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グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ ~国際理解

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グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ ~国際理解
プール学院大学研究紀要 第 53 号
2012 年,29 〜 43
グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ
~国際理解、まちづくり、特別支援の教育~
岡 崎 裕 序文
本論文は、日本国際理解教育学会における特定研究プロジェクト「グローバル時代のシティズン
シップと国際理解教育」のなかで推進した研究の一環として上辞するものである。
このプロジェクトは、当該学会が「『転換期』にたつ国際理解教育」という認識を基礎に、国際理
解教育を「グローバル化する社会におけるシティズンシップ」という視点から理論的に再定義する
ことを主たる目的として計画・実施されたものである。本稿の目的は、国際理解における学習の前
提となる地域社会そのものが、時代の流れの中で大きく変化し、そうした流れの中での国際理解教
育とは如何にあるのか、またあるべきかを「地域」の視点によって、ローカルな教育活動のなかか
ら捉えてみることである。ここでは、グローバル化 が進展するなかで、言い換えれば時代が進むな
かでの国際理解教育の変化と軋轢、さらにいくつかの可能性について具体的なケースを踏まえなが
ら検討し、そこに在る本質的課題として、そのフィールドそのもののあり方について考えてみる。
当然ながらここでは、学会がこれまで取り組んできた研究および実践も参考にしつつ、検討をすす
めてゆくものである。
1 学校現場では「地域」をどう捉えているか
2003 年から 2005 年にかけて取り組まれた、日本国際理解教育学会による「グローバル時代に対応
した国際理解教育のカリキュラム開発に関する理論的・実践的研究」
(いわゆる第2次科研)において、
「現場教師を対象とした国際理解教育の実態調査」が実施されている1。この調査においては、
「グロー
バル化に対応した国際理解教育、その実践の基本となるカリキュラム開発の取り組みが教育現場に
おいてどのようにすすめられてきたのか、その実態を探ること」を主たる目的とし、さらに、
「グロー
バル化に対応した国際理解教育の概念、理論の明確化を果たして教育現場ではどのように受け止め、
その解決に向けて取り組んできたのか」また、「そうした教育現場での取り組み、実践から…今後の
国際理解教育の課題解決に向けての…何らかのヒント、手がかりを得る」ことを二次的な目的とし
ている2。調査の形式は、アンケートによる実態および意識に関する調査で、対象は実際に教育現場
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において日々国際理解教育の実践に取り組む教員である。
調査項目は、内容的に①国際理解教育を担う教育現場の実態と課題、②国際理解教育のカリキュ
ラムをめぐる課題、③国際理解教育実践上の課題、④時代の変化に対応する国際理解教育、などの
領域にわたって構成されており、第1問目に設定された、国際理解教育そのものの意義を問う質問
において、国際理解教育と「地域」とのかかわりを問うている。ここでは、現代の日本の地域社会
において、グローバル化の進展とともに浮かび上がるシティズンシップをめぐる新しい動きを、こ
うしたアンケート結果から聞こえる教育現場の声から拾い出してみたい。
[ 1 ] グローバリゼーションが進展しつつある今日、子ども(児童・生徒)
たちに、将来どのように成長してほしいと願って国際理解教育を実践して
おられますか。以下の項目から一つ選んでチェックしてください。
□ 国際社会に生きる日本人として
27.5%
□ 国際人として
5.1%
□ 地球市民として
47.8%
□ 地域に生きる市民として
10.9%
□ その他
6.5%
□ 無回答
2.2%
冒頭、第1問目における先生方の回答は、ここに示したように回答者の約半数が、国際理解教育
の目標は「地球市民の育成」であり、次いで「国際社会に生きる日本人」、「地域市民」を選んだの
は10人に1人という結果である3。
次に後半、国際理解教育の実践を問う設問においても、
「地域」の問題を集中的に取り上げている。
ここにおける最初の質問は次のようなものである。
[ 7 ] ① あなたは、国際理解教育の実践で地域の学習をとりあげていま
すか。以下の項目から一つチェックしてください。(複数回答可)
□ とりあげている
30.4%
□ たまにとりあげている
24.6%
□ あまりとりあげていない
12.3%
□ ほとんどとりあげていない
29.0%
□ その他
0.7%
□ 無回答
2.9%
グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ
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今度の質問では、先程とはうってかわって半数以上の人が「とりあげている」「たまにとりあげて
いる」と回答し、
「地域」に対する積極的な接近を示した4。とはいえ、報告書によれば、この結果に
ついてさらに突っ込んで尋ねると、「「多文化」「世界的」「国際」「外国」といったキーワードが「地
域社会」の条件語として用いられている選択肢が上位を占め」ており、本質的な「地域」への認識
がどこまでなのかは疑わしいところである。
ここで興味深いのは、むしろ「あまりとりあげていない」「ほとんどとりあげていない」と回答し
た先生方で、その理由として最も多かったのが、「国際的な学習に手がいっぱいで、地域学習にまで
手が回らない」としたことであった。地域の学習が小学校中学年の社会科、さらに総合的な学習の
時間においても、学習すべき対象として位置づけられていることは言うまでもない。ところが、こ
と「国際理解教育」として位置づける教育活動の中においては必ずしも充分な地位を得ていないこ
とが、これらの結果から見えることなった。報告書によれば、「国際教育の潮流は、地域と世界のつ
ながりよりも、むしろ「地域に生きる市民」、あるいは「地域に生きる人間」の育成を求めており、
その意味で、現在までの日本の国際理解教育における「地域観」では結果的に狭義に過ぎる、と言
わざるを得ない」と結んでいる5。
それでは、国際理解教育において「地域」とは何なのか、またどのように捉えるべきなのか、そ
こにおける現代的な課題とは何か、以下に考えてみたい。
2 行動する場としての地域とアクティブシティズンシップについて
特定研究プロジェクト「グローバル時代のシティズンシップと国際理解教育」においては、一個
の人間を中心として多元的、多層的に広がるシティズンシップのあり方を中心的議題として論議が
進められた。政治的な意味における市民性は、法的(国内法的)に規定された市民権に関する規制
であり、この意味におけるナショナルなシティズンシップは、あくまで限定的かつ固定的である。
一方でユネスコをはじめとした、国際機関によるシティズンシップの概念規定は、(そもそも世界の
立法府たる世界政府が存在しないという理由で)多層的で多義的、開かれた概念となる。多元的で
あるがゆえに、こにおけるとりわけ重要な指標は「本人の意思」ということになる。すなわち、「参
加の意思」の存在が従属集団たる「ローカル」「ネイション」「グローバル」のレベルを規定し、そ
の限りにおいて、シティズンシップは多元的であり、同時に多層的でもある。(一方で必ずしも同心
円拡大ではない)Active Ctizen(アクティブシティズン=積極性のある市民、または行動的市民)
のイメージはこのようにしてその性質を明確にし、市民としての社会参加、および政治参加を果た
す力となる、という論議である。
こうした、人間の主体性ならびに主体としての意識によって確定される市民性(シティズンシップ)
に関して、これが最も身体的に近く捉えられる枠組みとして、一般には「地域」が想定されるので
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あるが、この問題について山西は次のように述べる6。
地域を、ある一定の固定化された空間として捉えるのではなく、問題や課題に即して可変的
に捉えることも可能である。つまり地域を「特定の問題解決や課題達成に向けて住民の共同性
に基づき形成される生活空間」として捉えるならば、…地域の範囲は伸縮自在となり、また地
(傍線筆者)
域そのものも重層的に捉えることが可能になる。
ここに言う「共同性」が、住民(人間)の主体性によって導かれることは、山西も引用する、守
友の主張によって明らかである7。
地域の範囲を確定することが問題なのではなく、地域の現実を主体的にどう変革していくか、
(傍線筆者)
そうした課題化的認識の方法こそが。地域をとらえるうえで最も大切なのである。
したがって、山西や守友のいうように、「地域」は単に物理的拡がりを示すものではなく、それは
「特定の問題解決や課題達成に向けて住民の共同性に基づき形成される生活空間」であり、さらにこ
こにおける「地域住民」とは、そうした生活圏において共同の問題や課題に対して主体的な変革の
力としてかかわってゆくものをいう、ということになる。
教育におけるシティズンシップの育成が、現代の国際理解教育におけるトレンドとして大きな位
置を占めつつあることは概ね明らかであり、これを明らかにすることは、本共同研究における目的
のひとつであることは間違いないであろう。ただ、そこにおいて「地域」の問題を考えるときには、
これまでの国際理解教育における議論を一部再構築する必要があるかもしれない。山西は先に挙げ
た論議のなかで、日本における開発教育のあり方に即して次のように述べている8。
、つまり、過疎、格差の
…ただ、もう一つのアプローチである「ローカルからグローバルへ」
広がり、環境破壊、多文化化など、日本の当該地域の開発問題を見据え、その問題と世界の問
題を構造的に関連づけて捉え、新しい社会のあり様を日本の地域から発想するというアプロー
チがどれだけ認識され、実践に活かされてきたかに関しては、批判的にならざるを得ない。
開発教育は、発展途上国の開発問題を起点として進められ、それが広義の国際理解教育における
一つのトレンドを成してきたことについては異論のないところであろう。山西は南北問題や諸外国
における貧困など、グローバルな問題をローカル(地域)の教育現場に持ち込むことに重点が置かれ、
学習者の足もとの、地域における社会問題に対する配慮が弱かったことを指摘する9。ここにおいて、
"Think Locally, Act Globally" の有名なスローガンが、現場の教育活動に対して事実上大きな落とし
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穴となっていたようにも思われる。
そもそもユネスコによって導かれた戦後の国際理解教育は、国際連合の本質的是とし、
「平和」「人
権」「民主主義」といった価値観を機軸として、これを加盟国間の了解事項として教育的に展開し
てきたものである。これは言うなれば、戦争から平和へ、殺戮から人権尊重へ、戦時から平時への
転換のなかで、社会における「マイナス」の価値観や状況を「ゼロ」に、そして「プラス」に転換
してゆく作業であった。第二次大戦前には想定もしなかったような、ヒト、モノ、カネ、情報の流
量が爆発的に増大するグローバル化の時代において、Passive(受動的、消極的)なスタイルから、
Active(能動的、積極的)へ転換する。Active Citizenship(アクティブシティズンシップ)の方向
性は、そのような文脈のなかで捉えられねばならない。これを具体的に示せば、例えば「平和」、
「人権」
を基本的価値として掲げる(NGO、NPO)活動、民主的市民社会を体現する「選挙」「裁判員制度」、
あるいは活動する市民としてのメディアを通じた情報発信、等に対し、市民としてかかわってゆく
ことである。
国際理解教育のカテゴリーとしてこれらの活動を位置づけることについては、領域の肥大化を招
くとして研究会のなかでも一定の批判はあった。しかしながら、ここではあえて、地域に特有のそ
うした事象を国際理解に位置づけてゆくことで、「多文化化する」、「グローバルな」、「世界の」等の
形容詞を必ずしも必要としないローカルコミュニティーを俎上にあげたい。地域社会の本来持って
いる特質を尊重し、国際理解教育において相対的に小さな存在としての地域から、人間本来の実存
の場としての地域へと移行させることが、新たな展開として求められる。
3 地域におけるグローバルシティズンシップの展開
この章においては、ここまでに述べてきたような「地域」への認識、そしてこれからの国際理解
教育におけるシティズンシップのあり方を念頭に置きつつ、近年における「地域」の実情をベース
とした教育現場の取り組みを検討してみたい。それぞれに多様な地域的課題を抱えつつ、それらを
直接に、また間接に学習課題として据えながら、
「平和」、
「人権」、
「民主主義」さらには「共生」、
「環境」
といった新たな価値観も入れ、結果的に国際理解教育の実践として位置づけられるような実践であ
る。この論の冒頭に見た国際理解教育の「地球市民」や「世界に生きる日本人」というような、大
上段からの大見得は見られないものの、自分たちが暮らす小さな町で、正しく、誠実に、穏やかに
生きようとする先生と生徒の姿が浮かび上がる。ここにおける価値観は、繰り返しにはなるが、平
和と人権を機軸とする、いわゆる「国際理解教育」に他ならないものである。
① 「空飛ぶ車いす」~世界と繋がる公教育の実践~
「国際理解教育の再構築」というような大仰なことを先に述べたが、これは何も新たな理論を提示
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プール学院大学研究紀要第 53 号
するとか、枠組みを創るといった話ではなく、むしろこれまでの国際理解教育、特に実践事例に関
して「地域」の視点から再評価を試みるといった事柄である。そうした意味で、ここでは学会のこ
れまでの研究活動のなかから、「地域」直接関わる実践を拾い出してみることにする。
これまで、日本国際理解教育学会では、年次の研究大会以外に、全国各地を巡回する形で「教育
実践研究会」を実施し、各地域における特徴的な教育実践を掘り起こしつつ、文字通り「理論と実践」
のコラボレーションの場を設け、それぞれの発展にに大きく貢献してきた10。そこでは、毎回テーマ
を決めてそれぞれの時代性に合致したリアルな実践の交流に努めており、「地域」の問題をテーマと
して位置づけた研究会も一度ならず開催されている。ここでは、1999 年 11 月に大阪において実施さ
れた、第 8 回教育実践研究会から、そこで報告された「車椅子」を通じた実践を取り上げる11。
2000 年の学会紀要にも記録されている本実践であるが、報告から 10 年、同様な趣旨を持った実践
は大きく広がりを見せ、多くの団体が同様の取り組みを実践するに至っている。このモデルは教育
現場からの途上国支援として、ひとつの典型となっている。以下、実践の概要を示してみたい。
身体に障害を持つなどで車椅子を利用する人々が、定期的に買い替えをする際、引き取られた車
椅子をメーカーから回収し、技術教材として中学校の技術科授業や工業高校の実習などにおいて修
理。完成したリサイクル車椅子を、開発途上国の障害者に支援物資として送るプログラムである。
車椅子は、日本では一般に、自治体による障害者支援制度や介護保険等によって比較的少額の自己
負担によって購入することが出来る。一方開発途上国においては、そもそも福祉的施策自体が不充
分であるなどの理由から、車椅子などの補助具は利用者の全額自己負担となる場合が多い。そこで、
修理することでまだ充分に使用可能な車椅子をメーカーから譲り受け、中学生・高校生がそれぞれ
の学校カリキュラムのなかでこれを再生し、無償で提供するのである。
この実践の教育課程としての位置づけについては、以下のような諸点をあげることができる。
1 車椅子の構造に関する学習、修理に関する技能実習(技術科、工業科)
2 車椅子の使用、介護の技法に関する学習(家庭科、保健体育科、福祉科、総合的学習)
3 障害者、高齢者の実態に関する学習(社会科、家庭科、福祉科、総合的学習)
4 途上国の実態、そこに生きる障害者に関する学習(主に社会科、地歴科)
5 国際関係、他国認識、平和、人権に関する学習(社会科、総合的学習ほか)
1999 年の教育実践研究会において発表されたこの取り組みは、関西を拠点として展開する団体
「バリアフリー教育ネットワーク」の実践として紹介された。この団体は現在も同様な活動を続けて
おり、その活動については以下に示すような構造図を用いて説明をしている。
グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ
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ここにも見られるとおり、この実践については先にあげたような学校における教科課程上の位置
づけのほかに、生徒会やクラブ活動などの特別活動、さらに地域交流などの学校外活動に至るまで、
実に幅広い構図の中で展開されていることが分かる。また、「国連アジア太平洋障害者の 10 年」な
ど、国際的なキャンペーンの動向にも配慮し、同時に国際的な人権事象にも配慮しつつ構造化を図っ
ていることが見てとれる。
実際に報告を行なった大下雅則氏によれば、以下のような課題意識のもとに、実践を進めたとい
うことである12。
1 アジア・アフリカの人々に車椅子を送ることを通して、学校における活動が直接社会とつ
ながり、生徒たちに「やればできる」という自信(セルフエスティーム)を持たせること
ができる。
2 障害者との交流を通して、その生活や思いに触れ、強くたくましい生き方を感じてゆくこ
とによって、ともに生きることの大切さを感じさせる。
3 アジアの障害者との交流を通し、生徒たちにとってより身近にアジアの人々の生活を知り、
また、それぞれの国の障害者の置かれている現状を考えることによって、福祉について考
える。
ここに見られる問題意識は、先の章で示してきたように、生徒たちの現実に日常生活をを営む「地
域」から、そこにおける現実的社会問題を通じて、主体的に世界に発信する取り組みである。ここ
には当事者意識としての地域人と、障害文化としての「車椅子」を共通項 (protocol) とする地球市民
が共存する。山西氏の言葉を借りれば、「ローカルからグローバルへ」の視点が明確に打ち出されて
いるものと言えよう。
② 「地域の ESD はどう躓(つまづ)いたか」ESD とよなかの実践事例
ここで紹介する実践は、"ESD" すなわち「持続可能な開発」という国際的、行政的大義名分を得
て活動することになった地域の市民団体(ネットワーク)が、民と官、地域と国、ローカルとグロー
バルの狭間で直面した「葛藤」のストーリーである。
先ずは、この組織の立ち位置から検証する。
豊中市では 2004 年度から「ESD とよなか」を中心に ESD の取り組みが始まり、地域や学校
と連携してさまざまな活動をしています。ESD とよなか連絡会議は、ESD を進めるための緩や
かなネットワークです。
未来の子どもたちのために、どのような豊中という地域を創り継いでいけるのか?
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多様な人々との出会い、つながり、学びあいの中から、複雑な社会の中ですべての人々が未
来に向かって自己実現できる地域づくりを目指します。
< ESD とよなか連絡会議メンバー>
豊中市(環境政策室、人権企画課、子育て支援課、千里文化センター)
豊中市教育委員会(地域教育振興課、人権教育企画課)
社会福祉法人 豊中市社会福祉協議会
財団法人 とよなか国際交流協会
NPO 法人 とよなか市民環境会議アジェンダ 21
とよなか人権文化まちづくり協会
財団法人 とよなか男女共同参画推進財団
NPO 法人 とよなか市民活動ネットきずな
赤ちゃんからの ESD
「ESD」については、もはや説明の必要がないほど、現在では一般的な名称、概念となっており、
国際理解教育学会においても、現状最も期待される枠組みであることは疑いないであろう。したがっ
て、ここではその仔細に及ぶ説明は割愛する。ただ、国際理解教育にとっても理論、実践すべての
局面において「黒船」たる様相を備えた ESD が、ある時期(場合によれば現在でも)一定の政治的
色彩を持って、言い換えれば予算措置を伴って「政策」として展開した。これが、時としてローカ
ルなレベルの市民活動に、ある種のストレスを与える結果となった。「とよなか」は、そのようにし
て黒船の大波に翻弄されたひとつのケーススタディーである13。
豊中市は大阪府の北西に位置する人口約 40 万人のベッドタウンであり、「人権・文化のまちづく
り」を標榜する、周囲に比しても社会意識の高い町である。2000 年前後より市民活動支援、次世代
育成、多文化共生などの領域で積極的な施策を実施し、NPO などとの協力も図りながら、市民の参
加・参画を促進してきた。そうしたなか、2004 年ごろに ESD の全国レベルにおける組織化と期を同
じくして、ESD へのかかわりをはじめる。豊中においては、「ESD とは何か」よりも「地域で実践
するものが "ESD"」との立場から、既存の市民活動を ESD として再編。上記の如く、行政、教育委
員会、福祉団体、国際関係団体など多種・多方面にわたる団体がこのあたらしい組織に名前を連ね
た。その前提には、学校の「総合的な学習の時間」によって一方的に消費される、市民活動の側の
辟易とした思いがあったという。ともかく、学校だけではないより広義の「未来づくり(sustainable
development)」に想いを馳せて、多くの団体、そして行政がこれに参画してゆくこととなった。
ESD にある開かれた目的意識、志向性のなかで、ESD とよなかは緩やかな事務局体制、ならびに運
営体制をとりつつ、活動やそこでの成果を共有するような体制をとっていた。
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これが、時間が経つにつれて変貌する。その最大の要因は「カネ」であった。ある意味で、国家
プロジェクトとして展開した ESD は、行政施策として、言い換えれば国や地方自治体の事業として
実施される。当然ながらここには予算が発生し、各セクション(特に行政)は予算獲得のための活
動を始める。そして、晴れて予算を獲得した暁には、たとえばそれまで文字通り手弁当で活動を行なっ
ていた、ボランティアベースの市民団体には、夢のような活動資金が降りそそぐ。とはいえ、一方
では行政の事業である以上アセスメントは当然実施され、当局(行政= ESD という名目に出資する
スポンサー)の想定する「ESD」にふさわしい活動たる成果が求められる。ここでは、(本論前段に
示したような)「国際」的な活動成果が求められ、「国際」的でない(と当局が判断した)ローカル
な市民活動に対しては厳しい追及がなされる。時には、予算獲得のためのトンネル団体の疑いがか
けられることもあったという。そこで、組織の側はかたちになるような成果を探し始め、
「概念図」
「構
成図」「モデルプラン」など、紙の上(あるいは HP 上)での見せ方を研究、時にそれ自体が目的化
する。もはやこうなれば、いったい何のための ESD なのか、また市民活動なのか、訳が分からなく
なるのである。こうした組織化の渦中に居た榎井縁さんは、こうした流れを振り返り、「そこから見
えたもの」として以下のような事項を明らかにしている。
1 市民活動にとって最大の敵は「権力」(カネ、名誉、地位)である。
2 地域課題の解決(体制の変革も含む)のために「つながる」はずが、「つながる」
ありきで、その意味を求めるようになった。
3 学校教育との関係を築けなかったことによる、子どもの不在。(結局、議論が大
人の都合へとすりかわっていった)
ここには相互に関連する二つの問題が存在する。まず第 1 には、行政との距離の問題。実際の問
題として、資金を提供する以上、その目的にふさわしい結果をスポンサーが求めるのは当然のこと
なのだが、「かたち」としての成果をあげることは、時に活動以上の負担になる。共同空間(地域)
の課題解決のため、それぞれの仕方で自主的・主体的に関わろうとする市民の意思が、
「説明責任」(あ
るいは「公的責任」)の名のもと、(あたかも商取引であるかの如く)「緩やか」や「曖昧」であるこ
とを許されない。奇しくも、阪神淡路大震災において全国からのボランティアを、復旧行政の補完
として組織化しようとした神戸のケースとオーバーラップする14。第 2 に既得権益の問題がある。山
西は、地域のにおける機能として、「伝統に学ぶ」、「参加する」、「創造する」の 3 点を挙げた。ここ
に言う「参加」は、「自主的」「主体的」参加であり、「創造」は文字通りゼロからの創造である。と
ころが、ひとたびここに経済の原理が持ち込まれると、参加への動機は全く別のものとなり、創造
ではなく(対価を得るという)状況の維持が主たる目的となる。これがまさに既得権益なのであるが、
ここには、普通に市民が地域の活動に関わってゆこうとする過程とは明らかな質の違いがある。榎
グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ
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井氏は自身の論を、ミヒャエル・エンデの言葉を引いてこう結んでいる15。
「環境問題・貧困・戦争、現在の精神の荒廃には、お金の問題が潜んでいる 」
(”成長の強制”『エンデの遺言』)
③ 地域のニーズと国際理解教育の理念~大阪府立高校における自立支援コースの実践
大阪の一部の高校には「自立支援コース」と呼ばれる課程がある。平成 22 年度の時点で、大阪府
と市併せて11校、全国に先駆けて大阪が独自に設置した、知的障害を持つ生徒を対象とした一般
高校(特別支援学校ではない)における後期中等教育の課程である16,17,18。その概要について大阪府は
次のように示している。
※ 知的障がい生徒自立支援コース
本コースは、大阪府学校教育審議会答申(「高等学校における知的障がいのある生徒
の受入れ方策について」)及び大阪市高等学校教育審議会専門委員会報告(「知的障が
いのある生徒の高等学校受け入れについて」)に基づき、知的障がいのある生徒が社
会的自立を図ることができるよう、高等学校において一人ひとりの教育的ニーズに応
じた支援を行い、「ともに学び、ともに育つ」教育を推進する環境を整備していく観
点から設置するものである。
知的な障害を持つ子どもにとって後期中等教育(高等学校)は、入学者選抜の存在を理由として
多くはその門戸が閉ざされ、知的障害の療育手帳を持って高校進学を望む場合は、特別支援学校の
高等部に進学するのが一般的である。大阪では、人権教育の理念と実践の伝統に立脚し、「共生(と
もに学び、ともに育つ)」と「統合」理念のもと、知的障害生徒の専門学科を含む一般高等学校への
受け入れをシステム化している。
「ぴあ」は養護学級ではなく「校内学習生活支援センター」である。したがって在籍
はクラスであり、他の生徒と全く同じである。
この文章は、2006 年から 2008 年にかけて、私自身が勤務した大阪府立阿武野高等学校の自立支援
コース「ぴあ」において、その基本方針の一として示された内容である。養護学校教育から特別支
援教育へ、障害を持つ生徒に対して「養い護る」のではなく、それぞれのニーズに応じた「特別な
支援」を提供する。恩恵的特別待遇ではなく、個性に対するきめの細かい対応。ここにある理念は、
2001 年の WHO 総会における国際障害分類 (ICIDH) の改定と、これを受けた障害者自立支援法の制定、
ならびに特別支援教育の実施等と軌を一にするものである。その詳細については本論から外れるた
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プール学院大学研究紀要第 53 号
めここでは割愛するが、敢えて一言で言えば、「障害」という言葉によってマイナス面をことさらに
強調するのではなく、障害者が持つ生活機能に着目し、これを積極的に評価・活用しようという考
え方である19。
そもそも「障害」という言葉によってカテゴライズされる事象は、現実的には障害者の数だけ種
類があり、文字通り千差万別である。発達障害の位置づけによって、いわゆる「健常」との境界線
がますます曖昧になり、「何が出来ないか」ではなく「何が出来るのか」を考えるなかで、知的障害
生徒の一般高校における教育課程への適合の可能性がある。また、知的障害生徒以外の一般生徒に
とっては、知的障害生徒はその存在自体に教育的意義がある。これまで、「養護学校」、「一般校」と
作為的に設けられていた社会的な壁が、実際の社会においては当然ながら存在せず、もはや法的にも、
地域に住むすべての人々との共生をすすめることが当然となっている。「介護体験」などといってご
く短期間、福祉施設で時間をすごすような教育課程ではなく、その存在を空気のように当然のこと
として受け入れる経験を持つ権利が、すべての生徒にはある20。
ここにある批判的スタンスは、当然ながら一元的、直線的なシティズンシップに対する認識にも
異論を唱える。人為的枠組みとしての国境、あるいは国民性 (nationhood) に対し、地球社会全体の
共生 (coexistence) と同時性 (simultaneity)、およびそこから派生する地球市民性 (Global Citizenship)
の必要性を要請する。グローバル化する社会において国籍や、民族、性別、門地、その他の属性に
おいて壁を設けることは事実上不可能であり、人間の能力に基づく差異を規定することも、便宜的(相
対的)にカテゴリーを設けること以外、現実的には不可能なのである。
阿武野高校と同じく、最も初期よりこの取り組みに加わった大阪府立柴島高等学校の例を見てみ
る。柴島高校の入学資料に次のような記載がある21。
“Girls & Boys, Think Global, Act Local”
すべての人が人間らしくのびやかに生きる社会を目指して、世界中の人々とネット
ワークを結び、「平和・人権・環境」をキーワードとして新しい時代の担い手となる。
地域の歴史・伝統・文化として伝えられている先達の知恵に学び、人々が手を携えて
生きていく人間性豊かな地域社会の姿を考える。
(大阪府立柴島高等学校資料より)
ここに見られるボキャブラリおよび価値観は、概ね国際理解教育で語られるのと同質のものであ
り、先にあげた山西による地域と教育に関する言説とも符合する。ここには、先にもあげたように、
「国
際障害分類」のように人権事象に直結する概念があり、そうした国際的価値基準の変化に日々対応
するなかで得られた、ある種の共通語ともいえるものである。それは同時に、市民社会の担い手と
して求められる「シティズンシップ」として、特に平和、人権を求める価値観と結びつく概念である。
一見すれば、「障害者理解」あるいは「障害者との共生教育」として括られてしまいかねないこうし
た取り組みは、世界各地で同時進行する、国際的価値基準としてのシティズンシップ教育、さらに
グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ
41
は国際(理解)教育と解釈して差し支えないのである。
結語
以上、地域におけるシティズンシップについて、学校教育実践、まちづくり、特別支援教育など
複数の事例から考察をすすめてきた。私たちひとりひとりが、地域社会における実情のなかで生き
ざるを得ないという現実を踏まえつつ、一方では進展するグローバル化の波をうけ地域社会も、そ
して私たち市民も変わってゆかざるを得ない。冒頭述べたように、ここにおける考察は、当初国際
理解教育の理論研究として始まった。そして結果的には「シティズンシップ」の概念が、現実の地
域社会においては極めて多様な広がりを見せ、それぞれの局面のなかで市民としての資質が求めら
れている。「シティズンシップ=市民的資質」の探求は文字通り「市民として如何に生きるか」を問
う作業であり、それはまさに「市井」に生きる日常の態様を問うことに他ならない。「グローバル」
という直截にマクロをイメージさせる時代であればこそ、私たちはよりミクロな、言い換えればよ
り現実的な価値を探求すべきなのであろう。
<注>
1.米田伸次、岡崎 裕、高尾 隆(2006)「現場教師を対象とした国際理解教育の実態調査」『グローバル時代
に対応した国際理解教育のカリキュラム開発に関する理論的実践的研究』、日本国際理解教育学会編、平成 15
年度~平成 17 年度 文部科学省科学学術研究費補助金事業報告書(基盤研究 (B) 研究課題番号 15330195)。
2.米田伸次、岡崎 裕、高尾 隆(2006)前掲書 pp1-2。
3.米田伸次、岡崎 裕、高尾 隆(2006)前掲書 p6。
4.米田伸次、岡崎 裕、高尾 隆(2006)前掲書 pp12-14。
5.米田伸次、岡崎 裕、高尾 隆(2006)前掲書 p13。
6.山西 優二、近藤 牧子、上條 直美 (2008)『地球から描くこれからの開発教育』、新評論。
7.守友 裕一 (1991)「内発的発展の道―まちづくり、むらづくりの論理と展望」、農山漁村文化協会。
8.山西 優二、近藤 牧子、上條 直美 (2008) 前掲書。
9.開発教育における日本の主たる研究団体である開発教育研究会は、近著「ESD(持続可能な開発のための教育)
実践教材集~身近なことから世界と私をを考える授業」(明石書店(2009))のなかで同様の視点から現代日本
における社会問題の教材かを図っている。
10.日本国際理解教育学会のホームページ(http://www.kokusairikai.com/)には、これまでに学会が実施して
きた「教育実践研究会」の歴史がまとめられている。
11.岡崎 裕(2000)、「学校を地域と世界にひらく - 総合学習を視野に入れながら -」、『国際理解教育』第 6 号、
日本国際理解教育学会。
12.岡崎 裕 (2000) 前掲書。
13.震災がつなぐ全国ネットワーク編(2010)、『災害ボランティア文化』、震災がつなぐ全国ネットワーク。
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プール学院大学研究紀要第 53 号
14.こうした具体的な媒体(ここでは財政原理)を介したとき、地域、国、世界など多層に広がると言われるシティ
ズンシップにおいて、それぞれの持つ特異性が顕著になる。
15.震災がつなぐ全国ネットワーク編(2010)前掲書。
16.大阪府学校教育審議会障害教育専門部会(2003)、「知的障害のある生徒の高等学校受け入れに係る調査研究
中間報告」。
17.大阪府教育委員会(2006)、「知的障害のある生徒の高等学校受け入れに係る調査研究 最終報告」。
18.大阪府教育委員会(2009)、「自立支援推進校・共生推進校 3 年間の取り組みと今後の方向性」。
19.実際、ICIDH については障害の国際分類ではあるものの、「国際生活機能分類」と言う言い方が厚生労働省
の定訳となっている。
20.生徒同士、仲間同士がお互いの信頼関係のなかで教えあい、学びあう。このことを "Peer Education" といい、
それはまさに「ぴあ」の由来である。
21.大阪府立柴島高等学校学校紹介資料 (2008)。
グローバルシティズンシップからローカルシティズンシップへ
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(ABSTRACT)
Local Citizenship in the Global Age
~ International, Community and Special Education ~
OKAZAKI Yutaka This Article shows the topics on current issues of International Understanding Education in
Japan. We, the member of Japan Association for International Education, have tackled on the topic
of Citizenship in the Global Age during 2009-2011. In the research team, I personally attended as
the research member on the topic of locality. Through the work, I explored the actual theory of
local citizenship. I present three different examples on the topic, each samples shows different
topics and categories, are, first, the school practice deals wheels chair issues on technology
education, second, sustainability in the community and, third, special education in senior high
school. Throughout the thesis, I concluded the contemporary citizenship in local community should
focus to the real life in each real communities.
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