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イスラームと現代資本主義 - 教務グループ 2009

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イスラームと現代資本主義 - 教務グループ 2009
イスラームと現代資本主義
― 導入的試論 ―
清 水 學
はじめに
ンティズムの役割を強調するための涙ぐましい
努力が反映されており、それ自体が当時の欧州
かつてマックス・ヴェーバー(1864―1920)に
の危機意識を含む「時代精神」を反映し、かつ
代表される学者達の間で、資本主義を担う階
その不安のなかで欧州の優位性を合理化しよう
層の 宗 教 的 背 景 に注目された時期があった。
とするヴェーバーの格闘であった。
「後進資本
ヴェーバーはその代表的著書の一つである『プ
主義国」ドイツを背景にしていたが故に、西欧
ロテスタンティズムの倫理と資本主義の精
的文化が一層強調される側面があったというこ
神 』
(Die Protestantische Ethik und der ‘Geist’ des
ともできよう。しかし今日の資本主義のグロー
Kapitalismus)
(1904-1905)において、プロテス
バル的展開という事態は、
「オリエンタリズム」i
タンティズムの倫理観が資本主義の勃興期の企
的バイアスを色濃く反映させたこの論理を現実
業家の行動を支えたという側面を強調した。そ
の進展の前に色あせたものとさせつつある。筆
れによって、なぜ西欧のみが資本主義の先進的
者はヴェーバー論を展開する能力はないが、資
地域となりえたかを宗教社会学的に解明しよ
本主義の担い手についてのキリスト教偏重主義
うとしたものであった。その主張は二つの側面
が現実の展開の前に修正を迫られている事実を
から補強された。ひとつはプロテスタンティズ
記すにとどめる。
ムを支える「契約」の概念をさらに旧約聖書に
20 世紀後半、特に非西欧世界における急激
まで求め、それは『古代ユダヤ教』
(Das Antike
な経済発展の過程は、ヴェーバーの世界に事実
Judentum)という形で結実した。もうひとつの
上、大きな変更を強いるものであった。
「儒教
方向は、ほかの宗教およびその社会との比較研
圏」が経済発展のプロセスに入り、さらに「ヒ
究の形で追求された。儒教・道教・ヒンドゥー
ンドゥー圏」も世界的舞台に通用しうる積極的
教(『中国の宗教 : 儒教と道教』
『インドの宗教 :
なビジネスマンを生み出しつつある。イスラー
ヒンドゥー教と仏教』)などの研究である。結論
ム圏においても後述のようにイスラーム主義資
的にいえば、これらの社会は資本主義的精神に
本家と称されるグループも生じてきた。その意
馴染みにくい文化的特徴を有するものとされた
味でヴェーバーの主張は否定されるか、あるい
のである。いわば宿命論的に「資本主義的」創
は大きな修正を迫られることになったといって
造的精神を抑圧する文化・文明とされたのであ
よい。しかし、振り返ってみると、ヴェーバー
る。これら非西欧圏の研究は欧州プロテスタン
の宗教社会学は今日いうところの「オリエンタ
ティズムの優位性を浮き立たせる役割を果たす
リズム」に著しく影響を受けていたことは否定
ことになった。そこには世界史における欧州の
できない。あれだけ豊かな可能性を内包させた
指導的役割、さらにそれに果たしたプロテスタ
『大論理学』
(Wissenschaft der Logik)を展開した
- 133 -
ヘーゲル(1770 年―1831 年)の『歴史哲学講義』
存の資本主義体制との相互関係をどう規定する
が著しく平板に見えるのも同一の理由であろ
かという問題も関連している。なぜならば、か
う。なお、ヴェーバーはイスラーム教に対して
つては「利子」概念を排除する極めて特異なも
言及することは少なかったが、非常に気にして
のとしてイスラーム世界以外では奇異な感じで
いたことは間違いない。イスラーム教は今日、
受け止められていたイスラーム銀行・金融シス
商人層を基盤とした「契約」の概念がユダヤ教
テムが、実際に機能しうる実態を持つ金融シス
と同様の重さを持つ「都市の宗教」であるとす
テムという意味で事実上国際的に市民権を獲
る説が影響力を持ちつつある。1970 年代初頭、
得してきたという背景があるからである。イス
故大塚久雄氏と雑談をした際、
「再度生を享け
ラーム金融・銀行制度が「反資本主義」ではな
たらイスラーム経済を勉強して見たい」と繰り
いということは一般に認識されてきているが、
返し語っていたのは印象的であった。大塚久雄
そのシステムがどれ位、現存資本主義に修正を
氏はヴェーバーの影響を強く受けていたが、イ
迫る現実的可能性があるかどうかが争点となっ
スラーム教は非常に気になる存在であった。い
ている。
うまでもなく、イスラーム教は、自らをユダヤ
シティー・コーポレーションは 1980 年代末
教、キリスト教の系譜のなかに位置付けている。
にバーレーンにイスラーム銀行を設立するな
それは 1 神教としてユダヤ教、キリスト教とも
ど、米欧の多国籍銀行でイスラーム金融に手
同一の神(アッラー)を共有していると考えて
を染めているところも少なくない。イスラー
いるためである。
ム 金 融 資 産 は ロ ン ド ン 発 行 の The Banker 誌 で
ここではヴェーバーの「オリエンタリズム」
は 2012 年 初 頭 で 1 兆 ㌦ を 超 え た と さ れ て い
を分析・批判することが目的ではない。それ自
る ii。それは全世界のヘッジファンドの運用資
身が今やあまり生産的でないからである。むし
産の半分ほどであるにしても静かにその存在感
ろ、最近注目され始めている、イスラーム・マ
を強めているといってよい。日本の証券会社内
ネーあるいはイスラーム資本家という概念の具
部でも「シャリーア・コンプライアンス(イス
体的存在形態を事例的に検討してみたい。それ
ラーム法適合性)」という用語が日常会話に登
はイスラーム圏という文化的共通世界のなか
場するようになっている。ちなみに The Banker
で資本が相対的に自由に動き得るという独自
誌は毎年、イスラーム銀行優良銀行上位 500 行
のネットワークが存在していることを前提に
を発表しているなど、独自のリストを提示して
しているが、それを超える側面をもっている。
いるが、それだけイスラーム銀行の数が増加し
2011 年初頭の「アラブの春」後に選挙を通じて
ているわけである。
イスラーム主義政党が政権を獲得したエジプ
ト、チュニジアにおいて、イスラームと経済政
策を完全に分離して議論することができない政
第 1 節 イスラーム銀行・金融システム
とイスラーム主義資本家
治的条件の制約下にある。そのなかで、トルコ
のイスラーム主義政党 AKP(Adalet ve Kalkinma
一般的な意味で「イスラーム復興」が語られ
Partisi:公正発展党)が 2002 年に政権について
るようになって久しい。特に 1960 年代末以降、
から達成した経済的成果に刺激を受けて、その
多様な分野でイスラームはその存在感を強めて
「トルコ・モデル」の研究と模索が活発に行われ
いる。その「イスラーム復興」の経済的表現が
ている。
イスラーム銀行・金融システムの構築と発展で
同時にイスラームという宗教的価値体系と現
あった。そのシステムもどれだけ資本主義シス
- 134 -
テムと同質か、あるいは異質かを問う前に、文
の資本として動き始めていると見られるように
化的同一性あるいは価値観の共通性を与件とし
なった。しかし今日「イスラーム主義資本家」と
て研究・開発が進められたことに留意する必要
いった場合、国家資本に支えられた巨大企業あ
がある。現在、イスラーム銀行・金融が現実に
るいは政策的に優遇されてきた大規模なビジネ
無視できない規模を有するようになると、その
ス・グループを指しているのではない。そうで
発展を評価しながらも、今日あらためて、イス
はなく、政府からは事実上無視されるか、補助
ラームの理念を実現する上で有効な役割を果た
金その他の優遇措置の対象外であった中小資本
しているかどうかという基本的な観点から批判
家が、宗教的ネットワークなどを利用して頭角
や問いがなされるようになっている。確かに利
を現わしてきた階層を指している。エジプトや
子概念を排除したうえで各種イスラーム金融商
チュニジアなどの強権的政権を打倒した反政府
品が開発され、それが非イスラーム世界まで拡
勢力の構成勢力の一つであるムスリム同胞団な
大するようになっている。しかし他方では極め
どのイスラーム主義勢力には、このような中小
て技術的になり、利子概念の排除という条件を
資本階層が含まれていたと見るべきであろう。
満たすことに集中してきた感があった。しかし
ここで注意すべきことは、イスラーム銀行・
イスラームには「社会的公正の実現」というよ
金融システムの発展と「イスラーム主義資本家」
り本質的な課題がある。そのような面からみて
は異なる概念だということである。イスラーム
果たしてイスラーム経済・金融は正しい方向に
銀行はシステムとして成立しており、その利用
向かっているのであろうかという疑問である。
者はムスリムに限定されていない。いわばイス
このような時期に、ここ数年「イスラーム主
ラーム金融・銀行システムはイスラーム世界か
義資本家」という言葉が語られるようになった。
ら生まれながら、そのシステムが部分的であれ
具体的にはトルコのアナトリア半島での新興企
存在しているのは 70 か国以上と見られ、活動領
業家、あるいはレバノン南部のシーア派新興企
域はいわゆるイスラーム世界だけに限定されな
業家などがイメージされている。
「イスラーム
い独自の存在になってきている。トヨタも 2008
主義資本家」は、資本家像がキリスト教徒に限
年にスクーク(イスラーム債)をマレーシアで
定されないという消極的な対抗概念だけではな
発行しているし、マレーシアでは預金者・借入
い。ヴェーバーが資本主義に対応する能力を欠
者も含め、ムスリムであるマレー人よりも、華
くとされた儒教世界、ヒンドゥー世界とならん
人の方がイスラーム銀行の利用では多数派を構
で「イスラーム資本家」はイスラーム復興の経
成しており、システム的自立性が見られる。そ
済面での担い手として無視できなくなってきた
れに対して「イスラーム主義資本家」はムスリ
現実を反映している。
ム(イスラーム教徒)に限定されるのが原則で
今までイスラーム世界とマネーが結び付けら
あるし、その含意はイスラームの理念を実現さ
れたのは、主として湾岸産油国がオイルマネー
せるという信仰を経済活動のエネルギーとして
に支えられ、かつ国家資本あるいは国家資本に
いる経済人を指す。それが国家資本あるいは巨
支えられた民間資本として登場してきた場合で
大ビジネスとしばしば利害が衝突し、それを打
あり、その影響力は無視できなくなっていた。
破するエネルギーを伝統的なイスラーム信仰あ
しかも、湾岸産油国などが1970年代末の欧米金
るいはその復興に求めてきたのである。かれら
融資本の強力な影響下でオイルマネーの運用を
がイスラーム銀行・金融機関を利用する可能性
行っていた時期とは大きく異なり、21世紀に
は相対的に高いかもしれないが、差し当たりは
入って以降は「自己の意志と戦略を有する」独自
直接の関連はない。
- 135 -
第 2 節 イスラーム銀行・金融論について
2011 年初頭の「アラブの春」の結果、注目す
べき変化は、チュニジア、エジプトでイスラー
イスラーム経済論といった場合、銀行論・金
ム主義政党の大方の予想をはるかに超える躍進
融論に限定されるわけではなく、社会的公正の
が見られたことである。またリビアの移行政権
実現なども重要課題に含まれており、広義に捉
もイスラーム法施行の意図を示唆している。い
える必要がある。しかしイスラームは宗教と経
わば、民主化がイスラーム化、あるいはイスラー
済活動の相互関係に宗教的に本質的な位置づけ
ム的価値の重視と同一方向をとって進展してい
を与えている点で他の宗教と差別化される。キ
る。これをどう説明するかは別として、イスラー
リスト教経済論あるいは仏教経済論が独自の存
ム的価値の実現、その具体化の一つとしてイス
在を主張していないのはそのためである。
ラーム経済に対する関心も高まっていることは
イスラーム経済論のなかで特に銀行論・金融
否定できない。それは単なる理念の段階という
論が代表的に扱われているのは、利子(リバー)
より、極めて実際的な運用という実務面での関
の禁止というハラーム(宗教的禁忌)が『クル
心の高まりでもある。2011 年 9 月初旬に筆者が
アーン』に依拠して神(アッラー)の意思とし
「革命」後のカイロのエジプト証券取引所を訪
て啓示されており、イスラーム教徒にとって絶
問した際、当証券取引所のリスク管理部長はイ
対的意味を持っているからである。その利子の
スラーム金融商品、特にスクーク(イスラーム
禁止という啓示を基礎として経済システムを再
債券)の本格的上場がエジプト証券市場におけ
構築しようとしているために銀行論・金融論が
る次の重要課題だと述べていた。2012 年 7 月に
イスラーム経済論のなかで前面に出ているので
ムスリム同胞団出身のムハンマド・モルスィー
ある。なお、イスラームだけが利子の禁止を謳っ
が初めての自由な選挙で大統領に選出されて以
ているわけではないことにも留意する必要があ
降、それまで低迷していたエジプト証券市場の
る。同一系統の 1 神教であるユダヤ教、キリス
株価指数 EGX が高騰している。それが示してい
ト教いずれも利子は基本的に否定されている。
ることは政治的安定に対する経済界の強い期待
欧州中世においてユダヤ人が金貸・金融に従事
と同時に、財界主流はイスラーム主義者の大統
するようになった重要な背景の一つには、キリ
領に対する懸念を持っていないという判断を示
スト教徒が利子取得の職業に従事することを忌
している。
避し、ユダヤ人にこの種の仕事を「押し付けた」
イスラーム金融論は利子の禁止は揺るがせ
ことがある。いずれにしても、利子の禁止をイ
にできないという原則を基軸に構築されつつ
スラーム教だけに限定する認識は正確ではな
あるものであるが、具体的には利子の排除と
い。いわばユダヤ教徒やキリスト教徒の認識が
ならんで、あるいはその系として、現実に財・
変化してきたといえよう。ただ誤解を避けるた
サービスの取引の裏付けのないマネーの動き
めに付言すれば、イスラームは経済活動、特に
を排除するという理念が存在している。なお、
商業活動に従事することが宗教的にも強く薦め
イスラーム金融論は今日、極めて複雑化して
られていることである。いわば極めてプロ・ビ
おり、専門化が進んでいる。イスラーム金融
ズネスの宗教であり、マネーや資産を積極的に
は原理的には投資信託的性格を有するムダー
投資に回すことが推奨されている。投資活動に
ラバ(Mudaraba)、共同投資的性格を有するム
重点が置かれていることが、
「イスラーム主義
シャーラカ(Musharaka)、売買取引の仲介者と
資本家」という概念を生む宗教的基礎を支えて
してのムバーラハ(Murabaha)のほかイジャー
いる。
ラ(Ijara), イスティスナ(Istisna)などの基礎的
- 136 -
取引の範疇とその組み合わせによって形成され
余地が出てくる。本人がイスラーム教徒である
ている 。現段階で取引件数・取引額で最も比
必要もない。またイスラーム金融商品の開発も
重が大きいのはムバーラハであり、全体の約 7
イスラーム教徒の専門家に限定されていない。
割から 8 割程度と推測されている。ムラーバハ
イスラーム保険の開発を行ったのは東京海上火
は売買手数料を要求するが、事実上利子に最も
災で働いていた日本人である。
近いとする見方もある。しかしデリバティブ(金
またイスラーム金融市場は非イスラーム圏
利スワップ、先物、オプションやさらにその複
にも拡大しており、ロンドンもその重要なセン
雑な組み合わせ)の開発・発展による金融市場
ターの一つとなっている。いまや流動性の確保
の変化が激しいなかで、イスラーム金融の専門
や危機管理なども、イスラーム銀行経営の存立
家はそのキャッチアップに追われている。その
に関わるものとして検討課題となっている iv。
研究も片手間ではできない仕事となっている。
イスラーム銀行は経営体として存続しなければ
つまり、イスラーム金融の専門家であるために
ならないし、またそのためには利益を上げなけ
は二つの分野で一定水準を維持しなければなら
ればならない。イスラーム銀行は伝統的銀行と
ない。ひとつはイスラーム法に関する最低限の
の競争にもさらされている。投資家にとって伝
歴史と最近の議論の展開に関する知識であり、
統的銀行とイスラーム銀行は比較の対象である
もう一つは急速に変化しつつある金融情勢や新
し、事実上両者間でアービトレーション(裁定)
金融商品の知識である。経済の証券化や金融派
取引が行われていると見られる。
生商品が高度に発展しつつある今日の資本主義
なお現実問題として複雑なのは、イスラーム
の発展段階における金融市場の実態の研究面で
法に適合するかどうかについては、イスラーム
もプロとなることが要求されているからであ
内部の学派の相違などもあって、国際的な統一
る。特に不断に発展、あるいは導入されるデリ
基準がまだ存在していないことである。概して
バティブなどが、イスラーム法の立場から許容
湾岸諸国では制約が厳しく、マレーシアなどで
できるかどうかを判断することが要求される。
は相対的に規制が緩やかである。具体的な事例
イスラーム法と金融という二つの全く異なる領
では、湾岸諸国では株式の空売り、先物などは
域のプロになるのは容易ではなく、今日のイス
否定されているが、マレーシアでは対象株式を
ラーム銀行・金融システムが極めて専門技術化
発行している企業の営業内容がイスラーム法に
していると見られるのはそのためである。それ
合致していれば、その株式の空売りや先物取引
は金融商品や金融取引が、
「シャリーア・コンプ
も容認されている。クアラルンプールにある国
ライアント(イスラーム法に適合する)」かどう
際イスラーム大学のカリキュラムには「デリバ
かを判断し、必要に応じて利子概念などを排除
ティブ」の講義が含まれているが、このような
しつつ同一の目的を達成するイスラーム法適合
ことは湾岸諸国では考えられない。
iii
的な金融商品を構築開発する要請に応じること
までも含まれる。債券や生命保険は在来のシス
第 3 節 イスラーム金融論・経済論の意味
テムでは「シャリーア・コンプライアント」で
はなかったが、システムを工夫・開発して独自
上記のようにイスラーム金融と言っても多様
のスクーク(イスラム債)や事実上の保険がイ
で統一化されておらず、イスラーム法の解釈に
スラーム法に適用する形で開発・運用されてい
も厳格なものや柔軟なものも見られる。しかし
る。イスラーム金融コンサルタントとして、ロ
どのように柔軟に解釈しようとする立場であっ
ンドンのシティー出身の英国人などが活躍する
ても、利子概念自体を容認しようとするまで緩
- 137 -
和しようという主張はない。それは『クルアー
つの異なる原則の併存を認めている。換言すれ
ン』に利子の禁止が明示的に啓示として示され
ば国際金融市場と国内のイスラーム銀行を便宜
ている点に関連している。その点では非常に「頑
的に分離しているといってよい。これは矛盾し
な」な姿勢を堅持している。しかし、宗教の立
た行動といってもよい。これを矛盾だと指摘す
場とは別に利子の禁止などはどのような意味を
る声は殆どないが、クウェイト議会においては
有するのであろうか。
この便宜的分離を問題視する意見も出始めて
ここで一般的に誤解されている点のいくつか
いる。このように、金融システムのイスラーム
を修正しておきたい。第 1 に、イスラーム銀行
化といっても、系統的で一貫した方向を視野に
は利子を排除するといっても、それに代替され
入れて導入されているとは必ずしも言えない。
るかたちで投資概念を援用しているので、イス
しかし湾岸諸国の国家ファンド、たとえば国家
ラーム銀行への預金はその成果の果実を受け取
ファンド最大といわれるアブダビ・ファンドの
る。預金は投資信託あるいは共同投資の形態に
投資方針が全くイスラームに影響を受けていな
転化され、その融資先の営業成績を基礎に配当
いというと間違いである。利子問題以外のもう
金などが支払われるため、預金は利益を生んだ
一つのイスラーム的制約条件として投資先業種
り損失を蒙ったりする。無利子銀行の預金だか
の限定志向がある程度生きているからである。
ら時間の経過を経ても不変ということではな
わかりやすい事例としてはイスラームが禁止す
い。しばしば確定金利よりも高い利益を生むこ
る酒類の製造・販売、禁忌である豚肉の処理に
とも珍しいことではない。また確定金利よりも
関連するハム製造業などへの投資は禁止され
高い利益を生むことが伝統的銀行との競争に耐
る。その意味で一種の産業政策上の宗教的ガイ
えうる条件のひとつとなっている。第 2 に、イ
ドラインは存在する。
スラーム教徒が人口の大半を占める国であって
現段階においてイスラーム金融はいわゆるイ
も、全金融システムをイスラーム銀行・イスラー
スラーム諸国においても主流までにはなってい
ム金融で運営しているところは極めて例外的だ
ないが、もはや無視できない存在となってきた
ということである。確定利子による伝統的銀行
ことも否定できない。この存在を歴史的にどの
も多数存在して預金受け入れを行っており、サ
ように位置づけるべきであろうか。歴史的状況
ウディアラビアを含めて、預金総額においてイ
に関わりなく、神の啓示という絶対性を背景に
スラーム銀行預金の方がまだマイノリティーと
この「特殊な」金融システムが導入されたと見
なっている。イラン、パキスタンは全金融シス
ることも可能である。その点では非イスラーム
テムをイスラーム化しているとしているが、実
教徒にとっては、根拠を問えない問題と判断す
態はそのようものではない。
ることもできる。
また湾岸諸国の国家ファンドの行動原理は利
しかし同時に注目されることは、イスラーム
子の排除というイスラーム銀行の原則とは別の
金融が急速に規模を拡大した時期と、世界的に
論理に依拠している。湾岸の国家ファンドは米
経済の「金融化」と言われ始めた時期とが重なっ
欧巨大銀行のマイノリティー株主を目指してお
ていることである。先述したように、イスラー
り、だからといって米欧巨大銀行の営業方針に
ム金融は財・サービスの現実的取引の裏付けの
修正を加えるような意図はない。従って湾岸諸
ないマネーの動きを忌避しようとし、さらに利
国は国内の一部でイスラーム金融システムの導
子の禁止という形で、いわゆる利子生み資本を
入を促進していながら、自国の国家ファンドの
理念的には排除する。いわば経済の「金融化」
行動に同一の行動原理を要求しないという、二
に抵抗する論理を内在化させている。つまり、
- 138 -
イスラーム金融論は資本主義体制における金融
たことで、トルコの国際的地位を大きく高める
の肥大化現象を事実上、批判する立場を示す形
ことになった。特にエルドアンの政治的指導力
になった。利子概念の否定は、多様な利子生み
は大きな影響力を及ぼした。2011 年段階でト
資本の存在を少なくとも論理的には否定してい
ルコの一人当たり所得は 1 万 0444 ㌦に達し、東
る。この点に、イスラーム金融という、一見、歴
アジアの中所得国であるマレーシア、タイ、イ
史的状況とは無関係に見える現象が、現実の金
ンドネシアなどの一人当たり所得を凌駕してい
融システムの展開とは対立する論理を内在させ
る。しかし、ここではトルコ経済自体を分析す
つつ発展してきた形となっている。
ることが目的ではなく、AKP を支える新興企
しかし注意すべきことは、イスラーム金融は
業家層として「アナトリアのトラ」と称される
反資本主義ではないことである。むしろ資本主
グループが課題である。トルコの高成長を支え
義との親和性が強い。独特の論理の回廊を通過
た一連の財閥系企業とならんで、
「アナトリア
するにもかかわらず、民間資本を主軸とする投
のトラ」と称される一群の新興中小企業の急成
資活動の積極的推進という基本路線は明白であ
長がイスラームとの関連で注目されているから
る。イスラーム経済が依拠する経済学は、広義
である。この表現はいうまでもなく東アジアに
の現代経済学であり、新古典派経済学の論理も
おける「4 つの龍」などを意識した比喩的表現
多用している。イスラーム経済の構築者達の学
である。トルコはもともと西に行くほど経済発
問的バックグラウンドの多くはそこにある。そ
展が顕著で、東に行けば行くほど低開発地域で
の点では極めて「現代的」刻印を受けている。
あるという西高東低型の経済発展地図を示して
その点からすれば、イスラーム経済学の主流は
いる。特にイスタンブルとその周辺の経済発展
いわゆる近代あるいは現代経済学の一分野に位
は突出している。トルコは 1923 年のトルコ共和
置づけることが可能である。他方、利子否定の
国建国に至る歴史的事情もあり、首都をアナト
論理を支える上で、古典的な労働価値説への親
リア半島の地理的中心ともいえるアンカラに
近感がしばしば見られる。極めて例外的には、
おいてきたが、アナトリア半島は全体としては
インドの指導的イスラーム学者の一人であるア
「後進地域」として知られてきた。しかし、今日
スガル・エンジニアのようにマルクスの価値論
アナトリア半島の主として内陸部において伝統
を援用する者もいる。
的な産業(家具製造、絨毯、縫製などの繊維産
業)を中心に、いわゆる中小企業の群生的発展
第 4 節 イスラーム主義資本家:
「アナト
リアのトラ(Anadolu Kaplanları)」
が見られ、さらにそれをバネとして新興企業グ
ループの形成発展が見られている。
「アナトリ
アのトラ」関連の企業の比重を示す統計が見つ
今日のイスラームと資本主義を見る場合、イ
からないが、トルコ工業に占める比重はまだ十
スラーム金融・銀行とならび、
「イスラーム主義
数パーセントと見られ、
「アナトリアのトラ」系
資本家」あるいは経営者というべきグループの
企業のトルコ工業に占める比重はまだ高いとは
台頭をみなければならない 。そのなかでトル
言えない。トルコ工業連盟による 2005 年のトル
コの事例は興味深いものがある。2002 年にト
コ大企業 1000 社のなかに入っている「アナトリ
ルコの政権についた AKP(公正開発党)は 2012
アのトラ」系企業数は 129 社である。
年 10 月現在、大統領であるギュルと首相のエル
アナトリアの都市別に大企業 1000 社に入る
ドアンの指導下で、トルコのマクロ経済の安定
「アナトリアのトラ」系企業数を見ると、デニ
化を実現し、さらに急速な経済成長を実現させ
ズリ(Denizli)29 社、ガジアンテップおよびカ
v
- 139 -
イセリ(Gaziantep & Kayseri)23 社、バルケシル
アナトリア中部に労働力の流入が続いている。
(Balıkesir)15 社、コンヤ(Konya)14 社、カフラ
アナトリアの経済発展を支えたこれらの企業
マンマラシュ(Kahramanmaraş)9 社、オルドゥ
家群を「アナトリアのトラ」と称するのである
(Ordu)7 社、サムスン(Samsun)5 社、チョルン
が、
「アナトリアのトラ」に合意された明確な
(Çorum)8 社、トラブゾン・ウニイェ(Trabzon
定義があるわけではない。一般的に言って、第
& Ünye)4 社、キュタイヒャ・ニウデ(Kütahya
1 に、1980 年代以前においてすでに工業が発展
& Niğde)3 社、アドゥヤマン・アフロンカラヒ
していたイスタンブル、アンカラ、イズミール、
サル・チャンクル・ギレスン・イスパルタ、カラ
ブルサ、コジャエリ、アダナは地理的にはアナ
マン・マラティヤ(Adıyaman & Afyonkarahisar &
トリア半島に位置していても「アナトリアのト
Çankırı & Giresun & Isparta & Karaman & Malatya)
ラ」の対象から除外されている。対象とされる
2 社、となっている 。
のは、地域的にはアドゥヤマン、チョルン、デ
「アナトリアのトラ」のイメージには、政府か
ニズリ、エディルネ、ガズィアンテップ、カフ
ら補助金その他の優遇措置が受けられず、むし
ラマンマラシュ、コンヤさらにカイセリなどの
ろ疎外されてきたなかで自力で発展した中小企
地方都市である。最近ではマラティヤ、サムソ
業家の姿が強調されている。そのエネルギーを
ン、オルドゥ、トラブゾン、ハタイなど黒海沿
支えたのは「ヌルジュ」
(後述)に代表されるイ
岸やシリアと接している地域・都市まで含む見
スラームの宗教的ネットワークを通じた、いわ
方も出ている。第 2 に、困難な環境のなかで発
ば「自力更生」型のイメージである。チョルン、
展の契機をつかんだ進取の資本家・企業家のイ
デニズリ、ガズィアンテップ、カフラマンマラ
メージが与えられている。この層は 80 年代のグ
シュが特に「自力更生」型として知られる。そ
ローバル化の波を受け入れようとしたオザル大
の中でアナトリア南西部の都市デニズリは繊維
統領時代の政策転換以降に発展の契機を掴んだ
産業を中心に、
「アナトリアのトラ」の中で先駆
と見られている。トルコは 80 年代にそれまでの
的な役割を果たしたとされている。アナトリア
輸入代替工業化戦略から輸出志向型経済発展戦
半島にはイスラームのスーフィズム(神秘主義)
略へ移行したが、そのなかで試練を受けつつも
の伝統も残り、トルコ共和国の国是である「世
それに立ち向かって成功した中小企業家層で
俗主義」のなかで一種の疎外感を味わってきた
ある。1995 年に EU との間に関税同盟が発足す
社会層が存在してきたと見られる。
「伝統的」な
ると中小企業も厳しい競争にさらされるよう
宗教的に敬虔な中小資本家のなかに、政治的に
になった。また東アジアからの低廉な商品の流
も経済的にも疎外されているという意識を持っ
入という挑戦も受けたが、それを合理化のテコ
てきた階層が存在しており、それが 1990 年代以
にしながら、EU、アフリカ、中東、さらにラテ
降のトルコにおける静かな「イスラーム回帰」
ン・アメリカへ輸出を拡大してその試練を乗り
の潮流を支えた可能性がある。資本調達する場
越えた一連の中小企業群である。トルコの輸出
合も親族などとならんでギュレン運動などの宗
額は 1980 年の 29 億㌦から 2008 年には 1300 億㌦
教的ネットワークも動員されたと見られる。そ
へと増加しているが、現在年間 10 億㌦の輸出額
れが現在のエルドアン首相に代表されるイス
を誇る都市は 20 都市に達している。また 2008
ラーム政党の台頭を政治的にも支えた。アナト
年のリーマン・ショックに対して西部の大企業
リア中部がイスタンブルとは別の成長の拠点と
より東部の中小企業の方がうまく対応したと見
して台頭し始めたのである。開発が遅れ失業問
られていることも注目されている。第 3 に、家
題に悩むトルコ東部国境地域から仕事を求めて
族ベースで所有されている中小企業であるこ
vi
- 140 -
とである。第 4 に、多くの場合、当初は伝統的な
EU の定義に従い、249 人未満の従業員で年間
繊維、絨毯、家具製造などの分野で競争力を高
純売上高 1500 万ユーロ未満の企業を中小企業
め、さらに輸出市場に進出し資本蓄積を行い、
としている。やや旧いが 2001 年のデータによる
その後 IT などを含む「近代的」業種にも進出す
と、製造業において中小企業は企業数で 99%、
るようになったことである。第 5 に、宗教的に
被雇用者数で 78%を占めている。しかしイスタ
保守的敬虔なビジネスマンによる経営であり、
ンブル工業会議所の調査では、付加価値ベース
宗教的ネットワークも利用していることであ
でトップ 500 社の工業企業が 49%を占めている
る。経営者は主としてスーフィズムの伝統のな
のに対して、次の 500 社(その内、中小企業に分
かにある。その特徴を指してベルリンに拠点を
類されるのは 44 社)のシェアは 4.7%にまで低
置くシンクタンク「ヨーロッパ安定化イニシャ
落する。89.7%の企業の従業員数は 1 人から 9
チブ(European Stability Initiative)」は「イスラー
人の範囲に収まっている viii。
ム・カルビン主義」あるいは「カルビン主義市
民(Calvinist Burgher)」と規定している。その行
第 5 節 独自の三位一体構造
動様式・価値観が資本主義勃興期を支えたカル
ビン主義者と極めて類似しているとする認識で
上記の「アナトリアのトラ」の経済活動は、
ある。これら地域が「コーラン(クルアーン)
・
イスラームの宗教的なネットワークの利用、政
ベルト」と揶揄的に称されることもある。
「アナ
治運動の支持とも関連している。いわば、経済、
トリアのトラ」の多くは今や第 2 世代に入って
宗教、政治が緩やかな形でつながりをつくって
おり、欧米で高等教育を受けた者も多くなって
きた。そのなかで宗教が経済と政治を結び付け
いる。インドの有力な『ヒンドゥー』紙の記事
ている。
「アナトリアのトラ達は静かな革命を推進して
「アナトリアのトラ」の多くが支持している
いる」 は、アナトリアのトラを「草の根から生
のが宗教指導者フェトフッラー・ギュレンであ
まれトルコの政治経済の改革に火をつけた敬虔
り、ギュレン派とも呼ばれる。この派は元々ク
な信仰に支えられた新種のビジネスマン」と規
ルド人のサイード・ヌルスィ(1878―1960)を教
定しつつ、彼らが業種的にも活動の舞台でも新
祖とするヌルジュと呼ばれるイスラーム主義運
たな分野に進出しようとしている状況を報じて
動の分派の一つでもある。ヌルジュとは教祖の
いる。そのビジネスマンの一人でカナダで教育
ヌルスィの名とその分厚い著作『レサーレ・ヌ
を受けたサダン・ヤヴスの話として、
「われわれ
ル(光の書簡)』を結び付けた他称である。ヌル
は製造業と貿易の分野で成功を収めた。次の目
スィの教えの中核はイスラーム信仰を防衛強化
標はコンピューター・ソフトウェア、製薬業、
することであり、そのために西欧の科学を積極
新エネルギー分野である」という発言を引用し、
的に取り入れることによりイスラーム的科学を
宗教的信仰の根幹を維持しつつ積極的に新産業
強化することと、強い同胞意識を持ったエリー
に参入して国際化を進めようとする企業家層の
ト信仰集団を育成することをめざした。つまり
モデルとして紹介している。第 6 に、
「アナトリ
西欧の技術の積極的導入とイスラームの信仰を
アのトラ」をモデル化するといっても、トルコ
有機的に結合しようとした試みであった。実証
の中小零細企業のなかで成長の契機を掴んでい
主義、経験主義、社会進化論などを混在したも
るのはごく一部だということも見ておく必要
のである。ヌルスィは 1878 年、ビトゥリス県ヌ
がある。トルコの中小零細企業の実態把握は定
ルスにクルド系の貧しい宗教学者の息子として
義の不統一もあって極めて困難である。最近は
生まれ、伝統的な有力スーフィズム集団である
vii
- 141 -
ナクシュバンディー教団に加入した。ヌルスィ
アに進出しているトルコ系中小企業経営者の間
自身はトルコ政府特に軍部との緊張関係を持ち
でのヌルジュ派あるいはギュレン派の比重は相
続け、投獄されたこともある。その宗教性が警
当高いと見られる。中央アジアのトルコ・レス
戒されたためである。
トランでアルコール類を提供していないのは
1960 年にヌルスィが死去した後、弟子達の間
ほぼこの信者の経営と見てよい。進出している
で対立が起き、いくつかの流れが生じた。フェ
企業はその利益の 1 割ほどをヌルジュあるいは
トフッラー・ギュレンはエルズルム出身で 1970
ギュレン運動に寄付していると見られる。1991
年代初頭イズミールでの活動で頭角を現わし、
年のソ連崩壊後、ギュレン運動は旧ソ連領中央
支持者を獲得し、特に実業家たちの広範な支持
アジアに積極的に進出しようとした。中央アジ
を得て、ヌルジュ主流から離れ、独立した勢力
ア諸国のなかでギュレン系のエリート主義教
をつくりあげた。ギュレンはイスラーム信仰・
育は歓迎されたが、その宗教的側面に強く警戒
企業家精神・教育などの分野でアナトリアの中
したのはウズベキスタンである。同国では 1994
産階級に巨大な影響を与えた。ギュレン自身も
年にギュレン系学校が閉鎖され、1999 年には
企業家といってよく、新聞、雑誌、ラジオ、テレ
再開された学校が再度閉鎖命令を受けている。
ビ、衛星放送などのメディアを重視・所有し、
ギュレン系学校の授業では学校が設置される国
1986 年に日刊紙『Zaman(時代)』を発行し、現
の宗教教育の規定に従うのみで、独自の宗教教
在は英字紙の『Today’s Zaman』とともに現 AKP
育は行っていない。布教活動という嫌疑を受け
政権支持のメディア活動を展開している。病院
ないよう神経をつかっているのである。アナト
建設や金融機関も有しており、2002 年か 2004
リア出身の企業家のビジネスの国際的展開にお
年にかけて慈善組織である『Kimse Yok Mu(誰
いても、ギュレン運動による教育活動が貢献し
もいないのか?)』を設立した。1997 年の時点
ていると見られる。ギュレン運動系のビジネス
でメンバーの概数は 300 万人に達成していたと
マンであるファティヒ・クトルタスは「直接の
言われている。
関連はないが、ギュレン運動が非常にしばしば、
ギュレンは特に教育を重視し、アジア、アフ
我々が新たな地域でビジネスを展開する上で大
リカを含め 140 か国以上で学校を設立し、その
きな助けとなっている。特にアフリカ、中央ア
数は 200 を超えている。その教育方針は宗教を
ジア、バルカン地域でそれが顕著である」と述
表面には出さず、むしろ英語・数学などを中心
べている。宗教活動と教育活動がビジネスを展
にレベルの高いエリート志向の教育を与えるこ
開するうえで両輪の役割を果たしている。なお
とである。1996 年には国内に総合大学も開設し
1996年にはギュレン運動は中央アジアを対象に
ている。現在ヌルジュは全国に約 2 万の寄宿学
資本金5億ドル以上のアシヤ・フィナンツ(Asya
習塾(dershane)を有する 。ギュレン派はエル
Finanz)のような投資銀行を設立している。また、
ドアンの有力な支持基盤の一つであり、それが
各地にあるギュレン系組織の建物の最上階はゲ
トルコの現政権の性格にも影響を与えている。
スト・ルームとして利用されている。
注目すべきことはエルドアン首相は後述するト
このように、現在のトルコにおいて「アナト
ルコ商工会議所連合(TUSCON)の 2011 年年次
リアのトラ」に代表される資本家・企業家、宗
総会で「トルコのビジネスマンはその事業と教
教運動としてのギュレン運動、イスラーム主義
育への貢献で 5 大陸の心を獲得している」と述
的性格を有する与党公正開発党(AKP)の三者
べ、教育を通じるトルコの影響力拡大に言及し
の間には相互に影響を与え、支えあう緩やかな
ていることである。ちなみに旧ソ連圏中央アジ
関係が存在している。AKP が政権を握るまで
ix
- 142 -
はトルコの政治は軍と世俗主義エリートの影響
トン、ブリュッセル、モスクワ、北京に代表部
力が強く、
「アナトリアのトラ」達は政府の経済
を置き、中小企業の海外進出を積極的に支援し
運営の非効率性の犠牲者であるという被害意識
ている。
を持っていた。他方、軍と政府は、
「トラ」達の
宗教的傾向を警戒して信頼せず、他方「トラ」
達は政府を信頼していなかった。そのため「ト
第 6 節 カイセリで「トルコ・モデル」
について考える
ラ」達は地方レベルで自治的動きを強め、それ
を通じて政府に要求を突き付けて行った。その
先に述べたように、2011 年のいわゆる「アラ
要求は民営化や経済政策における非効率性の排
ブの春」のなかで注目されたのはイスラーム政
除を含むものであった。AKP の進出は「アナト
治勢力の躍進である。特にアラブの指導的国家
リアのトラ」達に政治的発言をする機会を与え
エジプトでムスリム同胞団の存在感が強まった
ることになった。なお、21 世紀に入り、トルコ
ことは、その後の国家建設さらに経済建設の方
軍部の政治的影響力は弱体化傾向にあり、特に
向性に関する新たな関心を高めることになっ
ここ 2、3 年は威信低下は著しい。
た。そのなかでムスリム同胞団の各種代表団の
「アナトリアのトラ」たちは「独立工業家ビジ
トルコ訪問が目立ったが、それはトルコの経済
ネスマン連盟(MUSIAD)」や「トルコ・ビジネ
発展から教訓を得ようとする「学習」目的であっ
スマンおよび工業家連合会(TUSICON)」など
た。エジプトのムスリム同胞団も政治的には熟
のビジネスマン組織を独自に結成し、経済活動
練した組織であるが、トルコの現政権の与党で
を展開してきた。それを政治的に支援してきた
ある AKP も「世俗主義」体制を尊重しつつも、
のが AKP で あ る。MUSIAD はアナトリアの中
イスラーム主義を指導理念として持っている政
小企業家の組織であり、他方「トルコ工業化連
党である。
「トルコ・モデル」が注目されたのは、
盟(TUSIAD)」はイスタンブルを中心とする大
イスラーム主義と経済発展が両立することを示
企業を中核としている組織である。MUSIAD は
してきたという理解によるものである。
1990 年に結成され、現在約 5000 名のメンバーを
筆者は 2012 年 9 月 10 日から 9 月 16 日にかけて
抱えている。MUSIADのメンバーは年間50億㌦
ネパール・インドからの帰途、トルコに立ち寄っ
規 模 の 投 資、 輸 出 額 で は 170 億 ㌦、 ト ル コ の
たが、その目的は首都アンカラと並んでアナト
GDP の 15% に 寄 与 す る 1 万 5000 社 の 企 業 を 代
リア半島の地理的真中にあるカイセリ県の首都
表し、その雇用者数は 120 万人とされる。メン
カイセリ市を訪問することであった。それは「ア
バーの国際市場への積極的な参入を支援して
ナトリアのトラ」を生み出した地域を肌で感じ
おり、2 年に一度、大規模な国際見本市を主催
何人かのビジネスマンと会うためであった。周
している。1995 年以来、現首相のエルドアンの
知のようにトルコ国内はバス・ルートが縦横に
下で毎年国際ビジネス・フォーラムを主催して
整備されておりサービスも悪くはない。筆者は
おり、与党 AKP との関係の深さを示している。
9 月 12 日に首都アンカラから約 310 キロ離れた
2012 年 10 月の第 14 回国際見本市のスローガン
カイセリにバスで約 5 時間半かけて到達した。
は「あなたのビジネスをイスラーム世界と結合
カイセリは日本人観光客に人気のあるカッパド
させる」であった 。他方 TUSICON は 2005 年に
キアから比較的近いところであるが、観光客は
ギュレン運動のなかで設立された、トルコ各地
少なく外国人にはほとんど会わなかった。町の
のビジネスマンが結集した 7 組織の連合体であ
中心部には大きなバザールがあり、特に繊維・
る。イスタンブルに本拠を置くとともにワシン
皮革製品・家具を扱っているが、トルコ各地か
x
- 143 -
ら買い付けにくる卸売り市場の役割を果たして
育事業への関心は収益と宗教的関心が合致する
いる。カイセリ自体も家具製造、繊維製品、絨毯、
分野である。
皮革製品などの伝統的工業が現在でも相変わら
カイセリがカイザーの訛りから出ているよう
ず重要な役割を果たしている。人口 90 万ほどの
にローマ時代から交通の要衝であった歴史の古
地方都市ではあるが、金・宝石商が集中してい
い町である。特に 11―13 世紀のセルジューク朝
る一角も広大なものであり、また古い商店街と
の頃繁栄し、現在でも隊商の宿泊地の特徴を残
並んで海外のブランド品も扱うモールもいくつ
すキャラバン・サライ、バザール、モスク、マド
かできており、町の豊かさを実感させるもので
ラッサ(イスラーム学校)が町の中心部に残り、
あった。町の中心部では 2 年前から瀟洒な路面
キャラバン・サライは別としてバザール、モス
電車が走るようになっている。ただし、首都ア
クは現在でも機能している。ハムマーム(公衆
ンカラと決定的に異なるのは街にアルコール類
浴場)も遺跡のなかで営業しており、歴史的遺
を販売している店は全く見つからず、いわゆる
産が遺産だけではなく現在も機能を果たしてい
高級レストランへ行ってもメニューにはアル
るのは、町に落ち着いた安定感を与える。早朝
コール類は一切載っていないことである。法的
には各方面でモスクのアーザーンが聞こえる。
に規制されたものではないが、イスラーム的価
もうひとつ注目されたことは、町の至るところ
値観が浸透しているといってよい。カイセリに
に木製のベンチが設置されており、疲れた時に
はその発展可能性を期待してすでにヒルトン・
どこでも休むことができるようになっているこ
ホテルも進出している。ヒルトンのようないわ
とである。筆者の狭い経験のなかではこれほど
ゆる高級ホテル内での飲酒は自由であるが、そ
ベンチが遍在している街を見たことがない。カ
れは限られた特殊な世界となっている。カイ
イセリの家具製造が重要な産業の一つになって
セリ市は現在のトルコ大統領であるアブドゥ
いることも 1 条件ではあるが、市の豊かさと共
ラー・ギュル(Abdullah Gül, 1950 年 10 月 29 日―)
同体的連帯意識を感じさせる。ベンチは知らな
の出身地としても有名な高原都市である。アブ
い者同士の交流の場としても機能しており、筆
ドゥラー・ギュルは AKP 所属で首相(2002 年 11
者も何人かの現地人と話すきっかけとなったの
月 18 日―2003 年 3 月 14 日)、外相(2003 年 3 月 14
も偶然座ったベンチであった。
日―2007 年 8 月 28 日)、大統領(2007 年 8 月 28 日―)
イスタンブルを中心とする西部地域がヨー
を歴任している。
ロッパに顔を向けているとすれば、簡単に一般
カイセリ出身の「アナトリアのトラ」の一
化できないにしてもアナトリアは「東」にも目
つであるエラス(Eras)
・ホールディング・カン
を向けていると言える。カイセリのエルジェル
パニー(株式会社)は、初代社長で現在もその
ス大学の専門外国語カレッジで教えられている
地位にあるムスタファ・エラスラン(Mustafa
のは、中国語、ハングル、日本語、ロシア語、ア
Eraslan)が 1987 年に観光業に参入する形で設
ルメニア語、ヘブライ語、アラビア語、ペルシャ
立された。その後地元テレビ(1993 年)、広告
語である。なお、日本語を教えているトルコの
業(1994 年)、ホテル(1999 年)、セメント(2002
5 つほどの大学のうちダーダネルスク海峡にあ
年)、建設(2005 年)、塗料(2007 年)、大学(2008
るチャナッカレを除いてすべて中部アナトリア
年)、家具(2010 年)と事業の多角化を急ピッチ
に集中している。なお、
「世俗主義」の建前上、
で行ってきた。現在はトルコで有数のホテル・
教職員はスカーフを着用することはまだ認め
チェーンを経営している。社会活動としてはモ
られていないが、学生は 2 年ほど前からスカー
スク建設、大学病院寄贈などを行っている。教
フを着用することが許されるようになった。ス
- 144 -
カーフ着用は個人の自由である。それ以前はス
3 月 9 日にスィイルト県の補欠選挙で当選。そ
カーフ着用は禁止されていた。このプロセスは
れにともない、公正発展党副党首で首相のアブ
非常に緩やかなイスラーム化の動きを示すもの
ドゥラー・ギュルから首相職を譲り受け、2003
である。 年 3 月 16 日首相に就任した。2007 年の総選挙に
も勝利して 2 期目の首相をつとめた。2011 年 6
第 7 節 エルドアン首相とイスタンブル
月には首相として第 3 期目に入っている。現憲
法上では次期首相はありえないが、憲法を改正
AKP が「アナトリアのトラ」を重要な支持基
し大統領の権限を強化した上で、次期大統領を
盤としていることはしばしば指摘されている
狙っているという見方がある。
が、それはイスタンブルの地位低下とつながる
エルドアンはアナトリアの新興企業家の役割
形ではない。何よりもエルドアン現首相が政治
を重視するとともに、イスタンブルの果たす経
手腕が認められる重要な契機の一つは、1994
済的政治的外交的役割の高まりを同時に重視し
年 3 月 に イ ス タ ン ブ ル 市 長 に 選 出 さ れ 清 掃・
ている。首都アンカラはトルコ共和国を象徴す
公共住宅建設事業などでその行政手腕が評価
る政治都市の色彩が強いが、イスタンブルはか
されたことである。エルドアン(Recep Tayyip
つてのオスマン帝国の首都として、新オスマン
Erdogan= レジェップ・タイイプ・エルドアン)
主義ともいえるトルコの積極的な全方位外交の
は 1954 年 2 月にイスタンブルのベヨール区カス
展開のなかで特別の意義をもっている。その意
ム パ シ ャ(Kasımpaşa)に 生 ま れ た。1973 年 イ
味ではアンカラからイスタンブルへの政治ある
マームハティップ高校(イマーム養成学校)卒
いは経済機能の一部移転さえ考えられる。
業後、マルマラ大学経済商業学部入学。在学中、
エルドアン首相は現在、黒海とマルマラ海を
国民救済党(MSP:Milli Selamet Partisi)にて政
つなぐボスフォラス海峡の黒海に近いところ
治活動を開始した。1983 年 9 月 12 日軍政からの
で、イスタンブルのヨーロッパ地区とアジア地
民政移管後、イスラーム主義政党である福祉党
区をつなげる第三の橋の建設と、その近くで新
(RP:Refah Partisi)に入党、政治活動を再開する。
空港の建設を提起している 。現在、第1ボスフォ
1994 年 3 月 27 日にイスタンブル市長に当選した
ラス大橋(1973 年完成)と第 2 ボスフォラス大
が、1997 年に政治集会でイスラーム教を賛美す
橋(1988 年完成)の二つの吊り橋があるが、イ
る詩を朗読したことがイスラーム原理主義を煽
スタンブルの発展はそれでも交通渋滞を処理
動したとして告発され 1999 年 3 月 26 日、国家治
できなくなっている。いうまでもなくボスフォ
安法廷(現在は廃止)により、刑法第 312 条 2 項
ラス海峡はマルマラ海とエーゲ海・地中海を結
(国民間の宗派主義および人種主義を扇動)の
ぶダーダネルスク海峡とともに、黒海と地中海
罪により 4 年半の実刑判決を受ける。憲法第 76
を結ぶ戦略的な意味を有する海路である。黒海
条により被選挙権を剥奪され服役、1999 年 9 月
近くの新空港は年間 1 億人の乗客を扱うことに
4日釈放される。2001年6月22日福祉党に代わっ
なるとしている。また新市街のタクシムの再開
て結成された美徳党(FP:Fazilet Partisi)も解党
発のほか、2012 年 5 月にアジア地区のジャムリ
させられる。その後 2001 年 8 月 14 日に結成した
ジャ(Camlica)に 1 万 5000 ㎡の巨大なモスク建
公 正 発 展 党(AKP:Adalet ve Kalıkma Partisi)に
造を提起している。これはイスタンブルのどこ
おいて、被選挙権剥奪のまま党首に就任。2003
からも展望しうる大モスク構想である。エルド
年 12 月 27 日、トルコ大国民議会により憲法第
アン首相はイスタンブルのアジア地区のジャ
76 条が改正され、被選挙権を回復する。2003 年
ムリジャ近くに自宅があり、イスタンブルで仕
- 145 -
事をすることも多い。この巨大モスク建設につ
「証券化」が顕著になった時代背景のなかで、無
いてはトルコ国内でも賛否の議論が行われてい
利子概念と財・サービスの現実的裏付けられた
るが、エルドアンは2023年のトルコ共和国建国
経済活動のみを志向するイスラーム金融・銀行
100 年を期して「大国トルコ」の存在感を示そ
の発展がほぼ時期を同じくしている事実であ
うとしている。EU 加盟を追求しつつもアラブ
る。これは単なる偶然なのか、意図的なもので
中東さらにイスラーム世界への接近・関与政策
あるかは、必ずしも明確ではない。しかし、金融
の強化はエルドアン外交の特徴である。それは
資本主導型の現代資本主義の方向性に対して、
1923年に建国した西欧技術を受容しようとする
イスラーム金融論が一種のソフトな抗議の場を
「世俗主義」トルコの伝統を維持しつつも、国民
提供していることは注目すべきであろう。
のアイデンティティーとしてのイスラームとの
調和をはかろうとする方向と重なっている。
注
終わりに
i
Edward Said, Orientalism, Vintage Books, 1978
ii
Special Report: Top Islamic Financial Institutions,
イスラーム金融の発展やイスラーム主義資
本家の台頭などはいわゆる過去半世紀の「イス
The Banker, Nov. 2012
iii
素人向けにこれらの機能を解説しているも
ラーム復興」と関連がある。しかし、その登場が
のとして、吉田悦章『イスラム金融』東洋
現代資本主義のシステムそのものを根底から変
経済新報社、2007 年、pp.49-64.またバハ
えることは考えられないし、資本主義へのいわ
レーン中央銀行(今平和雄など訳)
『イスラ
ば適応には大きな問題はないであろう。またい
ム銀行とイスラム金融』PHP 研究所、2009
かに規模が大きくなったといっても、イスラー
年は簡潔でわかりやすい。
ム金融はイスラーム世界のなかでもマイノリ
iv
イスラーム経済論の最新の段階について
ティーでありマージナルである。しかし次の点
は、長岡慎介著『現代イスラーム金融論』
は注目しておくべきであろう。第1に、イスラー
名古屋大学出版会、2010 年が詳しい。
ム世界のネットワークが一定の経済的な意味を
v
Vali Nasr, The Rise of Islamic Capitalism: Why
もってきていることである。投資・貿易面での
the New Muslim Middle Class is the Key to
相互協力の場が拡大している。第2に、湾岸諸国
Defeating Extremism, Free Press, New York,
の国家ファンドは約2兆㌦とされるが、その投資
2009
分野の選定でイスラーム的価値の問題が、これ
vi Pelin Turgut. “Anatolian Tigers: Regions prove
らの国々の国内で次第に政治問題化する可能性
plentiful”. Financial Times. Retrieved 2006-11-
があることである。これらの国々の投資ファン
20
ドの投資対象業種とそのあり方にある程度の変
vii The Hindu, April 28, 2012
化を及ぼすであろう。第3に、イスラーム金融が
viii Ziya Onis & Fikret Senses, Turkey and the
宗教理念から独立してあまりに技術主義化した
Global Economy-Neo-liberal restructuring and
ことに対する批判も強くなりつつあり、マイク
integration in the post-crisis era. Routledge,
ロ・クレジットや共同組合などがあらためてイ
2009, p.208
スラーム経済論の対象として一層重視される可
ix
能性があることである。最後に注目されるのは、
1980年代頃からの、経済の「金融化」
、あるいは
http//jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~asia/ias/98/
kaigai98-kasuya/html
x
- 146 -
http://www.musiad.org.tr
Fly UP