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森村 進

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森村 進
ないが、上演中に観客がこれほどたくさん眠っている、
台芸術や芸能に通じているわけではないから確言でき
な能を一度も見たことがない。また私はさまざまな舞
この先入観は正しい。私は高校2年の時から 年以
上能を見続けているが、どこかで退屈を感じないよう
、
能を一度も見たことがない人の中には︿能は退屈だ﹀
︿能を見ると眠くなる﹀という先入観がよくある。
ターが切りやすいわけである。能でも、実際には体の
は、キマッた姿を見せるための停止だから、シャッ
たところで、美しいポーズを見せてキマル。これ
とがある。歌舞伎では、一連の所作が終わっ
能はシャッターが切りにくいと言われたこ
に、ある写真家から、歌舞伎にくらべて
いるというように、所作全体が一本の
の中で文楽と能とを比較して書いている。
芸術について﹂︵﹁陰翳礼讃﹂と並ぶ谷崎の随筆の傑作︶
能を見る楽しみ
それも平気で眠っているジャンルは他にないだろう。
停止があることが多い。先の例で言うならば、シカケ
糸で結ばれたように進行する。ずっと前
構エに戻るともうサシ回シが始まって
それでも私は能楽︵能と狂言の両者を含む総称︶鑑
賞を、読書を別にすると第一の趣味にしているのだが、
た瞬間、体は実は停止するかもしれない。しかし、体
うに流れ出ている。
﹂
︵﹃岩波講座 能・狂言Ⅳ 能の
かさや厭らしさは何処にも見られないのである。ほん
麗で、冥想的な世界があるのみで、義太夫のような愚
は停止しても、シカケたエネルギーはなお体から向こ
構造と技法﹄二六五ページ︶
﹁義太夫の先祖ともいうべき謡曲を見ても、そこに
は全くそれと正反対のもの、││ 素朴で、幽玄で、艶
その理由は、能楽が他では味わえないような独自の感
銘と興趣を与えてくれるからだ。
能は他の演劇にないほどの厳粛な様式性を持ってい
るから、能の公演に初めて接する観客はたいてい︵退
はない。いろいろな意味で敷居が高い芸術で、それを
なくてもすぐに理解できるような親しみやすい芸術で
れだけで終わってしまうだろう。能は何の予備知識が
して奇趣を感ずるだけなら、二、三回は能を見てもそ
数歩歩きながら面を左右に静かに使う程度が普通だ。
代表はシテが周囲の風景を見回すところだが、演者は
多くの能の中でもしみじみとした感銘を与える場面の
能では︿見得をきる﹀ということがなく、いくらテ
ンポが遅くても役者の動きは流れるようだ。たとえば、
謝したくなる。
﹂
日本人と生まれてかようなものを賞翫し得る幸福を感
の舞台芸術を完成したわれわれ祖先の偉大さを思い、
とうに私は、能楽を見るときにこそ、かような形式美
本当に楽しむためには、台本である謡曲を読んでおく
この執拗な流動感は、亡霊による過去の再現、老人
の懐旧、動植物の精の成仏といった多くの能の主題や
屈しながらも︶強い印象を受ける。しかしそのように
といったある程度の予備知識が必要だ。いくらか能楽
中世仏教の世界観とあいまって甘美な無常感を生みだ
画もよく見るが、特に好きなのは溝口やオフュルスの
す。私が能を愛する理由の一つはここにある。私は映
ありながら食わず嫌いでいる人も
いが、それを楽しむ資質も機会も
であって、決し
が物足りなかった。能は acquired taste*
て誰もが好きになれるものではな
なかったが、ただ一つ、能楽に接する機会がないこと
私は以前アメリカに二年間滞在していた時、日本の
ニュースや食べ物や文物から離れても全然不足を感じ
に親しんだ後は、できれば研究的態度もあるといっそ
長い流麗な移動撮影だ。タルコフスキーやソクーロフ
多い。そのような人が日本に住み
法学研究科教授
う興味深く見られる。
では能の魅力はどこにあるか。能楽研究家の横道萬
里雄は書いている。
の映画の︿美しい退屈﹀も、能楽鑑賞で耐性を得たか
ながら能を知らずに終わるとした
ら実にもったいないことだ。
ら居眠りせずに享受できる。
谷崎潤一郎は文楽について論じた﹁いわゆる痴呆の
﹁所作に限らず、能では連続感を極めて重視する。シ
カケ│ヒラキ│サシ回しという所作ならば、シカケが
終わると同時にヒラキが始まり、ヒラキ終わって常の
能を見る楽しみ
* acquired taste:だんだんと好きになる味、嗜好
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