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鎌田 實 - 日本生命財団

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鎌田 實 - 日本生命財団
「がんばらない」けど「あきらめない」
―健康・医療・生活を考える―
鎌田 實 (かまた みのる)
諏訪中央病院名誉院長
[経歴]1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業。長野県の諏訪中央病院にて地域医療に携わる。一貫し
て「住民とともにつくる医療」を提案・実践。諏訪中央病院院長等を経て、2005年より現職。
チェルノブイリ連帯基金理事長、日本・イラク・メディカルネット(JIM-NET)代表、東京医科歯
科大学臨床教授、東海大学医学部非常勤講師を兼務。
[著書]『がんばらない』『あきらめない』『病院なんか嫌いだ』『雪とパイナップル』『それでもやっぱりがん
ばらない』『ちょう太でだいじょうぶ』(以上集英社)、『がんに負けない、あきらめないコツ』(朝日
新聞社)、『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『トットちゃんとカマタ先生のずっとやくそく』
(ソフトバンク社)『超ホスピタリティ』
(PHP研究所)『旅あきらめない』(講談社)等多数。
潰れそうな諏訪中央病院に赴任
れていくという三重苦にありました。必死
に病院の再生を図っていましたが、患者は
今日は、医療から始めて、普通の医者が
増えてきませんでした。
一生懸命取り組んでいると、最後は「生活」
に行き着いたというお話をします。
保健師に誘われ地域に学ぶ
僕は、33年前に、東京医科歯科大学を卒
業しました。今も医師不足ですが当時はも
市の保健師は長野県一脳卒中が多いとい
っと大変な医師不足で、茅野市の原田市長
う地域課題を抱えていましたので、僕たち
から再三にわたる懇請と熱い思いを受けて
医師を地域へ誘い出しました。この中で、
諏訪中央病院に赴任しました。以降、矢崎
地域で学んだことが大きかったのです。地
市長、柳平市長と三代の市長に仕えてきま
域で年間80回の健康講座を開いて、脳卒中
した。
で死なないための健康づくり運動をしてい
茅野市に行ってみると、住民は健康では
きました。
なかったのです。長野県全体が脳卒中の問
第1弾として、塩分の摂取量を調べてみ
題を抱え、秋田県に次いで全国で2位の脳
ると、1日25グラムぐらい摂っている人が
卒中の死亡率が高い地域でした。午後に、
結構いたのです。夜に、公民館に赴き、脳
茅野市社会福祉協議会の小池事務局長が、
卒中の話をしながら減塩の話を繰り返しま
茅野市のまちづくり・地域づくりのご報告
したが、終わってお茶になると、醤油を沢
をされますが、そのまちづくりの基盤に行
山かけた山盛りの野沢菜が出てきます。本
き着くまでにどんなことに取り組んで来た
当にうまいし、もてなしの心は痛いほど分
かをお話します。
かるのですが、生活のスタイルを変えない、
茅野市は、当時、長野県の17市の中で脳
行動変容がなかなか起きなかったのです。
卒中が最も多く、それが地域の課題でした。
毎年出かけているうちに、もっと大切な
僕が諏訪中央病院に行ったときには、閑古
ことが分かってきました。生意気な医者の
鳥が鳴き、累積赤字が4億円、木造2階建て
僕の言葉が、住民の中に浸透していかなか
の潰れそうな汚い病院で、課題が山積みで
ったのです。長野県には海がないので、良
した。地域をみると、不健康な人が多く、
質のタンパク質がありません。江戸時代、
大変医療費が高く、設立の市町村がお金を
農家は、お米はできるのでお米を食べ、カ
繰り入れないとやっていけない状況でし
ロリーを白米で摂っていたのです。農家の
た。国民健康保険の財政は逼迫しており、
ご飯を見てあぜんとしました。朝食だけで、
病院が赤字を抱えており、住民も次々と倒
山盛りのご飯を4杯食べています。それを
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食べるために、山盛りの野沢菜や佃煮、み
たのです。住民が動かない限り、何も変わ
そ汁を3杯ぐらいお代わりします。そうし
りません。僕は、住民と一緒になってやる
た方法で重労働を支えるカロリーを摂って
という、東京では経験できない体験をしま
いたのです。
した。健康づくりから始まって、地域が変
わっていきました。茅野市は八ヶ岳の裾野
長寿で医療費が安い茅野市
の広大な地域で、当時は地域に93の公民館、
長野県には海がないのに、海とつながる
分館がありました。病院の医局に地図を貼
ために必死です。寒天や塩イカ、ブリ街道
り、行った公民館にまち針を打ち、とにか
等は、地域の人たちの知恵であり、知恵を
く93全部の公民館へ行こうと思ったので
出しながら何とか生きようとしていたこと
す。全部は行けませんでしたが、年間80は
が分かりました。生きるために問題を抱え
回りました。その成果が劇的に表れました。
ていたが、すごい人たちであることが分か
エピソードがありますので紹介します。
り、今度は僕たちが、良質なタンパク質を
ある公民館で、健康づくり・脳卒中の予
摂ること、薄味にしていくこと、食生活を
防の講演会に行った後、若いお嫁さんから、
変えていくことを進めていきました。当時、
既に寝たきり老人がいることを知らされま
長野県は決して健康長寿県ではなく、下位
した。東京の大学の医学部では、寝たきり
の方に近い県でした。日本の長寿県は沖縄
老人に興味を持っていると医学部の教授に
県で、沖縄には塩分の摂取量が1日9.7グラ
はなかなかなれないため、寝たきり老人の
ムという秘密があったのです。茅野市では
授業はなかったのです。大学病院の玄関を
18∼19グラムでしたが、保健師や保健補導
出た後、患者がどういう生活をしているか
員という住民のヘルスボランティアの努力
に、大学の教授たちは興味を持っていませ
によって、13∼14グラムまで減り、脳卒中
んし、そういう環境で医師たちが教育され
の脳出血は激減していきました。
ていました。
今から33年前は悲惨でした。農家の暗い、
保健師と生活改善推進員、ヘルスボラン
ティアの力によって、短命で不健康で医療
人の目に付かない、一番奥のじめじめした
費の高かった地域が長命な地域になりまし
部屋に、お年寄りが寝かされきりになって
た。長野県は日本一長命になりましたが、
いました。お嫁さんが一人で抱え込んで苦
長命であるということは老人が多く、老人
労され、寝たきりにされているお年寄りも
が多ければ当然医療費が高いはずです。し
かわいそうだと思ったのです。訪問看護な
かし、茅野市は、この5年間連続で国保の
ど全くない時代でしたが、見て見ぬふりを
一般医療費も老人医療費も共に、長野県の
したくありません。僕たちは、制度がなけ
市の中で一番安いのです。既に長野県の老
れば何もできないとつい思いがちですが、
人医療費は日本一安いですが、茅野市はそ
国や厚生労働省や市が悪いと言う前に、困
の中でも突出して安いのです。長寿で医療
難の中にいる人たちに何かをしてあげたい
費の安い地域が作られてきました。
と思いました。そして、訪問看護を始めま
した。在宅ならば主に訪問看護師に力はあ
訪問看護と往診を開始
ると思いながら、医師は熱が出たときなど
24時間体制で飛んでいけることが大事と思
住民自身が意識改革をしながら、取り組
ったので、往診も始めました。
んだ健康づくり運動、住民の力が大きかっ
−7−
病院で「ほろ酔い勉強会」の開始
亡くなったときに、トラウマが残ってい
一緒にやっているうちに、社会福祉協議
る人もいることが分かり、亡くなったら終
会のヘルパーたちと協力しなければいけな
わりではなく、亡くなった後も家族が傷つ
いことも分かってきました。諏訪中央病院
いているとすれば、一言お悔やみに行きた
では、仕事が終わった後、保健師や栄養士、
いと思いました。訪問看護師と二人でお焼
PT(理学療法士)、看護師等が集まって、
香に行きだしました。僕が行きますと、近
「ほろ酔い勉強会」という自主的な勉強会
くに住んでいる親戚や娘たち等が来てくれ
が始まりました。高齢化社会で自分たちが
るのです。一番苦労した人が「これで良か
地域の病院として何ができるかを話してい
ったんだろうか」ともし思っているとすれ
るときに、社協とは何だろうという話にな
ば、その不安感を癒してあげたいと思った
りました。「ほろ酔い勉強会」に社協の人
のです。「おばあちゃん、良かったね。い
を 招 き 、 社 協 の 話 を 聞 い て い る う ち に、
いお嫁さんに看てもらって」という一言を
みんなの前で言うために、お悔やみ訪問を
「同じことをしているんだ」と気付きまし
やっております。
た。市の保健師とは健康づくりでつながり、
社協の人たちとは在宅の老人を通してつな
「お風呂に入れちゃう運動」の展開
がっていくのです。
訪問看護を始めたとき、病院で雇った保
この後も「ほろ酔い勉強会」で色々なこ
健師に「諏訪中央病院の訪問看護の一番の
とが分かり、新しい活動が生まれていきま
目標は何ですか」と聞くと、「家族を支え
す。
ることだ」と言うのです。主たる介護者の
訪問看護や往診では解決できない問題、
家族が疲れないように、家族の愚痴を聞い
1年以上お風呂に入っていない人たちがい
たり、介護の仕方を教えてあげたり、基本
ることが分かったのです。今度は、「お風
的には訪問看護師は家族をサポートしてい
呂に入れちゃう運動」を展開しました。ソ
ると言うのです。
ーシャルワーカーやPT等、お風呂に入れ
る仕事とは関係ない人たちが関わってお風
お悔やみ訪問の開始
呂に入れるのです。人間として困っている
人を見たときに、職種を縦割りに考えない
訪問看護師と話しているうちに、取り組
ことです。
むようになったのが、お悔やみ訪問です。
あるお嫁さんは、2年ぐらい寝たきりのお
お風呂に入れる運動で、教えられたこと
ばあちゃんを看ていましたが、そのおばあ
がありました。ボランティアが始めから関
ちゃんが亡くなりました。お嫁さんに道で
わっていたのですが、60歳前後のボランテ
会ったときに、「少し楽になりましたか」
ィアが左片まひのおばあちゃんの背中を流
と聞くと、想像とは違う言葉が返ってきま
してあげました。おばあちゃんは「ありが
した。「先生、私がもうちょっとしっかり
とう、ありがとう」と言った後、「今度は
していれば、おばあちゃん、もう少し生き
私が流してあげる」と言い出したのです。
ててもらえた。私がいけなかった」と言う
それを聞いた水着を着てサポートしていた
のです。2年も苦労してトラウマ(精神的
ボランティアのおばさんが、肩の水着を外
外傷)が残っているというのはつらいなと
して、背中をぽっと出しました。左麻痺の
思いました。
おばあちゃんは「洗ってもらって、ありが
−8−
とう、ありがとう」と言いながら、動く右
杖をついて歩いているのを見かけたので車
の手でスポンジを持ち、ボランティアの背
を止めました。すると、おじいちゃんはす
中を流しました。終わった後のおばあちゃ
ごく怖い顔をして、「先生、殺してくれり
んの笑顔がすごく良かったのです。僕は背
ゃよかった。何で助けたんだ」と僕を怒る
中を貸すことは、潔く、格好いいと思い、
のです。その原因は、おじいちゃんは農業
住民の志・心意気に、徐々に引き込まれて
をしているので、元気になって帰るという
いきました。
ことは、また農業ができると思い込んでい
たからです。
病院の図書室を活用してデイケアを開始
僕たち医者は、病院の中で医療をやって
いますが、患者の帰った後の生活を考えた
お風呂に入ることで一歩前進しますが、
介護に苦労しているお嫁さんや年老いてい
こともなかったのです。今も多くの医者が
るおばあちゃんを助けるためには、1日預
そうだし、当時はそれが医者の常識だった
かることがいいのではないかと思い、デイ
と思います。おじいちゃんの話を聞いてい
ケアを始めました。保健所で精神科の患者
ると、「畑に行ったけど、草取りができな
のデイケアを始めていました。これを身体
いじゃないか」と言うのです。僕が医者冥
障害者の老人に応用できないかと、「ほろ
利に尽きると思い、助けたと勝手に思って
酔い勉強会」で話し合い始めました。
いる命が、助かって良かったと思っていな
いという現実にぶち当たったのです。病院
累積赤字が4億円の潰れそうな病院には、
デイケアの場所などはないのです。ですか
の中だけにいる医者にとっては、想像力が
ら、ボランティアの人たちが職員の図書室
働かなかったのです。自分たちが助けた命
に使わなくなった布団を敷いて始めたので
が、生きていて良かったと思わない医療は
す。社協のヘルパーや市の保健師等が応援
いったい何だろうと思いました。
に駆け付けました。デイケアの制度がない
医療・看護・介護が生活を支える
時代ですから、一銭にもならず、全部病院
の持ち出しでした。施設や制度がないから
そして、「生活」ということに行き着き
できないではなく、自分たちの町をどうし
ました。今回ニッセイ財団の事務局が「健
ようかという思いが重要です。協力し合っ
康・医療・生活を考える」という副題を付
て思いを形にすることです。25年前に始め
け、初めは何となくつながりませんでした
たデイケアはボランティアたちに支えられ
が、実に大事なことだということに気が付
て続き、今も宝物です。
きました。僕たちは医療として、生活にた
どり着いたのです。悲惨な暗い部屋に人が
退院後の患者の生活を考える
入ることによって徐々に改善されていくの
訪問看護や訪問介護だけでは問題が解決
です。おばあちゃんたちの寝たきりの部屋
しないことに徐々に気が付きました。僕が
が、徐々に明るい所へ移っていきます。今
まだ若い医者だったころに、脳卒中の患者
では寝たきりのおじいちゃんたちが、一番
が倒れて救急車で運ばれてきました。必死
いい部屋にいることが多いです。かつては、
に治療して、リハビリも成功し、その患者
村の人に気付かれないように、「諏訪中央
は杖を突いて歩いて退院しました。1週間
病院」と書いている車が家の前に止まって
後ぐらいに、その退院したおじいちゃんが
いると困るから、遠くへ止めて来てくださ
−9−
いと言われていました。訪問看護でも、入
り、言いたいことを言っています。僕は死
浴サービスでも、往診でも、訪問介護でも、
期がまだ先と思っていたのに、本気で介護
何でも一つ入ることによって空気は変わっ
している娘、つまり生活を見ている人には
てきますし、変わりだしたのです。
分かるのです。医者よりも介護の専門職の
方が、色々なことが分かるということは、
それでも、床ずれができるなど、悲惨な
状況は随分ありました。医師や訪問看護師
往々にしてあります。医師は介護の人の示
だけでは太刀打ちができない。より大切な
唆を聞かなければいけません。
のは介護です。クオリティ・オブ・ライフ
介護を看護が支え、看護を医療が支える
(QOL)のライフを生活と訳し、生活の質
を上げることの一番力になっているのは、
日本の社会構造では、医師が頂点に立っ
介護です。障害があってもその人らしく生
ていますので、いい地域づくりやまちづく
きる生活の質の塊が、人生です。QOLのラ
りはなかなかできません。一番苦労してい
イフを人生と訳せば、人生の質が上がって
る人たちが一番いい情報を持っていて、一
いくのです。生活の質が上がらない限り、
番いい支えになっているので、介護の人を
人生の質は上がりません。お悔やみ訪問な
後ろから看護が支え、看護を医療が支える
どで亡くなった後に行くと、みんないい言
構造が必要です。平面の形で、介護の人た
葉が出てくるのです。死んでいったおばあ
ちを前面に地域のネットワークがしっかり
ちゃんの思い出話が出てきます。そんなと
形成され、24時間体制の医療が最後方に控
きには、QOLのライフはスピリチュアルな
えている関係が優しい、温かな構造と言え
「魂」と訳してもいいかと思います。ライ
ます。
フを単純に「魂」と訳すことは難しいです
「山根のばあ」が亡くなって1週間後に、
が、魂の質が上がっていくと考えます。
娘がビールを持っていい笑顔で病院へ来ま
した。「先生にビールをやっておくれ」と
介護の人に耳を傾ける
言い残したことで、亡くなった後のいい仕
『がんばらない』(集英社)という本の中
掛けになったと感心しました。介護をやり
に出てくる、在宅はすごいと学んだ93歳の
遂げたという満足感が家族の中に残り、そ
「山根のばあ」のお話です。村の人たちが
れが家族の絆になり、若者や子どもたちが
開墾に入った集落で、山の根っこの所にお
その姿を見て「支え合い」を学んでいくの
ばあちゃんの家は建っていたので、「山根
です。
のばあ」と呼ばれていました。食べ物がな
それを支えるためには、きれいごとでは
い時期に、村の人はおばあちゃんの作った
いきません。僕は、『鎌田實しあわせ介護』
食べ物をいただき、随分救われた経験を持
(中央法規出版)という本を書きました。
っていたので、みんなが慕っていました。
実際には介護地獄があります。日本の制度、
往診して診ていると、一生懸命に介護し
政治家たちが随分、福祉の人たちを裏切っ
ている娘が「先生、記念写真を撮らせてく
てきました。10年前に、福祉の時代、介護
ださい」と言いました。続けて「だいぶ弱
の時代と言ってはやし立て、短大や専門学
くなってきた。いよいよだと思うので」と
校等が沢山できて、一生懸命勉強して卒業
言うのです。これは娘だったから言えたと
しても、結婚して子どもを育てられる給料
思います。娘はよく看ているから自信があ
が得られないのが現実です。
−10−
温かなシステム、見放さない構造
の話を『旅、あきらめない』(講談社)と
午後のシンポジウムのテーマのまちづく
いう本に書きましたが、ヘルパーを雇って
りとは、温かな構造づくりです。介護も看
の障害のある人たちの旅です。当事者が相
護も医療も1対1の対等な関係で、専門職と
談したとき、重い病気で旅行に行かない方
して温かな心と雰囲気で展開しているので
がいいと、足を引っ張るのは医者です。し
す。もう一つ大事なのは、温かなシステム、
かし、人生を楽しむことにブレーキを掛け
見放さない構造です。僕たちは、潰れそう
てはいけないと思っています。誰かがきっ
な病院を再建しました。約2万坪の土地に、
かけを作れば、障害があっても病気があっ
諏訪中央病院を中心にして、老人保健施設、
ても、生きていけます。閉じこもってはい
茅野市立の特別養護老人ホーム、療養型病
けないと専門家が思っていながら、具体的
棟、ホスピス、回復期リハビリ病棟があり、
な話になると責任逃れで、無理しない方が
そして24時間体制の在宅ケアを展開してい
いいと言うのです。
ます。茅野市全体に、医師会や他の民間施
これから午後のシンポジウムの中で、望
設等とネットワークを縦横に張り巡らして
ましい福祉のまちづくりについて議論され
います。
ることを祈念して、記念講演を終わりたい
と思います(拍手)
。
僕は、『超ホスピタリティ おもてなし
のこころが、あなたの人生を変える』
(PHP研究所)という本の中に、左麻痺の
続いて、「イラクの五つの小児病院に薬を
35歳の高校の先生の話を書きました。左手
毎月400万円送っているお話」や「チェル
が動かなくなり、2年間リハビリに努めた
ノブイリの救援活動、白血病の子供のお話」
がそれでも動かなく、学校側から辞表の肩
等がありましたが、紙面の関係で割愛しま
たたきを受けた事例です。僕の外来に最後
す。
の一縷の望みを持ってやってきた彼に、治
らないことを告知し、介護の思考でお話を
続けました。その人がその人らしく生きる
ために、「右手足が動くなら、右手足を使
って学校に出なさい。あなたが元気なとき
には教えられなかったことが、子どもたち
に教えられる。辞表を出してはいけない」
と言いました。ハンディがあるから心が伝
わり、子どもたちに勇気を持たせることが
できると考えたのです。
最後まで人生を楽しむ
僕は、3年前に退職してから、「鎌田實と
ハワイへ行こう」と言い出して、180人と
一緒に旅行しています。93歳の介護度5の
おばあちゃんが、ハワイに行きました。そ
−11−
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