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スピノザ主義
スピノザ主義 スピノザ主義 Spinozismus 海 老 坂 高 1 ライプニッツの単子説は豊穣な可能性を秘めた生命概念を形而上学に導 入することによって唯心論と唯物論の、観念論と機械論の和解を成し遂げ た 。 1 それにもかかわらず、 それにもかかわらず、十八世紀中葉のドイツにおいては、 十八世紀中葉のドイツにおいては、心身関係 心身関係 の哲学的議論はいまだ明確な道筋を発見してはいないように思われる。 ヨーハン・ ヨーハン ・ゲオルク ゲオルク・ ・ヴァルヒは有名な哲学事典のなかで、 「霊魂は人間 の肉体と合一している精神的実体である」という の肉体と合一している精神的実体である」 という「一般的」 「一般的」解釈から出発 解釈から出発 し、霊魂と肉体という二種類の実体を分ける原理を思惟の機能に求めてい る 。 2 「霊魂は肉体から本質的に区別される実体である」 「霊魂は肉体から本質的に区別される実体である」が、 が、それは、 それは、霊魂 霊魂 に備わり事物を認識し理念を比較考察する思惟が「肉体ないしは物質から は決して由来し得ない自由」を人間に保障するからである。複数の人のあ いだで思想が異なり、同一人でもいつも同じ考えをするとは限らないの いだで思想が異なり、 同一人でもいつも同じ考えをするとは限らないの は、この自由による。 は、 この自由による。このような自由は このような自由は「もっとも抽象的な構想や宗教的 「もっとも抽象的な構想や宗教的 実体の概念」を対象にする場合も同断である、 実体の概念」 を対象にする場合も同断である、とヴァルヒはいう。 とヴァルヒはいう。霊魂と 霊魂と 肉体が互いに区別されるふたつの実体であるならば、霊魂の本質はその自 由な思惟能力に求められねばならない。もっとも、ヴァルヒの引き出す結 論は、彼自身の前提を揺るがす可能性を含んでいる。 論は、 彼自身の前提を揺るがす可能性を含んでいる。なぜなら本源的に なぜなら本源的に 「自由な」霊魂の活動は、 「自由な」 霊魂の活動は、原理的に可能なあらゆる思想を許容せざるを得 原理的に可能なあらゆる思想を許容せざるを得 ず、その結果、実体としての霊魂を否定する思想を排除することができな くなるからである。 cogito を導きの糸とする点においてばかりでなく、 を導きの糸とする点においてばかりでなく、霊魂と肉体という 霊魂と肉体という 二つの実体を並置する点においても、ヴァルヒは依然としてデカルト主義 - 23 - 帝京国際文化 第 15 号 者にとどまっている。デカルトの二元論から帰結する二重真理説、すなわ ち啓示と自然法則の並存に関する問題に対して、ライプニッツの形而上学 が用意することのできた観点は革命的なものであった。しかしライプニッ ツはそれに関しては大胆に譲歩し、あるいは慎重に口をつぐんだ。ここに ドイツ啓蒙主義の宗教に関する基本的態度、すなわち ドイツ啓蒙主義の宗教に関する基本的態度、 すなわち「宗教への批判的、 「宗教への批判的、 懐疑的姿勢」に深い憂慮を覚え、 懐疑的姿勢」 に深い憂慮を覚え、それに それに「制約」 「制約」を加える態度 を加える態度 3 を見るこ とは、あながち的外れなことではないだろう。 とは、 あながち的外れなことではないだろう。ヴィルヘルム ヴィルヘルム・ ・ディルタイ は、もしライプニッツが自らの形而上学の論理的帰結を神学に適用したな らば、 「義認と宥和の教義において告知され、怒りを露わにするとともに 「義認と宥和の教義において告知され、 怒りを露わにするとともに 赦しを与える神に替えて、必然的真理を前提して法則に従いつつも自由 赦しを与える神に替えて、 必然的真理を前提して法則に従いつつも自由 に、力、 に、 力、生命、 生命、幸福の全段階を最も完全に実現するものとして、 幸福の全段階を最も完全に実現するものとして、この世界 この世界 を産み出した神を、据えることになったろう」という含蓄のある指摘をお こなっている。 「このようにして啓蒙主義のキリスト教信仰が成立するこ とになる。そして旧約聖書の神の酷薄な相貌は和められることになるので あ る 。」4 このような「啓蒙主義のキリスト教信仰」 このような 「啓蒙主義のキリスト教信仰」は、 は、神の人格性を保持しつつ 神の人格性を保持しつつ も、自然法則の網の目が超自然的な意思によって分断されることを許さな い。神は意思を自由に行使するが、それはすべて自然法則に適うものとな る。かくして超自然的な奇蹟は消失する。啓示は自然法則と一致すること になるのである。ライプニッツにとって悪は不断の向上過程を実現する前 提条件である。。 悪の存在しない世界は完全な世界であるが、 提条件である 悪の存在しない世界は完全な世界であるが、完全な世界に 完全な世界に 向上はない。ライプニッツにとって悪は善を発酵させるパン種である。よ りよい善への歩みこそが、世界を構成する単子( monade monade) )の活動を産み出 す有機態の意義である。このような観点に立つならば、 す有機態の意義である。 このような観点に立つならば、神の意志とは、 神の意志とは、理 理 性を超えた暗闇から到来し人の心を畏怖の感情で満たすものではなく、い まだ開示されざる理性的法則にほかならないことになろう。 しかしこのような自然宗教を想定することは、デイヴィッド デイヴィッド・ ・ヒューム が明確に見通していたように、思惟の活動にとっては、ひとつの中間段階 に過ぎない。。 5 もし啓示が自然法則と完全に一致するのであるならば、 に過ぎない もし啓示が自然法則と完全に一致するのであるならば、両 両 者を並立させる理由はなくなるだろう。そして啓示宗教を成立せしめる神 - 24 - スピノザ主義 人同形同性論が理性の全幅の支持を得られない以上、退場を促されるもの は明らかである。 「旧約聖書の神の酷薄な相貌は和められる」ばかりか、消 滅するほかないのである。ライプニッツが実体概念を有機化することによ りスピノザへの周到な批判を用意したにもかかわらず、十八世紀中葉にお いても依然としてスピノザ哲学が注目される所以がここにある。なぜなら スピノザが比類のない仕方で論証したものは、人格神の不合理にほかなら ないからである。 スピノザは「神」 スピノザは 「神」について語った。 について語った。それにもかかわらず、 それにもかかわらず、無神論の非難 無神論の非難 を浴びたのは何故だろうか。それはスピノザが神を信じなかったからでは なく、伝統的な人格神への信仰を否定したからである。スピノザは厳密な 意味での無神論者ではない。スピノザも多くの同時代人が信じていた前 意味での無神論者ではない。 スピノザも多くの同時代人が信じていた前 提、すなわち 提、 すなわち「無」 「無」があるのではなく があるのではなく「あるもの」 「あるもの」が存在すること、 が存在すること、現象 現象 を存立せしむる本質が存在すること、を確信していたからである。もしス ピノザが神の概念を全く放棄していたなら、いわゆる ピノザが神の概念を全く放棄していたなら、 いわゆる「スピノザ 「スピノザ・ ・ルネッ サンス」は起こりえなかったであろう サンス」 は起こりえなかったであろう。。 6 十七世紀末葉から十九世紀前半 に至るまでドイツ精神史の底流を形づくるこの精神運動を「スピノザ主 に至るまでドイツ精神史の底流を形づくるこの精神運動を 「スピノザ主 義」 ( Spinozismus Spinozismus) )と総称する所以があるとすれば、それはこの運動に参 加した思想家たちが神の本質を「人格」 加した思想家たちが神の本質を 「人格」からではなく、 からではなく、 「存在」から理解 「存在」 から理解 しようとした点にあるといってよい。 スピノザ主義は体系的な発展を遂げた運動ではなく、その母体となった のはドグマよりも個人の思惟を優先する「自由思想家」 のはドグマよりも個人の思惟を優先する 「自由思想家」 ( Freidenker Freidenker) )の 個々の活動であった。ここに、スピノザ主義者が思惟の貫徹よりもドグマ と思惟の調停を重んじるライプニッツを超えてスピノザへ遡る、もうひと つの所以がある。自由思想家の真骨頂が理性を旗印に教会組織との対決を も辞さないところにあるとすれば、宗教の違いはあれ、スピノザもまたひ とりの自由思想家だったということになろう。少なくともスピノザ主義者 はそのように解釈したのである。 自由思想家に加えられた弾圧の激しさは教会の権威の退潮という大きな 歴史の流れを抜きにしては理解できない。自由思想家に貼られた「無神論 者」という悪意のこもったレッテルには不安の心理が滲んでいる。理性は - 25 - 帝京国際文化 第 15 号 宗教的真理を説明するのではなく、その屋台骨を揺るがしているのではな いか。信仰は理性を無条件にかしずかせることはできないし、理性は宗教 的真理に一定の留保を設けるだけで満足することはできないのではない か。 スピノザ主義者は信仰と理性の関係を逆転させることで、この不安を追 い払う。理性を、 い払う。 理性を、信仰に寄り添いそれを説明する道具とみなすのではな 信仰に寄り添いそれを説明する道具とみなすのではな く、理性自体に信仰の基礎を認めようとするのである く、 理性自体に信仰の基礎を認めようとするのである。。 7 彼等の説く非人 格化された実体は荒削りなものであるとはいえ、観念論哲学の奉ずる絶対 者概念の先蹤とみなしてよい。シェリング、 者概念の先蹤とみなしてよい。 シェリング、ヘーゲルの哲学は ヘーゲルの哲学は「新スピノ 「新スピノ ザ主義」 ( Neuspinozismus Neuspinozismus) )と呼ばれる事がある。 と呼ばれる事がある。もしこの形容にスピノ もしこの形容にスピノ ザとの関連のみを認め、スピノザ主義の歴史的文脈を考慮しないならば、 ザとの関連のみを認め、 スピノザ主義の歴史的文脈を考慮しないならば、 その含蓄を蔑ろにする解釈といわねばならないだろう。 2 もし神の本質が人格なき存在に求められるならば、神はこの世に在るも の を そ の 背 後 で 支 え る 根 拠 と い う こ と に な る だ ろ う 。神 。神は事物に内在 ( Immanenz Immanenz) )するのである。 するのである。しかしここに困難が生ずる。 しかしここに困難が生ずる。なるほどこのよ なるほどこのよ うな神は概念として比類ない純度を獲得しているが、この純度とひきかえ に、神を事物から区別する明確な境界線が失われるのである。スピノザが 神と事物を混同する汎神論者であるという非難はここに淵源する。もっと もスピノザ自身がこの問題に決して無頓着ではなかったことは、いわゆる 「能産的自然」と 「能産的自然」 と「所産的自然」 「所産的自然」の対比を考えてみれば、 の対比を考えてみれば、容易に理解でき 容易に理解でき る。超越( Transzendenz Transzendenz) )という完全な断絶を手放してしまった以上、神 と事物のあいだの関係を明らかにする事が重要な課題となる。もしここで 全面的に理性の声に従うならば、 (当時これは理性の逸脱的誤用として厳 しくいましめられていたが 8 、神は事物に他ならないということになろう。 スピノザ主義者にはこのような大胆な(しかし首尾一貫した)道をとる者 が確かにいた。 この関連を考察する上で、まず取り上げねばならないのはフリードリ この関連を考察する上で、 まず取り上げねばならないのはフリードリ ヒ・ヴィルヘルム ヴィルヘルム・ ・シュトッシュ シュトッシュ( ( Friedrich Wilhelm Stosch) Stosch )の『理 - 26 - スピノザ主義 性と信仰の一致』 ( Concordia rationis et fidei. 1692) 1692 )であろう。今 では全く忘れ去られたに等しいこの小さな書物は大きな影響を与えた。そ の出版から半世紀後、ヴァルヒの事典は の出版から半世紀後、 ヴァルヒの事典は「霊魂は実体ではなく、 「霊魂は実体ではなく、物質ない 物質ない しは肉体の偶有性である」との主張をかかげる思想家の代表として、シュ トッシュの名前を挙げる。ちなみに トッシュの名前を挙げる。 ちなみに『理性と信仰の一致』 『理性と信仰の一致』はわずか百部し はわずか百部し か印刷されず、出版後まもなく、印刷されたほぼ全部数が焼却処分を受け た。したがってヴァルヒの事典の読者にとってはすでに稀観書になってい たはずである。 1648 年に聖職者の家に生まれたシュトッシュはフランクフルト 年に聖職者の家に生まれたシュトッシュはフランクフルト・ ・アン アン・ ・ デア・ デア ・オーダーで神学、 オーダーで神学、哲学、 哲学、法学を修め、 法学を修め、その後ベルリンで十年間にわ その後ベルリンで十年間にわ たる官職を勤めあげた。そのままいけば、波乱のない人生をまっとうした ことだろう。だが退職後彼はその外面からは想像もできぬ大胆な行動に出 る。1692 る。 1692 年、 『理性と信仰の一致』を出版。 『理性と信仰の一致』 を出版。名を隠し、 名を隠し、出版地をでっちあ 出版地をでっちあ げて「アムステルダム」 げて 「アムステルダム」と表記するなど、 と表記するなど、あらかじめ公訴を想定しての、 あらかじめ公訴を想定しての、 確信犯的行動だった。しかしカムフラージュの努力も空しく、逮捕された シュトッシュは、1694 シュトッシュは、 1694 年 3 月 13 日、 日、説教壇上でおのれの非を認める形で 説教壇上でおのれの非を認める形で 審問に決着をつけざるをえなくなる。その後 審問に決着をつけざるをえなくなる。 その後 1704 年に亡くなるまで、 年に亡くなるまで、二 二 度と新たな著作を世に送り出すことはなかった。 シュトッシュの思想史上の意義は、彼の伝記的事実と不可分の関係にあ る。平凡な人生を送ってきた無名の一市井人が文字通り命がけで突如とし て過激文書を世に送り出す。これはほとんど思想革命と呼んでもいい事態 ではないか。 『理性と信仰の一致』は思潮の水面付近で生まれた作品では 『理性と信仰の一致』 は思潮の水面付近で生まれた作品では ない。それは後世人にはもはや認めることが困難な、暗い海底を音もなく 流れる一筋の水脈が産み出したものなのである。カッシーラーは、啓蒙 啓蒙主 主 義に対する立場の如何を超えて十八世紀フランス哲学に戦闘的宗教批判が 浸透しているのとは対照的に、ドイツでは啓蒙主義者にすらその意識が希 薄であると指摘しているが、このような宗教観の保守性はドイツにおける スピノザ主義者の活動を視野におさめるとき、変更の要を認めざるをえな いのではなかろうか。。 9 なぜなら、 いのではなかろうか なぜなら、シュトッシュに見られるような現象は シュトッシュに見られるような現象は 一回限りの例外ではないからである。この熱き底流は、さまざまな形をと - 27 - 帝京国際文化 第 15 号 りながら、間歇的に奔出してきた。フランス革命の前年まで繰り返し出版 されたマティアス・ されたマティアス ・ クヌッツェン クヌッツェン( ( Matthias Knutzen Knutzen) )10 の宗教批判パ ンフレット、テーオドール ンフレット、 テーオドール・ ・ルートヴィヒ ルートヴィヒ・ ・ラウ ラウ( ( Theodor Ludwig Lau) Lau ) の二冊の『省察』 の二冊の 『省察』はその好例といってよいだろう。 はその好例といってよいだろう。 シュトッシュの思想的出発点は、神との人格的応答に潜む悲惨の認識で あり、 「迷信と暴君」11 に対する深い憂慮である。人間は彼岸における断罪 という「迷信」 という 「迷信」を恐れるがゆえに、 を恐れるがゆえに、神は人間にとって 神は人間にとって「暴君」 「暴君」となる。 となる。 「迷 信と暴君」の跳梁跋扈を防ぐためには、 信と暴君」 の跳梁跋扈を防ぐためには、彼岸における応報思想が、 彼岸における応報思想が、まず否 まず否 定されなければならない。この目的を遂行するためにシュトッシュが接近 を試みるのはソチニ主義( を試みるのはソチニ主義 ( Sozinianismus Sozinianismus) )である。 である。ソチニ主義において ソチニ主義において は理性の役割は神性と人間性を明確に区別することにある。したがって生 得の理性には神の意識は存在せず、また人間は存在の類比によって必然的 に神に繋がるわけでもない。人間がその意思にかかわらず、生まれながら にして「暴君」 にして 「暴君」と結ばれることはないのである。 と結ばれることはないのである。神性の支えを失った人間 神性の支えを失った人間 の霊魂は、もはや不死ではない。 の霊魂は、 もはや不死ではない。霊魂は死ぬことができるがゆえに、 霊魂は死ぬことができるがゆえに、死後 死後 の断罪を免れるのである。 シュトッシュの思想は spiritus spiritus(精神) (精神)の解釈においてもっとも大胆 の解釈においてもっとも大胆 な側面を見せる。キリスト教思想の核心に触れるこの重々しい言葉の吟味 を、彼はあっさりと放棄してしまう。 を、 彼はあっさりと放棄してしまう。その結果、 その結果、スピノザの スピノザの「神即自然」 「神即自然」 ( Deus sive natura) natura ) のテーゼが自明の如くに前提される。 のテーゼが自明の如くに前提される。人間理性が 人間理性が 直接考察の対象としうるものは自然だけであるが、その自然は分割不可能 な物質的統一体( な物質的統一体 ( atom atom) )の集合にほかならない、 の集合にほかならない、とされる。 とされる。シュトッシュ シュトッシュ はスピノザが自然を構成する個物を神から区別するために用意した周到な 仕組み――能産的自然と所産的自然――を顧慮しない。この 仕組み――能産的自然と所産的自然――を顧慮しない。 この atom はじか に神と一体化するのである。「神自身である万物は永遠である。」12 シュトッシュの通俗的な汎神論は、プロテスタンティズムの中核にある 父性原理をあからさまに否定する。そこに、抑圧された母性原理を回復し ようとする衝動を認めることは容易だろう。彼の思想が平板なのは、精神 (父性原理)の圧制から自然 (父性原理) の圧制から自然(母性原理) (母性原理)を開放しようとする叫び声は響 を開放しようとする叫び声は響 いているものの、両者を統合しようとする意識的試みが見られないせいで - 28 - スピノザ主義 ある。 3 テーオドル テーオドル・ ・ルートヴィヒ ルートヴィヒ・ ・ラウ は『神、 『神、世界、 世界、人間に関する哲学的 人間に関する哲学的 13 考察』 ( Meditationes philosophicae de Deo, Mundo, Homine. 1717) 1717 ) および『考察と命題、哲学 哲学・ ・神学的疑念』 ( Meditationes, Theses, Dubia philosophico-theologica. 1719) 1719 )において、 において、シュトッシュ同様、 シュトッシュ同様、霊魂 霊魂 の不滅を否定する唯物論的人間学を主張した。 ラウは唯物論が無神論に繋がる危険性を熟知していた点で、すぐれて近 代的だった。もし神が事物の背後に隠れているのならば、神とは事物の異 称であるといってはいけないのか。神が存在するがゆえに事物が在るので はなく、事物が在るがゆえに神の存在が考えられるのではないのか。だと すれば、神の概念は不要ではないのか。 すれば、 神の概念は不要ではないのか。ラウはこの考えをきっぱりと斥 ラウはこの考えをきっぱりと斥 け、神は理性により把握されるばかりではなく、 け、 神は理性により把握されるばかりではなく、感覚による経験も 感覚による経験も「神が 「神が 存在し、実在する」 存在し、 実在する」14 ことを裏書きしている、 ことを裏書きしている、と主張する。 と主張する。これは感覚と これは感覚と 理性の協働を原理とする美的汎神論に道を開く考えといってよいだろう。 しかしラウはそれ以上歩を進めることはしない。神の本質は人間には知り えない(アグノーシス) えない (アグノーシス)ことを強調する事で事足れりとするからである。 ことを強調する事で事足れりとするからである。 もっともラウの不可知論はキリスト教護教論の要請に基づくものというよ り、宗教一般の擁護を旨とするものである。すなわちラウは宗教の多様性 に対する寛容を要求するのである。 しかし、この寛容は無制約なものではない。ラウの徹底した理性主義は 啓示に対しては容赦のない拒絶を示す。宗教はあくまで理性の承認できる ものでなければならないのである。 「二様の宗教、すなわち理性の宗教と 「二様の宗教、 すなわち理性の宗教と 啓示の宗教は、神が存在すること、少なくとも神の本質が一であることを 教えてくれる。神についてのこの単純な知識は理性で間に合う。 教えてくれる。 神についてのこの単純な知識は理性で間に合う。」15 ラウ自身にとっての神とは、特定の人格神ではなく、能産的自然 ( natura naturans) naturans )であり、 「思惟する理性」16 であり、 であり、世界の内在原理 世界の内在原理 である。ラウの宗教心は抽象性の極といっていい神概念の前でひるむこと がないばかりか、それに安んじる事ができる。 がないばかりか、 それに安んじる事ができる。この点、 この点、ラウはまことにス ラウはまことにス - 29 - 帝京国際文化 第 15 号 ピノザの精神の真正相続人といえる。当然のことながら、このような抽象 を尊ぶ精神は神の唯一性を主張する際にもっとも躍動する。 「神はまこと に一者である。もしそうでなければ、 に一者である。 もしそうでなければ、神は存在しないことになる。 神は存在しないことになる。この宇 この宇 宙は円であり、神は点である。 宙は円であり、 神は点である。神は完全であり、 神は完全であり、従って必然的に一者は統 従って必然的に一者は統 一すなわち完全性から増加を遠ざける。神を増加することは神性の破壊で ある。」17 玲瓏とした幾何学的イメージを駆使しているにもかかわらず、 ラウの文章は不思議な熱気を帯びている。それは遠くオルペウス教に遡 ラウの文章は不思議な熱気を帯びている。 それは遠くオルペウス教に遡 り、近くはヘンリー り、 近くはヘンリー・ ・モア、 モア、ライプニッツを経て、 ライプニッツを経て、さらにはノヴァーリス さらにはノヴァーリス やバーダーに受け継がれてゆく伝統 18 を想起させる。 自然の生産性(能産的自然)および宗教的寛容を重視する点から明らか なように、ラウはシュトッシュよりも深く母性原理を理解していた。ラウ は影響の大きさにかけては、自由思想家のなかで抜きん出た存在だった は影響の大きさにかけては、 自由思想家のなかで抜きん出た存在だった が、ひょっとして、 が、 ひょっとして、その理由の一端はこのあたりにあるかもしれない その理由の一端はこのあたりにあるかもしれない。。 19 4 1 7 5 0 年 5 月 9 日、 日、ヨーハン ヨーハン・ ・ クリスチアン クリスチアン・ ・ エーデルマン エーデルマン( (J o h a n n Christian Edelmann) Edelmann )の著作がフランクフルト の著作がフランクフルト・ ・アム アム・ ・マインで公開の 焚書に処せられたとき、著者に向けられた戒めの効果はほとんどなかっ 焚書に処せられたとき、 著者に向けられた戒めの効果はほとんどなかっ た。この不屈の男の信念はいささかも揺らがなかったからである。エーデ ルマンは前年から始めた『自伝』 ルマンは前年から始めた 『自伝』の執筆を続行した。 の執筆を続行した。そのなかでは そのなかでは「誠実 「誠実 なスピノザ」の なスピノザ」 の『政治 『政治・ ・神学論集』 神学論集』との出会いが畏敬の念をこめて語られ との出会いが畏敬の念をこめて語られ ている。。 2 0 ている エーデルマンは宮廷音楽家を父にヴァイセンフェルスで生まれた。1720 年から24 年から 24年までイェーナ大学で学んだ後、 年までイェーナ大学で学んだ後、1725 1725年に家庭教師の職を得た。 年に家庭教師の職を得た。 さらに安住の地を求めて各地を転々とし、1749 1749年にベルリンに終の棲家を 年にベルリンに終の棲家を 見つけた。1767 見つけた。 1767 年、 年、著作の出版を禁じられたまま、 著作の出版を禁じられたまま、貧困のうちに没した。 貧困のうちに没した。 異議申し立ての行為を終生貫き通したところに、この剛毅な思想家の真骨 頂がある。 エーデルマンの初期の思想は、 エーデルマンの初期の思想は、ゴットフリート ゴットフリート・ ・ アルノルトとヨーハ ン・コンラート コンラート・ ・ディッペルの影響下にある。 ディッペルの影響下にある。分離主義のグループに接近 分離主義のグループに接近 - 30 - スピノザ主義 し、1735 1735年にはヘルンフートにツィンツェンドルフ伯を訪問している。 年にはヘルンフートにツィンツェンドルフ伯を訪問している。同 じ年に、一番大きな著作である『無辜の真理』 (Unschuldige Wahrheiten. 1735-1743) 1735-1743 )の最初の部分を匿名で出版した。 の最初の部分を匿名で出版した。この著作は全集の四巻を占 この著作は全集の四巻を占 める大部な作品であるが、敬虔主義と分離主義を念頭に置きつつ、宗教無 差別論を展開している。 エーデルマンによるスピノザ受容の特徴は、スピノザの聖書解釈にみら れる戦闘的批判の力強さを受け継いだ点にある。スピノザは、理性に基づ き、聖書解釈においても自然研究と同一の方法が採用されねばならないと 説いた。スピノザによれば、 説いた。 スピノザによれば、聖書の言葉は神自身の言葉ではなく、 聖書の言葉は神自身の言葉ではなく、その間 その間 接的な伝聞にすぎない。これはエーデルマンにとっては、 接的な伝聞にすぎない。 これはエーデルマンにとっては、神的起源が 神的起源が「聖 「聖 書の威信」の根拠とはならないことを意味した。 書の威信」 の根拠とはならないことを意味した。 「私は研究を重ねるにつ れ、この偶像がいかに貧弱な根拠に支えられているかが次第に分かってき た。そしてそれをもう少し詳しく検討する勇気も湧いてきたのである。」21 聖書の威信を「貧弱な根拠」 聖書の威信を 「貧弱な根拠」に結びつける者たちとの戦いは、 に結びつける者たちとの戦いは、エーデルマ エーデルマ ンの著作活動の大きな部分を占める。 エーデルマンの中心思想を一言で表せば、 「神は理性なり」という表現 「神は理性なり」 という表現 に落ち着く。エーデルマンの思想史上の意義は、この月並みになった思想 に宗教体験の深みから溌剌たる生気を吹き込んだ点にある。その結果、理 性概念が重要な変更を被ることになる。ドイツ的精神の常として、創造的 変容はもろもろの対立の止揚を伴いつつイメージを限界にまで膨らませる が、ここも例外ではない。すなわち理性は心的能力の最上位に位置するば かりでなく、ほとんど心の総称として捉えられるようになるのである。い わば理性という言葉が格別の重みをもつようになり、心の最奥から発せら れるようになるのである。この新たな事態から劇的な綜合が企てられる。 れるようになるのである。 この新たな事態から劇的な綜合が企てられる。 つまり、理性があらゆるものの包括者として再び啓示と和解するのである つまり、 理性があらゆるものの包括者として再び啓示と和解するのである。。22 「しばらく横になっていると、 (略)突如として目が覚めた。そしてこの 瞬間に、 『神はロゴスである』というヨハネ伝の言葉が心に迫ってきたの 『神はロゴスである』 というヨハネ伝の言葉が心に迫ってきたの である。私には、ある者が目の前で私にそれを語りかけているとしか思え なかった。すなわち、 なかった。 すなわち、力を込めて 力を込めて『神は理性なり』 『神は理性なり』と言っているように思 と言っているように思 われたのだ。」2 3 - 31 - 帝京国際文化 第 15 号 この個所に続けて、 この個所に続けて、エーデルマンは、 エーデルマンは、 「自分は何百回もこの言葉を読ん だことがあるが、このときほど心が慰められ、気持ちが晴れやかになった ことはない」と記している。 ことはない」 と記している。理性とは何かと訊かれても、 理性とは何かと訊かれても、恐らくエーデル 恐らくエーデル マンには明瞭な答えを用意できなかったに違いない。理性という言葉に マンには明瞭な答えを用意できなかったに違いない。 理性という言葉に は、論理的な判断能力のみならず、敬虔な宗教感情までもが入り込んでい るのだから。 エーデルマンはスピノザから決定的な刺激を受けたが、彼の一元論に対 しては距離を置いている。エーデルマンの世界観は神の内在を前提する点 でスピノザに一致するが、この神は実体という抽象的な概念ではなく、 でスピノザに一致するが、 この神は実体という抽象的な概念ではなく、 「生ける神」であり、 「生ける神」 であり、だからこそ神と世界の差異はスピノザ以上に鋭く意 だからこそ神と世界の差異はスピノザ以上に鋭く意 識されねばならない。スピノザのような非人格性の論理の徹底はみられ 識されねばならない。 スピノザのような非人格性の論理の徹底はみられ ず、その記述は比喩的で、 ず、 その記述は比喩的で、ヘルメス主義的である。 ヘルメス主義的である。エーデルマンの表現に エーデルマンの表現に は英国の錬金術師ロバート・・ フラッドのシンボリズムの影響が認められる。 は英国の錬金術師ロバート 5 超越神は理性に対して絶対的帰依と限界の甘受を要求する。理性の本質 が認識にあるとすれば、理性の承認しうる神は一般的認識を拒む超越神で はなく、世界に内在する神でなければならない。ところがスピノザは超越 神の例外的認識の源泉である啓示を必ずしも否定しない。理性では捉える 事のできない知の可能性を一方では斥けながら、他方で人間の理性を超え る真理の存在を排除しないのである。ここには信仰と認識ないしは哲学と 神学が出会う領域で生じる根本的矛盾が認められる。。 24 この点に関し、ス 神学が出会う領域で生じる根本的矛盾が認められる ピノザ主義は二つの方向に分裂する。すなわち一方に内在主義を徹底させ る傾向があり(ラウ) る傾向があり (ラウ)、他方に内在と超越の宥和を探る傾向がある 、他方に内在と超越の宥和を探る傾向がある(エー (エー デルマン)のである。 デルマン) のである。後者の場合、 後者の場合、論理の神秘主義的錯綜を避けて首尾一 論理の神秘主義的錯綜を避けて首尾一 貫性を確保するためには、新たな方法論が必要となるだろう。 貫性を確保するためには、 新たな方法論が必要となるだろう。 理性の筋を通しながら啓示にしかるべき場所を割り当てるために、カバ ラほど魅力的な可能性を秘めている道具はないように思われる。そう考え なければ、キリスト教世界におけるカバラの流布を説明する事は難しい なければ、 キリスト教世界におけるカバラの流布を説明する事は難しい。。25 ヨーハン・ ヨーハン ・ゲオルク ゲオルク・ ・ヴァハター ヴァハター( ( Johann Georg Wachter) Wachter )はユダヤ教 - 32 - スピノザ主義 からキリスト教へのカバラの移入を考える上で触れずに済ます事のできぬ 思想家である。 ヴァハターはエーデルマン同様、多くの著作を残したが、生涯に関して は、まだわからないところが多い。1673 年、シュヴァーベンのメミンゲン で、ルター派の聖職者の家に生まれた ルター派の聖職者の家に生まれた。。 26 1689 年にチュービンゲン大学に 入学し、神学を修めて 入学し、 神学を修めて 1693 年に卒業した。 年に卒業した。その後、 その後、家の定めに従って聖 家の定めに従って聖 職者になる決心がつかなかったヴァハターは、ライプチヒ、 職者になる決心がつかなかったヴァハターは、 ライプチヒ、ベルリン、 ベルリン、ハ ハ レ、フランクフルト レ、 フランクフルト・ ・アン アン・ ・デア デア・ ・オーダーへと遍歴を重ねる。 オーダーへと遍歴を重ねる。思想上の 思想上の 転機が訪れたのは、1698 1698年にオランダのアムステルダムを訪れたときのこ 年にオランダのアムステルダムを訪れたときのこ とである。ここで彼はヨーハン とである。 ここで彼はヨーハン・ ・ペーター ペーター・ ・ シュペート シュペート( ( Johann Peter Spaeth) Spaeth )という、ユダヤ教に改宗した元キリスト教徒と知り合い、それが きっかけとなって、スピノザ、 きっかけとなって、 スピノザ、さらにはカバラを知るようになった。 さらにはカバラを知るようになった。この この 知識を元に、ヴァハターは 知識を元に、 ヴァハターは 1 6 9 9 年に 年に『ユダヤ教のスピノザ主義』 『ユダヤ教のスピノザ主義』( D e r ‥ Spinozismus im Judenthumb Judenthumb) ) を発表し、 を発表し、スピノザ哲学の源泉はカバラ スピノザ哲学の源泉はカバラ にあり、カバラがスピノザを理解する鍵であるという説を展開した。この 著書の論旨は、カバラを容認しているユダヤ教は汎神論を助長しており、 著書の論旨は、 カバラを容認しているユダヤ教は汎神論を助長しており、 神と被造物を混同する汎神論的性格においてユダヤ教とスピノザは一致す る、というものだった というものだった。。 27 この点からヴァハターはスピノザ哲学を論難で きると考えたわけである。 理神論者ヴァハターはスピノザの内在主義にはっきりと敵対する態度を とるが、 「理性の光」 ( Licht der Vernunft) Vernunft )を基本的に重視する点では、 スピノザ主義に対立しない。 「自然や被造物には神による指示や指定が存 在」し、 在」 し、 「この神による指定は理性の光に包まれて存在するほかない。」28 「神による指定」とは啓示と考えてよいが とは啓示と考えてよいが、、 啓示は無条件に確実なもので はなく、啓示を啓示として成り立たせるには理性を必要とするのである。 はなく、 啓示を啓示として成り立たせるには理性を必要とするのである。 ヴァハターにとって信仰の基盤となるものは、、 啓示ではなく、 ヴァハターにとって信仰の基盤となるものは 啓示ではなく、だれの心に だれの心に も備わる神についての知識である。 も備わる神につ いての知識である。このような考え方は、当時のドイツで は珍しい。。 29 しかしこの冷静な学者は、 は珍しい しかしこの冷静な学者は、スピノザやカバラのように、 スピノザやカバラのように、神に 神に ついてのいわば自然に備わる知識を人工的に展開する事には断固反対す る。彼は自然および被造物、すなわち世界が直ちにひとつの啓示であると - 33 - 帝京国際文化 第 15 号 いう教説には与しない。理性の光にとことん導かれてゆけば、当然議論は そこまで進まなければならないが、ヴァハターはそうする代わりに、現実 の世界がもつリアリティの重みといったものを深刻に受けとめる。獣の皮 のうちがわに神を見出す事など、思いもよらなかったのである。 のうちがわに神を見出す事など、 思いもよらなかったのである。 『ユダヤ 教のスピノザ主義』はスピノザ哲学への駁論を 教のスピノザ主義』 はスピノザ哲学への駁論を「世界とは何か」 「世界とは何か」という議 という議 論で始めている。そして、 論で始めている。 そして、 「世界」をよく知らずにこの本を読もうという 「世界」 をよく知らずにこの本を読もうという 者は、文字もろくに解らないのに、ヘブライ語やアラビア語の本を読みた がる子供のようだと釘をさしている。。 30 がる子供のようだと釘をさしている ヴァハターがスピノザの緻密な論証の背後に感じ取ったものは、ある種 の不穏な熱狂であったろう。スピノザの教説は健康な信仰とは結びつきが たく思われ、病的な幻想が強力な論証の力で空に舞い上がるがごとき印象 を与える。それは哲学なのだろうか。 を与える。 それは哲学なのだろうか。哲学の客観的形式は仮面にすぎず、 哲学の客観的形式は仮面にすぎず、 その実体は哲学とはいえない。ここにおいてヴァハターはスピノザがカバ ラと変わる所がないと結論する。 スピノザに対してヴァハターがもっとも関心を寄せる問題は聖書解釈の ‥ 問題ではなく、 「世界の神化」 ( Vergotterung der Welt) Welt )、すなわち事物 、すなわち事物 と神の混同の問題である。ヴァハターにとって汎神論とは、神と世界を同 一視する教説であり、それはつまるところ無神論にほかならない。 一視する教説であり、 それはつまるところ無神論にほかならない。 カバラに対して無神論の嫌疑をかけた者はヴァハター以前にはいない。 そこには、当然のことながら、異教を論駁しようという意図が感じられる が、3 1 論敵にはドイツのキリスト教内部の神智学も想定されていただろう 論敵にはドイツのキリスト教内部の神智学も想定されていただろう。。 32 『ユダヤ教のスピノザ主義』が論争の相手として指名するシュペートは、 『ユダヤ教のスピノザ主義』 が論争の相手として指名するシュペートは、 ユダヤ教に改宗したとはいえ、この思想伝統の出身であり、 ユダヤ教に改宗したとはいえ、 この思想伝統の出身であり、ヤーコプ ヤーコプ・ ・ ベーメの崇拝者だった。ヴァハターは理性を尊重するが、その光に眩惑さ れているわけではなかった。理性を尊重するがゆえに、その乱用に対して は厳しい態度で臨んだのである。ヴァハターの基本的姿勢には一種の批判 主義がある。ここに、百年以上にわたってヴァハターのスピノザ主義批判 が繰り返し注目される所以がある。。 3 3 が繰り返し注目される所以がある 6 - 34 - スピノザ主義 以上、 以上、十八世紀ドイツのスピノザ主義について簡単な概観を試みた。 十八世紀ドイツのスピノザ主義について簡単な概観を試みた。 ここに取り上げた思想家たちは、 ここに取り上げた思想家たちは、スピノザ哲学に対する姿勢がどうあ スピノザ哲学に対する姿勢がどうあ れ、あらゆる束縛を断ち切って思惟の自由を獲得しようとする自由思想家 であった点は一致している。自由思想家は概ねその代償として正統信仰の 権威を手放さざるをえなかったが、失われた権威を理性あるいは哲学の名 のもとに復興することこそ、スピノザ主義者が自らに課した歴史的課題 のもとに復興することこそ、 スピノザ主義者が自らに課した歴史的課題 だったといってよい。 宗教哲学史の観点からすれば、この理性主義は信仰の神秘への再考を促 し、一方でヤコービの感情哲学やハーマンの預言者的洞察の出発点になる とともに、他方でエーティンガー、 とともに、 他方でエーティンガー、バーダーを頂点とする神智学的アプ バーダーを頂点とする神智学的アプ ローチに道を拓いた。 スピノザ主義は無神論ではない。シュトッシュやラウのような唯物論的 傾向を有する者ですら、神の概念を捨ててはいないからである。これは一 種の自然宗教として唯物論が構想されている証左とみて差し支えないだろ う。少なくとも、 う。 少なくとも、唯物論を単純に神学と対置すること 唯物論を単純に神学と対置すること 34 は間違いである。 思想史の流れからみれば、スピノザ主義はライプニッツ以前への後退で ある。ライプニッツ思想の咀嚼は十八世紀後半を待たねばならない。その ‥ もっとも大きな成果のひとつといってよい『神』 ( Gott.Einige Gesprache Gesprache. . 1787) 1787 )において、ヘルダーはヴァハターを、ほとんど見下ろすような態度 で批判した。だがこの対話篇で展開される議論がスピノザ主義の総括をめ ざしていることを考えあわせるならば、この後退が過去への退却を この後退が過去への退却を意味す 意味す るものでは決してなく、新たな前進に向けての停滞であったことがただち に首肯されるのである。 1 E r n s t C a s s i r e r : F r e i h e i t u n d F o r m . 4 . u n v e r a‥ n d e r t e A u f l a g e . Darmstadt 1961 S.33ff. 2 Johann Georg Walch: Philosophisches Lexikon. Bd.2, Leipzig 1775 3 S.761ff. E r n s t C a s s i r e r : D i e P h i l o s o p h i e d e r A u f k l a‥ r u n g . 3 . A u f l a g e . ‥ Tubingen 1973 S.178. - 35 - 帝京国際文化 第 15 号 4 ‥ Wilhelm Dilthey: Gesammelte Schriften. Bd.3, 3.unveranderte ‥ Auflage. Stuttgart/Gottingen 1962 5 S.27. David Hume: Dialogues concerning Natural Religion. London 1 7 7 9 . とりわけ第 1 1 部を参照。 6 この興味深い精神潮流において、スピノザ哲学は主要構成要素であったという よりも、むしろ触媒の役割を果たしたというのが妥当であろう。 よりも、 むしろ触媒の役割を果たしたというのが妥当であろう。例えば、 例えば、スピ スピ ノザへの関心を大きく促進した汎神論論争の仕掛け人である、伝統的なキリス ト教信仰の擁護者フリッツ・ ト教信仰の擁護者フリッツ ・ハインリヒ ハインリヒ・ ・ヤコービはそれを心得ていた。 ヤコービはそれを心得ていた。彼は 彼は スピノチスムス 有名な『スピノザ書簡』 有名な 『スピノザ書簡』において、 において、「スピノザの哲学が無神論」、すなわち神 、 すなわち神 の人格を破壊する教説であることを強調しながらも、スピノザ主義者をすべ の人格を破壊する教説であることを強調しながらも、 スピノザ主義者をすべ ‥ て、神の存在を否定する て、 神の存在を否定する「神の否認者 「神の否認者(Gotteslaugner) (Gotteslaugner)」 」 とみなす考えを斥 けている。。「スピノザ主義から発酵するある種の泡はあらゆる種類の迷信や狂 けている 信とよく溶け合うから、この泡によって上手く物議をかもすことも可能だ。 信とよく溶け合うから、 この泡によって上手く物議をかもすことも可能だ。 意を決した神の否認者ならそんな泡のなかに身を隠すべきではない。」そのよ 」そのよ うな小細工は洛陽の紙価を高めることに繋がらないからである。また、 うな小細工は洛陽の紙価を高めることに繋がらないからである。 また、神の 神の 否認を主張しない「その他の人達はこの泡を使って自己を欺くことがあって 否認を主張しない 「その他の人達はこの泡を使って自己を欺くことがあって はならない。」 H e i n r i c h S c h o l z ( h g . ) : D i e H a u p t s c h r i f t e n z u m Pantheismusstreit zwischen Jacobi und Mendelssohn. Berlin 1915 7 S.173f. 前者の例としてヤコービ、ハーマン、 前者の例としてヤコービ、 ハーマン、後者の例としてシェリング、 後者の例としてシェリング、ヘーゲルを ヘーゲルを 挙げる事ができる。人格神への攻撃はキリスト教を擁護する立場の理論的再構 築を促した。このような立場においては、スピノザ主義を成立せしめる叡智的 直観の方法に懐疑の目が向けられる。ライプニッツにおいて頂点を極めたかに 見える人間理性の限界が意識されるようになるのである。ハーマンが「スピノ ザの数学的方法」を ザの数学的方法」 を「迷信」 「迷信」と断じるのは、 と断じるのは、そこに理性の濫用を認めているか そこに理性の濫用を認めているか らにほかならない。 らにほかならない。 J o h a n n G e o r g H a m a n n , B r i e f w e c h s e l . B d . 6 , Frankfurt a.M. 1975 8 9 S.107. Zedler: Universal-Lexikon. Leipzig und Halle 1746 ‥ Bd.49, S.1415f. C a s s i r e r : D i e P h i l o s o p h i e d e r A u f k l a r u n g . 第 4 章 「宗教の理念」 参照。 - 36 - スピノザ主義 1 0 1 6 4 6 年にホルシュタインの貧しい家に生まれた 年にホルシュタインの貧しい家に生まれた(没年は未詳) (没年は未詳)。父親はプロ 。 父親はプロ テスタント教会のオルガニスト兼使用人。1661 テスタント教会のオルガニスト兼使用人。 1661 年にケーニヒスベルクのギム ナージウムに入学し、その後 ナージウムに入学し、 その後 1664 年に同地の大学に進学し、 年に同地の大学に進学し、神学を学ぶ。 神学を学ぶ。当 当 時のケーニヒスベルク大学は、あい対立する宗派を組織的、 時のケーニヒスベルク大学は、 あい対立する宗派を組織的、理論的に統合し 理論的に統合し ようとする S y n k r e t i s m u s が風靡しており、 が風靡しており、その影響を強く受けたらしい。 その影響を強く受けたらしい。 その後、学校教師になろうと帰郷したが、 その後、 学校教師になろうと帰郷したが、不首尾に終わる。 不首尾に終わる。彼の思想の特徴 彼の思想の特徴 は、唯一の真理の基準として理性を立て、 は、 唯一の真理の基準として理性を立て、聖書の整合性 聖書の整合性を欠いた記述に批判 を欠いた記述に批判 のメスをいれることにある。カトリック、 のメスをいれることにある。 カトリック、プロテスタント双方の正統信仰の プロテスタント双方の正統信仰の かかげる聖書中心主義に異を唱え、聖書は人間が書いた歴史的書物であると かかげる聖書中心主義に異を唱え、 聖書は人間が書いた歴史的書物であると 断じた。良心の声は神の存在を証明するものではなく、 断じた。 良心の声は神の存在を証明するものではなく、個人の社会に対する 個人の社会に対する 責任感にほかならない、という思想は、 責任感にほかならない、 という思想は、D D e t r i b u s i m p o s t o r i b u s に通じ る。 11 C o n c o r d i a , S 2 9 . I n : P h i l o s o p h i s c h e C l a n d e s t i n a d e r d e u t s c h e n ‥ Aufklarung. Abt.I, Bd.2, Stuttgart-Bad Cannstatt 1992. 1 2 C o n c o r d i a 、 1 0 4 ページへの ページへの「追加」 「追加」( A d d i t a m e n t a )。 1 3 1670 年に法律家の次男としてケーニヒスベルクに生まれる。 年に法律家の次男としてケーニヒスベルクに生まれる。同地のアルベル 同地のアルベル トゥス大学で哲学、神学、 トゥス大学で哲学、 神学、法学を学び、 法学を学び、新設されたハレのフリードリヒス大学 新設されたハレのフリードリヒス大学 に移った後、1694 に移った後、 1694 年に卒業した。 年に卒業した。ハレではヨーハン ハレではヨーハン・ ・フランツ フランツ・ ・ブッデやクリ スチアン・ スチアン ・トマージウスのような高名な学者に師事し、大きな影響を受けたと 言われる。1695 年以降、数年間にわたり、オランダ、英国、フランスを見て回っ たのち、ある宮廷の官職を得た。 たのち、 ある宮廷の官職を得た。その後 その後 1711 年に主君が亡くなると、 年に主君が亡くなると、職を辞 職を辞 し、再びドイツとオランダを回る旅に出る。 し、 再びドイツとオランダを回る旅に出る。主著である 主著である『神、 『神、世界、 世界、人間に 人間に 関する哲学的考察』は滞在先のフランクフルト 関する哲学的考察』 は滞在先のフランクフルト・ ・アム アム・ ・マインで出版された。 同書は著者名も出版地も入れずに出版されたが、出版直後からフランクフル 同書は著者名も出版地も入れずに出版されたが、 出版直後からフランクフル トの宗教関係者の激しい攻撃にさらされた。ほどなく市の参事会は版元を脅 トの宗教関係者の激しい攻撃にさらされた。 ほどなく市の参事会は版元を脅 迫して、ラウの名前を訊き出し、 迫して、 ラウの名前を訊き出し、彼を拘留してしまった。 彼を拘留してしまった。ラウは ラウは 1717 年 6 月 3 日にフランクフルト市を追放された。 日にフランクフルト市を追放された。また押収された著作は公衆の面前で また押収された著作は公衆の面前で 焼却された。二年後に同地で出版した 焼却された。 二年後に同地で出版した『考察と命題、 『考察と命題、哲学 哲学・ ・ 神学的疑念』 神学的疑念』も も 同じ運命を辿った。 14 Meditationes philosophicae de Deo, Mundo, Homine, S.8. - 37 - In: 帝京国際文化 第 15 号 ‥ Philosophische Clandestina der deutschen Aufklarung. Abt.I, Bd.1, Stuttgart-Bad Cannstatt 1992. 1 5 Meditationes, Theses, Dubia philosophico-theologica, S.7. In: ‥ Philosophische Clandestina der deutschen Aufklarung. Abt.I, Bd.1, Stuttgart-Bad Cannstatt 1992. 16 Meditationes philosophicae de Deo, Mundo, Homine, S.9. 17 Ebd., S.11f. ‥ 18 Dietrich Mahnke: Unendliche Sphare und Allmittelpunkt. Halle 1937. 参照。 円と中心という幾何学的象徴の精神史を叙述することに成功し たこの研究書は、残念ながらラウには触れていない。 たこの研究書は、 残念ながらラウには触れていない。 1 9 アレキサンダー アレキサンダー・ ・ゴットリープ ゴットリープ・ ・バウムガルテン、 バウムガルテン、ジークムント ジークムント・ ・ヤーコプ ヤーコプ・ ・ バウムガルテン、ハーマン、 バウムガルテン、 ハーマン、ライマールスなど、 ライマールスなど、当時の多くの知的エリートが 当時の多くの知的エリートが 彼の著作を所有していた。ちなみにライマールスは秘教思想家の著作を収集し ており、それを貸し出していた。 ており、 それを貸し出していた。レッシングもその恩恵に浴した。 レッシングもその恩恵に浴した。 ‥ 20 J o h a n n C h r i s t i a n E d e l m a n n : S a m t l i c h e S c h r i f t e n . B d . 1 2 , Stuttgart-Bad Cannstatt 1976 S.350. 21 A.a.O. 2 2 もっとも見事な例は、 もっとも見事な例は、いうまでもなくレッシングの いうまでもなくレッシングの『人類の教育』 『人類の教育』である。 である。 ‥ 23 Edelmann: Samtliche Schriften. Bd.12, 1980 S.274. 24 Leo Strauss: Spinozas theologisch-politischer Traktat. In: Norbert Altwicker(hg.) Altwicker(hg .): : Texte zur Geschichte des Spinozismus. Darmstadt 1971. S.327ff. 2 5 キリスト教におけるカバラ受容の歴史に関しては、 キリスト教におけるカバラ受容の歴史に関しては、EE r n s t Benz: Die ‥ c h r i s t l i c h e K a b b a l a . Z u r i c h 1 9 5 8 . を参照。 2 6 生年に関しては諸説があるが、 生年に関しては諸説があるが、ここではシュレーダーに基づく。 ここではシュレーダーに基づく。WW i n f r i e d ‥ ‥ ‥ ‥ Schroder: Spinoza in der deutschen Fruhaufklarung. Wurzburg 1987 S.59. 2 7 「ユダヤ教とスピノザは自然および被造物を創造主と混同している。 「ユダヤ教とスピノザは自然および被造物を創造主と混同している。両者は所 両者は所 産的自然が能産的自然に含まれる範囲内において、これらふたつのものをた 産的自然が能産的自然に含まれる範囲内において、 これらふたつのものをた だ様態の違いにより区別するにすぎない。両者は物質が現にあること、 だ様態の違いにより区別するにすぎない。 両者は物質が現にあること、肉体 肉体 - 38 - スピノザ主義 である獣皮が現にあることを否定する。天界からこの世界にいたるまで、 である獣皮が現にあることを否定する。 天界からこの世界にいたるまで、両 両 者が認識するものは一個の霊たる神の唯一の実体をおいてほかにはない。両 者が認識するものは一個の霊たる神の唯一の実体をおいてほかにはない。 両 者の言う所によれば、『神はあらゆる事物に内在し、 『神はあらゆる事物に内在し、一時的原因ではない。 一時的原因ではない。万 万 物は神のうちに在り、神がいなければ、 物は神のうちに在り、 神がいなければ、存在する事も把握する事もできなく 存在する事も把握する事もできなく ‥ なる。・ なる。 ・ ・ ・ 』」 D D e r S p i n o z i s m u s i m J u d e n t h u m b , 3 . T e i l , S . 6 0 . ‥ ‥ In: Freidenker der europaischen Aufklarung. Abt.1, Bd.1, Stuttgart-Bad Cannstatt 1994. ‥ 28 Der Spinozismus im Judenthumb, 2.Teil, S.219f. ‥ ‥ ‥ 29 Winfried Schroder: Freidenker der europaischen Aufklarung. Abt.1, Bd.1, Stuttgart-Bad Cannstatt 1994. Einleitung, S.28. 30 Ebd., 2.Teil, S.107ff. 31 G e r s h o m Scholem: die Wachtersche Kontroverse ‥ uber den ‥ Spinozismus und ihre Forgen. In: Spinoza in der Fruhzeit ‥ seiner religiosen Wirkung. Heidelberg 1984 S.18. 3 2 「あるドイツの哲学者はカバラと全く同じように、 「あるドイツの哲学者はカバラと全く同じように、神を 神を『永遠の無』 『永遠の無』とか とか『無 『無 底』、『自然なき存在』 『自然なき存在』などと呼んでいる。 などと呼んでいる。」 Der Spinozismus im ‥ Judenthumb, 2.Teil, S.116. 3 3 ヘルダー ヘルダー、、 バーダーへの影響に関しては、「帝京国際文化」 「帝京国際文化」第 第 9 号所収の拙論 「ヴァハター、カバラ、 「ヴァハター、 カバラ、ヘルダーの ヘルダーの『神』 『神』」を参照されたい。 」を参照されたい。 ‥ 3 4 例えば P a n a j o t i s K o n d y l i s : D i e A u f k l a r u n g i m R a h m e n d e s ‥ neuzeitlichen Rationalismus. Munchen 1986 - 39 - S.28.