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Title ラン司教バルテルミーの親族と祖先 : 共系的

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Title ラン司教バルテルミーの親族と祖先 : 共系的
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ラン司教バルテルミーの親族と祖先 : 共系的親族関係を
めぐる考察
江川, 溫
待兼山論叢. 史学篇. 25 P.1-P.21
1991
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/48043
DOI
Rights
Osaka University
ブン司教パ
ル テ ル ミ1の親族と祖先
||共系的親族関係をめぐる考察||
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要な対象としたものだと言えよう。ちなみに彼の用語法では、 封建時代の史料におけるそれと同じく、 親族 Qm −
論じているわけではないが、行論のなかで示される事例のほとんどは戦士貴族の社会から取られており、貴族を主
マルク・ブロック著﹃封建社会﹄は親族の問題を体系的にとりあげた最初の研究書である。特に階層を限定して
検討されるなかで、貴族の親族が重要な論点となってきたとも言えるのである。まず研究動向を簡単に概観する。
族についての全般的関心の一部をなすものと見ることができるが、同時にまた、封建時代の政治権力のありかたが
フランス封建社会における貴族の親族構造は、近年多くの関心を集めている。これは前近代西欧の家族および親
江
この親族H系族関係は、私闘における参戦義務や経済的連帯の慣行など個々人の生活に強い拘束力を発揮した。
BEe と系族ハロmロ世間。︶の語は無差別に用いられている。
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しかし親族は構造的にはかなり不安定な性格のものであった。 まずそれはニ叉的性格
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た水平的に拡大した、そしてきわめて流動的なものであった。
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一定の支配圏を世代を越えて継承し、その支配圏に
を問わず、そうした上位者との親族関係を強調した。そのため彼らの親族関係は共系的合。ぬロEZ5︶であり、ま
主軸とするまとまりも存在しなかった。他方で彼らは絶えず国王や有力者の庇護や贈与を求めており、男系、女系
ない。当時の貴族はまだ男系で世代を越えて継承される支配圏というものを持たず、 したがって男系の相続系統を
の定義とも近いものになる o さてデュピイによれば、このような系族日家門はカロリング時代にはまだ存在してい
圏は一般には男系で非分割相続されたから、家門は男系出自集団 2
mD品。出向ロEZ5︶となり、結果的に人類学
よってアイデンティティを付与されている集団、すなわち家門︵B
m号。ロ︶として理解されている。このような支配
白集団と定義されている。しかしデュピイにあっては系族は、
を込め、 一種のテクニカル・タ iムとして用いていることである。この語は人類学では系譜関係が明らかな単系出
見解を検討するに当たってあらかじめ注意しなければならないのは、 かれが﹁系族﹂ 2mgm与の語に特殊な意味
現在活動中の研究者で、貴族の親族研究に精力的に取り組んでいるのは、 ジョルジュ・デュピイであろう o彼の
の見解はこの点では必ずしもはっきりしていない。
としていたという。しかし、構造的に不安定な親族は、 いかにして個々人の生活に強い拘束力を発揮するのか。彼
集団は世代毎にその輪郭を変えた。またどこまでが連帯性を持つべき親族であるかという限界も、 一般的には漠然
を持っており、個人から見れば父系、母系でつながる人間たちはともに連帯性を持つべき親族であったから、親族
いそ
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め結
る婚
ラン司教ノミノLテルミーの親族と祖先
3
しかし王権の弱体化する一Ol一一世紀にはまず領邦が、次いで伯領、さらには城主支配圏、村の小領主の所領ま
でが独立、もしくは半独立の支配閏として分立し、基本的に男系で相続されるようになる。この変化に伴い男系の系
族H家門が成立してくるのであるが、それは一般には先祖伝来の支配圏の中核を掌握する長男夫婦と、 いくらかの
傍流の夫婦ないし個人から構成される。この家門の存続強化の論理は、その構成員の活動を強力に統制する。財産
相続に当たっての長子の優位、個人による財産処分の制限、次三男の結婚制限といったものが、ここから生じて来る
のである。さらにこの家門というまとまりは貴族たちの先祖意識、親族意識をも支配する。個々人にとっての先祖
とは何よりもまず家門の祖を意味するようになり、親族とは優れてこの先祖を共有するものたちを指すようになる。
こうして親族関係は、デュピイの言葉を借りれば、著しく男系的、また鉛直的性格を帯びるようになるという。
彼はこのような構想を三つの方面から実証的に具体化しようとした。その一つは一一、 一一一世紀マlコン伯領の
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領主社会における家門 H系族の実態の研究である。二番目は同時代の系譜・家史史料に見られる親族、祖先意識の
検討であるーまた三番目は貴族の結婚の研究であって、その成果をまとめた著作は邦語にも翻訳され
﹂の著作
では、家門の維持強化の論理が家族の中に強い緊張をもたらしたことが、さまざまな事例を通じて語られている。
こうした多面的研究によって、封建時代における家門日系族という結合の重要性を示したことは、デュピイの大
きな功績である oまた彼の構想に従えば、先に指摘したブロ?ク説の不明瞭な点は解消される。すなわち個々人の
活動に対する﹁強い拘束力﹂は明確な輪郭を持った封建時代の家門H系族に付随するとされ、共系的で﹁不安定な﹂
構造は、封建化以前の親族の特徴とされて、両者は段階的に区別されるからである。
しかしこの整理には問題点も残されている。そもそも家門H系族と共系的親族関係は相互に排除し合うものなの
4
だろうか。 一一例を挙げれぽ、封建時代の貴族の男子にとって、母方の伯父との親族関係がとりわけ緊密であったこ
ヨI ロヅパ社会の親族は中世以来一貫し
とは、多くの研究者が指摘しており、デュピイもこれを認めていん吃このことは家門H系族の外部で共系的な親族
関係が機能していたことを示している。人類学者J ・グヅディによれば、
て共系的性格を持っており、 たとえ男系の出自集団が何らかの形で存在している場合でも、それは共系の親族紐帯
一二世紀の家門外の親族関係の役割とい
﹀
家門の政治的社会的地位の維持、上昇のために強い拘束力を発揮する。じかしたとえば子女の結婚についての家長
結合が重なっていく。これはデュピイが描いているように強固に構造化された結合であって、家産の非分割保全と
カロリング時代から基本的に連続しているこの共系的親族関係の上に、紀元千年ごろから形成された男系系族の
の親族関係は利用すべきものとしてある。
対する軍事援助は、けっきょくは官険と獲得物の分与を求めての行動に外ならない。 つまり貴族たちにとって、こ
むしろこれは貴族たちに、自らの所領の外の世界に利権を求めて介入する機会を与える。たとえば抗争中の親族に
いし不名誉は、親族関係を持つ人々全体に伝達される。しかしこの連帯はなんら個々人を束縛するものではない。
となろう。この親族は、 いわば社会的威信の相関関係によってつながれている o特定の個々人が獲得した名誉、な
一三世紀の﹃ボlヴェ l地方慣習法﹄が親族を扱う際に、これを男系、女系で区別していないことがひとつの例証
関係は二重性を帯びている。根底にあるのは、男系も女系も含んだ、 つまり共系的親族関係の広大な網の目である。
この点で、 より整合的な構想を提示しているのはD ・パルテルミーである。彼によれば、封建時代の貴族の親族
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う重要な問題を捨象してしまっている点で不適切であると言わねばならない。
を排除するものではないといれせそうであればデュピイの構想は、
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ラン司教パルテルミーの親族と祖先
5
の戦略、が、女性を介した親族関係の重要性を前提にして初めて成り立つように、この男系系族は根底にある共系的
親族関係に依存し、そこから最大限の利益を引き出そうとするのである。
すなわちバルテルミ lは共系的親族関係と家門結合を区別し、後者にのみ強い拘束力を認めるという点ではデュ
ピイの主張を継承しつつ、ブロザクを批判する。しかしデュピイがこのこつの親族関係をカロロング時代と封建時
代にそれぞれ特徴的とするのに対し、パルテルミ lは両者が封建時代に併存するものと見なしているわけである。
このバルテルミ lの構想は、家門の外の親族関係をも射程に入れたものということができる。しかしこの構想を受
け入れる場合も、共系的親族関係のありかたをどのような史料を通じて具体的に示すかということが問題になるで
あろう。
貴族の親族関係のありかたを探る方法のひとつとして、彼らの先祖意識を示す史料の検討が考えられる。すでに
デュピイが系譜・家史史料についてこのような研究を行い、先祖意識は家門によって方向づけられていたと結論し
ている。しかし彼の研究には大きな問題点があった。それは主として家門の系譜あるいは家史として執筆された史
料を取り上げて上記の結論を導きだしていることである。これは一種の循環論法に外ならない。
これに対し、もし共系的親族関係に立脚する系譜や親族叙述の事例を提示できれば、バルテルミ lの仮説は明確
な例証を得ることになる。パルテルミーはこうした史料として、 一二世紀の半ばにカンブレ lのサン・トベ I ル律
V
本稿では同じく共系的親族、先祖意識を示している例として、 一二世紀北フランスにおける、ある聖職
修参事会員ランベlル・ド・ワトルロが、カンブレ1年代誌の中に挿入した自己の祖先と親族についての記事を挙
げてい柿
者の祖先と親族に関わる二つの史料を紹介したい。これらの史料はそれぞれに多くの情報を含んでおり、貴族の共
系的祖先意識、親族意識の性格を探る上で、きわめて重要であると思われる。
一一一一一年、ランの町で司教ゴ lドリーが民衆蜂起によって殺害された事件は有名である o ゴIドリ lの後継者
となったのはパルテルミ!という人物であった。 一一一三年から一一五O年まで在任した後、自らが創設したフォ
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ニ l修道院に引退し、 一一五八年に死んでいる。彼はクサンテンの聖ノルベルトヮスの友人であり、在任中自ら
の司教区でのプレモントレ会の創設、発展を援助したことでも知られる。このラン司教パルテルミ lの親族と先祖
について、二つの史料が彼の周辺で作成されている。ひとつは修道士エルマン・ド・トヮ Iルネ I ︵ド・ラン︶が
一一四六年に執筆した﹃ランの聖マリア聖堂の奇跡﹄であって、第一巻第二章でパルテルミlの出自、親族および
略歴を述べている。もうひとつはバルテルミ 1 の死後一一六二年に、フォワニ i修道院で作られた、彼を中心とす
る親族集団の系譜であLTなおこれらの史料はすでにベルトラン・グネが分析しておkwy
本稿もその成果に立脚し
ているが、彼の関心は系譜史料の持つ政治的意味合いに向けられており、筆者のそれとは異なる。
こうした史料の中の意識を理解するためには、あらかじめ今日の歴史家が事実として確認している系譜関係と人
二世紀の初め、 ル lシ1伯ユ Iブル一世という人物が存在した。彼の妻ベアトリスはエノl伯の娘でユlグ・
の史料がいずれも、この家門とバルテルミーを関係付けているからである。
九ページの系図に整理した。この図ではル I シ1伯家という家門が系譜関係の中心になっている。それは上記二つ
的繋がりを把握しておくことが望ましいと考えられる。そのため、ここでの行論にとって重要な情報を選んで八、
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ラ γ司教バルテルミーの毅族と祖先
7
カペ 1 の孫に当たる。この夫婦は二人の娘をもうけ、そのひとりアデ l ルを要ったラムリュ伯イルデュアンコず世が
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ルI シl伯領を相続する。もうひとりの娘オヴィ Iドはジョフロワ・ド・リュミニ!という人物に嫁ぐ。なおエ I
ブルとベアトリスはその後、自分たちが教会法で結婚を禁じられた近い親等にあることを知って離別した。
ルはおそらくラシス大司教になり、ベアトリスは娘婿イルデュアンの兄弟マナセ l ・ラヌス・ショ lヴと再婚した。
この間に生まれたのが一一世紀末のランス大司教マナセーである。
イルデュアンとアデ l ルの間の子供のうち、長男のエ Iプル二世が母方の家門からル Iシl伯領を継いだ。彼の
子孫は一二OO年までこの伯領を継承している。次男アンドレは父方よりラムリュ伯領を継いだ。娘たちのうち、
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ベアトリス、 マルグリ vトはそれぞれノルマンディ!とイル・ド・フランスに、 エルマントリュ lド
デ l ルはいずれもロレ l ヌ地方に嫁いでいる。次の娘アエリスは、プルゴ l ニュ伯領の領主フ I ルク・ド・ジュ l
と結婚した。この間に生まれたのが、二つの史料の焦点となっているラン司教バルテルミーである。
末娘のフェリシ lは最高の上昇婚を遂げた。すなわち彼女はナパラ・アラゴン王サンチョ・ラミレスと結婚し、
アルフォンソ一世やラミロ二世を産んだのである。ここで注目すべきは、この姻戚関係がイルデュアン、 ア﹂ア l ル
夫婦の子孫たちをイベリア半島に強く結びつけたことである。ル lシ1伯エ lプル二世は一 O 七三年にサンチョ・
ラミレスを援助すべく、大軍を率いてピレネーを越えている。次男アンドレの息子のひとりユ lグは、この地で伯
になった。ノルマンディlのペルシュ伯に嫁いだ長女ベアトリスの子供のベルシュ伯ロトヮルーも、従兄弟に当た
るアルフォンソ一世の要請を受けてイベリアに赴いている。同じくベアトリスの孫娘マルグリットはナパラ王ガル
シア・ラミレスに嫁いだ。さらに一二女エルマントリュ 1ドの孫ベルトラン・ド・ランはイベリアに移住し、カリオ
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ン・デ・ロス・コンデスの伯となって、 フラガの戦いで戦死している。
次に、 エlブル一世とベアトリス・ド・エノlのもう一人の娘オヴィlドとジョブロワ・ド・リュミニ Iの夫婦
から生まれた子孫たちについていえば、その展開の場は主としてシャンパ l ニュ北部であるといえる。四世代後の
子孫の中には、 一二世紀末に王侯の系図をいくつか作成したことで知られる、 シャロン司教座聖堂の唱歌隊員ギ l
.ド・パゾ Iシュが数えられる。
さて彼らは一般にこのような親族関係をどれほど意識し、どの程度の連帯感情を持っていたのだろうか。イルデ
ュアン、 アデ l ル夫婦の子孫の場合は、 ナバラ・アラゴン王家の親族であるという意識が分校のそれぞれに保持さ
れていたと思われる。この意識がさらにそれらの分校を横断的に結びつける可能性も考えることができるが、明確
、 ジョフロワ夫婦の子孫にも関係するが、 エlブルとい
な証拠は欠けている。もうひとつの手掛かりはオヴィ lド
う名前である。 エlブル一世の孫の世代ではただひとりのエ lブルしかいないが、その次の世代では四人、その次
では二人、そのさらに次の世代にも二人のエ lブルを数えることができる。 一般にこうした特有の名前の襲名は親
族意識の表現とされていム噌しかし、 エIブルという命名がル シ
l i伯エ lブル一世、 エIブル二世の記憶に必ず
結びついているとは断言できない。それぞれの命名者にとっては、近親のエ Iブルのみが意識されていたかも知れ
ないからである。この問題にはいまのところ決め手がない。
このような事実を把握した上で、われわれは上記の二つの史料が持っている先祖意識の特性の検討に入りたい。
最初にエルマン・ド・トゥ 1 ルネ!の﹃聖マリア聖堂の奇跡﹄を検討する。まずエルマンはこの著作のパルテルミ
l宛献辞の冒頭を、 ﹁狽下が、 ご自身の伯母上フェリシ 1様の息子であらせられる高名のアルフォンソ王に会うベ
ラン司教ノミルテルミーの親族と祖先
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く、ヒスパユアに行かれたとき﹂と書きだし、パルテルミ 1のナパラ・アラゴン王家との繋がりを強調している。
バルテルミlの出自と略歴に関する叙述は第一巻第二章で行われているが、そこではまず﹁まことに彼の親族の令
名はフランキアのみならずヒスバニア、さらにプルグンディア、 ロタリンギア︿ロレ I ヌ﹀にも鳴り響いていた﹂
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と言明し、続いて彼の祖父母であるイルデュアン、アデ l ル夫婦から説明を始める。ラシス大司教マナセーも登場
するが、ここでは詳しい説明なしでアデ I ルの兄弟とされている。イルデュアン、アデ l ルの子孫たちについての
説明の中では、 アルフォンソ一世への称賛が目立っている。これによれば彼はつぎつぎと異教徒を破ってほぼヒス
パニア全土をうち従え、もうひとりのユリウス・カエサル、あるいはカ lル大帝の再来と呼ばれた︵!︶という。
その他の人物の説明では、教会人となったものへの言及が多いように思われる。
さてバルテルミ 1 の両親と彼の履歴についての説明は次のようである。フィリ yプ一世がフランス王であった頃、
プルグンディアの高貴な領主フ I ルク・ド・ジューは伯イルデュアンの高貴さを知って、彼にその娘の一人を泰に
迎えたいと申し入れた。しかしイルデュアンは、自分の娘をプルグシド人と結婚させる気はないといって、これを
拒絶した。その後イルデュアシがフィリ yプ王の使節の一人としてロ 1 マに赴いた時、 フIルクは帰り道に待ち伏
せしてこれを捕らえ、伯が娘を自分に与えると誓うまで彼らを解放じないと言った。伯が折れてこの願いを受け入
れると、 フlルクは彼らを解放し、多くの贈り物とともに故郷へ送った。伯はこうしてその娘アエリスをブルグン
ディアに送り、 フlルクに与えた。この夫婦の聞にはたくさんの子供が生まれたが、そのうち何人かはフランキア
で生活するようになった。
バルテルミーもその一人であって、幼少の時からフラ γキアに移り、母方の伯父エ Iプル二世のところに預けら
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れ、ランス大司教マナセーによって教育を受けた。長じてまず一フンスの聖マリア教会の参事会員、そこの財務官を
歴任し、次いでラン司教座の参事会員となった。そのころ彼の従兄弟であるグレルモン伯ルノ l ︵伯母マルグリ
トの息子︶ の妻であったヴェルマンドワ女伯のアデlルが彼と自分の親族関係を知り、ヴェルマンドワの聖カンタ
ン教会の財務官に任じた。こうしてバルテルミーは、 エルマンの言葉を借りると、 ﹁出生の高貴さ、 振舞いの正し
さ、財産の豊かさ﹂によって高名となり、 ついにランの司教に選ばれたという。
以上からエルマンがパルテルミlの親族について抱いていた、そしておそらくバルテルミl自身が自分の親族に
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次に﹃聖マリア聖堂の奇跡﹄から一六年後の一一六二年にフォワ一7
L修道院で完成されたと見られる、 いわゆる
フォワニ l系譜を検討する。すでに述べたようにバルテルミ lは一一五O年に司教職を引退して、自ら設立したこ
の修道院に入った。当時この修道院の院長を務めていたのは彼の姉妹エルマントリュlドの娘アエリスの息子ロベ
二人は自分たちの親族と祖先に関する調査を行っていたと思われる。バルテルミーはこの修道院の墓地に埋葬され
ールであり、ここにも女系を通じての親族の結合関係を見ることができる。おそらくパルテルミーが存命の時から、
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ついて抱いていたイメージを窺うことができよう。ここには父親フlルク・ド・ジュiは登場するが、彼の背後に
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ある男系の家門についての意識はまったく見られない。パルテルミ iは基本的にはイルデュアン、 アデ l ル夫婦に
始まる共系の親族集団の一員として捉えられており、そのなかでもアラゴン王アルフォンソ、
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二世、ランス大司教マナセl、ヴェルマンドワ女伯アデlルらとの繋がりが特に重視されているといえるだろう。
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ラン司教パ/レテルミーの親族と祖先
1
3
たが、その墓碑の冒頭には、﹁彼パルトロマエウス、 諸王の胤音、 諸侯の血統に生を享け、高貴の祖先より令名を
︵岨甜﹀
継ぐ﹂とあり、すでにフォワニ l系譜の内容が予告されているようである。
バルテルミlの死後もロベールはこの調査を続行し、その成果をフォワニ I系譜にまとめた。この系譜は資料調
査や広範囲からの聞き込みによって成立したものではあるが、そこにはまた情報の取捨選択における一定の傾向性
が存在し、結果としてパルテルミ l、 ロベールの親族、祖先意識の特質を窺わせるものとなっている。系譜は彼ら
エルマン・ド・トゥ 1 ルネ!と同じく、ラムリュ・ル l シ1伯イルデュアンとアデ l ルの夫婦の子孫集団に位
1グ・カペ I に逆上らせている。そしてユ Iグ・カベーに逆上りうるその他のさまざまの親子系統
これに対し、 ユlグ・カベ I の子孫とその姻戚の一部を示した二節以下は、ほとんどすべてが純粋の系譜記述で
グ家との縁戚関係についての説明がつけ加えられた。
の侯位継承、その息子ユ lグ・カベ l の国王即位などの事実や、 ロベール家とドイツのザクセン家およびカロリン
ロリング家のルイ︿四世︶ への王位継承までが叙述されていた。しかし少し後に欄外に書き込みがなされ、 ユ1グ
戦い、 ロベールの戦死、その息子ユ lグ・ル・グランによる態勢回復などを経て、ブルゴ l ニュ侯ラウ 1 ルからカ
国王即位、ヵロリング家のシャルル単純王の即位とその不人気、 フランク侯ロベールの即位とシャルル単純王との
的な説明がなされている。系譜成立時においては、 ロベール剛勇侯の対ノルマン戦争での戦死に始まり、ウlドの
冒頭の第一節は、系譜というよりも歴史叙述であって、カペl王朝の先祖ロベール家についての、きわめて好意
を平行的に書き加えているのである。
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置づけるが、さらにその先の先祖としてはアデ I ルの母でエノl伯女のベアトリス、その母でフランス王女のオヴ
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あって、﹁敬度なるユ lグ王はロベール王とオヴィ Iドという名の娘を生めり。彼女はエノ I伯夫人となれり。
ベール王はアンリ玉、ブルゴ l ニュ侯ロベール、 ブランドル伯夫人アデ l ルを生めり﹂﹁伯ルノ!の姉妹の内、ひ
て第五集団がもうひとりの娘アデlルと夫イルデュアンの子孫たちである。
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ル一世とベアトリスの間の娘のうちのひとりオヴィ iドと夫ジョフロワ・ド・リュミニlの子孫たちである。そし
たちである。第三はラムリュ伯イルデュアン三世の兄弟とされている四人の男性の子孫たちである。第四はエ lブ
一一の集団はル lシ1伯エ lブル一世の兄弟であるリエト I ・ド・マルルおよびイヴェ yト︵ユ lディ yト︶の子孫
次にこの系譜の登場人物は大きく見て五つの集団に分かれる。第一はロベール二世敬度王の子孫たちである。第
いう傾向が見られるのである。
人としての女性は記録の中で軽んじられているが、彼女が結婚によってこの集団に結びつけた男性は重視されると
同じくこの集団の中で生まれた女性が結婚した﹁外の﹂柏手に関する記述は具体的であることが多い。すなわち個
が比較的に多い。またこの集団の中で生まれた男性が、﹁外から﹂迎えた妻に関する記述は概して乏しいのに対し、
般に男性の名前は具体的に記載されているのに対し、女性の場合は﹁ひとりの娘﹂ ﹁一二番目の姉妹﹂といった記載
彼らを繋ぐ親子系統は男系の場合、女系の場合の双方が見られる。 つまりこの系譜は共系的性格を持っている。
まずこの系譜の一般的特徴を概観する。個人としてなんらかの記述の対象になっているのは三四O名ほどである。
といった形の文が延々と続く。
が要れり。三番目をボ lモン伯マチユが妻とせり。彼女よりいまひとりの伯マチユとその兄弟姉妹が生まれたり﹂
とりはイングランドにてチェシャ l伯ヒュ lと結婚せり。別のひとりをイングランド人リチャ Iドの息ギルバ lト
ロ
ラン司教パルテルミーの親族と祖先
1
5
五つの集団のうちで系譜の中心を占めるのは、もちろんパルテルミ!と院長ロベールが含まれる第五の集団であ
り、そのことは系譜の記述自体にも現れている。まず、この集団についての記事が最も量的に多く、詳しい。個人
として記載されたものは約一九O名におよぶ。さらに、第二節以下の系譜に現れるすべての個人の中で、この集団
に属する四人だけが多少の説明か︸伴って記載されている。 そのひとりはバルテルミlの母アエリスであって、
多の、しかし隠れた美徳によって輝かしき﹂と形容されている。バルテルミーについては﹁鳩のごとき淳朴を備え
たる息子、初めランス、 サン・カンタン、ラシの教会の財務官を歴任、次いでランの司教を務め、その後はフォワ
ニーにて敬度なる修道士たり﹂と記されている。あと二人はイルデュアンの第七女フェリシ!とアラゴン王サンチ
ハ混﹀
ョ・ラミレス夫婦の子孫である。まず息子アルフォンソ一世は﹁きわめて強力なる王﹂とあり、また孫娘の夫ラモ
ン・ベレンガルは﹁著名なるバルセロナ伯、休む間もなく異教徒を征討す﹂と付記されているのである。
このようなイルデュアン、 アデ I ル夫婦の子孫集団への帰属感とは裏腹に、 アエリスの夫、すなわちバルテルミ
ーの父フiルク・ド・ジューはこの系譜では名前すら挙げられていない。これはこの系譜における婿の名前の重視
という一般原則に反しているだけに、よけいに注目に値する。この系譜著作者のここでの関心は、バルテルミ!と
院長ロベールを共通の祖アエリスを介してイルデュアン、 アデ l ル夫婦に結びつけ、またそれを通じてかれらとア
ラゴン王家との親族関係を強調することにあった。フ1ルグとパルテルミーを繋ぐ男系家門の論理はまったく問題
その他の集団はどのような意味を込めてこの系譜に書き込まれたのであろうか。それぞれについて、ある程度の
父の家門を離れたかのようである。
にされてはいない。パルテルミlは生まれ故郷のブルゴlニュを去り、母方を頼って北東フランスに移ったことで、
数
1
6
推測は可能である。 ロベール二世の子孫たちの集団から検討して見る。 ロベールの長男アンリ一世の子孫としては
カベl王家、ヴェルマンドワ伯家などが記載されている。 ロベールの次男でブルゴlニュ侯となったロベールは名
前を挙げられているが、彼の子孫は一切記されていない。しかしこの侯家が存続していることを系譜著作者が知ら
な い は ず は な い 。 し た が っ て こ の 沈 黙 は 著 作 者 の ブ ル ゴ l ニュに対する関心の欠如を示すものと思われる。またフ
一一六二年現在の子孫に至るまで、この系譜に取り込まれている。した
ランドル伯家、 アングロ・ノルマン・アンジュl王家、ブロワ・シャンパlニュ伯家などは、 ロベールの娘でフラ
ンドル伯夫人となったアデlルを介して、
がってバルテルミ iおよびロベールが当時の北フランスの有力諸侯の親族であることを示すこと、が、この集団を記
載したことの目的であろう。
また、 ルlシl伯エlブル一世の兄弟とその子孫から成る第二集団、ラムリュ・ルlシl伯イルデュアンの兄弟
とその子孫から成る第三集団はユ lグ・カベーからの親子系統に直接の関係を持たないので、それらがこの系譜の
中に取り込まれていることはやや奇異な印象を受ける。 ル1 シ1伯家門とラムリュ伯家門は、系譜著作者にとって
特別な意味を持っていたのだろうか。それぞれについて、少なくとも部分的な理由を挙げることはできる。第二集
団ではエ lブル一世の兄弟リエト l ・ド・マルルの孫トマ・ド・マルルの存在が注目される。彼は一一一二年のラ
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ンのコミュ I ンに味方するなど、北フランスの教会人に多大の恐怖を与え、国王ルイ六世に激しく抵抗してついに
敗死した人物である o 彼 の 後 継 者 の 状 況 は ラ ン 司 教 区 の 教 会 人 に と っ て は 絶 え ざ る 関 心 の 的 で あ っ た の だ ろ う 。 さ
らに第三集団の場合は、パルテルミ!とかつてのランス大司教マナセ!との親族関係を明示しようとする意図の現
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ラン司教ノミノレテルミーの親族と祖先
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ス・ショ lヴを別にすれば、今日の研究では確認しえない。しかしこの兄弟たちに与えられたダンマルタン伯、ソ
ワ yソン伯などの称号はまったくの虚偽ではなく、イルデュアンの伯父たちが帯びていたものと考えられている。
おそらくこの家門の親族であったことが知られる有力貴族たちについて、正確な関係を明らかにできなかったため
に、すべてを兄弟として書き込んだのであろう。系譜著作者にとってラムロュ伯の家門は、大司教マナセーを除い
ては遠い存在だったようである。
最後に、この系譜がパルテルミ 1の先祖としてロベール家とユ 1グ・カベーを挙げていることの意味について考
えてみたい。親子系統を共系でたどる限り、ひとりの人聞にとって先祖とは無限に広がる集団である。もしバルテ
ルミーをイルデュアン、 アデ lル夫婦に結びつけるとしても、そこからル lシl伯家を男系で逆上る可能性もあり
うる。またアデ lルの母ベアトリスからエノ l伯家に逆上ることも可能である。それらの場合も女性を間に挟むな
らぽ、ドイツのザクセン家やカロリング家に先祖を求めることができる。それゆえこの系譜著作者は、意識的にユ
ーグ・カベーを選択したと考えなければならない。もちろんここでは、カベ 1家がフランスの王家であり、しかも
その威信は一二世紀後半の北東フランスで次第に増大しつつあったということが最大の理由であ一物すなわち、共
系の論理に従うならば先祖は選択されるものであり、その選択は個々の貴族が置かれた政治的社会的状況によって
左右され得たのである。
さて、これまで観察してきたラン司教バルテルミ lの親族、祖先意識の事例は、封建貴族の親族関係一般につい
四
18
ての見通しのなかでどのように位置付けられるべきであろうか。
まずイルデュアン、 アデ I ル夫婦の娘フェリシiの結婚が、この夫婦の共系の子孫全体にアラゴン王家の親族と
しての大きな社会的威信を与えたことは、 エルマン・ド・トヮlルネlの著作やフォワニ i系譜の言及から容易に
推定される。またこの姻戚関係が、この集団の構成員にイベリアにおける利権獲得や冒険の契機を与えたことは、
いくつかの事実から確認される。他方でフランス在住の構成員相互においても、教会人となった子弟たちの教育と
昇進に関わってさまざまの協力がなされているのである。このことはドミニク・パルテルミlの共系関係について
の見通しと合致する。貴族にとって、家門意識は常に本拠地である支配圏への意識と結び付いている。しかし彼ら
の活動はその支配圏の内部に限られるわけではない。彼らは他の家門との親族関係のなかに威信と冒険の機会を求
め、またこうした親族のなかに同盟者、協力者を求める。そして、このような親族関係こそが貴族の諸階層を感情
的に結び付け、貴族階級全体の連帯を強めるひとつの要素となるのである。
したがって家門意識と共系的親族意識は相互に排除し合うものではない。 エルマンが描いたラン可教パルテルミ
ーの親族像では父方の家門が欠落しているが、この場合にはやや特殊な事情がある。すなわちブルゴ I ニュに存在
ずる父の家門は、北フランスを活動舞台とした彼にとっては、大きな意味を持たなかったのである。彼が多少なり
とも自分を帰属させている家門は、 ル1シl伯家ということになろう。
しかし多くの封建貴族にとって、身の回りの人間の口承と記憶に頼る限り、先祖の認識は限られたものだった。
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ドミニク・バルテルミ iが挙げているランベlル・ド・ワトルロの場合、確実に名前を知っている最古の人物は父
方では祖父の親族でワトルロ家門の創設者と見られる男性であるが、母方では祖父母までである。ラン司教バルテ
ラン司教ノミノレテルミーの親族と祖先
1
9
ルミ I の場合も、 エルマン・ド・トゥ I ルネ 1は、母方の祖父母であるイルデュアン、 アデ l ル夫婦までしか逆上
っていない。おそらくこの時点では、祖父母より上の先祖についてはバルテルミ l自 身 も 断 片 的 な 知 識 し か 持 ち 合
わせなかったのではないだろうか。
幾世代もの過去の先祖と、彼らから発して拡大している傍系の親族についての系譜的知識は、なんらか特別の研
究の産物である。しかし系譜構成の論理自体は、貴族の日常的な先祖、親族意識に即応せざるを得ない。さて二一
世紀に作られた系譜と系譜文学の大部分は、確かに家門の意識に対応し、その枠に沿って先祖を求めている。しか
し、個々人を出発点とし、その政治的、社会的条件に基づいて先祖と親族を選択するような系譜も少数とはいえ存
7 系譜の外では、ギ l ・ド・バゾ l シュの系譜がこうした特性を持ってい一明
在した。本一摘が取り上げたフォワ一
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