Comments
Description
Transcript
GKH016808 - 天理大学情報ライブラリーOPAC
「ブザンソン 事件」 (1157 一 58 年 ) ほ ついて 山 1. は じ め 本 伸 二 に 1157 年 10 月下旬, フリードリヒ 1 世 ・バルバロ,サは,ブザンソソ で帝 国会議を開催した。 前年 6 月にブルバント 伯の相続人ベアトリクス と 結婚 した彼にとって , この帝国会議は ,皇帝の名によってこの 地域に確固たる 地歩を占めるための ほ なやかな舞台装置であ った。 ところがⅠフリードリ ヒの事績』 (以下, r事績』と略記 ) において著者のう ところによれば , 件やその処理を 扱 「しかしながら,私の報告は , う 一ェ ヴィンが語る この地域のさまざまな 要 まえに,教皇ハドリア ヌスの特使について , どのよ う な 目的でやって 来たのか, またどのように 立ち去ったのかを 述べなくて忙 ならない。 なぜならその 問題は非常に 重要で意味のあ ることだったからで あ る。」という「事件」が 出来する。 教皇特使によって 持参された教皇 ドリア ヌス 4 世の書簡の中の「ベネフィ キウム bene 解釈に端を発し ,皇帝権 impenium り Ⅱ・ " Cmum 」という語の と教皇権 sacerdotium の関係のあ 方について,教皇特使と 皇帝側の人人の 間で激しい対立が 生じたのであ る。 そして, この事件は, これまで二つの 視点から注目されてきたといえ よう。 一つは, 1159年におきたシスマを spektaku 苗re Vorspiel 」 (W. 予見させる「はなばなしい 前哨戦 das ハイネマイア 一 ) という位置づげであ る。 バルバロッ サと 教皇との本格的対立が ,ハドリア ヌス没後のシスマであ たことは言をまたない。 ハドリア ヌスの時代に教皇庁尚書院長であ ランド ゥスがアレクサンダー 3 っ ったロ 世として,一方,親 皇帝派の司祭枢機卿オ クタヴィア ヌスがヴィクトル 4 世として,それぞれの 正当性を主張したの 天理大学学報 130 であ る。そのロランド ゥスが ブザンソソ を訪れた教皇特使の 一人であ った こと,彼と激しく 対立したのが 帝国力 ソッラ 一で教皇への 強硬策の推進者 たるライナルト・フォン・ ダ ,セルであ ったことは,シスマという 来たる べき嵐を告げるものであ ったといえ よ う もう一つは, 「皇帝理俳」の形成という視点からの 評価であ る。バルバ ロッサ の「皇帝理俳」は ,教皇をはじめ ,ローマ市民,ビザンツ 皇帝とい った「覚部からの 刺激」に対するリアクショ ることが多いが , バル " う 「 ソ として表明され 形 づくられ 「ブザンソン事件」も例覚ではない。 この事件に関して ロッサがだした回章や 書簡には, 「皇帝に対する教皇の優位」とし 教皇側の主張に 対して,マニフ ,ストというべき 見解が打ちだされた。 二剣論」をふまえつつ ,みずからの 皇帝 ( 国王) 権 の理論的基盤が ,教 皇を媒介としない 神との直接的結びつき ,および諸侯による 選挙にあ るこ とを表明したのであ (4) る。 いずれの視点に 関心を寄せるにせよ , この事件がバルバ ロ , サ 治世初期 の注目すべき出来事であ ることは疑いない。 しかし,その 派手な装いのた めか, 1158年 6 月の一応の終結までを 射程におさめてその 全体像を明らか にし,そこからこの「ブザンソン 事件」がバルバロッ サ の政策に占める 位 (5) 置を考察する 試みは,かえって 十分になされていないように 思える。 本稿 がこの事件を 検討の対象とする 理由もそこにあ る。 考察の手順として ,まず,皇帝と 教皇の双方がこの「事件」を 記した書 簡や文書を中心に 事件の経過を 述べる。 ついで両者の 争点となった / 宮殿の絵 と賛, bene 且 ラ テラ lCium という語の解釈について ポ イソトを整理し , 教皇がロータル 3 世以来の皇帝に 対してとってきた ノーヱソ制 的関係にも 似た「教皇の 優位」のイデオロギー と ,それに対するバルバロッ サ の「皇 帝 理念」を分析する。 そしてその「皇帝理俳」の 主唱者を追求するという 作業をおこ なう 。 最後に, 「ブザンソン事件」が具体的な 政治問題でもあ ったことをふまえて ,その「皇帝理俳」の 主唱者がこの「事件」において 果たした役割を 跡 づ げてみたい。 本論に入る前に , 「ブザンソン事件」に関する 史料について 簡単に述べ ておきたい。 この事件は,同時代史料に 比較的恵まれているバルバロッ サ 「ブザンソン 事件」 の治世初期のなかでも Cl157 一58 年) について ,かなり詳しく 知ることができる。 その主たる情報 源は ,前述のⅠ事績』の 第三巻であ る。師 オット @ フォン・フライジン ・ グの後をひきついぞ 131 う一ェ ヴィンによるこの 巻は, 全 59 章のうち nl 章が 「ブザンソン事件」を対象としており , 1158 年 6 月にアウグスブルクで 結 着がつくまでの 状況をかなり 詳細に記している。 そして, この叙述は, MGH C0nst. I. に, Controversia 「ハドリアヌス 4 世との論争 cum Hadriano IV. とし 標題の下に収録されている 6 通の書簡,すなわち 「教皇の書簡 Litterae pontiHcalis (以下, 「教皇の書簡Ⅰ」とする ), (8) 「皇帝の回章 Encyclica imperatoris (8) 」,「ドイッの 聖職者へのハドリア 」 ぅ 」 Hadriani ヌス 4 世の書簡 lV. ad episcopos Germaniae epist0la」 (9) (以下, 「教皇の書簡Ⅱ」とする), 「ハドリアヌス 4 世への 1 ドイッの コ 聖職者の返書 Responsum episcoporum ad Hadnianum IV. 」 (以下, (10) 「聖職者の返書」とする ), 「ドイツの聖職者への皇帝の返書」 「皇帝の返書」とする), 「ハドリアヌス 4 世の弁明の書簡 (以下, Hadrja ㎡ IV (12) litterae excusatoniae 」 (以下, 「弁明の書簡」とする) といった,いわ (13) ば 「公文書」を採録していることにも 仕 目しておきたい。 註 (1) 「この都市に ,その地域のすべての 実力者が,また百一%大, アプリア 人, トス ヵナ人, 人, スペイン人 といった他の 地域からの代表者が , お祝いのために集まり, ヴェネツィア 人, イタリア人, フランク人, イングランド 皇帝の到着を待っていた。そして彼は,盛大な 華やかさと厳粛な歓喜によっ て迎えられた。 」 0 れ lo)@@sebiscopiFn@s@@tee 附加ぬ磁 l@ewi@@iGesta Frederici Cronica, ed. F. 田. Schmale, sel6 rec 肋俺 と田続め , 111. 10 . Deutscl@el@ Reich8s 主たる出席者は , は 舵6r Darmstadt H. l965 (以下,Getsa Sim]ol]sfe.ld, ノ0カグ Oitc 乃ぴ Friedric ゎ I. j. l152 bis l158, ND des Berlin 1967, S. 5f65f.に列挙されている。 なお,以下の引用文中,[ コは筆者。 (2) もちろん,たいていの叙述は , この二つの視点が 適当に配分されてなさ れている。 たとえば,W. 115g, Wien Madertoner, Dル zlu@esPalti 耳 8 Pa タ蕊 ・ (3) ルク 加みl?s 四ヵ res l978, S. 2L52. たとえば,U. Sch 血 dt, KO?@ ぽsivalrl @@@@d T ん ironfo㎏e t@@@ J2. (4) ルれ,Wien 乃 @l?@ ノ K ㎝n 1987, ノ 0ル - S. 154-161. バルバッロ , サの 「皇帝理 念」については, さしあ たり, H. Appe@t, Die Ka 穏 eridee Friednch 天理大学学報 132 a B Ⅱ barosSas, F グルカバ C乃 B り in : 1975, (初出は,SB zl Ⅲ @ S Ⅰ crl 研 @ (5 ) De Ⅰ Ⅱ V .H Ⅰ Ⅰ ぅ乙 /0s54, hrSg. l967) S. 208-244 Wien りゆクバ Ⅲ 刀 , W ien/1 く 6ln/Graz e血 emeyer, "bene Streit auf dem (以下,A Ⅰ D 且 cium R 目 chsta 珪 zu Ⅴ. G. l972 包括的に扱っている。 彼は,5. 155-160 sed l157, 祈め 15 (1969), S. 155-2S6 と冊 a D Ⅱ n]s ad ヒ 仁 を参照せよ。 no Ⅱ feudum Besangon Wolf, G. Koch, A @げ de 川 ℡ege ; bonum A c乃肋 Ⅰ 士 actum ". /i&/ DiPlo 川 Ⅰ ォ沈 が,「ブザンソン 事件」を において,研究史の 概観を試みて ライナルトについての 基本的文 いるが,合ひとつ論点の整理が明確でない。 献である R. M. Ei,ab@schof Grebe, Her Studlenzur B0/60/0530 Ⅰ lenrath, Rei)7aは ん phil. geistigenWelt , hrsg. /ljSfot.isc/l 初 ヒ KO ㎞, Ungedr. von v. G. Wolf, ひ on Diss. ぜ Graz 1962, S. 85 一 1106; W. in: F7, ル drfch RainaldsvonDassel, Darmstadt e7.g@@@s / @ァ de@l Dass が. Rei 研毘a@@zier Ⅲぱ l975 (初出は,A?@?@0/e@i ルS Ⅳiede ㌃ 抽ei?@ 171 (1969)), S. 287 づ96 における叙述も,「事件」の 前半が中心であ る。 最近の概説書では, H. Booc Ber (6) Ⅱ Ⅱ mann, S ね @@ア erze 打 l@7l4% 伽es n 1987, S. 95 叫8 M 「 tfglロⅠ ね r. De@lfS研l0 は ク Ⅰ は5目5j/, が,比較的詳しい。 この意味では ,本稿は,拙稿「バルバロッ サの「国王選挙通告」一一 そ の 起草者をめぐって 」 下天理大学学報』 165 (1990) の続編である。 (7) MGH Const. l. Nr. 164 (=Gesfa (8) MGH Const. l. Nr. 165 ( 二 Gesfo I11. 13). (g) MGH Const. l. Nr. 166 (=GesfQ (10) MGH Col)st. l. Nr. 167 (二 Gesfo I11. 20). (11) この書簡は「聖職者の 返書」 (前註を参照) に挿入されている。 MGH Const. l. Nr. 168 (-Gesfo I11. 26). (12) れ3) ラ ーエヴィ ll1. 11). II1. 19). ソ は次のように 記している。 「この混乱の 時代に,いたると ころで流布していたさまざまな 書簡の写しを, 私はこの作品に挿入した。 示そうと思っているすべての 読者が心 [皇帝か教皇かの] 一方の側に好意を , どちらの側に自分の好意を 向けるかを自由に を動かされ,また魅せられて また同様の趣旨が , Gesfo I11. 19 にも 選べるように。 」 (Ges 屋 I11. 10). 述べられている。 むろんオット一を介してのう 一エヴィンと バルバロッサ の 関係からすれば , ラ ーエヴィンの言う「客観性」をそのまま 信じるわけには いかない。しかし,バルバp , サ仁近い立場の他の同時代史料,たとえば Carmen de gestis Frederici I. imperatoris in Lombardia していない「ブザンソン 事件」をあえて沈黙せず, などが言及 「公文書」を 用いつつ, 何よりもまず事実経過を述べていくそのスタイルは ,それだげに,神学的教 るいは二つの 国の歴史』で有名なオット一の執筆部 養に富み, 丁年代記,あ 分 よりも,意図的な 歪みはまめがれているといえるかもしれない。 たとえば, オット一が記した " ルバp , サの国王選出についての 叙述 (Gesta 1-2) I. 71, 11. は, よく引用されるけれども ,そのまま受け入れるあげにはいかない。 「ブザンソン 事件」 (1157 一58 年) について 133 拙稿「フリードリヒ1 世 ・バルバp , サ の国王選出 (1152 年)」『西洋史学 ] 163 (1991) を見よ。 n事績』のう一ェヴィ ソ の叙述については , F.-]. Schmale, Einleitung, 面 : Gesta, S. 26-48. 特に「ブザンソン事件」につ いて@T S. 38-42 を見よ。また, Heinelneyer, oP. c几 ・, S. 160f. TT. 「ブザンソン 事件」の経過 では, 「ブザンソン事件」の経過を , "し 『事績』の叙述を中心に述べてお う 。 「経験の豊かさ,識見の確かさ , また影響力によって 際立っており ,そ の名声においてローマ 教会のほとんどすべての 人々を凌駕していた」二人 の教皇特使,すなわち 司祭枢機卿でかつ 教皇庁尚書院長たるロランド ス, タ 同じく司祭枢機卿ベルナルドゥ ス が ブザンソソ の帝国会議にやってきたの は,教皇" ドリアヌスの盟友であ ったデンマーク 王国の ル ント大司教ェス キルが, ローマからの 帰途, ブルバ ントで捕われの 身 となったからであ っ (1) た 。 彼らの持参した「教皇の 書簡 1 」は,まずエ スキルを襲った 卑劣きわ まる「悪をなす 者の末 商 ,堕落せる 子ろ 」を厳しい調子で 非難する。 続い てかかる事態を 供 手傍観しているバルバ p " サに 批判の矛先を 向け, 「善 を愛し悪を憎む 者」として彼が 立ち上がり,神をも 恐れぬ不運の 輩を厳罰 (2) に処することを 強く要求した 後, 「輝かしい息子よ,あなたははっきりと 想い起こさなければならない。 」 とよびかける。 そして,戴冠を 実施した こと, さらに「より 大きな べ ネフィ キ ウム」を与える 用意があ ることを述 べ,最後にこの 書簡を持参する「その 敬虔 さ ,思慮深さ,廉潔さにおいて 他を圧している」二人の 特使を紹介し , 彼らを丁重に 扱 うように申し入れ ている。 「この書簡が, カンソ ラ 一のライナルトによって ,かなり正確な 翻訳で (4) 慎重に解説された 時,激しい怒りが 居 あわせた人々をとらえた。 」 そして 彼らは, ラテラノ宮殿にあ るロータル 3 世を描いた絵を 頭の中に想起して (5) ざわめぎ始めた。 すると特使の 一人がその雰囲気に 挑むかのように , 「 教 皇からでなくして ,いったいだれから イムペ リウムを受け取るのか ? 」と 言ったところ ,宮中値の オット一は , 剣を抜いてその 特使の首につきつげ た。 一触即発の状況になったその 場はバルバ l-r, サ によってともかくもお 天理大学学報 134 さまったが,二人の 特使は,翌朝ただちにローマ ヘ 帰ることを命ぜられた (7) のであ る。 バルバロッ サと ハドリア ヌスは,ただちに次の 行動をおこした。 それぞ れ「皇帝の回章」と「教皇の 書簡Ⅱ」において ,みずからの 見解をまじえ つつ, 自己の立場からこの 事件をドイツの 諸侯に報告したのであ 「皇帝の回章」は, まず, 「聖なる教会の長」から不和や る。 悪の原因が広 まっていることを 嘆き,傲慢と己惚によって慢心した 教皇特使を非難する。 そして「ベネフィ キ ウム」という 語については ,皇帝だけでなく 列席して いたすべての 諸侯が憤ったこと ,特使の荷物の 中から, 「教皇の書簡 1 」 と同じ趣旨の 多くの書簡, まだ内容が記されていない 押印された紙片が 発 C8) 見されたので , 「来た時と同じ道を通って」 戸 一%ヘ 帰るよう命じたこと を記している。 続いて「 ルカ による福音書」第 22 章 38 節における「キリス ト受難の際の二振りの 剣 」をふまえて ,再度「ベネフィ て教皇を批判した キ ウム」に言及し 後, 「都市ローマの建設以来,またキリスト 教の確立以 来今日まで,栄光に 満ちて傷つくことなく 存在してきた 帝国の名誉が ,前 代未聞の事件と 不遜ともいうべき 思い上がりによって 損なわれるというこ とを,あ なたがたの確固たる 忠誠心が黙認しないことを 望む。 と傲をと 」 て し て 仝 ク市 ロ し 決意 と ,むしろ我人は 歴 @ 披 を ハ ナツ と る ﹂ で, し ま カ る あ ょうな混乱の屈辱を 耐えるぐらいなら 方 す 面 直 の ㏄る 険 危 ︶。 死い ばし,最後は「この 一方, ドイッの聖職者にあ てた「教皇の 書簡Ⅱ」は, 「我々は深い悲し みなしには語れないのだが ,我々の忠実な 息子たるローマ 人の皇帝フリー ドリヒが,その 前任者たちの 時代においても 聞いたことがないようなこと をしてしまった。 」 と嘆き, 「ベネフィキゥム 」の問題に軽くふれた 後, 二人の教皇特使が 屈辱的な扱いを 受けたこと,帝国の 人間は教皇座を 訪れ dIot てはならないという 勅令を発布したことを 厳しく 各 めている。 そして「皇 帝がかかる措置をとったのは ,あなたがた [ ドイツの聖職者コや 諸侯の助 言によるものではないことに 大きな慰めを 感じている。 」 と述べる一方, 聖なるローマ 教会に対して 恥 ずべき誹議中傷をおこなった 帝国力 ンツラ 一 のライナルト と 宮中値オット 一の謝罪を要求している。 末尾は「あ なたが たも御存じのように ,あなたがたの忠告なしにあ の厄介な道を 歩んだのは (1157 一58 年) について 「ブザンソン 事件」 彼 [バル "p 135 にふさわしいことではない。 それ故に,我人は ,彼が ッサコ あ なたがたの警告に 従えば,賢明な 人間でかつ正統たる 皇帝として,いと も容易に, より実り多い , より理性的な 課題に立ち返ることができると 信 じている。 と締め括られている。 」 バルバ ロ , サからは「皇帝の 回章」を,ハドリア ヌスからは「教皇の 書 簡 Ⅱ」を受け取ったドイツの 聖職者は, 1158 年 1 月中旬に ノー ゲンスブル クで鳩首協議を重ね ,ハドリア ヌスに「聖職者の 返書」を送った。 そのな かで,彼らは 教皇と皇帝との 間で深刻な禍の 原因となりかねない 状況が惹 起していることに 当惑 じ鍔然 としていることを 告白し,ハドリア めに従ってバルバ ヌスの勧 ロ,サに助言をして 得た「皇帝の 返書」を紹介している。 「それによって我人の帝国が 治められなければならぬ 二つのものがあ るⅢ (13) というゲラシ タ スの定式の引用で 始まるその書簡は , 帝冠 と国王選挙につ いての考えを 格調高く述べる。 そして「我々は ,帝国のすべての 教会を悩 ませて傷つげ , またほとんどすべての 修道院の規律を 抹殺して葬り 去って しまう権 力の濫用には ,断固として 立ち向かう用意があ 対決姿勢をみせ ,最後に, ラテラノ宮殿にあ る。 」 る月一タル 3 と教皇との 世についての 絵 と賛の撤去を 要求している。 引き続き, 「聖職者の返書」は,ハドリア 1.l4、1 ヌ スが シチリア 王 グリエル モ 1 世との間に結んだべ ネ ヴェント条約などにつ いて皇帝自身から 聞いたということを 記した後, 「我人は,教皇睨下に, 我々の弱さを 寛大に扱い, この前の書簡 [「教皇の書簡 1 コを 友好的な穏 」 やかさで和らげる 書簡によって , ょき羊飼いのようにあ なたの度量あ る息 子をなだめていただくよ う, 心からお願い 申し上げます。 と結ばれてい 」 くⅠ 55 る。 この書簡を受け 取ったハドリア ヌスは態度を軟化させた。 ドイッの聖職 者たちの勧告に 従って, 「弁明の書簡」を,二人の教皇特使,司祭枢機卿 (t6) ヘ インリクス と 助祭枢機卿 サ キンクト クスに託したのであ る。彼らは,「 教 皇の書簡Ⅱ」で 糾弾されていた , し, ライナルト と オット一をモ ーデナ に訪問 自分たちの「帝国の 平和と名誉に 関する任務」を 説明した後,バルバ (17) p , サが 陣をはる アタ グスブルク ヘ 赴いた。 「弁明の書簡」の朗読と翻訳 を委ねられたのは , 「 イムペ リウム とサケルド ティ ウムの争いに深い 憂慮 の念を抱いていた」オット (18) 一・フォン・フライジンバであ った。 その書簡 天理大学学報 136 「ベネフィキウム bene は, く説明し, 「あ Ⅱ・ CmUm 」という語を ,その語の構成から 詳し なたとあ なたの聖なるローマ 教会との開化こ 不和の種がもは や 残らないように」望むという 内容であ った。 さらに二人の 特使が, 「 教 皇は決して国王の 品位を傷つけず ,帝国の名誉と 権 利を常に損なうことな く擁護する。 と述べたので ,バルバロッ サ は,教皇とローマの 聖職者 す 」 (20) べてに平和と 大好を約束した。 「ブザンソン事件」はここに 一応の終結を 迎え,バルバ 0 ,サは, 彼に とって豊かな 収穫をもたらした 第二次イタリア 遠征に出発したのであ る。 -生 (l) Gesfall1. 10 .ただし, ラ ーェグイン自身は「彼らが 派遣された理由は , 誠実なもののように 見えた。しかし,その 下にはあらゆる禍の原因と 契機が , エ スキルの件 自体に 隠されていたことがあ とで判明した。 と記すのみで 」 ・ ついては語っていない。 それは,後述するように ,「教皇の書簡 I 」で初めて 明らかになる。 なお,J. Bachmann, D わ加 Psfli 研囲 Le 幽 ね乃 肋 D8ritsc几 la@d l{@zn Sc.a@ ㎡ 研簾ie@@ (1125-ff5g) Munz, Frederic 1969, pp. Bar,barossa. ん 140f. A ND Berlin l965, S.126-128; P. Stl(dy tw Medievof Po7itics, London も見よ。エ スキル,ブレーメン大司教 " ルト ヴィ ヒ ,ハイ ヒ 獅子分の姉者は , 錯録した利害関係にあり,バルバp ,サもそれには 少なからぬ関心を 寄せていた。Grebe, (2) op. cjt., S. 2Rgf. これほど頑強に エ スキルの件について 早急な善処を促しておきながら , 後の「教皇の書簡Ⅱ」,「弁明の 書簡」では,全く言及がない。このことから , 特使の真の目的は 別のところにあったという見解もでてくる。 Heinemeyer, oP. c圧, S. 176f. また後詰(8) を参照せよ。エ スキルの件への 言及がない という点では ,皇帝側の「皇帝の 回章」,「皇帝の 返書」, さらには「聖職者 の返書」でも同様である。 なおエ スキルはlLW8 年 4 月 18 日にはかントにいた ことが確認される。 (3) MGH Const. l. Nr. 164. (4) 厳密にいえば, ラ ーエヴィンは,ライナルトが bene 廿 lnium を fendnm ( レーニン ) と翻訳したと明言はしていない。 それを明確に述べているのは , この言葉を feudum と 『ケルン国王 午代記] である。 「皇帝の翻訳者は verbum pro feodo interpres cesari interpretatus est Ⅱ 訳した。Hoc Chronica re la Coloniensis, Recensio I. ed. G. Waitz, MGH SS. rer. Ger 川 . (18), 5, 94. (5) P ランドクス とする見解が 多いが nal R 引 and p. l21 and BesanCon, . たとえば,W. U mann, Ⅱ MtSc8f ね彬a Hiistor佃 Po)zt@ d@ 同定はできない。 ・ Cardi, 18 (1954), (1157 一58 年@こ ) ついて 「ブザンソン 事件」 (6) A (7) Ggsfa II1. 12. quo habet, ergo si (8) a dom]no papa 137 habet ilnperiu@n? non 「それら [書簡と紙片 によって, 彼らは それはこれまで 彼らの習 償であったのだが一一ドイッ 王国のすべての 教会の上に不正の 毒をふりまき, コ 祭壇を破壊し,神の家の祭具を 運びだし,十字架を 奪おうとしたのであるⅡ という叙述から ,特使がブザンソンからドイッ 内の教会や修道院を 訪れる予 定であったこと,その目的が,ドイツからの 経済的収入への思惑を含んだも のであったことが推定される。 Munz, oP. cif., p. 186f. (g) MGH Const. l. Nr. 165 ( 二 DF. l. 186). (10) 裏付ける史料はない。 バルバロ ッサ 自身, 「皇帝の返書」で 否定してい る。 (1l) MGH (12) DF. I. 201, 202. Co Ⅱ sst. Ein Staatsmann l. Nr. 166. W. FOhl, Bischof Eberhard Fliiedrichs I. als Verfasser vo@) II. Bam)berg. von Briefen ul]d Urkun. den, 』切れ 刀肋仰 ge んガ es I解 ssん加ぬ fU か Os 鹿 ㌣乙 C乃仏 c乃 e8 Gesc 力 iiCん於ア Ⅰ rSc 乃 @研ど (以下.MIOG 各記 ) 50 (1936), S. と田 Stil 廿 buneen". EinDen@malderFr Zwveiter Te Ⅱ, AfD げ 120 ; N. HOing, Die "Trierer hzeitKaiserFriedrichBarbarossas, 2 (1956), S. 157, bes. Anm. 451. (13) 本稿 147 頁を見よ。 (14) 本稿 153 頁,参照。 この条約の締結には , はたらいていた。H. Enzensberger, Zur@ der@ Ki Vertrag chenpo@ von A4@ff 棚田加乃 tk@ Benevel]t (以下,DA Const. normani Der p ランドゥス の意向が大き "b6se" chen@ Konige@ (l156), Delltsc乃 tes A.rc und von@ 几 "gute" Wlhelln Si ilien@ nach@ dem iiv f れ fr Er/fiorsc加 l@lS d ク S と略記) 36 (1980). S. 396-402 (15) MGH (16) G ㏄ 肋 111. 21. 助祭枢機卿サ キ ソ l. Nr. 167. クトゥスは, 後の教皇ケレヌ 、 ティ ヌヌ、 3 世 (在位1191 円 198)0 (17) Gesta II1. 24. (18) Gesta II1. 25, 26. (1g) MIGH (20) Gesta rlr. 27. Co@]st. l. Nr. 168. I11. 「皇帝に対する 教皇の優位」 1 . ラテラノ宮殿の 絵 と賛 前章で述べたその 経過からも知られる ように, 端は , 「教皇の書簡 1 」に記されていた という語の解釈であ 「ブザンソン事件」の 発 「ベネフィキウム った。 その部分がライナルトによって bene Ⅱ lCium 」 解説された 時, 天理大学学報 138 なぜ居合わせた 人々が憤りを 感じたのか。 まずその点から 検討してい きた ラ 「 ーェ ヴィンは次のように 記している。 二 ,三のローマ 人によって , 少しの思慮もなく ,我々の国王は ,教 皇の賜物によって 都市ローマとイタリア 王国の支配権 を有しているの だとい 5 主張がされていたこと ていた このことを居合わせた 人々は知っ ,彼らがそれを 絵と 賛によっても 表現して後世に 伝えてい たこと,かかる 事 清によって人々は ( 「教皇の書簡 1 」の コ これらの 言葉を厳しく 受けとめ,前述の ( ライナルトの 解説を信頼するとい コ うことになったのであ るⅡ そして以下のように 続ける。 「ラテラノ宮殿のあ る絵には,その 上部に皇帝 口 一タル (3 世 コはっ (2) いて次のような 賛が記されている , 王は門の前に 来たりて, まず都市ローマの 名誉を [守ることを コ 誓 い,ついで教皇の 臣下となりて ,彼から帝冠を受く。 (3) 先年ローマの 近くに滞在した 時,皇帝は帝国の 忠実な臣下によって の絵と賛の存在を 知った。 それは彼の感情を 逆撫でするものであ こ った。 友好的な調子で 抗議をした後に , 彼は,かかる 些事がこの世の 最も高 貴な人々に不和と 抗争の契機を 与えることがないように , この賛は絵 とともにただちに 撤去されるという 約束をハドリア ヌスから得たとい うことであ る。 」 (4) また「皇帝の 返書」にも, この絵と賛についての 叙述があ る。 「世界の首都において,神ほ帝国によって 教会を高からしめている。 しかるに今やその 世界の首都において と我人は信じているが それほ神によるのではない 帝国が破壊されている。 それは絵から 始ま り, 絵から 賛 へと進み , 賛からついに 権 威になろうとしているⅢ ラ テラノ宮殿のニコラウス 礼拝堂にあ ったその絵は 現存していないが , 世紀の Onofrio されている Panvinio (1529-1568) という人物の 命による模写が 残 以下の叙述においては ,次頁の絵を 参照せよ。 第一景では,頭になにも 戴いていないロータル 上に手を置 き , 16 3 世が教会の前で 聖書の ローマ市民に 対して誓約をおこなっている。 かの賛の「王 は門の前に来たりて ,まず都市ローマの 名誉を [守ること 幻 誓い」とい (1157 一58 年) について 「ブザンソン 事件」 く第一景ノ 出典 :P. E. Schramm, 7Sl 白fIg0 , Dわ deerltsr庇れ Ⅹ ロ isp,「 れ @zd M 廿 S9 く第三景ノ く第二景ノ hrsS. v. F. Muthench, Ⅰ nchen K 6%@ee l983, て inB S. 452, ガ 加川 肋 WrZe Abb. 198a. た 2 本の 縦の実線は,筆者による。 う 部分に照応する。 第二景 は 「ついで教皇の臣下となりて」に 相当する部 分であ るが,正装と ねばしき服装で 教皇 座 についているイン ノダ ンティ ウ ス 2 世 と, 彼に対して少し 身をかがめているかのようなロータル 3 世が描 かれている。 第三景は,皇帝戴冠のための 衣装をまとった 口一タル にイン / ダ ンティ ウスが帝冠 を授けており , 「彼から帝 冠を受く。 」 という最後 の部分を示していると 推定される。 ラ ーェ ヴィ ソ の記すところによれば , の オリジナルを 人心は想起し , 当頁の絵を, より正確にはこの 絵 「ベネフィキ ウム」を ノーェソと 解釈した ライナルトに 同調したことになる。 この絵については ,当時の代表的思想 家 ゲルホー ホ ・フォン・ライヘルスベルクも 言及しており ,かなり知られ た 存在であ _ と ったと思われるが ,問題となるのは 第二景であ る。 なぜなら 第 景が示す「ついで 教皇の臣下となりて」というような 関係は, ロータル インノケンティウスとの 間には事実として 確認されないからであ る。 し かし, p 一タ ル がイン / ケ ンティ ウスに対して, レーエン 的主従関係を結 んだという風評を 生む素地は推定できる。 まず, 1131 年, 会見の際に, いわゆる omcium stratonis et strepae リエージュでの 教皇が乗った 馬の手綱をとり ,彼が下馬の 際には鐙を支える 奉仕一一を, ロータルが お 天理大学学報 140 (8) こ なったことがあ げられよう。 しかし,それ 以上に注目されるのは , 1133 年, ロータルの皇帝戴冠から 4 日後の, トスカナ辺境伯マティル ダの遺領 問題の解決であ る。 1115年にマティル ダが亡くなって 以来,その遺領の 帰 (9) 属は,皇帝と 教皇の係争の 焦点の一つであ った。 この懸案に対して , 口一 タか はインノケンティウスにマティル ダの遺領の所有権 を認める一方,年 間 100 ポンドの銀を 支払うことによって 実質上の支配権 を確保したのであ る。 そして, インノケンティウスにレーニン 宣誓をして 授封を受けたのほ , p 一タ ル の女婿ハイン リ ヒ 侶傲 公であ った。 しかし, ロータルの戴冠の 状 Cll) 祝 がいまひとつ 不明であ ることもさることながら ,たとえば『ケルン 国王 年代記』の「ローマ 教皇イン / ダ ンティ タ スは,かつて ,彼が教皇の 座に ・すわり,皇帝日一タル が彼の前で両手を 組み合わせて 身をかがめ, 帝冠 を 受け取っている 絵を壁に書かせた。 」 という,あ たかも 帝冠 せ レーニン と (12) して受け取ったかのような 叙述も存在する。 これらをふまえれば , 「後に なって,教皇側でマティル ダの遺領の委譲と 皇帝戴冠が一つの 経過へと 溶 かし合わされ , まるで口一タ ル が戴冠の際に 教皇の封 巨 になったかのよう な印象を与えようとしたのであ といえよ う (l3 る。 」 Ⅰ とし 見解は ,ほば正鵠を得たもの ぅ 。 そして,かの 賛を考慮に入れつつ ,三つのシーソからなる 絵 を全体としてながめた 場合,その中 心は明らかにインノケンティウスであ る。すべてのシーンに て, 登場する ロータか は, 帝冠 を授げられることによっ インノケンティウスの 権 威を際立たせる 脇役,列立役をつとめている にすぎない。 それはまさしく「政治的マニフ ,ストを絵によって 表現した もの Politische Bildermanifestation (14) 」であ った。 かの絵に対する 人々 の嫌悪の念は ,たとえレーニン 的 主従関係にはなかったとしても , 「皇帝 に対する教皇の 優位」というイデオロギーへの 反発を根底にもつものであ った。 そのイデオロギーは , 絵 という視覚に 訴えるものを 武器としていた ことで, よりいっそう 彼らを刺激するものであ ったといえよう。 だからこ そ 「皇帝の返書」は, 「 帝冠が 我々とともに 辱められるのを 座視するぐら いなら, 我攻は帝 冠を放棄するであ ろう。 王国と教会との 間の敵意の永遠 なる記念碑とならないためにも ,かの絵は破壊され ,かの賛は撤回されね ばならない。 」 (ls) と締め括られたのであ る。 「ブザンソン 事件」 (Ⅱ57 一55 年) について 2. 「ベネフィキウム bene Ⅱ 141 lCium 」の解釈 では,事件の 発端となった「ベネフィ キウム bene 血 [Cium 」という語の 解釈の問題にはいっていきたい。 まず,各史料において , この語が登場す る部分をまとめておこう。 「教皇の書簡 1 」 「輝かしい息子よ,あなた [バルバ ロ,サコ ははっきりと 想い起こさ なければならない。 [あ なたに コ帝冠 というしるし ㎞ perialis insi, gne をきわめて快く 与えることによって coronae ローマ教会が その慈悲深い 胸の中であ なたの偉大さと 高貴さを育てようと 努力した ことを。 我人 は, しかし, あ なたの心からの 願いを実現してあ げたこ とをあ らゆる点において 後悔していない。 もしもあ なたが我々の 手か ら よ り大きなべ ネフィ キゥム majus るなら……おおいに (l7 bene 且 lCium を受 げとろうとす 歓迎するであ ろう 月 Ⅰ 「皇帝の回章」 「私 [バルバロッ サコ が, 帝冠を教皇から benehcium として受 げと っていると主張する 者はすべて,神の 秩序 とぺテロの教えに 背くこと になり,嘘言の 罪を犯すことになろ う 0 」 (18) 「教皇の書簡Ⅱ」 「 (バル " ロソサは 示した ……我々はあ コ 「教皇の書簡 1 」の中の以下の 叙述に不快の 念を なた [バルバロッ サコ insigne imperialis coronae 帝冠 というしるし に, を,つまり bene Ⅱ cium を与えた。 」 (19) 「皇帝の返書」 「我々の自由な前厄 は ついては,ただ 神のべネフィ キウム bene 丘c №m d Ⅳ @um のみによるものとする 口 (20) 「弁明の書簡」 「 hp,ne 且 lCium という語は , 多くの人々によって 本来の語義とは 異な った意味で理解されているようであ るが, ここでは,我々が 考えてい る,そしてその 語がその構成からみて 本来もっている 意味において 理 解されねばならない。 なぜなら, この語は, bonus と factum とい う二つの語から 成り立っており ,我々においては「 ノーェソ feudum 」 天理大学学報 142 でばなくて, 「良き業 (恩寵) bonum factum 」を意味する。 そし てそれは,その 意味で聖書でも 見い出される。 そこでは,我々は 神の bene べネフィギ ウム 且 lCium Dei によって治められ ,維持されてい るのだと記されている。 我々が,好意にみちた 名誉ある方法で皇帝の 権 威のしるしをあ なたの頭の上に 置いたということ ,それがすべての 人人によって「良き 業 (恩寵)」とみなされていることを ,あなたは 明らかに承知のことと は、 う 。 あ る人々が, この表現と「我々はあ なた に帝冠 といらしるしを 授けた。」 という文言を , 異なった意味にねじ まげて理解しようとするならば ,それは正当な 理由があ るのではなく 王国と教会の 平和を快く思わぬ 人々の横暴か 扇動 ャこょ るのであ る。 な ぜなら,「我々は授けた」という 文言においては ,前述のごとく ,「我 人は置いた。 」 という意味以外には 理解しえないからであ では,検討にはいろう。「教皇の書簡 1 」については , あ る。一つは,教皇がバルバ ロ,サの いうしるし」を 与えたということ , 口 ポイソトは二つ 「心からの願い」であ った「 帝冠 と もう一つは,教皇が「より 大きな べネ、 フィ キ ウム」を授ける 用意があ ったこと, この二点であ る。 ここでは「 帝 冠 」が「ベネフィ キ ウム」だと明言しているわけではない。 ら 判断すれば, 「より大きなべ ネフィ キ ウム majus 「 る benef6Cium benefiCium (単なるコ大きな べ ネフィ キウム magnum 意味していることは 明白で, 「教皇の書簡Ⅱ」では, つまり べ ネフィ キ ウム」と断言している。 しかし文脈か 「 」ならぬ 」が「 帝冠 」を 帝冠 というしるし , また「教皇の 書簡 1 」への対応 として書かれた「皇帝の 回章」も,教皇の 主張をそのようなものと 理解し てそれを拒否している。 「皇帝の返書」では,ベネフィ キウム に「神の」 という形容詞が 冠せられていることに 留意しておぎたい。 「教皇の書簡Ⅱ」 と「弁明の書簡」は ,ベネフィ キウム への言及において ,著しい対照をな している。 後者は,ベネフィ キ ウムという語は「レーニン」ではなくて 「良き業 ( 杏寵)」の意であ ることを, bene 且 cinm という語の構成から 説 きおこして驚くほど 詳細に力説している。 教皇の姉通の 書簡に登場する しているよ う に, 「良 benencium は, 「弁明の書簡」で説明 き業 (恩寵 )」と解釈することが 可能であ る。 その 「ブザ ソ ソン事件」 意味では,ハドリア (1157 一58 年) について ヌスの主張 は首尾一貫しているし 143 ,皇帝側の反発にあ っても一言も 撤回せず,妥協の 姿勢をとっていない。 かかる点を指摘した (20 W ウルマソの主張を 聞いてみよう。 彼は, 「教皇の書簡 1 」で「帝冠 「あ なた Cバルバ ロ ッサコ の心からの願い」と 記されていることに 着目 . が し, 」 「 帝冠 」は皇帝からは「願う」ことしかでぎず ,教皇はそれを「与え る 」義務はなく , それ故に「教皇の 良き業 (『寵 ) 」を通じてはじめて 皇 帝は帝冠を得ることができると 考える。 さらに,それを 歴史的に論証すべ く, 9 世紀の教皇レオ 4 世, ョ ハン キ ス 8 世,近くはイソノケンティ タ ス 2 世の言説から「神の 良き業 (恩寵 ) を与える道具」という 教皇の機能を 説き, 帝冠は教皇の媒介があ ってはじめて 皇帝に与えられると して,だからこそ「教皇からでなくして ,いったいだれから を受け取るのか。 述べる。 そ イムぺりウム という教皇特使の 問いかげに,皇帝側は 当然のことな 」 がら答えることができなかったのだと 論じたのであ (22) 側の態度を非とする 主張は少なくない。 る。彼と同じく,皇帝 しかし, benefnCium という語を めぐる皇帝側の 反応は,無知と 誤解と悪意に 基 過剰なものであ ったのだ く ろ うか。 W. ハイネマイア 一の述べるところによれば , bene 且c №m という語は , 12 世紀の用法では ,大別して, 1. 一般的意味での 良 き業 (恩寵), 好意 2. カノン法的意味での 聖職禄 ,所領 3, レースン法的意味での ノーェソ (feudum) (23) の三つに分類される。 そして,法学的素養に 富み,尚書院長として 教皇庁 の文書行政の 責任者でもあ ったロランド ゥス 自身が, 「レーニン feudum の意味で benencium を用いている 文書の Datar (24) ず 存在する。 「弁明の書簡」で力説されているほど , 」 であ る例は少なから benef6Cium の意味 が 一義的でないことは ,教皇側も十分承知であ ったといわざるをえない。 また「しるし jnsigne 」,「与えるc0nfer0 」といった語は , (25) の語彙にも属している。 とするならば , ノーェン法 上 「教皇の書簡Ⅰ」の「 (あ なたに 帝冠 とい 5 しるしをきわめて 快く与えることによって」という コ 部分, ま た 「教皇の書簡Ⅱ」の「我々はあ なたに 帝冠 というしるしを ,すなわち bene 且 lCmum を与えた。 」 という叙述 は, 帝冠を レーニンとみなすという Ⅰ 天理大学学報 44 主張を含意しているといってよかろう。 むろん,それを 正面から表明して いるわけではないにせよ ,かかる文脈で 皇帝側に理解されるという 予測が (26) 教皇側には十分存在していたことは 否めない。 「 benefhCium 三良き業 (恩寵 ) 」 という教皇側の 主張に意図的とも 思え る不透明な部分が 存在するのと 同様,皇帝側 vこおげる benefnCium とい ら語の用法も「 レ一ェン」という語義で 一貫しているわけではない。 「 皇 帝の返書」において ,「神の」という形容詞を冠せられている bene 丘 cium は,あきらかに「レーニン」ではなく ,教皇側が主張する「良き 業 (ぽ、 寵 ) 」であ る。 しかし,だからといって「我人の 自由な青短 はついては, ただ神の良き 業 (恩寵 ) のみによるものとする。 という「皇帝の 返書」 」 の見解は,そのまま 教皇 側 E 受け入れられるものではなかった。 なぜなら, 教皇側の主張する bene 丘 lCium はたしかに「良き 業 (恩寵 )」の意味であ るにせよ,それほ「神の」良き 業 (恩寵) であ るばかりでなく ,「教皇の」 もしくは「教会の」良き 業 (恩寵 ) でもなければならなかったからであ る。 また,教皇によってはじめて ,あるいほ教皇を通じてのみ 皇帝は帝冠を 受 けることができるという 考えは,明らかに「皇帝に 対する教皇の 優位」を であ れば言 うに及ばず,たとえ「良き 且 CmUm は, ・ 示すものであ る。それ故に皇帝 側 E すれば, bene 「 ノーェソ 」 業 (恩寵)」であ っても,「神の」で 忙なく「教皇の」あ るいは「教会の」それであ れば,断固として 拒否した (27) のであ る。 註 (@1@)@ Gesta@ (2)@ Rex@ venit@ Post (3) (4) III , homo 12 fores , iurans@ prius@ Urbis@ honores , ante@ 且 t pape, sum 肚 quo auctonitas を権威と解釈したが, W. 書簡Ⅰ」とみなす見解を示し(W.U 珂笏 肋 thle Midd@e Ⅰ Const. AgeS, London Ⅱ scniptura を 絵, ウルマンは,scniptura を 賛, を「教皇の mann,TheGrowthzofPaPalGover,@. l955, p. 341, l), n. また MGH l. の編纂者L . ヴァイラントは , auctonitas を「教皇の書簡1 を意味すると考えている (MGH この絵については , P. KOmieelnBlfd E. Const. l. S. 234, Anm. Schramm, ク仰 @@ ん re.rZeif751 一 1190 , hrsg. ・ (5) dante coron;am. 1155 年 6 月, ローマでの皇帝戴冠の 時てある。 MGH Const. l. Nr. 167. ここでは,pictura 」 l)。 D わん l@tsc la@l Ⅹ 田 sぴれt㎡ 乃 v. F. M 廿 thenich, M 廿 nnhen (1157 一58 年) について 「ブザンソン 事件」 S, 1983 , <@6)@ 124-126 Gerhoch@ , 256. Reichersberg von@ E. Sacl(ur, in: 皿GH nocUs, ed. れ丘eic 几 g/$ , De@ investigati ne@ Ldf 3, S. 392; E. Sackur, Ge/ ん oc 几 uo l%G5 う 下 c/ : MGH 互 . Ei@@g Antichristi,@ ed quarta vie Ⅲ a また P. Classen, および id, De L イ l 3, S. Bio まア dタカ @g, 511. WieSbadcn l960 , S. 193f も見よ。 (7) er, (8) さまざまな解釈については , Munz, c肪 ., oP. W. 483. S. c席 ., oh. p. 142, れ . l; Hememey 」 194-197. エ m括 W Bernhardi, von SlLbblilibl(re, ND Berlill 1975. S. 47 ㌻ p 人ル" 1155 年, ストリ近郊における " ドリア ヌス との初会見の 時, , サが最初この奉仕を拒否したのは,それを教皇の封巨 としての義務とみな したからであった。Silnonsfeld, ob. cif., S. 32 ㌻3331, 67 Ⅰ6688. Cg) 北 イタリアのウヱ ローナからルソカに及ふその広大な所領は,皇帝仁 と ってはローマへの 通路でもあった。p 一 タル3 世の治世まての , マティルダ の遺領をめぐる 経緯については , A. Overman Ⅱ, G 胤ル@ Maatm@ilde vo れ 乃lsciell. H/lre Besltzi@?eelz,Gesclfic んれ 肌Ⅰ㏄ G ㎡㏄ vn 抑 Ⅱ j5 目2lW0 Ⅲ 庖 ifire R6gesten, Innsbruck l895, S. 4㌻554. Co@lst. l. Nr. 117. (10) MGH (1l) Bernhar (12) Chronica Ⅲ, ob. caf., S. 474-477; Heinemeyer, reeia Colonienssis,Recensio ob. c席 ・, S. 18 ㌃1190. I., ed. G. Waitz, MGGH SS 形r. Germ@. (18), S. g3f. 「両手を組み 合わせて complicatis m]anlbus 」と 関係を含意する。Heinemeyer, ob. cわ ・, S. 1glf. いう表現が,ノーェン この叙述についての 批判は,Schramm, oク . c比 ., S. 125, 256. (13) K. Jordan, lnvestiturstreit und hardt, H 曲老hfir.l1ガぴ mann, 8. Aufn,, Stuttgart (14) Schramm, (15) MGH Ⅱ in: B. Geb. v. H. Grund, l957, S. 289. oP. c4f., S. 125. Const. Urbis Romae vnra@)t fr 廿 Ihe Stauferzeit, dznifSrん e6n GgSc/iacl@te, Bd. l, hrsg. l. Nr. 167. 上述の O. Panvinio sanctioribusque ber" (Rom. 1570) basilicis quas は, "De Praecipu septem) なる作品において , ね ecc@esias vulgo 『事績山の叙述からの 賛 を 引用しているが , 「絵を破壊せよ。 というバルバロソサの指示も記して 」 いる。なお賛の引用では , venit oP. (16) cね ., が stetit となっている。Heinemeyer, S. 194 を見よ。 MGH sio I., ed. Const. l. Nr. 164. G. Waitz, 仰UH (17) MGH Const. l. Nr. 165. (18) MGH Const , 1. (19)@ MGH@ Const , 1.@ Nr , 167 (20)@ MGH@ Const , 1.@ Nr . 168 , Nr . 166. また, SS re 田a Colonle@lsis,Recen 彫r. Ger)?l. (18), S. 94 も見よ。 Chronica 天理大学学報 146 (2l) U (22) F. Kempf, Ⅱ oP. cif,, pp. 107 一 1125. mann, Barbarossas und Der 'favor apostolicus' bei der Wahl im deutschen rich Harbaross0., hrsg. v. Thronstreit G. Wolf, Darmstadt Sbecl@ll卸 ll HtSfoniae, Freiburg Ke eer, Z@aisCル@ち解 Ⅱ アク ど ion@ロ アクア im コク Breisgau I975 ク Ⅰ : (初出は, in l965), S. 108 一 1110; @@n@ガはク @iノクア きれ @z が 舘互 Friedrich (l198 一 11205), in@ Frie は - H. Hoo アア名 on@t: 接 ワ別 Ⅰ Deufsc Ⅳ田 ㎡ i@@l 7Ww@benil@ 刑 der Salier zl?td Stallfer l024 bis 1250 , Ber l@@) 1986, SL 393f. など。 (23) Heinemeyer, oP, cit., S: 214. (24) 劫i4., S. 215, Anm. 194. に, 1155 午から1158 年において該当する 文 書が 6 例あげてある。 (25) fh ㎡・, S. 20If., 215f. (26) P ランドクス はむしろバルバp ッサ を刺激して,計画的にその 関係の決 裂を図ったのだという 見解もある。 Munz, (2T) He@emeyer. TV. oP. beneficium 0ク ・ 2l0f.; 「皇帝理俳」とバムベルク ラ テラノ宮殿の 絵 と賛, も ctf,, S.206. c乱, pp. 140-142. Koch, oP. cれ ・, 司教ェ 一 ベルハル という語の扱い , S. 172. l これらはいずれ ノーェン制 的関係をも想起させる「皇帝に 対する教皇の 優位」というイ デオロギ一の 提示であ った。 それ 対して,皇帝側はただ 反発し不快の ヰこ 念を示しただけではない。 さらに一歩踏みこんで ,みずからが 拠って立つ 「皇帝理俳」を具体的に表明している。 まず「皇帝の 回章」にほ次のよう (l) に述べられている。 「 天と 地のすべての 権 力の源であ る全能の神は , 塗油 された者たる 私 に レグヌふ とイムペ リウムを支配のために 委ね,教会の 平和を皇帝の 手にまかされた。 ・…‥私はレグヌムとイムペ リウムを,諸侯による 選 挙を通じて,ただ 神からのみ 受 げとったのであ る。神は,その子キ リ ストの受難の 際,必要な二振りの 剣にこの世の 統治を委ねられた。 そ して使徒ペテロは「神を 畏れよ,王を 敬え。」という教えを世界に説い benefjcjum ているのであ るから,私が 帝 冠を教皇から として受 げ とっていると 主張する者はすべて ,神の秩序とぺテロの教えに 背くこ とになり,嘘言の 罪を犯すことになろう 口 みずからの皇帝 (国王 ) 権 の源泉に神をおいて ,教皇権からの独立した 立 場を主張し,またその 法的基盤として 諸侯にょ 8 選挙を明言している 点は , (1157 一58 年) について 「ブザンソン 事件」 147 (2) マニフェストの 名にふさわしい。 そして「 ルカ による福音書」第 22 章 38 節 にちなむ「 二剣論」を引用して「私が 帝冠を教皇から heneficium として 受け取っていると 主張する 諸 」を非難しているのは , 奥行きを与えているといっていいだろう。 このマニフェストに しかし「皇帝の 返書」にほ , さ らに興味深い 叙述がなされている。 「それによって我々の帝国が 治められねばならぬ 二つのものがあ すなわち,皇帝の 聖なる法と , 我々の祖先や 前任者の尊ぶべ き る。 習慣で あ る。 ・…‥我々は, 我々の父に当然の 尊敬の俳を示す。 しかし,我々 の自由な 帝冠は ついては,ただ 神の beneficium のみによるものとす る 。 [国王コ選挙については, まずマ イソッ大司教に投票を 認め,つい でそれぞれの 地位に応じて 他の諸侯に投票を 認める。 国王の塗 油を ケ ルン大司教に 認め,最後の ,すなわち皇帝の 塗油を教皇に 認める。 そ れ以上のことは 悪に由来し,余計なことであ 「 るⅡ 二剣論」の出発点であ る「それによってこの 世界が治められている のものがあ る。教皇の聖なる スの 定式」をふまえて 二つ 権 成と国王の権 力であ るⅢという「ゲラシ ウ ,みずからの 統治の格律を 宣言しているのは 注目に あ たいする。 すなわち「それによって 我々の帝国が 治められなければなら ぬ二つのものがあ る。すなわち皇帝の 聖なる法と我々の 祖先や双任者の 尊 ぶべ き 習慣であ るⅢという叙述であ る。 「ゲラシラスの定式」では , 「 国 王の権力」とともに 支配の手段として 併記されていた「教皇の 聖なる 権 . 威 」は排除されており ,それに続く 国王選挙に関する 見解でも,戴冠の 担 い手たる教皇の 役割は,国王の 塗 油 をおこならケルン 大司教と同じレベル (5) の形式的な義務と 主張されている。 「ローマ皇帝権の起源,歴史,イデオ ロギーを ずう ずしくも無視した 言説」かどうかはともかく , る教皇の優位」という 「皇帝に対す 主張に対して ,みずからの「皇帝理俳」を 明言した これらの書簡は ,では,バルバロッ サ の側近のだれの 手になるものであ ろ うか。 この問題の検討にはいろう。 まず, 「皇帝の回章」からとりあ げてみよう。 E . オット一の研究があ る。 彼は , 1159 年 9 月に惹起したシスマの 解決をめざした パ ヴィ ァ での公 c7) 会議に対する「ドイツの 聖職者への招請たる 回章」, (8) 同じく 「インバラン ド王ヘソ りへの皇帝の書簡」,そして「皇帝の 回章」の用語表現を 比 佼検 天理大学学報 148 記 した。そして,この 三つの文書が 共通の文面作成者の 摘し,さらにライナルト・フォ ソ 手ヮ ごなることを指 ,ダッセルの私的書簡との 対照の結果, これらの「きわめて 政治的意味の 高い文書」の 起草者をライナルト した。 しかし, この結論 は,いわかる "m Ⅱ erer Sti Ⅲbungen" 同定 と を対象と したN . へ一 イングの詳細で 精微な研究によって 否定された。 彼はこれら の文書が同一の 起草者 ヰこ よることは認めながらも ,その人物がライナルト ではなく,バムベルク 司教エーベルハルトであ ることを明らかにしたので C o) Ⅰ あ る。彼の見解は, R .M. ヘルケンラートによって「納得がいくもの (12) iiberzeugendJ と言、p; 佃 (ll Ⅰ, J . リートマン, K Ⅱ さ牙 り . ツアイリンガーも 賛意、 を示している。 次に「皇帝の 返書」について 検討してみよう。 「皇帝の回章」に正面か らとりくんだ E . オ ,トコ N . へ一 イソ グ は, 「皇帝の返書」に関して はその考察の 対象、 としていない。 そして「皇帝の 返書」が挿入さ 九ている 「聖職者の返書」については , W. フ,一ルが ,その起草者としてバム ベ ルク司教ェ 一 ベルハルトを 主張した " リクス,ザル ソ ブルク大司教ェ 一 エー ベルハルトが 司祭枢機卿 ヘ イソ ベルハルトなど 沖こ あ てた書簡と, 「聖職 者の返書」の 文面に,共通する 表現を見いだしたのであ る。 しかし,その フヱ一ルも , フー ツ ー 「皇帝の返書」についてほ , 「その文章は,鉄のような ヵソ ライナルトを 示す一一の姿を 想起させる」とわずかに 述べるの als) みで,それ以上の 言及はしてい 低い。 その後, W. ハイネマイアーが , 「皇帝の回章」,「聖職者の返書」がエー ベルハルトの 起草であ るとの前 提 にたって,それらと ,「皇帝の返書」の表現比較をおこなって ,「皇帝の 返書」に ュ ヱ一 ベルトハルトの 関与があ ることを指摘した。 さらに A ケ は「 類昔 重畳 法 Paronomasie 上の技法に着目して , 」, . ニチ 「漸層法 1く limax 」といった修辞 「皇帝の返書」そして「聖職者の 返書」が エー ベル (17) ハルトの文体的特徴をもつことを 明らかにした。 以上,研究史の 検討から, 「聖職者の返書」も含めて「皇帝の 回章」お よび「皇帝の 返書」の起草 は,エーベルハルト一人が 担当したのではない にせよ,彼の 少なからぬ関与のもとになされたといってよかろう。 で看過してならないのは , この点 「皇帝の回章」,「皇帝の 返書」において , 「 二 剣論」が登場していることであ る。キリスト教世界における 教皇権 と皇帝 (1157 一58 年) について 「ブザンソン 事件」 149 権 という二つの 最高権 力のあ り方を説いたこの 政治理論は,バルバロッ サ の治世では, 1152 年 3 月,国王選出後のバルバ p , サが 教皇 ヱウゲニ ウス 3 世にあてた「国王選挙通告」において ,初めて見いだされる。 彼の施政 方針演説とでもいうべき 内容と性格をもつこの 文書は, 「そのテクストは, おそらく [スタブロー修道院長 コ ヴィーバルト ,エーベルハルト ,そして 当時の宮廷書記で 後に皇帝のプロト ノ タールとなったハイン リ ヒとの間の, ds) 緊張感にみちた 共同作業から 生まれた。 こせよ,「 二剣論」の引用は ,ェ 」 ケ (19) 一 ベルハルトによる 可能性が強い。 そして, 「国王選挙通告」の後,バル バ ロ , サの 文書や書簡で「 二剣論 」が登場するのが , 「皇帝の回章」およ び「皇帝の返書」であ る。そこに ヱ一 ベルハルトの 主導的役割を 想定する (20) のは,決して 的はずれで忙ないだろう。 そして, 「国王選挙通告」を教皇 エウゲニウス 3 世に持参した 使節の長であ ったエー ベルハルトは ,その 6 午後, 「皇帝の返書」が挿入された「聖職者の 返書」を携えてローマの 教 (30 皇 ハドリア ヌス 4 世のもとへ赴いていたのであ る。 この「聖職者の 返書」が,ハドリア ヌスに与えた衝撃は 大きかった。 教 皇側は, これまでの強硬姿勢から ,妥協と譲歩へと 方針を転換したのであ C22) る 。 確認しておこう。 ハドリア ヌスはただちに「弁明の 書簡」を " ルバ p " サに 送るが,それ を託された二人の 教皇特使のとった 行動がまず注目にあ たいする。 「世俗 のことにも通じ , また教皇庁のさまざまな 案件の処理においても ,前述の 特使たち 0p ランド スとべルナルドクスコよりはるかに 適任であ った」 タ 司祭枢機卿 ヘ インリクス と 助祭枢機卿 サ キンクトゥスの 二人は, アウグス ブルクに陣をはるバルバロッ サ のもとへ直行したのでほない。 第 2 次イタ リア遠征の準備のため 当時モ ーデナ に滞在していた 帝国力 ソツラ 一のライ ナルトと宮中値オ , ト一を訪問し,恭順の意を 示したのであ は,すでに述べた る る。 この両者 ように, 「教皇の書簡Ⅱ」において,名指しで糾弾を 受 げて 憤 罪を要求されており ,かかる教皇特使の 姿勢 は, 大きな変化といえ だ る つ@ さらに, ブザンソンでのロランド タ スとべルナルドクス ,アウグスブル クでのへ イソリクス とヤキンクトゥス , ッサに会見の際の この二組の教皇使節は ,バルバp 口頭によるあ いさつにおいても ,さわだった 相違をみせ 天理大学学報 150 (25) ている。 ブザソソン でのロランド ゥス とべルナルドゥ ス は, 次のようなあ いさつをしている。 「われわれの最も聖なる父であ る教皇ハドリア ヌスが, また聖なる 口 一 %教会の枢機卿 団が ,それぞれあ なたの 父 として,またあ なたの 元 (26) 弟 として,あ なたにごあ いさつ申し上げるⅡ 教皇むならんで , 「聖なるローマ教会の枢機卿」がひとつの「団体」 U ㎡、 versitas として皇帝にあ いさつをしていることは ,教皇庁における 枢機 (27) 夕月Ⅱ団の地位の 高さを示すものであ ろう。 しかしそれ以上に 注目されるのは , その枢機卿 団 がみずからを「あ なた [皇帝 コの 兄弟」として 位置づげている ことであ る。 ラ ーエヴ , ンは 「彼らが語ることは,最初のあいさつにおい く て, 既にきねだっていたようだⅡというコメントをしているが な教皇側の見解 は,明らかに「皇帝に すなわちそれほ , 28) , このよう 対する教皇の 優位」を示している。 ラテラノ宮殿の 絵 と賛, beneficlum という語の解釈と 共通する認識の 上にたつものといってよかろう。 これに対して , ァ ウグスブルクを 訪れた へ インリクス とサキンクトゥス のあ いさつはこうであ る。 「聖なるローマ教会の司教,かつキリストにおいて 最も従順な父が , 聖 ペテロの,親愛なるそして 霊的なる息子のあ なたに, ごあいさつを 申し上げる。 我人の尊敬すべき 兄弟であ りかつあなたの聖職者,すな わち枢機卿 団が,都市ローマ と 世界の君主であ りかつ皇帝たるあ なた (29) に, ごあいさつを申し 上げる。」 教皇のあ いさつの丁重さもさることながら ,皇帝は, ここでは都市ローマ と世界の君主とみなされている。 そして, ロランド タ スとべルナルドク ス のあ いさつでは「皇帝の 兄弟」として 位置づげられていた 枢機卿 団が , 「皇帝の聖職者」となっている 点に留意すべきであ ろう。 教皇側の妥協。と (30) 譲歩がうかがえる。 そして「弁明の 書簡」であ る。既に述べたように , この書簡は, bene. ficium という語についての 説明が過半を 占めている点で ,ほとんどそれ への言及がない「教皇の 書簡Ⅱ」と著しい 対照をなしている。 「教皇の書 簡Ⅱ」では,皇帝側の 人人の反発を 招いた「教皇の 書簡 1 」の誤解をとこ うという姿勢すらないのに 対して, 「弁明の書簡」はその作業に集中して (1157 一58 年) について 「ブザンソン 事件」 beneficium いるといえ よう。 そしてそこでは , ずからの解釈が , 「なぜなら, 「我々は 授けた 」という語においてほ ,前述のごとく , ㎞ us 」という意味以覚には p0su という語については ,み 「教皇の書簡Ⅰ」以来首尾一貫していることを 主張して い るが,妥協と 譲歩も織りこまれている。 c0ntulismus 151 「我々は置いた㎞・ 理解しえないからであ るⅢという部分で あ る。 レーニン 法上の語彙でもあ る「授ける conferro」が,単に「置く impono 」といら意味にすぎないならば ,「我々は,好意にみちた 名誉ある 方法で,皇帝の 権 威のしるしをあ なた [バルバロッ サコ の頭上に置いたⅢ ことが,戴冠の 際の教皇の役割となる。 それは, 「皇帝の返書」における 「国王の塗油を ケルン大司教に 認め,最後の ,すなわち皇帝の 塗油を教皇 に 認める ロ という主張を 想起させないであ (31) ろうか。 註 (l) MGH (2)@ Munz Co Ⅱ st. I. Nr. , op . Fnednich p, 165 ( 二 DF. 144@ Barbarossa, FeSfschzrif MGH A. in: /w &r Otto Herdi@lg ォ ぜ E. GOnnmer (3) cit , , undd E. Hildebrand, Const. I. 186) Nitschke , Die@ Mitarbeiter@ des@ j ngen ム andes ま c6scl4tc力 ffe l@?@d GglsfesSesdlic乃 ffe. mz@) れ 65. Geburtsfag, hrsg. Stuttgart Ⅴ. K. Elm, l977, S. 58. l. Nr. 167. (4) 高期中世における「二例 諭」の系譜,および「ゲラシ タ スの定式」につ いては H. Ho 什 lmann, D@e beiden Schwverterim hohe@)Mittelalter, DA 20(1964), 5.78-114 ㎝ 嶋繁雄「シュタウフヱル朝における皇帝権の問題」 『愛知大学文学論叢 J1 58 (1979), 37-65 頁を参照せよ。 (5) UIlm)ann,, ob. cif., p. 118f.; Heinemeyer, (6) Ullmann, (7) MGH ゆ . cは ・, Const. p. ob. c4f., S. 208f. l19. l. Nr. 182 ( 二 DF. r. 284). この回章にも ,「二別 論」 の引用がある。 (8)@ MGH@ (9)@ E, Const , 1, Nr . 183 , Otto,@ Friedrich@ Barbarossa@ in@ semen@ Briefen,@ DA@ 5@ (1942), 5. 84 一 990 (10)@ Hoing , op , cit ,, S, 125-141 , bes , S, 135f , M . Herkenrath , Rei ald@ von@ Dassel@ als@ Verfasser@ und@ Schrei bervonKaiserurkunden,MJooG72 (1964),S. 56. ただし,用語表現にお (11)@ R. いてライナルトの 関与が実証されないからといって , 彼がその文章の内容に 参画していなかったことにはならない , という留保をつげている。 (12) J. 則edmann, Studien 廿 ber die Reichskanz@e@ unter Friednich 天理大学 152 B arb (13) Ⅰ den ar0ssa 1く . Jah l156 白166, Mfo G 75 (1967), S. 387f. ren Ze Ⅲing ㎝, F ried rich Eb erh ard v ol) B amb , erg 芋 , 報 B arb arossa, M めG 78 (1970), W ibald S tablo v o@) S . 21gf. u n己 u nz, 0力 . また M ㎡ f., p . 144, Ⅱ. 1 を見 よ 。 (14) op. (15) (16) F6h l, oP . cゎ ・, S . 119 一 124. また, H 田 @]9, op . c斤 ., S . 161 ; 1 0ch , c几 ., S. 179 を見よ。 F6hl, ゆ . cif., S. 123. H ㎡ nemeyer, op. c斤 ., S. 205, Anm. 163 ; S. 207, Anm. 172; S. 209, く Anm. (17) 179. Nitschl(e, 0P. c/f., S. 5B ヰl. ただし彼は「皇帝の 回章」の起草者は ライナルトとしている。 (18) Appe@t, oP. cif., S. 213. (19) 肩む掲 (20) しかしながら , 拙稿「国王選挙通告」, 170 Ⅰ73 頁を参照していただきたい。 エーベル。ハ トと「二剣論」の引用との関連の指摘は, ゆ cⅣ・, S. 223f. 部分的なものにとどまっている。 たとえば,Heinemeyer, ・ は, 「国王選挙通告」と「皇帝の 返書」における「ゲラシ ウス の定式」の引 用に着目して, また Ze Ⅱ lil]ger, op. c肱 ・, S. 21gf. は「皇帝の回章」と「ド イッの聖職者への 招請たる回章」 (所証(7) を見よ) における「キリストの 受難の際,必要な 二振りの剣で……」という 叙述から,それぞれ エーベル。 ルト の関与を確認しているにすぎない。 (21) re/. (22) Ottonis de sancto Go/),l. (47), cap. Blasio Chronica, ed. A. Hofmeister, MGH SS g. 以下の論点を重視している論稿は,管見のかぎり , Heineme) 七 「, 0ク. c沖 .のみである。 (23) この二人については , Madertoner, (24) G㏄加 @ 111. 24. (25) Heinem (26) Gesfa II1. 10. ュ oz). cit., S. f61-68 を見よ。 oP. cJt., S. 167-174. eyer, (27) 教皇庁における枢機卿団の形成については ,関口武彦「改革教皇確と 枢 Jl a人文科学7 10-3 (1984), 485-535頁。 機卿団 」『山形大学紀要 (28)@ Gesta@ III , 10 (29)@ Gesta@ III , 25 (30)@ Heinemeyer (31) Ⅰ ぅ族は . 1 S. , op . cit , ・ 215fJ 172-174 お わ , 219f . 236 V . @ 一 S. り に 「ブザンソン事件」とバムベルク 司教ェ 一 ベルハルトー -- heneficium という語の解釈に 端を発した「ブザンソン 事件」は, シス 「ブザ ンソソ事件」 (1157 一55 年) について 153 マを予見する皇帝と 教皇のイデオロギー 上の対立とみなされてきた。 第皿 章 で詳述したよらに , ラテラノ宮殿の 絵 と賛, beneficium レーニン 制 的関係を含意した「皇帝に の解釈には, 対する教皇の 優位」という 教皇側の 主張がうかがえる。 それに対して ,バルバp , サは ただ反発しただけでは ない。 伝統的かつ基本的な「 二剣論」をふまえつつ ,みずからの 皇帝 (国 王 ) 権 の基盤が , 神との直接的な 結びつぎと諸侯の 選挙にあ ることを表明 したのであ る。教皇とは独立したみずからの 権 威のあ り方を明らか こした ソ この姿勢は, 「皇帝理俳」の展開において 画期をなすものといえよう。 しかし, この事件を,ただ 皇帝と教皇の 関係,あるいは理念上の 争いと いう 次元でのみとらえるならば ,いささか一面的にすぎるといわざるをえ ない。 アゥグ スブルクでの 和解までを射程にいれるならば , 事件」は, よ 「ブザンソン り大きな広がりをもつ 具体的な政治問題でもあ った。 バル, ロ " サと 教皇ハドリア ヌス 4 世との関係 は, 「ブザンソン事件」 以前においても ,決して友好的というわげではなかった。 すでに1155年の (2) 初会見の時,二人の 間には不協和音が 響いていた。 また, 1153年 3 月に前 任者 エ ウゲニウス 3 世がバルバ p , サ との間に締結したコンスタンツ 条約 は,ハドリア ヌスは一度は更新したものの , 1156 年に彼がシチリア 王グリ エ ル モ 1 世とべ ネヴヱ ント条約を結んだことによって ,事実上,破棄され ていた。 ただ双方の陣営の 親教皇派, 親 皇帝派の努力によって ,両者の正 面 衝突だけは回避されていたのであ る。 ブザンソンで 帝国会議を催した 時点で,バルバロッ サ はすでに第 2 次 イ タリア遠征を 日程に組み入れていた。 この遠征の目的は , 何よりもまず , 「 ラ / をその筆頭とする 口ムバルディアの 反 皇帝派のコム 一ネ の制圧であ C3) った。 ,ラ/ の強大さを実見していたバルバロッ サ にとって,兵馬を 提供 するドイツの 諸侯の動向は ,遠征の命運を 左右するものであ ったに違いな い 。 第 1 次 イタリア遠征の 際, シチリアへの 遠征は諸侯の 反対で断俳せざ るをえなかったのであ る。 「ブザンソン事件」の対応を 誤れば,教皇との 関係の悪化はもとより , ドイッの諸侯, ことに聖界諸侯の反発と 離反を招 く危険があ った。 この懸念が現実のものとなれば , 「ラノ制圧は 困難なも のとなり,ひいてはシュヴァーベン , ブルバント, ロムバルディアを 拠 ,点 C5) として帝国全体へ 支配を及ばそうとするバルバ ロ " サの 構想は,ただちに 天理大学学報 154 頓挫をぎたすことになったであ ろう。 一方,ハドリア ヌスはといえば, ローマ市民の 反抗に足下を 揺さぶられ, 南のシチリア 王国や東のビザンツ 帝国, さらにローマ 周辺のコム一ネ 向にも気を配らねばならぬ 不安定な立場にあ った。 また, " ル "p p ム の動 ッサの " ルディア進出の 意図は,彼の 教皇領経営の障害となりうる 危険性も c6) 十分にはらんでいた。 そのような状況下では ,皇帝との関係はきわめて 微 妙であ り, ドイッの聖職者との 関係は,皇帝への 牽制という含みもあ 常に配慮すべ き って, 政治的課題であ った。 ブザソノソ にやってきた 教皇特使が ひき続きドイッの 教会や修道院を 訪れる予定であ ったこと, 「教皇の書簡 Ⅱ」で,帝国の 人々が教皇 座 に赴くのを禁止したという 勅令に不快感を 示 していること , これらはハドリア ヌスがドイツの聖職者との 関係を重視し ていることの 証左であ ろう。 そして 1156 年, シチリア王 グ カエル モ 1 世と べ ネ ヴェント条約を 結ぶことによって ,バルバロッ サ との関係は冷却せん としていた。 ハドリア ヌスにとって, ドイツの聖職者のなかに 教皇支持派 c7) をふやすことは ,焦眉の課題であ ったに違いない。 バルバ Fl , サと ハドリア ヌスから熱いはたらきかげを うげた ドイツの聖 職者は, 「聖職者の返書」によって ,バルバp " サ支持を打ちだした。 そ れを 受 げとった " ドリアヌスは, てその方向で , これまでの強硬姿勢を 一変させた。 そし 「ブザンソン事件」は終結を 迎えている。 すなわち, 「 聖 職者の返書」に 示されたドイツの 聖職者の動向が ,事件の趨勢を 決したの であ る。 それも ッサは, ドイツの聖職者の支持を一一そして 世俗諸侯の 確保できたからこそ ,望むべき方向で「ブザンソン 事件」を乗 り切ることができたといえよ 5 。 とすれば, 「事件」に関する皇帝側の書 簡, つまり「皇帝の 回章」と「皇帝の 返書」,それに加えて「聖職者の 返 書 」, これらすべての 起草に深く関与していたバムベルク 司教ェ 一 ベルハ (8) ルト の存在が大ぎく 浮かび上がってくる。 彼 こそが, ドイッの聖職者を バ ルバ p , サ支持でまとめあ げた中心的人物といっていいのではないか。 具 体的に跡づげてみよう。 エーベルハルトが「皇帝の 回章」と「皇帝の 返書」に 書 ぎこんだ「 二剣 論 」は, 「皇帝に対する教皇の優位」とい 5 教皇側の主張に 対するバルバ p ッサの皇帝理俳の 理論的基盤を , ドイツの聖職者に知らしめるものであ 「ブザンソン 事件」 Cl157 一58 年) について 155 つた。 このことをまず 強調しておきたい。 しかし,彼の 役割はそれにとど まるものではなかった。 「ブザンソン事件」を「事件」たらしめたのは ,たしかにライナルト・ フォン・ ダ ,セルであ る。 「教皇の書簡 1 」の bene Ⅱ lCium という語の解 (9) 釈によって ,彼ほいわば「 エ ムス電報」を 作りあ げたといえよ 5 。 しかし, この「事件」は , ドイツの聖職者にとって 歓迎すべきことではなかった。 「聖職者の返書」の 冒頭には彼らの 当惑が記されている。 さらに,ライナ ルトが「教皇の 書簡 1 」を解説した 際の『事績』の 叙述が注目される。 ーェ ヴィン は 「かなり信頼すべき翻訳で 且 da satis interpretatione 記しており,たんに「信頼すべき」ではなくて「かなり」という ラ 」と 語が添え られているからであ る。控え目な記述ではあ るが, ライナルトの 軽率が (10) 「事件」の引鉄となったという 批判が読みとれよう。 これはう 一ェ ヴィン Cll) 一人の見解ではないのではないか。 そして,その ょうな不信感をいだかれ ているライナルトが 事件の収拾にあ たったのであ れば, 「ドイッの聖職者 は ,皇帝を守るべく ,壁のように 結集していた。」という成果は 期待でぎ なかったに違いない。 エーベルハルトが , ドイッの聖職者の代表として, 「聖職者の返書」を携えてハドリア ヌス との交渉に臨んだのであ る。 そして, このエー ベルハルトは ライナルト と 違って ,教皇側か らみても受け 入れることのできる 人物であ った点を看過してはならない。 アウグスブルクへの 教皇特使の一人であ ったへ イソリクスは , 後に エー ベ ルハルトあ ての書簡で,「(和平交渉では るかのように , コ あ なたはまるで 我々の一員であ もっとも忠実な 調停者Ⅱ delissimus mediator として加 わった。」と記している。 バルバロッ サ の側近として「他の 誰よりも帝国 の名誉と (帝国への c[4) コ 忠誠を念頭においていた」けれども ,彼は同時に , 教皇と皇帝の 協調を願ってもいたのであ る。 このようなエーベルハルトの 姿勢は, ドイツの聖職者にとっても 好ましいものであ ったと思われる。 1152 年のコンラート 3 世死去の前後から 国王宮廷に登場した ルトは,バルバ に 国王の有力な ロ , サ の国王選出にも 指導力を発揮し , エー ベルハ コンラートの 治世 側近であ ったスタブロー 修道院長ヴィーバルトに 代わって, (15) 帝国統治の中枢を 担うようになっていた。 その彼も,ライナルトが 1156年 に帝国力 ンッラ 一に抜擢されるとその 影響力を失っていったとみなされて 天理大学 芋 報 ・ 156 (l6) きた。 周知のごとく , ライナルトは , tio imper Ⅱ」の推進者として , " ル バロッ サ の「帝国再建 ren0va- 対 教皇, 対 コム一ネといった 政策に辣腕 をふるった強硬姿勢の 持ち主であ った。彼は1159 年にケルン大司教に 選出 されるが,亡くなるまでの 8 年間に, 自己の管 皓区 には一年半しか 滞在し ておらず, ドイツ内の政治状況にはそれほどの 関与をもっていない。 彼の 活動領域 は, のべ 6 年以上に及んだ 第 2 次から第 4 次までのイタリア 遠征 と 1159 年に勃発したシスマであ った。 「ブザンソン事件」は,そのライ , ナルトの存在を 初めて帝国史に 刻印したものという 位置付けを与えられて いたのであ る。 しかし,本稿で 明らかにした ように, この「事件」をその 終結までを視野にいれて 考察してみれば ,注目すべき は, ラ イ ナルトより も,ブザンソソ の帝国会議には 出席していなかったバムベルク 司教ェ 一 ベ ルハルトであ るといえ よう。 せる彼の存在こそが , ドイツの聖職者の 支持をその背後にうかがわ 「ブザンソン事件」において ,教皇の譲歩に わば判定勝ちをバルバロッ サ にもたらしたのであ よ るい る。その結果,第 2 次 ィ タリア遠征には , 里 俗諸侯の大立者が 轡を並べ,辺境伯や 伯については 「その名双を列挙したならば , 気 むずかしい,あ るいほいらいらしがちの 読者は, うんざりしてしまうだろう。」というほどの人々が参加したのであ る 。 「ブザンソン事件」は,第2 次イタリア遠征の 成功への道を 切り開い (19) たといわねばならない。 註 (I) Appelt, op. c@f., S. 239. また既にバル , ロ , サは, p 一%市民,元老 アルナルド・ダ ・ブレーシャの 支持者であ 院を皇帝権を結びつげる考え (1152 年), その歓呼に対して銀 5000 ポン (1155 年) も,拒否している。 Schmidt, op. る ヴヱ一ッ, ル という人物の 書簡 ドというローマ 市民の要求 c打 ., S. 151 白54. C2) 本稿第 m 章, 註C8) を見よ。 (3) さしあたり, H. nischen Kommunen, (4) Appelt, MIOG Friedrich Barbarossa und die itahe 72 (1964), S. 311-325. G ㏄ 癩 11. 38. バルバp ッサ のこの措置が , ハドリアヌス をシチリア王 グリ エ ルモ 1 世に接近させたという 面もある。 (5) P .ムソツは,この構想に the を試みている。 Munz, ob. c肪 ., GreatDesign pp. 109-122 という呼称を 与えて説明 「ブザンソン 事件」 Cl157 一.5a年) について 7品88, 157 96 叫9, 19 ㌃197 など。 (6) 2&id., (7) ハドリアヌス は,バルバp ッサ の側近の親教皇派であ るスタブロー 修道 pP. 院長ヴィーバルトにあ てた書簡 (1157 年 1 月 19 日付) で, 反教皇的なライナ ルトに,危惧の 念を記している。 Herkenrath, c族, (8) ・ S. 85; Grebe, op. S. 288. この点を指摘しているのは W. 章, oク c広, ハイネマイア一のみであるが (本稿第 N 註(16)), 彼にしても,それを「事件」,全体において 積極的に評価しょ ・ うという姿勢には 欠けている。 (g) Grebe, oP. cif., S. 293. ブザンソンでの 二人の教皇特使は,ライナル トとの共犯者という 見解もある。 HeinemeVer, ゆ t.わ ・, S. ?.i5. (10) これに対し,オット 一・フォン・フライジンバが「弁明の 書簡」を解説 した時には,「好意的な 翻訳で benigna interp etatione」と述べている。 G cit., S. 154, 「 (11) ebbe, oP. c几 ., S. 291; Schmidt, とはいえ,オ , ト - oP. 「 Anln. 68. フォソ・フライジンバの 場合 (本稿, 135 頁) を 除 き ,個々の聖職者の 動向について語る史料はない。 (12) FOhl, (13) G oP. ㏄加 (J14 帖Ⅰ r70), (14) a@t., S. 12l; Boockmann, IV. 22. W は また, O. Meyer, rzburg oP. ait., S. 98. Bjsc 乃 oo/Ehe? 小 ,aァみ l964, S. llf. Ⅱ・ ひ nv fBomlha,r.g Ggsfo IV. 32. この章には,エーベルハルトに対するバルバロッサ の高 い評価と深い信頼が記されている。 (15) 前掲拙稿「国王選挙通告」, 176-179頁。 (16) Meyer, oa>. cff., S. l3f. ; Grebe, oP. c汀 ・, S. 272. (17) 最新の概説書 F. Opll, 凡 ルカイ。ん Barhorns ㏄, Dar@nstadt 62-101, lg90 , S 175-224 をあげておく。 (18) Gesfo I11. 29. (19) もちろん, 小特許状」の付与による ,,ノエルン 問題の解決 (1156 年 9 「 月 P なビ,バルバロッサがドイツ内の懸案や利害の調停に成果をあげていた 点を,軽視するわけではない。