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政 治 研 究 会 会 報

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政 治 研 究 会 会 報
2016 年 7 月 31 日発行
政 治 研 究 会 会 報
第 37 号
帝国経済秩序と国際経済秩序のはざまで
前
田
亮
介
20 世 紀 の 日 本 に お け る銀 行 の 歴 史 を振 り 返 る と 、 戦 後 の 高 度 成 長 の 少 な か ら ぬ 担 い 手 が 戦 前 の 帝 国 の 時
代 を 支 え た 政 府 系 銀 行 に 由来 し て お り 、か つ 1990 年 代 の 経 済 危 機 を 通 じ て 世 紀 転 換 期 に は ほ ぼ 姿 を 消 し た
ことに気づかされる。たとえば、日本長期信用銀行(長銀)は日本勧業銀行・北海道拓殖銀行の業務を継
承 し て 、 日 本 債 権 信 用 銀 行( 日 債 銀 ) の前 身 の 日 本 不 動 産 銀 行 も 朝 鮮 銀 行 ・ 台 湾 銀 行 の 残 余 資 産 100 億 円
を 継 承 し て そ れ ぞ れ 発 足 して い た が 、とも に 1998 年 、小 渕 恵 三 内 閣 の 下 で 成 立 し た 金 融 再 生 法 に 基 づ き 破
綻処理された。長銀・日債銀と同じ長期信用銀行だった日本興業銀行(興銀)もメガバンク再編の趨勢の
な か で 2002 年 み ず ほ 銀 行に 統 合 さ れ た。 そ し て 興 銀 と 同 様 に 20 世 紀 初 頭 に 誕 生 し 、 戦 後 は 普 通 銀 行 な が
ら 道 内 で 巨 大 な 求 心 力 を 誇っ た 北 海 道 拓殖 銀 行 ( 拓 銀 ) の 1997 年 の 破 綻 は 、 今 日 ま で い た る 北 海 道 経 済 の
不振の起点となった。これら一連の銀行は、いずれも起源をたどっていくと、日清戦争以降の日本の対外
膨張の過程で相次ぎ設立された政策金融機関や植民地銀行に行きつく(戦前の拓銀頭取も多くが朝鮮や台
湾 の 勤 務 経 験 者 で あ る 。なお 、戦 後 の 北海 道 東 北 開 発 公 庫 や 北 海 道 銀 行 に も こ う し た 傾 向 は 強 い )。 そ の 意
味で、冷戦終結後の経済危機の到来に伴い、帝国の遺産が一斉に経営破綻ないし合併にいたったことは、
そ の 良 否 は 別 と し て 、戦 前由 来 の 政 府 系銀 行 に お け る「 脱 植 民 地 化 」 の 波 が 、 戦 後 50 年 に し て よ う や く 訪
れ た こ と を 物 語 っ て い る のか も し れ な い。
戦後日本が高度成長という道を選択していく過程で、戦前の「帝国意識」をどのように、またどの程度
ま す
お
ま で 払 拭 で き た か( で き なか っ た か )は、か つ て 大 島 渚 が『 儀 式 』
(1971 年 )で 河 原 崎 建 三 演 じ る 桜 田 満 洲 男
の彷徨を通じて描きだしたように、興味深い主題である。たとえば、保守合同期の中小企業振興の政治的
要 請 の 下 、日 本 不 動 産 銀 行と し て 再 生 する こ と に な る 朝 鮮 銀 行 の 元 副 総 裁 星 野 喜 代 治 は 、「 占 領 政 策 の 行 過
ぎ の 是 正 」を 大 蔵 省 に 要 請し た 当 時 の 意見 書 で 、「 終 戦 後 朝 鮮 銀 行 の 職 員 は 何 等 の 罪 な く し て 一 方 的 に 離 職
を強制せられ、過去十年の間インフレの荒波にもまれつつ真に荊棘の道を歩んで来た……鮮銀の伝統とそ
の営業を守り抜いて来た職員にとっては、この十年間の辛酸は正に戦犯の刻印を押されて獄舎に呻吟する
戦争犠牲者と何等異なる所がない」と強烈な被害者感情を露わにしており、そこに植民地統治への批判意
識 を 読 み と る こ と は で き ない 。 他 方 、 同じ 植 民 地 銀 行 で も 、 1977 年 刊 行 さ れ た 『 朝 鮮 殖 産 銀 行 終 戦 時 の 記
-1-
録』の冒頭には、世界的な脱植民地化のなかで朝鮮も早晩独立できただろうにもかかわらず、日本の敗戦
に よ っ て 同 一 民 族 間 で 分 断国 家 が 生 じ てし ま っ た こ と を 、「 日 本 人 の ひ と り と し て 全 半 島 の 人 民 諸 君 に 対 し
同情に耐えず気の毒でたまらぬ思いでいっぱいである」とする殖銀行友会会長笠井二郎の文章が寄せられ
ている。星野の激しい自負と笠井の深い自責は、二つの植民地銀行が帝国日本の拡大から解体後まで朝鮮
半島におよぼした影響の甚大さを共通して浮かび上がらせている。実際、大陸政策の拠点でありつづけた
朝鮮銀行の存在がなければ、日本が円ブロック圏の植民地/占領地の負担と犠牲の下で日中戦争と太平洋
戦争を「遂行」できたか覚束ないし、総督府の開発行政に不可欠だった朝鮮殖産銀行は、後期李承晩政権
以降に重用された経済テクノクラートの供給源ともなった。時期も文脈も異なる両者の述懐は同列に扱え
な い が 、 と も に 帝 国 統 治 の前 線 を 担 っ た人 間 に し て 抱 き う る 感 慨 だ っ た と は い え よ う 。
もっとも、日本の戦時体制を支えたバンカーたちの軌跡を、肯定的であれ批判的であれ帝国の尖兵とい
う文脈に即して理解してしまうと、おそらく事態の半面しか捉えていないことになる。そのことを端的に
示 す の が 国 際 金 融 家 の 田 中 鉄 三 郎 ( 1883‐ 1974) の 軌 跡 で あ る 。 田 中 は 佐 賀 県 出 身 、 熊 本 の 第 五 高 等 学 校
を 経 て 東 京 帝 国 大 学 法 科 大学 政 治 科 に 進み 、 1906 年 に 日 本 銀 行 に 入 行 し た 。 以 後 、 行 内 で 貴 重 な 国 際 金 融
の 専 門 家 と し て 順 調 に 昇 進 を 重 ね 、 第 一 次 世 界 大 戦 後 は 井 上 準 之 助 ( 1869‐ 1932) 総 裁 の 下 で 要 職 で あ る
調査役(公定歩合を決定する重役会に出席できる)を務めたのち、理事に就任している。この間、第一次
世 界 大 戦 中 に は 戦 時 経 済 研究 の た め の 最初 の ヨ ー ロ ッ パ 駐 在 員 に 選 ば れ 、パ リ 講 和 会 議 に も 招 集 さ れ た 他 、
1929~ 31 年 の 日 銀 ロ ン ドン 代 理 店 監 督役 時 代 に は 、 ド イ ツ 賠 償 問 題 と 世 界 恐 慌 へ の 対 応 を め ぐ る 国 際 決 済
銀 行 ( BIS) や 国 際 連 盟 財政 委 員 会 な ど多 く の 国 際 経 済 会 議 に 日 本 代 表 と し て 出 席 し 、 各 国 の 中 央 銀 行 総 裁
やその下僚と長期にわたる信頼関係を築き上げた。そのなかには、モンタギュー・ノーマン(イングラン
ド 銀 行 総 裁 ) の よ う な 同 時代 を 代 表 す る国 際 金 融 家 の み な ら ず 、 日 本 の 高 度 成 長 期 に IMF 専 務 理 事 と な る
ペール・ヤコブソンやドイツ連銀総裁となるカール・ブレッシングのような、戦後のブレトン・ウッズ体
制に連なる人脈も含まれていた。田中にとってとりわけ思い出深かったのは創設準備段階から携わって初
代 理 事 を 務 め た BIS で あ り 、 各 国 の 中央 銀 行 総 裁 が 集 っ た ス イ ス ・ バ ー ゼ ル で の 日 々 を 、 田 中 は 回 顧 録 で
しばし誇らしげに語っている。こうした田中の貴重な国際的人脈は戦後も存分に活かされ、日本が先進国
ク ラ ブ に 仲 間 入 り し た 1964 年 の OECD 加 盟 に 際 し て も 、 一 定 の 非 公 式 的 な 貢 献 が あ っ た よ う で あ る 。
そして、世界恐慌後の危機の時代のなかで国際経済秩序の担い手たらんとした田中は、同時に、日本の
戦 時 体 制 の 要 請 に 伴 い 1936 年 か ら 40 年 ま で 満 州 中 央 銀 行 総 裁 を 、1942 年 か ら 45 年 8 月 ま で 朝 鮮 銀 行 総 裁
を歴任し、そのことから日本帝国の崩壊後には公職追放にあった人物でもあった。要するに田中は、世界
恐 慌 の 克 服 過 程 に お い て (ア メ リ カ 合 衆国 の 互 恵 通 商 協 定 法 ( 1934 年 ) に 日 本 が 期 待 感 を 隠 さ な か っ た よ
うに)すでに萌芽のあった、自由貿易に基づく国際経済秩序の受容という戦後の選択をいちはやく先取り
す る と と も に 、 1930 年 代 後 半 以 降 に 顕著 に な る 「 新 東 亜 の 経 済 的 建 設 」 や 「 大 東 亜 金 融 共 栄 圏 」 へ の 傾 斜
を も 体 現 し て い た の で あ る。 田 中 の 経 済情 勢 報 告 や 講 演 、 エ セ ー を 抄 録 し た 『 躍 進 の 満 洲 経 済 』( 1940 年 )
を 繙 く と 、 国 民 政 府 の「 永年 に 亘 る 抗 日、侮 日 の 結 果 」 と し て 日 中 戦 争 を 正 当 化 し 、「 今 や 東 亜 の 天 地 に は
日満支の提携を枢軸とする新秩序建設の黎明が輝き始めて居りまする」などと聴衆を鼓舞する記述が大半
を占めるものの、他方で、大戦後のドイツ再建をめぐる国際経済協調の一連の試みが、ヒトラーの台頭後
に困難になっていった経緯についても、一定の紙幅を割いて言及している。田中は、国際協調の時代たる
1920 年 代 に 活 躍 し た 国 際金 融 家 の 井 上準 之 助 ら と 比 べ て 、 帝 国 秩 序 と 国 際 秩 序 を い か に 調 和 さ せ る か と い
う困難なジレンマを抱え込まざるをえなかったのである。現在、日本銀行金融研究所アーカイブが所蔵す
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る田中の私文書には、彼が国際経済協調にむけて払った努力とともに、その帝国のバンカーとしての旺盛
な 活 動 ぶ り も 伝 え る 史 料 が多 く 残 さ れ てい る 。
ちなみに、田中自身はより帝国統治に同化していったが、日中戦争期に植民地/占領地や傀儡政権の中
央銀行に派遣されたバンカーには、蒙疆銀行の宗像久敬や華興商業銀行の岡崎嘉平太など、対中和平交渉
や終戦工作の可能性を積極的に模索した人物が少なくない。戦時日本の国際金融家たちにある程度共有さ
れていたと思われるこのようなジレンマは、はたして、敗戦に伴う植民地/占領地の喪失によって解消さ
れたのだろうか。あるいは、戦後の東南アジア経済開発を通じた地域主義構想のなかに回収されたのだろ
うか。
筆 者 自 身 は さ し あ た り 、1930 年 代 日 本 の 政 治 外 交 は 、 世 界 恐 慌 へ の 対 応 の な か で 生 じ た 自 由 貿 易 ・ 国 際
経済秩序への志向と、そのバックラッシュとして同時に活性化したアウタルキー・帝国経済秩序への志向
のせめぎあいという一面を有しており、この構図が戦後にも継承されていくのではないかという見通しを
持っている。そしてこうした金融の領域における帝国秩序と国際秩序の相克という観点から、世界恐慌の
克 服 か ら ブ レ ト ン・ウ ッ ズ体 制 へ の 参 加に い た る 過 程 を 、敗 戦 と い う 断 絶 を ふ ま え つ つ も い わ ば「 貫 戦 史 」
的 に 叙 述 す る こ と は で き ない だ ろ う か とい う 目 論 見 を 抱 い て い る 。そ れ は ま た 、( 少 な く と も 占 領 期 の 前 半
に は )ブ レ ト ン・ウ ッ ズ 体 制 に 外 資 導 入を め ざ す 社 会 党 系 の 学 者 を 含 む 超 党 派 的 な 支 持 が 集 ま っ た よ う に 、
戦後の政党政治史を経済秩序の受容の観点から逆照射することにもつながるかもしれない。そのとき、長
期 革 新 道 政 / 市 政 の 下 で 戦後 開 発 体 制 を始 動 さ せ 、沖 縄 と と も に 内 地 の 55 年 体 制 と は や や 異 質 な 歴 史 を た
ど っ た 北 海 道 は 、 日 本 政 治史 の 未 知 の 主題 を 検 討 す る た め の 好 個 の 研 究 拠 点 と な る 。
帝国研究や欧州統合研究の先端を切り開いてきたように、国民国家の上下層にある政治体への想像力を
涵養するうえで、良質な知的伝統を有する北大の政治学講座ファカルティは理想的な環境にある。すでに
2014 年 4 月 の 着 任 以 来 3 年 目 に 入 り 、先 日 『 全 国 政 治 の 始 動 』 と い う 単 著 も 刊 行 で き た 。 そ の あ と が き に
は「北海道の地で新たに研究したいことは多岐にわたる」と記した。本稿が粗雑な思考整理の開陳にとど
まるかどうかも、筆者の今後の研究で示されることとなろう。いつになるかわからないが、好奇心をたや
さ ず に 史 料 批 判 と 論 文 執 筆を 続 け て い きた い 。
(北海道大学大学院公共政策学連携研究部・法学部 准教授)
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