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2007年11月11日発行 - 韓国・朝鮮人元BC級戦犯者に補償を

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2007年11月11日発行 - 韓国・朝鮮人元BC級戦犯者に補償を
韓国・ 朝鮮人元 BC級 戦犯者
「 同 進 会 」 を応 援 す る 会 通 信
NO.4 20071■ 11月 11日 発 子
:イ
■回・ 朝鮮人 BC級 職犯者同■、
日韓共同 シ ンポジウム■籠
日時
:2007年 12月
8日
(土 )10時
∼
17時
:
(9時 半開易
会場 :韓 国 YMCAア ジア青少年 セ ン ター 9F国 際 ホ ール
(千 代田区猿楽町 2-卜 5 曽03-3233-0611)
来 日予 定 者
金 珠 八 (元
BC級 戦 犯 者 )
姜 道 元 (故 姜 泰 協 氏 遺 族 、韓 国遺 族 会 会 長 )
下 光 深 (故 下鐘 ヂ 氏 遺 族 )
朴 粉 子 (故 朴 栄 祖 氏 遺 族 )
李世 日 (日 帝強 占下強制動員被害真相究明委員会主席調査官)
金銀植 (太 平洋戦争被害者補償推進協議会事務局長 )
プ ロ グ ラ ム (予 定)
10∼ 12時
●「韓国人 BC級 戦犯問題 の現在」(内 海愛子)
●「私たちの歩んできた戦後 I」 (李 鶴来 。金珠人 0姜 泰協)
●「韓国真相糾明委員会調査報告」(李 世 日)
13∼ 17時
同進会 2世 会)
●「私たちの歩んできだ戦後 Ⅱ」(韓 国遺族会 。
●「韓国 の過去史精算運動 の中での BC級 戦犯者問題」(金 銀値)
●「韓国人 BC級 戦犯・ 遺族 の法的諸問題」(今 村嗣夫)
●「政治的解決 の可能性 について」(国 会議員)
●「資料調査・研究の課題 を考える」etc
●「問題解決 の課題を考える」
■参 加 費 1,000円 (学 生 500円 )*同 時通訳付
終了後 2Fレ ス トランにて レセプシ ョン。会費 3000円 (学 生 2000円 )
主催 :「 韓国人 BC級 戦犯者問題・日韓共同 シンポジウム」実行委員会
共催 :同 進会、韓国 BC級 戦犯者遺族会、同進会 を応援する会
日韓共 同シンポジウム 開催 にあたつて
内海愛子
日本軍 の戦争犯罪 を裁 く法廷 で朝鮮人 をさばけるのだろ うか。
敗戦後、 アジア各地で 開かれたアメ リカやイギ リスや オース トラリアやオランダによ
る日本軍 の戦争犯罪を裁 く軍事法廷は、朝鮮人を 「日本人」 として裁 いた。朝鮮人 もまた
天皇の軍隊 の一員 だ った との理由である。
朝鮮人 148人 が戦犯 とな り、23人 が刑 死 した。軍事法廷 は、何 を、誰 を、どの よ うな
理由で裁 いたのか。 こ うした疑問へ の答 えもないままに、韓国では、戦犯 とその遺族 に対
して対 日協力者・親 日派 として厳 しい眼が注がれてきた。 日本 の強制 占領に協力 した者 と
い うので ある。 日帝時代 の軍事動員 について韓国内で冷静 に議論するには、解放後 の韓国
の道 の りはあま りにもけわ しか つた。アメ リカ軍政、統一運動 の弾圧、南北分断、朝鮮戦
争、軍事独裁政権、民主化闘争など、その厳 しい道 の りの 中で、「 日帝協力」 の真相糾明
・
「戦争犯罪人」 との呼称 か ら元朝鮮人戦犯 たちは 「日帝
はな され なか つた。その 中で も、
に協力 した犯罪者」 とみなされて、家族 ともども厳 しい試練 に さらされてきた のである。
2006年 、韓国の強制 占領下 日帝強制動員被害真相糾明委員会は、戦犯 もまた強制動員
の被害者 であると認定 した。戦後 60年 をへ てよ うや く、 日本軍 の強制動員、戦争裁判 の
あ り方をふまえた 「元 BC級 戦犯」へ の検証 がな されたのである。 これを機に韓国で 「韓
国元 BC級 戦犯者遺族会」が発足 した。遺族 たちがお互いに連絡を取 り合い、顔 を合わせ、
ひ とり、心に しまってきた苦 しみを分 かち合 うべ く集 ったのである。
韓国 の遺族 とそれ を可能に した真相糾明委員会 の委員、支援者 をむかえて、 日本 と韓
国の元戦犯 とその遺族 が話 しあい、BC級 戦犯者問題に関す る日韓 の研 究や調査 の結果を
総合的 に検証す る、初 の 日韓共同シンポジ ウムを開催す る。
12月 8日 、アジア太平洋戦争 のは じまった 日に、 日帝下で 「3.1独 立宣言」 が 出さ
れた東京 の 「在 日本韓国人 YMCAア ジア青少年 センター」で、日本 と韓国の遺族 が初 め
てのお互いの過去 と現在 を語 り合 うシンポジ ウムに、ぜひご参加 くだ さい。
(日 韓共同シンポジウム実行委員長)
連続 セミナー、成功裡 に終 了
在 日韓人歴史資料館 の韓国・朝鮮人 BC級 戦犯者問題 の企画展示に併せて、7月 より5回 にわた り連続 セ ミ
ナー を開催 してきま したが、のべ で 200人 以上の方に ご参加 いただき、先 日成功裡 に終了 しま した。第 1回
は李鶴来 さんに、第 2回 は内海愛子 さんにお話いただき、その内容は『 通信』NO.3で ご報告 しま したが、今
回は、第 3∼ 5回 のお話を紹介 いた します。
なお、資料館 での展示は 12月 27日 (木 )で 終了にな ります。 まだご覧になつていない方は、お早めにお
越 しください。 (港 区南麻布 1-7-32 韓国中央会館男1館 3F 最寄駅 「麻布十番」)
第 5回 セ ミナ ー 講演要 旨 (2007.10_21)
二世・家族が語 る韓 口・朝鮮 人 BC級 戦犯者問題
尊敬する父・朴昌浩の息子 として
朴 昌浩 (パ ク・ チ ャ ンホ)さ んプ ロフ ィール
;来詫
本卜
共 (同 進会副会長
)
: 1921年 、韓 国全羅南道光陽郡 生 まれ。 ジ ャ ワ存虜収容所
お よび 抑留所 にて勤務。 ジ ャカル タにお けるオ ラ ンダ裁判 で 15年 の判決 を受 ける。 ス ガモプ リズン収監 中、
日本政府 に補償 を求 め 出所拒否 の ハ ンス トを行 う。 1955年 釈放。 1991年 逝去。
仲 間 を大切 に した父 親 た ち
父親 の後姿 を見 て きて 、私 が大事 に してい るの は 、
は 、小学校
4年 の ときにお じさんの長男 の吉秋 と一
緒 にバ イ クに乗せ て も らい 、 バ ッ トを買 つて も らっ
仲 間 を非常 に大事 に していた こと。 うちは本 当に、
た。韓 国 に帰国 し条理裁判 の原告 ともな ったパ ク・
集会所 の よ うに 、よ くお じさんた ちが集 ま つていた。
ユ ンサ ン (朴 允 商 )さ んには 、中学校 にあが る とき
お かげでお じさんた ち の誰 が 誰 で あ るか、大体分 か
自転車 を買 つて も らつ た。 自分 の子供 と同 じよ うな
る。 これ は父親残 して くれ た ものだ と思 つてい る。
気持 ちがお じさんた ちにあ つ た の だ と思 う。
昔 、東京 商銀 とい う在 日の金 融機 関 に勤 めて い た
ときに、同 じ在 日の金 融機 関 のチー ム との 野球 の 試
イ・ ソン グ ン さん の 思 い 出
合 で神奈川 県 の追浜 に行 つた。 手 を振 る人 がい る の
い ろ い ろな思 い 出 が あ るが、イ・ ソングン (李 善
で 見 て み る と、 同進会 の二代 目の会長 だ つ た。店 を
根 )さ ん の こ とを話 したい。 同 じ田無 住宅 に住 んで
借 り切 つて メ ンバー 全員 に飲 み食 い させ て くれ た。
い たが、奥 さんに続 き、一 人息子 とも死別 して しま
「パ ク・ チ ャ ンホ (朴 昌浩 )の 息子 がい る のに 、 そ
の まま返す わ けにいか ない だ ろ う」 とい うこ とだ つ
つた。 出身 が 北朝鮮 で 、 ま っ た くの独 りにな った。
た。
他 の人 か ら見た らど うか分 か らな いが 、私 た ちはお
小学校入学 の 時 は、イ 。ハ ンネ (李 鶴 来 )さ ん が
じさん を家族 の よ うに思 い 大事 に して きた。私 の子
靴 を買 つて くれ た。 小 学校 の校 門 で写 した写真 が残
供 た ち も、「 うちはハ ラボ ジ (お じい さん)が
ってい る。 キ ム・ ワングン (金 完根 )の お じさんに
と言 つていた。
3人 」
年 に釈放 され るが、 1954年 12月 には 出所拒否 を し
た。 生 活 の保 障 がない まま釈 放 され て 、仲 間た ちが
非 常 に苦 労 して い る。 出所拒否 は、 自分 だ けではな
く仲間 の こ とも考 えての行動 だ つ た と私 は思 つてい
る。 父 を尊敬す る点 だ。
父親 と同 じ気 持 ち を持 ち つ つ 行 動 した い
他 の二 世 もみ んな同 じだ と思 うが 、や は り実行 し
父 の 日に 、女房 と長 女 がお じさん にプ レゼ ン トを
な けれ ば い けな い。私 は も し立 法 が 実現 で きなか っ
持 つて訪 ねた。 お じさんの好 きなタバ コだ。 そ の 次
た りした場合 、 二 世 が ど うにかす る、 い ざ とな つ た
の 日に、「お じさんが元気な うちはいい けれ ど、毎 日
ら自分 はや る、 と言 つ て きた。 李会長や ワングンの
一 回誰 か顔 を出そ う」とい う話 を した。そ のわずか 3
お じさんには 「当事者 の気持 ちをわか つて な い 」 と
日後 に、女房 がお じさんの倒 れ てい る ところを発 見
よ く怒 られ たが 、父親 の子供 だか ら、 この 父親 の無
した。救急車 をす ぐ手配 して 、 ワングン (金 完根 )
念 さが無念 の ままで終 わ るのか 、 あ る程度理 解 を し
の お じさん とお ば さんが駆 けつ けて くれ た。そ して 9
て も らえるのか 、同 じ気持 ちでや っ て い る。
日目に ワングンのお じさん とお ば さん、私 の母親 と
1998年 、私 は同 じ田無 に住 んでい る友人 た ち と、
支援す る会 の小塩 さん と奥 さん とで、み とどけた。
この 問題 につい ての写 真展 をや つた。 一 箇所 はギ ャ
1997年 8月 22日 だ つた。
ラ リー 、 も う一 箇所 は公 民館 を借 りて、今村 嗣夫弁
そ の あ と、お通夜・葬式 を二 世含 めてお じさんたち
護 団長 、李鶴 来 さん 、金完根 さん、内海 愛子先 生 、
の 協力 の なかで行 い 、 10月 10日 、韓国 の 「望郷 の
丘 」一 ‐ 祖国 に帰れ なか った 人 の た め の墓 地―― に
NHKの 桜井均 さんに来 て話 を して も らっ た。 ど う
私 とワ ングンの お じさん と吉秋 と 3人 で行 つた。韓
それ は 、 日本 の 政府 とは違 っ て一般 国民 の 人 た ち の
国 では ピ ョン・ グ ァ ンス (下 光沫 )さ ん 、 パ ク・ プ
中 には 、戦争 で父親 た ちが受 けた悲痛 さとい うもの
ンジ ャ (朴 粉子 )さ ん も来 て くれ た。 み ん なに送 ら
を共感 できる人 がいた とい うこ とではな いか。
れ て逝 つ たお じさんは 、 ある意 味で は幸せ だ つ た の
か も しれ な い。
してそ うい う友人 た ちが 一 緒 にや って くれ たのか。
父親 た ち の 姿 を見 て きた者 として、父親 た ち当事
者 の体験 を もつ と深 く理解 し、検証 を重ね なが ら、
二 世や ほかの方 の協力 も得 なが らや ってい きた い。
出所 拒 否 を闘 つ た父
私 の父が 亡 くな って ち ょ うど 16年 経 つ。歳 だ けは
父 が亡 くな っ た 67に 近 づい てい る。 しか し、父 には
まだまだ追 いつ けな い。
自分 の生 まれ た と こ ろか ら無理 や り戦争 にか りだ
され た父親 た ち。 父 も、野 田部 隊や ジ ャ ワにいた と
き、脱 走 を したか つたそ うだ。 しか し、祖 国に い る
自分 の 父親 、母親 が何 を され るかわか らな い と考 え
る と、それ はで きなか った。 そ してオ ラン ダ の裁 判
で戦犯 とな っ た。死刑判決 か ら 15年 の刑 に減刑 にな
っ たが 、抑留所 に い たオ ラ ン ダ の 女性 たち の嘆願 が
あ つたそ うだ。 そ のあ と巣鴨プ リズ ンに来 て 、 1955
父・ 金完根 の歩んできた道
金完根 (キ ム・ ワングン)さ んプ ロフ ィール
収容所勤務。 1946年 、イ ギ リス裁判 で
畠谷 吉秋
: 1922年 、韓 国全羅北道完州郡生 まれ 。 ジ ャ フ存虜
10年 の判決 を受 け る。 1952年 釈放。 国家補償裁判 の原告 の一
人。 2004年 に脳梗塞 で倒れ 、現在特別養護 老人 ホー ム に入 所 中。
9年 前 に父 に頼 み、 自分 の生 きて きた半生 を思
うままに書 いて も らつた。 A4で 8枚 。戦争 が 終
の 巡査 が 来 て 、「ど う して も行 かないな ら配給切
わ つて釈放 され るまで の ことだ。実 はそ の後 の話
しよ うと参加 した。 望 んだのではな く、強制的 に
が 面 白いの だが 、次 を書 くよ と言 つてい た時に倒
連れ て行 かれ た こ とは明 らかだ。
る」 と脅 しを受 けた。それ で 契約 の 2年 だ け我慢
れ て しま つた。 この 手記 と私 が 見聞 き してい るこ
1942年 7月 に、全州 の町 にある神社 に、そ の辺
とを合 わせ 、話 を させ て い ただ く。 (韓 国 にい る
の若者総勢 200人 が集 ま り、それ か ら釜 山 の野 口
妹 の娘 さんが描 いた 肖像画 を紹介 )
部 隊 (釜 山西面臨時教育隊 )に 入隊 した。 そ こで
約 2ヶ 月軍事訓練 を受 けたあ と、ジ ャ ワの ジ ャカ
父 の 生 い立 ち
父・ 金完根 は、 1922年 6月 23日 、韓 国全羅 北
ル タヘ 移 され 、 ここで存虜収容所 の監視員 の生活
が始 ま る。
道完州郡 雨 田面太 平里 とい うと ころで生 まれ た。
非常 に貧 乏だ っ た。父 は 9歳 の ときに、や つ と村
のキ リス ト教会 の 日曜学校 に入 学 した。 そ こでは 、
捕 虜 監視 員 と して
ジ ャ ワか ら今度 は ス ラバ ヤ に移 り、それ か らハ
公 立 学校 で 教 えて くれ る の と同 じ科 目を韓 国語
ル ク島 に行 く。 ハ ル ク島では飛行場建設。 そ の 時
で教 えて くれ た い う。11歳 で 日曜学校 の 3年 生 を
に、バ ンブー 森 と呼 ばれ 存虜や 監視員 に対 しひ ど
卒業。 そ の あ と、何 とかお金 の正 面 を して もらつ
い虐待 を した森曹長 に 出会 う。父 は契約 の 2年 が
て小 学校 へ 通 つ た。
過 ぎた時、 も う帰 して ほ しい と森曹長 にお願 い に
しか し、そ こでは授業 はす べ て 日本語 、 皇国 臣
民 の誓詞 を暗誦 させ られ 、皇居遥拝や神社参拝 な
行 つた。す る と 「戦争 中 に何 を言 うか」 と、剣 な
どを 吊 るす 革 ベ ル トで い や とい うほ ど殴 られ た
ど、朝鮮教育令 、教育勅語 に基 いて忠良な る 日本
そ うだ。 身体 中 に蛇 が走 った よ うな傷跡 が残 つ た
国民 に育 て上 げ る教育が され、韓 国 の歴 史 な どは
とい う。
排 除 され た。朝鮮語 の本 を学校 に持 つて 来 い と言
1944年 の春 頃 にバ タ ビアヘ戻 り、抑留所勤務 を
われ持 って い った ら、全部焼 き払 われ たそ うだ。
す る。 そ こで朴来洪 さん のお父 さんで ある朴 昌浩
小学校 を出てか らは、雑 貨店 の店員 、町 工場 の工
さん と出会 ってい る。抑留所 へ 野菜や果物 を トラ
員 な どを して 、家計 を助 けた。 4人 兄弟 で 、姉 と
妹 2人 がい る。男 は父 1人 な ので 、す べ て家 の こ
ックで運ぶ仕事 を一緒 に していたそ うだ。そ の後
父 は ス ラバ ヤ の憲兵 隊で事務 の仕事 を し、そ こで
とをみ な けれ ば い けなか った。
終戦 を迎 えた。
1942年 、 ち ょ うど父 が 20歳 の時 に、捕虜監視
なぜ戦犯 にな つた のか 、それ はハ ル ク島でお こ
員 の募集 、実 は強制徴用 がは じまつた。最初 は朝
つ た ある事件 が き つか けだ とい う。存虜監視員 を
鮮 人 の村長 が来 て行 くよ う話 しが あ つたが 、父 は
や つ て い た父 の親友 が 自殺 を した。 そ の葬儀 の際、
長男 で もあ り断 つ た。 3回 目には、 と うと う 日本
棺 が 前 を通 る時 には敬 礼 をす るよ う命令 を して
刑期満 了 とな り外 国人登録証 を作 るよ う川崎市
か ら指示 があつた。刑務所 で 日本 の軍人 か ら日本
政 府 は ちゃん と故 国 に 帰 して くれ る と聞 い て い
たので 、 さあ これ でい よい よ帰れ る、 と元村 さん
を訪 ね た ところ、そんな話 は何 もな い と言 われ た。
外務省 に も行 つたが 、 と りあ つて もらえな い。 そ
こで と りあえず は 日本 で住 ま ざるをえず 、定職 を
探 した。
い た。 しか し、気 が つ くと一 人 のイ ギ リス人将校
品川 の進駐 軍 の補給 司令部 で洗 濯 の仕事 を した。
が敬 礼 を して い なか つた とい う。親友 の葬儀 だ つ
ここでは 門間み つ さん と出会 ってい る。み つ さん
た ので父 は非常 に怒 り、そ のイ ギ リス人将校 ピ ッ
は一 緒 に働 い てい た父 親 の 仲 間 で あ る鄭 春 吉 さ
ツ 中佐 に ビン タを 3発 した。そ の時 、 ピ ッツ中佐
ん との ちに結婚す る。 そ の後 、横須賀 で しば らく
は謝 り、棺 が 自分 の前 を通 り過 ぎたか らも ういい
バ ー のマ ネ ー ジ ャー をや つて 、知人 を訪 ね北海道
と思 つ た と話 した。 それ を聞き、父 も謝 つ たそ う
へ 渡 つた。
だ。 しか しその後 ピ ッツ 中佐 は告発 し、父 は存虜
虐待 で 10年 の刑 を受 け る ことになったのだ。
グ ロ ドック刑務所 か らオ ー トラム刑務所 へ 、 そ
母 との 結 婚
こか ら今 度 はチ ャ ン ギ ー ヘ と移 され裁 判 が 始 ま
計 を助 けるため、朝鮮人 の経営す るパ チ ン コ屋 で
る。1946年 5月 か ら取 り調 べ が始 ま り、6月 27
働 い ていた。 父 もそ こに 勤 め 、母 と知 り合 つ た。
日に起訴 、 7月 3日 に裁 判開始、 26日 に 10年 の
そ して東京 に母 を連れ て 出た。母 も苦 しい生活 か
判決 が 下 つた。 そ の判決 の際、ハ ル ク島 の収容所
ら逃れ たい とい う気持 ちが あ り、まあ嫌 いで な い
長 阿南 中佐 が手 を挙 げ、「ここにい る朝鮮 の人 た
か らつ い て来 たの力、 東京 では 昭島 の鶏林荘 に入
ちは 、皆私 の命令 でや つ た こ とであるか ら何 の責
り、ここで同進会 の皆 さん と知 り合 い にな ってい
任 もな い 」 と訴 えたそ うだ。 チ ャ ンギー か らオ ー
る。
トラムヘ移 り、 そ こか ら 1951年 8月 、 ス ガモプ
リズ ンヘ 移 る。
私 の母 も北海道 で貧 しい 家 に暮 らして いた。家
2年 して今度 は保谷 の清交荘 に移 つた。 同進会
でアパ ー ト自体 を借 り上 げていて 、12家 族 が入 つ
ていた。私 は ここで生 まれ た。姉 がいて 、後 に弟
釈 放 後 の生 活
が生 まれ たが 、他 の家族 に も子 どもが生 まれ て小
1952年 3月 に仮 釈放 とな った。刑期満 了は 53
さいのが ウ ロ ウ ロ してい る。毎 日す ごい賑や か さ
年 の 10月 だが 、 1年 半 を残 し仮釈放 とな つた。
だ つ た。 そ の後、 1966年 に 田無住 宅 に移 る。 こ
刑 期満 了 となれ ば 当然 自分 は韓 国 に帰れ る と思
こで も、8軒 ほ どい た。 またそ こに町 がで きて、
っていた。 だか らそれ まで の FHlは 食 いつ な いでい
仲間が揃 つて きた。
くこ とを考 え、 まず元村 さん とい う在 日の方 に世
みんなで い ろい ろな ところに連れ て行 つて もも
話 にな っ た。元村 さんは巣鳴 まで迎 えに来 て くれ 、
らつ た。車 4、 5台 連ね、 トラ ックの幌 の 中に子 ど
一 緒 に江古 田の寮 に行 つた。 1週 間位 して今度 は
もた ちをつ つ込み、皆 ア ンテ ナ に旗 を立てて行列
木村 さん とい う人 を訪ね て川 崎 へ行 つた。川崎 に
す る。山 の上 で車 を停 めて 、弁 当を食 べ た りす る。
は先 に出所 していた仲 間 も多か った とい う。川崎
す る と、車 か ら何人降 りて くるかわか らな い ぐら
ではサ ッカ リンエ場 の清掃 の仕事 を した。
い 、 ゴ ロ ゴ ロ ゴ ロ ゴ ロ子 どもが出て くる。 一番 思
い 出す のは千葉 の海 で 、そ の 時 は民宿 1棟 を借 り、
た。今度 はだめか と覚悟 したが 、奇跡 的 に復活 し
海 の家 も 1軒 借 り切 り、そ こで 3泊 4日 過 ごした。
た。 ただ し、障害 が残 り認知症 がは じま つた。青
1969年 には同進会 でハ ワイ ア ンセ ン ター に行 つ
葉病院 とい うと ころに入院 し、2005年 10月 、母
て い る。 お じちやん、おば ちやんたちをみ んな親
の 勤 める緑樹園 にお世話 にな る ことが 出来 た。
だ と思 つていた し、お じち ゃん 、 おばちやんた ち
「 じつ は明 日こんな話す るんだ
昨 日行 つた折 に、
よ」 と話 し、「お父 さん生まれ た とこは、 どこ ?」
も、み んな子 ども と思 つて 可愛 が つて くれ た。
と聞 い た ら、「全羅北道 だ」と、ハ ッキ リ答 えた。
父 の 人 生 の 重 み を受 け 止 め つ つ
父 は最初 ス クラ ップ をや つた。清 交荘 の 時代 に
それ 以 上 は唸 って しま い 聞 けなか つたが 、音 の こ
とは覚 えて い る。
は上方 をや つてい た。 下水 管 の埋 設 工 事 だ つた 。
父 が非常 に悔や んでいたのは 、 自分 の家 一 軒持
非常 に重労働 だ つたそ うだ。そ の後 、韓 国人 の人
てなか っ た こ と。今 も都 営住宅 だ。 実 は親 父 は 、
が 経 営 して い る加 藤 工 業 とい うと ころ に入 る。
まだ元気 だ った ときに墓 を買 つてい る。「ここが
1965年 には家族 では じめて韓 国 に行 つた。 そ こ
俺 が入 る、最初 で最後 の一 戸建 てだ」 と喜 んでい
で結婚式 を挙 げて い る。
た。 しか し、子 どもた ちに対 しては 、何 ら苦労 さ
1976年 に 、加藤 工業 か ら民団 に入 つ た。 父 が
せ る こ ともな く、常 にわれ われ を愛 して くれ た。
54歳 の ときの ことだ。そ こで民生部員 として働 く
倒れ てか らは、なかなか い ろんな話がで きないが 、
が 、 これ が天職 だ つた。 父 は人 の世話 をす るこ と
顔 を見 る と非常 に愛お しい。
が好 きで、勉強家 で 、事務 的 も得意 だ つ た。非常
私 は 、 父 が倒れ てか ら本気 にな つ た。 それ まで
にい きい き と仕事 を していた。 母 もず つ と働 きづ
は父が いて 、私 はそ の後 ろについ てい つ たわけだ
めだ つ たが 、同 じ頃 、特別養護 老人 ホ ‐ ム 「緑樹
が 、 これか らは私がや らなけれ ば い けな い な と思
園」 とい うところで 、調 理 の仕事 を始 めた。現在
つ た。父 が息 を引 き取 る前 に、何 とか いい 報告 を
もそ こで働 いてい る。
したい。 がん ば るの で 、皆 さん よろ しくお願 い し
1999年 、痙攣 をお こ し倒れ た。脳 血 栓 がで きた
た い。
のだ ろ うとい うこ とだ つ たが、回復 した。 そ の後
肺炎 で入 院 した りし、5年 後 に再び脳梗塞 で倒れ
一―会場 の同進会 の方か らも発言 をお願 い しま した。
● 自井セ ツ さん (故 表禎萬氏夫人)
主人 は ス ガモ プ リズンではな く、シ ンガポール で満期 にな って 日本 に来た。 し
か し友達 もい なけれ ば、親戚 もな い 、金 もな い 、何 もな い。上 野 で何 日か過 ご し
たあ と、警 察に行 つて韓 国人 がい る ところを世話 してほ しい と頼み 、韓 国人 の 多
い川崎 に来た らしい。働 いて も帰 るつ も りで い たが帰れず、淋 しくひ も じか つた
らしい。そ の ころ私 と知 り合 い結婚 した。親 に反対 され 、出 て 来たはいい け ど行
くと ころ もな い。つ てを頼 り立りIIに 行 き闇屋 をや つた。少 しは儲 けた けれ ど世 間
知 らず で苦労 も した。す こ し楽 にな っ た と思 った ころ亡 くな った。今 か ら 7年 前
のことだ。 主人たちは、自分たちは親戚 もなけれ ば何 もないか ら、みんな各 自が兄弟 のよ うに思ってい
ると言 つていた。それが一人ずつ亡 くな ってい くたびに涙を流 して、いまはわずか しか残 つていない。
淋 しい限 りだが、子供たちはみんなわが子 のよ うであ り、なん とかや つてきた。
●朱 末 礼 さん (故 丁永 玉氏 夫人 )
去年 の 10月 5日 に主人 は亡 くな った。 ち ょ うど一 月忌 にな った。
二 世 た ちが 、父親 の過 去 をちゃん と聞 いて 、 ちやん と話 して くれ た ので 、嬉 し
くもあ り、また思 い 出す と悲 しくもあつた。私 は、ス ガ モ か ら出て裸 一 貫 の 亭主
と一 緒 にな つ たが、苦労は一般 の社会人 とは違 つ た ものだ つた。 日本政府 か らの
補償 は い まだ にな い。そんなな か 、他人 同士が巣鳴出身者 として 、兄弟 の よ うに
身 内にな つて 、政府 か らタク シー 会社 の許 可証 を もらつて 、同進交通株 式会社 を
お こ した りした。 三 世 た ちは年代的 に も上 は 55∼ 6に な つ た。 家族 とも ども苦
労 して きた こ とは よ くわか る。 二 世 た ち もまた、和 をもつて進 んで くれ るよ う願 つてい る。
●畠谷サダ子 (金 完根 さん夫人)
息子 が話 した よ うに、北海道 で主人 と知 り合 つた。私 も貧 しい 中 で生活 を して
きた。兄 が病気 だ つたので少 しで もお金 が欲 しかつた。 しか し中学 を卒業 しただ
けでは分 のいい仕事 はな い。たまたまパ チ ン コ屋 の前 を通 つた ら、私 の友達 が 出
て きた。事情 を話す と「ここのお じさんす ご くいい人 だか ら、ここにい らつ しゃ
い 」 とい う。
この韓 国人 の経営者 は、パ チ ン コなんて とんで もない とい う両親 を家 まで来 て
説得 して くれ た。給料 は他 に くらべ る と格段 によか つた。 ここで働 いてい る うち
に主人 と知 り合 い、東京 に来て しまつた。 主人 も私を連れてきた以上は、苦労 させまい と思 つてい るの
だが、なかなか うまくいかない。 でも、一生懸命や つて くれた。そろそろゆ つ くりしたいね と話 してい
るときに、脳梗塞 で倒れた。 自叙伝 のよ うなもの を残 して くれたお かげで、今 日は皆 さんにも分かつて
いただけてよか つた。 まだ解決 してない問題 もた くさんあるので、私 も手伝 えることは手伝 つてい きた
い。
●井川 陽子 さん (金 完根 さん長女 )
美談"だ けでな く、例えば離婚 したい と思 つたことは ?」
会場 か らの質問 に、「“
とあつた。私 は、母は女 として幸せだ つた ろ うか、 と考えることはある。
しか し、認 知症にな った父に面会に行 つた とき、壁に 「私 の好 きなもの」とい
うことで入所者 の人が書 いた紙が貼 つてあ り、父は「おかあさん」と書いてあつ
た。認知症はあつて も、「おかあさんは偉 い人」「おかあさんはす ごい人」
。 これ
までも母 のことを悪 く言 うのを聞いたことがない。ものす ごい苦労 もした し、た
いへんなこともあつた。 でも、も しか した らそれでついてきたのかな、 と思 う。
私 は もつ と自分 で知 るべ きだ つた思 う。父 は 自分 の苦労 をあま り話 さなか った。
資料館 の展示 を見て、
自分 た ちの代 で終わ りに したい 、子 どもに苦労 させ た くな い とい うことがあつた と思 う。 で も、それ が
終 わ らず 、朴来洪 さんやみんな が継 いでや つて くれて い る。今 か らで も知 ってい こ うと遅 ま きなが ら思
った。
第 3回 セ ミナ ー 講演要 旨 (2007_8.26)
国家補償 裁判が 間うたもの
アイデンテイテイーヘの優略に抗して
今村嗣夫
虜 た ちに速 く速 く、Speed,speedと 工期 を急がせ
断食 小屋 で の 出会 い
1990年 11月 、私 は大嘗祭 に抗議す る 100時 間
た鉄 道 隊や若 い 監視 員 た ち の 甲高 い 声 が浮 か ん
断食 を、早稲 田のキ リス ト教会館 の広 場 で行 つて
だ。食糧や 薬 が欠乏 した状況 の も とで突貫 工事 の
いた。大嘗祭 とは天皇 が 即位 した時 に行 う皇 室 の
強制 労働 を させ られた 、 あば ら骨 の見 える捕 虜 た
私的 な宗教行 事 で 、 これ を政府 が公的 な行事 とし
て行 うこ とへ の世論 の反対 があ り、私 も、天皇 を
ちの 悲惨 な姿 も思 い浮 かんだ。 この よ うな戦争 の
悲惨 が起 こつた諸悪 の根源 は どこにあるの力、 天
神 と戴 い て行 つ た無謀 な侵 略戦争 の歴史や 、そ の
皇 を補佐す る大本 営 が 、「捕虜
反 省 にた つて 憲 法 に明記 され た 政 教 分 離 の 原 則
命令 を出 した 日本 国 に 、 ま つた く法的責任 はな い
を踏 ま え、断食 に加 わ つ た。
のか。
5万 名 を使 え」 と
塩 と水 だ けの断食 は 3日 目が一 番 しん どい。そ
アイデ ンテ ィ テ ィー ヘ の侵 略
の一 番 苦 しい時 に、内海愛子 さんが、私 とは初対
面 の李鶴来 さん、升東鉱 さん と共 に断食小屋 に激
大 日本帝 国憲法 の 下 では 、 日本 国民は神様 であ
励 に来 て くれ た。 この ときは激励 だけで 、裁判 の
る天 皇 の家来 であつた。憲法 の条文 にある「臣民」
話 はなか つた。年 が 明 けて国家補償裁判提訴 の依
とい うの は家来 の ことだ。天皇制 下 で 日本 臣民 は 、
頼 が あ つ た。 断食 小屋 で激励 され た こ ともあ り、
弁護 団結成 へ と動 い た。
権威 を神聖視 し、政治 を上か ら与 え られ た と思 う
提訴 は 1991年 11月 12日 。この 日は 1948年 、
デ ンテ ィテ ィー をな く してい き、あれ これ考 えな
東 京裁 判 が天 皇 の戦 争 責任 を免 責 した まま終 わ
くな って しまった。天 皇制 の 問題 は主体性 の侵 害
って しまつた とい う日だ。天 皇が免 責 され て 、 な
の 問題 な のではないか。
こ とに飼 い な らされ て きた。そ して 、 自分 のア イ
趙文相 (チ ョウ 。ムンサ ン)は 、 自人 の捕虜 た
ぜ 韓 国 。朝鮮 人 が 戦争 の 責任 を負 わ され た のか。
この韓 国・ 朝鮮 人元 BC級 戦犯者 の裁判 の訴状 は
ちに上官 の命令 を伝 える通 訳 だ つ た。 そ して死刑
200ペ ー ジを超 えるが 、 日本帝国 主義 の朝鮮民族
に処せ られ た。絞首台 に連れ られ る直前 まで遺書
隷属化 の責任 と、天皇 の 戦争責任 の 中味 を具体的
を綴 つ た。「た とへ 愚 かで も不幸 で も 自分 の もの
に追及 し、事実 を突 きつ ける こ とによつて 日本 国
とといった生 活 を していた らよか つた もの を、知
の責任 を誰 の 目に も明 らか に した もので あ る。
識 がなんだ 、思想 がなんだ、少 な くとも自分 の そ
れ は殆 ど他人 か らの借物 だつた。 しか もそれ を 自
分 の も の とばか り思 つてい た とは何 と哀 れ な る
泰緬 鉄 道 の 現 場 に立 っ て
を見てお こ うと思 い立 ち、泰緬鉄道 のアル ヒル と
。
哉。友 よ弟 よ、己 の知恵 で己の思想 を もたれ よ」
。
このチ ョウ ム ンサ ンの 叫 びは 、会社や学校 で身
い う難所 へ 飛 んだ。 そ して 、捕虜 た ちが強制 労働
近 な天皇制 に支配 され 、忙 しい 日常生活 に埋没 し
を させ られ た断崖絶壁 の 切 り通 しの写真 を証 拠
てい る私 たち の主体性 を呼び覚 ます もの だ。刑 死
として提 出 した。現場 に立 つ と、上官 の命令 で存
した BC級 戦犯者 の私 た ちに向 けた祈 りで もある。
東京 高裁 での李 さん の尋 間 の 直前 に、私 は現場
9
原告朴 允 商 さん は法廷 で 、「 日本 の ため に利用
日本 国 に対 して 謝罪 の しる しと して の 象徴 的補
され なが ら無知 で反 抗 もせ ず に忠 節 を尽 く した
償 を求 めてい るの は、生 半可な ことでや つて い る
自分 は バ カ だ つた 」「監視員 に させ られ た時 、内
ではない。天皇制 の 下で の上 官 の命令 に よる人格
鮮 一 体 で 日本 人 として 日本 のた め にな るん だ と
無視 に対 して 、 自分 の全存在 をかけて権利 のため
疑 って もみ なか つ た」 と述 懐 した。
の 闘争 をや つ て い るのだ。
李鶴来 さんは 、「上 官 に毎 日の ご とく ビン タ教
今 日は BC級 戦犯問題 につい ての哲学的考察 を
育 を受 け、また上官 の命 令 は天皇 の命令 である と
試 みた。 かけが えのない 自分 をお互 い 見失わな い
い うこ とで 、直 ちに服従 しなけれ ばな らな い と。
ために 、身近 な天皇制 の 下 で 、 あるい は有事体制
それ を疑 わ な い で信 じき つ た人 間 にな つて しま
の 下で、不 当な上官 の命令 には絶対 に服 従 しな い
つ た。それ を考 える と大変 悔 しいです」 と証言 し
とい うこ とを最後 に も う一度強調 してお く。天皇
制 に反 対 す るあ の 断食 小屋 で の 韓 国 。朝鮮 人 元
た。
BC級 戦犯者 との出会 い を、私 は生涯忘れ ないだ
上 官 の 命 令 に はそ の 当否 を考 え る こ とな く直
ちに従 うの が正 しい とい う誤 つ た 良心 に従 つ て 、
ろ う。
過 酷 な命 令 を実行 して しま つた との 思 いが 伝 わ
る。 これ らの 言葉 か らは 、「お国 の ために 」 あ る
い は 「国際貢献 の ために」 とい う名 の 下 で 、 日本
の 民衆 が 、「良 心 の錯誤 」 に再 び 陥 らな い よ うに
警鐘 をな らして い る とい うふ うに思 える。
権利 の た めの 間争
私 は韓 国・ 朝鮮 人 BC級 戦犯者 の闘 い は 、法学
者 イ ェー リン グ の言 うところの 、人格 を踏 み に じ
られ た者 の「権利 のための闘争」だ と思 つてい る。
一人の 日本 人として学 んだこと
小池 健 治
を踏むまでは」が、せ めて 「郷里 の上 を踏むまで
欠 け て い た 韓 国・ 朝鮮 へ の 視 点
私 は この裁判 にかかわ つ た 当初 、 この 問題 の存
は」であつた らそれはそれな りであつた と思 うが、
在 自体 を知 らな か った。終戦間 もな く 「モ ンテ ン
日本人 のことだけ しか書いていない。
ル パ の夜 は更けて」 とい う、囚われ た BC級 戦犯
金完根 さん の証言 か ら
者 の 気 持 ち を渡辺 はま子 が 哀切 こめて 歌 つた 歌
が流行 つてい た ので 、BC級 戦犯 の こ と自体 は知
植民地支配について、生の証言を直接私が聞い
つ て い た。 しか し、韓国・ 朝鮮 の人 がそ うい う状
たのはこの裁判 でだつた。金完根 さんは、教会 の
態 にあ つた ことは知 らなか つた。
学校 では朝鮮語 が しやべれたが、やがてその牧師
そ もそ も歌 自体、そ うい うこ とが ま つた く眼 中
さんが逮捕 され 、小学校 に行 くようになると、言
になか つ た。そ の 3番 に「強 く生 き よ う倒れ ま い 、
葉 は 日本語、毎朝皇居遥拝、 日の丸国旗掲揚、皇
日本 の 土 を踏 む までは」 とあ る。 この 「 日本 の 土
国臣民の誓詞 を唱えさせ られ、朝鮮語 の本は焼 き
10
捨て られた と証言 した。 日本 の戦時下 の抑圧 を、
法廷 にい る人 はひ しひ しと感 じていた のではな
内外 の 国家補 償 の激 差
いか。
犠牲者 へ の国家補償 は、国内は極 めて 高 く国外 は
極 めて低 い。 特 に 日本人遺族 へ の 多大 な支 出は、
捕 虜 監視 員 にな った 経 緯 も、 当時 の 報 道 で は
「米 英 人 捕 虜 の 監 視 員
半 島青年 数 千名 採 用
内外 の 国家補償 の 「激差」 の 問題 もある。戦争
靖 国思想 を支 える 、「戦没者 再生産 」 の仕組 み な
皇国民の誇 り愈 々高 し」 (『 京城 日報』 1943年 5
月 23日 )と 報道 されているが、金完根 さんの証
の だ。
言 では、停虜監視 の仕事 に応募す るよ う村 の区長
に言われ断 つた ところ、三回 日は 日本人 の巡査部
には 、 日本 が連合 国 な どに支払 つた対外賠償 の総
額 は 28カ 国 で約
長 と共にや つて きて、「おまえの うちの配給 を全
部切 る」 と言われた。「天皇陛下 の命令 であ り、
対 し、軍事 恩給 な ど対 内戦争犠牲者援護 の累計 は
約 40兆 円。政府 が 「解決ずみ」 と言 う対外賠償
反すれ ば銃殺になる」と脅かされたと証言 してい
る。 これ らの話 を一人 の 日本人 として聞 くのは、
は 、戦争犠牲者援護 費 の 2_6%に す ぎな い。
韓 国 。朝鮮人元 BC級 戦犯者 の 国家補償裁判 か
本当につ らいこ とだつたが、 しか しこれが事実で
らは、 日本 の韓 国・ 朝鮮 へ の 問題意識 の欠如 、 そ
こか らくる韓 国 。朝鮮 の 人 の苦境 が理 解 され る。
あつた。
私 た ちの裁判 で提 出 した資料 「田中宏意 見書」
1兆 円を切 る、 とある。 それ に
「加書を強制された被害 Jに ついて
戦争 責任 受 忍論 を め ぐつ て
平湯真 人
ア ジア ヘ の加 害 責任 が指 摘 され て くる よ うに
この裁判 の重要な抗争 点 のひ とつ に、戦争被 害
な つて きた の は、 1980年 代 の こ とで あ つた。 私
は国民全 体 が 受 忍 して い る もの だ とい う法律 論
もそ うだ つたが、 日本人 として放置 して きた戦後
が ある。現在 の 日本国民でな くて も、被 害 があ っ
た ときに 日本 国 民 で あれ ば同 じよ うに受 忍 す べ
加 害、責任 も考 えなけれ ば い けな い とい うことが
きであ る、 こ うい う論法 が地裁・ 高裁・ 最高裁 で
大勢 の人 に い きわ たつてきた。
私 はそ の 頃 は裁 判所 に勤務 していた。 そ の 間 、
一 貫 して行 われ た。 この論理 は 、 この裁 判 だけで
自分 な りの 戦争 や 平 和 に対 す る問題 意識 を行 動
な く、戦後補償裁判 のす べ てに見 られ た。 これ を
ど うすれ ば打 ち破 れ るか、 とい うのが課題 で もあ
で示 す とい うこ とはま つた くな い ままだ つた。 そ
して裁 判所 を辞 めてす ぐ、 1991年 に韓国 。朝鮮
っ た。 この論 点は単に法律論 ではな く、 日本国民
人元 BC級 戦犯者 の裁判 に弁 護 士 として加 わ った。
一 人 ひ と りに とつて、政府 との 関係 を ど う考 える
か 、 とい う本質 的 な問題 を含 んで い る と思 う。
加 害行 為 を強制 され た被 害
1943年 の生 まれ 。長崎 が縁故 地で身内 の
原告 らは 日本 の軍国主義 の被害者 であるが 、 し
戦争被 害 もあ る。戦争 とい うのは悲惨 な ものであ
か し英 米 人捕 虜 に対 す る加 害者 と して追及 され
る とい うこと、戦争 は も うしてはい けな い とい う
て い る。存虜 の 監視 とい う役割 自体、加 害的 な役
こ と、そ うい う戦争 を引 きお こ した の は東条以 下
割 に立 っていた こ とが、連合 国 に よつて裁 かれ る
軍 国主義者 た ちである とい うこ と、 こ うい う理 解
とい う形 で突 きつ け られ た。 それ は 、加 害行為 を
で物心 ついて 以降青年期 まで過 ご して いた。
強 い られ た とい うことにその本 質 が あ って 、そ の
私は
加 害行 為 を強 制 した 日本 の 軍 国 主義 の 責任 とい
とも、 日本 国民 に とっての被 害 と考 えな くてはい
うことに行 き着 くのではないか。原告 た ちの本 質
けな いので はな いか。 理屈 つぽいか も しれ な いが 、
的 な被 害 とい うの は、加 害行為 を強制 され た被 害
日本人 が 自らの被害 と して 、加 害行為 を強制 され
とい うこ とではな いか。
る とい うこ とを絶 対 に拒否 す る とい うこ とが大
切 ではないか と考 える。 それ を現代 の政治的行動
の拠 り所 として考 えるべ きではな いか と思 う。
実 はそれ は 日本 国 民 に とつて も同 じこ とに思
う。兵 士 と して戦 地で苦労 した とい うこ とだけで
な く、戦争 の加 害行為 に協力 させ られ た とい うこ
第 4回 セ ミナ ー 講演要 旨 (2007.9.30)
映像 で考 える韓 口・朝鮮 人 BC級 職犯者 問題
桜 井
Kプ ロデ ューサー
)
…
の 人 々 を 日本 人 と して裁 く となぜ か 最 初 か ら決
「チ ョ ウ・ ム ンサ ンの 遺 書 」制 作 に至 るま で
1991年 8月 15日 に「チ ョウ 。ムンサ ンの遺書」
めてい た。 オ ラ ン ダ語 の調 書 をだ い ぶ読 ん だが 、
結局そ の理 由はな く、結論 だけが書 いて あ る。 自
とい う番組 を放送 した。趙文相 とい う人 の名前 を
私 が最初 に知 つたの は、約
均 (元
30年 前。
『 世紀 の遺書』
分 た ち の植 民地 支配 の 問題 を回避 しよ うとい う
とい う戦犯 刑 死者 の 遺 書 の 中 に 非 常 に心 魅 かれ
意志 が働 いていたのか も しれ な いが 、確 た る とこ
る文 章 が あ つ た。 それ が 趙 文相 の 遺 書 だ つ た。
1976年 に 「第 18田 無住 宅 の夏」 とい う番組 をつ
ろは分 か らな い。
くつた ときに 、同進会 の李 さんた ち と知 り合 つた。
ン ロ ップ さん とい う軍医 が登場す る。李 さんた ち
「チ ョウ・ ムンサ ンの遺書」は 「シ リー ズ
この番 組 にオ ー ス トラ リア軍 の 捕 虜 だ っ た ダ
ア
捕 虜 監視 員 を してい た ヒン トクの収 容 所 にい た
ジア と太平洋戦争 」 の 中 の 1本 で ある。 1989年
人 だ。彼 は李 さんが死刑 の判決 を受 けた とい う話
のベ ル リンの壁崩 壊 を経 て 、冷戦構造 が崩れ てい
を聞 いて驚 き、 自分 がいた らそんな こ とは させ な
く時期 である。戦後 のアジアでは 、開発独裁 や さ
か つ ただろ うと、イ ン タ ビュー に答 えた。同時 に、
ま ざまな言論統制 があつたが 、冷戦構 造 の崩壊 と
「人 が 苦 しん で い る時 に 、そ の苦 しみ を軽 くしな
と もに 日本 占領 時代 の こ とに つ い て もい ろ い ろ
い 人 間 は赦 せ な い とい うこ とだ けは分 か つて ほ
な発言 が 聞 かれ るよ うにな つた。 それ らを反映 し
しい」とも言 つてい る。
李 さん は この放 送 の 後 オ ー ス トラ リア に渡 つ
た のが この シ リー ズ だ つ た。
4年 に
て 、ダ ン ロ ップ さんに謝罪 し、ダ ンロ ップ さん も
な る と、 ア ジア各地 の 「従軍慰安婦」 だ つ た人た
個人 としてそれ を受 け入れ た。 しか し、李 さんが
ちが、 自分 の 言葉 で戦場 での事 実 を語 り始 めた。
90年 代初期 の こ うした文脈 の 中に、「チ ョウ・ ム
オ ー ス トラ リア の元捕虜 た ち との集 ま りで、 自分
ンサ ンの遺書」 とい う作品 も位 置 づ け られ る。
い て 、上か らの命令 に逆 らうこ とはで きなか っ た
このシ リー ズ か ら 2、
3年 た つた
1993、
は 日本 の植 民地 出身者 であ り、 日本軍 の最末端 に
とい う釈 明につい ては 、必ず しも受 け容れ られ な
BC級 戦犯 裁 判 と植 民地 の 問題
かった と聞 いてい る。
実 は 、オー ス トラ リア も英連 邦 の 中では末端 に
連合 国側 の検事団 は、朝鮮人 な ど当時 の植 民地
12
位置 して い る。英連邦 全体 の 中では 、ひ どい戦場
に送 られ ていた。 だか ら、戦場 にお ける現実 を特
に重 く見 る傾 向 があ り、そ の現場 で の事実 を積み
上 げて い つて 責任 を問 うとい う傾 向 が強い。東京
裁 判 の 裁 判 長 と して来 たオ ー ス トラ リア の ウ ェ
ップ判 事 は戦争 中 の 日本 軍 の残虐 行 為 を細 か く
調 査 し、 それ を もとに して、そ の頂点 に い る天皇
の戦争責任 を厳 しく問 うた。
イ ン ドのパ ール 判事 は、日本 の A級 戦犯 の無罪
年 に早 々 と釈放 され た 、当時 の A級 戦犯容疑者 た
を主張 した人 として知 られ てい るが、 じつ は 日本
ちだ。 つ ま り岸信介 とか賀屋 興宣な ど、政界 、財
の満州支配や 中国侵略、 あるい はアジアに対す る
界 の 大物 だが 、 この人 た ちは
植 民地支配 、そ して 日本 軍 に よる残虐行為 を厳 し
にな つ た。外 地で処刑 され るか も しれ な い 人 々 を
く指弾 した部分 は忘れ られ がちで ある。 そ して連
救 い た い と考 えた一 般 の 人 々 の 動機 は理 解 で き
合 国側 のア ジア に対 す る植 民地 支配 や 日本 に対
る。戦争指導者 たちが 自分 の責任 を認 めて 、そ の
す る原爆投 下 につい て も厳 しく批判 して い る。
謝 罪 の 意 味 で BC級 戦 犯 の 釈 放 に奔 走す る とい
52年 には追放解 除
うな らい ざ しらず 、 自分 たち の名 誉回復 を図 つた
ばか りでな く、刑死者 を靖国神社 に合 祀す る こ と
戦 争 責任 を ど う考 え るか
さて、 BC級 戦犯 の問題 の核 心だが、重 大 な責
を進 めていった とした ら、それ は とて も不可解 な
任 は 、 ま つ と うな 生存条件 を整 えず 、人間 を極 限
こ とだ。 これ が 、先般辞 めた安倍晋 三 とい う首相
状態 に送 り込 んで 、戦争 犯罪 にな る ことを防 ぐた
の DNAの 元 にな ってい つた と考 える と……。
めの教育 (捕 虜 の虐待 を禁ず る ジュネ ー ブ条約 の
遵守 )を せ ず 、 ただやみ くもに戦争 を行 わせ た 当
時 の軍 の指導部、 それ か らそれ を文民統制
(コ
靖 国合 祀 と援 護 法
1959年 に厚 生省 は 、 BC級 戦犯 お よそ 1千 人
の祭神名 簿 を靖国神 社 に提 出 した。 1966年 にな
ン
トロール )が で きな かつた政治 家 にあ る。 さらに
な行動 を とらなか つた こ と、そ うした戦前・ 戦 中
る と、祭神名簿 を送 る時 に、 BC級 戦犯 の 中に例
の A級 戦犯 の名 簿 も一 緒 に含 ませ た。靖 国神社 ヘ
の 国家体制 をあ い まいに「国体」と言 つているが 、
の合祀 は 、52年 発効 の「戦傷病者戦没者遺族等援
戦 後 の 日本 人 は この無 責任 の 体 系 を問 うこ とを
護 法」 が根拠 とされて い るが、実 はあま り正確 で
しなかつた。
はな いので はな い力、 合祀 の根拠 は、そ の人 の死
そ の上 にい た 、最高 の権力者 で ある天皇 が積極 的
日本 は国際社会 に復帰す るに当た つて 、サ ンフ
が 「公務死」 に当た る とい うこ と。 日本 国家 のた
11条 で、東京裁 判 の判決
の結果 を受諾 した。ところが、52年 に平和条約 が
めに命 を ささげたか ど うか 、 とい うこ と。 したが
発効 した 3日 後 の 5月 1日 に、政府 は法務総裁 の
も合 祀 され た。
ラ ンシス コ講和条約 の
つて韓 国・朝鮮 人元 BC級 戦犯 の 人 で刑 死 した人
名 前 で 、国 内にお ける戦犯 の扱 い を見直す と通達
ところが韓 国・朝鮮 人元 BC級 戦犯 の刑 死者 は
した。 そ して これ とほぼ並行 して 、 BC級 戦犯 に
対す る助命嘆願 運動が、国内 にほ うは い として起
合 祀 され た ものの、援護 法 の対象 にな つてい な い。
52年 4月 28日 にサ ンフ ランシス コ講和条約 が発
こる。
効 した こ とに よ り、 旧植 民地 出身者 は 日本 国籍 を
失 つ た とされ て い る。そ の 2日 後 の 4月 30日 に 、
ただ、そ の 中心 にな ったのは 、巣鴨 か ら 1948
13
日本 政府 は 国家補 償 の 精神 に基 づ い て 戦傷病 者
の 内実 とは全 く違 ってい る。東京裁判 も含 めて 、
戦没者遺族等援護 法 (援 護 法 )を 制定す る。そ の
BC級 裁 判 は勝 者 の 押 し付 けだ とい う言 い 方 が
法 の適用 は 4月 1日 にまで さか のぼ る、 と書 いて
ある。 それ な ら、せ めて よそ の 国 の人 の罪 だけは
あ るが、 この法律 の付則第 2項 に 、受給資 格 は戸
間わな いで くれ と、連合国側 に対 して真 つ先 に 申
籍法 の適用 を受 ける者 に限 る、つ ま り日本 に戸 籍
を持 つてい な けれ ばな らな い 、 とある。「内鮮 一
し出 るのが本来 の道義 とい うもの だ ろ う。
靖 国 へ の合祀 の 問題 を ど うす るか。 つ ま り靖国
体」 と言 い なが ら、戦前 の朝鮮 人 は 日本 に戸籍 を
。
置 く こ とは許 され なか った。 最初 か ら韓 国 朝鮮
とはそ うい う性格 の もの だ とい うこ とだ。戦後 の
責任 をあい ま い に してい く動 きの 中 で 、靖国 はそ
人 BC級 戦犯 の人 々 は、 この法律 か ら巧み に排 除
うい う装置 として使 われ てきた。 しか しア ジアの
され ていたのだ。
文脈 の 中に置 いて考 えなけれ ばな らない。
に厚 生省 は、「 日本 に帰化 した
ジ ョン・ ダ ワー は 日本 は 「天皇制民主主義」だ
朝鮮 出身者 に対 し、遺族援護 法 を適用す る ことに
と言 つた。奇妙 な体制 とい うこ とだろ う。 天皇 は
つい て 」 とい う通達 を出 して 、 日本国籍 を取れ ば
日本 国 の統合 のシ ンボル だ と言 うが 、統合 してい
援護法 の適用 を受 け られ るよ うに した。 ただそれ
る こ とのシンボル とい う意 味だ。民主主義 とど う
は 3年 半 の 間 に手続 を しな けれ ばな らなか つた。
これ よ り前 、59年 にすでに靖国 へ の合祀は され て
関係 が あ る のか分 か らな い。 こ うい う混濁 した 、
62年 9月 22日
い た のだ。 そ して 、通達 は
国体 とい うか 、 あい まい な体制 をよく見て いか な
65年 の 日韓条約 を も
い 限 り、戦争 責任 を追及す る基盤す ら見 えて こな
い。
つて失効 した。
現在 、韓国 の遺族 た ちは靖 国合祀取 り下げを主
張 してい ると聞 く。在 日の韓国 。朝鮮人元 BC級
本 来 の 道 義 とは
「日韓併合」 とい うの は 、 いか にも対等合併み
戦犯者や遺族 の会 に とつて も、靖国合 祀 の 問題 は
避 けて通れ な い課題 だ と思 う。
たいな言 い方 だが 、戸籍 の こと一つ 取 つて も言葉
韓 国遺族 会会 長・ 姜道 元
(カ
ン・ ドウォン)さ ん
私 が 1938年 生 まれ で 、父 (姜 泰協氏 )が ここを離れ た のが 1942年 です。
途 中で一 度帰 つて きた よ うな記憶 があい ま い に残 つて い るが、確 かではない。
父が他界 した後 、 シンガポール で処刑 され た との通告 が来た よ うだ。父 の死
について は知 らず にいたが 、小学校 にあが るころ祖父 が 「も うお前 も知 らな
けれ ばな らな い」 と言 い 、す べ て を打 ち明 けて くれ た。
我 が 家 は忠南 。イ ェサ ンにあつたが 、下男 を二 人 も雇 うほ ど裕福 な家 だ っ
た。恵 まれ た こ とに、村 の人 々 は父 が 日帝 の手 に よ り、半強制 的 に連れ られ
た こ とを理解 していた。 同情 して くれ る村人が多 かった。 しか し、多 くの人
が 「親 日派」 とな じられ 逼迫 した状況 に追 いや られ た と聞いて い る。
(韓 国週刊誌『ハンギョレ21』
14
2007年 3月 13日 号より)
9月 に李会長ら韓 目を再訪 、韓国側関係者 らと交流
韓 国 の北東 アジア歴史財 団 な どが主催 した 「歴
有光 が司会 した。 BC級 戦犯 、 シベ リア抑留 、韓
史 NGO世 界 大会」 に出席 の た め 、 9月 12∼ 17
国人被爆者 問題 は い ずれ も韓 国 内ではあま り知
日李鶴 来 さん、内海愛子 さん と一 緒 に ソ ウル を再
られ て い ないテー マ で 、出席 した NGO関 係者 の
訪 した。概略 は以 下 の とお り。
間 で もかな り衝 撃 を与 えた よ うだ つた。
30年 前 に著 した韓
翌 16日 の分科会 では元「慰安婦」や 、沖縄 の戦
国 ・ 朝鮮 人 BC級 戦犯者 の本 (『 朝鮮 人 BC級 戦
争遺族 で彫刻 家 の金城 実 さん らが発言。別途開 か
犯 の記録』勁 草書房刊 )の 韓 国語版 の 出版 を祝 う
れ た 日韓 の 運 動 関係 者 に よ る意 見 交換 会 に も出
出版 記念会 が 開催 され 、姜道 元韓 国遺族 会会長 、
席 した。
まず 12日 夜 は内海 さんが
17日 には真相糾 明委員会 を訪 間、李世 日・ 呉 日
本光沫 同理事 ら遺族会関係者 、雀鳳泰弁護 士 、李
世 日真 相 糾 明委員 会 主席 調 査官 や 韓 国 シベ リア
換調査官 、全基浩委員長 、朴 聖圭事務 局長 、李 聖
朔風会 の李畑柱会長、原爆被爆者 協会 の郭貴勲前
順理事 らと懇談。李世 日調 査官 か らは遅れ て い た
会長 らが集 ま つて 下 さつた。韓 国語版 は最 近 の遺
族会 の発足 まで加 えた内容 で、韓 国内 で BC級 戦
8人 分 の動員被 害認定証 を受 け取 つた。 これ で同
進会 申請分は、田舎 か ら返事 の な い 1人 を除 いて
犯者 問題理解 の助 けにな る と期待 され る。12月 の
67人 分す べ て認定作業 が終 わ つた ことに。遺骨担
遺 族 会 の 来 日プ ロ グ ラ ム の 打 ち合 わせ も併 せ て
当 の 呉 日換 調 査 官 に は祐 天 寺 の 遺 骨 早期 送 還 支
援 を要請 。呉調 査官は 「政府 間折衝 で何 回 かに分
行 われ た。
翌 13日 は大阪か ら来 た元シベ リア抑留者 の池
けて実施す る予定で、年 内にまず 100人 分 を帰還
させ る。 そ の リス トには
BC級 の方 の遺骨 は入 つ
田幸 一 さん と一 緒 に宿 舎 の ホテル 内 で記者 会 見
し、そ の もよ うは韓国 日報・ 国民 日報 。
世界 日報 ・
ていないが 、遺族 とも連絡 が取れ るので 、な ん と
毎 日経済・ 聯合 ニ ュース・ KBSな どで広 く報 じら
か早期 に返還 で きるよ う努力 したい 」 との ことだ
れ た。昼 は韓 国 シベ リア朔風会 との交流会 、夜 は
っ た。
「歴史 NGO世 界 大会」歓 迎 レセ プ シ ョンに 出席。
今 回 も金銀植 さん (太 平洋 戦争被 害者補 償推 進
14日 「歴 史 NGO世 界大会」開会 式 (金 九記念館
ホ ール )に 出席 、翌 15日 に同大会第 1分 科会 「真
協議 会事務 局長)や 多 くの 日韓 の友 人 た ちに支 え
1セ ッシ ョン 「加 害 と被害」 (英 文
た め国会議員 らとは会 えなかったが 、温 か く迎 え
実 と和解」第
Violence and Damage")で 、 内海 さんが報
名は “
告 、池 田 さん 。
李 さん 。
郭 貴勲 さん の順 で発 言 し、
られ て 、有意義 な交流 がで きた。韓国大統領選 の
て 下 さつ た韓国側 の 関係者 に感謝 したい。
(文 責 =有 光
健)
12.8シ ンポジ ウム会場地図
韓国 YMCA(千 代田区猿楽町 2-5-5)
3223--0611
JR線
水道橋駅
御茶 ノ水駅
地 下鉄
水道橋駅
御茶 ノ水駅
神保町駅
徒歩 5分
徒歩 7分
徒歩 7分
徒歩 9分
徒歩 7分
JR Line
Suidobashi sta
5 min
Ochanomizu sta 7 min
Subway
Suidobashi sta 7 min
Ochanornizu sta 9 min
」imbocho sta
7 min
日韓共 同 シンポジ ウム成功 の ため、 カ ンパ をよろ し くお願 い 申 し上 げます
◆活動 日誌 (2007年 )
8月 26日
連続セ ミナー第 3回 「国家補償請求裁判が問いかけたもの」
今村嗣夫・ 小池健治 。平湯真人
9月 12日
『「同進会」を応援す る会通信』No.2発 行
海著『 朝鮮人 BC級 戦犯 の記録』韓国語版出版記
李鶴来・ 内海愛子 0有 光健訪韓
9月 14∼ 16日
念会開催。韓国遺族会 と交流。
。
韓国 ソウルにて 「歴史 NGO世 界大会」開催。「真実 と和解」分科会 にて、李鶴来 内
〃
=内
海愛子報告。
9月 30日
連続セ ミナー第 4回 「映像 で考 える韓国・朝鮮人元 BC級 戦犯者問題」桜井均
10月 13日
同進会・ 応援す る会、合同役員会
連続セ ミナー第 5回 「韓国・ 朝鮮人元 BC級 戦犯者 二世・ 家族 が語 る」
10月 21日
朴来洪・ 畠谷吉秋
11月 4日
12・
8日 韓共同シンポジ ウム、第 1回 実行委員会
12・
8日 韓共同シンポジ ウム、第 2回 実行委員会
BC級 戦犯 者 「同進 会 」 を応 援 す る会
発行
韓 国・ 朝鮮 人 元
連絡先
(住 所 )162-0823
東京都新宿 区神楽河岸
1-1 10階
東京 ボ ラ ンテ ィア市民活動 セ ンター 気付
(E―
mail)
(電 話 )
BCQOnifty.com
メール ボ ックス No.120
または ZXF004100nifty.com
070-6656二 7031(留 守番電話 )
ホァ ムペ ー ジ http://kbcq.web.fc2_com/
郵便振替 口座
同進会 を応援す る会
00100-1-463945
銀行振込 口座
同進会 を応援す る会
三 菱東京 UFJ銀 行
16
神保 町支店
普通 2414414
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