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中東民主化のゆくえとトルコのプレゼンス
中東民主化のゆくえとトルコのプレゼンス 同志社大学大学院 グローバル・スタディーズ研究科長 教授 内 藤 正 典 「アラブの春」のゆくえ のなにものでもない。チュニジアやエジプトで, 2011年年初に始まった中東民主化の反乱は「ア 軍が民衆運動を弾圧できなかったのは,軍の兵士 ラブの春」と呼ばれた。だが,春は続かなかった。 と抵抗する民衆が同じムスリムであり,同じよう チュニジアとエジプトについては,民衆が立ち上 に経済的な底辺層にあったからである。軍の上層 がり,ベン・アリとムバーラクという独裁的支配 部も,兵士に反乱鎮圧を命じれば,中堅将校のあ 者を追放したのであるから,たしかに革命と言っ いだから,それは不正義であろうという声が上が てよい。それも市民の革命であり,暴力によらな り,離反がおきることを恐れた。同じムスリムで かったことは歴史に刻まれることになろう。 あったという点は,何が公正で何が不公正か,とい しかし,リビアでは石油利権が絡んだために, う点について,イスラーム的な正義の観念を共有 まるで第一次世界大戦期の「列強」の亡霊が蘇っ していたことを意味する。素朴な信仰心によるも たかのように西欧諸国が介入し,カッダーフィ政 のだが,今の中東では,この宗教的公正観は政治変 権が壊滅した。独裁体制を潰すことに,ほんの一 動を引き起こす重要なファクターとなっている。 年前まで,国際社会は関心を持っていなかったの ところが,シリアではそうはいかない。政権は であるから,カッダーフィ政権の消滅は,大国に アラウィという宗教的マイノリティ集団が実権を よる便乗介入の成果であって,革命と呼ぶに値し 握っている。彼らは,シリアにおいておよそ1割 ない。 強の人口をもつといわれるが,軍の兵士をすべて さらに混迷を深めているのがシリアである。シ マイノリティのアラウィで編成することはできな リアでの反体制運動は, 「アラブの春」というよう い。軍には,多数を占めるスンナ派やほかの少数 な明るい展望を持ちえない。その理由を,内政と 集団も加わっている。 外交の両面から検討しよう。 アラウィというのは,イスラームのうちに含め シリアでも,40年におよぶアサド一族の支配に るべきか,そうでないかでずいぶんと論争のある 抵抗する民衆運動が発生した。恐ろしく強権的な 宗教集団だが,はっきりしているのは,長年にわ 政府は,エジプトやチュニジアと異なり,軍を使 たってスンナ派からはひどく差別的に処遇されて って激しく弾圧しているのみならず,反体制運動 きた事実である。 の存在さえ認めないし,外国メディアによる直接 アリーを崇敬する点はシーア派に似ているの 取材の映像が十ヵ月たってもほとんど流れないく で,シーア派の一部とみなす人たちもいる。しか らいに徹底した報道管制を敷いている。 し,トルコ南部のアンタキヤでアラウィの信仰実 アサド政権を突き動かしているのは,恐怖以外 践を見た限りでは,シーア派とも相当に違う。街 42 中東協力センターニュース 2011・12/2012・1 中のさまざまな祠に男女がいっしょに詣でること 背景には,もう一つ,イスラエルをめぐる国際関 や,キリスト教やユダヤ教との混淆もみられる。 係がある。イスラエルにとって,シリアは表向き, そして,トルコでもシリアでも,スンナ派によ 反イスラエル勢力の代表だが,実態はまったく異 る抑圧の歴史を経験しているため,自分たちを近 なる。アサド政権は,誕生してまもなく1973年の 代的,西欧的,かつ世俗的に見せようとする点で, 第四次中東戦争で,イスラエルと戦ったが,それ スンナ派やシーア派のムスリムとは異なる。シリ 以降,40年近くにわたって一度もイスラエルと正 アのアサド一族の記念写真をみても,女性は誰一 面から戦おうとしていない。ここがアサド政権の 人スカーフで頭部を覆わないし,現在のバッシ 実に巧妙なところだが,ゴラン高原を奪われてい ャール・アサド大統領は常に英国風のスーツスタ る以上,彼らにはイスラエルに敵対する正当な理 イルで登場する。彼自身が英国で医学を学んでい 由があり,国内外に向けてイスラエルの不当占領 たことにもよるが,9・11以来の欧米における反 をアピールしている。冷戦期にはソ連の軍事顧問 イスラーム感情の高まりのなかで,むしろ,宗教 団を国内に常駐させ,ミサイル基地などを管理さ に固執するイスラームの主流とは異なるのだとい せていたが,それはソ連軍を人質にしておけばイ うことをアピールしてきたのである。 スラエルの攻撃を受けないからにすぎない。当時 シリアでは,1980年代の初頭にも,スンナ派の の兵器はソ連製であるから,ソ連にとってシリア ムスリム同胞団による抵抗運動が起きている。 は顧客であり,ソ連は中東におけるシリアのパト 1982年には,ハマという都市を政府軍が包囲して ロンであった。 激しく攻撃を加え,イスラーム主義による反体制 だが,アサド政権のバース党は,党名に「社会 運動を徹底して弾圧し, 政権を維持した。当時は, 主義」を掲げながら社会主義とは似ても似つかぬ 父親のハーフィズ・アサド大統領の統治下であっ 統治をしてきた。バース党の正式名称は,社会主 た。シリア軍というのは,イスラエルを相手に組 義アラブ復興党である。社会主義というのは,ア 織的な戦闘をおこなうと弱いのだが,国内におい サド政権が国家の名の下に富を吸収するための名 て,諜報機関と一体となって体制維持のために軍 分にすぎない。民間部門というのは,個人レベル 事力を行使することにはきわめて長けている。 の商工業に限定され,大企業は少なくとも名目的 今回も,反体制派を壊滅しないかぎり,いつか には国営企業であった。しかしながら,数の上で は自分たちが報復されるという恐怖心が,政権側 は圧倒的に多い商工業者の経済活動は認めていた の徹底した情報統制と暴力の行使をもたらしてい し,政権に抵抗しない限り,商人たちが,外貨を る。多数を占めるスンナ派にとって,アラウィと 自由に稼いでくれることを期待していた。多数を いう「異端」もしくは「背教の徒」が政権の統治 占めるスンナ派と,少数ではあるが世界的な交易 者であることは受け入れがたいうえに,スンナ派 ネットワークをもつアルメニア人などを統治する を弾圧しているのであるから,問題の解決はアサ には,彼らに経済活動の自由を与え,上がりを吸 ド体制の消滅以外にはない。エジプト国軍と市民 い取るというのがもっとも効果的な方法である。 との関係のように,ともにスンナ派ムスリムであ 統治の正統性を担保できないアサド政権は,パレ れば,民衆との妥協を図ることも可能だが,シリ スチナ問題でイスラエルをおおっぴらに敵視しつ アではそれができないのである。 つ,しかし,事は構えず,ロシアや中国をバック につけ,しかし,アメリカとの関係も維持すると イスラエルの孤立 いう究極のプラグマティズムを実践する国家だっ シリアにおける民主化がきわめて厳しいことの たのである。 43 中東協力センターニュース 2011・12/2012・1 したがって,1980年代初頭のムスリム同胞団の スラエルのあいだには軍事協力関係があり,さら 抵抗以来,今年まで,シリアというのは,めぼし にトルコは中東で唯一の NATO 加盟国でもある。 い資源がないわりには貧困問題が顕在化せず,政 従来からイスラエルとは緊密な関係を維持してき 権に歯向かわない限りは生きていくのにさしたる たのだが,2008-09年のイスラエルによるガザ攻 不自由もない,という特異な国家であった。国家 撃以来,目に見えて関係は悪化している。 も個人も,国際間で商売をしつつ,交易を媒介し このうえ,イスラエルがシリアを失うことにな ながらコミッションを取っていくかたちで外貨を れば,イスラエルの孤立はかつてないほどに深ま 得ていたのである。 る。1948年の建国以来,アラブ諸国に包囲されて ソ連崩壊後も,ロシアとの緊密な関係が指摘さ きたイスラエルだが,実際には,近隣国から攻撃 れるのは,シリアがロシア製品を積極的に輸入す を受けないための条件を整えてきた。シリアの反 るという意味ではない。シリア商人は,モノの価 体制運動に国際社会が実効性のある介入をしない 値を見極めることにおいては世界でも有数の嗅覚 のは,これ以上,イスラエルを孤立させることの をもっているから,ロシアの工業製品に関心はな 危険を犯せないからである。 い。ロシアとの関係というのは,かつてソ連時代 にそうであったように,ロシアの中東におけるプ 欧米の思惑に反する民主化の帰結 レゼンスの橋頭堡としての重要性にある。シリア 11月末に行われたエジプトの選挙において,第 もまた,それを利用しながら,今回の民主化運動 一回投票では,ムスリム同胞団系の自由・公正党 に対して国連安保理が制裁を決議することを逃れ が第一位,より保守的なイスラーム主義を掲げる ようとしている。このような国は,まちがっても ヌール(光)党が第二位につけている。タハリー イスラエルと正面から衝突する愚を犯さない。 ル広場から世界に期待を抱かせた宗教色のない若 イスラエルにとって深刻なのは,シリアで仮に 者たちの政党は,ほとんど支持を得られなかった。 アサド政権が倒れれば,エジプトなどと同じよう この結果をみても明らかなように,「アラブの春」 に,ムスリム同胞団系のイスラーム主義勢力が息 といわれた反体制運動は,結果として,再イスラー を吹き返すからである。彼らは,プラグマティズ ム化の傾向を示すのである。 ムからではなく, 「真剣に」イスラエルを敵視し, 日本も欧米のメディアも,イスラーム主義勢力 パレスチナを孤立させようとするイスラエルの期 が権力に近づくと,とたんに警戒感をあらわにし 待には応えない。 て, 「イスラーム原理主義」の躍進と書く。しかし, イスラエルは, すでにエジプトを失った。 ムバー もういい加減にイスラーム主義への条件反射的な ラク政権は, 国民の意思に反して, ガザの封鎖に協 反発を自制すべきである。ムスリムの社会におい 力し,見返りとしてアメリカから多額の軍事援助 て,民主化が進めば,まずまちがいなく,イスラー を得てきた。 そのムバーラクが追放され, イスラー ム的に正しい道へと進む結果になる。イスラーム ム主義政党が選挙で多数を占めれば,パレスチナ 的に正しい道というのは,イスラーム的公正の観 の民衆を抑圧するような政策には加担できない。 念が現実の政治に反映されることを意味する。 イスラエルはトルコも失った。ガザ支援船への それは,ただちにシャリーアに全面的に従う国 攻撃で,トルコ人 NGO メンバー9人が犠牲にな 家の樹立を意味するわけではない。イランの指導 った事件で,イスラエルは謝罪を拒んだからであ 者は,調子に乗って,自分たちのような国がアラ る。トルコは,イスラエルとの外交関係を二等書 ブ諸国にも増えていくのだ,というようなことを 記官級に格下げし,大使を召還した。トルコとイ 口にするが,これは当たっていない。宗教指導者 44 中東協力センターニュース 2011・12/2012・1 が国家を率いるようなイラン型の政治は,シーア だが,困ったことである。コーランでは, 「孤児の 派のコミュニティだから成立するのであって,ス ことを案ずるならば」そして「妻たちを平等に処 ンナ派の社会では成立しない。スンナ派には,宗 遇できるならば」複数の妻との婚姻が認められる 教指導者が統治しなければならないという前提が と条件を課している。再イスラーム化するといっ ないからである。 ても,このように部分的にしかシャリーアの規定 現実的には,チュニジアであれ,エジプトであ を実現できない。これが「アラブの春」の方向と れ,世俗的な体制の下にいた国民を一斉にシャ いうことになる。 リーアに従属させることはできない。単純な例を 挙げれば, 喜捨を奨励することはできるだろうし, モデルとしてのトルコの民主化 実際に,困窮する人びとに喜捨を行き渡らせるよ 中東での一連の民主化運動に強い影響を与えて うな社会改革はできるし, やらなければならない。 いる国がある。トルコである。もちろん,アラブ しかし,刑法についてシャリーアを貫徹し,身体 の国ではないが,トルコは,過去十年のあいだに, 刑を科すのは姦通,棄教,飲酒,強盗だけにでき 民主化・自由化について著しい進展を遂げた。こ るかというなら, 現段階ではとうてい無理である。 こでも,民主化とは「ムスリムの素朴な公正観」 シャリーア(イスラーム法)上の規定では,刑事 にかなう政治が行われてきたことを意味するし, 罰の対象となるのは上記の罪に限られてしまう。 自由化とは「ムスリムとしての信仰実践の自由」 強盗は刑事罰の対象だが,殺人が対象になってい が保障される方向に進んだことを意味する。 ないことに注目してほしい。殺人の場合には,同 トルコは,人口のほとんどをスンナ派ムスリム 害報復か,あるいは血の代償としての賠償による が占めながら,国是として徹底した政教分離と世 解決をしなければならない。シャリーア国家にす 俗主義を貫いてきた。そのことは,歴史的には十 るというのは,こういう点でもイスラーム法どお 分な意味をもっている。ヨーロッパ列強の侵略か りにすることであって,そのようなことは現状で ら祖国を防衛し,崩壊したオスマン帝国に代わる は不可能である。 近代国家を樹立するにあたって,国民国家の枠組 したがって,仮にイスラーム法に近づけるとし みを堅固にすることと,イスラーム帝国からの決 ても段階的にしかできない。だからこそ,多くの 別は,建国の父アタテュルク等の卓見であったこ 国民にとって最大公約数的な再イスラーム化から とに疑いの余地はない。後者については,圧倒的 手を付けるはずである。もちろんそこでは,アル な力で迫っていたヨーロッパ列強を前に,新生ト コール類の製造や販売の規制はかかるだろう。だ ルコ共和国の近代化には西欧化が必要と考えて が,一挙に飲酒を鞭打ちの刑に処せるかというな も,何の不思議もないし,実際,日本も同じ道を ら,これも無理である。 たどって近代化を進めてきたはずである。 欧米のフェミニストにはひどく嫌われるイス しかし,強国に再び侵略されるのではないかと ラームだが,西欧諸国が信じ込んでいる複数の妻 いう強い懸念は,結果として軍部の強大化をもた との婚姻も,実際には進まない。そもそも,進む らした。政治は,第二次大戦後には複数政党制に はずがないのである。複数の妻をもつ自由は認め 移行していたから,それなりに民意は反映された ることになるだろうが,それは,あくまでコーラ が,政教分離と世俗主義国家については,イスラー ンに示されているように,妻たちを平等に処遇で ム主義が台頭するたびに,軍部が介入して政党政 きる場合に限られるからである。欧米では,四人 治を停止させたり,イスラーム政党の解党を図っ まで妻を持てるというところにばかり注目するの たりしてきた。世俗主義を擁護する政党や憲法裁 45 中東協力センターニュース 2011・12/2012・1 判所も,政治におけるイスラーム化の阻止に大き 一方,外政においては,これまでイスラーム圏 く貢献した。 のなかでもっとも欧米よりだった姿勢を弱め,イ 国民国家の枠組みを堅持するうえで重要な争点 スラーム的公正の観念にもとづいた外交姿勢を明 となったのは,クルド政党による分離・独立への 確にしたことが重要である。これは,パレスチナ 動きだった。これも,1990年代には軍とクルド武 問題,とくにガザの封鎖問題に関して,イスラエ 装勢力 PKK とのあいだに激しい衝突が繰り返さ ルに対して「不公正」であることを明確に示すよ れ,多くの犠牲者を出した。クルド系の政党は幾 うになった。2009年1月のダヴォス会議で,トル 度も結成されたが,憲法裁判所によって解党させ コのエルドアン首相がイスラエルのペレス大統領 られてきた。 に「貴殿たちは人殺しの仕方を良く知っている」 トルコは,1990年代まで,つまり20世紀の末ま と面と向かって非難したことに続いて,トルコの で,このような状況にあったため,欧米諸国から 援助活動家が犠牲になったガザ支援船攻撃問題で は民主化の遅れをつとに指摘されてきた。しかし イスラエルに厳しい姿勢をとっている。これは, ながら,21世紀に入るや否や,トルコは大きな変 パレスチナの民衆が弱者の立場にあり,彼らを苦 革を遂げた。2002年にイスラーム主義の公正・発 しめるイスラエルの行為を不正義と解釈してのこ 展党(AKP)が政権の座についたことがきっかけ とだが,この姿勢は,パレスチナの民衆のみなら である。公正・発展党を選んだのは民意であるか ず,アラブ諸国全体でイスラーム的公正を訴えた ら,国民の多数意思が,世俗主義政党や,それま ものとして高い評価を受けている。 で政権についてきた中道右派政党を見限ったこと トルコの公正・発展党政権が中東民主化のモデ になる。公正・発展党の性格については,欧米の ルになりうるのは,イスラーム主義の政党として, メディアが言うように,穏健なイスラーム政党と 国民の意思を反映させ,西欧諸国とも良好な関係 か,新しい保守勢力などと規定する必要はない。 を維持し,そのうえ,経済発展を実現できること イスラーム主義政党である。 を示したからである。アメリカは,ブッシュ政権 そもそも, イスラーム主義というのは, イスラー のときからトルコとの連携を強調していた。イス ム的価値を政治の場で実践しようとする意志であ ラーム過激派の暴力と対峙したブッシュ政権は, って,それがイスラーム国家の樹立に直結するわ 「穏健な」イスラーム政党である公正・発展党を西 けではない。先に述べたように,これまで世俗的 欧とイスラームをつなぐ橋として期待した。つづ な国家であったところに,突然,シャリーア(イ くオバマ政権は,誕生直後に,トルコの改革と欧 スラーム法)にもとづくイスラーム国家を建設す 米との協調姿勢に強い期待を示した。オバマ大統 るのが困難である。実際,公正・発展党の場合も, 領は,就任後の初訪問国としてトルコを訪れ,国 過去十年のあいだに,民意を受けて段階的にイス 会(大国民議会)で,トルコの公正・発展党政権 ラーム改革を実践した。内政においてその中核を に対して,きわめて強い支持を表明したのである。 なしたのは,大都市近郊に夥しい数が存在した貧 チュニジアの選挙で勝利したエンナフダ党にと 困層の不法占拠集落(ゲジェコンドゥ)を撤去し, っても,エジプトの選挙で優勢が伝えられる自由 住民たちを清潔で近代的な公営住宅に移したこと 公正党にしても,イスラーム主義であることをマ である。これに反対する人はいない。そして,貧 イナス要因にしないで政権を担当しているトルコ 困層の生活向上を実現したことは,貧者および弱 の公正・発展党は,中東・イスラーム世界での民 者の救済という点で,まさしくイスラーム的公正 主化の先にある政権のあるべき姿を提示している の実践と評価された。 のである。 46 中東協力センターニュース 2011・12/2012・1