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ASNET 講義平成 20 年度冬学期「書き直される中国近現代史」 第 11 回(2009.1.14.) 代田智明教授「丁玲の「転向」―女性作家と中国の知識人―」 キーワード:丁玲、中国知識人、権力と知識人 代田先生の講義では、1919 年の五四運動という政治環境の中で成長し、人民共和国期に その作家としての名声を確立した一方で、反右派闘争の中で不遇な人生を送ることになっ た丁玲という女性作家を事例として取り上げ、権力と知識人の関係が考察された。 丁玲の人生を俯瞰した上で言えることは、代田先生によれば、彼女の人生に大きな影響 を与えた事件が以下の 4 つあったということである。①五四運動、②1930 年の左翼作家 聯盟への参加とその後の逮捕、③1942 年に起きた整風運動、④1955~57 年の丁玲批判。 五四運動に共鳴し参加した丁玲は、いとことの婚約を嫌い、上海や北京で学生生活を送 ることになるが、その時期共産党の関係者と交遊関係を持っており、共産党の周辺にはい た。しかし、彼女自身が左翼的な活動を行うのは、1930 年に左翼作家聯盟に参加して以降 のことである。この聯盟への参加には当時同棲(結婚という説も)していた胡也頻が左傾 化したことと関連があるという。彼が 1931 年に逮捕、処刑されて以降、彼女の活動はよ り積極的な活動を行うことになり、1932 年には中国共産党に入党している。翌年には左翼 作家聯盟の党書記となるが、当時の恋人馮達が国民党の特務に逮捕後自供したことにより、 彼女自身も国民党の特務に逮捕され、以後数年間の監禁生活を強いられた。従来の研究は、 この逮捕・監禁を彼女の転向と考えているが、代田先生の見解では、ここでは明確な転向 の声明は出ておらず、題名に挙げた「転向」ではないという。また、馮の軽率な行動とそ のような彼を恋人としたことから丁玲を批判するような見解もあるが、代田先生はその関 係からむしろ彼女の「母性」を見出そうとしている。しかし、いずれにせよ、この事件が 彼女の人生に後々大きな影響を与えることになった。 1936 年には釈放され、その後、共産党統治地区に脱出し、そこでは文芸宣伝活動に従事 した。1941 年には共産党支配地域最大の新聞である『解放日報』文芸副刊の責任編集者と なり、全国文芸界抗敵協会のリーダー的役割を担っていくと同時に、 「霞村にいたとき」な どの問題作を発表していった。 しかし、1942 年に起きた整風運動に彼女も巻き込まれることになる。この危機を彼女は 自己批判という形で乗り切ることはできたが、これは同時に毛沢東の「文芸講話」に追従 することを意味した。 「霞村にいた時」の中で彼女は解放区であるはずの延安に見られる矛 盾を指摘していたが、このような毛沢東の言う「暗黒の暴露」ではなく、それ以後は「光 明の賛美」(肯定的な面を強調すること)、つまり政府への迎合という傾向を強めていくこ とになる。これは彼女の作家として築いてきた個性の喪失でもあった。ここに代田先生は 彼女の「転向」を見出そうとしている。 その後、農村で革命に従事する人々を題材にしてルポルタージュ文学を発表してゆき、 1948 年には土地改革を描いた長編小説「太陽は桑乾河に輝く」を発表、1951 年にはスタ ーリン文学賞二等を受賞し、この作品によって彼女の知名度は世界的なものとなった。作 家としての活躍以外に、丁玲は人民共和国成立後、中央宣伝部文芸処主任、作家協会副主 席や『文芸報』『人民文学』の編集責任者などを歴任した。しかし、1955 年に『文芸報』 の在り方への批判が起こり、彼女自身に批判の矛先が向けられることになった。これに追 ううちをかけたのが 1957 年の反右派闘争であり、以前の国民党に逮捕・監禁されたこと への批判がなされた。これによって彼女は失脚し、労働改造に従事することとなる。 毛沢東の死など文化大革命が終息した後、1979 年に名誉回復が行われたが、最終的な、 そして歴史的な名誉回復は 1984 年まで待たれた。 しかし、その後も彼女は歴史の転換の中で政治闘争に巻き込まれることになる。これは 彼女が改革開放後急激に流入してきた西洋思想への批判をつづった上申書を提出したこと に起因している。彼女は自らの不満を表明したに過ぎなかったが、この上申書はたまたま 保守派が行おうとしていた精神汚染批判キャンペーンの時期直前ということもあり、多く の知識人や改革派から保守派に迎合したと見なされることになった。このキャンペーンは 失敗し、それに参加していたと見なされていた彼女は文壇における立場を悪化させること になった。そのような境遇の中、丁玲は 1986 年に 82 年の生涯を終えることになった。 以上が丁玲の人生である。 それでは彼女の作品にはどのような特徴があったのか。例えば、彼女の名前を広めるこ とになった「ソフィ女士の日記」では女性の赤裸々な感情描写や性的描写などもありセン セーションを巻き起こした。それ以外の作品でも、女性の家庭や社会における立場に関心 を向けたものがあり、ジェンダーに敏感であったことがうかがえる。また作中の女性の目 線を通して、当時の社会批判などを行っていたが、そのような彼女の作品の個性は上述の 整風運動における「転向」を経て失われていくことになる。代田先生は、その理由を彼女 が追い求めていたユートピア的思想に求めている。 「ソフィ女士の日記」でも見られるよう に、彼女はユートピア(理想)がいつか現実と一致することと考えていた。これは個人同 士、そしてより広い範囲では社会と社会の完全な結び付き・理解が可能であると、換言す れば、一つの全体性を持つ社会の可能性を信じていたことを意味する。そのような理想の 中で、彼女は個の主張よりも社会との調和を重視したため、 「転向」していくことになった という。 このような傾向は必ずしも彼女に限ったことではなく、類似した現象は中国の知識人に 多く見られるという。それは知識人の権力への接近である。日本では両者の間にある程度 溝があり、その結びつきは強いものではない一方で、中国では知識人は権力と結びつく、 または接近する傾向があり、権力と距離を取ることが知識人にとっていかに難しいかが、 今回の講義の中で示されている。 【研究のポイント】 代田先生は丁玲の書いた文章から彼女の思想などを読み取っている。その際にはその文 章が書かれた時代状況、彼女を取り巻く環境や人生全体を考慮しながら、行間を読み取ろ うしていると思われる。そのようなスタンスを取ることは、行間からにじみ出ている思想 の解釈を妥当なものと納得させる上で重要なことであろう。 (RA 小池求)