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特別号集 - 横須賀市教育情報センター

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特別号集 - 横須賀市教育情報センター
自立・共生・貢献
私らしく生きる
鴨居中だより
横須賀市立鴨居中学校
平成25年(2013 年)4月12日(金)
号外1.
保護者の方と一緒に読みましょう
「残された者の
消えない苦悩」
人と人とが集団で生活すると、時として、摩擦(まさつ)
が生まれる。そんな時どうするのだろう。それを学ぶの
が学校だとも言えます。
でも昨年、とても悲しい事件が起きました。
苦しくて苦しくて、いじめ(孤独)に耐えきれずに自ら
の命を絶つ。
想像してみて下さい。
あなたのもっとも大切な人が、あなたを頼らずに、黙って自ら命を絶ってしまったらと・・・・。
あなたのもっとも大切な人が、苦しんで苦しんで耐えきれずにいるのを少しも気づかずにいた
としたら・・・・。
残されたあなたは・・・・と、想像してみて下さい。その後のあなたの人生は・・・・、今まで通りで
いられるでしょうか。始業式(入学式)でみなさんに話しましたが、いずれみなさんは、必ず誰か
を守ります。全力で守りたいと願うのです。その全力で守りたいと願った人が…今日は「残され
た者」の気持ちも想像してみてほしいのです。
前島章良(まえじま のりよし)さんは、自殺で長男の優作君(当時13歳)を失いました。
今から16年前の1997年1月7日夜、勇作君は、夕飯時に「お母さんの作る鍋はおい
しいね」という何気ない会話を残して、自宅の庭で命を絶ったそうです。彼のポケットには、
「ぼうりょくではないけど、ぼうりょくよりもひさんだった。あの4人にい
じめられていた。ぼくは死ぬ」と遺書が残されていたそうです。
前島さんは、勇作君の残してくれた「一枚の絵」を見て、愕然(がくぜん)としたそうです。
その絵(ポスター)には、4人に睨(にら)まれた膝を抱えた孤独な少年がいたのです。
気づかなかった息子の心の中。気づかなかった息子の苦痛。救えなかったという事実。
その後、前島さんは、原因を追及しようと裁判を起こしたそうです。しかし、これ以上裁
判をしていても、「息子は帰らない」と思い、会社を辞め、長野県教育委員会の「子ども支
援課」でいじめ根絶に向けて取り組んでいるそうです。
彼は、「
『あいつが悪いからいじめていいんだ』と言うんなら、全員いじめられてもしょう
がないと言うことになってしまう。私たち人間社会の中には、いじめていい理由はない!い
じめを傍観(ぼうかん)することも罪。いじめを見た人は正義の声をあげて」と訴えています。
前島さんの16年間、持ち続けている苦しみを想像できますか。
もっとも大切な息子を救えなかった父親の心の中の葛藤(かっとう)を・・・・。残された者の苦悩
を、私たちも感じるべきではないでしょうか。
そして、いじめを受けている人が、ずっと抱えながら、苦しみながら生きているということも
知るべきなのです。
秦(はた) 健二さん(34歳)は、小学校時代に受けたいじめが原因で、今でも話すときに
障害が出ることがあるそうです。クラスのほぼ全員からいじめを受けていた秦さん。誰も助
けてくれず、アルバムの中でしか仕返しができなかったと言います。そして、大人になって
も、人を信じられず、社会に適応できなかった彼は、生まれ育った神奈川を離れてたそうで
す。しかし、移り住んだ長野でも孤独感はぬぐえなかったそうで
す。そんな彼は、自殺を図った経験があると告白しています。
そんな彼が、中学生達に訴えます。
3年前に、神奈川に帰ったとき、いじめっ子の仲間に会いまし
た。彼は「よ~秦、元気か」と声をかけてきたそうです。そいつ
は、俺のことをいじめたことを何とも思っていない。「ふざけんな
よ!お前のせいで、こんなに苦しんでいるんだよ」って言ってや
りたかった。でも、何も言えなかった秦さん。なぜならば、いじめっ子のそばには、奥さん
と子どもがいたからだそうです。
「やっている方は、何とも思っていないでしょう。だけどやられている方は、すごく辛く
て、苦しくて、どれだけ追い込まれているか分かりますか」と・・・・。
「その子の心までもゆがんでしまいます。僕のように人が信じられない大人になってしま
います。そして、人生を棒に振ります。あなたたちにその子の人生の責任が取れますか。君
たちに、いじめられている子の命や人生の責任が終えないのであれば、君たちにいじめる資
格はない!」と彼の心の叫びが続きます。
そして彼は言います。「今は違う子がいじめられている。でも、明日は自分がいじめられ
るんだよ。ってことは、周りのみんなが「やめろよ!」って言ってあげないと、自分がそう
なったとき、誰もやめろよっていってくれないんだよ。自分を守るためにも、まず誰かを救
ってあげようよ。やめろよって言ってあげようよ」と・・・・。
そして、「誰が救うんだ!今君たちの目の前で起こっているいじめを見ているのは、まわ
りにいる君たちでしょ。君たちが気づいて、やめろよ!って言ってあげないとそのくずども
は、気づかないんだよ。みんなの中で、命を落とす子が出て、人が亡くなってから泣いたっ
て遅いんだよ」と・・・・。
そして、彼は言う。
「いじめられていることを言うことは、恥ずかしいことではない」と・・・・。
だから、もっと発信していいんだと・・・・。学校としても、「生活アンケート」や「二者面談」な
どがあるが、それを待つ必要はありません。
そして、誰が悪いのかをはっきりするべきなんだよ。
先生たちは思います。いじめられている子が学校に来れらなくなって、勉強もできない。部活
動もできない。高校進学だって・・・・。そして、いじめている子が、のうのうと楽しい学校生活を
送りながら、次の「いじめる子」を探しているなんて、絶対に許されてはいけないんだよ。
なぜなら、「先生」だって「君たち」だって、残される者の中に入ってしまう可能性はあるん
だ。そして残された者は、一生十字架を背負うことになるんだよ。
一番の解決方法は、クラスが正義の絆(きずな)で強くなることなんだ。「一部の人の機嫌で、ク
ラスの雰囲気が悪くなってしまう」「正しいことが言いづらい・言っても仕方がないという雰囲
気がある」
「授業妨害がある」なんてクラスは、知らず知らずのうちに、いじめの温床(おんしょう)
となってしまう。さぁ~、素敵なクラスをつくってください。
今の日本は平和です。しかし、心配な面を報道で見たことや読んだことがあると思いますが、それ
でも世界一安全で安心できる国であることは間違いないと思います。
私らしく生きる
平和学習
平成25年(2012 年)8月21日(水)
no1
保護者の方と一緒に読みましょう
それなのに鴨中では、夏に平和教育をおこなっています。
その目的は、左の詩にあるように「私たちが忘れない限り、平和は続くだろう。だからこそ忘れ
てはいけない」です。
忘れないで伝えていくためです。
では、横須賀に住む私たちは、何を忘れてはいけないのでしょうか。
憲法9条
日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争
と,武力によ日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発
動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,
永久にこれを放棄する。
とあります。「戦争を永久に放棄する」と強い意志で掲げられている日本の憲法9条。平和憲法と
も呼ばれているが、この強い想いの裏側にある、日本の苦い経験…。
まずみなさん、下の詩を読んでみて下さい。
1945年3月26日から始まった沖縄戦。
私の祖母が持つ 一枚の写真
何年も経つけれど 忘れられない笑顔
忘れられない言葉
祖母は何も言わず 棚の奥から
一枚の写真を 取りだした
古びた写真に写る 子どもたち
満面の笑顔の男の子 勝気そうな女の子
おとなしそうに はにかむ笑顔
豪快に口をあけた笑顔 たくさんの笑顔
一人一人の目は 未来を見つめ
キラキラ輝いている
みなさんは、沖縄は知っていますね。では、沖縄の悲劇を知っているでしょうか。
先生は、嘉味田さんの祖母が経験した、たくさんの笑顔・たくさんの夢が打ち砕かれた事実を同じ
日本人として知る必要があると思います。
○中学生も少年兵として戦場に立ち、死んでいったから
≪平和の詩 全文≫ 「幸せの一枚」
小学生の頃 先生が出した宿題
家族から戦争の話を 聞いてくること
急いででかけた 祖母の家
この詩は2012年6月23日の沖縄の慰霊の日に朗読されたものです。作者は、当時中学2年
生だった嘉味田 朝香(かみだ ともか)さんです。
アメリカ軍は、沖縄に上陸する前に、地形が変わるほどの激し
い艦砲射撃が行われたそうです。別名「鉄の暴風」と呼ばれ、嵐
の時の雨のように爆弾が降り落ちたそうです。
ずっと黙ったままだった 幼い私にも
祖母の深い悲しみが 深い苦しみが
痛いほど伝わった
長い沈黙の後
祖母は
「どうして戦争なんかするのかねー
戦争さえなかったらみんな幸せだったのに…」
私はもう一度写真を見た みんな笑っている
幸せそうに笑っている
愛する家族がいたはずだ
「この人だぁれ?」
真ん中に写る女性を指さし祖母に尋ねる
祖母は寂しそうに笑い
「わたし」 一言だけ答えた
たくさんの夢があったはずだ
大人になるその日を夢見ていたはずだ
その笑顔を 幸せを 奪った戦争を
私は許さない 絶対に許さない
一人一人の顔を 愛おしそうに
懐かしそうに 指でなぞるように
眺めながら 時が止まる
「この子たちは」
ふたたび祖母に尋ねる私
祖母は多くを語らない
私はあれ以来 あの写真を見ていない
祖母の家に眠る一枚の写真
それにこめられた 祖母の思い
もう何年も経つけれど 忘れられない
「あばあちゃんの生徒たち」
「大切な大切な生徒たち」
「みんなどうなったの?」
祖母は答えなかった
私たちが忘れない限り 平和は続くだろう
だからこそ忘れてはいけない
この地には たくさんの笑顔が
たくさんの夢が 眠っていることを
↑鉄の暴風と呼ばれた、アメリカ艦隊からの艦砲射撃
↑捕虜となった沖縄の少年兵
みなさんは、沖縄にどんなイメージを持っていたでしょうか。
私が知る沖縄は、青い海と青い空、透き通る海に珊瑚礁…、そ
の美しい風景です。ですが、その美しい風景が破壊され尽くした
のです。
6月23日は、沖縄の慰霊の日。この日は、第二次世界大戦に
おいて、沖縄戦の組織的抵抗が終わった日とされています。
横須賀と沖縄の共通点は何だか知っていますか。基地の街(島)
と呼ばれている点だと思います。
しかし、住んでいる人たちの意識は全く違うと言えます。
みなさんにとって、横須賀にアメリカの基地があることをどう
感じていますか。
↑白旗を掲げた少女
語り部の方たちは言います。
「戦後このかた私たちは、あらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねば・・・・と思い続けて
きました。これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得た、譲ることのできない私たち
の信条なのです」と、今も沖縄では語り継がれています。
集団自決
)
さらに悲惨だったのが
です。米軍が最初に上陸した「慶良間列島(1945.3.26)」では、
「3,700人の島民の内、700人が、軍命(軍人からの命令)により集団自決したそうです。しか
し、死んでいったのは、兵隊ではありませんでした。
「老人・女性・幼い子どもたち」であったと言われています。
)
(
だけど…日本軍は、沖縄住
民を軍の指揮下に置き、敵兵
の盾にし、犠牲を強いたので
す。「国土防衛義勇隊」「鉄血
勤皇隊」「ひめゆり部隊(従
軍看護婦)」が有名で、みな
さんも知っている人も多いと
思います。
この悲惨な沖縄戦が終わり、太平洋戦争が終結したのが、1945年8月15日(終戦記念日)です。
しかし、取り残された島…沖縄は、戦後27年間(自由に沖縄に行くことが出来ませんでした)、ア
メリカの占領地となったのです。その間、沖縄の人たちは、様々な苦しみを強いられました。そして
日本に返還されたのは、1972年(昭和47年)5月15日です。
だから同じ基地をもつ街「横須賀」といっても、まったく違う感情を、沖縄の人たちは基地や、こ
の戦争に対して持っています。
さらに教育も悪かったと思
います。捕虜になるなら日本
国民として死を選べ。
米軍は鬼畜(きちく)だから捕
まったら残虐 (ざんぎゃく) な目
にあうと日ごろから教えられ
↑自決した従軍看護婦(ひめゆり学徒隊)を
ていたのです。それを沖縄の
悲しそうな顔で見るアメリカ兵
人たちは実際に…。左の写真
は、追い詰められたのでしょうか、自ら命を絶った(自決)ひめゆり学徒隊(十代)の女性です。
い。しかし、少年はついに母親
と妹、弟を手に掛けてしまった
のである。気がつくと少年は、
山の中をさまよっていた。涙は
すでに涸 か れ、ほとんど夢遊
病者のような足取りだった。そ
のとき、人の声がした。草むら
からのぞき込む。思いがけない
光景が見えた。日本軍の兵士達
が食事をしている。しかも、談
笑 し な が ら 。「 し ま っ た。 あ ん
な恐ろしいことは、しなくても
よかったんだ」
少年は、谷に戻る。だが、母
達が息を吹き返す望みはすでに
永久に失われていた。涸れたは
ずの涙が、また目にあふれた。
どう嘆いても取り返しはつかな
い。
住民に自決を命じるくらいだ
から、
日本軍は敵陣に切り込み、
すでに玉砕を遂げているに違い
ない。そう思いこんでいた。惨
殺は、奇妙なルールに支配され
ていた。大事に思っている人間
から先に、しかも確実に殺す。
蘇生 そせい したら鬼畜の餌食
になる。ひたすら、そう思い込
ま さ れ た 。「 母 に な んと かして
生き返ってほしいと、どれだけ
願ったことでしょう。しかし、
ダメでした。愛情が特別深かっ
たから、徹底的なことをしてし
まった。
」
※
六十年前を語り、その道を歩
み続けていくつもりだ。と力強
く語る。 彼は、那覇市内の教
会や高校で体験を語っている。
一番、沖縄の人にとっての
悲しみは、本当の敵は誰だっ
たのかという点です。
もちろん当時、日本にとっ
ての敵は連合軍であり、その
中心はアメリカでした。
(
なんと沖縄の4人に1人が犠牲になったそうです。中には、一家全滅という家庭も少なくないと聞
きます。まして、太平洋戦争で、住民を巻き込んで地上戦がおこなわれたのは沖縄だけです。
)
少しでも長く守るために、日本から見捨てられ、犠牲を強要された島と言われていま
す。住民14万人(戦闘員・非戦闘員を含む)が被害者と言われています。
(
沖縄戦は、戦争の醜(みにく)さのすべてがあったと言われています。沖縄戦は、本土(東京)を
)
戦争は、人間の醜さの全てがあり
沖縄戦にその全てがあった
(
平成25年(2012 年)8月21日(水)
保護者の方と一緒に読みましょう
渡嘉敷島に渡った。那覇から そう教えられてきました。女は
一時間十分のミニ船旅。緑の島 犯され、男も女も八つ裂きにさ
が近づく。船が汽笛を鳴らす。 れる。
そう教育されてきました。
手すりにつかまって人が身を乗 そんなことになるなら、
いっそ、
り出す。迎えの知人を見つけて この手でと思い詰めたのでござ
手を振る。
い ま す 。 そ して 、『自 決せ よと
「集団自決」の谷は、国立青 の命令が出たと情報が伝えられ
年の家の敷地内にある。港から ま し た 。』 手 榴 弾 が軍 から あら
二キロの山道。上り坂をとぼと かじめ渡されておりました。そ
ぼ歩き始めたとき、青年の家の れを使用するときがきたのだと
車に拾われた。
覚悟しました。
」
碑 が 立 っ て い る 。「 集 団 自 決
家族が固まりをつくる。幼い
跡地」と読める。碑文にこう書 子供に因果を含める声。むずか
か れて いる 。〈 こ の大地 後 方 の る赤ん坊を必死になだめる押し
谷間は去る大戦において住民が 殺した声。一瞬の静寂。そして、
集団自決をした場所である。米 突然、手榴弾の爆発。人間の断
軍の上陸により追いつめられた 末魔の悲鳴。号泣。
住民は友軍を頼ってこの地に集
金城少年も手榴弾を手にし
結したが、 中略 危機を感じた た。母親、妹、弟がにじり寄る。
住民は「生きて捕虜となり辱め 教わったとおり爆発させる。
が、
を受けるより死して国に殉ずる 点火しない。
方法を誤ったのか、
こ と が 国 民 の 本 文で ある 。」と 不発弾だったのか、とにかく爆
して、昭和二十年三月二十八日 死は失敗に終わった。呆然と立
祖国の勝利を念じて笑って死の ちすつく少年は、不思議な光景
うと決意した〉死者の数は老若 に目を奪われた。一人の男が凄
男女三百五人。
い形相で木の枝を折っている。
そして、次の瞬間、折りとった
谷をのぞく。獣道のような急 木を頭上に振り上げ、そばにう
坂を慎重に下る。ハブの出そう ずくまっている妻や子をむちゃ
な暗く湿った林、坂を下りきっ くちゃに殴り始めた。それが導
た所に細い流れがある。
あの日、 火線となった。爆死に失敗した
死者達の血で真っ赤に染まった 人々は、鎌で、こん棒で、石で、
という小川だ。
肉親を撲殺していった。 「地
語り部・金城重明 七十六 さ 獄としか申し上げようがありま
んの言葉がよみがえる。
せん。恐ろしい光景でありまし
た。
」
「私は、母と妹と弟をこの手で
金城少年も震えながら決心し
殺しました。否定しようのない た。石を使ったのかこん棒を使
事実です。アメリカ兵は鬼畜。 ったのか、記憶がはっきりしな
平和学習
no2
-時代の壁越え、罪を語る-
大切な人ほど確実に死なせた
私らしく生きる
自立・共生・貢献
私らしく生きる
平 和 学 習
横須賀市立鴨居中学校
平成25年(2013 年)8月21日(水)
保護者の方と一緒に読みましょう
今を生きる私たち
←
想像力
原爆のキノコ雲の下は広島
この子の目の前で
起きたことを知ってほしい
そして、忘れないでほしい
みなさんは、広島と長崎に原爆が投下されたこと
を知っていますか。
では、いつ原爆が投下されたか知っていましたか。
キノコ雲の下で起きていたことを知っていました
か。世界で唯一の被爆国…日本。そこに生きる私た
ちが忘れ去ってしまっていいのでしょうか。
今から67年前の『1945年8月6日 8時15分』に人類史上初の原子爆弾が、日本の広島
に投下(アメリカのB29エノラゲイ…原子爆弾の名称は、リトルボーイ)されました。
そのときの被害は、被爆後4ヶ月間で、14万人が亡くなったと言われています。
そして、アメリカは広島に続き、長崎『1945年8月9日 11時2分』にファットマンとい
う名の原爆が投下されました。長崎では、被爆後4ヶ月で7万人が亡くなっています。
驚くべきことに、被爆後5年間で合計の犠牲者は、広島で20万人、長崎で14万人にも達した
そうです。
みなさんの中には、なぜ、こんなことを勉強しなくてはいけないのか?
と疑問に思うかもしれませんが、このような言葉を知っていますか?
「”歴史”は…人の財産。あなた達がこれから生きる未来をきっと照らしてくれる。
だけど過去から受け取った歴史は、次の時代へと引き渡さなくちゃ消えていくの」
(ニコ・オルビア)
次の時代へと引き渡さなくちゃ消えてしまう歴史とは何だろう。私たちの時代で消してはいけな
い歴史とはなんだろう。その歴史が、これからを生きる私たちを明るく照らしてくれるのだろうか。
一枚の写真が伝えることは何だろうか。
一枚の写真は、アメリカのフォトジャーナリストであった「ジョー・オダネル氏」の作品だ。
彼はもういない。2007年に亡くなった。
一枚の写真を見て、君は何を思うだろうか?
想像してみてください。想像力は、人間にのみ与えられた素晴らしい力です。
で、人々がどうなっているだろうかと想像できたら…。原爆の投下を指令した大統領も、投下し
た機長も、あのような笑顔を見せることは出来なかったはずです。
←
左の写真は、爆心地付近で撮影され
たものです。家族を探しに来たのであ
ろう女性と、焼死した遺体が写されて
いる。後にわかったことは…
これはいつの時代なのだろう。おんぶしている子どもは、生きているのかな。なぜ、裸足(は
だし)なのだろう。両親はなぜいないのだろう。この子の目の前には、どんな光景が広がってい
るのだろう。彼は、どんな思いでここに立っているのだろう。彼は今…
当時を振り返り、ジョー・オダネル氏は語る。
直立不動の姿勢で立つ少年
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。す
ると、10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひも
をたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。
少年の様子はあきらかに違っていました。重大な目的を持ってこの焼き場
にやってきたという、強い意志が感じられました。足は裸足です。
少年は焼き場のふちまでくると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くして
います。少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白
いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始
めました。私は、背中の幼子が、すでに死んでいることに気づきました。
男たちは幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰
の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。真っ赤な夕日のよう
な炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるの
に気づきました。少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れ
ることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き
場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。
右の写真は、長崎で被爆した田中キヲさん。91歳
で2006年に亡くなられた。爆心地から約2キロ
の水田で被爆、長男と生後4ヶ月の次男(写真)の二人を同時に失った。
ヒロシマ・ナガサキで起きていたことをどれだけ知っていましたか。
(インタビュー・上田勢子)
[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
1945年8月15日に第二次世界大戦が終わり、終戦をむかえました。
しかしこの写真は、その後43年間、封印(ふういん)され、私たちの目に触れることはありま
せんでした。彼は、「絶対に開けるな」と家族に言い渡し、屋根裏に写真が入ったトランクを封
印したそうです。
想像してみてください。彼の気持ちを…。
人々が想像力を身につけていたのなら、多くの不幸は未然に防ぐことができたのではないでし
ょうか。あの原爆を使ったら、どうなるだろうかと想像することが出来たら。あのキノコ雲の下
絶対に人々の記憶から、消してはいけない歴史。
幼子を失わなければならない理由がどこにあるのですか。家族を失わなければならない理由
がどこにあるのですか。
人の命を奪う正当な理由など…どこにも存在しません。
想像してみてください。人の悲しみや苦しみを…。そうすれば、私たちの行動
は違ってくるはずです。新しい歴史を作るのは、今を生きる私たちです。
想像力の欠如(けつじょ)からくる悲劇は、なにも戦争に限ったことではありません。私たちの
日常にも隠れているのではないでしょうか…。
自立・共生・貢献
私らしく生きる
鴨居中だより
保護者の方と一緒に読みましょう
下の写真を見てください。
みなさんは、この写真から何が伝わってくるでしょうか。
横須賀市立鴨居中学校
平成26年(2014 年)2月28日(金) 号外1.
私の想いを
受け止めて
みなさんは、後9日で中学校を卒業して、さまざま
な進路に進みます。
そして、いずれは広い社会の中で生きていくことに
なります。そんな体験のひとつとして、2年のときに
「職場体験」がありましたね。
みなさんの10年後は、さてどんな仕事に就いて活
躍するでしょうか?
まして、みなさんは「国際社会の中で生きる」とも
言われ、小学校から英語の勉強をしてきましたね。
では、国際社会に生きていく君たちは、英語を使っ
て何を語り合うのでしょうか。
今日はみなさんに伝えたいことがあります。それは「世界が変わってしまった日」のことです。
みんなの心の一番奥深いところにある『魂』への問いかけです。今までのみんなの経験や知識を総動
員して考えてもらう場面があるかもしれません。この1時間の授業が、みんなの人生の記憶に残る1
ページになってもらえれば、と思っています。
さて、右上の写真の花の名前を知って
いますか。
この花の「花言葉」を知っている人は
少ないと思います。
同名の歌(右の歌詞)があります。一青窈(ひととよう)さんが、ある事件をき
っかけにつくられた楽曲であることを知っていますか。
↑ 一 青 窈
写真が訴えるものは
この事件で世界が変わったと感じています。世界が、正しいことを言っ
ていれば、何をしても正義と勘違いしてしまった。憎しみには、憎しみで
返せば、何かが解決すると勘違いしてしまったと感じています。
ハナミズキ
空を押し上げて
手を伸ばす君 五月のこと
どうか来てほしい
水際まで来てほしい
つぼみをあげよう
庭のハナミズキ
薄紅色の可愛い君のね
果てない夢がちゃんと
終わりますように
君と好きな人が
百年続きますように
幼い娘との記念写真。髪飾りを付けた愛らしい赤ちゃんと、
その横で微笑む美しい女性。赤ちゃんのベッドの枕元には、こ
の瞬間を象徴するように、「LOVE」の置物。彼女の人生の
中でも、特に幸せな場面であることは容易に想像できます。
一青窈さんが歌う「ハナミズキ」の『薄紅色の可愛い君のね
果てない夢がちゃんと 終わりますように 君と好きな人が
百年続きますように』の歌が一番ぴったりする写真だと思う
のです。
夏は暑過ぎて
僕から気持ちは重すぎて
一緒にわたるには
きっと船が沈んじゃう
どうぞゆきなさい
お先にゆきなさい
僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと
止まりますように
君とすきな人が
百年続きますように
ひらり蝶々を
追いかけて白い帆を揚げて
母の日になれば
ミズキの葉、贈って下さい
待たなくてもいいよ
知らなくてもいいよ
僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと
止まりますように
君と好きな人が
百年続きますように
君と好きな人が
百年続きますように
この写真の女性の身に一体何が
起こったのでしょうか。
命が大切なことは誰でも知っていると言う
でも、本当に知っているのだろうか
写真が訴えるものは
傷ついた女性の写真。
彼女は、子どもと一緒に幸せそうに微笑(ほほえ)んでいた女性です。あの写真を撮影した日からほ
どなく、アメリカ軍の爆撃を受け、ガラスの破片で失明してしまいました。顔はガラスを取り除く簡
単な手術しか受けていません。幼い娘は爆撃で亡くなりました。
こんなことが許されていいのでしょうか。
さて、ある事件とはみなさん知っていますか。
↑世界貿易センター
続いて、2003年3月には、大量破壊兵器をもっているという理由で、アメリカはイラクを攻撃
(「イラクの自由」作戦)しました。しかし、今も、イラクから大量破壊兵器は見つかっていません。
アメリカの死者は、4,140人。イラクの人々の犠牲者は、なんと65万人以上と言われている。
戦場から遠く離れた日本。世界でただひとつの被爆国の国民として、ヒロシマ・ナガサキを忘れか
けている日本人が、戦争の現実を知ることは難しいだろう。
あの悲惨な沖縄戦を忘れ、沖縄の人たちの思いも感じられなくなりかけている私たちができること
は何だろう。
でも、人の悲しみを想像し、一緒に悲しめるようになりたいと思う。なってほしいとも願う。
9.11ニューヨーク同時多発テロの映像で、人が人を殺す愚かしい場面の最果(さいは)てを初
めて見ました。それまでは、戦争は遠い話でした。親や兄弟が殺されることが、彼らの戦争です。
ミサイルが発射される映像があると、その爆弾が、その後に何をしたのか、報道からは伝わらな
いから想像する必要があるんです。報道が伝えない叫び声やうめき声を私たち自身の想像力で埋
めていかなくてはならないと思います。
崩壊した世界貿易センター周辺に張られた行方不明者
の安否を尋ねる張り紙。
この無差別テロ事件の犠牲者は、すべての犠牲者を合
計すると2973人とされているそうです。このうち、
救助に向かった消防士や警察官等403人が含まれてい
ます。
「子どもたちに伝えるイラク戦争」
↑安否を尋ねる張り紙
報復(ほうふく)を考えたのです。
テロを支援している国ということで、アフガニスタンに
報復攻撃をするために、アメリカのブッシュ大統領は、「武
力行使容認決議案(必要で適切なあらゆる軍事力を行使する
権限)」を提出しました。
採決はどうなったと思いますか。あなたなら報復に賛成
しますか。反対しますか。
名
(亡くなられた方の人数は、インターネットのウィキペィアを参考にしています)
アメリカの小学生が書いたものが思い出される。
3機目は、9時37分にペンタゴンに墜落した。さら
に4機目が10時3分にペンシルベニア州に墜落したの
です。
名,反対
この報復攻撃で、アメリカを含む多国籍軍(「不朽の自由」作戦)は、2,500人以上の人の命が
亡くなり、アフガニスタンでは40,000人以上の人の命が奪われました。
いったいどんな自由を求めた戦いだったのだろうか。
上の写真は、2機目が突入した瞬間)
決議案に賛成
そして世界はどうなってしまったと思いますか。
アメリカは、アフガニスタンとイラクの戦争の作戦名に共通な言葉を入れていますね。
「自由」です。
その事件とは、「アメリカ同時多発テロ」と呼ばれて
います。2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生
したテロ事件です。
4機の航空機がハイジャックされ、1機目は、午前8
時46分にニューヨーク世界貿易センターの超高層ビル
であるツインタワー北棟(110 階建)に突入し爆発炎上。
2機目が、9時3分に南棟に突入し爆発炎上した。(右
さてアメリカは、この事件の後、何をしたか知っていま
すか。
「もしブッシュ大統領が反撃するなら、アメリカ人に何をすることになるのかわ
かっていないと言うことです。皆を緊張と不安の下におき、アメリカ人だけでなく
アラブの人たちもたくさん殺すことになるでしょう。彼らにも人生はあるのに」
突然失われる命
石井竜也・広川隆一
小学館
もう一度、「ハナミズキ」の歌詞を読んでみて下さい。こ
の歌詞はニューヨークで起きた同時多発テロの直後に、一青
窈が自分自身の心の底からわき上がってくる思いを、日本が
ワシントンに贈った桜のお返しに、アメリカから受け取った
「ハナミズキ」に託して表現したものだそうです。
当初は、「武器」「戦争」などの言葉が使われていたそうですが、それらを削りに削って、現在の歌
詞にしていったそうです。(個人的には理解が難しい歌詞の部分もあるのですが…)
↑崩れ落ちたセンタービル
と消防士たち
上院(100議席)では全会一致 (反対者は0です)。下院議
員(435議席)でも圧倒的多数で可決されました。でも反対者もいたのです。さて何人の人が反対し
たと思いますか。
しかし残念ながら、2001年10月にアフガニスタンに報復攻撃が始まりました。
参考に、当時アメリカの小学校5年生の書いた作文の一節です。この考えに対して、あなたはどん
な考えをもちますか?
やられたらやり返す…、同時多発テロで、3,000人近くの方が犠牲になった。だからやり返す
…一見、正しいことのように聞こえますが、そうでしょうか。
彼女の歌詞には、「僕の我慢がいつか実を結び、果てない波がちゃんと止まりますように、君とす
きな人が百年続きますように」とある。
僕の我慢とは…、一青窈は何を言いたいのだろう。
愛する人の赤ちゃんを産み、幸せな人生を続くことを信じていた女性。「果てない夢をちゃんと終
わらせたかった」多くの人たち。
今を生きている私たちは、死んでしまった人たちの叫び声や、うめき声を私たち自身の想像力で聴
きとり、今を精一杯生きていってほしいと願っています。素敵な卒業式を楽しみにしています。
自立・共生・貢献
私らしく生きる
本当にさまざまなステージで、活躍してくれた吹奏楽部。卒業生が
2年生の頃には栃木県で行われた東関東大会に連れて行ってもらった
り、アンサンブルでも東関東に応援に行くことが出来ました。頑張っ
ている生徒を応援できることが一番嬉しい。
鴨居中だより
横須賀市立鴨居中学校
平成26年(2014 年)3月17日(月)
保護者の方と一緒に読みましょう
号
←サックス奏者
佐藤さんと北村さんのソロ
誰がこの二人のかわりを誰が受
け継ぐのだろうか?
卒業生お疲れ様…新たなるステージで、自分の音を見つけていってほしい!
外.
在校生よ!
どんな目標をもつのでしょうか。渡辺監督の座右の銘「目標がそ
の日その日を支配する」です。そして、具体的な行動が求めら
れてきます。吹奏楽部としての覚悟をもって目標を決めてください。
木下先生への
感謝の花束
(今井部長より)
→
←↑卒業生も応援してくれています
伝統を受け継ぐ!?
まだ伝統なんてあると思うな!
今、伝統を創っ
ているんだよ!
Aバンドで東関東に出場できて
はじめて伝統となるんだ
全国大会出場と言いたいが、それは君たちが声に出して、覚悟をもって言
うべき目標だろう。まずはAバンドで東関東大会に出場してほしいな。
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