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『うつろな人々』 には二つのエピグラーフがある。 ~一

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『うつろな人々』 には二つのエピグラーフがある。 ~一
田
男
に﹃うつろな人々﹄の中の詩句を求めれば、次に引くも
次に︾冨弓団ho同チΦ○匡Oξについて右と同様
§蹄請ミ恥ミ亀ミ鳴ミミミ§譜
のがそれにあたる。
さ、竃筑ミ亀◎職亮趣ミ犠ミミ§帖メ
な人々﹄の中にこのエピグラーフの言わんとしている意
ぞ
’
ラーフを見れ﹁ば、二つのエピグラーフの持つ類似性と相
そして右に引いた詩句の確認する方向から二つのエピグ
定することから始めなければならない。
て考える場合、.この二つのエピグラ!フの指す方向を決
ロヘ ヘ セ
を持っている。そこで我々°は、 ﹃ううろな人々﹄につい
フは、それが付せられている詩の指す方向に重大な関係
目ゴ①ω酔螺中①匹]βΦp
﹀ω一げΦ,o=o毛臼①昌
く巨①茸ωo巳9げ葺o巳団
幻①日①ヨげ①﹃二ω−崖餌け巴一ーpOけ餌ω一〇ω蝕
芝潔ず島おgo器9εα窪けげ、ωo臣臼囚ぎσq山oヨ
﹄日ケo°。①乏ゲo冨く①oδωω巴
﹃うつろな人々﹄1天堂の予感
つはコンラッドの﹃闇の奥﹄からのζ向ω冨げ閑霞Nーゴ①
﹃うつろな人々﹄には二つのエピグラーフがある。一
山①巴であり、﹂つはガイ・フォークス・デイの祭の費用
秀
である。エリオットの何れの詩においても、エピグラー
を子供達が集めて歩く゜時の︾冨8団ho﹃けげ①○江Ωξ
増
先ずクルツに関するエピグラーフであるが、﹃うつろ
ない。
風
味を表わしている部分を求めるとすれば、次の詩句より
O
66
1
喚
ば、この二つの情熱の結末は性格的に全然逆のものであ
めエピグラーフの持つ共通点である。しかしさらに見れ
何れも或る情熱の結末゜に関するもめである。これが二つ
・ウォークスの死、あるいは焼かれる人形としての死後
とは問題なかろう。それでは曽暮三画日曽×としてのガイ
め死の示すものが、ダンテの世界における地獄で・あるこ
テの世界に求あて見よう。先ずb=日餌×としてのクルッ
ヨ冒阜チ①毒伽奉8ぽ冠ロo①芝ぽ9≦已器凶島曾昌,
日ゲo<Φωユげ巳Φ6島Φロ。げoαΦOh島①類8臣霞δoo犀
される。
によれば、圏外地獄の住人は次のようなものとして規定
・さらに、 ﹃神曲﹄の英訳者、ドいロシ・L・セイヤーズ
く、いかなる分際といへどもその嫉みをうけざるなし
ハ山川丙三郎訳︶
き は
それ彼等には死の望・みなし、その失明の生はいと卑し
人々は、ダンテによれば次のような人々である。
獄であることを拒まれた場所である。そしてそこに住む
り深き地獄﹂との中間にある。つまり圏外地獄とは、地
る。ダンテの世界における圏外地獄は、地獄の門と、﹁よ
る位置は何処に求めたらよいか。それは圏外地獄であ
の生、すなわち﹁うづろな人々﹂めダンテの世界におけ
さて次に6団ヨ餌×とロ暮匡冒餌×とめ指す方向をダン
、
る。うまり﹄方には目を見開いて﹁地獄だ・1 地獄だ!﹂
反性が明らかになる。即ちこの二つのエピグラーフは、
■
と叫びながら死んでいうたクルツ・があり、一方には拷問
に耐えかねて共謀者の名を明かしたガイ・フォークズが
ある。結局、亀二うのエピグラーフの性格は、6=ヨ9。×・と
餌ロニo一巨曽区という風に要約してよかろう。
次に二つの相反する性格のエピグラーフを﹃うつろな
この問題は結局゜﹁うつろな人々﹂を島ヨ9×の側、つま
人々﹄に付けたエリオットの意図が問題になってくる。
りクルツの側に属するものとして考えるのか、それとも
p三一。=ヨ餌×の側、つまりガイ・フォークスの側に属する
ものとして考えるめかという問題になってくるわけであ
るが、最初にクルツに関する’エピグラーラの性格を求め
るために引いた詩句の示すように、﹁うつ・うな人々﹂は、
h直ぐなる視線もて死の他の王国に渡りし人々﹂に対し
て、づまりクルツの代表する人々に対して対照的な関係
つまりガイ・ラォーーク久の側に属するものと考えでよい
67
鼠
にある。となれば﹁うつろな人々﹂はp口暑一凶ヨp×の側、
わけ讐である。
,L ,
H・
を書いた当時の劇的なものに対する態度を見てみよう。
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
に二つの概念をまとめて、エリオットの﹃うつろな人々﹄
七ているのであるが、ここでは先ず劇的なものという風
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
てこで二つのエピグラーフから抽出さ也た悲劇なちびに
喜劇という概念あ、二つが対立的に働いて或る状態を指
﹃うつろな人々﹄の二づのエピグラーフは勿論二つが
﹂緒に働いて或る方向を指しているわけであり、従って
喜劇とである。
いゐ方向を見ればよい。そこには何があるか1悲劇と
κは我々はただ単に。累3ゆ×と。曇剛。=B鋤×との指して
な規定の極限値を求めればよいわけであるが、そのため
こでは我々遺。一営鋤さ餌暮一息ヨ舞という炉わば中間的
Lい老ころから問題窃でてくゐわけではない。つまりこ
れる。しかし勿論、もう一つの側面といっても、全く新
ピグラーフはまたもう一つの側面を持っていると考えら
ロコ胤。届溜ゆ×之いう風に規定し亮のであるが、 二つのエ
漏情熱の結末花っいてのものであるところかち、。一ぎ帥さ
前に二つのエピグラーフの性格を、それらが何れも或
一
・もδ︿⑦昌o﹃8口山①日PまΦop葺団o口ω8≦碧988﹃
一鑑臥葛山・量・号書雫、惹竜身 :二゜
、 ・’ 〆畠﹁’ ..、∵ 旧゜ h ° ㍉ ’
一以上の点から見ると、二﹁うつろな汰々﹂乏侭地獄にさ
え庵受”入れ.疹なか汰達で濁届。そしてエリオットの遣
界では、ブ宴の世堺に存ゑうに﹁歎き、悲しみの
箕.菩選叫喚﹂際驚・遊響く声は次の詩句κ
見られるように﹁静かな﹂ものである。
卜
一九﹁九年に書かれた﹃レトリックと詩劇﹄では、エ
68
、○ロ﹃昔巴ぢ冨。・’≦訂戸⋮
﹁妻⑦箋三呂曾8σq⑦け訂ワ
♪﹁Φ〇三9①コ像ヨ$三5σQげωω
毛゜つー・ケナ’1は﹃うつろな入々﹄第一節の一人称複
数の成員に鋤。ず。墓9。州富量量邑・・二。豊。乱
潟昌漕同尋ロけ。﹃薯。島①肩ω届擬しているが、﹁﹃ギドレ﹁
n獄にさえも行けない、政治家からひを泥r至るまで
〃﹄中のエリ蓄ツト相身の言葉に従えば、このコーラスは
の悪入共﹂からなっている筈である。この詩の第一節は
結局、 ﹁うつろなる人々﹂が﹁直ぐなる視級﹂をもって、
風
,
ノ
ρ
﹁死の他の王国︵すなわち地獄︶に渡って行った人達﹂
」
に送る﹁挨拶﹂と解すればよかろう。
4
r「
眞
加えて﹃コリオレイナス﹄、﹃アセンズのタイモン﹄から
劇﹄ではエリオットは、 ﹃オセ白﹄からの前述の部分に
●
詩劇﹄中の、︾づ匹ぎHゲ曾oユo巴。。唱Φ①o﹃Φωヰoヨ6つげp。犀o,
巴話葺pσq①oh9昌①芝oξΦけ○暮Φoげ舞p9Φが5づ95σq
ぞ①醇o≦三9﹃pくoげΦ①昌o一8負芝①ず磐①チ団ω路Φ8ωωpq
チΦ雪σq一Φ︷︻oヨ≦三。﹃ゴ①<圃Φ甫ωぽヨω①罵という文章
異ったものになっている。そしてさらに見れば、両者に
と、この二つの文章の置かれているコンテクストは全く
一貫性に眼を見はる想いをするわけであるが、よべ見る
右の二つの文章を見る時、我々はエリオットの驚くべき
をつきあわせた上で、十年に近い年月を隔てて書かれた
﹃レトリックと詩劇﹄は、前稿﹃エリオットの出発﹄
恐れるあまり感情告白を警戒し過ぎる傾向に対するいま
しめという形での感情告白弁護と考えられるのである
が、一九二七年に書かれた﹃シェイクスピアとセネカの
ヘ ヘ ヘ ヘ
へ
克己主義﹄では、劇的なものは次のようなものである。
.Hけδけ﹃Φ讐甑ε伍Φoh°。①罵−ロ﹁鋤日9島N卸島o昌器ωニヨ①お
山けるコンテクストの相違は重大な問題を内包している
仲冨σqざぎ8霧ξ:⋮・Hけ︵島①冨ωけ.ω℃Φ①。ゴohO子Φ=Oは
︶ 、劇的なものが、許容さるべきもの︵さらには称揚さ
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ξωo日oo頃ω訂ぎω冨霞①、・。﹃臼o①ω讐ヨoヨΦ箕。。ohのである。というのは、 ﹃レトリックと詩劇﹄において
るべきものとして扱われているのに対して、 ﹃シェイク
凶ω話き=団$ぎ昌o昌冨hp8くpξρ錺①×胃①ω・。ぎσ
q
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
人主義﹂“﹁傲慢という悪徳﹂という風に、評価の上で
﹁自己劇化﹂H﹁美的な態度﹂“﹁ストア主義﹂睡﹁個
チ①σqお雲器ωωぎ山①8讐oh餌ロo匡Φげ三①ほぎαqづpε﹁①・スピアとセネカの克己主義﹄においては、劇的なものは
右に引いた二つの文章は、何れもシェイクスピアの﹃オ
下降するコンテクストにのせられて出てきているのであ
る。.この違いは、前にもちょっと触れたように、 ﹃レト
セロ﹄の最後の台詞に対してエリオットが加えた、いわ
ば註釈とでもいうべきものである90 ︵﹃レ︸リックと詩
69
において見たとおり、リアリズム劇が現実からの逸脱を
=ヨω①罵ヨ母像H四日㊤ユo=σqげけ゜
ぎ巴ε讐δ5ω芝ゲ①お poゴ餌円曽9曾ぎ臣①℃冨団ωΦ①ω ている。︶そして、右に引いた文にさらに﹃レトリックと
も、劇の題名になっている主人公の最後の台詞を引用し
目ゴoお巴ξh冒①﹃﹃Φ8円凶oOhωゴ①閃Φ・。冨費①08母。。
リオットにおける劇的なものは次のようなものである。
へ
ヘ あ
ヘ ヘ
●
リックと詩劇﹄が感情告白の弁護を目的として書かれた
己主義﹄においては、キリスト教の弁護がその目的とな
ものであるのに対して、 ﹃シキイクスピァとセネカの克
っていることからきているのである。そしてそのために
﹃シェイクスピアとセネカの克己主義﹄における﹁自己
劇化﹂の分析は、美学の範囲を逸脱して、﹁個人主義﹂、
﹁傲慢という悪徳﹂という、道徳的、宗教的な判断の基
準を呼び入れてしまったのである。
しかし、右の二つの文章の内包している相違は、単に
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
o暮.と言ってから、 シェイクスピアについて次のように
言っている。
ω8≦。。三ω一〇︿霞゜。日Φ一二口σq38ぎ8訂屋暮ロp8守
⋮⋮ぎ肉蟹ミs§駄.ミ、暗“普Φ胃o剛oロ巳q紆櫛ヨ簿蓉
ωoδ房gωωo出夢①マ凶ωo一p8らω巴くo°・る﹃o芝ω魯oゴロヨ国づ
ωoロ=昌臣Φ.胃08ωωohho胃σq①盛昌瞬凶什ω巴h
の孤立している自己を意識しなくなる状態、人間の魂が
ここに言われている、 ﹁恋人同士が融A口し合い、互い
どに見られる拝情的なイメジとして表われてくるので
異
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ットは、劇的なものそれ自体が持つ超越性に期待をかけ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
ていたのである。しかしこの期待は裏切られた。成程初
の
夕
7Q
劇的なものに対する態度の変化というような言い方では
充分でない根本的な変化であるという点に注意しなけれ
シンス娘の部分、 ﹃なげく少女﹄、﹃前奏曲集﹄の一・部な
自己を忘れていく過程﹂は、詩の中では﹃荒地﹄のヒア
ける範疇の相違だからである。そしてこの範疇の相違
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ばならない。何故なら、両者の相違は、劇的なものにお
は、 ﹁天堂﹂の存在する劇と﹁天堂﹂の存在しない劇、
あるが、いわば天堂の存在する劇への予感として表われ
たこれらのイメジは、直線的に天堂の劇に収敏して行
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
即ち神の介入する劇としない劇、という風に理解するこ
とができよう。
態としで.これを理解していたからである。つまりエリオ
極点、或いは劇的なものによって成就さるべき極限の状
かなかった。というのは、エリオットは、劇的なも.のの
の移行は、いわば空然変異的に行われたものではない。
しかし、天堂の存在しない劇から天堂の存在する劇へ
すでに﹃レトリックと詩劇﹄において天堂の存在する劇
への移行は予告されているのである。すなわち、ここで
エリオットは、妻プΦづ睾団o昌Φ一ω8房90ロωoh三ヨωΦ期
開の﹃プルーフロックの恋歌﹄に代表される一群の詩
●
ユ碧け冒σq”ωoヨ9三⇒σq一凶犀ΦpωΦ房oohピ目〇二ω胃①
−心理学の過重と、 ﹁人間の魂が自己を忘れて行く過
はω、
・。
な実験として﹃荒地﹄を見ることが可能である。即ちそ
唾
程﹂の追求とを巧みに中和した一種の生産的な気分とし
いて、しかも宗教という﹁対象的照応物﹂を必要としな
い超越の方法、即ち劇的なものそれ自体が持つ超越の可
ヘ ヘ ヘ ヘ
へ
能性に対する実験である。
しかし﹃荒地﹄における実験の結果としてでてきたも
へ
のは、劇的なものの衰弱であった。つまり逆に言えぱ劇
的なものは、現代には成立し得ない或る旺盛なものを基
ヘヘ
へ ヘ
ある。そして天堂の劇と天堂不在の劇との分化が充分で
底に持たなければ成立し得ないことが確認されたわけで
るのである。
ないことから﹃荒地﹄における伝達の間接性が生じてく
ところでエリオットの心内の冨誘℃①9写①においてシ
ヘ ヘ ヘ へ
ことができる。すなわち、キリスト教的な視点と、反キ
﹃荒地﹄について考える場合、二つの視点を想定する
リスト教的、或いは無神論的な視点とである。そしてこ
る点に﹃荒地﹄の特徴があるわけである。つまり、キリ
スト教徒は荒地を指して、これはキリスト教の擁護を目
とが確認され、次に﹃オセロ﹄における劇と﹃ロミオと
テとベアトリーチェにおける劇、即ちシェイクスピア的
的とする詩であると言えるし、無神論者はこの詩を指し
の二つの全く相反する視点がいずれも正当さを主張でき
な劇対ダンテ的な劇という風に置き換えられるという変
のの内部における対立が、 ﹃オセロ﹄における劇対ダン
化がエリオットの劇的なものに対する ℃Φ誘冨9署Φ に
ことができるのであり、しかもそのいずれの解釈も正し
て神の不在をテーマにした虚無的な詩であると主張する
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ヘ ヨ ヘ ヘ へ
おいて起っていた筈である。そしてエリオットにおける
いとしか思われないのである。そして二つの解釈が同時
劇的なものが、いわばシェイクスピア的な劇とダンテ的
ジュリエット﹄における劇、即ちシェイクスピア的なも
ミオとジュリエット﹄における劇とが同一線上にないこ
的なものは分化し、先ず﹃オセロ﹄における劇と、 ﹃ロ
ェイクスピアが後退し、それにかわってダンテが大きな
へ
比重を占めてくるのと並行して、エリオットにおける劇
なかったのである。
る成功をおさめたわけである。しかしこれは、エリオッ
トにとってはあくまでも、過渡期における拾い物に過ぎ
的な運動の全体的な方向からみればいわば回り道におけ
の秀れた表現であった。そしてその意味で、エリオット
在する或る種のユーモア﹂によって、エリオット的な劇
の実験とは、宗教という﹁対象的照応物﹂で表現されて
‘
ての﹁人が、自分が演技していることを意識する時に存
8
な劇という劇的な分化を見る前の時期における大がかり・
71
φ
に正当なものとして成立し得るのは、 ﹃荒地﹄において
用かられている伝達の方法が間接的なものだからであ
るゆでは一般に伝達が間接的であるということはどうい
うことなのだろうか。
,伝達が間接的であること、即ち間接的伝達とは、・伝達
がなされる時に、伝達さるべきものに加えて、伝達さる
べきものの信愚性にかかわる多かれ少なかれ場違いな身
の、伝達さるべきものの信愚性にかかわるかかわり方の
振りを含むものであると考えられる。そしてその身振り
解釈によって、伝達さるべきものの解釈の方向も決うて
くるわけである。つまりこの場合、伝達さるべきものの
信愚性に関する判断は、伝達さるべきものそれ自体を見
つめることによってではなく、伝達さるべきものにそえ
て出される身振りを見つめることによって下されるわけ
である。つまるところ、現実の問題として見れば、間接
的伝達とは我々がそれに対する場合、その伝達内容、°或
いは伝達内容と考えられるものに対する我々の判断が個
人的、主観的な反応であることを認めざるを得ないよう
な厄介な代物なのである。しかし間接的伝達の特徴は︵
それが単に二義的であることにとどまらないっすなわち
界像の時代としての現代の把握を前面に押し出した、“そ
合、前稿﹁﹃荒地﹄−世界像め詩﹄におけるように、世
﹃荒地﹄を見たわけである。
してその意味で虚無的な態度を根底に持つものとして
さて﹃荒地﹄が、衰弱の詩であり、旺盛なものの死に
関する詩であること、ならびにその伝達方法の間接性に
ついて見てきたが、ここで劇的なものに戻って、 ﹃うつ
ヘ ロヘ ヘ ヘ へ
うな人々﹄における劇的なものの性質を探ってみよう。
ヘ ヘ ヘ へ
﹃荒地﹄が天堂不在の劇と天堂の劇との分化が行われ
る前に書かれた詩であり、この詩の伝達における間接性
がその為に出てきたものであることは右に見た通りでみ
る。それならば﹃うつろな人々﹄・は、エリオットにおけ
る劇的なものの分化の過程においてどのような位置を占
めているのであろうか。結論から言えば﹃うつろな人々﹄
は完全ではないにしても二つの劇の分化が行われた時期
における作品であると言える。つまりこの詩は、天堂不
在め劇に対する訣別と、天堂の劇に対する挨拶を兼ねた
中間の位置に居る。そしてこの詩の暗さについては批評
,
72
皿
家だちが挙つて指摘するところであるが、 ︵但し、D・
為
それは、意識的に二義的であるが故に、我々に二義のう
覧
ちの一義を選択することを迫るのである。そして私の場
4
噸
中の次の一節は、この位置づけの手がか痴りとなるものを
QΦ﹁o乱o鴇σqoo鼻ωohp同舘毛Φ畠o①乱o﹁σqoo負
ωoh錠器≦Φ胃Φゴニヨ四P≦ず象毒①侮o白二ωけ・びΦ
≦①胃①ピヨp員雪山算6げΦけ8びぎp冨同巴o巴。巴
時期に書かれたものであることからきていると考えられ
る。つまりこの詩にある暗さは、過渡期の暗さなのであ
≦Φ①×⋮ωけHけ﹃啓ロ①8ω醸匪pけ浮臓σqδ藁oh日自。口
妻餌ざ8山。Φ<目臣睾8α。昌g三づσq⋮鉢げ餌ω﹃
.エリオット的な典型の一人としてのクルツの性格に関す
右の文章は、というよりも﹃ボードレール﹄全体が、・
普象三ωσqδ藁置三ω。昌国。詫団ho同紆ヨ富ユop
凶ω=ω8冨。智鴇ho同ω巴く助けδp二二ω巴ωo霞器8ω㊤団
る。そして過渡期に特有の暗さは、つねに失われたもの
の劇に対する憧れ、そしてそれから来る歓びというもの
は全く見られず。苛立ちと悔恨の色彩を強く持ってい
る。
クルツの性格規定に役立つものをとりだして見るとすれ
る註釈をなしているものと考えることができるが、・特に
1ではこの詩の第一節を﹁激烈な魂﹂への挨拶として
解した。つまりこの挨拶は別れの挨拶であったわけであ
であるようにhこの逆説もまた新しい視点を設定するこ
るように、まさに逆説である。ただし逆説がつねにそう
ことが人間の栄光であるとはエリオット自身が言ってい
クルツは、はっきりと悪をなすことによって、地獄に行
った光栄ある人間の典型なのである。しかし地獄に行く
も真実である﹂という一節がそれに当るだろう。つまり
ば、 ﹁地獄に行けることが人問の栄光であるということ
るが、ここでこの﹁激烈な魂﹂即ちエピグラーフのグル
ツによって代表される人々がどのような人々であるのか
を、劇的なものとの関係で考えてみよう。この為には、
へゐ ゐ
ぬ へ ﹃シェイクスピアとセネカの克己主義﹄でエリオットが
﹁美的な態度﹂即ち自己欺隔の大家としてあげているオ
﹁セロの代表する﹁一般に英雄的であると考えられている
人達﹂に対して、クルツによって代表される人達がどの
ような位置にあるのかをみればよい。’﹃ボー下レ!ル﹄
73
この詩もその.例外ではなくて、ほのかに見えてきた天堂
に対する悔恨と苛立ちとに彩られているものであるが、
①凶
さは、この詩が、二つの劇の分化が完全に行われる前の
含んでいると思われる。
‘
E・S・マクスウェルはこの詩を﹁旅立の詩情﹂の詩に
’
属するものとして分類しており、 ﹃聖灰水曜日﹄以後の
︵2︶
一連の詩の先駆をなすものとしている。︶ ここにある暗
●
ばこれは逆説ではなくなるわけである。別の一節を拾っ
言葉がこの場合どんな視点から見られているのかが分れ
なわち、オセロの美的な態度が、倦怠を隠蔽するための
とオセロの差異は次のようなものであることになる。す
とである。さて、以上見てきた点からすれば、クルツ
わち、倦怠と、それからの脱出の試みとし.ての﹁激烈さ﹂
てみるとエリオットは、 ﹁我々は人間である以上悪をな
自己欺隔、つまりボードレールにおけるダンディスムの
とによって作られた逆説である。従って﹁地獄﹂という
すか善をなすかしなければならない﹂といっている。悪
一つの側面をなしていたものであるのに対して、クルツ
ヘ ヘ へ
の激烈さは、倦怠と慰戯の心理学の大家であったパスカ
をなすことは人間であることの証拠として卓越のしるし
なのである。つまりこの場合、エリオットの地獄に向け
ルの見たあらゆる種類の倦怠を知らない・充実、さらには
成就感を持つものであり、従ってクルツは倦怠からの脱
ている視線が捕えているのは、悪をなした結果人間が送
そしでそれからくる成就感なのである。.地獄に憧れると
られる倫理的、宗教的な地獄ではない。それは﹁激烈さ﹂
は慰戯による倦怠からの脱出の挫折の典型であることに
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
でエリオットが新しく発見した天堂不在の劇による超越
なる。つまりクルツは劇的なものが分化する最後の段階
の典型なのであ・る。.
人々﹄でも天堂不在の劇による超越は拒まれている。つ
しかし﹃荒地﹄でもそうであったように、 ﹃うつろな
まりクルツは﹃うつろな人々﹄の中の﹁私達﹂にはなし
得ない超越の典型なのである。 ﹁クルツは死んだ﹂とは
天堂不在の劇が、そしてそれによる超越が死んだという
74
出、即ち超越を果たした典型であるζとになり、オセロ
いう一種の嗜虐趣味は、エリオットのキリスト教に向か
っての態度の表われではなくて、むしろキリスト教と反
対のものに向う姿勢の表われであるとみるζとができる
わけである。しかしエリオットが﹁地獄に行く﹂という
言い方で示した﹁激烈さ﹂への憧れの底にあるものは何
であろうか。それはボードレールが﹁倦怠﹂という言葉
で表わしたものである。つまり倦怠を見据えた、という
よりも倦怠に見据えられたボードレールが、 ﹁この世の
外なら何処でも﹂といったところを、エリオットは、﹁こ
の世の外なら地獄でも﹂と言ったのである。ここでまた
﹃うつろな人々﹄の特徴は、天堂不在の劇が死んだとい
ことなのである。この点から見ると、 ﹃荒地﹄に対する
う認識に始まっている点にある。.そしていわば倦怠の地
P
ーでの二つのエピグラーフの性格規定、即ち。=日9。×と
、
餌茸剛。=ヨpxにはさらに新しい要素が入ってくる。すな
■
しでくる。
つき合わせてみると、
‘
る超越、つまり先回りして言えば天堂の劇による超越に
をp鉱pσq巴oづΦ
ぼα雷筈、ωo甚2犀ぎσqαoB
﹁唯一 の希望﹂の意味ははっきり
重要さがあるわけである。それでは﹃うつろな人々﹄の
Hω犀一涛oけ匪匹
獄である圏外地獄に位置するものとして、別種の劇によ
ついて考えているという点に、エリオットにおける劇的
中ではこの別種の超越の劇としての天堂の劇はどのよう
↓円①日巳ぎσq芝搾げ95号B①゜・ω
﹀けけ﹃oげo口同をゴ①p芝①母①
エット﹄にエリオットが見た﹁人間の魂が自己を忘れ.で
﹁優しき想いにふるえ﹂は、明らかに﹃ロミオとジュリ
閏o同ヨ℃冠岩諾ざぴδパΦpωけoづ9
臣甥臣暮毛o巳畠慰ωω・
Ohα魯跨、ω け 毛 凶 = σ q 汗 匹 口 σ q 畠 o ヨ
せんとせし唇﹂が﹁砕けし石への祈り﹂ に変るという部
行く過程↑の延長線上にあるものである。そして﹁接吻
構造を示している。しかし﹁唯一の希望﹂・との関係で問
分は、後に改めてとりあげることにするが、天堂の劇の
という詩句である。つまりここでは﹁死の他の王.国﹂
題になるのは、 ﹁死の他の王国﹂にてもかくのごときか
﹁優しき想い﹂から﹁祈り﹂への天堂の劇による超越が
ロ地獄、即ち天堂不在の劇による超越の世界に対して、
対立的に考えられていて、しかも﹁かくのごときか﹂と
で問題になるのは、このダンテの﹃天堂﹄におけるイメ
あることは諸家の︸致しで認めるところであるが、ここ
﹃神曲﹄、﹃天堂﹄篇のベアトリーチェと聖者のイメジで
右の詩句の中の﹁悠久の星﹂、﹁八重のバラ﹂がダンテの
○粘ΦB喝蔓 ヨ ① p
↓ゴ①﹃o冨oロぞ
ζ三巳hO一冨8同Oω①
︾ω昏Φ冨6 ① 言 巴 ω 鼠 ㎏
目﹃①o団①ωH$℃℃o霞
ω凶σqず二Φω9二巳Φωω
なものとして示されているであろうか。
なものの分化の過程においてζの詩の占めている位置の
璽
ジが、 ﹁うつろな人々﹂の﹁唯一.の希望﹂として現われ
ている点である。そして次の詩句と右に引いた詩句とを
75
’
いヶ問いがなされているのである。こう見るとこの問い
天堂の劇の系列に属するものとして扱ってきたものは、
劇についてその構造ど性格を探ってみよう。とれまでに
いることが分るが、 ﹁かくのごとき﹂のかくあるあり方
は二つの劇の間の共通点の確認という役割を負わされて
についてみると、 ﹃ロミオとジュリエット﹄についての
﹃荒地﹄のヒアシンス娘の一節などであった。この三つ
・﹃ロミオとジュリエット﹄に関する言及、﹃なげぐ少女﹄
ごとき﹂の内容は何なのか。それは超越である。 つま
言葉の中では恋人同士がお互いの自己を忘れるという点
の内容が何であるかは明かされていない。では﹁かくの
いう問いは、 ﹁優しさ﹂による超越が、激しさによる超
り、 ﹁彼方なる死の他の王国にてもかくのごときか﹂と
てくる恋人達は一、様に不毛な心理と性の国の住人どして
に力点があるわけであるが、エリオット自身の作品に出
からすると、 ﹁唯一の希望﹂という詩句の示しているの
越と同様に有効であるかという問いなのである。この点
心理と性の国を逃れた場で成立つのは、それが回想され
描かれている。そしてエリオットの作品で、恋が不毛な
たものとして語られる場合に限るようである。つまり
は﹁激しさ﹂’による超越、即ち天堂不在の劇による超越
が成立しないという認識に立って、もう一つの超越の可
想された恋というこの形質は、決して偶然のものではな
いるものなのである。そして、F・0・マシスンが頃Φ
﹃なげく少女﹄とヒアシンス娘の場合である。しかし回
の劇の一方が棄てられ、もう一方が選択されたのであ
゜能性としての﹁優しさ﹂による超越、即ち天堂の劇によ
る超越に希望を見出したという状況である。つまり二つ
くて、むしろエリオットにとって本質的な動きに属して
る。
76
︵国=9︶房巴巴8粘凶巳ωoヨΦけ三口σq冒妻三。げ三㎝日ぎ匹
︵3︶
リオットの中に彼が見ていたものはこの回想の恋に始ま
器≦㊦一一器三ω①ヨoけ凶o房。〇三伍おωけと言った時、 エ
の言うようにエリオットのこの動きを﹁休息﹂への憧れ
る一連の動きだったにちがいないのであるが、マシスン
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
さてこれまでエリオットにおける劇的なものを二つの
んで、 ﹃うつろな人々﹄において天堂の劇が選択された
範躊に分け、一方を天堂不在の劇、一方を天堂の劇と呼
の動きに一貫して見られるのは、リアリティの追求であ
﹂
9
と理解するのは、いささか筋違いであろう。エリオット
、
というところまで見てきたわけであるが、ここで天堂の
■
、
■
霊術にはなべて、原罪の痕跡の減少にあるのでなければ
ならない﹂というボードレールの言葉の中の﹁原罪の痕
って、﹁﹁休想﹂φ追求ではないからであ喝。.騰れで遺一:
回想の恋についてのエリオッ︸自身の言葉を﹃ボードレ
跡の減少﹂乏置き換えられ、ま虎﹁調和﹂とは﹃新生﹄
は、.﹁経験﹂を﹁理想的欲求﹂との﹁調和﹂という言い
方と、 ﹁女﹂が﹁象徴﹂であるという言い方は、結局同
うことである。即ち﹁経験﹂と﹁理想的欲求﹂との﹁調
和﹂という言い方は、 ﹁女﹂が象徴になる゜というエリオ
・ト的、あるいはダツあ総造津般的な ・口か方に引
き直したものにすぎないどいうことである冷その次に気
クス♪の確認する範囲で右に拾い出した言葉を補ってみ
方にせよ、方法を含んでいないというこ乏でみる。つま
よ・﹁経験﹂と渥想的欲求﹂との﹁認和﹂圃という言い
付くごとは﹁女﹂が﹁象徴﹂になる之いう言い方にせ
び るとh先ず﹁象微しとしての﹁女﹂はダンテにおけるべ圏
的欲求﹂とが﹁調和﹂°する仕方が示されていないという
り、 ﹁女﹂が﹁象徴﹂になるなゆ方、 ﹁経験﹂ と﹁理想
ことである。 ﹁女﹂が﹁象徴﹂になる方法は別なところ
ア渉りーチユであり﹂ ﹁経験﹂とは﹁天堂﹂の予感とし・
に求められなければならない。そして我々はこの方法を
寝と潭φ坤蕉員嶺嘆. ∼
マ ノロノ ロロ ヒリ ヨ レ
における経験である。次に﹁理想的な欲求﹂とは、 ﹃赤
ての﹁至福の状態﹂と地獄としての虚無という二つの極
欲求﹂との﹁調和﹂に関する部分である﹂。乏てで・コンテ・
としての﹁女﹂に関する部分と、 ﹁経験﹂と﹁理想的な
右の文章の中酒回想,の恋の構造を示す部分岨、.﹄象徴﹂.
゜・
ミ ミ﹀
胃 雪 山 匪Φ
”ミ
o
、ミ h・
=b暁壁§QOoミ鳴魯.
じΦこどを別な言い方で言ったものであるに過ぎないとい
‘号巴鼠島島p﹁Φ冨臨o口゜。ohヨ゜。口p。づα≦o∋ロ。p凶切ま
㍗港﹃蒲。葛。恨。誓o誉ミミ§蔑ミ§鳴防四ω。畑﹃鋤ωチ①団
ロ ロ も く も リド ロ ニ リ ヒ ロロ ヒ コ コ ロ
鼠島甘ω己①巴・鳶巴ω゜↓げΦ゜。o日且ΦヨΦ詳鋤巳チ90
ヒ コド ア ロ ほゴ ロ らサアド ゆ ロ ロ ヒ ロ ヒ
﹁守①魯︸島o唱oぎけo出ゴ碧日〇三旺95σQ三゜。①×噂Φ二魯8えて行ぐわけであるが、ここで先ず第一に気付くこ匙
天堂の劇の構造を右のエリオットの言葉を中心にして考
°ヨ目魯げ①8ωoヨ①o×8暮僧ω図ヨげ9ゲゆロ匡宕け国幣
掴99・。︾餌﹃旨⋮︿Φ昔ニゴ①℃①ハ。慣副。⇒爵8猿。ヨ㊤p さてこれから回想の恋、或いは回想の恋を起点とする
から﹃神曲﹄への移行であるゆ ’
﹂ル﹄からとってみよう。
噂
裸σ心﹄からエリオッ干が右に引いた文章の後で引用し
て硫る﹁本当の文朋乏いう庵の還5冴次や、﹁蒸気や、‘降
77
9
↓﹃①緯葺&ΦohU雪88まohロ民餌BΦ葺巴⑦巻
ル?
的な意味における反復は、等質なものの永劫回帰から
ユ魯80hチ①さき≧ざミ09コ8ζぴ①ロ巳雲ω8
抜巳
、け出そうとする試みとして、等質なものの循環から異
9鋤。2ω8ヨぎσQoξω巴くΦω8h凶a日o睾ぎσqぎ喬質
ミな
ミものを抽出する方法としての意味を持つているので
§霧題話昏臼臣雪ぎoユσqぎω﹂二ω8計Hぴ①幕く①堕 あるが、この等質性からの異質なものの抽出はキェルケ
o昌三ω旨8岱口σq≦謬プしu鶏け﹁画oρげ葺審些①同国ω鋤山①・起点とする純化の過程において行われる。しかし、現実
ゴ=ールにおいてもエリオットにおいても現実め﹁女﹂を
ヨB茸自。。伍①ω自首こo口oh宅ゲ鉾冨、s§逡“o霧督ho
﹁女﹂の役割は起点あるいは契機以上のものではな
ωoユで瓢o⇒oh≦ゲ彗ヨo器﹃o口白即ε器お山⑦。臨oロロ唱の
o昌
置↓ゲΦhぎ巴8房ΦδけずΦβ。け一鑓o匡o口8ミ四こ゜。Oo山゜
い。何故なら、、むし゜ろ最初か・ら現実のh女﹂を離れるこ
も差支えなかったという意味の言い方で表現している。︶
テ﹄の中で、ベアトリーチェはベアトリーチェでなくて
には必要だからである。︵エリオットはこの事゜情を﹃ダン
とが、異質なものの基体としての﹁至福の状態﹂の想起
る言葉はヨ暮葺①﹁①山①。江o昌である。 そして旨象ロお
そして﹁至福の状態﹂が﹁経験﹂として定着されれば次
右め文章め中で﹁女﹂が﹁象徴﹂になる方法を示してい
いう意味であろうし、話山①oけ一〇口は友甥としてめ﹁内省﹂
わば直接性における至福め状態からもう﹂段上の至福の
にはそれを反復あるいは﹁内省﹂する.ことによって、い
は、思春期の情熱を超えたという意味で﹁成熟した﹂と
であろうが、﹃ダンテ﹄め中にはζれに類する言葉が他
の場合、等質なもの、あるいは日常性の中からと゜り出さ
状態に高めるととが必要になってくるわけであるが、こ
にもあって、それはh昇華﹂と﹁再生﹂である。つまり
﹁女﹂が﹁象徴﹂になるとは﹁女﹂が一﹁内省﹂され、そ
れた異質なもめ・としての至福め状態は、等質なものに還
の結果﹁昇華﹂され、﹁再生﹂されるという゜ことなので
のは何かと言えば、それはキェルケゴール的な反復であ
ある。それでは﹁内省﹂、コ昇華L、昌コ再生Lの.指しているも
゜要になうてくる。杢福の状態は、何時でも望みめ時に呼
ると・とによって言わば獲得形質として確保することが必
元されてしまう危険を内包しているから、絶えず反毎す
る。
ニーチェの永劫回帰が等質なものの循環であり、その
,
び戻すこ・とのできるもめでなければ意﹁味がないからであ
D
意味で等質なものの反復・であるとすれ゜ば、キェルケゴー
﹁
恩
一78
,
る。そしてこの至福の状態を呼び戻す時に使われる呪文
最初の﹁沈黙の女﹂は﹃なげく少女﹄における少女の
一6。自O毛けゲΦO霞α①昌
が存在するのである。づまり﹁象徴﹂としての﹁女﹂の
び出す契機としてめ機能を果たすためには、イメジであ
の感情、・エリオットが至福の状態と呼んでいる感情を呼
しかし勿論直接性における至福の状態はそめままでは
゜れば充分なのであって、物を言ってはならないのであ
る。しかし﹃なげく少女﹄においてエリオットが呼びか
彫像と同じ意味を荷っている。契機としての女は、特定
天掌の劇にお゜ける役割を果たしたことにならない。至福
役割は、先ず最初の﹁経験﹂を与えること、次に至福の
の状態が美的な状態であることをやめて、宗教的な状態
るめで、もはや呼びかけという恋文的な要素は全く不必
けた彫像はこの詩では消化し尽されたイメジになってい
対する呼びかけという形で直感されていた永遠の女性の
要なのである。うまり、﹃なげく少女﹄において彫像に
になった時にはじめてエリオット的な意味での﹁経験﹂
わけだからである。しかしここではまず﹁女﹂が﹁象徴﹂
として表現されているわけである。﹁追憶のバラ﹂・と﹁忘
・属性としての沈黙は、ここでは﹁沈黙の女﹂という認識
却のバラ﹂の持つ矛盾もまた同じ方向を指している。﹁沈
黙の女﹂はイメジとして、即ち至福の状態を呼び出す呪
文としては有用であるが、現実の女としては無用なので
右に天堂の劇の構造を示すものとして見たのは前にも
えられる。
前提となっている天堂の劇の構造を示しているものと考
バラLの死が、 ﹁園﹂としての神のもとにあることへの
ヘ ヘ ヘ ヨ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
O巴ヨ9・P山9ω耳OωωO匹
菊O°。Oohヨ①∋o﹁図
ある。同様に﹁力尽きて生命を与うるもの﹂も二本の
いp亀鴇o悟巴①ロ 8 。 ・
一節である。
めて見よう。次に引くのは﹃聖灰水曜月﹄第・二部か・らの
に゜なるというエリオット的な練金術の秘儀を詩の中に求
と﹁理想的欲求﹂・との﹃調和Lは果たされたことになる
状態の﹁象徴﹂となることである。
として、ベアトリーチェ、郎ちエリオットにおけるH且図
●
日O︻P四P侮ヨOωけ≦ゴO一Φ
勾o°。①oh︷9σq⑦窪三昌oωω
↓﹃①亀自ぎσq8肉O°。①
をo員δ山器℃8 ① h 三
79
レ
が、この詩はもともと﹃挨拶﹄と題する独立した詩とし
言ったように﹃聖灰水曜日﹄の第二部からの一節である
て一九二七年に発表ざれたものである。そしてこの﹁挨
拶﹂は勿論ベアトリーチェのダンテに対する挨拶であ
のであるが、ドロシ・L・セイヤーズによればこの﹁挨
り、°この意味でまず二人の出会いの目印としての挨拶な
拶﹂はイタザギ謬では7救済﹂の意味をも持って転紀。
だからこの﹁検拶﹂は救済に対する﹁挨拶﹂でもあるわ
けである。しかし出会いの目印としての挨拶から救済に
対する﹁挨拶﹂へ゜の移行∵即ち美前な経験としての至福の
q智昌≦窪昏8お噺o凶oΦ
の礎を作らざるをえぬが故に﹂への移行が示すものは、ダ
右の﹁振り返ることを望みえぬままに﹂から﹁我が喜び
ンテの﹁新生﹂から﹁神曲﹂への移行にエリオットが見た飛
る﹂という意識的な操作が﹁ねばならぬ﹂という命令を
躍切言わば注釈をなすものと考えてよいであろうが、﹁作
媒介として行われているところに、この飛躍が意志的な
操作である事情が読み乏れるわけである。しかしこれは
理性を否定する理性があるとか、神の待っている場所、
誰も現われない場所に導かれるとかいう、キリスト教の
牛では古典に属する飛躍の体験のエリオット的な表現に
すぎないので、後に﹃腹心の秘書﹄で現力れる人物の趣
﹁歯﹂と結びつけられるというようなことから、天堂の
味の対象である﹁庭﹂が、第一部から引いた詩句の中の
とはできないわけである。というのは、 ﹃聖灰水曜日﹄
劇の飛躍を支えている体験を不純なものときめつけるこ
神を示すものであり、両者は同じ系列に属してはいるも
80
状態かち宗教的居経験としての至福の状態への移行・︵こ
れは右の一節の中の言葉で言えば’二本のバラLから
﹁園﹂への移行ということになるがト︶.は簡単には行
究な鴨をには賛とか飛躍とかいう、’喧嘩の心理
れている質的な相違、隔絶が存在するからである。では
学の用語を移植したような感℃のする二=巳葉で言い表わさ
エリオット的な飛躍を示す個所を同じく﹃聖灰水曜日﹄
の﹁園﹂がいわば往相における神を示しているものであ
のの、はっきり質的な相違を持っているものとして理解
の第一部から拾ってみよう。
bd①o窪ωΦ・Ho雪昌9﹃o冨8ヒ一ロ旨仁。σqロぎ
さるべきだからであるゆいずれにしても右に見た飛躍
るのに対して、 ﹃腹心の秘書﹄の﹁庭﹂は還相における
け三pαq 噛
9
℃。唱器ρロgξご湘惹β言爵σ・け。8場﹃。け・§・・
曹
局
う
る必要があるわけであるが、完成された思想に対するい
は、絶えず客観性を目指し、客観性の方向から修正され
り、これ以上は信念の問題だからという批判の拒絶とと
言葉は、飛躍を示していると同時に個人の署名でもあ
るのである。従って、前に引いた詩句の中の作るという
﹁ただ一度﹂、それも﹁ただ一つの場所﹂に限られてい
れるわけである。
ヘ
ヘ へ
ヘ ヘ
つの劇として、天堂不在の劇、天堂の劇が存在すること
さてエリオットの劇的なものの内部において相戦う二
の署名が言わば思想を信念に成り上らせることのできる
の劇に悲劇、喜劇の概念を振り当てるとすれば、天堂不
についてはこれまでみてきたとおりであるが、この二つ
論そうではない。もっと喜劇的な喜劇がここには存在す
のの中には喜曲でない喜劇は存在しないのかと言えば勿
ヘ へ
ればならないわけである。それならばエリオット的なも
概念の一つの純粋化である﹁喜曲﹂として理解されなけ
ヘ へ
しかし右に見てきた点からすれば天堂の劇は喜劇という
在の劇と悲劇、天堂の劇と喜劇とがそれぞれ結びつく。
唯一の手段なのである。従って、個人の署名は思想の中
代としての現代なのでみる。次に引く﹃聖灰水曜日﹄か
し合い、攻撃し合ってひしめいているのが、世界像の時
個人の署名によってしか確認されない思想が互いに排除
でますます大きな比重を占めてくることになる。そして
個人の責任において保証される必要があるわけで、個人
信念の場が失われているために、その思想の確実さが一
わば署名としての、思想から信念への移行は、飛躍とし
ここでは個人の署名が思想の確実さを保証しうるのは
H話﹂98チ象チぎσqω霞①塁臣①団葭①ー
︾コ匹O昌ζ♂円O昌Φ℃﹃OO
﹀昌伍妻ゴ暮誌poε巴⋮ω⇔9ロ巴o巳団♂﹃OpΦ江ヨ①
﹀昌餌且8①δ巴乏櫛岩9づ山o巳団巳8Φ
しu①OPβω①H評PO妻けゴ鷺臨ヨ①凶ω巴毒簿団ωユヨ①
●
てなされるのである。しかし現代においては、一般的な
うことである。思想は、それが形成されて行く過程で
っくり返して言えば一般的な信念のない時代であるとい
らでもある。そして現代が世界像の時代であるとは、引
行為でなければならないのは、現代が世界像の時代だか
のである。しかしまた飛躍が同時に選択として意志的な
なものなのであり、﹁休息﹂を目当ての回避などではない
は、体験の領域におけるものとして考える限り、現実的
ヘ ヘ へ
レ
らの一節はそういう時代としての現代の把握を示してい
ると思われる。
81
,
るのである。そしてそれは﹃うつろな人々﹄の二つのエ
ビ、グラーヲの内の一つに我々が見た性質、即ち餌口け一。一一−
日鋤×−の喜劇と呼んでよかろう。
︾昌普=8節x の喜劇は.エ”リオット的な弁証法において
重大な役割を果免してい’る。そしてその 特徴は、それ自
体が目的ではなくてむしち或る目的に奉仕する手段であ
る点にある。つまり・雪け凶o=ヨ働×の喜劇は、リアリティ
の追求の過程において、リアリティの真実さ、確実さを
計量する機能を果たすわけであるが、この絶えず目覚φ
ている反省的な意識のリアリティを計量する仕‘方は特殊
なものである。しかし特殊であるとは.言・っても、この計
量の仕方’の基゜本的な態度は古典的なものに属する。つま
り、リアリティの確認゜の役目を負わされているこの反省
的な意識の採わている方法も、二一ーチェの場合における
と向じく懐疑であり、破壊なのである。しかし一〒ーチェ
における鉄鎚乏レての懐疑はhエ’リオ’ットにおいてはお
よそ鉄鎚ちしからぬ懐疑になってい、る。エ・リオットにお
ける鉄鎚な、二﹁チェ一の物に愚かれたような偶像破壊の
過程における鉄鎚乏覧は建うがhしかしその破壊力におい
て.二’i、チェの鉄鎚に劣らぬ轟も・の、即ち笑いなのであるめ
そ.レてζの‘笑いはベル’クソシのh一白う既価め笑’いであ・る・
てその意味で安全な笑いというものは存在し‘ない.から﹁
こ一の笑いにはβ﹃うっ・うなム々﹄°の最後に置゜かhれている
≦三日娼①昂の要素が入ってくるゆそして土・リオットが天堂曹
一・の超越め劇乏゜し冒て善曲としての天堂の劇を選ばざるを
不在の劇に憧れつ.つそれに身を委ねることができずh唯
えなかちた,事情には、こ・のp昌江巳凶日帥ぢの劇が搦ん’でい
ると思おれる。喜曲としての天堂の劇の方がh絶えず真
へ あ
のリアリティに向ってエ’リオットを駆り立てる p葺凶。一凶−
ある8。
日碧の劇を満足させる要素をより多く含んでいたので
V’
これま.で、三つのエピグ﹁一71−フの性質を見るζとから
囎沸め・て﹃うつろな人々、﹄の中に含ま・れ.る要素を劇的な
ヘ ヘ へ
ものとφ関連からとりあげて、天堂不在の劇h天堂の劇﹁
鋤昌鉱。一一日鋤×の劇と規定したが、これだけではこの詩に出
てくる総て、の要素を出しつくしたヒとにならない。それ
ではもう一るの要素老レて何が考えられるかと言えば、
それは悲歌の要素であるゆそしてこれは前にも二寸触れ
たように、ζの詩が天堂不在の劇と天掌の劇との中間に
?
位置し・ていることからきて・い、る。例えば次の詩句は﹃う
噛
が”、蕪リ牙︾ト・釣な意味では,、自分を棚に上げた、そし・
■
82⋮
レ
、
HO餌POO旨づ①9
﹃荒地﹄にあったのと同
Zo島ぎαq≦凶チロo島ぎぴQ°
..○昌]≦ロ﹃σq雲①ωpづ島゜
.切9≦①o昌島o℃08琴団
︾昌α臣①ω冨ωヨ
]≦団唱8皿①7ニヨ匡①℃8且o≦ゴo①巷①g
月8げ3ぎp穿σqΦB輩。・。h貸蔓訂巳。。・
三〇チぎαq㌔、
右の詩句は﹃荒地﹄第三部からのものであるが、 ﹁うつ
のであることは一目して知れよう。ζの詩の第一部は、
ろな人々﹂がこの﹁心の貧しい人々﹂の系列に属するも
き﹂貧しさと衰弱の国の住人の、激しく、そしてその故
に豊かな天堂不在の劇による超越を果たした人々に送
結局、 ﹁いかなる分際と言へどもその嫉みをうけざるな
る、嫉みをこめた挨拶なのである。
ているこの癒し難い分裂は、天堂不在の劇による超越が
これで﹃うつろな人々﹄に出てくる要素は一応出揃っ
果たせないことからきているのである。
ある。次の一節は言わば怯者の偽装を示している。ガイ
第二部は﹁怯者﹂としての﹁うつろな人々﹂の描写で
い㊦け日①巴ωO≦ΦP﹁
・フォークスのテーマである。
たわけであるが、最後に第一部から第五部までについ
存在﹂↓﹁本質と現象﹂その他総てのものの間に影を落し
はオセロに対するエリオットの態度を見る。 ﹁潜勢力と
﹁欲望゜と痙攣との間に影が落ちる﹂という詩句に、我々
閏巴一ωけゴOωプ餌侮O≦
﹂諺昌αけ﹃O山①ωo①口け
切Oけ≦①①βけ﹃ΦOωω①PO①
﹀昌匹けげ¢Φ×一ω8昌OΦ
X≦ΦΦ昌けげO山①ωマΦ
くる嘆巷を示している。 じ衰弱、同じ貧しさである。
つろな人々﹂が二つの劇の中間に位置していることから 人々﹂を取り巻いているのは、
4
て、右の四つの要素がどのような均衡をなして存在して
いるかを見てみよう。まず第一部であるが、これは前に
の地獄の住人に送る﹁挨拶﹂である。そして﹁うつろな
も言ったように、圏外地獄の住人である﹁うつろな人々﹂
83
しd
脅゜
7
寓9⑦爵笹ω8ロ①一ヨ9。σqΦω
勾p。け、煩 B鼻遭。壽匠p。δω。・Φ山の仲9。︿①ω
留号仙。与①起8農σq庶ωΦω ゜・
日炉Φωξ℃=8まpoh⇔号僧匹ヨ睾、ω冨巳
諺8鑓⋮ωΦ斜ぽおチΦ同器。色く①
﹁居並ぶ石像﹂は複数であり、個人の署名しか確認でき
q昌山9序①け鼠昌匡①ohp討匹ぎσqωけ霞’
H⇒o臨Φ匡・
しuΦゴ9︿ぎσq霧昏Φ≦ぎ侮訂ゴp︿①ω
D鴇E.S.マクスウ・エルは右の詩句を指して﹂#°話−
星﹂は、土ハ通の信念の場としての神であろう。前の神は
︿①巴ω匪Φ呂Φ算①㌦ωユ①ω一お80くoこ゜・b三ε巴号゜ぼ8 ない世界像の乱立を示していると思われる。 ﹁薄れゆく
いるわけである。﹂そしてこの場合、 ﹁うつろな人々﹂の
と言ってい届。決断の不在からくる超越の不在を言って
の国﹂が描かれているわけである沖そしてこの一節に続
さ﹂による超越、即ち天堂の劇による超越の有効さを確
くのが、前にみた﹁激しさ﹂による超越に対する﹁優し
すでになく後の神はまだこない中間の時代乏しての﹁死
クルツに代表される天堂不在の劇による超越を果たした
怯者としての自覚億何処からくるのかと言えば、勿論、
人々に対する劣等感からなのである。従って第二部の最
山o日における﹁究極の出会い﹂とは、天堂不在の劇によ
第四部では、これも前に見た通り、天堂の劇が﹁唯一
後のZoけ芸讐臣P包ヨ①①二昌σq\H5臣①け鼠=σq窪犀ぎσQ
認−
する一節である。
の一節は、 ﹃荒地﹄にあったのと同じ伝達の挫折を示し
の希望﹂として提出されるが、その前に置かれている次
ヘ ヘ へ
る超越であり、、﹁究極の出会いを願わず﹂とは、天堂不
諺昌島o︿o己゜。冨Φoげ
ぐくoσqδ℃08σq①夢臼
ぎ件窪ω冨ωけoh弓Φoけぎσq℃一98ω
ている。
在の劇による超越の拒否、或いはむしろそれに拒まれて
いることの表明ととれるわけである。
る。°
第三部は世界像の時代としての現代の把握を示してい
’↓=ω凶ωけ﹃Φ山①p山﹃昌山
84
.09チ臼巴oP島ぢげ890hgoεヨ崔ユ︿臼
い
↓迂ω彷$。εo冨巳
娼
4
し
﹁言葉を避ける﹂のは、言葉が何も伝達しないからであ
この川を渡らなければ地獄に入ったことにならないので
る。また﹁川﹂はダンテのアケロンテの川であろうが、
ある。互いに﹁眼﹂を奪われたものとして﹁探り合う﹂
’
怯者の群のイメジは、非常に虚無的な雰囲気を持ってい
る。悲歌の要素をここにも見てよかろう。
第五部では最初に童謡のもじりが出てくる。
きミ塁恥題、§ミ 駄 ミ 恥 博 識 審 貯 、 鳴 魯 、
ミ特瀞身、恥犠、︾ 蔑 q 神 骨 辱 鳴 犠 、
導鳶ミ恥題§§“ミ鳴旨識審骨、鳴匙、
ミ喬ミ。.。§ミミミ§ミミ鑓
﹁まわる﹂は等質なものの循環、永劫回帰を示してい
る。無邪気な子供の歌にこの最も虚無的な世界観、即ち
﹁サボテン﹂を結び合わせたところにエリオット的なユ
ーモアがある。 ﹀昌旨=ヨ四×の喜劇のいたずらである。
しかし遊戯の中に虚無を見てとるのはパスカル的な感性
の働きでもある。だからして次に続く悲歌の一節の前置
きとしてこの戯れ歌が置かれているわけである。次の一
節は天堂不在の劇による超越が成立しないことに対する
恨みを示している。
ω9≦①①ロけゲ①凱①弾
名の意味にとれるし、大文字の﹁王国﹂は、共通の信念
の言葉にこめたことも考えられなくはないので、そう見
れば大文字の目三昌oは、世界像を成立させる個人の署
の仕方からすれば、彼がそのようなもう一つの意味をこ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
である。エリオットの世界像の時代としての現代の把握
る﹂のは、 ﹁王国がお前のものだ﹂からだとも読めるの
り、 ﹁観念と実在﹂、 ﹁発動と行為﹂の間に’﹁影が落ち
は、分裂の理由を語る言葉ととれないことはない。つま
かしこの﹁それ御国は主のものなればなり﹂という言葉
ラスによる合の手のようなものであると考えられる。し
るが、この詩句のここで果している役割は、言わぱコー
御国は主のものなればなり﹂は、祈薦書からの引用であ
せないことからくる分裂である。後に続いている﹁それ
ここに示されているのは、前に見たように、超越を果た
、ミ§§恥跨、ミきざ冠§
閃9ρ=ωけゴ①ωげ餌侮O宅
︾P傷けゴΦ薗Oけ
じdΦけ毒①①Pけゴ①ヨOユOP
︾⇒山けゴ①同Φ巴謬団
、
の場のない現代における唯一の確実なものとしての世界
85
卜
像ととれるからである。少くとも死刊台上のガイ・フォ
ークスのイメジと合せて、そういう読み方をすることも
可能であろう。
最後は碧ユ。=ヨ。・×の喜劇の勝利である。 ﹃うつろな
人々﹄では天堂不在の劇による超越は最後まで成立しな
註ω
O言ωω剛oωy℃°Ooり゜ 馳 ゜ ;
∪餌三ρ,↓書,b㍉ミミ.Oo§恥昌﹂ ︵6ぴ①℃雪αq巳コ
U・国・ω・H≦契≦①芦↓ミ始ミ、送ミ圃り蛸軌&︵HO2︶u℃°
お刈゜
n切qン℃°一〇〇°、 . . . .
男ρζ鋤茸三窃ω①P甘ミム6ミ鰍竃惹§、馬雪野辺魁ミ
O﹃ω巴8︶”℃.b⊃oQ°
86
∪鋤コ停ρ ↓譜b凡ミ蕊6も§馬昌 ﹂︵日ぴσ ℃o誹σq二ぎ
’
かった。しかし﹃うつろな人々﹄においてはっきりした
閭ソOγで℃.H①戯∼]①9
(困
(2)
(3)
(4)
(5)
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==σqび 囚①⇒口①♪ ↓専侮き註恥き、恥、oミ、 雪゜り輿㌧ミ
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構造を持つものとして自覚された天堂の劇は、 ﹃聖灰水
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曜日﹄で、いわば獲得形質としての﹁高い夢﹂として定
着される。
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