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ブラジル留学帰国報告書
尾鍋 良輔
私は 2 年生の 8 月から 3 年生の 7 月までブラジルにロータリー交換学生プログラムで留
学していました。日本からブラジルまでは直行便がないのでドイツ経由で行き、約 34 時間
かかりました。ブラジルの空港の到着者出口を抜けると日本国旗と共にたくさんの方が出
迎えてくれ、
ファーストホストマザーに熱いハグを受け、
とても驚いた事を覚えています。
ブラジルで通っていた学校は Instituto Federal Espirito Santo do campus Vitoria 多
くの場合省略され IFES Vitoria と呼ばれていました。生徒数は 1000 人以上の大きな学
校で、初日の登校からすぐにたくさんの友達を作ることができました。授業は午前の部、
午後の部があり、午前の部は朝 7 時~12 時 30 分までの五限授業でした。午後の部は 13 時
~18 時半で同じく五限授業です。午後の部は大人も数多くいました。
休み時間も十分に確保され、その時には、クラスメイトや先生たちとポルトガル語につ
いて教えてもらったり、日本について教えたりしました。私がブラジルで最初に覚えた言
葉は‘’ボニータ‘’で、美しさを意味する言葉でした。あるブラジルの友達は日本語の
「おはよう」が気に入ったらしく、私を見かけると大きな声で「おはよう」といつも言っ
てくれました。これらのすばらしい友人との出会いを通して、豊かな人間性を培いながら
充実した高校生活を送ることができたと思います。
授業はおおむね電子化されており、プロジェクターやコンピュータを使う授業が多かっ
たです。私の通っていた学校は高校というよりも大学に近いものを感じました。
第一ホストファミリーの家は 5 人家族で姉が二人いて、息子さんは自分と同時期にメキ
シコに留学していました。ホストファーザーは高級警察官で、オリンピックに向けての警
備強化の事などでとても忙しくしていて、あまり話す機会がありませんでしたが、時間の
ある時はおもしろい話をしてくれました。ホストシスターにパーティーに連れていっても
らったり、車でリオデジャネイロまで旅行に行ったりもしました。また、第一ホストファ
ミリーは別荘を持っていて、そこにも何度も行きました。そこでは、たくさんの果物や野
菜が栽培されていて、地面を掘って池を作り、魚も養殖していました。何より広さが尋常
ではなく、小さな山二つに跨って存在していました。普段の家は海のすぐそばで、夕方に
なると私は海辺を走ったり、そこに出ている屋台でご飯を食べたりしていました。時々学
校の友達とも会って、バカな話をしたりしてとても楽しかったです。
ブラジル人は基本的に海に行く際、午前中の日差しの弱い時間に行きます。自分はその
ことを初めて知ったとき、とても驚きました。午前中に海に行くと、多くの人がパラソル
を開いてくつろいでいるのに、昼頃になるとみんな帰りはじめます。午後二時には海辺に
はほとんど人がいなくなります。ブラジルの海は暖かいイメージだったのですが、海に入
ると水がとても冷たくて 10 分も中にいられませんでした。
海に入って寒く感じると海岸に
上がり、日に当たって体を温めます。温まったら再び水の中に入りに行きます。こういう
海の楽しみ方もまたありだなあと思ったのを覚えています。何よりラテン美女の水着姿は
眩しい。
ブラジルには夏と冬があります。冬は大体 18 度から 25 度になり、半袖では少し肌寒い
です。夏は気温も 35 度近くまで上がります。ですが日本とは違い、湿気がなくカラっとし
ていて、
尚且つ海風が吹くので、
日本と比較してもとても涼しく過ごすことができました。
留学が決まった当初、ブラジルはとても治安が悪くて物を盗まれたり強盗にあったりし
ないかなどを心配してきましたが、私が実際に行った町はそこまで治安も悪くなく、貧民
街のようなところも多くはなかったので、リオデジャネイロやサンパウロなどの大都市に
比べるとかなり治安はいいところだったと思います。ただ、夜道を一人で歩いたり、高級
ブランド品を身に付けたまま人気のないところへ行くと危ない、ということをホストファ
ミリーの方に教えてもらいました。また、ブラジルは車社会なので、遊びに行ったりする
ときは基本的に車かバスもしくはタクシーで移動していました。ブラジルのタクシーは日
本のタクシーに比べて安く、初乗り料金が 150 円ほどであったりと、とても使い勝手のい
いものでした。(ただ、多くのブラジル人にとってタクシーは金持ちの使うものという認
識があるそうです。)
私がブラジルに到着した 8 月は、ホストファミリーにVitoriaのいろいろな場所
に連れて行ってもらいました。まずはショッピングに連れて行ってもらって、ポルトガル
語で書かれた初級のポルトガル語の勉強本を買ってもらいました。家に帰って、ホストマ
ザーがこの本を使ってポルトガル語の発音や読み方、簡単なフレーズ等を教えてくれまし
た。次に銀行に連れて行ってもらって、クレジットカードでの現金のおろし方を教えても
らいました。その時の注意としては、カード挿入口にスキミング装置が付いていないか確
認することと、真後ろのすぐそばに人がいないことを確認してからお金をおろすように言
われました。それはなぜかというと、ブラジルではしばしばカードの挿入口にスキミング
装置がついていて、それでカードの中身を後で全部抜き取られるということがあるそうで
す。
その次はホストファミリーでシュラスコ(ブラジル流バーベキュー)を食べに行きまし
た。日本のバーベキューとの大きな違いはまず、肉の大きさです。ブラジルのシュラスコ
は大きな肉の塊を金属製の大きな串に刺して、シュラスコ用のバーベキューコンロにセッ
トすると串が機械と連動してゆっくり回って表面をじっくり焼き上げます。そしてある程
度焼けると,コンロから外して皿に向かって直接肉をそぎ落とします。このとき肉の芯ま
では火が通っていないので、いい感じに焼けた表面の部分だけをそぎ落とし、ほかの部分
は再びコンロに戻します。
私が行ったシュラスコのお店は食べ放題方式で、
ウェイターに、
焼けた肉を串刺しのまま机までどんどん運んできてほしいといえば、肉をそぎ落としてサ
ーブしてくれるというものでした。シュラスコはブラジル料理の中で私が一番大好きな料
理のひとつです。
8 月の後半に、ロータリークラブのミーティングに初めて行きました。そこで初めて会
った人たちは私をとても歓迎してくれて、プレゼントをくれたりハグをしてきたりと、と
ても暖かく迎え入れてくれました。私はそこで英語で自己紹介をしました。ただ、私の英
語の発音が悪いのかわかりませんでしたが、伝えたいことがうまく伝わらなかったことが
ありました。そこで私は、自分の英語がいかに日本人であるかを実感しました。なので家
に帰るとすぐに、ユーチューブで英語の発音を練習する動画を探して何度も発音練習をし
て、なんとか相手にしっかりと理解してもらえるような英語の発音を身に付けました。何
よりも発音を練習するうえで難しかったのは、RとLの発音の違いです。日本語ではRと
Lの発音を区別しませんが、英語やポルトガル語ではRとLのつづりの違いで意味が全く
異なってくるということです。Rは舌を巻いて発音しますが、Lは舌を巻かずに前歯に舌
を当てて離すような形で発音します。最初は慣れませんでしたが、意識して練習していく
うちに自然と発音ができるようになりました。また、ポルトガル語には発音記号というも
のがしばしば単語の中に付いていて、それをしっかり理解し発音に取り入れるということ
が、ポルトガル語の発音を習得するうえで難しかったです。
たとえばこの単語「coração」。日本語で心や心臓を意味する言葉ですが、「~」が単
語の上にくっついています。これはその部分を鼻を通して鼻声で発音するという記号でこ
の場合は「コラサォン」と発音します。同様に日本を意味する「Japão」も「ジャパォン」
と発音します。
これに慣れないうちは、
この単語を発音するたびにホストファミリーから、
「そうじゃないこうだ」と言われました。また、私は日本からポルトガル語の練習本を持
って行かなかったので、現地で生きたポルトガル語を聞き、それをまねて発音するという
方法で勉強したので、多くのブラジル人からは「お前はブラジル人か?」と聞かれたり、
「日本人なのに特有の訛りがなくてとても聞き取りやすい」と言われました。また、ポル
トガル語を勉強する際に最もよかったのは、いつでも助けてくれる友達がいたことです。
彼らはどんなに自分が忙しくても、私が困っていたりしたら、すぐに駆け寄ってきてくれ
て、助けてくれました。私がこの留学中に得た一番のものは、言葉や文化ではなく友達だ
と思います。
留学して最初の 3 か月ほどは、試行錯誤でコミュニケーションを取り、時には英語、時
にはポルトガル語、時には携帯の翻訳アプリを使っていましたが、3 か月目を超えたあた
りから、うまいことポルトガル語を聞き取れるようになり、以前に比べて随分とスムーズ
にコミュニケーションを取ることができるようになりました。そのおかげもあり、一人で
外出したり、友達の家までタクシーで行く際に説明もできるようになっていました。言葉
が分かり始めると行動の範囲も広がり、友達もより増えました。また、私がポルトガル語
を理解できると周りの人が知り始めると、隣のクラスや、友達の友達などより多くの人が
私に近寄り、話をしたり、遊びに誘ってくれたりしました。留学する際は言葉を覚えられ
るかなあと不安になっていたり、友達できるかなあととてもナーバスになっていたことも
ありました。ですが、このころにはそんな不安や悩みもなくなり、ブラジル生活を心の底
から楽しめるようになっていました。しかし、語学が分かり始めてから逆に悩み始めたこ
とがありました。それは、そこらへんにいる人の言っていることが分かり始めたころ、そ
の人たちが誰かの悪口の話で盛り上がっていたりすると、自分の悪口を言ってるんじゃな
いか、とか、俺は何かブラジル人にとって不快なしぐさをしたり、悪い言葉を言ってしま
ったのだろうかと逆に疑心暗鬼になり始めました。こう思い始めたのは4~6か月目あた
りで、多少難しい会話でも、出てくる単語などから意味を推測できるようになっていたこ
ろです。そのせいもあり、周りの人から、最近のりょうすけはちょっと暗いよ。と心配し
てもらったりしました。このことを学校の先生に相談すると、どの先生も笑いながら口を
揃えてこう言いました。
「ブラジル人で日本人のことが嫌いな奴なんかめったにいないし、
ほとんどの人はみんな日本人のことが大好きだから、そんなこと何も気にすることはない
よ。」その言葉のおかげで私は、少し落ち込んだ気持ちから立ち直ることができました。
ですが、留学中に、最後まで少し嫌なことがありました。それは、ブラジル人特有の日
本人に対する変なジョークです。例えば「abrir olho Japones !」(目開けろよ日本人)や、
「Japoneses tem cara todo igual 」(日本人の顔みんな一緒やん)などをいかにも面白い
ことのように言われ続けたことです。このジョークは、日本人の立場から聞くと不快なも
のそのものでした。なのでこういうことを言われた際にはヘラヘラと笑っていたりせずに、そ
んなことないわ!と否定したり、
そのジョークをあんまり日本人に言わないほうがいいよ、
人によっては傷ついたりする人もいるから、などと言ってちゃんと教えてあげました。
私はブラジルに行って、たくさんの悪気のない偏見を受けました。例えば留学生同士で
話しているとき、お前は日本人だから数学がめちゃくちゃできるんだろ?と言われたりし
ました。私は数学はからっきしなのに。
また留学中に、私が心がけていたことがあります。それは、ブラジルにおいて自分がい
かに日本人らしく礼儀正しく振舞うかではなく、いかに自分がブラジル人に近づこうとす
るかということです。あるブラジルの先生は、以前に日本人の留学生を教えていたことが
あったらしく、こう言っていました。「この前私が教えていた日本人は、何を言ってもニ
コニコするばかりで、わかってるのかわかってないのかが分からない。」と。私は、最初
の一か月ほどこんな風に過ごしていました。わかっていようがわかっていまいが、ニコニ
コしていました。あとにその先生にそれを言われてからは、それは間違っていたとわかり
ました。大事なのは日本人らしくすることではなく、日本人のいいところにブラジル人ら
しさを取り入れて、より感情豊かに過ごすことだと思いました。
ブラジルでの困った話はこの辺にして、ブラジルで楽しかったことをここから書こうと
思います。
9 月のある日、第一ホストファミリーのお父さんが警察だったこともあり、いろんな場
所で会議がありました。
そこに自分たちも付いていく形で半分旅行をしました。
そのとき、
ホストファミリーと立ち寄ったバーでご飯を食べていると、突然音楽が流れ始めて、それ
にノっていくような形で客がどんどん踊り始めました。私はホストシスターに手を引かれ
ながら踊りを教えてもらいました。ブラジルのダンスは相手との距離が近くて、少しドキ
ドキしました。
他には、ホストシスターが、友達とホームパーティーをするから遊びに行こうよと連れ
出してもらいました。そのときも、音楽をかけてみんなノリノリで踊ったりして騒ぎまし
た。言葉はその当時あまりわからなかったけれど、なんとなくで打ち解けることができた
のを覚えています。
また、何度か同じ地区のロータリークラブの留学生たちが集まってレクリエーションを
する機会があって、そこにはフランス、チェコ、スロバキア、台湾、オーストリア、アメ
リカ、メキシコからの留学生がいたのですが、英語をうまく話せるグループとうまく話せ
ないグループに分かれてしまいました。私は当然英語ができないグループでした。ですが
そこでつたない英語ながらも世界各国の留学生からその国の実情を聞いたりして、とても
有意義な会話ができました。特に驚いたのが、メキシコ人の友達に、メキシコの治安って
実際どうなの?って聞くと「ぶっちゃけニュースでやってるよりも全然安全やで、ただブ
ラジルと同じで、治安の悪い街があったりはする」と言っていて、世界の国々の生の声を
聴けて面白かったです。
留学後半のレクリエーションでは、みんながポルトガル語を話せるようになっていて、
みんなが団子のように集まっていろんなゲームをしました。
その中で一番面白かったのは、
truth or dare というゲームで、日本語での意味は「真実か挑戦」というものでした。ま
ずルーレットを回してだれか一人を選びます。そしてその人は真実を話すか、なにかに挑
戦するかを選んで、選ばれた人以外の人がその人にきわどい質問や変な挑戦(行動)をす
るゲームです。このゲームのおかげもあってか、これまで少し距離のあった英語を話せる
グループとあまり話せないグループの距離がぐっと近くなりました。
また、自分と同じ町であるVitoriaにはほかにメキシコ人の留学生がいて、彼と
はかなり仲良くなりました。時には海に行ったりご飯を食べに行ったり、クラブに一緒に
行ったりと、
なにかとよく遊んでいました。
彼とは帰国した今も連絡を取り合っています。
ブラジルでの 11 ヶ月はあっという間でした。色んな国の人と出会えたし、色んな人が
いました。育ってきた環境は違うけれど、相手がどこの国の生まれであろうと友達になる
ことはできました。小さな喧嘩もいくつかあったけれど、大事な友達もできました。お互
いに言語が話せれば自分で直接コミュニケーションが取れるということは、本当にすごい
ことだと思いました。 ニュースで聞くより、友達の口から聞いたことの方が、ずっと重み
がありました。色んな国に友達ができたので、今までどこか遠い国だった国が、友達がい
る近い国になったと思います。
私が日本で考えたり悩んだりしたことも、日本から出てしまえば何ともなかったし、ブ
ラジルでの生活はずっと気楽で楽しかったです。そこには本当に色んな国の人がいて、み
んな考え方も信じているものも違って、肌の色も顔も違いました。異なる意見を持つ人に
出会うことが普通だったし、人と同じ意見を持つことが良いことだと思っていたけれど、
ブラジルに行って、自分とは全く異なるバックグラウンドを持つ人たちと話しながら、考
え方が違うことなんて当たり前で、驚くことがたくさんあったし、学ぶことも多かったで
す。そのうちに人と同じ考えを持つよりも、違っている方が面白いなと思うようになりま
した。私はずっと、人の顔色を気にしたり、空気を読んで変なことを言わないように気を
付けたり、周りから浮かないようにしたり、なるべくみんなと同じような意見を言ったり
していました。自分が周りからどう見られているかをすごく気にしている生活だったと思
います。否定される度に落ち込んで、自分は変わり者なんだとか、やっぱり私は駄目なん
だとか、とにかく周りを気にしてばかりでした。私がブラジルで出会った人たちは、みん
な自分のことをとても大切にしていて、何のためらいもなく自分が好きだと言っていまし
た。それだけのことなのに、私にはすごいことのように思えました。日本では、自分のこ
とが好きだなんて言うとナルシストだとか変わり者の変態なんて言われるでしょうに。
また、ブラジルに行ったことで日本のおかしなところにもたくさん気が付いて、変な国
なんだなって思うことがたくさんありました。例えば、ブラジルの友達の何人かにこんな
ことを聞かれました。それは、「日本人の学生は、学校の成績が悪いってだけで自殺した
りする人がたくさんいるんでしょ?」と聞かれ、周りの友達は「学校の成績が悪いくらい
で死ぬなんて、なんてもったいないことをするんだ・・・」と言っていました。この話を
されたとき、私は強く否定はできませんでした。なぜなら自分自身も学校の成績が悪いっ
てだけで悩んだり鬱になりそうになったりしたことがあったからです。日本で当たり前だ
と思っていたことは、全然当たり前なんかじゃありませんでした。
日本が悪い国でブラジルがいい国だと言いたいわけではありません。それぞれに良いと
ころも悪いところもあります。これは、ブラジルという国に立って別の視点から日本とい
う国を見ることができたからこそだと思います。ただ、日本というひとつの場所にずっと
留まっていると、気づけないたくさんのこともあるんだと思いました。
だから、これから先大学に進学しても、色んな国に行って、色んな考えを知れたらいい
なと思いました。自分の人生がずっと豊かになるに違いないと思います。本を読んだり、
インターネットだけじゃわからないことがたくさんありました。それに、自分の目で見て
考えたことは、絶対に忘れることはないと思います。
私の 11 か月間にわたる長いブラジルでの生活は、まさに今しか得ることのできない貴
重な機会であったし、言葉に尽くすことのできない数多くの経験と体験を獲得できたと思
います。その中で学んだことは、私のこれから長い人生の中で生き続けると思います。留
学先で悩んだことや、楽しかったこと、たくさんできた友人はこれからも一生忘れること
はないと思います。私がブラジルで出会った留学生たちとの交流を通して、世界がもっと
身近に感じられるようになりました。日本にいたとき遠かった世界が、こうして身近に感
じられたのもこの留学のおかげだと思います。
留学することの目的は、海外で生活することであったり現地の言葉を覚えたり、学校に
通うことはもちろんですが、それ以上に大事なことは、そういった活動の成果を、自分の
中で磨いていき自分自身の人間としての幅を広げ、高い視点と広い視野を身につけ、今後
の社会生活で役立てていくことです。
最後に、留学は楽ではないし楽しいことばかりでもありませんでしたが、それでも留学
をして自分の考えが広がり、世界の色んな国の人の考え方を知ることができたので、留学
をして本当によかったなと思います。
ロータリークラブ、奈良大学附属高等学校の先生の皆さん、家族や友達など、私の留学
を支えてくれた皆さんにとても感謝しています。本当にありがとうございました。
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