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職人としての藤田嗣治

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職人としての藤田嗣治
あいだのすみつこ不定期漫遊連載 第13回
職人 として の藤 田嗣治
―一笹木繁男氏 の連載 中の余白に
稲賀 繁美
いなが しげみ/国 際日本文化研究センター,
く
総合研究大引院太〕
藤田嗣治が終生肌身離 さず愛蔵 した作品
に 『
我が画室』がある。1922年のサ ロン ・
ドー トンヌに入選 した 3点 の作品 のうちの
嗣治 というひとりの画家を理解す るうえで,
で,後 年の藤田は,日 本帰国 の折 りにもア
トリエの 目立つ場所 に架け,戦 後北米 に脱
藤田嗣治は1886年東京都牛込区 に,陸 軍
軍医 ・藤田嗣章 の次男 として生まれた。嗣
出 した際にも,み ずか ら丁寧 にこれを梱包
して持参 した ことが ,残 された写真か ら知
られて いる。 この作品の背景にはエ ビナル
治が 東京 美術学校 を卒業 した 2年 の ちの
1912年,父 は陸軍軍医総監 。中将 という地
位 に昇 り詰める。28歳の嗣治がパ リヘ と旅
版画 といわれる,フ ランスの民衆版画が綿
密に描き こまれているが,そ の画題は,人
生の階梯 として知 られるものだ。ゆ りか ご
立 ったのはその翌年。林洋子氏 も指摘する
とお り,1917年 のパ リ,シ ェロン画廊での
か ら墓場 までの人生の歩みが,一 対の男女
の一生を歩み に従 って描かれるc実 はこの
エ ピナル版画の主題は,1950年 代に コロン
ビア大学教授,マ イヤー ・シャビロが ,ギ
ュスターヴ ・クーリ
レベの 『オルナンの埋葬』
の下敷 きとして提案 し,学 会でおおきな反
響 を呼んだのと,同 じ図柄 である。 クール
ベは民衆や 「
女子供」 の慰み ものの版画の
主題 を,高 さ331cm幅 664cmと いう,記
念碑的な大きさに拡大 し,誰 ともわか らぬ
レナンにおける死者の埋葬に,歴 史画 と
オフ
いう当時 の絵画美術範疇における最高位 の
地位 を授 けるとい う逸脱行為をなす ことで,
パ リの画壇 に殴 り込みをかけた。そんな事
情はおそ らく知 ることもないまま,藤 田は
同 じ図柄を,自 分のもっとも大切 にした作
品に描き込んで いた ことになる。一見なに
げな い偶然 の一致だが,こ れが実は,藤 田
ある鍵を提供する。
はじめての個展の案内 には,陸 軍中将 の息
子 としての出 自が,カ タログの扉 に麗 々 し
くフランス語で記されている。公 の栄達 に
関 して,け っして世俗的な配慮 とは無縁で
なかった画家のエ リー トたる自意識が ここ
に現れている。では,そ のかれの一番大切
にした 『
我がア トリエ』が,極 私的な室内
空間の描写であった,と い う二面性 はどの
ように理解すべ きなのだろう。公/私 とい
う振幅を藤田ほど大きく生きた画家は,日
本近代にほかになかった。それは 日本近代
という器 には収まらず,近 代 日本をはみ出
す ことによって,逆 に日本の近代 とは何だ
ったのかを検証するための,希 有な リ トマ
ス試験紙 としての生涯 を終えた,不 幸な魂
の軌跡でもある。
実際,本 場のパ リでも通用する国際画家
としての藤日は,そ の人気 の秘訣を,い ま
「職人としての藤田嗣治」『あいだ』 89号、2003年5月20日、31-35頁
ださ卜31
ぁt、
だに技法の定かでない自地のキ ャンヴァス
と,油 彩 の下地 には乗 らないはずの墨を,
修正の効かな い面相筆で引くという,極 め
付 きに東洋的,か つ意図的 にまで神秘的な
技法 に負って いた。 日本ではパ リの籠児 と
の反対 の居直 りとしての東洋主義の顕示 も
その限界を晒 した,こ の国の洋画体験 を経
て,そ うした先行世代の苦心 と挫折 を糧 と
して,よ うや く日本の画家がパ リで通用す
る手腕を発揮 したのが,藤 田に代表 され る
して持て囃 され ,逆 にパ リでは東洋の具現
として振 る舞 うという二枚舌に藤田の成功
世代だ った。
の秘密があるのは明 らかだ。だがふ と翻る
と,今 日なお欧米で 日本人あるいは東洋人
その黒田は,大 恐慌 のあお りを食 らって
パ リの画壇が不況 となるや,1930年 には南
米を放浪 し,33年 には 日本に帰国する。秋
として成功を収めようとするな らば,嗣 治
の選択以外 には容易 に突破 口が見つか らな
いことも事実だろう。河原温 のよ うに日本
とい う国籍を否認 し,ニ ュー ヨー クの芸術
田の素封家,平 野政吉の依頼 による大壁画
『
秋田年中行事』(19場 の背後には,す でに
1929年 に薩摩次郎八出資のパ リ大学都市 日
家たる自己認識を得よ うとす る立場 もある
だろ うが,そ れが根無 し草を許容する無国
籍な人工市場 という環境が保証されて こそ
本館 に依頼 された金地の壁画,『 欧人日本
へ の到来の図』,『馬の 図』以来 の経験 と,
メキシヨで接 したに違 いな い壁画運動へ の
の,孤 独な連帯 の営みであることも疑えな
い。
共感が裏打ちとしてあった ことだろう。 日
本帰国直後 の極度のスランプか ら脱す る機
ニ ュー ヨー クにお株 を奪われる以前の,
降殺到 した戦争画の注文を,驚 異的な制作
速度で こなす藤田の姿 に対 して,戦 後倫理
会となったのが,日 米開戦であ り,こ れ 以
大恐慌前の本場 パ リで名声を確立 した藤田
にとって,日 本の洋画界とは,い かにして
も世界の場末たることを免れなかっただろ
う。20年 ほど年長 の黒田清輝がパ リか ら移
入 した油絵は,技 法の 面でも,ま た主題選
択 の面 でも,到 底 パ リで一流 として通用す
るよ うなものではなかった。芸術家 という,
それ までの 日本あるいは東洋には存在 しな
かった社会的地位 を,一 種の高等遊民的な
特権階級 という捩れた意識 とともにではあ
れ ,ま が りな りにも東京美術学校 を媒体に
日本 に植え付 けた男爵,メ ー トル黒田の,
歴史的 。社会的な存在意義は疑 うまい。 と
はいえ,パ リの美術学校で正課として当時
なお最後の威信 を維持 していた歴史画 とい
う範疇 の 日本への移植には,は なばな しく
昔語り』),ま た技法
失敗 し (戦災で消失した 『
の 面で も,先 立つ高橋 由一や浅井忠な どの
堅牢な塗布技術か らみれば 「
堕落」ほ田員介
『
油絵を解割する』,M玉 ブックス,2a12)と指弾
されても仕方のない乱雑な素人作法を日本
洋画界に蔓延 らせた責任の一斑も,こ れを
黒田に求めることは的外れではないだろう。
猿まね としての舶来伝統への貞淑さも,そ
ぁぃ静 32
的な糾弾がなされ,そ れが藤田の母国脱出
と亡命の晩年への引き金 となったことは,
周知の事実だ。だが時局 に便乗 した として
藤田を指弾す る姿勢は,そ れが大多数の戦
争協力者――あるいは忠実で小心な皇国 臣
民一―を免責す るためのハ タモノ選びの儀
礼であった ということにもまして,藤 田の
もうひとつの一面を隠蔽 して いる。
戦時中,一 連 の戦争画 を描 いたことに,
藤田の無節操あるいは思想的な難点 を指摘
する ことは,あ まりに容易だろう。だが職
人仕事 とは,本 来社会の変動 とは無関係 に,
その時 々の体制 のいかんにかかわ らず,折
々の社会的要請に合致 した仕事を黙 々 とし
て提供することにあるはずだ。とすれば,
いわゆる藤田の思想的な無節操とは,職 人
としての一貫性――すなわち節操――と裏
腹だった ことにもなる。そもそも職人とは,
思想的な給持を問われない存在であり,こ
れに対して,そ の思想的節操を問うことの
ほうが,矛 盾しているのではないだろうか。
戦争画という公式注文 に模範的な回答を与
え続 ける能 力こそ,藤 日の 「
公」の部分 の
給持であり,自 分がな り損ねた東京美術学
校教授たちに対する敵憮心 と,ひ そかなる
優越意識を保証する拠 り所でもあったはず
だ。 レディメイ ドの技量を拠 り所に,難 無
くオー ダー メイ ドの量産を こなす職人に,
もとよ り倫理意識な ど期待するのがお間違
い,と い うものだろう。
『12月8日の真珠湾』〈
194動か ら始 まり,
『ア ッツ島玉砕』,『○○部隊 の死闘 ニュ
ー ギニア戦線』く
ともに198)か ら 『
血戦ガダ
ルカナル』(19442,『
サイパン島同胞臣節を
全 うす』(194b)に至 るまで,藤 田の戦争画
は,ミ ッドウェイ敗戦以降 に集中する。そ
れはもはや連戦連勝 の戦争協力とい うよ り
藤田嗣治 『
我が室内 アコーデオンのある静物』1922
キャンヴァスに油彩 フランス国立近代美絡館蔵
は,配 色濃厚なる現実を腕 力任せで描 き殴
る,壮 絶 といってよいご奉公の営みだった。
軍部か らの特権的な画材提供に支え らえれ,
本場パ リで通用するとの自負ある技量 [メチ
ェ1を 縦横 に発揮 した画家が残 したのは,
細部 における写実的技量ばか りが,頭 脳的
反省作用とは無縁 に異常増殖 した,ひ たす
ら凄惨なる殺数の場面の数 々だった。促成
栽培の量産戦争画にみえるのは,自 らの腕
達者 への浅薄な 自己満足 と,世 間の需 要に
作者不詳
『
人生の階悌』 エビナル版画
耐え得る仕事人としての 自負との結合であ
つたろう。その背後 には,底 知れぬ政治的
無関心 も覗 いている。 『
吟爾吟河畔之戦闘』
(1941)には,世 に知 られ る画面 とは別に,
‐
".'‐
、
デT管,TTT奮T奮雪・
ギュスターヴ ・クールベ 『
オルナンにおけるある埋葬の歴史西』 1&Ю
314×663cm オルセー美術館
キャンヴアスに油彩
ぁぃ滲 33
ソ連軍戦車に蹂躙 された日本軍兵Jlの死体
が画面一面 に散乱する,裏 版があったとは,
有名な逸話だ。 しか しそ こに,藤 田の隠 さ
れた反戦思想や厭戦思想を見 いだそ うと努
めるの も,藤 田の戦争協力を糾弾する姿勢
にも負けず,お ri違いだろう。そこに仄見
えるのIま
,技 量に任せていかなる画題でも
こな して しまえる己が 力量に対する, い さ
さか捨て鉢な までの虚無感ではないだろう
か。
世紀を代表す る技法探求の道を歩んだ職人
肌 の版画家 に至るまで,思 想 。心情の差異
を越えて,欧 州の懐で制作に没頭 した人々
に共通 してみいだせ られる共約数といえる
か もしれな い。
冒頭 のクールベに戻れ ば,無 名の石工を
描 いた 『
石割』の画家は,自 らオルナ ンの
画匠 と名乗 り,民 衆の素朴な造形に英雄的
な意義を付 与しようとした社会主義者でも
あった。 プルー ドン思想 に軽薄 にも追従 し
たび職人としての指向を強めたように見受
たクール ベの思想的節操の一貫性よ りも,
む しろ一介 の職人としてのクールベの思想
的節操 の軽薄さこそが、クー ルベの クール
けられ る。職 人に徹す ることは,意 地悪に
見れ ば己が思想的責任を回避する便法でも
ベたる所以ではな いか。そのクールベ と藤
田と。人生の階梯とい う民衆版画を愛 した
あったろう。その傍 らで,多 くの写実描写
に秀 でた画家た ちが,昨 日の 日章旗をアカ
ハ タヘ と塗 り替えて,国 家社会主義への臣
民 としての奉仕か ら社会主義 レア リズムヘ
立身出 世の欲望の裏 に,小 芸術を愛好す る
純朴な精神を大切 にする職人の魂をも持 ち
合わせて いた。藤田嗣治とは,結 局のとこ
戦争協力の責任 を問われ,北 米経由で フ
ランスに脱出 した藤田は,そ の晩年,ふ た
の傾倒 へ と破綻な く移行 した,と は針生 一
郎 の指摘だった。それ とは好対照に,藤 田
の場合,職 人芸の世界への逃避はまた,出
世作た る 『
我が画室』に共感を込めて描 い
た民衆版画や職人芸の調度品,あ るいは木
靴 といった 日常品 への回帰でもあっただろ
つ。
高級な芸術家な ど指向 して伸び Lが るの
ではな く,パ リの街
に染み付 いた職人根
性 へ と沈潜する態度。
これ らふた りの画家は,大 芸術家をめざす
ろ,戦 争画に発揮 した油彩技法の力量よ り
も,無 思想あるいは思想性 の欠落 した装飾
的な壁画,あ るいは挿絵画家 としての細密
画 の仕事 にこそ本領を発揮 した,偉 大なる
プティ 。メー トルだったのではな いか。空
虚なる公 の栄達 と個 としての親密な私的空
間 との落差を生きた この職人は,日 本か ら
追放 されたフランスの地での晩年,形 式的
それはパ リでフェル
ナ ・レジェの助手を
任 され るまでの信頼
を得なが ら,帰 国時
には滞欧作 を破棄 し,
筆を折 ったに等 しい
坂田一男や,欧 州 中
世の大伽藍 を建立 し
た集団的職人仕事 に
深 い理解 を示 した彫
刻家 の高田博厚,さ
らには長谷川潔や浜
日陽三 といった,20
ぁぃだB井34
藤田鋼治 (193時 , おそらく大達にて)
(写真提供 :筆者)
稲賀襄に贈った署名入りの写真
にはカ トリックに帰依 しなが らも,ひ たす
ら日本食を愛 し,日 本風の生活 を営んだ と
れた人生が見えて くる。そ してそれは,翻
いう。 日本を追われ,亡 命の地 にあって も
根無 し草の意識か ら抜 けられなか ったその
二重亡命の姿に,時 代に翻弄され,東 西の
する,類 い稀な写 し鏡 として ,日 仏 の文化
交渉史を縫 いあげるうえで,再 評価 される
に値 しよ う。
つて 日本の近代 とは何だったのかを逆照射
価値観の狭間に宙づ りとなった,引 き裂か
本稿は平成14年10月,国 際 日本文化研究センター,
クロッベンシュタイ客員教授による共同研究班 「日本
文化の連続性と非連続性 1920-70jにおける林洋子氏
の発表 「
藤田日治における戦前と戦後,日 本とフラン
ス,画 家と軍人のはざまで」へのコメン トとして執筆
された。執筆を触発されたのみならず,ご 校蘭をいた
だき,ま た,発 表原稿の出版に先立ち,本 稿の公表を
お許しいただいた林氏に一言お礼申し上げる。なお解
釈の妥当性いかんの責任は,言 うまでもなく,稲 賀一
個に帰するものであることを,お 断りし,大 方のご批
判をお待ちする。
2003年
3月 28日 昭 賀1
*《 連載 ・資料 ドキュメント》藤田嗣治一―その実像
を求めて (本誌75号 [alo2年3月 ]∼ 85号 [2003年
1月 ])
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