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ものぐさな賢者 - タテ書き小説ネット

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ものぐさな賢者 - タテ書き小説ネット
ものぐさな賢者
黒湖クロコ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ものぐさな賢者
︻Nコード︼
N6788X
︻作者名︼
黒湖クロコ
︻あらすじ︼
﹃龍玉﹄。それは人族やエルフ族、獣人族など様々な種族が住
む、龍神が創ったとされる世界。オクトはその世界で﹃混ぜモノ﹄
と呼ばれる忌み嫌われた存在だった。
異世界だけど前世の知識を持つオクトが、その知識を使って平穏
に生きる為に努力していくうちに、いつしか﹃ものぐさな賢者﹄と
呼ばれるようになる話です。
1
※この話は、主人公オクトの人生を書いたものであり、のほほんと
続きがあるような話で終わります。主人公が超強いということもな
ければ︵現代知識を使って事件解決はしますが︶、恋愛成就でハッ
ピーエンドという話でもありませんので、ご了承下さい。
※この話は、番外編を何作か書いております。もしも読まれる時は、
ものぐさな魔術師↓ものぐさな賢者 短編集↓危険な魔族↓記憶喪
失な男の順に読むのが一番スムーズかと思います。無敵な歌姫に関
しては、どのタイミングで読んでいただいても大丈夫かと思います
ので、よろしくお願いします。
※一迅社文庫アイリス様から、幼少編と学生編が書籍化しておりま
す。皆様ありがとうございました。
2
登場人物紹介および設定集︵9/27更新︶︵前書き︶
登場人物紹介および設定集は、本編や番外のネタバレを含む場合
があります。作者の覚え書きでもあるので、読まなくても問題はあ
りません。
また徐々に内容が増えていきますので、ご了承ください。
9/27︻魔法について︼④アリス先輩的属性による性格診断を
追加しました。
3
登場人物紹介および設定集︵9/27更新︶
︻主人公︼
名前:オクト
性別:女
年齢:幼少編開始時5歳
種族:エルフ族、人族、精霊族、獣人族︵混ぜモノ︶
外見的特徴:金髪碧眼。金髪は黄色味が強い。
目元に痣がある。
発育不良で、同年代の子供より、若干小さい。
一人称:私
性格:できるだけ何事も穏便に済ませたい小心者。
器用貧乏。
能力:異世界だが前世の知識を持っている。本人は前世の記憶を
持っていると思っているが、前世の名
前、出身地、家族構成、経歴等の記憶は一切ない。
出身地:旅芸人として旅をしている間に生まれたので、特になし。
母親は黄の大地出身。
︻家族︼
①名前:アスタリスク・アロッロ︵通称:アスタ︶ 性別:男
年齢:幼少編開始時82歳
外見年齢、20代。
種族:魔族
主人公との関係:義父
外見的特徴:黒髪赤眼
身長が高く、端正な顔立ち
4
一人称:俺
性格:楽しい事が好きな快楽主義者。
職業:王宮魔術師︵研究職︶
子爵
能力:魔法に関しては、国で1,2を争う魔術師。誰にもでき
ないとされてきた、一瞬で新しい魔法
を組み上げる事ができる。
ただし魔法以外の能力は低く、特に対人関係が壊滅的。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
②名前:ヘキサグラム・アロッロ︵通称:ヘキサ︶
性別:男
年齢:学生編開始時33歳
種族:人族
主人公との関係:義兄
担任
外見的特徴:銀髪碧眼
メガネをかけている
一人称:私
性格:生真面目で頑固者。表面上は冷たく、クールビューティ
ー。しかし実はとても優しく、苦労
人。
職業:ウイング魔法学校教師
能力:数学が得意で担当している。 出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
その他:アスタリスクの妻であった、クリスタルの連れ子。そ
の為アスタリスクとの血のつながりは
ない。
クリスタルは、白の大地出身。 5
③名前:セイ・アロッロ
性別:男
年齢:不詳
種族:魔族
主人公との関係:義祖父
外見的特徴:黒髪赤眼
アスタによく似ており、並ぶと兄のように見える。
顔の筋肉が退化していると言われるほどの鉄面皮。
一人称:私
性格:ものぐさ。仕事とかは嫌いで、基本的にどうでもいい。
唯一妻の事を愛しており、妻を中心に世界はまわってい
る。
職業:伯爵
能力:基本的にやれば何でもできるヒト。でも何もやろうとし
ないので、何もできないヒト。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
④名前:ウェネルティ・アロッロ︵通称:ウェネ︶
性別:女性
年齢:不詳
種族:魔族と人族のハーフ
主人公との関係:義祖母
外見的特徴:茶色い髪に紅い瞳。派手な顔立ちではないが、不
細工でもない。少し目が垂れ目。
細身の体型。
一人称:私
性格:おっとりしているようだが、芯が強い女性。純粋な魔族
ほど何かに執着する事はないが、思い
込むと一途。政治などには興味がなく、買い物やおしゃ
べりが好きな貴族の女性らしい方。
6
職業:伯爵夫人
能力:影が薄いと言ってしまえばそれまでだが、隠密スキルが
あると思われるぐらい気配を消す事が
できる。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
⑤名前:ノエル︵本名:セイヤ︶
性別:女性
年齢:不詳︵幼少編ではすでに他界している︶
種族:精霊族と獣人族のハーフ
主人公との関係:母
外見的特徴:黄色みの強い金髪。琥珀色の瞳。腰まで届くよう
な長い髪をしている。
一人称:私
性格:どこか子供っぽい言動をする。自分で決めたら曲げない、
頑固な所がある。また思いついたら
吉日な、実行力がある。
職業:姫君だったが、旅芸人の歌姫にジョブチェンジ済み
能力:歌が上手く、舞などの踊りも得意。魔法も使えるが、一
般家事などが壊滅的。
出身地:黄の大地
その他:実は生き別れの双子の妹がいる。 ︻友人︼
①名前:カミュエル︵通称:カミュ︶
性別:男
年齢:幼少編開始時12歳
種族:翼族
外見的特徴:黄緑の髪に黄緑の瞳。主人公曰く、キャベツ色。
端正な顔立ち。
7
一人称:僕
性格:掴みどころがない、少しひねくれた性格。自信家に見
せかけているが、実はそうでもなかっ
たり⋮⋮。兄の事を怖がっている節がある。
職業:第二王子
ウイング魔法学校学生
能力:ヒトの能力を図って、使う事が得意。魔法も勉強もそ
こそこできる。ただしそこそこできて
も1番にはなれない。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。 ②名前:ライ・フラム
性別:男
年齢:幼少編開始時12歳
種族:翼族
外見的特徴:赤茶の髪に琥珀色の瞳。少し日に焼け浅黒い。
一人称:俺
性格:まっすぐな性格だが、正直ものではない。乳兄弟であ
るカミュを大切に思っている。オクト
の事は、妹又は弟のようで可愛いと思っている。正義
感は薄く、大切なヒトの為ならば、悪
事とかあまり気にしない。
職業:第二王子の乳兄弟
ウイング魔法学校学生
能力:武術が強く、特に剣術が得意。頭は悪くはないのだが、
あまり使うのは好きではない。その
為アスタリスクに脳筋族と呼ばれている。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
③名前:クロード︵通称:クロ︶
8
性別:男
年齢:幼少編開始時6歳
種族:人族
主人公との関係:幼馴染
外見的特徴:黒髪、黒眼。
一人称:俺
性格:年の割には落ち着いているが、元気な子供。主人公の
お兄ちゃんとして頑張っていた。
職業:幼少編開始時は、旅芸人。
能力:楽器の扱いが得意で武器の管理なども得意。将来的に
は剣術も強くなる予定。
一応文字を読んで、書く事ができる。
出身地:黒の大地と金の大地にまたがる、ホンニ帝国。
④名前:エスト
性別:男
年齢:幼少編開始時8歳
種族:翼族
外見的特徴:チョコレート色の髪、緑眼。
幼少編は可愛らしい感じ。学生編のころは中性
的な感じ。
一人称:幼少編は僕
学生編はオレ
性格:元々は少し我儘で寂しがり屋だが、ライの家に引き取
られてから形を潜めている。
どちらかと言えば真面目な性格。
職業:ウイング魔法学校学生
能力:ヒトあたりがよく、面倒見もいい。周りから良い子と
評価されやすく、対人関係スキルが高
い。教科としては、国語が強い。
9
愛読書は﹃混ぜモノさん﹄
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
⑤名前:ミウ︵三羽︶
性別:女
年齢:学生編入学時10歳
種族:獣人族︵ラビット族︶
外見的特徴:ピンク色の髪、オレンジ色の瞳。ウサギのよう
な長い耳を持つ。
一人称:私
性格:2面性ありな元気娘。お金大好き。
少々ぶりっ子な部分もある。
職業:ウイング魔法学校学生
能力:獣人族ならではで、耳が良く、運動神経もいい。しか
し魔力が強い分、一般的なラビット
族には劣る。またあまり勉強は得意ではない。
絵を描くのが好きで、そこそこ上手い。
出身地:赤の大地に位置する、キャロット自治区。
兄弟:8人兄弟の末っ子。3つ子として産まれたが、魔力が
高いのはミウのみ。
⑥名前:コンユウ
性別:男
年齢:学生編入学時12歳
種族:魔族
外見的特徴:黒髪、紫の瞳
一人称:俺
性格:意地っ張りな寂しん棒。若干ツンデレ?
混ぜモノの事を忌み嫌っている。
職業:ウイング魔法学校学生
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能力:魔族な為、魔力は強い。属性が特殊である。教科は社
会が強い。
出身地:不明。幼いころに、魔法使いに拾われている。
︻子爵邸の使用人︼
①名前:ペルーラ
性別:女
年齢:学生編開始時13歳
種族:獣人族︵ウルフ族︶
外見的特徴:茶色の髪に緑の瞳。頭に犬のような耳を持つ。
一人称:私
性格:頑張り屋で、一途な性格。昔助けてくれたオクトの事
が大好き。
職業:子爵邸のメイド。オクトが泊まる時はオクト付きのメ
イドとなる︵本人の強い希望の為︶
能力:足が速く、鼻がよくきく。腕力も見た目以上にある。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
︻海賊︼
①名前:ネロ
性別:男
年齢:不詳。推定30∼40代。
種族:人族
外見的特徴:黒髪、黒眼。ロン毛をポニーテールにしている。
一人称:俺
性格:天の邪鬼で、賭けごとが大好きな博打打。ヒトが嫌が
る事をする事も好きなドS。
ただし約束したら、何があっても必ず果たす。
職業:海賊の船長
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能力:道具を使った魔法を少し使える。
剣術の達人らしい。
出身地:不明。
②名前:ロキ
性別:男
年齢:不詳。推定10代後半∼20代前半
種族:人族
外見的特徴:鮮やかな赤髪に碧眼。細身の体型。つけ毛でポ
ニーテールを作っている。
たまにバンダナで髪を隠して新人のふりをした
りする。
一人称:俺
性格:オクトの前では明るい温厚な人物。ライの前では何を
考えているか分からない、底知れない
人物。
その実態は、腹黒。
職業:海賊の副船長
能力:ヒトを騙したりするのが得意な演技派。棒術が得意ら
しい。
出身地:不明。
︻アスタの職場の同僚︼
①名前:エンド
性別:男
年齢:80代ぐらい
種族:エルフ族
外見的特徴:緑髪に青緑色の瞳。オクト曰く、場違いなぐら
いの美形。ギリシャの彫刻のように適
度に引き締まった肉体を持つ。
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一人称:私
性格:思った事をズバズバ言う為、あまり裏表はない。
エルフ族第一主義な考え方を持つが、他の種族とも仲
良くしようという気はあり、エルフ族
としては変わり者。
職業:王宮魔術師︵研究職︶
能力:研究者としては優れている。薬学を得意とし、回復系
の魔法の研究に取り組んでいる。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。その中の、エル
フだけが住む集落出身。
②名前:リスト
性別:男
年齢:30代前半
種族:人族
外見的特徴:年齢よりも幼く見えるベビーフェイス。茶色の
髪に茶色の瞳を持つ。
一人称:僕
性格:本来は要領の良い性格をしているが、アスタに憧れて
から、苦労人に大変身している。
職業:王宮魔術師︵研究職︶
能力:要領も愛想もいいので、女の子の友達が多い。また仕
事もそつなくこなす。ただし器用貧
乏。
出身地:緑の大地に位置するアールベロ国。
︻龍神︼
①名前:カンナ
性別:女
年齢:不明
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種族:神?
元々は獣人と精霊のハーフ
外見的特徴:薄い茶髪に琥珀色の瞳。瞳孔が長い。
ショートヘアー。胸は結構ある。
一人称:俺
性格:熱血型で漢らしい。
職業:風の神
能力:風に関する魔法が一般とは桁違いに凄い。また獣人の
血が濃いのか、運動神経がとても良 い。
出身地:黄の大地
その他:主人公の母の双子の姉妹で、精霊側に引き取られた。
その為、主人公とは、叔母と姪の関
係。
龍神は種族ではなく、継ぐものだと説明する。
②名前:ハヅキ
性別:女
年齢:不明。ただしカンナより年上。
種族:神?
外見的特徴:濃い茶色の髪に緑色の瞳。ふわふわの癖っ毛で
ロングヘアー。
胸は絶壁。
一人称:私
性格:穏やかで可愛らしい。しかし外見的特徴のある言葉を
言うと、気性の荒さが顔を出す。
職業:樹の神
能力:樹に関する魔法が一般とは桁違いに凄い。元々機織り
が盛んな地域に生まれた為、服作りが
得意。
出身地:緑の大地
14
◇◆◇◆◇
︻龍玉に住む人種︼
①魔族
特徴:人族と同じぐらいの耳だが、少し尖っている。黒髪、
赤目の者が比較的多い。
何かに執着していないといられない性分で、魔王とい
う存在が居るのが特徴の種族。
また凝り性な者が多いので、何かを極めた偉人も多い。
魔力が高い事も特徴。
一説では、異界からやってきた種族だとも言われてい
る。
②エルフ族
特徴:細く尖った耳を持つ。見目が美しい者が多い。
あまり他の種族と関わりを持たず、民族主義な者が多
い。その為、気位が高いなどと他の種
族から言われる。その代り同民族同士の絆は強く、ハ
ーフなどもとても大切にする。
長生きな為知識が多く、頭のよい種族と言われている。
成長が遅く、子供時代が他の種族より長い事も特徴。
③人族
特徴:何ももたない種族。獣人のように突出したものもなけ
れば、魔力が特別強いなどもない。
ただし唯一、他の民族と交わる事が可能とされる。ハ
ーフは大抵片親に人族を持つ。
子供ができにくい種族には、嫁や婿として望まれる事
が多く、人身販売では高値がつく。
15
手先が器用で、モノづくりが得意。紙を発見した魔術
師は、人族だと言われている。
④翼族
特徴:背中に翼がある種族。昔は獣人族の一種として数えら
れていた。現在は、翼が退化し小さく
なり、大きな魔力を持つ者も比較的多く生まれる事か
ら、獣人族のカテゴリーから外れてい
る。翼族には特有の魔法があり、魔力が小さくても翼
を使って空を飛ぶ事ができる。
男性はあまり服の外に翼を出さない。女性はファッシ
ョン感覚で外に出している事が多い。
⑤獣人族
特徴:獣の特徴を持つ者達の総称。獣人族はその中でも細か
く一族をわけている。
身体能力が高く、力が強かったり、耳がよく聞こえた
り、足が速かったりと、一族それぞれ
に秀でた物がある。
ただし身体能力が高い所為か魔力がない者が基本。
⑥精霊族
特徴:魔力の塊の一族で肉体を持たないとされる、普通は見
えない種族。その為、謎の種族とされ
ている。
低位、中位、高位と分かれており、中位や高位は魔力
で肉体のようなものを創りだす事がで
きる。ただし中位は高位ほどしっかりとしたものはで
きず、たえず肉体をまとう事はできな
い。
16
高位の者は龍神に仕えており、一般のヒトは会う事が
できないとされる。
⑦巨人族
特徴:体格の大きい種族。出生率が低い為、少数一族とされ
る。
気性の荒い者が多いと言われるが、そうとも限らない。
ただし力が獣人並みに強い為、キレ
こんゆうこ
ると手がつけられないと言われる。
◆◇◆◇◆
︻龍玉の地形︼
龍玉の大陸は円形をしており、中央に混融湖という大きな湖を持
つ。大陸の周りは、海で囲われている。
大陸は場所により呼び名が違い、現在は﹃緑の大地﹄、﹃黄の大
地﹄、﹃青の大地﹄、﹃赤の大地﹄、﹃白の大地﹄、﹃黒の大地﹄、
﹃金の大地﹄と7つに分かれている。元々は混融湖はなく、大地は
12に分かれていたと言い伝えられている。
︻国名︼
①緑の大地
・アールベロ国:海と山に囲まれた国。比較的涼しい地域で、山
沿い地域の冬は雪深く大変である。
ただし夏は海沿い地域の湿度が高く過ごしにく
い。
魔の森というヒトが入る事ができない森がある。
魔法を使うモノが多く、外国からも国内最大の
ウイング魔法学校に学生を受け入
れている。その為様々な人種が入り乱れる、比
17
較的珍しい国。
王族が翼族な為、人種比率としては、翼族が多
い。
・ドルン国:混融湖に面した国。混融湖の近くは良く霧が発生す
る。
お土産として、混融湖に流れ着いた異界のモノを使
ったアクセサリーが有名。海に面して
いないので、魚介を食べる習慣はあまりない。
②黒の大地︵一部金の大地︶
・ホンニ帝国:人族が多い国。黒の大地と金の大地にまたがる珍
しい国。
異界から来た知恵とされる、紙の産業が発達して
いる。また国のほとんどのモノが魔法
が使えないため、機械工学というものに着目し、
魔力に頼らない新しいエネルギー開発
を目指している。
③赤の大地
・キャロット自治区:ラビ族が治める地域。とにかく暑い地域。
日差しが強いため、頭まですっぽりと
かぶり日に当たらない民族衣装がある。た
だし室内だと、かなり露出が多い服を
着ている。一番偉いヒトを﹃長﹄と呼んで
いる。
※その他にも色々ある。
◆◇◆◇◆
18
︻魔法について︼
①分類
魔法は大きく分けて2つに分類され、魔素を使うものと、魔力を
使うものに分かれる。
魔素を使うタイプは、魔方陣の構成が複雑になる。また魔素が不
足すると発動しないので、立地条件なども加味しなければならない。
魔力を使うタイプは、自分が持つ魔力を使う事となるので、魔法
陣の構成は魔素を使うよりも簡易である。ただし魔力を魔法陣に込
める際の量の加減は感覚で覚えるしかないなど、訓練をしなければ
使う事ができない。また個人が持つ魔力以上の事はできない。
②属性
基本属性は、樹、風、水、火、地、闇、光の7種類に分かれる。
これらを組み合わせて魔法を使うのが基本だが、基本属性以外の属
性も存在する。
転移魔法は基本属性ではない魔法の代表で、﹃空﹄の属性に魔力
を加工し使う。
また属性ごとに色があり、目に魔力を集めると、見る事ができる。
樹=緑
風=黄
水=青
火=赤
地=白
闇=黒
光=金
時=紫
③召喚魔法
19
何かを呼びよせる魔法をさす。
召喚魔法は物を取り寄せる魔法と、他者と契約する契約魔法があ
る。
④アリス先輩的属性による性格診断
血液占い的なものであり、当たっているような当たっていないよ
うな内容。オクトは眉唾物であまり信じていない。
樹:大器晩成型。性格は大らかなヒトが多い。
風:自由気ままな性格。1か所に留まれずフラフラしているヒト
が多い。
水:周りに流されやすい性格。ただし知的で冷静沈着なヒトが多
い。
火:元気で明るい性格だが、苛烈さも持ち合わせる。正義感が強
いヒトが多い。
地:忍耐強く、頑固な性格。何かを育てたりするのが得意なヒト
が多い。
闇:執着質で、オタク気質。物静かなタイプが多い。
光:派手好きで、真新しいモノが好き。我が強く個性的なヒトが
多い。
時:不思議タイプで掴みどころがない。
◆◇◆◇◆
︻ウイング魔法学校について︼
ウイング魔法学校とは、アールベロ国にある、国内最大の学校で、
魔法を中心に勉強する。6年までは基本分野を学び、その後各自が
選んだ専門分野に進学する。
基本10歳ぐらいの子供が入学するが、大人が入学する場合もあ
20
る。魔法学校がある国としては珍しく、他国からの入学も認めてい
る。
入学するには、最低限の基礎知識が必要となり、それなりに勉強
しなければならない。ただし魔力が強く早急にコントロールできる
よう対策が必要と判断された子供の場合は、基礎知識が足りなくて
も入学できる制度がある。この制度で入学したものは、通常の授業
に入る前に特別教室で勉強を行う事となる。 学校の男女比率は7:3ぐらいで、男子の方が多い。また貴族出
身のモノが多い。
学校には学生寮が設置され、他国からきたがお金がない生徒など
が中心に利用する。この学生寮を使うモノは、卒業後に学校側が指
定した場所で数年働かなければならないという契約をさせられる。
◆◇◆◇◆
︻神様について︼
現在龍玉に住む神は樹の神、風の神、火の神、水の神、地の神、
光と闇の神の6柱とされる。元は12柱居たが、徐々にその数を減
らしている。
◆◇◆◇◆
︻特殊用語︼
①混ぜモノ:いくつもの種族の血が混ざった存在の事を指す。
②魔法使い:魔法を使える者の事を指す。
③魔術師:魔法を使える者の資格の名称。試験を突破する事で、
名乗る事ができる。
④魔素:魔力の元で、何処にでもあるもの。
⑤魔力:魔素から生体内で作られた力。生命維持にも必要なもの。
21
魔法を発動させる元となる。
⑥異界屋:異界から混融湖に流れ着いたものを扱う店。
⑦魔方陣:魔法を使う為に描く幾何学模様。
⑧精霊魔法:召喚魔法の一種で、精霊と契約し使う魔法の事を指
す。
⑨時魔法:時属性を持つ者のみが使える魔法。時間に関する魔法
だが、成長を止めるなどはできない。
⑩箒:掃除に使うもの以外に、魔法使いが乗り空を飛ぶものがあ
る。
⑪混融湖:龍玉の中央に位置する湖。湖だが波があり、よく物が
漂流する。この湖は浮かぶ事ができな
い為、中に入る事はできない。
22
序章
﹁いやぁぁぁぁぁぁぁぁ﹂
甲高い叫び声を聞いて、私の意識は覚醒した。
その声は何処までも悲痛で、ただただ悲しいと訴える。この声が
聞こえるまではずっと私の意識はふわふわとしていて、まるで夢を
見ているようだった。頭は霞がかり、苦しみも悲しみもなにもなか
った為、こんな激しい感情が生まれたのは初めてだった。⋮⋮いや、
本当に初めてか?
以前もこんな感じで絶望した事なかっただろうか。一気にその声
に引っ張られる形で目が覚めた私は、色んな事を忘れてしまってい
る気がして混乱した。
そもそもここは何処で、自分は︱︱。
﹁オクト、どうしたんだ?!﹂
部屋の中へ、黒髪の男の子が飛び込んできた。
ああ、そうだ。彼は自分の兄のような存在のクロだ。そして自分
は、オクトだ。
﹁オクト。だいじょうぶか?オクト、しっかりしろ。オクトっ!!﹂
クロに肩を掴まれ揺さぶられると、悲痛な悲鳴は止まった。⋮⋮
違う。悲鳴の出所は、自分だ。止まったんじゃなく、止めたのだ。
﹁ク、クロっ!!﹂
ぶわっと浮かぶ涙の所為で、クロの顔が歪んだ。
さっきまで確かに苦しみも悲しみもない世界にいたのに、今は寂
しくて仕方がなかった。感情の赴くままに小さなクロの体にしがみ
つく。そうでもしなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
23
﹁クロ⋮⋮クロっ⋮⋮クロぉ⋮⋮﹂
﹁いつからオレの名前言えるように⋮⋮。そんなことより、どうし
たんだよ。そんなに泣いて﹂
分からない。
ただ悲しくて、悲しくて仕方がなかった。軽いパニックを起こし
ている私には、ただ泣くことしかできなかった。
﹁ノエルさんはどこいったんだよ。オクトがこんなたいへんなのに﹂
ノエルさん⋮⋮。
ふとそれが、自分の母親を示す名前だと分かった。それと同時に、
何故こんなに悲しいのか思い出す。ふわふわと眠っていたはずなの
に、自分の中にはちゃんと答えが詰まっていた。
﹁クロっ⋮⋮。きえたの。ママがきえたの﹂
それは自分を捨てたとか、そういう意味ではない。文字通りこの
世から消えたのだ。もう二度と会う事はない。それを本能的に私は
知っていた。
﹁クロっ、クロっ⋮⋮ああぁぁぁぁぁぁっ!!﹂
苦しくて、悲しくて、寂しくて。それが痛くて仕方がない。背中
をさするクロにしがみつき、力の限り泣き続けた。
こうして私は母親の死と引き換えに、この世界に産まれ落ちた。
24
1−1話 現状把握中な異世界人?
この世界は、龍神が作られた世界だ。名前を﹃龍玉﹄と呼ぶ。意
味は龍の宝⋮⋮まんまだ。
そしてこの世界はいまだにそんな神話が生きており、生き神が住
んでいるらしい。らしいというのは、一般庶民は神様にあう事が出
来ないからだ。会えるのは王族のみ。一般庶民がもしも願い事があ
るならば、神殿に行く必要があるそうだ。
自分という意識がはっきりしてから、私はずっと情報を求めた。
そうでなければ狂ってしまいそうなほどに私は混乱し、知識に飢え
ていた。そしてさまざまな情報を聞いていくうちに自分の中にある
仮定ができた。
﹁私って、もしかして前世が異世界人なんじゃ⋮⋮﹂
確かに私にはオクトとしての数年間の記憶はある。母親と一緒に
旅芸人の一座に身を置いており、時折見世物として舞台に立ち歌っ
たりしていた。夢見心地で少し頼りない記憶だが、間違いなく自分
のものだ。
それと一緒に、今は別の記憶が私には存在した。その記憶の持ち
主がどんな人物だったのかは分からないけれど、オクトでは知りえ
ない膨大な記憶で、私の人格は確かにその記憶がもとに形成されて
いるように思う。逆にいえばオクトの記憶だけでは人格形成が出来
ると思えないほど、経験も知識も何も詰まっていなかった。
オクトではない方の記憶では﹃日本﹄と呼ばれた国に住んでいた。
子供は皆学校へ通うようで、私もまたそこに通っていたらしい。こ
の世界ではほとんどの国が、金と才能がなければ学校に通えないの
25
だから、そこからまず大きな違いだ。また日本ではあまり宗教は信
じられていなかったように思う。少なくとも一神教な国ではなかっ
た。
もしかしたら私が知らないだけでこの世界のどこかにある国なの
かもしれない。最初はそう考えもみた。それでもなお異世界ではな
いかと思った決め手は、日本には﹃人族﹄しか知的生命体は存在し
ない事だ。
﹁その知識で行くと、自分を全否定だもんなぁ﹂
龍玉には、﹃人族﹄を含め、様々な種族が住んでいる。大きな割
合を占めているのは、﹃エルフ族﹄、﹃獣人族﹄、﹃翼族﹄、﹃魔
族﹄、﹃精霊族﹄だ。ただし獣人族はその中でもさらに細かく分類
される上、少数民族は星の数だ。
そして私は﹃人族﹄と﹃エルフ族﹄と﹃獣人族﹄と﹃精霊族﹄の
血を持った﹃混ぜモノ﹄と呼ばれる存在だった。﹃混ぜモノ﹄は3
種以上の血が混血したものであり、忌み嫌われる存在だったりする。
というのも、種族が違えば成長も違うわけで、﹃混ぜモノ﹄はどう
成長するか分からないからだ。
初めて聞かされた時は、何だそれ。生まれは選べないしいきなり
迫害って酷くない?と思った。どうやら日本という国は身分という
ものがほぼない状態で、迫害というものは悪として認識されていた
ようだ。しかしよくよく理由を聞くと、嫌われる理由がよく分かっ
た。﹃混ぜモノ﹄は成長度合いも寿命も知能も魔力も未知数なのだ。
つまり産まれて一週間で成長しきり死んでしまう例もあれば、百
年たっても赤子のままでその後いきなり成長したということもある。
魔力や知能が異常に高い事もあれば、その逆もある。今まで普通だ
ったのに、いきなり老化スピードが上がったりと、予測がつかない
爆弾みたいな存在なのだ。
異常な成長は病気ではないので他人にうつったりはしない。しか
26
し日本ほど治安が良くなく、必ず子供が成人できるとは限らないこ
の世界では、次世代に残すべきではない血なのだ。だから忌み嫌わ
れる。
私の場合は、どうやら体は﹃人族﹄のスピードで成長したが、知
能の方はいつまでも赤子と大差なかったらしい。まともに言葉を話
す事も出来なければ、日常生活もままならないレベルだったそうだ。
それが突然一か月前に﹃精霊族﹄と﹃獣人族﹄のハーフだった母親
の死をきっかけに、知能および精神が急激に成長したのだ。それも
成長度合いが今度は肉体を追い越しているのだから、他人からした
ら気味が悪いだろう。忌み嫌われるのは、理解できないからという
事も含まれるのかもしれない。
それでも今私が死んでいないという事は、﹃混ぜモノ﹄だろうと
殺してはいけないという倫理がこの世界にも存在するらしい。
﹁かといって、今更演技してもなぁ﹂
日本人は空気を読むのが上手い。空気の読めない人をKYなんて
呼ぶ単語ができるほどに普通のスキルだ。しかし状況が分からない
状態ではその能力の発動は無理だった。結果、私は旅芸人一座の仲
間からも少し浮いてしまった状態である。
今更子供ぶったところで、余計に気味悪がられるだけだろう。か
といって逆にペラペラと年相応ではない言葉をしゃべっても気味悪
がられそうなので、今のところ無口キャラで通している。
では今後楽に生きるにはどうしたらいいのだろう。そこで将来的
に迫害されない為、﹃混ぜモノ﹄であることを隠しておけばいいん
じゃないかと考えた。しかし現実はそんなに甘くはなかった。﹃混
ぜモノ﹄には大きな特徴として、顔にあざがあるのだ。かくいう私
は、目じりに隈のようなあざがあり、それがばっちり身分証になっ
ている。
隠すためにはお面をかぶるか、フードで顔を隠すしかない。その
格好を想像してみたのだが、⋮⋮混ぜモノでなくても気味悪がられ
27
そうなぐらい怪しい。
本気で生きにくい世の中だ。しょっぱすぎる。少しぐらいグレて
もいいレベルだと思う。
﹁オクト、だんちょーがあそんできていいって﹂
そんな中でも、私を恐れない子供が一人いた。しかも精神が異常
に成長してしまった今でも、年齢的には僅かに年上であろう彼は、
私を妹のように扱う。
﹁クロ﹂
テントの外から顔をのぞかせたクロは私を見るとぱっと笑顔にな
り駆け寄ってきた。ちなみに今の私を普通の子供のように扱うのは、
彼の母親と団長だけである。まったくもって希少価値の高い子供だ。
﹁きょうはビラくばれば、あとはあそんでもいいんだって。オクト、
いこう?﹂
にっこりと邪気のない笑顔で私の手をつかむと、クロはずんずん
とテントの外に進もうとする。
﹁クロ、待って。まだナイフ磨けてない﹂
この一座に身を置く為には働くしかない。今までは母親が働き、
自分は舞台で見世物になっていればよかったのだが、母親が居なく
なった今、雑務などをしなければ置いてもらえそうもなかった。﹃
混ぜモノ﹄は確かに珍しいが、世の中にいないわけではないので到
底目玉にはなれない。
とにかく使える人材だとアピールが必要だった。
そんなわけで、私は現状把握しながら、団員の道具の手入れを日
々行っていたりする。
﹁そんなの、アイリスのしごとだろ。オクトがやるひつようないよ。
母さん、じぶんのしょうばいどうぐをちゃんとかたづけられないの
は、プロしっかくって言ってたよ﹂
﹁駄目﹂
28
私はきっぱりというと首を振った。確かにそうかもしれないが、
頼まれたものを放棄すれば、今後どんな嫌がらせを受けるか分から
ない。あいにくと私は格闘技のプロでもなければ、暗殺スキルとか
も持っていない、幼気な子供だ。殴られれば、本気で死にかねない。
そこで異世界とはいえ、前世の記憶を持ち合わせている自分が考
えたうえでの結論は。
﹁長いものには巻かれた方が安全﹂
﹁ながい⋮⋮まかれる?﹂
繰り返すクロに私は頷いた。
特に大きな害でないならば、甘んじておいた方が今後の為だ。上
手い事動きまわれば、とりあえずは痛い事もないし、最低限の人権
は守られるだろう。
﹁よくわかんないけど、ならオレもてつだうよ﹂
ぺちょりと地べたに座り込むと、クロは私が使っていた布を取り
上げ、刃を磨き始めた。小さな子供に手伝いをさせて、万が一刃物
で怪我をされては困るのだが、クロは結構頑固だ。一度決めたらた
ら終わるまでずっと手伝うだろう。
﹁ありがとう﹂
﹁おれがおにいちゃんだから、オクトをまもるのはあたりまえなん
だよ﹂
気にするなと、小さな手で私の頭をわしわしとかき混ぜる。これ
は彼の母親がよくやる行動なので、彼なりの愛情表現なのだが、私
の髪の毛はぐちゃぐちゃになった。ちょっと有難迷惑だ。
私もさっさと終わらせる為に、切れ味が悪くなっているナイフだ
けをオイルをかけた砥石で研ぐ。この方法は前世の知識にはなかっ
たので、アイリスに一通り教えてもらったものだ。赤ん坊から脱出
したばかりの脳は簡単にその技術を吸収してくれた。
ありがたいけれど、⋮⋮自分って結構器用貧乏かもしれない。
29
﹁できた﹂
最後の一本についたオイルを綺麗にふき取って、道具箱にしまう
と、私は額の汗を服の袖で拭った。子供の力だと、この程度でも結
構重労働だ。
﹁よし。じゃあ母さんのとこに、行くぞ﹂
何で?
確かビラを配りに行くんじゃなかっただろうか。首をかしげると、
クロは私の腕を掴んで立たせた。
﹁そんなよごれたなりだと、この町のれんちゅうになめられるだろ﹂
なるほど。
確かに、私もクロも汚れてしまった。クロは私の手を握り今度こ
そテントから外へ向かった。
30
1−2話
私が身を寄せている旅芸人一座は、テントを張って生活する。さ
っき私がいた場所は道具がしまってある物置のような場所だ。
寝る場所は下っ端は基本一つの大きめなテントで雑魚寝だが、一
座の中でも稼ぎ頭たちは小さいながらも自分の部屋をもらえる。も
しくは都会で実入りがいい時は、稼ぎ頭たちだけは宿に泊まってい
た。そしてクロのお母さんは剣の達人で剣舞踊や模擬戦などが好評
の稼ぎ頭だった。私は本来雑魚寝なのだが、クロのお母さんが自分
のママと友達だった為、一緒の部屋に置いてもらえていた。
﹁母さん、よごれた。たおるない?﹂
﹁あらら。派手に汚したわね。クロは上着も着替えちゃいなさい。
オクトは、とりあえず顔洗うだけでいいわね﹂
﹁すみません﹂
部屋には黒髪の女性がいた。仕事道具である剣を磨いてたらしい
女性はクロを見ると笑みを浮かべた。目元がきつめの美女だが、笑
うと少し可愛らしい。クロに続いて部屋に入った、私は頭を下げた。
﹁これはオレらがわるいんじゃないんだからな。アイリスのやつが、
オクトにしごとをおしつけるからいけないんだ﹂
﹁違う﹂
私はクロの後ろで首を横に振った。
私は基本雑用係だ。仕事道具を片づけるのも仕事である。まあナ
イフを研ぐまでやるのはやり過ぎというか、やらせ過ぎかもしれな
いが、依頼があったのならば仕方がない。
それに仕事があるから私はここに置いてもらえている。ならばア
イリスを恨むのはお門違いだ。
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﹁ちがわない。オクトは人がよすぎるんだ﹂
﹁それも違う﹂
﹁はいはい。分かったから、喧嘩は後にしてクロは早く着替えなさ
い。濡れタオルは母さんが用意しておいてあげるから。それと、オ
クト。今のアイリスじゃそんなに売れっ子にはなれないから、媚売
ってもしかたないわよ。売るなら、もっと上の人に売るか青田買い
をしなさい﹂
それもどうなんだろう。
私は困ったように首をかしげた。そもそも私をいじめたりしそう
なのは、アイリスみたいな中途半端なレベルの人だ。売れっ子は逆
にアイリス辺りをこき使う。なのでアイリスの不興を買わないのは
対策としてはあっていると思う。
確かに売れっ子のお気に入りになれば、うかつに手は出せないだ
ろうけど。
しかし売れっ子の役に立てるような事が今の私にできるとは思え
ない。もう少し大きくなれば力仕事もできるのだけれど、いかんせ
んこの小さな体ではできる事の方が少なかった。
青田買いの方だって、もう少し知識が増えなければ見抜く事は無
理だ。
私はぐるぐると考えながらクロのお母さんである、アルファさん
についていく。アルファさんは洗濯場で水をもらうとタオルを濡ら
し、私に差し出した。
﹁ほら、眉間にしわ寄せてないで、早く拭いちゃいなさい﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁これぐらいいいわよ。あ、ちなみに私はすでにオクト贔屓だから、
媚売っても無駄だからね﹂
ああ、そう言えばアルファさんも売れっ子だっけ。最終的にはそ
こにたどり着きそうだったが、まだそこまで考えていなかった私は、
32
先にくぎを刺されてしまった。
﹁仕事ならいくらでもあげるわ。でもそんなのより、技を盗んで色
々考えなさい。その方が、いじめられなくなる為の早道よ﹂
それはつまり売れっ子になれという事⋮⋮。つまり無理という事
ですね。分かります。
私は理解できないふりをして、タオルで顔をぬぐった。
いう事は無茶苦茶だが、アルファさんには感謝だ。もしも濡れタ
オルを用意してもらえなければ、私は明日の水浴び時間まで汚れた
ままだった。私だけでは洗濯場でタオルなんて貸してもらえないだ
ろうし、混ぜモノというだけで、井戸を借りることも難しかっただ
ろう。
つくづく運のない生い立ちだ。
部屋へ戻ると、クロはすでに服を着替え終わっていた。アルファ
さんからタオルを受け取り顔をふく。
﹁そうだ。オレたち、これからビラくばってくるから。で、その後
あそんでくるから﹂
﹁ふうん。だったらもっと、派手な服着て行きなさいよ。折角可愛
い顔に産んであげたんだから、もっと活かしなさい﹂
﹁ええっ。そのあとあそぶから、よごすとおこるだろ﹂
﹁汚さないように遊ぶの。汚すことするなら一度戻ってきて汚して
もいい服にしなさい。ちゃんと看板になる事も一流の芸人よ﹂
そう言ってアルファさんは水兵みたいなセーラー服型の舞台衣装
をクロに渡す。襟の部分がキラキラとラメっていて遠くからでも目
立ちそうだ。そしてさらにもう一着子供用の服を取り出した。
﹁はい。オクトもこれに着替えなさい﹂
私は逆にピンクのセーラー服だ。クロが青だから反対色を持って
きてくれたんだろうけど、ちょっとためらう。ちなみにクロが短パ
ンで、私がスカートだ。年齢考えれば微笑ましい感じなのだが、前
世の記憶が可愛らし過ぎるそれに躊躇いを覚えさせる。
33
⋮⋮これはほぼ、どこぞの美少女戦士の恰好ではないだろうか。
コスプレの四文字が頭をめぐる。
﹁私は︱︱﹂
﹁着替えなさい﹂
﹁︱︱はい﹂
似合わなかったら、逆に道化っぽくて看板になるかもしれない。
うん。前向きに考えよう。
これも仕事とわりきり服を脱ぐ。そう言えば前世の記憶がある割
に、裸になることにはあまり抵抗がない。クロとは兄弟みたいなも
のだし、そもそもクロは六歳だ。恥ずかしいと思える年齢でもない
からかもしれないけれど⋮⋮。
私の前世って、性別どっちだ?
一般常識的な記憶は存在するのだが、どうも当の本人の事になる
とかなりあやふやで欠如が多い。もしかしたら今は生物学的には女
だが、前世が男だった可能性もある。
とはいえ、前世がどちらでも関係はない。混ぜモノである自分に
は、結婚とかまずあり得ない行事なので、性別とか考えるだけ無駄
だ。
﹁うん。さすが親友の娘ね。かわいすぎるわ。さあ、行ってきなさ
い!﹂
パンと背中を叩かれると、そのままテントの外に押し出された。
下手に鏡を見て行く気が失せる前なのである意味良かったと思うし
かない。うん、知らぬが仏作戦だ。
﹁オクト、いこうぜ!﹂
クロに急かされ、私はコクリと頷いた。
自分の場合、まだ幼すぎる事もあって、買いだしなどの町に出る
仕事はまわってこない。ここ一カ月間は休みがなかった事もあって、
町へ出るのは久々だった。なので行きたくないわけではない。
34
﹁このまちは、ふんすいがあるところに、人があつまるんだってさ。
へたに店の前とかでビラくばると、おこられるからそっちでくばろ
う﹂
そういうものなのか。
ビラくばりと言うので、駅前のティッシュくばりが頭に浮かんで
いた。大抵そういうのは商店街で行われていたように思う。という
のも不特定多数の人が流れていき、比較的多くの人にもらって貰え
るからだ。
首をかしげると、クロがさらに説明してくれた。
﹁みせがいっぱいあるとこでえいぎょうするには、なんかえらい人
にし⋮⋮しんせい?しないといけないんだって﹂
﹁偉い人って?﹂
﹁わかんねえ。いいじゃん。ふんすいとこならおこられないし﹂
まあ、その通りだ。ただ噴水のところが公園みたいな役割だとす
ると、こっちから人を集めるようにしなければ中々終わらないかも
しれない。
噴水を目指して歩いて行くと、商店街にでた。商店街は先ほどま
でと少しだけ雰囲気が変わり、地面がタイル張りになっている。ま
たレンガで作ったような店が立ち並び外観が統一されていた。まる
で中世ヨーロッパだ。そこを時折馬車が走っていく。
﹁クロ。ここは何の店があるの?﹂
馬車はバスや電車のような役割をしており一般客も使うが、こう
いった店まで乗りつけて来るのは貴族や金持ちだけだ。つまりはそ
ういった客に対応した店があるという事になる。
﹁んーっと、そこがレストランで、そっちがざっか。あとまほうぐ
の店とかほうせきの店とか、ぶきうってるところもあったはず﹂
﹁ふーん﹂
まるでRPGな世界だ。魔法具の店とか、武器を売っているとか、
35
子供が入っても大丈夫なら一度見てみたい。
この世界は、日本ではゲームにしか出てこないファンタジーな種
族がいるだけあって、魔法というものが存在した。学校で学び資格
をとったものを魔術師と呼び、そうでない者を魔法使いと呼ぶそう
だ。魔法使いも試験さえ通れば魔術師と名乗れるのだが、なかなか
その試験が難しいらしい。
ちょっとした魔法具なら一般人も使えるそうなので、機会があれ
ば触ってみたいと思っていた。所詮は二次元に憧れたミーハー魂だ
けど、魔法はロマンだ。仕方がないと思う。
﹁あと、くすりの店と⋮⋮えっと。そうだ。いかいやがあるってだ
んちょーいってたな﹂
﹁イカイヤ?﹂
何の店だろう。
あてはまる字も思い浮かばず首をかしげる。イカ嫌?以下胃や?
﹁いかいの物、えっとこことはちがうせかいでつくられた物がうら
れてるんだって﹂
﹁⋮⋮そんなのあるの?﹂
つまり、﹃いかいや﹄というのは、﹃異界屋﹄ということだろう。
文字があてはまった瞬間、落雷を受けたような衝撃が走った。
﹁うん。たまにコンユウコにながれつくってさ。きほんつかい方わ
からなくてガラクタだけど、マニアが高くかうんだって﹂
異界。私の妄想だけじゃなくて、本当にあるんだ。
ドキドキと心臓が脈打つ。その異界は、私が知っている所だろう
か。この頭の中にあるのは妄想じゃないと教えてくれるのだろうか。
不安と期待がぐるぐると渦巻く。
﹁オクト、あとで行ってみる?﹂
私の動揺がクロに伝わったらしい。
それでも私はクロの言葉に、私は一も二もなくうなづいた。
36
1−3話
噴水がある広場は、確かに人は多かった。
いい憩いの場であり、旅行者にとっては観光の名所なのだろう。
広場は噴水を中心に円形になっており、下のタイルが魔法陣のよう
な幾何学模様となっている。原理は分からないが、この噴水は魔法
が関わっており、シンボルのようなものになっているのだろう。
周りには出店もあり、とてもにぎわっている。⋮⋮ただし、私の
周り以外では。
﹁どうみても避けられてるよね﹂
噴水に腰かけた私の周りには、誰もいない。さっきまでは確かに
獣人族のカップル達がイチャイチャしていたはずなのに。
私はクロと半分にしたビラをパラパラめくりながらため息をつい
た。さっきから一枚も配れていないビラが憎い。それにしても混ぜ
モノってのはどれだけ嫌われているのだろう。特にスリをしようと
かそんな邪念は一切ないのに、近づけば逃げられ、普通に歩いてい
るだけで大きく避けられる。
まだ一座の方がマシだ。少なくとも蜘蛛の子散らすように私から
逃げる事はない。
﹁結構かわいらしい外見してると思うんだけどなぁ﹂
噴水が止まるタイミングで中を覗けば、蜜色の髪をおかっぱくら
いに切りそろえた子供が水に映った。耳は獣人族のように大きく、
エルフのように先がとがっていてぬいぐるみのようだ。青色の瞳は
大きく、その所為で人形のように見えた。右目の目じりにある青黒
い色をした痣さえなければ、自惚れではなくマジで美少女を自称し
たっていいと思う。
37
外見は幼気な幼児なのに、混ぜモノってだけで避けられるって、
世知辛い世の中だ。でも石とかをぶつけられるわけではないし、イ
ジメレベルで考えれば、まだいい方かもしれないと自分を慰めてみ
る。
﹁オクト、なにさぼってるんだよ﹂
ぼんやりと再び噴き出した噴水を見つめていると、クロが腰に手
をやって私を睨みつけてきた。自分だけ働かされていたのだから怒
るのはわかる。
と、言われてもなぁ。
﹁受けとって貰えないから﹂
﹁あっ⋮⋮﹂
クロはすぐに理由に思い当ったらしく、顔を歪めた。それは同情
するものでもはなく、悔しそうな表情だった。
﹁オクトはこんなにかわいいのに﹂
うん。それは将来、本気で好きになった人に言おうね。たぶん母
親が影響していると分かってはいるのだが、私としてはクロがフェ
ミニストどころではなく、タラシに成長しないか心配だ。
﹁クロはどう?﹂
﹁オレもほとんどもらってもらえなかった﹂
クロの手の中にもまだまだビラは残っていた。結構、広い広場だ。
人がこっちによって来てくれない限り、配るのは大変だろう。
そこでふと私は気がついた。
⋮⋮そうか。寄って来てもらえばいいのか。
﹁クロ、今から私がいう言葉を大きな声で言って﹂
私はクロの耳元に口を近づけると、こっそりと今思いついた事を
伝えた。まわりに人がいないのだから普通に喋ったって構わないだ
ろうけど、なんとなく打ち合わせはこっそりした方が仕事っぽい。
それに仕事と割り切らなければ、これからする事は凄く目立つの
38
で恥ずかしいのだ。
﹁わかった。でも、オクトはへいき?﹂
﹁うん。早く終わらせよう﹂
気遣うクロに、私は頷くとビラをすべてクロに渡した。
そして私は体から力を抜き、目を閉じる。大丈夫。できるはず。
というかやるしかない。
﹁さあさあ、みなさん、おたちあい。ごようといそぎでないかたは、
きいといで﹂
子供っぽくないクロの口調に、人がいっせいにこっちを見たのが
気配で分かった。
﹁とおでのやまごしかさのうち、きかざるときはものの黒白、ぜん
あくがとんとわからない﹂
こちらへやってくる足音が聞こえ、私の耳が震える。獣人の血の
おかげで、私の耳はとても性能が良かった。
﹁さておたちあい。ここにすわるは、あわれなまぜモノのむすめ﹂
ドキドキと心臓が五月蠅いが、まだ動かない。できるだけ人形の
ように見えるように表情を出さないように気をつける。
﹁まぜモノともうしましても、ただのまぜモノとはちがう。母がし
ぬまでことばをはなせず、母がしんでもその口からでるは、いかい
のうたのみ。せんのうたをしろうと、なにもわからぬにんぎょうの
うた。しかしなぜだかみみにここちよい。さーて、おたちあい。さ
いごのこうえんせまる、﹃グリム一座﹄!ほんじつしゅっちょうこ
うえんだっ!﹂
よく言った。
クロにお願いした言葉は長い上に喋りにくいものだったはずだ。
それでもクロは一言一句間違えず喋りきった。ここから先は私の仕
事だ。
ぱっと目を開ける。思った以上にまわりに人の輪が出来ていた。
39
しかしそれが何なのか分からないといったように、私は表情を動か
さないように気をつける。そして息を吸った。
﹃あああああああああ﹄
私は精霊譲りの透き通るような声を披露した。内容は合唱コンク
ールレベルの歌だけど。若干覚えていない部分はハミングで誤魔化
しである。きっと聞いたこともない言葉は、神秘的に聞こえるだろ
う。
特にこの世界は魔法がある為か、電気というものがなく、テレビ
どころかラジオもない。またCDやカセットテープどころか、レコ
ードすら発明されていなかった。つまり娯楽というものが生演奏の
みなのだ。そしてそれが聞ける場所は限られている。無料で変わっ
た歌、しかもきれいな音色で聞けるなら、ホイホイ人が集まってく
るはずだ。
案の定、歌が聞こえ始めると、どんどん人が集まってきた。そこ
へすかさずクロが、ビラを配っていく。これなら、ビラがはけるの
も早いだろう。
それにしても、千の歌は言いすぎたなと少し反省する。合唱コン
クールの歌意外には、流行りの歌や童謡、それらがなくなると、ア
ニソンや、本家本元歌う人形の歌しか知らない。ネギを振り回す人
形の歌は中毒性はあるが、どうなんだろう。人前で熱唱すべき歌だ
ろうか?
いやでもそれはアニソンも同様だ。超能力者や宇宙人、未来人と
友人の少女の歌はまだいいとしても、オタクな女の子が織りなすア
ニメの歌は、ちょっとアレだ。テンション高すぎてあまり手を出し
たくない。⋮⋮というより、それを完璧に覚えている前世の自分に
絶望しそうだ。うん、前世は前世。深く考えてはいけない。
﹃どーかとうしてくだしゃんせ。御用のないものとおさせぬー﹄
段々アニソンORボーカロイドの歌に近づいてきたぞという辺り
で、クロの持っているビラは全てはけた。その事にほっとする。良
40
かった。本当に、良かった。
﹁では、しゅっちょうこうえんは、ここでおわります。かのじょの
うたがきになるかたは、ぜひ﹃グリム一座﹄までおこし下さい﹂
ぺこりとクロがお辞儀をしたところで、私も歌うのを止めた。
久々に大きな声を出し続けたので喉が痛い。しかしそれをおくび
にも出さず、私は再び噴水に腰かけ目を閉じた。ゼンマイが切れて
しまった人形をイメージして体の力を抜く。
しばらくがやがやしていたが、それでも徐々に人の気配がなくな
っていく。動かなくなってしまえば、何にも面白くないし、私は混
ぜモノだ。人がいなくなるのは早いだろう。ほとんど人気がなくな
ったところで、私は目を開いた。 パチパチパチ。
突然拍手がなって、私は目を瞬かせた。
﹁凄いね。楽しかったよ、ありがとう﹂
キャベツのような緑の髪をした少年がにっこりと笑いかける。ど
うしていいのか分からず、私は曖昧に笑った。混ぜモノに笑いかけ
るなんて、変な奴だ。
﹁是非公演を見に行かせてもらうね﹂
その言葉に、私は頭を下げる。クロに話させた設定だと、私は歌
以外話せないことになっている。まだお客がいる以上、その設定を
崩すわけにはいかない。
少年は動かない私の近くまで歩み寄ってきた。近くで見ると瞳も
同じく、キャベツのような色をしている。顔はパーツの一つ一つが
整っており、まるでファンタジーの権現のような美少年だとぼんや
り思う。
﹁でも異界の歌はあまり披露しない方がいいよ。悪い人に捕まっち
ゃうから﹂
耳元でささやかれた言葉にどきりとする。私が危うく声を出しか
41
けた所で、クロが私と少年の間に入った。
﹁おきゃくさま。つぎはいちざのぶたいでのこうえんがありますの
で、ぜひきてください﹂
﹁うん、そうさせてもらう。じゃあね、ドールちゃん﹂
少年は手を振ると、さっとその身をひるがえした。
一体なんだったのだろう。⋮⋮年齢の割に落ち着いているし、言
葉も綺麗な発音だ。なまりを感じられない。お忍びできた貴族かな
にかだろうか。
それにしても疲れた。
私は、今度は演技なしでぐったりと噴水にもたれた。
﹁オクト。すごいぞ。ぜんぶなくなった﹂
﹁うん﹂
興奮気味なクロに、私は相槌を打つ。それにしても、ここまで上
手くいくとは思わなかった。私はほっと息をはく。
それと同時に先ほどの声をかけてきた少年が脳裏に浮かんだ。彼
は何故、あの歌が異界の歌だと信じたのだろう。それとも少年の言
葉は演技と思った上での冗談だろうか。
まあ関係ないか。私は気を取り直すと、いまだ興奮気味話すクロ
に手を伸ばした。
折角町に出てきたのに、このままじっとしているのは、時間が惜
しい。
﹁異界屋にいこう?﹂
42
2−1話 小さな賢者様
異界屋は商店街でも少し奥まった場所に存在した。
店先には共通語である漢字ような形の龍玉語と、今滞在している
アールベロ国の言語を併記した看板が飾ってある。ただし残念な事
に私は文字を書いたり読んだりできないので、たぶん異界屋と書い
ていあるのだろうと想像するしかない。
しかしそれは決して私が混ぜモノだから知識不足というわけでは
ないと思う。多分この世界の識字率は高くないんじゃないだろうか。
商店街を歩いたが、店先の看板には必ず分かりやすい絵が描いてあ
り、場合によっては絵しか描いてない所もあった。
﹁い、か、い、や。うん。ここだここ。だんちょーがいってたの﹂
﹁クロって、文字読めるの?﹂
隣で看板を見つめるクロを見て驚いた。
﹁おう。母さんがおしえてくれたんだ。じはおぼえといた方がとく
だってさ﹂
確かにそうだけど、それで教えれるって、凄くない?
アルファさんって剣の達人だし、一体どういう人何だろう。まあ、
一座にはわけあり系の人も身を寄せていたりするらしいので、きっ
とそういった類なのだろうけど。
異界屋はあまり客が入らないのか、とても静かだった。扉をくぐ
るととカウンターに座ってる猫男がちらりとこちらを見て顔をしか
める。それでも今はお客と商談をしているようで、あえて追い出そ
うとこちらへは来ない。
これ幸いと私達はそのまま奥へ進んだ。
棚に並べられたものたちは、新品ではなくどこか破損している事
43
もあれば、汚れてしまっていたりもした。変な形のつぼや蛇のよう
なオブジェなど、不思議なものが沢山ある。ただ問題は、そのどれ
もが私の記憶には刺激をしてこないのだ。簡単にいえば、どれも良
く分からないガラクタなのである。用途がさっぱり分からない。
ここから導き出される可能性は3つ。
①異界といっても私が知っている異界ではない、さらに別の世界
から流れ着いている。
②ここにあるのは日本以外の国のものであるため、前世の人も知
らない。
③私の頭の中の記憶はただの妄想である。
③は除外してしまいたいが、記憶につながるものが何もなければ、
私もそうではない自信がない。
できる事なら、手にとってしっかり、じっくりと見て考えたいが、
①であった場合、呪いの類でないとも限らない。なんといってもこ
の世界がすでに、RPGもどきなのだ。装備したら外せないよ的な
アイテムだったらマジ怖い。
﹁んー⋮⋮ないな﹂
店自体はさほど広くはなさそうだ。
少し歩いただけなのに、すぐに行き止まりにきてしまった。それ
にしても、せめて系統だけも同じものを固めておいて欲しい。ざっ
くばらんに置かれているせいで、見落としもありそうな気がする。
私はもう一度戻ろうとまわれ右をした。
ビビビビビビビッ!!
振り向いた瞬間、突如鳴り響いた音に私はドキリとした。まるで
警報機のような音だ。音源の先を見れば、クロが尻もちをついてい
る。
44
﹁なにやってんだっ?!﹂
茫然としているクロの襟元を猫男がつまみあげた。クロの体が軽
々と中に持ち上がる。その手には卵型の何かを握っていた。音源は
たぶんそれだ。足元にカランと金属製のものが落ちる。
﹁はなせよっ!!﹂
﹁店のものを壊しやがって。ここは子供遊ぶ場所じゃないぞ﹂
﹁こわしてねーよ。さわっただけだって﹂
このままでは、お役所につき出されかねない。
私は咄嗟にクロが持っているそれが何なのか閃くと、足元に落ち
た金属を拾った。
﹁クロ。貸して﹂
クロが握りしめていたものを受け取ると、穴の部分にフックを突
っ込んだ。するとけたたましく鳴り響いていたベルがピタリと止ま
った。
よかった。上手くいった事にホッと胸を撫ぜおろす。
﹁⋮⋮何したんだ﹂
﹁壊してない﹂
私はもう鳴かなくなった防犯ブザーを訝しげな猫男につきつけた。
﹁防犯ブザーが正常に動いただけ。クロを放して﹂
確かにいきなり音を鳴らしたのは悪かったが、首根っこをいきな
りつままれるほどの事ではないと思う。子供だって、混ぜモノだっ
て人権があるのだ。
ブザーを受け取った猫男はとりあえずクロをその場に下ろした。
﹁いやー、嬢ちゃん凄いな﹂
先ほどまで猫男と商談をしていたらしい男が近づいてきた。多分
魔族と思わしき、紅目の男は私を見下ろした。
﹁ところで嬢ちゃん。そんな事何処で知ったんだ?﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
45
何処?
ふと今言った言葉が、本来私が知っているはずのない言葉だと気
がついて固まった。正直に前世の話をしてもいいだろうか。いや、
駄目だろ。そんな話をしても、頭がおかしい人扱いされるの関の山
だ。それに異界の歌を歌った後に言われた﹃悪い人に攫われちゃう﹄
の言葉が私の中で引っかかる。
というのも本来知っていなければいけない異界屋の店員が、商品
の使い方を知らなかったのだ。つまり異界の知識はほとんど知られ
ていないのが現状ではないだろうか。もしそうだとしたら、知って
いるという事は、その知識だけでもかなり価値があるはずだ。
⋮⋮危険すぎる。
﹁⋮⋮ママが教えてくれた﹂
私は嘘がばれないようにうつむく。
ママ、勝手に擦り付けてごめんなさい。でも私を守って下さいと
心の中で懺悔する。
﹁混ぜモノの母親が?一体、どんな︱︱﹂
﹁オクトがかなしんでんだからそれいじょうきくなよ。オクトのか
あさんはしんだんだ﹂
私の前でクロが両手を広げた。
クロかっこいい。でもクロごめん。うつむいているのは、そうい
う理由じゃないんだ。ただ、都合良く大人たちも勘違いしてくれそ
うなので、そのままにしておく。うん。私、悪くない。
﹁それは悪かった。混ぜモノの子もごめんな。ところで、他には何
か聞いていないのかい?﹂
私は怯えているように見えるようクロの背中にしがみついた。そ
してこっそりと、相手を盗み見る。
猫男は毛むくじゃらで、あんまり表情が読めない。魔族の男は笑
顔だが、だからっていい人とは限らない。今すぐにでも、テントへ
戻った方がいいんじゃないだろうかとまわりをうかがう。
46
﹁もしもこの後鳴らなかったりしたら、嬢ちゃんたちが壊したって
疑われるよ?これは永久的になるものなのかい?﹂
﹁⋮⋮電池が切れたらもう鳴らないから﹂
私はぼそりと付け加えた。
それにしても、凄く嫌な聞き方をする人だ。今鳴るのだから、今
後鳴らなくても私たちの責任ではない。それなのにその言い方では、
そうではない事になる。今の話を聞いた猫男が、そうやって言いが
かりをつけてこないとは限らない。
それに彼はたぶん私たちが、旅芸人でそれほどお金を持っておら
ず、社会的地位も低いと踏んで発言しているのだろう。衣装を見れ
ば芸人という事は一目瞭然だし旅芸人はそれほど儲かる仕事でもな
い。それに私たちが子どもであり、私が混ぜモノであるという事も
不利だ。猫男とどちらの話を信じると言ったら、まず負けるに違い
ない。
﹁電池ってなんだい?﹂
﹁⋮⋮動かす力になる元。頭の部分のねじを外すと中に入っている
から﹂
猫男は手に持っている防犯ブザーをしげしげと眺めた。
これだけ話せば十分だろう。私はクロの服を引っ張った。
﹁クロ、帰ろう?﹂
早く帰ってしまった方がいいと、頭の中で警報がなる。すでに自
分の生まれからして厄介なのだ。これ以上厄介事はいらない。
﹁嬢ちゃん、待った。折角だからもう少しゆっくりしていかないか
?なあ店主﹂
﹁ああ。是非そうしてくれ。お菓子もあるぞ﹂
⋮⋮それ、人攫いが使う手口だから。私は呆れたように二人をみ
た。お菓子なんかで釣られるなんて馬鹿、いまどき︱︱。
47
﹁おかし?﹂
クロが凄い興味津津という顔をした。そうだよね。クロは私と違
って正真正銘、純粋な子供だもんね。しかもお菓子なんてほとんど
食べられないしね。
﹁クロ、駄目﹂
﹁でも︱︱﹂
﹁駄目﹂
これではどっちが年上か分からないが、私はきっぱり首を振った。
﹁おいしい話には裏がある﹂
﹁おかしにうらがあるのか?﹂
﹁あー⋮⋮お菓子にあるんじゃなくて﹂
﹁ほら持ってきたぞ﹂
クッキーらしきものがのった皿を持つ猫男の目は糸目だった。た
ぶんこれが彼の笑顔なんだろう。その笑顔に雑念が見える私は間違
っていない。
﹁あーん﹂
魔族の男に差し出されたクッキーをパクリと食べたクロを見て、
私の顔は引きつった。
﹁⋮⋮いくらですか?﹂
﹁払えるの?﹂
たぶん払えません。
私は心の中で滂沱の涙を流した。こうなったら頑張って、金持ち
になろう。そう決意した瞬間だった。
48
2−2話
さてどうしよう。
店内のど真ん中で話し合いも他のお客の迷惑になるという事で、
カウンター横に特設机が設置された。確かに通路の途中じゃ迷惑だ
とは思うけれど、嘘を付けと声高々に言ってやりたい。そもそも店
内は迷惑になるほどの客がいないはず。
﹁私は全てを知っているわけじゃないから﹂
言いたい事は色々あたが、それでもこれだけは伝えておかなけれ
ばと席に座った私は開口一番そう伝えた。というかクッキーを勝手
に持ってきたのはそちらなんだから、よく考えれば私たちが気にす
る必要はない。食べていいと言っておきながら、後からお金を請求
するって詐欺だ。犯罪に負けちゃいけない。
﹁そんなの分かっているさ。嬢ちゃんがここにあるものすべてを知
っていたら、それこそ何者だって話だからね。それでも知っている
範囲で協力して欲しいんだよね﹂
協力とか言ってるけど、どうせ強制なくせに。
この魔族、口調は柔らかめだけれど、私たちを逃がすつもりはな
いというのが節々に感じられる。というのも入口から通り場所に座
らせ、自分は入り口に背を向ける形で座っているのだ。子供の足な
ら逃げられるはずもないのに、万が一逃げようとした時のためを考
えて座ったとしか思えない。用意周到さに本気で腹が立つ。⋮⋮禿
げてしまえ。
﹁見返りは?﹂
でも実際これ以上関わったりしたくないので、悪態は飲み込む。
49
必要最低限で取引を終えて、早く店を出よう。
﹁クッキーもらったよ?﹂
﹁それは電池の事を教えたぶん。音を鳴らして店に迷惑をかけた分
は、音の止め方と使い道を言った事でチャラ。今は対等﹂
少々強引だが、それぐらい強気で言わないと、どんどん請求され
てとんでもない事になってしまう。立ち位置が上であればなおいい
が、そうでなくても下になってはいけない。
﹁面白い混ぜモノだな。よし教えてくれた情報によっては、何か商
品をやろう。モノによってはやれないが﹂
﹁くれるモノに得に欲しいものがない場合は?﹂
﹁何か欲しくて来たんだろ。それ次第だ。やれないというのは、す
でに買い手が付いているものと、使い方が分かっている、高額の取
引ものの事だ﹂
つまり使い方が分かってさえいれば、高額取引アイテムになると
いう事だろうか。後は今のところガラクタ。好きにしていいという
事だろう。
﹁さっきのブザー﹂
﹁あれが欲しいのか?﹂
アレでも良いにはいいんだけど。私は首を横に振った。
﹁アレじゃなくてもいい。アレと同じ世界から来たものが欲しい﹂
あのアイテムが唯一私の前世を肯定してくれるものだ。誰にも話
せない事だからこそ、肯定してくれるものは欲しかった。自分の気
がくるってるんじゃないかなんて、考えずにすむ。
﹁つまり嬢ちゃんの母ちゃんは、その道具がある世界の事を嬢ちゃ
んに教えたというわけか﹂
魔族の言葉に私はコクリと頷いた。
きっと私が欲しがっている理由が形見がわりとか、そんな風に勘
違いしてくれるだろう。
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﹁分かった。3つ使い方を教えてくれたら、その中の1つをやるよ﹂
マジで?!
猫男、いい人だな。
たったそれだけでくれるなんて、太っ腹じゃないだろうか。やっ
ぱり形見攻撃が効いたのだろうか。目が潤んでいる気がするし。
﹁教える3つにはそのブザーは含まない。店主、そういう事だよな﹂
﹁ああ、それはもちろん﹂
﹁⋮⋮分かってる﹂
そして魔族の男は優しくない。
自分だって、そこまでセコク考えてないから。大げさに取引なん
て言ったけど情報の元手はタダなんだし。問題はどうやって日本の
ものを探し出すかだ。この店内広くはないが狭くもない。地道に探
すと日が暮れる気がする。
﹁じゃあそれっぽいのを持て来るから、そこで座って、くつろいで
いてくれ。なんならジュースもってくるぞ﹂
﹁へ?﹂
﹁今自分で、どうやって探そうって思っていただろ。いまどきの異
界屋は、ネジとか文字とかで、ある程度は世界ごとに分類されてい
るんだよ﹂
マジか。
いや確かに。驚いたが、すぐに納得する。
ただ収集するだけでは、異界屋では偽物が多発してしまう。何か
分からなければ異界のものなんてアバウトな取引ではギャンブル過
ぎる。となれば何か見分ける方法が必要だ。そしてそういう技能が
あれば、世界ごとの分類とかもしているだろう。
﹁ふーん。そういえば、なんでいせかいのだってわかるわけ?﹂
﹁世界の壁を越えたものは、一定の種類の魔力を帯びるんだ。それ
を魔術師が見分ける。人為的にはその種類の魔力を帯びさせるのは
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難しいからね。パチモンもでない寸法さ﹂
なるほど。
魔術師にはそういった仕事もあるのか。てっきり、RPGよろし
く、魔物でも退治したり、王宮で仕えたりしてるのかと思っていた。
﹁あんたは、まじゅつしなのか?﹂
﹁あんたじゃなくて、お兄さんね。そうだよ。異世界のものは新し
い技術が多いからね。色々研究させてもらっている﹂
この魔族の職業は魔術師か。しかも研究という事はそれなりの所
に勤めているんじゃないだろうか。
﹁そういや嬢ちゃんはお母さん亡くなったんだよね。お父さんは?﹂
﹁⋮⋮知らない﹂
そういうと、魔族は口の端を上げた。その表情で背筋がぞくりと
する。何今の質問?意図が読めなくて怖いんだけど。
私は魔族から目をそらしすと、店内へ目を向けた。それにしても
これだけ色々と異世界から流れ着くって、この世界は一体どういう
作りになっているのだろう。
﹁待たせたな。ちょっと見てくれ﹂
段ボールいっぱい持ってきた猫男は、机の上に3分の1ほど取り
出した。
腕時計、コンタクトケース、ドライヤー⋮⋮分からないのもちら
ほらあるけれど、これならば大丈夫そうだ。ただここからが問題で
ある。私がこんなにいろいろ知っていると暴露するのはヤバいんじ
ゃないだろうか。
ならば適当に3つ選べばいいのだけれど、教えたところで使えな
いものでは意味がない気がする。それとも使えないという情報すら
彼らは欲しいのだろうか。今の段階では何が一番いいのかが私には
選べない。情報料としてもらう限り、それなりの事はしたいのだけ
ど。
52
﹁何だったら、手にとって見ても構わないぞ。どうだ、分かるのは
あるか?﹂
どうやら私が分からなくで道具とにらめっこしているのだと思っ
たらしい。
﹁⋮⋮おじさんはどれが知りたいの?﹂
﹁お兄さんね。もしかして、全部分かるのかい?﹂
その言葉に私は慌てて頭を振る。本当は結構な確率で分かってい
るけど、そんなこと言ったら危険な気がした。ガラクタが、情報次
第で高値段という事だし。
﹁重点的にそういうのを調べてみるだけ。それと聞いているのは魔
術師のお兄さんじゃなくて店主﹂
よく考えれば、何故アンタはいるんだ。自分と同じお客の立場な
のに。店主とは友達かなんかなのだろうか。⋮⋮分からない。
﹁ならこれなんか綺麗だが、何か分かるか?﹂
私は店主に指差された綺麗なものとやらを見た。キラキラした石
で飾られているそれは確かに綺麗にデコレーションされている。
手にとって、二つ折りのそれを開いてみた。画面は黒くなってい
るが、割れたりなどはしていないようだ。下のボタンも無事である。
でもなぁ。
裏を見てカバーを開けるとちゃんと電池が入っていたが、その下
のシールが赤く滲んでいる。
﹁これは携帯電話﹂
﹁けいたいでんわ?﹂
﹁そう、遠くの相手と話す為の道具で持ち運び可能なタイプ。だけ
どこれは水に濡れて壊れてる。キラキラしているのは、そいうシー
ルが貼って飾ってあるだけで、宝石ではないよ﹂
さっそく1個目から意味ないものを選んでくれてありがとうござ
53
います。胸が痛いです。電池のカバーを戻しながら目をそらす。き
っと見た目が派手だから目が行ってしまったんだろうけど、これな
ら自分で選べば良かった。
﹁へえ。そういう便利な道具があるんだ。テレパシーみたいなもの
?﹂
﹁あ、いや。特別な能力がなくても誰でも使える。ただし同じもの
がもう一台必要なのと、電波塔がない場所では使えない。でもカメ
ラ機能や音楽機能、ゲーム機能は使えると思う。後はこれもさっき
いの防犯ブザーと同じで電池が切れたら動かない﹂
私が心を痛める必要ないぐらい、魔族は全然残念そうではなかっ
た。むしろ楽しそうに私の話を聴いている。って、あんたじゃなく
て、得しなきゃいけないのは店主だから。
﹁誰でも使えるっていうのがいいねぇ。カメラとか、ゲームってい
う機能も気になるなぁ。店主、他に同じやつはない?﹂
﹁これと同じのは入ってきてないな﹂
同じというのは何を見て同じとするのか少し気になった。
同じをデコってある所で判断されてたらないかもしれない。案外
段ボールの中には一個くらい混じっていそうな気がするが、言わな
いでおいた。携帯電話の使い方では、1個教えるだけでも凄く時間
がかかってしまい割に合わない。
私は机に投げ出されたもの見て、次は自分で選んだほうがいいか
もなぁとこっそりため息をついた。
54
2−3話
さてと。私自身で選んだほうがまだましと分かったならさっさと
選んでしまおう。
そうは思ったが、優柔不断な自分は中々選ぶ事が出来ない。色々
考えた上で私は一つのペンを選びだした。ペン類ならば、なんとか
使えるのではないだろうか。お土産系と思しきそれは、シャーペン
かボールペンだろう。カチリと押すと先っぽがでてきた。どうやら
シャーペンだと分かると私は数度押す。しかし芯は出てこない。
﹁オクト、それなに?﹂
﹁シャープペンシル。文字を書く道具だけど⋮⋮﹂
とりあえずふたを外して逆さを向ければ中から芯が2本出てきた。
良かった。これで芯がなかったら、またも使えないものを教えてし
まうところだった。1本を中に戻すと、もう一本を先から入れる。
多分短い芯が残ってしまっているのだろう。最初は抵抗があった
が、しばらくするとすんなりと中に入った。私はふたをはずすと、
折れた芯だけ取り出す。
﹁これで大丈夫。これは紙に字を書く道具。中に入っている芯がな
くなると、使えなくなる﹂
﹁芯って、これの事か?﹂
猫男が折れた芯を拾い上げた。
﹁うん。でもある程度の長さがないと使えない﹂
﹁この物質は何でできているの?﹂
﹁炭素と呼ばれるもの。鉱物の一種。作り方は知らない﹂
魔族も興味津津で芯を見つめていたので、私は手に持っていたシ
ャーペンを差し出した。実際に書いてもらった方が分かりやすいだ
ろう。
55
﹁上を押すと芯がでる仕組み。芯さえあれば、紙に文字が書ける。
だけど出し過ぎると折れるから﹂
魔族はカチカチカチと興味深げに押している。そしてポトンと全
部出してしまった所で、ふたを開け再び中に芯をしまった。
﹁これだけ細いものだと、ドワーフ族やエルフ族でも作るのは難し
そうだね﹂
エルフは自分にも血のつながりがあるので多少は知っているが、
ドワーフとはどんな人たちなのだろう。例として上げるという事は
手先が器用な種族のだろうか。
﹁なあなあ。そいつらって、どんなやつ?﹂
私が首をかしげていると、先にクロが聞いてくれた。
﹁ああ。ドワーフは鉱物の扱いが得意な奴らで、地中に住んでるん
だよ。エルフ族は頭がいいから作り方を知っているかもしれないん
だ。手先がいちばん器用なのは人族だけど、手先が器用だけじゃ無
理だし。それに本体の方も単純そうでかなり技術が高い⋮⋮この穴
とかどうやって開けるんだろ?﹂
シャーペン片手に魔族は唸った。まるで匠の技を見たかのような
感じだけど、日本では当たり前の商品だ。しかも量産系。それだけ
文化が違うのだろうけど、ちょっと騙している感じで申し訳ない。
とにかくあと一つだ。良心の呵責に苛まれる前に、さっさと終わ
らせようと見渡した。どれが手ごろだろうと悩んていると、魔族が
私の目の前に拾い上げたものを差し出した。
﹁では最後に、この造形は何か教えてもらえないかな?﹂
彼が手に持っているのは、車のプラモデルだった。教えてもいい
が、ちらりと猫男を見る。私が教えている相手はあくまでも猫男で
あって、この魔族ではない。
﹁いいの?﹂
﹁ああ。先生にはいつも無理を聞いてもらってるしな。もし知って
56
いたら、教えてくれないか?﹂
﹁⋮⋮それは車の形をした置物。車は馬車と同じ役割をするけれど、
馬は使わずに走る乗り物の事。本来は人が乗れるぐらいの大きさを
している﹂
猫男がそれで良いというならと、私は車について話した。たぶん
プラモデルについてではなく、車について話した方が、魔族には有
益な気がする。
﹁馬がないのにどうして走るんだい?﹂
﹁エンジンというものがあって、それがタイヤを回しているから。
エンジンを回す燃料はガソリン⋮⋮と聞いた事があるだけで、私も
詳しくは知らない﹂
残念な事にシャーペン同様使い方を知っているだけで、私の記憶
には作り方などの知識は入っていなかった。たぶんそれを知らなく
ても困らない人生だったのだろう。
﹁なるほど。車ねぇ。それが馬車の代わりに使われているという事
か。わざわざそんなものを作るという事は、その世界には馬はいな
いのかい?﹂
﹁⋮⋮たぶん馬よりも効率がいいからだと思う。走る分だけのガソ
リンはいるけれど、毎日の餌はいらない。それと糞などの処分にも
困らないから⋮⋮ってママが言っていた﹂
何処まで話してもいいものか。
あまり向こうの世界の事を話すと、いらない厄介事が増える気が
してならない。どうしてそこまで知っているのかと聞かれても困る。
だが魔族は特にその事に大して聞いてくる事はなかった。ただぶ
つぶつとつぶやきながら車のおもちゃをこねくり回す。
少し自意識過剰すぎたかもしれない。その事実にホッと胸をなで
おろす。とにかくこれで終わりだ。
﹁これで3つ﹂
私は猫男の顔を見た。
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約束はここまでだ。さてどう出るかと、ドキドキしながら相手の
反応を待つ。自分は混ぜモノで、なおかつ子供なのだから、情報料
を踏み倒されたとしても仕方がないくらいは思っている。とにかく
無事に一座に戻りたかった。
﹁分かった。約束だからな、好きなのを選べ﹂
猫男はにやりと犬歯を出して笑った。ごねるつもりはないらしい。
⋮⋮本当にこの猫男いい奴だな。
私は内心びっくりしつつ、机に目を落とした。あまり大きなもの
だと目立つので、貰ったはいいが、他の団員にとりあげられると予
想できる。
﹁なら携帯電話がいい﹂
悩んだ末、私は最初のそれを選んだ。
もう壊れてしまって使えないと分かっていても、一番懐かしいと
感じたのだ。きっと前世では携帯電話を持ち歩いていたのだろう。
﹁確か壊れているんじゃなかったか?﹂
﹁うん。でもこれがいい﹂
﹁なら持っていきな﹂
使えなくても、あるというだけで十分だ。それだけで、自分は空
っぽではないと分かって少しだけ救われる。
私は携帯電話を大切な宝物のようにそっと拾い上げるとポケット
にしまった。
﹁じゃ、オクト。いこうぜ﹂
私は頷くとクロの手を握り椅子から立ち上がた。それと一緒に魔
族も立ちあがる。そして彼は入口へ進んだ。
もしやついてくる気かと睨むと、入口のドアのところで立ち止ま
った。
﹁どうぞ、小さな賢者様﹂
にっこりと笑って魔族は扉を開けたまま支えていた。どうやら見
送りをしてくれるらしい。
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行動は善意の塊なのに、何か企んでいるように思えてならないの
は、私の考え過ぎだろうか。是非とも、そうであって欲しい。自意
識過剰、万歳。
私は魔族を睨みながら、入口を潜る。
﹁またね﹂
﹃また﹄なんてもうないから。
ニコニコと赤い目を細めて手を振る魔族から私は顔をそむけた。
クロは律義に手を振っているが、とてもそんな気分にはなれない。
異界屋が見えないぐらい離れた場所でようやく私は肩の力を抜く
事が出来た。振り向くが、誰かが後をつけている様子もない。
﹁⋮⋮疲れた﹂
﹁じゃあ、テントにもどろう?﹂
クロの言葉にコクリと頷く。
﹁でも、いいの?﹂
クロは行きたいところはなかったのだろうか。どう考えても私の
用事につき合って貰っただけだ。
﹁オレはオクトとあそべればそれでいいんだ﹂
何て優しいんだろう。
私のササクレた心が一気に癒された気がする。子供って何て可愛
いんだろう。自分も子供だけど、この純粋さは前世に捨ててきてし
まっている。
﹁ありがとう﹂
私は上手く言葉だけでは伝えきれない気持ちを伝えたくてとギュ
ッとクロの手を強く握った。 59
3−1話 理不尽な選択
﹁あれ?母さんいないね﹂
テントに戻ったが、アルファさんの姿はそこにはなかった。ただ
さっきまで居たらしく、飲みかけのコーヒーが置きっぱなしだ。そ
の隣には新聞が開いてある。
﹁トイレかな?ま、いいや。よごれるまえにきがえよ﹂
クロの言う通りだと私も元の服に着替える。ゴアゴアとした麻の
服に着替えると、なんとなくほっとした。やっぱり舞台衣装は肩が
こる。
携帯電話を衣装のポケットから取り出すと、忘れないうちに自分
用の鞄に入れた。私の荷物はこの小さなカバンに詰まったものだけ
だ。基本的に服は着まわしというか、団員のお古がまわってくるし、
ママもあまり荷物をもつ方ではなかったので鞄一つで事足りている。
服をたたみ衣装ケースに戻した私たちは地べたに座った。
仕事が全くないというのはあまりないので、こういう時何をすれ
ばいいのか分からない。困ったすえ私は机の上にあった新聞を手に
取った。
﹁クロ。何が書いてあるか分かる?﹂
新聞は龍玉語で書かれているのは分かるが、縦書きか横書きかさ
え分からない。一応イラストを入れてくれているがそのイラストに
すら文字が入っており、さっぱりだ。
﹁⋮⋮んーと、えーっと⋮⋮んんんん﹂
﹁ごめん。そんなに読みたいわけじゃないから﹂
新聞とにらめっこをして唸るクロに、私はすぐさま謝った。どう
やらクロにとって新聞はまだ難易度が高いようだ。確かに6歳で新
60
聞がすらすら読めたらかなり凄いだろう。
﹁えっと。ならクロって、どう書くの?﹂
﹁それならわかる。ちょっと待ってって﹂
そう言ってごそごそと道具箱をあさったクロは、羽ペンと紙を取
り出した。そこに大きく文字を書くと私に渡してくれた。
﹁ク・ロー・ド。これがりゅうぎょくごで、こっちがホンニこくご。
オレはホンニこくうまれだから母さんがおしえてくれたんだ﹂
﹁えっ。クロ︱ド?﹂
アルファさんをはじめ、皆クロクロ言っていたので、てっきりク
ロが名前だと思っていた。そうか、愛称だったのか。新たな事実だ。
﹁なまえをかくときは、くろーどってかけって、母さんいってたん
だ。で、ひとまえでは、クロってなのれってさ。だれにもいっちゃ
いけないっていってたけど、オクトはとくべつな﹂
それって⋮⋮本当に愛称?
特別は嬉しいが、ちょっと荷が重い気がするのは気のせいだろう
か。とりあえずクロがくれた紙をどうするべきかと迷う。
﹁えっと⋮⋮﹂
﹁それやるな。オレのサインはきっとしょうらいたかくうれるから﹂
返そうと差し出したが、断られてしまった。どうしよう。
悩んだ末、とりあえず後でアルファさんに相談する事にした。も
しかしたら考え過ぎかもしれない。ドキドキしながら、私はクロの
サインをカバンの中にしまった。これも携帯電話と同様見つからな
いように奥の方に入れる。
﹁あら、もう帰ってたの?早かったじゃない﹂
﹁母さんただいま﹂
突然声をかけられて、私は慌ててサインから手を離した。
﹁クロ、オクト、おかえりなさい﹂
61
﹁ただいま﹂
サインの事を早く伝えてしまいたかったが、挨拶をしないとアル
ファさんが怖いので、先にちゃんと挨拶をする。
﹁ちょうどよかったわ。2人に大切な話があるからちょっと聞いて
くれる﹂
いざ名前の事を話そうとすると、先にアルファさんが話し始めて
しまった。大切な話とは何だろう。この旅芸人一座の事だろうか。
話の腰を折るのもアレだし、名前の事ならばいつでも聞けるので、
私はコクリと頷いた。
﹁たいせつなはなしってなに?﹂
アルファさんは私たちと同様に地面に座ると、黒い瞳でまっすぐ
私とクロを見た。
﹁この町での公演が終わったら、この一座を抜けるわ﹂
⋮⋮へ?
思ってもみない言葉に私は目を見開いた。稼ぎ頭のアルファさん
が抜ける?
﹁団長にも許可はとれているから、明後日の公演が最後ね﹂
何の話をされているのか理解できずに私はアルファさんをただ見
つめた。今は凄く安定しているはずなのに何故?しかも団長が許可
したって。
どんな風に話したのかは分からないが、この話は希望ではなく決
定事項という事だというのは分かった。
﹁母さん!じゃあオクトはどうするんだよ﹂
﹁それでね、オクト。もし良かったら、私たちについてこない?﹂
﹁えっ、オクトもいっしょ?﹂
﹁ええ。ただし、オクトが承諾してくれたらだけど﹂
﹁もちろん、くるよな!﹂
クロがニコニコと私に笑いかけてくる。
62
でも私はどう答えていいのか分からなかった。一緒のテントに入
れて貰っているが、私とアルファさんは赤の他人だ。
﹁⋮⋮どうして?﹂
﹁それはどうして抜けるかってこと?それともどうして一緒にこな
いかと誘っているのかっていう意味?﹂
﹁どちらも﹂
いきなりすぎて、私は混乱していた。
何が最善なのか理解するだけの情報と時間が欲しかった。ここで
アルファさんの話を承諾しついて行くのが一番簡単で楽だと分かっ
ている。でも本当にそれでいいのだろうか。
﹁まずなんで出ていくことを決めたのか。それはこの一座が次はホ
ンニ国へ行くことが決まったからよ。でもね、この新聞にホンニ国
の王様が殺された事が書かれてたの。次に控えているのはその弟。
きっとしばらく荒れるわ。そんな危険な場所に行きたいわけがない
でしょ﹂
﹁⋮⋮詳しい﹂
﹁ええ。一応腐っても生まれ故郷だから、チェックは欠かさないよ
うにしているの﹂
いやいや。生まれ故郷は腐りません。そんなどうでもいいツッコ
ミが心をよぎるのは、たぶんまだ頭がちゃんと働いていないからだ
ろう。
﹁団長にそれだけ危険だと伝えれば−−﹂
﹁団長の考えでは、弟が即位するから、国中がお祭りになるだろう
という予想よ。だから祭り会場で公演をさせて貰おうって思ってい
るの。それも確かに一理あると認めるわ。私の意見と団長の意見が
あれば、団長の意見が優先されるのは当然。でも私は行きたくない。
だから抜けるの﹂
アルファさんの話は筋が通っているような気がする。でもどこか
おかしい気もした。
63
何故荒れるとと思うのだろう。兄が殺されたのは、弟が関係して
いるのだろうか。だとしたら兄弟の仲が悪のはホンニ国では公然の
秘密だったりするとか?⋮⋮分からない。
﹁それと、何でオクトを引き取りたいかだったわね。それはオクト
が親友の娘だからよ。ここで一人で生活をするのは大変だわ。オク
トは一人で生きるにはまだ幼すぎると思うの﹂
アルファさんの言い分は正しい。はたしてアルファさん達が居な
くなった後、私はここでやっていけるだろうか。残念な事に私は、
まだ買いだしもまともにできない年齢なのだ。
特技も歌うだけで、混ぜモノである物珍しさぐらいしか売りがな
い。そして混ぜモノである事は、いい面と悪い面を両方兼ね備えて
いて、どちらかと言えば後者寄りだ。
﹁ただ一緒に来てもここよりもいい生活はできないわ。むしろ悪く
なる可能性が大きいわね。だけど貴方にはまだ保護者がいると思う
の。そして私はそれになれるわ﹂
赤の他人である自分に、そんな事を言って貰えるのがどれだけあ
りがたいことかは分かっている。
ただどう判断していいのかはやっぱり分からなかった。まだ働く
事の出来ない自分は、ついて行ったとしても、アルファさんに迷惑
をかける事しか出来ない。
﹁分かったわ。これはオクトにとって大切な事だものね。明後日ま
で、よく考えておいて﹂
何も返事する事ができない私に、アルファさんは考える猶予を与
えた。私は5歳児なのだから問答無用という事もできたはずだ。そ
れどころか、いい面しか話さない事だってできる。でもアルファさ
んは違った。私が考えられるように情報を与え、なおかつ返事を待
っていてくれる。それだけでも、何ていい人なんだろうと思う。
64
でもだからこそ私はどうしていいのか分からなかった。
65
3−2話
出ていくか、出ていかないか。付いていくか、付いていかないか。
悩んでいても日にちは経っていくもので、あっという間に公演の
日を迎えてしまった。公演は午前と午後の2回に分かれていて、朝
から大忙しである。その為今のところまだアルファさんと話せてい
ない。
会場のセッティングが終了したところで、私はパンと薄いスープ、
一かけらのチーズをようやく口に入れる事が出来た。この世界での
平民の食事は2回。朝食と夕食だ。ここに貴族や金持ち達は昼の軽
い軽食が入る。一座も例にもれず2回なのでこれを逃したら夜まで
空腹と対決をしなければならないのでありがたい。
﹁ほらほら、さっさと食べて仕事に行くんだよ﹂
他の団員と食事をしていると、副団長に急かされた。食事の後は、
外で客寄せの為に歌を歌う事になっている。といっても、知能の発
達が遅かった事もあって私はこの世界の歌を知らない。以前も母さ
んが鳴らす楽器に合わせて、ララララと適当に声を出すだけだった。
精霊族は産まれた時から歌を歌うそうで、私にもその血が混じって
いる。そのおかげで適当に出した声でも、ちゃんと歌として聞こえ
ていたようだ。今も音感は健在のようなので、ありがたい。
﹁オクト、いたっ!いっしょにきゃくよせしようぜ!﹂
スープを飲みほしたところで、クロが食堂に入ってきた。
﹁クロは食べた?﹂
﹁うん。母さんとすこしまえにな﹂
私は食器を返却場所へ持っていくと、クロの後についていった。
66
そして道具置き場に寄ってから、敷地の外へ出る。
テントの外ではすでに一座に所属している魔法使いが、雲を使っ
て今日の公演の告知をしていた。まばらだがお客は徐々に着始めて
いるようで賑やかな声がする。
﹁さすが、さいしゅう日だね。すごいちからはいってる﹂
﹁クロ、遊んでねぇでちゃんと客呼べよ﹂
﹁わかってるよ。おじさんもちゃんとしごとしなよ﹂
テントの周りでは、すでにグッズや食べ物の店が並んでいた。食
べ物は通常価格より少し割高となるが、ここで買った商品は公演中
に食べてもマナー違反とはならない為比較的売れる。また子供が好
きそうなものが置いてあるのも、親の財布のひもを緩める一因だろ
う。この販売も収益に大きく関係してくると前に団長に聞いた。
店がある場所から少し離れた場所でクロは立ち止まる。
﹁だんちょーがこのあたりりでがっきならして、きゃくをあんない
しろだって﹂
クロの手には、アコーティオンが抱えられていた。
私は︻グリム一座、会場はこちら︼と多分書かれている看板を掲
げる。矢印が入っているし、私とクロの服装は、舞台用なので文字
が読めなくても多分理解してもらえるだろう。
﹁オクトもてきとうにうたったりやすんだりしてればいいから﹂
クロはそういうとアコーディオンをならした。確か音楽もアルフ
ァさんに教えてもらったと聞いたとこがある。⋮⋮剣が出来て楽器
もできるって、アルファさん何者?
まあ今はそんな事考えても仕方がない。私も邪気の含まない笑顔
を浮かべた。混ぜモノではあるが、見目は良いいと思う。無表情さ
らしているよりは、いいは︱︱。
﹁オクトかわいいっ!!﹂
67
﹁ふひゃっ?!﹂
クロがアコーデオンごと私にタックルしてきた。腕に当たって地
味に痛い。
﹁クロ?﹂
﹁かわいい。マジかわいい!!おっし、やるきでた!!だんちょー
に、オレらのじつりょくみせつけるぞ!!﹂
⋮⋮まあ、やる気が出たならいいか。
腕をさすりながら、私は落としてしまった看板を拾いもう一度掲
げる。その隣で、クロがアコーディオンを鳴らした。その音楽はと
ても子供が鳴らしているとは思えないほど流暢だ。
音楽に合わして私も、ラだけで声を出す。
しばらくはそうしていたが、ふと気がつくと、クロの音楽が聞き
覚えがあるものになってきた。ん?っとクロを見ればニッと私に笑
いかける。
﹁このあいだ、オクトがうたってたきょく。だいたいあってるだろ﹂
﹁大体っていうか⋮⋮﹂
ほぼ完璧だ。
嘘、アレは1回しか歌ってないよ?これ、アルファさんが凄いん
じゃなくて、クロが凄いんじゃない?そんな簡単に耳コピできるな
んて信じられない。
﹁クロ、凄い﹂
﹁お兄ちゃん、だからな﹂
えっへんと胸をそらすが、世の中のお兄ちゃんはそんなハイスペ
ックではないと思う。
ただ懐かしい音楽を聞いていると、もっと聞いてみたくなった。
それも私が多分一番知っていると思われる、アニソンやボーカロイ
ドの歌を。
どうしよう。聞けるって分かったら、無性に聞きたい。ビラくば
りの時も、イメージ壊れそうだから歌えなかったけど、でも聞きた
68
い。たぶん前世の私はそんな曲ばかり聞いていたのだろう。
﹁クロ⋮⋮﹂
﹁なに?オクト?﹂
キラキラ純粋なまなざしが苦しい。でも自分の中に産まれた渇望
は消せない。汚れた人間でごめんなさい。でも聞きたいんです。ニ
コニコしたいんです。
﹁今から歌う歌、それで演奏してくれる?﹂
﹁いいよー﹂
返事が軽い。
多分クロにとってはそれほど難しいものではないのだろう。せめ
てあまりにも場違いな歌にはならないように気をつけようと心に決
める。
そして私はドキドキとしながら口を開いた。
﹁ららら、らららぁ。ららら、らららぁ∼﹂
私が始めに選択したのはボーカロイドの曲でも無難に感動できる
歌だ。某金髪双子の歌である。今の私なら高音も楽々とでるのであ
りがたい。
間奏部分の音楽もラの音で表現する。前世の人物はどれだけこの
音楽を聞いたのか知らないが、完璧に丸暗記していた。そして今の
能力なら、音感はもとより、高い音も完璧に出す事ができる。精霊
族の血よありがとう。私は生れて初めて自分のご先祖様に感謝した。
ママありがとう。
歌い終わったところで、クロを見た。期待のまなざしを止められ
ない。パチパチパチとクロは拍手すると、今歌った歌を弾き始めた。
多少違うかもしれないが、ほぼ記憶のそれと同じ音に私は感動す
る。
すごいすごい。嘘みたい。
そこから私の中でたかが外れてしまったようだ。興奮が冷めやら
69
ぬ前にクロの音楽に合わせて私はもう一度熱唱する。そしてさらに
次の歌をクロに強請った。私がアカペラで熱唱し、その後クロのア
コーディオンに合わせてもう一度熱唱する。それを飽きることもな
く何度も繰り返した。
気がつくと、まわりに人だかりができてしまうほど楽しんでしま
った。
⋮⋮オタクの記憶って怖い。
﹁いこくのうたもきける、グリムいちざ!ほんじつさいしゅうこう
えん。かいじょうはあちらだよ!!﹂
クロが慌てて周りのお客を案内したところで、一度歌を休憩した。
想像以上にハイテンションになってしまった自分に反省する。次
は気をつけよう。
﹁ねえ、それも異世界の歌?﹂
顔を上げると、キャベツ色の髪がが目に飛び込む。緑の髪の人は
この国に多いが、珍しいほどの鮮やかさなそれは、数日前の記憶を
揺さぶった。
何故、あの時の子供がいるんだろう。
﹁僕もチラシを貰ったからね。本当に今日で終わりなんだ。残念だ
なぁ﹂
顔に出てしまったらしい。にこりと笑いながら少年は私にビラを
みせる。
﹁君も舞台に出るの?﹂
その言葉に、私は首を横に振った。最終公演は、花形の人たちが
全員出るので、私が舞台に立つタイミングはない。私が出る時は、
誰かが休みをとったりする時の代役と決まっている。
﹁そっか。残念。なら見る必要はないな﹂
少年はチラシをびりびりと破ると捨てた。何をされたか咄嗟に理
70
解できなくて、風に乗って飛んでいく紙を見つめる。
﹁僕は君の歌の方が聞きたかったんだけどね﹂
﹁⋮⋮私なんかより、皆の方が凄い﹂
わざと怒らせようとしているのだろうか。
何が目的か分からないが、私はとりあえず思っている事実をでき
るだけ平然と伝える。私の歌は所詮、精霊の恩恵と前世の記憶の恩
恵であり、切磋琢磨している彼らと並び立つものではない。
﹁何だ。喋れたんだ。残念。本当に喋る事の出来ないドールちゃん
だったら連れ去ろうと思ったけど。ほら絵本だったら、悪い人に囚
われたお姫様を王子様が助けるものでしょ?﹂
⋮⋮コイツ、何言ってるんだ?
私は少年の言葉にドン引きする。王子様って何?
﹁でもこの場合は僕が悪人になるかな。それは困るなぁ。仕方ない
か。じゃあまたね、ドールちゃん。悪い人に攫われないようにね﹂
問答無用で攫わないだけの常識はあるらしい。もしかしたら攫う
とかは彼なりのジョークだったのかもしれない。笑えないけれど。
キャベツ色の髪の少年は、手を振るとテントとは反対方向に歩い
て行った。本当に公演を見る気はないようだ。
﹁オクト!きゅうけいにはいっていいってさー﹂
少し離れた場所でクロが手招きする。私もこれ以上変な人に絡ま
れたくないので、クロの方へ足早に近づいた。
﹁クロ⋮⋮さっきはごめん﹂
﹁なにが?﹂
﹁歌いすぎたから﹂
クロもきっと耳コピばかりさせられて疲れたはずだ。しかしクロ
はにこりと笑うと、私の頭を撫ぜる。
﹁オレはお兄ちゃんだからだいじょうぶ。それにオクトがたのしい
と、オレもたのしいから。あとでまたやろう?﹂
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その言葉は胸が痛くなるぐらい嬉しくて、私は何も言えなかった。
それでも感謝を伝えたくて、ギュッとクロの手を握る。そしてでき
る事なら、この先もずっと彼の手を握っていられればいいのにと、
私はそう願った。
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3−3話
最後の公演も無事終了し、私は片づけを手伝っていた。力仕事は
できないので、もっぱら道具を磨いたり保全をする。今もフラフー
プの数を数えている最中だった。
﹁オクト、ちょっといいかい?﹂
アルファさんに声をかけられ、私は立ち上がった。ドキドキと心
臓が打つが、もう答えは決まっている。私は道具置き場から外へ出
た。
空には満天の星が広がっている。この星が消えたら、アルファさ
んとクロはここから立ち去るのだ。そしてこの一座もこの町から出
ていく。
﹁この間の、答えをそろそろ聞きたくて−−﹂
﹁おい。アルファと混ぜモノ、団長に呼ばれてるぞっ!!﹂
アルファの声をさえぎるように、遠くから他の団員が大声が聞こ
えた。
﹁こっちは、今大事な話をしてんだよ﹂
﹁団長が至急って言ってるんだってっ!!頼むよっ!!﹂
﹁まったくもう。あいつは本当に自分勝手なんだから。オクト、悪
いけれど話は後にしよう﹂
どうせいつ返事をしようとも意思が変わる事はない。私はこくり
と頷いた。
アルファさんに手を引かれ団員の元へ行く。
﹁それで、肝心の団長は何処にいるんだい?﹂
﹁団長室だよ。何か上客が来てるんだ。公演依頼かな﹂
﹁何で公演依頼で私たちが呼ばれるのさ﹂
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そういえばと団員も笑った。
しかし団員は上品な人でさと楽しげに説明続ける。私の頭の中に
は、キャベツ頭⋮⋮じゃなくて、キャベツ色の髪の少年が思い浮か
んだ。彼は私の歌が聞きたいと言っていたので、私が呼び出される
といったらそれぐらいだ。ただし彼は上品かもしれないが、公演依
頼するような年齢には見えない。となればきっと誰か知り合いに頼
んだのだろう。
アルファさんが私を引き取りたいと言ってくれている事はきっと
団長も知っている。だからアルファさんと私の2人を呼んでいるの
だろう。
﹁分かった、分かったから。ほら、オクト、行くよ﹂
アルファさんは団員の賛辞を片手で止めると団長がいるテントの
方へ足を向けた。他の団員もまるで王族や貴族が来たかのような騒
ぎっぷりだ。
﹁失礼します﹂
﹁失礼します﹂
アルファさんがテントの扉を開いたので、私も慌てて頭を下げる。
本当に貴族ならば、公演を受ける受けないに関わらず、粗相をする
わけにはいかない。もし何かをしでかしたら、二度とこの国へは来
れないと前に団長からきいた。
﹁やっと来たか。アルファ、オクト、入れ﹂
団長と向かい合う様に、黒髪の男が中央で腰かけていた。マント
を羽織っており服は見えないが、その止め具は多分大粒の宝石だろ
う。団員達が騒ぐのもなんとなく分かった。
もし本当に貴族からの依頼で公演をするならば、一座に箔がつく
し、給金もかなり貰えることだろう。
﹁用事はなんですか?まだ片づけの途中なので忙しいのですが﹂
片づけは確かに途中だけど、一流の芸人であるアルファさんはそ
んなこと気にする必要ない。多分、客がいるから言葉のあやだろう。
74
﹁ああ。まあ用事はと言うのは、アルファというよりも、オクトに
だな。オクトこっちへこい﹂
団長に手招きされて、私はアルファさんを見上げた。アルファさ
んも仕方がないと肩をすくめると、私の手を放す。行って来いとい
う事だろう。
団長はアルファさんよりもさらに大きいので、近づくと顔を見る
のが困難だ。多分二メートルぐらいあるんじゃないだろうか。首が
痛い。
﹁オクト。こちらは、王宮の魔術師である、アスタリスク様だ。お
前を引き取りたいと申し出て下さっている﹂
﹁やあ、小さな賢者様。またあったね﹂
そこにいたのは、異界屋にいた魔族だった。私を見下ろす紅い目
は楽しげだ。だが私は楽しむ余裕もない。今団長は何て言った?
引き取りたいって、えっ?!どういう事?
﹁ちょっと、待って下さい。オクトは私が引き取る事なったはずで
す﹂
混乱して何も言えない私より先に、アルファさんが抗議した。ま
だアルファさんには何も言っていないが間違ってはいない。申し訳
ないけれど、アルファさんの好意に甘えようと私は決めていた。
﹁そもそも、お前には引き取れないだろ。混ぜモノがいたら、宿も
まともに使えないんだぞ。お前ら自身どこかに定住する気はないく
せに。毎日野宿でもするつもりか?﹂
えっ。
私は団長の言葉に耳を疑った。混ぜモノは宿が使えない?なんで
?そんなの初耳だ。
﹁混ぜモノはね、いつ何が起きるのか分からないからね。だから宿
などはよっぽどランクが上な、保険に入っているような場所でない
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と使わせてもらえないんだよ﹂
知識不足で困惑している私へ、アスタリスクが説明する。
﹁そしてそんなホテルを使えるのはまず、貴族ぐらいだろうね﹂
つまり私やアルファさんでは到底無理だという事か。嫌な現実と
いうか、混ぜモノの人権のなさっぷりが酷い。混ぜモノって、本当
に嫌われているだと、しみじみ実感した。
﹁それは、私がなんとか−−﹂
﹁なんとかって、何だ。オクトに顔を隠させて生きて行かせるつも
りか?そんな事ノエルが願っていたとでも思うのか?﹂
アルファさんは団長の言葉に、唇をかみしめる。
ママの願いなんて、きっと誰にも分からない。私自身は顔を隠し
て生きても、別にいいかとは思う。それだけ嫌われていて、その方
が楽に生きられるなら問題ない。
でも私の所為で、アルファさんやクロに迷惑がかかるのは嫌だ。
﹁それに俺も慈善事業でこの一座をしてるんじゃないんだ。もちろ
ん引き取り手がいないなら面倒をみるぐらいの情は持ち合わせてい
る。でもな、アスタリスク様はお前を引き取りたいとおっしゃられ
ているんだ。オクト分かるか?﹂
その言葉は嫌というほど分かった。
私だけではこの一座ではやっていけない。力仕事も出来なければ、
何か凄い見世物になる特技があるわけでもない。クロがいなければ
ビラ1枚配れない。ここでも私は足を引っ張るだけなのだ。
﹁⋮⋮アスタリスク様の家に行く﹂
﹁オクト?!﹂
私はアルファさんの顔を見ないようにアスタリスクだけを視界に
入れる。今アルファさんを見たら流石に心が折れそうだ。
悠然と笑う、アスタリスクはまるで悪魔のように見えた。彼が欲
しがっているのはきっと私の前世の記憶だ。アルファさんのように
私を思っての事では断じてないだろう。ただ理由がしっかりしてい
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る分安全だ。そして彼は私を引き取っても問題ないほどの金を持っ
ている。
﹁よろしくお願いします﹂
産まれはどうしようもない。こんなの、とても理不尽な選択だ。
⋮⋮自分が何も分からないただの5歳児だったら良かったのにと思
った。
それでも、そうはなれないので、私は悪魔へ静かに頭を垂れた。
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4−1話 不安な新生活
ドサドサドサ。
何かが崩れる音と、痛みで目が覚めた。目を開けるがどうやら生
き埋め状態になっているいるようで目の前が暗い。そして重い。
窒息死も圧死も避けたい私は、それを必死にかき分け体を起こし
た。
﹁汚いにも限度がある﹂
這い出した先は本、本、本。本の山だ。本棚も部屋の端いくつか
にあるが、その中はすでにいっぱいな為、床に積んでいるようだ。
付け加えるなら飛び石のような足場しかない部屋は決して狭いとい
うわけではない。本の量が部屋の収納量とあっていないだけだ。
命の危機になるほどの本って⋮⋮。
ため息をついて、上を見上げた。そこには壁紙が貼られた天井が
ある。⋮⋮こんな場所で寝るのは初めてだ。私の頭の上はいつも布
製のテントか、満天の星だった為、何だか変な気分になる。
アスタリスクは私を引き取りに来たその日のうちに、この屋敷へ
連れてきた。転移魔法というものを使ったらしく、私自身は今どこ
にいるのかも分からない。ただ宮廷魔術師の宿舎だとだけ説明され
ている。家に帰るのが面倒なので、もっぱらここで生活しているそ
うだ。
宿舎ならもう少し綺麗に使えよと思うが、私が口にする前に魔術
師は皆似たり寄ったりの部屋だと言われてしまった。嘘をつけ。
玄関先から全てが本で埋め尽くされているなんてありえないと思
う。人間の生活する場ではないと声高々に言いたいが、引き取って
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もらった身としては雨風しのげるだけででも満足しなければいけな
いだろう。昨日は寝られる場所として、ソファーを発掘したところ
で、睡魔に負けた。おかげで今朝死にかけたわけだが。
﹁⋮⋮起きよう﹂
疲れから考えると少し寝足りないが、一座ならこれぐらいの睡眠
で働くのが当たり前だった。寝過ぎると逆に体の調子がおかしくな
るだろう。
本を踏まないように気をつけながら部屋の外へ出る。すでにドア
を閉める事は諦めているようで、開けっぱなしになっていた。
隣の部屋にはキッチンスペースがあったが、さっきまでの部屋と
似通った状態で、本で埋まっている。あの男、今までどうやって生
活していたのだろう。昨日見せてもらった他の部屋も、バスルーム
を含め、全て本に埋まっていた。家主に許してもらえるなら、その
辺りから最低限の生活スペースを作らせてもらおう。
﹁⋮⋮一体アイツは何を考えてるんだ?﹂
この宿舎の事もそうだが、アスタリスクは私に何をしろとか、何
故引き取ったとか、何も言わない。昨日は夜も遅かったから説明が
なかったのだろうけれど、その辺りの事をきっちり教えてくれなけ
れば、どうふるまっていいのか分からない。
大方前世の異世界知識が目的に違いない。立場としては使用人又
は奴隷として引き取られたと思うのが妥当な線だ。しかし宿舎の方
には私と同じ使用人の立場の人がいない為指示を貰う事も出来ない。
ただし家の方には使用人もいるらしいので、今日はそちらに行って
指導を受けるのだろうか。
﹁不安だ﹂
分からない事だらけで推測しても、結局無意味だと分かっている。
しかし何をしていいのか分からないというのは不安で、思考がぐる
ぐると廻る。
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とりあえずキッチンに何か食べ物があれば朝食ぐらいは用意して
おこう思ったのだが、甘かった。戸棚には固くなったパンと調味料
しか入っていない。⋮⋮本気でどうやって今まで生活していたのだ
ろう。
これで朝食作れと言ったら、アイツは魔族ではなく悪魔だ。
﹁オクト、おはよ﹂
﹁あっ、おはようございます。アスタリスク様﹂
探すのに夢中になっていて、背後から近付かれた事に気がつかな
かった私は慌てて頭を下げた。今までメイドなんて経験した事がな
いので、どうしたらいいのか分からないが、とにかく敬語は使った
方がいいだろう。
﹁ああ。俺、堅いの嫌いだから。アスタでいいよ。そんな所で何し
ているの?﹂
﹁⋮⋮朝食の準備をしようと思いました﹂
﹁とりあえず、頭上げてね。そんな堅くならなくていいから。それ
より、オクトって料理できるの?﹂
アスタに言われ私は顔を上げた。黒色のパジャマを着たアスタは、
とても宮廷魔術師とは思えないラフさだ。生地はいいものを使って
いるのだろうが、言葉も砕けているせいで一座の人とそんなに変わ
らないように見える。
いや駄目駄目。見た目に惑わされてはいけない。昨日だって大粒
の宝石が付いたマントを羽織っていたのだ。一般庶民と同じはずが
ない。これはきっと最初は優しくしておいて、何か粗相をしたらお
仕置きする作戦に違いない。私とアスタどちらが上か間違えないよ
うに。
﹁簡単なものでしたらできます。しかし申し訳ございません。ここ
にあるものだけでは、私では作る事ができません﹂
きっと、私以外でもこの材料じゃ無理だけど。
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でももし、彼が鬼畜なら、﹃作れるなら作って﹄なんて可愛らし
く小首を傾げて無理難題言いだすかもしれない。そして作れなくて
お仕置き。痛い思いをするのは最低限がいい私は先に謝っておく。
謝ったなら、お仕置きも多少軽くなるんじゃないだろうか。
﹁そりゃそうだ。結構前に買ったパンしか入ってなかったでしょ。
俺、もっぱら食堂ばっかで食べてるから。でも材料さえあれば料理
ができるなら、オクトに頼みたいな。時間の縛りがあるし、色々制
限もあって、食堂で食べるのは面倒なんだよね﹂
良かった。お仕置きはないらしい。
私は心の中でホッと胸をなでおろす。この分だと、少なくとも奴
隷ではなく使用人として扱って貰えるんじゃないだろうか。
﹁分かりました﹂
﹁それとさ、何ビクビクしてるわけ?﹂
﹁⋮⋮何のことでしょうか。もしも私の言動でお気に召されない事
があったなら、申し訳−−﹂
﹁その敬語だって。異界屋であった時は、もっとふてぶてしい子供
だったよね﹂
今思えば、あの時の私はよく無事だったな。
宮廷魔術師という事は、彼は何かしらの爵位を持っているはずだ。
彼自身ではなくても、その親は爵位があるとみて間違いない。兵士
と違い、魔術師はその職業につくまでに普通は学校に通う。そして
通えるのは金持ちだけなのだ。たまに試験だけを受けて受かる魔法
使いもいるが、そういう魔術師は宮廷には勤めないとあの後、アル
ファさんに聞いた。
﹁あの時のご無礼をお許し下さい。私は無知な子供でございました。
今はアスタ様に拾われた身。精一杯お仕えしたいと思っております﹂
﹁ふーん。感謝してくれてるんだ﹂
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﹁もちろんでございます﹂
聞かされたばかりの時は、内心腸が煮えくり返りそうだったが、
一晩寝ると仕方がないと思えた。それよりも危うくアルファさんや
クロを不幸にするところだったので、それを止めてもらえた事に感
謝している。もう少し遅く、私が返事した後だったら、アルファさ
んは彼と真っ向勝負したかもしれない。タイミング的にもナイスだ
った。
﹁じゃあ話は早いや。そのへりぐだった、敬語は禁止。俺の方が年
上だから、場所によっては多少の敬語は使ってくれた方がいいけど、
普段は今まで通りで﹂
﹁はっ?﹂
﹁それと何か勘違いしているみたいだけど、俺は引き取ると言った
んだよ?﹂
﹁アスタ様の使用人として、引きっとっていただけたんじゃ⋮⋮﹂
何かおかしいだろうか?
私は首をかしげた。どこかに預けるつもりで引き受けたのだろう
か。いや、でもそれだと料理ができない。料理の方はは一時的とか
?分からん。
﹁様も禁止。せめて、さんでよろしく。もしくはお父様なら可かな。
永遠のお兄さん自称してるけど、一回くらいは可愛い子に﹃お父様﹄
って呼ばれてみたかったんだよね﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
何だ、その気持ち悪い発言は。
可哀そうなものを見るような目になってしまったが、これは生理
的な現象なので仕方がない。無礼だと思ったら、そもそも顔を上げ
させないで欲しい。しかもあえてお父様が、裏声なのが余計キモイ。
﹁賢者様のくせに理解が遅いなぁ。それほど意外?俺がオクトを養
子として引き取ったって事﹂
﹁⋮⋮はあ?!﹂
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用紙でも容姿でもなくて、養子?
驚きすぎで、私は大声を出してしまった。文脈からすると、私の
頭には、養子の文字しか浮かばないけれど、もしかして違う意味が
あるのだろうか。
﹁そう。つまり君は俺の養女という事。俺がパパで、オクトが娘﹂
何か言いたいが、言葉にならない。
旅芸人から一転。私は知らない間に魔術師の娘にジョブチェンジ
していた。
83
4−2話
﹁何で?﹂
養女という恐ろしい話で、脳みそがフリーズした私からようやく
出てきた言葉は疑問だった。何を企んでいるのかさっぱり読めない。
﹁ひどなぁ。こういう時は、﹃ありがとうございます。お父様﹄だ
ろ?﹂
ゾワリと鳥肌が立った。
頼むからわざわざ裏声を出してまで娘役の声を出さないで欲しい。
一瞬、キモイと面と向かって言ってしまいそうになったじゃないか。
﹁⋮⋮どういう意味でしょうか?﹂
﹁オクトは頑固だねぇ。だから、家族なら敬語はなしだろ。ただし
貴族にはそういうのも五月蠅い奴いるから、外ではソレな。俺も一
応伯爵家の一員で、子爵の称号は持っているし、今後そういう場所
に行く事もあるだろうしね﹂
伯爵って言った?で、自分自身は子爵?その子供が私?家族?は?
一体、こいつは何を話してるんだ。
﹁⋮⋮宇宙人め﹂
﹁えっ、宇宙人って何?﹂
そうか。異界言語じゃ嫌味にもならないか。それどころか、いい
情報ありがとうございますか。このやろう。
﹁この世界以外の生命体の事。それで、何故私がアスタの子供なん
⋮⋮です?﹂
﹁おっ。大分と砕けてきたね。でもそんなに理由が気になるのか。
そうだなぁ。しいて言うなら、俺が面白いから?﹂
﹁⋮⋮馬鹿?﹂
本音がぽろっと出てしまい、私は慌てて口をふさいだ。貴族相手
84
に、馬鹿はない。
でもあまりに回答が馬鹿ばかしすぎたのだからしょうがない。面
白そうなんて、そんな答えあってたまるか。これも彼なりの冗談に
違いない。笑えないけど。
となれば考えられる理由は⋮⋮私から情報を取り出して売りさば
くなら、使用人よりも養子の方が効率がいいとか辺りだろうか。使
用人なら情報に対していちいちお金が絡んでくるが、養子ならばそ
れはない。
でもホテルすらまともに使えないほど嫌われた混ぜモノを養子に
するって、リスクの方が大き過ぎるようにも思う。もしも私がそれ
ほど知識がなかったらどうするのか。もしかしてこの世界は養子縁
組を組むのも解除するのも、使用人の解雇並みに簡単だったりする
のだろうか。
﹁はいはい。思考の渦に入り込まない。まあ結局はそれが面白いと
思った理由だけど。オクトは色々考える生きものみたいだからね。
俺は頭使うやつが好きなんだよね。ちょうど結婚しろって言われて
て、いろいろ五月蠅かったし、いいかなと思って﹂
﹁ば、馬鹿か?!そんな理由なら、今すぐ取り消せ﹂
私との養子縁組を結婚しない理由に使ったら、伯爵様であるコイ
ツの父親に睨まれてしまう。跡取りにもならない混ぜモノ連れて行
って﹃これ俺の娘★だから結婚しない﹄なんて言い出したら、普通
に暗殺されるだろ。不本意な選択だったのに、何でそれが死亡ルー
ト直結なんだ。ありえない。
私は敬語を使うのも忘れて怒鳴りつけた。
﹁何で。俺の勝手だろ﹂
﹁世の中、俺様だけで生きれるほど甘くない。私が跡取りになれる
はずないから。私は混ぜモノだ。親の気持ち考えろ﹂
もしかしたら、こんな怒鳴りつけたら、使用人の話までパーかも
85
しれない。それでも言わずにいられなかった。もうどうとでもなれ
だ。私はまだ死にたくない。
﹁混ぜモノには違いないね。あ、悪い。勘違いさせたかな。オクト
が継がなくても、俺の息子が継ぐから、窮屈な思いはさせないよ。
最低限のマナーは覚えてもらうけど﹂
⋮⋮は?息子?
駄目だ。話が分からなくなってきた。結婚しろと言われているの
に、息子がいると言うことは、再婚しろって言われているという事
だろう。それで養子を迎えて、黙らせる?黙るはずがない。
﹁もう少し分かりやすく、最初から説明してもらえませんか?﹂
私は頭痛がしてきて、頭を抱えた。アスタの行動が意味が分から
な過ぎる。
﹁だから伯爵は俺の息子が継ぐから問題ないんだよ。周りが再婚し
ろって五月蠅いけど、混ぜモノの親になりたがる酔狂な貴族は少な
いからな。小さな混ぜモノの子供が居るって言えば、しばらくは見
合いを断れるだろ﹂
⋮⋮なんだこの、悪知恵。確かに理由を聞けば、言っている事は
間違いない。私にまったく優しくないだけで。
﹁アスタはいいの?﹂
﹁俺はオクトが気に入ったから大丈夫﹂
利害の一致ってやつね。
そしてアスタはあまり人の目を気にしないのだろう。伯爵は息子
に継がせるという事は、貴族の立場もどうでもいいのかもしれない。
﹁気に入ったのは、異界の知識?﹂
もうこうなれば、全てぶっちゃけてもらおう。これだけ混ぜモノ
が嫌われている事をいいように使っているのだ。性格が悪い事は良
く分かった。今更取り繕われるより、私がすべきことをしっかり教
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えておいてもらいたい。
﹁ああ。それは、どっちでもいいよ。何か知っている事があって、
気が向いたら教えて﹂
﹁はっ?!﹂
どっちでもいい?
取り繕っているわけではなさそうだから、余計にアスタの事が分
からない。思考回路が無茶苦茶過ぎる。
﹁オクトは難しく考えすぎる傾向があるみたいだね。だからさっき
から言っているように俺は、考える奴が好きなんだよ。異界屋の時
の最後の質問。何で馬じゃなくて車を異界では利用するのかの答え。
あれはオクトが考えたんだろ?﹂
確かにそうだ。あの世界には馬もいる。でも車が主流になった理
由は、知らなかった。だから今持っている情報で推測をした。
私が頷くと、アスタは楽しげに笑う。
﹁オクトは頭も悪くなさそうだし、魔術師目指してもらいたいなと
思ってるんだ﹂
話が見えません。
どうもアスタは色々話を飛ばす傾向にあるようだ。言葉が足りな
いと言うよりも、相手のペースに合わせる事を知らないように思え
る。もしくはその気がないか。
﹁何故?﹂
﹁嫌ならいいよ。でも勉強して、賢くなってね﹂
﹁いや。裏の意味なく、普通に疑問﹂
別に引き取ってもらったのだから、魔術師目指せというなら目指
すし、親の言う事を聞くいい子でいるつもりだ。お父様と呼ぶかど
うかは別として。
﹁今の魔術師は馬鹿が多いんだ。何にも考えずに、魔法をぶっぱな
87
てばいいとか思っている奴が多くて、俺がつまらない。魔法は喧嘩
に使うものじゃなくて、もっと頭を使って原理を解析して、大衆に
知識を落としていくべきものだと思ってる。でもそのレベルで話せ
る奴がほとんどいないんだ﹂
馬鹿が多いって⋮⋮あれは賢い人がとれる職業資格じゃなかった
だろうか。一座の魔法使いは、やっぱり他の人よりも頭がよく、ま
わりを馬鹿にしている節があった。実際それぐらいの知識差がある
のだ。でもそんな奴でも魔術師にはなれなかった。
﹁オクトなら勉強するうちに分かると思うよ。そして賢くなったら、
俺の話相手して、研究を手伝う事。うん。それを引き取る条件にし
ようかな。職業は別に何でもいいよ。ただ魔術師になるだけだと、
混ぜモノはその後の就職に苦労するから良く考えてね﹂
曖昧に私は頷いた。
彼の考えが分かるようになるという事は、私もああいう性悪な思
考回路になると言う事だろうか。⋮⋮それもどうなんだろう。
ただ知識に飢えているのは間違いないので、かなりありがたい申
し出だと思う。それにアスタの言う通り、混ぜモノでも生きていけ
るように、ちゃんと今後を考えなければならないだろう。凄い資格
であるはずの魔術師になったとしても就職に苦労するという事は普
通の就職はほぼ絶望的ということだ。本来最低目標である自立が、
最終目標並みにハードルが高いなんて⋮⋮私は前世でそんなに悪い
事をしたのだろうか。
今後を思うと、憂鬱になった。
88
4−3話
﹁そういや、オクトは文字は分かるか?﹂
人生を儚んでいた私だったが、アスタはそんな事知った事ではな
いようで普通に質問してきた。まあ当たり前なんだけど。
聞かれた質問を少し考えてから、首を横に振る。アスタの言う文
字は日本語ではなく、龍玉語の事だろう。なんとか話し言葉はでき
るが、読み書きはさっぱりである。
﹁そうか。まずはそこからか⋮⋮。なら数は数えられる?﹂
﹁それは多分大丈夫﹂
一通りの数学基礎は前世の記憶でカバーできるだろう。宇宙人と
数学でなら会話ができるとかなんとか言った人間が居た気がするが、
確かにその通りだと思った。読み方は変わっても、異世界でも計算
は変わらない。0は0だし、1は1だ。
﹁それができるなら、まずは買い物にいくか﹂
﹁へ?﹂
どんな話の流れだ。
唐突に言われ、目が点になる。この男の動きが全く読めない。何
故数の質問がいきなり、買い物ににつながるのか。
﹁何事もまずは腹ごしらえから。オクトも食堂でジロジロみられた
ら嫌だろ。となると、部屋で食べられそうなもの買わないとな。あ
と服もいるし、洗面用具と−−﹂
﹁待って。アスタ、服はある﹂
﹁あるって、どこに?﹂
勝手に話が進んでいく事に慌てた私は、急いで自分が寝ていた場
所から鞄を持ってきた。
89
﹁アルファさんがくれた。だから洗いまわしで大丈夫︱︱﹂
﹁じゃないな。部屋着として着るのは構わないけれど、外に出る時
は駄目だから。それと、それっぽっちでいいわけないだろ。行くよ﹂
私の言葉をさえぎって、アスタは否定した。折角アルファさんが
くれたものなのに⋮⋮。そんなにみすぼらしく見えるだろうか。
混ぜモノとしてさげすまれた時より、なんだか悔しかった。
でも引き取ってもらった私に、そんな事を言う資格はないのも分
かっている。私は彼に生かされている立場だ。
﹁金ないから﹂
だから買えない。せめてもの拒絶で私は言った。
﹁俺が持ってるから大丈夫。子供に出してもらうほど落ちぶれてな
いつもりだよ﹂
ちっ。
表情には一切出さず心の中で舌打ちする。もっとも私に払わせよ
うとしない事ぐらいは分かっていた。働く能力がない私を引き取っ
たのだから、それぐらいの考えはあるはずだ。
﹁悔しいなら、何も言われないだけの力を付ける事だよ﹂
バレた?
言われた言葉にどきりとする。不機嫌になってしまった事は極力
顔に出さないように気を付けたのに。アスタはすっとしゃがむと、
私と同じ目の高さに合わせた。
﹁俺だって誰にも何も言われない為に子爵の位をわざわざ貰ったん
だ。そしてやりたい事をやる為に宮廷魔術師なんて堅苦しい仕事を
しているんだよ。ここでは貴族や王族がルールで、力がないなら彼
らの常識に従わなければいけない。好きな服を着て、自分の常識を
つき通したいなら、よく考えるんだ﹂
私は頷いた。
貴族に引き取られたならば、貴族に合わせるべきなのは間違いな
い。それが嫌なら、文句を言われない為にどうしたらいいか対策を
90
練るべきだ。悔しいがアスタの言い分の方が正しい。
そして私の荷物を捨てようとしないあたり、彼なりの譲歩してく
れているのも分かった。それなのに彼に恥をかかせるわけにもいか
ない。
﹁よし、じゃあ行こう。今日はその格好で良いよ。まずは買い物を
覚えてもらって、必要最低限のものを買えるようになってもらわな
いと。しばらくは一緒に、この寮で暮らしてもらうから﹂
今度は私も反論せず頷いた。ここでは彼がルールだ。
私は歩き始めたアスタについていく。外へ出ると、宿舎の隣に大
きな塀があるのが見えた。塀の向こうには、さらにそれよりも高い
建物がいくつか見える。初めてみるが、きっとあれは王宮だ。つま
りここは王都なのだろう。
﹁通勤が徒歩1分なのが気に入ってるんだよね。王宮の中にも宿舎
はあるんだけど、そっちは逆に近すぎて、何かあるとすぐにいいよ
うに使われるから嫌なんだ。最近は移れって五月蠅いんだけど﹂
﹁⋮⋮私が居れば、それも断れると?﹂
﹁そう。王宮に混ぜモノ連れこむのは嫌がるだろうし、小さい子を
1人で育てているって言えば、無茶な召集もかけられないからね﹂
なんとなく分かってしまった自分が物悲しい。まあいいように利
用してくれていた方が、捨てられない理由になるので、自分として
はありがたいけれど。でも何だろう。話を聞けば聞くほど、自分の
人生が無理ゲーっぽく見えてきた。
﹁⋮⋮混ぜモノにも、ものを売ってくれるだろうか﹂
かなり色々な場所で嫌われているこの現状。もしかしたら、最終
ライフスタイルは、誰も住んでいない山で自給自足だろうか。でも
それが一番確実な生き方な気がしてきた。
職業農民。うん。いいかもしれない。
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﹁この町の人は金さえあれば何でも売るよ。多少嫌な顔はするかも
しれないけれど、混ぜモノの金も、貴族の金も同じだからね。ただ
飲食店は断られる可能性が高いかな。俺と一緒なら通してくれるけ
ど﹂
﹁アスタが貴族だから?﹂
﹁いや、俺が魔術師だから。混ぜモノは忌み嫌われているけど、そ
れは蔑みからじゃなく、恐れからだ。魔術師なら混ぜモノが暴走し
てもなんとかしてくれるだろうと皆思ってる。もちろん貴族として、
金をちらつかせても入れるだろうけど﹂
ふと、何故混ぜモノがそれほどまでに嫌われているのか不思議に
なった。
私は同じ人がない為、その姿や成長の仕方が不気味に見えるのだ
と推測していた。また上手く育たない事の方が多いようなので、そ
の脆弱さも嫌われる要因だと思っていた。しかし恐れられるのは差
別ともどこか違う気がする。
アスタの歩く速さに置いてかれないよう、小走りになりながら考
えるがしっくりとした答えに行きつかない。
﹁同胞は、一体何をした?﹂
﹁そうだなぁ。最近あった大きな事件だと、今から100年ぐらい
前。黄の大地にある国で、混ぜモノが暴走。結果王都が消し飛んだ
のかな。これは結構有名だね。もっと昔だと、国自体が一夜にして
消えたという文献も残っている﹂
﹁は?消えた?﹂
﹁そう。混ぜモノの魔力が暴走して、文字通り何も残らなかったら
しい。でもそんなに大事になるのは、本当に稀だよ﹂
⋮⋮むしろ、そんな事があってよく自分は生かされているなと思
てしまった。私の人権は何処に行ったと思ったが、これでも生まれ
てすぐに処分されないだけ、倫理や人権があったという事だ。
﹁ただし稀ではあるけれど、混ぜモノが危険だとみなす動きはあっ
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たんだ。千年ほど前には混ぜモノ狩りという大きな出来事も起こっ
た。でもそれも今は誰もやらない。何故だと思う?﹂
﹁倫理的にまずいから?﹂
﹁ハズレ。そっちの方が被害が大きかったからだよ。どうも1人殺
すたびに村や町が消えたみたいだね。さっき話した国が消えたとい
うのもちょうどその時代だったはずだよ。狩りに関係しているかど
うかは分からないけれどね。とにかく、そんな黒歴史のおかげで今
はどの国も混ぜモノには手を出さない﹂
アスタの言葉に、私は何と言っていいか分からなかった。
歩く爆弾がいたら、誰だって避けて通りたいだろう。これで嫌う
ななんて無茶だ。しかも爆弾を先に解体しようとすれば、さらに大
きな被害⋮⋮何て迷惑な最終兵器。そしてそれが自分だという。
﹁暴走は、何で起こるの?﹂
とりあえず、そんな大迷惑な死に方だけはしたくないと思った。
﹁さあ。今もまだ研究段階だね。データーも少ないし。良かったら
オクトも研究するといいよ。今のところは精神と密接な関係がある
んじゃないかとされてるかな。百年前の事件は結構情報が残ってた
から﹂
研究するといいって、自分自身でですか?いつ爆発するかもしれ
ないのに、怖すぎるわ。なにその迷惑な自虐。
ただツッコミ入れるよりも、話の続きの方が気になるので私は黙
って聞く事に徹っした。
﹁あの事件は六番目の王女が王位継承するのを兄王子が阻止しよう
として、混ぜモノを使って暗殺を図ったのが発端らしい。その時混
ぜモノは恋人を人質に取られて無理やり従わされていたそうだ。し
かし事故か自殺かは定かではないが人質は死んでしまい、その後暴
走が起こっている。そこから感情の高ぶりが暴走を引き起こしてい
るのではないかと仮説がたてられているんだ﹂
⋮⋮大切な人が死んで、感情の高ぶり。
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あれ?それって、もしかしたら、つい最近起こっていませんか?
その事実に行きついた時、頭から血の気が一気に引いた。
百年前の話は私という自我が目覚めた、母親が死んだあの時の状
況にとても酷似している。今思えばクロのおかげで私は暴走を踏み
とどまれたんじゃないだろうか。クロがいなかったらと思うとぞっ
とした。
クロ、マジ勇者。二度と足をクロの方に向けて眠れない。
﹁ありがとう。よく分かった﹂
とにかくまずは、自分の感情コントロールを確実にできるように
しようと心に誓った。
94
5−1話 危険な外出
アスタに一通り買い物方法を教えてもらった私は、その後料理を
始めとした家事のすべてを請け負った。
というか、それぐらいしかやる事がないのが現実だ。
﹁暇⋮⋮﹂
私が外出するのは買い物ぐらいである。他に遊びに行きたい場所
もないし、そもそも出かけたくない。それならば室内で遊べばいい
のだろうが、どう遊べばいいのかわからなかった。一座にいた時は
とにかく雑用を買って出て、暇になればクロと遊ぶか、アルファさ
んや団長にこの世界の事を色々聞くかしていたのだ。自分の時間と
いうもを持つのは初めてだった。
前世の知識に頼ると子供の遊びと言えば、ままごとや人形遊びな
のだが、さすがに今更する気も起きない。むしろ自分がやっている
姿を想像するとうすら寒い。結果やっぱりやれる事なんて家事ぐら
いだった。
もちろん1日中家事をするわけにはいかないので、それ以外の時
間は文字の練習をしている。アスタから文字の基本を教わったので、
それを元に最近はイラストの多い本を読みあさっていた。幸いこの
家は、本だけは不必要なぐらい充実している。魔法や異世界に関す
る本が多いが、それ以外も結構あった。アスタはきっと活字中毒者
なのだろう。
とにかくアスタに育児放棄されていると言っても過言じゃないぐ
らい放置されている為、私は自由な時間を持て余していた。本を読
むのは嫌いではないが、そればかりでは流石に疲れる。テレビもラ
ジオもゲームもないなんて、なんてニートにつらい世界だろう。
95
﹁あー⋮⋮小麦粉がなくなりそう﹂
台所の棚を整頓しながら私はぼやいた。この量では明日の朝食の
パンケーキ分ぐらいしかない。ちょうどパンや麺も切れているし、
そろそろ買い出しが必要だ。
来たばかりの時は本の森と化していた台所だが、今は私の努力の
結果、調味料も並びきっちり使えるようになっている。水道も完備
されていたので共同の井戸を使う必要もなく、その点は本気であり
がたい。
﹁ベーコンとか、野菜もそろそろ買わないと﹂ 時間は有り余っているので、買い出しくらい余裕だ。暇もつぶせ
る。それでもできれば外出したくなかった。ジロジロ見られるのも
嫌いだし、あまり歓迎されていないのもよく分かる。
できる限り最低限の買い物で済むように、私は必要なものを紙に
書き出した。
﹁せめて冷蔵庫があれば、もう少しまとめて買いだめできるのに﹂
魔法でも電気でも何てもいいので、誰か作ってくれないだろうか
と本気で思う。夏場とか、ほぼ毎日買い出しに行くのかと思うと憂
鬱だ。冷蔵庫が無理ならネットショッピングでも良い。とにかく家
から出たくない。⋮⋮だんだん発言がニートどころか、引きこもり
になってきている気がするのがちょっと嫌だ。
とはいえ、嫌だ嫌だと言っても、誰かが変わってくれるわけでは
ないので私は鞄を手に取った。
﹁今日も何もありませんように﹂
私は返しそびれたクロのサインを取り出すと手を合わせて祈った。
最近は外出前にそれが日課になっている。混ぜモノの力が暴走しな
い為に精神統一しようと考えた結果こうなった。外の世界マジ怖い
状態なので、とにかく心のよりどころを作って、安定を図っている。
96
﹁本当に、本当に、何もありませんように﹂
パンパンと最後に柏手をうち、サインをカバンの奥底へしまう。
なんとか気持ちを切り替えると私は外へ出た。
宿舎のはずだが、私は一度も誰かにあった事がない。まるで私と
アスタしか住んでいない気がするが、時折隣の部屋からよく分から
ない音が聞こえたり、反対側から不気味な声が聞こえたきたりする
ので、人が住んでいないわけではないと思う。会わない理由は私が
外に極力出ないようにしている事と、きっと活動時間のズレの為だ。
ただできる事なら、そんな奇怪な音を出す隣人とは会いたくないな
と思っている。
﹁駄目だ。思考がどんどん駄目人間になってる﹂
隣人には笑顔で挨拶。助け合いが大切だ。それなのにできる限り、
顔を合わせないようにしようって、完璧引きこもりの思考である。
これではいけない。
一座にいた時は仕事と割り切れば人目もそれほど気にならなかっ
たのだが、人に会わなくても済む生活をしていると、どんどん億劫
になっていく。
﹁行こう。とにかく、早く済ませよう﹂
買い物には行くのだから引きこもりじゃないと自分に言い聞かせ、
商店街へ向かう。その途中、すれ違う人に必要以上に大きく避けら
れ、さらに離れた場所にいる人からは、遠慮ない視線を貰った。
﹁フードが欲しい﹂
平日の為人通りはまばらなのだが、早くもめげそうになった私は
小さくぼやく。顔を隠してしまいたかったが、アスタはその手の服
や小物は買ってくれないのだ。ドレスはポンと一括払いで買ってく
れるのにと恨めしく思う。
とはいえ今日はドレスではなく、シャツにズボンと男のような格
好をしていた。楽なのでよく着るのだが、この服自体は1人で出歩
97
く時に貴族の女性の装いをするのは危険だろうとアスタが買ってく
れたものだ。⋮⋮ただ顔を隠さない限り、例えドレスを着ていたと
しても何も危険はないように思う。誰ひとり近づく人が居ない為、
スリの心配すらない。流石混ぜモノ。嬉しくない天然の防犯だ。
﹁⋮⋮もしかしてそれを狙って、買ってくれないのかも﹂
とても合理的のようだが、財布は鞄に入れるのではなく、首から
下げ服の中に入れるという対策しているので、スられるなんて事も
ない。
ため息をつきつつも、パン屋で食パンを買うと、私は八百屋に向
かう。初日にアスタと一緒にまわった場所な為売ってくれないとい
う意地悪もされない。
﹁おや、アスタ様のところの混ぜモノじゃないか。今日は何を買う
んだい?﹂
八百屋につくと、店の親父が気さくに声をかけてきた。アスタと
元々知り合いだったらしい、狐耳のの獣人は、私を怖がるそぶりを
見せた事がない。きっと類は友を呼ぶで、アスタの知り合いだから
少し人と違う思考をしているのだろう。
﹁キャベツとニンジン2本。じゃが芋2個。キノコ3個。あとオレ
ンジ2個﹂
﹁玉ねぎはどうだい。今が旬だよ。薄暗い所に上にぶら下げておけ
ば、長持ちもするぞ﹂
長持ちするのか。だとしたら買っても大丈夫だろう。2人暮らし
で、しかも私がそれほど食べない為、食材は使いきれなくなってし
まう事があった。
﹁ならそれも。後できたら、キャベツは半玉か4分の1玉で売って
欲しい﹂
﹁はぁ?何でまた。金はあるんだろ﹂
﹁私とアスタだけじゃ、食べきれない。値段は少し割高でも、量を
少なく売ってくれるとありがたい﹂
98
﹁なるほど。一人暮らし用かぁ。よし。お前さんに言われた通り、
食べ方や保管方法を教えながら売ったら客も増えた事だしな。キャ
ベツは半玉、おまけしてやるよ﹂
ありがたいので私は素直に受け取っておく。貴族のくせにと言わ
れるかもしれないが、不必要なところでお金を使う必要はないはず
だ。それに貴族であるのはアスタだけで私は違う。身の丈に合った
生活をしていくべきだろう。
﹁ありがとう。あとは食べ方は口答だけでなく、紙に料理の作り方
を書いて配るとより親切で、購買欲が上がると思う。イラストが入
っているとなおいい﹂
﹁紙を配るのかぁ。ちょっと考えてみるよ。それにしてもアスタ様
が言った通り、本当にお前さんは賢者様だな。よくそれだけポンポ
ンアイディアが出るよ﹂
﹁賢者は言い過ぎ﹂
むしろ恥ずかしいので止めて欲下さい。
今おじさんに教えた事は、私の純粋なアイディアではなく、前世
のスーパーを思い浮かべたに過ぎない。
買い物袋に一通り荷物を入れると、かなり重たくなった。このま
ま連続で他の店にも行ってしまいたいところだが、私の腕力は5歳
児と同じだ。たぶん持てなくなるのが目に見えるので、一度荷物を
置きに引き返すことにする。私はぺこりと店主に頭を下げた。
﹁アスタ様によろしくな﹂
私は頷くと、小走りに来た道を戻る。
コンパスの短い脚では、歩くのにも時間がかかった。早く大きく
なりたい。しかしエルフは成長が遅く、精霊は心の成長に合わせて
一瞬で成長すると本に書いてあったので自分がどのタイプになるの
かは運まかせだ。せめて体は子供、頭脳は大人な状態だけは、マジ
止めて欲しい。
﹁考えるの止めよ﹂
99
外に出るとナーバスになるので、思考が悪い方ばかりに向かって
しまう。とにかく早く買い物を終わらせて、家に引きこもるのが一
番だ。
﹁そういえば⋮⋮﹂
ふと商店街の途中にあるわき道は、宿舎への近道ではないかかと
気がついた。若干薄暗いが、私なら誰も近づいてこないので、危な
い事もないだろう。
早く帰りたいしな。
私は急がば回れという言葉にあえてふたをして、わき道に入った。
100
5−2話
何故、あの時わき道に入ってしまったのだろう。
﹁はぁ⋮⋮﹂
私はいく度目かになる深いため息をついた。ため息をついても、
牢屋のカギは開いてくれないけれど。私より少し離れた場所からは
しくしくと鳴き声が聞こえ、とても辛気臭い。
急がば回れ。何故あの時そうしなかったのか。数時間前の自分を
罵ってやりたいが、後悔先に立たずだ。私は人攫いに攫われるとい
う失態を犯してしまった。
もちろん混ぜモノである私が積極的に攫われるはずもない。あの
時近道だと思った道の先には人攫いにあっている女性がいた。そし
てそれを目撃してしまった為に鳩尾に一発拳を入れられたのだ。そ
の後気が付いたら牢屋で転がっていたわけだから、確実に巻き込ま
れただけだろう。
どうせなら昏倒した後は、そのまま捨てておいてくれてよかった
のに。私なんか攫っても何の役にも立たないはずだ。むしろ相手も
扱いに困っているように感じる。遠くでこそこそと、話しあってい
るのを聞いてしまった。
﹁はぁ﹂
まわりをちらりと見れば、一緒に攫われたはずの人達がビクリと
肩を揺らした。私も被害者なんだけどなぁと思わなくもないが、私
が混ぜモノである事を考えれば仕方がない気もする。誰だって、爆
弾と一緒に閉じ込められたくないだろう。一緒に助かる為に頑張ろ
101
うと慰め合うなんて、夢のまた夢だ。
﹁というか、私が暴走したらどうするつもりだったんだろ﹂
そう考えると、さらった相手は、それほど頭がよくないのかもし
れない。少なくとも混ぜモノの知識は薄いのだろう。知っていたら
私はこんな目にあわなかったはずだ。
﹁アスタ、探してくれるかな﹂
まだ連れ去られた事に気が付いていない可能性もあるが、それ以
前に気がついても探してくれるかどうかも分からない。数週間一緒
に過ごした仲ではあるが、私とアスタは赤の他人だ。面倒だと思え
ば、何もしないかもしれない。ニート生活な私が、それほどアスタ
の役に立っているとも思えない。
そう考えると自分で何とか脱出する方法を考える方が賢明だ。
入口は鉄格子となっており、南京錠でドアは止められていた。窓
は部屋の中に一つだけしかない。しかも私ですら通れるかどうかが
微妙な大きさな上、かなり高い場所にあるのでそこから脱出は難し
いだろう。また牢屋は薄暗く、光は牢屋の向こうにかけてあるラン
プだけだ。
﹁おい。飯もってきたぞ﹂
声の方を見れば、鉄格子前に12、3歳ぐらいの少年がいた。段
ボール箱を抱えた少年は、ニッと歯を出して笑う。バンダナから赤
茶の髪を覗ぞかせてたその顔はまだあどけなさを残している。それ
でも彼もまた人攫いの一味だ。私は注意深く少年を見つめた。これ
ぐらいの子だったら上手く出し抜けるかもしれない。
﹁俺だったらなんとかなるかもなんて思っても無駄だからな。ここ
には、俺以外にも仲間が居るから簡単に外には出られないぞ﹂
私の考えている事がばれたのかと一瞬思ったのだが、全員に対す
る忠告だと気がつきこっそり力を抜く。この少年なら何とかなるか
もと、皆考えるのだろう。
102
﹁パンと水を配るから並べ﹂
鉄格子の向こうから少年が声をかける。しかし誰1人として動こ
うとしなかった。
﹁まあ1日や2日食べなくても死なないから、俺は構わないんだけ
どな。いざ逃げたくても動けないって方が俺的には助かるし﹂
ニヤニヤしながら少年がいうと、誘拐された人たちはひそひそと
相談し始めた。そして1人が立ち上がると、釣られたように1人、
また1人と立ち上がり、少年からパンと水を貰って行く。全員が貰
い終わったところを見計らって、私も立ち上がった。
﹁あんたが最後か。って、ちっさ。何?ママと一緒に攫われたのか
?﹂
私は少年の言葉に首を横に振った。
﹁そっか。普通はそんなに小さい奴は攫わないのに。あんた運が悪
いなぁ。しかも混ぜモノの男かよ。あいつらどうするつもりだ?﹂
本当にその通りだと思う。私を攫っても風俗に売りつける事は出
来ないし⋮⋮と考えたところで、自分の恰好が男である事を思い出
した。まわりを見ると女性しかいないので、この少年も私が巻き込
まれたのだと考えたようだ。
﹁混ぜモノならあいつらも下手に殺す事だけはないと思うから、安
心しろよ。ほら、パン食べな﹂
おしつけられるようにパンを渡され、私は頷いた。少年もおびえ
た様子がないので、私はその場に座り込むとパンにかぶりついた。
食べれるときに食べなければという習慣が身についている為、どん
な時でも食べられないという事はない。
﹁いい食べっぷりだな。そんなに、腹減ってたのか?﹂
私はコクリと頷き、水を口に含む。生ぬるかったが変な味はしな
かったので、ありがたく飲み込んだ。その様子を少年は立ち去らず、
ニコニコと見つめる。
103
それにしてもこの少年、一体どんな立場なのだろう。パンの渡し
方等考えると、結構頭がいいように感じる。脅すわけではなく、食
べる事が正解だと全員に思わせる言葉回しだった。もしあそこで、
暴力に訴えたら、誰も彼に近寄らず、パンを食べなかったに違いな
い。まさに北風と太陽だ。
﹁俺はライ。アンタ、名前は?﹂
﹁⋮⋮オクト﹂
喋れない設定でいって油断させても良かったが、私の場合出し抜
くよりも、何か交渉した方が家へ早く帰れる気がした。交渉の為に
は言葉が必要なので喋れない設定はむしろジャマだ。
﹁何だ喋れるのか。お前、親はどうした?﹂
﹁いない﹂
アスタが脳裏に浮かんだが、素直にそれを言う必要はない。本当
の親はいないのだから嘘でもないわけだしと自分に言い聞かせる。
﹁ふーん。結構いい生地の服着だし、どこかの酔狂な貴族の下働き
でもしているのか。ちっさいのに大変だな﹂
⋮⋮怖ッ。
服の生地から一瞬で本当に近い答えを導き出された私は、内心冷
や汗をかく。流石に貴族に引き取られたとは思わないだろうが、貴
族と繋がりがあると分かれば何か交渉材料になるかもと思われそう
だ。
﹁ライは、何している?﹂
﹁俺?俺は泣く子も黙る海賊だよ﹂
話を変えようと出した話題だが、あっさりとこの集団が何かを教
えてくれた。頭がいいと思ったのだけど、そうでもないのだろうか。
もしかしたら私が幼児だから油断しているのかもしれない。
だとしたらチャンスだ。
﹁海賊?﹂
104
﹁そう。海にいる荒くれ者さ。でもソレばっかりでもやっていけな
いから、たまにこうやって陸に上がって、裏の仕事も引き受けるわ
け﹂
﹁裏の仕事?﹂
﹁若い娘が欲しいんだってさ。その後どうするかは俺も聞いてない
けど﹂
奴隷か何かだろうか。女性に限定するなら、性的な可能性も高い。
⋮⋮どちらにしろ、私は完璧にとばちりを受けた事には変わりない。
﹁おい、ライ。飯を配ったら、病人の世話に戻れ﹂
﹁はいはい。今行くよ﹂
ここからは見えないが、仲間が近くにいるのだろう。声がよく聞
こえた。確かに少年を何とかしても、ここから抜け出すのは難しそ
うだ。
﹁病人がいるの?﹂
﹁ああ。海の精霊に好かれちまうとなる怖い病気だ。といっても精
霊相手に俺らは何もできないしな。看病って言っても飯を持ってく
だけだよ。長く航海をしてるとなるけれど、陸に戻れば治るやつも
いるし﹂
﹁海に精霊?どんな人?﹂
私も精霊族の血が入っているはずだ。海にいるなんて初耳だ。
﹁さあ。姿が見えないから精霊なんだし﹂
⋮⋮精霊って何者?姿が見えないなら、どうやってママが生まれ
たのか。ただ確かに今まで精霊族の人とはあった事がない。もしか
して見えないだけで、結構すれ違っていたりしたのだろうか。
﹁病気はどんなの?﹂
﹁お前質問はぽんぽん喋るんだな。まあ、いいけどさ。海の精霊に
好かれた奴がなるだけで、うつる病気じゃないから安心しろよ。た
だ壮絶だぜ。歯茎から血が出て歯は抜けて、全身に青あざができる
し。そんでもって酷い場合は死んじまう﹂
105
あれ?
海賊と青あざ。航海が長いとかかるという話。そこから私は精霊
が引き起こすのではない、別の病気が頭に浮かんだ。異世界なので
前世と同じとは限らない。しかしこの世界の食べ物は、とてもよく
似ている。
﹁じゃあ、俺行くから。大人しく今日は寝ろよ﹂
﹁待って﹂
立ち去ろうとするライを私は慌てて呼びとめた。混ぜモノの私を
怖がらず、普通に話してくれる貴重な人材だ。明日も彼が来るか分
からないのだから、交渉するなら今しかない。
﹁その病気、私なら治せる﹂
失敗したらもっととんでもない事になるかもしれない。しかしこ
のまま何もしなくても事態が好転しないと踏んだ私は賭けにでる事
にした。
106
5−3話
カツン。
歩きかけていた足を止め、ライは私を振り返った。透き通るよう
な琥珀色の瞳が私を映す。何の感情も見えない瞳をまっすぐ向けら
れ、私は逃げ出したくなった。タイミングを間違えたかもしれない
と一瞬後悔するが、何とか踏みとどまる。
﹁本当か?﹂
﹁⋮⋮本当﹂
ビビった所為で、少し反応は遅れてしまったが、ライは牢屋の前
に戻ってきてくれた。
﹁逃げる為に、嘘つくと大変だぞ。ここにいたら、少なくともオク
トは何もされないんだからな﹂
確かに何もされないだろうが、何もされずにこの牢屋に一人取り
残された方がもっと怖い。海賊たちは混ぜモノについてあまり知ら
ないようだし、取り残された恐怖からバッドエンド直行になるかも
しれないなんて考えてもないだろう。自分の手で殺さなければいい
とか思っていたらアウトだ。
﹁治せるよ﹂
﹁なんでそんな事知ってるんだよ。誰にも治せない、奇病なんだぞ﹂
﹁⋮⋮死んだママに聞いた﹂
私は嘘がばれないように下を向いた。悲しくてうつむいたと思っ
て貰えるように言葉を選ぶのも忘れない。ここで前世の知識からと
か本当の事を言ったら、頭の可哀そうな子認定までされて、2度と
話を聞いてもらえないだろう。
﹁ふーん。それが本当なら、オクトのママは何者だよ﹂
107
﹁知らない﹂
私が聞きたいくらいだ。死ぬ時も何も残さず突然目の前で消える
とか、普通じゃありえない死に方だった。それに目に見えない精霊
が親とか、意味がわからない。無事帰れたら、アスタに色々聞こう
と思う。あれだけ本を読んでいるのだから何か知っているはずだ。
﹁分かった。信じるよ。で、どうやって治すんだ?﹂
﹁取引したい﹂
ここからが本題だ。私は震えそうになる手を握りしめ、顔を上げ
た。ここまできたらもう逃げられない。後はライに騙されないよう
にして、確実な交渉をするだけだ。
﹁それは俺と?﹂
﹁違う。海賊の一番偉い人﹂
人攫いをするぐらいだから、正義の味方みたいな海賊ではないの
は確かだ。約束もちゃんと守ってくれるとは限らないのも分かって
いる。それでも、まずは話をしなければ進まない。
﹁それだけの価値がある情報だと思う﹂
海の精霊に好かれた呪いだと思われている奇病。そう思っている
限り、きっと治す事はできないだろう。多くの船乗りの命をこれま
で奪ってきて、これからも奪っていくはずだ。
船長とてこの病気にかからないとは限らなければ、その治療法は
喉から手が出るぐらい欲しいはず。
﹁ま、そうだな。その話が本当なら、船長も会うだろ。分かった。
連れてってやるよ。ちょっと待ってろ﹂
ようやく見せてくれた笑顔に、心の中でそっと胸をなでおろす。
怖かった。
ライは一度その場を離れたが、すぐに鍵の束を持って現れる。思
ったより近くに鍵があったのか、誰かがもっていたのだろう。その
カギを使い、南京錠を外した。
108
﹁来いよ﹂
﹁どけぇぇぇぇっ!!﹂
さしのばされた手を取ろうとした瞬間、ライの方へ向かって女性
が叫びながら走ってきた。ライよりも大きな背丈なのでそのまま体
当たりすれば、ライは吹き飛ぶんじゃないかと思う。外に仲間がい
るって分かっているはずなんだけどなぁ。
それでも逃げられると、彼女は踏んだのだろう。しかし次の瞬間、
女性の顔は驚愕に代わり、体が宙を飛ぶ。バシンと音がして地面に
たたきつけられた事に気がついた。
﹁ちょっと、傷つけるなって言われてるんだから、無駄な努力とか
止めろよ。怒られるだろ。どうしてもって言うなら仕方がないけど
さ。言っておくけど俺一般人に負けるほど弱くないから﹂
にやりと笑って、ライはパキパキと指の関節を鳴らす。誰もが状
況についていけず、唖然としていた。それは私も同じだ。体格から
考えると、女性が吹っ飛ぶなんてありえない。
﹁じゃ、オクト行くぞ。ちなみに逃げようとしたら、アレだから﹂
地面にたたきつけられたまま動かない女性を指差されて、私は慌
てて頭を上下に振った。そもそも私の体重から考えると、あの女性
よりももっと軽々と吹っ飛ばす事ができるだろう。そしてライは女
性とか子供とかが理由で手加減なんてしてくれそうになかった。
私は立ち上げると、牢屋のドアを潜る。もう誰もこちらへ近づこ
うとしない。皆こちらを注目しているが、逃げる気は失せたみたい
だ。それでもライは私が外に出ると、南京錠を再びつけた。
﹁こっちだ﹂
歩いていくライの後ろを小走りでついていく。
﹁おい、何勝手に混ぜモノを外に出してるんだよ﹂
109
階段近くまで行くと、縦にも横にも大柄の男がギロリと睨みつけ
てきた。座っているはずなのに、ライがまるで小人のように見える。
﹁あんたらだって、どうしたらいいか困ってただろうが。俺の方が
混ぜモノの事を知ってるから、面倒みるように言われたの忘れたの
か?﹂
﹁ふん。そんな小さな混ぜモノなら、殺しちまえば楽なのによ﹂
待て待て。何いきなり、死亡フラグ立ってるのさ。しかも殴り殺
させそうになったら、絶対暴走テロ自殺間違いないから。私平然と
殺される自信ないから。この脳みそ筋肉族め。私はライの服の裾を
掴んで後ろに隠れた。
ライも怖いけど、少なくともライはいきなり私を殺そうとしたり
しない。
﹁だからアンタは万年下っ端なんだよ。混ぜモノはどれだけ小さく
ても殺すな。そんなのどこの国も知ってることだろ。馬鹿なの?死
ぬの?﹂
﹁待てよ﹂
﹁俺、今から船長のところ行くんだけど﹂
階段をのぼりかけたところで、肩を掴まれたライは面倒くさそう
に男を見た。
﹁それとも何?アンタを倒してからしか行けないようになってるわ
け?﹂
﹁いや。⋮⋮行けよ﹂
睨まれた男は顔色を悪くすると、ライから手を離した。大きな男
が一回り以上に小さな少年を怖がるのは、何だか不思議な光景だ。
ただライはさも当然のように、その横を通り抜けた。
﹁俺最近一味に入ったんだけどさ、入団試験でここのNO.3を倒
しちゃったんだよ。だからあいつビビってるわけ。あんなデカイ形
してるのに、笑えるよな﹂
110
どうやら私が不思議そうにしていたから教えてくれたみたいだ。
でも私は笑えない。自分より体格のいい相手をやすやすと倒すなん
て、まるで漫画の主人公みたいな奴だ。正直関わりたくない。
それにさっきの話から察するに、最初から私があの牢屋にいる事
が分かっていて近づいてきたという事だ。パンを配っている時は、
さも今知りましたという顔をしていたのに。やっぱり信用はしない
方がいい。うん早々に彼とはおさらばしよう。
﹁私の荷物、何処?﹂
﹁何で荷物?逃げないならいらないだろ﹂
﹁必要だから﹂
嘘ではない。治療に必要なのは買い物で買ったものだが、私が本
当に必要なのは最初から持っていた鞄の方だ。あの中には、クロの
サインも、携帯電話も入っている。置いていくわけにはいかない。
﹁分かった。確か一か所にまとめてあったはずだし、まだ売られて
ないだろ﹂
階段を登りきると、窓があった。どうやらすでに夜になってしま
ったようで、外は真っ暗だ。何があるかよく分からない。
せめて私が連れ去られた場所から近いのかどうかだけでも分かれ
ばよかったのに。無事ここから出る事が出来ても、帰れるかどうか
も問題だ。私では馬車とか門前払いされる可能性が高い。
﹁おい、オクト。どれがアンタの荷物?﹂
考え事をしている間に、荷物置き場についたようだ。薄暗い部屋
の中に、ごちゃごちゃと色んな荷物が押し込められている。鞄以外
に置物などがあるが⋮⋮全部盗品だろうか?統一感が全くない。
﹁これ。あとこの買い物袋もそう﹂
律義に拾ってもらえたようで、私の鞄と買い物袋は同じ場所に置
いてあった。鞄を首からかけ、両手で野菜たちを持ち上げる。
﹁ふーん。これが必要なもの?まあいいか。貸せよ﹂
ひょいと私から荷物を取り上げるとライはすたすたと出口へ向か
111
う。
﹁取引したいんだろ?早く来いよ﹂
親切?
女の人でも投げ飛ばしたりと容赦ないくせに、行動がよく分から
ない。重い荷物を持たせるとと、ただでさえ歩きが遅いのが、もっ
と遅くなると思ったのだろうか。
まあ案内してもらうまでの付き合いだし、どちらでもいいけど。
私は置いていかれないよう、小走りでライを追いかけた。
112
6−1話 嘘つきな海賊
﹁船長入りますよ﹂
ライはノックし、ためらうことなく開ける。うん。緊張している
のは私だけと分かっているのだけど、もう少しゆっくり開けて欲し
かった。
あの後さらに階段を上った私は、船長のいる部屋の前にいた。1
階なら窓から逃げられるけれど、3階から飛び降りる勇気はない。
何かあったら、大人しく観念して、心の中で般若心境を唱えよう。
死にたくないけど、暴走の末に死ぬのはもっと嫌だ。
﹁なんだ、ライか。どうした﹂
どうやら酒を飲んでいたようで、部屋の中に入るとアルコールの
臭いが鼻を突く。船長は獣の特徴や長く尖った耳や紅い目をしてい
ないので、たぶん人族だろう。黒髪に黒目とクロと同じ色だ。若い
のか若づくりか知らないが、ロン毛を後ろで一つに束ねている。3
0代又は40代くらいだろうか。
﹁さっき俺が担当する事になった混ぜモノなんだけど、なんか面白
い事知ってるんだって﹂
﹁ほう﹂
黒い目が興味深げに私を映す。その目は私の中に詰まっているも
のを見透かそうとしているように思えた。正直、もっと単純馬鹿な
人を想定していたので冷や汗が出る。何で筋肉馬鹿の上司が狡猾そ
うなのだろう。こういうのは、NO.2とかで、船長は強いけどち
ょっとお馬鹿とかそういうものじゃないの?!⋮⋮漫画の読み過ぎ
ですね。すみません。
﹁オクト。アイツが、この海賊の船長。ちなみに魔法使いでもある
113
から、嘘とか止めた方がいいぞ﹂
大きな声で説明ありがとう。もう逃げたい。
だから何で船長が魔法まで使えるチートなわけ?そういうのは部
下に任せろよと思うが、もし彼がNO.2だとしたら、どうして船
長やらないんだろうと思ったはずだ。
それにしても夜なのに船長の顔が見えるぐらい部屋の中が明るい
のは、多分魔法の力だろう。簡単な魔法なのかどうかは分からない
が、そんなに力を見せつけないで欲しい。
﹁初めまして、混ぜモノのお嬢さん。俺はネロだ﹂
﹁えっ。アンタ、女?!﹂
﹁そんなことも分からないのか。男なら、女ぐらい見分けろ﹂
それは無理だと思います。
自分で言うのもなんだが、5歳児の体はつるぺたなので男の服を
着れば男にしか見えない。むしろ分かるネロの方が怖い。子供に女
も男もないだろうに。これ以上無駄話の所為で、私の気力をそがれ
たくないので、早々に話を切り出す事にした。
﹁私はこの海賊で起こっている奇病の治し方を知っている。取引し
たい﹂
ネロの顔が楽しげなものになった。5歳児が取引したいなんて微
笑ましいなぁと思ってるならいいのだが、何となく面白い玩具みー
つけた★と思ってそうな笑みに思えた。嫌だ、この人マジ怖い。そ
ういえば、アスタと最初にあった時も凄く嫌な奴認定した覚えがあ
る。魔法関係者はきっと頭がいい分、性格が悪いに違いない。
蛇に睨まれた蛙のごとく、目がそらせない。嫌な汗が背中を伝う。
﹁ほう。あの呪いを解く方法を知っているのか。あれは魔術師でも
解決できない奇病なんだがな﹂
﹁魔法は使わない﹂
それは解決させようと魔術師に無理やり協力させた結果なのか、
114
一般論なのか気になる所だが、精神安定の為私は貝になる事にする。
﹁薬師も同じだ。治療薬らしいものを作らせたが、効いたためしが
ない﹂
﹁く、薬もつかわない﹂
作らせたという言葉に不穏なものを感じて、言葉がどもってしま
う。アスタは嫌なやつで済んだけど、この人は怖い。考えるな考え
るなと呪文のように心の中で唱える。薬師がどうなったかとか、今
後の参考の為としても、聞くべきじゃない。
﹁まあ奴なりに頑張ったようだから、薬師は奴隷商に売り飛ばして
やったはずだ﹂
何故、それを今教える。そしてそれは全然慈悲じゃない。なんだ、
殺されないだけましだろってか?!奴隷って最悪じゃないか。怖い
よ。怖すぎるよ。私はライの服の裾を握り後ろに隠れた。
取引しようなんて馬鹿な発想でした。すみません。逃げていいで
すか?
﹁船長。混ぜモノをあまり苛めないでよ。精神が不安定になると暴
走しやすいんだから﹂
﹁だから鍛えてやってるんじゃないか。そんな小さな形で取引しよ
うとここまで出向いてくれた褒美だ。俺なりの好意だからありがた
く受け取れ﹂
いらんわ、このドSめ。そんな褒美、不燃ごみに出してしまえ。
早くアスタの家に帰って、引きこもりたい。⋮⋮でもその為には
逃げなければ。だけど普通に逃げられなければ、取引するしかない。
あと少しの我慢だ。頑張れ私。
意を決してもう1度ライの後ろから前に出た。
﹁私が売りたい情報は、奇病の治療法。それと航海中に奇病を発生
させない方法の2つ﹂
﹁えっ?!治療法だけじゃないのか?﹂
115
ライの素っ頓狂な声に私は頷いた。その様子からすると、本当に
奇病の治療法は見つかっていないのだろう。後は私が想像している
病気と同じである事を祈るのみだ。
﹁それでその情報と何を引きかえたいんだ?金か?﹂
私は首を横に振った。金はあるにこした事はないだろうけど、ア
スタに養われている今はいらない。今後貯めるにしても、できるだ
け危険な橋を渡らなくても済む方法にしなければ、また同じような
目にあう気がする。
﹁1つは、私を無事に家まで返して欲しい。もう1つは、今捕まっ
ている女性の解放﹂
情報は2つ。条件も2つ。情報を考えれば、こんな条件なんてお
釣りがくるぐらい些細なものだろう。さあ頷け。ほら、頷け。⋮⋮
マジで頷いて下さい。お願いします。
﹁今捕まっているだけでいいのか?﹂
﹁うん。解放するのは、私が捕まっていてその上で取引をした事を
知っている人だけでいい﹂
船長の言葉に私は頷いた。正直、正義の味方にはなる気はない。
むしろ助けて欲しいのはこっちの方だ。ただし恨まれる悪役にもな
りたくない。ただでさえ混ぜモノは嫌われているのに、ここで恨み
まで買ったら、いつか暗殺バットエンドが待っているかもしれない。
そういう危ない芽は早めに摘み取ってしまうべきだ。
ベストは毒にも薬にもなりそうにないと、放っておかれるように
なる事。それは今後の努力次第でできるはずだ。
﹁ふーん。それだとこちらがお釣りが出そうだな。他に希望はない
のか?﹂
⋮⋮意外に公正な取引してくれるんだな。
人攫いをするぐらいだから、極悪非道には間違いないはずだ。実
はいい人って事もないだろう。ドSだし。もしかしたら取引する事
に何か信念があるのかもしれない。
116
﹁また考えておく﹂
下手に条件を増やして、最初の条件が消されたら困る。特に何か
してもらいたい事はないので、このまま消えても問題ない。
﹁分かった。取引に応じよう。うちの船員の病状が回復したら、そ
ちらの条件を叶えると言う事でいいか?﹂
まあ教えてすぐに、はいさよならはできない事は分かっていた。
すぐに治療が完了するわけでもないので、長期戦は覚悟の上だ。私
は頷く。
﹁ではまず、治療法を教えてもらおう﹂
﹁⋮⋮その奇病の名前は︻壊血病︼。ビタミンCの欠乏により、タ
ンパク質組成であるアミノ酸の1つが上手く作れなくなる。結果、
血管の損傷などにより死にいたる﹂
﹁ちょっとまて。一体何語話してるんだよ﹂
⋮⋮何語って、何語だろう。基本は龍玉語だが、固有名詞は日本
語だ。こちらの言葉であてはまるものを知らないのだから仕方がな
い。もしかしたら、まだその単語は生れてない可能性もある。そう
するとやはり日本語を使わなければ説明できない。どうしよう。
﹁つまり、ビタミンCとやらを補えれば、この病気は治るというこ
とか﹂
ネロの言葉に私は頷いた。そうだ。細かい話は抜きにして、とに
かく治療方法だけ教えればいいのだ。この船長ドSで怖いけど、魔
法使いだから頭はいい。拙い説明でも何とか理解してくれるはずだ。
﹁この病気は、干し肉などにはない栄養、ビタミンCの不足が原因。
ビタミンCは野菜や果物に多く含まれている﹂
﹁なら果物のジュースとか野菜スープを飲めばいいわけ?﹂
﹁ビタミンCは熱を加えると壊れる。だから私は生のサラダやジュ
ースでも、絞りたての方が効果的だと思う﹂
確かビタミンCは酸化も早かったはずだ。また水に溶けやすい原
117
理を使って、ジュースとかの保存料に使われていた記憶がある。と
り過ぎは結石を作るが、食べ物から摂取するだけならとり過ぎほど
食べる事はない。なのでとにかく食べろ方式で大丈夫だろう。
﹁よし。分かった。今から、オクトを料理長に任命してやる﹂
﹁は?﹂
﹁ようは食べ物を改善すればいい話だろ。働いた分の給料も出して
やるから、しっかり働け。上手く治ったら、航海中にならない方法
とやらも聞いてやる﹂
かなり上から目線だが、何とか合格ラインに立てたらしい。まだ
安心するのは早いと分かっているが、ホッと息をはく。
でも料理長はまずいよな。私の腕はそれほど良くないし、その上
身長は足りないし、重たいものとかも持てない。できないづくして
涙が出そうだ。
あと少し頑張ろう。私は船長の説得を引き続きする事にした。
118
6−2話
﹁先生。ベーコンはこれでいいっすか?﹂
フライパンの上でカリカリに焼かれたベーコンを見せられ、私は
頷いた。おいしそうな香ばしい臭いがする。
﹁先生。キウイ輪切りにできました﹂
﹁ありがとう﹂
私は頷きながら、内心ため息をついた。先生ってなんだ。私はそ
んなものになった覚えはない。笑顔の海賊たちに若干引き気味にな
りながらも、私は皿に料理を盛り付けた。本日の朝食は鶏肉のオレ
ンジソース煮とパン。カリカリベーコン入りサラダにじゃが芋のス
ープとキウイフルーツ。朝からヘビーだが、海賊たちはこれらをぺ
ろりと平らげる。2食しか食べないのに運動量が半端ないのだから
と理屈としてはわかっているが、見ているだけで胸やけしそうだ。
ただし料理長に相談の上で、私が立てた献立なのでその感想は胸に
しまっておく。
私自身は、サラダとスープと一口分のパンだ。アレは無理。
﹁いやー、すごい。先生の料理は本当に独創的だな﹂
﹁はぁ﹂
﹁褒めてるんだから、もっと喜べって﹂
1回りどころか、3回り以上年と体格がかけ離れた調理長に背中
を叩かれ、危うく椅子の上から落ちそうになる。独創的って褒め言
葉だったのか。
﹁いや。作れるのは料理長のおかげ﹂
﹁よく解ってるじゃないかっ!!﹂
バンバンとさらに背中を叩かれ、私は椅子にしがみついた。大人
と子供の力の違いにそろそろ気がついて欲しい。
119
﹁痛いから止めて。でもこれも、そろそろ終わりか⋮⋮﹂
怒涛の日々を思い返せば感慨深い気持ちになる。よく生き残った。
2週間ほど前に船長に調理長任命されかけた私は、慌ててその役
目を辞退した。その後必死なお願いの結果、妥協案として献立は全
て私が立てる事で一応話はまとまったのは奇跡といえよう。しかし
そこからがまた大変だった。
今まで海賊のご飯なんて作った事がない私は、ビタミンを多くと
る為のメニューは思い浮かんでもどう組み合わせていいか分からな
かったのだ。今までどんなものを食べていたかを聞きながら必死に
献立をたて、その後ライに間に入ってもらい調理長達に作ってもら
うという作業が続いた。
初めは私が混ぜモノである事と5歳児であることから意思疎通は
なかなか上手くいかなくて、泣きたくなった。命の危険と隣り合わ
せな状態で頑張り、1週間後ぐらいから病状の改善が見られた時は
ホッとして泣きそうになった。そして海賊たちになんとか認めても
らえた時は正直泣くと思った。結局一度も泣いてないけど、涙腺が
緩むぎりぎり状態になるぐらい私は必死だった。その後先生と呼ば
れるようになり、今では献立の相談にも気軽に乗ってもらえる。本
気でありがたい。
﹁仲間の病気が治ったら、出ていくって約束だもんな﹂
﹁先生。ここに残ればいいじゃないっすか﹂
いや、それはない。
涙もろい料理長が鼻をすすっているが、実際はそんなに感動でき
る場面ではない。なんといってもここは海賊の根城。根っから悪い
人たちではないとは分かったが、元々私は人攫いにあった被害者な
のだ。仲間にになる選択肢は絶対ない。それに犯罪者になるのは最
後の手段。できるなら、捕まってバッドエンドコースなんて危険は
冒さず、清く正しく生きたい。
120
﹁オクト、飯できたか?﹂
﹁完成したところ﹂
サラダにベーコンをまぶしたところで、ライが厨房に入ってきた。
﹁お、旨い﹂
﹁食うな﹂
﹁味見だって﹂
何が味見だ。ライ達海賊の味見の量が半端ない事は、すでに知っ
ている。こいつらの味見は味見の域を超えているのだ。そもそも何
故鶏肉を食べる。そこはソースを舐めるべきだろ。
﹁運べ。大盛りにするから﹂
それでもそこを咎めても話が進まないので、初めから他の餌で釣
る方がいいと2週間で私は学んだ。
料理当番達とライに手伝って貰い料理を運ぶ。
﹁朝ご飯持ってきたぞ﹂
﹁待ってましたっ!﹂
ドアの向こうにはポーカーで遊んでいる海賊たちがいた。威勢の
いい声が飛び、ヒューっと口笛まで聞こえる。これだけで、すでに
病人ではないだろと思う。最近は彼らも普段の仕事に混じっている
わけだし完治したといってもいい。
私はスープをよそいながら、いい加減ネロに会わないとな考える。
すでに2週間もたってしまったのだ。私を含め、捕まった女性達も
限界に近いだろう。
最近見に行っていないけど︱︱あれ?
﹁⋮⋮色々不味くない?﹂
﹁えっ、味が?﹂
ぽつりとつぶやいた言葉に、パンを配っていたライが反応する。
私はなんでもないと首を横に振った。
私は船長と取引して以来、ライと同じ部屋で寝起きしている。な
121
ので体的に問題はないのだが、あの牢屋に取り残された人たちは、
今もベットもトイレもないあそこに閉じ込められているのだ。あん
な場所じゃ、発狂している可能性がある。
﹁ネロに会わないと﹂
もう一つの条件である、航海中にどうしたらいいのかを早く教え
て、女性達を開放しなければ。病状は改善したのだから、もう信じ
てもらえるはずだ。少なくとも船長以外の海賊は、壊血病に関して
は私を信頼してくれていると思う。彼らを味方につければ、何とか
なるはずだ。
﹁船長かぁ。今日客が来るらしいけど、それまでは本でも読んでる
んじゃないか?﹂
海賊ってそんなに暇でいいものか。
もっと仕事しろと思ったが、すぐに私はそれを否定した。彼らの
仕事=犯罪。うん、仕事せずにだらだらしてて下さい。むしろ一生
働くな。
﹁ライ、よろしく﹂
私は一人でウロウロする事を認められたわけではない。料理中は
調理長や、料理当番がいるのでライから離れるが、それ以外はほぼ
一緒だ。ある意味私もよく発狂しないなと自分で感心してしまう。
まあライは怖いけど、問答無用で怖い事をするわけではないから
安心していられるのかもしれない。人に観察されるのは嫌いだけど、
慣れてはいる。
﹁じゃあ、船長の飯を持っていくついででいいか?﹂
別に飯のついでだろうと何だろうと問題はない。早いに越した事
はないと思うので、頷く。
一通り配り終わったところで私たちは料理を持って、船長がいる
部屋に向かった。
﹁そういえば、NO.2って誰?﹂
ふと私は、NO.2やライが倒したというNO.3に会った事が
122
ない事に気がついた。会いたいわけではないが、どんな人なのだろ
う。
﹁えーっと、副船長達は外回りの仕事中だったはず﹂
どうしてだろう。彼らがいう仕事は、不穏なものしか感じられな
い。⋮⋮まあ海賊だからなんだろうけど。それにしても外回りって、
何だか営業みたいだ。
﹁海賊の仕事って色々なんだ﹂
﹁そ、色々だな。船の修繕が終わったら、また航海に行くけど、そ
れだけじゃないって事だな。海賊とその家族だけが住んでる島もあ
るんだぞ﹂
絶対近づかない方がいい場所ですね、分かります。
島がどれほどの大きさかは分からないが、それはすでに国家じゃ
ないだろうか。私は周囲にどう思われようと、できる限り家に引き
こもるべきだと悟った。彼らと二度と関わりたくない。
﹁船長、飯持ってきました﹂
ライは相変わらず中の返事を待たずに部屋に入った。敬う気があ
るのかないのかよく分からない。それでも船長が咎める事はないの
で、私としてはどちらでも良いんだけど。
﹁メニューは何だ﹂
ライがちらりと私を見た。どうやら私が説明しろということらし
い。一応私が立てた献立だし、仕方がない。
﹁鶏肉のオレンジソース煮、カリカリベーコンサラダ、じゃが芋の
スープ、キウイフルーツとパン﹂
私が喋ると、船長はようやくこちらを振り向いた。私がいると思
わなかったようだ。少し目を見開いた後、にやりと笑う。嫌な笑み
だ。私が必要最低限しか近寄らないようにしていた事を船長も分か
っているのだろう。
﹁先生が直々に持ってきて下さったのか﹂
﹁⋮⋮先生とか止めろ﹂
123
﹁どうしてだ?皆言っているのだろ?﹂
ネロがいうと、嫌味っぽいんだよ。
心の中でののしるが、口には出さない。ビビりと罵られようと、
私は私の命の方が大切だ。
﹁それもできたら止めて欲しい。私は先生ではない﹂
﹁ふーん。それにしても来いと言っても、忙しいやらなんやらと言
って来ないくせに、今日はどういう風の吹きまわしだ?﹂
そんなの精神的に苛められる事が分かっていて、素直に近づくほ
ど私はMではないからだ。避けて通れる危険はできるだけ避けるに
決まっている。
﹁献立を立てることに慣れていなかったので。時間が取れず、申し
訳ない事をした。今日来たのは、船員の病状が改善した事の報告と、
航海中の病気予防方法を聞いてもらうため﹂
﹁まだ完治したわけじゃないだろ?﹂
﹁ほぼ完治した。それは他の船員も納得してくれている。もう普通
どおりの食生活で問題ない。だからそろそろ女性達を開放する為の
取引がしたい﹂
私を引き止めてもネロにとっていい事なんてないはずなので、こ
れはただ嫌がらせだ。このドSな生き物はは、きっと損得抜きで嫌
がらせをする事に生きがいを感じているに違いない。マジ関わりた
くない人種だ。
﹁そうか。言ってなかったな﹂
ぽんとネロはわざとらしく手を打ち鳴らした。ネロの笑顔を見る
と嫌な予感しかしないのは何故だろう。何をされたわけでもないの
に、顔が引きつりそうになる。
﹁女性はもう解放したぞ?﹂
﹁は?﹂
突然の言葉に私は理解が追いつかず、ぽかんと口を開けたまま固
まった。
124
6−3話
﹁オクトが壊血病を治してくれたからな。約束通り、1週間前ぐら
いに解放してやったぞ。俺は、優しいからな﹂
いや、待て。おかしくない?
何故2つめの願いから先に聞かれているんだろう。大切なのは、
私を無事に家まで送ってくれる事であって、そっちじゃない。そっ
ちはおまけだ。
﹁伝えようと思ったのだが、お前は忙しいの一点張りで、全然来な
かったからなぁ﹂
﹁⋮⋮ライに伝えてくれれば﹂
﹁俺は大切な事は自分で言う主義だ。そうでなければ、面白くない
だろ﹂
大変いい主義だと思うが、最後についた言葉が残念だ。隠された
言葉は、﹃相手をいたぶれなくて﹄に違いない。禿げてしまえ。
知っていて黙ってのかとライを見れば、首を横に振られた。どう
やらきっちり分からないように隠していたみたいだ。その辺りから
もドS感をヒシヒシ感る。
﹁とにかく⋮⋮壊血病の治療が成功した事は認めてるということで
いい?﹂
これ以上考えても私が必要以上に疲れるだけだ。終わった事は仕
方がない。私は色々無視して話を進める事にした。
﹁ああ。いい仕事だった。ご苦労だった。褒めてつかわすと言えば
いいか?﹂
﹁言わなくていい。ただネロが、航海中の対策方法を聞けばいいだ
け﹂
125
﹁それなんだが、それが効果あるとどうやって証明するつもりだ?﹂
あれ?
ネロの言葉に、私は雲行きのあやしさを感じだ。嫌な予感しかし
ない。
﹁壊血病に効くビタミンCとやらは、熱に弱く、果物や野菜に含ま
れているのだろ?俺たちの航海は何日もかかるんだ。オクトが今ま
でやった方法は海では使えない。つまりは教えようとしているのは
今までとは違う新しい方法ということだろう。それが正しいか俺に
は分からんな﹂
ならどうしろというのか⋮⋮という言葉は絶対言わない方がいい
気がする。証明する為には、実践しかないのだ。もしもここでどう
したらいいかを聞いたら、航海についてこいという返答が返ってく
るに違いない。
航海という密室空間に混ぜモノを入れるなんて正気の沙汰ではな
い話だ。それでもコイツはやると言ったらやる男だという事は身に
しみて分かっている。こうなったら、﹃航海についてこい﹄という
言葉を言わせないように気を付けるしかない。
﹁ならば、交渉は決裂だ。女性の解放はもういい。私を家に帰せ﹂
﹁女性はもう解放した。それはできない話だな﹂
﹁私は私より先に女性を解放しろなどと言っていない﹂
﹁どちらを先にしろとは俺も聞いていないのだが?﹂
このやろう。普通は他人より、自分優先だろうが。ネロはその事
も十分分かっているはずだ。だから私に承諾を得る前に解放したに
違いない。
﹁分かった。ならば教えた後に壊血病の事で何か不都合があれば、
いつでも無償で相談にのる﹂
﹁海に出れば、一月は陸地に戻らないというのに、どうやって相談
にのるつもりだ?﹂
ニヤニヤとネロが笑う。私が根競べに負けて、乗船を承諾するの
を待っているのが見え見えだ。そんなあからさまな罠にはまってた
126
まるかと思うが、逃げ道が徐々になくなっている気がするのは何故
だろう。
﹁⋮⋮壊血病はビタミンCの欠乏により起こる病気。体にはある程
度の貯蓄があり、それがなくなると、壊血病が発症する。しかし欠
乏状態にまでには60日から90日はかかる。状態が悪くなる前に、
陸に帰ればいい。その時苦情を聞く﹂
それにしても、こいつのドS病は常軌を逸している。いくら面白
いからといって、船長が船員の危険リスクを上げていいはずない。
発症するまでの期間まで教えたのだから、この辺りで引いてくれな
いだろうかと望みをかけて、私はネロを見上げた。
﹁分かった。まどろっこしい言い方は止めよう。ここに残って、仲
間になれ﹂
﹁船長?!﹂
﹁だが、断る﹂
ライの驚く声も無視して、私は反射的に答えた。
何でそうなる。私がじっと見つめたのは、仲間にして欲しいから
じゃなくて、早く私の条件を受け入れろという意味からだ。何が悲
しくて犯罪者にならなければいけないのか。
﹁何故だ?﹂
﹁それはこっちのセリフ﹂
むしろ何で引き受けると思うのか謎だ。
その様子を見て、ライはくすくすと笑った。くそっ。笑うんじゃ
なくて私を助けてくれ。私はライを睨んだ。私を助けて海賊にさせ
ない事が、将来海賊の命を救う事になるんだぞ。
﹁オクト、諦めたら?船長は言った事はどんな手を使っても叶える
ぞ﹂
﹁嫌﹂
私の答えは完結だ。絶対嫌だ。こうなれば問答無用で壊血病の予
防方法教えておこう。私が教えたら、私を家へ送るという事はネロ
127
もちゃんと承諾した。言った事はどんな手を使っても叶えるならば、
必ず一度は家に戻してくれるはずだ。その後は私が引きこもって彼
らに関わらなければ済む。あそこは王宮管理の寮だし、家には魔術
師のアスタもいる。防犯もばっちりだし、何とかなるだろう。
﹁約束は果たしてもらう。壊血病にならない方法は、航海の時にキ
ャベツを漬け物にして持っていく事だ。火を通さなければビタミン
Cは多く残る﹂
﹁⋮⋮漬け物?﹂
﹁キャベツを千切りにして、そこに2%程度の塩と、香辛料をいれ
て、上に重しを置いた料理。酸味が出てくるがこれは乳酸菌の働き
で、腐敗ではない﹂
ネロが私の言葉に反応した。ドSより、知識欲の方が勝ったらし
い。ライは、理解したのかどうか分からないが、へーと相槌をうっ
ている。詳しい作り方と食べ方は料理長に教えておいた方がいいだ
ろう。
﹁乳酸菌とはなんだ﹂
﹁⋮⋮目に見えないほど小さな生き物。乳酸菌はその一種。人にと
って害があるものは腐敗を起こし、害がなければ発酵を起こす。今
回は発酵﹂
﹁精霊とも違うんだな﹂
﹁たぶん﹂
精霊=菌だったら、私が泣けてくる。祖母又は祖父のどちらかが
菌。いやいやいや。それはない。
コンコン。
ドアの向こうからノック音が聞こえ、全員がドアを見た。 ﹁なんだ?﹂
ネロが声をかけると、ビラが開いた。うん。このタイミングだよ
な。ライの場合は返事をまたないので早すぎる。
128
﹁船長に会いたいと客がきましたが、どうします?﹂
ドアの前には大柄の船員がいた。その後ろにフードを被った不審
人物がいる。フードの奥にある顔はベネチアンマスクのようなお面
を付けており、顔も分からない。背丈は小柄で、ライとそれほど変
わらないくらいだ。⋮⋮子供か、または小柄な種族なのだろう。
﹁何だ。もう来たのか。通せ。お前は仕事に戻ってろ﹂
この不審人物とお知り合いですか?
そういえば、今日は来客があるとライが言っていた気がする。ま
さかこんな不審人物とは思わなかったけれど。
私たちも一度出ていくべきだろうか。ライを見上げると、彼も驚
いたようで、目を見開きマスクマンを凝視している。あの姿をみれ
ば無理もない。
﹁また後で来る﹂
客なら仕方がない。私は出て行こうと踵をかえした。
﹁待て。ここにいろ﹂
﹁は?﹂
さっき、船員を追い返したじゃん。
私もまだご飯を食べていないので、できたら一度腹ごしらえをし
たい。
﹁女どもを逃がしたのは、コイツが原因だ﹂
待て待て待て。どういう話の流れだ、それ。
今部屋にいるのは、私とライとマスクマン。私やライに言った言
葉ではないという事は、マスクマンに対して話しかけているのだろ
う。捕まった女性の事を知っているという事は、つまり女性を攫う
様に指示したのは彼か、その上司という事だ。
売りやがった。
私は一気に血の気が引いた。慌てて、ライの後ろに隠れる。依頼
129
主が来る事が分かっていたら、キャベツの漬け物の件や欠乏症にな
る期間を先に教えなかったのに。今の私はネロにとって、さほど価
値がない状態だ。このドSめ。最悪すぎだ。
﹁へえ。面白い混ぜモノはやっぱり君の事だったのか﹂
フードの奥から聞こえた声は思ったより高い。子供だろうか。マ
スクマンがフードを外すと、そこからキャベツ色の髪の毛が出てく
る。
⋮⋮凄く見おぼえがある気がするのは気のせいだろうか?
﹁またあったね。ドールちゃん﹂
マスクを外すと、そこには旅芸人一座で会った、キャベツ色の髪
の少年がいた。開いた口がふさがらないとはまさにこの事だ。状況
がつかめず、茫然とする。
何故あの時の少年が、海賊の船長と知り合いなのか。いい身なり
をしているし、犯罪者と関わりがあるようには見えない。
﹁王子⋮⋮何でここに?﹂
﹁いつまでたっても、君らが仕事をしないから見に来たんだよ﹂
ライの口から出た、聞いてはいけない単語に私の気は一気に遠く
なる。王⋮⋮げふんという事は、彼はこの国で前から数えた方が早
いぐらい偉い方だ。さらに具体的にいえば、アスタの寮の隣に住ん
でいたりするわけで。
このまま気を失えればいいのにと切実に思うが、残念な事に私の
神経は図太かった。
﹁やはり、ライは王子の差し金か﹂
﹁そうだよ。役立ったでしょ?僕からの仕事が終わるまでは貸して
あげるよ。ただあまり時間がかかるのは困るなぁ。今回の仕事の遅
れた分は彼女を貰う事で手をうつよ﹂
勝手にうつな。反射的に私は心の中で反論する。もちろん不敬罪
になりたくないので、口にはしないけど。それにしてもなぜ王子と
海賊が知り合いで取引までする仲なのか。意味がわからない。
﹁それは困る。俺は今、オクトと取引の最中だ。確かに仕事の遅れ
130
はこちらに非があるから、何らかの形で償おう﹂
私の意をくみ取ったかのように、ネロが反対した。正直意外過ぎ
て、マジマジとネロを見る。私の事はもう用なしで、ついに売られ
るのかと思っていた。
﹁人が嫌がる事が大好きという性格、いい加減に治した方がいいと
思うよ﹂
王子の言葉に、私はすぐさま納得した。なるほど、だから反対し
たのか。
﹁お生憎さまだな。そういう性格じゃなかったら、海賊の船長なん
てやらん。ただ今回は別だ。この混ぜモノは使える﹂
﹁⋮⋮それなら、こちらもそれなりのお金を出すから売ってくれな
いかな?﹂
﹁やらんと言ってるだろ﹂
女性なら一度は夢見る憧れのシーンだろう。しかし私は2人の男
に取り合いされても全然嬉しくなかった。きっと2人とも、私と関
わりのないところで生きて欲しい人種だからに違いない。争うなら、
私と無関係なところで、無関係な話でお願いします。私なんて全然
役立ちませんよと心の中で叫ぶ。
何故こうなった。
とりあえずネロがただの海賊ではないという事は分かった。国家
権力と取引する海賊なんて普通じゃない。そして王子が何の理由も
なく自分の国の女性を攫わせる事もないだろう。
﹁⋮⋮騙された﹂
私は色々無駄な事をしていたのではないかと今更ながらに気がつ
いた。 131
7−1話 引きこもりな生活
引きこもりたい。
王子VS海賊なんて頭の痛いものを見せられて、私は逃げ出した
くなった。ああ。もし私が魔法使い、または魔術師ならば、簡単に
アスタのところへ帰って、引きこもりになれるのに⋮⋮。
ふとその考えは凄くいいように思えた。そうだ。魔法使いになれ
ば、こんな面倒事に巻き込まれずに、瞬時に逃げる事ができるはず。
﹁オクト、あいつら止めてくれ﹂
﹁⋮⋮嫌﹂
というか無理。関わりたくない。
私の事を話しあっているのは分かるし、ライの願いを叶えてあげ
たいが、近寄りたくない。巻き込まれたくない。私に自己犠牲精神
を求めても無駄だ。
﹁ちょっと、賢者様。君の事を話してるんだよ。何他人事みたいな
ふりしているの?﹂
﹁ん?賢者なのか?﹂
無理に話に加わらせないで下さい。
しかも賢者ってなんだ、賢者って⋮⋮。お前は私の事をいつもド
ールちゃんとかふざけた名前で呼んでいただろ。そう呼ばれたいわ
けではないが、賢者なんて恥ずかしい呼び方も止めてほしい。
﹁私は賢者じゃない⋮⋮です﹂
﹁でも、君のお父様にそうやって聞いたんだけど﹂
﹁へ?﹂ お父様?私の父は不明で⋮⋮お父様?!
脳内検索が、1件のヒットを導き出した。お父様と呼べなんて寒
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い事を言いだした魔族が確かにいた。
﹁アスタ?﹂
﹁そう。アスタリスク魔術師が、君が帰ってこないから仕事が手に
つかないとか言って、さぼるんだよ。だから正直、早く戻ってもら
いたいだよね。あの魔族、魔術師としてはかなり優秀だから、仕事
をしないのは困るんだよ﹂
アスタが私を待ている?
もしかしたらさぼる口実ができてラッキー程度の発言かもしれな
い。それでも私の事を忘れたわけではないという事だ。
﹁帰ります⋮⋮。帰りたいです﹂
そこに私の居場所があるならば、そこが私の帰る場所だ。
﹁ライが親はいないと言っていたが、嘘だったのか﹂
﹁⋮⋮嘘じゃない。アスタは私を拾ってくれただけ﹂
養子縁組を勝手にされているらしいけれど、細かい事は知らない。
実際アスタとの関係は親子は違うと思う。友人という関係でもな
い。主従という関係はアスタが否定している。あえてこの関係に名
前を付けるならば⋮⋮協力者だろう。
﹁少し遅かったというわけか﹂
﹁だからいい加減諦めてよ。そして早く僕からの依頼をこなしてく
れないかな?﹂
そういえば、そうだった。王子は海賊に、女性を攫う事を命令し
ていたのだった。何故という言葉が頭に浮かぶが、口には出さない
ように気を付ける。聞いてしまったら、おかしなことに巻き込まれ
るに違いない。ここは全力でフラグを回避するべきだ。
﹁それに賢者様は大きくなってからの方が、もっと面白くなると思
うよ。彼女の親は魔術師であり、この国の研究者だからね﹂
ぞわぞわと鳥肌が立った。面白くなるってなんだ。ここで縁が切
れたら、二度と関わるつもりないから。
﹁ふーん﹂
ネロはニヤニヤと笑いながら、値踏みするように私を見た。この
133
悪人めと罵りたいが、海賊にとってそれは果たして罵り言葉になる
のか。
﹁なら。将来就職する時は、俺のところに来い﹂
﹁海賊は、職業か?﹂
私の言葉にライが腹を抱えて笑いだしたが、そこは切実な問題だ
と思う。会社員ではないだろうし、自営業でもない。船乗りではな
く賊なのだから、ただの犯罪集団⋮⋮。
うん、やっぱり二度と近づかない。
﹁ああ。いい職場だ。仕方がないから待っていてやる。ただし出て
行く前に、料理長に先ほど話した予防方法を伝えておけ。それとラ
イに手伝ってもらって、紙にも残せ。それがお前を家まで返す条件
だ﹂
こうして、私はようやくネロとの交渉を終える事ができたのだっ
た。
◆◇◆◇◆◇
﹁先生。風邪引くなよ﹂
﹁先生、僕、先生が戻ってくるの待ってるっす﹂
いや、戻らないからね。
海賊って、人情が厚い奴が多いのだろうか。一緒に料理をした船
員や、病気を治した船員たちが私をぐるっと囲っている。
というのも、私がこれから家に帰る所だからだ。
134
ネロとの交渉の後、ご飯を食べ、すぐさま壊血病の予防方法を紙
に書く作業に取り掛かった。といっても、まだ文字を書く事が苦手
な私はライにかなりご協力いただく事になった。その間紙を何枚か
駄目にしてしまったが仕方がない事だと思う。早くこの世界でも鉛
筆と消しゴムを開発して欲しい。
1日かかって何とかできたそれを料理長に説明した時には、どっ
ぷり日が暮れてしまった。それでも何とか任務完了した私は、家に
帰る為に王子様の近くにいる。
﹁ほれ。新しい野菜だ。持って帰れ﹂
﹁ありがとう﹂
調理長に渡された買い物袋には、私がここに来る前に買った材料
と全く同じ材料が入っていた。腐ってしまうので確かにここで使っ
たが、まさか新しくもらえるとは。意外に律義な海賊だ。
﹁これも持っていけ﹂
ネロが麻袋に入った何かを私に投げた。野菜を下に置き、慌てて
受け取める。小さな袋だが、思ったより重量があった。危ないだろ。
頭に当たったらどうするつもりだ⋮⋮と思ったけれど、どうするつ
もりかはすぐに想像がついた。強制的に助けられて、助けたお礼を
せびられるんですね。分かります。
中身は何かと開いて、私は固まった。金貨や、宝石と思われるも
のが詰まっている。
﹁何、これ﹂
﹁ん?知らないのか。黄金色の物が金貨で︱︱﹂
﹁そうじゃなくて、何でこれを私に?﹂
この世界でも、金や宝石は高価なものだ。相場は知らないが、そ
れが一般庶民ではなかなか手に入らないものだという事くらいは分
かる。
﹁2週間の給料と、壊血病の情報料だ﹂
﹁多すぎる。こんなに貰えない﹂
135
﹁安心しろ。貰いものだ﹂
言葉は正しく使え。それは貰ったんじゃなくて、奪ったの間違い
だ。そんなもの、国家権力の前で見せていいのかと思うが、王子は
いたって平然としている。まあ海賊とお付き合いして、人攫いまで
させるぐらいクレイジーな王子様だ。盗品程度じゃ今さら驚かない
のだろう。
﹁それと王子。オクトの親に、情報の値段相場をきっちり叩きこむ
ように伝えておいてくれ﹂
﹁分かってるよ﹂
どういう意味だそれ。私がまるで価値観がずれているような言い
草だ。納得できないが、麻袋を突き返しても受け取ってもらえそう
にないので、鞄の中にしまう。
後から返せって言ったって、知らないからな。けっ。
﹁そろそろいいかい?賢者様﹂
﹁⋮⋮私は賢者じゃないです﹂
﹁ならなんと呼んだらいいのかな?﹂
﹁オクト。⋮⋮とお呼び下さい﹂
王子に手を引かれて、幾何学模様が書かれた場所へ移動する。野
菜はライが持ってくれた。流石に片手では運べないのでありがたい。
幾何学模様の中心に来ると、ライは荷物を私の足元に置いた。そ
して自身は模様の外へ出る。
﹁ライ、引き続き頼むよ﹂
﹁分かりました﹂
王子の言葉にライが膝を折る。
﹁我が名はカミュエル。我が声に答え、繋げ﹂
石墨かなにかで書かれただけの模様が、声に反応したかのように
緑に輝いた。
次の瞬間目の前からライや海賊たちが消える。それどころか先ほ
どまであった天井が満天の星空に変わってしまった。唖然として見
136
渡せば、目の前には見覚えのある宿舎があった。 帰って来たのだ。
そう理解できるまでに数秒かかってしまうほど、一瞬の出来事だ
った。
﹁転移魔法?﹂
たしかアスタも私を引き取った初日に使っていた。
﹁転移魔法には違いないけれど、今のは魔法使いでなくても使える
ものだよ。魔法陣に使用者の名前や情報、転移先が細かく書かれて
いて、式を間違えたりしなければ誰でも使えるかな。ただし開発段
階だから、誤作動がよく起こるんだよね。まだ実用には程遠いかな﹂
﹁誤作動?﹂
﹁多いのは体の一部だけが転移されえしまったり、移動先で上手く
体の構築ができないとかかな﹂
発動しないとかじゃないんだ。⋮⋮めちゃくちゃ物騒な魔法だな。
上手くいったからいいものの、できるならば、時間がかかっても
もっと確実な移動手段を選んで欲しかった。
﹁今みたいなものを、アスタリスク魔術師は開発しているんだよ。
さあ、お帰り。家で彼が待っているよ。本当は君ともう少し話した
いけれど、今日返さないと1カ月有給を貰うと言っていたからね﹂
﹁ありがとうございました﹂
私は王子に頭を下げた。できたら二度と関わりたくないが、彼の
おかげで助かったのも事実だ。下手したら、私は今頃海賊に強制ジ
ョブチェンジだった。笑えない。
﹁失礼します﹂
私は買い物袋を拾うと、部屋へ向かって歩いた。久しぶり過ぎて、
少しドキドキする。アスタは本当に私を迎え入れてくれるだろうか。
﹁そうだ。オクトさん﹂
﹁なんですか、王子?﹂
137
﹁僕の事は、カミュとよんで欲しいな。じゃあまたね﹂
一瞬で王子の姿が消える。きっと転移魔法だろう。今度は先ほど
と違い足元に魔法陣もない。カミュ王子は魔法使いなのだろうか?
しばらく誰も居なくなった場所を見つめていたが、意を決して私
は家へ向かう。
ようやくたどり着いたそこは、記憶と全く変わりなかった。当た
り前だ。まだたった2週間しかたっていない。でもたった3日で、
人生が変わってしまうことも私は知っている。
カミュ王子はアスタが私を待っていると言っていたが、今もそう
だろうか。もうどうでもいいのではないだろうか。私は混ぜモノで、
何にも役に立たない。
ぐるぐると駄目な可能性ばかりが浮かぶ。でもそうやって心の準
備をしなければ、もしだめだった時に私は精神を安定させていられ
ない。
ガチャ。
ドアの前で悩んでいると、先に扉が開いた。中から出てきたのは、
記憶と全く変わらないアスタだ。少しだけ驚いたように目を見張っ
たが、紅い瞳を細め、私を見下ろした。
﹁おかえり。遅かったな﹂
何気ない言葉だ。でもその言葉だけで、私は大丈夫だと思えた。
気が抜けると同時に体がくすれ落ちそうになる。思った以上に神
経が張っていたらしい。少しふらつくと、アスタが私の体を支えた。
﹁ただいま﹂
ようやく私は帰ってきた。
138
7−2話
ああ、引きこもり最高!
﹁ふーふーふーん♪﹂
私は鼻歌交じりにパスタを茹でながら幸せを噛みしめていた。1
週間ほど前まで海賊のお世話になっていたころを思うと、涙が出る
ほど幸せだ。本まみれの台所だけれど、私にはここが楽園に思える。
そして何より外出に恐怖を覚えた私が冷蔵庫や冷凍庫を魔法で作
れないのかとアスタに頼んだら、あっさり作ってくれた事も嬉しい
誤算だった。機能などを説明したら、魔法石を使えばできるとの事。
よく分からない原理を使ってはいるが、冷蔵庫と冷凍庫に変わりは
ない。アスタ様様である。おかげで、買い物も週1回行けば十分に
なった。生の肉や魚も簡単に使えるようになった事もありがたい。
駄目人間で結構。ニート生活最高!今なら声高々に言える。⋮⋮
褒められた事ではないが。
﹁オクト、おはよう﹂
﹁おはよう﹂
だらしなくあくびをしながら、アスタは寝室からやってきた。目
がまだぼんやりしているが、積み上げられた本に躓かないのは流石
だ。
﹁今日は何?﹂
﹁ナポリタンと、温野菜サラダとコーンスープ。もう少し待ってて﹂
パスタのお湯を捨てながら答える。いつもならば、アスタが起き
てくる時間にはでき上っているのだが、今日は珍しく早い。
﹁いいよ、ゆっくりで。それにしてもオクトが帰ってきてくれてよ
139
かったよ。この時間の食堂は混み過ぎていて行く気になれないし、
数週間どれだけひもじかったか。部屋で食べられるこの幸せ﹂
﹁そこは食堂に行け﹂
私の事を探していてくれた話しは少し聞いたが、この話を聞くと
娘として探されていたのではなく、飯炊き要員として探してくれて
いたように感じる。いや、やるべき仕事があって、頼りにされてる
のはいいことで不満があるわけではないのだけど。それでも何だか
微妙な気分になる。⋮⋮男を捕まえるには胃袋からという話を前世
かとこかで聞いたからだろうか。
﹁今更嫌だよ。起きてすぐ身支度して、混んでいる食堂でもみくち
ゃにされるあの辛さ。そして食べ終わったら、また着替えてから出
勤しないといけないって、馬鹿げてるだろ。そんな時間があれば、
俺なら寝るね。本当に貴族って面倒だよなぁ﹂
そもそも、自分で料理を作らず毎食外食できる事がすでにセレブ
的発言なんだけどなと思わなくもないが、実際セレブなんだから仕
方がない。もっとも王宮に仕えていてなおかつ宿舎を使っている人
は一人身男性が多いので、必然的に食堂が繁盛するのだけれど。
﹁そんなに嫌なら、使用人を雇えばよかったんじゃ⋮⋮﹂
﹁他人を入れるなんてもってのほか﹂
私も他人なんだけどなぁ。
そう思うが、ここで捨てられたら困るので黙っておく。今の私を
置いてくれそうな場所は、ようやく逃げ出せた海賊だけという事実
がつらい。
﹁何より、飯がマズイのは許せないだろ。美味しくなかった時の絶
望感といったら、一日やる気がなくなるよ﹂
作ってもらっておいて、その言い草はないだろ。
そもそも、私を引き取るまでは使用人に作ってもらう又は食堂で
の食事だったはずだ。それでも仕事をしていたのだから、仕事をさ
ぼりたいがための、いいわけにしか聞こえない。
新聞を読みならがらうだうだ言っている駄目親父を私は横目で見
140
ながら料理を進める。これで仕事ができるというのだから詐欺だ。
仕事仲間の人たちの心中お察しする。
﹁そうだ。右と、左どっちがいい?﹂
テーブルの上に料理を並べているとアスタが何やら封筒を取り出
した。どちらがいいというか、それが何かも分からない。⋮⋮私は
じっとその二つを眺めた。
﹁何それ﹂
﹁運だめしかな﹂
おみくじみたいなものだろうか?
右の封筒も左の封筒も真っ白で同じように見える。蝋に押された
印が唯一違うが、家紋など知らないので結局どこから届いているの
か分からない。
﹁さあどっち?﹂
﹁⋮⋮右﹂
ただどちらを選んでも嬉しくない事が待っていそうなのは何故だ
ろう。正直選びたくない。それでもにっこり笑顔で言われて、私は
しぶしぶ右を選らんだ。
﹁よし。じゃあオクト、ご飯食べたらドレスに着替えておけよ﹂
﹁へ?﹂
﹁7泊8日。豪華伯爵邸への旅、大当たり∼﹂
⋮⋮は?
ぽかんと私はアスタを見た。封筒から手紙を出しほらと見せてく
れるが、達筆過ぎて龍玉語初心者である私には読む事ができない。
﹁ちなみに左だったら、王子様と楽しむ夜会の招待状だったんだけ
どな。こっちは断り入れて置くよ﹂
﹁む、無理っ!﹂
﹁えっ?夜会の方が良かった?﹂
141
﹁違う。どっちも無理﹂
伯爵邸というのは、きっとアスタの実家の事だ。私は混ぜモノで
あるばかりか、アスタの婚姻を邪魔したという注釈までつく厄介者。
今のところ暗殺はまではされていないが、居心地は悪いに決まって
いる。そんなところで神経すり減らしたくない。
かといって、王子様と楽しむ夜会なんてもっての外だ。2度と関
わりたくないと誓いを立てている相手の夜会なんて何が起きるか分
からない。そもそも何がどうして、そんな招待状が届くの。混ぜモ
ノが王宮に入ってはいけないはずだ。というか、入れるな。
﹁そんな我儘言っちゃ駄目だよ。ほら、座って。まずは冷める前に
ご飯食べようか﹂
我がままの一言で片づけられるような話題ではないはずだが、ア
スタの言う通り、できたての方が美味しいので私も席に座る事にす
る。
﹁伯爵、つまり俺の親なんだけど、前々からオクトを連れてこいっ
て言ってたんだよ。ちょっと今回迷惑をかけたから、流石に断れな
くてね﹂
﹁迷惑?﹂
﹁些細な事だけどな。まあ、とにかく、一度ぐらいは挨拶しても罰
は当たらないだろ。俺も有給を使い損ねているから丁度いいしね﹂
﹁ならせめてもう少し早く言って欲しい﹂
確かに養子として引き取られているのだから、例え毛虫のように
嫌われていようとも、礼儀として一度は挨拶すべきだとは思う。思
うが、心の準備どころか、何にも準備もできていない。
冷凍庫は問題ないけど、冷蔵庫の中身は7泊8日はもってくれな
いと思う。精神的に疲れた状態で帰ってきて早々、とろけた野菜や
しなびた何かと対面したくはない。
﹁だって今決めたし。それに夜会でも旅行でも可能なように、今日
はわざわざ早起きして上司に有給出してきたんだよ。俺ってば偉い﹂
142
﹁物には計画というものがある﹂
無計画は威張れることではない。
そういえば、私を引き取った時も急だった。その日のうちに寝る
場所もないここへ連れてきた事を思うと、計画的とはとても思えな
い。座右の銘は無計画。それで人生上手くいくだと?⋮⋮禿げちら
せ。
﹁ちゃんと計画立ててるよ。旅行の場合は、着替えた後に伯爵邸に
転移するつもりだし。夜会の場合は夜が遅くなるから、これから2
度寝するつもりだったし﹂
そんなもの計画とは言わない。
﹁⋮⋮伯爵邸への訪問の返事は?﹂
﹁えっ。実家だし、いらないだろ﹂
駄目だコイツ。
いきなり泊まる人数を増やされて、慌ててベッドメイキングする
メイドさんや、食数を変更される厨房の方々の苦労がしのばれる。
﹁連絡、お願いします﹂
すでに私に対する好感度は、混ぜモノでマイナス。さらにいきな
り養女になって結婚妨害したことでマイナスと、マイナス続きだ。
これに無計画までプラスされたら、もう挽回の余地なしだ。そもそ
も挽回は無理かもしれないけれど、私の責任ではない所で常識無と
されてマイナスはされたくない。
﹁我儘だなぁ。まあいいけど﹂
我儘はどっちだと思うが、ここでツッコミを入れても話が進まな
い。アスタが行くと決めたら、行くしかないのだ。私はナポリタン
を食べながら、冷蔵庫の中身をどうするか考える事にした。
143
7−3話
﹃良ければ食べて下さい。いらなければ、捨てて下さい。アスタリ
スクの娘より﹄
私は隣の部屋の玄関前に常温でも構わない野菜や果物、そして夕
食用に作ってあった焼き菓子を置いておいた。本当は外に置くのは
気が引けるが、両隣とも奇怪な音や声がするので、声をかける勇気
が出ない。きっといらなかったら、処分してくれるはず。
何度か手紙を読み返して、誤字がない事を確認した私は部屋に戻
った。
﹁そろそろ行くよ﹂
部屋に戻ると、正装したアスタが椅子に座って本を読んでいた。
片づけは全て私1人で行っているのでとても優雅だ。ここで紅茶か
コーヒーでもあれば絵になるのだが、生憎すでに片づけを終えてい
るので、今更カップを出す気にはなれない。
ん?⋮⋮絵になるって、コイツ美形だったのか?!
今更ながらの発見である。いつも適当な服、または王宮指定の魔
術師の制服を着込んでいたので、全く気がつかなかった。
﹁どうした?﹂
美形で、金持ちで、将来性のある職業⋮⋮伯爵邸では、土下座を
準備しなければならないかもしれない。これならきっと、2度目と
はいえ、結婚話もかなりあったはずだ。
﹁えーっと、ああ。そういえば、息子さんもいるの?﹂
﹁アイツは学校だよ。今年院を卒業したら、伯爵邸に戻ると言って
144
いたな﹂
思っていたより大きな息子らしい。アスタが結構若く見えるから、
私と同じぐらいか少し上ぐらいの年齢だと思っていた。いや⋮⋮待
てよ。私は何か根本的な見落としをしているんじゃないだろうか︱
︱。
﹁準備はできたみたいだね。行くよ﹂
﹁へっ、ちょっと待って﹂
アスタに肩を叩かれる寸前に自分の鞄を手に取った。
そして次の瞬間目の前の景色が変わる。先ほどまで部屋の中にい
たはずなのに、目の前には大きな屋敷がそびえたっていた。その向
こうには山が見える。
私が今住んでいるアールベロ国は山に囲まれた地形をしていた。
それでも王都は平野であり、山などない。むしろ海が近いそうだ。
まだ一度も行った事はないけれど。
﹁山が珍しい?﹂
﹁珍しくはないけれど、王都と全く違うから⋮⋮﹂
﹁ここは王都よりも東に位置している場所だよ。あの山も含めてこ
の辺り一帯が、伯爵家の領地かな。この通り山も近いから、秋には
樹の神の恵みに感謝して大々的なお祭りをやるよ﹂
きょろきょろと見渡していると、アスタが説明した。
この国の貴族の役目は大きく2つに分かれる。領地を守りその土
地を治める公爵、伯爵。王都で王を守り政治を手伝う、男爵、子爵。
もちろん男爵が領地を持っていたり、公爵が政治に関わっていたり
もするが、基本はその形である。それについては、知識として知っ
ていた。しかし山も領地とは、伯爵というのは一体どれぐらいの規
模を納めているのだろうと遠い目になる。大きな屋敷は想定内だが、
領地まではあまり考えていなかった。
﹁良かったら、後で山も探索するといいよ。魔の森と呼ばれるとこ
ろ以外だったら、ちゃんと道もできているしね﹂
145
﹁魔の森?﹂
﹁そこに入ると、道に迷いやすいんだよ。だから魔の森と呼んで誰
も入らないんだ﹂
なるほど。きっと磁場が狂っている場所なのだろう。魔の森なん
て言うから、魔物が出るとかだったらどうしようかと思った。
ただ⋮⋮そもそもこの世界に魔物はいるのだろうか。RPGもど
きな世界だけど、魔物を倒して金貨やアイテムを得るってエグイし
なんだか嫌だ。それはゲームの魔物と同じく嫌われ者の立場だから、
余計にそう思うのかもしれない。
﹁おかえりなさいませ、アスタリスク様、オクトお嬢様﹂
突然ドアが開いたかと思うと、執事とメイドが屋敷から出てきた。
メイドさんの頭には獣耳があるが、アレは本物。思わずドン引きし
かけてしまったのは、思わぬ前世知識の伏兵だ。
﹁荷物をお持ちします﹂
アスタが荷物を渡したのを見て、私も渡すべきかと迷う。できた
らお守り達が入っているので、持っていたい。それにメイドさん達
も混ぜモノの荷物など持ちたくないだろうし⋮⋮。でもそれはマナ
ー違反になるだろうか。うーん。
﹁オクトの荷物は別にいいよ﹂
困惑していると、アスタが先に断ってくれた。どうやら荷物を渡
さなくても、タブーにはならないようだ。ほうと息を吐く。そうい
えば、アスタの家に引き取られてから、マナー的なものは何も教え
てもらっていない。⋮⋮これ、結構ヤバいんじゃないだろうか。
﹁かしこまりました。それではアスタリスク様、旦那さまがお嬢様
共々お呼びでございますので、ご案内いたします﹂
とうとうこの時が来たか。私はごくりと唾を飲み込む。
色々好感度がマイナス続きだったが、そこにマナー知らずという
マイナス項目が加わった。これはきっと土下座どころか、スライデ
146
ィング土下座レベルに違いない。ああ、私の人生終わった。
﹁オクト﹂
アスタは私の手を掴むと、ずんずんと屋敷の中へ進む。どうやら
二の足踏んでいた事が、ばれていたみたいだ。やってしまった。ど
んな理由であれ、混ぜモノの私を引き取ってくれたアスタに迷惑を
かけるわけにはいかない。たとえステイディンぐ土下座をする事に
なろうともだ。
﹁あっ、あの⋮⋮ごめ︱︱﹂
﹁心配しなくても大丈夫だから﹂
謝ろうとしたが、その言葉にアスタが別の言葉をかぶせてきた。
﹁オクトはただ隣にいればいいよ﹂
﹁⋮⋮そういうわけにはいかない﹂
確かにマナーも知らない自分は、これ以上粗相しない為にもあま
り話さない方がいい。しかしアスタに引き取られる事を最終的に決
めたのは私だ。ならば自分の口から謝罪をするのが筋というものだ
ろう。 ﹁オクトは堅いなぁ﹂
たぶん、アスタが緩すぎるのだと思う。
﹁こちら手前に段差がございますので、足元にご注意ください﹂
歩いていると執事が真面目な顔で教えてくれた。
⋮⋮まだ若いから大丈夫なんだけど。アスタも息子さんの話を考
えると、実は若づくりなおっさんな気がするが、足元が覚束ないほ
ど高齢でもない。
﹁あ、ありがとう﹂
色々ツッコミはあったが、とりあえずお礼を言う。
気の使いどころが若干おかしい気がするが、混ぜモノに対する嫌
悪感をおくびにも出さないとは、かなりできる執事だ。品良く飾ら
れた置物も高価そうだが、このサービス精神あふれた社員教育も馬
鹿にならないぐらいお金をかけているに違いない。流石、伯爵家。
147
﹁オクト。使用人に、礼とか言わなくてもいいから。まあ慣れない
だろうし、この家の中ならいいけど、外は駄目だからね﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
御礼も満足に言えないとは、貴族マナー難しすぎる。それにして
も、今までの人生の中での扱いと百八十度違う周りの対応が、恐ろ
しい。私、アスタに引き取られただけで何もしていないよ?
世の中ギブアンドテイクのはずなのに。あまり親切にされると、
何かあるのではないかと恐ろしく感じる。⋮⋮早々に帰って引きこ
もりたくなった。
﹁こちらの前で少しお待ち下さい。旦那さま、アスタ様とオクトお
嬢様がお見えです﹂
﹁通せ﹂
ドアの向こうから、渋い男性の声が聞こえた。
とうとう伯爵様とのご対面だ。手が汗ばんでくる。ぬるぬるした
らごめんと心の中でアスタに謝っておく。
部屋の中には、アスタをほんの少しだけ年を取らせたような魔族
が居た。髪の毛をオールバックにしてきっちり固めている為老けて
見えるが、皺とかを見るとアスタのお兄さんと言ってもおかしくな
いように思う。でもきっと彼が、アスタのお父様である伯爵だ。
﹁父上、ただいま戻りました﹂
アスタが敬語使っている?!
私は慌てて背筋を伸ばした。絶対粗相するわけにはいかない。
﹁⋮⋮そちらの娘が、例の子供か﹂
アスタと同じ紅い瞳が私を映す。そこには嫌悪もないが、好意も
なく、観察されているような気分になった。怖いんですけど⋮⋮泣
いていいですか?
﹁そうです。俺の娘の、オクトです﹂
アスタに紹介された私は意を決した。そうだ。泣いている場合じ
ゃない。こうなったら、やるしかない。大丈夫。私はできる子だ。
148
﹁このたびの事は、すみませんでした﹂
私は日本の文化、土下座をしようと、膝をついた。先に謝ったも
の勝ちである。
が、すぐにアスタに首根っこをつままれ持ち上げられてしまった。
これでは土下座ができないんだけど。
抗議しようとアスタを見れば、彼は凄くいい笑顔をしていた。で
も目が笑っていない。
﹁何をしようとしているのかな?﹂
﹁えっ?⋮⋮謝罪⋮⋮です﹂
無表情の伯爵様より、アスタの笑顔が怖い。泣きたくなったが、
ギリギリのところで堪える。なんとか敬語を使えたのは、自分で自
分をを褒めてあげたいくらいだ。
そんな私を見て、アスタは大きなため息をついた。
﹁何の謝罪だよ。いらないから。父上もオクトが怖がっているので、
いい加減笑って下さい﹂
そんな無理に笑って貰わなくてもいいですから。
アスタが抱っこする感覚で私を腕に座らせた為、伯爵様と目線が
同じになる。紅い瞳にじっと見つめられて、だらだらと冷や汗が流
れた。目をそらす事も出来ない。
﹁アスタ⋮⋮リスク様。別に、私は︱︱﹂
大丈夫ですと言おうとしたところで、伯爵様がニタリと笑った。
その笑みはどこか邪悪で、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
ああ、引きこもりができた生活が懐かしい。私は魔王のような笑
みに、そのまま気を失ってしまいたいと切実に思った。
149
8−1話 不思議な伯爵邸
﹁父上。オクトが、驚いていますから、悪人面は止めて下さい﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
驚いたを通り越し、いっそ恐怖を感じていたのだが、伯爵様の少
し残念そうな声を聞くと首をかしげたくなった。あれ?もしかして
いい人?
﹁本当よねぇ。この人、顔の筋肉が退化しているからごめんなさい
ね﹂
っ?!この人いつの間に?
喋りかけられた事で、初めて伯爵様のななめ右に女性が居る事に
気がついた。茶色の髪に紅い瞳をした細身の女性は、伯爵様やアス
タのような派手な顔ではない。不細工とかそういう事もなく、少し
垂れ目だなぁとは思うが、普通だ。あまり特徴のない顔立ちといえ
ばいいのだろうか。
﹁母上も、気配を消すのはおやめ下さい﹂
﹁あら、嫌だわぁ。私はそんな事してなくてよ。普通にここで立っ
ていただけよ﹂
﹁母上の普通は、俺らと違うんです﹂
普通に立っていたっけ?
記憶を探るが、伯爵様ばかりに気を取られて、全く記憶に残って
いない。良くも悪くも伯爵様が濃い方なので、余計影が薄く感じる
のだろう。アスタとはあまり似ていない母親だ。
﹁初めまして、オクトちゃん。私はアスタリスクの母親のウェネル
ティよ。ウェネお婆様って可愛く呼んでね﹂
⋮⋮訂正。彼女の性格が、まるっとアスタに引き継がれている。
150
﹁駄目です。まだ俺も、お父様って呼ばれてないんですよ﹂
﹁あらあら。アスタちゃんったら、とんだ甲斐性なしね。引き取っ
てから結構経つでしょうに﹂
﹁こちらにも色々あるのです﹂
伯爵様は、この頓珍漢な会話の間も、表情筋を崩さず、じっと私
を見ていた。表情筋が退化しているのは本当かもしれないが、伯爵
様の意図が見えない。
﹁あ、あの。アスタ⋮⋮リスク様。降ろしていただけないですか?﹂
できれば、伯爵の視界から消えたいですといいたいところだが、
それは無理だろう。ならばせめてまっすぐ見つめ合う状況だけは回
避したい。
﹁えー﹂
⋮何で渋る。痩せており、発育も悪いので、普通の5歳児よりは
軽いと思う。それでも、紙のように軽いかと問われればそうではな
い。降ろしてしまった方が楽だろうに。
﹁アスタちゃんが嫌なら、お婆様の方へ来ない?﹂
﹁⋮⋮ご遠慮します﹂
幼児扱いされるのは初めてではないだろうか。
正直、恥ずかしいよりも、どうしたらいいのか分からず困惑して
しまう。ウェネに何か思惑があるのかどうかも、まだ分からない。
﹁そう。残念だわぁ。娘はお嫁に行ってしまっていないし、アスタ
ちゃんもヘキサちゃんも、だっこさせてくれないし。男の子って嫌
ねぇ﹂
ウェネは小柄ではないものの、アスタより小さく細身だ。抱っこ
するのは体格的に無理なように感じた。
﹁そういう事を言うから、ヘキサも学校の寮に入るんです﹂
学校という事は、ヘキサさんというのは、まさか今年院を卒業す
るアスタの息子の事?!
いや、その人も物理的に抱っこは無理だと思う。このお婆様、色
151
々常識が吹っ飛んでいる。
﹁酷いわ。アスタちゃんはいつも私を苛めるんだから。オクトちゃ
ん、お婆ちゃまを慰めてぇ﹂
﹁とにかく、オクトも俺も長旅で疲れているんです。話がそれだけ
でしたら、失礼しますよ﹂
どうしても抱っこがしたいのか手を伸ばしてきたウェネに、アス
タはピシャリと拒絶すると、少しだけ距離をとった。もしかしたら、
アスタが私を抱っこしているのは、ウェネ対策かもしれないと気が
つく。でも、何で?
﹁待て﹂
伯爵が低い声でアスタの動きを止めた。伯爵様の視線は、私に向
いている。その紅い瞳が怖くて逃げ出したくなったが、ぎりぎりの
所で目をそらさず踏みとどまった。罵られたって仕方がないと覚悟
してここまできたのだ。
さあ、どんとこい。思う存分罵るがいい⋮⋮嘘です。少し手加減
してくれるとありがたい。
﹁私の名は、セイ・アロッロという﹂
﹁⋮⋮オクトと申します﹂
伯爵様が名前だけ言って、じっと私を見つめたので、慌てて空気
を読んだ。たぶん、名乗ればいいんだよね?間違っていないかドキ
ドキする。自己紹介が必要なら、名を名乗れと分かりやすく命令し
てくれればいいのに。ちゃんと空気が読めるかヒヤヒヤものだ。
﹁私の事はセイお爺様と呼びなさい﹂
⋮⋮貴方もですか。
私はアスタの腕の中で、どっと疲れを感じた。
152
◆◇◆◇◆
﹁貴族ってめんどくさい﹂
私は伯爵家2日目の朝にしてすでにうんざりしていた。
何故1日に何度も服を着替えさせられているのだろう。夜の寝巻
に着替えるのは理解できる。起きてから部屋用のドレスに着替える
まではまだ納得できた。しかしその後外出するわけでもないのに、
3時のお茶の時間に1度着替え、夕食時にまた着替える意味がわか
らない。アスタに言わせると貴族の女性は、お茶と夕食の間にもう
1度着替える事もあるそうなので、まったくもって理解不能だ。
貴族の方々に1度問いたい。何故着替えた?と。
これでは、着替えだけで1日が終わってしまう。しかし貴族の生
活はそれで構わないらしい。と言うのも、家事などは全てメイドや
執事がやってしまうので、家ではやる事がないのだ。なんて恐ろし
い生活。女性が唯一してもいいのが、刺繍又はレース編み。⋮⋮こ
れだけって、何、その拷問。
﹁私も働きたい⋮⋮﹂
やる事がない事が、これほどつらいとは。
いや、アスタとの生活でも感じていたけれど。仕方がないので、
文字の練習をしているが、つらい。そろそろ飽きてきた。かといっ
て、我儘を言ってメイドさんを困らせるわけにもいかない。一緒に
窓ふきさせて下さい何て言ったら、メイドさんが怒られそうだ。実
際、服の着替えの手伝いを断ったら、泣きそうな顔をされた。⋮⋮
あれは申し訳ない事をした。
文字の練習にも飽きた私は、紙を正方形に切って、折り鶴を折り
153
ながらため息をつく。これではボケそうだ。何か私でもできる事は
ないだろうか。
﹁そういえば、山に行ってもいいとかってアスタ言ってたっけ﹂
窓の外を見て、来た時にアスタが言っていた事を思い出した。
山で何ができるか分からないが、家の中でじっとして、文字の練
習を永遠としているよりはマシのように思えた。
﹃メイドさんへ。いつも、ありがとうございます。プレゼントです。
オクト﹄
手紙と折り鶴を机の上に置くと、私はドアの方へ向かった。1人
で窓から脱走という手もあるが、迷惑がかかる事も分かるので、正
式にアスタにお願いするつもりだ。安全運転第一。危険は冒さない。
それが誘拐された時に学んだ事だ。危険なフラグは全て叩き折るに
限る。
﹁オクトお嬢様、何かご用でしょうか?﹂
廊下に出ると、笑顔の執事にばったり会った。何故いる。
他意はないとは思うが、監視を付けられているように感じた。ア
スタが一人暮らしをするのもよく分かる。
﹁アスタ⋮⋮リスク様に会いたいのですが﹂
﹁アスタリスク様は、早朝から外出なされております﹂
何だって?
咄嗟に逃げやがったと思ってしまったのは、仕方がない事だと思
う。きっとここでの生活に耐えられなくなったに違いない。
さて、アスタがいないとなると、誰に外出の許可を取ったらいい
のだろうか。
﹁それとオクトお嬢様。我々に敬語は不要でございます﹂
﹁そう言われましても⋮⋮﹂
敬語で話されると、敬語を返さなければと思ってしまう。特に私
は、アスタの養子という立場だ。政略結婚にも使えない私では、今
後もずっと養子でいられる保証はない。そう考えるとあまり無茶は
154
できないように思う。いつか私も彼らと同じ立場⋮⋮むしろ混ぜモ
ノである私は、彼ら以下になる可能性大だ。その時、今無茶をやっ
た事が巡り巡って私に返ってくるとも限らない。
うん。礼儀は忘れちゃいけない。
﹁あの。少し山へ散策に行きたいのですが、どうしたらいいですか
?﹂
濃い緑の髪をした執事を見上げると、小さくため息をつかれた。
敬語はそんなに駄目ですか?
﹁⋮⋮旦那様に許可をいただくのが一番かと思います﹂
マジか。
いきなりボス対決とはついてない。外出を諦めるべきかと思うが、
アスタと明日会えると限らなければ、会いに行くべきだろう。いく
ら引きこもり生活が好きでも、至れり尽くせりでやる事なし生活は
拷問だ。1週間これが続くのは勘弁したい。
﹁分かりました。伯爵様はどちらに見えますか?﹂
﹁ご案内させていただきます﹂
執事が礼をしたので、慌てて私も礼をし返すと、また困った顔を
された。もしかして、これも駄目ですか?
⋮⋮本当に貴族ってめんどくさい。
155
8−2話
思った以上にに軽々と難関を抜けました。⋮⋮おや?
外出したい旨を伯爵様に伝えると、あっさりと許可が下りた。仕
事が忙しいようで、机に張り付いてこちらを見なかったけど、たぶ
ん大丈夫なはず。﹁ああ﹂は肯定だよね。天気をを聞いても同じよ
うな返答をしそうだったけど。
混ぜモノがウロウロするのは外聞も悪いだろうし、反対されるか
なとも思っていたのでありがたい。
﹁きっと、アスタリスク様が事前に伯爵様にお願いして行かれたん
だと思いますよ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁アスタリスク様は、先を読んで動かれる方ですから﹂
⋮⋮ん?アスタってそんなに君子みたいな人だっけ?頭は良いの
は確かだけど。
どうやら、親馬鹿ならぬ、使用人馬鹿フィルターがこの執事には
かかっているようだ。私の知っているアスタは、片付けと家事がで
きず、無計画の権現。先を読むって、嘘を付け。
﹁そう⋮⋮ですか?﹂
夢は壊してはいけないだろうと私は曖昧に返事した。夢を見るの
は個人の自由だ。
﹁ええ。昔から神童と呼ばれていた賢いお方です。この伯爵家は過
去に経済的に苦しい時期がありました。しかしアスタリスク様が王
都での魔術師になる事を選び、その知識をこの地域の発展に生かし
て下さったおかげで、立て直す事ができたんですよ﹂
我儘かと思ったが、意外にいい奴だ。
156
ただしここにも、フィルターがついている可能性は高い。自分勝
手にやりたいから王都で魔術師になり、伯爵家がつぶれると自分も
大変だから、知識を横流した⋮⋮。何でだろう。こっちの方がしっ
くりきてしまう。
﹁へぇ。そうだ。あの、外出するにあたって、服を着替えたいんで
すけれど﹂
﹁はい。どのようなドレスがよろしいですか?﹂
﹁いえ、ドレスではなくて、できれば男物。そろうなら、この辺り
に住む子供と同じものがいい⋮⋮ですけど⋮⋮﹂
執事の顔が、凄く残念そうだ。
でもドレスを着て山を歩くなんてもっての外だし、貴族と分から
ない方が誘拐の心配もなくて安全だと思う。それに山を登るなんて、
汚す可能性が高いのだから、あまり良いものでない方がいい。
﹁あの、駄目ですか?﹂
﹁⋮⋮分かりました。ただし今すぐの準備ですとヘキサグラム様の
お下がりとなりますが、よろしいでしょうか?﹂
﹁はい。無理を言ってすみません﹂
﹁謝るならば、言わないで下さい﹂
ですよね。
そう思うが、ドレスでない服が欲しいのだから仕方がない。部屋
の中でじっとしている分には、ドレスでも別に構わないのだが、動
こうと思うと重いし、裾を踏みそうだしで不便なことこの上なかっ
た。
﹁では持ってまいりますので、お部屋でお待ち下さい﹂
﹁お願いします﹂
私が頭を下げると、執事は苦笑いをした。
どうも私は貴族には向いていない気がする。元々貴族ではなく、
旅芸人の子供なので仕方がないんだろうけど。
157
部屋に戻ると、ぐちゃぐちゃになっていた机の上が綺麗に片付い
ていた。どうやらメイドさんが掃除をしてくれたようだ。手紙と折
り鶴にも気がついてもらえたみたいでなくなっている。スルーもし
くは、ぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨てられている可能性もあった
ので、ほっとした。きっと掃除をしたのは優しいメイドさんだった
のだろう。
﹁⋮⋮何だか悪い方向ばっか考えるようになってるな﹂
捨てられる前提で考えてしまうって、いささか卑屈になりすぎで
はないだろうか。でも期待して裏切られた時の絶望はもっとも恐ろ
しい。混ぜモノの暴走は一体どのレベルの絶望で起こるものなのだ
ろうか。何か文献があればいいのだが、あったとしても私の語学レ
ベルだと理解するのは難しいように思う。ちなみに現レベルは、幼
児用の絵本⋮⋮。やはり勉強あるのみか。
ベッド脇に座りながらため息をついた。道のりは長い。
気分を変えようと、鞄からクロのサインを取り出す。初めは模様
にしか見えなかったソレが、最近何とか文字だと理解できるように
なった。少しだが進歩はしている。
﹁今頃クロは何しているんだろ﹂
眺めていると、少しだけ一座にいた時の事が懐かしくなった。あ
の頃の方が良かったとは言わない。それでも楽しくなかったわけで
もない。
クロと挨拶もできないまま別れたのは、お互い泣かずに済んで良
かったのかもしれないとは思う。下手に泣いたら未練が残ったはず
だ。それでも、せめて手紙のやり取りができるようにしておけば良
かった。クロ達は旅を続けるような事を言っていたので、実際は私
が手紙を受け取る事しかできないだろうけれど。
﹁今日も一日、何もありませんように﹂
願掛けをし終わると、私はなくさないように鞄にしまった。この
間願いを裏切って、人攫いに会うなんて事もあったのであまりお守
158
りとしては、効き目がないかもしれないけれど。でももう、あんな
事は早々ないだろう。
﹁オクトお嬢様、入ってもよろしいでしょうか﹂
ノック音と共に、メイドさんの声が聞こえた。返事をすると、緑
の髪に犬っぽい獣耳がついた女性が入ってきた。その手には、綺麗
に畳まれた服がのっている。
﹁わざわざ、すみません﹂
慌てて立ち上がり、メイドさんの方へ私は近づいた。
﹁いえ。この程度の事、謝らないで下さい。仕事ですから。それよ
りも、オクトお嬢様。いただいた、これの事なんですけれど﹂
メイドさんはポケットから折り鶴を取り出した。鶴がどうかした
のだろうか。
あっ。もしかして、捨てるに捨てれず困っているのかもしれない。
養子とはいえ、アスタの娘。つまりは貴族の娘だ。例えゴミにしか
思えなくても、無下にもできなかったのだろう。
それは悪い事をした。確かに、折り鶴を貰っても何かに使えるわ
けでもないのだ。この国は箸文化ではないので、箸おきにもできな
い。
﹁迷惑かけてすみません。捨てて下さい﹂
せめてハンカチに刺繍とか、そういう実用的なものにすれば良か
った。⋮⋮やり方が分からないので、誰かに教えてもらわなければ
いけないけれど。
﹁いいえ。捨てません。迷惑なんてとんでもございません!!﹂
メイドさんが大きな声を出した事に私はびっくりする。女性もは
したないと思ったのか、こほんと咳をして、顔を赤く染めた。
﹁あ、あのですね。これはまるで、紙でできているように思いまし
て。同僚とどのように作ったのか首をかしげていたのです。どちら
かの、工芸品ですか?﹂
﹁えっ。ああ。それは私が紙を折っただけ﹂
159
何だ。邪魔というわけではなかったのか。にしても、工芸品とは
⋮⋮。リップサービスありがとうございます。少し大げさすぎて恥
ずかしいけれど。
﹁オクト様が作られたのですか?!これを?!﹂
﹁はあ﹂
それにしても大げさに驚くメイドさんだ。あ、あれか。子供は褒
めて伸ばすみたいな。伯爵家の教育方針が、ゆるくて大変ありがた
い。アスタを見ていると、厳しくて鞭ばかりな躾けではないとは思
っていたけれど。
﹁良かったら、教える⋮⋮教えますが﹂
一瞬敬語を使い忘れたが、すぐさま元に戻す。メイドさんが少し
フレンドリーになった気がして、危うくつられる所だった。
﹁是非、お願いしますっ!!﹂
﹁えっと。いつがいいです?私は、いつでも大丈夫⋮⋮です﹂
﹁散策の後で、構いません﹂
山の散策どうしようかなとちらっと考えていたのを見抜かれたみ
たいだ。まあ折り鶴くらいなら簡単だし、教えるのもそれほど時間
はかからないだろうけど。
﹁なら、それで﹂
﹁オクトお嬢様は他にもこういったものが作れるのですか?﹂
脳内検索をすると、数点思い出せた。もっとも箸袋は文化的に使
えないし、手裏剣も何か分かってもらえなさそうなので、それほど
種類は多くない。
しかしメイドさんは妙に目をキラキラさせている。褒めて伸ばす
にしてもサービス精神旺盛すぎないだろうか。若干、怖い。
﹁えっ、あの⋮⋮少しだけ﹂
﹁分かりました。メイド全員にそのように伝えておきますね︱︱﹂
﹁やめてっ!そんなに凄い事じゃないから﹂
まるで公演でも開かせるような勢いに、私は悲鳴を上げそうにな
160
った。メイド全員って何?これは新手のイジメだろうか。説明して、
この程度みたいな感じで鼻で笑われるとか?そういう流れですか?
慌てて止めると、メイドさんは困ったような顔をした。
﹁えっと、少人数でお願いします﹂
﹁そうですか。なら、オクトお嬢様の迷惑にならないよう、選抜し
ておきますね﹂
﹁あ⋮⋮はい﹂
選抜って何?と思ったが、これ以上聞く事は私がつかれそうだ。
メイドさんを驚かせれそうな折り紙は、折り薔薇ぐらいなのが正直
心に痛いが、1個でもネタがあるだけマシだろう。大丈夫。もしイ
ジメだとしても乗り越えられるはず。
﹁あの、服いいですか?﹂
﹁ああ。遅くなり申し訳ございません。お着替えのお手伝いは⋮⋮﹂
﹁大丈夫です﹂
メイドさんは残念そうな顔をしたが、後ほど来ると言って一度外
へ出て行った。
﹁つ、疲れた﹂
メイドさんを見送ると、私はぽすっと音を立ててベッドに座った。
山に行く前から、ぐったりとしてしまう。肩を落として、深く息を
吐くと、ようやく人心地つけた。褒めて伸ばすは、行きすぎると羞
恥系拷問だという事を初めて学んだ。
161
8−3話
本当にいいのかなぁ。
1人外を歩きながら私は首をかしげた。というもの、伯爵邸から
外に出る時に、できれば1人で散歩に行きたいと使用人の方々にお
願いすると、あっりOKされたからだ。
とてもありがたいのだけど、私は一応5歳だよなぁと思ってしま
う。それともこの世界の貴族は5歳で1人外出してもいいのだろう
か。そういえば、アスタも私が買い物に1人で行くのを咎めなかっ
た。放任主義なのか、それだけ子供の成長が早熟なのか。
﹁どちらにしろ、貴族の子供って大変だな⋮⋮﹂
そういえば執事やメイドさん達も、私の子供らしからぬ発言に、
特に驚いた様子もなかった。つまり貴族の子供は早熟である可能性
が高い。いやいや、私の場合は前世の知識のおかげであり、本当に
そうなら、貴族の子供はチート過ぎる。しかしアスタは異界屋で会
っていたから私に対する前知識があったが、執事達は違う。普通こ
んな子供がいたら怖いだろう。
ただし驚かないのは、彼らのプロ根性というのも否定できないけ
れど。
しばらく歩いていくと、周りが畑になってきた。キャベツのよう
な作物や、何かの苗が色々なものが植わっている。どうやらここは
田舎の農村のような地域みたいだ。遠くで動物の鳴き声が聞こえる
ので、畜産もおこなっているらしい。
畑にいた何人かはちらりと私を見ると、慌てて目をそらした。き
っと混ぜモノである私が怖いのだろう。
﹁おお。久々の正しい反応﹂
伯爵家にいると、どうも混ぜモノである事を忘れてしまいそうな
162
対応をされる。本来怖がられるのは嫌な事のはずなのに、まともな
反応に感動してしまいそうになった。そう、普通の反応はこれだ。
ここに嫌悪が含まれた視線とか噂話が入ってくると、ますますい
つも通りだ。⋮⋮Mではないので、そうされるのが好きなわけでは
ないけれど。
﹁よう。やっと外に出てきたのか﹂
﹁アスタ﹂
しばらく畑を見渡しながら歩いていると、村人と話をしているア
スタに出会った。やっとって、私が伯爵邸から出てくるとは思って
いたらしい。だったら一緒に連れてきてくれればいいのに。
﹁ちゃんと、男物の服を着てきたな。偉い、偉い﹂
アスタは私の頭をがしがしと遠慮なく撫ぜるが、釈然としない。
﹁行くなら、誘ってくれれば﹂
﹁ちゃんと自分で話ができるんだから、行きたいならちゃんと口で
言って、どうするか考えないとね。俺が全部決めたら、使用人とさ
えいつまでも話さないだろ?﹂
それは確かに間違いない。
人とあまり関わりたくないという意識は正直ある。例えばアスタ
が、本を読めと持ってきたり、これをやれと宿題を出したら外へは
出なかったはずだ。あれだけ暇で、なおかつアスタが近くにいなか
ったからこそ、仕方がなく伯爵に外出許可を貰ったりと自分で動い
た。
﹁⋮⋮面倒で放任しただけじゃ﹂
﹁そこは﹃お父様凄い。ありがとうございます﹄だよ。可愛くない
ぞ﹂
﹁可愛くなくて結構﹂
私の為という事は少し理解したが、5歳児に対して少し酷な気が
する。私でなければ、泣いているところだ。もっとも私のような混
ぜモノでなければ、子供らしく使用人や伯爵様に甘えたかもしれな
163
い。そう思うと、やはり私が色々と駄目なのだろう。
﹁嘘嘘。可愛い、可愛い﹂
﹁いや、可愛くなくてもいいから﹂
拗ねたとでも思ったのか、アスタが言い直すが、私的には可愛く
なくて問題ない。可愛いと何か得があるのだろうかと考えるが、得
があるのは普通の子供だけだ。混ぜモノにそんな特典がついても意
味がない。
﹁アスタリスク様、そちらの混ぜモノは一体⋮⋮﹂
﹁ん?俺の娘﹂
﹁違う。養子﹂
﹁同じじゃないか﹂
アスタが唇を尖らせたが、私は首を横に振った。混ぜモノの親な
どという不名誉をアスタに負わせるわけにはいかない。折角拾って
くれたのだから、実際はどうであれ、混ぜモノさえも養子にする慈
悲深い方とでも思わせた方がいいだろう。
さて、ここに長居しても村人に悪い。早々に山に行くべきか。⋮
⋮しかし山も山菜とかの収穫で、誰かいるかもしれない。そうする
と人があまり近寄らない場所に行くべきか。
﹁アスタ、少し散歩してくる﹂
そういえば魔の森は、誰も近寄らないような事を言っていた。奥
まで入ると迷う可能性はあるが、近場なら丁度いいのではないだろ
うか。
﹁何処に?﹂
﹁⋮⋮そのあたり?﹂
実際魔の森が何処にあるか分からないので、ふらふらと人気がな
い場所を探すつもりだ。人気がない場所は危ないイメージもあるが、
こんな農村ならば事件もありそうにない。
﹁山は流石に一人じゃ危ないかな。一緒に行くよ﹂
164
﹁私は大丈夫。アスタ、用事があるんじゃ﹂
﹁村は一通り見てまわれたから大丈夫だよ。後は、また明日﹂
いいのか、それで。
自分としては、アスタの仕事を邪魔する事は不本意だ。私は養わ
れている身なのだと思うと、邪魔になる事は極力したくない。
﹁1人で大丈夫﹂
﹁駄目。もう決めたから。じゃあ、俺と一緒なら大丈夫だし、魔の
森へ行こうか。1人ではまだ行ってはいけない場所だから覚えてよ﹂
げっ。バレた?
たまたま偶然かどうかはわからないが、行ってはいけないと言わ
れていた場所なだけに、冷や汗がでる。アスタはにっこりと笑って
いるので、どういうつもりかは分からない。
﹁アスタリスク様?!﹂
﹁大丈夫だよ。奥までは行かないし。折角だから、薬草を取ってく
るよ。籠貸して﹂
村人までも心配そうにしているが、アスタは気にした様子がなか
った。それどころか、籠を強奪する始末だ。何処までも無計画な自
由人である。
﹁オクト行くよ﹂
アスタに手を引かれて、畦道を歩く。迷子にはなりそうにもない
が、アスタから手を握ったのでされるがままにしておく。
しばらく歩くと、周りの木々が増えてきた。ひんやりとした空気
が髪を撫でていく。山などは通り過ぎるもので、こんなにゆっくり
と見た事はなかった。私の身長が低いからだろうが、どの木も大木
に見える。
﹁この先、村の西はずれにある場所が魔の森と呼ばれる所だよ﹂
緑はどんどん深く、そして静かになっていく。神秘的と呼ぶにふ
さわしいような場所だった。大木が連なっており、光は木の葉の隙
間からさす程度で少し薄暗い。
165
しばらく歩いた所で、アスタは足をとめた。
﹁ここまでは、1人で来てもいいよ。村人もたまにここまでは来る
から﹂
﹁嫌われた場所なんじゃ⋮⋮﹂
それとも嫌われているのは、森の中だけなのだろうか。それにし
ては、まわりに民家など見当たらない。
﹁子供たちや老人が薬草をとりに来るんだ。以前に比べれば作物も
良く育つようになったけれど、まだ裕福からは遠いからね。薬師に
はとても安く買いたたかれてしまうけれど、少しでも家計の助けに
なろうとしているんだ﹂
偉いよなというアスタは、少し悔しそうに見えた。
彼でもこういう顔をするのかと少し驚く。いつもへらへら冗談ば
かり言っているのだと勝手に思ってた。
﹁薬は安いものなの?﹂
﹁いや。とても高価で、村人は買えないよ。薬草を加工する段階で
とても価値がつくんだ。でもまだこの村はいい方かな。薬草はある
から、すりつぶして飲んだりしている。もちろん、薬師が作った薬
ほどの効果はないけれどね﹂
この世界⋮⋮は良く分からないが、少なくともこの国は抗生剤な
どという薬はでき上っていないだろう。海賊の船長も菌というもの
を知らなかったのがいい例だ。もちろん、パンがあり、チーズがあ
り、ヨーグルトも存在しているので、菌を全く活用しない生活では
ないのだけれど。
ともかくこの国でいう薬は薬草なのだろう。もしかしたら薬草に
結構凄い効能がある可能性もある。RPGだって、よく分からない
草をよく分からない技法を使って、フラスコに入った万能薬にして
いた。この世界がそちらに近い可能性だってある。
﹁でも薬草を取りに来て帰ってこれない事もあるんだ﹂
安く買いたたかれたり、効果の低い治療の為に命を落とす事もあ
166
るのか。⋮⋮アスタが悔しそうなのも少し分かった。彼は彼なりに
この村を愛しているのだろう。
﹁なら、村で薬を作れば⋮⋮。薬師達は、何処で学ぶの?﹂
﹁魔法学校または、薬師を師として学ぶようだよ﹂
ん?魔法学校?
それは確か、魔術師の卵が通う学校ではなかっただろうか?
﹁なら、アスタは作れる?﹂
﹁専攻が違うから無理だな。薬の分野は、高等科に進学後、魔法薬
学科の生徒が習うんだ。俺は魔法学科だから、純粋な魔法の研究分
野に特化しているんだよ﹂
何だか大学みたいだ。確かに薬学部の内容を教育学部が知るはず
もない話である。
しかしふといい考えが浮かんだ。ここは薬草が豊富な土地で、薬
草は薬になると高価な値がつく。そして私は、転移魔法などを常々
覚えたいと思っていたのだ。
﹁アスタ、あのさ︱︱﹂
﹁どけぇぇぇぇっ!!﹂
今思った事を伝えようとしたところで、頭上からどなり声が聞こ
えた。アスタに引っ張られる形で、私は後ろに少し跳んだ。
そしてすぐに、どさりという音と共に、さっきまで立っていた場
所に人が落ちてくる。1人、⋮⋮いや、2人だ。時間差で、さらに
もう1人落ちてきた。体格はあまり大きくないようで、子供のよう
だ。
村人かなと思ったが、すぐにそれを否定する事になる。最初に落
ちてきた子供の髪は赤茶。2番目に落ちてきた子供はキャベツ色。
﹁な、なんで︱︱﹂
﹁よう。元気だったか?﹂
﹁久しぶり﹂
167
ヘラっと誤魔化すように笑う2人を見て私は固まった。
どうしてここに、ライとカミュ王子がいるのだろう。
168
9︲1話 不穏な噂
ある日、森の中、王子様に出会った⋮⋮なんでやねん。そこは熊
だろ。
脳内でノリツッコミしている時点で、すでにかなりテンパってい
る。もう2度と会わない、会うものかと思っていた相手に遭遇した
のだ。仕方ないと思う。
それにしても偶然会うような場所ではない。その理由を考えると
頭痛がした。
﹁このような場所へどうされたんですか?﹂
私が焦っている横で、アスタが2人に声をかけた。その顔には、
すでにエセ笑顔が張り付いている。
﹁どうしたもこうしたも、アスタリスク魔術師とオクトに会いに来
たんだけど⋮⋮何でこんな場所につくんだ?﹂
﹁そうだね。アロッロ伯爵の庭に出ようと転移したはずだけど⋮⋮﹂
転移と言う事は、二人とも魔法使いもしくは、魔術師と言う事だ。
カミュ王子は海賊からアスタのところへ送ってくれた後にさらに転
移していたから驚かないが、ライもそうだったのか。⋮⋮関わりた
くない。
2人を見て、アスタは厭味ったらしく大きなため息をついた。
﹁まだお二人は学生の身。転移魔法は早いと思われますが。特にこ
の地域は、魔の森があり魔法のゆがみが出やすい地域です。その事
を計算に入れましたか?﹂
﹁えーっと⋮⋮入れてないかな。と言うか、その敬語止めてくれ。
怖いんだけど﹂
﹁誰かに見られそうな場所で第二王子様に不敬など行えませんよ﹂
169
アスタ、魔の森にはほとんど誰も近寄らないって言ってたよな。
しかし私はその事を口にせず、彼らのやりとりを見守った。自分に
とばっちりが来るのはごめんだ。
﹁第二王子はカミュで、俺関係ねえし⋮⋮﹂
ですよね。
しかしアスタはライの事を無視し、カミュ王子に話しかけた。
﹁それと地域特性を見極められないなら、転移魔法は使うべきでは
ありません。この地域以外にも、もっと厄介な場所だってあるので
すよ。自分で危険を招くのは自業自得ですが、その為に使用人が処
分されている事をお忘れなく﹂
﹁忠告ありがとう。肝に銘じておくよ。ただ、アスタリスク魔術師
が夜会の招待状を断らなければ、僕たちもこんな無茶はしなかった
んだよね﹂
とげとげしい空気に耐えられなくなって、逃げたくなった。しか
しアスタに手を引かれているため、移動はままならない。
﹁こちらにも色々と都合があるんですよ。それに今回は娘が私の父
に会いたいと言ったもので、やむをえずお断りしたのですけれど﹂
待て。私は会いたいと選んだのではなく、右か左か選んだだけだ。
それもそれが何かも伝えられずに。それが何故、家族愛チックな話
になるのだろう。
﹁でももう会えたから良いでしょ?それに僕の勘違いでなければ、
アスタリスク魔術師なら、転移を1日に何度でもできると思うんだ
けどね。伯爵に会ってから、夜会へ出席すれば良かったのに﹂
﹁まだ娘が小さいものでね。それほど無理はできないんですよ﹂
にこにこにこ。
にこにこにこ。
何故両者笑顔なんだろう。そして何故笑顔なのに、寒さを覚える
のか。
﹁ライ⋮⋮どうしてここに。海賊は?﹂
170
私は成り行きを見ているのにも疲れ、寒々しい二人から少し距離
を置いているライに声をかけた。もっとも距離を置いているといっ
ても、特に気にした様子もないので、声をかける相手としては、5
0歩100歩な選択肢かもしれない。
﹁ああ。ちょっと問題が起こってな。それでオクトに協力︱︱﹂
﹁嫌﹂
﹁聞く前から断るなよ。海賊の中では仲良くやっていただろ﹂
ライの事は正直嫌いではない。ただ私は安全安心に生きていきた
いので、厄介事と思われるような事に首を突っ込みたくないのだ。
﹁それに不都合がでたのは、オクトの所為でもあるんだからな﹂
﹁何故?﹂
勝手に人の所為にしないで欲しい。
私は特に彼らにとって問題ある行動などとっていないはずだ。海
賊の所から戻った後は、家で引きこもる事に専念していたので、危
険な橋など渡っていない。
﹁その事について、内密に話がしたいところでね。アスタリスク魔
術師、場所を用意してもらえないかな﹂
アスタと話をしていたはずなのに、王子が口を挟んできた。内密
とか、絶対聞きたくない話に決まっている。アスタの顔には﹃馬鹿
だなぁ﹄と書いてある。うん。私もそう思う。しかし王子が命令す
れば聞くしかないだろう。アスタに任せて、追い返してもらえばよ
かった。
口は災いのもと。分かっていたはずなのに。
﹁伯爵邸に戻りましょうか﹂
私はがっくり肩を落とした。 171
◆◇◆◇◆
﹁どうぞ﹂
椅子の上に登って紅茶を入れるという、マナーも優雅さも何もな
い状況を繰り広げながら、ようやく私は4人分のお茶を入れる事が
できた。この4人の中でお茶を入れるべきは私だろうと空気を読ん
だのだが、幼児の体格だとこの作業は結構大変だったりする。
何故お茶が欲しいなら使用人を下がらせる前に入れてもらわなか
ったんだろう。人払いするにしても、お湯を持ってきてもらうだけ
じゃなくて、色々やってもらってからにすればいいのに。
﹁オクトって、本当に何でもできるよな﹂
﹁自慢の娘なものでね﹂
いつまで親馬鹿設定で行くつもりなのだろう。笑顔で紅茶を飲む
アスタを睨みつけながら、私も椅子に座った。
口調は敬語から普段と変わらないものになっているので、アスタ
と彼らは思ったより親密な関係なようだ。それでも親馬鹿設定を崩
すつもりがないのは、まるっきり気を許しているわけではないとい
う事か。それとも何かを断る時の言いわけとして使う予定なのか。
⋮⋮分からない。
﹁それであんな無様な登場をして、何の用だい?俺も久々の里帰り
で忙しいんだけど﹂
どの口が言うんだ。
忙しいなら私の散歩何かについてこなければいいのに。きっと話
を有利に持っていく為の方便なんだろうけれど。
﹁オクトさんを見つけて君の所へ戻してあげた恩人に、それはない
んじゃないかな?﹂
﹁俺は有給をくれと言ったんだ。場所はすでに伯爵家が見つけてい
172
たからね。それに借りは仕事で返したと思うけどね。カミュエル王
子様?﹂
⋮⋮ん?もしかして私は色々アスタに迷惑かけていた?
もしかしたら、伯爵家に行くのは初めから決まっていたのかもし
れないとこの時になってようやく気がついた。確か急遽行く理由は、
迷惑をかけたから。⋮⋮それの主語は﹃私が﹄ですか?!
さあぁぁぁっと血の気が引く。
今さらだけど、謝るべきだろうか。自由気ままなアスタが私の為
に不自由したのは間違えない。
﹁あ、あの。アスタ︱︱﹂
しかし私が言う前にアスタは頭を2度ほど軽く叩いた。気にする
なという意味だとは分かったが、そういうわけにはいかない。
しかしアスタは私ではなく、カミュ王子を見ていた。この件は後
にした方がよさそうだ。
﹁確かにね。鉱物への魔法添加は確かに以前より効率が良くなった
しね。兄上が軍事で採用するはずだよ。だから今日は正式にアスタ
リスク魔術師とその娘オクトに依頼をしようと思って来たんだ。報
酬も払うつもりだよ﹂
﹁5歳児に依頼?そんな横暴は聞けないね。帰ってくれないかな?﹂
﹁5歳児?!﹂
ライが素っ頓狂な声を出した。
私の体格はどこからどう見ても5歳児だろう。若干発育が悪いの
でもう少し下に見えるかもしれないが、驚くほどではない。
﹁へぇ。しっかりしているし、僕らと同じぐらいかと思っていたよ﹂
﹁それはない﹂
もしもそうならどれだけ発育不全なんだよ。ツッコミどころ満載
だ。カミュ王子達も確かに子供だが、10歳はいっているだろう。
173
﹁なら5歳なのに、壊血病とか料理とか色々知っていたのかよ?!
どんな頭してるんだ?﹂
﹁オクト、どういうことかな?﹂
﹁えーっと﹂
そういえばアスタに海賊では下働きしていたとしか伝えてなかっ
た気がする。実際先生と呼ばれていた事以外は、下働きとそんなに
変わらないと思うけれど。
﹁オクトは見事な才能で、誰も治す事の出来なかった、海の精霊の
呪いを治したんだよね﹂
きっとカミュ王子はライに聞いたのだろう。
それは分かるが、何故伝える?!アスタの機嫌が下降しているの
が、喋らなくても分かった。
﹁あー、そんな事もあったような⋮⋮﹂
﹁ふーん﹂
故意に黙っていたわけじゃなくて、話す必要性を感じなくて黙っ
ていただけなんだけど。何故私が責められる空気になっているのだ
ろう。
﹁とにかく。例え5歳としても、貴族ならばこの国の為に働くべき
だとは思わない?オクトはどう思う?﹂
わ、私に振るなっ!!
貴族になりたてである私では、貴族の心構えなんて分からなかっ
た。小説の主人公とかでありがちな、﹃自分がいい待遇を受けられ
るのは、それだけ領民に期待されているからだ﹄なんて、かっこい
いセリフなんて絶対言えない。そもそも自分は伯爵家やその領地に
対してまだ何の感情もないのだ。アスタは子爵だっけ?でもそれも
同じだ。
﹁私はまだ国という大きなものは分からない﹂
本当は王子相手だし、敬語の方がいいのかも知れないが、アスタ
174
が普通に話しているので、私もそうさせてもらう。
﹁でもアスタの為ならば働く﹂
子爵ではなくアスタに対してなら、恩義がある。国なんて大きな
ものの為に何かをするとか、正直無理だ。でもそれが1個人の為な
らばやれる。
﹁というわけだから、アスタリスク魔術師も聞いてくれないかな。
ちゃんとそれなりの見返りはするつもりだよ﹂
アスタは紅茶を飲みながら、ちらりと私を見ると、肩をすくめた。
﹁分かったよ﹂
﹁ありがとう﹂
カミュ王子は御礼を言うと、ふと真面目な表情になった。私もち
ゃんと聞こうと、姿勢をただす。アスタの為とかカッコイイ事を言
ったが、無理そうならば全力で断らなければいけない。
﹁2人は、吸血夫人の噂は知ってる?﹂
何それ?
聞いた事のない言葉だ。ただ吸血という言葉は、どうにも気味の
悪い物に感じた。
175
9−2話
﹁それは最近新聞に書いてあった、血を抜かれて亡くなった女性が
多発している事件の事かな﹂
首をかしげた私の隣で、アスタが吸血夫人について話す。血を抜
かれて亡くなったって⋮⋮まるでドラキュラ伯爵みたいだ。
﹁そう。男爵令嬢が事件に巻き込まれ無残な姿で発見されてから有
名になったんだけど、かなり前からそういった遺体はあったらしく
てね。身分の低い女性が、すでに何十人単位で亡くなっていると思
うよ﹂
何十人単位とは、規模が大きすぎて、現実味が乏しく感じた。痛
ましいというよりも、怪談話を聞いているかのようにぞわぞわと悪
寒がする。
﹁吸血って、血を吸われるの?﹂
もしそうならば、もしかしたらこの世界には吸血鬼がいるのかもし
れない。エルフや魔族とさまざまな種族が混在しているのだ。吸血
鬼族というのがいても今更驚かない。⋮⋮共存は難しそうだけど。
﹁吸うって言うか、抜かれるだな。たぶん喉のあたりが痛い感じで、
逆さ吊﹂
﹁へ?﹂
ライが親指を立てて首を横に切断するような動きをした。その動
きが何かを理解した瞬間、血の気が一気に引いた。つまり家畜のよ
うに首を切断もしくは傷つけられ、血抜きをされたという事だ。
生きながら首筋に噛みついて飲まれるのと死んでから血抜きをさ
れるのではどちらがエグイだろう。⋮⋮とりあえず、個人的にはど
っちも嫌だ。
﹁夫人と言うのは何でなんだ?確かまだ犯人は捕まってなかったと
176
思ったが﹂
﹁死んだ女性からは、貴婦人の香水のような甘い香りがするからだ
よ。ただし体を麻痺させる薬品の臭いじゃないかと僕らは考えてい
るけれどね﹂
うわぁ。
体を麻痺させてグサリって、もっと残酷だ。ぞくぞくして、鳥肌
が立ってしまう。やられたわけではないのに首のあたりが痛いよう
な気がして、私は喉に手をやった。
﹁まあ噂もあながち間違っていないけどな。俺らは犯人はとある伯
爵夫人だとふんでいるんだ﹂
﹁そこまで分かっているなら、俺とオクトの手を借りるまでもない
だろ﹂
うん。まさしくその通りだ。そんな物騒な事件、関わりたくない。
アスタは魔術師だけど、私は善良な一般市民である。
﹁本当はそのつもりだったんだけど、証拠が中々掴めなくて。曲が
りなりにも貴族だから、証拠もないのに屋敷内を捜査するわけにも
いかなかったんだよね﹂
それと私たちと何の関係があるのだろう。内心首をかしげつつ、
話の続きを聞いた。
﹁そこで王宮が動いている事を知られない為に海賊を通じて、犯人
に女性を売ってもらう予定だったんだ。もちろん、中に1人兵士を
入れて女性が被害にあわないように対策はしてだよ﹂
あれ?海賊を通じて女性を売るって⋮⋮つい最近、そんなような
事があった気がする。
ひくりと顔が引きつった。嫌な予感しかしない。
﹁でもどこかの誰かさんが、海賊と取引をして、女性を逃がしてし
まったんだよな﹂
うっ。
それは、もしかして⋮⋮もしかしなくても、私の事ですよね。
177
皆の視線が痛い。アスタにいたっては、にこっり笑って私を見て
いる。うわぁ⋮⋮怒ってる。厄介事の原因は、どう考えても私だ。
﹁もう一度女性を集めるというのは⋮⋮﹂
﹁そのつもりだったんだけどね、もたもたしている間に犯人の嗜好
が変わったみたいでね。若い女性ではなく、子供しか取引に応じて
くれないそうなんだ。おかげで計画の練り直しってわけさ。子供で
は流石に兵士を紛れ込ませられないからね。この事について、どう
思う?﹂
﹁⋮⋮大変申し訳ないなと﹂
それ以外に何と言えばいいのだろう。あの時は自分も必死だった
のだ。まさかそんなおとり捜査の為に女性が集められているなんて
思うはずもない。
だらだらと汗が流れる。これはいっそ、土下座してしまった方が
楽になれるのだろうか。
﹁それでまさか、うちの娘をおとりに使いたいとか言うんじゃない
よね﹂
﹁まさか。ただ少し伯爵夫人に近付いて、情報を得てくれたらいい
なと思っているだけだよ﹂
それはイコールおとりだと思うのだが、私の勘違いだろうか。
﹁私では上手く近づけないと思う﹂
正直逃げてしまいたいが、ここまで話を聞く限り、流石にそれは
マズイ気がする。それぐらいの良心は私にもあった。
しかしだ。混ぜモノがすんなりと伯爵夫人と仲良くなれるはずも
ない。私が近づくと、必ず相手が逃げる。どう考えてもおとりなど
には、向いていない。
﹁そこは大丈夫だぞ。ちゃんと、﹃混ぜモノの血には凄い力がある﹄
って噂を夜会の時に流しておいたから﹂
﹁はあっ!?﹂
私は慌てて叫んだ。
178
何そのとんでもない噂。混ぜモノの血には凄い力って、凄いって
何だ。滋養強壮ということか?それとも黒魔術的にみたいな感じか
?! どちらにしても、私にとって最悪だ。すっぽんの生血のごと
く飲まれるようになったらどうしよう。殺されるのも嫌だけど、そ
れもトラウマになりそうだ。
﹁混ぜモノを使うリスクはちゃんと分かってるのか?犯人を捕まえ
たはいいが、国がなくなりましたじゃ、笑い話にもならないぞ﹂
本当にその通りだと私はアスタの言葉に頷いた。殺されなくとも、
自分の生血を飲まれるという気持ち悪さだけで、バットエンド突入
しそうだ。⋮⋮飲むとはかぎらないけど。
﹁もちろん分かっているよ。協力してもらう限り、オクトさんに危
害が及ばないよう、細心の注意を払うつもりだよ﹂
﹁つもりじゃ、困るんだよ。絶対傷つけるな﹂
アスタは真剣な顔でカミュ王子を睨むように見つめる。王子もま
た神妙な表情でアスタを真正面から見据えると、ゆっくりと頷いた。
﹁⋮⋮分かった。僕の名と王族の誇りにかけて、オクトさんを守る
と誓うよ﹂
﹁待て。私に何かある前提で話しているところ悪いが、犯人が混ぜ
モノに手を出すかどうか分からないんじゃ。それに私を襲うとも限
らない﹂
混ぜモノの危険性は犯人だって分かっているだろう。それに貴族
の養子を狙うよりは、町や村にいる混ぜモノを攫おうとするのでは
ないだろうか。
﹁いや。犯人が襲うかどうかまでは分からないけど、襲われるなら
ば、オクトが狙われるのは間違いないな﹂
﹁何故?﹂
﹁混ぜモノは絶対的に数が少ないからな﹂
数が少ない?
私は首をかしげた。やはり混ぜモノは上手く育たないからだろう
179
か。でも私という例もあるし、皆が混ぜモノを忌み嫌うならば、混
ぜモノの存在を忘れない程度にはこの世界にいると思っていた。
そんな私をみて、アスタがライの言葉を引き継いで、さらに説明
を続けてくれた。
﹁人族の血は混ざるが、他の血は混ざらない。これが世界の常識な
んだよ。だからハーフは大抵、人族と他の種族の血を併せ持つ事に
なり、能力などは人族以外のものを引き継ぐんだ。そして数代重ね
ると、人族の血は消える﹂
私の母親は獣人族と精霊族。父親がエルフ族と人族。おかしいの
は母親と言う事になるが、その話で行くと、そもそも私は生まれな
いという事になってしまう。
﹁つまり混ぜモノは、本来ありえない存在なんだよ。でも現実には
オクトのように存在する。ただし生まれる確率が低くて、問題なく
育つ確率も低い。俺が混ぜモノの子供を引き取った話は貴族の間で
有名になっているから、結果的にライが言う様にオクトが狙われる
な﹂
あー。そういえば、私を引き取った事をだしに、再婚話を断った
りしているんだっけ。意図せずして、私は今この国で一番有名な混
ぜモノなのかもしれない。何だ、その嬉しくないオプション。
﹁他にはいないの?﹂
ありえない存在認定までされたが、私は現実に生きている。他に
同じような混ぜモノがこの国にいないとも限らない。その存在を、
伯爵夫人とやらが知っていたらどうだろう。掻っ攫いやすそうな方
を選ぶに違いない。
﹁国への届け出では、十年前に死産だった報告が来ているだけで、
書類上はゼロだよ。届け出がなされていなかったり、国外からの移
民の場合は漏れることもあるから絶対とはいえないけれどね﹂
⋮⋮本当にレア的存在だったんだ。なんて嬉しくない特典だろう。
残念感しかない。
﹁混ぜモノの恐ろしさは皆が知るところだから、どう転ぶか分から
180
ないけれど、もう少し伯爵夫人の動向を見たいんだ。オクトさん、
協力をお願いできないかな﹂
お願いと言うか、命令ですよね。
どう考えても、私が断った所で、すでに巻き込まれているとみて
間違いない。犯人が動けば真っ先に危険なのは私だ。ここで何を言
おうと、噂が流れた時点で、私に拒否権などない。
⋮⋮なんて厄介な噂だろう。私は首を縦に振った。 181
9︲3話
さて引き受けたはいいが、面識もないのにいきなり問題の伯爵夫
人の所に行っても、不信感いっぱいの目で見られるだけだ。とても
近づけるとは思えない。
しかしその辺りはカミュ王子達がしっかり考えていてくれた。ま
あそうでもなければ、とんでも噂を流しただけで丸投げという、ア
スタ並みの無計画という事になる。もしそうならマジで禿げろと呪
うところだ。
﹁お茶会かぁ⋮⋮﹂
どうやら後日カミュ王子の従妹である、公爵令嬢がお茶会を開き、
そこに私や伯爵夫人が呼ばれるらしい。ただしまだ5歳である事が
考慮され、屋敷まではアスタに送ってもらい、お茶会中は侍女を連
れて参加するという内容だ。もちろん侍女は、カミュ王子が用意し
た兵士である。
しかし正直憂鬱だ。
﹁お茶会、何もないといいけど﹂
何もないと、今度は王子達の失敗を意味するので、歓迎できる事
でないのも分かる。しかし混ぜモノであるという事は、問題の伯爵
夫人以外からも注目される立場という事だ。おもに、負の感情的な
理由で。
罵られたり、侮蔑の目で見られるぐらいなら我慢できるが、叫び
声を上げられたり、泣かれたりしたら大人しく帰ろうと思う。
コンコン。
182
﹁オクト、入るよ﹂
自室でぐるぐると考えていると、アスタの声が聞こえた。⋮⋮は
っ?!
カミュ王子とライが帰った後、アスタと話をしないとなぁと思っ
たが、まだしていなかった事を思い出した。というのもまた転移魔
法に失敗されると困るということでアスタが2人を王宮まで送った
からだ。
ちゃんと謝ろうとは思ってたんだよ。と心の中でいいわけはする
が、そんなのアスタが知った事ではないだろう。マズイ。
せめてメイドさんにアスタが帰ってきたら教えてとか、頼んでお
けば良かったと思うが後の祭りだ。謝るならば先手必勝でこちらか
ら言いたかった。こうなったら諦めて説教を聞こう。
﹁どうぞ﹂
開けられた扉の向こうには、アスタとメイドさんが数名いた。ん
?何でメイドさん?
メイドさんの手には何やら紙の束が握られている。⋮⋮ああ。折
り紙ね。そういえば散策の後に教える約束をしていた。ライとカミ
ュ王子が来た為に中々できなかったけれど。
きっと怒りにきたアスタと運悪くタイミングが重なってしまった
のだろう。叱るところとか見たくないだろうに、悪い事をした。
﹁アスタ、あ、あのさ⋮⋮﹂
そういえばアスタに怒られるなんて初めてかもしれない。攫われ
た時も、結局私は怒られていない。何があったかは聞かれたが、裏
道を使った事に対しても今度から気をつけるようにと言われただけ
だ。
アスタはどうやって怒るのだろう。怒鳴られるのだろうか。それ
とも殴られるのだろうか?ねっっちょり厭味ったらしく説教する可
能性も否定できない。
183
﹁えっと、この間から迷惑かけて︱︱﹂
﹁これ、オクトが作ったの?﹂
﹁︱︱ごめん⋮⋮はっ?﹂
謝罪の言葉にかぶせられたのは、お叱りではなかった。首をかし
げアスタを見れば、その手にはメイドさんにあげたはずの鶴が乗っ
ている。あれ?
﹁うん。まあ⋮⋮﹂
﹁この紙で?﹂
﹁そうだけど﹂
やはり勉強道具で遊んだのはまずかっただろうか。それでも嘘を
教えるわけにはいかないので、私は正直に頷いた。
﹁何で平面が、立体になるわけ?﹂
﹁折ればそうなるかと﹂
何を言おうとしているのかさっぱりわからない。しかしアスタは
まるで魔法でも見たような目をしている。魔術師はアスタの方なの
に。変な感じだ。
﹁あのさ、海賊の事怒りに来たんじゃ⋮⋮﹂
﹁何で?まあ、俺が知らない事を王子が知っていたのはちょっと気
に食わなかったけど、怒ってはいないよ。それよりも、これはどう
やって作ったわけ?﹂
面倒事<知的好奇心ですか。
⋮⋮アスタらしいといったら、アスタらしいのだが。このままで
は自分はろくな大人に育たないのではないかと若干心配になってき
た。何をやっても怒られないって、どうなんだろう。褒めて伸ばす
もいいが、やはりちゃんと話をしなかった事は私も悪かったと思う。
﹁今からメイドさん達に教えるからアスタもどう?﹂
かといって、私も怒って下さいなんて言えない。言ったらマゾだ
し、変態っぽい。色々、失ってはいけないものを失う気がする。
184
なので諦めて、折り紙の話題に移った。
﹁もちろん参加するよ。何処でもできるの?﹂
﹁紙さえあれば。ただ、できれば、机があった方が作りやすいけれ
ど⋮⋮﹂
私の部屋は勉強机だけで、全員が座れる場所がない。折り紙教室
としては向かない作りだ。
﹁なら客間を使おうか。おいで﹂
アスタに手を出されて、私は少し迷った末その手を握る。⋮⋮屋
敷の中じゃ、迷子になりようがないのにと思うが断る理由もない。
﹁あ、後。海の精霊の呪いの解き方、教えてくれないかな﹂
やはり覚えていたか。ただしそれも、面倒事<知的好奇心。アス
タはそんなものだと思い、私は頷いた。この調子だと、今後もアス
タに叱ってもらうのは無理だろう。こうなったら駄目な大人になら
ない為にも自分に厳しくなろうと決意した。
◇◆◇◆◇
﹁これを広げて、こちら側を折る﹂
私は折り紙をゆっくり折ると、メイドさんとアスタが折るのを待
った。今更ながらに気がついたのだが、もしかしたら、この国には
折り紙というものが存在しないのかもしれない。
確か日本という国では子供の遊びだが、外国では驚かれていたよ
うな気がする。実際アスタもメイドさんも、単純なこの折り方が複
雑奇怪な上、細かい作業だと思っているようだ。私としてはとりあ
185
えず角を合わせていけばそれなりのものができると思うのだけど。
﹁最後にこう折りこんで、頭を作ったら完成﹂
皆、想像以上に真剣だ。子供の遊びなので、それほど難しくない
と思ったのだが、予想外の反応である。各自でき上った鶴は微妙に
いびつだが、まあ何とか形にはなっていた。正規の折り紙ではない
事を考慮すると、まずまずの出来だろう。
﹁もう一枚紙下さい﹂
﹁私も、もう一度折りますわ﹂
そしてどうやらメイドさんとしては満足のいく作品にはならなか
ったようで、さらに挑戦を重ねるようだ。このままいくと、千羽鶴
ができ上るかもしれない。
私も暇なので、隣で折り薔薇を折る事にする。こちらは唯一驚い
てもらえるかもと思ったとっておきの折り方だが、伝授する事は今
回の滞在ではなさそうだ。
﹁今度は何を折っているんだい?鶴とは違うね﹂
﹁薔薇﹂
アスタに聞かれて、私は手を止めた。まだ線を付けている段階な
ので、不思議に見えたのだろう。アスタは声をかけず続きを促すよ
うに見ているので、そのまま折る事にする。アスタは自分で作るよ
りも、でき上って行く様を見る方が楽しいらしく、改めて何かを作
ろうとはしなかった。不思議な楽しみ方だ。
数分かけて折りあがると、私は鶴の隣に置いた。立体的な薔薇な
ので、自分でもかなりいい出来だと思う。唯一惜しいのは、折り紙
ではないので、紙が白いのだ。できれば、深紅や黄色など他の色も
欲しい所だ。
﹁⋮⋮凄いな﹂
アスタがぽつりとつぶやいた。どうやら心底感心しているらしい。
机の上に置いた薔薇を手に取りしげしげと眺めている。アスタをこ
186
れほど驚かせられたのは、少し嬉しい。
﹁自分で考えたのか?﹂
﹁まさか﹂
きっといつも通り、ママから教えてもらったのだと思ったのだろ
う。アスタはそれ以上聞いてこなかった。それにしても、これほど
驚かれるならば、一座でもこの技を披露しておけばよかったかもし
れない。⋮⋮まあ舞台で見せるにしては地味すぎるし、凄く今更な
話しだけど。
﹁⋮⋮お嬢様、素晴らし過ぎますわ。流石、賢者様ですね﹂
﹁それ、あまり嬉しくない⋮⋮です﹂
なんだその、恥ずかしい名前は。
原因はお前かとアスタを見れば、何故睨まれるのか分からないよ
うな顔をした。
﹁何を拗ねているんだ。本当の事だろう。それと、敬語。さっきま
で使わずに話せていたんだから、そのまま使わない練習をしておけ
よ。茶会にでるんだろう?﹂
うっ。
確かに使用人に敬語を使う姿を他の貴族に見せるのはまずい。ア
スタにつられていつも通りに喋ってしまったが、メイドさんも気を
悪くした様子はない事だし、素のままでいた方がよさそうだ。
﹁でも賢者は言い過ぎ。馬鹿にされている気がする﹂
﹁馬鹿にはしていないよ。知るはずの事を知っているんだから、賢
者様だろ?﹂
﹁ごめん。⋮⋮賢者ってどういう意味?﹂
もしかしたら私は何か勘違いしているのだろうか。賢い人という
意味で、賢者だと思ったが、ニュアンスが違いそうだ。私は誰かに
言葉を教えてもらった事がないので、間違えている可能性もある。
﹁賢者は火を触らずして熱いと知る者、愚者は火で火傷して熱いと
知る者。つまり知るはずのない事を知っている者の事を賢者と言う
187
んだよ﹂
ああ。それならば、納得できる。異界の知識という知るはずのな
いものを知っているから、賢者と呼んだのだろう。
魔術師に賢いと言われるのは、正直子供だから馬鹿にしているの
かと思っていた。ちょっと心の中で謝罪しておく。
﹁だからオクトは、俺の可愛い賢者様っていうわけ﹂
﹁⋮⋮可愛くはない﹂
﹁可愛い、可愛い﹂
やっぱり馬鹿にしているだろ、コイツ。
ぐりぐりと頭を撫ぜられながら、私は憮然とした表情をした。で
もその手は、それほど嫌だとは感じなかった。
188
10−1話 素敵な伯爵
うわー。税金の無駄遣い。
公爵家に来て、一番初めに思った事はソレだった。伯爵家より広
い屋敷に、綺麗に育てられた薔薇園。もちろんソレも広い。屋敷の
中はとても明るく、絵画や花瓶や、色んな置物が飾ってあった。明
るいのは窓の光だけではなく、魔法で光を起こしているからだろう。
そんな明るい中でも飾られたそれらはちりひとつない。それだけ
使用人の質が良く、数が多いという事だ。
アスタの実家も伯爵家だが、昔は財政が苦しかったらしいし、こ
れほど華美ではなかった。
﹁オクト、大丈夫?﹂
アスタの言葉にコクリと私は頷いた。想定外のゴージャスさに少
し気が遠くなりそうだったけれど身体的には問題ない。アスタと手
をつなぎながら、公爵家を歩く。
王子達の言った通り、翌日にはお茶会の招待状が私宛に送られて
きた。お茶会の事を考えるととても憂鬱だったが、それよりもその
後のマナー教室や服選びが地獄だった。
アスタのお母様が異様に張りきり、指導してくれたはいいが、O
Kがでるまでずっとお茶を飲まされたのだ。何この拷問と思えば、
今度は服を選ばねばと何着も着せ替えさせられた。胃袋の中身が出
なかったのは奇跡だ。母は加減というものを知らないとアスタが後
から教えてくれたが、それは事前に教えるべきだろう、この野郎。
お茶会当日になった時は憂鬱ではなく、むしろ解放感に包まれ幸
せな気分になった。ある意味良かったのかもしれない。
﹁アロッロ子爵様はこちらでお待ち下さい﹂
189
先を歩いていた、公爵家のメイドさんが頭を下げた。背中には綺
麗な緑の羽根が生えていて、まるで天使のような人だ。
﹁オクト行ってらっしゃい﹂
﹁⋮⋮行ってきます﹂
お茶会は女性だけで。
それが今回のお茶会の決まりだ。いくらアスタが保護者でも、最
後まではついてこれない。アスタが居なくてもまあ何とかなるとは
思うが、貴族の屋敷というのは少し緊張する。
﹁ではオクトお嬢様。ここからは、私と行きましょう﹂
アスタの手が離れると赤茶の髪をポニーテールにした少女が私の
前にやってきた。その顔を見た瞬間私は固まった。
﹁今日一日、オクトお嬢様の身の回りの世話をする、ライスですわ。
よろしくお願いしますね﹂
琥珀色の瞳が楽しげに細まる。少し肌が日に焼け浅黒いが、とび
きりの美少女だ⋮⋮見た目はだが。
どういう事?!っとアスタを見れば、アスタは普段と変わりない
し、ここまで案内してくれたメイドさんも同じだ。えっ?アスタは
流石に、気がついているよね。だとしたらこれは想定内って事だろ
うか?
﹁さあお嬢様、行きますわよ﹂
手を握られ、私は口をパクパクと動かした。しかし上手く言葉に
ならない。
﹁ラ、ライスって⋮⋮﹂
﹁お嬢様の今日が素晴らしい日となるよう、誠心誠意こめてお仕え
しますわ﹂
そういって笑ったライスの顔は女優顔負けのスマイルが張り付い
ている。しかし細められた目は、騒ぐんじゃねーぞと脅すかのよう
に冷めていた。
190
やっぱりライスって、ライだよね。
護衛をつけるって、ライの事だったのか?!っと叫びたい気持ち
を抑え、私はお茶会が開かれている部屋まで大人しく歩く。変装し
ている事がばれるのは、私がうまく伯爵夫人とお近づきになれない
よりもマズイだろう。
とにかく冷静になろうと、軽く深呼吸する。
よし、大丈夫だ。それにライが護衛に回ったのは、混ぜモノにお
びえないという条件を満たす為という事で仕方がなかったのかもし
れない。伯爵邸のメイドさん達も表面的には怯えたところを見せな
いので大丈夫そうだが、流石にメイドさんでは護衛は難しいだろう。
その点ライが強いという事は、この目でも見ているので、間違いな
い。
﹁ライスさん、お願いします﹂
﹁ライスでいいですわ﹂
美味しそうな偽名ですねと思ったが、にっこり笑うだけで止めて
おく。ライも好きでやっているわけではないだろう。
﹁ライス、誰が誰か分かったら教えて。仲良くなりたいから﹂
﹁はい。かしこまりました﹂
本当は仲良くなる気などないが、伯爵夫人だけ興味を示したら、
絶対怪しまれる。ここは一つ、子供の外見を生かして、﹃好奇心旺
盛な年頃なんです﹄を演じた方がいいだろう。
﹁サロンで皆さまお待ちかねですので、そちらでご説明いたします
ね﹂
たどりつい場所でライが扉を開けると、全員が一斉に私を見た。
その目は物珍しげなものから、恐怖が走ったものまで様々だ。人数
としては十数名といったところか。
悲鳴を上げられなかっただけマシとしよう。私は心の中で人と言
191
う字を何度も書いた。
﹁本日はお招きくださりありがとうございます﹂
ドレスの裾を持ち膝を少しだけ曲げる。そしてとりあえず、敵意
はありませんよと示す為にほほ笑んだ。混ぜモノが微笑もうが、無
表情だろうがたいして意味などないかもしれないけれど、やらない
よりはマシだ。
﹁⋮⋮えっ﹂
﹁ん?﹂
小さくライがつぶやいたので首をかしげて見上げれば、丸くした
目とぶつかった。どうかしたのかと手を引けば、ライは慌てて首を
振る。
﹁いや。⋮⋮お嬢様。あちらにいらっしゃる、緑のドレスを着た方
がローザ公爵令嬢です﹂
﹁分かった。挨拶する﹂
私はカミュ王子の従兄殿にあいさつすべく、足を向けた。全員の
視線が私に突き刺さるのを感じて、舌打ちしたくなったが我慢する。
もう少しさりげなく見れば良いのに、隠す気もなさそうだ。そして
私が近づくと、周りの女性たちがさっと道を作るかのように間を開
けた。ある意味歩きやすい。
公爵令嬢だけは私がたどりつくのを待ってくれているようでずっ
と同じ場所で立っていて下さった。まあ例え逃げ腰だったとしても、
挨拶をしなければマナー違反になるので追いかけるだけだけど。
﹁お初にお目にかかります、ローザ公爵令嬢様。私はアロッロ子爵
の娘、オクトと申します。本日はお茶会へお招きありがとうござい
ます﹂
入り口前でやったのと同じように、膝を少し曲げてあいさつし微
笑む。普段はそんなに笑う必要性がないので、明日は顔が筋肉痛か
もしれない。
﹁よく来て下さったわ。カミュの言う通り、可愛らしい方ね。オク
192
トちゃんと呼んでもよろしいかしら?﹂
﹁⋮⋮構いません﹂
何だかフレンドリーな方だ。確かにカミュ王子の従兄のようで、
カミュと同じ、目と髪の色をしている。年頃は15か、16くらい
で、カミュ王子よりも年上のようだ。
﹁オクトちゃんは、普段は何をなさっているの?﹂
﹁えっ⋮⋮。今はまだ語学を勉強させていただいている最中です﹂
﹁いつも勉強しているわけではないでしょう?趣味はないの?﹂
趣味は家事ですなんて言えない。かといって、レース編みとか、
刺繍とか、全くできないし。どうしよう。
﹁あー⋮⋮料理を少々。それと、今は学ぶ事が楽しくて、絵本を読
んでいます﹂
嘘ではない。ただ料理は趣味というには、所帯じみていて生きる
為という意味が強すぎるけれど。
﹁そうでしたの。今度ご馳走して下さると嬉しいわ。私は乗馬を良
くしますのよ。よければ、今度ご一緒しません?﹂
﹁⋮⋮光栄です?﹂
なんて返せばいいんだ、これ。
これはきっと社交辞令と呼ばれる類のものだ。それは分かるが⋮
⋮ここは﹃めっそうもない﹄と断るべきか、それとも﹃乗馬とは、
素晴らしいですね﹄とさりげなく話を変えるべきだったのか判断が
つかない。
貴族と話すなんて生まれてこの方、アスタとアスタの両親だけな
ので、何を喋っていいのか、どういえば失礼にあたらないのかが、
分からない。お婆様によるお茶会マナーコーザでは、話術に関して
重点を置いて居なかった。挨拶だけなんとか付け焼刃だがマスター
したくらいである。
﹁馬はいいですのよ。馬で滑走する時に切る風はとても気持ちがい
193
いの﹂
﹁⋮⋮怖くないですか?﹂
﹁そうね。彼らは少し臆病なところがあるから、驚かせると怪我を
してしまうわ。でもちゃんと信頼関係が結べていれば、問題ない事
よ。それはどんな生き物にも言えることだと思うの﹂
﹁はぁ﹂
何とも活発なお姫様である。それとも、この国では乗馬を女性も
嗜むものとなっているのだろうか。まだ貴族ビギナーの身としては
良く分からない世界だ。
﹁そういえば、本日はオクトちゃんはお友達を作りに来たのよね。
そうね。あちらにいらっしゃる、アーチェロ伯爵は素晴らしい方で
すのよ﹂
きた。
きっとカミュ王子から、伯爵夫人を紹介するように言われていた
のだろう。しかし伯爵夫人ではなく、伯爵?
﹁伯爵様⋮⋮ですか?﹂
﹁旦那さまを亡くされて、今は殿方に混じりながら、伯爵邸を仕切
ってみえますの﹂
示された方を見れば、青いシンプルなドレスを着た女性がいた。
ドレスを着ているのに、あまり女性らしさを感じさせない方だ。ほ
んわかという雰囲気はない。
私たちが見ている事に気がついたのか、アーチェロ伯爵はこちら
へやってきた。
﹁まあ、アーチェロ伯爵。今、貴方の噂をしていたのよ。こちらは、
アロッロ子爵の娘のオクトちゃんよ﹂
﹁初めまして、オクト嬢。イリス・アーチェロと申します。爵位は
伯爵を賜っています﹂
﹁オクトです。よろしくお願いします﹂
近づくと、アーチェロ伯爵はより長身に見えた。細身のドレスを
194
着ているから余計にそう思うのかもしれない。まとう空気もやはり
シャープで、男装などしたらさぞ似合うのだろう。
ただこの方が、女性を殺しているのかと言われれば、首をかしげ
たくなった。上手く表現できないが、日本で言う武士に良く似てい
て、潔く感じる。
ちらっとライを見れば、彼は使用人らしく少し目を伏せて直接婦
人たちを見ないように努めていた。それでもどこか警戒しているよ
うで、私を握る手に力が少し入っている。
やっぱり、この人か。
疑問は残るが、私はまずはお近づきにならなければ始まらないと、
にこりと邪気のない笑みで微笑む事にした。
195
10−2話
お茶会は和やかに始まった。
流石公爵家といおうか、お茶は香りがよくとても美味しい。ただ
し胃の痛みで、あまり味わえなかったが。
⋮⋮何で私、公爵令嬢の隣にいるだろう。
というのもお茶会といえど、今回は大人数でやる食事パーティー
のようなものだ。公爵令嬢の周りは、権力者の娘が座るというのが
普通である。そして子爵と言うのは、貴族の中では実はそれほど位
は高くない。しかし何を思ったかローザ様は私と伯爵様を一番近い
席に置いた。今までは混ぜモノであるがゆえの視線だったのに、今
はそこに妬ましさとかが加わっていて、私の胃はキリキリ悲鳴を上
げている。
伯爵との顔合わせが終わった私は、末席でようやく息がつける予
定だったはずなのに。
﹁まあ、アーチェロ伯爵も乗馬をするのね﹂
﹁ええ。最近はなかなかできませんが、以前は暇を見つけてはよく
乗っていたものです﹂
どうやらローザ様とアーチェロ伯爵は趣味が合うようで、話が盛
り上がっている。できるならば、私抜きでお願いしたいところだ。
嫉妬からくる視線は間違いなく、この二人の所為だと思う。皆、
公爵令嬢とは仲良くなりたいだろうし、アーチェロ伯爵は宝塚的な
感じで人気がありそうだ。
変われるものならば変わるよと睨み返したいが、混ぜモノに睨ま
れれば倒れかねないようなお嬢様ばかりである。我慢の二文字に徹
するしかない。
196
﹁オクトお嬢様、お茶のお代わりはいかがでしょうか?﹂
﹁⋮⋮いただきます﹂
そのうち血液まで紅茶になりそうなペースで飲んでいるが、会話に
加われないので飲んで暇をつぶすしかなかった。幸いにも紅茶が美
味しいので、それほど苦痛ではない。
﹁ではアーチェロ伯爵とオクトちゃんの3人で馬に乗って出かけま
しょうか﹂
何ですと?!
明らかにさっきまで私は会話に入っていなかったはずだ。それど
ころか空気に近かったはず。なのに何故私の名前が出るんだろう。
話の流れ方が明らかにおかしい。
ブッと紅茶を吹きかけたのを、根性で止めたのはかなりのファイ
ンプレーだ。
﹁げほっ。⋮⋮ごほっ⋮⋮あ、あの。ローザ様⋮⋮私は︱︱﹂
﹁オクト様、木イチゴのタルトはいかがですか?﹂
﹁⋮⋮食べます﹂
ライが私の皿の中にタルトをとりわけた。
このタイミングで話しかけるということは、断るなと言いたいの
だろう。人事だと思って⋮⋮。確かに伯爵ともっと仲良くなった方
がライ達には有利だろうが、私の危険度も同じく増している。しか
も約束の内容が乗馬。5歳で乗馬。無理だと誰か気づけ。
﹁ローザ嬢。突然誘っては、オクト嬢が困ってみえますよ。オクト
嬢は乗馬の経験は?﹂
ありがとう伯爵さま!!
私は救世主に切迫したこの状況を伝えようと、ぶんぶんと横に首
を振った。あるはずがない。
私が関わった事がある馬は、一座で飼っていた足の短い荷馬車ぐ
らいだ。それだって、私が近づく事は許されなかったので、遠目か
197
ら見るだけで餌をやったこともない。⋮⋮後は前世でカルーセルと
か?いや、あれは違う。
﹁よろしければ、私がお教えしますよ。最初は私と一緒に乗れば、
振り落とされる事もありませんから﹂
﹁いえ。そこまで迷惑は⋮⋮﹂
伯爵様はかなりいい人のようだ。普通は例え冗談でも混ぜモノと
一緒に馬に乗ろうなどと、口が裂けても言えない。お人よしなのか、
何なのか。
でもできるなら空気を読んで、止めましょうと言って欲しかった。
﹁迷惑ではありませんよ。実は私には、オクト嬢と同じぐらいの弟
がおりまして、一度弟と一緒に馬に乗りたいと常々思っていたので
す。ですが中々それも叶わないので、できたらぜひ一緒に乗りたい
のですよ﹂
﹁何故弟さんと乗られないんですの?﹂
﹁うちの愚弟は軟弱でして。もう7つにもなるので剣術も学ばせた
いところなのですが、体が弱くそれもままならないのですよ﹂
伯爵が少し影のある笑みを浮かべると、ほうとため息が聞こえた。
ふと周りを見渡せば、皆が憂いを帯びた瞳で伯爵を見ている。
﹁まあお可哀そうに﹂
﹁よろしければ、私と懇意にしている主治医をご紹介しますわ﹂
﹁いいえ、それよりも私の家の魔術師が力添えできるかと﹂
﹁私、弟様が元気になれるよう、呪いをしますわ﹂
⋮⋮あー、アーチェロ伯爵は皆のアイドルなんですね。
確かに娯楽の少ない世界だ。しかも基本貴族のご令嬢は屋敷にこ
もりっきりなので、ほぼ出会いもない。その結果、宝塚っぽいこの
伯爵が、いい感じなのだろう。
﹁ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ﹂
ここに、﹃子猫ちゃん﹄なんて言葉がついたら失神する者が出る
んじゃないかと思うような、黄色い声が木霊した。⋮⋮私も貴族生
198
活を続けていると、いつかこうなるのだろうか。あまり歓迎はした
くない。
﹁そういうわけだから、オクト嬢も一緒に乗馬してもらえないだろ
うか﹂
正直断りたい。
嫉妬を帯びた周りの目線が怖いのだ。しかしそれと同時に、ライ
の視線も感じる。多分翻訳すれば、﹃断るな﹄だろう。鬼っ子め。
﹁⋮⋮分かりました。ただし本当に乗れませんから﹂
団長に馬に近づくなと言われた事を考えると、やはり混ぜモノは
動物とかにも嫌われているんじゃないかと思う。もしそうなら1人
体操座りで見学コースだ。⋮⋮その方が安全で良いかもしれない。
﹁ありがとう﹂
﹁いえ。御礼を言われる事では⋮⋮というか、言わないで下さい。
はい﹂
お姉さま方の視線が痛いんです。
逃げ出したい気分を振り払う様に、私はタルトを齧る。胃は痛い
けれど、タルトは美味しい。一生懸命タルトの甘酸っぱさを味わっ
て一瞬だけでも視線を忘れられるように努力する。
人間努力すれば、適応できるはずだ。
﹁そういえば、カミュから、オクトちゃんは医術の心得があると聞
いたけれど、その辺りどうなの?﹂
医術?!どうなのと聞きたいのは私の方だ。私は医術に心得があ
るなんて、一言も言っていない。ライをちらりと見れば、しれっと
した表情で姿勢よく立っている。
カミュ王子にいらん事を話したのはお前だろうが。
﹁いえ⋮⋮医術と呼べるほどのものは知らん⋮⋮ません﹂
あまりの驚きで、敬語が吹っ飛びそうになったのを無理やり繋ぎ
とめる。あんなの、たまたま偶然だから。医術なんて凄いもの知ら
199
ないよ。私は誤魔化す為に、無理やり笑顔を作った。
﹁そんな謙遜なさらなくても。海の精霊の呪いを消したという話で
最近持ち切りですのよ﹂
⋮⋮ライッ!!
﹁オクトお嬢様、アップルパイはいかがですか?﹂
﹁⋮⋮食べる﹂
こうなったらこき使ってやると睨めば、若干ライも顔を引きつさ
せた。その表情を見て、少しだけ留飲が下がる。
まったく、何でそんな迷惑なうわさを流すんだ。
﹁オクト嬢、それは本当ですか?﹂
﹁あれは⋮⋮偶然です﹂
嘘ではないが、知っていたのはたまたまだ。何でも治せるとか思
われら困る。私は医者ではない。
﹁失礼ですがオクト嬢は今おいくつですか?﹂
﹁5歳です﹂
何だろう。この近所のおばさんに、何歳になったの?と聞かれて
いるような状態は。私が年を言えたところで、微笑ましくも何でも
ないのだけれど。
﹁えっ⋮⋮5歳ですか?﹂
﹁はい﹂
﹁しっかりされているので、もう少し上なのかと⋮⋮﹂
⋮⋮私の顔はそんなに老け顔か?
両親そろっていないので、誕生日も正確に分からない私は本当に
5歳とは限らない。しかし少なくとも驚かれるほど違ってはいない
はずだ。確かに喋り方は、普通の幼児とは違う気はするが。
﹁でも5歳でそれだけの知識をお持ちとは、オクト嬢は凄いですね﹂
﹁折角だから、弟さんの事を見ていただいたらどうかしら?オクト
ちゃんは医師ではないのかもしれないけれど、今まで誰も消せなか
った呪いを消したのよ﹂
200
余計な事を。
ローザは全く悪気のない無邪気な笑みで私を見た。これもカミュ
王子の計らい何だろうか。ああ、断りたい。断って、もう家に帰り
たい。
﹁オクトお嬢様、お茶はいかがですか?﹂
⋮⋮分かりましたよ。
絶対嫌だという言葉を紅茶と一緒に喉の奥へ流し込んだ。
201
10−3話
お茶会の1週間後私は晴れて初めての乗馬体験をする事になった。
そしてそれが終わり次第、伯爵の弟君の容態を見る予定だ。そう、
その予定だったのだが⋮⋮。
﹁それがどうして、こうなった﹂
薔薇の浮かんだ湯船につかりながら、私は深くため息をついた。
現在私は入浴している。ただしここはアスタの家でも、アスタの
実家の浴室でもない。何と初めて訪問したアーチェロ伯爵の家だっ
たりする。
﹁悪夢だ⋮⋮﹂
私は団長が馬に近づいてはいけないと言ったのは、馬が私を見て
怯えるからだと思っていた。しかし現実はそれを斜め上に裏切った。
乗馬しようと馬小屋へ向かう時だった。たまたま小屋から出てい
た馬たちがご主人の静止も聞かず鼻息荒く私の方へやってくると、
力の限り私へ甘えたのだ。しかし五歳の体格からすると、馬など見
上げるほど大きい。彼らの甘えるという好意に対して、私は本気で
食べられるのかと思った。舐められたり、腕を口で引っ張られたり、
髪の毛を食べられたりしたのだからそう思っても仕方ないと思う。
皆がありえない状況にポカーンとしている中、一番最初に我に返
った伯爵が馬から私をひきはがした時にはすでに、私は唾液でどろ
どろ状態だった。伯爵はそのまま屋敷へ連れて来くると、湯船を貸
してくれた。
とりあえずもう2度と馬には近づかないと私は心に誓った。
ざばりと風呂から出ると、私は置いてあるタオルで体を拭き、ド
レスに着替えた。今日もライがメイド姿でついてきているが、風呂
202
の手伝いは断り、廊下で待って居てもらっている。
別に見られてもこのつるぺたな体ではどうという事もないのだが、
ライは私が断った事に心底ほっとした様子だった。
﹁この間のお返しで嫌がらせするなら、あえて手伝わせても良かっ
たのか﹂
今更ながらに気がついたが、人に体を洗われるとか、着替えを手
伝われるとかどうも馴れない。手伝わせるのはライへの嫌がらせに
はなるだろうが、同時に自分への精神的苦痛も大きそうだ。
タオルで髪を拭きながら外に出ると、扉の前でライが直立不動で
立っていた。
﹁お待たせ﹂
﹁お風呂の湯加減はよろしかったでしょうか?﹂
﹁うん。でも、薔薇とお湯がもったいなかった﹂
こんな時間じゃお風呂にはいるのは私だけだろう。生憎とアーチ
ェロ伯爵の風呂には追い炊き機能がないので、冷めたら使えない。
薔薇だって、あんなもったいない使い方をしなくてもいいのにと思
ってしまう。あれだけあったら、薔薇ジャムとか色々使えそうだ。
﹁それは慣れて下さいね﹂
うん、無理。
なれたら、それは色々死活問題になりそうだ。いつまでも貴族で
居られるなんてお花畑な妄想は持ち合わせてはいない。
首を振ると、まだ髪に水分が残っているようで、水滴が飛び散
った。
﹁オクトお嬢様。このままでは風邪をひかれてしまいますわ。髪を
乾かしてから、伯爵様の元へ向かいましょう﹂
﹁大丈夫﹂
そんな事で風邪を引くほどやわな体のつくりはしていない。
﹁ですが今伯爵の元へ直接行かれると、まだ乗馬中かと︱︱﹂
﹁分かった。髪を乾かす﹂
﹁それがよろしいかと思いますわ﹂
203
ちっ。
ライの言い分を素直に聞くのも嫌だが、それよりも乗馬の方が嫌
だ。折角綺麗になったのに、また唾液でべとべとに誰がなりたいと
思うだろう。
﹁ではオクトお嬢様。こちらへ﹂
ライの後ろを歩いていくと、前方から小さな男の子が歩いてきた。
私より大きいが、ライよりは小さい。ライは少年を見ると、すぐさ
ま端へより頭を下げた。
ん?どうしよう。私も頭を下げるべきだろうか。
﹁オクトはそのまま立ってろ﹂
ボソリと私にしか聞こえない声で、ライが私に指示する。
そういえば貴族は、ペコペコ頭を下げてはいけないんだった。私
はとりあえず少年を見た。チョコレート色の柔らかそうな髪をした
少年は私に気がつくと、緑の瞳を大きく見開いた。
﹁ま、混ぜモノさんっ?!﹂
﹁はぁ。混ぜモノですね﹂
ライが頭を下げた相手なので、たぶん偉い人の子供なのだろう。
私はとりあえず敬語で受け答えをした。しかし初対面の人間を指で
指すのは如何なものだろう。
少年は私を少し怖がっているようだが、好奇心からかジリジリと
私に近寄ってくる。逃げるわけにもいかず、私はライの隣でとりあ
えず立っていた。
﹁嘘。どうしてここに?僕、初めて見た﹂
﹁そうですか﹂
以前カミュ王子から聞いた話だと、この国にいる混ぜモノは私だ
けらしい。そりゃ、初めての可能性が高いだろう。
﹁僕、いつも混ぜモノさんの話を読んでるんだ﹂
﹁混ぜモノさんの話ですか?﹂
何だそれ。
204
そもそも混ぜモノにさんを付けるのはおかしいのではないだろう
か。私の名前は混ぜモノではない。
﹁うん。混ぜモノさんは凄いカッコいいんだよ﹂
一体少年の言う混ぜモノさんとは何なのか。
私はさっぱり話についていけず、首をかしげた。
﹁混ぜモノさんとは、何でしょうか?﹂
﹁えー、混ぜモノさんのくせに知らないの?﹂
﹁はあ。無学ですみません﹂
私が悪いわけではないのだが、あまりに少年が落胆しているので、
つい謝ってしまう。
﹁混ぜモノさんは、僕が読んでる小説だよ。見せてあげるっ!!﹂
﹁えっ、ちょっと﹂
少年は私の意思を確認することなく、手を掴むとぐいぐいと引っ
張った。私より全然子供らしい子供だが、体格は少年の方が大きい。
引っ張られる形で、私は少年についていく事になった。
﹁あの。貴方はもしかして、アーチェロ伯爵の弟様ですか?﹂
とある一室に連れ込まれたところで、ようやく私は相手が誰なの
か気がついた。少年が連れてきた部屋は、子供部屋のようだ。机や
ベットが小ぶりである。こんな部屋に自由に出入りするという事は、
この屋敷の子供に決まっていた。
それにしても、体が弱いって嘘だろ。少なくとも私より元気で子
供らしい。
﹁うん。そーだよ。僕は伯爵の弟のエストだよ。混ぜモノさんは?﹂
﹁アロッロ子爵の娘のオクトと申します。よろしくお願いします﹂
エストの手が離れたので、私はスカートを持ち上げ、少し膝を曲
げた。まあ挨拶なんて今更な気はしたけれど。
﹁うん。よろしく。じゃあ、オクトはそこで座って待ってて。今、
混ぜモノさんの本取ってくるからっ!!﹂
205
返事をする前に、パタパタと小走りでエストが出て行ってしまい、
私はどうするべきかと首をかしげた。屋敷を勝手にウロウロしてい
たら伯爵も気を悪くするのではないだろうか。しかしここまでは私
の意思で来たわけでもないし⋮⋮。
﹁エスト坊ちゃまが座れって言ってるんだから座れよ。ついでに髪
を拭くから﹂
﹁⋮⋮ライス。それだと女の人に見えない﹂
﹁今は誰もいないんだからいいだろ。あーもう、カミュの奴、また
女装させやがって。前回はまだしも、今回は執事にしろよ⋮⋮はぁ﹂
そんな事私に言われても困る。まあ確かに、海賊への潜入に続い
て、今度はメイド。少し同情をしなくもない。
私は椅子に座りながら、ライを見あげた。そういえば、ライは一
体何者なのだろう。王子の部下には間違いないだろうが、それにし
ては若すぎる。まあ王子も吸血夫人事件を追うには、明らかに若す
ぎるんだけど。
﹁ライスって、いくつ?﹂
﹁12だけど、それがどうかしたか?﹂
﹁⋮⋮いや、若いなと﹂
﹁お前には言われたくないって﹂
まあ、確かに。5歳児に若いなと言われたら、反応に困るだろう。
ライはあきれた様子で、私の髪を拭き始めた。何処で学んだのか、
髪の毛を拭く手は優しく丁寧だ。この辺りも不思議な点である。ラ
イは一体何者なのだろう。
﹁ああ。言葉が足りなかった。仕事をするには、若いなと﹂
﹁あー。俺もカミュもまだ学生だしな。早いっちゃ早いか。俺はカ
ミュの乳兄弟だから、付き合ってるんだけどさ︱︱﹂
乳兄弟とは、何ともセレブな関係だ。確かにカミュは王子なのだ
から、そういう存在が居たとしてもおかしくはない。
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﹁︱︱さあオクトお嬢様。しばらく大人しくしていて下さいね。も
うすぐ終わりますから﹂
唐突にライの口調が変わったと思ったら、ガチャっと扉が開く。
扉の向こうではエストが本を抱えて立っていた。私は全く気がつか
なかったのに。⋮⋮流石護衛をするだけはある。
﹁オクト、持って来たよ﹂
エストが持ってきたのは、絵本よりももう少し活字の多い書物だ
った。ただし一般的な書物よりは文字が大きく、児童書のようだ。
エストが開いた部分の挿絵には、顔に蔦のような模様が入った少年
が描かれていた。
﹁これが、混ぜモノさん?﹂
﹁そう。混ぜモノさんだよ。いっつも、メンドクサイっていってダ
ラダラしている、怠け者なんだ﹂
⋮⋮それはカッコいいのか?怠け者という言葉は、先ほどの少年
が言った言葉と相反する気がした。
﹁でもね、混ぜモノさんは困っている人が居ると、メンドクサイっ
て言いながら助けてくれるんだ。助けない方がメンドクサイって混
ぜモノさんは言うけどね、すっごく優しいんだと思うよ﹂
エストは本当に混ぜモノさんとやらが好きなんだろう。キラキラ
した目で私に混ぜモノさんの素晴らしさを説明した。
私が適当に相槌をうつとエストはさらに興奮しながら混ぜモノさ
んについて語った。おかげで、短時間の間に私は混ぜモノさんを読
んでいないにも関わらず全てを網羅した気分である。それにしても
これほどまでに見ず知らずの相手に楽しそうに話すとは、⋮⋮普段
話をする相手が居ないのだろうか?
﹁混ぜモノさんは、伯爵も読むの?﹂
﹁ううん。姉上は忙しいから⋮⋮﹂
伯爵の事を聞くとエストは突然顔色を変えた。しょんぼりしたと
いうよりは、血の気が引いたような顔色をしている。
207
﹁そう。伯爵とはあまり話さないの?﹂
再度尋ねると、エストは突然泣きそうな顔をした。まさかそんな
表情をされるとは思っていなくて、ぎょっとする。
﹁オクトは、混ぜモノさんだよね﹂
﹁うん。まあ。混ぜモノには違いかな﹂
小説のお混ぜモノさんよりは、面倒ぐさがりではなく、優しくて
強くもないけれど。と心の中で付け加える。
﹁僕、このままじゃ、姉上に殺されちゃうんだ。オクト、助けて!
!﹂
⋮⋮へ?
私はエストの唐突なカミングアウトに、茫然とした。
208
11︲1話 残酷なヒト
﹁⋮⋮どういう事?﹂
吸血夫人と伯爵。全くイコールで繋がらなかったのに、まさかの
弟さんからのカミングアウト。殺されるとは、穏やかな話ではない。
⋮⋮本当に伯爵が吸血夫人なのだろうか。短い付き合いだが、私
にはそうだと思えなかった。
﹁姉上は、僕が嫌いなんだ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん。だから姉上は僕を殺そうと呪っているんだ﹂
呪いねぇ。
どうも乗馬大好き体育会系な伯爵のイメージとは合わない言葉だ。
それに私は前世の記憶があるせいか、呪いというあいまいな分野を
あまり信じられずにいた。もちろん魔法ありの不思議世界なので、
本当は凄い呪いがあるのかもしれない。しかし海の精霊の呪いの事
を思い出すと、どうも迷信という言葉が先にでてきてしまう。
﹁どうやって?﹂
ここで女の人の血を使ってとか具体的な話が出てこれば、私の仕
事は終わりだ。呪いは信じていないが、呪いを信じている人がこの
世にはいる事を私は知っている。
﹁分からないけれど、姉上が呪い殺そうとしているのは間違いない
んだよ﹂
﹁何で?﹂
﹁僕、本当は病弱なんかじゃないんだ。でも姉上が近づくと呼吸が
苦しくなるんだ。本当だよ﹂
エストは真剣な顔で私を見た。呪いかどうかは別として、エスト
209
が本気でそう思っているという事は分かる。
呼吸が苦しいかぁ。
姉が近づくと苦しいなんて、精神的なもののようだが⋮⋮はて。
もしも精神的なものならば、どうしてエストは伯爵が怖いのだろう。
もしかして伯爵は内弁慶で、家族にはきつく当たるとか?
今一ピンと来ず、私は首をかしげた。
﹁もういいよ。オクトも、僕の事信用してくれないんだ﹂
﹁いや、信用しないというか。私は呪いというものを知らなくて。
近づくと苦しくなる呪いとは、どうやってやるのだろうと考えてい
た﹂
﹁⋮⋮信じてくれたの?﹂
﹁嘘じゃないんだよね﹂
エストはパッと顔を輝かせると、コクコクと何度も頷いた。
原因はどうであれ、苦しいには変わりがないだろう。エストが言
う事が嘘だと否定できるほど、私も情報を持っていない。
﹁信じてくれたの、オクトが初めてだ。使用人はみんな、姉上の味
方なんだ。だれも僕の言う事信じてくれなかったんだよ﹂
確かにあの伯爵を思い出すと、呪いには程遠い人のように思う。
混ぜモノに対してさえ、あれほどに優しいのだ。使用人にも人気が
あるに違いない。
だからこそ使用人達は、エストが構って欲しいがために嘘をつい
ていると判断したのだろう。
﹁そう。エストは伯爵の事は嫌い?﹂
私の言葉にエストは困ったような表情をした後、首を横に振った。
﹁嫌い⋮⋮じゃないよ。ただ姉上が、僕を嫌いなだけ﹂
しょんぼりとする姿は、まるで犬のようだ。不謹慎だが、少し可
愛らしい。しかしだ。嫌われているからしょんぼりすると言う事は、
エストはかなり姉の事が好きなのではないだろうか。なのにエスト
210
が伯爵に怯えて気分が悪くなる⋮⋮なんでやねん。
思わず関西弁でツッコミを入れたくなるぐらい、おかしな話だ。
ここは嫌いと聞かず、怖いと尋ねれば良かったのか。
﹁エストは伯爵が呪いをするところを見た事はあるの?﹂
﹁ないよ。でも夜いない事があるから⋮⋮きっと、その時にやって
るんだ﹂
夜にいないかぁ。
そのフレーズと呪いという言葉だけ聞けば、吸血夫人につながり
そうな話だよなとは思う。ライの方をちらりと見たが、ライは使用
人らしくまるで話など聞いていないかのように立っていた。
コンコン。
﹁エスト、入ってもいいだろうか?﹂
扉がノックされたと思うと、伯爵の声が聞こえた。ビクリとエス
トが体を揺らす。顔が蝋のように白くなるのを見て私はなんとなく、
エストの手を握った。子供の手のはずなのに冷たいのは緊張してい
るからだろう。
やはり精神的な問題だろうか。
エストは私を見ると、何かを決意するようにコクリと頷いた。
﹁いいよ、姉上﹂
部屋に入ってきた伯爵は乗馬の服装のままだった。あの後きっと
公爵令嬢と一緒に馬に乗って散策をしたのだろう。
﹁ああ。やはりオクト嬢はエストと一緒に見えたのですね﹂
﹁はい。勝手にお邪魔してしまいすみません。それと、先ほどはお
風呂をありがとうございます﹂
﹁いえいえ。むしろ怪我をさせないお約束でしたのに、怖い思いを
させてしまい申し訳ありませんでした。それにエストがオクト嬢を
無理やり部屋へ招いた事はメイドから聞いておりますから﹂
211
うーん。やはり礼儀正しい人だ。しっかり私の事情を聞いている
ところをみると人の話を聞かずに怒ったりとかしないのだろう。だ
とすると、エストは一体伯爵の何が怖いのか。
﹁乗馬はもう終わられたのですか?﹂
﹁ローザ様はまだ乗ってらっしゃいますよ。私は少し休憩です。そ
れでエストはご迷惑をかけなかったでしょうか?オクト嬢に比べて、
どうにも子供っぽいところがありますから﹂
﹁いいえ。エスト様に本を教えていただき、楽しいひと時を過ごさ
せてもらいました﹂
まさか伯爵の悪口を言っていましたなんて馬鹿正直には言えない
ので、私は最初に連れ込まれた原因を話す事にした。
﹁エスト、何の本を持って来たんだい﹂
﹁⋮⋮混ぜモノさんの話﹂
伯爵が近づくと、エストは私の手をギュッと握り返した。少し体
が震えている。
﹁ああ。エストはこの話が好きだものね﹂
﹁うん﹂
伯爵はテーブルの上に置かれた本を持ち上げた。
特に伯爵には本を馬鹿にする雰囲気はない。むしろ弟の好きなも
のをちゃんと把握していて、いいお姉さんといった感じだ。
何がいけないというのだろう。
﹁けほっ﹂
小さくエストが咳をした。どうしたのだろうとエストを見た瞬間、
彼は咽るように咳き込みだした。何が起こったのか分からず私は茫
然としたが、少しして慌てて彼の背中をさすった。
﹁オクト嬢が来て下さって楽しかっただろうけれど、体があまり強
くないのだから無理はしちゃいけないよ。ほら、ベットで横になり
なさい﹂
212
ゼイゼイと苦しそうに呼吸するエストを伯爵は抱えると、ベット
の上に下ろした。エストも苦しいのか、されるがままだ。
先ほどまで確かに元気だったのに。一瞬で彼は病人になってしま
った。
伯爵が怖いからとか精神的なものかと思ったが、それだけとは思
えない呼吸音だ。まるで︱︱。
﹁メイドに薬を持ってこさせるから、休んでなさい。オクト嬢、申
し訳ないですが、弟がこのような状態ですので、場所を移しても構
わないでしょうか﹂
﹁はい。エスト様、⋮⋮お大事にして下さい﹂
伯爵に続いて部屋からでていこうとすると、エストと目があった。
その目は行かないでと縋るようだ。それでも私には伯爵の言葉を断
るだけの理由がなく、大人しく部屋をでた。
それに例え部屋に残ったとしても、私ではやれることなどない。
﹁オクト嬢は弟の事をどう思いましたか?﹂
伯爵と並んで歩いていると、ぽつりと話しかけられた。
﹁あった時は、お元気な方だと思いましたけど⋮⋮﹂
そうあんな風に呼吸困難になるような子供にはとても思えなかっ
た。本人が呪われていると思ってもおかしくないほど、劇的な変化
だったように思う。
﹁そうですね。私もそう思います﹂
伯爵はすんなりと私の言葉を肯定した。さっきは確かにエストに
対して体が弱い云々といっていたはずなのに。どういう事だろうと
私は伯爵を見上げた。
﹁申し訳ありませんが、オクト嬢のメイドに、エストの薬を持って
くるよう伝言を頼めないでしょうか。メイド頭は今、馬小屋の方に
いるはずですので﹂
﹁ライス、⋮⋮頼んでもいい?﹂
﹁承知しました﹂
213
あまりライと別れたくはないが、ここで断って変に勘ぐられるの
も困る。きっと私と一緒に馬小屋に行くのは色々不味いと思ったの
だろう。
ライが行ってしまうと、伯爵は再び歩き出した。
﹁弟は普段はどうという事もないのですが、昔乗馬をしようとして
倒れてから、ああやって稀に発作を起こし呼吸困難になるんですよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁主治医には、精神的なものであろうと言われているんですけれど
ね。本当はそれほど苦しいわけではないのにわざと苦しがっている
のではないかと﹂
⋮⋮そうだろうか。
エストは確かにあの時苦しがっていたように思う。わざとにはと
ても思えなかった。
﹁主治医がそういうのは、特に私が近づいた時に発作が起きる事が
多かったからというのもあるのですけけどね。私があまり構ってや
れないので、気を引きたがっているのかもしれません。もちろん何
か疾患はあるのでしょうけど﹂
気を引きたい?
本当に?むしろエストの行動は逆ではないだろうか。本当は好き
なのに、怖くて仕方がない。あの冷たくなった手がそれを物語って
いるように思えた。
﹁どうしようもない愚弟ですね。でも、だからこそせめて、その疾
患だけでも取り除いてやりたいのです﹂
﹁そうで⋮⋮っ﹂
ドスッという音と共に気が遠くなる。
お腹が痛い。何が起こったのか分からないまま私はその場に膝を
つく。ぐるんと世界が回る。
﹁すみません﹂
214
遠のいていく意識の中、どこか遠い場所で、謝罪する声が聞こえ
た気がした。
215
11︲2話
﹁⋮⋮またか﹂
目が覚めた私は開口一発、自分の運のなさを嘆くようにつぶやい
た。
今年2回目の拉致。⋮⋮このペースで行けば、フルーティーな名
前の姫様並みに拉致監禁を味わえるかもしれない。でも拉致られる
理由が、人質とか愛されてではなく、偶然又は血抜きする為って酷
過ぎる。
前回に比べてマシなのは、私を助ける為にライやカミュ王子、そ
れと一応アスタが動いてくれているだろうという事だけだ。
﹁そして今回はくさり付き⋮⋮﹂
部屋は前回のような牢屋ではなく、ベットもある普通の部屋だ。
しかし私の足首には鎖がついており、それがベットの足と繋がって
いる。大部屋ではなく、1人部屋対応だけど待遇が良くなったとは
思えない。むしろ行動制限されて、自分的にはマイナスだ。
﹁あのタイミングだと、監禁したのはアーチェロ伯爵か﹂
どうやら鳩尾を殴られたらしく、今も地味にお腹が痛い。幼児虐
待もいいところだ。しかしこんな目にあっても、イコール吸血夫人
とするのはまだ早い。
何か他の思惑で拉致された可能性だってあるのだ。それにカミュ
王子が流した、﹃混ぜモノの血には力がある﹄という噂の所為とい
う事だってあり得る。それが原因だとしたら、今回の仕事に危険手
当を上乗せしてもらおう。
﹁とにかく、逃げられるなら逃げるべきか﹂
どういう事情でこうなっているのかは分からないが、監禁されて
216
いるという事はいきなりさっくり殺されるという事はないはずだ。
もしもそうならば、今頃私はこの世にはいない。
しかし助けを待っていて、間に合いませんでしたなんて事もあり
える。そうならない為にも自力で脱出する方法も探しておくべきだ。
﹁鎖は流石に切れないか﹂
引っ張ってみたが、金属でできているため簡単に切れる事はなさ
そうだ。足首にはめられた金属は鍵で開閉するようだが、鍵がこの
部屋に隠されているなんて事は考えにくい。そして自分の力を考え
ても、ベットごと移動する事は不可能だろう。
結果。
﹁物理的には無理﹂
5分もたたずして、私は力技で逃げ出す事を諦めた。そんな事が
できる幼児がいたとしたら、きっとその子供は神様に愛された主人
公のような存在だろう。神様に嫌われているとしか思えない自分と
は正反対だ。
力がなくても逃げ出す方法を考えなければ⋮⋮。
﹁あっ、転移魔法陣があれば逃げられるかも﹂
ふと海賊の場所からアスタの家へ帰った時に使った魔法陣を思い
出した。たしかあれは魔法使いでなくても移動できたはず。
しかし、アレをしっかり再現できるだろうか。そもそもアレはた
だ書けばいいものなのか。アスタに聞いておけば良かったと後悔す
る。時間はたっぷりあったというのに、どうして聞かなかったんだ
自分。もっともあの時は全力で引きこもる事に夢中だったのだけど。
﹁失敗しても怖いしなぁ﹂
殺されたくはないが、逃げるのに失敗して死ぬのも嫌だ。という
か何でこんなに死亡フラグしかないのだろう。
うんうんと考え込んでいると、ガチャリと扉が開く音が聞こえた。
反射的にドアを見れば、そこにはドレスを着たアーチェロ伯爵が
217
立っていた。まあ予想外な人物でもないので、驚きは少ない。その
手には食事トレーがのっている。⋮⋮やはり、今すぐ殺すという事
はなさそうだ。
﹁目が覚めたんですね﹂
私はそれには答えずジッとアーチェロ伯爵を見る。力もなく、魔
法にも頼れないならば、私に残された手段は伯爵との交渉しかない。
伯爵が何を望んで私を捕えているのか、間違えたら終わりだ。
﹁お腹は空いてませんか?お口に合うか分かりませんが、ご飯をお
持ちしました﹂
﹁⋮⋮まだ空いていない﹂
どちらかというと、殴られた所為で食欲が失せている。いつかは
食べなければ死んでしまうが、今すぐどうこうという事もないだろ
う。
﹁毒は入ってないですよ。良ければ毒見しましょうか?﹂
﹁本当に減ってはいない。お腹が痛くて﹂
﹁ああ。私が乱暴な事をしてしまったからですね。すみません﹂
悪いと思っているのか何なのか、眉をハの字にすると伯爵は頭を
下げた。⋮⋮貴族なのに、頭を下げるんだ。それが少し意外だった。
﹁今更敬語で話されても⋮⋮。謝るならコレ、外して﹂
﹁⋮⋮それはできないかな。ごめんね﹂
まあそうだよな。
そんなあっさり解放してもらえるならば、そもそも拉致監禁なん
てするなという話だ。
﹁なら、何で私は捕まえられている?﹂
﹁ごめん。⋮⋮それも言えないんだ﹂
伯爵は悲しげに眼を伏せると、トレーをベット横にあるテーブル
に置いた。それにしても、捕まえられた理由が聞けないのでは交渉
できない。それは困る。
﹁私も何も知らないまま殺されたくはない。せめて伯爵は私で何を
218
しようとしているのか聞かせて欲しい﹂
﹁⋮⋮オクト嬢は死が怖くないのかい?﹂
﹁怖いに決まっている﹂
何を言っているんだ。私が眉をひそめると、伯爵は苦く笑った。
﹁そうだよね。うん、ごめん。ただ私の弟なら、泣いて助けを求め
ているころだと思ったんだ﹂
そういえば、乗馬に誘った時も伯爵は、弟と私がかぶるような事
を言っていた。ただの言いわけと思っていたが、それは彼女にとっ
ての真実なのかもしれない。
そして大切な弟とかぶる私を犠牲にしなければならないという事
は︱︱。
﹁エストの為に私を監禁したの?﹂
﹁⋮⋮いや。私の為だよ。エストは関係ない。これは私のエゴだ﹂
明らかに、これはエストを庇っているよなぁ。
私と関係ないならば、美しい兄弟愛だなと感動すら覚えたかも知
れない。しかしそうではないので早くゲロってもらいたいところだ。
交渉できないという事は、私に待っているのはバットエンド。そ
れはマズイ。
﹁先に言っておく。私の血ではエストの病気は治らない﹂
もしもカミュ王子の流した噂が原因ならば、この話題には乗って
くるはずだ。しかし予想に反して伯爵は困惑気な顔をした。⋮⋮あ
れ?
部屋の中に微妙な空気が流れた。
﹁オクト嬢の血には何か特別なものがあるのかい?﹂
﹁いや、ないと思う﹂
本当のところは、混ぜモノの血に何かあるかは知らないという言
葉の方が正しいんだけど⋮⋮。それにしてもおかしい。もしかして、
伯爵は噂を知らない?
219
﹁混ぜモノの血には力があるって噂があると、アスタから聞いたん
だけど。その⋮⋮伯爵は⋮⋮﹂
﹁いや、聞いたことないな﹂
マジか。
カミュ王子の噂、全然役立ってないやん。私は想定外の言葉に、
頭の中が真っ白になりそうだ。つまり何だ、どういう事?
ぐるぐると私が監禁されている理由を考えるが思い浮かばない。
﹁それにしても、そんな下劣な噂を流す者がこの国にいるとは。嘆
かわしい﹂
ですよね。
私の変わりに怒ってくれるのはいい。しかしその噂を流したのは、
アーチェロ伯爵やアスタが仕えるこの国の第二王子様だ。なんて残
念。
それに。
﹁全くその通りだけど、拉致監禁する人には言われたくない﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
ずどんと落ち込む伯爵を見ると、どうしても悪い人には思えなく
なってくる。被害者は私なんだけどなぁ。これが貴族のお嬢様方を
虜にする秘訣なのかもしれない。
﹁分かった。聞き方を変える。伯爵はどうしたら、私を開放する?﹂
何故なんて聞いていてもらちがあかない。こうなったら伯爵の本
当の望みを聞いてしまった方が速そうだ。
﹁それは⋮⋮できない﹂
﹁できるできないの話しじゃない。監禁をするならそれ相当の理由
があるはず。例えば私を使ってアスタを脅してお金が欲しいという
理由なら、金が手に入れば私は必要ないということ。もしそうなら、
その願いを私が叶えてあげる﹂
もっとも、伯爵の望みがお金という事はないだろう。お金をふん
220
だくるなら、子爵よりも公爵だ。乗馬には、公爵令嬢も参加してい
たのだし私では不効率過ぎる。
﹁ローザ様から、海の精霊の呪いを消した事を聞いたはず。それは
本当。私は誰も知らない事を知っている。だからきっと、私は伯爵
の力になれる﹂
我ながら、かなり大きくでたよなと思う。しかしとにかく今は伯
爵の信頼を勝ち得ないれば先に進めない。
これで駄目なら、やはり後は誰かの助けを待とう。
﹁オクト嬢⋮⋮貴方は、一体⋮⋮﹂
困惑する伯爵の目の中に小さな希望が見えた私は、伯爵を安心さ
せられるよう、精一杯笑みを浮かべる。そしてアスタから貰った、
誰もが私を見る目を変える呪文を唱えた。
﹁私は賢者だ﹂
221
11−3話
部屋の中が静まり返る。
⋮⋮外したかなとチラッと嫌な考えがよぎって、ドキドキした。
賢者は流石にまずかっただろうか。大体、自分で賢者と名乗るって
どんな羞恥プレイ。
今のは冗談と言って誤魔化してしまいたい気持ちを必死に抑える。
内心あたふたしていると、すっと伯爵がしゃがんだ。
﹁アーチェロ伯爵?﹂
﹁どうか⋮⋮、どうか。私の弟の病気を治して下さい﹂
そういって伯爵が頭を下げた。まさか膝を折られるなんて思って
もみなかった為、私は固まった。
﹁私は悪魔に魂を、⋮⋮色々なものを売りました。ですが、弟には
何の罪もないのです﹂
﹁いや、待って。懺悔されても困る﹂
私は神様でも聖人君子でもない。自分の命大切さに、取引しよう
とする俗物的な人間だ。
しかし伯爵は顔を上げなかった。
﹁お願いします。賢者様、どうか弟を助けて下さい﹂
血を吐くような、悲鳴のような言葉に聞こえた。ああ、本当に大
切なんだ。自分にはそんな相手が誰もいないから、少し羨ましく思
えた。
﹁⋮⋮病名は気管支炎喘息﹂
本当ならば先に自分を解放することを約束させるべきだ。もしく
は足枷外せとか言うべきだと分かる。それでも先に伝えたくなるほ
ど悲痛なものだった。
222
まあ、仕方がないか。
﹁キカンシ?﹂
﹁そして原因は、動物性アレルギー。エストはたぶん馬のアレルギ
ーを持ってる﹂
と言っても、私も医者ではないので絶対とは言えない。しかし
エストが体調不良になるタイミングを思い出すと、そこには馬が関
わっていた。
乗馬で倒れたのは、アレルギーが発症したから。そしてアーチェ
ロ伯爵が近づくと発作が出るのは、アーチェロ伯爵が乗馬した後に
エストに会いに行くから。馬のアレルギーならば説明がつく。
﹁アレルギーとは何ですか?﹂
あー⋮⋮そうか、説明はそこからになるのか。抗体とか免疫云々
の話をしても、たぶん余計に混乱するだろう。Ⅰ型とかそういう話
も取り除くべきか。
﹁⋮⋮ごく稀に毒ではないものを毒と体が判断する事がある。その
ショック症状がでることをアレルギーと呼ぶ。エストは馬のフケも
しくは、そこから発生するダニを毒と判断しているのだと思う﹂
流石に馬アレルギーは、日本では早々お目にかからないが、きっ
と犬猫アレルギーと似通っているはずだ。
﹁まさか、馬が?﹂
信じられないとつぶやく伯爵に私は頷いた。伯爵にとっての気分
転換がまさかエストにとっての毒とは、中々理解しがたいのだろう。
﹁アレルギーの完治は難しいが、改善はできる。馬に近寄らない事。
馬を清潔にしておく事。それと乗馬後は入浴し、服を着替えてから
エストに会えば伯爵が近づいても発作は起きない﹂
食物性のアレルギーならば、食べない事が絶対条件だから、この
対処療法で問題はないはずだ。後は︱︱。
﹁それとアレルギーは、体調が悪いと特に酷くでてしまう場合があ
る。エストは子供だから、体が弱いと引きこもるのではなく、体力
223
作りをする事をお勧めする﹂
小児喘息ならプールに行けという、話もあるぐらいだ。あれはき
っと呼吸機能の向上と体力づくりを狙っているのだろう。あまり調
子が悪ければ運動などできないが、元気な時のエストを見る限り、
運動など問題なく行えそうだ。
﹁治療法は以上。⋮⋮足枷を外して﹂
﹁そうですね。乱暴な真似をして済みませんでした﹂
伯爵はポケットから鍵を取り出すと、足枷を外した。金属ですれ
た部分が、少し赤いがこれぐらいば、すぐに治るだろう。
﹁あれ?もう和解しちゃったんだ﹂
突然誰もいない空間から声が聞こえたかと思うと、カミュ王子と
ライ、それにアスタが現れた。たぶん転移魔法だけれど、実際傍か
ら見ると凄くびっくりする。
目がおかしくなったんじゃないかと数回瞬きをしたが、彼らが消
える事はなかった。どうやら幻ではないようだ。
﹁⋮⋮遅い﹂
﹁悪い悪い。こっちも色々証拠集めとかに手間取っていたんだよ﹂
全然悪いと思っていないような笑顔でライが言えば、その頭をア
スタが叩いた。⋮⋮叩いた?!
あの全然、怒らないアスタが?
﹁お前は。全然反省していないらしいな。オクトから目を離してま
んまと攫わせた事、俺はまだ許してはないんだけど﹂
﹁反省してます。してますからっ!!ちょ、マジでその笑顔止めて。
カミュも何とかしろって﹂
﹁さてアーチェロ伯爵、少しお話を聞かせて欲しいんだけど﹂
﹁おい、無視するなって!!﹂
巻き込まれたくないと思ったのだろう。カミュ王子はにっこり笑
ってライではなく伯爵を見た。
224
﹁吸血夫人について、色々聞きたい事があるんだよね。いいかな
?﹂
語尾は疑問形になっているが、王子の言葉には強制力があった。
あれ?でも、伯爵は混ぜモノの血の噂は知らなかったはずで︱︱。
﹁カミュ王子、伯爵は︱︱﹂
﹁オクト疲れただろ。ここは王子達に任せて、行こう﹂
すっと私はアスタに抱きかかえられると、ドアの方へ歩き出した。
﹁えっ、アスタ?ちょっと﹂
私の声など聞こえないかという様子でドアを開けると外へ出る。
そこは最初と変わらず、伯爵の屋敷のようだった。殴られてから、
それほど遠くへ運ばれたわけではないらしい。
扉が閉められた所で、私は話を聞かせない為に連れ出されたのだ
と気がついた。私も巻き込まれたくはないのであえて聞きたいとは
思わない。思わないが⋮⋮伯爵は本当に吸血夫人だったのだろうか?
何かがおかしい気がする。
そもそもカミュ王子は、王子なのにどうして伯爵邸に押し入って
調べるという事をしなかったのだろう。貴族とはいえ、王家に仕え
るもの。こんなまどろっこしい真似をしなくとも、もっとシンプル
に問い詰められたのではないだろうか。
もしかしてカミュ王子が犯人と思っている相手は、アーチェロ伯
爵ではない?そしてそれは、王子でも中々調べる事ができない相手
︱︱。
﹁オクトちゃん、ごきげんよう﹂
思考の渦にはまりぐるぐる考えていると、可愛らしい女性の声に
呼ばれた。声の方を見ればそこにはローザ様がいた。ああ、そうい
えば、ローザ様と一緒に乗馬をしに来たのだと今更思い出す。彼女
がまだ滞在しているという事はそれほど長く気絶していたわけでは
ないのだろうか。
225
﹁公爵家のご令嬢が何故こちらに?﹂
﹁きっとカミュが私に会いに来るから、ここで待っていたの。アロ
ッロ子爵、カミュと会う前に少しオクトちゃんと2人っきりでお話
させていただけないかしら?﹂
﹁申し訳ありませんが、オクトはまだ5歳ですので、そろそろ寝か
せたいのですが﹂
はっ?
今まで放任主義だった奴とは思えない言葉に、唖然としてしまう。
寝かせたいって何?
﹁そんな睨まなくても、何もしないわ。それにすぐ終わるから﹂
﹁⋮⋮オクト、どうする?﹂
どうすると言われても。
アスタに聞かれて私は首をかしげた。寝かせたいと言うぐらいだ
から、アスタがさっさとこの屋敷から離れたいと思っているのは分
かる。ただ公爵家令嬢に対し、はいさよならでは、少し礼儀に反し
ている気もした。
﹁少しなら﹂
そう言うとアスタは私を下に降ろした。
﹁すぐに帰して下さい。5分たったら迎えに行きますから﹂
﹁分かったわ﹂
瞬きする間に、目の前からアスタの姿が消えた。
2人っきりという言葉を叶える為に律義にどこかへ暇をつぶしに
行ったらしい。
﹁オクトちゃんは、あの魔族にかなり愛されてるのね﹂
﹁えっと、そうでしょうか?﹂
私を寝かせたいという言葉は、ただの言いわけに違いない。私と
いう存在をいいように使っているように思う。でもそんなこちらの
事情など、ローザ様が知りようもないのでそう思われても仕方がな
いのだけど。
226
﹁ええ。でも魔族に愛されるのは大変よ。あの種族は、執着心が強
いもの﹂
﹁はぁ﹂
その辺りはたぶん大丈夫じゃないだろうか。
アスタが自分に執着するとか、想像がつかない。というか、むし
ろいつ用済み扱いされるかとビクついているのは私の方だ。
﹁えっと。私を呼びとめたのは、その件でしょうか?﹂
﹁いいえ。時間もない事だし、単刀直入に聞くわ。混ぜモノの血に
力があるという噂は本当?﹂
﹁⋮⋮たぶん、真っ赤な嘘かと﹂
噂は出回ってなかったわけではないらしい。となると伯爵の場合
は、真面目な彼女が激怒しそうだったので、誰も耳に入れなかった
のだろう。
﹁やっぱりね。そうだと思ったわ﹂
﹁えっと、何故それを私に?﹂
混ぜモノだからだろうか。いやいや、混ぜモノだったら余計に自
分の不利になりそうな噂なら嘘をつくだろう。
かといって他の理由も思い浮かばない。5歳児に聞くよりは、王
宮に勤める魔術師に聞いた方が信頼度も高いと思う。
﹁だってオクトちゃんは賢者様なのでしょう?﹂
そっちの噂は一体何処まで広がっているのだろう。さっきは場合
が場合だったので、自分からそう名乗らせてもらったが、改めて聞
くと恥ずかしい。
﹁ねえ。賢者様は、私の事何歳だと思う?﹂
﹁⋮⋮16歳ぐらいでしょうか?﹂
唐突に話が変わり驚いたが、私は失礼にあたらないように答える。
彼女ぐらいの年齢だと、大人っぽく見られたいのか、それとも若く
見られたいのか微妙なラインだ。
227
﹁やっぱり、そう思う?私はね、カミュと同じ12歳よ﹂
12歳?!
それにしては、出るところが出ているし、大人っぽく感じる。身
長だってカミュ王子より高いのではないだろうか。女の子の方が早
く成長するとは言うが、それにしても差が大きい。
﹁魔力が強いと成長がゆっくりになるのだけれど、そうでなければ
翼族は成長が早いの。私はね、生まれる前はカミュの婚約者だった
わ。でも生まれてすぐ、魔力が弱い事が分かって婚約を解消された
の。生きる長さが違うから仕方がない事なのだけどね﹂
ローザ様は少しさびしそうに笑った。もしかしたら、婚約者だっ
たカミュ王子の事が好きなのかもしれない。
﹁私は年を取りたくないわ。年を取るという事は、できそこないと
いう事だもの。だから美容にいいとされるものは色々試したわ。け
れどどうしても時は止められないの。ねえ、賢者様。どうしたらヒ
トは年を取らずにいられるのかしら﹂
ローザ様の緑の瞳に少しだけ狂気のようなものが混ざった気がし
た。
公爵家の令嬢というものはきっと大変なのだろう。色々な期待を
背負っているに違いない。そしてローザ様はそれに答えようと頑張
って、頑張りすぎているように思う。プライドの高い貴族が、自分
をできそこないと言うのは、どれだけつらい事なのか。
しかし私は、年を取らない方法など知らなかった。
﹁それは⋮⋮無理です﹂
﹁どうしても?﹂
﹁⋮⋮ヒトの時が止まるのは、死んだ時だけだと思います﹂
前世でも、不老不死は夢物語だった。老化しないという事は死で
あり、死なないという事は老化していくという事。両立など無理だ。
こんな答えでは賢者失格と言われてしまうだろうかとローザ様を
見ればくすくす笑っていた。笑っている彼女は先ほどよりもすがす
228
がしいような表情をしているように見える。
﹁そうね。⋮⋮本当にその通りだわ。ありがとう賢者様。そろそろ、
カミュに会いに行くわね。きっと私の事を待っていてくれているか
ら﹂
﹁はい﹂
笑うローザ様はとても可愛く見えた。魔力が低いだけで、婚約を
破棄するなんてもったいない事をするものだ。私が男なら、彼女を
好きになったかもしれない。それぐらい一途で、可愛らしかった。
﹁さようなら、オクトちゃん﹂
そう言ってローザ様は私が監禁されていた部屋の方へ歩いて行っ
た。
その後、私が吸血夫人に関わる事はなかった。
229
12話 ものぐさな混ぜモノ
私の人生2度目の拉致監禁後、アーチェロ伯爵は王家に爵位を返
還した。元々アーチェロ伯爵は、結婚で伯爵家に嫁いだのであって、
伯爵家の人間ではなかったそうだ。また彼女と亡くなった夫の間に
子供はおらず、他に継げる人もいない。結果、アーチェロ家は表舞
台から消えた。
﹁エストの事は安心しろよ。俺の家で預かりになったから。それと
これは、エストから預かった手紙﹂
﹁うん﹂
アーチェロ伯爵は結局、人身販売の仲介者だった。エストの薬は
かなり貴重なものだったそうで、それを買う為に犯罪に手を染めた
そうだ。
そんな説明をわざわざしに、ライとカミュ王子は家まで来てくれ
た。エストの事は気になっていたのでありがたいが、正直もう関わ
りたくはない。
風のうわさで、吸血夫人が捕まったらしい事はきいていた。らし
いというのは、大々的に吸血夫人が捕まった事は発表されなかった
からだ。しかし新聞には吸血夫人の記事は伯爵が捕まって以来一度
もでていない。カミュ王子が簡単に手を出せず、王家が内々に処理。
そしてアスタが最初のお茶会にはついてきた理由。色々考えると、
私の中で見なかったふりが一番楽だという結論になった。カミュ王
子も知られたくはないだろう。
﹁そっけないな。もっと喜ぶとか驚くとかないのかよ﹂
﹁これでも喜んでいる﹂
悪いが、﹃うわー、凄い嬉しい。ありがとう、ライお兄ちゃん!﹄
230
なんてできるバイタリティーは私にはない。そんなに無邪気で愛想
が良ければ、もっと周りから可愛がられ、楽に生きれる気がする。
もちろん混ぜモノというハンデがあるので、あくまで予想だが。
﹁オクトさんはあんまり笑わないんだね﹂
私は答えに困って、首をかしげた。笑えと言われれば、愛想笑い
位はできる。ただ楽しくもないのに、普段からニコニコはしない。
そう考えると、あまり笑わない方だろうか。
﹁というか、この状態は笑えないから﹂
私は椅子の上に乗り、一生懸命お茶を注いでいた。はっきり言っ
て5歳児の腕力では、手がプルプルする。その為集中力を欠くわけ
にいかないのだ。この状況で笑えるはずがない。
何とか入れ終わると、2人は紅茶を自分の方へ持って行った。マ
ナーもへったくれもないが、私では運ぶのに時間がかかり過ぎる。
﹁オクトって、まだ5歳なんだろ。一体どこでこういう事覚えたわ
け?﹂
﹁ああ。それは僕も気になっていたんだよね﹂
﹁えーあー⋮⋮ママに聞いたみたいな?﹂
この技術も、ばっちり前世記憶だ。
日本は緑茶文化だったが、幸い前世の持ち主は紅茶にはまってい
たらしく、入れ方だけは覚えていた。今入れた紅茶の種類は記憶に
あてはまるものがなかったので、異世界にはないのかもしれないけ
れど。
﹁ママ?ああ。そう言えば亡くなったって言っていたな﹂
﹁何の種族だったんだい?﹂
﹁獣人族と精霊族﹂
﹁﹁精霊族?!﹂﹂
えっ?
231
余計な事を言わないよう、ボソリと答えれば2人の声がはもった。
たしかどちらの種族も数が多いはずだけれど⋮⋮。叫ばれるなんて
精霊族は、何か不味いのだろうか?
﹁なるほどね。だったら、不思議な知識を持っていても納得がいく
かな﹂
﹁まさかこんな近くに精霊族がいるなんてな﹂
変な納得のされ方をして、私の方が逆に混乱する。精霊族だとど
うして不思議な知識を持っていてもおかしくないのか。
﹁えっと。⋮⋮精霊族って、どんな種族?﹂
そう言えば私は自分につながる種族について何も知らない。アス
タに聞けば教えてくれそうな気はするが、日常生活であえて聞かな
ければならない場面などなかった。
﹁精霊族というのは、肉体がなく、魔力の塊でできている一族の事
を指すんだよ。高位になれば魔力の低いヒトの目でも見る事ができ
るけれど、そういう奴らは大抵、神に仕えているから一般人は会う
事はないな﹂
﹁あっ。アスタ、お帰り﹂
振り返れば、アスタがいた。今日も仕事だったはずだが、どうし
たのだろう。時計を見れば、まだ15時もまわっていない。いつも
ならば、絶対帰ってこない時間だ。
﹁ただいま。どうも家に害虫がわいている気がして、早退したんだ﹂
﹁害虫って俺らの事?!師匠ひどい。いたたっ!!やめ、止めて。
頭がトマトになるっ!!﹂
アスタはガシッと片手でライの頭を掴むと力を入れたようだ。と
てもいい笑顔なので、それほど力を入れている様には見えないが、
ライの痛がり方は尋常ではない。
﹁あー⋮⋮、もしかして家に入れない方が良かった?﹂
相手が王子なので迎え入れたのだったが、私は家主ではない。勝
手に入れるのは、少し早まったかもしれない。
232
﹁アポなしに勝手に来たコイツらが悪いんだから、オクトは気にす
る事ないよ﹂
⋮⋮そうだろうか?というか王子とその乳兄弟の扱いがこんなに
雑で良いのか?
アスタはライを解放すると私の頭を撫ぜた。頭をトマトにするほ
どの力があるとは思えないほど優しい動きだ。
﹁アスタリスク魔術師。僕は子供をあまり一人にしておくべきでは
ないと思うんだけどね﹂
﹁公園デビューはオクトがもう少し大きくなってから考えるつもり
だし、ヒトの教育方針に口を出さないでほしいな。オクトはどう?
外へ遊びに行きたい?﹂
私はぶんぶんと首を横に振った。外出するたびにろくな目に会っ
ていないのだ。絶対嫌である。できる事なら、買い物も行かずに引
きこもっていたいくらいだ。ネットショッピングのないこの世界が
恨めしい。
﹁というわけだから、お前ら帰れ。まだ事件の処理も終わっていな
いんだろ﹂
﹁事件って何のことかな?﹂
﹁処理も何も、俺らは別に何の事件にも関わってないけど?たまた
ま偶然、オクトが拉致監禁したところに居合わせただけで﹂
へ?
事件といえば、吸血夫人の事に決まっている。彼らは何を言って
いるのだろう?
﹁うん。ライの言う通り、僕が関わらなければならない大きな事件
なんて、最近は何も起きていないよ。ただ不幸な事に事件に巻き込
まれてしまったオクトさんへの見舞い金は、もちろん後で払わせて
もらうつもりだよ﹂
一テンポ置いて、私は彼らが事件の真相をもみ消したのではなく、
最初から吸血夫人自体いなかった事にしたのだと気がついた。想像
233
以上の対応に絶句する。
﹁ああ。もしも僕の従姉殿が自殺した件を言っているなら、もう終
わったよ。あまり名誉な事ではないから、密葬だったんだ﹂
にっこり笑うカミュの笑顔は問答無用な雰囲気があった。
自殺か⋮⋮。
全てがなかった事にされてしまうのは、罪を問われることとどち
らがつらいのだろう。普通なら罪を問われたくないと思うはずだけ
れど⋮⋮彼女はどうだったのだろう。考えると少し胸が痛んだ。
﹁そう﹂
それでも私には何もできる事はない。ただ国の決定に従うだけだ。
小さく了承した事を伝えると、アスタがわしわしと私の髪の毛をか
き混ぜた。
アスタは驚いた様子もないので、初めからこの事を知っていたの
かもしれない。だとすればあえて、私に事の顛末が分かるようにし
てくれたのだろう。
﹁⋮⋮そう言えば、師匠ってどういう事?アスタはライの師匠なの
?﹂
慰められてるのが、どうにも甘やかされているような気がして、
私は話題を変えた。不幸になった人の事を考えれば、私は悲しむべ
きではない。ましてや、アスタに心配をかけるなんてもっての外だ。
﹁正確にいうと、俺はライとカミュ王子の元家庭教師なんだよ。研
究するために王宮に上がったのにな﹂
家庭教師?!
アスタは不本意そうだが、それってかなり凄いのではないだろう
か。王子の家庭教師って、なりたくても中々なれるものではない。
﹁アスタリスク魔術師は今年で82歳になる、知識も経験も豊富な
魔術師だからね﹂
234
へー⋮⋮えっ?!
﹁82?!﹂
嘘っ。誰が?アスタが?
指をさすと、アスタは頷いた。
﹁そう言えば教えてなかったっけ。魔族は魔力が強い一族だから、
老化がゆっくりになるんだよ﹂
まさかアスタが高齢者だとは。というか、だったらその父や母は、
何歳?!
開いた口がふさがらないとはまさにこの事だ。そりゃそれだけ年
を取っていれば、今年学校を卒業するような息子がいたっておかし
くない。むしろ遅いぐらいだ。執事に段差を気を付けるように言わ
れたのも年齢を考えれば理解できる。
﹁実力はこの国で、1,2を争うほどだしな。それと師匠。俺はま
だ弟子を止めたつもりはないんだけど﹂
﹁そうだね。僕も右に同じかな﹂
そんな凄い人物だったとは。ヒトは見た目ではない。
しかしアスタは面倒そうな顔をした。
﹁俺は弟子は取らない主義なんだよ。学校に良い教師がいるだろ。
そっちに教えてもらえ﹂
学校⋮⋮あっ。
ふとアスタの実家で考えた事を思い出した。そうだ、まだ伝えて
いない。
私はエストの手紙に目を落とす。もしもエストの薬がもっと安価
にする事ができたら、アーチェロ伯爵は今もエストと一緒に暮らし
ていただろう。知識があれば、ローザ様の悩みに、もっとちゃんと
答えられたはずだ。
⋮⋮エストの言う混ぜモノさんではないが、無知はなんて面倒な
のだろう。私が本当に賢者だったら、後悔なんてしなかっただろう
235
か。 ﹁⋮⋮アスタ﹂
﹁どうした?﹂
なんとなくアスタには全てを見透かされている気がした。
下手したら、私の行動はアスタの思うがままかもしれない。引き
取った時に研究を手伝えとか言っていたし、何たって82歳。勝て
る気がしない。それでも、これは私が考え選んだ精一杯の答えだ。
﹁魔術師の学校に通いたい﹂
後悔しない為に、私は本当の賢者になろう。そう心に誓った。 236
13−1話 大変な入学準備
龍玉大陸は﹃緑、青、黄、赤、白、金、黒﹄の7つの大地からで
きていた。それぞれ治める龍神が違い、私が住んでいる国は、緑の
大地に属する。
またこの世界にある魔法は﹃樹、水、風、火、地、光、闇﹄の7
属性に分かれ、大地ごとに使いやすい魔法も違う。ちなみに緑の大
地では樹が使いやすいとされる。
﹁魔法を使うのに場所まで関係するなんて⋮⋮﹂
なんて面倒な。
魔法学校へ入学を決意してから2年の月日がたった。5歳児だっ
た私も7歳になったわけだが、いまだに学校には通えておらず、ア
スタの家で日々勉強をしている。5歳の時よりは一応進歩はしてお
り、今では龍玉語をすらすら読んで書けるまでになった。
家庭教師なんかやってられないぜ的だったアスタだが、さすがに
娘の勉強をみるのは親の仕事と思ったのか休みの日は色々教えてく
れている。ただし魔法に関してはいまだに理論を出ず、実技には程
遠いのだけれど。正直魔法を舐めていた。覚える事が多すぎる。
前世でやったゲームなどでは、火より水の方が強いとかその程度
の内容を覚え、ボタンひとつで済むのに、実際は違った。当たり前
といえば、当たり前だ。
まず魔法を使うには魔力又は魔素というものを使う。人体で生み
出しているものを魔力、大気中にあるものを魔素と呼ぶだけで大し
て変わらないように思うが、これが結構違う。ヒトは生まれながら
に属性というものがあり、魔力はその属性を帯びている。例えば樹
237
属性のヒトならば、自分の魔力で樹の魔法が使えるが、その他の転
移魔法などは使えない。もしも使いたい場合は、一度魔力から属性
を消し去るという作業をして、さらに転移魔法用に加工する事で、
初めて使えるのだ。
魔素を使う場合はあらかじめ必要なものを選び使う事となるが、
場所によってその量は変わり、これまたややこしい計算が必要とな
る。
他にも色々覚える事があり、勉強すればするほど、正直マスター
できる気がしない。魔法学校に通いたいなんて少し早まったかもし
れない。
﹁そもそも魔法学校って何歳から?﹂
この国にあるウイング魔法学校は、入学前に試験がある。今まで
勉強らしい勉強をしてこなかったので、慌てて基礎知識を積み上げ
ている最中なのだが、最近何歳で入学するのが普通なんだろうとい
う事に気がついた。少し気がつくのが遅いかもしれないが、アスタ
がまったくその事に触れなかったのだから仕方がない。
日本の学校を想像すれば、6歳くらい?と思うが、この国には小
学校がない。また学校に行くようなヒトは家が裕福で幼い時から家
庭教師を付けていたりする事が多い。そう考えるともう少し年齢が
上がってからかもしれない。
﹁確かライ達が12歳の時にはもう通っていたような⋮⋮﹂
﹁僕たちは11歳に入学したかな。特に年齢制限は引いていないは
ずで、知識と最低ラインの魔力があれば入学は可能だよ。ほら、魔
力の度合いとか種族によって成長具合が違うからね﹂
振り返れば、王子様。
⋮⋮ない。普通はない光景だ。ここが王宮なら分かるが、ここは
王宮勤めのヒトが借りている宿舎で、しかも王宮の外に設置された
場所である。ほいほい王子様が出てきていい場所ではない。いくら
238
元家庭教師の家でもだ。
彼らと出会ってしばらくして、ようやくその事実に気がついた。
しかしその事を認識しても勝手に来るものを追い払うわけにもいか
ず、結局は迎え入れるしかない。王子の意見を一般ピープルが覆せ
るはずもないのだ。
﹁カミュ王子、それにライ。学校は?﹂
﹁午後から休みなんだよ﹂
﹁そう﹂
私は心の中でため息をつきながらお茶を入れる為立ち上がった。
何が休みだ。大方、テストさえちゃんと点数が取れれば問題ない
科目をさぼったのだろう。魔法学校はその名の通り、魔法科目に重
点を置いている。基本科目である国語、数学、魔法、社会のうち、
魔法だけが唯一出席日数が足りないと留年するが、その他の科目は
テストの点さえ取れれば進級できるのだ。というのも生徒は、家庭
教師などを付けて勉強しているお坊ちゃん、お嬢ちゃんが多く、す
でに勉強済だったりするからだ。同じ授業料ならば、出席した方が
得なのになぁと思うが、そんなもの貴族は知った事ではないだろう。
先生も大変だ。
﹁オクトさん、今日のケーキは何?﹂
﹁⋮⋮エッグタルト﹂
何でさも当たり前のようにおやつを要求しているんだろう。王子
様だからですね、分かります。
小さな無言はなけなしの反抗心だが、週の半分は入り浸る彼らの
為におやつを用意するのは日常となっており、食べてくれないと逆
に余って対応に困る。食べきれなければ、近所におすそわけすれば
いいのかもしれないが、以前両隣にプレゼントをした後、大量の花
束や良く分からない詩集などの贈り物が家の前に積まれた。あれは
かなりの恐怖体験だ。何処の笠地蔵だよ。
239
両隣にどんな人物が住んでいるのかいまだに知らないが、正直関
わりたくない。うん。人生楽に生きる為には、引きこもるに限る。
コンロでお湯を沸かし、冷蔵庫からタルトを取り出す。何気にこ
の部屋は最新調理システムになっている気がする。この国で1,2
を争う魔術師なだけあって、アスタはこんなのが欲しいと頼むと、
簡単に作ってくれた。娘の我儘を必ず聞いてくれるなんて、何とも
甘いお父さんだ。
﹁オクトさん、それ何?﹂
﹁まな板﹂
﹁いや。魔方陣が書いてあるだろ、ソレ﹂
﹁魔方陣とは違う。切り分けやすいようにメモリが書いてあるだけ。
というか、座って待てていいよ﹂
タルトを切り分けていると、後ろからカミュ王子達が覗き込んだ。
丸い形のものは中々切るのが難しいのだ。そこで事前にケーキ用の
まな板を作り、そこに切り分ける線を書いてしまう事にした。決し
て魔方陣で美味しくなる魔法をかけようなんてセコイ事は考えてい
ない。
というか、ドーピングっぽくて、ソレちょっとどうよって感じだ
し。
﹁じゃあ、先にカップだけ持っていくな﹂
﹁どうも﹂
定期的に入り浸るようになった彼らは、一応お客という立場だが、
お茶を運ぶのを手伝ってくれる。5歳の時は腕力のなさに苦戦して
いた為だが、今はもう習慣のようなものだ。
今もケーキを皿に盛ると、カミュ王子がテーブルまで運んでくれ
る。彼らにこんなことをさせていると知れたら、偉い人たちがひっ
くり返るかもしれない。今後も外で会う事などほぼ皆無の予定だが、
一応外でフレンドリーにしないよう、気を付けた方がいいだろう。
今も敬語で話したりもしていないし。
240
沸いたお湯をポットに入れ運ぶと、テーブルがセッティングされ
ていた。運ぶ時間も計算に入れてて紅茶を注ぐと、ふわりといい香
りが漂う。完璧だ。
﹁そういえば、オクトさんはいつごろ入学するつもりなの?﹂
﹁早い方がいいぞ﹂
そういうものなのか?
ライ達が11歳で入学したなら、私はまだ4年は学校に通う必要
はない。ただ、ライ達の入学したタイミングが早いのか、遅いのか
も正直分からないのだ。
アスタは今のところ入学試験を受けろとか言わないので、ゆっく
りと構えていた。でもアスタは20代に見える、若づくりな高齢者
だ。時間の流れがヒトと違って、のんびりしている可能性もある。
﹁普通、どれぐらいで入学するの?﹂
﹁10歳前後が多いか?でもカザルズ魔術師が8歳で入学して7年
で卒業したのは有名だぞ﹂
﹁へぇ﹂
それはかなり凄い。魔法学校はおおよそ10∼12年通う学校だ。
6年間基礎魔法を勉強し、その後細分化された学問を勉強をする。
私が勉強したい魔法薬学科は6年だが、選んだ専攻によっては4年
で卒業だ。カザルズがどの専攻を選んだのかは知らないが、飛び級
制度を使った事は間違いない。
﹁その後は祖国である、ホンニ帝国で働いているそうだよ﹂
つまりはエリートコースまっしぐらという事か。
私の人生計画は、山奥でひっそり薬剤師をやる予定だ。なのでそ
ういう華々しい学歴はいらない。しかし入学が遅くなれば、必然的
に働けるようになるのも遅くなるという事で⋮⋮。確かに入学は早
い方がいいだろう。
241
タルトにフォークをつきたてながら、私はどうするか思案した。
242
13−2話
﹁アスタ、そろそろ魔法学校の入試を受けようと思うんだけど﹂
﹁まだ早いんじゃないか?﹂
⋮⋮ですよねぇ。
アスタと夕食を食べながら、今日思った事を切り出してみたが一
蹴された。
国語と数学だけならちょっと自信があるのだけれど、魔法と社会
は明らかに最低ラインをひた走っている。まだ社会はこれから本を
読み続ければレベルアップできる見込みがあるが、魔法がヤバい。
アスタのような最高レベルの魔法使いに家庭教師をしてもらって
いるのに、何だこの伸び率の悪さはみたいな状況だ。アホの子です
みません。
﹁でも、そろそろ入試対策にのっとった勉強をするべきかと。読み
書きは問題なくなったわけだし﹂
﹁入試に合わせた勉強なんてしても、今後意味をなさないよ。ちゃ
んと基礎を積み上げるべきだと俺は思うけど?﹂
うっ。これまた正論だ。
過去問とかをやれば結構出題される場所は分かると思う。しかし
悲しいかな。それは一時しのぎにすぎない事もまた事実だ。社会は
卒業後に使わなさそうだし問題ないが、魔法は違う。
少なくとも私は、転移魔法をマスターしたいと思っているのだ。
その他、火を付ける魔法︱︱できれば強火や弱火など火力調節でき
るとなおいい︱︱や、保冷魔法、水を召喚する魔法、植物の成長を
促す魔法など、自給自足する時に楽になる魔法も覚えたい。また薬
243
草を年中楽に栽培する事になると考えれば、日照時間を誤魔化す、
光魔法や闇魔法もあると便利だろうし⋮⋮と考えると、かなりオー
ルマイティーに魔法が使えるようになる必要があった。
どれもこれも些細なものだが、属性がバラバラな事を考えると、
真面目に勉強する必要がある。大がかりな攻撃魔法とか、空を飛び
たいとかそんな夢のある魔法からは程遠い次元なのに、何でこんな
に難しいのだろう。
﹁確かにその通りだけど、私は魔法薬学を学びたいから、12年は
通うことになる。20歳ぐらいで独り立ちすると考えると、来年に
は入学しないといけないと思うんだ﹂
﹁20で独り立ちっ?!﹂
⋮⋮おや?
アスタが衝撃的な顔をしている。成人って、20歳ぐらいじゃな
いの?ああ、でも種族によっては成長スピードが違うからそれぞれ
違うのかもしれない。特に魔族は遅そうだ。
﹁人族だとそれぐらいで成人だと聞いていたけれど﹂
﹁それは魔力が少ない人族の話だろ。オクトは20歳になっても、
まだこんなに小さいよ﹂
﹁いや、それ。今の私より小さいから﹂
アスタはテーブルより下に手を下げたが、悪いがすでにテーブル
よりは頭が上だ。2年前ならそうだったかも知れないが、私だって
成長する。
﹁それに今のところ人族とさほど私の成長は変わらないように思う。
ならば20歳で独立するのが妥当じゃないかと﹂
﹁でもオクトは魔力が高いし、必ず途中で成長スピードが落ちるよ。
20なんて早いって﹂
﹁魔力⋮⋮高いの?﹂
それは初耳だ。
244
私のつぶやきにアスタはしまったというような、苦虫を噛んだよ
うな顔をしている。言うつもりはなかったのだろう。アスタにして
は珍しい。20歳で独立って、そんなに焦るほど早いのだろうか?
﹁あー⋮⋮事前に言っておくけれど、魔力が高いから、優秀な魔術
師というわけじゃないから﹂
﹁うん。それは分かっている﹂
いくら魔力が強くて、色々ごり押しできたとしても、正確に理論
を理解していなければ、応用は使えない。軍に入って、攻撃魔法を
使うだけというならばそれでも構わないだろうが、私の将来設計に
攻撃魔法はいらないのだ。
﹁オクトに流れている血は、エルフ族、人族、精霊族、獣人族の4
つだろ。この中で魔力が強い種族はエルフ族と精霊族。特に精霊族
は魔力の塊みたいなものなんだ。それとは逆に魔力が低い種族は獣
人族。彼らは魔力が低い代わりに、優れた聴覚や視覚、腕力や脚力
などを持っている﹂
﹁つまり獣人族の特徴が全く出ていないから、他の種族の特徴が出
ているという事?﹂
腕力、脚力のなさは、常々不便に思ってきた。年相応だから仕方
がないと割り切っても、もう少し筋肉が欲しいと今も思っている。
また聴力や視力などの5感も並みぐらいで、アスタとそんなに変わ
らない様に思う。獣人らしい能力には全く恵まれていない。
﹁そう。あと、これは練習しなければ見えないのだけれど、オクト
の周りには低位の精霊がよく集まっているんだ。魔力が強くて垂れ
流し状態だとそういう事が起こるんだよ﹂
﹁えっ、いるの?精霊?!﹂
きょろきょろ見渡すが、やはり見えない。練習が必要と言ったが、
どうやって見るのだろう。でも見えたら見えたで、アレか。普通見
えないものが見えるという事は、精神科を勧められそうな気がする。
245
混ぜモノってだけで嫌われているのに、精神も疑われるのはちょっ
と嫌だ。
﹁精霊族は、高位と呼ばれる者以外は魔力で作ったレンズを目に貼
り付ける事で、始めて見えるんだ。数は多い種族だよ﹂
﹁へぇ﹂
つまり魔法使い又は魔術師にしか見えないという事か。⋮⋮ん?
だとしたら、魔力の少ない獣人と精霊が結婚するってどういう状況
だ?自分の祖父母のどちらかは高位と呼ばれる精霊だったとか?で
も高位は龍神の近くに住んでいるとかって前に聞いたような。でも
ってその龍神はめったにヒトには会わないわけで。確か会う事がで
きるのは⋮⋮。
︱︱何だか自分の家系図を遡ると複雑そうだ。
母親がすでに他界している状況なので、実際遡る事は難しいだろ
う。だけどそもそも、考えない方が身の為な気する。面倒事には、
関わらない。フラグはへし折るに限る。
﹁えっと、それは難しいの?﹂
2年前、少し失敗ぎみではあったが既に転移魔法を使っていたカ
ミュ王子達は、まだ精霊を見た事はないと言っていた。レンズを作
る魔法は転移魔法よりも難しいのだろうか。もしくはあまり実用性
がないから勉強をしていなかったのかもしれないけれど。
﹁魔法を使う事に慣れていないと難しいかな。オクトは精霊が見た
いの?﹂
何だか今にも見せてくれそうな言い回しだが、見たいかと言われ
ると疑問だ。自分の周りに結構いるという事は、目に見えてしまう
とかなり鬱陶しいのではないだろうか。四六時中誰かに見られてい
ると思うとぞっとする。
私は色々考えた結果、首を横に振った。
﹁いや。別にいい。聞いてみただけ﹂
246
﹁そう?見たくなったら言ってくれれば、いつでも見せてあげるよ﹂
スープを飲みながら、アスタはこともなげに言った。こういう時、
やっぱり凄い魔法使いなんだなと思う。
﹁あー⋮⋮見せて欲しいというよりは、できれば私も魔法を使って
みたいというか⋮⋮﹂
アスタが教えないという事は、まだ私には無理なのだろう。アス
タはいつも何事も基本が大切といい、勉強を教えてくれる。それは
私も十分理解している。基礎ができていないのに魔法を使いたいと
いうのは、足し算、引き算ができないのに、二次関数の問題を解こ
うというようなものだろう。
でも理論だけ学んでいると、どうにも進歩したように思えないの
だ。本は読めるようになったし、手紙も苦もなく書けるようになっ
たから全く進歩していないわけではない。それでも魔法分野は進歩
が感じられず、本当に魔術師になれるのか不安だった。
﹁でも無理なら、別にいい⋮⋮﹂
﹁オクトはどんな魔法が使いたいんだい?﹂
アスタは無理だと一蹴しなかった。食事の手を止め、ジッと私を
見つめる。きっとただ使いたいでは、アスタは納得しないだろう。
覚えたい魔法はいくつかあるが、今のところアスタのおかげでキ
ッチン関係では今すぐ必要なものはない。転移魔法も、出かける場
所が近場なので必要性は低い。それにあまり移動を魔法に頼り過ぎ
ると、今度は運動不足で体力がなくなりそうだ。
﹁えっと⋮⋮扇風機みたいなものとか?﹂
﹁は?﹂
﹁えっと。これから暑くなってくるから、部屋の中で小さな風を起
こせるといいなと﹂
今はまだ温かいぐらいだが、これからどんどん暑くなってくる。
247
海が近い所為か湿度が高く、おかげで去年は夏バテをしかけた。冷
蔵庫の原理で部屋の中を冷やすのもいいかもしれないが、体の事を
考えると、まずは扇風機だ。もしくは水魔法で除湿か。でもあまり
乾燥すると、喉を痛めそうだしなぁ。
﹁ぷっ⋮⋮あははははは。オクト、風を起こすだけでいいわけ?も
っと派手なのじゃなくて?﹂
﹁派手?﹂
何故か大笑いしているアスタを私は睨んだ。絶対馬鹿にしている
だろ。ヒトが折角真面目に考えたというのに。
﹁悪い、悪い。馬鹿にしているんじゃないって。ちょっと想像と違
っただけで。風を起こすなら、竜巻を起こしたいとか、空を飛びた
いとか色々あるだろ﹂
﹁⋮⋮竜巻を起こして、どうするの?それに空を飛んで買い物に行
く利便性が見えない﹂
むしろその発想の方が私には謎だ。
首をかしげると、アスタは耐えきれないとばかりに爆笑した。や
っぱり馬鹿にしているんじゃないだろうか。
ひとしきり笑い終えたアスタは目にたまった涙を拭くとにっこり
笑った。
﹁じゃあ明日、実践をやってみようか﹂ 248
13−3話
﹁オクトお嬢様あぁぁぁぁ!!﹂
﹁ぎゃうっ﹂
走ってきた犬耳メイドに吹っ飛ばされるような勢いで抱きつかれ
て、私は危うく昇天しかけた。
﹁おかえりなさいませ。中々こちらへ来て下さらなくて寂しかった
ですぅぅぅ﹂
﹁やめっ⋮⋮内臓出る﹂
ぎゅうぎゅうと獣人族の力で抱きしめられると、私のやわな筋肉
でははじき返す事も出来ない。
﹁ペルーラ。今日は魔法の練習に来たんだから離しなさい﹂
﹁ああ。旦那さま。おかえりなさいませっ!!﹂
ペルーラはパッと私を離すと、頭を下げた。⋮⋮どうにも伯爵邸
とは雰囲気が違うよなぁ。
今日は魔法の実践練習の為に、アスタの本当の家である子爵邸へ
来ていた。本当の家の割には宿舎で過ごす日の方が多く、近場にあ
る割に私もそれほど来た事はない。
では何故今回子爵邸へ来たのかといえば、屋敷の中に魔法を遮断
する練習室が作ってあるからだ。どうやらアスタの息子が昔使って
いたらしい。失敗しても大丈夫な安全設計だ。
﹁ペルーラ、俺とオクトの荷物を先に部屋まで持っていってくれな
いかな?﹂
﹁承知しました!﹂
ペルーラは荷物を持つと、脱兎のごとく走っていった。⋮⋮結構
重いはずなのに、流石獣人。
249
﹁オクト、大丈夫?﹂
ペタリと地面に座り込んでいた私は、アスタの手を取って立ち上
がった。
﹁段々ペルーラの力が強くなってる気がする﹂
﹁ペルーラはオクトが大好きだからね﹂
まあ、懐かれている自覚はある。
子爵邸は、アスタがほとんど帰らない事もあり、使用人は最小人
数しかいない。そんな使用人達は伯爵家ほど洗礼されていないとい
うか若干無法地帯よりだが、仕事は伯爵家よりずっと早かった。後
は客が来た時だけはビシッとするので、なんというか外面がいい面
々だ。
その中でもひときわ問題児⋮⋮いやいや、元気がいいのがペルー
ラだ。初めて会ったの時は、村から奉公に出てきたばかりで食が細
くなっていたらしくフラフラだった。貧血症状が出ていたので、レ
バーを食事に取り入れさせたり、ほうれん草を食べる時は動物性た
んぱく質と一緒にしたり、紅茶を食事中に飲まないようにと食事改
善するうちに、あら不思議。何故か懐かれたというわけだ。
今ではすっかり元気というか、私よりも元気だ。
﹁さあ、練習室に行こうか﹂
私はコクリと頷いた。
アスタの休日をわざわざ一日貰ってしまったのだ。きっちり学べ
る事は学んでしまわなければ。それに初歩さえ学んでしまえば、今
後自分で自習練もできるし︱︱。
﹁しばらくは1人で練習は駄目だからね。もししたら、実技練習止
めて、また理論から勉強してもうから﹂
﹁⋮⋮はい﹂
見抜かれていたか。私はそれほど要領が良くないので、練習が中
々できないと、取得までにどれぐらい時間がかかるのだろう。
﹁それとできるようになっても、俺が使っていいと許可するまでは、
250
絶対使うなよ﹂
私は素直に頷いた。魔法に関してはアスタに逆らってもいい事は
ない。千里の道も一歩から。昨日まで実技は全くできなかったのだ
から、制限が色々あっても大きな進歩だ。
アスタが案内してくれた場所は、玄関から入って、ずっと奥に位
置する部屋だった。というか︱︱。
﹁体積がおかしいような﹂
周りから見た光景と、内面積がイコールにならない。今居る位置
からすると、ここは壁だ。
﹁魔法で空間を広げてるからね。ここは龍玉とある意味切り離され
た場所になるかな。だから、魔法の練習をしても問題ないんだよ﹂
テラチート男め。
魔法を勉強しはじめてから、私はアスタがチート能力の持ち主だ
という事に気がついた。
例え説明されても、私では凄いという事しか分からないのだ。ど
んな理論で組み立てられた魔法なのか、考えるのも無駄なぐらいレ
ベルが違う。まあ羨ましがっても仕方がないので、私は中に入る。
部屋の中は体育館のような作りだった。床は板張りになっており、
天井が高く、とにかく広い。広い事以外普通の部屋なはずだが、何
だか不思議な場所に感じた。何でだ?
少し考えて、窓がないのに明るいからだと気がついた。
﹁オクト、魔法の作り方は覚えているかい?﹂
﹁えっと、魔法は魔方陣を設計し描く事で発動する﹂
突然の質問に、私は慌てて本で丸暗記した内容を答えた。ここで
間違えたら、やっぱり止めようと言いだしかねないので、答える方
は必至だ。流石最高の魔術師というか、魔法に関してアスタは妥協
というものを知らない。
それだけ扱いが難しいという事だろうけれど。
251
﹁そう。魔方陣を設計しなければいけないのは、魔力を使う内魔法、
魔素を使う外魔法のどちらも同じだったね。今回は魔力バランスの
練習も兼ねて、内魔法を練習をしよう﹂
﹁はい﹂
私が返事をすると、アスタは何処からともなく、紙とペン、それ
にコンパスと定規を取りだした。さっきまで持っていなかったので、
召喚魔法の類だろう。さりげなく凄い魔法を使っている。
﹁魔法を使う時に魔方陣は実際に書いてもいいし、思い浮かべるだ
けでも構わないけれど、どちらも正確でなければいけない。思い浮
かべるだけで使うには何度も練習が必要だから、オクトはまず描い
て発動させよう﹂
﹁はい﹂
というか、描かなければ絶対無理だ。大抵の魔法使いは、すでに
魔方陣の描かれた杖や札などの道具を使って魔法を発動する。それ
よりも凄い魔術師でさえ、思い浮かべる魔方陣を簡略化する為にそ
ういった道具を使う者の方が多いのだ。
すでに描かれているという事は応用が利かないのが難点だが、そ
れでも道具に頼らざるを得ないぐらいに、魔方陣の設計は難しい。
何の道具も使わず様々な種類の魔法を使うアスタは、一体どんな頭
の中身をしているのか⋮⋮。天才なんて嫌いだ。
﹁オクトは、風魔法を使って小さな風を起こしたいんだったね﹂
﹁そう。部屋で使いたいから、そよ風ぐらいがいい﹂
できたら強弱をつけたり、タイマー機能もつけたいところだが、
まずは風を起こす事が先決だ。機能を増やせば増やすほど魔方陣の
構築が難しくなるので描くだけで時間がかかってしまう。魔法を使
う練習ならば、できるだけ簡易な方がいいはずだ。
﹁オクトは風属性を持っているから、属性転換は考えなくていいよ。
今回みたいに、ただ風を起こすだけならば、円の中に風の幾何学模
252
様を描いて。それができたらもう一回り大きな円を描いて、円と円
の間に規模と場所を記載して。規模は⋮⋮3ぐらいで、場所は魔法
陣の上にしようか﹂
アスタに言われて、私は床に紙を広げると魔法陣を一生懸命描く。
アスタは簡単に言ってくれるが、描くのは結構難しい。一か所でも
間違えると、全く意味をなさなくなるのだ。発動しないだけならま
だいいが、変に発動して大事故になることもあると聞いている。
﹁アスタ。これでいい?﹂
15分ほどかけてようやく1枚完成したのをアスタに見せる。
﹁うん。大丈夫。頑張ったね﹂
アスタはにこりと笑うと頭を撫ぜた。勉強ができて褒められるの
は結構嬉しい。
﹁ここからは、感覚で覚えてもらうしかないんだけど体の中をめぐ
っている魔力をこの魔法陣に必要量込める事で発動するんだ﹂
﹁えっと、⋮⋮どうやって?﹂
体の中をめぐる魔力と言われても、さっぱりだ。手を上げろとか、
足を動かせという事ならできるが、魔力を出せと言われても理解し
難い。
﹁魔力を体外にだす事だけなら、一度やってしまえば簡単だよ。オ
クト、両手を前に出して﹂
言われた通り手を出すと、その手をアスタが握り返した。
﹁目を閉じて、俺の手に意識を持ってきて﹂
良く分からないが、言われるままに目を閉じ、アスタの手を意識
する。
アスタの手は私より熱かった。私の方が子供体温なはずなのにお
かしいなと思っていると、その熱いものが自分の方へ移動する。熱
いものは心臓を通り反対の手へまわると、今度は外へ⋮⋮アスタの
方へ抜けていく。
253
驚いて目を開ければ、笑顔のアスタとばっちっと目があった。
﹁今のが魔力。どう分かった?﹂
﹁⋮⋮たぶん﹂
感覚でいえば、興奮して顔が火照るのに良く似ている気がする。
それが顔ではなく手になっただけだ。
﹁じゃあ、魔力を込めてみようか。紙に手を置いて。規模が小さい
から、送る魔力はごく少量でいいよ。発動タイミングが掴みにくけ
れば、呪文を唱えるとやりやすいかな﹂
ドキドキする。
初めての魔法だ。完璧に成功するとは思っていないが、魔法陣は
間違っていないので、怪我だけはしないはず。
﹁我が声に従い、風よ動け﹂
ポンッ。
小さな爆発音がしたと思うと、紙が粉々になった。風はまったく
吹いていない。⋮⋮あれ?
﹁失敗だね。魔力の込め過ぎだよ﹂
えっ。
ほとんど込めてないんだけどなぁ。しかし実際に、必死に魔法陣
を描いた紙は粉々になってしまっている。折角綺麗に描いたのに⋮
⋮。
﹁はい。紙は何枚もあるから、頑張って﹂
差し出された何百枚とありそうな紙の束を見て、私は魔法が使え
るまでの道のりの長さを思い知った。
254
255
14−1話 難関な入学試験
﹁我が声に従い、風よ動け﹂
私の声に従って、魔法陣の中に風が集まり外へ向かって拭き出す。
﹁よしっ﹂
私は成功に小さくガッツポーズを取った。しかしまだ油断はでき
ない。
﹁魔方式終了﹂
風が止んだ魔方陣を覗き込めば、亀裂なども入っていない。完璧
だ。
これで成功する平均が10回中4回程度になった。かれこれ半月
近く同じ魔法ばかり繰り返しているので、そろそろコツも分かって
きている。
﹁オクトぉ。そろそろ、もっとド派手な魔法を練習しようぜ﹂
﹁何故?﹂
子爵邸まで遊びに来たライの言葉に、私は首を傾げた。必要な魔
法を練習しているというのに、何故それを止めてまで派手さにこだ
わる必要があるのか。
﹁だって見てても面白くねーしさ。折角だし、攻撃魔法とかにしよ
うぜ﹂
﹁いや。面白いとかじゃなくて、必要かどうかだと思う。今の魔法
は、夏場に大活躍間違いないから﹂
攻撃魔法が必要な事態なんて早々起こらない。むしろそれならば、
いっそ逃げた方が双方痛くないし、いいと思う。
真面目に返答したのに、端で壁にもたれながら本を読んでいたカ
ミュ王子がくすくす笑った。
256
﹁オクトさんは、実用的なものの方が好きなんだね﹂
﹁当然﹂
使い道が分かる物の方が、断然やる気がでる。
それに今日はアスタは仕事でいないので無茶はできない。
やはりというか、練習時間不足で実技が思う様にいかなかった私
は、アスタがいない時でも練習できるように頼んだ。最初こそ渋っ
ていたものの、子爵邸である事と、ライとカミュ王子が一緒である
事、練習は風魔法のみである事の条件で許可をもらえた。ここで事
故でも起こしたら、2度と実技訓練をさせてもらえないんじゃない
だろうか。
﹁お前、7歳だろ夢とかないのかよ﹂
呆れたようにいうライへ私は冷たい視線を送っておく。勉強をし
たい魔法の違いは、感性の違いからくるだけなのに失礼な奴だな。
﹁⋮⋮あるけど。私の夢は薬剤師になって薬を売りながら山奥での
んびりと生活。そして普段は自給自足して、できるだけ引きこもる﹂
これで将来、王族にも海賊にも会わないで済む。薬だったら買い
手もつくし、もしも混ぜモノの力が暴走したとしても山奥ならば誰
の迷惑にもならない。完璧プランだ。
﹁はあ?!なんだソレ﹂
﹁とりあえず、休憩してゆっくり話し合おうか﹂
何故私の夢をゆっくり話し合う必要があるのか。ただし練習をし
始めて、結構時間もたっているのも事実なので、私は了解の意味で
頷いた。私は練習している立場だからそれほど苦にはならないが、
ずっと見ているだけのライは確かに飽きるだろう。
私は端に寄せてあった絨毯を広げると、鞄の中からコップとティ
ーポット、それと魔法瓶を取り出す。ちなみに魔法瓶は、前世記憶
のものとは違い、本当に魔法がかけられていてお湯がいくらでも出
てくる仕組みだ。製作者はもちろん、アスタである。
257
本当に何でも作れる器用な男だ。魔法学校に通わなければ薬剤師
になれないなんて事がなければ、魔法なんて覚える必要がないぐら
いに色んな道具を作ってくれる。⋮⋮押し入れに住んでいる猫型ロ
ボットが頭をよぎったが、アスタは作っているので、未来で買って
いる彼よりも優秀だ。
﹁オクトさんって、凄い愛されているよね﹂
紅茶を渡すと、カミュ王子がしみじみとつぶやいた。
ん?愛されている?誰が誰に?
私は首をかしげたが、ライはうんうんと頷いた。
﹁師匠は俺らにすげー厳しかったし。そんなもの頼んでも絶対作っ
てくれなかったからな﹂
﹁まあ甘やかされている自覚はあるけど⋮⋮﹂
これで甘やかされてないと思っていたら、かなりの大馬鹿だ。そ
こまで無神経ではない。ただ愛されていると表現されると、首を傾
げたくなる。愛⋮⋮なのか?
﹁そう。それなのに、アスタリスク魔術師から離れられるの?﹂
﹁⋮⋮たぶん﹂
それを言われると、少し返答に困る。確かに今の生活は楽過ぎる
のだ。
まさか?!
これは私の自立を阻害する、アスタの計画的犯行?いやいやいや。
いくらなんでもそれはないだろう。私が自立しなかったらアスタだ
って困るはずだ。いい年になって職業が自宅警備は色々マズイ。考
え過ぎだ。
﹁大体、学校に行くんだろ。何でそれが、山で自給自足になるんだ
よ﹂
﹁薬を売るから、正確には自給自足ではないけど﹂
一応外貨がないと、いろいろ大変そうだし、納税だってできない。
258
しかし私の答えがお気に召さなかったようで、2人は顔を見合わせ
てため息をついた。
﹁うちの学校、卒業後王宮で働くヒトが多いんだけど﹂
﹁私は混ぜモノなんだけど?﹂
王宮とかない。ありえない。
元々無理だし、働きたいとも思わない。正直、そういった職場は
面倒なので、無縁でお願いします。
﹁それでいくと、僕は王子なんだけどね﹂
それはどういう意味だ?
しかし答えを聞くのが怖くて、私は紅茶ごと喉の奥に飲み込む。
深く考えてはいけない。こういう時はスルーに限る。
私は鞄の中からドーナツを取り出し2人に配るとかぶりついた。
うん。美味しくできている。
﹁オクトさん⋮⋮何これ?﹂
﹁何って︱︱﹂
2人が固まっているのを見て、私は何がおかしいのか考える。い
たって普通のドーナッツだ。焼きでも、生でもなく、本家本元。⋮
⋮ああ、でも作ったのは初めてか。
﹁世界を食べるって、凄い発想だな﹂
⋮⋮はっ?世界を食べる?
こんゆうこ
何の事だと少し考えて、ドーナツの形が、この世界の大陸の形に
似ている事に気がついた。この世界は混融湖という海のような大き
な湖を中心に丸い形をしている。たしかにまんま、ドーナツだ。
﹁もしかしてどこかのお土産?﹂
﹁⋮⋮名物の試作品みたいな?﹂
乾物ではないので、お土産にしては日持ちがしないと思うのだけ
ど。そうは思ったが、私は適当にはぐらかす事にした。どうやらこ
れは、まだこの世界にはないお菓子だったらしい。
259
﹁ああ。アロッロ伯爵のところのね﹂
﹁そういう事か。伯爵のおかかえ薬剤師になるからあんな夢を言っ
たのか。確かに山奥には間違えないもんな﹂
何で伯爵?
どうしてアスタのお父さんがこの話に関係するのだろう。私は話
が見えなくて眉をひそめた。
﹁意味が分からない﹂
﹁違うの?アロッロ伯爵が売りだした、カラフルな折り紙。あれは
オクトさんが発明したって聞いたけど︱︱﹂
⋮⋮何だその話。聞いていないんだけど。
そういえば昔折り紙を作っている最中に、色つきの紙があればい
いのにと言ったような気もする。そして次に行った時はそんな紙を
くれたような⋮⋮。
﹁⋮⋮売られた﹂
まあ、別にいいんだけど。
稼いでいるのはアスタだけで、私はただのすねかじり。私の知識
を有効活用してくれるならば、それはありがたい事だ。
﹁︱︱その分だと伯爵のおかかえ薬剤師になるというのも違いそう
だね﹂
当たり前だ。どうしてそんな発想になるのか。私はコクコクと頭
を縦に振った。
﹁伯爵に迷惑をかけたくない﹂
﹁いや、迷惑とは思ってないと思うぞ﹂
そうだろうか。どう考えても、混ぜモノが近くに居るのはマイナ
スな気がする。いや、そう考えると、アスタの家でいつまでもすね
かじりする事もまた同じだ。できるだけ迷惑はかけたくないんだけ
どなぁ。
﹁申し訳ないけど⋮⋮アスタには内緒で、ウイング魔法学校の試験
260
の過去問をもらえない?﹂
﹁おおっ!やっと受ける気になったんだな。よしよし﹂
﹁内緒ってどういう事?﹂
ライが良く決めたと言いながら私の頭をわしわしと撫ぜる。その
横でカミュ王子が不思議そうな顔をした。保護者を通さずにと言わ
れたら、普通そういう反応だよな。
﹁受験を受ける事をアスタが反対しているから﹂
﹁﹁何でっ?!﹂﹂
﹁たぶん、魔族との時間感覚の違いだと思う。私が20歳ぐらいで
独り立ちするプランを伝えたら、早すぎると。それに、勉強の理解
力も低いし⋮⋮﹂
何故だろう。話すたびに2人がしょっぱいものを見るような顔に
なる。
やはり2人からしても20歳は早いのだろうか。
﹁分かった。次来る時は問題集持ってきてやるよ﹂
﹁オクトさんは頑張ってアスタリスク魔術師を説得してね﹂
同情的なまなざしを向けられて、私は困惑したままとりあえず頷
いた。
261
14︲2話
過去問が想定外に簡単な件について。
﹁つまり、どういう事?﹂
今日はライやカミュ王子が来ないし、アスタも仕事なので、宿舎
の方でひっそり勉強をしていたのだが⋮⋮。2人から貰った、ウイ
ング魔法学校の筆記試験の簡易さに絶望した。本来ならば、喜ばし
いはずなのに、何でこんなに重い気持ちになるのか。
まず国語の問題は、読み書きができるかをためされる内容だった。
そこには、文法などの小難しい内容は入っていない。魔法学校だし、
10歳程度が入学するのだ。それぐらいが妥当な線なのかもしれな
い。じゃあ何故私は今、古文を勉強しているのかという疑問が残る
が、これを覚えておけば、古い魔法陣に書かれている事を読みとっ
たりと色々役に立つ。まあ人生では必要だと考えて諦めよう。
続いて算数。数学ではなく、算数だ。内容は平面の面積を求める
ところまで。⋮⋮よし。これは前世知識でズルしているのだから、
簡単に思えたって仕方がない。予想では2次関数やベクトルくらい
の内容かななんて思っていたけれど、10歳を甘くみていた。
﹁まあ、ここまでは私も得意科目だしね⋮⋮うん﹂
ならば苦手科目の魔法はどうか。問題の内容は属性を書き出せや、
魔法を発動する時に使うものは何かとか、魔力と魔素の違いをかけ
など、基本中の基本のみ。自分的予想問題は、2属性をかけ合わせ
た魔法陣をかけとか、全ての属性の幾何学模様を答えよとか、そん
262
な感じのものを想像していた。
とりあえず、アスタがスパルタすぎる事が良く分かる。うん。ア
スタだもの、仕方がない。
ならば最後の砦、社会はどうだろう。問題は地理、歴史、現代社
会が混ざったもので構成されていた。地理は大陸の名前を答えよや、
中央に位置する湖の名前を答えよ、この国の首都名を答えよなど暗
記問題である。解けなくはない。歴史と現代社会は要勉強だ。それ
でも何問かは埋められる。
結果。私が弱いのは、社会のみという事で、それでも現状だけで
入学が可能ラインだ。
意味が分からない。ライ達に問題を持ってきてもらったはいいが、
別の問題が積み上がった気がするのは何故だろう。
落ち着いて考えよう。どう考えても今の私には入学問題は簡易だ。
その状態で入学を止めてられている。つまり最終試験は、アスタ⋮
⋮。オワタ。
どうしてこうなった。
﹁絶望しかない﹂
アスタが最終試験なんて、久々の無理ゲー。
命の危険はないけれど、将来の危機である。
﹁もう一度入学したいって頼んでも、簡単には頷かないだろうな⋮
⋮﹂
入試自体は簡単なのにアスタが頷かないのは、きっとアスタが完
璧主義だからに違いない。おもに魔法に関して。
しかしだとしたら、私はいつになったら入学できるのか。いい年
齢になってもアスタのすねをかじり自宅警備をしている自分が想像
できてぞっとした。家庭内暴力はアスタより弱いので無理としても、
きっと﹃混ぜモノ怖い﹄が﹃オタクキモイ﹄と変わり、近所に噂さ
263
れ白い目で見られるのだ⋮⋮。うん。小汚い自分を想像だけで絶望
した。
﹁ちゃんと働かないと﹂
アスタの為にも。自分の為にも。
ならばどうやって納得させる、もしくはアスタを無視して無理や
り学校に通ってしまうか。
﹁他に何か情報は︱︱﹂
私は問題集のついでに渡された、学校案内のパンフレットを開い
た。
どうやらウイング魔法学校は、いくつかの学び舎に分かれている
ようだ。イラストを見る限り、かなり大きい。10∼12年通う上、
全世界から入学志願者が来るのだからそうなるだろう。それに他の
学校からの転入制度もあるようで、細かく学部が別れる7年目から
入学する事もあるようだ。
だが私に必要な情報はそこではない。大きかろうが、小さかろう
が、薬剤の勉強と魔法が学べればそれでいい。今知りたいのは奨学
金制度や特待生などの、何か金銭面が優遇されて学ぶ事は不可能か
どうかだ。前世にはあったが、学校に通う事が貴族の特権に近いこ
の世界ではどうだろう。もしもアスタに学費などを頼れないとなれ
ば、そういったものを利用するしかない。
私は一筋の望みをかけて、パンフレットを読み進めた。
◇◆◇◆◇
時間よし。まわりよし。
私は一枚の魔方陣とにらめっこしながら、宿舎で時間を図ってい
264
た。
﹁一発勝負だ。落ち着け﹂
とにかく失敗でも事故さえ起きなければ大丈夫。狙うは、アスタ
が帰ってくるギリギリだ。その時ならば、もしも魔法で何かがあっ
ても、アスタが何とかしてくれるはず。
今からしようとしている計画は結局はアスタ任せな計画なので、
何とも申し訳ない気分でいっぱいだ。しかし私が思いつく、早々に
学校へ通う方法はこれしかない。
紙に書かれた魔法陣は、小さな風を起こすものだ。今まで練習し
たものと同じである。最近ようやく成功するようになったばかりだ
けれど、きっと大丈夫。人と言う字を3回書いて飲み込む。
﹁ただいま﹂
﹁風よ。我が声に従い、集まり広がれ﹂
アスタの声が玄関から聞こえたのを合図に私は魔法陣へ魔力を送
った。練習の時より丁寧に、魔法を使う際の補助となる言葉を紡ぐ。
魔方陣が淡く発光すると、ふわりと風が動き出した。成功だ。私
は第一段階をクリアした事にホッと胸をなでおろす。
﹁オクト?﹂
﹁魔方式終了﹂
不思議そうな声が背後から聞こえたのを聞いて、私は魔法を止め
た。これでアスタはばっちりと私が宿舎で魔法を使った所を見ただ
ろう。私は振り向く前に小さく深呼吸をした。ここまできたら、や
るしかない。頑張れ、私はできる子だ。
例えアスタに冷たい眼差しを貰ったとしてもくじけるわけにはい
かない。
﹁アスタ、私を勘当しろ﹂
﹁へっ?﹂
くるりと振り向けば、豆鉄砲でも食らったかのような表情をした、
265
アスタがいた。予想もしてなかった言葉だったのだろう。恩を仇で
返しているようなものだものなぁと、少し後悔の念がわくが、仕方
がない。将来の事を色々考えた結果、私がアスタの元から去るのが
一番いいと判断したのだ。
﹁私はアスタの言いつけを破って、一人で、しかも宿舎で魔法を使
った。だから勘当されても仕方がない。荷物をまとめる﹂
驚きすぎている所為か、ぼんやりとしているアスタへ、私は立て
続けに伝えた。
アスタの驚きが消え、正気に戻った時には、勘当どころか、法的
にも親子でなくなる可能性があるが仕方がない。もちろん魔法学校
を卒業後は、必ずアスタの役に立てるよう努力するつもりだ。怒り
心頭で全く取り合ってもらえないかもしれないけれど⋮⋮。それで
も2年もの間、面倒を見てもらい、色々生きるすべを教えてもらっ
たのだ。例え門前払いされたとしても、そこは面倒臭がらずに頑張
ろう。
﹁お、オクトが反抗期?!﹂
﹁⋮⋮あー⋮⋮うん﹂
アスタの言葉に、少し肩透かしを食らった気分で、がっくりとな
る。もっと怒鳴られるとか、静かに怒りを向けられるとか考えてい
たのに、まさかそういう反応を貰うとは。
﹁というか、勘当ってどういう意味?﹂
﹁⋮⋮ようは、親子の縁を切るという意味。私が父親であるアスタ
に逆らったから、この家を出ていくというか、出て行けと追い出さ
れるというか﹂
何故、懇切丁寧に説明しているのだろう。
オカシイ。本当ならば、今頃怒り心頭のアスタの方から、出て行
けと言われている予定だった。そうでなくても魔法をもう教えない
とか、そう注意されるはずだ。
しかし私の言葉を聞いたアスタは、少し青ざめ愕然とした表情を
266
している。
﹁えっ。何でオクトが、出ていくの?﹂
﹁えっ?いや、出ていくというか、追い出されるというか⋮⋮﹂
﹁誰に?﹂
いや、誰にって。
そんなもの、ここには一人しかいない。しかしその本人に真顔で
聞かれると、何とも答えにくい。
﹁もしかして、隣人に苛められた?だったら︱︱﹂
﹁苛められてないから﹂
﹁なら、王子達に?!﹂
﹁それもないから﹂
もしも肯定したらどうするんだ。モンスターペアレントになるつ
もりか。止めてくれ。そもそも、アスタは存在自体がモンスターに
近いチート男。筋違いな復讐とか背筋が凍るような自体になるだろ
う。小心者の自分としては、マジ勘弁。
とにかくアスタにしっかりと理解してもらい、家出ではなく、勘
当という形で追い出してもらいたいだけだ。
﹁とにかく、⋮⋮アスタの言う事を聞かずに勝手に魔法を使ったか
ら、落し前としてここを出ていく︱︱﹂
私は最後にごめんなさいと言おうとした。追い出されたいわけだ
から、許してもらいたいわけではない。それでも反射的に出てきて
しまうのは酷い事をしているという自覚があるからだろう。
しかしその言葉を紡ぐ前に、一切の感情を失ったような、アスタ
の表情のない冷たい顔を見て、私は声を失った。
267
14︲3話
怖い。
正直、アスタに怒られるぐらい大丈夫だと思っていたけれど、甘
かった。無表情に赤い瞳に見つめられると、逃げ出したくなる。
死亡フラグはないって言ったの誰だ。今心臓が止まりそうなんだ
けど。
そういえば、今までアスタに怒られた事なんて、一度もなかった
なと今更ながらに思い出す。彼は静かに怒るタイプだったのか。
﹁あ、アスタ。えっと⋮⋮﹂
無音が続いたが、それに耐えられなくて、私から話しかける。し
かしなんと言っていいのか分からない。
﹁家を出て何処へ行くつもり?混ぜモノは、ホテルに泊まる事も難
しいよ﹂
心配してくれているのだろうか。
それとも忠告というか、警告という感じか。お前なんて、のたれ
死ぬがいいみたいな。いやいや。アスタもここまで面倒みてくれた
ので、そこまで非情ではないと思う。
﹁⋮⋮魔法学校の試験を受けて寮に入る﹂
学校パンフレットには、優秀な成績を治めるかつ、高い魔力の持
ち主又は学校側が有益な人材と判断した時は、特待という制度が適
応されると書いてあった。特待生として認められれば、学費と寮費
が免除されるそうだ。これは貴族以外でも優秀な学生を集める為に
作られた制度らしい。ただし在学中は研究機関で手伝いをし、卒業
後数年間は学校側が指定した場所で必ず働かなくてはいけないそう
268
だ。もちろん給料もわずかだが支給されるそうなので、それで何と
か生活していくしかない。
﹁俺に隠れて願書を提出したんだ﹂
ひやりとしたものが背筋を通り、慌てて首を横に振った。
﹁違うっ!﹂
アスタの言いつけを破ったのは、さっきの魔法が初めてだ。必要
以上の罪を被って怒られるのはごめんである。
怒った口調ではないが、無表情のアスタは何故か怖かった。これ
が所謂、殺気を飛ばすとか、そういうものなのかもしれない。前世
のバトル系漫画ではよくそんな表現があった。どうやって飛ばすの
かは謎だけど、そんな感じだ。
それが分かったとして、だから何だというのだけれど。とにかく
無実を証明して、適度な怒りモードに戻ってもらおう。そうでない
と、私の心臓が止まる。
﹁がっ⋮⋮願書を出すのはこれから。まだだしてない﹂
﹁ならこれからどうする気?寮が使えるのは、試験に受かってから
だろう?﹂
確かにその通りだ。
寮の正式名称は学生寮。名前の通り、学生しか使えない。これか
ら受験しようとする段階では無理だ。それに合格したとして、特待
生になれるとも限らない。なれなかった場合は、金銭面の工面を考
えないといけなかった。
﹁2年位前に海賊に攫われた場所。あそこで試験を受けるまで過ご
そうかと﹂
﹁海賊?﹂
﹁もちろん部屋を借りるだけで、犯罪はしないから。アスタに迷惑
もかけない!!﹂
アスタの目に険呑な光が宿った気がして、私は慌てて付け加える。
269
流石に私もこれ以上アスタの迷惑をかけられるほど、図太くはな
い。
﹁ふーん。ライや王子を頼るんじゃないんだ。海賊とは2年間連絡
をとっていなかったよね。どうして?﹂
どうしてって。
﹁海賊だったら、迷惑かけても問題ないし。⋮⋮交渉の余地もある
というか﹂
流石に、王子に居候させてくれなんて頼めない。というか王宮に
居候するって、空気読めと言うか、自分が空気になって消えてしま
いたくなる。そもそも、混ぜモノが王宮出入りするって、色々不味
いだろう。そんな迷惑かけれないというか、精神衛生的にかけたく
ない。
かといって、ライも貴族だ。ライは遠慮するなっていいそうだけ
ど、マナー云々の面倒さを考えると私が遠慮したい。
その点海賊なら、どれだけ迷惑をかけても心が痛まない。本当は
関わりたくないが、もしかしたらいいタイミングで、航海に行って
いるかもしれないのだ。そうなれば勝手に使わせてもらおうと思っ
ていた。
監禁されていた場所は、意外に近かい。
﹁交渉の余地?何処に?﹂
﹁えっと。あの船長魔法を使っていたけど、今思うと道具を使って
いたから。その程度の魔法使いなら、魔法学校で学んだ知識を横流
しすれば︱︱﹂
話している途中で、アスタに鼻で笑われた。うっ。やっぱり、魔
法学校の生徒レベルでは、横流しできるものも限られているか。と
いうか、学生のくせにおこがましいと考えたのかもしれない。
もしもそれで駄目ならば奥の手として、前世知識で何か売れそう
なものを探そうとかも検討はしているんだけどね。
270
﹁そんな事すれば、二度と海賊から抜けられなくなるよ。オクトは
海賊には近づきたくないんだよね﹂
﹁へっ?あっ⋮⋮もしかして、海賊に知識を売るのって犯罪?﹂
そうなれば、すでに2年前に私は罪を犯しているというか⋮⋮。
確かに、王子と知り合いだったとはいえ、海賊は犯罪集団だ。彼ら
とつるんでいたら、私も同じだとみなされるかもしれない。という
か情報提供だって、協力には間違いない。
それはマズイ。
﹁アスタ。勘当と言わず、籍から私を抜いてくれ﹂
捕まるなんてミスはせず、まずかったらトンズラするつもりだ。
それでも上手く回避できないという事もありえる。その時私が養子
とはいえ貴族の娘と分かったら、アスタへかなり迷惑をかけるはず
だ。
それは自分の望む所ではない。
﹁私は︱︱﹂
迷惑にはなりたくない。
そう言おうとしたところで、私は言葉を失った。アスタが怖いか
らではない。そんなもの、最初から怖いのだから今更だ。
そうではなく⋮⋮。
﹁どうして?﹂
﹁︱︱どうしてって﹂
あ、あ、あ、あ、アスタが泣いたっ?!
本人分かっているのか、分かっていないのかは無表情な為分から
ない。しかし静かに赤い瞳から透明なしずくがこぼれ落ちる。あま
りの事に私の頭は真っ白になった。
何か言わなければと思うのに、上手く言葉にならない。目からな
みっ⋮⋮いや、鼻水とか、想定外すぎる。
271
﹁オクトは俺と縁を切りたいの?﹂
反射的に私は首を横に振った。
﹁切りたくはない﹂
うん。切りたいわけではないのだ。私はこの生活を気に行ってい
るし、目的はソレではなかったはず。
﹁俺は勘当はしないよ﹂
それは困る。
縁を切りたいわけではない。でも目的の為には、私はこの家を出
なければならない。その為には⋮⋮。
﹁アスタ。でも、私はアスタとの約束を破った。その落とし前はつ
けるべき﹂
﹁何で破ったの?﹂
⋮⋮何でか。
﹁えっと、早く魔術師になりたかったからというか⋮⋮﹂
嘘ではない。
学校に通う為に、この家から出ようと考えた結果なのだから。例
え、自分の力を驕って使ったわけではなくてもだ。
﹁嘘。オクトは、魔法を使う事が怖いと思っている。だから今まで、
決して魔法を自分で試そうともしなかったし。最近になってようや
く使いたいと言ったけど、俺の言いつけはしっかり守っていたよね﹂
流石、アスタ。かなり鋭い
正直魔法を使う事は怖い。それは魔法は暴走すると知っているし、
私自身力を暴走させやすい混ぜモノだから。
でもそれ以外に魔法が、理解を超えた力だからというものもある。
前世の記憶に、魔法なんて便利なものはなかった。あったのは、科
学。そしてそれによって生み出されたエネルギー。
結局魔力というエネルギーが何なのか、私はいまだに理解しきれ
ない。たぶん酸素のように、目に見えないけれどある物質なのだろ
272
う。酸素とは何かとか考えるだけ愚問だ。酸素は酸素である。同じ
ように魔力は魔力なのだろう。でも使ったらどうなるのか。何処え
へ消えて、新しいものは何処から生まれているのか。疑問は尽きな
い。
それに下手に科学の知識があるせいで、丸暗記はできても理解に
まで及ばないのが現状だ。そして理解できないものは怖い。もしか
したら、アスタはそんな私の考えも見越して、ゆっくり丁寧に魔法
を教えてくれていたのかもしれない。もちろん完璧主義であるのも、
間違いないけれど。
﹁私は⋮⋮アスタに迷惑をかけたくないんだ﹂
﹁俺は迷惑なんて思っていないよ﹂
うん。そうだろう。アスタの経済力ならば、私の一人や二人拗ね
を齧っていたって問題ない。アスタは貴族だし、王宮の魔術師だ。
﹁迷惑ではないかもしれないけれど、お荷物のままでいるのは嫌だ。
私は早く学校を卒業して、アスタの力になりたい﹂
﹁えっと。つまり、俺の為?﹂
⋮⋮アスタの為と言うか、自分の為な気もする。
どう答えようかと考えていると、視界が暗くなった。目の前に、
アスタの制服がドアップでみえる。どうやら抱きしめられているら
しい。子供扱いされているようで気恥ずかしいが、実際子供なのだ
から仕方がない。
顔を上げれば、アスタの笑顔とぶつかった。
﹁オクトが出ていかないなら、学校に行ってもいいよ﹂
﹁へ?﹂
﹁寮に入らずにここから通うなら、別にいいよ﹂
あれ?私にはまだ早いんじゃなかっただろうか?
良く分からない。ただアスタが通っていいと言うならば、私は家
273
を出ていく必要がない。疑問しか残らないが、アスタの機嫌もいい
ようだし、ここでいらない事を言って振り出しに戻りたくはなかっ
た。
﹁うん。今まで通り家事もちゃんとやる﹂
私がアスタに返しているメリットって、これぐらいしか思い浮か
ばない。能力はメイドより劣るけれど、それでもアスタが望むなら
ばと頷いた。
274
15︲1話 科学な魔法学
魔法学校の試験を受ける事を認められてから数ヶ月。季節は夏を
超えて秋へと変わり、私は8歳になった。
﹁筆記は大丈夫かな?﹂
解いた問題を思い出しながら、私は持ってきた参考書で答え合わ
せをする。
魔法学校の入学試験は年に1回。もちろんそのタイミングに会わ
なければまた来年というわけではなく、編入試験というものもある。
こちらはいつでも受けられた。ただし編入なので、授業は途中から
聞く事になる。
私はアスタに試験を認められたこともあり、1から授業を受けた
いと考えた結果、年1回の試験を受ける事にした。そしてタイミン
グをはかっている間に年齢が一つ上がったのだ。
﹁オクトさん、筆記は終わったんだから、食べる方に集中したらど
う?﹂
﹁何度見たって、同じだろ﹂
サンドウィッチを咀嚼しながら見ていた本を取り上げられて、私
は顔を上げる。するとそこにはブレザーの制服を着たライとカミュ
王子が居た。試験の日は学生は休みのはずなのに何でいるんだろう。
﹁それにしても、見事に避けられているな﹂
﹁仕方がない﹂
ライに言われなくたって分かっている。
受験にきた学生同士仲良くなったりしておしゃべりをしているが、
私から半径5メートルぐらいまでは誰もいない。チラリチラリと視
線は感じたりもしたが、そちらを向くと、皆が一斉に視線をそらし
275
た。
⋮⋮普通に考えて、混ぜモノと一緒の空間にいると言うのは結構
なプレッシャーだっただろう。よく試験官も同室での受験を許した
ものだ。
﹁仕方がないじゃなくて、もう少し努力しろよ﹂
﹁努力?﹂
努力といってもなぁ。
避けられている理由は混ぜモノだから。そんなのどうしようもな
い。それに下手に近づいて、他の受験者のコンディションを狂わせ
たくもなかった。できるならば、空気になりたいぐらいだ。
﹁例えば、もう少し笑ったらどうかな?﹂
﹁楽しくもないのに笑うのはちょっと⋮⋮﹂
営業スマイルぐらい、できなくはないが、あまり気がのらない。
それにいつ暴走するか分からない私の周りにヒトが居ないのは、か
えって好都合ではないだろうか。幸い、独りでいる事を苦痛に感じ
る性格もしていない。
﹁それで、試験は順調なのか?﹂
﹁おかげさまで。何とか受験票を貰って試験を受けれているよ﹂
私が受験の申請をすると、王侯貴族が通う学校に混ぜモノが通う
のはどうかという問題が学校側で生じた。優秀ならばだれでも受け
入れるというスタンスの元で運営をしているので、特別教室を作る
やら色々物議を引き起こしたそうだ。
その時カミュ王子達が、私の身の保証をしてくれた事により、特
別教室は保留となり、無事に受験を受ける事ができるようになった。
やはり持つべきものは王侯貴族の友人だ。
もしも海賊の根城で泊まって一人で頑張るもんプランだったら、
アスタの言う通り、職業海賊にジョブチェンジだった可能性大だっ
た。危ない、危ない。
276
﹁そうじゃなくて。受験の調子はどうかって意味だよ。俺らとアス
タリスク魔術師がバックについているんだから、断られるはずがな
いだろ﹂
﹁試験は簡単だった?﹂
﹁筆記は問題ないと思う﹂
苦手科目である社会も、受験までの間に必死に頭に叩き込んだお
かげで、一応空欄は全部埋める事ができた。⋮⋮すぐに忘れそうだ
けど。
﹁なら残るは実技を兼ねた面接だね﹂
カミュ王子の言葉に私は頷いた。そう、問題は実技だ。実技とい
っても魔法を使わせるのではなく、魔力の有無を確認するだけと聞
いたが⋮⋮魔法センスがあまりない自分でも大丈夫かいささか不安
だ。
風を起こす事ができたので、魔力がないという事はないのだけど
︱︱。
私は考えれば考えるほど不安になっていくのを止める為、サンド
ウィッチを口の中に放り込んだ。お腹が満たされれば、きっと何と
かなるはず。
昔ならば2食で問題なかったのだが、カミュ王子達とお茶の時間
をするようになってから、どうにもこの時間にお腹が空くようにな
ってしまった。休憩が入ると言う事もあって今日は弁当つきである。
﹁まあ、頑張れよ﹂
﹁期待しているから﹂
くしゃくしゃと私の頭を撫ぜると、2人は教室を出ていった。⋮
⋮一体何しに来たんだ?
﹁まあ、いいか﹂
277
考えても仕方がない。彼らの行動が無意味なのはいつもの事だ。
逆に意味がある時は、詮索せず関わらないのが一番いいと彼らと出
会ってからの数年間で学んだ。
私は変なフラグを立てないように、疑問を頭の片隅に追いやると、
食べ終わった弁当箱を鞄の中にしまった。
そして弁当の代わりに、お守りを取り出し首にかける。筆記の時
はカンニングと間違えられると面倒だったので取り外していたが、
終わったのなら問題ないだろう。小さなお守りの中には、クロのサ
インが折りたたまれ入っている。
﹁クロ⋮⋮頑張るから﹂
目をつぶり、お守りに祈る。
アスタに引きとられてから、私はクロに1度も会っていない。私
がこの広い世界からクロを探し出す事はまず無理なので、きっとこ
のまま会う事もないだろう。小さなころの記憶なんて曖昧なので、
クロはもしかしたらもう私の事など忘れているかもしれない。
それでも私にとって大切で、忘れたくもなかったので、お守りと
して持ち歩く事にしたのだ。
その後のんびりと参考書を読み返していたのだが、しばらくする
と受験生達が各々の席につきだした。見渡した限り、10歳くらい
の子供が大半だ。たまにそれよりも大きな子供もいるが、私と同い
年はいないようだ。成長が早いだけとも考えられるが、成長が早い
のは魔力が低い証でもあるので、そもそも受験をしないだろう。
﹁受験番号100∼110番まで来なさい﹂
ぼんやりと眺めていると、いつの間にか教室に入ってきていた試
験官が、番号を読み上げ始めた。試験官と呼ばれた子供たちがでて
いくと、教室は残った子供たちの話声でざわめく。
278
まあ10歳そこそこの年齢の子供が詰め込まれているのだから、
教師もいないのに黙っていろという方が無茶だ。そもそも小学校の
ないこの世界では、そういう教育を受けていない子供ばかりだろう。
子供たちも実技と言う名の魔力検査が気になるようで、もっぱら
その話題で盛り上がっている。
﹁受験番号111∼120番まで来なさい﹂
あ、自分だ。
私の番号は119番。立ち上がり廊下にでた。
廊下に出たはいいけど、どうしようかなと試験官を見た時、嫌な
ものを見る目で私を見ている事に気がついた。えっと⋮⋮。
悪意を持たれるのは慣れているが、ずっと睨まれても困るんだけ
ど。どうするべきかを考えた末、銀髪をひとくくりに縛り、メガネ
をかけた試験官の顔を私もジッと見返す事にした。すると薄い水色
の瞳が動揺したように揺れ、すっとそらされる。
﹁し、試験場所に移動します。番号順に並びなさい﹂
睨んだら睨み返されるとか思わないのかなぁ。と言ったら喧嘩に
なるので、ここは黙っておく。試験官と喧嘩して落第した日には目
も当てられない。
というか、それは困る。さて、どうしよう。カミュエル達の言い
分を信じるならば、人間関係はまず笑顔から。
⋮⋮笑えばいいのかな?
営業用笑顔を久しぶりに作り、笑いかけると試験官がぎょっとし
た顔をする。そして慌てて廊下を歩き出した。混ぜモノに産まれて
しまった上、中身が私なので残念極まりない生物だが、見た目は結
構かわいらしいと思うんだけどな。 やはりゴキブリが可愛い動きをしても、キモイのには変わらない
と同じ事なのだろうか。愛想振りまいて損した。
279
小さくため息をつきつつも、私も廊下を歩きだした。
280
15︲2話
魔法学校は、まるで大学のようだ。
一列に並びながら歩いている途中でふとそう思った。窓からは、
隣接した校舎が数個見える。前世の記憶にある小学校や中学校の校
舎のイメージとはちょっと違った。
実際ここに通う生徒は様々な年齢層にわたる為、膨大な人数が居
る。そう考えると、建物がいくつも必要になるのも致し方がない。
それにしても、広すぎるよなぁ。
試験会場はわりかし校門の近くの校舎を使ってもらえたが、案内
地図を見た限り、とても広い敷地に、校舎がいくつか点在している
ようだった。流石に校門から一番奥の校舎まで歩くと時間がかかる
為、生徒は移動手段として箒を使い、空を飛ぶらしい。自転車では
なく箒とは、ファンタジーだ。
それにしても、日常で箒で飛んでいるヒトを見た事がないのに、
どうして箒なのか。そもそもなぜその座りにくい形態を選んだのか
不思議で仕方がないが、そんな根本をツッコんでも仕方がない。前
世の記憶にある2次元の魔法少女も箒に乗っていた。きっとそうい
うものなのだろう。
しばらく歩いていると、前を歩く子供が足を止めた。
﹁今から順番に教室へ入ってもらいます。呼ばれるまでは、ここで
静かに待っていなさい﹂
﹁﹁﹁はい﹂﹂﹂
子供たちが元気良く返事するのを確認すると、試験官は一番前に
居た生徒と一緒に中に入っていった。そういえば、私達より前に試
験を受けた生徒達はどうしたのだろうか。
281
すれ違っていないし、思い起こしてみれば、最初に生徒を呼びに
来た試験官は今案内してくれた試験官とは別のヒトだった気もする。
教室は沢山ありそうだし、試験会場は1つじゃないのかもしれない。
﹁貴方は混ぜモノなの?﹂
手持無沙汰でぼんやりしていると、うしろから声をかけられた。
振り向けば、怯えと好奇心が混ざったようなオレンジ色の瞳とぶつ
かる。そういえば、私の後ろには一人しかいなかった。暇だとはい
え、混ぜモノに話しかけるとは、中々に豪胆な性格の子供だ。
﹁うん。そうだけど﹂
﹁あのね、私は赤の大地にある、キャロット自治区からきたの。え
っと、貴方は?﹂
﹁ここ﹂
﹁へ?﹂
﹁この国に住んでる﹂
赤の大地といったら、この国からはかなり遠い。受験生には珍し
い、魔力が低いとされる獣人族の少女は、10歳より少し上ぐらい
の年齢に見える。こんな小さい子が違う国へ来て受験するとは偉い
ものだ。
﹁そうなんだ。私ね、生まれつき魔力が強かったの。だけど獣人っ
て普通魔力が弱いでしょ?それで村で魔力の扱い方を教えれるヒト
がいなかったから、長の推薦でこの学校に来たの。貴方は?﹂
﹁薬師になりたいから﹂
﹁薬師?魔術師じゃないの?﹂
キョトンと首を傾げ、ピコピコ耳を動かす姿は、めちゃめちゃ可
愛い。なんだ、この可愛い生物は。
私とは大違いだなぁと、ちょっと自虐的な気分になった。でも学
校は勉強しに来るだけだから、友達ができなくたって大丈夫だ。ど
うしようもない事を嘆いても仕方がない。
282
﹁魔法は便利だから覚えたい。だけど、私が生きる為には薬師の知
識が必要だから﹂
薬を作る知識は、山で引きこもり、自給自足生活するのに欠かせ
ない。その知識が、あるとないでは、今後のQOLが大きく変わっ
てくる。一人立ちを考えるならば、このスキルは譲れない。外貨な
しの自給自足で生きられると思えるほど、私は脳内お花畑ではなか
った。
﹁ふーん。そうなんだ。私はね、まだ魔法を使った事ないから、使
えたら楽しいだろうなって思うの。それにここに入学できれば、エ
リートになれるって聞いたんだ。エリートになれば、お金持ちにな
れるでしょ?﹂
﹁そう⋮⋮かな?﹂
どうなんだろう。そういえば昔、カミュ王子とライがそんな話を
していたような⋮⋮。どちらにせよ、獣人が多い国に住んでいるな
らば、魔術師はとても重宝がられるのではないだろうか。そうなれ
ば、お金持ちになれる可能性は大だ。
それにしても、ふわふわしたファンタジー外見ににつかない現実
主義な子供だ。きっと貴族出身ではないのだろう。貴族出身なら、
普通はこんな小さな子供が、お金お金言わないはず。
﹁それでね、お金持ちになったら、私が家族を養っていくの。貴方
︱︱。そうだ、私の名前はミウ。貴方の名前は?﹂
話しているうちに、混ぜモノに対する恐怖はなくなったらしい。
まるで友人にでもなるかのように自己紹介されて戸惑う。
こんな簡単に気を許してくれるのはきっとミウが子供であまり混
ぜモノについて知らないからに違いない。よく考えれば、この学校
に来る子供達の全てが混ぜモノは怖いといい聞かされて育ってきた
とは限らないのだ。だとすると笑って警戒心をなくさせるという対
応は正しいかもしれない。
283
﹁私は︱︱﹂
﹃3号館、303号室から、魔力暴走が起こりました。試験官は受
験生の安全を図り、ただちに避難して下さい。繰り返します︱︱﹄
口を開いた瞬間、突然けたたましい音と共に、館内放送が響き渡
った。
何が起こったのか分からず、私は固まった。ミウも同じようで、
目を丸くしている。しかし分からずとも異常な音は不安感をあおっ
た。
3号館といったら、ここだ。しかし303号室とは何処の事だろ
う。
咄嗟に見上げた目の前の教室のプレートには304の文字が書か
れていた。って、めっちゃ近いんじゃない?
﹁何?何の音?﹂
耳を押さえてカタカタ震えだしたミウを見て、嫌な予感が脳裏を
よぎる。何の音と言うのが、このけたたましい警戒音なら問題ない。
しかしもしかしたら、獣人であるミウにしか聞こえていない音であ
る可能性もある。
一応ここは魔法学校なので、子爵邸のように、魔法が暴走しても
問題がない部屋になっているはずだ。なっているはずだが︱︱、変
な音がするというのは問題ありじゃないだろうか。
﹁ミウ、どんな音が聞こえる?﹂
﹁どんなって、何かが燃える︱︱﹂
ドンッ。
最後まで聞かなくても、どんな音かはすぐに私にも分かった。
地響きのような音と共に、目の前で教室の扉が吹っ飛んだ。そこ
から炎が拭き出す。きっとあの部屋が303号室に違いない。
284
炎はまるで生き物のようにこちらへうねる様に近づいてくる。ま
るでゲームにでてくる龍のようだなと場違いな感想が思い浮かんだ。
﹁結界を張ります。教室の中に入りなさい!﹂
試験官の言葉にはっと我に帰り、私は踵を返そうとした。しかし
目の前で座り込むピンクの髪が視界に入り踏みとどまる。
﹁ミウ?﹂
ミウは座り込んだまま動こうとしない。ただ茫然と炎の塊を見つ
め震えている。
逃げなければ死んでしまう。そう思うのに、私の足はまるで縫い
とめられたように動かなかった。とにかくミウと連れて行かなけれ
ばと、その腕を引っ張る。
するとようやくミウが私を見た。
﹁どうしよう。腰が抜けちゃった﹂
マジか?!
そんな事言われても、私より大きなミウを背負って逃げるなんて
無理だ。誰か助けを呼ばなければ。
しかしすぐにそれも無理だと分かってしまう。今すぐ踵を返せば
何とかなるが、誰かがここへ来てミウを運ぶような時間はない。た
どりついた所で、一緒に燃えカスになるだけだ。
ミウを置いて逃げるべきだ。
冷静に考えればそれがベストだと分かっているのに、相変わらず
私の足は動こうとしない。熱気で頭がガンガンする。
転移魔法さえ使えれば、ミウと一緒に逃げられただろうに。走馬
灯のようにアスタが使う魔術が頭の中を巡る。冷却魔法や水魔法が
使えれば、消す事は出来なくても、一命を取り留められただろう。
285
しかし私にはそんな魔法使えない。
﹁何をしているんです。早くこちらへ来なさい﹂
そんな事分かってる。でもできないからここに居るのだ。ミウを
置いていけない。
ぐるぐると廻る魔法の数々に吐き気を覚える。流石今までアスタ
に教わっていただけあって、対処するための理論はつぎつぎと出て
くる。でも、どれも自分は使えない。
私が使えるのは、炎を大きくするしか能のない、風魔法だけなの
だ。
絶望感で私もミウのようにへたり込みたいと思った。それでも炎
から目が離せない。まだ死にたくないからだ。とにかく、どうにか
して一瞬であの炎を消す事は不可能だろうか?そもそもあの炎の龍
は、何を燃やしているんだろう?
何を︱︱?
ふと頭に一つの案が浮かんだ。しかし今はそれを吟味する暇もな
く、反射的に手のひらを炎へ向けて伸ばした。こうなれば、自棄だ。
﹁かっ⋮⋮風よ。我が声に従い、我が示す場所から立ち去れっ!!﹂
私は何度も書いた風の魔法陣を脳内に描き目を閉じた。もしも死
ぬならあんまり痛くない方がいいなと思いながら。
286
15︲3話
目の前には火のついたアルコールランプがあった。
何故あるのか、なんの実験の為に火を付けたのか。思いだせない
が、とにかく消さなければならない。でもどうやって消すんだっけ?
水なんて使ったら周囲に燃え広がって危険だし⋮⋮。アルコール
がなくなるのを待っても、芯が燃えてしまっては使えなくなる。
﹁それはね︱︱﹂
◇◆◇◆◇◆◇
目を開けると、そこは知らない天井だった。
まるで何かの小説のフレーズみたいだなとぼんやり思う。ここは
何処だっけ。私は︱︱。
﹁オクトちゃんっ!!今、先生呼んでくるから!!﹂
左脇から女の子の声が聞こえて、顔をそちらへ向ける。
そこにあった鮮やかなピンク色の髪を見て、ちょっとドン引きし
そうな色だなと思った。親は一体何を考えているんだろう。
ん?ドン引き?
自分で考えた言葉に、疑問を覚える。だって地毛なのだから仕方
がないじゃないか。彼女の親さんというか、ご先祖様だって、好き
287
でその髪の色になったわけではない。それに浅黒い焼けた肌には、
意外にピンクの髪はよく似合っている。生れついたものに、いちゃ
もんをつけたって仕方がないはずなんだけどなぁ。
部屋から出ていってしまった少女を見送り、私は体を起こした。
薬品の臭いがするが、ここは病院だろうか。病院ならば、何故私は
こんな場所で寝ていたのか。
﹁あっ﹂
考えていると、ふと炎の龍に飲み込まれたのを思い出した。
そうだ。試験を受ける途中、いきなり隣の部屋から炎が廊下に噴
き出して来たのだ。我ながら、よく死ななかった。意外に悪運が強
いのかもしれない。
﹁失礼します﹂
男性の声が聞こえてそちらを向けば、銀色の長髪にメガネな優男
がそこにはいた。確か彼は、試験官だったはず。彼が居ると言う事
は、ここは病院ではないのかもしれない。
﹁体の調子は如何ですか?﹂
﹁はあ。大丈夫です﹂
試験の時に睨んでいたヒトだよなと思うが、その目から嫌悪は抜
けている気がする。はて?人違いだろうか。
﹁何か不調があったら言って下さい﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
どういう経緯でここで寝ているのかが分からない以外は、特に変
わりがない気がする。少し思考がぼんやりする事があるが、それは
起きたばかりだからだろう。
﹁それにしても流石、アスタリスク様の娘ですね。まさか、あの場
面で風の神の秘術をお使いになるとは思いませんでした﹂
秘術?
288
そんな大層な事、なんかやったっけ?全く記憶にない為、首を傾
げる。確かあの時、何とかして火を消さなければいけないと思った
には思ったのだが。
﹁風の魔法で炎を消した事ですよ﹂
﹁オクトちゃんが魔法使ってくれたおかげで、私も助かったの。覚
えていない?﹂
試験官の隣から、ピンク髪の少女、ミウが話しかけてきた。
そういえば、やけくそで魔法を使った気もする。えーっと、確か
︱︱。
﹁あー⋮⋮﹂
あの時私は、魔法の知識をひっぺがえして助かる道を模索ていた。
そんな中咄嗟に頭に浮かんだのは、火は酸素がなければ燃えないと
いう、小学校でならう基本的な科学知識。
魔力やら魔素など、前世では存在しない物質に頼っているので、
その知識が上手くいくとは限らなかったが、その時はそんな事を考
える暇もなかった。
とにかく風というか、空気をなくせば燃える事はないと思い、無
理やり魔法陣を造ったのだ。しかも紙に書かずに使ったのは初めて。
結果的に上手くいってよかった。下手をしたらとんでもない二次災
害を起こしていたかもしれない。
﹁成功したんだ﹂
﹁今回の魔術はアスタリスク様に教えていただいたんですか?﹂
﹁えっ⋮⋮いや。あれは適当に自分で魔法陣を作っただけで⋮⋮﹂
気を失ってしまったと言う事は、もしかしたら空気をなくす範囲
指定の場所を間違えたのかもしれない。風力の威力をマイナス設定
するなんて暴挙をした事は覚えているが、はたしてどれぐらいの範
囲を指定して行ったのか。自分を中心にどれだけみたいな分かりや
289
すい範囲指定にして、酸欠になった可能性が高い気がする。そして
気を失った事により魔力供給がなくなり、魔法も止まったのだろう。
そう考えると今回使った魔法陣は、秘術なんてカッコいいもので
はなく、かなり運に頼りきっている残念な造りだ。 そんなズタボロな魔法陣をアスタに教わったなんて言ったら、ア
スタの顔に泥を塗ってしまう。
﹁はっ?自分で?﹂
﹁はあ。まあ⋮⋮﹂
何かマズイだろうか。目を丸くしている試験官から目をそらし考
える。
でも魔法陣を造るなんてアスタは簡単にやってのけるのだし、1
種類、しかも自分の属性と同じ魔方陣ならば、別に普通ではないだ
ろうか。それにライや、カミュなんて、学校に通い始めて1年くら
いでもう転移魔法を使っていたはずだ。だとしたら入学前にアスタ
を家庭教師にしていた2人は、私よりも魔法を使えた可能性が高い。
うん、特にマズイところが見つからないな。
﹁さすがアスタリスク様の娘というところでしょうか。火は風がな
ければ燃える事ができないと知り、魔法陣を造れるとは﹂
正確に言えば、火は酸素がなければ燃えないなんだけどね。でも
酸素や二酸化炭素、窒素云々な空気中に含まれる物質の話をしても
伝わらないと思うので黙っておく。目に見えないものを説明するの
は難しい。
﹁そういえば、試験は⋮⋮﹂
﹁あれだけの魔法を見せていただければ、もう十分です。しばらく
すればアスタリスク様が迎えに来る事なっています。それまでここ
で横になっていなさい﹂
290
なんですと?!
アスタは今日も仕事に行っている。それなのに、私を迎えに来る
なんてさせられない。
﹁えっ、大丈夫︱︱﹂
﹁ミウ。貴方はこれから試験ですので、一緒に来なさい﹂
﹁はーい。じゃあね、オクトちゃん!私も合格できるよう頑張るね
!﹂
バイバイと手を振るミウと一緒に試験官は私の話を聞く事なく、
部屋からさっさと出ていった。
マジですか。
﹁何でこんな事に﹂
1人部屋に残された私は頭を抱えた。話を聞けよとツッコミを入
れたいが、その相手はもういない。アスタは怒りはしないだろうが
⋮⋮むしろサボれた事を喜びそうだが、同じ職場の方に申し訳なか
った。
﹁でもまあ、仕方がないか﹂
どう頑張っても私は子供だ。小学生ならば、体調不良になった時
は親が迎えに来るものだった気がする。だとしたら大人しく待って、
後で謝ろう。
そう割り切ると、もう一度ベッドに横になった。魔法を使ったか
らか、それとも酸欠になったからか、体がだるい。
横になると睡魔が一気に押し寄せてきた。
そういえば、空気がなければ火は燃えないという事は分かったが、
他の科学の法則も有効なんだろうか。重力はあるし、てこの原理も
ちゃんと存在している。金や銀もあるんだから、原子や分子もあり
そうだ。もしもあるなら、陽子や中性子などだってないとはいえな
い。
291
そもそも、ビタミンとかも前世と変わらず存在していた。
なんだ。
魔素という新しいエネルギーが存在しているだけで、科学はちゃ
んとあるじゃないか。しかも魔法だって、その科学を根本から否定
しているわけではない。魔法は何でもできる万能な力ではなく、ち
ゃんと科学の法則に基づいている。
魔法学は理解し難い事が多いから苦手だ。でも知っていれば誰だ
って使える科学の中に魔法学が含まれるならば、私でもちゃんと使
いこなせそうな気がした。
今思った事をアスタに伝えたいなと思いながら、私は睡魔に意識
を明け渡した。 292
16︲1話 想定外なクラス
真新しい制服を着た私は、落ち着く為に深呼吸した。
新緑色のブレザーにチェックのスカートはまるで日本の女子高校
生にでもなった気分だ。もちろん高校なんてこの世界にはないけれ
ど。これは今日から通う魔法学校の制服である。魔法使い=ローブ
なイメージがあるのだが、ローブの着用は強制ではなく、色々ポケ
ットに仕込みたい時や、防寒対策としてプラスで着れば良いらしい。
ただしローブを着ると、服装が適当でもそれなりに魔法使いっぽ
く見えるので、将来的には結構お世話になりそうだ。
﹁アスタ、準備できた﹂
荷物を手に取り、私はアスタのいるリビングに向かう。ウイング
魔法学校は同じ国内にあるとはいえ、少し離れている。その為、私
が転移魔法を取得するまでは、アスタに送り迎えをしてもらう事に
なっていた。申し訳ないが、馬車は混ぜモノという事で拒否されそ
うだし、ここから通う事が条件なので仕方がない。
﹁アスタ?﹂
声をかけたはずだが、アスタは私を見て呆けたような顔をしてい
る。何か変な着方をしているだろうか。
﹁⋮⋮ああ。魔法学校は寒いからローブもはおるといいよ﹂
﹁そう?﹂
この間試験を受けに行った時はそれほど寒いと思わなかったが、
卒業生が言うのならば間違いないだろう。これから冬に入る事だし
と思い、アスタが召喚したローブに手を通す。ローブを着ると、肌
の部分がほとんど見えなくなった。まるでロングスカートだ。
﹁よく似合っている﹂
293
﹁うーん⋮⋮ありがとう?﹂
前世ではローブなんて、二次元の服装だったので、どうしてもコ
スプレっぽく感じてしまう。
似合っているはたしてほめ言葉と捕えていいものか。まあ、魔女
っ娘な服装でないだけマシか。こればかりは慣れていくしかない。
﹁じゃあ行こうか﹂
アスタの手を握ると視界が切り替わった。目の前には高い塔がそ
びえたっている。確かこの塔は、図書館で、校舎配置場所としては、
学園の中心だったはず。
新入生の受け付けはどっちだろうか?キョロキョロとまわりを見
渡していると、手を引っ張られた。
﹁オクト、こっちだよ﹂
流石、卒業生。アスタはしっかりと自分の位置が分かっているら
しい。
私はとりあえずアスタについていく事にした。というか、それし
かない。せめてまわりに入学生らしいヒトがいればついていけるの
だが、場所が違うのかそんな影は全くなかった。
しばらく歩くと、アスタは一つの校舎の中へ足を踏み入れた。不
思議な事に、校舎の中に入っても、私と同じ入学する生徒が見当た
らない。
﹁⋮⋮ここ何処?﹂
﹁職員棟だよ﹂
えっと、何故職員棟に居るのだろう。名前通り、きっと教師達が
使っている場所だろうが、入学式はここではなかったはず。私が混
ぜモノだから、事前に何か説明があるのだろうか。
﹁お待ちしていました﹂
アスタが進むがままについていくと、部屋から銀髪の青年がでて
きた。
294
﹁あっ、試験官⋮⋮﹂
しっかりと顔の詳細を覚えているわけではないが、この辺りでは
珍しい髪の色なのでまず間違いない。
﹁やあ、ヘキサ。これからオクトの事よろしく頼むよ﹂
﹁お任せ下さい﹂
アスタがこの青年に会ったのはたぶん私が怪我をしたときぐらい
だと思うが、何だがとてもフレンドリーだ。もしかしたら、以前か
らの知り合いだったのかもしれない。
⋮⋮卒業生とその後輩みたいな?でもアスタって80歳超えたお
じいちゃんだし、だとしたらこの青年も見た目と年齢が釣り合わな
いタイプなのだろうか。この世界は種族によって成長スピードが違
うので厄介だ。
﹁可愛い妹なんだから、虐めたら駄目だよ﹂
︱︱ん?妹?
誰が誰と?
アスタの口から飛び出て来た言葉に私の思考は一時停止をした。
えーっと。あ、アレだろうか。先輩後輩は兄弟みたいな関係って⋮
⋮。いやいやいや。
﹁可愛い妹って、私はこの間初めて試験会場でオクトと会ったばか
りなのですが﹂
﹁ほら。まだ俺もオクトを引き取ったばかりで紹介する暇がなくて
ね﹂
﹁アスタリスク様⋮⋮。さすがに、2年前の出来事は、引き取った
ばかりとはいえないと思います﹂
あれ?
何で私を引き取った年月まで知っているのだろう。願書にそんな
ことまで書いただろうか。というか、紹介するという事は、やはり
知り合いという事で。
そういえば、さっきアスタはこの青年の事を名前で呼んだよなと
295
気がつく。はて、何て名前だったか。
﹁俺の事は、お父様でいいといつも言っているのに﹂
﹁そんなことより、アスタリスク様。オクトが混乱しているようで
すが﹂
﹁そんな事って酷いな、ヘキサ﹂
ヘキサって︱︱確かアスタの息子だったはず?!
私は失礼だとはと思いつつも、ヘキサを凝視してしまう。黒髪赤
眼のアスタとは違い、銀髪に薄い水色の瞳をしている。どちらも整
った顔立ちをしているが、全然似ていない親子だ。
というか何でここに?
﹁あらためて、はじめましてオクト。私はアスタリスク様の義理の
息子である、ヘキサグラムです﹂
﹁えっ、義理⋮⋮、あ。オクトと言います。よろしくお願いします﹂
おかしな単語を聞いて反復してしまったが、私は慌てて自己紹介
を続けた。人間第一印象が大切だ。といっても、話すのは2回目な
のであまり意味はないかもしれないが。
﹁⋮⋮やはり、話してないんですね。私はアスタリスク様と結婚し
たクリスタルの連れ子なんです﹂
なんですと?!
そんな話一度も聞いていない。というかヘキサは確か伯爵家を継
ぐとか⋮⋮血が繋がっていないのにいいの?!もしかして血の繋が
りなんて関係ないぜ的な感動的な秘話があるとか?
でもそれでもやっぱり、アスタには奥さんが必要なんじゃ。とい
う事は、混ぜモノの私がアスタの子供という事は大問題だよね。え
っ、でも勘当はしてくれないし。えーっと。
ぐるぐると色んな問題点が浮かび混乱する。
296
﹁連れ子っていっても、今はうちの子なんだからわざわざ説明しな
くてもいいと思うんだけどな﹂
﹁いいえ。今後も家族として付き合っていくならば、こういう事は
はっきりとさせておくべきです﹂
﹁別に血なんて繋がっていようがいまいが関係ないのに﹂
いやいやいや。関係大ありだろう。
特に貴族にとっては、とても重要な問題ではないだろうか。チラ
リとヘキサに目をやると、困ったような諦めたような瞳とぶつかる。
ああ、ヘキサさんもそう思うんですね。
﹁えっと。所でどうしてこちらにヘキサグラム様が⋮⋮﹂
伯爵家を継ぐのではなかっただろうか。それにしては、私は今ま
で伯爵家にお泊りした際、ヘキサと会う事はなかったのだけど。
﹁私の事はヘキサでいいです。何故ここに居るかですが、私は家庭
の事情で特待制度を使い、この学校に通っていました。なので卒業
後、学校側から教師になる事を要請され、今は教鞭をとらさせてい
ただいています﹂
﹁はあ﹂
家庭の事情ですか。貴族なのに、家庭の事情ですか。
大切な事なので2回心の中で呟いてみたが、現実は変わらない。
どう考えても貴族ならば、よほどの事がない限り特待制度など使う
必要がない。つまり使わなければいけない何かがあったという事だ。
そんなディープな話を、一応兄弟になるとはいえ、にわか的な私
が聞いてもいいものか。
何と言っていいか分からず、私は口ごもった。
﹁立ち話は邪魔になるようですから、別室に行きましょう﹂
チラリとヘキサが見た方へ視線を向けると、さっと部屋の中に居
るヒト達が目をそらした。⋮⋮確かに廊下でホームドラマをやって
は先生方の仕事の邪魔だろう。
297
それにしても別室か。
やはり混ぜモノが入学式に参加するのはマズイと判断したのだろ
う。少し残念な気がするが、ここへは勉強をしに来ただけ。そう思
えば、入学式に出れないぐらい、特に不都合があるわけでもない。
﹁あの⋮⋮私はやはり特別教室になるんですか?﹂
﹁なりません﹂
前を歩くヘキサに、恐る恐る尋ねればきっぱりと否定した返事が
返ってきた。よかった。入学式には出席できないが、勉強は同じよ
うにさせてもらえるらしい。できれば試験で知り合った、ミウと同
じクラスがいいが⋮⋮そもそもクラスは何クラスあるのだろう。
﹁私は、入学式後に他の生徒がたと合流するのでしょうか?﹂
﹁いいえ。今日は入学手続きを行い、教科書を購入してもらえば、
終わりです。クラスメイトとの顔合わせは、明日になります﹂
確かに入学式後は教科書の購入があるだけで、授業はない。それ
も致し方がないだろう。
﹁別にオクトが混ぜモノだからというわけではないので、安心なさ
い﹂
﹁えっ?﹂
そうなの?
でもだとしたら、何故私だけ別室なのか。どう考えても普通じゃ
ないよなぁ。もしかしたら今の言葉は、ヘキサなりの優しい嘘なの
かもしれない。話し方がキビキビしているので、冷たいイメージは
ぬぐえないが、案外いい人だ。
﹁あっ⋮⋮ありがとうございます﹂
﹁何故御礼を言うのか分かりませんが、貴方のような特殊なケース
はカザルズ魔術師以来のことですから、このような対応になるのも
仕方がないと思って下さい﹂
298
特殊なケース?
カザルズは確か、飛び級をして最短で卒業した魔術師の名前だっ
たはずだ。しかし何故ここで彼の名前がでてくるのかが分からない。
カザルズも私と同じように何か問題がある子供だったのだろうか。
﹁普通は外部で魔術師を師として修業をしていた者でも、魔法以外
の知識がお粗末ですのでこのような異例はないんです。ましてや、
貴方は8歳。ヒトの妬みなども買いやすいでしょうし、私は反対だ
ったのですけれど﹂
一体何の話なのか。何やらヘキサが愚痴愚痴と呟いているが、私
はそれほど頭がよくないので、もう少し分かりやすく簡潔に話して
欲しい。
﹁所でヘキサ。オクトはどのクラスになるんだい?﹂
首を傾げながらもヘキサの言葉を聞いていると、隣からアスタが
口を出してきた。
確かにそれは気になるところだ。
﹁残念な事に、私が受け持つクラスになりました﹂
﹁よかったな、オクト。お兄ちゃんが先生なんだってさ﹂
﹁私は例え血のつながった兄弟だったとしても、贔屓をするつもり
はありませんから。その辺りを勘違いされないように﹂
﹁はあ﹂
それは当たり前だ。私もそんな授業は望んでいない。しっかりと
勉強する事が、将来の私のQOLを変えるのだ。ここで贔屓などさ
れても、何の意味もない。自給自足に、学校の成績など意味をなさ
ないのだ。
﹁返事は、﹃はい﹄で答えなさい。いいですか﹂
﹁はい﹂
どうやら、アスタとは違い、ヘキサは厳しそうだ。私が返事をす
299
ると、くいっとメガネを上に上げた。
﹁それと先ほどのアスタリスク様の質問ですが、オクトは3年2組
となります﹂
へー、3年2組なのか︱︱ん?
何かおかしくないか?私は聞いたクラス名に違和感を感じ、ヘキ
サをマジマジとみた。しかしどう見ても冗談を言うような顔には見
えない。
﹁えっと⋮⋮3年2組?﹂
﹁そうです﹂
いつから世の中は最初の数字が1ではなく3になったのか。
私はヘキサの言葉を理解した瞬間、その場で固まった。
300
16︲2話
何がどうして、こうなった?
黒板に名前を書いた私は、笑みを浮かべて振り返る。もちろん楽
しいわけではないので、無添加100%の作り笑いだ。振り返った
先には、私より大きな子供たちが座っていた。もちろん8歳で入学
した自分よりも周りが大きい事は想定内だ。しかし新入生よりも確
実に大きい彼らへ向けた笑みが若干引きつってしまったのは、仕方
がない事だと思う。
﹁オクトと言います。種族は、エルフ族、人族、精霊族、獣人族で
す。よろしくお願いします﹂
仕方がないというか、後ろの方の席で私に手を振っている2人を
見れば、むしろ引きつっていたとしても笑みを浮かべる事のできた
自分を褒めてあげたいと思う。
何故ここに、カミュとライがいるのだろう。確かに私よりも上級
生である事は間違いない。でもここは3年生の教室。彼らが通って
いた年月を考えると3年という事はまずあり得ない。
しかしクラスメイトどころか、教師であるヘキサでさえツッコミ
を入れないのだ。王子だから許されるとか?暗黙の了解で許された
として。⋮⋮でも何故ここに?
﹁オクトはすでに王宮魔術師である、アスタリスク魔術師の下で修
業を積んでいたので、飛び級をする事になりました。皆、仲良くす
るように。席は︱︱﹂
﹁はい、先生。俺の隣が空いてます!﹂
ヘキサの言葉に、ライが元気よく手を上げた。窓際の一番後ろの
301
隣は確かに空いている。空いているのだが、たまたま偶然とは思え
ないのはどうしてだろう。⋮⋮厄介事を運んでくる2人だからです
ね、分かります。
﹁そこの席は、ドルではありませんでしたか?﹂
﹁ドルは目が悪いから、一番前がいいそうです。な、ドル﹂
﹁あ、うん﹂
⋮⋮たぶん、本当ならば私が座るはずだった席にいるドルという
気弱そうな少年は、戸惑いながらもコクリと首を縦に振った。うん。
絶対ライに言わされているよね。
﹁まあいいでしょう。オクト、ライの隣に座りなさい﹂ はい先生。よくないです。
そう言ってしまえばいいのかもしれないが、ここでそんな空気を
読まない発言しても、自分がつかれるだけな気がする。私もドル少
年と同じく、気が弱い、長いものに巻かれたいタイプだ。それに一
番後ろで、一番端というのは、周りとの接触も少なくて済むので、
結構いい席じゃないだろうか。授業がつまらなければ外を見る事も
できる。うん、完璧じゃないか。
精一杯自分にその席の素晴らしさを言い聞かせ、私は大人しく一
番奥まで歩く。途中、周りの生徒から恐怖と好奇心の入り混じった
不躾な視線を貰ったが、まあいつもの事だ。
﹁よっ、オクト。よろしくな﹂
﹁オクトさん、これからよろしくね﹂
危険な香りしかしない2人とは、よろしくしたくありません。
そう思うが、私は賢明にも口には出さず、後できっちり説明して
という想いを乗せて、私は2人を睨みつけるだけにした。
302
◇◆◇◆◇◆
﹁カミュおう︱︱﹂
休み時間に入り、声をかけようとしたら、カミュに口をふさがれ
た。
﹁同級生だから、お兄様なんて呼ばなくていいよ。折角だから呼び
捨てがいいな﹂
いやいやいや。
私がつけようとした敬称は、お兄様ではなく、王子だ。というか
お兄様なんて、一度として呼んだ事がない。
ただ王子という身分は、もしかしたらこの学校では秘密になって
いるのかもしれないと気がついた私は、了解を伝える為コクリと首
を縦に振った。
﹁学校に通うにあたって、色々教えたい事があるから、ちょっとつ
いてきてね﹂
その言葉に、否定も肯定もする間もなく、突然視界が切り替わる。
周りからヒトが消えた変わりに、憎らしいぐらい青い空が視界を埋
めた。
﹁⋮⋮何処、ここ﹂
﹁さっきまでいた教室の屋上だよ。﹂
いつの間にか私の口から手を反したカミュは、にっこりと笑って
答えてくれる。しかし聞いておいてなんだが、正直そんな事はどう
でもよかった。
﹁もうすぐ授業なんだけど﹂
今は休み時間だが、この時間は昼休憩とは違いとても短い。普通
に考えて、屋上にわざわざ出向くような時間ではなかったはずだ。
303
﹁次は算数だから問題ないだろ﹂
﹁問題、大ありだと思う。私は授業を受けたい﹂
さらりと問題発言をするライを私は睨む。どうしたらそんな答え
がでてくるんだ。折角高い授業料を払っているのに、出席しないな
んて勿体ない。というかありえない。
そもそも税金で生かされている身分の癖に、その税金が聞かれも
しない授業料として使われてしまうなんて申し訳ないと思って欲し
い所だ。
﹁で、ここに連れてきた理由なんだけどね︱︱﹂
﹁聞いてよ﹂
﹁オクトさんも色々僕達に聞きたい事があるんじゃない?﹂
うっ。それは確かに正論だ。
色々問いただしておかなければならない事が山積みなのも確かで
ある。 ﹁って、それは別に後でも構わないんだけど﹂
早く聞ければその分スッキリはするが、それだけだ。今しか聞け
ない、授業とは違う。
﹁まあまあ、そう言わず﹂
﹁ほらほら座った、座った﹂
ライに肩を上から押され、私はペタンと地面に尻をつけた。その
隣にライとカミュも座る。逃がすつもりはないらしい。
⋮⋮うん。多分私の意見なんて聞いてもらえないなんて分かって
いたんだけどね。この2人が相手じゃ、教室に戻るのなんて無理だ。
意地を張るだけ時間の無駄である。
それぐらいならば、聞きたい事をさっさと聞いて、終わらせた方
がいい。
せめてもの救いは、今から始まる授業が得意科目である事ぐらい
か。1回分授業に出なくても、何とかついていけるはず。私は気を
304
落ち着かせるため、深くため息をついた。
﹁じゃあ聞くけど。何で私を飛び級させた?﹂
そう、私が飛び級する羽目になったすべての原因はこの2人にあ
った。
受験する際に起きた混ぜモノ云々の問題解決を、全てカミュとラ
イに任せてしまった事が運のつき。彼らを信じていた私は、願書な
ども彼らを通して学校側に提出してしまったのだ。まさかそこで、
入学希望を編入希望に変えられてしまっているなんて思ってもみな
かった。
﹁もちろんオクトさんと一緒のクラスの方が楽しいからだよ﹂
﹁何で?﹂
真顔で聞き返してやると、カミュは苦笑した。
﹁そこを聞くかなぁ﹂
カミュは嘘は言っていないだろう。でも額面通りに受け取れない。
というか受け取ったら、よっぽど純粋で騙されやすいヒトだ。そし
てそういうヒトは、詐欺師や海賊や王子などに騙されて、可哀そう
な人生を歩むんですよね。うん、ないわ。いくらなんでも、例外に
近いような飛び級をさせるほどの理由が、そこにあるとは思えない。
﹁この学校は、この国でも特殊な立場にある事は知っている?﹂
﹁特殊?﹂
よく分からないので首を横に振った。この学校が魔法学校として
は世界で一番大きい事は知っているが、特殊というのはよく分から
ない。
﹁この学校は国の中でも、一種の独立状態にあって国とは違うバラ
ンスの中にあるんだよ。だからこの学校の中では、国から与えられ
た家名ではなく、名前で呼び合う。一種の実力主義と言えばいいの
かな。名前で呼び合う分、そのヒトの実力だけで評価される。もち
305
ろん貴族という事を捨てられないヒトも居るけどね﹂
言われてみるとその通りだ。平民には家名というか、苗字がない
のが基本なので、だから名前で呼ばれているのかと思っていた。で
もよく考えれば、一応貴族に引き取られている自分はオクト・アロ
ッロとなる。だから普通ならば、アロッロ子爵令嬢となるはずだ。
﹁師匠も家名じゃなくて、アスタリスク魔術師って呼ばれているだ
ろ。魔術師はここの卒業生が多いから、名前で呼び合う事が多いん
だ﹂
なるほど。
呼び方一つにそんな裏事情があったとは。ただその話と自分が飛
び級した件とどうつながるのかさっぱり見えない。
﹁そんな独立状態にあるから、この学校は王家に仕えているという
よりは、協力関係にあるといっていい。この国は魔力研究で大きく
なったようなものだから、今更切り離す事もできないしね。で、問
題になるのは、この学校に入学してくる生徒なんだけど。どういう
子が多いと思う?﹂
どういう子って。
﹁魔力が高くて問題ある子供か、お金が有り余っている貴族の子供
?﹂
前者がミウタイプで、後者がカミュやライタイプだ。どちらが多
いのかは、入学したばかりの自分には謎である。
﹁あたっているけど、少し惜しいかな。正確にはお金が有り余って
いる貴族の、次男や三男が多いんだよ。もちろん魔力が高くて問題
がある長男や令嬢も入学しているけどね﹂
何が違うのだろう。
いや、言っている意味は分かるのだが、わざわざ言い直す意味が
分からない。
﹁そして次男や三男は、基本的に貴族の家名を継げないから、ここ
306
で実力をつけて、自分の力で生きていかなければならない。例え長
男より優秀だったとしてもね。だから貴族にもなれず、実力も中途
半端な者は、国に不満を持つ事が多いんだよ﹂
﹁へぇ﹂
﹁そしてそんな中途半端な実力者が、学校の中でも一番多いんだよ
ね。アスタリスク魔術師のような優秀な生徒なんて一握りかな﹂
まあそうだよね。
アスタのような化け物じみた魔術師がうじゃうじゃいるようには
思えない。だいたい、この世界の魔術師人口は限りなく少ないのだ。
簡単な魔法が使えれば名乗れる、魔法使いだって、尊敬の対象にな
るぐらい少ないのだからその比率は考えるまでもない。
﹁じゃあ、ここで問題。今の現状の学校と王家はどういう関係とな
っているでしょう﹂
学校と王家?
学校は国から独立したような機関で、王家とは協力関係にあると
言っていた。でも学校の中にいる生徒は、王家というか国に不満を
持つ者が多い⋮⋮。
あれ?結構不味くない?
何だか凄く危うい関係に思えて、血の気が引いた。
﹁もちろん学校側も王家から助成金を貰っているから、表だって反
発しているわけじゃないよ。でも王家が失脚すればいいのにと思っ
ている魔法使いが多いのもは確かかな。きっと失脚した暁には、魔
術師が王になる国にしたいと思ってるのだと思うよ﹂
魔術師が王になったらどうなるのだろう。やはり魔力の有無で価
値が決められるようになっていくのだろうか。ファンタジーな小説
でありそうな話だ。しかし具体的にどうなると想像がついているわ
けではないが、どうにも空恐ろしい事のように思えた。
307
﹁そして僕がこの学校に居るのは、今の関係が維持できるように色
々働きかけできるようにという意味が大きいんだよ。でね、話は戻
るけど、ヒトというのはそれぞれ得意分野が違うよね?例えば、別
のクラスに入り込んで動いてもらった方がいい人材と、近くに置い
て色々手伝ってもらった方がいい人材﹂
おお。ここで話が戻るのか。
そしてさっきの想像とは別で、嫌な予感がした。というか嫌な予
感しかしない。
﹁わ、私は︱︱﹂
将来のQOL向上のために居るだけだ。例えまったく面白みがな
くても、入学式などの行事に参加できなくとも、平穏な学生生活が
送れて、薬学の知識が身につけばそれで問題ない。
そう平凡で、平穏な学生生活が送りたいだけなのだ。ダークファ
ンタジーに巻き込まれたいなんて願望は一切ない。
﹁オクト、俺らと楽しい学校生活を送ろうな﹂
﹁オクトさん、改めてよろしくね﹂
い、嫌だぁぁぁぁぁっ!!
ガシッと2人に肩を組まれた私は、逃げられない事を悟った。
308
16︲3話
ありえない。ありえない。ありえないぃぃぃぃ!!
枕に渾身の一撃を加えて、私はポテリとそのまま横になった。渾
身の一撃といえども、たかが8歳児の力だ。特に大きな音がなる事
もない。一応気を使って、八つ当たり対象を枕にしたのだからなお
さらだ。
﹁憂鬱だ﹂
折角魔法学校に通える事になったのに、いきなり進級。それどこ
ろか変な国の裏事情に関わってしまうなんて。これからどうなって
しまうのだろう。
カミュ達が、屋上に連れ出し語って聞かせた内容を思い出すと、
めまいがする。ついでにストレスでお腹も痛くなりそうだ。胃痛持
ちの8歳児。⋮⋮何だか凄いな。
ちなみにカミュ達が3年生だった理由は国家権力云々は全く関係
なく、ただ単に単位を落として留年したそうだ。ちょっぴり、﹃ざ
まあ﹄と思ってしまった自分は結構心が狭いのだろう。そんな自分
が情けなくて余計に胃が痛い。混ぜモノな上に心が狭い⋮⋮ヒトか
ら好かれる要素が皆無すぎて泣ける。
これは早々に虐められフラグが立つかもしれない。そもそも飛び
級なんて嫉妬や妬みの対象だ。流石に混ぜモノに対して暴力は振る
わないだろうから、あるとしたら、シカトとか靴がなくなるとか陰
湿なタイプだろう。
﹁でも飛び級をすれば、それだけ早く独立できるし、ある意味いい
のか。うん、授業料も安く済むって事だよね﹂
309
なってしまったものは仕方がない。前向きに考えよう。そもそも
混ぜモノなんだから、虐められフラグは最初からあったんだろうし。
とりあえず、靴がゴミ箱に入れられても回収できるような魔方式
を組み立てよう。他にもトイレで水をぶっかけられた時の対応とか
考えておくと便利かもしれない。どんな水でもH2O。水は弾いて
しまうのが一番か。幸い前世で虐め系の漫画を呼んだ事があるから、
ありとあらゆる虐めは思い浮かぶ。もっとも魔法学校では上履きは
使わないんだけど。
でも全て回避できたら、それはそれで爽快かもしれない。うん。
私は虐め回避の神になるっ!!
﹃コンコン﹄
そんなくだらない現実逃避をしていると、ドアがノックされた。
こんな時間に誰だろう。ペルーラだろうか。
普段ならアスタ一択なのだが、学校がある日は子爵邸に泊まる事
が決まり、今日は子爵邸だ。本来ならこっちが本宅なので泊まると
いう表現は変かもしれないけれど。
子爵邸に泊まる事が決まった理由は、アスタに学校へ送り迎えを
してもらうとなると、どうしても夕食の準備や買い物が難しくなる
為だ。何だか迷惑をかけているようで心苦しいが、アスタは気にし
なくていいというし、ペルーラもすごく喜んでくれていたので良し
とした。
それにここで意地をはったら、余計に迷惑がかかってしまう。そ
れぐらいならば早く薬師になって、アスタの手助けをした方が堅実
的だ。
﹁オクト、起きてる?﹂
﹁アスタ?起きてる。⋮⋮ちょっと待って﹂
私はベッドから下りると、部屋のドアを開けた。
310
そこにはすでに黒色のパジャマを着たアスタがいた。髪の毛から
ポタポタと滴が落ちるので、お風呂上がりなのだろう。
それにしても︱︱。
﹁そのままじゃ風邪引く。座って﹂
確かタオルがあったはずと、私は眉間に皺をよせながら衣装ケー
スを漁った。あんな恰好でフラフラと。ここまで来る間に、絶対使
用人に咎められただろうに。そんなに急ぎの用事だったのだろうか。
ふかふかのタオルを手に取り振り返ると、アスタは私が言うまま
に大人しくソファーに腰掛けていた。
ん?何だか大人しい?
私はアスタの後ろに回ると、タオルで髪の毛の水分を丁寧に拭き
とる。身長が伸びたおかげで、髪を拭くのは苦痛でなくなったのは
幸いだ。
﹁アスタ、どうかした?﹂
珍しく元気がないように思うのは気のせいではないはずだ。アス
タが髪の毛をちゃんと拭かずに家の中をフラフラする事は、元がお
坊ちゃんだからか結構あるのだが、終始無言というのは珍しい。
﹁オクトこそ、学校で何があったんだい?﹂
﹁あー⋮⋮﹂
やっぱり気がつかれてたか。
流石に心配をかけるわけにはいかないと、カミュ達に言われた事
は黙っていたのだが。
﹁全然何も言ってくれないし。何だかオクトが遠くへ行ってしまっ
たみたいで寂しい﹂
﹁⋮⋮アスタ、お酒飲んだ?﹂
メソメソと今にも泣きそうな声を出されて、状況を理解した。
たぶん今のアスタは風呂に入り、その後に水と間違えて、何かお
311
酒を飲んでしまったのだろう。魔族としては珍しいタイプらしいが、
アスタはそれほど酒に強くない。以前もこんな感じで、最終的に添
い寝した事があった。凄い魔術師なのに、お酒を飲むと寂しんぼう。
⋮⋮逆にこれはこれで、お姉さま方にモテるんじゃないだろうか。
ギャップ萌みたいな。性格に難ありでも、顔がいいというのは得で
ある。
﹁オクト、学校が嫌ならいつでも止めていいからっ!﹂
﹁ちょっ、いきなり振り向かない。まだ髪の毛拭けてないから﹂
私は少し乱暴にタオルを動かした。
本当に、この義父さんは私に甘い。まだ学校に通い始めたばかり
だし、ここは何が何でも学校に行けという場面ではないだろうか。
﹁学校は行く。じゃないと、薬師になれないし﹂
そう。私は薬師になる為に学校へ通うのだ。カミュ達には悪いが、
私は私の為に生きさせてもらう。空気を読むのは得意だから、これ
からは上手くフラグを回避させてもらおう。
﹁入学していきなり3年だったのと、公爵家の次男のふりをしたカ
ミュが同じクラスだったから、少し驚いただけ。私は大丈夫﹂
﹁俺は大丈夫じゃない﹂
おいおい。
娘が大丈夫だって言っているのに、この酔っぱらいは。
﹁何か酔いざましの薬貰ってくる﹂
﹁いい、いらない。行かないで﹂
アスタは私の頭を抱きしめた。⋮⋮ちょっと、動けないんですけ
ど。誰だ、アスタに酒のませた馬鹿は。
あー、でもここの使用人は、皆ザルだっけ。もしかしたら、誤っ
て酒を出しっぱなしにしてしまったのかもしれない。よし。明日、
ペルーラに犯人を探しておいてもらおう。もちろん犯人は禁酒だ。
312
﹁アスタ、髪の毛拭けない﹂
﹁何処にも行くな﹂
﹁⋮⋮行かないから、髪の毛を拭かせて﹂
というか行けないから。アスタに引き取られた当初よりは背も伸
びたし、力も強くなった。それでも大人の男に勝てるほどではない。
私の言葉に反応して、アスタはそろそろと私から手を放し、再び
きちんとソファーに座りなおした。うん。気持ち悪いぐらいに素直
だ。
﹁そう言えば、アスタは私が3年生に編入する事を知ってた?﹂
﹁もちろん。入学には保護者の同意がいるからな﹂
だよね。
どうやら気がつかなかったのは私だけらしい。間抜けすぎて涙が
チョチョ切れそうだ。まあいまさらどうにもできない事を嘆いても
仕方がない。
﹁学校に行くのは反対だったのに、飛び級はいいの?﹂
﹁いいよ。だって学校に行く期間が短い方が、俺と一緒に居る時間
が増えるだろう﹂
おや?
どうもアスタの頭の中の構想では、私が卒業後もアスタの家で暮
らしている予定になっていそうだ。そんな迷惑かけられないのだが
⋮⋮まあ、その辺りはアスタが素面に戻ってから追々話し合ってい
くべきだろう。
私も卒業後のプランを完璧に決めているわけでもない。
﹁学校に行っても行かなくても、それほど変わらないと思うけど﹂
もちろん家事があまりできなくなって迷惑をかけてはいるけれど。
でも元々アスタは日中仕事をしていたので、一緒に居る時間とい
うのはそれほど変わらない。
313
﹁変わるよ⋮⋮オクトが、変わってしまう﹂
再びメソメソモードに入りそうな酔っ払いの頭を私はできるだけ
雑に拭いた。痛みで少しは正気に戻ってくれないものか。
﹁変わったとして、何か問題ある?﹂
﹁問題⋮⋮﹂
﹁私は少なくとも学校に行く間は、今までと変わらないよ。帰る場
所はアスタの家しかないし︱︱って、寝るな、アスタ!!﹂
話している間に船をこき出したアスタの肩を慌てて揺すった。
どう頑張っても私の力では、アスタを部屋へ運ぶことなどできな
い。
﹁んー﹂
﹁せめて、ベッド。ほら、起きて﹂
ぼんやりと寝ぼけまなこなアスタは、言われるままに私のベッド
に倒れ込んだ。寝起きが悪いアスタである。⋮⋮これは、朝まで起
きそうにない。
仕方がないか。本当に困った義父だ。
﹁アスタ、お休み﹂
体が小さくてよかった。
私はアスタの隣にもぐりこむと、光を消す。
こうして私は魔法学校に無事入学を果たした。
314
17︲1話 問答無用な嫌われ方
﹁お嬢、そりゃないですよぉ﹂
﹁駄目。ロベルトの為﹂
子爵邸に響き渡った情けない声に、私は穏やかに、でもきっぱり
と断った。
﹁休肝日はあった方がいい。いくらお酒に強い人種でも、毎日山ほ
ど飲むのは、肝臓への負担がかかるから﹂
﹁嘘を言わないで下さいよ。あれですね。アスタリスク様にお酒を
飲ませちまったのをまだ根に持っているんですね﹂
﹁まさか﹂
その通りです。
でも嘘は言っていない。お酒の飲み過ぎは、肝臓に悪いなんて事
は、現代日本では常識だ。まあ分かっちゃいるけど止められないの
がお酒でもあるんだけど。
﹁失礼な事を言わないで、ロベルト。オクトお嬢様が嘘を言うはず
ないじゃないの﹂
﹁ペルーラ、お前は騙されている!相手はアスタリスク様の娘だぞ。
そもそも、お前、俺の事売りやがって﹂
﹁お嬢様が心痛めてるんだから、調べるのは当然でしょう?ねー、
オクトお嬢様﹂
﹁あ、うん﹂
キラキラした眼差しを受けて、今心が痛んだ。
アスタがお酒に酔って私の部屋で沈没した翌日、私はペルーラに
誰がアスタにお酒を飲ませたのか調べるようお願いした。お酒に弱
いアスタには体に毒なのだと伝えた上で。その結果、ロベルトがお
315
酒を出しっぱなしにした事が判明。
子供もいる家なんだから、もう少し物の管理はしっかりしてほし
い所だ。まあ子供がいると言っても、私の事なんだけど。
﹁えーっと、私もずっとお酒を飲んではダメとは言わないよ。ただ
これから1週間お酒断ちをして、その後は、定期的に休みの日を作
るといいと思う。ロベルトの体の為にも。⋮⋮駄目かな?﹂
﹁駄目なはずありません。お酒は全部私が回収しておきますね!﹂
﹁ペルーラ、それだけはあぁぁぁ!!﹂
バタバタと走って外に出ていたペルーラの後をロベルトが追いか
けていった。ペルーラは鼻がよく聞くので、全部見つけられるのは
時間の問題だろう。
よし。ロベルトのお仕置きはこれくらいでいいか。これからは没
収されないように、勝手に厳重管理してくれるだろう。そうすれば、
アスタが誤って酒を飲んでしまう事もない。
﹁オクト、終わったかい?﹂
﹁うん。お待たせ﹂
学校へ行く前にちょっとロベルトに指導するにあたって、アスタ
に待ってもらっていた。申し訳ないが、朝指導しておけば帰ってき
たころには酒がしまわれているはずなのでタイミングが丁度いいの
だ。
﹁オクトは使用人達とずいぶんと仲良くなったね﹂
﹁んー⋮⋮﹂
魔法の実技勉強を始めてから子爵邸にはちょくちょく顔を出すよ
うになったし、最近は連続滞在しているのだから慣れたには慣れた。
それに子爵邸には元々私に対してかなり好意的なペルーラがいる。
これで仲良くなれなければ、色々人間性的に問題あるだろう。
﹁慣れたけど、アスタと2人暮らしの方が気楽かな﹂
316
別にロベルト達が嫌いというわけではない。むしろ混ぜモノな私
の面倒をみてくれているのだから、嫌っては罰が当たる。でも気楽
かどうかはまた別だ。
伯爵邸よりも決まりが緩いのだけれど、それでもある程度はピシ
ッとしておかなければという感覚がある。一応貴族なのだし、その
判断は間違ってはいないだろう。ただ疲れるだけで。その点宿舎の
方は、アスタしかいないし気ままだ。服だって絶対ドレスを着なけ
ればならないわけではない。
﹁うん、そっか。⋮⋮そっか、そっか﹂
しきりに頷きながら、何故かアスタは私の頭をくしゃくしゃにし
た。意味が分からないが、アスタの機嫌はよさそうだ。機嫌がいい
なら、まあいいか。そんな事より︱︱。
﹁アスタ、学校にいこう?﹂
でないと、流石にそろそろ遅刻する。
◇◆◇◆◇
学校に数日通ったが、学校の方もいたって平和に時間が流れてい
る。初日にカミュやライに脅されたのでどうなる事かと思ったが、
317
拍子抜けするぐらい何もなかった。
誰かと仲良くなった事もないが、虐めもない。カミュ達も暗躍す
るために常時授業をさぼったりするのかと思ったが、普通に出席し
ている。
﹁いや、オクトさん。僕たちも授業に出ないと進級できないから﹂
﹁いつもサボっているわけじゃねぇって﹂
﹁⋮⋮ダブってるじゃん﹂
﹁俺らにも色々あるんだよ﹂
今は実践魔法学の授業で、2種類の魔法陣の設計をして、それを
発動させる練習をしている。アスタに教えてもらった事とそれほど
変わらないおかげで、早々に終わった。どうやら私は風以外に水の
属性も持っていたようで、2種類というのはそれほど手間取らなか
った。⋮⋮何だか洗濯に便利そうな能力だ。
とりあえず、同じく早く終わったカミュと私はする事もないので、
雑談している。ちなみにライはいまだに設計が終わっていない。
パシンッ
﹁いってぇ﹂
﹁ライ。口を動かさずに手を動かしなさい﹂
サボっている事がバレたライは、教師にハリセンで叩かれた。⋮
⋮なんでやねん。
教師が持っている道具にこっちがツッコミを入れたくなるが、誰
もツッコミを入れない。どうやら、普通の光景らしい。私も空気を
読んでとりあえず黙認している。
厚紙でできているし、きっと異界から伝わってきたとか、そんな
所だろう。⋮⋮使い方も間違ってはいないけれど、日常生活で使う
ものではなかったよなっと思ってしまう。
318
﹁こんなの道具を使えばいいじゃん﹂
﹁基本を知らなければ、道具も上手く扱えませんよ。ほらまだ終わ
ってない者は頑張りなさい﹂
ちょび髭教師は、さらりとライの意見を却下すると、パンパンと
手を叩いた。
授業は担任が全て行うのではなく、それぞれの担当分野を講義す
る形式だ。なのでこのちょび髭は別に副担任というわけではない。
ちなみに担任であり、私の兄でもあるヘキサは、数学を受け持って
いる。
﹁ライ、頑張らないと、オクトさんの手作りケーキはなしだよ﹂
﹁うぅぅぅ、カミュの鬼っ!!﹂
﹁⋮⋮何で初めから食べる予定になってるのさ﹂
まあ、あるんだけどね。
習慣というものは怖いもので、私は普通にカミュ達の分も用意し
ていた。それに今日作ったマフィンは1個作るのも、3個作るのも
それほど大差ない。
﹁だって用意してくれているんでしょう?﹂
﹁まあね﹂
ここでお前らの為じゃないとか言えばツンデレ属性なのだが、生
憎と私はそんな属性持ち合わせていない。なのでにっこり笑うカミ
ュに、素直に負けを認めた。
﹁オクトさんは優しいから好きだな﹂
それは扱いやすいという意味ですね、分かります。
私は嫌いではないが、面倒な性格をしている友人にため息で返事
をした。
319
きゅうけい
なか
しばらくして、授業は無事終了した。この授業の後は1時間の中
えさ
休憩である。ライも何とか魔法陣を時間内に完成させる事ができた。
お菓子の威力は半端ない。
お茶にする為、私達は荷物を持って生徒達が休憩するスペースで
あるラウンジに移動した。ラウンジの隣には購買があり、生徒達は
それぞれ飲み物を買ったりしている。この国で昼にお茶をするのは
貴族ぐらいのものだ。つまり流行っているという事は、ここの生徒
は貴族がやはり多いのだろう。
私は購買に行って騒動になるのも嫌なので、おやつもお茶も初め
から持参である。
﹁待ってました!﹂
目の前に置かれたケーキに対して、ライはお世辞抜きで本気で喜
んでいた。ここまで喜んでもらえると作りがいがある。
﹁そんなにお腹すいていたんだ﹂
﹁俺は成長盛りなんだよっ!ああ、肉食べたい。肉っ!!﹂
うん。そういうと思ってました。
最近ライの食べざかりは拍車がかかっている。まあ育ちざかりの
子供に2食というのは結構拷問かもしれない。私は鞄の中から、カ
ツサンドや卵サンドなどのサンドウィッチをとりだした。
﹁オクトぉ。お前って奴はっ!!﹂
キラキラした眼差しで、食べていいの?食べていいの?と見てく
るライは、自分より年上だとは到底思えない。いや、年下というよ
りも、むしろ犬に餌付けしている気分だ。
﹁どうぞ。私一人じゃ食べきれないから﹂
﹁⋮⋮オクトさんって、本当に優しいというか甘いよね﹂
バクバクと食べ始めたライの隣で、カミュがなんともいえない表
320
情で食べ物を見ていた。それでもちゃんと自分の分を手に取ってい
るので、マズイというわけではないだろう。
﹁勝手に飛び級させた事怒ってたんじゃないの?﹂
﹁事前に説明がなかったんだから、怒るに決まっている﹂
私はそこまでお人よしではない。ただ今も怒っているかと言われ
ると、そうでもなかった。怒るという行為は結構力を使うもので、
なってしまったものは仕方がないという気持ちの方が今は大きい。
﹁なのに色々作って来てくれるんだ﹂
﹁怒っているけど、それとこれは別だし。それにカミュ達にも事情
がある事も分かるから。これからは利用されないよう気を付ける﹂
私に隙があったのも事実だ。
それに入学早々に、この学校の面倒な部分を教えてもらえたので、
変な事に巻き込まれないように予防をする事もできる。深みにはま
る前に知れたのは良かった。
しかし私の言葉を聞いたカミュはさらに微妙な表情をした。何と
いうか、困っている?
﹁あーうん。何というか⋮⋮オクトさんらしいね﹂
﹁どいう意味?﹂
﹁悪い意味だけじゃないから﹂
だけじゃないという事は、悪い意味も含まれているという事だ。
おやつを貰っておいて、失礼な奴である。
まあ追及してもカミュははぐらかす事が上手いので、私はとりあ
えず無視をする事に決め、マフィンにかぶりついた。うん。いいで
き。
﹁あっ、オクトちゃん!!﹂
もきゅもきゅと咀嚼していると、女の子の甲高い声に呼ばれた。
と同時に横からタックルが入り、危うく椅子から落ちかける。ライ
321
が隣から支えてくれなかったら、たぶん地面に叩きつけられていた。
﹁おい、危ないだろ﹂
﹁オクトちゃん、オクトちゃん!!やっと会えた!!﹂
ライの低い声にも全く怯むことなく、ピンクの髪の少女は私の名
前を連呼する。全身で嬉しさを表現しているかのようだ。
﹁ミウ、早いよ。それに他のヒトの迷惑になるよ﹂
少し離れたところから、男の子が少女︱︱ミウを呼んだ。えっ、
ミウ?
﹁だって、やっとオクトちゃんを見つけたんだもん﹂
そう言ってぷっくりとほおを膨らませる愛らしい少女は、入学試
験の時に一緒だったミウだった。
322
17−2話
﹁オクトちゃん。こちらの方々は誰?﹂
﹁ああ。彼らは私のクラスメイトの、カミュエルとライ﹂
偶然にもラウンジで再開を果たしたミウは、そのまま私の隣の椅
子に腰かけた。このまま別れる気はないという顔をしている。結構
意思が強そうだ。
ミウと一緒に来た2人は、上級生だしどうしようといった顔をし
ていたが、ミウが動きそうにない事を感じてか、﹃すみません﹄と
いいつつ隣の席とくっつけると座った。
﹁初めまして、先輩方。私はオクトちゃんの友達のミウと言います。
えっとこっちは︱︱﹂
﹁すみません。突然同席してしまって﹂
﹁別に、空いてるんだしいいさ。学校は慣れたか?﹂
﹁はい。おかげ様で﹂
ん?
チョコレート色の髪をした少年はどうやらライと面識があるよう
だ。ミウも知らなかったようで、目をぱちくりしている。
﹁えっと、ライの知り合い?﹂
どこかの貴族の子供だろうか。
ライ達は腐っても貴族なので、何かとパーティーとかに参加して
いるはずだ。かくいう私も一応それなのだが、魔力の制御が完全で
はないという事を理由に、今のところアスタが全て断っていてくれ
ている。混ぜモノが出席しても、ただの珍獣扱いがいいとこなので、
正直ありがたい。
323
ただそうやってサボっている所為もあって、私は貴族の名前を覚
えるのが苦手だった。顔と名前を一致させるなんて夢のまた夢であ
る。是非とも早く写真やカメラを発明してもらいたい所だ。
﹁あー⋮⋮オレの事分からないかな?﹂
おや?私もどうやら会った事があるらしい。
髪と同じチョコレート色のまつ毛に縁取られた緑の瞳が私を映す。
中性的な外見だが⋮⋮はて。色としてはそれほど珍しい彩色でもな
いので、該当する人間は多そうだ。
﹁オレというか⋮⋮僕だよ。本当に忘れちゃった?混ぜモノさん﹂
﹁えっ。もしかして、エスト?﹂
混ぜモノさんという呼び方に、記憶を刺激された私は一人の少年
の名前を上げた。その言葉に少年はにっこりと笑う。どうやら大当
たりらしい。
﹁よかった。思いだしてくれたんだ﹂
﹁いや、思いだしたというか。全然違うというか﹂
配色は変わっていないので、全部が違うというわけではない。で
も以前会ったときよりも身長が伸びているし、一人称だって、僕じ
ゃなくてオレだ。
ずっと文通しかしていなかったので、会うのは2年ぶりである。
﹁そりゃオレも、成長期だから、背も伸びたしね。それにライさん
の家で武術を習っているから、あの頃よりも筋肉もついたんだ。ほ
ら﹂
エストは二の腕をとりだすと力瘤をつくった。
私が出会ったころのエストは、病気の所為で部屋にこもりがちだ
ったので、もっとモヤシッ子だった気がする。人間変わるものだ。
﹁ちょっと、私の分からない話ばかりしないでよ。オクトちゃんは、
エストと知り合いだったの?﹂
324
﹁えっ、ああ。うん。まあ⋮⋮﹂
﹁オクトはオレの命の恩人なんだよ﹂
﹁それならミウもオクトちゃんに助けてもらったもん﹂
何故だろう。見えないはずの火花が2人の間で見える気がする。
﹁オクトさん、モテモテだね﹂
この野郎。人事だと思って。
それにしてもこの2人は友達ではないのだろうか。共通の友達が
いたら普通嬉しいと思うのだが⋮⋮、何故睨みあう。
下手したら引っ張り合いになりそうな2人の意識を変えようと、
私はミウ達と一緒に来た、もう一人の黒髪の少年に目をやる。
そこで初めて、紫の瞳が印象的な少年が、眉間にしわを寄せ、私
の事をジッと睨んでいる事に気がついた。⋮⋮えっと。
﹁俺、先に教室戻るから﹂
﹁えー、ちょっと。コンユウ。まだ次の授業まで時間あるよ﹂
﹁混ぜモノと同席なんて、お前らどうかしてる﹂
おお。珍しくまともな意見。
私はちょっと拍手をしたくなった。嫌われたいなんてマゾ見たい
な考えは持ち合わせてないが、こっちの方が正常な反応に感じる。
もっとも、こうもはっきりと言ってくるヒトも珍しいけど。
﹁コンユウ、態度悪いぞ。それに先輩に頼まなくちゃいけない事が
あるから、わざわざここまで来たんだろうが﹂
﹁俺は混ぜモノが一緒にいるなんて知らなかったんだ。誰が混ぜモ
ノと仲良くしている奴の力なんか﹂
﹁コンユウ﹂
立ちあがったコンユウの手をエストは握った。
コンユウは忌々しげに私を見て舌打ちすると、再び席に座る。座
った後は私にガンを飛ばしてきた。⋮⋮嫌いなのは分かったから、
325
できたら穴があくほど見るのではなく、いないものとして扱ってく
れないだろうか。
﹁何だ?俺らに頼みたい事があったのか?﹂
どうやら偶然私達と居合わせたわけではなく、わざわざ探してい
たらしい。いや、話を聞く限り、私に会ったのは偶然何だろうけど。
﹁はい。ちょっとオレらの力ではどうにもならない事がありまして。
できたら口添え願えないかなと﹂
⋮⋮この3人にある接点と言えば、同級生なんだろうなとは思っ
たが、どうやら同じ悩みを抱えているらしい。それにしても珍しい
組み合わせだ。
ここに通ってまだ日が浅いが、同じ種族同士の方が友人になりや
すいという事に私は気がついた。しかしミウは獣人族だし、エスト
は翼族。コンユウと言う少年は、人族の大きさの耳が尖っているの
でたぶん魔族だろう。赤目が多い種族なので珍しい配色だけど。
3人ともてんでバラバラである。それに名前の感じからして、出
身地も違いそうだ。少なくとも確かミウは赤の大地とか言っていた
し︱︱。
﹁口添え?﹂
﹁お手数をかけて申し訳ないんですが、図書館の利用で、何とか力
を貸してもらえないかと思って来たんです﹂
﹁図書館の利用?﹂
私はラウンジからでも見える、一番高い塔に目をやった。
まだ私は利用した事はないが、確か世界で一番の蔵書を誇ってい
る場所で、学校のシンボルともなっている。何処までも続きそうな
塔は、まるで神に挑戦するバベルの塔みたいだなと思う。
﹁はい。実はオレたち、図書館の利用を制限されていて。でも、今
後の授業を考えると、できたらその制限をなくすとまでは言わなく
326
ても、緩めてもらいたいんです﹂
利用を制限?一体、何故だろう。
1年はきっと図書館の利用について説明があったのだろうが、編
入扱いになっている私には、一切説明がない。それにしても利用を
制限されるなんて、前世では聞いた事がない話だ。
﹁あのね。私は獣人族だから、本を壊す可能性が高いって言われて、
借りる事ができないの。読む為に図書館に入るのだって、学生証を
提示して不審物を持っていないかチェックされなきゃだし。それに
時間も決められていて、放課後は警備員が減る関係で、1時間しか
入れてもらえないの﹂
それは⋮⋮何というか、酷い差別だ。
インターネットのないこの世界では、図書館が利用できないのは
学生にとっては死活問題である。それに他にある図書館は王宮図書
館ぐらいで、町には貸本屋があるだけだ。王宮図書館なんてもちろ
ん利用できないし、貸本屋も識字率の高くないこの国ではほとんど
ないに等しい。あったとしても魔法に関する専門書なんて持ってい
ないだろう。
﹁私図書館で、いきなり暴れたりしないのに﹂
﹁オレは姉が犯罪者ですから。厳しくならざる得ないんでしょうね。
コンユウは珍しい属性の魔力の持ち主だから、危険だと判断したら
しいです﹂
なるほど。一般的に魔力の低い獣人族は、ほとんどこの学校にい
ないに等しいので、ミウのように声を上げても小さすぎて取り合っ
てもらえないのだろう。コンユウもまた同じ属性のヒトがいないか
ら、ミウと同じだ。エストは⋮⋮エストが悪いわけじゃない。それ
なのに割り切ったように話すエストをみると、なんだか悲しくなる。
同情しては逆にエストに悪いと思い、私はできるだけ顔には出さ
ないよう気をつけた。
327
﹁そこは僕も失念していたなぁ。だとすると、オクトさんも図書館
の制限が厳しそうだね﹂
あ、本当だ。
むしろ何の説明もないし、利用制限どころか、そもそも使用をさ
せてもらえないんじゃないだろうか。何と言っても混ぜモノだし。
﹁やっぱり図書館が使えないと困る?﹂
﹁調べ物が教科書に載っていない事もあるしな﹂
﹁アスタリスク魔術師が結構蔵書を持っているから必ず困るとは言
えないけれど、やっぱり図書館にしかないものもあるからね﹂
うん。確かにうちには本が山ほどある。宿舎にはもちろんだが、
子爵邸にも伯爵邸にも書室がおかれており、そこには山ほどの本が
詰め込まれていた。
アスタに言えば、なんだかんだで読ませてくれそうだが⋮⋮。で
きればそこまで迷惑をかけたくないし、心配もかけたくない所だ。
﹁とりあえず、ますは館長と話をしてみないと始まらないね﹂
﹁じゃあ﹂
﹁俺らに任せておけ。今日の放課後にでも行ってみようぜ﹂
これはやっぱり私もだよね。
とりあえずアスタが迎えに来る前に何とか終わらせないとと、私
は放課後に使える時間を逆算した。 328
17−3話
﹁しばらくお待ち下さい﹂
全ての授業が終了した放課後。私たちは、受付のお姉さんに図書
館にある1室に案内された。たぶん客室みたいな部屋なのだろう。
トロフィーや賞状などがショーケースに飾られている。
問題ある生徒が4人も居るので、中にはいるのだけでも一苦労で、
館長とも会えないかと思ったのにとんだ肩透かしだ。まあ、これに
も理由があるんだけど。
﹁⋮⋮大人って汚い﹂
﹁こうやって、ヒトは成長していくんだよ。オクトさん﹂
袖の下、鼻薬、山吹色のお菓子。言い方は色々だが、全て意味は
同じ。つまりは賄賂を受付のお姉さんに渡したのだ。カミュの手さ
ばきは素早かった。プロである。
﹁そうだよオクトちゃん。お金で解決できる事はそれで良いの﹂
まさかミウにまで諭されるとは。
もちろん私よりも年上なんだけど。ちょっと衝撃が大きい。
やはりアスタの下で生活するようになって、私は少々箱入りにな
っているのかもしれない。それ以前の生活では、賄賂とか関係する
年齢でもなかったし。そもそもお金を持っていなかった。
それにほら。賄賂と考えるから気分があまり良くないのだ。前払
い制のチップとか、前払いの御捻りとか心付けと思っておけば、あ
ら不思議。心がこんなに軽く⋮⋮なるわけがない。賄賂というと、
どうしても悪いイメージしかないので、慣れるまで少し時間がかか
りそうだ。
329
﹁はっ﹂
無知な箱入り娘が的にコンユウに鼻で笑われたが、無視しておこ
う。うん。それがいい。関わると面倒そうだ。流石に全てのヒトと
仲良くなれるなんてお花畑な幻想は持ち合わせていない。
とにかく、アスタが着てしまう前に、全てを終わらせる方が大切
だ。
しばらくすると、扉が開いた。ようやく館長のお出ましか。
しかしそこには白い毛むくじゃらな何かがいるだけだ。小柄なそ
れは生きモノではあるようで、肩で息をし、杖をついている。
﹁君らがわしに会いたいというもの達かね﹂
毛むくじゃらな何かは、ゆっくりとした口調で龍玉語を話した。
えっ⋮⋮もしかして館長?
今、﹃わし﹄って言ったよね。
﹁はい。初めまして、クロワ館長。僕は3年2組のカミュエルと申
します。今日は急なお呼びだしに答えていただきありがとうござい
ます﹂
やはりこの毛むくじゃらは、館長らしい。
白髪は伸び放題だし、眉毛もひげも伸び放題なので、ヒトかどう
かすら怪しいと思ったが⋮⋮一応ヒト科には属しているようだ。
﹁うむうむ。君の事は知っておるよ。確か3年の主席だったね。一
度留年したが、最近は真面目に出席しておるし、結構な事じゃ﹂
クロワ館長は、カミュの前でしきりに頷いたと思うと、たぶん顔
があるのだと思われるあたりをライの方へ向けた。
﹁君は3年のライ魔法学生じゃね。武術の腕は見事じゃが、勉強も
せんと、ろくな大人にならんぞ﹂
もしかして、カミュとライは有名なのだろうか。
この学校ではまだ2人以外と喋る機会がないので、彼らに関する
330
噂などに触れるタイミングがない。でもこれだけ学生が沢山いる学
校で、名前を知られているというのはすごい。
﹁後は1年のミウ魔法学生、コンユウ魔法学生、エスト魔法学生。
それに3年のオクト魔法学生じゃね。皆、真面目に授業に出ておる
ようで、結構、結構﹂
自分の名前まで当てられて私はどぎまぎした。もしかして私も混
ぜモノだから有名なのか。そう思ったが私はすぐにそれを否定した。
ミウやコンユウは特徴的な外見をしているので、私と同じく当て
やすいが、エストは髪や目の色も普通だし、翼族なので同じような
外見的特徴の人物がこの学校の中にも何人かいるはずだ。この爺さ
ん、もしかして全ての学生を覚えてるんじゃないだろうか。
﹁流石クロワ館長です。僕らの事はすでにお知りというわけですね﹂
﹁いやいや。わしが知っているのは紙の上の事。百聞は一見にしか
ず。今この瞬間知ったといってもいいのう﹂
つまり、知ってるやん。
私は心の中で力いっぱいツッコミを入れた。もちろん顔はポーカ
ーフェイスを崩さずにだ。ここで下手にツッコミを入れてへそを曲
げられては困る。
私は進行役をカミュに任せてだんまりを決めた。一番交渉事に強
そうだし、できる限りスピーディーに事を終わらせたい。
﹁ご謙遜を。賢者と呼ばれるクロワ館長なら、僕らがここへ来た理
由も分かって見えると思いますが、単刀直入に申し上げさせていた
﹂
だき︱︱﹂
﹁嫌じゃ
なんとも可愛らしく館長はカミュの言葉を遮ったが、実際問題ま
ったく可愛げのない言葉だ。さっくりと切られたカミュの口元が若
干引きつっている。
331
﹁何でだよ、爺さん﹂
﹁だって、君らに協力したとして、わしに何のメリットもないんじ
ゃもん﹂
もんじゃない。
可愛い子ぶりながら、館長はソファーに腰掛けると、足をぶらぶ
らさせた。若干イラッとくるが、我慢だ。我慢。
図書館が使えるかどうかは、このふわもこ館長の肩にかかってい
るのだ。⋮⋮もこもこしていて、何処が肩かちょっと分かりにくい
が。
﹁館長様。初めまして。ミウと言います。私達、どうしても図書館
が使いたいんです。なのに私が獣人族だから使えないなんて酷いと
思います。種族なんてどうしようもないじゃないじゃないですか﹂
﹁ふむ。何故獣人族はダメかじゃが、獣人族の生徒は必ずといって
いいほど、図書館の備品を壊すからじゃ。最近じゃと、20年ほど
前にピティという学生が暴れてな。その前にもちらほらと、獣人族
の被害にあった書物があったのう﹂
ひげを触りながら館長は懐かしそうに喋る。少なくとも20年以
上前から、ここに居るらしい。見た目は20年といわず100年ぐ
らいはいそうな雰囲気を醸し出しているけれど。
﹁じゃから、わしは獣人族が信用できん﹂
﹁そんなぁ﹂
きっぱりと言われて、ミウはウサギのような長い耳をシュンと垂
れた。不謹慎だが、少し可愛い。
それにしても、頑固な爺さんだ。こんな可愛いウサ耳娘を虐める
なんて。こんなに可愛い子が図書館で暴れるなんて思えない。
﹁そんな目で見ても、駄目なもんは駄目じゃ﹂
﹁チッ﹂
332
あれ?今、ミウ、舌打ちしなかった?
おかしいな聞き間違えかな?っと思っていると、ミウは﹃うわー
ん﹄と泣きながら私に抱きついてきた。うん。やっぱり聞き間違い
に違いない。
﹁それにわしは犯罪者の弟というのも、信用できん﹂
﹁爺さん、そんな言い方ないだろ?!﹂
その言葉にエストが顔色を変える事はなかった。むしろエストの
代わりとばかりにライが憤る。しかし館長もまた態度を変える事は
なかった。ライの様子に全く怖がるそぶりをみせない。
﹁百聞は一見にしかず。わしはまだ彼らを紙の上でしか知らんのじ
ゃ。じゃから。これからの生活態度を見させてもらって決めたいと
思う﹂
﹁つまり、生活態度が問題なければ、緩和してもらえるんですね﹂
﹁しち面倒くさい制限などせんでも済むのが一番いいからのう。と
りあえず、放課後の時間制限だけは緩めるよう伝えておこう﹂
言動にイラッとくる事はあるが、わりかし話の分かるヒトのよう
だ。メリット云々といっていたが、悪ぶっているだけで、意外にい
い人かもしれない。
﹁なら、俺は︱︱﹂
﹁ふむ。コンユウ魔法学生は近年前例がない属性じゃしのう。混ぜ
モノであるオクト魔法学生も同じじゃ。例え2人は生活態度に問題
がなくても、暴走されると止めるのは一苦労じゃしのう﹂
確かに。
国で一番の蔵書という事は、とても貴重な書物もあるわけで。も
しもここで魔力を暴走させたら、その損失はどれぐらいのものにな
るのか。ちょっと怖くて聞く事すらできない。
しかしだとすると、やっぱり私が図書館を利用するのは難しそう
333
だ。
﹁そこでじゃ。わしも君らの事を知りたいし、ちーとばかし図書館
でアルバイトをせんか?﹂
﹁へ?﹂
アルバイト?図書館利用すら難しいのに?
想像もしていなかった言葉に私は館長を見返した。
﹁館長。勝手にそのような事をされては困ります﹂
﹁いーじゃん。なにもボランティアをしろと言っているわけじゃな
いんじゃし。特に混ぜモノは、色んな意味で注目を集めて、大半の
者に毛虫のごとく嫌われておるからのう﹂
さらりと失礼な事を言ってくれるが、間違ってはいないだろう。
コンユウのように私の事を一方的に嫌っているヒトは多そうだ。
なんといっても、義兄にまで出会った当初は問答無用で睨みつけら
れたわけだし。
﹁それに中立な立場であるわしが、確認した上で安全性を保証した
方が色々都合もええじゃろう﹂
﹁しかしですね﹂
﹁わしは今、カミュエル魔法学生ではなく、コンユウ魔法学生と、
オクト魔法学生に聞いておるんじゃ。口をだすでないわ。2人とも
どうかのう?﹂
どうかのうと言われましても。
はたして私にアルバイトが可能だろうか。そもそも図書館の利用
方法すら教えられなかったという事は、コンユウ達よりさらに立場
は悪いような気がする。
﹁アルバイトって何をやるんですか?﹂
﹁なーに、簡単じゃよ。本を運んだり、本の修繕をしたり、索引を
334
書いたり、まあ色々じゃな。それとわしと一緒にたまにお茶をして
くれればそれで構わんよ。勤務はわしがおる日に限るがのう。ただ
し勤務時間で仕事が早く終わればその後は本を読んでも構わん﹂
聞いた限り、一緒にお茶というのは変わっているかもしれないけ
れど、その他は拍子抜けするぐらい普通である。しかし普通すぎて、
何かあるのではないかと私はいぶかしんだ。
﹁俺はやります﹂
私が色々考えている隣で、コンユウはあっさり承諾した。結構男
らしい。
﹁オクト魔法学生はどうかね﹂
﹁えっと、少し理解が追いついていないので申し訳ないですが、私
がしてもいいのでしょうか?その⋮⋮アルバイト中に絶対暴走しな
いという保証もないと思うのですが﹂
﹁わしが居るから大丈夫じゃよ。他には?﹂
何処から出てくるんだろう、その自信。
まあ図書館利用ができるならしたいのは山々だが⋮⋮でもなぁ。
﹁後は⋮⋮義父に今は送り迎えをしてもらっていますので、確認し
てしてみないと﹂
アルバイトをするとなれば放課後だ。
授業が終わってすぐに迎えに来てくれるアスタの了承がいる。私
の一存で決められる話ではない。
﹁なんじゃ、あの鼻たれ。そんな事もやる様になったのか。少しは
ヒトらしくなって、結構結構。やはり紙の上じゃ分からん事は多い
のう﹂
⋮⋮鼻たれ?
衝撃的な単語に、私は固まった。 話の流れ的に、鼻たれと称された単語が指し示すのは一人しかい
335
ない。しかし脳みそがそれを拒絶する。
﹁師匠を鼻たれって﹂
﹁あんなの鼻たれ小僧で十分じゃ。アスタリスク魔術師の事は、こ
こへ入学した時から知っておるしのう﹂
えっと、アスタってたしか80を超えたおじいちゃんだったよね。
それを鼻たれ小僧って⋮⋮。
一体このもうふもふした爺さんは、いくつなのか。前世の常識に
とらわれてはいけないと分かってはいても、何だか目まいを起こし
そうだ。
﹁館長。俺の娘を返してもらいたいんだけど﹂
頭を抱えていると、バンと背後にあるドアが開かれた。働かない
頭のまま振り返れば、その先にはアスタがいた。
しまった。もう時間だったか。衝撃的な話をしていたせいで、時
間を見るのを忘れていた。
﹁アスタ、ごめん﹂
﹁オクトは謝らなくていいよ。で、話が終わったなら、俺は娘を連
れて帰りたいんだけど﹂
アスタはずかずかと中に入ると、私の隣までやってきて、館長を
睨みつけた。
﹁おお、噂はしてみるものじゃのう。今、ちょうど君の事を話して
おった所じゃよ﹂
﹁俺の話?﹂
﹁ところで君にもオクト魔法学生の事で話があるんじゃが、ちょっ
とばかし一緒に来てはくれんかのう﹂
﹁なんで︱︱﹂
﹁色々積もる話もあるしのう。どうじゃ?﹂
館長は可愛らしくアスタにおねだりをした。しかしアスタは毛虫
でも見たかのように凄く嫌な顔をしする。
336
アスタの事だし、きっと断るに違いない。面倒事も嫌いだし︱︱。
﹁⋮⋮分かったよ。オクト、少し待ってて。すぐ終わらせるから﹂
︱︱断らなかった。あのアスタが、嫌味一つ言わず、断らなかっ
た。大切な事なので2度呟いてみる。もしかして明日はやりが降る
のだろうか。
私の頭を撫ぜてアスタが館長と一緒に図書館を出ていくのを、私
は茫然と見送った。
えっと⋮⋮あの館長一体何者だろう。
337
18−1話 体力勝負な図書館業務
えっと、植物図鑑コーナー、植物図鑑コーナーと。
あった、あった。
﹁よっと﹂
私は持っている本を一度置くと、梯子を登り、﹃食べられる毒草
図鑑﹄を元の場所へ戻した。
食べられるのか食べられないのかツッコミを入れたくなる題名だ
が、好奇心よりまず仕事である。結構高いので下は見ないようにし
てゆっくりと降りた。
﹁結構慣れたみたいだね﹂
﹁おかげさまで﹂
私は地面に足がついた所で、図書館へやってきたカミュに肩をす
くめてみせた。今日は珍しくライと一緒じゃないらしい。
私が図書館でアルバイトを始めてから、結構経った。
館長に誘われた時はどうしようか迷ったが、自分自身図書館を使
いたかったのと、アスタがあっさりとOKをだした事から引き受け
る事にした。不安も大きかったが、とりあえずは何とかなっている。
ただし、あまり重たいものは、腕力的な問題で少しずつしか持ち
運べないので、私は誰よりも本を棚に戻すのに時間がかかってしま
っていた。最近ようやく返却場所が頭に入ったので、少しは早くな
っていると思いたいところだ。
338
﹁アスタリスク魔術師は何も言っていない?﹂
﹁うん。怖いぐらいに図書館の事には触れてこない。⋮⋮あの館長
何者?﹂
﹁500年は生きているって噂だけど、どうなんだろうね﹂
うん。本当にどうなんだろう。
エルフとか魔族とか長生きだが、それでも500というのは凄い
数字だ。前世の記憶だと、爺を通り越して白骨の域である。でもア
スタを鼻たれ小僧扱いするし、あながち嘘とも言い切れない。
もふもふ過ぎて、皺とかがほとんど見えないからなんとも言えな
いが⋮⋮そもそも、何の種族何だろう。今度聞いてみようか。
私はもう一度本を持ち上げると、次の場所へ移動する。今度は隣
の種族コーナーだ。
他のヒトより仕事が遅いので、無駄口を叩いている時間はない。
新人たるもの、誰よりも動かなくては虐められてしまう。
﹁本持つよ﹂
﹁大丈夫。これぐらいなら運べる量だから﹂
図書館は広いが、読まれる本というのも限られていた。一番読ま
れるのは、一般書籍系で、次に魔法関係の本。その次が今返却して
いる図鑑系だ。希少価値が高く、一番多く集積されている古文系は、
ほぼ読まれないし、貸し出し自体が不可なものが多い。
その為、馬鹿みたいに高い塔だが、読まれる種類は似通ってくる
ので、頂上から地下まで移動させられる事はまずなかった。それに
そもそも私は同じ階にあるもの同士しか一緒に持ち運ばないように
しているので、移動距離はとても短い。これぐらいは運べる。
﹁オクトさんは真面目だね。少しぐらい頼ってくれてもいいのに﹂
﹁真面目で堅実な方が、人生上手くいく﹂
アリとキリギリスしかり、ウサギとカメしかり。私は器用な方で
339
はないので、どう考えても地味にコツコツやっていかなければ失敗
するタイプだ。真面目が一番だ。
それにカミュに借りを作るなんて、怖すぎる。友人だと思っては
いるが、貸し借りはしっかり覚えていそうだ。カミュのご利用は計
画的に。
﹁それって疲れない?﹂
﹁いや。むしろカミュの生き方の方が疲れると思う﹂
友人だろうと何だろうと、使えるものは使うし、利用するものは
利用する。悪くはないが、私はごめんだ。時間はかかっても、自分
でやった方が楽である。後で誰かに恨まれたりされるのは、余計に
面倒だと思うのだが⋮⋮。
種族コーナーまで来た私は、本を持ったまま梯子を登った。今度
の本は﹃種族図鑑﹄﹃精霊魔法﹄﹃エルフ族の衣食住﹄だ。
﹁⋮⋮精霊魔法?﹂
なんだそれ。
初めて聞く言葉に私は興味を引かれた。
もしかして精霊族特有の魔法か何かだろうか?以前、精霊族は魔
力の塊だという話を聞いた事がある。だとすると、何か特殊スキル
とか持っていてもおかしくない。
私も精霊族の血を1/4はついでいるわけだし、もしかして使え
るだろうか。
⋮⋮ちょっと後で読んでみよう。今後の生活で使えるような便利
な魔法ならありがたい。
2冊だけを返して、私は梯子をゆっくりと降りる。空間利用の為、
書棚が高くなっても仕方がないとは分かっているが、もう少し低く
作って欲しいものだ。
340
﹁そう言えば。私に何か用事?﹂
地面が近くなり、下を向けば、梯子の隣でカミュが待っていた。
そういえばこのフロアは、偶然会うような場所でもないし、もしか
したら私の事を探していたのかもしてない。
しかしカミュは私の質問に答えることなくどこかぼんやりとして
いた。どうしたのだろう。
﹁カミュ?﹂
﹁えっ。あ、ごめん。何だった?﹂
﹁何は、こっちのセリフ。用事があるんじゃないの?﹂
大丈夫だろうか。
私はカミュの顔を覗き込んだ。薄暗いので分かりにくいが、少し
顔色が悪いようにもみえる。
﹁調子悪いなら、帰った方がいい﹂
﹁少し考え事していただけだから、なんでもないよ。えっと、特に
用事があるわけじゃないけど、オクトさんの仕事を応援したいなと
思って見に来たんだ﹂
うん。嘘くさい。
私の仕事の様子は見てもなんにも楽しくないし、そもそも応援さ
れるような内容でもない。私の目が自然とジト目になってしまうの
を止める事はできなかった。今度は何を企んでいるのだろう。
﹁ちょっと、その目は酷いなぁ。本当だって﹂
﹁はいはい﹂
私はおざなりに返事をして、階段へ向かった。まだ仕事は終わっ
ていないのだ。カミュの酔狂につき合ってられない。
﹁そう言えば。なんの本を持っているんだい?﹂
カミュは私の態度を気にした様子もなくついてきた。⋮⋮暇人め。
﹁精霊魔法の本。少し気になるから、後で読もうかと﹂
341
﹁精霊魔法?なんでまたそんな物騒なものを﹂
えーっと、⋮⋮物騒なんだ。
自分に関わりがありそうな題名だから持ってきてしまったが。物
騒な内容では、あまり使えないかもしれない。
﹁えっと。物騒という事を知らないから持ってきたというか⋮⋮。
カミュは精霊魔法の事を知っているの?﹂
﹁そっか。オクトさんはまだ知らないのか。精霊魔法というのはね
︱︱﹂
ビービービー。
﹁何?﹂
突然けたたましい警戒音がなって、私は立ち止まった。
この音は凄く聞き覚えがある。確か入学試験の時に聞いた音と同
じだ。もしやまた?!
私はすぐにどうとでも動けるように身構える。
﹃貸出許可の下りていない本が塔の外へ出ました。職員はただちに、
追跡しなさい。繰り返します。貸出許可の下りていない本が塔の外
へ出ました。職員はただちに、追跡しなさい﹄
続いて鳴り響いた放送は、想像していた魔力暴走を示すものでは
なかった。⋮⋮良かった。
私は肩の力を抜く。またウエルダンにされるのかと思った。 ﹁盗難があったみたいだね。ご愁傷さまかな﹂
﹁いや。まだ盗難って決まったわけじゃないと思う。それに例え盗
難でも追いかけているわけだから、見つかるかも﹂
もしかしたら貸しだし手続きが上手くいかなくて、誤報という事
もありえる。誤報でなくても、これだけけたたましい警報がなって
いるのだ。犯人が捕まるのも時間の問題だろう。
それなのにご愁傷さまとは、気の早い事だ。
342
﹁見つかるから、ご愁傷さまなんだよ﹂
ん?
どうやらご愁傷さまと言っている相手が、私が思っているのと違
うようだ。
﹁ご愁傷さまは職員じゃなく?﹂
﹁まさか。もちろん、犯人がだよ。図書館の物を狙うなんてよっぽ
ど馬鹿なんだろうね﹂
えーっと。どうなんだろう。
ここの図書館は希少価値の高い書物も多いし、盗めば結構いい金
になるとは思うのだが。そんなに防犯システムが高いのだろうか。
﹁ちょっと、混ぜモノちゃん。そんなところで油を売っていないで、
貴方も早く本を追いかけなさい﹂
﹁へ?﹂
カミュと喋りながら階段を下りていると、上から下りてきた先輩
に注意された。えっ、私も追いかけるんですか?
﹁ほら早く、早く﹂
急かされて、私は走る様に階段を下りた。しかし追いかけるとい
っても、どうやって?どんな犯人なのか見ていないので、探しよう
がない。私は漫画や小説にでてくるような探偵ではないので、残さ
れた痕跡から犯人を見つけるとか無理だ。ちなみに推理小説は、ス
トーリーを楽しむものだと思っている。
体は子供、頭脳は大人なつもりだけど︱︱もちろん前世の記憶を
プラスしたと仮定した上でだ︱︱、大人が皆頭がいいとか思っちゃ
いけない。大半の大人の頭脳は平凡である。
﹁あの、先輩。追いかけたくても、犯人が分からないです﹂
一階まで降りたところで、私は正直な事を伝えた。何か特徴とか
あるのだろうか。なければちょっと難しい。
343
﹁あれ?館長、まだ説明していなかったんだ。はい、これが追跡板
で、こっちが箒。使い方は分かる?﹂
いえいえ。分かりません。
手渡された板チョコサイズの石板と箒を片手に、私は首を振った。
後者はたぶん掃除をする為のものではなく、ファンタジーな事をす
る為のものだという事は分かるが、まだ1度として使った事がない。
﹁そっちの君は?﹂
﹁はい、大丈夫です﹂
﹁じゃあ、後はお願いするわ。しっかりと教えてあげてね。私は先
に行くから﹂
いやいや。カミュは図書館とは無関係な一般学生ですよ。
そう思ったが伝える間もなく、先輩は栗色の髪をなびかせながら、
走って行ってしまった。まるで嵐のようなヒトだ。
えっと⋮⋮どうしようか。
あまりの展開の早さについていけず、私は竹ぼうきを抱えながら、
茫然と先輩を見送った。
344
18−2話
﹁∼∼∼∼∼∼っ!!﹂
喉の奥で声にならない悲鳴を上げた。
高い。そして、早い。足元には支えがなにもないし、不安定すぎ
る。必死に細い箒の柄を握りしめるが、体が安定しない。何だこれ。
私は人生初、箒に乗車を果たしていた。ちなみにカミュとの2人
乗り。感想はとりあえず、二度と乗りたくないだろうか。
眼がうるみまわりぼやけるのは、冷たい風が目にあたって痛いか
らだけではないと思う。
誰だ初めに箒なんかで飛ぼうと思った奴はっ!数ある形の中で、
何故そんなバランスの悪いのに決めたんだ。もっと他に機能性や安
全性がよくて、落下しづらいものが色々あっただろうに。見た目重
視の可愛い魔女っ娘は、2次元で十分だ。
﹁オクトさん。柄に捕まるより、僕につかまた方が安定すると思う
よ﹂
安定云々というが、この状況でカミュにつかまるにはまず柄から
手を離す必要がある。そんなのできるはずもない。
﹁む、無理っ!!﹂
下を見れば、地面がとても遠くて頭がくらくらする。手放しなん
て自殺行為だ。
﹁オクトさんにも、苦手なものがあったんだ。そういえば、図書館
で梯子に登る時も恐る恐るだったもんねぇ﹂
しみじみとカミュが言うが、そんなの当たり前だ。苦手なものが
ないヒトなんているはずもない。しかしそんな事を訴える余裕もな
345
かった。
胃が引っくり返るぐらいの気持ち悪さと闘いながら、必死に柄に
しがみつく。
﹁ひうっ﹂
突然急降下して、私の口から悲鳴が漏れる。ジェットコースター
にでも乗ったような、浮遊感に心臓が飛び出るかと思った。こんな
危険で心臓に悪い乗り物、身長制限又は年齢制限を付けて欲しい。
もしあったら、絶対私は乗らなくてすんだはずだ。
﹁か、か、カミュ。お願いだから⋮⋮っ。もう少し⋮⋮ゆっくり飛
んで﹂
本を盗んだ犯人を捕まえなければいけないので、ゆっくり移動し
ている場合ではないとは分かっている。しかし理想と現実は違うの
だ。このままでは、私の人生がたった8年で幕を閉じてしまう。ち
なみに死因は心不全か、手汗で箒の柄をつかみ損ねて落下するかの
2択だ。残念過ぎる。
﹁だから箒の柄を掴んでないで、僕の腰に手を回せばいいのに﹂
﹁今手を放したら⋮⋮死ぬっ!!﹂
このやろう人事だと思いやがって。
私は半泣き状態で叫んだ。
﹁ちなみに2人乗りで一番多い事故は、後ろ側に座る人の落下らし
いよ。乗り方の問題で、後ろ側のヒトが柄を掴んで乗っていたのが
原因だって﹂
そんなもの、飛ぶ前に言えっ!!
怒りたいが、歯がガチガチとなって言葉にならない。ああ、早く
犯人が見つからないだろうか。地面が恋しくてたまらなかった。
﹁ほら、オクトさん﹂
346
カミュは後ろを振り向くと、片手で私の腕を掴んだ。
﹁ま、前!前見てっ!!﹂
空を飛んでいるといっても建物より上を飛んでいるわけではない。
ぶつかったら大変だ。わき運転なんて駄目に決まっている。
﹁うん。見たいから、早く﹂
ちくしょう。
私はなけなしの勇気を振り絞って片手を放した。カミュに引っ張
られるまま、腕を腰にまわすと、私は急いで反対の手もまわす。
確かに柄を使っている時よりは安定したが、手を放した一瞬は生
きた心地がしなかった。
﹁よくできました﹂
﹁⋮⋮覚えていろ﹂
絶対私で遊んでやがる。
どうせ犯人を捕まえる気はないのだろう。すでに先輩達が追いか
けているので、必要人員ではないのも確かだ。だからって、人の嫌
がる事を楽しむなんて何処の子供だ︱︱あ、実際子供か。そういえ
ばカミュはまだ15歳。日本で言う中学生から高校生くらいだ。見
た目はそれよりももっと幼い。
ただ普段の言動がおおよそ子供らしくないだけなのだ。でも、そ
れとこれとは話が別。
﹁女の子がそんな汚い言葉づかいをしてはいけないと思うよ﹂
﹁混ぜモノにっ⋮⋮女の子を求めるな﹂
﹁何で?﹂
﹁何でって⋮⋮とにかく、前を見ろ!!﹂
くそう。カミュには何か苦手なものはないのだろうか。
喋ってくるのはいいが途中で振り向くな。自分だけ怖い思いをさ
せられるなんて、本当に割に合わない。
347
﹁大丈夫だって﹂
﹁その根拠は⋮⋮ぎゃうぅぅぅぅ﹂
突然急降下して、私は叫ぶ。カミュの腰にまわした手に力を入れ
る。苦しくないかとか、気遣う余裕などまったくない。むしろ苦し
め。
﹁ああ。ごめん。ほら追跡板がこの辺りを指示しているからさ﹂
そういって、カミュは板チョコサイズの石板を振った。
追跡板とは、文字通り図書館の本がどこにあるかを教えてくれる
道具だ。図書館を出る前に初めて先輩から渡されたが、カミュに使
い方を説明してもらって、私はGPS機能のような魔法がかかって
いるのだと理解した。ピコン、ピコンと盗まれた本の場所が赤く点
滅し、自分達が白い点で表わされている。
たぶん間違いなく、かなりハイテクな部類の道具だと思う。流石
に衛星とかではないと思うけれど、アスタなら原理が分かるだろう
か。
しばらくすると、箒は高度を下げ、私の足はようやく愛しの地面
についた。
﹁オクトさんお疲れ様﹂
カミュに声をかけられ、箒から下りたが、何だかまだ乗っている
ようにふわふわする。でもよかった。まだ生きている。
﹁⋮⋮何処、ここ﹂
下りた場所は、森のように木々が生えていた。私が普段使ってい
る校舎の周りとは雰囲気が違う。まわりを見渡したところで、遠く
に塔が見えた。かなり遠くまで来たようだ。
﹁たしか魔法薬学部の近くだよ。この森で薬草採取をしたり新しい
薬草の開発を行っているはずだから﹂
﹁へえ﹂
348
ここが魔法薬学部の敷地なのか。
将来はここまで一人で来なければいけないとなると、絶対転移魔
法を取得する必要がある。箒に乗って移動するぐらいならば、死に
物狂いで覚えよう。もしくは誰か自転車を開発してくれないだろう
か。絶対そっちの方が安全だ。
﹁本はこっちにあるみたいだね﹂
私はカミュについて、森の中へ足を入れた。
一応道のようなものはあるが、あまり舗装されているという感じ
でもない。まだ日が沈んでないからいいものの、夜に迷いこんだら
遭難してしまいそうだ。
心臓発作に転落死に遭難。ついでにウエルダンな危機。なんてデ
ンジャラスな学校だろう。PTAとかで問題にならないのだろうか。
そもそもPTAはあるのか?謎だ。
しばらく歩くとヒトの気配を感じた。先輩だろうか?
ヒトの気配がする方へ向かおうとしたが、カミュは私の手を引っ
張り引き寄せると、木の陰に隠れた。ん?
﹁どうやら僕達が一番乗りみたいだね﹂
マジですか。
カミュに追跡板や箒の使い方を聞いていたので、誰よりも出発が
遅いはずなのに。
﹁移動している方角から逃げ込めそうな場所を考えて、先回りをし
た甲斐があったね﹂
﹁ないよ。先輩がいないのにどうする。⋮⋮とりあえず先輩が来る
まで尾行?﹂
なんでよりにもよって、一番役立たずな新人が一番乗りしている
んだ。まあ見つからないよりはマシだとは思うけれど。
349
﹁あー、それなんだけど。追跡板の機能解除をされたみたい。先輩
達はまだまだ来ないかも﹂
ぽんとカミュが手渡してきた板には、私達の位置を示す白い点し
か表示されていなかった。おいおいおい。
果たして何人の先輩が、この場所を見つけてくれるだろうか。で
きれば日があるうちにお願いしたいが、すでに日は傾いてきている。
暗くなったら追跡どころではなく、私達が遭難の危機だ。
﹁こうなったら、僕達で捕まえるしかないかな?﹂
さらりと言われた言葉に私は固まる。簡単に言うなと言いたくな
ったが、その選択が間違っていない事も確かだ。
まさかカミュが無駄にできる子な所為でこんな目に合うとは。図
書館業務なんて、普通に考えて危険はないはずなのに。平凡な能力
しかない私は、次回からはカミュの力は借りないでおこうと誓った。
350
18−3話
私は犯人の位置をそっと木の陰から確認した。
どうやら、本を盗んだ人は3人いるようだ。体格からして、大人
の男のようである。遠いのでよく見えないが、ローブを着ているの
で、魔法使いか魔術師だろう。
﹁オクトさん、できそう?﹂
﹁風と水の魔法だけだから、後少し。それよりカミュは描かなくて
いいの?﹂
本をとり返す為にカミュが先ほど練った作戦には、私とカミュの
魔法の成功が不可欠だ。頭の中に思い浮かべて魔法を使う事がまだ
苦手な私は、カミュが召喚魔法で取り寄せてくれた紙に魔法陣を描
く。幸い魔法陣を描く事だけは、アスタのスパルタ教育のおかげで
得意になった。
﹁僕のはそれほど難しくないし、何度か使った事がある魔法だから
ね。それより、やってほしいと頼んでおいてなんだけど、本来なら
その魔法は何人もの水属性の魔法使いが集まって起こすんだよね。
本当に大丈夫?﹂
﹁無理だと思うなら、初めから頼むな﹂
﹁いやー、何だかオクトさんに対しては言ったもの勝ちな気がして﹂
気がしてじゃない。
私は力なくため息をついた。ヒトの事何だと思ってるんだ。
﹁⋮⋮一から水魔法だけで作ろうとすれば、手間も魔力もかかるけ
ど、私が今作っている魔法陣は違うから大丈夫﹂
﹁どう違うんだい?それに雨を降らせるのに、風魔法を使うなんて
351
初めて聞いたよ﹂
うん。私も今思いついた所だからね。たぶん教科書とかには載っ
ていないと思う。
私は今、カミュが言う通り、雨をふらせようとしていたりする。
最初に雨を降らせて欲しいと無茶ぶりされた時は、無理に決まっ
ていると思った。だってそうだろう。普通に考えて自然を操るとか、
神様になれと言われているような話である。前世ではどこかの国が
雨を降らせる為のロケットを打ち上げたとかなんとかあったような
気がするが、それだってどう考えても国家レベルの話。雨女と呼ば
れるヒトは居ても、個人的に雨を降らせたなんて聞いたこともない。
しかし少し考えて雨が降る原理と、少々魔法を使えば簡単だとい
う事に気がついた。
﹁風魔法で雲を集めて、その中に水魔法で水を散布すれば雨は勝手
に降るから。幸い今日は雲も多い。雲があるなら、それほど魔力も
必要ないはず﹂
雲は水滴の塊だ。つまりその中にさらに水を増やしてやれば、水
滴同士がくっついて地上に落ちてくる。そして地上に落ちてくる水
滴こそ雨だ。
雲を造るところから始めれば大変な作業工程となるが、既存の物
を使えば、後は簡単だ。特にこの国は水が不足している事もなく、
湿度も十分にあるので、水は集めやすい。
﹁雲の中に水を散布すればって⋮⋮オクトさんは不思議な事を知っ
てるね﹂
﹁それより、今気がついたけど、雨が降ったら本が大変な事になる
んじゃ?﹂
誰から聞いたのかを聞きたそうな雰囲気だったので、私はすかさ
352
ず話をそらした。私はいまだに、アスタにすら前世の記憶がある事
を言えていない。アスタなら言ってもいいんじゃないかなと最近は
思う様になったが、タイミングが見当たらないのでそのままだ。あ
えて言わなければいけないという事でもないし。
﹁大丈夫だよ。図書館の本は全て防水加工がしてあるから﹂
﹁⋮⋮図書館の技術って何気に凄い﹂
GPS機能搭載な追跡板しかり、本が貸しだし許可なく持ちださ
れたと認知できる盗難防止機能しかりだ。私はそんなもの、図書館
以外では一度として見た事がない。
﹁館長がいるからね。新しい情報や技術には目がないんだ。それに
何といっても賢者だし。⋮⋮オクトさん、そろそろどう?﹂
﹁ちょっと待って。今最終確認中﹂
私は間違いがないか慎重に確認をする。不発ならいいが、失敗し
て暴走なんかした日には目も当てられない。
しばらくしっかりと魔法陣を眺めてから、私は首を縦に動かした。
﹁大丈夫﹂
私は肺の中にある空気を全て吐き出し息を吸った。そして紙に手
を置き集中する。幸いにも私は水属性と、風属性を持っていると判
明したので、魔力から属性を消す作業がいらないのでありがたい。
自分の属性を使った魔法なら、授業でも練習したし大丈夫だ。
﹁風よ、私が示す場所へ移動せよ。水よ私が示す場所へ集まれ﹂
私の手を通って魔力が紙に注がれる。私の魔力はどうも大きいら
しく、気を抜けば魔方陣に多く入り過ぎてしまうので、注ぎ込み過
ぎないようにだけ気を付ける。
数秒置いて、風が吹いた。目指す場所は犯人の頭上の上。別に嵐
を起こしているわけではないので、犯人も魔法が発動している事に
気がついていないようだ。しかし空では徐々に雲が集まってくる。
353
さらに水蒸気を多く含む事で厚みを増して、ドンドン色が黒く変色
していく。
しばらくすると、ポツッと頬に冷たいものが落ちた。
﹁来た﹂
ポツポツっと地面に黒い染みができたと思うと、徐々にそれが増
えていく。雨だ。
ザーザーと音がするほどの雨が降り始めると、犯人達はついてい
ないやら、運が悪いなどと騒ぎ始めた。
﹁流石オクトさん﹂
﹁でも、ごめん。カミュまで濡れてしまった﹂
今の私の能力では、流石に犯人達の頭の上だけという狭い範囲で
雨を降らせる事はできなかった。その為、近距離にいる私達も一緒
にずぶ濡れだ。
よく考えればカミュは王子様。流石にこんな雑な扱いはマズイか
もしれない。
﹁問題ないよ。それにほら犯人達が、木の方へ走っていく﹂
カミュが指差した方を見れば、犯人達が大きな木の傍へ走って行
くところだった。カミュが作戦を練った通りだ。葉が生い茂った木
の下に自然と犯人達は自然に集まった。
﹁木々よ。我が願いに答え、その根でかの者達を捕えよ﹂
カミュが魔法を発動させると、大きな木の根元から根っこが飛び
出した。そして犯人達の足に絡みつく。何が起こったのか分からな
い犯人達は、各々悲鳴を上げながら、すっ転んだ。そしてさらに木
の根に絡みつかれ、いつしか簀巻きにされたような格好になった。
⋮⋮傍から見ていただけだが、まるで食虫植物にからめ捕られる
ような姿は、ちょっと怖かった。見た目はまるでモンスターに襲わ
れたヒトである。脳内に﹃触手プレイ﹄という残念な言葉が浮かん
354
だが、そんなエロリズムを含んだ動きではなかった。トラウマにな
りそうだ。
﹁オクトさんお疲れ様。じゃあ、本を回収しに行こうか﹂
えっ、アレに近づくのか。ちょっと嫌だなぁ。
カミュの魔法だとは分かっているのだが、どうにも根っこが生き
ているようにみえて仕方がない。気味が悪かったが、これは私の仕
事だと言い聞かせて私は犯人達の方へ足を向けた。
﹁むぐー。むぐむぐーっ!﹂
私達が近づくと、犯人の一人が叫んだ。といっても、木の根が猿
ぐつわがわりになって、言葉になっていなかったが。
﹁⋮⋮魔法使い?﹂
そこに居たのは、ローブを着た獣人だった。先ほどまでフードを
かぶっていたので分からなかったが、今は暴れた所為で頭から外れ
てしまっている。
﹁たぶん違うだろうね。ここまで走ってきたみたいだし。箒や転移
魔法が使えない魔法使いという可能性もあるけど、獣人だしね﹂
わおっ。あの距離を走ったのか。獣人の体力半端ない。
﹁って、何で走ったって分かるの?﹂
﹁追跡板が示す動き方が、生垣とかをよけているようだったからね。
空を飛んでいれば、よけるまでもなくその上を通過できるよ。転移
魔法を使っているような動きでもなかったし。まあこの獣人達の裏
に、魔法使いか魔術師が居るのは確かだけどね﹂
何で裏に魔法使いや魔術師がいるのだろうと思ったが、すぐに追
跡板の魔法を解除された事を思い出した。確かに魔法使いでない獣
人が、簡単に解除できる物ではないだろう。
﹁お金で雇われたんだろうけど、残念だったね。中立の場である図
355
書館に手を出すなんて。自分の無知を嘆くといいよ﹂
にこりとカミュは犯人達に笑みを向けたが、目が笑っていない為、
恐怖しか与えない。きっと人形のように作り物めいた顔をしている
のから、余計に不気味に見えるのだろう。 それにしても、図書館ってそんな凄い機関だっけ?
少なくとも私が知っている前世の図書館は、中立の場とかそうい
うものは全くなく、ただの公共機関だ。誰でも本が読めるが、手を
出した事を嘆かなければならないような場所ではなかったと思う。
もちろん、盗みをすれば警察につき出されるが、そんなものどんな
お店でも同じだ。
﹁まあ後は、館長に任せるとして。どうやって運ぼうか﹂
﹁えっと、カミュが犯人を連れて転移するとか?﹂
﹁根っこを巻き付けた状態だとちょっと難しいかな。もしかしたら
失敗して、手足がちぎれるかもしれないし。手足ならいいけど、首
がもげたら喋れないしねぇ︱︱﹂
﹁止めて。それ、喋れない云々の話じゃないから﹂
グロテスクな姿が頭に浮かんで気分が悪くなった。いまだに箒酔
いが治ってないというのに。
カミュの話を聞いて私は血の気が引いたが、犯人も同じかそれ以
上だったようだ。顔色が悪い。もっとも、一人は獣の部分が多く、
顔が毛皮でおおわれているので、顔色なんて分からないけれど。で
も明らかに顔が硬直している。
﹁まあでも、その方が幸せかもね。図書館の尋問はキツイよ。僕な
んかより、ずっと拷問に精通しているから。知っているかい?あの
図書館、拷問関係の本が多いんだよね﹂
カミュが笑うたびに、犯人達が死にそうな顔色になっていく。こ
こまで来てようやく、私もカミュの意図が読めた。多分、図書館に
356
帰ってからすぐに裏に居るヒトの名前を吐くように仕向けているの
だろう。
図書館の拷問関係の本は確かに多いが、他の本だって多い。比率
だけでみれば、拷問関係の本は他国にある図書館とさほど変わらな
いはずだ。嘘は言っていないが、凄く勘違いしやすい言いまわしだ。
⋮⋮流石過ぎる。
﹁どうしよう。そろそろ日が落ちそう﹂
早い所、移動しなければ。
方法としては、カミュが転移して先輩達をここに呼んでくるか、
犯人達を簀巻きにしたまま運ぶかだが、どう見ても私やカミュで運
べないサイズだ。これを運べって、何て無茶ぶり。
そもそも盗まれた本を取り戻せなんてミッション、想定外である。
文系なお仕事なはずなのに、どうしてこんなに体力勝負なのか。
﹁本当だね。ああ、でも。この時間なら、もうすぐ助けが来るかな
?文句も言われそうだけど﹂
助け?
ライと約束でもしたのだろうか?でも流石にカミュがこんな所に
居るなんて思わないだろう。本当にこんな場所に来るだろうか。
﹁助けって︱︱﹂
﹁オクト、どういう事だい?﹂
不意に声がして、助けに来ると言った相手が、ライではない事に
すぐに気がついた。あー⋮⋮。そういえば、すでに私の図書館のバ
イト時間は終了している。
﹁野獣がいる場所で、こんなびしょ濡れになるなんて。ちょっと警
戒心が足りないよ﹂
ですよね。
というか、この森、野生の獣がいるんだ。森の熊さんとかに会わ
なくて良かった。たぶん大好物が蜂蜜だけという事はないだろう。
357
でも不機嫌丸出しな声は聞きたくなかったなぁ。色んな思いが混ざ
ったまま振り向けば、思った通りのヒトが居た。
﹁えっと、アスタごめん。実はまだ帰る準備ができていなくて﹂
学校に通うようになってから、アスタは少し心配性である。
アスタに上着をかぶせられながら、私は事件解決したと同時に次
の厄介事︱︱アスタの機嫌直し︱︱ができた事を理解し、気が重く
なった。
図書館業務って重労働過ぎるだろう。⋮⋮特別手当とかってない
のかなっと、私はしばし現実逃避した。
358
19−1話 平穏な日常
義父が最近心配性な件について。
﹁何とかならないものだろうか﹂
﹁どうでしょう?﹂
学校に通うようになってから、アスタの心配性っぷりが酷い気が
する。酷いというか、病気の域というか⋮⋮。そりゃ、色々問題の
多い混ぜモノを学校に通わせるのだ。多少神経質になったって仕方
がない事も分かる。私だって、暴走して学校を破壊して、色んな人
巻き込んだ上で死にましたなんていう自爆テロ的なBADENDは
御免被りたい。
﹁でもやっぱり、GPS機能を付けられるのはやり過ぎな気が⋮⋮﹂
﹁じーぴーえす機能ってなんですか?﹂
後からカミュに聞いた話だが、学校の所有地には凶暴な野生の動
物は出入りできなくなっているそうだ。アスタは野獣と言ったが、
あそこに森の熊さんなんて居るはずがなく、いたとしてもウサギか
狐などの小動物だ。そしてアスタがすぐに私の事を見つける事がで
きたのは、図書館の本に付けられている機能と同じだろうという事
で︱︱。
︱︱うん。ちょっと待て。 本人の了承を得ずに行うってどういう事だろう。それ一歩間違え
れば、ストーカーだから。相手が私だから許されるのであって、こ
れが素敵なお嬢様だったら、色々不味かったと思う。アスタって魔
法は凄いし頭もいいけど、どこか抜けている。いつか失敗して訴え
359
られないか心配だ。
ともかく、勝手にGPSはドン引きしていいレベルだと思う。別
に私だから、何か問題があるわけではないけれど。
でも雨にぬれたぐらいで暴走する事はないし、森でウサギに出く
わした所で食べられるなんて事もない。確かにこの間は犯人運べな
くて困っていたけれど、もう少し信用してくれたっていいのに。
﹁そんなに頼りないかな﹂
﹁オクトお嬢様が頼りないなんてありえません!﹂
体は小柄だし、何処からどう見ても子供だ︱︱というか。
﹁えっと、ペルーラ。独り言だからいちいち反応しなくてもいいよ
?むしろ危険だから仕事優先して﹂
﹁そんな。オクトお嬢様以上に優先すべき事なんてありません!﹂
﹁いや、本当に。落ちたら怖いし﹂
ペルーラは2階の窓を拭いていた。窓枠に足をかけて。もちろん
内側ではなく外側だ。命綱もしていないので、いくら運動神経のい
い獣人でも、いつか落ちるのではないかとハラハラしてしまう。
私には絶対無理な掃除方法だ。梯子を使ってもできるかどうか微
妙である。
﹁オクトお嬢様はお優しいんですね﹂
﹁いやいや。普通だから﹂
ポテっと2階から落ちた人を見て平然としていられるヒトは、た
ぶん病んでいるか、恨みを持っているかだろう。とりあえず、私は
今のところどちらのカテゴリーにも含まれていない。
それにしてもペルーラの目に私はとても素晴らしい、聖人君子と
して映っているようだ。色眼鏡かけすぎだろ。一度病院に行った方
がいいように思う。
﹁でも私は旦那様の気持ち、よく分かりますよ。オクトお嬢様、可
360
愛いし、優しいし。学校に通わせるのは色々心配なんだと思います。
特にオクトお嬢様は、色々巻き込まれますし﹂
﹁あー、後半に関しては否定できないかな﹂
何と言っても、数度誘拐を経験済みなのだ。普通に生きていたら
まずない波乱万丈さだ。
﹁だから、旦那様の話にも耳を傾けて下さい。世の中危険がいっぱ
いですから﹂
一瞬窓枠に足をかけて掃除をするペルーラには言われたくないよ
と思ったが、私の為に言ってくれてるので、黙っておく。それにな
んだか私が反抗期の聞き分けのない子供みたいな扱いされている気
がするし。
きっと、気のせいじゃないよなぁ。私は正論を話しているつもり
なのに、見た目の幼さが憎らしい。反抗期とかそういう問題じゃじ
ゃないんだけど。
これは近いうちに、アスタととことん語り合う必要がありそうだ。
◇◆◇◆◇◆
﹁オクトちゃん、何読んでるの?﹂
﹁ああ、ミウ。オクトの邪魔したらダメだって。それと図書館では
小声で話さないとまた追い出されるよ﹂
図書館の仕事が終わってから本を読んでいると、ひょっこりエス
トとミウがやってきた。それにしても、2人はそれほど年齢に差が
あるわけではないのに、エストの方がお兄さんに見える。それはミ
361
ウの言動が幼いからか、それともエストが苦労人だからか。
⋮⋮どっちもな気がするなぁ。特にエストはコンユウに対しても
お兄さんぽく見えるし。
﹁別に私は問題ない。今読んでいるのは、精霊魔法の本﹂
前に読もうと思っていたが、結局読めずにいた本である。
本を無断で持ち出した犯人を捕まえた後も、なんだかんだで忙し
くて読めなかったが、ようやく手が空いたので本棚から持ってきた
のだ。まだ本の貸し出し許可は下りていないので、私は図書館でし
か読めないが、今読まなければならないものでもない。
それにアスタの宿舎を探したら、なんだか発掘できそうな気もす
る。アスタは魔法関係の本が好きなようだし。
﹁精霊魔法って何?﹂
﹁あー⋮⋮、ミウ達は召喚魔法についてはもう習った?﹂
﹁えっと。エストどうだっけ?﹂
﹁魔法系統にそういったものがあるという事は講義でてきたけれど、
正式にどういったものかまでは習ってないかな。別の位置にある何
かを引き寄せる魔法という事は分かるけど﹂
同じ授業を受けているはずなのに⋮⋮。ミウはテヘっと笑って誤
魔化しているが、これは授業中に居眠りをしている可能性が高い。
テストで泣かなければいいが。
﹁うん。召喚魔法はそれで間違いない。ただし大きく2種類に分け
られる。1つは物などを引き寄せる魔法。もう1つは誰かを呼び寄
せ契約する魔法。精霊魔法は後者の魔法の1つみたい﹂
﹁そうなんだ。精霊魔法というぐらいだから、精霊が使う特殊スキ
ルかと思ったよ﹂
私も同じ事を思ったんだよね。
種族によっては、その種族しか使う事の出来ない特殊スキルを持
362
っているケースがある。精霊族は何かかしら持っていてもおかしく
ない、秘密の多い種族だ。ただし今回の︻精霊魔法︼は違った。
﹁精霊魔法は、自身の魔力を渡す代わりに、精霊に魔法を発動して
もらう契約をする事らしい。魔法陣の構成は必要ないから、難しい
魔法を使いたい場合に使用するヒトが多いみたい﹂
﹁えっ。それ、凄い便利そう﹂
ミウがキラキラとした目で私の持っていた本を見つめた。うーん。
確かに。今の話だけなら、凄く便利に聞こえる。でも物事はそんな
甘くはないんだよね。もしそんな便利なものだったら、普及しない
はずがない。
﹁んー。でもミウは使わない方がいいと思う﹂
﹁何で?﹂
﹁魔力が大きい方ではないから。精霊魔法は普通の魔法の倍の魔力
を使うみたい。だから魔力の保有量が小さいとすぐ空になってしま
う。普通の魔法なら魔力の限界の少し前で、強制的に使えなくなる。
でも精霊達はそんな事お構いなしに吸い上げるから。場合によって
は命を落とすらしい﹂
カミュが物騒と言ったのは、たぶんこの点に関してだろう。
ヒトは100%の魔力を使おうとはしない。そんな事をすれば、
生命維持ができないからだ。
一般に魔力を持っていないというヒトも、全く魔力がないという
わけではない。生命維持するのにも魔力を使う。つまり魔力がない
と言わるヒトは、生命維持以外で使える魔力がないというだけだ。
つまりは容量の問題である。
﹁えっと。つまり私だと、魔力の使い過ぎで死んじゃうって事?﹂
﹁使う量を計算してお願いすれば問題ないと思う。だれどそれぐら
いなら、普通に魔方陣を組み立てた方が効率的だと思う﹂
363
簡単な魔法なら、あえてそんなリスクを負う必要はない。ご利用
は計画的にという話だ。
﹁オクトはそんな危険な魔法の本を読んでどうするの?﹂
﹁いや、ただの知的好奇心みたいな感じかな﹂
私もこんな物騒な魔法使う気はない。ただ、自分の先祖に精霊族
がいるから気になっただけだ。
しかし何故かミウとエストにキラキラとした眼差しを向けられた。
﹁へえ。勉強熱心なんだね﹂
﹁やっぱり、オクトちゃんって凄い﹂
えーっと。どうしよう。
私が凄いって、どんな勘違いだ。魔法はアスタに及ばないし、カ
ミュほど頭もよくない。ライみたいに武術もつよくないし⋮⋮ヤバ
い。平凡すぎる。
キラキラした眼差しが、グサグサと心に突きささって痛い。騙し
ているつもりはないが、勘違いも騙しているに入るのか。嘘、大げ
さ、紛らわしいなんていう誇大広告は出していないつもりだけど。
﹁えっと、それで⋮⋮ミウ達は何か借りに来たの?それともコンユ
ウに会いに来た?﹂
否定しても、この話題からは逃げられず、余計にどつぼにはまり
そうだったので、話題事体を変える事にした。
ちなみにコンユウは私から離れた席で本を読んでいる。私がそち
らを見ると、盛大に舌打ちされた。⋮⋮コンユウだって、ちらちら
とこっちを見ていたくせに。
もっとも、私を見ていたというよりは、ミウやエストを見ていた
んだろうけど。どうやらコンユウも私と同様で友達づくりが苦手ら
しい。実際私もコンユウがこの2人以外と仲良くしている姿を見た
364
事はなかった。少し扱いにくい性格をしているので分からなくもな
いけど。
とりあえずそんなコンユウにとって大切な2人が、大嫌いな私と
話しているのが気にくわないのだろう。もしくは私が居る所為で近
寄れなくて、寂しいのか。
あれ?普段はとげとげしいのに寂しんぼうなんて、なんかちょっ
と可愛いなぁ。あれか。懐かない猫か。
猫耳を付けたコンユウを思い浮かべると、少しほのぼのした。
﹁違うよ。今日はオクトちゃんにお願いがあってきたの﹂
﹁お願い?私に?﹂
私でできる事ならいいのだが⋮⋮なんだろう。
考えたが思い浮かばず、首を傾げた。カミュ達じゃあるまいし、
それほど無茶ぶりはされなさそうだけど。
﹁あのね。私達が作った、オクトちゃんのファンクラブを、正式に
認めて欲しいの﹂
⋮⋮へ?ふぁんくらぶ?
365
19−2話
図書館があまりに静かだから白昼夢を見たようだ。
﹁えっと、ごめん。よく聞こえなかった﹂
あまりにぶっ飛んだ単語が聞こえた気がしたが、普通そんな単語
が日常会話に出てくるはずがない。きっと聞き間違えだ。
﹁だからファンクラブを正式に認めて欲しいの﹂
﹁⋮⋮誰の?﹂
﹁オクトちゃんに決まってるじゃない﹂
決まってません。
私は心の中で、ツッコミを入れた。何がどうしたらそんな単語が
でてくるのか。頭痛がして、私は頭を押さえる。
﹁えっと⋮⋮何で?﹂
これはもしかしたら罰ゲームか何かかもしれない。もしくは、何
処からかドッキリでしたという看板が現れる可能性もある。いや、
そうに違いない。
私はいつそれがでてくるのかと、待ち構えた。むしろ、今すぐ現
れて欲しい。
﹁実は今1年の間では、尊敬する先輩のファンクラブに所属するす
るのが流行りなんだよ。でも所属するクラブの中で色々優劣がある
から、できたら既存ではないクラブに所属しておきたいんだ﹂
﹁それにね、私はオクトちゃん以上に尊敬するヒトなんていないか
ら仕方がないと思うの。パシリになるのが嫌なエストとは違って、
私は純粋にオクトちゃんが好きだから﹂
366
﹁ちょっと、何勝手な事を言ってるのさ。あー⋮⋮もちろん、クラ
ブの下っ端になって、パシリをしたくないのも確かだよ。でもオレ
だってオクトの事を尊敬してるし、大好き︱︱﹂
﹁声が大きい﹂
というかそんな恥ずかしい単語を堂々と言わないでくれ。お前の
前世はイタリア人か。私は居たたまれなくなって、エストの口を手
でふさいだ。
ヤバい。好きとか尊敬とか慣れない言葉を言われたせいで顔が熱
くなった。このままでは、恥ずか死ぬ。何、この地獄。
﹁えっと、事情は分かったけれど。ともかく私じゃ無意味というか、
需要が低いというか⋮⋮﹂
大混乱の中、私は何とか差し障りのない言葉を見つけた。とにか
く変な流行ごときで、道を踏み誤らせるわけにはいかない。思いと
どまらせなければ。
﹁代わりに⋮⋮例えば、カミュやライはどう?﹂
色々迷惑大魔王な2人だが、優秀なのは間違いなかった。カミュ
は成績がいいし、ライの武術は誰にも負けない。とりあえず私より
はずっとマシだ。
﹁2人はすでにファンクラブができているよ。それにオレ達はオク
トがいいんだよ﹂
﹁そうだよ。オクトちゃんは私とエストの命の恩人なんだよ﹂
キラキラした目でエストとミウに見られ、再び私の心が痛んだ。
2人を助けたのは事実だが、自分が助かる為にした行為でもある。
その辺り、彼らと若干の相違がありそうだ。
﹁あー⋮⋮主観は、まあ置いておくとして。ただ私を客観的に見た
ら、なんの価値もないと思う﹂
むしろ混ぜモノという事でマイナスだ。私のファンクラブに所属
なんて、エストやミウの株をさらに下げかねない。
367
﹁大丈夫。ライさん達と友人というだけで、ポイントが高いし、入
学早々の飛び級のおかげでオクトは注目されているから。仲良くし
たいと思っている子は多いよ﹂
﹁もちろん、そんな外的要因しか見ない、にわかファンじゃ、私達
が許さないけどね﹂
私と仲良くなりたいとか、たぶん気のせいだと思う。現在進行形
で、私の友達は少ないし、廊下を歩けば大きく避けられる。しかし
2人はそうは思っていないようだ。
﹁だからお願い、オクトちゃん。私達の事認めて?﹂
﹁オクト、ダメかな?﹂
2人の私を見る目が潤んでいる。うぅ。こんな可愛らしい子達に、
潤んだ眼差しを向けられて、断れるヒトがいたら会ってみたい。
ちなみに私は無理だった。
﹁⋮⋮好きにして﹂
私は早々に白旗を上げた。たぶんすぐ飽きるだろうと信じて。
◆◇◆◇◆◇
﹁いい気になるなよ﹂
なってませんよ。
368
新書にラベルを貼り付けながら、私はため息をついた。いい気に
なるなって、お前は何処の3流悪役だ。
相手をしても頭痛の種にしかならなさそうなので、私はコンユウ
の言葉が聞こえないふりをした。ラベルが貼り終わったとしても、
まだ貼ったものを新書コーナーにセットしたり、返却された本を元
の場所へ片づけなければいけないのだ。時間も限られているので、
コンユウに付き合ってはいられない。
﹁俺はエストやミウみたいに簡単騙されないからな﹂
騙しているつもりはこれっぽっちもないのだけれど。
確かに、ファンクラブを創るなんて少々いき過ぎな気もする。で
も私は変な宗教団体の教祖になったつもりはない。ファンクラブで
何かしようなんてこれっぽっちも思っていなかった。
むしろ何がどうしてこうなってしまったのか、私自身聞きたいぐ
らいだ。
ファンクラブが結成してから結構経つが、未だに2人が飽きる様
子はない。私としては早く飽きて解散してくれないものだろうかと
思っているのだけど。
﹁混ぜモノが好きだなんて、趣味が悪いにもほどがある︱︱﹂
﹁悪いが⋮⋮私は騙しているつもりはない﹂
趣味悪いよなぐらいは、私も思わなくもない。何と言っても、全
く需要のない混ぜモノのファンクラブを立ち上げるぐらいだ。
だからといって、2人が貶されていいとは思わない。私はコンユ
ウの目をまっすぐと見返した。
コンユウも言いすぎたと思ったのだろう。少し戸惑った顔をして、
紫の瞳をそらす。
彼の性格が⋮⋮寂しんぼうという事は分かっているんだけどなぁ。
少々突っかかられるくらいならばスル︱できるが、あまり五月蠅い
と、反論したくなるから困ったものだ。
369
﹁⋮⋮とにかく早く仕事を終わらせよう﹂
私はこっそりため息をつくと、再びラベルを貼った。
コンユウも私と2人きりにされて気が立っているようだ。
どうにも仲が悪いというか、コンユウが一方的に私を嫌っている
という方が正しいのだが、それを心配する先輩方はたまに2人きり
の仕事を押しつけてくる。共同作業をして仲良くなりなさいと言い
たいのだろう。しかし今のところその作戦は大失敗だ。
私とコンユウは、相性が悪い。
むしろ仕事をバラバラにして、離してくれた方が効率もいいと思
うのだが⋮⋮上手くいかないものである。 コンユウも私に構っているよりも、早く仕事を終えた方がいいと
気がついたらしい。本の背表紙にラベルを貼りはじめた。
このラベルの裏には追跡魔法の魔方陣が描かれている。今やって
いる仕事は、ラベルの表と魔法陣に本の番号を追加で書き込み貼り
付ける作業だ。この作業があって初めてGPS機能は発動するらし
い。
それにしても場所を特定するために魔方陣の記入が必要なら、ア
スタはどうやって私に追跡魔法をかけているのか。私自身に魔方陣
を書くわけにはいかないだろうし。そもそも自分に書き込まれてい
たら、いくらなんでも気がつくはずだ。
私が身につける物だとすると、もしかして制服とか?だとしたら
普段は私の位置が分からない事になる。いやいや、アスタに限って
そんな甘い事しないだろう。やるならば、徹底的にやる男だ。必ず
いつでも分かるようにしているはずだ。
まさか全ての服に魔法陣を書き入れているとか?でもどの服を着
ているか毎日把握するのも大変だろうし⋮⋮、かといって図書館の
370
本のように番号をふらなければ、追跡板に全てが表示されてしまう。
それではどれが正しいか分からないだろう。分からん。
やはり図書館の魔法とは、また別の種類なのだろうか。
﹁︱︱いっ!!おいっ!聞けよっ!!﹂
﹁ん?﹂
考え事をしていた為、コンユウが声をかけている事に中々気が付
けなかった。しかしコンユウは私がわざと無視していると思ったら
しく、バツの悪そうな顔をする。どうやら私が腹を立てていると思
ったらしい。
﹁ああ。悪い。考え事してた﹂
﹁考え事って、真面目に仕事しろよ﹂
﹁コンユウよりはしているつもだけど﹂
あ、しまった。
つい本音が漏れてしまい、私はコンユウに睨まれる。しかしコン
ユウの方がラベルを貼るのが遅れているのは本当の事だ。それでも
何だか子供を虐めてしまった気分になって私は肩を落とした。ここ
で慰めても、きっとプライドの高いコンユウは余計に激怒するだろ
うし。さて何と言って誤魔化そうか。
必要以上に嫌われたいわけではないんだけどなぁ。
﹁⋮⋮細かい作業は苦手なんだから仕方がないだろ﹂
あれ?素直だ。
コンユウは私から目をそらしボソボソとつぶやいた。
よく見ると、コンユウの机の上には何個かラベルがクシャリとつ
ぶされ落ちている。どうやら書き間違いをしたようだ。確かにラベ
ルが小さい為、魔法陣は普通よりも細かいし書きこみにくい。
﹁えっと、それで。何?﹂
﹁⋮⋮苦手だから、⋮⋮その⋮⋮あー⋮⋮何でもないっ!!﹂
371
短気だなぁ。
コンユウは噛みつくように叫ぶと再びラベルと格闘し始めた。し
かしやはりコンユウには難しいらしく、インクをつけ過ぎたペンで
魔法陣を塗りつぶしてしまっている。
コンユウの様子から何が言いたいのかは流石に察しがついた。そ
れにしても嫌いな私に助けを求めようとするなんて、相当に苦手な
のだろう。
私も嫌われているからといって、その相手を虐めたいと思うほど
落ちぶれてはいないつもりだ。仕方がない。
﹁一人が同じ作業をした方が効率がいい。私が番号を記入していく
から、貼って欲しい﹂
﹁何で俺が﹂
﹁早く終わらせたい。手伝ってくれないか?﹂
﹁⋮⋮そこまで言うなら﹂
コンユウは少しほっとしたような顔で私の申し出を受け入れた。
それにしても、一度は否定しないとすまないとは、面倒な性格をし
ている。これ以上絡まれたくないと思った私は、もくもくと番号の
記入に徹した。
しばらくすると、ラベル貼りの仕事は思ったより早く終わった。
どうやら作業分担をしたのが効を奏したようだ。これなら、アスタ
が迎えに来る前に少し本をよめるかもしれない。
後は新刊コーナーに本を置いて、返却の本を返してくるだけだ。
もっとも、ここからが私にとっては大変なんだけど。今日はいつも
に増して返却の本が多い。何往復しなければないないだろうと考え
ると、少し憂鬱になる。
﹁これは俺が片づけるから、アンタは新刊を置きに行け﹂
372
返却された本を分類ごとに分けようとしていると、コンユウが待
ったをかけた。えっ。でもなぁ。
﹁⋮⋮新刊の方が少ない﹂
どう見ても新刊の方が返却された本よりも冊数が少なかった。そ
れに新刊はカウンターの近くなので、ここからあまり遠くない。明
らかに新刊を運ぶ方が楽である。
﹁アンタ、腕力なくて片づけるの遅いから、手伝われると俺が迷惑
なんだよ。新刊を運ぶぐらいならできるだろ﹂
ふんと鼻を鳴らすと、コンユウは返却された本を持って先に行っ
てしまった。迷惑って言われましても⋮⋮。これは所謂、﹃べ、別
にお前の為じゃなくて俺の為だからな!﹄的な?
まさかのツンデレ?
いやいや。コンユウは私の事が大嫌いなんだぞ。ありえないから。
なんとも言えない気分になりながら私は、仕方なく新刊の本を運
び始めた。
373
19−3話
﹁ツンデレって何?﹂
あー⋮⋮。
ツンデレとは、ツンツンデレデレの略だ。
﹁⋮⋮好意を持っている相手にも刺々しい態度をとるが、時折デレ
デレする行為の事﹂
自分で説明しておいて、私はへこんだ。ツンデレなんて言葉は、
異世界の言語だからアスタに伝わらないのは当たり前である。分か
ってはいる、分かってはいるのだ。しかしいざ説明させられると、
自分が凄くオタクな気がした。
しかもツンデレの黄金比率が9:1とか、ヤンデレ、素直クール
なんて単語が脳みそに詰まっている事が、ツンデレを脳内辞書から
引っ張り出した時点で分かっている。前世の私は一体何をやってい
たのだろう。
これは諦めて、オタクである事を誇りに思うべきか。マニアと呼
ばれるよりも、オタクと呼ばれたい。萌は生きる原動力的な。
﹁へえ。じゃあ、そのコンユウという子は、オクトの事が好きなん
だ﹂
﹁それはない。ただ行動が、ツンデレによく似ているだけ﹂
何故だろう。アスタからひんやりとした冷気が漂ってきたような
気がした。しかしアスタは胡散臭いぐらい笑顔である。というか私
に髪の毛を拭かせておいて不機嫌とか、何の嫌がらせだ。それに今
の会話の中に、アスタが怒る要素は見当たらなかった。
ぞくりとしたのはもしかしたら風邪を引き始めているのかもしれ
374
ない。私はアスタの髪を拭きながら、今日は早めに寝ようかと考え
る。
久々に宿舎の方へ泊まりに来たのだ。ここで熱なんて出した日に
は大迷惑以外の何物でもない。
﹁でも、ツンデレなんだよね?﹂
﹁いや。コンユウは私の事が嫌いだから﹂
ツンデレぽく見えるは、借りを返したいが、意地っ張りなので借
りがある事すら認められないという、面倒な性格が原因な気がする。
⋮⋮それにしても、美形なアスタにツンデレ発言をさせると、何
だか微妙な気分になった。変な言葉を教えてすみません。
﹁ふーん。そういえば、ファンクラブはどうなったんだい?﹂
﹁相変わらず、細々と続いている。何をやってるのかは、具体的に
は知らないけれど﹂
そもそも、ライブや握手会をやるわけではないのだ。一体何をし
ているのか。
エストとミウがこの間、図書館でなにやらこそこそと打ち合わせ
をしていたが⋮⋮締め切りが近いとも言っていたなぁ。締め切りっ
て何だろう。
最近は本が盗難にあう事もなく平穏なはずなのに、どうして不安
になるのか。本当の平穏は一体どこにあるのか。
﹁そう。それは良かった。迷惑な行為をされたら俺に言うんだよ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
それは何か嫌だ。些細なことなのに、おおごとにされそうな気が
する。
﹁えって何だよ。オクトは甘いから、迷惑行為をされても流してし
まうだろう?ここは俺が︱︱﹂
﹁モンスターペアレントになるから止めて﹂
いや、魔術師であるアスタが学校で暴れたら、モンスターペアレ
375
ントじゃなくて、まんまモンスターだ。きっと迷惑行為を止めるど
ころか、怪獣なみの迷惑さで破壊行為を行う気がする。
﹁もんすたーぺあれんとって何?﹂
﹁無理難題を言ったり難癖をつける親の事﹂
﹁酷いなぁ。俺はそんな事はしないさ。だって無理難題や難癖を言
う相手が居なかったら、できないだろう?﹂
本気で止めて。
言う相手が居ないって、それはつまり、ヒトが一人は消えた計算
の話だから。状況を想像して、鳥肌が立った。
﹁まあ、冗談はこれぐらいにして﹂
嘘をつけ。
アスタの言葉は全く冗談に聞こえない。先ほど立った鳥肌が痛か
った。
﹁オクトの事は俺が守ってあげるからね﹂
アスタは髪を拭く私の手を押さえて紅い瞳でジッと見つめた。⋮
⋮若干髪の毛がまだ湿っている所為か、子供相手には無意味な色っ
ぽさがある。
男で爺さんのくせに色っぽいって無駄だよなぁ。ああでも、魔族
であるアスタはまだ結婚可能な年齢だっけ。ただしその視線の前に
居るのが、混ぜモノな上に義娘なのでどちらにしろやはり無意味。
勿体ない。
今度ヘキサと、アスタの嫁について相談しよう。私が独立した後、
髪の毛すら満足に拭けないアスタの面倒を見る相手は、絶対いると
思う。この色気と地位と金があれば、多少性格に難ありで、生活能
力がゼロでも、嫁の1人や2人見つかる気がする。そもそも髪を拭
くとか、使用人にやってもらえばいいわけだし。⋮⋮ん?だとする
と嫁は必要か?
376
﹁オクト?﹂
﹁ああ。ごめん。ただ学校は安全だから大丈夫だと思う﹂
怪訝そうにアスタに呼びかけられ、私は思考を現実に戻した。嫁
とかの話をすると、アスタの機嫌が絶好調に悪くなるので、気をつ
けなければ。
ふと頑なに嫌がるのは、ヘキサのお母さんに義理立てとかしてい
るのかもしれないとも思ったが、この話は後で考えるべきだろう。
﹁油断大敵。オクトは可愛いから心配なんだよ﹂
﹁確かにまわりより小さいが⋮⋮。そうだ。アスタ、私にかけてあ
る追跡魔法を外して欲しい﹂
丁度いいタイミングだと思い、私は自分にかけられているという
追跡魔法の解除を申し出た。アスタに行動把握をされても特に問題
はない。
しかし逐一監視されていると思うと、行動を制限されているよう
で気分の良いものではない。
﹁えっ、嫌﹂
少しは考えようよ。
即答過ぎて、私はがっくりと肩を落とした。どうしてそんな事を
言うのかと聞いてくれたって罰は当たらないと思うんだけどなぁ。
﹁学校への送り迎えはアスタがやってくれてるから、人攫いに会う
事もない。学校にある森にいる野生の動物も野兎程度だとカミュに
聞いた。そこまで心配する要素はないと思うけど﹂
﹁ダメだ。図書館でアルバイトなんて危ない事をしてるんだから﹂
⋮⋮図書館の仕事が危険だなんて初めて聞いたよ。
まあ確かに、盗難があった場合は犯人を追いかけなければいけな
いから、前世の記憶通りの図書館ではないのは確かだ。でもなぁ。
﹁アスタは過保護過ぎると思う﹂
377
﹁オクトの警戒心が足りない分を補ってるからいいんだよ﹂
良くありません。
第一、私の警戒心は結構高いと思う。最近はカミュやライに良い
ように使われない為に、常に隙を見せないようにしているつもりだ。
それに危険な事には極力近寄らないようにしている。これ以上ど
うしろというのだ。
﹁⋮⋮少しは信用して欲しい﹂
私だって成長してる。それに前世の記憶がある分、見た目そのま
まの子供ではない。アスタにとっては子供でしかないのが、悔しか
った。
﹁あー⋮⋮信用してないわけじゃない⋮⋮よ?﹂
﹁何で疑問形?﹂
やっぱり信用されてないんじゃないか。きっと背が小さい分、余
計に子供に見えるのだろう。伸びない身長が憎い。
まだ8歳だからこの体格も仕方がないのかもしれないけれど、そ
れでも私は平均より小さい。やはり5歳まで栄養失調気味だったの
が原因か。
今は結構食べるようになったので、今後に期待するしかない。
﹁とにかく、卒業するまでは追跡魔法は外さない﹂
﹁⋮⋮卒業したらいいの?﹂
﹁卒業すれば、そんなに出歩かないだろう?﹂
確かに、私の性格上、あちこちへフラフラすることはないように
思う。山奥に引きこもりたいぐらいなのだ。
ただアスタの発言の見えない部分には、﹃宿舎、もしくは子爵邸
から﹄という言葉が隠されている気がした。いやいや、いくらなん
でも、学校を卒業して仕事を始めれば、アスタのすねを齧る気はな
いんだけど。
でもこれを言ったら、絶対外してもらえない気がする。
378
﹁分かった﹂
たぶん卒業するころには、私も成長して大きくなっているはずだ
し、アスタの考えも変わるだろう。そう信じるしかない。
大丈夫。大きくなればアスタも心配しないし、一人暮らしだって
可能だ。
﹁じゃあ、もう遅いし、そろそろ寝ようか﹂
﹁うん︱︱⋮⋮アスタ、降ろして﹂
寝ようかと言っているのに、何故私が持ち上げられるのか。
﹁髪を拭いてくれた御礼にベッドまで運んであげるよ﹂
﹁いい。歩ける﹂
そういっているのにアスタは私を降ろさない。それどころか向か
う先が、私の部屋ではないのだから、頭が痛い。
﹁アスタ⋮⋮私は、添い寝はいらないのだけど﹂
もう8歳だ。添い寝の必要な幼児ではない。友人達だって、8歳
の時にはもう一人で寝ていたと聞く。
﹁俺がいるから。オクトぐらいの大きさの抱き枕があると、よく眠
れるんだよね﹂
なら抱き枕を買え。金持ちのくせに。
そう思ったが、アスタは私にはポンポンと物を買い与える癖に、
自分の物はあまり買わない。今までの経験上、言っても無駄だな事
は分かっている。
こうなったら、ベッドで邪魔だと思われるぐらいに早く大きくな
るしかない。
明日から毎日牛乳を飲もうと心に誓った。 379
20−1話 突然な視察
﹁⋮⋮届かない﹂
牛乳を毎日飲み始めてから2年が経ち、私は10歳となった。
しかし背丈はあの頃からあまり伸びていない。背伸びして、後少
しで届きそうなのに届かない本棚が憎かった。
﹁台を使えばいいだろうが﹂
﹁何だかそれはそれで負けた気がする﹂
﹁何と勝負してるんだよ﹂
うん、何だろうね。
馬鹿じゃないだろうか的な目でコンユウに見られて私は肩を落と
した。でも背伸びをしたら1ミリ伸びるんじゃないかと思うんだ。
悪あがきしたいんだよ。
10歳と言えば、世間一般的にそろそろ奉公に出始める時期でも
ある。もちろん種族ごとに違うので一概には言えないが、そういう
境目の時期なのだ。大人ではないが、子供でもない。
しかし私の体格は相変わらず小さかった。幼児とまではいかない
が、10歳にはとうてい見えない。しっかりと食べて寝ているはず
なのに、あのエネルギー達は何処に消えていっているのか。
﹁貸せよ﹂
﹁いい。台を持ってくる﹂
﹁いいから、貸せ。別にアンタの為じゃないんだからな。アンタの
仕事が終わらないと、俺も終われないんだよ﹂
はいはい。ツンデレ、ツンデレ。
380
私はそう心の中で呟いたが、コンユウはデレているつもりは全く
ないはずなので、意地っ張りなだけに違いない。むしろただの意地
っ張りから来る発言を、ツンデレと脳内変換してしまう私は、色々
残念過ぎる頭をしている。
でもそうやって現実逃避を試みないと、上手くコンユウと付き合
って行けないのだから仕方がない。
2年前よりはコンユウとの溝は若干埋まったとは思う。しかし相
変わらず仲良しこよしといかないのが現実だ。一方的にコンユウに
嫌われているので、カチンと来る発言をされるのもしばしば。まと
もにやり合ってはいけないと、忍耐な日々だ。
﹁大丈夫。台を持ってこれば私でもできる。コンユウはコンユウの
仕事をすればいいと思う﹂
﹁俺の方がアンタよりも大きいだろうが。チビのくせに意地をはる
な﹂
⋮⋮チビ?
ふんとコンユウ鼻息荒く言うと、私の手から本を取り上げようと
する。しかし私は悔しさで手を放す事ができなかった。
大人げないとは分かっている。分かっているが、人間譲れないも
のがあるのだ。残念な事にコンプレックスをつつかれてにこやかに
対応できるほど、私はできた人間ではなかった。
﹁私はチビじゃないとは言わない。でも数センチしか違わないコン
ユウには言われたくない﹂
﹁数センチも違うんだよっ!﹂
﹃も﹄とかいうな。
﹁私がチビなら、コンユウだってチビだ﹂
私の友人である、カミュやライ、エストやミウに比べると、コン
381
ユウは私と同様に身長が低かった。たった数センチの違いで、優位
に立った気分になられたらたまらない。それにコンユウよりも私の
方が年下なのだから、まだまだ追い越せる可能性は残っている。
﹁俺が折角手伝ってやっているのにそんな言い方はないだろ。混ぜ
モノのくせに﹂
﹁混ぜモノは関係ない。そもそも手伝って欲しいなんて言っていな
い﹂
﹁それはアンタの仕事が遅いから︱︱﹂
﹁はいはい。あんた達、喧嘩しないの。お客様の迷惑よ﹂
背後から近付いてきた先輩は声を荒げようとしたコンユウの口を
押さえてにっこりと笑った。⋮⋮いつの間に。頭に血が上っていた
せいで、周りが見えていなかった。
見渡せば確かに、私達は利用者達に注目されている。 ﹁オクトもコンユウの性格は分かっているでしょう?﹂
少し冷静になり黙ったコンユウから手を話した先輩は、私に近づ
くと耳元でぼそぼそと伝えた。その言葉にすみませんと私は小さく
頭を下げる。
コンユウは、私の事が嫌いで、何もかもが気にくわないのだ。だ
から私が感情的になれば、コンユウも同様にヒートアップしてしま
う。 昔はもっと色々と流せた気がするんだけどなぁ。そうでなければ、
あらゆる場所で取っ組み合いの喧嘩をしなければならない事になる。
混ぜモノは何処へ行っても嫌われ者だ。理不尽な事なんて、コンユ
ウ関係に限らずいっぱいである。
子供のように喧嘩してしまうなんて、これも一種の肉体に精神年
齢が引っ張られるという現象だろうか。私も背丈にこだわるだけで
はなく、精神的にもっと大人にならなければいけない。
382
色々と反省していると、ひょいと持っている本を取り上げられた。
﹁そうそう。あんた達、館長がお呼びよ。後は私がやっておくから、
館長室に行きなさい﹂
◆◇◆◇◆◇
館長は2年たった現在も、相変わらずもこもこしていた。初めて
会ったころとまったく変わりがない。アスタが学校に通っていたこ
ろからこの姿だと言われても納得してしまいそうなぐらい毎日変化
がななかった。⋮⋮髪の毛とか、一体どうなっているんだろう。
私はお茶とお菓子を用意し配ると、館長に勧められるままコンユ
ウの隣に座った。館長からの呼び出しはこれが初めてではないので、
さほど緊張もない。
私は自分のティーカップを手に取り、とりあえず飲んだ。うん。
相変わらず、いい茶葉を使っている。
﹁とりあえず、コンユウ魔法学生、5年へ進級おめでとう﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁オクト魔法学生、6年へ進級おめでとう﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
おめでとうと祝われ、私は少し口ごもった。
もちろん進級はめでたい事だと分かっている。コンユウの場合2
年も飛び級をしたのだから、本人もなおさら嬉しいだろう。
しかし同じく1年だけだが再び飛び級をしてしまった私は、微妙
383
な気持ちだった。進級早々、進路希望の紙を貰ったが⋮⋮、まだ学
校に通ってたった2年なんだけどなぁと少し遠い目になる。本来な
ら進路なんて5年間学校に通って、じっくりと考えた上で、ようや
く決める事だ。
行きたい専攻はもう決まっているからいいんだけどさ。
進級する事になったのは、カミュとライがどうやら1年留年した
事を兄弟に色々言われたのが発端だった。なら2人だけで勝手に飛
び級しろよと思うのだが、例のごとく巻き込まれ、早く卒業した方
がアスタに認めてもらえるなどと言いくるめられ、結局私も飛び級
の試験を受けてしまったのだ。
流されやすい自分が嫌になる。 ﹁新しいクラスはどうかのう?﹂
﹁俺は変わりありません﹂
﹁右に同じく﹂
飛び級をしたが、同じく飛び級をしたカミュやライがクラスメイ
トだし、担任は何故かまた義兄であるヘキサだ。周りの私に対する
態度は、前のクラスメイトと同様、腫れものに触るかのようである。
変わりようがない。
﹁それは結構、結構。ところでオクト魔法学生は、次はどの専攻に
進級するか決めたかのう?﹂
﹁魔法薬学科に進級したいと思っています﹂
﹁うむ。だとすると、カミュエル魔法学生やライ魔法学生とは違う
クラスになりそうじゃのう﹂
﹁⋮⋮はい﹂
今までと変わらずにいられるのも今年までという事は、私も分か
っていた。私が通いたい魔法薬学科は、カミュやライが希望してい
ない専攻だ。それにヘキサの受け持ちの授業は魔法系の専門分野に
384
は特化していない。そのため担任ができるのも6年生までだ。つま
り今年で最後である。
そう思うと無理やり進級させられたようなものだが、1年だけで
も今の穏やかな状態を保てたのは良かったのかもしれない。クラス
メイト全員に腫れものにさわるかのような態度をとられたら、少し
心が折れそうだ。
もちろん来年からはそれを我慢しなければいけないのだけど。
﹁コンユウ魔法学生は考えておるかね﹂
﹁俺は⋮⋮同じく魔法薬学科に行こうと考えています﹂
へ?
コンユウも?それは初耳だ。もっとも、コンユウと将来について
語り合う仲ではないので、初耳なのも当たり前だけど。
﹁ほう。2人とも同じとは。魔法薬学科は人気じゃのう。理由は何
かあるのかのう?﹂
﹁昔、助けたかったヒトがいました。俺はその時、薬の知識を学び
たいと思い、この学校に来ました﹂
立派だ。
凄い立派だ。立派すぎて、私は目をそらした。
﹁オクト魔法学生はどうしてかのう?﹂
山奥に引きこもりたいからです。そしてその資金調達として一番
効率がいいと思ったからです⋮⋮なんて立派な発言の後に言えるは
ずがない。
例え本当の事だとしてもKYすぎる。
﹁⋮⋮薬草に興味があったので﹂
少し考えて、私は無難な言葉を選んだ。アスタの実家のまわりに
生息する薬草などは、色々と面白い効能があるようなので、興味が
あるというのは決して嘘ではない。
隣でコンユウが鼻で笑ったが、無視だ。崇高な理由がある生徒な
385
んて、この学校に1割もいないと思う。私の方が普通だ。
﹁オクト魔法学生は、父親に似ておるのう﹂
﹁はあ。そうですか?﹂
血は繋がっていないので、見た目がという話ではないだろう。一
緒に暮らしているうちにどこか似てきたのだろうか。
﹁アスタリスク魔術師も、魔法に興味があると言って魔法学科に進
学したんじゃよ﹂
確かに。
アスタは純粋に魔法を楽しんでいる部分がある。魔法オタクなア
スタなら、興味があるを理由にしたとしても頷ける。ただ私の場合
は、利益重視な即物的考えからなので、アスタはまったく違う。純
粋さがなさすぎで、何だか自分が汚い人間に思えてきた。
けっ。自分の将来の為に学んで何が悪い。
﹁それにしても。ヒトに全く関心がなかったアスタリスク魔術師が
父親とは⋮⋮不思議なもんじゃのう﹂
﹁えっと。そんなに問題児だったんですか?﹂
今もアスタは興味ある事とない事がはっきりとした性格だが、ヒ
トに全く関心がないという事はない。もしそうならば、私がアスタ
に引き取られる事はなかっただろう。
﹁酷いものじゃったぞ。教師を教師とは思わない、傲慢な鼻たれ小
僧じゃった﹂
うーん。想像できるような、できないような⋮⋮。まあいつも自
信満々なイメージがあるので、それが館長には傲慢に映ったのかも
しれない。
﹁オクト居るか?!﹂
突然、部屋の扉が開いたと思えば、ライが転がりこむように入っ
てきた。その後ろから遅れてカミュが追いかけてきているのが見え
386
る。
﹁ライ?どうかした?﹂
どうやら息を切らすほど全力疾走してきたようだ。そんな慌てた
様子に私は首を傾げる。
一体何をそんなに慌てているのか。⋮⋮あーでも、ライ達の至急
の用事って、絶対碌なものじゃないんだろうなぁ。
できれば聞きたくないが、走ってきた様子を見る限り、そんな選
択肢は用意されていないだろう。私は仕方がなく、ライがもたらす
だろう衝撃に構えた。
﹁大変だっ!!カミュの兄貴が来る!!﹂
387
20︲2話
カミュの兄貴が来る?
⋮⋮カミュの兄貴という事は、この国の第一王子の事だろう。し
かし何故ライ達がそんな大慌てでそれを伝えに来たのかが分からな
い。
軽い温度差に、私は首を傾ける。
﹁とりあえず、今日は帰れ﹂
﹁何故?﹂
意味が分からない。
一からちゃんと説明してくれないものかと思っていると、ようや
くカミュも部屋に到着した。カミュは息を切らしながらも、扉を閉
める。まるで誰かから逃げているかのようだ。
﹁とりあえず⋮⋮まだ、ここには⋮⋮来てないみたいだね﹂
﹁えっと、水飲む?﹂
私は給湯室へ行こうとソファーから腰を浮かせたが、ライに上か
ら押さえつけられて再び座る事になった。
﹁この部屋から出るな。外は危険だ﹂
だから、何で。
まるで結界を張りました的な言葉に私は眉をひそめた。お前は、
何処の中二病だ。この世界に、何でも弾く事ができる結界なんて都
合のいい魔法は存在しない。
もちろん侵入者を感知したり、特定の魔法を無効化させる魔法は
存在する。もっとも、どんな魔法がかかっていかを知っていれば、
感知魔法を作動させないようにする隠密系魔法もある。また無効化
する魔法を無効化することも可能だ。
388
話がずれたが、つまりはこの世界の魔法は万能ではないのだ。
﹁オクトさん、悪いけど⋮⋮このコップに⋮⋮水を貰えないかな?﹂
カミュは召喚魔法で取り出したコップを私に手渡した。たぶんこ
の部屋で水属性を持っているのは私だけだからだろう。
﹁水よ、指定範囲に凝集せよ﹂
頭の中に魔方陣を思い浮かべ、そこへ魔力を流す。
昔は魔法陣を紙に描かなければ難しかったが、今は1種類の属性
だけを使った魔法なら思い浮かべるだけで発動させる事ができた。
もっとも属性を消して行う魔法などは、まだまだ無理だけど。
でも少しずつできる事が増えるのは嬉しかった。いつかはアスタ
に心配されず、肩を並べる事ができるだろうか。
﹁はい﹂
私は水が並々入った所で、コップをカミュとライに手渡した。
﹁悪いな﹂
﹁ありがとう﹂
どうやらそうと喉が渇いていたのだろう。2人は一気にコップの
中身を飲みほした。一体何処からここまで走ってきたのだろう。
﹁所で、カミュエル魔術師の兄が来るとは、どういう事かのう?﹂
﹁勝手に部屋へ入ってしまい申し訳ありません。実は今兄が、学校
を視察に来ているんです。なので、申し訳ありませんが、オクトを
今すぐ家に帰したいのですが﹂
﹁待って。意味が分からない﹂
だから何で、私を通さずに勝手に話を進めるんだ。
私はまだバイト中だし、納得いかない。
私がカミュを睨みつけると、カミュは少し瞬きした。まるで、何
故私が不満なのか分かっていないようだ。
﹁そっか。オクトさんはまだ僕の兄には会った事がなかったね﹂
389
﹁あー⋮⋮、社交界関係は全部サボってるもんな﹂
サボっているとは人聞きが悪い。
混ぜモノが参加する事によって起こる混乱を避ける為に、自粛し
ているだけだ。貴族の付き合いやドレスに着替えるのやダンスを踊
るのが多少面倒臭いと思っても、決してそれがメインではない。
﹁僕の兄はね、欲しいものは何でも手に入れようとする、少々困っ
た性格の持ち主なんだ﹂
﹁混ぜモノなんて見た日には、絶対連れて帰ると駄々をこねるぞ﹂
えっと、カミュのお兄さんなんだよね。言葉を聞く限りだと、ず
いぶん子供っぽいというか、馬鹿殿チックというか⋮⋮。
カミュが結構癖のある性格をしているので、あまり想像ができな
い。
﹁でも流石に、混ぜモノはいらないと思う﹂
確かに混ぜモノは珍獣レベルの物珍しさがある。でもそれだけだ。
物珍しさなんて、いつかは飽きる。それどころか暴走などのリスク
が大きい。そんなものを欲しがるだろうか。
﹁混ぜモノは、外交で強いカードになるから、いらないという事は
ないと思うよ﹂
﹁へ?﹂
﹁ほら、何処の国だって、混ぜモノに暴走されたくないだろ。混ぜ
モノを飼っているという事が分かったら、攻撃は慎重になるし﹂
うわー⋮⋮何か最終兵器みたいだなぁ。前世でいう核ミサイルみ
たいなものだろうか。持っている事で、他の国を牽制できるという。
自分の人格丸無視な兵器扱いに、顔が引きつる。でも今までよく
無事だったな。下手したら、王宮で監禁又は軟禁ルートじゃないか。
カミュ達の事を信じていないわけではないが、牢屋にぶち込まれ
ている自分を想像して、若干引いた。
390
﹁何だか人攫いでも見たような顔をしないで欲しいな。言っておく
けれど、どの国も混ぜモノを無理やり鎖につなぐような事はできな
いからね﹂
﹁そうなの?﹂
﹁混ぜモノに暴走して欲しくないのは国内でも同じだからね。今混
ぜモノを飼っている国は、数カ国あるけれど、何処も協力という形
をとっているはずだよ﹂
つまり物理的な危害は加えられないと。でも物理的でなければ、
脅しぐらいはありそうだ。
確か昔、黄の大地で起こった混ぜモノの暴走は、混ぜモノの恋人
を人質に取ったがその人質が死んでしまったからではなかっただろ
うか。つまり人質をとるぐらいの事は、当たり前にするのだ。
私の場合は、一番人質になりえそうなのはアスタか。⋮⋮人質と
は縁遠い選択肢にな気がする。でもアスタが困るような事を盾に取
られたら、従うしかないかもしれない。
﹁もちろん意にそぐわない契約もあるとは思うけれど、そうでない
場合もあるからね﹂
そういうものだろうか。
確かにカミュ達みたいな友人関係ならば、状況に応じては協力し
てもいいと思うかもしれない。でも飼われるなんて言われると、抵
抗がない事なんてあるだろうか。
﹁オクトさんにはアスタリスク魔術師が居るから大丈夫だけど、た
だの平民だと住む場所を探すのだけで大変だからね。混ぜモノにつ
いての情報がしっかりしていない村とかだと、暴走に繋がりかねな
い極端な迫害をされる事もありえるし。もちろん国としては混ぜモ
ノが見つかり次第保護するんだけどね。その場合は、混ぜモノの方
から協力を申し出ると思うよ﹂
391
そういえばそうだった。
アスタに引き取られた為に、あまり不自由を感じた事はなかった
のですっかり忘れていた。
確か混ぜモノは宿に止めてもらえなかったはずだ。それに一人で
は飲食店などには入れないし、学校なんて本当は夢のまた夢だった
んじゃないだろうか。⋮⋮なんて生きづらい世の中なのだろう。
そう思うと、私がアスタの手を取った時のように、国から差し出
された手を取らないとは思えない。協力を条件に保護を求めれば、
少なくとも虐げられる事はないのだ。それを誰が責められよう。
協力の理由が友情ではなく打算とは、何とも暗い話だが、それも
また現実だ。私だって母親が旅芸人の一座に属していなかったら、
もしくはアスタが引き取ると言いださなければ、どうなっていたか
分からない。
﹁それで、話は戻るけど、兄はきっとオクトさんに会おうと思って
来ていると思うんだ。本格的な視察は明日からだけど、今も学校に
居るんだよ。対策は後で考えるとして、まずは学校から逃げた方が
いいと思うんだ﹂
﹁いくら図書館が中立の場所だっていっても、中に入って来る事は
できるからな﹂
なるほど。
つまりカミュの兄は、カミュ達が大慌てするほど危険な人物なの
だろう。私だって、無意味に国家的な事に巻き込まれたくはない。
﹁あの⋮⋮﹂
ふと隣から、控えめに手が上がる。
そこには、紫の瞳に困惑と書いたコンユウがいた。あ、ずっと喋
べらないから、忘れていた。
﹁カミュエル先輩のお兄さんって、何者なんっすか?﹂
392
﹁はぁ?そんなの第一王子に決まって︱︱﹂
⋮⋮あっ。
ライは慌てて口を自分の手でふさいだが、時すでに遅しだ。言っ
てしまった後に、しまったという顔をしている。そうだった。カミ
ュがこの国の第二王子だという事は表向き内緒で、公爵家の息子と
いう設定だった。
ちらりとカミュを見れば、笑っていた。やけくその笑いに見える
のは私だけだろうか。⋮⋮まあ、色々な事を忘れるぐらい私を心配
してくれたのだろう。そう思うと原因の一端は私にある。
﹁えっと、カミュ?﹂
ここで下手に誤魔化したとしても、邪推をされて余計に物事が大
きくなりかねないのではないだろうか。どうしようと眼差しで訴え
ると、カミュは苦笑いをした。そして心配するなと言うかのように、
ポンポンと私の頭を叩く。
﹁コンユウ君だったね。少しお兄さんとお話ししようか﹂
393
20−3話
﹁何でこんな事に⋮⋮﹂
私は一人、図書館でぼやく。しかし誰もツッコミなんて入れては
くれない。でもそんなの当たり前だ。誰もいないのだから。
カミュ達に帰れコールを貰い、結局あの後一人子爵邸へ転移した。
本当はバイトを終わってからにしたかったが、館長に帰りなさいと
言われたら従うしかない。確かにカミュ達を連れてバイトをしたら、
大迷惑になりそうだ。
その後コンユウと話をつけたらしいカミュ達は、子爵邸へ訪ねて
きた。おいおい、王子が夜に出歩いてもいいのかよと思ったが追い
返すわけにもいかない。お茶を飲みつつ作戦会議という名の座談会
をしていると、そこへ仕事から帰ってきたアスタが加わり、⋮⋮会
議は踊っていった。事件はまだ会議室どころか、どこでも起こって
いないというのに。
私としては難しく考えるぐらいなら、いっそ休めばいいのにと思
う。しかし休むと今度はお見舞いをするという理由で王子が訪ねて
こないとも限らないらしい。アスタを加わえた3人は第一王子をぼ
ろくそに貶しながら作戦を練っていた。
⋮⋮正直、会ってしまったら会ってしまった時ではないかと思う
私は甘いのだろうか。
﹁だからってあれだけ考えた作戦が、授業をサボって、図書館で待
機ってどうなんだろう﹂
カミュが何処からか手に入れたらしい、王子のスケジュールでは、
394
丁度今の時間が私のクラスの視察となっている。王子も暇というわ
けではないので、スケジュールはきっちり決まっているようだった。
視察自体は、1クラス数十分程度で、ずっと私のクラスに居るわけ
でもない。
ただし時間が多少前後する可能性を考えて、視察の入る可能性が
ある授業時間は、図書館に隠れる事になったのだった。あれだけ長
々会議をしたのに、ある意味単純というか、何と言うか⋮⋮。
さらに図書館でも、中々ヒトが来ないブースにいろというご命令
だ。どうせ視察をしているのだから、図書館に入ってくるわけでも
ないのに。
﹁折角、古語の時間が⋮⋮はぁ﹂
高い授業料を払っているのだから、きっちり受けたいと思う私は
間違っているのだろうか。
ともかく、サボってしまったものは仕方だがない。こうなったら
有意義に過ごそう。
私は手当たりしだい持ってきた、混ぜモノ関係や精霊関係の本を
椅子の上に置き、右隣の椅子に腰かけた。どうせ誰も来ないだろう
し、椅子を2つ占領したってかまいはしないだろう。
私は優雅に読書タイムを始めた。
﹁ちょっといいだろうか?﹂
﹁⋮⋮あ、はい﹂
しばらくして、もくもくと本を読んでいると、声をかけられた。
こんな場所で珍しいと思いながらも、私は顔を上げる。
目の前には緑色の軍服に身を包んだ、抹茶色の髪をした男がいた。
ゲリラ戦に優位そうな保護色だ。目に優しい。
ただその服装の所為か、文系というよりも体育会系のような印象
395
で、図書館にはどこか不釣り合いに見えた。もちろん本を読むか読
まないかなんて、見た目で判断するべきものじゃないけど。
﹁その本は、まだ読むものだろうか?﹂
男が指した先には、私が積み上げた本があった。しまった。今の
時間なら利用客もそれほどいないと思い持ってきたが、まさか読み
たい人がいたとは。
﹁すみません。大丈夫です。どの本ですか?﹂
﹁その古語で書かれた、﹃ものぐさな賢者﹄が読みたいのだが﹂
﹃ものぐさな賢者﹄はエストの愛読書である﹃混ぜモノさん﹄の
原作と言われている話だ。エストにこの間教えてもらったので、と
りあえず持ってきたのだが⋮⋮。本当にとりあえずといった感じだ
ったので、余計に申し訳ない気持ちになった。
きっとカウンターでまだ館内にあるかどうかを確認した上で、探
していたのだろう。
﹁本当にすみません﹂
私は急いで、その本を取り出すと、青年に差し出した。
﹁いや。こちらこそ、無理を言って悪かった﹂
軍服を着ているので、きつそうなイメージだったが、意外に物腰
が柔らかい。いい人そうだなと思ったが、ふと混ぜモノ相手なのに、
落ち着きすぎではないだろうかと疑問が沸く。
まるで混ぜモノがここに居る事はあらかじめ想定済みといったよ
うな⋮⋮。考え過ぎだろうか。
﹁君は学生かい?﹂
﹁はい﹂
﹁今は授業中ではなかったかな?サボり?﹂
⋮⋮咎めているのかな?
私は相手が教師でない事もあり、曖昧に笑って誤魔化す事にした。
396
私だってサボりたくてサボっているわけではない。
﹁ああ、叱ろうと思っているわけではない。俺もサボりだからな﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
アンタもかい。
妙なカミングアウトをされて、私の返事は微妙なものになった。
軍服を着ているし、もしかしたら第一王子の護衛かなにかかもし
れない。でも⋮⋮サボっていいものなのだろうか。いやいや、普通
はダメだろ。
そんな事を考えていると、目の前で男は地べたに腰を下ろし、胡
坐をかいた。
﹁えっ。ああ。この場所がいいなら、椅子を空けます﹂
いきなり何をしだすんだ、この男は。私は慌てて椅子から立ち上
がると、本に手を伸ばした。しかし本に触る前に男に腕を掴まれる。
﹁まあまあ。折角だから、俺の話相手になれ﹂
折角って何だ。
私は不審な男に、冷たいまなざしを送った。何を言っているのか、
意味が分からない。
﹁図書室は静かに本を読む場所かと﹂
﹁誰もいないんだからいいだろ。俺も暇なんだよ﹂
暇ならサボるなよ。
そう思うが、実際にそれを言う勇気はない。サボっているのは私
も同じだ。
﹁古典を読みに来たんじゃないの?﹂
﹁そんなのは、君という天使を口説く口実さ﹂
胡散臭い。
お前は何処のイタリア人だと声を大にして言いたい。まあ、抹茶
色の瞳が悪戯ぽく笑っているので、冗談なんだろうけど。
397
﹁⋮⋮ロリコン?﹂
﹁普通そういう反応するか?俺は結構、顔がいいと思うんだけど﹂
まあ確かに整ってはいる。でも美形なんて、アスタの顔やカミュ
の顔で見飽きているので、さほど感慨深くもない。それに自分で言
う美形は何か嫌だ。
﹁10歳を口説こうとすれば、普通はこういう反応だと思う﹂
﹁社交界に行けば、女性は皆、花だ。貴族なら5歳児でも口説くぞ。
やあ、美しいつぼみ姫ってな具合でね﹂
﹁⋮⋮不健全だ﹂
5歳児口説いて、何が楽しいのだろう。正直貴族社会は、いまだ
に良く分からない。
﹁まあ、確かに健全ではないだろうな。純粋な恋愛をしようとして
いるわけではないし﹂
﹁ふーん。そういうお兄さんは貴族?﹂
﹁まあそれっぽいものだな。どうだ、高貴さが溢れんばかりだろう﹂
高貴な人間は、突然地面に座り込まないような気がする。溢れて
いるのは高貴さではなく、胡散臭さだ。
﹁そういう目で見るなよ。俺だって傷つくかもしれないだろ﹂
かもと言っているような人間は、簡単には傷つかないと思う。そ
れにしても不思議なヒトだ。貴族の事に詳しいが、あまり貴族っぽ
くない。なんと言うか破天荒だ。
﹁所で、混ぜモノや精霊の本が多いようだが、興味があるのか?﹂
﹁見ての通り、混ぜモノだから。ついでに1/4は精霊︱︱﹂
自分の事なので興味がないわけがない。まあ時間があれば調べよ
う程度だから、比較的後回しになっていたんだけど。知らなくて困
るという内容でもないし。
﹁ほう。精霊の血筋なのか﹂
398
﹁︱︱らしい。私の親はいないから﹂
﹁親がいないのか?﹂
﹁うん。でも⋮⋮家族はいる﹂
私にはアスタが居る。少々心配性で困った義父だけど、誰かに憐
れまれる必要はない。
ビービービー。
話をしていると、突然館内に警告音が流れた。
﹃貸出許可の下りていない本が塔の外へ出ました。職員はただちに、
追跡しなさい。繰り返します。貸出許可の下りていない本が塔の外
へ出ました。職員はただちに、追跡しなさい﹄
おっと、久しぶりの盗難だ。
一応バイトの身としては、行った方がいいのだろうが⋮⋮外に出
たらカミュ達が怒り狂いそうだよなぁ。あれだけ熱心に王子対策し
ていたのだ。
﹁ちょっと席外す。手を離してくれない?﹂
﹁ん?もしかして、職員なのか?﹂
男はとくにごねる様子なく、私の腕から手を放した。もしも放し
てくれなかったら、例え冗談であろうとも、本気で困ったので助か
る。
﹁職員ではなくバイト。でも少し手伝ってくる﹂
私は追跡盤を取りに1階へ向かって階段を下りた。
すると後ろから私よりも重そうな足音がついてくる。⋮⋮なんで
だろう。
振り向くと面倒な気がするので、とりあえず無視しておく事にし
た。もしかしたら下の階に用事がある、又は仕事をしに帰る気にな
ったのかもしれない。
399
階段を下り、図書館のカウンターへ行くと、先輩がひらひらっと
手を振った。
﹁手伝いに来てくれたんだ。偉い偉い﹂
﹁⋮⋮外には出られないので、援護だけですけど﹂
もっとも外へ出たところで何もないだろうけど。でも約束を破っ
た事がバレた後を考えると、止めておいた方がいい気がした。これ
以上アスタの心配性に拍車がかかると困る。
﹁犯人はどんなヒトですか?﹂
﹁また獣人らしいわ。本当に獣人って、体力馬鹿な上に野蛮で嫌ね﹂
先輩は嫌そうにぼやいたが、獣人の血を1/4は持つ身としては、
何とも答え難い。それに基本的に獣人による盗難は、獣人が盗もう
としているのではなく、獣人を使って盗もうとしているヒトが居る
事が多かった。一概に獣人だけに問題があるとも言い切れない。
それに全ての獣人が、犯罪者というわけでもないのだ。
ただそんな事を論議しても時間の無駄だという事は分かっている
ので、私はあえて何も言わなかった。
﹁紙とペンを貸して下さい﹂
私は先輩から借りると、紙に魔法陣を書き込んだ。
獣人が野蛮かどうかは置いておくとしても、獣人が丈夫な体をし
ている事は間違いない。今から私が多少荒っぽい魔法を使っても大
丈夫なはずだ。
﹁何を書いているんだ?﹂
﹁⋮⋮魔方陣﹂
﹁それは分かるが、⋮⋮風魔法か?﹂
どうやら男は、私の後ろにぴったりと付いてきたようだ。きっと
暇なのだろう。だったら護衛しに戻ればいいのに。働かざる者食う
400
べからずという言葉を知らないのだろうか。
﹁先輩、盗まれた本の番号は分かりますか?﹂
﹁追跡盤の点滅を触れば表示されると思うけど⋮⋮﹂
言外に、どうしてそれを聞くのかと聞いているようだが、私も喋
るだけの余力はない。魔法陣を書く事は得意だが、それでも間違え
ると嫌なので、私は魔方陣作成に集中した。
しばらくして、魔法陣を完成させた私は、紙に魔力を込める。初
めて作った魔方陣だが、たぶんこれで大丈夫なはず。
﹁上空の空気よ、対象物の元へ移動せよ﹂
見えない場所へ魔法を使ったので上手く行ったかどうかは分から
ない。しかし発動は成功したようだ。紙も破れていない。
魔法陣から手を離し、私は息をはいた。いくつか魔方陣を組み合
わせたので、普通より神経を使う。
﹁たぶん、犯人の動きが悪くなったと思う﹂
﹁ええ。今、ジャックが捕えたって連絡を寄こしたわ。突然犯人が
走るのを止めたんですって。何やったの?﹂
﹁拘束するような魔法ではないようだが?﹂
もういいだろうとばかりに、2人が興味津津な顔私を見てくる。
といってもなぁ。先輩は、普段見慣れている魔法陣だと思うんだけ
ど。
﹁上空の冷たい風を、追跡魔法陣がある場所から半径1メートルに
移動させました。魔方陣自体は、風魔法と追跡魔法の魔法陣を組み
合わせただけです﹂
移動といっても転移魔法や召喚魔法ではない。風は動くものなの
で、ただただ直接移動させただけだ。魔法としてはとて簡単な部類
である。
401
しかも既存の追跡魔法陣を組み合わせただけなので、大したもの
でもない。
﹁上空の冷たい風とはなんだ?﹂
まさかそこを聞かれると思わなくてキョトンとしてしまった。た
ぶんどれぐらい高い位置からという事を聞きたいわけじゃないだろ
う。
﹁へっ⋮⋮ああ。地面から離れた、高い場所になればなるほど、気
温は下がる。場所によっては氷点下を下回っているから。その風を
使えば、体の表面の汗が凍ると考えただけ﹂
汗が凍れば体は動かなくなるだろう。例え凍らなくて体の筋肉が
こわばり、動きが鈍くなるはずだ。ただし相手が獣人族でなければ、
心臓発作とか起こしかねないから、ちょっとできないけれど。でも
この魔法ならば、魔法で温度を下げたわけではないので無効化も難
しいはず。魔法使い相手でも有効だ。
すると青年は、いきなり笑いだした。私は突然の事に、思いっき
り引く。いきなりどうしたのだろう。今の会話の中に、笑う場所な
んてなかったはずだぞ。
﹁これならアスタリスク魔術師が隠すのも頷けるな﹂
﹁へ?﹂
アスタが隠す?
というか、私とアスタの関係を知っているの?
先ほどは、突然壊れたかのように笑い始めた事に引いたが、今度
は得体の知れなさに引く。確かに王族の護衛だったら王宮勤めなの
で、アスタと面識が会ってもおかしくはない。おかしくはないが、
ぞくりと背中を冷たいものがはう。
⋮⋮そもそも、彼は自分の事を、護衛だなんて一言も言っていな
402
かったのではないだろうか。
﹁手札として持っているだけならば、弟の嫁にでもしようかと思っ
たが、それでは勿体ない。もっと有効な活用方法がありそうだ﹂
弟の嫁?
何の話だととぼけてしまいたいが、相手の正体にピンときてしま
った自分が憎い。知らないままだったら、もっと楽だっただろうに。
﹁卒業したら俺の下で働け﹂
ひぃぃぃぃ。
名乗られなくても分かってしまった。この人、第一王子だ。カミ
ュ達の説明だと、馬鹿殿っぽかったから繋がらなかったけれど間違
いない。
何でここにとか、何て俺様的に話すんだろうとも思ったが、それ
よりもアスタに何ていいわけしようという心配が頭をよぎって行く。
約束を破って外に出てはいないけれど、王子と和気あいあいと喋っ
てしまったなんて、これも約束を破った事になるのか。
私は自分の運のなさを嘆きたくなった。
403
21−1話 急激な変化
﹁⋮⋮善処します﹂
私は顔を引きつらせながらも何とか第一王子様の言葉に返事を返
した。
もちろん答えはイイエのタイプの善処しますである。使用方法は、
善処したけれどダメでした的な感じだ。はっきり言って、王子の下
で働くなんて、私の人生設計には全く組み込まれてない内容である。
自給自足に王子はいらない。
﹁ほう。だったら、死ぬ気で善処しろよ﹂
なんでそうなるんですか?!
というか、できなかったら死ねと言っているように聞こえるんで
すけど。私はもうダッシュで逃げたくなった。
しかし逃げたところで、私の居場所などすでに知られているので
無意味だ。
﹁まあ、俺も無理やりは趣味じゃないからな。お前が仕えたくなる
ように仕向けてやるさ﹂
﹁へ?﹂
﹁なんだ、今すぐ攫って欲しかったのか?﹂
私はすぐさま首を横にぶんぶんと振った。そんなわけがない。
すると王子は、しょんぼりしたような残念そうな顔をした。少し
可哀想だと思いかけたが、慌ててその思いをうち消す。そんな顔で
騙されるつもりはない。攫うなんて危険極まりない単語がするっと
出てくるヒトは、ろくでもないに決まっている。
﹁そんな勢いよく、拒絶する事ないだろう﹂
﹁私はまだ若輩者ですから⋮⋮その⋮⋮﹂
404
私の存在など気にしないで欲しい。このまま空気に溶けて消えて
しまえたら、どれだけ楽だろう。
もちろんそんな事できるはずもないので、脂汗がにじみ出る。消
え去ることも、従う事もできないが、かといって国家権力に真っ向
から立ち向かえる度胸も度量もない。ないないづくしで、泣きそう
だ。
﹁俺だって、刈り入れ時じゃない事ぐらいはわかるさ。少なくとも
お前が卒業するまでは、何かさせる気はないぞ﹂
おや?ジャイアンなくせに、意外にちゃんとした返答だ。
そういえば先ほども、鳴かぬから鳴かせてみせようホドトギス的
な言いまわしだった気がする。そして今後は鳴くまでまとう的な発
言だ。若干強引なのは間違いないが、カミュ達が少し大げさだった
のかもしれない。
思ったよりも温厚だ。
﹁そんな意外そうな顔をするなよ。ヒトの事なんだと思っているん
だ﹂
もちろん、何でも欲しがるジャイアニズムな馬鹿殿ですけど。
ただしそんな馬鹿正直に言えるわけがないので、私は曖昧に笑っ
た。体は日本人じゃないけれど、魂は玉虫色の答え大好きな日本人
が沁みついている。なんでもイエス、ノーで答えられるわけがない。
﹁いえ⋮⋮少し青田買いが早いと思っただけです。私は気にしてい
ただくような者ではありませんから﹂
言外に伝えたい言葉は、私の事などほおっておいてくれなのだが、
はたして通じるだろうか。いや通じても、聞いてもらえるかが重要
だ。
﹁公の場ではないんだから、先ほどと同じ口調で構わないぞ。﹂
﹁そんな事⋮⋮できません﹂
正直に言えば、したくありません。仲良くなる気など、さらさら
405
ない。王族の知り合いなんて、カミュだけで十分だ。
﹁ふーん。そういう敬語で話せば、適当に本心を包み隠せるだろう
と思っている所は、お前の父親にそっくりだな﹂
父親というのはたぶん、アスタの事だろう。似ていると言われた
が⋮⋮あまり嬉しいと感じなかった。これが魔法の技術的な面とか
だったら別だっただろうけど、性格はなぁ。
尊敬はしているが、できたらあまり似たくはない。
﹁まあいい。青田買いというが、俺はそうでもないと思うぞ。お前
の事を狙っている奴らは、掃いて捨てるほどいるはずだからな﹂
⋮⋮何かの勘違いではないだろうか。
今のところ、そんな勧誘をしてきたのは、この王子様が初めてだ。
それに私は勧誘どころかクラスメートとも、まともに話した事がな
い。私が学校で話す相手はカミュやライ、それにバイト仲間、後は
後輩のミウとエストくらいだ。
あまりに的外れな話しに、私は眉間にしわを寄せた。
からかわれているのだろうか。
﹁ふーん。どうやらアスタリスク魔術師に、相当過保護に育てられ
ているようだな﹂
﹁過保護?﹂
そんな事は前々から知っている。しかし、何故そんな話になるの
か。
﹁過保護だろう。混ぜモノを利用したいと思う奴はなにも俺だけで
はない。魔術師どもや、他国の王族、数え出したらきりがないぞ。
特に魔術師どもは一枚岩ではないしな。中立の立場である図書館に
所属しているとはいえ、一度もそういう空気を感じた事がないのは、
過保護以外の何物でもないだろ﹂
王子の考えすぎではないだろうか。
そう思った⋮⋮いや、思おうとしたが、私は王子は嘘をついてい
406
ないと感じた。
混ぜモノが外交のカードとなるとカミュ達が教えてくれたのは記
憶に新しい。だったら、王子が言う通り、外国にも同じように混ぜ
モノを利用したいと思っているヒトはいるだろう。それにカミュが
昔、魔術師と王宮は危うい関係であると話していたはずだ。だった
ら、魔術師にも王族相手に混ぜモノというカードを使おうと思うヒ
トが居てもおかしくはない。
予測でしかないが、それが理解できてしまうと、一気に体が重く
なった気がした。
王子が正しいとは限らないし、ただの王子の妄想というオチだっ
てありえる。しかしショックだった。何がショックなのかと聞かれ
たら、良く分からないけれど苦しい。
﹁俺はそういった知識も積極的に渡して、自己防衛能力を上げてお
くべきだとは思うがな。過保護なのはアスタリスク魔術師に限った
事ではないが⋮⋮。まあ、これだけ小さければ無理もないか﹂
その一言が、余計に重くのしかかる。
やっぱり私はまだ、アスタに信頼されていないのだ。身長はとも
かく、魔法技術などはちゃんと成長しているつもりだったのに、全
てはアスタの手のひらの上だと思うと悔しかった。
ああそうか。
ショックなのは、アスタに対等だとまったく思われていないから
だ。
別に隠し事なんて誰だってある。私だって前世の記憶の事は言う
タイミングがないというだけだが、隠している事には変わりない。
そもそも血の繋がらない家族なのだから、余計に普通の事だと思う。
407
でもアスタに守られるのではなく、隣に立ちたいと思っている身
としては、この現状が悔しくでたまらなかった。
﹁ただし俺としては好都合だけどな。一番最初に勧誘した方が、イ
ンパクトはあるだろう?﹂
今度は背筋がぞくぞくした。
そうだった。自分の不甲斐なさを反省するのはいいが、今は第一
王子の誘いを、のらりくらりとかわす方が優先事項だ。
下手に王子に協力するなんて事になったら、アスタが過保護にな
ってしまうのにも、納得するしかない。何とかして回避しなければ。
﹁そうですね。⋮⋮ただ、やはり自分にはそれほどの価値がある様
に思えません。混ぜモノを争いの道具として使うのは、リスクが大
きいのではないでしょうか。国の為を思えば、そっとしておくのが
一番だと思います﹂
というか、そっとしておいて下さい。
﹁どんな道具だって、使い方次第では自分を傷つけるものだろ。そ
れを恐れていては何もできないさ。それぐらいなら、怪我をしない
使い方を学ぶべきだな﹂
うぐっ。
大人しく納得してくれればいいものを。王子の言い分が間違って
はいないだけに、凄く面倒だ。
﹁それに先ほども言ったが、今すぐどうこうは思っていない。ただ
し、俺の敵にはなるなよ?うっかり、殺してしまったら困るだろう
?﹂
困るってそれは誰がですか?
私ですか?それとも王子ですか?国ですか?それとも全員ですか?
冷や汗が噴き出るような発言に、私は心の中でひたすらツッコミ
を入れた。とりあえずすでに殺されている私は困りようがないので、
408
周りのヒトという事だろう⋮⋮。
⋮⋮いやいやいや。
まだ人生止める気ないから。
やっぱり、鳴かぬなら殺してしまえじゃないか?!全然温厚じゃ
ない。
﹁まあそう怖がるな。敵でなければ何もしないさ﹂
ぽんぽんと頭を叩かれたが、アスタのような安心感はゼロだ。逃
げ出したくてたまらない。
そんな様子の私に、王子は愉快そうな笑みを向けた。このドSめ。
﹁そういえば、樹の神が、混ぜモノに会いたいと言っていてな。今
日はそれを伝えに来たんだった。今年中には招待状が届くと思うか
ら準備をしておけ﹂
⋮⋮へ?神様?
いきなりの話題転換、しかもあまり聞かない単語に、私は間抜け
な顔をさらす事しかできなかった。
409
21︲2話
どうしよう。今日も言えなかった。
第一王子と会ってから何日か経ったが、いまだにアスタにその事
を言えないでいる。
最初は心配されるのが嫌だなという所から始まった。そこから言
うタイミングをずるずると逃し、今は今さら言ったらどう思うんだ
ろうという不安からやっぱり言えないという状態だ。こうなったら
うやむやにしてしまえと思うのだが、それには1点大きな問題があ
った。
﹁⋮⋮神様に会う準備って何をすればいいんだろう﹂
どうしてそんな爆弾発言を残していくんだこのやろうと文句を言
いたいが、できれば二度と会いたくないので、やっぱり言えなくて
いい。
今のところ、神様からの招待状は届いていないが、届いてから準
備して間に会うものなのか。何かお布施的なものがいるのか、はた
またしばらくは精進料理を食べなければいけないとかあるのかさっ
ぱりだ。神様とか正直言って良く分からないので、アスタに相談し
たい。しかし相談したら最後、何故そんな事を尋ねるのかという話
になり、芋づる式に王子に会ってしまった事がバレてしまう。
﹁本当に、どうしよう﹂
私は図書館に向かいながら、ため息をついた。
一応図書館で神様については調べてみたが、結局ほとんど分から
なかったといっていい。神様に会えるのは王族のみなので、文献が
あまりなかったのだ。龍玉神話というものはあったが、私が知りた
410
いのは、そんな過去に本当にあったかどうかも分からない話ではな
い。
ならば王族であるカミュに聞けばいいのだが、カミュに聞いた場
合も同様にアスタに筒抜けになりそうで、聞くに聞けなかった。
﹁やっぱり神様のご不興を買ったらマズイのかなぁ﹂
神様は政治などには一切口をはさまないが、王族よりも立場は上
だ。第一王子を伝書鳩代わりにできるあたり、権力の強さを物語っ
ている気がする。
それにしても、そんな王子を顎で使える存在が、平民の私にいっ
たい何の用なのか。
﹁⋮⋮まさか結婚ネタじゃないよね﹂
第一王子が、弟と結婚させようと思っていたなんて、とんでもな
い言霊を発してくれたのは記憶に新しい。もしもそれを神様が真に
とらえて、ちょっと見てみよう的な感じで会いたいと言っているの
だとしたらどうしよう。
王子の中でその話は、なかった事にしてもらえたっぽいが、訂正
が神様の所までいっているとは限らない。
﹁王子のホラでした、すみませんで済むだろうか⋮⋮﹂
私が悪いわけじゃないのに、どうして神様のご不興を買うのが私
になるのか。理不尽すぎる。どうかこのまま招待状が来なかったと
いうオチにならないだろうか。
﹁オクト、そんな大きなため息をついてどうかしたの?﹂
フラフラと歩いていると、声をかけられた。振り返ればエストと
コンユウがいた。コンユウが飛び級してしまった事により、クラス
がバラバラになってしまったはずだが、今も一緒に行動しているら
しい。
﹁あー⋮⋮ちょっと考え事﹂
正直に言うわけにいかず、私は曖昧に笑った。
411
エストは言わないでと頼めば言わないでいてくれるとは思う。し
かし彼はライの家に居候しているのだ。下手にライへの秘密を抱え
てもらうのは悪い。
﹁辛気臭い顔で歩くな、鬱陶しい﹂
﹁オレじゃ役不足かもしれないけれど、言ったら楽になる事もある
と思うよ?無理しないでね﹂
うわぁ、目の前に飴と鞭がいるよ。
もちろん飴がエストで鞭がコンユウだ。見事に分かれている。た
だしどちらの言葉も今の私には、針でチクチク刺すようなものだけ
れど。自業自得なので仕方がない。
﹁エストは、オクトに甘過ぎる﹂
﹁そう?オレはオクトの事が好きなんだから当たり前だと思うけれ
ど﹂
﹁ありがと﹂
エストの優しさが、今は苦しい。ゲロってしまえば楽なのだろう
が、やっぱり混ぜモノの自分を友人だと言ってくれる少年に不必要
な苦労はかけたくない。やはりここは自力で頑張るべきだ。
﹁てっ?!ちょ、アンタ、何平然と︱︱むがっ﹂
﹁俺はコンユウがオクトに厳し過ぎると思うんだよね。そうやって
酷い事言うから、クラスから浮くんだよ﹂
エストはニコニコ笑いながらコンユウの口を塞いでじゃれ合って
いる。仲いいなぁ。少し羨ましい。
﹁むがむがぁっ!!﹂
﹁何言っているか分からないなぁ﹂
﹁そういえば、ミウは?﹂
﹁むぐむがっ!!﹂
﹁ミウは補習中なんだよね。この間、テストで赤点だったから﹂
なるほど。
412
ミウは相変わらず、勉強が苦手らしい。何とか進級はできている
ようだが、大丈夫だろうか。
最近会った時は、ファンクラブの活動の一環なのと言って、私の
似顔絵を描いてくれた。どこかアニメタッチな画風だが、凄く上手
だったのでよく覚えている。でも赤点をとってしまうほど学業がマ
ズイなら、ファンクラブの活動をしている場合じゃないのでは⋮⋮。
今度、ちょっと説得してみた方がいいかもしれない。
﹁そういえば、エストも⋮⋮。エスト、このままだとコンユウが死
ぬ﹂
気がつけば、コンユウの顔色がかなり悪くなっていた。このまま
だと、死因は鼻と口を押さえられた事による窒息死になってしまう。
コンユウはその通りとばかりに、必死にエストの手を叩いた。体
格と腕力、どちらもエストに負けている為、手をはがす事ができな
いようだ。
﹁ああ、ごめん。ごめん﹂
﹁こ、殺す気かっ?!﹂
﹁まさか。そんな簡単に自分の人生を棒に振ったりしないよ﹂
エストはアハハと笑っているが、コンユウは本気で苦しかったよ
うだ。必死に呼吸を繰り返している。
﹁ただコンユウはね、余計な言葉は言わないという選択肢が世の中
にはある事を覚えた方がいいと思うんだよね﹂
あ、それは分かるかも。
コンユウって、馬鹿正直というか、思った事を包み隠さず言うと
ころがある。私の事が嫌いだと前面に押し出してくるのはいいとし
ても、それが度を行き過ぎてイラッとさせられる事もしばしばだ。
ある意味裏表がないという事なので美点でもあるのだろうけど、迷
惑には変わりない。
413
私はうんうんと頷いた。
﹁納得するんじゃねえよ。俺は、アンタが平然と︱︱うぐっ﹂
﹁だから、余計な事は言わないように。ね?それにオレはこのまま
で良いんだよ。変わるにしても、魔王を倒さないとだし﹂
エストの拳が、コンユウの鳩尾辺りに決まった。ライほどではな
いが、エストも武術が得意である。鳥も鳴かなければ撃たれまいに
という言葉が頭に浮かんだ。
﹁魔王って?何かのボードゲーム?﹂
﹁まあ、似たようなものかな。そうそう。オレも今日から図書館で
働く事になったんだ。これから、よろしくね﹂
﹁えっ、あ、うん。そうなんだ。よろしく﹂
そうだったんだ。
たぶん図書館のアルバイトをする事になったのは、自分から志願
してだろう。図書館よりも、警備のアルバイトの方が給料もいいの
に。勿体ないと思ってしまう私は、守銭奴だろうか。
エストが図書館でアルバイトをする事になったのに驚きつつも、
図書館ではどんな仕事をするのかを話しながら歩いているうちに、
私達は塔についた。
﹁こんにちは﹂
私達は図書館の中にはいるとまっすぐにカウンターの方へ行き、
先輩にあいさつした。
ざっと見まわした限り、今日もそこそこ利用者が居るようだ。新
しく新書も入ると言っていたし、さて何からすれば良いだろう。
﹁やっと来たのね。貴方達、私と一緒に館長室へ来なさい﹂
﹁はあ﹂
414
また呼び出しだろうか?
図書館に着いて早々、お茶に呼ばれるのは珍しい。何かあったの
だろうか?
﹁館長が、倒れたのよ﹂
一瞬何を言われたか分からなかった。倒れた?誰が?何が?
その単語がどういう状況なのかがしっかり分かると、すっと血の
気が引いた。胸のあたりに冷たいものを押し込まれたような気分だ。
﹁館長は⋮⋮大丈夫なんですか?﹂
﹁ええ。命に別状はないという事で、今は館長室で寝ていらっしゃ
るの。貴方達が来たら呼んで欲しいと仰ったのよ。来てくれるわよ
ね?﹂
命に別状はないという言葉にホッと息を吐き、私は頷いた。良か
った⋮⋮。
﹁テノっ!私は今から館長室行くから、ここよろしくね。さあ、行
くわよ﹂
先輩に言われて、私達は急いで館長室に向かった。
それにしても、命に別条はないと言っても本当に大丈夫なのだろ
うか。倒れた後に続くものが頭に浮かび、不安で気が重くなる。
誰かが消えるのは初めてではないけれど⋮⋮慣れるものでもない。
﹁まあ、館長もお歳を召しているからね。いつ何があってもおかし
くないんだけどね﹂
ついこの間会った時は、元気だったのに。
私が館長に会ってから2年は経ったが、その時は初めて会った時
と全く変わっていないように思った。確かに見た目は真っ白だが、
高齢だと言われてもあまりピンとこない。
﹁お幾つなんですか?﹂
﹁まだ1000歳まではいってないと思うけれど、500歳は超え
415
ているらしいわ﹂
1000?!
エストが聞き出した数字に私は慄いた。もこもこして良く分から
なかったが、まさかそんなに高齢だったとは。館長が何の種族なの
かは知らないが、長生きなエルフ族でも1000歳までは、まず生
きられない。
﹁そろそろ寿命が近いのも分かっているけれど、館長が倒れてしま
うと、これから大変ね﹂
﹁なんで?館長はあんまり働いてないだろ?﹂
コンユウがすぱっと言い放った。
おいおい。いつもお茶ばっかり飲んでいるなとは思うけれど、そ
んなはっきり言っちゃ駄目だろう。しかし先輩はケラケラと笑うだ
けで、咎めようとはしなかった。
﹁まあ雑務は私達の仕事なんだし、それでいいのよ。私は館長には
遊んでいてもらって、そのぶん長生きしてもらった方がずっといい
と思うわ。ただね、古書管理だけは別ね。現在保存状態が良いのは、
館長が時魔法を使っているからなの。館長が居なくなったら管理が
大変よ﹂
﹁時魔法?﹂
﹁ええ。館長は珍しい、﹃時﹄の属性の持ち主なのよ﹂
時の属性。時魔法。
普段は使わない単語に、はてどんな物だったかと脳内の辞書をパ
ラパラとめくる。確か時の属性は、レアもレアなもので、お目にか
かれる事はまずない属性だったはずだ。そして時魔法は時の属性を
持っている者しか使えない、これまたレアな魔法だ。
確かその属性は先天性ではなく、後天的に身につくもので、何か
特殊な方法で身につくと文献にあった気がする。
﹁俺と同じ⋮⋮﹂
416
﹁ええ、コンユウ君と同じよ。もっとも、貴方よりもずっと力を使
いこなしていらっしゃるけれどね﹂
へ?コンユウも時属性?
そういえば、珍しい属性だという事で、コンユウは図書館で働く
事になったのだ。まさか、それが時属性だったとは。
時属性はレアな分、情報が少なく扱いも難しい。確かに危険視さ
れても仕方がない。
それにしてもそんな珍しい属性の持ち主が2人も図書館で働いて
いるなんて、偶然にしても凄い確立だ。同じ属性同士引きあいやす
いとかあるのだろうか。
﹁あっそ。所で、館長は俺らに何の用なんだ?﹂
﹁あー、これは私の予測であって、たぶんなんだけどね﹂
先輩は少しいいにくそうな顔をして前置きをした。何か難しい頼
まれごとでもするのだろうか。
﹁エスト君は初めての仕事だから呼ばれたんだけど、2人はその⋮
⋮。館長はたぶんコンユウ君かオクトちゃんのどちらかを後継者に
しようと考えているんだと思うの﹂ 417
21−3話
﹁⋮⋮えっと、私もですか?﹂
なんでやねん。
図書館でバイトをして2年になるが、館長の後継者とかそんな話、
一度も聞いた事がなかった。そもそも、時属性のコンユウならまだ
しも、私は時属性ではない。
もちろん文献を保管するだけの点で見れば、自分の属性も役立た
なくはないとは思う。前世の博物館で古い書物は、気温と湿度を管
理する事で品質を保っていたはず。水属性がある自分は湿度管理ぐ
らいならできる。でも気温を一定にするって難しそうだし、もっと
他に後継者にふさわしいヒトがいるはずだ。
﹁貴方とコンユウ君は特別だから﹂
﹁特別?﹂
先輩の言葉にコンユウが眉をひそめた。
私も仕事内容は、特に贔屓されてはいないと思う。他のバイトの
ヒト達と何も変わらない。ただ私とコンユウは館長にお茶を誘われ
たりする事が多い気がするので、特別というのはそれの事だろうか?
﹁ああ。贔屓とかそういうのじゃないから睨まないでね。2人が頑
張っているのはしっているし。ただね、館長がアルバイトをスカウ
トしたのは、貴方達が初めてなの。後は自ら志願した生徒だけ。そ
れだって、試験があって中々なれるものじゃないのよ。エスト君な
ら分かると思うけれど﹂
﹁へ?﹂
そうなの?
418
隣を見れば、エストが苦笑して頷いた。嘘ではないらしい。⋮⋮
こんな事で嘘をつく必要性もないけれど。
それにしても給料がいいわけでもないし、本が盗まれたら追いか
けなければいけないので、安全な仕事というわけでもない。なのに
どうして倍率が高いのだろう。やっぱり、﹃中立﹄という状態が関
係するのだろうか。
﹁さっきも言ったように、これはあくまで私の予想でしかないんだ
けどね。館長の気まぐれな可能性もあるわけだから。ただ館長のご
年齢を考えると、そろそろ後継者を決めてもいいと思うのよね﹂
﹁⋮⋮はぁ。でも学生を後継者にするでしょうか?﹂
私なら卒業生で優秀なヒトとか狙う。もしくは、先輩のように長
年ここで勤めているヒトを選ぶように思う。
特別扱いはなんとなく理解できたが、それは後継者を選んでいる
からではなく、もっと違う理由からな気がする。例えば⋮⋮混ぜモ
ノは珍しいので観察して書物に残そうと思っているとか?コンユウ
の場合は、時属性を後天的に身につける方法をマニュアル化するた
めの研究とか?
ありそうで、なさそうな想像に、私は首をひねる。
﹁私は優秀なら別に学生でも卒業生でも、大人でも子供でもいいと
思うけどね。ああ、老人はすぐぽっくり逝っちゃう可能性があるか
ら、できれば止めて欲しいかしら。とにかくバランス良く図書館が
運営できれば、館長なんて誰だっていいのよ﹂
そういうものだろうか?
ぐるぐると考え込んでいる間に、私達は館長室へついた。
コンコン。
先輩がドアをノックすると、中から返事が返ってきた。どうやら
419
起きているらしい。
﹁館長、コンユウ魔法学生とオクト魔法学生、それに今日から働く
エスト魔法学生を連れてきました﹂
先輩は館長の返事を聞くとドアを開ける。
﹁失礼し︱︱﹂
ちゃんと挨拶をしようとは思ったが、私は目の前のありえない光
景に言葉を失った。
別に目の前が血の海だったなどの、怪奇的なありえない光景があ
ったわけではない。普段はないはずのベッドがドンと部屋の中央に
置いてある事も、病気だからなどの理由を考えれば納得できる。
でもそのベットに布団ごと、ロープで縛りつけれている館長を見
れば、誰だって絶句するはずだ。少なくとも、コンユウとエストは
あんぐりと口を開けて、館長を見つめている。
﹁あーもう。館長、また勝手に縄抜けして、本を取ってきましたね。
寝ていなければダメってあれだけいってるのに﹂
先輩はさも当たり前のように館長に近づくと、枕元に積み上げて
あった本を持ち上げた。
何かの事件に巻き込まれたかのような姿なのに、驚いた様子は一
切ない。それどころか、まるで先輩が縛ったかのような言い方だ。
﹁だって暇なんじゃもん。それにしてもカ弱い老人を縄で縛るとは、
なんたる横暴。わしは悲しいぞ﹂
﹁はいはい。一人で縄抜けできて、さらにそんな事はなかったかの
ように縄を元に戻せるヒトはカ弱くありませんから、ご安心下さい。
まったく、倒れた時ぐらい、大人しく寝ていて下さいよね﹂
⋮⋮これはツッコミ待ちなのだろうか。
病人を縄でベッドにくくりつけるのもありえなければ、縄抜けし
て本を取りに行き、再び何事もなかったかのように元の状態に戻る
420
館長もありえない。
﹁エスト魔法学生も、これは老人虐待だと思わんかね﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
突然話しを振られたエストは、曖昧に視線をさまよわせ、私の方
を見た。えっ、私の方を見られても⋮⋮。というわけで、私はその
ままコンユウの方を見た。
コンユウは私の視線を受けてぎょっとした顔をする。
大丈夫。いつだって言わなくてもいい事を言ってしまうコンユウ
なら、こんな場面でも、何か言えるはずだ。
しかしコンユウは逆に私を見返してきた。その顔には、お前が何
とかしろと書いてある。
ちょっと、待て。これでは、私がエストとコンユウから見られて
いる構図じゃないか。しかも2人の視線に気がついた館長達まで私
を見ている。
こういう時こそ、空気を読まない、コンユウの仕事だろうが。ち
くしょう。
﹁⋮⋮えっと、館長は、どうしてこちらで寝ていらっしゃるんです
か?﹂
私は色々考えた末、あえて空気を読まず、違う話題の質問をした。
空気は読めれば良いってものじゃない。人生楽に生きるには、時
には空気を読んだ上で、あえて空気を読まない、AKYな能力が必
要なのだ。
﹁館長が、ここじゃないと寝ないと駄々をこねたからよ。仕方がな
くベッドを保健室から運んできたの。それなのに、すぐに抜け出し
てウロウロするんだから﹂
﹁じゃって、病気の時はヒト恋しいんじゃもん﹂
じゃもんじゃない。
421
本当に倒れたのかと疑いたくなるが、本当に倒れたからこそ、こ
んなベッドに縛り付けられているのだろう。でも⋮⋮うーん、倒れ
たなら、意識が混濁して暴れない限り、普通は縛り付けないだろう
し⋮⋮どうなんだ? 何でベッド一つでこれほど悩む事になるのか。
﹁あの、館長は何処がお悪いんですか?﹂
﹁心の臓じゃよ。わしも年じゃからのう。ちーとばかし、痛む事が
あるんじゃよ﹂
エストの質問に、館長はあっけらかんとした様子で答えた。とり
あえず、今は痛くはないのだろう。
﹁薬をちゃんと飲まないからですよ。今日はしっかり飲んで下さい
ね。血圧も高いんですから﹂
⋮⋮何だか、館長が老人ホーム的なところに居るおじいちゃんに
ガチ
見えてきてきた。これでお昼ごはんを食べていないと言い出したら
本気すぎて嫌だ。
﹁そうそう、わしの事を心配して来てくれてありがとう。こんな心
やさしい生徒に囲まれて嬉しい︱︱﹂
﹁何を言ってるんですか。館長が呼んだんですよ﹂
﹁そうだったかのう﹂
本気で大丈夫だろうか。
老人ボケという単語が頭をよぎる。1000歳に近ければ、そろ
そろ徘徊を始めたっておかしくはない。
﹁そうなんです。寝言でオクト魔法学生の名前を呼んでいたじゃな
いですか。それで声をかけたら、エスト魔法学生は何処だって言う
し。それにコンユウ魔法学生の名前も呟いていらっしゃいましたよ﹂
⋮⋮それは私達を呼んだのではなく、ただの寝言だと思う。
館長自身、覚えていなさそうな様子に、私は小さくため息をつい
422
た。先輩も館長が倒れたという状況に、動揺したのだろう。ちょっ
と、焦ったじゃないか。
﹁そうじゃったか。折角来たのに、こんな状態で悪いのう。ちーと、
お茶でも︱︱﹂
﹁ダメです。とにかく寝て下さい﹂
﹁アリス魔術師のケチ﹂
﹁ええ。ケチで結構です。だから寝て下さい﹂
先輩⋮⋮、だからの使い方がおかしいと思います。そうは思った
が、ぶつぶつと文句を言われながら世話を焼かれる館長が楽しげだ
ったので何も言わないでおく。もしかしたら、構って欲しいが為に、
ちょっと我儘なのかもしれない。
でもまあ、これだけ元気ならば、大丈夫だろう。
﹁先輩。特に用事ないなら、俺、仕事に戻るけど﹂
とりあえずやる事もなくでぼーっとしていると、コンユウが先輩
に聞いた。そうだ。そろそろ仕事を始めなければ、残業しなければ
ならなくなる。遅くなるとアスタが心配するので、それはマズイ。
﹁すみません。私も︱︱﹂ ﹁そうじゃ。わし、しばらく休むから。コンユウ魔法学生とオクト
魔法学生に古書の管理は頼むわ﹂
﹁はい?﹂
今とんでもない仕事を丸投げをされなかっただろうか。
﹁2人なら大丈夫じゃ。ついでにエスト魔法学生も2人のサポート
よろしくじゃ。アリス魔術師は、今まで通り皆のまとめ役を頼むよ。
君達が頼りなんじゃ﹂
バチンとウインクしたのか、眉毛が片方だけ動いた。
って、ウインクするって、どう見ても元気じゃないですか。サボ
りたいだけでしょう、アンタ。
423
﹁頼まれてしまっては仕方ありませんね。任せておいて下さい﹂
先輩は耳を赤くしながら、それでも照れ隠しをするように憮然と
答えた。いやいや、先輩勝手に引き受けないで下さい。頼りにされ
たのが嬉しいんでしょうが、ただのアルバイトに古書の管理なんて
任せないで下さい。私はそんな厄介な仕事はごめんです。
﹁無理です﹂
﹁オクト魔法学生なら大丈夫︱︱ゴホゴホッ﹂
﹁館長?!﹂
突然館長は咳き込んだ。慌てて先輩が館長の背中をさするが、私
にはわざとにしか見えない。どれだけタイミングがいいんですか。
﹁ゴホゴホッ。でも、もし無理じゃというなら⋮⋮ゴホゴホッ。わ
しが頑張るしかないかのう⋮⋮ゴホゴホッ﹂
﹁大丈夫です。館長が休まれている間は、私達でなんとかしますか
ら﹂
﹁うぅ。いつも悪いのう﹂
﹁それは言わない約束ですよ﹂
どこか聞き覚えのある小芝居をする2人を見て、私は顔を引きつ
らせた。そもそも時属性のコンユウならともかく、何で私までそん
な難しい管理をまかせられるんだ。
﹁あの、私には︱︱っ?!﹂
﹁後はよろしく頼む⋮⋮ぞ⋮⋮ガクッ﹂
﹁館長。館長っ!!﹂
いやいや。自分でガクッとか言いましたから。おかしいから。絶
対演技だから。
私だってできる事ならば、協力する。でも古書の管理なんて、明
らかにバイトの領分を超えている。
無理です。
そう言おうと思ったがガシッと先輩に腕を掴まれた衝撃で言葉に
424
詰まった。
﹁さあオクトちゃん、しっかり働くわよ﹂
﹁えっ。あの⋮⋮﹂
﹁さあ、エスト君。オクトちゃんの反対側の腕を持ってくれる?じ
ゃあ、館長失礼しました。後でお薬持ってくるので、今度こそ、ち
ゃんと寝ていて下さいね﹂
﹁いや。ちょっと、待て。私はまだやるとは︱︱﹂
︱︱言ってませんから。
パタン。
しかし無情にも、反論する間もなく、目の前で扉は閉まった。
私はナサに捕えられたエイリアンのごとく、両腕を掴まれ館長室
を後にする事となったのだった。
425
22−1話 難解な時魔法
厄介な事になったものだ。
魔法で明かりを灯し、塔の上の方まで登った私は小さくため息を
ついた。どうやってこれほど集めたのか。見渡す限り、本、本、本
だ。
また紙媒体だけでなく、木の皮っぽいものに書かれたもの、羊皮
紙らしきもの、それどころか土に何か文字を刻み乾かした本とは到
底言えないものまで存在した。確かに全て文字媒体ではあるが、こ
れでは図書館ではなく博物館だ。
それに紙が発明されたのはそれほど古い歴史ではないはずなのに、
木の皮っぽいものに書かれたものの隣に、普通に和紙っぽいものが
置かれていたりしてよく分からない。年代ごとに分けてあるっぽい
が、時折何故かちぐはぐにみえるものが並んでいたりする。
﹁これを全部適切に管理するって、大変そうだね﹂
エストの言葉に私は深く頷いた。
これだけの量を管理するとなれば、魔力も半端なく使うだろう。
体調不良で、私達に管理を任せるのも理解できる。
私は本棚に近づき、魔方陣を確認した。見た事もない幾何学模様
だが、これが時魔法なのだろう。構造的には普通の魔法陣とそれほ
ど変わらない。
ただ時を止めるにあたって、いつの時代で止めるかや、指定先の
本はどれかなど細かい指定が入っているようだ。確かに本棚ごと時
間が止まってしまえば、本を取り出すのは不可能となる。ただし、
本の時をただ止めてしまっても、本が開かないなどの不都合が起こ
りそうなものだが⋮⋮。
426
﹁オクト、難しそう?﹂
﹁いや⋮⋮難しくはない。でも尊敬する﹂
たぶんこれはとある年代の1日で時間を固定してあるのではない
だろうか。時間を完璧に止めてしまうのではなく、指定範囲の時間
を繰り返せという命令にする事で、ページをめくる事ができるのだ
ろう。
時魔法はとても希少なので情報が少ない。つまり何処かの文献に
載っていたものを使ったのではなく、自分でこの魔法陣を編み出し
たはずだ。館長は凄い魔術師だったのだと、今更ながらに実感する。
﹁オクトが尊敬って、よっぽど凄いんだね﹂
﹁⋮⋮私だって尊敬ぐらいするけど?﹂
というか、私は誰かを尊敬した事もないような傲慢なヒトに見え
るだろうか。友人であるエストに言われるとちょっとショックであ
る。
﹁ああ、ごめん。そういう意味じゃないんだ。ほら、オクトの周り
にいる魔術師って凄い人物ばかりだし、目が肥えてるだろうなって
思ったんだよ﹂
なんだ、そういう事か。
確かに一番近くに居るアスタの魔法は、確かに凄い。魔術師とし
ては、国で一番だろう。それにその息子であるヘキサも凄い魔術師
であり、私の担任でもある。
﹁そういえば、コンユウはどう?結構な量があるけれど、何とかな
りそう?﹂
無言で本棚を眺めるコンユウに、エストが声をかけた。時魔法が
使えるのはコンユウだけなので、一人で何とかならなくても、何と
かするしかない。
﹁⋮⋮だ﹂
﹁何?﹂
427
小さな声で呟かれた為、私は何を言われたか分からなかった。聞
き返すと、コンユウは顔を赤くして、私をキッと睨みつけてきた。
﹁無理だっていってるだろっ!!俺はまだ時魔法に成功した事がな
いんだよっ!!悪かったな!!﹂
⋮⋮へ?
なんですと?!
とんでもないカミングアウトに、私はコンユウをマジマジと凝視
した。成功した事がない?えっ、一度も?!
﹁えっと。魔法が使えないのにどうやって進級を?﹂
﹁俺は元々、風の属性だけだったんだよ。時魔法が使えなくたって、
不自由はないんだからな﹂
現在不自由してるけどね。
私の隣で、エストが大きくため息をついた。
﹁だったら、ちゃんとあの時館長に言わないと﹂
﹁⋮⋮だって、できないって認めるのは悔しいだろ﹂
うおぉぉい。
そんな理由で、今私達はピンチに陥ってるんですか?!しかしコ
ンユウはぷいっとそっぽを向いたままだ。
﹁えっと。でも魔方陣は既存だし、練習すれば⋮⋮﹂
﹁時属性なんて、俺は元々持っていなかったんだ。どんな魔力なの
か、分からなくったって仕方がないだろっ!﹂
うわぁ⋮⋮。どんな魔力かも分からないというのは、かなり重症
だ。
自分の魔力というものは、なんとなく分かるものである。私も風
属性と水属性の2種類の魔力を使うが、なんとなく感覚で使い分け
ていた。その感覚の部分が分からないと言われても、私は時属性で
はないので上手く教えてあげる事もできない。
魔力を上手く扱えないというだけならば、練習あるのみだが⋮⋮
428
時属性の魔力事体が分からないとなるとどうしたらいいのだろう。
﹁⋮⋮館長に聞きに行く?﹂
病気で眠っている館長に声をかけるのは忍びない。しかしコンユ
ウが上手く引き継ぐ前に、館長の魔力供給が途切れてしまったら、
とんでもない事になる。
そうならない為にも、一度、指示を仰ぎに戻るべきだ。もしかし
たら、時魔法の使い方のコツを教えてくれるかもしれない。
﹁嫌だ﹂
嫌だじゃない。
しかし私の言葉など聞く耳を持ちそうになかった。そっぽを向い
たまま、口を一文字に結んでいる。この頑固者め。
移行に時間がかかる事ぐらいは、私やエストでも館長に進言でき
る。しかし時属性なのに時属性が分からないヒトが時魔法を使いこ
なすまでにはどれぐらいかかるものなのか。
﹁こうなったら魔王⋮⋮じゃなくて、アスタリスク魔術師に相談し
たらどう?﹂
﹁えっ?アスタに?﹂
﹁アスタリスク魔術師は時属性ではないけれど、時属性について少
しは知ってそうじゃない?﹂
うーん。
確かに魔法オタクなアスタならば、何かしら知っていてもおかし
くはない。おかしくはないが、アスタは忙しい。私としてはあまり
迷惑になりたくないところだが⋮⋮。それに︱︱。
﹁アスタに聞くよりは、館長の方がいいような⋮⋮﹂
﹁館長は嫌だ﹂
﹁何で﹂
﹁あんなよぼよぼじいさんをこれ以上こき使えるわけないだろ。別
429
に館長の為じゃなくてな、俺の所為で具合を悪くしたら気分が悪い
んだよ﹂
あー、ツンデレのデレが発動していたわけね。
しかし館長を思っての発言と分かると、私も流石に頭ごなしに我
がまま言うなとは言えない。
﹁アスタリスク魔術師って、アンタの父親だろ。話を聞いてやるか
ら呼べよ﹂
聞いてやるって、何様だ。アスタは王宮魔術師で忙しいというの
に。
コンユウの言い方に、カチンときかけた所で、エストがぽんと私
の肩を叩いた。
﹁コンユウ、自分ができないのが悪いんだから、アスタリスク魔術
師にそんな口を聞いたらダメだろう?﹂
﹁だって、混ぜモノの父親だろ﹂
﹁アスタは私を引き取っただけ﹂
コンユウが混ぜモノが嫌いな事は分かっている。その話はもうお
腹いっぱいだけれど、あえてとやかく言うつもりはない。しかし混
ぜモノが嫌いだからって、ただ引き取ってくれたアスタを貶すとい
うのならば、私だって黙ってはいられない。私はコンユウを睨みつ
けた。
しかしコンユウはコンユウで、私の事を困惑したような顔で凝視
する。
﹁お前⋮⋮孤児なのか﹂
﹁そうだけど﹂
だからなんだ。
するとコンユウはバツの悪そうな顔をした。もごもごと小さく何
かをつぶやいては、視線をさまよわせる。
﹁はいはい。喧嘩はそれぐらいにしてよね。オクトには悪いけど、
430
アスタリスク魔術師に連絡取ってくれない?アスタリスク魔術師が
忙しいのは知っているから、ダメなら仕方がないけれど、時魔法を
よく知らないオレ達だけで考えても話が進まないと思うんだ﹂
確かにエストの言う通りだ。
魔方陣の構造だけならば、私とエストで手分けして調べれば何処
に時魔法が、どういう形で使ってあるかなどは分かると思う。しか
し肝心の時魔法をコンユウが使えないのでは話にならない。
それにもしもアスタが時魔法をよく知らなかったとしても、何か
代案を一緒に考えてくれそうだ。
私は小さくため息をついた。
﹁無理かもしれないから、期待しないで。後、紙とペンを貸して﹂
エストから紙とペンを借りると、私はそこに現状と時魔法を教え
て欲しい旨を書いた。もちろん忙しいならば今度でいいとも付け足
しておく。そうでないと私に甘いアスタは、全ての仕事を放り出し
てきてしまう気がする。それだけは避けなければ。
手紙を書き終えた私は、ペンを置くと、数珠状の腕輪に視線を落
とした。この腕輪は、私の進級祝いにアスタがくれたもので、装飾
品の形をした魔法具だ。石の一つ一つに転移魔法陣などの魔方陣が
描かれていて、魔方陣を創造する手間を省いてくれる。その中にあ
るアスタへの連絡用の魔方陣に魔力をそそいだ。
すると目の前に光の魔方陣が現れる。その中に、私は手紙を置い
た。
﹁我が願いを届けよ﹂
私の声に反応し、魔法陣の中に置かれた紙は鳥の形へ変化した。
紙でできた鳥は本物の鳥のように、数度羽を動かすとすっと姿をけ
した。
私はそれを見届けると、魔方陣に注ぐ魔力を止める。この魔法陣
431
は初めて使ったが、何とかなるものだ。
﹁今の何だ?﹂
﹁魔力でできた伝書鳩﹂
﹁魔力でできたって⋮⋮オクトって、相変わらず凄いね﹂
﹁いや、私は凄くないから﹂
これをくれたのはアスタなので、凄いのはアスタだ。だからエス
トにそんなキラキラとした目で見られても困る。
私はとりあえず、アスタから返事が来るまでの間、エストの誤解
を解くべく腕輪について説明をする事にした。
432
22−2話
﹁さあオクト、何でも聞いてごらん﹂
﹁⋮⋮仕事はどうした﹂
いい笑顔で小首を傾げるアスタに、私は、今一番の疑問をぶつけ
た。
アスタに時間があれば聞きたい事があると手紙を送ったのは私だ。
だが、まさか連絡をとった10分後に目の前に現れるなんて誰が思
うだろう。私はいくらなんでも、手紙でいつ頃なら大丈夫と書いた
ものを送ってくるだけだろうと思っていた。
﹁急ぎの仕事はないから大丈夫だよ。それに、オクトより大切なも
のがあるわけないだろ?﹂
﹁いや、沢山あると思う﹂
恥ずかしいセリフを真顔で言うな。
しかし本当に文句を言いたいのは、私でもアスタでもなく、アス
タの同僚の方だろう。私は心の中で、同僚の方々に謝罪した。この
短時間でここに来るという事は、仕事をほっぽり出してきたに違い
ない。
私は深くため息をついた。呼びだしておいて申し訳ないが、こう
なったら、聞くだけ聞いて、早く仕事に戻ってもらおう。
﹁あー⋮⋮聞きたいというよりは、相談事。コンユウの事で﹂
チラリとコンユウを見ると、コンユウはぶすっとした、愛想のな
い顔でアスタを見ていた。それでも文句を言わずに黙っている辺り、
一応聞く気はあるらしい。
﹁ふーん。君があの、コンユウか﹂
おや?
433
ちょっぴり寒い空気が流れた。あのってどのだ?
コンユウについてアスタに何と説明したか、思い出してみるが、
愚痴った事があるぐらいしか思い出せない。もしかしたら、心配性
なアスタの事だ。私がコンユウに虐められていると思ったのかもし
れない。コンユウは基本ツン100%なので、確かにある意味虐め
られている気はする。しかし私も相手をしないようにしているので、
お互い様だ。
﹁えっと。実は館長に古書の管理を頼まれたんだけど、管理する魔
法が時魔法で⋮⋮。時属性はコンユウしかいないけど、コンユウは
自分の時属性の魔力が分からないらしい。私は時属性を持っていな
いし、なんとかならないかな?﹂
﹁へぇ。所で、なんでオクトがコンユウの面倒を見ているのかな?﹂
﹁えっ?みていない。ただ館長に私も管理を頼まれただけ﹂
というか、面倒なんてこのツンデレ少年がみせてくれるはずがな
い。
﹁たぶんコンユウの面倒を見ているのはエストだと思う﹂
﹁誰が面倒みられている︱︱むがっ﹂
﹁はいはい。コンユウは黙っている約束だろう?﹂
エストはにこりと笑いながら、話を脱線させかねないコンユウの
口をふさいだ。こういう所が、エストの方が保護者に見えるんだよ
なと思う。学年だけをみれば、エストの方が下なんだけど。
﹁まあいいけど。とりあえず、時属性の魔力が感覚で分からないな
ら、目で見ればいいんじゃないか?視覚なら分からないなんて事は
ないだろ﹂
﹁えっと、どうやって?﹂
そりゃ目で魔力や魔素が見れれば、これほど分かりやすい事もな
い。しかし見えないから、なんとなくというあやふやな感覚で魔法
を使っているのだ。
434
﹁ああ。そういえば、教えてなかったっけ。魔法を使うのに、視覚
だけが頼りになってしまうと困るからね。とりあえず、自分の属性
の魔方陣を瞼の上に思い描いて魔力を流せば、見る事ができるぞ﹂
﹁それだけ?威力とかの指定は?﹂
﹁魔力を瞼の上に留めるだけだけが目的の魔方陣だから、特に指定
はいらないかな。まあ実際にやるとこんな感じだ。⋮⋮我が声に従
い、異なる世界を見せよ﹂
アスタは瞼を閉じると、魔法を発動した。
そして再び瞼を開き、紅い瞳を露わにしたが、特に何かが変わっ
たようには見えない。瞳の色が変わったり、瞳に魔法陣が浮かんで
いるなんてファンタジーな姿を想像したので、少々肩透かしだ。
﹁えっと、今は魔力が見えているの?﹂
﹁そうだよ。魔法が使えるなら、それほど難しくはないからやって
ごらん﹂
やってごらんて。
半信半疑だが、アスタが、魔法に関して嘘を教えた事はない。私
は目を閉じると、瞼の上あたりに、風の魔方陣を思い浮かべた。
﹁我が声に従い、異なる世界を見せよ﹂
いつもなら手の辺りに移動していく魔力を、目の方へ移動させる。
魔力が魔法陣に留まり、何処かへ逃げていく事がないため、若干だ
が目の辺りが熱い。私はこれでいいのだろうかと、そろりと目を開
けた。
﹁⋮⋮何これ﹂
魔力のレンズを通して見た世界は、今までと全然違った。いや、
姿形は変わりない。図書館が草原になったとか、そんな馬鹿げた事
も起こっていない。
435
違うのは色彩だけだ。
時魔法が発動しているであろう本棚は、うっすらと紫に発光して
いた。さっきまでは確かに何の変哲もない木製の本棚だったはずな
のに。
さらに私の周りを様々な色に発光した球がふよふよと飛んでいく。
まるで電飾をつけられたクリスマスツリーのようだと馬鹿げたイメ
ージが頭に浮かぶ。
しかし一番それが正しいかもしれない。いきなり、光に溢れたイ
ルミネーションだらけの世界になってしまったのだから。
﹁その光り輝いているのが、魔力だよ。魔力は属性ごとに色が違う
からね。本棚を覆っている紫色が、時属性だ﹂
﹁この丸いのは?﹂
ふよふよと動いているので、魔素とかだろうか。私が触ろうと手
を伸ばすと、球の方からこちらに寄ってきた。⋮⋮夜に一人で見た
ら、人魂っぽくて怪談話になりそうな形状である。
﹁オクトには丸く見えるんだ。コイツらは、精霊だよ﹂
へー、精霊⋮⋮。
﹁精霊?!﹂
えっ?私の先祖が、この丸い球?!
どう見ても、ヒトではない。ヒトどころか、生き物には見えない
姿に愕然とする。⋮⋮このまん丸な体でどうやって子供を産み、ど
うやって育てるのだろう。キャベツ畑から拾ってきたと言われた方
が、まだリアリティーがある。
﹁えっと、オレには、羽の生えた小人がオクトの周りを飛んでいる
ように見えるんだけど﹂
羽の生えた小人?この丸い謎のイルミネーションが?
どうしたらこの丸い物体が、そんなファンタジーなものに見える
のだろう。まあ、羽の生えた小人でなくても、十分ファンタジーだ
436
けど。
﹁は?小人?これって、小さいけど龍じゃないか?﹂
うーん。コンユウの目にも中々なファンタジーなものが映ってい
るようだ。
それにしても、皆違うものが見えるって、一体どうなっているの
だろう。もしかして丸い球に見える私がおかしいのだろうか。私は
助けを求める為アスタを見上げた。
﹁そんな心配そうな顔をしなくても大丈夫。オクトが間違っている
わけじゃないから。低位の精霊は、そもそも姿というものがない魔
力の塊だ。無理やり見ようとすると、視界の持ち主の記憶を使った
姿が見えるんだ。きっとオクトは精霊を想像した事がなかったから、
丸い光にみえるんだよ﹂
なんとなく理解はできたが、どうにも自分に想像力というものが
かけているように思え、がっくりと肩を落とした。
羽の生えた小人は、きっと妖精のような可愛らしい姿をしている
のだろうし、小さな龍ならカッコいいのではないだろうか。なのに
どうして私はこれほどまでに可愛らしさがかけらもない想像力なの
か。電球はないよなぁと自分でも思う。
少し落ち込んでいると、丸い物体は、ふよふよと私に近づいて来
た。
もしかしたら慰めてくれているのかもしれない。とりあえず、ち
ゃんと生き物のようだ。どう頑張っても、私の目にはそう見えない
けれど。
﹁それにしても、オクトの周りには精霊が多いんだね﹂
﹁そりゃ、うちの子ほどかわいい子はいないからな﹂
﹁で。本当のところは?﹂
そんな戯言で誤魔化されても困る。しかしアスタは心外なという
437
顔をした。
﹁本当もなにも、可愛いからに決まっているだろう。オクトの魔力
が強いから、そのおこぼれにあずかろうと精霊が寄ってきているの
も確かだけどね﹂
うん。きっと、後半の内容のが真実なんだろうなぁ。
それにしても、魔力が見える世界というのは、不思議な世界だ。
先ほどまでは、アスタの瞳はいつもと変わらないように見えたの
に、今は闇の魔法陣がその瞳に浮かんでいるのが見える。普段魔法
を使っている時も、魔法陣が目の前に現れていたりしたのだろうか。
﹁それで、俺はどうしたらいいんだよ﹂
不機嫌なコンユウの声に、私は当初の目的を思い出した。そうい
えば精霊を見る為にアスタを呼んだのではなかった。
コンユウの紫の瞳には風の魔方陣が浮かんでいる。
﹁目はそのままで、手の方にも魔力を動かしてみろ﹂
コンユウはアスタに言われるままに手の方へ魔力を移動させたよ
うだ。コンユウの手が発光する。その光は黄色になったり紫になっ
たりと交互に色を変え揺らめく。
﹁黄色が風属性、紫が時属性だ。後は紫の光だけをだしても安定で
きるように勝手に練習すればいい﹂
なるほど。
確かに感覚だけでこれかな?っと思ってやるよりは、とても分か
りやすい。
コンユウもさっそく練習を始めたようで、手に集める魔力を大き
くしたり小さくしたりしながら、時属性の魔力を感じとろうとして
いた。
﹁アスタ、ありがとう。助かった﹂
御礼を言うと、アスタはヘラっと顔を緩めた。そして私の頭をわ
438
しわしと撫ぜる。
﹁どういたしまして﹂
さてと。コンユウが時魔法の練習をしている間に、私は時魔法が
何処でどのように使われているかを調べる必要がある。
しかし折角魔力が見えるようになったと分かると、私も自分の魔
力というものを見てみたくなった。少しぐらいははいいかと、掌に
魔力を集める。
最初はぽうっと黄色の光になった。これが風属性なのだろう。そ
の後徐々に青色が侵食していき色が変わる。きっとこれが水属性に
違いない。さらに色が揺らめき、今度はチラチラと黒色が混じる。
この色はアスタの瞳に浮かんでいる闇属性の魔方陣と同じだ。どう
やら私は闇属性も持っていたらしい。
属性は1人1つというのが普通だ。2つ持っているだけでも珍し
い方なのに、3つとは⋮⋮。やはり混ぜモノだからだろうか。
さらに青色から色が変化した瞬間私は驚いて、魔力のバランスを
崩した。崩すと同時に、視界がいつもの風景に代わる。
﹁オクトどうかした?﹂
﹁⋮⋮なんでもない﹂
心配そうにのぞきこんでくるアスタの瞳に魔法陣はもう見えない。
私は心配させないように首を横に振った。
﹁この魔力を集めておくのは地味に消耗するからね。疲れたなら少
し休むといいよ﹂
疲れたというわけではないが、私は素直に頷いた。心臓がバクバ
クと鳴っている。
別に見てはいけないものを見たというわけではない。でも何故か
不安になって、私は先ほど見えた光は心の中に留めておく事にした。
きっと見間違いに違いない。
私は手のひらに視線を落とし小さく息を吐く。もう見えないが、
439
あまり見たいとは思えなかったので、少しだけ見えない事にホッと
する。
最後に見えた、黒色の光によく似た、黒紫色の光はとても異質な
ものに感じた。 440
22−3話
時属性。時に干渉する事ができる属性で、生まれながらにして持
つ者はいない。混融湖に沈んだ事のあるものが身にまとう事ができ
る。
混融湖。龍玉大地の中央に位置する湖。海のように波がある為、
様々なものが流れ着く。ただし混融湖では浮く事ができない為、湖
の中へ入る事はできない。
﹁⋮⋮つまりどういう事?﹂
コンユウが時属性の魔法を練習する間に、時属性について調べて
おこうと思った私は、最近その手の文献を読みあさっていた。しか
し調べれば調べるほど、時属性が謎になってくる。
というか、情報が混ぜモノ並みに少なすぎる。時属性が後天的に
身につく属性である事は分かったし、それと混融湖という湖が密接
に関わっている事も分かった。でも肝心の混融湖が謎すぎる。
そもそも浮かぶ事ができない湖に沈んだら、死んでしまうではな
いか。それなのに時属性は浮かばない湖で、沈まないと身につかな
いという。つまりドザエモンのみ、得られる力⋮⋮。
﹁って、待て待て。コンユウも館長も生きてるんだけど﹂
少なくとも2人はドザエモンではない。もしもドザエモンなら、
彼らはゾンビである。そういう、ホラー的要素はいらない。まった
くいらない。
﹁物が流れ着くって書いてあるし、偶然流れ着いて助かったとか?﹂
ゾンビ説よりは、可能性がある。
それに浮かぶ事ができない混融湖ならば、助かる確率は低そうだ。
441
運だけに任せるならば、時属性のヒトがほとんどいないという事も
納得できる。
そこまで考えたところで、私はふと自分の手に視線を落とした。
﹁私は⋮⋮混融湖なんて行った事ないよね﹂
小さい時の記憶は、あやふやだ。もちろん誰だって、赤ん坊のこ
ろの記憶はないはずなので、私がおかしいというわけではない。
ただ、あやふやな記憶の中に、色んな国を渡り歩いた覚えだけは
あった。旅芸人だった私がその近くを旅していた可能性はある。
ふと不安になった私は、首から下げているお守りを握りしめる。
先日見えた、黒紫色をした魔力がどうしても頭から離れない。あれ
は、闇属性と時属性だったのではないだろうか。
時属性があるから何か問題があるわけではない。コンユウの魔力
や館長の魔力はとても綺麗な色に見えた。異質で怖く感じたのは、
自分の魔力だけだ。
﹁あー⋮⋮アスタへの秘密が増えていく⋮⋮﹂
私は頭を抱えて、机に頭をつけた。
もしかしたら、時属性を持っているかもしれない。
それは第一王子に会ってしまった事を伝えるよりも、とても難易
度の低い内容だ。でもあの魔力がどうしても異質で気持ちが悪いも
のに思えて、中々自分から口にできない。
﹁うぅぅ⋮⋮﹂
あの時驚いて止めてしまわなければ、こんな風に悩まなかっただ
ろうに。自分のチキンさが憎らしい。
﹁オクト、悩み事?それとも何か分からない事でもあった?﹂
﹁えっと﹂
うーうーと呻っていると、エストが声をかけてきた。
顔を上げれば、心配そうな顔をしたエストと目が合う。話してし
442
まえば、たいした事ないと思えるかもしれない。でも思えなかった
ら⋮⋮。
﹁もしかして、オクトが時属性を持っていた事で悩んでるとか?﹂
﹁えっ﹂
何でそれを?
エストを凝視したまま、固まっていると、エストは苦笑いをした。
﹁ずっとオクトの方を見ていたからね。あの時、時属性が現れて、
驚いて魔力のバランスを崩したでしょ?その後から少し元気がない
し﹂
エストの言葉に私は、おずおずと頷いた。私は別にあの魔力を隠
したいわけではない。ただあまり思いだしたくないだけなのだ。
﹁あ、あのさ⋮⋮﹂
﹁何?﹂
どう伝えよう。
なんて言ったら、この不安を伝える事ができるのだろう。ぐるぐ
ると悩む。その間、エストは急かす事なく、ジッと待っていてくれ
た。
﹁私の時魔法⋮⋮どう思った?﹂
考えて、考えて、考えた結果出てきた言葉は、これだった。考え
たかいがないぐらい、核心もなにもついていない言葉に、がっくり
と項垂れる。
もう少し何かあるだろうと思うが、どうしてもこの不安を伝える、
いい言葉が見当たらないのだ。それでもエストは嫌な顔一つせず、
考えてくれた。
﹁うーん。オレは、綺麗な色だなって思ったけど。オクトは違った
の?﹂
エストの言葉に私は頷く。
あの時、綺麗な色とか、そんな事を感じる暇もなかった。
443
﹁異質な力に思えて⋮⋮、怖かった﹂
ようやく適切な言葉が見つかった気がした。そうだ。この感情は
不安ではなく、恐怖に近いものだ。まるで箒で空を飛んだ時のよう
な、命にかかわるのではないかというような怖さだった。
﹁オレにはそう感じなかったから⋮⋮もしかしたら、オクトには何
かトラウマがあるのかもね﹂
﹁トラウマ?﹂
虎と馬という話してはないだろう。
現在の自分の状況を考えると、精神的外傷の方だ。
﹁たしか時属性って、混融湖に沈んだ事がないと身につかないんだ
よね。混融湖なんかに沈んだら、普通は生きていられないものだし、
その事故がトラウマになっているんじゃないかな﹂
なるほど。
確かに混融湖に落ちていたとしたら、一生のトラウマになりそう
な体験だ。記憶にないと思っていても、何処かで覚えているのかも
しれない。そう考えれば、そのトラウマが原因で身についた時属性
に恐怖を覚えたとしてもおかしくはない。
エストの言葉が妙にしっくりときて、私はほっとした。
よかった。異質な力に思えたのが、トラウマを持った私だけなら
ば問題ない。この力がアスタの迷惑にならずに済むと思うと、どっ
と力が抜けた。
﹁エストありがとう﹂
﹁どういたしまして。それで、オクトは後は何を悩んでいるわけ?﹂
﹁へ?﹂
﹁それだけじゃないでしょ?﹂
⋮⋮もしかして、第一王子に会ってしまった事や、神様に会う事
になってしまった事を言っているのだろうか。
私はできるだけポーカーフェイスに勤めたが、はたしてどれだけ
444
誤魔化せただろう。不意打ち過ぎて、私は少しだけぎくりとしてし
まった。
﹁えっと、なんの事?﹂
﹁もしかして、第一王子に会ってしまった事を悩んでるとか?そん
なのオレは悩んだって仕方ないと思うけど﹂
﹁へ?知っていたの?﹂
エストの言葉に私はぎょっとした。
まさか知られているとは。でもよく考えれば、カミュは第一王子
の弟なわけだから、会った事を知っていたっておかしくはない。そ
してカミュが知っているならば、ライだって知っていたっておかし
くないわけで、そこからエストに伝わったのだろう。
なんだ。知っていたのか。
そう思うと、今まで悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。
﹁やっぱりそうだったんだね﹂
﹁そうだったんだねって⋮⋮いつから王子と会ってしまった事を知
っていたの?﹂
知っていたなら早く言ってくれればいいのに。いや、でも黙って
いた自分が悪いわけだから、それを責めるのは筋違いだろう。
﹁今かな?﹂
ん?⋮⋮今?
にっこりと笑うエストから出てきた言葉が理解できず、私は首を
傾げた。
﹁丁度オクトの元気がなくなったのが、その辺りからだからね。も
しかしたら、そうじゃないかなぁって思ったんだ﹂
えーっと、つまり⋮⋮。
﹁もしかして⋮⋮鎌をかけた?﹂
﹁人聞き悪いなぁ。ちょっと推理して、それが正しいか聞いただけ
445
じゃん﹂
すみません。それを世の中のヒトは、鎌をかけるというんだと思
います。
そう思うが、エストがあまりに堂々としているので、自分の方が
間違っている気になってくる。いやでも、隠し事なんて誰だってあ
るわけだし。それを騙し打ちのような形で聞き出すのはどうかと⋮
⋮。
﹁そんな事でよかったよ。オクトの元気がなくて心配したんだから
ね﹂
﹁そんな事って。折角皆が会わないようにしてくれたのに⋮⋮。そ
れに王子に目を付けられたし﹂
自分の間抜けさを呪いたい気分だ。せめて王子の絵姿とかを確認
しておけば、あんな凡ミスしなかったのに。甘く考えていた自分が
悔しい。
﹁別にそんなの、オクトが悪いわけじゃないからいいんじゃない?﹂
﹁でも⋮⋮また心配をかける﹂
第一王子に目を付けられたなんて知ったら、アスタは何か無茶を
するのではないだろうか。アスタは王宮で働いているし、爵位もあ
る貴族だ。守るべき王子と対立なんて事態になったら困るだろう。
﹁オクトの元気がない方が心配すると思うけど。まあいいか。それ
で、王子に会ったから悩んでいるわけじゃないでしょ?何か無理難
題を言われたわけ?﹂
どうしてエストにはバレてしまうのだろう。
結構上手く隠せていたと思うのに。これが親友パワーというもの
だろうか。ある意味幼馴染でもあるしなぁ。
﹁今度神様に会う事になってしまった﹂
ここまでバレてしまっているなら、これ以上黙っていても仕方が
446
ない。私は正直に話す事にした。
﹁⋮⋮オクトが悩むぐらいだから難しい事を言われたんだと思った
けど、それは想像外だったかな﹂
﹁うん。私も斜め上過ぎる内容だと思う﹂
どうして一般庶民の私が神様に会う事になってしまうのか。
とりあえず、エストが信じてくれただけでも奇跡に近い気がする。
普通のヒトならば、神様に会うなんて頭がおかしいんじゃないかと
思いそうなものだ。
この世界に生き神がいる事は誰もが信じている事実だ。しかし実
際に会った事がある人なんてほとんどいない。
﹁王子には、会うための準備をするように言われたが⋮⋮何をすれ
ばいいのか分からない﹂
﹁それで、魔王⋮⋮じゃなくて、アスタリスク魔術師に心配をかけ
たくないから相談もできなかったと﹂
エストの言葉に私は頷いた。
するとエストが深くため息をついた。やはりエストも神様に会う
なんてどうしたらいいのか分からないのだろう。
﹁オクトらしいというか、オレもまだまだというか⋮⋮。でも相談
されるだけマシか﹂
﹁マシ?﹂
﹁あー、オレの事はあまり気にしなくていいから、今度から早く相
談して。解決できないかもしれないけれど、力になるから﹂
そうやら私が相談しなかった事の方がエストには問題だったよう
だ。そんなに心配をかけていたのだと思うと、申し訳ないと思うと
同時に、嬉しかった。流石皆のお兄ちゃんである。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしましてといいたいところだけど、今回の内容はオレの
手にはあまりそうかなぁ。神様に会った事があるのは王族か、神殿
447
で働く神官くらいだからね﹂
﹁だよね﹂
エストは王族でも神官でもない。
図書館の本にも、ほとんど神様の事が書いてはない事は調べ済み
である。エストが私以上に神様の事を知っているという可能性は低
い。
﹁精霊が喋れれば、何か聞けたかもしれなかったんだけどなぁ﹂
﹁えっ?﹂
﹁ほら。高位の精霊は神様の近くにしかいないんだしさ。低位の精
霊だって、少しは知っていてもおかしくないと思うんだ﹂
確かにその通りだ。低位といっても、精霊は精霊だ。同じ種族な
らば、交流があるだろう。例え実際には会った事はなくても、私達
よりは神様について知っていそうだ。
﹁でもこの間教えてもらった魔法じゃ、姿が見えるだけだったから
ね﹂
﹁⋮⋮何とかなるかもしれない﹂
声が聞こえなくても、姿は見え、私の周りに居るのだ。
私は頭に浮かんだ前世のとある遊びを、エストに伝えた。
448
23−1話 謎だらけな神様
こっくりさん。エンジェルさん。お狐様。
色々な呼び名はあれど、やっている事は同じだ。目に見えず、声
も聞こえない相手と交信するのが目的の遊びの名前である。
私はその遊びをする為、机の上に、﹃はい﹄と﹃いいえ﹄、それ
と龍玉文字を書いた紙を用意した。その上に、コインを置く。﹃は
い﹄、﹃いいえ﹄の場所には○と×という記号も書きいれ、分かり
やすくしておいた。
﹁これがこっくりさん?﹂
エストの言葉に、私は頷いた。
ただしこんくりさんは、幽霊とかそういった類の目に見えず、わ
けが分からない何かとの交信になってくるので、今回とは少し違う。
精霊族という、目には見えないが、わけが分からない生物ではない
モノと会話するのだ。
正確にいうなら、フェアリーさんとか精霊さんという名前になっ
てくるだろう。
とりあえず、相手が精霊ならばとりつかれたや呪われたなんてホ
ラー的なオチはないはず。⋮⋮ないよね。
﹁何だか占い部とかが好きそうな形だね﹂
確かに、こっくりさんは占いの進化系のようなものだ。学生が﹃
A君の好きな子を教えて下さい﹄みたいな事をお願いして、キャー
キャー騒ぐようなイメージがある。
もちろんイメージだけで、実際にやるヒトがいるかどうかは分か
らない。
449
﹁そういえば、どうしてこっくりさんって呼ぶの?﹂
﹁えっと⋮⋮居眠りしそうだとか?﹂
つまらなくて、こっくりこっくり、船をこぐ的な。⋮⋮うん、た
ぶん違うな。
しかし私の前世の記憶には、名前の起源の知識は入っていなかっ
た。あったのは、こっくりさんの大雑把なやり方ぐらい。実際に1
度でもやった事があるとは思えない知識量だ。
きっとテレビか何かで手に入れた知識だったのだはないだろうか。
そもそも通りすがりの幽霊が、どうしてA君の好きなヒトを知っ
ているのか。たまたま偶然A君のストーカーだったのか。それだと
違う意味のホラーだ。謎の多い遊びである。
﹁えーっと、それ本当に大丈夫?﹂
エストが私の適当な発言に不安になったようだ。うつろな目で紙
に視線を落とす。
﹁今回は精霊を見る事ができるし、たぶん大丈夫﹂
形式はこっくりさんと同じだが、ようは精霊と筆談をしていると
考えればいいのだ。普通の筆談だと、手があるかどうかも分からな
い精霊では大変だと思うので、コインを動かしてもらうだけにした
のだ。
また幽霊とは違い、ちゃんと視覚で精霊を見ることができるので、
何かよく分からないものがコインを動かしていますよ的な怖い事も
起こらない。
﹁ただ問題は、精霊にする御礼﹂
﹁やっぱり、魔力がいいのかなぁ。お金を使う事はなさそうだし、
お菓子とかは食べられないよね﹂
昔読んだ、精霊魔法の本には、精霊との契約の危険さが書いてあ
った。
今回は精霊に魔法をお願いするわけではないが、情報提供に対し
450
て、どれぐらいの魔力を要求してくるものなのか。私は比較的、魔
力が多い方なので、ある程度は答える事ができそうだが⋮⋮。
﹁まあ、聞いてみるしかないか﹂
考えたって、私は精霊ではないので、分かるはずもない。
そうと決まればと、私は目を閉じ、瞼の上に魔法陣を思い浮かべ
た。
﹁我が声に従い、異なる世界を見せよ﹂
再び目を開けると、相変わらず電飾いっぱいな世界が広がった。
ちなみに精霊の姿は今回も電球である。⋮⋮想像力が欠如していた
って、生きていく上では問題ないと私は開き直る事にした。ないも
のはないので、仕方がない。
﹁こんにちは、精霊族の方々。私と少し話をしませんか?﹂
気を取り直して、私は精霊に声をかけた。
精霊達は突然声をかけられて驚いたらしい。私の方をマジマジと
凝視し、精霊同士で相談しているようだ。電球の動きがピタリと止
まっている。
﹁よろしければ、そちらのコインを動かして、教えて下さい﹂
精霊達は動かなかった。
いい考えだと思ったが、やはり駄目だったか。そう思った時、黄
色の電球がすっとコインの方へ動いた。コインは黄色の電球に押さ
れ、ずりずりと紙の上を滑る。そして﹃はい﹄のところで止まった。
﹁オクト﹂
エストが感極まったように私の名前を呼んだので、私はコクリと
頷いた。成功だ。
黄色ということは、きっと風の精霊なのだろう。
﹁ありがとうございます。いくつか教えてもらいたい事があるので
すが、よろしいですか?﹂
451
コインは、﹃はい﹄の上から動かなかった。たぶんいいという事
だろう。
﹁貴方は風の精霊ですか?﹂
この質問でもコインは動かない。
﹁貴方は神様にお逢いした事がありますか?﹂
先ほどまで静止していたコインは、再び紙の上を滑り、﹃いいえ﹄
の方へ移動した。うーん。やっぱり精霊ならば、誰でも神様に会う
事ができるというわけではないらしい。
﹁神様について、一族の方に聞いた事はありますか?﹂
﹃はい﹄
﹁高位の精霊の方にお逢いし、話した事はありますか?﹂
﹃はい﹄
高位と低位という差はあれど、同じ一族ならば話しはするようだ。
そうなれば、神様については、私達よりはよく知っているはずであ
る。
今度は実験的に、﹃はい﹄と﹃いいえ﹄以外で答える質問に私は
変えることにした。全てを2択で答えられる質問にするのは少々骨
が折れる。しかし精霊が龍玉語を読み書きできない可能性もあるの
で、その場合は頑張るしかない。
﹁神様の名前を知りたいのですが、教えてくれますか?﹂
コインが﹃はい﹄の場所から動かないので、答えてはくれるよう
だ。
﹁樹の神様の名前を教えて下さい﹂
コインは中々動かなかったが、しばらくすると、ゆっくりと、﹃
いいえ﹄ではない方へ動き始めた。
成功かと思ったが、今度はウロウロと迷走しはじめた。
識字率が高くはない世界だし、やはり精霊族も龍玉語をあまり知
らないのかもしれない。これは2択で頑張るしかなさそうだ。
452
﹃は﹄、﹃つ﹄、﹃゛﹄、﹃き﹄。
ため息をつきながら迷走するコインの動きを追っていくと、突然
すいすいと動き出した。
何が起こったのだろう。よく見れば、ヒトの指がのっかっている。
もしかしてエストだろうかと思い横を見たが、エストはぽかんと
した顔で、私の前をみていた。エストの手は横にあり、コインの方
へは伸びていない。
﹁コイツら、まだ龍玉語は知らないから、勘弁してやってくれない
か?﹂
話しかけられ前を向けば、黄色に発光する女性がいた。獣人族の
ような瞳孔の長い琥珀色の瞳でまっすぐ私を見つめている。
⋮⋮いつの間に。
﹁代わりに、俺が答えるからさ﹂
﹁えっと、貴方は⋮⋮精霊族の方ですか?﹂
自分が答えるという事は、つまりはそういう事だろう。低位のよ
うな電球の姿ではないという事は、中位もしくは高位の精霊族に違
いない。
﹁まあ、似たようなものだな。俺の名前は、カンナだ。よろしくな、
オクト﹂
そういってカンナは私の手を取ると、ぶんぶんと振りまわした。
どうやらちゃんと肉体があるようだ。電球と彼女が同じ種族だと言
われると首を傾げたくなるぐらい違う。瞳孔が長く、発光している
以外は、人族に似た姿だ。
﹁えっと、何故私の名前を⋮⋮﹂
言いかけて、ふと理由が思い当たった。低位ではない精霊がわざ
わざ私の前に来る理由なんて決まっている。
﹁招待状を持ってきたんだよ。ほら。ハヅキのサイン入り﹂
453
カンナがとりだした手紙の封筒には、確かに龍玉語でハヅキと書
いてある。それにしても、神様を呼び捨てにしてはまずいのではな
いだろうか。それとも精霊は問題ないのだろうか?
神様との関係が分からず、私はとりあえず封筒を受け取るだけに
した。
﹁で、そっちの少年は何?﹂
﹁エストといいます﹂
エストはこわばった声でカンナの質問に答えた。カンナはふーん
と言いながら目を細める。まるで獲物を狙う肉食獣のように見えて
ぞくりとした。まっすぐに見つめられたエストの顔が青ざめる。
しかしカンナは何をするわけでもなく、エストから視線を外すと、
私に対してにこりと笑いかけた。その笑みは、まるで子供のように
無邪気で、先ほどの危険な空気をまったく含んでいない。
見た目は18歳ぐらいなので、どこかアンバランスに見える。な
んだか不思議な女性だ。
﹁そっか。それで、なんでオクト達はコイツらと話しをしているわ
け?﹂
﹁王子様に神様と会う準備をしておけと言われたのですが、⋮⋮何
をすればいいのか分からなかったので﹂
﹁準備?そんなの、いらん、いらん﹂
私の深刻さを吹き飛ばすかのように、カンナはカラカラと笑った。
﹁は?﹂
﹁たぶんその王子とやらに、遊ばれたんだな﹂
遊ばれた?
誰が?私が?
想定外な言葉に呆然とする。もしかして、いや、もしかしなくて
も、あれは第一王子の嫌がらせの一環だったのだろうか。
ショックが大きくて、私は机の上につぶれた。
454
私の悩んだ日々は何だったのか。
﹁そもそも、こっちが呼びだしているわけだし。恰好も、わざわざ
改まる必要はないからな。その制服で十分だ﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
適当だなぁ。
悩んだ自分が馬鹿みたいに、あっけらかんとしている。
﹁精進料理を食べるとかは⋮⋮﹂
﹁何で?﹂
﹁⋮⋮ですよね﹂
宗教で肉食を禁じられているわけではないので、神様に会いに行
くからといって、肉断ちする必要もないだろう。
うん。完璧騙された。
﹁まあ、元気出せって。折角だし神の事だったら、何でも聞いてい
いぞ。今ならハヅキのスリーサイズも教えてやる﹂
﹁⋮⋮結構です﹂
神様のスリーサイズを聞いて私にどうしろというのか。カンナの
何処かずれた発言に方の力が抜ける。教えるにしても、もっと色々
あるだろう。
とりあえず言える事は、精霊族は変だという事だけだった。
455
23−2話
﹁そんな、乳ネタだぞ?!聞かなくていいのか?﹂
﹁いや、別に⋮⋮﹂
神様のスリーサイズを知るのを断わると、カンナは愕然とした表
情で詰め寄ってきた。むしろどうして神様の乳ネタに興味を示すと
思ったのだろう。
﹁乳は世界のロマンだろう?!﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
よく分からず、エストに振ると、エストは真っ赤な顔で首を横に
振った。
あー、少年なら興味があってもおかしくないネタか。私自身は、
それを知ったからといって何のメリットも感じないけど。
﹁エスト。聞きたいなら⋮⋮﹂
﹁変な気まわしてくれなくていいから!﹂
﹁少年。嘘はよくないぞ﹂
﹁嘘じゃないです。好きな女性でもないのに、知りたいとは思いま
せんから!!﹂
カンナにおちょくられ、エストは叫ぶ。いつも大人びているエス
トが、普通の少年のようだ。もちろん、エストはおちょくられなく
ても普通の少年ではあるのだけど。
﹁その言い方だと、好きな子のスリーサイズは知りたいという事に
なるな﹂
﹁ちょっ。オクト、そんな事思ってないからっ!!﹂
﹁あー、うん。分かっている﹂
半泣きでエストが訴えているのを見て、私は深く頷いておいた。
エストが紳士なのはよく知っている。本心は違っても、絶対ヒトが
456
嫌がることはしないはずだ。
﹁オクト、こういう奴は︱︱﹂
﹁すみません。できれば、神様と話す際の注意事項があれば教えて
欲しいです﹂
私はカンナの話を遮って、別の質問した。
エストが子供っぽく慌てる所を見るのは、新鮮で嫌いではない。
しかしこれ以上からかうのは、可哀そうだし、なんか嫌だ。
いきなり話を遮ったので怒るかと思ったが、カンナは琥珀色の瞳
を丸くするだけだった。そしてすぐにニッと笑うと、私の頭をぐり
ぐり撫ぜる。
﹁オクトはいい子だな﹂
﹁⋮⋮そんな事ない﹂
私がいい子なら、いつも友人の為に動くエストは聖人君子だ。
それにしても、カンナがよく分からない。さっきまでは子供っぽ
く思えたのに、今はまるで孫を褒めるおばあちゃんのように感じる。
カンナって、実際のところ何歳なのだろう。
﹁注意事項かぁ。まあ、あれだな。とりあえず、ハヅキの前では、
乳ネタは話さない事だな﹂
﹁は?﹂
﹁特に、貧乳とか、微乳とか、まな板とか言うなよ。言ったら、世
界が滅びるかもしれない﹂
﹁言いません﹂
そんな世界の終末は嫌だ。
というか、神様との会話で、何が起これば乳話になるというのか。
そんなセクハラ発言を神様にできるヒトがいるなら見てみたい。普
通に考えて、神様にセクハラとかありえないと思う。怒るに決まっ
ている。
457
﹁⋮⋮他にはないのですか?﹂
私はぐったりとした気分で、もう一度たずねた。どうにもカンナ
の話は斜め上にずれている。
﹁他?んー。特にないな﹂
カンナは少し考えたようだが、わりとあっさり答えた。なんとい
うか役立たない。今のところカンナから知り得た情報は、乳ネタだ
けだ。正直、どうでもいい。
﹁樹の神様はどのような方なんですか?﹂
私が何を聞いておこうかと考えていると、エストが先に質問した。
﹁そうだなぁ。着せ替え人形が好きな女の子って感じだな。可愛い
モノとかも好きだし⋮⋮﹂
神様について語っていたカンナは、何かを言いたげな目でジッと
私を見てきた。
﹁一応、俺も協力するけど、ハヅキが帰したくないと言いださない
ように気をつけろよ﹂
﹁えっ?﹂
﹁ハヅキは可愛いモノに目がないからな。神の社に迷いこんでしま
った子供を返さない事も今までにあったし﹂
⋮⋮神様が子供を返さないって、まんま神隠しじゃないか。
何ソレ、怖い。
自分の性格はまったく可愛くないが、見た目に関しては、ご先祖
様のおかげで、そこそこ可愛い方だと思う。外見が気にいられる事
が、絶対ありえないとは言えない。でもそんなの困る。
﹁そんなっ。オクトはどうしたらいいんですか?!﹂
﹁あー⋮⋮そういえば、騙されるぐらいだから王子と知り合いなん
だろ?ついてきてもらえば?流石に王子のモノに手は出さないだろ
うし﹂
458
﹁無理です﹂
私は反射的に答えた。
普通に考えて、第一王子にそんな事を頼めるはずがない。神隠し
を未然に回避したつもりが、今度は王子に捕まってしまう可能性が
ある。最悪度は変わらない。
﹁何で?﹂
﹁いや。第一王子様は⋮⋮ちょっと⋮⋮﹂
天敵なんですとは、流石に恐れ多くて言えない。なんだかんだ言
っても、この国の王子様で、第一継承権がある方なのだ。不敬罪に
はなりたくない。
でも彼に従うのは無理である。私の人生設計に王子の部下なんて
いう危険極まりない文字はない。となれば、できるだけ関わらない
ようにするしかないだろう。
﹁それなら、カミュエル先輩に頼んだらどうかな?﹂
﹁カミュ?﹂
確かにカミュなら、今更的な相手だ。何か頼んだ所で、カミュも
私を利用したりするので、心苦しいとかは無縁である。
﹁カミュって誰で、オクトの何?﹂
﹁この国の第二王子で⋮⋮腐れ縁?﹂
私はカミュとの関係を聞かれて疑問形で返した。何と言われると、
正直困る。知り合いよりは仲がいいし、友人⋮⋮だとは思う。幼馴
染といってもいいぐらい長い付き合いだ。でも実のところ、私はあ
まりカミュの事は知らない。
あえて言うならば、親友未満、茶飲み友達以上といったところか。
カミュ自身、あまり自分の事を話さないし、私も厄介事に巻き込ま
れるのが嫌で、あえて聞く事もしなかった。ようやく最近になって
第一王子とあまり仲良くない事を知ったばかりだ。
459
⋮⋮これは、友人か?
お互いただの利益だけの関係ではないが、若干友人という言葉に
も揺らぎが生じて、私は考え込んだ。数少ない、友人と呼んでもい
いだろうと思っていた相手が微妙なラインだったなんて。そもそも
友とはなんなのか。
﹁⋮⋮︱︱ト、オクトってばっ!!﹂
﹁ん?﹂
﹁突然思考の渦に入り込まないでよ﹂
私が顔を向けると、エストはホッとしたような顔をした。少しエ
スト達を放置しすぎたみたいだ。
﹁エストは友人?﹂
﹁⋮⋮当たり前だろ﹂
﹁今、微妙に間が空いた﹂
私の質問もいきなりすぎたし、即答してもらえるとは思っていな
かったので別にいいのだが、エストは妙に慌てた。挙動不審にそわ
そわする。
﹁いや、魔がさしたというか⋮⋮、えっと、いきなりどうしたの?﹂
﹁友人とは何かについて考えていたから﹂
﹁どうしてそんな哲学的な事を﹂
うん。どうしてだろう。
思考の渦にはまっているうちに、徐々にそんな議題になった気が
する。
﹁はいはい。お前らが仲がいい事はよく分かったから。とにかく、
またこの場所に帰りたかったらカミュって奴は連れてけよ。俺らは
国には関わってはいけないっていう制約があるから、王子がいれば、
めったな事はできないしな﹂
﹁制約?﹂
﹁そっ。神は国に干渉しない。その代り、国も神に命令する事はで
460
きない。お互い持ちつ持たれずの関係だけど、仲間ではない﹂
宗教と政治を分離しているという事だろうか?
でもこの世界は、民主主義ではなく、王政である。王が民衆を引
っ張って行く時のカリスマとして、神様の意思とかそういう言葉を
使った方がやりやすそうだ。分離してしまう意味が分からない。
﹁この世界の神は万能じゃないからな。国とか、そういうのに口出
しできるほど頭もよくないんだよ。王様をやっている奴の方が、よ
っぽど国の事をよく分かっている﹂
﹁えっと、そういうものなんですか?﹂
﹁そういうものなんだよ。だってその為の勉強ばっかしてきた奴だ
ぞ?勉強してない奴よりできるに決まってるじゃん﹂
精霊って神様に仕えているのではなかったのだろうか。その割に、
頭がよくないとか、結構酷い事をズバズバと言うものだ。カンナが
特殊なのか。それとも精霊は、皆こういうものなのか。
﹁そういえば、カンナさんって風属性ですか?﹂
﹁そうだけど?﹂
﹁風なのに、樹の神様に仕えてるんですか?﹂
樹の神様には樹属性の精霊が仕えているのだと勝手に思っていた
が、違ったのだろうか。でも樹の神様の手紙を持ってきたわけだし
⋮⋮。
﹁よく気がついたな﹂
カンナは私の頭をわしわしと撫ぜた。よく気がついたって⋮⋮カ
ンナは黄色に光っているし、属性が違う事に気がつかない方がどう
かしている。
﹁俺はハヅキには仕えてないよ。今日は、樹の精霊から手紙を預か
っただけだしな。じゃあ、そろそろ帰るわ﹂
﹁あ、うん﹂
唐突だなぁ。
461
現れた時も唐突だったが、帰りもずいぶん唐突だ。
﹁たぶん、手紙には春ごろって書いてあると思うから、その時また
会おうな﹂
そういって、パッとカンナは目の前から消えた。まるで白昼夢で
も見ていたかのように鮮やかな消え方だ。
﹁また会おう?﹂
﹁樹の神様に仕えてはいないけれど、オクトを迎えに来る予定なの
かな?﹂
私とエストは、唐突に現れ同じように消えたカンナが居た辺りを
見ながら、首を傾げるのだった。 462
23−3話
カンナという風の精霊と会ってから大分と経った。
今回は正式に神様から手紙を貰えたので、私はカンナと別れてか
ら、さっそくアスタやカミュに神様に会う事を相談した。とはいえ、
正式に招待されるのは春。手紙を貰った時はまだ冬に入ったばかり
だったので、特別何かをするという事もなく、時間が過ぎていった。
カンナが言った通り、神様に会うからといって、何かしなければな
らないという事はなかったようだ。
一応忠告通り、カミュについていってもらう約束にはなっていて
順調だ。
館長の方も順調に体調は回復している。最近はベッドに縛り付け
られている様子はいない。ただし年齢も、年齢だという事で、時魔
法の管理はコンユウに移行する方向性で決まった。もっともコンユ
ウはまだ時魔法の練習中なので、もうしばらく館長が中心となって
古書の管理を行うのだけれど。
﹁オクトさん、今度はどんな魔法の設計をしているんだい?﹂
図書館で一人もくもくと作業をしていると、隣にカミュが座って
きた。どうやらライは一緒ではないようだ。授業も休んでいたし、
きっとカミュに何かやらされているに違いない。
﹁図書館の時魔法を、もう少し簡易にできないかと考えてる﹂
﹁簡易?具体的にどういう事?﹂
﹁魔法陣の集中管理と、魔力の蓄電﹂
私の言葉に、カミュはキョトンとした。流石にこれは説明不足か。
463
私は少し考えて付け加えた。
﹁今の時魔法の魔法陣は一つ一つ独立している。その場に行って魔
力を込めないといけない。だからそれをとりまとめて集中管理でき
ないかと考えている﹂
﹁魔力の蓄電というのは?﹂
﹁魔力が途切れたら魔法が解けてしまう。だから普段から別の場所
に溜めておいて、もしもの時はそっちから魔力供給ができた方がい
いと考えた﹂
館長は24時間休む事ができないのが現状だ。館長の魔力総量か
ら考えるとどうって事はないらしいが、やはり病気の時などはしっ
かり休んでもらいたい。
それにもしもの時も、この蓄電⋮⋮いや魔力を溜めるのだから、
蓄魔があれば、しばらくは猶予ができるはずだ。
ただし実際にそれをしようと思うと、流石に私の知識だけでは足
りない。そこで図書館で本を隣に平積みにしてあーでもない、こう
でもないと紙に書きこんでいるわけだ。
﹁凄い構想だね。やっぱりオクトさんの場合、アスタリスク魔術師
と同じ、魔法学科の方が向いている気がするけど、やっぱり魔法薬
学科に進学するのかい?﹂
﹁もちろん。山奥で薬師をするなら、その専攻しかない﹂
魔法の事を学ぶのは楽しいがそれだけだ。将来を考えれば、楽し
いだけでは問題である。
﹁まだ、そう思ってるんだ﹂
﹁まだって⋮⋮﹂
どうして私の考えが変わると思うんだろう。
混ぜモノである自分は、人里を離れて住んだ方が楽に生きられる
に決まっている。それでも外貨が欲しいなど考えれば、周りに材料
がいっぱいある事だし、薬師が一番効率がいい。
464
ふと、そういえば私はカミュがどうして、考えを改めるように言
うのか聞いた事がなかったなと思う。前からそれっぽい事は言われ
ていたが、その方が私を扱いやすいとか、そいう事だろうと勝手に
考えていた。しかし実際にカミュから聞いたわけではない。
カンナにカミュとの関係を聞かれた時も、何と言っていいか分か
らず困った事を私は思い出した。
どうにも私は周りへの興味が薄いようだ。
人生の半分の付き合いとなるが、私はカミュの事をほとんど知ら
ない。性格とかそういった事はある程度掴んでいるつもりだし、好
きな食べ物も分かる。でも家族構成とか、カミュが将来どう考えて
いるかとか、私の事をどう思っているかとか、深い話しはさっぱり
だ。
﹁えっと⋮⋮カミュって何人兄弟?﹂
﹁へ?正室だったら僕を含めて4人だし、側室を含めたら、6人か
な?﹂
﹁側室?﹂
﹁つまり異母兄弟ってこと﹂
マジですか。
想像以上にディープな家庭環境だ。王子様なのだし、側室がいた
っておかしくはない。でも母親違いの兄弟って、やっぱり血と血を
争うような泥沼劇を繰り広げたりしているのだろうか。
﹁オクトさんが社会が苦手だという事は知っていたけど、自分の国
なんだし、現王室ぐらい覚えておいた方がいいと思うよ﹂
私が衝撃の事実にビビっていると、カミュからそう諭された。う
ん。確かにその通りである。よく考えれば、今の話はカミュに聞か
なくても、普通に教科書に載っている話だ。
日常生活で使わないから、すぐに忘れてしまうだけで。
﹁あー⋮⋮。それで、カミュは正室の次男であってる?﹂
465
﹁合ってるよ。僕の兄弟は兄上と姉上、それと弟だから。側室の子
供2人は、1人が姉上でもう1人が妹かな。側室は全部で4名いて、
今いる子供は母親が違うよ﹂
﹁側室ってそんなに居るんだ⋮⋮﹂
﹁歴代の中では少ない方だと思うけれど?﹂
王家って凄い世界だと改めて思う。
側室なんて言葉を使うとピンとこないが、ようは王様には5人の
奥さんが居るという事なのだ。それなのに、少ない方。⋮⋮一夫一
妻制だった日本の常識だと考えにくい。いや、待て。江戸時代には
大奥があったわけだから、あながち変ではないのか。
それを自分自身だったら、受け入れられるかどうかは別としてだ。
﹁昔は今よりも出生率が低かったし、産まれても上手く育つかどう
か怪しかったからね。だから側室制度ができたんだよ。それに貴族
たちも自分の娘を王の嫁にしたかったわけだし、その方が嫁にでき
る確率が高くなるからね。もっとも、比較的栄養状態もいい王宮で
上手く育たなかったのは、色んな思惑が絡んでたりもしそうだけど
⋮⋮﹂
やっぱり、そこから暗殺とかディープな話題に繋がっていくわけ
ですね、分かります。正直そんな恐ろしい世界には関わりたくな︱
︱いやいや。
ここは友人と名乗りたければ、理解はしないまでも、少しぐらい
カミュの世界を知っておくべきではないだろうか。端から無理の一
点張りというのもどうかという︱︱。
﹁⋮⋮あのさ、今日はどうしたわけ?﹂
﹁へっ?どうしたって?﹂
﹁いつもはそういう話は聞かないようにしてるでしょ?﹂
﹁あー⋮⋮聞かれたくない話だった?﹂
もしかしたら、カミュ自身、あまりそういう王家の話しには触れ
466
て欲しくないとかあるかもしれない。カミュにとって私は、王家と
は無関係の人間だ。そういう王子ではない自分を見てくれる友人が
欲しいと言う事ならば、私がこういう内容を聞く事はタブーだろう。
カミュがその方がいいというなら、私もやぶさかではない。実際
今まで、全く聞いてこなかったのだし、これからも知らなくて済む
なら、絶対そのほうが楽だ。
﹁いや、聞かれる分には全然いいというか、今話した事は一般常識
に近い内容だし﹂
﹁えっ?一般常識?﹂
﹁うん。少なくとも貴族にはね﹂
王族って、マジで個人情報保護とかないなと改めて思う。家庭環
境を皆に知られているのが一般常識な状態ってどうなんだろう。自
分なら、ストレスでそのうち円形脱毛とか、胃炎を起こして寝込み
そうだ。
知られて何が困るというわけではないが、知らない誰かに自分の
事を知られているというのは背筋が冷たくなるような話だと思う。
﹁⋮⋮大変だね﹂
﹁そうかな。別に僕が覚えるわけじゃないから、知っておかなけれ
ばならないオクトさん達の方が大変じゃないかな?﹂
どうやら、カミュには家系図というか家族環境の情報が、個人情
報であるという認識がないようだ。
微妙な受け答えの違いに私はそう結論づけた。ある意味その方が
幸せな気はするが、やっぱり違う世界のヒトなんだなと思う。これ
だけ価値観違って、私もよく友人だと思えるものだ。
﹁僕が聞きたかったのは、わざわざ僕の家庭環境を聞いてきたのが
純粋に不思議だったからだよ。オクトさんってあまり他人に興味が
ないからね﹂
﹁興味がないって⋮⋮﹂
467
その言い方だと、私が冷たい人間のようだ。まあ、あながち間違
えてはないけれど。
私は自分の事だけで精一杯な部分もあって、正直他人の事まで面
倒を見る事はできない。面倒見のいいエストとか、カミュの為なら
火の中水の中なライは凄いと思う。
﹁ああ。ないって言いきるとちょっと語弊があるかな。でも深く関
わろうとしないよね﹂
﹁まあね﹂
面倒だなと思ってしまう、冷めた自分が居るのだから仕方がない。
私が抱えられる量などたかが知れているのだ。でも少しそれが寂し
いなと思ったのも事実。だからもう少しだけ頑張る気になったのだ。
すでに挫折しかけてはいるけれど。
﹁この間、神の使いに、カミュとの関係を聞かれて。その時少し反
省したから﹂
﹁えっと。どういう意味だい?﹂
﹁友人と言いたかったけど、言えなかった。私はあまりカミュの事
を知らないから⋮⋮カミュ?﹂
隣にいたカミュが珍しく目に見えた落ち込み方をしているので私
はぎょっとした。
えっ、何?何か不味い事言っただろうか?あれか。王子を友人と
言いたかったとか、不敬過ぎるとかか?!
﹁オクトさんって、たまに不意打ちでこっちが傷つく事さらりと言
うよね﹂
﹁ごめん﹂
﹁分かって言ってないよね、それ﹂
﹁いや。分かっている。友人と言いたかったなんて、馴れ馴れし過
ぎた。カミュは立派な王子だと思う︱︱って、何でさらに落ち込む
468
?!﹂
机に頭を打ち付けんばかりの姿に、私はビビった。
何がいけなかったのか。
﹁友人だよ﹂
﹁ん?﹂
﹁友人だよね?ちょっと、何でそこでキョトンとした顔をするかな。
相手の家庭環境とか、色んな事を知らないから友人じゃないって、
どういう発想なのさ﹂
⋮⋮そういうものなのか?
よく分からず前世の記憶に頼ろうとしたが、検索結果は0件。ま
ったく、私の頭の中にはそういった知識が入っていなかった。えっ
と。もしかして前世の私は友人が居ない可哀そうな人種だったのだ
ろうか。
自分の性格は、アウトドアではなくインドア。さらに引きこもり
万歳な部分があるし、あながち間違いではなさそうなのが怖い。
それに親とか兄弟がいたのかどうかも覚えていないし⋮⋮結構薄
情なヒトだったのだろうか。
﹁それで、精霊にはなんて答えたの?﹂
﹁腐れ縁﹂
カミュは深くため息をついた。間違ってはいないよね?
﹁まさか、アスタリスク魔術師とこんな所が似てしまうなんて。確
かに、家に引きこもりがちで、あのアスタリスク魔術師に育てられ
たなら仕方がない気もするけれど⋮⋮﹂
何だろう。この似ているは、褒め言葉には聞こえなかった。むし
ろその逆のような⋮⋮。
﹁どういう意味?﹂
﹁人間関係音痴って意味だよ。せめてそこは幼馴染って答えようよ﹂
幼馴染ねぇ。
469
たしかにライとカミュは幼馴染って感じだが、私の場合、ちょっ
と違う気がするのだ。家族ぐるみの付き合いではないからというか
⋮⋮彼らより一歩離れているというか。
﹁ちなみに、ライは何?﹂
﹁腐れ縁?﹂
﹁獣人のあの女の子は?﹂
﹁えっと⋮⋮後輩?﹂
﹁コンユウは?﹂
﹁ツンデレ?﹂
﹁エストは?﹂
﹁⋮⋮いい人?﹂
カミュはさらに深くため息をついた。
﹁腐れ縁や後輩以外はそもそも、関係を表す言葉じゃないから﹂
ですよね。
気持ちとしては友人といいたいのだが、彼らの事も私はあまりよ
く知らない。本当に友人といっていいのか困る。特にコンユウの場
合は何だろう。同僚、後輩、ライバル、知り合い。⋮⋮適切な言葉
を選ぶって難しい。
﹁ああ。でもエストは友人。そう言っていいと言われた﹂
﹁言われなくても、言っていいと思うよ。少なくともライはそう言
わないと怒るから﹂
そういうものなのか。
私はとりあえず分かったと頷いておく事にした。でないと、また
カミュが落ち込みそうな気がしたからだ。そうか。友達だったのか。
﹁まあ、僕たちの事に興味がでてきたのは悪い事ではないと思うけ
どね﹂
カミュは仕方がないなという顔で私を見ると頭を撫ぜた。
470
⋮⋮カミュは友人じゃなかったのだろうか。これではまるで保護
者のようだ。
﹁よく考えたら、オクトさんはまだ10歳だったね。しかもエルフ
族の血が入っているし。話をしていると忘れそうになるけれど﹂
﹁もしかして、馬鹿にしてる?﹂
年齢の話を出してくるという事は、まだ小さいと言いたいのだろ
うか。それにたしかエルフ族は成長が遅いという事で有名な種族の
はずだ。
﹁まさか。尊敬してますよ、僕らの小さな賢者様。ただオクトが1
0歳だって事を思い出しただけで﹂
﹁やっぱり、馬鹿にしてるだろ﹂
私は笑顔で頭を撫ぜるカミュを睨みつけたが、カミュは笑うだけ
だった。 471
24−1話 不完全な世界
季節は春へと移り変わり、とうとう神様との面会が明日に迫った。
とはいえ、その為に何かするわけでもない。服装は学生服を着て
いくつもりだし、最低限の身だしなみとして、髪の毛はこの間ペル
ーラに肩のあたりで切りそろえてもらった。
なので今日は普通に図書館で仕事である。
私は1人で新書に追跡魔法陣入りのラベルを張っていた。相変わ
らず新書は、月に何冊も入ってくる。そういえば資金源とかどうな
ってるんだろう。相変わらず、この図書館は疑問がつきない。
ちなみに、新書がどんどん増えるという事は、本棚も圧迫される。
そこであまり読まれない本は、地下にしまいこまれる仕組みになっ
ていた。もしも読みたい時は、リストから探し出し、召喚魔法で取
り寄せると最近先輩に教えてもらった所だ。 ﹁おいっ。カウンター入れ﹂
﹁嫌﹂
コンユウが事務作業中に珍しく声をかけて来たと思えば、受付業
務をやれなんて面倒な事を言ってきた。私は小さくため息をついて、
顔を上げる。
﹁仕事だろうが﹂
﹁これも、仕事。大体、何で?﹂
受付業務というのは、レファレンスなどの対応も迫られるので、
基本上級生達がやっていた。学年と図書館で働いた年数だけで言え
ば、私がやっても問題はない。しかし私が受付をする事は今までな
かった。
472
というのも、混ぜモノがカウンターにいると、怖くて借りれない
利用者様が世の中には居る為である。
地下にしまいこまれている本について教えてもらったのが最近だ
というのもその所為だ。地下から本の召喚をする業務は基本受付の
みがやる仕事である。なので本来知る必要はない。ただ今は時魔法
の再構築という仕事がある為、教えてもらったのだ。
受付をする為ではない。
﹁皆、出払ってるんだよ。俺1人でできるわけないだろ﹂
﹁えっ?全員、居ないの?﹂
受付業務は最低3人でまわす。メインはアリス先輩が多いが、先
輩だけでやっているわけではない。
⋮⋮ん?1人?
﹁あれ?じゃあ今は?﹂
﹁しばらくお待ち下さいの札を出しておいた﹂
駄目じゃん。
確かにそれは緊急事態だ。一体、皆、どこへ行ってしまったのか。
﹁他に応援できそうなヒトは?﹂
﹁エストがもうすぐ来るけど、それでも足りないから仕方がないだ
ろ﹂
仕方がないねぇ。
私がいると借りられない人と、混ぜモノでもいいから借りたい人、
一体どっちの利用者が多いのか。
やれと言われれば、たぶんできなくはない。一応借りるまでの流
れは覚えているし、この図書館内の事も把握しているのでレファレ
ンスだってできる。⋮⋮もっとも、私から借りたい、又は何かを聞
きたいという事が前提となるわけだが。
﹁あのさ。コンユウは何故私の事が嫌いなの?﹂
473
﹁はあ?﹂
何でそんな事を今聞くとばかりの顔をした。確かにこれでは説明
不足で唐突な感じだ。
﹁私は周りから嫌われたり、怖がられるからカウンターに入らない
だけ。そこが解決できるならば、別に入っても問題はない﹂
まあ、混ぜモノでなければ即解決なのだろうが、流石にそんな事
はできない。だとしたら、少しでも周りの嫌悪感を除く方法を考え
るしかないだろう。
今までは嫌われているならばそのまま関わらないという選択をし
てきた。実際その方が楽だし、努力したところで全てのヒトと仲良
くなるなんて、絶対無理だという事も分かっている。もっとも産ま
れた時から誰かかしら理解してくれるヒトが居たから、そんな横着
な結論が出せたというものあるだろうけど。
しかし現在それで困っているわけで。
﹁言いたくないなら、別にいい。⋮⋮手探りで解決方法を探るから﹂
私は椅子から立ち上がった。カウンターに行くために。
面倒だ。ヒトに関わるってとてつもなく疲れる。
でも例え山奥に隠居したところで、まったくヒトと関わらずにい
られるはずがない。だとしたら嫌われているから、避けるなんて方
法の方が面倒なはず。
苦しくても、やるしかない。
﹁混ぜモノが⋮⋮俺の家族を奪ったからだ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
コンユウの口から語られた言葉は思った以上にディープだった。
ずどんと肩のあたりが重くなる。うん。これは会話の選択肢を間
違えたかもしれない。
474
これがゲームだったら、セーブポイントに戻るとかできるのにと、
現実逃避に近い言葉が頭をめぐる。聞かなければよかったという後
悔の念もチラリと脳裏をよぎって行くが、ここまできたら進むしか
ない。逃げたいけれど、ここで逃げたら駄目だ。
ここで逃げたら、コンユウと友人にはなれないんだぞっといい聞
かせてみたが、そもそも私はコンユウと友人になりたかっただろう
か?うーん。ツンデレ寂しん棒。できたら関わらず、遠くから観察
をしたい︱︱いやいや。
思考がどうしても逃避の方へ向かっていく。
﹁ちょっと待て。反応それだけかよ﹂
ぼんやりと考え事をしながら歩いていくと、コンユウに肩を掴ま
れた。
﹁反応?﹂
現実逃避する以外にどんな反応を求めてるのか。私はコンユウの
目をまっすぐ見返した。
コンユウが苛立っているのは分かったが、混ぜモノが家族を奪っ
たと言われても、私に何かできるわけではない。そもそも私はその
混ぜモノとは別人なのだ。かといって嫌いな相手に慰められたとし
ても、コンユウが嫌な思いをするだけだろう。
﹁えっと、奪ったってどういう意味だとか、何があったんだかとか
興味ないのかよ?!﹂
﹁あー⋮⋮﹂
しまった。
ついこの間、もっと相手の事を知らなければと思ったばかりなの
に。⋮⋮あれ?でもそれは友人相手だけか?ちゃんとした友人にな
りたいから、相手の事を理解したい。ならばコンユウのように関係
が今一分からない相手はどうするべきなのか。
475
うーん。なぞは深まるばかりだ。
﹁お前ら、混ぜモノが暴走した所為で、俺は家族を失ったんだよ﹂
私が困惑していると、先にコンユウが自分自身のディープな話題
を暴露した。聞いていないんですけどなんて言えない雰囲気だ。
﹁はぁ﹂
﹁はぁじゃねーよ?!﹂
ですよね。今の受け答えは自分でも選択肢を間違えたなと思った
よ。でも咄嗟に言葉がでてこなかったのだから仕方がない。今まで
厄介事には関わらないようにして全てスルーしてきたので、こうい
う会話は慣れていないのだ。
﹁えっと⋮⋮じゃあ、家族が居ないなら、今はどうやって生活を?﹂
﹁たまたま居合わせた魔法使いが拾ってくれたんだよ﹂
なるほど。コンユウは混ぜモノの所為で家族を失った孤児で、魔
法使いに拾われたと。うわぁ。そりゃ悲惨な人生だ。恨みたくなる
のも分からなくはない。ん?でも孤児を魔法使いが拾ったってどこ
かで聞いた事があるような⋮⋮。
﹁だからアンタに同情なんかしないから﹂
へ?何で同情?
恨んでいるのに、同情?いやいや同情はしないのだから、正しい
流れか。だけど何で同情という言葉がでてくるんだ?駄目だ。内容
が高度過ぎる。
カミュに言われた、対人関係音痴の意味が今分かった。確かに私
はこういう事に鋭くない。はっきり言って経験不足だ。
﹁えっと⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮アンタの恩人の事を悪く言ったのは⋮⋮悪かったと思っ
てる﹂
476
何の話をしているのでしょうか?
どうしよう。コンユウの言葉が宇宙語に聞こえてきた。恩人の事
を悪く言ったって、いつの話をしているのか。私の恩人って、話の
流れ的にたぶんアスタの事だろうけど、今の流れの中に貶す言葉が
入っていただろうか。いや、入ってないはず。そもそも、どうして
そんな話をする事になったのか。
私は円滑に受付業務をする為に、どうして混ぜモノは嫌われ、怖
がられるのかを聞いて、対策を立てたかっただけのはずなのに。
﹁⋮⋮私は混ぜモノだけど、コンユウの家族を奪った混ぜモノじゃ
ない﹂
色々考えたが、私に言える事はそれぐらいだった。というかそれ
ぐらいしか、話の流れについていけてなかった。
﹁そんなの知ってるっ!!じゃあ俺の怒りは何処に向ければいいん
だよっ!!﹂
何処でしょう。
さあ?なんて言ったら不味い事ぐらいは対人関係音痴な私でも分
かる。とりあえず、真面目に考えてみた。不用意な発言は自分の首
を絞めるのは今の会話で学習済みだ。
﹁私でいい﹂
﹁はあ?﹂
﹁いや⋮⋮えっと﹂
コンユウが困惑したような顔をしている。面倒になったから適当
に答えたわけじゃないよという意味で、私は笑った。一応これでも、
真面目に考えた上での結論なのだ。
﹁私は混ぜモノだから⋮⋮嫌っていい。でも、私は私だという事は
覚えていて欲しい﹂
477
だって、嫌うななんて言えないのだから仕方がない。私だってア
スタや友人が傷つけられたら、同じ種族というだけで嫌うかもしれ
ないのだ。もしくは嫌いはしなくても、絶対避ける。きっと見るた
びに、傷つけられた事を思い出してしまうから。
それに私が嫌われているのは今更だ。コンユウとの関係が今のま
までも特に問題はない。
﹁とりあえず、カウンター行こう。客を待たせるわけにはいかない﹂
さて受付業務を駄目元でやってみようか。色々考えたが、結局の
ところ、コンユウに言った通りの事しかできない事に私は気がつい
た。
あれだ。私は私。危険じゃないですよーという事を、私を見て分
かってもらうしかない。もちろん、危なっかしい混ぜモノには違い
ないので、完璧にそう思ってもらうのは難しいだろう。それでも千
里の道も一歩からである。
﹁あー。コンユウ、居たっ!!ちょっと、オレは新人なんだから、
一人で受付業務なんてできるわけないだろ?!オクトも助けてよ﹂
﹁うん。ごめん。今行く﹂ 受付業務なんて、気分が重いだけだ。しかしヘルプにやってきた
エストの言葉が後押しになった。エストが助けを求めるなら、助け
なければ。友人を助けるのは当たり前の事だ。
私は少しだけ軽くなった足取りで、エストの方へ向かった。
478
24−2話
初めての受付業務は散々なものだった。
混ぜモノとツンデレと新人という、どうしてそんな選択しかない
んだと言いたくなるようなメンツでの勝負。そんなもの負け戦に決
まっている。
そもそも混ぜモノは、皆に避けられる運命。早く本を借りたい、
もしくはどうしても調べて欲しい本がある本オタクなヒト以外は、
誰も私には近づかなかった。分かっていた事だ。でも誰も並ばない
カウンターは酷くみじめでつらかった。本気でつらかった。ちょっ
ぴり泣けた。
ならば私以外は上手くいったかと言えば、そんなわけがなかった。
現実はそんなに甘くない。私の場所がガラガラな分、必然的にコン
ユウとエストの場所にヒトが集まった。そこまでは良かったのだが
コンユウのツンデレが発動して、彼のレファレンスはツン100%。
お客様を怒らせるのは火を見るより明らかだった。何をしてるんだ
といってやりたいが、私も役立っていないのでそんな事言えるはず
もない。
その結果混ぜモノを嫌い、さらにツンデレはちょっと⋮⋮という
御客様が全てエストの方へ向かった。しかし私とコンユウから逃げ
出した膨大な数の客を捌けるほどエストはまだ図書館業務になれて
はいない。よって、エストの座る場所は大渋滞が引き起こされてい
た。
あの後、帰ってきた先輩達がすぐに代わってくれたが、思い出し
たくもない。
479
しかもアリス先輩に、このままでは駄目だと言われ、定期的に受
付業務に入るよう命令された。私1人受付業務をしなくても今まで
回っていたはずなのに、何を考えているのか。⋮⋮憂鬱だ。
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁オクトさん、なんだか疲れているみたいだけど、大丈夫?﹂
いけない。
これから私は神様に会うのだ。いつまでもバイトの事を引きずっ
ているわけにはいかない。私は大丈夫だという意味を込めて頷いた。
とにかく目の前の事に集中しなければ。
﹁オクト、行ってらっしゃい。何があっても俺はオクトの味方だか
ら、ちゃんと呼ぶんだよ﹂
アスタは私の目線に合わせてしゃがみこむと頭を撫ぜた。たとえ
何かあったとしても神殿でアスタを呼べるかどうかは分からない。
それでもアスタが味方というだけで、心強い気がする私は、単純で
ある。
﹁うん。行ってきます﹂
神殿の入口まで転移魔法で送ってくれたアスタに小さく手を振り、
カミュと手をつなぐと、私は足を踏み出した。
神殿は、世界中に点在する。この国にある神殿はギリシャの遺跡
を思わせるような建物だった。もちろんところ変われば神殿も変わ
る。図書館で調べた限りでは、緑の大地の中でも、国によっては協
会のような形をしている所もあるそうだ。また青の大地には、日本
の神社に近い形をした神殿もあると、描かれていた。同じ神様なの
に不思議なものである。
今来ている樹の神のみ奉った神殿は、豊穣の神殿と言われ、いつ
もならば参拝に来たヒトでにぎわっているそうだ。しかし今日は第
2王子が訪問するという事で、自粛され静まりかえっていた。
480
﹁オクトさんはここに来るのも初めてなんだっけ?﹂
﹁うん﹂
私は混乱を避ける為、ヒトが多い場所には出向かないようにして
いる。出かけると言えば、買い出しか、学校ぐらいのものだ。後は
アスタの実家で行われるお祭りに連れて行ってもらった事はあるが
その程度。
龍玉の民なので、宗教はもちろん神教となるのだが、私の信仰心
は日本人並みに底辺をひた走っている。神様に会うという事がなけ
れば、遺跡のようなこの建物を、じっくりと観光したいなと思うレ
ベルの興味しかなかった。
やっぱり神様も信仰心が低いヒトは嫌いだろうか。減点ポイント
ばかり頭に浮かんできて、憂鬱になった。そもそも未だに、何故呼
ばれたのかも謎なのだ。
﹁御迎エ、来マシタ﹂
神殿石段を登り切ったあたりで、新緑色の髪をした少女が私たち
を出迎えた。頭に大きな赤い花をさした可愛らしい子供だ。身長も
私と同じぐらいである。
何故ここに子供がと疑問がわくが、それを口にする前に、少女は
くるりと反対を向き、歩き出した。ついてこいという意味だろうか?
もしかしたら、ちびっこいけど、すごく偉い神官様とか、そうい
うファンタジーな存在かもしれない。種族によっては長生きをする
ので、ちびっこくて子供みたいだけど実は大人という可能性もある。
﹁ワタシ、精霊。年、貴方ト近イ﹂
﹁はあ﹂
﹁ダカラ、選バレタ。ガンバル﹂
⋮⋮えっと。つまり、このお嬢さんは精霊で、10歳ぐらいとい
う事か。片言に聞こえるので、もしかしたら普段話す言語は龍玉語
ではないのかもしれない。
481
ちびっこだけど、実は年上のとても偉い神官説は崩れ去ったが、
ファンタジーな存在には違いなさそうだ。カンナがとても流暢に龍
玉語を話していたので、精霊は話せるものだと思ったが、よく考え
たら、他民族とほぼ関わりがない精霊が共通語である龍玉語を話す
必要はない。
それぞれの国には、共通語以外にそれぞれの言語があるので、精
霊独自の言葉もありそうだ。
﹁今日は樹の神はこちらにいらっしゃるのかい?﹂
﹁ココデハナイ。別ノ場所。案内スル﹂
別の場所?
カミュの質問に答えた少女はそのまま淀みなく歩く。しばらくす
ると私達は大広間のような開けた場所に出た。石の床には、魔法陣
が彫り込まれている。転移の魔法陣だ。
﹁入ッテ﹂
何処に繋がっているのか分からない魔方陣に少女が入った。する
とフッとその姿が消える。少女が魔法を使った感じはしなかったの
で、中に入ったら自動的に転移する仕掛けになっているのだろう。
魔力ではなく、魔素を使っているという事なのだろうか。
でも結構大掛かりな魔方陣だ。魔素も半端なく使うはず。どうや
ってその力を維持しているのか。
疑問がつきない魔方陣に躊躇っていると、カミュが手を引っ張っ
た。
﹁大丈夫。魔素切れとかになって失敗したなんて事は聞いた事ない
から。でも中に入って10秒で転移されるから、手だけ外だと大事
故になるんだよね。一緒に入ろう﹂
うん。私もつないだ手の先が手首までというホラー展開は遠慮し
たいので、頷いた。カミュに合わせ、魔法陣の中に入る。
482
︱︱7、8、9、10。
カミュが言った通り、きっかり10秒で目の前の景色が変わった。
先ほどまで、石の壁だったのに、今度は木製の部屋だ。
そして視界の先には消えた精霊の少女が待っていた。
﹁コッチ﹂
少女が再び歩き出したので、私達はその後ろをついていく。ドア
を開け部屋を出ると、廊下がまっすぐ続いていた。どうやら回廊の
ようで両サイドに窓がはめられている。
窓の外は、とても自然がいっぱいな景色だった。ピーヒョロロと
鳥の音が聞こえてきそうな木々に溢れている。どこだろう。
﹁ココ、神様、別荘﹂
﹁⋮⋮えっと、神殿とは違うの?﹂
﹁違ウ。神殿、仕事場﹂
なるほど。神殿は仕事をするが、ここはプライベートな場所だと
言いたいのだろう。ただし別荘という事は、本宅ではないという事
か。別荘があるなんて、神様って結構な金持ちだ。でもどうやって
そのお金を稼ぎ出したのか。やっぱりお布施だろうか。
﹁オクトさん、一体樹の神に何したんだい?﹂
﹁へ?﹂
﹁僕も別荘へ来るのは初めてだよ﹂
﹁いつもは?﹂
﹁彼女の言う、仕事場かな。12歳の時に初めて呼ばれて、その後
も年に1回呼ばれるけど、神殿だけだよ﹂
何をしたと言われても、何もしていないとしか言いようがない。
私自身が樹の神と会うのは初めてだ。別荘に招待されるような事を
した覚えは一度もない。
首を傾げていると、カミュはそうだったねといって苦笑いした。
483
﹁オクトさんは、神様に会うのすら、今日が初めてだったもんね﹂
まったくもって、その通りである。
王族しか会えないとされる神に私が会うなんて、普通は起こらな
い話だ。
﹁神様は私に何の用なんだろう﹂
﹁分カラナイ。デモ、会イタガッテル﹂
カミュに話したつもりだったが、少女が答えた。確かにカミュよ
りも案内役を任された少女の方が理由を知っている可能性が高い。
まあ、いま可能性は打ち砕かれたけれど。
少女はヒトが立っている扉の前で足をとめた。そしてメイドらし
きヒトに何かを話す。何を話しているか分からないが、龍玉語では
ないのは確かだ。少女の言葉の中に﹃オクト﹄や﹃アールベロ﹄と
いう単語が入ったのだけは聞き取れたので、たぶん私たちの説明を
しているのだろう。
⋮⋮でも、どこかで聞いた事がある言語なんだよなぁ。
意味は理解できないので、もしかしたら、幼い時に旅していた時
に聞いたのかもしれない。もしくはママがその言語で喋っていた事
があるのかもしれない。
少女との話しが終わった辺りで、部屋の前にいたヒトが私たちに
向かって一礼した。それに合わせて、私も頭を下げる。
﹁オクトさん。頭は下げなくていいよ﹂
﹁えっ、でもたぶん精霊だし﹂
神様に仕えているのは精霊族のはず。ならば、彼女達は精霊なの
だろう。
﹁精霊という事に何か特別な意味はないよ。僕は王子で、オクトは
貴族な上に、樹の神の客人なんだから﹂
むう。あれか。使用人に頭を下げてはいけませんの法則がここに
484
もあるのか。
学校では一時的にその法則が撤去され、貴族とか平民という身分
がなくなっていたので若干忘れていた。
そんな会話をしていると、扉が精霊によって開かれた。
部屋の中は、普通の部屋だった。変な言い方だが、そうとしか言
えない。神様の部屋という事もあって祭壇があったり、魔法陣があ
ったりと、特殊な部屋を想像していたのだが予想を大きく裏切られ
た。
部屋の中にはテーブルとソファーがあり、周りには観葉植物や絵
画が飾られている。まるで普通の客室だ。そしてソファーの前には、
茶色のふわふわとした髪を腰のあたりまで伸ばした少女が立ってい
た。薄い緑色のドレスがよく似合い、大変可愛らしい。年は17、
18歳ぐらいにみえる。
少女は私たちの姿を緑柱石のような瞳で見つめると、にこりとほ
ほ笑んだ。
﹁初めまして、オクトちゃん。私が樹を司る神、ハヅキよ﹂
この方がハヅキ様。
咄嗟に胸に目がいってしまったのは、カンナの悪影響だ。まな板
やら、貧乳と言われてたが⋮⋮うん、ないわけではなさそうだ。カ
ンナよりもずっとささやかだけど。
それにしても、この世界の神は龍神だと聞いていたが、見た限り
普通の少女だ。体が鱗でおおわれているとかそういう事もない。外
見は美少女枠には入るが、エルフのようにこの世のものとは思えな
い美人という事もない。
この部屋と同じで、想像していたよりも普通だ。
﹁初めまして。私は、オクト・アロッロといいます﹂
私は自己紹介をすると頭を下げた。えっと、相手は神様なのだし、
485
頭を下げていいのだろうか。チラリと横を盗み見れば、カミュも頭
を下げていた。今度は頭を下げたままにして正解らしい。
﹁頭を上げて下さいな。今日は急に呼びだしてごめんなさいね。さ
あ、立ち話もなんだから、こちらに座って。カミュちゃんもね﹂
か、カミュちゃんですか⋮⋮。まさかのちゃん付けに、カミュの
反応が気になって顔を上げた後、恐る恐る隣を見れば、仕方がない
とばかりに苦笑していた。確かに神様相手に、反論なんてできない
から、聞き流すしかない。
私もカミュを見習って色々流してしまおうと心に決めると、ソフ
ァーへ向かいハヅキに勧められた場所に腰かけた。
﹁今日はオクトちゃんと会わせたい相手がいて呼んだのだけど、少
し遅れているみたいですの﹂
﹁はあ⋮⋮そうですか﹂
会わせたいって誰だろう。神様からの紹介って⋮⋮不安が大きい
んだけど。
ドキドキとしていると、精霊の方がピンク色をしたお茶を淹れて
くれた。たぶんハーブティーだろう。自分の国では珍しい。
﹁どうぞ飲んで﹂
﹁ありがとうございます﹂
緊張や不安でそれどころではないが、ハヅキに勧められたら断る
わけにはいかない。私はカップを手に取り口を付けた。若干の酸味
が口の中に広がる。たぶんローズヒップじゃないだろうかと、前世
の辞書からハーブティーの知識を引っ張りだす。
﹁あ、俺の分もよろしく﹂
ふと聞き覚えのある声が聞こえて声の方を見ると、そこには窓枠
に腰かけたカンナが居た。先ほどまでいなかったはずなので、窓か
486
ら侵入したという事だろう。
って、おい。
神様の部屋に窓から侵入って、どういう事?!
﹁よう。オクト、久しぶり﹂
﹁ひ、久しぶり⋮⋮です﹂
私は知り合いではありませんという意味で、さっと目をそらした
のだが、すぐにカンナに見つかってしまった。隠れたわけではない
ので当たり前だ。
実際、カンナとは赤の他人には違いないが、不味い。どう考えて
もカンナの行動は、礼儀を逸脱している。ハヅキが怒るのではない
かとチラリと見たが、ハヅキは目を見開いているだけだった。
うん。そうだよね。神様の部屋に窓から侵入したら、怒りの前に
まずは驚く。
﹁カンナちゃん、もしかしてオクトちゃんとすでに知り合いでした
の?!﹂
しかしハヅキの言葉は予想を裏切るものだった。
カンナの行動を、さも当たり前のように捕えている。むしろ驚い
ているのは、私と知り合いだった事に対してだ。えっ?何?どうい
う関係?私は状況についていけず、目を瞬かせた。
﹁いーじゃん。ちゃんと正体は明かさずに会ってんだから、文句な
いだろ?﹂
正体ってなんですか?乳の惑星からやってきた乳星人ですか?
なんとなく想像はついていたが、脳内は大恐慌でそれどころでは
なかった。というか、乳、乳、言っていた人物が、ソレだとは思い
たくない。
しかし世の中は無情だった。
487
﹁改めまして。俺は風を司る神、カンナだ。よろしくな、姪っ子﹂
想像以上の爆弾発言に、私はお茶の入ったカップをとり落とした。
488
24︲3話
しまった。割れる。
手からこぼれ落ちたコップに気がつき、そう思ったが後の祭りだ。
私の平凡な反射能力ではもう一度掴むことなどできない。コップが
落ちる様を私は凝視する。
高価なものだったらどうしよう。
しかしいつまでたっても、カシャンという陶器が砕ける音はしな
かった。危険が迫った時にスローモーションに感じるのともまた違
う。明らかに落ちるまでの速度が遅い。
﹁オクト、しっかり持たないと火傷するぞ﹂
目の前で、コップとお茶が空中遊泳をしているのを見て、私は目
をこすった。しかし幻を見ているわけではないようで、消えること
なく2つは浮かんでいる。何が起こったのかとカンナを見れば、い
たずらっ子のような表情で笑っていた。
﹁まだ熱いんだからな﹂
コップはカンナの指の動きに合わせて、くるくると回転すると、
カチャリと音を立ててソーサーの上に再び乗った。そしてコップを
追いかけるようにお茶も中に入る。⋮⋮嘘。
﹁今のって⋮⋮﹂
﹁俺の魔法﹂
カンナがさも当たり前のように答えたが、私にとっては当たり前
ではなかった。魔法が当たり前の世界だが、今の動きの魔法陣を設
計するのは並大抵のことではない。少なくとも、紙に書かかず、一
瞬で操れるような類の動きではないと思う。
489
カップなどを浮かせるぐらいならできなくはなさそうだが、まる
で手で運ぶかのようにカップを正確に動かすってどうやるんだろう。
風を指の動き通りにピンポイントで操るなんて、魔法というよりも、
超能力を見ているかのようだ。
﹁オクトさん﹂
咳払いと共に名前を呼ばれて、私ははっと顔を上げた。
そうだった。今は魔法の検証をして、カップをにらめっこをして
いる場合ではない。先ほどカンナの口からもっと重大な情報が飛び
出て来たはずだ。⋮⋮いや、こんな魔法がある事も私にとっては十
分重大なんだけど。
﹁あの。姪って、どういう意味ですか?﹂
﹁セイヤ⋮⋮えっと、確か途中から名前を変えたっけ。とにかく、
オクトの母さんが、俺の姉妹なんだよ﹂
ママの姉妹?
風の神であるカンナが?!
﹁嘘﹂
﹁嘘じゃないって。こんな事で嘘をついて、何になるっていうんだ
よ﹂
その通りだ。
私に嘘をつくメリットなんて何もない。でも理解し難い言葉だっ
た。神様が姉妹なんてありえない。
﹁なら、⋮⋮何か勘違いされていると思います。ママは、精霊族と
獣人族のハーフで⋮⋮龍神じゃないです﹂
もしもママが神様だったら、あんな消えるように死んだりしない
はずだ。
あの時の事を思い出そうと記憶を遡った瞬間、ママが消えた時の
どうしようもない悲しさが一緒によみがえってきた。私は苦しくな
490
ってうつむくと、首からかかっているお守りを、服の上からぎゅっ
と握りしめる。
大丈夫。落ち着け。思い出してはいけない。
私はゆっくりと息を吐き出した。こんな所で心を乱して暴走なん
てしたくはない。全ての苦い思い出と共に息を吐き出すと私はもう
一度顔を上げた。
﹁その辺りの事は、私から説明させてもらいますわ。さあ、カンナ
ちゃんも席について﹂
﹁はいよ﹂
カンナはひらひら手を振ると、ハヅキに従い、私の斜め前に座っ
た。 ﹁本当は順を追って説明するつもりだったのだけど、ごめんなさい
ね﹂
﹁いえ﹂
ハヅキがあまりに申し訳なさそうな顔をするので、私の方が申し
訳ない気分になってくる。混乱はしているが、謝られるような事で
はない。
﹁まずオクトちゃんの勘違いから解きますわね。ママが龍神ではな
いからカンナちゃんとは姉妹ではないといいましたけど、そもそも
この世界に龍神族や神族なんて存在はいませんの﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
龍神族はいない?
生き神がいるというのがこの世界の常識だったはず。だったら、
目の前にいる、ハヅキやカンナは何だというのだろう。
﹁正確にいえば、神は一族を指す言葉ではないという感じかしら。
私とカンナちゃんは家族のようなものだけど、血のつながりとか、
そういうものは一切ありませんわ。神は継承されて続いていく力で
すから、親族だからといって神を継げるわけでありませんの﹂
491
﹁俺とセイヤは双子で産まれたけれど、色々事情があって、俺は精
霊の方に、セイヤは獣人の方に引き取られたんだよ。で、引き取ら
れた後、俺は風の神に抜擢されて、引き継いだってわけ﹂
﹁はあ﹂
私の相槌は酷く間の抜けたものとなった。
だって親戚は神様でしたって、なんの冗談だといった感じだ。し
かもママの生き別れの双子の姉妹って、まるでファンタジーで現実
味がない。ただ現実味がなくて受け入れにくい話しでも、これは現
実だ。
﹁風の神がオクトさんの叔母だという事は分かりました。でもどう
して、今更オクトさんの前に現れたんです?﹂
おや?
カミュの言葉に何処か棘があるような気がするのは気の所為だろ
うか?
でもカミュが神様に喧嘩を売る理由はないだろうし、きっと純粋
な質問だろう。私もどうして今更呼び出されたのかがさっぱり分か
らないので知りたいところだ。面識のまったくない姪っ子にどんな
用事があるというのか。
﹁俺だって、会えるものだったら、セイヤが生きている間に会いた
かったさ。でも⋮⋮セイヤとオクトが何処にいるか分からなかった
んだよ。ようやくセイヤが旅芸人に身を置いている事が分かって会
いに行ったけど、もうセイヤは居なかったし﹂
﹁えっと⋮⋮そうなんですか?﹂
神様なのに?
そもそも、ママと私は、そんな行方不明な状態だったのか。確か
に国を渡り歩く旅芸人の居場所を掴むのは、砂漠の中で一粒の砂金
を探し出すようなものだとは思う。でもカンナは神様だ。何か裏技
とか持っていたっておかしくはない。
492
﹁俺は探偵じゃないんだからな。そんな簡単に見つける事ができる
はずないだろ。神様を見くびるな﹂
カンナはそう宣言すると、胸をそらした。
﹁カンナちゃん、それは自慢できる事ではないですわよ。品性が疑
われますので、変な言いまわししないで下さいな。でもカンナちゃ
んの言う通り、私達は万能ではありませんわ。魔法を勉強している
貴方達なら分かるでしょうけど、この世界の魔法と私達は同じです
の﹂
魔法という言葉だけを聞けば万能な凄いモノだと思ってしまう。
しかし魔法を勉強し始めて分かった事は、科学と同じで万能ではな
いという事だ。魔法にも法則があり、できる事はできるが、できな
い事はできない。
つまりそう言う事だ。
﹁俺がオクトを見つけれたのは、本当に最近なんだよ。だけど神に
親族はいないという事になっているから、すぐに名乗り出る事がで
きなくてさ。それでハヅキに協力してもらったわけ﹂
﹁えっと⋮⋮でも今名乗ってるんじゃ?﹂
﹁言わなきゃばれないって。精霊は俺らに甘いし、ここなら洩らす
奴もいないからな﹂
カラカラっと笑って、カンナは言った。
いいのかそれで。
精霊はよくても、もしも私やカミュがぺらぺら喋るようなタイプ
だったらどうする気だったのか。実際は面倒な事に関わりたくない
ので洩らす気はさらさらないし、カミュも同じだろうけど。
﹁住む大地も違う、接点のないカンナちゃんがオクトちゃんを呼び
だすのは無理がありましたの。私なら、緑の大地に住んでいるとい
う接点がありましたから。それに︱︱﹂
ハヅキがカミュの方を見た。
493
どうしたのだろうと、私もカミュを見る。
﹁オクトは⋮⋮娘はやらんからなっ!!﹂
カンナは立ち上がると、正義は我にありと言わんばかりの様子で、
カミュに向かって指を指した。カミュが何事かと、ぎょっとした顔
をする。
﹁⋮⋮えっと、私は娘ではないですが﹂
﹁ノリだよノリ。一度言ってみたかったんだよな。後は、﹃俺はお
前のお父さんじゃない﹄とかな﹂
どんなノリだ。意味が分からない。それに口調は男っぽいが見た
目はそうでもないので、カンナがお父さんと呼ばれて否定するなん
て事には普通ならないはずだ。
そもそも娘はやらんって⋮⋮ん?このセリフって、まさか?!
﹁ああああああっ!!﹂
﹁どうしたんだ、いきなり叫んで﹂
﹁デマ、デマです。それっ!!﹂
カンナの言葉は十中八九、彼氏が結婚を認めて下さいといった後
の親のセリフだ。意味深なハヅキの視線も相まって、第一王子が言
っていた、消えた計画を思い出した。
カミュとの結婚話があった事を、やっぱり神様は知っていた。
﹁デマ?﹂
状況が理解できていないカミュが聞いてきたが、私に答える余裕
はなかった。
﹁サリエルちゃんが言っていたから、決定なのかしらと思っていた
のだけど﹂
サリエルって⋮⋮確か第一王子の名前だ。第一王子すらちゃん付
け。樹の神ってなにげに凄い。って、今はそこに驚いている場合じ
ゃない。
494
﹁いいえ。デマです。それに私では荷が重いです﹂
そんな大荷物、背負う気はまったくない。というか、第一王子も
血を分けた弟なんだから、もっと大切にしてやれよと思う。混ぜモ
ノと結婚なんて、カミュの人生台無しだ。
このまま勝手にハヅキやカンナが祝福とかしちゃって、カミュが
断れない状況になったら非常に不味い。危険性が少しでもあるフラ
グは、バキバキのボキボキにへし折っておくべきだ。
﹁オクトさん、デマって?﹂
﹁カミュは気にする必要ない。くだらない噂﹂
﹁噂?僕が知らなくて、オクトさんが知っている?﹂
ヤバい。
明らかにカミュが怪しんでいるのが分かった。情報通なカミュは
知らないのに、友達の数が圧倒的に少ない私が知っている噂って普
通はありえない。
第一王子に会った事はいまだに内緒にしているので、この話の出
所を知られるわけにはいかなかった。とにかく噂で通さなければ。
﹁くだらないから、たぶん皆、カミュに黙っていたんだと思う。そ、
それより。えっと、私が呼ばれたのは、カンナ様にお会いする為と、
噂の事実確認の為でしょうか?﹂
﹁俺の事は様づけするなよな。オクトはセイヤの子供なんだし﹂
﹁あら、でしたら私の事も様は止めて下さいな。これから長い付き
合いになるかもしれませんもの﹂
長い付き合い?
ふと、ハヅキが可愛い物好きだという話を思い出して、私は少し
でもハヅキの視線から逃げるようにソファーの隅に移動した。長い
付き合いって、まさかの神隠し予告ですか?!
黄色信号な発言に顔が引きつる。これは聞き流してしまった方が
いいのか、それともちゃんと話を聞いて、御断りをした方がいいの
495
か。
﹁オクトは今は楽しいか?﹂
﹁はあ﹂
カンナの休日のパパのような質問に、私は訝しげながらも頷いた。
楽しいかと言われれば⋮⋮楽しいとは思う。つらい事がないとい
うわけではないけれど。
﹁楽しいならいいんだ﹂
カンナはそう言うと、再びソファーに腰を下ろした。何処か気ま
ずげにそわそわすつつ、カップのお茶を一気飲みする。
今の質問は一体何だったのか。さっぱり分からない。
﹁カンナちゃん﹂
﹁仕方ないだろ。オクトが楽しいって言ってるんだし、こういうの
苦手だし⋮⋮﹂
ハヅキは何か言いたげジッとカンナを見つめた。最初はいいわけ
っぽく喋っていたカンナもハヅキの視線に負けたのか口を閉じる。
そして、深く息を吐いた。
﹁⋮⋮オクト、この世界は俺らと同じで不完全だから﹂
何の話だろう。
ただカンナが真面目な顔をするので、私もジッとそれを聞く。
﹁だから、もしも楽しくなくなって、逃げ出したくなったら、いつ
でも俺の所に来い。俺がオクトの居場所を作ってやる﹂
﹁あの⋮⋮﹂
それはつまり、私を引き取るという話だろうか。理解が追いつか
ず、言葉がでてこない。
﹁オクトちゃんは混ぜモノでしょう?だからカンナちゃんが心配し
ていましたの。この世界は少し歪で、オクトちゃんにとっては生き
496
難いはずだからと﹂
﹁ほら、セイヤの子供だし、俺も面倒をみる義務があるというか⋮
⋮みたいというか⋮⋮。とにかく、今が楽しいなら、気にするな。
ただ辛くなったらいつでも俺の名前を呼べ﹂
少し顔を赤くしたカンナの顔は、ママとどこか似ている気がした。
497
25︲1話 戸惑いだらけな新学期
神様と出会ってから季節は流れ、私は11歳となった。
結局私はカンナの申し出を、丁重に断わり家に戻った。カンナに
は悪いが、私にはアスタがいるので、今更親代わりとかいらない。
それでも時折連絡を取り合いたいと言われたら、私は断る理由を見
つける事ができなかった。
ただし連絡を取り合うといっても、神であるカンナと私に血のつ
ながりがある事は公表してはいけない事には変わりない。というわ
けで、再び一つアスタへの内緒ごとが増えた。頭の痛い話である。
また11歳になった私は、念願の魔法薬学部に進学した。
魔法薬学部では、いままでの基礎的な授業が減り、専門的な薬草
や薬についての授業や、実験学が新たに加わった。実験学は前世の
科学みたいなものかなと思ったが、どちらかというと、家庭科の調
理実習に近く、科学のような精密さはない。
まだ作った事のある薬が、飲み薬ではなく、塗り薬の類だからか
もしれないけれど。
﹁おいっ、ニガヨモギは︱︱﹂
﹁すりつぶしておいた﹂
そう言って私は、鍋の中にニガヨモギなるヨモギっぽい薬草を入
れた。すると鍋の中身が深い緑色に染まる。現在は実験学の真っ最
中で、これからこの鍋の中身がどす黒くなるまで煮詰める予定だ。
この実験のおかげで、教室の中は、葉っぱの青臭い強烈な匂いが充
満していた。最初はきつかったが、すでに私の鼻は麻痺している。
﹁コンユウ、後よろしく。洗い物をしてくる﹂
498
そしてもう一つ大きく変わったのはクラスメイトだ。カミュは魔
法学科に進学し、ライは魔法騎士学科という、卒業後、軍に配属さ
れる事を希望するヒトの多い学科に進学した。そして担任であった
ヘキサは、私が進学すると同時に学校を止め、今は伯爵家で伯爵の
勉強中だ。
何だか知り合いが皆遠くに行ってしまったみたいで寂しいが、カ
ミュやライは同じ学校には違いないし、ヘキサとも公爵家にいるの
で実際はそれほどバラバラになったわけではない。ただ、クラス替
えをしたら友人が誰も居ませんでした的な状況を味わっているだけ
だ。
ただ代わりと言ってはなんだが、コンユウが一年飛び級を果たし、
私のクラスメイトとなった。
﹁水よ、盥の中に集まれ﹂
洗い場まで来た私は魔法で盥の中に水を溜めた。これができない
と、外の井戸まで水を汲みに行かなければならないのでとてもあり
がたい。
というか人体に一番必要な水を操れるって、実は自給自足の中で
一番都合のいい能力ではないだろうか。この水属性と風属性があれ
ば⋮⋮洗濯に便利そうだ。自分が混ぜモノでなければ、クリーニン
グ屋さんになれたのになぁと思う。
﹁あ、あのさ﹂
﹁ん?﹂
﹁悪いけど、俺も水をもらっていい?﹂
器具を洗っていると、隣から灰色の髪をした人族の青年に声をか
けられた。断る理由もないので、私は同じように魔法で彼の盥にも
水を張る。
﹁ありがとな﹂
499
﹁うん﹂
進級してから、少しずつだが、私はクラスメイトと話すようにな
った。まだカミュやライのような友人はできていないが、少なくと
も業務的な内容は話せる。かなりの進歩だ。
カミュに人間関係音痴の烙印を押されたが、ここでこうやって武
者修行していれば、いつかは改善されるのではないだろうか。クラ
スが離れてからというもの、カミュ達は心配してよく私の所へ来る
が、私だってもう11歳だ。頑張らねば。
﹁オクト、早く来い﹂
コンユウの声が聞こえて、私はため息をついた。
叫ばなくったって、遊んでるわけではないので、ちゃんと戻る。
たぶん色が変わる前に思った以上に水が蒸発してしまったのだろう。
私も失敗して最初からというのは勘弁したいので、洗い物の手を止
める。 実験は、原則2人ペアでやる決まりなので、私にビビらな
いコンユウと組むのが常だった。その為コンユウの失敗は私の失敗
だ。
﹁じゃあ﹂
﹁おう﹂
隣にいた青年に声をかけてから、洗いかけの器具を残して席へ戻
る。
﹁どうしたの﹂
﹁水入れろ。思ったより、蒸発が早い﹂
やっぱりか。
私は魔法でビーカーの中に水を溜め、少しずつ鍋の中に入れた。
鍋の中身はヘドロのようにドロドロしていたが、まだ色が緑色だ。
加熱時間が足りない。ぽこぽことできては弾ける泡を見ていると、
なんだかと未知の生命体がココから産まれてきそうだなぁと思う。
500
やっている事は料理っぽいが、出来上がりは黒魔術だ。
﹁悪い。多分、火加減間違えた﹂
﹁⋮⋮こ、コンユウが謝った﹂
気分はクララが立っただ。
これは早速、エストに報告しなければ。きっとエストはお母さん
のようにコンユウの成長に涙してくれるだろう。
﹁俺だって謝るっていうか、俺の事何だと思ってるんだよ﹂
そんなの、リアルツンデレに決まっている。ちなみにツン:デレ
の割合は、9:1の黄金比タイプだ。2次元では萌要素だが、3次
元では残念要素でしかない。ただしこれを言うと、たぶん怒り狂っ
て、今作成している薬の終了の合図となってしまう。諦めたらそこ
で試合終了だったらいいが、実験学ではできるまで作り直せという
残念なお知らせがあるので困る。
﹁いや、ほら。コンユウは私の事が嫌いだから﹂
嫌いだから悪い事しても謝らないというのはいささか子供っぽい
が、それがコンユウだと私は理解している。あれ?でも、いつだっ
たか、私に謝ってきた事があったなぁ。ツンデレだけど、コンユウ
ってば意外に素直だ。ツンデレ、素直、さらに寂しんぼうがプラス。
⋮⋮これで金髪ツインテールだったらいう事なし︱︱いや、話がず
れた。
﹁⋮⋮じゃない﹂
﹁えっ、何?﹂
考え事をしていた所為で聞き逃してしまった。聞き返すと、コン
ユウがキッと睨みつけてくる。
﹁あ、アンタがそんなだから、俺はっ!!﹂
﹁えっと。ごめん。だからかき混ぜる手を止めないで﹂
﹁謝るな、馬鹿っ!!﹂
501
じゃあ、どうしろと。
しかしコンユウもちゃんと私がいいたい事だけは理解してくれた
ようで、鍋をかき混ぜる手を再開させた。
﹁あっ、大分と色変わった﹂
さっきまでの緑のアメーバーが、いつの間にか完璧なヘドロに変
わっていた。うん。気持ち悪い。とにかく色が変わったので、今度
はヘビゴケの実という、苔なのか蛇なのか果実なのかよく分からな
いもののしぼり汁を鍋の中に一滴ずつ滴下した。
中々色は変わらなかったが、ある瞬間突然色がエメラルドグリー
ンに変わった。成功だ。
私はいそいそと煮沸消毒済みの薬瓶を取り出すと、粘性のある液
体を瓶の中に収めきっちり蓋をした。
﹁シップは需要があるし、結構売れそう﹂
今回の実験で作ったのは、湿布薬だ。これを布につけ貼り付ける
と、いい感じらしい。材料はそれほど高価ではないし、この辺りの
山には普通に生息しているそうなので万々歳だ。
今のところ実験で作り方を覚えた薬は、毛生え薬と化膿止め、そ
して湿布薬だ。どれも絶対売れそうなので、とてもうれしい。ただ
しこの世界の薬は前世よりよく効きすぎているような気がして、ち
ょっと怖かったりする。
特に毛生え薬の威力はとんでもなくて、授業中に実際に付けたヒ
トが、坊さん系からビジュアル系髪型を通り越し、いつの間にか雪
男系にまで大変身した。流石にちょっと引く。うねうね生えてきた
毛を見た時はトラウマになりそうだった。
それにしても、あまり強い薬は、体のトラブルも多そうなイメー
ジなのだが、実際のところ副作用はないのだろうか。何かあって訴
えられても困る。
502
﹁金以外の事も少しは考えろ﹂
﹁何をいう。お金は大事﹂
﹁そうかもしれないけど、オクトは貴族の娘なんだろうが﹂
﹁一寸先は闇。貴族だからといって、いつまでもお金があると思う
のは間違い﹂
私の場合は、特に家を出る身だ。ちゃんと食べていけるよう考え
なければいけない。お金では買えないものがあるというヒトも居る
だろうが、お金でなければ買えないモノだってあるのだ。
私としてはついでに授業で、この薬の値段がどれぐらいかとか、
薬に税金がどのように付加されるのかとか、商業的な方面も取り扱
って欲しかった。
﹁アンタって貴族らしくないな。貴族のお嬢はそういう事考えない
だろ﹂
﹁貴族の産まれじゃないから﹂
貴族に引き取られたのだから、貴族の生活習慣は尊重する。尊重
はするが、理解できるかどうかは、また別問題なのだ。
﹁コンユウは貴族?﹂
﹁いや。師匠はただの魔法使いだし貴族じゃない﹂
師匠はという言い方をするという事は、コンユウはもしかしたら
貴族出身なのかもしれない。でも自分が貴族だとも言わないところ
を見ると、きっと貴族には戻れない理由があるのだろう。
時属性を持っているし、複雑そうだ。
﹁⋮⋮そう。じゃあ洗い物してくる﹂ しかしこれ以上深い話を聞いていいものか迷い、私はとりあえず
鍋を洗いに行く事で、この話題から逃げる事にした。全く気になら
ないといったら嘘だが、根掘りは堀聞かれるのは気分のいいもので
もないだろう。私だってこれ以上、コンユウに嫌われたくない。
﹁俺も洗う﹂
503
鍋を持って移動すると、コンユウもついてきた。こういう時、コ
ンユウって律義というか、いい奴なんだよなと思う。図書館の仕事
でも、たとえ嫌いな私とペアだとしても、仕事を押しつけてトンズ
ラするなんて事は一度もなかった。
﹁お前の為じゃなくて、早く終わらせたいだけなんだからな﹂
﹁分かってる﹂
そんな事わざわざ言わなくても、勘違いしないというのに。
はいはい、ツンデレ、ツンデレ。
私は先ほど洗いかけだった器具の所まで来ると、汚れを落とす為、
洗剤代わりの樹液をしみ込ませたスポンジで擦った。するとコンユ
ウが盥に用意した水で擦り終わった器具を濯いでいく。
仲が良くなくても強制的に図書館でペアを組まされてきたおかげ
で、こいう時はあうんの呼吸だ。言わなくてもお互い何をすればい
いかが分かってしまう。
⋮⋮傍から見る限りは、世間一般でいう仲良しの枠組みに入れら
れてしまいそうだ。それもあって、実験のペアがいつもコンユウな
のだろう。実際は、一方的にギスギスしてるんだけど。
もしかしたらコンユウのツンデレ発言は、周りへの牽制もあるの
かもしれない。仲がいいわけではなく、仕方がなく付き合っている
んだという事のアピールみたいな。コンユウの嫌味を脳内でツンデ
レ発言に変換してやり過ごすのは私ぐらいのものだろうし。
﹁あの、コンユウ。混ぜモノに水を︱︱﹂
てきぱきと片づけをしていると、隣にやってきた青年がコンユウ
に話しかけた。しかしコンユウはギロリと青年を睨みつける。まる
で研ぎ澄まされたナイフのような目だ。関係ない私まで鳥肌が立つ。
話しかけた青年は、明らかにコンユウより体格がいいにも関わら
ず、雰囲気にのまれて顔を青くしていた。
504
﹁何か言ったか?﹂
﹁い、いや。別に⋮⋮﹂
何故脅す。
少し考え、コンユウも私と同様に友達づくりが下手だいう事を思
いだした。そりゃ、声をかけてくるヒト、かけてくるヒト、こうや
ってガンつけて脅したら、友達なんてできるはずがない。
お前は何処の不良だと言ってやりたい。
﹁水だったら入れる。盥をそこに置いて﹂
﹁あ、ああ﹂
たぶんコンユウに私への橋渡しをして欲しかったのだろう。そう
理解した私は、穏便に事を済ませる為、さっさと水を盥の中に満た
した。
﹁あ⋮⋮ありがとう﹂
﹁ん﹂
盥を持って離れた場所に移動していった青年を見送って、私はす
すぎ終わった器具を拭く。すると不機嫌そうなコンユウと目があっ
た。
﹁どうして水やるんだよ﹂
﹁へ?何で上げないの?﹂
ここが砂漠で生死がかかっているなら別だが、幸い今は水をどれ
だけだって出せる。わざわざ意地悪をする理由が分からない。ジッ
と見つめると、もういいと言ってコンユウは顔をプイッとそむけた。
﹁何で機嫌が悪いか知らないけど、誰かれ喧嘩売ったら疲れると思
う﹂
﹁⋮⋮アンタは、オクトなんだろ﹂
﹁そうだけど?﹂
それだけ言うと、コンユウは貝のように口を閉ざしてしまった。
505
これ以上何か言っても無駄そうだが、今の情報だけでは、何が言
いたいのかさっぱりだ。どうやら私の対人スキルは、まだまだ底辺
をひた走っているようである。
506
25︲2話
﹁あ、あの﹂
﹁こんにちは。貸出ですか?﹂
図書館の受付で、のんびりとラベル貼りの仕事をしていると、声
をかけられた。
今日はさほど混んでいないのに私に声をかけるなんて珍しい。そ
んなに急ぎで借りたいものがあったのだろうかと思いつつ、とりあ
えず笑顔を向けておく。
相変わらず私が居る場所だけ閑古鳥のなく受付だが、何事もまず
は笑顔とあいさつだと、先輩からアドバイスを貰っている。今のと
ころそれほど効果は上がっていないが、気分を害す事はないだろう。
﹁応援しています。頑張って下さい﹂
はい?
何をですか?あまりに唐突な言葉に私は目を瞬かせた。前に立っ
ている、青髪の少年はそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げた。
私も反射的に頭を下げるが、何が何だか分からない。応援されて
も、私がしている受付業務は頑張りようがなかった。あえて言うな
ら、周りからの興味本位な視線に耐えるぐらいか。
﹁えっと、何をですか?﹂
﹁心やさしい貴方の活躍に感動したんです﹂
それは誰の話ですか?
心やさしいとか、意味が分からない。そもそも、私はこの少年の
事をまったく知らない。だから彼に何かしたはずはないのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮何かと勘違いされていると思いますが﹂
507
﹁勘違いなんて、とんでもない。僕、この本を読んでから、ファン
クラブに入ったんです。ほら﹂
少年がとりだしたカードには、︻オクトファンクラブ︼の文字が
入っていた。そしてさらに机の上に置かれた本はには、前世であっ
た、ライトノベルのような可愛らしいイラストが入っている。表紙
にイラストが入っている本も珍しいが、それよりも、そのイラスト
に見覚えがあった事に驚く。
私はあまりの事態に、口をパクパクさせた。驚きすぎて、上手く
言葉が出ない。
﹁オクト先輩が、凄く聡明で、優しくて、素敵な人だって分かりま
した。僕も皆にこの本広めるので、頑張って下さい。それじゃあ!﹂
えっ。
ええええええええええっ?!
颯爽と去って行った少年を見送りながら、私は内心、悲鳴に近い
叫び声をあげた。聡明とか、優しいとか、素敵とか、一体何の冗談
だ。これはドッキリか?いやむしろ、ドッキリであってほしい。そ
もそも、その本は一体何なのか。そして広めるってどういう事だ。
混乱する頭の中で、それでもはっきりしている事はあった。
あの表紙のイラスト。間違いなく、ミウの絵だ。
﹁すみません。本の片づけに行ってきます﹂
﹁えっ、オクトちゃん?!﹂
﹁それなら、後で俺らが︱︱﹂
﹁いいえ。行かせて下さい﹂
行かなければいけないんです。
私はそれだけ言うと、本を数冊持って、図書館の方へ駆けだした。
元々受付では役立ってないわけだし、抜けても何とかなるはずだ。
こんなもやもや気分では、神経をすり減らす受付業務なんてやって
508
られない。目指すは、エストが片づけ業務をしている場所だ。
本を元の場所に戻しながらウロウロとエストを探していると、2
階でエストの姿を発見した。
﹁エストっ!!﹂
﹁あれ?オクトは受付業務じゃ。えっ、何?どうかした?﹂
私は持っていた本を、とりあえず近くにあった椅子に置くと、エ
ストの肩をガシッと掴んだ。ここで逃がすわけにはいかない。
﹁ちょ、オクト、痛いっ。何っ?!﹂
﹁ファンクラブって、まだあったの?!﹂
確かにたまにミウが私の絵を描くので、私自身、完璧に消滅した
とは思っていなかった。しかしまさか大々的に、ライトノベルっぽ
い同人誌を書いて、広めているなんて聞いていない。しかもあの青
髪の少年の話しっぷりを思い返すと、どう考えてもあの本の主人公
は私だ。
﹁もちろん、ちゃんとやっているけど?まさか、誰かオクトに迷惑
かけたの?!﹂
﹁えっ。いや。迷惑はかけられたというか、そうでもないというか
⋮⋮。エストに聞いてもアレかもしれないけれど、ミウってもしか
して、私を主人公にした同人︱︱じゃなくて、小説を売っていたり
する?﹂
まさかそんなはずないよね。多分あの少年の勘違いだよねという
思いを胸にエストの瞳を覗き込む。
﹁ミウは売ってないよ﹂
エストの言葉に、私はホッとした。
そうかミウじゃなかったのか。まさか自分の同人誌が売られ、な
お且つ、それの所為で私のファンクラブという黒歴史に名を残しそ
うなグループに入るなんて迂闊モノがいるとは考えたくない。やは
りあの本はきっと、何かの間違い︱︱。
509
﹁たぶんソレ書いたのオレだし﹂
そうか。そうだよね︱︱。
﹁はいぃぃぃ?!﹂
﹁挿絵はミウが上手いからお願いしたけどね﹂
﹁ななななっ。何でっ!﹂
まさかの元凶発覚に、私は驚くしかない。だって、そうだろう。
まさか友人がそんな事をしているなんて思うはずがない。
﹁何でって、クラブ活動だけど﹂
﹁いや。クラブ活動って。何で、そんな小説を書いたの?﹂
﹁布教活動かなぁ。オクトのよさって中々分かってもらえないし﹂
布教活動ですと?!
いつの間にそんな怪しげな活動を。あまりの事に私は言葉を失っ
た。いつからそんな変な宗教にのめり込んでしまったのか。
﹁あ、丁度いいところに。ミウ。オクトが︻新説・混ぜモノさん︼
の話を読んだみたいだよ﹂
﹁本当?!やだ、恥ずかしいなぁ﹂
振り向けば、くねくねと身をよじらせたミウが居た。相変わらず
可愛らしい⋮⋮じゃなくてっ!!
﹁オクトちゃん。その、出来栄えはどうだった?頑張って挿絵を描
いたんだけど、中々オクトちゃんのカッコ可愛い所が表現できなく
て﹂
﹁いや、まだ読んでない。ただ、嘘、大げさ、紛らわしいってよく
ないと思う﹂
カッコ可愛いってなんだ。ツンデレの親戚か?
たぶん恰好いいと可愛いを組み合わせた造語だろうが、その言葉
と私の存在に繋がりを微塵も感じない。百歩譲って、外見だけは、
ご先祖様のおかげで可愛いの枠組みに入りそうだけど⋮⋮。
510
﹁嘘なんてついてないもん﹂
﹁あー⋮⋮うん﹂
ぷくっとほおを膨らませるミウの方がずっと可愛いのだが、本人
はそうは思っていないらしい。実際ミウの絵はアニメタッチだが、
私という特徴はしっかり掴んでいた。嘘は描いていない。
﹁ならエスト︱︱﹂
﹁あのさ、オクト。ファンクラブ活動って何をすればいいと思う?﹂
何をする?
前世の記憶をよみがえらせれば、ファンはとりあえず、写真をは
じめとする、グッツを買っている気がする。そして、アイドルなら
写真集、歌手ならCDを購入していた。スポーツ選手なら応援だ。
しかしこの世界には写真もなければCDもない。そもそも私は、
アイドルでも、歌手でもないのでライブもない。また、部活動に所
属していないので、スポーツもしない。
思いおこせば、やる事は何もない。
﹁オクトは学業とバイトに明け暮れていて、応援する事もなくて、
オレらはオクトをそっと見守る会になり下がるしかなかったんだ﹂
エストの言い分は間違いない。ただ、そっと見守る会はなり下が
りなのだろうか。むしろ、そのままそっとしておいて欲しかった。
ついでに、飽きてくれたら、なお良かった。
﹁うんうん。それで、私達はオクトちゃんの魅力を伝える為に、本
を書く事にしたの。エストは本をよく読んでるから文章を書く事が
得意だし、私はこうみえても、絵を描くのが得意だったしね﹂
⋮⋮まさか、ファンクラブ魂をオタク昇華させるとは。斜め上な
事態に、私は頭痛を覚えた。どうしてこうなったとしか言いようが
ない。
﹁一応言っておくけど、オレら本は販売しているけど、営利目的で
511
やっているわけじゃないから、収益はほとんどないよ。あったとし
ても、ファンクラブ会費に当てられるだけだし﹂
﹁収益、あるの?﹂
﹁うん。最近は︻新説・混ぜモノさん︼のイラストグッツも、よく
売れるの。それに他の子もやりたいって子がいるから、二次創作も
オクトちゃんに迷惑をかけない範囲でならいいって許可してあるん
だよ。もちろんファンクラブの会員だけだけどね﹂
つまり、どんどんファンクラブという名の同人活動が広がってい
ると。
二次創作ってあれか。前世でいう、薄い本の事か。掛け算とかも
ある、あれの事か。深く追求すると、私の胃が悲鳴を上げそうだっ
たので、あえてそちらに関しては考える事を止めた。 ﹁もしかして、会員に何かされたの?もしもそうなら、ちゃんと中
止するから言ってね。クラブ活動の原則は、オクトちゃんに迷惑を
かけない事だから﹂
﹁あー⋮⋮。されたというか、まさかの活動の広がりに驚いている
というか⋮⋮。えっと、その︻新説・混ぜモノさん︼なんだけど︱
︱﹂
売るのを止められないかと言おうとして、ミウ達の心配そうな目
とぶつかった。
しゅんと耳がたれ下がったミウを見ると、ズキズキと心が痛む。
一方的に、売らないで欲しいと言っていいものだろうか。
別に害を与えられているわけではないのだ。エストに悪気がある
ようにはとても思えない。実際、私もまだ読んでいないのに、クレ
ームを付けるのもどうだろう。
いや、でも布教活動はないよな。正直恥ずか死にそうなので止め
てもらいたいし⋮⋮。
﹁︱︱せめて、この話はフィクションです。実際の人物とは関係あ
512
りませんって文面を入れて﹂
とりあえず、一度読んでみよう思い、よくある文面だけ要望した。
513
25−3話
⋮⋮意外に面白い。
エストが書いた︻新説・混ぜモノさん︼は思った以上に面白かっ
た。ストーリーはそれほど複雑ではなく、魔王に引き取られた混ぜ
モノの少女が、周りのヒトを幸せにするような話だ。ミウのイラス
トが入っている事もあって、読みやすい。
﹁でも、美化しすぎ﹂
話を面白くするために魔王に引き取られたとか、脚色されてはい
るが、内容は私が本当に行った事が多い。しかし本の中の主人公と
私では性格がまったく違う。基本的に、私は自分がよければそれで
いいタイプだ。誰から聞いたのか分からないが、海賊に捕まった時
に、一緒に捕まった女性を逃がしたあたりの話なんて顕著なものだ。
私は私が恨まれない為に行ったはずなのに、どうしてそれが自己犠
牲精神になっているのか。
はっきり言おう。誰だソレ。読んでいて恥ずかしくなる。
﹁まさか主人公の性格が私でなくなるだけで、こんな感動的ストー
リーになるとは⋮⋮﹂
﹁よう。何読んでいるんだ?﹂
ライの声に咄嗟に本を閉じたが、閉じた後にしまったと後悔する。
何でもない風を装えば、さりげなく本から話題をそらせたはずなの
に。これでは、見られたくないものだと言っているのも同じだ。
美化100%な小説を読んでましたなんて、言いたくない。どん
なナルシストだ。
﹁えっと。これは︱︱﹂
514
﹁ああ、それ。エストが書いている小説だろ﹂
﹁︱︱知ってるの?﹂
﹁俺も情報提供したしな﹂
⋮⋮ですよね。
よく考えれば、海賊に攫われた時の事を一番知っているのは、私
を除けばライだけだ。海賊へ取材に行くなんてできないだろうし、
私もエスト達に話した覚えはない。しかし内容的に、誰かに聞いて
なければ、ここまで詳しくは書けないだろう。
﹁なんでそんな事を﹂
﹁弟分に頼られたら、兄貴としては協力しないわけにはいかないだ
ろ﹂
﹁私の個人情報なんだけど﹂
﹁いいじゃん。減るもんじゃないし﹂
あっけらかんとライは笑うが、たぶん私の精神的気力が何割か減
ったと思う。笑いごとではない。
﹁それより。わざわざ俺に会いに来るなんて珍しいな。何かあった
のか?﹂
私はライに言われて、はっと最初の目的を思い出した。わざわざ、
魔法騎士学科の訓練場前のベンチで、本を読んで暇を潰していたの
にはわけがある。
私は鞄の中から薬瓶を取り出すと、ライに差し出した。
﹁コレ。湿布薬。作ったけど、使わないから﹂
﹁サンキュ。この間の化膿止めといい、わざわざ悪いな﹂
﹁いい。どうせ使わないから﹂
折角作ったが、11歳の私が湿布薬に頼る事はほぼない。一緒に
住んでいるアスタも、実年齢はともかく、外見年齢が若い為か、必
要とした所を私は見た事がなかった。小説の中で魔王扱いされても
仕方がないと思えるぐらい、元気な80代だ。
515
そこで古くなって捨てられるぐらいならばと、私は薬をライに上
げる事にした。
魔法騎士学科のヒト達は、魔法という言葉がついているにもかか
わらず、意外に肉体派な訓練が多い。私も最初こそ攻撃魔法中心の
勉強をするのかと思っていたが、彼らは毎日校庭をランニングする
など、ガッツリ体育会系だ。今日だって魔法を使わない剣術訓練を
していた。
基本魔法使いは、理系、文系なヒトばかりで、体育会系は少ない。
訓練後もピンシャンしているライは例外中の例外である。魔法騎士
学科に進学した大抵の生徒は、最初の一年は筋肉痛に呻くそうだ。
そんな彼らなら、きっと湿布薬を役立ててくれるはず。
﹁まあ、確かに俺らの方が使うな。まだ訓練場でへばっている奴多
いし、ありがたく使わせてもらうよ﹂
﹁うん。でも魔法の勉強より武術訓練が多いのは何故なんだろ﹂
私が想像する魔法使いの戦い方は、前衛ではなく後衛だ。剣術を
使うのは剣士の役目であって、魔法使いの役目ではない。体力はあ
って困るものではないが、どうにも今の訓練方法はピンとこない。
﹁そんなの魔法使いと剣士で争ったら、魔法使いが負けるからだよ﹂
﹁へ?そうなの?﹂
魔法使いはある意味チートだ。火のない場所で炎を作りだし、風
のない場所で嵐を作る。何でもかんでもできるわけではないが、剣
士よりもできる事が多い。
﹁剣士は脊髄反射で剣を振るうからな。魔法を発動させるより、よ
っぽど早いんだよ。喉を潰すのが一番だが、それができなくても、
切り付けれたら剣士の勝ちだ。痛みで集中力が切れた魔法使いなん
て、なんの役にも立たないしな﹂
﹁⋮⋮あー。確かに﹂
516
魔法は脊髄反射では使えない。離れた場所からの攻撃なら無敵だ
が、そうでなければ物理的な力には劣る。私も本の盗難がある時は、
必ず遠くから犯人へ魔法を使うようにしていた。
﹁オクトも鍛えてやろうか?剣術とか覚えておいて損はないぞ﹂
﹁遠慮しておく﹂
私はあまり運動神経がいい方ではない。それなのに下手に戦場で
戦えるすべを持っていると、第一王子に戦場へ放り込まれそうで怖
かった。今のところ王子から音沙汰はないが、いつ何があるか分か
らない。混ぜモノは暴走するリスクが高くて使い物にならないと思
わせておいた方が後々面倒臭くないはずだ。
﹁それにライ、最近忙しそうだし﹂
カミュとライはよく私のクラスへ遊びに来てくれるが、頻度的に
はライの方が少ない。訓練は面倒だなんて正直に言った日には、体
育会系代表であるライに、校庭をランニングさせられそうだと思っ
た私は、それをいいわけに使わせてもらう事にした。
ライは何か嫌な事でも思いだしたのか、苦虫を噛みしめたような
微妙な表情をするとため息をついた。
﹁まあな。最近魔法使い共に怪しい動きが多いから、ライスちゃん
が再登場してるんだよ﹂
﹁⋮⋮ライスちゃん、まだ居たんだ﹂
﹁そろそろ、卒業だけどな﹂
何とも懐かしい名前に私はあきれ半分で笑った。確かに最近にょ
きにょき身長が伸び始めたライでは、メイド役であるライスを演じ
るのは色々苦しいはずだ。
﹁オクトの方はどうなんだよ。この間、また館長が倒れたんだろ?﹂
﹁⋮⋮うん。一応命に別状はないらしいけど﹂
去年同様、館長は再び寒い日に倒れた。
517
医者の見解だと、高齢だから仕方がないそうだ。去年倒れてから
少し痩せられた気がしたが、最近はさらに痩せて小さくなった気が
する。
本当なら、仕事などせず療養すべきだ。しかし去年と同様に、館
長は図書館から離れることを嫌がり、再び館長室で寝ている。アリ
ス先輩と口喧嘩しているので、今すぐどうこうという事はないだろ
うが、心配な事には変わりない。
﹁そっか。あのヒト、かなりの年だもんな。オクト達が任された時
魔法の方は大丈夫なのか?﹂
﹁うん。ようやく半分はコンユウが受け持てるようになったから﹂
コンユウは涙ぐましい努力の結果、時魔法をある程度コントロー
ルできるようになった。まだ受け持ちを半分だけにしているのは、
不備が出た時に、館長がすぐさま対応できるようにだ。能力的には
十分一人でできる。
私の方も、一括管理の魔方陣はまだ作成途中だが、蓄魔力装置の
方は順調に出来上がりつつあった。
色々文献を調べた結果、すでに魔力を帯びた石を﹃魔法石﹄と名
づけ、魔力が低い人に販売されている事が分かった。もちろん現状
の技術では溜まる魔力の量などたかが知れているので、そのまま使
う事はできない。しかし石は、魔道具によく使われるぐらい魔力耐
久度が高いので、石に刻む魔方陣を工夫すれば、もっと高濃度の魔
力を溜める事ができるはずなのだ。それに電池と同じで、石を並列
につなげば2倍に長持ちし、直列につなげば2倍の威力が出る事も
実験で分かってきた。
アスタにも相談しながら進めているし、この調子なら今年中には
完成できるはずだ。
﹁無理するなよ﹂
518
﹁⋮⋮えっと。私は何もしてないけど﹂
大変なのは実際に時魔法を使い続けなければならないコンユウの
方だ。私ではない。しかしライは呆れたように私を見た。
﹁十分しているだろ。もうそろそろ、自分の価値を見直せ。学部が
違うから、俺やカミュがいつも一緒に居られるわけじゃないんだか
らな﹂
﹁へ?﹂
ライはわしわしと私の頭を乱暴に撫ぜると、隣に座った。価値を
見直せと言われても、何が何だか分からない。
﹁俺だってオクトの生立ちは聞いてるから、お人よしな性格を変え
ろとはいわないさ。でも自分の価値を低く見るのは止めろ﹂
﹁私はお人よしではないけど﹂
価値観だって、それほど周りとずれているつもりはない。しかし
私の反論を聞くなり、ライは思いっきりため息をついた。
﹁お人よしだろ。すぐに同情するし、嫌いな相手でも力貸すし。下
手すると、とんでもない価値のものとくだらないものを交換して、
仕方がないで済まそうとするし。その上、自分を無価値だと思って
るだろ﹂
﹁そんな事ないし、していない﹂
﹁分からないから、価値がおかしいって言ってるんだよ。いいか。
よく聞け。オクトの知識は賢者だ。求められて、中立な立場の図書
館に力を貸すぐらいならいい。でも頼むから、カミュの敵にならな
いでくれ﹂
カミュの敵?
カミュは友達なのだから、そんなものになるつもりはさらさらな
い。しかしライはそう思っていないようだ。心外である。
﹁私は友達を裏切る気はないけど﹂
﹁知ってるよ。俺は頭悪いけど、ずっと一緒に居たんだ。オクトが
519
そういう奴だって事ぐらい分かってる。でもオクトは目の前で死に
かけている奴がいたら、例え嫌いな奴だとしても助けるだろ﹂
﹁そんなの、当たり前︱︱﹂
﹁じゃない。そいつがカミュの命を狙う奴だったら、俺は殺す。例
え友人でもだ。赤の他人ならなおさらだ﹂
ライは冗談を言っているようではなかった。その時がきたら、ラ
イは躊躇うことなく、相手の命を奪うのだろう。それが私だとして
もだ。
隣に座っているはずなのに、何故か私にはライがとても遠い人に
感じる。
﹁流されたっていい。助けるのだって仕方ないと思う。でも自分の
価値を理解して、カミュの敵にはならないでくれ。頼むから﹂ ライの声は切実で、私はどうしていいか分からず、ただただ頷い
た。 520
26−1話 不毛な感情
﹁失礼します。頼まれたりんご、持ってきました﹂
私は片手にりんごをむいた皿を持ちながら、館長室の扉を開けた。
﹁おお。いつもすまないのう﹂
いつもって、私は看病をほとんどやってないんだけどなぁ。
⋮⋮ここは、それは言わない約束だよとでも言えばいいのだろう
か。私に冗談とか、そう言った類のものを求められても困ると思い
ながら、とりあえずベットに近づく。
今日は大人しく寝ていたらしく、館長はベットにロープで結びつ
けられてはいなかった。でも布団の端から本が顔を出しているので、
やはり勝手に抜けだしたのだろう。
﹁本、見えてます。隠すならしっかりやらないと先輩に怒られます
よ﹂
でもこの食えない館長の事だ。もしかしたら構ってもらう為にわ
ざとやっているのかも知れないけれど。⋮⋮うわー、なんて面倒臭
い。
﹁皆、大げさなんじゃ。わしはもう大丈夫だといっておるのに﹂
﹁そう言って倒れたと聞きましたが﹂
ちょっと体調がよくなれば、ベットを抜けだし、そして倒れる。
懲りない迷惑な爺さんだ。ベットに縛り付けたアリス先輩の気持ち
も分からなくはない。実際にやる事はないだろうけど。
﹁欲しいものがあれば、りんごみたいに持ってきます﹂
﹁それでは、体が弱るじゃろ。わしはまだまだやる事があるんじゃ。
おちおち寝ておれん﹂
なんて生き生きとした爺さんなのか。
この年でまだ目標があるなんて、私より元気だ。長生きしそうで
521
ある。⋮⋮ああ、だからこそ、今長生きしているのか。
﹁やる事があるなら、なおさら家で休んで下さい。体を治すのに専
念された方がいいと思います﹂
﹁ここがわしにとっての家なんじゃよ。ここ以外に帰る場所などな
い。そうじゃ、りんごをくれるかのう?﹂
もぞもぞと館長が体を起こしたので、私はりんごがのった皿を渡
した。
﹁⋮⋮ウサギじゃない﹂
﹁ああ。今は硬いものが食べにくいと聞いたので、薄切りにしまし
た﹂
というか、そんな可愛いものを要求しないでくれ。そういうのは
可愛らしい女の子の役目だ。私にできるのは、食べやすい大きさに
カットして、変色しないように塩水につけるぐらいである。
﹁皆でわしを年より扱いしおって﹂
ぷんぷんと怒りながらも、館長は薄切りにされたりんごを口へ運
び咀嚼した。とりあえず、食欲はまだありそうだ。
ただやはり初めて会ったころに比べると一回りぐらい小さくなっ
た気がする。殺しても死ななさそうな気がしていたが、やはり年に
は勝てないという事だろう。
﹁実際年かと﹂
﹁⋮⋮はっきり言うのう。まあ若者だとは言わんよ。この図書館と
共に年を重ねてきたからのう。初めはわしの書斎じゃったここも、
そのうちどんどん本が溜まって図書館にしたわけじゃし。わしもよ
くもまあ、ここまで溜めこんだものだと思うよ﹂
﹁えっと、この図書館は館長が建てられたんですか?﹂
﹁そうじゃよ。図書館を立てた後に、この学校の創設者と意気投合
してのう。塔の周りに学校を建てる事を許したんじゃよ﹂
図書館はこの学校の一部なのに、中立だなんて不思議な気がして
522
いたが、そもそもここは独立した場所だったのか。
形も学校のシンボルのように目立つ塔の形をしているし、普通は
別の場所だなんて思わない。
﹁そういえば、何故塔にしたんですか?本の管理は、日の当たらな
い地下の方がしやすい気が⋮⋮﹂
図書館にはちゃんと地下もあるので、片づけきれなくなってどん
どん上に高くしていったという可能性もある。でもそれなら横に広
くするとか、もっと楽な方法があるように思う。
近くにできなければ、資料の種類をわけて、分館する事だって可
能だ。
﹁塔なら目立つと思ったんじゃよ﹂
﹁はあ。目立ちたかったんですか?﹂
館長はあまりヒト前に出て何かをする事がないので、目立ちたい
という理由は何だか違和感があった。でもこんな事で嘘をつく理由
もない気がする。
﹁わしはずっとヒトを待っておってのう。わしにどうしても気がつ
いて欲しかったんじゃ。この塔なら、きっと会えると思ってのう﹂
﹁お会いできたんですか?﹂
﹁⋮⋮できたとも言えるし、できなかったとも言える﹂
なんだそりゃ。
もしかしたら、図書館に待ち人は来たけれど、待ち人は館長の存
在に気がつかなかったとか、そういうオチだったのだろうか。
﹁じゃから、今もここから離れられんのじゃよ﹂
﹁⋮⋮待っている相手は、どんな方なんですか?﹂
館長の声が切なく聞こえ、まるで恋でもしているかのように見え
た。でも実際そうなのかもしれない。ずっと待っているだなんて、
よほど特別な相手でなければできないだろう。
523
﹁わしの初恋のヒトじゃよ。容姿端麗、頭脳明晰な素晴らしいヒト
じゃ。でも自分に自信がない上に、悲しいぐらい優しすぎるヒトな
んじゃよ﹂
容姿端麗、頭脳明晰なのに自信がないとは。しかも悲しすぎるぐ
らい優しいヒトって⋮⋮何だか詐欺とかにあったり、貧乏くじを引
きそうなタイプだ。
でもそんなヒトが好きな館長こそ、貧乏くじを引いているのかも
しれない。だいたい、中途半端にしか会えていない時点で、貧乏く
じまっしぐらだ。でもここから離れられないという事は、本気で好
きなのだろう。
﹁そんなに好きなら、待っているのではなく、会いに行けば︱︱﹂
言いかけたところで、私は気がついた。
館長の初恋という事は、そのお相手は何歳なのだろう。館長は化
石のような年齢だ。例えば長寿な種族ならば生きている可能性もあ
るが、獣人や人族なら、とっくの昔に鬼籍に入っている。
しまった。
体調が悪い時に、そんな悲しい話しをさせてどうするんだ。対人
能力音痴とまで言われた私が、慰めるとか無理だ。どうしよう。こ
こはさりげなく話題転換するべきか。しかしどうしたら、さりげな
く話題を変えられるんだ?
﹁オクト魔法学生は、恋愛は実らなければ不幸だと思うかね?﹂
﹁えっと⋮⋮どうなんでしょう?﹂
自分自身は恋愛などありえないので、前世の漫画の知識を引っ張
り出してみる。片思いで苦しんでいるとしても、それが不幸とは言
い難い。逆に両思いで、ふふふ、あははな状態だとしても、何かし
ら心配事があったりして、大満足な状態ともいえない。漫画なので
大満足な状態になったら、たぶんそこが完結となってしまうので仕
方がないのだろうけど。
524
とりあえず、実らなければ不幸だというのはちょっと横着な分類
の仕方な気がする。かといって実らない状態が幸せなのかと言われ
たら、それはそれで悩みどころだ。
しいろ
﹁わしは、彼女が幸せなら、それで良い。その為に紫色の賢者と呼
ばれるような人生を歩み、図書館を建てたんじゃからのう。会いた
くない、好かれたくないと言っては嘘じゃけどな﹂
﹁それだけ想われたら、不幸なはずない⋮⋮と思います﹂
ここは幸せですと言うべきところだが、私は彼女ではないので、
そんな嘘はつけない。でもそれだけ想われておいて不幸という事は
ないだろう。というか、それで不幸だと言ったら、どれだけ贅沢も
のなのか。悪女すぎる。
でも、館長の見る目がなくて、本当に悪女だったらどうしよう。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
館長の声が震えた。その声色にドキリとする。
﹁えっ、泣かないで下さい﹂
まさか泣かれるとは思わなくて、私は慌てた。あああ。どうして
こう、もっと明るい話題をふってあげられないんだ。
対人関係音痴という言葉が重くのしかかる。こんな時、エストや
カミュだったらどうするだろう。あああ、参考例がほしい。前世の
私。どうして、色々経験しておかなかったんだ。
﹁ほ、ほら。りんごオイシイですよ︱︱あれ?﹂
体を震わせているので、泣いているのかと思えば、くすくすと笑
い声が漏れてきた。あれ?泣いてない?
﹁くっ、あははは。オクトは変わらないのう﹂
泣いてなかった?
でも御礼を言った時の声は確かに感極まったようなものを感じた。
真相は分からないが、館長は笑いながら私を手招きするので、顔を
525
近づける。するとよしよしと頭を撫ぜられた。完璧、子供扱いだ。
﹁⋮⋮どうせ、成長してません﹂
﹁よいよい。まだオクトは⋮⋮オクト魔法学生は、若いんじゃ。の
んびり生きなさい﹂
﹁無理です。のんびりしていたら、いつまでたっても独り立ちでき
ないです﹂
﹁アスタリスク魔術師は、焦ってはおらんじゃろ﹂
﹁そうですけど⋮⋮﹂
アスタはどんどん私を甘やかそうとするので、館長がいうように、
たぶん焦ってはいないと思う。むしろ甘やかし方が、年々悪化して
いる気がする。
元々魔族は長寿な一族なので、独り立ちするのはゆっくりなのか
もしれない。でも私は魔族ではないし、あんまり長い事すねかじり
しているのは気が引ける。
﹁そう急いで何とかなるものでもないと思うがのう。たまには寄り
道したらどうじゃ﹂
﹁寄り道?﹂
﹁オクトはおらんのか?赤い糸で結ばれたい相手は﹂
﹁はっ?﹂
赤い糸?何ソレ美味しいの?
突然の宇宙語に私は固まった。いや、赤い糸は分かるよ。あれで
すよね?運命の相手的な。でもその話題と私に何の関係性があると
いうのか。
﹁だから、ほの字な相手じゃよ﹂
ほの字って⋮⋮。
﹁えっと、いませんが﹂
﹁ええー﹂
館長、ノリいいなぁ。
526
女子高生のように間髪いれずに合の手を入れてくる。いやいや。
館長の恋バナを聞いておいてなんだが、私と館長で女子高生風とい
うのは薄ら寒い気がする。こういうのは、ミウのような可愛い子の
役目だ。
﹁あの。だって、私は混ぜモノですよ﹂
﹁それがなんじゃ?﹂
﹁混ぜモノじゃ結婚できないですし、不毛じゃ⋮⋮﹂
﹁何で結婚できないんじゃ?そんな法律ないぞ?﹂
﹁いや。だから、混ぜモノなんですって。私⋮⋮子供、産めません
から﹂
混ぜモノは本来居ないはずの存在だ。例え結婚したとしても、混
ぜモノの子供は混ぜモノ。普通は産まれない。仮に奇跡が起きたと
して、子供が産まれたとしても、その子供は混ぜモノ。望まれない
生なんて、可哀そうだ。
しかし館長は私の言葉を笑い飛ばした。
﹁オクト魔法学生は面白い事をいうのう。子供が、子供の事を考え
て、どうするんじゃ﹂
﹁えっ。恋愛って、そういう事ですよね?﹂
恋愛は結婚の前段階のものであって、結婚は子孫を残す為のもの
のはずだ。例外もあるだろうが、一般認識は間違っていないはず。
﹁わしは恋愛は実らなくても不幸ではないと思っておるからのう﹂
﹁はあ﹂
確かに館長は不毛な恋愛をしているようだが、不幸ではない。相
手はどうであれ、少なくとも館長はそうだ。恋愛=結婚ではない、
例外タイプの恋愛である。
﹁誰かを好きになったとしても、誰もお前さんを恨んだりはせんよ﹂
そうだろうか。混ぜモノに好かれたら、やっぱり迷惑じゃないだ
527
ろうか。カミュ達との関係を考えると、友情くらいなら問題はなさ
そうだけど。
先ほど館長の一途な恋心を肯定したばかりなのに、混ぜモノを理
由に否定するのもちょっと違う気がした私は、とりあえず曖昧に頷
いておいた。
528
26−2話
﹁オクトは好きな相手はできたかのう?﹂
﹁⋮⋮できません﹂
というかそんな簡単にできるわけがないだろう。
館長と恋バナをした日から、時折館長にそんな事を聞かれるよう
になった。というかこれはセクハラじゃないだろうか。私は館長へ
冷ややかな視線を送っておく。
すると館長はベットの上でのの字を書いた。⋮⋮可愛い子ぶりや
がって。
﹁わしはいつになったら孫の顔が見れるのかのう﹂
﹁子供が子供の話をするなんてと笑ったのは、館長です﹂
というか、いつから私は館長の娘になったのか。勝手にホームド
ラマに仕立て上げないでほしい。
﹁ほれ、気になる相手でもいいんじゃよ﹂
﹁⋮⋮プリンあげませんよ﹂
﹁うぅ。老人虐待じゃ。こんなか弱いお年寄りになんたるしうち﹂
相変わらずベットから抜けだして叱られているくせに、良い時だ
け老人ぶって。
実際老人な為、まったくの嘘ではないのが憎らしい。
私は小さくため息をついて、手作りプリンを差し出した。りんご
を渡した事をきっかけに、館長は私に良く頼みごとをするようにな
った。といっても、大抵食べ物に関してだが。
最近はこんな感じのものが食べたいというリクエストを聞いて、
それに近いお菓子を作ってくるのが日課になっている。
﹁オクト魔法学生のお菓子はいつもおいしいのう﹂
529
﹁どうも﹂
すごく幸せそうに食べてくれるので、お菓子を作ってくるのは別
に嫌ではない。しかし菓子を食べている途中で恋バナに話が進むと、
どうしていいのか分からず、疲れるのだ。
まさか、館長が恋バナが好きだなんて、思ってもみなかった。
﹁それにしても、よりどりみどりじゃろうに。なんでオクト魔法学
生はこんなに枯れておるのかのう﹂
﹁枯れたではなく、せめて幼いためということにして下さい﹂
恋愛なんてする気はさらさらないので、枯れているでも問題ない。
でも生きた化石のような館長に、枯れている発言されるのは、何だ
か屈辱だ。かといって、子供扱いも嫌だし⋮⋮難しい年頃というや
つだろうか。
﹁何をいう。いまどき幼児でも恋愛するぞ﹂
﹁⋮⋮それはきっと、私が知らない幼児という名の別の生きモノで
す﹂
いくらなんでも、そんな幼児は居ないと思う。いや、居ないでほ
しい。できたら、絵本の王子様に恋をしました程度でお願いしたい
所だ。それなら可愛らしいし、万々歳である。
﹁つまらんのう。何か面白い話はないのかね﹂
﹁恋愛話がお好きなら、小説でも読めばいいと思います﹂
私で恋愛小説を読んだ気分を味わおうなんて甘過ぎる。普通にそ
ういう需要を満たした本を読んだ方が何十倍も楽しいはずだ。
﹁本といっても、ここにあるものはほとんど読んでおるしのう。オ
クト魔法学生は、どの本がお勧めじゃ?﹂
お勧めかぁ。
あまり意識した事ないので、困る。私の場合、専門書を読む割合
の方が多く、あまり小説などは読んでいない。最近読んだ小説と言
530
えば、エスト作の同人誌だ。あれはカウントに入れたくない。
﹁あー、エストは﹃混ぜモノさん﹄という本が面白いと言っていま
した。私も分かりやすく面白いストーリーだと思います﹂
﹁ほう。わしが書いたものを読んでいてくれたとは、嬉しいものだ
のう﹂
﹁へ?﹂
わしが書いたですと?
﹁館長⋮⋮作家だったんですか?﹂
﹁正確に言えば、作家もしていたかのう。書いたといっても、﹃混
ぜモノさん﹄しか出版した事はないがのう﹂
マジですか。
エストが聞いたら、感動で涙を流しサインを欲しがる事だろう。
灯台元暗しというか、こんな近くに書いた張本人が居るとは思わな
かった。
﹁ん?という事は、館長は混ぜモノに会った事が?﹂
もしかしたら架空の話なのかもしれないが、それにしては、混ぜ
モノの描写がしっかりしている気がした。原作と言われる、﹃もの
ぐさな賢者﹄を読んだからといってあんな風に書けるとは思えない。
﹁⋮⋮遠い昔に会ったかのう﹂
確かに館長ほど長生きをしていたら、混ぜモノと出会うことだっ
てあるだろう。混ぜモノといっても、色んな種族の血が混ざってい
れば呼ばれる名称なので、私とまったく同じという事はたぶんない。
それでも、私も一度は会ってみたい。会ったからといって、何かが
変わるとも思えないけれど。
﹁わしが書いたものが好きじゃというのは嬉しいが、他にはないの
かね﹂
﹁えっと⋮⋮、小説より、専門書を読む事の方が多いので﹂
531
﹁なんじゃ。つまらんのう。少しは恋愛小説を読めば、恋がしたい
とか胸キュンな気持ちになれると思うんじゃが﹂
⋮⋮私が胸キュン。
想像し難くて、私は眉間にしわを寄せた。
﹁そんな顔をせず、もっと周りを見なさい。愛は世界を救うんじゃ
よ﹂
前世の夏休みに良く聞く言葉を言われて、私はさらに眉間のしわ
を深くした。
◆◇◆◇◆◇◆
周りを見なさいと言われてもなぁ。
混ぜモノが恋愛⋮⋮不毛だ。誰の得にもならない。
﹁オクト、手伝うよ﹂
返却ボックスから本を返しに歩いていると、エストに呼び止めら
れた。
例えばエストを恋愛対象としたとしよう。⋮⋮エストは凄くいい
ヒトだし、大切な友人だ。そんな不毛な感情で、関係がぎくしゃく
とか嫌である。それ以前にエストに迷惑とかかけたくはない。
うん。ないない。
﹁オクト?﹂
﹁ああ、ごめん﹂
﹁何か考え事?﹂
532
﹁あー、ちょっと﹂
恋愛について考えてましたとか言いにくい。
私が恋愛とか似合わないというのに⋮⋮。館長とそんな話ばかり
しているから毒されている。
﹁オクト。言いたくないならいいけど、悩み事があったらちゃんと
言ってよ﹂
ほら。混ぜモノな私を友達だと言ってくれて、なおかつ心配して
くれる大切な友人なのだ。そんなエストを得体のしれない一時の感
情で苦しめたら駄目である。ああいうのは、断る方だって気を使っ
たりするのだ。
﹁館長にからかわれているだけ。悩んでいるわけじゃない﹂
﹁からかわれてるって、なんでまた﹂
﹁さあ。ただ館長は恋愛至上主義らしい。﹃混ぜモノさん﹄を書い
た作者でもあるから、ロマンティストなのかも﹂
愛は世界を救うと言われたが、現実的に見れば、愛が世界を救う
時もあるの方が正しいだろう。愛だけで全てが解決とかありえない。
﹁えっ、混ぜモノさんの作者なの?!﹂
﹁らしいよ。それしか書いた事はないらしいけど⋮⋮っと、ここか﹂
私は返却する本以外を近くに置き、梯子に足をかけた。相変わら
ずこの本棚は高すぎる。
﹁オクト上の方のはオレがやるよ﹂
﹁いや、いい。確かに高い所は苦手だけど、克服したいし﹂
箒で空を飛ぶ必要はないが、高いとこに登れないのは色々致命的
だ。この国の冬は雪深い。王都はそこまで雪はつもらないが、山に
住むなら覚悟がいる。一人で暮らすようになれば、雪下ろしだって
自分でやらねばならないのだ。
﹁じゃなくて⋮⋮。ほら、オクトはスカートだから﹂
533
﹁⋮⋮ああ。大丈夫、スカートの下にスパッツを履いているから﹂
どうやらパンツが見える事を心配してくれたらしい。といっても、
相当上の方まで登った上で下から見上げなければそんな現象も起こ
らないので、いらない心配だ。
﹁それでも、念のため。貸して﹂
そこまで言うならばと、私は本を渡した。確かに混ぜモノのスカ
ートを覗いていたなんて不本意な噂が立っても可哀そうだ。
﹁ありがとう﹂
﹁どういたしまして。たまにはオレもできる所見せないとね﹂
そう言って、エストはすいすいと梯子を登った。一段一段慎重に
登る私より、エストが登った方が速そうだ。
エストが本を返した所で、次の本を手渡す。
﹁エストって、モテそう﹂
﹁はいっ?!﹂
エストが本を置いて戻ってきた所で、私はぽつりとつぶやいた。
だって、そうだろう。ヒト当たりがいいし、フェミニストだし、顔
だって悪くない。
﹁えっ、あ。いきなり、どうしたの?﹂
﹁ああ。最近館長が、恋愛、恋愛って五月蠅いから﹂
モテるエストなら、浮いた話の1つや2つ持っていそうだ。エス
トの話だったら、暇で死んでしまうと騒いでいる館長を楽しませる
事だってできるだろう。
これがツンデレコンユウだと、例え浮いた話があったとしても上
手くいかない。絶対話している最中にツンが発動するからだ。
﹁言っておくけど、付き合っているヒトはいないからね﹂
﹁そうなの?﹂
確かにエストが私やミウ以外の女子と遊んでいる姿はあまり見か
けない。⋮⋮もしやファンクラブ活動の弊害だろうか。ファンクラ
534
ブなんて、オタクな匂いがぷんぷんする。そして私のイメージでは
オタクはモテない。
﹁そ、そりゃ、好きなヒトぐらいはいるけど⋮⋮。オクトこそどう
なの?﹂
﹁混ぜモノだし、いるわけがない﹂
﹁⋮⋮混ぜモノは関係なくない?﹂
エストがキョトンとした顔で聞き返してきた。逆に私の方がキョ
トンとしてしまう。
﹁だって、混ぜモノに好かれたら迷惑だし﹂
﹁そんな事ないよっ!!⋮⋮ごめん。でも少なくとも、オレは︱︱﹂
声を荒げて否定した後、はっとなったエストは、すぐに謝ると、
声を小さくした。友人が大切に思ってくれていると思うと、何だか
くすぐったい気分になる。
﹁私こそ、ごめん。ありがとう﹂
確かに好きの意味は恋愛だけとは限らない。混ぜモノだけど友人
でいてくれるのに、それを否定したら、エストだって面白くはない
はずだ。
﹁えっ、あっ⋮⋮うん﹂
﹁最近館長が恋愛恋愛いうから、そっちばかりに頭がいってしまう﹂
ももいろ
私の脳を恋愛脳にしてどうするつもりなのか。
しいろ
﹁⋮⋮オクトも大変だね﹂
﹁紫色の賢者じゃなくて、あれじゃあ桃色の賢者だ。⋮⋮そう言え
ば、どうして紫色なんだろ﹂
もこもこで分からないが、もしかしたら瞳の色が紫色をしている
のかもしれない。もしくは、時属性の色が紫だからとかその辺りか
しいろ
らきているのだろうか。
しいろ
﹁紫色は死色。⋮⋮えっと、死の色と掛け合わせてあるみたいだよ。
535
紫の方は瞳の色からきているっぽいけど﹂
﹁死色?﹂
何とも物騒な言葉に私は聞き返した。
﹁館長って昔は結構色んな戦に出ていたみたいなんだ。本に書いて
あっただけだから本当かどうかは知らないけれど、館長が軍師を務
めた戦は必ず勝つんだ。だから畏れを抱いた人が、そう呼び始めた
みたいだよ﹂
あのもこもこゆるゆる館長が軍師。
時の流れとは凄い物だ。まったく想像ができない。
﹁だから館長は中立を保てるらしいよ﹂
⋮⋮なるほど、王家も館長を敵にはまわしたくない。それは魔法
使いも同じ。ああ見えて頑固そうだし、味方にできないならば、中
立で居てくれた方が、皆にとっていいのだろう。
にしても本にまでなっているなんて。そんな凄いヒトだったのか。
私は、ヒトは見た目によらないという事を改めて知った。
536
26−3話
﹁お嬢様、どうかされました?﹂
﹁⋮⋮人づきあいって難しいなぁと思って﹂
正直人づきあいって面倒︱︱いやいや、人づきあいは面倒じゃな
い。そこまできたら色々、ヒトとして不味い。面倒なのは恋愛につ
いて考える事だ。
久しぶりに子爵邸の方で泊まる事になった私は、勉強机に向かい
ながら大きなため息をついていた。
﹁ペルーラは好きなヒトいる?﹂
﹁私はオクトお嬢様が一番好きです﹂
﹁ありがとう﹂
ペルーラはまっすぐな瞳でそう言ってくれた。その言葉自体は、
とてもうれしいが、聞きたかったのはそれじゃないんだけどなぁ。
かといって、恋愛的にどうだとか、聞き直せない。私のキャラじ
ゃないし、無理だ。そもそも、どうして私がこんなに考えなければ
ならないのか。何だか悔しくなる。
考え事が、答えの決まっている数学だったらどれだけよかったか。
﹁お嬢様⋮⋮もしかして﹂
﹁いや。いない﹂
妙な勘違いをしかけたペルーラに、私は力なく首を振った。私が
愛だの恋だのに悩まされているのは、別に好きなヒトがいるからと
いうわけではない。
館長が変な事ばかり聞いてくるからだ。⋮⋮愛だの恋だのに興味
がない私はおかしいのだろうか。混ぜモノだし普通だと思うのだが、
エストの事もあり、若干心配になってきた。
537
﹁そうですか。でも素晴らしい旦那様がお義父様ですし、そういう
ものかもしれませんね﹂
﹁へ?﹂
素晴らしいお義父様?義父という事はアスタの事だろう。そこま
では分かるが、今の会話から、どうしてアスタの話になるのか。
﹁旦那様はとても素晴らしい方ですもの。王宮の魔術師であり、ご
自身の力で子爵の地位をいただいた大変優秀なお方です。さらにご
実家は伯爵家。容姿も端麗ですし、オクトお嬢様が恋ができないの
も納得です﹂
納得できません。
誰だ、そのヒト。いや、経歴を聞けばアスタなのだと分かる。職
場のヒトに迷惑をかけたりもしているが、王宮の魔術師なのは間違
いない。子爵邸に住んでいるのだから、子爵なのも本当だ。実家の
伯爵家にも、年に1回は一緒にあいさつにいっているので、これも
本当。容姿もかなり整っている。
⋮⋮そういえば、最近すっかり忘れていたが、アスタは私という
混ぜモノの子供がいる事をいいわけに、縁談を全て断っている優良
物件だった。
﹁えっと、私は別に︱︱﹂
このままではペルーラの中で、ファザコン認定されてしまう。い
やいや私はファザコンじゃない。たとえアスタが優良物件だったと
しても、そんなしょっぱい生物ではないはずだ。
﹁オクトお嬢様はとても大切にされていますし、旦那様がいては、
他の殿方に目が向けられないのも納得です﹂
大切にされているのは間違いない。
むしろ、甘やかされ過ぎだ。あれでヘキサのような真面目の塊な
息子を育てたというのだから、子育てって謎だ。よほどヘキサの母
であるクリスタルが厳しい方だったのだろうか。
538
﹁アスタの事は尊敬してるし⋮⋮好きだけど。いや、でも違うとい
うか⋮⋮﹂
上手く言えないが、違うのだと声を大にして言いたい。
私が恋愛とかそういった事を不毛だと思うのは、混ぜモノだから
だ。アスタと比べて、アスタより凄いヒトがいたからではない。⋮
⋮そうではないはずだ。
落ち着け私。
よし自分の周りのヒト達を整理しよう。魔法の腕前は、一番はも
ちろんアスタだ。というかアスタからこれを取り上げたら何も残ら
ない気がするのでここだけは譲れない。
でも武術ならライを上回るヒトはいないし、身分だったら王子で
あるカミュが一番だ。性格ならエストだし、可愛さ&絵の上手さな
らミウである。アスタが全てにおいて一番だという事はない。容姿
だけでいうなら、エルフ族という美形揃いの種族がいたはずだ。
アスタが一番だなんて、幻想である。それに、料理、掃除が全く
駄目で、それどころか髪の毛も自分で拭く事ができない男だ。しか
も対人能力も私と同じで底辺をひた走る偏屈者じゃないか。
ほらアスタなんてまったく完璧じゃない。⋮⋮って、アスタを貶
めてどうするんだ。
別にアスタの事が嫌いというわけじゃないのだと心の中でいいわ
けしておく。髪の毛が拭けなくても、料理、掃除が全く駄目でも、
私ができるのだから問題ない。私が居なくったって、メイドを雇う
お金もあるのだから、どうしようもない欠点というわけでもないし
︱︱。
﹁オクトお嬢様?どうかされましたか?﹂
﹁⋮⋮あ、うん。なんてもない﹂
ぐるぐると思考の渦の中にはまりこんでいたらしい。気がつけば、
ペルーラが心配そうに私を覗き込んでいた。
539
﹁お嬢様は、色々、難しく考え過ぎだと思います﹂
﹁そう?﹂
﹁ええ。そうです。旦那様が嫌いなヒトなんていませんわ。仕方が
ない事だと思います﹂
﹁いやぁ⋮⋮それはどうだろう﹂
ファザコンが仕方がない。
そう思うには、アスタの欠点が見えすぎ、私のプライド的な問題
で許せそうになかった。
◇◆◇◆◇◆
ファザコン。
私が、ファザコン。⋮⋮ないわぁ。
﹁はぁ﹂
﹁オクト、どうかしたのか?﹂
諸悪の根源の髪の毛を拭きながら、私は深くため息をついた。
子爵邸に居るにもかかわらず、娘に髪の毛を拭かせる駄目父。そ
んなアスタにコンプレックス⋮⋮いやいや。まさか。
﹁最近考えさせられる事が多いから⋮⋮﹂
自分の価値観がおかしいとか、愛は世界を救うとか⋮⋮自分がフ
ァザコンかもしれないという危機とか。
何故私がこんなに色々考えているのだろう。そもそも人づきあい
ってやらなければいけないのだろうか。分からない事だらけで、ヒ
トと関わるのが、少々面倒になってきたのが億劫になってきた。
540
でもこのまま引きこもるわけにはいかない。対人関係音痴の称号
を貰ったままでは、独り暮らしをする上で、色々問題がある気がす
る。
﹁そういえば、アスタの奥さんってどんな人?﹂
﹁えっ?クリス⋮⋮えっとクリスタルの事?﹂
何をいきなりというような顔をしたアスタに私は深くうなづいた。
結婚をしたという事はアスタだって人並みに、恋愛をしたはずな
のだ。色々考える参考になるかもしれない。
それに、ここで奥さんの話を聞いて嫉妬しなかったら、ファザコ
ンではないという証明になるのではないだろうか。ファザコンでは
ないという事が分かったら、少しだけ心労が減るような気がする。
本当はどんな恋愛したのかとかそういう話を聞きたいが、私の柄
じゃない。あまり踏み入り過ぎた質問をしては、アスタに頭を心配
させるのがオチだ。それはちょっと痛過ぎる。
﹁オクトがそんな事聞いてくるなんてめずらしいな﹂
うぐっ。それですら、珍しいか。
私は相変わらず、相手の過去とか家族とか、個人的な事を根掘り
葉掘り聞く事が苦手だ。どこでどんなディープな話題になるかも分
からないのだから仕方がないと思う。
別に親密になるのが面倒とかそういうのではない。そこまで、も
のぐさではないつもりだ。頑張れ私。
﹁クリスは、ヘキサとは真逆の性格だったな。世話焼きな部分は似
ているが、喋り出したら止まらない女だったし﹂
﹁似ていないんだ⋮⋮﹂
ヘキサの母親なので、きっと物静かな方だろうと思っていた。も
しかしてヘキサは父親似だろうか。
﹁逆にヘキサの父親は、おっとりとした、どんくさい奴だったなぁ。
541
ん?じゃあ、ヘキサは誰に似たんだ?﹂
﹁⋮⋮さあ﹂
ちょっと、アスタを含めた全員が反面教師となった結果ではない
かと思ったが、それは黙っておく。母親が喋る分、ヘキサが喋らな
くなった説が一番有力だ。
それにヘキサの性格と言えば、あの氷のような真面目さは、他に
見かけない。きっと、色々親の背を見て苦労されたんだなと思うと
ほろりと涙がこぼれそうだ。
﹁というか、ヘキサ兄さんの父親とも知り合いなの?﹂
まさかの略奪愛?アスタが?
今一ピンとこないが、状況的にそうなる。
﹁ヘキサの父親であるトールとは、軍で知り合ったんだよ。クリス
はその後に紹介されたんだ。トールはどうして軍に入ってしまった
のかと思うぐらいどんくさかったから、結局戦死してしまったけど
な﹂
﹁そうなんだ﹂
戦死か。
きっと友人であるトールさんに、奥さんやヘキサの事を頼まれて、
アスタは結婚する事になったのだろう。親友の奥さんと結婚なんて、
色々複雑だっただろうに。
﹁どんくさいくせに、トールの奴は、わざわざクリスタルに、俺の
事を頼むと遺言していきやがったんだ。今考えてもムカつく。そん
な事するぐらいなら、生き伸びろって感じだろ﹂
﹁えっ⋮⋮、奥さんの方?﹂
聞いてみなければ分からないものである。
確かに、アスタを一人にするのは心配だというのも分からなくは
ない。アスタの生活能力は限りなくゼロに近い。ただアスタはアス
542
タで、トールさんの事をどんくさいとか、ぼろくそに言っている。
一体トールさんとはどんなヒトだったのか。
一つだけわかるのは、アスタにとってトールさんは、死んでほし
くない、大切な友達だったのだろう。また奥さんに託すぐらいだか
ら、トールさんにとってもアスタは特別であったに違いない。
﹁アスタはトールさんが好きなんだ﹂
﹁えー⋮⋮あー⋮⋮うん。まあな﹂
私の言葉に、目をそらしたり、百面相をしたアスタだったが、最
終的には素直にうなずいた。そして若干照れたように苦笑いを見せ
る。
﹁最初は嫌いだったけど⋮⋮たぶん好きだったんだろうな﹂
その言葉を聞いた瞬間、ズキリと胸が痛んだ。
その痛みに、私は戸惑う。いや、そんな、まさか。
﹁そう﹂
私は自分の変化に気がつかれないように相槌をすると、髪の毛を
拭く手を止めた。そしてゆっくり深く息を吐く。
﹁じゃあアスタ。お休み﹂
﹁えっ、もう?﹂
﹁明日、早いから﹂
それだけ言うと、私はアスタを見ないようにして、外へ出た。そ
してそのままずるずるとしゃがみこむ。自分の反応が信じられなく
て、手で顔を覆った。
﹁どうしよう。もしや⋮⋮私は本当にファザコンなのか﹂
自分が、自分で信じられない。しかし私は、アスタと対等な友人
だった、見た事もないトールさんが羨ましいと思った。自分では永
遠になることができない立場のヒトに⋮⋮嫉妬したのだ。
543
27−1話 迷走中な学校生活
﹁ちょっ。何やってるんだ?!﹂
﹁へ?﹂
実験学中、コンユウの焦った声に、ぼんやりしていた私ははっと
我に返った。
しかしすでに時遅し。鍋の中へ赤い液体が大量に投入されていた。
⋮⋮しまった。この液体は、最初は小さじ1入れるだけだった。そ
してなじんだところで瓶の半分を入れるのだ。
大量に液体が投入された鍋は、火にまだかけていないにも関わら
ず、ぼこぼこと沸騰していた。何か恐ろしい化学反応でも起こって
いそうな様子だ。
﹁⋮⋮ごめん﹂
完璧な失敗だ。私は鍋を洗おうと手を伸ばしたが、直前でコンユ
ウにその腕を掴まれた。
﹁だから何やってるんだ﹂
﹁何って⋮⋮洗おうかと﹂
﹁こんな煮えたぎっている鍋を素手で持とうとする奴があるか。ア
ンタの脳みそはどうなってるんだ﹂
﹁あっ﹂
火にはかけていないが、確かに鍋は限りなく高熱を発していそう
だった。確かに素手でもったら火傷するかもしれない。たとえ火傷
しなかったとしても、鍋をとり落として二次災害を招く可能性もあ
る。
﹁⋮⋮一体どうしたんだよ。べ、別にお前の事が心配というわけじ
544
ゃなくてな、使い物にならないと迷惑だから︱︱﹂
﹁分かってる。ごめん﹂
コンユウにまで迷惑をかけてしまうなんて、これはかなり重症だ。
ただ単に、自分がファザコンだと分かっただけでこれほど落ち込
むなんて思ってもみなかった。アスタにファザコン⋮⋮。どうしよ
う。将来一人で暮らすと決めているのに、こんな状態で一人暮らし
できるのだろうか。
事あるごとにアスタの事を思い出し、もだもだするのだろうか。
そんな想像をしている事自体に、もだもだしそうだ。アスタの事で
頭いっぱいの乙女な自分。うん。何というか、滅したい。
とにかく、落ち着け。相手はアスタだ。欠点ばかりの駄目父だ。
アスタと仲がいい友人相手に嫉妬なんて、きっと気の迷いに違いな
い。
﹁じゃない。⋮⋮心配なんだ﹂
﹁へ?﹂
﹁だぁぁぁぁ⋮⋮とにかくそんなんじゃ、迷惑なんだよ。ほら、俺
が持つから、洗い場に行くぞ﹂
コンユウはタオルで鍋を掴み持ち上げるとずんずんと洗い場に進
んでいった。私も慌ててコンユウを追いかける。失敗したのは自分
なのに、コンユウに洗わせるわけにはいかない。
中身を排水へコンユウがぶちまけてくれたので、私は水魔法で鍋
の中に綺麗な水を満たす。ついでに、ごぼごぼと煮え立った状態で
排水を流れるのは不味いと思った私は、水を増やし謎の溶液を薄め
ておいた。お願いだからこの対処法が正解であって欲しい。
﹁一体、何を考えてるんだ﹂
﹁コンユウは⋮⋮ファザコンじゃない?﹂
﹁はっ?!﹂
﹁もしくはマザコン﹂
545
﹁お、俺はそんなんじゃねぇっ!!﹂
ですよね。
というかコンユウなら、例えマザコンだったとしても、それを認
めるとは思えない。聞いた相手が悪かった。かといって、エストは
両親がいない上に姉とも会えない状態なので、こんな話持ちだせな
いし⋮⋮。
﹁もしかして、オクトはファザコンなのか?﹂
コンユウにずばり言い当てられ、ずんとさらに気分が落ち込んだ。
まあ、この話の流れで、分からない方がどうかしている。それを承
知の上で言ったのだから仕方がない。
﹁いや。別にアンタが誰が好きだっていいだろ。何を落ち込んでる
んだよ﹂
﹁あー⋮⋮、アスタの事は尊敬してるけれど﹂
うん。尊敬はしている。凄い魔術師だと思っている。アスタに追
いつきたいし、隣に並びたい。そう思っているのだって⋮⋮たぶん
普通だと思う。
﹁アスタって、育ての親?﹂
﹁そう。魔術師としては凄いけれど、そのほかの生きる為の能力が
壊滅的なヒト。かなり自分勝手な部分あり﹂
﹁アンタ⋮⋮本当にファザコン?普通好きな相手をぼろくそ言える
か?!﹂
﹁事実だし﹂
アスタの能力に偏りがあるのは事実だ。
でもそれをひっくるめて⋮⋮私はアスタの事が︱︱。あぁぁぁぁ
っ。考えるだけでこっ恥ずかしくなる。この間まで別に普通だった
のに。自分の好意が異常な方向にむきかけていると思うと脳みそを
かきむしりたくなった。
普通なら父親の好きなヒトに嫉妬なんてしない。ましてや鬼籍に
546
入っている友人に嫉妬って、どれだけ心が狭いんだ。
このままでは、私はまさかのヤンデレへ進化してしまうのか?!
それだけは絶対阻止しなければ。アスタにヤンデレ萌属性があると
は思えない。そして私もそんな属性は持ち合わせていない。
﹁まあ、いいや。それで。まあ、それが事実だとして、何が問題な
んだよ﹂
﹁義父大好き、義父一番。この世に義父以上の男はいないなんて思
考になったらと思うと⋮⋮恐ろしい﹂
そんな残念な思考の持ち主になってしまうかもと思うと、心が折
れそうだ。そして、周りからそう思われているという事実もかなり
キツイ。
﹁⋮⋮たぶんそういう思考している時点で、そうはならないと思う
ぞ﹂
﹁本当に?それ、絶対?﹂
﹁は?﹂
きっと当事者じゃないから、こんなあっさりと言えるのだ。
﹁混ぜモノが嫌いなコンユウが、いつの間にか私の事を好きになっ
ていたなんて事になったら、ショックで寝込むと思う。今の私はそ
れと同じ状態﹂
﹁ばっ⋮⋮俺が、すすすすっ、好きなわけっ︱︱﹂
﹁うん。つまり、今の私はそうやって全力で否定したい事と向きあ
っているわけ﹂
拾われた当初はこんな事体におちいるなんて思ってもいなかった。
確かにあの時は、自分とアスタの関係はギブアンドテイク。そこま
で殺伐していなくても、同士的な間柄だと思っていたはずなのに、
何処で踏み外したのか。
アスタが娘として私を大切にしてくれている事は分かっている。
だから私もそれ以上の感情を持つわけにはいかない。このままでは、
547
アスタが再婚する事になった場合に、私がそれを邪魔してしまいそ
うだ。同士ならば、応援こそしても、嫉妬して否定なんてしてはい
けない。
﹁貴方達。おしゃべりしてないで、早く実験に戻りなさいっ!!﹂
﹁﹁はいっ﹂﹂
しまった。
気がつけば、背後にピリピリした教授が立っていた。私とコンユ
ウは教室から出て行きなさいと言われる前に、そさくさと鍋を洗う
と、机に戻った。そして再び実験に取り掛かる。
薬品だってお金がかかっているのだから、失敗を繰り返すわけに
はいかない。最初から失敗を予定して、尺が長くとってある実験学
ではあるが、だから何度も失敗していいというわけではない。
先生の一喝もあって、今度は失敗せず実験が進んだ。
薬を瓶詰めした所で、ふうと息を吐き出す。気が散る事が多い所
為で、今日はいつも以上に疲れた。さっさと片付けて終わろうと思
い、器具を持って洗い場へ向かう。
﹁混ぜモノ。水もらっていい?﹂
﹁うん﹂
洗い場に行くと、同じように実験を終えた組がいた。私は言われ
るままに盥に水を溜める。
﹁ありがとうな﹂
﹁ども﹂
青年は御礼を言うと、友人グループらしき人たちの方へ移動して
いった。それにしても、水が外にしかないというのはやはり不便だ。
水道みたいな物を作るのは難しいのだろうか。
548
﹁何で、断らないんだよ﹂
﹁へ?何で断るの?﹂
不機嫌そうなコンユウの声に私は首を傾げた。私にはツンデレ属
性がないので、いきなりツンを発動する意味が分からない。
﹁アイツ頼みごとしている癖に、⋮⋮オクトの事を混ぜモノって呼
んだんだぞ﹂
﹁えっと。混ぜモノだし﹂
何も間違った事は言われていない。というか、普通だ。
﹁アンタはオクトなんだろ﹂
﹁はあ﹂
﹁気の抜けた返事するな。アンタが先に言いだした事だろ﹂
言ったっけ?
コンユウがここまでいうのだから、たぶん混ぜモノと呼ぶな的な
ニュアンスの言葉を言ったのだろう。
色々考えたところで、ふと、コンユウのディープな過去を聞いた
時に、それっぽい言葉を言った事に思い至った。私は私だという事
は覚えていて欲しいというのは、ちょっと意味は違うが、それっぽ
い。
⋮⋮コンユウって、ヒトの話をちゃんと聞いてはいるんだなぁと
感心する。ツンデレの割に、素直だ。いや、元々素直は素直だった
か。ただ私に対してはツンしかないだけで。
﹁もしかして、それで機嫌悪い?﹂
コンユウの目つきは、いつもの1.5倍ほど悪く、先ほどの青年
達に方を睨みつけている。自分が守っている事を相手が守らないの
が気にくわないといったところか。
﹁別に﹂
あ、拗ねた。
549
﹁ごめん﹂
﹁意味なく謝るな、馬鹿っ﹂
﹁いや。コンユウにだけ、呼び方を押しつけたかと。別に混ぜモノ
って呼んでいいから﹂
この呼び名はある意味、あだ名のようなものだ。
混ぜモノなんて、他にいないから、私だと特定しやすい。しかし
コンユウは納得いかないような顔をした。
﹁違うだろ。そういう意味じゃない。⋮⋮アンタはなんで妥協する
んだ﹂
何で妥協するって言われてもなぁ。
﹁正直、面倒だというか⋮⋮﹂
﹁はあっ?!﹂
コンユウの反応に、やっぱり言葉選びを間違えたかと思うが、は
っきり言って、これ以外の言葉はない。﹃混ぜモノ﹄という言葉に
は、確かに事実以外に、畏怖や嘲りなどの意味もあるだろう。ただ
それを訂正するのは、酷く億劫だ。正直そこに労働力をさく方が面
倒である。私が混ぜモノである事には間違いないのだ。
﹁反論したり、喧嘩するのは、力を使うから。できればどうでもい
い事は、関わりたくない﹂
自分が混ぜモノである事は、私自身諦めているし、こういうもの
だと思う。
水を用意する、しないも似たようなものだ。ここであえて反発し
たとして、私にメリットなんて何もない。ただ単に相手に、ケチだ
と思われ相手との溝を深めるだけだ。面倒が一番少ないは、特にど
うでも良い内容なら、相手に譲っておくことだ。
﹁⋮⋮どれだけ、ものぐさなんだよ﹂
550
﹁ものぐさというより、私は性格が悪いだけ。どちらかというと、
コンユウが正直すぎるかと﹂
そう考えると、私と違ってコンユウはかなりいい奴ではないだろ
うか。素直で正直って、面倒さから相手に合わせる自分より、よっ
ぽど性格がいいと思う。ただし正直で素直すぎるので、正直な発言
が一言多く、また意地っ張りさを素直に全面にだす所為で、ツンデ
レにしか見えない。色々残念すぎる。これでは美点も付き合い難い
だけの欠点だ。
そんなコンユウと1年の時から普通につき合える、エストやミウ
には本当にすごいと改めて思う。
﹁コンユウって、損しているんだね﹂
﹁はあ?!どういう意味だよ﹂
﹁そのままの意味﹂
勿体ない。非常に勿体ない。
あんなに大嫌いな混ぜモノの言葉にだって耳を貸すぐらいいい奴
なのに。完璧に空回りしている。
﹁損しているのは、オクトの方だろ﹂
﹁⋮⋮どこが?﹂
﹁分かっていない所がだよ﹂
どういう意味だ。
損している相手に損していると言われて、私は微妙な気分になっ
た。 551
27−2話
﹁オクト、どうかしたのか?﹂
宿舎で机に向かい、研究をしていると、アスタが背後から声をか
けてきた。その声に私はビクリと体を震わせた。
それほど大きな声でもないし、タイミング的に、唐突でもない。
もちろん、やましい事をしているわけでもないのにこの反応。
ああぁぁぁぁ、どうしたらいいんだろう。
こんなあからさま態度をとったらアスタだって不審がる。しかし
自分自身、すでに何が何だか、よく分からなくなっていた。
そんな状態で今言える事は、ただ一つ。私がファザコンかもしれ
ないなんて残念な事で悩んでいるのは、アスタにだけは知られたく
ないという事だ。
﹁いや⋮⋮。えっと、時魔法用の蓄魔力装置だけど、これでどうだ
ろう?﹂
私は咄嗟に誤魔化す為に今仮で作った、魔法石を見せる。蓄魔力
装置なんていっても実際は、板状の石に魔方陣を書き込み、とりあ
えず3枚を接着剤でくっつけ合わせたその場限りのモノだ。これは
実験用であり、ちゃんと発動するかの確認を終え、形や使用する石
の枚数正式に決定したら、石の扱いが得意なドワーフ族に発注をか
ける予定になっている。もちろんお金は図書館持ちだ。そういう予
算はあらかじめ組んでもらっている。
きっと魔法石作りの専門家の方が見栄えも、耐久度もよりよいモ
ノを作りあげはずだ。自分の能力ではインクでとりあえず魔方陣を
書き込むくらいしかできず、石に魔方陣を彫りこむなんてできない。
552
﹁良いんじゃないか?それにしても良く魔法石を重ねて繋げるなん
て方法を思いついたな﹂
偉い偉いとアスタに頭を撫ぜられると、恥ずかしさで逃げ出した
くなった。
駄目だ。意識し過ぎである。アスタは私の頭を撫ぜるのが好きみ
たいだし、こんなのいつものことだ。いちいち気にしていたらやっ
ていられない。
落ち着け自分と、頭の中で九九を数える。無の境地にならなけれ
ば。
﹁⋮⋮うん。まあ﹂
﹁これも異世界の知識なのか?﹂
﹁そんな所﹂
前世にあったエネルギーは魔力ではなく電気なので、若干違う。
しかしそれを上手く説明するのは難しいし、参考にして思いついた
事には違いない。
しかし私の言葉に納得がいかなかったのか、アスタがジッと私を
見つめてきた。何だか嫌な汗が背中を流れる。ママに聞いたネタは、
そろそろ潮時かもしれない。
アスタに引き取られて、これで6年。あの頃の倍以上の時間をこ
こで彼と過ごしている。そろそろアスタになら、前世の記憶がある
事を言ってもいいだろう。きっと私が困るような事はしないはずだ。
﹁あ、あの。アスタ︱︱﹂
﹁オクト、何を怯えてるんだ?﹂
私が喋りかけると同時に、アスタも口を開いた。
何を?
﹁大丈夫だから﹂
そう言って、アスタは困惑する私を抱きしめた。
553
大丈夫って⋮⋮何を怯えていると聞いている時点で、私がどうし
て混乱しているか知らない癖に。それなのに簡単に言ってくれるも
のだ。
﹁大丈夫だ﹂
無茶言うなと思う。何が大丈夫なのだというのか。混乱原因のく
せに。なのにその言葉に、声に、安堵する自分もいて、すでに自分
は末期なのだと理解した。
私はアスタが好きだ。
うん。もう諦めよう。ファザコンであるなら、仕方がない。
後は、その感情を上手くコントロールして、表面に出さないよう
にすればいい。例え誰かに嫉妬しても、それを見せなければ問題は
ないのだ。アスタが一番だと思うなら、アスタの幸せを一番に考え
るようにしていけばいい。
いつかアスタから離れる時がきても、アスタが困らないよう、未
練なんて絶対見せない。そしてアスタの為にできる事をしよう。そ
れが今まで大切にしてもらった恩返しであり、私のプライドだ。
⋮⋮だから今日だけは。
私は小さな幼子のように、アスタにしがみついた。
◇◆◇◆◇◆◇
﹁時よ。我が声に従い、動きを止めよ﹂
554
コンユウの言葉に従い、時魔法が発動した。
魔力を目に溜めている為、時属性の紫の光が魔方陣へそそがれ魔
法陣が紫色に発光するのが見える。魔方陣を輝かせた紫の光は、今
度は徐々に透明なクリスタルを己の色で塗りつぶしていった。
そしてコンユウがクリスタルが紫に染まったところで魔力を注ぐ
のを止めたが、色が抜けて行く事はない。良し、ここまでは成功だ。
今度は、時属性を持っていないエストが魔法石を持ち上げ、別の
時魔法の魔法陣に触れさせる。その瞬間、クリスタルから今度は魔
法陣へ魔力が流れ出て始めた。そして出て行くたびにクリスタルは
再び透明に変わっていく。
しばらくの間ジッと魔法陣を観察していた私は、透明に戻った所
で、バッと顔を上げた。そしてコンユウの顔とエストの顔を見る。
すると2人も、笑みをこらえたような微妙な表情で私を見ていた。
﹁成功⋮⋮だよね?﹂
エストの言葉にコクコクと私は頷く。完璧だ。
﹁うっしっ!﹂
﹁よっしゃあぁぁぁぁっ!!﹂
﹁やったね、オクト!!﹂
ガッツポーズを決める私の隣で、コンユウとエストが手放しでよ
ろこんでくれた。
よかった。ちゃんと電池と同じ役割を果たしている。後は耐久時
間試験をして、上手くいったら保持魔力量をどれぐらいにするかを
考え、魔法石の配置を決めればいいだけだ。
長かった。ここまでとても長かった。
私達は顔を再び見合わせると、ハイタッチする。基本のひな型を
555
作ったりしたのは私だが、3人で頑張って作りあげた努力の結晶だ。
まだ石にペンで魔法陣を書いただけという手作り感満載な拙い蓄魔
力装置だが、ものすごく愛着を感じる。
やればできるものだ。
﹁そう言えば、コンユウとオクトって、いつの間に仲良くなったの
?﹂
コンユウとハイタッチをしているところで、ふとエストが不思議
そうに聞いてきた。いつの間に仲良くなったと言われても⋮⋮なぁ。
﹁別に仲良くなんかないってのっ!!﹂
﹁⋮⋮仲いいかな?﹂
顔を真っ赤にさせてコンユウは否定したが、私は首を傾げる。確
かに、以前に比べれば、マシな関係にはなってきている気がするが
⋮⋮。どうなんだろう。
﹁疑問形で答えるなっ!!﹂
﹁いや、ごめん﹂
しまった。ここは私も全力で否定しておくべきだったか。しかし、
前に比べて私はコンユウに苦手意識を持たなくなった。たぶん自分
に突っかかってくる率が低下しているからだろう。それにコンユウ
を傍から見ていると、とても面白いというか、真っ直ぐだなぁと微
笑ましい気持ちになるのだ。
もしかしたら、コンユウは私の事が嫌いではなくなったのではな
く、クラスもバイトも一緒なので、いちいちツンを発動するのに疲
れたのかもしれない。そう考えると、一方的に私の認識が変わった
だけか。
﹁謝るな⋮⋮。まあ、悪くはない﹂
﹁へぇ⋮⋮本当に、仲いいんだね﹂
ぷいっと顔をそむけるコンユウに対し、エストは笑みを向けたが、
556
微妙に怖い気がしたのは私だけだろうか。顔と声色があっていない
気がしたのだ。
何だろう。何がエストの気分を害したのか。
﹁えっと、コンユウは私よりエストと仲がいいから﹂
﹁は?﹂
今までの会話の流れをぐるぐる考えたところで、私がアスタの友
人に感じた物と同じではないかと考えた。
エストとコンユウは、保護者とその子供のようだが、一応親友の
ような関係だ。それなのに、コンユウと急接近中な私にイライラと
したものを感じてしまうのだろう。
その気持ちは、今なら良く分かる。
﹁だから嫉妬しなくても大丈夫﹂
私がエストからコンユウを取り上げる事はまずない。というかコ
ンユウは確実に私よりもエストの事が大好きだ。
﹁オ、オクトっ!!﹂
﹁ん?﹂
そんな大きな声を出さなくったって聞こえるというのに。コンユ
ウの焦ったような声に、私は顔を向けた。一体、どうしたというの
か。
﹁アンタが厄介な思考回路だという事は分かったけど⋮⋮︱︱﹂
﹁コンユウ?﹂
大きな口を開けて声を荒げたはずのコンユウは次第に声を小さく
した。何が起こったのだろう。段々、顔色も悪くなっている気がす
る。
何が何だか良く分からず、エストを見れば、笑みを浮かべたエス
トと目があった。若干困っているような笑みだ。
﹁オクトの意見は、半分はずれかな﹂
557
﹁違うの?﹂
私は嫉妬だとばかり。
やはり、いまだファザコンの後遺症から抜けきれていないという
のか。最近は、開き直ったおかげで、少しマシになってきたと思う
が⋮⋮思考回路が未だにそのままだ。
誰にでも当てはめるのは不味いのかもしれない。気をつけなけれ
ば。
エストは私の質問にふと笑みを消した。
﹁どちらかと言えば、オクトが良く館長に言われていた方だよ﹂
館長に言われたって⋮⋮愛だの、恋だのの事だろうか。えっ。ま
さかのカミングアウト?!
﹁えっ⋮⋮。いや。趣味は人それぞれだけど⋮⋮﹂
私は突然の言葉に口籠った。
BLは2次元だからいいのであって、現実ではどうだろう⋮⋮。
でも、そういうのは人それぞれだ。ましてや大切な友人なのだから、
ここは応援してあげるべきではないだろうか。
﹁何だかとても気持ち悪い方に勘違いして言っているのが手に取る
様に分かるから言っておくけど、愛だの恋だのは、コンユウ相手じ
ゃないからね﹂
﹁はあ?!どうしてアンタの思考はそうなるんだよ。変な勘違いす
るなっ!﹂
私が続けて、何か言う前に2人から全否定を貰った。
なんだ違うのか。それにしても、ホモではなくBLという言葉を
真っ先に思いついた自分の前世は、一体どうなっているのだろう。
もう少し、マシな知識を残しておいて欲しかったなと思う。
でも、それならエストは一体何にイラッとしたというのか︱︱。
558
﹁オレが好きなのは、オクトだよ﹂
559
27−3話
﹁えっと⋮⋮私も友達だと思ってるけど?﹂
良くあるボケを、私はそれが何を意味しているのか、しっかりと
理解した上で口にした。
えっ、でも。これってそうじゃないの?エストが私の事を⋮⋮な
んて、ありえない。どんな茨の道だ。ドM道すぎる。そもそも近く
に可愛いミウや翼族の女の子︱︱しかも貴族の娘さん︱︱がいるに
もかかわらず私に告白なんて、何かの間違いとしか思えない。
うん。きっとエストは、コンユウだけじゃなく、私の事も好きだ
って言いたかっただけなのだ。
私は必死に心の中の動揺を押し隠して、何を当たり前な事をとい
った顔をした。ただしエストをまっすぐみる事まではできなかった
けれど。
万が一、万が一にも今の告白が、愛だの恋だの方面の言葉だとし
たら、それこそ濁してしまった方がエストの為だ。真剣な告白の場
合、エストを傷つけるかもしれないが、私なんかに告白してしまっ
たなんて、人生の汚点過ぎる。将来を考えるなら、傷は浅い方がい
い。
パシッ。
頬を叩く音がした。
うん。そうだよね。エストが傷つくかもしれない言葉を選択をし
たのだ。殴られたって仕方がない。それでも、平手なだけ、まだ私
の事を女子として扱ってくれているのだろう。
560
音で反射的に目を閉じたが、それにしても、ビンタってこんなに
痛みのないものだったのだろうか?あまり衝撃が分からなかった。
昔、鳩尾に拳を貰った時は、気を失うぐらいの衝撃だったのだけど。
あの時は痣も中々消えなかった。
私は第二弾は来ないだろうかと、そろりと目を開ける。しかしそ
こに見えたのは、エストの後ろ姿だった。
あれ?
私をエストが叩いたなら、今の立ち位置はおかしくないか?
﹁コンユウ、女の子に手を上げるってどういうつもりかな?﹂
﹁どういうって⋮⋮、なんでエストがオクトを庇うんだよ?!コイ
ツはエストの気持ちを︱︱﹂
﹁コンユウには関係ないだろう?もう一度言うけど、女の子に男が
手を上げるって、どういうつもり?﹂
コンユウは傷ついた顔をした後、シュンと下を向いた。
﹁⋮⋮手を上げたのは悪かった﹂
エストはコンユウの謝罪の言葉を受け取ると、くるりと私の方を
振り返った。その頬は赤く腫れている。あの音は、コンユウの手が
エストの顔を叩いた音だったのか。
いや、違う。きっと、コンユウが私を叩こうとしたのをエストが
かばった音だ。そうでなくては、コンユウがエストを叩く意味はな
い。
﹁というわけだから、オクトも許してやって。コンユウってば、沸
点が低いから﹂
﹁許すもなにも⋮⋮﹂
私は何もされていない。
むしろ、本来なら殴られるのは私の役目であって、エストがその
犠牲になるなんて間違っている。私はこんな風になると思ってボケ
たのではないのだ。
561
﹁どう?女の子を守る紳士ってポイント高いでしょ?﹂
エストは血の気の引いた私を笑わせるように、おどける様に言っ
た。しかし私は何と言っていいのか分からず、茫然と立ち尽くすし
かできない。どうしよう。エストを傷つけたのは私なのに、エスト
が気を使ってくれるなんて。
﹁ごめん。そんな顔をさせる為に言ったんじゃないんだ。別にオク
トに友達だって思ってもらえるだけでもオレは嬉しいし。だって、
オクトの友達って凄くレアだろ?﹂
﹁⋮⋮レアって言うな﹂
ちょっとどうかと思う発言に、ようやく私はツッコミを入れられ
た。
でも間違ってはいない。私の友達が少ないのは事実だ。男友達は、
エストを抜かせば、カミュとライしか思いつかない。⋮⋮残念すぎ
る人間関係だ。
﹁本当は魔王よりオレの方がオクトの中で大きくなったら言おうと
思ってたんだよね。ちょっと、焦った所為で台無しだけど。オレも
まだまだだなぁ﹂
魔王って⋮⋮もしかしなくても、アスタの事だろうか?
エストにもファザコンだという事がバレていた事実に、少しショ
ックを受ける。そうか、エストにまでそう思われていたんだ。うん、
いいんだ。⋮⋮間違いじゃないし。
﹁オクトも同じように好きだったら一番だろうけど、オレはそのま
まのオクトが好きだから。別になにも強制しないから安心して?﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
それで良いのだろうか?
いや、よくないだろう。そんなの不毛だ。間違っている。
562
﹁だから、オレの感情が間違っているとか、気の迷いとか、そうや
って否定しないでやってくれる?オレはオクトに友達だと思っても
らえて、なおかつファンクラブをやっていられるだけで幸せだから
さ﹂
先にくぎを刺されて、私は口ごもった。
確かに私がエストの気持ちに口をはさむのがおかしい。でもこの
まま宙ぶらりんの状態で、問題なしというのもおかしな話ではない
だろうか。
私はエストが好きだ。少なくとも、エストに傷ついて欲しくない
と思う程度には。ただ、それが愛だの恋だのなのか聞かれると、よ
く分からなかった。ならばアスタに比べてどうなのかと言われれば
⋮⋮こちらもどちらも大切だという以外の答えが出ない。
﹁私は⋮⋮﹂
何か返事をしなければ。
何か答えを見つけなければ。そう思えば思うほど、分からなくな
っていく。どうしよう。
﹁貴方達。実験するのはいいけれど、ここを何処だと思ってるの?
!もう少し声を小さくしなさい!!﹂
重たい空気を突き破る様に、先輩の声が聞こえた。
そうだった。人の出入りが少ない階とはいえ、ここは図書館だ。
五月蠅くしてはいけない。
﹁すみません、先輩。じゃあ、片づけて通常業務に戻ろうか﹂
エストは何もなかったかのようにさわやかに笑うと、実験した道
具を片づけ始めた。私とコンユウも、慌てて片づけを手伝う。
563
しかし何を言っていいのか分からずお互い無言だ。気まずい。と
てつもなく気まずいが、私の能力では、ここで何を言えば場がなご
むのか分からない。同じく、コンユウもどうしていいか分かってい
ないだろう。
かといって、今の状態のエストに場を和ませてほしいなんて図々
しすぎる。
ああ。考えれば、考えるほど分からなくなってくる。思考がぐる
ぐるし、次第に目まいまでしてきた。
﹁オクト⋮⋮とりあえず、息を吸おうか﹂
ぽんとエストに肩を叩かれ、私は息を止めていた事に気がついた。
慌てて息を吸うと、苦笑いしているエストと目が合う。
何というか、申し訳なさすぎる。普通に考えて、私ではなくエス
トの方が気を使われなければならない立場だ。
﹁それだけ真剣に考えてくれるだけ嬉しいよ。オレはそれだけで十
分だから﹂
﹁エストは、コイツに甘すぎだ﹂
﹁馬鹿だなぁ、コンユウ。好きな子に甘くしなくて、誰に甘くする
っていうのさ﹂
えっと、私以外で、もっと好きになった相手の子を甘やかしてあ
げて下さい。その労働力はとても残念な方向に向かっていると思う。
かといって、私がエストの行動や気持ちを否定する事は止められ
ている。そんな状態で私にどうしろというのか。
ぐるぐると考えたが、私は結局何も言えないまま、今日の業務を
終える事になった。
564
◇◆◇◆◇◆◇
﹁エストに告白されたらしいな﹂
ブホッ。
昼休憩中のライのとんでもない発言に、私は飲んでいたお茶を吹
きだした。そのまま変な方向に入って行ったお茶の所為で、ゴホゴ
ホとむせ込む。
﹁ヒトは変わるものだね。あの少年が告白かぁ﹂
面白そうに笑うカミュを私は涙目で睨みつけた。
全然面白くないんですけど。
でも他人の恋話ほど面白い話はないとも聞く。⋮⋮いや、まて。
それは女の子の場合だ。野郎があはは、うふふと恋話に花を咲かせ
ようとするんじゃない。
﹁でもオクトさんはそんなイタイケな少年の告白を、あろうことか、
誤魔化して逃げようとしたと﹂
﹁うわっ。ひでぇ﹂
ぐさっ。
カミュと、ライの言葉が胸に突きささる。しかし全て真実なので、
その言葉は甘んじて受け取るしかない。できる事と言えば、開き直
るぐらいだ。
⋮⋮とはいえ私の性格では、そんな事ができればもっと楽に生き
られたんだろうなぁと思いをはせるだけだけど。
﹁⋮⋮何とでも。私は氷の女だから﹂
﹁どうせ、エストの汚点になるとか卑屈に斜め上に考えて、悪役ぶ
565
ろうとして失敗したんだよね﹂
﹁あ、エストの事だから、失敗したところを慰めるとかしたんじゃ
ないか?うわぁ。色々、残念すぎだろ﹂
どうしてそんな見てきたかのように、的確に状況が分かるのか。
くそうと歯ぎしりしたい思いに駆られるが、それをしたら、真実
だと認めるだけだ。
私は何でもないふりをして、クッキーを咀嚼する。アーモンド入
りで香ばしくおいしいはずなのに、今は砂でもかんでいる気分だ。
食事中の周りの環境はとても大切って本当だなぁと思う。
﹁でも良かったな。エスト、めげてないみたいだぞ﹂
﹁は?﹂
めげてない?
あれ?でも、最近顔を合わせた時は、今までとまったく変わらな
かった。むしろ私の方がぎくしゃくしてしまい、フォローされるし
まつだったはず。
てっきり、仕方がないと諦めて、なおかつ友人でいてくれる事を
選んだのかと思っていた。そもそもエストだって、私と友人でいる
だけでいいと言ってくれたのだし。
﹁オクトさん⋮⋮、まさか勝手に解決したと思ってた?﹂
ぎくり。
はい、その通りですとは、カミュの呆れた視線の所為で少し言い
づらい。確かに、エストが無理をしている可能性はないとは言えな
い。
でも、いたって普通なのだ。もしも告白の事を聞いたら、そんな
事あったけ?と返されそうなぐらいである。⋮⋮もちろんそんな事
あるはずないので、聞いたわけではない。
やっぱり、これはエストに無理をさせているのだろうか。
566
ちゃんと返事はするべきだと分かるのだが、どうにも私には、愛
だの恋だのが分からない。そう考えるならば、やはり断るべきなの
だろう。
でも断って、友達ですらなくなってしまったらと思うと怖くてた
まらない。
﹁まあエストはめげないみたいだから、頑張れ﹂
﹁⋮⋮やっぱり返事はするべきか﹂
﹁違う、違う。めげないみたいだから、今まで通りでいいんだよ。
うっかりオクトが流されても、俺は応援してやるから﹂
﹁えっ。いや。このままというのは、不味いかと﹂
今まで通りって⋮⋮、現状そうなんだけど。しかしそれだと、エ
ストに申し訳ないというか⋮⋮。
﹁8歳からの片思いだぞ。アイツにとったらいまさらだろ。オクト
の情緒面の成長が遅い事は分かっていたし。むしろオクトの友人で
すらいられなくなった時の方が、怖いと思うけどな﹂
怖いって、何だろう。⋮⋮まさか、ヤンデレ化するとか?いやい
や、あのさわやかエストだ。それはないと思いたい。
思いたいが⋮⋮ライに怖いとはどういう意味かは聞くに聞けない。
⋮⋮聞かない方がいいと、野生の勘が訴えてくるのだ。
﹁館長はダークホース、コンユウとくっつくと踏んでいたんだみた
いだけどね﹂
﹁⋮⋮いや、それはない﹂
むしろ、そんな話がチラリとでもあったとコンユウが知ったら、
暴れ狂いそうだ。何がどうしたらそういう結果を導き出せるのか。
﹁そう?コンユウと一緒にいる事は結構多いよね﹂
﹁それは、やむにやまれぬ事情というか⋮⋮﹂
授業の実験学はボッチ同士だから必然的に一緒に行う事になって
567
いるだけ。バイトは、仲が悪すぎて改善する為という名目で一緒に
やらされているだけなのだ。最近は時魔法関係で、そうとは限らな
かったりもするけれど、それ以外はやはり変わりない。
まさか館長がそんな、盛大な勘違いをしていたなんて。
﹁館長の言い分も分からなくはないけどね。オクトさん、コンユウ
には感情的になる事が多かったし﹂
﹁逃げられない状況で、あれだけ突っかかられたら、誰だってイラ
ッとする﹂
突っかかられる事が少なくなったのなんて、本当に最近だ。そん
なコンユウに油を注ぐような危険な勘違い、さっさとゴミ出しに出
して欲しい。
やけに、恋だの愛だのいうと思えば⋮⋮そんな事考えていたのか。
怒りというより、脱力感でぐったりする。
﹁まあ、オクトさんの周りには僕を含め素敵男子が沢山いるんだし、
ゆっくり選んでいけばいいんじゃないかな?﹂
﹁そうそう﹂
﹁自分で素敵男子というな﹂
間違いないけれど、痛いから。それと、選ぶ事が当たり前のよう
に言わないでくれないだろうか。私は混ぜモノなんだから、誰かと
結婚なんてする気、さらさらない。それで恋だなんて、不毛だ。
私は、楽しくからかうカミュ達に、深くため息をついた。
568
28︲1話 大きな存在
蓄魔力装置の実験を繰り返し、ついに完成へとたどり付いた時に
は、私は12歳となっていた。試験も突破し、無事に進級もしてい
る。⋮⋮相変わらずクラスメイトに友人はいないけど。なので、実
験学のペアは今もおなじみの、コンユウだ。
それからエストとの関係も変わっていない。あまりに変わらなさ
過ぎて、私の方が首を傾げたくなるが、かといって、上手く答えを
出せないのも事実。今はエストに甘えさせてもらっている。
﹁オクトさん、おめでとう﹂
﹁何が?﹂
図書館でいそいそと、蓄魔力装置の設置をしていると、カミュが
声をかけてきた。何がと答えた後に、蓄魔両装置の完成の件だろう
かと思いいたる。しかし確かそのお祝いの言葉は、少し前にもらっ
たような⋮⋮。
﹁まだ正式発表はされていないけれど、その装置、国で表彰される
ようだよ﹂
﹁へぇ﹂
国で表彰かぁ。
図書館で研究したのだから、たぶん代表は館長だろう。ふわもこ
の館長が表彰台に立って国王様から賞状を受け取っている姿が頭に
浮かんで少しほのぼのした。ちょっと可愛いかもしれない。ああで
も、運動会ではないから、表彰台はないか。
それにしても、老い先短い館長の為に、なんだか親孝行ができた
ような気分になり、ちょっと嬉しい。
569
﹁あれ?反応が思ったより薄いなぁ﹂
﹁これでも喜んでいる。ただ館長は体が弱っているし、車いすのよ
うな物があるといいのだけど﹂
馬車が存在しているのだから、それぐらいあってもよさそうだ。
電自動タイプはないだろうが、先輩辺りが館長の乗った車いすを押
していったら完璧だ。
ただこの世界の介護用品は果たして、何処に行けば手に入るのか。
館長の主治医だったら知っているだろうか?
﹁何で館長なんだい?もちろん呼ぶけど⋮⋮難しければ仕方がない
んじゃないかな?﹂
﹁えっ?何で呼ばないの?﹂
主役が来なくてどうするというのか。代理で先輩が受け取ればい
い話なのかもしれないが⋮⋮折角だから館長に賞状を渡してあげた
い。
﹁オクトさんがそこまで館長の事が好きだったなんて知らなかった
よ。僕としては、オクトさん達3人が出席できればそれでいいかな
と思ってたんだけどね。少し方法を考えてみる⋮⋮オクトさん?顔
色が悪いよ﹂
カミュに指摘されたが、私も自分自身の血の気が引いた事に気が
ついていた。
あれ?あれれ?私達3人って⋮⋮。
﹁⋮⋮館長が表彰されるんじゃ?﹂
﹁違うよ。正確に言えば、時属性対応の蓄魔力装置じゃなくて、オ
クトさんが見つけた、魔法石の並列繋ぎと直列繋ぎの法則が表彰さ
れる事になっているから。本当なら、オクトさんだけでも良いんだ
けど、一応コンユウとエストとの共同研究扱いになっているからね﹂
﹁な、ななな、何で?!﹂
あまりな事態に声が裏返る。
570
﹁何でって、魔術師達の今はの話題はそればかりだよ。まだ魔術師
試験も受けていない魔法学生が、新しい法則を確立したわけだから
ね。魔術師通信にも賢者が現れたって大々的に書かれているし﹂
﹁待って。何で知られている?!﹂
私は何も発表していないんだけど。どうしてそんな大々的な事に
なっているんだ。
﹁アスタリスク魔術師が自慢して、そこから漏れた感じかなぁ⋮⋮﹂
﹁アスタが?!私、論文も書いていないんだけど﹂
何がどうしてこうなった。
国に表彰?国という事は、偉い人が集まる場所に行くという事だ。
そんな場所に、混ぜモノの私が?ありえない。
﹁論文は後々書く事になるんじゃないかな?オクトさんが見つけた
法則をアスタリスク魔術師が特許申請をしたし、使いたいと思って
いるヒトは結構いると思うよ。その時に研究内容をまとめた論文が
あった方が便利じゃないかな﹂
特許?
確かにアスタに相談しながら実験を繰り返していたので、アスタ
は良く知っているだろう。だから特許申請だってできると思う。
でもせめて一言言って欲しかった。うん。きっと、良いと思って
行って、私に伝えるのをうっかり忘れていたんだろうけど。あああ
あっ。
私はこれから起ころうととしている厄介事に頭を抱えたくなった。
﹁えっと⋮⋮実際に表彰ってどうやるの?﹂
﹁年に一度、国王が国の発展のために尽くしたモノを王宮に呼んで
︱︱﹂
﹁勘弁して下さい﹂
王宮なんて、タブー過ぎる場所だ。しかも国の一番偉い人と対面。
571
粗相をしない自信がない。もしもそこで何か起こしたら⋮⋮駄目だ。
問題ないなんて、絶対言えない。
﹁国民は国王の招集を断るなんてできないからね﹂
﹁そこを、息子の力でなんとか﹂
神様、仏様、王子様という感じで、私はカミュにパンっと手を合
わせた。きっと王様だって親なのだから、子供の話なら耳を傾けて
下さるはずだ。
﹁僕はオクトさんに、卒業後は王宮に来てほしいし、いいタイミン
グだと思うけど?混ぜモノというだけで無闇に怖がるヒトを黙らせ
るには、実際に見てもらうのが一番だし﹂
﹁か、勝手な事言うな。私は山に引きこもる﹂
全然いいタイミングなんかじゃない。
そもそも、なんだ、そのプランは。卒業後に王宮?まてまて。私
は卒業後は山奥で薬師予定だ。その為に、今必死に薬草を覚え、調
薬を勉強しているはずだ。
﹁オクトさんは王宮を毛嫌いするけど、結構いい職場だと思うよ﹂
﹁いい職場云々じゃない。前から、私は混ぜモノだと言っている。
もしも王宮で力が暴走したらどうするんだ﹂
﹁それだけ魔力コントロールもできているし、大丈夫じゃないかな
?﹂
﹁コントロールはできていると思う。でも万が一という事がある﹂
もしも感情が高ぶって、暴走してしまったら?王宮や王都を消し
飛ばしましたなんて、悪名しか残らない最期絶対嫌だ。
歴代の混ぜモノで暴走したヒトだって、暴走したくしてしたわけ
ではないと思う。だったら先人に学んで、念には念を。石橋は叩い
て渡れだ。暴走しても、最小限の被害で抑えられる場所にいた方が
いい。
572
今までアスタと一緒に暮らし、日中はカミュ達友人と喋っている
身だ。きっと山で1人暮らしていくのは寂しいだろう。しかし私は
引きこもりな性質だし、比較的早く順応できるのではないだろうか。
いや、順応する。それが一番楽な生き方のはずだ。
﹁まあこの話は結論がでないだろうから置いておくとして。とにか
く、表彰は出席だから﹂
﹁カミュの鬼﹂
﹁僕は鬼族じゃないよ?﹂
ああ、居たんだ、鬼と呼ばれる種族って。普段見かけないので、
少数民族なんだろう⋮⋮ってそんな情報どうでも良い。
私はそういう意味ではないと、カミュを睨みつけた。
﹁ごめんごめん。ちゃんとオクトさんが言いたい事は分かっている
から。でも、父上は一度決めたら中々意見を変えないから難しいと
思うよ。行かないという選択よりも、どうしたら暴走しないかを考
えた方がいいんじゃないかな?﹂
﹁それが分かれば、混ぜモノは苦労しない﹂
暴走しない方法が分かれば、混ぜモノが恐れられる事なんてない。
今までその方法が分からないから、暴走テロ起こして迫害されるを
繰り返しているのだ。
自分自身で実験といっても、本当に暴走を起こしてしまった日に
は目も当てられない。昔アスタにも勧められたと思うが、やっぱり
自ら危険を冒すのは躊躇われる。
﹁そもそも、なんで混ぜモノは暴走するんだろうね。魔力が強い種
族なんていくらでもいるけど、国を消すぐらい大きく魔力を暴走さ
せたなんて聞いた事ないし﹂
﹁⋮⋮他の種族は、親から暴走しない方法を教わるからとか?﹂
﹁僕はそういう話は聞いた事ないかなぁ﹂
だよねぇ。
573
自分で言ってみたが、あまり説得感のない推理だ。今の話でいく
とミウのような本来魔力の少ない種族の中で、突然変異的に魔力持
ちが産まれた場合も、混ぜモノと同じ状態という事になる。
しかし突然変異的な彼らが暴走して国を滅ぼしたなんて文献、残
っていはない。
もしくは混ぜモノは色々な種族の血が混じっている為、魔力のバ
ランスが悪く、コントロールを失いやすいとかあるのだろうか。普
通魔力の属性は一つなのに、私の場合いくつも混じっている。
ただし全ては所詮、空論でしかない。それが正しいなんて誰にも
分からない。もしかしたら普通のヒトでも、属性を数種類持ち合わ
せているヒトがいないとも限らない。
﹁そう言えば、オクトさんの周りには精霊がいたよね。それが関係
するとか?﹂
﹁精霊かぁ﹂
確か魔力のおこぼれを得る為いるのだと、前にアスタが言ってい
た。あの時はそれで納得したが、だったら同じく魔力の強い魔族の
周りにもいなければおかしい。
しかし、アスタやコンユウが精霊を侍らせている姿は見た事がな
かった。
精霊は謎も多い種族だし、何か関係していてもおかしくない。
﹁オクト、急いで来いっ!!﹂
色々考えていると、階段の方から、コンユウの怒鳴り声が聞こえ
た。一体何事だろうと、私は振り返る。もしかして、また受付業務
に入れとかだろうか?
できたら、あれからは外して欲しいんだけどなぁと思うが、人手
がないなら仕方がない。
﹁何で?﹂
574
﹁館長がまた、倒れたんだよ!﹂
倒れたという言葉にドキリとする。しかし、同時にまたかとも思
った。館長が倒れるのはある意味、毎年の恒例行事だ。そう思うぐ
らい、私はその言葉を何度も聞いていた。
だから、きっといつもと同じ。私は安直にそう思った︱︱。
﹁館長が⋮⋮、館長が、息をしていないんだっ!!﹂
︱︱えっ?
575
28︲2話
倒れたという館長は、すでにベッドの上に運ばれていた。
相変わらずもこもこしていて、毛の隙間からみえる肌の血色もよ
い。まるで眠っているかのようだ。しかし、胸は一向に上下しなか
った。
ただ静かに横たわっている。
﹁見つけた時にはもう⋮⋮。すでに硬くなっていたの﹂
震える声で館長の状態を教えてくれたアリス先輩の目には、光る
ものが溜まっていた。それがこぼれ落ちないのは、きっと私達後輩
が混乱しないようにするためだ。
まだ館長の死に、頭が追いついていなかった私だが、アリス先輩
の様子に胸が苦しくなる。アリス先輩はなんだかんだいって、とて
も館長の事を尊敬していたし付き合いも長い。だからきっと、私達
よりずっと辛いはずだ。
﹁まるで、生きているようですね﹂
﹁ええ。まだ温かくて⋮⋮、私も生きているようにしか見えないわ﹂
エストの言葉に、先輩は深々と頷いた。その様子を見ていると胸
を打たれたような気分になる。
⋮⋮ん?でも何かおかしくない?
先輩自身はとても大真面目な様子だが、私はふと先輩の言葉に引
っかかりを覚える。ちょっと待て。何か矛盾していないか?推理小
説のように先輩から発せられた言葉を思い返す。
﹁えっと⋮⋮温かいんですか?﹂
576
死後硬直して硬くなっているのに、温かい?そんな馬鹿な。
死んだ直後ならともかく、死んだ人間には体温がない。死後硬直
してしまっているならば、温かいなんて事、普通はないはずだ。
﹁ええ。今も温かいの﹂
今も?!
⋮⋮この世界の死体は温かいとか?いやいや。それはないだろう。
私は本当に寝ているだけに見える館長を凝視する。しかしやはり
胸は上下しない。
ここは心臓の音を確認してみたいところだが、死んでいると思う
と、どうしても触るのを躊躇してしまう。いやでも、温かいまま土
の中に埋めるのはちょっと⋮⋮。
﹁君たち、どきなさい。ほら君もっ!﹂
どうするべきかとおろおろしていると、館長室に集まった生徒た
ちの中から、おじさんぽい声が聞こえた。声の方を見れば、人ごみ
をかき分けて、大きな鞄を持った1人の男性が現れる。男のくすん
だ赤毛は白髪交じりで、初老に差し掛かったぐらいに見えた。そし
てその顔には、長年生きた証である深い皺が刻まれている。
確かこの人は︱︱。
﹁先生⋮⋮﹂
そうだ。
アリス先輩の言葉に、この人が館長の主治医だと思いだす。バイ
ト中、体調を良く崩す館長の元へ往診に来ていただいている姿を見
た事がある。
﹁今日は一体なんなんだね。公演でも始めるつもりか?あー、暑い﹂
先生は鞄を一度床に置くと、額の汗をハンカチでぬぐった。そし
て羽織っていたコートを脱ぐと、近くにいた生徒に手渡す。
﹁先生、まだお聞きになられていなかったんですね⋮⋮。実は館長
577
が⋮⋮先ほど硬くなった状態で見つかって﹂
﹁何っ?!﹂
アリス先輩の言葉を聞いて、先生はどたどたと館長へ近づくと、
布団をめくり館長の手首を掴む。しかし館長の腕はがっちり硬直し
ているようで、持ちあげられなかった。仕方がなさそうに先生はか
がむと、脈の確認をする。
そして手首から手を離すと、今度は眼球を調べる為に顔に手をや
った。ただしこちらも腕と同じだ。しっかりと瞼も閉じて硬直いる
ようで、ピクリとも動かない。
先生は断念したように手を離すと、首を振り、深くため息をつい
た。やはり、館長は死んでいたのだろう。
﹁流石、妖怪爺だ﹂
ん?妖怪爺?
死者に対してあんまりな言い方に、私はぽかんと先生を見た。確
かに妖怪っぽいけれど、こういう時ぐらいもう少し言い方というも
のがあるのではないだろうか。
﹁本気でしぶとい。流石何代にも渡って私達に健康管理させて、生
きながらえてきただけあるな﹂
﹁しぶとい?⋮⋮あの。どういう事ですか?﹂
濡れた眼でぱちぱち瞬きしながら、アリス先輩は私達を代表して
先生に聞き返した。多分この部屋にいる全員が同じ気持ちだろう。
しぶといって、どういう事なのか?明らかに死者に対して使うよ
うな言葉ではない。
﹁昔からコイツは、長生きを目標にしておってな。最近はやってお
らんが、時折自分自身の時を止めて過ごす事を繰り返しておったん
だよ。もっとも時が止まれば、思考も何もかもが止まり寝ているよ
うなものだ。そこまでして長生きにこだわって、何が楽しいのか私
には理解できないがな。まあ、今回に関してはそれで命拾いしたと
578
いう所か。このままでは危険だと思い、咄嗟に時を止めて、私の往
診を待ったのだろう﹂
えっ⋮⋮つまり、生きてる?
私は慌てて、目の辺りに魔力を集めると、館長を見た。すると、
ちゃんと体から、紫色の光が出ているのが確認できた。魔力が動い
ているという事は、常識的に考えれば、死んではいない。
そうか、生きてるのか。
私は自分でも気がつかないうちに緊張していたようだ。ふっと体
の力が抜ける。生きている事は喜ばしいが、本当に人騒がせなヒト
だ。
﹁どちらにせよ、今はこの爺の魔法が切れる時間まで待つしかない
な。まったくヒト騒がせな男だ。こんな雪の日まで往診にこさせて
死体騒ぎとは﹂
﹁先生。今お茶を入れてきますから、椅子に座っていて下さい。ほ
ら、貴方達。業務に戻りなさい。館長が目を覚ましたら呼んであげ
るから。あと、エスト君ととオクトちゃん、それとコンユウ君はち
ょっとここで待ってなさい﹂
アリス先輩がパンパンと手を叩くと、生徒達が蜘蛛の子を散らす
ように部屋から出て行った。
残る様に言われた私達は、どうするべきかと顔を見合わせる。多
分館長の事もあるし、時魔法についてなのだろうけれど⋮⋮。
﹁そんなところで、案山子のように突っ立っておらんで、座っては
どうかね﹂
先生に言われて、私達は先生と真向かいのソファーに座った。
かといって自分たちもまだ混乱しているので、何かを喋ると事も
ない。お茶などもない状態で、無言のまま向かい合わせに座ると、
正直居心地が悪い。
579
﹁君たちが時魔法を研究しているという生徒だね。噂はかねがね聞
いているよ﹂
無言でただ座っていると、先生の方が気を使ってか話しかけてく
れた。
﹁いえ。研究というほどの事はしていませんけれど⋮⋮﹂
エストの言葉に、私は頷く。そもそも蓄魔力装置の開発は、時魔
法の研究ともまた違う。
時魔法は時を止めるぐらいしかできないという、研究のまったく
進んでいない分野だ。私が知っている例外的な時魔法といえば、本
棚にかけられた1日を繰り返す魔法である。あれは、最新も最新の
凄い技術で、どの本にも載っていなかった。
もしも具体的に時魔法を研究するなら、時間を進めたり、戻した
りできないかの研究になってくるが、そんな不老不死に関わってき
そうな研究は、今はまだ誰も成功していない。また時属性のヒトが
極端に少ない為、研究者も同様に少なかったりする。きっと今後も
この分野の進展は亀並みに遅いだろう。
﹁謙遜せんでもいい。わしも魔法使いの端くれでね、﹃魔術師通信﹄
は愛読しておるのだよ。時魔法の、蓄魔力装置を開発中に見つけた、
直列繋ぎと並列繋ぎの法則は、見事だった。これで、また一つ魔法
分野の研究が一歩進むだろう﹂
凄く賢い内容を話していただけているが、たぶん私達の中に魔法
分野を進歩させたいなどという、崇高な目的で実験をしていたヒト
はいない。どちらかと言えば、館長に提示された無理難題をこなそ
うと頑張った結果、いつの間にか大事になっていましたという感じ
だ。
おかげで、エストとコンユウがぽかんとしている。私もカミュに
聞くまでは、そんなん研究雑誌に私達の事が載っているなんて思っ
ていもみなかった。
にしても、こうも手放しでほめられると、むずむずして、これも
580
また居心地が悪い。
﹁そういえば、館長が何度も自分の時を止めていたと聞きましたが
⋮⋮どういうことですか?﹂
私は話題を変える為、先ほど先生が話した内容を聞き返した。自
分の時を止めるって、結構とんでもない事ではないだろうか。
治療ができないからできるまで時間を止めるとか、長生きの為に
時間を定期的に止めるとか、まるでコールドスリープだ。
確か前世でコールドスリープは、SFファンタジーで何処かの惑
星に行くために使用されるような、現実には存在しない技術だった。
また日本以外だったと思うが、死体を凍らせて保管し、治す技術が
見つかるまで保管するといった話を聞いたような気がする。かなり
あいまいな記憶なので、もしかしたらテレビか何かでちらりと見た
だけの知識かもしれないが、とにかくそれとまったく同じような発
想だ。不老不死ではないが、それに近い。
そんな魔法を館長が考え、自分自身で実践しているとは⋮⋮。目
が覚めなかったらどうしようなど考えなかったのだろうか。
﹁良く分からんが、初代が残したカルテには、とにかく長生きがし
たいと言って始めたと書いてあったよ。もっとも賢者であるからこ
そできたようなものらしいがな﹂
﹁賢者?﹂
コンユウが意味が分からないと、眉をひそめた。
確か賢者とは、賢いヒトという意味ではなく、誰も知らない事を
知っているヒトという意味だ。館長の扱う時魔法を指しているのだ
ろうかとも思うが、どうも違う気がする。
﹁時を止めても周りの時は動く。目が覚めて、世界ががらりと変わ
っていたら苦労するはずであろう?しかし彼は国が消えるかも知れ
ないという危機の時は必ず目を覚まし、国の為に軍師としての力を
貸して勝利に導いた。もちろん時が止まっている時は、思考も止ま
581
っておる。つまり最初からそれを見越して時を止めておく時間を設
定したという事だ。こんな事、賢者にしか無理だと思わんかね﹂
最初から見越して⋮⋮そんな事可能なのだろうか。
それではまるで、未来を知っているかのようだ。⋮⋮ああ、だか
ら賢者なのか。未来なんて誰も知っているはずのない事だ。
﹁確か参加した全ての戦を勝利に導いたんですよね﹂
﹁らしいな。とはいっても、私も先代に聞いただけだからな。たぶ
ん本の方がしっかりと書いてあるだろう。一度読んでみるといい﹂
全てを見通してきた館長の目には、一体何が見えていたのだろう。
私も賢者とかふざけて言われる事があるが、これは異世界である前
世の恩恵があってこそで︱︱。
ん?
まさかと私は館長を凝視した。
館長にも、もしかしたら何か異世界的な前世の記憶があるのでは
ないだろうか?そもそも自分の時間を止めるとか、簡単に思いつけ
るとも思えない。
しかし前世の記憶があったところで、戦を勝利に導いたり、先読
みができるわけでもないし⋮⋮。そういう特殊な環境のヒトだった
としても⋮⋮どうなのか。
こればかりは考えても分かるはずがないと、私は早々に考えるの
を放棄した。館長の目が覚めた時にでも、どうやって先読みをした
のかや、いつ自分の時を止めるという事を思いついたか、聞けばい
い。
﹁失礼します﹂
しばらくすると、アリス先輩がお茶を持って入ってきた。手伝お
うと動いた私達をジェスチャーのみで断ると、先輩は人数分カップ
を置き、先生の横に腰かける。
582
そして、少しこわばった、何かを決意したような表情で先生に話
しかけた。
﹁少し館長の事でお聞きしたいのですが。⋮⋮館長の命は、後どれ
ぐらいなんでしょうか?﹂
あえて考えないようにしていた言葉に、私の心臓はドキリと脈打
った。 583
28︲3話
館長が再び倒れてから、図書館は一段と慌ただしくなった。
今のところは図書館が休館になるとかそういった事体は起こって
ない。ただ今まで館長が行っていた時魔法の管理が、全てコンユウ
へと移行された。また蓄魔力装置も全て設置され、もしもの時の準
備が進んでいる。
館長が死ぬ事を待ち望んでいるわけではない。しかし全ては、そ
の時の為に動いていっているようで、まさしくその通りだったりす
る。
主治医の先生が言った、余命幾何もない絶望的な言葉の為に。
﹁館長⋮⋮、私かコンユウがこの図書館を継ぐとか無理ですからね﹂
ベットの上で、こんこんと眠る館長にぽつりとぼやく。
自分自身にかけた時魔法が切れてからも、館長は中々起きず、眠
る時間が長くなった。時折目を覚ましてはご飯を食べたり、薬を飲
んだりもする。しかし量があまり入らぬまま、すぐに眠ってしまう。
主治医の先生は、無理に館長を起こして薬を飲ませたり治療するの
ではなく、本人の望むようにしてやりなさいとアドバイスをした。
そこで図書館の職員で話し合った結果、館長の看病は図書館で交
代で行うという事になった。きっと館長は最期まで図書館にいたい
のだろうから。
﹁だからちゃんと元気になって、先輩が後継者になるように話をし
て下さい﹂
アリス先輩から、館長がもしも亡くなったら、私かコンユウに図
書館の館長を継いでもらいたいと言われていた。もちろん、通常業
584
務はアリス先輩が今まで通り館長代理を行ってくれる。しかし時魔
法に関してさっぱりなアリス先輩は、館長にはなれないというのだ。
かといって、私とコンユウに館長の仕事ができるとも思えない。
多分ベストなのは、アリス先輩が館長となって、私達が協力者とな
る方法だと思うのだけど⋮⋮。
とにかく館長に、後任者を決めてもらう事が、もめごとにもなら
ずいい気がする。
﹁皆、心配していますから﹂
何処から館長が倒れた事を知ったのかは分からないが、館長のお
見舞いへ、様々なヒトがやってきた。
一体どういう繋がりだったのかは分からないが、軍人っぽいヒト
から商人っぽいヒトまで様々なヒトがお見舞いをしにやってくる。
つい最近やってきた緑の髭を生やした男は貴族っぽかったし、種族
も年代層も多種多様だ。
とにかく立て続けにヒトがお見舞いに来るので、館長室はプレゼ
ントで溢れかえる事になった。花なんてすでに館長室だけでは飾る
事もできない量になってきているので、図書館中に飾ってある
これが、長きにわたって生きてきた館長の仁徳というものかもし
れない。もしも私が倒れたとしても、こんなに見舞いに来てもらえ
るとは思えなかった。
﹁⋮⋮︱︱ここは﹂
﹁館長?!﹂
ぶちぶちと眠り続けている館長に文句を言っていると、ふとかす
れた声が聞こえた。近くの椅子に腰かけていた私は、慌てて館長の
近くまでかけより、顔を覗き込む。
するとうっすらと開いた瞼の下から、紫色の瞳が私を見返した。
﹁気分は大丈夫ですか?今、先輩呼んできます﹂
とにかく館長が目を覚ましたと先輩に伝えなければ。慌てて呼び
585
に行こうとしたが、館長の手が私の腕を掴んだ。
腕は枯れ木のように細くなっていたが、その手の力は、見た目以
上にあった。少しだけ爪が食い込み痛い。
﹁館長、どうかされましたか?﹂
無理に振り払ったら折れてしまうのではないかと思い、私は仕方
がなく館長のされるがまま、この場に留まる。もしかしたら喉が渇
いたとか、何か言いたい事があるのかもしれない。
﹁喉が渇いたのなら、お茶をお持ちしますし、お腹が空いたなら何
か食べられるものを持ってきますけれど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮君は︱︱﹂
館長の口から、再びかすれた声が出てきた。2日間は眠りっぱな
しだったので、声が出にくいのも仕方がない。
﹁お茶どうですか?水なら枕元にレモン水がありますし⋮⋮﹂
しかし館長は私の言葉に答えることなく、ぼんやりとしている。
もしかしたら寝ぼけているのかもしれない。
﹁えっと、特によければ、先輩を呼びに行きたいんですけど﹂
そっと腕を掴んだ手をはがそうとするが、中々上手くいかない。
ぼんやりとしているのに、何故か腕を掴む力だけは強かった。
﹁︱︱にとって⋮⋮は︱︱だろうか﹂
﹁はい?えっと、なんです?﹂
ぼんやりとしていた館長からぽつりと言葉がこぼれ落ちた。何か
質問っぽかったが、か細い声の所為で上手く聞き取れず、私は聞き
返す。
﹁︱︱にとって、この世界は少しはマシになっただろうか﹂
へ?
私は想像外の言葉にキョトンとする。何か質問だとは思ったが、
世界について聞かれるとは思わなかった。マシも何も、世界は世界
586
だ。私に評価できるものではない。
ああ、でも⋮⋮。
切ない声に、これは私に宛てられた言葉ではないのかもしれない
と気がつく。もしかしたら館長は、私を誰か別の人物と勘違いして
いるのではないだろうか。
一番考えられるのは、館長の待ち人だ。もしかしたら、直前まで
そのヒトの夢を見ていたのかもしれない。最近眠る頻度が高くなっ
たので、夢と現実が混ざってしまったとしても仕方がない気がする。
ふてぶてしかった館長が、弱弱しくなっていく姿は寂しい。だけ
どそれを受け入れないわけにはいかない。これが現実なのだ。
私は手をはがすのを諦め、もう片方の手で館長の手を握った。
館長はどんな言葉を望んでいるのだろう。きっとマシかどうかを
聞いているのだから、待ち人にとってこの世界は生き難い世界だっ
たのではないだろうか。
﹁⋮⋮楽しいですよ﹂
色々考えたが、結局、私の感想を述べるだけしかできなかった。
何に比べてマシなのかも分からないので、答えようがない。待ち
人についても貧乏くじを引きそうなヒトだという情報しかないので、
どんな答えを館長が望んでいるのか分からなかった。
ただ私に言えるのは、この世界は、館長が思いつめるほど悪い世
界ではないと思う。もちろん嫌な事だってあるだろうけれど、全て
が嫌なわけではない。
きっと待ち人にとって、生き難い世界だったとしても、ただ辛い
だけの世界ではなかったのではないだろうか。少なくとも心配して
くれる館長が居たのだ。
﹁そうか。よかった⋮⋮本当に良かった﹂
587
館長の手から力が抜けた。
私はそのすきにさっと腕から手をはがす。今度は何の苦もなく、
その手は離れた。よっぽど待ち人の事が心配だったのだろう。
離れる瞬間、少しだけ館長を騙してしまった事に罪悪感を感じる。
﹁⋮⋮先輩呼んできますから。まだ寝ないで下さい﹂
私は部屋を出ると、先輩のいる受付カウンターまで急いで走った。
◆◇◆◇◆◇
館長と少しだけ会話をした数日後。館長は眠る様にこの世界から
旅立たれた。
死因は老衰。主治医の先生が言うには、これほど長く生きてきた
事の方が奇跡だったらしい。実際館長はとても無理をして長生きを
していたのだろうと私も思う。
そこまでして生き続けた理由は、先生もご存じないようだったが、
私は待ち人のためだったのではないかと思っている。待ち人は館長
の初恋の人らしいが、具体的に聞いてみればよかったと思うのは、
もう聞く事ができないからだろうか。
﹁もっと、何かしてあげられたのかなぁ﹂ 館長が死んでも図書館は残る。その為、私は普段と変わらず図書
館の業務をこなしながら、館長を思い出してた。
もちろん、過去を後悔したって、仕方がない話だ。それぐらいの
588
分別はつく。
ただ今思うと、食事が食べられなかったのならば、胃の中に食べ
物や飲み物を転移させる事もできた。息が上手く吸えないならば、
風の魔法で空気を肺に送り込む事もできる。館長を延命させる方法
はまだあったのだ。しかしすでに限界まで使った体に、さらに鞭を
うつ事が、果たして館長にとって良い事なのかと言われると答えに
窮するのだけれど。
だからというのもおかしな話だが、これでよかったのだと思うし
かない。
﹁十分だろ﹂
﹁⋮⋮十分って﹂
﹁あんな穏やかに逝けたんだ。しかも館長が望んだ通りの形で﹂
確かに戦争や病気ではなく、穏やかに老衰まで行けたというのは、
この国ではかなり幸せな最期だと言える。ここは日本ではないのだ。
﹁そうだけど︱︱⋮⋮﹂
反論を言いかけて、コンユウは家族を混ぜモノの所為で失ったと
言っていた事を思い出した。確かにそれに比べれば館長はいい死に
様だ。こんな事、比べるようなものではないだろうけど。
﹁それに俺は⋮⋮オクトも館長の為に十分やったと思うから﹂
﹁へ?﹂
﹁十分だって言ってんだろっ!!﹂
怒鳴らなくてもいいのに。
しかしコンユウの耳が真っ赤になっているのを見て、照れている
のだという事に気がつく。という事は、やはりさっきの言葉は褒め
言葉だったのだろう。
嫌いな混ぜモノでも褒める事ができるなんて、コンユウも成長し
たんだなぁと思う。昔ならツン100%で、何があろうとも、褒め
たりしなかったはずだ。
589
﹁ありがとう﹂
﹁べ、別に。オレは本当の事を言っただけで、アンタを喜ばせよう
と言ったわけじゃなくてだな︱︱﹂
﹁分かってる。だから、ありがとう﹂
コンユウだからこそ、お世辞でもなんでもなく、素直な感想だと
分かる。ヒトに評価されたから、館長に十分な事をしてあげられた
というわけではない。それでも少しだけ心が楽になった気がする。
﹁俺だけじゃないから。エストとか先輩とか、皆、アンタが館長の
為に何もしなかったなんて思っていないから﹂
﹁うん。分かっている﹂
この図書館にいるヒトはとても優しい。だから、もう少し何かで
きなかったのだろうかと、私に対して思うヒトはいないだろう。
そんな優しいヒト達と出会えた図書館で働かせてくれた館長には、
感謝の言葉しかない。だからこそ、私は館長に対してもっと何かを
したかっただけだ。
﹁そういえば、オクトはこの図書館を継ぐ気はあるのか?﹂
﹁いや。私では無理﹂
色々あれから考えたが、やはり混ぜモノである私では、この図書
館を継ぐのは難しい。もしも私が時魔法を使う事ができたとしても、
問題の種にしかならないだろう。
﹁コンユウは?﹂
﹁まだ分からない﹂
アリス先輩は、私達が卒業するまでにどちらが継ぐのかを決めて
欲しいと言ってきた。私としては、全ての業務をそつなくこなせる、
先輩が継いでしまうのが一番だと思うけれど、館長の意思だという
のだから仕方がない。
﹁俺は⋮⋮自分が館長の代わりになれるとは思えないから﹂
590
﹁うん﹂
﹁少しは否定しろよ﹂
﹁館長は凄いヒトだったと思うから、館長と同じ事をするのは難し
いかと﹂
葬儀の時に集まったヒトは、お見舞いに来たヒト以上に多く、ま
た学校中の生徒が館長の為に花を手向けた。それほどの人脈を持ち、
中立を保ち続けたという館長。その代わりができるヒトなど、いな
いだろう。
﹁でも⋮⋮私は、コンユウが館長になった図書館も見てみたいと思
う﹂
不器用だけど、素直で、優しい彼なら、また今とも違う図書館を
作っていくのではないだろうか。そしてきっとそんな図書館も、き
っと悪くはないだろう。
館長が選んだのだ。
﹁私はその為なら、力を貸す﹂
﹁そうか﹂
コンユウの耳が再び赤くなったが、私は見なかった事にしておい
た。 591
29︲1話 歪な歯車
﹁時魔法の状態は問題なさそうだね﹂
﹁うん﹂
エストと一緒に時魔法が上手く作動しているかを確認しにまわっ
ているが、今のところ特に問題はない。コンユウも、特に時魔法で
負担を感じている様子がないので上手くいっていると言っていいだ
ろう。
一日中時魔法を使っているはずなのに、そういえば館長も特にく
たびれた様子を見せた事がなかったなぁと思いだす。
時魔法が特殊だからか、それとも館長もコンユウも魔力が高いか
らなのか。理由はよく分からないが、とりあえず上手くいっている
ならばいいかと、問題なしにチェックを付ける。
﹁そう言えば、この蓄魔力装置が表彰されるんだっけ﹂
﹁⋮⋮あー、らしいね﹂
私はエストの言葉で一瞬で気分が重くなり、ため息をついた。表
彰⋮⋮憂鬱だ。
﹁やっぱり、嫌なんだ﹂
﹁そりゃ、面倒だし﹂
何かあったらどうしようとか考えるのは正直疲れる。
今のところまだ招待状などは届いてないし、何とか中止にならな
いものかと毎日祈っているが、⋮⋮どうだろう。この世界の神様は、
カンナさんを見る限りそういった類の願い事を叶えてくれるように
は見えない。
﹁名誉な事ではあるんだろうけどね。でもオクトが表彰されれば、
混ぜモノのイメージが少しはよくなるんじゃないかな?﹂
592
﹁どうだろ﹂
そりゃ、好きこのんでで嫌われているわけではないので、イメー
ジ向上は良い事だと思う。良いとは思うが⋮⋮やっぱり気分はのら
ない。
元々産まれは旅芸人なので、ヒト前で緊張しすぎるという事はな
いのだけれど、王宮に行くとか国王様に会うとかはまた別だ。面倒
だ。限りなく面倒だ。
﹁むしろ妬まれて、さらに大変な事になる確率の方が高いような気
が⋮⋮﹂
﹁そしてそこから生まれた憎しみが、新たな戦いへと誘うのだった
︱︱﹂
﹁⋮⋮勝手に小説のネタにしないで﹂
新たな戦いって何さ。そもそも私は、堅実で平穏な人生にしよう
としているので、まったく何とも戦っていはいない。
﹁やっぱりたまには、バトルシーンも必要かなっと﹂
﹁たぶんバトルになったら、私は真っ先に死ぬから﹂
獣人族の血が混じっているとは思えないほどに、現在の私の運動
能力は皆無に近かった。アスタに引き取られてから、外で遊ばず、
家に引きこもるという幼少期を過ごしていたのだから、仕方がない
事かもしれない。
﹁⋮⋮想像してみたけど、ありえなくないのが怖いね﹂
﹁いや、本気で死ぬから﹂
武術もできないので、例え攻撃魔法を使ったとしても、その前に
首と胴体がさようならしている可能性が高い。
果たして混ぜモノは、絶命した後でも暴走をするのかどうか⋮⋮。
暴走すると仮定するならば、世界を巻き込むが一応相手を倒せると
いう、まったくもって嬉しくないバッドエンドが待っている。うん。
593
争いとかするものじゃない。
﹁エスト、悪い。オクトを借りてもいいか﹂
次の本棚へと移動していると、ライが声をかけてきた。ライが図
書館に来るのは久々じゃないだろうか。
﹁もうすぐ、バイトが終わるからそれからじゃ︱︱﹂
駄目かを聞こうとして、ライが凄く真面目な顔をしているのに気
がついた。いつもだったら、へらへら笑っているはずなのに、どう
したというのだろう。
﹁オレ1人でも大丈夫だから、いいですよ。オクト、先輩にはオレ
から言っておくから﹂
空気を読んで、エストは私をライに差し出した。
しかし私としては正直、真面目な顔のライについていくのがとて
も怖い。まるで何か怒っているのではないかと思わせる、苛立った
ような空気を醸し出しているのだ。ライを怒らせるような事を何か
しただろうかと思い返すが、一応心当たりはないのだけど。
﹁悪いな。じゃあ、オクト行くぞ﹂
﹁えっ、ちょっと﹂
私が慌ててチェックリストをエストに渡したと同時に、視界が切
り替わる。どうやらライの転移魔法で飛ばされたようだ。場所は何
処かの校舎の屋上だろうか。
何か怒っているとしても、もう少し余裕を持って欲しい。私はむ
っとしてライを睨んだ。
﹁ライ、いくらなんでも︱︱﹂
﹁突然呼び出してごめんね﹂
ライを睨みつけていると、先に屋上にきて待っていたらしいカミ
594
ュが謝ってきた。
﹁カミュが用事?﹂
ただしごめんという割に、あまりそうは思っていなさそうな表情
をカミュもしている。真面目というか、どこか切羽つまったような
顔に、私は首を傾げた。
﹁オクトさん。怒らないから、正直に答えて欲しいんだけど﹂
怒らないという前置きってあまり当てにならないよなぁと思いつ
つも、カミュの雰囲気に押されて、私は頷いた。
知らない間に、何か悪い事をしてしまったのではないかと私まで
緊張してくる。
﹁オクトさんは、もしかして、僕の兄に会った?﹂
﹁えっ?﹂
﹁第一王子様の事だ﹂
第一王子って⋮⋮。視察の時に会ってしまったが、それ以来会っ
てはいない。視察なんて結構前の事になるし、その後バタバタした
事もあり、すっかり忘れていた。
﹁最近というわけじゃなくても⋮⋮そうだね。例えば、以前あった
視察の時とか、オクトさんは兄と会っていないかい?﹂
﹁緑の軍服を着ていた男だ。覚えないか?﹂
今更な感じもする話題だが、私はぎくりとする。うん。確かにあ
の時、図書館で軍服のサボり魔に声をかけられた。というか、一緒
にいる所は先輩にも目撃されているはずだ。⋮⋮これは、絶対バレ
ている。
私はおずおずと首を縦に振った。嘘をついた所で、余計に怒らせ
るのがオチだ。
﹁やっぱり﹂
595
﹁あ、あの。でも会ったのはあの時一回だけで⋮⋮﹂
やはり黙っていたのは不味かったらしい。言いそびれてしまった
というのもあるが、ある意味故意的に報告しなかったのだ。
あまり怒らないで欲しいと思いながら2人を見上げたが、2人は
深刻そうな表情をしており、怒る様子はない。それはそれで、不安
になってくる。
﹁オクト。その時王子に魔法を教えなかったか?﹂
﹁いや、特には⋮⋮﹂
魔法なんて教えただろうか。確かあの時は﹃ものぐさな賢者﹄を
読もうとしている所で、呼びかけられたはず。
﹁教えなくても、何か魔法を兄の前で使わなかったかい?﹂
魔法?
そう言えばあの時、本の盗難があったはずだ。なので盗難の状況
確認をしに、受付カウンターに向かった気がする。そしてその後︱
︱。
﹁たぶん使ったけど﹂
それがなんだというのだろうか。使ったと言っても、その場でぶ
っ放したわけではないので、王子に怪我をさせたとかそういった類
の失敗はしていない。
しかし私の答えにカミュ達はさらに顔を曇らせた。
﹁不味いな﹂
﹁そうだね。少しタイミングが悪いね﹂
2人だけで話されると、怒られるよりも、もっとひどい事が起こ
っているのではないかと不安になる。何が不味いのだろう。どうタ
イミングが悪いというのだろう。
聞きたいが、怖い。私は次の一歩を踏み出す事ができず、ただ2
人を見つめる。私は一体、何をしてしまったのだろう。
596
﹁ああ、ごめん。オクトさんが悪いわけじゃないから﹂
﹁迂闊ではあるとは思うけどな。まあでも、あの王子が相手なら仕
方がない部分でもあるか﹂
﹁⋮⋮一体、何?﹂
よっぽど心細そうな顔をしていたのかもしれない。変な慰められ
方をされてしまったが、そもそも何が何なのか分からない。
﹁オクトさんも知っているかもしれないけれど、今レガーロで、少
数部族と揉めているんだ。そこで今回、兄が率いる軍が、今までに
ない魔法を使って部族を壊滅させたんだよ﹂
壊滅?
今までにない新しい魔法を使って?その言葉が何を意味している
のか理解をすると同時にさっと血の気が引いていく。
﹁その魔法って⋮⋮﹂
﹁風属性だけの魔法のはずなのに、相手を凍らせてしまったそうだ
よ。王子が連れて行った魔術師は、少人数だったにも関わらず、見
事に勝利を収めたんだ。どうやら自然の力を上手く利用したものら
しいけど︱︱﹂
﹁私だ﹂
自然を利用した風魔法。
確かにあの時、王子に私は自分が使った魔法の原理を教えた。上
空高くの冷気を地上に下ろすという前世の知識に基づく魔法を。
﹁私が⋮⋮﹂
想定外の事に頭がくらくらし、体が震えた。
まさかその魔法が戦争に使われるなんて思わなかった。しかし、
そんなこと敵対した部族には関係がないがろう。まぎれもなくこれ
は私の罪だ。
597
﹁⋮⋮その少数部族のヒトは⋮⋮どう︱︱﹂
﹁壊滅させたとしかまだ情報はきていないけれど、少なくとも凍傷
で手足を失ったものが多くて、これ以上戦が長引く事はないと思う
よ﹂
手足を失った。
⋮⋮ああ、そうだ。私もあの時は殺す目的ではなったので、色々
手加減をした。それに獣人族だから大丈夫だろうと思って魔法を発
動させたはずだ。
でも今回は殺す為に魔法を使ったのだ。手足が失っただけで済ん
だモノはまだ良かったのかもしれない。でももしも彼らが田畑を耕
すようなヒト達だとしたら⋮⋮。それは本当に良かったのだろうか。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
知らなかったじゃ済まない取り返しのつかない事態に、吐き気が
してきた。
﹁早く決着がついたのは良かったけどな﹂
﹁良くないっ!!﹂
そんなの全然良くない。だって私のせいで、ヒトが死んだり、傷
ついたのだ。
﹁何でだよ﹂
﹁何でって、ヒトが死んで︱︱﹂
至極不思議そうに言われて私は言葉を失う。
だってヒトが死んだのだ。良いわけない。良いわけがないはずな
のに、真顔で返されると、まるで私がおかしいような錯覚に陥る。
﹁確かにオクトさんが思う様にヒトが死ぬのは良くない事かもしれ
ないね。でも戦が長引けば、この国の民がどんどん傷ついていくん
だよ﹂
﹁だからやり方はどうであれ、長引かせなかった第一王子は、国の
598
為にもっともよい方法をとったんだ﹂
﹁最も良いって⋮⋮なら初めから戦争なんてしなければ﹂
戦争はいけない事。私の前世の記憶には刷り込みのようにその考
え方が入っていた。
﹁それが一番だろうけど、実際起こってしまったのだから、早期決
着をつけるのが正しいと僕は思うよ﹂
カミュが言いたい事も分かる。もう止められないのならば、早く
終わらせた方がいいというのは、とても合理的だ。国という大きな
単位で見るならば、まさしくその通りなのだろう。
ただ、心が順応できないだけで。
﹁仮に。⋮⋮それが良かったとしたら、何が不味いの?﹂
カミュ達は、私の作った魔法が戦争に使われた事を責めているわ
けではなさそうだ。でもそれ以上に、大きな罪など私には想像もつ
かない。
﹁兄が先に一手を打ってきたんだよ﹂
﹁一手?﹂
﹁新聞で、今回の戦略は賢者から知恵をいただいたとコメントして
いるんだ。まだその賢者がオクトさんだとは触れられていないけれ
ど、魔法使いの中には気がついたモノもいるかもしれない﹂
少数部族じゃなくて、魔法使いに気がつかれて不味い事があるの
だろうか。少数部族側なら、恨まれて危険だというのも分かるが⋮
⋮。
﹁兄はね、自分への障害になるようなら、魔法使いとの全面対決も
惜しまないタイプなんだよ。そして事実はどうであれ、混ぜモノの
であり、賢者でもあるオクトさんが兄側についたと魔法使い達が思
えば、色々大変な事になる﹂
599
カミュの言葉に、ゾクリと体に悪寒が走る。
私は何に巻き込まれつつあるのか、ようやく理解した。 600
29︲2話
﹁嫌っ!!﹂
バチッと目を開けると、そこは宿舎で、私の部屋だった。バクバ
クと心臓が鳴っている状態で天井を見上げる。
一瞬状況が理解できず混乱する。さっきまで、私は死体に囲まれ
ていたはずで︱︱。
何だ夢か。
数テンポ遅れて、自分の状況を理解する。
学生である私がそんな死体の中にいるはずもない。夢の中で見た、
死体を思いだそうとするが、その辺りの記憶はぼんやりとしいて、
想像の限界を感じさせた。そうか、夢なのか。
﹁疲れてるなぁ﹂
第一王子が私の作った魔法を使って、戦争に勝利したと聞かされ
てから、ヒトが死ぬ夢を繰り返し見るようになった。といっても、
具体的に覚えているわけではない。ただ目が覚めると、怖いという
感情や悲しいという感情や、申し訳ないという懺悔のような感情や、
どうしてこうなってしまったという怒りの感情がごちゃ混ぜになっ
ているだけだ。そしてぼんやりと、沢山の死体が出てきた夢だった
と思い出す。
きっと私が見ているのは、戦争の夢ではないだろうかと推測して
いる。しかし私自身戦争を体験した事がないからだろう。記憶は何
処までも曖昧で、苦い気持ちだけが残る。
こんな神経を擦り減らすような事を繰り返すのは、よくない傾向
601
だ。
﹁落ち着かないと﹂
ベッドから起きあがり、ランプに火をともすと、台所へ向かった。
そしてコップの中に魔法で水を呼び出して、机の上に置く。
﹁駄目だなぁ﹂
混ぜモノは精神のバランスを崩した時に、暴走するといわれてい
る。魔力のコントロールは以前より、ずっと上手くなったと思うが、
本当にそれで暴走が起こらないとは限らない。そうなるとできるだ
け大きく心を乱さない生活を心がけるべきだろう。
私の魔法が多くのヒトの命や生活を奪った事実は変わらない。こ
れは私が忘れてはいけない罪だ。しかしそれを苦に暴走を起こし、
さらなる大災害を引き起こすわけにはいかなかった。
なのでどうにもならない事を後悔するのではなく、これ以上私の
前世の知識や魔法が戦争に使われないように対策を練った方がとて
も堅実的だ。
﹁分かってはいるんだけど⋮⋮﹂
心を穏やかにしなければいけない。過去ばかり見ていてはいけな
い。それは十分、分かっている。ただ分かってはいても、実践でき
るかどうかは、まだ別だった。
普段は忘れたふりもできるが、夢の中までは無意識なのでどうし
ようもない。こういった事は、時間が解決していってくれるのだろ
うか。
ため息をつきながらも、水で苦しい気持ちごと飲み込む。何とか
して、自分の中で決着をつけなければならない問題だ。
﹁オクト、眠れないのかい?﹂
﹁ごめん。起こした?﹂
602
コップを両手で持ちながら、再び深くため息をついていると、ア
スタに声をかけられた。今は深夜なので、できるだけ音を立てない
ようにと気を付けていたが、失敗したようだ。
﹁いや。ちょっと調べ事をしていただけだよ。それより、最近眠り
が浅いみたいだけれど﹂
﹁そんな事は︱︱﹂
そう言いかけたところで、グイッと顎を掴まれ、顔を上げさせら
れる。
﹁目の下に隈ができているから。それに充血もしているな﹂
﹁うっ﹂
もう少しちゃんと嘘が付き通せたらいいのに。アスタにはあまり
心配とかかけたくなかった。しかし第一王子に会ってしまった事が
バレた時点で、それは無理かと思いいたる。
アスタはどうも第一王子を苦手としているようだ。かくいう自分
も今回の事で、完璧トラウマだ。あのヒトに会ったら、碌な事にな
らない。
﹁学校に通えないのは一時的だと思うから、大丈夫だよ。今は家か
ら出られなくて、気が滅入るかもしれないけれど﹂
﹁あ、うん﹂
私はアスタの言葉に頷いた。
どうやらアスタは、私が学校に通えなくて落ち込んでいると思っ
たらしい。まあ学校に通えなくて、気が滅入っているのもあながち
間違いではない。
魔法使い達に、私が第一王子の味方についたと勘違いされてから、
すぐにカミュとライは私を病欠という事にしてしまった。
中立の立場である図書館に所属をしていたが、館長という大きな
存在を失った今の図書館では、私が第一王子側についたわけではな
603
いと証明する機関としては弱いそうだ。その為、ほとぼりが冷める
までは自宅待機をし、身の安全を守る事になっている。
とはいえ、いつまでも病欠というわけにはいかない。そこでカミ
ュも少し知恵を出してくれる事になっていた。
﹁それは、大丈夫﹂
別に学校に通えない事は、そこまで心配していなかった。
何故なら、カミュは入学した時に無理やり私を飛び級させて以来、
私が不利になるような事をしなかったからだ。カミュも第一王子と
同じ王家側の人間である。それでも、彼は私の友人であり、信頼で
きるヒトだ。
なのでカミュが一緒に対策を練ってくれるなら何とかなると思っ
ている。それに今のところ、レポートの提出で授業も出席した事に
してもらえているので、その辺りの配慮もありがたかった。もちろ
んあまり長引くようならば、困った事になるけれど。
﹁それなら、何が心配なんだい?﹂
﹁いや⋮⋮別に心配事はない。ただ夢見が悪いだけ﹂
心配事といえば、このままではいつか暴走してしまうのではない
かという部分だが、こればかりはアスタにも、どうにもできない。
私の問題だ。
﹁よし。だったら久々に、一緒に添い寝をしてあげよう﹂
﹁だが断る﹂
私はもう12歳だ。親に添い寝してもらう年はとっくに過ぎてい
る。アスタに掴まれる前に、私はさっと逃げた。流石にこの年にな
って添い寝というのは気恥ずかしい。断固拒否だ。
﹁むう。可愛くないなぁ。昔なら簡単につかまってくれたのに。ア
スタ、泣いちゃう﹂
﹁お前が可愛子ぶってどうする﹂
604
﹁えー、オクトが可愛くない行動するから、ちょっとバランスをと
ってみようかと﹂
﹁何のバランスだ﹂
頭が痛いと私は頭を押さえるふりをする。
もちろんアスタが冗談でやってくれているのは分かるので、私の
ツッコミも別に意味があってのものではない。
それにしても少しでも私を和ませようとするなんて、どこまでも
甘い義父だ。自業自得な部分で悩んでいるのだから、ほおっておけ
ばいいのに。私だって、少し睡眠不足になったからといって、家事
に失敗するなど、生活に支障をきたすようなマネはしないつもりだ。
それでもアスタの気持ちが嬉しくて、少しだけ心が軽くなった気
がした。
◆◇◆◇◆◇
﹁混融湖の見学?﹂
﹁そう。異界のモノが流れ着く不思議な湖。魔法の知識を持ってい
るヒトなら、一度は行ってみたい場所だと思うんだよね。オクトさ
んはどう思う?﹂
カミュの言葉に私はどうしたものかと首をひねった。
異界のモノが流れ着き、時魔法とも関係の深い混融湖。神秘の湖
605
と言ってもいい。私だって知的好奇心がないわけではないので、実
際に見てみたいとは思う。
思うが︱︱。
﹁どうって、気にはなるけど。でも混融湖って、そもそも他国じゃ
⋮⋮﹂
たしか、アールベロ国は外海に接している代わりに、混融湖に接
していないはずだ。そして他国に移動するには、旅券というものが
必要になってくる。所謂、前世のパスポートだ。
この旅券は、どの国にも所属していない旅芸人の場合は少し特殊
で、一座が何処かの国に認めてもらえれば、団員全員が1つの旅券
で移動できるようになっていた。しかし今の私は何処にも所属して
いない。となると、個人的に旅券を発行してもらわなければならな
いが⋮⋮、混ぜモノだけど、大丈夫だろうか。
﹁それなんだけどね。今の状態だと、オクトさんを王宮で表彰する
のは、少し不味いと父も判断されたようなんだ。そこで王宮での表
彰をしない代わりに、賢者であるオクトさんが、混融湖を見に行け
るようにしてはどうかと考えているんだよ。幸い混融湖に隣接して
いる国の1つに、同盟国があったからね﹂
﹁えっ。表彰、なくなったの?﹂
﹁そんな嬉しそうな顔をしないでくれないかな。まあ今回のところ
は、見合わせるという残念な結果になってしまったけれど。流石に
魔法使いや魔術師たちが大勢あつまる式典に、火種は持ち込めない
と父も思ったみたいでね。兄にとってはオクトさんを手に入れるい
いチャンスと思っていただろうけどね﹂
まさかこんな形で願いが叶うとは。
⋮⋮王宮で行われる式典に出なくていいのは嬉しいはずだが、厄
介な事に巻き込まれたのが原因なので、少し微妙な気分だ。
606
﹁今回は図書館を代表して、アリス魔術師が表彰を受けるよ。ただ
開発したのは、オクトさん達だから、ないがしろにはできない。そ
こでささやかなプレゼントという形で、旅費を全面王家が請け負い、
旅券を発行する事にしたんだ。これなら、堂々とオクトさんも学校
を休めるしね﹂
なるほど。
確かカミュのお父さんは頑固だと聞いている。きっとカミュが今
回の事で、裏から色々手をまわしてくれたのだろう。それがどれだ
け大変なことかは分からないが、簡単な事ではないはずだ。
﹁ありがとう﹂
﹁僕はほとんど何もしていないよ。それに、兄の事で迷惑をかけた
事は申し訳ないと思っているしね﹂
カミュはそう言って苦笑いした。
しかし今回の事は別にカミュの所為ではない。あの時カミュは第
一王子と私が出会わないように頑張ってくれたわけだし、完璧に私
のミスだ。
﹁カミュは大丈夫?﹂
カミュもあの面倒な性格をした兄に逆らうというのは、大変では
ないだろうか。第一王子は親兄弟だからといって、手加減してくれ
るようなヒトには思えない。
﹁大丈夫だよ。とにかく、今は反王家と見られる魔術師や魔法使い
達の動きが少しおかしいから、僕もあまり刺激はしたくないんだ。
兄はさっさと一掃したいようだけどね﹂
敵になったら殺すと言った、物騒な第一王子を思い出してげんな
りした。
確かにあの人ならば、自分に敵対する魔法使い達を全て排除する
という、力でねじ伏せるような方法をとりそうだ。 できればそんな方法して欲しくないし、自分も巻き込まれたくな
607
い。
﹁じゃあ、父には混融湖の件で了承がとれた事を伝えておくから、
オクトさんは旅行の準備をしておいてね﹂
私はカミュの言葉に頷いた。
608
29︲3話
他国へ行くなんて何年ぶりだろう。
私は子爵邸で地図を見ながら、思い返した。5歳の時にアスタに
引き取られてからは、ずっとアールべロ国に住んでいる。旅芸人と
して移動するのではなく、旅行という形は初めてといっていい。
今回私達が旅行させてもらえる国は、ここと同じ緑の大地にある
ドルン国。アールベロ国とは同盟関係にあり、比較的安全な場所だ。
アールベロ国の異界屋は大抵この国から商品を輸入している。
﹁大丈夫かなぁ﹂
治安もまずまずで安全な場所だが、今回の旅は色々問題点も多い。
まず移動方法。一般的に長距離移動に使われる馬車は、私とエス
トが使えなかった。私の場合は馬に異常に懐かれて死にかけるから
であり、エストの場合はアレルギーの関係だ。
その為、徒歩と転移魔法の繰り返しで目的地を目指す事になって
いる。
また宿泊場所も問題があり、混ぜモノである私が泊まれる場所と
いうのは限りなく少ない。一応ドルン国には事前に私達が旅行する
旨の伝達がいっており、賓客扱いらしいが⋮⋮不安だ。
﹁私も微力ながら、オクトお嬢様が快適に暮らせるよう、頑張りま
すっ!﹂
﹁あ、うん。ありがとう﹂
ドルン国の地図を見ながらため息をついていると、隣でペルーラ
がビシッと敬礼した。今回の旅では、身の回りの世話をする為に、
ペルーラが着いてきてくれる。混ぜモノとの旅行なんて、絶対大変
に決まっているので、わざわざ名乗り出てくれたペルーラには感謝
609
だ。
ただどうして彼女はこんなに体育会系風なのか。年をとるごとに、
ドタバタした騒がしさが薄れてきたなぁと思えば、今度はどんどん
逞しくなってきた。見た目はスレンダーな犬耳お姉様なので、逞し
さとはおもに言動の部分がだ。⋮⋮獣人だからとか?でもメイドが
逞しくなってどうするのだろうと、ちょっと思わなくもない。
いや、でもこれはこれで、マニアに受けるのか?軍隊風メイド⋮
⋮んー。何処に向かって進化しているのか今一分からない。
﹁例え第一王子様だろうと、お嬢様には指一本触れさせません!!﹂
﹁あー、その辺は手加減して欲しいかな﹂
もしかしたら逞しく進化してきたのは、私が頼りないからだろう
か。
しかし王子様に手を出したら、流石にペルーラを庇いきれない。
むしろ不敬罪で2人して首チョンパだ。いや、混ぜモノを殺したら
不味いので、牢獄に監禁か。どちらにしろ、人生を捨てている。
嫌だ。絶対嫌だ。
しかも混ぜモノが地下牢で犯罪者?そんなの、第一王子様がほお
っておいてくれるはずがない。どう考えても、良いように使われる。
何その報われなさすぎの人生。
﹁まさか、お嬢様は王子様の事が?!確かに王子様は権力バリバリ
の有望株ですし、この国の王子様は王妃様のおかげで顔かたちも良
いですけれど︱︱﹂
﹁⋮⋮お願い。今思った事は全て燃えないゴミとして捨てて﹂
﹁えー、全てですか?﹂
﹁うん。全て﹂
流石に今の話はいただけない。現在私が学校に通えない理由を作
りあげた第一王子様にホの字だとか、冗談でも止めて欲しい。
610
﹁そうですかぁ﹂
凄く残念そうな顔で、ペルーラは方を落とした。何故、残念がる。
いや、ここは流しておこう。聞かない方が、精神衛生上良い気が
する。
﹁お嬢、お友達が見えましたよ﹂
﹁うん。ありがとう﹂
ロベルトに声をかけられ、私は椅子から立ち上がった。今日はエ
ストとコンユウ、それにライが一緒に子爵邸に泊まる予定となって
いる。そして明日、今のメンバーと一緒にドルン国へ出発するのだ。
客間へ向かうと、すでにエスト達は通され、ソファーに座ってい
た。ここに良く来るライや、こういった生活に慣れているエストは
いつもと変わらない様子だが、コンユウだけが若干挙動不審だ。凄
くそわそわしている。⋮⋮昔は自分もそうだったよなぁと思い出す
と、微笑ましい気持ちになった。
﹁よう、オクト。今日からよろしくな﹂
﹁こちらこそ﹂
私に気がついたライがひょいと手を上げた。私はそんなライに答
えつつ、向かい合わせの場所に座る。
﹁にしても、カミュが来れなくて残念だよな。折角の旅行なのに﹂
ライの言葉に私は頷く。
今回の旅にカミュは参加しない。というのも、カミュは私達が参
加する予定だった式典の準備で王宮を離れられないからだ。式典の
準備など家臣の仕事のような気もするが、今回は第一王子が戦で勝
利を収めた事も祝う為、カミュも準備に参加しているらしい。
カミュが言うには第一王子の祝賀がメインといってもいい式典に
なるそうだ。表彰の後は、城下街を練り歩くパレードも行い、街を
上げての祭りを行うと聞いている。祭りが大きくなればなるほど、
611
準備も大変だろう。
とはいえ、カミュが来れないのは残念だが、この式典準備のため、
第一王子も城を離れられないのは朗報だ。邪魔は入らないから、ゆ
っくりと羽をのばしてくるといいとカミュに言われている。
﹁仕方ない﹂
﹁そうだね。でも今回留守番するヒト達にお土産を買ったらどうか
な?というか、すでにミウに頼まれたんだけどね﹂
蓄魔力装置を製作したのは、私とエストとコンユウという事にな
っており、招待してもらえるのは私達だけだ。このメンバーにプラ
ス、護衛の意味を兼ねてライが参加し、保護者としてアスタも参加
する。
よって、友人が全員参加できるというわけではない。
﹁流石ミウ﹂
﹁ドルン国の装飾品が欲しいらしいよ。混融湖に流れ着いたモノを
加工したアクセサリーがお土産として売られているからね﹂
﹁えっ、異界のものを?﹂
異界のモノは貴重品というイメージがあった。それを加工してア
クセサリーにするなんて⋮⋮。ああでも、使い方が分からないもの
は二束三文にしかならないか。
自分自身、壊れた携帯電話を貰った事がある。
﹁もちろん、綺麗な状態で流れ着いたものは研究にまわされるから、
明らかに壊れたものや、よく分からないパーツとかなんだろうけど
ね。コンユウが昔住んでいた場所はどうだった?﹂
﹁俺の住んでいた所は、混融湖に流れ着いたモノは神聖なモノとい
う扱いだったな。お守りとして販売していたと思う﹂
なるほど。所変われば、扱いも変わるらしい。それでもお土産や
お守りとして販売するという事は、かなりの量のものが流れ着くの
だろう。
612
一体どういう仕組みになっているのか。気にはなるが、中に入る
事ができない場所なので残念だ。
﹁ふーん。そういえば、コンユウは何処出身なんだ?﹂
﹁⋮⋮分からない﹂
ライの質問にコンユウは硬い表情をした。というか、分からない
ってどういう事?
﹁分からない?﹂
﹁俺は昔の記憶がないから﹂
えっ?
記憶がないってどういう事だろう。確か混ぜモノの所為で家族を
失ったとか言ってなかっただろうか。なのに記憶がない?
﹁コンユウは今の養い親に拾われる前の記憶が曖昧みたいなんです。
自分の名前とか出身地とかそういう類の固有名詞は一切思いだせな
いそうですよ。拾われた時も、どうしてそこで倒れていたのか分か
らなかったんだよね﹂
﹁ああ﹂
部分的に記憶喪失になっているという事だろうか。
コンユウは後天的にしか身につかない時属性を持っているのだか
ら、平穏な人生ではなかったとは思っていた。しかしまさか記憶喪
失だったとは。
﹁名前が分からないって︱︱﹂
﹁拾ってくれた魔法使いが付けてくれたんだよ﹂ コンユウはぶっきらぼうに言った。
たぶんコンユウの名前は混融湖からとったのだろう。もしかした
ら混融湖の近くに倒れていたのかもしれない。これが全部混ぜモノ
の所為ならば、確かに恨みたくなる気分にもなるだろう。
613
﹁⋮⋮アンタの所為じゃないから﹂
﹁へ?﹂
﹁だからオクトがそんなしょぼくれた顔するな。こっちまで辛気臭
くなるだろうが﹂
そんなに顔に出ていただろうか。
もちろん私は混ぜモノ代表ではないので、全ての責任を負うつも
りはない。ただコンユウがつらかったんだなと思うと、少し悲しい
気分になっただけで⋮⋮ん?
なんでコンユウがつらいと、悲しくなるんだ?
﹁そうそう。コンユウの昔話なんてどうでも良いから、楽しい事考
えよう。折角旅行に行くんだしね﹂
﹁おい。どうでもいいは︱︱﹂
﹁何?コンユウ、もっと俺は不幸だった話がしたいわけ?﹂
﹁そんなわけないだろ﹂
﹁じゃあ、この話は終わりという事で﹂
流石エスト。コンユウの扱い方がとても上手だ。
そして丁度いいタイミングで、ペルーラがお茶を出してきたので、
一息つく。今日のお茶はハーブティーのようだ。紅茶とは違う、鮮
やかなピンク色をしている。
口に含むと若干酸味があった。
﹁そういえば、オクトが、第一王子と知り合いだったのかってクラ
スで騒ぎになっているけど、どうなんだよ﹂
﹁えっ。騒ぎ?﹂
﹁第一王子がいう賢者はオクトの事じゃないかって俺に聞いてくる
んだよ。知るかってつっかえしてるけどな﹂
まさか休んでいる間に、そんな大惨事になっているとは。
というか話しかけにくいコンユウに質問が殺到するという事は、
エストやライ達にも色々質問が殺到しているのではないだろうか。
614
自分だけ引きこもって逃げ出した事に罪悪感を覚える。
﹁⋮⋮ごめん﹂
何といっていいか分からず、私は謝った。
実際には、第一王子と知り合いというのもおこがましいぐらいの
関係だ。というか1回話した事があるだけの関係は、赤の他人だろ
う。
王子に助言なんてしたつもりはない。でも結果はそうなってしま
っている。真実ではないはずなのに、否定できない。合うはずのな
い歪な歯車なのに、微妙に噛み合って全てが動いていってしまって
いる。
﹁本当にごめん﹂
何もかもが上手くいかない。最近こんなはずではなかったが多い
気がする。
どうかこの旅が終わるころには、全て解決していて欲しい。そう
私は願うしかなかった。
615
30︲1話 些細なきっかけ
﹁ここが混融湖⋮⋮﹂
私は目の前に広がる湖に圧倒された。海ではない証拠に、対岸が
薄ら見える気がするが、本当にぼやっとしか見えない。海だと言わ
れれば、絶対信じたと思う。
子爵邸を出発して3日目。私達はようやく混融湖までたどり着い
た。といっても、最初に想像したよりも徒歩での移動は少なく、そ
れほどキツい旅ではなかったように思う。
というのも、大半がアスタの転移魔法だからだ。
ただし一日何度も転移魔法を使ったり、あまり遠い場所まで一気
に転移をすると、体への負担が大きいという事で、休み休みにここ
まで来た。
﹁アスタ大丈夫?﹂
しかし転移魔法をし続けたアスタは別だ。長距離運転をし続けて
きたお父さんのように疲れた顔をしている。せめて途中転移魔法を
変わりたかったが、初めて行く場所に上手く転移ができるかという
と疑問だったため、結局何の手伝いもできなかった。
﹁おー。少し休めば大丈夫だ﹂
猫背で石の上に腰かけていたアスタだったが、私に対してへらり
と笑う。そんな無理に笑わなくてもいいのに。
﹁とりあえず、水﹂
私は鞄の中からコップを取り出すと、その中に魔法で水を集めて
差し出した。本当はお茶を入れてあげたいところだが、そこまです
るのは手間がかかる。
アスタはコップを受け取ったのとは反対の手で私の頭を撫ぜると、
616
水を飲んだ。
﹁ありがとう﹂
﹁オクト、あそこで採掘しているみたいだよ!﹂
﹁へえ﹂
エストのいつもよりはしゃいだ声に、私は振り返える。するとエ
ストは私の腕を引っ張った。エストがはしゃぐなんて珍しい。いつ
もは保護者なエストも子供だったんだなぁと思うと、何だかほのぼ
のした気持ちになる。
旅行は友人の知らない顔を見せてくれるし、いいものだ。
﹁オクト﹂
﹁ん?﹂
アスタに呼びとめられて、私は立ち止まった。
﹁⋮⋮あまりはしゃぐと危ないから、気をつけろよ﹂
﹁うん﹂
何故かアスタの言葉が一瞬詰まったような気がしたが、なんだろ
う。まあ確かに混融湖ではしゃいで、湖にどぼんしたら、そこで人
生終了だ。かなり危険である。
とはいえ、混融湖は柵で囲われており、よっぽど横着をしなけれ
ば、湖にどぼんと落ちるような場所まで行く事さえできないのだけ
ど。
﹁えっと、それで採掘って⋮⋮エスト?どうかした?﹂
さっきまではしゃいでいたはずのエストが、今度はどんよりとし
た顔をしている。今の一瞬で何があったのだろう。
﹁うん。自分の未熟さを思い知っただけだから、大丈夫だよ。気に
しないで﹂
気にしないでって⋮⋮。一体、何処でどうやって思い知ったとい
うのか。そもそもエストが未熟なら、それ以下のヒトが、私を含め
617
ごろごろ居るように思う。
﹁エストはそんな未熟じゃないかと。コンユウもそう思う︱︱コン
ユウ?﹂
コンユウを見れば、コンユウも何処かぼんやりとした様子で柵に
もたれかかっていた。何だろう。もしかして転移酔いでもしたのだ
ろうか。
﹁コンユウ、水﹂
私はアスタと同じように、コンユウにも水を差しだした。
﹁⋮⋮ああ。悪い﹂
﹁体調悪い?﹂
﹁何でもない﹂
水は受け取ってもらえたが、どうも心ここにあらずだ。そういえ
ば、子爵邸を出発する時から何処か落ち込んでいたように思う。も
しかしたら、混融湖にいい思い出がないから気分がすぐれないのか
もしれない。かといって何でもないと言われれば、これ以上聞くの
は難しい。
かくいう私も、混融湖を見たら、前に自分の時属性を見た時のよ
うに嫌な気分になるかと少し心配していた。しかし意外に大丈夫な
ものだ。今のところ混融湖を見ても、綺麗で大きな湖だなぁと思う
だけである。トラウマとはよく分からない。
﹁おーい。まずは今日から泊まる所へ行くぞ﹂
混融湖の周りに居たヒトに道を訪ねていたライが手を振った。私
も了解の意味で手を振る。さて、今日は何処に泊まらせてもらえる
のだろうか。
初日はまだアールベロ国だった為、ライの家の別荘に泊まらせて
もらえた。2日目はすでにドルン国にすでに入っており、妙に高級
そうな宿泊施設に案内された。しかも、たぶんあれは貸切だったよ
618
うに思う。⋮⋮自分が混ぜモノだし仕方がないと思っても、どれだ
け金が動いているのか考えると、血の気が引きそうだ。
﹁お嬢様、荷物は私達に任せて、先に向かって下さい﹂
ペルーガの言葉に甘えて私はライの後を追いかけた。たぶん私の
力と体力では、手伝ったとしてもペルーラやライが連れてきた使用
人に迷惑をかけるだけである。
﹁この辺りは観光地で宿泊施設が並んでいるけど、俺らが泊まる場
所はそこから少し離れているみたいだな﹂
ライが持っている地図を覗き込むと、確かに民宿らしきものが立
ち並んでいる場所から少し離れた所に×印がついていた。一軒だけ
ポツンと離れていると、何かいわく付きではないかと思えてくる。
ホラー映画とかサスペンス系のドラマでありそうなシチュエーショ
ンだ。
﹁結構離れているけど、この国の貴族の邸宅か何かですか?﹂
﹁元々はここの領主が住んでいたけど、今は街に近い場所に移した
らしいぞ。今日から貸してもらえるのはその空き家だと。まあ空き
家といっても、領主も年に数回は混融湖の採掘を視察に来るから、
まったく使ってないわけではないようだけどな﹂
なるほど。
程よく民宿からも離れているし、ただの空き家なら、混ぜモノ相
手でも比較的貸しやすい場所なのだろう。私は元々自分の身の回り
の事は自分でできるし、一応ライも使用人を連れてきてくれたので、
家を貸してもらえた方が過ごしやすそうだ。
しかし数分後、私はさっき過ごしやすそうだと思った自分を殴り
たくなった。
あの時、私が想像していたのは古めかしい、少しこじんまりとし
た邸宅だったのだ。しかしライの案内で少し坂道を登った先にあっ
619
たのは⋮⋮少し小さな城だった。
◇◆◇◆◇◆
﹁どれだけビップ待遇なんだろう⋮⋮﹂
というか、こんな城を空き家にするんじゃありませんと言ってや
りたいが、ここは混融湖から流れ着いたモノが売れるし、観光地と
もなっているので、かなり景気がいいのだろう。年に数回しか使わ
ない城を綺麗な形で残しておけるなんて普通ない。
私が使う事となった一室は、茶色を基調とした落ち着いた部屋だ
った。凄く広いわけではないが、ただ泊まるだけと考えると、結構
広いのではないだろうか。この国のヒトの体格が大柄なのか、それ
とも領主の金回りがいいからか、ベッドは結構広く大きかった。ド
アや天井も少しいつもより高い気がするので、大柄なのは間違いな
いだろう。
一応事前に私達が使う事が決まっていたからか、シーツが張り替
えられており、ほこりっぽいという感じはない。
少し変わっているのは、部屋の中に廊下とは繋がっていないドア
がある事ぐらいだ。何処に繋がっているのか開けてみると、隣の部
屋に繋がっている事が分かった。どうやら使用人の控室らしく、夜
間でもすぐ誰かを呼び出せるようにする為に作られたようだ。たし
かに夜間にベルを鳴らしたとしても、使用人の部屋が遠ければ、来
るまでに時間がかかるだろう。
とはいえ、そんな緊急で呼び出すなんて一体どんな時だろう。今
一ぴんと来ない。
620
﹁でもこれなら、ペルーラとのんびり話たりできるか﹂
たぶん今の流れから考えると、ペルーラはこの隣の部屋で休むの
ではないだろうか。
なんなら、私の部屋でペルーラと一緒に寝るのもいいかもしれな
い。ベッドは明らかに私とペルーラが一緒に寝ても問題ないような
サイズだ。気になるようならば、隣にあるベッドを勝手にこの部屋
へ移動してしまえばいい。
のんびりと部屋に備え付けられた家具などを確認していると、ノ
ック音が聞こえた。
﹁は︱︱﹂
﹁おお。ここがオクトの部屋か。結構広いな﹂
﹁⋮⋮ライ。せめて返事を待ってから開けよう﹂
ノックをすれば開けていいというわけではないと思うんだけどな
ぁ。
もしも私が着替えている最中だったらどうするつもりだったのだ
ろう。⋮⋮まあ現在の私の子供体型な体を見たところで、なんだと
いう話かもしれないけれど。ライは時折、私が女であるという事を
忘れるみたいだし。
﹁悪い悪い。ただ、早めにオクトに話しておきたい事があってさ﹂
﹁いいけど。どうぞ﹂
私はライに椅子に座ってもらい、自分自身はベッドに腰かけた。
ライも長旅に疲れただろうに、着いて早々に訪ねてくるなんて、ど
うしたのだろう。
﹁カミュからの伝言だけど、えーっと、何だっけなぁ。ああ、そう
そう。ヒトを信じるなだとさ﹂
﹁おいっ﹂
621
伝言でいきなりヒトを信じるなって⋮⋮何その人間不信発言。
﹁いや、信じすぎるなだったかな。とにかく、近しいヒトでも疑っ
てかかれって事だ。ちょっと今回の第一王子の件で、魔法使いの中
の過激派が不穏な動きをする可能性が高いからな﹂
﹁えっと。ここ外国だけど﹂
﹁あいつ等にとって場所なんて関係ないさ。魔法が使える事こそ一
番だと思っているからな﹂
うわー。なんて迷惑。
確かに魔法は万能的に色々な事ができるが、欠点もある。剣と魔
法が対決したら、すぐに首を切り落とせる剣が勝つのがいい例だ。
また魔力不足や魔素不足など、無策で使えば魔法なんて簡単に使え
なくなる。
そもそも魔力の元である魔素が何処で生まれ、使った後はどうな
っているかとか解明できていないのに、そんな不確定要素が一番だ
なんてよく思えるものだ。
﹁とにかく気をつけろという事だ。知り合いでも疑ってかかれ。知
らない奴なら信じるな﹂
﹁知り合いでも疑えって⋮⋮﹂ 私の知り合いなんて、凄く少ない。しかもこの旅での知り合いな
んて、ライとアスタ、それにエストとコンユウ、後はペルーラだけ
だ。
全員昔からの知り合いだし、今更疑えと言われても難しい。
それに混ぜモノに危害を加えようなんて、魔法に詳しい魔法使い
なら普通︱︱。
﹁⋮⋮もしかして、また囮?﹂
﹁てへ﹂
﹁可愛くないから﹂
ぺろっと舌をだしたが、成長期を迎えた男のそんな動き可愛くも
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なんともない。しかも自分が再び囮にされていると分かるとなおさ
らだ。
民家や町から離れたこの場所なら、もしも混ぜモノが暴走したと
しても大丈夫だと思う魔法使いもいるかもしれない。被害があると
言っても混融湖だけだし、特にここ彼らには関係がない国である。
もしも戦争になっても構わないと思っているならば、何か仕掛ける
場所としてはうってつけすぎる。
﹁あー、もちろんオクトの為にも、ほとぼりが冷めるまでは学校か
ら離れた方がいいってカミュは言ってたから⋮⋮な?﹂
﹁まあいいけど。でもライが護衛か⋮⋮﹂
﹁不満かよ。俺って、結構優秀なんだぞ﹂
﹁いや、色々悪夢がよみがえるというか﹂
昔拉致監禁された時の護衛が、ライだったように思うのは気のせ
いだろうか。
あの時よりライも成長したし、私も成長した。でも不安に思うの
は致し方がないと思う。
こうして不安を抱えたまま私の混融湖旅行はスタートした。
623
30︲2話
本当にこの辺りの混融湖は、異界のものが色々流れ着くんだなぁ。
ふらふらとお土産屋が立ち並ぶ場所へ行けば、あちらこちらに異
界屋の看板を見つけた。そしてただの露天ですら、異界から流れ着
いたものを売っている。
本物かどうかを見極める為に目に魔力を集めれば、大半のモノが
紫色に発光していた。時折偽物も混じっているが、そうでない方が
圧倒的だ。
﹁凄い数の店だね﹂
エストの言葉に、私はコクリと頷く。
この辺りは店もヒトもかなり多い。私達のような旅行者から、た
ぶん異界のモノを仕入れに来た商人まであらゆるヒトがごった返し
ていた。アールベロ国の王都だってにぎわっているが、ここは王都
ではないので比べる場所がそもそも違う。たしかにこれだけヒトが
集まればお金も動くだろう。ただの領主でも城が建てられるわけで
ある。
﹁︱︱こうして混融湖は、異界を夢見て泣き続けた女神様が、涙と
一緒に溶けてできたそうな﹂
旅行者が多いからか、子供の姿も多い。その為、子供達を集める
紙芝居や人形劇をするモノ達があちらこちらに居た。
どうも内容は混融湖に関わる伝承が多いようで、色んな場所で混
融湖に溶けた女神というフレーズの言葉が聞こえてくる。私が紙芝
居に混ざると、さっとヒトがいなくなり営業妨害になってしまう為、
しっかりと初めから聞く事は難しい。しかし何度も何度も繰り返し
624
聞こえてくるため、大雑把に内容は覚えてしまった。
どうやら混融湖は、いとしいヒトが異界へと旅立ってしまった為
に、泣き続けた1柱の女神が、自身の涙に溶けてできた湖らしい。
ハッピーエンドというよりは、かなり悲恋的な内容だ。これは子供
向けとしてどうなのだろうかとも思うが、前世にあった人魚姫の話
だって悲恋なのだから、おかしくはないのかもしれない。
しかもこの世界には本当に神様が存在するのだ。若干真相と相違
があるかもしれないが、この伝承の全てが嘘とも限らない。
例えば、いとしいヒトが旅立った異界が、死を意味しているとし
て︱︱。
﹁⋮⋮オクト、聞いてる?﹂
﹁えっ、何?﹂
しまった。
混融湖の伝承について考察するのに夢中になって全然聞いていな
かった。私は慌ててエストに聞き返す。考察ならば帰ってからでも
できるのだから、折角遊びに来たのに、わざわざ今やる必要もない。
﹁だから、ミウのお土産はどんなのがいいだろうね﹂
﹁ああ。そうだね⋮⋮﹂
城に滞在するようになってから数日、混融湖を散策したり、流れ
着いた異界のものを採掘する現場を見ていたが、今日はエストに誘
われて、ミウへのお土産を探しに街までやってきた。
ミウは女の子だし、同じく女である私が選んだ方がミウの好みに
あったものが買えるというエストの判断だが、どうだろう。どうも
私は、世間一般の女の子の感性からは外れている気がする。
﹁髪が長いから髪飾りでもいいだろうし、後はペンダントとかが無
難かも﹂ 625
とはいえアクセサリーも色々だ。
中にはビーズ細工や、ガラスの中に押し花が入っているものなど、
異世界でも装飾品だったんだろうなぁと思われるパーツが使われた
ペンダントもある。しかし明らかに装飾品ではなかっただろう、プ
ルタブやペットボトルのふたがパーツとして使われているものもあ
った。
元々それが何だったのかを知っている身としては、とても残念な
アクセサリーに思えてならない。しかしプラスチックというものが
ないこの世界のヒトからすると、すでに存在するガラス細工よりも
価値があるのだろうか。
うーん、価値の基準が分かりにくい。
﹁髪飾りやペンダントといっても、色々あるんだね﹂
﹁うん﹂
私達はめぼしいものはないか、アクセサリーを取り扱う露天を順
番に見てまわった。やはり異世界といっても、色々あるのか、見た
事がないようなものも多い。一応ペンダントや腕輪などのの形はし
ているが、さっき見たペットボトルのキャップのように、本来とは
明らかに使い方が違うというのもあるんだろうなぁと思う。
まあ流石に、RPGではよくある、一度つけたら外せないよ的な
呪いアイテムはこんな場所にはないんだろうけど。いや、マジで。
そういうのはなしでお願いします。
﹁オクト、あれ見て。獣人の耳とか売ってる﹂
﹁あー。うん。本当だね﹂
﹁何かの儀式とかに使うのかなぁ。ミウに買っていったら、笑うか
な?オクト、付けてみる?﹂
﹁遠慮する。プレゼントはもっと女の子が好きそうなモノの方がい
いと思う﹂
猫耳とかちょっと待て。
626
⋮⋮もしもタグに、メイドイン日本、もしくは中国の文字があっ
たら、それはきっとオタクという名の伝説のヒトが使う道具だ。ど
うしてこの世界に流れ着いてしまったと、声を大にして言いたい。
女神様。貴方のいとしいヒトはオタクですか?
その後もいくつも店をまわって、ようやく私とエストはミウへの
お土産を選んだ。
結局私達は、無難に異界のコインと思わしきものを使ったベンダ
ントにした。同じお金のはずなのに、異国のコインというだけでな
んだかお洒落に見えるマジックは、異世界でも健在だ。
﹁いいものが買えて良かった﹂
ミウが喜んでくれるといいなぁ。
よく考えると、旅行なんて行った事がないので、お土産を買うの
はこれが初めてだ。というか、プレゼントで何かを買うとか初では
ないだろうか。
手作りのお菓子とかをあげたりはするが、何か買ってプレゼント
するとかはあまりない。馴れている店ならいいが、そうでないと私
は混ぜモノである為、どうしても入りづらいのだ。絶対誰か彼か嫌
な顔をするだろうし、さっと客が店からいなくなるのも心苦しい。
あれ?でも今日は、そういうのがあんまり気にならなかった気が
⋮⋮。
﹁オクト、髪の毛にゴミがついてる﹂
﹁ん?どこ?﹂
﹁ちょっと止まってくれる?﹂
エストに言われ、私は道の端によって立ち止まる。
するとエストが髪に手を伸ばした。元々エストの方が身長が高か
ったけれど、さらに離れたよなぁと思う。もしかしたら私のつむじ
も、エストなら見えるのではないだろうか。
627
﹁これで良し﹂
﹁へ?﹂
﹁うん。よく似合ってる﹂
ゴミをとってもらったはずなのに、どうして何かを付けられてい
るのだろう。これでは逆だ。にっこりと笑うエストを私はマジマジ
と見つめた。
﹁さっきの店で髪飾りを買ったんだ。今日のデートの御礼にあげる﹂
﹁⋮⋮でっ?!えっ?デートッ?!﹂
えっ?デート?
デートって恋人同士が⋮⋮いやいや、恋人じゃないし。友人同士
でもデート?いやいや、えっ?何?どういう事?
﹁そんな、待って。貰えない﹂
そもそも今日は誕生日でも、何かのイベントでもないのだ。それ
なのに、プレゼントなんて貰えない。
慌ててとりはずそうとするが、その手をやんわりとエストに握ら
れる。
﹁デート記念だと困るなら、これはオレからオクトへのお土産とい
う事で﹂
﹁いやいや。お土産って、私はここに居るし﹂
﹁はっきり言って返されても困るんだよね。髪飾りとか、オレは使
わないから﹂
まったくその通りだ。
エストは中性的な顔立ちをしているから似合わなくはないだろう。
しかし彼自身にはまったくもって必要ないアイテムだ。
﹁オクトはもう忘れてるかもしれないけど、オレは今もオクトの事
が好きなんだよね。だから、今日のデートは結構楽しかったんだよ。
628
ありがとう﹂
﹁すすすっ?!﹂
あまりの事に言葉にならない。
いや、忘れていたわけではないないよ。
忘れてはいないけど、あの後もエストがあまりに今までと変わり
ないから、もしかしたらエストは、もう愛だの恋だのといった感情
で私を見ていないんじゃないのかと思っていた。
あまりに不意打ちすぎて、顔が赤くなるのを誤魔化せない。心臓
がバクバクと五月蠅い。
というか、人様がいらっしゃる道端で、そんな破廉恥な言葉は止
めた方がいいんじゃないかな?いやでも、だったら何処でいうのか
と聞かれても正直困るというか⋮⋮。
﹁はいはい。大丈夫。別に進展を望んで言っているわけじゃないし。
オレは、親友ポジションで今のところ満足だしね﹂
酸欠で倒れそうになっている私の頭を、エストはいつも通りポン
ポンと叩いた。
満足なら、不意打ちで、その、す⋮⋮好きとか言わないでほしい。
そりゃ好きは、恋愛だけじゃなくて、友達としてとか家族としてと
か色々あるんだけど。でも絶対そういう意味じゃないだろうし。
﹁それに、前に館長に釘を刺されたんだよね﹂
﹁へ?館長?﹂
﹁恋愛のレの字も理解できていないお子様を手籠にするのは、犯罪
臭いとか、ロリコン趣味とか、そりゃもうズタボロにね。まあ確か
にオクトなら、流れに任せていつの間にか付き合う事になってまし
たとか、簡単にできそうだとは思うけど。大切なら、なおのこと焦
るなって︱︱オクト?﹂
あの爺。いつの間にエストとそんな会話をしていたんだ。
確かに焦るなとか非常にありがたいアドバイスだ。ありがたいが、
629
できればエストが諦める方向に話を持っていってくれればいいのに。
というかエストと私だと2歳ぐらいしか年も違わないんですけど。
それなのに、ロリコンとか、犯罪臭いとか、どんな言いまわしだ。
故人へ悪口とか良くないと分かってはいるが、色々抗議したい単語
があり過ぎる。
﹁あんの、色ボケ爺め﹂
別に本人が、うふん、あはんを求めていたわけではないので、色
ボケとはちょっと違うかもしれないけれど。ああ、それにしても何
で死んでしまったんだ、この野郎。色々ともっと話し合いたかった。
とりあえず、誰がロリだ。
﹁まあまあ。でも館長は凄くオクトの事を大切にしてたって事だよ
ね﹂
﹁へ?大切?﹂
﹁だって普通、学生同士の恋愛事情に、口出しとかしないでしょ?﹂
確かに。 内容は失礼極まりないが、私のペースに合わせろと館長はエスト
に助言したという事だ。悪意を持って言うような内容ではない。
でも館長に特別扱いされる理由が、まったく思いつかない。そん
なに頼りなく見えたのだろうか。
﹁そうだ。日が暮れるまでまだ時間があるし、城で待っているコン
ユウ達にも何か買って帰ろうか﹂
﹁あ、うん。いいけど﹂
唐突に、話題を変えられて、私は上手く頭を切り替え切れないま
ま頷いた。
﹁ここの名物料理とかいいかもね。肉料理の燻製が有名みたいだし。
行こう﹂
さりげなく伸ばされた手を私は握り返す。手をつなぐなんて恋人
630
っぽいが、普段のエストはそういったものを感じないのでまあいい
かと思う事にする。
するとさりげなく、エストがヒトが多い方を歩いてくれている事
に気がついた。私の方が小柄なので、エストの陰に隠れて、これな
らあまり目立たないだろう。
ああ、エストが居たから今日はあんまり嫌な視線とか感じなかっ
たのか。
⋮⋮髪飾りといい、フェミニスト過ぎるだろう。
本当に私相手では勿体ない。そう思いながらも、私はエストの手
を放す事ができなかった。
631
30−3話
﹁ちょっと付き合ってくれないか?﹂
のんびりと龍玉語で書かれた、混融湖伝説の本を読んでいると、
コンユウに声をかけられた。コンユウが声をかけてくるなんて珍し
い。
特に最近は元気がない事が多く、いつもなら突っかかってくるだ
ろう場面ですら、上の空なのだ。それなのにどんな風の吹きまわし
だろう。
﹁付き合うのはいいけど、何処に?﹂
すでに夕食も食べ終わり、各自自室に戻っている時間だ。たまた
ま私は、昨日聞いた混融湖の物語が気になって、書斎と思われる場
所で本を読んでいた。
この城にあるものは自由に使ってもいいという事なので、本を自
室に持ちこんでもいいはずだ。しかし借りたはいいが、汚したりし
たら申し訳がないと思い、私は書斎からできるだけ持ちださないよ
うにしていた。
﹁混融湖までだ﹂
﹁⋮⋮混融湖?﹂
こんな時間に?
まだ寝るには早い時間だが、外はかなり暗くなっているのではな
いだろうか。部屋や廊下はランプがすでに灯っている。
﹁今見ておきたいものがあるから﹂
見ておきたいねぇ。
まあコンユウにとっての混融湖は、私達よりもずっと意味のある
632
場所だろう。混融湖の近くで魔法使いに拾われているようだし、時
属性は混融湖ととても関わりが深いはずだ。
﹁いいけど、何で私?﹂
﹁⋮⋮オクトなら、気を使わなくてもいいだろ﹂
あー、はいはい。混ぜモノですもんね。
確かにコンユウの立場からすると、この旅に来ているヒトで誘え
るのは私かエストとなる。そしてエストは親友だからこそ、あまり
遅い時間の出歩は誘い難いのだろう。
その点私は、コンユウからしたら、気を使う必要のない混ぜモノ
だ。人選的に分からないわけでもない。少し答えるまでに間が開い
たのが少し気になるが︱︱。
﹁べ、別に嫌なら1人で行くからいい﹂
﹁いい、行く。1人だと危ない﹂
観光客も多い場所だが、イコール治安が良いわけではない。どん
な国だって、柄の悪いヒトは必ず居るものだ。特にコンユウは身長
もあまり高くないし、絡まれたらすぐ負けそうだ。
その点2人なら、何かあれば、最悪どちらかが転移して助けを呼
びに行けばいい。もっとも混ぜモノ相手なら、手を出してくるヒト
なんてほとんどないのだけど。
﹁今、俺が弱いとか、失礼な事考えただろ﹂
﹁えーっと﹂
このまま﹃弱いね﹄なんて言った日には、コンユウが怒り狂うの
は目に見える。でも強くはないのは確かだ。コンユウの身長は私よ
り高いが、ライやエストと比べると低い。多分魔力が大きいから成
長が遅いのだろう。そして体格が小さければ、普通に考えて力も弱
い。
もちろん小さい時から、アホみたいに体術が強いライという存在
633
もいるけど、あれは例外だ。
﹁ほら、ヒトは誰しも得手不得手があり⋮⋮﹂
﹁アンタに比べればマシだ﹂
﹁まあね﹂
コンユウの言葉に私は肩をすくめた。それに関しては、言い返す
言葉がない。
どう考えても、一番の最弱は私だ。時間さえくれれば、色々身を
守る魔法を作りだせそうだが、危険な時こそ、そんな時間はない。
武術を学ぼうとまでは思わないが、せめて逃げ足だけでも早くして
おいた方がいいだろうか。
小さいという事は体が軽いという事だ。つまりは、練習次第で素
早い動きができる。危険が起これば、裸足で逃げ出す俊敏さ。どん
な時でも退却魂。うん。いいかもしれない。
いや待てよ。そもそもそんな危険な事態にならないように、回避
する方が最善じゃないか?
﹁別にっ。お前が悪いわけじゃないから。だから⋮⋮﹂
考え込んでいると、いきなりグイッと腕を引っ張られた。どうや
らコンユウは、私が落ち込んだと思ったらしい。
﹁いや、この体力のなさは私が悪いかと﹂
どう考えても、このひ弱な体は、外で遊んだりするのをサボって
きたツケである。子供が外で遊ぶのは、とても大切な事なんだなぁ
と、12歳で悟る事になるとは思わなかった。若干子供の仕事とさ
れる遊びを馬鹿にしていた部分もあるので、こうなったのはまさし
く自業自得だ。
でもまだ若いのだし、これから頑張れば、何とかならないだろう
か。
﹁とりあえず、外は少し冷えるだろうから、外套取ってくる﹂
634
私はそう言って一度部屋へ戻った。
◇◆◇◆◇◆
外へ出ると思った通り、結構風が冷たかった。今まで夜は外に出
たりしなかったので、どうかなと思ったが外套を羽織ってきて正解
だ。これがなかったらきっと、涼しいを通り越し、寒くなって風邪
を引いたに違いない。まあ、自国の耳がちぎれると思うような冬よ
りは全然マシな寒さなんだけど。
それにしても、夜ってこんなに暗かったんだなぁ。
月明かりとペルーラが持たせてくれたランプのおかげで何とか躓
かずに歩けているが、外灯などがまったくない為、少し心もとない。
ただし外灯なんてよっぽど大きな街でもなければ存在しないので、
普通と言えば普通だ。昔旅芸人として国を渡り歩いていたころも、
こんな感じだった気がする。
﹁星⋮⋮凄い﹂
空を見上げれば、今にも落っこちてきそうなぐらい、いっぱい輝
いていた。
そういえばアスタに引き取られてからは、夜空を見上げる事なん
635
てほとんどなかったなぁと思う。昔はこの星空が天井だったはずな
のに、感動できてしまうとは思わなかった。それだけ昔の記憶が薄
れてきているという事だろうか。
﹁確かに星神がよく見えるな﹂
﹁星神?﹂
なんだそれ。
首かしげてコンユウを見れば、コンユウは空に向かって指差した。
﹁あの良く輝いている星の近くにある、あの星の事だ。どの時間に
なっても、必ずあの場所に居て旅人の道しるべとなるんだ﹂
﹁へぇ﹂
コンユウが示した場所には、少し淡く光る星があった。ずっと同
じ場所から動かないなんて、まるで北極星のような星なんだなぁと
思う。
前世の私はあまり星などは詳しくなかったようで知識としては少
ないが、北極星が船乗りに方角を教えていたという話は知っていた。
この世界は、意外に地球によく似ている。異世界といっても、ヒ
トが居るのだから、環境としてはそれほど差異がないのかもしれな
い。
﹁って、神様は龍神じゃないの?﹂
﹁星神も龍神だ。もっとも、地上から旅立った龍神だけどな﹂
﹁地上から旅立った?﹂
﹁オクトも龍神が元々12柱いた話は聞いた事があるだろ。星神は
その中の1柱なんだよ﹂
12柱いたのは、微妙に授業で聞いたり、本を読んで知っていた
が、流石にどんな神が居たかまでは覚えていない。コンユウがそれ
ほど神話が好きとは知らなかった。いや、この場合は⋮⋮。
﹁もしかして、コンユウって星が好きとか?﹂
636
﹁別に﹂
コンユウはぷいっと顔をそむけたが、この動きは好きという事で
まず間違いないだろう。何年も一緒にアルバイトしてきたので、そ
れぐらいは分かった。
ただ星が好きだという事を恥ずかしがっている理由が、さっぱり
分からないけれど。
﹁⋮⋮大体、星なんて知ってたって、何にもならないし﹂
何にもならないかぁ。
うーん。天文学は私もあまり知らないので、役に立つのかどうか
分からない。前世なら、果ては宇宙飛行士とか夢のある職業にもつ
けたが、この世界ではどうだろう。少なくともロケットが飛んだと
いう話は聞かない。
﹁あの星は、何で光ってるのだろう﹂
﹁はあ?﹂
﹁どれぐらい遠い場所にあるのだろう。星はどう動くのだろう。何
故動くのだろう﹂
私は空に手を伸ばして、パッと思いつく疑問を口にした。そんな
私をコンユウが怪訝そうに見る。私が今口にした疑問は、地球では
すでに解明されている事だ。
天動説とか地動説とか地球は青かったとか、きっと星が好きだっ
たヒトが分からないから調べて考えて、1つ1つ答えを出していっ
たのだろう。
日本には魔法なんてなかった。でもまったくそれを不便に思わな
かったのは、科学があったからだ。先人が疑問を1つ1つ解き明か
し、科学を発展させてくれたから地球は魔法がなくても不便ではな
い世界となった。
﹁私は星の事は分からないし、疑問も多い。だから少しでもそれを
637
減らしてくれれば、とりあえず私には役に立ってる﹂
空が見たいから望遠鏡ができて、ロケットができて、衛星が飛ん
で⋮⋮科学の発展は決して無駄ではないはずだ。すぐには結果がな
くても、星が好きでコンユウが調べ続ければ、魔法があるこの世界
は、また地球とは違う発展をするだろう。
無駄だと言って、恥じる必要はない。
﹁オクトの役に立ったからってどうだって言うんだ﹂
﹁まあね﹂
コンユウならそう言うと思ったよ。実際私の役に立ったから何だ
というのはある。私の疑問が減るメリットは、私のストレスが少し
減る事ぐらいだ。確かに無意味っぽい。
コンユウは私の答えに、深くため息をついた。
﹁⋮⋮どうして、オクトは混ぜモノなんだろうな﹂
﹁そんなの、先祖に言え﹂
唐突に、一体なんなんだ。もしかして、適当な事を言ったから、
嫌がらせ?
生まれなんて私が決めたわけではない。というか、決められるな
ら、もっと楽に生きられる人生を選んでいた。
もちろん、この人生が悪いとかは言わない。でも混ぜモノという
だけで、マイナス人生だ。
﹁そうだよな。生まれは選べないもんな⋮⋮﹂
コンユウはそう言うと、無言になった。
本当に、一体何なのだろう。ただ私もコンユウが無言になると、
話す事もなくて、同じく無言で後ろをついていく事になった。周り
は獣の鳴き声や水の音が聞こえるだけで、とても静かだ。
一体どこまで行くのだろう。
638
混融湖の近くまで来て、コンユウが柵を乗り越えた所を見て、私
はぎょっとした。この柵の中は、混融湖での採掘許可が下りている
ヒトしか入ってはいけない場所だ。許可のない私達は不法侵入であ
る。
﹁待って、コンユウ。何処まで行くつもり?﹂
﹁⋮⋮俺は、混融湖に流れ着いて、魔法使いに拾われたんだ﹂
コンユウは私の質問と若干違う答えを返した。
﹁流れ着いた?﹂
混融湖の中では何も浮かばない。でもモノが流れ着いてくるとい
うならば、ヒトだって流れ着ついてもいいはずだ。あの湖の中がど
ういう仕組みになっているかは知らないが、生きモノだけが別とい
う事はないだろう。ただし浮かぶ事ができないので、流れ着いた時
に生きている可能性はとても低いけれど。
﹁ああ。流れ着いた俺は、名前も年齢も住んでいた場所も、何も話
せなくて色々迷惑をかけた﹂
そういえばコンユウは幼い時の記憶がないと、エストが言ってい
た。混融湖に沈んで流れ着いたのならば、記憶喪失程度ですんだと
いうのは奇跡に近い。もちろん記憶喪失だって大変だろうけど、少
なくともコンユウは五体満足だ。
﹁だから、もう少し近くで見てみたい﹂
昼間だとヒトの目もあるので、柵の中に入る事は難しい。許可を
とればいいのだろうけれど、その為にはお金も時間もいるし、ちゃ
んとした理由も必要だ。
まあいいか。
私もよいしょと柵に足をかけると中に入った。私たって、混融湖
が実際どうなっているのか気にならないわけではない。どうしても
日中は柵の向こうから採掘現場を眺めたりするしかできないのだ。
639
柵の中に入って歩き続けると、波の音が大きくなった。湖なの
に波?と思うが、波があるから異界の物が流れ着くのだ。
だったら混融海という名前にすればよかったのに思うが、そうで
はない。もしかしたら混融湖の水は真水なのかもしれない。流石に
飲む勇気はないが、折角ここまで来たなら混融湖の水を持って帰っ
て、明るい場所で調べてみたいものだ。
﹁そういえば、コンユウの保護者は、異界屋か何か?﹂
混融湖でコンユウは拾われたと言ったが、こんな場所に来るのは、
特殊な職業のヒトぐらいだ。落ちたらほぼ即死という危険な湖に近
づく旅行客はまず居ない。
﹁ああ。そんな感じだ。異界のモノを見に来て⋮⋮俺を拾った﹂
ヒトが流れ着いた所を見たなら、さぞかし驚いた事だろう。
﹁元々は王宮で働いていたらしいけど、上手くいかなくて止めたら
しい﹂
﹁へえ。ならアスタの知っているヒトかも﹂
アスタもすでに80歳を超えているわけだし、王宮で働いている
期間は長いはずだ。それならば、どこかで顔を合わせている可能性
が高い。
﹁そうだな﹂
答えるコンユウの声は何処か暗かった。
今の会話の中に不快になる言葉なんてなかったように思うので、
やはり混融湖が近いからだろうか。混融湖に流れ着いたという事は、
一度は落ちたという事で。浮かぶ事ができないというのは、さぞか
し怖かっただろう。
﹁どうして、オクトは王宮魔術師の娘で⋮⋮混ぜモノなんだろうな﹂
﹁へ?﹂
唐突に足を止め振り返ったコンユウの手には、いつの間にか剣が
640
握られていて︱︱。
次の瞬間、私の目の前は赤く染まった。
641
31−1話 無慈悲な終わり
何が起こったのか分からなかった。
ただ、何かが私の方へ倒れてきて、それと一緒にどさりと地面に
倒れ込む。手に持っていたランプが指の隙間から滑り落ち、地面を
転がった。
最後に見た色は赤い何かで⋮⋮、その何かを思い出そうとすると、
心臓が苦しいぐらい早鐘を打つ。
一体ソレは何なのか。考えるたびに体が震え、その答えを拒絶し
ようとする。
できるだけ考えないようにして、私は這いずる様にして、上に乗
った何かの下から抜け出ようともがいた。しかしどれだけ無視しよ
うとも、重たく温かなソレから意識をそらし続けるのは続けるのは
難しい。倒れた何かからはぬるりとした生温かいモノが流れ出て、
鉄の匂いが私の鼻を指す。
目をそらしたい。でも知らなければ後悔する。そう思うのは、き
っと私が答えを知っているからだ。
何とか抜け出て、転がったランプに照らされたソレを見た瞬間、
私の血の気は音を立てて一気に引いた。
﹁︱︱アスタっ!!﹂
私の悲鳴にアスタは何の反応もしなかった。瞼は閉じたまま、ピ
クリとも動かない。薄暗い所為で顔色は分からなかった。しかし血
色がよいという事はないだろう。
だってアスタの胸のあたりからおびただしい量の赤い血が流れ出
ている−−。
642
何で、どうしてっ。
頭が真っ白になる。さっきまで、私はコンユウと一緒に歩いてい
たはずで。それなのに、どうしてアスタが血まみれで横たわってい
るのか。意味が分からない。
﹁⋮⋮こうなりたくなかったら立て﹂
一体コンユウは何を言っているのだろう。こうなりたくなかった
らって、もっと具体的に言ってもらわなければ困る。それではまる
で、コンユウがアスタを切り付けたみたいではないか。
視線をあげた先には、月明かりで鈍く光る刃があった。
その切っ先には、ぬるりとした何かがついていて⋮⋮、反対側は
コンユウの手で握られている。その切っ先から徐々に視線を上げた
が、コンユウの顔は陰になってよく見えない。
﹁あっ⋮⋮﹂
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。ただ自然とこぼれ
落ちたその音は、またたく間に自分の中を駆け巡り、反響するよう
にさらなる音を鳴らした。
﹁ああああああっ、嫌あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!﹂
嫌だ。理解したくない。
理解したくないのに、分かってしまう。コンユウが私へ剣を向け、
そしてそれから、私を守ろうとしたアスタが刺されたのだ。
私の所為で、アスタが死んでしまう。
その事実は、鋭い刃のように私に突きささる。痛くて痛くて、苦
しくて仕方がないくて、叫んでいなければ、死んでしまいそうだ。
﹁おいっ。殺されたくなかったら、叫んでないで︱︱﹂
﹁コンユウ、何してるんだっ!!﹂
643
悲鳴の向こうで、雑音が聞こえた。
でもそんな雑音を気にかけられるほどの余裕が私にはなかった。
何処かで水音が聞こえた気がしたが、かまってられない。とにかく
アスタ
苦しくて悲しくて、辛くて、誰かに助けてもらいたかった。
嫌だ。こんなの嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だっ!!
必死に拒絶するのに、誰も助けてはくれない。
だって、いつだって私の味方で、助けてくれた大人は︱︱ここで
死んでしまったかのように倒れている。
﹁あああああああああああっ!!﹂
頭の中で火花がちる。嵐のように感情が書け巡り、焼け切れてし
まいそうだ。
嫌だよ。助けて。誰か助けてっ!!
目頭が熱くて、何かがこぼれ落ちて行く。そして何かがこぼれ落
ちていくたびに、自分の中身が空っぽになっていく気がした。
このまま、なくなってしまえば楽になれるのだろうか。全てをな
かった事にしてしまいたい。
何でこんな辛い思いをしなければいけないのかと誰かがささやく。
もういいじゃないかと、何かが呟く。
全て消してしまえば、何も考えなくてすむのだと︱︱そんな声を
聞いた気がした。
何かが軋み壊れる音がして、徐々に苦しさが消えていく。それと
同時に手足から力が抜けていった。もう何も見たくないと、瞼が自
然に閉じていく。
このまま眠ったら、もう痛いとか、辛いとか、何もなくて、とて
も楽になれるはずだ。
644
そう思ったのに、沈む意識を邪魔すように何かがトンと胸にあた
った。
もう一度目を開けるのは、とても億劫だ。それでも小さな衝撃が、
私の中で波紋のように広がる。今目を覚まさなければ、本気で後悔
するような気がした。もうこれ以上後悔する事なんてないはずなの
に。
何が当たっているのか︱︱。
﹁︱︱お守り﹂
それが何か気がついた瞬間、一気に私の意識が戻った。苦しくて
悲しくて、辛くて仕方がないけれど、私ははっきりと目を見開いた。
﹁⋮⋮何これ﹂
目の前はおびただしい数の精霊で溢れかえっていた。
初めて精霊を見た時の比ではない。あの時よりも多く、そして強
く輝いている。いや、輝いているのは精霊だけではなく、私もだ。
私から溢れだす光に導かれるように、どんどん精霊の数が増えて
いく。そして精霊は光を吸い込むたびにどんどん存在感を増し、光
を強くする。
これが暴走か。
まだ飽和状態にはなっていない。でもこのまま私から魔力があふ
れ出ていき、精霊が吸いきれなくなったらどうなるのだろう。
異常な魔力や精霊は、この街を滅ぼすのだろうか。はたまた、こ
の国を消しさるのか。それとも、この世界ごと無に帰そうとするの
だろうか。
正直、国も世界もどうでもよかった。私は、私の小さな世界を守
りたかっただけなのだと今更気がつく。
学校でライやカミュと会って、図書館でエストやコンユウと仕事
645
をして、たまにミウと遊んで⋮⋮家にはアスタがいる。ただそれだ
けで、私は満たされていた。満たされているから、誰かに嫌われる
のだって、混ぜモノだと指を指されるのだって我慢できたのだ。
この小さな世界を守る為なら、誰にも迷惑をかけずひっそりと息
を殺して生きたって構わない。そう思っていたというのに−−。
それは壊れてしまった。きっともう元には戻らない⋮⋮戻れない。
だったらと思うのに、このままではいけないと、理性が止める。
何故止めるのかと考えれば、終われないからだと続く。何故終われ
ないのかと考えて⋮⋮私が触れているアスタの体がまだ温かい事に
気がついた。
﹁アスタ、目を覚ませっ!!﹂
このままじゃ、暴走してしまう。分かっているけれど、かき乱さ
れたこの精神状態でどう落ち着けというのか。きっとアスタなら、
何か方法を知っているはずだ。
アスタは無駄に長生きしていて、凄く頭がよくて、魔力の強い魔
族出身で、王宮で研究をしている凄い魔術師である。私なんかより、
数倍凄いヒトなのだ。
﹁アスタっ!!﹂
叫んだ所で気がついた。
アスタの胸が上下していない事に。このままでは酸欠になって死
んでしまう。そうだ、心臓は?
私は急いで胸に耳を当てた。いつもなら聞こえたはずの音が聞こ
えない。体はまだ温かいのに、心臓は静かに鼓動を止めていた。
改めて知った絶望的状態に、私の心臓まで止まってしまいそうだ。
さっきみたいに、苦しくて泣きわめきたいけれど、ぐっと我慢する。
今は泣いている場合じゃない。
646
後悔なんて後でもできる。
心臓が止まって呼吸をしていないならば、心臓マッサージと人工
呼吸だ。ありがたいことに、頭の中にその知識はちゃんと詰まって
いた。でも心臓マッサージなんて、かなり強い力で押さなければい
けない。今の私にそれができるとは思えなかった。
ああ、ここにAEDがあれば⋮⋮。
﹁そうだ。魔法﹂
AEDは高圧の電気だ。
そして魔法を使えば、雷を作り出せる。それに空気を肺の中に送
り込む魔法を作れば、人工呼吸器役だって私1人でこなせるはずだ。
でもそれをするには、ちゃんとした魔方陣の設計が必要となる。
そしてその設計をするには、時間が必要で。何か、ないだろうか。
瞬時に、魔方陣なんて考えなくても、好きな魔法を好きなだけ使
う方法は︱︱。
﹁あった﹂
頭をフル回転させて、一つだけ方法を思いつく。それは本で読ん
だだけの魔法だ。
ハイリターンである代わりに、ハイリスクを背負う事になるから、
一生使うつもりはなかった魔法だ。でもこのまま私の世界が全て壊
れてしまうくらいならば、どんなリスクだって背負える。どうせこ
のままなら、世界と一緒に死ぬという道ずれバッドエンドだ。何も
やらずに、アスタの死を後悔して死ぬぐらいなら、何かやって死ん
だ方がマシだ。
それに、魔力が有り余った今なら大丈夫な気がする。
﹁精霊達。私の魔力をどれだけ使ってもいい。だから、私の命令を
聞けっ!!﹂
647
精霊との契約。これでいいのだろうかと思ったが、私の言葉に従
う様に鎖のような魔力が腕に巻き付いた。それと同時にずんと体が
重くなる。重力に任せて地面に倒れてしまいたいが、根性と腹筋で
上半身を支えた。
⋮⋮これが精霊魔法。まだ魔法を使ってもいないのに、契約だけ
でこれほど魔力を使うなんて。でも今は、精霊魔法について考えて
いる場合じゃない。
﹁精霊よ。小さな雷起こして、アスタの心臓に落とせ﹂
アスタの胸のあたりに魔法陣が輝いたと思うと、ドンっという音
と共にアスタの体が小さく跳ねた。上手くいっているのか分からな
い。でもやるしかないのだ。
﹁風の精霊よ。肺の中を出入りしろ。ただし肺を壊すな﹂
次はアスタの口の上で魔法陣が輝いた。
魔法を使うたびに意識を持って行かれそうになる。さっきまで溢
れるほど魔力があったのに、一気に目減りしているのが分かった。
本気で精霊魔法は効率が悪い。きっと精霊は、魔力や魔素を節約す
るとか考えないのだろう。何といっても、彼ら自身、魔力の塊なの
だ。
でも、もう遅い。止められない。
気がつけば、血がドロリとアスタの中から溢れ出てきた。慌てて
首で脈を測れば、生きている証を指先に伝える。心臓が動いた。
一筋の希望に、心臓が早鐘を打つ。でも喜ぶのはまだ早い。
﹁水の精霊達。破れた血管から血が出てこないようにして、心臓に
合わせて血を体中に巡らせろ﹂
自分でも何て無茶ぶりな命令だと思う。怪我の部分が塞いでいる
ならまだしも、そうではないのに、出てくるなと命令し、それでも
流れを止めるななんて。血圧とか考えれば、これだけ大きな傷口か
648
ら血が出てこないなんて常識の範疇を超えている。
しかし青く輝く魔法陣が現れると、アスタの服の染みは広がるの
を止め、この世界の法則さえも歪めた。
後は⋮⋮そうだ。流れた血の分を増やさなければ脱水になってし
まう。外に流れ出た血は、土とかそういったものと分離できるだろ
うか。もしも無理なら、生理食塩水を滴下して⋮⋮えっと生理食塩
水はたしか0.9%の塩水で⋮⋮1リットルに9グラムの塩⋮⋮で
も全部入れたら、血液が薄まり過ぎるから⋮⋮。
まだやらなければと思うのに、どんどん意識が遠のいていく。
自然の法則を歪めた水の流れは、雷や風よりも魔力の消費量が大
きいらしい。一生懸命意識を繋ぎとめようと努力するのに、どんど
ん遠のいていく。
﹁私の命が続く限り、⋮⋮傷がふさがり、自然に動き出すまで⋮⋮
アスタの生命活動を止めるな﹂
最期の命令と同時に、体が支えきれないぐらい重くなり、私はそ
の場に倒れ伏す。地面に体を付けてしまうと、もう指一本すら動か
すのが億劫になった。
⋮⋮ここまでか。でもどうか、アスタの命だけは︱︱。
眠る様に横たわるアスタを目に焼きつけながら、私は意識を手放
した。
649
31−2話
﹁⋮⋮ここは﹂
目をあけると見知らぬ天井がみえた。ゆっくりと瞬きをして、こ
こがドルン国の城の中だと気がつく。とても怖い夢を見た気がする。
寝汗でぐっしょりだ。動こうとすれば、体の節々が痛く重い。
まるで熱でもあるかのようだ。
とにかく水でも飲もう。声がかすれて、喉がひりひりと痛む。も
しかしたら、本当に風邪をひいたのかもしれない。
枕元に置いてあるコップに手を伸ばしたところで、私は動きを止
めた。布団から外へ出した腕には、鎖が絡みついたかのような痣が
みえる。こんな痣、今までなかった。
﹁⋮⋮そうか﹂
私はコップに伸ばした手を止め、もう一度布団に顔を埋めた。夢
ではなかったんだ。
コンユウが剣を私に向けたのも、アスタがそれに刺されて、心臓
を止めてしまったのも、全て現実だ。しかし私の感情は麻痺をした
かのように、よく分からなくなっていた。悲しいのか、痛いのか、
苦しいのか。ただ、酷く疲れたのだけはだしかだ。
﹁オクトさん?﹂
ベッドのそばから声が聞こえた。
そちらへ視線を向ければ、カミュと目が合う。何だか久々に会っ
たような気分だ。驚きで黄緑色の目を丸くしたカミュの顔は何処か
やつれたように思った。
﹁⋮⋮よかった﹂
650
何がよかったのだろう。
全然よい事なんて何もない。それなのに、今にも泣きそうな顔の
カミュを見ると、彼をの言葉を否定するのは憚られた。
﹁目を覚まさなかったら、どうしようかと思ったよ。⋮⋮本当によ
かった﹂
﹁⋮⋮えっと⋮⋮泣くな﹂
カミュ目からしずくがこぼれ落ちた瞬間、私は私はどうしていい
のか分からなくなる。カミュが泣くなんて今まで想像した事もなか
った。カミュはいつだって私の前では不敵に無敵に笑っていた。
﹁泣きたくもなるよ。ずっと死んだように眠り続けられたらね﹂
﹁ずっと?﹂
﹁そうだよ。襲撃があった日からずっと、オクトさんは眠ってたん
だから﹂
﹁襲撃?﹂
何の話をしているのかさっぱり分からない。私の残酷な記憶には、
襲撃なんて単語は含まれていない。
﹁⋮⋮オクトさん、僕の名前、分かるかい?﹂
﹁カミュエル﹂
﹁僕の国の名前は?﹂
﹁アールベロ国﹂
﹁自分の種族は何?﹂
﹁エルフ族、人族、精霊族、獣人族の四つの血が混ざった混ぜモノ
だけど。⋮⋮一体何?﹂
カミュの話の意図がさっぱり読めない。
よく分からない話をしたと思えば、いきなり質問。
﹁いや、もしかしてオクトさんも記憶喪失なのかと思って﹂
﹁⋮⋮大丈夫。ちゃんと覚えているから﹂
651
本当は何が起こったのか、全て忘れてしまいたかった。コンユウ
に剣を向けられたとか、アスタが倒れたとか、思い出すと吐き気が
する。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
﹁︱︱ごめん﹂
﹁えっ﹂
カミュが突然頭を下げた。
さっきはいきなり涙をこぼすし、一体どうしたというのか。いつ
ものカミュらしくない。
﹁今回の犠牲は、全て僕の采配ミスだ。相手を甘く見ていた﹂
犠牲って、まさか。
その言葉に、体が震える。もしかして、アスタは⋮⋮。
﹁その結果この城が魔法使いに襲撃され、犠牲を出してしまった。
混ぜモノが居るから、無茶なことはしないだろうという予定で軍人
を配置したからね﹂
﹁えっ?襲撃って⋮⋮ここが?﹂
﹁そうか。混融湖のほとりでオクトさんは発見されたけれど、襲撃
前に外に出たんだね﹂
そんな話は知らない。
だって周りから疎まれて、狙われているのは私のはずで。なのに
私が居ない間に、襲撃って⋮⋮。
﹁ペルーラは?!﹂
どうしてここに彼女が居ないのだろう。
その事実に気がついた瞬間、手先がどんどん冷たくなっていく。
まさかと、最悪の状況が脳裏をよぎる。
﹁大丈夫だよ。近くの病院に居るはずだから、安心して。命には別
状ないはずだし。ただオクトさんも病院に運びたかったけれど、何
652
処もベッドがいっぱいで⋮⋮﹂
たぶん私が混ぜモノだから、受け入れを拒否されたのだろう。
でもそんなのどうでもよかった。私の所為でペルーラが死んでい
ない事の方が大切だ。私は、大きく息を吐いた。
﹁そう。それならいい﹂
﹁メイドは、オクトさんの事が心配なようで、ベッドから抜けだし
ては看護婦に叱られているよ﹂
そうか。ベッドから抜けだせるならば、元気ではあるのだろう。
よかった⋮⋮。本当によかった。
もう誰かが私の所為で傷つくのは見たくなかった。 ﹁オクトさん﹂
改めてカミュに呼ばれて、私は彼をまっすぐ見返した。カミュは
とても真剣で、それでいて切なそうな目をしていた。
﹁思い出すのは辛いかもしれない。でも襲撃を受けたあの日、オク
トさんは一体何をしていたのか教えて欲しいんだ。アスタリスク魔
術師は話せるような状態ではないし、⋮⋮何かを知っていそうな、
コンユウとエストは行方不明なんだ﹂
えっ?
とんでもない話に、私は再び固まった。
◇◆◇◆◇◆
653
カミュにあの日の出来事をひとしきり喋った私は、休憩という事
で、パン粥を貰った。どうやら、あの日からすでに3日経っており、
私はその間ずっと眠っていたらしい。
精霊と契約したのだ。この程度で済んだ事の方が奇跡だとカミュ
に言われたが、私もそう思う。本当はこの命ごと、全ての魔力を持
っていってくれても良かった。でも生命維持装置の役割を果たして
いる私が死んだら、アスタまで死んでしまう。だとすれば、どれだ
け辛くても、私は生きるしかなかった
﹁まさか2人が行方不明なんて⋮⋮﹂
匙で皿の中身を混ぜながら、カミュと話した内容を思い出す。
カミュが襲撃の知らせを聞いて、城に到着した時には、すでにコ
ンユウとエストは行方不明扱いになっていたそうだ。
コンユウが剣を私に向けた、あの日が襲撃の日だとしたら、私が
暴走しかけるまでは一緒にいた事になる。しかしその後どうなった
のか。
危険だと判断して逃げたのなら、それでいい。私は⋮⋮どうして
もコンユウを嫌いにはなれなかった。でも逃げたわけではないとし
たら。
あの時、私はどうしてアスタの治療に専念できたのだろう。コン
ユウが私に向かって、立てとか言った気がするが、その後どうした
のか。
思い出し、状況だけ考えると、苦しい結論が導き出され、私は深
く息を吐く。今は絶対自分の魔力や精霊を暴走させるわけにはいか
なかった。私の命はアスタに直結しているし、この城にはカミュが
居る。私は感情をできるだけ鈍らせるように努めた。
﹁コンユウとエストが、湖に落ちたなんて⋮⋮何の冗談だ﹂
あの時、誰かがコンユウを止めようとやってきた気がする。それ
654
どころではなかった私は、その状況をまったく見ていなかったけれ
ど、怒声だけは耳に残っていた。そしてその後続いた、何かが落ち
たような水音も。
あの時コンユウに言われるまま、私は混融湖を囲う柵よりも中に
入っていた。柵がある理由は、湖に誤って落ちる事を防ぐため。そ
れより中に入れば、その危険はぐんと上がる。ましてや暗い中揉み
合いになれば⋮⋮。
混融湖に落ちたら浮ばない。沈むだけだ。運があればコンユウの
ように生きたまま何処かに流れ着く事もあるだろう。しかしそれは
どれほどの確率なのか。
私の話を聞いたカミュは何処かに流れ着いていないか、確認を取
りに行ってくれた。だから私は待つしかできない。まだ彼らが死ん
だと決まったわけではないのだ。
﹁エスト⋮⋮コンユウ⋮⋮﹂
きっとエストは、私とコンユウが出かけた事をペルーラに聞いて、
探しに出てくれたのだろう。
カミュから聞いた話だと、エストはカミュから密かに私を守る様
に言われていたそうだ。コンユウの育ての親が反王派の過激派に属
している魔法使いである事を伝えた上で。
親友を疑い続けるのは、どんな気分だったのだろう。あの日、私
とコンユウが夜遅くに外に出た事をペルーラから聞いた時、どんな
気持ちだったのだろう。そして剣を私へ向けているコンユウを見た
時は︱︱。
﹁エスト、ごめん⋮⋮﹂
どうして、気がついてあげられなかったのか。
もちろん、カミュからの密命だ。まったく危機感のなかった私に
知られるほど、お粗末な隠し方では問題だろう。でも何とかしたか
655
った。
ただし今は、エストの話を聞きたいと願っても⋮⋮聞く事はでき
ない。だから、どうか無事でいて欲しい。私はまだエストに、何も
伝えてないのだ。
それに私は、本当にコンユウが私を殺そうとしたとは思えなかっ
た。結果はアスタが刺され、私は暴走しかけるという、これで殺意
がなかったと証言するには少々おこがましいあり様だ。
でもただ私を殺すだけが目的ならば、色々おかしい点がある。
あの日、コンユウが私を混融湖に誘い出さなければ、私は城の中
で襲撃を受けていただろう。そして自他共に認める最弱な私では、
さっくり殺されるか、暴走して他者を巻き込んだ盛大な自滅をして
いたはずだ。それなのに、何故誘い出したりしたのか。
例えば、混ぜモノを殺すのは俺だとコンユウが思っての行動だっ
たとしよう。だったら、どうしてアスタが刺された後、呆けていた
私を殺さなかったのか。あの状態なら、私を殺すのはとても簡単だ
ったはずだ。それなのに、わざわざ立てって、意味が分からない。
もしかしたらコンユウは、私を逃がそうとしたのではないだろう
か。育ての親を裏切る事はできなくて、でも私の事も大切だと思っ
ていてくれて⋮⋮。だって、コンユウはずっと何かを悩んでいた。
育ての親を裏切る事はできないから私に何も話す事ができなくて、
だから脅すふりをして剣を向けたのではないだろうか。そして私の
事を心配して追ってきたアスタが、私を庇うために転移をして、あ
の惨劇は起こったのではないだろうか。私の何処かにアスタはGP
Sを付けているのだし、エストより早く私を見つけたのも納得でき
る。
そしてあの暗闇だ。しかも私とコンユウはとても接近しており、
近くには混融湖もあった。きっとアスタは私を巻き込まずに攻撃す
656
る事はできないと判断したのだろう。その結果、私達の間に転移し
て、私をかばったのではないだろうか。
でもこんなのは全部私の妄想にすぎない。誰も語れる者が居ない
今、それを実証する事は難しかった。
﹁馬鹿コンユウ﹂
私にあの状況でそれを悟れとか無理だと気が付け、馬鹿。
もちろんコンユウは、ただ私を殺そうとしたけれど、想定外の事
が起こってパニックになって、立てとか妄言を吐いた可能性だって
ある。だとしたら、もっと上手くやる方法をとくとくと語ってやり
たい。私の気を失わせて混融湖に放り込むという荒技だってあるの
だ。自分で言うのもなんだが、これが一番、あとくされのない混ぜ
モノの殺し方ではないだろうか。
だから、私を殺そうとしたのでも、助けようとしたのではどちら
でもいい。とにかく話したかった。
私もコンユウもエストも、もっと色々語り合うべきだったのだ。
そうすれば、こんな苦しい結末なんて生まれなかった。
﹁どうか⋮⋮2人の命を助けて﹂
私は目を閉じ祈った。
この世界の神様に、ヒトの生死や運命を操れるモノは居ない。か
つて12柱居た時代なら、また違っただろうが、今は願える相手は
どこにもいなかった。それでも願わずには居られなかった。
混融湖に融けた女神様。
どうか慈悲を下さい。もう一度やり直せるチャンスを下さい。こ
の結果を招いたのは、全て私がしっかりしていなかったからで、コ
ンユウやエストは巻き込まれただけなんです。
お願いします。どうか、2人の命を湖に溶かさない下さい。
657
その代わりに、私の命を上げますとは言えない自分が苦しかった。
私には何もささげられるものがない。
着ている服や食べ物は私以外のヒトが用意したモノで、私が自分
のモノだと言いきれるのは命だけだ。でも今の私の命は、アスタの
ものでもあって。⋮⋮彼らの代わりにアスタを殺す事はできなかっ
た。
神でもないのに、命を天秤にかけ、そしてアスタを選ぶ自分のな
んと醜い事か。それでも私は必ず助けられる方を選ぶしかなかった。
﹁オクトさん、入るよ﹂
﹁うん﹂
ドアの向こうからカミュの声が聞こえて、私は返事した。
﹁ちゃんと食べてる?﹂
﹁⋮⋮これから食べる所﹂
部屋に入ってきたカミュは、まったく減っていない私の皿を見て、
咎めるように聞いてきた。分かっている。私は首を振ると、ゆっく
りとパンをすくって口に運んだ。
生ぬるく甘ったるいパン粥は、とてもおいしいと思えなかったが、
それでも食べなければと機械的に飲み込む。食べなければ死んでし
まう。死ねないのならば食べるしかない。それが、今の私にできる
唯一の事なのだ。
﹁そうだ、カミュ﹂
﹁何?﹂
私はこれまでの事を考えて、自分なりに一つの結論を出した。先
ほどカミュから聞いたアスタの状況を踏まえた、自分の今後の身の
振り方。
私はもうこれ以上、私の所為で大切なものが壊れるのは嫌だった。
658
﹁頼みがある﹂
それは幸せに繋がる道ではないかもしれない。でも最善であると
信じて、私は口にした。
659
31−3話
この世界の神様は無慈悲らしい。
混融湖を探し始めてから2日ほど時間が経過したが、エストとコ
ンユウが見つかったという吉報は結局聞く事ができなかった。それ
でも引き続きカミュはドルン国で探し続ける事を約束してくれてい
る。
もちろん水の中で人間が息を止められる時間などたかが知れてい
るし、これ以上は無駄な努力なのかもしれない。それでも2人が落
ちたのは、混融湖なんていう不思議がいっぱいな湖なのだ。もしか
したらがあるかもしれない。
それにコンユウの養い親は罪人として捕まり今は城の牢屋の中だ。
またエストの親はすでにおらず、唯一の肉親である姉はまだ服役中。
私が諦めたら2人を待つモノが居なくなってしまう。だからなおの
事、私は僅かな希望を捨てる事ができなかった。
しかし混ぜモノである私は、そろそろドルン国に滞在し続ける事
は難しくなってきている。もう少し滞在したかったが、私は混融湖
のほとりで暴走しかけたのだ。強制退去をさせず、未だに滞在させ
てもらえている事に感謝した方がいいだろう。自分とアスタが発見
された場所を見に行ったら、隕石が落ちたかのような大きなクレー
ターができていた。うん。あれはない。⋮⋮私なら、即行で国外退
去を命じたはずだ。
いやでも、不安定な混ぜモノを無理に移動させるよりは、少なく
ても首都ではないここでしばらく待機させて、落ち着いたころに国
外へ移動してもらった方が安全なのか?まあ、どんな思惑があった
にしろ、目が覚めて動けるようにはなったので、そろそろこの国に
660
いるわけにはいかなくなってきた。
だからこそ、今やらなければならない事は、早く終わらせなけれ
ばならない。
﹁オクトさん。本当にいいの?﹂
病院へやってきた私にカミュは声をかけた。私はカミュの言葉に
深く頷く。それを見たカミュは、小さく眉をひそめた。
どうやらまだカミュは私のお願いごとに納得しきっていないらし
い。
あの時も私のお願いごとにカミュは難色を示した。それでも最終
的には聞いてくれたのは、私に対する罪悪感からか。
﹁決めたから﹂
目的の部屋の前へ来ると、くらりと目まいがした。
精霊と契約をしてからというもの、体のけだるさが一日中付きま
とう様になっている。たぶん契約料金的な感じで、精霊が毎日魔力
を搾取してくれているのではないかと思う。腕の痣が消えないので、
まだ契約は続いているようだし。本当は今だって、動くのも億劫だ
った。
⋮⋮いや、これは逃げているだけか。
できるだけ先延ばしにしたい内容だからこそ、体がだるいだのな
んだのと理由を付けて逃げているだけだ。それは自分が一番分かっ
ている。
ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせる。大丈夫。私はやればで
きる子だ。
そして私は﹃アスタリスク・アロッロ﹄と書かれた病室の扉をノ
ックした。
661
﹁どうぞ。開いてるよ﹂
聞こえてきた声は、いつものアスタの声だった。それだけで涙腺
が緩みそうになるが、絶対泣くわけにはいかない。そんな事をすれ
ば、アスタは驚くし、不信がるだろう。
﹁失礼します﹂
扉を開け、私は一礼をした。アスタの目が一瞬丸くなったが、す
ぐにエセっぽい笑顔に戻る。ああ、この顔は知っている。内心を隠
したい時にアスタがよくする表情だ。きっと初めて混ぜモノを見た
から、驚いたのだろう。
﹁君が、暴漢に襲われた俺を助けてくれたお嬢さんかな?﹂
﹁はい﹂
まるで私を初めて知ったかのような言葉に、冷やりとしたものが
心臓に押し込まれたような感覚に陥る。でも大丈夫。これは事前に
カミュから聞いて分かっていた事だ。私はできるだけポーカーフェ
イスを心がけた。私が動揺したら、この作戦は全てパーだ。
心臓を一突きされた衝撃か、はたまた倒れた時にぶつけた場所が
悪かったのか、目を覚ましたアスタはここ数年の記憶を失っていた。
その為、アスタは私の事をまったく覚えていない。それどころか何
故ドルン国にいて怪我をしているのかも分かっていなかったそうだ。
聞いた瞬間、胸を締め付けられるような苦しさを感じたが、それ
と同時に何処かホッとしている自分が居た。
もしもアスタが私の所為で死んでしまっていたらと思うと、今も
怖くて仕方がない。もう一度同じ事が起これば、私は今度こそ世界
と一緒に無理心中するだろう。それぐらい私の中をアスタが占める
割合は大きかった。
だから私は大切なものを壊してしまう前に、手放してしまう事に
した。アスタの記憶がないと聞いた時、私はこれでもう、アスタを
662
私の人生に巻き込まずにいられるのだと思った。
私とアスタの縁は、結局アスタが私を養女にしているからで、そ
れをアスタが覚えていないのだとしたら後は簡単だ。
カミュに頼んで、私とアスタの養子縁組を破棄して貰い、周りに
は口止めをしてもらう。それだけでなかった事にできる。
こうやって考えると、縁なんて簡単に壊れてしまうものだなと感
じた。とても手放しがたいものだったはずなのに、なんてあっけな
いものなのだろう。
﹁初めまして。私はオクト⋮⋮オクト・ノエルと申します﹂
アールベロ国は、平民でも苗字を持っているモノが多い。下手に
突っ込まれる前に、私はママの名前を苗字として使う事にした。今
の私はただのオクトだ。アロッロは使えない。
それに私は嘘はあまり得意ではないので、できる限り真実のみで
誤魔化そうと考えた。苗字は○○さん家の子という意味で使われて
いるので、ママの名前を苗字変わりにするのは、まるっきりの嘘で
はない。
﹁俺は、アスタリスク・アロッロという。君は⋮⋮魔法学校の学生
かな?﹂
﹁はい。ウイング魔法学校の魔法薬学部に通っています﹂
アスタは私を奇妙な生物でも見るような目で見てきた。薬学に進
学するヒトというのは少ないし、珍しいと思ったのだろうか。
﹁すでに専門分野に進学をしているなんて、優秀なんだな。今回、
俺を助けてくれた時つかった魔法も、精霊魔法なんだって聞いたよ﹂
﹁いえ。私は、まだまだです﹂
ああ、驚いたのは、私の見た目が幼いからか。
でも私が、本当に優秀だったとしたら、アスタが怪我を追って記
憶を失う事なんてなかったのだ。
何がいけなかったのか、何処をどう選択し間違えてしまったのか
663
未だに分からない。あの時コンユウと一緒に外に出かけなければ良
かったのか、ちゃんとコンユウに第一王子の味方ではないと伝えれ
ば良かったのか。それとも第一王子に魔法を見せなければ良かった
のか、それともそもそも会わないようにもっと努力するべきだった
のか、それ以前にアスタに引き取られるべきではなかったのか。
後悔はどれだけでも出てくるけれど、何が最善だったのか分から
ない。例え過去に戻れたとしても、きっとまた同じ過ちを繰り返し
てしまうような気がした。
だから私は決して、優秀などではない。愚かで、どうしようもな
い、混ぜモノだ。
﹁アロッロ様のお元気な顔が見れて良かったです。中々見舞いに来
る事ができず申し訳ありませんでした。そろそろ国に戻らなければ
なりませんので、この辺りで失礼します﹂
これでアスタと会えるのも最後だ。そう思うと、名残惜しくて、
本当はアスタの事を知っているのだと叫びたくなる。でもそんな事
をしたら、私が私自身を許せなくなる。
だからまだここにいたいと思うと同時に、早くここから出てしま
いたかった。
﹁待って﹂
踵を返すと、呼び止められた。私はできるだけ何でもない様なふ
りをして振り返る。
﹁はい?﹂
﹁あー⋮⋮えっと。もしかして⋮⋮俺は君と何処かで会った事はな
いかな?﹂
﹁いいえ﹂
記憶がなくても、何かが引っかかったらしい。しかし私は、きっ
ぱりとそれを否定した。もしかしたら記憶は戻るかもしれない。そ
れでも私はアスタが大切で、好きで仕方がないから⋮⋮もうこれ以
664
上、一緒に居る事はできなかった。
﹁そうか。呼びとめてごめんね。わざわざ見舞いに来てくれてあり
がとう。それじゃあ、小さな賢者様。またね﹂
﹁⋮⋮失礼します﹂
﹃また﹄はきっともうないから。私はそう思いながらも一礼し、
再び廊下に出て扉を閉めた。
苦しかった。
どうしていいのか分からないくらいに苦しくて⋮⋮とても眠かっ
た。きっと魔力が足りていないからだ。だから⋮⋮。
﹁オクトさんお疲れ﹂
全てが終わり、壁にもたれかかっていると、カミュが私の肩を抱
いた。その腕がどうしようもなく温かくて、余計に意識が沈みそう
になる。
﹁いいよ、そのまま寝てて。今日は特別にベッドまで運んであげる
から。目が覚めたら、アールベロへ一緒に帰ろう﹂
カミュの有難い申し出に、私はこくりと頷く。
瞼を開けているのが辛くて、ぼやけた視界をそのまま閉じた。少
しだけ楽になった気がする。何だか色々考えるのが酷く億劫だ。も
う何も考えたくない。
﹁オクトさん、何度も聞くけど⋮⋮いいの?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
カミュが私の事を心配しているのはとても良く分かった。でも色
々考えて、私はアスタを巻き込まない、これが最善だと思った。だ
から仕方がない。
﹁私は⋮⋮この思い出があれば十分だから﹂
665
アスタに引き取られて、アホみたいに甘やかされた数年間の記憶。
伯爵邸や子爵邸、宿舎で過ごした日々。嫌な事だってなかったわけ
ではないけれど、とても大切で優しい思い出。もうそれだけでもう
十分だ。
例えアスタが覚えていなくても、私が覚えていれば、いつかアス
タに恩返しする事だってできる。なんら問題はない。
もしも今後アスタが思いだしたとしても、記憶のないアスタを見
捨てた不義理な娘として、私の事などそのまま捨てておいてくれる
だろう。私は自分の為に、そういう選択をしたのだ。
だから、聞かないでほしい。お願いだから、決心を鈍らせないで
ほしい。
私はその願いを口にしたかどうか分からないまま、意識を闇へと
沈める。とてつもなく体がだるく、とても起きてはいられなかった。
目が覚めたら全部夢だったらどれだけ良かっただろう。
でも夢ではないと知っているから、私は私の世界を、自分の手で
壊した。
666
32−1話 僅かな希望
﹁オクトさん、生きてる?死んでいるなら返事して﹂
﹁反応がない。ただの屍のようだ﹂
﹁生きているみたいだね﹂
﹁いや死んでるから﹂
私はカミュにそう答えると、もぞもぞと布団の中にもぐりこんだ。
朝日が見え始めた所で、ようやくうとうとし始めたばかりで、眠く
て仕方がない。今なら永眠してもいいと思えるぐらいに、ベッドが
恋しくてたまらなかった。
たぶん今、日光に当たったら、私は確実に溶ける気がする。
﹁ちゃんと規則正しくご飯を食べないと駄目じゃないか﹂
﹁⋮⋮後で食べるから﹂
そう言って私はもぞりと寝返りを打つ。するとドサドサと何かが
崩れる音がした。ああ、しまった。さっきまで読んでいた本に当た
ってしまったらしい。
﹁その発言を聞くのは、何回目だと思っているのかな?﹂
﹁ぐう﹂
文句とか聞きたくない。寝不足の所為で頭痛がするのだ。
しかし私の反抗を意ともせず、カミュは布団をひっぺ替えした。
天井に飾られた魔法石の光が瞼越しに網膜を突き刺し、私は頭を抱
える。
﹁カミュ⋮⋮本当に勘弁⋮⋮﹂
﹁食べたら寝ていいから。ほら起きて﹂
﹁いや、でも。図書館での飲食はちょっとどうかと﹂
667
﹁そんな事気にするぐらいなら、もう少し本を大切に扱ったらどう
かな?ああ、またこんなに積み上げて﹂
私がもぞもぞと起きあがり目をあけると、カミュが崩れた本を拾
い集めているのが見えた。⋮⋮第二王子のくせに、なんか庶民臭い。
﹁今、庶民臭いとか思わなかった?﹂
﹁⋮⋮さあ﹂
﹁誰の所為でこうなったと思っているんだい?﹂
そんなの自分の所為に決まっている。やだやだ、勝手にヒトの所
為にする男は。こういう女々しい男は、モテないんだよな。ああ。
だからカミュの周りにハーレムが築かれないのか。
そんな事を思いながら、私は少しだけ慣れてきた、館長室で大き
く背伸びをした。
アスタの娘ではなくなった私は、とりあえず色々整理がつくまで
図書館に身を寄せる事となった。幸いなのか、今図書館に時属性を
持っているヒトは私しかいない。そこで、時魔法を使うためという
名目を振りかざし、私は図書館の住人となった。
以前は何故か恐ろしく感じた時属性の魔力だったが、あの時より
もっと怖い事を体験してしまった私には、どうってことはなかった。
恐怖さえ感じなければこっちのモノで、少々癖がある魔力ではある
が、使いこなすのにそれほど苦労はない。流石アスタに魔力の使い
方をスパルタで習っただけある。
そんなこんなで図書館に住み始めた私だが、精霊魔法の所為か、
以前に比べててしょっちゅう眠くなる様になった。気がつくと階段
で眠っていた事もあるので困りものだ。また色んな本に囲まれてい
ると手当たり次第に読みたくなり、実際読む事ができるようになる
と、いつしか本を読むか寝ているだけの、完璧な引きこもりとなっ
ていた。
668
そんな私を心配して、カミュやミウ、それにライが交代交代でご
飯を持ってきがてら、様子を覗くようになったのは仕方がない流れ
なのかもしれない。それでも私は、現実を忘れていられる、本を読
んでいる時間を失う事はできなかった。
﹁まったく。オクトさん、ウチにこればいいのに﹂
﹁その選択肢は絶対ない﹂
カミュの家イコール王宮だ。それだけは選択肢の中で、絶対ない。
何で私がこんな引きこもりになってしまったのか。元をただせば、
王家と魔法使いの仲が悪く、私が王家の手持ちのカードになってし
まいそうになったのが原因だ。だとしたら、これ以上王家に近づく
わけにはいかない。
それと同時に、学校の寮も除外だ。卒業後に魔法使いの学校が示
した場所で数年働かなくてはいけないとか、危険な香りがぷんぷん
する。
いつまでもこのままというわけにはいかないというのも分かって
いる。それでもしばらくは、ゆっくりと休みたかった。
もっとも、引きこもりになったのは、私の性格の問題でもあるの
だけど。
﹁最近、図書館に館長の幽霊が出るって噂になっているよ﹂
﹁へ?﹂
﹁真っ白な人影が夜な夜な歩き回るんだって。オクトさんは、僕ら
が口酸っぱくして言っている通り、ちゃんと夜は寝て規則正しく生
活しているはずだよね?⋮⋮オクトさん。この噂の出所はどこか知
らないかな?﹂
﹁さあ﹂
私はそう言って、カミュが持ってきたサンドウィッチにかぶりつ
く。どうやらピーナッツバター味だったようで口の中が甘くなる。
669
﹁それ、ミウって子が作ったものだよ。授業が終わったら来るって
いってたから﹂
﹁⋮⋮甘い﹂
何でこんなに甘いのだろう。
甘くて、甘くて、苦しくなる。
私には誰かに優しくしてもらうような、そんな価値などないのに。
でもそんな事を言ったら、きっと彼らは否定するのだろう。そして
それに安堵してしまいそうな自分が嫌で、彼らの前で自分を卑下す
る事はできなかった。
◇◆◇◆◇◆
混融湖の旅行から帰ってから、私の生活は本一色の生活に一転し
た。
学校では、混ぜモノが暴走しかけたという噂が立ってしまい、今
は通うのも困難な状態だ。ただしカミュの大嘘で、図書館の中にい
れば、混ぜモノの暴走は図書館の中だけで納まるという話になって
いる。⋮⋮バリアとかそんな便利な魔法のない世界なのに、どうし
てそんな話を信じられるのだろう。誰かツッコミを入れて欲しい。
時魔法とか追跡魔法とか、色々変わった魔法が多い場所だけれど、
そんな便利魔法、私は知らなかった。
もちろん図書館で働く人達は、私と同様そんな魔法がある事なん
670
て、まったく信じていない。しかしアリス先輩は、私の事を信じる
と言って私が館長室に滞在する事をあっさり認めた。一応今はアリ
ス先輩が館長代理となっているので、アリス先輩の意見に逆らうヒ
トもいない。
時魔法の件もあり、私はずるずると滞在する事になっているが⋮
⋮本当にいいのだろうかと、常々思っている。私は私の事を、信じ
るに値するようなヒトとはとうてい思えなかった。
またカミュは、第二王子の権限で混ぜモノの存在を秘匿とすると、
学校を含めた私の存在を知っている場所に通達した。理由はドルン
国での暴走の件から、このままでは多大なる混乱を招く為とし、私
は今はいないヒトとなっている。
まあこれのおかげで、アスタとの養子縁組の破棄もすんなりいっ
たようなものだ。そしてアスタが混ぜモノを養子とした事は、誰も
口にしてはいけないとカミュは全ての知り合いに命令した。
こうして私の望みは叶ったわけだが⋮⋮、同時にできた問題もあ
る。いないヒトである私は、学校で授業を受けるのが難しいのだ。
かといって、薬学を学べないのは、今後の生活に支障をきたす。暴
走の噂が消えた後も今のままなのはマズイ。
一応カミュがその辺りも交渉すると言っていたが⋮⋮どうなる事
やら。
私はシーツを被ったまま、今日も夜な夜な図書館をふらつき、た
め息をついた。
﹁上手くいかない⋮⋮﹂
どうしてこうも上手くいかないのか。
そんな色んな不安や苦しさを消す為に、私は日に日に本にのめり
込むようになった。本を読んでいる間だけは、何もかもを忘れる事
ができる。まるで麻薬のような中毒だ。
671
特にミウは本に依存している私を心配している。それは十分分か
っていたが、それでも止められない。今まっすぐと現実と向き合っ
たら、自分が壊れてしまう気がしたからだ。本に依存している今だ
って、ゆっくりと壊れていっているようなものだ。それでもゆっく
りとまどろむ様に壊れるのならば、暴走の心配だけはしなくてすむ。
﹁エスト﹂
こんな私を見たら、エストはどう思うのだろう。心配するのだろ
うか。それとも、そんな時もあるから好きなだけ落ち込んだってい
いと言ってくれるのだろうか。
第一王子に会ってしまった時や、神様に会う事になってしまった
時など、困った時はエストが相談に乗ってくれた。でも今はいない。
エストに貰った髪飾りに手をやって、私はため息をついた。
﹁コンユウ﹂
きっと辛気臭いや鬱陶しいなど、私をいらつかせる言葉をコンユ
ウならぶつけてくるだろう。そしてイラッとした私もいつしか口喧
嘩するようになるのだ。
⋮⋮コンユウのツンを見たいなんて、どうかしている。
思い出すと、もっと胸が締め付けられるように苦しくなった。あ
あ、駄目だ。これ以上感情を乱してはいけない。
私はフラフラと本を選びに夜の図書館をさまよう。とにかく今は
忘れなければ。2人が見つかったという吉報は相変わらずないのだ
から。
小説から魔法の専門書まで、数冊手に抱えた所で、ふと﹃ものぐ
さな賢者﹄を思い出した。エストが好きだった混ぜモノさんの原書
とされる本だ。
結局私はあの本を読めていない。今なら時間はどれだけでもある
672
のだし、古文を読むというのもいいだろう。抱えた本を一度机の上
に置き、私は階段へ向かった。
上へ登る階段は真っ暗で、流石に何かで照らさなければ足を踏み
外してしまいそうだ。
﹁光の精霊よ。私の手にともれ﹂
私の言葉に従って、前にさしたした掌が、ぽうと発光した。
本来ならば光の属性を持っていない私は、自分の魔力から属性を
消して加工するという作業をしなければならない。しかし精霊と契
約してしまった今は、私が願いを言うだけで精霊が勝手に魔法を使
ってくれる。
消費は普段よりも大きく、体がだるくなるが、徐々に扱いにも慣
れてきた。他属性の魔法など加工が面倒なものは、よほど大掛かり
な魔法ではない限り、精霊魔法の方が便利だ。図書館全てを明るく
しようとすればまた倒れてしまうだろうが、ランプや懐中電灯代わ
りの光を作るぐらいならば、特に問題はない。
ただし、あまり多用すると、そのうち精霊魔法以外の魔法の使い
方を忘れてしまいそうなので気をつけなければいけないだろう。
ものぐさな賢者の本が置かれたエリアまで階段を上ると、流石に
息が切れた。少し体力が落ちているかもしれない。特に今は家事と
かもほぼやっていないに等しいのだ。たまには階段の上り下りぐら
いの運動はするべきかもしれないなぁと遠くを見た。運動は嫌いだ
が、今より体力がなくなったら、山奥での隠居生活なんて、夢のま
た夢となってしまう。
とりあえず階段を下る為に、少しでも体力を温存しようと、掌か
ら光を消した。
私はずるりずるりとシーツを引きずりながら私は図書館の中を歩
673
いた。シーツは重く邪魔だが、日が落ちた後の図書館は少し肌寒い。
窓から入る月明かりで映った自分の影を見て、私は苦く笑った。
確かに今の私は、幽霊のようだ。姿もそうだし、私という存在も。
元々混ぜモノだなんていうありえない存在である上に、いないモ
ノとして秘匿された存在。いないはずなのに居る。まるでそれは幽
霊のようではないか。
本当に幽霊だったらどれだけ良かったのだろう。誰にも見られず、
誰とも関われず⋮⋮彼らは怖がられはするがとても無害だ。私もそ
うであったら良かったのに。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
生まれてきてしまってごめんなさい。不幸にしてしまってごめん
なさい。
目の辺りが熱くなってきた所で、私はその思いを断ち切り、本棚
へと向かった。落ち着かなければ。泣けば、また感情が乱れてしま
う。とにかく、本を読んで忘れよう。
台の上に乗って、目的の本を手に取った時、ふとその奥に何かが
あるのに気がついた。前見た時はこんなものあっただろうか?
不思議に思った私は、周りの本を退かし、奥ににひっそりと隠さ
れるように置いてある箱を取り出した。
﹁何これ﹂
それほど大きくはない木製の箱を私はしげしげと眺めた。あまり
真新しいものには思えないし、前の時は見落としてしまったのだろ
うか。
でも何のためにこんな所に置いてあるのか。
⋮⋮タイムカプセル的な感じとか?
674
良く分からないと思いながらも私は埃を払い、中身を確認するた
めに箱を開けた。箱の中には、これまた古ぼけた紙が入っている。
まさか本当にタイムカプセルだろうか。もしそうなら、ちょっと
痛いなぁと思いつつ私はその紙を手に取った。そしてその文字を見
た瞬間、固まった。
﹁えっ?﹂
どうやら紙は手紙だったようで、入っていたものは封筒だった。
その下にはお守り袋のようなものが入っている。
私は別にお守りが入っている事にびっくりしたわけではない。⋮
⋮まあ、お守りというと何だか念のようなものが詰まっていそうで、
深く考えると少しアレなのだけれど。
だが今はそうではなく、その封筒に書かれた名前にドキリとした。
﹃オクトへ﹄
薄暗いために見にくいが、確かにそう書いてある。何処かで見た
事があるような文字に首を傾げながら、差出人の名前を確認するた
めに裏面を向けた。
675
32−2話
親愛なるオクトへ。
どうか、この手紙を読んているのが、オクトである事を祈って。
君はきっとこの手紙を読んだら驚くんだろうけどね。オクトがこ
の手紙を読んでいるという事は、もうオレはこの世界には居ないの
だろうから。
とてもたくさんオクトとは文通をしたはずなのに、オレは今、何
から書けばいいのか迷っている。でもどうしても君に色々伝えたい
から、ここに手紙を残す事にしたよ。
きっと君ならこの手紙を見つけてくれると思うから。それと最初
にもう一つ。この手紙を読んだら、﹃ものぐさな賢者﹄を読んでほ
しいんだ。書き忘れると恨まれそうだから、最初に書いておくね。
まず何から話せばいいのか分からないけれど、とりあえず君へ手
紙を書いているオレは、君が知っているオレじゃないんだ。あっ。
今何を言っているんだと、冷たい眼差しで手紙を見ているでしょ。
でもそれは紛れもなく真実なんだ。オレの彼女であったオクトは、
親友に剣で切られて暴走して、世界と一緒に死んでしまったから。
オレはその時、運よく混融湖に落ちて生き延びてしまったんだ。
混融湖に落ちたオレが流れ着いた場所は、ドルン国。今回も君が
そこへ行ったかどうかは分からないけれど、オレは君と親友と一緒
に、そこへ混融湖の見学をしに行っていたんだ。
ただし混融湖に落ちて目が覚めた時には、その時代からざっと8
00年ぐらい遡った時代にオレはいたんだよね。
676
おかげで言葉に苦労したかな。例えば﹃○○じゃ﹄とか、ご老人
が使う言葉だと思っていたけど、オレより若い子でも、普通に使っ
ていたからね。その上確かに龍玉語を話しているはずなのに、方言
が入っているというか、かなりなまっていて、違ったりするしさ。
本当は君の後をオレも追いたかった。
でも君が世界と共に死んでしまう時よりずっと前の時間にいるの
だとしたら、今度こそ君を助けられると思ったんだ。⋮⋮それと一
応、大馬鹿な親友もね。
ただ現実はそれほど甘くなくてね、混融湖に落ちると、使い勝手
の悪い時属性を身につけられる代わりに、落ちる前の事を誰にも伝
えられなくなる呪いにかかるみたいなんだよね。
口で伝えようとすると、周りの時間が止まってしまって動けなく
なるし、手紙で伝えようとすると、どういうわけかその紙は気がつ
いてもらえないんだ。紙を見るようにと口にすることすらできなく
て、オクトの言葉を借りるなら、﹃女神、爆発しろ﹄ってちょっと
叫びたくなったね。まあ女神はリア充なのかは分からないけれど、
結構地味にあの呪いはイラッとさせられたね。絶対ねちっこい性格
だと思うよ。おかげで、名前すら名乗れないし。
ただ、親友である大馬鹿もどうやらあの時一緒に混融湖に落ちた
らしくてさ。彼から貰ったメッセージのおかげでオレはある仮説に
たどり着いたんだ。
混融湖の女神の呪いはオレにかかっているだけで、手紙にかかっ
ているわけじゃないんだよね。だからオレがこの世界からいなくな
れば、たぶん手紙を読む事はできると思う。
それと親友からのメッセージを読んだオレは、オレが流れ着いた
この時間が、オクトがいる時代へ、進まなくなる可能性にも気がつ
いたんだ。
677
オレはもうあの時間に戻る事はできない事はわかっていたよ。で
もどうしても、もう一度オクトに会いたかったんだ。だからオレは、
節目節目で世界に関わっていく事にした。
幸い親友もそれを手伝ってくれる気があったみたいでね。彼はオ
レとは違って、何度も混融湖に飛び込んで、時間をめぐり旅をする
という選択をしたみたいだよ。そして色んな情報を﹃ものぐさな賢
者﹄や﹃混ぜモノさん﹄の本に書き込んで、オレに残してくれたん
だ。
親友が何を思ってそうしたかは、オレは書かないでおくよ。だか
らまあ、彼に会ったら直接聞いて。
そしてオレは本を集めるうちに、いつしか図書館の館長となった。
そして君と会える日を願って、オレは自分の時間を何度も止めて、
少しでも長く生きられるようにしたんだ。
あれからとても長い年月がたってしまったけれど、今ようやく報
われそうだよ。今日オクトが図書館にやってきたんだ。 オレがまだ魔法学生だったころにも、今のオレと同じ立場に館長
という人物が居たんだよね。それがオレなのか、それとも別の人物
だったのかは、分からない。けれどあまり大きく運命が変わってし
まうと、オクトが馬鹿に切られてしまう分岐点がずれて分からなく
なってしまうと思う。だから、オレはあの館長と同じ道を歩むよ。
幸いオレの目は、混融湖に落ちた事で、館長と同じ紫色に染まって
いるから、彼の代理を無理なく務められるはずだからね。
そして今度こそオクトとコンユウを幸せにしてみせるよ。以前は
オレが無理やりオクトと付き合ってしまったけれど、次はそんな失
敗をしないようにするね。
コンユウがオクトを愛せば、きっとあの未来は起こらないはずだ
から。魔族の執着って怖いし、絶対オクトを殺そうとしないと思う
678
んだ。
ほら、昔オクトも黄色い服着て、愛は世界を救うとかって夏にな
ると言っているヒトもいるんだって、教えてくれたよね。オレも愛
があれば、世界は救えると思うんだ。
とりあえず、また後で手紙を書くね。今度は館長室を探してくれ
ると嬉しいな。そしてどうか僕がいた事を忘れないでいて欲しい。
ちゃんと君の幸せを願っているから。じゃあ、またね。
館長事、エストより。 ◇◆◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮おいっ﹂
あれれ、おかしいな。
名前を見て、慌てて読み始めた時は泣きたくなるぐらい切なかっ
たはずなのに。何故か読み終わった瞬間、ツッコミを入れている自
分が居た。
私は丸一日頑張るボランティアなヒト達のテレビ番組について、
エストに話した記憶はない。となると伝えたのは、きっとエストと
付き合っていた別の次元の私なのだろうけれど。
ちょっと待て。何教えているんだ。
そもそもリア充とか、そんな言葉も私はエストに話していないか
ら。付き合ったからって、どうしてエストに残念な言葉ばかり教え
679
ているのか。
もう一人の自分にとくとくと説教してやりたい。真っ白なエスト
に何をふきこんでいるのだと。
﹁エストの⋮⋮馬鹿﹂
でもまあ、エストの事だから、きっと私が泣かないように手紙に
冗談を入れてくれたのだろう。本当はもっと大変で苦しかった事も
あって、話したい事だってあったはずなのに。だってたった一人で、
ずっとこの未来の為に生きてきたのだから。
泣くものか。泣いたら⋮⋮また、私は︱︱。
ぐっと唇を感がけれど、周りがぼやけて、目から滴がこぼれ落ち
た。
﹁わあぁぁぁぁん﹂
アスタがコンユウに刺された時ともまた違う苦しさが胸をつく。
でもそれはあの時とは反対に、とても温かくて。
私は幼子のように泣くのを止められなかった。
エスト。エスト。エスト。
﹁うわあぁぁぁぁん﹂
エストが優しすぎて、苦しかった。
エストの人生は私の所為で台無しになったようなものなのに、手
紙には一切私への恨みとかなくて。何処までも優しくて。私に生き
ていて欲しいって、幸せになって欲しいって書いてくれて。
それが胸を温かくしてくれて、切なかった。御礼を言いたいのに、
今ここに、エストはいなくて。私の声は届かない。
680
﹁エズドォ⋮⋮っひっく﹂
ぽろぽろ涙が止まらない。でもあの時のように体が冷たくなるよ
うな事はなかった。むしろ、どんどん温かくなって、それが申し訳
なくて、涙が止まらない。
アスタが倒れたあの日から生きなければと思っていた。それが償
いだと。でも、私は今、生きたいと思った。エストが作ってくれた
先にある、この世界で。
そして彼らの為に何かをしたい。
そう思った。 681
32−3話
泣くだけ泣いてスッキリした私は、ものぐさな賢者と、手紙入り
の箱を持って館長室へ戻る事にした。流石にあの場で朝まで泣き続
けて、図書館の従業員達やカミュ達に泣き顔を見られたくはない。
別に泣いたって問題はないのだろうけれど、それを見られるのは
何だか気恥ずかしかった。
﹁⋮⋮でも、あれだけ泣いたのに、何で暴走しないんだろ﹂
暴走は感情の高ぶりだけが問題ではないのだろうか?暴走をしか
けたのはたぶんこれで2回目だけど、前回と今回にどんな違いがあ
ったか。上げようと思えば上げられるが、流石にデーターが少なす
ぎてそれだけでは何とも言えない。
もしかしたら、暴走は感情の高ぶりだけではないとか?もしくは
感情の種類に関係するとか?
色々思い浮かぶものの、どれもこれも、仮説の域を出なくて、私
はとりあえず考えるのを止めた。とりあえず、まずはエストからの
手紙に書いてあった、ものぐさな賢者を読んでみるべきだろう。
館長室に戻った私は色々持ってきた本をとりあえず机の上に置き、
椅子に座った。そして、ものぐさな賢者を手に取る。
さてと。古典なので、辞書が必要だろうか。
ただ全部調べていると読み終わるまでに、かなり時間がかかる。
仕方ない。分からない単語は流し読みをしてとりあえず読み進めて
みる事にした。
そして読み始めて数分。私は机に頭をぶつけた。
﹁⋮⋮なんだこれ﹂
682
読めば読むほど、頭が痛くなる。いや、むしろ頭の中をかきむし
りたくなるぐらい痒くなったと言うべきか。
文章は確かに古典だ。今は使わない単語や言いまわしが使ってあ
るので間違いない。間違いはないが、内容はとても読み覚えがある
ものだった。
﹁誰⋮⋮書いたの﹂
いや、現状から察するに、書いた相手なんて、時をかける少年を
素でやらかしている少年2人のどちらかだ。しかも片方が、﹃恨ま
れる﹄なんていう単語を使っているという事は、もう1人が書いた
可能性が高い。その上、ツンデレの方は確か本にメッセージを入れ
たとか何とかと手紙に残っていたような⋮⋮。
ならば、これにもメッセージが込められているという事だろうか。
だとしてもだ。誰が見るかも分からない本に、エストの同人誌の
話を入れ込むのはどうだろう。もちろんそれ以外の話も入っている
けれど、どれもこれも、混ぜモノである少女が聖女のように描かれ
ている。
﹁エストが気づくようにっていう理由だとしても⋮⋮止めて﹂
エストの同人誌を読んでいなければ、私はきっとこれが自分を題
材にしているとは思わなかったに違いない。それぐらい主人公の行
動が美化されている。
どんな顔をしてこの話をコンユウは書いたのだろう。
いや、まて。エスト大好きなコンユウの事だ。もしかしたら、エ
ストに勧められて、事前にものぐさな賢者を読んでおり、それをま
ねしたという可能性もある。
だとしたら、最初に﹃ものぐさな賢者﹄を書き始めた奴は一体誰
なんだ。
683
色々な謎を残しつつ、私は逃げ出したくなる心を押さえて、何と
か読み進める。現状ではどこにメッセージがあるのか分からないか
らだ。もしかしたら、各ページの頭文字をとると文章になるとか、
そういう推理的なメッセージの可能性だってある。女神の所為で上
手く情報を伝えられないのだとしたら、その裏をかく必要性がある
だろうし︱︱。
あとがきまで読み進めた所で、私はページをめくる手を止めた。
﹃この話は、俺の罪の証である。俺が作った最悪の結末を変える為、
この本を書いた﹄
若干の意訳をしているが、書かれている言葉はまさにこれだ。
ものぐさな賢者は、主人公のその後が分からない結末になってい
た。明らかに主人公の責任ではない所で恨まれるが、主人公は﹃私
を恨む事で貴方が生きられるならばそれでいい﹄と言って、何処か
に消えてしまうのだ。その後誰も主人公を見たヒトはいないで終わ
っている。
この物語は、バッドエンドと言い切るのも難しいが、決してハッ
ピーエンドではない。
たぶんこのあとがきを読んだヒト達は、解釈に悩むのではないだ
ろうか。ただエストの手紙を読んだ私が、自分なりに解釈するとす
れば、これは物語に対する言葉ではなく、コンユウ自身の懺悔では
ないかと思えた。
エストの手紙が正しいならば、別の世界のコンユウは私を刺し、
私は暴走して世界を滅ぼした事になる。うん。確かにそれは、私に
とってもコンユウにとっても最悪の結末だ。
でも私はちょっとだけ疑問な部分もあったりする。世界が滅んだ
らエストはどうやって滅んだ世界で生きていたのだろう?エストが
混融湖に落ちて助かったという事は、滅んだ瞬間まで見とどけたわ
684
けではないのだ。
だとしたら、エストが見たのは滅びかけた世界という事になる。
本当にその世界は滅んだのだろうか?
そんな事、今はもう誰にも分かりはしないのだろうけれど。
﹃誰も裏切る事ができなかった俺は、一番優しかったヒトを犠牲に
した。そして大切なモノを全て失った。これは俺の罪であるので自
業自得だ。でもどうして優しい人ほど、犠牲にならなければならな
いのだろう︱︱﹄
あとがきは、コンユウの苦悩が伝わってくる内容だった。
犠牲の上に成り立つ幸せとはいったい何なのかや、無知である事
の罪深さなどが書かれていて、本編に関係するようなしないような、
そんな内容だ。何も知らなければ、色々考えてこの話を書いている
んだなぁだけで終わらせてしまいそうである。
﹁馬鹿だろ﹂
あとがきは、コンユウが自分の事を極悪人のように書いていた。
でもこれだけ悩んでいるヒトが、優しくないヒトであるわけがなく
て。
﹁優しいヒトは幸せになるべきなんだろ﹂
そうまとめられているのに、全然駄目じゃないか。本当にコンユ
ウはいつも一方的で。これでは、コンユウがどうして私を刺したの
かとか何も分からない。ただ恨めとか、本気で馬鹿だ。無知のまま
ではいけないと書いておいて、自分でやっていれば世話がない。
全て読み終わった私は、もやもやした気持ちのまま、パタンと本
を閉じた所で気がついた。えっ?これだけ?
﹁いやいやいや。懺悔で終了?﹂
685
そんなのあり?
エストが意味深に書いてくれていたので、何かここにメッセージ
が込められているのかもと思ったが、それらしきものが見当たらな
い。いや確かにこのあとがきはメッセージっぽいけど、本当にこれ
だけなのだろうか?
まさか本気で私にこの本に隠された謎を推理しろとか言っている
?無理だから。推理小説とか、ストーリーを楽しむものだと思って
いるから。
冗談半分で考えた、本のページの頭文字を読むと文章になるとか
が現実味を帯びてくるとぞっとした。⋮⋮私も本は読むが、推理物
はほとんど読んだ事がない。このままでは、コンユウの真のメッセ
ージに気づくのは鬼籍に入った後のような気がする。つまりは死ぬ
まで分からないと︱︱。
﹁コンユウ、ごめん﹂
私は何かないかと、パラパラとめくってみたが、小さくため息を
ついて本を閉じた。
今考えても絶対分からない気がする。これはちょっと落ち着いて
から、対策を考えるべきだ。この内容を他人に読まれるのは苦痛だ
が、カミュとか頭のいいヒトの協力を得るのが一番堅実的だろうか。
というか、そうしなければ無理だ。
﹁えーっと、そうだ。あとお守りがあったっけ﹂
私は早々に本の謎に迫る事を諦めて、エストからの手紙が入って
いた箱を開けた。窓の外が徐々に明るくなってきた事には気がつい
たが、今の興奮した状態では眠れないと言いわけして、見なかった
事にする。また誰かに怒られるんだろうけれど、仕方がない。
手紙と一緒に入っているお守り袋は、古ぼけているが、いたって
686
普通だった。何か仕掛けがあるのだろうかと目に魔力を集めて再度
見る。すると時属性を若干帯びているらしく、うっすらと薄紫に輝
いた。
﹁⋮⋮というか、時間が止めてあった?﹂
時魔法は、モノの時間を遡らせたりとかはできないので、時を止
めた時点ですでに古ぼけていたという事だ。今は魔力の供給が止ま
り、普通に時間を刻んでいるが、魔方陣があったような形跡が見え
る。
﹁ちょっと失礼します﹂
お守り袋は巾着のようになっているので、中身を見せてもらう事
にした。見られて嫌ならば、こんな所に入れてはおかないだろう。
紐をほどき逆さにすれば、巾着の中から、小さく折りたたんだ紙
が2つコロンと落ちた。広げると、1つは魔方陣が描かれ、もう1
つは⋮⋮。
﹁直列つなぎと並列つなぎ?﹂
何故かそんな図面と文字が出てきた。うん。さっぱり意味が分か
らない。
﹁それにこの魔法陣⋮⋮何?﹂
時属性の魔方陣ではあるが、何かの時を止めるなどの指示が入っ
ていない。というか、これはまだ完成していない、多数の魔法陣を
一括管理する用の魔方陣に似ているような⋮⋮。
ここに魔力を通したら、何処かに繋がるという事だろうか。エス
トやコンユウには、構想を話して案的な魔法陣を見せていたので、
彼らが完成させたっておかしくない。もしくは別世界ではすでに完
成させていた可能性もある。
﹁やってみるか﹂
というかやらないという選択肢を選んだらそこまでだ。
687
紙に魔力を通してみると、いきなり隣に置いた、ものぐさな賢者
の本が光った。
えっ?光った?!何で?
恐る恐る光っているページをめくると、文字の一部が光っていた。
光の色は紫ではなく金色なので、どうやら途中で属性が光に転換さ
れたらしい。
﹃これは何?﹄
光った文字を拾い集めると、そんな言葉ができた。別の光は直列
つなぎの図と、新しい魔方陣を描いている。魔法陣はパスワード的
な部分が抜けているようなので、そこにこの質問の答えを入れろと
いう事だろうか。
⋮⋮なんてファンタジーな仕掛けだろう。もっと簡単な方法もあ
ったんじゃないかな?
今思うと精霊の見え方も、コンユウはファンタジーな感じだった
し、この仕掛けは彼の趣味なのかもしれない。特にコンユウは、共
同で研究している時も凝り性な部分があったし︱︱。 私は生ぬるく笑った。
まさかエストがコンユウがどうしているかの発言を控えたのは、
この中二病チックな仕掛けを口にするのが痛かったからとか?大人
になると、過去の作品を見返せないのと同じで⋮⋮。
いやいや、今はそんな事を考えている場合じゃない。いいじゃな
い、中二病が発病したって。すでにコンユウはツンデレ素直な寂し
んぼうという謎属性なのだ。そこに中二病が入ったって、そういう
お年頃なんだし。
私はとりあえず頭の片隅にツッコミを追いやると、本に浮かび上
がった魔法陣にパスワードを加えたモノを想い描き、魔力を注いだ。
688
すると本が突然ひとりでにページをめくり始めた。そして本ペー
ジが闇魔法で黒く塗りつぶされ、再び光魔法で別の文字が浮かび上
がる。
だから、何でそんなにイリュージョン。それとも私が、こだわら
なさすぎなのだろうか。
無駄に凝っている魔法の仕掛けを、生ぬるい視線で見ながら、私
はコンユウからのメッセージを読み始めた。
689
33−1話 新たな未来へ向けて
コンユウからのメッセージを読んだ私は、色々覚悟を決める事に
した。
図書館でまどろむのはとても楽だけど、エストが作ってくれたこ
の時間をそれだけに使うわけにはいかない。日が昇ってから、一度
仮眠を取った私は、腫れぼったい目のままベッドから起きあがった。
﹁水よ。ここへ﹂
命令しただけで、盥の中になみなみと水が溜まる。その水で顔を
洗うと、眠いながらも若干スッキリとした気分になった。
﹁⋮⋮でも、面倒﹂
生きるって面倒だ。
誰かに関わるって、本当に面倒だ。それでもここで逃げ続けたら、
もっと面倒な気分になるのだろう。
コンユウからのメッセージは、何というか、手紙というよりも情
報の羅列だった。
戦が何処で起こった。どういう陣形だった。新しい魔法を見つけ
た。古代魔法を見つけた。賢者を見た。混ぜモノが居た。
世界を旅して、時を旅して、分かった事を書き込んでは本として
残し、そして再び混融湖へ飛び込む。そんな生活を繰り返している
のだけは分かった。そこには、コンユウの目的は何も書かれていな
い。でも何かを変えようとしている。それだけは痛いほど伝わって
きた。
そして最後に一言。自分の現在地と、﹃お前ら、首を洗って待っ
ていろ﹄という言葉で締めくくってあった。
690
良し。その喧嘩買った。でも、ただ待つだけと思うな。
エストは未来を目指して過去を生き、コンユウが時間を渡るとい
うのならば、私は彼らの作ったこの世界で彼らを見つけよう。
この時間が何処かで繋がっているというならば、きっと彼らの為
に何かができるはずだ。その為には、私は私が生きられる場所を作
らなければないない。
どれだけ頑張ったって、私が最弱だという事は変わりない。だか
ら、まずは自分の事からだ。
私は久々に制服に腕を通した。そしてその上に、白衣を着こむ。
学校で勉強できないというのならば、自分で勉強するしかない。
幸い、ここには数多くの文献がそろっている。薬学の本は魔法の本
に比べてとても少ないけれど、分からなければ、自分で研究だって
できるのだ。 ﹁後は︱︱﹂
私は時計を見て時間を確認した。もうすぐ、アリス先輩が図書館
へやってくる時間だ。白衣をひるがえし、館長室を出て、図書館の
受付へ向かう。
ああ。体がだるい。重い。正直今すぐ寝たい。
館長室を出ると心細くなって、もう一度引きこもりたくなる。最
弱、怠け者、対人関係音痴。でも仕方がない。これが私である。だ
からそれを認めた上で、最善を目指してできる事をするのだ。
﹁あら?おはよう。こんな時間に珍しいわね﹂
受付へ近づくと、アリス先輩は私に気がつきほほ笑んだ。しかし
すぐにぎょっとした顔で私に近づいてくると、ガシッと手で私の両
頬を押さえた。
691
﹁ちょっと、どうしたの?!﹂
﹁へ?﹂
﹁凄い顔じゃない。ちょっと来なさい﹂
おや?
色んな覚悟を決めてきたはずなのに、私は先輩に引っ張られて事
務処理をする部屋に連れ込まれた。
﹁ほら。これで少し目元を抑えなさい。冷めたら今度冷たいの渡す
から﹂
渡されたタオルは適度に温かくなっていた。ぼんやり貰ったタオ
ルを見ていると、グイッと腕を掴まれて顔に当てられる。
﹁あつっ﹂
﹁ぼんやりしない。朝は戦争よ。とにかくオクトちゃんも一応女の
子なんだから、すこしは身だしなみを気にしなさい﹂
﹁えっと⋮⋮はぁ﹂
ああうん。まあ、先輩にっとっての朝の時間が大切なのは分かる。
現在ほぼニートである自分とは違いとても忙しいのだから、戦争と
いうのも間違っていないだろう。
ただ私を女の子扱いするのは如何なものかと⋮⋮。でも目が腫れ
たまま、ミウにあった日には、過剰なぐらい心配するだろうし、そ
う考えれば、少しは身だしなみを整えた方がいいかもしれない。
﹁髪の毛も、寝ぐせだらけじゃないっ!﹂
﹁これぐらいならいいかと⋮⋮痛タタタタッ﹂
温かいタオルで顔を押さえていると、今度は髪の毛を引っ張られ
た。
﹁ちゃんとお風呂は入っているの?!﹂
﹁あー⋮⋮一応魔法で、垢は落としています﹂ えっと、駄目じゃないですよね。
恐る恐る先輩を見ると、とても微妙な表情をしていた。
692
﹁まあ、現状じゃそれも仕方がないのかしら。でも図書館で働いて
いる以上、最低限の身だしなみは整えなさい﹂
﹁はい﹂
確かに浮浪児のような格好でフラフラするのは、あまり良い事で
はないだろう。これでも一応、制服に着替えたりして気を使ってみ
たのだが、しばらくヒト前に出ない間に、感覚が大分と退化してい
たようだ。
﹁折角、可愛い顔で産んでもらえたんだから、大切にしないと﹂
﹁そうですね﹂
﹁あら、珍しく自信満々じゃないの﹂
﹁いや。これは先祖の努力の結果ですし﹂
顔立ちに関する事は、私の努力ではない。それに私も混ぜモノ特
有の痣さえなければ、整った顔をしていると思うし、美醜の判断ぐ
らいはできる。
たぶん美形系統の顔立ちのヒトは、先祖が面食いだったのだろう
なぁと思う。
﹁⋮⋮オクトちゃんにかかると、そういう意見になるのね﹂
何だか疲れたような言葉に、私は首を傾げた。こういう意見では
なければ、どういう意見を望んでいるのだろう。
﹁そうだ。先輩。少し確認したい事がありまして﹂
﹁何かしら?私で答えられる事なら、何でも聞いてちょうだい﹂
﹁えっと、今、館長って誰になっているんですか?﹂
一応現在アリス先輩が館長代理という役を務めているが、代理は
あくまで代理で館長ではない。もしも空白ならば、このままだと中
立を保つのは難しくなるだろう。魔法使い側、王族側、どちらも図
書館の技術は欲しいはずだ。
693
﹁そんなの、オクトちゃんに決まっているじゃない。館長が指名し
たんだもの。私はあくまで代理よ、代理﹂
やっぱりか。
館長が次の館長に指名したのは、私とコンユウだ。その内、コン
ユウが居なくなってしまえば、残るは私しかいなくなってしまう。
﹁なら、ちょっと館長として命令というか、お願い事があるんです
けど、良いですか?﹂
私は顔からタオルを外すと、先輩をまっすぐに見た。
﹁ええ。館長が貴方を指名した時点で、ここはオクトちゃんのもの
よ。何でも言ってちょうだい。お風呂が欲しい?それとも、キッチ
ンをもう少し充実させたい?﹂
﹁⋮⋮あの、私、ここに住み着くつもりはないですから﹂
ここにいるのは、一時的なものであって、永遠ではない。そんな
工事されても正直困る。
﹁ええ。良いじゃない。いつだって好きな本が読めて、引きこもっ
ていられるのよ﹂
﹁まあ、それは魅力的ですけど、それもどうかと。ヒトとして色々
なくしてしまうと言いますか⋮⋮﹂
引きこもりを推奨しないで下さい。本気で引きこもりたくなって
しまいますから。折角このままじゃいけないと、部屋から出てきた
というのに。
﹁ちっ﹂
﹁舌打ちしないで下さい。一体、何なんですか﹂
そんな私の自堕落生活を肯定された上に勧められるのは、正直困
る。誘惑度合いが高すぎるのだ。
﹁まあこれは私の見解でしかないんだけど、風や水の属性を持って
いるヒトってね、中々一か所に留まれない気がするのよね。特に風
の属性のヒトが顕著な気がするわ﹂
694
﹁はあ﹂
血液型占いならぬ、属性占い的なものだろうか。私の場合は、風
と水の属性が確かに一番大きい。でも引きこもり気質なので、そん
な事もない気がする。あと風の属性と言えば、コンユウか。彼の場
合は時を駆け巡っているので、あながち属性占いも間違いではない
が⋮⋮うーん。
この国は比較的色んな属性のヒトが居るので、そういう感じに見
えるのかもしれないが、黄の大地は風の属性のヒトが多いというし
⋮⋮眉唾ものな気がする。
﹁だからね。風の属性のヒトに対しては、少し重石があるぐらいで
ちょうどいいと思うのよね。ここを住みよい環境にしたら、オクト
ちゃんも出ていきにくくなるでしょ?﹂
﹁⋮⋮それ、先に言ったら駄目な話な気がするんですけど﹂
普通、引くと思う。
というか、そういうのはこっそりやるべき事ではないだろうか。
気がついたら雁字搦めというのも、かなり怖いので、あれなんだけ
ど。
﹁あら。オクトちゃんは、こうやって誰かが行かないでほしいと思
っているというだけでも、十分重石になると思うのよね。それに、
言わないと気がつかないタイプだし﹂
良くご存じで。
たぶん、言われなければ、凄く過ごしやすいなぁだけで終わった
気がする。きっと混ぜモノだから、暴走しないように色々気を使っ
てくれているんだろうなぁなんて呑気な事を考えている自分が想像
できた。
流石先輩だ。ヒトの事を良く見ている。
﹁それで、もっと過ごしやすくしたいわけじゃなかったら、何をし
たいのかしら?﹂
695
そうだった。
私は改めて、先輩をまっすぐ見る。
﹁館長の権限で、次の館長にアリス先輩を指名します﹂
﹁は?﹂
アリス先輩は、想像もしていなかったようで、ぽかーんとした顔
をして私を凝視した。まあそういう反応だよなとは思ったので、仕
方がない。
﹁館長が次の館長を選べるんですよね﹂
でなければ、私が館長になるはずがない。
﹁ええ⋮⋮そうだけど。ええっ?!ちょっと、何?!どういうこと
?﹂
﹁色々考えた結論です。私よりアリス先輩の方が相応しい﹂
﹁ちょっと、何言っているの?!私は、時属性を持っていないのよ
っ!﹂
悲鳴のように叫び慌てふためくアリス先輩を見るのは初めてだっ
た。慌てるとこういうヒトだったんだなぁと思うと、少し可愛らし
い。どうにも先輩は、初めて館長室に案内してくれた時の印象が強
くて、冷静沈着なイメージなのだ。
﹁そして私は、館長を引退して、図書館の協力者になります。引き
続き時魔法は継続しますし、私がもし時魔法を維持できなくなった
時の対策も考えておきます﹂
﹁そんなのオクトちゃんが館長をして、新しく時属性の子を探して
いけば︱︱﹂
﹁いつまでも時属性にこだわっていたら、ここを維持していくのは
難しいと思う﹂
私は駆け引きとか、そういう事に向いていない気がする。そんな
ヒトが館長になれば、数年で図書館は魔法使いか王家のモノになっ
てしまうだろう。
696
ここはエストが皆に残してくれた逃げ場なのだ。私を含めて、勢
力争いに利用されやすい何かを持つ生徒が、ここで働いている気が
する。だからなくしたくない。
その為には、対人スキルが底辺な私では駄目なのだ。
﹁だから先輩お願いします﹂
私は頭を下げた。
私は図書館を失いたくない。ここはいっぱい思い出が詰まった場
所だから。館長が居なくなったのだから変化はしてしまうだろうけ
れど、それでも消えて欲しくない。
﹁混ぜモノというカードは先輩にお任せします。好きに使って下さ
い﹂
もしも先輩が、魔法使い側についたり、王家側についたら、それ
までだ。でも私という存在を利用してここを存続できるなら、私は
︱︱。
ぐにっ。
﹁ふへ。へんはい?﹂
突然、私は頬を引っ張られた。そのまま顔を上げると、怖いぐら
いの笑顔の先輩と目が合った。
﹁何勝手に1人で盛り上がっちゃってくれているのかしら?﹂
ぐにぐにと私の頬を引っ張る先輩は何処までも笑顔だ。頬を引っ
張る力は痛くて仕方がないというほどでもないが、その笑顔は怖い。
﹁あのね。オクトちゃんがこの図書館を大切に思っているのと同じ
ぐらいに、私というか、私達もこの図書館を大切だと思っているの
よ﹂
﹁はあ﹂
なら、丁度いいのではないだろうか?
697
でも笑顔の先輩からは、怒気のようなものを感じる。
﹁でもって、大切な図書館というのはね、この場所を表しているん
じゃなくて、貴方を含めた皆がいる図書館を指しているの。もしも
ここの職員が、オクトちゃんを犠牲にする事を良しと思っていると
思うなら、全員に頭を叩かれて、怒られてきなさい﹂
﹁へっと、ほれは、ちょっと⋮⋮﹂
全員に叩かれて、怒られる。私の頭は太鼓ではないので、勘弁し
てほしい。
﹁まあ正直、館長が居ない図書館だと、それぐらいの強みを持って
いないとやっていけないのも確かかもしれないけどね。でも自分を
安売りしないで大切にしてちょうだい﹂
そう言って、先輩は私の頬から手を放すと、抱きしめた。
﹁貴方は、この図書館の大切な仲間なんだから﹂
698
33−2話
﹁とうとう、来てしまった﹂
魔王のお城とかに行く勇者ってこんな気持ちなのかなぁと現実逃
避をしながら、海に面した建物を見上げる。まさかこの忌地にもう
一度足を踏み入れる事になるとは思わなかった。ザザーンっと聞こ
えてくる波のBGMが余計に困難に立ち向かっている気分にしてく
れる。
というか、普通に考えて、拉致された場所⋮⋮しかも犯罪者の集
う海賊の基地にもう一度戻るなんて完璧自虐趣味だ。我ながら、選
択肢のありえない少なさに涙が出そうである。でも混ぜモノである
私が住めそうな場所はここしかない。
先輩に図書館の事をお願いした私は、次に自分が住む場所を探し
に出かけた。永住するなら山奥と心に決めているので、そこはぶれ
ていない。しかしまだ学校で勉強をしなければいけないと考えると、
あまり学校から離れるのは得策ではなかった。
もちろんあのまま図書館に住みつくのも一つの手だが、あそこは
居心地が良すぎて、いつまでたっても前に進めない気がする。それ
どころかこのままでは、引きこもりニートだ。
﹁ああ、でも⋮⋮うーん﹂
今なら引き返せる。
この場所はいくらなんでも早まり過ぎな気がしてきた。かといっ
て、混ぜモノに部屋を貸してくれる所がまったくないのも現実だ。
例えば、伯爵様であるヘキサ兄︱︱ああ、今は兄じゃないか︱︱
にお力添えしてもらって、何処か空き民家を借りるという手もある。
一応元教え子だし、少しは融通してくれるのではないだろうか。で
699
も伯爵領の近くには魔の森がある為に転移が難しいし⋮⋮うーん。
かといって、自分の叔母に頼むのもちょっと⋮⋮。流石に神様と同
居も色々マズイ気がするし。
当たって砕けるか、それとも逃げて引きこもるか。これがゲーム
なら、セーブしてから決められるのだが、生憎とここは現実だ。
﹁あれ?もしかして、先生じゃないっすか?﹂
﹁ひっ?!﹂
ぐるぐると考え込んでいると、ぽんと肩を叩かれ私は反射的にの
けぞった。心臓が飛び出るかもしれないと心配するぐらい心拍数が
上がる。
肩を叩いた相手は、赤髪をポニーテールに結んだ、何とも派手な
格好の青年だった。見覚えはあるようなないような⋮⋮。でも﹃先
生﹄という単語には聞き覚えが合った。
私がその単語で呼ばれていたのは、海賊でだけだ。
﹁ほら、俺っす。ロキっす。覚えてないっすか?﹂
﹁えっと、ロキ?﹂
そういえば、その人のよさそうな顔は、私の記憶を刺激するもの
があった。厨房で困っていた時に、よく助けてくれた海賊の青年に
よく似ている。ただこんなに派手っこい恰好のヒトだったっけとも
思うが、なにぶん5年以上昔の話だ。変わっていたっておかしくな
い。
﹁もしかして、俺らに会いに来てくれたっすか?嬉しいっす。遠慮
せず、入るっす﹂
﹁えっ、いや。あの︱︱﹂
どうしようと悩んでいるだけだったはずなのに、ぐいぐいと中に
押しいれられてしまった。ひ弱なもやしっ子な私と、肉体労働どん
とこいな海賊では、力の差など歴然としている。
700
﹁先生が帰ってしまった後、皆先生に会いたがっていたっすよ﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
本来ならとてもうれしい言葉であるはずだ。しかし海賊に会いた
かったと言われると、ぞくりとしたモノを感じるのは何でだろう。
﹁あれ?副船長、お帰りなさい。そっちのちっこいのは、誰なんす
か?もしかして、コレ︱︱﹂
﹁馬鹿っ。副船長の趣味はボンキュボンだってーの!﹂
小指を立ててニヤリと笑った青年を、別の青年がどついた。相変
わらず、賑やかな海賊たちだ。
ん?でも、今変な単語が聞こえたような?副船長とか、なんとか
⋮⋮。
﹁後で紹介してやるから待ってろ﹂
ロキはヒラヒラっと手を振ると、私の手を掴んでずんずんと奥に
進んでいく。
﹁えっ、あの。待って、ロキ﹂
﹁あいつ等、先生が居なくなった後に入った新人なんっす。後で躾
けておくから、勘弁して欲しいっす﹂
﹁いや、そうじゃなくて⋮⋮えっと、副船長なの?﹂
すると、ピタリとロキは足を止め、へらっと笑った。ゆるい笑顔
は、年上なのに何だか可愛くて癒される気分になる。
﹁俺、頑張ったっすよ﹂
﹁へぇ﹂
﹁そうっす。だから、ちょっと他の船員が居る所では少し恰好つけ
るっすけど、先生は黙っていて欲しいっす﹂
なるほど。だから、さっき口調が違ったのか。
青年なのに、何処か可愛らしさも兼ね備えたロキの言葉に、私は
コクリと頷いた。別にロキの事を言いふらしたところで私に利点が
あるわけでもない。
701
﹁やっぱり先生は、優しいっすね﹂
よしよしと私の頭を撫ぜると、ロキは再び私の手を掴んだまま、
歩き出した。
流石に5年も前だと、建物の中の構造は忘れてしまっているよう
だ。こんなんだったっけと思いながら、周りを見渡す。
﹁そういえば、何処に向かってる?﹂
﹁船長の所っす。見かけたら、ぜひ立ち寄ってもらえって言われて
るっす﹂
﹁げっ⋮⋮﹂
ロキの言葉に背筋がぞくぞくし、鳥肌が立つ。何でだろう。どう
してもロキの言葉の裏から﹃見つけたら、連れてこい﹄というセリ
フが聞こえてくる。
やっぱり選択肢を間違えたかもしれない。
船長という言葉だけで、反射的に脳裏に学校までの転移の魔法陣
が浮かんだのは仕方がないと思う。まあでも、今なら転移もできる
し、いつだって逃げ出せるじゃないか。大丈夫、大丈夫。
そう自分に言い聞かせるが、足取りがさっきよりも重くなった気
がした。
どうしよう。やっぱり、学校へ戻るべきか︱︱。
﹁﹃げ﹄はないだろ、﹃げ﹄は。相変わらず、失礼極まりない混ぜ
モノだな﹂
低い男の声に、ざわざわっと鳥肌が立った。
﹁あれ?船長。部屋にいたんじゃなかったんっすね﹂
﹁ああ。さっき上からお前らの姿が見えたからな﹂
ぎぎぎっと、油切れのような音がしそうな動きで声の方を見上げ
れば、黒髪黒目の男と目があった。この年齢不詳で性格の悪そうな
顔は、しっかりと記憶に残っている。
702
反射的にロキの後ろに隠れてしまったのは仕方がないと思う。あ
れだ。きっと、この顔はトラウマなんだ。
﹁お前、まだ人見知りをしているのか?﹂
いや、人見知りとか、そういう次元じゃないから。
三つ子の魂百まで。苦手なモノはいつまでたっても苦手なんだか
ら仕方がない。
﹁船長、先生を驚かせたら駄目じゃないっすか﹂
﹁むしろ俺は、何故お前の後ろにかくれるのか理解に苦しむんだが﹂
﹁人徳っす﹂
ロキの言葉に、コクコクと頷く。昔仕事を手伝ってくれた優しい
ヒトと、仕事をおしつけた上に約束を破ろうとしたヒトが居たなら、
前者を信頼するに決まっている。しかし船長であるネロは、残念そ
うな目で私を見た。
﹁相変わらず、見る目がないな﹂
どれだけ自信過剰なんだよ。
どうしてそんな結論になるのか呆れたが、私の感覚の方が正常だ
と思うので、とりあえず無視する。いちいち付き合っていたら疲れ
るだけだ。
﹁それで、今日は何の用だ?就職活動か?﹂
﹁それだけは、絶対ない﹂
どうして就職活動で、海賊の根城に近づくのだろう。就職試験の
内容が、海賊の撲滅だったとか?うん。ないわ。誰が悲しくて、そ
んな恐ろしい試験をする場所に就職をするものか。
もちろん、海賊は職業と認めていないので、そういったボケは受
け付けていない。
﹁相変わらずだな。それなら、何の用だ。ただ懐かしみに来たとい
703
う事だけではないだろう?﹂
そりゃそうだ。
拉致監禁を懐かしんでそこへ行くって、それはマゾ過ぎる。流石
にそんな自虐趣味はない。私はぐっと手に力を込めると、ロキの後
ろから前に出た。折角怖い思いをしてここまで来たのだ。ちゃんと
やる事だけはやらなければ。
﹁取引したい﹂
私は誤魔化されないように、しっかりと目を見開いてネロを見た。
今回はあの時のように助けが来るとは限らない。むしろ保護者不在
の状態なので、助けはないと思った方がいいだろう。
取引は細心の注意をはらう必要がある。
﹁ほう﹂
ネロがニヤリと笑った。
◆◇◆◇◆◇
﹁これが、俺らが使っている船っすよ﹂
﹁へぇ﹂
海賊の船ってどんなのだろうと思ったが、意外に普通だ。頭の先
に羊やライオンがついていたりしない。⋮⋮ああ、違った。これは
前世の漫画の中の話か。
まあその代わりと言ってはなんだが、先頭に女の像が飾られてい
704
た。これが海賊のシンボルか何かなんだろうか。
﹁あれは水の神の像っす。女の形とは限らないんっすけど、どんな
船でも守り神として水の神をモチーフにしたものを、必ずつけてい
ると思うっすよ﹂
私がマジマジと女の像を見ていると、ロキが説明してくれた。
船長との取引で、私はとりあえず仮の住処を得る事ができた。
その代り私はここで掃除などの雑務を行い、以前と同様に厨房に
入るように言われている。もっと難しい事を言われるのかと思って
いたので、想像よりも大した事のない内容にホッとした。海賊にな
れはないとしても、海賊の為に魔法を使えぐらいの事は言われるの
かと思っていたが⋮⋮。船長って以外にいいヒトだったりするのだ
ろうか。いやいやいや。おいしい話には裏があると言うし、もっと
気を引き締めなければ。
とにかく滞在中に雑務を行う為には、ちゃんと海賊の陣地を知っ
ておかなければいけない。その為ロキに海賊船まで案内してもらっ
ていた。以前は厨房と部屋を行き来するだけの生活だったので、海
賊船を見るのは初めてだ。
﹁旗は?﹂
﹁ああ、旗は出港する時に掲げるんっすよ。先生は船は初めてっす
か?﹂
私はコクリと頷いた。
動力は風だけなのだろうか?それとも蒸気船みたいな仕掛けが何
かあるのだろうか?今まで海に遊びに行ったりする事もなかったの
で、全てが真新しい。
そもそも一番近くにいた時は、自分が助かる事が優先で、そんな
事考える暇もなかったしなぁと思う。海は混融湖同じように波打っ
ているが、あの時とは違い磯の匂いがした。やっぱりこっちの水は
塩水なのだろう。
705
﹁じゃあ、折角っすし乗船し︱︱﹂
﹁ああああああっ!!﹂
突然ロキの声を遮る様に、頭上から叫び声が聞こえて、私は顔を
上げた。声がした方は丁度太陽が昇っており、眩しくて上手く対象
を見る事ができない。一体なんだろう。
﹁ちょ、副船長っ!その子っ!!﹂
どうやら、叫んでいるのは少年のようだ。混ぜモノが珍しかった
のだろうか?私は太陽の光に眉をしかめながら首を傾げた。
すると誰かが船から身を乗り出し、飛び降りた。
その様子を見て、ぎょっとする。船の高さは結構高い。飛び降り
自殺をするには低いが、普通に考えたら怪我をする。
しかし飛び降りた少年は、屈んだような格好で身軽に着地した。
ドスッとか鈍い音は一切聞こえなかったように思う。まるで忍者だ。
飛び降りた少年は、背中に大きな剣を背負っていた。高い身体能
力から獣人かとも思ったが、黒髪に獣耳らしきものはないし、尻尾
などもズボンから飛び出ていない。
何が何だか分からず、私はさっとロキの後ろに隠れた。ロキの事
を副船長と呼んだから、たぶん海賊何だろうけれど⋮⋮。
観察していると、特に足を痛めた様子もなく、少年は上体を上げ
た。
﹁ちゃんと階段使わなきゃ駄目っすよ﹂
﹁いや。だって、それどころじゃなくてさ⋮⋮﹂
そう言って少年は黒い瞳で私をマジマジと見つめた。その瞳を見
ていると、何だか懐かしい気分になる。⋮⋮はて。前に海賊に来た
時に、こんな少年いただろうか?
﹁もしかして、オクトじゃないか?﹂
706
私は少年の言葉に、コクリと頷いた。
707
33−3話
私は手放す事でしか、誰かを幸せにできない。
私︱︱混ぜモノ︱︱がいると不幸になる。だったら初めから独り
でいた方が︱︱。
﹁あれ?﹂
パチッと目をあけると、見慣れぬ天井だった。状況が理解できず、
パチパチと数回瞬きをした。何だか変な夢を見た気がする。
というかここは何処だろう。
何か、こういう事が最近多いよなぁと、デジャブのような物を感
じる。
﹁オクト、大丈夫か?﹂
体を起こすと、黒髪の少年が声をかけてきた。状況が理解できず
首を傾げる。
確かさっきまでロキに海賊船を案内してもらっていたはずで⋮⋮。
それなのに、どうして私はベッドの上にいるのだろう。
﹁吐き気とか、痛い所があるのか?!﹂
﹁⋮⋮ない﹂
心配そうに私を見てくる少年に、私は首を振った。体がだるいの
は、精霊との契約の所為でいつもの事だし、痛いとかそういう事も
ない。
ただ自分の状況が理解できず不思議なだけだ。私の記憶は、この
少年が船の上から降ってきた所で止まっている。
708
﹁良かったぁ。突然目の前で倒れるから心配したんだぞ﹂
﹁えっ⋮⋮。どうも﹂
そうか倒れたのか。
いつもなら昼寝をしている時間だし、もしかしたら堪え難い睡魔
に襲われたのかもしれない。契約以来、精霊に魔力を搾取され続け
ているので、時折自分自身の電池が切れたように眠ってしまう事が
あった。今までは階段で眠りこけてしまっても、図書館の中だった
ので良かったが、これからは気を付ける必要がありそうだ。
﹁もしかして、オクトは体が弱いのか?相変わらず小さいし﹂
﹁そんな事はないと思う﹂
たぶん私の背が低いのは魔力に関係しそうだ。
魔力が大きいと成長というか老化が遅い。混ぜモノの成長には普
通というものが存在しないので、遅いとも早いとも言えないが、栄
養が足りていないからという事はないだろう。
それにアスタに引き取られてから、風邪もほとんどひいていない
し、丈夫な方だと思う。
﹁それなら良いんだけどさ。俺に何でも頼っていいからな。俺がオ
クトを守ってやるから﹂
﹁あー⋮⋮えっと﹂
何で?
頼って良いと言われるのはとてもありがたい話だ。色々海賊の事
は分からない事も多い。今のところ唯一教えてくれそうなロキは、
副船長なので、私に構ってばかりもいられないだろう。
でも私はこの少年に対して、彼が私を守ってくれるだけの何かを
しただろうか。さっき会ったばかりだしなぁ⋮⋮。いやでも、彼の
話し方を聞く限り、昔の私を知っていそうだ。
それに、私も何故か彼を見ていると、とても懐かしい気分になっ
た。何でだろう。
709
﹁オクト⋮⋮もしかして、俺の事忘れちゃったとか?﹂
ギクリ。
私があいまいな返事をしている事で、少年は私の現状に気がつい
たようだ。凄くショックが大きいような顔をされると、罪悪感でい
っぱいになる。
ここは空気を読んで、そんな事ないよというべきだろうか。でも
その後に、少年から名前をどうやって聞き出せばいいのだろう。そ
もそも私の話術ごときで誤魔化すなんて、かなり難易度が高いミッ
ションだ。
暑くもないのに、汗が出てくる。
この少年を悲しませたくないと思うのに、いい方法が思い浮かば
ない。そもそも、こんな風に黙っているのは、忘れましたと言って
いるようなものではないだろうか。
﹁そっか。オクト、まだ小さかったもんな。でも、俺はずっとオク
トの味方だから﹂
﹁⋮⋮何で?﹂
私なんかの味方になっても、何の得もないと思う。特に私の場合
は、暴走で世界を滅ぼす可能性があるので、私を守っても正義の味
方にはなれない。⋮⋮いや、ある意味暴走を止めるという観点で見
れば勇者か。でも状況的に、私ってゲームで言うところのラスボス
だよなぁと思う。混ぜモノが居ない世界の方が、どれだけ心優しい
だろう。
﹁オクトがたとえ忘れたとしても、俺はオクトのお兄ちゃんだから
な﹂
そう言って少年は笑うと、私の頭を撫ぜた。
⋮⋮お兄ちゃん?
兄といえば、ヘキサ兄だ。まあ、今はもう兄弟という関係ではな
710
いけれど、一番最初に頭に浮かぶ。でも兄的な立場というならば、
他にもいた。
黒髪、黒眼⋮⋮お兄ちゃん。まさか︱︱。
﹁⋮⋮クロ?﹂
記憶にあるクロは、綺麗な黒髪と黒い瞳を持った男の子だ。右も
左もわからぬ私を、小さい手で引っ張ってくれた。
﹁思い出してくれたのか?!﹂
﹁いや、思い出すも何も⋮⋮全然違うというか﹂
だってあの時私が5歳だったから、クロは6歳だったはずだ。も
っと私と身長も近くて、やんちゃだが可愛らしい顔をしていた。今
はどちらかというと、可愛いというよりも恰好いいに進化を遂げて
いる。身長も私と結構差ができていた。私を撫でる手だって、あの
頃よりずっと大きい。
﹁本当にクロ?﹂
﹁こんな事で嘘ついてどうするんだよ。グリム一座で一緒だったク
ロだ。良かった、覚えていたんだなっ!﹂
﹁⋮⋮忘れるわけない﹂
あの楽しかった時間を、誰が忘れられるというのだろうか。
とても大切で、思い出すと苦しくなるぐらい幸せで。だから私は
壊さないように、そっと手放したのだ。
﹁全然会いに行ってやれなくてごめんな。言いわけみたいであれだ
けど、俺、オクトが魔術師に引き取られたとしか知らなくて﹂
その言葉に私は首を横に振った。
私は私の人生に彼を巻き込まないように手放したのだ。会いに来
てしまったら意味がない。私を無条件で愛してくれた優しいヒトな
のだ。不幸にはしたくない。
711
﹁アルファさんもいるの?﹂
クロがここに居ると言う事は、アルファもここにいると言う事だ
ろう。アルファさんは武芸の達人だったイメージがあるし、彼女な
ら女だけど海賊もやっていけそうだ。
﹁いや。母さんは、数年前に流行り病で死んだんだ﹂
﹁えっ﹂
死んだ?
衝撃的な言葉に、どう言っていいか分からず、私は言葉を失った。
私の中のアルファさんはとても強くて綺麗な方で⋮⋮死という単語
と全然繋がらない。
﹁そんな顔するなって。ずっと前の事だからさ。ああでも、オクト
が思い出してくれたなら母さん喜ぶかもな。オクトの事を心配して
たからさ。だから良かったら今度俺と墓参り行かないか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
まさかクロの方がそんな事になっているとは思わなかった。私は
ずっと、クロはアルファさんと一緒に幸せに暮らしているのだと思
っていた。
﹁なら、その後海賊に?﹂
この世界は、子どもが一人で生きるには、とても厳しかった。大
した力もない子供を好んで雇う店なんて、ろくなものがないのだ。
かといって孤児を育てる施設は、よっぽど運がないと入れない。し
かも運よく入れたとしても幸せに暮らせるとは限らないと聞いた事
がある。
海賊を職業としていいのかは分からないが、選択肢が少ない中で、
まだマシな居場所だったのかもしれない。
﹁いや、その後色々あって⋮⋮まあ色々だな。海賊に入ったのは、
最近だ。オクトこそ、どうしてここにいるだ?引き取ったっていう
712
魔術師はどうしたんだよ﹂
﹁えっと⋮⋮あー﹂
どう説明するべきか。
別にアスタが死んだわけではない。ちょっと記憶喪失になって、
とりあえずそれを放置したまま、私が家を出たわけだし。その後し
ばらく図書館でニートしていたけれど、これじゃあ、ヒトとしてま
ずいと思って社会復帰目指してみたのだ。でもいられる場所が犯罪
者集団の所だけで⋮⋮、そして今である。
﹁色々あって、私はアスタ︱︱魔術師の家を出て、まあ色々あって、
ここに住む事になったかな?﹂
ニート云々の話はできたらあまりしたくなくて、私は色々ぼやか
してみた。折角再会できたクロを無闇に心配させるのも嫌だし、逆
に残念な子という目で見られるのも嫌だ。
とりあえず、私はへらっと笑って誤魔化すことにした。すると同
じような表情をしたクロと目が合う。多分クロも色々あったのだろ
う。
﹁ここに住む事になったって、海賊に入ったんだよな?﹂
﹁まさか﹂
海賊に入るには入団試験というものがあるのだと、以前ライに聞
いた事があった。勝てば官軍。強いものが生き残る世界だ。
最弱な私など、一瞬でプチっと打ち殺されてしまう。痛いのとか
耐性がないので、暴走の原因になりかねない。そんなものは、全力
で辞退するに決まってる。
﹁私は部屋を間借りしただけ。学校を卒業したら出ていく﹂
今回、部屋を借りるにあたり、船長とはそう契約をした。もちろ
ん、今は文字を読んだり書いたりできるので、紙でのやりとりをし
ている。だから今度こそ大丈夫だ。
713
最悪、転移魔法だってあるのだし。
﹁オクト、学校に通っているのか?﹂
﹁うん﹂
実際は現在休学中だけどねっと心の中で付け加えた。でも近いう
ちに、カミュが何とかしてくれる予定なので嘘ではない。
ただ復学できたとしても、普通に授業を受けるのは難しいだろう。
大方、特別教室で授業を行うのではないだろうか。結局クラスには
なじめないままだったなと思うと残念だけれど、仕方ない。それに
私はこれ以上、エストやコンユウのような近しいヒトを作る気はさ
らさらなかった。
再会できたことは嬉しいが、できたらクロの近くにもあまり居た
くはない。もしもまた何か厄介事に巻き込まれた時、身軽な方がと
ても楽だ。
﹁卒業したら、山奥で薬師をするから。その勉強中﹂
﹁へ?山奥?﹂
クロが素っ頓狂な声を出したが、私は冷静に頷いた。
遅かれ早かれ伝えなければいけない事だろうし、こういうのはあ
らかじめ宣言しておいて理解を求めておいた方が、別れる時に楽だ
ろう。
できれば、山奥でもヒトがあまり入ってこない場所がいい。一番
理想的なのは、転移魔法も中々使えない﹃魔の森﹄だ。あそこなら
ば、カミュやライ、それにミウも、簡単には来れないと思う。彼ら
はアスタのようなチートな魔法センスは持っていないし、馬車で半
日揺られた上に、山を登るなんて事はそう何度もできないだろう。
最初はやってきたとしても、次第に足は遠のき、いつしか誰も来
なくなるはずだ。そうすれば、そこは私の理想郷となる。
もちろんその為には、私はもっと転移魔法について勉強をし、﹃
魔の森﹄でも転移魔法を使えるようになる必要があった。それに誰
714
も入らない﹃魔の森﹄にどうやって家を建てるかや、誰に許可をと
るべきなのかなど、課題も多い。
とりあえずまずは、風の神である叔母にでも相談してみようかと
考えている。勘でしかないのだが、﹃魔の森﹄はもしかしたら、神
様が住んでいる場所と関係しているのではないかと思うのだ。一度
行った樹の神の家の場所は、カミュも知らないと言っていた。もし
かしたら、反則技で異空間とかいうオチもあるかもしれないが、そ
うでないならば、こういう誰も立ち入れない場所が怪しい。
﹁何で山奥なんだよ。大変だろ?﹂
﹁私は混ぜモノだから﹂
﹁なんだよソレ﹂
﹁混ぜモノは何処にも歓迎されないから。誰もいない場所なら気を
使わずに︱︱﹂
最後まで言う前にクロが私を抱きしめた。
﹁オクトを引き取った魔術師は何やっていたんだっ!!﹂
﹁クロ?﹂
うーん。アスタはまだ療養中じゃないだろうか。アールベロ国に
戻ったという話は聞かない。ただ精霊魔法は継続しているようなの
で、たぶん生きていはいると思う。
﹁俺はオクトに会えて嬉しかったんだ﹂
﹁私もだよ?﹂
クロに会えたのは普通に嬉しい。アルファさんの事は残念だけど、
私は今も2人の事が好きだから。
﹁だから歓迎されないとか言うな﹂
ああ。そうか。
少なくとも、ここは私を歓迎してくれている。クロが嫌がってい
るようには思えない。⋮⋮別にクロ達の事を否定しようとしたわけ
715
ではなく、一般論を言ったにすぎないのだが、上手く伝わらなかっ
たようだ。
﹁えっと、今のは一般論というか、住める場所がそこしかないとい
うか⋮⋮﹂
﹁一般論だとしてもっ!独りは寂しいだろうが。どうして、そうな
るんだよ﹂
どうしてと言われてもなぁ。
クロはアルファさんを亡くしている。独りは寂しいというのは、
それが理由かもしれない。
私も独りは寂しいんだろうなぁと想像できる。でもそれ以上に、
私の所為で誰かが傷つく事に、私は疲れていた。大切なヒトが傷つ
くと自分の感情のコントロールもままならなくなるし、世界は滅亡
の危機に陥るしで散々だ。なんて面倒なんだろう。
孤独は辛い。でも私には優しい思い出があるから。
この記憶さえあれば私は大丈夫だ。
それにきっと孤独なんて悲しんでいられないぐらい、忙しくなる
と思う。卒業しました、森に住めました、めでたしめでたしで終わ
れるのはおとぎ話の中だけ。その後もずっと人生は続くのだ。
きっとなれない山の中の生活をするだけでも、とても大変だろう。
その上コンユウやエストの事もあるし、図書館の時魔法も研究し続
けなければいけない。アスタにはこっそり何か恩返しをしたいし、
王家や魔法使いから何か言われたら、のらりくらりと逃げ続けなけ
ればいけない。
うん。何だか考えるのも嫌になるぐらい、やる事だらけだ。
﹁俺はオクトをもう独りにしないから﹂
﹁あー⋮⋮﹂
716
それはちょっと困るなぁ。
でもクロにも人生があるから、いつまでも私に構っては居られな
いはずだ。今は再会したばかりで感傷的になっているけれど、ここ
を出ていくころには、きっと私の考えも認めてくれるだろう。私だ
って、いつまでも守られてばかりではない。
それにしても、こんなにクロが心配してくれるとは思わなかった。
⋮⋮再開したばかりだからかなぁ。
﹁⋮⋮これからよろしく﹂
まあいいか。
何とかなるさの精神で、私は改めてクロにあいさつした。
717
34話 ものぐさな魔法使い
混融湖の波の音を聞きながら、私は歩いていた。不思議なもので、
ここで混ぜモノが暴走しかけたなんて思えないぐらい、街はにぎわ
っている。
一通り身の周りの事が落ち着いた所で、私はどうしてもやりたい
事があって、再びドルン国の混融湖に足を踏み入れた。もちろん不
法入国するわけにはいかないので、ちゃんと正規の手続きをとり、
フードで顔を隠してだ。流石に色々問題を起こしたばかりなので、
混ぜモノですと主張して歩く勇気はなかった。
幸い魔法使いのローブにはフード付きのモノもあるので、フード
をかぶった今の恰好でも浮いてはみえない。
﹁というか⋮⋮商人って凄い﹂
私が暴走した事によりできたクレーターは埋め立てられる事なく、
﹃混ぜモノの暴走の跡﹄と看板が立てられ、名所となっていた。つ
いでに何故か私とコンユウ、エストの話が洩れており、﹃混融湖で
起きた悲しい結末﹄やら﹃世界を救った勇者の話﹄という内容の紙
芝居が、混融湖の女神の話と一緒に語られている。本当に洩らした
の、誰だ。
商売逞しいというか、なんというか。でもこうやって何でも観光
材料にするからこそ、ここはこれだけにぎわい続けているのかもし
れない。
﹁アールベロ国も見習わないといけないね。そう言えば、ミウが学
校で色々イベントを開催しているみたいだし、ああいうのをもっと
大規模で行なったら、アールベル国の新しい名所になるかもね﹂
718
﹁⋮⋮その進化は色々どうだろう﹂
今回一緒に同行してくれていている、カミュのとても残念な発想
に、私は眉をひそめた。
ミウが開催しているイベントといえば、アレしかない。
確かに前世でも、そういった大がかりなイベントはあったと思う。
2次元を極めたヒト達が織り成す、薄い本とか、グッズの流通イベ
ントだ。確かにあそこで動くお金は半端ないと聞いた事があるが⋮
⋮それを国が推し進めるのもどうだろう。
ああいうのは民間のヒトが自分たちの思うがままに行うからこそ
燃えるというか、萌えるというか。というか果たしてオタク文化が
栄えるのは、進化なのだろうか。⋮⋮うーん。
﹁そう?アールベロ国は、今まで魔法一色だったし、違う方面も見
直してもいいと思うんだけどね﹂
﹁別に魔法から無理にそれる必要はないと思う﹂
﹁僕は今までと同じでいいと思っていたら駄目だと思うんだよね。
国が豊かにならないと、安定って難しいと思うし﹂
﹁いや、同じではなくて。⋮⋮たとえば魔法を使いやすくするだけ
でも、また別の進化かと﹂
﹁昔の魔方陣に比べれば、今でも十分使いやすくなっていると思う
けれど?﹂
上手くカミュに伝わらなくて、私はちょっと考える。
今までなら、伝わらなくてもまあいいかで終わらせていたけれど、
それでは駄目なのだ。ちゃんと話し合えば回避できた悲しい事だっ
てある。説明を面倒だけで終わらせてはいけない。
﹁魔法使いは使えるけれど、そうでないと使えないから﹂
﹁⋮⋮つまり、魔法使いや魔術師以外も、魔法を使えるようにする
という事かな?﹂
私はカミュの言葉にコクリと頷いた。
719
﹁面白い考えだけど、誰でも使えるという事は、色々危険もあるん
じゃないかな?﹂
﹁危険?﹂
﹁ほら。攻撃魔法を誰もが使えると、危ないと思わないかい?﹂
うーん。確かに攻撃魔法を皆が使えるという世界は、ちょっと嫌
だ。喧嘩の度に攻撃魔法がぶっ放され、町が半壊⋮⋮。ギャグ漫画
ならすぐに直るが、生憎と現実はそうはいかない。
でもそれはちょっと私のイメージとも違った。どうしたら伝わる
だろうと考えながら、再度口を開く。
﹁別に魔法は攻撃魔法とは限らないと思う。例えば、アスタに作っ
てもらった、食べ物を冷やす箱。あれはとても便利。又は時魔法が
もっと簡単に使えるようになれば、非常時の食べ物の備蓄に便利だ
と思う﹂
元々私は攻撃魔法以外の、普段の生活に便利な魔法を知りたくて
学校に入学したはずだ。アスタが研究しているのだって⋮⋮ん?あ
れ?アスタってどんな研究しているんだっけ。
そういえば、あまりアスタは仕事の話をしなかったなぁと思う。
もしかして、魔法の研究と言えば、攻撃魔法︱︱つまりは軍事系と
いうのが普通なのだろうか?
﹁そう言えば、オクトさんは昔からそういう小さな魔法が好きだっ
たね。そうか⋮⋮今は軍事用の研究が主流だけど、そういう流用も
可能だね。ただ魔法はどうしても、特別なヒトが使うものっていう
イメージが強いから、誰もが使えるという感覚がないんだよね。売
られている魔道具も魔法使いの為みたいなものだし﹂
特別なヒトが使うものか。
その発想はなかったが、よく考えると魔法は才能に頼っている部
分が大きいし、そう思うヒトがいてもおかしくないのかもしれない。
いや、むしろそれが普通か。
720
だから魔法使いの中には、魔法が使える自分の価値と見合う地位
が用意されない現状に我慢できず、反王家を掲げたりするヒトがで
てくるわけだ。
ただ私の中での魔法は、電気の変わりのようなものという意識が
強かった。電気というエネルギーが発達しなかった代わりに、魔力
や魔素というエネルギーを使うという方向へ発達したという感覚だ。
なので電気と同様、特別なヒトが使うものという感覚がない。
﹁魔法石は誰だって使えるし、魔素なら魔力がなくても使える﹂
ただ魔素は細心の注意を払わないと魔素不足が起こるし、魔法石
は充電池のようなもので、誰かが定期的に魔力を補充しなければな
らない。だとすれば、使えるのは魔法使いを雇う余裕がある金持ち
くらいだろう。そして魔法使いを雇えるのならば、わざわざ自分で
魔法を使う必要はない。
どう考えても実用化には程遠い、まだまだ研究が必要な分野だ。
﹁オクトさん。それを僕の下で研究してみる気はない?﹂
カミュの甘い誘いに私は苦笑した。私の答えなんて決まっている。
いい加減カミュも諦めればいいのに。
﹁⋮⋮私はカミュは好きだけど、王家に力を貸す気はないから﹂
どちらかにつけば、バランスが崩れる。カミュなら上手くバラン
スを取り直すかもしれないけれど、そんな危ない橋を渡る気はさら
さらなかった。
﹁なら僕が王子じゃなければ力を貸してくれるんだ﹂
うーん。王子じゃないカミュかぁ。今一想像できないなぁと思う。
カミュは王子である部分もひっくるめてカミュな気がするのだ。で
もカミュが困っている時に私は見て見ぬふりなんてできない気がす
る。
彼が私を見捨てられずに、落ち込んだ時もずっと付き合ってくれ
ているのと同じように。
721
﹁まあ、⋮⋮第二王子じゃない、カミュの為なら﹂
友人の為なら少しぐらいいいのではないだろうか。王家と魔法使
いとの争いは正直もう関わりたくないけれど、カミュ自身の為なら
ば︱︱。
﹁相変わらず、オクトさんは甘いね﹂
﹁⋮⋮そう思うなら、無理な注文するな﹂
くすくすと笑うカミュを見て、私はげっそりした。
駆け引きとか苦手だから、本当に勘弁して欲しい。そんな思いの
まま、私は柵を超えて混融湖の方へ進んだ。
柵より中へ入る手続きもカミュにお願いしておいた。だから咎め
られることはない。
本当に⋮⋮持つべきものは権力を持った友人だ。私1人だったら、
また夜間に忍び込まなければいけなかっただろう。
﹁オクトさん、思いつめて、心中とか止めてね﹂
﹁しないから﹂
というか、心中する気だったら、確実に止めそうな人物なんて引
きつれてこないから。死にたいんです詐欺は、いまどき流行らない。
﹁今日はちょっと、届け物﹂
私はそう言って、2つの小さな小瓶を取り出した。中にはすでに
手紙が入っている。
﹁もしかして⋮⋮﹂
﹁うん。エストとコンユウへの手紙﹂
上手く届くか分からない。というか、ここに融けている女神様は
性格悪そうだし、上手く届かない確率の方が高そうだ。だから何度
でも送ろう。彼らの事を忘れないように。
何度も送っていれば、いつかは女神も根負けして、彼らの手元に
届くような気がするのだ。
722
﹁花束じゃないんだね﹂
﹁⋮⋮縁起でもないこと言うな﹂
アールベロ国では、死者に花束を贈るという習慣がある。まあそ
う考えるのも致し方がないとは思うが⋮⋮、そんな簡単に2人の事
を諦めないで欲しい。
今は彼らに会えないけれど、きっとどこかで繋がっている。館長
の語った過去とはまた違うかもしれないけれど、彼らもまた未来へ
向かって動いていると思うのだ。
﹁ごめん。それで、手紙にはどんな事を書いたんだい?﹂
私はカミュをチラリとみて、ため息をついた。
﹁内緒﹂
というか、手紙の内容なんて言えるか。恥ずかしすぎる。
私はカミュに強制的に読まれる前にと、混融湖に小瓶を投げた。
どぼん。
小さな水しぶきを上げて、小瓶はそのまま混融湖の中に沈む。そ
して湖面にできた波紋は小瓶の存在などすぐに忘れてしまったかの
ように、いつものように穏やかに波打った。
しばらく見守ったが、瓶が岸に流れ着く様子はない。流石何も浮
かばない混融湖だ。
﹁もしかして、ラブレターとか?﹂
﹁⋮⋮帰る﹂
﹁えっ?本当に?!どっちに対してだい?﹂
カミュの脳みそは一体どういう構造になっているんだ。どうして
その結論になる。
私はカミュを無視して、再び柵に向かって歩き出した。くそう。
落ち着け私。もう手紙は流してしまったんだ。
723
別に付き合って下さいとか、そういう事書いたわけじゃないし。
というかそんなの望んでないし。
でも⋮⋮伝わって欲しい。 彼らが私に対して思っているのと同様に、私だってどう思ってい
るのかを︱︱。 ﹁また来年﹂
毎年必ず手紙を送るから。
誰にというわけでもないが、私はそう誓いを立てた。 724
35−1話 壊れかけな未来予想図
ああ、眠い。
薄ら目を開けると、周りは薄暗かった。⋮⋮もう少し寝てもいい
かな?
うだうだとまどろむ思考の中で、再び私は目を閉じた。何だか寝
返りをうつのも面倒なぐらい体が重い。最近本を読んで、夜更かし
をする事が多かったのが不味かったのだろうか。
﹁まあ、いいか﹂
折角だ。もう少し寝てしまえ。
きっとこれは、もう少し体を休めた方がいいですよのサインに違
いない。ああ、でも何だか遠くで私を呼ぶ声が聞こえるような︱︱。
﹁オクトさんっ!!﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
突然上に乗っかっているものがなくなり、光が強くなった。そし
てグイッと腕を引っ張られる。周りでドサドサと何かが︱︱いや、
本がなだれ落ちる音がした。
﹁なんで、家で遭難しているわけ?!﹂
﹁⋮⋮へー、そうなん?﹂
ドサッという音と共に浮いた体が再び地面に落ちる。地味に背中
が痛い。
﹁心配して来てみれば⋮⋮っ!どうしてまた寝ようとするのかな?﹂
﹁いや、背中痛いし⋮⋮。おやすみ﹂
﹁だから寝ないでくれないかな。ちょっと、本当にこれ以上寝たら
死ぬから!﹂
725
寝たら死ぬぞって⋮⋮あれ?何で家で遭難ごっこしてるんだっけ?
ぼんやりと目を開けると、カミュがそこにはいた。相変わらずキ
ラキラした顔をしている。あー、無駄に眩しい。おかげで頭痛かす
る。
﹁定期連絡が昨日からないと、アロッロ伯爵から連絡があったんだ
よ。嫌な予感がしたから来てみたら、案の定本で生き埋めになって
いるし。オクトさん、死にたいの?ちなみに死にたいなら、僕が馬
車馬のように死ぬまで使ってあげるから、資源の無駄遣いをしよう
としないでね﹂
﹁⋮⋮あー、ごめん﹂
カミュのすがすがしい笑顔が怖い。これは結構、腹を立てている
っぽいなと思った私は素直に謝った。流石にここで変にごねて、カ
ミュに城へお持ち帰りされたくはない。
﹁これは貸しにしておくからね。とりあえず、急いできたから朝ご
飯がまだなんだけど﹂
﹁私は今まで遭難していたような⋮⋮﹂
﹁今は遭難していないよね﹂
カミュの言葉に、私は負けを悟り諦めて起きあがった。
そう言えば、昨日本を読んでいた所から記憶がない。たぶんあの
後、何らかの原因で本がくずれて生き埋めになっていたのだろう。
頭が痛いのは、本でぶつけたせいか。
﹁王子様の口に合うような高級食材なんてないから﹂
﹁言えば何でも持ってきて上げるって言ってるのに。遠慮する必要
はないよ?﹂
止めて下さい。
まともに料理の修業をした事もない私がそんな高級食材を使った
ら、食材に申し訳がない。世の中には身分相応という言葉という物
726
があるという事に気がついて欲しい。
昔からお菓子をあげていた所為であまり気にしていなかったが、
よく考えればカミュは王子様。本来なら私がカミュに料理をするの
も許されないんだけどなぁと思う。
﹁ほらほら。ダラダラしない。オクトさん、最近魔の森には﹃もの
ぐさな賢者﹄がいるって噂になっているんだよ。よりのもよって、
ものぐさだよ。ものぐさ。残念すぎると思わないかい?﹂
﹁いや、別に﹂
﹁せめて、森の賢者とか、もっと恰好のいい呼び名もあったはずな
のにって、オクトさん聞いてる?﹂
聞いていないし、そんな愚痴聞きたくないです。
別に、ものぐさな賢者だろうと、森の賢者だろうと、何でもいい。
すでに賢者と呼ばれているという事実だけで、恥ずかしいのだ。中
二病ちっくな2つ名がついた日には、首を吊りたくなるかもしれな
い。
私はキッチンまで行くと、冷蔵庫を開けて卵を取りだした。面倒
だし、メインはオムレツにしてしまおう。あとはサラダとスープと
パンでいいか。
﹁今日は何を作るの?﹂
﹁オムレツ﹂
楽しそうに私の料理する姿を見つめるカミュに、短く答える。
倒れたヒトに料理を作らせるとか、少しは罪悪感を感じればいい
のに。
ただし王宮でおいしい御飯が食べられるのに、わざわざここで食
べたいと言ってくれるのは、私の為だという事も分かってはいるの
で、あまり強くも言えない。
というのも、私は自分の為に何かをするというのを億劫に感じる
ようで、1年前に独り暮らしを始めてすぐ、栄養失調に陥ったとい
727
う前科があった。原因は面倒でご飯をほとんど食べていなかったか
ら。
以来、時折こうしてカミュがご飯を食べにくるようになったので
⋮⋮まあ、まず間違いなく、私の為だろう。流石にそこまで鈍くは
ない。
﹁⋮⋮どうしてこうなったんだ﹂
現状を思い返すと、とても残念な気分になって、私はため息をつ
いた。
混融湖の騒動が収まった後、結局私は特別教室で授業を受けた。
そして本来なら残り4年ある授業を圧縮して2年でこなし卒業した。
ここまでは、今思い返しても全てが完璧だったと思う。
しかしいざ海賊から独立しようとして、魔の森に住もうとしたあ
たりから計画が狂い始めた気がする。
まず魔の森は、思った通り樹の神様の土地だった。その為叔母で
あるカンナに頼み、住む許可を貰う事はできた。しかしやはり魔の
森の奥深くに家を建てるのは難しく、結局妥協して魔の森の麓に家
を建てる事となったのだ。まあこれは仕方がない話である。
ただ魔の森の麓でも、獣人の大工から近づくを嫌がられしまい、
最終的にヘキサ兄の力を借りることとなった。そしてその取引で、
ヘキサ兄は私に薬を優先的に伯爵家へ売る事と、すぐに連絡が取れ
るようにする事を持ちだしたのだ。仕方なく私は、風属性の魔法を
使った電話のようなものを開発し、ヘキサ兄に預けた。以来、毎日
定時連絡を入れる事になっている。
でもまあ、伯爵家に薬を買っていただけるのは、私にとってもい
い事のはずだ。これだけの想定外なら、それほど落ち込む事はない。
728
次に予定が狂ったのは海賊との関係だ。卒業したら出ていくと宣
言した通り、私は海賊から離れる事ができた。契約が破棄される事
なく、とても円満だったように思う。
しかし独立を宣言してから、将来薬を売りたいと思い少しずつ仲
良くなっておいた薬屋が、私の作った薬の買い取りを拒否したのだ。
ちなみに1軒だけでなく、全てである。しかも理由が特になくてだ。
そしてそんな私に船長が言った言葉は、﹃良かったら、薬は俺が
買ってやるぞ﹄だった。証拠はないけれど、このタイミングの良さ。
明らかに、コイツが原因に違いない。
やられた。
おかげでまったく伝手というものを持たない私は、ずるずると海
賊と付き合っうことになってしまっている。
そして最後に。自分の中の一番の想定外は、カミュが頻繁にここ
へ通えてしまうという現実だ。⋮⋮もっと早く気がつくべきだった。
魔法に関して凡人である私でも、転移魔法を必死に勉強すれば魔の
森がある場所でも使えるようなったのだ。つまりは同じくカミュが
転移魔法を勉強すれば、可能であると。
何で﹃成長﹄という言葉を計画の中に含めなかったのだろう。
ああ⋮⋮どうしてこうなった。
そんな事を考えながら、私はオムレツなどをテーブルに置く。
昔、独り暮らしをし始めれば、いずれ私は独りになれてここが理
想郷になるとか、恥ずかしい事を考えていた。もしも過去へ帰れる
なら、完璧な計画だと思い酔いしれている3年前の自分を殴ってや
りたい。
それ中二病だから。無理だから。甘過ぎるから。
﹁オクトさん、スープ運ぶね﹂
729
﹁⋮⋮ども﹂
人間諦めが肝心か。
どんどん庶民臭くなっていく王子様を生温かいめで見ながら、私
は席に座った。もっと別の所を頑張ればいいのに。
カミュに運んでもらったスープと一緒に、色んな後悔を飲み込む。
終わってしまった事は仕方がない。
﹁そう言えば、今年も混融湖に行くかい?﹂
﹁その予定だけど﹂
私はあれ以来、必ず毎年ドルン国に行くようにしている。暴走を
起こしかけたので、ドルン国に断られたって仕方がない立場ではあ
るのだが、今のところは友好的に受け入れてくれていた。カミュが
何か後ろから手をまわしてくれているからなのか、それともドルン
国の方に何か考えがあるのかは分からないけれど。
﹁それなら丁度よかった﹂
丁度いい?
カミュの言葉に、ヒヤリとしたものを感じる。
何が丁度いい?⋮⋮聞くべきか、聞かぬべきか。私はもぐもぐと
噛んでいたパンをごくりと飲み込んだ。
よしここは聞かなかったふりをしよう︱︱。
﹁どうやら、混融湖にヒトが流れ着いたらしくてね﹂
﹁えっ?!﹂
無視してしまえ。
そう思ったが、カミュのとんでもない言葉に、私の即興の計画な
ど簡単吹き飛んだ。混融湖にヒトが流れ着いた?
﹁ああ、先に言っておくけれど、彼らじゃないよ。流れ着いたのは、
もっと幼い子らしいから﹂
なんだ。
730
私は肩から力が抜けるのを感じた。もちろん、過去に行っている
だろう彼らが、簡単にこの世界に戻って来れるとは思えない。だか
らそんな期待はしていない⋮⋮はずだったんだけどなぁと思う。こ
んな簡単に心を乱されるなんて、私もまだまだのようだ。 ﹁それで、なんで丁度いいわけ?﹂
﹁どうやらその流れ着いた子供が体調を崩しているんだけど、ドル
ン国の医師もお手上げらしいんだよね。今までにも混融湖に打ち上
げられたヒトはいたけれど、今回はまったく言葉も通じないらしく
て。賢者様なら何とかしてくれるんじゃないかなと︱︱﹂
﹁無理に決まっている﹂
﹁どうして?﹂
逆にどうして大丈夫だと思うのか聞きたいぐらいだ。 ﹁私は薬師であって、医師じゃない﹂
田舎ならいざ知らず、都会ならちゃんと分業されている分野だ。
私の役目は、山で薬草を摘んで、それを煎じる所まで。その後治療
するのはやり過ぎだ。
﹁まあ、そうなんだけど。ただ言葉が通じないのが波紋を広げてい
てね。もしかしたらオクトさんなら、通訳できるんじゃないかなっ
て﹂
﹁便利アイテムと勘違いするな﹂
私は若干前世の記憶があるだけで、翻訳機能がついているわけで
はない。
﹁分かってるよ。ただその子供が、そろそろマズイようでね。死ぬ
前にという形で僕の所に連絡が来たんだけど。駄目かな?﹂
死ぬ?
そうか。体調を崩しているけど、ドルン国の医師では無理だった
と言っていた。⋮⋮ヒトはいつか死ぬわけで、仕方がない流れだ。
それぐらい分かっている。
731
でも生まれた場所と違う所というのは、どれだけ不安なのだろう。
言葉も通じない中で、どんどん弱っていくのは、例え周りにヒトが
居たとしても、孤独に違いない。
﹁⋮⋮期待はするな﹂
私は抵抗を諦めた。
何もできない可能性が大きいけれど、わざわざご指名してきたと
いう事は何かあるのだろう。見もせず無理の一点張りでは、後で後
悔する気がする。どうにもならない事を後悔する方が面倒だ。
まったく。相手が死にかけているとか、子供とか、断りにくい嫌
な単語を入れやがって。
﹁流石オクトさん﹂
にっこりと笑うカミュを、私はチラッと見てため息をついた。
732
35−2話
久々に来たドルン国は相変わらず賑やかだった。
あの時の暴走の跡は観光の良い名所となっている。それどころか、
紙芝居では﹃悲しい勇者の物語﹄という名前をつけ、ここであった
出来事に、尾びれと背びれ、さらにはスパンコールでもつけたぐら
いの脚色をして、物語を紡いでいる。ちなみにたぶんジャンルは悲
恋⋮⋮いや、もう何も言うまい。あれは混融湖の女神と同レベルの
ファンタジーな物語であり、実在の人物とは関係ない話なのだ。
﹁問題の子は、城の方で保護されているらしいよ﹂
﹁城?﹂
﹁ほら、オクトさん達が以前泊まったあそこだよ。とりあえず普段
は使われていないから、隔離保護したみたいだね﹂
隔離をするということは、疫病がはやるのを恐れてという事だろ
うか。しかしまだこれだけ観光客がいるのを考えると、一般には知
らせていないのだろう。混乱を避けての対応ともとれるが⋮⋮結構
危ない橋を渡っている。
﹁子供の他に感染した人は?﹂
﹁今のところいないようだね﹂
まあ状況が正確に分からないというのに、ここまで来たのだから、
危ない橋を渡っているのは私も同じか。ただ今のところ感染者がい
ないなら、ウイルス感染の可能性は低いだろう。潜伏期間が長いと
しても、ウイルスならそろそろ1人か2人ぐらい倒れたっておかし
くはない。
﹁とりあえず。カミュ、帰れ﹂
﹁うわ。酷い。折角一緒に旅行に来ているのに、そういう言い方っ
733
てないと思うなぁ。今の言葉で僕の繊細ないな心はズタズタに引き
裂かれたよ﹂
﹁茶化すな。⋮⋮王子だろ﹂
いくらなんでも、王子を危険な可能性がある場所に連れていった
らまずいだろうぐらいの常識はある。ウイルスの可能性は低いとは
いえ、ゼロではないのだ。
﹁そういうのは、差別だと思うな﹂
﹁私がしているのは差別ではなく、区別。病気になられるとまずい﹂
﹁その辺りは、大丈夫だから。僕だって安全を確認できなければ、
オクトさんをそんな危険な場所につれてきたりしないからね﹂
そうだろうか。
カミュは今まで私を危険な場所に容赦なく放り込んでくれた気が
するんだけど。これまでの経験を思い出すと胡乱な目になってしま
う。
﹁そんな目で見ないでほしいな。子供が発見されたのはざっと10
日前。その間に関わった老若男女、誰一人病気に罹ったヒトはいな
いよ。隔離保護されているのは、子供が聞いた事もない言葉を話す
からじゃないかな。今まで、異界から流れ着いたと思われるヒトは
いなかったからね﹂
異界ねぇ。
そう言えば、混融湖は異世界からのものが流れ着くとされる場所
だった。実際、異界屋の商品を見ると、この世界のものとは作りが
かなり違う。
でも私は時属性について研究するにつれ、もしかしたら混融湖に
流れ着いているモノは、そうではないかもしれないと思い始めてい
た。特にコンユウやエストの事例があるからなおさらだ。
とはいえ、また憶測の域を出ないし、そもそも証明する方法も思
い浮かばない。それに人族しかおらず、魔法が一切ない私の前世は
734
どういう事?という話にもなるので、解明は難しそうだ。
﹁だからオクトさんはそういう小難しい事は考えなくていいんだよ﹂
﹁いや。ちゃんと、考えたい﹂
何も考えず、ぼんやりしていられればそりゃ楽だろうけど、それ
では自分の身一つ守れない。それどころか気がついたら、王宮とか
にいそうで怖かった。
﹁残念だなぁ。昔なら、もっと素直に流されてくれたのに。僕の所
に来たら、絶対後悔はさせないよ﹂
﹁冗談に聞こえないから止めて﹂
﹁冗談じゃないよ?﹂
ぶーぶーと口をとがらせたカミュを見ていると頭痛がしてくる。
元々カミュは本心が分かりにくい性格だったが、年々さらに分かり
にくくなってきた。冗談っぽい口調で喋っても本気に聞こえる時も
あれば、本気のような口調で喋っていても冗談に感じる時もあって、
かなりひねくれている。
流石第一王子と同じ、王家一族の血筋だ。
そんなくだらないやりとりをしているうちに私達は城についた。
城につくと、腰の曲がった爺さんが出てきて、部屋まで案内して
くれた。城の中は静まりかえっており、あまりヒトがいないようだ。
﹁こんな場所まで、よう来て下さった。今この城には、わしと後2
人使用人がおるだけなんですよ。何か困った事があったら遠慮なく
言って下され﹂
﹁はあ﹂
かぶっていたフードを外したが、爺さんは特に私の姿に驚いた様
子もなく私達の前を歩く。事前に混ぜモノが来る事を聞いていたの
かもしれない。
﹁例の子供は今も苦しんでおりまして、見ていると、哀れで、哀れ
でなりません。是非とも助けてやって下さい﹂
735
﹁できるだけの事はしますが⋮⋮﹂
本当に、何で私なんだろう。
折角来たのだから、色々な薬は験してみるつもりだが、あまり過
度に期待されても困る。こういうのは、普通医者の役目だし、私よ
りずっと経験を積んだ薬師だっているのだ。私はまだ学校を卒業し
たばかりのひよっこにすぎない。
期待が重すぎてため息が出る。
﹁実は今回オクトさんが呼ばれたのは、子供が持っていた手紙が理
由なんだよね﹂
﹁手紙?﹂
それは初耳だ。
もしかして異界の言葉で書かれた何かを持っていたのだろうか。
だとしたらその解読のために呼ばれたのかもしれない。⋮⋮確かに
その方がしっくりと来る。しかし何だか子供の命をないがしろにし
ているようで少し気分が悪い。
﹁何か勘違いしているみたいだけど、手紙は龍玉語だったよ﹂
﹁へ?﹂
龍玉語?
だとしたら子供はもしかして、龍玉語をまだ勉強していなくて、
自国の言葉しか喋れないという感じなのだろうか。だとしたら、な
おさら私が呼ばれた理由が分からない。
﹁ただ宛名が、﹃オクトもしくはものぐさな賢者、合法ロリ又は図
書館の館長と呼ばれているヒトへ﹄になっていて、明らかにオクト
さんに向けられた手紙っぽいんだよね。手紙も時魔法で時を止めて
あるようで、誰も開封できなくて。それにしても、ものぐさな賢者
や図書館の館長は分かるけれど、合法ロリって何だろうね﹂
﹁⋮⋮本当﹂
736
誰が合法ロリだ、この野郎。
送り主に明確な悪意があるようにしか思えない。よりにもよって、
合法ロリ。私はまだ成人していないし、好きで小さい姿をしている
わけでもない。
﹁あ、その様子だと、ちゃんと意味が分かっているみたいだね。問
題解決の糸口になるかもしれないし、教えてくれないかな﹂
﹁絶対今の問題とは関係ないと思う﹂
﹁そうかなぁ﹂
﹁そして言っておくが私は、合法ロリではない﹂
そんな言葉と病気に関連があってたまるか。
﹁合法ロリとは、見た目は小さい子の姿ですが、成人しているとい
う意味のようですぞ。封筒の裏面にそう書いてありましたから﹂
﹁へぇ。でもオクトさんはまだ成人はしていないよね︱︱﹂
あっさりと爺さんにばらされて、私は頭を抱えた。
何でわざわざ説明を書いた、この野郎。差出人が誰かは分からな
いが、とんでもない手紙に、私はキリキリする。
﹁︱︱小さいけど﹂
﹁私はまだ成長途中だ﹂
カミュに見降ろされ、私はすぐさま反論した。
私の身長はカミュに比べると、確かに小さい。それは素直には認
めよう。でも私はまだ成長期が来ていないだけなのだ。絶対いつか
は伸びるはずである。
それに私の血筋は、獣人族と精霊族とエルフ族と人族で、たぶん
今の私はエルフ族に一番近い成長をしているのではないかと思う。
この世界で最も魔力の高い種族は、魔族又はエルフ族とされる。
どちらもゆっくりな成長には違いないが、成人するまではゆっくり
ながらも少し早く成長し、その姿で止まってしまう魔族とは違い、
737
エルフ族はとにかくゆっくりと成長し同じように老化していく。
だから私の姿がいつまでも子供のままなのは遺伝が理由なので、
仕方がない。そう、仕方がないのだ。だからまだ手遅れでもない。
﹁オクトさん宛てなのは、まず間違いなさそうだけどね。図書館の
館長はオクトさんの事ではないけれど、もしかしたら時魔法が使え
るヒトに宛てたのかな?﹂
今の図書館の館長であるアリス先輩は時魔法は使えない。しかし
その前の館長は、時属性の持ち主だった。特に今回の手紙に時魔法
がかかっているならば、その可能性は高い。
﹁たぶん⋮⋮﹂
私がものぐさな賢者と呼ばれている事を知っているヒトが、その
手紙を子供に持たせたのだろう。いやでも、ものぐさな賢者の呼び
名を知っているという事は、すでに前館長が他界している事を知っ
ている可能性が高い。
しかも私の背丈が小さいままだという事も知っているとなると⋮
⋮いや、まて。あえて合法とつけているという事は、これは私が成
人した後、つまりはもっと未来に宛てられているのか?
いやいやいや。成人までは後5年。流石にそのころには、もう少
し成長しているはずだ。ロリなんて呼ばれているはずがない︱︱。
﹁オクトさん?何か思いついた?﹂
﹁⋮⋮流石にこれだけの情報ではなんとも﹂
考えているうちにどんどん混乱してきた。とにかく合法ロリだな
んて、そんな残念な未来は阻止しなければ。
﹁この部屋です﹂
恐ろしい未来に恐怖していると、先を行く爺さんが止まった。爺
さんが部屋のドアをノックすると、中から返事が聞こえる。
﹁あらあら。遠いところから、ようこそ﹂
扉を開けると、部屋の中にはメイド服を来た中年の女性がいた。
738
この方がこの城に滞在する使用人のうちの1人なのだろう。女性の
隣にはベッドがあり、どうやらそこで眠っているのが、問題の子供
のようだ。
私達が近づいたが、黒い髪をした子供はピクリとも動かない。少
し呼吸が荒く、汗で髪が張り付いている。
﹁最初はもう少し元気だったのだけど、徐々に弱ってしまってね。
たまに目を覚ますから、その時にご飯は食べて貰っているんだけど﹂
﹁失礼します﹂
額の上に乗っている濡れたタオルをどかして触ってみる。結構熱
い。
私は持ってきた鞄の中から保冷の魔方陣を書いた魔法石を取りだ
す。そしてそこに魔力を流した。
﹁とりあえず、3点クーリングをする。これを両脇と足と胴体の付
け根に当てて欲しい﹂
﹁脇?なんでそんな所に当てるんだね﹂
﹁あー⋮⋮そこに太い血管⋮⋮血が流れる管があるから⋮⋮えっと﹂
何て説明したらいいのだろう。
相手の知識に合わせて説明というのは、結構難しい。ようは熱を
下げる為に体を冷やすのだが⋮⋮うーん。下手な説明で、変な解釈
をされても困るし⋮⋮。
﹁マダム。どうか聞いてもらえませんか?彼女は、我が国で賢者と
呼ばれる方なんです﹂
﹁あら、マダムだなんて。やだよう。でもお兄さんがそういうなら、
そうなんだろうね。私も賢者様がこんなに小さい子とは思っていな
かったからさ﹂
小さい子。
グサリと、心にその言葉が突きささる。⋮⋮いいもん。若く見ら
れるっていい事のはずだし、いつかは大きくなるはずだ。
739
最近良く寝ているし。うん、大丈夫。
自分を慰め、心で泣きながら、私は他の魔法石にも魔力を通した。
740
35−3話
単刀直入にいう。
俺が今いる時代だとコイツの病気は治せない。だから、混融湖に
流れ着いたコイツをもう一度俺は流す事にした。運がよければ何処
かにたどりついているはずだ。
できるなら、この手紙を読んだ奴は治してくれ。無理ならコイツ
はそこまでの運命だったって事だ。気になるようなら、もう一度混
融湖に沈めて他の時代に託して欲しい。
別に俺はコイツがどうなった所でどうでもいいけど、目の前で死
なれたら、寝ざめが悪くなるからな。
ちなみに俺が導き出した、コイツの病気の原因は︱︱。
◆◇◆◇◆◇
相変わらず用件のみの手紙に私はため息をついた。
自分に割り当てられた部屋に入り、問題の手紙を読んだが頭痛が
してくる。
せめてもう少し、近状報告とかしろといいたいが⋮⋮ツンデレ発
動して、文章にならないのかもしれない。短い用件のみな手紙の中
ですら、子供の為ではなくて自分の為とか言いわけっぽい言葉が含
まれていた。はいはい。ツンデレ、ツンデレ。
﹁ある意味コンユウらしいか﹂
最後の最後に付けられた申し訳ない程度に書き加えられた名前。
741
言葉が足りないのは昔から。でも久々に私にまで届いた手紙がこれ
ってどうよ。もう少し書く事あっただろう。
それにしても、一か八かの賭けをしてくれるものだ。勿論彼自身
が何処にたどり着くとも分からない混融湖旅行をしつづけているわ
けだから、少しぐらい何か勝算あっての事かもしれない。でもそれ
ならそれで、理由を記載しそうな気がするし、やはりギャンブルか。
まあこの子供が最初に流れ着いた時代ならば、そのまま死んでい
たのだ。一か八かの賭けに出たのも致し方がない。
﹁にしても、魔素中毒か﹂
コンユウの手紙には子供の病状はたぶん、魔素中毒ではないかと
書かれていた。
実際に魔素が生み出されているというパワースポットでは、時折
そういった症状を起こすと文献を読んだ事がある。ただしその場所
から離れれば、しばらくすると正常に戻るはずだ。薬学を学んだ時
も、薬以外での対処が効果的な病気だと、少しだけ取り上げられた
だけだった。
しかし子供は現在そんなパワースポットにいない。
この場所では魔素中毒なんて起こしようがないぐらいの量しか空
気中に含まれていなかった。
﹁⋮⋮まさか、魔素の耐性がないとか?﹂
そんな事があるのだろうか。
先天的な疾患で耐性がなければ確かに中毒になりえる。しかしそ
の場合、魔素で溢れたこの世界では、生まれた時点で死んでいる。
それに魔素を体内に取り入れられないなら、どうやって魔力を作る
のだろう。魔力がないとされているヒトだって、生命維持に必要な
魔力は体内で魔素から生成しているのだ。
﹁仕方ない﹂
742
私は手紙を鞄の中にしまい込むと、もう一度子供がいる部屋へ向
かった。
先ほどは子供が眠っていたため、結局クーリングしかしていない。
この国には注射というものが存在しておらず、私自身の知識では直
接体内に薬を入れる勇気がない。となれば経口しか方法はないのだ
けど、目が覚めてくれなければ飲ませるのも難しい。
胃の中へ転移させるという無理やりな方法もあるが、実験もなに
も行っていないので、失敗なんてした日には目も当てられない。
﹁失礼します﹂
部屋の中は子供だけだった。使用人のヒトは席をはずしているら
しい。まあいいかと思い、私は部屋の中に入った。
子供はまだ眠っているようで、私が近づいても先ほどと同様にピ
クリとも動かない。
私は子供の魔力状態を見ようと目に魔力を集めた。
﹁これは⋮⋮時属性?﹂
魔力を通して見た子供の周りには、紫色のもやのようなものがま
とわりついていた。
たぶん時属性の魔素ではないかとは思うが、こんな風に魔素がま
とわりつく姿なんて、見た事がないので何とも言えない。しかし体
の中からでてくる魔力とは違うので、子供が作りだしているわけで
はないだろう。
とりあえず、このもやを取り除いてみようか。
私は部屋から持ってきた紙に、魔素を別の場所へ移す魔方陣を描
いた。魔素の発生場所をとりあえず子供に指定して、魔素を溜める
用の石を用意する。
急激に魔素が減る事によるショック症状を起こされても困るので、
動きを緩やかにしていつでも止められるようにした。しばらく付き
添わなければいけないが、魔素不足で倒れられても困る。
743
魔法陣を何度も間違いがいないかチェックした所で、魔力を注い
だ。
上手く発動したようで、子供の周りを覆っていた紫のもやが徐々
になくなっていく。そしてもやがほぼなくなった所で、私は重大な
事実に気がついた。
﹁あれ?﹂
普通はどんな生きモノだって生命維持ぶんの魔力はある。
昔はあまり気にしていなかったが、魔力を目に溜めて良くヒトを
見てみると、薄らと魔力を見る事ができる事を最近知った。もちろ
ん魔力がないといわれる獣人でも確認可能だ。
しかしこの子供からは、まったく魔力というものを確認する事が
できなかった。
﹁えっ?魔力がない?﹂
魔力がなければ生命維持なんてできない。それなのに、子供は確
かに生きている。なんで?
目をこすってみるがやはり変わらない。
もしかしたら、目では確認できないぐらい魔力が微弱だとか?で
もそんな魔力じゃ、やっぱり生命維持ができないし⋮⋮。となれば
考えられる事は一つだけだ。
﹁体の造りがちがうとか?﹂
通常ならば起こさない魔素中毒を起こすという事は、魔素の耐性
が小さいという事だ。でも元々魔力というものを使わずに生きてい
ると考えれば、魔素を分解できないのも理解できる。
ただしこの世界に魔素がないなんて場所があるとは聞いた事がな
い。となると、本当に異世界出身なのだろうか。
﹁やっぱりここにいたんだ﹂
744
子供の脈を測ってみたり、もう一度魔力が本当にないのか確認し
ていると、カミュが部屋までやってきた。
﹁治療は子供が起きてから行うんじゃなかったのかい?﹂
﹁その予定だったけど⋮⋮﹂
自分でもなんて言ったらいいのか分からない。少し確認したい事
があってきただけのはずだ。
﹁あれ?少し顔色がよくなってない?オクトさん、何かした?﹂
﹁⋮⋮魔素中毒の可能性があって、魔素を取り除いた﹂
たしかに子供の顔色は大分と良くなっていた。熱も下がってきた
ようなので、クーリングを外してやる。
﹁それにしては、浮かない顔だね﹂
子供が元気になるのは喜ばしい事だ。別にそれが嫌なわけではな
い。ただ上手く納得ができなくて悶々としているだけなのだ。
﹁カミュは魔力がないヒトなんていると思う?﹂
﹁僕が知る限りはいないかな。どんな生物でも魔力がなければ生き
ていけないから⋮⋮。もしかして、この子供は魔力を持っていない
のかい?﹂
私はどう言うのがいいか迷った末に、コクリと頷いた。
半信半疑といった状態だが、でもそれ以外の答えを見つけられな
い。でもそんな事がありえるのだろうか?魔力を持たずに生きられ
るなんて、先天性疾患とか、そういうレベルの話ではない。
﹁やっぱり異世界は、こちらとは全然違うのかな?﹂
どうだろう。
この子供は異世界のヒトだから魔力を持たず、魔素の耐性もない
のだろうか。
そういえば私の前世には、魔素や魔力なんて存在しなかったよう
に思う。電気や天然エネルギーが色々あったから魔力が発達せず、
745
魔素なども発見されていなかったのではないかと思っていた。しか
し、もしかしたら科学が発達した前世では、魔力や魔素というもの
が存在しないのかもしれない。
となると、やはり混融湖は時間の前後に繋がっているだけではな
く、通説通り異世界にも繋がっているという事か?うーん。コンユ
ウやエストはたまたま違う時間に流れ着いたけれど、もしかしたら
異世界に繋がる可能性もあったとか?
﹁オクトさんっ!﹂
﹁ん?﹂
混融湖について考え込んでいると、カミュが私の肩を揺らした。
﹁子供が目を覚ましたみたいだよ﹂
﹁えっ?﹂
子供の方を見れば、眠そうな顔をしていたが、子供が紫の瞳で私
とカミュを見ていた。そしてすっとカミュを指差した。
﹃へんな色﹄
﹁何だろう。僕の事を言っているのかな?﹂
うん。多分そうだろうね。
子供の口から飛び出た言葉に驚くよりも先に、王子様に突然とん
でもない事をいう子供に度肝を抜かれた。
﹃あれ?大きなおばさんどこ?﹄
大きなおばさんというのは、先ほどの使用人の事だろうか。とい
うか、子供の言葉が分かってしまった自分に絶望した。
あああ。分からないでいたかった。魔力がないとか、魔素への耐
性がないとか、こういう変種は絶対後々厄介な事になるに決まって
いる。
﹁誰かを探しているのかな?もしかして、先ほどの女性かな?﹂
746
﹁⋮⋮たぶん。呼びに行ってくる﹂
﹁僕が呼んでくるよ。オクトさんはここにいて。年も近そうだし、
仲良くなれるんじゃない?﹂
﹁私はもう15だ﹂
年が近いってなんだ。
この子供はたぶん5、6歳ぐらいだぞ。確かにカミュよりは近い
だろうが、10歳の差は大きい。
﹁大丈夫だって。オクトさんなら警戒されないだろうし。よろしく﹂
﹁それはどういう意味っ⋮⋮くそっ﹂
逃げられた。
言葉が理解できないから、面倒だと思ったのだろう。カミュが出
ていった扉を恨めしく睨みつけるが、戻ってくる様子はない。
仕方がない。
私は改めて子供と向き合った。流石に放置しておくわけにはいか
ないだろう。
﹃おっきなお耳⋮⋮。だれ?﹄
子供はキョトンとした顔で私を見てきた。一応保護されてから怖
い目にはあっていないのだろう。私を見ても怯えたような表情はな
い。
﹁オクト・ノエル﹂
私は自分を指差して、名前を名乗った。
﹃オクトノエル?﹄
﹁オクト﹂
苗字と名前が一緒に繋がってしまったので、再度私は自分の名前
を名乗った。
﹃オクト。分かったっ!あーちゃんは︱︱﹄
突然子供の言葉が止まった。
747
子供は一度首を傾げ、再び口を開くが、やはり言葉は出てこない。
しばらくすると、泣きそうな表情になった。
﹃あーちゃん、なまえ⋮⋮﹄
どうやら、﹃あーちゃん﹄という単語は女神の呪いに引っかから
なかったが、名前は流石に引っかかったらしい。エストの手紙の内
容が本当ならば、話そうとするたびに時間が止まってしまうらしい。
だとしたらあーちゃんも話せない状態を、数分もしくは数時間単位
で体感していのかもしれない。
さてどうしよう。
私に泣いた子をあやす能力はないぞ。泣くな、マジで泣くなと祈
りながら、私は声をかける事にした。
﹁あ、あの。あーちゃん?﹂
﹃オクト?﹄
あーちゃんは、潤んだ瞳で私を見つめた。さてどうしたものか。
声をかけてみたものの、どうしていいのか分からない。
仕方がない。
﹃えーっと。久々だから、ちゃんと喋れているか分からないけど﹄
奥底にしまいこまれた日本語という知識を掘り起こして、私は恐
る恐る話しかけた。すると、あーちゃんは目を大きく見開く。
この様子だと、一応伝わっていそうだ。だとしたら、あらかじめ、
伝えておいた方がいいだろう。流石に異世界の言葉を知っているの
は、ママに教わっただけでは済まされない。面倒な事は事前回避し
てしまった方がいい。
﹃私が日本語をしゃべれるのは内緒で﹄
人差し指を立てて口の前に持っていく。
﹃ないしょ?﹄
﹃うん。あーちゃんと私の秘密。その代り、内緒にしてくれたら、
748
色々教えてあげる﹄
上手く伝わっただろうか?
﹃分かった!あーちゃん、ひみつ、する!﹄
あーちゃんは元気に手を挙げた。
一応これで大丈夫だろう。元々、あーちゃんの言葉は誰にも伝わ
らないのだ。後は私が日本語で話しかけないように注意すればいい。
﹃ゆびきりげんまん﹄
あーちゃんが小指を出してきたので、私もそれに小指を絡ませた。
﹃ゆびきりげんまん。うそついたら、はりせんぼん、のーます!ゆ
び切った!⋮⋮えへへ﹄
何が楽しかったのか、小指を見て、あーちゃんはケラケラと笑っ
た。
はて、どうしようか。とりあえず、約束をしてくれた事を褒めて
おくべきか。
﹃いいこ﹄
色々考えた末、私は昔アスタにやってもらったように、あーちゃ
んの頭を撫ぜた。
749
36−1話 再構築中な人生設計
気がついたら、子供にめっちゃ懐かれた件について。
﹁オクトさんに懐くって、度胸あるよね﹂
﹁ははは﹂
混ぜモノが何かを知らないというのもあるが、確かに無愛想な私
に懐くのはかなり度胸がある。勿論、日本語を話せるのは私だけ。
なのであーちゃんがこういう行動に出るのは理解できないわけでは
ないが⋮⋮どうするべきか。
調理スペースでお菓子を作っている最中も、あーちゃんは私から
離れなかった。
﹁えっと⋮⋮あーちゃん﹂
とりあえず、ケーキの切れっぱしを口の中に放り込むと、あーち
ゃんはにぱぁっと顔をほころばせた。ちょっとキュンとしてしまう
ぐらいに可愛い。どうしよう。もう一切れあげてしまおうか。
﹁オクトさん僕には?﹂
﹁そこにある﹂
﹁平等じゃないと思うなぁ﹂
﹁意味が分からない﹂
子供に対抗するな。
なんでカミュに食べさせなければならないのか。はっきり言って
無意味以外の何物でもない。お菓子を作っただけでもありがたいと
思え。
﹃オクト、ありがとう﹄
カミュがいるので、今は日本語を話す事ができない。なので了承
750
の意味で頭を撫ぜてやる。するとくすぐったそうにあーちゃんは笑
った。無邪気な笑みに、何だか癒される。
﹁オクトさん、甘過ぎると思うけど。子供は甘やかすだけじゃ駄目
だよ。躾けは飴と鞭のバランスが大切だと思うな﹂
﹁別に私が躾ける必要はない﹂
あーちゃんの体調はかなり良くなった。やはり体調不良の原因は
魔素中毒で、間違いはなかったようだ。今後は魔素を吸収する石を
持たせて、定期的に代えてやればいい。
となれば、私の役目も終わりである。躾けは私の仕事ではない。
﹁オクトさんって、相変わらず詰めが甘いよね﹂
やれやれといった様子のカミュの行動に一抹の不安を覚える。え
っ、何?何か見落としている?
思い返してみるが、カミュの言っている意味が分からない。
﹁えっと⋮⋮何がでしょうか?カミュさん?﹂
しかし詰めが甘いのは、自分でも嫌なぐらい理解している為、顔
が引きつる。その所為で、私は何度しょっぱい思いをした事か。
﹁だって、魔力がなくて、魔素も分解できなくて、その上幼くて異
世界からの情報量も少ない。僕はこの子の将来が心配だなぁ。魔素
を移し続ける石だって安くはないし﹂
何ですと?
確かにあーちゃんは魔素の分解ができないため今後も石に魔素を
移し続ける必要がある。そして石は安くはない。それも分かる。
あーちゃんの年齢からすると異世界の情報も、あまり期待はでき
そうにない。つまりは⋮⋮。
﹁権力者って無意味なものにはお金をかけないと思うんだよね。あ
あ、でも。異世界人というだけで、研究材料にはうってつけかな?﹂
﹁お、お前には、血も涙もないのかっ?!﹂
﹁えー。オクトさんと同じ真っ赤な血が流れているよ。ただ、僕が
751
言っているのは一般論だよ。あーちゃんは働けそうな年齢にも見え
ないし﹂
確かに、あーちゃんは私とは違うので、働けというのは酷だ。と
いうか、無理である。
言語は通じない、幼いのであまり役に立たない、だけどお金はか
かる。⋮⋮うん。とてもいいヒトでなければ引き取ってくれないだ
ろう。
﹁この状態を見たお人よしなオクトさんの次の動きを予測するとね、
躾けって大事だと思わないかい?﹂
そうですねー。
﹁ははは﹂
﹃オクト?﹄
お昼の番組のような返しを心でしながら、私は笑った。というか、
笑うしかない。カミュは良く分かっている。
﹁えっと、念のために。児童保護機関は?﹂
﹁善意を建前に一応あるけれど、一応かな。保護されるのはごく一
部の子供だけだし、お金もないから石なんてまず買えないね。見殺
されるか、もしくは身売りかな?見目がよければ多少体が弱くても
需要は︱︱﹂
﹁分かった。十分分かったから。喋るな﹂
いくら言葉が分からないからと言って、幼児を目の前にして話す
ような内容ではない。まあカミュの表情は終始笑みの形をしている
ので、あーちゃんが内容に気がつく事はないだろうが。
﹁僕としては、治すまでがオクトさんの仕事だから、見捨ててくれ
るのが一番なんだけど﹂
﹁⋮⋮だったら、私にこんな話をするな﹂
たぶんカミュが指摘しなければ、このままさよならしていたはず
752
だ。私の頭の中には、治すまでの計画しか入っていない。
﹁だって、オクトさん、絶対この後も子供の事気にかけるでしょ?
その時に遊郭に引き取られましたとか言ったら怒りそうだしさ。僕
だって、友人に怒られたいなんて趣味持っていないし。ああ、でも
たまには新鮮かな?﹂
﹁そんな趣味、粗大ごみに出して﹂
止めて。友達が王子であるだけでもちょっとどうなのと思ってい
るのに、その上マゾだったら︱︱。いやいや、カミュの場合、普通
に考えてその反対か。それもそれで、どうなんだという話だが⋮⋮。
﹁それで、どうする?今なら、口添えしてあげるから、オクトさん
が好きなように選んでいいよ﹂
﹁この状況で聞くか﹂
﹁この状況だから聞くんだよ。そしてさっきも言ったように、僕は
反対派だからね﹂
何度も言わなくたって分かっている。
でもカミュは私の性格を知っているから何度も言うのだろう。血
も涙もないように聞こえるが、たぶんこういう時のカミュの選択は
正しい。
そして私はいつもこういう土壇場での選択を間違えるのだ。
﹁私が引き取るしかないだろ﹂
でもそれが私なのだから諦めてもらうしかない。ここで見捨てる
方が、精神的に面倒そうだ。でも、私に子育てなんてできるだろう
か。それにお金の問題もあるし⋮⋮。
頭痛がする。
私は不安な未来に、そっと溜息をついた。
753
◆◇◆◇◆◇◆
﹁オクト、起きる!﹂
ドスン。
お腹の辺りに重みを感じて、私は薄ら目を開けた。何だか内臓が
口から飛び出そうなんですけど。
﹁アユム⋮⋮マジ止めろ﹂
死ぬから。
布団の上にあーちゃん事アユムの姿を確認して、私は地獄の底か
ら這い出てきたような声を出した。
私があーちゃんにアユムと名前を付けて家に引き取ってから、丁
度1年経った。
その後も順調にアユムは成長しているので、そのうち身長の逆転
があるかもしれない。⋮⋮なんて恐ろしい現実。
ともかくだ。そんな状態なので、そんな力いっぱいでじゃれられ
ると私は昇天しかねない。ヒトって死んだら何処に行くんだろうな
ぁ⋮⋮。
﹁今日、海賊!﹂
﹁あー⋮⋮後3日ぐらい寝かせて﹂
﹁ダメッ!!﹂
子供の脳みそはスポンジのようで、たった1年であーちゃんは龍
玉語を話せるようになった。まだ片言だけど、ジェスチャーを加え
754
れば問題ないレベルだ。子供の成長率って半端ない。
﹁海賊いくの!﹂
そして、海賊が保育所代わりになっている件について。
すみません。
日本にいるだろう、アユムのご両親様にそっと心の中で懺悔する。
普通に考えて、とても教育環境として最悪ですよね。でもアユムが
言葉を覚えるには、実践が一番最適だったのだ。そして私もそこだ
と仕事ができるので、結果そうなってしまったとも言える。
﹁ねぇ、オクト。ダメ?クロと遊ぶ約束した。あと、船長もこいっ
て約束。約束やぶったら、ダメって⋮⋮﹂
﹁ああ、分かった。起きるからどいて﹂
あの野郎。アユムをダシに使いやがって。
クロはいいとしても、船長は強制的にアユムに約束させただろ。
行けばいいんだろ、行けば。
しょぼんとするアユムの頭を撫ぜながら、起きあがる。しかし、
本に躓いて私は今度は床の上に倒れた。ああもう。このまま寝てし
まいたい。
﹁オクトッ!寝たら死ぬっ!﹂
﹁いや、死なない﹂
ここにあるのは雪山ではなく本の山だ。若干今の拍子に崩れた本
が私の体の上に乗っかっているが、まだ何とか大丈夫である。
﹁カミュ、死ぬって。あと、掃除!えっと。した方がいいって﹂
くっ。入れ知恵しやがって。
私が何度言われても聞かないからって、アユムに言う事ないだろ。
私はむくりと起きあがると、倒した本だけもう一度積み直す。⋮⋮
でもまあ、少しは掃除した方がいいかなぁ。
755
﹁オクト⋮⋮お腹﹂
ぐるぐるぐる。
アユムのお腹から盛大な音が聞こえて、私は手を止めた。ああ、
朝ご飯作らないとか。
﹁作り置きしておいたパンは?﹂
﹁オクト待ってた。食べてないよ?﹂
自分でも勝手に食べられるように総菜パンを作っておいたのに、
どうやら無意味だったようだ。
﹁待たなくていいし、先に食べてかまわないから﹂
﹁カミュね、やどぬしより、先食べる、ダメって﹂
カミュめ。
私に合わせていたら、アユムが餓死してしまうだろ。アユムは素
直だから、言われた事を忠実にまもろうとするのだから迂闊な事は
言わないで欲しい。
﹁分かった。まず、朝ご飯を食べよう﹂
﹃ごはん、ごはん、朝ごはん∼!﹄
私がそう伝えると、アユムが日本語で歌のようなものを歌い始め
た。⋮⋮アユムは朝から元気がいいねぇ。おばさんちょっと死にそ
うだよ⋮⋮年かなぁ。
そんな事を思いながら、台所の方へ向かう。
昨日の残りのコーンスープを温めつつ、惣菜パンを軽くオーブン
で温め、私は皿の上に乗せた。今日はこれぐらいでいいか。
﹁持ってく!﹂
﹁重いよ?﹂
﹁いい。だいじょうぶ﹂
私は少し考え、大皿に乗せたパンを小さい皿2つに乗せ換えると、
一つだけアユムに渡した。 ﹁じゃあ、よろしく﹂
756
﹁うん﹂
少しよたよたしつつアユムは机へパンを運ぶ。 その間に私もスープをカップに注いだ。うん。いい香り。
﹁オクト、運んだ!﹂
﹁じゃあ、もう一皿よろしく。スープは私が運ぶから﹂
アユムは嬉しそうに皿を持つと、机の方へ向かう。⋮⋮家事が大
好きって、将来メイドとかになるつもりかなぁ。
だとしたら、アユムがもう少し大きくなったらヘキサ兄に相談し
てみるのが一番かもしれない。伯爵家は無理だとしても、いい場所
を紹介してくれそうだ。
スープを席まで持って行くと、アユムはちょこんと椅子に腰かけ
ていた。そして何かを訴えかけるような目で私を見てくる。⋮⋮あ
ー分かっているから。
私はスープを机に置いてから、アユムの頭を撫ぜてた。
﹁いいこ﹂
﹁えへへへ﹂
どうやらアユムは撫ぜられるのが好きなようで、お手伝いしては、
よく期待した眼差しで私を見てくる。可愛いには可愛いし、癒され
るのだが⋮⋮あれ?どうしてこうなった?
というか、山奥で独り暮らしをする人生設計は何処に行った。そ
う思うが、すでにそれは夢のまた夢のような話に思える。
私はどうやら計画の見直しをしなければならないようだ。 757
36−2話
﹁クロぉ!!﹂
﹁アユム良く来たな!﹂
クロはタックルしに行ったアユムをひょいと持ち上げると、くる
くるくるっと回転した。キャーッとアユムが叫び声をあげているが、
どちらも楽しそうなのでまあいいか。
﹁ども﹂
﹁オクトも良く来たな!﹂
クロはアユムを下ろすと、私の頭をわしわしと撫ぜた。なんだろ
う、完璧アユムと同じ扱いである。
﹁一応、これでもアユムの保護者なんだけど﹂
﹁子供が子供を育てられるって凄いよな﹂
﹁誰が子供だ﹂
ちょっとだけ自分の方が大きく育ったからって。クロと私の年齢
差は1歳だ。私が子供なら、クロだって子供だ。
﹁あ、悪い。ちょっと冗談が過ぎた﹂
﹁ちょっと?﹂
﹁違う。かなり!ごめん、マジ悪かった。だからその空気は止めて
っ!!﹂
﹁クロ、オクト虐める、ダメ!!﹂
ポカポカとアユムがクロの足を叩いた。勿論アユムの力じゃまっ
たく痛くはないのだけど、クロもアユム相手では無茶ができなくて、
思いっきり困っている。
⋮⋮何だ、この可愛い生物。とりあえず、アユムを基準にすると、
こんな可愛い行動ができない私は子供ではなさそうだ。怒るのも馬
758
鹿馬鹿しくなって私は笑った。
﹁アユム。大丈夫﹂
﹁ほんと?﹂
﹁うん。本当。でも、怒ってくれて、ありがとう﹂
よしよし。
何だか最近撫ぜるのが癖になってきている気がする。うーん。で
ももしもアユムが私の身長を越した時、はたして私はどうするべき
か。
﹁お前ら、可愛すぎる!!﹂
﹁ぎゃっ!クロ!!ちょっと、誰か!!クロが暴走したっ!!﹂
クロが突然私とアユムをぎゅっと抱きしめるので、慌てて海賊た
ちに助けを求めた。
海賊に助けを求めるしかないなんて、何だか慣れ合いすぎている
とは思う。でもクロはどうも可愛いいモノ好きなようで、時折暴走
し、その時は誰かに止めてもらうしかないのだ。まあ可愛いモノは
正義という概念は分からなくもない。でも私を可愛いに含める辺り
で、残念な方向に感性がずれている。
﹁はいはい。それぐらいにしておくっすよ﹂
﹁げっ。副船長﹂
副船長である、ロキが声をかける事で、なんとかクロの暴走は止
まった。
﹁ロキ、ありがとう﹂
﹁ありがとー﹂
﹁どういたしまして。先生もアユムも良く来たっすね﹂
ロキはにこりと笑うと、真っ赤なポニーテールを揺らしこちらへ
歩いてきた。
﹁そう言えばこの間先生が作ったシャーベットとアイスクリーム。
759
凄く売れたみたいっすよ。もっと暑くなったら量を増やしてもいい
かもしれないっすね﹂
﹁分かった﹂
そうか。売れ行きは順調か。
実をいうと、アユムの面倒を見ながら魔の森で薬草を摘んで薬を
作るという作業は思った以上に大変だった。その為私は薬を作る量
を減らし、代りにお菓子を作って海賊に販売委託するという方法を
取り入れたのだ。
勿論製菓修業も何もしていない私では多少お菓子作りが得意でも、
プロにかなうはずがない。そこで魔法を使い、今はまだこの世界に
ないだろう菓子を売る事にした。その一例がシャーベットやアイス
クリームである。
冷凍庫が復旧していないこの国では、魔法で凍らせて食べるとい
う概念がない。一応冬に作った氷をとっておき氷菓にしたり、果物
を凍らせたりして食べる習慣はあったが、そんなものが食べられる
のは貴族だけだ。なので私は対象を一般市民とし、シャーベットと
アイスクリームを販売する事にしたのだ。
もちろん自分で売るのがお客様の声も聞こえて一番だとは思うが、
なにぶん混ぜモノの為、私が売っては商売にならない。その為、海
賊に売ってもらうという前代未聞の方法となっている。
﹁しばらくしたら他の店にも真似されると思うっすが、今のところ
製菓に通じた魔法使いはいないみたいっすからねぇ。王宮の魔術師
ですら買いに来ているって話っすよ﹂
﹁良かったな。これで凄い儲けられるぞ!﹂
もしかしてこれは商業で億万長者を築けるフラグなんだろうか。
⋮⋮でもアイス屋がもうかるという事は、海賊の軍資金も増えると
いう事。
760
何だか嫌な予感しかしない。
﹁オクト、イヤ?﹂
﹁なんだ?嬉しくないのか?﹂
﹁あー、まあ。お金はあって困る事はないけれど﹂
詰めが甘い、詰めが甘いと言い続けられている私だ。どうしても
目の前の事を素直に喜べない。勿論、ここで巨額の富を得て、アユ
ムが独立した暁には森の奥に隠居。後は混融湖についての研究をし
たりしてのんびりと暮すというのも悪くない。というか、かなり賛
成だ。
でも絶対何か問題が出てくるに決まっている。
人生そんなに甘くない。海賊が軍資金を集めたら、どういった問
題が出るのか、ちゃんと考えておくべきだ。
⋮⋮カミュに聞くか。
少し考えたが、たぶん海賊に財力がついて問題なのは政治方面じ
ゃないだろうか。それならば、そう言った事に疎い私が考えても無
意味だろう。
もしも海賊に売ってもらうのが問題ならば、何処かの製菓屋と提
携を結ぶのもありだ。⋮⋮薬の時のように、船長に叩きつぶされな
いよう細心の注意が必要だけど。
﹁そうだ。話は変わるけれどさ、昔オクトってケイタイを異界屋で
貰ってなかったか?﹂
﹁へ?携帯?⋮⋮貰ったけど﹂
そんな古い話よく覚えていたものだ。
携帯電話は、私の数少ない宝ものとして保管してあるが、それが
どうかしたのだろうか?
﹁悪いんだけど、貸してもらえないか?な?この通り!﹂
パンとクロが手を合わせて頭を軽く下げた。
761
﹁いいけど。何に使うの?﹂
﹁実はさ、俺の育て親がホンニ帝国で機械屋やってて。この間手紙
でちょっと話したら凄く興味持っちゃってさ。今異界屋でその類の
ものを買いあさり中なわけ。もしかしたら直るかもしれないし、絶
対分解しても元に戻すって約束するから﹂
まあ貸す分には構わないけれど、もし治ったとしても携帯電話と
しては使えないだろう。どう考えても、電波塔がこの世界にあると
は思えない。
とはいえ、電波塔はなんだとか、電波とは何だと言われても、私
の知識で上手く説明できる気がしない。原理を知らなくてもお金さ
え払えば小学生だって使える。それが、携帯電話なのだ。
まあいいか。
若干無駄な努力っぽくて申し訳ないが、電話が使えなかったら直
らなかったという事でいいだろう。
﹁じゃあ、後で召喚しておく﹂
﹁おう。ついでに機械屋までの、転移魔法用の魔法石と、帰り用の
魔法石もよろしく﹂
﹁分かった﹂
海賊で商売をし始めてから、私は荷物を運ぶ転移魔法に蓄魔力装
置を用いる方法を導入した。今のところの精度だとヒトや生物を運
ぶのは怖いが、物を運ぶ程度ならば問題ない。
もちろん重量に制限はあるし、受け取る側にも魔法陣を用意しな
ければいけないという問題はあるが、この方法ならば魔法が使えな
いヒトでも、遠い場所と簡単にやり取りができる。
⋮⋮良く考えると、私って結構いい仕事しているんじゃないだろ
うか。
﹁じゃあ、そろそろ船長に薬売ってくる﹂
762
そう言って、私はしゃがみこむと、アユムと顔を合わせた。
﹁クロ達といい子に遊んでて。後で迎えに来るから﹂
﹁分かった!クロと遊ぶ!だから、オクト頑張って﹂
そう言ってアユムは小指を突き出した。そろそろ慣れてもいいだ
ろうに、アユムは今もまだ異世界のおまじないをしないと安心でき
ないようだ。
とはいえ、いきなり言葉も通じない、知らない所に連れてこられ
たようなものだ。1人になるのを怖がったって仕方がない。
日本に戻してやりたいとは思うが、戻す方法が見つかる見通しは
全然立たない。その間もアユムはどんどん大きくなる。10年もす
れば、戻ったところで、日本で生活するのは難しくなっているだろ
う。
まだアユムが幼かったのが幸いだ。こちらの生活が長くなれば、
戻る事の出来ない世界の記憶は徐々に薄れて消えてしまうだろう。
﹃ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます。ゆび
切った!﹄
日本にいた時の事を忘れないように、私の記憶にある範囲であち
らの勉強させる事はできるが、はたして何が一番アユムにとってい
いのか。
引き取った当初は異世界の事を忘れないように日本風の名前はつ
けた。でも戻れるみこみの薄い場所の事など忘れた方がいいものな
のだろうか。私はまだ答えを出せずにいた。
763
◆◇◆◇◆◇
﹁相変わらず、お前もアユムも色気のない恰好しているな﹂
﹁アンタに色気を見せてどうするんだ﹂
船長から貰ったお金を数えていると、そんな事を言われた。
私の恰好は男モノの服に白衣を羽織るだけ。アユムの恰好は︱︱。
﹁⋮⋮アユムの性別って言ったっけ?﹂
﹁男なら、女かどうかぐらい見分けられるに決まっている﹂
決まっていません。
特にアユムの場合幼児であるだけでなく、髪も短いし、女の子ら
しさもあまりないので、男の服を着せればバレないと思っていた。
でもそう言えば、私と初めて会った時も、船長は私の性別を一発
で見ぬいた気がする。⋮⋮きっとこの男、ヒヨコでも簡単に雌雄鑑
別するに違いない。
⋮⋮ちょっと気持ちが悪いと思うのは私だけだろうか。
﹁子供の性別見抜いたからって、だからなんだ﹂
﹁たぶんロキも気付いていると思うぞ。クロは駄目だな。アイツは
鈍いし、レディーの扱いが全然なっていない﹂
レディーって。
﹁ちなみに私は?﹂
﹁レディーだと思っていますよ、先生?﹂
ニヤリと笑われたが、全然嬉しくない。そしてレディーの扱いを
受けた記憶が一度としてなかった。混ぜモノの私に性別なんて関係
ないと言えばないのだけど、彼の言うレディーの扱いってどんなも
764
のなのか。
﹁まあでも、付き合うとしたら、色々もう少し成長して欲しいもの
だな﹂
﹁そんな予定はないから問題ない。ちなみに、アユムに手を出した
ら殺す。勝手に色街にでも行け﹂
﹁おお、怖いお母さんだ。アユムは美人に育つと思っていたから、
残念だな。勿論先生もですよ?あと30年ぐらいかかるかもしれな
いけどな﹂
さ、30年。⋮⋮それは言いすぎじゃないだろうか。
いやでもこの成長率だと⋮⋮。いやいやいや。今一生懸命牛乳を
飲んでいるじゃないか。そうか、分かった。きっと船長が熟女フェ
チなんだ。うん。そうに違いない。
﹁熟女フェチか⋮⋮﹂
﹁あんまりおかしな事考えていると、本当にオカスぞ?﹂
﹁すみません。熟女好きなヒトに、船長と同じ感性だなんて失礼な
事考えていました﹂
﹁おいっ﹂
まあどうせ、私では船長のお目に叶わないのは分かっている。少
なくとも船長はロリコンではない。だからこそ、この手の類の話も
冗談として聞き流せた。
ただアユムが成長した場合はどうなるか分からないので、保護者
としてあらかじめ釘をさしておかなければ。アユムには異世界で生
活しなければならないという苦労が待っているのだ。その上、悪い
男に騙されたら可哀そう過ぎる。
﹁オクトは俺たちの事を、犯罪者、犯罪者と言うが、俺の嫁になり
たいという奴は結構いるんだぞ﹂
うわぁ。悪い男ほど恰好よく見えるとか、そういう話なのだろう
765
か。こんな男に騙されるなんて残念なヒト達だなぁ。
とにかくアユムにはちゃんと言って聞かせないと。どうもアユム
は海賊の事を正義の味方か何かと勘違いしている節がある。友情パ
ワーとかなんとか言っていたので、たぶん日本のアニメの影響だろ
う。
﹁そう。なら船長が結婚したら、アイスクリームでケーキを作って
祝ってやる﹂
別にこの船長が結婚したところで、私には関係ない話だ。⋮⋮ア
イスケーキ。できなくはないよな?異世界にはそんな商品がすでに
あったし。
﹁それは楽しみだ。アイスと言えば、またここで作っていくんだろ。
ついでに夕食も作っていけ﹂
﹁えっ﹂
夕食を食べていけじゃなくて、作っていけとは、何とも横暴な男
だ。まあアユムの面倒を見てもらっているわけだし、ついでにここ
で夕食を食べていけば1食楽ができる。
﹁まあいいけど﹂
﹁なら、その御礼に一つ忠告しておいてやる﹂
﹁いい。何か呪われそう﹂
船長に忠告なんかされたら、嘘でも本当になりそうで怖い。そん
な親切いらない。
﹁考え方改めないと、後で泣く事になるぞ﹂
﹁いいって言ってる⋮⋮。考え方って、海賊が犯罪者って事?﹂
﹁まあ、それは俺も否定はしないな。そうじゃなくて、自分が女だ
という事を忘れるな﹂
⋮⋮怖い忠告ありがとうございます。
世の中にはいろんな性癖のヒトがいるというし、ちょっと自分と
766
アユム用の防犯魔法を開発しておくべきかもしれない。確かにこの
辺りは治安もそれほど良くない。だから男の恰好をしているのだし。
﹁分かった﹂
私は数えたお金を袋に詰めながら、スタンガンって作れるかなぁ
とぼんやりと考えた。 767
36︲3話
暑くなってきたなぁ。
夏本番はもう少し先だが、海賊のアジトがあるこの海辺は、昼間
は結構蒸し暑い。普段住んでいる場所が寒い地域なだけに余計きつ
く感じた。
一応ヘキサ兄に貰った麦わら帽子を被ってきたが、日差しは遮れ
ても、湿度までは変えられない。魔法で自分の体の周りだけ除湿し
て涼しくしてしまおうかとも思ったが、まだ夏にもなっていないの
にそんな魔法に頼っていては、体がおかしくなってしまいそうなの
で我慢する。クーラーがない世界でクーラー病になるのも馬鹿馬鹿
しい。
シャーベットとアイスクリームの材料を注文しに街へ出たのだが、
これは早々に帰った方がよさそうだ。熱中症で倒れましたとか洒落
にならない。
混ぜモノが倒れたところで、はたして何人のヒトが助けようと思
ってくれるのか。⋮⋮路上で変死体とか勘弁だ。
﹁できたら、異界屋にも寄りたかったんだけどなぁ﹂
異界屋の主人には、混融湖に流れ着いた本や、手紙の入った瓶が
見つかった場合は優先的に私の為に取っておいて欲しいと頼んであ
る。しかしあっちも商売。あまり足が遠のくと、私に見せる前に店
頭に並んでいそうだ。
最近ご無沙汰しているし⋮⋮やっぱり行くべきか。
せめて何処かの店で休めるといいのだが、生憎と混ぜモノを入れ
てくれる喫茶店はない。このままだと本当に倒れてしまうと思った
768
私は、とりあえず木の木陰に入って一息ついた。
元々寒さよりも暑さに弱かったのだが、年々悪化している気がす
る。やはり精霊との契約が原因だろうかと腕に巻きつくようについ
ているタトゥーのような痣を見た。精霊は所有物に目印を付けるの
が好きなので、精霊と契約すると必ずどこか体に痣が残るそうだ。
あの後、精霊魔法についての本をもう一度読み直してみたが、普
通は契約するとしても、1種類の精霊だけだと書いてあった。1種
類なんて少なすぎるように思うが、そうでないと命を落とすケース
が多いらしい。ちなみに痣の形や色で契約した精霊の種類が分かる
そうだが⋮⋮私の場合は7属性全てがそろっていたので、もう笑う
しかない状態だ。
確かにあの時、どの属性とか考える間もなく、契約して無茶苦茶
な魔法を使った。すべてと契約という形になってもおかしくはない。
後悔をしているわけではないが、かなり無茶をしたものだ。それで
も死ななかったとは、私はかなり悪運が強い。
でもこの体力の衰え方は不味いよなぁ。
木にもたれながら私は容赦なく照りつける太陽を見上げる。まだ
年齢は20もいっていないし、見た目なんか小学生のようなのに、
体力はまるで老人のようだ。運動不足だからとかでは説明がつかな
いレベルである。あまり長生きできないかもなぁと思うが、そもそ
も混ぜモノの寿命はどれぐらいなのかも分からないので何とも言え
ない。
せめてもう少し陰ってくれないかと思っていると、くらりと目ま
いがした。それと同時に、瞼がぐっと重たくなる。
この感覚は、不意に眠りこけてしまう時と同じ感覚だ。
﹁⋮⋮戻ろう﹂
一応シャーベットなどの材料の発注は終わって、後は海賊のアジ
769
トまで荷物を持ってきてもらうだけなのだ。
このまま街中で眠ってしまうのは不味いと思い、私は慌てて転移
用の魔法陣の描かれた腕輪に目を落とす。せめてアジト内なら、廊
下で眠っていてもいつもの事と思ってもらえる。
﹁展開︱︱﹂
﹁ねえっ﹂
魔方陣を目の前に広げて魔力を流そうとしたところで、私は腕を
掴まれた。
ドキリとして、慌てて魔法を使うのを止める。あぶない。転移に
失敗する所だった。危ないじゃないかと文句を言おうとしたところ
で、私は固まった。
﹁顔色が悪いけど大丈夫か?﹂
大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではない。 でも今もっと大丈夫ではない状態になりそうだ。黒髪、赤眼の魔
族の男を見て、私はさっと血の気が引くのが分かった。
何でここに?あまりの状況に思考が迷走する。早く答えを決めて
次の行動に移さなければいけないのにそれができない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
頭の中が混乱で真っ白になる。それと同時に、眠気もいっそう強
くなり、どんどん思考が闇の中に落ちていく。
寝ている場合じゃないのに。早く離れなければ。でも体が、まる
で自分のものではないかのように動かない︱︱タイミングが悪すぎ
だ。 ﹁⋮⋮アスタ﹂
恐慌状態のまま、私の意識はプツリと消えた。
770
◆◇◆◇◆◇
﹁あっ、お嬢様気がつかれましたか?!﹂
﹁⋮⋮ペルーラ?﹂
何だろう、凄く懐かしい夢でも見たような気分で私はペルーラを
見上げた。色々不安な事があるからって、アスタの⋮⋮保護者の夢
を見るとは、私もまだまだ子供だという事か。それにしても、以前
会った時より、ペルーラはさらに大人っぽくなって︱︱。
﹁何で?!﹂
私は慌てて体を起こした。
どうして子爵邸で働いているはずのペルーラがここにいるのだろ
う?周りを見渡して、ここが海賊のアジトでも、自分の家でもない
事に気がついた。家具や調度品がスッキリと片付いている部屋なん
て、この2か所には存在しない。
﹁オクトお譲様は道で倒れられていたんですよ。それを旦那様が気
がついてここまで運んで︱︱﹂
﹁待って、旦那さまって?!﹂
﹁もちろん、アスタリスク・アロッロ子爵です﹂
夢じゃなかった。
771
想定外の状況に私の血の気は再びさっと引く。やっぱり眠りこけ
てしまう直前に見たのは、アスタで間違いなかったらしい。
﹁えっと、すみません。ありがとうございました。もう大丈夫なの
で戻りますとアスタリスク様に︱︱﹂
﹁伝えませんよ?﹂
﹁えっ?﹂
﹁そんな主が来る前に、しかも助けてもらっておいて、顔を合わせ
ずに帰るだなんて。そんな不義理な事、オクトお嬢様はしませんよ
ね。直接、御礼を言うのが一番だと思いますわ﹂
えっ。駄目ですか?
⋮⋮良く考えたら、ここは貴族の屋敷。マナーにうるさくて当然
の場所だ。最近ずっと庶民だったというか、さらにそれ以下の犯罪
者達と付き合っていたので、すっかり抜け落ちていた。
何か身にやましい事があれば、逃げ出す。これ常識。⋮⋮いや、
非常識ですね、すみません。
﹁でも、会ったら不味いというか⋮⋮そう言えば記憶は?﹂
﹁たぶん、戻っていませんよ。残念ですが﹂
ペルーラの言葉に幾分か肩の力が抜ける。そうか。記憶は戻って
いないのか。ならば街中で声をかけてきたのは偶然なのだろう。
﹁そんな事で嬉しそうな顔をしないで下さい﹂
﹁うん。⋮⋮でもね﹂
ペルーラは渋い顔をしたが仕方がないと思う。
それにても、アスタが他人に親切な事をしたなんてあまり信じら
れない。でもまあ、いつもの気まぐれで、たまたま親切にしたい気
分だったのだろう。もしくは、よっぽど私が死にそうな顔をしてい
たかだ。転移魔法さえ成功していたら大丈夫だったんだけどなぁと
思うが、そんなの大きな声で宣伝したわけではないので、分かりっ
こない。
772
﹁アレ?もう目が覚めたんだね﹂
突然男のヒトの声が聞こえて、私はぎょっとした。
瞬きをすれば、ペルーラの隣ににっこりと笑った魔族の男がいた。
どうやら転移魔法を使ったらしい。ほんの少しの距離なのだから、
普通に部屋に入って来ればいいのに。心臓に悪い。
﹁旦那様?!﹂
久々に見たアスタは、80代⋮⋮いやもう90代のはずなのに相
変わらず青年の姿で、まったくあの頃と変わりない。そんなアスタ
を見ると、心臓が止まってしまった時の記憶がフラッシュバックし、
少し苦しくなる。
でも大丈夫。アスタはちゃんと幸せに生きているのだと自分に言
い聞かせる。もうアスタが私の所為で死ぬなんて事はない。
﹁あ、そうだ。ロベルトがペルーラを庭の方で探していたよ﹂
﹁ロベルトがですか?﹂
ペルーラは少し面倒臭そうな顔をすると、ちらっと私を見た。そ
の顔には、まだ話したい事がいっぱいあるのにと書いてある。
﹁⋮⋮分かりました。すぐ戻ってきますから、オクトお嬢様は絶対
安静ですからね。動いちゃ駄目ですよ!いいですね!!﹂
ドアの前で、絶対ですからねと繰り返しながら、ペルーラは部屋
から出ていった。見た目はもう完璧大人の女性で、昔に比べるとか
なり落ち着いている。それでも相変わらずな部分があると分かると、
少し笑えた。昔とは違うと分かっていても、まるであのころに戻っ
たかのようだ。
でもこの状態で早々に帰ると、本気でペルーラが家まで怒鳴りこ
みに来かねない。一応ヘキサ兄を通して来ちゃ駄目命令がペルーラ
の所にいっているはずだが⋮⋮大丈夫だろうか。
﹁ペルーラはよほど君の事を気にいったようだな﹂
773
アスタも若干あきれ顔でペルーラが出ていった扉を見ていた。
さて、アスタと2人きりになってしまったがどうしようか。アス
タの様子はいたって普通なので、これは御礼を言ってさっさと帰る
のが一番よさそうだ。
﹁あの⋮⋮助けていただいたみたいで︱︱﹂
ありがとうございましたと言おうとしたのだが、もう一度笑顔の
アスタを見た瞬間、私は蛇に睨まれた蛙のごとく固まった。ざわざ
わと鳥肌が立つ。
アスタは笑顔だ。笑顔のはずだ。それなのに、私の中の第六感が
ピクリと反応する。コレは危険だと。
ダラダラと冷や汗が流れる。何でこんなに怖いのかと考えた所で、
目が笑っていない事に気がついた。笑う気がないなら、笑わなきゃ
いいのにと思うが、そんな事を言う余裕もない。
﹁ものぐさな賢者﹂
ジッと無言で見つめ合うという変な状況になっていたが、不意に
アスタの方が口を開いた。
﹁アロッロ伯爵の領地である魔の森の麓には、幼い姿をした変わり
者の賢者がいる。賢者は混ぜモノで、薬を生業にしているが、彼女
が使う魔法はとても素晴らしく独特な発想をしている﹂
そう言って突然アスタは私の腕を掴み袖をめくった。
﹁そして自分でも多種多様な魔法が使えるのに、7種もの精霊と契
約した変わり者⋮⋮本人で間違いないかな?﹂
賢者と言われると今でも逃げ出したいような気分になるが、魔の
森の麓にすむのは私ぐらいのものなので、まず間違いないだろう。
私は諦めて、コクリと頷いた。
別に隠しているわけではないのだ。
私が頷くと、アスタの目が少し輝いた気がした。
774
﹁そして、君は数年前に俺を助けてくれた混ぜモノの子だね﹂
やっぱり覚えていたか。
ここで嘘をつくのは簡単だが、そんな誤魔化しがきくような気が
しない。だったら逆に私が忘れたようなふりをするのはどうだろう
か。忘れただったら、嘘をついているわけではないし、アスタと繋
がりも薄くなるような︱︱。
﹁まさか、忘れたって事はないよね﹂
﹁はい、私です。忘れてません﹂
忘れたふりをする。ほんの少し前に考えたそんな事も忘れて、私
は慌てて返事していた。⋮⋮怖い。めっちゃ怖い。今、忘れました
なんて言ったら、もっと危険な気がするのだ。
というか私、実は結構ピンチな状態じゃないだろうかなど、今更
過ぎる感想が頭をよぎっていく。
﹁そっか。良かったよ。もしも忘れたと言ったら、どうやって思い
だしてもらおうかと思ったんだ﹂
トンっと背中が壁にぶつかった。
どうやら無意識にベッドの上でじりじりと壁の方へ逃げ出してい
たらしい。ざわざわと立った鳥肌が痛くてたまらない。なんで思い
出す必要があるんですかと思うが、聞くに聞けない。
﹁ようやく会えてうれしいな。小さな賢者様?﹂
確かにあの時、もうアスタとは会う事なんて絶対ないと思ったの
に。
私は人生設計を大きく見直す必要がありそうだと悟った。
775
37−1話 流されぎみな現在状況
どうしてこうなった。
﹁やあ、賢者様﹂
ドアを開けると、そこにはアスタがいた。⋮⋮閉じていいですか、
駄目ですね。
背後にはさわやかな小鳥の鳴き声のBGMが聞こえて忌々しい。
いや、毎朝流れてますけどね。
あまりの事に脳が拒絶反応を起こしているらしく、体が硬直する。
詳しく状況と語るとすれば、扉を閉めようとする右手と、それはも
っと不味い事になると直感を働かせる左手によって身動きが取れな
い状況だ。
アスタと偶然にも出会ってしまったのは、つい先日の事。たまた
ま私が倒れかけた所に、颯爽とアスタ登場。⋮⋮なんだこれ、何処
の少女漫画だと言いたくなるような偶然さである。本当に偶然だろ
うかと疑いたくなるが、偶然でない時の方がもっと困るので、やっ
ぱり不思議はそのままにしておくしかない。
まあそれは置いておくとしてだ。その後、子爵邸で看病されてし
まった私だが、どうしても用事があると平謝り状態でお願いし、無
理やり返してもらったという記憶がある。幼い子が待っているから
ネタは、いつの時代でも使えるものだ。
とりあえず、何とか逃げ帰る事ができたので、後はヘキサ兄経由
で御礼の手紙でも出して終了だと思っていた。⋮⋮ついさっきまで。
﹁⋮⋮本日は、どのような用事ですか?﹂
逃げたい。脱兎のごとく逃げたい。
776
子爵邸から帰れたらすべては丸く収まると思っていたのに。私は
王都からわざわざこんな辺境の、しかも魔の森の麓まで来たアスタ
を見て、顔を引きつらせた。流石に今回は偶然では済まされない。
﹁用事がなければ来てはいけない場所なのかな?﹂
来てはいけない場所です。
そう言えたらどれだけ気分が楽か。でもこの間助けられた時のよ
うな、怖い思いはしたくないので、あまり強気な発言ができない。
今日はあの時のような、恐ろしい空気は身にまとっていないが、
いつどこでアスタの不機嫌スイッチが入るか分からない。もうドS
は友人兼王子様で間に合ってます。お腹いっぱいですから勘弁して
下さい。
﹁い、いえ。そんな事はありませんが⋮⋮一応、ここは薬屋ですの
で﹂
ここは私の家だが、それと同時に薬屋でもある。ここから直接お
客様に売ることはほとんどないが、一応、さりげなく看板は掲げて
あった。良かった。無意味だと思ったけれど、看板を作っておいて。
これのおかげでちゃんといいわけもできる。
私は過去に看板は立てた方がいいと言って最後まで譲らなかった
ヘキサ兄に心の中で御礼を言う。今度薬を納品する時は、必ずおま
けをつけよう。
﹁あれ?薬屋なんだ。俺の同僚がね、賢者がアイス屋を開いている
と言っていたんだけどなぁ。それから、図書館でも働いているそう
じゃないか﹂
﹁あー⋮⋮アイスの方は兼務をしてまして。図書館は、学生時代に
お世話になった先輩のお手伝いをしているだけで働いているわけで
は⋮⋮﹂
よく、調べているようで。
777
何がアスタの探求欲をつっついてしまったのかは分からないが、
調べても楽しい事なんて何もありませんよという意味を込めて、ぼ
そぼそと説明する。
﹁へぇ。なら俺の後輩というわけだ﹂
﹁⋮⋮そう⋮⋮ですね﹂
なんて嬉しそうな顔するんですか。
このタイミングだと、私との繋がりができた事を喜んでいるよう
にしか見えない。いや、もう、本当に勘弁して。
私は引きつる顔を必死に隠しながら、話題を変える為に再度口を
開いた。
﹁ただ、あの。今日は店が休みなんですが⋮⋮﹂
﹁そうなのかい?﹂
扉には、休みのプラカードがかけられていた。というのも、勝手
に広がった賢者という言葉だけでここには凄い薬があると勘違いし
たヒトが来てしまうからだ。そんな凄い物を求められても困るので、
私はそれを追い返す為にいつもこのカードをかけている。
そもそも基本私は仲介してくれる、伯爵様か海賊にしか販売して
いないので、一般の売却はいつでも休み。まれに子供が熱を出して
しまったというお母さんや、腰を痛めたという老人に売ったりもす
るので、営業日はきまぐれといったところか。
年中休み。きまぐれ営業。本日お休みというのは嘘ではない。
﹁ならちょうど良かった﹂
﹁えっ?﹂
﹁今日は別に薬を売ってもらおうと思ってきたわけじゃないんだよ
ね﹂
しまった。退路を断たれた。
まさかそう来るとは思わず、愕然とする。薬屋に薬以外のものを
求めて来るって、どういう事なのか。というか私が引いている事に
778
気がついて。早く空気を読んで!と思うが、よく考えれば、アスタ
は空気が読めないんじゃないんじゃなく読まないんだったという事
を思い出す。彼はしたいようにしかしない。空気?うん、あるね。
でもそれが何?という感じなのだ。コンチクショウ。
﹁あのですね⋮⋮﹂
﹁君の事がもっと知りたくて来たんだ﹂
さて、何と言って逃げようか。その言葉を考える間に、まさかの
爆弾発言を投下をされて血の気がさっと引いた。
何で、そんな素直なんですか?!嫌がらせですか?嫌がらせです
ね。
反射的に扉を閉めようとしたところで、ガシッとアスタに止めら
れる。さらに無理やり足を中にねじりこまれた。何処で覚えたんで
すか、そのセールスマンの極意を。
﹁酷いな。そんな急いで閉めなくてもいいじゃないか。俺は純粋に
君と魔法について語りたいと思ったんだよ﹂
﹁いや、だって⋮⋮。︱︱魔法ですか?﹂
なんだ。知りたいのは魔法についてか。あー、驚いた。
まるで告白されたようなセリフだったので、変な風に勘ぐってし
まった。もしかして、記憶が戻りかけたのかと思ったが、この様子
だとそういったわけではなさそうだ。心臓がまだバクバクいってい
る。
そう言えば、アスタは王宮で魔法の研究をしていた事を思いだい
た。
﹁そう。蓄魔力装置は君が作ったんだよね?﹂
アスタの言葉に、私は躊躇いながらも頷いた。
本当は私1人の力で作ったものではない。しかし、ならば他の2
人はどうしたのかという話になると、どうしても混融湖の話になっ
779
てしまう。そしてその話は、アスタの記憶喪失の話に繋がりかねな
かった。自分の手柄にしてしまったようで心苦しいが仕方がない。
﹁それに誰でも使える転移魔法装置、同じく誰でも使える冷却箱な
ど、魔法を知らなくても使える物を開発していると聞いているよ﹂
﹁⋮⋮誰でも使えるというのは語弊がありますが﹂
使うには魔法石が必ず必要で、この魔法石に魔力を溜める必要が
ある。もちろん些細な力しか注がれていなくても、石同士の繋ぎ方
で力の強弱は作り出せた。しかしこの魔法石を手に入れるのは金銭
的な問題が生じる。かといって魔力が込められていない原石に、魔
力が低いヒトが石に力を注ごうとすれば、アホみたいに時間がかか
った。
﹁俺は常々、魔法が特別なモノで魔法使いや魔術師しか使えないの
はおかしいと思っていたんだ。莫大なお金を使って研究するなら、
大衆の為であって欲しいとね。魔術師ですら攻撃魔法こそ一番だと
思っている馬鹿が多くて嫌になる﹂
﹁はあ﹂
そう言えばアスタと魔法について語り合うなんて初めてだなと思
う。どうしてもアスタの方が魔法に関しては知識が多いし、センス
も上なので、私は教えてもらう生徒のような立場ばかりだった。
でもこれほどまでに攻撃魔法が嫌いだなんて、何か嫌な記憶でも
あるのだろうか。⋮⋮まあ90年も生きて王宮で魔法使いをしてい
れば、何かかしらありそうなものだけど。
私も前世の記憶の所為か、あまりヒトを攻撃するというのは好き
ではない。とくに戦争は悪だと教えられてきた事もあり、やはりそ
ういった関係の研究書もあまり興味が持てなかった。勿論、自分た
ちの生活を守るためにやっている事だというのも分かるので、否定
もできないのだけど。
﹁だから君が⋮⋮ああ。そうだ。同窓なんだし、俺の事はアスタと
780
呼んでくれないかな?﹂
﹁えっ。いや、そんな︱︱﹂
無理です。
そう言おうとしたが、再び私の第6感が待ったをかけた。あ、こ
れを否定したら、アスタの機嫌が急降下するなと⋮⋮。アスタを見
ると、そりゃもうすがすがしいほどの笑顔だ。分かった。分かりま
したから。怖い空気を出さないで下さい。
﹁⋮⋮分かりました。アスタ様﹂
﹁様はいらないかな。代わりに俺もオクトって呼ばせてもらうから﹂
何ですと?
﹁オクト﹂ 私が否定するよりも先に、アスタは私の名前を呼んだ。まるで昔
に戻ったかのようで、名前を呼ばれただけなのに嬉しいと思ってし
まった自分の考えを慌てて振り払う。
これは不味い。
折角離れたのに、親密になるのは駄目だ。
﹁俺はオクトが攻撃魔法でない研究をしていてくれた事が嬉しいん
だ﹂
﹁いや、嬉しいと言われましても⋮⋮、私は生活の為で︱︱﹂
どうしよう。
何とかしてアスタの興味を別の方向へ持っていけないだろうか。
もしくは私なんて無意味な、そこらへんに落ちている石ころと同じ
だと思ってもらえれば⋮⋮。
﹁だからオクト。俺に力を貸してくれないだろうか?﹂
﹁えっ?力を?﹂
﹁君に助けて欲しい﹂
アスタを助ける?
781
凄い魔法使いで、魔力もセンスも知識も半端ないアスタを?一生
懸命、肩を並べたいと思っていたアスタを?
いつも助けられてばかりだった私には、それはとても嬉しく、ず
っと望んでいた言葉で︱︱。
︱︱気が付けば、頷いていた。
そしてすぐさま正気に戻る。
不味い、不味い、不味い。
そんなの駄目に決まっている。陰ながらサポートするならいいと
して、こんな直接アスタに関わっていいはずがない。それでは今ま
での苦労が水の泡だ。
﹁いや。その。私の力など︱︱﹂
﹁ありがとう。オクト﹂
アスタに笑顔で感謝されると、いいじゃないかという気持ちの方
が強くなってきてしまい対処に困る。理性的に考えれば、この願い
は完璧にアウトだ。
でもアスタに助けを求められたんだぞと、私の中の悪魔がささや
く。こんな奇跡のような事、もうないかもしれない。
って、駄目だって。
慌てて私は頭を振った。危ない。本気で流されかけていた。
自分自身のファザコンっぷりに少々絶望しそうだ。頑張れ私。負
けるな私。これはアスタの為でもあるのだ。
﹁あのですね。私では︱︱﹂
﹁オクトォ。お腹。えっと、へったの﹂
必死に誘惑を押しのけてアスタに返事を返そうとしていると、後
ろからアユムの声がした。あー、そういえば、まだ朝ごはんを食べ
ていないんだった。アスタとの胃の痛くなりそうなやりとりの所為
782
で、私は空腹を感じている暇もなかったのだけど。
﹁アユム、ごめん。もう少し、待って﹂
このままアスタとさよならしたら、私は彼の要求を飲む約束をし
たことになってしまう。アユムには悪いが、まずはこちらの件を片
付けてからでなければならない。
﹁そうか。オクトも朝食がまだなのか。実は俺もなんだ﹂
⋮⋮これは私に空気を読めと言ってるのだろうか。自分は読まな
いくせにと思うが、相手がアスタなのだから仕方がない。長年一緒
に暮らしていたのだからそれぐらいは心得ている。
﹁よければ一緒にいかがですか?﹂
私は自分がアスタに弱いことを薄々感じながらも、彼との第二戦
を覚悟することにした。
783
37−2話
﹁オクト。いつもより多い?﹂
はっ?!
アユムのツッコミで私は皿に盛り付ける手を止めた。
本日の朝ご飯。オムライス、タルティーヌ、サラダ、トマトのス
ープ、ミルクプリン。いつもならば、そもそも朝からオムライスは
ない。もしもオムライスをするなら、サラダかスープがつくぐらい
だ。確かに多いと言われても仕方がない。⋮⋮うん、これぐらいで
終わっておこう。
いっそ、タルティーヌとかいらないだろと思ったが、手をつけな
ければ、3時のおやつにすればいいかという事にしておく。とりあ
えず、足りないよりは多い方がいいだろう。
﹁客がいるから﹂
うん。そうだ。それしかない。そうでなければなんだというのだ。
私は自分の行為の正当性を必死に考える。まさか自分が久々にア
スタに料理を作れるから浮かれているだなんて事認められるはずが
ない。
だったらカミュがいる時よりも品数が多いのは何でだというツッ
コミが浮かぶが、心の中で黙殺する。
﹁はい。これもよろしく﹂
﹁うん﹂
私はさらに質問を続けて来そうなアユムの意識をそらす為に、タ
ルティーヌの乗った皿を手渡した。アユムはそれを受け取ると、崩
さないようにそっととリビングの方へ向かう。
784
我ながらこんな風にしか話をそらせない自分が情けない。かとい
って、アスタに褒められたいとか、アスタに喜んででもらいたいと
かそんな意識がある事を認めてしまったら、色々何崩しにすべてが
終わってしまう気がする。しかしならばどういう事なのかと聞かれ
ても上手く返答できそうにない。
これ以上流されるわけにはいかないんだけどなぁ。
私がオムライスを持っていくと、部屋に置いてあった本を勝手に
読んでいたアスタが顔をあげた。
﹁凄いね﹂
﹁今日は特別です⋮⋮お客様がみえますので﹂
﹁いや、料理もだけど、本が凄い充実してる。この本とか、初めて
読んだよ﹂
﹁はあ。趣味なので。よければ︱︱﹂
貸しますよと言いかけたところで、慌てて口をつぐむ。貸します
よなんて、次回会う時のいい口実じゃないか。流されないと決めた
ばかりなのに、自分のうかつさに頭を壁に打ち付けたい気分になる。
﹁︱︱最近出た書物です。まだ簡単に手に入ると思いますし、購入
してはどうでしょうか﹂
わざと私と繋がりを持つための言葉を引き出しているんじゃない
かと勘ぐってしまうが、私の思いこみですねすみません。わざわざ
アスタがそんな事をする理由なんて思いつかない。
とにかくギリギリのところで失敗を回避した私は、ふぅと息をつ
いた。
﹁へぇ。最近なんだ。この著者、白の大地のヒトみたいだけど、よ
く見つけたね﹂
﹁はあ。図書館のアリス先輩から情報をいただきましたので。なの
で、図書館にも入っていると思います﹂
私が情報通というよりは、アリス先輩が情報通という感じだ。図
785
書館に顔を出すたびに、アリス先輩が色々教えてくれるので、欲し
そうな書物をついでに買ってもらっている。
﹁そうなのかい?なら図書館の方が近いか。折角だからまたここに
読みに来ようかと思ったんだけど﹂
あ、危ないところだった。
まさかの借りるではなく、ここに入り浸ろう発言に私は冷や汗を
かく。それぐらいならば、貸し借り程度の方がまだマシだ。家に遊
びに来るって、いつからアスタは私の友人になったのか。
﹁あのですね。ここは仕事場なので、あまり来ていただくのはちょ
っと⋮⋮﹂
﹁何で?﹂
そんな真顔で聞き返さないで下さい。
普通に返すならば、未婚の女性の所に男のヒトが入り浸るのはど
うかと思うと伝えるのが妥当なところだろう。しかしこの発言をす
ると、私がアスタを男として見ていると言っているようなものなの
で、どうにも恥ずかしくなる。そもそも混ぜモノを襲おうなんて思
う男はいない事も十分理解しているので、自意識過剰っぽくて嫌だ。
まあうちには私以外にアユムがいるし、そっちの方を理由にして
しまえばいいか。今はアユムはただの幼児だが、数年もすればまた
変わってくる。船長だってアユムは美人に育つと言っていたのだ。
それなのに、変なうわさが立っては困るというのはどうだろう。
﹁何でって⋮⋮普通は︱︱﹂
﹃リーン、リーン、リーン︱︱﹄
アスタに何とか言いわけをしようとしたところで、ベルの音が鳴
った。
﹁オクト、電話っ!﹂
﹁電話?﹂
786
アユムが叫んだ言葉に、アスタが首を傾げる。電話なんて言葉は、
今のところこの世界にはないはずなので、聞き覚えのない単語だろ
う。
﹁⋮⋮とりあえず、色々後で説明します。ご飯は先に食べていて下
さい。アユムも先に食べてて。すぐ戻る﹂
﹁えー。オクト、待つ﹂
﹁アスタが1人で食べるのは寂しいから。お願い﹂
そう言うと、アユムはチラリとアスタを見て少し難しい顔をした
が頷いた。
﹁分かった﹂
﹁いいこ﹂
私はアユムの頭を撫ぜると、リビングに2人を残し、寝室に向か
った。寝室には大きな箱から糸電話のような物が飛び出たモノが壁
にかけてある。手作り感満載で、とても不格好だが、一応これが電
話だ。箱の中には魔法陣が入っており、それがヘキサの住む伯爵家
と音声を繋いでいる。
私が受話器をとると、家中に鳴り響いていたベルの音が止まった。
﹁もしもし﹂
﹁その声はオクトか?﹂
電話の向こうから、ヘキサ兄の声が聞こえた。コクリと頷いた所
で、これは電話だという事を思い出して、慌てて返事をする。⋮⋮
やっぱりテレビ電話を考えるべきだったか。
テレビ電話にすると、風魔法と光魔法の組み合わせになるから面
倒そうだと思って止めたが、どうにも相手を見ずに話すのは慣れな
い。相手には見えないと分かっりつつも、頷いたり頭を下げてしま
うのだ。前世では普通に使っていたはずなんだけどなぁと思うが、
龍玉での生活が長いのだし仕方がない。
﹁私はヘキサだ﹂
787
﹁知ってる﹂
というかヘキサ兄以外はかけてこないから。
この電話がつながっているのは伯爵邸だけで、他の場所には一切
繋がっていない。また電話を受け取るのは誰でもできるが、電話を
かけるには魔法を使う必要がある。なので必然的に、わざわざ混ぜ
モノに電話をするのはヘキサ兄ぐらいになるのだ。
電話に慣れていないのは私だけではないかと思い、私は小さく笑
った。
﹁元気か?﹂
﹁うん﹂
﹁ちゃんとご飯は食べたか?﹂
﹁今から食べる所﹂
お前は私の母ちゃんかと言いたくなるような質問の数々に、私は
一つづつ答える。そんな毎日電話しなくったって変わらないのにと
思うが、まぎれもなくヘキサ兄なりの好意のしるしなので、黙って
おく。
﹁変わった事はないか?﹂
﹁⋮⋮あー﹂
アスタが今家にいます。
コレは明らかに変わった事だろう。だけど伝えるべきどうかを迷
う。いるのがヘキサ兄も大好きなアスタなので彼が心配する事はな
いだろう。でもここにアスタがいるという事を聞いてヘキサ兄が家
まで来てしまったらどうしよう。
ものすごいカオスだ。今でさえいっぱいいっぱいなのに、これ以
上は何をどうしたらいいのか分からなくなる。
﹁言いなさい﹂
私が返答に詰まったのに気がついたヘキサ兄はピシャリと簡潔に
788
意思を伝えてきた。⋮⋮流石に素直に話すのはマズイよなぁ。
﹁少しご飯を作り過ぎただけ。大丈夫。多分消費できるから﹂
嘘ではない。さっき馬鹿みたいに作ってしまったのも、いつもか
らしたら十分変わった出来事だ。ただしあまりにしょうもない内容
だった所為か、少しだけヘキサ兄が沈黙する。
﹁⋮⋮食べきれないようならば、持ってきなさい﹂
﹁あー、うん。ありがとう﹂
流石に持って行くほどはないんだけどなぁと思うが、一応ヘキサ
兄の気遣いに御礼をいう。普通ならば勿体ないから頑張って食べな
さいか、食べれなければ傷む前に捨てなさいと言いそうなものだ。
わざわざ消費を一緒に手伝うと言ってくれるヘキサはたぶんかなり
いいヒトだ。
﹁必ず、何かあれば連絡しなさい﹂
﹁うん。分かった﹂
電話越しだと表情も見えないし、ヘキサの声は少しだけ怖く聞こ
える。でもとても私を心配してくれている事は知っているので、私
は素直に返事した。優しすぎる兄は、すでに兄妹でなくなったとい
うのに、私を気にかけてくれる。
それは私の理想とはかけ離れているけれど、喜んでしまっている
自分がいるのも事実。何とも自分に甘くて情けない限りだ。
私は受話器を置くと、小さくため息をついた。理想と現実は中々
すり合わせが難しいものである。
とはいえ、落ち込んでもいられない。まだアスタをどうにかしな
ければならないというミッションは終わっていないのだ。
リビングに戻ると、アユムが笑顔でアスタと話している所だった。
とりあえず、ちゃんと食事は食べ始めたみたいだ。
﹁あ、オクト、おかえり!﹂
﹁うん。ただいま﹂
789
アスタの面倒を見てくれてありがとうという意味を込めて、アユ
ムの頭を撫ぜる。するとアユムはくすぐったそうに笑った。
﹁オクトは、ヘキサとも知り合いなんだってね﹂
﹁えっ⋮⋮ええ。まあ﹂
あれ?今まで楽しく談笑していたんじゃ。
アユムの頭を撫ぜて少し癒されたはずなのに、すぐに私の精神力
はマイナスに振り切れた。それぐらいアスタの笑顔からヒヤリとし
た恐怖を感じる。
何で?
そう思うが、聞くに聞けない。アユムは私がピンチに陥っている
事に気がつかないようで、無邪気に笑ってオムライスを頬張ってい
る。
﹁オクトも座ったら?﹂
﹁⋮⋮あ、はい﹂
別にアスタの目が笑っていないとかそういう事はない。私の考え
過ぎだろうかと思いつつ、椅子に座った。そしてどうにか落ち着こ
うと、スープを飲んだ。
その様子をアスタはジッと見つめている。⋮⋮正直食べにくいん
だけどと思うが、何かを言ったら藪蛇な気がして、どうにもあまり
見ないで下さいの一言が言えない。
﹁えっと、アスタはヘキサ⋮⋮グラム様⋮⋮いや、伯爵様の事を知
っていらっしゃるのですか?﹂
﹁うん。ヘキサは俺の息子だからね。聞いていないのかい?﹂
﹁ええ。まあ。それほど、親しい仲ではありませんので﹂
﹁ふーん﹂
﹁あ、いや。薬の関係では懇意にしていただいていますし⋮⋮その。
まあ、そんな感じで﹂
790
しどろもどろな説明になってしまったが、嘘は話していない。ヘ
キサからアスタと親子だなんて改めて紹介された事はないし、もう
家族でもないのだ。
だから嘘ではない。⋮⋮真実でもないけれど。
﹁俺がヘキサの父親だという事は驚かないんだね﹂
﹁あー⋮⋮そういう偶然もあるのかと﹂
まさか知っていましたとも言えず、私はオムライスを口に入れた。
質問には最小限で答える。これが失敗を少なくする一番の方法だ。
﹁そう言えば、この料理、珍しいね﹂
アスタが指したのはオムライスだった。突然の話題の転換にキョ
トンとしてしまうが、ヘキサ兄の話から離れられるなら万々歳だと、
私は急いで意識を切り変える。
﹁はあ。卵の中に入っている米は、黄、青、赤の大地⋮⋮そうです
ね、東側の大地で使われている食材です。この国では珍しいかもし
れません。お口に合いませんでしたか?﹂
﹁いや。とてもおいしいよ。新しいような、それでいてどこか懐か
しいような料理だなと。何処でこの料理を学んだんだい?﹂
何処でと言われるとなぁ。
使っている食材は龍玉のものだが、明らかに内容は日本のレシピ
だ。同じモノが、黄、青、赤の大地の何処かにあるのかどうかも分
からない。
いつもならば必殺ママに聞いただけど⋮⋮。
しかし、ふと私の中で魔が差した。
﹁ママに⋮⋮いえ、前世で学びました﹂
今まで黙っていたけれど、もうそろそろばらしてもいいころ合い
ではないかと思ったのだ。いきなり前世がどうなんて言ったら、冗
791
談だと思うか、もしくは頭がおかしいと思うだろう。
でもその方が私とは関わらない方がいいと考え直してもらうきっ
かけになりそうだ。アスタに頭がおかしいヒト認定されるのは辛い
が、それぐらいは私も我慢するべきだろう。
﹁ママが何?﹂
﹁えっ?ですから、前世で⋮⋮﹂
言いかけたところで、ふと周りがおかしい事に気がついた。何だ
ろう。いつもなら聞こえる鳥の鳴き声も木のざわめきも何も聞こえ
ない。
隣のアユムを見れば、オムライスを口に運ぶまさに途中のような
格好で固まっている。瞬きをするがその様子は変わらない。少し傾
いたスプーンから食材がこぼれ落ちそうになっているのに、見事な
バランスで静止している。
どういう事だとアスタを見れば、アスタもまた瞬きもせず私を見
ている事に気がついた。
﹁何か言いにくい事なのかい?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
少しすると、まるで何もなかったかのように、アスタが私に聞い
た。⋮⋮止まっていた時間が、まるで動き出したかの様である。チ
ラリとアユムを見れば、アユムも何事もなかったようにスプーンを
くわえていた。
まさか、この現象は⋮⋮。
﹁死んだママに教えて貰っただけです﹂
私は結局いつもと変わらない言いわけを口にした。というか、そ
れしかできなかった。
コンユウやエストの事を考えると、私が何の制約もなく時魔法が
792
使えるなんておかしいとは思っていた。でもまさか、前世の記憶が
あると伝える事が、女神の呪いに引っかかるなんて⋮⋮。
私は動揺を胸の内に隠しつつも、目の前にアスタがいる事も忘れ
て、必死にその答えを見つけようと頭をフル回転させた。
793
37−3話
﹁おいしかったよ。ごちそうさま﹂
へ?あ、ああ。
ふと気がつけば、アスタは自分のぶんのオムライスを綺麗に食べ
終えていた。しまった。どうやら私は食事の間ずっと考え込んでい
たようだ。
混融湖や時属性の不思議が気になったからって、お客を︱︱しか
もアスタを無視していたなんて大失敗だ。
﹁おいしかったー!アスタ、また来てね!﹂
﹁うん。すぐにまた来させてもらうよ。オクトとこれから一緒に共
同研究をしていくからね﹂
何ですと?!
人懐っこいアユムがアスタが仲良くなっていたのは仕方ないとし
ても、いつの間に私はアスタと共同研究をする話しになったのか。
﹁えっ。共同研究ですか?﹂
﹁さっきも話した通り、オクトが見つけた並列つなぎと直列つなぎ
の法則を使って、より効率よく魔法石を使う研究を進めたいんだよ
ね﹂
さっきの記憶がほとんどないので、食事の間、無意識に相槌を打
っていたのかもしれない。
にこりと邪気のない笑顔を向けられるとつい頷いてしまいそうに
なるが、それでは駄目だ。ここは怖くてもきっちりと断らなければ。
﹁あ、あの。それなんですけれど⋮⋮実は私は別の研究をしていま
して。時間がないといいますか⋮⋮。なのでまたの機会で⋮⋮﹂
794
言葉がだんだん尻すぼみになっていく。
やっぱり、怖いものは怖いのだ。私はNOとは言えない日本人魂
をきっちり受け継いでしまっているので仕方がない。
それでもどうにか正当性のある断り方ができた方だと思う。
﹁なら逆に、俺がオクトの研究を手伝うよ。オクトには俺の研究を
手伝ってもらうわけだしね﹂
﹁へ?﹂
言われた言葉をすぐに理解する事ができなかった私は、目をパチ
パチとさせた。
あれれ?おかしいな。上手く断ったはずなのに、何だか深みには
まっているような⋮⋮ってなんですと?!
アスタの申し出の意味をしっかり認識できた私は、ぎょっとした。
何でそうなる。
﹁い、いい。結構だ⋮⋮です。そんなアスタの手を煩わせるわけに
はいかな⋮⋮いきませんっ!!﹂
私はぶんぶんと首を振って断る。
いい断り文句だと思ったのに、どうしてこうなった。頭を抱えて
叫びたいが、そんな事しても事態は好転しない。むしろアスタの機
嫌が悪くなり悪化する。
﹁そんな気を使わなくてもいいよ。俺とオクトの仲じゃないか﹂
﹁どんな仲だっ?!﹂
﹁えーと、そうだな。今のところ研究仲間?﹂
だからまだ一度も共同研究していないっての!!
ツッコミどころが多すぎて上手く言葉にならない。
﹁ああ、共同研究についていは俺から上司に伝えておくから、オク
トは気にしないでいいよ。上手く言いくるめておくから﹂
気にしなければいけないのは、私ではなくアスタの方だ。
795
どうしてこんなに強引なんだ。頼むからちゃんと私の話を聞いて
くれ。これではまるで私を逃がさないようにするような⋮⋮あれ?
私の頭によぎった不吉な言葉に、思考が止まる。
待て待て待て。それは流石に考えすぎだろう。だって私を逃がし
たところで、アスタへの不利益はほとんど見つからない。
そうだ。きっとこんな風に思うのは、ちょっと私が神経質になっ
ているからだ。アスタにとってはごく自然な流れで、私の事を認め
て、共同研究を申し出てくれているのだろう。だから落ち着け。パ
ニックになっても意味はない。
﹁あのですね︱︱﹂
﹁あ、そろそろ仕事に行かないと。ああ、そうだ。これから一緒に
研究するんだし、敬語はいらないから。じゃあ、また後で。﹂
すべての言葉を聞き終わった後には、アスタの姿は忽然と消えて
いた。⋮⋮へ?
ええっ?!
﹁やられた﹂
ゴチンっと私はテーブルに頭を打ち付ける。
落ち着こうとしている間に、まさか言い逃げされるだなんて。ち
ゃんと断れなかったどころか、アスタはこれから上司に共同研究の
申請をするのだ。もう逃げ道はない気がするのは私だけか?
しかもまた来るだと?
そもそも、仕事前に立ち寄るとか何なんだ。思いつきか?思いつ
きなのか?
⋮⋮何処か遠くに逃げてしまいたい。
そう思うが、今更何処に逃げられるというのか。
﹁オクト、元気だしてー﹂
796
よしよしとアユムに撫ぜられながら、私はやけくそで冷たくなっ
たオムライスを口に入れた。
◆◇◆◇◆◇
終わってしまった事は仕方がない。
どうか上司が共同研究を断りますようにと私は祈る事に決めた。
それにアスタの研究は軍事機密のようなものだ。そう簡単に一般
人と共同研究するのを認めるはずがない。頑張れ、アスタの上司さ
ん。すべては貴方にかかっている。
﹁うん。きっと大丈夫﹂
というかそう思わなければしかやってられない。私は深くため息
をつくと、気分を切り替えた。
アスタの事も気になるが、女神の呪いについても、もう少し頭の
中を整理したい。
そもそも時属性を持っているのは混融湖に流れ着いた人だ。そし
て混融湖に一度沈んだ人は、時属性を得る代わりに過去の事を話せ
なくなる。また時属性を持つ、館長、コンユウ、アユムの3人の共
通点を考えると、瞳が紫である事があげられる。
797
館長の元の瞳の色は緑色だし、日本人であるアユムも黒色だった
はずだ。
﹁そして、私は例外と﹂
ノートに分かった事を書きながら私は頬杖をついた。
私に時属性があるのは間違いがない。実際に図書館でその魔法を
使っているし、視覚でも確認済みだ。だけど私は時属性を持つ3人
とは違い、瞳の色は青色のまま。また混融湖に落ちた記憶も全くな
い。
そもそも混融湖に落ちたのならば、私は別の時間帯、もしくは異
世界にいてもいいはずなのに、どうして生まれてから今までの時間
が滞りなく繋がっているのか。
やっぱり、前世の記憶が中途半端だということも関係しそうだよ
なぁ。
思いついた事をとにかく紙に書き出してみたが、中々ちゃんとし
た仮定が組み上がらない。
でも今回新しく﹃私に前世の記憶がある﹄と伝えることが、女神
の呪いに引っかかる事は分かった。これまで私がうまく呪いをすり
抜けてこれたのは、きっと前世で日本にいた時の記憶が私の中で欠
如しているからだろう。
私は前世の自分の名前すら分からないのだ。日本の都道府県だっ
て言えるのに、何処に住んでいたのかも分からない。そもそも知識
として日本という国の事を知っていたので日本人だろうと思ってい
たが、もしかしたらそうでない可能性だってある。
改めて確認して気がついたが、私は前世の私という情報を何も持
っていない。私が持っているのは、記憶ではなく知識だけだ。
﹁私は⋮⋮誰だ?﹂
798
勿論、オクトという名前の混ぜモノであるのは間違いない⋮⋮と
思う。ちゃんとオクトとしての記憶だってあるのだ。でも改めて考
えると不安になる。逆に今まで前世を気にも留めなかった自分が能
天気すぎたのか。
﹁風の精霊﹂
ふわりと私の前に風が集まったのが分かった。目に魔力を溜めて
はいないが、そこに精霊がいるのだと感じる。
﹁風の神に、私が会いたがっている事を伝えて﹂
きっと風の精霊なら、カンナの居場所も知っているだろう。たま
に手紙のやりとりはしていたが、こちらから会いたいと伝えるのは
初めてなので、これでいいのかどうか分からない。
ただ私の魔力が体内から出ていくのを感じたので、了解してくれ
たようだ。
分からない事を情報もないまま悩んで不安になっていても仕方が
ない。
混融湖は女神が融けた場所だとされる。ならば同じく女神である
カンナなら、混融湖について何か知っているかもしれない。
混融湖に融けた女神は、一体どんな神様だったのか。混融湖に近
いドルン国ですら、女神と表現するだけで、何を司る神なのかを誰
も知らない。普通ならただの伝説で済ませるが、生憎とこの世界に
はちゃんと生きた神様がいる。混融湖の神話が、ただのファンタジ
ーであるとは限らない。
それにヒトの文献には載っていない事でも、神様達の間では何か
情報を残しているかもしれないのだ。ならば餅は餅屋に限る。神様
の事は神様に聞くのが一番だろう。
本当は風の神の手をわずらわせずに、自分一人で調べ上げたかっ
た。でも最近手詰まりを感じていたのだから、仕方がない。このま
までは前に進めないのだ。
799
﹁オクトが俺を呼ぶなんて珍しいな﹂
それでも何とか分からないものかと考えていると、数分もしない
うちに頭上から声が聞こえた。
ばっと顔を上げれば、胡坐をかいた状態でふよふよと空に浮かぶ
カンナと目が合う。会いたいとは言ったが、こんな早く会うという
か、現れるとは思わなくてドキリとする。
﹁丁度良かった。俺もオクトと話したい事があったんだよな﹂
数年ぶりに会ったカンナは、初めて会った時とまったく変わらな
い姿で、にこりと笑った。
﹁あっ⋮⋮お久しぶりです﹂
もしかしたらカンナってヒトを驚かせるのが好きなんだろうか。
樹の神であるハヅキの家を訪問した時も、窓から入ってきたはずだ。
そもそもこんな簡単に出歩いていいものなんだろうか。
誰からも隠された神の家を考える限り、たぶんダメなんだろうな
ぁとは思う。思うが、こちらから会いたいと言っておいてそれを指
摘するのもどうかとも思う。なのでその言葉は呑み込んでおく。
﹁少し背が伸びたか?﹂
﹁ほ、本当ですか?﹂
地面に足をつけたカンナは私の前に立つとよしよしと頭を撫ぜた。
﹁中々会いに来てやれなくてごめんな﹂
﹁いえ。こちらこそ、突然呼んでしまってすみません﹂
﹁いいって。いつでも俺の名前を呼べって言っただろ?気にするな
!﹂
バシンとカンナは私の背中を叩いた。カンナは神様だと分かって
いるのだが、こうやって話すと、普通のヒトとまったく変わりない
ように思える。
800
﹁それより、今日は一体どうしたんだ?﹂
カンナの言葉に私は何から説明するべきかと思案した。
801
38−1話 予想外な異世界事情
﹁混融湖に融けた女神について何か知っていますか?﹂
聞きたい事は色々ある。ただ何処から聞けばいいのか分からない
ので、私は迷った挙句真正面からぶつかる事にした。
神様は王族としか会ってはいけないという決まりなどがあるので、
もしかしたらこういった話を一般人に話すのはタブーかもしれない。
でも逆にこの話は話せないと言われたら、混融湖の神話は本当だと
思ってもいいだろう。答えが聞けても、聞けなくても、それだけで
見えてくるものがある。
﹁混融湖に融けたって、時の女神の事だよな。俺自身は実際に会っ
た事はないんだけど、何かって具体的に何が知りたいわけ?﹂
﹁具体的にと言われると⋮⋮って、えっ?!時の女神なんですか?﹂
無理かなと思っていた所で、まさかの真相発表。あまりに自然で
さりげなさ過ぎて私の理解が一瞬遅れた。秘密とかそんな臭い、全
くない。
﹁確か最後に継いだのが女だったから、女神で間違いないはずだけ
どな﹂
﹁えっと、時の女神ということは、時を司っているということです
か?﹂
﹁そうだけど?だからあの湖の中は違う時間に繋がっているわけだ
し﹂
至極当たり前な顔で答えられて、私の方がびっくりだ。えっ?そ
れ、秘密じゃないの?
知りたくないわけではないし、むしろ知りたい情報ではあるが、
あまりにあっさりと分かり過ぎて拍子抜けしてしまう。
802
﹁何だ、知らなかったのか?﹂
﹁はい。どの伝承にも載っていなかったもので⋮⋮﹂
﹁まあ結構古い話だからな。別に隠していたわけじゃないけど、聞
く奴もいないし﹂
なるほど。
神様は王族としか基本会わない。でもその王族が混融湖に興味を
示し、なおかつ混融湖の謎が知りたいと思わない限り、神様もわざ
わざそのネタを語る事はないのだろう。
﹁そうですか。あれ?でも、混融湖は異世界にも繋がっているんじ
ゃ?﹂
﹁いや?繋がってないだろ。空の神が消えたのは混融湖ができる前
だし﹂
マジですか?
混融湖から繋がっているのは別の時間のみ。あれ?だとすると、
アユムの例はどうなるんだ?それに私の前世も︱︱。
それに混融湖に流れ着く数々の物は一体何なのか。違う国又は未
来から流れ着いているから、異界の物に見えてしまうのだろうか。
なら将来この世界にも携帯電話が復旧するという事なのだろうか?
クロが住んでいた国のヒトが携帯電話に興味を持ったので、ありえ
ない話ではないが⋮⋮。
﹁むしろ、なんで異世界に繋がっているなんて思ったんだよ﹂
﹁いや。それが常識になっているといいますか。流れ着いた物も異
界屋で取り扱うし⋮⋮﹂
コンユウやエストの事があったから少し変だなとは思ってはいた
けれど、でもやっぱり、異界屋の物は同じ世界のものとは思い難い。
⋮⋮でもまあ、江戸時代にネコ型ロボットが現れたら驚くだろうし、
大きく離れていればありえなくもないか。
803
﹁ああ。そうか。確かに同じ世界と表現すると語弊があるかもな﹂
﹁語弊?﹂
﹁あー、えーっと、世界が違うわけじゃないんだけど⋮⋮。ああ、
そうだ。文明。文明が違うから、ある意味異世界なんだろうな﹂
﹁は?﹂
文明が違う?
えーっと、つまりそれは、メソポタミア文明とエジプト文明みた
いな感じの地域差という意味なのだろうか。
﹁ほら、最近オクトが魔力がまったくない子供を引き取ったって、
手紙に書いていただろ。ソイツはたぶん俺ら神が生まれるより前の
文明の子供だから体の作りが違うんだよ﹂
﹁⋮⋮カンナさんが生まれる前?﹂
﹁違う違う。俺というか、今いる全ての神が生まれる前﹂
﹁はい?﹂
神様が生まれる前って⋮⋮そんな時間あるの?
ちょっと待て。つまりどういう事だ?アユムは龍玉ができる前の
ヒト⋮⋮いやいや。龍玉がなかったら何処に住んでいたというのか。
そもそも文明が違うから体のつくりが違うっておかしくないだろう
か。
ヒトが文明を作るのであって、文明がヒトを作るのではない。
上手く理解ができず、私は眉をひそめた。
﹁えーっと。風の神が記憶している時より前の事だから俺も上手く
説明できないんだけどさ。元々この世界には魔素もなかったし俺ら
みたいな神という存在もいなかったんだよ。たぶんその時間帯の子
供だから魔力がなくて、魔素の耐性もないわけ﹂
﹁魔素がなかった?﹂
だったら何で今は魔素があるのか。それに最初はいなかったとし
たらいつから神様はいるというのか。
804
﹁正確に言えば、地上にはなかっただな。ただし地中深くに魔素は
眠っていて、ある震災をきっかけに地上に噴き出したらしい。で、
魔素に耐性のないほとんどの生物が死に絶えて一つの文明が終わっ
たんだってさ﹂
話がかなり壮大になってきて、私は茫然としてしまう。混融湖の
話を聞いていたはずなのに、まさかの人類滅亡説。この話を素直に
鵜呑みにできるヒトがいたら、とても単純で純粋なのだろう。生憎
と私の頭は常識で凝り固まっているので、上手く理解が追いつかな
い。
﹁つまり、魔素が出てきて、神様も生まれた?﹂
﹁いや。神が生まれるのはさらにもっと後だな。魔素で死に絶えた
と思われたヒトだけど、中に魔素に耐性を持って魔力を作れるよう
になったヒトが現れた。そいつらが、今のヒトの始祖だな。で、そ
いつらは魔素のエネルギーに着目して、新しく魔素を使った文明を
築いた﹂
﹁はあ﹂
魔素を使った文明⋮⋮。今と似ているようで、ちょっと違う。魔
素を使った魔法はあるが、その数は魔力を使ったものに比べてずっ
と少ない。
﹁ただ今度は魔素を使いすぎて、魔素不足に陥って、再びヒトは死
にかけたんだよな。魔素の耐性がある奴らは、魔素がないと生きて
いけなくなっていたから﹂
あっちゃぁ。
つまり環境破壊で自滅したという事か。
日本でも環境破壊は結構問題視されていたが、何処の時代でもヒ
トは同じ事を繰り返しているらしい。
﹁で、その時に一番発達していた生体魔法科学だったかか何だかよ
く分からないけれど、そこの研究者が今度は魔素を生み出せるヒト
805
を作りだした。それが俺ら神という存在なわけ﹂
えっ?⋮⋮ええっ?!
ヒトが神を作った?
それは私が知っている神話とまったく真逆の発想だ。神がヒトを
作ったのではなく、ヒトが神を作った?常識を基盤から崩すような
内容に、私は茫然とする。
﹁マジですか?﹂
﹁マジだ。それでここからはちゃんと風の神も記憶してるんだけど、
まあこの後も懲りずに何度もヒトは滅びて、神も数を減らして、よ
うやく今の世界になったんだよな。俺らが王族以外会ってはいけな
いとか、政治に関わってはいけないっていう制約はこの間の失敗で、
できたんだよ﹂
﹁へえ⋮⋮。ならこの世界を龍神が作ったというは︱︱﹂
﹁嘘、嘘。あー、でもあの話を作った本人は、こうだったら面白い
だろうなと思って作ったファンタジー作家みたいなものだから、別
に悪意があるわけじゃないぞ﹂
⋮⋮まあ、神話ってそうだよね。
悪意で作るヒトはいないし。でもヒトが生きていたわけでもない、
世界が始まる前の話をどうしてヒトが知っているのかと言われれば、
空想というか妄想するしかない。だとすればそこに書かれているの
は、真実ではなくファンタジーの可能性が大だ。
﹁まあこんな事、今更記憶しているのは神ぐらいなんだろうけどな﹂
﹁そうですね﹂
何度も滅んだという記録すら読んだ事がないので、この世界のヒ
トが記録しているのは、一番新しい今の文明だけなのだろう。色ん
な技術が消えてしまったというのは残念だが、それでもヒトは生き
ている。
806
﹁それで混融湖で知りたかったのは、時の女神の事なのか?﹂
﹁あー﹂
衝撃の事実を知ってぽんと抜けてしまったが、私は龍玉の歴史を
知りたくてこの話を始めたわけではなかった。
かと言ってどこからどう話を持っていけばいいのか。私自身に前
世の記憶があることは呪いの所為で伝えられない可能性が高い。
﹁えっと、実は私、時属性を持っていて⋮⋮なんというか、時属性
が知りたいというか⋮⋮﹂
やはりあの湖に入らなければ時属性は身につかないものなのだろ
うか。
﹁それなら、俺より時の精霊がいいんじゃないか?あっちの方が、
時の女神についても詳しいだろうし﹂
﹁時の精霊?⋮⋮いるんですか?﹂
生憎と私は基本属性の精霊としか契約を結んでいなかった。
確かに時属性というものがあるなら、時の精霊がいてもおかしく
はない。しかし一体どこにその精霊はいるのだろう。
普通は同属性の魔素が多い場所とされるが⋮⋮そうなると、混融
湖の中となる。さすがにそれだと会うのは難しい。
﹁居るだろ。オクトとも契約しているんだし﹂
﹁へ?契約?﹂
私はばっと袖をめくり自分の腕に視線を落とした。
しかしそこにあるのは、火、水、樹、風、地、光、闇の7種だけ
のように思う。そんな時属性なんて特殊な痣はない。それとも私の
痣の見方が違うのだろうか。
﹁えっと⋮⋮契約はしていないような気が⋮⋮﹂
私はカンナにも見てもらえるように腕を前に突き出した。もしか
したら、私が精霊と契約したと聞いて、何か勘違いしているのかも
807
しれない。
﹁いや、腕じゃなくてさ。ここ﹂
カンナは少し苦笑いをすると、自分の右目を指差した。まじまじ
とカンナの顔を見つめてから、自分の右目に手をやった所で、ふと
気がついた。
﹁えっ、これですか?﹂
﹁それじゃなかったらどれだって言うんだよ﹂
いや、だって。
私は産まれた時から付き合ってきた顔の痣に手をやる。これが、
契約の証?待って、えっ?どういう事?
意味が分からず混乱する。
﹁あ、あの。これは、混ぜモノだからあるんじゃ⋮⋮﹂
混ぜモノの顔には痣がある。だから見ただけで混ぜモノだと分か
るわけだし。それにこれが契約の証ならば、私は産まれた瞬間に、
時の精霊と契約した事になる。でもそんな事可能なのか?
﹁まあ、そう言っても間違いじゃないけどな。でもどちらかという
と、それがなければ、混ぜモノは産まれないと言った方が正しいな。
混ぜモノは例外なく高い魔力と魔素を持つから、精霊と契約しなけ
ればヒトの体の方が壊れる。オクトの顔の痣は時の精霊と風の精霊、
それも高位のモノとの契約の証だ﹂
﹁はっ?﹂
高位の精霊?契約?というか、魔素を持っている?
意味はわかるけど、理解しがたい単語がぐるぐると頭をめぐる。
私はさらなる衝撃の事実に、あんぐりと口をあけたまま固まった。
808
38−2話
﹁おーい。オクト、聞いているか?﹂
ひらひらっと、目の前でカンナに手を振られて、私ははっと気が
ついた。あまりに予想外な発言ばかりが続いて正直、頭がついてい
っていない。
なんとか理解できずとも、納得をしようと私は頭の中を切り替え
る。
﹁そっか。そうだよな。セイヤも死んじまっているわけだし、オク
トにそう言う事を教えられる奴はいなかったんだよな﹂
カンナは腕を組み、何故か勝手に頷いている。
そしてにこっと笑うと、いきなりしゃがんで私に目線を合わせた。
そしてよしよしと私の頭を撫ぜる。⋮⋮意味が分からない。
﹁あの⋮⋮何ですか?﹂
明らかに子供扱いだ。いや、まあ。カンナがママと同い年と考え
ると、確かに私は子供のようなものだろうけれど。でも私はもう幼
児じゃない。
﹁オクトはちゃんとセイヤに望まれて産まれたんだ﹂
﹁はい?﹂
﹁そうでなければ、高位の精霊と産まれたばかりの子供が契約する
なんてありえないんだ。だから堂々と生きていいんだ﹂
カンナの言葉に、何と返していいのか分からず、私は黙りこむ。
私が望まれて産まれた?いきなり言われて、頭の硬い私がはいそう
ですかなんて言えるわけがなかった。
もちろんそんな風に言ってもらえて嬉しくないわけではない。で
809
も私には自分がヒトに望まれるような人物には思えなかった。
もちろん誰からも嫌われているなんて、そこまでは思っていない。
クロやヘキサ兄、アユム達がいるのだから、そんな風に思っては罰
が当たる。カミュは、絶対怒るだろうし。
でも堂々と生きるのは⋮⋮無理だ。
﹁その言葉は嬉しいです。⋮⋮でも﹂
私はどう言っていいのか分からず、とりあえず笑った。カンナが
私の為に言ってくれたのは間違いないのだから。
﹁でも?﹂
﹁混ぜモノは危険です﹂
私は産まれるべきではなかった。
この言葉はたぶんカンナを傷つける。だから心の中だけで呟く。
きっと私がいなくてもこの世界は回っていくだろう。でも私がい
なければ生まれなかった不幸はある。それは理解していくべきだ。
﹁そんなもん。危険じゃないヒトなんていないんだから、普通じゃ
ね?﹂
﹁はい?﹂
﹁ほら。混ぜモノじゃなくたって、魔法ぶっ放せば危険だし、刃物
振り回しても危険だし。混ぜモノだから危険って事はないだろ﹂
﹁そりゃまあ⋮⋮。でも規模が違いますし﹂
混ぜモノの暴走は恐ろしい。好き嫌い無視して、全てを無に帰そ
うとしてしまう。どれだけ心が乱されないようにと努力しても、絶
対大丈夫なんて事はありえない。
私はどうしても好きなヒト達を傷つけたくなかった。ヒトを傷つ
けるのは、正直苦しくて辛い。はっきりいってそんな思いを抱える
のは面倒だ。だから山奥で1人になろうとしていた。今のところ、
私が甘い所為で上手くいっていないけれど、今でもその思いは変わ
らない。
810
誰も傷つけたくないと思っているが、私は私を一番信用する事が
できなかった。
何と言ったらカンナを傷つけるず、分かってもらえるだろう。そ
んな事を考えているとカンナが私の頬を手の平でギュッとつぶした。
﹁うっ﹂
﹁暴走の事を言っているなら、アレは混ぜモノの所為じゃない﹂
﹁いや、混ぜモノの所為では?﹂
混ぜモノの魔力⋮⋮もしかしたら魔素の可能性も出てきたが、そ
れがあふれ出て、精霊の魔法が暴走する。多分それが混ぜモノの暴
走の真実だ。
﹁違うだろ。混ぜモノは被害者だ。お前らが悪いんじゃない﹂
どうだろう。
カンナの言い分は分からなくはない。私だって望んで暴走するわ
けではないのだから。でもそもそも混ぜモノがいなければ、暴走な
んて起こらない。刀を憎むか、刀を振るった相手を憎むかという話
だが⋮⋮どちらが正しいともいえない。
考えても答えが見つかりそうもないので、私は小さくため息をつ
いた。どちらにしろ、私は自分を好きになる事はできないだろう。
それに良い方へ考えていて悪い方へ突き落されるよりも、最初から
悪い方へ考えて覚悟を決めておいた方が衝撃は少なく済む。
一応ここは納得したようなふりをして流してしまおうか。
﹁そう言っても、今更考え方変えろっても難しいよな。この間、ヒ
トに強要するなってミナにも怒られたばかりだし。でもセイヤはお
前が産まれる事を望んでいたんだ。それだけは忘れないで欲しいん
だ﹂
私が誤魔化す前に、カンナが先に口を開いた。カンナの口調は真
剣で、私は頷く他なかった。
それにママが私の誕生を望んでいたという言葉を否定するだけの
811
情報を持っているわけではない。そして私が生まれる為には精霊と
契約する必要があるというならば、きっとカンナが言う事の方が正
解なのだろう。
﹁分かりました。それで、話は戻りますが、私は魔素が作れるんで
すか?﹂
﹁おう。そうじゃなきゃ、オクトの周りにこんなに精霊はいないっ
て。居ても、魔素不足で倒れるだろうし。コイツら魔素のおこぼれ
をもらいに来ているんだよ﹂
マジですか。⋮⋮目に見えないUMA的存在な精霊が、一瞬砂糖
に群がる蟻のイメージになった。
それにしても魔力も魔素も作れるなんて、まるで酸素も二酸化炭
素も作れる植物みたいだ。混ぜモノは植物だった。いやいや。光合
成じゃ魔素は作れないし。
﹁あれ?でも魔素が作れるのは、神様だけじゃ⋮⋮﹂
いや、だけとは言われていないか。
でもわざわざ魔素を生み出す為に作られた存在だとさっきカンナ
は言っていた。混ぜモノが魔素を作れるならば、神様を作る必要は
なくなってしまう。
だとすると神様は、混ぜモノよりも効率よく魔素を作れるとか?
特に今は神様は6柱しかいないとされる。となると相当効率が良く
なければこの世の中は魔素不足になるだろう。
あれ?6柱だけに頼っている現状のシステムって結構危険な状態
じゃ⋮⋮。でも教科書には魔素は勝手に発生するものと書かれてい
たそれよりはずっと理解しやすい。
﹁まあ効率よく魔素を作れるのは俺らだな。その為に生み出された
存在だし。ただ神がいる前から魔素は存在しているわけだから、作
れるのは俺達だけじゃないな﹂
そう言えばそうか。カンナの話が本当ならば、神様が作られる前
812
から魔素はあったという事になる。ならば神様以外にも作り出す方
法があるはずだ。
やっぱり魔素の多いパワースポットが関係するのだろうか。
﹁やはり、ここにいましたのね﹂
﹁げっ﹂
カンナが目を向けた方を見れば、窓の前に茶色の髪をした女性が
立っていた。腰まであるふわふわとウエーブした髪を垂らした可愛
らしい女性を私は1人だけ知っている。とっさに目がいった胸はカ
ンナと反対のささやかさ⋮⋮うん。間違いない。
﹁私の領地を何勝手にうろついているんですの?﹂
貴方もなんで、勝手にヒトの家に上がっているんですかと言いた
いが、相手は人工製と分かったとはいえ神様だ。多少の理不尽は仕
方がない。
﹁いや、ほら。俺とハヅキの仲じゃないか﹂
﹁親しい中にも礼儀あり。連絡なしでヒトの領地をうろつくだけな
らまだしも、申請なしで一般人に会ってはいけないという決まりを
忘れたわけではありませんわよね﹂
⋮⋮あ、やっぱ駄目なんだ。
以前会った時は、事前に招待状をいただき、さらに神殿を経由し
て神様が住む場所まで移動した。しかも王子であるカミュを仲介者
としてだ。そんな状態だからか、神様と会うと決まってから、実際
に会うまでに時間もかなりかかったような気がする。
そもそも神様は王族としか会わないはずなので、いくら姪っ子と
いってもアウトだろう。
﹁いや、だって。ほら、俺も風の神として来ているわけじゃないし
⋮⋮﹂
非公式の場所だからいいとしたいようだが⋮⋮どうだろう。ハヅ
813
キの様子を見る限り、たぶんセーフではなくやっぱりアウトコース
な気がする。
﹁すみません﹂
私は少し考え、速やかに謝る方針に決めた。
﹁えっ、オクトちゃん?!﹂
﹁私がカンナさんに会いたいと無理を言ってしまったんです﹂
まさかこんな早く来てしまうとは思わなかったけれど、言いだし
たのは私だ。速やかに場を収める為に私はぺこりと頭を下げた。家
の中で、神様バトルとか勘弁して欲しい。
﹁いや、俺が悪いんだって!ほら、オクトに伝えておかなくちゃい
けない事もあっただろ。それでっ!!﹂
﹁⋮⋮まあ年下の女の子にすべての罪を擦り付けるようなヒトが同
族じゃなくて良かったとしますわ。でも誤魔化す身にもなって下さ
いね﹂
ハヅキは瞳を半眼にしてカンナを見たが、諦めたようにため息を
ついた。誤魔化すって誰に対してなのか。分からないが、神様にも
神様なりのルールがあるのだろう。
﹁オクトちゃんも突然訪問してしまって、ごめんなさいね﹂
﹁い、いえ。大丈夫です﹂
一応ハヅキは人としての常識も持ち合わせているようで、カンナ
を責めるのをやめると私に向かって謝罪した。神様に謝ってもらう
なんてどうしたらいいか分からず、私は問題ないという意味で首を
横に振る。あまりに気安くて忘れそうになるが、相手は神様。王様
にだって頭を下げなくていい存在だ。謝ってもらうとか、色々あり
えない。
﹁それで、カンナちゃんは、伝えたい事は言えたのかしら?﹂
﹁えっ。まだ⋮⋮い、いや。今から言うところだったんだって。別
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に、このまま一緒にお茶しようとか思っていないから﹂
カンナさん、色々ぶっちゃけ過ぎです。
このヒトというか、この神様は嘘がつけない質のようだ。そして
アウトな感じの訪問なのに、お茶までしてこうとは、なかなかに図
太い。
ああでも、神様が来ているのだし、お茶ぐらい出したほうがいい
のか?
﹁お茶、ご用意しますけど⋮⋮﹂
﹁ありがとうございます。でも要件が終わったら、すぐ帰らせてい
ただきますのでいいですわ。今度私の社で飲みましょうね﹂
﹁えー。折角、誘ってくれてるんだしさぁ﹂
﹁いいですわよね?﹂
﹁はい﹂
あ、言い負けた。
どうやら、カンナはハヅキに弱いみたいだ。実際2柱を見ている
と、ハヅキの方がお姉さんのように感じる。見た目はそれほど差が
あるようには見えないが性格の問題だろう。
﹁で、まあ。ここからが本題なんだけど。魔素がないとヒトは生き
ていけないわけだ﹂
﹁はあ﹂
カンナは気を取り直したように再び語り出した。
魔素がなければ魔力が作れない。魔力がなければヒトは死んでし
まう。そう考えれば、魔素がないとヒトが死んでしまうというのは
間違っていない。事実、それで一度滅びかけたとカンナも言ってい
た。
﹁だからさ、オクトが魔力の低いヒトでも魔法を使えるようにしよ
うとしているのは知っているし、別に俺も頭ごなしに反対はしたく
ないんだ。ただできるだけエコな魔法にして欲しいんだよ。少なく
815
とも魔素を使わないタイプでさ﹂
﹁⋮⋮エコですか?﹂
﹁あー、エコっていうのは、できるだけ魔力や魔素を使わないって
事で。その、なんだ。今は俺ら神も半数になってしまっているし、
魔素をあまり使われるとバランスがとれなくなるんだよ。いや、ほ
ら。オクトが悪いわけじゃなくてだな、むしろ皆が平等に魔法を使
えるとか、いい考えだと思うぞ。うん﹂
必死にフォローしてくれているが、ようはあまり魔素を使うなと
いう事だろう。まさかファンタジーな世界でもエコを考えさせられ
るとは思ってもみなかった。
﹁カンナちゃん。姪っ子に嫌われたくないからって⋮⋮﹂
﹁違うって!俺は本当にオクトの考えはいいと思うんだよ。ただ、
ちょっとやり方を考えた方がいいと思ってさ﹂
いや、うん。そんな必死に言いわけしなくていいですから。むし
ろ言いわけをすればするほど、カンナさんは余計に墓穴掘りそうな
気がします。
ハヅキのカンナを見る目がとても生温かいが、たぶん私も似たよ
うな目をしているのだろう。⋮⋮ママと姉妹なのだし、この人私よ
り年上なんだよなぁと思うが、今の様子はとてもそうは見えない。
﹁うっ。ハヅキ、その目は何だよ!俺は本当の事を言っているだけ
で。とにかく、俺が伝えたかったのはそれだけだから。じゃあ、俺
は帰るから!後はそこのペッタン子にでも聞いてくれ﹂
へ?
顔を真っ赤にしながらカンナは叫ぶと、瞬きする間もなく目の前
から消えた。そんなに私に優しくするのが恥ずかしかったのか。も
しくはそれを他者に指摘されるのが恥ずかしかったのか。
でも最後の最後に照れ隠しで暴言を吐くなんて、まるで子供みた
い︱︱。
816
﹃ミシッ﹄
自分の真横辺りから何処か不吉な音が聞こえて、反射的に横を見
た。そしてその直後に見なければ良かったと後悔する。
壁や床として使われている木材から芽が出ているのだ。それが板
と板の間縮め、軋む音を出している。この不思議現象は、やっぱり
⋮⋮。
﹁誰がペッタン子よっ!!﹂
ハヅキが叫んだ瞬間床から生えていた芽が一気に成長して天井を
突き破った。私は家が揺れる振動で尻餅をつく。その間もぐんぐん
と木は成長した。
﹁カンナちゃんの馬鹿っ!!もう知らないっ!!﹂
ハヅキの声と一緒に家が揺れ、家の中で生えた木が幹を太くする。
そして可愛らしく両手で顔を覆い隠したハヅキは、私が突然生え
た木に注目している間に家の中から消えた。全てが一瞬の出来事で、
私も何と言っていいか分からない。
﹁オクト!!じしん!!⋮⋮って木?!どうしたの?﹂
突然の地震に驚いたらしいアユムが部屋の中飛び込んできた。そ
して部屋の中に生えた木を見てさらに目を丸くする。うん。私も突
然家に木が生えていたら、驚くと思う。前世のアニメで出てきた、
隣に住んでいる森の妖精さんだってこんなとんでもない悪戯はしな
かったはずだ。
答えてあげたいのは山々だが、私も何が何だか分かっていない。
現実は小説より奇なり。とりあえず言えることは⋮⋮。
﹁神様相手でも、修繕費とか請求できるのかなぁ﹂
流石にそれは罰あたりだろうか。怪我がなかっただけ良かったの
817
かもしれないし。でも家に木を生やしたままだと、さらに町のヒト
達から変人扱いされそうだなぁ。
そんな事を思いながら、今度から生きる災害である神様に会う時
は家ではない別の場所にしようと誓った。
818
38−3話
結局、大切な事は聞けなかったなぁ。
神様にとんでも話の暴露をされた数日後、私はいつもと変わらず
薬を秤で測定していた。秤と言っても、前世のようなデジタル秤で
はなく天秤だけど。黒の大地ではすでにバネ秤が販売され、医学が
進んでいる金の大地ではすでに採用されているらしいので、その内
輸入したいなぁとは思う。お菓子作りのおかげで、天秤の使い方に
も慣れてはいるが、やはり面倒な事には変わりない。
﹁はい﹂
﹁いつも悪いねぇ﹂
﹁悪いと思うなら早く治せ。医者に見せた方がいい﹂
私は閉店と書いているにも関わらず、湿布薬を買いに来た老婆に
渡す。
﹁そんな金あるもんか。あたたたっ﹂
﹁⋮⋮ここも一応店だから。とにかく痛いところを温めて血行を良
くして﹂
私は老婆から受け取った卵をチラッと見て苦笑する。
こうやって飛び入りで来る人とのやりとりは、物々交換が基本だ。
別にお金は海賊や伯爵に売る時に得ているので問題はない。
﹁いつもおばあちゃんがすみません﹂
﹁いえいえ。こちらこそ新鮮な卵、ありがとうございます﹂
老婆の付き添いできたお嫁さんに私は首を振った。
確かに彼女達のおかげで卵料理が多くなる傾向があるが、肉や魚
は、町へ行った時しか買わないので卵は貴重なタンパク源だ。特に
育ちざかりのアユムがいるので、野菜ばっかりに偏らせたくはない。
819
老婆達が出ていったのを見送って、私はふぅと息を吐き椅子に座
った。
﹁オクト、大丈夫?﹂
﹁ああ。ちょっと立ちくらみしただけだから﹂
店の隅で遊んでいたアユムがちょこちょこと私の方へ寄ってきた。
私は安心させるように、アユムの頭を撫ぜてやる。
たぶんこの疲れは、連日時属性の精霊について調べているからだ
ろう。おかげでついつい睡眠時間が短くなってしまうのだ。アユム
に心配をされてしまうという事は、顔色が悪くなっているのかもし
れない。今日はアユムと一緒に少し昼寝をしようか。
そう思っていると、再び店の扉が開いた。⋮⋮こういう時に限っ
て、どうしてこんなに繁盛するんだろう。
﹁今日はお休みで︱︱﹂
﹁よっ!﹂
とりあえず緊急でなければ断ってしまおう。そう思っていたが、
扉の向こうに立っているヒトを見て、私は言葉を詰まらせた。
扉の向こうには、赤茶色の髪をした青年が立っている。その頬に
は刃物で切ったような傷があった。
﹁ライ?﹂
﹁相変わらず客がいない店だな﹂
ライは混融湖で襲撃された時に顔に傷を負った。私の所為だと当
時は落ち込んだのだが、ライはこれで女装をさせられないですむと
言って笑ってくれたのが慰めだ。
﹁おっ。そいつが、カミュが言っていた、オクトが引き取ったチビ
か﹂
﹁だれ?﹂
820
アユムは顔私の後ろに隠れて、ひょこっと顔を出してライを見て
いた。あまり人見知りする方ではないが、顔に傷があるのでびっく
りして隠れたようだ。それでも声をかけられるのは、普段海賊とい
う荒くれ者に遊んでもらっているからだろう。
﹁俺はオクトの友達のライだ。よろしくな﹂
ライはすっと屈むとアユムに声をかけた。
﹁あーちゃんは、アユムっていうの﹂
そう言ってアユムは私の後ろから前に出ると、ぺこりと頭を下げ
た。ちゃんと挨拶ができたので偉いという意味でアユムの頭を撫ぜ
てやる。
﹁それにしても、久しぶり﹂
ライと最後に会ったのはアユムを引き取る前だから、約1年前ぐ
らいになるだろうか。ライは学校を卒業した後は色んな僻地へ視察
する仕事が多くなったようで、国境付近を転々としている。
﹁本当に全然こっちに帰ってこれなかったからなぁ。オクトも少し
カミュに仕事を減らすように言ってくれよ﹂
﹁えっ、嫌﹂
カミュにそんなお願いをしたら、変わりに何をふっかけられるか
分からない。それにその仕事を選んだのはライなのだから頑張るし
かないだろう。
﹁即答かよ。まあいいや、ほら御土産﹂
そう言ってライはドスッと瓶を机の上に置いた。
﹁ワイン?﹂
﹁ほら、オクトがホンニ帝国製の義手や義足送った地域の名産がワ
インなんだってさ。そこの奴らに是非渡してくれって頼まれたんだ
よ﹂
﹁えっ⋮⋮そんな。別にいいのに﹂
義手や義足を寄付したというのは、第一王子に教えた魔法の所為
821
で傷ついた少数部族に対してだ。もちろんそれで許されるとは思わ
ない。それでも何かしたくて、たまたま海賊が精工な義手を使って
いたので、店を紹介してもらい寄付という形をとった。
お金は以前特許申請した研究に対して入ってくるものから、引い
ていってもらっている。この並列や直列の法則を見つけた研究は私
だけの力ではないと思うので、使うのをずっと渋っていた。しかし
このままにしておいても溜まっていく一方なので、戦争で犠牲にな
ったヒトに活用する事にしたのだ。
﹁それに元々︱︱﹂
﹁悪いのは使った第一王子。まあそれだって全て悪いわけじゃない
んだけどさ。ほら、あいつ等自分達が色々できる所をオクトに見せ
たかったってのもあるから貰ってやれよ。あの時は水がなくて反乱
を起こしたけど、今は第一王子主導の治水事業がはいって落ち着き
を取り戻したらしいしな﹂
第一王子は敵対すれば容赦ないが、味方になれば色々心砕いてく
れる。今回反乱を起こした原因は、一本の水脈が枯れてしまった事
から始まっていた。
なので反乱が収まった後は、第一王子はその原因をちゃんと取り
除くように動いていたのだ。犠牲を最小限に抑え、民の生活も見捨
てない。私にとっては魔法を勝手に戦争に使ったり、私という存在
を利用しようとするので微妙な感じだが、この国のヒトにとっては
名君となっている。
そして彼がもたらした結果だけを見ればその通りだ。
﹁ただワインは有難いけれど、飲めないかな﹂
貰い物にケチをつけるのも申し訳ないが、実際そんな感じだ。
私は未成年だし、今後成長期が来ると予想すると、成長阻害をし
そうなアルコール類は飲むべきではないだろう。⋮⋮あまり関係な
いかもしれないけれど、気分的に嫌だ。
822
そしてもう一人の同居人であるアユムは、まだ飲ませられるよう
な年齢じゃないし、口にも合わないと思う。使えるなら料理ぐらい
だが⋮⋮料理に使うには勿体ないぐらい、結構いいワインじゃない
だろうか。
﹁そう言うと思ってさ、ほら﹂
そう言ってさらにライは紙袋を机の上に置いた。その中には、チ
ーズやウインナーなどのお酒のおつまみになりそうなものがたっぷ
りと入っている。
﹁積もる話もあるし、一緒に飲もうぜ。カミュにも声かけたし﹂
カミュに勝手に声をかけている時点で、もう決定事項だろう。場
所提供するんだから先に連絡を入れろよとも思うが、私も久々だし
少し話たい。
﹁了解﹂
そう言って私は、準備のいいライに苦笑いをした。
◇◆◇◆◇◆
﹁にしても、久々に来たら、いきなり家から変な木が生えてるから
びっくりしたんだけど。なんだよ、アレ﹂
カミュが来たところで、昼間からという贅沢な酒盛りが始まった。
と言っても、私とアユムはただのティータイムだ。
テーブルに並んでいるのも、おつまみ系と甘いお菓子系という異
823
色のコラボである。まあ正式なお茶会とかでもないし、こういうの
もたまにはありだろう。
﹁私だって生やしたくて生やしたんじゃない﹂
ハヅキの所為で天井を突き破って生えた木は、今もなお生えてい
る。いっそ伐採してしまいたいが、そんな事をしたら、大木が倒れ
て家が半壊し兼ねない状態だ。
それにどういう魔法だったのか良く分からないが、穴が開いた天
井の板が何故か木と癒着し、雨風は入ってこない仕組みになってい
た。水も床下に張りめぐった根っこから吸い上げているようなので
手入れもいらない。とりあえずどうにもできないので、枯れてしま
うまでは現状のままにする事にした。
天然の素敵なオブジェだと思いこめばそれほど邪魔でもない。家
でガーデニングするヒトだっているのだし、似たようなものだ。⋮
⋮たぶん。
﹁確か樹の精霊がいたずらしたんだっけ?こんな事例、初めて見た
よ。やっぱりオクトさんに精霊の血が流れているからかな﹂
﹁さあ﹂
たぶん原因は、精霊の血が流れているというより、その血筋に神
様がいるからだろう。
一応神様は勝手に出歩いてはいけないようだし、もしも神様が家
にやってきたと他人に伝える事で、カンナ達に迷惑がかかってしま
うのも悪いと思った私は、この木が生えた原因を精霊の悪戯という
事にした。昔カンナも風の精霊のふりをした事があるので、たぶん
これで大丈夫だと思う。
﹁オクト、あれとってー﹂
アユムに言われて、テーブルの奥に置かれたチーズかまぼこみた
いな食べ物を皿の上に置いてやる。意外にアユムはつまみ系の食べ
824
物が好きなようだ。
﹁うわ、本気でお母さんやってるよ﹂
﹁でも見た目的にはお姉さんかな。流石に子供は産めないだろうし。
もしくは幼な妻?﹂
﹁⋮⋮下ネタに走りはじめたら、お前ら2人外で酒盛りしろよ﹂
アユムの教育上悪い言葉を吐きそうな2人を私は睨んで牽制して
おく。酒を飲んでいるので、ある程度は目をつぶるつもりだが、勿
論ある程度だ。
すでに海賊と付き合いがある時点で色々アユムの耳にいらない言
葉が入っていそうだが、それでも極力避けたいと思うのが親心だ。
いつかは知ってしまうのだろうけれどまだ綺麗なままの君でいて欲
しい。
﹁ひどっ。というか、何だか師匠に似てきてないか?﹂
﹁どういう意味?﹂
ライの師匠といえば、たぶんアスタの事だろう。
魔法的な才能の部分ならば大歓迎だが、この場合はたぶん違う意
味っぽい。というか心臓に悪いから、その話題はあまり出して欲し
くないんだけどなぁと思うが、ライがそんな空気を読んでくれると
は思えないので諦める。
﹁もちろん親馬鹿って意味に決まっているだろ﹂
あ、やっぱり?
確かに最近アユムが可愛くて仕方がない。混ぜモノだから子供を
産んだり育てたりする事は一生ないだろうなと思っていた。なので
こんな風に思える相手ができるとは思ってもみなかった。
あまり良い言葉ではないかもしれないが、親馬鹿と言われても悪
い気はしない。
﹁何とでも言え。でも、ライ達もそろそろ結婚の話がでているんじ
ゃないの?﹂
825
2人は私よりも5歳は年上だ。とっくに成人の儀式も終わってい
る。私を親馬鹿だなのなんだのと、からかっていられるような立場
でもない。
﹁うわ、嫌な事思いださせるなよ﹂
﹁ライは結構家からも言われているみたいでね。今のところ仕事を
理由に御見合いは断っているみたいだけど﹂
確かに今のライは一か所に落ち着く事がなく、転々と国内を回っ
ている。中々結婚するのは大変かもしれない。
﹁俺は一生独身貴族を満喫してやる!!﹂
そういって、ライはヤケッパチ気味にグイッとワインを飲んだ。
ライは程よく酔っ払ってきているかもしれない。
﹁カミュは?﹂
﹁僕は時期をみてかな。せめて兄上の所に男の子が生まれてからじ
ゃないと、面倒な事になるしね﹂
力いっぱい嫌がるライとは違い、カミュは結構淡々としている。
何と言うか、結婚の話ではなく事務的な話をしているかのようだ。
﹁好きなヒトは?﹂
﹁好きなヒトだったら、なおさら結婚はしないよ。それに選べる立
場でもないしね﹂
そういうものなのだろうか。
まあ確かに、結婚は政略が入ってくるので、カミュの気持ちがそ
のままが反映されるとは限らない。一番いいのは政略結婚だったけ
ど、ちゃんと相手の事が好きで結婚しましただが、カミュがそれを
望んでいるようにも見えなかった。
﹁そりゃ多少は気が合うヒトを選ぶつもりだよ﹂
﹁多少って⋮⋮﹂
﹁利害が一致しているヒトが一番いいしね﹂
826
何だか夢も希望もないような返答だ。
結婚時期も第一王子の子供が生まれてからとか。カミュは魔力が
強いので成長が緩やかだから別にそれでも問題はないのだろうけれ
ど、寂しくはないのだろうか。
でもそれが王族だというのならば、私はとやかくいう事もできな
い。
﹁まあでも、王子でなくなれば別かな?﹂
﹁は?﹂
王子でなくなる?
﹁今すぐは無理だけど、将来的にはね﹂
いつもならこういう話はあまりしないので、カミュも酔っ払って
いるのかもしれない。好きな相手なら、なおさら結婚はしないとか、
王子様事情は大変なようだ。
﹁そういえば、最近アスタリスク魔術師がここに来たって聞いたけ
ど?﹂
﹁えっ?記憶が戻ったのか?!﹂
ライの言葉に私は首を振った。
﹁カミュの方には話がいっているかもしれないけど、共同研究を申
し込まれてるだけ﹂
それですら、青天の霹靂なんだけど。
何がアスタの興味を刺激してしまったのか。運が悪いとしか言い
ようがない。
﹁倒れた所にたまたま居合わせたんだっけ?﹂
﹁そう。それからなし崩しでそんな話に⋮⋮。カミュもアスタの上
司に許可しないように伝えてくれると︱︱﹂
﹁残念。もう許可はおりたから﹂
⋮⋮はい?
827
内容的にはカミュが言ってもおかしくはないセリフだ。しかし、
明らかにカミュの声ではない。私は聞き覚えのあるその声と共に、
さあぁぁぁっと自分の血の気が引く音を聞いた。
﹁アスタリスク魔術師?!﹂
﹁あー、アスタだー!﹂
ライの素頓狂な声に目まいが起こる。寝不足で体調不良なのに、
どうしてこういう時に限って、心労の種が増えていくのだろう。
﹁お前ら俺抜きで、凄く楽しそうな話をしているみたいだな﹂
今一気に楽しくなくなりましたけどね。
むしろ怖いです。今は夏だけど、そんな肝試しいらない。
そろりと椅子に座ったまま振り返れば、笑顔のアスタがいた。勿
論そこから冷気を感じるので、上機嫌の笑顔ではないだろう。
つかつかとアスタは私の方へ近づくと、私の顎を持ってグイッと
上を向かせた。さっと目をそらしたのだが、顔を掴まれている為、
ばっちりと紅い目と視線が合う。
﹁もう一度いうけど、許可は貰ったから﹂
﹁わ、分かりました﹂
ひぃぃぃ。
近いから。怖いから。
アスタの笑顔を見るたび、私の顔が引きつっていく。
﹁あの、手を放してもらえませんか?﹂
﹁何で?﹂
むしろ私が何でって聞きたいわ!!
どう考えても顔の位置が近い。なので、紅い瞳がしっかり見えて
余計怖い。助けを求めたいのに、カミュもライも、何も発言しない
のは驚いているからか。⋮⋮それとも関わり合いたくないからか。
後者だったら後で絶対泣かす。
828
﹁この方がよく顔が見えるし。それで、どうして俺との共同研究を
そんなに断りたいのかな?オクトにとっても、とてもいい条件だと
思うけど﹂
なんて自信満々な。でもその通りだ。アスタと共同研究という事
は、国からも補助が出るだろう。それに国の最新の技術も学べるの
だからメリットの方が多いように思える。
ただ私の場合は、アスタから離れて、とにかく誰にも迷惑をかけ
ない生活を目指しているのでデメリットの方が大きかった。それに
アスタの傍にいる事で、アスタの記憶が戻る可能性もある。
⋮⋮アレ?それ一番不味くない?
いや、ほら。別にアスタが嫌いで記憶喪失のアスタを一人残して
家を出たわけじゃない。でもアスタはどう思うだろう。まさかの裏
切り者?その場合、何だ、何がどうなるんだ?
ダラダラと冷や汗が流れる。
﹁えっと、実は⋮⋮その⋮⋮裏切れないヒトがいまして﹂
﹁裏切れないヒト?﹂
アスタが怪訝な顔で聞いてきた。
えーっと、咄嗟に言いわけをしてみたが、その次の言葉は全く考
えていなかったので、さらに冷や汗が出る。逃げ出していいだろう
か。⋮⋮悪化するだけですね。分かってます。
どうしても脳内が逃避へ向かっていくが、逃避している場合じゃ
ない。いつものオチなら、逃避した事により、さらなる悪化を招く
のだ。
ここは慎重にいかなくては。
﹁い、一応未婚の女なので、あまり男性と一緒というのは⋮⋮﹂
﹁責任とればいいの?﹂
829
﹁い、いえ。結構です。勘弁して下さい﹂
さらりと恐ろしい事言わないで下さい、マジで。本気で失神して
しまいそうだ。
責任をとるって、何をする気だ。そこまでして、共同研究したい
とか、どれだけ魔法に力を入れているの?!凄い魔術師だとは思っ
ていたけれど、これぐらいしなければ、アスタレベルにはたどりつ
けないのかもしれない。私では無理だ。
こうなったら、最終手段だ。アスタに責任をとられないためにも、
もうこれしかない。
意を決して、ごくりと生唾を飲む。
﹁じ、実は、私。ライとつきあっていて⋮⋮その⋮⋮ということな
ので﹂
﹁﹁﹁はあぁぁぁ?!﹂﹂﹂
悪いライ。
その場しのぎで、私は無関係な顔をしているだろう2人のうち、
一番害がすくなそうな方を巻き込む事にした。
830
39−1話 残念な現実
⋮⋮どうしよう、この状況。
嘘はついてはいけません。そんな小さな時に教えられたような言
葉が脳裏をよぎる。
うん。私だってつきたくてついているわけじゃないさ。
きっと嘘をついてきただろう先人達と同じような言いわけが思い
浮かぶが、仕方がないと思う。だってあの時は咄嗟に嘘をつかなけ
ればいられないぐらい怖かったのだから。よし、後悔はしないぞと
いう思いで、カップに落としていた視線を上に上げる。
そこには怖いくらい笑顔のアスタがいた。
﹁いつから2人は付き合い始めたわけ?ライは1年ぐらい遠くに飛
ばされていたはずだよね﹂
アスタも酒&お茶会という混沌会場に参加し、再び雑談はスター
トしたのだけど⋮⋮飲み物だけでなく雰囲気も混沌としてきた気が
するのは私だけだろうか。
﹁⋮⋮遠距離恋愛を少々︱︱﹂
言ってみたものの、この世界の遠距離恋愛ってどうやってやるん
だろう。電話もメールもない。やっぱりここは古風に文通だろうか。
伝書鳩だったらどうしよう。いやでも、魔法でその辺りは何とか
なるはず。鳩や梟がいなくったっていいよね。
﹁し、師匠。ちょっとタイム!﹂
開始早々ライは手をあげると、私をひっつかんで、部屋の外へ出
た。その間数秒。
ほんの一瞬の出来事なので、誰からの反論も聞こえなかった。か
くいう私も、気がついたら廊下だったというような始末だ。
831
バタンと扉を閉めると、ライはガシッと私の肩を掴む。その顔は
真顔だ。あー⋮⋮これは怒っているなぁ。でもそうだよなぁとどこ
か他人事のような感想が思い浮かぶ。でもアスタに責任をとられる
よりはマシだ。
﹁お前、どういうつもりだよ﹂
怒っているだろうに、それでもライは隣の部屋に気を使って小声
で話しかけてくれた。これで、他人のような顔をしていたのがムカ
ついたからと言ったら今度こそキレるだろうけど。
﹁えっと、とりあえず巻き込んでごめん﹂
﹁⋮⋮素直に謝られると、俺怒れないんだけど﹂
﹁うん。怒られたくないから﹂
そう言うと、ライは大きなため息をついた。
﹁それで、どうして俺なんだよ﹂
﹁ライはまた遠くに出掛けるから、迷惑がかかりにくいかと思って﹂
近くにいたら長期にわたって恋人のふりをしてもらわなければい
けないが、遠ければ遠距離恋愛中なんですで誤魔化せる。それにも
しもライに恋人ができたとしても、遠距離恋愛だった事を理由に破
局という、そんな結末までのシナリオが作りやすいのだ。状況はま
さに打ってつけである。
﹁それにライは恋人がいなさそうだし﹂
﹁おいっ⋮⋮まあ、いないけど﹂
一生独身貴族云々を叫ばれれば、流石にいないんだろうなぁと想
像できる。というか、ライはワーカーホリックだ。明に忙しすぎて
無理だよねという感じでもある。ここはおばちゃんがいい子紹介し
てあげるよと言いたいが、私の方が知り合いが少ないので無理だ。
ごめんライ。
﹁勝手に俺に紹介しようとか考えてなかったか?﹂
832
﹁まさか﹂
紹介の前に、無理だと気がつきましたとも。
﹁でもさ、もしも俺がそれに乗っかって、よし付き合おうって言い
だしたらどうする気なわけ?﹂
﹁は?﹂
﹁お前、自分の価値分からなさすぎだろ﹂
⋮⋮ライがとても残念そうな顔で私を見た。と言われてもなぁ。
﹁えっと、色んな処理は花町へ︱︱﹂
﹁おいっ﹂
ん?そういう意味じゃないのか?
﹁ならライはロリコン⋮⋮しまった。自分の傷までえぐってしまっ
た﹂
ズキズキと胸が痛む。完璧な自爆だ。大丈夫、私は未来あるロリ
だ。いや、小学生高学年ぐらいの身長はあるはずだし、もうロリで
はない。
﹁そうじゃないだろ。というかそれは俺に対しても失礼だからな。
って、そうじゃなくて、俺がお前を利用しようとするような男だっ
たらどうする気だよ。自分を安く見るな﹂
安く見ているつもりはないんだけどなぁ。
勿論、私は混ぜモノだし、名前だけの嫁としておくのも結構いい
手札かもしれないとは思う。むしろカミュがその手の話を一切私に
してこないのが不思議だなと思っているぐらいだ。別にこの国の法
律は、一夫一妻制ではないし、王室関係だったら結構側室持ちも多
い世の中だった。
﹁でもライは友達だし﹂
勘でしかないが、たぶん私が嫌がる事はしないだろう。カミュが
城に連れ帰って働かせたいと冗談めかして言っても、絶対結婚しよ
うと言わないのと同じで。
833
もしもライが私を利用しようと思っているのならば、私自身が彼
の友達でいられるだけのヒトではなかったというだけだ。もしくは、
私よりも大切で譲れない何かがあるのだろう。
勿論利用されたいとかマゾ的な感性は持ち合わせてはいない。そ
れでも、まあ仕方がないかと思えるのは友達だから。それに最悪の
事態に陥りそうになったら、一目散に逃げてやる。
﹁ああ。くそっ。何でそういう事言うかな。オクトってほんと図太
くなったよな﹂
﹁そりゃ日々鍛えられているから﹂
主に、ライの上司であるドS王子様辺りに。
それに、これだけ周りが私を甘やかしてくれているのだ。私の判
定が少し甘くなったって仕方がないと思う。彼らが私を大切にして
くれているのと同様に、私も彼らが大切で仕方がないのだから。
﹁分かった。ただ、もしバレたり、さらに厄介な事になっても、俺
を恨むなよ﹂
﹁⋮⋮えっ﹂
﹁そこは素直に頷けよ﹂
だって、ライに厄介な事になるって言われると、今までの過去の
失敗歴を思い出してしまうのだから仕方がない。別にライだけの責
任ではないのだが、伯爵家で拉致監禁されたり、混融湖で殺されか
けたりと、結構踏んだり蹴ったりの人生ではないだろうか。
﹁いや、だって⋮⋮私も早死にしたいわけじゃないし﹂
﹁お前の中の、俺は一体何なわけ?﹂
何って⋮⋮一応友人ではあるけれど︱︱。
﹁そんな場所でイチャイチャせずに中に入ったらどうだ?﹂
ひぃ。
私とライはまるで恋人のように抱きあった。でもそこにあるのは
834
甘い空気ではなく、空恐ろしい寒気だけだ。
開け放たれたドアの向こうで、アスタが腕組をして私達を見てい
る。⋮⋮何だろう、本気で落ち着かない。それでも、このまま放置
するわけにはいかないので、ライと頷きあって中に入る。
﹁じゃあ、ライとオクトはここに座って﹂
カミュに勧められて、私とライは隣どうしに座った。こうやって
注目されると、ぞわぞわするので止めてもらいたいのだけど⋮⋮無
理ですね。はい。
ちらっとライを見れば、ライも私を見ていた。どうやら居心地が
悪いのは私だけではないようだ。
﹁それで、ライは、俺とオクトが共同研究をするのは反対なのかな
?﹂
﹁えっ﹂
コレはマズイ。
アスタはどうやらまず、ライから攻略するつもりのようだ。勝手
にライを攻略されては困る。
﹁あ、あの!﹂
﹁オクト、どうかした?﹂
﹁いや、その。わ、私が嫌なので﹂
もう動悸息切れ目まいで倒れてしまいそうだが、倒れるわけには
いかない。
私は気を落ち着かせるために目の前に会った飲み物をグイッと飲
み込んだ。その瞬間、くらりと世界がひっくり返る。
はれ?
﹁オクトッ?!﹂
叫んだのは誰だったか。
835
そう思った時にはもう、夢の中だった。
◇◆◇◆◇◆◇
﹁⋮⋮頭痛い﹂
脈打つような痛みが頭に走り、私は意識を取り戻した。
﹁オクトー、だいじょうぶ?﹂
パチパチと瞬きすれば、心配そうな顔をしたアユムと目が合った。
少しぼんやりと天井を見渡して、はっと私は起きあがる。
それと同時に、頭に頭痛が走り両手で頭を押さえた。
﹁頭は打たなかったから、たぶん二日酔いだと思うよ。アユムに聞
いたけど、最近また夜更かしをしていたみたいだね﹂
﹁カミュ?﹂
ベッドの横の椅子に腰かけて本を読んでいたカミュが、顔をあげ
て私を見た。⋮⋮二日酔い?ああ、しまった。私はどうやら、勢い
余ってお酒を飲んでしまったらしい。
﹁って、アスタは?!ライは?!﹂
夢オチなんて優しさがこの世界にあるとは思えないので、たぶん
全て現実だろう。まさかあの場所で気を失うなんて。自分のうかつ
さを呪いたくなる。
﹁アスタリスク魔術師は一度家に戻ったよ。ライはちょっと仕事で
出かけてるかな﹂
836
﹁そう﹂
良かった。何とか危険は乗り越えられたようだ。
﹁えっと⋮⋮ライは大丈夫だった?﹂
自分で何とかしようと思った矢先の昏倒。何というか、申し訳な
いという思いでいっぱいだ。ライならあまり迷惑をかけないで済む
と思った矢先だし。
﹁まあ身体的にはね﹂
つまり精神的にアスタに虐められたという事か。自分のお間抜け
さが情けなくて落ち込む。
ごめん、ライ。
﹁でもオクトさんが倒れた所為で、それどころではなかったし、ま
あ大丈夫じゃないかな。ライも最後までオクトさんの彼氏役に徹し
ていたし﹂
本当に、ごめんなさい。この借りは必ず返すから。
とりあえずライが仕事から戻ってきたら、今度はライの好きなも
のを作ってあげよう。
﹁そう﹂
﹁ライがパパなの?﹂
アユムが突然とんでもない言葉を吐いた所為で、私は固まった。
パパだと?
﹁⋮⋮アユム、それ。誰に聞いて︱︱﹂
﹁カミュ!﹂
私はわなわなとふるえながらカミュを見た。
﹁後、にんちしてくださいって﹂
﹁⋮⋮アユム。言わなくていいし、言ったらたぶんライがすごく可
哀想だから﹂
﹁かわいそう?﹂
837
アユムが何も分かっていないのが唯一の救いというか、何という
か。お前はどうして、そういう変な言葉を教えるんだという思いで、
睨みつける。
﹁ほら、何事も形からが大切かなって。僕も僭越ながらお手伝いし
ようと思ったんだよね﹂
﹁⋮⋮楽しんでいるだろ﹂
カミュはいつもと変わらない顔だが、内心は腹を抱えて笑ってい
そうだ。何がお手伝いだ。本当に、性格悪い。
﹁でもあの嘘をつき通して事態を終息させたいなら、それぐらいし
た方がいいよ﹂
﹁別に結婚するとは言っていないんだけど⋮⋮﹂
お付き合いしている相手がいると言っただけだ。
するとカミュは私を可哀想な子でも見る様な目で見てきた。⋮⋮
えっ。また私は何か見落としていますか?
﹁⋮⋮えっと、カミュ。それ、どういう意味︱︱﹂
心配になって、聞きかけた所で、部屋の扉をノックする音が聞こ
えた。
ライが戻ってきたのだろうか。
﹁はい﹂
返事をすると、扉が開いた。そこに居たのは、黒髪、赤眼の魔族
︱︱アスタだ。
一体どうしたのだろう。その手には大きな鞄が握られている。ア
スタは目が合うとにっこりと笑い、こちらへ近づいてきた。
﹁もう気分はいいのかい?﹂
﹁はあ⋮⋮なんとか﹂
状況が読めず、私はぼそぼそと答えながらアスタを観察する。特
に今のアスタは怖くもないし、何かいつもと違うという事もない。
838
心配してやってきたのだろうか。でも倒れた原因が、お酒だって
分かっているだろうしなぁ⋮⋮。
﹁じゃあ、俺もここに住むから。よろしく﹂
﹁⋮⋮は?﹂
じゃあって、何が?
最初の言葉と次の言葉に繋がりが見えないんですけど。
頭痛が吹っ飛ぶぐらいの衝撃に、私は茫然とする。その隙に、ア
スタはさらに間合いを縮めた。
﹁ライが彼氏だからって、俺が遠慮する義理はないだろう?覚悟し
ておけよ﹂
い、いやぁぁぁぁ。
赤面ものの言葉を耳元でささやかれたが、私の血の気はどんどん
引いていく。もしも鏡で見る事が可能ならば、私はゾンビ並みに顔
を青くしたに違いない。
⋮⋮もう一度昏倒してしまいたいと心の底から思った。
839
39−2話
﹁結局アスタリスク魔術師と一緒に暮らしているそうじゃない﹂
図書館で時属性の魔方陣のメンテナンスをしていると、アリス先
輩に話しかけられた。
﹁ええ。まあ⋮⋮﹂
私はあまりに自分に辛い内容の為、顔をあげずにもにょもにょっ
と答えた。はい。元の鞘に収まりましたとも。
自分でも何が何だかわかない。
どうしてこうなった。今の気分はまさにこれだ。
﹁浮かない顔ね。アスタリスク魔術師と上手くいっていないの?﹂
﹁いえ⋮⋮上手くはいっています﹂
正直、どうしてこうも簡単に馴染むんだと言いたいぐらいに、ア
スタは見事に私の家の一員となっていた。私もアスタの普段の動き
は頭に入っているし、アユムは人懐っこい。なので今までと違う生
活を不便に感じたりするのはアスタのはずなのに、アスタは全く懲
りていない。むしろ、最近肌のつやがよくなっている気がする。9
0代の爺のくせに、これ以上元気になってどうする気だ。
﹁むしろ上手くいきすぎていて、怖いというか、不気味というか﹂
突然アスタが押し掛けてきた形なので、どうなる事やらと思った
が、あれ以来アスタは怖い空気を出さなくなった。なので、毎日が
本当に昔に戻ったかのような風景だ。
ただしアスタには以前の記憶はないはずなので、その部分が決定
的に違い、若干の相違もある。
﹁ああ、でも頭の痛い冗談は言ってきます﹂
840
﹁冗談?﹂
﹁実は、アユムがちょっと知り合いにいらない事を教えられまして。
⋮⋮ついこの間、アスタに対して﹃にんちしてください﹄と言った
んです﹂
正直あの瞬間、空気が凍った。
たぶんカミュにその言葉を教えられた時に、その言葉を言うと私
が元気になるとか何とか、適当な事を教えられたのだろう。
だからきっと元気がないというよりは、色んな心労で疲れ果てて
いた私を励まそうとアユムなりに考えた結果のセリフだったのだと
思う。
﹁それでどうなったの?﹂
﹁了承しました﹂
﹁は?﹂
﹁アスタ⋮⋮了承したんです。アユムの髪は黒いから俺似で、目は
紫だから、私とアスタの目の色を混ぜたんだなって。頭が痛いです﹂
アスタの目は赤、私の目は青。混ぜたら紫って、んな馬鹿な。絵
の具じゃないんだから、そんな遺伝の仕方があるはずない。
アスタの冗談だとは分かっても、正直肝が冷えると言うか。あの
時は、アユムは預かりっ子なので、親にはなれませんといって話は
流れた。でももし冗談ではなかったらと思うと、倒れそうだ。
﹁それは⋮⋮凄い冗談ね﹂
﹁はい。本気で何考えているのか時々分かりません﹂
普段は普通なのに。たまにふとした拍子に、こう猫がネズミを死
なない程度にいたぶるかのような感覚に陥るのだ。
﹁それにしても、魔族の執着は凄いと聞いた事があるけれど、噂通
りね。オクトちゃんが倒れたら心配して家に押しかけて来たんでし
ょ﹂
﹁⋮⋮ははは﹂
841
本当に。
どうして私なんかに執着しているのか。何処で選択肢を間違えた
のか、思い返してもさっぱり分からない。
﹁ねえ。もしかして、本当は記憶があるんじゃないの?﹂
﹁は?﹂
アリス先輩の質問に私はぽかーんとした。
誰が?えっ?記憶?
﹁だってオクトちゃんが道で倒れた所で、アスタリスク魔術師に会
ったわけでしょ。普通ならそれでハイ終わりなのに、家まで押し掛
けて、しまいには一緒に住み込むなんてちょっと不思議じゃない?﹂
﹁い、いやいや。だって、記憶があるなら、何か言ってくるんじゃ﹂
それに何と言うか、もしも本当に記憶があるなら、私の死亡フラ
グが乱立です。
恩をあだで返した娘と認識されていたら、どうしよう。本気でど
うしよう。怖くて仕方がない。是非とも、現状の小さな嫌がらせは
ただアスタの性格が悪いだけという事にしたい。
﹁そこなのよねぇ。記憶があるなら何で言わないのかしら?﹂
﹁⋮⋮つまりないという結論でどうかと﹂
その結論が一番私の心に優しいです。
それにもしも記憶があるなら、一応アスタは私の親的立場だった
わけで。私とアスタが夫婦でアユムが子供なんていうとんでも設定
の冗談は言わないはずだ。⋮⋮うん。多分言わないよね?
﹁一度聞いてみたらと言いたいけど︱︱﹂
﹁はい。聞けるわけないです﹂
過去の記憶戻りましたかと聞いてYESだった時も困るが、NO
だった時も、どうしてそんな事を聞くのか聞かれたらものすごく困
る。
それにどちらの答えでも、今の現状は寒々しくて仕方がない。
842
あああ。どうしてこう、上手くいかないんだろう。考えれば考え
るほど、残念な現実に涙が出そうだ。
﹁あの、そう言えば、どうして私がアスタと一緒に住んでいる事を
知っているんです?﹂
気分を変えようと思い、ふと気になった事を聞いた。
ここは図書館。私が住んでいる場所とはとても離れている。どう
頑張っても、私の噂は届かない気がする。
﹁ふふふ﹂
先輩は不敵に笑うと、すっと私に手を見せた。
ん?何だとジッと見たところで、薬指に指輪がはまっている事に
気がついた。この国でも、前世と同じで結婚したり婚約すると、薬
指に指輪をはめる習慣がある。
﹁えっ?!結婚されたんですか?﹂
﹁まだ、婚約だけ。でも、情報はそのヒトから貰っているの﹂
ふふふっと再びアリス先輩は幸せそうに笑った。情報をそのヒト
から貰っているという事は、私の知っているヒトという事だろう。
﹁えっ、誰です?﹂
﹁内緒。多分、自分の口で言いたいだろうし﹂
私の知り合いで、アリス先輩とも知り合いという事は、学校関係
のヒトだろうか。考えるが情報が少なすぎて、推理にならない。
﹁えっと、おめでとうございます﹂
﹁ありがとう。まあ、この結婚はオクトちゃんのおかげでもあるん
だし。まさに妹はかすがいというやつね﹂
﹁妹さんがいるんですか?﹂
﹁⋮⋮本当に、可愛い妹分だこと﹂
そう言って、アリス先輩は私の頬をぐにぐにと引っ張った。あ、
やっぱり私の事なんだ。でも妹なんて言ってもらえるのは有難いけ
843
ど、気恥ずかしくなるのだから仕方がない。
﹁何このぷにぷにほっぺ。餅肌過ぎるでしょ。いいわね、老化が遅
い種族は﹂
﹁ひひほほははりへは﹂
﹁でも今みたいな生活していたら、お肌の曲がり角が来たら急速落
下よ。覚悟しなさい。ああ、でも本当にすべすべ。気持ちいいわ﹂
しばらくの間、私の頬触り続けていたアリス先輩だったが、しっ
かり堪能しきると手を放した。⋮⋮うう。ちょっと頬がジンジンし
ている。
﹁⋮⋮何で最近の生活まで知っているんですか﹂
﹁そりゃ可愛い妹のことですもん。気になって当然でしょ﹂
それ、答えになっていないです。
でも聞いても答えてくれそうにもないので、私は深くため息をつ
くと、作業に戻る事にした。アユムは今のところ絵本のコーナーで
遊んでいるが、そのうち飽きるに違いない。私とは違い、アユムは
かなりアウトドア派で、外で走り回るのが好きだ。
うんうん。子供はそれぐらい元気な方がいいよね。よし。アユム
の為にも早く終わらせよう。
﹁それに、家に大木が生えたって話も聞いたわよ。ものぐさな賢者
って呼ばれているからって、わざわざ同じような家に住まなくても
いいのに﹂
﹁⋮⋮あの木は私が生やしたわけじゃないです。それに、同じよう
な家って?﹂
誰か賢者と呼ばれているヒトで、木が生えた家に住んでいたヒト
がいるのだろうか。もしもいるなら、そのヒトも生やしたくて生や
したわけではないと思う。
どう考えても、あの木は邪魔だ。オブジェというか観賞ぐらいし
か役立ちそうもない。せめて枝があれば、雨の日の物干しざおにな
844
るのに。
﹁ほら、﹃ものぐさな賢者﹄っていう本あるでしょ?あの主人公、
木が生えた家に住んでいるじゃない﹂
﹁⋮⋮それ、私も読んだ事ありますけど。何かの間違いでは?﹂
ものぐさな賢者といったら、アレだ。コンユウが書いた話である。
何度か読んだが、そんな場面合った記憶がない。
﹁間違いじゃないわよ。オクトちゃんが読んでいるの見て、私も読
んだんだし。ちょっと持ってくるから待ってて﹂
そう言ってアリス先輩は、古典が置いてある場所へ行ってしまっ
た。
でも⋮⋮そんな目立つ設定が書かれているならば、私だって忘れ
ないと思うのだけど。たまたま読みとばしてしまった場所だったと
か?いやいや、何度も読んだけどそんな話じゃなかったし、読みと
ばしたとも考えにくい。もしくは、先輩が読んだのが翻訳されたも
ので、誤訳されている可能性もある。 でもそうではなかったのならば⋮⋮。
ふと私の中に、通常なら考えられない結論が落ちてきた。
﹁⋮⋮まさか、過去が変わった?﹂
普通なら鼻で笑ってしまう結論だろう。ただしコンユウが時間を
旅しているのだと考えると、ありえない話ではないように思う。
でもそれならば、何故私の頭の中は改変されないのか。やっぱり
ただの記憶違いではないのか。
そんな思いが浮かぶが、同時にもしかしたらという思いが消えな
い。だって、﹃ものぐさな賢者﹄と呼ばれて、﹃家の中に木が生え
ている﹄なんて偶然、そんな簡単に起こるようなものなのだろうか。
﹁そうだ。館長の部屋﹂
845
もしも過去が何か変わったのならば、館長⋮⋮エストの方も変わ
ったかもしれない。エストからの手紙は、結局最初に図書館で見つ
けた1通しか見つけられなかった。あの手紙通りなら、きっと何処
かにまだ手紙があるはずなのに。
その為アリス先輩に頼んで、部屋はあの時のままにしてもらって
いた。でも今なら︱︱。
私はいてもたってもいられず仕事を後回しにして、館長室へ走っ
た。
846
39−3話
ない。ない。何処にもない。
棚から本を全部出して調べたり、ベッドの下を覗いたりして探し
たが、やっぱり館長からの手紙は見つからなかった。探し方が悪い
のか、それとも本当にないのか。
私は肩を落としつつも、仕方がないと自分に言い聞かせる。
﹁やっぱり都合が良すぎるか﹂
そう思うと余計に疲れを感じ、ベッドを背もたれにしながら、床
に座り込んだ。本当なら、早く仕事に戻らなくてはいけないのに、
体というより心が少し疲れて中々やる気が出ない。
いや、私の疲れなんて、エストに比べればまだまだだ。そう思う
のに、どうしても次の行動に移せずにいる。落ち込んだって仕方が
ないと分かっているのだけど、上手くいかないものだ。
﹁はぁ﹂
せめて時の精霊が見つかれば、何か変わるのだろうか。
ハヅキ様に時の精霊が住んでいる場所を教えて欲しいと手紙を出
したが、返事が来るのはいつになるか分からない。果報は寝て待て
というが、どうしても気が焦ってしまって駄目だ。
﹁⋮⋮片づけよう﹂
私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
探す為に本が全て出しっぱなしだ。このままでは、次にこの部屋
に入ったヒトが驚いてしまう。しかし本を元の場所に戻そうとした
ところで、今手にとっている本が﹃ものぐさな賢者﹄だと気がつい
た。
847
⋮⋮本当に変わったのだろうか。
私は再び座り直すと、ページをめくる。
パラパラと読み進めるが、特に変わったようには思わなかった。
しかし確かに私の記憶とは違い主人公の﹃ものぐさな賢者﹄は﹃木
が生えた家﹄に住んでいる。
家の中に木が生えている表現が何か所かあり、とても読み飛ばし
たとは思い難い。やっぱり本の中身が変わってしまったとしか思え
ず首をひねる。僅かな誤差。でもそれは私の思い違いなのか何なの
か。
例えば、コンユウがこの時間を見た後に過去へ戻り、本を改変し
たとする。そうすると今までと違う事になるわけだが、普通ならそ
んなの気が付けないはずだ。何故ならば時間は過去、現在、未来が
繋がっているので、過去で書き変わったなら、私は書きかえられた
本を最初から読んだ事になる。事実、アリス先輩の状態がそれだろ
う。
﹁⋮⋮やっぱり時の精霊が関係している?﹂
他にも時の精霊と契約した事があるヒトがいれば良いが、そんな
偶然中々ない。
上手く理解が追いつかず、ごろんと私はその場に転がった。
そもそもこの本を書いたのは、私を殺した時間軸のコンユウなの
か、それともアスタを刺したコンユウなのか。はたまたさらに別の
ヒトなのか。
ややこしい。
いわゆるパラレルワールドというものなのだろうが、考えはじめ
たらきりがない。
﹁はぁ⋮⋮あれ?﹂
コロンと転がって気がついたが、微妙に棚の床が傷ついている気
848
がする。もしかして私が傷つけてしまったのだろうか。横になった
まま匍匐前進でそこまで進み、指で傷跡を触って確認する。傷は棚
からまっすぐのびているようで、まるで棚を動かしたような傷だっ
た⋮⋮。 ﹁まさかっ?!﹂
この棚、動かしていたの?!
流石に家具を動かしてまで、調べてはいない。私は棚の中身を全
て取り出すと、全体重を棚へ加えた。
すると、ずずずっと言う音を立てながら棚が動く。
﹁⋮⋮えっ。ニンジャ?﹂
別に棚の向こうに忍者がいたとか、そんなわけではない。
ただ棚の向こうに大きくニンジャと書きこまれたのを読んだだけ
だ。その下には私の胸ぐらいの高さまである穴が壁に空いていた。
たぶん元々物を収納する空間だったのだろう。
﹁ニンジャって⋮⋮忍者だよね﹂
何だろう。パラレルワールドにいる私が、エストにいらない事を
教えた気がしてならない。外人は忍者が好きと聞くが、まさか異世
界⋮⋮この場合超未来人でいいのか?にも有効だったとは。
﹁いや⋮⋮まあ、いいか﹂
気にしたらいけない気がする。
あえてその言葉はスルーすることにして、私は中に入っているも
のを取り出す。中には、日記らしきものや本、手紙など色々館長の
私物と思われるものがごちゃごちゃっと入っていた。
こんなところに隠してあったのか。
ニンジャの文字が私ではない私が教えたとすると、館長は私なら
ば気がつくと思ったのかもしれない。
849
ああ。でもそれもそうか。館長はエストだけど、私と一緒にいた
エストではないのだ。
﹁何だかややこしい﹂
同じエストだけど、違うとか、さっきのコンユウ並みに混乱する。
時を司っていた女神様とか、時の精霊は混乱したりすることはない
のだろうか。
そんな考えても答えなど出ないような事を考えながら、私は館長
の持ち物を物色した。
◇◆◇◆◇◆◇
﹃︱︱オクト、もしもまだ時の精霊に会っていないのなら、絶対会
わないで。会ってしまったなら、あんなただの合法ロリの言う事、
真に受けて聞いちゃ駄目だよ︱︱﹂
いくつかのエストからの手紙の中に、時の精霊についての言葉を
見つけ、私はドキリとした。まるで私が時の精霊に会いに行こうと
しているのを知っているかのような言葉である。
しかし過去にいるエストが未来にいる私の現状を知るはずもない
ので、私の行動を予測しての言葉だろう。まあ確かに、混融湖につ
いて調べたら、いつかはつきあたりそうな単語だ。私が時の精霊に
会おうとしていると予測しても不思議ではない。でも︱︱。
﹁⋮⋮合法ロリ?﹂
その言葉は、とても聞き覚えというか見覚えのある言葉だ。忘れ
もしない。その言葉を初めて見たのは、コンユウがアユムに持たせ
850
た手紙の宛名だ。たしか﹃オクトもしくはものぐさな賢者、合法ロ
リ又は図書館の館長と呼ばれているヒトへ﹄だったはず。
あの忌まわしい言葉の所為で、私は毎日牛乳を飲むのを再開した。
﹁もしかして合法ロリって、時の精霊に宛ててる?﹂
オクトもしくはものぐさな賢者というのは、たぶん私の事だ。オ
クトでは通じなかった時の為に、二つ名として広まっていそうな︻
ものぐさな賢者︼を併記したのだろう。その後の言葉も私に宛てら
れているのかと思ったが、時の精霊が合法ロリならば、私ではなく
時の精霊の方が可能性がある。一番最後がエストとすると、全員が
時属性の関係者だ。
それにコンユウも時を巡っているので、時の精霊に会っている可
能性は高い。ちらりと紛らわしいと思った私はたぶん悪くない。
﹁でも会うなってどういう事?﹂
時の精霊は気難しいのだろうか。
私の場合はすでに時の精霊と契約しているので、知り合いといえ
ば知り合いだとも言えるし、物ごころつく前の話だから知らないと
も言える。
しかし今の状態で、会わないという選択は無理だ。勿論エストや
コンユウがすでに時の精霊と会って話をして、この現状なのだから、
私が会っても彼らの為に何かできることなどないのかもしれない。
それでももしかしたら何かあるかもしれないし、私自身の事につ
いても、時の精霊なら色々知っていそうだ。
できるなら会うなという忠告よりも、時の精霊の攻略方法を書い
ておいてくれると嬉しいのだが⋮⋮そんなの館長だって予測できな
いだろう。
﹁案外日記の方に時の精霊について何か書いてあったりして﹂
しかし日記は数十冊に渡っていて、読むのは一苦労しそうだ。
851
それに手紙の量も半端なくあった。私がエストへ毎年手紙を送っ
ているのと同様に、館長も私へ手紙を沢山残していてくれたようだ。
それでも折角残してくれた手紙である。全部読みたい。
ただ隠された穴の中には、手紙以外にも、まるで宝物でもしまっ
てあるかのような箱や置物、何か包まれたものなどごちゃりと入っ
ていた。とても今の時間だけでは確認できそうもない。
さてどうしようか。
思案していると、ノック音が聞こえた。
﹁オクトちゃん、ここにいるの?﹂
聞こえたのは、アリス先輩の声だ。咄嗟に返事をしようとして、
ふと館長から私へ宛てられた手紙を他人に見せるのはどうなんだと
思った。
私だったら自分が書いた手紙を第三者が読むのは言語道断。日記
なんて、燃やして灰にして欲しい黒歴史が詰まっていそうだ。館長
が手紙と一緒にここに隠したという事は、別に私が読むのはかまわ
ないけれどという意味のような気はするが︱︱。
ドアノブが回るのを見て、私は咄嗟に叫んだ。
﹁わ、私には前世の記憶があります!私には前世の記憶があります
!私には前世の記憶があります!﹂
その瞬間、ドアノブの動きが止まった。
よし。
﹁私には前世の記憶があります!私には前世の記憶があります!私
には前世の記憶があります!私には前世の記憶があります!私には
前世の記憶があります!私には前世の記憶があります!私には前世
の記憶があります︱︱﹂
我ながら、何を変な事を叫んでいるんだと思わなくもないが、こ
の言葉を聞いているヒトはいないので、恥は一時的に頭の隅に追い
やる。
852
そして叫びながら私はとりだした手紙などを急いで穴の中に戻す。
時間が止まってしまったら物は動かないだろうかと思ったが、幸
いにも私自身が止まった時の中で動けたのと同様に物も動かす事が
できた。 時の女神様。とても便利な呪いをありがとうございます。
初めてそんな御礼の言葉を思い浮かべながら、私は必死に手と口
を動かした。この言葉を止めたらどれぐらいで再び時間が動き出す
のかは分からない。とにかくやる事だけはやってしまわねば。
全て中に入れきり、棚を元の場所に戻し、棚の中身も全て戻した
所で、私は叫ぶのを止めた。
さ、酸欠で死にそう。
凄く急いで片づけをした所為で体中が痛いし、叫び疲れで喉も痛
い。ベッドを背もたれにしてぐったりしていると、扉が開いた。
﹁オクトちゃん、こんな所にいたのね⋮⋮って、凄く汗だくだけど、
筋トレでもしたの?﹂
どうして館長室で筋トレをしたと思うんですかとも思ったが、私
は力なく頷いた。否定したとして、だったら何をしていたと言えば
いいのか。
﹁⋮⋮まあ、そんな所です﹂
確かにある意味凄くいい運動だ。
かすれた声で答えながら、明日は筋肉痛かもしれないと思い、私
は苦笑いした。
853
40︲1話 幸せな家族
﹁これは⋮⋮どういう状況なのだ?﹂
﹁まあ、仲がいいという事はいい事⋮⋮なのかしら?﹂
さあ。どういう状況なんでしょうね。
そう言って一歩引いた所から感想が言えたらどれだけいいか。し
かし現在の私は渦中のヒト状態なので、そんな逃げ道あるはずがな
い。
昼下がりに、突然私の家にヘキサ兄とアリス先輩がやってきたの
が全ての始まりだ。
アリス先輩から事前にもたらされている情報のおかげで、私はな
んとなく2人がそろってやってきた理由を想像する事ができた。こ
こにアスタもいる事を踏まえると、私の予想はまず間違いないと思
う。
この場合、部外者は出ていくべきかと思い私はアユムをつれて外
へ出ていこうとした。しかしそこで、何故かアスタに捕まった。そ
して現在アスタの膝の間に座り、ヘキサ兄達と真正面から見つめ合
っている状況だ。⋮⋮意味が分からない。
これから触れられる話題を考えると、騒がしくなるのはマズイだ
ろうと思い、アユムは隣の部屋で勉強しているが⋮⋮正直私もアユ
ムの方に行きたい。
﹁アスタ⋮⋮別の椅子を用意するから﹂
せめてこのおかしな体勢だけでも直したいと訴えてみるが、アス
タは上機嫌な笑顔を浮かべていた。
﹁体勢が辛かったら、俺の方にもたれていいから。そうそう、これ
854
で昨日のゲームの命令権はチャラにするよ﹂
うっ。それをいま使うか。
﹁命令権?﹂
﹁ゲーム?﹂
緊張してここまで来ただろうに。そう思うが、アリス先輩とヘキ
サ兄は、ここに来た理由よりも私達の方が気になってしまったよう
だ。まあいきなり目の前で変な行動をとったら、そりゃ気になって
当然だけど。
﹁昨日、アユムとアスタの3人でゲームをしたんです。優勝したら、
1回だけ何でも命令できるという条件付きで﹂
私は仕方なくぼそぼそと現状の説明をした。
昨日雨がふって、アユムが暇だったため、一緒にカードゲームで
遊んだのだ。優勝というのは、何度も色んなゲームをするので、と
りあえず一番勝った回数が多いヒトの事を指す。結果、アスタは大
人げないぐらいに勝利を物にしていったという。
神経衰弱的な記憶力を試すものなら私が強かったし、完璧な運だ
けを必要とするゲームはアユムが強かった。しかし頭脳戦が入って
くると⋮⋮今思いだしても腹が立つ。今度リベンジしなければ。
﹁危険な遊びをするのね﹂
﹁へ?いやいや、ただのカードゲームですよ﹂
なんだか先輩がすごく残念なモノを見る様な目をしている気がす
るのは気のせいだろうか。別に私だってロシアンルーレットとか、
そんなん恐ろしい遊びはしていない。
﹁それより、今日は何か話があってきたんですよね﹂
このまま私達のくだらないゲームの話をしていても仕方がないと
思い、私は先輩達が話やすいよう話題をふった。こういうのは、タ
イミングと勢いが大切だ。
855
ヘキサ兄も今がチャンスだと理解したようで、すっと背筋を伸ば
した。
﹁アスタリスク様。このたび、私はこちらの、アリス・フィオーレ
嬢と結婚しようと思い、あいさつに来ました﹂
言った!
そして、やっぱりか!
堅物なヘキサ兄が結婚。しかもアリス先輩と。正直、アリス先輩
から結婚する旨を聞いた後に全く推測できなかったというわけでは
ない。
今回2人が一緒に家にやってきたのを見れば想像もついた。それ
でも、実際に改めて聞くと嬉しくなる。
﹁確か君は、今図書館で館長をやっている子だったよね﹂
﹁はい﹂
珍しくアリス先輩が緊張している。でも普通に考えたら、結婚を
報告に来たわけだから緊張するか。貴族同士の結婚は、親が反対す
ればそれまでだ。駆け落ちという手もあるが、この2人がそれを選
ぶとはとても思えない。となれば許しが貰えるまで、何度も直談判
するしかなくなる。
﹁ふーん。いいんじゃない?これからよろしく頼むね﹂
軽っ。
いや、でもアスタは嫁に出すのではなく嫁を貰った立場になるの
だから、そうなるのか?
アスタの親馬鹿度を考えると、もしかしたらごねるかもとチラッ
と思ったが⋮⋮そっと伺ったアスタの顔は普通だ。しかもどちらか
と言えば、喜んでいる顔である。
﹁その上で、結婚式をするにあたって、是非出席してもらえないか
856
と思って来たのだが、どうだろう?﹂
結婚式の出席?
普通親子だったら、よっぽど反対された結婚でもない限り出席す
るのではないだろうか?改めて聞くと言う事は、アスタがすっぽか
しそうだからとか?
確かにアスタは仕事馬鹿というか、魔法馬鹿だし、結婚式の日を
忘れていてもおかしくないタイプだ。まあでも、私が気にして送り
出せばいい話か。
アリス先輩のウエディング衣装はどんな風だろう。背が高くてモ
デルスタイルだから、さぞかし映えるだろう。ふんわりとしたドレ
スもいいが、マーメードラインも捨てがたい。ああ、でもこの世界
の結婚式ってどうやるんだろ。信仰も龍神だろうし。
でもやっぱり神様に誓うのかなぁ。
﹁オクトちゃん、何だか他人事みたいな顔をしているけど、貴方に
言っているのよ?﹂
﹁へ?﹂
私?
一瞬何の話か分からず、瞬きをした。
しかし良く考えれば、私はアスタの膝の前に座っているのだから、
私を見てもアスタを見ても、視線はさほど変わらない。
﹁アスタリスク様は、私の義父に当たるのだから出席するのは当然
だろ﹂
⋮⋮ですよね。
私もさっきに疑問に思いましたとも。ヘキサ兄に言われて、私は
へらっと笑って誤魔化した。
確かにアスタが出席する事が決まっているのならば、出席しても
らえないかとお願いされるのは別のヒト。この場だと私だけになる。
857
折角のヘキサ兄とアリス先輩の結婚式。是非とも見てみたい。し
かし私は混ぜモノだ。主役2人は問題ないとしても、参加者の中に
は私が出席する事を不快に思うヒトも居るだろう。折角の楽しい気
分が、私の所為で損なわれるのは遠慮したい。
唯一の救いは、アスタと親子関係だった事がなかった事になって
いるので、ヘキサ兄とは実質赤の他人である事だ。もしも私と兄弟
のままだったら、アリス先輩側の親族に断られた可能性もある。
総合して色々踏まえると、選ぶなら欠席だが⋮⋮。
﹁ご結婚おめでとうございます。ただ⋮⋮えっと、そう言う場所に
着ていくドレスを持っていませんので、今回は遠慮させていただき
ます﹂
混ぜモノだから欠席しますなんて言ったら、優しい2人の事だ。
そんな事ないなどと私を叱ったり、慰めたりして、結局出席する事
になってしまう。なので、まるっきり嘘ではないが、いい断り文句
を使う事にした。
アリス先輩もヘキサ兄も、お貴族様だ。対して私は、一般庶民。
同じ席につけるだけの服を持っていないのは本当だし、新調するお
金もなかった。⋮⋮いや、ないわけではないが、色々他にまわした
いので、私の衣装代なんかに使うのは勿体ないというだけだけど。
﹁お2人のご結婚のお祝い品は、後日お渡ししますので⋮⋮申し訳
ありませんが︱︱﹂
︱︱あれ?何でアリス先輩、すごくいい笑顔をしているんですか?
ぞくりと寒気がして、私は自分の腕を握る。この笑顔はたぶん私
が断ってくれてうれしいという類のものではない。というかアリス
先輩はそういう事はしないと思うし、ぶっちゃけ心の中で思っても
顔には出さないだろう。そんな簡単に顔に出るようでは、魑魅魍魎
的な魔法使いや王族と対等にやり合っていかなければならない、図
書館の館長なんて務められない。
858
だとすると︱︱。
﹁オクトちゃんなら、そう言うと思って、もうドレスはお願いして
あるわ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁お金の事は心配しなくていい。私が出席して欲しいと頼んでいる
のだからな。もうすぐ、町から針子が来るはずだ。オクトとアユム
は採寸してから布を選んでもらう﹂
布を選ぶ⋮⋮採寸って︱︱。
﹁お、オーダーメイドですか?!﹂
なんという、贅沢品。しかも2人分。
私は、ぶんぶんと首を振った。そんなもの、一介の薬売りが貰う
事なんてできない。
﹁だ、駄目です。いただけません!そう言うのは、私ではなくもっ
とドレスの似合う方というか、普段使う方が作るべきであって。え
っと、何と言うか、色々無理です﹂
頭の中が大混乱だ。
例えばここで私がドレスを作ったとしよう。果たしてそのドレス
を次に着る事があるだろうか。普通に考えればないだろう。
私は舞踏会に参加する予定が沢山ある、お姫様じゃないのだ。
﹁オクトは私の大切な⋮⋮薬師だ﹂
﹁そして私の大切な後輩よ。それぐらいして当然じゃないの。でも
私の結婚式に今の恰好で来たら、一生恨むわよ﹂
﹁⋮⋮そりゃ、この恰好では行けませんけど﹂
私の恰好は、白衣にズボン。ドレスどころか、女性の服装からも
程遠い。でもこの恰好が一番楽なのだから仕方がないと思う。そも
そもここは自然が溢れる場所。スカートで薬草をとりに森へ入るの
は困難だから必然的にズボンになる。
859
﹁それに伯爵家の結婚式の参列者として、オクトちゃんに恥ずかし
い恰好をしてもらったら困るの﹂
﹁⋮⋮だから出席しないと︱︱﹂
﹁言うわよ﹂
﹁へ?﹂
﹁私の一生のお願いごとなのに、聞いてくれないんだったら、オク
トちゃんの秘密をここで暴露するわ﹂
秘密⋮⋮秘密ってまさか?!
私がこの場でばらされて困る秘密など一つしかない。アスタと元
々親子だったという事だ。この秘密が暴露されたら、私の人生は風
前の灯になってしまう。
﹁オクトの秘密?それは気になるな﹂
ひぃぃぃぃぃ。
頭の上から降ってきた言葉に私は恐れおののく。一番気にしちゃ
いけないヒトが、興味を持っちゃったじゃないですか!
﹁い、行きます!行きますから!﹂
﹁服もちゃんと作って着てくれる?﹂
﹁作ります!でもって、ちゃんと着ますから!﹂
止めて、お願い。勘弁して。
あああ。でもアスタの興味が明らかに私の秘密にスライドしたの
を感じる。本当に、どうしてくれるんですか。
私が渋ったのが悪いのかもしれないですけど。でも2人の事を考
えてなんですよ!と言いたいが、不用意な発言は私の首を絞めそう
で、言うに言えない。
﹁良かった。アスタリスク魔術師もオクトちゃんのドレス姿楽しみ
じゃないですか?私は是非ふんわりした可愛らしいドレスを着て貰
いたいんですけど、でも大人可愛い的なのも捨てがたくて﹂
860
パンと手を叩くと、アリス先輩はにっこりと笑った。
﹁ああ。それは確かに楽しそうだね。いつもオクトは地味な服ばか
りを着るから、たまには華やかな色を着ても似合うんじゃないかな
?﹂
﹁分かります!素材がいいのに、勿体ないですよね!私も蜂蜜色の
髪なら、明るい色の服が似合うと思うんですよ。最近は腕とか足を
露出したものも流行り始めているんですよ!実は色々、デザイン画
を持ってきたんです!見てもらえませんか?!﹂
おや?
気がつけば2人が勝手に私の服で盛り上がり始めた。
幸いな事にアスタの頭から、私の秘密については消えたようで、
今はアリス先輩が持ってきたデザイン画を見てはあーでもない、こ
うでもないと、本人そっちのけで話しあっている。
えっと、主役は私じゃなくて、アリス先輩ですよね。そう思うが、
今それを言ったら寝た子を起こしそうなので、お口にチャックをし
ておく。
せめてアユムの服でも考えて気を紛らわせようと思い、私もデザ
イン画を覗き込んだ。
861
40−2話
ドレスを注文して数ヵ月後。とうとうヘキサ兄とアリス先輩の結
婚式の日がやってきた。
﹁くるくる∼﹂
そんな事を言いながら、ドレスに着替え終わったアユムが目の前
でくるくると回る。そのたびにヒラヒラとした淡いピンクのスカー
トがふわりと広がり、大変可愛らしい。
しかし回り過ぎたらしく、アユムは途中で笑いながら床に座り込
んだ。
﹁目が回ったー﹂
﹁そんなに回るから﹂
良く考えればアユムがドレスを着るのは初めてじゃないだろうか。
こんなに喜ぶという事は、やっぱりアユムも女の子だったという事
か。
﹁ほら、汚れるから椅子に座ろう﹂
﹁オクト、かわいい?﹂
﹁かわいい、かわいい。くるくるしなくても、アユムは可愛いよ﹂
﹁えへへ﹂
なんだこの可愛い生物は。
嬉しそうに笑うアユムに、キュンキュンする。
小さい子はいいなぁ。癒されるなぁと思いながらアユムの頭を撫
ぜた。
﹁オクトも凄く可愛いよ﹂
﹁あー⋮⋮別に比べられて、ひがんだりはしないからお世辞はいら
862
ない﹂
自分自身、スカートを履くことすら久しぶりな所為で、違和感が
バリバリだ。鏡に映った姿を見てもアユムと違って、全く癒されな
い。
﹁お世辞じゃなくて、本当だって。なあ、アユム﹂
﹁うん!オクトもかわいいー﹂
﹁⋮⋮ども﹂
アスタとアユムにそう言われると、どういう顔をしていいのか分
からなくなる。
もちろん見た目は面食いだっただろうご先祖様のおかげで、美少
女だ。なのでドレス姿に違和感を感じているのは、たぶん私だけな
のだろう。でもどうしても、自分自身の性格を知っていると、とて
も萌える事ができない。
唯一の救いは、私のドレスの色が可愛らしいピンク色ではなく、
青色という事だろうか。何故か全員が全員、可愛い色合いのふりふ
りのドレスばかり選ぼうとするのだ。なのでシンプルなドレスにす
るのに骨が折れた。
本当は黒とか茶色が良かったのだが、地味系の色のものは圧倒的
多数の反対意見で棄却されている。こんな時に団結なんてしなくて
いいのに。
﹁アスタも似合っているよ﹂
﹁えっ、本当か?﹂
褒め返すとアスタはパッと笑顔になった。そんなアスタの服はフ
リルがあしらわれた貴族服だ。長身な為すらっとしており、よく似
合っている。とても90代には見えない。かなりのイケメンだ。
はっ?!
ぼんやりとアスタを眺めていると、ふと、とても素晴らしい案が
頭の中に浮んだ。
863
もしかしたらこれはチャンスじゃないだろうか?
結婚式は出会いの場ともいう。きっと貴族で国一番の魔術師で、
見た目もイケメンという、優良物件なアスタに一目ぼれした貴族の
お嬢さんが出てくるに違いない。その中に1人ぐらい、アスタの好
みの子もいるだろう。そうすれば、アスタは結婚。そして結婚した
ら流石に私と一緒に暮らすという事はないはずだ。
研究を一緒にやる事までは断れないが、現状の同棲問題は解消で
きる。とうとう私にも運が回ってきた!
﹁オクト、何を笑っているんだい?﹂
﹁べ、別に⋮⋮。それより、そろろろ行かないと式に遅れる﹂
とはいえ、今考えた妙案は、できるだけ内密に進めなければ。
昔アスタがお見合いを片っ端から勧められてうんざりしていた事
があった。というか、それが原因で私を引き取ったって言っていた
し。となるとこの案を素直にアスタに伝えたらきっと不機嫌になる
に違いない。とらぬ狸の皮算用で、怖い思いをするのはごめんだ。
それでも、ここは一つ私も一肌脱ぐべきだろう。私自身そろそろ
ファザコンから卒業しなければと思っていたのだから丁度いい。
私は大きな野望を持って、伯爵邸に転移した。
◇◆◇◆◇◆
﹁オクトちゃーん!!﹂
864
﹁ぎゃうっ﹂
伯爵邸の中庭をのんびりと歩いていると、突然強い力で抱きしめ
られた。その力で私は一瞬気が遠のきかける。⋮⋮お願い、体格差
というものを考慮して下さい。
﹁えっと、ミウ?﹂
﹁久しぶり、元気だった?!﹂
﹁うん。まあ。ミウは元気そうだね﹂
ミウは私を放すと、オレンジ色の瞳を眩しそうに細めた。
﹁元気だけど、勉強が忙しすぎて遊べないの。オクトちゃんは7年
で終わっていいなぁ。私は後2年頑張らないと﹂
﹁ああ。ミウも魔法薬学科に進学したんだっけ﹂
ミウはあまり勉強が好きではないので、てっきりライと同じ学科
に進学するかと思っていたが、なんと私と同じ魔法薬学科に進学し
たのだ。
人生何が起こるか分からない。
﹁うん。卒業したら、薬屋開いてバリバリ働くわ。その時はオクト
ちゃんも薬を売りに来てね。あ、アユムちゃん、アスタリスク魔術
師、こんにちは﹂
﹁こんにちはー﹂
﹁こんにちは﹂
アユムがちゃんと挨拶できたので、私は頭を撫ぜてやる。子供は
褒めての伸ばすべきだ。
﹁そうだ。ちょっと、オクトちゃん﹂
ミウはグイッと私を引っ張ると耳元で囁いた。
﹁アスタリスク魔術師、記憶が戻ったって本当?﹂
﹁⋮⋮分からない﹂
私は力なく首を横に振った。
865
アリス先輩に言われてから、さらに数カ月たったが、相変わらず
アスタの真意が見えない。それに、もしも思いだしているとしたら、
どうしてそれを言ってこないんだという話になる。記憶があるなら、
何かリアクションがありそうだ。
かといって、私から聞くのは藪蛇な気がして、ずっと宙ぶらりん
な状態で保留していた。
﹁ふーん。でも親子じゃないんなら大変じゃない?﹂
﹁何が?﹂
一緒に暮らす事を指しているなら、たぶん親子でも大変な気がす
る。色々アスタなりに考えてはいるのだろうけれど、思考回路が一
般と少し違うからか、行動が突飛に感じるのだ。
﹁だって、アスタリスク魔術師カッコいいし。1日中、あのイケメ
ンと一緒にいるんでしょ?﹂
﹁うん。そうだけど?⋮⋮えっ。もしかしてミウ、アスタの事が︱
︱﹂
﹁あ、それは無理。私はオクトちゃんと違って束縛大好きな魔族タ
イプは好みじゃないから。それにあのヒト、すでにオクトちゃん大
好きオーラが出ているし﹂
無理ってなんだ。それに私と違ってって。というか、私大好きオ
ーラなんてもの、私には見えないから。
ツッコミどころ満載のミウの言葉にげっそりする。
﹁⋮⋮アスタはたぶん子供が好きなんだと思う﹂
アスタは私だけでなく、アユムの事もとても可愛がってくれてい
る。まあ、アユムは皆から可愛がられているのであれだけど。
それにアスタは私の事が好きというよりも、おもちゃか何かと勘
違いしているに違いない。たまに、猫がネズミをイタぶるかのよう
に接してみたり、猫かわいがりしてみたりと実に気紛れだ。
﹁ならいいんだけど。今日はやっぱり彼氏と一緒にいるの?﹂
866
﹁カレシ?﹂
カレシさん?誰それ?
﹁ほら、ライ先輩の事だってば﹂
あっ。
ああっ?!
咄嗟に付きあっています発言したのは、半年ほど前の事。その後、
再び仕事で遠くに出掛けてしまたライとは実は全然連絡をとってい
なかったりする。
今更だが、アスタはライとの関係をどう思っているのだろう。も
しかして、自然消滅的な?⋮⋮でも、現状を考えるとそう思われて
も仕方がない。
﹁ほらほら。噂をすればっ!﹂
ミウが向けた視線の先には、ライがいた。ライもこちらに気がつ
いたようで、笑顔で手を振る。しかしその顔色は徐々に蒼白になり、
顔が引きつったのが遠目で見ても良く分かった。
﹁ほら、行ってきなよ!﹂
ぽんとミウに押されて、私はつんのめるようにライの方へ進んだ。
﹁あー⋮⋮久しぶり﹂
﹁お、おう﹂
何ともぎこちない挨拶だ。しかし久々に会ったから照れているわ
けではないし、音信不通だったから気まずいわけでもない。私もラ
イも背後にいるアスタが何故か怖くて上手く喋れないのだ。
﹁と、とりあえず、馬子にも衣装だな﹂
﹁どうも。ライはいつもの変装の一環っぽいね﹂
﹁一応俺は貴族なんだから、これが正装だっつーの﹂
それもそうか。
ライは第二王子であるカミュの乳兄弟という立場だ。あまり貴族
867
っぽくないので忘れそうになるが、ただの海賊やメイド、傭兵では
ない。
ライと話していると、グイッと後ろから抱きしめられるように引
っ張られた。
﹁よう。恩師にあいさつもなしとはいい度胸だな﹂
頭の上からするアスタの声は低い。顔は見えないが、とても不機
嫌そうだ。
﹁い、いや。今挨拶しようと思ったんだって。でもオクトがいつも
と違って可愛い衣装を着てるから⋮⋮﹂
﹁オクトは衣装が可愛いんじゃなくて、全部可愛いんだよ﹂
ただし、性格を除く。
そんな言葉を私は心の中で付け加えた。
﹁それで、全然連絡をオクトにしてこなかったのに、今更何の用な
のかな?﹂
﹁﹁うっ﹂﹂
私とライが同時に呻いた。
流石アスタ。痛い所と何のためらいもなくついてくる。普通付き
あっている子がいたなら、その辺りはプライバシーだから関わって
こないはずなのに。そういうのは本人同士の自由のはずだ。
﹁ほ、ほら。アスタ。ライも忙しいんだし﹂
仕事中毒者なライは、とにかく忙しい。全国津々浦々、今も飛び
回っている。今日だってヘキサ兄はライにとっても恩師だけど、ち
ゃんと式に出席するとは思わなかった。
﹁へえ。オクトより仕事の方が大事なんだ﹂
何その、彼女のセリフ。私と仕事どっちが大事なの?的な。
いやいや、仕事ないとお金がないから生活できないんだよと私は
思ってしまうタイプなのでその質問はどうかと思う。まあ価値感は
868
色々なので何とも言えないが。それでも一つ言えるのは、それはア
スタが使うセリフではない。
﹁勿論オクトの方が大切に決まって︱︱﹂
﹁ふーん﹂
アスタと話すライの顔色はとてもよろしくない。
助けてあげたいところだが、どうしたらいいのか。今更ウソでし
たごめんなさいとも言えない。かといって、今別れましたというの
も、何だか危険な気がする。
﹁オクトちゃん!いいところに居たわ!﹂
どうしようとおろおろしていると、突然純白のドレスに身を包ん
だ花嫁が、スカートをたくしあげてもうダッシュしてきた。
⋮⋮へ?
﹁アリス先輩?﹂
ウエディングドレス姿のアリス先輩はとてもきれいだ。とてもき
れいだが、もうダッシュして来られると、びくっとなる。
﹁アスタリスク魔術師、ちょっとオクトちゃんを借りますっ!﹂
強い力で腕を掴まれて、私はアリス先輩に引っ張られるまま走り
だした。
﹁ど、どうしたんですか?﹂
歩幅が違うため、少しでも速度を緩めたら転びそうだ。ウエディ
ングドレスで良く走れるものだと感心する。でもそれぐらいアリス
先輩は何か切羽詰まっているのだろう。
私の運動能力では、話している余裕はあまりない。しかしこのま
までは何が何だか分からなかった。
﹁実は、私の伯父が毒を盛られたみたいなのっ!﹂
869
何ですと?!
870
40−3話
先輩の足がようやく止まった時、私は息切れでその場にしゃがみ
こんだ。
酸欠で苦しくて、肩で息をするが足りない。目の奥がチカチカし
て痛くて、ギュッと目を閉じる。
﹁ここにも病人がおるんか。ほれ、大丈夫かね﹂
ポンと背中を叩かれ、私はゆっくりと顔を上げた。
﹁あっ⋮⋮﹂
﹁なんだ。お前さんか。どうしたんだ?﹂
そこに居たのは、館長の主治医だった先生だった。最後にあった
時よりも、若干白髪が増えた気がするが、あまり変わりない。とり
あえず、初老に差し掛かっているはずなのに、私より体力があるの
は間違いないだろう。
﹁中庭からちょっとここまで走ってきただけなんですけど。オクト
ちゃん、どんどん体力落ちているわね﹂
言われなくても分かっています。
自分でも少しは危機感を持っている。しかしどうしたら体力がつ
くのかさっぱり分からない。
﹁お前さんの伯父は大丈夫だ。血圧が下がり過ぎておったから、今
は横にしてあるが、直によくなるだろ﹂
⋮⋮血圧?
あれ?毒とか、物騒な事言ってませんでしたっけ?
でも解決したならいいか。折角の晴れの席なのに、毒殺だなんて
あんまりだ。というか、先生がいなかったら、私がその対処をする
事になったのだろうか。
871
﹁先輩⋮⋮私、医者じゃないですから﹂
若干医者のまねごとのような事もしなくはないが、専門ではない。
私は○○に効く薬というものを作るだけで、そのヒトの病態の原因
を調べるのには特化していない。
先生もたぶん結婚式に呼ばれたからここにだろうが、本当にいて
くれて良かった。
﹁あら?当たり前でしょ?オクトちゃんは、薬師なんだし﹂
おや?
先輩にあっさりと肯定されて私は首を傾げた。
⋮⋮医者として呼ばれたんじゃないんだ。でも確かに、私は伯爵
家のお抱え医師として扱われた事は一度としてない。勘違いしてい
るのは、村のヒトくらいだ。
では何で、私は走ってここまで来たのだろうか。
アリス先輩が心細かったから?いやいやいや。ウエディング姿で
爆走してくる先輩が、そんなやわな神経をしているとも思えない。
それに普通頼るなら後輩じゃなくて、自分の旦那様だろう。
﹁とにかく、ここでは何だ。何処か椅子に座らんかね﹂
﹁そうですね。じゃあオクトちゃん、こっちに来て﹂
アリス先輩に引っ張り起こしてもらい、私はフラフラとした足取
りで部屋の中に入った。⋮⋮あれ?ここは︱︱。
﹁せんぱ︱︱﹂
﹁しー﹂
先輩は口元に人差し指を立てるとウインクした。
何が何だか分からない。
先輩と一緒に入った部屋は、使用人が待機する部屋だ。だから普
通は、客人である私達が入る事はない。
先輩に促されるままに椅子に座った私は首を傾げる。すると先輩
872
は紙にさらさらっと何かを書き、私に差し出した。
﹃この部屋の音を外に漏らさないようにできるかしら﹄
⋮⋮何で?
意味が分からない。分からないが⋮⋮とりあえず、何かわけがあ
るのだろう。音は空気の振動でできている。音を漏らさないとなる
と、空気を動かさないようにすればいい。
ただ全く動かないと今後は自分たちも会話ができなくなる。とな
ると、ある一定区間の空気の振動を止めてしまえばいいのだろう。
風属性だけでできそうなので、さほど難しくはないが、範囲指定
が面倒なので、流石に紙に魔方陣を描かないと使えない。それなら。
﹁風の精霊﹂
私が小さく精霊を呼ぶと、室内の空気が動いた。
﹁この部屋の中の声を、私がいいと言うまで外に漏らさないように
して﹂
少しだけ体がだるくなったが、この程度なら問題ない。むしろさ
っき走った時の方が死にそうだった。
﹁⋮⋮精霊魔法って、改めてみると凄いわね﹂
﹁そうですね。でも精霊が分かるように細かく指定しないと、上手
くいかないみたいです﹂
精霊は私が考えている事を酌みとって魔法を使っているいるわけ
ではない。命令した事に対して、正確にそれを実行してくれている
のだ。
なので説明が下手だったり、精霊自身もどうやっていいのか分か
らない事だと魔法は発動しない。例えば怪我を治せという命令は無
効だけど、傷口から血が出てこないようにしてという命令なら有効
という具合だ。
しかし人体に使う場合は、かなり慎重に行った方がいいだろう。
傷から血が出てこないようにしただけのはずが、血液の流れすら止
めてしまう事もありうるからだ。
873
アスタの時は、まさに運が良かったとしかいえない。そんなギャ
ンブル、もう二度とごめんだ。
﹁あら?でも外の声も聞こえなくなってしまうのね﹂
﹁まあ。精霊も、部屋と部屋の間の空気が振動しないようにしたん
でしょうし﹂
向こう側の音だけ聞こうと思うと、空気の振動を中継しなければ
いけなくなる。できなくはないだろうが⋮⋮面倒そうだ。
しかし、もしかしたらアリス先輩は隣の部屋の声を盗み聞きしよ
うと思ってこの部屋を選んだのだろうか。
﹁盗み聞きなど後でもいいだろ。体調が悪いモノに、あまり魔法を
使わせるな﹂
﹁それもそうね。オクトちゃんには、先に色々伝えておきたいし﹂
先生の言葉にアリス先輩はあっさり納得する。案外先輩自身、盗
み聞きは後回しでいいと思っていたのだろう。というか、やっぱり
盗み聞きする気だったんだ。
うん。面倒な事になりそうな予感しかしない。
﹁先輩。聞かないという選択肢は⋮⋮﹂
﹁何?義姉の言う事が聞けないというの?﹂
﹁いや、義姉って。私、ヘキサ兄とはただの教師と教え子の間柄で
すけど⋮⋮﹂
﹁それ、ヘキサの前で言える?﹂
⋮⋮卑怯だ。
たぶんそれを言ったら、ヘキサ兄の冷たい眼差し付きの説教が開
始してしまう。ヘキサ兄は、今でも私の事を妹のようにあつかう。
でも書類上、私は間違った事を言っているつもりはないんだけど⋮
⋮ヘキサ兄に勝てる気がしない。
﹁いえ。それで、何があったんですか?﹂
﹁さっき伯父が倒れた事は聞いたわよね。実は伯父がタイミングよ
874
く、飲み物飲んでから倒れてしまったのよ。それで今、隣の部屋で
は毒を入れられたんじゃないかって騒ぎになっているわけ﹂
うわぁ。それはタイミングが悪い。
もしかしたら偶然かもしれないのに、隣では、犯人探しが始まっ
ているというわけか。いや、でも実際の所どうなんだろう。
私は先輩の伯父を処置した先生を見た。毒かどうかは、先生が一
番良く分かっているんじゃないだろうか。
﹁まあ、すぐに死ぬ劇薬ではなかったのは確かだな。急激な低血圧
で倒れたようだ﹂
﹁伯父は血圧を下げる薬を飲むぐらい、血圧が高かったのよね。だ
から突然低血圧で倒れるなんて、皆おかしいと言っているわけ。そ
れでオクトちゃんには、犯人探しを頼みたいのよね﹂
なるほど。
﹁って、何で私何ですか﹂
﹁ほら、オクトちゃんは賢者様って呼ばれているし﹂
﹁それ、理由になりませんから。⋮⋮それに普通に薬の飲む量を間
違えたんじゃ﹂
毒殺より、そっちの方が可能性が凄く高い気がする。血圧の薬は、
飲み方を間違えたらとても危険な薬だ。用法用量を守っても、必ず
大丈夫とは言えない。
それにどうして、わざわざ結婚式というタイミングで殺人事件を
起こす必要があると言うのか。もしも、たまたま殺そうとしたら結
婚式でした、てへぺろなんていう犯人だったらマジで空気を読めと
説教してやりたい。
﹁でも今までこんな事なかったし。それに伯父って、殺されそうに
なる心当たり多すぎるから嫌になるわ。後、私とヘキサの結婚を良
しとしないヒトも多いだろうし﹂
﹁えっ。そうなんですか?﹂
875
幸せな家族だと思ったのに、まさかの言葉に私はぎょっとする。
でも結婚はヘキサ兄の親であるアスタは賛成してるし、アスタの親
もあまりとやかく言うタイプには見えない。
⋮⋮まさか私がヘキサ兄の周りにいる所為で、アリス先輩の親族
が反対しているとかだったらどうしよう。
﹁何でオクトちゃんがそんな不安そうな顔をしているの?﹂
﹁えっ。いや⋮⋮その﹂
﹁先に言っておくけど、原因はうちよ﹂
そう言って、アリス先輩は苦笑した。
﹁一応私は貴族だけど、成金系なのよね﹂
﹁成金?﹂
﹁つまりは、お金で爵位を買ったって事。結構私が本物の貴族と結
婚する事が気にくわないヒトって多いのよ。でもって、今回倒れた
伯父は、商人として成功していてね。お金を荒稼ぎした分、恨みも
しっかり買っちゃってるのよね﹂
そうだったのか。
ただのお嬢様にしては度胸があるなぁとは思っていたが、商人出
身だったとは。
﹁まあそんなわけで、皆、今回の事は殺人未遂事件だと思っている
わけ。このままじゃ結婚式どころじゃないわね。多分今頃、隣で伯
父にジュースを渡したメイドが詰問されているだろうし﹂
﹁ちょっ。でもそれ、ここのメイドですよね?﹂
伯爵家のメイドさんには小さい時にお世話になっている。なので、
無実の罪で詰問されるとか、ちょっと止めてもらいたい。
﹁そうよ。とりあえず、新入りのメイドではないようだったわ。だ
から買収されたんじゃないかとか、そっちの方面で聞かれているの﹂
隣の部屋で一体どんな取り調べがされているのか。
故郷の母ちゃんが泣いてるぞとか、かつ丼食うか的な優しい感じ
876
ならいいが、もしもきつい取り調べを受けていたらと思うと居ても
立っても居られない気分になる。
一体誰がそんな目にあっているのだろう。
﹁で、でも。待って下さい。そのジュースは本当にメイドが渡した
んですか?﹂
どういう状況だったのかは分からないが、少なくとも自分が犯人
ですと分かるような事するだろうか?買収されたからって、目の前
でヒトを殺すとか、普通に考えてない。どんな推理小説だって、突
発的な犯行でない限り、アリバイ工作とかそういう事をするはずだ。
﹁そこなのよね。伯父はメイドがお盆に載せていたジュースを勝手
に飲んだらしいし。でも、無差別って事もありうるじゃない?﹂
﹁⋮⋮それ、メイドにどんな利点があるんですか?﹂
メイドが持っていたジュースでヒトが死んだら真っ先に疑われる
だろう。それに、そのジュースをもしも伯爵家のヒトが飲んでいた
ら、最悪自分の職までなくしかねない。
﹁んー。ほら、まあ。結婚式は普通中止になるわよね。それにそん
なあからさまだったら、逆に犯人と疑われにくいとか?﹂
﹁また行う事だってできるのに、たった一回中止するだけに人生棒
にふるとは思えないです。それに現在進行形で疑われています﹂
どんだけ楽観視したらそんな結論にたどり着いて、飲みモノに毒
を入れられるというのか。
﹁でも、なら伯父はなんで倒れたの?毒ではなかったとしても、伯
父が飲む血圧を下げる薬がジュースに混ぜられていたと思わない?
先生もそう思うでしょ﹂
﹁まあな。かなり血圧が低かったから、何か要因はありそうだ﹂
何でかぁ。
それを言われると困る。確かに血圧がいつも以上に下がったとし
877
たら、普通に考えて薬の飲みすぎだ。でもアリス先輩の話を信じる
なら、当の本人はいつも飲んでいる薬だから、飲み間違えなどは起
こさないはず。
﹁でも、薬が混ざっていたら流石に味で分かるんじゃ。なんて言う
名前の薬なんです?﹂
薬なんて大抵が苦い。
普通混ざっていたら、一口飲んで違和感を感じそうなものだ。
﹁金の大地から輸入している、最新薬としか聞いていないのよね。
あ、でもジュースはたぶん薬を混ぜられても分かりにくいと思うわ。
グーレープフルーツのジュースだったから、結構苦みもあるのよね﹂
⋮⋮へ?グレープフルーツ?
先輩から告げられた単語を聞いた瞬間、ぽんと一つの結論が浮ん
だ。
血圧を下げる薬に、グレープフルーツ。その2つの単語が、私の
前世の知識を刺激した。飲んでいた薬がどのようなものか知らない
ので、絶対とは言えないが、可能性は高い気がする。
﹁先輩⋮⋮。謎は全て解けました﹂
﹁えっ。犯人が分かったの?﹂
いやいや。私、容疑者すら知らないんですけど。容疑者も知らず
に犯人を当てるとか、何、その無理ゲー。
﹁いえ、あの⋮⋮犯人はこの中にいませんから﹂
﹁私と先生はアリバイがあるし、そうよね﹂
﹁⋮⋮そうではなくて、結論を言ってしまえば、犯人なんていない
んです﹂
私は天然ボケをかますアリス先輩に苦笑いを向けた。案外先輩も
テンパっているのかもしれない。まあ、普通に考えて結婚式で殺人
事件なんか起きたら、テンパるに決まっている。
878
﹁つまりどういう事だ?﹂
﹁えっと、できれば先生の方で薬の確認をしていただきたいんです
けど﹂
そう前置きをして、私は息を吐いた。どうにもヒトから注目され
るのは慣れていないので、先輩と先生に見つめられると息苦しくな
る。世の中の名探偵はかなり目立ちたがりやなんだなぁと思う。
私はこういう役は向いていなさそうなので、さっさと暴露してお
こう。 ﹁あえて犯人という名前をつけるなら、それは伯父さんが飲んだグ
レープフルーツジュースです﹂
879
41−1話 道しるべな手紙
﹁カクカクシカシカというわけだから、これは殺人事件じゃないわ
!﹂
アリス先輩が晴れやかな顔で宣言した。うん。とっても清々しく
て眩しいぐらいだ。⋮⋮でもさ。
﹁そうか。カクカクウマウマという事なんだね⋮⋮っと言いたいと
ころだけど。アリス。流石に何の説明もなしでは僕も分からないよ
∼﹂
ウマウマって、ノリがいいですね。
アリス先輩の伯父さんは、想像していたよりもずっと若かった。
アリス先輩より少しだけ年上っぽいが、見た目は同い年ぐらいだ。
きっと魔力持ちだからだろうけど⋮⋮命を狙われるような凄腕商人
にはとても見えない。
﹁だって、オクトちゃんの説明、難しいんだもの。とりあえず、グ
レープフルーツと血圧を下げる薬は一緒に飲んじゃいけないそうよ。
伯父さん、ジュースで薬を飲んだでしょ﹂
﹁いやぁ。だって、朝早いからさ。朝ご飯食べる暇もなかったしさ
∼﹂
ゆるい。
限りなくゆるい。
あれ?殺人事件がどうのって言ってなかったっけ?もしかしたら
この部屋には、アリス先輩の親族が伯父さんしかいないからかもし
れないが⋮⋮でも、どうなんだろう。
﹁⋮⋮薬を飲む時は、何か食べる事をお勧めします。胃を痛めます
880
ので﹂
ゆるゆるな空気に耐えられなくて、私はボソりと付け加えた。深
刻になれとはいわないが、そんな﹃あははっ﹄と笑われても困る。
私はアリス先輩の説明を隣で聞いて、説明が大変そうな時に少し
補助ができればいいかと思って付いてきたはずなのだが⋮⋮。そも
そもの説明がなかった。
現状を見る限り、アリス先輩は名探偵に向いていない。たぶん推
理小説はストーリーを楽しむものだと思っていて、トリックとかへ
ーで済ましてしまうタイプだ。⋮⋮まあ、私もヒトの事は言えない
んだけど。
﹁ああ、オクトちゃんだったけ。今日は式に来てくれてありがとね
∼﹂
﹁いえ﹂
でも貴方の所為で、半ばぶち壊れぎみですけどね。
ありがとうと言われても、この状況でおめでとうございますと言
っていいものなのだろうか。
殺人事件だのなんだのと騒いでいる親族の方々には、現在、先生
の方から薬と病気について説明してもらっているところだ。新薬だ
ったので本当に私の考えが正しいかどうかの裏付けは取れなかった
が、先生は信じてくれた。もちろん後日、ちゃんと問い合わせはす
る予定だ。
それでも先生が説明すれば、例え嘘だったとしても信憑性がある。
でもこれで納得しなかったら、本当に結婚式がぶち壊しだ。現状を
考えると、あんまり楽観している場合じゃないとは思う。
とはいえ、ここでジタバタしても仕方がないのだけど。
﹁そうだ。折角だから僕にも薬について教えてくれないかな?流石
に暗殺騒ぎのまま、結婚式というのもアレだし。まあ、忘れられな
い結婚式にはなるだろうけどさぁ﹂
881
﹁本当よね﹂
いやいや。本当よねじゃない。
アリス先輩が隣で、笑っているが、笑っている場合じゃないと思
う。
たしかに忘れられない結婚式になるが、忘れられないの意味が、
一般から大きくずれている。そしてそんな思い出嫌だ。
ヘキサ兄が現在花嫁の隣にいないのも、騒ぎが広がらないように
する為だろうし。⋮⋮ヘキサ兄、色んな意味で頑張れ。
﹁新薬なので、私の知識が正しいとは限りませんが、原因は薬と一
緒に飲まれたグレープフルーツにあると思います﹂
﹁へぇ。グレープフルーツは毒でも薬でもないのにね∼。何?もし
かして、オレンジジュースとか、レモン水とかも駄目なのかな?さ
っぱりするから好きなんだけどな∼﹂
軽いなぁ。
正直、好奇心旺盛なんですという目で見られても困る。⋮⋮ヘキ
サ兄、今後親族となる、このヒトのノリについていけるだろうか。
一抹の不安が頭をよぎるが、ヘキサ兄は伯父さんと結婚するので
はなく、アリス先輩と結婚するのだ。この伯父さんはおまけ。たぶ
ん大丈夫⋮⋮な気がする。
﹁酸っぱいから血圧が下がるというわけではありませんから。アリ
ス先輩の伯父さんが飲んだ、カルシウム拮抗剤という種類の血圧降
下剤は、グレープフルーツに含まれる、フラボノイドと相性が悪く
︱︱﹂
﹁あ、本当だ。アリスが言う様に、全然分かんないね﹂
まだ説明し始めたばかりなのに、ズバッと言われて私は肩を落と
した。
いや、うん。私も専門用語が入っていて難しいとは思ったよ。で
も私の頭の中に入っている知識も、教科書を丸暗記したようなもの
882
しか入っていなくて、上手く噛み砕いて説明ができないのだ。たぶ
ん、前世のヒトもこの辺りの知識は誰かに説明する為として覚えた
のではないのだろう。
日本なら、血圧の薬を飲む時はグレープフルーツを食べないで下
さいねでいいわけだし。
﹁⋮⋮とりあえず、柑橘類の中にはグレープフルーツと同じような
効果がでるものもありますが、オレンジやレモンは問題ありません﹂
﹁でも凄いね。新薬だっていって、商人からわけてもらったものな
のに。もうそんな情報を持っているんだ。流石賢者様だね﹂
まあ、そりゃ、過去の文明の知識を拝借するという裏技だし。確
かに凄いには凄いのだろうけど、手放しでほめられると、自分自身
が努力して知ったわけではないので、少し罪悪感を感じる。
﹁他にもこういう、食べ物と関係する薬はあるのかい?﹂
﹁まあ⋮⋮一応﹂
この世界にあるかどうか分からないが、ワーファリンカリウムも
食事と薬が密接に関係する事で有名ではないだろうか。ただこの薬
は納豆と相性が悪いという事が有名なので、あまりこの国のヒトに
は関係ないだろうけど。でもこのファーファリンは、ビタミンKじ
ゃなくて、カリウムが原因だと混同されやすいので、良くテストに
出るんだよなぁ。
⋮⋮ん?テスト?
テスト⋮⋮テスト⋮⋮はて?何のテストでそんな事を聞くという
のか︱︱。
﹁凄いね、君っ!﹂
上手く説明できない引っかかりを追いかけていると、突然手を握
られた。
﹁アリスからオクトちゃんが薬師だとは聞いているよ。是非、ウチ
883
の商会と取引してくれないか?﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁普通の薬より、賢者が作った薬と銘打って売った方が高く売れる
し!僕と、この薬業界を切り開いていこうよ!﹂
⋮⋮えーっと。
状況に頭が追いつかず、私は首を傾げた。取引って、もしかして、
私が作った薬を買ってくれると言っているのだろうか?
えっ。マジで?!
海賊に邪魔されて、数年。私が薬を売れるのは、伯爵家と海賊の
みだった。それが別の店で売れるなんて。もしかしてこれは、ビッ
クチャンス到来というやつだろうか。
﹁えっ、買って頂けるんですか?﹂
﹁勿論だとも。大歓迎さ!﹂
あー⋮⋮でも。もしかしたら、海賊に邪魔されるかもしれないし
なぁ。アリス先輩の親族だと考えると、迷惑をかけるのも気が引け
る。さて、どうするべきか。
チャンスの女神は前髪しかないと聞いた事はあるが⋮⋮その恋人
が不幸の大魔王だと困る。
﹁オクトッ?!﹂
手を握られたまま、どうしようか迷っていると、突然私の名前を
呼ばれた。
﹁中々、戻ってこないと思えばっ!﹂
突然ドアから駆けこむように部屋に入ってきたアスタはそのまま
私達の方へ近づいてきた。そして手とうで私とアリス先輩の伯父さ
んの手を引き離すと、自分の方へ抱き寄せる。
⋮⋮えっと、何してるんですか、アスタさん。
﹁えっ。アスタリスク魔術師?!﹂
﹁きゃぁっ、オクトちゃんっ!﹂
884
先輩とミウの声が何処か楽しそうに叫ぶが、私は全く楽しくなか
った。状況が理解できないというか、理解したくないというか。
﹁なんでオクトの手を気安く触っているのかな?﹂
﹁えっ?触りたかったからだけど?﹂
アスタの声は低く、不機嫌さを隠そうともしていない。対して伯
父さんはいたって普通というか、飄々としている。このままではア
スタの不機嫌さに拍車がかかりそうな様子に、私は青ざめた。
怖くてアスタの顔を見る事ができない。
﹁ライ先輩、頑張ってっ!﹂
﹁ちょ。なんて事言うんだ﹂
ミウに応援されたライが慌てたように首を横に振った。
うん。分かっている。流石に私も、この不機嫌アスタの相手をし
ろなんて鬼な事は言えない。
大丈夫だよ。
そういう意味で私はライに向けて、苦く笑った。⋮⋮本当は大丈
夫じゃないけど。でも頑張れ私。負けるな私。
今までだってこういう事は良くあったじゃないか。
﹁あー⋮⋮もうっ!オクト行くぞっ!!﹂
﹁へ?﹂
人身御供の気持ちで、無心になろうとしていると、突然腕を掴ま
れた。そしてそのまま走りだす。
﹁ライ?﹂
ライは私の腕を掴んだまま無言で突き進んだ。
そして部屋から結構離れた場所で、足を止めると手を離した。
﹁オクト。⋮⋮マジで、後でちゃんとフォローしろよ。このままじ
ゃ、俺は殺される﹂
885
青ざめながら話すライの言葉を、私は笑う事もできず頷いた。
今の状況を考えるとアスタは私が思っている以上に、独占欲が強
いようだ。結構アスタは子供っぽいところもあるし、きっと大切な
おもちゃをとられまいとする心理と同じなんだろう。
でもアスタは子供じゃないので、判断を誤ったら、今度こそ本当
に殺人事件が起きかねない。
﹁別にあのままでも大丈夫だよ﹂
冷汗はダラダラ出るが、たぶん何とかなったと思う。むしろ逃げ
出してしまうと、ライがかなり危険じゃないだろうか。
﹁あのな。友達がそんな顔してたら、流石に心配になるってーの﹂
そう言ってライは私の頭をデコピンした。そんな顔って、どんな
顔をしていたのだろう。
﹁オクト自身、どうしていいのか分からないんだろうけどさ。師匠
は強引だから、ただ流されるだけだと、言いたい事も言えなくなる
ぞ﹂
﹁ははは﹂
すでにかなり流されてここまで来てしまったけどね。
山奥で1人で暮らす計画は、粉々に砕け散ったような現状だ。し
かもアスタの為に袂を分けたはずなのに、いつの間にか再び同居。
これが流されていないといったら、何が流されているという事にな
るのか。
﹁オクトが楽しいなら、師匠とこのまま一緒に暮らしたっていいん
だけどさ。あの空気の師匠は確かに怖いけど、師匠の事が嫌いって
事はないだろ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
アスタとの暮らしは⋮⋮正直に認めるなら、楽しいと思う。私も
アスタの事は嫌いではなく好きだし、ファザコンな自覚もある。そ
れにアスタとアユムの三人で暮らすというのは、それほど気兼ねし
886
ない。
でもこの暮らしは楽しいのと同時に、どうしようもなく不安で怖
くて苦しくなるのだ。不安になるのは、私がアスタを不幸にしてし
まうのではないかという思いから。怖くなるのは、大きな幸せを感
じれば感じるほど、それを失ったときの反動が大きいから。
苦しくなるのは、たぶん︱︱。
﹁別にオクトが幸せになる事を否定する奴はいないと思うぞ﹂
鋭い。
ライは勉強できないはずなんだけどなぁ。
そう思うが、実際バレているのだから仕方がない。苦しいのは、
1人だけ幸せでいる罪悪感から。勿論、私が不幸にしてしまったあ
の2人が、そんな心の狭いヒトではない事は知っている。だから許
せずにいるのは、たぶん私自身だろう。
でも幸せを感じるのは、⋮⋮怖い。
﹁⋮⋮色々決着がついたら、また考える﹂
﹁決着って、いつつくんだよ﹂
﹁さあ﹂
一番の最短は、時の精霊と会えたらだが⋮⋮今の状態だと、いつ
になる事やらだ。それにそこで解決しない可能性もあるわけだし。
今は不安とか、色んな感情が混ぜこぜになっていて、正直どうし
ていいのか分からない。考え出すととにかく面倒だ。
﹁お前なあ﹂
﹁でも、仕方ない﹂
私は器用な性格ではない。考え込んだ所で、簡単に結論が出せる
とは思えなかった。となれば、問題を先送りしておくしかない。
﹁それに問題を先送りしておく間に、アスタが私に飽きるかもしれ
ない。もしくは、誰かと結婚するかも﹂
887
そうすれば、自然に問題解決。万々歳だ。
﹁いや。あの師匠だぞ。それはいくらなんでも楽観視しすぎだろ﹂
﹁でも可能性はないわけではないし﹂
私のこんがらがった状態を解決させるより、全然早い気がする。
目指せ、アスタの奥さんゲット計画だ。
﹁おお。ここにいたのか﹂
廊下で立ち話をしていると、奥から先生がやってきた。どうやら、
無事親族への説明は終わったようだ。晴れ晴れとした様子なので、
説得は成功したのうだろう。
﹁あの。説明、ありがとうございます﹂
﹁本当だ。面倒な方を押し付けよって﹂
先生の言葉に、私はへらっと笑って誤魔化しておく。でも見た目
が子供な私が説明するより、先生の言葉の方が確実に聞いてもらえ
ると思ったのだから仕方がない。何事も適材適所だ。
﹁まあ、それはいいが。体調はもう大丈夫なのか?﹂
﹁えっ、オクト。体調悪かったのか?!﹂
先生の言葉にライが驚く。でもそんなに驚かれると、少し恥ずか
しい。
﹁ええ。まあ。ただの運動不足ですから。休めば多少は⋮⋮﹂
いつも通りに体力がないというだけの話だ。少し走っただけで死
にそうになるとか、まるで老人である。
今も少しくらくらするが、立っていられるし、さっきよりは辛く
はない。
しかし私の言葉に反して、先生の表情は浮かないものだった。何
処か真剣な様子で、私を見据える。⋮⋮マジマジと見られると、や
ましい事などないはずなのに不安になり、私はそっと視線をはずし
た。
一体、何なんだろう。
888
しばらく無言が続いた後、先生は小さく息を吐いた。そして︱︱。
﹁医師として言わせてもらうが、このままだと死ぬぞ﹂
︱︱とても残酷な、それでいて心のどこかでああやっぱりと思う
宣告をした。
889
41−2話
﹁まあ、そもそも今生きとるのも不思議なぐらいなんだがな﹂
﹁はぁ﹂
﹁⋮⋮って、お前。もっと驚けよっ!﹂
死の宣告を受けた私よりも、ライの方が凄く切羽詰まったような
表情をしていた。
と言われてもなぁ。自分でもこのままでは、長生きは無理だろう
なぁと思っていたくらいだ。先生に私が生きているのが不思議なく
らいといわれても、ですよねーと言うしかないというか。
﹁驚けっていわれても⋮⋮納得できるというか⋮⋮。やはり、精霊
と契約したからですか?﹂
昔から力などは獣人族よりも弱かったが、混融湖で精霊と契約し
たあたりから、徐々に体力の低下がみられるようになった気がする。
一般の子供のように外を走り回って遊んだりしていなかったから基
礎体力がないというのもあるかもしれないが、気を失ったりする事
が多いというのは、やはり異常だろう。
﹁魔法学校に通ったなら、よっぽどの事がない限り、ヒトに対して
魔法を使ってはいけないと習っただろう﹂
﹁はあ、まあ﹂
ヒトは魔力を常に生成して、体の中を血液のように循環させてい
るというのが通説だ。同じ属性の魔法ならあまり問題はないが、違
う属性の魔法だと、それぞれが反発し循環が悪くなる。多種類の属
性の持ち主は、この辺りがかなり絶妙のバランスをとっているから
生きていられるのだと言われる。
本来なら、アスタを助ける為にかけた魔法もタブーの域だ。もち
ろん、あの時は緊急事態だったので、使ったわけだが、できる事な
890
らもう二度とやりたくはない。
﹁精霊との契約は、いわば精霊から魔法をかけられているのと同じ
状態だ。体に不調を起こしてもおかしくない。先ほどは風の精霊を
操っていたようだが、一体、何種類の精霊と契約したんだ?﹂
先生は真剣な表情で聞いてくるが、これは素直に話すと怒られる
気がする。契約時はどうしようもない緊急事態だったしという言い
わけが心の中で渦巻くが、医者としてはそんな事情、知った事では
ないだろう。
﹁えっと⋮⋮風と⋮⋮水と⋮⋮後は︱︱﹂
﹁確か基本属性全部だったよな﹂
﹁何全部だと?!噂には聞いていたが、本当に全部なのか?﹂
私がもじもじと言い淀んでいると、その隣でライが暴露した。げ
っ。ヒトの個人情報勝手にばらすなっ!
そう思うがライはしれっとした様子なので、最初から私が誤魔化
してしまうと分かっていたようだ。⋮⋮本当は後もう一種類、時属
性の精霊と契約しているみたいだけど、こっちは黙っておこう。今
更、隠したところであまり意味がないかもしれないが。
﹁今すぐ解約しなさい﹂
﹁へ?﹂
﹁いくら混ぜモノといえども、それは詰め込み過ぎだ。お前さんは
あえて精霊魔法を使わねばならないわけでもないだろ﹂
まあ、そうなんですけどね。
便利は便利だが、私の生活で、そこまで急いで魔法を使うことな
どまずない。アリス先輩にお願いされた、隣の部屋に音が聞こえな
くする魔法だって、少し時間をもらえれば、十分魔方陣を組み立て
られる。
それでも、いまだに精霊との契約を解かないのには理由があった。
891
﹁あー⋮⋮その。実は⋮⋮解約条件を入れない契約を⋮⋮してしま
いまして⋮⋮﹂
﹁は?﹂
言いづらい。
完璧に自分のミスだと分かっているので、非常に言いづらい。自
業自得という言葉が脳裏で点滅する。
怒られるのはあまり好きじゃないんだけどなぁと思いながら、ち
らっと先生を見た。
﹁そもそも精霊魔法というのは、1体の精霊と契約を結んで、代わ
りに魔法を発動してもらうというものでして⋮⋮﹂
﹁あー、そういえばそうだったな﹂
同じく魔法学校に通っていたライが頷く。なんとか誤魔化して逃
げてしまいたいが、私の話術でそんな事ができるはずもない。
﹁私の場合⋮⋮その、緊急事態だったので⋮⋮不特定多数の精霊と
契約を結んでしまいまして﹂
﹁はあ?﹂
本来精霊魔法を習得しようとするモノは、あえて精霊に会いに行
って契約を結ぶ。しかし私の場合は、わらわらと周りに精霊が居た
為、そうする必要もなかった。だからざっくり、その場にいた精霊
達⋮⋮、そう、多種類で複数の精霊と契約したのだ。というか選ん
でいる余裕もなかったし。
﹁その上、契約時に、いつ契約を終了するかを伝えていなかったの
で。⋮⋮現在、誰に契約解除を求めればいいのかが⋮⋮その、さっ
ぱりといいますか⋮⋮﹂
﹁はあぁぁぁ?!﹂
ライ、凄くいいリアクションありがとう。
でも、やってしまったものは仕方がないと思うんだ。
契約した精霊も、いつも私の傍にいるわけじゃない。勿論呼びか
ければ来てくれるだろうが、誰が誰で、目の前にいるのが契約をし
892
た精霊なのか、そうではないのかも判別できなかった。しかも私の
目には、精霊が電飾に見えるわけで。個性の乏しい外見を見分ける
なんて不可能に近い。
﹁ぶっちゃけていえば⋮⋮無理です⋮⋮はい。あ、その。ごめんな
さいっ!﹂
誰からも聞かれなかったので、この失敗はたぶん私が死ぬまで胸
の内に秘める事になるだろうなと思っていたぐらいだ。精霊魔法に
ついて書かれた本を読めば、契約時に終了をいつにするか決めない
なんてありえないという事がすぐに分かる。
賢者、賢者と言われてはいるが、これでは愚者だ。まあでも、ざ
っくりと契約してしまうとこんな状態になるんだよという事は、世
界広しといえど、たぶん私しか知らないと思う。前向きに考えれば、
とても貴重な体験だ。デメリットの方が多すぎてあれだけど。
﹁俺らに謝っても仕方ないだろ﹂
深い溜息混じりに、ライは何処か諦めた様な顔で話しかけてきた。
﹁あー⋮⋮そうなんだけど。心配かけたかなと﹂
﹁当たり前だろ﹂
混ぜモノなんて、いない方がいい。
物ごころついた時からそう思ってきたので、心配してくれている
のかなと思っても、口に出して言うは、結構勇気がいる。思い上が
りも甚だしいと思われて、私自身を否定されるのは怖い。
でも言わないと分からない事もあるわけで⋮⋮。幸いにもライが
すぐに肯定してくれてほっとする。それと同時に、自分の認識を改
めていかないと不味いかなとも思う。
たぶん、私が死んだら悲しむヒトはいる。
何故心配するかと言えば、きっとそういう理由に繋がるからだと
思う。簡単には死にたくないとは思っていたが、大切なヒトが悲し
893
むのだと思うと、本当に簡単には死ねない。
あー。面倒だ。ツミかけ人生だというのに、ここからまた頑張ら
なければいけないだと?
勘弁して欲しい。
﹁病気については金の大地の医者の方が強いが、魔法に関してはあ
そこはまだまだだからな。かといって、こっちはこっちで、医学が
進んでいないしな﹂
﹁そうなんですか?﹂
確かに、この国の医学に関する知識レベルはさほど高くはないよ
うに思う。私は薬師だが、実を言えば血圧を下げる薬とか、作り方
とかさっぱりだ。前世知識のおかげで、グレープフルーツに思い至
る事ができたが、学校ではそんな事はならっていない。
壊血病や貧血なども、その知識は徐々に広まっているようだが、
まだまだ未知の領域だ。
﹁例えば金の大地だと、魔素中毒は未知の病気となっているとかだ
な﹂
﹁えっ?﹂
マジですか?
魔素中毒は普通に学校の教科書にも載っている内容だ。珍しい症
例ではあるが、学生だって知っている。それが未知の状態って⋮⋮。
﹁医学なら金、魔法なら緑なんだが⋮⋮お前さんの場合、どちらが
いいとも言えんからな﹂
﹁えっと、お互いの国で勉強会とかしないんですか?﹂
いや、この場合、国ではなくて、大地か。ちょっと規模が大きく
なるけど、隣どうしになっている国ぐらいならできそうな気がする。
﹁無理だろ﹂
しかし先生が答える前にライが否定した。無理って⋮⋮なんで?
この世界は幸いにして、龍玉語という共通言語がある。なので、
894
意思の疎通ができないとは思えない。
﹁本当に、⋮⋮社会が駄目なんだな﹂
うっ。
いいじゃん。社会ができなくたって、学校は卒業できたんだし。
そう思うが、ライに残念なヒトを見る様な目で見られるとちょっ
とへこむ。ライだって勉強ができない癖に。
﹁いいか。どうして俺らが、国名で話さずに○○の大地は︱︱って
話すと思っているんだよ﹂
あー⋮⋮確かに。ようは現在、ドイツの医療はすごいよねーと話
すのではなく、ヨーロッパの医療はすごいよねーと話しているよう
なものなのだ。確かにアバウトすぎる。でももしも、そうやって話
さざる他ないとすれば︱︱。
﹁もしかして、国が分からないとか?﹂
﹁そう言う事。神様の取り決めで、別の大地同士は不干渉でいると
決まっているんだ。一応、旅芸人とか、商人は行き来しているが、
国同士はつきあいがないな。だから、金の大地はどうだという話に
なるんだ﹂
⋮⋮神様には色々ルールがあるようだけど、そんなルールもあっ
たんだ。まあ何度も文明が滅んだらしいし、これも滅ばないための
対策なのかもしれない。
﹁でも学校には、別の大地のヒトがいるけど﹂
まあ、私の知り合いだと、赤の大地出身のミウぐらいしか知らな
いけれど。でもいないわけではない。
﹁俺らの学校が特殊なんだよ。普通はそんな学校はないな。オクト
も他の大地の学校は知らないだろ﹂
⋮⋮まあ調べていないというのもあるが、確かに他の大地の学校
とか、聞いた事がない。でも金の大地で医学が進歩しているという
ならば、絶対それを専門に学ぶ機関があると思う。
895
一子相伝とかでは無理だ。
﹁まあ、そういうわけだ。わしの方でも知り合いには聞いてみるが、
魔法関係ならお前さんの関係者の方がくわしいだろ﹂
⋮⋮うっ。ううっ。
先生が誰を指しているのか、すぐ分かってしまった。私の近くに
は、国一番の魔術師がいる。
分かってしまったが⋮⋮えっ、それは色々無茶ぶりというもので
しょう。
だって、もしも相談するとしたら、どうしてこんな事になってい
るかを説明しなければならないわけで。でもそれは、つまり混融湖
での事を話す事に繋がって。
﹁あ、あの。もう少し真面目に調べるから。だからお願いします。
この事は誰にも言わないで下さい!﹂
時の精霊を調べるのだけに現をぬかしたりしませんから。本当に、
マジで、頼みます。
心配させてしまうからとかという甘い理由ではなく、情けない事
だが⋮⋮保身の為に、私は2人に頭を下げた。 896
41−3話
精霊との契約解除方法を調べるとは言ったものの⋮⋮。
﹁⋮⋮時間がない﹂
気がつけば、私は多忙な日々を送っていた。
アリス先輩とヘキサ兄の結婚式も無事に終わり、季節は秋から冬
へと変わろうとしていた。
結婚式でアリス先輩の伯父さんに気に入られた私は、薬を伯父さん
の紹介で店屋に置いてもらえるようになった。もちろん魔の森の麓
を出る気はないので、王都で集中して仕事をしないかという誘いは
丁寧にお断りしている。それでも結果的に、生産ノルマは増えた。
最近は寒くなってきたことにより、アイスを作る量が減ったが、
材料集めからする薬を作る方が結構手間だったりする。
また私は図書館に通って蓄魔力装置のメンテナンスをしつつ、私
がいなくても何とかなるようにする方法を模索中だ。そして家では
家事をしたり、アユムの勉強を見てあげたりしなければならず、さ
らに時の精霊について調べたりしていたら⋮⋮はっきり言って何処
から時間を捻り出せというのか。
無理。
もう無理。
そう叫んでしまいたいが、叫んだら即終了。ライはきっと、アス
タに私の現状を言うだろう。もしくはライが誰かに相談して、それ
をアスタが何処からともなく聞きつけて︱︱。どう転んでも困った
事になるに違いない。
﹁よう。進んでいるか?﹂
897
﹁⋮⋮一応﹂
仕事部屋に入ってきたクロが私に話しかけてきた。
生産ノルマに追いつけなくなってきた私は、アスタが仕事でいな
い昼間は海賊にアユムを預けて、ここで薬作りをしている。といっ
ても器具がそろっているわけではないので、出来上がった薬のグラ
ムを量って1回分ずつに包んだり、ラベルを貼ったりするぐらいの
ものだけど。
これが終わったら、今度は食べ物の商品開発にあたらなければい
けない。冬はアイスが売れないからと、長期休暇するのも一つの手
だが、借り店舗を維持していくだけのお金は必要だ。何か売れるモ
ノがあるなら売った方がいい。
忙しすぎて目が回りそうだ。この生活いつまで続くんだろ。
﹁手伝うよ。時間がないんだろ?﹂
﹁えっ。大丈夫﹂
﹁いいから、いいから。俺って、結構器用だし﹂
時間がないは、そういう意味じゃなかったんだけどなぁ。
しかしクロは私の隣に座ると、紙の上に乗せた薬を器用に包んだ。
⋮⋮教えていないのに、流石である。そういえばクロは昔から器用
だった。
私のように前世知識というフライング技がないにも関わらず、あ
れこれできたんだよなぁと思いだす。今思うと、クロは神童と呼ば
れる類の子供だったのではないだろうか。
それが今では海賊⋮⋮犯罪者の一員だ。
﹁⋮⋮もったいない﹂
﹁は?﹂
﹁あ、いや。えっと。クロは、アルファさんが死んでから大変だっ
たんだろうなぁと︱︱﹂
自分自身海賊のお世話になっているのに、クロが海賊にいる事を
非難するのもおかしな話かと思い、誤魔化す。しかし誤魔化す為に
898
話した内容も悪かった。
口に出してしまってから、しまったなぁと苦い思いが残る。
クロだってアルファさんが死んだ時のことは思い出したくないだ
ろう。だから私は今まで、あえてその話は避けるようにしていた。
どうしよう。
怒っていたり、辛そうな顔はしていないだろうか。
そろりと横目でクロを見上げたが、クロは全く気にしたような様
子はなかった。むしろキョトンとしている。
﹁そうだな。楽ではなかったのは確かだよな。俺を引き取ってくれ
た爺さん、すっげー、怖かったし。でも、オクトだって、あの魔族
⋮⋮えっと、名前忘れたけど、ソイツにこき使われたんじゃないか
?﹂
﹁ああ。アスタの家で、家事はやったけど、私は怖くはなかった﹂
むしろ私をどれだけ甘やかして、ダメ人間にするつもりだと不安
になったくらいだ。
貴族の女の子なら働かなくても、何処かの貴族の坊ちゃんと結婚
すればいいが、私の場合そうもいかない。いくら貴族でも混ぜモノ
では、嫁のもらいてなんていないだろう。
勿論今は貴族でもなんでもない。なのであの時ちゃんと働く事が
できるように頑張って勉強しておいてよかったと本気で思う。そう
でなければ、今頃路頭に迷っていたはずだ。
﹁だからオクトはこんなに料理が上手いんだな﹂
﹁⋮⋮まあ、上手いかどうかは置いておいて、人並みにはできると
思う﹂
下手とは思っていないが、褒められると恥ずかしくなり、つい誤
魔化すように否定していまう。
﹁そうか?人並み以上だと思うけどな。俺も家事はやったけど、オ
クトほどレパートリーもないし﹂
899
あー、それはたぶん前世知識のおかげと、商店街の皆さんのおか
げだ。
小さい時に買うたびに色々教えてくれたので、この国の家庭料理
なども作る事ができる。そう思うと、色々私は恵まれていたのだろ
う。
﹁それに一座にいた時もさ、碌なもの食わせてもらえなかったし。
それはオクトも同じだろうけど﹂
﹁あー、確かに﹂
旨味を無視した薄味のスープとか、チーズをのせただけのパンと
か、堅い肉をトマトで煮込んでみたモノとか。あ、でもたまに粥と
か、異国っぽい料理も出てきた気がする。
今思うと、味付けのムラは⋮⋮たぶん大量調理する関係や、料理
するヒトがこの国のヒトではなかった事が原因だろう。団長は黄の
大地出身だし、そっちのヒトなら使いなれた調味料やらなんやらが
手に入らなかったり、食材の使い方が分からなくても理解はできる。
料理は当番制だったので、作るヒトがバラバラだったのも、原因の
一つかもしれない。
﹁でも、たまに無性にあの、大雑把な味が食べたくなる事もあるん
だよな﹂
私の場合、どうだろう。肯定しなければ何だか薄情な気がするが、
あまりその味が恋しくなることはない。もしかしたら、前世の知識
が関係しているのかもしれなとは思う。
前世の私にとってはきっと、和食とかの方が違和感のない味な気
がする。残念な事に、この国には味噌も醤油も存在しないので、一
度も食べた事はないが。
﹁そう言えば、オクトはファルファッラ商会にも薬を売るようにな
ったんだよな﹂
900
﹁あ、うん﹂
和食ってどんなのだったけと思いだそうとしていると、クロが話
題を変えてきた。
ファルファッラ商会は、アリス先輩の伯父さんがやっているもの
だ。確かにその伯父さんの口添えのおかげで薬を売る事ができるよ
うになったが⋮⋮。
﹁もしかして、何かマズイ?﹂
例えば海賊と商会⋮⋮仲が悪い可能性もある。その場合どうする
べきか。海賊は犯罪者。ならば手を切るのは常識的に考えたらそち
らという事になる。しかし長い間一緒に過ごしていると、彼らが悪
いヒトには見えなくなってくるのだ。
勿論私が知らない、後ろ暗い仕事もあるだろうし、そうやって思
うのは危険だとも思うけれど。
﹁いや。凄いと思っただけだ。自力であのファルファッラ商会との
パイプを作るなんてな﹂
﹁そう?﹂
確かに今のところ船長に邪魔される事なく販売できているので、
それに関しては凄い事だと思う。でもそれは私が凄いのではなく、
商会が凄いだけだ。
﹁あの商会、緑の大地外にも店を持っていて、昔俺がいた、ホンニ
帝国にも出店しているんだよ。異国の品が手に入るから、王族御用
達店も持っているみたいだし﹂
﹁へえ﹂
そんな凄い所だったんだ。
伯父さんは話した感じ、好奇心旺盛っぽいが、強かというより天
然が強く掴みどころのないヒトだった。もしかしたら、お腹の中身
が真っ黒な可能性も否定はできないが⋮⋮クロに言われてもあまり
ピンとこない。
﹁オクトはもう子供じゃないんだな﹂
901
﹁⋮⋮当たり前。私の事を何歳だと思ってるんだ﹂
しみじみとクロに言われて私はがっくりと肩を落とした。
10歳を超えれば、もう働き手の1人とカウントされる。いくら
成長が遅くて体が小さくても、クロとの年齢差が開いたわけではな
い。
﹁あ、そうだ。ちょっと待ってろ﹂
クロはぽんと手を打つと立ち上がり、部屋から出ていった。一体
なんだろう?
とりあえず、私はクロが出ていった後も薬を紙で包んでいく。し
ばらく1人で作業をしていると、クロは再び部屋に戻ってきた。
﹁オクト、これ﹂
﹁⋮⋮何?﹂
クロから封筒を手渡され、私は首を傾げた。クロからの手紙?
だったら口で言えばいいのに。しかし良く見たら、封筒はすでに
頭を破られていて、中身が簡単に取り出せるようになっていた。
﹁これ、オクトのママから母さんが預かったものなんだ。オクトが
大人になったら渡して欲しいって言われたって。あ、封筒がすでに
破れてるのは、俺の所為じゃないから。ノエルさんが読んでいいっ
て言ったから、母さんが中身を確認したんだ﹂
﹁そう﹂
ママからの手紙?
一体何だろう。しかも私が大人になったら渡して欲しいとか⋮⋮
うーん。もしかしたら、父親とかママの両親の事とかが書いてある
のかもしれない。
でもそれなら、大人になったら渡して欲しいというだろうか。親
が一番恋しいのは子供の時だ。
今更知ってもよっぽどの事がない限り、たぶん会いに行かない気
がする。私はこの生活に満足していて、実を言えば、あまり興味も
902
ない。
﹁それに、母さんも俺も、手紙は読めなかったから﹂
﹁読めない?﹂
﹁もしかしたら、黄の大地の何処かの国の言葉なのかもな﹂
それは、⋮⋮私も読めないから。私が使えるのは、龍玉語とアー
ルベロ国語だけだ。 まあでも、図書館で調べれば、何とか読めるかもしれない。
クロが言う、読めない文字というモノはどういうものだろうかと
思い、私は手紙をとりだした。便箋は日に焼けていて、少し色が黄
色くなっている。
ママかぁ。
本当の事を言えば、あまりママの記憶は残っていない。ただ金色
の長い髪の毛を掴んていた記憶が残っているので、私の髪の色と同
じ色のヒトだったのだろう。そしていなくなった時、どうしようも
なく寂しかったから、きっと優しいヒトだったのだと思う。
少し脆くなった紙を破いてしまわないように、そっと広げて、私
は固まった。
﹁な。読めないだろ。どこの国の言葉なんだろうな?﹂
クロの言葉にどう答えていいものか分からず、私は口ごもる。
﹃前世の事が知りたいなら、ホンニ帝国にいる、時の精霊のトキワ
に会いに行きなさい﹄
ママからの手紙。
そこには、日本語としか思えない文字が並んでいた。
903
42︲1話 全力な逃走決意
﹃︱︱前世ってそんなにいいものじゃないわよ。そもそも前世の記
憶が残っているという事は、恐怖とか憎しみとか、後悔とか、強い
感情を持ったまま死んで、魂に傷が付いて転生時に真っさらにでき
なかった事を意味するらしいから。
魂に傷が云々は、目で確認できないから、嘘かもしれないけどね。
でも私自身が覚えている記憶もろくなものじゃなかったわ。
だから私はお勧めはしないわよ。私はオクトが前世なんかにとら
われずに、今を楽しんでくれている事を願っているから。
それでも前世の事が知りたいなら、ホンニ帝国にいる、時の精霊
のトキワに会いに行きなさい﹄
ママからの手紙から察するに、どうやらママは私が前世の知識を
持っており、記憶が欠如している事を知っているらしい。
ただママと過ごした時の私は、ほとんど眠っているようなもの。
今の私のような明確な自我があったとも思えない。その状態で意思
の疎通は無理だろう。ならば何故私の秘密を知っているかが謎だ。
そしてもう一つ。ママからの手紙に使われている文字が、日本語
としか思えない件も謎だ。
ママは精霊と獣人族のハーフで、双子のカンナもいる。この世界
で産まれたのは間違いない。その上で考えられるのは2つ。
手紙でママが前世の記憶を持ち合わせている事はわかるので、そ
の前世の記憶が日本である事。もう一つは、ママが住んでいた地域
がたまたま日本と同じ文字を使っているという事だ。
904
ただどちらにも、変な部分はある。まずママが持ち合わせている
記憶が日本でのものだったとしよう。だとしたら、なぜそんな超古
代文明の記憶が今更蘇ったのか。転生するまでに凄く時間がかかる
としても、いくらなんでもかかり過ぎな気がする。この点に関して
は私にも言える事。
実は何度も転生しているが、そのたびに記憶の削除がされないと
いうならば、日本以外の事を覚えていないというのは矛盾する。
次にママが住んでいた地域がたまたま日本語を使っている地域だ
ったとしよう。確率的には相当小さいかもしれないがありえない話
ではない。この世界のずっと昔に日本は確かにあったのだから。
でも全く記憶と同じ言葉が使われるというのは、どれだけ小さな
確率となるのだろう。日本だって、平安時代と平成ではすでに言葉
が違う。例えば単語一つでも、︻てふてふ︼が︻蝶々︼だなんて分
からないぐらいだ。
﹁分からん﹂
ママからの手紙を家で読み返しながら、私はため息をついた。
結局のところ、全ての謎を解くには、時の精霊に会うしかないと
いうわけだ。ここで1人悶々と考えた所で情報が少なすぎて、想像
の域をでない。
﹁にしても、ホンニ帝国って何処?﹂
授業で使った龍玉の地図をとりだしてみてみるが、これがまた大
雑把なものしかない。緑の大地に関しては国名が入っているが、他
の大地は大地名だけが記載されている。授業を受けていた時は、近
隣諸国以外は別に必要のない知識だから、こんな地図を使っている
のだろうと思っていたが、なんてことはない。皆ほとんど別の大地
の事を知らないだけなのだ。
さて、そんな知らない場所へどうやって行ったらいいのか。
国外へ出る事を考えるとたぶんカミュには相談してみた方がいい
905
だろう。緑の大地内ですら、他国に行くには色々手続きがあるのだ。
後は行き方に関しては、クロを頼るしかない。
﹁⋮⋮いいのかなぁ﹂
たぶんクロが気を悪くするという事はないだろう。しかし長い付
き合いであるカミュほど遠慮なくお願いするのは気が引ける。同じ
幼馴染ではあるけれど、どうしてもクロとは会っていない期間が長
いのだ。
とはいえ、クロに色々聞かなければいけない事には変わりない。
できればホンニ帝国まで一緒に来てもらいたいぐらいだが、はたし
てそこまでお願いしてもいいものか。
旅費は私が出すからと言いたいが、どれぐらいかかるのかも分か
らず、貧乏人である自分としては、すぱっとその言葉も出せない。
一番いいのは、以前いたグリム一座が偶然アールベロ国へ公演に
来て、次に行く公演場所がホンニ帝国で便乗させてもらうというも
のだが⋮⋮それはどんな偶然が重なれば起こるものなのか。もしも
起こったとしたら奇跡だ。
﹁でもママはたぶん、アルファさんとクロがホンニ帝国出身だから
手紙を託したんだろうし﹂
アルファさんがママの親友だったからというのもあるだろう。し
かしホンニ帝国の話題を考えると偶然とは思えない。もしも私が、
時の精霊に会いたいと言った場合を考慮してな気がする。
少し気になるのは、ママは黄の大地出身で、ホンニ帝国がある黒
の大地や金の大地とは離れている事だ。どうしてママはホンニ帝国
を知っており、そこにいる時の精霊と知り合いなのだろう。
きっとこの辺りも、時の精霊に聞けば分かるのだろうけど。
﹁⋮⋮エスト、怒るかなぁ﹂ 館長であったエストは、時の精霊に私が会う事は反対のようだっ
た。ただ手紙にはどうしてなのかの理由の部分が書いておらず、ど
906
う判断していいものかも分からない。
もしかしたらエストが反対する理由は、私の記憶の部分に関係す
るのだろうか。それをどうしてエストが知っているのかという話に
なるが、今私が持っている情報だけで予測できるのはそれぐらいだ。
でもエストが、私の記憶が戻るのをよくないと思っているならば、
別に私も無理してまで記憶を取り戻したいとは思わない。
気にならないかと言われれば嘘だが、思い出したところで、﹃へ
ー、そうだったんだー﹄程度の感想しかでてこない気がする。私は
今ですら、いっぱい、いっぱいなのだ。これ以上、変えようのない
過去の記憶を背負えるほどの余力はない。
私が時の精霊に会いに行く理由はただ一つ。混融湖に落ちた、エ
ストとコンユウともう一度会うため。きっと時の精霊ならば、彼ら
をこの時間に戻す方法も知っているだろう。
それにより、過去が変わってしまう恐れはあるけれど、エストや
コンユウが幸せになってはいけない理由にそれを使いたくはない。
落ちた場所で過ごすか、元の時間に戻るかを決めるのは彼らだが、
その選択肢を作りだすのはきっとこの時間に1人残ってしまった私
の役目だ。
そうとなれば、クロにお願いするのも、尻込みしているわけには
いかない。
﹁オクトー。お客ー!﹂
深く考え込んでいた私は、アユムに教えられてハッと顔を上げた。
いけない。いけない。
色々気になる事は多いが、順番にやることはやらなければ、仕事
は溜まる一方だ。私は椅子から立ち上がるとアユムの声がした玄関
の方へ向かう。
それにしても、誰だろう。
もしかしたら、またお婆さんが腰を痛めて薬をとりに着たり、誰
907
か村の子が熱を出したのだろうか。
ふらりと部屋から出ると、アユムが前から突進して私に体当たり
してきた。ギリギリそれを支えると、アユムは笑いながら顔を上げ
た。
﹁あのね、犬耳のお姉さん、来たのっ!﹂
﹁犬耳?﹂
褒めて褒めてといった様子のアユムの頭を撫ぜ、私はさらに先へ
と進む。
はて。この辺りに犬耳の獣人は住んでいただろうか?相手の想像
ができないまま玄関に来た所で、私は固まった。
﹁おはようございます。オクトお嬢様﹂
﹁ぺ、ペルーラ?!﹂
何故?どうしてここにっ?!
子爵邸で働いている彼女が、どうして大きな鞄を一つ抱えてここ
にいるのだろうか。
﹁本日から、こちらでメイドさせていただきます、ペルーラです。
オクトお嬢様、アユムお嬢様、よろしくお願いします!﹂
﹁は?﹂
今日からここでメイドをする?
理解が追いつかず、くらりと目まいがした。一体、何がどうして、
こうなっているのだろう。
﹁えっと⋮⋮間にあってます﹂
この家には確かに、アスタという貴族が住んでいるが彼は居候だ。
⋮⋮貴族の居候がいるというのも変な話だが、私自身はメイドを雇
うような身分ではない。そしてそれは、アユムにも言える事。
﹁うっ、ううっ⋮⋮﹂
しかし私が断ると、ペルーラは荷物を床に置き、顔を両手で覆い
908
隠した。そして、突然すすり泣き始めた。
﹁もしここでオクトお嬢様にいらないと言われたら、私は路頭に迷
ってしまいます﹂
﹁へ?﹂
﹁旦那様は、最近全然子爵邸に帰って来られず、子爵邸ではやる事
がありません。うっっ⋮⋮ぐすっ﹂
﹁あー、⋮⋮なんというか、ごめん﹂
私が引きとめているわけではないので、悪いのは私ではないだろ
う。しかしアスタを追いだせずにいるのも事実。
﹁いいんです。使用人がご主人様のやる事に異を唱えるのは間違っ
ておりますから。旦那様が幸せでしたら、これでいいのだと思いま
すっ!﹂
﹁いや、よくないと思うよ﹂
貴族がいつまでもこんな場所で油を売っていていいとは思えない。
一応仕事には行ってくれているが、それだけだ。
﹁ただここでは貴族である旦那様がくつろぐのは大変であろうと、
第二王子様が伯爵様にかけ合って下さりこちらの屋敷にもメイドを
置く事が決まったんです﹂
﹁へっ?!﹂
いや、決まったんですって。家主の私、今初めて聞いたんですけ
ど。
というか、カミュさん。それは職権乱用というものでしょう。そ
してアスタがゆったりではなく、私の家事の負担を減らそうとして
いるのが凄く分かる。だってアスタはすでに無駄にここでくつろい
でいるのだから、これ以上くつろぎようがない。
でも、なんで今更⋮⋮はっ?!まさか、ライのやつ、私の現状を
チクったのか?!
再び遠い地へ仕事に行っているライを思い出し、私は小さく歯ぎ
しりした。あれだけ言わないでとお願いしたのに。
909
﹃めんご∼﹄と軽いノリで謝るライが頭に浮かぶ。
﹁そこで子爵邸で働いていた為、旦那様やオクトお嬢様をよく知っ
ているだろうという事で、伯爵家に引き抜かれこちらへ派遣されま
した。なので、もしもオクトお嬢様に断られたら、私⋮⋮私っ⋮⋮﹂
ええええええっ?!
ヘキサ兄、ちゃんと先に相談して下さいっ!
しくしくと泣き崩れるペルーラを見て、私はぎょっとする。どう
考えても、私の身の丈には合わない話だと思うのに、ここで断った
ら碌でなしのように感じるのは何でだろう。
﹁あの、お給料は︱︱﹂
﹁伯爵家が、出してくれます﹂
ですよねー。
伯爵家が引き抜いたと言ったので、ペルーラが勝手にここへ押し
かけてきたわけではない。
﹁でも、ペルーラまで住むとなると⋮⋮若干狭いような﹂
元々1人暮らしを考えて建てた家だ。なのでそれほど部屋の数も
あるわけではない。すでに今は、アユムとアスタが増え3人だ。こ
こにペルーラもとなると⋮⋮色々無理がある。
﹁家は村で借りる事になりました。ただ普段が手狭になるかも知れ
ませんので、伯爵様が今この屋敷の改築依頼を出しているはずです﹂
﹁改築?﹂
だから、その連絡、私まで来ていないんですけど?!
ヘキサ兄っ!!
どう考えても、伝え忘れではなく、わざとな気がする。私が断る
と分かっているから、実力行使に出たとしか思えない。でも私を諭
すことなく、こんな実力行使に出るなんてヘキサ兄らしくないとい
うか⋮⋮。
910
ま、さ、か。⋮⋮私の体がぼろぼろだという件、ばれてますか?
﹃めんご∼﹄と言い、良い笑顔で手を振るライが頭に浮かんだ。
アイツ、次帰ってきたら、泣かす。絶対泣かす。口が軽いにもほ
どがある。アスタには言っていないようだけど、どうしてこう色々
私が弱い場所に告げ口するんだ。
﹁お嬢様っ!このままでは、私っ!﹂
﹁あ、うん。分かった﹂
とりあえず、ペルーラと話しても無駄という事が。
これはペルーラではなく、雇い主であるヘキサ兄か、さらにその
上で命令を出したカミュときっちり話しあう必要がある。
﹁ありがとうございます。では、さっそく掃除から始めますね!﹂
﹁へ?﹂
さっきまで泣いていたはずなのに、ペルーラはパッと笑顔になる
と家の中にずかずかと入ってきた。その頬には、全く濡れた跡がな
い。
えっ⋮⋮まさかの嘘泣きですか?
﹁あーちゃんもやるっ!﹂
元気にペルーラの後ろを付いていくアユムを、私は茫然と見送っ
た。 911
42︲2話
ペルーラが家にやってきて数日経った。
私は今のところまだカミュやヘキサ兄に抗議をしていない。とい
うのも、情けない話しだが、ペルーラが家事を負担してくれる事で
私はかなり楽になってしまったからだ。
勿論、このままではいけないのも分かっている。ヘキサ兄達に甘
えていては、私自身が自立できない。
宿舎に使用人を入れたがらないアスタなら、きっと嫌がるのでは
ないかと思ったが、これまた予想が外れ、アスタはペルーラがいる
事に対して何も言わなかった。アスタが反対すれば一発だったのに、
残念だ。
ならば、この楽な生活に慣れる前に、自分自身で何とかしなけれ
ばならないのだが⋮⋮ペルーラにすがるような、咎めるような眼で
見られると、正直中々言いだしずらいというのもある。確かに今の
私はオーバーワーク過ぎる。
とりあえず仕事がひと段落つくまでと色んな事を保留する事にし
た私は、久々に図書館の館長室に来た。
館長室について早々に私は棚を動かし、手紙の束と日記を未読の
ものと交換する。
棚を動かした際に、色々気になる事もあったが、アリス先輩が不
信に思いここへ来るとまずい。なので手早く愛用の四次元鞄に必要
なものを詰め込む。全ての作業が終わり、元の状態に戻したところ
で、私はほうと息を吐いた。内緒で行動するというのは、どうにも
緊張する。
そして私は改めて棚を見つめると、首を傾げた。
912
﹁やっぱり、⋮⋮文字が変わっている気がする﹂
今棚で隠れた壁には、︻ヒミツ︼と書かれていた。初めて見た時
はニンジャと書かれていた気がする。前回は、大きく×と書かれて
いた気がするし、オクトへと書かれていた時もあった気がする。
気がするとか曖昧な表現になるのは、実際にはそんな文字はない
からだ。
魔法か何かで変わるようになっているのだろうかと思い、以前調
べてみた事もある。しかし結果はシロ。魔法の痕跡や、ペンキで消
して書き直した痕跡など全くなかった。
まるで私の記憶が間違っているというかのように。
︻ものぐさな賢者︼の時と同じ現象だと思った私は、変だと思っ
た時から壁の文字を紙に残すようにしている。しかし何回か書き残
した紙には全て、︻ヒミツ︼と私の字で書かれていた。
一番現実的なのは私の記憶違いであるという事だが、いくら私で
も、こう頻繁に勘違いするものだろうか。しかも︻ニンジャ︼と︻
ヒミツ︼では全然違う。その他に考えられる事としたら︱︱。
﹁⋮⋮時間が変動している?﹂
でもそんなにコロコロ過去が変わっても大丈夫なものなのか?そ
れとも、これぐらいのブレは普通だったりするのだろうか?
そもそもこんな風に考えるのが間違いで、私の記憶違いに過ぎな
い可能性だってある。
しかし私はコンユウが現在過去を飛び回り、エストが未来を変え
ようと試行錯誤しているのを知っている。私自身も過去や未来にい
るだろう彼らに向かって手紙を書き、混融湖に流していた。こんな
非常識な事をしているのだから、過去が少しぐらい変動したってお
かしな事ではないように思う。
﹁まあ、いいか﹂
913
今考えても仕方のない事。
その辺りも、時の精霊に聞いてみよう。我ながら、時の精霊に全
てを丸投げしてしまっている気がするが、時に関しては本当に謎な
のだ。
私はアリス先輩に何をしているのだろうと不信に思われる前にと、
そさくさと部屋から出た。そして時魔法を使っている場所に向かう。
幸い目的地まで誰ともすれ違う事のなかった私は、さっそく館長の
魔法陣に不備はないか確認していく。
流石館長が長年かけて作った魔法陣なので、綻びなどは見られな
い。しかし現在この魔法陣を使えるのは私だけ。蓄魔力装置を使え
ば他のヒトでも使えるが、その装置の魔力の元はやはり私なので、
実質私がいなければ意味のないモノとなっている。
それなのに私は、このままでは死ぬと医者の先生に宣言されてい
る。今すぐ死ぬ気はないが、もしもがないともいえない。早い所、
時属性のヒトがいなくても使えるようにしなければいけないだろう。
﹁でも⋮⋮時属性って癖が強過ぎる﹂
自分の産まれ持った属性ではない魔法を使う時は、普通自分自身
の魔力から属性を取り除いて、別の属性に加工する2段階の魔方陣
を使う。そしてさらに自分の使いたい魔方陣へ加工済みの魔力を注
ぐ必要がある。
その工程だけでも面倒だというのに、時属性の場合、加工するの
も難しいのだ。というか、いくらやっても上手くいかない。
魔法陣は複雑になるが、いっそ魔素を使った方が簡単な気がする。
しかし時属性の魔素など普段は見た事もないし︱︱。
﹁いや。まてよ?﹂
私は本当に時属性の魔素を見た事がなかっただろうか?
確かに学校とか、この辺りでは見た事がない。そもそも時属性は
特殊で産まれつき持っているヒトはいない様な属性だ。持ちえるの
914
は、混融湖に沈んだ事があるヒトだけで︱︱。
﹁そうだ。混融湖﹂
混融湖ならば、時属性の魔素がある。そこにある魔素を使えば可
能ではないだろうか。
しかしアールベロ国から混融湖までは、物理的な距離もあるので、
そこをどうカバーするかだが。
﹁オクトちゃん﹂
﹁はいっ?!﹂
悶々と時属性の魔方陣を見つめていると、突然肩を叩かれてビク
リとする。
振り向くとアリス先輩がそこには居た。伯爵夫人となったアリス
先輩は図書館の館長などやる必要がないが、次の館長が決まるまで
の間は続けてくれる事となっている。
私的にはアリス先輩の方が色々やりやすいのでありがたいが、貴
族的には女性が働く事はあまり良しとはされていない。唯一貴族の
女性が働いても眉をしかめられない職業は家庭教師だ。なので図書
館の館長は明らかに違う。
しかしアリス先輩はそんな批判をモノともせず、悔しかったら伯
爵夫人になってみなさいと高笑いしてくれるので、流石としか言い
ようがない。ヘキサ兄もその辺り理解があるというか、常識破りで、
伯爵夫人の仕事をこなしているならば別に他に何をしていても良い
だろうという考えだ。⋮⋮今更ながらに、ヘキサ兄もアスタの子供
だったんだなと思う。
気は真面目だが、かなり自由だ。
﹁少し話したい事があるのだけど、今時間はいいかしら?﹂
いいかしらと疑問形は取っているが、アリス先輩の目は断ったら
後で大変よと訴えてくる。
一応今日は1日中図書館で仕事をする予定できているので特に問
915
題はないが⋮⋮。これは、やはり私の体の事に対しての説教だろう
か?
ヘキサ兄に私が死にかけている事がと伝わっているならば、その
妻であるアリス先輩にだって伝わっているだろう。⋮⋮正直嫌だ。
私がこの状態になているのにはちゃんと理由があって、特に後悔
をしているわけではないし、悪い事をしているつもりもない。しか
し心配されている事による説教は、居心地が悪いし、仕方がない事
でも否定しにくくて、苦手だ。
﹁⋮⋮いいですけど﹂
でも断る事もできなくて、私は頷いた。
それに私だって色々勝手にメイドを雇われたり、家の改築依頼が
出ていたりと、ちゃんと話しあわなければと思う事もあるのだ。
﹁ここではちょっとアレだから、私の部屋でいい?﹂
﹁はい﹂
ここではという事は、やはり私の体についてだろう。
確かに死ぬだの何だのという話は、赤の他人の事だとしてもあま
り聞きたくはないはずだ。
﹁ちょっと散らかっているけど、気にしないでね﹂
アリス先輩の後ろを付いていき、通された部屋は、本以外のモノ
であふれていた。健康器具っぽいモノや、良く分からない異国のお
土産っぽい物など、雑然としている。確かにお世辞にも綺麗とは言
い難い。
﹁えっとここに座ってちょうだい﹂
先輩はソファーの上にのっていた色んなものをぽいぽいっと部屋
の隅の方へ移動させると、パンパンとソファーを叩いた。少しほこ
りが舞った気がするがあえて見なかったふりをする。私もあまり片
づけは得意ではないのでお互い様だ。
916
﹁あの⋮⋮話というのは﹂
嫌な事は早く終わらせてしまおう。
そう思い、私は座ると同時に話を切り出した。どうせ怒られるな
ら早く終わらせたい。そしてさっさと謝ってしまう準備をする。
﹁あのね、オクトちゃんって、今好きなヒトいるの?﹂
﹁すみませ⋮⋮はい?﹂
謝りかけた所で、何やら質問がおかしい事に気がつき、言葉を止
めた。今、私の予想をはるかに超えた言葉が先輩から聞こえた気が
する。
﹁⋮⋮えっと、今何と?﹂
﹁だから、好きなヒトはいるかって聞いているの﹂
好きなヒトは居るかって⋮⋮。
元館長の様な事を言いだしたアリス先輩の言葉に唖然とする。ま
さかそんな質問が来るとは思っていなかった。
﹁ライ君と付き合っているというのは嘘でしょ?﹂
﹁はあ⋮⋮まあ﹂
予想外過ぎて頭が回らず、私は言われるままに頷いた。少しして
からマズイかとも思ったが、流石に長い付き合いのアリス先輩には、
この嘘はお見通しだと思い、まあいいかと結論づける。今更取りつ
くろっても仕方がないだろう。
﹁それで、いるの?いないの?﹂
﹁いや、いるの、いないのって⋮⋮私、混ぜモノなんですけど﹂
誰かと結婚する事もない混ぜモノがヒトを好きになるなんて不毛
だ。勿論友達として好きなヒトはいるが、アリス先輩が言っている
意味とは違うだろう。
﹁混ぜモノなんて関係ないでしょ?﹂
﹁いや⋮⋮だって﹂
それに、私からそんな感情で見られたら、相手だって困るはずだ。
917
エストの様な例外もいるが、普通は混ぜモノを恋愛対象と見る事な
んてない。それでも告白を断って混ぜモノを傷つけたら暴走するか
もと思えば、中々断る事もできなくなってしまう。うん。迷惑以外
の何ものでもない。
私としてはドロドロな恋愛云々は2次元で間にあっている。
﹁このままじゃらちが明かないわね。単刀直入に聞くわ。私の伯父
の事どう思う?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
アリス先輩の言葉が宇宙語に聞こえて混乱する。
どう思うもこう思うも、アリス先輩の伯父さんは私の薬を買い取
ってくれるビジネス相手だ。後は高血圧の薬をグレープフルーツジ
ュースで飲む大雑把なヒトだろうか。
しかしこの質問はただ伯父さんに対する感想を聞いているだけと
は思えない。
だが私が深読みした理由は、頭をかきむしりたくなるぐらい恥ず
かしいもので、これこそ思い違いだろと言いたくなる。
いや、そうだ。きっと、私の頭を今よぎったモノは、気のせいに
違いない。
落ちつけ私と言い聞かせ、とにかく率直な感想を述べようと口を
開きかけた。
﹁伯父さん、どうやらオクトちゃんの事かなり気にいっちゃったみ
たいなのよね﹂
はい?
上手く言葉にならず、私は口を開けたまま固まった。
﹁伯父さんが直々に薬の販売の仲介をするなんてなかなかないもの。
もしも気にいったとしても、すぐにその道の専門のヒトにバトンタ
ッチしちゃうし﹂
それはアリス先輩の思い違いではないですか?そう言いたいが、
918
私はアリス先輩の伯父さんの事をほとんど知らない。
﹁き、気にいったとは︱︱﹂
﹁好きって意味に決まっているでしょ﹂
﹁げふんっ﹂
私はお茶も飲んでいないのに、盛大にむせた。
﹁でね、もしもオクトちゃんに全く気がないなら、さっさと断った
方がいいと思うのよ。伯父さんって結構強引だし、ああ見えて流石
商人って感じの肉食系だし﹂
﹁断って下さい﹂
もしかしたらアリス先輩の勘違いかもしれない。勘違いに対して
断るなんて滑稽というか、痛々しいというかだが、それでも背中に
走る悪寒に従い、私はすぐさまお願いをした。万が一を考えれば、
恥ずかしい思いをしても、危険な芽は早々に摘み取った方がいい。
﹁でもね、それこそ誰か好きなヒトがいてとかじゃないと無理だと
思うのよね。フリーなら別に良いよねって、絶対オクトちゃんを落
としにかかるわ﹂
﹁へ?﹂
﹁そして、生半可に好きなだけなら、やっぱり奪いにかかるわ﹂
何ですか、その厄介な性格は?!
あまりに怖いシュチュエーションにぞくりとする。それが本当だ
としたら、怖い。めちゃくちゃ怖い。
﹁あ、あの。私、まだ子供だからというのでは。ほら、私が相手じ
ゃ、ロリコンと呼ばれますからとか﹂
自分でロリとか、何たる自虐。それでも私は危険を察知し、禁断
の手に出た。
流石にいくらなんでも、子供に手を出すほど飢えているとは思い
たくない。
﹁確かに見た目は小さいけど、オクトちゃんの実年齢と精神年齢を
919
考えたらたぶん問題ないと判断するわね。うちの一族、あんまり人
の目気にしないから。自分が気にいったなら、それでよしだもの﹂
ぎゃぼっ。
予想外すぎる。でも納得した。
アリス先輩と同じタイプというわけだ。確かにそれなら、あまり
周りの意見に振り回されそうにもない。
﹁所で、オクトちゃんは、アスタリスク魔術師の事はどう思ってい
るの?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
何で突然アスタ?
話が繋がらず、私はキョトンとした。
﹁どうって?﹂
アスタは、アスタだ。駄目な大人だという事も十分承知だし、同
時に凄い魔術師だという事も理解している。とっても大切な恩人だ
し、幸せになって欲しいヒトだ。
アスタに褒められるのは嬉しいけど、やっぱり子供扱いされるの
はムカつくので、対等になりたいと思っている大人。アスタには守
られてばかりだったから、できたら影から支えたい。
⋮⋮まあ、ぶっちゃけて言えば、私は完璧なファザコンだ。
﹁アスタリスク魔術師が、オクトちゃんに抱きついていたでしょ。
あの後、凄い勢いでアスタリスク魔術師の恋人は混ぜモノの賢者だ
って噂が立っているのよね﹂
﹁は?﹂
何ですか、そのとんでもない噂。
﹁あれで大半の女の子は、アスタリスク魔術師を諦めたわね﹂
ひぃぃぃぃ。
何てことだ。
アスタの嫁を探そうとしていたはずなのに、いつの間にか私の所
920
為で嫁候補が逃げていく。私は慌てて首を振った。
﹁ち、違います。私は、そんなんじゃなくて︱︱﹂
﹁でも普通、男性が未婚の女性に抱きつくなんてありえないわよ。
それにオクトちゃんもアスタリスク魔術師から逃げようとしないん
だもの﹂
﹁あ、あれは。逃げようとしないというか、逃げられないというか﹂
だって、無理でしょ。相手はあのアスタだよ?
私は必死にアリス先輩の理解を求めようと言葉を探す。何と言っ
たら伝わるのだろう。確かにアスタの事は好きだし、尊敬している
けど⋮⋮でもっ。
﹁私はたぶんファザコンだから﹂
どうしても、アスタを拒絶はできない。アスタの場合は、私の事
をおもちゃか何かと勘違いしているからで、女性と思っての行動で
はないはずだ。
﹁ファザコンって⋮⋮。アスタリスク魔術師は、もうオクトちゃん
のお父さんではないでしょ?﹂
えっ?
アリス先輩の言葉に、私の頭がフリーズする。
私はただのファザコンのはずで⋮⋮でも確かにもう、アスタは父
ではなくて。
えっ?えっ?あれ?
だったら、私と今のアスタの関係は何なのだろう。尊敬している
し、アスタの力になりたいと思っているし、アスタに幸せになって
欲しいと思っているけれど⋮⋮でもその理由にファザコンが使えな
いとなると︱︱。
﹁オクトちゃんはアスタリスク魔術師の事をどう思っているの?﹂
アリス先輩の質問に、私は答える事ができなかった。
921
42︲3話
﹁うあぁぁぁぁっ⋮⋮﹂
恥ずかし過ぎて引きこもりたい。マジで、何これ。
菓子を作っている途中で、ふとアスタが喜んでくれるかなっと考
えてしまった自分が痛い。
いや、別に料理なら美味しく食べてもらいたいのが当たり前で。
アスタの好きなモノをとか、喜んでもらいたいとか考えたって、そ
う変ではないはずだ。特に一緒に暮らしている家族︱︱。
﹁あーあー。なし、今のなし。コレはルームシェア。ほら、友達同
士で一緒に住んで家賃を安くするアレだ。うん。そう、そう﹂
アスタの事をどう思っているか。
もう親子ではないと言ったアリス先輩の所為で、アスタとの距離
が上手く測れなくなってしまった。必死に普段通りを目指そうと行
動するが、今までどうやっていたのかが分からない。昨日も昨日で
抱きつかれ、悲鳴を上げそうになった自分を殴りたい気分だ。どう
して今まで平気だったのだろう。
いやむしろ、何をそんなに意識してるんだ私。
とりあえず奥の手で、疲れたからもう寝ると言って部屋にこもっ
て事なきを得たが、今日は一体どうしたらいいのか。
本当ならばまだ眠っていても良い時間だ。しかし眠るたびにアス
タの夢を見て飛び起きてしまう。仕方がなく私はお茶用のケーキで
も作ろうと起きた。もう本当に、どうしていいのか分からない。
﹁別にアスタが特別じゃないし。アユムにも喜んでもらいたいし﹂
922
必死に言い聞かせている、自分が痛々しい。
﹁そうだ。カミュやクロの為にお菓子を作ろう。うんうん。今度ホ
ンニ帝国に行くためにお願いするわけだし﹂
本日のおやつ用として作り始めていた、シュークリームのプレゼ
ント先が思いついて私は頷づいた。友達に渡すお菓子のあまりを捨
てるのがもったいないから、アスタに上げる。うん。これなら問題
ない。
そう。これは普通。特別なんかじゃない。
﹁あ、でもクロにあげるなら、個数を増やした方がいいか﹂
あそこは大所帯だ。別に周りの海賊は私のお菓子なんてどうでも
いいかもしれないけれど、クロも1人じゃ食べづらいだろうし。
材料を測り直し、私は大量にシュークリームの種を作っていく。
大量調理をする様子はまるでケーキ屋さん。この様子をヘキサ兄が
見たら、折角ペルーラがやってきて仕事が減ったのに、再び仕事を
増やして何をしているんだと怒られそうだ。しかし今はもくもくと
ケーキを作っている方が気が楽。
無心で鍋の中の材料をこねくり回す。
そしてでき上った種を絞り、温めた魔法オーブンに入れると、今
度はカスタードクリーム作りをする。とにかく、無心。何が何でも
無心。般若心境を唱えるといいのかもしれない。生憎と般若心境は
前世知識に含まれていなかったので無理だけど。
﹁オクトお嬢様?﹂
ペルーラに声をかけられ、私ははっと手を止めた。
シュークリームを焼き上げた私は、手持ちぶたさになり、今度は
パンを焼き始めている最中だ。ペルーラがここへ来たということは、
もう朝ごはんを作り始める時間なのだろう。
﹁ペルーラ、おはよう。朝早くからお疲れ様﹂
私は不思議そうにしているペルーラに、笑顔を向けた。確実に不
923
審に思っているだろうが、日本人特有の曖昧な笑みは、とりあえず
有効のはず。
﹁はい。おはようございますっ!えっと、お嬢様は︱︱﹂
﹁これから少し出かける用事があるから、後はよろしく。もうすぐ
パンが焼きあがると思うから、朝ごはんに使って﹂
私はペルーラの言葉を遮って、今思いついたばかりの言い訳を使
う。
そして手早くシュークリームを箱詰めすると、部屋に戻り服を着
替え、外出用のカバンを部屋から持ち出した。アスタとアユムを起
こさぬよう静かに、でも素早くだ。
﹁お嬢様、どちらまでお出かけに?﹂
﹁ちょっと、海賊のところまで。じゃあ、ペルーラ。アユムとアス
タをよろしく﹂
私の行動の異常さをツッコミされると色々苦しい。今の私は、何
を口走るか分かったものじゃない。なので私は、にこりともう一度
笑みを浮かべ、ペルーラの返事を聞く前に、海賊船前まで転移した。
◆◇◆◇◆◇◆
924
﹁来たものの、どうしよう﹂
こんな朝早くから、海賊たちの根城に何の用だという感じで、私
は建物の前でぐるぐると悩んでいた。クロだってこんな早くに訪問
されたら迷惑だろう。
しかし朝日は登り始めているが、はっきり言って寒い。厚着をし
てフードを被ってはいるものの、木枯らしが吹く度に私は首をすく
めた。
﹁⋮⋮でも行く場所もないし﹂
家から飛び出してきた私がいける場所など、限られている。一応
図書館なら行っても迷惑にはならないだろうが、まだ開館前なので
不法侵入になってしまう。図書館のアルバイトをしていたころなら
まだしも、今は関係者ではないのでそんな事もできない。
かといって、頼る友達もいない⋮⋮わけではないが、王宮にお邪
魔するのは色々大問題だし、カミュに今の状況がバレたらからかわ
れる可能性が高い。なら学校の宿舎にいるミウに頼るという方法も
ある。しかし速攻でアスタと私ができているという噂が、可愛らし
いイラスト付きの小冊子と共に広まるに違いない。
ヘキサ兄に迷惑をかけるわけにはいかないし⋮⋮、ライは今はト
ンズラしているし︱︱。
自分の交友関係の少なさに涙が出そうだ。頼れる場所が、これほ
ど皆無だとは。
﹁おい。こんな場所で、何百面相しているんだ﹂
﹁ひゃい?!﹂
頭を抱えていると、突然声をかけられビクリとする。顔を上げれ
ば、あきれ顔をした船長がいた。
﹁何って⋮⋮まあ、ちょっと、所要で⋮⋮﹂
訪問してもおかしくない時間まで、ここで暇をつぶしていました
ともいえず、私はぼそぼそっと答えた。
925
﹁誰と待ち合わせか知らんが、混ぜモノの氷像ができ上る前にさっ
さと中に入れ﹂
﹁はぁ﹂
入れ?
一瞬船長にいわれた言葉が理解できず、私は目を瞬かせた。まあ
確かにいくら悪の巣窟である海賊のアジトであっても、入り口前で
凍死されていたら寝ざめも悪いかもしれない。
でも、この時間の訪問はちょっと⋮⋮と思っていると、ぐいっと
腕を引っ張られ、つんのめるような姿勢で中に入れられた。
﹁体が弱いくせに、馬鹿か﹂
﹁⋮⋮嵐が来ると困るんですけど﹂
どうやら私は船長に気を使われたらしい。何か企んでいるのだろ
うか?
﹁いい度胸だな﹂
おっと。つい、失言し過ぎた。
船長が手を伸ばしてきたので、頭を叩かれたり、頬を抓られるの
を覚悟して、ギュッと目を閉じる。しかし予想した衝撃は来ず、頬
に温かいものが当たるだけだった。以外すぎて、私はそろりと目を
開ける。
すると頬に、船長のごつごつとした手が当たっていた。
﹁何時間立っていたんだ﹂
﹁いや⋮⋮それほどは﹂
中に入れずウジウジしていたが、そこまでは長くなかったように
思う。⋮⋮時計を持ていないのでたぶんだけど。
﹁とりあえず、俺の部屋に来い﹂
﹁えっ、嫌﹂
私は反射的に返事をした。だって、この船長に捕まると、碌な事
ないし。
926
﹁いいから、来いっ!﹂
しかし船長は、いささか強引な力で私の腕を掴むと部屋まで私を
引きずった。そして部屋に引っ張り込みストーブの前まで連れてく
るとようやく手を離した。
結構前からストーブを焚いていたらしく、部屋の中はかなり温か
い。それでもストーブの前はさらに温かくて、冷え切った体から力
が抜ける。どうやらガチガチに体が固まっていたようだ。
﹁その箱はなんだ﹂
﹁⋮⋮シュークリームだけど。あ、でもコレはクロのだから﹂
目ざとく、私の手土産に気がついた船長の視線を避けるように、
私は箱を自分の体の後ろにまわした。
﹁火を貸してやる礼は、貸しにするぞ﹂
﹁どうぞ、胃袋に好きなだけお納め下さい﹂
船長に貸しなんて怖すぎる。
菓子ならいつでもできると思い、そそくさと私は菓子箱を差し出
した。すると船長はむすっとした表情で箱を開け、シュークリーム
をとりだし、躊躇いなくガブリと豪快に齧りつく。
﹁ちっ。朝は糖質が足りん﹂
手に付いたクリームをなめとると、船長は舌打ちした。どうやら、
お腹が空いている為に不機嫌なようだ。いつもにやけた表情ばかり
しているので、すごく珍しい姿だ。
そういえば髪の毛もまだ結んでいないので、寝起きなのかもしれ
ない。でもそれにしては部屋が暖かいような⋮⋮。
﹁それで、今日は何しに来たんだ﹂
何と言われると⋮⋮。
クロに会いに来たわけだが、早く来すぎたというか。なら一度帰
れよという話だが、今は帰るに帰れない。
927
﹁まあいい。最近、ファルファッラ商会の会長をたぶらかしたらし
いじゃないか﹂
答えられずにいると、船長は話題を変えた。
⋮⋮うぐっ。どうしてそのネタを。
﹁その様子だと今も無自覚という事はなさそうだな。見た目はとも
かく、年齢的にはもう結婚できる年だからな。俺が事前に忠告して
やって助かっただろ﹂
忠告って⋮⋮ああ。そんな事もあったっけ。私は以前スタンガン
を作ろうかと計画したのを思い出した。ただ、かなり毎日が忙しか
ったのと、あまり必要性を感じていなかったので、結局何も作って
いないけど。
船長はいつもの調子で、ニヤリと嫌な笑いをした。くそう。どう
やらからかう気満々のようだ。
﹁私だって大人だし。そんなに間抜けじゃないから﹂
アリス先輩に言われなかったら、泥沼にはまるまで気がつかなか
っただろうけど。でも今はしっかり気づいているので、恋愛フラグ
は回避もしくはへし折る気満々だ。
とりあえず、さっさと開き直って、船長にからかってもつまらな
いと思わせよう。
﹁ほう。それに焦った、他の奴らからは告白はされなかったのか?﹂
﹁⋮⋮そんな相手いないから﹂
止めて。
開き直ろうと思った矢先のこの攻撃に、私は白旗を上げた。
ただの船長の冗談だろうが、嘘から出た真になりそうな気がして、
私はため息交じりで否定する。アスタの事で頭がいっぱいなのに、
変な嘘で私を混乱させないで欲しい。本当に嫌な性格だ。
﹁何だ。少しは成長したと思ったら、やっぱりお子様なんだな﹂
﹁お子様でもなんでもいい。ただ今は本当にその手の話題に疲れて
いるから、冗談でも止めて﹂
928
私は船長の嫌がらせに、力なく頭を垂れた。
どうして混ぜモノの私が、こんな不毛な感情で悩まされなければ
いけないのか。こんな感情必要ないと思うのに、上手く消し去り見
なかった事にする事もできない。
﹁そんなに嫌なのか﹂
﹁嫌というか⋮⋮どうしていいのか分からないから﹂
流石のドS船長も、私の行動を不憫に思ったのか、からかうのを
止めた。
﹁好きならつきあえば良いだろうし、嫌なら断ればいいだろ﹂
﹁つ、付きっ⋮⋮あうっ?!﹂
付き合うだと?!
脳がその想像を拒絶してフリーズする。
いやいや。そもそも私はアスタと付き合いたいわけじゃないし。
じゃなくて、そもそもその前提がおかしいし。
私は、確かにアスタが好きだけど、でもそういうんじゃなくて、
対等になりたいというかアスタに必要とされたい⋮⋮あああああっ
?!
もうどうしろと?!
泣きたい気分だ。自分が自分でも良く分からない。
﹁そんなに嫌なら、逃げればどうだ?﹂
﹁へ?逃げる?﹂
予想外の意見に私は、考え込むのを止め船長を見た。いつもの船
長なら面白半分で私を眺めていそうなのに、今はいささか同情的に
見える。
﹁分からなくなったら距離をとるのも一つの手だ。でも付き合い浅
いなら、その間に向こうの熱が冷めるかもしれないがな﹂ ⋮⋮アスタとの付き合いは、私からすると長いが、アスタからす
929
るととても短かい。
それに私も久々にアスタに会って、猫かわいがりされたり、変に
かまわれたりしているから、感情がおかしくなっている可能性もあ
る。
そうだ。少し距離を置くというのはとても良い考えだ。
船長の意見は、今の私にとって、とても妙案に思えた。
確かに混乱中ならばなおさら頭を冷やすべきだ。アスタも近くに
私がいなければ、早々に興味を失うだろう。今は下手に近くにいて、
簡単に遊ぶ事ができるからいけないのだ。
近くにいなければいつしか私の事など忘れるだろう。そして次に
会う時には、無価値なものとして見るかもしれない。
想像して少し胸が軋むような感覚に襲われたが、でもその方が良
い。私ではアスタを幸せにできないのだから。
それにアスタが興味を失ってしまえば、私の不可思議な感情は何
かの形を得る事もなく、毒にも薬にもならない無害な感情とできる
はず。
報われるのだけが恋愛ではない。そんなニュアンスの言葉を昔誰
かが言った気がする。
﹁なあ、船長。オクトが来たって聞いたけど﹂
唐突に部屋の扉が開いた先に、クロがいた。
なんていいタイミング。
私はクロの姿を確認すると、一目散にクロの前まで行きしがみつ
いた。こうなったら、頼れるのはクロしかいない。
﹁おい、オクト?!どうしたんだ?﹂
クロが驚いているのを理解しながらも、私は理由を述べることな
く、クロの服をぎゅっと握った。今は逃がすわけにはいかない。私
は意を決して、顔を上げクロをまっすぐに見上げた。
930
この間大人だと言った口で、子供のようにおねだりとか恥ずかし
すぎるが、背に腹は代えられない。クロに呆れられても、嫌がられ
ても、今はこれしかないのだ。
﹁クロ。私をホンニ帝国に連れていって!﹂
そうだ京都に行こうのノリでいけるような場所ではない事も重々
承知だったが、私は勢いに任せてお願いをした。 931
43︲1話 問題多発な異国道中
﹁ホンニ帝国に行く事は良いけど、どこら辺に行きたいんだ?﹂
えっ⋮⋮。あっ、そうか。
クロに質問をされ、私もハッと気がついた。
ホンニ帝国に行けば全ては解決すると思っていたが、ホンニ帝国
というのは村の名前ではなく国の名前。つまりは、アールベロ国と
同じで、限りなく広いという事だ。
そんな広い場所で、たった1人の精霊を探し出すって⋮⋮もしか
しなくても、結構無謀とか?
ママ、情報がかなり大雑把ですよぉぉっ!
そう叫びたいが、ママはすでに鬼籍のヒト。それに今までは、ホ
ンニ帝国に時の精霊がいる事すら分からなかったのだ。
うん。ちゃんと前進している。きっと大丈夫。落ち付け私。
それにホンニ帝国に行けば、アールベロ国にいるよりは情報も手
に入りやすいだろう。
ただ問題点は、ホンニ帝国にどれぐらい滞在できるかと、滞在の
間どうやって生活するかである。混ぜモノの私ではホンニ帝国でも、
宿に泊まれないだろうし⋮⋮。やっぱり、無理ゲーじゃという言葉
が頭の中をめぐる。
﹁どこと言うか、会いたいヒトがいて⋮⋮﹂
﹁会いたいヒト?ホンニ帝国に知り合いがいるのか?﹂
知り合い?
どうだろう。私に痣をついけているという事は、間違いなく一度
932
は会っているだろう。しかし私の記憶にはこれっぽっちも残ってい
ないので、初対面と変わりない。
とりあえず姿は合法ロリ、性格が悪い、名前はトキワという事だ
けは判明しているが⋮⋮はっきり言ってそれしか分からない。とい
うか特徴が合法ロリって⋮⋮。例えば目の色とか髪の色とか、背が
低いとか色々言いようがあっただろうに。どうして皆、そんな口に
しずらい単語しか残してくれなかったのか。
﹁私というか、ママの知り合いで。えっとトキワさんっていう、時
の精霊なんだけど⋮⋮。実はホンニ帝国にいることしか分からなく
て﹂
とはいえ、ホンニ帝国で1人1人にトキワさんという名前の時の
精霊を知りませんかと聞いてまわるわけにはいかない。どう考えて
もそんな探し方は無謀というものだ。
本当にどうやって探したらいいのか。
時の精霊なら混融湖に面した場所にいそうな気がするが、その範
囲がどれぐらいのものかも分からない。湖という名前は付いている
が、ドルン国で見た限り、対岸見えないほどの大きさなのだ。そん
な大雑把な探し方で大丈夫だろうか。アールベロ国でならまずは図
書館で文献をさがすが、ホンニ帝国にそういう場所があるとも限ら
ないし。そもそも混ぜモノである私が利用できるかも疑問だ。
探偵みたいな職業のヒトがいればお願いするが、そういう職業が
あるかどうかも分からない。それにもしも探偵がいたとしても、ま
ったく手掛かりのない1人を探すのは難しそうだ。
懸賞金をかけるという方法をとるとしても、ホンニ帝国ではどう
やったらいいんだろう。ネットとかそういったモノがあるわけでも
ないし。
マズイ。
無策にもほどがある。もしも、このままホンニ帝国に行ったとし
933
ても、会える気がしない。
頭のいいカミュに相談しようにも、カミュもホンニ帝国には行っ
た事がないだろうし。⋮⋮かといって、クロに一緒に探してと頼む
なんて図々しい事は言えない。
すでにホンニ帝国に連れていってなんて無茶なお願いをしていま
っているのだ。これ以上は流石に無理だ。例え言ったとしてもクロ
を困らせてしまうだけだろう。
あああ。どうしよう。
ええっと、例えば、混融湖に行ったらとりあえず、誰でもいいか
ら時の精霊を探してみるとか?そして、低位の時の精霊にお願いし
て、トキワさんがいる場所を探してもらう︱︱でもその場合、契約
しないと駄目かな。
うーん。流石にこれ以上契約を増やしたら死ぬよなぁ。トキワさ
んに会う前にお陀仏しては、本末転倒だ。
そもそもそんな無茶な計画立てている事がバレたら、ホンニ帝国
に行く事自体がカミュの権力で揉みつぶされる気がする。
﹁トキワに会うんだったら、王都だな。というわけで。船長、ホン
ニ帝国行きませんか?俺もそろそろ一度戻らないとだし﹂
﹁そうだな。結構この国に滞在して長いし、俺は別にいいぞ。ただ、
ロキの意見も聞いておけよ﹂
﹁分かってますよ﹂
あーでもない、こーでもないと考えていると、目の前でとんとん
拍子で、ホンニ帝国に行く計画が練られ、決定した。
えっ?ええっ?
﹁クロ。トキワさんを知っているの?﹂
﹁あー、まあ。一応な。俺はできればあまり、トキワが居る場所に
近づきたくないけど、でもオクトは会いたいんだろ?﹂
もしかして、トキワさんって、結構有名人?
934
しかしクロが近づきたくないって、どういう事だろう。もしかし
て、トキワさんっておっかないヒトなのだろうか?ロリで性格悪く
ておっかない⋮⋮わけが分からない人物像が出来上がり、私は首を
振った。
推測でものを考えるのは止めておこう。
﹁もしもクロが行きたくないなら、場所さえ教えて貰えば、私1人
でも︱︱﹂
﹁ああ。大丈夫。それに俺がいた方が、トキワに会いやすいだろう
し﹂
﹁でも⋮⋮﹂
クロにそこまで迷惑かけるわけにはいかない。
しかし私の言葉を遮るかのように、クロは私の頭をポンポンと叩
いた。
﹁心配するなって。俺はオクトのお兄ちゃんだから、遠慮しなくて
いいんだよ﹂
﹁⋮⋮お兄ちゃん?﹂
﹁そ。だから、水臭い事は言いっこなし。俺に任せなさいっ!﹂
クロは自分の胸をばしっと叩いた。
﹁それにさ。俺の育ての親も、オクトを紹介しろってうるさくてさ﹂
そう言って何処か照れ臭そうにクロは笑った。
その笑顔が小さな時のクロと重なる。⋮⋮ああ。そうか。成長し
て姿は変わったけど、クロはクロなのか。
ずっと会っていなかったから、もう前とは違うと思っていたけれ
ど、そうではなくて。ちゃんと時間は繋がっていて︱︱。
あの時⋮⋮、私がクロを選べなかった時、縁は切れたと思ってい
たのに。見えなくても、決して過去がなくなったわけではない。
ああ。なんて私は幸せモノなのだろう。
935
﹁ありがとう﹂
泣きたいようなそんな気持ちを抑え、私はクロに小さな声で囁い
た。
◆◇◆◇◆◇
﹁オクトさん、いい天気だね﹂
カミュの言葉に私は頷いた。
青空の下で、さわやかな風が船を動かす。
私は先ほど海賊船でアールベロ国からホンニ帝国に向かって旅立
った。まだ旅立って間もないが、今のところとても順調である。
王子様であるカミュが、一緒に乗船している事以外は。
﹁カミュ、よかったの?﹂
デッキの上で徐々に遠ざかる陸を眺めながら、私は何度かした質
問をもう一度する。
今回ホンニ帝国へ行くのを相談したところ、カミュが一緒に行く
と言って譲らなかったのだ。カミュにも色々仕事があるだろうに。
今ならまだ転移魔法で帰る事も可能だろう。 936
﹁いいよ。こんなタイミングじゃなければ、他の大地なんて行けな
いだろうし。この件は、兄上も了承しているしね。それにオクトさ
んを1人で行かせるのはちょっと⋮⋮﹂
﹁悪いけど。私はこう見えて、もう18歳だから﹂
いつまでヒトを子供扱いする気だ。
私はいつまでも過保護に扱うカミュをギロリと睨みつけた。
確かに日本だったらまだ未成年。しかしそれでも大学生ぐらいの
年齢。過保護に子供を育てるあの国ですら、そろそろ独立し始める。
しかも私の場合すでに学校を卒業して、働いているわけで。そん
なに心配しなくても大丈夫だ。
﹁大人だから余計にだよ﹂
﹁はあ?﹂
何で大人だと余計に過保護になるんだろう?意味が分からない。
﹁お前1人だと帰るのが面倒とか言いだして、帰ってこない可能性
があるからだろうが﹂
そう言って、カミュの護衛で今回の旅に付いてきたライが、コツ
リと私の頭を叩いた。
﹁⋮⋮そこまでものぐさじゃない﹂
たぶん。
確かに私の性格を考えると、ホンニ帝国で住んでいけそうなら、
そのまま往復するのが面倒で住んでしまう可能性は⋮⋮ないとも言
い切れない。
でも今回はちゃんと帰る気だ。
﹁それに、いくらなんでも、アユムをヘキサ兄の家に預けたままに
はできないから﹂
ホンニ帝国の治安がどれぐらいいいのかも分からないので、私は
事前にアユムの事をヘキサ兄とアリス先輩にお願いしてきたのだ。
だから帰らないという選択はない。
937
とはいえ、まだアユムはアスタと一緒に私の家にいるころだろう。
私がホンニ帝国に行く事を知ったら、高確率で付いていくと言い
かねないと思い、今回の旅行は2人に内緒にしてきたのだ。内緒で
旅支度をするのは、結構骨が折れたが、たぶん気がついていないは
ず。
朝食を食べるころには、アスタは手紙を読み状況を理解するだろ
うし、アユムもペルーラが伯爵邸に連れていってくれる予定だ。
﹁でも僕こそオクトさんに本当にこれでよかったのか聞きたいぐら
いだよ﹂
﹁何で?﹂
﹁お前、何でって。帰って来た時、師匠の事どうする気だよ﹂
ライのいう師匠は、アスタの事だろう。でもどうすると言われて
もなぁ。
とりあえず冷却期間を置けば、おかしな事になっている私からア
スタへの気持ちも、ひとまず落ち着くだろう。そうすれば今まで通
りに戻れるはずだ。
もしくは帰った時に、すでにアスタが私に飽きている可能性もあ
る。その場合、そのまま離れて暮らす事になるだろう。⋮⋮それは
それで、ありだ。
﹁アスタの出方次第になると思う﹂
﹁⋮⋮国に戻ったら全力で逃げる事をお勧めしておくよ﹂
軽く考えている私に反して、カミュはとても深刻そうな顔をした。
﹁何で?﹂
頭のいいカミュに、そういう顔をされると不安になるんですけど。
⋮⋮えっ?私、また何か見落としている?だって普通近くになけれ
ば、次第に忘れるものじゃ⋮⋮。
そう思うが、さっきまではなかった、言い知れない不安に襲われ
る。
938
﹁オクトさん。アスタリスク魔術師は魔族︱︱﹂
﹃オグドォォォッ!﹄
突然泣き声の様なかすれた声で、名前を呼ばれて私はドキリとし
た。
続いて聞こえる足音の方へ体を向けた瞬間、何かがお腹のあたり
にぶつかり尻餅をつく。そして何が起こったか分からないまま、力
いっぱいしがみつかれた。
﹁えっ?⋮⋮アユム?﹂
しがみついているヒトを見た瞬間、私は驚きで目を見開く。
どうして私の家にいるはずのアユムがここに?
﹃オグドォォォ。いっちゃ、やだああああぁぁぁっ!!﹄
しかし質問をする間もなく、アユムは叫ぶような泣き方で、今ま
でにないほどの声を出した。顔を真っ赤にして、言葉も日本語だ。
予想外の事態に私はどうすればいいのか分からず慌てた。
﹁えっ、ちょ。アユム?どうしたの?﹂
﹃いいごにしてるから。ひっく。おいでがないでえぇぇぇっ!!﹄
こんなに泣いたら壊れてしまうのではないかというぐらいの勢い
で泣かれて、狼狽する。
何でここにいるのとか、どうして泣いているのかとか、疑問は多
いが、それよりもアユムの体が心配だ。とりあえず落ち着かせない
とと思い背中を撫ぜるが、一向に泣きやまない。
アユムはいつもニコニコしていて、誰にでもすぐ懐く子だった。
その為、癇癪を起こしたかの様に泣き叫ぶ姿を見るのは初めだ。
﹃やだよっ。いっちゃ、やだああぁぁぁぁっ!ひどりにしないで、
おぐどぉぉぉ﹄
どうしよう。
939
何とかしなければいけないのに、こんな事初めて、どうしていい
のか分からない。
﹁だ、大丈夫。大丈夫だから﹂
何が大丈夫なのか私にも分からないが、ギュッとアユムを抱きし
めて、その言葉を繰り返す。
﹁私はここにいる。大丈夫だから﹂
このままでは、壊れるまで泣き続けるのではないかと思ったが、
徐々にアユムの声は小さくなり、いつしかすすり声だけになった。
その事に、ホッと息を吐く。
しかしアユムは泣きやんだものの、がしっとしがみついたまま離
れない。まるでこの手を離したら、私が消えてしまうと思っている
かのようで、力いっぱいしがみついてくる。
﹁オクトが酷い事をするから、アユムは起きてからずっと泣きっぱ
なしだったんだよ﹂
﹁⋮⋮あ、アスタ?﹂
アユム一人でこの船に来ることはできないので、アスタがここに
いる事は予想できなかったわけではない。しかし目が笑っていない
アスタを見た瞬間雷が落ちたような衝撃が私を襲う。
この船の上に本来いないはずのアスタは、笑みを浮かべているが、
その目は冴え冴えとしていた。コレはアスタが腹を立てている時に
よくする表情⋮⋮危険だ。
最近はアスタを見るたびにドキドキして、それを何と隠さなけれ
ばとうろたえていたが、今はドキドキではなくゾクゾクだ。目をそ
らした瞬間に殺されてしまうんじゃないかと思うぐらい、怖い。自
分の血の気が引いていくのが分かる。
﹁何でオクトは、ここにいるのかな?﹂
何でってホンニ帝国に行って、時の精霊に会う為だけど︱︱。
理由は色々あるが、今のアスタがそれなら仕方がないねと言って
940
くれる気がしない。誰もが何も話せず、波の音だけが響く。
⋮⋮もしかして、私、選択肢間違えました?
魔王のように佇むアスタを、アユムを抱きしめたままジッと見つ
める。アユムがしがみついているから逃げられないというのもある
が、それ以前に体が金縛りにあったかのように恐怖で動かない。
﹁あんな手紙一つだけ残して。俺がどれだけ、傷ついたか分かって
る?﹂
コツリコツリと足音を立てながら近づいてきたアスタは、私の前
まで来ると目線を会わせるようにしゃがんだ。
視界いっぱいにアスタが私の瞳に映る。もちろんそんな事されな
くても、私の視線は恐怖でアスタから離れることはないのだけど。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
私はトキワさんに会いにホンニ帝国に行きたくて。
アスタから逃げようとしたのも事実だが、私の事情に付き合わせ
るなんて迷惑はかけられないと思ったのも本当で。
﹁言いわけは、いくらでも聞いてあげるよ?﹂
怒っているわりに優しい言葉だ。しかしそれを全て、そのままに
信じてもいいような目をアスタははしていない。心臓が危険を知ら
せるかのように、早く鼓動を鳴らして苦しくなる。
﹁でも、逃がしてあげない﹂
そう言ってアスタは私の視界を奪うかのように、優しく私の頭を
抱きしめた。
941
43︲2話
﹁えっと、アユム。ご飯を作るから、手を離して⋮⋮﹂
﹁嫌っ﹂
アユムをヘキサ兄に預けようとして失敗して以来、アユムがべっ
たりと私についてくるようになった。まるで刷り込みされたひな鳥
のように、あらゆる場所へ付いて回り、隙あらばくっつこうとする。
とりあえず、アスタとアユムの件があったので、1日目の夕食作
りからは外してもらった。しかし働かざるもの食うべからずという
言葉があるように、流石に今日からは調理業務をしなければいけな
い。
朝はアユムが眠っている隙に作りに行ったのだが、その後再び盛
大に大泣きされてしまった。そして夕食作りの時間となり、再び試
練に立ち向かわされている。
﹁あーちゃんも手伝うから﹂
ギュッとしがみついて上目遣いでお願いされるとつい許してしま
いたくなるが、調理場は家の台所ではない。危険なモノでいっぱい
だ。
私も5歳の時に厨房に入ったというとんでもない経験をしている
が、私の場合は特殊事情だったので仕方がない。とはいえ、普通に
考えたらあそこは背丈の低い子供がいる様な場所ではない。
﹁厨房の中は危険だから﹂
﹁嫌っ﹂
まるで反抗期ですと言わんばかりに、アユムはいやいやを繰り返
す。
困ったなぁ。
942
今無理やり引き離したら、たぶんアユムは再び大泣きするだろう。
ヒトに泣かれるというのは元々苦手なのだが、あの壊れそうな泣き
方は怖くて苦手どころの話ではない。
かといって、夕食作りをサボるわけにはいかないし。
﹁オクトさん、ちゃんとお母さんしてる⋮⋮みたいだね﹂
厨房に行く途中で、アユムと話していると、カミュが声をかけて
きた。
﹁ぷっ。子育てに失敗したん︱︱﹂
﹁誰が失敗だ﹂
確かに突然甘えん坊になってしまったアユムだが、失敗とかない
から。アユムは甘えん坊でも、凄くいい子には変わりない。
私は失礼なことを言いかけたライに履いていた靴を投げつけ、見
事顔面に命中させた。
﹁体力ない割に、オクトさんって命中力はあったんだね﹂
﹁⋮⋮そうみたい﹂
自分自身知らなかった才能に、びっくりだ。
運動神経を含む獣人の才能はママのお腹の中に置いて来たに違い
ないと思っていたが、意外にそうでもないのかもしれない。
﹁いってぇ﹂
﹁まあ、今のはライが悪いね﹂
カミュの言葉にうんうんと私は頷いた。アユムの悪口は、私が許
さない。
﹁ただアユムがべったりなのは、置いっていったオクトさんが原因
だけどね﹂
﹁⋮⋮人聞きが悪い。ちゃんと、アユムの事はヘキサ兄とアリス先
輩に頼んできた﹂
別に育児放棄したわけではない。
943
それにこの判断は、アユムを思っての事だ。ここまできたら連れ
ていくしかないが、未知の場所に幼子を連れていくというのは心配
が多い。
﹁オクトさん。アユムの年齢と、現状を考えてみてみると分かると
思うよ﹂
カミュの言葉に私は首を傾げた。確かにアユムはまだ幼い。でも
なぁ。
﹁アユムは私がアスタに引き取られた時と同じくらいだし、言葉も
分かるから、もう大丈夫かと。人懐っこいから、可愛がられるだろ
うし﹂
言葉が全く理解できなかった時期ならいざ知らず、今のアユムは
だいたいの言葉を理解し話す事ができる。文字の読み書きはまだま
だだが、それでも話すことができれば何とかなるものだ。
そもそも文字を書けるのは貴族か商人ぐらいのもので、普通は書
けないものだし。
私もアユムぐらいの時に、住み慣れた一座からアスタに引き取ら
れたはずだ。
アスタから引き離されて海賊に攫われた時は流石に不安になった
ものだが、その時だってしばらくすると慣れた。今のアユムにとっ
て私はアスタの立場みたいなものだし、そう考えると最初は頼る相
手が変わって不安でも、何とかなりそうな気がする。
﹁あー⋮⋮そっか。オクトさんもあんまり恵まれていない幼少時代
だったね。ただね、アユムがすぐに懐いたりしているのは、オクト
さんと仲がいいヒトだったからだよ。アユムにとっての今の世界は、
全部オクトさんを通して繋がっているだけだからさ﹂
﹁そうなの?﹂
ぎゅっと私にしがみつくアユムの頭を撫ぜながら考える。
確かにアユムと交友関係がある場所は、私の知り合いがいる所だ。
村の子供と遊んでいる姿は、よく考えるとあまり見た事がない。
944
そしてアユムがいた世界を知っているのも、私だけだ。その点を
踏まえると、私にアユムが執着するのも分からなくはない。でも混
ぜモノである、私なんかに懐いてもあまりお得な世界じゃないんだ
けどなぁ。
きっと伯爵様であるヘキサ兄とかに可愛がられた方が順調な人生
を歩めそうだ。まあ素直で可愛いアユムがそんな打算的に動いてい
たら、それはちょっと嫌だけど。
﹁アユム、ごめん﹂
私は前世の知識があったからか、アユムのように素直に誰かを求
めたりした記憶がない。だからアユムの不安を全て理解してあげる
事はできないだろう。それでもあれだけ大泣きされれば、アユムが
不安で不安で仕方なかったのだという事は分かる。
﹁今度何処かに行く時は、必ずアユムにも相談する。だから、この
手を離して︱︱﹂
﹁嫌っ!﹂
理解はしたけど、アユムはそれでも嫌らしい。
はて、どうしよう。
﹁アユム。あんまり我儘を言っていると︱︱﹂
﹁仕方ないなぁ。アユム、ちょっといいかな?﹂
私の代わりに諭しかけたライを、カミュは手の平を向けて止めた。
そしてアユムに近づくと、目線を合わせるようにしゃがみ耳元で何
かを囁く。
﹁⋮⋮ほんとう?﹂
﹁うん。本当。一緒に来たら教えてあげるよ﹂
アユムは私とカミュの顔を見比べた。そしてそっと私から手を離
すとカミュの手を握った。
離してもらわないと困るのだが、いざ離れてしまうと寂しいもの
945
だ。だが不安そうな顔をしているアユムをこれ以上混乱させるわけ
にはいかない。
﹁あのね。オクトが料理作っている間だけ⋮⋮カミュといる。だか
ら⋮⋮ね﹂
﹁うん。ちゃんと迎えに行く﹂
料理をする間だけ離れているだけなのに、なんだか大げさな別れ
の言葉だ。
しかし私の言葉を聞いたアユムは、嬉しそうに笑った。
◆◇◆◇◆◇◆
﹁水よ。鍋の中へ﹂
﹁﹁﹁﹁おおっ∼﹂﹂﹂﹂
水属性の魔方陣を使って、鍋の中に水を満たすと、海賊達から歓
声が上がった。魔法陣としては大した事のないものだが、この船で
魔法を使えるのは船長であるネロぐらいのものなので、魔法という
モノがそもそも珍しいらしい。
﹁流石、先生っすね!﹂
﹁あー、どうも﹂
946
褒められれば悪い気はしないのだが、若干恥ずかしい。
﹁それにしても、魔法ってすごいっすね。船の上での水は死活問題
っすから、凄く助かるっす﹂
確かにヒトの体の大部分は水。脱水はとても怖いものだ。
﹁今まではどうしていたの?﹂
ふと気になり、私は聞いた。よく考えると、長期間水をどうやっ
て保存しているのだろう。一度煮沸消毒とかするのだろうか⋮⋮。
﹁とにかくいっぱい積んでおくんっすよ。今回も積んではあるっす﹂
﹁えっと、腐らないの?﹂
﹁まあ、藻が生えても一応飲めたぞ﹂
えっ?藻?
料理長の言葉にぞっとする。⋮⋮まあでも、周りにある水は海水。
飲む事はできないので、腐らない限りそれで堪えしのぐしかない。
﹁後は雨水を溜めたりするっす﹂
﹁そう⋮⋮﹂
雨水か。腐った水よりはマシだけれど⋮⋮あくまでマシというだ
けだ。
﹁なんなら、食べ物が底を尽きかけた時の話もしてやろうか?﹂
﹁⋮⋮またの機会でいい﹂
なんとなく嫌な予感しかしないので、私は船長の提案を断った。
だって食べ物が底を尽きかけたならば、何とか食べられるものを捕
獲するしか方法がない。それが魚ならいいが⋮⋮止めよう。黒光り
しながらルームシェアするあの害虫とかも食料カウントされていた
ら、今後ロキ達とどう向き合っていけばいいか分からなくなりそう
だ。
﹁だから、本当に魔法って凄いっす。食べ物も魔力で冷やして長持
ちさせられるし、水を作り出す事もできるっすからね﹂
947
﹁水は作り出しているというか、蒸留みたいなものだけど﹂
﹁蒸留っすか?﹂
﹁うん。海水を一度水蒸気に変えて、鍋の中で水に変えているだけ﹂
何も一から水分子を作りだしているわけではない。
そんな事をしようものならば、途方もない魔力を使うのだ。私が
やっているのは、水の形を変えて運んだりしているにすぎない。
勿論蒸留を実際にやろうとすると、使う熱量は割に合わないもの
となるだろう。その点魔法で水の形状を変えるのはそれほど力のい
らないモノなので、便利だという事には間違いない。
﹁蒸留を実際にこの船でやるのは、流石にできないっすからね。や
っぱり魔法は便利っす﹂
﹁あー、うん﹂
どうやらロキは蒸留を知っているらしい。
学校では中々この理屈が伝わらなくて困っていたのだが⋮⋮予想
を裏切る反応に内心驚く。ロキはもしかしたら理科とかが学べるよ
うな環境の国の出身者なのかもしれない。
そもそもこの海賊、本拠はどこなのだろう。魔法関係に疎いとい
う事は、他の大地の可能性が高い気がするけれど⋮⋮。
﹁先生、いっそこのままここに就職しないっすか?﹂
﹁えっ、無理﹂
﹁そんな即答しなくても。待遇はいいっすよ?﹂
いくら待遇がよくても犯罪者の所に就職って、そこまで人生投げ
る気はない。今回は本当に特別なのだ。そもそも暴走の危険がある
混ぜモノが、船の上にいるというのもあまり良くはないだろう。
ただホンニ帝国まで陸路で行くのは、旅芸人とかでない限り難し
いらしいので仕方がない。
﹁そろそろ、お前らくっちゃべってないで、仕事を始めろ﹂
料理長に言われ、私達はそれぞれ分かれて調理を始めた。
948
特に本日のメニューはカレーなので楽しみだ。私としては、よく
ぞ古代から生き残ってくれたと感謝したくなる料理の一つである。
とはいえ、カレールーなんて素晴らしい発明はまだされていない
ので、香辛料の組み合わせで作るしかない。私の前世知識には香辛
料使い方は含まれていなかったので、その辺りは料理長に教えても
らうつもりだ。
是非このメニューは家でも実現させたいものである。
﹁先生でも知らない事ってあるんっすね﹂
﹁当たり前﹂
ロキと一緒に野菜を切りながら、私は自分がどれだけ凄いイメー
ジになっているかとため息をつく。今日の料理は作り方を知らない
から学びたいと言ったらすごく驚かれた。
だって相手は料理長。私より料理を知っていて当然だ。
﹁私はそれほど凄いヒトではないから﹂
﹁そうっすか?でもそういえばこの間、船長が凄く心配性なお父さ
んをしていてウケタっすし。確かに先生はモノ知りっすけど、他は
普通っすもんね﹂
﹁えっ?お父さん?﹂
私は自分の事とよりも船長に対して使われた単語の方が凄く気に
なった。
﹁ほら、先生がホンニ帝国に行きたいと言いだした日の事っすよ。
あのヒト部屋の中で最初は笑いながら外にいる先生を見ていたけど、
その内深刻そうな顔になって迎えに行ったんっすよ。俺は他の用事
が入っちゃって、あの時迎えに行けなくて申し訳なかったっす﹂
⋮⋮あの船長が心配かぁ。
うーん。ヒトは見かけによらないというか。でも最初は笑いなが
ら私を観察していたというのがすでに性格悪い気がするし。何とも
複雑な気分だ。
949
﹁それに、ファルファッラ商会の会長の件もどうにかできないかっ
て悩んでたっすよ。俺としても、ぽっとでの商人に先生をあげるの
は癪っすけどね﹂
それは⋮⋮私が悩んでいたからだろうか。
まあ実際に悩んでいたのは、アリス先輩の伯父さんの件ではなく、
アスタの事なので微妙に意識のずれが生じているが⋮⋮。
にしても船長が心配するって、何か企んでいるように思えてない
らないのは、日ごろの行いの所為だろう。これがロキやクロだった
ら、普通にありがとうで済むのだけど。
﹁もしかして、船長って仲間想いとか?﹂
﹁そうっすね。懐は深い方だと思うっすよ?下のものにも怖がられ
つつ、好かれてるっすから﹂
﹁へぇ﹂
とても5歳児を厨房に放り込んだ男とは思えない所業だ。その為
ロキの話をそのまま鵜呑みにはできなかった。
﹁その目は信じてないっすね﹂
﹁いや。⋮⋮まあ﹂
きっと海賊ではない私の視点だから、船長が碌でもないヒトに見
えるのだろう。もしも私が海賊で、船長が自分のボスだったら、ま
た変わるような気がする。
そんな話をしているうちに、着々と料理はでき上った。
私は調理器具を全て洗いきると、アユムを迎えに向かう為、エプ
ロンを脱ぎ、ハンガーに引っかける。カミュが面倒をみてくれてい
るが、先ほどの様子を考えると、早く行った方がいいだろう。
﹁先生﹂
﹁何?﹂
﹁船長だけじゃなくて、この船員全員馬鹿だから、皆先生が部外者
ってこと忘れてるんっすよね。だからいつでもうちの名前を名乗っ
950
ていいっすよ﹂
﹁⋮⋮考えとく﹂
まあ考えた結果、採用は絶対しないけど。
でもそんな風に思ってもらえるのは、とてもありがたい事なのだ
ろう。私は笑いながら、ロキに手を振って厨房を後にした。
さて、何処にアユムは居るだろう。
カミュ達がいそうな場所を考えて廊下を歩いていると、目の前か
らアユムが、私の方へ向かって走ってきた。
どうやら楽しく過ごせたようで、とてもご機嫌な笑顔である。
﹁オクトッ!おかえり!!﹂
﹁ただいま﹂
別に出かけていたわけではないが、アユムは待っていてくれたの
だからと思い、素直に返事する。するとアユムは再びぎゅっとしが
みついた。
いつもの調子に戻ったのかなと思ったが、ここはやっぱり譲れな
いらしい。まあでも、笑顔でいてくれるなら何よりだ。
﹁あのね、ボクね、がんばるから!﹂
﹁へ?﹂
ボク?
アユムの一人称が突然変わって、私はぎょっとした。確かにいつ
までも自分の名前を一人称にしていたらまずが、それにしてもボク
って⋮⋮。
﹁カミュみたいになって、オクト守るの!﹂
﹁はい?﹂
えっ?しかもカミュを目指すの?
一体、アユムの身に何が起こったのか?
﹁えっと⋮⋮アユム?﹂
﹁そしたら、オクトにおいてかれないもんね﹂
えへへっと笑う姿は可愛らしいが、ちょっと待て。アユムは男の
951
子みたいだけど、まぎれもなく女の子である。
アユムが元気になったのはいいけれど、ボクっ子になってしまっ
た件について。
ボクっ子は萌要素としては最適だが、⋮⋮いやいやそんなものな
くてもアユムは可愛いから。
躾けをする身として、私は早急に何とかしなければと思った。
952
43︲3話
アユムに案内してもらい、私はカミュとライがいる部屋までやっ
てきた。
のんびりと椅子に座り雑談している2人の前まで行くと、私は腰
に手をやり睨みつける。
﹁カミュ。アユムに何を吹きこんだ?﹂
そして開口一番、そう問いただした。
﹁何って、僕は別に大したことは言っていないよ。ね、アユム﹂
﹁ねー﹂
仲がよろしいようで。
アユムが元気になったのは良いことだし、カミュと仲良くなるの
も構わない。でも⋮⋮。
﹁⋮⋮アユムがボクっ子になってるんだけど﹂
今のままで十分アユムは可愛いので、ボクっ子属性はいらないで
す。
森の中で暮らしているので、どうしてもアユムにフワフワな女の
子らしい服を着せて上げられない。しかし彼女はまごうことなく女
の子。しかも以前、ドレスを着た時にすごく喜んでいたので、女の
子の恰好が好きなのも間違いない。なのでそんな頑張ってボーイッ
シュ路線に走らなくてもいい。
﹁ほら。オクトさんに置いてかれてアユムが泣いていたからね。僕
みたいに頼りにされるようになれば置いてかれないよと教えてあげ
たんだよ﹂
﹁ボク、カミュみたいになるの!﹂
確かにカミュは国家権力を持っているし、頭もいいので、よく頼
ってしまう。今回の事も私が相談したのはカミュで、海賊以外で一
953
緒についてきてもらったのはカミュとライのみだ。ただしライは、
カミュの護衛だからおまけのようなもので、実質的に言えばカミュ
だけである。
⋮⋮でも、よりによってアユムの目指す相手がカミュ。
頭はいいし、礼儀正しいし、上っ面だけ考えれば全く問題ない。
しかし付き合いの長い私は、腹黒、ドS、よくヒトの事を勝手に利
用してくれちゃったりするちゃっかり王子様ということも知ってい
る。カミュはただ優しいだけではない、ひねくれた性格の持ち主だ。
そんなカミュを見習うというのは、アユムの教育上いかがなものな
のだろう。
﹁でもさ。アユムが男の子みたいにみえた方が安全だし、いいんじ
ゃないか?﹂
﹁そりゃまあ﹂
ライに言われて私はしぶしぶ頷いた。
女の子は人買いに攫われやすい。特にアユムの場合は、売れ行き
がいい人族だ。私のように魔法で撃退できるわけでもないので、極
力危険を避けるには男の子のフリをするのが一番である。知らない
国に行くのならなおさらだ。 ﹁それにオクトさんが厨房に行っている間は、アユムは僕を見習っ
て一緒に勉強をするみたいだよ。そう考えれば一人称なんて些細な
ことだだと思わない?﹂
うーん。うぅぅぅぅぅん。
確かに、間違いはない。一緒に厨房に行けないわけだから、カミ
ュがアユムの面倒を見てくれるのはとてもありがたい話だ。しかし
これでいいのだろうか。それに問題点は一人称だけではないような
⋮⋮。
﹁オークートッ!!﹂
﹁ッ?!﹂
954
突然背後から抱きしめられて、私は心臓が口から飛び出るかと思
った。
続いて頭の中に、ひぃぃぃぃっと引きつった叫び声が木霊する。
ただし現実に叫び声をあげたら厄介な事になる可能性が高いので、
私は石像の様にかたまっているだけだ。
危険な時こそ、冷静な対応が大切である。
﹁あ、アスタ?えっと⋮⋮何?﹂
﹁オクトを補充中。少し待って﹂
まったくもって意味が分かりません。
補充って何?いつからお前は不思議ちゃんキャラになったんだと
言いたい。しかしアスタにがっしりと抱きかかえられると、悲鳴を
上げてぶっ倒れないようにするだけで精一杯になってしまう。
精神状態はギリギリでツッコミすらいれられない。
今までファザコンだと思っていた私の感情は厄介で、私の行動を
制限し冷静さを失わせよとする。早く何とかしなければと思うが、
少女マンガ特有の安直な結論に走れば、もっと苦しい事になるのも
分かっている。 それだけは絶対駄目だ。今の私にそんな資格はない。
とにかく最低でも時の精霊に会ってひと段落するまでは、うふふ、
あははなお花畑の様なピンク思考になるわけにはいかなかった。い
や、ひと段落してからでも、そんな自分嫌だけど。
それに私には、もう一つ決着をつけなければいけない事がある。
私は今まで避けていた、心臓に悪いけれど解決しなければならな
い事を思い浮かべて気持ちを落ち着かせようと試みた。こっちの内
容は、私のピンク色になりそうな脳みそを一気に真っ暗どん底に突
き落としてくれそうなものだ。そろそろ逃げるわけにもいかないし、
冷静になるにはちょうどいい。
スーハ︱と深呼吸をする。
955
幸いここにはカミュやライ、それにアユムがいる。もしも私では
何ともできない、大変な事になったらきっと彼らが助けてくれるは
ずだ。⋮⋮なんか、ヒトに頼るしかない自分が情けないけれど、私
だって命が惜しい。特にアスタの機嫌に関わりそうな話は、慎重に
ならなければ。
﹁あ、あのさ。アスタ﹂
﹁ん?何だい?﹂
アスタも私の真剣な声に気がついたようで、抱きついていた腕を
放してくれた。
私はもう一度深呼吸をし、意を決して振り向くと、アスタをまっ
すぐに見上げる。
﹁えっと、アスタ。海賊船まで、どうやってきた?﹂
アユムの件があって中々聞けなかったが、アスタとアユムが、ど
うしてこの海賊船の上にこれたのかが、私の中でずっと引っかかっ
ていた。
船は海の上で、しかも移動し続けているので転移魔法をする時に
位置の特定が難しい。
それなのに私がいる場所に彼らは転移してきたのだ。
﹁もちろん転移魔法だよ﹂
﹁えっと、それは分かるけど⋮⋮﹂
というか転移魔法しかありえない現れ方だった。でも転移魔法だ
けでは説明できない部分がある。
ただしこんな風にアスタが私の居場所に的確にやってくるのを、
私は何度か体験したことがあった。ただしそれは、アスタが記憶を
失う前の話。まだ私が学生であったころのことだ。
﹁じゃあ、逆に聞くけど、どうやったと思う?﹂
﹁たぶん⋮⋮追跡魔法を使ったのだと思うけど﹂
956
あの頃は心配性なアスタが、追跡魔法で、いつでも私の居場所を
把握していたからできた事。
今回アスタがこれほど的確にここにこれたのは、まず間違いなく
その魔法が関係しているに違いない。ただこの魔法をいつの間に私
にかけたのか。
考えられるのは2つ。
1つは、再会してから今日までに魔法をかけたという方法。
もう1つは、⋮⋮実はアスタは記憶が戻っており、以前の追跡魔
法を使っているという方法。
良く考えると、私はアスタに追跡魔法を解いてもらった記憶がな
い。卒業したら解くという約束だったが、その時すでにアスタの記
憶はなかったのだ。
前者も空恐ろしいものを感じるが、後者は命の危機が待っている。
もしも記憶が戻っている場合、私はアスタを見捨てたわけではない
という事をきっちり説明しなければいけないだろう。
でもどんな理由があっても、追跡魔法は流石に犯罪です。
あの時は親子だから許されたが、今はただの他人。それってスト
ーカー⋮⋮いやいや。この世界にそういう犯罪はまだないけれど。
とはいえ、イケメンだから何でも許されると思うなという話しで
ある。そんな事しているから、私とアスタの仲を貴族のお嬢様方に
疑われて、嫁候補が全然寄りついて来ないのだ。頼むから、そんな
残念イケメンにならないで下さい。
﹁んー。内緒﹂
﹁へっ?﹂
﹁もしも追跡魔法だったらどうするわけ?﹂
どうって⋮⋮。
﹁⋮⋮私に対してなら、外して欲しい﹂
957
﹁それは嫌。はい、結論でたよね﹂
いやいやいや。
まったくもって、結論でてませんよ。強引な終わり方に絶句する。
﹁えっ、えっ?﹂
﹁だって追跡魔法を使っているとしても、俺は解除する気はないし、
オクトの事は逃がしてあげないと言ったよね。それとも何?他に知
りたい事があるわけ?﹂
にっこり笑って横暴な事を言う魔王様に私は何と切り返していい
か分からず、言葉に詰まる。本当に聞きたいのは、以前の記憶があ
るかないかだが、まさかこんな話になるとは思わなかった。
﹁というわけで、オクトは素直に俺に愛されなさい﹂
ひぃぃぃぃっ?!
再び抱きしめられて、私は気を失いそうになる。何で、どうして
こうなった。素直に愛されて、たまるかぁと思うが、思考が混乱し
て上手く抵抗できない。
折角勇気を振り絞って切り出したのに。
どぉぉぉぉん。
腹の底に響くような、重たい音と振動がして、私の混乱した思考
は一時中断された。何が起こったか分からず身構える。
﹁きゃあっ!﹂
揺れにびっくりしたアユムが私にしがみつく。
﹁な、何?﹂
﹁うーん。これは、何処かの船とやりあう事になっちゃたかな﹂
のんびりとした口調でカミュが言ったが、全然内容がのんびりし
たものに感じない。
﹁まだ沖にでて間もないのに、早かったな﹂
﹁えっ?何?﹂
958
早いって何?やりあうって何?
状況が読めずに私はカミュとライの顔を交互に見た。そうしてい
る間も、どおぉぉんっとまるで太鼓でも打ち鳴らしたような大きな
音が鳴り、船が揺れる。
﹁つまり他の海賊が、この船の水や食料とか色々な物資を狙って攻
撃をしてきているんだよ﹂
﹁同じ海賊なのに?﹂
﹁海賊という名前だけど、決して同じモノじゃないからな。足りな
くなったら他の船から調達するに決まっているだろ。全面降伏した
ら、命は奪わないっていう暗黙のルールはあるけどな﹂
⋮⋮なんという弱肉強食。
でも確かに、海賊は海の賊。それぐらいは当たり前なのかもしれ
ない。
﹁くそっ。俺の癒しの時間を邪魔しやがって﹂
アスタは低い声を出すと、忌々しげに舌打ちした。その姿はどう
みても正義の味方ではなく、悪人だ。
﹁ちょっと絞めてくる﹂
﹁えっ?絞めるって﹂
アスタの手が離れホッとするが、同時にアスタの不機嫌な様子に
ビクっとする。
まさかと思いますが、敵対している船を沈めてくるわけじゃない
ですよね。降伏したら命までは奪わない精神を見事に壊してくれそ
うなアスタの様子に慌てる。
﹁俺の癒しの時間をあいつ等は邪魔したんだぞ?海の藻屑になるの
は当たり前だろ?﹂
﹁いやいや。したんだぞとかじゃなくて。もっと穏便に︱︱﹂
何がどう当たり前なんだ。
確かにもしもこの船の上でドンパチやられたら、アユムが危険に
959
さらされるので迷惑だ。しかしアスタに船ごと海の藻屑に変えられ
ても仕方がないと思えるほどは恨んでいない。穏便に済ませれそう
なら、積極的にそうした方がいいはずだ。
﹁大人しく、待っていて。すぐ戻るから﹂
戻るからじゃないってば。
しかし私がその言葉を伝える前に、ふっと頭の上にアスタの顔が
降りてきた。
そして︱︱チュッという軽い音がする。
﹁じゃあ行ってくる﹂ そう言って、アスタは足取り軽く、部屋から出ていった。
残された私は、茫然とそれを見送くる。
そして。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮にぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ?!﹂
数秒置いて、力いっぱい叫び声を上げた。 い、今の何?えっ?ちょ、どういうっ?
やっぱり、今のは髪の毛にキスを落とされ︱︱ぎゃぁぁぁぁぁぁ
ぁっ?!
今のアスタの行動を理解しようとする度に、脳内では嵐が吹き荒
れる。心臓が凄いスピードで早鐘を打ち、頭がくらくらしてきた。
私は敵の船を沈める為に部屋から出ていったアスタを一刻も早く
追いかけて、暴走を止めなければいけない。しかしそんな考えも事
も吹っ飛ぶぐらいの衝撃だった。
﹁オクトさん、落ち着いて﹂
﹁ここここここっ、これが落ちついてっ?!﹂
960
無理。無理。無理。色々、無理。
アールベロ国のヒトは、子供に対してキスをしたりもするが、私
はもうアスタの娘じゃない。だからそんな事を本来されるはずもな
くて。でも実際されて、本当はおかしいはずなのに、私の気持ちは
気持ち悪いとかそういう感情ではなくて︱︱あああああああっ?!
﹁オクトさん、一時的だけど楽にして上げようか?﹂
﹁へ?﹂
﹁おい、カミュ。何を言って︱︱﹂
頭の中も心の中もごちゃごちゃで大混乱中の私に、カミュはにっ
こりと笑って話しかけてきた。
楽に?
えっ?なれるの?どうやって?
﹁僕としても、このままアリス夫人の思惑のまま事が運ぶのも面白
くないし。今の状況は色々フェアじゃないと思うんだよね﹂
カミュが何を言っているのか理解できない。
それでも楽にしてくれるという言葉が私を少しだけ冷静にさせる。
一時的でも何でもいいから、何とかしなければ。そうでないと、私
はとんでもない事実を認める事になってしまいそうだ︱︱。
﹁一時的なものになるかどうかは、オクトさん次第だけどね﹂
そう言いながら、カミュは新しい考え方を私に伝えた。
961
44−1話 曖昧な前世
﹁待ってっ!﹂
船の上のデッキまできた私は、今にも海賊に攻撃をしようとして
いたアスタを止めた。海に向けて手をかざしていたので、本当にギ
リギリセーフだったようだ。
⋮⋮間にあってよかった。あと一歩遅かったら、大量虐殺になっ
ていた可能性が高い。
﹁アスタ、ここは私に任せて﹂
﹁オクト?﹂
キョトンとした顔をするアスタを見て、私は不敵に笑ってみせた。
﹁オクト、危ないから下の部屋に隠れて︱︱﹂
﹁クロ、大丈夫だから﹂
船を近づけて交戦しようと準備していたクロにも私は笑いかける。
私が子供で、いつまでも守られているばかりの存在と思ったら大間
違いだ。
晴れ晴れとした気分で、私は海賊を冷静に観察した。
カミュと話してから、大荒れだった心の中が、今はまるで凪の様
だ。今なら、何だってできる気がする。
とりあえず現在海賊がしかけてきている飛び道具は鉄の塊の大砲
のようだ。魔法が使われている形跡は全くない。となれば、たぶん
あの船には魔術師ないし魔法使いがいないのだろう。
ならば小手先の魔法で誤魔化せるはずだ。
﹁水の精霊。風の精霊。あの船を覆うぐらいの霧を作りだして﹂
霧の発生条件は、多量の水蒸気を含んだ空気と温度。幸いここは
962
水に恵まれた場所で、温かい湿った空気を一気に海の水で冷やす事
ができる。
ここ一帯に霧を発生させるというのはかなり規模の大きい魔法だ。
しかし材料がそろっているので、例えロスの多い精霊魔法でも使う
魔力は節約できる。
私の命令に従って、精霊達が発生させた霧は、船を徐々に隠して
いく。そしてすっぽりと霧が敵船を覆ってしまうと、何度か脅す為
に投げ込まれた大砲が一時的に止まった。
﹁なるほど。相手の目隠しをして、その間に逃げようというわけか﹂
﹁うん。船長には悪いけど、今回は安全を優先させてもらう﹂
どうやら濃霧が突然発生した為に、船長は直々に様子を見に来た
ようだ。ただもしかしたら、船長は争いを避けようとする私の行動
を咎めに来たのかもしれない。
もちろん交戦になり勝つことができれば、この船も相手から色々
物を奪い取ることができる。なので本来の海賊の姿として、この場
面では戦うを選択するのが正しいはずだ。
しかし今回の旅には、まだ幼いアユムがいる。私自身も危険な橋
を渡る気はないし、無闇に恨みを買う気もない。なので簡単には譲
れない。
﹁だがこれだと俺らの船も立ち往生だな﹂
﹁分かってる﹂
遮断するものがない海上で、霧が発生する場所を細かく限定する
のは骨が折れる。一番霧が濃いのは敵船だが、私の魔法は自分達の
船の周りにも霧を発生させ、視界を悪くしていた。
何とか船の先が見える程度の視界なので、これでは海にある岩な
どは全く見えない。確かのこのままでは船を動かすのは危険すぎて
できそうもない。
963
でもそれは、このままの何もしない場合だ。 私は今度は紙とペンを召喚すると、紙に魔法陣を描きはじめた。
これから使う属性は自分にはないもの。精霊にお願いした方が早
いが、使う魔力量を計算すると、倒れる可能性もある。
それに相手もこんな状態では攻撃してこないので、急いで魔法を
使う必要もない。
﹁我が指定の範囲の気温よ上がれ﹂
魔法陣を書き終わった私は、さっそく発動させた。
火の属性と風の属性の合わせ技。ぶわりと熱風が自分の髪をなび
かせさらに船の前方に広がる。先ほどの精霊魔法に続けて2つ目の
大技。予想よりも自分の魔力が目減りしたのを感じる。しかしでき
るだけその事を悟らせないように気をつけた。
私の狙い通りにするには、倒れたり疲れた様子を見せて、心配さ
れるわけにはいかない。
熱風は私が指定した範囲のみを温め、そして温まった場所から順
に霧が晴れていく。
﹁⋮⋮どういう原理だ?﹂
﹁霧を消すのに水魔法じゃないのか?﹂
徐々に消えていく霧を見て、アスタと船長が同時に聞いてきた。
﹁気温が上がれば、飽和水蒸気量⋮⋮えっとまあ空気中に溶けきれ
る水の量が増えて、結果的に霧が消える。たぶんこっちの方が水魔
法よりも魔力効率がいいと思って﹂
一応水の属性は持っているが、霧の発生と消滅を水の属性だけで
行うのは意外に魔力を使う。少量ならまだしも広大な場所で行うな
らば、自然の摂理に従った方が魔力を使う量を節約できる。
﹁あまり良く分からないが⋮⋮。それにしても、いつもやる気のな
いオクトが、海賊を蹴散らす手伝いをするなんてな。一体どういう
964
風の吹きまわしだ?﹂
船長に言われて、私はチラリとアスタを見た。
今のアスタは、私を甘やかす時の激甘な表情ではなく、何処か興
味深そうな、感心したような表情をしている。それを見た瞬間、私
は勝ちを悟った。いや、別に勝ち負けの話ではないのだけど。
﹁私も守られてばかりじゃないから﹂
﹁オクトかっこいいっ!﹂
堂々と宣言すると、パチパチとアユムが拍手をする。それに気分
を良くしながら、私は先ほどカミュに言われた事を思い返した。
◆◇◆◇◆◇
時間は少し前にさかのぼる。
自分の感情と、アスタの豹変に大混乱していた時に、カミュから
思わぬ事を言われた。
﹁オクトさんは、アスタリスク魔術師の事好きなんだよね﹂
﹁な、なななっ?!﹂
何言いだしてくれるんですか、この王子様は。
さらなる衝撃を落としそうな発言に固まっていると、カミュはさ
らに質問を続けた。
965
﹁じゃあ、僕の事は好き?﹂
﹁はい?﹂
﹁後、ライやアユムはどう?好き?嫌い?﹂
﹁どうって⋮⋮そりゃ勿論、好きだけど﹂
カミュやライに面と向かって好きだと言うのは少し恥ずかしかっ
た。しかしアユムには照れ隠しというものは通じなさそうだし、下
手に誤魔化した所為で落ち込まれるのも困る。なので私は、恥ずか
しいという思いを飲み込み、素直に伝えることにした。
彼らだけでなく、ヘキサ兄やミウ、アリス先輩、それにクロや海
賊の皆も同じだ。好きか嫌いかで聞かれたら間違いなく前者である。
﹁なら別に、オクトさんがアスタリスク魔術師が好きでも、そのこ
とは特別ではないよね﹂
﹁それはまあ⋮⋮﹂
確かにその点だけを見れば、カミュに言われた通りだ。しかしそ
れだけではないから困っている。
毒食らわば皿まで。すでに好きだとか恥ずかしい事を言っている
のだ。こうなれば全てさらけ出してカミュに相談してしまおう。
何の解決にもならなくても、相談すれば多少はスッキリするはず
だ。
﹁でも私はアスタの友達に嫉妬した事もあるし、アスタに彼女がで
きるのを応援したいのに、同時に寂しいと思ってしまう。それにア
スタに認められたいと思ってしまうから⋮⋮こんな異常な感情、ど
うしたらいいのか︱︱﹂
この感情は、明らかに普通ではない。
どう考えてもアスタの事を特別視してしまっている。昔なら、た
だのファザコンで済まされたのに、今はその言葉が使えない。
﹁うん。つまりオクトさんはアスタリスク魔術師を尊敬して、でき
たら対等な友達になりたいと思ってるんだよね﹂
﹁そう、友達に⋮⋮へ?﹂
966
友達?
カミュの話が私の想像したモノと違って、私は目を瞬かせた。
﹁まずアスタリスク魔術師に認められたいのは、オクトさんがアス
タリスク魔術師の事を自分よりも上だと思っていて、尊敬している
からだよね。実際凄い魔術師だし、どんな魔術師でもきっと彼に認
められたいと思っているよ﹂
まあ、確かに。
性格に難ありな部分があるし、家事は一切できない。仕事はでき
ても同僚の方に迷惑をかけるという厄介なヒトだが、魔法に関して
は凄い。
新しい魔法を使うなら、普通は魔方陣を書き設計する。しかしア
スタはそんな事をせずに新しい魔法を発動する事ができるのだ。
この点だけ見れば、確かにアスタを尊敬しない魔術師はいないだ
ろう。
﹁それに元々オクトさんは、アスタリスク魔術師の弟子のようなも
のだしね。認められたいと思ってしまうのは仕方がないことだよ﹂
﹁うん。まあ⋮⋮﹂
魔法学校で学んだというものの、基礎の部分は全てアスタに教え
てもらった。その基礎があるからこそ、今の私の魔法があると言っ
ても過言ではない。
魔法に関して私がアスタを尊敬しているのは間違いないだろう。
﹁そしてアスタリスク魔術師に彼女ができたら、その彼女にかかり
きりになるかもしれない。そうしたら寂しいと思うのは当たり前だ
よ。ほら、オクトさんだって突然僕が結婚してもう二度と会えない
と言ったら、寂しいよね﹂
﹁そりゃ、まあ。でも祝福はする﹂
よく顔を合わせるヒトと突然会えなくなればたぶん寂しい。でも
友人の幸せを否定するのは気が引けるからちゃんと祝福して上げら
967
れるはずだ。
﹁なら、アスタリスク魔術師の時は祝福しないのかい?﹂
﹁それも⋮⋮するけど﹂
どれだけ寂しくても、アスタが幸せならば祝福できるとは思う。
だってアスタには幸せになってもらいたいし⋮⋮。だから可愛いお
嫁さんを貰ってもらいたいと思っているのだ。多少嫉妬をしてしま
ったとしても。
﹁そうだよね。それにアスタリスク魔術師は魔族だから、結婚した
らお嫁さんの事ばかりにかかりきりになる可能性が高い。だとする
と寂しく思うのは当然の事だよ﹂
そっか。当然なの⋮⋮か?
なんだか狐につままれたような気分だが、今のところカミュが間
違った事を言っているようには思えない。確かにずっといっしょに
いた相手と突然会えなくなったら寂しい。これはアスタには限らな
さそうだ。
﹁それから、友達や恋人に嫉妬するのだって、友達同士なら良くあ
ることだよ﹂
﹁えっ。よくあるの?﹂
﹁ほら、この子が1番の親友とか順位をつけたりする子っているよ
ね。でもお互いが1番の親友とは限らないから、ずれが生じる場合
がある。相手にとって自分の価値が低いと、自分より高く評価され
た子を嫉妬したりすると思うんだ﹂
うーん。そうなのか?
どうなんだ?
私はあまり順位をつけないからアレだが、あえてつけるなら確か
にアスタという存在は私の中での順位が高い。しかしアスタの中の
私はどうなのか。アスタの親友に負けている可能性は高いし、死ん
だ相手を追い抜くというのはむずかしいだろう。またアスタに彼女
ができればどう考えても私の順位は下がる。
968
⋮⋮だとするとカミュが言う様に嫉妬してもおかしくはなさそう
だ。
﹁ほら総合的に考えると、オクトさんはアスタリスク魔術師を尊敬
していて、対等になりたいと思っている。対等になりたいという事
は、つまり友達になりたいんじゃないかな?アスタリスク魔術師と
は年齢が離れているから、どうしても子供扱いされてしまうし、難
しいだろうけど﹂
なるほど。
目からうろこだ。
確かに今までアスタがやってきた、抱きしめたり、頭を撫ぜたり、
髪にキスを落とすのは、全部子供に対して行うしぐさだ。決して私
を対等な大人とみての行動ではない。
私が勝手にホンニ帝国に行こうとしたのを怒っているのも、私が
頼りないから心配してという可能性が高いわけだし。
﹁そっか⋮⋮そうなんだ﹂
﹁うん。だからオクトさんは、難しい事を考えずに、アスタリスク
魔術師に認められる様に頑張ればいいんだよ。年齢の差は埋まらな
くても、オクトさんだって賢者様と呼ばれる素晴らしい魔術師なん
だからさ﹂
私のこの感情は尊敬で間違いないし、アスタと対等になりたいの
も事実。しかしこのままではアスタの娘もしくは妹ポジに収まって
しまう。だからきっと関係に名前が付けられなかったに違いない。
親子であれば諦めも付いたが、今はそうではないわけだし。
私は友達になりたいけれど、アスタは私を子供だと思っていて、
決して友達だとは思ってくれないだろう。だとすれば、アスタに私
の実力を認めてもらって、まずは対等になる事を目指すべきだ。
﹁カミュ、ありがとう﹂
好きという感情はどうしても恋愛と結びがちだが、別に友達や家
969
族に対しても好きという感情だ。何も無理にそうと決めつける必要
はない。
﹁どういたしまして。じゃあまずは手始めに、この海賊船をオクト
さんの力で無事にホンニ帝国まで運んだらどうかな?そうすればア
スタリスク魔術師も少しは安心すると思うよ﹂
﹁うん。言われなくてもそうするつもり﹂
スッキリとした気分で私はカミュに頷いた。
◇◆◇◆◇◆
﹁船長。今のうちに船を進めて﹂
﹁オクトがこんなに生き生き働いているなんて﹂
﹁⋮⋮クロ、私だって、やる時はやるから﹂
何故生き生きしているだけで感動されるんだ。嬉し涙を流しそう
なクロを睨む。確かに、昔から斜に構えていた自覚はあるし、前向
きやら積極的からはほど遠い性格だ。
まあ、別にいつもと違う事をしている自覚はあるからいいんだけ
どさ。
﹁だからアスタ、もう心配しなくていいよ﹂
﹁えっ?﹂
970
いつまでも子供扱いしなくてもいい。
すぐには分かってもらえないかもしれないけれど、心配させなけ
れはいつかは対等になれるはずだ。そしてその時初めて私はアスタ
が友達だと、自信を持って言える。
﹁守られてばかりじゃなくて、私もアスタを守るから﹂
背中を預けてくれる、そんな存在になろう。
そもそも認められたいという考え方が、すでに子供っぽいかもし
れないけれど。
それでもまずは一歩ずつだ。私は晴れ晴れとした気分で、アスタ
を見上げた。 971
44︲2話
﹁なんか、本当に何もない旅だったな﹂
﹁そう?﹂
ホンニ帝国へ到着し、船から下りた所で、ぼやくクロに私は首を
傾げた。
思い返すが、何度か海賊に襲われそうになるという危険に常にさ
らされていたので、私的には十分スリリングな船旅だった気がする。
一歩間違えば戦闘だし、さらに間違えればアスタによる海賊撲滅大
作戦が行われてしまう所だった。
戦争反対とは言わないし、海賊船に乗った時点で諦めろという話
かもしれないが、嫌なものは嫌だ。そういうのは、最弱な私やアユ
ムがいない所でお願いします。
﹁だって、一度も海賊に襲われなかったんだぞ?普通こんなのって
ないって﹂
﹁いや、だって。襲われた時点で最悪の事態だし﹂
そんなの回避できるなら、するに決まっている。
﹁折角オクトの役に立って、いいところが見せられると思ったのに
な﹂
﹁ここまで連れて来てくれただけで十分だから﹂
私は冗談めかして口をとがらせるクロに苦笑した。
私の様な存在を乗せてくれる船など普通はない。ホンニ帝国にこ
れただけでも、結構奇跡に近いと私は思っている。
﹁オクトっ!﹂
﹁アスタ、苦しい﹂
後ろからアスタに突然抱きしめられて、私はバシバシと腕を叩い
た。まったく。体格差というものを考えて欲しい。私が腕を叩いた
972
ので少しだけ力を緩めてくれたが、アスタは相変わらずくっついた
ままだ。
アユムだって最近は私から離れて、カミュ達とも遊ぶようになっ
たというのに。
いい加減、この癖を直してもらいたいものだ。一生懸命アスタに
認められようと頑張っているが、やっぱりアスタは私を子供の様に
扱う。こんちくしょう。
﹁それで、今後の予定だけど。私的には時の精霊のトキワさんに会
えるならどういう形でもいいけど。⋮⋮えっと、クロ?﹂
﹁あ、⋮⋮ああ。えっと。予定、予定だったな。できたら俺の育て
の親の爺さんに先に会ってもらいたいんだけど。それでもいいか﹂
クロは何故か私を見てぼおっとしていたが、大丈夫だろうか。
まあクロにとっても久々の長旅だっただろうし、少し疲れている
のかもしれない。
﹁何でお前の育ての親に、オクトが会わないといけないんだ?﹂
﹁アスタ、我儘言わない﹂
アスタは仕事を休んでホンニ帝国に来ているので、早く帰りたい
のだろう。でもそれをクロに文句言うのはお門違いだ。クロは善意
でここまで連れて来てくれたのであり、本来ならトキワさんに会う
所まで付き合った貰うのは申し訳ないぐらいである。
親しい中にも礼儀あり。こちらの要望ばかり押し付けてはクロが
可哀想だ。
﹁クロ、ごめん。アスタはその⋮⋮ちょっと、子供っぽい所がある
から﹂
﹁いや、オクトが謝らなくてもいいというか、むしろ何で他人のオ
クトが謝るんだというか⋮⋮。まあいいや。爺さんに会って欲しい
のは、ケイタイデンワが動くようになったから連れてこいってしつ
こく手紙を送ってくるからなんだよ﹂
973
﹁えっ。動いたの?﹂
﹁ああ。ただ、遠くの相手とは、どうやって話をすればいいのか分
からないんだってさ。だから使い方が分かるなら教えてやって欲し
いんだけど﹂
あー、流石にここには携帯の電波がないだろうし、使うのは難し
い。
それは壊れたというか、それ以前の問題である。その辺りの問題
は、私には何ともできないが、折角だから分かる範囲で使い方を説
明してみよう。それにしても動いたという事がすでにびっくりだ。
アールベロ国には電気というモノが存在していないが、もしかし
たらホンニ帝国には存在するのだろうか。でも電圧の問題もあるだ
ろうしなぁ。
となると、携帯を充電させる道具が混融湖に流れ着いたのかもし
れない。普通は一度水没した携帯電話は使えないと言われるので、
動いたというのは本当に運が良かったのだろう。
﹁クロ﹂
話をしていると、ふとクロの名前が呼ばれた。
あまり聞き覚えのない声に、私は首をかしげつつ声がした方を見
る。するとそこにはいかにも魔法使いですと言わんばかりの黒づく
めの恰好をしたヒトがいた。
身長は女性にしては高く、男性にしては低めで、声の高さもアル
ト声。前髪が長く右目が隠されているが、左目は赤かった。耳も若
干尖っているし、魔族で間違いないだろうけれど。
髪の毛が長く一つで括られている為に男か女かの判断が難しい。
だがそもそも、こんな人物は海賊船にいなかったはずだ。となれば、
ホンニ帝国でのクロの知り合いなのだろうか。
﹁げっ。カズ︱︱﹂
ドスッ。
974
魔族は綺麗な顔でにこりと笑いながら近づいてきたかと思うと、
魔道具と思われる杖でいきなりクロを殴った。
⋮⋮えっ?ええっ?
いきなりの攻撃にクロは反射しきれずに、頭を押さえて呻く。
﹁私は帰ってくる時はかならず連絡を入れなさいと教えましたよね﹂
どうやら知り合いには間違いないらしい。
でも魔道具の使い方が間違っている上に、出会いがしらのあいさ
つも殴り倒しとか普通じゃない。それともホンニ帝国ではこれが普
通なのだろうか。
だとしたら、なんて物騒な国だろう。
﹁いってぇ。⋮⋮着いたら連絡するつもりだったんだよ﹂
﹁着いたらじゃ意味がないでしょうに。貴方の育ての親からの連絡
がなければ、私もここに来ることができなかったんですよ﹂
﹁⋮⋮来るから連絡しなかったんだよ﹂
ぼそっとクロが独り言を呟いたが、あまり小さな声ではなかった
ので、思いっきり私の耳に内容が聞こえた。
そして私に聞こえたのならば、間違いなくこの目の前の魔族の方
にも聞こえただろう。
﹁へぇ。クロはマゾだったんですね。知りませんでした﹂
そう言うと、爽やかな笑顔で、杖の先を思いっきりクロの足にぶ
つけた。鈍い音に続いてクロが悲鳴を上げ、疼くまる。今の一撃は、
間違いなく弁慶の泣き所だ。これは痛い。
﹁ああ。マゾなんて性癖を持ち合わせた方が自分たちの暮らしを決
めていると知ったら、民衆は大いに嘆くでしょうね。そして私も泣
きたい気持ちでいっぱいです。でも安心して下さい。私が貴方を正
しい方向に︱︱﹂
﹁導かれて溜まるかっ!畜生。カズがドSなだけだろうが。俺はサ
ンドバックじゃねぇ!﹂
975
そう言ってクロは叫ぶと立ち上がった。
怒ってはいるみたいだが、何だか生き生きしている。
仲がいいのかどうかは別として、知り合いには違いない様だ。一
体どういった知り合いなのだろうか?
﹁えっと⋮⋮クロ?﹂
﹁すみません。申し遅れました。私はクロに魔術師として仕えてい
る、カザルズと申します。貴方が、クロの幼馴染のオクト嬢ですね﹂
﹁はぁ。⋮⋮えっ?仕える?﹂
全く仕える様な態度には見えないんですけど。いや、いや。ツッ
こむのはそこじゃなくて、クロって海賊だよね。なんでこのヒト、
海賊に仕えてるの?
﹁何ですか。折角幼馴染の女の子と、運命の再開ができたとか言っ
ていたのに、まだ伝えてなかったんですか。本当に、ヘタレですね﹂
﹁五月蠅いっ!大体、あんなの無効だ。俺は認めてないっての﹂
一体何の話をしているのだろう。
無効だの、認めてないだの、さっぱり話が見えない。
﹁貴方が認めなくても国が認めています。実はクロはこの国の王子
様なんですよ﹂
﹁は?﹂
王子様?
えっ?クロが?
突然のカミングアウトに私は上手く反応できない。海賊船で働い
ているクロが、カミュと同じ?えっ?どういう事?
﹁違うから。ったく。勝手に言うなよ。⋮⋮実はホンニ帝国の王様
の子供は姫様しかいないから、以前くじ引きで王子を選んだんだよ﹂
﹁はい?﹂
くじ引きで選んだ?
976
さらに意味が分からなくなってきた。この国、一体どうなってい
るんだろう。アールベロ国では考えられない話だ。
﹁もちろんくじ引きだけじゃありませんよ。知力の優れたモノ、体
力の優れたモノと一緒に時の運の優れたモノを集めて、そこでさら
に争っていただき決めたわけですから﹂
﹁それは斬新だね。選ばれた若者は貴族なのかい?﹂
﹁知力と体力の優れたモノはそうですね。王族と近い家系のモノか
ら選ばれました。ただ時の運のみは、この国の国民全ての中から選
びました。くじ引きで﹂
アスタはおもしろげに話に加わったが、私はキョトンとするのみ
だ。
だって普通に考えてオカシな話じゃないだろうか。王様になるの
はその血筋が大切で、アールベロ国だって現王様の子供が最優先で
時期王様となり、続いて王様の兄弟が王位継承権を持つはずだ。社
会は苦手だが、これぐらいは覚えている。
ホンニ帝国では血筋は関係ないのだろうか。かといって、くじ引
きで時期王様選びなんて、民主主義ともまた違う。
﹁だから俺は辞退するって言っただろうが。それなのに勝手に王子
扱いしやがって。オクト、真に受けなくていいから﹂
クロはそう言うが、実際のところどうなのだろう。
明らかにカザルズはノリノリだ。⋮⋮あまり敬っている様にはみ
えないけれど。
﹁今回のくじ引きは国民の義務です。辞退なんて制度あるわけない
でしょう﹂
﹁そんな人権を無視した話が通って溜まるかっ!﹂
クロの様子を見る限り、当たりを引いて運が良かったねという気
分にはなれない。むしろその反対ではないかと思えてしまう。
でもクロは結構頭もいいし、どんな事でも軽々とやってのけてし
まうだけの能力もあるので、実際に王様の勉強をしたらいい線を行
977
くかもしれない。
それに私も前からクロは旅芸人や海賊では勿体ない能力の持ち主
だと思っていたし。幼馴染という欲目があったとしても、クロは小
さいころから神童だったと思う。
その時、ふとずっと忘れていた、クロの名前にまつわる話を思い
出した。クロの本名はクロード。その名前が書かれた紙を私はお守
り袋に入れて今も持っている。
たしかこの紙を貰う時、名前は決してヒト前で言ってはいけない
とアルファさんが言っていた事をクロから教えてもらった。今回ク
ロが実は特別なヒトだったと分かった事で、この意味深な話を連動
して思いだす。
﹁それに俺は、元々旅芸人の産まれだって言ってるだろうがっ!あ
んなの、無効だ!﹂
﹁何言っているんです。あのくじは、両親がこの国のヒトであり、
かつ幸運な持ち主しか引けないといっているでしょう。諦めなさい﹂
⋮⋮おや?
どうしてくじでこの国のヒトかどうかが分かるのだろう。
アールベロ国ほどではないにしろ、この国だって他国との交流が
あるはずだし、片親のどちらかが別の国のヒトという事だってあり
える。
たまたまこの国のヒトだけ特別な遺伝配列や魔力があるという事
だろうか?いやいや、そんな話は聞いた事がない。でもそういえば、
世の中には特殊な魔力形成をするヒトがいると聞いた事がある。種
族とかではなく、本当に血の繋がった親族のみという小さな枠組み
の中で起こった突然変異だ。
同じ国のヒトかどうかは分からなくても、そういう家系ならば、
親族かどうかは分かる。
⋮⋮えっと、まさか。
978
ギャーギャーとクロが俺は父親なんて知らないと騒いでいるが。
⋮⋮まさか。クロのお父さんって、この国の王様、またはその王様
の親類だったりして。
今思えば、妙にホンニ帝国の内部事情に詳しかったクロのお母さ
ん。
そしてただの庶民だったらこれだけ嫌がれば別のヒトを選んでも
いいだろうに、クロにこだわっているようにしか見えないカザルズ。
何だか気がついてはいけない事に気がついてしまった様な気分に
なり、ドキドキしてしまう。
﹁何でもいいですが、さっさと王都に行きますよ。それから、王都
に行きたいヒトを集めて下さい。私が転移魔法で全員お送りします
ので﹂
﹁えっ、マジで?送ってくれるの?﹂
﹁何のために私が来たと思うのです。姫様達が首を長くして待って
いるからに決まっているでしょう。ここから馬車で行けば最低でも
5日はかかりますからね。この国で転移魔法が使えるのは私だけで
すので﹂
そう言って、やれやれとばかりにカザルズは肩をすくめた。
﹁おお。流石、カズ。頼りになる!﹂
ころっとクロはさっきまでのやりとりを忘れたかのように、機嫌
良くカザルスの背中を叩いた。
﹁調子のいい事で。何でもいいですから、早くして下さいね。少な
くとも明日には城へ一度来ていただきますから﹂
﹁オクト、カミュ達を呼んでこようぜ﹂
﹁あ、うん﹂
クロの正体がはっきりしないので、なんだかもやもやするが、ク
ロは気にしていないようだし、ならばどうだっていい話なのかもし
れない。クロが誰の子でも、クロである事には変わりないのだ。
まさに真実が正しいとは限らないのいい例だろう。きっとクロに
979
とっての母親はアルファさんで、育ての親は機械屋のおじいさんで、
それだけで十分なのだ。
そう思い、私は先ほど思いついた仮説を頭の奥にそっとしまった。
980
44−3話
﹁シンじい、ただいま﹂
カザルズに王都まで連れてきてもらった私たちは、一度カザルズ
と分れると、クロに案内されるままに︻機械屋︼と呼ばれる店へや
ってきた。
機械屋というものはアールベロ国にはない店だ。名前からすると
工場っぽいイメージだが、どうなのだろう。そもそもここに来るま
での間でも、いたるところで国としての違いを感じていた。たとえ
ば、ホンニ帝国にガス灯がある点。
アールベロ国にはそんなものは存在しない。王宮の門の所には篝
火はあるが、それだけだ。その他に、人工的な光といえば、室内で
魔法使いが魔法石を用いて照明を作り出しているぐらいか。今のと
ころガスを燃やし使うという発想はない。
もちろんクロの説明で、ガス灯ができたのはここ最近で、王都ぐ
らいにしかまだ普及していないという話も聞いている。それでも、
アールベロ国とホンニ帝国の文明が大きく離れているように感じた。
﹁お邪魔します﹂
中に入ると、オイルの匂いが私たちを歓迎した。
そして壁のいたるところから、カチコチと音がする⋮⋮時計だ。
少しだけ薄暗い店内には、壁一面に様々な時計が並んでいる。もち
ろん時計はアールベロ国にもあるが、とても希少で貴族ぐらいしか
持ち合わせていない。なのでこれほど多くの時計が並んでいるのを
見るのは初めてだ。庶民は鐘の音を聞いて、今の時間を把握したり、
街中に設置された日時計を利用している。
機械屋というのは時計屋のことなのだろうか。一瞬そう思ったが、
981
しかし店の中には時計以外にも、色々用途不明な鉄製のものが雑然
と置いてあった。この様子ならば、取り扱いが時計だけということ
はないだろう。
それにしても、さっきまでは異国に来たんだなぁという雰囲気だ
ったが、機械屋の中はまるで異世界のようだ。
﹁アクチュン、クロ﹂
さらに異世界キタァッ!
奥から出てきた、白髪混じりの灰色の髪をした男は全く聞きなれ
ない言葉を発した。いまさらながらに、外国に来たんだと実感する。
思えばこの世界は、龍玉語なんていう共通言語があるから、中々外
国に来た気がしないのだ。
とくにドルン国など、異国というよりも、国内の違う地域に行き
ました的な気分になってしまう。行き慣れてしまったからというの
もあるかもしれないが、皆が共通語を話しているという点も大きい
と思う。
﹁オクトさん⋮⋮。目を輝かせすぎ﹂
﹁えっ?﹂
﹁本当に、帰らないとか言い出さないでよ﹂
小声でカミュが耳打ちする。
うっ。そんなにガン見していただろうか。私は頬を抑えて、表情
筋を真面目なものに変えようと努力した。でもやっぱり真新しい情
報というのは、気になってたまらないのだ。特に科学の匂いとか、
普通にアールベロ国では見れないわけで。懐かしいというか、なん
というか。とにかく血がたぎる感じがする。
自分はひきこもり体質だと思っていたが、意外に旅行は好きかも
しれない。年甲斐もなく、わくわくしてしまう。
﹁シンじい、龍玉語でしゃべれよ。全員外国人なんだからさ。紹介
982
するな。これが一応俺の育ての親で、シンって言うんだ﹂
﹁何が、一応だ。クソガキが﹂
おおっ。
シンじいが流暢な龍玉語でツッコミを入れた。いや待て。普通に
考えれば龍玉語がしゃべれない国はないはずだし、それほど驚くこ
とでもない。
でもよく考えると、すごく不思議な話だ。前世の記憶では、一応
英語が共通語とされてはいたが、日本人はなかなか流暢にそれを扱
うことができなかった。この世界なんて、飛行機もないし、他の大
地との交流もほとんどない。それなのにどうして共通語なんてもの
が存在するのだろう。
まあ便利だから、いいのだけど。
﹁ワシが条件を付けるのは一つだ。店のものに触るな。それさえ守
れば、勝手に空いている部屋を使えばいい﹂
﹁悪い。シンじい、いつもこんな感じで、愛そうがなくてさ。何と
いうか、ほら、前にオクトが言っていたツンジジってやつ?おかげ
で、なかなか客が来ないんだよな﹂
えっと、ツンジジなんて言葉、教えたことないんだけど。
でもニュアンス的に、ツンツンしたジイさんという事だろうか。
⋮⋮うーん、それだとデレがないから、ただの意地悪爺さんになっ
てしまうのでは。
﹁ふん。カラクリの素晴らしさが分らんモノなど、来んでいい。そ
れで、クロが言っていた子はどの子だ﹂
そう言って、ツンジジ⋮⋮もとい、シンじいは私たちを値踏みす
るように見渡した。
﹁ああ。俺の幼馴染はこの子﹂
そう言って、クロは私の後ろに回ると、背中をポンと押した。
すると、シンじいは順番に移動させていた視線を私のところへす
いっと戻す。そしていぶかしげな顔で、私を黒目に映し出した。
983
﹁⋮⋮こんな小さな子供が?クロとは1つ違いと言っていなかった
か?どう見ても、10にもならんだろ﹂
百歩譲って、私の身長が低いというのは認める。でも、10は言
いすぎだ。
確かにクロとの身長差は思いっきり開いてしまい、今では年の離
れた兄弟のようになっている。でも学校だって卒業しているし、今
ではちゃんと働いているのだ。私はもう子供ではない。
﹁オクトは正真正銘俺の1つ下だよ。ほら、魔力が強いとカズみた
いに成長が遅いって前に伝えただろ。悪い。この国、あんまり魔力
が強い奴がいなくてさ。基本人族ばっかだし、成長が違うとか慣れ
てなくて﹂
私がムッとしたことに気がついたらしいクロは、そうフォローを
入れた。
﹁そういうものなのか。なら聞くが、お前さんは、この部屋に飾っ
ていあるこれらが何か分かるか?﹂
そう言って、シンじいは壁に飾っている時計を指差した。
﹁えっと、時計⋮⋮かと﹂
あまり唐突だった上に分りきった質問であった為、逆にドキドキ
する。もしかして自分が質問を聞き間違えたのだろうかと思ってし
まう。
﹁まあ。こんなものは、他国にも出回っておるからな。なら次の質
問だ。お前さんが持っていたケイタイとやらは、何で動く?﹂
﹁何でって⋮⋮あー⋮⋮えっと。電気。その⋮⋮雷と同じものを使
って⋮⋮﹂
もし電圧がどれだけかを聞かれたら、私の能力では間違いなく答
えられそうもない。携帯電話は使い方は分るが、仕組みはさっぱり
なのだ。
﹁そのケイタイは、何に使うんだ?﹂
﹁遠くにいる相手と話をしたり、手紙を送ったり⋮⋮します﹂
984
﹁どうやって?﹂
﹁もう一台携帯を用意して、電波で⋮⋮そのやり取りをするという
か。携帯1台に1つの電話番号が割り振られてて、それで相手を特
定して⋮⋮﹂
矢継ぎ早に質問をされて、私は動揺した。
私の前世はたぶん携帯会社に勤めてはいなかったのだろう。大し
た知識が詰まっていない。クロの育ての親なんだしガッカリさせる
のも悪いと思うが、どうするべきか。
﹁あのさ。ヒトにものを聞く時は、もう少し礼儀というものがある
んじゃないかな?﹂
私がおろおろしながら答えていると、隣からアスタが口を挟んで
きた。
﹁お前さんには関係ないだろ﹂
﹁えっ。あ、大丈夫。アスタ、私は大丈夫だから﹂
関係ないとかそんな言葉を言われたら、アスタがどう暴走するか
分ったものじゃない。特に今日からここで泊めてもらうのだ。ここ
で失敗したら、仲良く野外キャンプだ。⋮⋮いや、宿泊施設で断ら
れそうなのは私ぐらいだから、一人楽しくキャンプファイヤーか。
でもこんな街中で火を使ったら怒られるから、新聞紙にくるまって
段ボール生活の可能性が高い。
﹁えっと、クロのお爺さん。私は使い方は分りますが、どうしてそ
れができるのかなどの細かなメカニズムは分りません。私が言える
のは、たとえもう一台携帯電話がここにあったとしても、電波塔が
この世界にはないので、通話はできないということだけです﹂
ああでも、私はシンじいが携帯電話の事を聞きたいがためにここ
へ連れてこられたはずだ。だとしたらこの受け答えはまずいかもし
れない。私の知識が使えないと分れば、やっぱりもホームレス決定
のお知らせの可能性が⋮⋮。まさか異国でホームレスをする事にな
985
るとは。人生分らないものだ。
﹁嘘はついておらんようだな﹂
﹁はあ。まあ﹂
こんな事で嘘をついても仕方がないし、無理なものは無理だ。も
しも嘘をつくと電話機能が使えるというなら、いくらでも嘘をつく。
﹁少しここで待ってろ﹂
そう言うと、シンじいは店においてある棚を開け、ごそごそと中
を漁った。そして私たちに背を向けたまま話しかける。
﹁この商売をしていると、異世界のことだから、ワシが分らないだ
ろうと平気で嘘をつくモノに会う。ただの勘違いなら仕方がない。
しかしその嘘を金にしようとするモノもいる。そいつらは、このカ
ラクリの発展を損なう害虫だ﹂
﹁オクトはそんなことしないって﹂
﹁幼馴染といっても、長い間会っておらんかったのだろう。どうし
て分かる﹂
厳しい声でクロの意見を一刀両断すると、シンじいはくるりと振
り向いた。その手には私の携帯電話が握られている。
﹁まあ今回に関しては、クロの目も間違ってはいなかったようだが
な。この譲ちゃんは嘘がつけん性質のようだ。ほれ。ちゃんと電気
が通っているはずだ﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
シンじいに手渡された携帯電話は、初めて手にとったときと変わ
らず、きらきらとしたシールでデコられている。私はただの記念と
して持っていたようなものなので、まさかもう一度動くとは思って
もいなかった。
ドキドキとしながら私は二つ折りになっている携帯を開く。
﹁えっ?﹂
986
﹁あれ?これって﹂
﹁ん?なんだよ﹂
私が携帯を開くと、周りにいる皆も何があるのかと、のぞきこん
だ。そして覗き込んだ全員がそのまま携帯から、アユムに視線を下
ろす。
﹁これって、アユムだよね﹂
カミュが言うとおり、待ち受け画面には今よりももう少し幼い、
私と初めて会った時のアユムが映し出されていた。何度見比べても、
やはり映っているのはアユムにしか見えない。
﹁ボク?﹂
キョトンと首を傾げたアユムに、私は少しためらった後、そっと
しゃがみ携帯の画面を見せた。これをアユムが見たからと言って何
かが変わるわけではない。それでも、何故かとても恐ろしいことが
起こるのではないかという気持ちになって手が震える。
﹁あー、これ、ママのだ﹂
他人の子供の写真を待ち受けにするヒトなんていないだろうし、
これだけデコっているなら持ち主は女のヒトだろう。だとすれば、
アユムに聞くまでもなく、おのずと答えは出てくる。
﹁へえ。すごい偶然だね﹂
確かに⋮⋮すごい偶然だ。
でもどうしてここにアユムのママの携帯電話があるのだろう。ア
ユムが混融湖に流され着いた時、周りには誰もいなかったと聞いて
いる。それに携帯電話がこの世界に流れ着いたのは、私がまだ5歳
だった時。アユムがこの世界に来た時と時間が違う。
もしかして、アユムは母親と一緒にこの時間へ流されたのだろう
か。混融湖の中がどうなっているのか分からないが、中で離れ離れ
になれば違う時間に流される可能性はある。だがアユムと同じ時間
のヒトだならば、魔素の耐性はない可能性が高い。ということは⋮
987
⋮最悪の状態も予想される。
﹁オクト、大丈夫?﹂
﹁あっ。⋮⋮うん﹂
アスタが携帯を握りしめていた私の手をさらに大きな手で覆った。
どうやら手が震えていたみたいだ。
やはり残酷な答えがすでに見えているから、体が震えてしまうの
だろうか。
でもいまさら私がどうにかできる問題でもない。そう頭では理解
しているはずなのに、心臓が早鐘を打ち鳴らし苦しかった。頭がガ
ンガンと痛み眩暈がする。
ジンワリと手汗が出るのを感じ、私は自分自身が緊張しているこ
とに気がついた。
どうしてこんなに︱︱。
﹁オクトさん、このボタンは何をするためのものなんだい?﹂
﹁⋮⋮あ。えっと。この数字を押せば話したい相手を選ぶことがで
きる。それ以外のボタンには手紙のやり取りをしたり、カメラ⋮⋮
えっと、この画面に映ったアユムみたいな映像を残す機能があって
︱︱﹂
ホンニ帝国はどうか知らないが、アールベロ国にはカメラなんて
存在しない。
実際に見てもらった方が分り易いかと思い、私はMENUと書か
れたボタンを押す。携帯電話の電波は、圏外となっているが、中を
確認するのには支障がない。
そして、︻1メール︼となっているところで、決定ボタンを押し
た。
﹁一番上を選択すると手紙を読むことができて、その次が手紙を書
くことができるようになっている。自分の書いた手紙はここを見れ
ば確認する事ができる﹂
全員に見えるようにしながら、私は︻5送信メール︼となってい
988
る場所へカーソルを移動させ、決定ボタンを押す。人様のメールを
読むのはなんだか悪い気がしたが、どうせ日本語が読めるのは私だ
けだ。心の中でごめんなさいと呟きながら、さらに︻送信BOX︼
をクリックした。
︻5/3 青山 優子 RE:︼
︻5/3 青山 優子 RE:︼
︻5/3 青山 優子 RE:︼
︻5/2 上田 春妃 RE:気を付けてね︼
︱︱︱︱︱︱︱︱
じゃあ、今から飛行機に乗りこむから。お土産は期待してて︵^
o^︶/
︱END−
画面上に、いくつかの送信メールの題名と宛名が並び、最期のメ
ールだけが開かれる。
どうやらこの携帯の持ち主は、どこかへ旅行に行こうとしていた
ようだ。飛行機ということは、結構遠出を予定していたのだろう。
他のメールも見ればどこに行こうとしていたのかも分るかもしれな
い。
とりあえず、このメールからは、持ち主が少し特殊な状況下にい
たという事が分る。でもそれだけだ。⋮⋮それなのに、私はそのメ
ールから目を離すことができなかった。
キーンという耳鳴りと共に、ガンガンと頭痛がして目が回る。
視界がうす暗くなり、誰かの悲鳴が聞こえた。いや、これは耳で
聞いているのではなく、頭の中でに響いているだけ⋮⋮。私は体を
989
低くして衝撃に耐える準備をした。
⋮⋮耐える?何の衝撃に?
うまく頭がまわならない。それでも周りの悲鳴と、神に祈る声が、
恐ろしい音ともに落ちてゆくのは分った。
﹃嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくな
い。死にたくない。死にたくない。死にたくない︱︱お願い、この
子を殺さないで﹄
呪詛のような願いが頭を支配する。悲鳴も神に祈る声も聞こえな
い真っ暗な世界になっても、﹃死にたくない﹄という呪詛は、波の
音と共に永遠と続いていき、そして︱︱。
﹁オクトッ﹂
グワンと自分が本当に揺れた事で、はっと顔をあげた。
ん?⋮⋮あれ?どうしてだろう、みんなの顔が歪んで見える。目
をこすったところで、自分が泣いている事に気がついた。
﹁突然どうしたんだよ﹂
肩を掴み心配そうに見るクロを見て私は首をかしげた。
自分でもよく分らない。何故自分が泣いているのか。⋮⋮今、私
は携帯のメールを見ようとして︱︱それで。
まるで夢でも見ていたかのように、すっと今見えていたものが遠
くなろうとしているのに気が付いた。反射的に私は、遠ざかるそれ
を掴もうと必死に記憶を追いかける。
それでもほとんど掴みきれなくて、記憶がぽろぽろと砂のように
零れ落ちていくのが分った。
﹁⋮⋮なんだか、懐かしくて﹂
その言葉を発した時には、すでに私の中で暴れていた感情のほと
んどが消えてしまった。それでもほんの少しだけ私の中に残る。
990
私はそっと残ったものを確認して、もう一度携帯電話に視線を落
とした。しかし今度は何の感情も湧かない。まるで初めからそんな
ものはなかったかのように。
﹁懐かしい?﹂
﹁うん﹂
アスタの言葉に私はうなづく。
たぶん間違いなく、私はこの携帯電話を知っている。何もかもが
消えてしまったけれど、その思いだけが私の中に残った。 991
45−1話 合理的な選択肢
⋮⋮うーん。ゲームでいうところの、必須アイテム的な匂いがし
てならない。
そんな事を思いながら私は携帯電話をいじくっていた。やはりと
いうか、充電は災害用の手動で電力を発電させるもので、偶然混融
湖に流れ着いたそうだ。
おかげで電池を気にせず中身の確認をしているのだが⋮⋮何に自
分が引っ掛かっているのかも分からず首をかしげる。
私がこの携帯電話を知っているということだけはたぶん間違いな
いのだけど⋮⋮。
ただその知っているが、とても曖昧だ。この携帯電話の持ち主だ
ったから知っているのか、この持ち主の知り合いだったから知って
いるのか、それともこの携帯電話と同じ機種を使っていたから知っ
ているのか。
思い出せそうで思い出せず、のどに小骨が刺さった感じが、もや
っとする。
唯一はっきりとしているのは、この携帯電話の持ち主はアユムの
母親だということ。アユムの写真が待ち受け画面になっていたし、
アユムがママのだと言ったのだから間違いないだろう。
そして調べていくうちに、さらに不思議なことが見つかった。実
はアユムの写真の保存名が︻歩夢︼となっていたのだ。つまりあー
ちゃんとしか名乗れなかったアユムの本名は歩夢⋮⋮。私が名付け
たのと同じだ。
﹁となると、もしかして私の前世は、この携帯の持ち主、またはそ
の知り合いの可能性が高い⋮⋮か?﹂
992
とはいえ、﹃あーちゃん﹄と名乗っていたから、私も﹃あ﹄から
始まる言葉で名前を考えていたりする。偶然の可能性は否定しきれ
ない。
前世なんてどうでもいいと思ったのに、何でこんなに存在感をア
ピールしてくるのか。そもそも、アユムは一体どういう状況でここ
に流されたのか。母親の携帯電話も一緒にこの時間へ流れ着いてい
るということは、母親と一緒に流された又は、母親の携帯電話を持
っているときに流された。もしくはそれぞれ、別のタイミングで流
されたけれど偶然似たような時間に流れ着いた︱︱。
﹁あー、分からん﹂
考え出せばきりがない。
前世については、呪いの所為で話すことができないアユムに真相
を聞くことはできない為、このもやもやを消すことは難しそうだ。
ただこの携帯電話の持ち主は、飛行機にのって旅行に行こうとし
ていた後にこの携帯電話を紛失、もしくは使えない状況になったと
いうのは、メールの件を考えても正しいはず。
﹁⋮⋮飛行機事故で、偶然異世界に飛ばされたとかありがち?﹂
なんだかSFやファンタジー小説でありがちなオチが頭に浮かぶ。
ただその推理だと、私の頭の中にある知識や、ママが持っていた
日本の記憶がどうしてこの超未来で蘇ったかの仮説が立てられる。
何らかの形で混融湖により、この時間へ流された前世の私やママ
は、魔素耐性がないため、流れ着いた先で死んだのだ。そして一番
新しい記憶として、超古代となっている前世を覚えたまま生まれた
のだろう。
ただどうして、私の前世の記憶は中途半端な知識の部分だけなの
かが、分からないけれど。そもそも前世の記憶があるという時点で
ファンタジーなのだから、それに対する明確な理由があるのかどう
かも微妙なところだ。ママの手紙を頼りにするなら、その件はトキ
ワさんが何らか知っていそうだけど⋮⋮。
993
﹁オクト。そろそろ準備終わったか?﹂
﹁あ、うん。ごめん。今行く﹂
悶々と考えながらベッドに座って携帯電話を見つめていた私は、
クロに声をかけられあわてて顔を上げた。ホンニ帝国の家の作りは
基本扉がない作りで、いつもならドアがある部分は、暖簾のような
布で仕切られている。ドアに慣れ親しんだ私は、どうにも頼りない
気分で一晩過ごした。
一応クロも私が着替えているといけないと思ったのか、布越しに
声をかけてきてはいるけれど、プライベートとかないに等しい。
そもそもノックができない生活は大変そうだと思ったが、よく考
えれば日本のふすまだってノックなどできない仕組みだ。こう考え
ると、私はかなりアールべロ国に慣れ切ってしまっているのだろう。
幼少のころは旅芸人として過ごし、そこではテント暮らしだった
にも関わらずだ。⋮⋮ならばそれよりも昔の前世など、私との関係
はとても希薄なものである。
﹁⋮⋮まあいいか﹂
私が例えどこの誰であろうとも、何か変わるわけではない。そう
思えば、考えるだけ無駄である。
過去を思い出したところでそのころへ戻れるわけでもない。私は
今までの人生で後悔したこともあるし、やり直したいと思ったこと
だって何度かある。それでもアスタがいて、アユムがいて、カミュ
やライ、クロ、その他色んな大切だと思うヒトがいる今を否定など
できない。
初めて携帯電話を手に入れた時は、まだ自分自身には何もなくて、
とても不安で、すがるものがほしかった。でも今は携帯電話よりも
ずっと大切なものがいっぱいあって、そんな遠い過去よりも今の方
が大切だ。
もしかしたら、私はアユムの母親だったのかもしれない。でもオ
994
クトである私は、アユムの母親ではないのだ。オクトにとってアユ
ムは大切な存在であるということには変わりないし、それで別に何
の問題もないはずだ。
そう思い、私は携帯電話の電源をOFFにした。
◇◆◇◆◇◆◇
時の精霊、トキワは、ホンニ帝国の王宮にいる。
トキワの居場所を知っているらしいクロに尋ねると、そう答えが
返ってきた。そのためクロに頼んで王宮に向かうことになったのだ
が⋮⋮。
﹁これはこれは。無駄に大所帯ですね∼﹂
王宮に向かって歩いていると、そう声をかけられた。若干厭味の
ように聞こえたのはたぶん聞き間違えではない。
私はトキワさんに会えればいいだけなのに、私が行くということ
で、カミュが付いてきて、それにライがお供で付いてきた。さらに
アスタは当たり前のようについてきて、そんな状態でアユムが一人
で待っていられるわけもなく⋮⋮、気がつけば全員で行くことにな
っていた。
普通に考えて王宮に突然押し掛けるだけでも、色々不味いのでは
と思うのに、こんなぞろぞろと向かったら不味いどころではない。
995
クロは大丈夫だと言ったが⋮⋮どうしても気が引けてしまう。
﹁そして、クロ。来る前に私に声をかけなさいと言いましたよね﹂
﹁ひたっ、ひたたたたたたっ!!﹂
ぐいっとカザルズに頬を引っ張られて、クロは叫んだ。
﹁ひたいっ!ひひれるっ!!ひひれるって!!﹂
﹁痛くしているんだから当然です。一体いつになったら、このお頭
はちゃんと言葉を覚えるんですかねぇ∼﹂
にこりと笑いながら、カザルズはクロの頬をつねりあげた。相変
わらず、遠慮というものを微塵も感じさせない。
﹁それで、どなたです?クロと一緒に城へ行きたなんて面倒なこと
を言い出したのは?﹂
﹁そ、それは。俺がっ!﹂
頬をつねっているカザルズの手を自力で引き剥がすと、クロはそ
う叫んだ。
﹁城に行きたがらないクロが、自ら友人を招待する?﹂
はんっとカザルズはクロの意見を鼻で笑うと、私たちを順に見て
いった。
⋮⋮あー、うん。このヒト、クロのことをすごい知りつくしてそ
うだなぁ。となれば、ここで嘘をついたところで何ともならないだ
ろう。
それに私もクロに迷惑をかけたいわけではないのだ。なんなら、
トキワさんに一度手紙を届けてもらうだけでもいい。そうすれば何
かしら道が開けるはずだ。
﹁すみません﹂
私はそっと右手を挙げて自己申告をした。
﹁私がトキワさんにお会いしたいと、クロ⋮⋮に、えっと、無理を
言いました﹂
一瞬クロ様と呼ぶべきかと思ったが、よく考えたらカザルズもク
996
ロと呼び捨てにしている。たぶん大丈夫だろう。
﹁へえ。貴方が⋮⋮。まあ、いいでしょう﹂
﹁へ?﹂
﹁別に来て悪いわけではないですし。後ろの怖いお兄さんとやりあ
うなんて、面倒なこと、私は嫌ですから﹂
﹁はあ?!だったら、何でそんなこと聞いたんだよ。駄目かと思う
だろ﹂
さらりとOKを出すカザルズに、逆にクロが食ってかかった。O
Kが出たなら問題はないのだが、そう言いたくなる気持ちも分から
なくはない。
﹁まあ、普通は駄目なんですけどね。でもこの方々なら問題ないで
しょう﹂
﹁全然、意味がわかんねぇんだけどっ?!俺、もしかして、つねら
れ損?!﹂
﹁あれは、連絡しないクロへのしつけです。全く損ではないので、
ご安心下さい。私が言っているのは、緑の大地出身で、さらにこの
方々だからいいと言ってるのです﹂
﹁やっぱり、意味わかんねーっ!!﹂
クロはそう叫んだ。しかし私は緑の大地と言われた瞬間、ふとカ
ザルズという名前を思い出した。
あっ。そういえばウイング魔法学校の卒業生に、そんな名前のヒ
ト、いなかったっけ。確か、最短で卒業したとかなんとかという、
優秀な方で⋮⋮。ということは、もしかしたらカザルズは、カミュ
がアールベロ国の王子だと知っているのかもしれない。
他の大地同士は不干渉。
龍神が決めたもので、どこまで守られているものなのかは私には
分からない。しかし少なくともカザルズがカミュを含めた私たちを
無害だと判断したのは、間違いなくこの部分からだろう。
﹁それはクロが勉強をさぼっているからです。これでこの国の王子
997
とは、嘆かわしい﹂
﹁だったら、いい加減俺を王子と呼ぶのは止めて、諦めろ﹂
﹁さあ、みなさん行きましょうか。お兄さんもあまり怖い顔しない
で下さいね﹂
⋮⋮お兄さん?
そういえば、さっきも後ろの怖いお兄さんが云々と言っていたよ
うな。私はそっと振り向いた。すると、にっこりと笑ったアスタと
目が合う。
一応怖い顔はしていない。
﹁オクト、どうかした?﹂
﹁あー、うん。何でもない﹂
アスタって、お兄さんと呼ぶにははおこがましいレベルの年齢の
ような⋮⋮。でもどう考えても、先に卒業したカザルズの方がカミ
ュ達より年上だろうし、アスタしかいないよなぁ。そもそもこの方
も、いくつなんだ?クロとさほど年齢が違うようには見えないけれ
ど、魔族だから外見なんてあてにできない。そもそも女か男かすら
分からないし⋮⋮。 まあ、あれだ。雉も鳴かずば撃たれまいにだ。
私はそっと今思った事は心の奥にしまった。
998
45−2話
﹁すごっ⋮⋮﹂
カザルズの転移魔法でホンニ帝国の城の中へやってきた私は、想
像以上にすごい作りにびっくりした。何の部屋なのかは分からない
が、高い天井には一面に、宗教っぽい絵が描かれている。言葉は書
かれていないが、何やらストーリーがありそうないくつもの絵に、
ほうと感嘆のため息をついた。きれいな色遣いといい、かなりの力
作だ。まるで美術館のようである。
﹁なんか、建国の神話が描いてあるんだってさ﹂
天井を見上げ続けている私へ、クロはそう教えてくれた。神話と
いうことは、龍神の何かだろうか。でも建国といったし⋮⋮。
﹁建国の神話って何?﹂
アールベロ国にはないが、ホンニ帝国には、龍神とはまた別の宗
教があったりするのだろうか。
﹁俺もどんな話かは知らないんだよな﹂
﹁この国は元々、黒の大地でも白の大地でもない場所にあったと言
われています。今いる6柱の龍神とは別の龍神が治めていたそうで
す。しかしある時からその神はいなくなり、彼が治めていた大地は
それぞれ半分ずつ白の大地と黒の大地に分かれ吸収されました。本
来他の大地同士は不干渉。その為、住んでいた民は同じ国民だった
にも関わらず、白の大地と黒の大地に引き裂かれそうになったそう
です﹂
カザルズは小さくため息をつくと、クロ変わりに神話を話し始め
た。
﹁当時ホンニ国は小さな国でしたが、現王朝一族は精霊に好かれや
すいという特異体質でした。そこでホンニ国の王は光の精霊と闇の
999
精霊にお願いし、他国を侵略しない代わりに、大地をまたいで建国
する事を神に許していただいたそうです。その時同じように引き裂
かれそうになっていた国がホンニ国へ下ることを願いでました。そ
こでホンニ国は願い出た国を吸収し、ホンニ帝国と名を改め、今に
至ります。⋮⋮お願いですから、これぐらいの常識は覚えて下さい﹂
カザルズはクロを見ると、やれやれとばかりに肩をすくめた。
﹁仕方ないだろ。今まで興味なかったんだから﹂
そう言って、クロは口をとがらせる。確かに、神話でお腹が膨れ
るわけではないので、興味ない人にとっては全く意味をなさないも
のかもしれない。
﹁あ、でも。旅芸人はそうやって神がいなくなった事によって国を
失ったヒトが始まりだって事は知っているぞ。国を失った事を哀れ
に思った神様が、他国をわたり歩く事を許したんだってさ﹂
﹁へぇ。そうだったんだね﹂
カミュはカザルズやクロの話を感心気に聞いていた。⋮⋮カミュ
ならこの手の話も知っていそうなので、珍しい。
私の視線に気がついたカミュは、苦笑して見せた。
﹁アールベロ国には、この手の神話は伝わっていないんだよ﹂
﹁へぇ﹂
魔法を自由自在に使うファンタジーな世界のアールベロ国ではあ
まり知られておらず、魔法よりも科学が普及しているホンニ帝国で
神話が知られているなんて、なんだか不思議な気がする。
ああ、でも。アールベロ国が今までに神様関係で何か問題がなけ
れば、伝承は残らないか。ホンニ帝国は精霊に好かれる一族を王と
して据える事で存続を許されたわけだし、結構複雑な場所のような
⋮⋮ん?だとすると、やっぱりその一族のヒトが王位を継承してい
かなければ不味いような︱︱。
チラリとクロを見てから、私はカザルズさんを見た。見た感じ、
クロはこの話を聞いてもピンと来ていない様子である。ぶっちゃけ
1000
真実をもっとわかりやくすクロに伝えてしまえばいいのにと思わな
くもないが、何か理由がある可能性もある。ただこのままだと、こ
の先も、クロが気がつく気がしない。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁あ、いや。えっと、カザルズさん︱︱﹂
﹁私の事は、カズと呼んで下さい。ホンニ帝国では真名を大切にす
る習慣がありまして、普通は愛称で呼ぶんです。アールベロ国には
ない習慣なので慣れないかもしれませんが﹂
﹁あ、そうなんですか﹂
愛称で呼べと言い出すなんてフレンドリーだなと思ったが、そう
いうわけでもないようだ。そうか。真名か。だからクロもクロード
という名前は人前で使うなと母親であるアルファさんに教えられて
いたのかもしれない。だとすると、別にクロのサインはヒトに見せ
ても問題なかったのか︱︱。
﹁はい。変わった習慣なんですが、真名は愛する相手のみに伝える
ものとされているんですよ。まあ結構その認識は薄れてきています
し、町では気にしない方もいますが、ここは王宮ですので慣習にう
るさいんです。今でも続いているのは、プロポーズする時に真名を
紙に書いて送る事ぐらいですかね﹂
﹁⋮⋮へ?プロポーズ?﹂
とんでもない言葉に私はどきりとした。
あれれ?私、今、そんな大切なもの持っていませんでしたっけ?
﹁昔は義理の親子の縁を結ぶ時や、何か大切な契約を結ぶ時に送っ
たりもしていたみたいですが、そちらの習慣は薄れつつありますね。
どうかしましたか?﹂
﹁い、いえ。ナンデモナイデス﹂
クロは私へ名前をプレゼントしてくれた事を覚えているだろうか
とチラリと見たが、いたって普通なので、覚えていない可能性が高
い。まだクロは当時6歳だったし、その時のクロは名前をあげる事
1001
にプロポーズという意味があるなんて思ってもいないから、忘れて
しまったのだろう。
というか、忘れて下さい。
クロが慣習にうるさい王族の一員だとしたら、色々不味い。⋮⋮
うん。このお守り袋の中身は、私が墓に入るまできっちりと封をし
ておこう。そして、もうこれ以上、クロの正体に迫るのも止めよう。
クロがホンニ帝国の王子でなければ、あれはただのサイン。アイド
ルだったら握手付きで、何千枚と書くものだ。
﹁それで、ここはどこなんだ?﹂
﹁へ?﹂
王宮じゃないの?
アスタの不思議な言葉に首をかしげる。
﹁さすが鋭いですね。ここは、ホンニ帝国の神殿であり、魔素が生
まれるパワースポットでもあります。でも王宮の一角には間違いな
いですよ﹂
⋮⋮パワースポット?ここが?パワースポットなんて中々ないの
で、初めて来た。
でも建物はすごいという感じだったが、いつもと何かが違うとい
う感覚はない。パワースポットという事は魔素が多いから、何か感
じても︱︱。
﹁って、駄目﹂
﹁へ?﹂
﹁魔素はアユムには毒だから。ここにいたら不味い﹂
アユムは魔素の耐性がない。そのため私は、周りの魔素を吸う魔
法陣の描かれた石を持たせていた。しかしパワースポットなんかに
いたらすぐに吸いきれる上限を超えてしまう。
﹁そうなのか?じゃあ、俺がアユムと一緒に外に出るよ。トキワは
そのうち来るだろうから、オクトはここで待ってろ﹂
1002
﹁えっ﹂
しかし笑顔のクロとは反対に、アユムはすごく不安そうな顔で私
を見てきた。⋮⋮その眼で見られると、私も弱い。かといって、こ
こにトキワさんが来るなら、私も一緒に外へ出るわけにはいかない
し。
﹁じゃあ、僕もアユムと一緒に行こうかな﹂
カミュはアユムの目線に合わせるようにしゃがみこむとそう申し
出てくれた。
﹁カミュも?﹂
﹁そう。それにライも一緒だから。これなら安心だよね﹂
アユムはカミュを見た後、チラリと私を見上げたが、最終的にう
なずいた。
﹁うん。ボク、カミュといい子にしてる﹂
少しションボリとした様子だが、アユムはカミュと手をつないだ。
﹁オクト⋮⋮はやくきてね﹂
不安そうな顔をするアユムの頭を私はよしよしと撫ぜてあげる。
トキワさんとの話がどれぐらいで終わるか分からないので、約束は
してあげられないが、終わり次第アユムを迎えに行ってあげよう。
船旅の間に大分と落ち着いたアユムだが、やっぱり事あるごとに不
安げな顔をするのだ。あまりそういう顔はさせたくないのだけど⋮
⋮こればかりは仕方がない。
﹁アスタリスク魔術師、オクトさんをお願いします﹂
﹁お前に言われるまでもないよ﹂
⋮⋮お願いしますって、何故カミュが頼む。そして、何故アスタ
は当たり前のように承る。見た目は小さくても、アユムと違って私
はもう一人前だというのに。
﹁カミュ。私は子供じゃないんだけど﹂
そもそも、こんな場所でどんな危険があると言うのか。
﹁オクトさんもむくれないで。別にオクトさんの能力を心配してい
1003
るわけじゃないから﹂
﹁じゃあ、どういうわけ?﹂
能力を心配していないなら、何でお願いしているんだ。意味が分
らない。
﹁うーん。まあ、それは友達だから⋮⋮かな?﹂
﹁何それ﹂
そして何故疑問形。カミュが私の事を友達と思っていないから⋮
⋮という事はたぶんないだろうけど。以前カミュの方から私の事を
友達だと言ったわけだし。
﹁つまりオクトさんの事をよく知っているという意味。じゃあ、ア
ユムの体に障りそうだから、外で待っているね﹂
やっぱり意味が分らない。
うーん。友達だから心配するという事が言いたいのだろうか。し
かし王宮だったらスリとかの心配もないだろうし、何に気をつけた
らいいのか。
ただこれ以上引き延ばすと、アユムの体に良くないというのも確
かだ。なので、私は問い詰めるのをやめてカミュたちを見送った。
﹁それにしても、不思議な縁ですね﹂
﹁はあ﹂
クロたちが出て行った辺りで、カズはそう話しかけてきた。
﹁小さなころに離れ離れになり、別々の大地で暮らしていた2人が
再会。ロマンチックだと思いませんか?﹂
﹁⋮⋮どうでしょう﹂
﹁ただの偶然だろ﹂
もしかして、このヒト、名前の件知っている?
ダラダラっと冷や汗が流れるが、私はポーカーフェイスを通した。
お守りの話は誰にもしていないので、黙って入れば大丈夫なはずだ。
﹁まあ、クロは精霊を引き寄せ、従える事ができる能力があります
し、貴方に精霊の血が流れているなら、そのおかげかもしれません
1004
ね﹂
﹁あ。やっぱり特殊な能力があるんですか?﹂
﹁クロは鈍いので、全く気が付いていませんが﹂
おおっ。なるほど、クロは主人公体質なのか。
実はすごいけど、その能力に気が付いていないとかありがちだ。
にしても、精霊を従えるって⋮⋮どの程度のものかは分からないが、
意外に物騒な能力だと思わなくもない。一応精霊族は私たちとかな
り体のつくりが違いそうだが、ファンタジー小説にありがちな不思
議な生き物の枠組みではなく、ヒトの枠組みに入れる。
そのヒトの枠組みに入れるものを、引き寄せ従えるというのだ。
⋮⋮幼馴染のクロでなければ、できる事ならお近づきになりたくな
い能力な気がする。
﹁それにしても、偶然なのか、必然なのか。幼い時ほど魔力の暴走
というものが多いですが、クロが近くにいたならそういう事も起こ
らなかったでしょうし。先ほど言ったように不思議な縁ですよね﹂
﹁えっ?そうなんですか?﹂
﹁先ほども言ったように、精霊を従える能力があるクロは、例え貴
方が暴走しかけても貴方に精霊の血が流れる限り抑えられるんです
よ。混ぜモノの数が圧倒的に少ないのは、生まれにくいというのも
ありますが、育ちにくさからもきています。まるで運命が貴方を生
かそうとしているようで、悪運の強さに感心してしまいます﹂
おっと。クロにそんな能力があったとは。
だが言われてみると、クロのおかげで暴走しなかったのかなと思
う出来事が思い浮かんだりもする。なるほど。従えるという言葉を
使うととても物騒に思えるが、暴走を抑えるという言葉を使うと命
の恩人になるから不思議なものだ。
昔クロに足を向けて眠れないと思った事があったが、その考えは
間違いではないようだ。
1005
﹁当たり前じゃ﹂
不意に甲高い子供の声が聞こえた。しかし、しゃべり方は若干子
供のモノとは違う。 ﹁お前を生かそうとしとるのは、運命でも何でもなく、わらわとお
前の母。死なないのは必然じゃ﹂
⋮⋮ご、合法ロリっ?!
顔を上げた先には⋮⋮合法ロリのイメージをまんま絵に描いたか
のような姿と口調の少女が、空に浮かんでいた。
1006
45−3話
⋮⋮うわぁ。
もともと合法ロリと言われていたから、覚悟はしていた。かと言
って、こう2次元をまんま現実世界に持ち込んでみました的なテン
プレっぽいヒトが現れるのは、ある意味予想外である。
私の頭の上で腕組をし、ふよふよ浮かんでいる少女は、アラジン
などで出てくるようなふんわりとしたパンツを履き、ロングコート
のようなものを羽織っていた。さらに頭はより大きく見せるかのよ
うな帽子をかぶっていて、まさにコスプ︱︱もとい、今まで出会っ
た誰よりも異国風の装いだ。
﹁なんじゃ?わらわに用があってきたのじゃろ。ヒトの顔を見て呆
けるとはどういう了見じゃ?﹂
⋮⋮あ、頭が痛くなってきた。
じゃじゃ言葉に、一人称がわらわ。ネタとしてやっているとしか
思えない状況だけど、本人はいたってまじめな様子。きっと私が何
で呆けたような顔をしているのか、絶対分かっていないだろう。
﹁まるで前館長みたいなしゃべり方だな﹂
﹁ははは﹂
確かにアスタが言うとおり、前図書館の館長もじゃじゃ言葉だっ
た。でも館長の場合は、本物のお爺さんだったから似合っていたわ
けで。あ、でもトキワさんは合法だからババアな可能性もあるのか。
合法ロリどころか、まさかのロリババア。いや、ロリババアは色
々複雑で、ただ長生きをしていれば認定されるわけではなかったか
ら、この場合は、のじゃロリというのが正解か︱︱。
︱︱ああ。また一つ、自分の残念な前世知識が見つかってしまっ
1007
た。
﹁あー、えっと。初めまして。トキワさん⋮⋮ですよね?﹂
あまりに残念すぎる前世の知識をこれ以上思い出しても余計に切
なくなってきてしまうだけだ。なので私は気を取り直し、名前を確
認してみた。
というか、こんな絵に描いた合法ロリが、ゴロゴロいる世界はち
ょっと嫌だ。もしも時の精霊全員が、ロリショタだったらどうしよ
う。かわいいは正義⋮⋮ある意味楽園か?いやいやいや。そんな新
しい世界への目覚めはいらない。
﹁いかにも。わらわは、時を司りし神に仕える高位精霊のトキワじ
ゃ﹂
トキワさんは踏ん反りかえるような姿勢で空に浮かびながら、偉
そうに答えた。地面に降りればいいのにと思ったが、その時はっと
私は気がついた。
合法ロリと呼ばれるだけあってトキワさんの身長はかなり低い。
もしも地面に降りたら、全員から見下ろされるような位置に頭が来
るだろう。もしかしたら、それを回避しているのかもしれない。
何故そんな口調なのかは分からないが、小さい事を気にするその
気持ちだけはよく分かる。
全く理解しがたい存在に思えたが、少しだけ親近感が湧いた。
﹁時を司りし神?﹂
アスタのいぶかしげな声に、私もあれ?っと気がついた。外見の
奇抜さというか、狙いすぎだろというところに目がいってしまい、
トキワさんの言葉を流しそうになったが、確かにおかしい。
以前カンナさんから、時の女神が混融湖に溶けたという話は聞い
ていたが、それはとても昔の話。私が知る限り、この世界の神様に
時を司っているものはない。
﹁いかにも。わらわは時の神に仕えるモノ。最後の時の女神が居な
1008
くなってからは時の管理を代行し、待ち続けておるモノじゃ﹂
⋮⋮このヒト、一体いくつなんだろ。
最後の時の女神が居なくなってからという事は、つまり混融湖が
できた辺り︱︱文献にも載っていないほど昔の時代の事である。一
族で管理をしてきたという事と思いたいが、今のセリフからは、ト
キワさんがずっと代行をしてきたという言葉に聞こえる。
もしも本当にそうなら、合法どころの騒ぎではない。
﹁待つって︱︱﹂
﹁じゃが、最近、時の流れをひっちゃかめっちゃかにして、いくつ
もの並行世界を生み出している愚か者がおってのう﹂
そう言うと、トキワさんは、大きな紫色の瞳を私の方へ向けた。
⋮⋮えっと。もしかして、もしかしなくても、それって私ですか?
もしくは、コンユウやエストの可能性もあるというか、全員な気
がしてたまらない。
﹁その件を含め、わらわはオクトと2人きりで話がしたいんじゃが、
駄目かのう?﹂
﹁駄目に決まっているだろ﹂
﹁そうですね。オクト嬢を1人にしては、私がクロに怒られてしま
います。ですからここで話をしていただきたいのですが﹂
どうしようかと私が考えていると、私より先にアスタとカズが断
った。
しかしトキワさんは2人へ目を向ける事もなく、じっと私だけを
見つめる。
﹁わらわはオクトに聞いておるんじゃが﹂
﹁私は⋮⋮﹂
﹁わらわは、オクトが知りたい事を知っておる。しかし部外者がお
るならば、わらわはこれ以上しゃべる気はない﹂
﹁えっ?!﹂
1009
って、それは困る。
わざわざホンニ帝国にやってきたのは、トキワさんに色々話を聞
くためなのだ。
﹁駄目だ。俺が居る前で話せないような内容なら、帰らせてもらう﹂
﹁アスタ、ちょっと待って﹂
私の腕を掴み、本当に帰ろうとするアスタからさっと逃げると、
私はトキワさんを見た。
﹁何でここじゃ駄目なんですか?﹂
﹁時の管理に関わる事は、本来他者に漏らしてはならないからじゃ
よ﹂
あー、いわゆるタイムパラドックスを防ぐためとかそういう話だ
ろうか。だったら私も聞くのは不味い気がするが、私は一応トキワ
さんと契約をしている。もしかしたら、トキワさんは、私が知りた
い事をママについてや、ママが手紙に残した前世についての話だと
思っているのかもしれない。
本当に聞きたいのはそれではないのだが、どちらにしろ一度話を
しなければならないだろう。そうでなければ、本当に欲しい情報を
くれるのかどうかすら分からない。
﹁分かった﹂
﹁オクト駄目だ﹂
アスタの目は真剣だ。
できるなら、アスタを説得させてから行きたい。でもいまだに対
等だと思ってもらえない私では、説得するにしてもとても時間がか
かるだろう。特に今の心配性なアスタでは、中々難しそうだ。
それにアスタが実力行使にでたら、私では太刀打ちできない。な
ので、私は先手を打たせてもらうことにした。
﹁アスタ、ごめん。⋮⋮私には前世の記憶がありますっ!﹂
私が叫んだ瞬間、アスタの動きが止まった。
アスタだけではない。カズの動きも止まり、世界から音という音
1010
が消え、私は無音に包まれる。
﹁私には前世の記憶があります。私には前世の記憶があります。私
には前世の記憶があります︱︱﹂
前世の話をしようとすると発動し、強制的に時を止めてしまう、
時の女神の呪い。しかしこの呪いが発動中に、私自身が動けるのは
すでに実証済みだ。
ホンニ帝国の地理を知らない私では、ここでは上手く転移魔法を
使えない。なのでアスタから逃げるには、時を止めるのが確実だろ
う。
﹁このように呪いを使われるとは、女神も思っておらんかったじゃ
ろうな﹂
世界が静寂に包まれている中、私とは別の声が聞こえた。どうや
ら時の精霊には、この手の呪いは関係がないようだ。
呆れた目で見てくるトキワさんに、私は苦笑する。魔術に関して
の知識や能力は、アスタの方が私よりもずっと上だ。そのアスタを
出し抜くには、彼が思いつきもしない方法を使うしかない。
それにしても、時が止まった中でトキワさんにどうやって色々伝
えようかと思っていたので、呪いが時の精霊には関係しないという
のはありがたかった。
﹁しかし時が止まっておっては、わらわも転移魔法を使えんぞ﹂
トキワさんの言葉に私はうなづくと、﹃私には前世の記憶があり
ます﹄と声を出しながら、出口に向かって歩来始めた。
アスタはきっと怒るだろう。でもここで上手くいかないだろう説
得をするよりも、この選択肢の方がずっと合理的だ。
﹁私には前世の記憶があります。私には前世の記憶があります。私
には前世の記憶があります︱︱﹂
機械的に言葉を発していた私だったが、入口から出る前に、なん
となくアスタの方を振り返えった。アスタは私が居なくなった事に
も気づかず、じっと扉とは反対の方を向いている。もちろん時間が
1011
止まっているのだから、当たり前なのだけど⋮⋮なんだかいけない
事をしている気分になってしまう。
そういえば、ホンニ帝国に黙って行こうとした時もアスタは怒っ
て追いかけてきたぐらいだ。突然居なくなったら、アスタはきっと
ショックを受けるに違いない。アスタを傷つけたくはないのだけど
⋮⋮どうしたものか。
﹁どうしたんじゃ?﹂
私は鞄の中から魔法陣を描く為に持ってきた紙とペンをとりだす
と、謝罪と終わり次第アスタが居る所へ戻る旨を書いた。
すべてが終わったら、ちゃんとアスタと話し合おう。だから、今
回はごめんっと思いつつ手紙を足元に置く。
部屋の外へ出ると、日の光がまぶしくて、私は目を細めた。どう
やら私たちが居た場所は、独立した建物だったようで、部屋の外は
屋外につながっていた。
﹁私には前世の記憶があります。私には前世の記憶があります。私
には前世の記憶があります︱︱﹂
どこまで離れればいいのか分からないが、とりあえず私は行くあ
てもなく歩いた。ただ城の真ん前で時を止めるのを止めたら、そこ
で働いているヒト達に不審者扱いされてしまう可能性がある。なの
で城からは離れるように進んだ。
しばらく歩き、周りに人の姿がない事を確認したところで、私は
呪われた言葉を吐くのを止めた。
﹁えっと、どこへ行きましょうか?﹂
土地勘がないので、私ではここが城の中でもどのあたりに位置し
ているのかすら分らない。ただ先ほどの場所からはさほど離れては
いないので、ここでしゃべっていたらすぐにアスタに見つけられて
しまいそうだ。
﹁わらわの部屋へ案内しようぞ。手をこちらへ﹂
1012
トキワさんに差し出された小さな手を握り返そうとしたところで、
私は奇妙なデジャブを覚えた。
あれ?前にもこんなことがあったような⋮⋮。
しかしどのタイミングでこの場面があったのか、さっぱり記憶か
ら出てこない。そもそも、トキワさんとあったのは今日が初めての
ようなもの。
﹁オクト、どうしたんじゃ?﹂
もしかしたら、このデジャブは誰か別のヒトと手をつないだ記憶
なのかもしれない。
﹁あ、すみません﹂
何も不安になることなんてないのに⋮⋮何故こんなに引っ掛かり
覚えるのだろう。ただどれだけ引っ掛かりを覚えたとしても、私に
はこの手をとる以外の選択肢などない。
そう自分に言い聞かせ、私はトキワさんの手を掴んだ。
1013
46−1話 一番大切なヒト
トキワさんの転移魔法でついた場所は、普通の客室だった。
時の精霊に連れてきてもらうのだから、異空間的なところに案内
されるのかもしれないなと思っていたので、ある意味予想外だ。
﹁えっと、ここは?﹂
﹁昔、時の神が使っていた客室じゃよ﹂
⋮⋮どこですかそれ。
普通だと思ってすみません。まさかの遺跡探検にびっくりだ。で
も時の神といえば、ずっと昔に居なくなってしまたはず。その割に、
部屋の中は廃墟ではなくとてもきれいだ。もしかしたら、頻繁にト
キワさんが使っているのかもしれない。
﹁好きな場所に座るとよいよ﹂
﹁はぁ﹂
トキワさんに言われてソファーに腰掛けたが、どうにも落ち着か
ない。何でこんなに落ち着かないのだろうと思ったところで、生活
音が全くない事に気がついた。
まるで時を止めたかのように部屋の中は無音なのだ。見た目は普
通だが、やはりここは王道に、異空間のような場所なのかもしれな
い。
﹁昔はのう、ここはとてもにぎやかな場所じゃった﹂
私の心の声を読んだかのようなトキワさんの言葉にどきりとする。
しかし別に心を読んだとか、そういうわけではないようだ。トキワ
さんは私ではなく、部屋に飾られた風景画を眺めていた。
その絵には、どこかアラジンを思い出させる建物が並んでおり、
もしかしたらトキワさんが昔住んでいた場所なのかも知れない。
1014
﹁今は、トキワさん以外の方は?﹂
﹁ここにはおらんのう。新しい時属性の精霊が生まれなくなって、
もうかなりになるからのう。この神殿は忘れ去られて久しい場所じ
ゃ﹂
﹁えっ?生まれないんですか?﹂
というか精霊ってどういうメカニズムで生まれるのだろう。
元々肉体というものを持っていない上に、同族なのに低位、中位、
高位と分かれている、かなり特殊な一族だ。自分のご先祖様に当た
るはずなのだが、私はまったくもって情報を持ち合わせていない。
﹁時の神は不在じゃから、もう時属性の魔素は、女神が残した混融
湖にしかないのじゃ。わらわ自身も、長き間眠りにつき、時の管理
の一部となっておった﹂
﹁時の管理?﹂
⋮⋮そう言えばトキワさんは、並行世界を生み出してとか何とか
と、文句を言っていた。なるほど。時の管理をしているならば、彼
女も文句の1つや2つ言いたくなる事もあるだろう。
﹁そうじゃ。神がおるか、もしくは混融湖などというものがなけれ
ば、本来はいらぬ役目じゃがな。時の女神が混融湖を生み出してし
まった時から、わらわ達時の精霊は、世界が壊れぬように調整役と
なる道を選んだんじゃ。そうでなければ、この世界そのものがなく
なってしまうのでのう。世界がなくなればどちらにしろ、わらわ達
も生きてはおれん﹂
﹁それは⋮⋮﹂
大変ですねと言えばいいのか、そんな言葉で終わらせてしまって
いいのか分からない。世界の為に個を犠牲している彼女達に同情す
ればいいのか、それとも彼女達が自ら選んだ事なので同情するとい
うのは失礼に当たるのか。
あまりに大きな話すぎて、今の私には判別がつかない。
﹁調整役となったわらわ達は、世界の理となり、過去と現在、未来
1015
が混ざる度に世界が揺れるのを、最小限に抑え込んでおった。じゃ
からわらわが目を覚ましたのも、本当に久々なんじゃよ。オクトの
母親に呼ばれるまでは、わらわは世界の一部であった﹂
﹁⋮⋮えっ?ママが呼んだんですか?﹂
世界の崩壊を防いでいる時の精霊を叩き起こすなんてなんて、知
っていたのか、知らなかったのかは分からないが、かなりチャレン
ジャーだ。
﹁そうじゃ。目が覚めたわらわは、長き間、意識も姿もなかったも
のじゃから、セイヤ⋮⋮その後ノエルと名を変えたオクトの母親の
想像のままに具現化したんじゃ。高位の精霊は、他者の想像を基に
体を作り出すことができるからのう﹂
﹁えっ⋮⋮。ママがトキワさんを具現化させた?﹂
﹁うむ。姿や言葉がなければ意志疎通ができんからのう。その時具
現化したわらわの姿を見て、ノエルは﹃合法ロリキター!!﹄と叫
んでおった。どうやらノエルが持つ、時の精霊のイメージは子供と
老人、過去と未来の同居した、合法ロリと呼ばれる存在だったよう
じゃ﹂
⋮⋮ママ。
私はママの中に、私と同じ日本の記憶があるという確信を持った。
でもできればこんな残念な知り方はしたくなかった。
ほら、もっと、時の精霊なのだから、小さい姿をしている事に対
して、ファンタジー的要素にあふれた理由があったっていいじゃな
いだろうか。いや確かに具現化させるとかそういう言葉が出る時点
でファンタジーではあるのだけど⋮⋮。だからといって、よりによ
って、﹃合法ロリキタ┃︵゜∀゜︶┃!!!!!﹄って何?トキワ
さんが聞いたママが叫んだという言葉には、絶対某掲示板で使われ
る顔文字が入っていたと思う。
﹁なんじゃ。せっかく母親の話をしてやっておるのに、残念な顔を
しおって﹂
﹁あー、いえ﹂
1016
だって残念な現実だったんですものともいえず、私は曖昧に笑っ
た。
きっとトキワさんは、合法ロリというものが、萌えで設計された
若干残念な存在だとは思っていないのだろう。過去と未来が同居し
た存在とか⋮⋮確かにそういう言い方をしたらカッコいい気がする。
それに顔はロリだけど、胸は豊満とかいうエロゲ的な妄想による具
現のではなかっただけよかったではないだろうか。
うん。世の中には知らない方がいい事もあるのだ。
﹁えっと、ママはどうしてトキワさんを呼んだんですか?﹂
﹁お主が腹におったからじゃよ﹂
﹁えっ?私?﹂
﹁そうじゃ。混ぜモノは魔素を作り出すことができる存在。じゃが
過剰な魔素はヒトの体には毒じゃ。よって混ぜモノは高位の精霊と
契約し、魔素への耐性がある体となるよう精霊の力で強化をする。
その代わり精霊は一部魔素をもらいうけるという仕組みじゃ﹂
なるほど。
多数の精霊との契約は、私の魔力を糧としている為、体に大きく
負担がかかっている。しかし魔素なら本来多量に必要としないもの
だ。その部分で契約しているなら幼少期に倒れるなどがなかったの
にも納得がいく。まあ時の精霊は別として、風の属性は持っている
ので、風の精霊との相性がいいというのもあるかもしれない。
﹁じゃあ私はトキワさんと、風の精霊の方の力で魔素のバランスを
とっているんですね﹂
﹁いや、違うぞ﹂
あれ?違うんですか?
折角理解しきったと思ったのに、否定されてしまって首をかしげ
る。どこを私は理解し間違えているのだろう。
﹁最初はそのつもりじゃったが、魔素のバランスをとっておるのは、
風の精霊の方じゃ﹂
1017
﹁えっ、そうなんですか?﹂
話の流れから、トキワさんもその契約をしてくれているとばかり
思っていた。ただ、最初はそのつもりだったという事は、途中で契
約を変えたのだろう。
でも何のために?
﹁どういう理屈でなのかはわらわにも分からぬが、ノエルはお主の
中に前世の記憶があるという事に気がついたんじゃ。ノエル自身、
前世の記憶に悩んでおってのう、そんな思いをオクトにはさせとう
ないと言い、わらわに記憶を封じる為の契約をさせた。記憶は時属
性の可管轄じゃからのう﹂
⋮⋮へ?
記憶を封じる?へぇ。そうだったんだ︱︱て、ちょっと待て。
﹁あの。私、記憶あるんですけど﹂
全然封じきれてませんから。
今まで、散々活用させてもらっていたので、かなりいまさらだけ
ど。多少曖昧な部分はあるが、確かに私の中には前世の記憶がある。
﹁うむ。ノエルは死ぬ直前に、封印を緩め、記憶の中でも知識の部
分だけはオクトがいつでも参照できるように契約内容を変えたから
のう。じゃから、お主の中に前世の知識があるのはわらわの手違い
ではない﹂
﹁死ぬ直前に、変えた?﹂
﹁ノエルはわらわと風の精霊の2つも契約した為に、魔力がかなり
枯渇しておった。じゃから自分の死期が見えておったのじゃろう。
オクトの成長がエルフ寄りで遅い事が分ると、今後を心配したノエ
ルは自分自身の死後にオクトの前世の記憶の中でも知識の部分だけ
は自由に参照できるよう、変更したんじゃ﹂
﹁えっ?契約したのは私じゃないんですか?﹂
なんでママが契約しているのだろう。しかも契約のせいで死んだ
って⋮⋮。
1018
﹁もちろんオクトとも契約しておる。しかし腹の中におる状態では、
まだ契約はできんからのう。じゃから最初は母親と契約をするんじ
ゃ。そして生まれると同時に再度本人と契約をする。大抵は契約の
代償が大きい為、母親は産むと同時に死んでしまうものじゃが、ノ
エルは精霊の血をひいておったからか結構長生きしたのう﹂
トキワさんの言葉に私は強い衝撃を受けた。しかしトキワさんは
話を止めることなく淡々と進める。
﹁そしてわらわはノエルと、もしもオクトが前世をすべて思い出し
たいと言ったら、封印を解除するように契約しておるんじゃ。そこ
で聞くが、オクトはどうしたい?﹂
どうしたいって⋮⋮。
まさかママがそんな事をしていたなんて思いもしなかった。昔、
カンナさんに言われた、﹃オクトはちゃんとセイヤに望まれて産ま
れたんだ﹄という言葉が、今すごく重く感じた。
カンナさんはこの事実を知っていたのだろうか。⋮⋮混ぜモノが
生まれるには精霊と契約しなければいけないなどを教えてくれたの
は彼女なのだから、きっと知っていたに違いない。だとしたら私が
混ぜモノである私自身を否定した時、カンナさんは双子の姉妹であ
るママを否定されたように感じたことだろう。 知らなかったとは
いえ、ひどい事をしてしまった。
﹁オクト﹂
トキワさんに名前を呼ばれて私ははっと顔を上げた。
﹁何故、泣いておるんじゃ﹂
﹁⋮⋮分かりません﹂
この涙はママを犠牲にして生まれてきた事に対して申し訳ないと
いう気持ちから流れるのか、それとも私が望まれてここにいるとい
う事に対してうれしいと感じているからなのか、私にもよく分から
ない。ただ苦しいぐらい胸が締め付けられる。
1019
﹁ノエルは運が良い女じゃった。そしてその運を的確に使いこなす
事ができ、オクトが生き残れるように道を作った。どの国にも利用
されぬよう旅芸人となり、混ぜモノの暴走を止める事が出来る少年
を近くに置き、オクトという人格を形成させる為にわらわに記憶を
封じさせた。すべてはノエルの思い通りとなっておると言うのに、
何を泣く必要がある?それで、オクトは記憶をどうしたいんじゃ﹂
﹁このままで。⋮⋮私はこのままで、十分幸せだから。記憶は必要
ありません﹂
元々私は前世を思い出す気なんてなかった。
私はとても恵まれすぎていて⋮⋮だからこそ、私を否定するわけ
にはいかない。
﹁ふむ。そうか。ならば何のためにここまで来たんじゃ?﹂
トキワさんは、私が封印を解かないと選んだ事に対して、とても
あっさりとした反応だった。その反応は私が思い出す事を選ばない
と思っていたからというわけではなく、本当にどうでもいいと思っ
ているように感じる。
確かにトキワさんにとっては他人事なのだろう。
私は零れ落ちる涙を袖で拭うと、深呼吸した。そうだ。ちゃんと
意識を切り替えなければ。私は自分を知りに来たのではなく、とて
も大切な人達の為にここへ来たのだ。
﹁実は私の大切な友人が混融湖に落ちてしまいました﹂
例えトキワさんには他人事だったとしても、ここからは譲るわけ
にはいかない。
﹁トキワさんは混融湖に落ちた友人を、この時間に呼び戻す方法を
知りませんか?﹂
これは私ができる、彼らに対する償いだ。エストが私が死なない
ように館長になった事を知っている。コンユウが何か目的を持って
時間をめぐっている事も知っている。
1020
それでも、私は彼らにこの時間に戻ってきてもらい、幸せになっ
て欲しい。彼らが私の為にしてくれたように、私も彼らの為に何か
をしたいのだ。
私の言葉を聞いた瞬間、トキワさんが、私に微笑みかけた。
その笑みは決して幼児がするあどけないものではなくて、見た目
とのギャップにゾクリとする。トキワさんがどうしていきなり笑い
かけたのか分からず、私がまごつく。
この時私は、ふとエストが手紙に残した、トキワさんの話を聞い
てはいけないという言葉を思い出した。
﹁知っておるよ﹂
トキワさんは、口を開くとごく自然に話し始めた。決して特別な
事を話そうとしている様子はないが、その言葉は肯定だ。
ただそれに対して私は歓喜を感じる前に、トキワさんの手をとっ
た時のような不思議なデジャブを覚える。まるで何度も何度も、こ
の場面を繰り返してきたかのように。でも私はこんな風にトキワさ
んと話すのは初めてのはずで︱︱。
﹁オクトが、時の神になればいいだけの話じゃ﹂
私が1人混乱する中、トキワさんは予想していなかった爆弾を投
下した。 1021
46−2話
﹁えっ。いや、神様になるって、簡単な事じゃないんじゃ⋮⋮﹂
トキワさんの﹃神様になればいい﹄発言に度肝を抜かれたが、普
通に考えれば、簡単にはなれるはずがない部類の職業だ。⋮⋮いや、
神様を職業カウントしていいのかは別として。
だって世界に6柱しか今は居ない上に、時の神は居なくなって久
しい。カンナさんの例を考えれば神様は生まれながらに神様という
わけではないだろうけれど、どうやってなれというのか。というか
そんなに簡単になれるものだったら、時の神が空席になる事なんて
なかったはずだ。
﹁そうでもないぞ。オクトは既に最初の関門は合格しとるしのう﹂
﹁最初の関門?﹂
﹁そうじゃ。神というのは、魔素を効率的に生み出す事ができる存
在の事をさす。つまり神になるという事は、人為的に混ぜモノと同
じモノとなる事じゃ。龍玉と呼ばれるモノを飲む事でそれができる
のじゃが、合わぬ場合は死にいたる﹂
﹁えっ?!﹂
死にいたるって。
めちゃめちゃ危険じゃないですか!すごく簡単に言ってくれるが
︱︱いや、確かに作業内容はそれほど難しくはないけれど、どう考
えてもハイリスクすぎる。
特に私のように、体力皆無では死ねと言われているようなものだ。
﹁だから、オクトは問題ないんじゃ﹂
﹁いやいやいや。問題大有りでしょ?!﹂
私がツッコミを入れると、トキワさんはキョトンという顔をした。
﹁何故じゃ?﹂
1022
﹁何故って。まあ、確かに私が死んでも困る人は少ないですけど﹂
少ないけど、居ないわけではない。
だからそう簡単に、死ぬなんて選択肢を選ぶわけにはいかないの
だ。しかも死んだ上に、エスト達へ償いもできなかったら、本当に
何をやっているんだという話である。宝くじと同じでやってみなけ
ればチャンスをつかめないのかもしれないけれど、そんな命がけの
ギャンブル乗れるわけがない。私がいなければ、もう誰もエストと
コンユウを助けようとしてくれないのだから。
﹁オクトが死んでは神になれぬから、わらわは困るのじゃが﹂
﹁ん?﹂
おや?どうやら、うまく意思疎通ができていないようだ。私が死
んで困るというなら、ギャンブルを持ちかけているわけではないの
だろう。
﹁えっと、龍玉というものが合わないと私は死んでしまうのですよ
ね?﹂
﹁ああ。じゃが混ぜモノなら高確率で合うはずじゃ。そもそも最低
でも人族の血を継ぐハーフでなければ、神になる事はできんしのう。
混ざるという点では人族が一番適しておるが体が脆弱すぎる﹂
あ、そういう事なんだ。
つまりすでに混ぜモノはそういう混ざる事に対して耐性があるの
だろう。だから私は第一関門を合格しているという意味なのか。
﹁さらに同じ属性を持ち合わせておるのが一番じゃ。オクトの場合
は生まれた時にわらわが女神の魔力を使って記憶を封印をした為、
時属性を持っておる。じゃから間違いなく適合できるはずじゃ﹂
そういうことか。
⋮⋮若干私が時属性の魔力を持ち合わせている部分に関しては、
偶然ではない気がしなくもないが、それでもそれによって助かって
いる部分もあるので文句はない。
1023
﹁でも時の神になったとしても、そんな簡単に時へ干渉できるので
すか?﹂
先ほど時の精霊が、世界が壊れぬように時を管理していると聞い
たばかりだ。時を駆け回っているコンユウは例外としても、エスト
が過去に行かなければ館長がいないというタイムパラドクスが起こ
ってしまう。
ただそもそも館長が体験した混融湖の事件と今回にはすでにずれ
が生じているので、混融湖に流されるというのは、正確にはパラレ
ルワールドの過去に流れつくという事なのかもしれない⋮⋮。まあ
こういう事象はややこしいので置いておくとしてもだ。
時を司る神が自分勝手に時をいじくっていいとも思えない。もし
もそれができるのだとしたら、どうして混融湖に溶けたという女神
は、時をいじり女神が理想とする世界へ導かなかったのだろう。
﹁普通はできんのう。今回のような場合は、混融湖に落ちたという
事象を回避した上で時を流す必要がある。その場合、現在流れてい
る時間に矛盾が生じ、大きく世界が揺れるじゃろう。じゃがオクト
が神になる事を選ぶというのならば、わらわ達時の精霊は、全力で
揺れを最小限にとどめ﹃混融湖に落ちた﹄という事象が起きなかっ
た未来を紡ごう﹂
過去を変える事が出来る。
それは怖いぐらいすごい事で⋮⋮私はぶるりと震えた。本当なら
ば、いくら望んだとしてもそんな事はできるはずがないのだ。
だけどあまりにすごい事すぎて、歓喜で震えるよりも先に、その
対価が怖くなった。﹃混融湖に落ちた﹄という事象が起きなかった
世界とはどのようなものなものなのだろう。
どうしてトキワさんはそこまでしてくれるのだろう。⋮⋮そもそ
も神になるという事はという事なのだろう。
トキワさんから差し出された提案に、1も2もなく飛びつきたい。
でも私の事を心配して待っているヒトがいるのだと思うと、慎重に
1024
ならざる得なかった。もしもここに居るのが私ではなくカミュだっ
たら、ちゃんとそのあたりの事もきっちり調べてから行動に移すは
ずだ。例えトキワさんの提案が私の望みを間違いなく叶えるものだ
ったとしても、調べ考える手間を惜しんではいけない。
﹁もしも時の神となったら、私は何をするんですか?﹂
時を司るのだから、現在トキワさん達が行っている時の管理とい
うものをするのだろうが、具体的に何をするのか分からない。
そもそも、パラレルワールドとかタイムパラドックスとかを考え
ると頭が痛くなってくる私では小難しい事は出来ないだろう。私は
カミュやクロのように頭がいいわけではないのだ。
﹁そうじゃのう。最初は眠ってもらう事になるのう﹂
﹁は?寝るんですか?﹂
まさかの神様の仕事が眠る。⋮⋮赤ん坊かよと言いたくなるよう
な仕事だ。というか赤ん坊は寝る事で育つのだけど、神様はどうな
るんだ?もちろん私の場合は、まだまだ育たなければいけないのだ
けど。
﹁ふむ。龍玉という異物を体の中に入れるのじゃ。その力が定着す
るまでに時間がかかるからのう。さらにこの世界から時属性が消え
て久しい。世界に時属性が戻るまでは眠っていただく﹂
﹁えっと、世界に時属性が戻るまでって⋮⋮具体的にはどれぐらい
なんですか?﹂
すごく大きな話に聞こえるのは私だけだろうか?
やっぱり、それだけ大きなことをするなら、1年とか2年とか年
単位になってきそうだ。⋮⋮あまり時間がかかりすぎると、アスタ
とか怒りだしそうな気がする。一度戻って説明して⋮⋮納得しても
らえるだろうか。
﹁混融湖がすべてオクトの中に吸収されるまでじゃからのう⋮⋮ざ
っと1000年ぐらいかのう﹂
﹁へぇ。1000年ですか⋮⋮えっ?1000年っ?!﹂
1025
﹁うむ。もしかしたら、もう少しかかるかも知れぬがのう。その間、
眠っているオクトの体は、わらわ達時の精霊が大切に保管するので
安心するがよい﹂
﹁いやいや。安心するがよいってっ?!そんなに寝たら死にます!﹂
魔力は大きい方だが、1000年とか普通に寿命がきてしまうだ
ろう。例え大切に保管されても、ミイラになっては意味がない。
しかし慌てるのは私だけで、トキワさんはいたって変わらず、そ
れどころか慌てる私が面白いかのようにクスリと笑った。
﹁死なぬよ。神は神が決めた理に逆らう事で寿命を縮める。時の影
響は受けぬ存在じゃ。オクトの場合最初に﹃混融湖に落ちる﹄とい
う事象を消すという、時の神がやってはいけないタブーを犯すが、
その程度ならば前任であった女神のように死ぬことはないじゃろ﹂
﹁⋮⋮時の女神は何故死んだんですか?﹂
﹁死んだ空の神にもう一度、会いたいと願ったからじゃよ。死んだ
モノを生き返らせようとするのは、犯してはならぬ禁忌。しかも他
の神へ干渉するなどもっての他じゃ。ただ女神は慈悲深いヒトじゃ
ったから、自分の我儘を通す事で世界が壊れる事も望まなかった。
じゃから女神は話ができずとも、愛した男を過去でもいいから一目
見たいと、すべての時を繋げる混融湖を生み出しそこに溶け、自我
をなくした。そして時の女神の干渉を受けた空の神もまた、次代が
生まれなくなった﹂
そう言うと、トキワさんは深く息を吐いた。まるで色んな想いを
自分の中に閉じ込めるかのように、ゆっくりと瞬きをする。その姿
は、年老いた老婆のように見えた。
﹁この世界は元々12柱神がおった。しかしもうそれも6柱しかお
らん。これ以上減る事があれば、魔素は足りなくなり、わらわ達ヒ
トは死んでいくしかないじゃろう。じゃから、わらわ達はもう一度
時の神が生れるのを願っておるんじゃ﹂
﹁私は⋮⋮﹂
﹁それにお主が助けたいと言っておるモノ達は、過去や未来をひっ
1026
かきまわし、時に波紋を作っておる。今のところわらわ達の力で修
正はきいておるがそれもいつまでもつかじゃのう。時属性を持つオ
クトならば、過去の改変に気がついておるじゃろ﹂
トキワさんの言葉に私は少し迷ったが頷いた。確かに過去が変わ
ったと思う出来事を私は何度か体験している。気のせいと言ってし
まえばそれまでの些細な出来事。でもそんな些細な出来事でとどめ
ていられるのは、時の精霊が調整してくれているからかもしれない。
﹁彼らがひっかきまわさないよう﹃混融湖に落ちた﹄という事象を
なかった事にするならば、わらわ達も全力を尽くそう。世界が滅び
ぬ為にもオクトの力が必要なんじゃよ﹂
重すぎる言葉に私は頷く事も否定する事も出来なかった。
私がここで頷かなかったら、このままでは世界が滅びるかもしれ
ないという。でも頷けば私の望みは叶えられ、世界も滅びない代わ
りに、私は1000年という長い時を眠る事になる。
眠って次に起きた時⋮⋮そこにはきっと私が知っているヒトは誰
も居ないのだろう。エストやコンユウは助かるが、決して彼らとも
う一度話す事はできない。カミュやライ、クロやアユム、そしてア
スタとも、2度と会う事は出来ないのだ。
それは死別するのと同じ事。
﹁それに、お主は誰とも関わりあいのない生活がしたかったんじゃ
ろう?確かにここは山奥ではないが、同じ事﹂
ああ。その通りだ。
私は誰の迷惑にもなりたくないから⋮⋮誰かに私自身を否定され
てしまうのが怖いから、離れようと思った。だからこれは、私が望
んだ限りないベストに近い形。
誰も傷つけず、エストやコンユウに罪滅ぼしができて、そして私
も傷つかない。誰も居ない世界ならば、私は誰かに傷つけられるこ
ともないのだ。
1027
﹁それなのに、何故泣くのじゃ?﹂
トキワさんの声はとても不思議そうだ。
でもトキワさんが不思議に思うのも分かる。だってこれは私が望
んだ事そのままで、一番ベターな方法だ。しかも世界が滅びない為
なんてもっともらしい理由までついている。きっと聞いた誰もが、
私が時の神になる事を望むだろう。
ああ、私は本当に馬鹿だ。
世界の滅びを救うならば、きっと誰からも感謝される。混ぜモノ
だからといって恨まれたり嫌われたりする事もなくなるはずだ。そ
れでも私は不特定多数のヒトに感謝される事よりも、簡単に数える
事ができる少数の大切な人達と共にいて話ができる事の方がとても
幸せなのだと感じてしまう。
﹁私は⋮⋮アユムを待たせていて︱︱﹂
きっとカミュなら、私の変わりにアユムの事を大切に育ててくれ
るだろう。王子様だしお金は不自由しないだろうし、私が育てるよ
りずっといいはずだ。
﹁︱︱アスタに、帰ると手紙を残していて⋮⋮﹂
きっとアスタは戻らなかったら怒るだろう。戻ってから神になる
事を説明しても、やっぱり怒るに違いないし、例えそれが世界の為
だと言っても納得しない可能性がある。
でもきっと、私が選んでしまえば、アスタでもどうにもできない
はずだ。それにアスタだっていつかは私の事を懐かしい過去として
しまうだろう。アスタの親友や奥さんのように。
﹁でもそうじゃなくて。⋮⋮私が、アスタと⋮⋮離れたくないから。
だから泣いてしまうの⋮⋮だと⋮⋮﹂
この感情は友情なのか愛情なのかよく分からない。それでもアス
タを悲しませたくないとかアスタの為を思ってではなく、私がアス
1028
タと離れる事を悲しいと感じているから苦しいのだ。
自分から離れてここまで来たのに。なんて私は自分勝手なのだろ
う。
それでも嗚咽がのどの奥からこみ上げる。
たぶん私は神になどなりたくない。
でも神となる選択は正しすぎて、否定できない。エストとコンユ
ウに幸せになってもらいたいのも嘘ではないから。世界が滅びず、
大切なヒトに笑っていてほしいから。
だから選ぶ道など決まっている。
それでも心が引き裂かれそうなぐらいに痛くて。私は涙を止める
事が出来なかった。
﹁⋮⋮アスタ﹂
きっと今アスタに会えば、私は誤った選択をしてしまう。それで
も一番大切だと思ったヒトに会いたくて私は脳裏にその姿を思い浮
かべ、嗚咽の変わりにその大切な名を口にした。
1029
46−3話
パリンッ。
まるで薄いガラスが砕けるような儚い音が、音のない世界で響い
た。
﹁俺の可愛い娘を泣かせるのは誰だ﹂
続く儚さ全く含まない低い声に、驚きで涙も引っ込む。
ぼんやりしていた視界も、パチパチと数回瞬きをすれは涙がなく
なり鮮明に周りを映し出す。そこには私の前に立ちふさがるアスタ
の姿が︱︱って、えっ?
﹁⋮⋮アスタ?﹂
﹁うん?何だい?﹂
アスタは冥府の底から聞こえてくるような低い声を出したとは思
えないほど、普通に笑顔で私を見た。いや。何だいって⋮⋮。
まるでピンチのヒロインを助けに来たヒーローのような登場の仕
方に、私は小さく笑った。会いたいと思ったけど、こんな風に現れ
るなんて誰が想像できるだろう。
﹁今すぐこの精霊族をシメるから、待ってろ﹂
訂正。笑えません。本当に笑えません。大切なことなので2度言
ってみましたのノリで、心の中でツッコミを入れる。
ヒーローはそんなセリフ言っちゃいけないと思う。
﹁あ、アスタ、ストップっ!﹂
私は話を聞かずに、今にもトキワさんに攻撃魔法をかましそう
なアスタの服の裾を引っ張った。このままでは、アスタとトキワの
大決戦が行われてしまう。いやいやいや。精霊と魔族が最終決戦な
どしたら、私はたぶん魔法に巻き込まれて一瞬で死にいたる気がす
1030
る。うん。何その罰ゲーム。
ここにはゲームの世界のような魔法があるけど、ゲームのように
やり直しはきかない。ゲームオーバーしたら、私の人生はそれまで
だ。
﹁なんで止めるんだい?この精霊族がオクトを泣かせたんだろう?﹂
﹁ち、違うから﹂
そもそも泣いてしまったのは、自分がとても貪欲で、弱いから。
本当は大切なものを一つだけ選ぶ事ができれば悩む必要なんてない
のだ。だけど私にはエストとコンユウを助けたいけれど、アスタ達
と離れたくないという相反する気持ちがある。2兎追う者は1兎を
も得ずという諺が日本にはあったが、まさにその通りな状況だ。
﹁そうじゃ。オクトは、お主と離れたくないと泣いておったから、
わらわの所為ではない﹂
﹁えっ。オクトは俺の所為で泣いているわけ?オクト、ごめんっ!﹂
ガバッとアスタに抱きしめられ、私は予想を裏切っていく斜め上
の流れに首をかしげた。いや、明らかににアスタの所為じゃないよ
うな。
というか、私は今すごくはずかしい事をトキワさんに暴露されて
いるような。
﹁あー⋮⋮とりあえず、アスタの所為でもないと思う﹂
色々、引きこもりたくなるような現実だが、私はなんとか踏みと
どまって、アスタの暴走を止めるために言葉を口にした。謝る必要
はないから、むやみにくっつくのも止めてもらいたい。このままで
は、恥ずかしさで、踏みとどまれきれなくなる。
﹁それにしても、社の守りを壊しおって。魔力馬鹿共め。じゃから、
わらわは魔族は好かんのじゃ﹂
﹁何を言ってるんだ?俺の娘を拉致しておいて﹂
﹁別にわらわが拉致したのではなく、オクトの方からわらわについ
1031
てきただけじゃ﹂
トキワさんがため息混じりに話すと、アスタは私を抱きしめるの
を一度止め、噛みつくように詰め寄った。
しかし私なら裸足で逃げ出しそうなアスタの恐ろしい雰囲気でも、
トキワさんはしれっとした様子だ。さすがロリババア。長生きなの
は伊達じゃない。
﹁あれは付いてきたじゃなく、強要したって言うんだよ。とにかく、
話が終わったなら、俺はオクトを連れて帰らせてもらう﹂
﹁えっ。ちょ。待った!﹂
何、私の話を聞かずに帰ろうとしてるわけ?
いつもなら流されやすい私だが、今は流されちゃいけないとさす
がに分かる。だって私は何も選んでいないし、これは私が選ばなけ
ればいけない事だ。
﹁嫌だ。待ったらオクトは俺以外を選ぶんだろ?﹂
﹁えっ?﹂
私を見るアスタは、とても悲しげな目をしていた。
まだ何も話していないけれど、これは私がどんな選択で悩んでい
るのか知っているのだろう。その場に居なかったので、どうやって
知り得たのかは分からないが、チート魔族様なアスタならあり得な
い話でもない。
ただ知っているという事は、私がアスタを選ばなかった時、どう
なるのかも知っているのだろう。
﹁オクト、お願いだから行かないで﹂
アスタの言葉は毒のようだ。
その言葉1つで私の動きと止め、間違った選択をさせようとする。
﹁正しくなくていいから﹂
善悪が分からなくなりそうだ。何も考えずにアスタを選びたくな
る。
﹁例えオクトが俺を選ぶ事が悪い事だったとしても、俺がオクトを
1032
騙してあげるから﹂
傷つかないように、真綿で首を絞めるようにアスタは私を守って
くれるのだろう。きっと、エストやコンユウを選ばなかった私をア
スタだけは悪くないと言ってくれるに違いない。世界中の誰もが、
私が神になるのが正しいと言っても、アスタはその声が私に届かな
いようにしてくれるだろう。
怖いぐらいに、私は愛されてるんだな。
いまさらながらにそう思う。
甘やかされて、甘やかされて、駄目人間にする気かと思ったもの
だが、アスタは本気でアスタがいなければ生きていけないようなダ
メ人間にする気だったに違いない。なんて男だと思うが、その作戦
にまんまと引っ掛かっている自分が居る。
でも⋮⋮。
﹁駄目﹂
﹁⋮⋮オクトっ﹂
﹁私は守られてばかりの子供じゃないから﹂
ここでアスタを選んで後悔したとして、アスタはきっと俺が悪い
のだと思えばいいとか言ってくるに違いない。それはとても楽で魅
力的な提案だけど、駄目だ。
私はアスタに守られるだけじゃなくて、ちゃんと対等になって、
アスタを守りたいのだから。
あの時、アスタが心臓を刺された時、私は後悔した。
私がもっと強ければ、アスタは私を守ろうとはしなかっただろう。
私が守られるだけの存在だったら、きっとまたアスタは私の所為で
命を落とすかもしれない。
﹁オクト、何も悩む必要はないぞ。オクトがおらんでも、この世界
は回るものじゃ。それに死ぬわけではないしのう﹂
1033
トキワさんのオブラートに全く包まれていない言葉に苦笑する。
でもきっとそういうものだろう。
﹁俺はオクトが居ないと︱︱﹂
﹁うん。ありがとう﹂
私はトキワさんの言葉の正しさを知っている。
アスタは私を忘れてしまった間もずっと普通に過ごしていた。居
たら幸せかもしれないけれど、居なくても世界は変わらない。そし
て過去は、時間とともに風化し、いつかは忘れる。
﹁この世界の為にも、わらわはオクトに賢い選択を求める﹂
ふと、私は再びデジャブに襲われた。
しかも今度は強烈で、トキワさんの声が幾多にも重なって聞こえ、
姿も何重にもブレて見える。あまりに情報量の多い視界から頭痛に
襲われ、私は目を閉じ頭を押さえた。
﹁私は︱︱﹂
上手く言葉が紡げないぐらいにガンガンと頭痛がする。自分の声
さえも何重にも聞こえ吐き気がする。
しかしその不快感は目を閉じても収まらない。
瞼を下ろせば真っ暗なはずなのに、何故が目の前を映像が流れて
いく。前世にあった空港のロビー、そして墜落する飛行機、言葉の
分からない異国のヒトに囲まれ身動きがとれない私。隣で何かを頼
む友人︱︱前世の記憶のようなものが走馬灯のように走っていく。
そしてそれが終わったかと思うと、次はアラジンに出てきそうな
宮殿が見えた。隣で笑う男神。その男神に食ってかかる、大切な時
の精霊達。
その映像が終わると、次はカミュやライ、アユムが見えた。アユ
ムは泣き、カミュやライは何やら慌てている様子だ。クロはカズと
口論していて︱︱これは、今だろうか?
その疑問の答えを得る前に、さらに映像が飛ぶ。次はエストだっ
1034
た。何やらトキワさんと話している。さらにパッと切り替わると今
度はコンユウが大きく映し出され、私に向かって叫んだ︱︱。
﹁馬鹿って何?!﹂
︱︱馬鹿っていう方が馬鹿なんだけど。
とっさに反論しようとして目を開けるが、そこにコンユウが居る
はずもなく、視界の先には心配そうに私を見るアスタだけだった。
﹁オクト、大丈夫か?﹂
﹁あ⋮⋮うん﹂
先ほどの強烈な頭痛と吐き気はもうない。ただ目を閉じる前とは
違う光景に、私は目を大きく見開いた。
ひらひらと無数の紙が、まるで雪のように部屋の中を舞い落ち積
もる。⋮⋮何だこれ。
﹁まさか、こちらの時を干渉されるとはのう﹂
天を見上げ、トキワさんがつぶやく。
﹁干渉?﹂
何が起こったのかも分からない。
ただ、おもむろに私は、どこからともなく落ちてくる紙を手に取
った。そして二つ折りになっているそれを開く。
﹃1人だけ格好つけようとしてんじゃねーぞ、バーカ﹄
﹁へっ?﹂
この文字ってコンユウだよね。
紙に書かれた文字は、図書館で一緒に働いている時に何とも見た
気がする。ただどうしてここにコンユウの文字があるのだろう。
さらにソファーの上に乗っている紙を私は片っ端から開いた。
﹃性悪魔族だけじゃなくて、俺もエストも、オクトが時の神になる
事なんて望んじゃいないんだからな﹄
﹃オクトみたいなチビに助けてもらおうなんて思ってないから。勘
1035
違いしてるんじゃねーぞ﹄
﹃オクトに時の神とか似合わないから﹄
﹃オクトは根暗な、引きこもりでちょうどいいんだよ﹄
﹃ものぐさなくせに、何張り切ってるんだよ。ものぐさが張り切っ
ても何もいい事はないんだからな﹄
⋮⋮おいっ。
心配しているのか、喧嘩を売ってるのか分からない言葉の羅列に、
私は呆れればいいのか、怒ればいいのか分からない。
ただ﹃もうオクトが目を覚まさない姿は見たくない﹄という言葉
に私は紙を開く手を止めた。
そうか。未来の私は時の神になったのか。
そしてコンユウは時の神になって眠っている私に会ったのだろう。
私が時の神となってもすぐに混融湖が閉じる事はないらしいし、理
屈的にはあり得る話だ。
でもどうやってコンユウはこのおびただしい数の手紙をこの時間
へ送っているのか。今ある既存の時魔法の魔法陣にはそんなものは
存在しない。未来ではその手の魔法陣が開発されたのか、それとも
︱︱。
﹁他の神の干渉を感じたけれど、流石時の神。やる事が派手よね﹂
トキワさんとアスタと私しかいない場所で、新しく女性の声が聞
こえた。そして瞬きした間に、茶色いウエーブのかかった髪の少女
が現れる。
﹁ごきげんよう、トキワちゃん﹂
そう言って、ハヅキは悠然と微笑んだ。
﹁これは、これは。樹の女神様。ご機嫌麗しゅう事で何より⋮⋮﹂
対するトキワさんはどこか憮然とした表情でハヅキを見返した。 ﹁⋮⋮ただ。勝手に他の土地へ来るのはいかがなものかと思うのじ
ゃが﹂
﹁勝手ではありませんわ。今はこの場所は光と闇の神が治める土地。
1036
ちゃんと訪問の許可はとっているもの﹂
時の神の社なのに⋮⋮と思ったが、よく考えれば時の女神が司っ
ていた土地はもうないのだ。きっと建物はそのままで、光と闇の神
が治める事になったのだろう。
﹁なんでしたら、ムツキさんに問い合わせてもらって構わないわ﹂
﹁そうじゃな。用意周到な樹の女神がそのようなミスを犯すことは
ないじゃろうな。ただ今はこちらも取り込み中なんじゃがのう﹂
﹁あらまあ。それはごめんなさいね。でも私の要件はとても簡潔な
ので安心して﹂
心底迷惑そうな顔をするトキワさんに対してハヅキさんは全く意
にも解していないかのように、微笑むのを止めなかった。⋮⋮さす
が神様。迷惑そうにされたら、私ならきっと途中で心が折れて、後
に要件を回しそうだ。
もしかしたら無視してしまえるぐらい、取り急ぎの用だったのだ
ろうか。それとも一般人と精霊族との会話だから遮ってもいいとい
う感じなのか︱︱。
﹁私、嘘大げさ紛らわしいは、詐欺と変わらないと思うの。その事
についてトキワちゃんはどういう見解かしら?﹂
ん?
J○ROのCMで聴きそうな言葉に、私は首をかしげる。何かハ
めじ
ヅキさんはトキワさんに騙されたのだろうか?
﹁それと、私の愛児を勧誘する場合は、私を通してくれないと困る
わ﹂
﹁⋮⋮愛児じゃと?﹂
トキワさんは私をジロリと音がするぐらいマジマジと見つめた。
えっ?もしかして、もしかしなくても私ですか?
とっさに助けを求めるようにアスタを見たが、アスタもキョトン
とした顔をしている。えっ?愛児って何?というか、そんなものに
なった記憶ないんだけど。
1037
﹁どこにもそのような契約の証はないようじゃが?﹂
﹁ええ。そうよ。私がいきなりオクトちゃんに印なんてつけたら、
樹の属性を持ち合わせていないオクトちゃんが倒れてしまうもの﹂
﹁契約の証がなければ、愛児とは呼べまい﹂
﹁いいえ。ちゃんと、オクトちゃんの住まいに目印は立てたわ。私
の力が通った木をと通して、徐々にオクトちゃんを樹属性に馴らし
ている最中なの﹂
えっ?
﹁⋮⋮木って⋮⋮えっ?あの木ですか?﹂
﹁ええ。そうよ。オクトちゃんの家に生えている木の事よ﹂
ハヅキに言われて、私は家の真ん中に陣取っている木を思い出し
た。
えっ。いや、でもあれって、確かカンナさんにコンプレックスを
刺激されて、怒りのままに生やしたものじゃ。
まさかの木の意外な効能に驚くしかない。あの木に、そんなすご
い力があったとは。そりゃ神様が生やしたものだけど、てっきり単
なるオブジェかと思っていた。今度から神木という事で、何かそれ
っぽくたてまつった方がいいだろうか。
﹁えっと。それと、その愛児って⋮⋮一体⋮⋮﹂
ここは聞くべきなのか聞かぬべきなのか。どうにも判断がつけら
れなかったが、私は聞くを選択した。だって、明らかに私が巻き込
まれている話だ。スルーしたら、後々痛い思いをする可能性がある。
﹁私が管轄する存在⋮⋮樹の精霊族と同じような立場かしら?でも
特に制約はないから安心してね﹂
いや。えっと、安心って。
何が何だか、さっぱり分からない。
﹁風の神の差し金か?同じ血を持つモノへ干渉するのは禁忌じゃぞ﹂
﹁さあ。何のことかしら?別にこの件は私の独断。オクトちゃんを
気にいったのだから仕方ない事なのよ。別にカンナちゃんに何か言
1038
われたわけではないわ。それに私もトキワちゃんに言いたい事があ
るの。神は6柱いれば問題ないわ。勝手に私達が死んだ話をしない
でくれないかしら?﹂
ハヅキさんは微笑みながらも、きっぱりとトキワさんに言った。
ふわふわした感じの可愛らしい姿なのに、その口から出てくる言葉
は鋭い。
﹁神が立ち聞きとは嘆かわしい﹂
﹁あら。私の愛児の気配が突然消えたら、心配するのは当然でしょ
う?しかもはるか未来の時の神の干渉まで感じたのだもの。私が赴
くのは当然の事だわ。その先でまたまトキワちゃんがオクトちゃん
へ神になるように強要していただけ。でも神への強要は本来ご法度
でしょう?﹂
﹁たまたまじゃと?﹂
﹁ええ。たまたまよ﹂
にっこりとほほ笑むハヅキさんには隙がない。しばらくすると、
トキワさんが、幼い姿には似つかわしくない大きなため息をついた。
﹁⋮⋮樹の属性は腹黒いのが多いから嫌いじゃ﹂
﹁お褒めの言葉としてもらっておくわ﹂
そういうと、ハヅキさんは私の方を見た。
﹁世界がどうとか、オクトちゃんはそういう難しい事は考えなくて
もいいの。もちろん神になってくれたらありがたいけれど、私達は
まだまだ消える気はないもの。だからオクトちゃんは、オクトちゃ
んが好きなようにしてね。⋮⋮っと、ああ、忘れるところだったわ﹂
そう言うと、すっとハヅキさんは私の手をとった。
﹁遅くなってごめんなさいね。もう大丈夫よ。精霊達、貴方達の神
から話は通っているでしょ?契約を解除なさい﹂
ハヅキの言葉で、私の腕から巻きつくように付いた無数の痣が消
えていく。
1039
﹁⋮⋮えっ?﹂
﹁私もあまり干渉をする気はないけれど、多種の精霊との契約は毒
よ。それに私の愛児になったのだから、これからは精霊との契約は
控えてね。今回は私が、すべての神に交渉して精霊に契約解除する
ように伝えておいたから﹂
⋮⋮さすが神様。テラチート。
私は久々に見た痣のない腕をさする。この痣は絶対消える事のな
いものだと思った。これは罪の証だと、そう思って諦めていた部分
もある。そんな私の耳元でハヅキさんは小さく囁いた。
﹁お礼は、カミュちゃんに﹂
そうか。
カミュがハヅキさんに頼んだのか。そしてカンナさんもきっと色
々とハヅキさんに頼んだのだろう。そうでなければ私がハヅキさん
の愛児となるわけがない。
私は⋮⋮本当になんて、幸せモノなのだろう。
幸せすぎて泣きたい気持ちになる。それと同時に、私は皆を幸せ
にしたいと心の底から思った。エストやコンユウだけではない。カ
ミュやライ、クロやアユム⋮⋮そしてアスタ。でもそれだけじゃな
い。アリス先輩や、ヘキサ兄、海賊の人達もだし、ミウも、皆だ。
それはとても都合がいい話で。
とても強欲で⋮⋮でもそれの何が悪いと開き直った。大切なもの
が多くて何が悪い。1番とか順番をつけろと言われればつけられる
かもしれないけれど、でも1番だろうと2番だろうと、大切なのに
は変わりないのだ。
﹁トキワさん、私は︱︱﹂
私は私の未来を⋮⋮願いを、口にした。 1040
47話 ものぐさな賢者
﹁つまりのう、コンユウは未来で時の神をやっておるオクトに、こ
の時間軸へ手紙を送ってもらったんじゃろうよ﹂
そう言ってずずずっとお茶をすするトキワさんをまねるように、
私もカップに口をつけた。
お茶をすすると、まったりとした雰囲気になる。ここは先日、泣
いたり、叫んだり、アスタがキレたり、バタバタした場所だ。しか
しその時とは大きく異なった時間が流れる。
あの時私が選んだ道の先が、これだ。 ﹁生きている時間は違っても同じオクトじゃ。無理やり時間を捻じ
曲げて、過去の自分に一時的に神の力を持たせ、受信機変わりとし
たんじゃろうよ。だからあの時、気分が悪くなったのじゃ﹂
﹁はあ﹂
トキワさんとの雑談の中で、先日コンユウが使った時魔法ついて
検証をする事になったが、トキワさんの言葉は分からない単語が多
い。空気を読んで相槌をうつものの、時属性が過去のものとなって
いたこの世界には、時属性に関する基礎知識はほぼないに等しい。
私が知っているのは、館長の使っていた時を止める魔法のみ。
そこから色々派生はできるが、それ以外はさっぱりだ。
時間を捻じ曲げるとか、どういう状態なのか。
﹁神はヒトとは違う。特に時の神は、他のモノより、より多くの情
報を扱う事となる。ヒトの身でそれを扱おうとすれば、パンクする
だけじゃ﹂
﹁えっ?パンク?﹂
﹁脳みそが鼻から飛び出んでよかったのう﹂
トキワさんに言われて、私はとっさに鼻を押さえた。鼻から脳み
1041
そって、何そのホラー。というか、未来の私、無茶しすぎだ。鼻か
ら牛乳とかスパゲッティ︱が出るのとはわけが違う。気分が悪くな
った程度で済んで本当によかった。
﹁ほほほ。冗談じゃ﹂
﹁えっ、冗談?﹂
﹁オクトが時の神になってくれんからのう、意地悪したくなったん
じゃ。まあ、パンクはするがのう﹂
結局するんじゃないか。
でも一体パンクとはどんな状況になるのか。⋮⋮怖すぎて、聞く
に聞けない。うん。自分では回避不能だし、世の中には知らない方
がいい事もあるだろう。今回はきっと聞かないが正解に違いない。
﹁意地悪って⋮⋮すぐでなくても、いつかはなるつもりです﹂
﹁そうじゃ。オクトが、いつか死ぬ時までは、わらわはずっと時の
管理をし続けねばならん。あー、老体に、鞭を打つとは。いまどき
の若者は、なっとらんのう﹂
そういって、トキワさんはトントンと肩をたたきながら、深くた
め息をついた。動きは老婆そのものだが、見た目が幼女な為に、違
和感しか与えない光景である。
そんな様子に私は苦笑するしかない。トキワさんの文句ももっと
もだとは思うし、結構我儘を言っている自覚もあるのだ。それでも、
譲れないところだから仕方がない。
﹁だって、よく考えたら、エストがいる過去はもう決まっているん
だから、未来である私がどのタイミングで直しても同じわけだし。
それに私が目覚めた時間軸、つまり混融湖がない世界に居るコンユ
ウはもう時間を移動することはできないから、急ぐ必要はないかな
と⋮⋮﹂
コンユウが書いた手紙は、未来で時の神となった私が送ったもの。
今トキワさんも認めたのだし、まず間違いはないだろう。
1042
そして私が時の神となり目を覚ましたのならば、必然的に混融湖
も消えているはずだ。つまりコンユウは私が神となった時間から混
融湖が消える前のどこかの時間軸に移動し、その後私の目が覚める
までそこで待っていたに違いない。
ただ神となった私の目が覚めるのは相当先なので、この微調整の
為に何度も世界をわたり歩いたのだろう。
どちらにしろ、コンユウは終着地点へ行ってしまったのだから、
こちらもしばらくは放置でもいいはず。
﹁というか、最近の私は頑張りすぎたんだと思います﹂
私の性格は引きこもりヒャッホーだったはずなのに、何でこんな
に苦労しているんだろう。これはしばらく休んでいいはずだ。前世
の偉い坊さんも、あわてな∼いとか、一休み、一休みとか言ってい
た気がする。うん。頑張りすぎってよくないと思う。
﹁だから私が死ぬ直前、もしくは神になってもいいかなと思った時
に、神になればいいかと﹂
私がオクトとしての人生を全うしてから、第二の人生に挑戦した
って罰は当たらないだろう。それにもしかしたら、神になるまでの
間に、もっといい方法も見つかるかもしれない。
となれば、なんとかなる目途も立ったのだし、焦る必要なんてな
いのだ。ものぐさが張り切ってもなにもいい事なんてないというコ
ンユウの言葉はまさに的を射ていた。
﹁横着じゃのう﹂
呆れたように見てくるトキワさんを私はあえて無視する。横着と
いわれようが、これが今の私ができるベストな選択なのだ。
﹁まあでも、あまり言うと、あの魔族に世界を滅ぼされかねんから
のう﹂
﹁ははは﹂
ですよねー。
現在私の帰りを待っているアスタを思い浮かべると笑いが引きつ
る。というのも今のアスタなら、神だろうなんだろうと、喧嘩を売
1043
りに行きそうだからだ。しかも絶対、相手が何だろうと勝ちに行く
に違いない。
なのでアスタが生きている限り、私は世界のためにもアスタから
離れない方がいい気がする。⋮⋮自分自身離れる気はないのでいい
のだけれど。でももしも私が違う選択をしていたらどうなっていた
のか。世界を滅ぼしかねない混ぜモノだったはずなのに、ある意味
世界を救う勇者的立場にいることに笑うしかない。
﹁オクトはあの男に甘すぎるんじゃ﹂
﹁そんなことはないかと﹂
﹁いや。オクトがもう少しちゃんと躾ておけば、もう少しマシだっ
たはずじゃ﹂
﹁何、その無理ゲー﹂
アスタを躾る?
無理無理無理。そんな面倒な事できるはずもないし、やる気もな
い。大体、アスタは90代で、私は10代。どう考えても、あべこ
べすぎる。
というか年下にそんな面倒な事を頼んではいけないと思う。世の
中の大人はもっと頑張るべきだ。
﹁とりあえず躾けられないなら、あの男より長生きするが良い。わ
らわにとっては、大迷惑じゃがな﹂
﹁すみません。でも、そのつもりです﹂
アスタを残して死ぬとか、色々怖すぎる。まあ正確には死ぬ直前
に神を継ぐ予定なので、私は長い眠りにつくだけなのだけど。いや、
長い眠りにつくだけだからこそ、起きた時に世界が滅んでましたと
か怖すぎる。
﹁オクトが神になろうと思うまでは待つつもりじゃが、途中で時の
神ではなく、樹の神の後継者になりましたとかは嫌じゃからな﹂
﹁⋮⋮ハヅキさんもそんなつもりはないかと﹂
﹁あの腹黒女ならやりかねん。ここまでわらわに譲らせたのじゃか
1044
ら、絶対じゃぞ﹂
ハヅキさんの愛児となってから、私の顔の痣が、蔦のようなもの
に変わった。そして同時に、私は今までになかった樹属性も持ち合
わせるようになっている。カミュ達には、そのうち全部の属性を持
ち合わせるんじゃないかと冗談半分で言われた。
でも風、水、闇、時、樹⋮⋮すでに私の属性が混沌としてきてい
るので、これ以上ヒトを止めたかのような状況は起こらないでほし
い。
﹁あ、そろそろ帰らないと﹂
気がつけばクロの育て親の方から頂いた腕時計は、アスタに帰る
と伝えた時間の5分前となっていた。
﹁なんじゃ。もう行ってしまうのか。あの男は本当にケチじゃのう﹂
トキワさんが口を尖らせるが、私は苦笑するしかない。
私がトキワさんの所へ足繁く通うようになってから、トキワさん
はまるで孫を待つ祖母のように、色々茶菓子を用意してくれるよう
になった。神に今はならないという結論に対して、ブツブツと愚痴
をこぼすが、それだけだ。実力行使などほぼない件を見ると、時の
運航云々や世界の危機がなんとかというのは建前で、案外独りで待
ち続けることが寂しかったのかもしれない。ただアスタはまだトキ
ワさんを信頼していないようで、門限を過ぎると殴り込みにきそう
⋮⋮というか絶対来る。その為ずっと話をしているわけにもいかな
かった。
﹁まあ、それがアスタなので﹂
﹁そこが甘いというんじゃ。もっとガツンというが良い﹂
﹁ははは。善処します﹂
まあ善処しても無理でしたになりそうだけど。
この件に関してはアスタにもの申すよりも、アスタだから仕方が
ないと諦めた方が絶対楽である。
1045
﹁まあよい。今度は、﹃しほんけーき﹄なる食べ物を手土産として
持ってくるが良い。わらわも、もっと美味しい茶葉用意しておくか
らのう﹂
﹁分かりました﹂
そう言って、私はトキワさんがいる部屋かからアスタが居る部屋
へ転移した。
◆◇◆◇◆◇
﹁ちっ。時間ぴったりか﹂
﹁⋮⋮アスタ﹂
時間通りに帰ってきたのに舌打ちされて、私の顔が引きつる。た
ぶん時間を過ぎたら、いい理由を得たとばかりにトキワさんを倒し
に出かけたに違いない。
社会人の常識、5分前行動を心がけて本当によかった。
﹁まあ次の機会でいいか。お帰り、オクト﹂
﹁あ、うん。ただいま﹂
次の機会に何をするつもりだ。
1046
私は心の中でツッコミを入れたが、たぶんトキワさんに攻撃魔法
をぶつける機会という意味に違いない。胃が痛くなりそうなので、
聞く気も起きなかった。
そういうヤンデレ要素はマジでいらない。
﹁えっと、アユムは?﹂
とりあえず、怖い空気を変えたくて私は気になった事を尋ねた。
出かける前はアスタと一緒にいたはずなのにどこへ行ったのだろう。
﹁クロと城内探検をしに行ったよ﹂
﹁そう﹂
城に行ったならしばらくは帰ってこないだろう。という事は、し
ばらくアスタと2人っきりか。そう、2人っきり。⋮⋮いや、別に
2人きりでも関係ないんだけどね。
妙に2人きりという言葉を意識してしまう自分が痛くて泣ける。
私の乙女要素なんて、燃えるゴミに出してしまいたいぐらい無駄な
ものなのに。
﹁オクト﹂
﹁⋮⋮アスタ、何してるの?﹂
﹁オクトを充電﹂
べべべべ別に。アスタに抱きしめられたって、痛くも痒くもない
はずだ。
うん。気にするな。ハグなんて日常茶飯事、地域によってはただ
の挨拶じゃないか。若干精神力が目減りするが、それだけだ。
私は必死に頭の中で九九を読み上げ、平常心をこころがける。私
がアスタを意識してしまっているのが伝わったら、なんだかもっと
厄介な事が起こりそうなので、なんとしても隠す必要があった。
﹁何でオクトはこんなに可愛いんだろう﹂
﹁そう見えるなら、たぶん病気だから、医者に見てもらえ﹂
﹁こんな幸せな病気なら別に治らなくてもいいかな﹂
1047
ははは。マジで止めて下さい。
脳内にお花が咲き乱れていそうなアスタの言葉に、私は笑うしか
ない。
それでも最後の抵抗として、私は出来る限りのポーカーフェイス
に努めた。そうでなければ、底のない落とし穴に落ちてしまうよう
な気がするのだ。
﹁アスタ﹂
私は自分の中でも咲き乱れていきそうな花畑をブチブチと引きぬ
くイメージをしながら、アスタの腕から抜け出した。
﹁何だい?﹂
どこまでも甘い表情で私に問いかけるアスタを見ながら深呼吸す
る。折角2人きりになったのだ。自分の頭の中まで花畑になる前に
ちゃんとはっきりさせておかなければならない事がある。
アスタに聞くのは危険だし、面倒だと思ったのだが、これからず
っと引っ掛かりがある状態で過ごしていくのはもっと面倒だ。しか
もこれから一生一緒にいるのならば、なおさら早めに白黒はっきり
つけてしまった方が楽な気がする。
﹁もしかして⋮⋮記憶戻ってる?﹂
﹁うん。そうだよ﹂
﹁えっと。記憶というのは︱︱えっ?﹂
今、この方肯定されませんでしたか?
⋮⋮あ、あっさりバラされたーっ?!
﹁オクトが俺の娘だった事は覚えてるよ﹂
﹁い、いつから?﹂
トキワさんの前で﹃俺の娘を泣かせたのは誰だ﹄といった時から
思い出したんだろうなとは、思っていたたけれど。
﹁んー。オクトにオムライスを作ってもらった時だな。まあ、作っ
1048
た覚えがない追跡魔法陣を見た時から、引っ掛かってはいたんだけ
どね﹂
オムライスって、いつのタイミングですか?
アスタが好きだったから結構頻繁に作っているので、どのタイミ
ングかさっぱり分からない。
﹁つ、追跡?﹂
﹁そう。それで俺が作ったらしい追跡魔法の先にオクトが居たんだ
よねー﹂
⋮⋮いつ?一体、いつの話をしているんですか、アスタさんっ!
﹁幾度となく起こる奇跡の再会。もう、これは運命としか︱︱﹂
﹁いやいやいや。追跡魔法陣を作ったのはアスタだから。運命じゃ
ないから﹂
何ロマンチックに終わらせようとしているんですか。一歩間違え
れば、ストーカーである。
﹁というか、記憶が戻ったなら戻ったと言ってくれればいいのに﹂
そうと分かったら、すぐにスライディングで土下座する勢いで謝
ったのに。
私がアスタを捨てた事には変わりないかもしれないけれど、でも
理由だってちゃんと説明した。
﹁だってオクトは俺の娘だったのに、俺の前から居なくなってしま
っただろう?だとしたら、また同じ状況にも戻ったとしても、繰り
返す可能性が高いじゃないか﹂
⋮⋮ん?
﹁俺はオクトと家族になれば、ずっと一緒に居られると思ったけど
違ったから、別の方法を探していたんだ﹂
おっと。
このヒト、私が娘でいたころから、マジでそう思っていたのか。
普通に考えれば、子供というのはいつかは親元を離れて独立するも
のだ。
1049
確かに子離れできていないなぁとは思ったけれど、まさか一生閉
じ込める気でいたとは。お、恐ろしい。
﹁それで、もしも結婚の方が効率がいい場合、オクトが娘だったと
いう事を思い出したという情報はマイナスかなと。オクトも、もう
大人だって言っていたし︱︱﹂
﹁い、いや。まだ私は、子供。子供だからっ!﹂
ちょっと待て。
アスタと一緒に居たいと思っていたけれど、いきなり話が飛躍し
すぎだ。しかも、親子が駄目なら夫婦って。結婚は両者の同意が必
要だけど、アスタなら無理やり結婚した事にしかねない。
﹁もう子供じゃないって言ったよね?﹂
言いました。確かに言いましたけど。
アスタと対等になりたいと思っているけれど、その超解釈は勘弁
して下さい。
﹁あ、アスタ。私は子供ではないが、まだ大人でもない﹂
決めた。
面倒なことは後に回そう。きっと未来の私がなんとかしてくれる。
とにかく今は、まだ子供でいたい。
﹁だから︱︱﹂
﹁うん。それでもいいよ﹂
﹁いや。よくないから﹂
私の外見が子供だとか、そう言う事もこの魔族様には通用しない
だろうし。あああ。どうしろというのかと内心頭を掻き毟っている
と、再び抱きしめられた。
まるで壊れモノを扱うように優しく、それでいて逃げられない程
度に強く。
﹁オクトがずっと一緒に居てくれるなら、どんな形だっていいから﹂
このさみしんぼうめ。
そういえば、同じ魔族であるコンユウもさみしんぼうな所があっ
1050
たなあっと現実逃避しかけた脳が思い出す。
⋮⋮本当に魔族って面倒な種族だ。さみしいと死んでしまうって
兎かよと思うが、そんな可愛らしい生き物ではない。
まあそれでも、まんまとその可愛くない生き物に絆されてしまっ
たのだから仕方がない。
﹁うん﹂
この感情がなんであれ、私もアスタと一緒に居たいという気持ち
は同じだ。
﹁オクトさん!大変なんだけど⋮⋮あれ?取り込み中だったかな?
まあ、いいか︱︱﹂
﹁まあ、いいじゃないだろ、この腹黒王子﹂
アスタに抱きしめられていると、突然部屋の中にカミュとライが
入ってきた。くっついている為アスタの顔がよく見えないが、声の
トーンはかなり低い。イラついている時の声だ。
﹁心が狭いとモテないそうですよ﹂
﹁俺はオクトにさえモればいいから問題ない﹂
いや。大問題です。
突然ドアを開けて入ってきたカミュもカミュだけど、アスタはも
う少し心を広く持つべきだとは思う。
﹁それより、オクトさん。そろそろ帰らないと兄上が暴走しそうな
んだよ。僕が抜けただけじゃなくて、アスタリスク魔術師までホン
ニ帝国にきちゃったからね。今は兄上が、賢者様と第二王子が報わ
れない恋に落ちて逃避行を図ったというとんでもない噂を王都で流
しているみたいでね﹂
﹁はっ?﹂
カミュのお兄様と言ったら、あの超迷惑な第一王子様じゃないで
すか?
しかも何その、根も葉もない噂は?!相変わらず、面倒なことを
してくれる。
1051
﹁えっと、何で?﹂
﹁うーん。たぶん嫌がらせの一環かな。でも流石に火消しするのに、
ここからだとちょっと遠すぎてね︱︱﹂
﹁あ、いたいた。オクト、城にオクトに会いたいっていう客が来て
るんだけどさ﹂
とんでもない話に呆然としていると、カミュの言葉を遮るように
クロが部屋の中に乱入してきた。
どう考えてもカミュの話の方が危険が大なのでクロの話は後回し
にしたいが、客ってなんだろう。私はホンニ帝国に知り合いなんて
ほとんどいないのだけど。
﹁どうも他国の賢者が滞在しているって噂になっているみたいでさ﹂
﹁あのね、﹃ふろうふし﹄をなおしてほしいんだって!﹂
﹁はい?﹂
不老不死にして欲しいじゃなくて、不老不死を治して欲しい?
なんだそれ。クロとアユムがもたらしてくれた情報は、面倒なこ
とになりそうな予感しかしない。
﹁ああ、オクトさんこちらに見えましたか﹂
﹁こ、今度はなんですか?﹂
さらにカズが部屋に入ってきたが、最初から名指ししているのが
怖くてたまらない。
﹁実はですね、どうやら混ぜモノの子がいると噂がある場所があり
まして。暇そうですし、見に行ってもらえませんか?ほら、世の中
ギブアンドテイク。タダ飯を食べてばかりだと、心も痛むでしょう
し﹂
そう言ってにこりと笑うカズさんから漂うオーラは、断れない何
かがある。
﹁勝手に俺のオクトを利用しようとしないでくれないかな?魔王様﹂
﹁そんな利用なんてとんでもない。お願いしているだけですよ﹂
﹁確かにそうかもしれないけれど、オクトさんは王子の客人。クロ
1052
を通さずにお願いするのってどうかな?﹂
ひぃぃぃ。
3人でそんな怖い雰囲気を醸し出さないで下さい。お願いですか
ら。
せっかく色々片付いたと思ったのに、どんどん厄介事が舞い込ん
できているこの状況。なんだコレ。
本人を置き去りにして混沌としていく話に、私は半泣きでオロオ
ロしていると、ぽんとライに肩を叩かれた。
﹁諦めろ﹂
﹁あ、やっぱり?﹂
ですよねー。
どう考えても、この状況から抜け出せる気がしない。誰だ、私が
賢者だとか噂を流したヒトは。というかどうして私がここにいると
いう情報が流れているんですか?!しかも不老不死とか、混ぜモノ
とか、王子との悲恋とか、もう、いやぁぁぁぁ。
異国の空の下、私はものぐさと呼ばれようとも、いつか絶対引き
こもろうと決意した。 1053
47話 ものぐさな賢者︵後書き︶
これでものぐさな賢者の本編は終了です。ここまでありがとうござ
いました。
少しだけ、その後の物語がありますので、よろしければ引き続きお
読み下さい。
1054
不穏な混ぜモノ騒動︵1︶
﹁着いたよ﹂
はっ?!
耳元でカミュの声が聞こえて、私は慌てて目を開けた。すると
狭い車内にドアから光が入り込んでいるのが目に映る。
いつの間にか馬車の揺れは止まっており、どうやらすでに扉も
開けられているようだ。その事に少し遅れて気がつく。
﹁ごめん﹂
﹁いいよ。目を開けてくれるだけマシだからね﹂
﹁⋮⋮いや、本当にごめんなさい﹂
最近まで多数の精霊と契約していた私は、寝る子は育つを実践
しようとするかのようにしょっちゅう眠りこけていた。多分それと
比べて、寝起きが良いという意味だろう。
それでも、まさか馬車の中で爆睡してしまうとは。
﹁まあ、うす暗い車内だし、眠くなるのも分からなくはないけど
ね。それにオクトさんって、よく考えたら馬車に乗るのは初めてだ
よね﹂
カミュに言われて、私はコクリと頷いた。
一般の馬車は混ぜモノなので乗車を断られてしまい、使えない。
というかそもそも馬とか動物に異様に懐かれやすい為、私自身でき
るだけ近寄らないようにしていた。
ただ今回の行き先はホンニ帝国内という、行った事のない場所
だった為、転移魔法が上手く使えない。しかしできるだけ早急に行
って欲しいとカザルズさんに言われた結果、用意して貰った馬車に
乗ることになったのだ。
1055
不安も多かったのだが、流石王家のお馬様なだけあってか、し
っかりしつけられており、馬にじゃれ付かれるというハプニングも
なく済んでいる。子犬とか兎ならともかく、馬に全力で飛びつかれ
たらたぶん私は死ぬと思う。
﹁思ったより乗り心地は悪くなかった﹂
馬車の窓は小さく外の景色はあまりよく見えないし狭いしで、
素晴らしい乗り心地とまではいえないが、馬車が発達しているのか、
思ったよりガタガタと揺れたりする事はなかった。
﹁たぶん、それはオクトだからだな﹂
﹁ん?﹂
ライの言葉に私は首をかしげた。
﹁多分馬も揺れにくいように気を使ったんじゃないかな?道路の
整備が進んでいるというのもあるだろうけど﹂
そうなのか?
初めての馬車体験なため、比べることができないのでなんとも
いえないけれど。もしそうならば、後で馬にお礼を言いながらブラ
ッシングしてあげよう⋮⋮許されたらだけど。
下手にちょっかいをかけて、小さい頃のように馬にかじられる
のは嫌だ。私の頭は人参じゃない。
今回私は馬車に乗って、ホンニ帝国の首都から離れたチイア地
方に来ている。ただしこんな遠く離れた場所へ来たのは、ルンルン
気分で観光する為ではない。
現在無賃滞在している私たちに対して、カザルズさんが混ぜモ
ノが居るかもしれないと噂が立っている場所へ行って状況を確認し
てきて欲しいとお願いしてきたからだ。世の中ギブアンドテイクを
知っている身としては、そのお願いを無視するという選択肢は存在
しなかった。
ただ本当なら私1人で行って、確認するだけなのだが、気がつ
いたらカミュとライが一緒に行くことになっている。
1056
⋮⋮理由を確認してみたところ、私が1人で行くと、録なこと
にならないからだと。けっ。
私だって成長しているし、精霊との契約も解除されたから、別
に王子様についてきてもらわなくても大丈夫だというのに。ちなみ
にアスタも一緒に行くと申し出たが、アユムの面倒を見てもらわな
いといけないのと、アスタはアスタでカザルズさんに色々頼まれご
とをしているため、丁重にお断りをした。決して、一緒だと面倒だ
とか、厄介事が増えそうだとかそういう意味ではない。
最も私が帰るのがあまり遅くなると、アスタがやって来そうな
ので、早急に解決さえなければいけないのだけど。
﹁んーっ!!﹂
馬車の外に出た私はぐっと体を伸ばした。バキバキっと骨が鳴
る。
﹁思ったより遠いね﹂
﹁だな。せめて馬の上に乗っての移動だったら気持ちもいいんだ
けどな﹂
同じように馬車から出た2人もぐっと体を伸ばした。
それにしても流石は野生児のライだ。言うことが違う。
﹁ははは。それやったら、たぶん私は死ぬから。でも帰りは途中
で降りて体を動かさないと、エコノミー症候群になりそう﹂
落馬して死ぬのも嫌だけど、血栓が詰まって突然死するのも嫌
だ。気を付けないといけない。
﹁えこのみー?﹂
﹁ああ。えっと、長時間同じ姿勢をしていると、血の塊が血液の
中にできて死んでしまう病気⋮⋮かな?﹂
医者ではないので詳しくは知らないが、たしかそんなようなも
のだった気がする。本来は飛行機で起こる病気とされているが、バ
スや別の乗り物でもなったはずだ。
1057
﹁血の塊ができるとどうなるんだい?﹂
﹁えっと、呼吸困難っぽくなる的な?﹂
実際になった事がないので詳しくは分からない。でもたしか、
肺血栓症がなんとかとかと聞いた覚えがあるので、たぶんそんな感
じだと思う。
﹁へぇ。ならずっと同じ体勢じゃなければいいのかな?﹂
﹁後は、脱水とかに気をつけて、こまめに水分をとるといいかも
⋮⋮﹂
結局は血液がドロドロだとなりやすい気がする。ここにインタ
ーネットがあれば、グーグル先生に尋ねられたのに。中途半端な前
世の知識は意外に面倒だ。
にしても、この話題のどこにカミュが食いつくネタがあったの
だろうか。聞いても面白くはないだろうに。⋮⋮はっ?!まさか。
﹁だからって、嫌いな貴族を遠くの地へ、ノンストップで馬車に
乗せこんで、移動させるとか止めて﹂
﹁まさか。僕がそんな事をする人間に思うのかい?﹂
思います。
だって腹黒カミュの事だ。彼ならしれっと自然死を起こそうと
しかねない気がする。しかしそれを正直に言うのもはばかれて、私
は口にチャックした。
﹁でも、いい意見をありがとう﹂
﹁えっ?まさか、本気で?!﹂
﹁さあ、どうでしょう?﹂
ふふふと不敵に笑われて、自分が遊ばれている事に気が付き、
私は大きくため息をついた。この野郎。
自分からネタぶりしておいてなんだけど、暇だからってブラッ
クジョークは勘弁して欲しい。
﹁今までに、馬車に乗って移動中に体調を崩した貴族が何人かい
1058
るんだよ﹂
﹁ライ。折角オクトさんで遊んでいるのに、それを伝えてしまっ
たら楽しくないじゃないか﹂
﹁私で遊ぶな﹂
やっぱり遊んでいるのか。
﹁ライが言うとおり、対策をしてあげようかなと思ったのも事実
だけどね。でも、オクトさんの意見も捨て難いなぁと。えこのみー
の対策を伝えてしまうと、自然死に見せかけて色々するのも難しい
だろうし﹂
﹁できなくていい。その案は捨てて下さい。お願いします﹂
カミュが黒いから想像してしまった事なのだが、伝えるんじゃ
なかったと後悔する。冗談だと思いたいが、これで貴族の突然死が
続いたら、良心が痛みまくる。そんな面倒事ごめんだ。
﹁考えておくよ。さてと、そろそろこの町の領主に会いに行こう
か﹂
どうしてそこで、分かったの一言を言ってくれないのだろう。
考えておくとか、マジで考えなくていいから。
しかしこれ以上遊ばれるのが嫌だと思った私は、大人しく、口
にチャックをしてカミュの後ろについて歩き始めた。
◇◆◇◆◇◆◇
1059
ホンニ帝国は、いくつもの国がくっついてできた国と言われるだ
けあって地方ごとに文化が結構違うようだ。
首都ではコルセットでガッチガチに締め付けたドレスを着てい
るお嬢さんが多かったが、チイアではゆるいワンピースが主流のよ
うである。
それにアールベロ国とは違い比較的暖かい場所なので生地も薄
いし、スカートも短い。
﹁ミニスカまでは行かないけれど⋮⋮﹂
﹁オクトさんもはいてみたら?﹂
領主の仕事場で働く、短いスカートをはいたメイドを見送りな
がら、私がぽつりとこぼすと、カミュがすかさず言ってきた。
﹁何故?﹂
意味が分からない。
﹁ほら、郷に入れば郷に従えというし﹂
うーん。
確かに郷に従うのは正しいが⋮⋮、私が足を出したところで、
何の利点も見当たらない。というか、私的にメイド服は英国的なロ
ングスカートの方が好み︱︱っと、話がずれた。
﹁滞在が長くなるようなら考えておく﹂
滞在が長くなれば、服をホンニ帝国で買う事になるだろう。そ
うなれば、好き嫌いにかかわらず、強制的にこの国の主流な服を選
ぶしかないのだ。その時は、クロにでも選んで貰おう。
そんな軽口を叩きながら領主を待っていると、布扉の向こうか
らメイドさんに声をかけられた。
﹁領主様が見えました﹂
﹁あ、はい﹂
木製の扉ではないので、ノックがない為ドキッとする。
1060
返事をすると、カーテンのような仕切りを開くようにして少し
小太りな初老の男が入ってきた。人族の男は、私達に向かって愛想
よく笑いかける。
しかし私を見る目はどこか冴え冴えとしたものがあり、あまり
歓迎されている様子ではないなと私は認識した。まあ、混ぜモノな
のだから仕方がないのだけど。
﹁はるばる遠方から、よくぞ来てくれました。皆様を歓迎します﹂
﹁︵嘘つけ︶﹂
領主の愛想笑いに、ライがぽそりと私の耳元でつぶやいた。幸
いにも領主の耳には届かなかったようだが、どうしたものかと私は
曖昧に笑っておく。
たぶんこの場に私がいなければもう少し柔和な態度だったのだ
ろうなと思うと、正直申し訳ないという気持ちもある。
﹁それで、賢者様というのは︱︱﹂
﹁こちらにいる、オクト嬢ですよ﹂
領主の言葉に、カミュがさらっと答えた。⋮⋮というか、カザ
ルズさん。何、恥ずかしい2つ名広めてくれちゃっているんですか
?!
賢者というのが賢いヒトという意味とは若干ニュアンスが違う
という事は分かってはいる。それでも、どうにも中二病っぽく感じ
てしまうのは、やはり前世の知識の弊害か。
﹁ほう。貴方が﹂
﹁あ、初めまして。オクト・ノエルと申します﹂
私は恥ずかしさを堪え、ぺこりと頭を下げた。果たしてどうい
う風にカザルズさんから連絡がいっているのか分からないが、たと
え相手が私の事が害虫のごとく嫌いだとしても、仕事と個人的感情
は別にしてもらわなければスムーズに進まない。
とにかく、害意は全くないですよーとアピールして行儀よくし
ておいた方がいいだろう。
1061
﹁想像よりも、何とも可愛らしいお嬢さんですな﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
可愛いが、たぶん容姿的意味ではなく、身長的、もしくは年齢
的なものを指しているように感じたが、スルーしておくべきだろう。
いちいち気にしていたら話も進まない。
﹁そして貴方達が、この混ぜモノのお嬢さんのお弟子さんと﹂
は?
﹁はい。僕がカミュ、こっちが弟弟子のライです﹂
﹁ども﹂
⋮⋮え?どういう事?
いまいち状況が読めず、私はカミュを見上げた。しかしカミュ
は今は私に説明する気がないようで、私の方へ視線を向けない。こ
こは黙っていろという事か。
﹁混ぜモノに獣人ですか。にぎやかですな﹂
﹁ええ。ただ残念ですが、僕らは翼族ですけれど。ホンニ帝国で
は珍しい種族ですので、領主様もお知りにならないのかも知れませ
んが﹂
領主とカミュは終始笑顔だが、空気がツンドラだ。
翼族のヒトを獣人と呼ぶのはアールベロ国では侮辱の言葉だが、
はたしてそれを知っていたのかどうなのか。⋮⋮いや、知っていそ
うだな。そしてそれを分かって、カミュもあえて領主の無知を指摘
するように、受け答えしているのがよく分かる。
寒々しい中で口をはさむのも嫌だった私は、カミュに領主との
やり取りを、まるっと丸投げする事にした。もっともカミュもその
つもりなのだろうけれど。
﹁︱︱まあここで無駄口をしていても、時間の無駄ですし、さっ
そく本題に入りましょうか﹂
1062
しばらく領主とカミュはにらみ合うように、笑顔で雑談をして
いたが、最終的に領主の方が折れた。私としてはとてもありがたい
話なので、すぐさま頷く。うっすら寒い会話など長々と聞きたくな
い。
それにしても、カミュがこんな風に流さないのは初めて見た気
がする。もしかして、機嫌が悪いのだろうか。今思うと馬車から降
りた時も、妙に嫌味っぽかった気がした。
どちらにしても、それを聞くのは領主の話が終わってからだ。
﹁実はこの町で奇妙な病気が起こってましてね、呪われた子供の
所為ではないかと言われているのです﹂
領主は低い声で、まるで問題の子供を呪うかのように話し始め
た。
1063
不穏な混ぜモノ騒動︵2︶
﹁何だあの親父。超ムカツク!マジムカツク!﹂
超とかマジとか⋮⋮お前は何処の女子高校生だ。
ストレス発散と称して、剣を振りながら叫ぶライを見て、私は
生暖かい視線を送った。軍事訓練受けているわりに、ライはまった
く感情を隠せていない。いや⋮⋮ギリギリ領主の前にいた時は隠せ
ていたか。
若干ボキボキと指の間接を鳴らすのが気にならなくもなかった
が、一応叫ばずには過ごしていた。領主も鈍いのか気にした様子も
なかったし。うん。ギリギリ及第点だろう。
﹁今、コイツ進歩ねぇとか思っただろ﹂
﹁いや。流石にそこまでは⋮⋮﹂
そういうとライは剣を鞘に収め、ガシッと私の頭を鷲摑みした。
﹁そこまでとか言ってる辺り、思ったんじゃねーか。大体、オク
トが全然怒らねぇから、俺が変わりに怒ってやっているんだよ。分
かるか?﹂
﹁⋮⋮分かったから、手を放して﹂
ライの握力で頭を握られたら、トマトケチャップ状態になりか
ねないと思った私は、すぐさま両手を上げる。
正直に言えば、私の中で領主の反応は仕方がないと思う範囲な
のだが、それを言ったらライがさらに逆上しそうだ。長年の付き合
いのおかげで、ライに凄まれてもあまり怖くはないが、トマトにさ
れるのは困る。
﹁それに俺だって、時と場合を選んで感情を出しているんだよ﹂
﹁っ?!﹂
1064
頭から手を放された代わりにデコピンをされて、私はオデコを
押さえた。地味に痛い。
﹁俺はカミュとオクトの事は信頼しているんだからな﹂
⋮⋮恥ずかしげもなく、よく言えるよな。
歳をとれば言えるものなのか。それとも、少年の心を失わなけ
れば言えるものなのか。正直私にはハードルが高い言葉だ。
﹁まあライの怒りはもっともだけど、青春談義はそれぐらいにし
ておこうか﹂
ライの怒りが若干収まってきた所で、カミュがそう切り出した。
﹁どうやら、この地域では混ぜモノについて、間違った情報が流
れているみたいだしね﹂
間違っているのかどうかは、正直な所、私にも分からない。
ただ分かるのは、チイア地方では、混ぜモノは︻災いを呼ぶ生
き物︼とされているという事だ。混ぜモノが暴走して、災害が起こ
るとかという話ではなく、全ての悪い事は混ぜモノがいるからとい
う考え方だ。
病気が起これば混ぜモノの所為、誰かが怪我しても混ぜモノの
所為。だから混ぜモノは閉じ込めなければならない。そうすれば混
ぜモノが悪い事柄を全て吸から。でも殺してはいけない。混ぜモノ
を殺せば、混ぜモノの咎が全てこの世に降り注いでしまうから︱︱
というもの。
﹁領主の前で怒らなかったのはいい事だと思うけれど、今も怒っ
ていないのは正直僕も腹が立つかな?﹂
﹁今のところ、実害はないし。それに領主の孫が病気だと思えば、
混ぜモノを恨みたくなるのも分からなくもないというか⋮⋮﹂
領主が混ぜモノを毛嫌いしているのは、自分の孫が病気で床に
伏せっているためだ。伝説の生き物とされてきた混ぜモノと思われ
る子供が現れ、さらに孫が病気になった為に、原因としてイコール
1065
で結んでしまったのだろう。
混ぜモノの子供の現状を見たら、もしかしたら領主に同情でき
なくなるかもしれないが、今の段階では領主を憎むようなものでも
ない。
﹁⋮⋮それにカミュは、最初から怒っていたと思うけど﹂
怒っていたというか、機嫌が悪いというか。
確かに領主は明らかに私を侮蔑していたし、私がいる事で悪い
ことが起こり始めるに違いないという様子だった。でもそれが真実
だと教えられて生きてきたなら、きっと仕方がないことなのだと思
ってしまう。
結局は領主の考え方は、一種の宗教のようなものに思えた。
﹁あ、ようやく気がついたんだ﹂
﹁⋮⋮気がつかせたかったんだ﹂
まあ、本当の腹黒なヒトは、自分が腹黒だと見せないはずだ。
そしてカミュは見せない派である。それなのに、私が嫌味を言われ
ているなぁとか、遊ばれているなぁとか感じるような対応している
という事は、既にそこにメッセージがあったと言うことだろう。
⋮⋮気に入らないことがあるなら、さっさと言えばいいのにと
思うが、ライとは反対の超ひねくれものだ。たぶん、それは無理と
いうものである。
﹁何で僕がイラッときているか分かる?﹂
﹁あー⋮⋮、やっぱり迷惑をかけすぎ⋮⋮とか?﹂
彼らが勝手にこの仕事についてきたのだが、迷惑をかけている
事には変わりない。
だったら、私1人で大丈夫なのにと言いたい所だが、心配して
くれているのだろうと思うと、それを言うのはマズイ気がする。と
いうか、さらに面倒な事になりかねない。
﹁オクトさん⋮⋮。それなら最初からついてこないから。そうじ
1066
ゃなくて、いつまでこの国に滞在するつもりなのかな?﹂
﹁あ、先に帰りたいなら、そう言ってくれれば︱︱﹂
﹁ライ、デコピン2発追加で﹂
﹁おし、まかせとけ﹂
﹁ちょ、タイム!もう一度考えかるから。止めてっ!!﹂
ライに何度もデコピンされたら、きっと私のおでこは陥没する。
例え陥没しなくても、悶絶するぐらい痛いに違いない。私の運動能
力では避けるのは無理だ。
しかしカミュが怒る原因はなんだ?馬車の中で、1人居眠りし
たのが悪かったのか?でも、私が居眠りするのなんてしょっちゅう
だし、こんなに地味にグチグチ言ってくる内容とは思えない。
となると、それより前の話だろうか?
うーん。なんだ?さっぱり分からない。
﹁あのさ。僕はオクトさんがちゃんとアールベロ国へ帰ってくる
ようにする為に一緒にいるんだけど﹂
﹁あー⋮⋮﹂
そういえば。
確か、そう言う理由もあって、今回一緒にホンニ帝国に来たの
だった。私1人だけでは、帰るのが面倒になって、そのままホンニ
帝国に住みつきかねないと。
﹁だから、先に帰ったら意味がないよね﹂
今節丁寧に説明されて、私はこくりとうなずいた。しかしそれ
と今回のカミュの怒りにどう関連性があるのか。
﹁それでどうしてオクトさんは、まだ帰ろうとせず、ホンニ帝国
に留まって、厄介ごとの処理をしているのかな?﹂
首をかしげていると、カミュは深い溜息をついてさらに言葉を
続けた。
ああ。なるほど。本当は帰りたいけれど、私が動かないから帰
れない。しかもカザルズさんの頼みを聞いて、うだうだとこの国に
1067
残っている事に対してイラッとしているのか。
﹁いや、だって。今帰ったら、変な噂に巻き込まれそうだし﹂
﹁噂?﹂
﹁ほら、私とカミュの駆け落ち逃避行云々っていう、面倒な噂が
アールベロ国で流れているって言っていたから。ヒトの噂も75日
っていうし﹂
カミュの兄が、私とカミュが報われない恋に落ちて逃避行を図
ったとか、超迷惑な噂を流していると伝えてきたのはまだ記憶に新
しい。そんな状況で、誰が帰りたいものか。
﹁ヒトの噂も75日ってなんだ?﹂
﹁あー。まあ、時間が経てば、噂も消えるって事﹂
一番いいのは、カミュが先に帰って火消しをしてくれるという
ものだが、たぶんカミュも嫌だろう。噂というものは、消すのは結
構難しいのだ。
﹁うちの兄に対して気長に待つと?﹂
﹁そう。噂が消えない限り帰らないという姿勢でいれば、嫌がら
せの方向性を変えてくれるかなと﹂
ザ、北風と太陽作戦だ。
無理やり止めさせようとしても難しそうだから、やりたいよう
にやらせて飽きて貰うというのが一番楽ではないだろうか。
遠く離れたこの場所ならば、どんな噂を流されても、私には痛
くも痒くもない。
﹁そういうことね﹂
﹁何というか、気長な話だな﹂
﹁でも一番何もしなくてもいいし、楽だし。ただもうしばらくこ
こに滞在するなら、流石にカザルズさんのお願いぐらいは聞かない
とマズイかと﹂
クロなら、何もせず、いつまで居ても構わないと言ってくれそ
1068
うだが、そこまで甘えるわけにはいかない。それに、カザルズさん
とは仲良くしておいた方がお得な気がするのだ。たぶんクロよりも
この国で発言権を持っている気がする。
﹁流石、ものぐさな賢者って呼ばれるだけあるな﹂
﹁⋮⋮そこまで言われるほど、ものぐさではないとは思う﹂
一体誰がそんな2つ名を付けたのか。薬剤師として働き始めて
すぐに呼ばれ始めたが⋮⋮謎だ。
確かに魔の森に住んでいるし、混ぜモノだし、変わり者扱いは
されても、新人でしかない私は、2つ名をつけられるほど有名にな
ったとは思えないのだけど。
﹁ふーん。じゃあ、噂がなくなれば帰るんだね﹂
﹁そりゃ、まあ﹂
いくら︻ものぐさな賢者︼と呼ばれる私でも、いつまでもホン
ニ帝国でフリーターをやる気はない。
そりゃ、アールベロ国で働いていた時は目が回るような忙しさ
だったので、この生活が楽でたまらなかったりする。しかし働いた
ら負けのような事を考え始めたら、色々人生終わっている気がする。
﹁そういう事なら、少し真面目に働こうかな﹂
あ、真面目に働く気なかったんだ。
カミュの言葉にツッコミを入れるべきかどうするべきか分から
ず、少し迷ったが、私は結局止めた。ここで下手なことを言って、
へそを曲げられても面倒だ。とくにカミュの場合、地味に嫌な嫌が
らせを仕掛けてきかねない気がするので、ここは気持ちよく働いて
貰おう。
﹁とりあえず、私的には問題の子供に会いたいのと、領主の子供
の病気がどういうものなのか確認したい﹂
﹁えっ。領主の孫の方も見に行くのかよ﹂
ライの言葉に私は頷いた。
1069
﹁領主が必要以上に混ぜモノを毛嫌いしているのは、それが原因
だろうし﹂
病気は混ぜモノの所為。
ならその病気さえ治れば、少しは態度も柔和するだろう。私は
医者ではないので治せるとは言い切れないが、アールベロ国に居る
知り合いの医者に手紙を出してみるのも一つの手だ。
﹁とにかく病気と子供には因果関係がない事を提示しないと、混
ぜモノの子供の待遇改善もできないと思う﹂
領主の話しぶりだと、問題の子供がいい生活をしているように
は思えない。
病気との因果関係がないと分かれば、待遇改善も申し出られる
だろうし、状況に応じては、カザルズさんに指示を仰ぐべきだ。
混ぜモノに対する知識が中途半端な場所だと、将来的に危険な
ことになる可能性もある。
﹁領主の方は僕が会えるように手配をするから、先に混ぜモノの
子に会いにいってみようか﹂
おお。カミュが手配をしてくれるならかなり心強い。私だけだ
と門前払いの可能性が大なのだ。
ありがたい申し出に、私はこくりと頷いた。
1070
不穏な混ぜモノ騒動︵3︶
混ぜモノが住んでいると言われる家は、町からは少し離れた場所
だった。家の方へ近づくにつれ、人気がどんどん減っていき、途中
からは民家もなくなった。そして民家がなくなったあたりからは、
誰ともすれ違わない。
﹁にぎゃっ﹂
そんな中歩いていると、私は足を何かに引っ掛け、無様に転ん
だ。一応顔面から地面へ激突する前に手をつけたので、まだ私の運
動神経は死んでいないようである。でも結構痛い。
手と一緒に地面についた足はしっかりとすりむいているようで
血がにじんでいた。⋮⋮ついていない。
﹁何やってるんだよ﹂
﹁いや、何かに引っかかって⋮⋮﹂
一歩前を歩いていたライが振り返り私を見下ろした。そんな呆
れた表情されても、私だって転びたくて転んだわけじゃない。
引っかかった足を見れば、細長い草が茎の根本の部分で結んで
輪っかにしてあった。どうやらちょうどそこに足を入れてしまった
ようだ。
って、ちょっと待て。
﹁何、この新手の虐め﹂
虐めというか、罠というものじゃないだろうか。
﹁虐め?﹂
﹁ほら、これ。いくらなんでも自然にはできないと思う﹂
ここに生えている草は自然とこの形となるなら、何てファンタ
ジーな世界だというものだ。いや、まあファンタジーな世界には間
1071
違いないけれど、ちょっと地味なファンタジーである。というか、
そんなの要らない。
﹁⋮⋮確かに。まあ、悪ガキがイタズラでやったんだろ。ほら﹂
ライに手を差し出されたので、私はその好意に甘えて手をつか
み立ち上がらせてもらう。
﹁ありがとう﹂
そう言って再び歩き始めたところで、今度は突然足元が抜けて
バランスを崩した。右足が予想より下に下がった所為で、体が再び
前のめりになる。
﹁ぎゃっ﹂
﹁っと。今度はどうしたんだ﹂
次は派手に転ぶ前に、ライが私を支えた。
足元を見れば、小さな落とし穴らしきものに見事に右足がはま
っている。
﹁⋮⋮イタズラ?﹂
﹁まあ、イタズラだろな﹂
なんでこんな場所に。
ため息を飲み込んで、私は足を引き抜いた。靴の中に土が入っ
てしまって気持ちが悪い。靴を脱ぎ逆さに振り、再び履いた。一体
なんなんだ。
﹁というか、立て続けに普通はまるか?﹂
﹁そんな事言われても﹂
私だって罠にはまりたくてはまっているわけではない。もやも
やとした思いとともに、深く息を吐き出すと、私は再び道を歩き始
めた。
そしてしばらく歩くと︱︱。
﹁にぎゃ﹂
﹁うぎゃっ?!﹂
1072
﹁ぎゃおっ﹂
﹁きゃうっ!﹂
微妙な悲鳴をあげながら、私は順番に狙ったようにイタズラに
引っかかり続けた。
結んだ草に足を引っ掛ける事数回、落とし穴にはまる事数回、
どこからともなく泥団子が飛んでくる事数回。最終的には、いきな
り暴れ馬が現れ、ジャレつかれそうになった所を、ライに助けられ
た。
一体私のエンカウント率はどうなっているんだ。
﹁どうして、そうなる﹂
﹁私の方が聞きたい﹂
特に何か戦闘したわけでもないのに、たった数10分歩いただ
けで、1人満身創痍となっていた。服は土汚れでドロドロ。手足は
傷だらけ。地味につらい。
ちなみにライは、罠には一つも引っかかっていないので無傷だ。
やっぱり、これが軍人と一般人の違いなのだろうか。
﹁一応先に言っておくが、俺は特によけているわけじゃないから。
軍人パワーすげぇとかじゃないからな﹂
﹁わざわざ教えてくれてどうも。でも聞きたくない﹂
それではまるで、私の運が悪すぎる上に、どんくさいと言われ
ているみたいじゃないか。運がいい方ではないのは分かっているけ
れど、あんまり自覚したくはない。
はぁと何度目かのため息をついて、問題の混ぜモノの子が住ん
でいるといいう家を見上げた。小屋のような小さなたたずまいで、
お金持ちですという格好ではない。むしろその反対のような雰囲気
だ。
とりあえず私はライより先に進むと、ドアをノックした。混ぜ
モノなら、同じ混ぜモノである私を怖がる事はないだろうし、顔に
傷のある大柄の男に話しかけられるよりは、小柄な女の方が話しや
1073
すいだろう。
﹁すみません。どなたかみえませんか?﹂
しばらくすると、扉が少し軋むような音を立てて開いた。
中から私よりも少し背が低い、銀色の髪をした子供が顔をのぞ
かせる。その額にはぐるぐると布が巻かれていた。顔に痣がないの
で、たぶん包帯の下にあるのだろう。
﹁⋮⋮なんか、俺の方こそすみません﹂
﹁へ?﹂
何故謝る。
初めて会ったはずなんだけどなぁ。申し訳なさそうな顔をして
いる少年の顔に、見覚えは全くない。
髪の色はヘキサ兄と同じだけど⋮⋮。それとも覚えていないだけ
だろうか?私は人の顔を覚えるのが得意な方ではないし。
﹁いや、えっと。苛められたくないから、ヒトがここまで近づい
てこないように少し脅かすつもりで、罠を仕掛けたんだけど、こん
な風に全部の罠に引っかかるとは思わなくて⋮⋮。あの、大丈夫?﹂
本当は怒ってもいいはずなのに、すごく悲しそうな顔をされる
と、怒りにくい。しかも相手は自分よりも年下のようだし。
﹁どうして私が罠に引っかかったと?﹂
﹁そりゃ、それだけボロボロでドロドロになっていったら、そう
思うだろ﹂
呆れたようにライがそう言ってきた。
まあね。確かに普通に歩いてきただけでは、こうはならないだ
ろう。でもどうしてだろう。釈然としない。
﹁ああ、でも。馬は俺じゃないから!流石にそんなの小さいねー
ちゃんに向かわせたら危険だってことぐらい、俺だって分かるから﹂
﹁⋮⋮見てたんだ﹂
そうか。
1074
釈然としない理由が分かった。扉を開けて出てきた時、少年は
私の姿を見て申し訳なさそうにはしたけれど、驚いたような表情は
しなかったのだ。これは、事前に私がこんな状態になっている事を
知っていたということ。
﹁えっ。お前、どこから隠れて見てたんだよ﹂
ライが驚くのを見て、再びおや?っと思う。野生児のライが気
がつかないなんて、すごい隠れ方だ。忍者の素質があるかもしれな
い。
もしくはホンニ帝国に来てからタダ飯くらってダラダラしてい
たから、ライのカンが鈍った可能性もあるけれど。
﹁オクト、今すごい失礼な事考えただろ﹂
えへ。
私は生ぬるく笑って誤魔化した。いや、だって、一応カミュの
護衛をしているとはいえ、最近はやることなくて遊んでいただろう
し。あ、でもよく考えたら、ライはカミュの護衛なんだっけ。いい
のか?私についてきて。
﹁俺、のぞき見なんてしてないよ。ここから見てただけだから﹂
ん?ここから見ていた?
﹁ここからって、家から?﹂
﹁そうだよ。だから後をつけたりとかしてないからっ!﹂
以前怒られたことでもあるのか、少年は焦ったように言葉を付
け足す。
しかし少年の言い分を丸っと信じるととてもおかしな事になる。
私が馬に襲われた場所はここよりずっと離れているのだ。振り返っ
て見たが、その場所は全然見えない。
もちろん、私が少年が仕掛けた罠に引っかかった場所もだ。
﹁嘘つけ。どうやってここから見るっていうんだ。俺に尾行を気
が付かせないって、一体どこで訓練した?﹂
1075
﹁離せよ。嘘じゃないってっ!本当に俺はここから見てたんだっ
て!﹂
ライに腕をつかまれた少年は、じたばたと暴れる。しかしライ
との力の差は歴然としていて、どうにもならないようだ。力だけを
見れば、確かに普通の少年のようである。
﹁ライ、可哀想だから﹂
﹁馬鹿。俺に気が付かせないなら、どこかの国の間者かもしれな
いんだぞ。自分の身もまともに守れないくせに、可哀想とか言って
るんじゃねーよ﹂
うっ。
それを言われるとつらい。でも、もしもライが言う通り間者だ
としたら、どうして混ぜモノで有名になっているというのか。普通、
間者ならもっと周りに溶け込もうとするはずで、こんなに浮いてい
るとは思えない。それに、こんな辺鄙な地域で間者とか。一体、何
を探るというのか。
﹁本当に、俺はそんなんじゃないから。俺、ヒトより、目がいい
んだって!﹂
うーん。目がいいで片づけられてもいいのか?
だって、目が良くたって障害物があればその向こうは見ること
ができないわけで⋮⋮。
﹁とりあえず、ライ離して。それじゃ、明らかにライが悪役﹂
﹁悪役って。俺はカミュに頼まれてだな。あーもう﹂
グチグチと言いつつも、ライは少年をつかんだ手を離した。す
ると少年は、さっと私の後ろへ隠れた。
﹁って、おい﹂
﹁俺は、嘘なんかついてないんだからな﹂
まあ、同じ混ぜモノだから私の方が怖くないと判断したのだろ
う。その認識は正しい。私よりライの方がずっと強いのだから。
でもこの状態を続けていても何の得にもならない。
1076
﹁分かったから﹂
﹁えっ?⋮⋮信じてくれるのか?﹂
﹁いや、信じてくれるのって⋮⋮。嘘じゃないって自分で言った
から﹂
この少年が混ぜモノだとすると、何らかしらの特殊技能があっ
たっておかしくはない。この世界は、魔法がある世界なのだ。
﹁うん。嘘じゃない。俺は嘘なんてついてないから!﹂
﹁なら、それでいい﹂
﹁お前なぁ﹂
呆れたようにライが私を見たが、私は知らん顔をする。だって、
少年が嘘をつこうがつかまいが、どっちだっていい。
とりあえず、私は少年が本当に混ぜモノであるのかの確認がで
きて、保護が必要かどうかの判断をつけられればいいのだ。もしも
嘘をついて尾行を隠していたなら、きっと少年には嘘をつくだけの
理由があったのだろう。
﹁ねえちゃん、風呂貸してやるから中に入って行けよ!﹂
﹁風呂を貸してやるじゃねーだろ。お前の所為で、オクトは泥だ
らけになってるんだから﹂
﹁わかってるよ。だから、貸してやるって言ってんじゃん。ね、
入っていきなって﹂
ライに対して口を尖らせた少年は、私の腕を引っ張った。確か
に現状だと、さっさと風呂に入りたいが、着替えがない。流石に自
分より小さい少年の服では、借りたとしても着る事ができないだろ
うし。
ただ色々詳しく話を聞くとなると家の中に入れてもらうしかな
い。でもこれだけ泥だらけな状態で家の中に入るのも気が引ける。
﹁いや。大丈夫。ちょっと離れて﹂
1077
私は少年に手を離してもらうと、数歩少年とライから離れる。
﹁水よ。私についた土を洗い流せ﹂
私の言葉に従い、水は薄い膜を張るように私にまとわりついた。
そして土を含むと地面に落ちる。
﹁風よ。服と髪に残った水を飛ばせ﹂
頭の中に浮かべているこの2つの魔法陣は、図書館で引きこも
りになっていた時に開発したものだ。お風呂と洗濯が一度に終わる
ので、私は結構好きなのだが、周りからはあまりいい顔をされない
ので使うのは久々だ。
一通りの汚れを落とし、すっきりした私は風呂上りの犬のよう
に頭を振った。
﹁す⋮⋮すっげー!!何?!小さい、ねーちゃんは、魔法使いな
のか?!﹂
﹁まあ﹂
それほどすごい魔法ではなので、どう反応していいものか。た
だ少年は心の底から感激しているようだ。
﹁こいつは、魔法使いより上の魔術師で、賢者なんだよ。ちなみ
に、俺も魔術師︱︱﹂
﹁なあなあ、ねーちゃん。ねーちゃんは、もっと他にも魔法が使
えるのか?!﹂
﹁︱︱って、聞けよ﹂
少年は頬を紅潮させながら、興奮気味に私に尋ねてきた。
そういえば、ホンニ帝国は魔法使いが少ない、人族中心の国だ
っけか。となれば、ちゃんとした魔法を見るのは初めてに近いのか
もしれない。
﹁まあ、多少は﹂
﹁俺の名前は、ディノっていいます。お願いします!俺を弟子に
して下さい!﹂
﹁へ?﹂
1078
﹁俺、魔法使いになって、どうしても助けたい奴がいるんだ﹂
少年はそう言って、私に対して頭を深く下げた。
1079
不穏な混ぜモノ騒動︵4︶
﹁汚いけど、適当に座って﹂
ディノに招き入れられた家の中は、確かにお世辞にも綺麗とは
言い難いものがあった。
私の家のように本が大量にあって云々という事はないが、ゴミ
のようなモノがごちゃごちゃと散乱している。酷い異臭などはしな
いので、最低限生ごみは処理できているようだけど⋮⋮。
﹁適当にしろってもなぁ。大人は誰もいないのか?﹂
﹁いないよ。そもそも、俺、孤児だし﹂
そういいながら、ディノは足元に転がっているものを端へ蹴飛
ばし座るスペースをつくる。どう考えても掃除をしているというよ
りは、とりあえずその場限りの動きだ。
﹁孤児って、どうやって生活してるんだよ﹂
﹁昔は領主に何とかしてもらってたんだけどさ、俺が混ぜモノだ
から嫌われちゃって。一応、数日に1回食べ物を送ってくれるから、
それを食べてる。後は、捨ててあるものとか拾ってるとか﹂
ディノは何でもないような雰囲気で言い、肩をすくめた。どこ
か大人びた諦めたような表情だけど、寂しさをごまかしているよう
にも見える。
ディノはたぶん私より幼い。それなのに、ずっとここで1人生
きているのだ。寂しいに決まっている。⋮⋮というか、ごみ拾って
きている時点で、それ以前の問題でまずいんじゃないだろうか?こ
の汚れきった家の中は、この子1人で生活しているからで︱︱。
﹁ちょっと、整理させて。領主からもらってるのは、食べ物だけ
?﹂
﹁そーだよ。数日分、どどんと貰うんだ。最初はいいんだけどさ、
1080
最後の方とか下手すると食べるものなくて大変なんだよね。一応昔、
食べられる草とか教えてもらったから、それ食って何とかしてるけ
どさ﹂
おいおいおい。それ、育児放棄だから。私の顔が、ひくりと引
きつった。
確かに、浮浪児よりはマシな生活だけど、現代日本なら訴えら
れてもおかしくないレベル。
﹁ちなみに勉強とかは?﹂
﹁できるならしたいけど、俺学校行けないし。それに勉強するヒ
マあったら、飯探しに行ってるって﹂
教育もまともにされていないだと。
いや、うん。混ぜモノの扱いなんて、こんなものかもしれない。
でもこのままじゃこの子、山で狩りして生きる狩猟民族のような生
活しかできないじゃないか。
というか、すでにその状態になりかけてるし。
いやいやいや。混ぜモノの扱い方が分かっていないとしても、
色々危険すぎる。混ぜモノの暴走は、たぶん精神的なもろさが切っ
掛けとなるのだ。つまりは健やかな成長しないと、暴走の確率はぐ
っと上がる。
私自身、すごく精神的に成長しているわけではないが、子供頃
よりは安定していると思う。それはこれまで、色んな人が私に関わ
ってくれたからだし、アスタのような自分の味方がいたからだ。し
かしディノにその立場の大人がいるようには思えなかった。
⋮⋮どうやって、カザルズさんに報告しようかなぁ。
とりあえず現状のままではまずいだろう。
﹁えっと、私も混ぜモノなんだけど、ディノは何の混ぜモノなの
?﹂
﹁知らない﹂
1081
﹁へ?﹂
知らないだと?
﹁知らないって、混ぜモノじゃないのかよ﹂
﹁だから俺は、孤児なんだって。親がいないから、何の種族か分
かんねーもん﹂
そういって、ディノは転がっている良く分からない物をどかし
終わった床にどかりと座り胡坐をかいだ。それがどうしたという様
子である。
﹁とりあえず、ねーちゃんも座りなよ﹂
﹁あ、うん﹂
ディノに言われて私も座るが、手をつくとなんだかザラザラす
る。土⋮⋮か?私も結構、掃除とか手を抜く派だけれど、そんな私
でもこれは不味いなと思わせるレベルで汚い。
﹁ねーちゃんは、なんの混ぜモノなんだよ﹂
﹁私は、精霊族と獣人族と人族とエルフ族だけど⋮⋮。ディノは
もしかして顔に痣があるから、混ぜモノだと思ってる?﹂
﹁そーだよ。おでこに痣があるからさ。見てみる?﹂
ディノはそう言うと、包帯を紐解始めた。
でも確か痣って、混ぜモノであるというよりは、精霊と契約し
ている証であったはず。混ぜモノは精霊と契約していなければ生き
られないので、混ぜモノであれば痣があるというのは間違いない。
しかし痣があれば混ぜモノというのはイコールではないはずだ。
ディノが取り外した包帯の下には、真一文字の線があった。う
ん。確かに、痣だ。⋮⋮これ、精霊だったら、どの精霊の痣か分か
るのかな?もしくは、神様なら分かるかも。
不明な点が多いので、知り合いの時の精霊や神様に相談してみ
るべきかもしれない。
﹁ねえ。もしかして、俺が混ぜモノだから弟子にするのを渋って
1082
るの?﹂
﹁いや。私はまだヒトにモノを教えられるほどの魔術師ではない
から﹂
私の師匠の立場にいるのは、アスタである。
そしてアスタと比べれば、私の魔法能力など、まだまだだ。そ
れなのに、他人に魔法を教えるなんて上手くできるように思えない。
﹁嘘だ。だってねーちゃん、すごい魔法使ってたじゃん。俺が混
ぜモノだからいけないの?それとも孤児なのがいけないわけ?!そ
んなのどーしようもねーじゃん!﹂
そう言って、ディノは私の腕をガシッと掴んだ。
その力は、私よりも強くて正直痛い。しかし私よりずっと、デ
ィノの方が痛そうな切羽詰った顔をしていて、引きはがすのを躊躇
う。
﹁こらっ。オクトの腕をつかむな。後で、怖くてえげつない奴ら
に仕返しされるぞ﹂
﹁離せよっ!!俺は、どうしても魔法使いになりたいんだよ!な
あ、ねーちゃん。俺、絶対迷惑かけないからっ!ねーちゃんのいい
つけ守るし、何でもいう事聞くからっ!!﹂
私が少しだけ顔をしかめた事に気が付いたライが、無理やりデ
ィノを引きはがした。首根っこのあたりをつかまれたディノはジタ
バタと暴れるが、ライの力には全く歯が立たないようだ。
﹁オクトも勝手に情けをかけて承諾するなよ。後で煩いから﹂
あー、煩いのは心配性なカミュとアスタですね。分かってます。
確かにカミュは絶対嫌味を言ってくるだろうし、アスタはアス
タで危険だとかなんだとか言って、ディノを苛めそうだ。それは、
私が未熟であるからでもあるんだけど。
﹁⋮⋮私だって、自分の能力ぐらい把握しているから無茶はしな
い。でもディノは離して﹂
1083
﹁だから、情けをかけるなって︱︱﹂
﹁いいから﹂
だって、ディノを助けてくれる大人は誰もいないのだ。
確かにディノの言い分を聞き入れるわけにはいかない。でもだ
からと言って、すべてを否定はしたくなかった。私は私を否定しな
いでいてくれるヒトがいたから、今日まで何とか生きてこれたのだ。
﹁ディノ。私も混ぜモノで孤児だから。そういう理由で断ってる
わけじゃない﹂
私はディノの灰色の瞳をまっすぐに見た。
私は話をするのがそれほど得意じゃない。だから下手な誤魔化
しをしたところですぐにばれてしまうだろう。でも本当の事ならば、
きっと伝わるはず。
﹁ねーちゃんも孤児なのか?でも、だったら何で﹂
﹁さっきも言った通り、私はヒトにモノを教えれるほど凄い魔術
師じゃなくて、まだまだ勉強が必要だから。でも、ディノが本当に
魔術師になりたいなら、力になれると思う﹂
私の母校であるウイング魔法学校に入学できたなら、きっと魔
術師になれる。あそこならば、私という存在を既に受け入れたとい
う実績があるのだから、混ぜモノであるディノも受け入れてくれる
はずだし。
お金の方の問題ならば、特待制度があるし、最悪そっちの方面
の力添えなら何とかなるだろう。なんなら、国家権力であるカミュ
にお願いしてもいい。
﹁あー⋮⋮。とりあえず、こいつは自分の価値がよく分かってい
ない、間抜けだから。素でそういう事をいうおとぼけ女で、なんて
言うか、紙一重ってやつだな。とりあえず、心の底からそう思って
いるから、別にお前がどうこうっていうわけじゃねーよ﹂ ﹁あのさ、ライ。そのフォロー、色々私が痛いから﹂
自分の価値が分からない間抜けやらおとぼけやら紙一重やら。
1084
色々酷い。私はちゃんと自分の身の丈をわきまえているだけなのに。
﹁本当のことだろ?後はこういうボケボケ女の弟子になると、後
々苦労した上に、後悔するぞ﹂
﹁絶対後悔なんかしない!どんなつらい訓練だって耐えてみせる
から。俺はどうしても魔法使いになって助けたいんだ﹂
ディノの覚悟は本気のようだ。私が話をしっかり伝えようとし
た時と同じように、じっと私の瞳を見つめてくる。
﹁助けたいって、誰を?﹂
﹁ルイ⋮⋮えっと、領主の娘なんだ﹂
領主の娘。
確か、病気を患っていたはずだ。
﹁もしも俺の所為でルイが病気になって、歩けなくなったんなら
治したいんだ﹂
ディノの声が少しだけ震えた。でも男の子だからか、泣いては
いない。
﹁俺、ルイにすっげー色々助けてもらったりしてて、それなのに
ルイが病気になっちまって。⋮⋮歩けなくなったのが俺だったら良
かったのにって思って神様に祈ったけどルイの足は全然治らなくて。
魔法使いになれれば、何だってできるんだろ?俺、ルイがまた歩け
るようにしてやりたいんだ﹂
そうか。ディノは領主の娘と仲が良かったのか。
もしかしたら、領主はそれもあって、余計にディノの存在が娘
を病気にしたと思っているのかもしれない。でも︱︱。
﹁ディノ、魔法では病気は治せないから﹂
﹁えっ﹂
魔法は万能のように見えて万能ではないのだ。場合によっては、
アスタを助けた時のように魔法で怪我をカバーすることもできるけ
れど、病気を治したという例は聞いた事がない。
1085
少なくとも私が知っている魔法には、日本のゲームでよくある
回復魔法や、死者蘇生的な魔法はなかった。
﹁う、嘘つくなよ!魔法はなんだってできるって昔ルイが言って
たんだ。ルイは俺と違って文字が読めるから本で読んだって言って
たんだよ!なんだよ。やっぱり俺には教えたくないのかよっ!﹂
﹁⋮⋮もしかしたら何処かにはあるのかもしれない。でも少なく
とも、私は病気を治す魔法は知らない﹂
ディノはたぶん私が言っていることが本当だと分かっている。
分かっているけれど、納得したくないのだろう。泣きそうな顔
で叫ぶ。それでも私はそれから目をそらしてはいけないと思い、デ
ィノをまっすぐ見つめ続けた。
﹁だって、魔法で駄目なら⋮⋮どうしたらいいんだよっ!!﹂
この国の魔法に対する認識は、万能なものという感じなのかも
しれない。少なくともディノの認識はそうだったのだろう。でも魔
法は万能のようで万能ではなく、ある意味科学のような法則に基づ
いたもの。
ああ。また面倒なことが増えた。できたら関わりたくない。
気分が重くなるが、それでもここで知らん顔をする方が、もっ
と精神的に疲れるだろう。
﹁でもディノがルイがもう一度歩けるようにって望むなら、出来
るだけの事はやる﹂
元々領主の娘には会う予定だったのだ。
﹁えっ﹂
﹁だから、私に任せて﹂
既に医者に見せているだろうし、私の力では無理かもしれない。
それでも今のディノに言ってあげられるのはそれだけで。彼に
とってルイがとても大切な存在ならば、何とかするしかないのだ。
後ろでライが大きなため息をついた。でも仕方ないじゃないか。
私は重いため息をする代わりに、無理やりディノに笑いかけた。
1086
不穏な混ぜモノ騒動︵5︶
﹁ささ。賢者様、よく来てくれました。どうぞ、中へ﹂
⋮⋮。
えっと。
最初の時の雑な扱いというか、嫌々対応してくれてるんだろう
なと思うような姿と180度変わった態度に、私はどうしていいも
のかと目を泳がせた。以前の領主の態度を覚えているからこそなお
さらだ。
﹁さあ、先生。行きましょうか﹂
先生だとっ?!しかも敬語だと?!
カミュの対応に、ゾワゾワと悪寒が走る。いや、一応カミュは
身分詐称の為、私の弟子ということになっているのだから間違って
はいない。
間違ってはいないけれど、うっすら寒いのだ。元々弟子なんて
とる気はないけれど、カミュみたいな弟子は絶対とりたくない。
嫌だと言いたくなるような空気だが、私はディノとの約束の為
だと、お腹に力を入れて前へと進む。それに元々領主の孫には会う
気でいたのだ。
胃に穴があいたって、いつかは治るのだから大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、重たい足を動かした。
﹁賢者様が、いくつもの難病を治してきたなら、初めからそう言
って下されば﹂
いやいや。言うわけない。だって、私は医者ではないのだ。
そう言いたいが、私がなにかしゃべる前に、カミュがすかさず
領主の言葉に相槌をうつ。
﹁先生は奥ゆかしい方なので、自分の素晴らしい経歴をベラベラ
1087
と品なくしゃべることはないんですよ﹂
﹁そうですか。しかし、きっと貴方様に看ていただきたいと思っ
ている者は多いと思うんですがね﹂
そう言って、領主はひげをもそもそと触った。
素晴らしい経歴って⋮⋮。
愛想笑いではない笑みを向ける領主に、私も曖昧に笑っておく。
せっかくカミュが孫に会えるようにお膳立てしてくれたのだ。それ
をぶち壊すわけにはいかない。
カミュが伝えた私の経歴はさらっと聞いてはいるので、一応間
違っていない事は確認済みだ。
あああ。それでもその経歴は、たまたま前世の知識で知ってい
た壊血病の知識で海賊を助けた事や、瀕死の重傷をおったアスタを
運よく精霊魔法で助けれた事、さらにアユムの病状がなんなのかを
コンユウからの手紙で知っていた為に助ける事ができたなど、ある
意味運で解決してきている部分が大気いものばかりだった。その為、
良心がズキズキと痛む。
それに真実を知ったら、領主が怒りだすんじゃないかなと思う
とビクビクものだ。嘘、大げさ、紛らわしいは、いつか訴えられる
気がする。私はたぶん詐欺師には向いていない。
﹁私の事は、それぐらいで。あの、お孫さんはどのような感じで
⋮⋮﹂
あまり賛辞を言われすぎると、そのうちジャンピング土下座を
披露しなければならないほどに話が大きく膨れ上がってしまいそう
だ。私についての話はさっさと切り上げてしまいたという思いもあ
り、早速孫娘さんについて聞いた。
﹁孫娘のルイは、部屋の中で本を読んだり人形遊びが好きな、少
し内気ですが可愛い子です。真っ白な肌に黒髪で、この町一綺麗な
娘だと思っています。両親は王都で働いており、年に数回しか会え
1088
ず、さみしい思いをさせてしまって︱︱﹂
﹁あー⋮⋮えっと、とても大変なのは分かったけど⋮⋮﹂
﹁すみません。できれば具体的に病状を教えてもらってもいいで
すか?先生はとても頭がよいのですが、情報が何もないと、その素
晴らしい知識を生かすこともできないので﹂
病状を聞きたいのに、孫娘自慢話を始められてどうしようかと
思っていると、すかさずカミュが助け船を出してきた。流石、カミ
ュ。とてもありがたい。
私ならたぶん1時間は孫自慢話を聞く事になっていただろう。
速攻で孫娘の話をぶった切ったところを見ると、もしかしたら
カミュはすでに永遠とその話を聞いたのかもしれない。もしくは、
さっさと終わらせてしまいたいと思っているのかだ。
﹁ああ。病状ですか。実は1年ほど前に一度足を怪我しまして。
それ以来、全く歩けなくなってしまったのです﹂
うーん。どうやらディノに聞いた話とさほど変わらないようだ。
ディノはルイが病気だと言っていたが、怪我をしたのがきっか
けならば、そちらが原因かもしれない。足がないと言わずに歩けな
いというならば、五体満足ではあるのだろう。となると考えられる
のは、精神的な問題又は目に見えない形での肉体的な問題だ。
精神的な問題ならばまだ解決する可能性は残されているが、肉
体的なものの場合は難しい。特に脊髄損傷での麻痺タイプの場合、
今の私では不可能だ。
魔力を使って、脳からの電気信号を送る方法もとれなくはない
かもしれないが、そんな魔法を開発するまでにどれだけの時間がか
かる事か。アスタの時とは違い、精霊との契約も止めてしまってい
るので、思ったままを魔法にする事も難しい。
第一、精霊魔法が使えたとしても、神経に関わる事ならば、も
っと丁寧に判断するべきだろう。神経って触れるとすごく痛いと前
世で言われていたと思う。特に虫歯の痛みに耐えきれず、拳銃で歯
1089
を打ち抜いてしまった人がいるぐらい、思考を麻痺させるレベルで
痛いのだ。
﹁つまり、怪我で動けないと?﹂
﹁いえ。医者の見解ではすでに骨折は治っているようで。しかし
足の骨が変形し、また骨折癖がついてしまったといいますか、とて
も折れすくなってしまっていて﹂
骨折ぐせ?
そんなものあるのだろうか?でも、私が知らないだけという可
能性もある。
﹁骨が折れやすいので、中々リハビリも上手くいかず、歩行の訓
練ができないのです。車いすで生活は送れているのですが、日に日
に元気がなくなっていくようで、あの子が不憫でならないのです。
ですから、賢者様。どうかあの子の足を治してやって下さい﹂
治したいのは山々だ。
山々だけど、治せるだろうか。足の骨が変形というのは、骨折
の時のくっつき方が悪かったということだろうか?
変形してしまうと上手く踏ん張れないので、余計に歩きにくく
なるのも分かるが⋮⋮気になるのは、骨折癖だ。細い骨ならば元々
折れやすいから、何かのタイミングで折れる事もあるだろう。しか
しそうではなかったとしたら、骨がもろくなっているという事だ。
﹁ルイ。賢者様がお見えになったから、入るよ﹂
﹁はい。おじい様﹂
部屋の中か可愛らしい返事が聞こえてきた。
最初に領主が入り、私はそのあとに続く。
﹁失礼します﹂ 部屋の中は、人形であふれかえり、とても女の子らしい。花瓶
に活けられた花も新鮮で、いい香りがする。今までの領主の言動も
合わせて考えると、とても大切にされているのだろう。
1090
ベッドの上で体を起こした少女は、病的なぐらい白く、黒い髪
を綺麗に伸ばしている。何というか、クララ︱っと叫びたくなるよ
うな儚い外見である。
もしも髪の手入れが雑だったら、貞子ーと叫びたくなった可能
性があるので、日ごろのお手入れはとても大切だ。
﹁まあ。賢者様ってとてもカッコいいのね﹂
ん?格好いい?
私はクララもとい、ルイが見ている視線の先へ顔を動かした。
そこには、カミュの姿がある。⋮⋮ああ、確かに、カミュは中々の
イケメンだ。生まれながらの王子様といった雰囲気がある。もちろ
ん、本当に王子様ではあるんだけど。
﹁賢者は僕ではありませんよ﹂
﹁えっ?違うの?なら、そこの赤髪の方?賢者っていうから、そ
の⋮⋮そんなに逞しい方とは思わなくて﹂
ですよねー。
現在の選択肢が、私、カミュ、ライならば、真っ先にカミュが
選ばれるのはなんとなく分かる。そしてカミュが違うとなれば、⋮
⋮まあ小さい方より、大きい方を選ぶだろう。
﹁ルイ。賢者様はこの方だよ﹂
領主に紹介されて、私は少しだけ居心地が悪い気分になる。
私を見たルイの顔が明らかに訝しんでいるのだ。
﹁この方が?﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
私が悪いわけではないが、思いっきり期待を裏切ってしまった
ようで、申し訳ない限りだ。たぶんルイが立つ事が出来れば、私の
身長とそんなに変わらないだろう。
﹁そうなの。賢者さんって、私と同じぐらいなのね﹂
﹁あー、一応長生きな種族ですので。もう少しは生きているかと﹂
1091
たぶん、私の方が年上ではある気がする。
﹁長生きな種族?初めて見るけれど、どちらの種族なの?﹂
﹁えっと。獣人族と精霊族、エルフ族と人族のハーフです﹂
﹁混ぜモノ?!﹂
ルイは、大きな黒い目を、さらに大きく見開いた。
﹁賢者様は混ぜモノなのっ?!﹂
﹁はあ。一応﹂
興奮気味の少女に、私はためらいがちに頷いた。
﹁私の友達にも、混ぜモノがいるの!すごいわ。混ぜモノが2人
もいるなんて!﹂
﹁これ、ルイ。混ぜモノを友達などと︱︱﹂
﹁おじい様。ディノは友達よ。それに、皆、混ぜモノは怖いとか
危険とかいうけど、全然そんなことないもの。それは本にも書いて
ある事よ﹂
ルイは病弱さを全く見せない様子で、ぷくっと頬を膨らませた。
元気がないと言ったのが嘘のようだ。私からしたら、十分元気
である。むしろ私の方が元気さが足りない。
﹁本?﹂
﹁﹃混ぜモノさん﹄っていう本よ。人助けをする混ぜモノが主人
公で、とても素晴らしい話だったわ。続編がないのが残念なぐらい。
混ぜものさんの原作と呼ばれる、ものぐさな賢者も読んだけれど、
こっちもとてもいい話だったわ。少し難しかったけどね。そう言え
ば、貴方もものぐさな賢者と呼ばれているのよね。やっぱり、混ぜ
モノだからかしら﹂
一つの質問に対して、つらつらつらっと少女はしゃべり続ける。
誰だ、彼女が病弱だの内気だの言ったヒトは。彼女が内気なら、
私はなんだ。引きこもりか?⋮⋮あ、でもそれは間違いではないか。
﹁私がその名をつけたわけではありませんので、分かりかねます
が。⋮⋮えっと、すこし足を見てもいいでしょうか?﹂
﹁いいわよ。でも治せなくても、気に病んだりしないでね。私、
1092
別に歩けなくても元気だもの。車いすもあるし、すごく不自由でた
まらないという事もないから﹂
少女はすでに自分の足に関して、諦めてしまっているようだ。
確かにこれだけ大切にされていれば、不自由さを感じる機会は
少ないだろう。それでも、私は彼女が本気でそう思っているのでは
なく、自分にそう言い聞かしているだけではないのかと思った。
私が治せなくても、私が気を病まないように。それは、足が不
自由になった事の理由とされたディノを思ってからのことかもしれ
ない。彼女は迷信を盲目に信じずに、ディノを信じたい様子だった。
﹁失礼します﹂
そう言って、私はそっと布団をめくった。
ルイはネグリジェのような服を着ており、その下から細い2本
の足が生えている。異様に細いのは筋肉がやせてしまっているから
だろう。
﹁痛みとかはありますか?﹂
﹁ええ。やっぱり、骨折するとどうしても痛いのよね。それだけ
は嫌だわ﹂
痛いのか。
ということは、神経の問題ではないのかもしれない。精神的な
ものの可能性ももあるが、精神的なものと骨折のしやすさはイコー
ルではない。
足の骨が変形しているのは本当のようで、O脚のようになって
いる。⋮⋮ん?O脚で、骨がもろい?
ふと、何かが頭に引っ掛かった。
﹁えっと、外にはあまり行かないのですか?﹂
﹁そんな、外に行かせるなど、危ない。絶対家で安静にしなさい
と医者からも言われています﹂
﹁私は大丈夫だって言ってるんだけどね。おかげで、本を読むか
1093
ご飯を食べるかぐらいしか楽しみのない毎日だわ﹂
﹁私はルイの為を思ってだな。だから、ほら。好きなものばかり
出しているだろ﹂
⋮⋮どうやら、領主がルイをかなり過保護に育てているようだ。
両親がここに居ないのも関係しているのかもしれない。
﹁好きなものばかり?﹂
﹁はい。少しでも元気になるように、この子の嫌いなものは一切
出しません﹂
つまりは⋮⋮偏食している可能性が高いと。
なんだか、頭がクラクラしてきた。お嬢様って、みんなこんな
ものなのだろうか。私の場合は、昔ご飯が満足に食べられなかった
時がある為か、好き嫌いはあまりない。基本出されれば何でも食べ
る。まあ、量があまり入らなかったりするけれど、それだけだ。
﹁それで、賢者様。ルイはどうですか?﹂
﹁今お聞きした内容で、ひとつ、可能性がある病気があります﹂
O脚に曲がった足。折れやすい骨。日にあたらない生活。そし
て、偏食。
すべてが合わさった時、彼女に抱いた最初の印象がもう一度浮
かぶ。
﹁先生。どんな可能性なんです?﹂
もちろん素人なのだから間違っている可能性もある。だから、
あくまでも可能性だ。それでは言わなければ始まらないと思い、カ
ミュの質問に私は口を開く。
そして一説としてでしかないが、前世にあったアニメの登場人
物であるクララも患っていたのではないかとされている病名を口に
した。
1094
不穏な混ぜモノ騒動︵6︶
﹁ビタミンD不足?﹂
その言葉に、私はこくりとうなずいた。
前世のアニメで見た、クララが立てなくなった原因とも言われ
ている病気だ。
﹁はい。ビタミンDは、筋肉や骨に大きく影響を与えます。不足
すると筋肉萎縮による転倒、そしてカルシウム吸収阻害による骨の
軟化が起こります。結果骨折などを引き起こします。もしかしたら、
カルシウム不足もプラスで起こっているのかも﹂
いわゆる、くる病や骨粗鬆症がそれに当たる。ふつうに生活を
していたら、中々起こらないだろうが、ルイの生活習慣を聞いてい
る限り、高確率でそれが起こりそうだ。
﹁ビタミンDやえっと、かるしーむ?というのは何ですか?﹂
おっと、そこからか。
この国にも、栄養学というのが、まだ発達をしていないようだ。
医学が進んでいる、金の大地にもまたがっているが、ホンニ帝国は
そっちの方面でないところが発達しているのだろう。
﹁昔あった、ビタミンCの親戚かなにかなのかな?﹂
﹁そう。ビタミンCと同じで、ビタミンDもカルシウムも食べ物
に含まれている。ただビタミンDに関しては、日光にあたることに
より体内で作ることも可能﹂
たしか、ビタミンDはコレステロールから作り出せたはず。ル
イは人族だし、たぶん大丈夫だろう。前世でも大抵の生き物はビタ
ミンDが体内で作れたし。
﹁ルイはあまり外へ外出をせず室内にこもりがちな生活をしてい
1095
ると聞きました。ですから車いすでいいので、毎日散歩をして下さ
い。それほど長い時間でなく、5分から30分ほどで構いません﹂
﹁たった、それだけでいいの?﹂
﹁はい。それから好き嫌いを止めて、病気を治す為のごはんを食
べて下さい。カルシウムの多い食材、ビタミンDの多い食材を料理
をされる方に伝えますから﹂
なんだったら、子供が食べやすい料理も教えておこう。
この地域は海沿いではないので、魚を食べる習慣は少なそうだ
し。乳製品だって、お菓子に使う事もできるし、色々食べ方もある
だろう。
﹁えっと、好き嫌いをなくして、外で散歩するだけ?それだけ?
薬は?﹂
きょとんとした様子のルイに、私は頷いた。
確かに内容だけ見ると治療という感じではない。注射も薬もな
いのだ。もしかしたら、どこかの国ではもう薬が開発されているか
もしれないが、生憎と私は知らない。
なので私が勧められるのは生活習慣の改善だけだ。
﹁馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、しばらくその生活
を続けて下さい。私が伝えられる薬は、その生活だけです﹂
そうすれば﹃クララが立った﹄的に﹃立った、立った、ルイが
立った﹄というシーンを見ることができると思う。
﹃ルイの馬鹿、もう知らないっ!﹄とか言ってくれる、素敵な
女友達がいるかどうかは分からないけれど。ディノは友達みたいだ
けど男の子だから、ハイジではなくペーター立場だし︱︱っと、話
がずれた。
﹁確かに馬鹿馬鹿しい話ですな。今まで数多くの医者がルイを見
てきたが、薬を出さなかったのは貴方だけだ﹂
﹁おじい様﹂
否定されるのかと思い、私は身構えた。
1096
否定されるのは慣れているからいいのだけど、実際やってもら
えないのは困る。もしかしたら、私の仮説が間違っている可能性は
あるけれど、当たっている可能性もあるのだ。そして当たっている
場合は、早めにやらなければ、成長期であるルイは本当に歩けなく
なってしまう。
﹁でも、やるだけやってみましょう﹂
﹁えっ。⋮⋮ああ。お願いします﹂
思ったのと違う反応に、肩透かしをくらい反応が遅れた。
﹁この子の為なら、どんな馬鹿馬鹿しい事でもやってみる価値は
あります。今まで、常識的な治療をして治らなかったのですから﹂
どうやら私を信じたわけではないらしい。それでも、孫娘の為
ならば、どんなことでもしようと考えているのが伝わってくる。
⋮⋮家族っていいなぁ。
不意に、アスタやアユムに会いたくなった。血はつながってい
ないけれど、私にとって一番近いが彼らだから。
﹁おじい様、少し賢者様と2人きりにしてくれない?﹂
﹁えっ?ルイ、この方は賢者様だが︱︱﹂
﹁ええ。そして、私の恩人よ。今更、混ぜモノだからとか言わな
いわよね﹂
﹁⋮⋮少しだけだよ﹂
まっすぐと領主を見たルイに負けたようで、領主はうなずいた。
一応、私が危険ではないとは思ってくれたのもあるのかもしれない。
﹁賢者様、お願いできない?﹂
﹁カミュ、ライ。少しだけ、いい?﹂
2人きりで何を話すのか分からないが、ルイがとても真剣な顔
をするので私はその提案に答えることにした。心配性な友人たちの
顔を見れば、仕方がないという表情をしている。
﹁何かあればすぐ呼べよ﹂
﹁⋮⋮そんな、すぐには何もないと思うけど﹂
1097
というか、人をトラブルメーカー的に言わないで欲しいものだ。
別に私だって、好きでいろんなことに巻き込まれているのではない
のだから。そして、そういうことを言うと、フラグが立ちそうなの
でやめて欲しい。
ポンポンとカミュとライは私の頭を叩くと、廊下へ出ていった。
領主もメイドさんを連れて外へと出る。しばらくすれば場部屋に残
されたのは、私とルイだけになった。
﹁貴方も、私の病気は心の病気だと思っているの?﹂
﹁へ?﹂
どう話しかけようかと考えていると、先にルイの方から話し始
めた。
﹁賢者様が言った事は、全然病気の治療ではないわ。⋮⋮私、知
っているの。私が歩けないのが⋮⋮心の病じゃないかって、皆が言
っているのを﹂
﹁あー﹂
どうやら、私が言った治療方法が、心のケアをしろと言ってい
るのだと勘違いしたようだ。確かにクララ病という名前で、心的な
ものが原因で歩けなくなるという説があるのも知っている。
ただルイは、心的なものと言われるのが苦しいのだろう。2人
きりになりたいと言ったのは、元来の気の強さと心配はかけたくな
いという優しさからか。きっとその苦しさを領主に伝えることもで
きなかったたに違いない。心的なものならば、自分で克服しなくて
はいけないけれど、ずっとできなかった為に。
⋮⋮実際私は心的なものだけの話ではないと思っているのだけ
ど。
﹁違う︱︱﹂
﹁嘘っ!ちゃんと、本当の事を言って。そうしたら私も⋮⋮もっ
と頑張るから﹂
信じてくれない様子にどうしたものかと頭をかく。
1098
幼いから何も考えていないわけではない。何も分からないわけ
でもない。だから大人が隠している事もちゃんと気が付くし、隠さ
れている理由だって考える。自分がどう思われているかだって分か
ってしまうはずだ。
﹁えっと、私の友人も昔、心の病で病気になると思われている子
がいた﹂
とても昔の記憶を呼び起こしルイと似たような状態だった優し
い少年を思い出す。
エストもまた、治らない病気に対して、心的なものが原因では
ないかとも考えられていた。外にも出れず、一日中本を読む生活と
いうのは、エストやルイぐらいの年齢ではつらい事だろう。友人も
つくれず、腫物のように扱われる生活に悲鳴を上げたかったに違い
ない。それでも悲鳴を上げられないのは、とても優しいから。
もしかしたら、ルイが︻混ぜモノさん︼の本が好きなのは、そ
んなつらい経験を知っているエストが書いた優しい物語だからかも
しれない。
﹁でも彼もまた、知られていない病気が原因だった。分からない
事があると、どうしてもヒトは分かりやすい答えを求めてしまうか
ら﹂
心的というものだけではない。混ぜモノが原因だというのもそ
うだ。とても分かりやすいし、解決しやすい答えだ。
早く解決してあげたいと思うからこそ、そこへ手を伸ばしてし
まう。
﹁その友達は病気は治ったの?﹂
﹁はい﹂
会う事は出来ないけれど、﹃混ぜモノさん﹄という優しい本を
残していてくれるのだ。過去を生きるエストは元気に違いない。
﹁そして、私はルイの病気も心的ではないと思う。貴方は、とて
も強くて優しいから﹂
1099
﹁強い?私が?﹂
﹁ディノが原因ではないと信じてくれてありがとう﹂
ディノの心の支えはルイだ。
混ぜモノであるディノを誰もが嫌っても、ルイだけは味方だっ
たのだろう。実際、領主にもそう訴えている。
だからディノは暴走せずに生きられるのだ。誰からも見捨てら
れたような生活をしていても、ルイをずっと想って優しい少年でい
られる。
﹁ディノは元気なの?﹂
私はその言葉にうなずく。罠を張ったりして、元気すぎると思
わなくもないけれど。
﹁ルイを助けてほしいと私に言ってきた﹂
﹁⋮⋮良かった。私の所為で、ディノがつらい目にあってたらど
うしようと思って﹂
ぽろり、ぽろりと、ルイの目から涙が零れ落ちる。
泣かないでと言おうとして、私はその言葉を飲み込んだ。きっ
とルイはずっと我慢していたのだろう。誰にも弱音を吐けずに、小
さい体で恐怖を押さえつけて。だったら、泣くべきだ。
﹁うん。大丈夫だから﹂
私はそう言って、小さい時にしてもらったように、頭を撫でる。
私にヒトを慰めるスキルなんて備わってはいない。だから、私にで
きるのは、私が昔やってもらった事だけ。
﹁本当?﹂
﹁きっと、すべて良くなるから﹂
ルイの足が治れば、ディノに対する風当たりだって改善する。
そうすれば、彼女が泣かなくても⋮⋮泣くのを我慢しなくても
いいようになるはずだ。
﹁ありがとう賢者さ︱︱﹂
1100
﹁ルイっ!!﹂
ガッシャーンッ!!
突然、窓が蹴破られ、私はビクリと身構えた。
一瞬何が起こったのか分からない。とりあえず、窓の外に馬が
いる。⋮⋮げっ。また馬だと?!
頭の中で﹃野生の暴れ馬があらわれた!﹄というナレーション
と、逃げる、戦う、道具を使うというコマンドが頭に浮かぶ。でも
にここにはモン●ター●ールはない。当たり前だ。
﹁ディノっ?!﹂
﹁何で、泣いてるんだよ!﹂
﹁ディノこそ、どうしてっ?!﹂
私が大混乱をしているよそで、暴れ馬に乗ってきたらしいディ
ノとルイが話をする。
﹁小さいねーちゃんが、ルイを助けてくれるって言って。でも、
俺心配で。そしたら、ルイが泣いているしっ!﹂
﹁馬鹿っ。だったら、もっとこっそり来なさいよ。そんなふうに、
窓を馬で蹴破ったら、またおじい様の印象が悪くなるわ﹂
﹁だって仕方ねーじゃん。すごく急いでいたし、この馬もねーち
ゃんに会いたかったみたいだし。⋮⋮勢いつきすぎたけど﹂
ええ。つきすぎです。
そして、私に会いたいなんてその馬は言っていないと思う。鼻
息荒く私を馬が見つめているけど、そんなはずない。人違いだ。
うん。大丈夫。違うに決まっている。だから、あまり見ないで
下さい。
正直、かじられそうな気がして、腰が引ける。たぶんコイツは、
ディノの家に行こうとした途中でじゃれてきたと馬に違いない。そ
して馬にじゃれられるのは、私にとっては襲われて言うのと同じだ。
1101
﹁ディノ、包帯がとれているわ﹂
﹁ああ。走っている途中で落ちたみたいで。でもあの包帯がない
方が、良く見えるんだ﹂
良く見えるって、おでこを巻いていた包帯が目のところまで落
ちてきてしまうのだろうか。そう思い馬からディノへ視線の位置を
変えたところで、私はいろんな事を勘違いしていたのに気が付いた。
﹁あっ﹂
﹁ねーちゃん、どうしたんだよ﹂
あんぐりと口を開けてみていると、ディノはそう問いかけてき
た。というか、ディノは気づいているのか?でもルイが普通である
ところを見ると、知っているのかもしれない。
良く考えたらこの町の混ぜモノ認知度は低く、混ぜモノに対す
る知識はとても少なのだ。だから、ディノが混ぜモノであると判断
されたのは、おでこにある痣が原因で⋮⋮。
﹁ディノ。えっと。言いにくいんだけど⋮⋮﹂
﹁何だよ﹂
どうしよう。
言うべきか、言わぬべきか。いや、でも。うーん。
﹁たぶんディノは混ぜモノじゃないと思う﹂
﹁﹁はあ?!﹂﹂
色々考えたあげく伝えたが、⋮⋮うん。そういう反応になるよ
ね。
だって今まで、それで散々苦労してきたのだ。今更感もある。
でも、ディノの人生はこれからだし、混ぜモノのとして生きるのは
大変なので、違うなら違うとちゃんと知った方がいいと思う。
﹁えっと。混ぜモノの痣というのは、精霊との契約の証でもあっ
て⋮⋮﹂
﹁えっ?何?どういう事?﹂
﹁⋮⋮その。痣が開くということはないから﹂
1102
ディノの額に真一文字な痣は今はなかった。代わりにまるで瞼
を開いたかのように、大きな3つ目の瞳がある。
昔少数民族の書かれた本で、3つの瞳を持つ種族がいる事を読
んだ事がある。その種族は、どの種族よりも遠いところを見る事が
できる能力を有すると書かれていた。そして、赤子の時はその眼は
開かず、幼少期ごろから徐々に開かれるとも。
ディノが拾われたばかりのころは、まだ3つ目の目が開かず、
瞼がまるで痣のように見えたのだろう。そしてその痣を包帯で隠し
ていたならば、目が開眼したとしても、誰も気が付かなかったのだ。
それこそルイのようにとても近くにいる者以外は。
﹁ディノはたぶん、混ぜモノではなく、密目族なんだと思う﹂
1103
不穏な混ぜモノ騒動︵7︶
どうしてこうなった。
その言葉を、脳裏で何度もリピートする。でも現実は世知辛く、
変わらない。
﹁オクトさん、現実逃避をしても、変わらないよ﹂
そーですね。
カミュのまっとうなツッコミに、私は遠い目をした。でも現実
逃避したいんだもの。目を背けてしまいたのだもの。
﹁まったく。貴方ならホンニ帝国まで、もう転移魔法でも来れる
でしょうから、次に来る時は必ず馬も連れて来て下さいよ。貴方を
乗せた馬が、貴方を恋しがり真面目に仕事をしなくなったと聞いて
いますから﹂
いや、もうできるならお家に引きこもって、じっくりと落ち込
みたいのでどこにも行きたくないです。そんな事を思うが、カザル
ズ相手に口で勝てる気がしないので、私は空笑いで誤魔化した。
しばらくは、わざと音信不通になっておこう。ホンニ帝国は遠
いし、多分できるはず。
﹁エリザベス、ジョニー、行きたいよな。ごめんな、連れて行っ
てやれなくてっ!!﹂
背後で私との別れを惜しんでいるらしい馬の近くで、馬の飼育
員らしき人が男泣きしている。やめて。私の方が泣きたい。
﹁それにしても動物に好かれやすいと聞いていましたが、まるで
伝説のフェロモンの指輪でも持っているみたいですね﹂
﹁いや。フェロモンの指輪って何。⋮⋮かといってソロモンの指
輪もそんな便利道具じゃないから﹂
1104
ソロモンの指輪といえば、動物と話ができる指輪の名前だった
はず。動物に好かれる道具じゃない。
もしもソロモンの指輪なんてあったら、私はじゃれつかれたら
体格的に命の危険なのだと、じっくり馬に教えている。
﹁ひひーん﹂
﹁ひひひーんっ!﹂
﹁ひひーん。ぶるるっ﹂
﹁﹃ふっ、俺は連れて行ってもらえるだぜ。残念だったな、お2
人さん﹄﹃くっ、自慢するな、この野良馬め!我らだって、王宮で
の務めさえなければ﹄﹃やめなさい。ノラを貶めても私たちは連れ
て行ってもらえないんだから。私たちは捨てられたのよ。ううう︱
︱﹄﹂
﹁勝手に、心が痛むようなアテレコしないで下さい﹂
﹁もちろん心を十分に痛めてもらいたいと思ってやっていますよ。
突然帰ると言い出した貴方が悪いと思いませんか?色々やってもら
いたいことがあったのに﹂
思いません。大体、やってもらいたいことって何︱︱いや、聞
かない。聞いたら、絶対変なフラグが立つ。
そもそも馬の短い鳴き声の中に、それだけの情報が入っていた
らすごいから。カザルズにツッコミどころ満載なアテレコされて、
私はガックシと肩を落とす。
混ぜモノ騒動を無事解決した私は、そろそろアールベロ国に帰
ることになった。なんでも、カミュは部下を使い、アールベロ国で
︻第一王子が中々結婚しないのが原因で第二王子が賢者と駆け落ち
をしたのではないか︼という噂を流したのだ。
元々流れていた噂に追加した形だったので、その噂が王都で広
まるのは早かった。さらにそこに︻第一王子が、嫁を探していると︼
いう噂を追加したらしい。カミュの予定では、帰る頃には程よく第
1105
二王子の噂は薄れ、第一王子が自分の噂で首を絞められてんてこ舞
いとなっているそうだ。⋮⋮変な噂を流した第一王子が悪いのだけ
ど、若干同情する。
そしてカミュとは噂が落ち着いたら一緒に帰国する約束をして
いるので、この度帰ることにしたのだ。
ただ帰ることになってから、行きとは別の仲間が増えた。
その1人というか1頭が、ディノの家に行く途中で現れた馬で
ある。必死に追い払ったが、ひたすら私についてこようとして⋮⋮
最終的に折れた形だ。
もしかしたら、馬同士の会話の中で、﹃はちみつ色の髪が美味
しそうだよな﹄とか話しているのかもしれないというのに、連れて
行かねばならないとは。ある意味ここにソロモンの指輪がなくて良
かった。﹃ちょっとぐらい齧っても大丈夫だろ﹄とか話していたら、
泣く。マジで泣く。あのでかさで齧られるのは恐怖だ。
﹁でも歩くだけで駿馬を手に入れるとか、普通はないよね。本当
にそういうことを言っているのかも﹂
﹁違うと思う。あの馬にとって私は人参。確実に魔素目当てだか
ら﹂
この世界の生き物は魔素がないと生きられない。その為魔素を
生み出す混ぜモノや、魔力が有り余って体外に放出しているタイプ
のヒトは、動物がそれ目当てに近寄ってくる。私の場合はどちらに
も当てはまるから、極端に動物が近寄ってくるのだろう。
魔の森でも、簡単に手乗り野鳥とかできたし。⋮⋮突っつかれ
て痛いから、早々やらないけど。
﹁本当に、それだけかな?ほらオクトさんってば、証拠にもなく、
また居候増やしたし﹂
﹁⋮⋮あれは、私の所為じゃない﹂
﹁先生!聞いてくれよっ!﹂
1106
噂をすれば影。タイミングよく、帰国する仲間として増えた少
年が声をかけてきた。
﹁ディノ。何度も言ってているが、私は先生じゃない﹂
﹁先生、諦め悪いなぁ。いいじゃん、減るもんじゃないし﹂
﹁減る。確実に、私の精神力が目減りする﹂
自分が先生なんて呼ばれるほど、崇高な人間じゃないことは、
十分承知している。それなのに、先生と呼ばれなければならないな
んて、胃がキリキリしてしまう。
﹁何でだよ。そこの兄ちゃんだって、先生って呼んでたじゃん﹂
﹁あれは演技だと教えた。ディノはウイング魔法学校にこれから
通うだけで、別に私は先生ではない﹂
ディノが混ぜモノではないと分かったのだから、町にディノを
残しても問題はなかった。もちろん、今までの事もあるわけで、中
々いい関係には戻れないだろうが、あの町にはルイがいるのだ。時
間はかかるかもしれないが、領主の娘と領主が間に入れば、何とか
落ち着くと思う。
しかしあろうことか領主は、密目族の育て方が分からないとい
い、さらには魔力の強い子供ならば適切な場所で勉強に励むべきだ
と私に押し付けてきたのだ。⋮⋮ああいうのを、恩を仇で返すとか
言わないだろうか。
しかもディノまで、勉強したいと言い出し⋮⋮まあ、いつも通
りだ。私が流されて、現状に至る。
﹁俺は先生の下で学べればいいんだけどな。別に学校とか興味な
いし﹂
﹁興味あるないの問題じゃない。学校なら、バランスよく学べる
という話﹂
確かに、1対1で魔法について学ぶというのはしっかりと身に
付くし、悪い勉強方法ではない。しかしあの学校に通っていれば、
様々に秀でた先生に勉強を教えて貰え、自分がどの方面に向いてい
1107
るかも分かるはずだ。
さらに言えば、私のようなまだまだな中途半端な者に教わった
ら、ディノが二流の魔術師で終わってしまう可能性もある。
﹁ぶーぶー。絶対めんどくさいと思っているだけだろ。先生がも
のぐさな賢者って呼ばれているって知ってるんだからな﹂
﹁⋮⋮とにかく。すぐに受験は無理だという事も理解はしている。
しばらくは居候をしてもいいから、呼び方は改めろ﹂
そうでないと︱︱。
﹁ああっ!オクトは、ボクのししょーなのっ!!﹂
どーんっ!
そんな効果音が聞こえてきそうな勢いでアユムが私に飛びつい
てきて倒れそうになる。身長こそまだ私が勝っているものの、アユ
ムは毎日すくすく育っていて、下手すると力負けしてしまいそうだ。
﹁ねー、ししょーっ!﹂
﹁⋮⋮いや。私は師匠じゃないからね﹂
だからお願い。否定するたびに、うるんだ目で見ないで。心が
ぽっきり折れそうです。
今回町に行くにあたり、アユムが不穏にならないように、魔法
で空間を繋ぎ顔を見て話せるようにした。いわば、テレビ電話みた
いなものだ。作戦は順調で、確かに途中までは上手くいっていた。
しかし最後についたオチというか、ディノという少年の出現に
より、奇妙な化学反応が起こってしまったのだ。
﹁そうだ。先生、アユムが酷くてさ。ボクのボクの煩いんだよ。
先生はアユムのものじゃねーよな﹂
﹁ちがうの!ししょーは、ボクの!ディノより先にいろいろ教え
てもらっていたもん。だからね、ボクがあにでしなのっ!﹂
﹁俺より小さいんだから、弟弟子に決まってるだろ﹂
﹁ちがうー!﹂
1108
﹁違わないって﹂
⋮⋮ぶっちゃけていえば、二人とも違うからね。
私は、アユムを弟子にしたつもりも、ディノを弟子にしたつも
りもない。ディノはアユムがムキになるのを楽しんでいるみたいだ
が、お願いだからこれ以上アユムに変な影響を与えないで欲しい。
実はディノを連れて帰ることになり、そこで初めてアユムと対
面させたのだが、アユムは自分の居場所がなくなるかもと恐怖を覚
えてしまったようだ。そしてディノが私の自称弟子を名乗ったせい
で、アユムまで私を師匠と呼び始めたのである。⋮⋮アユムの事は
家族と思っていたので、突然の変化に私の心はヤサグレそうだ。
﹁あのね、2人とも︱︱﹂
﹁アユムもディノも間違ってるな。オクトは俺のだから﹂
背中から今度はアスタが抱き付いてきて、私は頭痛がした。
おい。アスタは関係ないだろ。
大人げない大人の登場に、涙が出そうだ。
﹁⋮⋮アスタ。お願いだから、子供に張り合うな﹂
これ以上ややこしくしないで。マジで。
﹁ちゃんとこういう事は、小さい時から教えておかないと。ディ
ノが変な勘違いをして思春期を迎えたら困るだろ?﹂
﹁あり得ないから﹂
私は、ないないと首を横に振った。そもそも変な勘違いってな
んだ。
私に変な執着をしてしまったのはたぶんアスタとエストだけで
ある。とても希少価値に近い状況が、今後起きるとは思えない。私
のモテ期はたぶんエストと過ごした学生時代で終了している。
﹁オクトは、甘い。男はオオカミだと思いなさい﹂
﹁⋮⋮オオカミだって、餌を選ぶ権利はあるから﹂
あえて不味そうなうえに、際どそうなものは選ばないだろう。
1109
私なら仏頂面で性格が悪く、混ぜモノなんていう厄介な出身で、さ
らにめんどくさい保護者がいる女は絶対選ばない。
うんうん。
アスタは心配性すぎなのだ。
﹁お、俺は別にアスタ兄ちゃんの邪魔はしないから!むしろ応援
するから﹂
﹁ディノ⋮⋮﹂
アスタに何を言われた。
慌てたように言い募るディノをを見て、さらに頭痛がする。⋮
⋮うん。帰ったら、仕事と言って、しばらく引きこもろう。狭い我
が家。誰も来ない、深い森。なんて素敵な楽園だろう。
﹁オクトさんが歩くと、どんどん仲間が増えるね。まるで伝説の
ハーレムの笛吹みたいだ﹂
﹁⋮⋮いや、そんな笛ないから﹂
ハーレムじゃなくて、ハーメルンだから。そんな笛があったら、
怖いから。
私はカミュの言葉に深くため息をついた。⋮⋮同居人が増えた
けど、家に全員入る事ができるだろうかと、現実逃避をしながら。
こうして私はアールベロ国に無事帰国することになったのだが、
我が家がヘキサ兄の手で勝手に落ち着けそうもない豪邸になってし
まっている事を知るのはまた別の話である。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6788x/
ものぐさな賢者
2016年7月26日02時04分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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