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愛の傷 - 双葉社
せずには帰れない 電脳版 1 双葉社 せずには帰れない 島村洋子 Illustration /メグ・ホソキ 愛の傷 ﹁ちょっと痛いで。我慢して﹂ と初老の医者は私の左手の中指をつかみ、しぼった。 ぽたぽた、と膿みが落ちる。 いたた、いたた、と私は座ったまま地団太を踏む。 痛いのう 。 私は犬にかまれたのだった。 それも可愛い可愛いぷりちゃんに。 ぷりちゃん、頭の腫瘍は二ミリずつとか小さくなっていて喜んでいた 2 のだが、ちょっとくぐもった咳をする。 気になって胸のレントゲンをとってもらったら、悪性腫瘍は肺に大き く巣食って い た 。 いくら脳の腫瘍が小さくなろうと、これではなあ。 なんか昔のツービートの漫才ネタ、 ﹁歯が痛いときはどうします?﹂ ﹁目を突き刺すと、目の痛みで歯の痛みを忘れます﹂ に似てい る 。 ﹁まあ、毎日おいしいものを食べさせて可愛がってやってください。痛 み止めは一日二回飲ませてね﹂ と獣医が言うので、毎日一緒にハーゲンダッツとか食べていた。 そんなとき、ある大きな電機メーカーの広報誌の人が、私の﹃犬がい るからだいじょうぶ﹄︵新潮文庫︶を読んで、是非ともぷりちゃんたち の写真を撮って次号の特集にしたいので、とやってきた。 せずには帰れない 3 病気のこ と を 言 う と 、 ﹁では別に写真焼いて、お送りしますからね﹂ と言って く れ た 。 さすがこの木、なんの木、木になる木だ。 そんなおだやかに楽しい毎日を送っていたのだが、朝のジャーキーを 与えるときに、私がちょっと動いたため、自分の分を食べ終えていたで かいルピア︵呼び名ウキタ・ウッキッキーと鳴くため︶が、とろいぷり ちゃんを襲撃、それを守ろうとした私を間違えてぷりちゃんがかんだの だ。 他の犬なら頭をバーンと張って離させるはずだが、何しろおでこに腫 瘍がある犬を叩くことは出来ない。 何しろうちは﹁生類あわれみの令﹂発令中である。 私の左の中指は四ヶ所穴があいていた。 また破傷風の注射も打つのか、あれは痛いからなあ、と思いながら病 4 院に行ったら、部屋で飼っている自分ちの犬なので注射はしなかった。 しかし包帯でぐるぐる巻きにされたのだ。 腹が立つというより、ちょっと情けなく恥ずかしかった︵ライオンに 指を食いちぎられたムツゴロウ氏もそう思ったはずだ︶ 。 そこが膿 ん だ の で あ る 。 じーん、じーんと鈍い痛みのまま、生活しているのだが、傷が残ると いやだなと 思 っ た 。 私の肉体で唯一美しいのが指から手の甲にかけてなのに、それが傷つ くなんて。 しかし、じぃーっと眺めているうちに考えが変わった。 ぷり子が死んだりしたら、私はこの傷を愛しく思うのではないか。 好きな男につけられた傷が愛しいように。 好きでもない人に褒められたり楽しませてもらっても、そんなの記憶 にも残らな い 。 せずには帰れない 5 そしてぷり子を見ていて涙が出たりするのは、それはその存在が喜び をたくさん与えてくれたからだ。 ﹁犬にかまれたことがあるから、犬が嫌い﹂ という人 は い く ら で も い る かまれた回数なら私は負けないが、犬は大好きだ。 こんなに辛い思いをするならもう好きな人などつくらない、と思う人 もいるだろ う 。 しかしその辛い思いはあの喜びがあったからだ。 私の愛するものたちよ、指の傷も胸の傷もたくさんつけてもらいたい。 私はいちいちその傷に泣くと思う。愛しくて。 6 ︻著者略歴︼ 島村洋子︵しまむら ようこ︶ 1964年、大阪市生まれ。帝塚山学院短期大学を卒業後、証券会社勤務などを経て、 1985年にコバルト・ノベル大賞を受賞し、小説家としてデビュー。 ﹃せずには帰れない﹄﹃家ではしたくない﹄ ﹃へるもんじゃなし﹄等のエッセイの他、 ﹃王 子様、いただきっ!﹄﹃ポルノ﹄﹃てなもんやシェークスピア﹄﹃色ざんげ﹄など多数。 また﹃恋愛のすべて。﹄﹃メロメロ﹄﹃ブスの壁﹄ ﹃ザ・ピルグリム﹄が絶賛発売中。 せずには帰れない 7