasante(1975:23−25).
58)
Faus(2003:434), Acosta(2007:288).
59)
Soriano−Molla(2003:17),
60)
Acosta(2007:308−309).
61)
Bravo Villasante(1975:55).
62)
“si ha visto ya alguna galerada de Insolaci6n, por cuya salud debe V.
interesarse a fuer de padrino”(Soriano−Molla 2003:108).
63) Maria Moliner,1)iccionαrio de uso de espαfiol(edici6n electr6nica, versi6n
3.0.Madrid:Gredos,2008)に拠る。
64) Bravo Villasante(1975:96−97).
65) 『日射病』からの引用はつねに,引用文献に記したErmitas Penas Varelaに
よる校訂版からとし,末尾に章とページを付す。また,邦訳,そして傍点とボー
ルド体は引用者による。
66)大楠(2005,2008a,2008b)。
67) ジュネット(2001:96−97)。
68) バンヴェニスト(1988:214)。
69)第19章,すなわち語り手の言説の中でアシス自身が,二人が昼食に入ったべ
ンタスの食堂で4日前の悪酔いを思い出し,シェリ〒酒を断ることからも,頭痛
の原因が日射病でなかったことが明らかになる “la dama rehusaba hasta
probar el Ti()Pepe y el amontillado, porque con s610 ver las botellas, le
parecia ya hallarse en la camara de un trasatlゑntico, en los angustiosos
minutos que preceden al mareo totaL”(XIX:259)。
70)
フーコー(2007:76−77)。
71)
フーコー(2007:79)。
72)
フーコー(2007:86)o
73)
フーコー(2007:88−89)。
74)
75)
フーコー(2007:153)。
Hilton(1953), Schmidt(1974), Cook(1976), Giles(1980), Tolliver(1989),
Santiafiez−Ti6 (1989),’Knickerbocker’(1992), Penas(1993−1994), Scarlett
(1994),Zecchi(2007), Colbert(2009).
76)
Bravo Villasante(1975:22,30,36,46,47,48,53,59).
77)
Bravo Villasante(1975:57).
78)
Bravo Villasante(1975:90).
79)
Bravo Villasante(1975:98).
80)
たとえば,Faus(2003:441)。
81)
Soriano−Mol16(2003:207−211)の出版リストに拠ると,雑誌に75篇,モノ
〈新しい女〉の語り
73
グラフィーへの序文などの協力が6篇,モノグラフィーが3篇刊行されている。
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76 明治大学教養論集 通巻466号(2011・3)
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(おおぐす・えいぞう 法学部准教授)
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